平家物語 百二十句本(京都本)巻第四
P175
平家巻第四     目  録
第三十一句 厳島御幸
      安徳天皇御践祚
      新院鳥羽殿へ入御の事
      同じく福原別業入御の事
      安徳天皇御即位
第三十二句 高倉の宮謀叛
      源氏揃ひ
      相少納言占形
      新宮十郎蔵人改名令旨
      鳥羽殿鼬怪事の事
第三十三句 信連合戦
      宮の都落
      信連小枝持参
      信連許さるる事
      信連鎌倉殿より召出ださるる事
第三十四句 競
      木の下鹿毛金焼の事
      還城楽の物語の事
      頼政の都出で
      南鐐金焼の事
第三十五句 牒  状
      三井寺の大衆宮同心の事
      山門に対するの状
      南都に対するの状
      興福寺の返牒
第三十六句 三井寺大衆揃ひ
      頼政夜討の下知
      一如房が長僉議の事
      浄御原の天皇の物語
P176
      函谷関の沙汰
第三十七句 橋合戦
      小枝・蝉折れの沙汰
      矢切の但馬のふるまひ
      筒井の浄妙のふるまひ
      一来法師の討死
第三十八句 頼政最後
      足利又太郎宇治川下知
      頼政辞世
      長七唱頼政首かくす事
      嫡子仲綱・次男兼綱・三男仲家その子仲光討死の事
第三十九句 高倉の宮最後
      六条の大夫宗信未練
      南都の大衆七千余騎御迎ひに参る事
      首実検
      若宮出家
第四十句  鵺(ぬえ)
      頼政昇殿の歌並びに三位歌
      堀河の院の時怪事
      頼長の左府を以て獅子王賜はる事
      三井寺炎上
P177
平家 巻第四
第三十一句 厳島御幸
 治承四年正月一日、鳥羽殿には、入道相国(しやうごく)もゆるされず、法皇もおそれさせましましければ、元日、元三のあひだ参入する人もなし。故少納言入道の子息、藤原の中納言成範(しげのり)[* 「なりのり」と有るのを他本により訂正]、その弟(おとと)左京大夫(さきやうのだいぶ)脩範(ながのり)、これ二人ばかりぞゆるされて参られける。 同じく二十日、東宮御袴着(おんはかまぎ)、ならびに御魚味初(おんまなはじ)めきこしめすとて、めでたきことどもありしかども、法皇は御耳のよそにぞ聞こしめす 二月二十一日、主上ことなる御つつがもわたらせ給はぬを、おしおろしたてまつる。東宮践祚あり。これは、入道相国、よろづ思ふままなるがいたすところなり。「時よくなりぬ」とてひしめきあへり。 内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつる。上達部、陣に集まつてふるごとども先例にまかせておこなひしに、弁の内侍、御剣取て歩み出づ。清涼殿の西面にて、泰通の中将受け取る。備中の内侍、しるしの御箱取り出だす。隆房の少将受け取る。内侍所、しるしの御箱、「こよひばかりや手をもかけけん」と思ひあへり。内侍の心のうちども、「さこそ」とおぼえて、あはれぞ多かりける。なかにも、しるしの御箱をば少納言の内侍取り出づべかりしを、こよひこれに手をもかけては、長くあたらしき内侍にはなるまじきよし、人の申しけるを聞い
P178
て、その期に辞して取り出ださざりけり。「年すでにたけたり。ふたたびさかりを期すべきにもあらず」とて人々憎みあへりしに、備中の内侍は生年十六歳、いまだいとけなき身ながら、その期に、わざとのぞみて取り出だしける、優なりけるありさまなり。 つたはれる御ものども、品々、つかさづかさ、受け取りてける。新帝の皇居、五条の内裏へわたしたてまつる。閑院殿には火の影もかすかに、鶏人の声もとどまり、滝口の問籍も絶えにければ、ふるき人々、めでたき祝ひのなかにも涙をながし、心をいたましむ。左大臣、陣に出で、御位ゆづりのことども仰せしを聞いて、心ある人々は涙をながし、袖をうるほす。われと御位を儲の君にゆづりたてまつれば、「まこやの山のなかにも静かに」などおぼしめす。もともとだにもあはれは多きならひぞかし。いはんや、これは心ならずおしおろされさせ給ひけんあはれさ、申すもなかなかおろかなり。 新帝、今年三歳。「あはれ、いつしかなる位ゆづりかな」と人々申しあはれけり。平大納言時忠の卿は、うちの御乳母帥の典侍の夫たるによつて、「『今度の譲位いつしかなり』と、たれかかたぶけ申すべき。異国には、周の成王三歳、普の穆帝二歳。わが朝には、近衛の院三歳、六条の院二歳、みな襁褓(きやうほう)のうちにつつまれて、衣帯正しうせざつしかども、『あるいは摂政負うて位につけ、あるいは母君抱いて朝にのぞむ』と見えたり。後漢の孝殤皇帝は、生れて百日といふに践祚ありて天子の位をふむ。先蹤、和漢かくのごとし」
P179
と申されけれど、そのときの有職の人々、「あなおそろし。ものな申されそや。さればそれはよき例どもか」とぞつぶやきあはれける。 東宮、位につかせ給ひしかば、太政入道、夫婦ともに准三后の宣旨をかうむり、年官年爵を賜はつて、上日の者を召し使ひ、絵かき、花つけたる侍ども出で入りければ、院、宮のごとくにてぞありける。出家入道ののちも、栄耀なほ尽きせぬとぞ見えし。出家の人の准三后の宣旨をかうむることは、法興院の大入道兼家の卿の例とぞ承る。 同じく三月に、「新院、安芸の厳島へ御幸なるべし」とぞ聞こえさせ給ひける。皇帝位去らせ給ひて、諸社の御幸のはじめには、八幡、賀茂、春日なんどへこそ御幸なるべきに、はるばるの西のはて、島国へわたらせ給ふ神へしも御幸なることは、人、「いかに」と申しあへり。ある人申しけるは、「白河の院は熊野へ御幸なる。〔後白河の〕法皇は日吉の社へ御幸なる。すでに知んぬ、叡慮にありといふことを。そのうへ、御心中にふかき御願あり、『御夢想の告げあり』とぞ仰せける。厳島は太政入道あがめたてまつり給へば、上には平家と御同心、下には、法皇のいつとなく鳥羽殿へおしこめられてわたらせ給へば、『入道の心をやはらげ給へ』との御祈念のため」とぞ聞こえし。 山門の大衆、憤り申しけるは、「賀茂、八幡、春日なんどへ御幸ならずは、わが山の山王へこそ御幸なるべけれ。安芸の厳島までは、いつのならひぞや。その儀ならば神輿を振り下したてまつりて、御幸をとどめたてまつれ」とぞ申しける。これによ(ッ)て、
P180
しばらく御延引あり。入道相国、様々になだめ給へば、山門の大衆しづまりぬ。 同じく三月十七日、上皇、厳島の御門出でとて、入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。その夜、やがて厳島の御神事はじめらる。殿下より、唐の御車、うつしの馬など参らせらる。その日の暮れほどに、前の右大将宗盛の卿を召して、「明日、厳島御幸の御ついでに、鳥羽殿へ参りて、法皇の御見参に入らばやとおぼしめすはいかに。相国禅門に知らせずしてはあしかりなんや」と仰せければ、宗盛の卿、涙をはらはらとながして、「なんでう事の候ふべき」と申されたりければ、「さらば、宗盛参りて、その様を申せかし」と仰せければ、宗盛の卿、いそぎ鳥羽殿へ馳せ参りて、このよし申されたりければ、法皇は、あまりにおぼしめす御ことにて、「こは夢やらん」とぞ仰せける。 あくる十九日、大宮の大納言隆季の卿、いまだ夜ふかう参りて、御幸をもよほされけり。この日ごろ聞こえさせ給ひし厳島の御幸をば、西八条の第よりとげさせおはします。ころは弥生なかば過ぎぬるに、かすみにくもる有明の月の光もおぼろにて、越路をさしてかへる雁、雲居におとづれてゆくも、をりふしあはれに聞こしめし、夜のほのぼのと明けけるに、上皇、鳥羽殿へ入らせ給ふ。 門のうちへさし入らせ給へば、人まれにして木暗く、ものさびしげなる御すまひ、まづあはれにぞおぼしめす。春すでに暮れなんとす、夏木立にもなりにけり。こずゑの花の色おとろへて、谷のうぐひす声老いんだり。去年の正月六日、法住寺殿
P181
へ朝覲のために行幸なりたるには、諸衛陣をひき、諸卿列に立ち、楽屋に乱声を奏し、院司、公卿参りむかつて、幔門をひらき、掃部頭筵道を敷き、ただしかりし儀式、一つもなし。今日はただ夢とのみこそおぼしめせ。藤中納言成範(しげのり)[* 「なりのり」と有るのを他本により訂正]参りて、御気色をうかがひ申されければ、法皇は寝殿の階隠の間に御座ありて、上皇を待ちまゐらせさせ給ひけり。上皇は、今年二十にならせおはします。明けがたの月の光に映えさせ給ひて、かがやくほどにいつくしうぞ見え給ふ。故建春門院にゆゆしく似まゐらせましましければ、法皇、まづ故女院の御ことをおぼしめしいだして、御涙せきあへ給はず。御前には、尼御前ばかりぞ侍はれける。両院の御座、近くしつらはれたり。御問答の御ことは、人承りおよばず。 はるかに日たけて、上皇、鳥羽殿を出御なる。上皇は、法皇の離宮の故亭、幽閑寂〓の御座のすまひ、御心ぐるしく御覧じおかせ給へば、法皇はまた、上皇の旅泊行宮の、波の上、船の中の御ありさま、おぼつかなうぞおぼしめす。供奉の人々は、前の右大将宗盛、三条の大納言実房、藤大納言実国、五条の大納言邦綱、土御門の宰相中将通親、殿上人には、高倉の中将泰通、左少将隆房、宮内少輔棟範とぞ聞こえし。前の右大将宗盛は随兵三十騎召し具し、げうげうしうぞ見えける。まことに、宗廟、八幡、賀茂をさしおいて、厳島までの御幸をば、神明もなどか御納受
P182
なかるべき。御願成就うたがひなしとぞ見えたる。 同じき二十六日、〔厳島へ〕御参着あつて、太政入道の最愛の内侍が宿所、御所になる。なか一日御逗留ありて、経会、舞楽おこなはる。導師には、三井寺の公顕僧正とぞ聞こえし。高座にのぼり、鉦うち鳴らし、表白の詞にいはく、「まことに九重の内を出でさせ給ひて、八重の潮路をわけて参らせ給ふ御心ざしのかたじけなさよ」と高らかに申されたりければ、君も臣も感涙をぞもよほされける。〔大宮、〕客人をはじめまゐらせて、社々、所々へみな御幸なる。大宮より五町ばかり山をまはつて、滝の宮へ参らせ給ふ。公顕僧正、一首の歌をよみて、拝殿の柱に書きつけられけり。
