平家物語 百二十句本(国会図書館本)巻第二
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目録
第十一句 明雲座主流罪
 覚快法親王座主の事
 明雲俗名大納言の大夫藤井の松技
 根本中堂に至つて西光呪咀の事
 澄憲法印伝法
第十二句 明雲帰山
 大衆先座主奪ひ取るべき僉議
 十禅師権現御託宣
一行阿闍梨の沙汰
 九曜の曼陀羅
第十三句 多田の蔵人返り忠
 六波羅つはもの揃ひ
 新大納言成親拷問
 西光法師死去
 師高師経誅戮
第十四句 小教訓
 小松殿成親を乞ひ請くる事
 北野の天神の事
 宇治の悪左府実検の事
 難波瀬尾折檻の事
第十五句 平宰相少将乞ひ請くる事
 少将北の方烏丸宿所出でらるる事
 少将西八条屈請の事
 少将院の御所に御暇乞ひの事
 少将乞ひ請け安堵の事
第十六句 大教訓
 太政入道法皇を恨み奉る事
 小松殿西八条入御の事
 小松殿つはもの揃ひ
 褒似蜂火の事
第十七句 成親流罪・少将流罪
 新大納言配所に赴かるる事
 丹波の少将遠流の事
 有木の別所
 阿古屋の松の沙汰
第十八句 三人鬼界が島に流さるる事
 康頼出家
 熊野勧請
 祝 詞
 蘇 武
第十九句 成親死去
 成親出家
 源左衛門の尉信俊有木の別所へ使の事
 吉備津の中山において毒害の事
 新大納言北の方出家
 彗星の沙汰
第二十句 徳大寺殿厳島参詣
 藤の蔵人大夫意見の事
 大将の祈誓
 厳島の内侍実定の卿を送り奉る事
 実定の卿大将成就の事
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平家物語 巻第二
第十一句 明雲座主流罪
治承元年五月五日、天台座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)、公請を停止せられけるうへ、蔵人をつかはして、如意輪の御本尊を召しかへし、護持僧を改易せらる。そのうへ、庁使をつけて、今度神輿を内裏へ振り奉(たてまつ)る衆徒の張本を召されける。「加賀の国に座主の御坊領あり。師高是(これ)を停廃のあひだ、門徒の大衆寄りて、訴訟をいたす。すでに朝家の御大事におよぶ」よし西光法師父子が無実の讒訴によつて、「ことに重科に処せらるべき」よし聞(き)こえけり。明雲(めいうん)は法皇(ほふわう)の御気色あしかり
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ければ、印鑰(いんやく)をかへし奉(たてまつ)りて、座主を辞し申さる。
同じき、十一日、鳥羽の院の七の宮、覚快法親王を天台座主になし奉(たてまつ)らせ給ふ。是(これ)は青蓮院の大僧正行玄の御弟子なり。
同じき十二日、前の座主所職をとどめ/らる。検非違使二人に仰せて、火を消し、水にふたをして、水火の責におよぶ。是(これ)によつて、大衆参洛すと聞(き)こえしかば、京中またさわぎあへり。
同じき十三日、太政大臣以下の公卿十三人参内して、陣の座につき、前の座主罪科のこと議定あり。八条の中納言長方[* 「なりかた」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)、そのときはいまだ左大弁の宰相にて、末座に侍はれけるが、「法家の勘状にまかせて、死罪一等を減じて、遠流せらるべきよし見えて候へども、先座主明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)は、顕密兼学して、浄戒持律(じやうかいぢりつ)のうへ、大乗妙経(だいじようめうきやう)を公家(くげ)にさづけ奉(たてまつ)り、菩薩浄戒(ぼさつじやうかい)を法皇(ほふわう)に保たせ奉(たてまつ)る。かつうは御経の師なり、かつうは御戒の師なり。かたがたもつて重科におこなはれんこと、冥の照覧はかりがたし。されば、還俗
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遠流をばなだめらるべきか」と申されたりければ、当座の公卿みな「長方[* 「なりかた」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)の儀に同ず」と申しあはれけれども、法皇(ほふわう)御いきどほりふかかりければ、なほ遠流にさだめらる。太政入道も、「このこと申しなだめん」とて、院参せられたりけれども、法皇(ほふわう)をりふし御風の気とて、御前にも召され給はねば、本意なげにて退出せらる。
僧を罪するならひとて、度縁を召しかへして還俗せさせ奉(たてまつ)り、「大納言の大夫藤井の松枝」といふ俗名をこそつけられけれ。
この明雲(めいうん)と申すは、村上の天皇第七の皇子、〔具〕平親王より六代の御末、久我の大納言顕通の卿(きやう)の御子なり。まことに無双の碩徳、天下第一の高僧にておはしければ、君も臣もたつとみ給ひて、天王寺、六勝寺の別当をもかけ給へり。されども陰陽頭安倍の泰親が申しけるは、「さばかりの智者の『明雲(めいうん)』と名のり給ふこそ心得ね。上に日月の光をならべ、下に雲あり」とぞ難じける。仁安元年二月二十日、
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天台座主にならせ給ふ。同じき三月十五日、御拝堂ありけり。中堂の宝殿を開かれけるに、方一尺の箱あり。白き布にてつつまれたり。一生不犯の座主、かの箱をあけて見給ふに、中に黄なる紙に書ける文一巻あり、伝教大師、未来の座主の御名をかねて記しおかれたり。わが名のある所(ところ)まで見て、それより奥をば見給はず、もとのごとくに巻きかへしておかるるならひなり。さればこの僧正もさこそはおはしけめ。かかるたつとき人なれども、先世の宿業をばまぬかれ給はず。あはれなりし事どもなり。
同じき二十二日、『配所伊豆の国』と定めらる。人々様々に申されけれども、西光法師父子が讒奏(ざんそう)によ(ッ)て、か様にはおこなはれけるなり。「やがて今日都を出ださるべし」とて、追立の官人、白河の御坊へ行きむかひて追立てまつる。僧正泣く泣く御坊を出でさせ給ひて、粟田口のほとり、一切経の別所へ入らせおはします。
山門には大衆起りて、僉議(せんぎ)しけるは、「所詮われらが敵は西光法師
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にすぎたる者なし」とて、かれらが親子の名字を書いて、根本中堂におはします十二神将のうち、金毘羅大将の左の御足の下に踏ませ奉(たてまつ)りて、「十二神将、七千の夜叉(やしや)、時刻をめぐらさず西光父子が命を召しとり給へや」と、をめき叫びて呪詛しけるこそ聞くもおそろしけれ。
同じき二十三日、一切経の別所より配所へおもむき給ひける。さばかんの法務の大僧正ほどの人を、追立武士がまへに蹴たてさせて、今日をかぎりに都を出でて関の東へおもむかれけん心のうち、おしはかられてあはれなり。大津の打出の浜にもなりければ、文殊楼の軒端のしろしろとして見えけるを、二目とも見給はず、袖を顔におしあてて、涙にむせび給ひけり。
祇園の別当澄憲法印、そのときはいまだ権大僧都にておはしけるが、あまりに名残を惜しみ奉(たてまつ)りて、泣く泣く粟津まで送りまゐらせて、それよりいとま申してかへられけり。明雲(めいうん)僧正(そうじやう)、心ざし
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の切なることを感じて、としごろ心中に秘せられける天台円宗の法門、一心三観の血脈相承の輪を、澄憲にさづけられけるとかや。
この法は釈尊の付属、波羅奈国の馬鳴比丘、南天竺の龍樹(りゆうじゆ)菩薩(ぼさつ)より、次第に相伝し来たれるを、今日のなさけにさづけらる。わが朝は粟散辺地(そくさんへんぢ)の域、蜀世末代といひながら、澄憲に付属して、法衣のたもとをしぼりつつのぼられし心のうちこそたつとけれ。
〔第十二句 明雲(めいうん)帰山〕[* この句名なし]
山門には、大衆、大講堂の庭に三塔会合して僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも伝教、慈覚、智証大師、義信和尚よりこのかた、天台座主はじまりて、五十五代にいたるまで、いまだ流罪の例を聞かず。つらつら事の心を案ずるに、延暦十三年十月に、皇帝は帝都をたて、大師
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は当山によぢのぼり、四名の教法をひろめ給ひしよりこのかた、五障(ごしやう)の女人(によにん)跡(あと)絶えて、三千の浄侶居を占めたり。峰には、一乗読誦(いちじようどくじゆ)年(とし)ふりて、麓(ふもと)には七社(しちしや)の霊験(れいげん)日(ひ)新(あらた)なり。かの月氏の霊山(りやうぜん)は、王城(わうじやう)の東北(とうぼく)、大聖(だいしやう)の幽窟なり。是(これ)日域の叡岳も、帝都の鬼門にそばだつて、護国の霊地なり。されば代々の賢王(けんわう)智臣(ぢじん)も、この所(ところ)にして壇場を占む。いはんや末代といふとも、いかでかわが山にきずをつくべき。心憂し」と申すほどこそあれ、満山の大衆のこりとどまる者なく、東坂本へおりくだり、十禅師(じふぜんじ)の御前(おんまへ)にて僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、粟津のほとりに行きむかつて、貫首をうばひとどむべきなり。ただし、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われら、山王大師の御力のほかまた頼むかたなし。まことに別の子細なくうばひとどめ奉(たてまつ)るべくは、われらに一つの瑞相を見せしめ給へ」と、おのおの肝胆をくだき祈念しけり。
ここに、無動寺の法師の中に、乗円律師が童に、鶴丸とて十八歳
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になりしが、身心くるしみ、五体に汗を流(なが)して、にはかに狂ひ出でたり。「われに十禅師権現乗りゐさせ給へり。末代といふとも、いかでかわが山の貫首を他国へは移さるべき。生々世々に心憂し。さらんにとつては、われこの麓(ふもと)に跡をとどめてもなにかせん」とて、双眼より涙をはらはらと流(なが)す。大衆大きにあやしみて、「まことに十禅師の御託宣にてましまさば、われらにしるしを見せ給ひて、もとの主へかへし給へ」とて、しかるべき老僧ども数百人、面々に持ちたる念珠(ねんじゆ)を、十禅師(じふぜんじ)の大床(おほゆか)のうへへぞ投げあげける。かの物狂(ものぐる)ひ走りまはり、ひろめあつめて、すこしもたがはずいちいちにもとの主にぞくばりける。大衆、神明霊験のあらたなることのたつとさに、みな随喜の涙をぞ流(なが)しける。
「その儀ならば、行きむかつて貫首をうばひ奉(たてまつ)れや」と言ふほどこそあれ、雲霞(うんか)の如(ごと)く発向(はつかう)す。或(あるい)は志賀(しが)、辛崎(からさき)の浜路に歩(あゆ)みつづきける大衆もあり、或(あるい)は山田、矢橋の湖上に船おし出だす
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衆徒(しゆと)もあり。おもひおもひ、心々にむかひければ、きびしかりつる領送使、座主をば国分寺に捨ておき奉(たてまつ)り、われ先にと逃げ去りぬ。
大衆国分寺へ参りむかふ。先座主大きにおどろき給ひて、「『勅勘の者は月日の光だにもあたらず』とこそ承れ。いかにいはんや、『時刻をめぐらさず、いそぎ追ひ出だすべし』と、院宣のむねなるうへ、暫時もなずらふべからず。衆徒とくとくかへりのぼり給へ」とて、端近う出でてのたまひけるは、「三台槐門(さんだいくわいもん)の家(いへ)を出(い)でて、四明幽渓(しめいいうけい)の窓(まど)に入(い)りしよりこのかた、ひろく円宗の教法を学し、顕密(けんみつ)の両宗(りやうしゆう)をつたへて、わが山の興隆をのみ思へり。また国家を祈り奉(たてまつ)ることもおろかならず。衆徒をはごくむ心ざしふかかりき。両所三聖、山王七社、さだめて照覧(せうらん)し給(たま)ふらん。身(み)にあやまることなし。無実の罪によ(ッ)て遠流の重科をかうぶる、先世の宿業なれば、世をも、人をも、神をも、仏をも恨み奉(たてまつ)ることなし。是(これ)まで
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とぶらひきたり給ふ衆徒の芳志(はうじ)こそ、申しつくしがたけれ」とて、香染の袖をぞしぼられける。大衆もみな袖をぞぬらしける。
さて御輿をさし寄せて、「とくとく」と申せば、「昔こそ三千貫首たりしか、いまはかかる流人の身となりて、いかでかやんごとなき修学者たちにかきささげられてはのぼるべき。たとへのぼるべきにてありとも、藁沓(わらんず)なんどいふものを履いて、同じやうに歩(あゆ)みつづきてこそのぼらめ」とて乗り給はず。
