延慶本 平家物語 読み下し版(漢字ひらがな交じり)

凡例
底本 大東急記念文庫蔵、重要文化財「延慶本平家物語」全六巻十二帖
『延慶本平家物語一〜三』古典研究会1964年 3冊、別冊『延慶本平家物語 解説・対校表』伊地知鉄男氏 編著 付
*延慶本平家物語は、応永26,27年の間に根来寺において書写されたもので、「根来本」、また後世の所蔵者によって「角倉本」、「嵯峨本」とも呼ばれます。延慶本系としては、他に文政十三年書写の松井本(静嘉堂蔵)、朽木本(内閣文庫蔵)と朽木本を影写した平道樹書写本(国立国会図書館蔵)の3本が有り、前二者は、大東急記念文庫蔵本の虫損までを忠実に影写した写本です。従って、大東急記念文庫蔵本は、延慶本諸本のうち、最古の写本ということになります。

原本通りの翻刻では、読みやすいものにはなりませんので、できるだけ読みやすい本文を提供したいと思います。
古典研究会 1964年の影印本のページを記しました。P+巻数(1〜3)+3桁。その後に、( )の中に、原本の丁数、表、裏をそれぞれオ、ウを記しました。単語が分割される場合は、検索の便を考え、後に移動した箇所があります。
片仮名を平仮名に改め、仮名の大小を区別せず、仮名遣いは、できる限り、歴史的仮名遣いに改めました。
句読点・濁点は、適宜施しました。
会話や心中思惟の部分には、「 」、『 』を付けました。
促音は、表記のない場合も「つ」としました。
 原本には各冊の冒頭に「目録」がありますので、それぞれの巻頭につけました。
 本文中には、章段番号のみで、章段名は、有りませんが、〔 〕の中に入れました。章段番号の無い場合は、内容的に判断して、〔 〕の中に記しました。
 漢文的表記の箇所は読み下しました。訓読に際しては、原本の送り仮名・振り仮名・ヲコト点に従うことを原則としましたが、一部、他の『平家物語』諸本を参考にして定めました。
 漢字は、原則として「常用漢字表」にある字体に従いました。異体字はおおむね通行の字体に直しましたが、一部に異体字、旧字を残しました。パソコンで入力出来ないコードの無い字(第一・第二水準以外)は、〓で表示し、一部、〓[ + ]で文字を示しました。
 原本には多くの誤字・脱字があり、それらのいくつかには、正しいと思われる字や脱字が書き込まれています。適宜それらを採用し、他の諸本を参照しながら、訂正したり、補ったりしました。補った場合は〔 〕に入れて示しました。
 当て字と判断されるものは、正しい文字に直しましたが、一部に原本の文字を残しました。
 原本の割注は 〈  〉 に入れて示しました。
 本書の訓読には、下記を、大いに参考に致しました。
『延慶本平家物語本文篇』(上・下)(大東急記念文庫蔵本)1999:2冊 著者:北原 保雄氏 著者:小川、 栄一氏 勉誠出版
『延慶本平家物語索引篇』(上・下)(大東急記念文庫蔵本)1996:2冊 勉誠出版
延慶本平家物語全注釈 著者 延慶本注釈の会編 出版社名 汲古書院 *2009年に、平家物語 四(第二中)刊行、以後一年に一冊の刊行予定です。

平家物語 一(第一本)

P1001(八オ)
 一 平家先祖の事
 二 得長寿院供養の事〈付けたり導師山門中堂の薬師の事〉
 三 忠盛昇殿の事〈付けたり闇打の事 付けたり忠盛死去の事〉
 四 清盛繁昌の事
 五 清盛の子息達官途成る事
 六 八人の娘達の事
 七 義王義女の事
 八 主上上皇御中不快の事〈付けたり二代の后に立ち給ふ事〉
 九 新院崩御の御事
 十 延暦寺と興福寺と額立論の事
十一 土佐房昌春の事
十二 山門大衆清水寺へ寄せて焼く事
十三 建春門院の皇子春宮立ちの事
十四 春宮践詐の事
十五 近習の人々平家を嫉妬の事
十六 平家殿下に恥見せ奉る事
十七 蔵人大夫高範出家の事
十八 成親卿八幡賀茂に僧を籠むる事
十九 主上御元服の事
二十 重盛宗盛左右に並び給ふ事
P1002(八ウ)
廿一 徳大寺殿厳嶋へ詣で給ふ事
廿二 成親卿人々語らひて鹿谷に寄り会ふ事
廿三 五条大納言邦綱の事
廿四 師高と宇河法師と事引き出だす事
廿五 留守所より白山へ牒状を遣はす事〈同返牒の事〉
廿六 白山宇河等の衆徒神輿を捧げて上洛の事
廿七 白山の衆徒山門へ牒状を送る事
廿八 白山の神輿山門に登り給ふ事
廿九 師高罪科せらるべき由人々申さるる事
三十 平泉寺を以つて山門に付けらるる事
卅一 後二条関白殿滅び給ふ事
卅二 高松の女院崩御の事
卅三 建春門院崩御の事
卅四 六条院崩御の事
卅五 平家意に任せて振る舞ふ事
卅六 山門の衆徒内裏へ神輿振り奉る事
卅七 毫雲の事〈付けたり山王効験の事 付けたり神輿祇園へ入り給ふ事〉
卅八 法住寺殿へ行幸成る事
卅九 時忠卿山門へ上卿に立つ事〈付けたり師高被罪科せらるる事〉
四十 京中多焼失する事

P1003(九オ)
平家物語第一本
 一 〔平家先祖の事〕 S0101
 祇薗精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理りを顕す。驕れる人も久しからず、春の夜の夢尚長し。猛き者も終に滅びぬ、偏へに風の前の塵と留らず。遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、是等は皆、旧主先皇の務にも従はず、民間の愁ひ、世の乱れを知らざりしかば、久しからずして滅びにき。近く我が朝を尋ぬれば、承平の将門、天慶に純友、康和の義親、平治に信頼、驕れる心も猛き事も取々にこそ有りけれ(けめ)ども、遂に滅びにき。縦ひ人事は詐ると云ふとも、天道詐りがたき者哉。王麗なる猶此くの如し、況や人臣位者、争か慎まP1004(九ウ)ざるべき。間近く、太政大臣平清盛入道、法名浄海と申しける人の有様、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね。
 彼の先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五皇子一品式部卿葛原親王九代の後胤、讃岐守正盛孫、刑部卿忠盛朝臣嫡男也。彼の親王の御子高見の王、無官無位にして失せ給ひにけり。其の御子高望の親王の御時、寛平二年五月十二日に、初めて平の朝臣の姓を賜りて、上総介に成り給ひしより以来、忽に王氏を出でて人臣に列なる。其の子鎮守府将軍良望、後には常陸の大拯国香と改む。国香より貞盛、維衡、正度、正衡、正盛に至るまで六代、諸国の受領たりと云へども、未だ殿上P1005(一〇オ)の仙藉を聴されず。
二 〔得長寿院供養の事〈付けたり導師山門中堂の薬師の事〉〕 S0102
 忠盛朝臣、備前守たりし時、鳥羽院御願、得長寿院を造進し、三十三間の御堂を立て、一千一体の聖観音を安置し奉る〈中尊丈六等身千体〉。仍りて、天承元年〈辛亥〉三月十三日〈甲辰〉吉日良辰を以て、供養を遂げられ畢(を)はんぬ。忠盛は、一身の勧賞には備前国を給はる。其の外、鍛冶・番匠・杣師、惣じて結縁経営の人夫までも、ほどほどに随ひて勧賞を蒙る事、真実の御善根と覚えたり。
 御導師には天台の座主と御定めあり。而るに、何なる事にかおはしけむ、座主再三辞し申させ給ふ間、「さては誰にてか有るべき」と仰せあり。其の時、所々の名僧、寺々のP1006(一〇ウ)別当、望み申すところ十三人也。浄土寺の僧正実胤、同じく別当道忠僧都、興福寺の大臣法眼実信、同寺の大納言法印成運、御室の御弟子祐範上人、薗城寺権大僧都良円、同じく智覚僧正、東大寺大納言法印隆〓、花山の僧正覚雲、蓑尾の法眼蓮浄、兵部卿僧都祐全、宇治僧正寛深、桜井の官の聖人円妙〈已上十三人〉、此の智徳達は、皆法皇の御外戚、或いは法皇の御師徳、或いは法皇の御祈祷所の満徳也。皆公請を以て勤めらるる人々也。誠に種姓高貴にして智恵明了也。浄行持律にして説法に冨留那の跡を伝へ、「吾こそ天下一の名僧よ」、「吾こそ日本無双の唱導よ」と、各々〓慢の幡幢P1007(一一オ)をたてて、望み申させ給ふも理也。「げにも天台の座主の外は此の人々こそ器量よ」と、法皇も御定めあり。されば、思し食し煩ひてぞ渡らせ給ひける。毎日に公卿僉議ありけれども、さして誰とも定まらず。「さらば孔子に取るべし」とて、彼の禅侶等を皆、得長寿院に召されたり。ゆゆしき見物にてぞ有りける。
 さて、孔子の次第は、十三の内に一には「御導師たるべし」と書きて、余の十二は物も書かざる白孔子也。
法皇の仰せに、「丸が現当二世の大事、只此の仏事にあり。若実の導師たるべき器量の人、此の十三人の外にて猶や有らん。冥の照覧知り難し。されば、今一つを加へて、十四の孔子に成すべし」と云々。仍りて、御定にP1008(一一ウ)任せて十四にして、十三人寄りて面々に取り給ふに、皆白孔子を取りて、「御導師たるべし」と云ふ孔子は残りたり。「冥の照覧、実に様有るべし」と仰せあり。十三人の智徳、各宝の山に入りて手を空しくして帰り給へり。
 其の後、法皇、「此の人々の外に誰有るべしとも覚えず。只願はくは、必ずしも智者に非ず、能説に非ずとも、種姓下劣なりとも、心に慈悲ありて、身に行徳いみじく、天下一番に貧しからむ僧を導師に用ゐばやと思ふはいかに」と仰せあり。公卿未だ御返事申されざる処に、蓑笠着たる者、門前に臨みたり。奇しく御覧ずる処に、蓑笠をば唐居敷に指し置き、黒き衣袈裟懸けたる僧一人、老々としてP1009(一二オ)法皇御前に参りて、「実にて候やらん、得長寿院供養の御導師には、無智下賎なりとも、心に慈悲有りて身に徳行あらん貧僧を召さるべしと承はる。愚僧こそ、慈悲と行徳とは開けて候へども、貧窮の事は日本一にて候へ。真実の御事にて候はば、参るべく哉候ふらん」。其の時公卿殿上人、「さこそ仰せあらんからに、和僧様の者をば争か召さるべき。不思議也、見苦しし。とくとく罷り出でよ」と云ふ。法皇の仰に、「いかなる所にある僧ぞ」と御尋ねあり。僧申しけるは、「当時は坂本の地主権現の大床の下に、時々庭草むしりて候ふ」と申す。法皇、「さては、まめやかに無縁貧道の僧にこそあむなれ。不便P1010(一二ウ)なり。御導師に定め思し食す所也。来る十三日の午時以前に、彼の御堂に参るべし」と御定あり。僧、涙をはらはらとこぼして、手を合はせて法皇を拝み進らせて、蓑笠取りて打ちきて罷り帰りけり。
 其の時法皇、人を召されて、「あの僧の住所見て参るべし。いかなる有様したる僧ぞ。能々みよ」とて遣はす。御使、みがくれに行く程に、げに地主権現の大床の下に入りぬ。居所の有様、雨皮引き廻して、絵像の弥陀の三尊かけて、仏の前机に焼香散花の匂ひ薫じたり。さては何事もなし。但、机の下に紙にひねりたる物あり。其を取りて茶坏にちと入れて、閼伽桶なる水にすすぎて服しけり。さて、其の後独言に申しP1011(一三オ)けるは、「とかくして儲けたりし松の葉も、はや乏しく成りぬ。なにをもてか露命をも支ふべき。あはれ、はや御仏事の日に成れかし。さても目出たき法皇の御善根のきよさかな。南無山王大師、七社権現、慈悲納受を垂れて、清浄の御善根修行し給へる法皇を守護し進らせ給へ」とて、念珠して侍り。御使、帰り参りて此の由を奏聞す。法皇大きに感じ思し食す所也。
 既に御供養の日、彼の大床の下の聖の許へ四方輿を迎へに遣はさる。聖申しけるは、「輿車に乗るべき御導師を召さるべきならば、望み申す所の十余人の高位の僧をこそ召され候ふべけれ。而るに、今は態と無縁貧道のP1012(一三ウ)僧を供養ぜさせ給ふ。清浄の御善根也。争か有名無実の虚仮の相をば現じ候ふべきや」とて、四方輿を返し進らせ畢(を)はんぬ。
 吉日は十三日、良辰は午時也。以前に御幸もなり、行幸も成りぬ。女房・男房、すべて雲上の人々、皆参り給へり。何に況や、都鄙遠近、貴賎上下の諸人、幾千万と云ふ事を知らず参り集まり、件の御導師も已に臨み給へり。ありし蓑笠をこそ今日はき給はねども、衣袈裟は只其の時のままなり。老々として、腰少し亀まり給へり。従僧とおぼしくて、若僧二人あり。御布施持たせむとおぼしくて、下僧十二人、庭上にあり。実に〓弱(わうじやく)たる体、諸人皆目をP1013(一四オ)驚かしてぞ侍りける。導師已に高座に登り給へば、膝振ひわななきて、法則次第も前後不覚に見えたり。暫く有りて、勧請の句を、はたと打ち上げ給ひたりければ、三十三間をひびき廻り、一千一体の御仏も納受をたれ給ふらむとぞ目出たかりける。表白実に玉を吐き、説法弥々富楼那の弁舌あり。聴聞集会の万人、随喜の涙を流して無始の罪障を濯ぎ、見聞覚知の道俗は、歓喜の袖を〓(かいつくろ)ひて、即身の菩提を悟る。苗、須達長者が四十九院の祇薗精舎を建てて釈迦善逝の御供養ありけんも、利益結線の砌、これには過ぎじと目出たし。御説法永くして、三時ばかりありP1014(一四ウ)けるを、法皇は刹那程とぞ思し食されける。已に廻向の金鳴らして、高座より下りて、正面の左の柱の本に居給へり。始めには墨染の袈裟衣は、今は錦の法服よりも貴くぞみえける。
 御布施千石千貫・金千両、其の上に御加布施、御堂の前に山の動き出でたるが如し。田村の御門の御時、たかき御子と申す女御、隠れさせ給ひて、安祥寺にてみわざし給ひけるに、堂の前にささげもの多くして山の如し。其を在中将よみたりける、
 山のみなうつりて今日にあふ事は春の別をとふとなるべし
善根の志の深きには、御布施の色に顕れたり。
 月輪西山にP1015(一五オ)隠れて夜陰に及びければ、御堂の前に万燈会をともされたり。御導師已に帰り給ひけるに、聴聞の衆庭に多くして、出でさせ給ふべき様も無かりければ、御堂の正面より虚空を飛び上がりて、惣門上に暫くおはしましけり。二人の従僧は、日光・月光、光りをかかやかし、十二人の下僧は薬師の十二神将也。御導師は地主権現の本地、叡山中堂の伊王善逝にてぞ坐しける。世已に末代たりと云へども、願主の信心清浄なれば、仏神の威光猶以て厳重也。法皇の御心の中、さこそうれしく思し食しけめ。
 聖武天皇の御願、東大寺供養の御導師は、P1016(一五ウ)行基菩薩と御定め有りけるに、行基堅く辞し申させ給ひける様は、「御願、大仏事也。小国の比丘、相応せず。霊山浄土の同聞衆、婆羅門尊者と申す大羅漢、今に天竺にあり。迎へに遣すべし」とて、宝瓶に花をたて、閼伽をしきに居ゑて、難波の海に置き給ひければ、風も吹かざるに、閼伽をしき、流れて西をさして行く。七日を経て後、供養の日、彼の婆羅門尊者、閼伽をしきに乗りて、難波の津に来て、大仏殿をば供養し給ひにき。それをこそ奇代の不思議と承るに、これは猶勝れたり。さて、彼のばら門尊者、南天竺より難波の浦に到来P1017(一六オ)の時、行基菩薩対面して宣はく、
  霊山の尺迦のみまへに契りてし真如くちせずあひみつる哉
婆羅門尊者の返事
  迦毘羅えの苔の莚に行き遇ひし文殊の御かほ又ぞ拝する
さて、ばら門尊者は読師、行基菩薩は講師にて、大仏殿をば供養ありき。其の時、ばら門をば僧正に成して、「東大寺の長老し給へ」と宣旨成りけれども、不日に天竺に帰り給ひにき。行基菩薩は、八十にて天平勝宝元年二月に入滅し給ひき。彼の歌の心にて、ばら門僧正は普賢、行基菩薩は文殊なり。普賢・文殊等の二菩薩、大仏殿をば供養じ給へり。今P1018(一六ウ)此の得長寿院をば、中堂の薬師如来、日光・月光等の二菩薩を従僧とし、十二神将等を眷属として、御供養あり。「遥かに昔の聖跡よりも、当伽藍の効験は勝れ給へり」と、万人皆讃め奉る所也。
三 〔忠盛昇殿の事 付けたり闇打の事 付けたり忠盛死去の事〕 S0103
 鳥羽禅定法皇、叡感に堪へさせ御座さず、忠盛に但馬国を給はる上、年三十七にて内昇殿を聴さる。昇殿は、是生涯の撰びなり。設ひ院の昇殿すら然也、何に況や、内の昇殿に於いてを哉。雲上人、欝り猜んで、同年十一月五節、廿三日、豊の明りの節会の夜、暗討にせむと擬す。忠盛朝臣、是の事を風に聞きて、「我右筆の身に非ず。武勇の家に生まれP1019(一七オ)て今此の恥に遇はむ事、家の為、身の為、心うかるべし。所詮身を全くして君に仕へよと云ふ本文あり」と宣ひて、内々用意ありけり。
 忠盛朝臣の郎等、元は忠盛の一門なりけるが、後には父讃岐守正盛が時より郎等職に補す、進三郎大夫平季房が子に、左兵衛尉家貞と云ふ者あり。備前守の許に参りて申しけるは、「父季房、恐れながら御一門の末にて候ひけるが、故入道殿の御時、始めて郎等職の振舞を仕り候ひけり。家貞父に増さるべき身にて候はねども、相継ぎて奉公仕り候ふ。今年の五節の御出仕には、一定僻事出来候ふべき由、粗承る旨候ふ。殿中に我も我もと思ふ人共あまた候ふらめP1020(一七ウ)ども、加様の御瀬の折節にあひまいらせむと思ふ者は、さすがすくなくこそ候ふらめなれば、五節の出仕の御共をば家貞仕るべし」と内々申せば、忠盛是を聞きて、「然るべし」とて召し具されたり。
一尺三寸ある黒鞘巻の刀を用意して、着座の始めより乱舞の終はりまで束帯の下にしどけなき様に指して、刀の柄を四五寸計り指し出だして、常は手打ちかけて作り眼して居られたり。傍輩の雲客此を見て恐惶の心あるならば、闇討はせざらましの謀也。
 家貞、元よりさる者にて、忠盛に目をかけて、木賊の狩衣の下に萌黄の糸威の腹巻胸板せめて、太刀脇に挟みて、殿上P1021(一八オ)の小庭に候ふ。同じき弟、薩摩平六家長とて齢十七になりけるが、長高く骨太にて、力おぼえ取りて、度々はがね顕はしたる者ありけり。松皮の狩衣の下に紫糸威の腹巻着て、備前作の三尺五寸ありけるわりざやの太刀かいはさみて、狩衣の下より手を出だして、犬居につい跪きて、殿上の方を雲すきに見すかして居たりければ、貫首以下殿上人あやしみて、蔵人を召して、「空柱より内に布衣の者の候ふ。何者ぞ、狼籍なり。罷り出でよ」と云はせければ、家貞少しもさわがず、「相伝の主刑部卿殿、今夜闇討にせらるべき由承り候へば、成らむ様見候はむとて、P1022(一八ウ)かくて候ふ。えこそ罷り出づまじけれ」とて、畏まりて候ひける。頬魂、事がら、主事にあはば、小庭より殿上まで切り上りつべき気色なりければ、人々由なしとや思はれけむ、其の夜の闇討せざりけり。
