延慶本 平家物語 読み下し版(漢字ひらがな交じり)

平家物語 三(第二本)
▼P1437(一オ)
一  院の御所に拝礼被行事
二  法皇御灌頂事
三  天王寺地形目出事
四  山門に騒動出来事
五  建礼門院御懐任事 〈付成経等赦免事〉
六  山門の学生と堂衆と合戦事 〈付山門滅亡事〉
七  信乃善光寺炎上事 〈付彼如来事〉
八  中宮御産有事 〈付諸僧加持事〉
九  御産之時参る人数事 〈付不参人数事〉
十  諸僧に被行勧賞事
十一 皇子親王の宣旨蒙給ふ事
十二 白河院三井寺頼豪に皇子を被祈事
十三 丹波少将故大納言の墓に詣事
十四 宗盛大納言と大将とを被辞事
十五 成経鳥羽に付事
十六 少将判官入道入洛事
十七 判官入道紫野の母の許へ行事
十八 有王丸油黄嶋へ尋行事
十九 辻風荒吹事
廿  小松殿死給ふ事
▼P1438(一ウ)
廿一 小松殿熊野詣事
廿二 小松殿熊野詣の由来事
廿三 小松殿大国にて善を修し給ふ事
廿四 大地震事
廿五 太政入道朝家を可奉恨之由事
廿六 院より入道の許へ静憲法印被遣事
廿七 入道卿相雲客四十余人解官事
廿八 師長尾張国へ被流給ふ事 〈付師長熱田に参給ふ事〉
廿九 左少弁行隆事
卅  法皇を鳥羽に押籠奉る事
卅一 静憲法印法皇の御許に詣事
卅二 内裏より鳥羽殿へ御書有事
卅三 明雲僧正天台座主に還補事
卅四 法皇の御棲幽なる事
▼P1439(二オ)
平家物語第二本
〔一〕 〔院の御所に拝礼行はるる事〕
 治承二年正月一日、院の御所には拝礼行はる。四日、朝覲の行幸有りて、例に替はりたる事はなけれども、去年成親卿以下近習の人々多く失はれし事、法皇御鬱り未だ休まらず、世の御政も倦くぞ思し食されける。入道も、多田蔵人行綱告げ知らせて後は、君をもうしろめたなき御事に思ひ進らせて、世の中打ちとけたる事もなし。上には事なき様なれども、下には心用心して、只にが咲ひてぞ有りける。
 七日の暁、彗星東方にみゆ。十八日に光をます。〓尤旗とも申す。又赤気とも申す。何事の有るべきやらむと、人怖れをなす。
二 〔法皇御灌頂の事〕
 法皇は、三井寺の公顕僧正を御師範として、真言の秘法を受けさせおはしましけるが、今年の春、三部の秘経を受けさせ給ひて、二月五日には、▼P1440(二ウ)園城寺にて御灌頂有るべきよし、思し召し立つと聞こえし程に、天台大衆嗔り申す。
 「昔よりして今に至るまで、御灌頂・御受戒は、皆我が山にて遂げさせおはします事、既に是先規也。就中、山王の化道は受戒灌頂の御為也。三井寺にて遂させ給はむ事、然るべからず」と申しければ、さまざまに誘らへ仰せられけれども、例の山の大衆、一切に院宣をも用ゐず。「三井寺にて御灌頂あるべきならば、延暦寺の大衆発向して、園城寺を焼き払ふべし」と僉議すと聞こえければ、重ねて宥め仰せられければ、留まりにけれ。
 「園城寺、向後延暦寺の戒を受くべきの由、請文を出だすべき」由、仰せ下されければ、北院・中院は公顕僧正の門徒多かりければ、勅定に従ふべき由申しけるを、南院、「今更我が寺に瑕瑾を貽すべからず」とて、異議をなして▼P1441(三オ)従はざりけり。南院より「当寺の僧、天台座主に補せらるる時、寺務を遂行すべし。又、法城寺の探題、当寺、同じく勤仕せしむべし。此の両条裁許有らば、勅命に従ひて延暦寺の戒を受くべき」由、申しけり。彼此の議、いづれも成し難かりければ、御加行結願して、御灌頂は思し食し止まりにけり。
 抑も三部経と申すは、其の数あまたあり。一は法花三部、二は大日三部、三は鎮護国家三部、四は弥勒慈尊三部、五は浄土真宗他力往生三部なり。今法皇の受けさせまします三部は、大日三部、真言教の依経なり。其三部とは、一は大日経、二は金剛頂経、三は蘇悉地経、是なり。今此の経の大意を尋ぬれば、「若有人此経、受持読誦者、即身成仏故、放大光明円」と説く。「若し人ありて、此の妙典を受持読誦すれば、父母所生の依▼P1442(三ウ)身、忽ちに大日如来と成りて、胸の間の大光明を放ちて、三界六道の闇をてらす」と説かれたる妙典なり。
 後白河法皇、忝くも観行五品の位に心を懸けましまして、法花修行の道場、五種法師の燈を挑げて、七万八千余部の転読なり。上古にも未だ承り及ばず、何に況や末代においてをや。十善玉体の御衣の色三密護摩の壇にすすけて、即身菩提の聖の御門とぞみえさせ給ひける。
 彼の公顕僧正と申すは、法皇の御外戚、顕密両門の御師徳なり。止観玄文の窓の前には一乗円融の玉をみがき、三密瑜伽の宝瓶には東寺山門の花開け給へり。此くの如く、内につけ外につけて御帰依の御志深きによりて、妙典をも公顕僧正に受け、御灌頂をも三井寺にてと思し食し立ちけるが、山門騒動して打ち止め奉る事、何計りか心憂く思し食されけむ。
 ▼P1443(四オ)法皇、「我が朝は、此れ辺地粟散の国なり。何事も争か大国にひとしかるべきなれども、中にも雲泥及びなかりけるは、律の法文、僧の振舞にてぞ有らむ。僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合の海といへり。和合海にこそ入らざらめ、諍論を専らにして、指したる咎もなき三井寺を焼失せむとする条、無道心の者共かな。破和合僧のおもむき、是又五逆罪の随一に非ずや。形計りは出家にして、心は偏に在俗に同ず。愚鈍の闇深くして、〓慢の幢高し。比丘の形となりながら、値ひ難き如来の教法をも修行せず、大日覚王の智水の流れに身をもすすがず。丸がたまたま入壇灌頂せむとするをさへ、障礙する事の無慙さよ。縦ひ丸理を枉げたる非法をも宣下し、若しは山門の所領を別院に寄すと云ふとも、王位王位たらば、誰か此を背くべき。何に況や、受職灌頂と▼P1444(四ウ)は、上求菩提の春の花、下化衆生の秋の月なり。智徳明匠此を讃嘆し、貴賎男女此を随喜す。縦ひ随喜讃嘆の褒美せしむるまでこそなからめ、無上福田の衣の上に邪見放逸の冑を着し、定恵二手の掌の内に仏法破滅の続松をささげて、三井寺を焼き失はむと僉議するらむ条、少しもたがはぬ昔の提婆達多が伴類なり。さこそ末代と
いはむからに、是程王位をかろしむべき様やある。口惜事かな」とて、宸襟しづかならず、逆鱗屡忝し。
 「抑も王位は仏法をあがめ、仏法は王位を護りてこそ、相互に助けて効験も目出たく、明徳もいみじけれ。若し王位を王位とせずは、何れの仏法か、我が朝に興隆すべきや。今度山僧等、園城寺を焼失せむにおいては、天台の座主を流罪▼P1445(五オ)し、山門の大衆をも禁籠せむ」とぞ思し食す。又かへして思し食しけるは、「山門大衆、内心こそ愚痴の闇深うして、邪雲忽ちに仏日の影を犯すといへども、形は既に比丘の形なり。一々に禁籠せむ事、罪業又なむぞ消滅すべきや。且は五帖法衣を身にまとへり。帰依の志、全く賢哲師子にをとるべからず。且は大師聖霊の御計らひをも待ち奉るべし。且は伊王山王も争か捨てはてさせ給ふべきや」とて、御涙にぞむせばせ給ひける。
 此の法皇は百王七十七代の御門鳥羽院第三の御子雅仁天王とぞ申しける。治天僅かに三年なり。いそぎ御位をすべらせおはしましける御志は「無官有智の僧に近付きて、甚深の仏法をも聴聞し、壇所行法の花香をも手づから自ら営まむ」と思し食さるる故なり。
 抑も百王と申すは、天神七代地神▼P1446(五ウ)五代の後、神武天皇より始めて、御衣濯河の流すずしく、龍楼鳳闕閲の月くもりなかりしかども、第廿九代の御門宣化天皇の御時までは、仏法未だ我が朝に伝はらず、名字をすら聞く事なかりき。されば其の時までは、罪業を恐るる人もなく、善根を修行する人もなかりき。親に孝養をもせず、心に仏道をももとめず、持律持戒の作法もなく、念仏読経のいとなみもなし。
 而るに、第卅代の御門欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より金銅の釈迦如来、并びに経論少々、幢幡、蓋、宝瓶等の仏具なむど送られたりき。但し仏像来臨し聖教伝来すと云へども、談義転読する僧宝未だなかりしかば、三宝をも供養し、聖教をも随喜せず、只▼P1447(六オ)闇の夜の錦にてぞ侍りける。第卅二代の御門、用明天皇と申し、御諱豊日天皇とも申しき。此の御門の御時より、三宝あまねく流布して大小乗の法文光り天下にかかやく。
 其より以来、仏法修行の貴賎其数多しと云へども、此の法皇程の薫修練行の御門を未だ承らず。子に臥し寅に起きさせ給ふ御行法なれば、打ち解けて更に御寝もならず。金烏東にかかやけば、六部転読の法水、三身仏性の玉をみがき、夕日西に傾けば、九品上生の蓮台に三尊来迎の心をはこび給へり。
 或る時、一両句の御願文をあそばして、常の御座の御障子の色紙にかかせ給ひたりける明句に云はく、
  身は暫く東土八苦の蕀の下に居ると雖も、心は常に西方九品の蓮の上に遊ばしむ。
▼P1448(六ウ)とぞあそばされたる。又常の御詠吟に云はく、
  智者は秋の鹿、鳴きて山に入る。愚人は夏の虫、飛びて火に焼く。
とぞ、常にはながめさせ給ひける。此は止観の行者、四種三昧の大意を釈したる絶句とかや。昔より常に此の事ながめさせ御座す御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂の事を打ちさまされ給ひし時より、何なる深き山にも閉ぢ籠り、苔深き洞の中にも隠れ居せばやとや思し食しけん、御心をすまして 「智者は秋の鹿」とのみ御詠ありけるとかや。后宮も此をあさましく思し食し、雲客月卿も肝神を失ひ給ひき。已に時は青陽五春の比にもなりにけり。三月桃花の宴とて、桃花の盛に開きたり。西母が跡の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に殖ゑ▼P1449(七オ)交ぜて色々さまざまにぞ御覧じける。桜のさきにさく時もあり、桃花さきにさく時もあり。桃桜一度に開きて匂う時もあり。今年は桜は遅くつぼみて、桃花は前に開きたり。されども、「智者は秋の鹿」 とのみ詠めさせ給ひて、桃花を御覧ずる事もなかりけり。
 これによりて、雲上人、更に一人も花を詠ずる人おはせざりけるに、三月三日夕晩に、
  春来りては遍く是桃花水なれば、仙源を弁へず何れの処にか尋ねむ
と、高らかに詠ずる人あり。法皇誰ぞやと聞こし食さるるほどに、やがて清涼殿に参りて、笛吹きならしつつ、調子黄鐘調に音とりすましたり。やがて御厨子の上なる千金と云ふ御琵琶をいだきおろし奉りて、赤白桃李花と申す楽を三反計りぞ引きたりける。「只人とは覚へず▼P1450(七ウ)奇代の不思議かな」とぞ、法皇聞こし食されける。赤白桃李花を三反引きて後、琵琶をもひかず、詩歌をも詠ぜず、笛などをも吹く事なくして、良久しく有りければ、「此の者は帰りぬるやらむ」と思し食して、法皇、「やや赤白桃李花は何者ぞ」と仰せ有りければ、「御宿直の番衆」とぞ申したりける。「番衆と申すは誰ぞや」と問はせ給へば、「開発の源平大夫住吉」とぞ名乗り給ひたりける。「さては住吉の大明神にておはしけるにや」と思し食して、怱ぎ御対面あり。夢にもあらず、現にもあらず、奇代の不思議かなとぞ思し食しける。
 さて、種々の御物語ありける中に、大明神仰せられけるは、「今夜の当番衆は松尾大明神にて候へども、いそぎ申すべき事ありて、引きかへて参りて候ふ。昨日の暁、山王七社伝教大▼P1451(八オ)師、翁が宿所に来臨して、日本国の吉凶を評定し候ひしに、今度山門の大衆、邪風ことに甚しく、宸襟を悩ましまゐらせ候ひし条、存外の次第にて候ふ。但しむつごころにては候はざりつるなり。日本の天魔あつまりて、山の大衆に入りかはりて、公の御灌頂を打ち留めまゐらせ候ふ処なり。されば、大衆の禍をば御免有るべき事にて候ふなり」。
 時に法皇、「抑も天魔は、人類か、畜類か、修羅道衆類か。何なる業因の物にて仏法を破滅し侍るぞや」。大明神答へて宣はく、「聊か通力を得たる人類也。此について三つあり。一には天魔、二は破旬、三は魔縁也。第一に天魔と云ふは、もろもろの智者学生の無道心にして驕慢甚し。其の無道心の智者の死ぬれば、必ず天魔と申す鬼になり候ふ也。其の形、頭は狗、身は人にて、左右の手に羽生ひたり。前後百才の事を悟る▼P1452(八ウ)通力あり。虚空を飛ぶ事、隼のごとし。仏法者なるが故に地獄にはおちず、無道心なるが故に往生をもせず。驕慢と申すは、人にまさらばやと思ふ心也。無道心と申すは、愚痴の闇に迷ひたる者に智恵の燈をさづけばやとも思はず、あまつさへ、念仏申す者を妨げて嘲りなむどする者、必ず死ぬれば天狗道に堕つと云へり。当に知るべし、末世の僧は皆無道心にして驕慢有るが故に、十人に九人は必ず天魔となつて仏法を破滅すべしとみえたり。八宗の智者にて天魔となるが故に、是をば天狗と申すなり。浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にしてずずをくり、慢心にして数反をすれば、天魔の来迎に預かりて、鬼魔天と申す所に年久しと云へり。
 当に知るべし、魔王は一切衆生の形に似たり。第六▼P1453(九オ)意識反りて魔王となるが故に、魔王の形も又一切衆生の形に似たり。されば、尼・法師の驕慢は、天狗になりたる形も尼天狗・法師天狗にて侍る也。つらは狗に似たれども、頭は尼・法師也。左右の手に羽はをいたれども、身には衣に似たる物をきて、肩には袈裟に似たる物を懸けたり。男、驕慢天狗と成りぬれば、つらこそ狗に似たれども、頭には烏帽子、冠をきたり。二の手には羽をひたれども、身には水干・袴・直垂・狩衣などに似たる物をきたり。女の驕慢天狗と成りぬれば、狗の頭にかづらかけて、べに白物のやふなる物をつらには付けたり。大眉つくりてかねぐろなる天狗もあり。紅の袴にうすぎぬかづけて大空を飛ぶ天狗もあり。
    はじゆん                にんじん        も
 第二に破旬と申すは、天狗の業すでに尽きはてて後、人身を受けむとする時、若しは深山の峯、若しは深谷の洞、人跡たえて千▼P1454(九ウ)里ある処に入定したる時を、破旬と名づけたり。一万才の後、人身を受くといへり。
 第三、魔縁とは、驕慢無道心の者、死ぬれば必ず天狗になれりといへども、未だ其の人死せざる時に、人にまさらばやと思ふ心のあるを縁として、諸の天狗あつまるが故に、此をなづけて魔縁とす。されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なきが故に、天魔来てさはりをなすことなし。天魔は世間に多しといへども、障礙をなすべき縁なき人の許へはかけり集る事更になし。されば、法皇の御驕慢の御心、忽ちに魔王の来るべき縁とならせ給ひて、六十余州の天狗共、山門の大衆に入りかはりて、さしも目出たき前加行をも打さましまゐらせて候ふ也。御驕慢のおこるも誠に御道理にてこそ候へ。
 『両▼P1455(一〇オ)界の万だらを一夜二時に懈怠なく行はせ給へる事、〓余代の御門の中にましまさざりき。僧の中にもまれにこそ有らめ』と思し食さるる御心、即ち魔縁となれり。『廿五壇の別尊法、諸寺諸山の僧衆も丸には争かまさるべき』と思し食すは又魔縁也。『三密瑜伽の行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず。まして末代にはよもおはせじ。仏法修行の智者達にもまさらばや』と思し食すは是魔縁也。『光明真言、尊勝だらに、慈救呪、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王般若五壇法、丸に過たる真言師もまれにこそあるらめ』と、思し召したるは魔縁也。『況や入壇灌頂して金剛不壊の光を放ちて大日遍照の位にのぼらむ事、明徳の中にもまれなるべし。天子帝王の中にも我ぞ勝れた▼P1456(一〇ウ)るらむ』と、大驕慢をなさせ給ふが故に、大天狗共多くあつまりて、御灌頂の空しくなり候ひぬる事こそ、あさましく覚え候へ」とぞ申させ給ひける。
 其の時法皇、「日本国中に天狗になりたる智者、幾人計りか侍るや」。大明神の宣はく、「よき法師は皆天狗になり候ふあひだ、其の数を申すに及ばず。大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧の中にも随分の慢心あり。それらは皆畜生道に堕ちて打ちはられ候ふ、もろもろの馬牛共、是也。中比、我朝に柿本木僧正と申しし高名の智者、有験の聖侍りき。大驕慢の心の故に忽に日本第一の大天狗となりて候ひき。此をあたごの山の太郎房とは申し候ふ也。すべて驕慢の人多きが故に、随分の天狗となりて、▼P1457(一一オ)六十余州の山の峯に、或は十人計り、或は百人計り、かけり集まらざる峯は一つも候はず」。
 其の時法皇、「誠に仰せの如く、丸が行法は、王位の中にも仏法者の中にも、いとまれにこそあるらめと思ひて候ひつる也。先づ両界を空に覚えて毎夜二時に供養法し給ふ御門、上古には未だきかずと思ひ侍りき。別尊法、鈴杵を廿五壇に立てたる帝王も、未だ聞かずと思ひ侍りき。子に臥し寅に起くる行法、帝王の中には未だ聞かずと思ひ侍りき。毎日に法花経六部を信読によみ奉る国王も、我が朝には未だ聞かずと思ひ侍りき。況や三部経の持者、秘密灌頂の聖となりて、本寺本山の智者達にもまさりたりとほめられむと思ふ慢心を発す事、たびたびなりき。さては、今こそ既に罪業の雲はれては覚え候へ。全く山門の大衆の狼籍にては侍らざ▼P1458(一一ウ)りけり。我が身の驕慢、則ち天魔の縁となりて、六十余州の天狗共、数日精勤の加行を打ちやぶりけるこそ、道理にては侍りけれ。今は慙愧懺悔の風冷し。魔縁魔境の雲、争かはれざらむや。さては忍びやかに宿願をはたし候はばやと存じ候ふ。御計らひ候へ」と仰せ有りければ、大明神の宣はく、「伝教大師申せと候ひつるは、『延暦寺と申すは愚老が建立、園城寺と申すは智証大師の草創也。効験何れも軽くして、御帰依の分にあたはず。日本国の霊地には、二
々天王寺勝れたりと覚え候ふ。其の故は、聖徳太子の御建立、仏法最初の砌也。其の聖徳太子は救世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。此によりて信心空に催して、勝利何ぞ少からむや。折りしも彼の寺に入唐の聖の帰朝して、恵果▼P1459(一二オ)八仙の流水、五智五瓶にいさぎよし。灌頂の大阿闍梨、其の器に尤も足りぬべし。密かに御幸ならせおはしまして御入壇候へ』」とて、明神忽ちに失せ給ひぬ。
 法皇思し食されけるは、「慢心をいかにおこさじと思へども、事により折に随ひておこるべき物にて有りけり。さしも大明神のをしへ給ひつる慢心の、今又おこりたるぞや。其の故は、大唐国に一百余家の大師先徳、其の数多しといへども、韋多天に対面して物語し給ひける明徳は、終南山の道宣律師(大師ィ)許り也。吾が朝には人王始まりて朕に至るまで、七十余代の御門、其の数多しといへども、住吉の大明神に直に対面して種々物語したる御門は丸計りこそ有るらめと、驕慢のおこりたるぞや。南無阿弥だぶ南無阿弥だぶ、此罪障消滅して助けさせおはしませ」とぞ御祈念有りける。
 法皇▼P1460(一二ウ)すでに天王寺へ御幸なりけるとき、御手を合はせつつ、いかなる御祈念かおはしけむ、
  すみよしの松吹風に雲はれてかめゐの水にやどる月かげ
とあそばして御幸なりつつ、天王寺の五智光院にして亀井の水を結び上げて五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂の素懐を遂げさせ御坐しける。無上菩提の御願すでに成就して、有待の御身も今は金剛仏子の法皇とならせおはしましたる。天魔はいささかなやましまゐらせたりけれども、住吉大明神にをしへられましまして、即身成仏の玉体とならせおはしましたる。誠に目出たく侍り。所以に、六大無礙の春の花は、▼P1461(一三オ)金剛界の智水より開き、四種万陀の秋の月は、台蔵界の理門より出づ。三密瑜伽の鏡面は、五智円満の聖体に浮かび、八葉肉団の胸の間には、三十七尊の光円耀けり。
 同五月廿日、天台の衆徒所司を以て参陣せしめて訴へ申しけるは、「今度最勝講に延暦寺の僧を召されず。此の条都て先規無し。何に依りてか、忽ちに棄捐せらるべき哉」とぞ申したりける。蔵人右少弁光雅、参院して奏聞しければ、「更に御棄て置きの儀に非ず。天台の衆徒、自由の張行を以て御願を妨げ奉る条、頗る奇怪なるに依りて、其の事つみしらせむが為なり」とぞ仰せ下されける。此の趣をぞ、所司には仰せ含めける。又、延暦寺より専使を差し遺して園城寺に申し送りけるは、「最勝講は鎮護国家の御願なり。而るに今度、天台宗を棄てらるる処に、▼P1462(一三ウ)園城寺の僧参勤せらるべき由、風聞あり。何れの宗を以てか、参勤せらるべき哉。当寺は天台か、花厳か、三論か、法相か。委細に承りて存知仕るべし」とぞ申したりける。爰に、園城寺の衆徒、三院会合して僉議すといへども、何れの篇も返答すべしと云ふ義も定まらざりければ、只「追つて申すべし」とばかりぞ、返答したりける。
 抑も道宣律師の相ひ給ひて物語し給ひし韋荼天と申すは、毘沙門天王の太子なり。道宣律師、終南山にして晴夜にして高楼を立てて彼に登りて御しけるが、誤りて高楼より落ち給ふ時、中途にしてみしと懐きたてまつる者あり。「何者ぞ」と問はれければ、「韋荼天」と答えけり。道宣の宣はく、「何にしてこれへは来るぞや」。天の云く、「吾れ毘沙門天王の御使▼P1463(一四オ)者として彼の命に随ひて日来より参りて常に守護し奉る也」と云々。道宣重ねて宣はく、「其の議ならば、顕れて常に物語をもし給へかし」と云はれければ、「仰せに随ひて」とて、其の後は庭前の柳に登りて、光明をはなちて、諸の世界国土の物語を申しけり。
