延慶本 平家物語 書き下し版(漢字ひらがな交じり)巻五



平家物語 五 〔第二末〕
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 当巻の内歌十六首之在り。
▼P2003(一オ)
一  兵衛佐頼朝謀叛を発す由来の事
二  文学が道念の由緒の事
三  異朝東婦の節女の事
四  文学院の御所にて事に合ふ事
五  文学伊豆国へ配流せらるる事
六  文学熊野那智の滝に打たるる事
七  文学兵衛佐に相奉る事
八  文学京上して院宣を申し賜はる事
九  佐々木の者共佐殿の許へ参る事
十  屋牧の判官兼隆を夜討にする事
十一 兵衛佐に勢の付く事
十二 兵衛佐国々へ廻文を遣はさるる事
十三 石橋山の合戦の事
十四 小壷坂の合戦の事
十五 衣笠の城の合戦の事
十六 兵衛佐安房国へ落ち給ふ事
十七 土屋三郎と小二郎と行き合ふ事
十八 三浦の人々兵衛佐に尋ね合ひ奉る事
十九 上総介弘経佐殿の許へ参る事
廿  畠山兵衛佐殿へ参る事
▼P2004(一ウ)
廿一 頼朝を追討すべき由官符を下さるる事
廿二 昔将門を追討せらるる事
廿三 惟盛以下東国へ向ふ事
廿四 新院厳嶋へ御幸の事 〈付けたり願文遊ばす事〉
廿五 大政入道院に起請文書かせ奉る事
廿六 法皇夢殿へ渡らせ給ふ事
廿七 平家の人々駿河国より逃げ上る事
廿八 平家の人々京へ上り付く事
廿九 京中に落書する事
卅  平家三井寺を焼き払ふ事
卅一 円恵法親王天王寺の寺務止めらるる事
卅二 園城寺の衆徒僧綱等解官せらるる事
卅三 園城寺の悪僧等を水火の責めに及ぶ事
卅四 邦綱卿内裏を造りて主上を渡し奉る事
卅五 大嘗会延引事 〈付けたり五節の由来の事〉
卅六 山門衆徒都帰の為に奏状を捧ぐる事 〈付けたり都帰り有る事〉
卅七 厳嶋へ奉幣使を立てらるる事
卅八 福田の冠者希義を誅せらるる事
卅九 平家近江国山下柏木等を責め落す事
四十 南都を焼き払ふ事 〈付けたり左少弁行隆の事〉
▼P2005(二オ)
平家物語第二末
一〔兵衛佐頼朝、謀叛を発す由来の事〕  兵衛佐源頼朝は、清和天皇十代の後胤、六条の判官為義が孫、前の下野守義朝が三男也。弓箭累代の家にて、武勇三略の誉れを施す。然るに、去んじ平治元年十二月九日、悪右衛門督信頼卿、謀叛を起こしし刻み、義朝、彼の語らひに与せしによりて、子息頼朝、永暦元年三月に伊豆国北条郡に配流せられて、徒に廿一年の春秋を送り、空しく卅三の年齢を積みて、日来年来も、さてこそ過ごしつるに、「今年、いかにしてかかる謀叛を思ひ企てけるぞ」と、人、怪しみを成す。後日に聞こえけるは、四、五月の程は、高倉の宮の宣旨を賜はりて、持て成されたりける▼P2006(二ウ)ほどに、宮失せさせ給ひて後、一院の院宣を下さるる事有りけり。
 其の故は、年来の宿意もさる事にて、高雄の文学が勧めとぞ聞こえし。彼の文学は、在俗の時は、遠藤右近の将監茂遠が子に、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆なりけるが、十八の年、道心を発して、本鳥を切りて、文学房とて高野・粉河の、山々寺々迷ひ歩きけるが、兵衛佐に相ひ奉りて、勧め奉りたりけるとぞ聞こえし。
二 〔文学が道念の由緒の事〕
 抑も、文学が道念の由緒を尋ぬれば、女故とぞ聞こえし。在俗の時は、渡辺の遠藤武者盛遠とて、上西門院の武者所にて、久しく龍顔に仕へて飲羽の三威を施し、専ら鳳闕に侍して射〓[周+鳥]の名誉を振るひ▼P2007(三オ)き。
 然るを、此の内を罷り出でて後、渡辺の橋供養の時、希代の勝事なりければ、江口・神崎・桂本・向・住吉・天王寺・明石・福原・室・高砂・淀や・河尻・難波方・金屋・片野・石清水・うどの・山崎・鳥羽の里、各歩みを運びつつ、「霞の裏に珠をかけ、長柄の橋の如くにて、朽ちせざれ」とぞ祈りける。
 説法、半時に及びて、二つがわらの船、一艘ぞ下りける。下人・冠者原に至るまで、さわさわとしてぞ見えける中に、あじろ輿、二張あり。橋より上一段ばかりの西の岸に属く。やがて、輿に乗りて座敷へ入る。輿の金物・大刀・具足、力者法師に至るまで、つきづきしく有りける間、「何れの座敷へ入るやらむ」と見るほどに、やがて並びの壺へ入る。盛遠、具足に▼P2008(三ウ)ばかされて、「主はいかなる人やらむ」と、ひたすらのぞき居たるに、折節、河風零しくして、難波わたりの葦すだれ、しづまりやらずぞ、あがりける。是より見れば、実に優なる十六、七の女にてぞ有りける。青き黛、緑にして咲める皃ばせ、花に似たり。漢の李夫人、衣通姫、かぎりあらば、是にはすぎじとぞ見えし。盛遠、思ひけるは、「うきみの程も白波の、住めば住まるる事なれど、男とならば是程の、女に枕をならべばや。哀れ、いづくにすきかはと、立つる間もなき人やらむ」としづ心なく悶えつつ、相ひ構へて、「返り入らむ所へ、いづくなりとも見おかむ」と思ひける程に、聴聞の最中に、俄に焼亡と罵る。きとみれば、黒煙数十丁に吹きつづいて、上下の諸人、さわぎあへり。いづくなるらむと立ち出でて、鞭を▼P2009(四オ)打ちて馳せけるに、見聞の者多かりければ、事故なくもみけちぬ。此の間に、法会も又畢はんぬ。盛遠、又思ひ出だして、「有りつる人は何になりつらむ」と、あさましく急(いそ)ぎかへりみれば、屋形ばかりにて人もなし。「なにしに我が身の出でつらむ」と、千度百度歎けども、悔ゆるにかひぞなかりける。其の夜は猶もゆかしさに、座敷に居てぞ、明かしける。
 あけはなれぬれば、「さても此の上人は京都あまた見給へる人也。もし知り給ひたる事もや」と、急(いそ)ぎ庵室へ渡りて、物語のついでに、「抑、昨日、御説法の最中に、いかいかの船に、しかしかの輿に乗りて、某が座敷の並びへ入り候ひしは、何なる人やらむ。きよげに候ひし物哉」と申しければ、聖、「彼の人は、故三条のさへきの頭の娘。当時は鳥羽の刑部左衛門が女房也。父の朝に仕へし間は、彼の刑部▼P2010(四ウ)なんどをば、目ざましくこそ思はむずれども、なにもののし態にか、刑部とつれさせたれども、母の尼公の有るも、未だ心よからず」とこそ申せ。其の時、盛遠、思ふ様、「さすが、刑部左衛門が是程の女具足せるこそ心にくけれ。今は彼の仁にしたがひて、本意をこそ遂げずとも、音をも聞き、適形を見たりとも、なぐさみなむ」と思ひけるが、「まてまて、しばし、我が身ゆゆしからねども、上西門院に仕へ奉りて、年久し。其の上、一門の者共の、目ざましく思ふも理也。彼の女房の母に仕へむ」とて、宿所へもかへらず、やがて、三条をさしてぞ上りける。
 西東院を上りに、三条よりは南、西東院よりは西に、住みあらして、年久しくなり、築地破れて、軒まばらなる桧皮屋あり。「是なるらむ」と思ひて、立ち入れば、空しく四壁の中を見れば、旧苔封じて▼P2011(五オ)塵を交へ、漸く小さき住ひの辺りを望めば、新草閉ぢて露を帯びたり。折節、門に女あり。まねきよせて、「是は故さへきの頭の殿の御家か。聊か子細あつて申すぞ。此の内に、我、宮仕へを申さばや。吉き様に見参に入れ」と云ひければ、女、「此の由を、申してこそ見候はめ」とて、立ち入りぬ。暫く有りて、「立ち入り給へ。承らむ」と云ふ。盛遠、先づうれしくて、急(いそ)ぎすすめば、中門の妻戸を開く人あり。五十有余なる尼公也。「是へ」と云へど、男、畏まる。「いかにいかに」と度び重ぬれば、盛遠、内へぞ入りける。
 家主の云はく、「実に、これに居むと仰せの有るが、思ひもよらぬ事哉。御けしきを見奉るに、尼がはぐくみ奉るべき人ともみえ給はぬ。御心中の程こそ、返す返すも穴倉けれ。何れの辺につくべしともおぼえず。故亡父が存生の間は、身かひがひしからずと云へども、公に▼P2012(五ウ)仕へ奉りしかば、さ様の事も侍りき。今は老尼の旧屋に、おき奉りても、なにかせむ。但し、仰せある事を、いなと云はば、定めて御所存に違ふらむ。それも又ほゐなし。ともども、それの御計らひ」とぞ、宣ひける。
 盛遠申しけるは、「我が身幼少より上西門院の武者所へて候ひしが、思はざる外に彼の御所を罷り出でて後、古里なれば田舎に住み侍れども、何事も物うくて、都の事のみ心にかかり、『六原辺に居ばや』と申せども、『上西門院に召し仕はれて年久し。武者所ふるほどの者を仕はじ』と申して、ゆるされず。又、元よりの事なれば、公家をこそ、伺ふべけれども、『さも』と申す仁は、我が心に叶はず。思ひ煩ひて候ふが、此の御事を、あらあらつたへ承りて、御目にもかからばやと、参りて候ふ也」といへば、尼公、からからと▼P2013(六オ)咲ひて申しけるは、「人々の畏れ奉りておき奉らぬ人を、此の朽尼が顧み奉らむ事こそ、返す返すをかしけれ。よしよし、それも苦しからじ。今より、尼を親と憑み給へ。おそれながら、子と仰ぎ奉らむ。故さへきの頭と、朝夕はぐくみいたはりし女子一人あり。父存生の間は、いかならむ高ふるまひをせさせばやとこそ営みしに、彼の父うせて後、思ひの外に、鳥羽の刑部左衛門とかや申す者、相ひつれて候へば、是に付けても、亡夫の事のみ思はれて、万づ目ざましければ、つやつや申しかよはさで罷り過ぎしほどに、いつぞや亡夫が為に形の如く仏事を営みしに、上導の御詞に、『春の花、梢を辞して有為無常の涙を拭ひ、秋の葉、林に飛びて生者必滅の観を催す。三界は幻の如し。誰か常住の思ひを為さむ。六道は夢に似たり。蓋ぞ覚悟の月を尋ねざらむ。▼P2014(六ウ)鸞鳳の鏡の上に双べる影も、芭蕉の形破れざる程、鴛鴦の衾の内に遊び戯るるも、草の露の命消えざる間』と候ひしを聴聞して、身にしみ、理に覚え候ひし間、やがて発心修行をもして、亡夫が後生を助け、又、我が臨終をも祈らばやとこそ思ひしか、それも、さてやみぬ。月日のかさなるに随ひて、此の女子の事、思ひ出でられ、又、幾程つれはつまじき事を思ふにも、なにの心もよわりて、不孝ゆるして候へば、此の程は悦びて通ふ也。凡そは、幾程ならぬ夢の世に、心をたてたりともなにかせむ。さしも契り深くて、朝夕は万歳千秋とこそ祈りしに、さへきの頭にも後れぬ。年月は隔つれども、思ひは更にやすまらず。『翡翠の簾の前には、花の枝、古へを恋ふる色を添へ、冊胡の床の下には、鏡の箱、涙を染むる塵を遺す。坐しても憂へ、臥しても▼P2015(七オ)憂ふ。空しく古人の去る日を思ふ。何の朝、何の夕にか、再び亡夫の帰らむ時に逢はむ。悲み坐すれば、天も暮れ難し。歎き臥すれば、夜も明けず。悲み見れば、倍す悲し。春の山を隔つる霜の影、歎き聞けば、弥よ歎かし。暁の窓に囀る鳥の音、一旦世を背きし憂へ、已に心地の月に闇く、百年諧老の契り、夢路の花に異ならず』。かかる思ひをするみにてあれば、此の女子をも一所におき、つれづれならむ時は、みばや、みえばやとこそ思へども、彼も世間の習ひにて、今は鳥羽に有りつきたる分なれば、不足なし。よしよし、尼五十に余りて、孝子を生みたるにてこそ有らむずれ。此の家なんど申すも、尼、一期の後は、あづけ奉らむ。さても、おはせよかし」と云ふ。
 男、此の後は万づ深く取り入りて、明けぬ晩れぬとすぐしつつ、ひたすら女の事のみ深く心にかかりて、さりとも、みではは▼P2016(七ウ)てじと、心深く思へども、適きたる時は、車にて妻戸深く遣り入れば、行くも返りも、忍びて形をだにもみせず。此に付けても愁ふるに、今即ち打ち臥しぬ。明晩歎き悲しめば、家主も是を見て、「何なる事ぞ」とさわぎつつ、医家術道を尽しつつ、神明仏陀に祈る。然れども、つゆもしるしぞ無かりける。
 昔、張文成と云ひし人、忍びて則天皇后に相ひ奉りたりけるが、又、思ひよるべき様なかりければ、夜日此を歎きけり。理りや、此の人は、潘安仁には母方のめい、雀季珪には妹にておはしければ、みめ形もよかりけり。夜深け、人定まりて、琴を弾き給ふを聞きて、息絶えなむと思ふほどに有りけるに、心ならず近付けられ奉りて、後、又まみえ奉る事もなければ、心中には、生きたるか死にたるか、夢か覚ともなければ、人しれぬ恋にし▼P2017(八オ)づみて、いもねられぬに、適まどろめば、又孀烏の目をさますも情けなく、実に忍ぶ中は、人目のみしげければ、苦しき世を思ひ煩ひて、まれの玉づさばかりだに、水くきのかへるあと、まれなれば、涙にしづむもの悲しさに、思はじとすれど、思ひわするる時なくて、常にはかくぞ詠じける。「あな憎の病鴉や、半夜に人を驚す。薄媚狂鶏ぞや、三更に暁を唱ふ」。されば、此の心を光行は、
  独りぬるやもめがらすはあなにくやまだ夜ぶかきにめをさましつる 
彼の張文成は忍びても后にも相ひ奉り、人目をこそ歎きしに、此の武者所は、責めて見ばやと思へども、叶はぬ事をぞ歎きける。かくてつながぬ月日なれば、既に三年になりにけり。
 或る時、此の尼公病所に来たりて云はく、「さても御辺の御いたはり、年月あまたかさなれど、其のしるしもなし。▼P2018(八ウ)且は見給ふ様に、明くれはその営みより外は他事なけれども、今は甲斐なく日にそへてのみよわり給へば、ほいなき事はかぎりなし。但し、いかさまにも、ただならぬ心のおはするとおぼゆるはいかに。若き時の習ひなれば、いかなる院宮の宮原の人に心をかけ、歎き給ふとこそ覚ゆれ。今は親子のよしみおろかならず。鳥羽のむすめにもおとらずこそ思ひ奉れ。隔て心なく宣へ」と云へば、盛遠此を聞きて、年比は恋ふる心にせめられて、物をだにもはかばかしく云はざりしが、此の事をさとられて、かべに向かひてぞ咲ひける。尼公「さればこそ」と宣ひて、枕近く立ち寄りて云ひけるは、「さても不覚におはする物哉。云ふ甲斐なくぞおぼしめされ候ふとも、我が身、昔は諸宮諸院を経廻して、好色▼P2019(九オ)遊宴の方々、さりとも多くこそ見知り給ふらめ。此程の事を歎きて、今までしらせず煩ひ給ひける事、さばかりの武者所とも覚えず。大方六波羅の辺なりとも、などか其の心たすけ奉らで有るべき。実にやすかるべき事也」。盛遠是を聞きつつ、「あはれたよりや」と思へども、せめてはよその事ならば、歎きてこそは見えけれども、実に鳥羽の女房の事なれば、とにもかくにも思ひ煩ひてつやつや返事ぞせざりける。重ねて「いかにいかに」とせめければ、延ぶべき方なくて、云はばやと思へども、「よしよし、よその事ならば、恥をもすて、歎くべけれども、いかがはもらさむ」と思ひければ返事もなくて、いきつぎゐたり。重ねて尼公の云はく、「我が身今はすたれものなれども、昔申し承はりし人のみこそおは▼P2020(九ウ)すれ。遠国までは叶はずとも、洛中にてはいづれの御方なりとも、又六はらの人共の姫共なりとも、『かかる歎きする者あり。助け給へ』と申さむに、なじかは叶はで有るべき。我親子の約束申して既に三ヶ年に成りぬ。志の程をも今は見え奉りつらむ。鳥羽の女子にも劣らず心苦しくこそ思ひ奉れ。此程心おかれ奉りて、同宿無益也。尼、人ならねば、其を大事と思ひ奉れとにはあらず。ともどもそれの御計らひ」とぞ宣ける。
 盛遠心中に思ひけるは、是程の時、露ばかりも漏らさでは、いつを期すべしともなければ、面に火をば焼けども、し
ぶしぶにこそ申しけれ。「仰せ畏まりて承り候ひぬ。さても一年、渡辺の橋供養の時、説法半ばに及びて、二瓦の船にあじろ輿二張入りて、橋より上一段ばかり▼P2021(一〇オ)の西の岸につき給ひし人を承り候ひしかば、是へ御参と聞こえ候ひしが、其の時御ともなひ候ひし人の、不覚の心に打ちそひて、朝夕わするる事もなし。其のゆくへは誰人にておはしけるやらむと、穴倉なさの余りに尋ね参りて候ひしかども、今まで顕れずして、空しく罷り過ぎ候ひぬ」と、おめおめとぞ語りける。其の時尼公打ち咲ひて云はく、「其の橋供養の時は参りて候ひし也。さて其の女房が心にかかりておぼしめすか。それこそ鳥羽の娘にて候ひしか。いとやすし、いとやすし」とぞ云ひける。「且は面目にてこそあらめ。皆よのつねの習ひ也。若くさいとうなき間は、我身に思ふ事もあり、人に思はるる事もあり。故さへきの頭とつれしも、此の風情にてこそ有りしか。是程やすき事を、今まで心苦しく歎き給ひけむ事▼P2022(一〇オ)こそ、返す返すも不覚なれ。今は兄弟のあはひぞかし。適きたる時も見参し給ひて、恐れながら尼が使ひしても鳥羽の辺へもおはしたらば、上にこそ叶はずとも、さる人おはするとは、などか見奉り又見え奉らざるべき。なにかは若しかるべき。呼びてみせ奉らむ」とて、急(いそ)ぎ文を書きて鳥羽へ遣はす。「けさより違例の心地ゐできて世間もあぢきなし。老いたる若ききらはず、生死無常の習ひなれば、いかが有るべかるらむ。来給へ、見奉らむ」と云ひ遣はす。