雲居よりおちくる滝のしら糸にちぎりをむすぶことぞうれしき
 国司藤原の在綱、品にのぼせられて、加階、従下の四品、院の殿上をゆるさる。神主佐伯の景弘加階、従上の五位。座主尊永、法印になさる。神慮もうごき、太政入道の心もやはらぎぬらんとぞ見えし。 同じき二十九日、上皇、御船かざりて還御なる。風はげしかりければ、御船漕ぎもどし、厳島のうち、有の浦にとどまり給ふ。上皇、「大明神の御なごり惜しみに、歌つかまつれ」と仰せければ、隆房の少将、
たちかへるなごりも有の浦なれば神もめぐみをかくるしらなみ
 夜半ばかりに、波もをさまり、風もしづかになりければ、御船漕ぎ出だし、その日は備後の国
P183
敷名の泊に着かせ給ふ。このところは、去んぬる応保のころ、一院御幸のとき、国司藤原の為成つくりたる御所のありけるを、入道相国、御まうけにしつらはれたりしかども、上皇それへはあがらせ給はず。「今日は卯月一日。衣がへといふことのあるぞかし」とて、おのおの都の方思ひやり、遊び給ふに、岸に、色ふかき藤の、松に咲きかかりたりけるを、上皇叡覧ありて、隆季の大納言を召して、「あの花、折りにつかはせ」と仰せければ、左史生中原の康定、はし舟に乗りて御前を漕ぎとほるを召して、折りにつかはす。藤の花を手折り、松の枝につけながら持ちて参りたり。「心ばせあり」など仰せられて御感ありけり。「この花にて歌つかまつれ」と仰せければ、隆季の大納言、
千年まで君がよはひに藤波の松の枝にもかかりぬるかな
 その〔の〕ち、御前に人々あまた侍はせ給ひて、御たはぶれごとのありしに、上皇、「白き衣着たる内侍が、邦綱の卿に心をかけたるな」とて笑はせおはしましければ、大納言、大きにあらがひ申さるるところに、文持ちたる女が参りて、「五条の大納言殿へ」とてさしあげたり。「さればこそ」とて、満座、興あることに申しあはれけり。大納言、これを取りて見給へば、
しら波のころもの袖をしぼりつつ君ゆゑにこそたちもわすれね
上皇、「ゆゆしうこそおぼしめせ。この返事はあるべきぞ」とて、やがて御すずりを下させ給ふ。
P184
大納言、返事には、
思ひやれ君がおもかげたつ波の寄せくるたびにぬるる袖かな
 それより備後の国児島の泊に着かせ給ふ。 五日の日は、天晴れ、風しづかに、海上ものどけかりければ、御所の御船をはじめまゐらせて、人々の船どもみな出だしつつ、雲の波、けぶりの波をわけしのがせ給ひて、その日の酉の刻に、播磨の国山田の浦に着かせ給ふ。それより御輿にめして、福原へ入らせおはします。供奉の人々は、「いま一日も都へとく」と急がれけれども、なか一日新院御逗留あつて、福原のところどころを歴覧ありけり。隆季の大納言、勅定をうけたまはつて、入道相国の家の賞おこなはる。〔入道〕養子丹波守清邦、正五位の下に叙す。同じく入道の孫越前の少将資盛、四位の従上とぞ聞こえし。 七日、福原を出でさせ給ひ、その日、寺井に着かせ給ふ。御むかへの公卿、殿上人、鳥羽の深草へぞ参られける。還御のときは鳥羽殿へは御幸もならず。入道相国の西八条の第へ入らせ給ふ。 同じく四月二十二日、新帝御即位あり。大極殿にてあるべかりしかども、ひととせ炎上ののちは、いまだ造り出だされず。「太政官の庁にておこなはるべし」とさだめられたりけるを、そのときの九条殿申させ給ひけるは、「太政官の庁は、およそ人の家にとらば、公文所体の所なり。大極殿なからんには、紫宸殿にて御即位あるべし」と申させ給ひければ、紫宸殿にて御即位あり。
P185
「去んぬる康保四年十一月一日、冷泉院の御即位、紫宸殿にておこなはしことは、主上御邪気によ(ッ)て、大極殿へ行幸かなはざりしゆゑなり。その例いかがあるべからん。ただ延久の佳例にまかせて、太政官の庁にておこなはるべきものを」と人々申しあはれけれども、九条殿の御ぱからひのうへは力およばず。 中宮、弘徽殿を出でさせ給ひて仁寿殿へうつり、高御座へ参らせ給ふありさま、めでたかりけり。平家の人々みな出仕せられたりけれども、小松殿の君達ばかりは、父の大臣去年失せ給ひしあひだ、いまだ色にて籠居せられたり。 蔵人左衛門権佐定長、今度の御即位、違乱なくめでたき様こまごまと記いて、入道相国の北の方、八条の二位殿へ奉り給ひたりければ、入道も二位殿も、これを見給ひて、笑をふくみてぞよろこび給ひける。か様にめでたき事どもは有つしかども、世間はなほしづかならず。
第三十二句 高倉の宮謀叛
一院第二の皇子以仁の親王と申すは、御母は加賀の大納言季成の卿の御むすめ。三条高倉にましましければ、「高倉の宮」とぞ申しける。御歳十五と申せし永万元年十二月十五日の夜、近衛河原の大宮の御所にて、しのびつつ御元服あり。御手跡いつくしうあそばし、御才学すぐれてわたらせ給ひしかども、御継母
P186
建春門院の御そねみにて、親王の宣旨をだにもかうぶらせ給はず。花のもとの春のあそびには、紫毫をふるつて手づから御製を書き、月のまへの秋の宴には、玉笛を吹いてみづから雅音をあやつらせ給ひけり。かくて明かし暮らし給ふほどに、治承四年には三十二にぞならせましましける。 治承四年卯月九日の夜、近衛河原に候ひける源三位入道、この御所へ参りて申しけることこそおそろしけれ。「君は天照大神四十八世の御末、神武天皇より七十七代の御宮にてわたらせ給ふ。いまは天子にも立たせ給ふべきに、いまだ親王の宣旨をだにもかうぶらせ給はず、宮にてわたらせ給ふことをば、心憂しとはおぼしめさずや。この世の中のありさまを見候ふに、上には従ひたる様に候へども、下には平家をそねまぬ者や候ふ。されば、君、御謀叛を起させ給ひて、世をしづめ、位につかせ給へかし。また、法皇のいつとなく鳥羽殿に押し籠められてわたらせ給ふをも、やすめまゐらせ給へかし。これ御孝行の御いたりにてこそ候はんずれ。神明三宝もなどか御納受なかるべき。君、まことにおぼしめし立つて、令旨を諸国へくださせ給ふものならば、よろこびをなして馳せ参らんずる源氏どもこそ国々に多く候へ」とて申しつづく。 「京都には、まづ出羽の前司光信が子ども、伊賀守光基[* 「みつとも」と有るのを他本により訂正]、出羽の蔵人光長、出羽の判官光重、出羽の冠者光義。熊野には、故六条の判官為義が末の子、十郎義盛とてかくれて候。津の国には、多田の蔵人行綱こそ候へども、新大納言成親の卿の謀叛のとき、
P187
同心しながら返り忠したる不当人で候へば、申すにおよばず。さりながらも、その弟に、多田の次郎朝実、手島の冠者高頼、太田の太郎頼基。河内の国には、武蔵権守入道義基、子息石川判官代義兼。大和の国には、宇野の七郎親治が子ども、太郎有治、次郎清治、三郎成治、四郎義治。近江の国には、山本、柏木、錦織。美濃、尾張には、山田の次郎重弘、河辺の太郎重直、泉の太郎重満、浦野の四郎重遠、葦敷の次郎重頼、その子太郎重資、同じく三郎重澄、木田の三郎重長、開田の判官代重国、八島の先生重高、その子太郎重行。甲斐の国には、逸見[* 「たんみ」と有るのを他本により訂正]の冠者義清、その子太郎清光、武田の太郎信義、加賀見の次郎遠光、同じく小次郎長清、一条の次郎忠頼、板垣の三郎兼信、逸見の兵衛有義、武田の五郎信光、安田の三郎義定。信濃の国には、大内の太郎維義、岡田の冠者親義、平賀の冠者盛義、その子四郎義信。帯刀先生義賢が次男、木曾の冠者義仲。伊豆の国には、流人前の兵衛佐頼朝。常陸の国には、〔為義が三男、〕信太の三郎先生義教。佐竹の冠者昌義、その子太郎忠義、同じく三郎義宗、四郎隆義、五郎義季。陸奥の国には、故左馬頭義朝の末の子、九郎冠者義経。これみな六孫王の苗裔、多田の満仲が後胤なり。朝敵をもたひらげ、
P188
宿望とげしことは、源平いづれも劣りまさりはなかりしかども、いまは雲泥のまじはりをへだてて、主従の礼にもなほ劣れり。国には国司に従ひ、荘には領家につかはれ、公事雑事にかり立てられて、安き心も候はず、いかばかりか心憂く候ふらん。君、もしおぼしめし立たせ給ひて、令旨を賜はりつるものならば、夜を日についで馳せのぼり、平家をほろぼさんこと時日をめぐらすべからず。入道こそ年寄つて候へども、子どもひき具して参り候ふべし」とぞ申しける。 宮は、「このこといかがあらん」とて、しばしは御承引もなかりしかども、阿古丸の大納言宗通の卿の孫、備後の前司季通が子、少納言伊長と申せしは、すぐれたる相人なりければ、時の人、「人相少納言」とぞ申しける。その人、この宮を見まゐらせて、「位につかせ給ふべき相まします。天下のこと、おぼしめし放させ給ふべからず」と申しけるうへ、源三位入道もか様に申されければ、「しかるべき天照大神の御告げやらん」とて、ひしひしとおぼしめし立たせ給ひけり。 熊野に候ふ十郎義盛を召して、蔵人になされ、「行家」と改名して、令旨の御使に東国へぞ下されける。同じき四月二十八日、都をたつて、近江よりはじめて、美濃、尾張の源氏どもに次第に触れて行くほどに、五月十日には伊豆の北条に下り着きて、前の兵衛佐殿に対面して、令旨〔を〕奉る。「信太の三郎先生義教にとらせん」とて、常陸の国信太浮島へ下る。「木曾の冠者義仲は甥なれば賜ばん」とて、東山道へぞおもむきける。 そのころ、熊野の別当湛増
P189
