平家物語 百二十句本(国会図書館本) 巻第三
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目録
第二十一句 伝法灌頂
 朝覲の行幸
 法皇三井寺において伝法
 同じく天王寺において灌頂
 山門の学生と堂衆と不快
第二十二句 大赦
 中宮御懐妊
 覚快法印変成男子の法行はるる事
 赦 免 状
 少将肥前の鹿瀬の荘に着く事
第二十三句 御産の巻
 寺社大願析誓の事
 皇子誕生の事
法皇の御祈りの事
 御産の時万づ物怪の事
第二十四句 大塔修理
 弘法大師の通化
 血書きの蔓陀羅
 厳島の御託宣
 頼豪阿闍梨の沙汰
第二十五句 少将帰洛
 少将有木の別所の弔の事
 成経康頼七条河原にて行別るる事
 康頼東山双林寺へ着く事
 康頼宝物集新作
第二十六句 有王島下
 亀王死去の事
 俊寛の死去
 俊寛の姫出家
 有王高野奥の院籠居
第二十七句 金渡
 辻風
 重盛熊野参詣
 重盛四十三死去
 重盛大唐育王山寄進
第二十八句 小督
第二十九句 法印問答
 大地震
 浄憲法印福原ヘノ使の事
 大政入道意趣述べらるる事
 法印返答の事
第三十句 関白流罪
 法皇鳥羽殿へ御移りの事
 浄憲法皇の御前に参らるる事
 主上臨時の御神事
 明雲座主還着
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平家物語 巻第三
第二十一句 伝法灌頂
治承(ぢしよう)二年正月一日、院の御所には拝礼おこなはれて、四日、朝覲(てうぎん)の行幸ありけり。例にかはりたることはなけれども、こぞの夏、大納言成親の卿以下、近習の人々おほく失はれしことを、法皇御いきどほりいまだやまず、世のまつりごとも、もの憂くおぼしめされければ、御心よからぬこおとにてぞありける。太政入道も、多田の蔵人行綱が告げ知らせてののちは、君をも一向うしろめたきことに思ひたてまつりて、上には事なきやうなれども、下には用心して、にが
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笑うてぞおはしける。
同じく正月七日、「彗星東方に出づる」とも申す。また「赤気」とも申す。十八日、光を増す。
そのころ、法皇、三井寺(みゐでら)の公顕僧正御師範にて、真言の秘法を伝授せられおはしけるが、大日経、蘇悉地経、金剛頂経、この三部の秘経をさづけさせまして、「三井寺(みゐでら)にて御灌頂あるべし」と聞こえしほどに、山門の大衆、これをいきどほり申す。「むかしより御灌頂、御受戒は当山にてとげさせましますこと先規なり。なかにも、山王化導は受戒灌頂のためなり。しかるを園城寺にてとげさせ給ふならば、寺を焼きはらふべし」とぞ申しける。「これ無益なり」とて、加行を結願して、おぼしめしとどまりぬ。
法皇なほ、御本位なりければ、公顕僧正召し具して、天王寺へ御幸なつて、五智光院を建てて、亀井の水をもつて五瓶の智水として、仏法最初の霊地にて、伝法灌頂とげさせおはします。
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山門の騒動をしづめられんがために、法皇、三井寺(みゐでら)にて御灌頂はなけれども、山には、堂衆、学生不快のこと出できて、合戦度々におよぶ。毎度学侶うちおとされて、山門の滅亡、朝家の御大事とぞ見えし。
山門に「堂衆」と申すは、学生の所従なり。童部の法師になりたるなり。もとは仲間の法師ばらにてありけるが、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山のときより、三塔に結番して「夏衆」と号し、仏に花香を奉る者どもなり。近年は「行人」とて、大衆をもことともせざりしが、かく度々軍に勝ちにけり。
「党衆等、師衆の命をそむきて合戦をくはだつ。すみやかに誅伐せらるべき」よし、大衆、公家に奏聞し、武家に触れうつたへけり。これによつて、太政入道、院宣をうけたまはりて、紀伊の国の住人湯浅権守宗重、大将として、畿内の兵二千余人、大衆にさしそへ、党衆を攻めらる。党衆、日ごろは東陽坊にありけるが、近江の
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国三箇の庄に下向して、国中の悪党をかたらひ、あまたの勢を卒して早尾坂の城にたてこもる。大衆、官軍、五千人、早尾坂の城に押し寄せ、散々にたたかふ。大衆は官軍を先に立てんとし、官軍は大衆を先に立てんとするあひだ、心々にして、はかばかしうもたたかはず。党衆にかたらはるる悪党と申すは、窃盗、強盗、山賊、海賊等なり。欲心熾盛(しじやう)にして、死生不知のやつばらなり。「われ一人」と思ひきりてたたかふに、大衆、官軍、数をつくしてうち殺さる。学生、また負けにけり。
そののち、山門いよいよ荒れはてて、十二禅衆のほかは、止住の僧侶まれなり。谷々の講演も魔滅して、党々の行法も退転す。修学の窓をとぢ、座禅の床もむなしくせり。五時の春の花もにほはず、三諦即是の秋の月もかくれり。三百余歳の法燈をかかぐる人もなく、六時不断の香煙も絶えやしにけん。党舎は高くそびえて、三重のかまへを青漢のうちにさしはさみ、棟梁はるかにひいでて、四面(しめん)の椽(たん)
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を白霧(はくぶ)の間(あひだ)にかけたりき。されども、いまは、「供仏を峰の嵐にまかせ、金容を洪瀝(こうれき)にうるほす。夜の月、ともし火をかかげて軒のひまよりもれ、あかつきの露、玉をたれ、蓮座(れんざ)のよそほひをそふ」とかや。
それ、末代の俗にいたつては、三国の仏法も次第に衰微せり。とほく天竺に仏跡をとぶらへば、むかし仏の法を説き給ひし、祇園精舎、竹林精舎、給狐独園も、このごろは虎狼のすみかと荒れはてて、いしずゑのみや残りけん。白鷺地には水絶えて、草のみ高くしげれり。退凡、下乗の卒都婆も、苔のみむしてかたぶきぬ。震旦にも、天台山、五台山、白馬寺、玉泉寺も、いまは住侶なきやうに荒れはてて、大小乗の法文も、箱の底にや朽ちぬらん。わが朝にも、南都の七大寺荒れはてて、東大、興福両寺のほかは、のこる党舎もなし。愛宕、高雄も、むかしは党塔軒を並べたりしかども、荒れにしかば、今は天狗のすみかとなりにけり。さればにや、さしもやんごとなかりつる
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天台の仏法さへ、治承(ぢしよう)の今におよんで滅びはてぬるにや。心ある人は、かなしまずといふことなし。
離山しける僧坊の柱に、いかなる者のしざまやらん、一首の歌をぞ書きたりける。
いのり来しわが立つ杣(そま)をひきかへて
人なきみねとなりやはてなん
伝教大師(でんげうだいし)、当山(たうざん)草創(さうさう)の昔(むかし)、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみやくさんぼだい)の仏(ほとけ)たちに祈り申させたまひけんこと、思ひ出だし詠みたりけるにや、いとやさしうぞ聞こえける。
八日は薬師の日なれども、「南無」ととなふる声もせず。四月の垂迹の月なれども、幣帛をささぐる人もなし。朱の玉垣神さびて、標縄のみや残りけん。
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第二十二句 大赦
そのころ、太政入道第二の御むすめ、建礼門院、いまだ中宮と聞こえさせ給ひしが、御悩とて、雲のうへ、天がしたの嘆きにてぞありける。諸寺に御読経はじまり、諸社に官幣をたてらる。陰陽術をきはめ、医家くすりをつくし、大法、秘法一(ひとつ)として残(のこ)る処(ところ)なうぞ修(しゆ)せられける。され共(ども)、\御悩(ごなう)ただごとにもわたらせ給はず、「御懐妊」とぞ聞こえし。主上は、今年十八、中宮は二十二にならせ給へども、いまだ皇子、姫宮もいでき給はず、「もし皇子にてわたらせ給はば、いかにめでたからん」と、平家の人々、ただいま皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)なりたる様に、いさみよろこび合はれけり。他家の人々も、「平氏の繁昌、をりを得たり。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)うたがひなし」とぞ申し合はれける。高僧、貴僧に仰せて、大法、秘法修し、星宿、仏
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菩薩につけても、「皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)」とぞ祈誓せられける。
六月一日、中宮御着帯ありけり。仁和寺(にんわじ)の御室守覚法親王、いそぎ御参内ありて、孔雀経の法をもつて御加持あり。天台座主覚快法親王、おなじう参らせ給ひて、変成男子の法を修せらる。
かかりしほどに、中宮は月のかさなるにしたがつて、御身くるしうせさせおはします。ひとたび笑めば百の媚ありけん漢の李夫人、昭陽殿のやまひの床に臥しけるも、かくやとおぼえ、唐の楊貴妃、梨花一枝雨をおび、芙蓉の風にしほれ、女朗花の露おもげなるよりも、なほいたはしき御さまなり。
かかる御悩のをりふしにあはせて、こはき御物怪どもあまたとり入りたてまつる。よりまし、明王の縛にかけて、霊あらはれたり。ことに、「讃岐の院の御霊」「宇治の悪左府の御憶念」「新大納言成親の卿の死霊」「西光法師が悪霊」「鬼界が島の流人どもの生霊」なんどぞ申しける。これによりて、入道相国、「生霊をも、死霊をも、
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なだめらるべし」とて、そのころ讃岐の院の御遺号あつて、「崇徳天皇」と号し、宇治の悪左府、増官贈位おこなはれて、太政大臣正一位をおくらる。勅使は少内記惟基とぞ聞こえし。くだんの墓所は、大和の国添上の郡川上の村、般若野の五三昧なり。保元の秋、掘りおこして捨てられしのちは、死骸路のほとりの土となつて、年年にただ春の草のみしげれり。いま勅使たづね来たつて宣命を読みけるに、亡魂いかに「うれし」とおぼしけん。
怨霊は、むかしもかくおそろしきことなり。されば、早良の廃太子をば「崇道天皇」と号し、井上の内親王をば皇后の職位に復す。これみな怨霊をなだめられしはかりごととぞ聞こえし。冷泉院の、御もの狂はしくましまし、花山の法皇の、十善万乗の帝位をすべらせたまひしは、元方の民部卿の霊なり。三条の院の、御目も御覧ぜざりしは、寛算供奉が霊とかや。
門脇の帝相、か様のことをつたへ聞いて、小松殿におはして申さ
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れけるは、「今度、中宮御悩の御いのり、さまざまに聞こえ候。なにと申すとも、非常の大赦にすぎたるほどのこと、あるべしともおぼえ候はず。中にも、鬼界が島の流人ども召し返されたらんほどの功徳、善根、なにごとか候ふべき」と申されければ、小松殿、父の相国の御前におはして申されけるは、「あの丹波の少将がことを、宰相なげき申し候ふが、不便に候。今度、中宮の御悩の御こと、承りおよぶごとくんば、成親の卿の死霊なんどの聞こえ候ふ。大納言が死霊をなだめられんとおぼしめさんにつけても、いそぎ、生きて候ふ少将を召しこそ返され候はめ。人の思ひをやめさせ給はば、おぼしめすこともかなひ、人の願ひをかなへさせましまさば、御願ひもすなはち成就して、中宮御産平安に、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あつて、家門の栄華はいよいよさかんに候ふべし」なんどぞ申されける。入道、日ごろにも似給はず、ことのほかにやはらいで、「さてさて、俊寛僧都、康頼法師がことはいかに」「それも、おなじくは召しこそ返さ
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れ候はめ。もし一人もとどめられたらんは、なかなか罪業たるべう候」と申されたりければ、入道、「康頼法師がことはさることなれども、俊寛は浄海が口入をもつて人となりたる者ぞかし。それに、所こそ多けれ、わが山荘鹿の谷に寄りあひて、事にふれ、奇怪のふるまひどもがありけんなれば、俊寛においては、思ひもよらず」とぞのたまひける。小松殿帰つて、叔父の宰相よびたてまつりて、「少将はすでに赦免候はんずるぞ。御心やすくおぼしめされ候へ」と申されければ、宰相、あまりのうれしさに、泣く泣く手をあはせてぞよろこび給ひける。「下り候ひしときも、『などか申しうけざらん』と思ひたるげにて、教盛を見候ふたびごとに涙をながし候ひしが、不便に候」と申されければ、小松殿、「まことに、さこそおぼしめし候はめ。子は、たれとてもかなしう候へば、よくよく申してみ候はん」とて入りたまふ。