 其の上、忠盛朝臣、大の刀をぬきて、火のほのぐらかりける所にて鬢髪に引きあてて拭はれけり。余所目には氷などの様にぞ見えける。彼と云ひ是と云ひ、あたりを払ひてみえければ、由なくぞ思はれける。
 さて、御前に召しありて、忠盛朝臣参られけるに、五節のはやしと申すは、「白うすやうのこぜむじのかみ、まきあげふで、ともえ書きたる筆のぢく」とこそはやすに、是は拍子をかへて、「伊勢平氏はすがめなりけり」とはやしたり。忠盛、P1023(一九オ)左の目の眇みたりければ、かくはやしたり。桓武天皇の末葉と申しながら、中比よりはうちさがて、官途もあさく、地下にのみして、都のすまゐうとうとしく、常は伊勢国に住して久しく人となりければ、此の一門をば伊勢平氏と申しならはしたるに、彼の国の器に対して、「伊勢平氏は酢瓶なりけり」とはやしたりけるとかや。忠盛、すべき様無くてさてやみぬ。
 抑、五節と申すは、清見原の天皇の御時、唐土の御門より崑崙山の玉を五つ進らせさせ給へり。其の玉、暗を照らすなり。一の玉の光、五十両の車に至る。是を豊の明りと名付けたり。御秘蔵の玉にて、人足を見る事なし。其の比、又、唐土の商山より仙女五人来たりて、P2024(一九ウ)清御原の庭にて廻雪の袂を翻す事五度あり。但し暗天にして其の形みえざりしかば、彼の五の玉を出だして廻雪の形を御覧じき。玉の光あきらかにして、昼よりも猶明し。而るに、五人の仙人の舞ふ事、各異節也。故に此を五節と名付けたり。其の時より、彼の仙人の舞の手を移して、雲上人舞ひけり。
 其の時の拍子には、「白うすやう、こぜむじの帋、まきあげふで」とはやしけり。其の故は、かの仙人の衣のうすくうつくしき事(有イ)さま、白薄様、こぜむじの帋に相似たり。舞の袖をひるがへし、簪より上ざまにまきあげたる形に似たりければ、巻あげの筆とははやしき。されば、舞人の形ありさまをはやすべき事にてぞ有りける。
 而るに、すがめP1025(二〇オ)なりけりとはやされて、御遊も未だはてぬに、深更に及びて罷り出でられけるに、「いかに何事か候ひつる」と申せば、面目なき事なれば、「何事もなし」とて出でられにけり。
 さて、忠盛出で給ひけるとき、腰刀をば主殿司に預けて、大盤の上におかれてけり。後日に公卿殿上人、此を申されけるは、「傍若無人の体、返す返す謂はれなし。さこそ重代の弓取ならむからに、かやうの雲上の交はりに、殿上人たる者の腰刀をさし顕す事、先例なし。夫雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜はりて宮中を出入するは、皆格式の礼を守り、綸命由ある先規也。然るに忠盛朝臣に及びて、或いは相伝の郎等と号して布衣の兵を殿上の小庭に召し置き、其の身、腰刀を横だへ差して節会の座に列す。両条P1026(二〇ウ)共に希代未聞の狼籍也。事既に重畳せり。罪科尤も遁れ難し。早く御札を削りて、解官停止せらるべき」由、各一同に訴へ申さる。上皇、驚き思し食されて、忠盛を召して御尋ねあり。陳じ申しけるは、「先づ郎従小庭に祇候の事、忠盛是を存知せず。但し、近日人々相巧まるる子細有るかの間、年来の家人、此の事を伝へ承るかに依りて、其の恥を助けむ為に、忠盛に知られずして竊かに小庭に参候の条、力及ばざる次第也。此の上、猶其の科を遁れ難くは、其の身を召し進らすべく候ふ哉。次に腰刀の事、件の刀、主殿司に預けて候ふ。急ぎ召し出だされて、刀の実否に付きて、咎の左右有るべきか」と申されければ、主上、「尤も然るべし」と思し食されて、彼の刀を召し出だして、P1027(二一オ)「殿上人ぬけ」と仰せ下さる。叡覧を経るに、上はさやまきの黒塗なりけるが、中は木刀に銀薄を押したりけり。主上頗るゑつぼに入らせ給ひて、仰せの有りけるは、「当座の恥辱を遁れんが為に、刀を帯する由を構ふと云へども、後日の訴訟を存知して、木刀を帯したる用意の程こそ神妙なれ。弓箭に携らむ者の謀は、尤もかくこそあらまほしけれ。兼ねては又、郎従、主の恥を濯がむと思ふに依りて、ひそかに参候の条、且は武士の郎従の習ひなり。全く忠盛が咎に非ず」とて、還りて叡感に預りける上は、敢へて罪科の沙汰に及ばざりければ、各憤り深くて止みにけり。
 中納言太宰権帥季仲卿は、色の黒かりければ、黒帥とぞP1028(二一ウ)申しける。昔蔵人頭たりし時、其も五節に「穴黒々、くろいとうかな。何なる人のうるしぬりけむ」とはやしたりければ、かの季仲に並びたりける蔵人頭、色の白かりければ、季仲の方人とおぼしき殿上人、「穴白々、白い頭かな。いかなる人の薄をぬりけむ」とはやしたりけり。花山院入道太政大臣忠雅、十歳と申しける時、父中納言に後れ給ひて、孤子にしておはしけるを、中御門中納言家成卿、幡磨守たりし時、聟に取りて花やかにもてなされけるに、是も五節に、 「幡磨米は木賊か椋の葉か。人のきらをみがき付くるは」とはやしたりけり。代上がりては、かかる事にもさせる事も出で来ざりけり。末代はP1029(二二オ)いかがあらんずらむ、人の心おぼつかなし。
 忠盛卿、子息あまたおはしき。嫡子清盛、二男経盛、三男教盛、四男家盛、五男頼盛、六男思房、七男忠度、已上七人なり。皆諸衛佐を経て、殿上の交はり、人嫌ふに及ばず。日本には男子七人ある人を長者と申す事なれば、人うらやみけり。此も直事に非ず、得長寿院の御利生のあまりとぞ覚ゆる。
 但し命は限りありける習ひなれば、仁平三年正月十五日、生年五十八にて、忠盛朝臣北亡す。歳未だ六十に満たざるに、さかりとこそみえ給ひしに、春の霞と消えにけり。さしたる病もおはせず、正月十五日は毎年に精進潔済し給ひければ、今年も又、身心をきよめ沐浴して、P1030(二二ウ)本尊の御前に香を焼き、花を薫じ給ひけるが、西に向かひて眠るが如くして引き入り給ひにき。今生は一千一体の仏の利益を蒙りて、一天四海に栄花を開き、終焉の暮には三尊の来迎に預かりて、九品蓮台に往生す。女子五人、男子七人、各涙を流して惜しみ給ひき。
 男女十二人の腹族、皆取々に幸ひ給ひき。乙姫君ばかりぞ、今年は九に成り給ひければ、母に付きて空しき宿に独りおはしける。父の恋ひしき時は、殖ゑ置き給ひし坪の内の桜の本に立ちより、泣くより外の事なし。明けぬ晩れぬと過ぎ行く程に、正月も過ぎ、二月弥生の比にも成りければ、坪の内の桜うるはしく開(さ)きたり。姫君これをみ給ひて、P1031(二三オ)
 みるからに袂ぞぬるるさくらばなひとりさきだつちちや恋ひしき
四 〔清盛繁昌の事〕 S0104
 清盛嫡男たりしかば、其の跡を継ぐ。保元元年、左大臣代を乱り給ひし時、安芸守とて御方にて勲功ありしかば、幡磨守に移りて、同年の冬、大宰大弐に成りにき。平治元年、右衛門督謀叛の時、又御方にて凶徒を討ち平げしに依りて、「勲功一に非ず、恩賞是重かるべし」とて、次の年、正三位に叙す。是をだにもゆゆしき事に思ひしに、其の後の昇進、龍の雲に昇るよりも速かなり。打ち継き、宰相、衛府督、検非違使の別当、中納言に成りて、丞相の位に至り、左右を経(へ)ず、内大臣より太政大臣に上がる。兵杖を賜りて、大将にあらねども随身P1032(二三ウ)を召し具して、牛車・輦車の宣旨を蒙りて、乗りながら宮中を出で入る。偏へに執政の人の如し。されば、史記の月令の文を引き御して、寛平法皇の御遺誡にも、「太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。国を治め、道を論じ、陰陽を柔げ、其の人無くは(に非ずは−異本)、即ち闕けよ」と云へり。是を則闕の官と名付けて、其の人に非ずは〓すべき官にては無けれども、一天掌の内にある上は子細に及ばず。
 相国のかく繁昌する事、偏へに熊野権現の御利生也。其の故は、清盛当初、靭負佐たりし時、伊勢路より熊野へ参りけるに、乗りたる船の中へ目を驚かす程の大きなる鱸飛び入りたりけるを、先達是を見て驚き怪しみて、即ち巫文をしてみるに、「是はためしP1033(二四オ)なきほどの御悦びなり。是は権現の御利生也。怱ぎ養ひ給ふべし」と勘がへ申しければ、清盛宣ひけるは、「唐国の周の西伯留と云ひける人の船にこそ、白魚躍り入りたりけるとは伝へ聞け。此の事いかが有るべかるらむ。去りながら、先達計らひ申さるる上は、半ば権現の示し給ふなり。尤も吉事にてぞ有るらむ」と宣ひて、さばかり十戒を持ち、六情根を懺悔し、精進潔斎したる道にて、彼の魚を調美して家子・郎等、手振・強力に至るまで、一人も漏らさず養ひけり。
 又の年、三十七の時、二月十三日の夜半計りに、「口あけ口あけ」と、天にものいふよし夢に見て、驚きて現におそろしながら口をあけば、「是こそ武士の精と云ふ物よ。武士の大将をする者は、天より精を授くる」とて、鳥のP1034(二四ウ)子の様なる物の極めてつめたきを三、喉へ入ると見て、心も武く奢りはじめけり。
 されば、熊野より下向の後、打ちつづき悦びのみ在りて、謗りは一も無かりけり。保元に事有りて、大国給はりて大弐に成り、平治に熊野詣でし給ひたりける道に事出で来て、参詣を遂げず、道より下向して合戦を致し、其の功に依りて、親子兄弟大国を兼ね、兼官兼職に任じける上、三品階級に至るまで九代の前蹤をぞ越えられける。是をだにゆゆしき事と思ひしに、子孫の昇進は龍の雲に昇るよりも猶速かなり。
 かかりし程に、清盛、仁安三年十一月十一日、歳五十一にして病に侵されて、存命の為、忽ちに出家入道す。法名浄蓮と申しけるが、程P1035(二五オ)なく改名して浄海と云ふ。出家の功徳は莫大なるに依りて、宿病立所に癒へて、天命を全くす。人の従ひ付く事、吹く風の草木を靡かすが如し。世の普く仰げる事は、降る雨の国土を湿すに異ならず。六波羅殿の一家の君達と云ひてければ、花族も英雄も、面を向かへ、肩を並ぶる人無かりけり。さればにや、平大納言時忠卿申されけるは、「此の一門に非ざる者は、男も女も法師も尼も人非人たるべし」とぞ申されける。されば、いかなる人も相構へて其のゆかりにむすぼほれんとぞしける。衣文のかき様、烏帽子のため様より始めて、何事も六波羅様とて、一天四海の人皆是をまなびけり。
 いかなる賢王聖主の御政も、摂政関白P1036(二五ウ)の成敗をも、人のきかぬ所にては、なにとなく代にあまされたるいたづら者のかたぶけ申す事は、常の習ひ也。而るに、此の入道の世さかりの間は、人の聞かぬ所なれども、聊もいるがせに申す者なし。其の故は、入道の謀にて、「我が一門の上を謗り云ふ者を聞かん」とて、十四五、若は十七八ばかりなる童部の髪を頸のまはりに切りまはして、直垂・小袴きせて、二三百人召し仕ひければ、京中に充満して、自ら六波羅殿の上をあしざまにも申す者あれば、是等が聞き出だして、吹毛の咎を求めて、行き向かひて即時に滅す。おそろしなど申すも愚か也。されば、眼に見、心に知ると云へども、詞に顕れてものいふ者なし。上下恐ぢをののきて、道を過ぐる馬・車も、よきP1037(二六オ)てぞ通りける。禁門を出で入ると雖も、姓名を問はず。京師の長吏、之が為に目を側むとぞ見えたりける。直事には非ずとぞみえし。
 其の比、或る人の申しけるは、「抑此の禿童こそ心得ね。縦ひ京中の耳聞の為に召し仕はると云ふとも、
只普通の童にてもあれかし。何ぞ必ずしもかぶろをそろふる。此等が中に一人も闕けぬれば入れ立てて、三百人を際とするも不審也。何様にも子細有らん」と云ひければ、或る儒者の云はく、「伝へ聞く、異国にかかるためし有りけり。漢帝の御世に、王莽大臣と云ふ賢才殊勝の臣下有りけり。国の位を貪らむが為に謀を廻らす様は、海辺に出でて、亀を幾千万と云ふ数を知らず取り集めて、其の亀の甲の上に勝と云ふ字を書きて、浦々P1038(二六ウ)に放ちぬ。又、銅の馬と人とを造りて、竹のよを通して是を容る。近国の竹の林に多く此を籠められけり。然る後、懐妊七月の女を三百人召し集めて、朱砂を煎じて曼薬と云ふ薬を合はせて此をのます。月満じて産める子、色赤くして偏へに鬼の如し。彼の童を、人に知らせずして深山に籠めて此をそだつ。やうやう生長する程に、哥を作りて習はしむ。『亀の甲の上には、勝と云ふ文字あり。竹の林の中には、銅の人馬あり。王莽天下を持つべき験なり』と。かくして、十四五計りの時、髪を肩のまはりに切り廻して都へ出だすに、此等拍子を打ちて、三百人同音に此の哥を謡ふ。此の気色、普通ならざる間、人怪しみて、帝に奏聞す。即ち彼の童を南庭に召され、先の如くに拍子を打ちてP1039(二七オ)此の哥を謡ひ、庭上に参り臨みければ、頗る叡慮怪しからずと云ふこと莫し。即ち公卿僉議有りて、哥の実否を糺さむが為に、浦々の海人に仰せて亀を召す。其の中に、甲の上に勝の字書ける亀あまたあり。又、近隣の竹の林を求むるに、其の中に銅の人馬多く取り出だせり。帝、此の事を驚き思し食して、怱ぎ御位を避り、王莽に授けられにけり。天下を持ちて十八年とぞ承はる。されば、入道も此の事を表して、三百人召し仕はるるにこそ。位をも心に懸けてやおはすらん。知り難し」とぞ申しける。
五 〔清盛の子息達、官途成る事〕 S0105
 入道、我が身の栄花を極むるのみにあらず、嫡子重盛内大臣の左大将、二男宗盛中納言右大将、三男知盛三位中将、P1040(二七ウ)四男重衡蔵人頭、嫡孫惟盛四位少将、舎弟頼盛正二位大納言、同教盛中納言、一門の公卿十余人、殿上人三十余人、諸国の受領・諸衛府妻要所司、都合八十余人、代には又人もなくぞ見えける。
 奈良御門の御時、神亀五年〈戊辰〉、中衛大将を始めて置かれたりしが、大同四年、中衛を改めて近衛大将を定め置かれてより以降、左右に兄弟相並ぶ事、僅かに三ヶ度也。初めは平城天皇の御宇、左に内麻呂内大臣左大将、田村丸大納言右大将。次に文徳天皇の御宇、斉衡二年八月廿八日、閑院贈太政大臣冬嗣の二男、染殿関白太政大臣良房〈忠仁公〉、内大臣左大将に御任有りて、同九月P1041(二八オ)廿五日、五男西三条左大将良相公、大納言右大将。次に朱雀院の御宇、天慶八年十一月廿五日、小一条関白太政大臣貞信公嫡男、小野宮関白実頼〈清慎公〉内大臣左大将に御任有り、二男九条右大臣師輔公、関白大納言右大将。次に冷泉院の御宇、左に頼通宇治殿、右に頼宗掘河殿、共に御堂関白道長公の公達也。近くは二条院の御宇、永暦元年九(十イ)月四日、法性寺殿関白太政大臣忠通公御息、左に松殿基房公、右に月輪殿関白太政大臣兼実公、同じき十月、右に並び御す。其の時の落書かとよ、
 伊与さぬき左右の大将とりこめてよくの方には一の人かな
P1042(二八ウ)是皆、摂録の臣の御子息也。凡人においては、未だ其の例なし。上代はかうこそ近衛大将をば惜しみおはしまして、一の人の君達ばかりなり給ひしか、是は殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫の、禁色維袍をゆりて綾羅錦繍を身に纏ひ、大臣の大将に成り上がりて、兄弟左右に相並ぶ事、末代と云へども不思議なりし事共也。
六 〔八人の娘達の事〕 S0106
 御娘達八人御坐しき。其も取々に幸ひ給へり。一は桜町中納言成範卿の北の方と名付けられて、八歳なる、おはせしが、平治の乱出で来て、遂げずしてやみぬ。後には花山院の左大臣の御台盤所に成り給ひて、御子あまたをはしまして、万づ引き替へて目出たかりP1043(二九オ)けり。其の比、いかなる者かしたりけむ、花山院の四足の扉に書きたりけるは、
 花の山たかき梢とききしかどあまの子共かふるめひろふは
 此の成範卿を桜町中納言と云ひける事は、此の人、心すき給へる人にて、東山の山庄の町々なりけるに、西南は町に桜を殖ゑとほされたり。北には〓を殖ゑ、東には柳を殖ゑられたりける。其の中に屋を立てて住み給ひけり。来れる年の春毎に花を詠じて、さく事の遅く、散る事の程なきを歎きて、花の祈りの為にとて、月に三度必ず泰山府君を祭りけり。さてこそ、七日にちるならひなれども、此の桜は三七日まで梢に残りありけれ。西南P1044(二九ウ)の惣門の見入より桜見えければ、異名に桜町中納言とぞ申しける。桜待中納言とも云ひけるとかや。花の下にのみおはしければ、桜本中納言とも申しけり。されば、君も賢王に御坐せば、神も神徳を耀かし、花も心ありければ、廿日の齢を延べけり。いづ方に付けても、数奇たる心あらはれて、やさしくぞ聞えし。
 二には、内大臣重盛公の御子とす。即ち后に立ち給へり。皇子御誕生ありしかば、皇太子に立ち給ふ。万乗の位に備はり給ひて後は、院号有りて建礼門院と申す。太政入道の娘、天下の国母にて御坐しし上は、とかく申すにおよばず。
 三は、六条摂政殿の北政所にておはしまししが、高倉院のP1045(三〇オ)御位の時、御母代とて、三公に准る宣下あつて、人重く思ひ奉る。後は白河殿と申す。
 四は、右兵衛督信頼卿の息、新侍従信親朝臣の妻、後には冷泉大納言隆房の北の方にて、其も御子あまたおはしき。
 五は近衛入道殿下の北の政所なり。
 六は七条修理大夫信隆卿の北の方。
 七は安芸厳嶋内侍腹也けるが、十八の年、後白河院へ参り給ひて、女御の様にておはしけり。
 此の外、九条院雑士常葉が腹に一人御しき。花山院の左大臣の御許に、御台盤所の親しくおはすればとて、上臈女房にて、廊御方と申しけるとかや。内侍は後には越中前司盛俊相具しけるとぞP1046(三〇ウ)聞えし。
 日本秋津嶋は僅に六十六ヶ国、平家知行の国三十余ヶ国、既に半国に及べり。其の上、庄薗田畠、其の数を知らず。綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市を成す。揚州の金、荊岫の玉、呉郡の綾、萄江の錦、七珍万宝、一として闕けたる事なし。歌堂舞閣の基、魚龍雀馬の翫物、帝闕も仙洞も、争か是には過ぐべきと、目出たくぞ見えし。
 昔より、源平両氏、朝家に召し仕はれて、皇化に随はず、朝憲を軽んずる者には、互ひに誡めを加へしかば、代の乱れも無かりしに、保元(ほうげん)に為義(ためよし)切られ、平治(へいぢ)に義朝(よしとも)誅たれて後は、末々(すゑずゑ)の源氏(げんじ)少々(せうせう)ありしかども、或いは流され、或いは誅たれて、今は平家(へいけ)の一類(いちるい)
P1047(三一オ)
