平家物語 百二十句本(京都本)巻第十
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平家巻第十 目 録
第九十一句 平家一門首渡さるる事
卿相の首大路を渡すや否やの事
斎藤五・斎藤六首ども見奉る事
三位の中将の文
第九十二句 屋島院宣
重衡小路を渡す事
三種の神器所望の事
院宣
平家院宣の御返事
第九十三句 重衡受戒
重衡出家許されざる事
硯松蔭法然上人に奉らるる事
重衡大内女房玉づさ
重衡と女房と参会の事
第九十四句 重衡東下り
池田の宿熊野あるじ歌
頼朝と重衡と対面
千手の前湯殿へ参る事
千手・重衡遊宴の事
第九十五句 横笛
維盛屋島出でらるる事
滝口発心
横笛死去
滝口高野の籠居
第九十六句 高野の巻
維盛高野参詣
滝口入道対談の事
延喜の帝御衣を高野に送らるる事
大師帝の御返事
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第九十七句 維盛出家
重景石童丸出家
維盛武里に遺言の事
維盛湯浅に行逢はるる事
大臣殿熊野参詣
第九十八句 維盛入水
維盛熊野参詣
那智籠りの僧維盛見知り奉る事
維盛卒都婆の銘
与三兵衛・石童丸入水
第九十九句 池の大納言関東下り
弥平兵衛宗清述懐
頼朝と池殿と参会
武里都へ上る事
新帝即位
第 百 句 藤戸
源氏室山の陣
平家児島の陣
佐々木の三郎先陣の事
都に大嘗会行はるる事
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平家巻第十
第九十一句 平家一門首渡さるる事
寿永三年二月十二日、去んぬる七日、一の谷にて討たれたる平家の首ども、京へ入る。平家に縁をむすぼふれたる人々、「わが方さまに何事をか聞かんずらん。いかなる目をか見んずらん」とて、嘆く人々おほかりけり。その中に大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、「西国へ討手の向かふ」と聞くたびに、「今度のいくさに中将のいかなる目にかあひ給はんずらん」としづ心なく思はれけるところに、「平家は、一の谷にて残りずくなく滅び、三位の中将といふ公卿一人生捕られて、のぼり給へる」と聞きしかば、北の方、「この人に離れじものを」とぞ泣かれける。ある女房の来つて申しけるは、「三位の中将と申すは、本三位の中将の御ことにてわたらせ給ふ」と申しければ、「さては首どもの中にぞあらん」とて、なほ心やすくも思ひ給はず。同じく十三日、大夫判官仲頼[* 「なりより」と有るのを他本により訂正]以下の検非違使等、「平家の首ども受け取りて、大路をわたし、獄門に懸けべき」よし、奏しければ、法皇おぼしめしわづらはせ給ひて、太政大臣、〔左右大臣、〕内大臣、堀河の大納言忠親、以上公卿五人に仰せあはせらる。大納言申されけるは、「この人々は、先帝の御時、戚里の臣としてひさしく君に仕へる。なかにも卿相の首、大路をわたさるること先例なし。範頼、義経らが申状、あながちに御許容あるべから
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ず」と申されければ、さてはわたされまじきにてありけるを、「父義朝が首、大路をわたし、獄門に懸けられ候ひぬ。父の恥をきよめんがため、君の御いきどほりをやすめたてまつらんと存じ候ひしかば、忠を重んじ、命を軽んず。申し請ふところ、御ゆるされ候はずは、自今以後、何のいさみありてか朝敵を滅ぼすべく候ふぞや」と、義経ことにいきどほり申されければ、「さらば」とてつひにわたされ、獄門にぞ懸けられける。見る人、河原に市をなす。大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の若君六代御前につきたてまつりける斎藤五、斎藤六、無官なりけるうへ、いたう人にも見知られじ。この一二年は隠れゐたりけれども、あまりにおぼつかなさに、様をやつして見ければ、三位の中将殿の御首は見え給はねども、みな見知りたる首どもにてあるあひだ、目もあてられずおぼえて、涙もさらにせきあへず、よその人目もあやしげなり。そらおそろしくおぼえて、いそぎ大覚寺へたち帰る。北の方、まづ「いかにや」と問ひ給へば、「小松殿の公達の御なかには、備中守の御首ばかりこそわたされさせ給ひつれ。そのほか、その首、その首」と申せば、「いづれとても人のうへならず」とてぞ泣かれける。斎藤五、斎藤六かさねて申しけるは、「今日よく案内知りたりける者の候
ひしが申しつるは、『小松殿の公達は、播磨と丹波とのさかひなる三草をかためさせ給ひて候ひけるが、源氏どもに破られて、播磨の高砂より御船に召され、讃岐の屋島へ渡らせ給ひて候』と申す。『さて三位の中将殿はいかに』と問ひしかば、『その日のいくさ以前に、大事の御いたはりとて、
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屋島に渡らせ給ふあひだ、今度の御ことはいくさにはあひ給はず』とこそ申し候ひつれ」と申せば、北の方、「いとほしや、それもただ思ひ嘆きのつもりて、病となり給ひたるにこそ。いかなる御いたはりやらん。あな、おぼつかなや」とのたまへば、若君も、姫君も、「『何の御いたはりぞ』とは、問はざりしか」とぞのたまひける。斎藤五、「身ばかりだにもしのびかねて候ふものが、『何の御いたはりぞ』なんどまでは、問ひ候はんずる」と申せば、北の方「げにも」とてぞ泣かれける。三位の中将もかよふ心なれば、「都にさこそわれをおぼつかなう思ふらめ。首どもの中には見えざれども、『水の底にや沈みつらん』とて嘆きなんどもすらん。『いまだこの世にながらへたり』と知らせばや」とは思へども、「しのびたる住みかを人に見えんもさすがなれば」とて泣く泣く明かし給ひけり。夜にもなれば、与三兵衛重景、石童丸なんどいふ者どもそばに召し、「都にはただ今、わが事をこそ思ひ出でつらめ。いとけなき者どもは忘るるとも、人はよも忘るるひまあらじ。とかくただ一人いつとなく明かし暮らすは、なぐさむかたもなけれども、越前の三位のうへを見れば、かしこくこそ幼き者どもをとどめおきけるぞ」とて、泣く泣くよろこび給ひけり。北の方、商人の便りに文なんどのおのづから通ふにも、「なにとて今まで迎へとらせ給はぬぞや。とくして迎へ給へ。幼き者ども、なのめならず恋しがりたてまつる。われも尽きせぬ物思ひにながらへつべくもなし」と、こまごまと書きつけられたりければ、三位中将、この返事見給ひて、いまさらまた何事も思ひ入り給ひ、伏ししづみてぞ嘆かれける。
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大臣殿も二位殿も、これを聞き給ひて、「さらば、北の方、幼き人をも迎へとらせ給ひて、一所にていかにもなり給へ」とのたまへども、「わが身こそあらめ、人のためにはいかが」とて、泣く泣く月日を送り給ふにぞ、せめての心ざしの深きほどもあらはれける。さりてもあるべきならねば、近う召し使はれける侍一人したてて、都にのぼせ給ふに、三つの文をぞ書かれける。北の方への御文には、「一日片時の絶え間をだにも、わりなくこそ思ひしに、むなしき日数もへだたりぬ。都には敵満ち満ちて、わが身ひとつの置きどころだにもなき、いとけなき者ども引き具して、さこそ心苦しくおはすらん。『とくして迎へとりたてまつり、一所にていかにもならばや』なんどは思へども、御ために心苦しく候へば」なんど、こまごまと書きて、奥に一首の歌をぞ書かれける。
いづくともしらぬあふせのもしほ草かきおくあとを形見とも見よ W
いとけなき人の御文には、「つれづれをばいかにしてなぐさむらん。とくして迎へとらんぞ。さこそあらめ」なんど書いて、奥には「六代殿へ、維盛」「夜叉御前へ、維盛」と書いて日付けせられけり。「これは、われいかにもなりてのち、形見にも見よかし」とてぞ、中将書かれける。御使都へのぼりて、この文どもを奉る。北の方は見給ひて、思ひ入りてぞ嘆かれける。御使「急ぎくだるべき」よし申せば、「さるにても御返事あらんずるぞ」とて、泣く泣く起きあがり、こまごまと返事あそばされてぞ賜はりける。若君、姫君、筆を染めて、「さて、御返事はいかに書くべきやらん」と申し給へば、御前、「ただ、
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ともかくも、わ御前たちの思はんずる様に書け」とぞのたまひける。「何とて今までは迎へとらせ給はぬぞや。とくして迎へとらせ給へ。あな、御恋しや。御恋しや」と、言葉も変り給はず、二人ともに同じ言葉に書かれたり。御使屋島へくだり、この返事参らせたりければ、三位の中将、北の方の御文よりも、若君、姫君の「恋し。恋し」と書かれたるを見給ひてぞ、今ひときは、せんかたなうは思はれける。三位の中将、今は、いぶせかりつる故里のことも伝へ聞き給へども、妻子はもとより心をなやますものなれば、恋慕の思ひいやましなり。「今は穢土を厭ふにいとまあり。閻浮愛執のきづな強ければ、浄土を願ふに物憂し。今生にては妻子に心をくだき、当来にては修羅に落ちんこと、心憂かるべし。されば維盛都へのぼり、妻子を見てのち、妄念を離れて自害せんにはしかじ」とぞさだめ給ひける。
第九十二句 屋島院宣
同じく十四日、本三位の中将重衡、六条を東へわたされ給ふ。「入道にも、二位殿にも、おぼえの子にておはしければ、一門の人々にも、もてなされ、院内へ参り給へば、当家も、他家も、所をおきてうやまひしぞかし。これは、ただ奈良を滅ぼし給へる伽藍の罰にてこそ」とぞ人申しける。六条を東の河原までわたされてのち、故中の御門中納言家成の卿の造られたる堀川の御堂へ入れたてまつる。土肥の次郎実平