さるほどに入道相国、「鬼界が島の流人ども、召し返さるべき」
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とさだめられて、赦文を書きて下されける。御使、すでに都をたつ。宰相、あまりのうれしさに、御使にわたくしの使をそへてぞ下されける。「夜を日にして、いそぎ下れ」とありしかども、心にまかせぬ海路なれば、おほくの波風をしのぎ行くほどに、都を七月下旬に出でたれども、九月二十日ごろにぞ鬼界が島には着きにける。
御使は丹波の左衛門尉基康と申す者なり。いそぎ船よりあがり、「これに、都より流され給ひたる法勝寺の執行俊寛僧都、丹波の少将成経、康頼入道殿やおはす」と声々にぞたづねける。二人は、例の熊野詣してなかりけり。俊寛一人ありけるが、このよしを聞いて、「あまりに思へば夢やらん。また、天魔波旬が来たつて、わが心をたぶらかさんとて言ふやらん。さらにうつつともおぼえぬものかな」とてあわて騒ぎ、走るともなく、いそぎ御使の前にゆきむかつて、「なにごとぞ。これこそ都より流されたりし俊寛よ」と名のり給へば、雑色がくびにかけたる文袋より、入道相国の赦文とり
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出だして奉る。これをいそぎあげて見給ふに、「重科は遠流に免ず、はやく帰洛の思ひをなすべし。中宮御悩の御祈りによて、非常の大赦おこなはる。しかるあひだ、鬼界が島の流人ども、少将成経、康頼入道赦免」とばかり書かれて、「俊寛」といふ文字はなし。「礼紙にぞあるらん」とて、礼紙を見るにも見えず。奥よりはしへ読み、はしより奥へ読みけれども、「二人」とばかり書かれて、「三人」とは書かれざりけり。
さるほどに、少将、康頼入道も出で来たり。少将取つて見るにも、康頼入道読みけるにも、「二人」とばかり書かれて、「三人」とは書かれざりけり。夢にこそかかることはあれ、夢かと思ひなさんとすればうつつ、うつつかと思へば夢のごとし。そのうへ、二人の人々のもとへは都よりことづてたる文どもありけれども、俊寛僧都のもとへは、こととふ文一つもなし。「されば、わがゆかりの者ども、都のうちに跡をとどめずなりにけり」と思ひやるにもたへがたし。
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「そもそも、われら三人は、罪もおなじ罪、配所もおなじ所なり。いかなれば、赦免のとき、二人召し返され、一人ここに残るべき。平家のおもひわすれか、執筆のあやまりか。こはいかにしつる事どもぞや」と、天にあふぎ、地に伏して泣きかなしめどもかひぞなき。
少将の袂にすがりつき、「俊寛がかくなるといふも、御辺の父故大納言殿のよしなき謀叛のゆゑなり。されば、よそのことに思ひ給ふべからず。ゆるされなければ、都までこそかなはずとも、船に乗せて、九国の地まで着けてたべ。おのおのこれにおはしつるほどこそ、春はつばくらめ、秋はたのむの雁のおとづるる様に、京のことをも聞きつれ。いまよりのちは、いかにしてかは都のことを聞くべき」とて、もだえこがれ給ひける。少将、「まことにさこそおぼしめされ候はめ。われらが召し返さるるうれしさは、さることにて候へども、御ありさまを見たてまつるに、行くべき空もおぼえず。うち
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乗せたてまつりて上りたうは候へども、都の御使もかなふまじきよしを申し候。そのうへ、『ゆるされなきに、三人ながら島を出でたる』なんどと聞こえ候はんは、なかなかあしう候ひなんず。まづ成経まかり上りて、入道相国の気色をもうかがひ、むかへに人を奉らん。そのほどは、日ごろおはしつる様に思ひなして、待ち給へ。なにとしても命は大切のことにて候へば、このたびこそ漏れさせ給ふとも、つひになどか赦免なうては候ふべき」と、こしらへなぐさめ給へども、こらふべしとも見えざりけり。
さるほどに、「船出だすべし」とて、ひしめきければ、僧都、船に乗りてはおり、おりては乗り、あらましごとをぞせられける。少将の形見には夜のふすま、康頼の形見には一部の法華経をぞとどめける。ともづな解いて船押し出だせば、僧都、網にとりつきて、腰になり、脇になり、たけの立つまでは引かれて出で、たけのおよばずなりければ、僧都、船にとりつきて、「さて、いかに、おのおの。
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俊寛をばつひに捨てはて給ふものかな。都までこそかなはずとも、この船に乗せて、九国の地まで」とくどかれけれども、都の御使、「いかにもかなひ候ふまじ」とて、とりつき給ふ手をひきはなして、船をばつひに漕ぎ出だす。僧都、せんかたなさに、なぎさにあがり、たふれ伏し、をさなき者の、乳母や母なんどをしたふやうに、足ずりをして、「これ具してゆけ、われ乗せてゆけ」とをめきさけべども、漕ぎゆく船のならひとて、あとは白波ばかりなり。いまだ遠からぬ船なれども、涙にくれて見えざりければ、高きところに走りあがりて、沖のかたをぞまねかれける。かの松浦小夜姫が、もろこし船をしたひつつ領布(ひれ)ふりけんも、これにはすぎじとぞ見えし。
船も漕ぎかくれ、日も暮るれども、僧都はあやしのふしどへも帰らず、波に足うち洗はせ、露にしほれて、その夜はそこにてぞ明かされける。「さりとも、少将はなさけふかき人にて、よき様に申すこともや」とたのみをかけて、その瀬に身をだに投げざりし心のうち
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こそはかなけれ。むかし早離、速離が海巌山にはなたれたりけんありさまも、これにはすぎじとぞ見えし。
二人の人々、鬼界が島を出でて、肥前の国鹿瀬(かせ)の荘(しやう)に着き給ふ。宰相、京より人を下して、「年のうちは波風もはげしう、道のあひだもおぼつかなう候へば、春になりて上られ候へ」とありければ、少将、鹿瀬(かせ)の荘(しやう)にて年をぞ暮らされける。
第二十三句 御産の巻
同じき十一月十二日の寅の刻より、中宮、御産の気ましますとて、京中、六波羅ひしめきあへり。御産所は六波羅の池殿にてありければ、法皇も御幸なる。関白殿をはじめたてまつりて、太政大臣以下の公卿、すべて世に人とかずへられ、官加階にのぞみをかけ、所帯
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所職を帯するほどの人の、一人も漏るるはなかりけり。「大冶二年九月十一日、待賢門院御産のときも、大赦おこなはるることあり。今度もその例なるべし」とて、重科のともがらおほく許されけるなかに、この俊寛僧都一人、赦免なかりけるこそうたてけれ。「御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あるならば、八幡、平野、大原野なんどへ行啓なるべし」と御立願あり。全玄法印、これを承りて、敬白す。神社は太神宮をはじめたてまつりて二十(にじふ)余箇所(よかしよ)、\仏所(ぶつしよ)は、東大寺(とうだいじ)、興福寺(こうぶくじ)以下(いげ)十六箇所(じふろくかしよ)へ御誦経(みじゆぎやう)あり。御誦経(みじゆぎやう)の御使は、宮の侍のなかに、有官のともがらこれをつとむ。平文の狩衣に帯剣したる者どもが、いろいろの御誦経物(みじゆぎやうもつ)、御剣、御衣を持ちつづいて、東の台より南庭をわたり、西の中門に出づ。めづらしかりし見物なり。
小松の大臣は善悪にさわがぬ人にて、そののちはるかに程経て、嫡子権亮少将の以下、公達の車ども遣りつづけさせ、色々の御衣四十領、銀剣七、広蓋に置かせ、御馬十二匹ひかせ、参らるる。
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寛弘に上東門院御産のとき、御堂の関白殿の御馬参らせける、その例とぞ聞こえし。この大臣は中宮の御舎兄にてましましけるうへ、父子の御ちぎりなれば、御馬参らせ給ひしはことわりなり。五条の大納言邦綱の卿も御馬二匹参らせらる。「心ざしのいたりか。徳のあまりか」とぞ人申しける。なほ伊勢よりはじめて、安芸の厳島にいたるまで、七十余箇所に神馬を立てらる。内裏には、寮の御馬に幣つけて、数十匹立てたり。
仁和寺の御室は孔雀経の法、天台座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円恵法親王は金剛童子の法、そのほか五大虚空蔵、六観音、一時金輪、五壇の法、六時河臨、八時文殊、普賢延命にいたるまで、のこるところなうぞ修せられける。護摩のけぶりは御所中にみち、鈴のこゑは雲をひびかし、修法の声、身の毛もよだち、いかなる御物怪なりとも、おもてをむかふべしとも見えざりけり。なほ仏所の法印に仰せて、御身等身の七仏薬師、ならびに五大尊の像をつくり
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はじめらる。
かかりしかども、中宮はひまなくしぎらせ給ふばかりにて、御産もいまだならざりけり。入道相国も二位殿も胸に手を置いて、「こはいかにせん。こはいかにせん」とぞあきれ給ふ。人の参りて、もの申しけれども、ただ、「よき様に」「よき様に」とぞのたまひける。
御験者は、房覚、昌雲両僧正、俊堯(しゆんげう)法印(ほふいん)、豪禅(がうぜん)、実全両僧都、おのおの僧伽(そうが)の句共(くども)あげ、本寺本山の三宝、年来所持の本尊たち、責めふせ、責めふせ、揉まれけり。まことに身の毛もよだつて、たつとかりけり。
なかにも、をりふし法皇は、新熊野へ御幸なるべきにて御精進のついでなりければ、錦帳ちかく御座あつて、千手経をうちあげ、うちあげ、あそばしけるにぞ、いまひときはこと変つて、さしもをどりくるひける御よりましが縛も、しばらくうちしづめける。法皇仰せなりけるは、「たとひいかなる御物怪なりとも、この老法師がかくて
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侍はんに、いかで近づきたてまつるべき。なかんづく、ただ今あらはるるところの怨霊は、みなわが朝恩をもつて人となりたる者ぞかし。たとひ報謝の心をこそ存ぜずとも、いかで豈(あに)障碍(しやうげ)をなすべけんや。すみやかにまかりしりぞき候へ」と、「女人生産しがたからんときにのぞんで、邪魔遮障し、くるしみたへがたからんにも、心をいたして大悲呪を読誦(どくじゆ)せば、鬼神退散して、安楽に生ぜん」とあそばし、皆水精に御数珠をおしもませ給へば、御産平安のみならず、皇子にてぞましましける。
重衡(しげひら)の卿、そのときは中宮亮にておはしけるが、御簾のうちよりづんと出で、「御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)候」とぞ、たからかに申されたりければ、法皇を始(はじ)めたてまつり、太政大臣以下の卿相、すべて堂上、堂下おのおの、助修、数輩の御験者たち、陰陽頭、典薬頭、一同に「あつ」といさみよろこぶ声、しばらくはしづまりやらざりけり。入道相国、うれしさのあまりに、声をあげてぞ泣かれける。
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よろこび泣きとはこれをいふべきにや。
小松の大臣、いそぎ中宮のかたへ参り給ひて、金銭九十九文、皇子の御まくらに置き、「天をもつては父とし、地をもつては母とさだめ、御命は方士、東方朔がよはひをたもち、御心には天照大神(てんせうだいじん)入りかはらせ給へ」とて、桑の弓、蓬の矢をもつて、天地四方を射させらる。
御乳には、前の右大将宗盛の卿の北の方とさだめられたりしかども、去んぬる七月に、難産にて失せ給ひしかば、平大納言時忠の卿の北の方、御乳に参らせ給ふ。のちには「帥(そつ)の典侍殿(すけどの)」とぞ申しける。
法皇、やがて還御の御車を門前に立てられたり。入道相国、うれしさのあまりに、砂金一千両、富士綿二千両、法皇へ進上せらる。人々、「しかるべからず」とぞ内々に申されける。
今度の御産に、勝事なることあまたあり。まづ法皇の御験者。次