のみ繁昌(はんじやう)して、頭(かしら)をさし出だす者なし。何(いか)ならむ末(すゑ)の代までも、何事(なにごと)かあるべきと、目出(めでた)くぞ見えし。
七 〔義王義女の事〕 S0107
 其の比、都に白拍子二人あり。姉をば義王、妹をば義女とぞ申しける。天下第一の女にてぞ有りける。此は閇と云ひし白拍子が娘なり。凡そ白拍子と申すは、鳥羽院の御時、嶋の千歳・若の前と云ひける女房を、水旱袴に立烏帽子きせて、刀ささせなどして舞はせ初められたりけるを、近来より、水旱に大口許りにて、髪を高くゆはせて舞はせけり。
 彼の義王・義女を、太政入道召しおかれて愛せられけるに、殊に姉の義王をば、わりなく幸ひ給ひければ、人々上下、入道殿の御気色に随ひて、もてなしP1048(三一ウ)かしづきける事限りなし。在所さる体にしつらひて、由あるさまにて居られたり。貞能に仰せ付けて、母・妹などにも、さるべき様に家造りて、彼の徳にて不足なし。毎日に十疋十石を送られけり。其の上、折節に付きて当たられければ、ゆかりの者共までたのしみ栄へけり。是れを見聞く人うらやまずと云ふ事無し。
 かくのみ目出たかりしほどに、其の比又、都に白拍子一人出で来たり。みめ形、有様より始めて、天下に並び無き優女にてぞ有りける。名をば仏とぞ申しける。入道の義王をもてなされけるを見聞きて、「よもさりとも空しく帰さるる事はあらじ。能などをば愛し給はんずらむ」と思ひて、或る時、推参P1049(三二オ)をぞしたりける。侍共、入道殿に、「仏と申して、当時都に聞こえ候ふ白拍子の、只今参りて候ふ」と申しければ、「さやうの遊び者は、人の召しによりてこそ参れ。左右無く参る条、不思議なり。其の上、義王御前の有らん所には、仏も神も然るべからず。とくとく罷り帰るべし」とぞ宣ひける。此の上は力およばずして罷り出でけるを、義王御前聞きて、入道殿に申しけるは、「いかにや、あれにはすげなくては帰させ給ふぞ。あれら体の遊び者の習ひ、めされねどもかやうの所へ参るは常の事にて候ふ。御見参に入らずして罷り帰るは、いかに本意なく思ひ候ふらむ。『義王が御所へ推参して、御目もみせられまいらせで帰りにけり』と、人の申さむも不便にP1050(三二ウ)覚ゆ。今こそ、かく御目をみせられまいらせずとも、必ずしも人の上と覚え候はず。心の中、思ひ遣られ候ふに、然るべくは召し返して見参して帰させおはしませ。我が身の面目と思ひ候ふべし」と申しければ、入道宣ひけるは、「こはいかに。彼をすさめて帰しつるは、御前の心をたがへじとてこそかへしつれ。さやうに申すほどならば、召し帰せ」とて、呼びかへさせて出で合ひ給ひたり。「かやうに見参するほどならば、なににても能あるべし」と宣ひければ、仏は取りもあへず、
 君をはじめてみるおりは、千代もへぬべしひめこ松
 御所の前なるかめをかに、つるこそむれゐてあそぶなれ
と云ふ今様を、おしかへしおしかへし、三反までこそP1051(三三オ)うたひけれ。入道此を聞き給ひて、「今様は上手にておはしけり。舞はいかに」と宣ひければ、「仰せに随ひて」とて、立ちたりけり。大方、みめ事がら、勢、有様はさておきつ、物かぞへたるこはざしよりはじめて面白し。当時名を得たる白拍子也。年の程十八九許り也。さしもすさめて追ひ返し給ひつるに、入道殿、二心もなく見給ひけり。義王は入道殿の気色を見奉りて、をかしく覚えて少し打咲(ゑ)みて有りけり。入道いつしかついたちて、未だ舞もはてぬさきに、仏がこしに抱き付きて、帳台へ入れ給ひけるこそけしからね。
 さて申しけるは、「いかにや加様におはしますぞ。わらはが参りてP1052(三三ウ)候ひつるに、見参叶はずして空しく帰り候ひつれば、『なにしに推参し候ひぬらむ』と世の人の聞きて、『さればこそ。遊び者の恥のなさは、めされぬ所へ参りて、御目もみせられずして追ひ返されまゐらせたり』と申し沙汰せられむずらむと心憂くおばえ候ひつれば、いづくの浦へもまかり行かんと、今日を限りにはてぬべく候ひつるを、実やらむ、義王御前の強ちに申させ給ひて、召し返させ給ひたりとこそ承り候へ。わらはが為には世々生々の奉公なり。いかが忽ちに此の恩を忘れて、心の外の事は候ふべき。義王御前の思ひ給はむも恥づかし。能に付きての仰せは、いかにも背くべからず。なめてならぬ御車は、ゆめゆめP1053(三四オ)思し食し留まり給へ」とぞ申しける。入道宣ひけるは、「義王いかに云ふとも、浄海が聞き入れざらむには、なじかは呼び返すべき」とて、いかに申せども、仏も力及ばずして、明くるも晩るるもしらず幸ひ臥し給へり。
 さる程に、はかなき世の習ひにて、色みえでうつろふものは世中の人の心の花なれば、只一すぢに仏に心をうつし、はては義王をすさめて、「今はとく罷り出づべし」と宣ひけるぞ情なき。人行き向かひて、此の由を義王御前に申しければ、聞くよりはじめて、心憂しなど申すも中々愚か也。今まで入道殿目みせ給ひつれば、上下諸人もてなしかしづきつる事、只夢とのみ覚えたり。「かやうなる遊び者P1054(三四ウ)なれば、必ずさてしも長らへはて給はじ。終にはかくこそあらんずらめ」と思へども、指し当たりての人目の恥づかしさ、心のあやなさ、なごりの悲しさ、とにかくに推し量られて無慙也。悲しみの涙せきあへず。此を見給ひける人々は、余処のたもとも所せくぞあはれなる。さてしも有るべきならねば、此の日来住みなれし所をあくがれ出づるぞ悲しき。涙を押へて、そばなる障子にかくぞ書き付けて出でにける。
 もえ出づるもかるるもおなじのべの草いづれか秋にあはではつべき
 さて、里に帰りて、義王、母に泣く泣く申しけるは、「哀れ、我いかなる方へもみやたて、いかなる人の子ともなし給はで、かやうなP1055(三五オ)遊び者となし置き給ひて、今はかかるうき目をみせ給ふ事よ。さもあらん人を取り居ゑて、我を思ひ捨て給はむは力およばず。同じさまなる遊び者に思ひ替へられぬる事の口惜さよ。かかる身の有様にて長らふべき契りにはあらねども、一旦なれどもなのめならず不便にし給ひつれば、近きも遠きもうらやみて、『目出たかりつる事哉』とて、祝のためしにもひかれつる事の、いつしかかくのみなれば、『さればこそ。ほどならぬ者の成りぬるはてよ』と云はれむもはづかし。夢幻の世なれば、とてもかくても有りなむ。義女御前が候へば、母はそれをたのみて、うき世の中を渡り給へ。わらはには只身の暇をたべ。いづくの淵河にもP1056(三五ウ)沈みなむ」とぞ云ひける。妹の義女も、「共にこそ、いかにも罷り成らめ。ひとり向かひて、誰をたよりにてか明かし暮らすべき」と悲しむ。母申しけるは、未だ行末はるばるの人々を先立てて、老いおとろへたる我が身の残り留まりて、幾程の年をか送るべき。或いはみたらし河にみそぎして神をかこつ習ひ、或いは望夫石のうらみ、かかるためし多けれども、忽ちに身など投ぐる事は有りがたき習ひ也。又我も諸共に身をなげば、各母を殺す罪有りて、五逆とかやの其の一にて、おそろしき地獄に落ち給はむもつみふかし。あな賢思ひ止まり給へ」と制し止めて、三人一所に泣き居たり。天人の五衰もかくやと覚えて哀れ也。
 さる程に、入道は、P1057(三六オ)義王に当たり給つるにはさし過ぎて花やかにもてなされければ、目出たさ申すばかりなし。親しきあたりまで、日に随ひてたのしみを成す。義王は、入道のあはれみ給ひつるほどは、楽しみにほこりて、世間の事も支度なし。捨てられて後は、一すぢに思ひ沈みて、是を営む事なし。されば次第に衰へけり。此れを見、彼れを聞く人の、心(こころ)有るも心(こころ)無きも、涙(なみだ)を流し袖をしぼらぬぞ無かりける。
 さる程に、年も已に暮れぬ。明くる年の春の比、入道殿よりとて、義王か許へ御使あり。何事なるらむとあやしみ思ふところに、「是にある仏御前が余りにつれづれげにてあるに、参りて能共ほどこしてみせよ。さるべき白拍子P1058(三六ウ)あらば、余た具足して参るべし」とぞ宣ひける。義王是を聞きて又母に申しけるは、「有りし時、よく思ひとりて候ひしものを許し給はずして、今かやうの事を聞かせ給ふ事の悲しさよ。たとひ参ぜざらむ咎に、都の外へ移さるるか、又命をめさるるか、是の二つにはよも過ぎじ。中々さもあらばあれ、恨み有るまじ」とて、御返事も申さず。「いかにいかに」と、押し返し度々めされけれども、猶参らず。入道腹を立てて、「参るまじきか。今度申し切れ。相計らふ旨有り」と、にがにがしく宣ひたり。此を聞きて、母泣く泣く義王に申しけるは、「いかにや参り給はぬぞ。思ひ切りしを制し止め奉りしも、老の身にうき目をみじが為也。P1059(三七オ)それに今参り給はぬものならば、忽ちにうき目をみせ給ふべし。只生きての孝養、是に如くべからず。怱ぎ参り給ひて後、さまをやつして、何ならむ片辺りにも草の庵りを結びて、念仏申して後生の祈りをし給へ」など、くどきければ、是を聞きて、義王は、母の思ひの悲しさに、心ならず出で立ちけり。
 我身、妹の義女、又若き白拍子二人、惣じて四人、一車に取り乗りてぞ参りける。車より下りて指し入りたれば、未だありしにもかはらぬ御所の有様、なつかしとも云ふばかりなし。さて内へ入りたれば、入道殿、仏御前を始めて、子息あまた並居給へり。此の義王をば〓[木+延](えん)におかれて、一所にだにおき給はで、P1060(三七ウ)今、一なげしさがりたる所にぞ居ゑられける。是に付けても悲しみの涙せきあへず。心の中には母をのみぞ恨みける。重盛・宗盛已下の人々、目も当てられずして、さばかりかたぶき申されけれども、力及ばず。「いかにいかに、何事にてもとくとく」と宣ひければ、義王は、参るほどにてはさてしも有るべきならねばと思ひて、今様の上手にて有りければ、
 仏も昔は凡夫なり我等も終には仏なり
 何れも三身仏性具せる身をへだつるのみこそ悲しけれ
と、押し返し押し返し、三反までこそ歌ひけれ。是を聞く人、よそのたもとも所せきて、仏御前もともに涙を流しけり。されども入道は、少しも哀をかけ給はず。ましてP1061(三八オ)泣くまでは思ひもよらず。暫く有りて、入道いかが思はれけむ、会尺も無くて内へ入り給ひぬ。其の後、義王は人々に暇申して、涙と共にぞ出でにける。
 宿所にかへり、母に向かひて申しけるは、「さればこそ、よく参らじと申しつるを、母の仰せの重くして参りたれば、うき目みる事の悲しさよ」とて、なきゐたり。
 さて其の後、世の人、「入道殿すてはて給ひぬ」と聞きければ、心にくく思ひて、我も我もと文をかよはし、縁に付きて契りを結ぶべき由申しけれども、聞き入れずして、義王は廿二、義女は廿、母は五十七にて、一度にさまをかへて、皆墨染に成りつつ、嵯峨の奥なる山里に、草の庵を引き結び、三人一所に籠り居て、偏へに後生浄土、P1062(三八ウ)往生極楽と祈る外他事無くて、既に三月許りに成りけるに、ある夜、夜半ばかりに庵のとぼそをほとほとと叩く者ありけり。此の人々思ひけるは、「こはなにものにてか有るらん。都にも、さるべかりし人々も皆かれはてて、誰事とふべしとも覚えず。かかる柴の庵のすまひなれば、なにのたよりにか尋ぬべき。さなくは、後生菩提を妨げむとて、天魔などの来るやらむ。などかは山神とかやもあはれみ給はざるべき。さりながらも」とて、おづおづ柴の編み戸をあけたれば、「いかにや、いたくな怖ぢ給ひそ」とて指し入りたるをみれば、仏御前にてぞ有りける。「さても、いかにこの日来の御心の中共は」とばかり云ひて、涙もせきあへP1063(三九オ)ずぞ泣きける。其の時、義王は更にうつつとも覚えず。只夢の心地して、野干などのばけて来るやらむ、おそろしながら義王申しけるは、「其の後は、なにはの事も覚えずして、よろづあぢきなくのみ有りしかば、只一筋に思ひ切りてあかしくらす草の庵をば、いかにして聞き伝へておはしたるぞ」と申しければ、仏、涙を押さへて、「さればこそ。わらはが入道殿へ推参して、御気色あしくて罷り帰りしを、それに申させ給ひけるによりて、召しかへされたりしかば、思ひの外に入道殿に見参に入りにき。さる程に、入道殿、心より外の気色におはせしかば、あまりにあさましく覚えて、『只今、入道殿に見参に入るも、それの御故にこそ候へ。いかがはうしろめたなきP1064(三九ウ)事は候ふべき』と、さしもいなみ奉りしかども、女の身のはかなさは、思ひの外の事共の有りき。『たとひさりとも、あれ体の人の習ひなれば、一すぢには思ひ給はじ。あまたをこそ見給はんずらめ』と思ひしほどに、其の義も無くて打ち捨て奉りし事のあへなさ、申すばかり無かりき。余りに心苦しかりしかば、度々申ししかども叶はず。これを人の上と思はざりしかば、又いかなる人にかと、なにはの事もあぢき無くて、『只身の暇をたべ』と申ししかども、ゆるし給はざりしかば、昨日の昼程に、隙の有りしに逃げ出でて候ふ也。諸共に後生を祈り、此の日来の恨みをも休め奉らんとて、うはの空に、いづ方としも分かず迷ひ行き候ひつるほどに、P1065(四〇オ)思ひかけざる道行人、『さやうの人はこの奥にこそ』と申し候ひつれば、是まで尋ね参りたり。御心おき給ふべからず。吾もかやうに成りたり」とて、かづきたるきぬを引きのけたれば、尼にぞ成りたりける。
 義王申しけるは、「是程に志の浅からずおはしける事よ。実にかやうのためしは皆先世の事なれば、人を恨み奉るに及ばず。只身の程のつたなさをこそ思ひしかども、凡夫の習ひのうたてさは、思はじとすれども恨みられし事も時々有りつるなり。かく契りを結び給はん上は、いかが心をおき奉るべきなれば、懺悔しつるぞ」とて、隔てなく四人一所に勤め行ひて、終には仏道を遂げにけり。
 さてこそ、後白河法皇の長講堂の過去帳には、今も「義王・義女・仏・閉」とは読まれP1066(四〇ウ)けれ。「義王は恨むる方もあれば、さまをやつすも理也。仏は当時の花と上下万人にもてなしかしづかれて、豊かにのみ成りまさり、人にはうらやみをこそなされつるに、さりとて年も僅に廿のうちぞかし。是程に思ひ立ちける心の中の恥づかしさ、類ひ少くぞ有らん」とて、見聞く人の袂を絞らぬは無かりけり。
 さて、入道殿は仏を失ひて、東西手を分けて尋ぬれども叶はず。後にはかくと聞き給ひけれども、出家してければ力及ばず。さてやみ給ひき。
八 〔主上上皇御中不快の事、付けたり二代后立ち給ふ事〕 S0108
 鳥羽院御晏駕の後は、兵革打つづき、死罪、流刑、解官、停止、常に行はれて、海内も静まらず、世間も落居せず。就中、P1067(四一オ)永暦・応保の比より、内の近習をば院より御誡めあり、院の近習をば、内より御誡めあり。かかりしかば、高きも賎しきも恐れ怖きて、安き心なし。深淵に臨みて薄氷を踏むが如し。其の故は、内の近習者、経宗・惟方が計らひにて、法皇を軽しめ奉りければ、大きに安からざる事に思し食して、清盛に仰せて、阿波国・土佐国へ流されにけり。
 さる程に、又主上を呪咀し奉る由聞こえ有りて、賀茂の上の社に主上の御形を書きて種々の事共をする由、実長卿聞き出だして奏聞せられたりければ、巫男一人搦め取りて、事の子細を召し問ふに、「院の近習者資長卿など云ふ格勤の人々の所為也」と白状したりければ、資長卿、修理大夫解官せられぬ。又、P1068(四一ウ)時忠卿、妹小弁殿、高倉院恨み奉らせける時、過言したりしとて、其の前年解官せられたりけり。かやうの事共行ひ相ひて、資時・時忠二人、応保二年六月廿三日、一度に流されにけり。
 又、法皇多年の御宿願にて、千手観音千体御堂を造らむと思し食し、清盛に仰せて備前国をもて造られけり。長寛二年十二月十七日、御供養あり。行幸成し奉らむと法皇思し食されけれども、主上「なじかは」とて、御耳にも聞き入れさせ給はざりけり。寺官、勧賞申されけれども、其の御沙汰にも及ばず。親範が職事奉行しけるを、御堂の御所へ召し、「勧賞の事はいかに」と仰せ下されけれP1069(四二オ)ば、「親範が計らひにては候はぬ」由申して、畏りて候ひければ、法皇、御泪を浮けさせ給ひて、「何のにくさに、かほどまでは思し食したるらむ」と仰せの有りけるこそ哀なれ。此の堂を蓮花王院とぞ名付けられける。胡摩僧正行慶と云ひし人は、白河院の御子也。三井門流には左右なき有智徳行の人なりければ、法皇殊に馮み思し食して、真言の御師にておはしけるが、此の御堂をば殊に取沙汰し給ひて、千躰中尊の丈六の面像をば、自らきざみ顕はされたりけると承るこそ目出(めでた)けれ。主上、上皇父子の御中なれば、何事の御隔てか有るべきなれども、加様に御心(こころ)よからぬ御事共多かりけり。是も世澆季に及び、人凶悪をP1070(四二ウ)先とする故也。
 主上は、上皇をも常には申し返させ給ひける。其の中に、人耳目を驚かし、世以て傾き申しける御事は、故近衛院の后太皇后宮と申すは、左大臣公能公の御娘、御母は中納言俊忠の娘なり。中宮より皇太后宮にあがらせ給ひけるが、先帝に後れまゐらせ、九重の外、近衛河原の御所に、先帝の故宮にふるめかしく幽かなる御有様也。永暦・応保の比は、御年廿二三にもや成らせ給ひけむ、御さかりも少し過ぎさせ給ひけれども、此の后、天下第一の美人の聞こえ渡らせおはしましければ、主上二条院、御色にのみ染める御心にて、世の謗りをも御かへりみ無かりけるにや、好色に叙し御して、P1071(四三オ)外宮に引き求めしむるに及びて、忍びつつ御艶書あり。后敢へて聞し食し入れさせ給はねばひたすら穂に出でましまして、后入内有るべき由、父左大臣家に宣旨を下さる。
