曾我物語 国民文庫本 巻第二

曾我之物語巻第二(だいに)
 @〔大見(おほみ)・八幡(やはた)を討(う)つ事(こと)〕S0201N021
 三千(さんぜん)世界(せかい)は、眼(まなこ)の前(まへ)に付(つ)き、十二(じふに)因縁(いんえん)は、心(こころ)の裏(うち)に空(むな)し。浮(う)き世(よ)にすむも、捨(す)つるも、安(やす)からぬ命(いのち)、いつまでながらへて、あらましのみにくらさまし。伊東(いとう)入道(にふだう)は、何(なに)に付(つ)けても、身(み)の行方(ゆくへ)、あぢき無(な)くして、子息(しそく)の九郎祐清(すけきよ)を呼(よ)び寄(よ)せ、「入道(にふだう)がいきての孝養(けうやう)と思(おも)ひ、大見(おほみ)・八幡(やはた)が首(くび)を取(と)りて見(み)せよ」と言(い)ひければ、「承(うけたまは)りぬ。此(こ)の間(あひだ)も、内々(ないない)案内者(あんないしや)を以(もつ)て、見(み)せ候(さうら)へば、他行(たぎやう)の由(よし)、申(まう)し候(さうら)ふ。もし帰(かへ)り候(さうら)はば、告(つ)げ知(し)らすべき由(よし)、申(まう)す者(もの)の候(さうら)ふに依(よ)つて、待(ま)ち候(さうら)ふ。余(あま)し候(さうら)ふまじ」とて、座敷(ざしき)を立(た)ちぬ。幾程(いくほど)無(な)くして、「来(き)たりぬ」と告(つ)げければ、家(いへ)の子(こ)郎等(らうどう)八十余人(よにん)、直兜(ひたかぶと)にて、狩野(かの)と言(い)ふ所(ところ)へ押(お)し寄(よ)せたり。八幡(やはた)の三郎(さぶらう)、然(さ)る者(もの)にて、「思(おも)ひ設(まう)けたり。何処(いづく)へか引(ひ)くべき」とて、親(した)しき者(もの)共(ども)十余人(よにん)、込(こ)め置(お)きたりしが、矢(や)共(ども)打(う)ち散(ち)らし、差(さ)し詰(つ)め引(ひ)き詰(つ)め、とりどり散々(さんざん)に射(い)ける。やにはに、敵(かたき)数多(あまた)射(い)落(お)とし、P100矢種(やだね)つきしかば、差(さ)し集(あつ)まりて、主(しゆう)の為(ため)に命(いのち)捨(す)つる事(こと)、露(つゆ)程(ほど)も惜(を)しからず。所詮(しよせん)、のぞみたりぬ」と言(い)ひて、差(さ)し違(ちが)へ差(さ)し違(ちが)へ、残(のこ)らず死(し)にけり。八幡(やはた)は、腹(はら)を十文字(じふもんじ)にかき破(やぶ)り、三十七にて失(う)せにけり。即(すなは)ち、大見(おほみ)の小藤太(ことうだ)がもとへ押(お)し寄(よ)せたり。此(こ)の者(もの)は、もとより、心(こころ)下(さ)がりたる者(もの)にて、八幡(やはた)が打(う)たるるを聞(き)きて、取(と)るもの取(と)り敢(あ)へず、落(お)ちたりしを、狩野境(かのざかひ)に追(お)ひ詰(つ)めて、搦(から)め取(と)りて、川(かわ)の端(はた)にて、首(くび)をはねたり。九郎は、二人が首(くび)を取(と)りて、父(ちち)入道(にふだう)に見(み)せければ、ゆゆしくも振舞(ふるま)ひたりとぞ感(かん)じける。曾我(そが)に有(あ)りける河津(かはづ)が妻女(さいぢよ)も、喜(よろこ)ぶ事(こと)限(かぎ)り無(な)し。祐清(すけきよ)は、入道(にふだう)が憤(いきどほ)りを止(や)め、兄(あに)が敵(かたき)を打(う)ちし孝行(かうかう)、一方(ひとかた)ならぬ忠(ちゆう)とぞ見(み)えける。さても、八幡(やはた)の三郎(さぶらう)が母(はは)は、■美(くすみ)の入道(にふだう)寂心(じやくしん)が乳母子(めのとご)なり。八旬(しゆん)に余(あま)りけるが、残(のこ)り止(とど)まりて、思(おも)ひの余(あま)りにくどきけるは、「御主(しゆう)の為(ため)に、命(いのち)を捨(す)つる事(こと)は、本望(ほんまう)なれ共(ども)、此(こ)の乱(らん)のおこりを尋(たづ)ぬるに、過(す)ぎにし親(おや)の譲(ゆづ)りを背(そむ)き給(たま)ひしに依(よ)つて也(なり)。然(しか)るに、寂心(じやくしん)、世(よ)に坐(ま)しませし時(とき)、公達(きんだち)数多(あまた)なみ据(す)ゑて、酒宴(しゆえん)半(なか)ばの折節(をりふし)、持(も)ち給(たま)ひつる盃(さかづき)の中へ、空(そら)より大(おほ)きなる鼬(いたち)一(ひと)つ入(い)りて、御膝(ひざ)の上(うへ)に飛(と)び下(お)りぬと見(み)えしが、何処(いづく)とも無(な)く失(う)せぬ。希代(きたい)の不思議(ふしぎ)なりとて、やがて考(かんが)へさするに、「大(おほ)きなる表事(へうじ)、つつしみ給(たま)へ」と申(まう)したりしを、さしたる祈祷(きたう)も無(な)くて、過(す)ぎ給(たま)ひぬ。幾程(いくほど)無(な)くして、寂心(じやくしん)は、隠(かく)れさせ給(たま)ひけり。然(さ)ればにや、白河(しらかは)の法王(ほふわう)P101も、鳥羽(とば)の離宮(りきゆう)に渡(わた)らせ給(たま)ひし時(とき)、大(おほ)きなる鼬(いたち)参(まゐ)りて、泣(な)き騒(さわ)ぎけり。博士(はかせ)に御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「三日の内(うち)に御(おん)喜(よろこ)び、又は御(おん)歎(なげ)き」とぞ申(まう)しける。其(そ)れに合(あ)はせて申(まう)す如(ごと)く、次(つぎ)の日、御子高倉宮(たかくらのみや)、御謀叛(ごむほん)現(あらは)れ、奈良路(ならぢ)にて打(う)たれさせ給(たま)ひぬ」。
 @〔泰山府君(たいさんぶくん)の事(こと)〕S0202N022
 斯様(かやう)の事を以(もつ)て、昔(むかし)を思(おも)ふに、大国(たいこく)に大王(だいわう)有(あ)り。楼閣(ろうかく)をすき給(たま)ひて、明(あ)け暮(く)れ、宮殿(くうでん)を作(つく)り給(たま)ふ。中にも、上かう殿(でん)と号(かう)して、梁(うつばり)は、金銀(きんぎん)なり。軒(のき)に、珠玉(しゆぎよく)・瓔珞(ようらく)をさげ、壁(かべ)には、しやうれの華鬘(けまん)を付(つ)け、内(うち)には、瑠璃(るり)の天蓋(てんがひ)をさげ、四方(しはう)に、瑪瑙(めなう)の幡(はた)をつり、庭(にわ)には、■瑚(さんご)・琥珀(くはく)をしきみて、吹(ふ)く風(かぜ)、ふる雨(あめ)の便(たよ)りに、沈麝(ちんじや)のにほひにたたゑゑり。山をつきては、亭(ちん)を構(かま)へ、池(いけ)をほりては、船(ふね)を浮(う)かべ、水(みづ)に遊(あそ)べる鴛鴦(ゑんわう)の声(こゑ)、偏(ひとへ)に浄土(じやうど)の荘厳(しやうごん)に同(おな)じ。人民(にんみん)こぞりて囲繞(いねう)す。仏菩薩(ぶつぼさつ)の影向(ようがう)も、是(これ)にはしかじとぞ見(み)えし。然(さ)れば、大王(だいわう)、玉楼(ぎよくろう)金殿(きんでん)に至(いた)り、常(つね)に遊覧(いうらん)す。或(あ)る時(とき)、大講堂(かうだう)の柱(はしら)に、鼬(いたち)二(ふた)つ来(き)たりて、泣(な)き騒(さわ)ぐ事(こと)、七日なり。大王(だいわう)、あやしみ給(たま)ひて、博士(はかせ)を召(め)して、うらなはしむるに、考(かんが)へて、奏聞(そうもん)す。「此(こ)の柱(はしら)の内(うち)に、P102七尺(しやく)の人形(ぎやう)有(あ)り。大王(だいわう)の形(かたち)をことごとく作(つく)り移(うつ)して、調伏(てうぶく)の壇(だん)を立(た)て、幣帛(へいはく)・供具(ぐぐ)をそなへたり。わりて見(み)給(たま)へば、とうい七百人有(あ)り。滅(ほろ)ぼすべし」と言(い)ふ。即(すなは)ち、大王(だいわう)上人(しやうにん)に申(まう)して、めでたき聖(ひじり)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り、彼(か)の柱(はしら)、わりて見(み)給(たま)ふに、違(たが)はず、すさまじきと言(い)ふも余(あま)り有(あ)り。やがて、壇(だん)を破(やぶ)り、勘文(かんもん)に任(まか)せて、色々(いろいろ)のしよ人を集(あつ)め、其(そ)の中に、あやしきを召(め)し取(と)り、拷問(がうもん)しければ、ことごと白状(はくじやう)す。よつて、七百人の敵(てき)をことごとく召(め)し取(と)り、三百人の首(くび)を切(き)り給(たま)ひぬ。残(のこ)り四百人切(き)らんとする時(とき)、天下(てんが)暗闇(くらやみ)に成(な)りて、夜昼(よるひる)の境(さかひ)も無(な)くして、色(いろ)を失(うしな)ふ。人民(にんみん)、道路(だうろ)に倒(たふ)れ伏(ふ)す。大王(だいわう)、驚(おどろ)きて曰(いは)く、「我(われ)、露(つゆ)程(ほど)の私(わたくし)有(あ)りて、彼(かれ)等(ら)の首(くび)を切(き)る事(こと)無(な)し。下(しも)として上(かみ)をあざける下国上(じやう)戒(いまし)め、後(のち)の世(よ)を思(おも)ふ故(ゆゑ)なり。もし又(また)、我(われ)に私(わたくし)あらば、天是(これ)を戒(いまし)むべし。是(これ)をはからん」とて、三七日、飲食(おんじき)を止(とど)めて、高床(たかゆか)に上(のぼ)り、足(あし)の指(ゆび)を爪(つま)立(だ)てて、「一命(めい)、此処(ここ)にて消(き)えなん。もし誤(あやま)り無(な)くは、諸天(しよてん)哀(あは)れみ給(たま)へ」と祈誓(きせい)して、仁王経(にんわうぎやう)をかかせられけり。三七日に満(まん)ずる時(とき)、七星(しちしやう)、眼前(げんぜん)とあま下(くだ)り見(み)え給(たま)ふ。やや有(あ)りて、日月星宿(しやうしゆく)、光(ひかり)をやはらげ給(たま)ふ。然(さ)ればこそ、まつる事(こと)に、横儀(わうぎ)は無(な)かりけれとて、残(のこ)る四百人をも切(き)り給(たま)ひぬ。此処(ここ)に、博士(はかせ)、又(また)参内(さんだい)して奏(そう)す。「大敵(たいてき)滅(ほろ)びはて、御位(くらゐ)長久(ちやうきう)なるべき事(こと)、余儀(よぎ)無(な)し。然(さ)れども、調伏(てうぶく)の大行(ぎやう)、其(そ)の効(こう)残(のこ)りて、恐(おそ)ろし。所詮(しよせん)に、P103あま下(くだ)り給(たま)ふ七星(しちしやう)をまつり、しやうかう殿(でん)に宝(たから)をつみ、一時(とき)にやき捨(す)てて、災難(さいなん)の疑(うたが)ひを止(とど)むべし」と申(まう)しければ、左右(さう)に及(およ)ばずとて、忽(たちま)ちに上件(くだん)のようしやくをくり、諸天(しよてん)を請(しやう)じ奉(たてまつ)りて、彼(か)の殿(でん)共(ども)をやき捨(す)てられにけり。さてこそ、今(いま)の世(よ)までも、鼬(いたち)泣(な)き騒(さわ)げば、つつしみて水(みづ)をそそくまじなひ、此(こ)の時(とき)に依(よ)りてなり。然(さ)れば、七百人の敵(てき)滅(ほろ)び、七星(しちしやう)眼前(がんぜん)に下(くだ)り、光(ひかり)をやはらげ給(たま)ふ事(こと)、七難(しちなん)即滅(そくめつ)、七福(しちふく)即生(そくしやう)の明文(めいもん)に適(かな)ひぬるをや、今(いま)の泰山府君(たいさんぶくん)のまつり是(これ)なり。大王(だいわう)、彼(か)の殿(でん)をやき、まつる事(こと)をし給(たま)ひて、御位(くらゐ)長生殿(ちやうせいでん)にさかえ、春(はる)秋を忘(わす)れて、不老門(ふらうもん)に、日月の影(かげ)、静(しづ)かにめぐり、吹(ふ)く風(かぜ)、枝(えだ)をならさず、ふる雨(あめ)、塊(つちくれ)を動(うご)かさで、永久(えいきう)の御代(よ)にさかえ給(たま)ひけるとかや。めでたかりし例(ためし)なり。