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に、后の御産のときにのぞんで、御殿の棟より甑をころばかすことあり。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)には南へ落し、皇女御誕生には北へ落すを、これは、いかがしたりけん、北へ落す。人々、「いかに」とさわがれて、取りあげ、落し直されたりけれども、なほあしきことにぞ人申しける。をかしかりしは、入道相国のあきれざま。めでたかりしは、小松殿のふるまひ。本意なかりしは、右大将宗盛の卿の最愛の北の方におくれ給ひて、大納言、大将両職を辞して籠居(ろうきよ)せられしこと。兄弟ともに出仕あらば、いかにめでたからんに。
七人の陰陽師参りて、千度の御祓(おはら)ひつかまつる。そのうちに、掃部頭時晴といふ老者あり。所従なんども乏少なり。あまりに人参りつどひて、たかんなをこみ、稲麻竹葦のごとし。「役人ぞ、あけられよ」とて、おしわけ、おしわけ参るほどに、いかがしたりけん、右の沓をふみぬがれ、そこにてちと立ちやすらふが、冠をさへつき落されて、さばかりのみぎりに、束帯ただしき老者が、もとどり放つ
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てねり入りたりければ、若き公卿、殿上人はこらへずして、一同に笑ひあへり。陰陽師なんどいふ者は、「反陪」とて、足をもあだに踏まずとこそ承れ。それにかかる不思議のありけるを、そのときはなにとも思はざりけれども、のちこそ思ひあはせつることども多かりけれ。
御産に六波羅へ参り給ふ人々、関白(くわんばく)松殿(まつどの)、太政大臣妙音院殿、左大臣大炊の御門殿、右大臣(うだいじん)月の輪殿、内大臣小松殿、左大将実定、源大納言定房、三条の大納言実房、五条の大納言邦綱、藤大納言実国、按察使(あぜち)の資賢、中の御門の中納言宗家、花山の院の中納言兼雅、藤中納言資長、池の中納言頼盛、左衛門督時忠、別当忠親、左の宰相の中将実家、右の宰相の中将実守、新宰相の中将通親、平宰相教盛、六角の宰相家通、堀川の宰相頼定、右大弁の宰相長方、左大弁の三位俊経、左平衛督光能、右兵衛督成範(しげのり)、左京大夫脩範(ながのり)、皇太后宮大夫朝方、大宰大弐親信、新三位実清、以上三十三人。右大弁の
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ほかは直衣なり。
不参の人々には、花山の院の前の太政大臣忠雅公、大宮の大納言隆季卿(たかすゑのきやう)以下(いげ)十四人。後日に布衣着して、入道相国の西八条の第へむかはれけるとぞ聞こえし。
御修法の結願に、勧賞共(くわんじやうども)おこなはれける。仁和寺(にんわじ)の御室の守覚法親王は、「東寺修造せらるべし。ならびに後七日御修法、大元帥の法、灌頂興行せらるべき」よし、仰せくださる。御弟子覚成僧都、法印に叙せらる。座主の宮は、「二品ならびに御車の宣旨」を申させ給ふ。仁和寺(にんわじ)の御室ささへ給ふによて、御弟子の法眼円良、法印になさる。そのほかの勧賞共(くわんじやうども)、毛挙にいとまあきあらずとぞ聞こえし。
日数経にければ、中宮、六波羅より内裏へ入らせ給ふ。この御むすめ、位につかせ給ひしかば、入道相国、「あはれ、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あれかし。皇位につけたてまつりて、外祖父、外祖母とあふがれん」
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とぞ願はれける。「われあがめたてまつる神に申さん」とて、厳島に月詣し給ひて祈られければ、中宮やがて御懐妊ありて、御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)にてましましけるこそめでたけれ。
第二十四句 大塔修理
そもそも、平家の厳島を信じはじめられけることは、何といふに、鳥羽の院の時、太政入道、いまだ安芸守(あきのかみ)にておはしけるが、安芸の国をもつて、高野(かうや)の大塔(だいたふ)を修理(しゆり)せよ」とて、\渡辺(わたなべ)の遠藤(ゑんどう)六郎(ろくらう)頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付(つけ)て、七年(しちねん)に修理(しゆり)をはんぬ。\修理(しゆり)をはりて後(のち)、清盛(きよもり)、高野へ参り、大塔ををがみ、奥の院へ参られたりければ、いづくともなき老僧の、まゆには霜をたれ、ひたひに波をたたみ、鹿杖にすがりて出で来給へり。ややひさしう御ものがたりせさせおはします。
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「むかしよりわが山は、密宗をひかへて、いまにいたるまで退転なし。天下にまたも候はず。越前の気比の社と安芸の厳島は両界の垂迹にて候ふが、気比の社はさかえたれども、厳島はなきがごとくに荒れはてて候。大塔すでに修理をはんぬ。同じくは、このついでに奏聞して、修理せさせ給へ。さだにも候はば、御辺は官加階肩を並ぶる者もあるまじきぞ」とて立ち給ふ。この老僧(らうそう)の居(ゐ)給(たま)へる所(ところ)に、異香薫じたり。人をつけて見給へば、三町ばかりは見え給ひて、そののちは、かき消すごとくに失せ給ひぬ。
「これただ人にてあらず。大師にてましましける」と、いよいよたつとくおぼして、「娑婆世界の思ひ出に」とて、高野の金堂に曼荼羅を描かれけるが、西曼荼羅をば、常明法印といふ絵師に描かせらる。東曼荼羅をば、「清盛描かん」とて、自筆に描かれけるが、いかが思はれけん、八葉の中尊の宝冠をば、わがかうべの血を出だして描かれけるとぞ聞こえし。
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そののち、清盛都へのぼり、院参して、このよしをぞ奏聞せられたりければ、君なのめならずに御感ありて、なほ程をのべず、厳島を修理せらる。鳥居をたてかへ、社をつくりかへ、百八十間の廻廊をぞつくられける。
修理をはりてのち、清盛、厳島へ参り、通夜せられける夜の夢に、御宝殿のうちより、びんづら結うたる天童の出でて、「これは大明神の御使なり。なんぢ、この剣をもちて、一天四海をしづめて、朝家の御まぼりたるべし」とて、銀の蛭巻したる小長刀を賜はると、夢を見て、さめてのち見給へば、うつつに枕上にぞ立ちたりける。さて、大明神御託宣ありて、「なんぢ知れりや。忘れりや。弘法をもつて言はせしこと。ただし悪行あらば、子孫まではかなふまじきぞ」とて、大明神はあがらせおはします。めでたかりしことどもなり。
白河の院の御時、京極の大臣の御むすめ、后に立たせ給ひて、賢子
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中宮とて、御最愛ありけり。主上、この腹に皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あらまほしうおぼしめして、そのころ有験の僧と聞こえし三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(あじやり)を召して、「なんぢ、この腹に皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)の御祈り申せ。御願成就せば、勧賞(くわんじやう)はのぞみによつて」とぞ、仰せける。頼豪、「やすき御こと候」とて、三井寺(みゐでら)にかへりて、肝胆をくだき、祈り申されければ、中宮やがて御懐妊ありて、承保元年十一月十六日、御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありけり。主上なのめならず御感(ぎよかん)ありて、「汝(なんぢ)、所望(しよまう)の事(こと)はいかに」と仰(おほ)せられば、三井寺(みゐでら)に戒壇(かいだん)建立(こんりふ)の事(こと)を奏(そう)す。主上(しゆしやう)、「これは存知のほかなる所望なり。およそは、一階僧正なんどをも申すべきかとこそおぼしめしつれ。およそ皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あつて、位を継がしめんことも、海内無為をおぼしめしつるためなり。いま、汝(なんぢ)が所望を達せば、山門いきどほり、世上しづかなるべからず。両門ともに合戦せば、天台の仏法ほろびなんず」とて、御ゆるされもなかりけり。
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頼豪、これを口惜しきことにして、三井寺(みゐでら)にかへりて、持仏堂にたてこもりて、干死せんとす。主上、なのめならずに御おどろきあつて、江の帥(そつ)匡房の卿、そのときはいまだ美作守と聞こえしを召して、「なんぢは頼豪と師檀(しだん)の契(ちぎり)あんなれば、行きてこしらへてみよ」と仰せければ、美作守かしこまり承つて、頼豪(らいがう)が宿坊(しゆくばう)に行(ゆき)向ひ、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)を申さんとするに、頼豪つひに対面もせざりけり。もつてのほかにふすぼつたる持仏堂にたてこもり、おそろしげなる声して、「天子にたはぶれのことばなし、綸言汗のごとしとこそ承れ。これほどの所望かなはざらんにおいては、わが祈り出だしたてまつる皇子にてましませば、取りたてまつりて、魔道へこそ行かん」とて、つひに対面もせずして、干死にこそしてんげれ。美作守、かへり参りてこのよしを奏聞しければ、主上なのめならず御おどろきありけり。
さるほどに、皇子御悩つかせ給ひて、さまざまの御祈りありしか
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ども、かなふべしとも見えざりけり。白髪なる老僧の、錫杖(しやくぢやう)持ちて皇子の御枕にたたずみて、人々の夢にも見え、まぼろしにもたちけり。おそろしなんどもおろかなり。
さるほどに、承暦元年八月六日、皇子(わうじ)御年(おんとし)四歳(しさい)にて、つひにかくれさせ給ふ。敦文の親王これなり。主上なのめならず御なげきありて、またそのころ山門に、有験の僧と聞こえし、西京の座主良真大僧正、そのころいまだ円融坊の僧都と聞こえしを、内裏へ召して、「いかがせんずる」と仰せければ、「か様の御願は、いつもわが山の力にてこそ成就することにて候へ。されば、九条の右丞相、慈恵大僧正に申させ給ひしによてこそ、冷泉院の御願、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)候へ。やすきほどの御ことなり」とて、比叡山にかへりのぼりて、山王大師に百日肝胆をくだいて祈り申されければ、百日のうちに、中宮やがて御懐妊あつて、承暦三年七月九日、御産平安、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ありけり。堀河の天皇これなり。
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怨霊はみなみなおそろしきことなり。今度さしもめでたき御産に、大赦おこなはれたりといへども、俊寛僧都一人赦免なかりけるこそうたてけれ。
同じく、十二月二十四日、皇子、東宮に立たせ給ふ。傅(すけ)には小松の大臣、大夫には池の中納言頼盛の卿とぞ聞こえし。
第二十五句 少将帰洛
さるほどに、ことしも暮れて、治承(ぢしよう)も三年になりにけり。正月下旬に、丹波の少将成経、肥前の国鹿瀬庄(かせ)の荘(しやう)をたつて、都へといそがれけれども、余寒なほはげしく、海上もいたく荒れければ、浦づたへ、島づたへして、きさらぎ十日ごろにぞ備前の児島に着き給ふ。それより父大納言の住み給ひける所をたづね入りて見給ふに、竹の柱、
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古りたる障子なんどに書き置き給へる筆のすさみを見給ひてこそ、「あはれ、人の形見には手跡にすぎたるものぞなき。書き置き給はずは、いかでか手をも見るべき」とて、康頼入道と二人、読みては泣き、泣きては読み、「安元三年七月二十日に出家。同じく二十六日信俊下向」と書かれたり。さてこそ、源左衛門尉信俊が参りたるとも知られけれ。そばなる壁には、「三尊来迎のたよりあり、九品往生うたがひなし」とも書かれたり。この形見を見給ひてこそ、「さすが、この人は欣求浄土ののぞみもおはしけり」と、かぎりなき嘆きのうちにも、いささかたのもしげにはのたまひけれ。