は平家に心ざし深かりけるが、なにとしてか漏れ聞こえたりけん、「新宮の十郎行盛こそ、高倉の宮の令旨賜はつて、美濃、尾張の源氏ども触れもよほし、すでに謀叛おこすなれば、那智、新宮の者どもは源氏の方人をぞせんずらん。湛増〔は〕、平家の御恩天山とかうぶりたれば、いかでか背きたてまつるべし。那智、新宮の者どもに矢一つ射かけて、平家へ仔細を申さん」とて、ひた兜一千人、新宮の湊へ発向す。新宮には、鳥居の法眼、高坊の法眼。侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲。那智に、執行法印以下、都合その勢二千余人なり。鬨つくり、矢あはせして、源氏のかたには、とこそ射られ、平家のかたには、かくこそ射られて、矢叫びの声の退転もなく、鏑の鳴りやむひまもなく、三日がほどこそ戦うたれ。熊野の別当湛増、家の子郎等おほく討たれ、わが身手負ひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げのぼりけれ。
 さるほどに、法皇は、「成親、俊寛が様に、とほき国、はるかの島へも流しやせんずらん」とおぼしめしけれども、城南の離宮にうつされて、今年は二年にならせ給ふ。 同じき五月十二日、午の刻ばかり、御所中に鼬おびたたしう走りさわぐ。法皇大きにおどろきおぼしめして、御占形をあそばいて、近江守仲兼、そのころはいまだ蔵人にて侍はれけるを召して、「この占形持ちて、泰親がもとへ行き、きつと勘へさせて、勘状を取つて参れ」とぞ仰せられける。仲兼これを賜はつて、
P190
陰陽頭泰親がもとへ行く。をりふし宿所にはなかりけり。「白河なるところへ」と言ひければ、それへたづねゆき、勅定のおもむきをしるしければ、泰親、やがて勘状を参らせける。仲兼、鳥羽殿へ帰り参りて、門より参らんとすれば、守護の武士ども許さず。案内は知りたり、築地を越え、大床の下を経て切板より泰親が勘状をこそ参らせたれ。〔法皇〕ひらいて御覧ずるに、「いま三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き」とぞ申しける。法皇、「御よろこびはしかるべし。これほどの御身となりて、またいかなる御嘆きのあらんずらん」とぞ仰せける。 さるほどに、前の右大将宗盛の卿、法皇の御ことを、たへふし申されければ、入道相国、やうやうに思ひ直いて、同じき十三日、鳥羽殿を出だしたてまつり、八条烏丸、美福門院へ御幸なしたてまつる。「いま三日がうちの御よろこび」とは、泰親がこれをぞ申しける。〔第三十三句 信連合戦〕 かかりけるところに、熊野の別当湛増、飛脚をもつて、高倉の宮御謀叛のよし、都へ申したりければ、前の右大将宗盛、大きにさわいで、入道相国をりふし福原におはしけるに、このよし申されたりければ、聞きもあへず、やがて都へ馳せのぼり、「是非におよぶべからず。高倉の宮からめ取つて、土佐の畑へ流せ」とこそのたまひけれ。上卿には、三条の大納言実房、職事は頭の中将光雅とぞ聞こえし。追立の官人には、源大夫判官兼房、出羽の判官光長うけたまはつて、宮の御所へぞむかひける。源大夫判官と申すは、三位入道の養子
P191
なり。しかるを、この人数に入れられけることは、高倉の宮の御謀叛を三位入道すすめ申されたりと、平家いまだ知らざりけるによ(ッ)てなり。 三位入道これを聞き、いそぎ宮へ消息をこそ参らせけれ。
第三十三句 信連合戦
宮は五月十五夜の雲間の月を詠ぜさせ給ふところに、「三位入道の使」とて、いそがしげにて消息持ちて参りたり。宮の御乳人、六条の佐大夫宗信、これを取りて御前に参り、わなわなと読みあげたり。「君の御謀叛、すでにあらはれさせ給ひて、官人ども、ただいま御迎へに参り候ふなり。いそぎ御所を出でさせ給ひて、園城寺へ入らせ給へ。入道も子どもひき具し、やがて参り候はん」とぞ書いたりける。 宮は、「こはいかがすべき」とて騒がせおはします。長兵衛尉信連といふ侍申しけるは、「別の様や候ふべき。女房の装束を借らせ給ひて、出でさせましますべう候」と申しければ、「げにも」とて、かさねたる御衣に市女笠をぞ召されける。佐大夫宗信、直垂に玉襷あげて、からかさを持ちて御供つかまつる。鶴丸といふ童、袋にもの入れていただきたり。青侍の、女を迎へて行く様にもてなしたてまつる。 高倉の西の小門より出でさせ給ひて、高倉をのぼりに落ちさせ給ふ。溝のありけるを、宮のいともの軽く、ざつと越えさせ給ひければ、道ゆき人が立ちとどまつて、「あな、
P192
はしたなの女房の溝の越え様や」とて、あやしげに見たてまつりければ、いとどそこを足早に過ぎさせおはします。 長兵衛は御所の御留守に候ひけるが、「ただいま官人どもが参りて見んずるに、見苦しきものども取りをさめん」とて見るほどに、宮のさしも御秘蔵ありける「小枝」と聞こえし笛を、ただ今しも、常の御枕にとりわすれさせ給ひけるぞ、ひしと心にかかりける、長兵衛これを見て、「あなあさましや。さしも御秘蔵ありし御笛を」と申し、高倉面の小門を走り出で、五町がうちにて追つつきまゐらせて、奉りければ、宮はなのめならず御よろこびあり。「われ死なば、この笛をあひかまへて御棺に入れよ」とぞ仰せける。「やがて御供つかまつれ」と仰せられければ、長兵衛、「もつとも御供こそつかまつりたく候へども、ただいま官人どもが御迎ひに参り候ふなるに、御所中にひと言葉あひしらふ者候はでは、あまりうたてしくおぼえ候。そのものにては候はねども、『あの御所には長兵衛信連が〔侍ふ〕と、見る人知りて〕候ふに、こよひ候はずんば、『それもその夜逃げたり』なんど申されんこと、弓矢取る身のならひは、かりにも名こそ惜しう候へ。ひと言葉あひしらひて、やがて参らん」とて、いとま申して走りかへる。 三条面の総門をも、高倉面の小門をも、ともに開いてただ一人待つところに、夜半ばかりに、出羽の判官、源大夫判官、都合三百騎ばかりにて押し寄せたり。源大夫判官、存ずるむねありとおぼえて、門前にしばらくひかへたり。出羽の判官、馬に乗りながら庭にうち入れて、申しけるは、「君の御謀叛すでにあらはれ
P193
させ給ひて、官人#NAME?とにて候ふやらん。当時はこの御所にては候はず」と申せば、出羽の判官、「なんでう、これならでは、いづちへわたらせ給ふべきか。その儀ならば、下部ども、参りて、御所中をさがしたてまつれ」とぞ申しける。〔長兵衛、〕「ものも知らぬやつばらが申し様かな。馬に乗りながら庭上に参るだにも奇怪なるに、『下部ども参りてさがしたてまつれ』とは、なんぢらいかでか申すべき。日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。左兵衛尉長谷部の信連といふ者ぞや。近う寄りてあやまちすな」とぞ申しける。 源大夫これを聞き、をめいて駆け入る。下部のなかに金武といふ大力の剛の者あり。大長刀の鞘をはづし、信連に目をかけて斬つてあがれば、同類ども十四五人ぞ続いたる。信連は狩衣の下に腹巻を着て、衛府の太刀をぞ帯いたりける。下部ども斬つてのぼるを見て、信連、狩衣の帯、紐をひつ切つて投げすて、衛府の太刀を抜いで斬つてまはるに、おもてを合はする者ぞなき。信連一人に斬りたてられて、嵐に木の葉の散るやうに、庭にざつとぞおりたりける。 さみだれのころなれば、ひとむらさめの絶え間の月の出でけるに、敵は不知案内なり、わが身は案内者なれば、ここの面廊に追つかけては、はたと斬り、かしこの詰に追つこめては、ちやうど斬り、斬つてまはれば、「宣旨の御使をば、いかでかかうはするぞ」と申せば、「宣旨とは何ぞ」とて、太刀ゆがめばをどり退いて、踏みなほし、押しなほし、立ちどころに屈強の者十五人ぞ斬りふせたる。 太刀の切つ先
P194
五寸ばかり打ち折りて捨ててげり。「いまは自害せん」とて腰をさぐれば、鞘巻は落ちてなかりけり。高倉面の小門に、人もなき間に走り出でんとするところに、信濃の国の住人に手塚の八郎といふ者、長刀持ちて寄せ合うたり。「乗らん」と飛んでかかりけるに、乗り損じて股をぬひざまにつらぬかれて、信連、心はたけく思へども、生捕にこそせられけれ。そののち御所中をさがしたてまつれども、宮はわたらせ給はず。 信連生捕られて、六波羅へ具して参り、坪にひつすゑたり。前の右大将、大床に立つて、「いかに、なんぢらは『宣旨とは何ぞ』とて斬りたりけるぞ。なんぢが宣旨の御使悪口し、庁の下部刃傷殺害、奇怪なり。仔細を召し問ひて、そののち河原へひき出だし、首をはね候へ、人々」とぞのたまひける。 信連、あざわらひて申しけるは、「さん候。あの御所を、夜な夜な物が襲ひ候ふほどに、門をひらいて待つところに、夜半ばかりに鎧うたる者が二三百騎、庭に群れ入り、ひかへて候ふあひだ、『何者ぞ』と問ひつれば、『宣旨の御使』と申し候ひつるあひだ、強盗などと申し候ふやつばらは、あるいは『君達の入らせ給ふ』あるいは『宣旨の御使ぞ』なんどと申し候ふと、内々うけたまはりおよび候ふほどに、『宣旨とは何ぞ』とて斬つて候。天性、日本国をすでに敵にうけさせ給はんずる宮の御侍として、庁の下部刃傷殺害は、こともおろかに候ふや。鉄よき太刀をだに持ちて候ひしかば、官人どもを安穏にはよも一人も返し候はじ。宮の御在所いづくとも知りたてまつらず。たとひ知りたてまつり候ふとも、侍
P195
ほどの者が『申さじ』と思ひきりぬることを、糺問によつて申すべき様や候はん。信連、宮の御ゆゑにかうべをはねられんことは、今生の面目、冥途の思ひ出に候」と申して、そののちはものも言はず。 平家の郎従、並みゐたりけるが、「あはれ、剛の者の手本なり。あたら男の、切られんずらん、無慚や」とて惜しみあへり。そのうちにある者が申しけるは、「先年、御所の衆につらなつてありし時、大番衆が止めかねたりし強盗六人を、ただ一人して追つかかり、四人は矢庭に斬りふせ、二人生捕にして、そのときなされたる左兵衛尉ぞかし。あれこそ一人当千とも申さんずらん」などと口々に申せば、右大将、「さらば、しばしな切りそ」とて、その日は切られず。入道も惜しうや思はれけん、「思ひなほりたらば、のちには当家に奉公もいたせかし」とて、伯耆の日野へぞ流されける。 そののち源氏の世となりて、鎌倉殿より土肥の次郎実平に仰せてたづね出だし、鎌倉へ参りて、事の様、はじめより次第に語り申せば、鎌倉殿、心ざしのほどをあはれみて、能登の国に御恩ありけるとぞ聞こえし。
第三十四句 競