 @〔頼朝(よりとも)、伊藤(いとう)に御座(おは)せし事(こと)〕S0203N023
 抑(そもそも)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、御代(よ)を取(と)り給(たま)ひては、伊東(いとう)・北条(ほうでう)とて、左右(さう)の翼(つばさ)にて、いづれ勝劣(しようれつ)有(あ)るべきに、北条(ほうでう)の末(すゑ)はさかえ、伊東(いとう)の末(すゑ)は絶(た)えける、由来(ゆらい)を詳(くは)しく尋(たづ)ぬるに、頼朝(よりとも)十三の歳(とし)、伊豆(いづ)の国(くに)に流(なが)されて御座(おは)しけるに、彼(か)の両人(りやうにん)を打(う)ち頼(たの)み、年月(としつき)を送(おく)り給(たま)ひけり。然(しか)るに、伊東(いとう)の二郎(じらう)に、娘(むすめ)四人有(あ)り。一(いち)は、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)P104三浦介(みうらのすけ)が妻(め)なり。二には、工藤(くどう)一郎祐経(すけつね)に相(あひ)具(ぐ)したりしを取(と)り返(かへ)し、土肥(とひ)の弥太郎(やたらう)に合(あ)はせけり。三四は、未(いま)だ伊東(いとう)がもとにぞ有(あ)りける。中にも、三は、美人(びじん)の聞(き)こえ有(あ)り。佐(すけ)殿(どの)聞(き)こし召(め)して、潮(しほ)のひる間(ま)の徒然(つれづれ)と、忍(しの)びて褄(つま)を重(かさ)ね給(たま)ふ。頼朝(よりとも)、御志(こころざし)浅(あさ)からで、年(ねん)月を送(おく)り給(たま)ふ程(ほど)に、若君(わかぎみ)一人出(い)で来(き)給(たま)ふ。
 @〔若君(わかぎみ)の御事(こと)〕S0204N024
 佐(すけ)殿(どの)、喜(よろこ)び思(おぼ)し召(め)して、御名(な)をば、千鶴(せんづる)御前(ごぜん)とぞ付(つ)け給(たま)ひける。つらつら往事(わうじ)思(おも)ふに、旧主(きうしゆ)が住(す)まひし、古風(こふう)のかうばしき国(くに)なれ共(ども)、勅勘(ちよくかん)をかうむりて、習(なら)はぬ鄙(ひな)の住(す)まひの心地(ここち)ぞ有(あ)りつるに、此(こ)の物出(い)で来(き)たる嬉(うれ)しさよ、十五にならば、秩父(ちちぶ)・足利(あしかが)の人々(ひとびと)、三浦(みうら)・鎌倉(かまくら)・小山(をやま)・宇都宮(うつのみや)相(あひ)語(かた)らひ、平家(へいけ)に掛(か)け合(あ)はせ、頼朝(よりとも)が果報(くわほう)の程(ほど)をためさんと、もてなし思(おも)ひかしづき給(たま)ふ。かくて、年月(としつき)をふる程(ほど)に、若君(わかぎみ)三歳(さい)になり給(たま)ふ春(はる)の頃(ころ)、伊東(いとう)、京(きやう)より下(くだ)りしが、しばし知(し)らざりけり。或(あ)る夕暮(ゆふぐれ)に、花園(はなぞの)山を見(み)て入(い)りければ、折節(をりふし)、若君(わかぎみ)、乳母(めのと)にいだかれ、前栽(せんざい)に遊(あそ)び給(たま)ふ。祐親(すけちか)、是(これ)を見(み)て、「彼(かれ)は誰(た)そ」と問(と)ひけれども、返事(へんじ)にも及(およ)ばず、逃(に)げにけり。あやしく思(おも)ひて、即(すなは)ち、内(うち)に入(い)り、妻女(さいぢよ)にあひ、「三(み)つばかりの子(こ)のものゆゆしきP105をいだき、前栽(せんざい)にて遊(あそ)びつるを、「誰(た)そ」と問(と)へば、返事(かへりごと)もせで逃(に)げつるは、誰(たれ)にや」と問(と)ふ。継母(ままはは)の事(こと)なりければ、折(をり)をえて、「其(そ)れこそ、御分(ごぶん)の在京(ざいきやう)の後(あと)に、いつきかしづき給(たま)ふ姫君(ひめぎみ)の、童(わらは)が制(せい)するを聞(き)かで、いつくしき殿(との)して設(まう)け給(たま)へる公達(きんだち)よ。御(おん)為(ため)には、めでたき孫(まご)御前(ごぜん)よ」と、をこがましく言(い)ひ成(な)しけるこそ、誠(まこと)に末(すゑ)も絶(た)え、所領(しよりやう)にもはなるべき例(ためし)なり。然(さ)れば、「讒臣(ざんしん)は国(くに)を乱(みだ)し、妬婦(とふ)は家(いへ)を破(やぶ)る」と言(い)ふ言葉(ことば)、思(おも)ひ知(し)られて、あさましかりける。祐親(すけちか)、是(これ)を聞(き)き、大(おほ)きに腹(はら)を立(た)て、「親(おや)の知(し)らざる聟(むこ)や有(あ)る。誰人(たれびと)ぞ。今(いま)まで知(し)らぬ不思議(ふしぎ)さよ」と怒(いか)りければ、継母(ままはは)は、訴(うつた)へすましぬるよと嬉(うれ)しくて、「其(そ)れこそ、世(よ)に有(あ)りて、誠(まこと)に頼(たよ)り坐(ま)します流人(るにん)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の若君(わかぎみ)よ」とて、嘲弄(てうろう)しければ、いよいよ腹(はら)を立(た)て、「娘(むすめ)持(も)ち余(あま)りて、置(お)き所(どころ)無(な)くは、乞食(こつじき)非人(ひにん)などには取(と)らするとも、今時(いまどき)、源氏(げんじ)の流人(るにん)聟(むこ)に取(と)り、平家(へいけ)に咎(とが)められては、如何(いかが)有(あ)るべき。「毒(どく)の虫(むし)をば、頭(かしら)をひしぎて、脳(なう)を取(と)り、敵(かたき)の末(すゑ)をば、胸(むね)をさきて、胆(きも)を取(と)れ」とこそ言(い)ひ伝(つた)へたれ。詮(せん)無(な)し」とて、郎等(らうどう)呼(よ)び寄(よ)せて、若君(わかぎみ)いざなひ出(い)だし、伊豆(いづ)の国(くに)松川(まつかわ)の奥(おく)を尋(たづ)ね、とときの淵(ふち)に柴(ふし)づけにし奉(たてまつ)りけり。情(なさけ)無(な)かりし例(ためし)也(なり)。是(これ)や、文選(もんぜん)の言葉(ことば)に、「しやうにみちては、瑞(ずい)を豊年(ほうねん)に現(あらは)し、丈(ぢやう)に有(あ)りては、禍(くわ)をはんとくに現(あらは)す」。誠(まこと)に余(あま)れる振舞(ふるま)ひは、行(ゆ)く末(すゑ)如何(いかが)とぞ覚(おぼ)えける。剰(あまつさ)へ、北(きた)の御方(かた)P106をも取(と)り返(かへ)し、同(おな)じき国(くに)の住人(ぢゆうにん)江間(えま)の小四郎(こしらう)に合(あ)はせけり。名残(なごり)惜(を)しかりつる衾(ふすま)の下(した)を出(い)で給(たま)ひて、思(おも)はぬ新枕(にいまくら)、かたしく袖(そで)に移(うつ)り変(か)はりし御涙(おんなみだ)、さこそと思(おも)ひ遣(や)られたり。是(これ)も、祐親(すけちか)が、平家(へいけ)へ恐(おそ)れ奉(たてまつ)ると思(おも)へども、わうきう・董賢(とうけん)ふん、三百たるにも、楊雄(やうゆう)・仲舒(ちうじよ)ふんか、其(そ)の門(かど)につまびらかにせんにはしかずと見(み)えたり。
 @〔王昭君(わうぜうくん)が事(こと)〕S0205N025
 昔(むかし)、漢(かん)の王昭君(わうぜうくん)と申(まう)せし后(きさき)を、胡国(ここく)の夷(えびす)に取(と)られ、胡国(ここく)へ越(こ)え給(たま)ひしに、名残(なごり)の袖(そで)はき難(がた)くして、歎(なげ)き悲(かな)しみけるに、王昭君(わうぜうくん)が、歎(なげ)き余(あま)りに、「自(みづか)らがしきし褥(しとね)に、我(わ)が姿(すがた)を移(うつ)し止(とど)めて、しき給(たま)へ。我(われ)、夢(ゆめ)に来(き)たりて、あふべし」と契(ちぎ)りける。漢王(かんわう)悲(かな)しみて、彼(か)の褥(しとね)を枕(まくら)にして、泣(な)き伏(ふ)し給(たま)ひしかば、夢(ゆめ)とも無(な)く、又(また)現(うつつ)とも無(な)く、来(き)たりて、折々(をりをり)あひにけり。彼(か)の昭君(せうくん)が、胡国(ここく)への道(みち)すがら、涙(なみだ)にくるる四方(よも)の山共(とも)、里(さと)とも分(わ)け兼(か)ねて、袖(そで)のひる間(ま)も無(な)かりけり。思(おも)ひの余(あま)りに、旧栖(きうせい)を顧(かへり)みて、「蒼波(さうは)路(みち)遠(とほ)くして、はかう山(さん)深(ふか)し」と詠(えい)じつつ、漢宮(かんきゆう)万里(ばんり)の旅(たび)の空(そら)、今(いま)の思(おも)ひに知(し)られたり。佐(すけ)殿(どの)も、若君(わかぎみ)失(うしな)はれさせ給(たま)ひしP107御心(おんこころ)、くわらくの子(こ)を失(うしな)ひ、かなわぬ別(わか)れの袖(そで)の涙(なみだ)、紅閨(こうけい)に連(つら)なりし限(かぎ)りなり。
 @〔玄宗皇帝(げんそうくわうてい)の事(こと)〕S0206N026