その墓をたづね入りて見給ふに、松の一群あるなかに、かひがひしう壇を築きたることもなく、土のすこし高きところに、少将袖かきあはせて、生きたる人にものを申す様に、かきくどき申されけるは、「遠き御まぼりとならせおはしたることをば、島にてもかすかにつたへ承(うけたまは)りて候ひしかども、心にまかせぬ憂き身なれば、いそぎ
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参ることも候はず。成経、おほくの波路をしのぎてかの島へ流され、のちのたよりなさ。一日片時のいのちもながらへがたうこそ候ひしに、さすが露のいのち消えやらで、三年をおくりて、召し返さるるうれしさはさることにて候へども、この世にわたらせ給ふを見まゐらせ候はばこそ、いのちのながきかひも候はめ。これまではいそぎつれども、今よりのちはいそぐべきともおぼえず」とて、かきくどきてぞ泣かれける。まことに存生のときならば、大納言入道殿こそ、いかにものたまふべきに、生をへだてたるならひほどうらめしかりけることはなし。苔の下には、誰かはこととふべき。ただ嵐にさわぐ松のひびきばかりなり。
その夜は、康頼入道と二人、墓のまはりを行道し、念仏申す。明けければ、あたらしう壇を築き、釘貫をさせて、前に仮屋をつくりて、七日七夜念仏申し、経書いて、結願には大きなる卒塔婆をたて、「過去聖霊、出離生死、頓証菩提」と書いて、年号月日の下に、
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「孝子成経」と書かれたれば、しづ山がつの心なきも、「子にすぎたる宝なし」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり。年去り年来たれども、わすれがたきは撫育のむかしの思ひ。夢のごとく、まぼろしのごとし、尽きがたきは恋慕のいまの涙なり。三世(さんぜ)十方(じつぱう)の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)もあはれみ給ひ、亡魂尊霊もいかにうれしとおぼしけん。「いましばらく念仏の功をも積むべう候へども、都に待つ人どもも心もとなう候ふらん。またこそ参り候はめ」とて、亡者にいとま申しつつ、泣く泣くそこをぞたたれける。草のかげにても、なごり惜しくもや思はれけん。
同じき三月十六日、少将、鳥羽へぞ着き給ふ。故大納言の山荘、州浜殿(すはまどの)とて鳥羽にあり。住み荒らして年経にければ、築地はあれどもおほひもなし、門はあれどもとびらもなし。庭にさし入り見給へば、人跡絶えて苔ふかし。池のほとりを見わたせば、秋の山の春風に、白波しきりにうちかけて、紫鴛(しゑん)白鴎(はくおう)逍遥(せうえう)す。興ぜし人の恋しさ
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に、尽きせぬものは涙なり。家はあれども格子もなし。蔀、遣戸もたえてなし。「ここには大納言殿の、とこそ住み給ひしか」「この妻戸をば、かうこそ出で入りし給ひしか」「あの木はみづからこそ植ゑ給ひしか」なんど言ひて、言の葉につけても、ただ父のことを恋しげにこそのたまひけれ。やよひの中の六日なれば、花はいまだなごりあり。楊梅(やうばい)桃李(たうり)の梢(こずゑ)こそ、をり知りがほにいろいろなれ。むかしのあるじはなけれども、春をわすれぬ花なれや。少将、花のもとに立ち寄りて、
桃李(たうり)もの言はず、春いくばくか暮れぬ
煙霞跡(あと)なし、昔誰が住まひぞ
ふるさとの花のものいふ世なりせば
いかにむかしのことを問はまし
この古き詩歌をくちずさみ給へば、康頼入道もそぞろにあはれにおぼえて、墨染の袖をぞ濡らされける。暮るるほどは待たれけれども、
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あまりになごりを惜しみて、夜ふくるまでこそおはしけれ。ふけゆくままに、荒れたる宿のならひとて、古き軒の板間より、漏る月影ぞくまもなき。鶏籠(けいろう)の山(やま)明(あ)けなんとすれども、家路はさらに急がれず。
さてしもあるべきことならねば、都より乗物どもむかひにつかはしたれば、これに乗りて京へ入り給ひける人々の心のうち、さこそうれしうも、またあはれにもありけめ。康頼入道がむかひにも乗物ありけれども、「いまさらなごり惜しきに」とて、それには乗らずして、少将の車に乗つて、七条河原までは行き、それより行き別れけるが、なほも行きやらざりけり。花のもとの半日の客、月の前(まへ)の一夜(いちや)の友(とも)、旅びとが一むらさめのすぎゆくに、一樹のかげに立ち寄つて別るるだにも、なごりは惜しきものぞかし。いはんや、これは憂かりし島の住まひ、船中の波のうへ、一業所感の身なれば前世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も浅(あさ)からずや思(おも)ひ知られけん。
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少将の母上は霊山におはしけるが、昨日より宰相の宿所へおはして待たれける。少将のたち入り給ふ姿を一目見て、「命あれば」とばかりぞのたまひける。やがて引きかづいてぞ伏し給ふ。宰相のうちの女房、侍どもさし群がつて、よろこびの涙をながしけり。乳母の六条は、尽きせぬもの思ひに、黒かりし髪もみな白くなり、北の方は、さしもはなやかにうつくしうおはせしかども、痩せおとろへて、その人とも見え給はず。流され給ひしとき三歳にて別れし幼き人、おとなしうなつて、髪ゆふほどになり、そのそばに三つばかりなる幼き者のありけるを、少将、「あれはいかに」とのたまへば、乳母の六条、「これこそ」とばかり申して、涙をながしけるにぞ、「下りしとき、よにも苦しげなるありさま見置きしは、ことゆゑなう育ちけるよ」と思ひ出でてもあはれなり。少将はもとのごとく院に召しつかはれて、宰相の中将にあがり給ふ。
康頼入道は、東山双林寺にわが山荘のありければ、それにおちつい
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て、見れば、三年があひだにあまりに荒れはてたるを見て、泣く泣くかうぞ申しける。
ふるさとの軒の板間の苔むして
思ひしほどはもらぬ月かな
やがてそこに籠居(ろうきよ)して、憂かりし昔を思ひつづけて、「宝物集」といふ物語を書きけるとぞ聞こえし。
第二十六句 有王島下り
さるほどに、鬼界が島へ三人流されたりしが、二人は召し返されて都へのぼりぬ。いまは俊寛一人のこりとまつて、憂かりし島の島守りとなりにけるこそあはれなれ。
俊寛僧都の、をさなうより不便にして召し使はれける童、有王、
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亀王とて二人あり。二人ながら、あけてもくれても主のことをのみ嘆きけるが、その思ひのつもりにや、亀王はほどなく死ににけり。
有王いまだありけるが、「鬼界が島の流人ども、今日すでに都へ入る」と聞こえしかば、鳥羽まで行きむかひて見れども、わが主は見え給はず。「いかに」と問ふに、「俊寛の御坊はなほ罪ふかしとて島にのこされぬ」と聞いて、有王涙にぞしづみける。泣く泣く都へたちかへり、その夜は六波羅の辺にたたずみて、うかがひ聞きけれども、聞き出だしたることもなし。泣く泣くわがかたに帰りて、つくづく嘆きくらせども、思ひ晴れたるかたもなし。「かくて思へば、身も苦し。鬼界が島とかやにたづね下つて、僧都の御坊のゆくへを、いま一度見たてまつらばや」とぞ思ひける。
姫御前のおはしけるところへ参りて、申しけるは、「君はこの瀬にも漏れさせ給ひて、御のぼりも候はず。いかにもして、わたらせ給ふ島におりて、御ゆくへをたづねまゐらせばやと思ひたちて候へ。
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御文を賜はりて参り候はん」と申しければ、姫御前、なのめならずによろこび給ひて、やがて書いてぞ賜びにける。「いとまを乞ふとも、よもゆるさじ」とて、父にも、母にも知らせず、泣く泣くたづねぞ下りける。
唐船のともづなは、四月、五月に解くなれば、夏衣たつをおそくや思ひけん、三月の末に都を出でて、おほくの波路をしのぎつつ、薩摩潟(さつまがた)へぞ下(くだ)りける。薩摩(さつま)よりかの島へわたる舟津にて、人あやしみ、着たるものをはぎ取りなんどしけれども、すこしも後悔せざりけり。姫君の御文ばかりぞ、人に見せじと、元結のうちにかくしたりける。
さて、商人の船のたよりに、くだんの島にわたりて見るに、都にてかすかに伝へ聞きしはことの数ならず。田もなし、畑もなし、村もなし、里もなし。おのづから人はあれども、言ふことばも聞き知らず。「これに都より流され給ひし、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへ
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や知つたる」といふに、「法勝寺」とも、「執行」とも、知つたらばこそ返事もせめ、頭をふつて、「知らず」と言ふ。そのなかにある者が心得て、「いとさよ、さ様の人は、三人これにありしが、二人は召し返されてのぼりぬ。いま一人のこされて、あそこ、ここにまよひありけども、ゆくへは知らず」とぞ言ひける。山のかたのおぼつかなさに、はるかにわけ入り、峰によぢのぼり、谷にくだれども、白雲跡を埋づんで、ゆききの道もさだかならず。青嵐ゆめをやぶりて、その面影も見えざりけり。山にてはたづねあはずして、海のほとりについてたづぬれば、沙頭(さとう)に印(いん)を刻(きざ)む鴎(かもめ)、沖(おき)の白州(しらす)にすだく浜千鳥のほかは、こととふものもなかりけり。
ある朝、磯の方より、かげろふなんどの様に痩せ衰へたる者、よろぼひ出で来たり。「もとは法師にてありける」とおぼしくて、髪はそらざまに生えあがり、よろづの藻屑とりついて、もどろをいただきたるがごとし。つぎめあらはれて皮ゆるみ、身に着たるものは、
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絹布の分けも見えずして、片手には海藻をひろひて持ち、片手には網人に魚をもらひて持ち、歩む様にはしけれども、はかちもゆかず、よろよろとして出で来たる。有王、「不思議やな。われ都(みやこ)にて多(おほ)くの乞丐人(こつがいにん)を見しかども、か様の者はいまだ見ず。諸阿修羅等、居在大海辺とて、修羅、三悪、四趣は深山大海の辺にあると、仏説き給へることなれば、知らず、餓鬼道にたづね来たるか」と思ふほどに、かれも、これも、次第に歩み近づく。「もし、か様の者なりとも、わが主のゆくへもや知りまゐらせたることもや」と、「もの申す」と言へば、「なにごと」と答ふ。「これに都より流され給ひたる、法勝寺の執行の御坊の御ゆくへや知つたる」と問ふに、童は見わすれたれども、僧都はいかでかわすれ給ふべきなれば、「これこそよ」とのたまひもあへず、手に持ちたるものを投げ捨(す)てて、砂の上に倒れ伏す。さてこそ、わが主の御ゆくへとも知りてけれ。
僧都、やがて消え入り給ふに、有王、ひざの上にかき乗せたてまつり
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て、「有王参りて候。おほくの波路をしのぎて、これまではるばるとたづね参りたるかひもなく、いかでか、やがて憂き目(め)を見せさせ給ふぞ」と、泣く泣く申しければ、ややあつて、僧都、すこし人ごころ出で来て、たすけおこされ、のたまひけるは、「さればとよ。去年少将、康頼入道がむかひのときも、その瀬に身をも投ぐべかりしを、よしなき、少将の『いかにもして都のおとづれをも待てかし』となぐさめおきしを、おろかに、もしやとたのみつつ、ながらへんとはせしかども、この島には人の食ひ物なき所にて、身に力のありしほどは、山にのぼりて硫黄といふものを取り、九国よりわたる商人にあひ、食ひ物にかへなんどせしかども、日にそへて弱りゆけば、そのわざもせられず。か様に日ののどかなるときは、磯に出でて網人に魚をもらひ、潮干のときは貝をひろひ、あらめを取り、磯の苔につゆの命をかけてこそ、今日まではながらへたれ。さらでは憂き世のよすがをば、いかにしつらんとか思ふらん。ここにて