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は、木蘭地の直垂に、緋縅の鎧着て、三位の中将同車したてまつる。兵ども六十余人具して守護しけり。院より御使あり。蔵人の右衛門権佐定長、赤衣に剣、笏を帯して向かふ。三位中将は紺村濃の直垂に、折烏帽子ひきたてられたり。昔は何とも思はざりし定長を、今は冥途にて冥官に向かへる心にて、おそろしげにぞ思はれける。定長申しける、「勅諚には、所詮、『三種の神器をだにも都へ入れたてまつらせ給はば、西国へつかはさるべき』と候。このおもむき申させ給へ」と申しければ、三位の中将、「今は、かかる身となりて候へば、一門面を合はすべしともおぼえず候。女性にて候へば、二位の尼なんどや、『いま一度見ん』とも思はんずらん。そのほかあはれをかくべき者、あるべしともおぼえず候。さはありながら、院宣だに下されば、申してこそ見候はめ」とのたまへば、定長この様を奏聞す。法皇、やがて院宣をぞ下されける。その院宣にいはく、
一人先帝、金闕、鳳暦の台を出でて、諸州に幸す。しかるあひだ三種の神器、南海にうづもれて数年を経。もつとも朝家の御嘆き、亡国の基なり。なかんづくかの重衡の卿は東大寺焼失の逆臣たるによつて、すべからく頼朝の朝臣の申し請くる旨にまかせて、死罪に行はるべきといへども、ひとり親族を離れて、生捕となる。籠鳥雲を恋ひて、思ひをはるかに千里の南海にうかぶ。帰雁友を失つて、心さだめて旧都の中途にかよは
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んや。しかるときんば、三種の神器ことゆゑなく都に返し入れたてまつらば、かの卿においては、〔すみやかに〕寛宥せらるべきものなり。院宣かくのごとし。よつて執達件のごとし。
寿永三年二月十四日 大膳大夫業忠奉。
とぞ書かれたる。院宣の御使には、御坪の召次花方を下されけり。三位の中将の使には、いにしへ召し使ひし平左衛門尉重国をつかはされけり。大臣殿、平大納言殿へ勅諚のおもむき、条々申し下さる。母の二位殿にもこまかなる御文どもにて、「いま一度御覧ぜんとおぼしめされ候はば、内侍所の御こと、よくよく申させ給へ」とぞ書かれたる。北の方大納言の典侍殿へも、「御文奉らばや」と思はれけれども、わたくしの文をばゆるされねば、「ことばにて、『いくさは常のことなれども、去んぬる七日をかぎりとも知らずして、別れたてまつりしこと、心憂くこそおぼえ候へ。『夫婦は二世の契り』とやらん申せば、後生にてかならず生まれ合ひたてまつらん』と申すべし」とぞのたまひける。御使、屋島へ下り、この院宣を奉る。二位殿は本三位の中将の文を見給ひて、この文おし巻き、大臣殿の御前に倒れ伏し、のたまひけるは、「何の様かあるべき。はや内侍所返し入れたてまつり、中将助けて見せ給へ。世にあらんと思ふも、子どものためなり。われを助けんと思ひ給はば、中将をいま一度見せ給へ」とぞ泣かれける。また人々の申しけるは、「帝王の御位をたもた
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せ給ふと申すは、ひとへに内侍所の御ゆゑなり。これを都へ返し入れたてまつらば、君は何の御たのみにて世にもわたり給ふべき。いかでか君を捨てまゐらせて、多くの一門をば滅ぼさんとはおぼしめし候ふやらん」と、面々にうらみ申されければ、二位殿も、力および給はず。平大納言時忠、院宣の御使花方を召し寄せて、「なんぢは花方か」。「さん候」。「なんぢ、おほくの波路をしのぎて、これまで御使したる一期があひだの思ひ出ひとつさせん」とて、花方が顔に、「波方」といふ焼きじるしをぞ差されける。帰り参りたりければ、法皇これを叡覧あつて、「よしよし。さらば『波方』とも召せかし」とぞ仰せられける。さるほどに平家の人々、院宣の御返事をぞ申さる。
今月十四日の院宣、同じき二十八日、讃岐の国屋島の磯に到来す。謹んで承るところ、件のごとし。ただしこれにつき、かれを案ずるに、通盛の卿以下、当家数輩、摂州一の谷において、討たれをはんぬ。なんぞ重衡一人が寛宥をよろこぶべきや。それわが君は高倉の院の御ゆづりを受けしめ給ひて、御在位すでに四か年、まつりごと、尭、舜の古法をとぶらふところに、東夷、北狄、党をむすび、群をなし、入洛するあひだ、かつうは幼帝、母后の御嘆きもつとも深く、かつうは外戚、近臣の憤り浅からず。しばらく九国に行幸す。還幸なきにおいては三種の神器いかでか玉体を離ちたてまつるべきや。それ、臣は君をもつて心とし、君は臣をもつて体とす。君やすければ臣
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やすし。臣やすければ国やすし。君、上に憂へあれば、臣下に楽しまず。心中に憂へあれば、体外によろこびなし。曩祖平将軍貞盛、相馬の小次郎将門を追討せしよりこのかた、東八か国を討ちしたがへ、代々世々に朝家の聖運をまぼりたてまつる。しかのみならず、故太政入道、保元、平治両度の合戦に、勅命をおもんじ、私命をかろんず。そもそも、かの頼朝は、去んぬる平治元年十二月、父義朝が謀叛によつて死罪におこなふべきといへども、故大相国、慈悲のあまりに申し許さるるところなり。しかるに昔の高恩を忘れ、芳恩を存ぜず、たちまちに蛍類の身をもつて、蜂起の乱をなす。至愚のはなはだしきこと、述ぶるになほあまりあり。はやく神明の天罰をまねき、ひそかに廃跡の損滅を期するものか。それ、日月は一物のために明らかなることを晦うせず。〔明王、〕一人のためにその法を枉げず。一悪[* 「一らく」と有るのを他本により訂正]をもつてその善をすてず、小瑕をもつてその功をおほふことなかれ。しかるときんば、当家代々の奉公、亡父数度の忠節、おぼしめし忘れずんば、君かたじけなくも西国の御幸あるべきや。時に臣等、君をはじめたてまつり、ふたたび旧都に帰り、会稽の恥をきよめん。もし、しからずんば、新羅、百済、鬼界、高麗、契丹、天竺、震旦に至るべし。悲しきかな、人王八十一代におよんで、わが朝神代の霊宝を異国の宝となさんや。
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とぞ申されける。三位の中将これを聞き給ひて、「さこそあらんずれ。いかに一門の人々、重衡をにくう思はれけん」と後悔し給へどもかひぞなき。
第九十三句 重衡受戒
三位の中将、土肥の次郎を召して、「出家の心ざしあるをば、いかがすべき」とのたまへば、土肥の次郎この様を御曹司に申す。御曹司、院へ奏聞せられけり。「あるべうもなし。頼朝に見せてのちこそ法師にもなさめ」とて、御ゆるされもなかりければ、力および給はず。「わが在世のとき見参したる聖に、後生のことを申し合はせんと思ふはいかに」とのたまへば、土肥の次郎、「御聖はたれにて候ふやらん」。「黒谷の法然房」とぞのたまひける。「さらば」とて、法然上人を請じたてまつる。三位の中将出で向かひたてまつり、申されけるは、「さても、南都を滅ぼし候ふこと、世にはみな『重衡一人が所行』と申し候ふなれば、上人もさこそおぼしめされ候ふらん。まつたく重衡が下知たることなし。悪党おほく籠り候ひしかば、いかなる者のしわざにてか候ひけん、放火の時節、風はげしく吹いて、おほくの伽藍を滅ぼしたてまつる。『すゑの露、もとの雫となることにて候ふなれば、重衡一人が罪にて、無間の底にしづみ、出離の期あらじ』とこそ存知候ひつるに、みな人の『生身の如来』とあふぎたてまつる上人に、ふたたび見参に入り候へば、『今は無始の罪障も、ことごとく消滅し候ひぬ』とこそ存じ候へ。出家
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はゆるさねば、力およばず。髻つきながら授戒させ給ふべうや候ふらん」と申されければ、上人泣く泣く、いただきばかり剃り、戒をぞさづけ給ひける。その夜は上人とどまりましまして、夜もすがら、浄土の荘厳を観ずべき、さまざま法文どもをぞのたまひける。三位の中将、「心よかりける善知識かな」とよろこうで、年ごろつねにおはしまして遊び給ひし侍のもとに預けおかれたる御硯のありけるを、召し寄せて、「これは、故入道相国の、宋朝より渡して、秘蔵して候ひしを、重衡に賜びてげり。名をば『松蔭』と申して、名誉の硯にて候。これを御目のかよはんところに置かせ給ひて、御覧ぜんたびに、『重衡がゆかり』とおぼしめし出だして、後世とぶらひてたび給へ」とて、奉り給へば、上人これを受け取りて、ふところに入れ、涙をおさへ出で給ふ。この硯は、親父入道相国、砂金をおほく宋朝の帝へ奉り給ひたりければ、返報とおぼしくて、「日本和田の平大相国のもとへ」とて、贈られ給ひたりけるとかや。八条の女院に木工右馬允政時といふ侍あり。ある暮れがた、土肥の次郎がもとへ行きて申しけるは、「中将殿の、もと召し使はれ候ひし、木工の右馬允と申す者にて候ふが、八条の女院に兼任の身にて候ふなり。西国へも中将殿の御供つかまつるべう候ひつれども、弓のもとすゑをも知り候はねば、『ただ、なんぢはとまれ』と仰せられ、西国へは御供つかまつらず候。なじかは苦しかるべき。御ゆるされ候へかし。夕さり参りて、何となきことども申してなぐさめまゐらせん」と