 鳥羽の女房これを見て周章騒ぎて来たれり。常の居所に急(いそ)ぎ入りて見れば、尼公さきざきよりも心よげにて打ち咲ひて「是へ是へ」と宣へば、「夢か幻か、覚ならぬ気色かな」とみれども、先ず近くよりて居れば、「さこそさわぎ給ひ▼P2023(一一オ)つらめ。不思議にをかしき事の侍れば、語りて咲ひ奉らむとて申してなり」。何事なるらむと聞くほどに、「実に女の身となりては是程の面目いかが有るべき。上西門院の武者所、此の三ヶ年尼に仕はれておはしつるが、煩ひ給ふ事余りに大事におはせしが、尼も心苦しくて朝夕歎きしかども、つゆ其のしるしなし。ことわりにて有りけるぞとよ。余りの心本なさに今日病の様を責め問ふに、取り別け返事もなかりつる程に、事の有様細しく問へば、人を恋ふる病にて有りけるぞとよ。他人にてもなく、女房を心にかけたりけると覚ゆるぞ。何か苦しかるべき。兄弟のあはひにおはすれば、今まで見参し給はぬこそうたてけれ。体ばかりをみえ給へ。人を助くるは尋常の習ひ也」とくどき給へば、女房余りの事にて▼P2024(一一ウ)つゆ其の返事もなし。「いかにいかに」とせむれども、女郎花(をみなへし)のつゆ重げなるけしきにて、とかうの詞もなし。尼公又宣はく、「御気色こそ存外なれ。其にこそ今は鳥羽に思ひ付きて、是の朽尼の申す事は用もなけれども、親となり子となるも前世の契也。彼の人を此の破屋におき奉りても、すでに三年になる。只一人おはする女房にも劣らず糸惜と思ふ也。故殿におくれて後、さる女房は鳥羽にこそ常はおはすれ。これにていかにと、おきて給ふ事もなし。打ちすてられ奉りて、何事も便りなきさまにてこそありしか。而に彼の人、尼を憑み給ひて、九夏三伏の焔天にも扇を以て床をあふぎ、玄冬素雪の寒夜も衾を懐きて是を暖む。かやうに仕はれ給ひて志浅からず。尼には武者所にすぎ給へる子▼P2025(一二オ)なし。それに只今さながら後れ奉らむ事、生涯の恨み也。妻夫となれともいはばこそかたからめ、人の心を助くるは、世間の皆習ひなり。姿計りをもみえよかし。それ叶ふまじくは、今日より後は母有りとも思ひ給ふべからず。又それにおはするとも思ふまじ」と、かきくどきせめければ、「仰せは背き難けれども、此の程も刑部が申し候ふは、『三条には客人おはするなり。かろがろしくかよふべからず。尼御前も我をばさげしめ給ふ聟なれば、有りはてむ事もかたし』と、常に申し候ふ。其の上女の習ひ、一人を憑む外、他の心をもてる、今も昔も人の命を失ふわざ也。殊更に仰せのごとくは兄弟の間なり。とにもかうにも此の事なほも承はらじ」と云ふ。尼公又宣ひけるは、「仰せの如くおとといの間におはすれば、本意を遂げよとも申さばこそ、今まで▼P2026(一二ウ)見参し給はぬこそわろくおはすれ。互いにみえ奉りなば、なにか苦しかるべき。此の人鳥羽なんどへもこえ給はむ時は、兄弟の間なれば適の対面をもし給へかし。其をばよも左衛門もいさかはじ。あらぬ振舞をもし給へとも申さばこそ、まれの対面だにもあらば、此の家にさてこそおはせむずれ。縦ひ尼いかになりたりとも、おとといの有様にて時々かよひ給はんに、なにか苦しかるべき」と、さまざまに宣へば、「さらば見参せむ、よび給へ」としぶしぶに有りければ、急(いそ)ぎ使ひして、「申すべき事あり。これへ入り給へ」といはす。
 盛遠うれしさの余りに急(いそ)ぎはひおきて、大息つきてぞきたりける。三年の間の思ひにやせおとろへたれども、さすが其の久しさ、上西門院に有りしかば、なえやかなる直垂のこしつき、又へりぬりのえぼしのきはにいたるまで、なま▼P2027(一三オ)めきてぞ見えける。是を見て尼公はまぎれ出で給ひぬ。而るに此の女房、少しもはばからず盛遠をまぼりて、今や物いふとまてども、其の久しさ、おともせずうつぶき入りてぞ有りける。其の時女房、「さても此の三年の程、是に御渡りとは承り候へども、常には鳥羽に居て候へば、今まで見参し奉らぬ事、かへすがへす心の外に覚え候ふ。すべて心のそらくは候はず。自然の懈怠にてこそ候ふらめ。今はかやうに対面の上は、何事に付けても心安き辺にこそ思ひ奉り候へ。母にて候ふ老公も、ひたすらたのみ奉るよし申し候ふ。此の程も御労はりのよし申され候ひつれども、心中に歎き入りては候ひつれども、未だみえ奉ることもなくて、いかにと申さむことも、何とやらむ候ひつる間、空しく過ぎ候ひぬ」と、こまごまに云へども、返事もせず。
 重ねて云はく、「実にかたはらいたき事を、母の尼▼P2028(一三ウ)公の語り申しつるを、有るべからざるよし申し候ひぬ。女の身には是にすぎたる面目やは有るべき。伊勢のいつきの宮は、
  きみやこしわれや行きけむおぼつかなしのぶのみだれかぎりしられず K100
とながめ、二条の后は、
  むさしのはけふはなやきそ若草のつまもこもれり我もこもれり K101
なんど詠じ給ひしも、此の道の態なり。それもさてこそおはせしかど、今は世の末となりて、二心ある女にすぎたる難はなし。さなきだに刑部が、『めづらしき人もち奉りて』と、朝夕は申す。此の事いかがおぼしめす。いかさまにも御計らひなくては、後よかるべしともおぼえず。女の身にてかやうの事を申せば、時のほどにやがてうとまれ奉らむずれども、実に志おはせば、▼P2029(一四オ)刑部を急(いそ)ぎ討ち給へ。此も前世の契にてこそ有らめ。其の後は、いかにも仰せを背くべからず。母の尼公も、さしもなき者につれたりとて、不孝の者にて候ひしが、東山の上人の教化にこのほどはゆりたれども、底の御心は打ちとけ給はぬ風情也。此に付けても、一宇のすまひとならむはよく候ひなむ」と云ふ。
 盛遠おめおめとして居たりけるが、此の事をききて打ち咲ひて後、樊会が如く気色して、「仰せ悦びて承り候ひぬ。我が身いみじからずと云へども、武勇の家に生れて弓箭にたづさはる親しき者、三百余人あり。彼等を大将軍としては、日本の外なる新ら百済なりとも、などかせめでは候ふべき。此程の事は冠者原にしらするに及ばず。我が身計りしてなりともいとやすし」。女房又云はく、「さらば今三日と申さむ日、京より鳥羽へ客人▼P2030(一四ウ)来るべし。日のほど酒宴、夜に入らば管絃連歌有るべし。其の後かへるべし。形部定めて酔はむずらむ。其の夜、伺ひ給へ。刑部がねどころは、酒宴の家を一つ隔てて西にあたりたる屋也。常に東山に出づる月を見むと、東にむけてすめり。広縁の南のはしを指し入りて見給はば、妻戸の口に臥したらむを指し給へ。穴賢、見たがへて不覚すな。我は遥かのおくに臥すべし。相構えて本鳥をさぐり給へ。さらば暇申して。今夜も是に候ひて、何事も申したくは候へども、母の違礼とて遣はしたりつる文を、あしくおきて有りつる。定めて刑部み候ひなば、急(いそ)ぎこゆらむと覚ゆ。いかにも御ぱからひの後は、ともども仰せに随ふべし」とて返りぬ。
 遠藤是を聞きて思ふ様、「三年の間、空しき床に向ひて▼P2031(一五オ)独り臥したれば、秋の夜長し。夜長くして、眠る事なし。耿々とほのかなる残りの燈の壁に背くる影、嘯々と閑なる闇の雨の窓を打つ音のみ友となり、春の日遅し。日遅くして独り居れば天もくれぬ。宇(のき)の鴬の百囀を、愁ひあれば聞くことを厭ふ。梁のつばくらめの比び住みをば、ねたましくのみ思ひつつ、三年のほどもすぎしぞかし」。今三日と契りしも、待ちくるしくぞ思ひける。
 さても三日と云ふ日は、萌黄の腹巻に左右の小手・すねあて計りに、三尺五寸の大太刀に、ろうさふの小袖をかづきて、やぶれがさにかほをかくし、三条を西へ大宮を南へ行く。長七尺に余りたりければ、行くも返るもあやしがりて見送らぬ者はなかりけり。未だ日たかかりければ、御所の辺りにやすらひて彼こを伺ふに、云ひしにたがはず、京▼P2032(一五ウ)より客人入りぬ。日くれぬれば管絃連歌の後、此の人急(いそ)ぎ返りぬ。さても此の女房、今夜をかぎりの事なれば、三条の尼公の我に後れて歎き給はむ事、又死なばともにと契り深き刑部が事も悲しくて、只眼に遮ぎる物とては尽きせぬ涙計り也。「さればとて、かくてやむべきにもあらず。異国にも悲しき男にかはりて、後生を助けられし女も有りしぞかし」と思ひ切りて、酔ひたる男を懐て奥のつぼにふせて本鳥をみだり、我がたけなるかみを切りおろして女の姿にぞつくりける。其の後我がかみを取り上げて本鳥になす。さて刑部が烏帽子・大刀・刀を妻戸の口に取り渡して、東枕にふしにけり。
 今をかぎりと思ふにも忍びの涙せきあへず、漢の李夫人にあら▼P2033(一六オ)ざれば、体を移しても誰かみむ。唐の陽貴妃に異なれば、尋ね問ふべき人もあらじ。只うき目をみむものは三条の母の老尼計りと思ふほどに、向ひの屋の中門の程、「ぎいり」となりけるが、見れば、腹巻に大刀脇にはさみたる大童一人、広縁へつとのぼり、我がうへを飛び越えて奥のつぼへぞ通りける。「あな心憂や。いかになりぬる事やらむ。已にあやまたれぬるやらむ。おきても取りつかばや」とは思へども、暫く有様を見るに、女とやみなしてけむ、立ち返りうつぶくかと思ふほどに、女の頸は前の縁へぞ落ちにける。盛遠打ちおほせぬと悦びて、暇申して返り参らむとて急(いそ)ぎ頸取り三条へかへる。此の頸をば或る田の中に踏み入れて、三条の屋に帰りて高念仏して縁行道す。
 しばらく有りて、門戸を叩く。▼P2034(一六ウ)「誰そ」と問へば、「鳥羽より。女房を、只今夜打入りて、殺し奉りた」と申す。盛遠、思様、「下臈の不覚さ。何条さる事は有べきぞ」と思ひて、「何(いか)に物狂しき申し様ぞ。殿の御あやまちか」と云ふ。使者云はく、「さは候はず。一定、女房の御あやまちとこそ仰せ有りつれ」と詳らかならず。さればこそとて、尼公に此の由を告ぐ。「女房の御あやまちとて、鳥羽より使者は候へども、よもさる事は候はじ。殿のあやまちにてぞ候ふらむ」と云へば、尼公あわてさわぎ給ふ。又重ねて使ひあり。「何(いか)に」と問へば、「女房の御あやまち」。又、おしかさねて使者あり。来たるも、又来たるも、人は変はれども、詞は同じ詞也。されどもなほ盛遠用ひず。「下臈ほど不覚のものはあらじ。我がしらざる事ならば、いかに不審ならまし。周章たる者哉」と、心の内には返々もにくがり▼P2035(一七オ)き。
 尼公に伴ひて、盛遠も鳥羽へ行きぬ。みれば、此男、頸もなき体、抱きて、「夢かうつつか、此は何なりけるあへなさぞ。いづくへ我を捨て置きて、同じ道へとこそ契りしに。具して行け」とぞ嘆きける。尼公は、是を一目みてよりは、とかうの詞もなく、引きかづきて臥し給ひぬ。盛遠あさましく思ひて、急(いそ)ぎ家を走り出でて、捨てつる頸を尋ぬるに、八月廿日余りの月なれど、折節おぼろにかすみて、いづくとも覚えず。されども、田の中を余りに求めければ、有る深田にて求め得たり。水にてふりすすぎてみれば、此の女房の頸なりけり。急(いそ)ぎ鳥羽に持ちて行き、走り入りて、「御敵人ぐして参りて候ふ。御覧候へ」とて、懐より女房の首を取り出だして、其の身に指し合はせて、「此は盛遠が所行也。一日、此の女房の契り給ひしにばかされて、わ殿の頸を▼P2036(一七ウ)かくと思ひて候へば、かかる不覚をしつる事なれば、我が頸を千きだ百きだにもきざみ給へ。あな心うの有様や。いかなりける事ぞや。是にて切り給へ」とて、腰刀を抜き出だして、左衛門尉に与へて、頸をのべて指し出でたり。
 左衛門尉、此の盛遠をみるに、つらきにつけ、うらめしきに付けても、只一刀に指し殺さばやと思ひけるが、倩らくりかへし物を案ずるに、「滔沼々として長き河の水、水無くして暫し留まり、舟々として浮ける世の人、人無くして能く久し。貞松万春の栄え、甘菊千秋の匂ひ、終に朽つる時有り。いかに萎める時無からむ。かかる憂世にまじはればこそ、憂き目をもみれ」とて、其の刀をばなげかへして、「刀は此にも候ふ」とて、己が刀をぬきて、自ら髪を切りてけり。盛遠ふりあふぎみて申しけるは、「生きて物を思はむよりは、只はや切り給へ。自害せむとは思へども、同じくはわ殿の手にかけ▼P2037(一八オ)給へ。それは悦びたるべし」とて、頻りに頸をのべたり。左衛門尉申しけるは、「御辺、誠に城に立て龍もりて、相闘はむとする事ならば、尤も打ち入りてこそ切るべけれども、かくし給はむ上は、縦ひ女房生き帰るべしと申すとも、切り奉るべきにあらず。自害も詮無き事なるべし。其よりは、只なき人の後世を訪ひ、一仏浄土の往生こそ、あらまほしく覚ゆれ。今生後世空しからむ事、永劫沈輪不覚なるべし。倩ら案ずるに、此の女房は観音の垂迹として、吾等が道心を催し給ふと観ずべし」。その時、盛遠立ちて、左衛門入道を戒師とや思ひけむ、七度礼拝して、髪切りてけり。両方に尼・法師になる者、卅余人也。母も墨染の衣、涙の露にしをれつつ、いつかわくべしともみえず。
 彼の女、消息細々と書きて、手箱に入れて、形見にとて留め置きたるをみれば、「いとど女の身は罪ふかき▼P2038(一八ウ)事にこそ候ふなるに、うき身ゆゑに、多くの人のうせぬべく候へば、我身一つを失ひ候ひぬる也。殊更に罪深く覚え候ふ事は、母に先立ちまゐらせて、物を思はせまゐらせむきみこそ、心うく候へ。相構へて後世をよく訪ひ給ふべし。仏にだにもなり候ひなば、母をも左衛門殿をも、などか迎ひまゐらせ候はざるべき。万づ何事もこまかに申し置きたく候へども、落つる涙にみづくきのあともみえずして、委しからず。返々身のほどの心うさ、ただおしはからせ給ふべし」とて、
  露ふかきあさぢがはらにまよふ身のいとどやみぢに入るぞかなしき K102
 母これをみるに、いとど目もくれ心もきえて、もだえこがるる有様、ためし有るべしとも覚えず。冥途にも共に迷ひ、猛火にも共に焼けむ事ならば、いかがはせん。生きて甲斐なき露の身を、むぐらの宿にとどめおきて、恋慕の▼P2039(一九オ)なみだいつかかわかむ。せめての事に、「浄頗梨の鏡にや浮かびてみゆる」とて、歌の返事をよみて、泣く泣く其の歌の傍らにぞかきならべたりける。
  やみぢにもともにまよはでよもぎふにひとり露けき身をいかにせん K103
とよみて、其の後は天王寺に参りて、「只はや命をめして、浄土にみちびき給へ。我仏になりて、なき人の生所をも求めつつ、一仏蓮台の上に再び行きあはむ」と祈念することなのめならず。さる程に次の年の十月八日、生年五十五にして、終に往生の素懐を遂げにけり。
 形部左衛門尉は、年来の師匠請じて、髪うるはしくそり、三聚浄戒たもちて、法名をば渡あみだ仏とぞ申しける。在俗の時は「渡」と名乗りければ、出家の後も渡の字をぞ呼びける。志は、生死の苦海を渡りて、涅槃の彼岸に属かむ事を▼P2040(一九ウ)観じける心ばへ也。
 遠藤武者盛遠入道は、此も盛遠の盛の字を法名として、盛あみだ仏とぞ申ける。うせにし女の舎利を取りて、後苑に墓をして、第三年の内までは、行道念仏して後世を訪ふ事、人にすぐれたり。さればにや、墓の上に蓮花開くと夢にみて、歓喜の涙袖にふれり。
 其の後、盛あみだぶ道心おこして、高野にて戒を持ち、熊野にこもり、年を経けり。金剛八葉の峯よりはじめて、熊野・金峯、天王寺、止観・大乗・楞厳院、すべて扶桑一州においては、至らぬ霊地もなかりけり。十八才より出家して、一十三年の間は、持斎持律の行者也。春は霞に迷へども、峯に上りて薪をとり、夏は叢しげけれど、柴の枢に香を焼き、秋は紅葉に身をよせ▼P2041(二〇オ)て、野分の風に袖をひるがへし、冬は蕭索たる寒谷に、月をやどせる水を結びなんどして、山臥、修行者の勤め苦(ねんご)ろなり。振鈴の音は谷を響かし、焼香の煙は峯に消ゆ。彼の商山の翁にはあらねども、蕨を折りて命を支へ、原憲がとぼそにはあらねども、藤衣つづつてはだへをかくせり。三衣一鉢の外には、蓄へたる一財なく、座禅縄床の肩筥には、本尊持経より外に持ちたる物なし。寒地獄の苦しみを今生に見て、後世にのがれんとぞ誓ひける。知法有験の時までも、昔の女の事わすれずして、常には衣の袖をしぼりけるとかや。もしや心をなぐさむるとて、昔の女の形を絵にかきて、本尊と共に、くびにかけて身を放たざりける事こそ▼P2042(二〇ウ)哀れなれ。
 かくて在々所々を修行しければ、或る時は東の旅に迷ひて、業平が尋ねわびしあこやの松に宿をかり、或る時は西の海千尋の浪にただよひて、光る源氏の跡を追ひ、陬間(須磨異本)より明石に伝ふ時もあり。偏へに一所不住の行をなして、利益衆生の勤めを専らにす。先代にも少なく、後代も有りがたきほどの木聖にてぞ有りける。「彼の女の縁に遇はずは、争か今度生死の掟を覚るべき。有りがたかるべき善知識なり」とて、弥よ彼の後世をぞ訪ひける。盛あみだぶを改めて、文学とぞ呼ばれける。
