平家物語 百二十句本(京都本)巻第七
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平家巻第七 目 録
第六十一句 平家北国下向
鳥羽の院朝覲の行幸
頼朝義仲和融の事
木曾と城の四郎と合戦の事
経正行く道の狼藉
第六十二句 火打合戦
平泉寺の長吏心がはり
火打が城落去
平家砥波志保坂の陣
平家と木曾と合戦
第六十三句 木曾の願書
義仲埴生の陣
覚明素生の事
鳩の沙汰
平家砥波志保坂落去
第六十四句 実盛
平家篠原落ち
武蔵三郎左衛門有国討死
首実検
実盛錦の袴の事
第六十五句 玄■の沙汰
飛騨守景家思ひ死の事
伊勢行幸
大宰少弐広嗣観世音寺供養
兵乱の祈祷の事
第六十六句 義仲牒状
木曾越後の国府にて合戦の評議
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覚明願書の事
山門衆徒の僉議
返牒の事
第六十七句 平家一門願書
平家山門の衆徒計策の事
願書したためつかはす事
平家平生神慮を背く事
衆徒平家を許容せざる事
第六十八句 法皇鞍馬落ち
平家宇治瀬田の手退散の事
春日大明神童子姿と現じ給ふ事
薩摩守・俊成の卿対面の事
千載集の沙汰
第六十九句 維盛都落ち
〔経正御室へ参らるる事〕
〔維盛〕北の方哀別の事
若君姫君哀別の事
斎藤五・斎藤六哀別の事
第七十句 平家一門都落ち
平家一門家々放火の事
池の大納言心かはりの事
肥後守貞能振舞の事
福原旧都一宿の事
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平家巻第七
第六十一句 平家北国下向
寿永二年二月二十二日、主上は朝覲のために、法住寺殿へ行幸なる。鳥羽の院六歳にて、朝覲の行幸あり、その例とぞ聞こえし。同じく二十三日、宗盛従一位し給ふ。同じく二十七日、内大臣を辞し申さる。これは兵乱のためなり。南都、北京の大衆、熊野、金峯山の僧徒、伊勢大神宮にいたるまで、一向平家をそむき、源氏に心を通じけり。四方へ宣旨をなしくだし、諸国へ院宣をつかはすも、みな平家の下知とのみ心得て、したがひつく者なかりけり。そのころ、木曾と兵衛佐と不快のこと出で来たる。兵衛佐、「木曾を討たん」とて、六万余騎をあひ具して、信濃の国へ発向す。木曾これを聞き、乳人〔子〕の今井の四郎兼平をもつて、「なにによつてか義仲を討たんとは候ふやらん。ただし、十郎蔵人殿こそ、それを恨むることあつて、これにおはしたるを、義仲さへ情なくもてなし申さんこといかんぞや。されば当時はうち連れてこそ候へ。このほか意趣あるべしともおぼえず。なにゆゑ、今日、明日仲違はれたてまつり、合戦し、平家に笑はれんとは存ずべく候ふ」と言ひやりければ、兵衛佐、「今こそかくはのたまへども、頼朝討たるべきよし『たしかにはかりごとをめぐらされける』とこそ承れ。それによるまじ」とて、討手の一陣をさし向けられければ、木曾、
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「真実に意趣なき」よしをあらはさんがために、嫡子清水の冠者義基とて、生年十一歳になる小冠者に、海野、望月、諏訪、藤沢以下の兵ども、そのほかあまたつけて、兵衛佐のもとへつかはす。兵衛佐、「このうえは意趣なし」とて、清水の冠者あひ具して、鎌倉へこそ帰られけれ。木曾はやがて越後〔の国〕へうち越えて、城の四郎と合戦す。いかにもして討ち取らんとしけれども、長茂主従五騎に討ちなされ、行きがた知らずぞ落ちにける。越後の国をはじめて、北陸道の兵みな木曾にしたがひつく。木曾は東山・北陸、両道をうちしたがへて、「ただいま都へ攻め入るべし」とぞ聞こえける。平家は、「今年よりも、明年は、馬の草飼ひにつけて合戦すべき」と披露せられたりければ、南海、西海、山陰、山陽の兵ども、雲霞のごとくに馳せのぼる。東海道にも、遠江の国より東こそ参らざれ、相模の国の住人俣野の五郎景久、伊豆の国の住人伊東九郎祐澄、武蔵の国の住人長井の斎藤別当実盛は、平家の方にぞ候ひける。東山道にも、近江、美濃、飛騨の者参りたり。
平家、まづ北国へ討手をつかはすべき評定あり。すでに討手をつかはす。大将軍には、小松の三位の中将維盛、副将軍には、越前の三位通盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、左馬頭行盛、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、三河守知度。侍大将
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には、上総太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国、高橋の判官長綱、越中の前司盛俊、同じく三郎兵衛盛嗣、武蔵の三郎左衛門有国、俣野の五郎景久、伊東九郎祐澄、長井の斎藤別当実盛、悪七兵衛景清を先として、都合その勢十万余騎、寿永二年四月十七日の午の刻に都をたつて、北国へぞおもむきける。平家は片道を賜はつてければ、逢坂の関よりはじめて、道にもちあふ権門勢家の正税、官物ともいはず、いちいちに奪ひ取る。まして志賀、唐崎、真野、高津、塩津、海津の辺を、いちいちに追捕して通りければ、人民多く逃散す。〔先陣はすすめども、後陣はいまだ近江の国、海津の辺にひかへたり。〕
第六十二句 火打合戦
木曾義仲は、わが身は信濃にありながら、越前の国火打が城をぞかまへける。大将軍には平泉寺の長吏斎明威儀師、稲津の新介、斎藤太、林の六郎光明、富樫の入道仏誓、入善、宮崎、石黒を先として、七千余騎ぞ籠りける。さるほどに、平家の先陣は越前の国木辺山をうち越えて、火打が城へぞ寄せられける。この城のありさまを見るに、磐石そばたちて四方の峰をつらねたり。山をうしろに、山をまへに当つ。城のまへには、能見川、
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新道川とて二つの川流れたり。二つの川の落ちあひに大木を立てて、しがらみをかき、せきあげたれば、水、東西の山の根にさし満ちて、ひとへに大海に臨むがごとし。影南山をひたして、青うして滉瀁たり。波西日を沈めて、紅にして〓淪たり。昆明池のありさまも、これにはいかでかまさるべき。平家は、むかへの山に宿し、むなしく日数をおくる。城のうちの大将軍、平泉寺の長吏斎明威儀師、心がはりして、消息を書きて、蟇目の中に籠めて、しのびやかに山の根をつたへて、平家の陣へぞ射入れたる。「この蟇目の鳴らぬこそあやしけれ」とて、取つてこれを見るに、中に文あり。ひらきて見れば、かの川は往古の淵にあらず。一旦しがらみをかきあげたる水なり。いそぎ雑人どもつかはして、しがらみを切り破らせ給へ。山川なれば、水はほどなく落ちんずらん。馬の足立よく候へば、いそぎ渡させ給へ。うしろ矢は射てまゐらせん。平泉寺の長吏斎明威儀師が申状とぞ書いたりける。大将軍、副将軍、大きによろこんで、やがて雑人どもをつかはし、しがらみを切り破らせらる。案のごとく、山川なれば、水はほどなく落ちにけり。そのとき、平家の大勢ざつと渡す。斎明威儀師は、やがて平家と一つになつて忠をいたす。稲津の新介、斎藤太、入善、宮崎、是等(これら)は、みなしばし戦ひ、城を落ちて、加賀の国へぞ引きしりぞく。平家やがて加賀の国へうち越えて、林、富樫が二箇所の城郭を追ひ落す。さらに面を向くべしとも見えざりけり。都
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にはこれを聞き、よろこぶことかぎりなし。同じく五月八日、平家は加賀の国篠原にて勢揃ひして、それより軍兵を二手に分けて、大将軍には小松の三位の中将維盛。副将軍には越前の三位通盛。先陣は越中の前司盛俊。都合その勢七万余騎。加賀と越中とのさかひなる砥波山へぞ向かはれける。搦手の大将軍には左馬頭行盛、薩摩守忠度、三万余騎にて、能登と越中とのさかひなる志保坂へこそ駆けられけれ。さるほどに木曾の冠者義仲、越後の国府より五万余騎にて馳せ向かふ。先に十郎蔵人行家を大将軍にて、一万余騎を引き分けて、志保坂の手へさし向けらる。残るところの四万余騎を手々に分かつ。総じて七手に分かたれたり。〔木曾、わが身は一万余騎にて、小屋部の渡りをして、砥波山の北の埴生に陣をぞ取つたりける。〕木曾のたまひけるは、「平家は大勢にて下るなり、山うち越えて、黒坂の裾の松坂の柳原、ぐみの木林の広みへ出づるものならば、走り合ひの合戦にてこそあらんずれば、馳せ合ひの合戦は、いかにも勢の多く少なきによることなり、大勢かさにかけられてはかなふまじ。搦手をまはせや」とて、楯の六郎親忠、七千余騎にて北黒坂へまはる。仁科、高梨、山田の次郎、七千余騎にて、南黒坂へ向かふ。わが身は大手より一万余騎。また一万余騎をば、松坂の柳原に引き隠し、今井の四郎兼平六千余騎にて鷲の島をうち渡り、日宮林に陣をとる。木曾のたまひけるは、「この勢黒坂に向かはんことは、はるかのことぞ。さあらんほどに、平家の大勢、山よりこなたへ越えなんず。勢は向かはず