 宮は、高倉をのぼりに、近衛河原を東へ、川を渡らせ給ひて、如意山へかからせまします。いつならはせ給ふべきなれば、御足かけ損じて腫れたり。血あえて、いたはしうぞ見えさせ給ひける。知らぬ山路をよもすがら分け過ぎさせ給へば、夏山の茂みが
P196
もとの露けさも、さこそ所せばくおぼしめされけん。とかうして、あかつきがたに園城寺へこそ入らせ給ひけれ。「かひなき命の惜しさに、衆徒をたのみ来たれり」と仰せられければ、大衆うけたまはつて、法輪院に御所しつらひて、入れまゐらせけり。 あくれば十六日、「高倉の宮の、御謀叛おこして失せさせ給ひぬ」と申すほどこそありけれ、都の騒動おびたたし。法皇、「『三日のうちの御よろこび、ならびに御嘆き』と、泰親が勘へ申したりしは、これを申しけるにこそ」と、御涙にむせびおはします。 年ごろ日ごろもあればこそあれ、源三位入道、今年はいかなる心にて、か様に謀叛をば起したりけるぞといふに、前の右大将宗盛、不思議の事し給へり。されば、人の世にあればとて、すまじきことをし、言ふまじきことを言ふは、よくよく思慮あるべきことなり。 たとへば、そのころ、源三位入道の嫡子、伊豆守仲綱がもとに、九重に聞こえたる名馬あり。鹿毛なる馬のならびなき逸物なり。名をば「木の下」とぞいひける。前の右大将、使者を立て給ひて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」とのたまひつかはされたりけれども、「乗り損じ候ふあひだ、このほどいたはらんがために、田舎へつかはして候。やがて召しこそのぼせ候はん」と返事せられたりければ、右大将、「さらば力およばず」とておはしけるところに、平家の侍並みゐたりけるが、ある者が、「あはれ、その馬は一昨日まではありつるものを」と申す。またある者が、「昨日も候ひしものを」、「今朝も庭乗り候ひつる」なんどと口々に申せば、右大将、「憎し。さては惜しむごさんなれ。その儀ならば、その馬、責め乞ひに乞へや」とて、侍
P197
してはしらせ、文などして、おし返し、おし返し、五六度までこそ乞はれけれ。 三位入道これを聞きて、伊豆守を呼びて、「たとひ黄金をまろめたる馬なりとも、それほどに人の乞はんに、惜しむ様やあるべき。その馬、すみやかに六波羅へ遣はせ」とありければ、伊豆守、「馬を惜しむにては候はず。権威について責めらるると思へば、本意なう候ふほどにこそ遣はし候はね」とて、やがて木の下を六波羅へ遣はすとて、歌をぞ一首そへられける。恋しくば来ても見よかし身にそへるかげをばいかにはなちやるべき 右大将、歌の返しをばし給はで、この馬を引き廻し、引き廻し、見るべきほど見て、「憎し。さしもにこれをば主が惜しみたる馬ぞかし。やがて主が名乗を金焼にし候へ」とて、「仲綱」といふ焼印をしてぞ置かれける。客人来たりて、「聞こえ候ふ木の下を見候はばや」と申せば、右大将、「仲綱めがことに候ふや〔らん〕。仲綱め、引き出だせ」「仲綱め、打て」「はれ」なんどぞのたまひける。 伊豆守これを聞き、「馬をば、いつかは『打つ』とはいへども『はる』といふことを聞くことなし。命にも代へて惜しかりつる馬を、権威について取られつるだにやすからぬに、馬ゆゑ仲綱が、けふあす日本国の笑はれぐさとならんことこそ本意なけれ。『恥を見んよりは死をせよ』と申すことの候ふものを」とのたまへば、父入道これを聞き、「げにも、それほどに人に言はれて、命生きて詮あるまじ。所詮は便宜をうかがふ身にてこそあらめ」とてありしほどに、さすがに私には、え思ひ立たずして、宮をすすめまゐらせたりけるとかや。 これにつけても、天下の人、小松殿のことをぞ申されける。あるとき、小松殿、
P198
参内のついでに、中宮の御方へ参り給ひけるに、四五尺あるくちなは、大臣の指貫の左の輪をはひまはりけるを見給ひて、「重盛さわがば、女房たちもさわぎ、また中宮もおどろき給ひなんず」と思ひ給ひて、右の手にてくちなはの頭をおさへ、左の手にて尾をおさへ、殿衣の袖のうちにひき入れて、御前をつい立つて、あゆみ出でられけり。「六位や候ふ、六位や候ふ」と召されけれども、をりふし人もなかりけり。伊豆守、そのとき衛府の蔵人にて侍はれけるが、「仲綱侍ふ」と名のりて参られたりければ、このくちなはを賜ぶ。弓場殿を経て、殿上の小庭に出で、御倉の小舎人を召して、「これを賜はれ」とありければ、頭をふつて逃げ去りぬ。渡辺の競滝口を召して、これを賜ぶ。競賜はつて捨ててけり。そのあした、小松殿、よき馬に鞍おいて、太刀一振そへて、仲綱のもとへつかはさるるとて、「昨日のふるまひこそ、ゆゆしく見えられ候ひしが、これは乗一の馬にて候。夜陰におよび、傾城のもとへ通はれんとき用ひらるべし」とて、仲綱へ遣はさる。御返事には、六位の使なれば、「御馬かしこまつて賜はり候ひぬ。また昨日のふるまひは、一向、還城楽にこそ似て候ひしが」とぞ申されける。 いかなれば、兄の小松殿はか様にこそおはするに、弟の宗盛は、人の馬を責め取つて、天下の大事におよびぬるこそあさましけれ。 同じき十六日夜に入りて、源三位入道、家の子郎等引き具して、都合その勢三百騎、屋形に火をかけて三井寺に馳せ参る。 渡辺の滝口が宿所は、六波羅の裏
P199
の檜垣のうちにてぞありける。競が馳せおくれてとどまつて候ふよしを、右大将聞き給ひて、あくる十七日の早朝に使者を立て、召されければ、競、召しによつて参りたり。右大将出であひ対面し給ひて、「いかに、なんぢは相伝の主三位入道の供をせずとどまりたる。存ずるむねあるか」とのたまへば、競、かしこまつて申しけるは、「日ごろはなにごと候はば、まつ先駆けて討死せんとこそ存じ候ひつるに、今度はなにと思はれ候ひけるやらん、つひにかうと知らせられず候。このうへは、あとをたづねて行くべきにても候はねば、かくて候」とぞ申しける。「年ごろなんぢがこの辺を出で入りするを、『召し使はばや』と常に思ひしに、さらば当家に奉公いたせかし。三位入道の恩にはすこしも劣るまじ」とのたまへば、競、かしこまつて申しけるは、「たとひ三位入道年来のよしみ候ふとも、朝敵となられたる人に、いかでか同心をばつかまつり候ふべき。今日よりは、当家に奉公つかまつらむ」と申せば、右大将、よにもうれしげにて入り給ひぬ。 その日は、「競があるか」「侍ふ」、「あるか」「侍ふ」とて、朝より夕べまで伺候す。すでに日もやうやう暮れければ、競申しけるは、「宮ならびに三位入道、すでに三井寺にと承り候。さだめて今は討手を向けられ候はんずらん。三井寺法師、渡辺には、そんぢやうそれなんどぞ候ふらめ。競は、撰り討ちなんどつかまつるべう候。乗りて事にあふべき馬の候ひつるを、したしき奴ばらに盗まれて候。御馬一匹、下しあづからばや」と申しければ、右大将、「いかにもして、ありつけばや」と思はれければ、白葦毛なる馬の太くたくましきが、「南鐐」とつけて秘蔵せられ
P200
たるに、白覆輪の鞍置いて競に賜ぶ。この馬を賜はつて宿所にかへり、「はやはや、とくして日の暮れよかし。三井寺へ馳せ参りて、三位入道殿のまつ先駆けて討死せん」とぞ思ひける。 次第に日も暮れければ、妻子どもしのばせ、わが身は、水に千鳥押したる狂文の狩衣に、菊綴大きにきらやかにしたるを着、重代の着背長、緋縅の鎧着て、いかもの作りの太刀を帯き、大中黒の矢かしら高に負ひなし、塗籠籐の弓のまつ中取り、滝口の骨法わすれずして、的矢一手ぞさしそへたる。賜はりたりける南鐐にうち乗りて、乗りがへ一匹具し、舎人の男にも太刀わきばさませて、屋形に火をかけ、三井寺に馳せ参る。「競が屋形より火出できたれり」と申すほどこそありけれ、六波羅中騒動す。右大将、「競はあるか」とたづねられければ、「候はず」とぞ申しける。「すは、きやつに出しぬかれけるよ。やすからぬものかな」と後悔し給へども、かひぞなき。 三井寺には、をりふし競が沙汰あつて、「あはれ、競を召し具せらるべきものを、すでに、捨ておかせ給ひて、いかなる目にあひ候ひなんず」と口々に申せば、入道、心をや知り給ひけん、「その者、無体に捕へからめられなんどはよもせじ。いま見よ、参らんずるぞ」とのたまひもはてねば、参りたり。入道、「さればこそ」とてよろこばれけり。競、かしこまつて申しけるは、「伊豆守の木の下が代りに、右大将殿の南鐐をこそ取つて参りて候へ」と申せば、伊豆守大きによろこびて、この馬を乞ひて、やがて「宗盛」といふ金焼をさして、そのあした六波羅へつかはし、門のうち
P201
へぞ追ひ入れたる。侍ども、この馬を取つて参りたり。右大将、この馬を見給へば、「宗盛」といふ金焼を見給ひて、大きに怒られけり。「今度三井寺に寄せたらんずるに、余は知らず、あひかまへて、まづ競を生捕にせよ。のこぎりにて首を切らん」とぞのたまひける。第三十五句 牒状 三井寺には、貝鉦をならし、大衆おこつて僉議しけるは、「そもそも、近日世上の体を案ずるに、仏法の衰微、王法の牢籠、今度にあたれり。いま清盛入道が暴悪をいましめずんば、いづれの日をか期すべき。ここに、宮入御のことは、正八幡大菩薩、新羅大明神の冥助にあらずや。天神地類も影向し、仏慮神慮も降伏をくはへましまさんこと、なじかはなかるべき。そもそも、北嶺は円宗一味の学地なり。南都はまた夏臈得度の戒場なり。牒奏のところになどか与せざるべき」と、一味同心に僉議して、山へも奈良へも牒状をつかはす。 まづ山門への牒状にいはく、園城寺牒す、延暦寺の衙殊に合力をいたし、当寺の仏法破滅を助けられんと欲するの状。右、入道浄海、ほしいままに仏法を失ひ、王法をほろぼさんと欲す。愁嘆きはまりなきのあひだ、去んぬる十五日の
P202
夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、ひそかに入寺せしむ。ここに院宣と号し、官軍をはなちつかはすべきのむね、その聞こえありといへども、あへて出だしたてまつるにあたはず。当寺の破滅、まさにこの時にあたれり。延暦、園城両寺は、門跡二つにあひ分かるといへども、学ぶところはこれ円宗一味の教門なり。たとへば鳥の左右のつばさのごとく、または車の両輪に似たり。一方欠くるにおいては、いかでかその嘆きなからんや。ていれば、殊に合力をいたし、当寺の仏法破滅をたすけられば、はやく年来の遺恨をわすれ、かさねて住山のむかしに復せん。衆議かくのごとし。よつて牒件のごとし。治承四年五月 日