三〔異朝東婦の節女の事〕 遠く異朝を尋ぬれば、先昔、唐国に夫を思へる女あり。東婦の節女と是を云ふ。長安の大昌里人の娘なり。階老同穴と契り浅からざりし夫に、▼P2043(二一オ)朝夕伺ふ怨敵あり。此の男も、李陵・張良が態をえて輙からざりければ、有る時、敵、此の節女をとらへて、「汝が夫を我に殺させよ。しからば君に伴ひて、春花明月の詠をもなし、山鳥白雪の興をもまさむ。それ叶ふまじくは、速やかに汝に殺すべし」と云ふ。節女、是を聞きて、「ただかりそめの夜がれをだにも歎くに、此の事夢か覚か。花の下の半日の客、芳志を夕風に残し、月の前の一夜の友、金波を暁雲に惜しむ習ひにてこそあれ、まして夫となり妻となる、此の世一つの事ならず。互ひにみえそめて後、多くの年月を送り、朝夕は千秋万歳とこそ契り深き男を失ひて、汝とすまむ事、いかが有るべからむと覚ゆ。しかれ、たださらば、汝が詞の如く我を失なへ」と云ふ。かたき是を聞きて、「さらば汝が▼P2044(二一ウ)親をも同じく殺すべし。わがみ又親を夫にかへむ事、能々はからへ」と云ふ。節女是を聞きて、親を思ふ悲しさに、「さらば我が謀にて、汝に男を打たせむ。我が夫、楼の上にねたらむを殺せ。夫は東に臥すべし。我は西に臥さむずるなり。東の枕を鉾を以てさせ。男は安く死なむ」とて、ゆるされぬ。さて女、今を限りと思ふにも、夫に別れむ悲しさに、忍の涙せきあへず。夫あやしみて委しく尋ぬれども、更にしらせず。「ただ世の中の有りはつまじきを思ふにも、いとど悲しく」とぞ云ひける。夫哀れと思ひて、もろ共にぞ泣きける。
 女今夜を限りの事なれば、雛の巣に復るが如し、何れを東とし何れを西とせむ。犢の乳を失へるに似たり、存るに非ず、已はるに非ず。心を西刹の暁の月に澄ますと雖も、深き恨みを楼上の夕べの雲に残す。更蘭人定まりて鶏人すでに唱へ、鳥鐘響きを送る程に成りて、夫を西になし、我が身▼P2045(二二オ)東枕にふして、敵を相待つ処に、男、節女がちぎりし詞にまかせて、東の枕をさす。女鉾を取りて我頸にあて、夫にかはつて失せぬ。敵、打ちおほせつとて見れば、此の女なり。目もくれ心もきえて、夫にかはつて命を失へる志の深きを思ふに、あやまちを侮る歎き、譬ふる方なし。悲しさの余りに、節女が夫に向かひて、「速かに我が身をいかにもなせ。汝を失はむとて、かかる憂目をみつる」とて、悲しめり。夫此を聞きて、「敵すでに来たるを殺して、いみじかるべきにあらず。只かかる憂世を背きて、女の菩提を祈らむ」とて、本鳥を切り、さまをかへてけり。
 日月は隔たれども愁傷の腹わた、猶新た也。時節は移れども、恋の涙、▼P2046(二二ウ)未だ乾かず。三泉何れの方ぞ、青鳥の翅も至ること能はず。中陰誰が家ぞ紫〓[示+鳥](しえん)の蹄も走るに由無し。豈に図りきや、朝に戯れ夕べに戯れし、芳契の情を翻へして、夜も歎き昼も歎く、秋哭の悲しみと成るとは。悲しみて見れば悲しみを増す、庭上の花の主を失へる色。恨みて聞けば恨みを増す、林中の鳥の君を忍ぶ音。分段の理を思はずは、争か悲しみに堪へんや。生死の習ひを知らずは、豈に此の恨みを忍ばんや。来たりて留まらざる〓[くさかんむり【草冠】+興]籠(きようろう)の露に似たる命、去りて帰らず、槿籬の花の如くなる身、歎きてもよしなしとて、各の彼の女の後生をぞ祈りける。
  草枕いかに結びし契りにて露の命におきかはるらむ K104▼P2047(二三オ)
四 〔文学院の御所にて事に合ふ事〕 かくて文学、冬の宵から漏らし遅うて愁腸寸々に断え易く、春の天日斜めにして胸火怱々に拭ひ難くして、諸国を流浪してありきけるが、都へ帰り、廻りて高雄の辺にすみけり。道心の後にも、心大きにくせみつつ、普通の人には似ざりけり。
 爰に高雄の神護寺と申すは、草創年旧りて、仏閣破壊の体をみるに、明月の外はさし入る人もなし。庭上草深くして、孤狼野干の栖にて、雉兎の遊びに興多し。扉は風に倒れて落葉の下に朽ちすたれ、軒ばは雨にをかされて仏壇更にあらはなり。悲しき哉、仏法僧と云ふ鳥だにも音信ずして、空しき跡のいしずゑはおどろの為にかくされ、痛しき哉、御山隠れのほそ▼P2048(二三ウ)路もつたしげく匍ひかかり、樵夫草女の袂までも露やおくらんと哀れ也。
 爰に文学思ひけるは、「宿因多幸にして、出家入道の形をえたり。前業所感にして、仏法値遇の身となれり。無縁の道儀を訪ふは、菩薩の所修の軌則也。破壊の堂舎を修複するは、仏法を再興する根本也。はげみても猶はげむべきは修複修造の善根、行じても猶行ずべきは利益結縁の資粮也」と思ひけるが、「但し自力造営の事は争でか叶ふべきなれば、知識奉加にて神護寺を造らむ」と云ふ大誓願を発しつつ、十方の旦那をすすめありきけるほどに、院の御所法住寺殿へ参りて、御奉加あるべきよし申しけるほどに、折節御遊の程▼P2049(二四オ)にて、奏者も御前へまゐらず、申し入るる人もなかりければ、「御前の無骨」とは思はで、「人のうたてきにてこそあれ」と思ひける故に、天性の不当の者の而も物狂はしきにて有りければ、常の御所の御壷の方へ進み入りて、大音声を放ちて、「大慈大悲の君にてまします。高雄の神護寺に御奉加候へよ」と申しける。大声に調子もはとぞ興さめにけり。
 やがて腰より勧進帳を取り出だし、高らかにぞ読みたりける。其の状に云はく、
 「勧進僧文学敬ひて白す
 殊に貴賤道俗の助成を蒙りて、高雄の霊地に一院を建立し、二世安楽の大利を勤修せしめんと請ふ子細の状
 ▼P2050(二四ウ)夫真如広大にして、生仏の仮名を施すと雖も、法性随縁の雲厚く覆ひて、十二因縁の峯に聳きしより以降、本有心蓮の月の光幽かにして、未だ三毒四慢の大虚に顕れず。悲しき哉、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。色に耽り酒に耽る、誰か狂猩跳猿の迷ひを謝せん。徒に人を謗り法を謗る、豈に閻羅獄卒の責を免れんや。
 爰に文学、偶俗塵を払ひ法衣を飾ると雖も、悪業猶意に逞しく日夜に造り、善苗又耳に欺いて朝暮に廃る。痛ましき哉、再び三途の火坑に帰り、永く四生の苦輪に廻らんこと。所以に牟尼の憲法千万軸、軸々に仏種の因を明かし、随縁至誠の法、一つとして菩提の彼岸に届らずと云ふこと無し。故に文学、無常の観門に涙を落として、上下親族の結縁を催し、上品の蓮台に心を運びて、等妙覚王の霊場を立てんと也。
 抑も高雄は、山堆くして鷲峯山の梢を顕はし、▼P2051(二五オ)谷禅にして商山洞の苔を敷けり。巌泉に咽んで布を曳き、嶺猿叫びて枝に遊ぶ。人里遠くして囂塵無く、咫尺好しくして信心のみ有り。地形勝れたり、尤も仏天を崇むべし。
 奉加微しきなりとも、誰か助成せざらむや。風かに聞く、聚砂為仏塔の功徳、忽に仏因を感ず。何に況や一紙半銭の宝財に於てをや。願はくは建立成就して、禁闕鳳暦御願円満し、乃至、都鄙遠近親疎里民、尭舜無為の化を歌ひ、椿葉再会の咲みを開かん。況んや聖霊幽儀前後大小、速やかに一仏菩提の台に遊び、必ず三身満徳の月を翫ばむ。仍つて勧進修行者の趣、蓋し以て斯くの如し。
  治承三年三月 日文学敬白」とぞ読みたりける。
 其の時の管絃には、妙音院の太政大臣師長公、御琵琶の役也。此の人の御琵琶には、観界の天人も度々天下り給ひたりける上手也。按察大▼P2052(二五ウ)納言資賢卿は、紅葉と云ふ笛をぞ吹き給ひける。源少将雅賢は、鳳管の上手也。
 鳳管と申すは、笙の笛の事也。鳳凰の鳴く声を聞きて令公と云ひける人、笙の笛をば作り始めたり。『千字文』と申す文に「鳴鳳樹に在り、白駒場に喰む」とて、「明王の代には必ず鳳凰来りて、庭前の木に栖む」と云ふ本文あり。之に依つて、此の源少将雅賢、常に参りて仕へ奉る。今日は召されて早く参じたりけり。水精の管に黄金の覆輪おきたる笙の笛、黄鐘調にぞ調べたりける。黄鐘調と申すは、心の臓より出づる息の響き也。此の臓の音は、逆に乙の音より高く、甲の音に上る間、脾の臓の土の音に同ず。順に甲の音より乙の音に下る時は、肺の臓の金の音に同ず。故に土の色を黄と名づく。金の色を鐘と名づく。将に知るべし、土と金とは陰陽の義にて、男女相応の儀式也。故に法皇と女院との御前なれば、円満相応の御▼P2053(二六オ)祈りとて黄鐘調にしらべたり。又、黄鐘調は呂の音也。此を名づけて喜悦の音とす。又は、五行の中には火土也。五方の中には南方也。生住異滅の四相の中には住の位也。住の位とは、人の齢にあつる時は、卅已後四十已前の比也。されば、源少将も其の時はさかりすぎて四十一也。法皇の御歳は紅葉の比に移らせ給ひたりけれども、祝ひ奉りて、猶夏の景気に調べたり。
 花山中将公高は、時々和琴をかきならして風俗催馬楽をうたひすまし、太政大臣師長は、朗詠目出たくせさせ給ふ。資賢卿の子息資時朝臣、拍子を取る。四位侍従盛定朝臣、今様とりどりに謳ひなんどして、心肝に銘じて面白かりければ、聖衆も袂を飜し、天人も雲に乗り給ふらむとぞ身の毛竪ち▼P2054(二六ウ)て覚えける。されば、上下感涙をおさへて、玉簾錦張霊々たり。
 御感に堪へさせ給はずして、法皇も時々は唱歌せさせおはしまし、付歌なんどあそばして、興に入らせ給ひたりけるに、此の文学が勧進帳の音声に調子もそれ、拍子も違ひて、人々皆興さめにければ、法皇忽ちに逆鱗わたらせ給ひて、「こは何者ぞ、奇怪也。北面の輩はなきか、しやそくび突き候へ」と仰せ下されければ、「何事哉(がな)、事に逢ひて高名せむ」と思ひたる者共、其の数多かりければ、我も我もと走り懸かる。
 其の中に平判官資行、「左右なく頸を突かむ」とて走り懸かりたりけるを、文学、勧進帳を取り直して、烏帽子を打ち落として、しや胸つきて、のけさまに突きたふしてけり。資行、放本鳥▼P2055(二七オ)にておめおめと大床の上へ逃げ上る。北面の者共、我も我もと走り懸かりければ、文学、懐より、七寸計りなる刀の柄に馬の尾巻きたるが氷なんどの様なるをさらとぬきて、「よりこん者を突かむ」と待ちかけたり。長七尺計りなる大法師のすぐれたる大力の心猛きが、右手には刀を持ちて、左手には勧進帳を捧げて狂ひ廻りければ、左右手に刀を持ちたる様にぞみえける。思ひよらぬ俄事にてはあり、院中騒動す。公卿殿上人、「こはいかに、こはいかに」と立ち騒ぎ給ひければ、御遊の席もそれにけり。
 宮内判官公朝、「『搦めよ』と云ふ御気色にてあるぞ。速に罷り出でよ」と云ひけれども、少しもしひず。「只今罷り出でては、いづくにて誰に此の事を申さんぞ。さてあらんずるやうに命を御所の中にて失ふとも、神護寺に庄をよせられざらむには、一切に罷り▼P2056(二七ウ)出づまじきものを」とぞしかりける。
 安藤馬大夫右宗が当職の時、武者所に候ひけるが、大刀を取り、走り向かひたり。文学少しもひるまず、悦びてかかる所を、右の肩を頸かけて、大刀のみねにてつよく打ちたりけるに、打たれてちとひるむやうにしける所を、大刀をすてて組みて伏す。文学、いだかれながら右宗がこがひなを突く。つかれながらしめたりけり。其の後ぞ、者共、かしこがほにここかしこより走り出でて、手取り足取りはたらく所をば、かくかく打てどもはれども、少しもいたまず。猶散々の悪口を吐く。門外へ引き出だして、資行が下部にたびてけり。文学、引つぱられて立ちたるが、御所の方をにらみつめて、「奉加をこそし給はざらめ。文学にからき目をみせ給ひつる報答は、思ひ知らせ申さんずるぞ」と躍り上がり躍り上がり、▼P2057(二八オ)三声までぞ罵りける。資行は烏帽子打ち落とされて恥がましくて、暫くは出仕もせざりけり。右宗は御感に預りて、別の功に納まりにけり。当座に一臈を経ずして右馬督に召し仰せられけるこそ弓箭取る者の面目とみえけれ。
 文学は獄舎に入れられにけり。されども一切これを大事ともせず。其の比、上西門院の崩御にて、非常の大赦を行はれければ、やがて出だされにけり。しばしは引き籠もりて有るべけれども、猶もへらず元の如くに勧めありきけり。さらば、ただもなくて、「此の世の中は只今に乱れて、君も臣も皆滅びなむずるものを」などさまざまの荒言放ちて、いまいましき事をぞ云ひありきける。無常の讃と云ふ物を作りて、「三界は皆火宅也。王宮も其の難を遁るべからず。十善の王位に▼P2058(二八ウ)誇りたぶとも、黄泉の旅に出でなう後は、牛頭馬頭の杖〓にはさいなまれ給はうずらうは」とて、院の御所を左ざまにはにらみてとほり、右ざまにはにらみてとほりけるあひだ、「猶奇怪なり」と云ふ沙汰有りて、「召し取りて遠流せよ」とて、伊豆の国へぞ流し遣はされける。
五 〔文学、伊豆国へ配流せらる事〕源三位入道の未だ誅たれぬ時なりければ、子息伊豆守仲綱、院宣を奉りて、郎等渡部の省が具して下るべかりけるを、折節、国人近藤七国平が上洛したりけるに具して遣はす。「東海道を船にて下るべし」とて、伊勢国へ将いて下る。放免、両三人付けられたりけるが、申しけるは、「庁の下部の習、かやうの事に付けてこそ、自ら依▼P2059(二九オ)怙もあれ。さやうの事のあればこそ、又芳心も当たり奉る事にてあれ。いかに是程の事に相ひて下り給ふに、然るべき旦越などは持ち給はぬか。国の土産、道の糧料なんどをも乞ひ給へかし。かやうの時よりこそ、互の志もあらはるれ」なんど云ひければ、文学、「人は多く知りたれども、東山にこそ、吉き得意は持ちたれ。文遣はさむ」と申ければ、此等悦びて、紙を求めて得させたりければ、「かかる紙にて、文書きたる事覚えず」とて、投げ返してけり。椙原を尋ねてえさす。其の時、人を呼びて、文をかかす。「文学、高雄の神護寺を修造遂げむと云ふ大願を発して、勧め候ひつるほどに、聞し食しても候ふらむ、かかる悪王の世にしも生まれ相ひて、所願をこそ果たさざらめ、剰へ禁獄せられて、はてには遠流の罪を蒙りて、伊豆国へ流さる。遠路の間也。糧料、▼P2060(二九ウ)如法大切に候ふ。此の使に少々給はり候ふべし」と、云ふが如くに書きて、「立文の表書には、誰へと書くべきぞ」と云ひければ、文学大きに咲ひて、「清水寺の観音房へと書き給へ」とぞ申しける。其の時、下部共、「官人共をあざむくにこそあれ」とて、口々に腹立ちければ、文学、「清水の観音をこそ深くたのみたれ。さなくては誰にかは要事云ふべき」とぞ申しける。
 此にも限らず、文学猶此の者共謀りて咲はばやと思ひて、官人多く並み居たる中にて、昼寝をして虚寝言をぞしたりける。「此の程勧進したりつる用途共を人の許に預けたりつるは、文学伊豆へ下りたりとも、其の人の得にもなれかし。佐女牛の鳥居の下に埋め置きたりつる用途共の、徒に朽ち失せなむずる事よ」とて、寝覚めたる景気をぞしたりける。其の時、官人共うれしき事聞き出だし▼P2061(三〇オ)たりと思ひて、目を見合はせて閑所へ立ちのきて、「いざ、さらば掘り出だしてみむ」とて、行き向かひて、先づ左の鳥居の下を三尺計り掘りたりけれども、みえざりけり。「心深き者なれば、浅くはよも埋まじ」とて、一丈計り掘りたりけれども、惣じて何も無かりけり。「さらば、右の鳥居の下にてや有るらむ」 とて、又掘りたりけれども、其れもなにも無かりけり。其の後は、「此の聖に度々謀られにけり。安からず」とて、弥よ
深く誡めけれども、文学少しも痛まず、特に荒言をのみ吐きけり。
 さる程に、船押し出だして下りけるに、或る日遠海なるによりて、頓に大風出で来たりて、此の船漂倒せむとす。水手・梶取、しばしは櫓かいを取りて、船をはさみて助けむとしけれども、波風弥よあれまさりければ、櫓かいをすてて、船底に倒れ臥して、声を調へて叫びけり。或いは観音の▼P2062(三〇ウ)名号を唱へ、或いは最後の十念に及ぶ。されども、文学少しも騒ぎたる気色なし。既にかうと覚えける時、文学船の舳に立ち出でて、沖の方を守りて、「龍王やある、龍王やある」と三度呼びて、「いかに此程の大願発したる僧の乗りたる船をば、あやまたむとはするぞ。只今、天の責めを被らむずる龍神共かな。水火雷電はなきか、とくとく此の風しづめ候へ」と高声に罵りて入りぬ。「例の又あの入道が物狂はしさよ」と諸人をこがましく聞き居たる処に、其の験にや有りけむ、又自然に止むべき時にてや有りつらむ、即ち風定まりてけり。其の後は、官人等舌を振るひて、いたく情なく当たる事もせざりけり。いかさまにも様有りける者にこそ。
 領送使共文学に問ひて云はく、「抑も当時世間に鳴る、雷をこそ、龍王と知りて候ふに、其の外又大龍王の御坐侯ふ
様に仰せ候ひつるは、何なる事にて候ふぞや」。文学▼P2063(三一オ)答へて云はく、「此等に鳴り候ふ奴原は、大龍王のはき物をだにもえとらぬ小龍共也。其の八大龍王と申すは、法花経の同聞衆也。序品の中に其の名字を明かすに、『難陀龍王・跋難陀龍王・裟伽羅龍王・和修吉龍王・徳叉迦龍王・阿那婆達多龍王・摩那斯龍王・優鉢羅龍王等、各若 干百千眷属と倶なり』と説かれたる、此也。此の龍王達は、各の百千眷属を具して、蒼溟三千の底、八万四千宮の主たり。此の空に鳴りてありき候ふ奴原は、八大龍王の眷属の又従者の又従者也。其の主の八大龍王は、文学を守護せむと申す誓ひあり。況んや小龍等が案内を知り侍らで、聊も煩ひをなす条、有るまじき事にて候ふ也」。