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とも、旗を先に立つるものならば、『源氏の先陣向かうたり』とて、山よりあなたへひかんずらん。旗を先に立てよ」とて、勢は向かはねども、黒坂の上に、白旗三十流ばかりうち立てたり。案のごとく、平家これを見て、「あはや、源氏の先陣すでに向かひてんげり。ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくはよもまはらじ。馬の草かひ、水かひ、ともによげなり。馬休めん」とて、大勢みな、山の中にぞおりゐたる。
第六十三句 木曾の願書
木曾は八幡の社領、埴生の荘に陣とつて、きつと四方を見まはせば、夏山の峰の緑の木の間より、朱の玉垣ほの見えて、かたそぎづくりの社壇あり。木曾これを見給ひて、案内者を召して、「これはなにの社ぞ、いかなる神を崇めたてまつりたるぞ」とたづねられければ、「これは、八幡を遷しまゐらせて、当国には『新八幡』とこそ申し候へ」。木曾おほきによろこんで、手書に具せられたる、木曾の大夫覚明を呼びて、「義仲こそ、さいはひに八幡の御宝前に近づきたてまつりて合戦をとげんずるなれば、それについて、『かつうは後代のため、かつうは当時の祈祷のため、願書を一筆、書いて参らせばや』と思ふはいかに」。「もつともしかるべく候」とて、馬より飛び下り、書かんとす。覚明、褐の直垂に、黒糸縅の鎧着て、
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斑母衣の矢負ひ、塗籠籐の弓持ちて、黒き馬にぞ乗りたりける。箙より小硯、畳紙を取り出だし、木曾殿の御前にひざまづいてぞ書いたりける。数千の兵これを見て、「文武の達者かな」とぞほめたりける。この覚明と申すは、勧学院に蔵人道弘とて候ひけるが、出家して最乗坊信救とぞ名のりける。しばしは南都にありしが、高倉の宮、三井寺にわたらせたまひしとき、南都へ牒状を送られたり。その返牒をこの信救ぞ書いたりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵芥」と書いたりしこと、太政入道おほきに怒つて、「信救法師が首をはねよ」とのたまふあひだ、南都をひそかにのがれ出で、北国へ落ちくだり、木曾にぞつきたりける。かかる才人なれば、なじかは書きも損ずべき。書きあげてぞ読うだりける。
帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の曩祖たり。宝祚を守らんがため、蒼生を利せんがため、三身の金容をあらはして、三所の権扉をおしひらく。ここに向年よりこのかた、平相国といふ者あり。四海を管領し、万民を悩乱せしむ。これはすでに仏法の怨、王法の敵なり。義仲いやしくも弓馬の家に生まれ、わづかに箕裘の芸を継ぐ。彼の暴悪を見るに、思慮を顧みるにあたはず。運を天道にまかせ、身を国家になげうち、試みに義兵を起し、凶器を退けんと欲す。
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闘戦両家の陣を合はすといへども、士卒いまだ一塵の勇を得ざるのあひだ、まちまち心おそれをなすところに、いま一陣において旗を戦場に挙げて、たちまち三所和光の社壇を拝し、機感純熟、すでにあきらかなり。凶徒誅戮うたがひなし。歓喜の涙をおとし、渇仰胆に染む。なかんづく曾祖父、前の陸奥守源の義家の朝臣、身を宗廟の氏族に帰付し、名を「八幡太郎」と号してよりこのかた、その門葉として帰敬せざるといふ事なし。義仲、その後胤として、首を傾くること年久し。いまこの大功を起して、たとへば、嬰児蠡をもつて巨海を測り、螳螂が斧をとつて、隆車に向かふがごとし。しかれども国のため、君のためにこれを起し、家のため、身のためにこれを起さざる。心ざしの至り、神鑒暗からんや。たのもしいかな、よろこばしいかな。伏して願はくは、冥顕威を加へ、霊神力を合はせ、勝つことを一時に決し、怨を四方に退け給へ。しかればすなはち、丹祈冥慮にかなひ、幽玄加護をなすべくは、まづ一つの瑞相を見せしめたまへ。寿永二年五月十一日 源の義仲敬白
と読みあげて、十三の上矢をそへて、御宝殿にぞ納めける。たのもしいかな、八幡大菩薩、真実の心ざしの二つなきをや、はるかに照覧し給ひけん、雲のうちより山鳩二つ飛び来たつて、源氏の白旗のうへに翩翻す。平家もこれを見て、みな身の毛
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もよだちたり。昔、神功皇后、新羅を攻め給ひしに、霊鳩明天にあらはれ、軍に勝つことを得給へり。しかるに、この人々の先祖八幡太郎義家、奥州の貞任を追罰せしとき、厨川の館にて、王城の方にむかひ、はるかに八幡を拝したてまつりて、「これは私の火にあらず、すなはち神火なり」とて火をはなつ。霊鳩、炎のうちにあらはれ、旗の上に飛びめぐる。か様の先蹤を思ひつづけて、木曾殿兜を脱ぎ、霊鳩を拝し給ひけん、心のうちこそたのもしけれ。源平陣を合はせて、たがひに盾を突き、向かうたり。そのあはひ三町にはすぎじとぞ見えし。されども源氏もすすまず、平家もすすまず。ややあつて、源氏なにとや思ひけん、精兵をすぐり、十五騎を出だして十五の鏑を平家の陣へぞ射入れたる。平家も十五騎出だして十五の鏑を射返す。源氏、また三十騎出だして、三十の鏑を射さすれば、三十の鏑を射返しけり。五十騎出だせば、五十騎を出だしあはせ、百騎を出だせば百騎を出だし、両方盾の面にすすんだる。たがひに勝負を決せんとすすめども、源氏の方には、総じて制して勝負をせず。源氏は、かくあひしらひて日を暮らし、「夜に入りて、うしろの谷へ追ひ落し、滅ぼさん」とするをば知らず。平家も、ともにあひしらひて、日を暮らすことこそはかなけれ。次第に、暗うなりしかば、搦手の勢一万余騎、平家の陣のうしろなる倶利伽羅の堂の辺にて参りあひ、倶利伽羅の堂のまへにて一万余騎、箙の方立を打ちたたき、天も響き、大地もうごくほどに、鬨をどつとつくる。
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木曾これを聞き、大手より一万余騎にて鬨をどつと合はす。松長の柳原にひき隠したるが、一万余騎にて戦ふ。今井の四郎兼平、六千余騎にて、日宮林より一度にをめいて寄せ向かふ。前後四万騎が鬨の声、「山も川もただ一度に崩るるか」とぞおぼえける。平家は、「ここは山も高し、谷も深し、四方巌石なり。搦手たやすくよもまはらじ」とて、うちとけたるところに、思ひもかけぬ鬨〔の声〕におどろきて、あわてさわぎ、「もしやたすかる」と、そばの谷へぞ落しける。「きたなしや。返せ。返せ」と言ふやからも多かりけれども、大勢のかたぶきたちぬれば、取つて返すことなし。されば、「われ先に」とぞ落しける。親の落せば、子も落す。主の落せば、郎等もつづく。兄が落せば、弟も落す。馬には人、人には馬、落ち重なつて、さしも深き谷一つ、平家の勢七万余騎にてぞ埋みける。巌泉血をながし、死骸丘をなす。大将軍維盛ばかり、からき命生きて、加賀の国へ引きしりぞく。上総の太郎判官忠綱、飛騨の大夫判官景高、河内の判官季国みなこの谷にてぞ死にける。その谷の辺には「矢の穴、刀のあと、今にある」とぞうけたまはる。生捕にせられたる者おほかりけり。まづ火打が城にて心がはりしたりける平泉寺の長吏斎明威儀師、平家の侍に聞こふる兵、備中の国の住人瀬尾の太郎兼康、生捕にせられにけり。「斎明威儀師、生捕にせられたり」と聞こえしかば、木曾殿、これを召し寄せ、まへに引き据ゑ、やがて首を刎ねられ