とぞ書かれたる。
 山門には、これを披見して、「こはいかに。当山の末寺として、『鳥の左右のつばさのごとく、車の両輪に似たり』と押して書く条、狼藉なり」とて、返牒を送らずと聞こえし。そのうへ、平家、近江米一万石、北国の織延絹三千匹、山の往来に寄せらる。これを谷々峰々にひかれけるに、にはかのことではあり、一人してあまた取る大衆もあり、また手をむなしくして一つも取らぬ衆徒もあり。何者のしわざにやありけん、落書をぞしたりける。
山法師織延絹のうすくして恥をばえこそかくさざりけれ
P203
 また、配分にもあたらぬ大衆のよみたりけるやらん、
織延の一きれも得ぬわれらさへうすはぢをかく数に入るかな
 座主同心して、「園城寺一味はしかるべからざる」よし、こしらへ給へば、宮の方へは参らざりける。 南都の牒状にいはく、
園城寺牒す、興福寺の衙殊に合力を豪つて、当寺仏法破滅を助けられんと請ふの状。右、仏法殊勝なることは、王法をまぼらんがためなり。王法また長久なることは、すなはち仏法によるなり。ここに去年よりこのかた、入道前の太政大臣平の清盛、ほしいままに王法をうしなひ、朝政を乱る。内外につけ、うらみをなし嘆きをなすのあひだ、去んぬる十五〔日〕の夜、一院第二の皇子、不慮の難をのがれんがために、にはかに入寺せしめ給ふ。ここに「院宣」と号し、官軍をはなちつかはすべきのむね、その責めありといへども、衆徒、一向これを惜しみたてまつる。よつて、かの禅門、武士を当寺に入れんと欲す。仏法といひ、王法といひ、一時にまさに破滅せんとす。諸衆なんぞ愁嘆せざらんや。むかし唐の会昌天子、軍兵をもつて仏法を滅せんとせしむるのとき、清涼山の衆徒、合戦してこれを防ぐ。なんぞいはんや、謀叛八逆のともがらにおいてをや。なかんづく南京は、無例無罪、長者を配流せらる。今度にあらずんばいづれの日にか会稽をとげんや。
P204
願はくは、衆徒、内には仏法の破滅を助け、外には悪逆のたぐひを退け、ていれば、同心の至り、本懐に足んぬべし。よつて牒件のごとし。治承四年五月 日
とぞ書かれたる。
 南都には、東大、興福両寺の大衆僉議して、やがて返牒をぞ送られける。興福寺の牒、園城寺の衙来牒一紙に載せられたり。入道浄海がために貴寺の仏法をほろぼさんとするのよしのことを牒す。玉泉、玉花両家の宗義を立つるといへども、金章、金句おなじく一代の教文より出づ。南京、北京ともに〔もつて〕如来の弟子たり。自寺、他寺たがひに調達魔障を伏すべし。そもそも、清盛入道は平氏の糟糠、武家の塵芥なり。祖父正盛、蔵人五位に仕じ、諸国受領の鞭をとる。大蔵卿為房、加州の刺史〔の〕いにしへ、検非違使に補せらるるのところに、修理大夫顕季、播磨の太守として、むかし、厩の別当職に任ず。しかるに、親父忠盛昇殿をゆるされしとき、都鄙の老少みな蓬壷の瑕瑾をそねむ。内外の英豪、おのおの馬台の〓文に泣く。忠盛、青雲のつばさをかいつくろふといへども、世の民なほ白屋の種をかろんず。名を惜しむ青侍は、その家にのぞむことなし。しかるに、平治元年十二月、信頼、義朝追討せ
P205
しとき、太上天皇、一戦の功を感じて、不次の賞を授け給ひしよりこのかた、高く相国にのぼり、かねて兵仗を賜はる。男子、あるいは台階をかうむり、羽林につらなる。女子、あるいは中宮職にそなはり、あるいは准三后の宣旨をかうぶる。群弟庶子みな棘路をあゆむ。その孫、その甥、ことごとく竹符を裂く。しかのみならず、九州を統領し、百司を進退す。みな奴婢僕従となり、一毛も心にたがへば、皇侯といへどもこれをとらへ、片言も耳にさかへば、公卿といへどもこれをからむ。ここをもつて、あるいは一旦の身命をのべんがため、あるいは片時の凌辱をのがれんがため、万乗の聖主、なほ面〓の媚をなす。重代の家君、かへつて七行の礼をいたす。代々相伝の家領をうばふといへども、上宰もおそれて舌を巻き、官々相承の荘園を取るといへども、権威にはばかりてものいふことなし。勝つに乗るのあまりに、去年の冬十一月、太上皇帝のすまひを追捕し、博陸公の身をおし流したてまつる。叛逆のはなはだしきこと、〔まことに〕古今に絶えたり。そのときわれら、すべからく賊衆にゆきむかつて、その科を問ふべしといへども、あるいは神慮にはばかり、あるいは皇憲を称するによつて、鬱胸をおさへて、光陰をおくるのあひだ、かさねて軍兵をおこし、一院第二の宮の朱閣を押し囲みたてまつる。八幡三所、春日大
明神、ひそかに影向をたれ、仙蹕を捧げ
P206
たてまつり、貴寺におくりつけ、新羅の扉にあづけたてまつる。王法尽くべからざるのよし明らけし。したがつて、貴寺身命を捨て守護したてまつるの条、含識のたぐひ、たれか随喜せざらん。われら遠域にあつて、その情を感ずるのところに、清盛入道、なほ凶器をおこして貴寺に入らんとするのよし、ほのかに〔もつて〕承りおよぶ。かねて用意をいたし、十八日辰の一点に大衆をおこして、十九日諸寺牒送、末寺に下知して群衆を得て、のちに案内をのべんと欲するのところに、青鳥飛び来たつて芳翰を通ず。数日の鬱念、一時に解散す。かの唐家の清涼一山の〓〓、なほ武宗の官兵をかへす。いはんや和国南北両門の衆徒、なんぞ謀臣の邪類を払はざらん。よく梁園左右の陣をかためて、よろしくわれら進発の告を待つべし。状を察し、疑殆をなすことなかれ。もつて牒件のごとし。治承四年五月 日
とぞ書きたりける。
第三十六句 三井寺大衆揃ひ
 同じき二十三日の夜に入りて、源三位入道、宮の御前に参り、申しけるは、「山門はかたらひあはれず、南都はいまだ参らず。事のびてはかなふまじ。こよひ六波羅へ押し寄せ、夜討にせんと存ずるなり。その儀ならば、老少千余人はあらんずらん。老僧どもは、
P207
如意が峰よりからめ手にまはるべし。若き者ども一二百人は、先立つて白河の在家に火をかけて、下りへ焼きゆかば、京、六波羅のはやりをの者ども、『あはや、事いでくる』とて、馳せ向かはんずらん。そのとき、岩坂、桜本に引つ懸け、引つ懸け、しばしささへて防がんあひだに、若大衆ども、大手より伊豆守大将として六波羅へ押し寄せ、風上より火をかけ、ひと揉み揉うで攻めんずるに、なじかは太政入道、焼き出だして討たざるべき」とぞ申されける。 さるほどに、やがて大衆おこつて僉議しけり。そのうちに、平家の祈りしける一如坊阿闍梨心海といへる老僧あり。僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、「かう申せばとて、平家の方人するとはおぼしめされ候ふまじ。たとひさも候へ、いかでかわが寺の恥をも思ひ、門徒の名をば惜しまでは候ふべき。むかしは源平左右にあらそひて、いづれ勝劣なかりしかども、平家世を取つて二十余年、〔天下に〕なびかぬ草木も候はず。内々の館のありさまも、小勢にてたやすう落しがたし。よくよく〔ほかには〕はかりごとをめぐらし、勢をあつめて寄せ給ふべうや候ふらん」と、時刻をうつさんがために、長々とぞ僉議しける。 乗円坊の阿闍梨慶秀、節縄目の腹巻を着、頭つつんで、僉議の庭にすすみ出でて申しけるは、「証拠をほかに引くべからず。われらが本願浄御原の天皇、大友の王子におそれさせ給ひて、大和の国吉野山を出でて、当国宇陀の郡を過ぎさせ給ひけるに、その勢わづかに十七騎。されども、伊賀、伊勢に越え、美濃、尾張の勢をもつて、つひに大友の王子をほろぼし、位につき給ひ
P208
けり。『窮鳥ふところに入れば、人倫これをあはれむ』といふ本文あり。余は知らず、慶秀が門徒においては、こよひ六波羅へ押し寄せて討死せよ」とぞ申しける。円満院の大輔源覚が申しけるは、「僉議端多し。夜のふくるに、いそげや、すすめや」とぞ申しける。 如意が峰よりからめ手にむかふ老僧どもの大将軍には源三位入道。乗円坊の阿闍梨慶秀、律静坊の阿闍梨日胤、帥の法印禅智、禅智が弟子に義宝、禅永を先として、ひた兜六百余人ぞ向かひける。大手より向かふ若大衆には、円満院の鬼土佐、律静坊の伊賀の公、これ三人は、打ち物取つては鬼にも神にもあふべきといふ一人当千の者どもなり。平等院には、因幡の竪者荒大夫、成喜院の荒土佐、角の六郎坊、島の阿闍梨。筒井の法師に卿の阿闍梨、悪少納言。北の院には、金光院の六天狗、大輔、式部、能登、加賀、佐渡、備後等なり。五智院但馬、水尾の定連、〔四郎坊、〕松井の肥後、大矢の俊長。乗円坊の阿闍梨慶秀が坊の人六十人がうち、加賀の光乗、刑部俊秀、法師ばらには一来法師すぐれたる。堂衆には、筒井の浄妙明秀、小蔵の尊月、尊永、慈慶、楽住、かなこぶしこんけんの玄永坊。武士には、伊豆守仲綱、源大夫判官兼綱、六条の蔵人仲家、子息蔵人太郎仲光、下河辺の藤三郎清親、渡辺の省播磨の二郎、授薩摩の兵衛尉、
P209
長七唱、適の源太、与馬の三郎、競滝口、清、勧を先として、ひた兜一千余人、三井寺をこそうち立ちけれ。 三井寺には、宮入らせ給ふのちは、大関、小関掘り切つて、逆茂木をひいたりければ、堀に橋を渡し、逆茂木をのけんとしけるほどに、時刻おしうつりて、関路の鶏鳴きあへり。円満院大輔源覚が申しけるは、「しばし。むかし秦の昭王のとき、孟嘗君が君のいましめをかうむりて召し籠められたりけるが、はかりごとをもつて逃げのがれけるときに、函谷関にいたりぬ。鶏の鳴かぬかぎりは、この関の戸をひらくことなし。孟嘗君が三千の客のうちに、田客といふ兵あり。鶏の鳴くまねをありがたうしければ、鶏鳴きつづくとぞ言ひける。かれが高きところに登つて、鶏の鳴くまねをしたりければ、関路の鶏鳴きつたへて、みな鳴きぬ。鳥のそら音にばかされて、関の戸あけて通しけり。これも敵のはかりごとにてもやあらんずらん。ただ寄せよ」と申しけれども、五月の短か夜なれば、はやほのぼのとぞ明けにける。 伊豆守のたまひけるは、「ただいまここにて鶏鳴いては、六波羅へは白昼にこそ寄せんずれ。夜討こそさりともと思ひつれ、昼軍にはいかにもかなふまじ」とて、搦手は如意が峰より呼び返す。大手は松坂よりとつて返す。 若大衆どもが申しけるは、「これは所詮、一如坊が長僉議にこそ夜は明けたれ。その坊切れや」とて押し寄せて、散々に打ち破る。防ぎ戦ふ弟子、同宿、数十人討たれぬ。一如坊は、はふはふ六波羅へ参り、