 領送使重ねて問ひて云はく、「されば、八大龍王は何なる志にて、文学御房をば守護しまゐらせむと云ふ誓ひは候ひけるやらむ」。文学答へて云はく、「昔仏在世の時、八大龍王参りて仏の御為に白して言はく、『仏徳尊高▼P2064(三一ウ)にして、万徳自在にまします御心に叶はぬ事やおはします』と申しし時、仏答へて言はく、『我能く万徳自在の身を得たりと云へども、心に叶はぬ事二種あり。一つには、我世に久住して、法を説き、常に衆生を利益せばやと思へども、分段生死の習ひなれば、百年が内に涅槃の雲に隠れむ事、命を心に任せぬ愁ひ也。二つには、入涅槃の後、若し善根の衆生有りと云ふとも、魔王の為に障碍せられて、所願成就の者有るべからず。其の善根の衆生を誰に誂ふべしとも思はず。此れ又大きなる歎き也』と宣ひき。時に、八大龍王、座を立ちて、仏を三匝して、正面に来りて、仏の尊顔を贍仰して、三種の大願を発して云はく、『一つには、我願はくは、仏入涅槃の後、孝養報恩の者を守護すべし。二つには、我願はくは、仏入涅槃の後、閑林出家の者を守護すべし。三つには、我願はくは、仏入涅槃の▼P2065(三二オ)後、仏法興隆の者を守護すべし』。
 此の願の心を案ずるに、併ら文学が身の上にあり。かやうに文学は心そうそうにして、物狂はしき様には侍れども、父にも母にも子(みなしご)にて候ひし間、親を思ふ志、今になほあさからず。妻に後れて出家入道はすれども、本意は只至孝報恩の道心也。されば、八大龍王の第一の願にこたへて守護せらるべき文学也。第二の願は、閑林出家と候へば、十八の歳出家して、今に猶山林流浪の行人也。などか守護し給はざらむや。況んや、第三の願とは、『仏法興隆の者を守護すべし』と誓ひたれば、当時の文学こそ、仏法興隆の志深くして、和殿原にもにくまれ奉れ、八大龍王は哀れみ給ふらむ物をや。かかる法文聖教を悟りたる故に、小龍等などをば、物の数とも存ぜず候ふ間、『龍王龍王』とも申し▼P2066(三二ウ)侍る也。
 さる和殿原也とも、親に孝養する志の深く、入道出家をもして、閑林に閉じ寵り、仏法興隆をもし給はむには、大龍王に守護せられ給ふべし。文学一人をと誓ひたる誓願にはあらず。構へて殿原、親の孝養して、仏法に志を運び給ふべし。今生後生の大きなる幸ひ也。申しても申しても、法皇の邪見こそ、さこそ小国の主と申しながら、けぎたなき人の欲心かな。大国の王はしからず。破戒なれども比丘を敬ひ、無実なれども勧進に入り給ふ事にて侍る也。和殿原もあひそへて、仏法疎略の人共とみるぞ。能々計らひ給へ。いかに道理を責むれども、文学が状を信用し給はぬ事のあさましさに、信をもとらせ奉り、法をも悟らせ給へかしとて、方便の為に小龍等を招きて、風波の難を現じて候ひつるぞ。▼P2067(三三オ)
 されば、各皆信伏し給ひて、事の外に切りてつぎたる礼儀共、誠に哀れに侍るめり。龍のさわぎだにもなのめならず、いかにいはんや無常の風もふき、獄卒のせめも来たらむ時には、いさいさ知らず。かやうに申す文学だにも叶ふまじ。日本の主も、よも叶ひ給はじ。無上世尊も入滅したまひき。まして其の外の因位の菩薩、底下の凡夫、和殿原までも叶ふべしともおぼえず。今度文学が悪事して、伊豆国へ遠流せらるる事は、仏の御方便と知り給ふべし。一向に文学が申さむ詞にしたがひて、今日より後は、仏道に心をかけて、来迎の引接を待ち給ふべし。一樹の影に宿るも、前世の契りなければ叶はず。同河の水を汲むことも、永劫の縁と伝へ▼P2068(三三ウ)たり。何に況んや此の如き逆縁也と云へども、数日同船の昵びをや。閑かに聞かるべし。抑も、仏道に心をかくると申すは、内心に常に仏を念ずれば、臨終寿焉の時に至りて、定めて来迎引接し給ふ也。所以に、観音・勢至・阿弥陀如来、無数の聖衆を引き具し給ひて、弘誓の舟に棹さして、廿五有の苦海をわたり、宝蓮台の上に往生して、菩提の彼岸に到り遊ばむ事、誰かは此れをのぞまざらむ。返す返すも憑むべし、能々念じ給ふべし」と、賢き父の愚かなる子を教ふるやうに、同じ船なれば片時も立ち離るる事はなし。臥しても教へ、起きても誘ふ。事に触れ、物に随ひてぞ、教訓しける。
 かやうにをりをりに随ひて出離せむ要路を教誡せられて、放▼P2069(三四オ)寃の中に、生年廿三になりける刑部丞懸の明澄と云ひける男、発心して本鳥を切りて、文学が弟子になりにけり。文学是れをみて、「誠に本意也」とて、やがて戒さづけて、在俗の名乗の一字を取り、我が名の片名を取りて、名をば文明とぞ付けたりける。其の外の者共は、文学が詞を聞く時計りは道念の心地に趣きけれども、出家遁世するまでの事はなかりけり。
 此の文学は、天狗の法を成就してければ、法師をば男になし、男をば法師になしけるとかや。文学船に乗りける処にて、天に仰ぎて誓ひけるは、「我三宝の知見にこたへて、再び都へ帰りて、本意の如く神護寺を造立供養すべくは、湯水を飲まずとも、下着まで命を全くすべし。▼P2070(三四ウ)我が願成就すまじきならば、今日より七日が内に命終はるべし」と誓ひて、飲食を断ず。くはせけれども口の辺へもよせず。卅一日と云ふに、伊豆国に下り着きにけり。其の間、湯水をだにも飲まず。まして五穀の類は云ふに及ばず。されども色香、少しも衰へず、行打ちして有りければ、文学は昔よりさるいかめしき者にて、身のほどあらはしたりし者ぞかし。当初(そのかみ)道心を発して、本鳥を切りて、高野・粉河、山々寺々修行しありきけるが、
六〔文学那智の瀧に打たるる事〕 或時はだしにて五穀を断ちて熊野へ詣り、三の山の参詣事故なく遂げて、那智の瀧に七日断食にて打たれむと云ふ不敵の願を発しけり。比は十二月の中旬の事なりければ、極寒の最中にて、谷の▼P2071(三五オ)つづらも打ち解けず、松吹く風も身にしみて、堪へ難く悲しき事、既に二三日もなりければ、一身凍(い)て凍(こほ)りて、ひげにはたるひと云ふ者さがりて、からからとなる程なりしかども、はだかにて有りければ、凍りつまりて、僅かに息計りかよへども、後には僅かに通ひつる息も止まりて、すでに此の世にもなき者になりて、那智の瀧壷へぞ倒れ入りける。
 瀧の面にて、文学をひたととらへて立てり。又童二人来て、左右の手とおぼしき所を捕らへて、文学が頭より足手の爪さきまで、しとしととなでくだしければ、凍(い)て凍(こほ)りたりつる身も皆とけて、文学人心地付きて生き出でにけり。文学息の下にて、「さても我をとらへてなで給ひつる人は誰にて渡らせ給ひつるぞ」と問ひければ、「未だ知らずや。我は大聖不動明王の御▼P2072(三五ウ)使に、金迦羅・制多伽と云ふ二人の童子の来たるぞ。怖るる心有るべからず。汝、此の瀧に打たれむと云ふ願を発したるが、其の願を果たさずして命終はるを、明王御歎きあつて、『此の瀧けがすな。あの法師よりて助けよ』と仰せられつる間、我等が来たるなり」とて帰り給へば、文学、「不思議の事ごさむなれ。さるにても、いかなる人ぞ世の末の物語にもせむ」と思ひて、立ち還りて見ければ、十四五計りなる、赤頭なる童子二人、雲をわけて上り給ひにけり。
 文学思ひけるは、「是れ程に明王の守り給はんには、此の次に今三七日打たれむ」と云ふ願を発して、即ち又打たれけり。其の後、文学が身には水一つもあたらず。まれにもれて当たる水は、温の如し。かかりければ、いくか幾月うたるとも、いたみと思ふべきにあらずとて、思ひの如く三七▼P2076(三六オ)日打たれにけり。遂に宿願を遂げたりし文学なれば、さも有りけむとぞ、聞く人皆怖れあひける。
〔七〕 かくて伊豆国に下り着きて歳月を経けるほどに、北条蛭が嶋の傍に那古耶が崎と云ふ処に那古耶寺とて観音の霊地御します。文学彼の所へ行きて、諸人を勧めて草堂を一宇造りて、毘沙門の像を安置して平家を呪詛しけり。「我ゆるされを蒙らざらむかぎりは、白地にも里へ出でじ」と誓ひて、行ひすましてぞ侍りける。行法薫修の功つもり、大悲誓願の望深し。昼は終日に千手経をよみ、夜は通夜三時の行法おこたらず。人此れを哀みて、折々衣装なんどを送れ▼P2074(三六ウ)ども、請け取る事はまれなり。なにとして時の料なんどもあるべしとは覚へねども、同宿などもあまたあり。
 所以に、をちこち人の旅人は炉壇の煙に心をすまし、礒部の海人の梶枕、燈炉の光に夢もむすばず。千鳥・白鴎・喚子鳥、懺法の声に伴ひて、仏法僧ともなりぬべし。海人漁翁のすなどりも随喜の袂に露をそそぎ、東岸西岸の鱗は振鈴の音にうかみぬべし。霊山浄土の聖衆も常には此に影現し、鷲峯鶏足の洞の内も思ひやられて哀れ也。
 かかりければ、伊豆国の目代をはじめ国中の上下諸人悉く、信仰の頭を傾けて随喜の趺を運び、帰依の思ひをなして財施の蓄を送る。然りと雖も、文学全く世間を訣ひ憂き▼P2075(三七オ)身を渡らむとする事なかりければ、僅に身命をつぎて飢ゑを除く計りの外は、留めずして返しけり。誠に夫文学が行法の功力に、報恩謝徳の為ならば、悪業煩悩もきえはてて、無始の罪障絶えぬべく、現世安穏の祈りならば、三災七難を遠く退けて、寿福を久しく心に任せつべし。祈精も仏意に相応し、所願も我身に成就すらむと、貴かりける形儀也。
 此くのごとく行ひすまして有りければ、彼の御堂に目代等が沙汰として、三十余町の免田を寄せたりけるが、今に有るこそいみじけれ。
 此の堂のそばに又温屋を立てて、一万人に浴す。或る時、折烏帽子に紺の小袖二つきて、白き小袴に足駄はきて、黒漆の野太刀脇にかいはさみて杖突きたる男一人来たりて、湯屋の左右を見▼P2076(三七ウ)廻す。文学は目も持てあげず、釜の火たきて居たり。又竹矢籠(たかしこ)かい付けて黒ぬりの弓持ちたる冠者一人来たる。先にきたりつる人の下人とおぼしくて、共にあり。小童部共、「兵衛佐殿こそおはしたれ」と云ひてささやくめり。其の時、「さては聞こゆる人にこそ」と思ひて、やはら顔をもて上げてみければ、彼の人湯にをりぬ。共にある男来たりて、「や、御房、湯の呪願とかやして、人にあむせまゐらせよ」といへば、「かやうの乞食法師、近く参らむも恐れあり。かひげに湯をくみてたべ。ここにて、ともかくも呪願のまねかたせむ」と云ひければ、云ふが如くにして湯を浴びらる。未だ余人はよらず。共の男は、文学がそばに居て火にあたる。
 文学忍びやかに、「是は流されておはしますなる兵衛佐殿か」と問ひければ、男にが咲ひて物▼P2077(三八オ)もいはず。文学、「これぞ、此の入道が相伝の主よ」と云ひける時、男申しけるは、「主ならば見知り奉り給ひたるらむに、事あたらしく問ひ給ふ物哉」と云ひければ、文学申しけるは、「そよ、此の殿少くおはしまししほどは宮仕へき。かやうに乞食法師になりて後は、国々迷ひありくほどに、参りよる事もなし。よにおとなしくなられたり。人は名乗りのよかるべきぞ。頼朝と云ふ名の吉きぞ。大将軍の相もおはすめり。君に申して、貴賎上下集る温屋なんどへは出で給ふらめ。人は憶持あるこそよけれ。法師とても、敵にてあらむは難かるべきか。人に頸ばし切られうとて、不覚の人哉」と云ひければ、此の男、「不思議の聖のひた心哉」と思へども、とかく云ふにも及ばずして、「あまり雑人多く候ふに、はや上らせ給へ」と、主を勧めて立つ所に、此の由を主に▼P2078(三八ウ)ささやきたりけるにや、此の男立ち返りて、「里に出でたらむ時には、必ず尋ねておはせよ」と、文学が耳にささやきければ、「そよや殿、下りはてば見参に入らばやと思ひしかども、さすが事しげく推参せむも骨無くて罷り過ぎつるに、今日の便宜に御目にかかりぬる事こそうれしけれ。隙には必ず参るべし。先に申しつるそぞろ事、口より外へもらし給ふな」とぞ云ひける。
 其の後兵衛佐ははづかしく覚しければ、彼の温へはおはせず。卅日計り過ぎて、文学里に出でたりつる次に、さらぬ様にて兵衛佐の許へ尋ね来たりて、佐法花経読みて居られたる所へ入れられたりければ、文学手をすりて 「尤も本意に候ふ。貴く候ふ」とて、さめざめと泣く。酒菓子体の物取り出だして勧められて後、「さて御房、今日は閑かに居て、世間の物語▼P2079(三九オ)して遊び給へ。つれづれなるに」と宣ひければ、文学兵衛佐の膝近く居よつて申しけるは、「花は一時、人は一時と申す譬へあり。平家は世の末になりたりとみゆ。大政入道の嫡子小松内大臣こそ、謀も賢く心も強にて、父の跡をも継ぐべき人にておはせしか。小国に相応せぬ人にて、父に先立ちて失せられぬ。其の弟共あまたあれども、右大将宗盛を始めとして有若亡の人共にて、一人として日本国の大将軍に成りぬべき人のみえぬぞや。殿はさすが末たのもしき人にておはする上、高運の相もおはす。大将に成り給ふべき相もあり。されば小松殿に次ぎて、わ殿ぞ、日本国の主と成り給ふべき人にておはしける。今は何事かは有るべきぞや。謀叛発して、日本国の大将軍に成り給へ。父祖の恥をも雪め、君の御鬱をも休▼P2080(三九ウ)め奉り給へ。且は『天の与へを取らざれば、還りて其の咎を受く。事至りて行はざれば、還りて其の殃を受く』と云ふ本文あり。文学はかく賎しげなれども、究竟の相人にて、左の眼は大聖不動明王の御眼也。右の眼は孔雀明王の御目也。人の果報しりて日本国を見通す事は、掌を指すが如し。今も末も少しも違はず。いかさまにも殿をば大果報の人と見申すぞ。とくとく思ひ立ち給へ。いつを期し給ふべきぞ」と、はばかる所もなく、細々と申しければ、佐思はれけるは、「此の聖は心深く怖しき者にて流さるる程の者なれば、かく語らひよりて、もろく相従はば、頼朝が頸を取りて平家に献りて己が罪を遁れむとてはかるやらむ」と思はれければ、佐宣ひけるは、「去る永暦元年の春の比より、池殿の尼御前▼P2081(四〇オ)に命を生けられ奉りて、当国に住して既に廿余年を送りぬ。池殿仰せらるる旨ありしかば、毎日法花経を二部読み奉りて、一部をば池尼御前の御菩提に廻向し奉り、一部をば父母の孝養に廻向する外は、又二つ営む事なし。勅勘の者は日月の光にだにもあたらずとこそ申し伝へたれ。争か此の身にてさ様の事をば思ひ立つべき」と、詞には宣ひけれども、心中には、「南無八幡大菩薩、伊豆筥根両所権現、願はくは神力を与へ給へ。多年の宿望を遂げて且は君臣の御鬱を休め奉り、且は亡夫が素懐を遂げむ」と志深ければ、「弘経・義明已下の兵に契りて隙を伺ふものを」と思はれけれども、文学には打ち解けざりけり。良久しく物語して、文学帰りぬ。
 又四五日ありて文学来たりければ、佐出で逢はれたり。「いかに」と宣へば、▼P2082(四〇ウ)文学、懐より、白き布袋の持ちならしたるが、中に物入れたるを取り出だしたりければ、佐「なにやらむ」と怪しく思はれけるに、文学申しけるは、「是こそは殿の父の故下野殿の頭よ。去んじ平治の乱の時、左の獄門のあふちの木にかけられたりしが、程経て後には目も見かけず、木の下に落ちて有りしを、是へ流さるべしと兼ねて聞きたりし時に、年来見奉りたりし本意もあり、又世はやうある物なれば、『自ら殿に参り合ふ事あらば献らむ』とて、獄預りの下部をすかして乞ひ取りて、持経と共に頸に懸けて、人目には吾が親の首を貯へたる様にて、京を流されて出でし時、何にもして世を取らむ人を旦越にして本意を遂げむと思ひし志の深さを、三宝に祈りて声を上ぐ。『我が願成就せよ』と、をめき叫びて物もくは▼P2083(四一オ)で有りしかば、見聞く人は皆、『文学には天狗の付きて物に狂ふか』など申しあひたりき。今は其の願満ちぬ。さればにや、殿世におはして、此の法師をもかへりみ給へ。此の料にこそ、年来貯へ持ちて侍りしか。念仏読経の声は魂魄に聞こえて、滅罪の道となられぬらむ」とて、さめざめと泣きければ、「人の心を引き見む料に何となく云ふかと思ひたれば、まめやかに志の有りける事の哀れさよ。定めて此の世一つの事にてはあらじ」と思はれければ、一定はしらねども、父の頭と聞くよりなつかしく覚えて、直垂の袖をひろげて泣く泣く請ひ取りて、経机の上に並べて、吾が身を打ち覆ひて、「哀れなりける契り哉」とて、涙をぞ浮かべられける。後にこそ謀とも知らせけれ、其の時は実と思はれければ、自ら其の後は打ち解けられにけり。「又」と契りて文学帰りぬ。さて、▼P2084(四一ウ)彼の首を箱に入れて仏前におきて、兵衛佐誓はれけるは、「誠に我が父の首にておはしまさば、頼朝に冥加を授け給へ。頼朝世にあらば、過ぎにし御恥をも雪め奉り、後生をも助け奉らむ」とて、仏経に次ぎては花を供し、香を焼きて供養ぜらる。
 其の後、文学又来たりければ、佐対面して、「さてもいかがして勅勘をゆり候ふべき。さなくは何事も思ひ立つべくもなし。いかさまにも道ある事こそ始終もよかるべけれ。さても藤九郎盛長を共にて、三嶋の社へ夜々一千日の日詣をせしに、一千日に満ぜし夜、通夜したりし夜の夢に、三嶋の東の社より猶東へ一町計りへだてて、第三の前に大きなる机木あり。其の王子の所を猶東へ一町計り行きて、又大きなる柞木あり。此の木二本が間▼P2085(四二オ)に鉄の縄を張りて、緋の糸をすがりにして、平家の人々の首をかけ並べたりしとみたれば、何なるべき事やらむ」なんど、まめやかに宣ひければ、「其の事安じたべ。京へ上りて院宣申して献らむ」。「其の身にて、やはか叶ふべき」。文学申しけるは、「院の近習者に前の右衛門督光能卿と云ふ人あり。彼の仁に内々ゆかりありて、年来申し承る事あり。彼の仁の許へ蜜かにまかりて、此の由を申すべし。『物狂はしく、いづちともなく失せたる物哉』とおぼすな。かやうの入道法師は振る舞ひ安き上、『三七日の定に入る事あり。其の間は人にも対面もすまじき由を披露せよ』とて、弟子に申し置きて怱ぎ上るべし」なんど、さまざまに契りて出でぬ。やがて京へ上る。