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けり。夜明けてのち、しかるべき者ども、三十余人首を切りかけて、木曾殿のたまひけるは、「そもそも、十郎蔵人が志保の手こそおぼつかなけれ。いざ行きて見ん」とて四万騎が中より、馬、人、強きをすぐつて二万騎、志保の手に馳せ向かふ。越中の国、氷見の湊といふ所を渡さんとするをりふし、潮さし満ちて、深さ、浅さを知らず。鞍置馬を追ひ入れて泳がす。鞍爪ひたるほどにて、むかひの岸のはたへ渡り着く。「こはいかに。浅かりけるを」とて、大勢うち入れて渡す。志保坂へ押し寄せ見給へば、案のごとく、十郎蔵人は散々に射しらまされて引きしりぞき、駒の足を休めゐけるところに、木曾、「さればこそ」とて、二万騎入りかはつて、鬨をつくり、をめいて駆く。平家、しばらくこそ支へけれ、志保の手も追ひ落されて、加賀の国篠原へこそ引きしりぞきけれ。
第六十四句 実盛
同じく二十三日、卯の刻に源氏篠原へ押し寄せて、午の刻まで戦ひけり。暫時の合戦に、源氏の兵一千余騎討たれぬ。平家方には高橋の判官長綱をはじめとして、二千余騎ぞ滅びける。平家篠原を攻め落されて落ち行きけり。その中に武蔵の三郎左衛門有国、長井の斎藤別当実盛は、大勢に離れて、二騎つれて引き返し戦ひけり。三郎左衛門有国は敵に馬の腹
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を射させて、しきりに跳ねければ、弓杖をついて下り立つたり。敵のなかに取りこめられて散々に射る。矢種みな射尽くし、打物抜いで戦ひけるが、矢七つ八つ射立てられて、立死にこそ死にけれ。三郎左衛門討たれてのち、長井の斎藤別当実盛、存ずるむねありければ、ただ一騎残つてぞ戦ひける。信濃の国の住人手塚の太郎馳せ寄つて、「味方はみな落ち行くに、ただ一騎残つていくさするこそ心にくけれ。誰そや、おぼつかなし。名のれ、聞かん」と言ひければ、「かう言ふわ殿は誰そ。まづ名のれ」と言はれて、「かく言ふは、信濃の国の住人手塚の太郎光盛ぞかし」と名のる。斎藤別当、「さる人ありとは聞きおきたり。ただし、わ殿を敵に嫌ふにはあらず、存ずるむねあれば、今は名のるまじ。寄れ。組まん。手塚」とて押しならべて組まんとするところに、手塚が郎等、中にへだたつて、むずと組む。実盛は手塚が郎等を取つて、鞍の前輪に押しつけて、刀を抜き、首をかかんとす。手塚は、郎等が鞍の前輪に押しつけらるるを見て、弓手よりむずと寄せあはせて、実盛が草摺たたみあげて、二刀刺すところを、えい声をあげて組んで落つ。実盛、心は猛けれども、老武者なり、手は負うつ、二人の敵をあひしらふとせしほどに、手塚が下になつて、つひに首を取らる。手塚は、遅ればせに馳せ来たる郎等に、斎藤別当が物具はがせ、首持たせ、木曾殿のまへに馳せ参り、申しけるは、「光盛こそ今日奇異のくせ者に組みて討ち取つて候へ。なにと『名のれ』とせめ候ひつれども、つひに名のり
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候はず。『侍か』と見れば、錦の直垂を着て候。また、『大将軍か』と思へば、つづく勢も候はず。声は坂東声にて候ひつる」と申せば、「あはれ、これは斎藤別当実盛にてやあらん。ただし、それならば、義仲ひととせ幼な目に見しかば、すでに白髪糠生なりしぞ。いまはさだめて白髪にこそあらんずるに、鬢、鬚の黒きは、あらぬ者やらん。年来の得意なれば見知りたるらんものを。樋口召せ」とて、召されたり。樋口の次郎参り、実盛が首をひと目見て、やがて涙にぞむせびける。「いかに、いかに」とたづねられければ、「あな無慚や。実盛にて候ひけり」と申す。「鬢、鬚の黒きはいかに」とのたまへば、樋口の次郎涙を押しのごひて申しけるは、「さ候へばこそ、その様を申さんとすれば、不覚の涙が先立つて、申し得ず候。弓矢取る身は、あからさまの座席とは思ふとも、思ひ出でになることを申しおくべきにて候ひけるぞや。つねは兼光に会うて物語り申せしは、『実盛、六十にあまつて軍の場に向かはんには、鬢、鬚を墨に染めて若やがんと思ふなり。そのゆゑは、若殿ばらにあらそひて先を駆けんも大人げなし。また、老武者とてあなどられんも口惜しかるべし』なんど、つねは申し候ひしが、今度を最後と存じて、まことに染めて候ひける無慚さよ。洗はせて御覧候へ」と申しもあへず、また涙にぞむせびける。「さもあらん」とて洗はせて見給へば、白髪にこそ洗ひなせ。実盛、錦の直垂を今度着たりけることは、都を出でしとき、大臣殿に参り、申しけるは、「一年、東国のいくさにまかり下り候ひて、駿河の蒲原より矢一つも射
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ずして逃げのぼりて候ひしこと、老後の恥辱ただこのことに候ふなり。今度、北国へ向かふならば、年こそ寄りて候ふとも、真先駆けて討死つかまつらんずるにて候。それにとつては、実盛、もとは越前の者にて候ふが、近年所領につきて武蔵の長井に居住せしめ候ひき。事のたとへの候ひしぞかし。『故郷へは錦を着て帰る』と申すことの候。しかるべくは、実盛に錦の直垂を御ゆるされ候へかし」と申しければ、大臣殿、「まことにさるべし」とて、錦の直垂を許されけるとぞ聞こえし。昔の朱買臣は錦の袂を会稽山にひるがへし、今の実盛はその名を北国のちまたにあぐ。
第六十五句 玄〓の沙汰
平家は、去んぬる四月北国に下りしときは、十万余騎と聞こえしが、今五月〔下旬に〕帰り上るには、わづかにその勢三万余騎。さしも花やかにいでたちて都をたちし人々の、いたづらに名をのみ残し、越路の末の塵となるこそかなしけれ。入道の末の子三河守知度も討たれ給ひぬ。忠綱、景高もかへらず、季国、長綱も討たれぬ。「『流を尽くしてすなどるときは、多くの魚ありといへども、明年には魚なし。林を焼いて狩するときは、多くの獣ありといへども、明年には獣なし』と、のちを存じて少々は残されべきものを」と申す人もおほかりけり。
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飛騨守景家は、「最愛の嫡子景高討たれぬ」と聞こえしかば、臥ししづみて嘆きけるが、しきりにいとま申すあひだ、大臣殿ゆるされけり。やがて出家して、うち臥すこと十余日ありて、つひに思ひ死にこそ死にけれ。これをはじめとして、親は子を討たせ、子は親を討たせ、妻は夫におくれて、家々には、をめきさけぶ声おびたたし。北国のいくさにうち負けて、都へ帰り上りにけり。
六月一日、蔵人の左衛門権佐定長、仰せをうけたまはつて、祭主神祇権少副大中臣の親俊を殿上のおり口へ召され、「兵革をしづめんがために、大神宮へ行幸なるべき」よし仰せ下さる。大臣宮と申すは、高天の原より天降らせ給ひて、大和の国笠縫の里にましましけるを、十一代の帝垂仁天皇二十五年丙辰三月に、伊勢の国五十鈴の川上、下津石根に大宮柱を広う敷き立てて、祝ひそめたてまつりしよりこのかた、日本六十余州、三千七百五十余社の神祇冥道のうちには無双なり。されども代々の帝の臨幸はいまだなかりけり。奈良の帝の御時、左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合の子、右近衛の少将兼大宰少弐広嗣といふ人あり。天平十五年十月に、肥前の国松浦の郡にして、十万の凶賊をかたらひて、国家をあやぶめんとす。これによつて大野の東人、広嗣が討手に向かふ。その祈りのために、帝はじめて伊勢へ行幸なるとかや。広嗣討たれてのち、その亡霊荒れて、
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おそろしき事ども多かりけり。同じき天平十八年六月に筑前の国観世音寺供養せらる。導師には玄〓僧正請ぜらる。すでに高座にのぼり、表白の鉦打ち鳴らして候ふとき、にはかに鳴神おびたたしく鳴つて、玄〓のうへに落ちかかつて、その頭を取り、雲中へぞ入りにける。おそろしなんどもおろかなり。これは玄〓僧正、広嗣を調伏したりけるによつてなり。これによつてかの霊をうやまひ、「松浦の鏡の宮」と号す。この僧正は吉備の大臣入唐のとき、法相宗をわたされし人なり。唐人、「玄〓」といふ名を難じて、「玄〓とは『還つて亡ぶ』といふ声あり。いかさまにも帰朝ののち、事にあふべき人なり」と申したりとかや。そののち、なか一年あつて、曝れたる頭に「玄〓」といふ銘を書いて、興福寺に空より落し、どつと笑ふ声ありけり。おそろしかりし事どもなり。嵯峨の天皇の御時、平城の先帝、尚侍のすすめによつて、世を乱り給ひしその御祈りには、帝第三の姫宮を賀茂の斎院に立てまゐらせ給ひけり。朱雀院の御時、将門、純友、兵乱の御祈りに、八幡の臨時の祭礼はじめらる。か様の事どもを例として、さまざまの御祈りどもはじめられけり。