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何事をも言ふべけれども、いざ、わが家に」とのたまへば、有王、「あの御ありさまにても、家を持ち給ふことの不思議さよ」と思ひて行くほどに、松の一群あるなかに、より竹を柱にし、葦を結ひて桁梁にわたして、上にも下にも松の葉をひしととりかけたれば、雨風のたまるべうも見えざりけり。「むかしは法勝寺の寺務職(じむしき)にて、八十余箇所の荘務をもつかさどられしかば、棟門、平門のなかに、四五百人(しごひやくにん)の所従(しよじゆう)眷属(けんぞく)に囲饒(ゐねう)せられてこそおはせしに、まのあたりにかかる憂きめを見給ひけるこそ不思議なれ。業にさまざまあり、順現、順生、順後業といへり。僧都、一期のあひだ、身に用ゆるところは、みな大伽藍の寺物、仏物にあらずといふことなし。されば、かの信施無慚の罪により、はや、今生にて感ぜられにけり」と見えたりける。
僧都、うつつにてありけりと思ひさだめて、「少将、康頼入道がむかひのときも、これが文といふこともなし。ただ今なんぢがたより
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にも、おとづれのなきは、かくとも言はざりけるか」とのたまへば、有王、涙にむせび、うつ伏して、しばしは御返事にもおよばず、ややあつて、涙をおさへて申しけるは、「君の西八条へ御出で候ひしとき、追捕の官人参りて、御内の人々からめとり、御謀叛の次第をたづねて、みな失ひはてられ候ひぬ。北の方は、をさなき人を、隠しかねまゐらせ給ひて、鞍馬の奥にしのびてわたらせ給ひ候ひしに、この童ばかりこそ、時々参り、宮仕ひつかまつり候ひしか。をさなき人は、あまりに恋しがらせ給ひて、参り候ふたびごとに、『わが父のわたらせ給ふ鬼界が島とかやへ具して行け』とて、むづがらせ給ひしが、過ぎにし二月に、もがさといふものに、失せさせおはしまし候ひぬ。北の方は、その御思ひと申し、またこれの御ことと申し、ひとかたならぬ思ひに、同じく三月二日に、はかなくならせおはしまし候ひぬ。いまは姫御前ばかりこそ、奈良のをば御前のもとにしのびてわたらせ給ひ候ふが、その御文は賜はりて参りて
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候」とて、取り出だして奉る。僧都いそぎこれをあけて見給ふに、「などや、三人流され給ふ人の、二人は召し返されさぶらふに、いままで御のぼりもさぶらはぬぞ。あまりに御恋しう思ひまゐらせさぶらふに、この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ」とぞ書かれたる。
たなばたの海士のつりぶねわれに貸せ
八重の潮路の父をむかへん
「これを見よ、有王よ。この子が文の書き様のはかなさよ。おのれを供にのぼれとは、心にまかせたる俊寛が身ならば、いままでなにとてこの島にて三年の春秋をばおくるべき。ことし十二になるとこそおぼゆれ、これほどはかなくては、いかで人にも見え、宮仕ひをもして、身をもたすくべきか」とて泣かれけるにぞ、「人の親の心は闇にあらねども、子を思ふ道に迷ふ」とも、思ひ知られてあはれなれ。
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「さて、俊寛がこの島へ流されてのちは、暦なければ月日のたつをも知らず。おのづから花の咲き、葉の落つるをもつて、三年の春秋をわきまへ、蝉のこゑ麦秋を送るを聞いて夏と知り、雪のつもるを見て冬と知る。白月、黒月のかはりゆくをもつて、三十日をわきまへ、指を折りてかぞふれば、ことし六つになると思ふをさなき者も、はや先立ちけるござんなれ。西八条へ出でしとき、この子が、『我(われ)もゆかん』と慕ひしを、『やがて帰(かへ)らんずるぞ』といさめ置きしが、今の様におぼゆるぞや。限りとだに思はましかば、いましばしもなどか見ざらん。親となり、子となり、夫婦の縁をむすぶも、この世一つに限らぬちぎりぞかし。などか、されば、それらがさ様に先立ちけるを、夢まぼろしにも知らざりけるよ。人目をも恥ぢず、命を生きうと思ふも、これらをいま一度見ばやと思ふためなり。今は生きてもなにかせん。姫のことこそ心苦しけれども、それも生き身なれば、嘆きながらもすごさんずらん。さのみながらへて、おのれ
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に憂き目を見せんも、わが身ながらつれなかるべし」とて、おのづから食事をとどめて、ひとへに弥陀の名号をとなへて、臨終正念をぞ祈られける。有王島へわたりて三十三日と申すに、つひにその庵のうちにてをはり給ひぬ。年三十七とぞ聞こえし。
有王、むなしきかばねにとりつき、心のゆくほど泣きこがれ、「やがて後世の御供つかまつるべう候へども、この世には姫御前ばかりこそわたらせ給ひ候へ。後世(ごせ)訪(とぶら)ひ参らすべき人(ひと)も候(さうら)はず。しばし永らへて後世(ごせ)訪(とぶら)ひ参らせん」とて、臥所をあらためず、庵をきりかけ、松の枯れ枝、葦の枯れ葉をとりおほひ、藻塩のけぶりになしたてまつり、白骨をひろひ、くびにかけ、また商人の船のたよりに、九国の地へぞ着きにける。
泣く泣く都へたちかへり、親のもとへ行かずして、僧都の姫御前の御もとへ直ぐに参り、ありし様をはじめよりこまごまと語りたてまつる。「なかなかに、御文を御覧じてこそ、御思ひはいとどまさら
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せ給ひ候(さうら)ひしか。すずり、紙もなければ、御返事にもおよばず、おぼしめすこと、さながらむなしうやみにき。今は生々世々(しやうじやうせせ)を送(おく)り、多生曠劫(たしやうくわうごふ)を経るとも、いかにとしてか、御声をも聞き、御すがたをも見まゐらせ給ふべき」と申しければ、姫御前、声も惜しまずをめきさけび給ひけり。十二(じふに)の歳、やがて尼になり、奈良の法華寺におこなひすまして、父母の後世をとぶらひ給ふぞあはれなる。
有王は俊寛僧都の遺骨をくびにかけ、高野へのぼり、奥の院にをさめ、蓮華谷にて法師になり、諸国七道修業して、主の後世をぞとぶらひける。か様に人の思ひ嘆きのつもりぬる平家のすゑこそおそろしけれ。
第二十七句 金渡し 医師問答
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さるほどに、同じく五月十二日の午の刻ばかりに、京中は辻風おびたたしう吹いて行くに、棟門、平門を吹き倒し、四五町、十町吹きもつて行き、桁、長押、柱なんどは虚空に散在す。檜皮(ひはだ)葺板(ふきいた)のたぐひ、冬の木の葉の風に乱るるがごとし。おびたたしう鳴り、動揺すること、かの地獄の業風なりともこれには過ぎじとぞ見えし。舎屋破損するのみならず、命失ふ者もおほかりけり。牛馬のたぐひ、数をつくしてうち殺さる。「これただ事にあらず。御占形あるべし」とて、神祇官(じんぎくわん)にして御占形あり。「いま百日のうちに、禄を重んずる大臣のつつしみ。別して天下の御大事。ならびに仏法、王法ともにかたぶきて、兵革相続すべき」とぞ神祇官(じんぎくわん)、陰陽頭どもは占ひ申しける。
小松の大臣は、か様の事どもを伝へ聞き給ひて、よろづ心細うや思はれけん、そのころ熊野参詣のことあり、本宮証誠殿の御前に参らせ給ひて、よもすがら敬白せられけるは、
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親父入道相国のふるまひを見るに、ややもんずれば、悪行無道にして、君をなやましたてまつり、重盛、嫡子として、しきりに諫(いさ)めをいたすといへども、身不肖のあひだ、彼をもつて服膺せず。そのふるまひを見るに、一期の栄華なほあやふし。枝葉連続して親をあらはし、名をあげんことかたし。このときにあたつて、重盛いやしくも思へり。なまじひに世につらなつて浮沈せんこと、あへて良臣(りやうしん)孝子(かうし)の法(ほふ)にあらず。名をのがれ、身をしりぞいて、今生の名利をなげうつて、来世の菩提をもとめんにはしかじ。ただし、凡夫薄地、是非に迷へるがゆゑに、心ざしをほしいままにせず。南無権現金剛童子、ねがはくは子孫繁栄に絶えずして、朝廷に仕へてまじはるべくは、入道の悪心をやはらげて、天下の安全を得せしめ給へ。栄耀また一期をかぎつて、後昆の恥におよばば、重盛が運命をつづめて、来世の苦患(くげん)を助(たす)け給(たま)へ。両箇の求願、ひとへに冥助をあふぐ。
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と、肝胆をくだいて祈り申されければ、大臣の御身より燈籠(とうろ)の火(ひ)の光の様なるものの出でて、ばつと消ゆるがごとくして失せにけり。人あまた見たてまつりけれども、恐れてこれを申さず。
大臣下向のとき、岩田川を渡らせ給ひけるに、嫡子権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)以下(いげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)のしたに薄色の衣を着給ひたりけるが、夏のことなりければ、なにとなう河水にたはぶれ給ふほどに、浄衣のぬれて、衣にうつりたるが、ひとへに色のごとく見えければ、筑後守定能、これを見とがめたてまつりて、「あの浄衣、よに忌はしげに見えさせ給ひ候。召し替へらるべうや候ふらん」と申しければ、大臣、「さては、わが所願、すでに成就しにけり。あへてその浄衣あらたむべからず」とて、岩田川より、別してよろこびの奉幣を熊野へぞたてられける。人「あやし」と思へども、その心を得ず。しかるにこの公達、程なく、まことの色を着給ひけるこそ不思議なれ。
大臣下向ののち、いくばくの日数を経ずして、病ひつき給ひしか
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ば、「権現すでに御納受あるにこそ」とて、療治もし給はず、また祈祷をもいたされず。そのころ、宋朝よりすぐれたる名医わたりて、本朝にやすらふことありける。入道相国、福原の別業におはしけるが、越中の前司盛俊を使者にて、小松殿へのたまひつかはしけるは、「所労のこと、いよいよ大事なるよし、その聞こえあり。かねては、また宋朝よりすぐれたる名医わたれり。をりふしよろこびとす。よて彼を召し請じて、療治をくはへしめ給へ」とぞのたまひたる。小松殿、さしもに苦しげにおはしけるが、たすけ起されて、人をはるかにのけて対面あつて、「まづ医療のこと、『かしこまつて承(うけたまは)り候ひぬ』と申すべし。ただし、なんぢも承れ。延喜の帝は、さばかんの賢王にてわたらせ給ひしかども、異国の相人を都のうちへ入れられたりしをば、末代までも『賢王の御あやまり、本朝の恥』とこそ見えたれ。いはんや重盛ほどの凡人が異国の医師を都のうちへ入れんこと、国の恥にあらずや。漢の高祖は三尺の剣をひつさげて天下
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ををさめしかども、淮南(わいなん)の黥布(げいふ)を討(う)ちし時(とき)、流矢(ながれや)にあたつて傷をかうぶる。后呂太后、良医を召して見せしむるに、医の曰く、『われこの傷を治すべし。ただし五十斤の金をあたへば治せん』と言ふ。高祖のたまはく、『われまぼりの強かりしほどは、多くのたたかひにあうて傷をかうぶりしかども、その痛みなし。運すでに尽きぬ、命はすなはち天にあり、扁鵲といふとも何の益かあらん、しかれば金を惜しむに似たり』とて、五十斤の金を医師にあたへながら、つひに治せざりき。先言耳にあり、いまもつて甘心とす。重盛、いやしくも公卿に列し三台にのぼり、その運命をはかるに、みなもつて天心にあり。何ぞ天命を察せずして、おろかに医療を疲らかさんや。所労もし定業たらば、医療を加ふるとも益なからんか。また非業たらば、医療を加へずとも助かることを得べし。かの耆婆(ぎば)が医術(いじゆつ)及(およ)ばずして、大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を抜提(ばつだい)の辺(ほとり)に唱(とな)ふ。これすなはち定業のやまひ癒えざることを示さんがためなり。治するは仏体、