 此の事、天下において殊なる勝事なりければ、怱ぎ公卿僉議あり。「異朝の先縦を尋ぬれば、則天皇后は、太宗・高宗両帝の后に立ち給へる事あり。則天皇后と申すは、唐の太宗の后、高宗皇帝の継母也。太宗に後れ奉りて、尼と成りて盛業寺に籠り給へり。高宗の宣はく、『願はくは、宮室に入りて政を扶け給へ』と。天使五度来ると云へども、敢へて随ひ給はず。爰に、帝已に盛業寺に臨幸あつて、『朕敢へて私の志をP1072(四三ウ)遂げむとには非ず。只偏へに天下の為なり』と。皇后更に勅になびく詞なし。『先帝の他界を訪はむが為に、適釈門に入れり。再び塵象に帰るべからず』と仰せられけるに、皇帝、内外の君平に文籍を勘がへて、強ひて還幸を進むと云へども、皇后確然として翻らず。爰に扈従の群公等、横しまに取り奉るが如くして、都に入れ奉れり。高宗在位三十四年、国静かに民楽しめり。皇后と皇帝と、二人政を摂め給ひし故に、彼の御時をば、二和の御宇と申しき。高宗崩御の後、皇帝の后、女帝として位に即き給へり。其の時の年号を神功元年と改む。周王の孫なる故に、唐の代を改めて、大周則天大皇帝と称す。爰に臣下歎きて云はく、『P1073(四四オ)先帝の高宗、代を経営し給へる事、其の功績古今類ひ無しと謂ひつべし。天子無きにしも非ず。願はくは、位を太子に授け給ひて、高宗の功業を長からしめ給へ」と。仍て在位廿一年にして、高宗の子、中宗皇帝に授け給へり。即ち代を改めて、又大唐神龍元年と称す。則ち吾が朝文武天皇、慶雲二年乙巳歳に当れり。「両帝の后に立ち給ふ事、異国には其の例有りと云へども、本朝の先規を勘ふるに、神武天皇より以来人皇七十余代、然而も二代の后に立ち給へる其の例を聞き及ばず」と、諸卿一同に僉議し申されけり。
 法皇も此の事を聞こし食して、然るべからざる由、度々申させ給ひけれども、主上仰せの有りけるは、「天子P1074(四四ウ)に父母なし。我万乗の宝位を忝くせむ日は、などか是程の事、叡慮に任せざるべき」とて、既に入内の日剋まで宣下せられける上は、子細に及ばず。
 后、此の事聞こし食してより、侶無き事に思し食されて、引きかづきて伏し給へり。御歎きの色深くのみぞ見えさせ給ひける。実と覚えて哀なり。先帝に後れまゐらせられし久寿の秋の初めに、同じ草葉の露ときえ、家をも出でて世をも遁れたりせば、かかるうき事は聞かざらまし。口惜しき事哉」とぞ思し召されける。父左大臣なぐさめ申されけるは、「『世に随はざるを以て狂人とす』と云へり。既に詔命を下されたり。子細を申すに所なし。只偏へに愚老を助けさせ御さむは、孝養のP1075(四五オ)御計らひたるべし。又、此の御末に皇子御誕生あつて、君も天下の国母にてもや御坐さむ。愚老も外祖父と云はるべき。家門の栄花にてもや候ふらむ。大方かやうの事は、此の世一つの事ならぬ上、天照大神の御計らひにてこそ候ふらめ」など、様々に誘へ申させ給ひけれども、御返事も無かりけり。只御泪にのみ咽ばせ給ひて、かくのみぞすさませ給ひける。
 うきふしにしづみもはてぬ河竹の世にためしなき名をや流さむ
世にはいかにして漏れ聞こえけるやらむ、哀にやさしき事にぞ申しける。
 既に入内の日時定まりにければ、父大臣、供奉の上達部、出車の儀式、常よりもめづらしく、心も詞も及ばず出だし立てまゐらせP1076(四五ウ)給へり。后はものうき御出立なりければ、とみにも出でさせ給はず、遥かに夜深け、さよも半ば過ぎてぞ、御車には扶け乗せられ給ひける。殊更色ある御衣はめさざりけり。白き御衣、十四五ばかりぞめされたりける。御入内の後は、やがて恩をかぶらせ給ひて、麗景殿にぞ渡らせ給ひける。朝政を進め申させ給ふ。清涼殿の画図の御障子に、月をかきたる所あり。近衛院未だ幼年帝にて渡らせ給ひける当初、何となく御手まさぐりにかきくもらかさせ給ひけるが、少しも昔にかはらで有りけるを御覧ぜられけるに、先帝の昔の御面影、思し食し出でさせ給ひて、御心所せきて、P1077(四六オ)かくぞ思し食しつづけさせ給ひける。
 思ひきやうき身ながらにめぐり来て同じ雲井の月をみむとは
此の間の御なからへ、哀にたぐひ少くぞ聞えし。其の比は、是のみならず、かやうの思ひの外の事共多かりけり。
 かかる程に、永万元年の春の比より、主上二条院、御不予の事御坐すと聞こえしが、其の年の夏の初めになりしかば、事の外によはらせ給ひにき。是に依りて、大膳大夫紀兼盛が娘の腹に、今上の一の御子、二歳にならせ給ふ王子御坐ししを、皇太子に立たせ給ふべき由、聞こえし程に、六月廿五日、俄に親王の宣旨を下されて、やがて其の夜、位を譲り奉らせ給ひにき。なにとなく上下周章たりしP1078(四六ウ)事共也。
 我が朝、童帝の例を尋ぬるに、清和天皇、九歳にて父文徳天皇の御譲りを受けさせ給ひしより始まれり。周公旦の成王に代はりつつ、南面にして一日万機の政を行ひ給しに准へて、外祖忠仁公、幼主を扶持し給ひき。摂政又是より始まれり。「鳥羽院五歳、近衛院三歳にて御即位ありしをこそ、『とし』と人思へりしに、是は僅かに二歳、未だ先例なし。物騒がし」と云へり。
九 〔新院崩御の御事〕 S0109
 永万元年六月廿七日に、新帝御即位の事ありしに、同七月廿八日に、新院御年廿三にて失せさせ給ひき。新院とは二条院の御事なり。御位さらせ給ひて三十余日也。P1079(四七オ)天下憂喜相交はりて、取り敢へざりし事也。同八月七日、香隆寺に白地に宿し進らせて後、彼の寺の 艮に蓮台野と云ふ所に納め奉る。八条中納言長方卿、其の時大弁宰相にて御坐しけるが、御葬の御幸を見奉りて、
  つねにみし君が御幸をけさとへば帰らぬ旅と聞くぞかなしき
忠胤僧都が秀句も此の時の事也。七月廿八日、いかなる日ぞや。去りぬる人帰らず。香隆寺、いかなる所ぞや。御出ありて還御なき。哀なりし事共なり。
 近衛院大宮は、二代の后に立ち給ひたりしかども、又此の君にも後れまゐらせさせ給ひしかば、やがて御ぐしおろさせ給ひけるとぞ聞えし。高きも賎しきP1080(四七ウ)も、定めなき世のためし、今更哀れ也。
十 〔延暦寺と興福寺と額立論の事〕 S0110
 御葬送の夜、興福寺・延暦寺の僧徒、額立論をして、互に狼籍に及べり。国王の崩御有りて、御墓へ送り奉る時の作法、南北二京の大小僧徒等、悉く供奉して、我が寺々の額を打つ。南都には、東大寺・興福寺を始めとして、末寺々々相伴なへり。東大寺は聖武天皇の御願、諍ふべき寺なければ、一番なり。二番、大織冠淡海公氏寺、興福寺の額を打ちて、南都末寺々々、次第に立て並べたり。興福寺に向かひて、北京には延暦寺の額を打つ。其の外、山々寺々、あなたこなたに立て並べたり。
 今度、御葬送之時、延暦寺衆徒、P1081(四八オ)事を乱りて、東大寺の次、興福寺の上に神を立つる間、山階寺の方より、東門院衆徒西金堂衆土佐房昌春と申しける堂衆、三枚甲に左右の小手差して、黒革威の大荒目の鎧、草摺長なる、一色ざざめかして、茅の葉の如くなる大長刀を以て、或いは凍りの如くなる太刀をぬきて走り出でて、延暦寺の額をま逆まに伐りたふして、「うれしや水、なるはたきの水」とはやして、興福寺の方へ入りにけり。延暦寺の衆徒、先例を背きて狼籍を致せば、即座に手向かひあるべきに、心深く思ふ事有ければ、一詞も出ださず。
 抑、一天の君、万乗の主、世を早くせさせ給ひしかば、心なき草木までも猶愁ひたる色浅からずP1082(四八ウ)こそ有りけむに、かかるあさましき事にて、或いは散々として、高きも賎しきも、誰を得としも無ければ、四方に退散す。或いは蓮台野、船岡山の溝にぞ多く走り入りける。をめき叫ぶ声、雲をひびかし、地を動かす。誠におびたたしくぞ聞こえける。
十一 〔土佐房昌春の事〕 S0111
 大和国に針庄と云ふ所あり。此の庄の沙汰に依りて、西金堂の御油代官小河四郎遠忠が打ち留むる間、興福寺上綱侍従の五師快尊を率して、件の針庄へ打ち入りて、小河四郎を夜討にす。土佐房昌春、元より大和国住人也。侍従五師、大衆を語らひて、昌春を追ひ籠めて、「御榊の餅り奉りて、洛中へ入れ奉りて、奏聞を経べし」とて、衆徒等発向する処に、昌春、数多の凶徒を率して、P1083(四九オ)彼の榊を散々に伐り捨てけり。大衆弥蜂起して訴へ申す間、昌春を公家より召すに、敢へて勅に従はず。時に、別当兼忠に仰せて御聖断有るべき由、昌春に仰せ下さる。之に就きて昌春上洛せしむる処に、即ち兼忠に仰せて昌春を召し取りて、其の時、大番衆土肥二郎実平に預けられて月日を送る程に、土肥二郎に親しく成りたりけるとかや。随ひて又、公家にも御無沙汰にて御坐しけり。
 「南都には敵人こはくして、還住せむ事難かりければ、重ねて南都のすまひも今は叶ふまじ。流人兵衛佐殿こそ末たのもしけれ」と思ひて、伊豆北条に下りて、兵衛佐に奉公したりけり。心ぎは、さる者にて有りければ、兵衛佐身をはなたず召し仕はれけり。兵衛佐、P1084(四九ウ)治承四年に院宣・高倉宮の令旨を給はりて、謀叛を起こし給ひし時、昌春二文字に洪雁の文の旗を給はり、きり者にて有りける間、人の申けるは、「春日大明神の罰を蒙るべかりける者をや」と申しけるに、後に鎌倉殿より、「九郎大夫判官討て」とて、京都へ差し上せられたりけるに、討ち損じて、北を差して落ちけるが、鞍馬の奥、僧正が谷より搦め取られて、六条河原にて首を刎ねられける時、「遅速ぞ有りける、明神の罰は怖ろしき事哉」とぞ人申しける。
十二 〔山門大衆、清水寺へ寄せて焼く事〕 S0112
 同じき八月九日の午剋ばかりに、山門の大衆下ると聞こえければ、武士・検非違使、西坂本へ馳せ向かひたりけれども、衆徒、神輿をP1085(五〇オ)捧げ奉りて、押し破りて乱れ入りぬ。貴賎上下、騒ぎ〓(ののし)る事斜めならず。内蔵頭平教盛朝臣、布衣にて右衛門陣に候はる。何者の云ひ出だしたりけるにや、「上皇、山の大衆に仰せて、平中納言清盛を追討すべき故に、衆徒都へ入る」と聞こえければ、平家の一類、六波羅へ馳せ集まる。上下周章たりけれども、右兵衛督重盛卿一人ぞ、「何の故に只今さるべきぞ」とて、静められける。上皇、大きに驚き思し食して、怱ぎ六波羅へ御幸なる。平中納言清盛も、大きに畏り驚かれけり。
 山門の大衆、清水寺へ押し寄せて焼き払ふべき由、聞こえけり。去んぬる七日の会稽の恥を雪めんとなり。清水寺は興福寺の末寺なる故にてぞ有りける。清水寺法師、P1086(五〇ウ)老少を云はず起こりて、二手に分かれて相待ちけり。一手は滝尾の不動堂に陣を取る。一手は西門に陣を取る。山門の大衆、搦手は久々目路、清閑寺、歌の中山まで責め来る。大手は覇陵の観音寺まで責め寄せたり。やがて坊舎に火を懸けたりければ、折節西風はげしくて、黒煙東へふき覆ひてければ、清水寺法師、一矢を射るに及ばず、四方に退散す。終には大門に吹き付けたり。昔、嵯峨天皇の第三皇子門居親王の后、二条右大将坂上田村丸の御娘、春子女御、御懐妊の御時、「御産平安ならば、我が氏寺に三重の塔を組むべき」由、御願にて、建てさせ給ひし三重の塔、九輪高くP1087(五一オ)耀きしも、焼けにけり。児安塔と申すは是也。如何がしたりけむ、塔にて火は消えにければ、本堂一宇ばかりぞ残りける。
 爰に、無動寺法師に伯耆竪者乗円と云ふ学生大悪僧の有りけるが、進み出でて僉議しけるは、「罪業本より所有なし、妄想顛倒より起こる。心性源清ければ、衆生即ち仏也。只本堂に火を懸けて焼けや者共」と申しければ、衆徒等「尤々」と申して火を燃し、御堂の四方に付けたりければ、煙、雲井はるかに立ち昇る。
感陽宮の異朝の煙を諍ふ。一時が程に回禄す。あさましと云ふも疎か也。
 衆徒かく焼き払ひて返り登りければ、法皇還御成りにけり。右兵衛督重盛も御送りにP1088(五一ウ)参らる。右兵衛督、御共より帰られたりければ、父中納言清盛宣ひけるは、「法皇の入らせ御坐しつるこそ返す返すも恐れ覚ゆれ。さりながら、聊も思し食し寄り仰せらるる旨のあればこそ、かやうにも漏れ聞こゆらめ。其等にも打ち解けらるまじ」と宣ひければ、右兵衛督、「此の事、ゆめゆめ御色にも御詞にも出ださせ給ふべからず。人々心付きて、中々あしき事也。叡慮に背き給はず、人の為によく御坐さば、三宝神明の御加護有るべし。さらむに取りては、御身の恐れあるまじ」とて、立ち給ひぬ。「兵衛督はゆゆしく大様なる者哉」とぞ、中納言宣ひける。
 法皇還御の後、うとからぬ近習者共、御前に候ひける中に、按察使入道資賢P1089(五二オ)も候はれけり。法皇、「さるにても不思議の事云ひ出だしつる者哉。何なる者の云ひ出だしつらむ」と仰せ有りければ、西光法師が候ひけるが、「『天に口なし、人を以ていはせよ』とて、以ての外に平家過分に成り行けば、天道の御計らひにて」と申しければ、「此の事由なし、壁に耳ありと云ふ。おそろしおそろし」とぞ人々申しける。
 さても清水寺焼たりける後朝に、「火坑変成池は何に」と札に書きて、大門の前に立てたりければ、次の日、「歴劫不思議是也」と返し札をぞ立てたりける。何なるあとなし者のしわざなるらむと、をかしかりけり。
十三 〔建春門院の皇子春宮立ちの事〕 S0113
 永万元年、今年は諒闇にて、御禊、大嘗会も無し。P1090(五二ウ)同じき年の十二月廿五日、東の御方の御腹の法皇の御子、親王の宣旨蒙らせ給ふ。今年は五歳にぞ成らせ給ひける。年来は打ち籠められて御坐しつるが、今は万機の政わく方なく法皇聞こし食しければ、御慎みなし。此の東の御方と申すは、時信朝臣の娘、知信朝臣の孫なり。小弁殿とて候ひ給ひけるを、法皇時々忍びて召されけるが、皇子位に即かせ給ひて後、院号有りて建春門院とぞ申しける。相国の次男宗盛、彼の女院御子にせさせ給ひたりければにや、平家殊にもてなし申されけり。
 仁安元年、今年は大嘗会有るべきなれば、天下其の営みなり。同じき年十月七日、去年親王のP1091(五三オ)宣旨蒙らせ給ひし皇子、東三条殿にて東宮立の御事ありけり。春宮と申すは、常は帝の御子也。是をば太子と申す。又、帝の御弟の、儲君に備はらさせ給ふ事あり。御弟を大弟と申す。其に主上は御甥、僅かに三歳、春宮は御叔父、六歳に成らせ給ふ。「昭穆相叶はず。物騒がし」と云へり。「寛仁三 (二イ)年に、一条院は七歳にて御即位あり。三条院、十三歳にて春宮に立ち給ふ。先例なきに非ず」と、人々申しあはれけり。
十四 〔春宮践祚の事〕 S0114
 六条院、御譲りを受けさせ給ひたりしかども、僅かに三年にて、同年二月十九日、春宮〈高倉院〉八歳にて大極殿にて践祚ありしかば、先帝は僅かに五歳にて御位退かせ給ひて、新院とP1092(五三ウ)申して、同六月十七日に上皇御出家あり。後白河法皇とぞ申しける。未だ御元服なくて、御童形にて太上天皇の尊号ありき。漠家・本朝、是ぞ始めなるらむと、めづらしかりし事也。
 此の君の位に即かせ御坐すは、弥平家の栄花とぞみえし。国母建春門院と申すは、平家の一門にて御坐す上は、とりわき入道の北の方二位殿、御妹にて御坐しければ、相国の公達、二位殿の御腹は、当今の御いとこにてむすぼほれ進らせて、ゆゆしかりける事共也。平大納言時忠卿と申すは、女院の御せうと、主上の御外戚にて御坐しければ、内外に付けたる執権の人にて、叙位除目已下、公家のP1093(五四オ)御政、偏へに此の卿の沙汰なりければ、世には平関白とぞ申しける。当今御即位の後は、法皇もいとど分く方なく、万機の政を知ろし食されしかば、院・内の御中、御心(こころ)よからずとぞ聞えし。
十五 〔近習之人々、平家を嫉妬する事〕 S0115
 院に近く召し仕はるる公卿、殿上人、下北面の輩に至るまで、ほどほどに随ひて、官位俸禄、身に余る程に朝恩を蒙りたれども、人の心の習ひなれば、尚あきたらず覚えて、此の入道の一類、国をも庄をも多く塞ぎたる事、目ざましく思ひて、「此の人の亡びたらば、其の国は定めて闕けなむ、其の庄はあきなむ」と、心中に思ひけり。うとからぬどしは、忍びつつささやく時も有りP1094(五四ウ)けり。
 法皇も内々思し食されけるは、「昔より今に至るまで、朝敵を平ぐる者の多けれども、かかる事やはありし。貞盛・秀郷が将門を討ちて、頼義が貞任・宗任を滅ぼしたりし、義家が武衡を攻めたりしも、勧賞行はるる事、受領には過ぎず。清盛が指してし出だしたる事も無くて、かく心のままに振舞ふこそ然るべからね。此も末代に成り、王法の尽きぬるにや」と、安からず思し食されけれども、事の次無ければ、君も御誡めもなし。又平家も朝家を怨み奉る事も無くて有りけるほどに、代の乱れける根元は、
十六 〔平家、殿下に恥見せ奉る事〕 S0116
 去んぬる嘉応二年十月十六日に、小松内大臣重盛公の二男、新三位P1095(五五オ)中将資盛、越前守たりし時、蓮台野に出でて小鷹狩をせられけるに、小侍二三十騎ばかり打ちむれて、はひたか〔  〕あまたすゑさせて、鶉、雲雀、追ひ立てて、終日かり暮らされけり。折節、雪ははだれに降りたり、枯野の景気面白かりければ、夕日山の端に傾きて、京極を下りに帰られけり。其の時は、松殿基房、摂禄にて御座しけるが、院の御所法住寺殿より、中御門東洞院の御所へ還御成りけるに、六角京極にて、殿下の御出に資盛鼻つきに参り会はれたり。越前守、誇り勇みて代を世ともせざりける上、召し具したる侍共、皆十六七の若者にて、礼儀骨法を弁へたる者の一人P1096(五五ウ)も無かりければ、殿下の御出とも云はず、一切下馬の礼儀も無かりければ、前駈・御随身、頻りに是をいらつ。「何者ぞ、御出の成るに、洛中にて馬に乗る程の者の下馬仕らざるは。速かに罷り留まりて下り候へ」と申しけれども、更に耳に聞き入れず、けちらして通りけり。闇き程にてはあり、御共の人々もつやつや入道の孫とも知らざりければ、資盛朝臣以下、馬より引き落とし、散々に〔  〕せられにけり。匍々六波羅へ逃げ帰り、「此の事、穴賢披露すな」と警められけれども、隠れ無かりけり。
 入道の最愛の孫にてはおはしけり、大きに怒りて、「設ひ殿下なりとも、争か入道があたりをば憚り思ひ給はざるべき。少き者に左右無く恥辱P1097(五六オ)を与へておはするこそ、遺恨の次第なれ。此の事、思ひ知らせ申さでは、えこそ有るまじけれ。かかる事より、人にはあなづらるるぞ。殿下を怨み奉らばや」と宣ひければ、小松内府、「此の事努々々有るべからず。重盛なむどが子共と申さむずる者は、殿下の御出に参り会ひて、馬よりも車よりも下りぬこそ尾籠にて候へ。さ様にせられ進らするは、人数に思し召さるるによつて也。此の事、還りて面目にて非ずや。頼政・時光体の源氏なむどにあざむかれたらば、誠に恥辱にても候ひなむ、加様の事より代の乱れとも成る事にて候ふ。努力々々思し食し寄るべからず」と宣ひければ、其の後は内府にはかくとも宣はず。