 彼の道宣と韋荼天との物語を注せる一巻の伝記、是あり。感通伝と名づけたり。道宣云はく、「毘沙門天王は、当時はいづくに御しますぞ」。天答へて云はく、「当時はびさ門天王は、玄弉三蔵の大般若訳し給へる処に、彼の三蔵を守護の為に御します」とぞ申しける。道宣の云はく、「玄弉は破戒の僧なり。我は持戒の者也。我をこそ守護し給ふべきに、我をば韋荼天に預けて、玄弉三蔵を守護せらるらむ事は、存外の事也」とぞ自称し給ひける。
 げにも道宣の云ふが如くに、道宣律師は二百五十の▼P1464(一四ウ)律儀を守りて一事も戒を犯さず。八万の細行を正しくして、身口の表を鮮かにせり。玄弉三蔵は乱僧也。徳行遥かに下れり。然るに、道宣をすて、玄弉を守り給ふらむ事、疑ひ実に多し。倩ら事の次第を案ずるに、高僧伝を開き見るに、一切の僧の徳行を釈せむとして十の科を立てたり。「第一には翻訳の僧、其の功殊に貴し。第二は義解の僧、仏法流伝の謀、誠に目出たし」。此くの如く、次第に科門を立て、釈し畢りて、「第十には仏蔵経論等を修復修造の僧也」と連ねたり。彼を以て之を案ずるに、玄弉三蔵と云ふは、其の身破戒にして、防・生・光・基の四人の子をまうくといへども、高僧伝に立つる所の十科の中に第一の翻訳の三蔵として、般若大乗教を流転する事数百軸、此の徳を▼P1465(一五オ)鑑みて、毘沙門天王の自身往きて守護し給へるかとぞおぼえし。
 かくて、道宣大慈恩寺の長老に任ぜられたりけるに、住寺の僧侶一千余人、衣鉢を帯して止住す。堂舎の構梁は三百三十三間なり。金銀をちりばめて鮮潔也。其の後、韋荼天惣じて来る事なし。遥かに程隔てて来れりければ、道宣韋荼天に宣はく、「天、何故ぞ久しく来らざる哉」。天答へて云はく、「終南山におはせしときは、身は律儀の為に貴く、心は求法の為に苦也き。内外共に清浄なりしかば、御心けがるることなかりき。而るに当寺に任し給ひてより後は、御心汚穢にして世路の思ひこまやかに、御身不浄にして名聞の志し深し。之に依りて、毘沙門天王惣じて参ずべからざる由、
禁め仰せらるる間、参らざりつれども、▼P1466(一五ウ)日来の御好みを忘れ奉らずして、毘沙門天王の命を背きて、暫時の暇を申して私に参りたり」とぞ申しける。而るに彼の韋荼天の宣ひける、慈恩寺にして身心の不浄におはしけむ事はいかにと思へば、昔し終南山におはせし時は、一向下化衆生の心を先として、世俗馳走の思ひもなかりしかば、内外共に清浄なりき。今此の慈恩寺と申すは、徳宗皇帝の建立として、堂舎塔廟広博也。されば止住の僧侶も多くして、行法の床も数しげし。彼の大伽藍の長老となり給ひしかば、住寺の僧を助けむとて、自ら度世の計らひをも心にや懸け給ひけむ。若し爾らば、心汚穢になり給ひたりとて、守護を加へ給はざりけるも理なりとぞ覚えし。
三 〔天王寺の地形目出たき事〕
 ▼P1467(一六オ)抑も四天王寺と申すは、天下第一之奥区、人間無双の浄刹なり。聖徳太子草創の霊場、救世菩薩利生の勝地也。寺は殊勝の名区に隣れる、即ち極楽東門の中心、堺は霊験の奇地に摂す、是れ往生西刹の古跡也。西に向かへば則ち激海漫々として、八功徳池の眺望、眼の前に有り。東に顧れば又清水滔々として、三界水沫の無常心中に浮ぶ。村南村北に遐邇の輩ら、会ふ日を契りて以て烏合し、東より西より都鄙の類ひ道場に詣でて、以て鳩集す。加之、天枝帝葉の輿輦を廻す、本尊に帰して叡慮を傾け、山玄水蒼の舟車を動かす、道場に臨みて満願を成す。来る者は他人の催しに非ず、只善根の宿因に催されて来る所也。莅む者は自身の発すに非ず、偏に往生の▼P1468(一六ウ)当縁に発るに依りて莅む所也。天下に首を傾くる者、皆是れ観音弘誓の慈悲に応ず。人中に心を属くる者、孰か又極楽霊稼の人民に非ざらんや。堺は王地に在りて王地に〓ぜず、常住の三宝を以て主と為す。処は国郡に摂して国郡に随はず、護世四王を以て吏と為す。戒律を定むる庭なれば、放逸の者は跡を削り、浄土に望む砌なれば、不信の者は来ること無し。観音応迹の処なれば、住む人皆慈悲有り。往生極楽の地なれば、
詣づる人悉く念仏を行ず。之に依りて、現世には三毒七難の不祥を滅して、二求両願の悉地を満足し、当来には三輩九品の浄刹に生じて、常楽我浄の妙果を証得せむ。遠く月氏の仏跡を尋ね、遥かに震旦の霊場を訪へば、如来説法の祇園精舎、徊録の災に依りて、咸陽宮の煙り片々たり。賢聖集会の▼P1469(一七オ)鶏頭磨寺、梁棟傾危して、古蘇台の露壌々たり。漢の明帝の白馬寺、法音を断ちて煙嵐を残し、高祖帝の慈恩寺、法侶去りて虎狼を住ます。
 又、本朝の諸寺諸山、炎上の例是れ多し。而るに当寺に於ては、濁世に臨みて王臣の帰依弥よ新に、劫末に入りて本尊の利益実に盛なり。上宮の威光、日々に耀き、寺塔の興隆歳々に増す。護世四王寺を護れば、四魔三障の難も来らず。恒居の青龍法を戴けば、仏法の水の流れも乾かず。
 かかる霊地なれば、四明、三井にもまさりて思し召されければ、事故なく遂げさせ給ひにけり。是、当寺の面目に非
ずや。
四 〔山門に騒動出で来たる事〕
 山門の騒動を鎮めむが為に、園城寺の御灌頂は止まりたりけれども、山上には学生と堂衆と不和の事有りて閑かならずと聞こゆ。山門に事出でぬれば、世も▼P1470(一七ウ)必ず乱ると云へり。又何なる事のあらむずるやらむと恐ろし。
 此の事は、去年の春の比、義竟四郎叡俊、越中国へ下向して、釈迦堂の衆、来乗房義慶が立て置く神人を押し取りて、知行して跡を押領す。義慶、怒りをなして敦賀の津に下りあひて、義竟四郎を散々に打ち散らして、物具を剥ぎ取り恥に及べり。叡俊、山に逃げ登て、夜に入りて匍ふ匍ふ登山して衆徒に訴へければ、大衆大いに憤りて忽ちに騒動す。来乗房、又堂衆を語らふ間、堂衆同心して来乗房を助けむとす。
五 〔建礼門院御懐任の事付けたり成経等赦免の事〕
 建礼門院、其の比は中宮と申ししが、春の暮程より常に御乱り心地にて、供御もはかばかしくまゐらず。御寝も打ち解けてならざりしかば、何の沙汰にも及ばず。惣じては天下の騒ぎ、別しては平家の歎きとぞ見えし。太政入道、二▼P1471(一八オ)位殿、肝心を迷はし給ふ、理なり。されば諸寺諸山に御読経はじまり、諸宮諸社に奉幣使を立てらる。陰陽術を尽くし、医家薬を運ぶ。大法秘法、残す所無く修せられき。かくて一両月を経る程に、御悩ただにも非ず、御懐妊と聞こえしかば、平家の人々、日比は歎かれけるが、引き替へて今は面々に悦び合われけり。
 御懐孕の事定まりにければ、貴僧高僧に仰せて御産平安を祈り、日月星宿に付けて皇子誕生を願ふ。主上今年十八にならせ給ふに、皇子も未だ渡らせおはしまさず。中宮は廿三にぞならせ給ひける。皇子御誕生なむどの有る様に、あらまし事をぞ悦ばれける。「平家の繁昌、時を得たり。然れば皇子誕生疑ひなし」と申す人もありけり。
 かかりし程に、六月廿八日、中宮御着帯とぞ聞こえし。月日の重なるに随ひて、御乱れ猶煩はしき様に渡らせ▼P1472(一八ウ)給ひければ、常には夜の大殿にのみぞ入らせ給ひける。少し面やせて、またゆげに見えさせ給ふぞ心苦しき。さるに付けても、いとどらうたくぞ見えさせ給ひける。彼の漢の李夫人の昭陽殿の病の床に臥したりけむもかくや有らむ。桃李の雨を帯び、芙蓉の露に萎れたるよりも心苦しき御有様なり。
 かかりし御悩の折節に合はせて、執念き物気、度々取り付き奉る。有験の僧共あまた召されて、護身加持隙もなし。よりまし明王の縛にかけて、様々の物気顕はれたり。惣じては讃岐院の御怨霊、別しては悪左府の御臆念、成親卿・西光法師が怨霊、丹波少将成経・判官入道康頼・法勝寺執行俊寛なむどが生霊なむども占ひ申しけり。
 之に依りて、入道相国、生霊死霊共に軽からず、おどろおどろしく聞こえ給ひければ、▼P1473(一九オ)「宥めらるべき由の御政有るべし」と、計らひ申さる。
 門脇宰相は、「いかなる次もがな、丹波少将が事申し宥めむ」と思はれけるが、此の折りを得て、怱ぎ小松内大臣の許へおはして、「御産の御祈りにさまざまの攘災行はるべき由聞こゆ。いかなる事と申すとも、非常の大赦に過ぎたる事、有るべからず。就中、成経召し返されたらむ程の功徳善根は、争か有るべき。大納言が怨霊を宥めむと思し食さむに付けても、生きたる成経をこそ召し返され候はめ。此の事、執り申さじとは思ひ候へども、娘にて候ふ者の余りに思ひ沈みて、命もあやふく見え候ふ時に、常に立ちよりて『あながちかくな思ひそ。教盛さてあれば、さりとも少将をば申し預からむずるぞ』と慰め申し候らへば、顔をもて上げて教盛を打ち見て、涙を流して引きかづきて候ふ。教盛、御一門の片端にてあり。『親を持つとも、此の時は▼P1474(一九ウ)宰相ほどの親をこそもつべけれ。などか少将一人申し預らざるべきぞ』と内々恨み申し候ふなるが、げにもと覚えて、いたく無慙に覚え候ふ。成経が事、然るべき様に執り申させ給ひて、赦免に申し行はせ給へ」と、泣々くどき申されければ、小松大臣涙を流して、「子の悲しさは重盛も身につみて候へば、さこそ思し食され候ふらめ。やがて申し候ふべし」
とて、八条へ渡り給ひて、入道の気色いたく悪しからざりければ、「宰相の成経が事を強ちに歎き申され候ふこそ不便に覚え候へ。尤も御計らひ有るべしと覚え候。中宮御産の御祈りに、定めて非常の大赦行はれ候はむずらむ。其の内に入れさせ給ふべく候。宰相の申され候ふ様に、誠に類なき御祈りにて有らむずらむと覚え候ふ。大方は人の願を満たさせ給ひ候はば、御願成就、疑ひ▼P1475(二〇オ)有るべからず。御願成就せば、皇王御誕生ありて家門の栄花弥盛りなるべし」と細々に申し給へば、入道、今度は事の外に和ぎて、げにもと思はれたりげにて、「さて俊寛・康頼が事はいかに」。「それらも免されて候はば、然るべくこそ候はめ。一人も留まらむ事は中々罪業たるべしと覚え候ふ」なむど申されけれども、「康頼が事はさる事にて、俊寛は且は知られたる様に、随分入道が口入にて法勝寺の寺務にも申しなしなむどして人となれる物ぞかし。其に人知れず鹿谷に城を構へ、事にふれて安からぬ事をのみ云ひける由を聞くが、殊に奇怪に覚ゆるなり」とぞ宣ひける。
 「中宮御産の御祈りによりて、大赦行はるべし」と、太政入道申し行はれければ、即ち職事奉書を下さる。其の状に云はく、
  ▼P1476(二〇ウ)中宮御産御祈りの為に、非常の大赦行はるるに依りて、薩摩国流黄嶋の流人、丹波小将成経、并びに平判官入道
  康頼法師、二人帰参すべきの状、仰せに依りて執達件の如し。
    治承二年七月 日
とぞ仰せ下されける。宰相是を聞き給ひて、うれしなむどはなのめならず。少将の北方は猶うつつとも覚えず、臥し沈みてぞおはしける。
 七月十三日御使下されければ、平宰相はあまりにうれしくて、私の使を差し副へて、「夜を日に継ぎて下れ」とてぞ遣はされける。其も輙く行くべき舟路ならねば、波風あらくて船の中にて日送りける程に、九月半ばすぎてぞ彼の嶋には渡り付きたりける
 折りしも其日は日もうららかにて、少将も康頼も礒に出でて▼P1477(二一オ)遥々と塩瀬の方を詠むれば、漫々たる海上になにとやらむはたらく物あり。怪しくて、「やや入道殿、あのおきに眼に遮る物の有るはなにやらむ」と少将宣へば、康頼入道是を見て、「にをのうきすの波に漂ふにこそ」と申しけり。次第に近くなるをみれば、舟の体に見なしたり。「是は端嶋の浦人共が流黄ほりに時々渡る事のあれば、さにこそ」と思ふ程に、礒近く漕ぎ寄る舟の内に云ひ通はす詞共、さしも恋しき都人の音に聞きなしつ。少将思はれけるは、「我等が様に罪をかぶりて此の嶋へ放たるる流人なむどにこそ」と思ひ給ひて、「とく漕ぎ寄せよかし、都の事共尋ねむ」と思はれけれども、まめやかに近付けば、見苦しさの有様を見えむ事のはづかしくて、礒を立ちのきて浜松がえの木本、岩のかげにやすらひて、みえがくれにぞ待たれける。
 さる程に、舟▼P1478(二一ウ)漕ぎつけて怱ぎおりて我等が方へ近付く。俊寛僧都は余りにくたびれて、只あしたゆふべの悲しさにのみ思ひ沈みて、神明仏陀の御名も唱へ奉らず、あらましの熊野詣をもせず、常は岩のはざま苔の下にのみうづもれ居られたりけるが、いかにして只今の有様を見給ひけるやらむ、此の人共のおはする前に来れり。六はらの使申しけるは、「太政入道殿の御教書并びに平宰相殿の私の御使、相副へられて、都へ御帰り有るべき由の御文持ちて下りて候ふ。丹波少将殿はいづくに渡らせ給ひ候ふやらむ。此の御教書を進らせ候はばや」と申しければ、是を聞き給ひけむ三人の人々の心中、いかばかりなりけむ。余りに思ふ事なれば、猶夢やらむとぞ思はれける。三人一所になみ居られたり。
 少将の許へは宰相さまざまに送り給へり。康頼が▼P1479(二二オ)方へは妻が方より事づてあり。俊寛僧都が許へはひとくだりの文もなかりければ、其の時ぞ、「都に我がゆかりの者一人も跡を留めずなりにけるよ」と心得られにける。心うくかなしき事限りなし。さて、俊寛奉書を開きてみ給へば、「中宮御産の御祈りの為、非常の大赦行はるるに依りて、成経・康頼、帰参すべし」とは有りけれども、俊寛は漏れにけり。僧都是を見てあきれ迷ひてつやつや物もおぼへず。若し僻よみかとて又見れども、「俊寛」と云ふ文字はなし。又みれども、「二人」とこそはかかれたれ、「三人」とはかかれず。夢にこそかかる事はみゆれ、夢かと思ひなさむとすればうつつなり。うつつと思へば又夢の如し。此の文をひろげつ巻きつ、千度百度おきつ取りつして、臥しまろびてをめき叫びて、悲しみの涙をぞ流しける。「三人同じ罪にて一所へ放たれぬ。▼P1480(二二ウ)今赦免の時、二人はゆるされて俊寛一人漏るべしとは思はぬ物をや」とて、天に仰ぎ地に臥して、又をめきさけぶ。此の嶋へ流されし時の歎きを今の思ひにくらぶれば、事の数ならざりけり。留めらるる事を思ふに、いかにすべしともおぼえず。泣く泣く奉
書を取りて、「是は執筆の誤りなり。さらでは、俊寛を此の嶋へ流し給へる事を、平家の思し食しわすれたるか」とて、又初めの如くもだえこがれけるこそ無慙なれ。二人の悦び、一人の歎き、悦びも歎きも事の究めとぞ見えし。
 少将・判官入道は、塩・風の沙汰にも及ばず、今一時もとく漕ぎ出でなむとて、流黄津と云ふ所へ移りにけり。僧都余りの悲しさに船津まで来て、二人の人にすこしも目を放たず、少将の袖に取り付きても涙を流し、判官入道の袂を引へても叫びけり。「年来日来は各さておはしつれば、昔物語▼P1481(二三オ)をもして都の恋しさをも嶋の心うさをも申しなぐさみてこそ有りつるに、打ち棄てられ奉りては、一日片時も堪え忍ぶべき心地もせず。ゆるされなければ、みやこへは中々思ひもよらず。ただ此の船に乗せて出でさせ給へ。底のみくづともなりてまぎれ失せなむ。中々新ら高麗とかやの方へも渡り行かば、思ひ絶えても有るべきに、俊寛一人残り留まりて、嶋の巣守とならむ事こそ悲しけれ」とて、又をめきさけびければ、少将泣く泣く宣ひけるは、「誠にさこそ思し食され候ふらめ。成経が上るうれしさはさる事なれども、御有様を見置き奉るに、更に行くべき空も覚えず。御心の中、皆押しはかりて候へども、都の御使も叶ふまじき由を申す上、三人船津を出でにけりと聞こえむ事もあしかりぬべし。なにとしても甲斐なき命こそ大切の事にて▼P1482(二三ウ)候へば、且は成経が身上にても思し召し知られ
候へ。罷り下り候ひし即ちは、ともかくもして命を失はばやとこそ存ぜしかども、甲斐なき命の候へばこそ、かやうにうれしき音信をも待ち得候ひぬれば、此の度留まらせ給ひて候ふとも、又自ら召し帰されさせ給ひ候ふ御事も、などか候はざるべき。成経罷り上り候ひなば、身につみて思ひ知り進らせて候へば、宰相にも且は吉き様に申し候ふべし。いかさまにも御身を投げても由なき御事なり。只いかにもして今一度都の音信をも聞かむとこそ思し食され候はめ。其の程は、日来おはせしやうに思ひて待たせ給へ」と、且はなぐさめ且はこしらえられければ、僧都返事に及ばず、少将に目を見合はせて、「俊寛をば捨て置き給ひなむずるな。ただ俊寛をも具して上り給へ。具して上りたる御とがめ有らば、又も流さ▼P1483(二四オ)れ候へかし」なむど、さまざまにくどかれけれども、「是程に罪深くて残し留めらるる程の人を、ゆるされもなきに具し上りなば、まさるとがにもこそあたれ」と思はれければ、「誠にさこそ思し食さるらめ」と計りにて、少将は「形見にも御覧ぜよ」とて、夜の衾をおかれけり。判官入道のわすれ形見には、本尊持経をぞ留めける。「誠に花の春さくらがりして志賀の山を越え、吉野の奥へ尋ね
入る人も、皆風にさそはるる習ひあれば、散りぬる後は木本を惜しみて岩の枕に夜をあかす事もなく家路へ怱ぎ、月の秋、明月を尋ねてすま明石へ浦伝ひする人も又、山のはに傾くためしあれば入りぬる後をしたひて海人の苫屋に宿りもやらず、すぎこしあとを尋ねけり。恋路にまよふ人だにも、我が身にまさる物やある」と互ひに云ひ通はしつつ、少将も入道も怱ぐ心ぞ情けな▼P1484(二四ウ)き。路行く人の一村雨の木本、同じ流れを渡る友だにも、過ぎ別るるなごりは猶惜しくこそ覚ゆるに、まして僧都の心中、思ひ遣られて無慙なり。
 さる程に順風よかりければ、僧都のもだへこがれけるひまに、やわら共縄をときて漕ぎ出でむとするに、僧都思ひに絶えずして、御使に向かひて手をすり、「具しておはせよや、具しておはせよや」とをめかれければ、人の身に我身をばかへぬ事にて、「力及ばず」と情けなく答へければ、僧都余りの悲しさに船の舳へに走りまはり、乗りてはおり、下りては乗り、あらましをせられける有様、目もあてられずぞ覚えける。次第に船を押し出だせば、僧都共縄に取り付きて、たけの立つ所までは引かれて行く。そこしも遠浅にて、一二丁計り行きたりけれども、みちくる塩立ちかへりて口へ入りければ、共綱にわき打ち懸けて、「さて俊寛をばすて置き給ひぬるな」とて、又▼P1485(二五オ)声もおしまず呼ばひ給ひけれども、少将もいかにすべしともおぼえず、諸共にぞ泣かれける。僧都猶も心の有りけるやらむ、とかくして波にも溺れず、いそに帰り上りて、なぎさにひれふして、少き者の乳母や母にすてられて道をしたふ様に浜に足をすりて、「少将殿、判官入道殿や」とをめき叫びけるは、「父よ母よ」と呼ぶに似たりけり。をめき叫ぶ声の遥かに波を別きて聞こえければ、誠にさこそ思ふらめと、少将も康頼も共に涙を
流して、つやつや行く空もなかりけり。漕ぎ行く船の跡の白波、さこそうらやましくおぼされけめ。
 未だこぎかくれぬ船なれども、涙にくれてこぎきえぬとみえければ、岩の上に登りて船を招きけるは、松浦さよひめが唐船をしたひつつ、ひれふり(袖振り)けるにことならず。よしなき少将の情の詞を憑みて、其の瀬に身をも投げられ▼P1486(二五ウ)ざりけるこそ、責めての罪の報いとは見えしか。日すでに暮れにけれども、あやしの臥床へも立ち帰るべき空も覚えず、又渚に倒れ臥して、奥の方をまぼらへつつ、露にしほぬれ波に足打ちあらはせて、頭をたたき胸を打ちて、血の涙を流して、終夜泣きあかされければ、袖は涙にしほれ、すそは波にぞぬれにける。「少将、情も深く物の哀れをも知りたる人なれば、『かかる無慙なる事こそありしか』なむど申されば、若しくつろぐ事もや」とたのみをかけて、眇々たる礒を廻りて命を助け、漫々たる海を守りて心をなぐさめてあかしくらし給ひければ、昔、早離即離が南海の絶嶋に放れたりけむも是にはすぎじとぞ覚えし。其は兄弟二人ありければ、なぐさむ方も有りけむ、此の僧都の悲しみはわきまへ遣るべき方もなし。
 少将は九月半すぎて嶋を▼P1487(二六オ)漕ぎ出でて、風をしのぎ波をわけ、浦伝ひ嶋伝ひして、廿三日と云ふには九国の地へ付きにけり。やがて都へ上らむと怱がれけれども、冬にもなりにければ、船の行きかふ事もなかりける上、平宰相の許より重ねて使下りて申しけるは、「去年より彼の嶋におはして、定めて身もつかれ損じ、病も付き給ひぬらむ。寒き空に遥々と上り給はば、上りも付き給はで、道にてあやまちも出できなむず。肥前国加世庄と云ふ所は、味木庄とも名づけたり。彼の所は、教盛が所領なり。此の冬は彼庄におはして、御身をも労りて、明春、風和らかになりて、のどかに上り給へ」と云ひ遣はしたりければ、其の冬は彼の庄にて湯あみなむどして、便の風をぞ待たれける。さるほどに、年もすでに暮れにけり。
六 〔山門の学生と堂衆と合戦の事 付けたり山門滅亡の事〕
 八月六日、学生、義竟四郎を大将軍として、堂衆が坊舎十▼P1488(二六ウ)三宇切り払ひて、そこばくの資財雑物を追捕して、学生、大納言が岡に城廓を構へて立て籠もる。八日、堂衆登山して東陽坊に城廓を構へて、大納言の岡の城に立て籠もる所の学生と合戦す。堂衆八人しころを傾けて城の木戸口へ責め寄せたりけるを、学生、義竟四郎を初めとして六人打ち出でて、一時計り打ち戦ひける程に、八人の堂衆引き退きけるを、義竟四郎打ちしかりて長追ひをしける程に、返し合はせて又打ち組む所に、義竟四郎擲刀の柄を蛭巻の許より打ちをられにけり。腰刀を抜きてはねてかかりけるが、いかがしたりけむ、頸を打ち落とされぬ。大将軍と憑みたる四郎打たれにける上は、学生やがて落ちにけり。
 十日、堂衆、東陽坊を引きて、近江国三ヶ庄に下向して、国中の悪党を語らひ、数▼P1489(二七オ)多の勢を引卒して学生を滅ぼさむとす。堂衆に語らはるる所の悪党と申すは、古盗人・古強盗・山賊・海賊等なり。年来貯へ持ちたる米穀布絹の類を施し与へければ、当国にも限らず、他国よりも聞き伝へて、摂津・河内・大和・山城の武勇の輩、雲霞の如くに集りけりと聞こえしほどに、九月廿日、堂衆数多の勢を相具して登山して、早尾坂に城廓を構へて立て籠もる。学生、不日に押し寄せたりけれども、散々と打ち落とされぬ。安からぬ事に思ひてあがりをがりけれども、甲斐なし。
 大衆公家に奏聞し武家に触れ訴へけるは 「堂衆等、師主の命を背きて悪行を企つる間、衆徒誡めを加ふる処に、諸国の悪徒を相語らひて、山門に発向して、合戦既に度々に及ぶ。学侶多く討たれて仏法忽ちに失せなむとす。早く官兵を差し副へられて追討せらるべし」と申しければ、院より大政入道に▼P1490(二七ウ)仰せらる。入道の家人紀伊国住人湯浅権守宗重を大将軍として、大衆三千人、官兵二千余騎、都合五千余騎の軍兵を差し遣はす。筑紫人、并びに和泉・紀伊国・伊賀・伊勢・摂津・河内の駈武者なり。然るべき者は無かりけり。