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申せば、土肥の次郎、「刀をだにも帯し給はずは、苦しかるまじ」と申すあひだ、太刀、刀を預けてげり。政時参りたりければ、三位の中将これを見給ひて、「いかに政時か」。「さん候」とて、その夜は泊まり、夜もすがら、昔、今のことども語りつづけて、なぐさめたてまつる。夜もすでに明けければ、政時いとま申して帰らんとす。三位の中将、「さてもや、なんぢして物言ひし女房の行くへはいかに」と問ひ給へば、「いまだ御わたり候ふが、当時、内裏にわたらせ給ふとこそ承り候へ」と申せば、「さればこそ。かかる身になり、されども、そのことがつねは忘られぬをば、いかがすべき」とのたまへば、政時、「やすき御ことに候。御文賜はつて、参り候はん」と申せば、三位の中将、やがて文を書いてぞ賜はりける。守護の武士ども、「いかなる御文にて候ふやらん。出だしまゐらせじ」と申す。中将、「見せよ」とのたまへば、見せてげり。「苦しう候ふまじ」とて取らせけり。政時、内裏へ参りたりけれども、昼は人目もしげければ、その辺ちかき小屋にたち入りて日を待ち暮らし、たそがれ時にまぎれ入りて、局の下り口の辺にたたずみて聞きければ、この人の声とおぼしくて、「いくらもある人のなかに、三位の中将殿しも生捕にせられて、大路をわたされ給ふこと、人はみな『南都を焼きたる罪のむくい』と言ひあへり。中将もさぞ言はれし。『わが心よりおこしては焼かねども、悪党おほかりしかば、手々に火を放ちて、おほくの堂舎を焼きはらふ。すゑの露もとの雫となるなれば、重衡一人の罪業にこそならんずらめ』と言ひしが、げに、さとおぼゆる」とかきくどき、さめざめとぞ泣かれける。政時、「これにも、思ひ
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給ひけるものを」とあはれにおぼえて、「もの申さん」と言へば、「いづくより」と問ひ給ふ。「三位中将殿より御文の候」と申す。年ごろは恥ぢて見え給はぬ女房の、走り出で、手づから取つて見給へば、「西国より捕はれてありしありさま、今日、明日とも知らぬ身の行くへ」と、こまごまと書きつづけて、奥に一首の歌ぞありける。
なみだ川憂き名をながす身なれどもいま一たびの逢ふ瀬ともがな W
女房、文をふところにひき入れて、とかくのことものたまはず。ただ泣くよりほかのことぞなき。ややありて御返事を書き給ふ。心苦しくおぼつかなくて、二年を送りつる心のうちを書き給ひて、
君ゆゑにわれも憂き名をながすともそこの水屑とともになりなん W
政時持ちて参りたり。また守護の武士ども、「見まゐらせん」と申せば、見せてげり。「苦しうも候ふまじ」とて参らする。中将、文を見給ひて、いよいよ思ひや増さり給ひけん、土肥の次郎に向かひてのたまひけるは、「年頃あひ知りたる女房に対面して、申したき事のあるは、いかがすべき」とのたまへば、実平なさけある者にて、「まことに、女房なんどの御ことにてわたらせ給ひ候はんには、何か苦しう候ふべき」とて許したてまつる。中将、なのめならずよろこびて、人の車を借りて参らせ給へば、女房、取るものも取りあへず、いそぎ乗りてぞおはしたる。縁に車をさし寄せて、「かう」と申せば、中将車寄せに出で向かひ、「守護の武士どもの見たてまつるに、下りさせ給ふべからず」とて、車の簾をうち
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かづいて、手に手を取りくみ、顔を顔に押しあてて、しばしは物ものたまはず。ややありて、三位の中将のたまひけるは、「西国へ下り候ひしときも見まゐらせたう候へしかども、おほかたの騒がしさに、申すべきたよりもなくて、まかりくだり候ひぬ。そののちは、いかにもして、文をも参らせ、御返事をも承りたく候ひしかども、心にまかせぬ旅のならひ、朝夕のいくさにひまなくて、さながらむなしき年月を送り候ひき。今また、人知れぬありさまを見え候へば、ふたたび見たてまつるべきにて候ひけり」とて、袖を顔に押しあてける。たがひの心のうちおしはかられてあはれなり。かくて小夜もなかばになりければ、「このごろは大路の狼藉に候。とくとく」とて、出だしたてまつり給ひけり。車を遣り出だせば、中将、涙をおさへつつ、
逢ふことも露の命ももろともにこよひばかりやかぎりなるらん W
女房とりあへず、
かぎりとて立ちわかるれば露の身の君よりさきに消えぬべきかな W
さあつて、女房は内裏へ参り給ひぬ。そののちは守護の武士許したてまつらねば力およばず。時々御文ばかりぞかよひける。この女房と申すは、民部卿入道親範のむすめなり。みめかたちすぐれ、なさけ深き人なり。さありて「中将、南都へわたされて、斬られ給ひぬ」と聞こえしかば、やがて様を変へて、形のごとくの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひける。
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第九十四句 重衡東下り
鎌倉の前の右兵衛佐頼朝、しきりに申されければ、三位の中将重衡をば、〔同じき〕三月十三日、関東へこそ下されけれ。梶原平三景時、土肥の次郎が手より受けとつて、具したてまつりてぞ下りける。西国より生捕られて、故郷へ帰るだにかなしきに、なじか、また東路はるかにおもむき給ひけん、心のうちこそあはれなれ。粟田口をうち過ぎて、四の宮河原にもなりければ、ここはむかし延喜の第四の王子蝉丸の、関の嵐に心をすまし、琵琶を弾じ給ひしに、博雅の三位、夜もすがら、雨の降る夜も、降らぬ夜も、三年があひだ、琵琶の秘曲を伝へけん、藁屋の床の旧跡も、思ひやられてあはれなり。逢坂山をうち越えて、瀬田の長橋駒もとどろと踏みならし、雲雀のぼれる野路の里、志賀の浦波春かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北にして、伊吹が岳も近づきぬ。心とまるとはなけれども、荒れてなかなかやさしきは、不破の関屋の板びさし。いかに鳴海の潮干潟、涙に袖はしをれつつ、かの在原のなにがしが「唐衣着つつなれにし」と詠じけん、三河の国八橋にもなりしかば、「蜘手にものを」とあはれなり。浜名の橋を過ぎければ、松の梢に風さえて、入江にさわぐ波の音。さらでも旅はものうきに、心をつくす夕まぐれ、池田の宿にぞ着き給ふ。かの宿の遊君、熊野がもとにぞ宿し
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給ふ。熊野は三位の中将を見たてまつりて、「いとほしや。いにしへは、この御さまにて東方へ下り給ふべしとは、夢にも思はざりしことを」と申して、一首の歌をぞ奉る。
旅のそら埴生の小屋のいぶせきにふる里いかにこひしかるらん W
三位の中将御返事に、
ふる里もこひしくもなし旅のそら都もつひのすみかならねば W
三位の中将、梶原を召して、「ただいまの歌の主はいかなる者ぞ。やさしうもつかまつりたるものかな」とのたまへば、景時かしこまつて、「君はいまだしろしめされ候はずや。あれこそ、屋島の大臣殿の当国の守にてわたらせ給ひしとき、召されまゐらせて御最愛候ひしに、『老母のいたはり』とてしきりに暇申しけれども、賜はらざりければ、ころは弥生のはじめにてもや候ひけん、
いかにせん都の春も惜しけれど慣れしあづまの花や散るらん W
とつかまつりて、御暇賜はりてまかりくだり候ひし、海道一の名人にて候」とぞ申しける。都を出でて日数経れば、弥生もなかば過ぎなんとす。遠山の花は「のこる雪か」と見えて、浦々、島々もかすみわたり、来し方、行く末を思ひつづけて、「いかなる宿業やらん」とかなしみ給へどかひぞなき。小夜の中山にかかり給ふにも、「また越ゆべし」ともおぼえねば、いやましあはれも数そひて、袂ぞいたく濡れまさる。宇津のや手越を過ぎ行けば、北に遠ざかりて雪のしろき山あり。「あれはいづくやらん」と問ひ給へば、「甲斐の白根」
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とぞ申しける。そのとき、中将、
惜しからぬ命なれども今日まではつれなきかひの白根をも見つ W
清見が関も過ぎ行けば、富士の裾野にもなりにけり。北には青山峨々として、松吹く風も索々たり。南は蒼海漫々として、岸うつ波も茫々たり。「恋ひせば痩せぬべし、恋ひせずもありけり」と、明神のうたひはじめ給ひけん足柄山もうち過ぎ、「急がぬ旅」とは思へども、日数やうやうかさなれば、鎌倉へこそ入り給へ。兵衛佐、三位中将に対面し給ひて、「会稽の恥をきよめ、君の御憤りをやすめたてまつらんと存じ候ひしかば、平家を滅ぼしたてまつらんこと案中に候ひき。さるほどに、まのあたりに、か様に見参に入るべしとは思ひよらざつしかども、さだめて今は屋島の大臣殿の見参にも入りつべしとこそおぼえ候へ。そもそも奈良を滅ぼし給ふこと、故太政入道の御ぱからひか、また臨時の御事に候ふか。はかりなき罪業にてこそ」とのたまへば、三位中将のたまひけるは、「南都炎上の事、入道の成敗にもあらず、重衡が発起にもあらず。衆徒の悪行をしづめんがためにまかり向かうて候ひしほどに、不慮に伽藍滅亡におよび候ひしこと、力およばず。昔は源平左右にあらそひて、朝家の御まぼりたりしかども、近来は源氏の運かたぶきたりしことは、事あたらしく申すべきにあらず、人みな存知のことなり。当家は保元、平治よりこのかた、度々の朝敵をたひらげ、かたじけなくも一天の君の御外戚