P210
このよしをいちいちに訴へ申されけれども、六波羅へ軍兵馳せあつまつて、騒ぐこともなかりけり。
第三十七句 橋合戦
 宮は、山門、南都をもつてこそ、「さりとも」とおぼしめされつれども、「三井寺ばかりにてはいかにもかなふまじ」とて、同じき二十三日のあかつきに、南都へおもむき給ひけり。 宮は、「蝉折」「小枝」と聞こえし漢竹の御笛二つ持たせ給ひけり。蝉折は、鳥羽院の御時、黄金を千両、宋朝の帝へ奉らせ給ひたりければ、その御返報とおぼしくて、生身の蝉のごとくに節ついたる漢竹の笛竹、一節わたさせ給ふ。「いかが、これほどの重宝をば左右なく彫るべき」とて、大納言僧正覚宗に仰せて、壇の上にて、七日加持して彫らせ給へる御笛なり。おぼろげの御遊びには取りも出だされざりけるを、あるときの御遊びに、高松の中納言実行の卿、御笛を賜はつて吹かれけるが、ただ世のつねの笛の様に思はれて、膝より下に置かれたりければ、笛やとがめたりけん、そのとき蝉折れにけり。それ〔より〕してぞ「蝉折」とはつけられける。この宮の伝はらせ給ひたりしを、いま〔は御〕心細うやおぼしめされけん、泣く〔泣く〕金堂の弥勒に奉らせ給ひけり。「龍花の御あかつき、値遇の御ためか」とおぼえて、あはれなりし御ことなり。 乗円坊の阿闍梨慶秀、鳩の杖にすがり、宮の御前にP211参りて申しけるは、「この身はすでに齢八旬にたけて、行歩かなひがたく候へば、いとま申してまかり留まりて候。弟子にて候ふ刑部卿俊秀を参らせ候。かの俊秀と申すは、相模の国の住人、山内の須藤刑部丞義通が子なり。父須藤刑部は、平治の合戦のとき、故左馬頭義朝について、六条河原にて討死つかまつり候ひぬ。いささかゆかり候ふによつて、幼少より跡懐にて生ほしたてて、心の底までも知りて候。これをば、いづくまでも召し具せらるべう候」と申しもあへず、涙にむせびければ、「いつのよしみに、さればかくは申すらん」とて、宮も御涙にむせびおはします。しかるべき老僧どもをば留めさせ給へり。三位入道の一類、三井寺法師、都合その勢一千余人、醍醐寺にかかつて南都へおもむき給へり。 さるほどに、宮は宇治と寺とのあひだにて、六度まで御落馬あり。これは、去んぬる夜、御寝もならざりつるゆゑなりとて、宇治の橋二間ひきはづし、平等院に入らせ給ふ。しばし御休息ありけり。宇治川に馬ども引きつけ、引きつけ、冷やし、鞍、具足をこしらへなんどしけるほどに、六波羅にはこれを聞きて、「宮は、はや南都へおもむき給ふなり」とて、平家の大勢追つかけたてまつる。 大将軍には入道の三男左兵衛督知盛、中宮亮通盛、薩摩守忠度。侍大将には上総守忠清、太郎判官忠綱、飛騨守景家、飛騨の太郎判官景高、越中の前司盛俊、武蔵の三郎左衛門有国、伊藤、斎藤のしかるべき者
P212
ども、「われも」「われも」と進みけり。都合その勢二万余騎、木幡山をうち越えて、宇治の橋詰に押し寄す。「敵、平等院にあり」と見てければ、橋よりこなたにて二万余騎、天もひびき、地も動くほどに、鬨をつくること三箇度なり。先陣の「橋を引いたぞ。あやまちすな」と言ひけれども、後陣はこれを聞きつけず、「われ先に」とかかるほどに、先陣二百余騎押し落されて、水におぼれて流されけり。 宮の御方には、大矢の俊長、渡辺の競が射ける矢ぞ、ものにも強く通りける。橋の両方の詰にうち立つて矢合せしけり。五智院の但馬は、長刀の鞘をはづし、兜の錣をかたぶけて、橋は引いたり、敵には寄りあひたし、錣をかたぶけて立ちたるところに、平家これを見て、差しつめ、引きつめ、散々に射る。但馬は、越ゆる矢をばついくぐり、さがる矢をば躍り越え、むかうて来る矢をば長刀にて切つて落す。敵も味方も、「あれを見よ」とて見物す。それよりしてぞ、「矢切の但馬」とは申しける。 堂衆に筒井の浄妙明秀は、褐の直垂に、黒革縅の鎧着て、黒漆の太刀をはき、大中黒の矢負ひ、塗籠藤の弓のまつ中取つて、好む白柄の長刀と取りそへて、橋のうへにぞすすみける。大音あげて名のりけるは、「日ごろは音にも聞き、いまは目にも見よ。園城寺にはそのかくれなし。堂衆に筒井の浄妙坊明秀とて、一人当千の兵ぞや。平家の方にわれと思はん人々は、駆け出で給へ。見参せん」と言ふままに、二十五差したる矢を、差しつめ、引きつめ、散々に射
P213
けるに、十二人矢庭に射殺し、十二人に手負ほせて、一つは残りて箙にあり。弓をうしろへからと投げ捨て、箙も解いて川へ投げ入れ、敵「いかに」と見るところに、貫脱いではだしになり、長刀の鞘をはづいて、橋の行桁をさらさらと走り渡る。人は恐れて渡らねども、浄妙坊が心には、一条、二条の大路とこそふるまひけれ。長刀にて、むかふ敵五人なぎふせ、六人にあたるところに、〔長刀の〕柄うち折つて捨ててけり。そののち、太刀を抜いて斬りけるが、三人斬りふせ、四人にあたる度に、あまりに兜の鉢に強う打ち当て、目貫のもとよりちやうど折れ、川へざぶと入る。いまは頼むところなし。腰の刀にて、ひとへに「死なむ」とくるひけり。 乗円坊の阿闍梨の召し使ひける下部のうちに、一来法師とて、生年十七歳になる法師あり。浄妙に力をつけんとて、続いて戦ひけるが、橋の行桁はせばし、通るべき様はなし、浄妙が兜の手先に手を置いて、「あしう候、浄妙坊」とて、肩をゆらりと越えてぞ戦ひける。一来法師はやがて討死してけり。 浄妙は、はふはふかへりて、平等院の門前なる芝の上に鎧ぬぎ置いて、矢目を数へければ六十三ところ、裏かく矢目五ところ、されども痛手ならねば、頭をつつみ、弓切り折つて杖について、南都のかたへぞ落ち行きける。〔第三十八句 頼政最後〕源三位入道は、長絹の直垂に、科革縅の鎧着て、「いまを最後」と思はれければ、わざと兜は着給はず。嫡子伊豆守仲綱は、赤地の錦の直垂に、黒糸縅
P214
の鎧着て、「弓をつよく引かん」とて、これも兜は着ざりけり。 橋の行桁を浄妙が渡るを手本にして、三井寺の悪僧、渡辺の兵ども、走り渡り、走り渡り、戦ひけり。ひつ組んで川へ入るもあり。討死する者もあり。橋の上のいくさ、火の出づるほどこそ見えにけれ。
第三十八句 頼政最後
 先陣は上総守忠清、大将に申されけるは、「橋の上のいくさ、火の出づるほどになりて候。かなふべしともおぼえ候はず。今は川を渡すべきにて候ふが、をりふし五月雨のころにて、水量はるかにまさりて候。渡すほどにては、馬、人、押し流され、失せなんず。淀、一口へや向かひ候ふべき、河内路をやまはり候ふべき」と申せば、下野の国の住人、足利の又太郎すすみ出でて申しけるは、「おおそれある申しごとにて候へども、悪しうも申させ給ふ上総殿かな。目にかくる敵をただいま討ちたてまつらで、南都へ入らせ候ひなば、吉野、十津川とかやの者ども参りて、ただいまも大勢にならせ給はんず。それはなほ御大事にて候ふべし。いくさ延びてよきことは候はぬものを。淀、一口、河内路をば天竺、震旦の武士が参りて向かふべきか。それも、われわれどもこそ向かはんずらめ。武蔵と下野とのさかひに、『坂東太郎』と聞こえし利根川といふ大河あり。故我杉、長井の渡とて、ともに大事の渡なり。秩父と足利と仲をたがひて、
P215
つねに合戦をつかまつり候。上野の国の住人、新田の入道かたらはれて、搦手にむかひ候ふ。秩父が方よりみな舟を破られて、新田入道、『人にたのまれながら、舟がなければとて只今ここを渡さずは、われらが長き疵なるべし、水におぼれて死なば死ね。いざ渡らん』とて、馬筏をつくりて、杉の渡をも渡せばこそ渡しけめ。坂東武者のならひとして、川をへだてつる敵を攻むるに、淵、瀬をばきらふ様やある。この川深さ、浅さも、利根川にいかほどの、劣り、まさりはよもあらじ。いざ渡さん」とて、手綱かい繰り、まつ先にこそうち入れけれ。 同じく轡を並ぶる兵ども、小野寺の禅師太郎、兵庫の七郎太郎、佐貫の四郎太郎広綱、〔大胡、〕小室、深須、山上、那波の太郎。郎等に〔金子の〕丹の二郎、弥の六郎、大岡の安五郎、切生の六郎、小深の次郎、田中の宗太を先として、三百余騎ぞうち入れたる。 足利、大音声をあげて下知しけるは、「強き馬をば上手に立てよ。弱き馬をば下手になせ。馬の足のおよばんほどは、手綱をくれてあゆませよ。はづまば手綱かい繰つて泳がせよ。さがらん者をば弓筈にとりつかせよ。肩をならべて渡すべし。馬のかしら沈まば引きあげよ。いたう引いて、引きかづくな。馬には弱く、水には強くあたるべし。敵射るとも、あひ引きすな。つねに錣をかたぶけよ。あまりにかたぶけて、天辺射さすな。かねに渡して、あやまちすな。水にしなひて、渡せや、渡せ」と下知をして、三百余騎を一騎も流さず、むかひの岸にざつと渡す。 足利は、褐の直垂に、赤革の鎧着
P216
て、白月毛なる馬に金覆輪の鞍置いて乗つたりけり。鎧ふんばり、つつ立ちあがつて、鎧の水うちはらひ、まづ名のりけるは、「朝敵将門をほろぼして、勧賞にあづかる俵藤太秀郷が十代、足利の太郎俊綱が嫡男、又太郎。生年十八歳。か様に無官無位なる者の、宮に向かひたてまつりて弓を引くことは、冥加のほど、そのおそれすくなからず候へども、弓も、矢も、冥加のほども、今日みな平家の太政入道殿の御身のうへにこそ候はんずれ。宮の御方にわれと思はん人々は駆け出で給へや。見参せん」と言ひ、平等院の門のまへに押し寄せ、をめいて戦ひけり。 これを見て、二万余騎うち入れて渡す。馬、人にせかれて、さすがに早き宇治川の水は、上へぞたたへたる。おのづから、はづるる水は、いづれもたまらず流れけり。いかがしたりけん、伊賀、伊勢両国の軍兵六百余騎、馬筏を押し切られ、水におぼれて流れけり。萌黄、緋縅、色々の鎧の、浮きぬ、沈みぬ、流れければ、神南備山のもみぢ葉の、峰のあらしにさそはれて、龍田川の秋の暮、堰にかかつて流れもやらぬにことならず。いかがしたりけん、緋縅の鎧着たる武者が三人、宇治の網代にかかつて揺られけるを、いかなる人や詠みたりけん、