 十月四日、学生、官兵を賜はりて、早尾坂の城へ寄す。今度はさりともと思ひけるに、衆徒は官兵をすすめむとす。官兵は衆徒を先立てむと思ひけり。此の如き間、心々にしてはかばかしく責め寄する者もなし。堂衆は執心深く面もふらず戦ひける上に、語らふ所の悪党等、欲心熾盛にして死生不知なる奴原の、各我一人と戦ひければ、官兵も学生も散々に打ち落とされて、戦場にて死者二千余人、手負は数を知らずとぞ聞こえし。
 五日、学生一人も残らず下洛して、あしこここに寄宿しつつ、▼P1491(二八オ)いきつぎ居たり。かかりける間、山上には谷々の講演も悉く断絶し、堂々の行法も皆退転しぬ。修学の窓を閉ぢて、坐禅の床も空しくせり。義竟四郎、神人一庄を押留して知行すとも、強ちに何計りの所得か有らむずるに、敦賀の中山にて恥を見るのみにあらず、取り替えなき命を失ひ、山門の滅亡朝家の御大事に及びぬる事こそあさましけれ。人は能々思慮有るべき物哉とぞ覚ゆる。食欲は必ず身をはむといへり。深く慎むべし。
 十一月五日、学生、上座寛賢威儀師斉明等を大将軍として、堂衆が立籠所の早尾坂の城へ押し寄せて責め戦ふ。しかれども学生夜に入りて追ひ返されて、四方に逃げ失せぬ。学生の方に討たるる者百余人、あさましかりし事共なり。
 其の後は、山門弥よ荒れはてて、西塔の禅衆の外は止住の僧侶希なり▼P1492(二八ウ)けり。当山草創より以来、未だ此くの如き事なし。世の末は、悪は強く善は弱くなれば、行人は強くして、智者の謀も賢かりしは皆ちりぢりに行き別れて、人なき山になりにけり。中堂衆、皆失せにけり。三百余歳の法燈、挑ぐる人もなし。六時不断の香煙も絶えやしぬらむ。堂舎高く聳えて、三重の構を青渓の雲にさしはさみ、棟梁遥かに秀でて、四面の垂木を白露の間に懸けたりき。されども今は供仏を嶺の嵐に任せ、金容を空しき瀝にうるほす。夜の月、燈をかかげて軒の間より漏り、暁の露、玉をつらぬいて蓮座の粧を添ふ。哀れなる哉、学徒、昔は伊王慈悲の室に住み、修学を営むと雖も、今は庸夫蒭蕘の宅に居て、偏へに愁涙に溺る。衰邁の師範は、鳩杖に耐へずして疲れに臨み、幼稚の垂▼P1493(二九オ)髪は、螢雪を翫ばずして闇に迷ふ。現世の仏法、既に滅す。将来の恵命、何かが継がむ。かかりければ、仏前に詣づる僧侶もなし。社壇に拝する社司もなし。
 夫、末代の俗に至りては、三国の仏法も次第に以て衰微せり。遠く天竺の仏跡を訪へば、昔仏の法説き給ひける鷲の御山も竹林精舎も給孤独園も、中古よりは虎狼野干の栖となりはてぬ。祇園精舎の四十九院、名をのみ残して礎あり。白路池には水絶えて、草のみ深く生ひしげり、退凡下乗の卒都婆の銘も霧に朽ちて傾きぬ。振旦の仏法も同じく滅びにき。天台山、五台山、双林寺、玉泉寺も、此の比は住侶なきさまに成りはてて、大小乗の法文は箱の底にぞ朽ちにける。吾が朝の仏法も又同じ。南都の七大寺も皆あれはてて、八宗九宗も跡絶えぬ。瑜伽唯識の両▼P1494(二九ウ)部の外は残れる法文もなく、東大・興福両寺の外は、残れる今は堂舎もなし。愛宕護・高雄の山も昔は堂舎軒をきしりたりしかども、一夜の中に荒れにしかば、今は天狗の棲となりたり。昔、玄弉三蔵、貞元三年の比、仏法を弘めむとして、流沙葱嶺を凌ぎて仏生国へ渡り給ひしに、春秋寒暑一十七年、耳目見聞一百三十八ヶ国、或は三百六十余の国々を見巡り給ひしに、大乗流布の国、僅かに十五ヶ国ぞ有りける。さしも広き月氏の境にだにも、仏法流布の所は有りがたかりけるぞかし。其も今は虎狼のふしどと成りはてぬ。さればやらむ、止事無
かりつる天台の仏法も、治承の今に当たりて滅びはてぬるにやと、心有るきはの人、悲しまずと云ふ事なし。離山しける僧の、中堂の柱に書き付けけるとかや。
  ▼P1495(三〇オ)祈りこし我が立つそまの引きかへて人なき峯となりやはてなむ
伝教大師当山草創の昔、「阿耨たら三藐三菩提の仏達」と祈り申させ給ひける事を思ひ出だし、読みたりけるにやと、いと艶しくこそ聞こえしか。宮の御弟子、法性寺殿の御子、天台座主慈円大僧正、其の時法印にておはしけるが、人しれず此の事を悲しみて、雪の降りたりける朝、尊円阿闍梨が許へ遣はされける。
  いとどしく昔の跡や絶えなむと思ふも悲しけさの白雪
尊円阿闍梨が返事、
  君が名ぞなほあらはれむふる雪の昔の跡は絶えはてぬとも
 堂衆と申すは、学生の所従にて、足駄・尻切なむどとる童部の法師に成りたる、▼P1496(三〇ウ)中間法師共なり。借上・出挙しつつ、切物・寄物の沙汰して得付き、けさ衣きよげに成りて、行人とて、はてには公号を付けて、学生をも物ともせず、大湯屋にも、申の時は堂衆とこそ定められたりけるに、午の時より下りて、学生の後に居て指をさして咲ひければ、「かくやは有るべき」とて、学生共是をとがめければ、堂衆、「我等がなからむ山は山にても有るまじ。学生とて、ともすれば聞きも知らぬ論議と云ふはなむぞ、あなをかし」なむどぞ云ひける。近比、金剛寿院の座主覚尋権僧正治山の時より、三塔に結番して、夏衆とて、仏に花を献りし輩なり。
〔七〕 〔信乃善光寺炎上の事 付けたり彼の如来の事〕
 又、去んぬる三月廿四日、信乃善光寺炎上の由、其の聞こえあり。此の如来と申すは、苦し中天竺毘沙舎離国に五種の悪病発りて、人庶多く亡ぜしに、▼P1497(三一オ)月蓋長者が祈請によりて龍宮城より閻浮檀金を得て、釈尊・阿難長者心を一にして模し顕し給へりし、一〓手半の弥陀の三尊、閻浮第一の霊像也。仏滅度の後、天竺に留りまします事五百歳、仏法東漸の理にて百済国へ渡りましまして、一千歳の後、欽明天皇の御宇に本朝に渡りましましき。其の後、推古天皇の御宇に及びて、信乃国水内の郡、稚麻続真人本太善光、是を安置し奉りてより以降、五百八十余歳、炎上の例、是ぞ初めと聞こえし。王法傾かむとては仏法先づ滅ぶと云へり。さればにや、かやうにさしも止事なき霊寺霊山の多く滅びぬるは、王法の末に臨める瑞相にやとぞ歎きあへる。
〔八〕 〔中宮御産有る事 付けたり諸僧加持の事〕
 十一月十二日、寅の時計りより、中宮御産の気渡らせおはしますとて、▼P1498(三一ウ)天下罵るめる。去月廿七八日の比より、時々其の気渡らせおはしましけれども、取り立てたる御事は無かりけるほどに、此の暁よりは隙なく取りしきらせ給へり。平家の一門は申すに及ばず、関白殿を始め奉りて、公卿・殿上人馳せ参らる。法皇は西面の小門より御幸なる。御験者には房覚・昌雲両僧正、俊尭法印、豪禅・実全両僧都、此の上、法皇も祈り申させ給ひけるにや。
 内大臣は善悪に付けていとさわがぬ人にて、少し日たけて公達あまた引き具して参り給へり。とどろかにぞ見え給ひける。権亮少将惟盛・左少将清経・越前少将資盛なむど遣りつづけさせて、御馬十二疋、御剣七腰、御衣十二両広蓋に入れて相具して参り給へり。きらきらしくぞみえ給ひける。
 女院后宮の御祈りに、時に臨みて▼P1499(三二オ)大赦行はるる事、先例也。且は大治二年九月十一日、待賢門院の御産〈法皇御誕生の時なり〉、大赦行はれき。其の例とて、重科の者十三人寛宥せらるる。
 内裏よりは御使隙なし。右中将通親朝臣・左中将泰通朝臣・左少将隆房朝臣・右衛門権佐経仲朝臣・蔵人所衆滝口等、二三度づつ馳せ参り給ふ。承暦元年には寮の御馬を給ひて是に乗る。今度は其の儀なし。殿上人各車にて参る。所衆なむどぞ騎馬にてはありける。八幡・賀茂・日吉・春日・北野・平野・大原野なむどへ行啓有るべき由、御願を立てらる。啓白は五壇法の降三世壇の大阿闍梨全玄法印とぞ聞こえし。又神社には石清水・賀茂を始め奉りて、北野・平野・稲荷・祇園・今西の宮・東光寺に至るまで四十一ヶ所、仏寺には東大寺・興福寺・延暦・▼P1500(三二ウ)薗城・広隆・円宗寺に至るまで七十四ヶ所の御読経有り。神馬を引かるる事、大神宮・石清水を初め奉りて厳嶋に至るまで、廿三社也。
 内大臣の御馬を進らせらるる事は然るべし。后宮の御せうとにておはします上、父子の御契りなれば。且は寛弘に上東門院御産の時、御堂の関白神馬を奉らる。其の例に相ひ応へり。又、五条大納言邦綱卿、神馬を二疋進らせらる。「然るべからず」と、人々傾きあへり。「志の至りか、徳の余りか」とぞ申しける。
 仁和寺守覚法親王は孔雀経の御修法、山の座主覚快法親王は七仏薬師の法、寺の長吏円恵法親王は金剛童子法、此の外、五大虚空蔵・六観音・一字金輪・五檀法、六字河臨・八字文殊・普賢延命・大熾盛光に至るまで、残る所も無かりき。▼P1501(三三オ)仏師の法印召されて、御等身の七仏薬師并に五大尊の像を造り初めらる。御読経の御剣御衣諸寺諸社へ献らせ給ふ。御使宮の侍の中に有官の輩是を勤む。ひやう文の狩衣に帯剣したる者共の、東の対より南庭に渡りて、西の中門を持ちつづきて出づ。ゆゆしき見物にてぞ有りける。
 相国二位殿はつやつや物も覚え給はず。余りの事にや、物申しければ「ともかくも」とて、あきれてぞおはしける。「さりとも軍の陣ならば、かくしもは臆せじ物を」とぞ、後には入道宣ひける。
 新大納言・西光法師体の御物気、さまざまに申す旨共有りて、御産とみになりやらず。遥かに時剋移りければ、御験者達面々各々に僧伽の句共を上げて、本寺本山の三宝年来所持の本尊責め伏せ奉る。各黒煙を立てて声々にもみ伏せらるる▼P1502(三三ウ)気色、心の内共おしはかられて 「何れも何れも誠にさこそは」と覚えて貴き中に、法皇の御声の出でたりけるこそ、今一きは事代はりて、皆人身の毛竪ちて涙を流しける。躍り狂ふよりましの縛共も、少し打ちしめりたり。其の時、法皇御帳近く居よらせおはしまして仰せの有りけるは、「何なる悪霊なりとも、此の老法師かくて候はむには、争か近付き奉るべき。何に況や、顕るる所の怨霊共、皆丸が朝恩によりて人となりし輩には非ずや。縦ひ報謝の心をこそ存ぜざらめ、豈に障碍を成さむや。其の事然るべからず。速かに罷り退き候へ」とて、「女人生まれ難からん産の時に臨みて、邪魔遮障苦忍び難からんにも、心を至して大悲呪を称誦せば、鬼神退散して安楽に生まれむ」とて、御念珠をさらさらとおしもませおはしましければ、御産やすやすとなりにけり。
 頭の中将重衡朝臣は中宮亮にて▼P1503(三四オ)おはしけるが、御簾の中よりつと出でて、「御産平安、王子御誕生」と高らかに申されたりければ、入道・二位殿は余りのうれしさに声を上げて手を合はせてぞ泣かれける。中々いまいましくぞ覚えし。関白殿下・太政大臣・左大臣以下、公卿・殿上人、諸の御修法の大阿ざり、助修数輩の御験者、陰陽の頭、典薬の頭より始めて、道々の者共堂上堂下の人々、一同にあと悦びける声、どよみにてぞ有りける。しばしはしづまりやらざりけり。内大臣は「天を以て父と為よ、地を以て母と為よ」と祝ひ奉りて、金銭の九十九文御枕におきて、やがて、おとど、御ほぞのをを切り奉り給ふ。故建春門院の御妹あの御方いだき奉らせ給ひ、左衛門督時忠卿の北方洞院殿、御乳母に付き進せ給ひにけり。囲碁手の銭出だされたり。弁靭負佐がかけ物にて是を▼P1504(三四ウ)うつ。是又例有る事にや。
 法皇は新熊野御参詣可有にて怱ぎ出でさせ給て、御車を門外に立てらる。女御・后の御産は常の事なれども、太上法皇の御験者は希代の例か。前代も聞かず、後代にも有りがたかるべし。是は当帝の后にて渡らせ給へば、法皇の御志も浅からぬ上に、猶も太政入道を重く思し食さるる故也。「但し此の事軽々しきに似たり。然るべからず」と申す人々も有りき。「凡そは軽々しき御振舞をば、故女院うけぬ御事に申させおはしましければ、法皇も憚り思し食しけり。今も女院だにも渡らせ給はましかば、申し止め進らせ給ひなまし」と、事のまぎれに古き女房達ささやきあひ給へり。其の上、沙金一千両・富士綿千両を御験者の禄に法皇に進らせられたりけるこそ、弥よ奇異の珍事にてありけれ。▼P1505(三五オ)此の送文を法皇御覧じて、「入道、験者してもすぎつべきよな」とぞ仰せられける。
 陰陽頭泰親以下多く参り集られたりければ、御占さまざま有りけるに、或は 「亥子時」なむど占ひ申すもあり、或は「王女」と申すも有りけるに、泰親朝臣計りぞ、「御産只今也。皇子にて渡らせ給ふべし」と占ひ申したりける。其の詞未だをはらざるに御産なりにけり。さすのみこと申しけるも理りなり。今度の御産にさまざまの事共有りける中に、目出たかりける事は太上法皇の御加持、有りがたかりける御事也。昔染殿の后と申ししは、清和の国母にて一天下をなびかし給へりし程に、紺青鬼と云ふ御物のけに取り籠められて、世の中の人にもさがなくいはれさせ給ふ事侍りけり。智証大師の御時にておはしましければ、様々に加持せられけれども、叶はずしてやみ給ひにけるに、今の▼P1506(三五ウ)法皇の御験者に御物の気の譏嫌の事、返々目出たくぞ覚えし。又、三条院の宇治殿頼通を御聟に取らむとせさせおはしましけるに、御病付きて大事になり給ひて、験者には心誉僧都・明尊阿闍梨、陰陽師には賀茂の光栄・安部の古平なむどをめして、音をあげて罵りけれども、只よはりによはらせましまして引き入らせ給けるを、御堂関白道長公のおはしまして、「日本国に法花経の是程にひろまらせ給ふは我が力也。
このたび我が子の命生けさせ給へ」とて、なみだを流して寿量品を一枚計り読み給ひければ、御しうとの具平親王、物のけにあらはれ給ひて、「子の悲しさは誰も同じ事にてこそあれ。我が子に物を思はせむことの悲しければ、付き奉りたれども、法花経にかたさり奉りて帰り侍りぬ」と宣ひて、御病止みにけり。▼P1507(三六オ)かかる事を思ふには、法皇に御物気の恐れ奉りけるもことはり也。
 又、思はずなりける事は、太政入道のあきれて物も知り給はざりける事。優にやさしかりける事は、小松の大臣の御振舞。本意なかりける事は、右大将の籠居。出仕し給はましかば、いかに目出たからまし。あやしかりつる事は、甑形を姫宮の御誕生のときの様に北の御壺の中へまろばかして、又とりあげて南へ落したりつる事。をかしかりける事は、前の陰陽頭安倍時晴が千度の御祓勤めけるが、或る所の面道にて冠をつきおとして有りけるが、余りにあはてて、其をもしらで、束帯ただしくしたる者が放本鳥にて、さばかり正しき御前へねり出たりけるけしき。かばかりの大事の中に、公卿、殿上人、北面の輩、見物の諸▼P1508(三六ウ)衆、皆悉く腹を切り給へり。たへずして閑所へ逃げ入る人もありけり。
〔九〕 〔御産の時参る人数の事 付けたり不参の人数の事〕
御産の間に参り給ふ人々、先は関白松殿、太政大臣妙音院師長、左大臣大炊御門殿経宗、右大臣月輪殿兼実、内大臣小松殿重盛、左大将実定、源大納言定房、三条大納言実房、土御門大納言郡綱、中御門中納言宗家、按察使資賢、花山院中納言兼雅、左衛門督時忠、中納言資長、別当忠親、左兵衛督成範、右兵衛督頼盛、源中納言雅頼、権中納言実綱、皇太后宮大夫朝房、平宰相教盛、左宰相中将実家、六角宰相中将実守、右大弁長方、左大弁俊経、左京大夫修範、大宰大弐親信、菩提院三位中▼P1509(三七オ)将公衡、新三位中将実清、已上三十三人。右大弁長方の外は直衣也。
 不参の人々、前太政大臣忠雅〈花山院近年出仕無し〉、前大納言実長〈近年出仕せず、布衣を着し、入道宿所に向かはる〉、大宮大納言隆季〈第一娘三位中将兼房卿室、産、去ぬる七日より事有り、仍て不吉の例と存ぜらるる故か〉、右大将宗盛〈去七月、室家逝去の後、出仕せられず、彼の所労の時、大納言并びに大将を辞せらる〉、前治部卿光隆、左三位中将兼房、右二位中将基通、宮内卿永範、七条修理大夫信隆〈所労〉、東宮権大夫朝盛〈所労〉、新三位隆輔、左三位中将隆忠、已上十三人、故障に依りて不参とぞ聞えし。
〔十〕 〔諸僧に勧賞行はるる事〕
 御修法結願して、勧賞行はる。仁和寺法親王は、公家御沙汰にて東寺修造せらるべし。後七日御修法、大元法、并びに灌頂興行せらるべき由、宣下せられける上、御弟子法印覚盛を以て権大僧都に任ぜらる。座▼P1510(三七ウ)主宮は二品并びに牛車の宣旨を申させおはしましけるを、仁和寺法親王支へ申させ給ひけるに依りて、且く御弟子法眼円良を以て法印に叙せらる。此の両事、蔵人頭皇大后宮権大夫光能朝臣奉て是を仰す。醍醐の聖宝僧正の余流、権少僧都実継は、准胝法牛王加持を勤めて大僧都に任ず。此の外の勧賞共、毛挙に遑あらず。
 右大将宗盛の北方、御帯を進らせられたりしかば、御乳母にておはしますべかりしかども、去んぬる七月に失せ給ひにしかば、左衛門督時忠卿北方洞院殿、御めのとに定まりぬ。此の北方と申すは、故中山中納言顕時卿の御娘なり。元は建春門院に候はれき。皇子受禅の後は内侍典侍成り給ひて、輔典侍殿とぞ申しける。中宮は日数経にければ内へ参り給ひぬ。
〔十一〕 〔皇子親王の宣旨蒙り給ふ事〕
 ▼P1511(三八オ)十二月八日、皇子親王の宣旨を下さる。十五日、皇子皇太子に立たせ給ふ。
 十四日、親傅には小松内大臣、大夫には右大将宗盛卿、権大夫には時忠卿ぞなられける。いみじかりし事共也。
 建礼門院、后に立たせ給ひしかば、何にもして皇子誕生ありて位に即け奉り、外祖父にて弥よ世を手に挙らむと思はれければ、入道・二位殿、日吉社に百日の日詣をして祈り申されけれども、其もしるし無かりけるほどに、「さりとも、などか我が祈り申さむに叶はざるべき」とて、殊に憑み進せられたる安芸国の一宮厳嶋社へ月詣を初て祈り申されけるに、三ヶ月が内に中宮ただならず成らせ給ひて、例の厳重の事共有りけるとかや。
 誠に代々の后宮余た渡らせおはしましけれども、皇子誕生の例、希なる事也。后腹の皇子は尤もあらまほしき御事なるべし。
十二 〔白河院三井寺の頼豪に皇子を祈らるる事〕
 ▼P1512(三八ウ)白河院御在位の時、六条右大臣顕房の御娘を、京極大殿猶子にしまゐらせさせ給ひて入内有りしをば、皇后宮賢子の中宮と申しき。其の腹に皇子御誕生あらまほしく思し食されて、三井寺実蔵房阿闍梨頼豪と聞こえし有験の僧を召して、皇子誕生を祈り申させ給ふ。「御願成就せば、勧賞は乞ふによるべし」と仰せ下されたりければ、頼豪「畏りて承りぬ」とて、肝胆を摧きて祈念申しける程に、かひがひしく中宮御懐妊ありて、承保元年十二月十六日、思し食すさまに王子御誕生ありしかば、主上殊に叡感ありて、頼豪を召して「王子誕生の勧賞には何事を申し請はむぞ」と仰せの有りければ、頼豪「別の所望候はず。三井寺に戒壇を建て、年来の本意を遂げ候はむ」と申しければ、主上仰せの有りけ▼P1513(三九オ)るは、「こは何に。かかる勧賞とや思し食されし。我が身に一階僧正をも申すべきかなむどこそ思し食されつるに、是は非分の所望なり。凡そは王子誕生ありて祚を継がしめむ事も、海内無為を思ふ故也。今汝が所望を達せば、山門憤りて世上静かなるべからず。両門の合戦出で来て、天台の仏法忽に滅びてむず」とて、御ゆるされなかりければ、頼豪悪心に住したる気色にて申しける
は、「此の事を申さむとてこそ、老いの波の朝暮、肝胆をば摧き候ひつれ。叶ひ候ふまじからむには、今は思ひ死にこそ候ふなれ」とて、水精の様なる涙をはらはらと流して、泣々三井寺へ罷り帰りつつ、やがて持仏堂に立て龍もりて飲食を断ず。主上是を聞こし食して震襟安からず。朝政を怠らせ給ふに及べり。
 御歎きの余りに、江中納言匡房卿、其の時美作守と申しけるを召して、「頼豪が皇子誕生の勧賞に薗城寺に▼P1514(三九ウ)戒壇建立の事を望み申すを、御ゆるされなしとて悪心を発したる由聞こし食す。汝は師壇の契り深かむ也。罷り向かひて誘へ宥めてむや」と仰せければ、やがて内裏より、装束を改めず、束帯正しくして頼豪が宿坊に罷り向かひてみれば、持仏堂の明障子、護摩の煙にふすぼりて、なにとなく身の毛いよだちておぼえけれども、宣旨の趣を仰せ含めむとて、「かく」と云ひ入れたりけれども、対面もせず、持仏堂に立て籠もりて念珠打ちして有りけるが、良久しく有りて、以ての外にふすぼりかへりたる幕の中よりはい出て、持仏堂の障子をあららかにあけて指し出でたるを見れば、齢九十有余なる僧の白髪長く生ひて、目くぼくぼと落ち入りて、顔の正体もみえわかず、誠におそろしげなる気色にてしはがれたる音にて、「何事をか仰せらるべき。『天子に戯論なし。綸言▼P1515(四〇オ)汗の如し』とこそ承はれ。是程の所望叶ひ候ふまじからむにをいては、祈り出だし奉りて候ふ王子にをきては具し奉りて、只今魔道へ罷り候ひなむず」と計り申して障子を引き立てて入りにければ、匡房卿力
及ばずして帰られにけり。
 頼豪は、七日と申しけるに、持仏堂にて終にひ死にに死にけり。「さしもやは」と思し食しける程に、皇子常は悩ませ給ければ、一乗寺・御室なむど云ふ智証の門人、貴き僧共を召して加持ありけれども叶はず。承暦元年八月六日、皇子四歳にて遂に失せさせ給ひにけり。敦文親王、是也。
 主上殊に歎き思し食して、西京の座主良真大僧都、其の時円融房の大僧都と申して、山門には止事なき人なりけるを召して、此の事を歎き仰せられければ、「いつも我が山の御力にてこそ、加様の御願は成就する事にて候へ。九条右丞相、慈恵僧正に契り申されしにより▼P1516(四〇ウ)てこそ、冷泉院の御誕生も有りしか。なじかは御願成就しましまさざるべき」とて、本山へ返り上りて、両所三聖医王善逝に他念なく祈精申されければ、同三年七月九日、御産平安、皇子誕生有りき。堀川院の御事、是也。是より座主は二間の夜居に候はれけり。思し食すさまに、応徳三年十一月廿六日春宮に立たせ給ひにけり。御歳八歳。同十二月廿九日、御即位。寛治三年正月廿日、御歳十一歳にて御冠服有き。されどもおそろしき事共有りて、御在位廿六年、嘉承二年七月十九日、御歳廿九にて、法皇に先立ちまゐらせて崩御なりにき。是も頼豪が怨霊の至す所とぞ聞こえし。