第六十六句 義仲〔山門〕牒状
木曾は越前の国府に着いて合戦の評定あり。井上九郎、高梨の冠者、
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山田の次郎、仁科の次郎、長瀬の判官代、吾妻の判官代、樋口の次郎、今井の四郎、楯の六郎、根の井の小弥太以下、しかるべき者ども百人ばかり前に並みゐたりけるに向かつて、木曾のたまひけるは、「そもそも、われら都にのぼらんずるに、近江の国を経てこそのぼらんずるに、例の山法師のにくさは、また防ぐこともやあらんずらん。蹴破つて通らんことはやすけれども、平家こそ、当時は仏法をほろぼし、僧をも失へ。それを、守護のために上洛せんずる者が大衆にむかつて合戦をせんずること、すこしもちがはざる二の舞なるべし。これこそ安大事のことなれ。いかにせん」とぞのたまひける。木曾の大夫覚明すすみ出でて申しけるは、「さん候。衆徒は三千人にて候。必定、一味同心なることは候はじ。みな思ひ思ひにてこそ候はんずれ。まづ牒状を送りて御覧候へ。事の様は返牒に見え候はんずらん」。「さらば書け」とて、覚明に牒状を書かせて、山門へこそ送られけれ。
義仲つらつら平家の悪行を見るに、保元・平治よりこのかた、長く人臣の礼を失ふ。しかりといへども、貴賤手をつかね、緇素足をいただく。ほしいままに帝位を進退し、あくまで国郡を虜掠す。道理、非理を論ぜず、権門勢家を追捕し、有罪、無罪をいはず、卿相侍臣を損亡す。その資財を奪ひ取り、ことごとく郎従に与へ、彼の荘園を没取し、みだれがはしく子孫に省く。なかんづく、去んぬる治承三年十一月、法皇を城南
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の離宮にうつしたてまつり、博陸を絶域に流したてまつる。しかのみならず、同じき四年五月に、二の宮の朱閣を囲みたてまつり、九重の紅塵を驚かしむ。ここに帝子非分の害をのがれんがために、園城寺に入御の時、義仲、先日に令旨を賜はるによつて、鞭をあげんと欲するところに、怨敵巷に満ち、予参道を失ふ。近境の源氏なほ参候せず、いはんや遠境においてをや。しかるに、園城寺は分限なきによつて、南城におもむかしめ給ふのあひだ、宇治橋において合戦す。大将三位入道の父子、命を軽んじ、義を重んじ、一戦の功をはげますといへども、多勢の攻をまぬがれず、かばねを龍門原上にうづみ、名を鳳凰城にほどこす。令旨の趣肝に銘じ、同類の悲しみ魂を消す。これによつて、東国、北国の源氏等おのおの参洛をくはだて、平家を滅ぼさんと欲す。その宿意を達せんがために、去年の秋、旗をあげ、剣をとつて、信濃を出でし時、越後の国の住人城の四郎長茂、数万の軍兵を召し具し発向せしむるのあひだ、当国横田川において合戦す。義仲わづかに三千余騎をもつて、彼の二万の兵を破りをはんぬ。風聞[* 「ほうぶん」と有るのを他本により訂正]広きに及んで、平氏の大将十万の軍衆を北陸に発向す。越州、加州の砥波、黒坂、志保坂、篠原以下の城郭において数箇度の合戦、はかりごとを帷幕のうちにめぐらし、
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勝つことを咫尺のもとに得たり。しかれば、討てば必ず伏し、攻むれば必ず降す。たとへば秋の風の芭蕉を破るに異ならず、冬の霜の薫蕕を枯らすにあひ同じ。これひとへに、神明、仏陀のたすけなり。さらに義仲が武略にあらず。平氏敗北のうへは参洛をくはだたんとなり。今は叡岳の麓を過ぎ、洛陽のちまたに入るべし。この時にあたつて、ひそかに疑殆あり。天台の衆徒は平家に同心せんか。源氏に与力せんか。もし彼の悪徒を助けば、衆徒に向かつて合戦すべし。もし合戦をいたさば、叡岳の滅亡くびすをめぐらすべからず。悲しきかなや、平氏宸襟を悩まし、仏法を滅ぼすのあひだ、彼の悪行をしづめんがために義兵を起すところに、忽ちに三千の衆徒に向かつて不慮の合戦いたさんこと。いたましきかなや、医王、山王に憚りたてまつて、行程に逗留せしめば、朝廷緩怠の臣となつて、武略の瑕瑾のそしりを残さん。みだれがはしく進退に迷ひて案内を啓するところなり。乞ひ願はくは三千の衆徒おのおの思慮をめぐらし、神のため、仏のため、国のため、君のため、源氏に同心し、凶徒を誅し、洪化に浴せば、懇丹の至りに堪へず。義仲恐惶敬白。寿永二年六月 日進上恵光律師御房
とぞ書いたりける。山門には、これを披見し僉議まちまちなり。あるいは「平家に同心
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せん」と言ふ衆徒もあり、あるいは「源氏につかん」と言ふ大衆もあり。思ひ思ひの異議さまざまなり。老僧どもの申しけるは、「われらもつぱら金輪聖王、天長地久を祈りたてまつる。当代の、平家は御外戚にてまします。されば、いまに至るまで、かの繁昌を祈誓す。されども、悪行、法に過ぎ、万人これをそむけり。討手を国々へつかはすといへども、かへつて異賊のために滅ぼさる。源氏は、近年より度々合戦にうち勝つて、運命ひらけなんとす。なんぞ、宿運尽きぬる平家に同心して、運命をひらく源氏をそむかんや。平家値遇の儀をひるがへして、源氏合力の心に服すべき」のよし、一味同心に僉議して、やがて牒状を送る。そのことばに曰く、
六月十日の牒状、同じき十六日到来。披閲のところに数日の鬱念一時に解散す。およそ平家の悪行累年に及んで、朝廷の騒動止む時なし。事人口にあり、委悉するにあたはず。それ叡岳に至つて、帝都東北の仁祠として国家静謐の祈誓をいたす。しかるを一天ひさしく彼の夭〓にをかされて、四海とこしなへにその安全を得ず。顕密の法輪なきがごとし。擁護の神威しばしばすたる。貴家たまたま累代武備の家に生まれて、幸ひに当時精選の仁たり。あらかじめ規模をめぐらし、たちまちに義兵を起す。万死の命を忘れて一戦の功を樹つ。その労いまだ両年を過ぎざるに、その名
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すでに七道にほどこす。わが山の衆徒かつがつ以て承悦す。国家のため、累家のため、武功を感じ、武略を感ず。かくのごとくなるときんば、山上精祈空しからざることをよろこび、海内衛護のおこたりなきことを知らん。自寺、他寺、常住の仏法、本社、末社、祭奠の神明、さだめて〔教法の再び栄えんことをよろこび、崇敬の旧に〕復せんことを随喜し給はん。衆徒等心中、ただ賢察をたれ給へ。しかればすなはち冥に、十二神将、かたじけなくも、医王善逝の使者として、凶賊追罰の勇士にあひ加はり、顕には、三千の衆徒、しばらく修学鑽仰の勤節を止めて、悪侶治罰の官軍をたすけしむ。止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外にはらひ、瑜伽三密の法雨は時俗を旧年の昔にかへす。衆議かくのごとし。つらつらこれを察せよ。寿永二年六月 日 〔大衆等〕
とぞ書いたりける。
第六十七句 平家一門願書
平家これを知らずして、「興福寺、園城寺は、いきどほり深きをりふしなり、かたらふとも、よもなびかじ。山門は当家のために不忠を存ぜず。当家もまた山門のために怨をむすばず。山王大師に祈誓して三千の衆徒かたらひとらん」とて、一門の公卿、同心の願書を書いて山門に送る。願書に曰く、
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敬白延暦寺をもつて、帰依して氏寺と准じ、日吉の社をもつて、尊敬して氏社のごとくにす。一向天台の仏法を仰ぐべき事。右、当家一族の輩まことに祈誓あり。旨趣如何となれば、それ叡山は桓武天皇の御宇、伝教大師入唐帰朝ののち円頓の教法をこの所にひろむ。遮那の大戒をそのうちに伝へしよりこのかた、もつぱら仏法繁昌の霊窟たり。久しく鎮護国家の道場にそなはり。まさにいま、伊豆の国の流人前の兵衛佐源の頼朝、身の咎を悔いせず、かへつて朝憲を嘲り、しかるに奸謀に与し、同心いたす源氏等、行家、義仲、以下党を結んで数あり。隣境、遠境数国を抄領し、土宜、土貢、万物押領す。これによつて、かつうは累代勲功の跡を追ひ、かつうは当時弓馬の芸にまかせ、すみやかに賊徒を追罰し、凶徒を降伏すべきのよし、かたじけなくも勅命をふくみ、しきりに征罰をくはだつ。ここに魚鱗鶴翼の陣の、官軍利を得ず。星旄電戟の勢、逆類勝に乗るに似たり。もし神明仏陀の加被にあらずんば、いかでか反逆の凶乱をしづめん。ここをもつて一向天台の仏法に帰し、不退に日吉の神慮を頼むらくのみ。いかにいはんや、かたじけなくも、臣等の曩祖を思へば本願の余裔と言つつべし。いよいよ崇重すべし、いよいよ恭敬すべし。自今以後、山門に悦び