 然(さ)れば、あかぬ北(きた)の御方(かた)の御名残(おんなごり)は、玄宗皇帝(げんそうくわうてい)、楊貴妃(やうきひ)と申(まう)せし后(きさき)、安禄山(あんろくざん)軍(いくさ)の為(ため)に、夷(えびす)に下(くだ)し給(たま)ふ。御思(おも)ひの余(あま)りに、蜀(しよく)の方士(はうじ)を遣(つか)はし給(たま)ふ。方士(はうじ)神通(じんつう)にて、一天(いつてん)三千(さんぜん)世界(せかい)を尋(たづ)ねまはり、太真(しん)ゑんに至(いた)る。蓬莱宮(ほうらいきゆう)是(これ)也(なり)。此処(ここ)にきたつて、玉妃(ぎよくひ)にあひぬ。此(こ)の所(ところ)に至(いた)りて見(み)れば、浮雲(ふうん)かさ也(なり)、人跡(じんせき)の通(かよ)ふべき所(ところ)ならねば、簪(かんざし)を抜(ぬ)きて、扉(とぼそ)を叩(たた)く。双鬟(さうくわん)童女(どうによ)二人出(い)でて、「暫(しばら)く是(これ)に待(ま)ち給(たま)へ。玉妃(ぎよくひ)は、おとのごもれり。但(ただ)し、何処(いづく)より、如何(いか)なる人(ひと)ぞ」と問(と)ふ。「唐(とう)の太子(たいし)の使(つか)ひ、蜀(しよく)の方士(はうじ)」と答(こた)へければ、内(うち)に入(い)りぬ。時(とき)に、雲海(うんかい)沈々(ちんちん)として、洞天(とうてん)に日(ひ)暮(く)れなんとす。悄然(せうぜん)として、まつ所(ところ)に、玉妃(ぎよくひ)出(い)で給(たま)ふ。是(これ)、即(すなは)ち楊貴妃(やうきひ)なり。右左(みぎひだり)の女(をんな)七八人。方士(はうじ)揖(いつ)して、皇帝(くわうてい)安寧(あんねい)を問(と)ふ。方士(はうじ)、こまかに答(こた)ふ。言(い)ひをはりて、玉妃(ぎよくひ)、証(しるし)とや、簪(かんざし)をわきて、方士(はうじ)にたぶ。其(そ)の時(とき)、方士(はうじ)、「是(これ)は、世(よ)の常(つね)に有(あ)る物(もの)也(なり)。支証(ししよう)に立(た)たず。叡覧(えいらん)にそなへ奉(たてまつ)らんに、如何(いか)なる密契(みつけい)か有(あ)りし」。玉妃(ぎよくひ)、P108暫(しばら)く案(あん)じて、「天宝(ぽう)十四年の秋七月七日の夜(よ)、天に有(あ)りて、願(ねが)はくは比翼(ひよく)の鳥(とり)、地(ち)に有(あ)りて、願(ねが)はくは連理(れんり)の枝(えだ)、天長(てんちやう)地久(ちきう)にして、作(つく)る事(こと)無(な)からんと、知(し)らず、奏(そう)せんに、御(おん)疑(うたが)ひ有(あ)るべからず」と言(い)ひて、玉妃(ぎよくひ)さりぬ。方士(はうじ)帰(かへ)り参(まゐ)りて、皇帝(くわうてい)に奏聞(そうもん)す。「然(さ)る事(こと)有(あ)り、方士(はうじ)誤(あやま)り無(な)し」とて、飛車(ひしや)に乗(の)り、我(わ)が朝(てう)尾張(をはり)の国(くに)にあま下(くだ)り、八剣(やつるぎ)の明神(みやうじん)と現(あらは)れ給(たま)ふ。楊貴妃(やうきひ)は、熱田(あつた)の明神(みやうじん)にてぞ渡(わた)らせ給(たま)ひける。蓬莱宮(ほうらいきゆう)、即(すなは)ち此(こ)の所(ところ)とぞ申(まう)す。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)は、若君(わかぎみ)、北(きた)の御方(かた)御(おん)行方(ゆくへ)、知(し)らせ奉(たてまつ)る者(もの)無(な)かりしかば、慰(なぐさ)み給(たま)ふ事(こと)も無(な)かりけり。
 @〔頼朝(よりとも)、伊東(いとう)を出(い)で給(たま)ふ事(こと)〕S0207N027
 剰(あまつさ)へ、佐(すけ)殿(どの)をも、夜討(ようち)にし奉(たてまつ)らんとて、郎等(らうどう)を催(もよほ)しける。此処(ここ)に、祐親(すけちか)が次男(じなん)伊東(いとう)の九郎祐清(すけきよ)と言(い)ふもの有(あ)り。秘(ひそ)かに佐(すけ)殿(どの)へ参(まゐ)り、申(まう)しけるは、「親(おや)にて候(さうら)ふ祐親(すけちか)こそ、物(もの)に狂(くる)ひ候(さうら)ひて、君(きみ)を打(う)ち奉(たてまつ)らんと仕(つかまつ)り候(さうら)へ。何処(いづく)へも御(おん)忍(しの)び候(さうら)へ」と申(まう)しければ、頼朝(よりとも)聞(き)こし召(め)し、ちやうさい王(わう)が、害(がい)にあひしも、偽(いつは)る事(こと)は知(し)らでなり、ゑみの内(うち)に刀(かたな)をぬくは、習(なら)ひなり、人の心(こころ)知(し)り難(がた)ければ、君臣(くんしん)父子(ふし)、いを以(もつ)ておそるべし、況(いはん)や、打(う)たんとするは、親(おや)なり、P109告(つ)げ知(し)らするは、子(こ)なり、方々(かたがた)、不審(ふしん)に覚(おぼ)えたり、いかさま、我(われ)をたばかるにこそとて、打(う)ちとけ給(たま)ふ事(こと)も無(な)し。「誠(まこと)に思(おも)ひ掛(か)けられなば、何処(いづく)へ行(ゆ)きても逃(のが)るべきか。然(さ)れども、左右(さう)無(な)く自害(じがい)するに及(およ)ばず、人手(ひとで)にかからんよりは、汝(なんぢ)、早(はや)く頼朝(よりとも)が首(くび)を取(と)りて、父(ちち)入道(にふだう)に見(み)せよ」と仰(おほ)せられければ、祐清(すけきよ)承(うけたまは)りて、「仰(おほ)せの如(ごと)く、語(かた)らひ難(がた)き人の心(こころ)にて候(さうら)ふ。蜂(はち)を取(と)りて、衣(ころも)の首(くび)に返(かへ)して、親子(しんし)の心(こころ)に違(たが)ひしも、偽(いつは)るたくみなり。君(きみ)思(おぼ)し召(め)すも、御理(ことわり)、誠(まこと)の御志(おんこころざし)とは思(おぼ)し召(め)さずして、いしやうのはう、もつとも御(おん)疑(うたが)ひ、理(ことわり)なり。忝(かたじけな)くも、不忠(ふちゆう)申(まう)し候(さうら)はば、当国(たうごく)二所(にしよ)大明神(だいみやうじん)の御罰(ばち)を蒙(かうぶ)り、弓矢(ゆみや)の冥加(みやうが)長(なが)く付(つ)き、祐清(すけきよ)が命(いのち)、御前(ごぜん)にてはて候(さうら)ひなん」と申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)聞(き)こし召(め)し、大(おほ)きに御(おん)喜(よろこ)び有(あ)りて、「斯様(かやう)に告(つ)げ知(し)らする志(こころざし)ならば、如何(いか)にもよき様(やう)に相(あひ)はからひ候(さうら)へ」と仰(おほ)せければ、祐清(すけきよ)承(うけたまは)りて、「藤(とう)九郎盛長(もりなが)、弥三郎(やさぶらう)成綱(なりつな)をば、君(きみ)御座(ざ)の様(やう)にて、暫(しばら)く是(これ)に置(お)かれ候(さうら)ふべし。君(きみ)は、大鹿毛(かげ)に召(め)されて、鬼武(おにたけ)ばかり召(め)し具(ぐ)し、北条(ほうでう)へ御(おん)忍(しの)び候(さうら)へ」と申(まう)し置(お)きて、「御討手(うつて)もや参(まゐ)り候(さうら)はん、事(こと)をのばし候(さうら)はん」とて、急(いそ)ぎ御前(ごぜん)を立(た)ちにけり。P110
 @〔頼朝(よりとも)、北条(ほうでう)へ出(い)で給(たま)ふ事(こと)〕S0208N028
 佐(すけ)殿(どの)も、秘(ひそ)かにまぎれ出(い)でさせ給(たま)ふ。頃(ころ)は、八月下旬(げじゆん)の事(こと)なるに、露(つゆ)ふき結(むす)ぶ風(かぜ)の音(おと)、我(わ)が身(み)一(ひと)つにもの寂(さび)しく、野辺(のべ)にすだく虫(むし)の声(こゑ)、折(をり)から殊(こと)に哀(あは)れなり。有明(ありあけ)の月だに未(いま)だ出(い)でざるに、何処(いづく)を其処(そこ)とも知(し)らねども、道(みち)をかへて、田面(たのも)を伝(つた)ひ、草(くさ)を分(わ)けつつ、道(みち)すがらの御祈誓(きせい)には、「南無(なむ)正(しやう)八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の御記文(きもん)に、我(われ)末世(まつせ)に、源氏(げんじ)の身(み)と成(な)りて、東国(とうごく)に住(ぢゆう)して、夷(えびす)をたひらげんとこそ誓(ちか)ひ坐(ま)しませ。然(しか)るに、人すたれ、氏(うぢ)滅(ほろ)びて、正統(しやうとう)の残(のこ)り、只(ただ)頼朝(よりとも)ばかりなり。今度(こんど)、栄華(えいぐわ)を開(ひら)かずは、誰(たれ)有(あつ)て、家(いへ)を起(お)こさんや。世既(すで)に澆季(げうき)にのぞみ、人後胤(こういん)なし。早(はや)く頼朝(よりとも)が運(うん)を開(ひら)かせて、東夷(とうい)を従(したが)へしめ給(たま)へ。しからずは、当国(たうごく)の匹夫(ひつぷ)となし、長(なが)く本望(ほんまう)を遂(と)げしめ給(たま)へ」と、御祈誓(きせい)、夜(よ)もすがらなり。感応(かんおう)にや、幾程(いくほど)無(な)くして、御代(よ)につき給(たま)ひにけり。さても、北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)がもとに御座(おは)せし也(なり)。一向(いつかう)彼(かれ)を打(う)ち頼(たの)み、年月(としつき)を送(おく)り給(たま)ふ。
 @〔時政(ときまさ)が娘(むすめ)の事(こと)〕S0209N029P111
 又(また)、彼(か)の時政(ときまさ)に、娘(むすめ)三人有(あ)り。一人(ひとり)は、先腹(せんばら)にて、二十一なり。二三は、当腹(たうはら)にて、十九・十七にぞなりにける。中(なか)にも、先腹(せんばら)二十一は、美人(びじん)の聞(き)こえ有(あ)り。殊(こと)に父(ちち)、不便(ふびん)に思(おも)ひければ、妹(いもうと)二人よりは、すぐれてぞ思(おも)ひけり。然(さ)る程(ほど)に、其(そ)の頃(ころ)、十九の君(きみ)、不思議(ふしぎ)の夢(ゆめ)をぞ見(み)たりける。例(たと)へば、何処(いづく)とも無(な)く、高(たか)き峰(みね)に上(のぼ)り、月日(つきひ)を左右(さう)の袂(たもと)にをさめ、橘(たちばな)の三(み)つなりたる枝(えだ)をかざすと見(み)て、思(おも)ひけるは、男子(をのこご)の身(み)なりとも、自(みづか)らが、月日(つきひ)を取(と)らん事(こと)有(あ)るまじ、ましてや、女(をんな)の身(み)として、思(おも)ひもよらず、誠(まこと)に不思議(ふしぎ)の夢(ゆめ)なり、姉御(あねご)は知(し)らせ給(たま)ふべし、問(と)ひ奉(たてまつ)らんとぞ、急(いそ)ぎ朝日(あさひ)御前(ごぜん)の方(かた)に移(うつ)り、こまごまと語(かた)り給(たま)ふ。姉(あね)二十一の君(きみ)、詳(くは)しく聞(き)きて、「誠(まこと)にめでたき夢(ゆめ)なり。我(われ)等(ら)が先祖(せんぞ)は、今(いま)に観音(くわんおん)を崇(あが)め奉(たてまつ)る故(ゆゑ)、月日(つきひ)を左右(さう)の袂(たもと)にをさめたり。又(また)、橘(たちばな)をかざす事(こと)は、本説(ほんせつ)めでたき由来(ゆらい)有(あ)り」とて、景行天皇(けいかうてんわう)の御事(おんこと)をぞ思(おも)ひ出(い)だしける。