八〔文学京上シテ院宣申し賜る事〕 其の時院は福原の楼の御所に渡らせ給ひけるに、夜にまぎれて光能卿▼P2086(四二ウ)の許へ行きて、人にも知られず、ある女を以て蜜かに文を遣はしたりければ、光能卿見参し給ひて、「さてもさても夢の様にこそ覚ゆれ。いかにいかに」と問はれければ、文学近く差し寄りて、「薮に目、壁に耳ありと云ふ事、いと忍びて申し合はすべき事ありて、態と人にもしられず、夜にまぎれて参りて候ふ也」と云ひ、ささやきけるは、「伊豆国に候ふ兵衛佐頼朝こそ、院のかくて渡らせ給ふ事をば承り歎きて、『院宣だにも給はりたらば、東八ヶ国の家人相催して京へ打ち上りて、君の御敵平家をばやすく滅して逆鱗をも休め奉り、人々の歎きをもしづめてむ物を』と申し候へば、大名小名一人も随はぬ者なし。此の様を密かに法皇に申させ給へ」と云ひければ、光能卿、「誠に君もかく打ち龍められさせ給ひて、世の務をもしろし▼P2087(四三オ)めさず。我も参議・右兵衛督・皇大后宮の権大夫、三官をみなながら平家に止められて、心うしと思ひ歎き居たり」と思はれければ、「いかさまにも隙を伺ひて御気色を取るべし。かく宣ふも然るべき事にてこそ有らめ。今二三日のほどは是におはせよ」とて、其の夜もあけぬ。次の朝、光能卿院参せらる。夕べに帰りて 「彼の事、然るべき隙なくて、未だ奏せず也」とありけれども、文学猶かたすみにかがまり居たり。次の日参り給ひて、夜深けて出でられたり。御ゆるされや有りけむ、院宣を書きて賜はりたりけるを、文学賜はりて頸に懸けて、夜昼五ヶ日伊豆国へ走り下りて、兵衛佐に献りたりければ、手洗ひ口〓[口+頼](そそ)いで、紐さして院宣を見給ふに、其の状に云はく、
 ▼P2088(四三ウ)早く清盛入道并びに一類を追討すべき事
 右、彼の一類は朝家を忽緒にするのみに非ず、神威を失ひ仏法を亡ぼし、既に仏神の怨敵たり。且つは王法の朝敵たり。仍つて前の右兵衛佐源の頼朝に仰せて、宜しく彼の輩を追討して、早く逆鱗を息め奉るべき状、院宣に依つて執奉件の如し。
  治承四年七月六日 前の右兵衛督藤原光能が奉り
 前の右兵衛佐殿へ
とぞ書かれたりける。兵衛佐、此の院宣を見給ひて、泣く泣く都の方へ向かひて八幡大菩薩を拝み奉り、当国には伊豆、箱根二所に願を立てて、先づ北条四郎に宣ひ合はせて思ひ立ち給へり。石橋の合戦の時も、白旗の上に此の院宣を横さまに結び付けられたりけるとぞ聞こえし。▼P2089(四四オ)
 同じく院宣の異本に云はく、
 頃年より以来、平氏皇化を蔑如にして、政道に憚ること無く、仏法を破滅し、朝威を傾けむと欲す。夫吾が朝は神国也。宗廟相並びて、神徳是新た也。故に朝庭開基の後、数千余載の間、帝猷を傾け国家を危むる者、皆以て敗北せずと云ふこと莫し。然れば則ち、且つは神道の冥助に任せ、且つは勅宣の旨趣を守りて、平氏の一類を誅し、朝家の怨敵を退けて、普代弓箭の兵略を継ぎ、累祖奉公の忠勤を抽きんでて、身を立て家を興すべし者(てへ)れば、
院宣此くのごとし。仍つて執達件の如し。
  治承四年七月   日 前の右兵衛督 奉判
 前の兵衛佐殿云々▼P2090(四四ウ)
九 〔佐々木の者共佐殿の許へ参る事〕 兵衛佐流され給ひて後、二十一年と申すに、此の院宣を給はりて、北条四郎時政を招き寄せて、「平家を追討すべき由の院宣を給はりたるが、当時勢のなきをばいかがはすべき」と宣へば、時政申しけるは、「東八ヶ国の内に、誰か君の御家人ならぬ者は候ふ。上総介八郎広経、平家の御勘当にて、其の子息山城権守能経、京に召し籠められ候ひつるが、此の程逃げ下りて用心して候ふと承る。上総介八郎広経、千葉助経胤、三浦介義明、此の三人を語らはせ給へ。此の三人だにも随ひ付きまゐらせ候ひなば、土肥、岡崎、懐嶋は、本より志思ひ奉る者共で候へば、参り候はんずらむ。若し君をつよく射まゐらせ候はむずるは、畠山庄司次郎重忠、同じく従父兄弟稲毛三郎重成、是等▼P2091(四五オ)が父畠山庄司重能、同じく舎弟小山田別当有重兄弟二人、平家に仕へて京に候へば、つよき敵にて候ふべし。相模国には鎌倉党大庭三郎景親、三代相伝の御家人にて候へども、当時平家の大御恩の者にて候ふ間、君を背き奉るべき者にて候ふ。広経、経胤、義明、是等三人だにも参り候ひなば、日本国は御手の下に思し召すべし。」と申しければ、其の言葉実あつて、其の弁舌有りければ、頼朝深く信じてけり。時政若し天を知る時か、将又兵を得る法か。其の詞、一事として違ふ事なかりけり。昔、晋の文、勃〓[革+是](ほくてい)の言を信じて、以て威を奮つて愕かし、斉の桓、管仲の計を用(もち)ゐて、以て天下を匡しうせりき。今頼朝、時政と合体を同心して、籌を氈帳の中に運らさば、烏合群謀の賊、手を軍門に束ね、勝つことを▼P2092(四五ウ)鳥(辺歟)塞の外に決し、狼戻反逆の徒、首を京都に伝へ、天下平定を遂げて、海内永く一統せり。誠なる哉、「其の人を得て則ち其の国以て興り、其の人を失ひて則ち其の国以て亡ぶ」と言へることは。
 兵衛佐宣ひけるは、「院宣を賜りぬる上は、日月を送るに及ばず。やがて今日明日にもといそぎたくは存ずれども、来たる八月十五日以前には、いかにも思ひ立たじと思ふなり。其はいかにといふに、今明謀叛を発して合戦をするならば、諸国に祝はれまします八幡大菩薩の御放生会の為に、定めて違乱となりなむず。然れば彼の放生会以後、しづかに思ひ立つべし」と宣ひければ、時政「尤も然るべし」とて、月日の過ぎ行くを待ち給ひけるほどに、
 八月九日、大庭三郎京より下りたりけるが、佐々木の三郎秀▼P2093(四六オ)義をよびて申しけるは、「長田入道、上総守が許へ、『伊豆の兵衛佐殿を、北条四郎・掃部丞引き立て奉りて、謀叛を発さんと支度仕るよし承る。急ぎ召し上げて、隠岐国へ流され候ふべし』と云ふ文を遣したりけるを、上総守取り出だして景親にみせ候ひしかば、『掃部丞はや死に候ひにき。北条四郎はさも候ふらむ』と申したりしかば、『いかさまにも、太政入道殿の福原より上らせ給ひたらむに、見せまゐらせむとて、銘書きて置き候ひき。此の度高倉宮の三井寺に引き龍もらせ給ひて後は、国々の源氏一人もあらすまじ』と候ひしかば、よもただには候はじ」とぞ語りける。秀義あさましと思ひて、急ぎ宿所に帰りて、「景親かかる事をこそ語り申しつれ」と、伊豆へ告げ申さむとしけるに、「三郎は勘当の者也。二郎は▼P2094(四六ウ)いまだ佐殿の見知り給はず。太郎行け」とて、下野の宇都宮に有りける太郎定綱を呼びて、「北条に参りて申すべき様は、『御文は落ち散る事もぞ候ふとて、態と定綱を参らせ候ふ。日ごろ内々御談義候ひし事を、景親もれ聞きたりげに候ふぞ。思し食したたばいそがるべし。さなくはとくして奥州へ越えさせ給へ。是までは藤九郎計りを具して渡らせ給へ。子共を付けて送り申すべし』」とて、遣しけり。
 十二日、定綱帰り来たりて、「此の事委しく申して候ひしかば、『頼朝も先立ちて聞きたるなり。召しに遣はさむと思ひつるに、誰して云ふベきとも思ひ煩ひて有りつるに、神妙に来たり。さらばやがて是に居るべし』と、留め給ひつれども、『急ぎ罷り帰りて、弟共をも具し、物具をも取りて参り候はむ』と申ししかば、『さらばよしきたらむ。人にもきかれなむず』と宣ひければ、さまざまの誓言▼P2095(四七オ)を立て候ひしかば、『さらばとく帰りて、十六日には必ず来たれ。汝等を待ち付けて、伊豆の物共を具して兼隆をば討たむずるなり。但し二郎は渋屋庄司が聟にて、子にも劣らず思ひたむなれば、よも与せじ。三郎計りを具せよ』と候ひし」と申しければ、二郎経高是を聞きて申しけるは、「三郎にも四郎にもな告げ給ひそ。それらはいかにも思ひきるまじき者也。兵衛佐殿、さ程の大事を思ひ立ち給ふに、人をば知るべからず、経高におきては善悪参るべし」と申しければ、「さらば」とて、やがて、相模の波多野に有りける三郎盛綱が許へ、使者を走らかす。四郎高綱は近年平家に奉公して有りけるが、兵衛佐謀叛の企て有るよし聞こえければ、浮雲に鞭をあげて東国へ馳せ下りて、太郎が許に隠れ居たりけるが許へも、同じく使▼P2096(四七ウ)者をぞ遣しける。つつむとすれども、景親是を伝へ聞きて、「いかがすべき」と、国中の人々に云ひ合はするよし聞こえけり。
 さる程に佐々木の者共兄弟四人馳せ集まりて、夜中に北条へ行きけるに、二郎経高が舅渋屋庄司、人を走らかして経高に申しけるは、「何に人を迷はさむとはするぞ。こと人共は行けども、経高一人は留まるべし」と云ひ遣したりければ、経高申しけるは、「殊人々こそ恩をも得たれば、大事とも思ふらめ。経高はさせる見えたる恩もなければ、更に大事とも思はず。かく云ふに留らずは、妻子をとつていかにもこそはなさむずらめ。思ひ切りて出づる事なれば、全く妻子の事心にかからず。さりとも佐殿世を執り給はば、経高が妻子をば誰かは取りはつべき」と、散々に返答して打ち通りぬ。
▼P2097(四八オ)十 〔屋牧判官兼隆を夜討にする事〕 さる程に十六日にもなりにけり。兵衛佐、北条四郎を召して宣ひけるは、「日来月日の立つをこそ待ちつれば、今夜、平家の家人当国の目代和泉判官兼隆が屋牧の館にあむなるを、よせて夜討ちにせむと思ふなり。もし打ち損じたらば、自害をすべし。討ちおほせたらば、やがて合戦を思ひ立つべし。是を以て頼朝が冥加の有無は、わ人共が運不運をば知るべし。但し、佐々木の者共がさしも約束したりしが、いまだ見えぬこそ本意なけれ」と宣ふ。時政申しけるは、「今夜は当国の鎮守三嶋の大明神の神事にて、当国の中に弓矢を取る事候はず。且は佐々木の者共をも待たせ給へ。吉日にても候ふ、明日にて候ふべし」とて出でにけり。
 さる程に、佐々木の兄弟十七日未の時計り、北条へ馳せ付きたりければ、兵衛佐殿は、▼P2098(四八ウ)合はせの小袖に藍摺の小袴き給ひて、烏帽子をして、姫君の二つ計りにやおはしけむ、そばにおきておはしけり。是等が来たる事見給ひて、よにうれしげに思して、「いかに経高は、渋屋が浅からず思ひたむなれば、よも参らじと思ひつるに、いかにして来たるぞ」と宣ひければ、「千人の庄司を、君一人に思ひ替へ参らせ候ふべきに候はず」と申しければ、「さほどに思はむ事は、とかく云ふに及ばず。頼朝が此の事を思ひ立たば、わ人共が世とはしらぬか」と宣ひければ、「只今世を世ならぬ事までは思ひ候はず。ただかほどの大事を思し食し立たむに、今日参り候はでは、いつを期し候ふべきと存ずる計りに候ふ」と申しければ、「頼朝は本は肥えたりしが、此の百余日計り、夜昼此の事を案ずるほどに、やせたるぞ。抑も今日十七日丁酉を吉日に取りて、此の暁、当国の目代▼P2099(四九オ)和泉判官平兼隆を誅せむと思ひつるに、口惜しくも各昨日みえぬによりて、今日はさてやみぬ。明日は精進の日也。十九日は日次あし。廿日まで延びば、還りて景親に襲はれぬと覚ゆるなり」と宣ひければ、定綱申しけるは、「十五日に参るべきにて候ひしほどに、三郎四郎をも待ち候ひし上、折節此のほどの大雨大水に、思はざるほかに一日逗留して候ふ」と申しければ、「あはれ遺恨の事かな。さらば各やすみ給へ」と宣ひければ、侍に出でてやすみけるほどに、日既に入りてくらくなりぬ。しばらくありて、「各物具してこれへ」と有りければ、やがて物具取り付けて参りたりければ、佐宣ひけるは、「是に有りける女を、兼隆が雑色男が妻にして有りけるが、只今是に来たるなり。此の気色をみて、主に語りなば、一定襲はれぬべければ、▼P2100(四九ウ)彼の男をば捕へて置きたるぞ。此の上はただとく今夜よりて打つべし」と宣ひければ、十七日の子の剋計り、北条四郎時政、子息三郎宗時、同じく小四郎義時、佐々木太郎定綱、同じく二郎経高、三郎盛綱、同じく四郎高綱已下、彼是馬の上歩人ともなく、三十余人、四十人計もや有りけむ、屋牧の館へぞ押し寄せける。
 門を打ち出でければ、当国の住人加藤次景簾は、下人に太刀計り持たせて、只一騎、御宿直にとて打ち通りけるが、是等が打ち出づるをみて、「いかに何事のあるぞ」とて、やがて打ち通りて内へ入りにけり。此の景廉は、元は伊勢国の住人加藤五景員が二男、加藤太元員が舎弟也。父景員敵に怖れて、伊勢国を逃げ出でて伊豆国に下りて、公藤介茂光が聟に成りて居たり▼P2101(五〇オ)けり。弓矢の道、兄弟いづれも劣らざりけれども、殊に景廉は、くらきりなき甲の者、そばひらみずの猪武者にて有りけるが、いかが思ひけむ、時々兵衛佐に奉公しけるが、其の夜、兵衛佐の許にひそめく事有りと聞きて、何事やらむとて行きたりけるなり。
 さて、北条・佐々木の者共は、ひた川原と云ふ所に打ち出でて、北条四郎申しけるは、「屋牧〔へ〕渡る堤の鼻に、和泉判官が一の郎等権守兼行と云ふ者あり。殿原は先づそれをよりて打ち給へ。時政は打ち通りて、奥の判官を攻むべし」とて、案内者を付く。定綱は彼の案内者を先として、後ろへ搦め手に廻る。経高ぞ前より打ち入るる。いまだ搦め手の廻らぬ先に打ち入りて見ければ、元より古兵にて待ちや受けたりけむ、さ知りたりとて散々に▼P2102(五〇ウ)射る。敵は未申に向かひ、経高は丑寅に向ふ。月もあかかりければ、互ひのしわざ隠るる事なし。寄せ合はせて戦ふほどに、経高薄手負ひぬ。さるほどに、高綱後ろより来加はりたりけるに、矢をばぬかせてけり。さて、兼行をば、定綱盛綱押し合はせて打ちおほせつ。判官が館と兼行が家と、間五町計り也。敵打ちおほせて後、やがて奥の屋牧の館へぞ馳せ通りける。兵衛佐は縁に立たれたりけるが、景廉が来たるを見給ひて、「折節神妙なり。景廉は頼朝がとぎに候ふべし」と置かれたり。遥かに夜深けて後、「今夜時政を以て、兼隆を誅ちに遣しつるが、『誅ちおほせたらば、館に火を懸けよ』と云ひつるが、遥かになれども火の見えぬは、誅ち損じたるやらむ」と、独言に宣ひければ、景廉聞きあへず、「さては日本第一の御大事を思し食し立ちける▼P2103(五一オ)に、今まで景廉にしらせさせ給はざりける事の心うさよ」と云ふままに、やがて甲の緒をしめて、つと出でけるを、兵衛佐景廉を召し返して、銀のひるまきしたる小長大刀を手づから取り出だし給ひて、「是にて兼隆が首を貫きて参れ」とて、景廉にたぶ。景廉是を給はりて、走せ向かふ。歩人一人具したりける。 兵衛佐より雑色一人付けられたりけるに、長大刀をば持たせて、判官が館近く走せて見れば、北条は家子郎等多く手負ひ、馬共射させて白みて立ちたる所に、景廉来加はりければ、北条云ひけるは、「敵手ごはくて、已に五六度まで引き退きたるぞ。佐々木の者共は兼行をば打ちて、此の館の後ろへ搦め手に向かひたるなり」と云へば、したたかならむ者に楯突かせて賜べ。一宛てあてて見む」と申しければ、北条が雑色男源藤▼P2104(五一ウ)次と云ひける者に楯つかせて、馬より下りて、弓矢は元より持たざりければ、一人の弓張の矢三筋かなぐり取りて、楯の影より進み出でて、矢面に立ちたる敵三人、三つの矢にて射殺しつ。さて弓をば抛てて、長大刀を茎短かに取り成して、甲の錣を傾けて、打ち払ひて内へつと入り、侍を見れば、高燈台に火白くかきたてたり。其の前に浄衣着たる男の、大長大刀の鞘はづして立ち向かひけるを、加藤次走り違ひて、小長大刀にて弓手の脇をさして、投げ臥せたり。やがて内へ責め入りてみれば、額突の前に火をおこしたり。又火白くかき立てたり。栩唐紙の障子立てたりけるを細目にあけて、大刀の帯取、五六寸計り引き残して、敵是に入りたりと思ひて見出だしたり。加藤次、二つの長大刀を以て障子を差し▼P2105(五二オ)開けてみれば、和泉判官をば住所に付きて八牧判官とぞ申しける、判官、片膝を立てて、太刀を額にあてて、「入らば切らむ」と思ひたりげにて待ち懸けたり。加藤次しころを傾けて入らむとする様にすれば、判官敵を入れじとむずときる所に、上の鴨居に切り付けて、太刀を抜かむとしけるを、貫かせもはてさせずして、しや頸を差し貫きて、投げ伏せて頸をかくを見て、判官が後見の法師、元は山法師に注記と云ふ者にて有りけるが、つとよる所を、二の刀に頸を打ち落としつ。さて主従二人が首を取りて、障子に火吹き付けて、心のすむとしはなけれども、
  法花経を一字もよまぬ加藤次が八巻のはてを今みつるかな K105