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療ずるは耆婆(ぎば)なり。定業(ぢやうごふ)、医療(いれう)にかかはるべくんば、豈(あに)釈尊(しやくそん)入滅(にふめつ)あらんや。定業(ぢやうごふ)治(ぢ)するに堪(た)へざる旨(むね)明らけし。しかれば、重盛が身仏体にあらず、名医また耆婆(ぎば)におよぶべからず。たとひ四部の書をかんがへて、百療(はくれう)に長(ちやう)ずといふとも、有待(うだい)の依身(えしん)をすくひ療ぜん。たとひ五経の説をつまびらかにして衆病を癒すといふとも、いかでか前世の業病を治せんや。もしかの医術によて存命せば、本朝の医道なきに似たり。医術効験なくんば、面謁所詮なし。就中(なかんづく)、本朝(ほんてう)鼎臣(ていしん)の外相(ぐわいさう)をもつて、異朝(いてう)浮遊の来客に見えんこと、かつうは国の恥、かつうは道(みち)の陵遅(りようち)なり。たとひ重盛命ほろぶといふとも、いかでか国の恥を思ふ心を存ぜざらんや。このよしを申せ」とこそのたまひけれ。
盛俊泣く泣く福原へ馳せ下り、このよしを申したりければ、入道大きにさわいで、「是(これ)程(ほど)国(くに)の恥(はぢ)を思ふ大臣、上古いまだなし。末代にあるべしともおぼえず。日本不相応の大臣なれば、いかさま
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にも今度失せなんず」とて、泣く泣くいそぎ都へ上られけり。
同じく七月二十八日、小松殿出家し給ふ。法名をば「照空」とぞつき給ひける。
やがて八月一日。臨終正念に住して、つひに失せ給ひぬ。御年四十三。世はさかりとこそ見えつるに、あはれなりしことどもなり。「さしも入道の、横紙を破られつるをも、この人の直しさだめられつればこそ、世もおだやかなりつれ、こののち天下にいかばかりの事か出で来んずらん」とて、上下なげきあへり。前の右大将宗盛の卿の方様の人々は、「世はすでに大将殿へ参りなんず」とて、いさみよろこびあへり。人の親の子を思ふならひは、愚かなるが先立つだにもかなしきぞかし。いはんやこれは当家の棟梁、当世の賢人にておはしければ、恩愛のわかれ、家の衰微、かなしんでもなほあまりあり。されば世には良臣をうしなへることをなげき、家には武略のすたれぬることをかなしみ、およそこの大臣は文章うるはしくして、
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心に忠を存じ、才芸すぐれて、ことばに徳を兼ね給へり。
この大臣は不思議第一の人にておはしければ、去んぬる四月七日の夜の夢に見給ひける事こそ不思議なれ。たとへば、ある浜路をいづくともなくはるばるとあゆみ行き給ふほどに、大きなる鳥居のありけるを、大臣見給ひて、「あれはいかなる御鳥居ぞ」と見給へば、「春日の大明神の御鳥居なり」とぞ申しける。人おほく群集したり。そのなかに大きなる法師の頭を太刀のさきにつらぬき、高くさしあげたるを、大臣見給ひて、「あれは何者ぞ」とのたまへば、「これは平家太政の入道殿の、悪行超過し給ふによて、当社大名神の召し取らせ給ひて候」と申すとおぼえて、夢さめぬ。大臣、「当家は保元、平治よりこのかた、度々朝敵をたひらげ、勧賞(けんじやう)身にあまり、太政大臣にいたり、一族の昇進六十余人。二十余年のこのかたは楽しみさかえ、肩をならぶる者なかりつるに、入道の悪行によて、一門の運命末になりぬることよ」と案じつづけて、御涙にむせば給ふ。
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をりふし妻戸をほとほとと打ちたたく。大臣、「あれ聞け」とのたまへば、「瀬尾の太郎兼康が参りて候。今夜不思議のことを見候ひて、申し上げんがために、夜の明くるが遅うおぼえて、参りて候。御前の人をのけられ候へ」と申しければ、大臣人をはるかにのけて対面あり。大臣見給ひたりける夢を、はじめよりいちいち次第に語り申したりければ、「さては瀬尾の太郎兼康は、神にも通じたる者にてありける」とぞ大臣も感じ給ひける。
そのあした、嫡子権亮少将、院へ参らんと出でたたれたりけるに、大臣呼び給ひて、「御辺は人の子にすぐれて見え給ふ。貞能はなきか。少将に酒すすめよかし」とのたまへば、筑後守貞能うけたまはつて、御酌に参る。大臣、「この盃をまづ少将にこそ取らせたけれども、親よりさきにはよも飲み給はじ」とて、三度うけて、そののち」少将にぞさされける。少将も三度うけ給ふとき、「いかに貞能、
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少将に引出物せよ」とのたまへば、貞能うけたまはつて、錦の袋に入れたる御太刀を一振取り出す。少将、「当家に伝はれる小鳥といふ太刀やらん」と思ひて、よにうれしげに見給ふところに、さはなくして、大臣葬のとき用ひる無文といふ太刀にてぞありける。少将、もつてのほかに気色あしげに見えられければ、大臣涙をはらはらと流いて、「いかに少将、それは貞能がひが事にはあらず。そのゆゑは、大臣葬のとき用ひる無文の太刀といふなり。この日ごろ、入道のいかにもなり給はば、重盛帯(は)いて供せんと思ひつれども、いまは重盛、入道殿に先立たん。されば御辺に賜(た)ぶなり」とのたまへば、少将これをうけたまはつて、涙にむせび、うつ伏して、その日は出仕もし給はず。そののち、大臣熊野へ参り、下向して、いくばくの日数を経ずして、病ひついて失せ給ひけるにこそ、「げにも」と思ひ知られけれ。
大臣は天性滅罪生善の心ざし深うおはしければ、未来のことをなげい
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て、「わが朝にはいかなる大善根をしおきたりとも、子孫あひつづきてとぶらはんこともありがたし。他国にいかなる善根をもして、後世とぶらはればや」とて、安元のころほひ、鎮西より妙典といふ船頭を召して、人をはるかにのけて対面あつて、金を三千五百両召し寄せて、「なんぢは大正直の者であるなれば、五百両をなんぢに賜(た)ぶ。三千両をば宋朝へわたして、一千両をば育王山の僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、田代を育王山へ申し寄せて、わが後世をとぶらはせよ」とぞのたまひける。妙典これを賜はりて、万里の波濤(はたう)をしのぎつつ、大宋国へわたりける。育王山の方丈、仏照禅師徳光に会ひたてまつりて、このよしを申したりければ、随喜感嘆して、一千両をば僧に引き、二千両をば帝へ参らせて、小松殿の申されける様に、つぶさに奏聞せられたりければ、帝大きに感じおぼしめして、五百町の田代を育王山へぞ寄せられける。されば「日本の大臣、平の朝臣重盛公の後生善所」と、今にあるとぞうけたまはる。
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入道相国、小松殿にはおくれ給ひぬ、よろづに心細うや思はれけん、福原へ馳せ下り、閉門してこそおはしけれ。
( 第二十八句 小督 ) 
  第二十九句 法印問答
同じき十一月七日の夜、戌の刻ばかり、大地おびたたしう動いて、やや久し。陰陽頭安部の泰親、いそぎ内裏へ馳せ参りて、奏聞しけるは、「今度の地震、天文のさすところ、そのつつしみ軽からず。当道三経のうち、坤儀経(こんぎきやう)の説を見候ふに、年を得ては年を出でず、月を得ては月を出でず、日を得ては日を出でず、もつてのほかに火急に候」とて、はらはらと泣きければ、伝奏の人も色を失ひ、君も
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叡慮をおどろかせおはします。若き公卿、殿上人は、「けしからずの泰親が泣き様や。なんでうことのあるべき」とて笑ひあはれけり。されどもこの泰親は晴明(せいめい)五代(ごだい)の苗裔(べうえい)をうけて、天文は淵源をきはめ、推条たなごころをさすがごとし。一事(いちじ)もたがはずありければ、「さすの神子」とぞ申しける。いかづちの落ちかかりたりしにも、雷火とともに狩衣の袖は焼けながら、その身はつつがもなかりけり。上代にも末代にもありがたかりし泰親なり。
同じき十四日、入道相国、この日ごろ福原へおはしけるが、なにと思ひ給ひけん、数千騎の軍兵を率して都へ入り給ふよし聞こえしかば、京中の上下、なにと聞きわけたることはなけれども、騒ぎあふことなのめならず。また何者の申し出だしたりけるやらん、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべし」といふ披露をなす。関白殿聞こしめすむねやありけん、急(いそ)ぎ御参内(ごさんだい)あつて、「今度入道相国入洛のことは、ひとへに基房をかたぶくべき結構にて候ふなり。
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つひにいかなる目にあひ候ふべきやらん」と奏せさせ給へば、主上聞こしめして、大きにおどろき給ひて、「そこにいかなる目にもあはれんは、ただわがあふにこそあらんずれ」とて、龍顔より御涙をながさせ給(たま)ふぞ忝(かたじけな)き。誠(まこと)に天下(てんが)の御政(おんまつりごと)は、主上(しゆしやう)、摂録(せふろく)の\御(おん)はからひにてこそありつるに、こはいかにしつることどもぞや。天照大神(てんせうだいじん)、春日(かすが)大明神(だいみやうじん)の神慮(しんりよ)の程(ほど)もはかりがたし。
同じき十五日、「入道相国、朝家をうらみたてまつり給ふべきこと必定」と聞こえしかば、法皇大きにおどろかせ給ひて、故小納言入道信西の子息、静憲法印(じやうけんほふいん)御使ひにて、入道相国の西八条の第へ仰せつかはされけるは、「近年、朝廷しづかならずして、人の心もととのほらず、世間もいまだ落居せぬさまになりゆくことを、惣別(そうべつ)につけてなげきおぼしめせども、さてそこにあれば、万事はたのみにおぼしめしてこそあるに、天下をしづむるまでこそなからめ、あまつさへ
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嗷々(がうがう)なる体にて、朝家をうらむべしなんど聞こしめすは、なにごとぞ」と仰せつかはされける。静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国の西八条の第へむかふ。
入道、対面もし給はず、あしたより夕べまで待たれけれども、無音なりければ、さればこそ無益におぼえて、源(げん)大夫判官(だいふのはうぐわん)季貞(すゑさだ)をもつて院宣のおもむきを言ひ入れたりければ、そのとき、入道相国、「法印呼べ」とて出でられたり。呼び返し、「やや、法印の御坊、浄海が申すところはひが事か、御辺の心にも推察し給へ。まづ内府がみまかりぬること、当家の運命をはかるにも、入道、随分悲涙をおさへてまかり過ぎ候ひしか。保元以後は乱逆うちつづいて、君やすき御心もわたらせ給ひ候はざりしに、入道はただおほかたをとりおこなふばかりにてこそ候へ、内府こそ手をおろし、身をくだきて、度々の逆鱗をやすめまゐらせ候ひしか。そのほか臨時の御大事、朝夕の政務、内府ほどの功臣はありがたうこそ候へ。いにしへを思ふ
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に、唐の太宗は魏徴におくれて、かなしみのあまりに、『昔(むかし)の殷宗(いんそう)は夢のうちに良弼を得、今の朕はさめての後に賢臣を失ふ』と碑の文をみづから書いて廟(べう)に立(た)ててこそかなしみ給ひけれ。かるがゆゑに、『父よりもむつまじく子よりも親しきは君臣の道なり』とこそ申すことにて候ふに、重盛が中陰のうちに八幡へ御幸のあつて御遊ある、人目こそ恥ぢ入り候ひしか。これ一つ。内府随分君のために忠功他に異なるものなり。されば保元、平治の合戦にも、命を君のために軽んじて、かばねを戦場に捨てんとふるまひ候ひしこと、久しからざることなれば、君いかでかおぼしめし忘らるべき。これ二つ。そののち、大小度々御大事に、院宣といひ、勅命と申し、軍忠をぬきんづること度々におよべり。しかれば、越前の国を重盛に賜はりし時は、子々孫々(ししそんぞん)まで下され候ひしが、重盛が中陰のあひだに召し離さるる条、罪科なにごとぞや。これ三つ。次に、中納言闕(か)げ候ふとき、二位の中将殿のぞみ申され候ひしかば、入道随分執し
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申し候ひしを、関白殿の御子息三位の中将殿、非分なし給ひしこと。入道たとひ一度は非拠を申しおこなふとも、いかでか聞こしめし入れざるべき。いはんや、家嫡といひ、位階といひ、かたがた理運左右におよばぬことなりしを、ひき違ひたてまつらるること、入道面目を失うて候ひしか。これ四つ。次に、昨日や今日、みなもつて、この一門を滅ぼすべき由(よし)結構あり。これまた私の計略にあらず候ふよし、伝へうけたまはるあひだ、先々の忠勤、今においてはいたづらごとになりぬ。向後さらに以前の軍忠ほどの苦衷あるべきとも存ぜざるあひだ、公家奉公のたのみなし。これ五つ。度々の忠勤をわすれずんば、いかでか入道をば七代まで捨てらるべき。それに、入道すでに七旬におよび、余命いくばくならず。一期のあひだにも、ややもんずれば滅ぼすべき御はかりごとあり。申さんや、子孫あひ継いで、一日片時も朝家に召しつかはれんことかたし。これ六つ。およそ『老いて子を失ふは、枯木の枝なきがごとし』と承り