 @〔橘(たちばな)の事(こと)〕S0210N030
 抑(そもそも)、橘(たちばな)と言(い)ふ木実(このみ)の始(はじ)まりは、「仁王十一代(だい)の御門(みかど)垂仁天皇(すいにんてんわう)の御時(とき)よりぞ出(い)で来(き)ける」と、日本紀(につぽんぎ)は見(み)え、然(しか)るに、此(こ)の橘(たちばな)は、常世(とこよ)の国(くに)より、三参(まゐ)らせたり。P112折節(をりふし)、后(きさき)懐妊(くわいにん)し、彼(か)の橘(たちばな)を用(もち)ひ給(たま)ひて、懐胎(くわいたい)の悩(なや)み絶(た)えて、御心(おんこころ)すずしかりけり。然(さ)れば、斯様(かやう)の物(もの)も有(あ)りけるよと、朝夕(てうせき)願(ねが)ひ給(たま)へ共(ども)、我(わ)が国(くに)に無(な)き木実(このみ)也(なり)ければ、力(ちから)無(な)し。此処(ここ)に、間守(けんしゆ)と言(い)ふ大臣(だいじん)有(あ)り、此(こ)の願(ねが)ひを聞(き)き、「安(やす)き事(こと)なり。異国(いこく)に渡(わた)り、取(と)りて参(まゐ)らせん」と言(い)ひて、立(た)ちければ、君(きみ)、喜(よろこ)び思(おぼ)し召(め)して、「さては、いつの頃(ころ)に、帰朝(きてう)すべき」と、宣旨(せんじ)有(あ)りければ、「五月には、必(かなら)ず参(まゐ)るべし」と申(まう)して、渡(わた)りぬ。其(そ)の月をまてども、見(み)えずして、六月になりて、「我(われ)は止(とど)まりて、人して橘(たちばな)を十参(まゐ)らせ、猶(なほ)尋(たづ)ねて参(まゐ)るべし」とて、止(とど)まりけれども、橘(たちばな)の参(まゐ)る事(こと)を、后(きさき)、大(おほ)きに喜(よろこ)び給(たま)ひ、用(もち)ひ給(たま)ふ。其(そ)の徳(とく)に依(よ)りて、皇子(わうじ)御誕生(たんじやう)有(あ)り。御位(くらゐ)を保(たも)ち給(たま)ふ事(こと)、百二十年なり。景行天皇(けいかうてんわう)の御事(こと)、是(これ)なり。其(そ)の大臣(だいじん)の袖(そで)の香(か)に、橘(たちばな)の移(うつ)り来(き)たりけるを、猿丸(さるまる)大夫(たいふ)が歌(うた)に、五月(さつき)まつ花橘(たちばな)の香(か)をかげば昔(むかし)の人の袖(そで)の香(か)ぞする W003と詠(よ)みたりけり。我(わ)が朝(てう)に、たち花うゑ染(そ)めける事(こと)、此(こ)の時(とき)よりぞ始(はじ)まりける。又(また)、橘(たちばな)に、盧橘(ろきつ)と言(い)ふ名(な)有(あ)り。去年(こぞ)の橘(たちばな)におほひしておけば、今年(ことし)の夏(なつ)まで有(あ)るなり。其(そ)の色(いろ)、少(すこ)しくろきなり。「盧(ろ)」の字(じ)を「くろし」とよめばなり。さても、此(こ)の二十一の君(きみ)、女性(しやう)ながら、才覚(さいかく)人にすぐれしかば、斯様(かやう)の事(こと)を思(おも)ひ出(い)だしけるにや。実(げ)にも、景行帝(けいかうのみかど)、橘(たちばな)を願(ねが)ひ、誕生(たんじやう)有(あ)りし事(こと)、幾程(いくほど)無(な)くて、若君(わかぎみ)出(い)で来(き)たり、頼朝(よりとも)P113の御後(あと)を継(つ)ぎ、四海(しかい)を治(をさ)め奉(たてまつ)る。然(さ)れば、此(こ)の夢(ゆめ)を言(い)ひおどして、かひ取(と)らばやと思(おも)ひければ、「此(こ)の夢(ゆめ)、返(かへ)す返(がへ)す恐(おそ)ろしき夢(ゆめ)なり。よき夢(ゆめ)を見(み)ては、三年(みとせ)は語(かた)らず。悪(あ)しき夢(ゆめ)を見(み)ては、七日の内(うち)に語(かた)りぬれば、大(おほ)きなるつつしみ有(あ)り。如何(いかが)すべき」とぞおどしける。十九の君(きみ)は、偽(いつは)りとは思(おも)ひもよらで、「さては、如何(いかが)せん。よきにはからひてたびてんや」と、大(おほ)きに恐(おそ)れけり。「然(さ)れば、斯様(かやう)に、悪(あ)しき夢(ゆめ)をば転(てん)じかへて、難(なん)を逃(のが)るるとこそ聞(き)きて候(さぶら)へ」「転(てん)ずるとは、何(なに)とする事(こと)ぞや。自(みづか)ら心(こころ)得(え)難(がた)し。はからひ給(たま)へ」と有(あ)りければ、「然(さ)らば、うりかふと言(い)へば、逃(のが)るるなり。うり給(たま)へ」と言(い)ふ。かふ者(もの)の有(あ)りてこそ、うられ候(さうら)へ、目(め)にも見(み)えず、手(て)にも取(と)られぬ夢(ゆめ)の跡(あと)、現(うつつ)に誰(たれ)かかふべしと、思(おも)ひわづらふ色(いろ)見(み)えぬ。「然(さ)らば、此(こ)の夢(ゆめ)をば、童(わらは)かひ取(と)りて、御身(おんみ)の難(なん)をのぞき奉(たてまつ)らん」と言(い)ふ。「自(みづか)らがもとより主(ぬし)、悪(あ)しくとても、恨(うら)み無(な)し。御(おん)為(ため)悪(あ)しくは、如何(いかが)」と言(い)ひければ、「然(さ)ればこそ、うりかふと言(い)へば、転(てん)ずるにて、主(ぬし)も自(みづか)らも、苦(くる)しかるまじ」と、誠(まこと)しやかにこしらへければ、「然(さ)らば」と喜(よろこ)びて、うり渡(わた)しけるぞ、後(のち)に、悔(くや)しくは覚(おぼ)えける。此(こ)の言葉(ことば)につきて、二十一の君(きみ)、「何(なに)にてかかひ奉(たてまつ)らん。もとより所望(しよまう)の物(もの)なれば」とて、北条(ほうでう)の家(いへ)に伝(つた)はる唐(から)の鏡(かがみ)を取(と)り出(い)だし、唐綾(からあや)の小袖(こそで)一重(かさ)ね添(そ)へ渡(わた)されけり。P114十九の君(きみ)、なのめならずに喜(よろこ)びて、我(わ)が方(かた)に帰(かへ)り、「日頃(ひごろ)の所望(しよまう)適(かな)ひぬ。此(こ)の鏡(かがみ)の主(ぬし)になりぬ」と喜(よろこ)びけるぞ、愚(おろ)かなる。此(こ)の二十一の君(きみ)をば、父殊(こと)に不便(ふびん)に思(おも)ひければ、此(こ)の鏡(かがみ)を譲(ゆづ)りけるとかや。然(さ)る程(ほど)に、佐(すけ)殿(どの)、時政(ときまさ)に娘(むすめ)数多(あまた)有(あ)る由(よし)聞(き)こし召(め)し、伊東(いとう)にてもこり給(たま)はず、上(うは)の空(そら)なるもの思(おも)ひを、風(かぜ)の便(たよ)りにおとづればやと思(おぼ)し召(め)し、内々(ないない)人に問(と)ひ給(たま)へば、「当腹(たうはら)二人は、殊(こと)の外(ほか)悪女(あくぢよ)なり。先腹(せんばら)二十一の方(かた)へ、御文(ふみ)ならば、賜(たま)はりて参(まゐ)らせん」と申(まう)しける。伊東(いとう)にて物思(おも)ひしも、継母(ままはは)故(ゆゑ)なり。如何(いか)にわろくとも、当腹(たうはら)をと思(おぼ)し召(め)し定(さだ)められて、十九の方(かた)へ、御文(ふみ)をぞ遊(あそ)ばしける。藤(とう)九郎盛長(もりなが)は、是(これ)を賜(たま)はりて、つくづく思(おも)ひけるは、当腹(たうはら)共(ども)は、事(こと)の外(ほか)悪女(あくぢよ)の聞(き)こえ有(あ)り、君(きみ)思(おぼ)し召(め)し遂(と)げん事(こと)有(あ)るべからず、北条(ほうでう)にさへ、御仲(なか)違(たが)はせ給(たま)ひては、いづかたに御(おん)入(い)り有(あ)るべき、果報(くわほう)こそ、劣(おと)り奉(たてまつ)るとも、手跡(しゆせき)は、如何(いか)でか劣(おと)り奉(たてまつ)るべきとて、御文(ふみ)を二十一の方(かた)へとぞかきかへける。さて、少将(せうしやう)の局(つぼね)して、参(まゐ)らせたりけり。姫君(ひめぎみ)御覧(ごらん)じて、思(おぼ)し召(め)し合(あ)はする事(こと)有(あ)り、此(こ)の暁(あかつき)、白(しろ)き鳩(はと)一(ひと)つ飛(と)び来(き)たりて、口(くち)より金(こがね)の箱(はこ)に文(ふみ)を入(い)れてふき出(い)だし、童(わらは)が膝(ひざ)の上(うへ)におき、虚空(こくう)に飛(と)びさりぬ、開(ひら)きて見(み)れば、佐(すけ)殿(どの)の御文(ふみ)なり、急(いそ)ぎ箱(はこ)にをさむると思(おも)へば、夢(ゆめ)なり、今(いま)現(うつつ)に文(ふみ)見(み)る事(こと)、不思議(ふしぎ)さよと思(おぼ)し召(め)して、打(う)ち置(お)きぬ。其(そ)の後(のち)、文(ふみ)の数(かず)重(かさ)なりければ、夜(よ)な夜(よ)なP115忍(しの)びて、褄(つま)をぞ重(かさ)ね給(たま)ひける。かくて、年月(としつき)送(おく)り給(たま)ふ程(ほど)に、北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)、京(きやう)より下(くだ)りけるが、道(みち)にて此(こ)の事(こと)を聞(き)き、ゆゆしき大事(だいじ)出(い)で来(き)たり、平家(へいけ)へ聞(き)こえては如何(いか)ならんと、大(おほ)きに騒(さわ)ぎ思(おも)ひけり。さりながら、静(しづ)かに物(もの)を案(あん)ずるに、時政(ときまさ)が先祖上総守(かづさのかみ)なほたかは、伊予殿(いよどの)の関東(くわんとう)下向(げかう)の時(とき)、聟(むこ)に取(と)り奉(たてまつ)りて、八幡(はちまん)殿(どの)以下(いげ)の子孫(しそん)出(い)で来(き)たり、今(いま)に繁昌(はんじやう)、年(とし)久(ひさ)し。
 @〔兼隆(かねたか)聟(むこ)に取(と)る事(こと)〕S0211N031