 片田舎の侍共の、こはらかにて、入道殿のP1098(五六ウ)仰せより外には重き事無しと思ひて、前後も弁へぬ者共、十四五人召し寄せて、「来たる廿一日、主上御元服の定めに、殿下の参内有らむずる道にて待ち請けて、前駈・随身等が本鳥切れ」と下知せられて、又宣ひけるは、「殿下の御出に、御随身廿人にはよも過ぎじ。随身一人に二人づつ付け。其の中に、相模守通貞とて、齢ひ十七八計りぞ有るらむ。彼は具平親王の末葉にて、父も祖父も聞こえたる甲の者なり。通貞も定めて甲にぞ有るらむ。彼には兵十人付くべし」とぞ云はれける。
 其の日に成りて、中御門猪熊辺にて、六十余騎の軍兵を率して、殿下の御出を待ち懸けたり。殿下は、かかる事有りとも知ろし食さず、主上の明年の御元服P1099(五七オ)の加冠拝官の為に、今日より大内の御直慮に七日候はせ御坐すべきにて有りければ、常の御出仕よりも引きつくろはせ給ひて、今度は待賢門より入内あるべきにて、何心も無く中御門を西へ御出なりけるに、猪熊掘河の辺にて、六十余騎の軍兵待ち請け進らせて、射殺し切り殺さねども、散々に懸け散らして、右の府生武光を始めとして、引き落とし引き落とし、十九人まで本鳥を切る。十九人が中、藤蔵人大夫高範が本鳥を切りける時は、「是は汝が本鳥を切るには非ず、主の本鳥を切る也」と云ひ含めてぞ切りける。
 其の中に、相模守通貞は、長高く色白きが、手綱をくりしめて、左右をきと見る。兵寄りて引き落とさP1100(五七ウ)むとしければ、懐より、一尺三寸有りける刀の、鞆に馬の尾巻きたるを抜き出だして、向かふ敵の内甲を指しければ、左右無く寄る者なし。馬より飛び下りて、刀を額にあてて、兵の中を打ち破り、そばなる小家に走り入りけるを、兵の寄りて打ち留めむとしければ、立ち帰りて、刀をもて思ふさまに切りたりければ、取り付かむとしける者の小肘を、小手を加へてつと切り落とし、片織戸を丁と立てて、後へつと逃げにければ、つづいて懸くる者もなし。かかりければ、通貞計りは遁れて、残りは恥にぞ及びける。
 殿下は、御車の内へ弓のはずをあららかにつき入れつき入れしければ、こらへかねて落ちさせ給ひて、あやしの民の家に立ち入らせ給ひにけり。前駈、P1101(五八オ)御随身もいづちか失せにせむ、一人も無かりけり。供奉の殿上人、或いは物見打ち破られ、或いは鞦むながい切り放たれて蜘昧を散らすが如く逃げ隠れぬ。六十余騎の軍兵かやうにし散らして、中御門面にて悦びの時をはと作りて、六波羅へ帰りにけり。入道は、「ゆゆしくしたり」と感ぜられけり。
 小松内大臣、此の事を聞きて、大きにさわがれけり。「景綱・家貞、奇怪なり。設ひ入道いかなる不思議を下知したまふとも、争か重盛に夢をばみせざりけるぞ」とて、行き向かひたりける侍共十余人、勘当せられけり。凡は重盛などが子共にてあらむ者は、殿下をも重んじ奉り、礼儀をも存じてP1102(五八ウ)こそ有るべきに、云ふ甲斐無き若き者共召し具して、かやうの尾籠を現じて父祖の悪名を立つる、不孝の至り、独り汝にあり」とて、越前守をも諌められけるとかや。惣じて此の大臣は、何事に付けても吉き人とぞ、代にも人にもほめられ給ひける。
 其の後、殿下の御ゆくへ知りまゐらせたる者無かりけるに、御車副の古老の者に、淀の住人因幡の先使国久丸と申しける男、下臈なりけれどもさかざかしかりける者にて、「抑吾が君はいかがならせ給ひぬらむ」とて、ここかしこ尋ねまゐらせけるに、殿下はあやしの民の家の遣戸のきはに立ち隠れて、御直衣もしほしほとして渡らせ給ひけり。国久丸、只一人、しりがひ・P1103(五九オ)むながい結び合はせて、御車仕りて、是より中御門殿へ還御成りにけり。その御儀式、心憂しとも愚か也。摂政関白のかかるうき目を御覧ずる事、昔も今もためしありがたくこそ有りけめ。是ぞ平家の悪行の始めなる。
 明けぬる日、西八条の門前に作り物をぞしたりける。法師の引きこしがらみて、長刀を以て物を切らんとする景気を作りたり。又、前に石鍋に毛立したるものを置きたり。道俗男女、門前市をなす。されども心得る者一人もなし。「こは何事ぞ」と云ふ処に、歳五十余計りなる老僧、指し寄りて、打ち見て申しけるは、「此は夜部の事を作りたるにや」と申せば、「それは何事ぞ」とP1104(五九ウ)云ふに、「夜部殿下の御出なりけるを、平家の侍、大炊の御門猪隈にて待ち請けまゐらせて、散々と追ひ散らして、御車覆し、前駈・御随身、本鳥を切られたりけるを作りたり。是をこそ『むし物にあうてこしがらむ』と申すは」と云ひければ、一同にはと咲ひけり。いかなる跡なし者のしわざなるらむと、をかしかりける事共なり。
十七 〔蔵人大夫高範出家の事〕 S0117
 さて、前駈したりける蔵人大夫高範は、あやなく本鳥切られたりければ、いかにすべき様も無くて、宿所に帰りて引きかづきて臥したりけるが、俄に、「大とのゐの綾をりが中に、目あかく手ききたる二人ばかり、きと召して進らせよ」と云ひけれP1105(六〇オ)ば、妻子共、なにやらむと穴倉く思ひける処に、程無く召して参りけるを、妻子眷属にもみせず、一間なる所に籠り居て、切られたりける本鳥を、かづらをたふして、一夜の中に結びつがせて、蔵人所に参りて申しけるは、「苟しくも武士に生まれて、形の如くの弓箭を取り、重代罷り過ぐ。其の日、然るべき不祥に合ひたり。然而るに、身に束帯をまとひ、爪切ほどの小刀体の物をも身にしたがへず。人に手をかくるまでこそ無くとも、あたる所の口惜しき目を見るよりは、自害をこそ仕るべかりしかども叶はず。剰さへ本鳥切られたりと云ふ不実さへ云ひ付けられ、弓箭取る者の死ぬべき所にて死なざるが致す所也。P1106(六〇ウ)則ち、世をも遁れ、家をも出づべけれども、左右無く出家したらば、『本鳥切られたる事は一定なり』と沙汰せられむ事、生々世々の瑕瑾なり。今一度、誰々にも対面申さむと存じて参りたり。但し、憖に人なみなみに世に立ち交じればこそ、かかる不実をも云ひ付けらるれ。思ひ立ちたる事有り」とて、懐より刀を取り出だして、本鳥押し切りて、乱し髪に烏帽子引き入れて、袖打ちかづきて罷り出づるこそ、賢かりけるし態なれ。
 廿二日に、摂政殿は、法皇に御参ありて、「かかる心うき目にこそ逢ひて候へ」と歎き申させ給ひければ、法皇もあさましと思し食して、「此の由をこそ入道にも云はめ」とぞ仰せ有りける。入道漏れ聞き、P1107(六一オ)「入道が事を院に訴へ申されたり」とて、又しかり〓(ののし)りけり。殿下かく事にあはせ給ひければ、廿五日、院の殿上にてぞ御元服の定めは有りける。
 さりとて、さて有るべきならねば、摂政殿は、十二月九日、兼ねて宣旨蒙らせ給ひて、十四日に太政大臣にならせ給ふ。是は明年御元服の加冠の料也。
 同十七日、御拝賀あり。ゆゆしくにがりてぞ有りける。太政入道第二の娘、后立の御定めあり。今年十五にぞ成り給ひける。建春門院の猶子也。
十八 〔成親卿、八幡賀茂に僧籠むる事〕 S0118
 妙音院入道殿、其の時は内大臣左大将にて御坐しけるに、太政大臣にならせ給はむとて、大将を辞し申させ給ひけるを、後徳大寺P1108(六一ウ)の大納言実定、一の大納言にて御坐しけるが、理運に充てて成り給ふべき由、聞こえけり。其の外、花山院の中納言兼雅卿も所望せられけり。殿三位中将師家卿など申す、御年の程は無下に少く御坐せども、成り給はむずらむと世間には申し合ひける程に、故中御門中納言家成卿三男、新大納言成親卿、平に申されけり。院の御気色よかりければ、様々の祈りを始めて、さりともと思はれけり。此の事祈請の為には、或る僧を八幡に籠めて、真読の大般若を読ませられけるに、半分ばかり読みたりける時に、瓦大明神の御前なりける橘の木に山鳩二つ来て、食ひ合ひて死にけり。鳩は大菩薩の侍者也。宮仕にかかる不思議P1109(六二オ)なしとて、別当清浄、事の由公家に奏聞したりければ、神祇官にて御占あり。「天子・大臣の御慎みに非ず。臣下の御慎み」とぞ占ひ申ける。 是のみならず、賀茂の上社に七ヶ日、鴨御祖社に七ヶ日、忍びて歩行の日詣をして、百度せられけり。「帰命頂礼、別雷大明神、所修納受して、所祈に答へ給へ」と祈られけるに、第三日に当たる夜、詣でて下向し給ひて、中御門の宿所に亜相臥し給ひたりける夜の夢に、神の御前に候ふとおぼしきに、神風心すごく吹き下して、御宝殿の御戸を屹と押し開かれたりけるに、良暫く有りて、ゆゆしく気高き女房の御音にて、一首の歌をぞ詠ぜられける。
 P1110(六二ウ)さくら花賀茂の河風うらむなよちるをばえこそ留めざりけれ
成親卿夢中に打ち歎きて驚かれけり。
 是にも憚らず、上の社には仁和寺俊堯法印を籠めて、真言秘法を行ひけり。下若宮には三室戸法印を籠めて、〓枳尼天(だきにてん)を行はれけるほどに、七日に満ずる夜、俄に天ひびき、地動くほどの大雨ふり、大風吹きて、雷鳴りて、御宝殿の後の椙木に雷落ちかかり、天火燃え付きて、若宮の社焼けにけり。神は非例を稟け給はねば、かかる不思議出で来にけるにや。成親卿、是にも思ひ知らざりけるこそあさましけれ。
十九 〔主上御元服の事〕 S0119
 さる程に、嘉応三年正月三日、主上御元服せさせ給ひて、十三日、P1111(六三オ)朝覲の行幸とぞ聞こえし。法皇・女院は御心もとなく待ち請け進らせ給ふ。新冠の御体も良たくぞ渡らせ給ひける。
 三月には、入道相国の第二の御娘、女御に参り給ひて、中宮の徳子とぞ申しける。法皇御猶子の儀也。
 七月には相模節あり。重盛右に連なりおはしければ、「近衛大将に至らむからに、容儀身体さへ人に勝れ給へるは」と申しあひけるとかや。かやうに讃め奉りて、せめての事にや、「末代に相応せで、御命や短く御坐せむずらむ」と申しあひけるこそ、忌まはしけれ。御子達、大夫、侍従、羽林など云ひて、余た御坐しけるに、皆優にやさしく花やかなる人にて御坐しける上、大将は心ばへよき人にて、子息達にもP1112(六三ウ)詩歌管絃を習ひ、事にふれ、由ある事をぞ勧め教へられける。
廿 〔重盛・宗盛、左右に並び給ふ事〕 S0120
 さる程に、此の比の叙位除目は平家の心のままにて、公家・院中の御計らひまでも無し、摂政関白の成敗にても無かりければ、治承元年正月廿四日の除目に、徳大寺殿、花山院中将殿も成り給はず、況や新大納言、思ひやよるべき。入道の嫡子重盛、右大将にて御坐ししが左に移りて、次男宗盛、中納言にて御しけるが、数輩の上臈を越えて右に加はられけるこそ、申す量り無かりしか。嫡子重盛の大将に成り給ひたりしをこそ、ゆゆしき事に人思へりしに、二男にて打ちつづき並び給ふ。世には又人ありともみえざりけり。
廿一 〔徳大寺殿、厳嶋へ詣で給ふ事〕 S0121
P1113(六四オ) 中にも徳大寺一大納言にて、才覚優長し、家重代にて、越えられ給ひしこそ不便なりしか。「定めて御出家などや有らむずらむ」と、世の人申しあひけれども、「此の世の中の成らむ様をも見はてむ」と思ひ給ひければ、籠居し給ひて、「今は世に有りてもなにかせむ。本鳥をも切りて山林にも交はりて、一向まことの道に入らむ」と宣へば、源蔵人大夫資基、歎き申しけるは、「平家四海を打ち平げて、天下を掌に挙り、万事思ふ様なる上、摂政関白に所をおかず恥辱を与へ奉り、万機の政を心のままに取り行はる。非例非法張行する平家の振舞をうらみさせ給はば、多くの青女房達、皆餓死し候はんずらむ事こそ口惜しく候へ。世は謀にてこそ候へ。P1114(六四ウ)太政入道の殊に崇め給ふ、安芸国の一宮厳嶋へ御参詣有るべく候ふ。大将の御祈梼の為に御参籠渡らせ給はば、其の神子をば内侍と申し候ふ、多く参りて候はば、種々の御引出物たびて〓(もてな)させおはしませ。さて御下向あらば、定めて内侍共、御送りに参り候はむずらむ。様々にすかして、内侍四五人相伴はせ御坐して、京へ御上り候へ。内侍、京にて定めて太政入道殿の見参に入り候はんずらむ。『なにしに上りたるぞ』と問ひ給はば、内侍共、ありのままに申さば、『我が憑み奉る所の厳嶋の大明神に参り給ひたりけるごさむなれ。争か神の御威光をば失ひ進らすべき。大将に進らせよ』とて、一定進り候ひぬと存じ候ふ。かやうに御計らひP1115(六五オ)や有るべく候ふらむ。徳大寺を此の御時失はせ給はむ事、口惜しく候ふ」と、泣く泣く誘へ申しければ、げにもとや思し食されけむ、御心ならず厳嶋へ御詣であり。案の如く、内侍共つどひたりければ、種々の御引出物給ひて、様々にもてなし給ひけり。
 かくて七日御参籠有りて、御下向ある処に、内侍共余波を惜しみ進らせて、一日送り進らせけり。次の日帰らむとするに、徳大寺殿仰せの有りけるは、「情なし。内侍達、今一日送れかし」と宣ひければ、「承りぬ」と申して送り奉る。次の日帰らむとする処、又色々の御引出物給ひて、「やや内侍達、都を立ち出でて、多くの国々を隔てて、波路を分けて参りたる志は何計りとかや思ふ。されば、大明神御名残P1116(六五ウ)惜しく思ひ進らするに、内侍達の是まで送り給ひたるは併しながら大明神の御納受と仰ぎて信を取る。其の上は、只今引き分かれ給はむ事、あまりに余波をしきに、今一日送れかし」と宣へば、「承りぬ」とて、又参りにけり。「今一日」「今一日」と宣ふ程に、内侍もさすがに振り捨てがたくて、都近く参りにけり。徳大寺殿の宣ひけるは、「内侍、さすがに城は近く、我等が本国は遠く成りたり。同じくは、いざ都へ。京づとばしも取らせむ」と宣へば、「承りぬ」とて、内侍十人、京へ上る。「此の上は又、太政入道殿の見参に入らざらむ事も恐れ有り」とて、内侍共、入道殿へ参じけり。出で合ひて対面し給ひけるに、入道宣ひけるは、「なにしに上りたるぞ」と問ひ給ひければ、「徳大寺殿、P1117(六六オ)大将超えられ給ひて、其の御歎きに御籠居候ひけるが、御出家有りて後生菩提の御勤めせむと思し食し立ちて候ひけるが、誠や、厳嶋の大明神こそ、現弁も新たに渡らせ給ふなれ。此の事祈請して叶はずは御出家有るべきにて、御詣で候ひて、御参籠の間、御心優にわりなく渡らせ給ふ。内侍共にも色々の御引出物給ひて、御情深く渡らせ給ふ程に、御名残をしみ進らせて、一日送り進らせて候へば、『今一日』『今一日』とて送り進らせ候ひつる程に、京まで参りて候ふ。上る程にては、争か又見参に入らざるべきとて、参りて候ふ」と申しければ、入道殿、「一定か、内侍達」。「さむ候ふ」と申しければ、「糸惜し糸惜し。さては厳嶋へ御詣で有りけるごさむなれ。浄海、P1118(六六ウ)大明神を深く崇敬し奉る。争か権現の御威光をば失ひ奉るべき。重盛大将に上げよ」とて、大将へ押し上げて、徳大寺殿を左大将に成し奉る。
廿二 〔成親卿人々語らひて鹿谷に寄り会ふ事〕 S0122
 さて、新大納言成親卿思はれけるは、殿の中将殿、徳大寺殿、花山院に超えられたらば何がせむ。平家の二男に超えられぬるこそ遺恨なれ。いかにもして平家を滅ぼして本望を遂げむ」と思ふ心付きにけるこそおほけなけれ。父の卿は中納言までこそ至りしに、其の子にて、位正二位、官大納言、年僅かに四十四(二イ)、大国あまた給はりて、家中たのしく、子息所従に至るまで朝恩に飽き満ちて、何の不足有りてか、今かかる心の付きにけむ。是も天魔P1119(六七オ)の致す所也。信頼卿の有様を親りみし人ぞかし。其の時、小松大臣の恩を蒙りて、頸をつがれし人に非ずや。外き人も入らぬ所にて兵具を調へ集め、然るべき者を語らひて、此の営みより外は他事無かりけり。
 東山に鹿谷と云ふ所は、法勝寺の執行俊寛が領也。件の処は、後は三井寺につづきて吉き城也とて、彼こに城郭を構へて、平家を討ちて引き籠らむとぞ支度しける。多田蔵人行綱、法勝寺執行俊寛、近江入道蓮浄〈俗名成雅〉、山城守基兼、式部大夫章綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、左衛門入道等を始めとして、北面の下臈あまた同意したりけり。平家を滅ぼすP1120(六七ウ)べき与力の人々、新大納言を始めとして、常に寄り合ひ寄り合ひ談義しけり。法皇も時々入らせ給ひて、聞こし食し入れさせ給ふ。毎度俊寛が沙汰にて、御儲け丁寧にしてもてなし進らせて、御延年ある時も有りけり。或る時、彼の人々、俊寛が坊に寄り合ひて、終日に酒宴して遊びけるに、酒盛半ばに成りて万づ興有りけるに、多田蔵人が前に盃流れ留まりたり。新大納言、青侍一人招き寄せてささやきければ、程なく清げなる長櫃一合、〓(えん)の上にかきすゑたり。尋常なる白布五十端取り出だして、やがて多田蔵人が前に置かせて、大納言目かけて、「日来談義し申しつる事、大将には一向御辺を憑み奉る。其の弓袋の料に進らす。P1121(六八オ)今一度候はばや」と云ひたりければ、行綱畏りて布に手打ち係けて押しのけければ、郎等よりて取りてけり。
 其の比、静憲法印と申しける人は、故少納言入道信西が子息也。万事思ひ知りて振る舞ふ人にて有りければ、平相国も殊に用ゐて、世の中の事共、時々云ひ合はせられけり。法皇の御気色もよくて、蓮花王院執行にもなされなどして、天下の御政常に仰せ合はせられけるに、「さても此の事はいかが有るべき」と法皇仰せの有りければ、「此の事奴刀々々有るべからずと覚え候ふ。今は人多く承り候ひぬ。何がし候ふべき。只今、天下の大事出で来候ひなむず。我が君は天照大神七十二代、太上法皇の尊号にて御坐し候ふといへども、王法の代末に成り、清盛又朝家P1122(六八ウ)に盛り也。其と申すは、君の御恩ならずと云ふ事なし。然而、朝敵を平ぐる事度々也。されば、何を以て清盛をば失はせ給ひ候ふべき」と、憚る所無く申されければ、成親卿、気色替はりて立たれけるが、御前なる瓶子を狩衣の袖に係けて倒したりけるを、法皇、「あれは何に」と仰せ有りければ、取り敢へず、「平氏すでに倒れて候ふ」と申されたりければ、法皇御ゑつぼに入らせおはしまして、「康頼参りて当弁仕れ」と仰せありしかば、康頼が能なれば、つい立ちて、「凡そ近来は、平氏が余り多く候ひて、もてゑひて候ふ」と申したりければ、成親卿、「さて其をばいかがすべき」と申さる。康頼、「それをば頸を取るには如かず」とて、瓶子の頸を取りて入りにけり。法皇も興に入らせ給ひて、着座P1123(六九オ)の人々もゑみまけてぞ咲はれける。静憲法印ばかりぞ、あさましと思ひて物も宣はず、声をも出だされざりける。