ここに西塔の法師、戒浄坊(かいじやうばう)の阿闍梨(あじやり)祐慶(いうけい)といふ悪僧(あくそう)あり。長七尺ばかりありけるが、黒革威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)の大荒目(おほあらめ)なるを草摺り長に着なし、兜をばぬぎて、白柄の長刀わきばさみ、「ひらかれ候へ」とて大衆の中をおしわけおしわけ、先座主(せんざす)の御前にづんと参り、大の眼にてしばしにらまへて申しけるは、「あつぱれ、不覚の仰せどもかな。その御心にてこそ、かかる御目にもあはせ給へ。とくとく召され候へ」と申しければ、先座主(せんざす)あまりのおそろしさにや、いそぎ乗り給ふ。
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大衆取り得奉(たてまつ)るうれしさに、いやしき法師、童にあらねども、修学者たち、をめき叫んでかきささげのぼりけるに、人はかはれども祐慶はかはらず、前輿かいて、輿の轅も、長刀の柄も、くだけよと取るままに、さしもさがしき東坂本を、平地を歩ぶがごとくなり。
大講堂の庭に輿かきすゑて、大衆僉議(せんぎ)しけるは、「そもそも、勅勘をかうぶりて流罪せられ給ふ人を取りかへし奉(たてまつ)り、わが山の貫首にもちひ申さんこと、いかがあるべき」と言ひければ、戒浄坊の阿闍梨(あじやり)さきのごとくにすすみ出でて、「夫(それ)当山(たうざん)は日本(につぽん)無双(ぶさう)の霊地(れいち)、鎮護国家(ちんごこくか)の道場(だうぢやう)なり。山王の御威光さかんにして、仏法、王法牛角なり。されば衆徒の意趣にいたるまでならびなし。いやしき法師ばらまでも、世もつてかろんぜず。いはんや知恵高貴にして、三千の貫首たり。徳行おもくして一山の和尚たり。罪なくして罪を
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かうぶること、是(これ)山上(さんじやう)、洛中(らくちゆう)のいきどほり、興福(こうぶく)・園城(をんじやう)の嘲(あざけり)にあらずや。このとき顕密のあるじを失つて、修学の学侶(がくりよ)、蛍雪(けいせつ)のつとめおこたらんこと心憂かるべし。今度祐慶張本に称ぜられ、いかなる禁獄、流罪にもせられ、首をはねられんこと、今生の面目、冥途のおもひでたるべし」とて、双眼(さうがん)より涙(なみだ)をはらはらと流(なが)す。大衆みな、「もつとも、もつとも」とぞ同じける。それよりしてこそ祐慶をば「いかめ坊」とは言はれけれ。
先座主は、東塔の南谷妙光坊へおき奉(たてまつ)りけり。
[* ここに「一行阿闍梨(いちぎやうあじやり)之(の)沙汰(さた) 底本 一きやうあしやりのさた」の句名有り]
時の横災は権下の人ものがれ給はざりけるにや。昔(むかし)大唐の一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)は、玄宗皇帝の護持僧にてましましけるが、大国も、小国も、人の口のさがなさは、后楊貴妃に名をたて給ふ。あとかたなきことなれども、そのうたがひによ(ッ)て、果羅国へ流(なが)され給ふ。くだんの国には三つの道あり。「臨地道」とて御幸の道、「遊地道」とて雑人のかよふ道、「闇穴道」とて重科の者をつかはす道なり。
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この闇穴道と申すは、七日七夜、月日の光を見ずして行く所(ところ)なり。しかれば、一行(いちぎやう)は重科の人とて、くだんの闇穴道へつかはさる。冥々として人もなく、行歩に前途まよひ、森々として、山深し、只(ただ)澗谷(かんこく)に鳥(とり)の一声(ひとこゑ)ばかりにて、苔(こけ)のぬれ衣(ぎぬ)ほしあへず。
無実の罪によつて遠流の重科をかうぶることを、天道あはれみ給ひて、九曜のかたちを現じつつ、一行(いちぎやう)阿闍梨(あじやり)をまぼり給ふ。ときに一行(いちぎやう)右の指をくひ切りて、左の袖に九曜のかたちをうつされけり。和漢両朝に真言の本尊たる「九曜の曼荼羅」是(これ)なり。
第十三句 多田の蔵人返り忠
先座主を大衆取りとどめ奉(たてまつ)るよし、法皇(ほふわう)聞(き)こしめして、やすからずぞおぼしめされける。西光法師申しけるは。「昔(むかし)より
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山門の大衆みだりがはしき訴へをつかまつることは、いまにはじめずと申せども、是(これ)ほどのことは承りおよばず。もつてのほかに過分に候(さうらふ)。是(これ)を御いましめなくは、世は世にては候ふまじ。よくよくいましめ候ふべし」とぞ申しける。わが身のただいま亡びんずることをもかへりみず、山王大師の神慮にもはばからず、「讒臣(ざんしん)国(くに)を乱す」とは、か様のことをや申すらん。
大衆「王地に孕まれて、さのみ詔命(ぜうめい)を対かんせんもおそれなり」とて、内々院宣にしたがひ奉(たてまつ)る衆徒もありと聞(き)こえしかば、先座主妙光坊にましましけるが、「つひにいかなる目にやあはんずらん」と、心ぼそうぞおぼしめしける。されども流罪はなだめられけるとかや。
新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)は、山門の騒動により、わたくし宿意をばおさへられけり。日ごろの内議支度はさまざまなりしかども、議勢ばかりにて、させる事しいだすべしともおぼえざりければ、むねとたのま
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れける多田の蔵人行綱、「このこと無益なり」と思ふ心ぞつきにける。成親(なりちか)の卿(きやう)のかたより「弓袋の料に」とておくられたる白布ども、家の子郎等が直垂、小袴に裁ち着せてゐたりけるが、「つらつら平家の繁昌を見るに、たやすくかたぶけがたし。よしなきことに与してんげり。もしこのこと漏れぬるものならば、行綱まづ失はれなんず。他人の口より漏れぬさきに、返り忠して、命生きん」と思ふ心ぞつきにける。
五月二十五日の夜ふけ人しづまつて、入道(にふだう)相国(しやうこく)の宿所西八条へ、多田の蔵人行きむかつて、「行綱こそ申し入るべきこと候うて参りて候へ」と申し入れたりければ、「なにごとぞ。聞け」とて、主馬の半官盛国を出だされたり。行綱「まつたく人してかなふまじきにこそ」と申すあひだ、入道(にふだう)中門の廊に出であひ対面あり。「こよひははるかにふけぬらんに、ただ今なにごとに参りたるぞ」とのたまへば、「さん候(ざうらふ)。昼は人目しげう候ふほどに、夜にまぎれて参り
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候(さうらふ)。新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)、そのほか院中の人々このほど兵具をととのへ、軍兵をあつめられしこと、聞(き)こしめされ候ふや」。入道(にふだう)「いさ、それは山門の衆徒攻めらるべしとこそ聞け」と、こともなげにのたまへば、行綱近うゐよりて、「さは候はず。御一家を滅ぼし奉(たてまつ)らんずる結構とこそ承り候へ」と申せば、「さて、それは法皇(ほふわう)も知ろしめされたるか」。「子細にやおよび候ふ。大納言の軍兵をもよほされしことも、『院宣』とてこそもよほされ候ひしか」、「俊寛が、と申して」、「西光が、かう申して」と、ありのままにさし過ぎさし過ぎ、いちいちに申せば、入道(にふだう)大音をもつて侍ども呼びののじり給ふ。聞くもまことにおびたたし。行綱「よしなきこと申し出だして、ただ今証人にやひき出だされんずらん」と思ひければ、大野に火をはなちたる心地して、いそぎ門外へぞ逃げ出づる。
入道(にふだう)、筑後守貞能を召して、「やや、貞能。京中に謀叛の者みちみちたり。一向当家の身のうへにてあんなるぞ。一門の人々呼びあつめよ。
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侍ども召せ」とのたまへば、馳せまはつて披露す。馳せあつまる人々には、右大将宗盛、三位の中将(ちゆうじやう)知盛、左馬頭行盛以下の人々、甲冑弓矢をたいして馳せあつまる。夜中に西八条に兵六七千騎もやあらんとぞ見えし。
あくれば六月一日、いまだ暗かりけるに、入道(にふだう)、検非違使阿倍の資成を召して、「やや、資成。御所へ参りて、大膳大夫信業呼び出だして申さんずる様は、『このごろ、近う召しつかひ候ふ人々、あまりに朝恩にほこり、あまつさへ世をみださんとの結構どもにて候ふなるを、たづね沙汰つかまつり候はんことをば、君は知ろしめされまじう候(さうらふ)』と申せ」とのたまひければ、資成御所へ参りて、大膳大夫を呼び出だして、この様を申しけり。信業色をうしなひ、御前へ参りてこのよし奏しければ、法皇(ほふわう)ははや御心得あつて、「あつぱれ、是(これ)が内々はかりしことの漏れけるよ」とぞおぼしめされける。「こはなにごとぞ」とばかり仰せられて、分明の
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御返事もなかりけり。資成やや久しう待ちまゐらせけれども、そののちはさして仰せ出ださるむねもなかりければ、資成走りかへりて、「かうかう」と申(まう)せば、入道(にふだう)相国(しやうこく)「さればこそ、君も知ろしめされたり。行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)安穏(あんをん)にあるべしや」とて、筑後守貞能、飛騨守景家を召して、からめとるべき者を下知せられければ、二百騎、三百騎、押し寄せ、押し寄せ、からめとる。
まづ雑色をもつて中の御門の新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)のもとへ、「きつと申しあはすべきことあり。立ち入り給へ」と言ひつかはしたりければ、大納言「あつぱれ、是(これ)は山門の衆徒攻めらるべきこと、申しゆるさんためにこそ。法皇(ほふわう)いきどほり深ければ、いかにもかなふまじきものを」とて、わが身の上とはつゆほども知らず、うちきよげなる布衣をたをやかに着なして、八葉の車のあざやかなるに乗り、侍四五人召し具し、雑色、舎人、牛飼ひにいたるまで、つねの出仕
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よりもひきつくろひてぞ出でられける。そもそも最後とは、のちにて思ひあはせける。西八条近うなつて、兵どもあまた町々にみちみちたり。「あなおびたたし。こはなにごとやらん」と、車よりおり、門をさし入り見給へば、内に兵どもひしと並みゐたり。
中門の外に、おそろしげなる者ども二人たちむかひ、大納言の左右の手をひつぱり、たぶさとつてひき臥せ奉(たてまつ)る。「いましむべう候ふやらん」と申しければ、入道(にふだう)「あるべうもなし」とのたまふ。とつてひき起こし奉(たてまつ)り、一間なる所(ところ)におし籠めて、兵是(これ)を守護したり。大納言夢の心地して、つやつやものもおぼえ給はず。供にありつる侍ども、散々になり、雑色、牛飼ひも、牛、車をすてて逃げうせぬ。
さる程(ほど)に、法勝寺(ほつしようじ)執行(しゆぎやう)俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)、平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)、捕へて出できたる。西光法師もこのことを聞いて、院の御所法住寺殿へ鞭をあげて馳せ参る。平家の侍ども道にて行きあひ、「西八条殿へきつと参ら
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るべし。たづね聞(き)こしめすべきことあるぞ」と言ひければ、「是(これ)も法住寺殿へ奏すべきことありて参るなり」とて、通らんとしけるを、「にくい奴かな。さな言はせそ」とて、馬よりとつて引き落とし、宙にくくつて西八条に参り、坪のうちにひきすゑたり。
入道(にふだう)いかつて、「しやつ、ここへひき寄せよ」とて縁のきはへひき寄せさせ、「天性おのれが様なる下臈(げらふ)のはてを、君の召しつかはせ給ひて、なさるまじき官職をなし、父子ともに過分のふるまひして、あやまたぬ天台座主を流罪に申しおこなふ。あま(ッ)さへ入道(にふだう)をかたぶけんとす。奴ばらがなれる姿よ。ありのままに申せ」とぞのたまひける。
西光もとより剛の者なれば、ちとも色も変せず、わろびれたる気色もなく、居なほりて申しけるは、「さもさうずとよ。院中に召しつかはるる身なれば、執事別当新(しん)大納言(だいなごん)の『院宣』とてもよほされしことに、『与せず』とは申すまじ。それは与したり。ただし耳に