 斯様(かやう)の昔(むかし)を案(あん)ずるに、悪(あ)し様(ざま)にはあらじと思(おも)ひけれども、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)に、山木(やまき)の判官(はんぐわん)兼隆(かねたか)と言(い)ふ者(もの)を同道(どうだう)して下(くだ)しけり。道(みち)にて、何(なに)と無(な)き事(こと)のついでに、「御分(ごぶん)を時政(ときまさ)が聟(むこ)に取(と)らん」と言(い)ひたりし言葉(ことば)の違(ちが)ひなば、「源氏(げんぢ)の流人(るにん)、聟(むこ)に取(と)りたり」と訴(うつた)へられては、罪科(ざいくわ)逃(のが)れ難(がた)し、如何(いかが)せんと思(おも)ひければ、伊豆(いづ)の国府(こう)に着(つ)き、彼(か)の目代(もくだい)兼隆(かねたか)に言(い)ひ合(あ)はせ、知(し)らず顔(がほ)にて、娘(むすめ)取(と)り返(かへ)し、山木(やまき)の判官(はんぐわん)にとらせけり。然(さ)れども、佐(すけ)殿(どの)に契(ちぎ)りや深(ふか)かりけん、一夜(よ)をもあかさで、其(そ)の夜(よ)の内(うち)に、逃(に)げ出(い)でて、近(ちか)く召(め)し使(つか)ひける女房(にようばう)一人具(ぐ)して、深(ふか)き叢(くさむら)を分(わ)け、足(あし)に任(まか)せて、あしびきの山路(やまぢ)を越(こ)え、夜(よ)もすがら、伊豆(いづ)の御山に分(わ)け入(い)り給(たま)ひぬ。ちぎりくずちは、P116出雲路(いづもぢ)の神(かみ)の誓(ちか)ひは、妹背(いもせ)の中(なか)は変(か)はらじとこそ、守(まぼ)り給(たま)ふなれ。頼(たの)む恵(めぐ)みのくちせずは、末(すゑ)の世掛(か)けて、諸(もろ)共(とも)に住(す)みはつべしと、祈(いの)り給(たま)ひけるとかや。 抑(そもそも)、出雲路(いづもぢ)の神(かみ)と申(まう)すは、昔(むかし)、けいしやうと言(い)ふ国(くに)に、男(をとこ)を伯陽(はくやう)、女(をんな)を遊子(いうし)とて、夫婦(ふうふ)の物有(あ)りけるが、月に共(とも)なひて、夜(よ)もすがら、ぬる事(こと)無(な)くして、道(みち)に立(た)ち、夕(ゆふべ)には、東山(とうざん)の峰(みね)に心(こころ)を澄(す)まし、月(つき)の遅(おそ)く出(い)づる事(こと)を恨(うら)み、暁(あかつき)は、晴天(せいてん)の雲(くも)にうそぶき、くもり無(な)き夜(よ)を喜(よろこ)び、雨雲(あまぐも)の空(そら)を悲(かな)しみて、年月(としつき)を送(おく)りしに、伯陽(はくやう)九十九の年(とし)、死門(しもん)にのぞまむとせし時(とき)、遊子(いうし)に向(む)かひ申(まう)す様(やう)、「我(われ)、月に共(とも)なひて、めづる事(こと)、世(よ)の人に越(こ)えたり。一人(ひとり)なりとも、月を見(み)る事(こと)、怠(おこた)らざれ」と言(い)ひければ、遊子(いうし)、涙(なみだ)を流(なが)して、「汝(なんぢ)、まさに死(し)なば、我(われ)一人(ひとり)月を見(み)る事(こと)有(あ)るべからず。諸(もろ)共(とも)に死(し)なん」と悲(かな)しめば、伯陽(はくやう)重(かさ)ねて申(まう)す様(やう)、「偕老(かいらう)同穴(とうけつ)の契(ちぎ)り、百年(ひやくねん)にあたれり。月を形見(かたみ)に見(み)よ」とて、遂(つひ)にはかなくなりにけり。契(ちぎ)りし如(ごと)く、遊子(いうし)は内(うち)に入(い)る事(こと)も無(な)くして、月(つき)に伴(ともな)ひ歩(あり)きしが、是(これ)も限(かぎ)り有(あ)りければ、遂(つひ)にはかなくなりにけり。然(さ)れども、夫婦(ふうふ)諸(もろ)共(とも)に月に心(こころ)をとめし故(ゆゑ)に、天上(てんじやう)の果(くわ)を受(う)け、二(ふた)つの星(ほし)なるとかや、牽牛(けんぎう)織女(しよくぢよ)是(これ)なり。又(また)、さいの神(かみ)とも申(まう)すなり。道祖神(だうそぢん)とも現(あらは)れ、夫婦(ふうふ)の中を守(まぼ)り給(たま)ふ御(おん)誓(ちか)ひ、頼(たの)もしくぞ覚(おぼ)えける。P117又(また)、伝(つた)へ聞(き)く、漢(かん)の高祖(かうそ)、はうやう山(さん)と言(い)ふ山(やま)に籠(こも)り給(たま)ひしに、こうろ大子(たいし)諸(もろ)共(とも)に、紫雲(しうん)を知(し)るべしとて、深(ふか)き山路(やまぢ)に分(わ)け入(い)りし志(こころざし)、是(これ)には過(す)ぎじとぞ見(み)えし。さて、佐(すけ)殿(どの)へ秘(ひそ)かに人を参(まゐ)らせ、かくと申(まう)させ給(たま)ひしかば、鞭(むち)を上(あ)げてぞ、上(のぼ)り給(たま)ひける。目代(もくだい)は尋(たづ)ねけれども、猶(なほ)山(やま)深(ふか)く入(い)り給(たま)ひければ、力(ちから)及(およ)ばず、北条(ほうでう)は、知(し)らず顔(がほ)にて、年月(としつき)をぞ送(おく)りける。伊東(いとう)が振舞(ふるま)ひには代(か)はりたるにや、果報(くわほう)の致(いた)す所(ところ)なり。
 @〔盛長(もりなが)が夢見(ゆめみ)の事(こと)〕S0212N033
 此処(ここ)に、懐島(ふところじま)の平(へい)権守(ごんのかみ)景信(かげのぶ)と言(い)ふ者(もの)有(あ)り。此(こ)の程(ほど)、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)、伊豆(いづ)の御山に忍(しの)びて坐(ま)します由(よし)伝(つた)へ聞(き)き、「斯様(かやう)の時(とき)こそ、奉公(ほうこう)をば致(いた)さめ」とて、一夜(いちや)宿直(とのゐ)に参(まゐ)りけり。藤九郎盛長(もりなが)も、同(おな)じく宿直(とのゐ)仕(つかまつ)る。夜半(やはん)ばかりに、打(う)ち驚(おどろ)きて、申(まう)しけるは、「今夜(こんや)、盛長(もりなが)こそ、君(きみ)の御(おん)為(ため)に、めでたき御示現(じげん)を蒙(かうぶ)りて候(さうら)へ。御耳(おんみみ)をそばたて、御心(おんこころ)を鎮(しづ)め、確(たし)かに聞(き)こし召(め)せ。君(きみ)は、矢倉岳(やぐらがだけ)に御腰(こし)を掛(か)けられしに、一品房(ぽんばう)は、金(こがね)の大瓶(たいへい)をいだき、実近(さねちか)は、御畳(たたみ)をしき、也(なり)つなは、銀(しろかね)の折敷(おしき)に、金(こがね)の御盃(さかずき)をすゑ、盛長(もりなが)は、銀(しろかね)の銚子(てうし)に、御盃(さかづき)参(まゐ)らせつるに、君(きみ)、三度(さんど)聞(き)こし召(め)さP118れて後(のち)は、箱根(はこね)御参詣(さんけい)有(あ)りしに、左(ひだり)の御足(あし)にては、外浜(そとのはま)を踏(ふ)み、右(みぎ)の御足(あし)にては、鬼界島(きかいがしま)を踏(ふ)み給(たま)ふ。左右(さう)の御袂(たもと)には、月日(つきひ)を宿(やど)し奉(たてまつ)り、小松(こまつ)三本(ぼん)頭(かしら)に頂(いただ)き、南(みなみ)向(む)きに歩(あゆ)ませ給(たま)ふと見(み)奉(たてまつ)りぬ」と申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)、聞(き)こし召(め)して、大(おほ)きに喜(よろこ)び給(たま)ひて、「頼朝(よりとも)、此(こ)の暁(あかつき)、不思議(ふしぎ)の霊夢(れいむ)をかうむりつるぞや。虚空(こくう)より山鳩(ばと)三来(き)たりて、頼朝(よりとも)が髻(たぶさ)に巣(す)をくひ、子(こ)をうむと見つるなり。是(これ)、しかしながら、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の守(まぼ)らせ給(たま)ふと、頼(たの)もしく覚(おぼ)ゆる」と仰(おほ)せられければ、
 @〔景信(かげのぶ)が夢(ゆめ)合(あ)はせ事(こと)〕S0213N034
 景信(かげのぶ)申(まう)しけるは、「盛長(もりなが)が示現(じげん)においては、景信(かげのぶ)合(あ)はせ候(さうら)はん。先(ま)づ、君(きみ)、矢倉岳(やぐらがだけ)に坐(ま)しましけるは、御先祖(せんぞ)八満殿(どの)の御子孫(しそん)、東(とう)八か国を御屋敷所(やしきどころ)にさせ給(たま)ふべきなり。御酒(さけ)聞(き)こし召(め)しけるとみつるは、理(ことわり)なり。当時(たうじ)、君(きみ)の御有様(おんありさま)は、無明(むみやう)の酒(さけ)によはせ給(たま)ふなり。然(しか)れば、酔(ゑ)ひは遂(つひ)にさむる物(もの)にて、「三木(みき)」の三文字(もんじ)をかたどり、近(ちか)くは三月、遠(とほ)くは三年(さんねん)に、御(おん)酔(ゑ)ひさむべし。P119
 @〔酒(さけ)の事(こと)〕S0214N035
 又(また)、酒(さけ)は、忘憂(ばうゆう)の徳(とく)有(あ)り。然(さ)るに依(よ)り、数(かず)の異名(いみやう)候(さうら)ふ。中(なか)にも、「三木(みき)」と申(まう)す事(こと)は、昔(むかし)、漢(かん)の明帝(めいてい)の時(とき)、三年旱魃(かんばつ)しければ、水(みづ)にうゑて、人民(みん)多(おほ)く死(し)す。御門(みかど)、大(おほ)きに歎(なげ)き給(たま)ひて、天に祈(いの)り給(たま)へども、験(しるし)無(な)し。如何(いかが)せんと悲(かな)しみ給(たま)ひける。其(そ)の国(くに)の傍(かたはら)に、せきそと言(い)ふ賎(いや)しき民(たみ)有(あ)り。彼(かれ)が家(いへ)の園(その)に、桑(くわ)の木(き)三本(ぼん)有(あ)りけるに、水鳥(みづとり)、常(つね)に下(お)り居(ゐ)て遊(あそ)ぶ。主(ぬし)あやしみて、行(ゆ)きて見(み)れば、彼(か)の木(き)のうろに、竹(たけ)の葉(は)おほへる物(もの)有(あ)り。取(と)りのけて見(み)るに、水(みづ)なり。なめて見(み)れば、美酒(びしゆ)也(なり)。即(すなは)ち、是(これ)を取(と)りて、国王(こくわう)に捧(ささ)ぐ。然(しか)れば、一度(いちど)口(くち)につくれば、七日餓(うゑ)を忘(わす)るる徳(とく)有(あ)り。御門(みかど)、感(かん)じ思(おぼ)し召(め)して、水鳥(みづとり)の落(お)とし置(お)きたる羽(は)を取(と)りて、餓死(うゑじに)の口(くち)にそそき給(たま)へば、死人(しにん)ことごとくよみがへり、うゑたる物(もの)は、力(ちから)をえ、めでたし共(とも)、言(い)ふ計(はか)り無(な)し。即(すなは)ち、せきそを召(め)して、一国の守(かみ)に任(にん)ず。桑(くわ)の木(き)三本(ぼん)より出(い)で来(き)たればとて、「三木(みき)」と申(まう)すなり。さても、此(こ)の酒(さけ)は、如何(いか)にして出(い)で来(く)るぞと尋(たづ)ぬれば、せきそが子(こ)に、くわうりというもの有(あ)り。継母(ままはは)、殊(こと)にすぐれて、是(これ)をにくみ、毒(どく)を入(い)れてくはせける。