 彼の康頼は、阿波国住人にて、品さしもなき者なりけれども、諸道に心得たる者にて、君に近く召し仕はれ進らせて、検非違使五位の尉まで成りにけり。末座に候ひけるを召し出だされけるも、時に取りては面目とぞみえし。土の穴を掘りて云ふなる事だにも漏ると云へり。まして、さほどの座席なれば、なじかは隠れあるべき。空怖ろしくぞ覚ゆる。
 彼の俊寛は、木寺法印寛雅が子、京極大納言雅俊が孫也。指して弓箭取る家にあらねども、彼の大納言、ゆゆしく心の武く、腹あしき人にて御座しければ、京極の家の前をば人をも轍くとほさず、常に歯をくひしばりP1124(六九ウ)て、嗔りて御坐しければ、人、「歯くひの大納言」とぞ申しける。かかりし人の孫なればにや、此の俊寛も、僧なれども心武く奢れる人にて、かやうの事にも与せられたりけるにや。
 就中、此の俊寛僧都と成親卿と、殊更親しく昵びける事は、新大納言の内に、松・鶴とて、二人の美女有りけり。俊寛、彼の二人を思ひて通ひける程に、鶴は今すこし容貌は増さりたり、松は少し劣りたれども、心ざま離り無かりければ、松にうつりて、子息一人儲けたりける故に、大納言も隔なく打ち憑み語らひける間、与力したりける也。
 三月五日、除目に、内大臣師長公、太政大臣に転じ給へる替はりに、左大将重盛、大納言定房卿を越えて内大臣に成られにけり。P1125(七〇オ)院の三条殿にて大饗行はる。近衛大将に成り給し上は子細に及ばねども、又宇治の左大臣の御例憚りあり。又太政入道心もとなげに云はれければ、「由なし」と仰せられけるとかや。
廿三 〔五条大納言邦綱の事〕 S0123
 五条中納言邦綱卿、大納言に成らる。歳五十六。一の中納言にて御坐しけれども、第二にて中御門中納言宗家卿、第三にて花山院中納言兼雅卿、此の人々成り給ふべかりけるを止めて、邦綱卿のなられける事は、太政入道、万事思ふさまなる故也。此の邦綱卿は、中納言兼輔卿八代の末葉、式部大夫盛綱が孫、前右馬助成綱が子也。然而、三代は蔵人にだにも成らず、受領、諸司助などにて有りけるが、進士の雑色とて、近衛院の御時、近くP1126(七〇ウ)召し仕はれけるが、去んぬる久安四年正月七日、家を発(興歟)して蔵人頭に成りにけり。其の後次第に成り上りて、中宮亮などまでは法性寺殿の御推(吹歟)挙にて有りし程に、法性寺殿隠れさせ給ひて後、太政入道に執り入りて、さまざまに宮仕へける上、日ごとに何にても一種を奉られければ、
 「所詮現世の得意、此の人に過ぎたる人有るまじ」とて、子息一人入道の子にして経邦と申し付けて侍従に成されぬ。三位中将重衡を聟になしてけり。後には、中将、内の御乳母に成られたりければ、其の北の方をば母代とて、大納言の典侍とぞ申しける。
 〔北面は〕上古には無かりけり。白河院の御時始め置かれて、衛府共あまた候ひけり。中にも、為俊・盛重、童より千手丸・今犬丸などとて、切者にてP1127(七一オ)有りけり。千手丸は本は三浦の者也。後は駿河守になさる。今犬丸は周防国住人、後は肥後守とぞ申しける。鳥羽院の御時も、季範・季頼父子、近く召し仕はれて、伝奏するをりもありと聞きしかども、皆身の程をば振る舞ひてこそ有りしに、此の御時の北面の者共は、事の外に過分して、公卿殿上人をも物ともせず、礼儀も無かりけり。下北面より上北面に移り、上北面より又殿上をゆるさるる者も有りけり。かくのみある間に、驕れる心ありき。彼の季範と申すは、源左衛門大夫康季が子息、河内守是也。季頼は季範が子也。大夫尉と云ふも是也。其の中に故少納言入道の許に師光・成景と云ふ者ありけり。小舎人童、若は格勤者にて、けしかるP1128(七一ウ)者共なりけれども、さかざかしかりける間、院の御目にかかりて召し仕はれけり。師光は左衛門尉、成景は右衛門尉に、二人一度に成りたりけり。少納言入道の事に合ひし時、二人共に出家して、各名乗の一字を替へず、左衛門入道は西光、右衛門入道は西景とぞ云ひける。二人ながら御倉預にて召し仕はれけり。西光が子師高も切者にて有りければ、検非違使五位尉まで成りにけり。
廿四 〔師高と宇河法師と車引き出だす事〕 S0124
 安元二年十一月廿九日、加賀守に任じて国務を行ふ間、さまざまの非例非法張行せしあまり、神社、仏事、権門の庄領をも倒し、散々の事共にてぞ有りける。縦ひ邵公が跡を伝ふとも、穏便P1129(七二オ)の務をこそ行ふべかりしに、万づ心のままに振る舞ひし故にや、同じき三年八月に、白山の末寺に宇河と云ふ山寺に出温あり。彼の湯屋に目代が馬を引き入れて湯洗ひしけるを、寺の小法師原、「往古より此の所に馬の湯洗ひの例無し。争か、かかる狼籍有るべき」とて、白山の中宮八院三社の惣長吏、智積・覚明等を張本として、目代の秘蔵の馬の尾を切りてけり。目代是を大きに嗔りて、即ち彼の宇河へ押し寄せて坊舎一宇も残さず焼き払ひにけり。宇河白山八院の大衆、金大房大将軍として、五百騎にて加賀国府へ追ひ懸かる。露吹むすぶ秋風は鎧の袖をひるがへし、雲井を照す稲妻は甲の星をかかやかす。かくて講堂に立て籠もり、P1130(七二ウ)庁へ使を立てたれば、目代、僻事しつとや思ひけむ、庁にはしばしもたまらずして逃げ上りにけり。
 宇河の大衆共、力及ばずして僉議しけるは、「所詮本山の末寺也。本山へ訴へ申すべし。若此の訴訟叶はずは、我等永く生土に帰るべからず」。「尤も尤も」とて、神水を呑み、一同して、神輿をやがて振り上げ奉る間、安元三年二月五日、宇河を立ちて、願成寺に着き給ふ。御共の大衆、一千余人也。願成寺より、同六日、仏が原金剣宮へ入り給ふ。茲に於て一両日逗留す。
廿五 〔留守所より白山へ牒状を遣はす事 同じく返牒の事〕 S0125
 同じき九日、留守所より牒状あり。使者には楠二郎大夫則次、但田の二郎大夫忠利等也。彼の牒状に云はく、
留守所の牒、白山宮の衆徒の衙
 P1131(七三オ)早く衆徒の参洛を停止せられんと欲する事
牒す。神輿を振り奉りて、衆徒参洛を企てて、訴訟を致さしむ。事の趣き、重からざること無きに非ず。茲に因りて、在庁忠利を差し遣はして、子細を尋ね申す処に、石井の法橋訴へ申さんが為に、参洛せしむと返答有りと云々。此の条、豈然るべからず。争か小事に依りて大神を動かし奉るべき哉。若し国の沙汰と為て裁許為るべき訴訟か。者れば、解状を賜りて申し上ぐべき也。乞ふ哉、状を察して以て牒す。
  安元三年二月九日              散位朝臣
                        散位朝臣P1132(七三ウ)
                        散位朝臣
                        目代源朝臣在判
とぞ書きたりける。之に依りて衆徒の返牒に云はく、
白山中宮の大衆政所、返牒、所の衛
 来牒一紙に載せ送らるる、神輿御上洛の事
牒す。今月九日の牒、同日到来す。状に依りて子細を案ずるに、神明和合し在す。而るに吉日を点定して旅路に進発す。次に人力を以て之を成敗すべからず。冥慮、豈之を恐れざらん哉。仍りて、後日を以て牒返の状に任せん。子細の状、件の如し。
 P1133(七四オ)安元三年二月九日   中宮大衆等
廿六 〔白山宇河等の衆徒神輿を捧げて上洛の事〕 S0126
同じき十日、仏が原を出でて推津へ差し給ふ。同日又留守所より使二人あり。税所大夫成貞、橘二郎大夫則次等、野代山にて大衆の後陣に件の使追ひ付きたり。即ち落馬しぬれば馬の足折れたり。是れを見て衆徒弥神力を取る。同じき十一日に二人の使推津に到来す。敢へて返牒無し。詞を以つて使者神輿を留め奉るといへども、事ともせず上洛す。其の時の貫首は六条大納言源顕通の御子、久我大政大臣の御孫、明雲僧正にて御す。門跡の大衆三十余人P1134(七四ウ)を差し下し、敦賀の中山にて神輿を留め奉る。敦賀の津、金崎の観音堂へ入れ奉りて、守護しけり。
廿七 〔白山衆徒山門へ送牒状事〕 S0127
 白山衆徒等、山門へ牒状を遺す。其の状に云はく、
謹請 延暦寺御寺牒
 白山の神輿を山上に上げ奉り、目代師経罪科を裁許せられんと欲する事
右、子細を言上せしむと雖も、今に裁報を蒙らざる間、神輿御入洛の処、抑留の条、是一山之大訴也。倩ら事情を案ずるに、白山は敷地有りと雖も、是併しながら三千の聖供也。免田有りと雖も、当任は有名無実P1135(七五オ)也。之に依りて、仏神の事断絶、顕然也。仍りて当年の八講・三十講、同じく以て断絶す。我が山は是大悲権現、和光同塵の素意に候ふ。近来忝くも向拝の族、又以て断絶す。此時に当たりて、深く歎き切也。然れば、神輿を振り奉り、群参を企つる所也。永く向後の栄えを忘れ、五尺の洪鐘、徒に黄昏の勤を響かす。誰か冥道の徳を明らかにせむ。人倫に在りて、迷癡の用深き也。蓋ぞ全く将来の吉凶を現ぜざらん哉。権現の御示現、之に在す。然れば則ち、制法に拘はらずして、既に敦賀津に附かしめ、御寺牒の状に任せ、神輿上洛の儀を止め、御裁報を待つべき状、件の如し。
P1136(七五ウ)  安元三年二月廿日   衆徒等
廿八 〔白山神輿山門に登給ふ事〕 S0128
 とぞ書きたりける。
 同じき廿一日、専当等、此の状を取りて帰り上るあひだ、裁許を相待つ処に、重ねて使者来たりて云はく、 「上洛せられたりと云ふとも、御裁許有るべからず。其の故は、院、御熊野詣でなり。御下向の後、上洛せらるべし」とて、彼の神輿を奪ひ取り奉り、金崎観音堂に入れ奉りて、大衆、宮仕、専当等、是を守護し奉る。白山の衆徒、竊に神輿を盗み取り奉りて、敦賀の中山道へは係からで、東路にかかり、入の山を越え、柳瀬を通り、近江国甲田の浜に着く。其より船に御輿を舁き載せ奉りて、東坂本へ入れ奉んと欲す。折節、〔巽〕の風はげしく吹きて、海上静かならずして、小松が浜へ吹き寄せられP1137(七六オ)給ひけり。其より東坂本へ神輿を振り上げ奉る。
 山門の衆徒、三塔会合して僉議しけるは、「末社の神輿疎かならず、本社の権現の如し。末寺の僧賤しからず、本山の大衆に同じ。争か訴訟を聞き入れざるべき」と、一同に僉議して、日吉社には白山をば客人と祝ひ奉りたれば、早松の神輿をば客人の宮に安め奉りて、山門の大衆等、院の熊野詣の御帰洛をぞ相待ちける。
廿九 〔師高罪科せらるべきの由人々申さるる事〕 S0129
 さる程に、院御下向あり。「白山の衆徒等、訴訟此くの如し。げに此の事黙止がたく候ふ哉。然れば、師高を流罪に行はれ、師恒(経)を禁獄せらるべき」由、奏聞せしに、御裁許遅かりしかば、太政大臣、左右大臣已下、さも然るべき公卿達は、 「哀れ、とく御裁許有るべきP1138(七六ウ)者を。山門の訴訟は、昔より他に異なる事也。大蔵卿為房・大宰権師季仲は、朝家の重臣なりしかども、大衆の訴訟に依りて流罪せられにき。まして師高などが事は、ものの数ならず。子細にや及ぶべき」と、内々は申されけれども、詞に顕れて奏聞の人無し。「大臣は禄を重んじて申されず、小臣は罪を恐れて諌めず」と云ふ事なれば、各口を閉ぢ給へり。其の時の現任の公卿には、兼実・師長を始めとして、定房・隆秀に至るまで、身を忘れていさめ奉り、力を尽くして国を助くべき人々にておはしける上、武威を耀かして天下を鎮めし入道の子息重盛など、夙夜の勤労をつつ 〔し歟〕みておはせしに、彼と云ひ此と云ひ、師高P1139(七七オ)一人に憚りて、心に傾けながら、詞には諌め申されざりける事、君に仕ふる法、豈夫然るべけん哉。「前車の覆へるを扶けずは、後車の廻るを豈恃まん哉」とこそ、蕭荷をば大宗は仰せられけれ。恐らくは、君もくらく覚えさせ給ふべきに非ず、臣も憚りあひ給ふべき人々にやおはせし。何に況や、君臣の国においてをや。権勢の政ひがまむにおいてをや。「賀茂河の水、双六の〓(さい)、山法師、是れぞ我が心に叶はぬもの」と、白河院は仰せ有りけるとかや。されば鳥羽院の御時、平泉寺を以て薗城寺に付けらるべき由、其の聞こえ有り。山門の衆徒忽ちに騒動して奏状を捧げ申す。
其の状に云はく、P1140(七七ウ)
卅 〔平泉寺を以て山門に着けらるる事〕 S0130
延暦寺の衆徒等、解して院庁の裁を請ふ事
 曲げて恩恤を垂れ、応徳の寺牒に任せて、白山平泉寺を以て、永く当山の末寺と為さむと請ふ状
右、謹みて案内を検するに、去んぬる応徳元年、白山の僧等、彼の平泉寺を以て当山の末寺に寄進す。時に座主良真、寄文の旨に任せ、寺牒を成して彼の山に付け畢(を)はんぬ。尓りしより以降、僧侶の訴訟無きに依りて、衆徒の沙汰に及ばず。然る間、去んじ春、彼の山の住僧等、来たりて当山に訴へて云はく、「是、延暦寺の末寺也。応徳の寺牒、尤も証験に足れり」と云々。覚宗、P1141(七八オ)彼の別当の職に任せ、非法濫行、日を遂ひて倍増し、愁へを積みて枕と為す。結句、当山を以て薗城寺の末寺と為さんと欲すてへり。当山は本より本寺无きに非ず。就中、日吉の客人宮は白山権現也。垂跡、彼の神慮を測るに、定めて其の故有らむか。叡慮忽ちに変ず。君の不明に非ず、臣の不直に非ず。我が山の仏法、将に以て滅びんとする兆也。愁へて余り有り。蒼天を仰ぎて涙を押さへ、悲しみて何が為ん。中丹に丘して魂を銷す。衆徒若し勅命に乖違せば、千僧の公請に応ずべからず。衆徒若し朝威を忽緒せば、愁へを懐きて一山の騒動を止むべからず。裁報の処、何ぞ〓迹(きやうしやく)無からむ。望み請ふらくは、曲げてP1142(七八ウ)恩恤を垂れ、白山平泉寺を以て、旧の如く天台の末寺と為すべき由、裁許せられば、将に浄行三千の愁吟を慰めて、弥仙院数百の遐齢を祈り奉らむ。仍りて勒状、謹みて解す。
 久安三年四月 日
とぞ書きたりける。此の申し状に依りて、公卿僉議有りて、山門に付けらるべく院宣を下されて云はく、院宣を被りて稱はく、衆徒の騒動、制止に拘はらず、事濫訴為り。茲に因りて、且は梟悪の輩を禦がんが為、且は蜂起の類を停めんが為に、先例に任せてP1143(七九オ)武士を儲けらるる所也。而るに、勇士、鉾を競ひて雌雄を決せんと欲る由、洛中に謳歌し、山上に風聞す。既に叡慮に非ず。仍りて、武士乃ち群を解いて本国に返し遺し畢(を)はんぬ。何に況や、今度、公請と云ひ、神事と云ひ、只勅命を専らにして、勤行せしむる由、披陳の旨、叡念の中に争か哀憐無からん哉。仍りて僧正覚宗云はく、彼の白山平泉寺を以て延暦寺の末寺たるべき由、宣下せらるべし。但し、自今以後、末寺庄薗の事に依りて、非道の訴へを致すべからず。此の条に於いては、殆諸衆の誹謗を招くか。一山の瑕瑾を残すに似たり。然るに、御帰依の僧浅からずして、遂に非を以て理と為して、裁許せらるる所也。各歓喜の掌(心)を合はせて、百二十年之算を祈り奉るべき由、仰せ遣はすべきP1144(七九ウ)者也。宣に依りて、上啓件の如し。
 久安三年四月廿七日            民部卿奉
とぞ書きたりける。昔、江中納言匡房の申されける様に、「神輿を陣頭へ振り奉りてへ訴申さむ時は、君いかが御計らひ有るべき」と申されたりけるには、「げに黙止しがたき事なり」とこそ仰せられけれ。
卅一 〔後二条関白殿滅び給ふ事〕 S0131
 堀河院御宇、去んぬる嘉保元年〈甲戊〉、頼義〔 〕男、美濃守源義綱朝臣、当国の新立の庄を顛例する間、山の久住者円応を殺害す。之に依りて、山門欝り深くして、同じき十月廿四日、此の事を訴へP1145(八〇オ)申さむとて、寺官神官を先として大衆下洛する由風聞ありしかば、武士を河原へ差し遺して防かる。然るに、寺官等三十余人、申文を捧げ、押し破りて陣頭へ参上せむとしけるを、師通後二条関白殿、中宮大夫師思が申状に依りて、御侍大和源氏中務丞頼治を召して、「只法に任せて当るべき也」と仰せられければ、頼治承りて防きけるに、猶大内へ入らむとする間、頼治が郎等散々に射る。疵を蒙る神人六人、死ぬる者二人、社司諸司等四方に逃げ失せぬ。誠に山王の神襟、いかばかりか思し食すらむとぞ見えける。中にも八王子の祢宜友実に矢立ちたりけるこそあさましけれ。
 大衆、憤満の余り、同廿五日、神輿を中堂へ振り上げ奉り、P1146(八〇ウ)祢宜をば八王子の拝殿に舁き入れて、静信・定学二人を以て関白殿を呪咀し奉る。其の啓白の詞に云はく、「吾等が菁種の二葉よりおほし立てたまふ、七の社の神達、左右しかの耳ふり立てて聞き給へ。(茄物に合ひてこしがらうで)山王の神人・宮仕射殺し給ひつる、生々世々に口惜し。願はくは、八王子権現、後二条関白殿へ鏑矢一つ放ち当て給へ。第八王子権現」と、たからかにこそ祈請しけれ。其の比の説法表白は、秀句を以て先とす。申上の導師は忠胤僧都とぞ聞こえし。江中納言匡房申されけるは、「師忠が申状、甚だ神明の恥辱に及ぶ。哀れ亡国の基哉。宇治殿の御時、大衆張本とて、頼寿・良円等を流さるP1147(八一オ)べきにて有りしに、山王の御詫宣掲焉かりければ、即ち罪名を宥められて、様々に御おこたりを申させ給ひしぞかし。されば此の事いかがあらんずらむ」と、疑ひ申されけり。さても不思議なりしには、八王子の御殿より鏑矢の声出でて、王城をさして鳴りて行くとぞ、人の夢には見えたりける。其の朝、関白殿の御所の御格子を上げたりければ、只今山より取りて来たる様に、露にぬれたる樒一枝、立ちたりけるこそおそろしけれ。やがて、後二条の関白殿、山王の御とがめとて、重き御労りを受けさせ給ふ。
 母上大殿の北の政所、斜めならず御歎き有りて、御様をやつしつつ、賎しき下臈の為をして、P1148(八一ウ)日吉の社に御参籠有りて、七日七夜が間祈り申させ給ひけり。先づ顕はれての御祈りには、百番の芝田楽、百番の一つ物、競馬、矢鏑馬、相摸、各百番、百座の仁王講、百座の薬師講、一〓手半の薬師百体、等身の薬師一体、并びに釈迦・阿弥陀の像、各造立供養ぜられけり。又御心中に余の御立願あり。御心の中の事なれば、人争か知り奉るべき。