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とまることのたまふものかな。他人のことをば知らず、西光がまへにて過分のことをばえこそ言はれまじけれ。見ざりしことかとよ。御辺は刑部卿(きやう)の嫡子にてありしかども、十四五までは出仕もせず、故中の御門の家成の卿(きやう)の辺にたちよりしを、京童が『高平太』とこそ笑ひしか。そののち保延のころかとよ。忠盛の朝臣備前より上洛のとき、海賊の張本三十余人[* 「三十四人」と有るのを他本により訂正]からめ参られし勲功の賞に、御辺は十八か九にて、四位して兵衛佐と申せしをだに、過分とこそ時の人申しあはせられしか。殿上のまじはりをだにきらはれし人の子孫の、太政大臣までなりあがりたるや過分なるらん。侍ほどの者の、受領、検非違使になること、先例、傍例なきにあらず。などあながちに過分なるべき」と、はばかる所(ところ)なく申しければ、入道(にふだう)あまりにいかつて、そののちは物をものたまはず。「しやつが首、左右なう切るべからず。よくよくいましめよ」とぞのたまひける。足手をはさみさまざまに痛め問ふ。西光もとより陳じ申(まう)さぬうへ、糾問(きうもん)はきびしく、
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残りなうこそ申しけれ。白状四五枚に記させ、やがて口をぞ裂かれける。つひに五条西の朱雀にてぞ切られける。
その〔子(こ)〕師高、尾張の井戸田へ流(なが)されたりけるを、討手をつかはして誅(ちゆう)せらる。弟近藤(こんどう)判官(はんぐわん)師経(もろつね)、獄定せられたりしを召し出だされ、首を刎ねられ、その弟(おとと)師平(もろひら)ともに切られ、郎等(らうどう)二人(ににん)、同(おなじ)く首(くび)を刎ねられけり。天台座主流罪に申しおこなひ、十日のうちに山王大師の神罰、冥罰をたちまちにかうぶつて、あとかたもなく滅びけるこそあさましけれ。
新(しん)大納言(だいなごん)、一間なる所(ところ)におし籠められ、「是(これ)は日ごろのあらましごとの漏れ聞(き)こえたるにこそ。たれ漏らしけん。さだめて北面のうちにぞあるらん」と、思はぬことなう案じつづけておはしける所(ところ)に、内のかたより、足おとたからかに踏みならしつつ、大納言のうしろの障子をざつとあけられたり。
入道(にふだう)相国(しやうこく)、もつてのほかにいかれる気色にて、素絹の衣のみじかやか
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なるに、白き大口踏みくくみ、聖柄の刀まへだれにさしはらし、しばらくにらまへて立たれたり。ややありて、「さても御辺をば、平治の乱れのとき、すでに誅(ちゆう)せらるべかりしを、内府が様々に申して、御辺の首をば継ぎ奉(たてまつ)り候ひしぞかし。それになにの遺恨あれば、この一門ほろぼすべき御結構は候ひけるぞ。されども、当家の運尽きぬによりて、是(これ)まで迎へ奉(たてまつ)る。日ごろの結構の次第、ただ今直にうけたまはり候はん」とのたまへば、大納言「まつたくさること候はず。人の讒言にてぞ候ふらん。よくよく御たづねあるべう候(さうらふ)」とぞ申されける。入道(にふだう)、言はせもはてず、「人やある」と召されけり。筑後守参りたり。「西光が白状持つて参れ」とのたまへば、やがて持つて参る。おし返し、おし返し、二三返読み聞かせ、「あらにくや。このうへは、されば、なにと陳ずるぞ」とて、大納言の顔にさつとなげかけ、障子をはたとたててぞ出でられける。
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入道(にふだう)なほも腹をすゑかね給ひて、「経遠。兼康」と召されければ、難波の次郎、瀬尾の太郎参りたり。「あの男、とつて庭へひきおろせ」とぞのたまひける。二人の者どもかしこまつて侍ひけるが、「小松殿の御気色いかがあるべう候ひなん」と申しければ、「よしよし。さればなんぢらは内府が命をおもくして、入道(にふだう)が仰せをかろんずるござんなれ」とのたまへば、「あしかりなん」とや思ひけん、大納言のもとどりをとつて、庭へひきおろし奉(たてまつ)る。とつておさへて、「いかやうにも懲(こら)す[* 「ころす」と有るのを他本により訂正]べうや候ふ」と申せば、「ただ、をめかせよ」とぞのたまひける。二人の者ども、耳に口をあて、「いかやうにも御声を出だすべう候(さうらふ)」とささやきて、もとどりをとつておし臥せ奉(たてまつ)る。二声三声ぞをめかれける。或(あるい)は業の秤にかけ、或(あるい)は浄頗梨(じやうはり)の鏡にひきむけ、娑婆世界の罪人を、罪の軽重によ(ッ)て、阿防、羅刹どもが呵責すらんもかくやとぞおぼえたる。たとへば、「蕭樊(せうはん)とらはれ、韓彭(かんはう)すしびしほにせらる。兆錯(てうそ)戮(りく)をうく。
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周魏(しうぎ)つみせらる。蕭何(せうか)・樊噌(はんくわい)・韓信(かんしん)・彭越(はうゑつ)、是等(これら)はみな漢の高祖の忠臣なりしかども、小人の讒言によ(ッ)て過敗(くわはい)の恥(はぢ)をうく」と言へり。大納言「わが身のかくなるにつけても、子息丹波の少将以下いかなる目にかあはん」と、くやまれけるぞいとほしき。さしもあつき六月に、装束をだにもくつろげず、胸せきあぐる心地して、一間なる所(ところ)におし籠められて、汗もなみだもあらそひ流れつつましましけり。
第十四句 小教訓
さるほどに、小松殿善悪にさわぎ給はぬ人にて、はるかにあつて車に乗り、嫡子権亮少将、車のしり輪に乗せ奉(たてまつ)り、衛府四五人、随身三人召し具して、兵一人も具し給はず、まことにおほやう
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げにてぞおはしける。車よりおり給ふ所(ところ)に、筑後守貞能つつと参り、「など、是(これ)ほどの御大事に、軍兵をば召し具せられ候はずや[* 「候はんや」と有るのを他本により訂正]」と申しければ、小松殿「『大事』とは天下の大事をこそ言へ、わたくしを『大事』と言ふ様やある」とのたまへば、兵仗帯したる者ども、みなそぞろ退きてぞ見えける。「大納言をばいづくに置かれたるやらん」とて、かしこここの障子をひきあけ、ひきあけ見給へば、ある障子のうへに、蜘手(くもで)結(ゆ)うたる所(ところ)あり。「ここやらん」とて、あけられたれば、大納言おはしけり。うつぶして目も見あげ給はず。大臣「いかにや」とのたまへば、そのとき目を見あげて、うれしげに思はれたりし気色、「地獄にて罪人が地蔵菩薩を見奉(たてまつ)るらんも、かくや」とおぼえてあはれなり。
大納言「いかなることにて候ふやらん。憂き目にこそ 遇ひ候へ。さてわたらせ給へば、『さりとも』と頼みまゐらせ候(さうらふ)。平治にもすでに失すべう候ひしを、御恩をもつて首をつぎ、位正二位、官大納言
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にいたつて、すでに四十にあまり候(さうらふ)。御恩こそ生々世々にも報じつくしがたう存じ候へ。おなじくは今度もかひなき命をたすけさせおはしませ。命だに生きて候はば、出家入道して、高野、粉河にとぢこもり、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん」とのたまへば、小松殿「人の讒言にてぞ候ふらん。失ひ奉(たてまつ)るまでのことは候ふまじ。たとひさも候へ、重盛かくて候へば、御命は代り奉(たてまつ)るべし」とて出でられけり。
大臣、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御前に参りて申されけるは、「あの大納言左右なう失はれ候はんことは、よくよく御ばからひいるべう候(さうらふ)。先祖(せんぞ)修理大夫(しゆりのだいぶ)顕季(あきすゑ)、白河(しらかは)の院(ゐん)に召しつかはれてよりこのかた、家にその例なき正二位の大納言にいたつて、当時(たうじ)君(きみ)の無双(ぶさう)の\御(おん)いとほしみなり。左右なう首を刎ねられんこと、いかがあるべう候はんや。都のほかへ出だされたらんには、こと足り候ひなん。かくはまた聞(き)こしめすとも、もしそらごとにても候はば、いよいよ不便のことに
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候(さうらふ)」
「北野の天神は、時平の大臣の讒奏(ざんそう)により憂き名を西海の波に流(なが)し、西の宮の大臣(おとど)は、多田の満仲が讒言によ(ッ)て恨みを山陽の雲に寄す。是(これ)みな無実なりしかども、流罪せられ候ひき。延喜の聖代、安和の帝の御ひが事ぞ承る。上古なほかくのごとし。いはんや末代においてをや。賢王なほ御あやまりあり、いはんや凡人においてをや。すでに召し置かれ候ふうへは、いそぎ失はれずとも、なにのくるしきことの候ふべき。『罪のうたがひをば軽くせよ。功のうたがひをば重んぜよ』とこそ見えて候へ。重盛かの大納言が妹にあひ連れて候(さうらふ)。維盛また大納言の聟(むこ)なり。『か様にしたしければ申す』とやおぼしめされん、まつたくその儀にて候はず。ただ世のため人のためを存じてかやうに申し候ふなり」
「一年保元に故小納言入道(にふだう)信西が執権のときにあひ当つて、嵯峨の天皇の御宇、右兵衛尉藤原の仲成(なかなり)が誅(ちゆう)せられてよりこのかた、
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『死罪ほど心憂きことなし』とて、君二十五代のあひだ絶えておこなはれざる死罪を、信西はじめておこなひ、宇治の悪左府のしかばねを堀りおこし実検せしことどもをば、あまりなるまつりごととこそおぼえ候しか。されば、いにしへの人にも『死罪をおこなはるれば海内に謀叛のともがら絶えず』とこそ申しつたへて候へ。そのことばにつきて、なか二年ありて、平治に事いできて、信西が生きながら埋もれしを掘り出だし、首を刎ねられ、大路をわたされて、『保元に申しおこなひしことの、いく程もなうて身のうへに報ひ候ひにき』と思へば、おそろしうこそ候ひしか。是(これ)はさせる朝敵にもあらず。かたがたおほそれあるべし。御栄華残る所(ところ)なければ、おぼしめすことあるまじけれども、子々孫々の繁昌をこそあらまほしう候へ。『父祖の善悪は、必(かなら)ず子孫に報ふ』と見えて候(さうらふ)。『積善(しやくぜん)の家(いへ)には余慶(よけい)あり、積悪(しやくあく)の門(かど)には余殃(よあう)とどまる』とこそ承り候へ。かの大納言、今夜失はれ候はんこと、しかるべうも候はず」と申さ
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れたりければ、入道(にふだう)「げにも」とや思はれけん、死罪をば思ひとどまり給ひけり。
大臣中門の廊におはして、侍どもにむかつて仰せけるとて、「なんぢら、あの大納言左右なう切ることあるべからず。入道(にふだう)腹の立ちのまま、ひが事しいだして、必(かなら)ず悔み給ふべし。ものさわがしきことしいだして、重盛うらむな」とのたまへば、武士ども舌を振りて、をののきあへり。
「さても、今朝、経遠、兼康が大納言に情なうあたりけること、かへすがへすも奇怪なり。重盛がかへり聞かん所(ところ)を、などかはばからざらん。片田舎の者どもは、いつもかくあるぞ」とのたまへば、難波の次郎、瀬尾の太郎もふかく恐れ入りたりけり。大臣は、かく下知して小松殿へぞかへられける。
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第十五句 平宰相、少将乞ひ請くる事
大納言の侍ども、中の御門烏丸の宿所へ走りかへり、このよしいちいちに申せば、北の方以下の女房たちも、をめきさけび給ひけり。「『少将殿をはじめまゐらせて、公達もとられさせ給ふべし』とこそ承り候へ。上をば『夕さり失ひまゐらすべし』と候(さうらふ)。是(これ)へも追捕(ついぶ)[* 「ついふく」と有るのを他本により訂正]の武士どもが参りむかひ候ふなるに、いづちへもしのばせ給はでは」と申せば、「われ残りとどまる身として、安穏にてはなにかはせん。ただ同じ一夜の露とも消えんこそ本意なれ。さても今朝をかぎりと思はざりけるかなしさよ」とて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。すでに追捕(ついぶ)[* 「ついふく」と有るのを他本により訂正]の武士どもの近づくよしを申しければ、「さればとて、ここにてまた恥がましき目をみんもさすがなり」とて、十になり給ふ姫君、八つになり給ふ若君、車にとり乗り給ひて、いづくともなく
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やり出だす。中の御門を西へ、大宮をのぼりに北山のほとり雲林院へぞ入れまゐらせける。そのほとりなる僧坊におろし置き奉(たてまつ)り、御供の者どもも、身の捨てがたさに、たれに申しつけおき奉(たてまつ)るともなく、いとま申してちりぢりになりにけり。いまは幼き人々ばかり残りとどまつて、またこととふ人もなくてぞおはしける。