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あらば、一門の悦びとせん。社家に慎みあらば、一家の慎みとせん。善につき、悪につき、悦びとなし、憂ひとなさん。おのおの子孫に伝へて長く失堕せじ。藤氏は春日の社をもつて氏社とし、興福寺をもつて氏寺と号す。久しく法相大乗の宗に帰す。平氏は日吉の社、延暦寺をもつて、氏寺、氏社とせん。円実頓悟の教に値遇せんや。かれは昔の遺跡なり、家のために栄幸を思ふ。これは今の精祈なり、民のために追罰を請ふ。仰ぎ願はくは、山王大師、東西満山の護法の聖衆、十二大願、日光、月光、医王善逝、十二神将、無二の丹誠を照らし、唯一玄応を垂れ給へ。しかればすなはち邪謀逆心の賊、〔手〕を軍門につかね、暴逆残害の輩、首を京都につたへん。我等が苦請の仏神、あになんぞ捨てんや。当家の公卿等、異口同音に礼をなし、祈誓くだんのごとし。寿永二年七月 日
従三位行兼越前守平朝臣通盛
従三位行兼右近衛中将平朝臣資盛
正三位行右近衛中将兼伊予守平朝臣維盛
正三位行左近衛中将兼播磨守平朝臣重衡
参議正三位皇太后宮権大夫兼修理大夫加賀越中守平朝臣
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経盛
従二位行中納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣
知盛
従二位権中納言兼陸奥出羽按察使平朝臣頼盛
従一位内大臣平朝臣宗盛
敬白
とぞ書かれたる。貫首、これを憐み給ひ、やがても披露せられず。十禅師の御殿に籠めて、三日加持してのち披露せらる。はじめはありとも見えざりつる一首の歌、願書の上巻に出で来たり。
平かに花さくやども年経れば西へかたぶく月とこそなれ
「山王大師、憐みを垂れ給へ。三千の大衆、力をあはせよ」となり。されども、年ごろ、日ごろのふるまひ、神慮をそむき、人ののぞみにも違ひければ、祈れどもかなはず、かたらへどもなびかず。大衆これを見て、「まことにさこそ」とは憐みけれども、すでに源氏に同心の返牒を送るうへは、「その儀あらたむる〔に〕及ばず」。許容する大衆もなかりけり。
第六十八句 法皇鞍馬落ち
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同じき二十日、肥後守貞能、鎮西の謀叛たひらげ、菊池、原田、松浦党を先として、三千余騎をあひ具し、都へ参りけり。西国ばかりは、わづかにたひらげたれども、東国、北国の源氏いかにもしづまらず。同じき二十二日、夜半ばかりに、六波羅の辺、大地をうちかへしたるごとくに騒ぎあへり。馬に鞍おき、腹帯しめ、物の具東西に運び隠しあふ。明けてのち聞こえしは、美濃の源氏に佐渡の右衛門尉重貞といふ者あり。これは一年保元の合戦に、八郎為朝がいくさに負けて落ちゆきけるを搦めまゐらせたりし勲功に、衛門尉になりたり。八郎搦め取るとて、源氏どもに憎まれて、近年平家をへつらひけるが、夜半ばかりに馳せ参つて、「木曾すでに近江の国に乱れ入り、その勢五万余騎、東坂本にみちみちて、人をも通さず。郎等に楯の六郎親忠、木曾の大夫覚明、六千余騎天台山に攻めのぼり、総持院を城郭とす。大衆みな同心して、ただいま都に攻め入る」と申したりけるゆゑとかや。平家これを防がんがために、瀬田へは新中納言知盛、三位の中将重衡、三千余騎にて向かはれけり。宇治へは越前の三位通盛、能登守教経、三千余騎くだられけり。さるほどに、「十郎蔵人行家、一万余騎にて宇治より入る」といふ。「足利矢田の判官代、五千余騎にて、丹波の国大江山を経て京へ入る」といふ。「摂津の国、河内の源氏は、同じく力をあはせて淀川尻より攻め入るべし」とぞののじりける。平家これを聞きて、「こはいかがすべき。ただ一所にていか
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にもならん」とて、宇治・瀬田の手をもみな呼びぞ返されける。「帝都名利の地、鶏鳴いて、安き心なし。をさまれる世だにもかくのごとし。いはんや乱るる世においてをや。吉野山の奥へも入らなばや」とは思へども、諸国七道ことごとく乱れぬ。いづれの浦かおだやかなるべし。「三界無安猶如火宅」と、如来の金言、一乗の妙文なれば、なじかは少しもちがふべき。
同じき二十四日、小夜ふくるほどに、前の内大臣宗盛、建礼門院の六波羅の池殿にわたらせ給ひけるに参りて、申されけるは、「この世の中のありさまを見たてまつるに、『世はすでにかう』とこそおぼえて候へ。されば、『院をも、内をも、取りまゐらせて、西国の方へ行幸をも、御幸をもなしまゐらせて見ばや』とこそ思ひなして候へ」と申させ給へば、女院、「ともかくもただ大臣殿のはかりごとにこそ」とぞ仰せける。大臣殿も直衣の袖しぼるばかりにて、泣く泣く申されければ、女院も御衣の袂にあまる御涙、ところ狭いでぞ見えさせ給ひける。法皇は、「平家の取りまゐらせて、西国の方へ落ち行くべし」といふことを内々聞こしめしてやありけん。右馬頭資時ばかり御供にて、ひそかに御所を出でさせ給ひて、鞍馬のかたへ御幸なる。人これを知らざりけり。平家の侍に橘内左衛門季康といふ男あり。さかさかしき者にて、院にも召し使はれけるが、その夜しも法住寺殿へ御宿直して候ふが、つねに、御所の方、よにさわがしく、ささめきあひて、女房たちしのび声に泣きなんどし給へば、「こはなにごとやらん」と思ひ
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て聞くほどに、「法皇のわたらせたまはぬは、いづかたへ御幸なりたるやらん」と申しあはるる声に聞きなして、「あな、あさましや」と思ひ、いそぎ六波羅へ馳せ参りて、このよしを申せば、大臣殿「いで、ひが事にてぞあるらん」とのたまひながら、やがて法住寺殿へ馳せ参り、見給へば、げにもわたらせ給はず。二位殿丹波殿以下御所に候はせ給ふ女房たち、みなはたらき給はず。「いかにや、いかにや」と申されけれども、「われこそ御ゆくへ知りまゐらせたり」といふ女房一人もおはせず。明くれば七月二十五日なり。「御所にもわたらせ給はず」と申すほどこそありけれ、京中の騒動なのめならず。いはんや平家の人々のあわて騒がれけるありさま「家々に敵討ち入りたらんも、かぎりあれば、これには過ぎじ」とぞ見えし。日ごろは、「院をも、内をも取りまゐらせ、御幸をも、行幸をもなしたてまつらん」と計らはれたりけれども、か様に法皇の捨てさせましまししかば、たのむ木のもとに雨のたまらぬ心地をぞせられける。「さては行幸ばかりなりともなしたてまつれ」と、二十五日の卯の刻ばかりに、御輿寄せまゐらせたりければ、主上、六歳にならせ給ふ、なに心もわたらせ給はず、やがて御輿に召されけり。国母建礼門院も同じ御輿にぞ召されける。内侍所、神璽、宝剣、わたしたてまつる。そのほか「印鑰、時の札、玄上、鈴鹿までも、取り具したてまつれ」と平大納言下知せられけれども、あまりにあわてて取り落す物ども多かりけり。摂政殿も供奉せさせ給ひたりけるが、東寺の門のほとりにびんづら結うたる童子の御車のまへを馳せ過ぎて御歌あり。
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いかにせん藤のうら葉の枯れゆくをただ春の日にまかせてやみん
御車のうちを見入れたるを、御覧ずれば、左の肩に「春日」といふ文字ぞ見えさせ給ひける。「これは法相擁護の春日の権現、淡海公の御末を守らせ給ふか」と、めでたかりし事どもなり。摂政殿、「大明神の御告げなり」とおぼしめされければ、御供に候ふ進藤右衛門信高を召して、なにとか仰せられたりけん、御牛飼にきつと目を見合はせられければ、御車を遣り返したてまつる。大宮をのぼりに、北山の辺、知足院へ入らせ給ふ。これも人知りまゐらせず。平大納言時忠、内蔵頭信基、これ二人ばかりぞ衣冠にて供奉せられたる。そのほか近衛司も甲冑をよろひ、弓矢を帯して供奉す。七条を西へ、朱雀を南へ行幸なる。漢天すでにひらけて、雲東西にそびえ、あかつき月さびしくして、鶏鳴またいそがはし。「一年、都遷りとて、にはかにあわただしかりしは、かかるべかりける先表」とも、今こそ思ひあはれけれ。