 さて、頼豪、「山の支へにてこそ、我が宿願は遂げざりしか」とて、大なるねずみとなりて山の聖教を食ひ損じける間、「此のね▼P1517(四一オ)ずみを神と祝ふべし」と僉議ありければ、社を造りて神に祝ひて後、彼のねずみ静まりにけり。東坂本にねずみのほくらと申すは即ち是也。今も山には大なるねずみをば頼豪ねずみとぞ申すなる。頼豪よしなき妄執に牽かれて、多年の行業を捨て、畜趣の報を感じけるこそ悲しけれ。よく慎むべし、よく慎むべし。かくて其の年もくれぬ。
十三 〔丹波少将故大納言の墓に詣づる事〕
 治承三年正月、元三の儀式いつよりも花やかに目出たかりき。誠にさこそ有りけめ。
 丹波少将は、正月廿日比に賀世庄を立ちて京へ上り給ふ。「都にまつ人も、いかに心もとなく思ふらむ」とて怱がれけれども、余寒なほはげしくて海上いたくあれければ、浦伝ひ嶋伝ひして、二月十日比に備前国児嶋へ漕ぎ寄せて、怱ぎ船より下りて、故大納言入道のおはしける所へ尋ね入りて▼P1518(四一ウ)問ひ給ひければ、国人申しけるは、「初めは是の嶋に渡らせ給ひ候ひしが、是は猶悪しかりなむとて、是より北、備前備中両国の境、吉備中山と申す所に有木別所と申す山寺の候ふに、難波太郎俊定と申す者の古屋に渡らせ給ふと承り候ひしが、早昔物語にならせ給ひにき」と申しければ、少将さぞかしと弥よ悲しくおぼして、先づ父大納言のおはしける所を立ち入りて見給へば、柴の庵、竹の編戸を引き立てたりける、あさましき山辺也。岩間を伝ふ水の音、かそかに峯吹きすさむ嵐はげしきを聞き給ふに付けても、いかばかりかは思ひにたへず悲しくおはしけむと、袖もしぼりあへ給はず。
 それより又船にのりて、彼の有木別所へ尋ね入りて見給へば、是又うたてげなるしづの屋也。「かかる所にしばしもおはしける事よ」と、彼までもいたはしくて、内に入りて見廻り給へば、▼P1519(四二オ)古き障子に手習ひしたる所、破れ残りたり。
「哀れ是は故大納言のかかれたるよ」と打ち見給ふに、涙さとうきければ、少将顔に袖を押し当て立ちのきて、「やや、入道殿。共に書きたる物御覧ぜよ」とすすめ給へば、判官入道近く寄りてみれば、「前には海水〓々として、月真如の光りを浮かべ、後ろには巌松森々として、風常楽の響きを奏す。三尊来迎の儀、便り有り。九品往生の望み、足りぬべし。荊鞭蒲朽ちて、螢空しく去りぬ。諌鼓苔深くして、鳥も驚かず。
  かたみとはなに思ひけむ中々にそでこそぬるれ水ぐきのあと
六月廿三日出家。同廿七日信俊下向」とぞ書かれたりける。「故入道殿の御手跡とこそ見進らせ候へ。早御覧候へ」と入道申されければ、▼P1520(四二ウ)少将又立ち寄りて細かに見給ふに、誠に違はず。さてこそ源左衛門尉が下りたりけるよと知り給ひにけれ。信俊が都より下りたりける事を、余りのうれしさにや、常に居られたりける所の西の障子に、其の日並を忘れじとにや、書かれ給ひけると覚えて哀れ也。是をみ給ひけるにこそ、欣求浄土の心もおはしけるにやと、限りなき思ひの中にもいささか心安くはおぼしけれ。父の存生の筆の跡、子として後に見給ひけむ事、跡は千年も有りぬべしとは是やらむと悲しくて、「さて御墓はいづくぞ」と問ひ給へば、「此の屋の後の一村松の本」と申しければ、少将涙を押さへて草葉を別けて尋ね給へば、露も涙も争ひて、ぬれぬ所もなかりけり。其のしるしと見る事もなし。実に誰かは立つべきなれば、卒都婆の形もみえず。只土の少し高くて、八重の葎の引きふたぎ、苔深く▼P1521(四三オ)しげりたる計りぞ、其の跡とも覚えける。少将其の前につひ居給ふより、袖を顔におしあてて涙にむせび給ふ。判官入道も是を見るに、余りに悲しくて、墨染の袖も絞りあへず。
 少将良久しく有りて涙を拭ひて、「さても備中国へ流さるべしと承り候ひしかば、渡らせ給ふ国近きやらむとうれしくて、相見奉るべきにては候はざりしかども、何にとなく憑もしく、うれしく候ひしに、引き違へて薩摩方へ流され候ひて後、彼の嶋にてこそはかなくならせ給ぬと計り、鳥なむどの音信れて通ふる様に、かすかに承り候ひしか。心の内の悲しさはただおしはからせ給ふべし。万里の波濤を凌ぎて鬼界の嶋へ流されにし後は、一日片時、堪へて有るべしとも覚え候はざりしかども、遠き守りと成らせ給ひたりけるやらむ、露命きえやらで、三年を待ちくらして、再び都へ帰り、妻子を見む事はうれしかるべけれども、ながらへて渡らせ▼P1522(四三ウ)給はむを見奉ればこそ、甲斐なき命の有るしるしも候はめ。是まではいそがれつれども、是より後は行く空も有るべしとも覚えず」と、生きたる人に物を云ふ様に、墓の前にて夜終泣き給ひて、しげき涙のひまより、
  まれに来てみるも悲しき松風を苔の下にやたえず聞くらむ
と詠めてくどき給へども、春風にそよぐ松の響き計りにて、亡魂なれば、答ふる人も更になし。歳去り年来れども、撫育の昔の恩を忘れ難し。夢の如く、幻の如くして、恋慕の今の涙を尽くし難し。容を求むとも見えず、只苔底の朽骨を想像らる。声を尋ぬとも答ふるもの無し、又徒らに墳墓の松風をのみ聞くこそ悲しけれ。
 「成経参りたりと聞き給はむには、いかなる火の中、水の底におはすとも、などか一言の御返事なかるべき。縦ひ御不審を蒙りたりとも、生きておはしまさむには、其の憑みも有りぬべし。▼P1523(四四オ)生を隔つる習ひこそ悲しけれ」と宣ひて、泣々旧苔を打ち払ひ、墓をつき、父の御為にとて、道すがら造り持たせられたりける卒都婆取り寄せて、「聖霊決定生極楽」と云ふ文の下に、「孝子成経」と自筆に書き給ふ。其の卒都婆の本に、判官入道一首あり。
 朽ちはてぬ其の名ばかりは有木にて昔がたりに成近のさと
さて、墓に立てて釘貫しまはして、「又参らむと思へども、参らぬ事もこそあれ」とて、墓の前に仮屋造りて、七日七夜不断念仏申して、「過去聖霊、成等正覚、頓証菩提」と祈り給ふ。草の影にても、いかに哀れと思ひ給ふらむとて、さても有るべきならねば、泣々尊霊に暇申して、備前国をも漕ぎ出で給ひにけり。苔の下にもいかばかり余波は惜しくおぼされけむ。都の漸く近付くに▼P1524(四四ウ)付けても哀れはつきせずぞ覚えし。
十四 〔宗盛大納言と大将とを辞さるる事〕
 二月廿六日、宗盛卿大納言大将を辞し申さる。上表に云はく、
  臣宗盛申す。去年十月三日、臣に授くるに内大臣を以てす。臣に賜ふに随身兵杖を以てす。改めて表す。たく倍々あふれ、蜘蛛弥よ重し。臣聞く、大臣は四海の舟楫なり、明徹を撰びて任ずべし。闇愚の居るべきにあらず。爰を以て、いむけい、しとに登る。こかうを敷き、はせいを調ふ。夏の禹しようを司どる、すいどを平げ、愁吟を分かつ。爰に即ち、芸才ある者は委するに佻人を以てすべからず。聡智ある者は責むるに大節を以てすべからず。せうれうの備勤也、争か水鳥の翅を学ばむ。どたいのかぜうなり、半漢の蹄を追ひがたし。縦ひ、やうせきりむのじゆむを受くるとも、寧ろ、きよせむの要たらむ哉。縦ひ、じよなむゑむもむが▼P1525(四五オ)塵を伝ふとも、誰か大廈の師と云はむ。伏して願はくは、陛下、此の度陽の職を閉ぢて、彼の聖智の人を用ゐよ。右衛府を本府に還し、じやうきの忠勤をいたさしめよ。平栄の心堪えず。謹みて以て拝表違分す。臣宗盛、誠惶誠恐頓首謹言。
とぞ書かれたりける。今年卅三に成り給ふ。重厄の慎の為とぞ聞こえし。
 然れども、十二月二日、宗盛卿、大納言・大将両官辞状を返し給はる。去んぬる二月に両官を辞し申したりしかども、君も御憚りをなさせましまして、臣下にも授けさせ給はず、臣も其の畏れをなして望み申されず。三条大納言実房・花山院中納言兼雅も、哀れとは思ひ給ひけれども、詞をも出だし給はざりけるに、宗盛卿、右大将并びに大納言に成り返り給ひたりければ、人々さればこそと思し食したりけり。
▼P1526(四五ウ)十五 〔成経鳥羽に付く事〕
 三月十六日、少将未だあかく鳥羽に着き給へり。今夜六波羅の宿所へ怱ぎ行かばやと思ひけれども、三年が間余りにやせ衰へたりつる有様を人々にみえん事もさすがにはづかしくて、宰相の許へ文にて、「是まではとかくして付きてこそ候へ。ひるは見苦しく候ふに、ふくる程に牛車賜るべし」と申されたりければ、宰相の許には「少将上り給ふべき比も今は近く成りたるに、いかに遅きやらむ」と、心本なさに、室・兵庫に人を置きてぞ待たれける。少将殿御文とて鳥羽へ着き給へるよし、青侍来たりて申したりければ、宰相を初め奉りて、高きも卑しきも悦び給へり。福原へ召し下され給ひし時の御歎きの涙よりも、只今上り給ふ由聞き給ひけるうれしさの御涙は、遥かにまさりたり。局々の女房・女童部までも、少将の御文を聞きては、「ひるはいかなぞや。必ずしもふけて入らせ給ふべきや」とて、▼P1527(四六オ)三年の間もさてこそおはせしに、暮るる空も心本なく立ちさわぎ、「猶夢の心地こそすれや」とて、心本なげにぞ申し相ひける。新大納言の宿所は、都の内にも限らず、片田舎にも余た有りける中に、鳥羽の田中の山庄、眺望余りにすぐれて林形水色興を増し、哀れを催す所也ければ、大納言秘蔵して洲浜
殿と名づけて住吉の住の江を写して造られたり。去んぬる応保二年十一月廿一日、事始め有りて、同三年に造畢ありて、廿一日と申ししに、法皇の御幸なる。大納言面目極まり無しと思はれければ、さまざまにもてなしまゐらせて、法皇の御引出物に八葉の御車を壱岐太とて秘蔵せられたる御牛にかけて参らせらる。其の外、公卿・殿上人、上北面・下北面、御力者・舎人・牛飼に至るまで、色々さまざまの引出物、いくらと云ふかずをしらず▼P1528(四六ウ)せられたりければ、諸人悉く耳目を驚かしけり。
 そもくれにければ、終夜の御酒宴ありけるに、夜深け人定まりて後、一つの不思議あり。法皇南庭を御覧じいだして渡らせ給ひけるに、御〓の端に齢ひ八十有余なる老翁、白髪をいただいて、立烏帽子しりひきにきなして、すそは〓の袴に下緒を、上は絹文叉の狩衣の以ての外にすすけたる、たをやかにきて、跪きて爪笏とりて畏りて居たり。余の人はかかる人ありとも見知りたる気色もなし。法皇、御目を懸けさせおはしまして、「あれは何なる者ぞ」と御尋ね有りければ、しわがれたる老音にて、「これは住吉の辺りに候ふ小允にて候ふが、君に訴へ申すべき事候ひて、恐れをかへりみず推参仕りて候ふなり。我が年比秘蔵して朝夕愛し候ふ住吉に、▼P1529(四七オ)住江と申すところを、此の亭に移され候ひし間、住の江無下にあさまに成りて、無がしろになりはて候ひなむと存じ候ひて、其の子細を歎き申し候はむとて、よひより参りて候ひつれども、見参に入るる人も候はぬあひだ、夜将に曙けんとし候ふほどに、直奏仕り候ふ事は恐れ入りて候ふ。詮ずる所、此の由を能く能く仰せ含めらるべくや候ふらむ。かやうに申し入れ候はんを、若し御用ゐ候はずは、常に参りかよひ候はむずれば、其の上は御ぱからひ」とて
、南をさして飛び去りぬ。
 法皇不思議かなと思し食されけれども、御披露におよばず。其の上、御酔乱の程なりければ、後には思し食し忘れさせ給ひけるにや。大納言常に宿して山水木立面白き所なればとて、上皇ときどき御幸ならせ給ひて、さまざまの御遊宴有りければ、住吉の霊幣なるにや、次年の夏の比をひ、住吉▼P1530(四七ウ)大明神の御とがめとて、上皇常に御なやみ渡らせ御坐しければ、御存命のために御出家ありけりとぞ聞こえし。されば、成親卿も彼の明神の御たたりにて、幾程無くして備前国の配所へ下られける。其の後は彼の所もあれはてて、今は野干の棲とぞみえし。住吉の大明神の領ぜさせおはしましけるとおぼしくて、殊更怖ろしくぞ覚えし。
 されば、丹波少将も三年の間配所におはせしかば、今すこしもいそぎ都へ上りて、恋しき人々を見もし又みえばやとは思はれけれども、彼の田中の山庄をば父大納言随分秘蔵して、私には洲浜殿と名づけて造り置かれたりし亭也とて、少将彼の洲浜殿に指し入りて見給へば、築地は有れどもおほひなく、門は有れども扉もなし。屋数は所々残りたれども、しとみ遣戸もなし。▼P1531(四八オ)羅門乱れて地に落ちて、唐垣破れてつたしげれり。庭には見るとも覚えぬ千草のみしげりて、「いとど深草のとやなりなむ」と詠ぜし事を思ひて、「野とならばうづらとなりて鳴きをらむ」と誰か云ひけむと哀也。比はやよひの中の六日の事なれば、春も既にくれなむとす。百囀の宮の鴬の声も既に老いたり。楊梅桃李の色々もをりしりがをにさきたれども、詠ぜし人も今はなし。射山仙洞の水湊を詠むれば、白浪折りかけて紫鴛白鴎避遥す。興ぜし人の恋しさに、いとど哀ぞ増さりける。南楼の木村には嵐のみをとづれて夢をさます友となり、木の間漏る月の袖に宿るも余波を惜しむかと覚えたり。梢の花の落ちのこりたりけるも、猶なごり有りとみゆるに、などや父の余波のなかるらむ。
 さて、少将亡屋へ立ち入りて見給へば、「ここは妻戸なりしかば、と▼P1532(四八ウ)こそ出で給ひしか。彼は遣戸なりしかば、かうこそ入り給ひしか」と、日終に泣きくらして、寝殿の軒近く、大納言の秘蔵して手づからうゑられたりし梅の本に立ち依りて、古詩を思ひ出でてぞ詠じ給ひける。
  桃李言はず、春幾か暮れぬ。煙霞跡無し、昔誰か栖みし。
  人はいさ心もしらずふるさとの花ぞ昔にかはらざりける
十六 〔少将判官入道入洛の事〕
 さる程に、「宰相の許より御迎へに牛車参りたり」と申しければ、少将判官入道怱ぎ同車して、轅を北へぞ向けられける。さても漕ぎ出でにし油黄嶋の堪へがたく悲しかりける事、僧都残し捨てられて歎き悲しむらむ有様、我等があらましの熊野詣のしるしにや、再び都へ帰り上りぬる事のありがたさなむど、互に宣ひ通はして、各袖をぞ絞られける。
 判官入道申しけ▼P1533(四九オ)るは、「昔し召し仕ひし下人、東山双林寺と申す処に候ひき。未だながらへて候はば、其に草庵結びて、今は一向後生菩提のいとなみより外は他事候ふまじ。若し真如堂・雲居寺なむどへ御参詣の次には、必ず御尋ね候へ。性照も世しづまり候ひなば、常には六波羅殿へも参り候ふべし。此の三年の間、うかりし嶋の中にて、朝夕一所にてなれまゐらせて候ひし御遺りこそ、いかならむ世までもわすれまゐらせ候ふべしとも覚え候はね」なむど申して、七条東の朱雀より下りて、東山へとてぞ行きにける。判官入道は其より東山へ行きけるが、取つてかへし、北山紫野の母の宿所へぞまかりける。一乗所感の身なりしかば、前世の機縁も浅からずこそ、互ひに思ひしられけれ。
 丹波少将は六波羅へおはしつきたれば、先づ宰相を始め奉りて、悦び給ふ事なのめならず。▼P1534(四九ウ)我がすみ給ひし方へおはして見給へば、かけならべたりし御簾も、立てならべたりし屏風までもはたらかず、昔のままなり。乳母の六条が黒かりし髪も白みて見ゆ。「ことわりや。物おもへば一夜の内に白くなるなれば、今年三年が間、我が事をひまなく歎きけるに、みどりなりしかみの白くなりたるも理なり」とぞ思はれける。「足柄の明神の他国へわたらせ給ひて、返り入らせ給ひて、妻の明神を御らむじ給へば、白くきよらかに肥えて渡らせ給ひければ、我が御事をば思ひ給はざりけむと思し食して、『恋せずもありぬべし、恋せばやせもしぬべし』とうたがはせ給ひて、かきけつやうにうせさせ給ひにけり」と伝へ聞き給ふに、今少将北方を見奉るに、物思ひ給ひたりとおぼしくて、事の外にやせおとろへて見え給ふ。「我が事思ひわすれ給はざ▼P1535(五〇オ)りけり」と思ひ遣られて、「彼の足柄の明神の妻の神には事の外に相違し給へる物哉」と、いとど哀れにぞおもはれける。又、源氏の大将の、すま明石の浦伝して都帰りの有りし後、よもぎのもとにわけ入りて、
  たづねても我こそとはめみちもなく深きよもぎのもとの心を
と、よみ給ひけむ事までも、少将我身の上に思ひ知られて哀れなり。
 流されし時、四つにて別れにし若君、をとなしくなりて、髪おひのび、肩のまはり打ち過ぎて、ゆふほどになりたり。朝夕歎き沙汰する事なれば、なじかはわすれ給ふべきなれば、父の入り給ふと聞き給ふ上、見わすれ給はざりけるにや、いつしかなつかしげにおぼして、少将の御ひざ近く居より給へり。又三つばかりなる少き人の、北方の御そばにより居給へり。少将「あの人はたそ」と問ひ給ひければ、北方「これこそは」とのたま▼P1536(五〇ウ)ひけるより外は、又ものもえ宣はず、打ち臥して泣かれければ、其の時少将、「我が油黄嶋へ流されし時、心苦しく見え置きしが、生まれて人となりにけるよ」とぞ心得られける。此を見、彼を見るに付けても、悲しさのみいとど深くなりて、なぐさむ方もなかりけり。少将は、「油黄嶋にて、北方の歎き給ふらむ事、乳母の六条が悲しむらむ事、少き人々のこざかしくなりたるらむと思ひをこせて心のひまのなかりし」と語りて泣き給へば、北方は「未だみぬ油黄嶋とかやも、いかがして尋ね行かむずると、かなはぬ物ゆゑあさゆふ思ひ遣り奉りし心の中、只おぼしめしやらせ給へ」とて、其の夜は互ひに泣きぞあかされける。
 昔もろこしに、漢の明帝の時劉晨阮肇と云ひし二人の者、永平十五年に、薬を取らむが為に、二人ながら天台山へ登りけるが、帰らむとするに▼P1537(五一オ)路を失ひて山の中に迷ひしに、谷河より盃の流れ出でしを見付けて、人の栖の近き事を心得て、其の水上をたづねつつ行く事、幾程を経ずして一つの仙家に入れり。楼閣重畳として、草木皆春の景気なり。然して後に帰らむ事を望みしかば、仙人出でて返るべき道を教ふ。各の怱ぎ山を出でて、己が里を顧みれば、人も栖も悉くありしにもあらずなりにけり。あさましく悲しく覚えて、委しく行へを尋ぬれば、「我は昔山に入りて失せにし人の其の余波、七世の孫也」とぞ答へける。少将今度宿所の荒れにける有様、此の少き人共の人となり給へるをみられけるこそ、彼の仙家より帰りけむ人の心地して、夢の様にぞ思われける。
 少将いつしか御所へ参りて、君をも見奉らばやと思はれけれども、恐れをなして左右無くも参り給はず。法皇も御覧ぜばやと思し食されけれども、世に御憚り有りて召さるる▼P1538(五一ウ)事なかりけり。されども終には召し仕へて、宰相の中将までなられけるとぞ聞こえし。
十七 〔判官入道紫野の母の許へ行く事〕
 判官入道は七条河原より暇申して、北山紫野母の宿所へ行きて、有りしすみかをみれば、やどはあれはてて人もなし。余のいぶせさに、隣の小屋に立ち依りて、下種女に此の事を問ひければ、内より立ち出でて答へけるは、「さる人はこれにおはせしが、御身遠流の後は其の事のみ歎き給ひしほどに、去年の七月の末つかた、赦免と聞きしかば、なのめならず喜びて、いまやいまやと待ち給ひしほどに、去年も空しく過ぎぬ、今年もすでに三月に成るまで見え給はねば、「嶋にて思ひに消え給ひけるか、道にて又いかなる事にもあひてうせにけるやらむ」と、そぞろに御なげきありしが、此月の始めつかた、賀茂に七日の御参籠ありき。御下向の後は此の御思ひの積りにや、常になやみ給ひしが、次第に病も大事に▼P1539(五二オ)成りて、昔語りと成り給ひて、今日五日に成る」とぞ申しける。康頼此の事を聞きて、「中々なにしに都へ上りける。よもの神仏にも今一度母をみむとこそ祈りしに、空しき御事の悲しさよ」とて、そぞろに袖をぞ絞りける。そこをば泣々出でて、東山双林寺の旧跡に行きて、つくづくと詠めをりて、さよふくるままにいとど心もすみければ、
ふるさとの軒のいたまに苔むして思ひしよりももらぬ月かな
十八 〔有王丸油黄島へ尋ね行く事〕
 俊寛僧都は此の人々にも捨てられ、嶋の栖守となりはてて、事問ふ人も無かりければ、油黄嶋に只独り迷ひ行きけり。僧都の世におはせし時、兄弟三人少きより召し仕ふ者、粟田口の辺に有りけり。大兄は法師にて法勝寺の一預にて有りけり。次郎は亀王、三郎は有王丸とて、二人ながら大童子にてぞ有りける。亀王丸、僧都の流され給ひし時、淀におはしける所へ尋ね行きて、「最後の▼P1540(五二ウ)御共、是が限りにて候へば、いづくまでも参り候ふべし」と泣々申したりければ、「誠に主従の芳契、昔も今も浅からず、多の者共ありしかども、世中に恐れて問ひ来る者一人もなけれども、恨みと思ふべきにあらず。余の中に尋ね来て、かく云ふ志の程こそ返す返す哀れなれ。但し我一人にも限らず、丹波少将・判官入道なむども、人一人も随はずなむどこそきけ。皆薩摩国油黄嶋とかやへ流さるべしと聞けば、命の有らむ事もかたし。道の程にてもやはかなくならむずらむ。我身の事はさてをきつ。都に残り留まる女房少者共の心苦さ、思ふはかりなし。彼の者共に付きて、朝夕の杖柱ともなれ。我に付きたらむに露をとるまじ。とくとく帰れ」と宣ひける程に、宣旨の御使・六はらの使、「何事を申す童ぞ」と怪しみ尋
ねければ、恐ろしさの余りに亀王泣く泣く都へ帰り上りにけり。
 同じき▼P1541(五三オ)弟有王丸と申す童は、僧都に別れ奉りて後は又宮仕ふる方もなくて、或は大原・しづ原・嵯峨・法輪の方へ迷ひ行きて、嶺の花をつみ、谷の水を結びて、山々寺々の仏に奉りて、「我が主に今一度合はせ給へ」と泣く泣く祈り申しけるが、「少将・判官入道、都帰り有り」と聞きて、「我が主のゆくへ何になり給ひぬらむ」と思ふも悲しくて、少将の辺に尋ねければ、「御上りまで、流黄嶋に僧都御房渡らせ給ひけるとこそ承れ」と人申しければ、「されば未だ死に給はずおはするにこそ。誰はぐくみ、誰哀み奉るらむ」と悲しく覚えて、父母にも知られず、親しき者共にもかくともいはず、只一人都を出でて、遥々とまだしらぬ薩摩方へぞ下りける。淀川尻の程より、「油黄嶋へはいづちへ罷るぞ」と問ひ、足に任せてぞ下りける。道すがら、あやしの者のあひたるにも、「我が主もかくこそおはすら▼P1542(五三ウ)め」と思ひ、或る時は海上に便りを求め、或る時は山川にも迷ふ時もあり。日数やうやう積りければ、百余日計りに彼の嶋へたどり付きにけり。