と打ち詠めてつと出でて、「兼隆をば景廉が討ちたるぞや」と罵りけり。▼P2106(五二ウ)判官が宿所の焼けけるを兵衛佐見給ひて、「兼隆をば一定景廉が討ちつると覚ゆるぞ。門出吉し」と悦び給ひけるほどに、北条使者を立てて、「兼隆を景廉が討ちて候ふなり」と申したりければ、兵衛佐「さればこそ」とぞ宣ひける。景廉は戦功を当時に挙ぐるのみにあらず、専ら名望を後世に残せり。
十一 〔兵衛佐に勢の付く事〕
 是を始めとして、伊豆国より兵衛佐に相従ふ輩は、北条四郎時政、子息三郎宗時、同じく小四郎義時、公藤介茂光、子息狩野五郎親光、宇佐美平太、同じく平次、同じく三郎資茂、加藤太光員、同じく舎弟加藤次景廉、藤九郎盛長、天野藤内遠景、同じく六郎、新田四郎忠経、義勝房成尋、掘ノ藤二親家、佐々木太郎定綱、▼P2107(五三オ)同じく二郎経高、同じく三郎盛綱、同じく四郎高綱、七郎武者宣親、中四郎惟重、中八惟平、橘次頼村、鮫嶋四郎宗房、近藤七国平、大見平次宗秀、新藤次俊長、小中太光家、城平太、沢六郎宗家、懐嶋平権守景能、同じく舎弟豊田次郎景俊、筑井次郎義行、同じく八郎義康、土肥次郎実平、同じく子息弥太郎遠平、新開荒次郎実重、土屋三郎宗遠、同じく小次郎義清、孫弥二郎忠光、岡崎四郎義実、佐奈多余一義忠、中村太郎、同じく次郎、飯田五郎、平左右太郎為重、▼P2108(五三ウ)大沼四郎、畠三郎義国、丸五郎信俊、安西三郎明益等を相具して、八月廿日、相摸国土肥へ越えて、時政、宗遠、実平、如きのおとな共を召して、「さて此の上はいかが有るべき」と評定あり。
十二 〔兵衛佐、国々へ廻文を遺はさるる事〕
 実平、「先づ国々の御家人の許へ、廻文の候ふべきなり」と申しければ、「尤もさるべし」とて、藤九郎盛長を使にて廻文を遣はさる。先づ相模国の住人、波多野馬允康景を召しけれども、参ぜず。上総介八郎広経、千葉介経胤が許へ、院宣の趣を仰せ遣はしたりければ、「生きて此の事を承る、身の幸にあらずや。忠をあらはし、名を止めむこと、此の時にあり」。昔、魯連、弁言して以て燕を退け、包胥、単辞して以て▼P2109(五四オ)楚を存せりき。盛長已に使節を戦術に全くして、三寸の舌を動かして、、深く二人の心を蕩れければ、経胤等、威勢を興衆に振るひて、八国の兵を屈して、遂に四夷の乱を治めけり。夫れ、「弁士は国の良薬なり。智者は朝の明鏡なり」といへり。此の事、誠なるかなや。しかのみならず、昔の晏嬰、勇を崔抒に発おこし、程嬰、義を趙武に顕せりき。今の経胤等、頼朝の為に忽ちに旧恩を報ふ。遂に新功を立て、誉れを四方に彰し、名を百代に奮へり。かやうに喜び存じければ、左右無く領状申したりければ、各怱ぎ馳せ向はむとしけれども、渡り余た有つて、船筏に煩ひ多かりければ、八月下旬の此ほひまで、力及ばず遅参す。
 山内首藤刑部丞俊通が孫、首藤瀧口俊綱が子共、瀧口三郎、同じく四郎を▼P2110(五四ウ)召されければ、良久しく返事もせず。盛長を内へだにも入るる事なくして、はるかに程をへだてて後に盛長に出で合ひて、御使の返事をばせずして、散々の悪口をぞしける。利宗、逆順の分を知らず、利害の用を弁へず、只強大の敵を恐れ、忽ちに真旧の主を背く。口に亡言を吐き、心に誠信なし。頗る勇士の法に非ず。偏へに狂人の体に似たり。四郎申しけるは、「我等が父、保元の乱に六条判官殿の御共を致して合戦し、次に平治の軍に身命をすてて防き戦ひしかば、親子二人終に敵の為に誅たる。而る上は、今、兵衛佐殿の御共して、命を失ふべくや侍るらむ」。三郎是を聞きて、盛長が聞きをも憚らず、舎弟の四郎に申しけるは、「和殿は物に狂ふな。人▼P2111(五五オ)は至りてわびしく成りぬれば、すまじき事をもし、思ひよるまじき事をも思ひよるとは、是体の事を云ふ也。其の故は、兵衛佐殿の当時の寸法にて、平家にたてあひ奉らむとて此の如くの事を引き出だし給ふ事よ。如法富士の山と長くらべ、ねこの額に付きたる物をねずみのねらふに似たり。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と高声に申して御返事に及ばず。
 さて、三浦介義明が許へ御文持ち向かひたりければ、折節、風気にて臥したりけるが、兵衛佐殿の使ありと聞きて、急ぎおき上がりて、烏帽子おし入れて直垂打ちかけて、盛長に出で向かひて、廻文披見して申しけるは、「故左馬頭殿の御末は皆断えはて給ひぬるかと思ひつるに、義明が世に、其の御末出で来給はむ事、只一身の悦びなり。子孫皆参るべし」とて、召し集めけり。嫡子▼P2112(五五ウ)椙本太郎義宗は、長寛元年の秋の軍に、安房国長狭城を責むとて、大事の手負ひて、三浦に帰りて百日に満たざるに、卅九にて死にけり。二男三浦別当義澄、大多和三郎義尚、佐原十郎義連、孫共には、輪田小太郎義盛、同じく二郎義茂、同じく三郎宗実、多々良三郎、同じく四郎、佐野平太、郎等には、橘五、野藤太、三浦藤平、是等を前に呼びて申しけるは、「昔は卅三年を以て一昔としけり。今は廿一年を以て一昔とす。廿一年過ぎぬれば、淵は瀬となり、瀬は淵になる。平家既に廿余年の間、天下を治む。今は世の末に成りて、悪行日を経て倍増す。滅亡の期、来たるかと見えたり。其の後は、又源氏の繁昌疑ひなし。各早く一味同心にて佐殿の御許に参ずべし。若し、冥▼P2113(五六オ)加おはせずして打死をもし給はば、各又頭を一所に並ぶべし。山賊、海賊をもしたらばこそ瑕瑾ならめ。佐殿、若し果報おはして、世を執り〔給〕はば、己等が中に一人も生き残りたらむ者、世に逢ひて繁昌すべし」と申しければ、各皆「左右に及ばず」とぞ申しける。
十三 〔石橋山合戦の事〕 さる程に、北条・佐々木が一類を初めとして、伊豆・相模、両国の住人同意与力する輩、三百余騎には過ぎざりけり。八月廿三日の夕べに土肥の郷を出でて、早川尻と云ふ所に陣を取る。早川党が申しけるは、「是は戦場には悪しく候ふべし。湯本の方より敵山を超えて後ろを打ち囲み、中に取り籠められ候ひなば、一人も遁るべからず」と申しければ、土肥の方へ引き退きて、こめかみ石橋と云ふ所に陣を取りて、上の山の腰にはかい楯をかき、下の大道をば切り塞ぎて、立て▼P2114(五六ウ)龍もる。
 平家の方人、当国の住人大庭三郎景親、武蔵・相模、両国の勢を招きて、同じき廿三日の寅卯の時に襲ひ来たりて、相ひ従ふ輩には、大庭三郎景親・舎弟俣野五郎景尚・長尾新五・新六・八木下ノ五郎・香川五郎以下の鎌倉党、一人も漏れざりけり。此の外、海老名源八権守秀貞・子息荻野五郎・同じく彦太郎・海老名小太郎・川村三郎・原惣四郎・曽我太郎祐信・渋谷庄司重国・山内瀧口三郎・同じく四郎・稲毛三郎重成・久下権守直光・子息熊谷二郎直実・阿佐摩二郎・広瀬太郎・岡部六野太忠澄等を始めとして、棟との者三百余騎、家子郎等惣じて三千余騎にて、石橋城へ押し寄す。▼P2115(五七オ)道々、兵衛佐の方人の家々、一々に焼き払ひて、谷を一つ隔て、海を後ろにあてて陣を取る。
 さる程に酉の剋にも成りにけり。稲毛三郎が云ひけるは、「今日は日既にくれぬ。合戦は明日たるべきか」と。大庭三郎が申しけるは、「明日ならば、兵衛佐殿の方へ勢はつき重なるべし。後ろより又三浦の人々来たると聞こゆ。両方を防かむ事、道せばく足立ち悪し。只今佐殿を追ひ落として、明日は一向三浦の人々と勝負を決すべし」とて、三千余騎声を調へて時を作る。兵衛佐の方よりも時の声を合はせて、鏑矢を射ければ、山びここたへて、敵方の大勢にも劣らずぞ聞こえける。
 大庭三郎景親、鐙ふみはり弓杖つき、立ち上がりて申しけるは、「抑、近代日本国に光を放ち、肩を並ぶる人もなき、平家の御世を傾け奉り、をかし奉らむと結構▼P2116(五七ウ)するは誰人ぞや」。北条四郎時政、あゆませ出だして申して云はく、「汝は知らずや。我が君は、清和天皇の第六の皇子貞純親王の御子六孫王経基よりは七代の後胤、八幡太郎殿には御彦、兵衛佐殿の御坐す也。恭く太上天皇の院宣を賜りて、御頸にかけ給へり。東八ヶ国の輩、誰人か御家人に非ざるや。馬に乗りながら子細を申す条、甚だ奇怪也。速かに下りて申すべし。さて御共には、北条四郎時政を初めとして、子息三郎宗時、同じく四郎義時、佐々木が一党、土肥、土屋を初めとして、伊豆・相模両国の住人、悉く参りたり。景親又申しけるは、「昔、八幡殿の後三年の軍の御共して、出羽国金沢城を責められし時、十六才にて、先陣かけて右目をいさせて、答の矢を射て、▼P2117(五八オ)其の敵を取りて、名を後代に留めたりし、鎌倉権五郎景正が末葉、大庭三郎景親を大将軍として兄弟親類三千余騎也。御方の勢こそ無下にみえ候へ。争でか敵対せらるべき」。時政重ねて申しけるは、「抑も、景親は景正が末葉と名乗り申す歟。さては子細は知りたりけり。争か三代相伝の君に向かひ奉りて、弓をも引き、矢を放つべき。速かにひきてのき候へ」。景親又申して云はく、「されば主にあらずとは申さず。但し、昔は主、今は敵。弓矢を取るも取らぬも、恩こそ主よ。当時は平家の御恩、山よりも高く、海よりも探し。昔を存じて降人になるべきに非ず」とぞ申しける。
 兵衛佐宣ひけるは、「武蔵・相模に聞こゆる者共、皆あんなり。中にも、大庭の三郎と俣野五郎とは、高名の兵と聞き置きたり。誰人にてか組ます▼P2118(五八ウ)べき」。岡崎四郎進み出でて申しけるは、「敵一人に組まぬ者の候ふか。親の身にて申すべきには候はねども、義実が子息の白物冠者義忠めこそ候ふらめ」と申しければ、「さらば」とて、佐奈多与一義忠を召して、「今日の軍の一番仕れ」と宣ひければ、与一、「承りぬ」とて、立ちにけり。与一が郎等佐奈多文三家安を招き寄せて、「佐奈多へ行きて、母にも女房にも申せ。『義忠、今日の軍の先陣を懸くべきよし、兵衛佐殿仰せらるる間、先陣仕るべし。生きて二度帰るべからず。もし兵衛佐、世を打ち取り給はば、二人の子共、佐殿に参りて、岡崎と佐奈多とを継がせて、子共の後見して、義忠が後世を訪ひてたべ』と云ふべし」と申しければ、「殿を二歳の年より今年廿五に成り給ふまで、もり奉りて、只今死なむと宣ふ▼P2119(五九オ)を見すてて、帰るべきにあらず。是程の事をば三郎丸して宣ふべきか」とて、三郎丸を召して、家安、此の由を云ひ含めてぞ遣はしける。
 与一、十七騎の勢にて歩ませ出だして申しけるは、「三浦大介義明が舎弟、三浦悪四郎義実が嫡男、佐奈多の与一義忠、生年廿五、源氏の世を執り給ふべき軍の先陣也。我と思はむ輩は出でて組め」とて、懸け出だしたり。平家の軍兵是を聞きて、「佐奈多は吉き敵や。いざうれ俣野、組みて取らむ」とて進む者は、長尾新五・新六・八木下の五郎・荻野五郎・曽我の太郎・渋屋庄司・原四郎・瀧口三郎・稲毛三郎・久下の権守・加佐摩三郎・広瀬大郎・岡部六野太・熊谷次郎を始めとして、宗との者共七十三騎、「我劣らじ」▼P2120(五九ウ)とをめいてかく。弓手は海、妻手は山、暗さはくらし、雨はいにいつて降る、道はせばし。心は先にとはやれども、力及ばぬ道なれば、馬次第にぞ懸けたりける。
 佐奈多が郎等文三家安、歩ませ出だして申しけるは、「東八ヶ国の殿原、誰人か君の御家人ならぬや。明日は恥づかしからむずるに、矢一つも射ぬさきに、甲をぬぎて御方へ参れや」と申しければ、渋屋庄司重国、「かく申すは誰人の詞ぞや。家安が申すにや。あたら詞かな。主にはいはせで、人々しく又郎等の」と云ひければ、家安重ねて申しけるは、「人の郎等は人ならぬか。二人の主にあはず、他人の門へ足ふみ入れず。わ殿原こそ現の人よ。秩父の末葉とて口は聞き給へども、一方の大将軍をもせで、大庭三郎が尻舞して迷ひ行くめり。吉き人のきたなき振▼P2121(六〇オ)舞するをぞ人とはいはぬ。矢一筋奉らむ」とて、鶴の本白の黒塗の十三束を吉くひきて射たりければ、甲の手崎に立ちにけり。其の時、敵も御方も、一同にはとぞ咲ひける。
 さるほどに、廿三日のたそかれ時にも成りにければ、大庭三郎、舎弟俣野五郎に申しけるは、「俣野殿、構へて佐奈多に組み給へ。景親も落ち合はむずるぞ」。俣野、「余りに暗くて、敵も御方もみえわかばこそ組み候はめ」と云ひければ、大庭、「佐奈多は葦毛なる馬に乗りたりつるが、肩白の鎧にすそ金物打ちて、白きほろを懸けたるぞ。其れをしるしにてかまへて組め」とぞ申しける。「承りぬ」とて、俣野進み出でて申しけるは、「抑佐奈多の与一が爰に有りつるが、みえぬは。はや落ちにけるやらむ」と云へども、佐奈多おともせず。▼P2122(六〇ウ)敵を目近く歩ませよせ、在り所を慥かに聞きおほせて、まがたはらに答へたり。「佐奈多与一義忠ここにあり。かく申すは誰人ぞ」と云ふ声に付きて、「俣野五郎景久なり」と云ひはつれば、やがて押し並べて指しうつぶきて見れば、馬も葦毛なる上に、すそ金物きらめきて見えければ、やがて寄せ合はせて引き組みて、馬よりどうど落ちにけり。
 上になり下になり、山の岨(そは)を下りに、大道まで三段計りぞころびたる。今一返しも返したらば、海へ入りてまし。俣野は大力と聞こえたりけれども、いかがしたりけむ、下になる。うつぶしに下り頭に臥したりければ、枕もひきし、あとは高し、おきうおきうとしけれども、佐奈多上に乗り居たりければ、「叶はじ」とや思ひけむ、「大庭三郎が舎弟俣野五郎景久、佐奈多与一に組みたり。つづけ▼P2123(六一オ)やつづけや」と云ひけれども、家安を初めとして、郎等共皆押し隔てられて、連く者もなかりければ、俣野がいとこ長尾新五落ち合ひて、「上や敵、下や敵」と問ひければ、与一は敵の声と聞きなして、「上ぞ景尚。長尾殿か。あやまちすな」。俣野は下にて、「下ぞ景久。長尾殿か。あやまちすな」と云ふ。「上ぞ」「下ぞ」と云ふほどに、頭は一所にあり、暗さはくらし、声はひきし、何とも聞きわかず。「上ぞ景尚、下佐奈多」「上は佐奈多、下は景尚」と互に云ふ。俣野、「不覚の者哉。鎧の金物をさぐれかし」と云ひければ、二人の者共が冑の引合をさぐりけるを、佐奈多さぐられて、右の足をもつて長尾が胸をむずとふむ。新五、ふまれて下りさまに弓長計りぞととばしりて倒れにけり。
 其の間に、佐奈多、刀を抜きて、▼P2124(六一ウ)俣野が頸をかくに、きれず。指せども指せどもとほらず。刀をもちあげて雲すきに見れば、さやまきの栗形かけて、さやながらぬけたり。さや尻をくはへて抜かむとする所に、新五が弟新六落ち重なりて、与一が胡〓[竹+録](やなぐひ)のあはひにひたと乗り居て、甲のてへんの穴に手を指し入れて、むずと引きあふのけて、佐奈多が頸をかきければ、水もさはらず切れにけり。やがて俣野を引きおこして、「手や負ひたる」と問ひければ、「頸こそすこししひて覚ゆれ」と云ふを、さぐれば手のぬれければ、敵が刀を取るに、「見よ」とて右手を見れば、鞘尻一寸計りくだけたる刀をぞ持ちたりける。誠につよくさしたりとみえたりけり。其の手をいたみて、俣野は軍もせざりけり。「俣野五郎▼P2125(六二オ)景尚、佐奈多与一打ちたり」と罵りければ、源氏の方には歎きけり、平家の方には悦びけり。
 父の岡崎、兵衛佐に、「余一冠者こそ既に討たれ候ひにけれ」と申しければ、兵衛佐は、「あたら兵を討たせたるこそ口惜しけれ。もし頼朝世にあらば、義忠が孝養をば頼朝すべし」とて、あはれげに思はれたり。岡崎は、「十人の子にこそ後れ候はめ。君の世に渡らせ給はむ事こそ願はしく候へ」と申しながら、さすが恩愛の道なれば、鎧の袖をぞぬらしける。
 文三家安は、与一が打たれたる所より、尾を一つ隔てて戦ひけるを、稲毛三郎、「主は既に打たれぬ。今はわ君にげよかし」と云ひければ、家安申しけるは、「幼少よりかけ組む事は習ひたれども、逃ぐる事は未だしらず。『佐奈多殿打たれ給ひぬ』と聞きつるより、心こそ弥▼P2126(六二ウ)武く覚ゆれ」とて、分取八人して、打ち死に死にけり。軍は終夜に有りけり。
 暁方になりて、兵衛佐の勢、土肥を差して引き退く。佐も後陣にひかへて、「あな心うや。同じく引くとも思ふ矢一つ射て落ちよや。返せや返せや」と宣ひけれども、一騎も返さず、皆落ちぬ。堀口と云ふ所にて、加藤次景廉・佐々木四郎高綱・大多和三郎義尚、三騎落ち残りて、十七度まで返し合はせ、散々に戦ふ。敵は数千有りけれども、道もせばく足立悪しく、一度にも押し寄せず。纔に二三騎づつこそ懸けたりけれ。此の者共敵多く打ち取りて、矢種つきにければ、同じく一度に引き退く。
 さるほどに、夜もほのぼのとあけにければ、廿四日の辰の時に上の山へ引かれけるを、荻野五郎末重・同じく子息彦大郎秀光以下、兄弟▼P2127(六三オ)五人、兵衛佐の跡目に付きて追ひ懸かりて、「此の先に落ち給ふは大将軍とこそ見え申せ。いかに源氏の名折に鎧の後をば敵にみせ給ふぞ。きたなしや。返し合はせ給へ」とて、をめいてかく。佐「叶はじ」とや思はれけむ、只一人返し合はせて、矢一つ射られたり。荻野五郎が弓手の草摺に、縫ひさまにぞ立ちたりける。二の矢は鞍の前輪にたつ。次の矢は荻野が子息彦太郎が馬の、左のむながいづくしに立ちにけり。馬はねて乗りたまらず。足を越しておりたちぬ。伊豆国の住人大見平次、返し合はせて佐の前にふさげたり。又武者一騎馳せ来たりて、大見が前に引かへて、「昔物語にも大将軍の御戦ひはなき事にて候ふ。只ここを引かせ給へ」と申しければ、「防矢射る者なければこそ」と宣ひければ、「相模国の住人飯田三郎宗能候ふ」と▼P2128(六三ウ)申して、矢三筋射たりけり。其の間に兵衛佐は椙山へ入り給ひにけり。