北の方の心のうち、おしはかられてあはれなり。暮れゆくかげを見給ふにつけても、「大納言の露の命、この暮れをかぎり」と思ひやるにも消えぬべし。いくらもありつる女房、侍ども、世におそれ、かちはだしにてまどひ出づ。門をだにもおしたてず。馬どもは厩(むまや)にたて並びたれども、草飼ふ者も見えず。夜あくれば、馬、車、門にたて並べ、賓客座につらなり、あそびたはぶれ、舞ひをどり、世を世とも思ひ給はずこそ昨日まではありしに、夜(よ)の間(ま)にかはるありさまは、「生者必滅」のことわりは目の前にこそあらはれけれ。「楽しみ
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尽きて、悲しみ来る」と江相公の筆のあと、思ひ知られてあはれなり。
丹波の少将は、院の御所法住寺殿に上臥して、いまだ出でられざりけるに、大納言の侍ども、いそぎ法住寺殿へ参りて、少将を呼び出だし奉(たてまつ)り、「上は西八条に今朝すでにおし籠められさせ給ひぬ。公達もみなとらはれさせ給ふべしとこそ承り候へ」と申せば、少将「など、さらば、それほどのことをば宰相のもとよりは告げざるやらん」とのたまひもはてぬに、つかひあり。「なにごとにて候ふやらん、西八条より『きつと具し奉(たてまつ)れ』と候(さうらふ)。いそぎ出でさせ給へ」と申しければ、少将やがて心得て、院の近習の女房たち呼び出だし奉(たてまつ)り、「などやらん、世の中ゆふべよりものさわがしく候ひしを、『いつもの山法師のくだるか』なんどよそに思ひて候へば、はや成経(なりつね)が身(み)のうへにて\候(さうら)ふなり。大納言(だいなごん)夕さり失はれ候(さうら)はんなれば、成経(なりつね)も同罪にてこそ候はんずらめ。八歳のとき
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より御所へ参りはじめ、十二より朝夕龍顔(りゆうがん)に近づきまゐらせ、朝恩にのみあきみちてこそ候ひつるに、今いかなるめにあふべく候ふやらん。今、御所へも参り、君をも見まゐらせたう候へども、かかる身に罷(まか)りなりて候へば、はばかりを存ずるなり」とぞ申されける。
女房たち、いそぎ御所へ参り、このよしを奏せらる。「さればこそ、今朝入道(にふだう)がつかひにはや心得つ。是等(これら)が内々はかりしことのあらはれぬるにこそ。さるにても、成経是(これ)へ」と御気色ありければ、世はおそろしけれども、参られたり。法皇(ほふわう)御覧じて、御涙にむせばせおはします。上より仰せ出でらるるむねもなし。少将も涙にかきくれて、御前をまかり出づ。法皇(ほふわう)、うしろをはるかに御覧じおくらせ給ひて、「ただ末の世こそ心憂けれ」と、「是(これ)がかぎりにて、御覧ぜられぬこともやあらんずらん」とて、御涙を流(なが)させ給ふぞかたじけなき。少将、御所をまかり出でられけるに、院中の
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人々、少将のたもとをひかへ、袖をひき、涙を流(なが)さぬはなかりけり。
少将は舅の宰相のもとへ出でられたれば、北の方、近う産すべき人にておはしけるが、今朝よりこのなげきうちそへて、すでに命も消え入る心地ぞせられける。少将御所をまかり出でられけるより、ながるる涙つきせぬに、この北の方のありさまを見給ひては、いとどせんかたなげにぞ見えられける。少将の乳母に、六条といふ女房あり。少将の袖をとり、「御産屋のうちより参りはじめ、君をそだてまゐらせて、わが身の年ゆくをも知らず、去年より今年は大人しくならせ給ふことのみ、うれしと思ひまゐらせて、すでに二十一年なり。あからさまにもはなれまゐらせず。院内へ参らせ給ひて、おそく出でさせ給ふだにも、心もとなく思ひまゐらせつるに」とて泣きければ、少将「いたうな嘆きそ。宰相殿のさてもおはしければ、命ばかりはなどか申しうけられざらん」と、こしらへなぐさめ給へ
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ども、六条、人目も知らず泣きもだえけり。
さるほどに、西八条より「少将おそし」といふ使しきなみのごとし。宰相「ともかくも行きむかうてこそ」とて出でられけり。少将をも同じ車に乗せてぞ出で給ふ。宿所には女房たち、亡き人なんどをとり出だす心地して、みな泣きふし給ひけり。保元、平治よりこのかた、たのしみさかえはありしかども、憂きなげきはなかりしに、この宰相ばかりこそ、よしなき聟(むこ)ゆゑに、かかるなげきはせられけれ。西八条近うなりければ、宰相車をとめて、まづ案内を申し入れられければ、入道(にふだう)「少将はこの内へはかなふまじ」とのたまふあひだ、そのへん近き侍の宿所におろし奉(たてまつ)り、兵ども守護しけり。宰相には離れ給ひぬ、少将の心のうちこそかなしけれ。
宰相(さいしやう)中門(ちゆうもん)にましまして、入道(にふだう)相国(しやうこく)に見参に入らんとし給へども、入道(にふだう)相国(しやうこく)出でもあはれず。源(げん)大夫(だいふ)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)をもつて申されけるは、「よしなき者にしたしうなり候ひて、かへすがへすも悔しく候へども、
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今はかひも候はず。そのうへあひ具して候ふ者、近う産すべきとやらん承り候ふが、このほどまた悩むこと候ふなるに、このなげきを今朝よりうちそへて、身々ともならぬさきに、命も絶え候ひなんず。しかるべく候はば、成経を教盛にしばらくあづけさせおはしませ。なじかはひが事をばさせ候ふべき」と申されければ、季貞(すゑさだ)この様を、参りて申すに、入道(にふだう)「あつぱれ、この例の宰相がものに心得ぬよ」とて、しばしは返事もなかりけり。宰相、中門にて「いかに、いかに」と待たれけり。
ややありて、入道(にふだう)のたまひけるは、「行綱このこと告げ知らせずは、入道(にふだう)、安穏にえやはあるべき。当家また失せなんには、御辺とてもつつがなうはおはせじ。この少将といふは、新(しん)大納言(だいなごん)の嫡子なり。ものをなだむるにも様にこそよれ。えこそはゆるすまじけれ」とのたまへば、季貞(すゑさだ)かへり参りて申せば、宰相世にも本意なげにて「仰せのむねおしかへし申すことは、そのおほそれすくなからず候へ
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ども、保元、平治よりこのかた、大小事に身をすてて、御命にもかはり奉(たてまつ)り、あらき風をもまづ防ぎまゐらせんとこそ存じ候ひしか。こののちもいかなる御大事も候へ、教盛こそ年老いて候ふとも、子どもあまた候へば、一方の御方にはなどかならでは候ふべき。それに、『成経しばらくあづからん』と申すを御ゆるされなきは、一向教盛を『二心ある者』とおぼしめさるるにこそ。このうへは、ただ身のいとまを賜はつて、出家入道をもし、片山里にこもりゐて、一すぢに後世菩提のつとめをいとなみ候はん。よしなき憂き世のまじはりなり。世にあればこそ望みもあれ。望みかなはねばこそ恨みもあれ。しかじ憂き世をいとひ、まことの道に入りなんには」とぞのたまひける。
季貞(すゑさだ)「にがにがしきことかな」と思ひて、この様をまた参りて申す。「門脇殿はおぼしめしきりたるげに候ふものを」と申せば、入道(にふだう)おほきにおどろき給ひて、「出家入道こそけしからずおぼえ候へ。
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さらば成経をば御辺の宿所へしばらく置かれ候へ」と、しぶしぶにぞのたまひける。季貞(すゑさだ)この様をまた参りて申す。宰相よにもうれしげに、「あはれ、子をば人の持つまじきものかな。わが子の縁にむすぼほれずんば、是(これ)ほど教盛心をば砕かじ」とてぞ出でられける。
少将待ちうけて、「さて、なにと候ふやらん」と申されければ、宰相「されば、入道(にふだう)かなふまじきよしのたまひつるを、出家入道まで申したれば、『しばらく宿所に置き奉(たてまつ)れ』とこそのたまひつれ、されども、始終はよかるべしともおぼえず」とのたまひければ、少将「されば、御恩をもつてしばしの命は延び候ひぬるにこそ。さても大納言のことはいかにと聞(き)こしめされ候ふやらん。もし夕さり失はれ候はんにおいては、成経も命生きてなにかせん。同じ御恩にて候はば、ただ一所にて、いかにもならん様を申させ給ふべし[* 「へし」と有るのを他本により訂正]」と申されければ、そのとき宰相よにも心くるしげにて、「それも小松
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の内府の、とかう申されければ、しばらく延び給ふ様にこそ承り候へ。御心やすくおぼしめせ」とのたまへば、少将手をあはせてぞよろこばれける。「子ならざらん者は、誰かただ今わが身のうへをばさしおいて、是(これ)ほどによろこぶべき。まことの契りは親子の中にぞありける。されば、子をば人の持つべかりけるものかな」と、やがて思ひかへされける。
今朝の様にまた同車してこそかへられけれ。宿所には女房たち、死したる人のただ今生きかへりたる心地して、みなよろこびの涙をぞ流(なが)しあはれける。この門脇の宰相と申すは、入道(にふだう)の宿所ちかく、門脇といふ所(ところ)にましましければ、「門脇殿」とぞ申しける。
第十六句 大教訓
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入道(にふだう)相国(しやうこく)、か様に人々あまたいましめおかれても、なほもやすからずや思はれけん、「仙洞をうらみ奉(たてまつ)らばや」とぞ申されける。すでに赤地の錦の直垂に、白金物うちたる黒糸威(くろいとをどし)の腹巻(はらまき)、胸板せめて着給ふ。先年安芸守たりしとき、厳島の大明神より、霊夢をかうぶりて、うつつに賜はられたる秘蔵の手鉾の、銀にて蛭巻したる小長刀、つねに枕をはなたず立てられたるを脇にはさみ、中門の廊にこそ出でられけれ。その気色まことにあたりをはらつて、ゆゆしうぞ見えける。筑後守貞能を召す。貞能、木蘭地(もくらんぢ)の直垂(ひたたれ)に緋威(ひをどし)の鎧(よろひ)着て、御前にかしこまつてぞ侍ひける。「やや、貞能。このこといかが思ふ。一年、保元に平右馬助忠正をはじめて、一門なかばすぎて新院の御方へ参りにき。中にも一の宮の御ことは、故刑部卿(きやう)の養君にてわたらせ給ひしかば、かたがたに身放ちまゐらせがたかりしかども、故院の御遺誡にまかせ奉(たてまつ)りて、御方にて先を駆けたりき。是(これ)一つの奉公なり。つぎに平治の乱れのとき、信頼、
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義朝、内裏にたてこもり、天下くらやみとなりしを、命をすて、追ひ落し、経宗、惟方を召しいましめしよりこのかた、君の御ために身を惜しまざること、すでに度々におよぶ。たとひ人いかに申すとも、この一門をばいかでか捨てさせ給ふべき。それに、成親(なりちか)といふ無用のいたづら者(もの)、西光(さいくわう)と云(い)ふ下賎(げせん)の不当人(ふたうじん)が\申(まう)す\事(こと)につかせ給ひて、この一門滅ぼすべき由(よし)、法皇(ほふわう)御結構(ごけつこう)こそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)なれ。\此(この)\後(のち)も讒奏(ざんそう)する者(もの)あらば、当家(たうけ)追罰の院宣下されんとおぼゆるぞ。朝敵となりなんのちはいかに悔ゆるとも益あるまじ。さらば、世をしづめんほど、法皇(ほふわう)を是(これ)へ御幸をなしまゐらするか、しからずは、鳥羽の北殿へ遷し奉(たてまつ)らんと思ふはいかに。その儀ならば、北面の者どもの中に、さだめて矢をも一つ射んずらん。侍どもに『その用意せよ』と触るるべし。大方は入道(にふだう)、院方の奉公においては、はや思ひ切つたり。馬に鞍おけ。着背長とり出だせ」とのたまひける。
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主馬の判官盛国、小松殿へ馳せ参じ、涙を流(なが)せば、大臣「いかにや。大納言斬られぬるか」とのたまへば、「さは候はず。『御院参あるべし』とて、上すでに着背長を召されて候(さうらふ)。侍共(さぶらひども)\皆(みな)うち立つて、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へとて、ただ今(いま)寄せられ候(さうらふ)。法皇(ほふわう)をも鳥羽の北殿へ御幸とは聞(き)こえ候へども、内々は『鎮西のかたへ移し奉(たてまつ)るべし』とこそ承り候へ」と申せば、小松殿「いかでかさる事あるべき」とは思はれけれども、「今朝の入道(にふだう)の気色は、さも物狂はしきこともやましますらん」とて、いそぎ車に乗り、西八条へぞおはしける。
門のうちへさし入りて見給へば、入道(にふだう)すでに腹巻を着給へる上(うへ)、一門(いちもん)の卿相(けいしやう)雲客(うんかく)数十人(すじふにん)、おもひおもひの直垂、色々の鎧着て、中門の廊に、二行に着座せられたり。そのほか諸国の受領、衛府、諸司は縁に居こぼれ、庭にもひしと並み居たり。旗竿をひきそばめひきそばめ、馬の腹帯をかため、兜の緒をしめて、ただ今すでにみなうち