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として、一族の昇進六十余人。二十余年このかたは、楽しみ、栄え、申すはかりなし。しかるに、今運尽きぬれば、重衡捕はれてこれまで下り候ひき。それにつき、『帝王の御敵を討ちたる者、七代まで朝恩失はず』と申すことは、きはめたるひが事にて候ひけり。まのあたりに、入道は君の御ために命を失はんとすること、たびたびにおよぶといへども、わづかにその身一代のさいはひにて、子孫、か様にまかりなるべくや。されば一門運尽きて、都をすでに落ちしうへは、『かばねは山野にも晒し、江海にも沈めべし』とこそ存知候ひつれ、これまで下るべしとは思ひよらず。『殷の湯[* 「ちう」と有るのを他本により訂正]は夏台に捕はれ、文王は〓里に捕はる』。弓矢取る身の、敵の手に捕はれて滅ぼさるること、昔よりみなあることなり。重衡一人にかぎらねば恥ぢつべきにあらねども、前世の宿業こそ口惜しう候へ。ただ芳恩には、とくとく首を刎ねらるべく候」とのたまひて、そののちは物をも言ひ給はず。梶原これを承り、「あはれ、大将軍や」と、涙をぞながしける。その座にゐたりける侍ども、みな袖をぞ濡らしける。「南都を滅ぼしたる伽藍の敵なれば、大衆さだめて申す旨あらんずらん」とて、伊豆の国の住人、狩野介宗茂に預けらる。その体、「冥途にて、娑婆世界の罪人を、七日、七日に十王の手にわたすらんも、かくや」とおぼえてあはれなる。狩野介、なさけある男にて、さまざまにいたはりなぐさめたてまつる。湯殿をこしらへ、御湯ひかせたてまつりなんどしけり。あるとき、湯殿におり給ひけるところに、よはひ二十ばかりなる女房の、色
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白うきよげなるが、目結の帷子に、染付の湯巻着て、湯殿の戸をひらき参らむとす。三位の中将、「いかなる人ぞ」と問ひ給へば、「兵衛佐殿より、御湯殿のために参らせられてさぶらふ」とて、十四五ばかりなる女童の、半插盥に櫛入れ参りたり。二人に介錯せられて、髪洗ひ、湯浴びなんどしてあがり給ひぬ。この女房、帰らんとて、いとまごひして申しけるは、「『なにごとにても候へ、おぼしめさん御ことをば承つて、申せ』とこそ兵衛佐殿より承つてさぶらひつれ」と申す。中将笑ひて、「重衡ただ今なにごとをか申すべき。『ちかく斬らるるべきこともやあらん』と思へば、髪こそ剃りたけれ」とのたまへば、この女房帰り参りて、この様を申せば、「兵衛佐がわたくしの敵にあらず、すでに朝敵となれる人なり。出家のことあるべうも候はず」とぞのたまひける。三位の中将、守護の武士に向かひ、「さても、この傾城はいたいけしたる者かな。名をば何と言ふやらん」とのたまへば、狩野介かしこまつて申しけるは、「あれは手越の長者が娘にて候ふが、心ざまの優にやさしく候ふとて、兵衛佐殿、この三四年召し使はれ候ふが、名をば『千手の前』と申し候」。兵衛佐殿、三位の中将か様にのたまふよし伝へ聞き給ひて、この女房をはなやかに仕立たせて、三位の中将のもとへつかはさる。その夕べ、雨降り、世の中うちしづまりて、物すさまじかりけるをりふし、くだんの女房、琵琶、琴を持ちて参りたり。狩野介も、家の子、郎等十余人具して御前に参り、酒すすめたてまつらんとす。狩野介、かしこまつて申しけるは、
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「兵衛佐殿より、『よくよく宮仕ひ申せ。懈怠にて頼朝うらむな』と承つて候へば、宗茂は心のおよばんほどは宮仕ひ申さんずる」とて、御酒すすめたてまつる。千手の前、酌をとりて参りたりけれども、中将、いと興もなげにおはしければ、狩野介、「なにごとにても候へ、申させ給へかし」と申せば、千手、酌をさしおいて、羅綺の重衣たるは情なきことを機婦にねたまるといふ朗詠したりければ、中将これを聞き給ひて、「この朗詠せん人は、北野の天神『一日に三度翔り守らん』と誓願ましましけり。されども重衡、今生ははや捨てはてられたてまつりぬ。されば助音してもなにかせん。今はただ、罪障かろくなるべきことならば、なびきたてまつるべし」とぞのたまひける。千手また酌をさしおいて、十悪といへどもなほ引摂す極楽をねがふ人はみな弥陀の名号となふべしといふ今様を歌ひすましたりければ、中将そのとき、盃をかたぶけられて、千手の前に賜はる。千手飲みて、狩野介に差す。狩野介飲むとき、千手、琴をひきすます。中将、笑つて、「この楽は普通には『五常楽』とこそ申せども、重衡がためには『後生楽』とこそ観ずべけれ。されどもやがて『皇〓』の急をつがばや」とたはぶれ給ひて、琵琶を取り、転手を捻ぢて、皇〓の急をぞひかれける。狩野介が盃を、みな家の子、郎従、飲み下してげり。小夜もやうやうふけゆけば、世の中もうちしづまりて、いとど物あはれなりけるに、三位の中将、心をすましておはしけるをりふし、ともし火の消え
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たりけるを見給ひて、三位の中将、とぼし火くらうしては数行虞氏が涙夜ふけて四面楚歌の声といふ朗詠を、泣く泣くぞせられける。この詩の心は、昔漢の高祖と、楚の項羽と合戦すること七十余度、いくさごとに高祖は負け給ふ。されどもつひには項羽負けて落ち行くとき、虞氏といふ最愛の后に名残を惜しみ給ふをりふし、とぼし火さへ消えて、たがひに形をあひ見ることなくして、泣く泣く別れける、とぞ承る。三位の中将心をすまし給ひて、「や、御前。あまりにおもしろきに、何事にてもいま一度」とのたまひければ、千手心をすましつつ、一樹のかげにやどり一河の流れをくむもこれ先世の宿縁なりといふ白拍子を、返す返す、歌ひすましければ、三位の中将、よにもおもしろげにぞのたまひける。夜もすでに明けゆけば、千手はいとま申して帰りけり。そのあした、兵衛佐殿は、持仏堂に御経読誦してましましけるところに、千手参りたり。兵衛佐、千手を御覧じて、「頼朝は千手におもしろきなかだちをしたるものかな」とのたまへば、斎院の次官親能、彼方にもの書きて候ひしが、「なにごとにて候ふやらん」と申せば、「日ごろは平家の人々は、弓矢の勝負のほかは他事あらじとこそ思ひつるに、この三位の中将は琵琶の撥音、口ずさみの様、夜もすがら立ち聞きしたるに、これほど優なる人にておはしけるいとほしさよ」とぞのたまひける。親能、筆をさしおいて、「誰も、さだに承つて候ひしかば、立ち聞きつかま〔つ〕るべう候ふものを、いかに御諚候はぬやらん。平家は代々、文人、歌人たちにて候ふものを。
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一年平家の一門を花にたとへ候ひしとき、この人は『牡丹の花』にたとへ候ひしぞかし」と申しければ、兵衛佐殿、「まことに優なる人にてましましける」とて、後までもありがたくこそのたまひけれ。それよりしてこそ千手の前は、いとど思ひも深うはなりにけれ。されば、「中将、南都へわたされて、斬られぬる」と聞こえしかば、様を変へ、信濃の国善光寺に、行ひすまして、かの後世菩提をとぶらひ、わが身も往生の素懐をとげにけり。
第九十五句 横笛
さるほどに、小松の三位の中将維盛は、わが身は屋島にありながら、心は都へかよはれけり。故郷にのこしおき給ふ北の方、幼き人々のことを、明けても、暮れても、思はれければ、「あるにかひなきわが身かな」と、いとどもの憂くおぼえて、寿永三年三月十五日のあかつき、しのびつつ屋島の館をまぎれ出で給ふ。乳人の与三兵衛重景、石童丸といふ童、下郎には「舟もよく心得たる者なれば」とて、武里といふ舎人、是等(これら)三人ばかり召し具して、阿波の国、由岐の浦より海士小舟に乗り給ひ、鳴戸の沖を漕ぎ渡り、「ここは越前の三位の北の方、耐へざる思ひに身を投げし所なり」と思ひければ、念仏百返ばかり申しつつ、紀伊の路へおもむき給ひけり。和歌、吹上の浜、衣通姫の神とあらはれおはします玉津島の明神、日前権現
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の御前の沖を過ぎ、紀伊の国黒井の湊にこそ着き給へ。「これより浦づたひ、山づたひに都に行きて、恋しき者どもをいま一度見もし、見えばや」と思はれけれども、本三位の中将重衡の、生捕にせられて、京、鎌倉ひきしろはれて、恥をさらし給ふだにも心憂きに、この身さへ捕はれて、憂き名をながし、父のかばねに血をあやさんもさすがにて、千たび心はすすめども、心に心をからかひて、ひきかへ高野の御山へのぼり給ひけり。高野に年ごろ知られける聖あり。三条斎藤左衛門大夫茂頼が子に「斎藤滝口時頼」といふ者なり。もとは小松殿の侍なりしが、十三のとき、本所へ参り、宮仕ひしたてまつる。建礼門院の雑仕に「横笛」といふ女を思ひて、最愛してかよひけり。かの女の由来を詳しくたづぬるに、もとは江口の長者が娘なり。故太政入道殿、福原下向のとき、長者が宿所へ入り給ふに、横笛十一歳と申すに、瓶子取りにぞ出でたりける。入道これを見給ふに、みめかたち優なりければ、中宮の雑仕に召さるる。かかるわりなき美人なれば、横笛十四、滝口十五と申す年より、浅からず思ひそめてぞかよひける。父茂頼これを聞き、「なんぢを世にあらん者の聟にもなして、よきありさまを見聞かんとこそ思ひしに、いつとなく出仕なども懈怠がちなるものかな」と、あながちにこれを制しけり。滝口申しけるは、「西王母と聞きし人、昔はありて、今はなし。東方朔が九千歳も、名をのみ聞きて、目には見ず。老少不定の