 いそぎ船より下りてみれば、日来都にて聞きしには過ぎて、おそろし悲し。田も無く畠もなし。村もなく郷もなし。山の嶺に焼へ登る煙り、野沢に落ちさかる電の音、何事に付けても絶へて有るべき様もなし。されども、主の行への悲しさに、奥さまに尋ね行く程に、嶋人と覚しくて適ま相へる者は、此の土の人にもにず、木の皮を額に巻たる者、赤はだかにて〓鼻ばかりかきたるが、長六七尺もやあるらむと覚ゆる者、二三人相ひたりければ、生きながら冥途にたづね行きたる心地して、生きて故郷へ帰るべしとも覚えず。さりながらも、「此の嶋に一年せ法勝寺執行僧都御房と申す人の流されておはしまししは、▼P1543(五四オ)未だおはするか」と問ひたりければ、理や、法勝寺の執行僧都とも、争かしるべきなれば、答ふるに及ばず、頭をふりて自ら云ふ事も聞き別かず。「しらずしらず」とのみ云ひ捨てぞ通りける。さるにてもと思ひて、又相へる者に、「流人とてありし人は」と尋ねけるに、其の度は少し心得たりけるやらむ、「いさとよ、さる人みえしが、二人は過ぎにし比都へとて帰り上りき。今一人はいづくともなく迷ひ行きしが、行へをしらず」とぞ答ける。是を聞くに、いとど心憂しとも愚かなり。
 若しやとて、遥かに山へぞ尋ね入りにける。山を越え過ぎたれば、眇々とある野に至る。野中に松一本ありけるに、日も既にくれにければ、今夜はここに明かさむとて、松の本へぞ立ち寄りける。松高くしては、風旅人の夢を破ると覚えたり。鶏楼の山も明け行けば、洞戸に鳥は返るとも、眼に遮る物もなし。一樹の影にやどるといふは理すぎ▼P1544(五四ウ)たり。我は都の者也、松は薩摩方野中にあり。こよひ此にあかしつるこそ一樹の影の契りなれ。今はなれなむ後、いつか又返り来むなれども、かくて有るべきならねば、云へども答へぬ松にいとまを乞ひて、又足に任せて尋ね行く程に、浪よせかくるみぎはへぞ出でにける。
 此の間は打ちつづき空かきくらしはげしかりけるが、今日は日もうららかに波風も和かなり。塩干方をいづくをさすともなく遥かにたづね行きけれども、船も人も通へるけしきもみえぬ荒いそなりければ、砂頭に印をきざむかもめ、奥の白すにすだく浜千鳥の外は、跡ふみ付けたる形もなし。猶遥かに礒の方を見渡せば、人か人に非ざるか、かげろふの如くなる者、あゆむやうにはしけれども、一所にのみ見へけるを、「あやしや何やらむ」と覚え、おそろしながら、さすがにゆかしかりければ、且は物語にも▼P1545(五五オ)せむと思ひて、近くよりてみれば、かみは空さまに立ちあがりて、さまざまの塵もくづ取り付きたれども、打ち払へる気色もなかりければ、をどろをいただけるが如し。衣装は絹・布とも見え別かぬを、腰のまはりに結ひ集めて、あらめと云ふ物をはさみ、左右の手にはなましき魚の少きを二つ三つにぎりて、はげうであゆむ様にはしけれども、余りに力なげにて、よろよろとして、砂に只一所にゆるぎ立ちたる者一人あり。
 童思ひけるは、「かはゆの者の有様や。非人乞凶の中にも、未だかかるさましたる者こそみざりつれ。此の嶋の非人にてこそ有らめ。さても我が主の御行へを尋ぬれば、罪深き御事にて、生きながら餓鬼道にばし落ち給ひたるやらむ。餓鬼城の果報こそ、かかるさまはしたるなれ」なむど、さまざまに思ふに、いとど悲しくて、且は哀れみ、且は懺悔す。さるにても若しや知りたると思ひて、「此の嶋へ▼P1546(五五ウ)三人流され給ひし人、二人はゆりて上り給ひにき。今一人、法勝寺の執行御房と云ふ僧のおはするは、いづくにおはするぞ」と、かきくどき問ひたりければ、僧都是をみ給ふに、「我が身能く衰へはてにけり。されども、目もくれ心もかはらねば、我が召し仕ひし童なり」。童は主を見忘れたり、主は童は見忘れねば、「我こそそなれ」と云ひたけれども、果報こそつたなく、かかる身にならめ、心さへかはりにけりと、童が思はむもはづかし。中にも生しき魚をにぎり、腰にあらめを付けたる事も、あまりにはづかしく悲しくて、「只しらぬ様にて過ぎ行きなばや」と千度百度思へども、「此の嶋にて、只の都人の行き逢ひたらむそら、うれしさは限りなかるべし。まして是は、年来朝暮に召し仕ひし童なり
。なじかははづかしかるべき」と思ひ返して、手ににぎりたる魚をいそぎ投げすてて、「あれは有王丸か、いかにしてこれまで尋ね▼P1547(五六オ)来るぞや。我こそ然なれ」と泣く泣く宣ひて、たふれふし、足ずりをしてをめきさけび給ふに、童つやつや見知らざりけれども、「有王丸か」とよび給ふに「さては我が主なりけり」と思ふより、同じくたふれ臥して、音を合はせて共に泣く。二人ながら時をうつして、涙に咽びて、互ひに物もいはず。
 良久しくありて、僧都おきあがりて、「さればよ、なにとして尋ね来れるぞ。此の事こそ、少しもうつつともおぼえね。あけてもくれても都の事をのみ思ひゐたれば、恋しき者共は面かげに立つ時もあり、幻にみゆる時もあり。身もかくよはりにし後は、夢もうつつもさだかに思ひわかれず。されば汝が来れるをも、只夢かとのみこそ思へ。若し又天魔波旬の我が心をたぶらかさむとて汝が形に変じて来れるかとまで覚ゆるぞ。若し此の事夢ならば、さめての後はいかがせむ」とて又泣かれければ、有王丸、「うつつにて候ふぞ。御心安く▼P1548(五六ウ)思し食され候へ」と申しければ、僧都少し心落ち居て、童が手を取り組みて又宣ひけるは、「此の嶋は多くの海山隔てて雲居のよそなれば、おぼろけにては人の通ふ事もなし。されば、都の事づても有がたし。少将・判官入道ありし程は、昔物語をもして互ひになぐさみき。少将も入道も召し返されて、我が身一人残り留まる上は、一日片時も堪へて有るべしとは思はざりしが、甲斐なき命のながらへてありけるは、今一度汝をも見、汝にもみゆべかりける故にこそありけれ。是程の身の有様なれば、何事もおぼゆまじけれども、故郷に残り留まる者共の事、常に思ひ出でら
れて、忘るる時の隙もなければ、我に人一人従ひ付きたらば問はまほしくこそ覚ゆれ。心強くもこの三年は問はざりつる物哉」と恨み給へば、童涙を押へて申しけるは、「父母にも▼P1549(五七オ)申さず、親しき者共にもしらせ候はで、只独り都を罷り出でて、遥かの海山をわけすぎ、かかるあさましき配所へ尋ね参りぬるも、昔の御体を今一度や見奉るとて、はるばると尋ね参りたれども、今の御体を見まゐらせ候ふに、日比都にてゆくへを思ひ遣りまゐらせ候ひつるは、事のかずならざりけり。まのあたり御有様を見まゐらせ候ふに、命生きて御宮仕へ申すべしとも覚え候はず。されば何かなる御罪のむくひにて渡らせ給ひけるぞや。さても都の御有様、ことも愚かなる御事と思し食され候ふかや。君の西八条へ召籠られさせ給し後は、御あたりの人々と申す者をば、とらへからめ、ほだしを打ち、楼囚獄にこめられ、家烟を追捕し、屋骨をこぼち取られて、謀叛の事を責め問はれ候ひしかば、跡形も候はず、皆諸国七道へ落ち失せ候ひぬ。女房も鞍馬の▼P1550(五七ウ)奥に少き人々具しまゐらせて忍びて渡らせ給ひ候しが、あけてもくれても御歎き浅からずみえさせ給ひし程に、御歎きの積りにや、なにとなくなや
ませ給ひて、こぞの冬、終に失せさせ給ひ候ひにき。若君は、『父のわたらせ給ふ所はいづくやらむ、いかなる所と知らする人だにあらば、尋ね参りて見まゐらせむ』と、つねには仰せの候ひしを、母御前、『あなかしこしらすな、知らせたらば、少き心にいづちともなく走り出でたらむほどに、嶋へも尋ね行かず、是へも帰らず、道にて失せむ事の悲しきに」と、仰せの候ひしかば、知らせまゐらする人も候はざりしほどに、人のし相ひ候ひしもがさと申す事をわづらわせ給ひて、すぎにし五月に失せさせ給ひにき。姫君ばかりこそ、いまだ渡らせ給へ。母御前に後れまゐらせさせ給ひて、後には都の御すまひも叶ひ候はず、奈良のをば御前の御許に渡らせ給ひ▼P1551(五八オ)候ふ。是へまかりくだりさまに、奈良へ参りて、「君の御ゆくへの悲しく思ひまゐらせ候ふ時に、嶋へ尋ね参り候ふ。御事付けや候ふ」と申し入れて候ひしかば、昔は争か只御声をも承り候ふべきなれども、はし近く居出でさせ給ひて、『あはれ、女の身程心うかりける物はあらじ。父の恋しさは譬へむ方はなけれども、男子の身ならねば、かなはぬ事こそ口惜しけれ。多くの人の中に、をのれ一人しも尋ねまゐらむことのうれしさよ。今日より後、仏
神に詣でては、我が身の祈りをば申すまじ。構へて平らかに参り付けと、汝が祈りをせむずるぞ。自ら平かに参り付きたらば、是まゐらせよ。世の代はりたる哀れさに、筆の立て所もおぼえ候はず。余りに涙がこぼれて、泣く泣く書きて候へば、文字の形にても候はじなれば、あそばしにくくこそ渡らせ給はむずらめとまうせ』とこそ仰せ候ひしか。『薩摩の地にて、あやしき文や持ちたるとさがす』と、人のおど▼P1552(五八ウ)し候ひしおそろしさに、恐れながら本ゆいの中へしこめて参りて候ふ』とて、取り出でて奉りたりければ、僧都、姫君の文を取りて、涙を押しのごひて見給ふに、文字もあざやかに、詞もおとなしく書きたり。
 其の詞に云はく、「其の後、便り少くなりはてて、御行へをもしりまゐらせ候はず。如何なる罪のむくひにて三人流されさせ給たる人の二人はゆるされて召し返され給ふに、御身ひとり残り留まらせ給ふ事の悲しさよ。御ゆかりの人をばとらへからむると申ししかば、おぢおそれて今は都には一人も候はず。されば草のゆかりもかれはててあれば、糸惜しと申す者も候はず。公達も召しとらるべしと聞こえ候ひしかば、母御前は鞍馬の奥とかやに忍びて渡らせ給ひしほどに、御事をのみ朝ゆふ歎き申させ給ひしが、積りて病にならせ給ひたりしかば、せうとと二人、とかくなぐさめ申しし▼P1553(五九オ)かども、日にそへて重くのみなりて、遂にはかなくならせ給ひ候ひぬ。母御前にをくれまひらせ候ふは我一人の事ならず、そひはてぬ世のうらめしさ、人ごとの習ひと思ひなされ候へば、自らなぐさむ方も候ふ。父に生きながら別れまゐらせて、国々をへだて、波をわけ、薩摩潟まではるばると思ひ遣りまゐらせ候ふ心の中の悲しさ、只おしはからせ給ふべし。生きての別れ、死しての悲しさ、せうとと二人、ひるは終日に泣きくらし、夜は夜終ら泣きあかし候ひしほどに、せうとも人のしあひて候ひしもがさと云ふ物をして
、此の春失せ候ひにき。歎きの程、只おしはからせ給ひ候へ。故母御前の、「我死なば、いかにしてながらへてあらむずらむと思ふこそ悲しけれ。自らの便りには、奈良の里にをばと云ふ者のあるぞ。いかにもして尋ね行け」と、最後の時に仰せ候ひしかば、当時はならのをばの御許に▼P1554(五九ウ)候ふ也。などや、この三年は有りとも無しとも問はせ給はぬぞ。是に付けても女の身こそ今更に口惜しけれ。をのこごの身なりせば、などか鬼海・高麗とかやにおはすとも、尋ねまゐらざるべき。童をば誰に預け、いかになれと思し食すぞや。こひしとも恋し、ゆかしともゆかし。とくとくしていかにもして上らせ給へ。あなかしこ、あなかしこ」と、うらがきはしがきまで、うすくこくさまざまに書き給へり。
 僧都此の文をむねに当て顔にあてて、悲しみ給ふ事限りなし。「此の嶋に放たれて、今年三年にこそなれ。姫君も今年は十二になるとこそ覚ゆるに、今はおとなしくこそ有るべきに、猶をさなかりける物かな。此の心ばへにては、争か人にもみえ、宮仕へをもして、身をも助くべき。『とくして上れ』とは何事ぞ。打ち任せたる田舎下りとこそ覚えたれ。心に任せたる道ならば、などか今▼P1555(六〇オ)まで上らざるべき。はかなの者の書き様や」とて、恩愛の習ひの悲しさは、我が身の上を閣きて、娘の事を云ひつづけて今更又泣かれけるこそ無慙なれ。童是を見て、「遥かに思ひ遣り奉りけるは事の数ならざりけり。中々よしなく下りにける物かな。かばかり無慚の事こそなけれ」とぞ思ひける。
 僧都又宣けるは、「此嶋に残し捨てられにし後は、片時たへて有べしとも思はざりしに、露の命消えやらで今日までながらへて有つる事こそ不思議なれ。汝一人を見たるを以て、都の人を皆見たる心地す。我はかかる罪人なれば、云ふに及ばず。今はとくとく帰り上りね。『一人も付かざりしに、京より人渡りて扱ひ侍るなり』と聞こえなば、まさる咎にもぞ当たる」と宣へば、童爪弾きをはたはたとして、「穴うたての御心や。其程の御身の有様にても、猶世の▼P1556(六〇ウ)恐ろしく思し食され候ふか。又御命の惜しく渡らせ給ひ候ふか。はたらかせ給へばとて、麗しき人の御形と思し食され候ふか。只なましき骸骨のはたらかせ給ふにてこそ渡らせ給ふめれ」と申しければ、僧都是を聞き給ひて、「志の切なる汝さへ、此の嶋にて朽ちはてむ事の悲しさの余りにこそ、かくも言へ」と宣へば、童涙を押のごひて、「父母親類にも知らせず、命を君に奉り、身をば大海に沈めむと思ひ切りて参り候ひし上は、都にて一度すて候ひぬる命を、嶋にて二度思ひ返すにも及び候はず」と申せば、僧都、「いざさらば我が棲みせむ」とて、童を具しておはしたり。
 松の四五本岩にたふれかかりたるを便りにて、自ら打ち寄せられたる竹のはし、葦荻体の物を拾ひ渡して、よろづの藻屑・木葉を取り掛けたれば、雨風溜まるべしとも見えず。京童部の、犬の▼P1557(六一オ)家とて造りたるよりも、猶目もあてられず。僧都一人内へ入り給へば、腰より下もは外にありければ、童内へ入るに及ばず。「穴うたてや、古き歌物語にこそ、はにふの小屋と云ふ事はあれ。はに土を以てしまはしたる家をば慎粉の小屋と申す。又は『半に臥す』と書ては『はにふのこや』と詠まるなり。半に臥すが埴生の小屋ならば、是や、はにふの小屋なるらむ」。傍なる木にかくぞ書き付けられたる。
  みせばやなあはれとおもふ人やあると只ひとりすむあしのとまやを
と、牡蠣の殻なむどにて書き付けられたるにやと覚しくて、さすがに漂ひたるやうにぞ書きたりける。
 昔は大伽藍の寺務職として、八十余ヶ所の庄務掌どり給へりしかば、京極御坊、白河御坊、鹿谷の山庄まで、塵も付けじと作り磨かれて、棟門・平門の中に、二三百人の所従眷属▼P1558(六一ウ)に囲遶せられてこそ過ぎ給ひしか。されば、かかる御住まひにても此三年はおはしけるかやと今更悲しくぞ思ひける。業にさまざまあり、巡現・巡生・巡後・巡不定業といへり。僧都、一期の間、身に用ゐる所は、大伽藍の寺物仏物にあらずと云ふ事なし。然れば、彼の信施無慚の罪においては今生に感得せられけるかと覚えたり。
 かかる思ひの中なれども、僧都の料にとて菓子体の物、塵ばかりづつ持たりけるを取り出だして勧めければ、今日食ひて明日食うべき物にてもなし。明日食ひて又次の日食ふべきにてもなければ、怱ぎて食はざりけり。童が持ちて渡る志の切なればとて、食ひけれども、食ひ忘れて久しくなれば、気味の程も覚えざりけり。童、「いかにして、比程の御有様にては今まで長らへて渡らせ給ひけるぞ▼P1559(六二オ)や」と申せば、「一年流されし人の内、丹波少将の許へ舅の門脇の宰相の許より、一年に二度船を渡されしなり。春渡すは秋冬の衣食のため、秋渡すは帰る年の春夏の衣食のためと渡ししを、少将心映へ吉き人にて、一人の衣装を新しきをば我着、古きをば二人の者に着せ、一人が相節を以ては三人の相節に当てなむどして育みし程は、さすが人の形にて有りつるが、少将・判官入道帰り上りて後は、自ら事のはの次にも「哀れ糸惜し」と事問ふ人もなければ、甲斐なき命の惜しきままに、身の力のありし程は、此の山の峯に上りて、硫黄と云ふ物を取りて、九国の地へ通ふ商人の船の着きたるにとらせて、日を送りき。身の力弱り衰へて後は、山へ上るべくもなければ、野沢に出でては根芹を摘み、嬾き蕨ををりて
、寂しさを慰む。浜に出でては、波に打ち寄▼P1560(六二ウ)せられたる荒和布を拾ひ、釣りする海士に膝を屈め、手を合はせて魚を乞ひて食事にして、今日までは命を継ぎつるなり。此の嶋の有様は、おろおろ見もしつらむ。生きて甲斐なき様なれども、かかる所にも住めば住まるる習ひにて有りけるぞ。月の缺け、月の盈つるをもて、一二月と覚えたり。花の散り、葉の落つるを以て、春秋を知る也。其の移り変わる有様を算ふれば、年の三年せを送りにけり。我はかく弱り疲れたれば、今いくばくをか限るべき。己さへ此の嶋にて消えなむ事こそ、いと罪深けれ」と宣ひければ、「此まで尋ね参る程にては、いく年せを過ごし候ふとも、其の恨み候ふまじ。いかにも成りはてさせ給はむずる、最後の御有様を見果て進らせ候ふべし」とて、僧都の前後に有りければ、僧都に教えられて、山の峯に上りて硫黄を取りて商人の舟の寄りたるに、是を商▼P1561(六三オ)ひ、とかく育みて明かし暮らしける程に、「今いくかをか限らむ」と宣ひけれども、日来の疲れ立ち直らず、明くる年の正月十日比より病付き給ひにけり。童は片時も立ち離れず、様々に看病して、夏も過ぎ秋にも成りて、八月十日比にもなりにければ、今
は限りにぞ見えられける。童申しけるは、「『都へ帰り上り給はぬ事、本意なし』なむど思し食すべからず。今生の穢土の終はりと思し食して、御心強く一筋に浄土を願ひ給へ」と善知識して、念仏勧め奉りなむどしける程に、同十三日寅剋に、終に失せられにけり。
 童只一人営みて、松の枯枝、葦の枯葉を切り覆ひ、寄り来る藻屑につみこめて、たくもの煙とたぐへてけり。荼毘事終へにければ、墓なむど形の如くして、白骨を頸にかけて、泣く泣く都へ上りけり。苔の下にも都へと余波や惜しく思はるらむ。
 備▼P1562(六三ウ)前国下津井と云ふ所より下り、或る山寺にしばらく逗留して、頭をおろし、墨染の袖になりて、奈良の姫君の許へ行き、「嶋に硯も紙も候はざりしかば、御返事には及び候はず」とて、僧都の遺言なむど細かに語りければ、姫君、天に仰ぎ地に臥して、をめき叫ばれける有様、さこそは悲しかりけめ。「御舎利をも拝ませ進らせ候べく候へども、同じ事にて候へば、是より高野山に上りて、奥院に納め奉り候ふべし」と申して、やがて高野へ上り、御廟の御前に納めてけり。其の後、寺々修行して、主の後世をぞ訪ひける。主従の芳契、誠に昔も今も其の好みあさからぬ事なれども、有王丸が志は例し少なくぞ覚えし。見目皃、心様までも、吉き童にてぞ有りける。
 姫君は、父の臨終の有様聞き給ひて、伯母の許を忍び出でて、高野へも尋ねお▼P1563(六四オ)はして、父の骨納めたる所をも拝みたく思し召しけれども、女人の上らぬ所なればとて、高野の麓、天野別所と云ふ所にて、様変へられにけり。後には真言の行者と成りて、父の後生菩提を祈り給ひけるこそ哀なれ。童は修行しありきけるが、主の骨も恋しくて、高野山へ立ち帰り、南院に蓮阿みだ仏と申されて、仏に花香を奉り、主の後世をぞ訪らひける。山門の大衆、猶鎮まらずして、弥よ騒動すと聞こえければ、堂衆等を罪科に行はるべき由、諸卿計らひ申されければ、宣旨を下さる。其の状に云はく、
 治承三年六月廿五日 宣旨。左大臣左少弁。
  叡山堂衆等、勅制に憚からず、座主の制止に拘はらず、猥りがはしく▼P1564(六四ウ)狼戻を成して、一山を滅亡せむと欲す。仍りて、先づ官軍を差し遣はして、三ヶ庄及び寄住の所々を追却せしむべし。但し、横河・無動寺等に籠り住む輩に於いては、同じく彼の輩に仰せて、坂本往反の路を守護して責め落とすべし。兼ねては又、洛陽に逃げ隠るる輩は、宜しく検非違使をして、搦め進らすべし。諸国に逃げ移らんに至りては、宰吏に仰せて其身を召し進じ。此の次は失せ了はんぬ。
十九 〔辻風荒く吹く事〕
▼P1565(六五オ)六月十四日、辻風おびたたしく吹きて、人屋多く顛倒す。風は中御門京極辺より発りて、坤の方へ吹きもて行くに、棟門・平門なむどを吹き抜けて、四五町、十丁もて行きて、投げ捨てなむどしける。上は、桁・梁・長押・棟木なむど虚空に散在して、あしこここに落ちけるに、人馬鹿畜多く打ち殺されにけり。只舎屋の破れ損ずるのみにあらず、命を失ふ者多し。其の外、資財雑具、七珍万宝の散り失せし事、数を知らず。
 此の事、直事に非ずぞ見えし。即ち御占あり。「百日の内に大葬、白衣の怪異、天子大臣の御慎み也。就中、禄を重んずる大臣の慎み、別しては天下大きなる怖乱、仏法・王法共に滅び、兵革相続きて、飢饉疫癘の兆す所なり」と、神祇官・陰陽寮、共に占ひ申しけり。
二十 〔小松殿死に給ふ事〕
 八月一日、小松内大臣重盛公、薨じ給ひぬ。御年四十三にぞなられける。▼P1566(六五ウ)五十にだにも満ち給はず、世は盛りと見え給ひつるに、口惜しかりける事也。「此の大臣失せられぬる事は、偏に平家の運命尽ぬる故也。其の上、世の為人の為、必ずあしかるべし。入道のさしも横紙を破らるる事をも、此の大臣のなをし宥られつればこそ、世も穏しくて過ぎつるに、こはあさましき事かな」とぞ歎きあへる。前右大将方さまの者共は、「世は大将殿に伝はりなむず」とて、悦びあへる輩もあり。
二十一 〔小松殿熊野に詣づる事〕
 内大臣、今年夏熊野参詣の事有りき。本宮証誠殿の御前にて啓白せられけるは、「父相国禅門、悪逆無道にして、動もすれば君をもなやませ奉る。重盛長子として頻に諌めを加ふといへども、身不逍にして、彼以て服膺せず。其の振舞を見るに、一期の栄花▼P1567(六六オ)猶危し。枝葉連続して親を顕し、名を揚げむ事かたし。此の時に当たりて、重盛苟くも思へり、憖に諛ひて世と浮沈せむ事、敢へて良臣孝子の法にあらず。如かじ、只名を遁れ身を退きて、今生の名望を抛てて来世の菩提を求むには。但し、凡夫の薄地、是非に迷へる故に、猶志を恣にせず。願はくは権現金剛童子、子孫の繁栄絶えずして君に仕へて朝庭に交はるべくは、入道の悪心を和らげて、天下の安全を得しめ給へ。若し栄耀一期を限りて後昆の恥に及ぶべくは、重盛が今生の運命を縮めて、来世の苦輪を助け給へ。両ヶの愚願、偏へに冥助を仰ぐ」と肝胆を摧きて祈念せられける時、内大臣の御頸の程より大きなる燈爐の光の様なる物が、はと立あがつてはきえ、たびたびしけり。御共人数々にはみず。或る侍一人是を見て、「是は何なる御先相ぞや。吉き御事やらむ、悪しき御事やら▼P1568(六六ウ)む」と思ひけれども、恐れをなして人
には語らざりけり。大臣の失せ給ひて後にこそ、「さる事有りき」とも申しけれ。