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たたれんずる気色どもなるに、小松殿は烏帽子直衣に大文の指貫のそばをとり、しづかに入り給ふ。ことのほかにぞ見えられける。太政入道は遠くより見給ひて、「例の、内府[* 「大夫」と有るのを他本により訂正]が世を表(へう)する[* 「ひうする」と有るのを他本により訂正]様にふるまふものかな。陳ぜばや」とは思はれけれども、子ながらも、内にはすでに五戒をたもち、慈悲をさきとし、外には五常を乱らず、礼儀をただしうし給ふ人なれば、あのすがたに腹巻を着てむかはんこと、さすがおもはゆく恥かしうや思はれけん、障子をすこし引きたてて、素絹の衣を腹巻の上に着給ひたりけるが、胸板の金物すこしはづれて見えけるを、かくさんと、しきりに衣の胸を引きちがへ、引きちがへぞし給ひける。
小松殿は弟の右大将宗盛の座上につき給ふ。相国ものたまふことなく、大臣も申し出ださるる旨もなし。ややあつて、入道(にふだう)のたまひけるは、「やや、成親(なりちか)の謀叛は、事の数にもあらざりけり。是(これ)はただ一向法皇(ほふわう)の御結構にて候ひけるぞ。されば世をしづめんほど、
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法皇(ほふわう)を鳥羽の北殿へ御幸なして奉(たてまつ)らばや。しからずは御幸是(これ)へなりともなしまゐらせんと思ふはいかに」とのたまへば、小松殿聞きもあへ給はず、はらはらとぞ泣かれける。入道(にふだう)、「いかに、いかに」とあきれ給ふ。
ややありて、大臣涙をおしのごひて申されけるは、「この仰せを承り候ふに、御運ははや末になりぬとおぼえ候(さうらふ)。人の運命のかたぶかんとては、必(かなら)ず悪事を思ひたち候ふなり。かたがた御ありさまを見奉(たてまつ)るに、さらに現ともおぼえ候はず。さすが、わが朝は、粟散(そくさん)辺地(へんぢ)とは申しながら、天照大神の御子孫、国の主として、天の児屋根の命の御末、朝の政をつかさどり給ひてよりこのかた、太政大臣の官にいたるほどの人(ひと)の甲冑(かつちう)をよろひましまさんこと、礼儀をそむくにあらずや。就中(なかんづく)出家(しゆつけ)の御身(おんみ)也(なり)。夫(それ)三世(さんぜ)の諸仏(しよぶつ)、解脱幢相(げだつどうさう)の法衣(ほふえ)を脱ぎすてて、たちまちに甲冑(かつちう)を着給はんこと、内には破戒無慚の罪をまねき、外にはまた仁義礼智信の法にもそむき
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候ひなんず。かたがたおそれある申しごとにて候へども、世にまづ四恩候(ざうらふ)。天地の恩、国王の恩、父母の恩、衆生の恩是(これ)なり。是(これ)を知れるをもつて人倫とす。されどもその中にもつとも重きは朝恩なり。『普天の下、王土にあらずといふことなし』。されば、潁川(えいせん)の水(みづ)に耳(みみ)をあらひ、首陽山(しゆやうざん)に蕨を折りし賢人も、勅命をばそむかず、礼儀をば存ずとこそ承れ。いはんや先祖にもいまだ聞かざりし、太政大臣をきはめ給ふ。いはゆる重盛が無才愚暗(むさいぐあん)の身(み)をもつて、蓮府槐門(れんぷくわいもん)の位(くらゐ)に至(いた)る。しかのみならず、国郡(こくぐん)半(なかば)一門の所領となり、田園ことごとく一家の進止たり。是(これ)希代の朝恩にあらずや。今是等(これら)の莫大の御恩をおぼしめしわすれ給ひて、みだれがはしく君をかたぶけまゐらせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にもそむきなんず」
「日本は是(これ)神国なり。神は非礼をうけ給はず。しかれば君のおぼしめし立つ所(ところ)、道理なかばなきにあらずや。中にもこの一門は、
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代々朝敵をたひらげて、四海の逆浪をしづむることは、無双の忠なれども、その賞にほこること、傍若無人とも申しつべし。されば聖徳太子の十七条の御憲法にも、『人みな心あり。心おのおのおもむきあり。彼を是とし、我を非とし、我を是とし、彼を非とす。是非(ぜひ)の理(ことわり)誰(たれ)かよく定(さだ)むべき。相共(あひとも)に賢愚(けんぐ)なり。環(たまき)の端なきがごとし。是(これ)をもつて、たとひ人怒(いか)るといふとも、かへりて我とがをおそれよ』とこそ見えて候へ。しかれども、御運いまだ尽きせざるによ(ッ)て、この事すでにあらはれ候ひぬ。そのうへ大納言召しおかれ候ふうへは、たとひ君いかなることをおぼしめしたつとも、なにのおそれか候ふべき。所当の罪科をおこなはれ候ふうへ[* 「その上しよたうのさいくわをおこなはれ候うへは」と有るのを斯道本により訂正]、今は退いて事のよし申させ給はば、君の御ためにはいよいよ奉公の忠勤をつくし、民のためにはますます撫育の哀憐をいたさしめ給はば、神明の加護にもあづかり、仏陀の冥慮にそむくべからず。神明仏陀の感応あらば、君もおぼしめしなほすことなどか候はざるべき。君と臣とをくらぶる
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に、君につき奉(たてまつ)るは忠臣の法なり。道理とひが事をならぶるに、いかでか道理につかざるべき。是(これ)は君の御理(ことわり)にて候へば、かなはざらんまでも、重盛は院中に参りて守護し奉(たてまつ)らばやとこそ存じ候へ。そのゆゑは重盛叙爵より、今大臣の大将にいたるまで、しかしながら朝恩にあらずといふことなし。その恩の[* 「を」と有るのを他本により訂正]おもきことを思へば、千顆万顆(せんくわばんくわ)の玉(たま)にもこえ、その徳のふかき色を案ずれば、一入再入の紅にもすぎたるらんとこそおぼえ候へ。しかれば院中へ参じて、法皇(ほふわう)を守護し奉(たてまつ)らんと存じ候(さうらふ)。命にかはらんとちぎりて候ふ侍ども、一二千人も候ふらん。かれらをあひ具して、防ぎ奉(たてまつ)らんには、もつてのほかの大事にてこそ候はんずらめ。かなしいかな、君(きみ)の\御(おん)ために奉公(ほうこう)の忠(ちゆう)をいたさんとすれば、迷盧(めいろ)八万(はちまん)の頂(いただき)よりもなほ高き親の恩、たちまちに忘れんとす。いたましきかな、不孝の罪をのがれんとすれば、君の御ためにすでに不忠の逆臣ともなりぬべし。進退すでにきはまれり。是非いかにもわきまへがたし」
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「ここに老子の御詞こそ思ひ知られて候へ。『功なり名とげて、身しりぞけ位をさげざるときんば、その害にあふ』と言へり。かの蕭何(せうが)は大功(たいこう)かたへ[* 「かたい〈夏台と傍書〉」と有るのを他本により訂正]にこえたるによつて、官大相国にいたり、剣を帯し沓をはきながら殿上へのぼることをゆるされしかども、叡慮にそむき、高祖ことにおもくいましめ給へり。か様の先蹤(せんじよう)を思ふにも、富貴といひ、栄華といひ、朝恩といひ、重職といひ、御身にとつてはことごとくきはめ給ひぬれば、御運の尽きさせ給はんこと、いまは難かるべからず。『富貴(ふつき)の家(いへ)に禄位(ろくゐ)重畳(ぢゆうでふ)せり。ふたたび実(み)なる木(き)は其(その)\根(ね)必(かなら)ずいたむ』と見えて、心細うこそ候へ。いつまでか命生きて乱らん世を見候ふべき。ただ末の世に生をうけて、かかる憂き目にあひ候ふ重盛が果報のほどこそつたなう候へ。ただ今も侍一人に仰せつけて、御坪のうちへ召し出だされ、重盛が首を刎ねられんことは、やすき御ことにてこそ候はめ。そののちはともかく
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もおぼしめすままなるべし」とて、涙を流(なが)し給へば、直衣の袖もしぼるばかりなり。是(これ)を見て、その座に並みゐたる一門の卿相雲客よりはじめてみな袖をぞぬらされける。
入道(にふだう)、「いやいや是(これ)までは思ひもよらず。『悪党どもが申すことにつかせ給ひて、ひが事なんどもや出で来んずらん』と思ふばかりにてこそ候へ」とのたまへば、大臣、「たとひひが事候ふとも、君をばなにとかしまゐらせ給ふべき」とて、つい起つて中門にぞ出でられける。侍どもにのたまひけるは、「今申しつることをば、なんぢら承らずや。今朝より是(これ)に侍ひて、か様のことども申ししづめんと思ひつれども、ひたさわぎに見えつれば、かへりつるなり。院参の御供においては、重盛が首を召されんを見てつかまつるべし。さらば人参れ」とて、小松殿へぞかへられける。
そののち主馬の判官盛国を召して、「『重盛こそ天下の大事を、別して聞き出だしたれ。われをわれと思はん者どもは、いそぎ物具し
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て参るべし』このよし披露せよ」とのたまへば、主馬の判官承り、馳せ参りて披露す。「おぼろけにてはさわぎ給はぬ人の、かかる触れのあるは、別の子細あるにこそ」とて、物具して、「われも」「われも」と馳せ参る。淀、羽束瀬(はつかせ)[* 「はつせ」と有るのを他本により訂正]、宇治(うぢ)・岡(をか)の屋(や)、日野(ひの)・勧修寺(くわんじうじ)・醍醐(だいご)、小栗栖(おぐるす)、梅津(むめず)・桂(かつら)・大原(おほはら)、志津原、芹生の里にあふれゐたる兵ども、或(あるい)は鎧きて兜を着ぬもあり、或(あるい)は矢負うて弓を持たぬ者もあり、片鐙ふむやふまずに、あわてさわいで小松殿へ馳せ参る。
西八条に数千騎ありつる兵ども、「小松殿にさわぎ事あり」と聞(き)こえければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)にかうとも申さず、ざざめきつれて、小松殿へぞ参りける。西八条には、青女房、筆取りなんどぞ侍ひける。弓矢にたづさはるほどの者、一人も漏るるはなかりけり。入道(にふだう)相国(しやうこく)、大きにおどろき給ひて、筑後守貞能を召して、「内府がなにと思うて是等(これら)を呼びとるやらん。是(これ)にて言ひつる様に、浄海がもとに
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討手なんどをもや向けんずらん」とのたまへば、「人も人にこそより候へ。いかでかさること候ふべき。のたまひつることも、いまさだめて御後悔ぞ候ふらん」と申せば、入道(にふだう)「いやいや、内府に仲違うてはかなふまじ」とて、腹巻を脱ぎおき、素絹の衣に袈裟うちかけ、法皇(ほふわう)に向かひまゐらせんずることも、はや思ひとどまり、狂ひさめたる気色にて、いと心もおこらぬそら念誦してこそおはしけれ。
小松殿には、主馬の判官承りて、着到つけけり。馳せ参りたる勢一万余騎とぞ注しける。着到披見ののち、侍どもに対面して、「このころなんぢらが、重盛に申しおきしことばの末たがはずして、か様に参りたるこそ神妙なれ。異国にさることあり。周の幽王は、褒■[女+以](ほうじ)といふ最愛の后を持ち給へり。ただし幽王の心にかなはぬこととては、『褒■[女+以](ほうじ)笑みをふくまず』とて、幼少よりわらふことなかりき。幽王本意ないことにしておはしけるに、その国のならひに、天下
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に事出で来るとき、烽火とて、都よりはじめて、所々に火をあげ、太鼓をうちて、兵を召すはかりごとあり。そのころ兵革おこつて、天下に烽火をあぐ。后、是(これ)を見給ひて、『あな不思議や。されば火もあれほどに高くあがりけるよ』と、そのときはじめて笑み給ふ。一たび笑めば、百の媚あり。幽王うれしきことにして、『この后烽火を愛し給へり』とて、そのことなく、つねに烽火をあげ給ふ。諸候来たるに、敵もなければ、すなはち去りぬ。か様にすること度々におよびければ、兵はや馳せ参らざるほどに、隣国より凶徒起つて、幽王を討たんとするに、烽火あげ給へども、例の后の火にならひて、参る者もなかりけり。そのとき、都かたぶいて、幽王敵にとらはれぬ。か様のことがあるぞとよ。是(これ)より召さんには、自今以後、ただ今のごとく参るべし。不思議の事を聞き出だしつるあひだ召したるなり。されども聞きなほしつれば、かへれ」とて、みなかへされけり。
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まことにはせさることも聞き出だされざりけれども、いささか父をいさめ申されつることばにしたがひて、わが身に勢のつくかつかぬかをも知り給ひぬべきためなり。いかでか父といくさをし給ふべきにはあらねども、入道(にふだう)の心をも、やはらげ奉(たてまつ)らんとのはかりごととぞおぼえたる。