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世の中は、石火の光に異ならず。たとへば人の命、長しといへども、七八十をば過ぎず。そのうちに身のさかりなること、わづかに二十余年を限れり。夢まぼろしの世の中に、みにくき者をば片時も見ては何かせん。『思はしきものを見ん』とすれば、父の命を背くに似たり。『父の命を背かじ』とすれば、五百生まで深からん女の心をやぶるべし。とにかくに、父のため、女のため、これすなはち善知識のもとゐなり。憂き世を厭ひ、まことの道に入らんにはしかじ」とて、滝口十九にて菩提心をおこし、髻切りて、嵯峨の奥、「往生院」といふ所に、行ひすましてゐたりけるに、横笛、これをつたへ聞きて、「われをこそ捨てめ、様をさへ変へけんことの無慚さよ。たとひ世をこそ厭ふとも、なじかはかくと知らせざらん。人こそ心づよくとも、たづねて、いまは恨みん」と思ひつつ、人一人召し具して、ある夕かたに、内裏を出でて、嵯峨の奥へぞあこがれ行く。ころは如月十日あまりのことなれば、梅津の里の春風に、綴喜の里やにほふらん。大井川の月影も、霞にこもりておぼろなり。一方ならぬあはれさも、「誰ゆゑか」とこそ思ひけれ。「往生院」とは聞きたれども、さだかなる所を知らざりければ、ここにたたずみ、かしこにたたずみ、たづねかぬるぞ無慚なる。灯籠の光のほのかなるに目をかけて、はるばる分け入り、住み荒らしたる庵室にたち寄り、聞きければ、滝口とおぼしくて、内に念誦の声しけり。召し具したる女を入れて、「わらはこそ、これまで訪ねまゐりたれ」と柴の編戸をたたかせければ、滝口入道、
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胸うちさわぎ、障子のひまよりのぞきて見れば、寝ぐたれ髪のひまよりも、流るる涙ぞところ狭く、今宵も寝ねやらぬとおぼえて、面痩せたるありさま、たづねかねたる気色、まことにいたはしく見えければ、いかなる道心者も心弱くなりつべし。滝口、「いまは出で会ひ、見参せばや」と思ひしが、「かく、心かひなくしては、仏道なりや、ならざるや」と心に心を恥ぢしめて、いそぎ人を出だして、「まつたくこれにはさる人なし。門たがひにてぞ候ふらん」とて、心強くも滝口は、つひに会はでぞ返しける。横笛、「うらめしや。発心をさまたげたてまつらんとにはあらず。ともに閼伽の水をむすびあげて、ひとつ蓮の縁とならんとこそのぞみしに、夫の心は川の瀬の、刹那に変るならひかや。女の心は池の水の積りてものを思ふなるも、いまこそ思ひ知られけれ」。滝口入道、同宿の聖に向かひて申しけるは、「ここもあまりにしづかにて、念仏の障碍はなけれども、飽かで別れし女に、このすまひを見えて候へば、一度は心強くとも、またもしたふことあらば、心うごくこともや候ふべし。いとま申して」とて、嵯峨をば出で、高野へのぼり、清浄院に行ひすまして〔ゐたりけり。〕横笛も様を変へたるよし聞こえければ、滝口入道、高野より、ある便りに一首の歌をぞ送りける。
剃るまではうらみしかどもあづさ弓まことの道に入るぞうれしき W
横笛、返事に、
剃るとてもなにかうらみんあづさ弓ひきとどむべき心ならねば W
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その思ひの積りにや、横笛、奈良の法華寺にありけるが、ほどなく死してげり。滝口入道、このことをつたへ聞きて、いよいよ行ひすましてゐたりければ、父の不孝もゆるされたり。したしき者どもは、「高野の聖の御坊」とぞもてなしける。高野の人は、「梨の本の阿浄坊」と申す。由来を知りたる者は「滝口入道」とも申しけり。
第九十六句 高野の巻
さるほどに三位の中将維盛、高野へのぼり、ある庵室にたち寄り、滝口をたづね給ひければ、内より聖一人出でたり。すなはち滝口入道これなり。この聖は夢の心地して申しけるは、「このほどは屋島にわたらせ給ふとこそ承つて候ひつるに、なにとしてこれまでつたはり給ひて候ふやらん。さらにまぼろしとも、うつつともおぼえず」とて、涙をながす。中将、見給ふに、本所にありしときは、布衣に立烏帽子、衣文かいつくろひ、鬢をなでて、優なりし男の、出家ののちは、いまはじめて見給ふ。いまだ三十にだにたらぬ者の老僧すがたに痩せおとろへ、濃き墨染の衣に同じ袈裟、香のけぶりに染みかほり、さかしげに思ひ入りたる道心すがた、うらやましうや思はれけん。「漢の四晧が住みけん商山、晋の七賢がこもりし竹林のすまひもかくや」とおぼえてあはれなり。三位の中将、のたまひけるは、「人なみなみに都を出でて、西国へ落ち下りしかども、ただおほかたの恨めしさもさることにて、故郷にとどめ
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おきし幼き者どもがことをのみ、明けても暮れても思ひゐたれば、もの思ふ心のほかに著うや見えけん、大臣殿も二位殿も、『池の大納言の様に、この人も二心あらん』とて、うちとけ給はねば、いと心もとどまらず、屋島の館をまぎれ出でて、これまで迷ひ来れり。『これより山づたひに都へ行き、恋しき者どもを、見もし、見えばや』なんどと思へども、それも重衡がことの口惜しければ、はや思ひきりたるなり。同じくは『これにて髻を切り、火の中、水の底にも入らん』と思ふぞや。ただし『熊野へ参らん』と思ふ宿願あり」とのたまひもあへず、はらはらとぞ泣かれける。滝口入道、申しけるは、「夢まぼろしの世の中は、とてもかうても候ひなん。ただ長き世の闇こそ心憂く候へ」とて、やがて滝口入道先達にて、堂、塔、巡礼して、奥の院へぞ参り給ふ。大師の御廟を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。大塔と申すは、南天の鉄塔を表して、高さ十六丈の多宝なり。金堂と申すは、兜率の摩尼殿を表して、四十九院につくられたり。上には千体の阿弥陀如来、中尊は薬師の十二神、千手の二十八部衆、みなこれ大師の御作なり。そもそも延喜の帝の御時、御夢想の告あり。檜皮色の御衣を、かの御山へ送られけるに、勅使中納言資澄の卿、般若寺の僧正観賢あひ具して、奥の院へ参り給ひて、石室の御戸をひらき、御衣を着せたてまつらんとしけるところに、霧ふかくへだたりて、大師拝まれ給はず。そのとき僧正、悲涙をながして、「われ悲母の胎内を
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出で、師匠の室に入りしよりこのかた、禁戒を犯さず。さればなどか拝まれ給はざらん」と、五体を地に投げ、発露啼泣し給へば、漸々に霧はれて、山の端より月の出づるがごとくにして、大師拝まれ給ひけり。観賢随喜の涙をながし、御衣を召させたてまつる。御髪の長く生ひさせ給ひたりけるを、僧正剃りたてまつり給ひけり。石山の内供淳祐、そのときはいまだ童形にて供奉せられけるが、大師を見たてまつらず、嘆きしづみておはしけるところに、僧正、かの内供の手をとりて、大師の御膝のほどにおし当てられしかば、御身あたたかにして触らせ給ひけり。その手一期があひだ、香しかりけるとかや。「そのうつり香は石山の聖教にとどまりて、今にある」とぞ承る。大師、帝の御返事に、「われ、昔薩〓に会ひたてまつり、まのあたりことごとく印明をつたへ、無比の誓願をおこして、辺地異域に侍る。昼夜万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉身に三昧を証じて、慈氏の下生を待つ」とぞ申させ給ひける。「かの摩訶迦葉の鶏足の洞にこもり、鷲頭の春の風を期し給ふらんもかくや」とぞおぼえたる。高野山と申すは、帝城を去つて二百里、郷里をはなれて無人声、晴嵐梢をならし、夕日の影のどかなり。八葉の峰、八つの谷、峨々としてそびえたり。渺々として限りもなし。峰の嵐はげしくして、振鈴のこゑにまがふ。花の色は林霧の底にほころび、鐘のこゑは尾
上の雲にひびきけり。瓦に松おひ、垣に苔むして、星霜
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ひさしくおぼえたり。説法衆会の庭もあり、坐禅入定の窓もあり、念仏三昧のうてなもあり。天竺より摩訶迦葉の渡されて、大師相伝し給ひし、七条の袈裟もあるとかや。御入定は承和二年三月二十一日、寅の刻のことなれば、過ぎにしかたも三百余歳、行くすゑもなほ五十六億七千万歳ののち、慈尊出世三会の暁を待たせ給ふらんひさしさよ。
第九十七句 維盛出家
「維盛が身は雪山の鳥の鳴くらん様に『今日よ、明日よ』と物を思ふことよ」とて涙にむせぶぞいとほしき。塩風に痩せくろみ給ひて、その人とは見えねども、なべての人にはまがふべくもなし。その夜は、滝口入道が庵室に帰りて、夜もすがら、昔、今のことをこそ語り給ひけれ。聖が行儀を見給へば、至極甚深の床のうへには、真理の玉をみがくらんと見え、後夜、晨朝の鐘のこゑは、生死のねぶりをさますらんとおぼえたり。世を遁るるべくんば、かくもあらまほしくぞ思はれける。夜もすでに明けければ、三位の中将、戒の師を請じたてまつらんと、東禅院の聖智覚上人を申し請けて、出家せんと出でたち給ひけるが、与三兵衛、石童丸を召して、「われこそ道せばく、のがれがたき身なれば、今はかくなるとも、なんぢらは都のかたへのぼり、いかならん人にも宮仕ひ、身をたすけ、妻子をはごくみ、また維盛
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が後の世をもとぶらひなんどもせよかし」とのたまへば、重景も石童丸も、はらはらと泣きて、しばしもものも申さず。ややあつて、与三兵衛、涙をおし拭うて申しけるは、「親にて候ひし与三左衛門景康は、平治の合戦のとき、小松殿の御供に候ひけるが、二条堀河の辺にて、悪源太に御馬を射させ、材木のうへにはね落され給ふ。義朝の乳人、鎌田兵衛政清よろこうで懸り候ひけるに、景康なかにへだたり、鎌田と組みしに、悪源太落ちあひて、景康討たれ候ひぬ。そのまぎれに、重盛、御乗替に召され、二条を東に馳せのび給ふ。重景、そのときは二歳とかやにて候ひし。七歳にして母におくれ、そののちはあはれむべき親しき者一人も候はざりしに、小松殿、『あれは、わが命にかはりたる者の子なれば』とて、ことに不便にましまして、九つの年、君の御元服候ひしに、『五代が男になるなれば、松王もうらやましからん』とて、同じく髻とりあげられまゐらせて、『盛の字は家の字なれば、五代に付くる。重の字を松王に賜ぶ』とて、『重景』とは名のらせましましけり。又童名を『松王』と申すことも、生まれて五十日と申すに、父が抱いて参り候ひければ、『この家を小松と言へば、なんぢが子をば祝ひて』とて、『松王』と賜はりけり。御元服ののちは、とりわき君の御方に候ひて、今年すでに十九年になるとこそおぼえて候へ。上下もなくあそびたはぶれまゐらせて、一日片時もたち離れたてまつらず。親のよくして死にけるも、わが身の冥加とこそ存じ候へ。されば重盛御臨終