薩摩守忠度は、いづくよりか引き返されたりけん、侍五騎具して、五条の三位俊成の卿の宿所にうち寄りて見給へば、門戸を閉ぢて開かず。うちを聞けば、「落人帰り上りたり」とて、おびたたしく騒動す。門をたたけども、あけぬあひだ、「これは薩摩守忠度と申す者にて候ふが、いま一度見参に入り、申すべきこと候うて、道より帰り上りて候ふなり。たとひ門をあけずとも、この際まで立ち寄らせ給へ」と
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のたまへば、三位これを聞き、「その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ」とて、門を開き、対面ある。忠度紺地の錦の直垂に、萌黄縅の鎧を着給へり。薩摩守のたまひけるは、「年来、申し承つてのち、いささかもおろかに思ひたてまつることは候はねども、この三四年は、京都のさわぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上にて候へば、この事どもにつきて、疎略を存ぜずといへども、つねに参り寄ることも候はず。されども、撰集のあるべきよし、承り候ひしかば、『生涯の面目に、一首の御恩をかうむり候はばや』と存じ候ふところに、やがて世の乱れ出で来て、その沙汰もなく候ひしことども、一身のなげきと存じ候。君すでに都を出でさせ給ひぬ。屍を山野にさらさんほかは、期するかたなく候。世しづまりなば、さだめて勅撰の沙汰候はんずらん。そのうちに一首御恩をかうむり、草のかげまでも、『うれし』と存じ候はばや。また遠き御守りともなりまゐらせべし」とて鎧の引合より巻物一つ取り出だして、俊成の卿に奉る。三位この巻物ちとひらいて見給ひて、「かかるわすれがたみを賜はりおくなれば、ゆめゆめ疎略を存ずまじく候。勅撰のことは、人は知らず、愚身が承らんにおいては、御疑ひあるべからず」とのたまへば、忠度、「今生の見参こそ、ただ今をかぎりと申すとも、来世にてはかならず一つ仏土に参りあはん」とてぞ出でられける。薩摩守、兜の緒をしめ、馬の腹帯をかため、うち乗つて、西をさして歩ませ行く。三位はるばると見送りて立たれたるところに、薩摩守
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の声とおぼしくて、前途ほど遠し、思ひを雁山の夕の雲にはつすと、たからかにうち詠じ給へば、三位これを聞いて、涙をおさへて入り給ふ。げにも、世しづまつて、勅撰あり。「千載集」これなり。その中に忠度の歌一首入れられたり。「心ざし切なりしかば、あまたも入ればや」と思はれけれども、勅勘の人なれば、名字はあらはさず、「読人知らず」とぞ入れられける。「故郷の花」といふ題にて詠まれたる歌なり。
さざ波や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな
その身すでに朝敵となりしうへは、子細に及ばずとはいひながら、口惜しかりしことどもなり。
〔第六十九句 維盛都落ち〕修理大夫経盛の子息、皇后宮亮経正は、幼少にては、仁和寺の御室の御所に候ひしかば、かくある怱劇のなかにも、御名残をきつと思ひ出だして、侍五六騎召し具して、仁和寺殿へ馳せ参り、門前にて馬よりおり、申し入れられけるは、「一門、運尽きて、今日すでに帝都をまかり出で候。うき世に思ひのこすこととては、ただ君の御名残ばかりなり。八歳のとき、参りはじめ候うて、十三にて元服つかまつり候ひしまでは、あひいたはることの候ひしよりほかは、御前をたち去ることも候はざりしに、今日よりのち、いづれの日、いづれの時、帰り参るべしとも覚えざることこそ、口惜しう候へ。いま一度、御前に参りて、君をも見まゐらせたう候へども、甲冑を
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よろひ、弓矢を帯して、あらぬさまの装ひにまかりなりて候へば、はばかり存じ候」とぞ申されける。御室あはれにおぼしめし、「ただ、その体をあらためずして参れ」とこそ仰せけれ。経正その日は、赤地の錦の直垂に、萌黄匂の鎧着て、長覆輪の太刀を帯き、切斑の矢負ひ、滋籐の弓をわきばさみ、兜を脱いで高紐にかけ、御坪の白洲にかしこまる。御室やがて御出であつて、御簾高く巻かせ、「これへ、これへ」と召されければ、大床へこそ参られたれ。御琵琶持ちて参りたり。経正これを取り次ぎ、御前にさし置き、申されけるは、「先年下しあづかりて候ふ青山、持ちて参りて候。あまりに名残は惜しう候へども、さしも我が朝の名物を、田舎の塵になさんこと口惜しう候。もし不思議に運命開いて、また都へたち帰ること候はば、その時こそ、なほ下しあづかり候はめ」と泣く泣く申しければ、御室、あはれにおぼしめし、一首の御詠歌をあそばいて、下されけり。
あかずしてわかるる君が名残をばのちのかたみにつつみてぞおく
経正御硯下されて、
呉竹のかけひの水はかはるともなほすみあかぬ宮のうちかな
さて、いとま申して出でられけるに、数輩の童形、出世者、坊官、寺僧にいたるまで、経正の袂にすがり、袖をひかへ、名残を惜しみ、涙を流さぬはなかりけり。幼少のとき、小師にましませし大納言の法印行尊と申すは、葉室
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の大納言光頼の卿の御子なり。あまりに名残を惜しみて、桂川のはたまでうち送り、さてあるべきならねば、それよりいとま乞うて泣く泣く別れ給ふに、法印かうぞ思ひつらねける。
あはれなり老木若木も山桜おくれ先だち花はのこらじ
経正返歌に、
旅衣よなよな袖をかた敷きて思へばわれは遠くゆきなん
さて、巻いて持たせられける赤旗ざつとさし上げたりければ、かしこ、ここに、控へ待ちたてまつる侍ども、「あはや」と馳せ集まり、その勢百騎ばかり、鞭をあげ、駒をはやめて、ほどなう行幸に追ひつきたてまつらせ給ひけり。経正十七の年、宇佐の勅使を承つて下られけるに、そのとき青山賜はりて、宇佐へ参り、御殿に向かひたてまつり、秘曲を弾じ給ひしかば、いつのとき聞き知りなれたることはなけれども、かたはらの宮人、おしなべて緑の袖を濡らしける。知らぬ奴までも、村雨とはまぎれで聞きけり。めでたかりしことどもなり。この「青山」と申す御琵琶は、昔仁明天皇の御宇に、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏、渡唐のとき、大唐の琵琶の博士廉承武に会うて、かの三曲を伝へて帰朝せしに、そのとき、玄上、獅子丸、青山、三面の琵琶を相伝してわたされけり。龍神や惜しみ給ひけん、波風はげしかりければ、獅子丸をば海底に沈む。いま二面の琵琶をわたして、わが
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朝の帝の御宝とす。村上の聖代、応和のころ、三五夜中の新月すさまじく、涼風颯々たりし夜半に、帝、清涼殿にて玄上をあそばされけるときに、影のごとくなるもの、御前に参りて、興に乗じ高声に唱歌めでたくつかまつる。帝、御琵琶をしばらくさし置かせ給ひて、「そもそも、なんぢはいかなる者ぞ。いづくより来たれるぞ」と御たづねあれば、「これは昔の貞敏に三曲を伝へさせ候ひし、大唐の琵琶の博士廉承武と申す者にて候ふが、三曲のうち秘曲を一曲残せる罪によつて、魔道に沈淪つかまつりて候。いま御琵琶の撥音、妙に聞こえはんべるあひだ、参入つかまつるところなり。願はくは、この曲を君に授けたてまつり、仏果菩提を証すべき」よし申して、御前に立てられたる青山を取つて、転手をひねりて、この曲を授けたてまつる。三曲のうちに、上原石上これなり。そののちは、君も臣もおそれさせ給ひて、この琵琶をあそばしはんべることもなかりけり。御室へ参らせられたりけるを、仁和寺の守覚法親王、経正の幼少のとき、御最愛の童形たるによつて、下しあづけられたりけるとかや。夏山の峰の緑の木の間より、有明の月の出でたるを、撥面に描かれたりけるゆゑにこそ「青山」とはつけられけれ。玄上にあひ劣らぬ希代の名物なり。
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第六十九句 維盛都落ち