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候。内府におくれ、運命の末にのぞめること、思ひ知り候ひぬ。天気のおもむきあらはれたり。たとひいかなる奉公いたすといふとも、叡慮に応ずることあるべからず。これ七つ。このうへは、不定の世の中に、七十におよんで、なにほどの楽しみ栄えを期して、心苦しく無益の奉公をいたしても詮あるべからず。『とてもかくても候ひなん』と存じ候。親の子を思ふならひ、『不孝の子なほ別れの涙いましめがたし』と承り候。いはんや重盛においては、奉公といひ、至孝といひ、礼法と申し、勇敢と申し、子ながらならびなき仁なり。一度わかれてのち、再会期しがたし。老父がなげきをば、いかがとか、一度の御あはれみをかけられざらん。これ八つ。鳥羽の院の御時、顕頼民部卿(あきよりみんぶきやう)、させる重臣ではなかりしかども、昇遐(しようか)ののち、御立願の八幡御参詣延引す。なさけある御ことは、かやうにこそ候へ。一度の御芳言にもあづからず。たとひ入道が忠をおぼしめし忘るるといふとも、いかでか内府が労功を捨てらるべき。また重盛
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が奉公を捨てらるといふとも、浄海が数度の勲功をおぼしめし知らざらん。これ九つ。このほかのうらみなげき、毛挙にいとまあきあらず」。
はばかるところもなくくどきたてて、かつうは腹立し、かつうは落涙し給へば、法印は、「この条々案のうちのことなり。ことごとく院の御ひが事、禅門が道理」と聞きなして、あはれにも、またおそろしうもおぼえて、汗水にぞなられける。このときは、いかなる人も、一言の返事にもおよびがたきぞかし。そのうへ、「わが身も近習の人なり、鹿の谷に会合したりしことは、まさしう見聞かれしかば、その人数とていまも召しや籠められずらん」と思ふに、龍の鬚を撫で、虎の尾を踏む心地はせられけれども、法印もさるおそろしき人にて、ちとも騒がず申されけるは、「まことに、度々の御奉公あさからず。一旦申させおはすところ、そのいはれあり。ただし、官位といひ、俸禄といひ、御身にとつてことごとく満足す。しかれ
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ば功の莫大なるところを、君御感あつてこそ候はめ。しかるに近臣事をみだるを、君御許容ありといふは、謀臣の凶害にてぞ候ふらん。耳を信じて目をうたがふは、俗のつねの弊なり。小人の浮言を重んじて、朝恩の他に異なるに、君をかたぶけ給はんこと、冥顕につけてもその恐れすくなからず候。およそ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮さだめてその儀にてぞ候ふらん。よくよく御思惟候へ。下として上に逆ふること、あに人臣の礼たらんや。詮ずるところ、このおもむきをこそ披露つかまつり候はめ」とて立たれければ、その座にいくらも並みゐ給へる人々、「あなおそろし。入道のあれほど怒り給ふに、ちとも騒がず、返事うちして立たるるよ」とて、法印をほめぬ人こそなかりけれ。
法印、御所へかへり参りて、このよしを奏せられければ 法皇も道理至極(だうりしごく)して、仰せ出だされたることもなし。
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第三十句 関白流罪
 さるほどに、同じき十六日、入道相国この日ごろ思ひたち給へることなれば、摂政をはじめたてまつり、四十三人が官職をとどめてみな追籠めたてまつる。なかにも摂政殿をば大宰帥(だざいのそつ)にうつして、鎮西へ流したてまつる。「かくあらん世には、とてもかくてもありなん」とて、鳥羽の辺、古川といふ所にて御出家あり。御年三十五。「礼儀よく知ろしめし、くもりなき鏡にてわたらせ給ひつるものをとて、世の惜しみたてまつることなのめならず。遠流の人の、道にて出家しつるを、約束の国へはつかはさぬことにてあるあひだ、はじめは日向の国と定められたりしかども、備前の国府の辺に、湯迫といふ所にぞしばしやすらひ給ひける。
大臣流罪の例は、左大臣蘇我の赤兄、右大臣豊成、左大臣魚名、
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菅原の右大臣、いまの北野の天神の御ことなり。左大臣高明公(かうめいこう)、内大臣藤原の伊周公(いしうこう)まで、その例すでに六人なり。されども、摂政関白流罪の例、これ初めとぞ承る。故中殿の御子、二位の中将基通(もとみち)は入道の聟(むこ)にておはしければ、大臣関白にあがり給ふ。去んぬる円融院(ゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天禄(てんろく)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひのひ)、一条(いちでう)の摂政(せつしやう)謙徳公(けんとくこう)、失せ給ひしかば、御弟堀川の関白忠義公(ただよしこう)、そのときはいまだ従二位(じゆにゐ)中納言にておはしき。御弟法興院(ほふきようゐん)の大納言入道殿兼家公(かねいへこう)は、大納言の右大将にてましまししかば、忠義公は御弟に越えられ給ひたりしかども、いままた越えかへして、内大臣正二位にあがりて、内覧の宣旨をかうぶらせ給ひたりしをこそ、時の人「耳目をおどろかしたる御昇進」とは申せしに、これはそれになほ超過せり。非参議二位の中将より、大納言を経ずして大臣関白になり給ふこと、承りおよばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御ことなり。されば上卿(じやうきやう)、宰相(さいしやう)、大外記(だいげき)、大夫史(たいふさくわん)にいたるまで、みなあきれたるさまにぞ見えたりける。
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 太政大臣師長(もろなが)は、官をやめて、あづまのかたへ流され給ふ。去んぬる保元に、父悪左府大臣殿(あくさふおほいどの)の縁座によて、兄弟四人流罪せられ給ひしに、御兄右大将兼長(かねなが)、御弟左の中将隆長、範長禅師(はんちやうぜんじ)、三人は、帰洛を待たずして配所にて失せ給ひぬ。これは土佐の畑にて、九かへりの春秋を送りむかへ、長寛(ちやうくわん)二年八月に召し返されて、本位に復し、次の年正二位して、仁安元年十月に、前の中納言より権大納言にあがり給ふ。をりふし大納言あかざりければ、員の外に加はられけり。大納言六人になること、これ初めなり。また前の中納言より大納言にあがり給ふことも、後山階(ごやましな)の大臣(だいじん)三守公(みもりこう)、宇治の大納言隆国のほかは、これ初めとぞ承る。管絃(くわんげん)の道に達し、才芸(ざいげい)すぐれておはしければ、次第の昇進とどこほらず、太政大臣まできはめさせ給ひて、いかなる罪のむくいにて、かさねて流され給ふらん。保元のむかしは南海の土佐へうつされ、治承(ぢしよう)の今は東関(とうくわん)尾張国(をはりのくに)とかや。もとより「罪なくして配所の月を見む」といふことは、心ある人の
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ねがふことなれば、大臣、あへて事ともし給はず。
 かの唐の太子の賓客(ひんかく)\白楽天(はくらくてん)は、潯陽(じんやう)の江(え)の辺(ほとり)にやすらひ給ひけん、そのいにしへを思ふに、鳴海潟、潮路はるかに遠見し、つねは朗月をのぞみて浦風にうそぶき、琵琶(びは)を弾じ、和歌を詠じて、なほざりに月日をおくり給ひけり。
 あるとき、当国第三の宮熱田の明神へ参詣あり。その夜、神明法楽のために、琵琶(びは)ひき、朗詠し給ふところに、もとより無智のさかひなれば、なさけを知れる者もなし。邑老、村女、漁人、野叟(やそう)、首(かうべ)をうなだれ、耳をそばだつといへども、さらに清濁をわけて、呂律を知れることもなし。されども瓠巴琴(こはこと)を弾ぜしかば、魚鱗をどりほとばしる。虞公歌をよみしかば、梁塵(りやうぢん)うごきうごく。ものの妙をきはむるときには、自然に感をもよほすことわりなれば、諸人身の毛よだつて、満座奇異の思ひをなす。やうやく深更におよんで、
  風香調(ふかうでう)のうちには、花馥(くわふく)いみじくして気をふくみ
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  流泉曲(りうせんきよく)のあひだには、月清明のひかりをあらそふ
  願はくは今生世俗(せぞく)の文字の業をもつて
  狂言(きやうげん)綺語(きぎよ)の誤(あやまり)をひるがへす
といふ朗詠の秘曲をひき給へば、神明感応にたへずして、宝殿大き
に震動す。「平家の悪行なかりせば、いかでかこの瑞相ををがむべき」とて、大臣感涙をぞ流されける。
 接察の大納言資賢の卿、子息右馬頭(うまのかみ)を兼ねて讃岐守源の資時、二つの官をとどめらる。参議皇太后宮権大夫(くわうたいごうぐうのごんのだいぶ)を兼ねて右兵衛督(うひやうゑのかみ)藤原の光能(みつよし)、大蔵卿(おほくらのきやう)右京大夫(うきやうのだいぶ)を兼ねて伊予守高階(たかしな)の泰経(やすつね)、蔵人の左少弁を兼ねて中宮(ちゆうぐうの)権大進(ごんのだいしん)平の基親、三官ともにとどめらる。接察の大納言資賢の卿、子息右馬頭、孫の右少将雅賢(まさかた)、「これ三人は、配所を定めず、やがて都のうちを追ひ出ださるべし」とて、三条の大納言実房(さねふさ)、博士判官(はかせのはうぐわん)中原(なかはら)の康定(やすさだ)に仰せて、追ひ出だしたてまつる。大納言のたまひけるは、「三界ひろしといへども、五尺の身おき所
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なし。一生程なしといへども、一日暮らしがたし」とて、夜中に九重のうちをまぎれ出でて、八重立つ雲のほかへぞおもむかれける。かの大江山、生野の道にかかりつらん、丹波の村雲といふ所にてしばしやすらひ給ひける。それよりつひにたづね出だされて、信濃の国とぞ聞こえし。
 また、前の関白松殿の侍に江の大夫の判官遠業(とほなり)といふ者あり。これも平家にこころよからざりければ、六波羅よりからめとるべきよし聞こえしかば、子息江の左衛門尉(さゑもんのじよう)家業(いへなり)うち具して、いづちともなく落ちゆきけるが、稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬よりおりて、親子言ひあはせけるは、「これより東国のかたへ落ちゆき、兵衛佐頼朝(ひやうゑのすけよりとも)をたのまばやとは思へども、それも当時は勅勘(ちよくかん)の人の身にて、身ひとつだにもかなひがたうおはすなり。日本国に平家の荘園(しやうゑん)ならぬところやある。また年来住みなれたるところを人に見せんも恥ぢがましかるべし。六波羅よりも召しつかひあらば、腹かき切つて死なん
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にはしかじ」とて、瓦坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へとつて返す。
 さるほどに、源大夫判官(げんだいふはうぐわん)季貞(すゑさだ)、摂津(つ)の判官(はうぐわん)盛澄(もりずみ)、ひた兜三百騎ばかり、瓦坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)に押し寄せて、時(とき)をどつとぞつくりける。江の大夫の判官遠業、縁に立ち出でて、「これを見給へ、殿ばら。六波羅にてこの様を申させ給へ」とて、腹かき切つて、父子ともに焔(ほのほ)のなかにて焼け死にぬ。
 そもそも、か様に上下多くほろび損ずることを、いかにといふに、「当時関白にならせ給ひたる二位の中将殿と、前の殿の御子三位の中将殿と、中納言御相論ゆゑ」とぞ聞こえし。さらば関白殿御ひとりこそ、いかなる御目にもあはせ給ふべきに、のこり四十余人の人人の、事にあふべしや。去年、讃岐の院の御追号あつて崇徳天皇(しゆとくてんわう)と号し、宇治の悪左府贈官贈位ありしかども、世間なほしづかならず。「およそこれにもかぎるまじきなり、入道相国の心に天魔入りかはつて、腹をすゑかね給へり」と聞こえしかば、「天下またいかなる