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のとき、この世の中をばみなおぼしめし捨て、一言も仰せの候はざつしかども、重景を御前近う召して、『なんぢが父は、重盛が命にかはりたる者ぞかし。さればなんぢは、重盛を父の形見と思ひ、重盛は、なんぢを景康が形見とこそ思ひてすごしつれ。今度の除目に靫負の尉になして、おのれが父景康を呼びし様に召し使はばやと思ひしに、かくなる身こそ口惜しけれ。少将殿の御方に候ひて、あひかまへてあひかまへて心にちがはず宮仕ひ申し候へ』とこそ、最後の仰せまでも承り候ひしが、君も日ごろは『御命にもかはりまゐらすべき者』とふかくおぼしめしつるに、いまさら、『見捨てまゐらせよ』と仰せ候ふ御心のうちこそ恥づかしう候へ。そのうへ、『世にあらん人をたのめ』と仰せ候。当時は源氏の郎等どもこそ候ふなれ。君の、神にも、仏にもならせ給ひてのち、楽しみ、栄え、世にあるとも、千歳の齢を延ぶべきか。たとひ万年をたもつとも、つひに終りのなかるべきか。西王母が三千年昔語りに今はなし。東方朔が九千歳、名のみ残りてすがたなし。これぞ善知識のもとゐにて候」とて、手づから髻を切りて、滝口入道に剃らせ、やがて戒をぞたもちける。石童丸も滝口入道に髪剃らせ、同じく戒をぞたもちける。これも八歳のときより付きたてまつり、不便にし給ひしかば、重景にも劣らず思ひたてまつる。是等(これら)がか様に先だつありさまを見給ひて、中将いよいよ心ぼそうおぼしめして、御涙いとどせきあへ給はず。さてもあるべきことならねば、流転三界中 恩愛不能断
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棄恩入無為 真実報恩者と三返となへて、剃りくだし給ひけるにも、「故里にとどめおきし北の方、幼き人々に、いま一度かはらぬすがたを見えもし、見もしてかくならば、思ふことあらじ」と思はれけるぞ罪ふかき。三位の中将も、与三兵衛も、同年にて、今年は二十七とかや。石童丸は十八歳。不定のさかひはまことなれども、いまだ行くすゑははるかなり。そののち舎人武里を召して、「なんぢは、『われ終らんを見つるものならば、やがて都へのぼすべし』と思ひつれども、つひにかくれあるまじきことなれば、『しばらくは知らせじ』と思ふなり。そのゆゑは、都に行きて、『この世に亡き者』と申すならば、さだめて様をも変へ、かたちをもやつさんずるも不便なり。幼き者どもが嘆かんことも無慚なり。『迎へとりなどせん』とこしらへおきし言の葉も、みないつはりとなりぬべし。屋島にのこりゐる侍どもが、おぼつかなく思ふらんも心憂ければ、『ただ屋島へ渡さん』と思ふぞとよ。新三位の中将に、ありつるありさまを申すべし。『御覧じし様に、おほかた世の中ももの憂きさまにまかりなりぬ。頼みすくなきことも数そひて見え候ひしかば、おのおのにも知らせまゐらせず、うかれ出でてかくなり候ひぬ。西国にては左の中将失せ給ひぬ。一の谷にて備中守討たれ、維盛さへかくなり候へば、いかにおのおの頼りなうおぼしめされ候はんずらん。これのみ心苦しう候。そもそも、唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より当家嫡嫡に相伝して、維盛までは九代にあたるなり。その鎧と太刀は
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貞能にて平家の世にも立ち直らば、六代に賜べ』と申すべし」とぞのたまひける。滝口入道を善知識として召し具せられ、山伏、修行者の様にて、高野をたち、まづ粉河の観音に参り給ひ、一夜通夜して、「南無大慈大悲、願はくは、維盛が宿願成就」と祈りつつ、紀伊の国山東へこそ出でられけれ。山東の王子をはじめたてまつり、藤白の王子以下、王子、王子を伏し拝み、坂のぼりて、和歌、吹上、玉津島をかへり見、またいつ参るべしともおぼえねば、心に涙ぞすすみける。千里の浜地を指すほどに、岩代の王子の辺にて、狩装束したる武士七八騎がほどに逢うたりけり。そのとき「すでにから〔め〕捕られん」と思ひて、おのおの腰の刀に手をかけ、自害せんと思ひ給ふところに、是等(これら)は見知りまゐらせたりけるにや、あやしむべき気色もなくして、みな馬より下り、ふかくかしこまつてぞ通しける。「こはいかに。誰なるらん。見知りたる者にこそ」とおぼしめされければ、いとど足ばやにぞ通られける。敵にてはなかりけり。平家譜代の家人に、当国の住人、湯浅権守宗重が子に、七郎兵衛宗光と申す者にてぞ候ひける。七郎兵衛が郎等ども、「いかなる修行者たちにて御渡り候ふやらん」と問ひければ、宗光、うち涙ぐみて、「あな、事もかたじけなや。これこそ太政入道殿の御孫、小松の大臣の御嫡子、三位の中将殿よ。この人こそ、日本国のあるじ小松殿の御時は、父湯浅権守、
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侍の別当つかまつりしかば、諸大名に仰がれき。この君、世にまさば、われまたさこそあらんずるに、かくなりはて給ふいとほしさよ。『このほどは屋島におはします』とこそ承りつるに、これまではなにとしてつたはり給ひけるやらん。はや御様変へさせ給ひけり。見参に入りたくは思へども、はばからせましますとおぼえければ、思ひながらうち過ぎぬ。与三兵衛、石童丸も同じく様変へ、御供したるぞや。熊野路の方へおぼしめすとおぼえたり。夢の様なることどもかな」とて、涙にむせびければ、郎等ども、直垂の袖をぞ濡らしける。岩田川にも着きしかば、「この川を一たび渡る人、悪業煩悩、無始の罪障も消するなるものを」と、たのもしくぞ渡り給ふ。向かひの岸にあがり、たちかへり水の面をまばらへて、さめざめと泣き給ふ。滝口、「とにかくに尽きぬ御涙にて候。さりながら、ただ今は何事をおぼしめし出で候ふや」と申しければ、三位入道、「なんぢは知らずや。去んぬる治承三年五月のころ、大臣熊野参詣のとき、維盛をはじめとして、新三位の中将、越前の侍従、左中将、四位の少将、兄弟四人下向の道におよぶ。そのころ浅葱染のめづらしければ、浄衣の下に浅葱の帷子を着、この川にて水をたはぶれしに、われらが着たりし浄衣、みな色のすがたにて見えしを、貞能がとがめ申す様、『公達の御浄衣、いまいましく見えさせ給ふ。替へたてまつらん』と申せしを、大臣、御覧じて、『あるべからず。改むべからず』とて、これよりまた、よろこびの奉幣を奉る。同じく五月二十八日より、
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悪瘡わづらはせ給ひて、同じき八月一日かくれさせ給ひぬ。ただ今の様におぼえて、不覚の涙おさへがたし」とのたまへば、滝口をはじめて、御ことわりとぞ感じける。
第九十八句 維盛入水
維盛、まづ証誠殿の御前に参り、法施参らせて、御山の様を拝し給ふに、心も言葉もおよばれず。大悲擁護の霞は、熊野山にそびえき。霊験無双の神明は音無川に跡を垂れ、かの一乗修行の峰には、感応の月くまもなし。六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。いづれもいづれもあはれをもよほさずといふことなし。夜もすがら祈念申されけるなかにも、父大臣、治承のころ、この御前にて「命を召し、後世をたすけさせましませ」と、申させ給ひけんこと思ひ出でてあはれなり。「本地弥陀如来にておはしければ、摂取不捨の本願あやまたず、西方浄土へ迎へ給へ」とかきくどき申されける。なかにも「故郷にとどめおきし妻子安穏」と祈られけるこそかなしけれ。「憂き世を厭ひ、まことの道に入り給へども、妄執はなほ尽きず」とおぼえて、いよいよあはれはまさりけり。それより船に乗り、新宮へ参り、神倉を拝み給ふに、「巌松高くそびえて、嵐妄想の夢をやぶり、流水清く流れて、波煩悩の垢をそそぐらん」とおぼえたり。飛鳥の社を伏し拝み、佐野の松原さし過ぎて、那智の御山へ参詣す。三重にみなぎり落つる
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滝の水、数千丈までよぢのぼり、観音の霊像あらはれ、「補陀落山」とも申しつべし。霞の底には法華読誦の声聞こえ、「霊鷲山」とも言ひつべし。寛和の夏のころ、花山の法皇、十善の位をのがれさせ給ひて、九品の浄刹をおこなはれし御庵室の旧跡も、昔をしのぶばかりにて、老木の桜のみぞのこりける。那智籠りのうちに、三位の中将を都にてよく見知りたる僧のありけるが、「いとほしや、これなりつる修行者をいかなる人やらんと思ひたれば、小松の三位の中将殿にておはしけるぞや。あの殿のことぞかし。安元の御賀に、そのころ十八か九かにて、桜をかざいて青海波を舞はれしに、当家にも、他家にも、みめよき殿上人にえらばれて垣代にたち給へる、橋もとには関白以下の大臣、公卿、おほく着き給ひしなかにも、父の大将にて着せられたりしかば、人また並ぶべしとも見えざつしものを。嵐ににほふ花のすがた、風にひるがへる舞の袖、天を照らし地を輝かすほどなりき。『あはや。大臣の大将只今待ちかけ給ふ人よ』とて、われも、人も、申せしに、移れば変る世のならひこそかなしけれ」とて、涙にむせびければ、かたへの僧どもも、みな袖をぞしぼりける。三つの御山ことゆゑなく遂げ給へば、浜の宮の御前より、一葉の船をさし出だして、万里の波にぞ浮かび給ふ。沖の小島に松のありける所にあがりて、大きなる松の側をけづりて、泣く泣く名をぞ書かれける。祖父六波羅の入道、前の太政大臣平の朝臣清盛公、法名