そのなかに、小松の三位の中将維盛は、日ごろより思ひまうけたりしことなれども、さしあたつて悲しかりけり。この北の方と申すは、故中の御門新大納言成親の卿の御むすめなり。この腹に六代御前とて十歳にならせ給ふ若君まします。〔夜叉御前とて八つにならせ給ふ姫君まします。〕この人々「おくれじ」と面々に出でたち給へば、三位の中将、北の方にのたまひけるは、「日ごろ申せし様に、維盛は一門の人々につらなつて、西国へ落ち行き候ふなり。『具したてまつらん』と思へども、道にも源氏どもあひ待つなれば、平らかに通らんことも難かるべし。もし、いづくの浦にも心安く落ちつきたらんとき、いそぎ迎ひに人を奉らん。またいかならん人にもまみえ給へかし。情をかけたてまつらん人、都のうちになどかなかるべき」とのたまへば、北の方はとかくの返事もし給はず、やがてひきかづきてぞ伏し給ふ。三位の中将、鎧着て、馬引き寄せ、出でんとし給へば、北の方泣く泣く起きあがり、袖にとりつきて、「都には、父も、母もなし。捨てられまゐらせてのち、また誰にかは、まみゆべき。『いかなる人にもまみえよかし』なんどとのたまふことの恨めしさよ。日ごろは御心ざし浅からずおはせしかば、人知れずこそ、深く、たのもしく思ひしに、いつの間に変りける心ぞや。『同じ野原の露とも消え、同じ底の水屑ともならばや』なんどとこそ契りしに、今は寝覚めの睦言も、みないつはりになりにけり。せめてわが身ひとつならば、捨て
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られたてまつる身のほどを思ひ知りてもとどまりなん。幼き者どもを、誰にゆづり、いかにせよと思ひ給ふ。うらめしうも、とどめ給ふものかな」とて、かつうは慕ひ、かつうは恨みて、泣き給ふにぞ、三位の中将せんかたなうぞ思はれける。「まことに、人は十三、維盛十五と申せしより、たがひに見初め、見え初めて、今年はすでに十二年。『火の中、水の底までも、共に入り、共に沈み、限りある別れ路にも、おくれ、先立たじ』とこそ契りしかども、心憂きいくさの場におもむきければ、知らぬ旅の空にて憂き目を見せたてまつらんも心苦しかるべし。そのうへ、今度は用意も候はねば、迎へを待ち給へ」とこしらへおかんとし給へば、若君、姫君、御簾の外へ走り出でて、鎧の袖、草摺に取りつきて、「されば、こはいづくへとてわたらせ給ふぞや。われも行かん」「われも参らん」と慕ひつつ泣き給ふにぞ、三位の中将、「憂き世のきづな」とは今こそ思ひ知られけれ。さるほどに、舎弟新三位の中将、左中将、小松の少将、丹後の侍従、備中守、兄弟五人門の内へうち入り、「行幸ははるかに延びさせ給ひて候ふものを、いかにや、今まで」と面々に申しあはれ、すすめられければ、すでに馬にうち乗り、出で給ひけるが、また大床のきはにうち寄せ、弓の筈にて御簾をざつとかき上げて、「これ御覧ぜよ。幼き者どもがあまりに慕ひ申し候ふを、今朝より、とかうこしらへおかんとつかまつるほどに、存じのほかに遅参つかまつりぬ」と、のたまひもあへず泣き給へば、五人の人々も、みな鎧の袖をぞ濡らされける。斎藤五、斎藤六とて兄弟あり。兄は
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十九、弟は十七になる侍あり。これは、去んぬる五月、篠原にて討たれし、長井の斎藤別当実盛が子どもなり。是等(これら)は三位の中将の馬のみづつきに取りつきて、「いづくまでも御供つかまつるべき」よしを申す。三位の中将、是等(これら)にいたく慕はれて、のたまひけるは、「多くの者どものなかに、なんぢらをとどむるは、思ふ様がありてとどむるぞ。『末までも六代が頼りとは、なんぢらこそなるべき者よ』とてとどむるなり。とどまりたらんは、具したらんよりも、われはなほうれしく思はんずるぞ」なんど、こまごまとのたまへば、力およばず涙をおさへてとどまらんとす。北の方、「日ごろは、これほどに情なかるべき人とは思はざりしが」とて、伏しまろびてぞ泣き給ふ。若君も大床にころび出で、声をはかりにをめき叫び給ふ。その声、門の外まで聞こえければ、三位の中将、馬をもすすめやり給はず、ひかへ、ひかへぞ泣かれける。まことに人は「今日別れては、いづれの日、いづれの時は、かならずめぐりあふべき」と契るだにも、その期を待つは久しきに、これは今日を限りの別れなれば、その期を知らぬこそ悲しけれ。この声声の耳の底にとどまつて、西海の旅の空までも、吹く風の声、立つ波の声についても、ただ今聞く様にこそ思はれけれ。
第七十句 平家一門都落ち
平家都を落ちゆくに、六波羅、池殿、小松殿、西八条に火をかけたれば、黒煙
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天に満ちて、日の光も見えざりけり。あるいは聖主臨幸の地なり、鳳闕空しくいしずゑをのこし、鑾輿ただあとをとどむ。〔あるいは〕后妃遊宴のみぎりなり、椒房の嵐の音かなしむ、掖庭の露の色うれふ。藻〓黼帳の基なり、弋林釣渚の館、塊棘の座、〓鸞のすまひ、多日の経営を辞して、片時の灰燼となれり。いはんや郎従の蓬〓においてをや。いはんや雑人の屋舎においてをや。余炎のおよぶところ、在々所々数十町なり。「強呉たちまちに滅びて、姑蘇台の露荊棘に移れり。暴秦衰ひて虎狼なし、咸陽宮の煙、睥睨を隠しけんも、かくや」とおぼえてあはれなる。日ごろは函谷、二〓のけはしきをかたうせしかども、北狄のためにこれを破られ、洪河、〓渭の深きをたのみしかども、東夷のためにこれを渡らる。あにはからんや、たちまちに礼儀の都を攻め出だされ、泣く泣く無知のさかひに身をよせ、昨日は雲上に雨を降らす飛龍たりといへども、今日は轍中に水を失ふ〓魚のごとし。昔は保元の春の花と栄え、今は寿永の秋の紅葉と落ちはてぬ。
池の大納言頼盛は、池殿に火をかけ、落ちられけるが、なにとか思はれけん、手勢三百余騎引きあうて、赤旗みな切り捨て、鳥羽の北の門より都へ引きぞ返されける。越中の前司盛俊これを見て、大臣殿に申しけるは、「池殿のとどまら
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せ給ふに、侍どもあまたつきたてまつてとどまり候。大納言殿まではおそれに候。侍どもに矢一つ射かけ候はばや」と申せば、大臣殿、「そのこと、さなくともありなん。年来の重恩を忘れて、このありさまを見果てぬ奴ばら、とかう言ふに及ばず」とぞのたまひける。「さて三位の中将はいかに」と、問ひ給へば、「小松殿の君達はいまだ一所も見えさせ給はず」と申す。「さこそあらめ」とて、いよいよ心細げに思はれけり。新中納言のたまひけるは、「都を出でていまだ一日だにも経ぬに、はや人の心も変りはてぬ。まして、行く末こそおしはからるれ」。「ただ都のうちにていかにもなるべかりつるものを」とて、大臣殿の方を見やりて、よにもうらめしげに思はれたり。まことに、ことわりとおぼえてあはれなり。池の大納言は、八条の女院の仁和寺の常盤殿にわたらせ給ひけるにぞ、参り籠らせ給ひける。およそ、兵衛佐、「大納言殿をば、故池の尼御前のわたらせ給ふとこそ思ひまゐらせ候へ。頼朝においては、意趣思ひたてまつらず。八幡大菩薩も御照覧候へ」と度々誓言をもつて申されけり。討手の使のぼるにも、「あひかまへて池殿の侍どもに弓を引きなんどすな」とのたまひけり。か様のことどもを頼みて、とどまり給ひけるとかや。なまじひに一門には離れぬ、波にも磯にも着かぬ心地ぞせられける。畠山庄司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝綱、これ三人は去んぬる治承三年より、召し籠められてありしを、大臣殿ばかり「是等(これら)が首を刎ねらるべし」とのたまひけるを、平大納言と、新中納言