 それに不思議なりし事は、八王子の御社にいくらも並み居たるまゐり人の中に、みちの国よりはるばると上りたりける童神子、夜半ばかりに俄に絶え入りけり。遥にかき出だして祈りければ、程無く生き出でて、立ちて舞かなづ。人奇特の思ひをP1149(八二オ)成して是を見る。半時ばかり舞ひて後、山王下りさせ給ひて、様々の御詫宣こそおそろしけれ。「衆生等たしかに承はれ。我円宗の教法を守らんが為に、遥かに実報花王の土を捨てて、穢悪充満の塵に交はり、十地円満の光を和げて、此の山の麓に年尚し。鬼門の凶害を防かんとては、嵐はげしき嶺にて日をくらし、皇帝の宝祚を護らん為には、雪深き谷にて夜を明かす。抑凡夫は知るや否や、関白の北の政所、我が御前に七日籠らせ給ひて、御立願さまざまなり。先づ第一の願には、『今度殿下の寿命助けてたべ。さも候はば、八王子の社より此の砌まで廻廊作りて、衆徒の参社の時、雨露の難をP1150(八二ウ)防くべし」と。此の願、誠に有り難し。されども、吾が山の僧侶、三の山の参籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行者の功を哀れみて和光同塵の結縁として、此の所を卜めて我にちかづく者を哀れまんとなり。第二には、『三千人の衆徒に、毎年の冬、小袖一つ着せん』との願、是又請け思し食されず。其の故は、九夏三伏の暑きには、汗を拭ひて終日に三大即是の〓(はなぶさ)を手向け、玄冬素雪の寒きにも、身を忘れて通夜止観明浄の月を翫ぶを以て、止住僧侶の行とせり。第三には、『自ら一期の間、月の障りを除きて、都のすまひを捨てて宮籠に交はりて宮仕ひ申さむ』となり。此の願殊に糸惜し。然りと雛も、大殿の北政所程の人P1151(八三オ)を、宮籠の者に並べ奉らむ事、叶ふまじ。第四の願には、『御娘五人の姫君、何れも王城一の美女也。彼を以て芝田楽せさせてみせ進らせん』との御志切なれども、摂政関白の御娘達、いかがさ様の振舞をばせさせ奉るべき。第五には、『八王子の御社にて、毎日退転なく法花問答講行ふべし』となり。此等の御願共、何れも疎かならねども、法花問答講は誠にあらまほしくこそ思し食せ。今度の訴訟は無下にやすかりぬべき事を、御裁許無くして、師通・頼治に仰せて我を馬の蹄に蹴さするのみならず、神人・宮仕射殺され、人多く疵を蒙りて、泣く泣くまゐりて我が御前にて訴へ申す事が心P1152(八三ウ)うければ、いかならむ末の代までも忘るべしとも思し食さず。彼等に立つところの矢は、併しながら和光垂跡の御はだへに立ちたるなり。実・虚言は是を見よ」とて、肩脱ぎたるをみれば、左の脇の下、大なる土器の口ほど穿げのきたるこそ奇特なれ。「これがあまりに心うければ、いかに申すとも始終の事は叶ふまじ。一定法花問答講行はすべくは、三年が命を延べ奉らむ。それを不足に思ひ給はば力及ばず」とて、山王上がらせ給ひけり。母上人に語らせ給はねば、たれ漏らしつらむと疑はせ給ふ方も無かりしに、御心の中の事どもありのままに御詫宣有りしかば、いとど心肝に染みて貴くぞ覚えける。P1153(八四オ)泣く泣く申させ給ひけるは、「たとひ一日片時長らへ候ふとも、ありがたうこそ候ふべきに、まして三とせが命をのべて給はらむ事、しかるべうさふらふ」とて、日吉の社を御下り有りて、都へ入らせ給ひけり。やがて、殿下の御領、紀伊国田仲庄と云ふ所、永代寄進せられけり。されば、今の代に至るまで、法花問答講毎日退転なしとぞ承る。
 かかりし程に、後二条関白殿、御病かるませ給ひて、元の如くに成らせたまふ。上下喜びあはれしほどに、三とせの過ぐるは夢なれや、永長二年に成りにけり。六月廿一日、又後二条関白殿、山王の御とがめとて、御ぐしのきはにあしき御瘡出で来させ給ひて、打ち臥さP1154(八四ウ)せ給ひしが、同じき廿七日、御年三十八にて、つひに隠れさせ給へり。御心の武さ、理のつよさ、さしもゆゆしくおはせしかども、まめやかに今はの時にも成りしかば、御命を惜しませ給ひける也。誠に惜しかるべき御よはひなり。四十にだに満たせ給はで、大殿に先立ちまゐらせさせ給ふこそ悲しけれ。必ずしも父を先立つべしと云ふ事は無けれども、生死のおきてに随ふ習ひ、万徳円満の世尊、十地究竟の大士達も力およばせ給はず。慈悲具足の山王利物の方便なれば、御とがめ無かるべしとも覚えず。彼の義綱も程なく自害して、一類皆滅びけり。師忠も程無く失せにけり。昔も今も山王の御威光は恐るべき事とぞ申し伝へたる。P1155(八五オ)
 惣じて代々の帝、北嶺を崇重せらるる事、他山に越ゆ。仏法・王法、互に之を護れば、一乗・万乗、共に盛り也。されば、「山門の訴訟は、只衆徒の歎き、山王独りの御憤りにも限るべからず。別しては国家の御大事、惣じては天下の愁ひなり。神国に住みて神代を継ぎ、神を崇め給ふ事、朝家の徳政なれば、山王にかたさり御しても、などか御裁許無からん」とぞ、人傾き申しける。誠に仏法・王法は五岳(牛角歟)の如し。一も闕けては有るべからず。法有れば国静か也。仏法若し滅びなば、王法何ぞ全からむ。山門若し滅亡せば、
円宗何か存すべき哉。
 世、末法に移りて既に二百余歳、闘諍堅固の時に当たれり。人魔・天魔の力強くして、人の心摂まらず。
 凡そ叡山の地形の体を見るに、師子の臥せるに似たりとぞ承はる。P1156(八五ウ)人の心、住所に似たる事、水の器に随ふが如しと云へり。居を高嶺に卜め、鎮にけはしき坂を上り下れば、衆徒の心武くして、〓慢(けうまん)を先と為。されば、昔将門、宣旨を蒙りて御使に叡山に登りけるが、大獄と云ふ所にて京中を直下すに、僅かに手に挙る計りに覚えければ、即ち謀叛の心付きにけり。白地の登山、猶然なり。何に況や、旦暮の経歴に於いてを哉。
 抑延暦寺と申すは、伝教大師草創の砌、桓武天王の御願也。伝へ聞く、伝教大師、御年十九と申す延暦四年七月の比、叡山に攀ぢ登り給ひて、伽藍を建立し、仏法を弘めむとて、本尊を作り奉らんが為に山中に入り給ひて、「利益衆生の仏像と成るべき霊木やおはする」と、声を上げて叫び給ひけるに、虚空蔵の尾の北P1157(八六オ)なる林の中に、「ここにあり」とぞ答へける。彼の霊木を切りて、大師手づから自ら薬師如来の形像をぞ刻み顕し給ひける。一たび削りては、「普く長夜の闇を照らし給へ」と、削る度に礼拝し給へば、御頭より始めて、面像顕れ御す。御胸の程にも成りしかば、大師礼し給ふ毎に、霊像頭を低れてうなづき給ふ。
其の時、衆生済度をば事請けし給ひぬ。「あなかしこ、一人も漏らし給ふな」とて、造畢し給ひにけり。長五尺五寸の皆金色の立像也。同じき七年に本堂を造りて安置し奉り給へり。慈覚大師、彼の仏像と常に物語し給ひけるとかや。相応和尚ばかりぞ、御声をば聞き給ひける。
 同じき十三年、長岡京より平安城に遷りて、皇居P1158(八六ウ)定められけるに、鬼門の方に当たりて高き嶺あり。「彼の嶺に伽藍を建てば、都の凶害有るべからず」と、帝思し食して、伝教大師に仰せ合はせられければ、「吾が寺を君に献るべし」とて、本仏薬師如来は御息災の御ため尤も相応し給へり。造立の次第など細かく申させ給ひければ、天皇大きに叡感有りて、大師と深く師檀の契りを結び給ひて、御願寺と定められにけり。帝余りに当山を執し思し食して、御詞のつまにも「我が山」とぞ仰せ有りける。されば、近来も山門を「我が山」と申すは、彼の御詞の末とかや。大師は「我がたつ杣」とも宣へり。叡慮に比へるが故に、「比叡山」とも名づく。又「叡岳」とも云ふなるべし。眺望余所に勝れて、四方遠く晴れたるが故に、P1159(八七オ)「四明山」とも名づくとかや。又、天台宗の寺なるが故に、「天台山」とも名づけたり。大体、唐の天台山に似たりと云へり。
 さても天台宗は、南岳・天台、共に霊山の聴衆として、震旦に出で給ひて仏法を弘め給ひしより、師資相承せり。震旦国に鑑真和尚と云ひし人、玄義・文句・止観の三大部を持ちて本朝へ渡りしに、機根堪へざりしかば、石の室に納めて披露せざりしを、伝教大師、諸宗の教相を伺ひ給ふに、天台の法文に心付き給ひければ、我が山に流布し給ひて、諸宗の明徳を〓[口+屈](くつ)して開講の論義を談ぜられけるに、理崛猶極まらず思はれければ、同じき廿三年四月に、御年三十八にして入唐す。先づ彼のP1160(八七ウ)聖主に奏して天台の遺跡を巡礼し給ひけるに、一の宝蔵あり。天台大師入滅の朝より今に至るまで、鎰無くして開く人なし。大師の記文に云はく、
「吾滅後に東国より上人来たりて、此の宝蔵をば開くべし」と云々。伝教大師、是を聞き給ひて、懐より鎰を取り出だし、「是は、本朝にて伽藍建立のため地を引きし時、土の中より掘り出だしたりしを、様有るべしと思ひて、昼夜に身を放たず持ちたり。若し此の鎰や合ひたる、試みに開けて見む」と宣ひて、件の鎰を指し合はせ給へば、宛も符契の如くして、宝蔵開きにけり。聖主に此の由を奏し申しければ、前世の宿縁浅からざる事を叡感有りて、彼の庫蔵に納むる所の聖財、悉く大師にP1161(八八オ)渡し奉り給へり。則ち大師是を請来し給ひて、吾が山にぞ納められける。今の御経蔵と申すは是也。伝教大師常儀の道具、章安大師の渡し給へる聖教等、皆彼の経蔵に納まれり。此の中に、天台の一の箱と名づけて、一生不犯の人一人して見る事にて、輙く開く座主希なり。
 彼の渡唐の時、道〓和尚・行満座主に遇ひて、教相を伝持し、順暁あざりに金胎両部の秘法を伝授して、同じき廿四年六月に帰朝し給へり。顕密の奥義を極められしかば、一天仰崇し、四海帰伏す。三仙の長講を制作して、千秋の宝祚を祈り、六基の塔婆を六州に分かち居ゑ奉りて、万春の安寧を祈請し給ふ。P1162(八八ウ)さればにや、天下治まりて、国郡豊かなりき。
 次に常行堂の阿弥陀は、慈覚大師帰朝の時、海上に示現して光を放ち声を上げて引声を唱へ給ひし尊像を、大師迎へ奉り安置し給へる、自然涌出の仏也。彼の大師、横河の椙の洞にて三年の間行ひて書写し給へる如法経、我が朝の有勢無勢の神達、昼夜に結番して守護し給ふとかや。無動寺の本尊は、相応和尚生身の不動を拝み奉らんと誓ひて、北方へ向かひてあこがれ御しける処に、文殊の化身なる老翁に教へられて、桂河の第三の瀧に至りつつ、丹精の誠を致して祈誓せられければ、生身の不動出現し給へり。和尚随喜の涙を流しつつ、又「都率天P1163(八九オ)に至りて、生身の弥勒を拝せさせ給へ」と祈念せられければ、御肩にのせつつ、程無く都率の内院に上り給ひて、現身に弥勒菩薩を拝し奉り給ひける、生身の不動尊是也。
 此の外、大権の垂跡、其の数多し。高僧の行徳新たなるも多かりき。彼の恵亮脳を摧き、尊恵剣を振るひし効験、誰人か肩を並べん哉。惣じて、西塔・横川、大師先徳の造立、利生結縁の本尊、数を知らず。其の霊験、繁多也。是皆、仏日照覧を表示し、聖朝安穏の奇瑞に非ず哉。誠に天下無双の霊山、鎮護国家の道場なり。桓武天皇の勅願なれば、代々の賢王聖主、皆我が山を崇め給ひ、諸院諸堂、勅願に非ずといふこと無し。堂塔・行法、P1164(八九ウ)今に断へず。星霜四百余廻、薫修幾くか積もるらむ。法は是一乗三密の妙法、仏法の源底に非ず哉。人は止観舎那の行、菩薩の大戒を持てり。
 就中、日吉山王七社、王城守護の鎮将として、鬼門の方に跡を垂れ給へり。此の日吉山王と申すは、欽明天皇の御時、三輪の明神と顕れて、大和国に住み給ひき。天智天皇の御時、大和国より此の砌へ移り給ひて、当山草創に先立ち給ふ事百余歳、後に一乗円宗を弘めらるべき事を鑑み給ひけるにや。或いは南海の面に五色の波立ちけるが、「一切衆生悉有仏性」と唱へける、其の御法の声を尋ねて、此の砌へは移り御したりとも申しき。始めは大津の東浦に現じ御して、P1165(九〇オ)其より西の浦に移らせ給ひて、田仲の常世が船に召して、幸崎の琴の御館、牛丸が許へ入らせ給ひにけり。牛丸、直人に非ずと思ひて、荒薦を敷きて居ゑ奉りて、常世、粟の御飯を進らせたりければ、常世に託し給ひけるは、「汝我が氏人と成りて、毎年出仕の時、粟の御飯を供御に備ふべし」とぞ宣ひける。今の大津の神人は、彼の常世が末葉也。其の時の儀式に准へて、卯月の御祭の時、必ず粟の御々供を献るとかや。
 さて、牛丸が船に乗り給へば、いづちへ渡らせ御すやらむと怪しみ見たてまつるほどに、彼の庭前の大木の梢にぞ、現ぜさせ給ひける。牛丸、不思議の瑞相を拝みて、奇異の思ひを成す処に、「是よりP1166(九〇ウ)西北に勝地あり。汝、我が氏人として草を結びたらむを験にて、宝殿を造り奉るべし」と示し給へり。牛丸、「さて、御号をば何と号し奉るべきぞ」と申しければ、「竪に三点を立てて横に一点を引き、横に三点を引きて竪に一点を立つべし」と、教へ給へり。則ち、「山王」と云ふ文字也。牛丸、神明の教へに任せて、西北の方へ尋ね行きて見るに、封ゆひ給へる所あり。是を験として宝殿を造進し、大木の上に顕れ給ひたりし御影を摸し奉りて、祝はれ給へり。今の大宮と申すは是也。
 爾りしより以降、大小の神祇、年々歳々に跡を垂れ給ひて、彼も此も眷属と成り給へり。二宮は狗留尊仏の時より神明と顕れ給ひにけり。始め修禅の北、横川のP1167(九一オ)西南に、大比叡と云ふ山の中に御しけるが、東南の麓に移住し給ひけるに、今の大宮来り給ひければ其の所を避らせ給ひて、樹去の西敷地に移住し給へり。
 地主権現十禅師と申すは、天照大神の御子也。惣じて日域の地主にてぞ渡らせ給ひける。彼の三聖は、伝教大師に契りを結びて、吾が山の仏法擁護の鎮守として学徒を省み、円宗を守らんと誓ひ給ひて、三聖共出家授戒せさせ御し、同じく法号を授けられ給へり。唐の天台山の麓にも、山王垂跡御すと云へり。伝教は天台の化身なれば、権者の儀も合ひ給ひけるやらむと、貴くぞ覚ゆる。
 住吉明神は、地主五代の尊也。始めは悪神として、一百一十の邪神P1168(九一ウ)に伴ひて仏法を信じ給はざりけるに、伝教大師、彼の御社に詣でて仁王経を講読せられければ、邪心を改め、仏法の大檀那と成りて、円頓の教を守らんと誓はせ給ひて、大宮に移住せさせ給へり。東竹林、是也。彼の御託宣に云はく、「天慶年中に凶徒を集誅せしには、吾大将として、山王は副将軍なりき。康平の官軍には、山王大将、吾副将軍たりき。凡そ吾が朝の大将として夷賊を征伐する事、既に七ヶ度なり。山王は鎮へに一乗の法味に飽満し給へるが故に、勢力吾に勝れ給へり」とぞ示し給ひける。八幡若宮も、伝教大師に契りを結び給ひて、我が宗を守らんとて、大宮に御す。西竹林、是也。P1169(附箋)
卅二 〔高松の女院崩御の事〕 S0132
 安元二年六月十二日に、高松女院隠れさせ給ひにけり。御年三十三。是は、鳥羽院第六姫宮、二条院后にて御しき。永万元年に、御歳二十二にて御出家ありき。大方の御心ざまわりなき人にて、惜しみ奉りけり。P1170(ナシ)P1171(九二オ)
卅三 〔建春門院崩御の事〕 S0133
 同七月八日、建春門院隠れさせ給ひぬ。御歳三十五。是は贈左大臣時信の御娘なり。法皇の女御、当帝の御母儀なり。
 先年不例の時、御願を果たさむとて、御歩行にて御熊野参詣ありけり。四十日に本宮へ詣で着かせ給ひて、権現法楽の為に胡飲酒と云ふ舞をまはせてましましけるに、俄に大雨ふりけれども、舞を止めず、ぬれぬれ舞ひければ、宣旨を反す舞なれば、権現めでさせ給ひけるにや、忽ちに天晴れて、さまざまの霊瑞ども有りけり。
 さて、御下向有りて、幾程を経(へ)ずして、去んじ春比より御身の中苦しくして、世中をあぢきなく思し食して、去んぬる六月十日、院号御辞退あり。今朝に御出家、夕にP1172(九二ウ)無常の道に趣き給ふ。院・内の御欺き、何れも愚かならず。天下諒闇の宣旨を下さる。
 其の御孝養の為に、殺生禁断と云ふ事を行はれける。折節、伯耆僧都玄尊、近江国大鹿庄を召されて歎きけるが、御歎き漸く期過ぎて、人々御目さまし申しける時、玄尊立ちて、「殺生禁断とは」と云ふ舞を至す事、三度ありき。院の御前近く参りて、「大鹿は取られぬ」と申して走り入りぬ。院ゑつぼに入らせましまして、彼の大鹿庄を返し賜りにけり。
卅四 〔六条院崩御の事〕 S0134
 同じき廿七日、六条院崩御なる。御年十三。故二条院の御嫡子ぞかし。御歳五歳にて太上天皇の尊号ありしかども、P1173(九三オ)未だ御元服も無くて崩御なりぬるこそ哀なれ。加様に打ち続き天下に歎きのみ多く、人の心の定まらざる事は、偏へに平家の一門のみ栄えて一天四海を掌に挙りて、先例に違へる 務 を申し行へる故とぞ、内々は申しあひける。
卅五 〔平家意に任せて振る舞ふ事〕 S0135
 推古天皇の御宇、聖徳太子、十七箇条憲法を作り給ひて、世の不調なる事を顕し給ひしかども、大方の禁め許りにて、当代の御煩ひに非ざりき。文徳天皇の御宇、不比等の大臣律令を撰び給ひき。各十巻の書を作りてましまししかども、是を閣きて僻まれしかば、行はれざりき。其の後百余年を経て、淳和帝の御宇にこそ、世乱れ直ならざりしかば、法令を先として代をP1174(九三ウ)治め給ひて四百余歳、其より以来、代は日を送りて衰へ、人は時々に随ひて僻めり。平治の逆乱の時までは、源平両氏肩を並べて互ひに朝敵を鎮められき。此の両氏、皇化に随ひ奉る歟と見えし程に、平治以後、源氏滅びて、平家奢りて恐るる方無し。太政入道、天下の政を執行して、非義非例を重ねしかば、争か神慮の恵み然るべき。「政務を執り行はむ日は、我が心不調にしては有るべからず。上鎮まりて下乱れず」と云へり。「身正しくして影曲む事無し」とこそ申すめれ。されば、「人の煩ひを致すべからず」とぞ人申しける。
卅六 〔山門の衆徒、内裏へ神輿を振り奉る事〕 S0136
 治承元年丁酉四月十四日、御祭りにて有るべかりけるを、大衆打ち留めて、同十三日辰剋に、衆徒、日吉七社の御輿、同八王子・P1175(九四オ)客人・十禅師等の三社、山一社の神輿を陣頭へ振り下したり。「師高を流罪せらるべき由、訴へ申さん」とて、西坂本・下り松・切堤・賀茂河原・忠須・梅多田・東北院・法城寺の辺、神人・宮仕充満して、声を上げてをめき叫ぶ。京・白河、貴賎上下集まり来りて之を拝し奉る。其れに就きて、祇園に一社、京極に二社、北野に二社、都合十一社の神輿を陣頭へ振り奉る。其の時の皇居は里内裏、閑院殿にて有りけるに、既に神輿、二条烏丸室町辺に近づき御す。其の時、平氏の大将は小松内大臣重盛公、俄事なりければ、直衣に衵さしはさみて、金作りの太刀帯きて、連銭葦毛の馬の太く逞ましきに黄伏輪P1176(九四ウ)の鞍置きてぞ乗られける。伊賀・伊勢両国の若党共三千余騎相具せられたり。東面の左衛門陣を固めたり。