 今度の熊野参詣に、御子息二人、共せられたり。嫡子惟盛・次男資盛、下向にかかり給ふ。岩田川にて、二人の御子息達の浄衣の色、重服にかへりて河浪にぞうつりたる。孔子の一筆を白楽天の釈し給ひけるは、「孝妣恵み有れば、子孫大なる慶び有り。子孫孝妃有れば、天地門を開く」と云ふ。内大臣の「世を厭ひ、今生を打ち棄てて、後世を扶けさせ給へ」と申されけるをば、仏神悦び給ひて、兼ねて示し給ひけると覚えたり。源大夫判官季貞此を見とがめて、「君達召され候ふ御浄衣、いかにとやらむ、いまはしく見えさせ給ひ候ふ。召し替へられ候ふべし」と申しければ、内大臣是を見たまひて打ち涙ぐみて「重盛が所願、既に▼P1569(六七オ)成就しにけるこそあむなれ。敢へて其の浄衣着替ふべからず」とて、別して悦びの奉幣ありて、やがて其の浄衣にてくろめまで着き給ひけり。さなきだに岩田川は渡るに哀れを催すに、波に涙を諍ひて、重盛袖をぞ絞り給ふ。人々あやしとは思へども、其の心を得ざりけり。而るに程無く此の公達、実の墨染の袂に移り給ひけるを見奉りけるにこそ、さればよと思ひ知られて、いと哀れにぞ思ひあへる。
 さて、下向の後、六月十三日、御方違の御幸あり。小松内大臣の嫡子権亮少将惟盛御縄助の殿上人にて供奉せらるべきにて出立し給ひたり。内大臣是を見給ひて「我子ながらも人に勝れてみゆる物哉。されども生死界の習ひなれば、かかる子にも副ひはてで、近く離れなむ事こそ悲しけれ。権現の示し給ひし事、只今に臨めり。是が最後の終にてこそあらむず▼P1570(六七ウ)らめ。能々みむ」とて、「暫く是へ入らせ給へ。申すべき事あり」と仰せられければ、少将入り給ふ。女房に盃酌せさせて酒を勧め給ふ。貞能を招き寄せてささやき給ひければ、貞能御内に入りて、赤地の錦の袋に裏みたる太刀一振取り出だす。少将の前に指し置きて、「御肴に進らせ候ふ。今一度」と勧め給へば、少将うれしげにおぼして三度して袋を開けて見給へば、大臣の死し給ひて葬送する時、其の嫡子にておはする人のはきて最後の共し給ふなる、無文の太刀と云ふ物也。少将いまはしげに覚して、貞能が方を恨めしげに見給ふ。内大臣「あれは貞能が取り違へたるには候はず。重盛が志し進らせて候ふ也。其の故は、今日出仕の供奉の人々多く候ふらめども、御辺程の人少くこそ侯ふらめ。片腹痛き申し事にて候へども、我が子にておはしま
せば▼P1571(六八オ)にやらむ、人に勝れていみじくみえ給ふ。それに取りて老少不定にしてさだめなき憂世の習ひ、祈るとも叶ふまじ。さればいみじと思ひ奉る御辺にも、副ひ終てぬ事も有りぬべし。同じく別るれば重盛前立ちて此の大刀を帯き孝養をし給へかしと思ふ間、何の引出物よりも目出たき太刀にて候ふぞ。親を先立つる人の子、孝養を致さむと思ふ志探し。神明仏陀も御加護あり。親残り留まりて子を前立つるは、子の為不孝の罪深し。されば、老いたる若き定めなくて、御辺前立ち給はば、重盛が残り留まりて思はむ事の悲しければ、我身前立ちて御辺に孝養せられ奉り、仏神三宝の御加護に預り、弥よ孝養の志し深く御しませと思ふ間、御引出物に進らせ候ふ也」とて、打ゑみ給ひければ、少将は今の様に覚えて涙うかび給ひけれども、此の上は子細を申すに及ばず、浅増ながら取り給ひにけり。▼P1572(六八ウ)其の後はさしもやと思ひ給けるに、内大臣に後れ給ひて、葬送の時、此の大刀を取り出でてはき給ひ、最後の御共し給ひけるにこそ、有りし時仰せられし事共思ひ連けて、涙に暮れて覚えけれ。御方違の行幸は六月十三日なり。
 同七月廿五日に、内大臣の御頸に悪瘡出でにければ、「是れ思ひ儲たりつる事なり」とて、療治も祈精もし給はず。一向後生菩提の勤めより外は他事なかりけり。太政入道・二位殿はをりふし福原におはしけるが、此の事を聞き給ひて、大いに驚きて、取る物も取りあへず、京へ上り給ひて、「なべての医師なむどの療治すまじき事と内府は思ふらむ」とて、肥後守貞能を使にて内府の許へ云ひ遣はされたりけるは、「御所労の由承る。一定ならば返す返す歎きに存ず。いかにさ様の腫物をば怱ぎ療治もせられず候ふなるぞ。親に先立つ子をば▼P1573(六九オ)不孝に同じとこそ申せ。入道既に六十有余也。此の有様をば争か御覧じはてざるべき。老いたる父母を残し置き給ひて物を思はせさせ給はむ事は、且は罪深かるべし。但し、折節御冥加と覚ゆる事は、宋朝より勝れたる名医、本朝へ渡りて忍びて京へ上るなるが、摂津国今津に付きて候ふよしを承れば、怱ぎ召し遣し候ひぬ。彼の医師と申すは、医療の道に携はりて、遥に神農化他の旧跡を続ぎ、治方の業を伝へて、遠く祇婆〓鵲の先縦を追ふ。故に三代の家に長じて、早く十全の深術を究め、常に一天の君に仕へて、専ら四海の名誉を恣にする者也。速に対面して殊に
医療を加へしめ給へ」と云ひ遣はされたりければ、内府病床に臥し給ひたりけるが、入道の御使と聞き給ひて恐れられけるにや、怱ぎおきあがりて、烏帽子直衣ただしくして、貞能に▼P1574(六九ウ)向かひ給ひて返事に申されけるは、「医療の事、承り候ひぬ。但し今度の所労は、旁存ずる旨候ふの間、医療を加へず候ふ。仍りて今更対面仕るに及ばず。其の故は、昔漢高祖、維南の懸布を攻めし時、流失高祖に当たる。既に命限りになり給ひければ、呂大后と云ふ后、良医を迎へて見せしむるに、医師の云はく、「療治しつべし。但し五百斤の金を賜るべし」と申す。高祖宣はく、「朕三尺の剣を提げて天下を取る。是天命なり。命は即ち天にあり。我項羽と合戦を致す事、八ヶ年の間に七十余ヶ度也。されども天命の有る程は、一度も疵を被らず。今天命地に堕ちて、既に疵を被れり。然れば名医として疵をば癒すとも、命を療すべからず。篇昔と云ふとも何の益かあらむ。全く金を惜しみて云ふにあらず」とて、即ち五百斤の金をば医師に給はりながら、疵をば▼P1575(七○オ)治さずして、終に失せ給ひにけり。先言耳にあり、今以て肝心とす。
 近く本朝に於いては、三条院の御時、典薬頭雅忠と云ふ医師ありき。癒し難き病をいやし、生き難き命を生きしかば、時の人、「薬師如来の化身か、はたまた耆婆が再誕か」と疑ふ。身は本朝に居ながら、名を唐朝に施しにけり。其の比、異国の后、悪瘡を煩ふ事歳久し。時に異国の名医等、医術を究め療治を致すと雖も効験なかりしかば、雅忠を渡さるべきの由、異国の牒状あり。本朝希代の勝事たるに依りて、公卿僉議度々に及ぶ。『凡そ大国の請に預る事、本朝の珍事、雅忠が面目也。然りと雖も、渡唐は全く然るべからず。夫医療に効験無くば、本朝の恥辱也。医療に得験有らば、大国の医道此の時に永く絶えぬべし。就中、他国の后死なむ事、本朝の為め何の苦しみか▼P1576(七〇ウ)有るべき』と、帥民部卿経信卿の意見に定め申されければ、「尤も」とて渡さるまじきに成りにけり。其の時、江中納言匡房卿、大宰権帥にて宰府に止住の間、僉議有るに依りて、上覧に及ばずして、私に返答有るべきの由仰せ下されければ、匡房、牒詩に云く
  双魚未だ鳳池の波を達せず、〓鵲豈に鶴林の雲に入らんや
とかきて渡されにけり。凡そ此の条、和漢両朝の感歎ありけるとかや。但し、昔し仁徳天皇の第四御子、反正天皇崩御の後、允恭天皇未だ皇子にて御坐し時、久しく篤き疵をなやみ給ひけるを、群臣強ちに勧め申すに依りて、御即位有りけり。本朝の医師、術尽きにければ、其の後、御使を新羅国へ遣はして、彼の国の医師を迎へて御悩を治せさせ御▼P1577(七一オ)坐しけるに、程無くいえにければ、殊に是を賞ぜさせましまして返し送られにけり。是則ち、本朝第一の不覚、異朝無並の嘲〓也。彼の例を聞き及びて、異国よりも典薬頭雅忠をも渡さるべきの由、強ちに申し送られけると聞こえしかども、江中納言の計らひ申さるる旨、左右無かりければ、渡されずして止みにけり。
 而るに今、重盛、苟しくも九卿に列し、三台に昇れり。其の運命をはかるに、以て天心にあり。何ぞ天心を察せずして、愚かに医療を労はしくせんや。況や所労若し定業たらば、療治を加ふとも益なからむ。所労若し非業ならば、治療を加へずとも助かる事を得べし。彼の耆婆が医術及ばずして、釈尊涅槃を唱へ給ひき。是則ち、定業の病を癒やさざる事を示さむが為也。治するは仏体也、療するは耆婆也。定業尚ほ医療にたらざる旨、既に明らけし。然れば▼P1578(七一ウ)重盛が身、仏体にあらず、名医又耆婆に及ぶべからず。設ひ四部書を鑑て百療に長ずと云へども、争か有待の依身を救療せむや。設ひ五経の説を詳かにして衆病を癒やすとも、豈に先世の業病を治せむや。若し又彼の治術に依りて存命せば、本朝の医道なきに似たり。若し又効験なくは面謁に所詮なかるべし。就中、重盛三台の崇班に居して専ら万代の政を助け、魚水の契約を結びて将に朝恩の波を練く。本朝鼎臣の外相を以て病床に臥しながら、異朝浮遊の来客にまみえむ事、且つは国の恥辱也、且つは道の陵遅也。設ひ命を亡ずるに及ぶとも、争か国の恥をば顧みざるべき。其の事努々有るべからず候ふ」と宣ひける上は、入道力及び給はず。
 此の大臣、保元・平治両度の合戦には、命を捨てて防ぎ戦ひ給ひ▼P1579(七二オ)しかども、天命のおはする程は、矢にも中らず、剣にもかかり給はず。されども、運命限り有る事なれば、八月一日寅時に、臨終正念にして失せ給ひぬるこそ哀れなれ。
 中にも北の方の御歎き、つきせずぞ覚えし。此の北の方と申すは、鎌足大臣の孫、参議正三位房前の大将よりは十一代の末葉、参議修理大夫家保の卿の嫡男、右衛門督家成卿の御娘、故中ノ御門の新大納言成親卿の御妹なり。相栖み給ひて後、年久し。君達あまたおはします。いづれもありつき給ひたれば、心安き御事にて過ごし給ひけるに、此の歎き、いつわするべしとも覚えず。山野の蹄、江海の鱗は、皆流転の間の父母、悉く生死の程の親族也。されども、天地の間には夫婦の情昵まじく、宇宙の中には男女の志し深し。同襟の契りは情け多生に亘り、一枕の語らひは昵び曩劫に在り。然るに、▼P1580(七二ウ)玉顔眼を閇ぢて、口に再び言ふこと無し。神魂身を去りて、家に更に返ること無し。千年の松蘿は一旦のすさみに色を変じ、万歳の交談は九泉の流れに袖を朽す。燕二つ羽を並ぶるを見るに付けても、弥よ亡夫の悲しみを増し、雁の雌雄林を翔けるを相見ても、常に寡婦の涙を流す。合裘の昔は千春顔を並べて南苑の花を翫び、別離の今は九野に骸を埋めて北芒の霞に迷ふ。徒然の余りに墳墓に行れば、松風扇て音一声、古人の声は鳴もせず。悲しみ悲しむで旧屋に返れば、領袖滴つて涙だ千行、幽霊の形は見え
ず。織女は猶し七夕の夜を待てば、恃むべし、勇むべし。去雁は又三陽の春を期すれば、見つべし、翫びつべし。但し人界の生は、一たび別れて後、再び会はず。大〓嶺の梅、霞に萎み、金谷薗の桜の▼P1581(七三オ)風に散り、をばすて山のあけぼの、あかしの浦の波の上だにも、余波は惜しき物ぞかし。まして年来すみなれ給ひし御なごり、押しはかられて哀れなり。
 〔二十二〕 〔小松殿熊野詣の由来の事〕
 抑も、此の大臣の熊野参詣の由来を尋ぬれば、夢故とぞ聞こえし。去んぬる三月三日夜の夢に、大臣、三嶋と思はしき霊験所へ詣で給へば、詣づれば右、下向すれば左手に、法師の頸を切りて、鉄のくさりを以て四方へつなぎたり。大臣、夢心に、「不思議の事哉。加様の精進の処に、かかる殺生なむどは有るまじきかなむど思ひたれば」と思し食して、社の方へ詣で給へば、衣冠正しき人々多く並居給へるに詣でて、「抑も此は何なる人の頸に候ふぞ」と問ひ奉り給ひければ、「此は、源頼朝が此の御前にて千日が間歎き申しし事が余りに不便なれば、汝が父大政入道浄海が頸を切りてつなぎたるぞ」と仰せらるると思し食せば、打ち驚きて夢さめぬ。
 爰に源大夫判官季▼P1582(七三ウ)貞御前近く参りて申しけるは、「何事にて候ふやらむ、兼康が上に申し入るべき子細の候ふとて、参りて候ふ」と申しければ、大臣聞き給ひて、「哀れ妹尾は此の夢をみたるごさむなれ」と思し食して、「何事にて有るやらむ」とて、大口計りにてつと出で給へば、妹尾御耳にささやきて、「今かかる夢をみて候ふ」と、内府の御覧じたる夢に一字も違はず申したりければ、さればこそと思し食して、「こは不思議かな。されば平家の世は早末に臨めるにこそ。さても命ながらへて猥しき世をみむ事も口惜しかるべし。今は後世菩提の営みの外は他事やは有るべき」とて、熊野参詣の為に同じき四月廿八日より精進始めて、第五日と申す日、御はげの下に夢にみられし様なる法師の生かうべあり。〓子を立てたれば、大食ひて置くべき様なし。空より鳥の食ひて落すべき方もな▼P1583(七四オ)し。是則ち霊異也とて、今二日の精進をまたずして、同じき五月二日進発して、熊野山御参詣はありしなり。
 〔二十三〕 〔小松殿大国にて善を修し給ふ事〕
 惣じて此の大臣は、吾が朝の神明仏陀に財を投じ給ふのみに非ず、異朝の仏法にも帰し奉られけり。去んぬる治承二年の春の比、筑前守貞能を召して云ひ合はせられけるは、「重盛存生の時、吾が朝に思ひ出ある程の堂塔をも立てて大善をも修し置かばやと思ふが、入道の栄花、一期の程とみえたり。然れば、一門の栄耀尽きて当家滅びなむ後は、忽ちに山野の塵とならむ事の、兼ねて思ひ遣られて悲しければ、大国にて一善をも修し置きたらば、重盛他界の後までも退転あらじと覚ゆる也。貞能入唐して計らひ沙汰仕れ」と宣ひける。折節、博多の妙典と申しける船頭の上りたりけるを召して、内大臣の知り給ひける奥州気仙ノ郡より年▼P1584(七四ウ)貢に上りたる金を二千三百両、妙典に賜りて宣ひけるは、「此の金、百両をば汝に与ふ。二千二百両をば大唐に渡して、二百両をば生身の御舎利のおはします伊王山の僧徒に与へて、長老禅師の請取を取り進らすべし。残り二千両をば大王に献りて、彼の寺へ供田を寄せて給はるべしと奏せよ」とて、状を書きて妙典に給はりけり。妙典金を給はりて、怱ぎ入唐して、此の由を大王に奏して、送り文を奉る。大王彼の状を叡覧あり。其の状に云はく、
   施入し奉る、年来帰依の霊像一鋪、
   自筆の一部十巻の法花妙典を彫写し、
   墨色に模せんが為の懇志の黄金千裹
 夫以るに、弟子則ち分段易往の仙座に日域衰世の軍勇を稟く。▼P1585(七五オ)爰に家門走倨の台に親昵し、歳齢既に旧り、生涯過ぐるを歎く。年に歩りて家に須へ、万障〓の変を抛つ。当朝の試ゐるところ、闘戦年を畳ねて双臣を襲へども、法悦を障げて、恚り目を畳ねて滋茂す。予て憖に夢中の夢、常悟の思ひ頻りに催す。茲に因りて、或は迷色秦衢の資糧に中て、或は声志の丹誠を伝へんが為に、渇仰して所持するところの仏経を伊王山上に施入し、狭量一裹の千金を異朝の座下に投じ奉る。如何せん、武民の嶮愚、当家貧にして、莫大の恣贈乏しきに似たるを。乞ふらくは、予て愁棘之儀を察し、〓送之疎を夭すること勿れとのみ。此の微望によりて、名を永代に刻み、胸短の慮の者、未だ貌の明らかならざる者に於てす。弟子啓する所、件の如し。
  治承三年四月日  日本国大将軍平朝臣重盛
とぞ書きたりける。大王随喜に堪へず、「日本の臣下として我が国に志の深き事▼P1586(七五ウ)へし」とて、彼の寺の過去帳に書き入れ、今に至るまで「大日本国武州天守平重盛神座」と、毎日によまれ給ふなるこそゆゆしけれ。実の賢臣にておはしつる人の、末代に相応せで、とく失せ給ひぬる事こそ悲しけれ。
 さても入道の歎き、申すも愚也。誠にさこそはおぼしけめ。親の子を思ふ習ひ愚かなるだにも悲し。況や当家の棟梁、当世の賢人にておはせしかば、恩愛の別れと云ひ、家の衰微と云ひ、悲しみても余りあり。されば入道は、「内府が失せぬるは、偏へに運命の末になりぬるにこそ」とて、万づあぢきなく、争も有りなむとぞ思ひなられにけり。
 およそ此の大臣、文章うるはしくして、心に忠を存じ、才芸正しくして、詞に徳を兼ねたり。されば、世には良臣失せぬる事を愁へ、家には武略のすたれぬる事を歎く。心あらむ人、誰か嗟歎せざらむ。「彼の唐の▼P1587(七六オ)太宗文皇帝は異朝の賢王也。徳五帝にこえ、明三皇に同じ。されば、唐尭、虞舜、夏の禹、殷の湯、周の文武、漢の文景也と云へども、皆逮ばざるところなり」と、ほめ申す。御宇廿三年、徳の政ごと千万端。君臣父子の道、此の時天下盛也。四海八〓の外までも徳化に帰せずと云ふ事なし。御才五十三と申す貞観廿三年五月廿六日、合風殿にして崩じ給ふ。かかる賢君にておはしませど、天命の限りある事をさとり給はずして、御命を惜しみ給ひけるにや、天竺の梵僧にあはせ給ひて、頻りに療養を加へ給ふ。霊草秘石、神薬として服し給ふといへども、仁山遂に崩れき。未薬に伝はる所、太宗の一失とぞ申す。傍ら異朝上古の明王の叡念を承るにも、本朝末代の良臣の賢さは遥かに猶勝れたり。
 〔二十四〕 〔大地震の事〕
 ▼P1588(七六ウ)十一月七日の申剋には、南風にわかにふきいで、碧天忽にくもれり。万人皆怪しみをなす処に、将軍塚鳴動する事、一時の内に三反也。五畿七道ことごとく肝をつぶし、耳を驚さずと云ふ事なし。後に聞こえけるは、初度の鳴動は、洛中九万余家に皆聞こゆ。第二の鳴動は、大和山城和泉河内摂津難波浦まで聞こえけり。第三の鳴動は、六十六ヶ国に皆聞こえざる所更になし。昔しより度々の鳴動其数多しといへども、一時に三度の鳴動、此ぞ始めなりける。「東は奥州のはて、西は鎮西・九国まで鳴動しける事も先例希也」とぞ、時の人申しける。おびたたしなども申せば中々おろかなり。
 同日の戌時には、辰巳の方より地震して、戌亥の方へ指して行く。此も始めには事もなのめ▼P1589(七七オ)なりけるが、次第につよくゆりければ、山は崩れて谷をうめ、岸は破れて水を湛へたり。堂舎・坊舎・山水・木立・築地・はたいた、皇居まで安穏なるは一もなし。山野のきぎす、八声の鳥、貴賎上下の男女皆、「上を下に打ち返さむずるやらん」と、心うし。山河おつるたきつせに、棹さしわづらふ筏しの乗りもさだめぬ心地して、良久しくぞゆられける。
 八日早旦に、陰陽頭泰親院、御所へ馳せ参りて申しけるは、「去んぬる夜の戌時の大地震、占文なのめならず。重く見え候ふ。二議の家を出でて専ら一天の君に仕へ奉り、楓葉の文に携はりて更に吉凶の道を占ひしより以来、此程の勝事候はず」と奏しければ、法皇仰せの有りけるは、「天変地夭、常の事なり。然れども今度の地震強ちに泰親が騒ぎ申すは、殊なる勘文のあるか」と御尋ね有りければ、泰親重ねて奏し▼P1590(七七ウ)申して云はく、「当道三貴経の其の一、金貴経の説を案じ候ふに、「年を得て年を出でず、月を得て月を出でず、日を得て日を出でず、時を得て時を出でず」と申し候ふに、是は「日を得て日を出でず」と見えたる占文にて候ふ。仏法・王法、共に傾き、世は只今に失せ候ひなむず。こはいかが仕り候はむずる。以ての外に火急に見え候ふぞや」と申して、やがてはらはらと泣きければ、伝奏の人もあさましく思ひけり。君も叡慮を驚かしおはします。公家にも院中にも御祈り共始め行はれけり。されども、君も臣も、「さしもやは」と思し食しけり。若殿上人なむどは、「けしからぬ陰陽頭が泣き様かな。さしも何事かは有るべき」なむど、申しあはれけるほどに、
 〔二十五〕 〔太政入道朝家を恨み奉るべきの由の事〕
 十四日、大相国禅門、数千の軍兵を相具して、福原より上り給ふとて、京中なにと聞き別きたる事はなけれども、何なる事の有らむずるやらむとて、高きも▼P1591(七八オ)賎しきもさわぎける程に、入道、朝家を恨み奉るべきの由、披露をなす。上下万人、こはいかにとあきれ迷へり。関白殿も内々聞し食さるる事や有りけむ、御参内ありて、「入道相国入洛の事は、偏に基房を滅ぼすべき結構と承り候ふ。いかなる目をか見候はむずらむ」とて、よに御心細げに奏せさせ給へば、主上も以ての外に叡慮を驚かさせおはします。「大臣のいかなる目をも見られむは、偏に丸が身上にてこそあらめ」とて、御涙ぐませ給ふぞかたじけなき。誠に天下の政は主上摂禄の御計らひにてこそ有るべきに、たとひ其の儀こそなからめ、いかにしつる事共ぞや。天照大神・春日大明神の神慮も測りがたし。
二十六 〔院より入道の許へ静憲法印遣はさるる事〕
 十五日、入道朝家を恨み奉るべき由、必定と聞こえければ、法皇、静憲法印を以て御使として、入道の許へ仰せ遺されけるは、「凡そ近年朝庭しづ▼P1592(七八ウ)かならずして、人の心調ほらず。世間落居せぬ有様になり行く事、惣別に付けて歎き思し召さるといへども、さてそこにおはすれば、万事憑み思し食されてこそ有るに、天下を鎮むるまでこそなからめ、事にふれて嗷々なる体にて、剰へ又丸を怨むべしと聞こゆるはいかに。こは何事ぞ。人の中言か。此の条、太だ穏便ならず。何様なる子細にてさやうには思ふなるぞ」と仰せ遣さる。法印、院宣を奉りて渡されけり。
 入道出で合はれざりければ、入道の侍、源大夫判官季貞を以て院宣の趣を云ひ入れて、御返事を相待たれけれども、暮に及ぶまで無音なりければ、さればこそと無益に覚えて、季貞を以て罷り返りぬる由を云ひ入れられたりければ、子息左兵衛督知盛を以て、「院宣畏まりて承り候ひぬ。自今以後は、入道においては、院中の宮仕へは思ひ止まり候ひ▼P1593(七九オ)ぬ」とばかりいはれけるが、さすが入道いかが思はれけむ、法印の帰られけるを見給ひて、「やや、法印御房、申すべき事あり」 と宣ひて、中門の廊に出で合ひて宣ひけるは、「先づ故内府が身まかり候ひぬる事、只恩愛の別れの悲しきのみにあらず、当家の運命を量るに、入道随分に悲涙を押さへて罷り過ぎ候ふ。今日とも明日ともしらぬ老の波にのぞみて、かかる歎きにあひ候ふ心の中をば、いかばかりとかは思し食され候ふ。されども、法皇聊も思し食し知りたる御気色にて候はぬ由、漏れ承り候ふ。且は御辺の御心にも御推察候へ。保元以後は乱逆打ち連きて、君安き御心もおはしまし候はざりしに、入道は只大方を執り行ふ計りにてこそ候ひしか、内府こそ正しく手を下し、身を砕きたる者にては候へ。されば、万死に入りて一生を得たる事も度々な