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浄海親父小松の内大臣重盛公、法名浄蓮その子三位の中将維盛、法名浄円。二十七にて浜の宮の御前にて入水をはんと書きつけて、また船に乗り、海にぞ浮かび給ひける。歌に、
生まれてはつひに死にてふことのみぞさだめなき世のさだめあるかな W
ころは三月二十八日のことなりければ、春もすでに暮れなんとす。海路はるかに霞みわたりて、あはれをもよほすたぐひなり。沖の釣舟、浮きぬ、沈みぬ、波の底に入る様に見ゆるもあり。「みな、わが身のうへ」とや思はれけん。帰雁、雲居におとづれ行くを聞き給ふにも、故郷にことづてせまほしく、蘇武が胡国のうらみまで、思ひのこせるかたぞなき。三位の中将、西に向かひ、手をあはせ、高声に念仏をとなへ給ふが、念仏をとどめ、滝口入道にのたまひけるは、「あはれ、人の身に持つまじきものは妻子にてありけるぞ。ただ今もなほ思ひ出づるぞとよ。思ふこと心にとどむれば、罪深からんなれば、懺悔するなり」と、のたまひもあへず、はらはらとぞ泣かれける。滝口入道、申しけるは、「さん候。たつときも、いやしきも、恩愛の道は力におよばず。なかにも夫婦は、一夜の契りし給ふも、みな五百生の宿縁とこそ申し候へ。生者必滅、会者定離は憂き世のならひにて候へば、たとひ遅速こそ候ふとも、後れ、先だつ御別れは、なくてしもや候ふべき。しかれば第六天の魔王は、欲界をわがものと領じて、このうちの衆生の生死を離るることを惜しみ、もろもろの方便をめぐらし妨げ
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んとするを、三世の諸仏は、一切衆生を子のごとくおぼしめして、極楽浄土不退の地にすすめ入れんとし給ふに、妻子といふものが、生死のきづなとなるによつて、仏おほきにいましめ給ふ、これなり。源氏の先祖、伊予入道頼義は、貞任、宗任を滅ぼせしとき、十二年のあひだ人の首を斬ること一万六千人、そのほか山野のけだもの、江河のうろくづ、その命をたつこと幾千万といふことを知らず。されども、一度菩提心をおこすによつて、つひに往生することを得たりき。御先祖平将軍は、将門を滅ぼし、八か国を討ちしたがへ給ひしよりこのかた、代々朝家の御かためにて、九代にあたり給へば、君こそ日本国の将軍にてわたらせ給ふべけれども、御運尽きさせ給ひぬれば、力およばず。されども出家の功徳は莫大なれば、前世の罪業も滅し給ひぬらん。『百千歳、百羅漢を供養するといふとも、一日出家の功徳にはおよばじ』とこそ申し候へ。『たとひ、人ありて、七宝の塔婆を建てて三十三天にいたるといふとも、一日出家の功徳にはおよばじ』とこそ申し候へ。『一子出家すれば九族天に生ず』とこそ申しぬれ。罪深き頼義さへ、心たけきによつて往生の素懐を遂ぐる。いはんや、させる罪業ましまさず。なじかは、君、浄土へ向かはせ給はざらん。弥陀如来は『十悪五逆をも導かん』と悲願まします。かの悲願の力に乗ぜんには、うたがひやは候ふべき。二十五の菩薩は伎楽歌詠じて、法性の御戸をひらき、ただ今むかひ給ふべし。今こそ蒼海の底に
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沈みんとおぼしめし候ふとも、つひには紫雲の上にこそのぼらせ給はんずれ。成仏得道して、悟りをひらき給ひて、娑婆世界の故郷へかへりて、去りがたかりし人をも引導し、恋しき人をも迎へ給はんこと、程を経るべからず。ゆめゆめ、余念わたらせ給ふな」とて、しきりに鉦鼓打ち鳴らしつつ、念仏をすすめたてまつる。三位中将、たちまちに妄念をひるがへし、念仏数百返となへつつ、つひに海にぞ入り給ふ。与三兵衛、石童丸、二人の入道、共につづいて入りにけり。舎人武里もこれを見て、かなしみのあまりに耐へず、つづいて海に入らんとす。滝口入道これを見て、「いかに、なんぢは御遺言をばちがへたてまつるぞ。下臈こそ思へば口惜しけれ」とて、泣く泣くとりとどめければ、船底にたふれ伏し、泣きさけぶことなのめならず。ものによくよくたとふれば、「昔、悉達太子、檀特山に入らせ給ひしとき、車匿舎人、〓陟駒を賜はりて王宮へ帰りけんかなしさも、かくや」とおぼえてあはれなり。聖もあまりのかなしさに、墨染の袖をぞしぼりける。「もしや、浮きもあがり給ふ」と見けれども、日も入りあひになるまで、つひに浮きあがり給はず。海上も次第に暗うなれば、名残は惜しけれども、さてしもあるべきならねば、むなしき船を泣く泣くなぎさに漕ぎかへす。棹のしづく、落つる涙、いづれもわきて見えざりけり。武里、屋島へ参りて、新三位の中将以下の人々に、このよしを申せば、「大臣に後れまゐらせてののちは、高き山、深き海ともたのみたてまつりてこそありつるに、さ様になり給ひ
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けんことのかなしさよ」とて、泣きかなしみ給ひけり。大臣殿も、二位殿も、これを聞き給ひて、「『池の大納言の様に、二心ありて、都のかたへのぼり給ふか』と思ひたれば、さはなくてこそ」とて、涙をながしあはれけり。
第九十九句 池の大納言関東下り
同じく四月一日、鎌倉前の右兵衛佐頼朝、正四位下に叙す。もとは従五位下なりしが、五階を越え給ふこそめでたけれ。同じく三日、崇徳院を神にあがめたてまつる。むかし保元のとき合戦ありし、大炊の御門の末にこそ社を造り、宮遷りあり。賀茂の祭りの以前なれども、法皇の御ぱからひにて、内には知られず。そのころ池の大納言頼盛、関東より、「下られべき」よし申されければ、大納言関東へこそ下られけれ。その侍に弥平兵衛宗清といふ者あり。しきりに暇申して、とどまるあひだ、大納言、「なにとて、なんぢは、はるかの旅におもむくに見送らじとするぞ」とのたまへば、弥平兵衛申しけるは、「さん候。戦場へだにおもむき給はば、まつ先駆くべく候ふが、参らずとも苦しうも候ふまじ。君こそかうてわたらせ給へども、西国におはします公達の御事存知候へば、あまりにいとほしく思ひまゐらせ候。兵衛佐殿を宗清が預かり申して候ひしとき、随分つねはなさけありて、芳志をしたてまつりしこと、よも御忘れ候はじ。故池殿の、死罪を申しなだめさせ給ひて、
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伊豆の国へながされ給ひしとき、仰せにて、近江の篠原までうち送りたてまつりしこと、つねはのたまひ出だされ候ふなる。下り候はば、さだめて饗応し、引出物せられ候はんずらん。さりながらこの世はいくばくならず。西国にわたらせ給ふ公達、また侍どもが返り承らんこと、恥づかしうおぼえ候」と申せば、大納言、「何とて、さらば都にとどまりしとき、さは申さざるぞ」とのたまへば、「君のかうてわたらせ給ふを『悪しし』と申すにはあらず。兵衛佐もかひなき命生き給ひてこそ、かかる世にも逢はれ候へ」と、しきりに暇申してとどまるあひだ、大納言、力および給はで、四月二十日関東へこそ下られけれ。兵衛佐、大納言に対面し給ひて、「何とて宗清は来たり候はぬやらん」とのたまへば、「宗清は、今度はいたはること候ひて、下り候はず」とのたまへば、兵衛佐殿、よにも本意なげにて、「むかし彼がもとに預けられ候ひしとき、なさけある芳心の候ひしこと、いつ忘れつともおぼえず。『さだめて御供に下り候はんずらん』と恋しく心待ち候ひしに、あはれ、この者は意趣の候ふにこそ」とのたまひけり。「所知賜ばん」とて、下文どもあまたなしおかれ、大名、小名、「馬ども引かん」とて用意したりけれども、下らざりければ、人々、「賢人だて」とぞ思はれける。大納言、「もと知行し給ふ荘園、私領、一所もあひ違ひあるまじき」よし申されけるうへに、所領どもあまた賜はられ、六月六日、都へ帰り給ふ。大名、小名、「われ劣らじ」と面々にもてなしたてまつる。鞍置馬だにも五百匹におよべり。命生きて上り
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給へるのみならず、ゆゆしかりける事どもなり。さるほどに、大覚寺に隠れゐ給へる小松の三位の中将の北の方は、風のたよりのことづても、絶えて久しくなりにけり。「月に一度はかならずおとづれしものを、今は火の中へも入り、水の底にも沈みて、この世に亡き人やらん」と思へる心ぞひまもなき。ある女房、大覚寺に来たりて申しけるは、「三位の中将殿こそ、当時は屋島にもゐさせ給ひさぶらはずなれ」と申せば、「さればこそ、世はあやしかりつるものを」とて、いそぎ人を下されたれども、やがてもたち帰らず。夏もたけ、六月の末にぞ帰りまゐりたる。北の方、まづ、「いかに」と問ひ給へば、「さ候へばこそ、過ぎにし三月十五日の暁、しのびつつ屋島の館を御出で候ひて、高野にて御出家あり。そののち熊野へ参らせ給ひて、三つの御山に参詣あつて、後世のことよくよく申させ給ひてのち、浜の宮の御前にて、御身を投げさせ給ひ候ふなり。武里は、『わがはてを見つるものならば、都へ上れと思へども、ただ屋島へ参れと思ふぞ。そのゆゑは、都にてこの世に亡き者と申すならば、やがて御様をも変へさせ給はんも御いたはしければ、屋島に参れと御遺言にて候ひけり』と申して、当時は屋島に候」と申しければ、聞きもあへ給はず、ひきかづきてぞ伏し給ふ。若君も、姫君も伏し倒れてぞ泣き給ふ。若君の乳母の女房、北の方に申しけるは、「ささぶらへども、本三位の中将の様に生捕られて、京、鎌倉、ひきしろはれて、憂き名を流させ給はんより、高野にて御出家あつて、熊野へ参らせ給ひて、後世のこと祈請申させ、御身を投げさせましますこと、これは御嘆きの中