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ことか出で来んずらん」とて、上下おそれおののく。
 そのころ、前の左少弁(させうべん)行隆(ゆきたか)と申せしは、故中山の中納言顕時の卿の嫡子なり。二条の院の御宇には、弁官に加はられてゆゆしかりしかども、この十余年は夏冬の衣がへにもおよばず、朝夕のかしぎも心にまかせず、あるかなきかの体にておはしけるを、入道相国、使者をたてて、「申し合はすべきことあり。きつと立ち寄り給へ」とのたまひつかはされたりければ、行隆、「この十余年は、なにごとにも交はらずありしものを、人の讒言(ざんげん)したるにこそ」とて、大きにおそれさわがれけれども、六波羅より、使しきなみのごとし。北の方、君達も「いかなる目にやあはんずらん」とて、なげきかなしみ給ふ。されども力およばず、人に車を借つて、西八条へぞ出でられたる。思うたには似ず、入道やがて出で向うて対面あり。「御辺の父の卿は、随分さばかりのこと申し合はせし人なり。そのなごりにておはすれば、御辺をもおろかに思ひたてまつらず。年来籠居のこと
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も、いとほしう思ひたてまつれども、法皇御政務のうへは力およばず。いまは出仕し給へ。さらば、とう帰られよ」とて入り給ひぬ。帰られたれば、宿所には女房達、死したる人の生き返りたる心地して、うれし泣きどもせられけり。知行し給ふべき荘園状(しやうゑんじやう)ども、あまたなし下し、出仕の料とて、直衣、小袖、雑色、牛飼、牛、車にいたるまで、きよげに沙汰し送られけり。「まづさこそあるらん」とて、百疋、百両に、米を積みてぞ送られける。行隆、手の舞ひ、足の踏みどもおぼえ給はず、「こは夢かや。こは夢かや」とぞよろこばれける。
 同じき十七日、五位の侍中に補せられて、前の左少弁に、しかへり給ふ。今年五十一。いまさら若やぎ給ひけり。ただ片時の栄華とぞ見えし。
 同じき二十日、院の御所法住寺殿(ほふぢゆうじどの)へは、軍兵(ぐんぴやう)四面をうちかこむ。「平治に信頼が三条殿をしたてまつりし様に、火をかけて人をばみな
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焼き殺すべし」と聞こえしかば、女房、女童部、物だにもうちかづかず、あわてさわぎ走り出づ。法皇も大きにおどろかせおはします。前の右大将宗盛の卿、御車を寄せて、「とうとう」と奏せられければ、法皇、「こはされば、なにごとぞや。御とがあるべしともおぼしめさず。成親、俊寛が様に、遠国はるかの島へも移しやられんずるにこそ。主上さればわたらせ給へば、政務に口入するばかりなり。それもさるまじくは、自今以後さらでこそあらん」と仰せければ、宗盛の卿、涙をはらはらと流いて、「その儀では候はず。『しばらく世をしづめんほど、鳥羽の北殿へ御幸なしまゐらせよ』と、父の禅門申し候」「さらば宗盛、やがて御供に侍へ」と仰せけれども、父の禅門の気色におそれをなして参らず。「あはれ、これにつけても、兄の内府にはことのほかに劣りたるものかな。ひととせも、かかる目にあふべかりしを、内府が身にかへて制しとどめてこそ、今日まで御心やすうもありつれ。『今はいさむる者もなし』
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とて、か様にこそあんなれ。行末とてもたのもしからず」とて、御涙せきあへさせ給はず。
 さて御車に召されけり。公卿、殿上人、一人も供奉せられず、北面の下臈(げらふ)、金行(こんぎやう)と申す力者ばかりぞ参りける。車のしりに尼御前一人参られたり。この尼御前と申すは、法皇の御乳の人、紀伊の二位の御ことなり。七条を西へ、朱雀(しゆじやく)を南へ御幸なる。あやしのしづの男、しづの女にいたるまで、「あはや、法皇の流されさせおはしますぞや」とて、涙をながし、袖をぬらさぬはなかりけり。「去んぬる十一月七日の夜の大地震も、かくあるべかりける先表にて、十六洛叉の底までもこたへ、堅牢地神(けんらうぢじん)もおどろきさわぎ給ひけんもことわりかな」とぞ人申しける。
 さて鳥羽殿へ入らせ給ひたりければ、大膳(だいぜんの)大夫(だいぶ)信業(のぶなり)が、なにとしてまぎれ参りたりけん、をりふし御前近う侍ひけるを召して、「やや、信業。いかさまにも今夜失はれなんず。御行水(おんぎやうずい)を召さばや」と仰せ
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られければ、さらぬだに信業、今朝より肝たましひも身にそはず、あきれたるさまにてありけるが、この仰せを承り、かたじけなさに、狩衣に玉だすきあげ、小柴垣(こしばがき)壊(こぼ)し、大床の束柱破りなんどして、形のごとくの御湯わかしまゐらせけり。
 故少納言入道信西(しんぜい)の子息静憲法印(じやうけんほふいん)、入道相国の西八条へ行き、「法皇の、鳥羽殿へ御幸ならせ給ひて候ふなるに、御前に人一人も侍はぬよしうけたまはり候ふが、あまりにあさましく候。なにかくるしう候ふべき。御ゆるされをかうぶりて、参り候はん」と申されたりければ、入道、「御坊は、事あやまりあるまじき人なり。とうとう」とのたまへば、法印なのめならずよろこびて、いそぎ鳥羽殿に参り、門前にて車よりおり、門の中にさし入り見給ふに、をりふし法皇、御経うちあげ、うちあげ、あそばされける御声の、ことにすごうぞ聞こえさせましましける。法印、づんと参られたりければ、あそばされける御経に御涙のはらはらとかからせ給ふを、見まゐらせ
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て、法印あまりのかなしさに、旧代(きうたい)の袖を顔におし当てて、泣く泣く御前へぞ参られける。御前には尼御前ばかりぞ侍はれける。「やや、法印の御坊。君は、昨日法住寺殿にて供御きこしめされてのちは、夕べもきこしめしも入れず、ながき夜すがら御寝もならず、御命もすでにあやふくぞ見えさせましましさぶらへ」と申させ給へば、法印涙をおさへて、「なにごとも限りある御ことにて候へば、平家たのしみ栄えて二十(にじふ)余年(よねん)、されども悪行法にすぎて、すでに滅び候ひなんず。天照大神(てんせうだいじん)、正八幡宮も君をこそ守りまゐらせ給ふらめ。なかにも、君の御たのみある日吉山王(ひよしさんわう)七社(しちしや)、一乗(いちじよう)守護(しゆご)の御ちかひあらためずんば、かの法華八軸にたち翔つて、君をこそ守りまゐらせ給ふらめ。しからば政務は君の御代となり、凶徒は水のあわと消え失せ候ふべし」と申されたりければ、法皇、この言葉に、すこしなぐさませおはします。
 主上は、関白の流され、臣下の多く滅び失せぬることをこそ御歎(おんなげき)
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ありつるに、あまつさへ 「法皇鳥羽殿へ押しこめられさせ給ひぬ」と聞こしめしてのちは、供御もきこしめしも入れず、御悩とて、つねは夜の御殿にのみぞ入らせ給ふ。御前に侍はせ給ふ女房たち、いかなるべしともおぼえ給はず。内裏には「臨時(りんじ)の御神事(ごじんじ)」とて、主上夜ごとに清涼殿(せいりやうでん)の石灰の壇にして、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)をぞ御拝ありける。これはただ法皇の御祈念のためなり。二条の院はさばかんの賢王にてわたらせ給ひしかども、「天子に父母なし」とて、つねは法皇の仰せをも申し返させましましければにや、継体の君にてもましまさず、御年二十三にてかくれさせ給ひぬ。御ゆづりを受けさせ給ひたりし六条の院も、安元二年七月十四日、御年十三にて崩御なりぬ。あさましかりしことどもなり。「百行(はくかう)のなかには孝行をもつてさきとす」「明王は孝をもつて天下を治む」と見えたり。されば、「唐堯(たうげう)はおとろへたる母をたつとみ、虞舜はかたくななる父をうやまふ」と見えたり。かの賢王聖主の先規を追はせましましける叡慮
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のほどこそめでたけれ。
 そのころ、ひそかに内裏より鳥羽殿へ御書あり。「かくあらんには、雲井にあとをとどめてもなにかせんなれば、寛平(くわんぺい)のむかしをもとぶらひ、花山のいにしへをたづねて、山林流浪(さんりんるらう)の行者(ぎやうじや)ともなりぬべうこそ候へ」とあそばされたりければ、法皇の御返事には、「さなおぼしめされ候ひそ。さてわたらせ給へばこそ、一つのたのみにても候へ。あとなくおぼしめしならせ給はんのちは、何のたのみか候ふべきか。ただ愚老がともかうもならん様を御覧じはてさせ給ふべし」とあそばされたりければ、主上、この返事を龍顔(りようがん)におし当てて、御涙せきあへさせ給はず。「君は舟、臣は水、水よく舟をうかべ、水また舟をくつがへす。臣よく君をたもち、臣また君をくつがへす」。保元、平治のころは入道相国君をたもちたてまつるといへども、安元、治承(ぢしよう)の今はまた君をなやましたてまつる。史書の文にたがはず。
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大宮の大相国、三条の内大臣、葉室の大納言、中山の中納言も失せられぬ。いま古き人とては、成頼、親範ばかりなり。この人々も、「かくあらん世には、朝につかへて身を立て、大納言を経てもなにかはせん」とて、いまださかんなりし人々の、出家をし、世をのがれ、民部卿入道親範は大原の奥の霜にともなひ、宰相入道成頼は高野の霧にまじはつて、「一向、後世菩提(ごぜぼだい)のほかは他事なし」とぞ承る。むかしも商山(しやうざん)の雲にかくれ、潁川(えいせん)の月に心をすます人もありければ、これ、あに清潔にして世をのがれたるにあらずや。なかにも、高野におはしける宰相入道成頼、か様のことどもつたへ聞いて、「あはれ心強うも世をのがれたるものかな。かくて聞くもおなじことなれども、まのあたりにたちまじはつて見ましかば、いかばかり心憂かるべし。雲をわけてものぼり、山をへだてても入りなばや」とぞのたまひける。げにや、心あらんほどの人の、跡をとどむべき世とも見えざりけり。
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同じき二十三日、天台座主覚快法親王しきりに御辞退ありければ、前の座主明雲大僧正、還着(げんぢやく)し給ふに、入道相国、かく散々にしちらされたりけれども、中宮と申すも御むすめにてまします、関白殿も聟(むこ)なり、よろづ心やすうや思はれけん、「政務は一向主上の御はからひとあるべし」とて、福原へこそ下られけれ。前の右大将宗盛の卿、いそぎ参内あつて、このよしを奏せられたりけれども、主上は、「法皇の譲りましましたる世ならばこそ。ただ、とうとう執柄に言ひあはせて、宗盛ともかうもはからへ」とて、聞こしめしも入れざりけり。
 さるほどに、法皇は城南の離宮にして、冬もなかばすごさせ給ヘば、射山の嵐の音のみはげしくて、閑亭の月ぞさやけき。庭には雪降りつもれども、跡ふみつくる人もなし。池には氷閉ぢかさねて、群れゐし鳥も見えざりけり。大寺の鐘のこゑ、入相(いりあひ)の耳をおどろかし、西山の雪の色、香炉峰(かうろほう)ののぞみをもよほす。夜の霜にひややか
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なる砧のひびき、かすかに御枕につたひ、あかつき氷をきしる車の音、はるかに門前によこたはれり。ちまたをすぐる行人征馬のいそがはしげなる気色、憂き世をわたるありさまも、おぼしめし知られてあはれなり。「宮門を守る蛮夷の、夜も昼も警固をつとむるも、前世のいかなるちぎりにて、いま縁をむすぶらん」と仰せなるこそかたじけなき。およそ物にふれ、事にしたがつて、御心をいたましめざるといふことなし。さるままには、かのをりをりの御遊覧、所所の御参詣、御賀のめでたかりしことどもおぼしめしつづけて、懐旧の御涙おさへがたし。
年去り年来つて、治承(ぢしよう)も四年になりにけり。
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