伊勢武者はみな緋縅の鎧着て宇治の網代にかかりぬるかな
 これは、伊勢の国の住人に、黒田の後平四郎、日野の十郎、鳥羽の源六といふ者なり。黒田が弓筈を岩のはざまにねぢ立て、かきあがりつつ、二人をも引きあげ、助けたり
P217
けるとかや。 そののち、大勢川を渡して、平等院の門のうちへ、攻め入り、攻め入り、戦ひけり。 宮を南都へ先立てまゐらせて、三位入道以下残りとどまつて、ふせぎ矢射けり。三位入道、八十になりていくさして、右の膝口射させて、「今はかなはじ」とや思はれけん、「自害せん」とて、平等院の門のうちへ引きしりぞく。敵追つかくれば、次男源大夫判官兼綱、紺地の錦の直垂に、緋縅の鎧着て、白葦毛なる馬に沃懸地の鞍置いて乗りたりけるが、中にへだたり、返しあはせ、返しあはせ、戦ひけり。上総守、七百余騎にてとり籠めて戦ひけるに、源大夫判官十七騎にて、をめいて戦ふ。上総守が放つ矢に、内兜を射させてひるむところに、上総守が童、三郎丸といふ者、押し並べてむずと組んで落つ。判官手負ひたれども、三郎丸を取つて押さへ、首かき切つて立ちあがらんとするところに、平氏の兵ども、「われも」「われも」と落ちかさなつて、判官をつひにそこにて討ちてげり。 三位入道は、釣殿にて長七唱を召して、「わが首取れ」とのたまへば、唱、涙をながし、「御首、ただいま賜はるべしともおぼえず候。御自害だに召され候はば」と申しければ、入道、「げにも」とて、鎧脱ぎ置き、高声に念仏し給ひて、最後の言こそあはれなれ。
むもれ木の花さくこともなかりしにみのなるはてぞかなしかりける
と、これを最後のことばにて、太刀のきつ先を腹に突き立て、たふれかかり、つらぬかれ
P218
てぞ失せ給ふ。このとき、歌詠むべうはなかつしかども、「若きよりあながちにもてあそびたる道なれば、最後までもわすれ給はざりけり」とあはれなり。首をば、唱泣く泣く掻き落し、直垂の袖に包み、敵陣をのがれつつ、「人にも見せじ」と思ひければ、石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めてけり。 伊豆守仲綱は、散々に戦ひ、痛手負うて、「今はかう」とや思はれけん、自害してこそ伏しにけれ。その首をば、下河辺の藤三郎清親が取つて、本堂の大床の下に投げ入れけり。 三男六条の蔵人仲家、その子蔵人太郎仲光も一所にて腹かつ切つてぞ伏しにける。この六条の蔵人と申すは、六条の判官為義が次男帯刀先生義賢が子なり。父義賢は、久寿二年、武蔵の国大倉にて、鎌倉の悪源太義平がために討たれぬ。そののちみなし子にてありしを、源三位入道、子にして、蔵人になしたりしほどに、日ごろのちぎりを変ぜず、今はか様に討死しけるとぞ、弓矢取りのならひとはいひながら、あはれなりし事どもなり。 競滝口をば、平家の兵、「いかにもして生捕にせん」とて、面々に心をかけたりけれども、競も心得て、散々に戦ひ、自害してこそ失せにけれ。 円満院の大輔は、矢種のあるほど射〔つくし〕て、「今は、宮ははるかに延びさせ給ひぬらん」と思ひければ、大太刀帯き長刀持ちて、敵の陣をうち破り、宇治川へ飛び入り、物の具一つも捨てずして、むかひの岸に泳ぎ着く。高き所にのぼりて、「平家の人々、これまでは御大事かな」と呼ばはつ
P219
て、長刀にてむかひの方を招きつつ、三井寺にむかつてぞ帰りける。
第三十九句 高倉の宮最後
 飛騨守景家は古き兵にて、「宮をば南都へ先立てまゐらせたるらん」と、いくさをばせで、五百余騎にて南都をさして追ひたてまつる。案のごとく、宮は二十四騎にて落ちさせ給ふに、光明山の鳥居のまへにて、〔飛騨守、〕宮に追つつきたてまつり、雨の降る様に射たてまつる。いづれが矢とは知らねども、宮の御側腹に矢一つ射立てまゐらする。御馬にもたまらせ給はず落ちさせ給ふを、兵ども落ちあひまゐらせて、やがて御首をぞ賜はりける。鬼土佐、荒土佐、〔荒〕大夫なんどといふ者ども、そこにてみな討死してんげり。御供つかまつるほどの悪僧の、そこにて一人も漏るるはなかりけり。 宮の御乳母子に六条の佐大夫宗信[* 「むねはる」と有るのを他本により訂正]は、ならびなき臆病者なりけるが、馬は弱し、敵はつづく、せんかたなさに、馬より飛びおり、新羅が池に飛び入りて、目ばかりわづかにさし出だしてふるひゐたれば、しばらくありて、敵、みな首ども取つて帰る。その中に、浄衣着たる人の首もなきを、蔀に乗せて舁いて通るを、「たれやらん」と思ひて、恐ろしながらのぞいて見れば、わが主の宮にてぞましましける。「われ死なば、御棺に入れよ」と仰せられし小枝ときこえし笛も、いまだ御腰にぞさされたる。「走り出でて、とりつきまゐらせばや」とは思へども、恐ろしければかなはず。ただ水の底にて
P220
ぞ泣きゐたる。敵みな過ぎてのち、池よりあがつて、濡れたるものども絞り着て、泣く泣く京へむかひてぞのぼりける。 南都の大衆、先陣は木津川にすすみ、後陣はいまだ興福寺の南の大門にぞゆらへたる。老少七千余騎、御むかへに参りけるが、「宮ははや光明山の鳥居のまへにて討たれ給ひぬ」と聞こえしかば、大衆ども涙を流してひき返す。いま五十町ばかりを待ちつけさせ給はで討たれさせ給へる宮の御運のほどこそうたてけれ。 平家は、宮ならびに三位入道の一類、三井寺法師、都合其の勢五百余人が首を取つて、夕べにおよんで京へ入る。兵ども、ののじり騒ぐことおびたたし。三位入道の首をば、長七唱が石にくくりあはせて、宇治川の深きところに沈めければ、人見ざりけり。子どもの首は、みなたづね出だされけり。 宮の御首は、宮の御方へつねに参りかよふ人もなければ、見知りまゐらせたる者もなし。典薬頭〔定成〕が、ひととせ御療治のために召されたりしかば、「それぞ、見知りまゐらせん」とて、召されけれども、所労とて参らず。宮の年ごろ召されける女房一人召し出だされて、たづねられければ、御子を生みまゐらせける女房なれば、なじかは見損じたてまつるべき。御首を見まゐらせて、やがて涙にむせびけるにこそ、宮の御首には定まりけれ。宮の御額に疵のわたらせ給ひけり。これは、ひととせあしき瘡の出で来させ給ひたりしを、典薬頭めでたう療治しまゐらせて、そのときはのがれさせおはせしが、今はあへなく失せさせ給ふぞあさましき。 宮は、腹々に御子あまたわたらせ給ふ。八条の
P221
女院に、伊予守盛章がむすめ、三位の局とて候ひける女房の腹にも若君わたらせ給ひけり。この宮たちをば、女院、わが子のごとくにおぼしめされて、御ふところにて育てまゐらせ給ひけり。高倉の宮の御謀叛おこさせ給ひて失せ給ふと聞こえしかば、女院、「たとひいかなる御大事におよぶとも、この宮たちをば、出だしたてまつるべしともおぼえず」とて、惜しみまゐらせ給ひけり。六波羅より、太政入道、他の中納言頼盛をもつて、「この御所に、高倉の宮の若君、姫君わたらせ給ふなる。姫君をば申すにおよばず、若君をば出だしまゐらせ給へ」と申せば、女院の御乳母宰相と申す女房に、中納言あひ具して、つねに参られければ、日ごろはなつかしうこそおぼしめされしに、今かく申して参られたれば、あらぬ人の様にうとましくこそおぼしめせ。女院御返事には「さればこそ。かかる聞こえありしあかつき、御乳母なんど、心をさなうも具したてまつりて出でにけるやらん、この御所にはわたらせ給はず」と御返事ありければ、中納言、「さては力におよばず」とてましましけるに、太政入道、重ねてのたまひけるは、「なんでう、その御所ならではいづくにわたらせ給ふべき。その儀ならば、御所中をさがしたてまつれ」とて、使しきなみにありければ、中納言は、すでにはしたなき事がらになり、門に兵を置きなんどして、「御所中をさがしたてまつるべし」と聞こえしかば、「こはいかがすべし」とて、御所中の女房たち、あきれ、騒がしく見えたり。 若君、生年七歳にならせ給ひけるが、これを聞こしめし、女院の御前に参りて申させ給ひけるは、「今はこれほど
P222
の御大事に候へば、力におよばず候。ただとくとく出ださせ給へ」と申させ給へば、女院、「人の七つなんどは、いまだ何事も思はぬほどぞかし。われゆゑ大事出で来たらんことを、かたはらいたさに、かくのたまふいとほしさよ。よしなかりける人を、この六七年手慣れしことよ」とて、御衣の袖をぞしぼらせまします。御母三位の局は申すにおよばず、女官ども、局々の女、童部にいたるまでも、涙をながし、袖をしぼらぬはなし。御母三位の局、泣く泣く御衣を召させたてまつり、出だしまゐらせ給ふも、ただ「最後の御いでたち」とぞおぼしめされける。中納言も、同じく袂をしぼりつつ、御車のしり輪にまゐり、六波羅へわたしたてまつる。 前の右大将宗盛、この宮を一目見たてまつり、父の入道に申されけるは、「前の世にいかなるちぎりが候ひけん。一目見たてまつりしより、あまりに御いとほしう思ひたてまつり候。この宮の御命には、宗盛かはり候はん」と申されければ、入道、「ものも知らぬ宗盛かな」と、しばしは聞きも入れ給はざりけるが、重ねて再三申されければ、「さらば、とくとく出家せさせたてまつりて、御室へ入れたてまつれ」とぞのたまひける。右大将大きによろこびて、女院へこのよし申されければ、女院、御手を合はせてよろこばせまします。御母三位の局の御心のうち、いかばかりうれしうおぼしめしけん。やがて御出家ありて、釈氏に定まらせ給ふ。「安井の宮道尊」と申せしは、この宮の御ことなり。 また、奈良にも一所ましましけり。御乳人讃岐の重秀が出家せさせたてまつり、北陸道越中の国へ落ちくだりたりしを、木曾、「主に
P223