りき。其の外、臨時の御大事、朝▼P1594(七九ウ)夕の政務に至るまで、君の御為に忠を致す事、内府程の功臣は有り難くこそ候ふらめ。
 爰を以て昔を思ひ合はせ候ふに、彼の唐の太宗は、魏徴におくれて悲しみの余りに、「昔の殷宗は良弼を夢中に得、今の朕は賢臣を覚めての後に失ふ」と云ふ碑の文を手づから書きて、廟に立ててこそ悲しみ給ひけれ。鬢を切りて薬に灸り、疵を〓りて血を喰ふは、君臣の徳也。目近くは正しく見候ひし事ぞかし。顕頼の民部卿逝去したりしをば、故院殊に御歎きありて、八幡御幸延引し、御遊を止められき。忠定宰相闕国の時、是も故に御歎き深かりしかば、忠定伝へ承りて老の涙を催しき。都て臣下の卒する事をば、代々の君、皆御歎きある事にて候ふぞかし。さればこそ、『父よりもなつかしながら怖しく、母よりも昵じくして怖しきは、君と▼P1595(八○オ)臣との中』とは申し候へ。
 其に内府が中陰に、八幡へ御幸有り、御遊ありし上、鳥羽殿にて御会有りき。御歎きの色、一事も是を見ず。且は人目こそ恥かしく候ひしか。縦ひ入道が歎きを哀れませ御しまさずと云ふとも、などか内府が忠を思し召しわするべき。又内府が忠を思し召しわするる御事なりとも、などか入道が歎きをば哀れませおはしまさざるべき。父子共に叡慮に叶はざりけむ事、今に於ては面目を失ふ。是一つ。次に、中納言の闕の候ひしに、二位中将殿の御所望候ひしを入道再三執り申し候ひしに御承引なくて、摂政殿の御子三位の中将をなし奉られ候ひし事はいかに。縦ひ入道非拠を申し行ひ候ふとも、一度はなどか聞こし食し入れられ候はざるべき。申さむや、家嫡と云ひ、位階と云ひ、方々理運左右に及び候はざりしを引き替へられまゐらせ候ひし事は、▼P1596(八○ウ)随分本意無き御計らひかなとこそ存じ候ひしか。是二つ。次に、越前国を重盛に給ひ候ひし時は、子々孫々までとこそ御約束候ひしに、死にはつれば召し返され候ふ事、何の過怠に候ふぞ。是三つ。次に、近習の人々皆以て此の一門を滅すべき由を計らひ候ひけり。是私の計らひにあらず、御許容有りけるに依りてなり。事新しき申し事には候へども、縦ひいか
なる誤り候ふとも、争か七代までは思し食しすてられ候ふべき。其に入道既に七旬に及びて、余命幾くならぬ一期の中にだにも、動もすれば失はれ奉るべき御謀で候ふ。申し候はむや、子孫相継ぎて、一日片時召し仕はれむ事難し。凡そは老いて子を失ふは、枯木の枝なきにてこそ候へ。内府におくるるを以て、運命の末に臨める事、思ひ知られ候ひぬ。天気の趣きあらはなり。縦ひいかやうなる奉公を致すとも、叡慮に応ぜむ▼P1597(八一オ)事よも候はじ。此の上は、幾くならぬ老いの身の心を費して何とはし候ふべきなれば、とてもかくても候ひなむと思ひ成りて候ふなり」なむど、且は腹立し、且は落涙して、かきくどき語られければ、法印、哀れにもおそろしくも覚えて、汗水になられにけり。
 「其の時は、誰人なりとも三日の返事にも及びがたかりし事ぞかし。其の上、我が身も近習の身也。成親卿已下はかりし事共は、正しく見聞きし事なれば、我が身も其の人数とや思ひけがさるらむなれば、只今も召し籠めらるる事もや有らむずらむ」と、心中にはとかく案じつづけられけるに、龍の鬚をなで、虎の尾をふむ心地せられけれども、法印もさる人にて、さわがぬ体にて答へられけるは、「誠に度々の御奉公浅からず。一旦恨み申させおはします、其の謂はれ候ふ。但し官位と云ひ俸禄と云ひ、御身に取りては悉く満足す。是既に勲功の▼P1598(八一ウ)莫大なる事を感じ思し食す故とこそ見えて候へ。而るを近臣事をはかり、君御許容ありなむど云ふ事は、偏へに謀臣の凶害と覚え候ふ。耳を信じて目を疑ふは俗の蔽なり。小人の浮言を信じて、朝恩他に異なる君を怨み奉りましまさむ事、冥顕に付けて其の憚り少からず。凡そ天心は蒼々としてはかりがたし。叡慮定めて其の由候ふらむ歟。下として上に逆ふらむ事は、豈に人臣の礼たらむや。能々御思惟候ふべし。不肖の身にて御返報に及び候ふ条、其の恐れ少なからず候へども、此は上に御あやまりなき事を、あしざまに申す人の候ひけるを陳じ開きて、御鬱念
を謝し候ふべく候ふ。貞観政要の裏書に申して候ふぞかし。『仙源澄めりと雖も烏浴流れを濁す』とて、仙宮より出でたる河、仙薬なるが故に、下流を汲む者、命必ず長命也。但し其の河の中間に隠るる山鳥、▼P1599(八二オ)其の流れを沐ぶる時、水忽ちに変じて毒となれり。其の様に、法皇の明徳は仙水たりといへども、執り申す者下流を濁して、あしざまに入道殿に申して候ふと覚え候ふ。ゆめゆめ御恨みあるまじき御事にて候ふ也。其の八幡宮の御幸は哀れなる御事にてこそ候ひしか。其の故は、『あへなくも重盛に後れぬる事、丸一人が歎きのみにあらず。臣下卿相、誰か歎きとせざらむや。金烏西に転じて一天に雲くらく、邪風頻りに戦ひて四海しづかならず』と御定め候ひて、日々夜々の御歎き、今に未だ浅からず。『臨終いかが有りけむ』と御尋ね候ひしかば、或る人、『其の病患は、世の常の所労にては候はざりき。熊野権現に申し請けて給はる悪瘡にて候ひける間、瘡のならひ、臨終正念みだれず二羽合掌の花うるはしくして、十念称名の声たへず、三尊来迎の雲聳きて、九品蓮台に往生すとこそみえて▼P1600(八二ウ)候ひしか』と申して候ひしかば、龍顔に御涙をながさせ給ふのみならず、宮中皆袖
をしぼられ候ひき。当時までも、折に随ひ事に触れては、御歎きの色ところせくこそみえさせ給ひ候へ。さて、院の仰せには、『それこそ何事よりも歎きの中の悦びよ。心肝に銘じてうらやましき物は、只往生極楽の素懐也。丸も熊野に参詣して祈り申したけれども、道の程遥か也。同じ西方の弥陀にておはしませば、八幡宮に参詣して申さばやと思し食す也。且は内府のため、毎日に祈念する念仏読経の廻向も、清浄の霊地にしてこそ金をもならさめ』とて、七日の御参籠候ひき。此則ち内府幽儀の得脱、大相国の御面目、何事か此にすぎ候ふべき。されば御中陰はて候ひなば、怱ぎ御院参候ひて畏りをこそ申させ給はざらめ、御遺恨にや及ぶべき。▼P1601(八三オ)仙桃の水清けれども烏浴流れをにごすと申すたとへ、少しも違ひ候はず」と申されければ、入道、立腹の人の習ひ、心まことに浅くして、袖かき合はせてさめざめとぞ泣き給ひける。
 「次に臨時の祭の御事は、此又龍楼鳳闕の御祈祷にては候はざりき。其の故は、過ぎ候ひし比、八幡宮に怪異頻りに示し候ひけるを、別当大に惶れて護法を下しまゐらせて候ひけるに、御詫宣の候ひけるは、
 『春風に花の都はちりぬべしさかきのえだのかざしなくては
畿内近国闇となりて九民百黎山野に迷ふべし』と仰せ候ひけるを、法皇大いに驚き思し食されて、諸の臣下卿相、息災延命、洛中上下、五畿七道、国土安穏、天下泰平のために、三日三ヶ夜の御祈祷也。此又貴殿の御祈祷に非ずや。故内府は、大国まで聞こえおはしましし賢臣▼P1602(八三ウ)也。されば、常には『国土安穏、人民快楽』と祈らせ給ひし事なれば、草の影にても、小松殿さこそ悦びましましけめ。此の上、猶々御不審候はば、八幡の別当に御尋ね候ふべし。次に越前国を召され候ひけむ事は、未だ承り及び候はず。公も未だ知ろし食さざるにや。怱ぎ奏聞仕りて、若し子細候はば、追つて申し候ふべし。次に二位中将殿の御所望の事は、入道殿の御子孫にても渡らせ給はず。其の上関白殿の御計らひをば、誰か歎き申すべき。縦ひ又一度は公の御あやまり渡らせ給ふとも、臣以て臣たらずと申す本文も候ふぞかし。詮じ候ふ所、只こざかしき申し状にては候へども、追つて御奏聞有るべく候ふ今は暇申して」とて、立ち給ひにけり。
 入道高らかに、「院宣の御使也。各々皆礼儀仕るべし」と宣ひければ、八十余人候ひける人々、一同に皆庭に下りて門送す。法印いとさ▼P1603(八四オ)わがぬ体にて、弓杖三杖ばかり歩み出でて立ち帰り、深く敬崛す。良久しく立ち向かひておはしけるあひだ、「さのみは恐れ候ふ」とて、八十余人、皆縁のきはに立ち帰る時、法印あゆみ出でられにけり。美々しくぞ見えたりける。或る本文に云はく、「君王国を治め、忠臣君を扶く。船能く棹を載せ、棹能く船を遣る」と云へり。此の言思ひ合はせられて哀れ也。「静憲法印、忠臣として能く君を扶け奉り給ひぬる事にこそ。神妙なれ」とて、口々に皆感じあへり。肥後守貞能是を見て、「穴怖しや。入道殿のあれ程に怒り給ひて宣はむには、我等ならば院の御所に有る事無き事、ことよし事申し散らして出でなまし。少もさわがぬ景気にて、返事打ちして立たるる事よ」と、季貞已下の者共是を聞きて、「さればこそ、院中に人々其の数多しと云へども、其の中に僧なれどもえらばれて御使ひにも立つらめ」▼P1604(八四ウ)とぞ、各申しける。
 比は十一月十五夜の事也。法印は西八条の南門より出で給へば、明月の光は東山の嶺、松の木の間よりぞ出で相ひ給ける。法印の胸の中なる仏性の月は、三寸の舌のはしにあらはれて、入道殿の心中の闇をてらし、仲冬三五の夜はの月は、光明々として法印の帰車の前後をかかやかす。心の月もくまもなく、深け行く空の皓月の光も明らか也。法印車に乗りてければ、牛飼怱ぎ車をやらむとす。法印宣ひけるは、「草しばらくおさへよ。夜陰のありきは路次狼籍也。迎への者共を待つべし」とて、下簾かかげたり。明月の光は物見よりぞ差し入りける。法印の皃、愛々としてきよげなり。今宵の月のくまなきに、旧詩を思ひ出でて、
  酔はずは黔中に争か去り得ん、摩囲山の月正に蒼々たり。
  ▼P1605(八五オ)誰人か隴外に久く征戎し、何れの処の庭所に新たに別離せん。
と詠じはてざる処に、迎への者共出で来たり。「たれたれ参りたるぞ」と尋ぬれば、金剛左衛門俊行・力士兵衛俊宗、烏黒なる馬に白覆輪の鞍置きて、御綾の直垂の下に糸火威の腹巻、月の光に映じて合浦の玉をみがけるが如し。一夜叉・龍夜叉とて、大の童のみめよきが、重目結の直垂に菊閉して下腹巻に征矢負ひたり。上下のはずにつの入れたる、しげどうの弓をぞ持ちたりける。法師原には金力・上一・上慢・金幢・他聞・角一・夜叉門法師、下僧七人参りたり。此等も皆、黒革威の腹巻に手鉾・なぎなた・太刀なむどさげたり。此の静憲法印は、内典外典の学生、是非分明の才人也。院内の御気色は諸臣肩並ぶる人なし。万人の仰崇する事は、緇素の中には▼P1606(八五ウ)類なし。綺羅誠に神妙にして、従類多く人にすぐれたり。召し仕ふほどの者は、みな十二三才の小童部、法師原に至るまでも、能も賢く、力もつよかりけり。中にも金剛左衛門・力士兵衛尉は、世に聞こえたる大力とぞ聞こえし。
 さても法印帰参して、太政入道の御返事の様、委しく奏せられければ、誠に入道の恨み申す所一事として僻事なく、道理至極して思し食されければ、法皇更に仰せられ遣りたる御事もなくして、「こはいかがせむずる。猶々も法印誘へてみよ」とぞ、仰せ事ありける。
二十七 〔入道卿相雲客四十余人解官する事〕
 十六日、入道朝家を恨み奉るべき由聞こえけれども、さしもの事やは有るべきと思し食されけるほどに、関白殿御子息、中納言師家を始め奉りて、大政大臣師長公、按察大納言資賢已下の卿相雲客、上下北▼P1607(八六オ)面の輩に至るまで、都合四十二人、官を止めて追ひ籠めらる。其の内、参議皇后宮権大夫蔵人頭兼右近衛督藤原光能卿、大蔵卿右京大夫伊与守高階泰経朝臣、蔵人左少弁兼権大進藤原基親朝臣、已上三官三職共に止めらる。按察大納言資賢卿、中納言中将師家卿、右近衛権少将兼讃岐権守資時朝臣、皇大后宮権少進兼備中守藤原光憲朝臣、已上二官を止めらる。其の中に、関白殿をば大宰帥に遷して筑紫へ流し奉られけるこそあさましけれ。「かかるうきよにはとてもかくても有りなむ」と思し食しける上、御命さへあやふく聞こえければ、鳥羽の古河と云ふ所にて、大原の本覚上人を召して御ぐしおろさせ給ひにけり。御年三十五、世の中盛りとこそ思し食されけれ。「礼義よく知ろし食して、▼P1608(八六ウ)くもりなき鏡にて渡らせ給ひける物を」と、世の惜しみ奉る事なのめならず。出家の上は一等をだにも減ぜらるる事なれば、始めは日向国と聞こえしかども、出家人は本定まりたる国へは
趣かぬ事なれば、備前国ゆばさまと云ふ所にぞ留め奉りける。
 大臣流罪の例を尋ぬるに、蘇我左大臣赤兄公、右大臣豊成公、左大臣兼名公、菅原右大臣〈今の北野天神御事也〉、左大臣高明公、内大臣伊周公に至るまで、其の例既に六人なりと云へども、忠仁公・昭宣公より以来、摂政関白の流罪せられ給ふ事、是ぞ始めなりける。故中殿基実公の御子、二位中将殿基通公と申すは、今の近衛入道殿下の御事也。其の時、大政入道の御聟にておはしけるを、一度に内大臣関白になし奉ると聞こゆ。円融院の御宇、天禄三年十一月一▼P1609(八七オ)日、一条摂政伊尹公謙徳公、御年四十九にて俄に失せさせ給ひたりしかば、御弟の堀川関白兼通忠義公、従二位中納言にて渡らせ給ひけるが、大納言を経ずして、御弟の法興院の入道殿大納言大将にて渡らせ給ひけるが、先に越えられさせ給ひけるを、越え返し奉りて、内大臣正二位にあがらせ給ひて、内覧の宣旨を蒙せおはしましたりしをこそ、時の人目を驚かしたる御昇進と申ししに、是は其にも猶超過せり。非参議にて二位中将より宰相大納言大将を経ずして大臣関白に成り給へる例、是や始めなるらむ。されば、大外記、大夫史、執筆の宰相に至るまで、皆あきれたる体也。大方高きも卑しきも、是非に迷はぬは一人もなかりけり。去々
年の夏、成親卿父子、俊寛僧都、北面の下臈共が事に逢ひしをこそ、あさましと君も思し食し、人も思ひしに、▼P1610(八七ウ)是は今一きはの事なり。
 されば、「是はなに事故ぞ。穴倉なし。此の関白にならせ給へる二位中将殿の、中納言に成り給ふべきにてありけるを、前の関白殿の御子、三位中将師家とて、八才に成給へりしが、そばより押ちがへて成り給へる故」とぞ申しけれども、「さしもやは有るべき。さらば、関白殿ばかりこそ、かやうの咎にもあたり給はめ。四十余人までの人の事に逢ふべしや。いかさまにも様あるべし」とぞ申しあへりける。天魔外道の、入道の身に入り替はりにけるよとぞみえける。
 人の夢にみけるは、讃岐院御幸ありけるに、御共には宇治の左のおとど、為義入道など候ふなり。院の御所へ入御有らむとて、先づ為義を入れられてみせられければ、いそぎ罷り出でて、「此の御所には御行ひまなく候ふ也。其の上、只今も御行法のほどにて候ふ」と申しければ、「さては▼P1611(八八オ)叶はじ」とて還御あるに、為義申しけるは、「さ候はば、清盛が許へ入らせ給へ」と申しければ、それへ御幸なりけるとみたりけるとかや。さればにや、君をもあしく思ひまゐらせ、臣をもなやまし給ふらむ。まことにこの夢思ひ合はせらるる入道の心中也。但し、御共に宇治の左のおとどの候ひ給はむには、太政大臣、憂き御目を御覧ぜさせ給ふべしや。心に入りかはり給はんにも、此の御事計りをば、よきやうにこそ入道も計らはれむずれ。これ計りぞ心得がたき。
 人は高きも賎しきも、信は有るべき事なり。法皇は常に御精進にて、御行ひまなきによりて、悪魔も恐れ奉りけり。入道は、若くしては信もありて、保元の合戦の時も 「朝日に向かひてはいくさせじ」とたてられたりけるが、其の後は余りに朝恩にほこりて、信も闕け給へり。富みておごらざる者なしと云ふ事は、此の入道の有さまにてぞ有るべ▼P1612(八八ウ)きと、今こそ思ひ合はせけれ。凡そは人の至りて栄えて心のままなるも、其の孫絶えはてぬべき瑞相なりと心得て、能々慎むべき事なり。
 按察大納言資賢卿、同じき子息左少将資時、同孫少将雅賢、已上三人をば、京中を追ひ出ださるべき由、藤大納言実国卿を上卿として、博士判官中原章貞を召して宣下せらる。いづくを定むともなく、都の外へ追はれけるこそ悲しけれ。中有の旅とぞ覚えける。官人来たりて追ひければ、怖しさの余りに物をだにも宣ひおかず、孫子引き具して怱ぎ出で給ふ。北方より始めて、女房侍、をめきさけぶ事おびたたし。三人涙にくれ給ひて、行く先もみえねども、其の夜中に九重の中をまぎれ出でて、八重立つ雲の外へぞ思ひ立たれける。西朱雀より西を指して、大江山生野の道を経つつ、丹波国▼P1613(八九オ)村雲と云ふ所に暫くやすらひ給ひけるが、後には信濃国に落ち留まり給ふとぞ聞こえし。此の卿は、今様朗詠の上手にて、院の近習、当時の寵臣にておはせしかば、法皇も諸事内外無く仰せ合はれける間、入道殊にあたまれけるにや。
二十八 〔師長尾張国へ流され給ふ事 付けたり師長勢田に参り給ふ事〕
 太政大臣は、同十七日、都を出で給ひて、尾張国へ流され給ふとぞ聞こえし。此の大臣は、去んぬる保元々年七月、父宇治悪左府の事に逢ひ給ひし時、中納言中将と申して、御歳十九歳にて、同八月、土佐国へ流され給ひたりしが、御兄の右大将隆長朝臣は、帰京をまたず配所にて失せ給ひにき。是は九年を経て、長寛二年六月廿七日、召し返され給ひて、同十月十三日、本位に補して、永万元年八月十七日、正二位に叙せらる。仁安元年十一月五日、前中納言より権大納言に移り給ふ。折節大納言あかざりければ、数の外にぞ▼P1614(八九ウ)加はり給ひける。大納言の六人になる事、是より始まれり。又、前中納言より大納言に移る事、後山科大臣三守公、宇治大納言隆国の外は先例希也とぞ聞こえし。管絃の道に達して、才芸人に勝れて、君も臣も重くし奉り給ひしかば、次第の昇進滞らず、程無く太政大臣にあがらせ給へりしに、「いかなる先世の御宿業にて、又かかるうき目に遇ひ給ふらむ」とぞ申しける。保元の昔は西海土佐国に遷り、治承の今は東関尾張国へ趣き給ふ。本より罪なくして配所の月を見むと云ふ事は、心有るきはの人の願ふ事なれば、大臣敢へて事ともし給はず。
 十六日の暁方、山階まで出だし奉る。同十七日の朝、暁ふかく出で給へば、合坂山に積る雪、よもの梢も白くして、有あけの月ほのかなり。哀猿空にをとづ▼P1615(九〇オ)れて、遊子残月に行きけむ寒谷の関、思ひ出でらる。昔延喜第四の宮蝉丸の、琵琶を弾じ和歌を詠じて、嵐の風を凌ぎつつ住み給ひけむ藁屋の、心細く打ち過ぎて、打出浜、粟津原、未だ夜なればみえわかず。抑も天智天皇の御宇、大和国明日香の岡本の宮より当国しがの郡に移りて、大津の宮を作られたりけりと聞くにも、此の程は皇居の跡ぞかしと哀れ也。あけぼのの空になり行けば、せたの唐橋渡る程に、水海遥かに顕はれて、彼の満誓沙弥がひらの山に居て、「漕ぎ行く船」と詠めけむ、あとの白波哀れなり。
 野路の宿にもかかりぬれば、かれ野の草に置ける露、日影に解けて旅衣かはくまもなくしほれつつ、篠原東西へ見渡せば、遥かに長き堤みあり。北には郷人栖をしめ、南に池水遠く澄めり。遥かにむかへの岸の水陸には、みどり▼P1616(九〇ウ)深き十八公、白波の色に移りつつ、南山の影をひたさねども、青くして滉瀁たり。洲前にさわぐをしがもの、あしでを書ける心地して、都を出づる旅人の、此の宿にのみ留まりしが、打ち過ぐるのみ多くして、家居も希になり行けり。是を見るに付けても、「かはりゆく世の習ひ、あすかの河の淵瀬にもかぎらざりき」と哀れなり。
 鏡の宿にもつきぬれば、「昔翁の給ひ合ひて、『老いやしぬる』と詠めしも、此の山の事なりや」と、借りたくは思へども、むさ寺にとどまりぬ。まばらなる床の冬の嵐、夜ふくるままに身にしみて、都には引き替はりたる心地して、枕に近き鐘の音、暁の空に音信れて、彼の遺愛寺の草の庵りのねざめもかくやと思ひしられ、がまうのの原打ちすぐれば、おいその森の杉村に、四方もかすかにかかる雪、朝立つ袖にはらひあへず。おとにきこえしさめがゐの、▼P1617(九一オ)闇き岩根に出づる水、水辺氷あつくして、実に身にしむ計りなり。九夏三伏の夏の日も、斑〓婦が団雪の扇ぎ、巌泉に代る名所なれば、玄冬素雪の冬の空、月氏雪山の辺なる無熱池を見る心地する。
 柏原をもすぎぬれば、美乃国関山にかかりぬ。谷川雪の底に音むせび、嶺嵐松の梢にしぐれて、日影も見へぬ打ち下り道、心細くも超えすぎぬ。不和の関屋の板びさし、年経にけりと見置きつつ、杭瀬川に留まり給ふ。夜ふけ人定まれば、霜月廿日に及ぶころなれど、皆白たへの晴の空、清き河瀬にうつろひて、照る月浪も澄み渡り、二千里の外の故人の心も思ひやり、旅の空いとど哀れに思ひなし、尾張国井戸田の里に着き給ひぬ。彼の唐の太子賓客白楽天、元和十五年の秋、九江郡の司馬に▼P1618(九一ウ)左遷せられて、尋陽の江の口りに馳騁し給ひける、古きよしみを思ひ遣りて、塩干方、塩路遥かに遠見して、常は浪月を臨み、浦風に嘯きつつ、琵琶を弾じ詩歌を詠じて、等閑に日を送り給へり。
 或る夜、当国第三の宮、熱田の社に参詣あり。歳経たる森の木の間より、もりくる月の指し入りて、〓の玉垣色をそへ、和光利物の庭に引く、示索の風に乱れ、何事に付けても神さびたる景気なり。有る人云はく、「此の宮と申すは、素盞烏尊是なり。始めは出雲国に宮造りありき。八重立つと云ふ卅一字の詠、此の御時より始まれり。景行天皇御宇、此の砌に跡を垂れ給へり」と云へり。師長、神明法楽の為に琵琶を弾じ給ひけるに、所元より無智の俗なれば、情をしれる人希也。邑老、▼P1619(九二オ)村女、漁人、野叟、頭をうなだれ、耳を峙つと云へども、更に清濁を分かち、呂律をしれる事なし。されども、瓠巴琴を弾ぜしかば魚鱗をどりほとはしり、虞公歌を発せしかば梁塵動きうごく。物の妙なるを極むる、自然に感を催す理にて、満座涙を押さふ。其の声〓々竊々として、又錚々たり。大絃小絃の金桂のあやつり、大珠小珠の玉盤におつるに相似たり。調弾する数曲を尽くし、夜漏深更に及びて、「願はくは今生世俗文字の業」と云ふ朗詠と、「風香調の中に花芳複の薫りを含み、流泉の曲の間に月清明の光明らかなり」と云ふ朗詠とを両三返せられけるに、神明感応に堪へず、宝殿大いに震動す。衆人身の毛竪
ちて、奇異の思ひをなす。大臣は、「平家のかかる悪▼P1620(九二ウ)行を至さざらましかば、今此の瑞相ををがまましやは」と、且は感じ、且は悦び給ひけり。