然(さ)れども、くわうり、継母(ままはは)の習(なら)ひと思(おも)ひなずらへて、更(さら)に恨(うら)むる心(こころ)無(な)くして、此(こ)の木(き)のうろに入(い)れおき、竹(たけ)の葉(は)おほひておきたりけるP120が、始(はじ)め入(い)れたる飯(いい)は、麹(こうじ)と成(な)り、後(のち)に入(い)れける飯(いひ)は、天(てん)より下(くだ)る雨露(うろ)の恵(めぐ)みを受(う)けて、くちて、美酒(びしゆ)とぞなりける。「毒薬(どくやく)変(へん)じて、薬(くすり)と成(な)る」とは、此(こ)の時(とき)よりの言葉(ことば)なり。又(また)、酒(さけ)をのみて、風(かぜ)の然(さ)る事(こと)三寸なれば、「三寸(みき)」とも書(か)けり。是(これ)は、家隆卿(かりうのきやう)の言(い)ひけるなり。馬(むま)の寸(す)を「き」と言(い)へば、其(そ)の故(ゆゑ)有(あ)るにや。又(また)、「風妨(ふうばう)」とも言(い)へり。風(かぜ)のさまたるく義(ぎ)なり。又(また)、或(あ)る者(もの)の家(いへ)に、杉(すぎ)三本(ぼん)有(あ)り。其(そ)の木(き)のしただり、岩(いは)の上(うへ)に落(お)ちたまり、酒(さけ)と成(な)ると言(い)ふ説(せつ)有(あ)り。其(そ)の時(とき)は、「三木(みき)」とかくべきか。又(また)、しん心ほうに曰(いは)く、「新酒(しんしゆ)百薬長(やくちやう)たり」とも書(か)けり。漢書(かんじよ)には、「せきそ、みきをえて、天命(てんめい)を助(たす)く」と書(か)けり。又(また)、慈童(じどう)と言(い)ひし者(もの)は、七百歳(さい)をえて、彭祖(はうそ)と名(な)を返(かへ)し仙人(せんにん)、菊水(きくすい)とてもて遊(あそ)びけるも、此(こ)の酒(さけ)なり。是(これ)は、法華経(ほけきやう)普門品(ふもんぼん)の二句(く)の偈(げ)を聞(き)きし故(ゆゑ)に、菊(きく)の下行(ゆ)く水(みづ)、不死(ふし)の薬(くすり)と也(なり)けるを、此(こ)の仙人(せんにん)は用(もち)ひけるとかや。大(おほ)やけにも、是(これ)を移(うつ)して、重陽(てうやう)の宴(えん)とて、酒(さけ)に菊(きく)を入(い)れて用(もち)ひ給(たま)ふ。上(うへ)より下(くだ)る雨露(うろ)の恵(めぐ)み、下(した)に差(さ)し来(く)る月日(つきひ)の光(ひかり)、あまねく、君(きみ)の御(おん)恵(めぐ)みに漏(も)れたる品(しな)は無(な)きにこそ、高(たか)きも、賎(いや)しきも、酒(さけ)はいはひにすぐれ、神も納受(なふじゆ)、仏(ほとけ)も憐愍(れんみん)有(あ)るとかや。君(きみ)も聞(き)こし召(め)されつる三きの如(ごと)くに、過(す)ぎにし憂(う)きを忘(わす)れさせ給(たま)ふ。日本国(につぽんごく)を従(したが)へさせ給(たま)ひし。左右(さう)の御足(あし)にて、外浜(そとのはま)と鬼界島(きかいがしま)を踏(ふ)み給(たま)ひけるは、秋津洲(あきつしま)残(のこ)り無(な)く、従(したが)へさせ給(たま)ふべきにや。左右(さう)の御袂(たもと)に、月日(つきひ)を宿(やど)しP121給(たま)ひけるは、主上(しゆしやう)・上皇(しやうくわう)の御後見(こうけん)においては、疑(うたが)ひ有(あ)るべからず候(さうら)ふ。小松(こまつ)三本頭(ぼんかしら)に頂(いただ)き給(たま)へるは、八幡(はちまん)三所(さんじよ)の擁護(おうご)あらたにして、千秋(せんしう)万歳(ばんぜい)を保(たも)ち給(たま)ふべき御相(さう)なり。又(また)、南(みなみ)向(む)きに歩(あゆ)ませ給(たま)ひけるは、主上(しゆしやう)御在位(ざいゐ)の、大極殿(だいこくでん)の南面(なんめん)にして、天子(てんし)の位(くらゐ)を踏(ふ)み給(たま)ふとこそ承(うけたまは)り候(さうら)へ。御運(ごうん)を開(ひら)き給(たま)はむ事(こと)、是(これ)に同(おな)じ」と申(まう)しければ、佐(すけ)殿(どの)喜(よろこ)び給(たま)ひて、「景信(かげのぶ)があはする如(ごと)く、頼朝(よりとも)、世(よ)に出(い)づる事(こと)あらば、夢(ゆめ)合(あ)はせのへんとう有(あ)るべし」とぞ仰(おほ)せられける。
 @〔頼朝(よりとも)謀叛(むほん)の事(こと)〕S0215N036
 然(さ)る程(ほど)に、誠(まこと)に謀叛(むほん)の事(こと)有(あ)り。例(たと)へば、さんぬる平治(へいぢ)元年(ぐわんねん)、右衛門督(ゑもんのかみ)藤原(ふぢはら)の信頼卿(のぶよりのきやう)、左馬頭(さまのかみ)源(みなもと)の義朝(よしとも)を語(かた)らひて、梟悪(けうあく)をくはたつ。然(しか)れば、清盛(きよもり)、是(これ)を追罰(ついばつ)し、件(くだん)の族(やから)を配流(はいる)せしより此(こ)の方(かた)、源氏(げんじ)退散(たいさん)して、平家(へいけ)繁昌(はんじやう)す。然(さ)れば、朝恩(てうおん)に誇(ほこ)りて、叡慮(えいりよ)を悩(なや)まし奉(たてまつ)る事(こと)、古今(ここん)にたぐひ無(な)し。剰(あまつさ)へ、其(そ)の身(み)、一人師範(しはん)にあらずして、忝(かたじけな)くも、太政(だいじやう)大臣(だいじん)の位(くらゐ)を汚(けが)す。かくの如(ごと)く、近衛(こんゑ)の大将(たいしやう)、左右(さう)に兄弟(きやうだい)相(あひ)並(なら)ぶ事(こと)、凡人(ぼんにん)において、先例(せんれい)に無(な)しと雖(いへど)も、始(はじ)めて此(こ)の義(ぎ)を破(やぶ)る。又(また)、仏餉(ぶつしやう)の田苑(でんおん)を止(とど)め、神明(しんめい)の国郡(こくぐん)をくつ返し、我(わ)が朝(てう)六十余州(よしう)P122の内(うち)、三十余(よ)国は、彼(か)の一族(いちぞく)領(りやう)す。又(また)、三公(さんこう)九卿(きうけい)の位(くらゐ)、月卿(げつけい)雲客(うんかく)の官職(くわんしよく)、大略(たいりやく)此(こ)の一門(いちもん)ふさぐ。斯様(かやう)のおごりの余(あま)りにや、さしたる科(とが)も無(な)きに、臣下(しんか)卿相(けいしやう)、多(おほ)く罪科(ざいくわ)に行(おこな)ひ、剰(あまつさ)へ、法皇(ほふわう)を鳥羽殿(とばどの)に押(お)し込(こ)め奉(たてまつ)り、天下(てんが)を我(わ)が儘(まま)にする。つらつら、旧記(きうき)を思(おも)へば、楊国忠(やうこくちゆう)が叡慮(えいりよ)に背(そむ)き、安禄山(あんろくざん)が朝章(てうしやう)を乱(みだ)りし悪行(あくぎやう)も、かくの如(ごと)くの事(こと)は無(な)し。人臣(じんしん)皇事(わうじ)を奪(うば)はざる外(ほか)は、これ体(てい)の悪行(あくぎやう)、異国(いこく)にも未(いま)だ先例(せんれい)を聞(き)かず。況(いはん)や、我(わ)が朝(てう)においてをや。かかりければ、後白河院(ごしらかはのゐん)の第二(だいに)の皇子(わうじ)高倉宮(たかくらのみや)を、源(げん)三位(ざんみ)入道(にふだう)頼政(よりまさ)、謀叛(むほん)をすすめ奉(たてまつ)る。治承(ぢせう)四年(しねん)四月二十四日の暁(あかつき)、諸国(しよこく)の源氏(げんじ)に院宣(ゐんぜん)を下(くだ)さる。御(おん)使(つか)ひは、十郎(じふらう)蔵人(くらんど)行家(ゆきいへ)なり。同(おな)じき五月八日に、行家(ゆきいへ)、伊豆(いづ)の国(くに)に着(つ)き、兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)に院宣(ゐんぜん)を告(つ)げ奉(たてまつ)る。院宣(ゐんぜん)の案(あん)を書(か)き、やがて常陸(ひたち)の国(くに)に下(くだ)り、志太(しだ)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)義憲(よしのり)に此(こ)の由(よし)をふれ、信濃(しなの)の国(くに)に下(くだ)り、木曾(きそ)義仲(よしなか)にも見(み)せけり。
 @〔兼隆(かねたか)が打(う)たるる事(こと)〕S0216N037
 是(これ)に依(よ)つて、国々(くにぐに)の源氏(げんじ)、謀叛(むほん)をくはたて、思(おも)ひ思(おも)ひに案(あん)をめぐらす所(ところ)に、頼朝(よりとも)早(はや)く、平家(へいけ)の侍(さぶらひ)に、和泉(いづみ)の判官(はんぐわん)兼隆(かねたか)、当国(たうごく)山木(やまき)が館(たち)に有(あ)りけるを、同(おな)じく八月十七日P123の夜(よ)、時政(ときまさ)父子(ふし)を始(はじ)めとして、佐々木(ささき)の四郎(しらう)高綱(たかつな)、伊勢(いせ)の加藤次(かとうじ)景廉(かげかど)、景信(かげのぶ)以下(いげ)の郎従(らうじゆう)等(ら)を差(さ)し遣(つか)はして、打(う)ち取(と)り畢(をは)んぬ。是(これ)ぞ、合戦(かつせん)の始(はじ)めなりける。此処(ここ)に、相模(さがみ)の国(くに)の住人(ぢゆうにん)大庭(おほば)の三郎(さぶらう)景親(かげちか)、平家(へいけ)の重恩(ぢゆうおん)を報(ほう)ぜん為(ため)に、当国(たうごく)石橋山(いしばしやま)に追(お)ひ掛(か)け、散々(さんざん)に戦(たたか)ふ。是(これ)のみならず、武蔵(むさし)・上野(かうづけ)の兵(つはもの)共(ども)、我(われ)劣(おと)らじと馳(は)せ向(む)かひて、防(ふせ)ぎ戦(たたか)ふ。其(そ)の中に、畠山(はたけやま)の重忠(しげただ)は、父(ちち)重能(しげよし)・叔父(をぢ)有重(ありしげ)、折節(をりふし)、平家(へいけ)の勘当(かんだう)にて、京都(きやうと)に召(め)し置(お)かるる最中(さいちゆう)なれば、其(そ)の科(とが)をもはらし、国土(こくど)の狼藉(らうぜき)をも鎮(しづ)めんと向(む)かひけるが、三浦党(みうらたう)、頼朝(よりとも)の謀叛(むほん)に与力(よりき)せんとて、馳(は)せ向(む)かひけるが、鎌倉(かまくら)の由比(ゆひ)と言(い)ふ所(ところ)にて行(ゆ)き合(あ)ひ、散々(さんざん)に戦(たたか)ひけるが、重忠(しげただ)打(う)ち落(お)とされて、希有(けふ)の命(いのち)いきて、武州(ぶしう)に帰(かへ)りけり。其(そ)の後(のち)、江戸(えど)・葛西(かつさい)を始(はじ)めとして、武蔵(むさし)の国(くに)の者(もの)共(ども)、一千余騎(よき)、三浦(みうら)へ押(お)し寄(よ)せ、身命(しんみやう)を捨(す)てて戦(たたか)ひければ、三浦(みうら)打(う)ち負(ま)けて、今(いま)は、大介(おおすけ)一人になりにけり。