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のよろこびなり。今はいかにおぼしめすとも、かなはせ給ふまじ。ただ御様を変へさせ給ひて、彼の後世をとぶらひまゐらせさせ給はめ」と申しければ、北の方、「げにも」とて、泣く泣く様を変へて、彼の後世をぞとぶらひ給ひける。兵衛佐これを伝へ聞いて、「頼朝を、故池の尼公申しなだめられし使をば、小松殿こそ、『わが身ひとつの大事』と思ひて、嘆き給ひしか。その奉公を思へば、子孫までもおろそかに思はず。維盛もへだてなし。頼朝を頼みておはしたりせば、命ばかりは助けんずるものを」とぞのたまひける。そのころ平家追罰のために、新手二万余騎、都へさしのぼせらる。そのうへ「鎮西より菊池、原田、松浦党、五百余艘の船に乗りて、屋島へ寄する」とも聞こえたり。これを聞き、かれを聞くにつけても、心を迷はし、魂を消すよりほかのことぞなき。さるほどに七月二十五日にもなりぬ。去年の今日は都を出でしぞかし。あさましう、あわただしかりし事ども、思ひ出だし、語り出だし、泣きぬ、笑ひぬせられけり。同じく二十八日、都には新帝御即位。大極殿にてあるべかりしを、後三条の院の延久の佳例にまかすべしとて、太政官の庁にておこなはれ、「神璽、宝剣、内侍所なくして御即位の例、神武天皇より八十二代、これはじめ」とぞ承る。同じく八月六日、蒲の冠者範頼、三河守になる。九郎義経、左衛門尉になる。すなはち宣旨をかうむつて、「九郎判官」とぞ申しける。そのころ改元あつて、「元暦」と号す。やうやう秋もなかばになりぬれば、月すさまじく、荻の上風身にしみ、
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萩の下露夜な夜なしげし。稲葉うちそよぎ、うらむる虫のこゑ、木の葉かつ散り、さらぬだに、ふけゆく秋の空はかなしきに、平家の人々の心のうち、おしはかられてあはれなり。昔は九重の内にして、春の花をもてあそび、今は屋島の磯にて、秋の月をかなしめり。「都に、今宵いかなるらん」と思ひやる心をすまし、涙をながしてぞつらねける。行盛、
君すめばここも雲居の月なればなほ恋しきは都なりけり W
第百句 藤戸
同じく九月十二日、三河守範頼、平家追罰のために山陽道へ発向す。あひしたがふ人々には、足利の蔵人義兼、北条の四郎時政、侍大将には、土肥の次郎実平、その子弥太郎遠平、和田の小太郎義盛、佐原[* 「さうら」と有るのを他本により訂正]の十郎義連、佐々木三郎盛綱、比企の藤四郎能員、大野の藤四郎遠景、一法房性賢、土佐房昌春[* 「しやうそん」と有るのを他本により訂正]を先として、都合その勢三万余騎、都をたつて播磨の国へ馳せくだり、室山に陣をとる。さるほどに、「〔平家の方の大将軍には、〕小松の〔新〕三位の中将資盛、同じき少将有盛、丹後の侍従〔忠房〕、侍大将には、飛騨の三郎左衛門景経、越中の次郎兵衛盛嗣、上総の五郎兵衛忠光、悪七兵衛景清を先として、五百余艘の船に乗り、備前の国児島に着く」と聞こえしかば、源氏三万余騎、
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播磨の室山をたつて、備前の藤戸へぞ寄せたりける。源平両方、海のあはひ五町あまりをへだてたり。船なくしてはたやすく渡るべき様もなし。船はあれども、平家方に点じ置きたれば、「源氏方に船なし」と見て、平家方よりはやりをの者ども、小船に乗りておし浮かべ、扇をあげて、「源氏、ここを渡せ」とぞまねきける。されども、船なければ渡るにおよばず。むなしく日数をおくるほどに、同じき二十三夜の夜に入りて、佐々木の三郎盛綱、この浦の遠見するよしにて、浦人のおとなしき者を〔一人〕かたらひて、「や、殿。『ここを渡さん』と思ふはいかに。馬にて渡すべき所はなきか」と問へば、「案内知らせ給はでは、悪しう候ひなん」と申す。そのとき佐々木の三郎、小袖と刀を取らせて、「知らぬことはよもあらじ。教へよ」と言ひければ、「たとへば、川の瀬の様なる所こそ候へ。この瀬が不定にして、月がしらには東に候。月尻には西に候。馬の脚のおよばぬ所は、三段にはよも過ぎじ」と申す。「うれしきことを聞きつるものかな」と思ひて、家の子、郎等にも知らせず、人ひとりも具せず、裸になりて、この男を先にたて、渡りてみれば、げにも、いたう深うはなかりけり。腰、膝、脇にたつ所もあり、鬢のひたる所もあり。先は次第に浅くなりければ、「敵陣矢先をそろへて待つところに、裸にては、かなはせ給はじ。帰らせ給へ」と申せば、佐々木の三郎それより帰りぬ。行き別れけるが、佐々木の三郎、「きやつ、また人に案内もや教へんずらん」と思へば、「や、殿、言ふべきことあり」とて呼びかへし、もの言ふ様にて取つておさへ、首かき切つ
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て、捨ててげり。同じき二十四日辰の刻ばかりに、平家方より扇をあげ、「源氏ここを寄せ」とまねきたるに、佐々木の三郎、これを見て、滋目結の直垂に、かし黒摺りの鎧着て、白葦毛なる馬に乗り、家の子、郎等七騎、馬の鼻を並べてうち入れてぞ渡しける。大将軍三河守、これを見給ひて、「あの佐々木は、物について狂ふか。あれ制せよ。とどめよ」とのたまへば、土肥の次郎、馬にうち乗りて、「や、殿。佐々木殿。大将の御ゆるしもなきに。とどまれ」と言ひけれども、耳にも聞き入れず、ただ渡しに渡すあひだ、制しかねて、土肥の次郎もつづいて渡す。鞍爪に立つ所もあり、鞍爪越ゆる所もあり。深き所は泳がせて、浅き所にうちあぐる。三河守これを見て、「こはいかに。浅かりけるぞ。渡せ」とて、三万余騎うち入れてぞ渡しける。平家これを見て、「あはや。源氏の勢渡すは」とて、われ先に船に乗り、おし浮かべて、矢先をそろへて散々に射る。源氏は兜の錣をかたぶけて、平家の船に乗りうつり、乗りうつり、火の出づるほどにぞ戦ひける。源氏の兵に、和見の八郎行重と名のつて、平家の兵、讃岐の国の住人加部の源次〔光経〕とひつ組んで、上になり、下になり、ころびあふところに、加部の源次が郎等出で来り、和見の八郎を三刀さして首をとる。和見の八郎が従兄弟に小林の三郎重高と名のつて、加部と〔ひつ〕組み、やがて海へぞ入りにける。小林が郎等に黒田の源太といふ者あり。主を失うて、あなたこなた見まはすところに、水の泡だつ所あり。熊手を振り
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たてければ、物、むずと取りついたり。引きあげて見ければ敵なり。主は敵が腰にいだきつきてぞあがりたる。主を船にひき乗せて、息をつがせ、敵をばやがて磯に押しつけて首をかく。辰の刻に矢合せして、一日戦ひ暮らし、夜に入りて、平家「かなはじ」とや思ひけん、「われ先に」と船に乗り、おし浮かべ、四国の地に渡さんとす。源氏つづいて攻めけれども、船なければ力およばず、児島の地にうちあげて、馬の息をぞやすめける。昔より〔馬にて〕川を渡す戦はあれども、〔馬にて〕海を渡すことはこれがはじめとぞ承る。鎌倉殿、備前の児島を佐々木の三郎にぞ賜はりける。御教書には、「天竺、震旦は知らず、わが朝に、昔より〔馬にて〕川を渡す例はあれども、海を渡すことなし。希代のためしなり」とあそばしてぞ賜はりける。同じく二十五日、都には九郎判官、五位になる。「大夫の判官」とぞ申しける。さるほどに十月にもなりぬ。「大嘗会おこなはるべし」とぞ聞こえける。屋島には浦ふく風もはげしく、磯うつ波も高ければ、兵も攻め来らず、商人の歩行もまれなり。都のおとづれも聞かまほしく、いつしか空かきくもり、霰うち散る。平家の人々は、これにつけても、いとど消え入る心地ぞせられける。都には「大嘗会おこなはるべし」とて、御禊の行幸あり。節下には徳大寺の内大臣実定公、勤ぜらる。去々年、先帝の御禊の行幸には、平家の内大臣つとめ給ひて、節下の幄屋につきて、前には幢の旗を立てておき給ひたりし気色、ゆゆしかりしことなり。三位の中将以下、御縄に候は
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れしに、「また、人並ぶべし」とも見えざつしものを。今日は九郎判官、先陣に供奉す。木曾なんどには似ず、ことのほか京慣れたりしかども、平家には似も似ず劣りたり。治承、養和よりこのかた、人民、百姓等、あるいは源氏に滅ぼされ、あるいは平家に悩まされ、家園を捨てて山林にまじはりしかば、春は東作の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにおよばず。されば、いかがしてか様の大礼をおこなはるべきなれども、〔さてしも〕あるべきことならねば、形のごとくおこなはる。源氏、やがてつづいて攻めば、平家はその年みな滅ぶべかりしに、大将軍、室山、高砂辺にやすらうて、遊君、遊女ども呼び集め、遊びたはぶれのみにして、月日をおくり給ひけり。大名、小名おほかりしかども、大将の[* 「に」と有るのを他本により訂正]下知にしたがふことなれば、力におよばず。ただ国のつひえ、民のわづらひのみありて、今年も暮れなんとす。元暦も二年になりにけり。