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と申されけるは、「是等(これら)百人千人を切らせ給ひて候ふとも、御運尽きさせ給はんのちは世を取らせ給はんことかたかるべし。国に候ふなるかれらが妻子ども、さこそ嘆き候ふらめ。『今や、今や』と待ち候ふらんところに、『斬られたり』と聞こえしかば、いかばかり嘆き候はんずらん。是等(これら)をば東国へ返しつかはさるべしとおぼえ候」とひらに申されければ、大臣殿「げにも」とて、是等(これら)三人を召し寄せてのたまひけるは、「いとまを賜ぶ。急ぎ下れ」とのたまへば、三人の者ども、かしこまつて申しけるは、「いづくまでも、行幸の御供つかまつるべき」よしを申す。大臣殿、「なんぢらが色代はさることなれども、魂はみな東国にこそあらんに、ぬけがらばかり西国へ召し具すべき様なし。とくとく下るべし」と、仰せ再三におよびければ、力およばず、涙をおさへて下らんとす。是等(これら)も、さすが二十余年の主なれば、別れの涙おさへがたし。小松殿の君達たちは、兄弟その勢六七百騎ばかりにて、淀の辺にて行幸に追つつきたてまつり給ひけり。大臣殿、この人々を見つけ給ひて、ちと力つき、よにもうれしげにて、「いかにや、今まで」とのたまへば、三位の中将、「さ候へばこそ、幼き者どもが今朝よりあまりに慕ひ候ひつるを、とかうこしらへおかんとつかまつり候ひつるほどに、遅参つかまつりぬ」と申されければ、大臣殿、「などや具したてまつり給はぬぞ、いかに心苦しくおはすらん」とのたまへば、三位の中将、「行く末とても頼もしうも候はず」とて、問ふにつらさの涙を流されけるぞ、あはれなり。
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落ちゆく平家は誰々ぞ。前の内大臣宗盛、平大納言時忠、平中納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、右衛門督清宗、本三位の中将重衡、小松の三位の中将維盛、越前三位通盛、新三位の中将資盛。殿上人には内蔵頭信基、讃岐の中将時実、左中将清経、左馬頭行盛、小松の少将有盛、丹後の侍従忠房、皇后宮亮経正、薩摩守忠度、能登守教経、武蔵守知章、備中守師盛、淡路守清房、若狭守経俊、尾張守清定、蔵人大夫業盛、大夫敦盛。僧には法勝寺の執行能円、二位の僧都全真、中納言の律師忠快、経受坊の阿闍梨祐円。侍には、受領、検非違使、衛府、諸司、むねとの者ども百六十余人。都合その勢七千余騎。これは、東国、北国、この三四年所々の合戦に討ち漏らされて、残るところなり。山崎の関戸の院に玉の御輿をかきすゑて、男山を伏し拝み、平大納言時忠、「南無帰命頂礼、正八幡大菩薩、しかるべくんば君をはじめまゐらせて、われらをいま一度都へ返し入れさせ給へ」と泣く泣く申されけるこそ悲しけれ。肥後守貞能は、「川尻に源氏どもがむかうたり」と聞いて、「蹴散らさん」とて、五百余騎発向したりけるが、ひが事なれば帰り上るほどに、道にて行幸に参りあひたてまつり、大臣殿の御前にて、馬よりおり、弓わきばさみ、
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かしこまつて申しけるは、「これは、いづくへとて御わたり候ふやらん。西国へ落ちさせ給ひたらば、助からせおはすべきか。落人とて、かしこ、ここにて討ちとめられさせ給はんことこそ、口惜しくおぼえ候へ。ただ都にてともかくもならせ給はで」と申せば、大臣殿、「貞能はいまだ知らぬか。『源氏すでに天台山に攻め登つて、総持院を城郭とし、山法師みな与力して、今都に入る』といふに、せめて、おのおの身ばかりならばいかにもせん。女院、二位殿に憂き目を見せたてまつらんも、心苦しければ、『ひとまどもや』と思ふぞかし」とのたまへば、肥後守、「さらば、貞能、いとま賜び候へ」とて、手勢三百余騎、引き分かつて、都へ帰り入り、西八条の焼けあとに大きくひかせ、一夜宿したりけれども、返し入り給ふ平家一人もましまさざりければ、さすが心細くや思ひけん。「源氏の馬のひづめにかけじ」とて、小松殿の墓掘りおこし、あたりの土賀茂川に流させ、骨をば高野へ送り、「世の中たのもしからず」と思ひければ、思ひきりて、勢をば小松の三位の中将殿の御方へ奉り、われは乗替一騎具して、宇都宮左衛門朝綱にうち連れて、平家と後あはせに東国へこそ落ち行きけれ。
平家は小松の三位中将維盛のほかは、大臣殿以下みな妻子を具し、そのほか、行くも、止まるも、たがひに袖をしぼりけり。夜がれをだにも嘆きしに、後会その期を知らず、妻子を捨ててぞ落ち行きける。相伝譜代のよしみ、年ごろの重恩、いかでか忘るべきなれば、若きも、老いたるも、ただうしろをのみかへり見て、さらに先へはすすま
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ざりけり。おのおのうしろをかへり見て、都の方はかすめる空の心地して、煙のみ心細くぞ立ちのぼる。そのなかに修理大夫経盛、都をかへり見給ひて、泣く泣くかうぞのたまひける。
ふるさとを焼け野の原とかへり見て末もけぶりの波路をぞゆく
薩摩守忠度、
はかなしや主は雲井にわかるればあとはけぶりと立ちのぼるかな
まことに、故郷をば一片の煙塵にへだて、前途万里の雲路におもむき給ひけん、人々の心のうちこそ悲しけれ。ならはぬ磯辺の波枕、八重の潮路に日を暮らし、入江こぎゆく櫂のしづく、落つる涙にあらそひて、袂もさらに乾しあへず。駒に鞭うつ人もあり、あるいは船に棹さす者もあり、思ひ思ひ、心々に落ちぞ行く。福原の旧都に着いて、大臣殿、しかるべき侍ども三百余人召し集めてのたまひけるは、「積善の余慶、家に尽き、積悪の余殃、身に及ぶ。かるがゆゑに、宿報尽きて、神明にも放たれたてまつり、君にも捨てられまゐらせて、波の上に浮かぶ落人となれり。すでに旅泊に漂ふうへは、行く末とても楽しみあるべうもなけれども、一樹のかげに宿るも前世の契り浅からず。一河の流れを汲むも他生の縁なほ深し。いはんや、なんぢらは一旦したがひつく門客にあらず。累祖相伝の家人なり。あるいは追臣のよしみ他に異なることもあり、
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あるいは重代の芳恩これ深きもあり。家門繁昌のいにしへは、恩波によつて私を顧み、たのしみ尽き、かなしみ来る。なんぞ思慮をめぐらし、重恩をむくひんや。十善帝王、かたじけなくも、三種の神器を帯しわたらせ給へば、いかならん野の末、山の奥までも、行幸の御供つかまつらんとは思はずや」とのたまへば、老少涙をながし、「あやしの鳥、獣も、恩を報じ徳をむくふ心みな候ふとこそ承れ。中にも、弓箭、馬上にたづさはる習ひ、二心あるをもつて恥とす。この二十余年があひだ、妻子をはごくみ、所従をたくはゆること、しかしながら君の御恩にあらずといふことなし。しかれば、すなはち、日本の外、鬼界、高麗、天竺、震旦までも、行幸の御供つかまつるべき」よし一味同音に申しければ、人々すこし色をなほし、たのもしくこそ思はれけれ。平家、福原の旧里に一夜をぞ明かされける。をりふし秋の月は下の弓張なり。深更の空夜静かにして、旅寝の床の草枕、涙も露もあらそひて、ただもののみぞ悲しき。いつ帰るべきともおぼえねば、故入道相国の造りおき給ひし、春は花見の岡の御所、秋は月見の浜の御所、雪の御所、萱の御所とて見られけり。馬場殿、二階の桟敷殿、人々の家々、五条の大納言邦綱の卿の造りまゐらせられし里内裏、いつしか三年に荒れはてて、旧苔道をふさぎ、秋草門を閉ぢ、瓦に松生ひ、蔦しげり、台かたぶいて苔むせり。松風のみや通ふらん。簾
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絶えて、閨あらはなり。月かげばかりやさし入りけん。明くれば、主上をはじめまゐらせて、人々御船に召されけり。都を立ちしばかりはなけれども、これも名残は惜しかりけり。海士のたく藻の夕煙、尾上の鹿のあかつきの声、渚々に寄る波の音、袖に宿借る月の影、千草にすだくきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるること、一つとして、あはれをもよほし、心をいたましめずといふことなし。昨日は東山の関のふもとに轡を並べ、今日は西海の波の上に纜をとく。雲海沈々として青天まさに暮れなんとす。孤島に霧へだたつて、月海上に浮かぶ。極浦の波を分けて、潮に引かれて行く船は、なか空の雲にさかのぼる。修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正、行幸に供奉すとて、泣く泣くかうぞのたまひける。
行幸する末も都とおもへどもなほなぐさまぬ波のうへかな
平家は、日数を経れば、山川ほどを隔てて、雲井のよそにぞなりにける。「はるばる来ぬる」と思ふにも、ただ尽きせぬものは涙なり。波の上に白き鳥の群れゐるを見ては、「かの在原のなにがしが、隅田川にて言問ひし、名もむつまじき都鳥かな」とあはれなり。寿永二年七月二十五日、平家都を落ちはてぬ。