 或る時又、徒然の余りに宮路山に分け入らせ給ふ。比は神無月廿日余りの事なれば、梢まばらにして、落葉路を埋み、白霧山を隔てて、鳥の一声幽か也。山又山を重ぬれば、里を返り見し、とぼそもへだたりぬ。後は松山峨々として、白石の滝水漲り落つ。則ち石上に流泉の便りを得たる勝地なり。苔石面に生ひて、上絃の曲を調べつべし。岩上に唐皮の打敷、紫藤のこうの御琵琶一面、御随身有りけるを、滝に向けて御膝の上にかきすゑ、撥を取り、絃を打ち鳴らし給ふ。四絃弾の中には宮商弾を宗とし、五絃弾の中には玉商弾を先とす。軽く〓へ、慢く撚り抹ひて復挑す。初めは霓▼P1621(九三オ)裳を為し、後には大絃〓々として急雨の如し。小絃竊々として秘語に似たり。第一第二の絃は索々たり。春の鴬間関として、花の底に滑らかなり。第三第四の絃の声は竊々たり。寒泉幽咽して氷の下に難まし。大珠小珠の玉盤に落つる音、金桂のあやつり、鳳凰・鴛鴦の和鳴の声を副ずと云へども、事の体、山神感を垂れ給ふらむと覚えたり。さびしき梢なれども、葱花啄木は暗に玲瓏の響きを送る。其の時、水の底より青黒色の鬼神出現して、膝拍子を打ちて、御琵琶につけてうつくしげなる声にて笙歌せり。何者のし態なる
らむと穴倉なし。曲終はれり。弾を払ひ撥を納め給ふ時、鬼神申して云はく、「吾は此の水の底に多く年月をすごすと云へども、未だかかる目出たき御事をば承らず。此の御悦びには、▼P1622(九三ウ)今三日の内に御帰洛のあらむずるなり」と申しもはてねば、かきけつやふに失せにけり。水神の所行とは一じるし。此の程の事を思し食しつづくるに、「悪縁は則ち善縁とは是なりけり」と思し食し知られけり。其の後、第五日と申ししに、帰洛の奉書を下されき。管絃の音曲を極め、当代までも妙音院大相国と申すは、即ち此の御事也。「妙音菩薩の化し給へるにや」とぞ申しける。
 村上聖主、天暦の末の比、神無月の半ば、月影さえて風の音しづかに、夜深け人定まりて、清涼殿に御坐して、水牛の角の撥にて、還城楽の破を調べさせ給ひつつ、御心を澄まさせ給ひけるに、天より影の如くにして飛び来たりて、暫く庭上に休む客あり。聖主是を御覧じて、「何者ぞ」と問ひ給ふ。「吾は是、大唐の琵琶の博士、簾▼P1623(九四オ)承武と申す者なり。天人の果報を得て、虚空に飛行する身にて候ふが、只今ここを罷り過ぎ候ふが、御琵琶の撥音につきまゐらせて参りて候ふなり。いかむとなれば、ていびむに琵琶の三曲を授けし時、一の秘曲をのこせり。三曲とは、大常博士楊真操・流泉・啄木、是なり。流泉に又二曲あり。一には石上流泉、二には上原流泉是なり。恐らくは君に授け奉らむ」と申しければ、聖主殊に感じ給ひて、御坐を退けて御琵琶を指し置き給へば、簾承武是を給はりて、流泉・啄木・養秦蔵の秘曲をぞ尽くしける。主上本の座敷になほり給ひ、彼の曲を引き給ふに、撥音猶勝れたり。秘曲伝へ奉りて後、虚空に飛び上り、雲を分けて上りにけり。帝王是を遥かに叡覧ありて、御衣の袖を御顔に押し当てて感涙をぞ流されける。
 此の大臣、帰京の後、御▼P1624(九四ウ)参内ありて琵琶を調べ給ひしかば、月卿雲客耳をうなだれ、堂上堂下目をすまして、何なる秘曲をか弾き給はむずらむと思ひ居たるに、世の常の様なる賀王恩・還城楽を弾かれたりけるに、諸人思はずに成りにけり。而るに、「賀王恩・還城楽」とは「王恩を悦びて、都へ帰り楽しむ」とよめり。昨日は東関の外に遷されて物うきすまひなりけれども、今日は北闕の内に仕へて楽しみ栄へ給へば、此の曲を奏し給ふも理とぞおぼゆる。
 此の殿を平家殊に悪み奉りける事は、大唐より難字の文を作りて、公家へ 献りたりけり。是を読む人なかりけるに、此の殿の読まれたりけり。平家の為に悪しかりける故也。先度に文字三つあり。一には 「国」の作り「口」。此をば、「王なき国」とよまれけり。二には国の作の中に分と云ふ字を三つ書きたり。「〓」。此をば、「国乱れて喧」と読まれたり。三は▼P1625(九五オ)身体の身文字を二つ並べて書きたり。「身身」。此をば「したためにやらむぞ」と読まれたり。後の度には、「家中家柱中柱、空中七日有否、海中七日有否」。此の文をも此の殿み給ひて、唇をのべて咲ひて皆読まれたりけれども、承りける人々細かに覚えざりけり。「是は平家の悪行の異国まで聞こえて、国の主を恥しめ奉る文なるべし」とぞ、後には人申しける。
 左衛門佐業房は伊豆国へ流さる。備中守光憲は本鳥切られにけり。江大夫判官遠業、「科せらるべき四十二人が内に入りたり」と聞きて、「今はいかにも遁るべきにあらず。誠や、流人前右兵衛佐頼朝こそ、平治の乱逆に父下野守誅課せられ、したしき者共みなみな失はれて、只一人きり残されて、伊豆国蛭嶋に流されておはすなれ。彼の人は未だたのもしき人なり。打ち憑みて下りたらば、若し此の難を遁るる事も▼P1626(九五ウ)や」と思ひて、瓦坂の家を打ち出でて、父子二人稲荷山に籠もりたりけるが、「能々思へば、兵衛佐、当時世にある人にてもなし。されば左右なく入道勘当の我等を請け取る事も有がたし。又、合坂・不破関を超え過ぎむ事もをだしかるべしとも覚えず。其の上、平家の家人国々に充満せり。路頭にして云ふ甲斐なく搦め取られて、生きながら恥をさらさむ事も心うかるべし」と思ひ返して、瓦坂の宿所へ打ち返りて、家に火を指して、焔の中へ走り入りて、父子共に焼け死にけり。時に取りてはゆゆしかりける事共なり。此の外の人々も、逃げ迷ひ、周章て騒ぎあへり。あさましとも云ふはかりなし。
 去々年七月、讃岐法皇御追号、宇治の悪左府贈官の事有りしかども、怨霊も猶鎮まり給はぬやらむ。此の世の有様、偏へに天魔の所行と▼P1627(九六オ)ぞ見えし。「凡そ是に限るまじ。猶入道腹すゑかね給へり」とて、残れる人々をぢあひけるほどに、
二十九 〔左少弁行隆の事〕
 其の比、左少弁行隆と申す人は、閑院の右大臣冬嗣よりは十二代、故中山中納言顕時卿の長男にておはせしが、二条院の御代に近く召し仕はれて弁に成り給ひし時も、右少弁長方朝臣を越えて左に加はられにけり。五位の正四位し給へりしに、頭要の人を越えなむどしてゆゆしかりしが、二条の院におくれ奉りて時を失へりしかば、仁安元年四月六日、官止められて籠居し給ひしより、永く先途を失ひて、十五年の春秋を送りつつ、夏秋の更衣にも及ばず、朝暮の食も心にかなはずして、悲しみの涙を流し、春の苑には硯を鳴らして花を以て雪と称し、秋の籬には毫を染めて菊を仮りて星と号す。▼P1628(九六ウ)伊賀入道寂念が霊山に籠もり居て、
  春きてもとはれざりけり山里を花さきなばとなに思ひけむ
と詠じてながめ居たりし心地して、あかしくらし給ひける程に、十六日さよふくるほどに、太政入道殿よりとて使ひあり。行降さわぎ給へり。「人々あわつめり。我もいかなるべきにか。此の十四五年の間は、何事にも相交はらねば」とはおぼしけれども、「さるに付けても、謀叛なむどに与力するよし、人の讒言やらむ」と、思はぬ事なく覚しけり。「昔村上の御宇、橘ノ直幹が、『後進の勧花を望めば、眼雲路に疲れ、傍人の栄貴に対べば、顔をもて泥砂に低る』と奏しけむは、責めて猶朝庭に仕へ奉り、昇進の遅き事をこそ歎きしに、是は直幹が思ひを離れて三五の星霜を送り、今▼P1629(九七オ)入道に怨まれ奉るべしとは思はねども、当世のありさま、咎無くして罪を蒙れば、いかにとあるべき事やらむ」と、なげきながら、「怱ぎ参るべし」と宣ひたりけれども、牛、車もなし、装束もなし。おぼし煩ひて、弟の前左衛門佐時光と申しける、おはしけり、「かかる事こそあれ」と仰せ送られたりければ、牛車・雑色の装束なむど怱ぎ献り給へりければ、西八条へをののくをののくおはしたれば、入道見参し給ひて宣ひけるは、「故中納言殿したしくおはしましし上、殊に憑み奉りて大小事申し合はせ奉り候ひき。其の御
なごりにておはしませば、おろかに思ひ奉る事なし。御籠居年久しくなりぬる事、歎き存じ候へども、法皇の御計らひなれば、力及ばず候ひき。今は御出仕あるべく候ふ」と宣ひければ、行隆申されけるは、「此の十四五年が間は迷ひ者になりはて候ひて、出仕の法、見苦しげなる▼P1630(九七ウ)者にて、何にすべしとも存ぜず候へども、此の仰せの上は、ともども御計らひに随ひ奉り候ふべし」とて手を合はせ、「今の仰せ、偏へに春日大明神の御計らひと仰ぎ奉り候ふ」とて、出でられぬ。御共の者共、別事なしと思ひて怱ぎ帰る。弟の左衛門佐の許へ人を遣はして、「別事なく、只今なむ帰りて候ふ」と告げられたり。行隆、入道の云ひつる様を語り給ひければ北の方より始めて、皆泣き咲ひして悦びけり。後朝に、源大夫判官季貞が小八葉の車に入道の牛懸けて、牛童装束相具して、百疋・百貫・百石を送られたりける上、「今日、弁になし返し奉るべし」と有りければ、悦びなむどは云ふはかりなし。家中上下、手の舞ひ足の置き所を知らず。余りの事にや、「夢かや」とぞ思ひける。
 さて、十七日、右少弁親宗朝臣、追ひ籠められしかば、其の所を右少弁に成し返して、同十八日、五位蔵人になさるるに、▼P1631(九八オ)今年は五十一になり給へば、今更又わかやぎ給ふも哀れなり。
  遂にかく花さく秋になりにけり世々にしほれし庭のあさがほ
 かくて年月をふるほどに、此の人の御子、東大寺長官中納言宗行卿と申しし人は、此の後四十三年の春秋を経て、承久三年治乱の時、京方為りし間、其の扶に依りて関東へ召し下され、駿河国浮嶋が原にして、断頭罪科の由を聞きて、旅宿の枕の柱に、かくぞ書き付けける。
  今日すぐる身をうきしまが原にてぞ遂の道をば聞き定めつる
「昔は南陽県の菊水、下流を汲みて齢を延べ、今は東海道の黄河、西岸に宿りて命を失ふ」と書き給へり。遂に関にして失はれ給ひぬ。今の世までも哀れなる事には申し伝へたり。
▼P1632(九八ウ)三十 〔法皇を鳥羽に押し籠め奉る事〕
 廿日、院御所七条殿に、軍兵雲霞の如く四面に打ちかこみたり。二三万騎もや有らむとみゆ。こは何事ぞと、御所中に候ひ合ひたる公卿・殿上人、上下北面の輩、局々の女房までも、さこそあさましくおぼしけめ。心中ただおしはかるべし。「昔、悪右衛門督が三条殿をしたりける様に、火を懸けて人を皆焼き殺さむとする」と云ふ者もありければ、局の女房、上童なむどはをめき叫びて、かちはだしにて物をだにも打ちかづかず、迷ひ出でて倒れふためき、さわぎあへる事、云ふはかりなし。日来の世の有様に、今日軍兵のかこみ様、さにこそとは思し食しけれども、さすがに、忽ちに是程の事あるべしとも思し食しよらざりけるやらむ、法皇もあきれさせ給ひたりけるに、前右大将宗盛公参られたりければ、「こは何事ぞ。▼P1633(九九オ)いかなるべきにてあるぞ。遠き国、眇かの嶋へ放たむとするか。さほど罪深かるべしとは覚えぬ物を。主上かくておはしませば、世の政に口入する計りにてこそあれ。其の事さるべからずは、是より後には天下の事にいろはでこそあらめ。汝さてあれば、思ひ放たじと恃みてあるに、いかにかく心うき目をば見するぞ」と仰せられければ、右大将申されけるは、「さしもの御事は争か候
ふべき。世を鎮め候はむ程、暫く鳥羽殿へ渡しまゐらすべき由を、入道申し候ひつる」と申せば、「ともかくも」と仰せられければ、御車指し寄す。
 大将やがて御車寄に候ふ。左衛門佐と申しし女房、出家の後には尼ぜと召されし尼女房一人ぞ、御車の尻に参りける。御物具には、御経箱計りぞ御車には入れられける。法皇は、「さては宗盛もまゐれかし」と思し食したる御気色のあらはに見えさせ▼P1634(九九ウ)給ひければ、「心苦しき御共して、見置きまゐらせばや」とは思はれけれども、入道のけしきに恐れて参られず。其に付けても、法皇は、「兄の内府には事の外に劣りたる者かな」とぞ思し食されける。「理なり。丸は一年かかる目をみるべかりしを、故内府が命に代へて云ひ留めたりしによりてこそ、今までは安穏なりつれ。内府失せぬる上は、諌むる人もなしとて、其の所を得て、憚る所もなく加様にするにこそ。行末こそ更に恃もしからね」とぞ思し食しける。公卿・殿上人の一人も供奉するもなし。北面の下臈二三人と、御力者金行法師計りぞ、「君はいづくへ渡らせ給ふやらむ」と思ひける心うさに、御車の尻に、下臈なれば、かいまぎれてぞまゐりける。其の外の人々は、七条殿より皆ちりぢりに失せにけり。御車の前後左右には、▼P1635(一〇〇オ)三万余騎の軍兵打ち団んで、七条を西へ、朱雀を下りに渡らせ給へば、京中の貴賎上下、し
づのをしづのめに至るまでも、「院の流されさせ給ふ」とののしりて見奉り、武き物のふも涙を流さぬはなかりけり。
鳥羽の北殿へ入らせ給ひにければ、肥前守泰綱と申ける平家の侍、守護し奉る。法皇の御すまひ、只おしはかりまゐらすべし。さるべき人、一人も候はず。尼ぜばかりぞ、ゆるされてまゐりける。只夢の御心地して、長日の御行法、毎日の御勤め、御心ならず退転す。供御まゐらせたりけれども、御覧じも入れず。先立つ物は只御涙ばかりなり。門の内外には武士充満せり。国々より駈り集められたる夷なれば、見馴れたる者もなし。つべたましげなる顔けしき、うとましげなる眼やう、怖しともおろかなり。
 大膳▼P1636(一〇〇ウ)大夫業忠が子息、十六歳にて左兵衛尉と申けるが、いかにしてまぎれ参りたりけるやらむ、候ひけるを召して、「今夜、丸は一定失はれぬると覚ゆるなり。いかがせむずる。御湯をめさばやと思し食すはいかに。叶はじや」と仰せ有りければ、今朝より肝魂も身に随はず、をむばく計りにて有りけるに、此の仰せを承れば、いとど消え入る様に覚えて、物もおぼえず悲しかりけれども、狩衣にたまだすき上げて、水を汲み入れて、こしばがきをこぼち、大床のつか柱をわりなむどして、とかくして御湯しいだしたりければ、御行水まゐりて、泣々御行ひぞ有りける。最後の御勤めと思し食されけるこそ悲しけれ。されども別事なく夜はあけにけり。
 去んぬる七日の大地震は、かかるあさましき事の有るべかりける前表なり。十六洛叉の底までもこたへて、堅牢▼P1637(一〇一オ)地神も驚動し給ひけるとぞ覚えし。陰陽頭泰親朝臣、馳せ参りて泣々奏聞しけるも理なりけり。彼の泰親朝臣は、晴明五代の跡を稟けて、天文の淵源を究む。上代にもなく、当世にも並ぶ者なし。推条掌を指すが如し。一事も違わず。「さすのみこ」とぞ人申しける。雷落ち懸かりたりけれども、雷火の為に狩衣の袖計りはやけき、身は少しもつつがなかりけり。
三十一 〔静憲法印法皇の御許に詣る事〕¥¥
 廿一日、静憲法印は、此度は御使の儀にてはなくて、私に思ひ切りたる気色にて、太政入道の許へ行き向かひて申しけるは、「法皇鳥羽殿に渡らせ給ふが、人一人も付きまゐらせぬよし承り候ふが、心苦しく覚え候ふ。然るべくは御免されを蒙らむ」と泣々申されければ、法印、うるはしき人の事あやまつまじきにて有りければ、ゆるされてけり。手を合はせ悦びて、怱ぎ鳥羽殿へ参られたりければ、御経打ち▼P1638(一〇一ウ)貴くあそばして、御前に人一人も候はざりけり。静憲法印参られたりけるを御覧じて、うれしげに思し食して、「あれはいかに」と仰せ有りもはてず、御経に御涙のはらはらと落ちかかりけるを見まゐらせて、法印も余りに悲しく覚えければ、「何に」ともえ申さで、御前にうつ臥して声も惜しまず泣き給へり。尼ぜも思ひ入りて臥し沈みたりけるが、法印の参られたりけるを見ておきあがりつつ、「昨日の朝、七条殿にて供御まゐりたりし外は、夜部も今朝も御湯をだにも御覧じ入れず。長き夜すがら御寝ならず、御歎きのみ苦しげに渡らせおはしませば、ながらへさせ給はむ事もいかがと覚ゆる心うさよ」とて、さめざめと泣き給ひければ、「いかに供御はまゐらぬにか。此の事更に歎きと思し食
すべからず。平家世を我がままにして、既に▼P1639(一〇二オ)廿余年になりぬ。何事も限りある事なれば、栄耀極まりて宿運つきなむとする上、天魔彼の身に入り代はりて、かやうに悪行を企つと云へども、君誤らせ給ふ事、一つなし。かくて渡らせ給ふとも、天照大神・正八幡宮、君の取り分きて恃みまゐらせ給ふ日吉山王七社、一乗守護の御誓ひ違ふ事なくして、彼の法花八軸に立ちかけりてこそ、護りまゐらせおはしまし候ふらめ。臣下人民の為には倍々仁を行ひ恵みを施し、政務に御私なからじと思し召さば、天下は君の御代になりかへり、悪徒は水の泡と消え失せむ事、只今也」と申されて、供御すすめまゐらせらる。御湯漬少しまゐりたりければ、尼前も少し力付きて、君も聊かなぐさむ御心おはしましけり。
 此の左衛門佐と申す女房は、若くより法皇の御母儀待賢門院に候はれけ▼P1640(一〇二ウ)るが、品いみじき人にてはなかりけれども、心さかざかしうして、一生不犯の女房にておはしければ、浄き者なりとて、法皇の御幼稚の御時より近く召し仕はせ給ひけり。臣下も君の御気色によりて 「尼御前」とかしづきよばれけるを、法皇のうやまふ字を略して、御かたことに「尼ぜ」と仰せの有りけるとかや。かかりければ、鳥羽殿へも只一人付きまゐらせられたりけり。
 主上高倉院は、臣家の多く滅び失せ、関白殿の事にあはせ給ひたるをだにも、なのめならず歎き思し食しけるに、まして法皇のかやうにおしこめられさせおはしますと聞こし食されしかば、何事も思し食し入らぬさまなり。日を経つつ思し食し沈みて、供御もはかばかしくまゐらず、御寝も打ち解けてならず。常は「御心地なやまし」とて、夜のおとどに入らせおはしませば、后宮を始め奉り、▼P1641(一〇三オ)近く候ふ女房達も、「いかなるべき御事やらむ」と、心苦しくぞ思ひ奉りける。内裏には、法皇の鳥羽殿におしこめられさせ給ひし日より、御神事にて、毎夜に清涼殿の石灰の壇にて大神宮を拝しまゐらせ給ひけり。此の御事を祈り申させおはしましけるにこそ。同じき親子の御間と申しながら、御志の深かりけるこそ哀れに止む事なけれ。「百行中には孝行を以て先とす。明王は孝を以て天下を治む」といへり。されば、「唐尭は老い衰へたる母を尊す。虞舜は愚頑なる父を敬ふ」といへり。漢の高祖帝位に即き給ひて後、父大公を教へ給ひしかば、「天に二つの日なし、地に二つの主なし」とて、弥よ恐れ給ひしに、太上天皇の位を授け給ひき。是皆漢家の明王の行ひ給ふ事なり。彼の賢王聖主の先規を追はせお
はしましけむ、天子の御政こそ目出たけれ。
 二条院も▼P1642(一〇三ウ)賢王にて渡らせ給ひけるが、御位に即かせ給ひて後は、「天子に父母なし」と常には仰せられて、法皇の仰せをも用ゐまゐらせ給はざりしかば、本意なき事に思し食したりし故にや、世をもしろしめす事も程なかりき。されば、継体の君にても渡らせ給はず、正しく御譲りを受けさせおはしましたりける御子の六条の院も、御在位纔かに三年、五歳にて御位退かせ給ひて、太上天皇の尊号有りしかども、未だ御元服もなくて、御年十三才にて安元三年七月廿七日に失せさせ給ひにき。只事ならざりし御事なり。
三十二 〔内裏より鳥羽殿へ御書有る事〕
 内裏より鳥羽殿へ、忍びて御書有り。「世も閑かならず、君もさやうに渡らせ給はむには、かくて雲居に跡を留めても何にかはすべき。彼の寛平の昔の跡を尋ね、花山の古きよしみを訪ねて、位を去り家を出でて、山林流浪の▼P1643(一〇四オ)行者とも成り候はばや」と申させおはしましたりければ、御返事には「我身には君のさて渡らせ給ふをこそ、たのみにては候へ。さやうに思し食し立ちなむ後、何の憑みか候ふべき。ともかくも、此の身の成りはてむ様を御覧じはてむとこそ思し食され候はめ。努々々有るべからざる御事也。いたく震襟を悩まし給はむ事、還りて心苦しかるべし。さな思し食され候ひそ」なむど、こまごまなぐさめ申させおはしましければ、主上御報書を龍顔にあてて御涙に咽び給ふぞかなしき。院内さへかやうに御物思ひに結ぼほれさせおはしますぞあさましき。貞観政要に云はく、「君は船なり、臣は水。浪を治すれば船よく浮かぶ。水浪を湛ゆれば、船又覆へさる」と云へり。「臣よく君を持つ。臣又君を覆へす」。保元・平治両度の合戦には入道相国君を持ち奉るといへども、安元・治承の今は又、君を覆し▼P1644(一〇四ウ)奉らる。其の事、本文に相応せり。
三十三 〔明雲僧正天台座主に還補の事〕
 廿六日、明雲大僧正、天台座主に還補し給ふ。七宮御辞退ありけるに依りてなり。
 入道は、かやうにしちらして、「中宮、内裏に渡らせ給ふ。関白殿、我が聟也。方々心安かるべし」とやおぼされけむ、「天下の御政、一すぢに内裏の御計らひたるべし」と申し捨てて、福原へ帰り下られにけり。宗盛公参内して、此の由を奏聞せられけれども、主上は、「院の譲り給ひたる世ならばこそ、世政をも知るべき。只とく執柄に申し合はせて、宗盛計らふべし」と仰せ下されて、敢へて聞し食し入れられず。明けても晩れても法皇の御事をのみ、心苦しくいたはしき御事に思し食しける。
三十四 〔法皇の御棲幽かなる事〕
 鳥羽殿には月日の重なるにつけても御歎きはおこたらず。法皇は▼P1645(一〇五オ)城南の離宮に閉ぢられて、冬も半ばすぎぬれば、射山の嵐声いとどはげしく、閑亭の月の影、殊にさびしき御すまひなり。庭には雪降り積もれども、跡ふみつくる人もなし。池には氷のみ閉ぢ重なりて、群居る鳥だにも希也けり。大寺の鐘の声、遺愛寺の聞きを驚かし、四山の雪の色、香呂峯の望みを催す。しづが下す鵜船の篝火は御目の前を過ぎ、旅客の行き通ふ轡の音、御耳に答へて眠りを覚まし奉る。暁の水を切る車の音、遥かに門前に横たはり、夜の霜に寒けき檮の音、幽かに枕に通ひけり。ちまたを過ぎ行く諸人の怱がはしげなる事、憂世を渡る有様思ひ遣られて哀れ也。「宮門を蛮夷の夜昼警衛を勤むるも、先の世に如何なる契りにて今縁を結ぶらむ」と、思し食しつづくるも忝し。凡そ物に触れ▼P1646(一〇五ウ)事に随ひて御心を動かし、御涙を催さずと云ふ事なし。さるままには、折々の御遊覧、所々の御参詣、御賀の儀式の目出たく、今様合はせの興ありし事共、思し食し出でられて、懐旧の御心押へ難し。かくて今年も晩れにけり。
 平家物〔語〕 第二本
  (花押)