 源氏の大将兵庫頭頼政は、結紋紗の狩衣に紫の指貫生縊りて、火威の鎧に、切符矢に重籐の弓の真中取りて、二尺九寸のいかもの作りの太刀はきて、烏帽子の縁り引き切りて押し入れて着るままに、鹿毛なる馬に白伏輪の鞍置きて乗りたりけり。連の源太、授・省・競・唱を始めとして、一人当千のはやり男の若党三百余人相具して、北の陣を固めたり。神輿、彼の門より入り給ふべき由聞えければ、頼政馬より下りて甲を脱ぐ。大将軍かくすれば、家子郎等も又此くの如し。P1177(九五オ)大衆是を見て、様有らむとて暫く神輿を舁き留めたてまつる。
 頼政が郎等、渡部の競の瀧口を召して、大衆の中へ使者に立つ。競は生年三十四、長七尺ばかりなる男の、白く清げなるが、褐衣の鎧直垂に、大荒目の鎧の小桜を黄に反したる、裾金物打ちたるに、豹の皮の尻鞘の大刀帯きて、黒つ羽の征矢の角筈入れたる廿四指したる、頭高に負ひ成して、塗籠藤の弓のにぎり太なるに、大長刀、歩行走に持たせて、弓手の脇に相具したり。鹿毛なる馬の太く逞しきに黒鞍置きてぞ乗りたりける。神輿近付かせ給ひければ、馬より飛び下りて、甲をぬぎ左肩にかけ、P1178(九五ウ)弓取り直し、御輿の前に跪きて申しけるは、「此の北の陣をば、源の兵庫頭頼政の固めて候ふが、大衆の御中へ申せと候ふは、『昔は源平両家左右に並びて、少しも勝劣候はざりしが、源氏においては保元・平治の比より皆絶え失せて、大略無きが如し。六孫王の末葉とては、頼政ばかりこそ候へ。山王の御輿、陣頭へ入らせ御し候ふべき由、其の聞え候ふ間、公家殊に騒ぎ驚き御して、源平の軍兵四方を固むべき由、宣旨を下され候ふ。王土にはらまれながら勅命を対捍せむも其の恐れ候ひて、憖に此の門を固め候ふ。又、今度山門の御訴訟、理運の条勿論に候ふ。御聖断遅々こそ余所にても遺恨に候へ。其の上、頼政P1179(九六オ)元より神明に首を傾け奉りたる身にて候へば、わざと此の門よりこそ入れ奉るべう候ふ間、門をこそ開けて候へ。但し、自今以後に於いては、永く弓矢の道こそ離れはて候はんずれ。神威に怖れ奉りて御輿を入れ奉り候はば、綸言を軽んずる過あり。宣旨を重んじて神輿を防き奉らば、冥の照覧測り難し。進退惟谷れり。且は又、小松内大臣以下の官兵、大勢にて固めて候ふ門々をば破り給はで、頼政僅かなる無勢の所を御覧じて入らせ御しぬる物ならば、山の大衆は目だり印治をしけりなど、人の申し候はん事も、山の御名折にてや候はんずらむ。且は殊におどろおどろしく天聴を驚し奉らんと思し食さP1180(九六ウ)れ候はば、東面の左衛門の陣は小松内大臣三千余騎にて固めて候ふ。多
勢の門を打ち破りて入らせ御し候はば、弥よ神威の程も顕れて、大衆の御威も今一気味にて候ひぬべければ、神輿をば左衛門の陣へ廻し入れ奉らるべうもや候ふらむ。所詮かく申し候はん上を、猶破り給はば、力及ばず候ふ。後代の名惜しく候へば、命をば山王大師に奉り、骸をば神輿の前にて曝し候ふべしと申せ』と候ふ。御使は、渡部党に箕田の源七綱が末葉、競の滝口と申す者にて候ふ」とて、射向の袖引きつくろひて、畏りてぞ候ひける。
 大衆是を聞きて、「何条別の子細にや及ぶべき。只破れ」と云ふ者もあり、又、P1181(九七オ)「暫く僉議せられよや」と云ふ者もあり。其の中に、西塔法師に摂津竪者毫雲と申しける、三塔一の言ひ口、大悪僧なりけるが、萌黄の糸威の腹巻、衣の下に着、太刀脇にはさみ、進み出でて申しけるは、「今頼政が条々申し立つる所、其の謂はれ無きに非ず。神輿を先立て奉りて、衆徒訴訟せらるるならば、善悪大手を打ち破りてこそ、後代の名もいみじからめ。且は又、頼政は六孫王より以来、弓箭の芸に携はりて、未だ其の不覚を聞かず。武芸に於いては当職たる者をいかがはせむ、加之、風月の達者、和漢の才人にて世に聞ゆる名人ぞかし。一年、故院(近衛院)の御時、鳥羽殿にて中殿御会に、『深山の花』と云ふ題を簾中よりP1182(九七ウ)出だされたりけるを、当座の事にて有りければ、左中将有房など聞えし歌人も読み煩ひたりしを、頼政召しぬかれて、則ち仕りたり。
  み山木のその梢ともわかざりしに桜は花にあらはれにけり
と読みて、叡感に預りしぞかし。弓箭取りても並ぶ方なし。歌道の方にもやさしき男にて、山王に頭を傾け進らせたる者の固めたる門よりは、争か情なく破りて入れ奉るべき。頼政が申し請ふ旨に任せて、東面の左衛門陣へ神輿を舁き直し進らせよや」と云ひければ、「尤々」と一同して、左衛門の陣へ舁き奉る。
 御神宝朝日に輝きて、日月の光り地に落給へP1183(九八オ)るかと疑はる。軈神輿を進め奉りて、左衛門の陣へぞ押し入りける。閑院殿へ神輿を振り奉る事、是始め也。軍兵馬の轡を並べて、大衆神輿を先として押し入らむとする間、心より外の狼藉出で来たりて、武士の放つ矢、十禅師の御輿にたつ。神人一人、宮仕一人、矢に中たりて死ぬ。其の外、疵を被る者多し。かかる間、大衆神人のをめき叫ぶ声、梵天までも及ぶらむと、おびたたしくぞ聞えける。貴賎上下悉く身の毛竪つ。大衆、神輿を陣頭に捨て置き奉りて、泣々本山へ帰り登りにけり。
卅七 〔毫雲の事 付けたり山王効験の事 付けたり神輿祇園へ入れ奉る事〕 S0137
 彼の毫雲、訴訟有りて後白河院へ参りたりけるに、折節、法皇南殿に出御あり。或る殿上人を以て、「何者ぞ」と御尋ねありP1184(九八ウ)けるに、「山僧、摂津の竪者毫雲と申す者にて候ふ」と奏す。「さては山門に聞ゆる僉議者ごさむなれ。己が山門の講堂の庭にて僉議すらむ様に、只今申せ。訴訟有らば直に御聖断有るべき」由、仰せ下さる。毫雲頭を地に傾けて、「山門の僉議と申し候ふは、殊なる事にて候ふ。先づ、王の舞を舞ひ候ふには、面摸の下にて鼻をしかむる事の候ふなる定に、三塔の僉議の様は、大講堂の庭に三千人の大
衆会合して、破れたる袈裟にて頭を裹みて、入堂杖とて二三尺計り候ふ杖を面々に突きて、道芝の露打ち払ひて、小さき石を一つづつ持ち候ひて、其の石に腰を係け、居並みて候へば、同宿なれども互ひに見知らP1185(九九オ)ぬ様にて候ふ。『満山の大衆、立ち廻られ候へや』とて、訴訟の趣を僉議仕り候ふに、然るべきをば『尤々』と同じ候ふ。然るべからざるをば、『謂はれ無し』と申し候ふ。我が山の定まれる法に候ふ。勅定にて候へばとて、ひた頭にては争か僉議仕り候ふべき」と申したりければ、法皇興に入らせ御して、「さらば、とく出で立ちて、参りて僉議仕れ」と仰せ下さる。
 毫雲、勅定を蒙りて、同宿十余人に頭裹ませて、下部の者共には、直垂・小袴などを以てぞ、頭をば裹ませける。已上十二三人ばかり引き具して、御前の雨打の石に尻係けて、毫雲、己が訴訟の趣、事の始めより一時申したりければ、同宿共、兼ねて議したるP1186(九九ウ)事なれば、一同に「尤々」と申したり。法皇興に入らせ御して、当座に御勅裁蒙りたりし毫雲とぞ聞えし。
 蔵人左少弁、仰せを奉りて、先例を出羽守師尚に尋ねらる。「保安四年〈癸卯〉七月、神輿入洛の時は、座主に仰せて神輿本山へ送り奉ららる。又、保延四年〈戊午〉御入洛の時は、祇薗の別当に仰せて、神輿、祇薗社へ送り奉る」と勘へ申しければ、殿上にて俄かに公卿僉議有りて、「今度は保延の例たるべし」とて、神輿を祇薗社へ渡し奉るべき由、諸卿一同に申されければ、未の尅に及びて、彼の社の別当、権大僧都澄憲を召し、神輿を迎へ奉るべき由、仰せ下さる。
 澄憲申されけるは、「天下無双P1187(一〇〇オ)の垂跡、鎮護円宗の霊神也。白昼に塵灰の中に蹴立て進らせて当社へ入れ奉る事、生々世々口惜しかるべし。王法は是仏法の加護を以て国土を持ち給ふに非ずや。
 されば、昔、仁明天皇の御宇弘仁九年、諸国飢饉し疫癘衢に起こりて、死人道路に充つ。其の時、帝、民を省み給ふ御志深くして、諸寺諸山に仰せて是を祈らせ給ひけれども、更に其の験無し。帝弥よ歎き思し食して、叡山の衆徒に仰せて是を祈るべき由宣下せらる。三塔会合して、『此の御祈り何が有るべかるらむ。昔より雨を祈り日を祈る事は有りしかども、飢饉疫癘立ち所に祈り留むる例、未だ承り及ばず。さればとて、辞し申さば王命P1188(一〇〇ウ)を背くに似たり。進退惟谷まれり』と云ふ衆徒もあり。又、『仏法の威験、疎かならず。飢饉なりとも、などか我が山の医王山王の御力にて退けたまはざるべきなれば、護国利民の方法、凶害消除の祈祷には、仁王経に過ぐべからず』とて、三千人の衆徒、異口同音に丹誠を致して、根本中堂・大講堂・文殊楼にして、七ヶ日の間、十四万七千余座の仁王経を講読し奉る。供養は地主十禅師の社壇にて遂げられにけり。
 比は卯月半ばの事にや、飢饉温病に責められて、親死ぬる者は子歎きに沈み、子に後れたるは親穢れけるに依りて、瑞籬に臨む人も無し。爰を以て、導師説法の終方に、『卯月はP1189(一〇一オ)垂跡の縁月なれども、幣帛を捧ぐる人も無し。八日は薬師の縁日なれども、南无と唱ふる音もせず。緋の玉墻神さびて、引く四目縄の跡も無し』と申したりければ、衆徒哀を催しつつ、一度に感涙を流して衣の袖をぞぬらしける。
 其の夜、帝の御夢想に、比叡山より天童二人京へ下りて、青鬼と赤鬼との多く有りけるを白払にて打ち払ひければ、鬼神共南を指して飛び行きぬと御覧じて、『本山の祈請已に感応して、病難も直りぬ』と思し食す霊瑞有りければ、帝、御夢の次第を御自筆にあそばして、御感の院(勅歟)宣を衆徒の中へ下されたりけるとぞ承はる。
 即ち国土穏にしP1190(一〇一ウ)て、民の烟もにぎはひて、朝な夕なの煙絶えせざりければ、御門、古き歌を常に詠ぜさせ給ひけるとかや。
 たかき屋にのぼりてみればけぶりたつたみのかまどはにぎはひにけり
かかる目出(めでた)く止む事無き御神を、白昼に雑人に交へ奉りて動かし奉らん事、心憂かるべし」と申して、日既に暮れ、秉燭に及びて、当社の神人・宮仕詣りて、御輿を祇薗社へ入れ奉る。
 凡そ神輿入洛の事、其の例を勘ふるに、永久元年より以来、既に六ヶ度也。武士を召して防かるる事も度々也。然れども、正しく神輿を射奉る事、先例無し。今度十禅師の御輿に矢を射立つる事、あさましと云ふも愚かなり。「『人を怨むる神を怨むれば、国に災害起こる』と云へり。只P1191(一〇二オ)天下の大事出で来なむ」とこそ恐れあひけれ。
卅八 〔法住寺殿へ行幸成る事〕 S0138
 十四日に大衆重ねて下るべき由聞えければ、夜中に主上腰輿に召して法住寺殿へ行幸なる。内大臣重盛以下、供奉の人々、非常の警固にて、直衣に失負ひて供奉せらる。左少将雅賢、闕腋の束帯を着、平胡〓(ひらやなぐひ)負ひて供奉せらる。内大臣の随兵前後に打ち囲みて、中宮は御車にて行啓あり。禁中の上下周章騒ぎ、京中の貴賎走り迷へり。関白以下、大臣諸卿、殿上の侍臣、皆馳せ参りけり。
 「裁報遅々の上、神輿に矢立ち、神人・宮仕矢に当たりて死す。衆徒多く疵を被る上は、今は山門の滅亡此の時也」とて、「大宮・二宮以下の七社、講堂・中堂・諸堂P1192(一〇二ウ)一宇も残さず焼き払ひて山野に交はるべき」由、三千人一同に僉議すと聞えければ、山門の上綱を召して、「衆徒の申す所、御成敗有るべき」由、仰せ下さる。十五日、僧綱等勅宣を奉りて、子細を衆徒に相触れんとて登山する処に、衆徒等猶嗔りを成して追ひ返す。僧綱等、色を失ひて逃げ下る。
卅九 〔時忠卿山門へ上卿に立つ事 付けたり師高等罪科せらるる事〕 S0139
 院より衆徒を宥められむが為に、「大衆の欝訴達すべき由、勅使と為て登山すべし」と仰せ下されけれども、公卿の中にも殿上人の中にも、「我上卿に立たん」と申す人無し。皆辞し申しける間、平大納言時忠、其の時は左衛門督にておはしけるを、登山すべき由、仰せ下されければ、時忠心中には「益無き事哉」と思はれけれども、君のP1193(一〇三オ)仰せ背き難き上、多くの人の中に思し食し入りて仰せ下さるる事、面目と存じて、殊にきらめきて出で立ち給へり。侍一人、花を折りて装束す。雑色四人、当色にて万づ清げにて、登山して大講堂の庭に立たれたり。
 三塔の大衆、蜂の如く起こり合ひて、院々谷々よりをめき叫びて群集する有様、おびたたしなどは斜めならず。時忠卿、色を失ひ神を消して、打ちあきれて立たれたりけるに、衆徒等、時忠を見て弥よ嗔りて、「何故に時忠登山すべきぞや。返 々奇怪なり。既に山王大師の御敵なり。速やかに大衆の中へ引き入れて、しや冠を打ち落とし、足手を引き張り、本鳥切りて、湖に逆まにはめよ」と、音々に〓(ののし)りけるをP1194(一〇三ウ)聞きて、共に有りつる侍も雑色も、いづちか行きぬらむ、皆逃げ失せぬ。時忠危く思はれけれども、本よりさる人にて、乱の中の面目とや思はれけむ、騒がぬ体にて宣ひけるは、「衆徒の申さるる所、尤も其の謂はれあり。但し、人を損ずるは君の御歎きたるべき。非例を訴へ申さるる間、御裁許遅々する事は国家の法也。されども今御成敗有るべき由、仰せ下さるる上は、衆徒強ちに嗔りを成されん哉」とて、懐より小硯を取り出だして、諸司を召し寄せて水を入れさせ、畳紙を押し開きて一句を書きて、大衆の中へ投げ出だされたり。其の詞に云はく、「衆徒の濫悪を致すは魔縁の所行か。明王の制止を加ふるは善逝の加護也」とぞ書かれたりける。P1195(一〇四オ)諸司此の一筆を捧げて、さしもどどめく大衆の前毎に披露す。或る大衆是を見て、「面白くも書かれたる一筆哉」とて、はらはらとぞ泣きける。大衆面々に、「勝に面白く書きたり」と感じ合ひて、時忠を引き張るに及ばず、静まりにけり。大衆静まりて後、山門の訴訟達すべき由の宣旨をぞ披露せられける。其の時こそ、共なりつる者共も、事がらよげに見えければ、ここかしこより出で来て、主をもてなし奉りけれ。
 時忠、一紙一句を以て、三塔三千の衆徒の憤りを休め、虎口を遁れけるこそ有難けれ。山上・洛中の人々、感じあへる事限りなし。「山門の衆徒は発向の喧しき計り歟とこそ存じつれ、理をも知りたりけるにこそ。争か御成敗P1196(一〇四ウ)無かるべき」など、各申し合ひけり。
 さて、時忠卿、院の御所へ参られたりければ、「さても衆徒の所行は何に」と、取り敢へず御尋ねありけり。時忠、「大方兎も角も申すに及ばず候ふ。只山王大師の助けさせ給ひたるとばかり存じて、匍ふ匍ふ逃げ下りて候ふ。怱ぎ御裁報有るべく候ふ」と奏聞せられければ、此の上は法皇力及ばせ給はずして、廿日、加賀守藤原師高解官して、尾張国へ配流せらるべき由宣下せらる。其の状に云はく、
従五位上加賀守藤原朝臣師高、官を解き、位を尾張国に追ふこと
職事頭右中弁(権中納言イ)兼左兵衛督光能朝臣仰す。上卿別当忠雅仰す。右少弁藤原光雅、左大史小槻澄(隆イ)職に仰せて、P1197(一〇五オ)官符を作らしむ。参議平頼定卿、少納言藤原雅基等、御政御印。
官符に又仰せて云はく、検非違使右衛門志中原重成、早く配所へ追ひ遣すべし者ば、今月十三日、叡山衆徒、日吉の社の神輿を捧げ、勅制を軽んぜしめ、陣中に乱れ入らしむるに依りて、警固の輩、凶党を相禦ぐ間、其の矢、誤りて神輿に中たる事、図らずと雖も、何ぞ其の科を行はざらん。宜しく検非違使に仰せて、平利家・同家兼・藤原通久・同成直・同光(元イ)景・田使俊行等を召して、禁獄せしめ給ふべき者也。加賀守師高流罪、并びに神輿を射奉る官兵共六人禁獄の事、今日已にP1198(一〇五ウ)宣下し畢(を)はんぬ。件の間の事二通、之を遺す。此の旨を以て山上に披露せしめ給ふべき由、候する所也。恐々謹言
  四月廿日    権中納言藤原光能
執当法眼御房へ
とぞ書かれたりける。追書に云はく、
  禁獄の官兵等が夾名、山上に定めて不審せしむる歟。仍りて内々委しく尻付の夾名を相尋ね、一通相副へられ候ふ所也。禁獄人等、平俊家、字は平次、是は薩摩入道家季が孫、中務丞家資が子。同家兼、字は平五、故筑前入道家貞が孫、平内太郎家継P1199(一〇六オ)が子。藤原通久、字は加藤太、同成直、字は早尾十郎、馬允成高が子。同光景、字は新二郎、前左衛門尉忠清が子。田使俊行、難波五郎等也。かやうにこそは注されけれ。目代師経をば備前国府へ流されにけり。
四十 〔京中多く焼失する事〕 S0140
 廿八日亥時計りに、樋口富小路より火出で来たる。折節、辰巳の風はげしく吹きて、京中多く焼けにけり。終には内裏に吹き付けて、朱雀門より始めて、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・所司八省・大学寮・真言院・勧学院・穀蔵院、冬嗣のP1200(一〇六ウ)大臣の閑院殿、惟喬の御子の小野宮、菅丞相の紅梅殿、梅殿、桃殿、良明大臣の高松殿、具平親王の秋を好みし千草殿、三代の御門の誕生し給ひし京極殿、忠仁公の染殿、清和院の貞仁公故一条院、山吹さきし故二条院、照宣公の掘河殿、萱御殿、高陽院、寛平法皇の亭子院、永頼の三位の山の井殿、紫雲立ちし公任の大納言の四条の宮、神泉薗の東三条、鬼殿、松殿、鳩井殿、橘の逸  勢、五条后の東五条、融の大臣の河原院、かやうの名所三十P1201(一〇七オ)余ヶ所、公卿の家だにも十六ヶ所焼けにけり。まして殿上人・諸大夫の家は数を知らず。地を払ひて焼けにけり。
 樋口富小路よりすぢかへに戌亥の方を差して、車の輪計りなる火聚飛び行きければ、恐ろしと云ふも愚かなり。是直事に非ず。偏に叡山より猿多く松に火を付けて京中を焼くとぞ、人の夢に見えたりける。
 大極殿は、清和天皇御時、貞観十八年四月九日始めて焼けたりければ、同十九年正月九日、陽成院の御位は豊楽院にてぞ有りける。P1202(一〇七ウ)元慶元年四月廿一日、事始め有りて、同三年十月八日にぞ造畢せられける。
後冷泉院の御宇天喜五年四(二イ)月廿一日に又焼けにけり。治暦四年八月二日事始め有りて、同年十月十日棟上ありけれども、造畢せられずして、後冷泉院は隠れさせ給ひぬ。後三条院の御宇延久四年十月十(五イ)日造り出だして、行幸有りつつ、宴会行はる。文人詩を献じ、楽人楽を奏す。
 此の内裏は、四位少納言入道信西、勅宣を奉り、国の費も無く民の煩ひも無くして、一両年間P1203(一〇八オ)に造畢して行幸なし奉りし内裏也。今は世の末に成りて、国の力衰へて、又造り出ださむ事も難くや有らんずらむと歎きあへり。
平家物語第一本