年(とし)九十余(よ)になりけるが、子孫(しそん)に向(む)かひて申(まう)しけるは、「兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿(どの)の浮沈(ふちん)、今(いま)に有(あ)り。己(おのれ)等(ら)一人も、死(し)に残(のこ)りたらば、見(み)つぎ奉(たてまつ)れ」と申(まう)しおいて、腹(はら)切(き)り畢(をは)んぬ。さても、伊東(いとう)の入道(にふだう)は、もとより佐(すけ)殿(どの)に意趣(いしゆ)深(ふか)き者(もの)なりければ、一合戦(かつせん)と馳(は)せ向(む)かひけるが、頼(たの)みし畠山(はたけやま)打(う)ち落(お)とされぬと聞(き)きて、伊豆(いづ)の御山(やま)より帰(かへ)りにけり。佐(すけ)殿(どの)、無勢(ぶせい)たるに依(よ)つて、心(こころ)は猛(たけ)く思(おも)はれけれ共(ども)、此(こ)の合戦(かつせん)適(かな)ふべしとは見(み)えP124ざりける。然(さ)れども、土肥(とひ)の二郎(じらう)、岡崎(をかざき)の悪四郎(あくしらう)、佐々木(ささき)の四郎(しらう)、命(いのち)を惜(を)しまず、戦(たたか)ひける其(そ)の隙(ひま)に、佐(すけ)殿(どの)逃(のが)れ給(たま)ひて、杉山(すぎやま)に入(い)り給(たま)ひぬ。北条(ほうでう)の三郎(さぶらう)宗時(むねとき)、佐那田(さなだ)の与一(よいち)も打(う)たれけり。佐(すけ)殿(どの)、七騎(き)に打(う)ちなされ、大童(わらは)に成(な)りて、大木の中(なか)に隠(かく)れ、其(そ)の暁(あかつき)、山(やま)を忍(しの)び出(い)で、安房(あは)の国(くに)りうさきへ渡(わた)り給(たま)ふとて、海上(かいしやう)にて、三浦(みうら)の人々(ひとびと)、和田(わだ)の小太郎(こたらう)義盛(よしもり)に行(ゆ)き合(あ)ひて、船(ふね)共(ども)を漕(こ)ぎ寄(よ)せ、互(たが)ひに合戦(かつせん)の次第(しだい)を語(かた)る。義盛(よしもり)は、衣笠(きぬかさ)の軍(いくさ)に、大介(おおすけ)打(う)たれし事(こと)共(ども)語(かた)りければ、土肥(とひ)・岡崎(をかざき)は又(また)、石橋山(いしばしやま)の合戦(かつせん)に、与一(よいち)が打(う)たれし事(こと)共(ども)を語(かた)り、互(たが)ひに鎧(よろひ)の袖をぞ濡(ぬ)らしける。さて、安房(あは)の国(くに)に渡(わた)り、其(そ)れより上総(かづさ)に越(こ)え、千葉介(ちばのすけ)を相(あひ)具(ぐ)して、次第(しだい)に攻(せ)め上(のぼ)り給(たま)ひて、相模(さがみ)の国(くに)鎌倉(かまくら)の館(たち)にぞつき給(たま)ひける。是(これ)よりして、武士(ぶし)共(ども)、関東(くわんとう)に帰伏(きぶく)せざるは無(な)かりけり。然(さ)れば、平家(へいけ)驚(おどろ)き騒(さわ)ぎ、度々(たびたび)討手(うつて)を向(む)かはすと雖(いへど)も、或(ある)いは鳥(とり)の羽音(はおと)を聞(き)きて、退(しりぞ)く者(もの)も有(あ)り、又は、戦場(せんぢやう)にこらへずして、鞭(むち)にて打(う)ち落(お)とさるるも有(あ)り。是(これ)、普通(ふつう)の儀(ぎ)にあらず、只(ただ)天命(てんめい)の致(いた)す所(ところ)也(なり)。昔(むかし)、周(しゆう)の文王(ぶんわう)、いしんちうを打(う)たんとせしに、東天(とうてん)に雲(くも)さえて、雪(ゆき)のふる事(こと)、一丈(いちぢやう)余(よ)也(なり)。五車馬(しやめ)に乗(の)る人、門外(もんぐわい)に来(き)たりて、其(そ)の事(こと)を示(しめ)ししかば、文王(ぶんわう)、勝(か)つ事(こと)をえたり。かるが故(ゆゑ)に、逆臣(げきしん)、程(ほど)無(な)くはいしやうして、天下(てんが)、即(すなは)ち穏(おだ)やかなり。P125
 @〔伊東(いとう)が切(き)らるる事(こと)〕S0217N039
 さても、不忠(ふちゆう)を振舞(ふるま)ひし伊東(いとう)の入道(にふだう)は、生捕(いけど)られて、聟(むこ)の三浦介(みうらのすけ)義澄(よしずみ)に預(あづ)けられけるを、前日(ぜんじつ)の罪科(ざいくわ)逃(のが)れ難(がた)くして、召(め)し出(い)だし、よろいすると言(い)ふ所(ところ)にて、首(かうべ)をはねられける。最後(さいご)の十念(ねん)にも及(およ)ばず、西方(さいはう)浄土(じやうど)をも願(ねが)はず、先祖(せんぞ)相伝(さうでん)の所領(しよりやう)、伊東(いとう)・河津(かはづ)の方(かた)を見(み)遣(や)りて、執心(しうしん)深(ふか)げに思(おも)ひ遣(や)るこそ、無慙(むざん)なれ。
 @〔奈良(なら)の勤操(ごんざう)僧正(そうじやう)の事(こと)〕S0218N040
 是(これ)や、延暦(えんりやく)年(ねん)中(ぢゆう)に、奈良(なら)の勤操(ごんざう)僧正(そうじやう)、大旱魃(だいかんばつ)に、雨(あめ)の祈(いの)りの為(ため)、大和(やまと)の国(くに)布留社(ふるのやしろ)にて、薬草喩品(やくさうゆぼん)を一七日講(かう)ぜられける。何処(いづく)共(とも)無(な)く、童(わらは)一人来(き)たりて、毎日(まいにち)、御経(きやう)を聴聞(ちやうもん)しける。七日に満(まん)ずる時(とき)、「何物(なにもの)にや」と、御(おん)尋(たづ)ね有(あ)りければ、「我(われ)は、此(こ)の山の小竜(せうりゆう)なり。七日の聴聞(ちやうもん)に依(よ)つて、安楽(あんらく)世界(せかい)に生(う)まれ候(さうら)ひなん嬉(うれ)しさよ」とて、随喜(ずいき)の涙(なみだ)を流(なが)しけり。其(そ)の時(とき)、僧正(そうじやう)曰(いは)く、「竜(りゆう)は、雨(あめ)を心(こころ)に任(まか)する物(もの)なれば、雨(あめ)をふらし候(さうら)へ」と宣(のたま)へば、「大龍(りゆう)の許(ゆる)し無(な)くして、我(わ)がはからひにて、成(な)り難(がた)く候(さうら)へども、さりながら、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を御(おん)助(たす)け給(たま)ひ候(さうら)はば、身(み)は失(う)せ候(さうら)ふとも、P126雨(あめ)をふらし候(さうら)はん」と申(まう)す。「左右(さう)にや及(およ)ぶ。追善(ついぜん)有(あ)るべし」と、御領状(りやうじやう)有(あ)りしかば、即(すなは)ち雷(いかづち)と成(な)りて、天に上(あ)がり、雨(あめ)のふる事(こと)、二時(とき)ばかりなり。され共(ども)、此(こ)の竜(りゆう)、其(そ)の身砕(くだ)けて、五所(ところ)へぞ落(お)ちにけり。僧正(そうじやう)哀(あは)れみ給(たま)ひて、彼(か)の竜(りゆう)の落(お)ちける所(ところ)にして、一日経(きやう)を書写(しよしや)せられけり。其(そ)の後(のち)、彼(か)の僧正(そうじやう)の夢(ゆめ)に、御(おん)訪(とぶら)ひに依(よ)り、即(すなは)ち蛇身(じやしん)を転(てん)じて、仏道(ぶつだう)を成(じやう)ずと見(み)えたり。さて、彼(か)の五所(ところ)に、五つの寺(てら)をたてて、今(いま)に絶(た)えせず、勤行(ごんぎやう)とこしなへ也(なり)。彼(か)の五所(ところ)の寺号(じがう)をば、竜門寺(りゆうもんじ)、竜(りゆう)せん寺(じ)、竜(りゆう)しよく寺(じ)、竜(りゆう)ほう寺(じ)、竜(りゆう)そん寺(じ)、是(これ)なり。紀伊(きの)の国(くに)・大和(やまと)両国(りやうごく)に有(あ)り。斯様(かやう)の畜類(ちくるい)だにも、後生(ごしやう)をば願(ねが)ふぞかし。伊東(いとう)の入道(にふだう)は、最後(さいご)の時(とき)にも、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)を願(ねが)はぬぞ、愚(おろ)かなる。是(これ)を以(もつ)て、過(す)ぎにし事(こと)を案(あん)ずるに、親(おや)の譲(ゆづ)りを背(そむ)くのみならず、現在(げんざい)の兄(あに)を調伏(てうぶく)し、もつまじき所領(しよりやう)を横領(わうりやう)せし故(ゆゑ)、天(てん)是(これ)を戒(いまし)めけるとぞ覚(おぼ)えたり。然(さ)れば、悪(あく)は一旦(いつたん)の事(こと)なり、小利(せうり)有(あ)りと雖(いへど)も、遂(つひ)には正(しやう)に帰(き)して、道理(だうり)道(みち)を行(ゆ)くとかや。総(そう)じて、頼朝(よりとも)に敵(てき)したる者(もの)こそ多(おほ)き中(なか)に、まのあたりに誅(ちゆう)せられける、因果(いんぐわ)逃(のが)れざる理(ことわり)を思(おも)へば、昔(むかし)、天竺(てんぢく)に大王(だいわう)有(あ)り、尊(たつと)き上人(しやうにん)を帰依(きえ)せんとて、国々を尋(たづ)ねけるに、或(あ)る時(とき)、いみじき上人(しやうにん)有(あ)りとて、向(む)かひを遣(つか)はし給(たま)ふに、此(こ)の王(わう)、朝夕(あさゆふ)、碁(ご)を好(この)み給(たま)ひて、人を集(あつ)めて打(う)ち給(たま)ふ。「上人(しやうにん)参(まゐ)り給(たま)ひぬ」と申(まう)しければ、碁(ご)にきりて然(しか)るべき所(ところ)有(あ)りけるを、「きれ」と宣(のたま)ひけるに、此(こ)の上人(しやうにん)P127の首(くび)をきれとの宣旨(せんじ)と聞(き)き成(な)して、即(すなは)ち聖(ひじり)の首(くび)を打(う)ち切(き)りぬ。大王(だいわう)、夢(ゆめ)にも知(し)り給(たま)はで、碁(ご)打(う)ちはてて、「其(そ)の上人(しやうにん)、此方(こなた)へと宣(のたま)ふ。「宣旨(せんじ)に任(まか)せて、切(き)りたり」と申(まう)す。大王(だいわう)、大(おほ)きに悲(かな)しみ仏(ほとけ)に歎(なげ)き給(たま)ふ時(とき)、仏(ほとけ)宣(のたま)はく、「昔(むかし)、国王(こくわう)は、蛙(かいる)にて、土中(どちゆう)に有(あ)りし也(なり)。上人(しやうにん)、もとは、田(た)を作(つく)る農(のふ)人なり。然(しか)る間(あひだ)、田(た)を返(かへ)すとて、心(こころ)ならず、唐鋤(からすき)にて、蛙(かいる)の首(くび)をすき切(き)りぬ。其(そ)の因果(いんぐわ)逃(のが)れずして、切(き)られけり。因果(いんぐわ)は、斯様(かやう)なる物(もの)をや」と宣(のたま)へば、国王(こくわう)、未来(みらい)の因果(いんぐわ)を悲(かな)しみて、多(おほ)くの志(こころざし)をつくして、彼(か)の苦(く)をまぬかれ給(たま)ひけるとかや。人(ひと)は、只(ただ)むくいを知(し)るべきなり。