 残りの人々も道嶮しくて、輙く山へ入るべき様もなかりければ、太刀計りにてぞ山へは入りにける。伊豆国の住人沢六郎宗家もここにて誅たれにけり。同国の住人九藤介茂光は、太り大きなる男にて山へも登らず、歩みもやらず。「延ぶべし」ともおぼえざりければ、子息狩野五郎親光を招き寄せて、「人手にかくな。我が頸打て」と云ひければ、親光、父の首を切らむ事の悲しさ、父を肩に引き懸けて山へ登りけるに、峨々たる山なれば、輙く登るべしともおぼえざりければ、とびにも延びやらず。敵は責め近づきて、既に生け取らるべかりければ、茂光、腹かい切りて死にけり。茂光が娘に、伊豆国の国司為綱が具して儲けたりける、田代冠者信綱、是を▼P2129(六四オ)見て、祖父公藤介が頸を切りて、子息狩野五郎にとらせて山へ入りにけり。北条が嫡子、三郎宗時も、伊東入道祐親法師に打たれにけり。
 さて、兵衛佐は山の峯に上りて、臥木の在りけるに尻打ち懸けて居られたりけるに、人々跡を尋ねて少々来たりたりければ、「大庭・曽我なんどは山の案内者なれば、定めて山ふませむずらむ。人多くては中々悪しかりなむ。各是より散々になるべし。我もし世にあらば、必ず尋ね来たるべし。我も又尋ぬべし」と宣ひければ、「我等既に日本国を敵にうけて、いづくの方へまかり候ふとも遁るべしとも覚え候はず。同じくは只一所にてこそは、塵灰にも成り候はめ」と申しければ、「頼朝思ふ様ありてこそかく云ふに、猶しひて落ちぬこそあやしけれ。各存ずる旨の有るか」と重ねて宣ひければ、「此の上は」 とて、思ひ思ひに落ち行きけり。北条四▼P2130(六四ウ)郎時政・同じく子息義時父子二人はそれより山伝ひに甲斐国へぞ趣きける。加藤二景廉と田代冠者信綱とは、伊豆三嶋の宝殿の内に籠りたりけるが、夜ほのぼのとあけければ、宝殿を出でて思ひ思ひにぞ落ち行きける。景廉は兄賀藤太光員に行き合ひて、甲斐国へぞ落ちにける。残る輩は、伊豆・駿河・武蔵・相模の山林へぞ逃げ籠りける。
 兵衛佐に付きて山に有りける人とては、土肥二郎・同じく子息弥太郎・甥の新開の荒二郎・土屋三郎・岡崎四郎、已上五人、下臈には土肥二郎が小舎人男七郎丸、兵衛佐具し奉りて、上下只七騎ぞ有りける。土肥が申しけるは、「天喜年中に、故伊与入道殿、貞任を責め給ひし時、纔かに七騎に落ち成りて、一旦は山に籠り▼P2131(六五オ)給ひしかども、遂にその御本意を遂げ給ひにけり。今日の御有様、少しも彼に違はず。尤も吉例とすべし」とぞ申しける。
十四 〔小壷坂合戦の事〕 三浦の人々は、相模河のはた、浜宮の前に陣を取りて、各申しけるは、「石橋の軍は此の夕べまではなかりけり。今は日もくれぬ。暁天の後より寄すべし」とて、ゆらへて有りけるほどに、兵衛佐の方に大沼四郎と云ふ者あり。敵の中をまぎれ出でたりけるが、三浦の人々の陣の前の河鰭に来たりて呼ばはりけるを、「誰そ」と問ひければ、「大沼の四郎也。石橋の軍既に初まり、散々の事共あり。其の次第、参りて申さむとすれば、馬にははなれぬ、夜はふけたり、河の淵瀬もみえわかず。馬をたべ、参りて申さむ」と云ひければ、急ぎ馬をぞ渡しける。大沼が参りて申しけるは、「酉の時に軍初まりて、只今まで火出づる▼P2132(六五ウ)程の合戦す。佐奈多与一既に誅たれぬ。兵衛佐も打たれ給ひたるとこそ、申しあひて候ひつれ。誠に遁れ給ふべき様もなかりつる上に、手を下して戦ひ給ひつれば、一定打たれ給ひつらむ」とぞ申しける。人々是を聞きて、「兵衛佐殿も誅たれ給ひにけり。『大将軍のたしかにまします』と聞かばこそ、百騎が一騎に成らむまでも戦はめ、前には大庭三郎・伊東入道、雲霞の勢にて待ち懸けたり。後には畠山二郎、武蔵の党の者共引き具して、五百余騎にて金江河の鰭に陣を取りてあんなり。中に取り籠められなば、一人も遁るまじ。設ひ一方を打ち破りて通りたりとも、朝敵と成りぬる上は、つひに安穏なるべからず。しかじ、人手に懸からむよりは、各自害をすべし」と云ひければ、義澄が申しけるは、しばし、殿原の自害、余りに▼P2133(六六オ)とよ。かやうの時は、僻事、虚事も多し。兵衛佐殿も一定誅たれてもやおはすらむ、又遁れてもやおはすらむ、其の骸を見申さず。土肥・岡崎は伊豆国の人也。先づ此の人々誅たれて後こそ、大将軍は誅たれ給はむずれ。海辺近ければ、舟に乗り給ひて、安房・上総の方へもや志し給ひぬらむ。又石橋は深山遥かにつづきたれば、それにも龍もりてやおはすらむ。いかさまにも、兵衛佐殿の御首をも見ざらむほどは、自害をせむ事あしかりなむ。さりとも、兵衛佐殿、荒量に誅たれ給はじ者を。設ひ死に給ふとも、敵に物をば思はせ給はむずらむ。いかさまにも、大庭にも畠山にも、一方に向かひてこそ、打ち死に、射死にをもせめ。畠山が勢五百余騎と此の勢三百余騎と押し向かひたらむに、などかはしばしは支へ▼P2134(六六ウ)ざるべき。ここをば懸け破り、三浦に引き籠もりたらむに、日本国の勢一度に寄せたりとも、火出づるほどの戦して、矢種つきば、其の時こそ義澄は自害をもせむずれ」とて、やがて甲の緒しめて、夜半計りに小磯が原を打ち過ぎて、波打際を下りに金江河の尻へ向けてぞ歩ませける。
 輪田小太郎義盛が舎弟二郎義茂は、高名のあら兵の大力にて大矢の勢兵なるが申しけるは、「此の道はいつの習ひの道ぞや。上の大道をばなど打ち給はぬぞ。只大道を打ち過ぎさまに、畠山が陣を懸け破りて、強き馬共少々奪ひ取りて行かばや」と云ひければ、兄の義盛、「何条そぞろ事宣ふ殿原かな」と云ひければ、義澄云ひけるは、「畠山、此の程馬飼ひ立てて休み居たり。強き馬取らむとて、還りて弱き馬ばしとられ。馬の足おとは波に▼P2135(六七オ)まぎれてきこゆまじ。くつばみをならべてとほれ若党」と云ひければ、或いはうつぶきて水つきをにぎり、或いはくつわをゆひからげなんどしてぞ通りける。
 案の如く、畠山二郎聞き付けて、乳人の半沢の六郎成清を呼びて云ひけるは、「只今三浦の人々の通ると覚ゆるぞ。重忠、此の人々に意趣なしといへども、彼等は一向佐殿の方人也。重忠は父庄司、平家に奉公して当時在京したり。是を一矢射ずして通したらば、大庭・伊東なんどに讒言せられて、一定平家の勘当蒙りぬと覚ゆる也。いざ追ひ懸かりて一矢射む」と云ひければ、成清、「尤も然るべし」とて、馬の腹帯つよくしめて追ひ懸くる。
 三浦の人々は、かくともしらで相模川を打ち渡り、腰越・稲村・湯居浜なんど打ち過ぎて、小坪坂を打ち上れば、夜も漸く▼P2136(六七ウ)あけにけり。小太郎義盛が云ひけるは、「是までは別事無く来たり。今は何事かは有るべき。設ひ敵人追ひ来たるとも、足立悪しき所なれば、などか一支へせざるべき。馬をも休め、破子なんどをも行ひ給へかし、殿原」とて、各馬より下り居て後の方を見返りたれば、稲村が崎に武者卅騎計り打ち出でたり。小太郎是をみて、「ここに来たる武者は敵か、又此の具足のさがりたるか」と云ひければ、三浦藤平真光、「此の具足には、さるべき人も候はず。二郎殿計りこそ、鎌倉を上りに打たせ給ひつれ、あれより来たり申すべき者おぼえず」と申しければ、小太郎、「さては敵にこそあんなれ」とて、叔父の別当忠澄に向かひて云ひけるは、「畠山既に追ひ懸かり来たる。殿ははや東路にかかりて、あぶずり究竟の小城なれば、▼P2137(六八オ)かいだてかかせて待ち給へ。義盛は是にて一支へして、若し叶はずはあぶずりに引き懸けて、諸共に戦ふべし」。義澄は「尤もさるべし」とて、あぶずりへ行きけるに、畠山二郎、四百余騎にて赤幡天をかかやかして、湯居浜・いなせ河のはたに陣をとる。
 畠山、郎等一人召して、「輪田小太郎の許へ行きて、『重忠こそ来たりて候へ。各に意趣を思ひ奉るべきにあらねども、父庄司・叔父小山田別当、平家の召しによつて、折節六波羅に祗候す。重忠が陣の前を無音に通し奉りなば、平家の勘当蒙らむ事疑ひなし。仍つて是まで参りたり。是へや出でさせ給ふべき、それへや参るべき』と申せ」とて、遣はしけり。使行きて此の由を云ひければ、郎等真光を呼びて、彼の使に相具して返答しけるは、「御使の申状、委しく承り候ふ。仰せ尤も其の謂はれあり。▼P2138(六八ウ)但し、庄司殿と申すは大介の孫聟ぞかし。されば、曽祖父に向かひて争か弓夫を取りて向かはるべき。尤も思惟有るべし」といはせたりければ、重忠重ねていはせけるは、「元より申しつる様に、介殿の御事と云ひ、各の事と申し、全く意趣を思ひ奉らず。只父と叔父との首を継がむが為に、是まで来るばかり也。さらば各三浦へ帰り給へ。重忠も帰らむ」とて、和与して帰る処に、斯様に問答和平するをも未だ聞き定めざる前に、義盛が下人一人、舎弟義茂が許へ馳せ来たりて、「湯居の浜に既に軍始まり候ふ」と云ひければ、義茂是を聞きて、「穴心憂や。太郎殿はいかに」と云ひて、甲の緒を締めて、犬懸坂を馳せ越えて、長江が下にて浜を見下ろしたれば、何とは知らず、直甲四百騎ばかり打つ立ちたり。義茂只八騎にて▼P2139(六九オ)をめいて駆く。畠山是を見て、「あれはいかに。和平の由は虚事にて有りけり。搦手を待たむとて云ひける者を。安からぬ事かな」とて、やがて駆けむとす。去る程に兄の義盛、小坪坂にて是を見て、「爰に下り様に七八騎計りにて馳するは二郎よな。和平の子細も聞き開かず、左右無く駆くると覚ゆるなり。勢も少なし、悪しくして打たれなむず。遠ければ、呼ぶとも聞ゆまじ。いざさらば只駆けむ」とて懸け出しけり。
 小太郎義盛、郎等真光に云ひけるは、「楯突く軍は度々したれども、馳せ組む軍はこれこそ初めなれ。何様にあふべきぞ」と云ひければ、真光申しけるは、「今年五十八に罷り成り候ふ。軍に相ふ事十九度、誠に軍の先達、真光に有るべし」とて、「軍にあふは、敵も弓手、我も弓手に逢は▼P2140(六九ウ)むとするなり。打ち解け弓を引くべからず。あきまを心にかけて、振り合はせ振り合はせして、内甲ををしみ、あだやをいじと、矢をはげなから矢をたばひ給ふべし。矢一つ放ちては、次の矢を急ぎ打ちくはせて、敵の内甲を御意にかけ給へ。昔様には馬を射る事はせざりけれども、中比よりは、先しや馬の太腹を射つれば、はね落されて徒立ちになり候ふ。近代は、様もなく押し並べて組みて、中に落ちぬれば、太刀、腰刀にて勝負は候ふ也」とぞ申しける。
 さるほどに、あぶずりに引き上げて、かいだてかいて待ちつる三浦の別当義澄、已に合戦初まると見て、小坪坂をおくれ馳せにして押し寄す。道せばくて僅かに二三騎づつ、おつすがひに馳せ来たりければ、遥かにつづきてぞ見えける。畠山の勢、此をみて、「三浦の勢計りに▼P2141(七〇オ)てはあらず。上総・下総の人共も一味になりにけり。大勢に取り籠められては叶ふまじ」とて、おろおろ戦ひて引き退く。
 三浦の人々 弥かつに乗りて、追ひさまに散々にいければ、浜の御霊の御前にて、輪田二郎義茂と相模国住人連太郎と、組みて落ちぬ。連は大の男の、人に勝れて長高く骨太也。輪田は勢は少し小さかりけれども、聞こゆる小相撲にて、敵を大亘にかけて、えい声を出だして、浪打際に枕をせさせて打ち臥せて、胸板の上をふまへて、腰刀をぬきて首をかく。是をみて、連が郎等落ち合ひたりけれども、輪田、太刀をぬきて内甲へ打ち入れたりければ、只一打ちに首を打ち落とす。二つの頸を前に並べて、石に尻打ち懸けて、波に足うちすすがせて息つぎゐたる処に、連が子息連二郎馳せ来たりて、輸▼P2142(七〇ウ)田二郎を射る。輪田二郎、射向の袖を振り合はせて、しころを傾けて云ひけるは、「父の敵をば手取りにこそとれ。わ君が弓勢にて、而も遠矢に射るには、義茂が鎧とほらじ物を。人々に打たれぬさきに落ち合へかし。おそろしきか、近くよらぬは。義茂は軍にしつかれたれば、手向かひはすまじ。首をば延べてきらせむずるぞ」とはげまされて、連二郎、太刀をぬきて落ち合ひたり。輪田二郎は甲の鉢をからとうたせて、立ちあがりて、いだきふせて、みしとおさへて腰刀を抽きて首をきる。三つの首を鞍の左右の取付に付けて、連が首をば片手に持ちて帰り来たる。其の日の高名、輪田二郎に極まりたりと、敵も御方も罵りけり。
 畠山が方には、律戸四郎・川二郎大夫・秋岡四郎等を初めとして、卅余人▼P2143(七一オ)打たれにけり。手負は数を知らず。三浦が方には、多々良の太郎、同じく二郎と、郎等二人ぞ打たれにける。其の時畠山、我が方の軍兵打たれて、引き退く気色を見て、云ひけるは、「弓矢取る道、爰にて返し合はせずは、各長く弓矢をば小坪坂」にて切り捨つべし」とて、片手矢をはげて、歩ませ出だして申しけるは、「音にも聞き、目にも見給へ。武蔵の国の秩父の余流、畠山ノ庄司重能が二男、庄司次郎重忠、童名氏王丸、生年十七歳。軍に合ふ事今日ぞ初め。我と思はむ人々は出で給へ」とて懸け出でたり。半沢の六郎馳せ来たりて、馬の轡に取り付きて申しけるは、「命を捨つるも様にこそより候へ。させる宿世の敵、親の敵にも非ず。加様の公事に付けたる事に、命を捨つる事候はず。若御意趣有らば後の軍にて▼P2144(七一ウ)有るべし」とて取り留めければ、力及ばず。相模の本馬の宿に引き退く。彼の宿に兵衛佐の方人多く居住したりければ、其の家々に火を懸けて、山下村まで焼き払ふ。三浦の人々は、此の軍の次第を委しく大介義明に語りければ、「各が振舞ひ尤も神妙也。就中義茂が高名、左右に及ばず」とて、大刀一振り取り出だして、孫義茂に取らす。
十五 〔衣笠城合戦の事〕 「敵只今に来たりなむず。急ぎ衣笠城に籠るべし」と云ひければ、義盛申しけるは、「衣笠は口あまたありて、無勢にては叶ひがたかるべし。奴田城こそ、廻りは皆石山にて一方は海なれば、吉き者百人計りだにも候はば、一二万騎寄せたりとも、くるしかるまじき所なれ」と申しければ、大介云ひけるは、「さかしき冠者の云事哉。今は日本国を敵にて打ち死にせむと思はむ▼P2145(七二オ)ずるに、同じくは名所の城にてこそ死にたけれ。先祖の聞ゆる館にて討死してけりとこそ、平家にも聞かれ、申したけれ」と云ひければ、「尤も然るべし」とて、衣笠城に籠りにけり。
 上総介弘経が舎弟、金田大夫頼経は、義明が聟なりければ、七十余騎にて馳せ来たりて、同じき城にぞ籠りにける。此の勢相具して四百余騎に及びければ、城中にも過分したり。大介云ひけるは、「若党より初めて、厩の冠者原に至るまで、つよ弓の輩は矢衾を作りて散々に射るべし。又討手に賢からむ者共は、手々になぎなたを持ちて、深田に追ひはめて打つべし。城の西浦の手をば義澄ふせくべし」とぞ下知しける。かく云ふ程に、廿六日辰剋に、武蔵国の住人、江戸大郎・河越太郎、党の者には金子・村山・俣野・〔野〕与・山口・児玉党▼P2146(七二ウ)を初めとして、凡その勢二千余騎にて押し寄せたり。先づ連五郎、父と兄とを小坪にて打たれたる事を安からず思ひける故に、ま先懸けて出で来たる。支度の如く、城中より矢前をそろへて是を射る。一方は石山、二方は深田なれば、寄武者打たれにけり。又、打者冠者原、鼻を並べて出で向かひて戦ひければ、面を向くる者なかりけり。
 かかりければ、連が党、少し引き退きけるを、金子の者共入れ替へて、金子十郎・同じく与一、城口へ責め寄せたり。城中より例の矢前をそろへて射けれども、金子少しも退かず、廿一まで立ちたる矢をば折り懸け折り懸けして戦ひけり。其の時、城中より是を感じて、酒肴を一具、家忠が許へ送りて云ひけるは、「殿原の軍の様、誠に面白くみえたり。此の酒めして、力▼P2147(七三オ)付けて、手のきは軍し給へ」と云ひ送りければ、金子返事に申しけるは、「さ承り候ひぬ。能々飲みて、城をば只今に追ひ落とし申すべし」とて、やがて甲の上に萌黄の糸威の腹巻を打ち懸けて、少しもしひず責め寄せければ、大介是をみて若者共に下知しけるは、「あはれ云ふ甲斐なき者共かな。あれを、二三十騎馬の鼻を並べて懸け出だして、武蔵国の者の案内もしらぬを深田に追ひはめて咲へかし」と罵りけれども、「幾程なき勢にて打ち出でむ事も中々悪しかりなむ」とて出でざりければ、大介老々として而も所労の折節なりけるが、白き直垂になえ烏帽子おし入れて、馬にかきのせられて、雑色二人を馬の左右に付けて膝をおさへさせて、太刀計りをはきて敵の中へ打ち出でむとしければ、いとこの左野平太、馳せ▼P2148(七三ウ)来たりて、「介殿には物の付き給ひたるか。打ち出で給ひては何の詮かは有るべき」とて引き留めければ、大介、「己等にこそ物の付きたるとはみれ。軍と云ふは、或る時は懸け出だして敵をも追ひ散らし、或る時は敵にもおはれて引き退きなんどするこそ、目をもさまして面白けれ。いつと云ふ事もなく、草鹿的(さうしかまと)なんど射るやうに軍する事、みもならはず」と云ふままに、鞭をあげて左野平太をぞ打ちたりける。さる程に日もくれぬ。