したてまつらん」とて、越中の国に御所造りて、もてなしたてまつりけるが、木曾上洛のとき、同じくこの宮も御のぼりありて、還俗ありしかば、「還俗の宮」とも申しけり。また「木曾の宮」とも申す。のちには、嵯峨の野入にわたらせ給ひしかば、「野入の宮」とぞ申しける。 むかし、登乗といふ相人あり。宇治殿、二条殿をば、「ともに関白の相まします。御歳八十」と申したりしもたがはず。帥の内大臣をば「流罪の相まします」と申したりしもたがはず。聖徳太子、崇峻天皇を「横死の相まします」と申させ給ひたりしも、馬子の大臣に殺され給ひにき。かならず相人ともなけれども、しかるべき人々はかうこそめでたくおはしますに、そもそも相少納言は「めでたき相人」とこそ申せしに、この宮を見損じまゐらせて、失ひたてまつるこそあさましけれ。 兼明親王、具平親王、「前の中書、後の中書の王」とて、賢王の聖主皇子にてわたらせ給ひしかども、つひに御位にもつかせ給はざれども、いつかは御謀叛おこさせ給ひし。また、後三条院の第三の皇子輔仁の親王をば、「東宮の御位ののちは、かならずこの宮をば太子に立てまゐらせ給へ」と仰せおかせられたりしに、東宮御かくれありしかども、白河の院、いかがおぼしめしけん、つひに太子にも立てまゐらせ給はず。あまつさへ、この親王の御子を御前にて源氏の姓をさづけたてまつりて、無位より一度に三位に叙して、やがて中将になしたてまつり給ひけり。これ花園の左大臣殿の御ことなり。一年源氏、無位より三位になることは、嵯峨の天皇の御子、陽成院の大納言定郷
P224
のほかは承りおよばず。 また、高倉の宮討ちたてまつらんとて、調伏の法修せられける高僧たち、勧賞おこなはる。 前の右大将宗盛の子息、侍従清宗、三位して「三位の侍従」とぞ申しける。今年十二歳。「父の卿もこのよはひにては、わづかに兵衛佐にてこそおはせしに、おそろし、おそろし」とぞ人申しける。これは、「源の以仁[* 「これひと」と有るのを他本により訂正]ならびに頼政法師追討の賞」とぞ聞書にはありける。「源の以仁[* 「これひと」と有るのを他本により訂正]」とは、高倉の宮を申しけり。まさしく太上法皇の御子を討ちたてまつるのみならず、凡人にさへなしたてまつるぞあさましき。第四十句 鵺(ぬえ) そもそも、〔この〕頼政と申すは摂津守頼光が五代の後胤、三河守頼綱が孫、兵庫頭仲政が子なり。保元に御方にてまつ先駆けたりしかども、させる賞にもあづからず。平治にまた、親類を捨て、参りたりしかども、恩賞これ疎かなり。重代の職なれば、大内の守護うけたまはりて年久しかりしかども、昇殿をば〔いまだ〕ゆるされざりけり。年たけ、よはひかたぶいてのち、述懐の和歌一首つかまつりてこそ昇殿をばゆるされたりけれ。
人知れず大内山のやまもりは木がくれてのみ月を見るかな
P225
とつかまつり、昇殿したりけるとぞ聞こえし。 四位にてしばらく候ひけるが、つねに三位に心をかけつつ、
のぼるべきたよりなき身は木のもとにしゐをひろひて世をわたるかな
とつかまつりて三位したりけるとぞ聞こえし。すなはち出家し給ひて、今年は七十七にぞなられける。 この頼政、一期の高名とおぼえしは、近衛の院の時、夜な夜なおびえさせ給ふことあり。大法、秘法を修せられけれども、しるしなし。人申しけるは、「東三条のもとより黒雲ひとむらたち来たり、御殿に覆へば、そのときかならずおびえさせ給ふ」と申す。「こはいかにすべき」とて、公卿僉議あり。「所詮、源平の兵のうちに、しかるべき者を召して警固させらるべし」とさだめらる。 寛治のころ、堀河の天皇、かくのごとくおびえさせ給ふ御ことありけるに、そのときの将軍、前の陸奥守源の義家を召さる。〔義家は、〕香色の狩衣に、塗籠藤の弓持ちて、山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、南殿の大床に伺候す。御悩のときにのぞんで、弦がけすること三度、そののち御前のかたをにらまへて、「前の陸奥守、源の義家」と高声に名のりければ、聞く人みな身の毛もよだつて、御悩もおこたらせ給ひけり。 しかれば、「すなはち先例にまかせ、警固あるべし」とて、頼政をえらび申さる。そのころ兵庫頭と申しけるが、召されて参られけり。「わが身、武勇の家に生れて、なみに抜け、召さるることは家の面目なれども、朝家に武士を置かるる事、逆叛
P226
の者をしりぞけ、違勅の者をほろぼさんがためなり。されども、目に見えぬ変化のものをつかまつれとの勅定こそ、しかるべしともおぼえね」とつぶやいてぞ出でにける。 頼政は、浅葱の狩衣に、滋藤の弓持ちて、これも山鳥の尾にてはぎたるとがり矢二すぢとりそへて、頼みきりたる郎等、遠江の国の住人、猪の早太といふ者に黒母衣の矢負はせ、ただ一人ぞ具したりける。 夜ふけ、人しづまつて、さまざまに世間をうかがひ見るほどに、日ごろ人の言ふにたがはず、東三条の森のかたより、例のひとむら雲出で来たりて、御殿の上に五丈ばかりぞたなびきたる。雲のうちにあやしき、ものの姿あり。頼政、「これを射損ずるものならば、世にあるべき身ともおぼえず。南無帰命頂礼、八幡大菩薩」と心の底に祈念して、鏑矢を取つてつがひ、しばしかためて、ひやうど射る。手ごたへして、ふつつと立つ。やがて矢立ちながら南の小庭にどうど落つ。早太、つつと寄り、とつて押さへ、五刀こそ刺したりけれ。そのとき、上下の人々、手々に火を出だし、これを御覧じけるに、かしらは猿、むくろは狸、尾は蛇、足、手は虎のすがたなり。鳴く声は、鵺(ぬえ)にぞ似たりける。「五海女」といふものなり。 主上、御感のあまりに、「獅子王」といふ御剣を頼政に下し賜はる。頼長の左府これを賜はり次いで、頼政に賜はるとて、ころは卯月のはじめのことなりければ、雲居にほととぎす、二声、三声おとづれて過ぎけるに、頼長の左府、
ほととぎす雲居に名をやあぐるらん
P227
と仰せかけられたりければ、頼政、右の膝をつき、左の袖をひろげて、月をそば目にうけ、弓わきばさみて、
弓張り月のいるにまかせて
とつかまつりて、御剣を賜はつてぞ出でにける。「弓矢の道に長ぜるのみならず、歌道もすぐれたりける」と、君も臣も感ぜらる。さてこの変化のものをば、うつほ舟に入れて流されけるとぞ聞こえし。 頼政は、伊豆の国を賜はつて、子息仲綱受領し、わが身は丹波の五箇の庄、若狭の東宮川知行して、さてあるべき人の、よしなき事を思ひくはだて、わが身も子孫もほろびぬるこそあさましけれ。頼政はゆゆしうこそ申したれども、遠国は知らず、近国の源氏だにも馳せ参らず、山門さへかたらひあはれざりしうへは、とかう申すにおよばず。 また、去んぬる応保のころ、二条の院御在位のときに、鵺(ぬえ)といふ化鳥禁中に鳴いて、しばしば宸襟を悩ますことありき。先例をまかせ、頼政を召されけり。ころは五月二十日あまりのまだ宵のことなるに、鵺(ぬえ)ただ一声おとづれて、二声とも鳴かず。めざせども知らぬ闇ではあり、すがたかたちも見えざれば、矢つぼをいづくとも定めがたし。頼政、はかりごとに、まづ大鏑をとつてつがひ、鵺(ぬえ)の声しつるところ、内裏のうへにぞ射あげたる。鏑の音におどろいて、虚空にしばしはひめいたり。二の矢を小鏑とつてつがひ、ふつと射切つて、鵺(ぬえ)と鏑とならべてまへにぞ落したる。禁中ざざめいて、御感ななめなら
P228
ず、御衣をかづけさせ給ひけるに、そのときは大炊の御門の右大臣公能公、これを賜はり次いで、頼政にかづけさせ給ふとて、「むかしの養由は、雲のほかの雁を射にき。いまの頼政は、雨のうちに鵺(ぬえ)を射たり」とぞ感ぜられける。
五月闇名をあらはせるこよひかな
とおほせられたりければ、頼政、
たそがれどきも過ぎぬと思ふに
とつかまつり、御衣を肩にかけて退出す。そののち伊豆の国を賜はり、子息仲綱受領になし、わが身三位しき。
 日ごろは山門の大衆こそ乱れがはしきことども申せしに、今度は穏便を存じて音もせず。南都、三井寺は事を乱し、あるいは宮を扶持したてまつり、あるいは御むかへに参る。「これ、もつぱら朝敵なり」とて、「奈良をも、三井寺をも攻めらるべし」とぞ聞こえける。「まづ寺を攻めらるべし」とて、同じく二十六日、蔵人頭重衡、中宮〔亮〕通盛、その勢三千余騎、園城寺へ発向す。寺も思ひきりしかば、逆茂木ひき、戦ひけり。大衆以下法師ばら三百人ぞほろびける。 その官軍、寺中に攻め入りて火をかけければ、焼くるところは、本覚院、常喜院、真如院、花園院、大宝院、青龍院、鶏足院、普賢堂、八間四面の大講堂、教待和尚の本坊ならびに本尊等、護法善神の社壇、二階
P229
楼門、経蔵、灌頂堂。すべて堂舎、塔廟六百三十七宇、大津の在家千五百余地、焼きはらふ。わづかに金堂ばかりぞ残りける。大師の渡し給へる一切経七千余巻、仏像二千余体も灰燼となるこそかなしけれ。法文聖教の焼けけぶりは、大梵天王のまなこもたちまちにくれ、諸天微妙のたのしみもながくほろび、龍神三熱の苦しみも、炎にむせんでいよいよまさるらんとぞおぼえたる。 それ三井寺は、「近江の擬大領がわたくしの寺たりしを、天智天皇に寄せたてまつりて、御願所となす。もとの仏もかの帝の御本尊。しかるを生身の弥勤と聞こえ給ひし教待和尚、百六十年おこなひて、大師に付嘱し給ひき。覩史多天王、摩尼宝殿よりあまくだつて、はるかに龍花下生のあかつきを待たせ給ふ」と聞こえつるに、こはいかにしつることぞや。天智、天武、持統、これ三代の皇帝の御宇、産湯の水を召されたりしによつてこそ、「三井寺」とは名づけけれ。かかる聖跡なれども、いまはなにならず。顕密、須臾にほろびて、伽藍さらに跡なし。三密の道場もなければ、鈴のこゑも聞こえず。一夏の仏膳もなければ、閼伽の音もせざりけり。宿老、碩徳の明師はおこなひにおこたり、受法相承の弟子は、また経教にわかれたり。 寺の長吏八条の宮、天王寺の別当をとどめられさせ給ふ。僧綱十余人、解官せらる。悪僧には、筒井の浄妙坊明秀にいたるまで三十余人ぞ流されける。
P230