大臣の存知のむね、君のためには忠あり、父のためには孝あり、文宣王のたまひけるにたがはず。法皇(ほふわう)も是(これ)を聞(き)こしめして、「今にはじめぬことなれども、内府が心のうちこそはづかしけれ。怨をば恩をもつて報ぜられたる」とぞ仰せける。果報めでたうて、大臣の大将にこそ至(いた)らめ、容儀体佩(ようぎたいはい)\人(ひと)に勝(すぐ)れ、才智(さいち)才覚(さいかく)さへ世(よ)に越えたる」とぞ、時の人感ぜられける。「国(くに)に諫(いさ)むる[* 「いさめる」と有るのを他本により訂正]臣(しん)あれば、その国必(かなら)ずやすし、家に諫(いさ)むる[* 「いさめる」と有るのを他本により訂正]子あれば、その家、必(かなら)ず正し」とも、か様のことをや申すべき。
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第十七句 成親流罪・少将流罪
同じき六月二日、大納言をば公卿の座へ出だしたてまつて、御物したてて参らせたれども、御覧じもいれず。見まはし給へば、前後に兵みちみちたり。我が方様の者は一人も見えず。やがて車を寄せて、「とくとく」と申せば、大納言、心ならず乗り給ふ。ただ身にそふものとては、つきせぬ涙ばかりなり。朱雀を南へ行けば、大内山をも今はよそにぞ見給ひける。年ごろ見なれし者どもも、今このありさまを見て、涙流(なが)し袖をしぼらぬはなし。まして都に残りとどまり給ふ北の方、公達の心のうち、おしはかられてあはれなり。「たとひ重科をかうぶつて、遠国へ行く者も、ひと一両人はそへぬ様やある」と、車のうちにてかきくどき、泣き給へば、近う侍ふ武士ども、みな鎧の袖をぞぬらしける。鳥羽殿を過ぎ給へば、「北の
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御所へ御幸なりし御供には一度もはづれざしりものを」とて、わが山荘(さんざう)の州浜殿(すはまどの)とてありしも、よそに見てこそ通られけれ。南の門にもなりしかば、「舟おそし」とぞいそぎける。大納言「是(これ)はいづちやらん。同じくは、失はれば、都近きこの辺にてもあれかし」とのたまひけるぞいとほしき。「近う侍ふ武士(ぶし)は誰そ」と問ひ給へば、「難波の次郎経遠」と申す。「この辺に我が方様の者やある。舟に乗らぬさきに、あとに言ひおくべきことあり」とのたまへば、経遠走りまはりて「この方の人や候ふ」とたづねけれども、「われこそ」と名のる者もなし。「われ世にありし時(とき)は、したがひつく者一二千人もありけんものを、今はよそにてだにも、見送らぬことのかなしさよ」とのたまへば、武士どももみな鎧の袖をぞぬらしける。熊野詣、天王寺詣のありしには、二つ瓦の三つ棟づくりの舟に乗り、次の舟二三十艘漕ぎつづけさせ、さこそめでたうおはせしに、今はけしかるかきすゑ屋形の舟に、大幕ひきまはさせ、見も慣れぬ兵ども
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に乗り具して、今日をかぎりに都のうちを出で給ふ、心のうちこそかなしけれ。その日は摂津の国大物の浦にぞ着き給ふ。
この人すでに死罪におこなはるべかりしを、流罪になだめられ給ふことは、小松殿のたりふし[* 「おりふし」と有るのを斯道本により訂正]申されけるによ(ッ)てなり。
この大納言、いまだ中納言たりしとき、美濃の国を知行し給ふに、山門の領平野の荘の神人と、目代右衛門尉正朝と事ひき出だして、すでに狼藉におよぶ。神人二三人、矢庭に射殺さる。是(これ)によつて、嘉応元年十一月三日、山門の大衆、蜂起して、「国司成親(なりちか)流罪に処せられ、目代正朝禁獄せらるべき」よし奏聞す。君おほきにおどろかせ給ひて、成親(なりちか)を「備中の国へ流(なが)さるべし」とて、同じき十日、すでに西の七条まで出だされたりけるを、君いかがおぼしめされけるやらん、同じき十六日、西七条より召しかへさる。山門の大衆このことを承り、おびたたしく呪咀(じゆそ)すと\聞(き)こえしかども、同じき二年正月五日、成親(なりちか)、右衛門督を兼ねて検非違使別当になり給ふ。
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承安二年七月二十一日、従二位に叙せらる。そのとき資賢(すけかた)[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]、兼雅の卿(きやう)越えられ給ふ。資賢(すけかた)[* 「すけとも」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)はふるき人、おとなにておはしき。兼雅の卿(きやう)は栄華の人なり、家嫡にて越えられ給ふぞ遺恨なる。同じき三年四月十三日、正二位に叙せらる。今度は中の御門中納言宗家[* 「かねいゑ」と有るのを他本により訂正]の卿(きやう)越えられ給ふ。安元元年十一月二十七日、検非違使別当より権大納言[* 「こん日大なこん」と有るのを他本により訂正]にあがり給ふ。か様に時めき給ひしかば、人あざけつて、「山門の大衆には呪はるべかりしものを」とぞ申しける。およそ神の罰、人の呪ひ、疾き[* 「とをき」と有るのを他本により訂正]もあり、遅きもあり、同じからざることどもなり。
同じき三日、大物の浦に「京より御使あり」とてひしめきけり。大納言、「ここにて失へとや」と聞き給へば、さはなくして、「備前の児島へ流(なが)さるべし」となり。小松殿よりも御文あり。「『都ちかき片山里にも置き奉(たてまつ)らばや』と申しつれども、かなはぬことこそ、世にあるかひも候はね。されども御命ばかりは申しうけて候(さうらふ)」
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とて、難波がもとへも「あひかまへてよくよく宮仕ひ申せ。御心にばし違ひ奉(たてまつ)るな」と仰せられ、旅の粧(よそほひ)までもこまごまと沙汰しおくられけり。
大納言、さしもかたじけなうおぼしめされ〔し〕君にも離れまゐらせ、つかの間も離れがたう思はれし妻子にも別れつ。「いづちへとて行くらん。ふたたび故郷へかへりて、あひ見んこともありがたし。一年山門の訴訟によ(ッ)て、備中へ流(なが)さるべきにて、すでに西七条まで出でたりしかども、なか五日にしてやがて召しかへされぬ。是(これ)はさせる君の御いましめにてもなし。こはいかにしつることぞや」と、天に仰ぎ地(ち)に附して、かなしび給ふぞあはれなる。すでに舟おし出だして下り給ふに、道すがら、ただ涙にのみしづみて、「ながらふべし」とはおぼえねども、さすがに露の命消えやらで、跡の白波へだたれば、都は次第に遠ざかり、日数やうやうかさなれば、遠国も近づきぬ。あさましげなる柴のいほりに入れ奉(たてまつ)る。島のならひ
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にて、うしろは山、まへは海なれば、岸うつ波、松ふく風、いづれもあはれはつきもせず。
大納言ひとりにもかぎらず、か様にいましめらるる輩おほかりけり。近江の中将(ちゆうじやう)入道(にふだう)、筑前の国。山城守基兼、出雲の国。式部大輔章綱、隠岐の国。宗判官信房[* 「のふまさ」と有るのを他本により訂正]、土佐の国。新平判官資行、美作の国。次第に配所をさだめらる。入道(にふだう)相国(しやうこく)福原の別業におはしけるが、都にまします弟宰相のもとへ使者をたて、「少将いそぎ是(これ)へ下され候へ。存ずるむねあり」とのたまへば、宰相「さらば、ただ、ありし時、ともかくもなりたりせば、ふたたびものをば思はじ」とぞのたまひける。「さらば、とくとく出でたち下り給へ」とありければ、泣く泣く出でたたれけり。女房たち「あはれ、宰相のなほもよき様に申されよかし」とぞなげかれける。宰相「存ずるほどのことをば申しつ。今は世を捨てつるよりほかは、なにごとをか申すべき。たとひいづくの浦にもおはせよ、わが命のあらんかぎりは、いかに
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もとぶらひ申すべし」とぞのたまひける。
少将、今年二歳になり給ふ若君ましましけり。このころは若き人にて君達などのことをもこまやかにはのたまはざりけるが、いまはのときになりしかば、さすがに心にやかかりけん、「幼き者を一目見候はばや」とのたまひければ、乳母の女房抱き奉(たてまつ)りて参りたり。少将、若君を膝のうへにおき、髪かきなでて、「無慚や、なんぢが七歳にならば男になし、内へ参らせんとこそ思ひつるに、今はかかる身になりぬれば、言ふにかひなし。もしなんぢ命生きて、ことゆゑなく生ひたちたらば、法師になり、我が後世をとぶらへよ」とのたまひもあへず泣き給へば、見る人、袖をぞしぼりける。福原の使ひは摂津の左衛門盛澄といふ者にてぞありける。「今夜やがて鳥羽まで出でさせ給ひて、あかつき舟に召さるべう候(さうらふ)」と申せば、少将「いく程ものびざらん[* 「のばざらん」と有るのを他本により訂正]命に、こよひばかり都のうちにて明かさばや」とのたまへども、御使しきりにかなふまじきよし申しければ、
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少将、その夜鳥羽まで出で給ふ。
六月二十二日、福原へ下りつき給ひければ、入道(にふだう)、瀬尾の太郎兼康に仰せて、少将は備中の瀬尾へ下されけり。兼康、宰相のかへり聞き給はん所(ところ)をおそれて、道の程様々にいたはりなぐさめ奉(たてまつ)る。されども少将は一向仏の御名をとなへて、父のことをぞ祈られける。
すでに備中の瀬尾に着き給ふ。さるほどに、大納言をば備前の児島に置き奉(たてまつ)りけるを、「是(これ)は舟着き近き所(ところ)にてあしかりなん」とて、難波がはからひにて地へわたし奉(たてまつ)り、備前と備中とのさかひに、庭瀬の郷有木の別所といふ所(ところ)に置き奉(たてまつ)る。それより少将のおはする備中の瀬尾はわづかに一里あまりの道なり。少将、その方の風もなつかしうや思はれけん、瀬尾近う召して、「やや、兼盛。当時是(これ)より大納言のおはする有木の別所とかやは、いかほどの道やらん」と問ひ給へば、瀬尾、「知らせまゐらせて
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はあしかりなん」とや思ひけん、「是(これ)より十二三日の道にて候(さうらふ)」とぞ申しける。少将、「是(これ)こそ大きに心得ね。日本国は昔(むかし)三十三箇国にてありけるを、六十六箇国には割られたんなり。東に聞(き)こゆる出羽、陸奥両国、〔昔(むかし)は一国〕なりけるを、文武天皇の御時十二郡を分けて、出羽の国を出だされ立てられたり。一条の院の御宇、実方の中将(ちゆうじやう)奥州へ流(なが)されたりしに、当国の名所阿古屋の松といふ所(ところ)を見んとて、国のうちをたづねまはるが、逢はで帰りけるに、道にて老翁一人ゆき逢うたり。中将(ちゆうじやう)、『やや、御辺はふるい人とこそ見ゆれ。当国の名所阿古屋の松といふ所(ところ)や知りたる。』と問ふに、『まつたく当国には候はず。出羽の国にてや候ふらん』と申しければ、中将(ちゆうじやう)、『さては御辺は知らざりけり。世の末なれば名所もはや呼びうしなひたるにこそ』とて過ぎけるに、老翁、中将(ちゆうじやう)の袖をひかへて、
『君はよな、
みちのくのあこやの松に木がくれて
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いづべき月のいでもやらぬか
といふ歌の心をもつて、当国の名所とは候ふか。それは六十六箇郡[* 「六十六かこく」と有るのを他本により訂正]、両国が一国なりしとき、よめる歌なり。十二郡を割き分けてのちは、出羽の国にや候ふらん』と申しければ、そのとき、中将(ちゆうじやう)、『さもあるやらん。やさしうも答へたるものかな』とて、出羽の国へ越えてこそ、阿古屋の松をば見たりけり。備前、備中、備後も昔(むかし)は一国なりけるを、今こそ三箇国には分けられけれ。筑紫の大宰府より、都へ■[魚+宣](はらか)の使ののぼるこそ、歩路十五日とは定められたれ。すでに十二三日と申すは、ほとんど鎮西へ下向ござんなれ。備前、備中の境、遠しといふとも両三日にはよもすぎじ。近きを遠く言ひなすは、大納言殿のおはする所(ところ)を、成経に知らせじと申すにこそ」と思はれければ、そののちは恋しけれども問ひ給はず。
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第十八句 三人鬼界が島に流(なが)さるる事
さるほどに、法勝寺(ほつしようじ)執行俊寛平判官康頼(やすより)、備中の瀬尾におはする少将あひ具して三人薩摩方鬼界が島へぞ流(なが)されける。この島は、都を出でてはるばると海を渡りてゆく島なり。おぼろけにては舟も人もかよふことなし。島にも人まれなり。おのづからある者は此(この)地(ぢ)の\人(ひと)にも似(に)ず。色(いろ)黒(くろ)うして牛(うし)なんどのごとし。身にはしきりに毛生ひ、言ふことばも聞き知らず。男は烏帽子も着ず、女は髪をもさげず。衣装なければ人にも似ず、食する物なければ、ただ殺生をのみ先とす。しづが山田をたがやさねば、米穀のたぐひもなし。園の桑をとらざれば、絹綿のたぐひもなかりけり。島のうちには高山あり。山のいただきには火燃えて、いかづち常に鳴りあがり、鳴りくだり、麓(ふもと)にはまた雨しげし。一日片時も人の命あるべしと