 @〔祐清(すけきよ)、京(きやう)へ上(のぼ)る事(こと)〕S0219N041
 伊東(いとう)の九郎においては、奉公(ほうこう)の者(もの)にて、死罪(しざい)をなだめられ、召(め)し使(つか)はるべき由(よし)、仰(おほ)せ下(くだ)されしを、「不忠(ふちゆう)の者(もの)の子、面目(めんぼく)無(な)し。其(そ)の上(うへ)、石橋山(いしばしやま)の合戦(かつせん)に、まさしく君(きみ)を打(う)ち奉(たてまつ)らんと向(む)かひし身(み)、命(いのち)いきて候(さうら)ふとも、人にひとしく頼(たの)まれ奉(たてまつ)るべしとも存(ぞん)ぜず。さあらんにおいては、首(くび)を召(め)されん事(こと)こそ、深(ふか)き御恩(ごおん)たるべし」と、のぞみ申(まう)しけるも、やさしくぞ覚(おぼ)えける。此(こ)の心(こころ)なればや、君(きみ)をも落(お)としP128奉(たてまつ)りけると、今更(いまさら)思(おも)ひ知(し)られたり。君(きみ)聞(き)こし召(め)され、「申(まう)し上(あ)ぐる所(ところ)の辞儀(じんぎ)、余儀(よぎ)無(な)し。然(しか)れども、忠(ちゆう)の者(もの)を切(き)りなば、天の照覧(せうらん)も如何(いかが)」とて、切(き)らるまじきにぞ定(さだ)まりける。九郎、重(かさ)ねて申(まう)しけるは、「御免(ごめん)候(さうら)はば、忽(たちま)ち平家(へいけ)へ参(まゐ)り、君(きみ)の御敵(かたき)と成(な)り参(まゐ)らせ、後矢(うしろや)仕(つかまつ)るべし」と、再三(さいさん)申(まう)しけれ共(ども)、御(おん)用(もち)ひ無(な)く、「仮令(たとひ)敵(かたき)と成(な)ると言(い)ふとも、頼朝(よりとも)が手(て)にては、如何(いか)でか切(き)るべき」と仰(おほ)せ下(くだ)されければ、力(ちから)及(およ)ばず、京都(きやうと)に上(のぼ)り、平家(へいけ)に奉公(ほうこう)致(いた)しける。北陸道(ほくろくだう)の合戦(かつせん)の時(とき)、加賀(かが)の国(くに)篠原(しのはら)にて、斎藤(さいとう)別当(べつたう)一所(いつしよ)に討死(うちじに)して、名(な)を後代(こうたい)に止(とど)む。よき侍(さぶらひ)の振舞(ふるま)ひ、弓矢(ゆみや)の義理(ぎり)、是(これ)にしかじと、惜(を)しまぬ者(もの)は無(な)かりけり。
 @〔鎌倉(かまくら)の家(いへ)の事(こと)〕S0220N042
 さて、佐(すけ)殿(どの)、北(きた)の御方(かた)取(と)り奉(たてまつ)りし江間(えま)の小四郎(こしらう)も打(う)たれけり。跡(あと)を北条(ほうでう)の四郎(しらう)時政(ときまさ)に賜(たま)はり、さてこそ、江間(えま)の小四郎(こしらう)とも申(まう)しけれ。此(こ)の外(ほか)、打(う)たるる侍(さぶらひ)共(ども)、相模(さがみ)の国(くに)には、波多野(はだの)の右馬允(むまのじよう)、大庭(おほば)の三郎(さぶらう)、海老名(えびな)の源八(げんぱち)、荻野(おぎの)の五郎(ごらう)、上総(かづさ)の国(くに)には、上総介(かづさのすけ)、みちの国(くに)には、秀衡(ひでひら)が子供(こども)を始(はじ)めとして、国々(くにぐに)の侍(さぶらひ)五十余人(よにん)ぞ打(う)たれける。又(また)、平家(へいけ)には、八島(やしま)の大臣殿(おほいどの)、右衛門督(ゑもんのかみ)清宗(きよむね)、本(ほん)三位(ざんみ)の中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)を先(さき)とし、或(ある)いは、きらP129れ、自害(じがい)する族(やから)、しるすに及(およ)ばず。源氏(げんじ)には、御舍弟(しやてい)三川守(みかはのかみ)範頼(のりより)、九郎判官(はんぐわん)義経(よしつね)、木曾(きそ)義仲(よしなか)、甲斐(かひ)の国(くに)には、一条(いちでう)の二郎(じらう)忠頼(ただより)、小田(をだ)の入道(にふだう)、常陸(ひたち)の国(くに)には、志太(しだ)の三郎(さぶらう)先生(せんじやう)を始(はじ)めとして、以上二十八人、彼(かれ)是(これ)打(う)たるる者(もの)、百八十余人(よにん)なり。「此(こ)の内(うち)に、冤貶(ゑんへん)の者(もの)は、わづか三人なり。一条(いちでう)の二郎(じらう)、三川守(みかはのかみ)、上総介(かづさのすけ)なり。此(こ)の外(ほか)は、皆(みな)自業(じごふ)自得果(じとくくわ)なり」とぞ宣(のたま)ひける。さて、鎌倉(かまくら)に居所(きよしよ)をしめて、郎従(らうじゆう)以下(いげ)軒(のき)を並(なら)べ、貴賎(きせん)袖(そで)を連(つら)ねけり。是(これ)や、政要(せいよう)の言葉(ことば)に、「漢(かん)の文王(ぶんわう)は、千里(せんり)の馬(むま)を辞(じ)し、晋(しん)の武王(ぶわう)は、雉頭(ちとう)の裘(かはごろも)をやく」とは、今(いま)の御代(よ)に知(し)られたり。民(たみ)の竃(かまど)は、朝夕(ちやうせき)の煙(けぶり)豊(ゆた)かなり。賢王(けんわう)世(よ)にいづれば、鳳凰(ほうわう)翼(つばさ)を延(の)べ、賢臣(けんしん)国(くに)に来(き)たれば、麒鱗(きりん)蹄(ひづめ)をとぐと言(い)ふ事(こと)も、此(こ)の君(きみ)の時(とき)に知(し)られたり。めでたかりし御事(おんこと)なり。
 @〔八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)の事(こと)〕S0221N043
 抑(そもそも)、八幡(はちまん)大菩薩(だいぼさつ)を、忝(かたじけな)くも、鶴岡(つるがをか)に崇(あが)め奉(たてまつ)る。是(これ)を若宮(わかみや)と号(かう)す。蘋■(ひんぱむ)の礼(れい)、社壇(しやだん)にしげく、奉幣(ほうへい)、にんわうのせきしやうなり。其(そ)の垂迹(すいじやく)三所(さんじよ)に、仲哀(ちゆうあい)・神功(じんぐう)・応神(おうじん)三皇(くわう)の玉体(ぎよくたい)也(なり)。本地(ほんぢ)を思(おも)へば、弥陀(みだ)三尊(ぞん)の聖容(しやうよう)、行教(ぎやうけう)和尚(くわしやう)の三衣(ゑ)の袂(たもと)を現(あらは)し給(たま)へり。百皇(くわう)鎮護(ちんご)の誓(ちか)ひを起(お)こして、一天(いつてん)静謐(せいひつ)の恵(めぐ)みP130坐(ま)します。誠(まこと)に是(これ)、本朝(ほんてう)の宗廟(そうべう)として、源氏(げんじ)を守(まも)り給(たま)ふとかや。現世(げんぜ)安穏(あんをん)の方便(はうべん)は、観音(くわんおん)・勢至(せいし)、神力(じんりき)を受(う)け給(たま)ふ。後生(ごしやう)善処(ぜんしよ)の利益(りやく)は、無量寿仏(むりやうじゆぶつ)の誓(ちか)ひを施(ほどこ)し給(たま)ふ。仰(あふ)ぎても信(しん)ずべきは、もつとも此(こ)の御神(かみ)なり。父(ちち)左馬頭(さまのかみ)の為(ため)に、勝長寿院(せうちやうじゆゐん)を建立(こんりう)し給(たま)ふ。今(いま)の大御堂(みだう)、是(これ)なり。其(そ)の外(ほか)、堂舎(だうじや)・塔婆(たふば)を造立(ざうりふ)し給(たま)ふ。仏像(ぶつざう)経巻(きようぐわん)を敬崇(きやうそう)す。征罰(せいばつ)の志(こころざし)、逸早(いつさう)にして、善根(ぜんごん)も又(また)、莫大(ばくだい)なり。寿永(じゆゑい)二年(ねん)九月四日に、居(ゐ)ながら征夷(せいい)将軍(しやうぐん)の院宣(ゐんぜん)を蒙(かうぶ)り、建久(けんきう)元年(ぐわんねん)十一月七日に、上洛(しやうらく)して、大納言(だいなごん)に補(ふ)し、同(おな)じき十二月五日に、右大将(うだいしやう)に任(にん)ず。然(さ)れば、籌策(ちうさく)を帷帳(いちやう)の内(うち)にめぐらし、勝(か)つ事(こと)を千里(り)の外(ほか)にえたり。実(げ)にや、遙(はる)かに伊豆(いづ)の国(くに)に流罪(るざい)せられ給(たま)ひし時(とき)、掛(か)かるべしとは誰(たれ)か思(おも)ひけん、一天(いつてん)四海(しかい)を従(したが)へ、靡(なび)かぬ草木(くさき)も無(な)かりけり。誠(まこと)や、史記(しき)の言葉(ことば)に、「天下(てんが)安寧(あんねい)なる時(とき)は、刑錯(けいしやく)を用(もち)ひず」とは、今(いま)こそ思(おも)ひ知(し)られたり。平家(へいけ)繁昌(はんじやう)の折節(をりふし)、誰(たれ)かは此(こ)の一門(いちもん)を滅(ほろ)ぼすべきとは思(おも)ひける。さても、伊豆(いづ)の御山(みやま)にて夢物語(ゆめものがたり)、同(おな)じく合(あ)はせ奉(たてまつ)りし者(もの)、勧賞(けんじやう)に預(あづ)かり、藤九郎盛長(もりなが)、上野(かうづけ)の総追捕使(そうついぶし)になさる。景信(かげのぶ)は、若宮(わかみや)の別当(べつたう)、神人(じんにん)総官(そうくわん)を賜(たま)はる上(うへ)に、大庭(おほば)の御廚(みくりや)は、先祖(せんぞ)には、代々(だいだい)数多(あまた)にわかたれし、今度(こんど)は、一円(ゑん)賜(たま)はりける。此(こ)の外(ほか)、荘園(しやうゑん)五六ケ所給(たま)ひて、朝恩(てうおん)に誇(ほこ)りける。さても、先年(せんねん)、河津(かはづ)の三郎(さぶらう)を打(う)ちたりし工藤(くどう)一郎祐経(すけつね)は、左衛門(さゑもん)の尉(じよう)に成(な)りて、伊東(いとう)を賜(たま)はる。其(そ)の外(ほか)、所領(しよりやう)数多(あまた)P131拝領(はいりやう)して、随分(ずいぶん)切(き)り者(もの)にて、昼夜(ちうや)、君(きみ)の御側(そば)さらで祗候(しこう)す。され共(ども)、傷(きず)をかうむる鳥(とり)は、天(てん)に上(あ)がりて、翼(つばさ)を叩(たた)くと雖(いへど)も、又(また)、地に落(お)つる思(おも)ひ有(あ)り。鉤(つりばり)をふくむ魚(うを)は、深(ふか)き淵(ふち)に入(い)りて、尾(を)をふると雖(いへど)も、遂(つひ)には陸(くが)に上(あ)がる愁(うれ)へ有(あ)り。祐経(すけつね)も、斯様(かやう)に果報(くわほう)いみじくて、公方(くぼう)・私(わたくし)、おどろを逆様(さかさま)に引(ひ)くと雖(いへど)も、敵(かたき)有(あ)る身(み)は、行(ゆ)く末(すゑ)逃(のが)れ難(がた)くして、遂(つひ)に打(う)たれにけるこそ、無慙(むざん)なれ。