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も見えざりけり。硫黄といふものみちみてり。かるがゆゑに「硫黄が島」とぞ申しける。
されども丹波の少将の舅、平宰相の所領、肥前の国鹿瀬(かせ)の荘(しやう)より衣食をつねに送られければ、俊寛も康頼(やすより)も命生きてすごしけり。康頼(やすより)は流(なが)されけるとき、周防の室富といふ所(ところ)にて出家してんげれば、法名「性照」とぞ名のりける。出家はもとよりのぞみなりければ、康頼(やすより)泣く泣くかうぞ申しける。
つひにかくそむきはてける世の中を
とく捨てざりしことぞくやしき
と書きて、都へ上せたりければ、とどめ置きし妻子ども、いかばかりのことをか思ひけん。
されば、少将、判官入道(にふだう)は、もとより熊野信仰の人にて、「あはれ、いかにもして、この島のうちに熊野三所権現を勧請し奉(たてまつ)り、帰洛のことを祈らばや」といふに、俊寛是(これ)を用ひず。二人は
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同心して、「もし熊野に似たる所(ところ)やある」と、島のうちをたづねまはるに、或(あるい)は林塘の妙なるもあり、紅錦繍の粧(よそほひ)品々に、或(あるい)は雲嶺のさがしきあり、碧羅綾(へきらりよう)の色(いろ)一(ひとつ)にあらず。山のけしき木のこだち、よそよりもなほすぐれたり。南をのぞめば、海漫々として、雲の波煙の波いとふかく、北をかへり見れば、また山岳の峨峨たるより、百尺の滝みなぎり落ちたり。滝のおとことにすさまじく、松風神さびたる住ひ、飛滝権現のおはします那智の御山にさも似たり。さてこそやがてそこをば、「那智の御山」とは名づけけれ。「この峰は本宮」、「かの峰は新宮」、「ここはこの王子」、「かしこはかの王子」なんどと、王子、王子の名を申して、康頼(やすより)入道(にふだう)先達にて、少将あひ具し、毎日熊野詣のまねをして、帰洛のことをぞ祈られける。「南無権現金剛童子、ねがはくはあはれみをたれさせおはしまし、われらをふたたび都へかへし入れて、恋しき者を今ひとたび見せ給へ」とぞ祈りける。
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あるとき、少将、判官入道(にふだう)二人、権現の御前に参り、通夜したりけるに、夢ともなく現ともなきに、沖より小船一艘よせたり。例の海人小舟、釣舟かと見るほどに、磯によりて、赤きはかま着て、懸帯などしたる女房の五六人、御前に参りて、世にもおもしろき声にて、
よろづの仏の願よりも
千手の誓ぞたのもしき
枯れたる木にもたちまちに
花咲き実なるとは聞け
と二三返歌ひすまして、かき消すやうに失せにけり。そのとき二人の人々、「うつつなりけり」と奇異の思ひをなす。「この権現の本地、千手観音にておはします。千手の二十八部衆のうちに、海龍神、その一つなり。されば龍女の化限にてもやあらん」とたのもしかりしことどもなり。されば、日数つもりて、裁ち替ふべき浄衣もなけれ
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ば、麻の衣を身にまとひ、けがらはしき心あれば、沢辺の水を垢離にかき、岩田川の清き流れと思ひやり、高き所(ところ)にのぼりて、発心門とぞ観じける。
御幣の紙にもなければ、花を手折りて捧げつつ、康頼(やすより)入道(にふだう)つねは、祝言ぞ申しける。
維(これ)[* 「いひ」と有るのを祭文の例により訂正]、あたれる歳次、治承元年丁酉、月のならびは十月二月、日の数は三百五十余箇日、そのうち吉日良辰をえらび、かけまくもかたじけなく、日本第一の大霊験、熊野三所大権現、ならびに飛滝(ひりよう)大薩■(だいさつた)教令、宇津の広前にして、信心の大施主、羽林藤原の成経、沙弥性照、一心清浄の誠を致し、三業相応の心ざしを抽(ぬきん)で、つつしみ敬白す。
夫れ、証誠大菩薩は、済度苦海の教主、三身円満の覚王なり。両所権現、或は東方浄瑠璃医王の主、衆病悉除の如来なり。或は南方補陀落の能化の主、入重玄門の大士なり。若王子は娑婆世界
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の本主、施無畏者の大士なり。頂上に仏面を現じて、衆生の所願を満て給へり。是(これ)によつて、上一人より下万民にいたるまで、或は現世安穏のため、或は後生善所のために、朝には浄水をむすび、煩悩の垢をそそぎ、夕には深山にむかひ、宝号をとなふ。感応おこたる事なし。峨峨たる嶺のたかきをば、神徳のたかきにたとふ。嶮々(けんけん)たる谷(たに)のふかきをば、弘誓のふかきにたとふ。雲をうがちてのぼり、露をしのぎてくだり、ここに利益の地をたのまずは、いかでか歩(あゆ)みを嶮難(けんなん)の路(ぢ)にはこばん。権現の徳をあふがずは、いかが幽遠の境にましまさんや。よ(ッ)て証誠大権現、飛滝大薩■(だいさつた)、相ともに青蓮慈悲(しやうれんじひ)の眸(まなじり)をならべ、早鹿の御耳(おんみみ)をふりたて、我等(われら)無二(むに)の丹誠(たんぜい)を知見(ちけん)し、一々(いちいち)の懇志(こんし)を納受(なふじゆ)せしめ給へ。然ればすなはち成経、性照、遠島配流の苦しみをしのぎ、旧城花洛の故郷につけせしめ給へ。まさに有無妄執をあらため、無為の真理をきよむべし。しかるときは、結、早玉の両所は随機し、或は有縁の衆生
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をみちびき、またみだりに無縁(むえん)の群類(ぐんるい)をすくはんがため、七宝荘厳のすみかを捨てて、八万四千(はちまんしせん)の光(ひかり)を和(やは)らげ、六道三有(ろくだうさんう)の塵(ちり)に同じうし給へり。かるがゆゑに定業もまたよく転じ[* 「うたた」と有るのを他本により訂正]、長寿を得る事をもとむ。礼拝して袖をつらね、幣帛を捧ぐる事ひまなし。忍辱(にんにく)の衣(ころも)を重(かさ)ね、覚道の花を捧げ、神殿の床を動かし、信心水を澄ましめ、利生(りしやう)の池(いけ)に湛(たた)ふ。神明納受し給はば、所願いかが成就せざらん。仰ぎ願はくは、十二所権現(じふにしよごんげん)、利生(りしやう)の翅(つばさ)を並(なら)べて、遥(はるか)の苦海(くかい)の空(そら)にかけり、左遷(させん)の愁(うれ)ひをやすめて、はやく帰洛の本懐をとげしめ給へ。再拝、再拝。
とぞ申しける。
あるとき、沖より吹きくる風の、少将、康頼(やすより)二人が袖に木の葉一つづつ吹きかけたり。是(これ)を取りて見れば、たのみをかくる御熊野の南木の葉にてぞありける。虫くひあり、是(これ)を一首の歌にぞよみなしたる。
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ちはやぶる神に祈りのしげければ
などか都へかへさざるべき
かへすがへすも、めでたかりける事どもなり。
判官入道(にふだう)、あまりに都の恋しきままに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆(そとば)を作り、阿字の梵字を書きて、年号、月日、仮名、実名、さて二首の歌をぞ書きたりける。
さつまがたおきの小島にわれありと
親にはつげよ八重のしほ風
思ひやれしばしとおもふ旅だにも
なほふるさとは恋しきものを
是(これ)を浦に持ちて出で、「南無帰命頂礼、梵天、帝釈、堅牢地神、王城の鎮守諸大明神、ことには熊野の権現、金剛童子、厳島大明神、願はくは、この卒都婆(そとば)を一本なりとも、都のうちへ伝へてたばせ給へ」とて、奥津白波の寄せてはかへるたびごとに、卒都婆(そとば)を海にぞ
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浮かべける。日数かさなれば、卒都婆(そとば)の数も積もりけり。その思ふ心やたよりの風ともなりたりけん、また神明仏陀もや送らせ給ひけん、千本の卒都婆(そとば)のうち一本は、安芸の厳島の大明神の御前のなぎさに、うちあげたり。この明神と申すは沙竭羅竜王(しやかつらりゆうわう)の第三(だいさん)の姫宮(ひめみや)、胎蔵界(たいざうかい)の垂跡(すいじやく)にてまします。崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇にこの島に御影向ありしよりこのかた、済度利生今にいたるまで甚深奇特の事どもなり。さればにや、八社の御殿甍をならべ、百八十間の廻廊あり。社には海をうけたれば、潮のみちて月ぞすむ。汐みちくれば、大鳥居のうちの廻廊、緋の玉垣、瑠璃のごとし。汐ひきぬれば、夏の夜なれども御前のなぎさに霜やおく。
判官入道(にふだう)がゆかりありける僧の、西国修業してまよひありきけるが、厳島へぞ参りたる。この島は潮のみつときは海になり、潮のひくときは島となる所(ところ)なり。「それ和光同塵の利生、さまざまなりと申せども、この島の明神は、いかなる因縁をもつて、海漫々の鱗(うろくづ)
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に縁をむすばせ給ふらん」と、本誓のたつときに、ひめもす、法施まゐらせてゐたる所(ところ)に、沖よりみちくる汐にさそはれて、それかともなく打ちあげたる藻くづの中に、卒都婆(そとば)のかたちの見えければ、なにとなう是(これ)をとりて見(み)るに、「おきの小島にわれあり」と書きながしたる言の葉にてぞありける。文字は彫りいれ、きざみつけたれば、波にもあらはれず、あざやかにこそ見えたりけれ。「あな無慚や。是(これ)は康頼(やすより)入道(にふだう)がしわざ」と見なし、泣く泣く笈の肩にさし、都(みやこ)に上(のぼ)り、判官入道(にふだう)が老母(らうぼ)の尼公(にこう)、妻子(さいし)なんどが、一条(いちでう)の辺(へん)、紫野(むらさきの)に忍(しの)びつつ住みけるに、たづねて、此(この)\卒都婆(そとば)を取らせければ、老母(らうぼ)の尼公(にこう)も、妻子(さいし)も是(これ)を見て、「されば、\此(この)\卒都婆(そとば)の唐土のかたへもゆられゆかずして、なにしに是(これ)まで伝へきて、ふたたび物を思はすらん」とぞかなしみける。
はるかにあつて叡聞におよびて、法皇(ほふわう)、卒都婆(そとば)を叡覧あつて、「あな無慚や、是(これ)は鬼界が島とかやに、いまだながらへてありける」
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とあはれにおぼしめして、そののち小松の内府のもとへ、この卒都婆(そとば)を送らせ給ひけり。内府、この卒都婆(そとば)を入道(にふだう)に見せ奉(たてまつ)り給ひければ、相国も岩木にあらねば、あはれげにぞのたまひける。
柿本の人丸は、「島がくれゆく舟」を思ひ、山辺の赤人は、「あしべの鶴」をながめ給ふ。住吉の明神は、「かたそぎの思ひ」をなし、三輪の明神は、「杉たてる門」をとざす。素盞烏尊(そさのをのみこと)は、三十一字(さんじふいちじ)をはじめおき給ひしよりこのかた、もろもろの神明、仏陀も、この詠吟をもつて、百千万端の思ひを述べ給ふ。
されば、たかきもいやしきも、「鬼界が島の流人の歌」とて、是(これ)を口ずさみぬはなかりけり。千本におよび作りたる卒都婆(そとば)なれば、さこそ小さうもありけめ、薩摩がたよりはるばると伝はりけるこそ不思議なれ。あまりに思ふ心のふかきしるしなりけるにや。
昔(むかし)漢王、胡国を攻め給ふに、三十万騎(さんじふまんぎ)の勢をもつてすといへども、胡国の軍こはくして、漢王の軍追つかへさる。そののち五十万
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騎(ごじふまんぎ)の勢をもつて攻めらる。なほも胡国の軍こはうして、李陵といふ大将軍をはじめとして千余人捕つて、胡国にとどめらる。その中に蘇武(そぶ)といふ将軍をはじめて、宗との者六十人すぐり出だして、巌窟におつ籠め、三年を経てとり出だし、片足を切つて追放つ。すなはち死する者もあり、程へて死する者もあり。蘇武(そぶ)は片足を切られながら死なざりけり。山に入りては木の実を拾ひ、里に出でては沢辺の芹を摘み、田の面にゆきては落穂を拾ひなんどしてぞ過しける。田にいくらもありける雁(かり)どもが、蘇武(そぶ)にはや見なれて、おどろくけしきもなかりけり。蘇武(そぶ)は、故郷の恋しき様を一筆書いて、泣く泣く雁(かり)の翅(つばさ)にぞむすびつけける。かひがひしくも田の面の雁(かり)、秋は必(かなら)ず都へ帰りきたるものなれば、漢の昭帝、上林苑に御遊ありけるに、夕ざれの空うす曇り、なにとなくものあはれなるをりふし、一行の雁(かり)飛びきたりけるが、その中に一つ飛びさがり、わが翅(つばさ)にむすびつけたる玉づさをくひきつてぞ落しける。官人是(これ)をとつて、
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帝へ奏聞す。叡覧ありければ、「昔(むかし)は巌窟の洞に籠められ、むなしく三秋(さんしゆう)の愁歎(しうたん)をおくる。今は荒田の畝に捨てられて、胡敵(こてき)に一足(いつそく)の身となる。骸骨はたとひ胡国に散らすとも、魂はかへつてふたたび君辺につかへん」とぞ書いたりける。帝、御涙を流(なが)させ給ひて、「あな無慚や、いにしへ是(これ)は胡国へつかはしける蘇武(そぶ)がしわざなり。命の尽きぬあひだに」とて、このたびは、李広といふ将軍をはじめとして、百万騎の勢をおこして、胡国を攻めらる。「今度は胡国の軍破れて、御方の戦ひ勝ちぬ」と聞(き)こえしかば、蘇武(そぶ)、十九年の星霜をおくり、片足は切られながら、ふたたび故郷へ帰りけり。それよりしてこそ、文をば「雁書」ともいひ、使をば「雁使」とも名づけけれ。
漢家(かんか)の蘇武(そぶ)は書(しよ)を雁(かり)につけて旧里におくり、本朝の康頼(やすより)は、波のたよりに札を故郷へつたふ。かれは雁(かり)の翅(つばさ)の一筆、是(これ)は、卒都婆(そとば)の面の二首の歌。かれは漢朝、是(これ)は本朝。かれは上代、是(これ)は末代。
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さかひをへだて、世々はかはれども、風情は同じ風情にて、ありがたかりしためしなり。
第十九句 成親死去
新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)は「すこしくつろぐ心もや」と思はれける所(ところ)に、「子息丹波の少将以下、鬼界が島に流(なが)されぬる」と聞きて、小松殿に申して、つひに出家し給ひけり。北の方は雲林院にましましけるが、さらぬだに住みなれぬ山里はもの憂きに、いとどしのばれければ、過ぎゆく月日もあかしかね、暮らしわづらふ様なりけり。女房、侍おほかりけれども、世におそれ、人目をつつむほどに、問ひとぶらふ人もなし。
その中に、大納言の幼少より不便にして召しつかはれける源(げん)左衛門
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尉(ざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)といふ侍あり。なさけある男にて、つねはとぶらひ奉(たてまつ)る。あるとき、信俊参りたりければ、北の方、涙をおさへて、「いかにや、是(これ)には備前の児島にましますとこそ聞(き)こえしが、当時は有木の別所とかやにおはすなり。いかにもして、いま一度、文をも奉(たてまつ)り、返事をも見んと思ふはいかに」とのたまへば、信俊涙をおしのごひて申しけるは、「さん候(ざうらふ)。幼少より御情をかうぶりて、一日も離れまゐらすること候はず。御下りのときも、さしも御供つかまつるべきよし、申し候ひしかども、入道殿御ゆるされも候はざりしかば、参ることも候はず。召され候ひし御声も、耳にとどまり、諌められまゐらせ候ひし御ことばも、肝に銘じていつ忘れまゐらせんともおぼえず候(さうらふ)。たとひいかなる目にもあひ候へ、御文賜はり候はん」と申せば、北の方、やがて御文書きてぞ賜はりける。信俊、是(これ)を賜はつて、備前の国、有木の別所にたづね下る。守護の武士にまづこのよし申しければ、武士ども、たづね参りたる心ざし
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のほどをあはれみて、やがて大納言入道(にふだう)のおはす所(ところ)にぞ入れたりける。大納言は、ただ今も都のことをのたまひ出だして、よにも恋しげに、嘆きしづみてまします所(ところ)に、「都より信俊が参つて候(さうらふ)」と申し入れたりければ、入道(にふだう)、聞きもあへ給はず起きあがりて、「是(これ)へ是(これ)へ」とぞ召されける。信俊(のぶとし)参りて見(み)奉(たてまつ)れば、御住まひの心憂さもさることにて候へども、墨染の袂にひきかへ給ふを見て、目もくれ心も消えてぞおぼえける。北の方の仰せをかうぶりしありさま、こまごまと申しつづけて、御文とり出だして奉(たてまつ)る。大納言入道殿、この文を見給へば、水茎の跡は涙にかきくれて、そこはかとも[* 「そこはかるとも」と有るのを他本により訂正]見えねども、「つきせぬもの思ひにたへかね、しのぶべしともおぼえず。幼き人々も、なのめならず恋しがり奉(たてまつ)る」ありさま、こまごまと書かれたりければ、大納言、是(これ)を見給ひて、「日ごろの思ひなげきは、事の数ならず」とぞ泣かれける。
かくて四五日過ぎぬ。信俊、入道(にふだう)の御前に参りて申しけるは、
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「是(これ)に候ひて、いかにもならせましまさん御ありさまを見はてまゐらすべう候へども、北の方、『あひかまへて、今度の御返りごとを御覧ぜん』と候ひしに、跡もなく、しるしもなくおぼしめさんことは、罪ふかくおぼえ候(さうらふ)。今度はまかり上つて、またこそ参り候はめ」と申せば、大納言、「まことにさるべし。ただし、なんぢがまた来んことを待ちつけべしとはおぼえねども、さらばとくとく上れ。『われいかにもなりたり』と聞かば、あひかまへて、よくよく後世とぶらへよ」とぞ泣かれける。信俊、御返事賜はつて上りけるに、入道(にふだう)、のたまふべきことはかねてみな尽きぬれども、せめての慕はしさのままに、たびたび呼びぞかへされける。
さてもあるべきならねば、信俊、いとま申して上りけり。都へ上りて、北の方へ参り、御返事を参らせたりければ、「あなめづらし。命の今までながらへておはしけるよ」とて、この文を見給へば、文の中に御髪の一ふさ、くろぐろとして見えければ、二目とも見給は
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ず、「はや、この人様をかへ給ひけり。形見こそ、なかなか今はあたなれ」とて、是(これ)を顔におしあてて、ふしまろびてぞ泣き給ふ。をさなき人々も泣きかなしみ給ひけり。
さるほどに大納言入道(にふだう)をば、同じき八月十七日、備前、備中の境、吉備の中山といふ所(ところ)にて、つひに失ひ奉(たてまつ)る。酒に毒を入れてすすめ奉(たてまつ)りけれども、なほもかなはざりければ、岸の二丈ばかりある下に、菱を植ゑ、それにつき落し、貫かれてぞ失せ給ひける。
北の方は、はるかに是(これ)をつたへ聞き給ひて、「『かはりぬるすがたを、今ひとたび見奉(たてまつ)らばや』とこそ思ひつるに、今はなにとかせん」とて、雲林院近き菩提院といふ所(ところ)にて、様をかへ、かたのごとくの仏事をいとなみ、かの後世をぞとぶらひ給ひける。
かの北の方と申すは、山城守敦賢のむすめなり。みめすがた、心ざままで優なる人なりしかば、たがひに心ざしあさからざりし仲なり。
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若君、姫君も、花を折り、閼伽の水をむすびて、父の後世をとぶらひ給ふぞあはれなる。時うつり、事去りて、世のかはりゆくありさま、ただ天人の五衰とぞ見えし。
同じく十二月二十四日、彗星(けいせい)、東方に出づ。「蚩尤旗(しいうき)」とも申す。また「彗星(けいせい)」とも申す。「天下乱れて、大兵乱国に起らん」と言へり。
さるほどに年暮れて、治承も二年になりにけり。
第二十句 徳大寺殿厳島参詣
そのころ徳大寺の大納言実定(さねさだ)の卿(きやう)、平家の次男宗盛に大将を越えられて、大納言をも辞し申して、籠居(ろうきよ)せられたりけるが、「つらつらこの世の中のありさまを見るに、入道(にふだう)相国(しやうこく)の子ども、一門の人々
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に官加階を越えらるるなり。知盛、重衡(しげひら)なんどとて、次第にしつづかんずるに、われらいつか大将にあたりつくべしともおぼえず。つねのならひなれば、出家せん」とぞ思ひたたれける。諸大夫、侍ども寄りあひ、「いかにせん」となげきあへり。その中に、藤蔵人大夫重藤といふ者あり。なにごとも存知したる者なりけり。実定(さねさだ)の卿(きやう)、よろづもの憂く思はれけるをりふし、心をすまし、ただひとり月にうそぶきておはしける所(ところ)に参りたり。「いかに重藤か。なにごとに参りたるぞ。「今夜は月くまなう候ひて、徒然に候ふほどに、参りて候(さうらふ)」と申せば、「神妙なり。そこに侍へ。物語せん」とぞのたまひける。かしこまつて侍ひけるに、実定(さねさだ)の卿(きやう)「当時、世の中のありさまを見るに、入道(にふだう)相国(しやうこく)の子ども、そのほか一門の人人に、官加階を越えらるるなり。今は大将にならんこともありがたし。つねのことなれば、世を捨てんにはしかじ。出家せんと思ふなり」とのたまへば、「この御諚(ごぢやう)こそ、あまり心細うおぼえ候へ。げ
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にも御出家なんども候はば、奉公の輩のかなしみをば、いかがせさせ給ひ候ふべき。重藤不思議の事をこそ案じ出でて候へ。安芸の厳島の大明神は、入道(にふだう)相国(しやうこく)のなのめならず崇敬(そうぎやう)し、給ふ神なり。なにごとも様にこそより候へ。君、厳島へ御参り候ひて、一七日も御参籠あり、大将のことを御祈念候はば、かの社には、内侍とて優なる妓女ども、入道(にふだう)置かれて候ふなり、さだめて参りもてなし申し候はんずらん。さて御上洛のとき、御目にかかりぬる内侍ども召し具して上らせましまさんに、御供に参り候ふほどでは、うたがひなく西八条へ参り候はんず。入道(にふだう)相国(しやうこく)『なにごとに上りたるぞや』とたづねられば、ありのままにぞ申し候はんずらん。『さては徳大寺殿は、浄海が頼み奉(たてまつ)る神へ参られける[* 「まいられけるこそ」と有るのを他本により訂正]ござんなれ』とて、きはめて物めでたがりし給ふ人にて、よきやうにはからひもや候はんずらん」と申したりければ、実定(さねさだ)の卿(きやう)「まことにめでたきはかりごとなり。か様のこといかでか思ひよるべき」とて、やがて精進はじめて、
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厳島へぞ参られける。
西国八重の潮路へおもむき、おほくの浦々、島々をしのぎつつ、厳島へぞ参られける。社頭のありさま、つたへ聞く蓬莱、方丈、■州(えいじう)も、是(これ)にはすぎじとぞ見えし。
七日参籠ありけるに、内侍ども、舞楽も三か度おこなひて、もてなし奉(たてまつ)る。実定(さねさだ)の卿(きやう)、今様歌ひ、朗詠して、神明に法楽あり。郢曲(えいきよく)ども、ねんごろに内侍に教へさせ給ひけり。「平家の公達こそつねには御参りさぶらふに、めづらしき御参りなり。なにごとの御祈りやらん」と申しければ、「大将を人々に越えられて、大納言を辞し申して、この五六年籠居(ろうきよ)したりけるが、もしやと思ひて、その祈誓のために参りたり」とぞのたまひける。
参籠満ちて、都に上り給ふに、宗との若き内侍ども二十余人名残を惜しみて、舟を仕立て送りしに、いとま申してかへらんとしければ、「あまりに名残の惜しさに、いま二日路送れ」、「いま三日路」
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などとのたまふに、都までこそ参りけれ。徳大寺の御第へ入らせ給ひて、さまざまにもてなし、引手物賜はつて、出だされけり。
「是(これ)まで上りたるほどでは、いかでわが主の入道殿へ参らざるべき」とて、西八条へぞ参りたる。入道(にふだう)相国(しやうこく)、やがて出であひ、対面して、「いかにも内侍ども、なにごとの列参ぞ」。「徳大寺殿、厳島へ御参りあつて十七日籠らせ給ひつるが、『一日おくりまゐらせよ。二日路おくりまゐらせよ』とて、是(これ)まで召し具せられてさぶらふ」。「徳大寺は、なにごとの祈誓に参られたりけるやらん」。「大将の祈りとこそさぶらひしか」と申せば、そのとき、うちうなづいて、「あないとほしや。徳大寺は、浄海が頼み奉(たてまつ)る厳島へ参りて、大将の祈り申されけるござんなれ。是(これ)をばいかでよきやうにはからはではあるべき」とて、嫡子小松殿、内大臣左大将にておはしけるを、辞し奉(たてまつ)りて、次男宗盛の卿(きやう)の右大将にてましましけるを越えさせて、徳大寺を左大将にぞなされける。やさしかりしはかりごと
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なり。
新(しん)大納言(だいなごん)成親(なりちか)の卿(きやう)に、かしこきはかりごとおはし給はで、よしなき謀叛をおこして、配所の月に心をみがき、つひに赦免(しやめん)なくして失せ給ひけるこそくちをしけれ。