 軍各しつかれて、大介、事の外に心よわげに見えければ、子孫共を呼びて云ひけるは、「今は城中以ての外によわげにみゆ。さればとて各左右なく自害すべからず。兵衛佐殿は荒量に打たれ給ふまじき人ぞ。佐殿の死生を聞き定めむ程は、甲斐なき命を生きて、始終を見はて奉るべし。いかにも安房・上総の方へぞ▼P2149(七四オ)落ち給ひぬらむ。今夜ここを引きて、船に乗りて佐殿の行へを尋ね奉るべし。義明今年已に七十九歳[B 「八十四歳(はちじふしさい)」と傍書]に迫れり。其の上所労の身なり。『義明幾程の命を惜しみて、城の中をば落ちけるぞ』と、後日にいはれむ事も口惜しければ、我をばすてて落ちよ。全く恨み有るべからず。急ぎ佐殿に落ち加はり奉りて、本意を遂ぐべし」と云ひけれども、さればとて、すて置くべきにあらねば、子孫、手輿に大介をかきのせて落ちむとすれば、大介、大きにしかりて輿にも乗らず。されどもとかく誘へ、おしのせて城の中をば落ちにけり。宗との者共は、栗浜の御崎に有りける船共にはいのりはいのり、安房の方へぞ趣きける。大介が輿は、雑色共の舁きたりけるが、敵近く責めかかりければ、輿をもすてて逃げにけり。近く付き仕へける女一人ぞ付きたりける。▼P2150(七四ウ)敵が冠者原追ひかかりて、大介が衣装をはぎければ、「我は三浦の大介と云ふ者なり。かくなせそ」と云ひけれども叶はず。直垂もはがれにけり。さるほどに夜もあけにければ、大介、「あはれ、我はよく云ひつるものを。城中にてこそ死なむと思ひつるに、若き者の云ふに付きて犬死にしてむずる事こそ口惜しけれ。さらば同じくは畠山が手に懸かりて死なばや」と云ひけれども、江戸太郎馳せ来りて、大介が頸をば打ちてけり。「いかにもおとなの云ふ事は様有るべし。元より大介が云ひつる様に、城中にすておきたらば、かほどの恥には及ばざらまし」とぞ人申しける。
 兵衛佐は、土肥の鍛冶屋が入ると云ふ山に籠りておはしけるが、峯にて見遣りければ、伊東入道、土肥に押し寄せて、真平が家を追捕し、焼き払ひけり。真平、山の峯より遥かに▼P2151(七五オ)見下ろして、「土肥に三つの光あり。第一の光は、八幡大菩薩の君を守り奉り給ふ御光なり。次の光は、君御繁昌あつて、一天四海を輝かし給はむずる御光なり。次の小さき光は、真平が君の御恩に依つて放光せむずる光なり」とて、舞ひかなでければ、人皆咲ひけり。
十六〔兵衛佐安房国へ落ち給ふ事〕 さる程に、真平が妻なりける人の許より、使者を遣はして云ひけるは、「三浦の人々は、小坪坂の軍には勝ちて、畠山の人々多く誅たれたりけるが、衣笠城の軍に打ち落とされて、君を尋ね奉りて、安房国の方へ趣きにけり。急ぎ彼の人々に落ち加はり給ふべし」と、申したりければ、真平此の由を聞きて、「さてはうれしき事ごさむなれ」とて、「相ひ構へて今夜の中に海人船に召して、安房国へつかせ給ひて、重ねて弘経・胤経等をも召して、今一度御▼P2152(七五ウ)冥加の程をも御覧候へ」と申しければ、「尤も然るべし」とて、小浦と云ふ所へ出で給ひて、海人船一艘に乗りて、安房国へぞ趣き給ひける。兵衛佐已下の人々、七人ながら皆大童にて、烏帽子きたる人もなかりけり。其の浦に二郎大夫と云ふ者の有りけるに、「烏帽子やある。進らせよ」と宣ひければ、二郎大夫、さる古老の者なりければ、かひがひしく烏帽子十頭進らせたりければ、兵衛佐悦び給ひて、「此の勧賞には、国にても庄にても汝が乞ふに依るべし」とぞ宣ひける。二郎大夫宿所に帰りて、妻子に向かひて申しけるは、「烏帽子一つをだにももたぬ落人にて逃げ迷ふ人の、荒量にも預かりたりつる国庄かな」と申して咲ひけり。
 真平、「此の御船、とく出だせ」と云ひければ、子息遠平、「しばらく相ひ待つ事候ふ」と云ひければ、真平、「何▼P2153(七六オ)事を相ひ待つべきぞや。己がしうとの伊東の入道を待ち得て、君をも我をも打たせむとするな。岡崎殿、其の弥太郎めが頸打ち落としてたべ」と云ひければ、岡崎、「さるにても主と父との事を、舅の事に思ひ替へじな、弥太郎」とぞ云ひける。やがて船指し出だしたりければ、案の如くに、伊東入道卅余騎、ひた甲にて、片手矢はげて追ひ来たる。追ひさまにも数百騎にて責め来たる。「賢くぞ、とく御船を出だして」とぞ、人々云ひ合ひける。
十七 〔土屋三郎、小二郎と行き合ふ事〕
 さて、北条四郎時政は甲斐国へ趣き、一条・武田・小笠原・安田・板垣・曽禰禅師・那古蔵人、此の人々に告げけるをば、兵衛佐は知り給はで、「此の事を甲斐の人々に知らせばや」とて、「宗遠行け」とて、御文書きて遣はし▼P2154(七六ウ)けり。夜に入りて足柄山を越えけるに、関屋の前に火高く焼きたり。人あまた臥したり。土屋三郎あゆみよりて、足音高くし、しわぶきして罵りけれども、「たそ」ともいはず。土屋三郎思ひけるは、「ね入りたるよしをして、ここをとほして、先に人をおきて、中に取り籠めむとするやらむ」。さればとて、帰るべきにも非ずして、走り通りければ、誠にね入りたりける時にをともせず。
 さて人一人行き逢ひたり。あれもおそれてものもいはず。是もをぢておともせず。中一段計りを隔てて、互ひににらまへて、時をうつすほど立ちたりけり。土屋三郎はさる古兵にて有りければ、声を替へて問ひけり。「只今此の山を越え給ふはいかなる人ぞ」と云ひければ、「かく宣ふは又いかなる人ぞ」。「わ殿は誰そ」「わ殿は誰そ」と問ふ程に、互ひに知りたる声に聞きなしつ。「土屋殿のましまし侯ふか」。「宗▼P2155(七七オ)遠ぞかし。小二郎殿か」。「義治候ふ」。土屋は元より子なかりければ、兄岡崎四郎が子を取りて、甥ながら養子にして、平家に仕へて在京したりけるが、此の事を聞きて夜昼下りけるが、然るべき事にや、親に行き逢ひにけり。夜中の事なれば、互ひに顔はみず。声計りを聞きて、手に手を取り組みて、云ひ遣る方もなし。只「いかにいかに」とぞ云ひける。山中へ入りて、木の本に居て、土屋小二郎が申しけるは、「京にて此の事を承りて下り候ひつるが、今日五日は馬乗りたてて、歩行にて下り候ふ下人、一人も追ひ付かず。このひる木瀬川の宿にて承り候ひつれば、『石橋軍に兵衛佐殿も打たれ給ひぬ。土屋・岡崎も打たれたり』と申し候ひつれば、『憖ひに京をば罷り出で候ひぬ。波にも礒にも付かぬ心地して候ひつるが、さるにても土屋の方へまかり▼P2156(七七ウ)て、一定を承り定めむ』とて下り候ひつるが、関屋の程が思ひ遣られて、足占して候ひつるなり」と語りければ、土屋三郎思ひけるは、「弓矢取る者のにくさは、親を打ちては子は世にあり、子を殺しては親世にある習ひなれば、しかも実の親にてもなし。あれは只今まで平家に仕へたり、是は源氏をたのみてあり。首を取りて平家の見参にもや入らむと思ふらむ」と思ひければ、有りのままにも云はざりけり。「打たれたる人とては、わ殿が兄余一殿・北条三郎・沢六郎。公藤介は自害しつ。兵衛佐殿は甲斐へと聞く時に、尋ね奉りて趣く也。いざさらばわ殿も」とて、かい具してつれてゆく。甲斐国へ趣きて、一条二郎が許にてぞ、有りのままには語りける。▼P2157(七八オ)
十八 〔三浦の人々、兵衛佐に尋ね合ひ奉りし事〕三浦の人々は、主には別れぬ、親には後れぬ、あまの船流したる心地して、安房国の北の方、龍が礒にぞ着きにける。しばらくやすらふほどに、遥かのおきに、雲井にきえて、船こそ一艘みえたりけれ。此の人々申しけるは、「あれに見ゆる船こそあやしけれ。是程の大風に、海人船・釣船・あきなひ船なんどにてあらじ。あはれ、兵衛佐殿の御船にてや有るらむ。又敵の船にてや有るらむ」とて、弓絃しめして用心して有りけるに、船は次第に近くなる。誠の兵衛佐の御船なりければ、かさじるしを見付けて、三浦の船よりも笠じるしをぞ合はせける。猶用心して、兵衛佐殿は打板の下に隠し奉りて、それが上に殿原なみ居たり。三浦の人々はいつしか心もとなくて、船をぞ押し合はせける。船押し合はせて、輪田小大郎申しけるは、「いかに佐殿は渡らせ給ふ▼P2158(七八ウ)か」。岡崎申しけるは、「我等も知り進らせぬ時に、尋ね奉りてありくなり」とて、昨日一昨日の軍の物語をぞ初めける。三浦は「大介が云ひし事は」とて、語りて泣く。岡崎は「与一が打たれし事は」とて、語りて泣く。兵衛佐は打板の下にて是を聞き給ひて、「哀れ、世にありて、是等に恩をせばや」とぞ、さまざまに思はれける。
 いたく久しく隠れて、是等に恨みられじとて、「頼朝はここにあるは」とて、打板の下より出で給ひたりければ、三浦の人々是を見奉りて、各悦び泣き共しあひけり。和田小大郎が申しけるは、「父もしね、子孫も死なばしね、只今君を見奉りつれば、其に過ぎたる悦びなし。今は本意を遂げむ事疑ひ有るべからず。君、今は只侍共に国々を分かち給ふべし。義盛には侍の別当を給はるべし。上▼P2159(七九オ)総守忠清が、平家より八ヶ国の侍の別当を給はりて、もてなされしが、うらやましく候ひしに」と申しければ、兵衛佐は、「所あて余りに早しとよ」とて、咲ひ給ひけり。其の夜は、兵衛佐、安房国安戸(洲ィ)大明神に参詣して、千反の礼拝を奉りて、
  源は同じ流れぞ石清水せきあげ給へ雲の上まで K106
其の夜、御宝殿より気高き御声にて、
  千尋まで深くたのみて石清水只せき上げよ雲の上まで K107
 兵衛佐は、使者を上総介・千葉介が許へ遣はして、「各急ぎ来たるべし。既に是程の大事を引き出だしつ。此の上は、頼朝を世にあらせむ、世にあらせじは、両人が意也。弘経をば父とたのむ、胤経をば母と▼P2160(七九ウ)思ふべし」とぞ宣ひける。両人共に元より領状したりしかば、胤経三千余騎の軍兵を率して、結城の浦に参会して、即ち兵衛佐殿を相ひ具し奉りて、下総国府に入れ奉りて、もてなし奉りて、胤経申しけるは、「此の河の鰭に大幕百帖計り引き散らし、白旗六七十流れ打ち立て打ち立ておかれ候ふべし。是を見む輩、江戸・葛西の輩、皆参上し候はむずらむ」と申しければ、「尤もさるべし」とて、其の定にせられたりけるほどに、案の如く、是を見る輩、皆悉く参上す。さる程に、程無く六千余騎に成りにけり。
十九〔上総介弘経、佐殿の許へ参る事〕 上総介弘経は、此の次第を聞きて、「我遅参しぬ」と思ひて、当国の内、伊北・伊南・庁南・庁北・准西・准東・畔蒜・堀口・武射・山▼P2161(八〇オ)辺の者共、平家の方人して強る輩をば、押し寄せ押し寄せ是を討ち、随ふ輩をば、是を相ひ具して、一万余騎にて上総の国府へ参会して、此の子細を申しければ、兵衛佐聞き給ひて、真平を使ひにて宣ひけるは、「今まで遅参の条、存外なれども、沙汰の次第、尤も神妙也。速やかに後陣に候ふべき」よしをいはせらる。此の勢を相ひ具して、一万六千余騎に成りにけり。弘経屋形に帰りて、家子郎等に向かひて申しけるは、「此の兵衛佐は、一定の大将軍也。弘経此程の多勢を率して向かひたらむには、悦び感じて急ぎ出で合ひて、耳と口と指し合はせてささやき事、追従事なんどをこそ宣はむずらむと思ひつるに、真平を以て宣ひたりつる、一つにはおほけなく、一つには大くわいな心也。誰人にもよも荒量にはか▼P2162(八〇ウ)られ給はじ。一定本意は遂げ給はむずらむ。昔将門が、八ヶ国を打ち塞ぎて、やがて王城へ責め入らむとしけるに、平家の先祖貞盛朝臣、勅宣を承りて下向したりける時、俵藤太秀郷と云ふ兵、多勢にて将門が許へ行きたりけるに、将門余りに喜びて、けづりける髪をも取り上げずして、白衣なる大童にて、讃岐円座を二つ手に持ちて出でて、一つは俵藤太にしかせ、一つは己れしきて、種々の饗応の事共を云ひければ、秀郷さる賢者にて、『此の人の体、軽き相なり。我が身を平親王と称する程の人の、手づから敷物を以て出で、民にしかせつる条、逆なり。日本国の大将軍とえならじ』とて、やがてするぼひのきにけり。それまでこそ無くとも、せめては御前へ近くめさるべかりつる者を」とぞ云ひける。
 さて兵▼P2163(八一オ)衛佐は、武蔵国と下総国との境に、住田川と云ふ河の鰭に陣を取る。武蔵国の住人江戸太郎・葛西三郎等が一類、数を振るひて参上す。兵衛佐は、「彼等は衣笠城にて我を射たりし者には非ずや。大庭・畠山に同意して、凶心を挿みて参りたるか」といはせられたりければ、彼の輩再三陳じ申すによりて、いかにもなしたけれども、当時の勢のほしければ、大将筆が物具計りを召されて、「後陣に候へ」とて、召し具せらる。
 又、兵衛佐宣ひけるは、「平家の嫡孫小松少将惟盛を大将軍として、五万余騎にて、上総守忠清を先陣にて、斎藤別当
実盛を東国の案内者として、下るべきよし風聞す。同じくは甲斐・信乃両国、敵の方に成らぬ先に、此の河を渡り、足柄山を後ろにあて、富士川▼P2164(八一ウ)を前にあてて、陣を取らむと思ふなり」と有りければ、「此の義尤も然るべし」とぞ、各同じ申しける。「さらば、江戸太郎、此の程の案内者なり。浮き橋渡して進らすべし」と宣ひければ、江戸は兵衛佐の御気色に入らむと思ひければ、程無く浮き橋を渡して進らせたり。此の橋を打ち渡して、武蔵国豊嶋の上、瀧野川の板橋と云ふ所に陣を取る。其の勢既に十万騎に及べり。八ヶ国の大名、小名、別当、権守、庄司、大夫なんど云ふ様なる一党の者共、我劣らじと、或いは二三十騎、或いは四五十騎、百騎、面々に白旗を指してぞ馳せ集りける。兵衛佐は先当国六所の大明神に詣で給ひて、上矢を抜いて献らる。
二十 〔畠山、兵衛佐へ参る事〕 其の時畠山の二郎、乳母の半沢六郎成清を呼びて云ひけるは、▼P2165(八二オ)「当時の世間の有様、いかやうなるべしとも覚えず。父庄司・叔父小山田の別当、六波羅に祗候の上は、余所に思ふべきにあらねば、三浦の人々と一軍してき。且つは定の子細三浦の人々に云ひ置きぬ。今兵衛佐殿の放光繁昌、直事とも覚えず。平に推参せばやと思ふはいかに」と云ひければ、成清申しけるは、「其の事に候ふ。此の旨を只今申し合はせ奉らむと存じつる也。弓矢を取る習ひ、父子両方に分かるる事は常の事也。且つは又、平家は今の主、佐殿は四代相伝の君也。とかくの儀に及ぶまじ。とくとく御推参有るべし。遅々せば、一定追討使遣はされぬ」と申しければ、五百余騎にて白旗・白き弓袋を指して参りて、見参に入るべきの由をぞ申しける。
 兵衛佐宣ひけるは、「汝が父重能、▼P2166(八二ウ)叔父有重、当時平家に仕ふ。就中小坪にて我を射たりし上、頼朝が旗に只同じ様なる旗を指させたり。定めて存ずる旨の有るか」と宣ひければ、重忠申しけるは、「先づ小坪の軍の事は存知の旨、三浦の人々に再三申し置き候ひぬ。其の次第、定めて披露候ふ歟。全く私の意趣に候はず。君の御事を忽緒する事をも存ぜず。次に旗の事は、御前祖八幡殿、武衡・家衡を追討せさせ給ひ候ひし時、重忠が四代の祖父秩父十郎武綱初参して、此の旗を指して御共仕りて先陣をかけて、即ち彼の武衡を追討せられにき。近くは御舎兄悪源太殿、多胡先生殿を大倉の館にて攻められし時の軍に、重忠が父、此の旗を指して、即時に討ち落とし候ひにき。▼P2167(八三オ)源氏の御為、旁重代相伝の御悦び也。仍つて其の名を吉例と申し候ふ。君の今日本国を打ち取らせ御し候ふ御時、吉例の御旗指して参りて候ふ。此の上は御計らひ」とぞ陳じ申しける。
 兵衛佐、千葉・土肥なんどに「いかが有るべき」と問はれければ、「畠山、な御勘当候ひそ。畠山だにも打たせ給ひぬる物ならば、武蔵・相模の者共、ゆめゆめ御方へ参るまじ。彼等は畠山をこそ守り候ふらめ」と一同に申しければ、誠に埋りなりと思はれければ、畠山に宣ひけるは、「誠に陳じ申す所の条々、謂はれ無きにあらず。さらば我れ日本国を討ち平らげむほどは、一向先陣を勤むべし。但し頼朝が旗に只同じきがまがふ事の有るに、汝が旗には此の革をすべし」とて、藍革一文をぞ下されける。それより畠山が旗には小文の藍革を▼P2168(八三ウ)一文押したりけり。中々珍しくぞ見えける。
 是を聞きて、武蔵・相模の住人等、一人も漏らさず皆馳せ参る。
 大庭三郎此の次第を聞きて、叶はじと思ひて、平家の迎へに上りけるが、足柄を越えて藍沢の宿に付きたりけるが、前には甲斐源氏、二万余騎にて駿河国へ越えにけり。兵衛佐の勢、雲霞にて責め集まると聞こえければ、「中に取り龍められては叶はじ」とて、鎧の一の板切り落として、二所権現に献りて、相模国へ引き帰して、おくの山へ逃げ龍もりにけり。 平家は、かやうに内儀するをも知らず、「いかさまにも兵衛佐に勢の付かぬさきに撃手を下すべし」とて、大政入道の孫、小松の内大臣の嫡子惟盛と申しし少将、并びに入道の舎弟、薩摩守忠度とて、熊野より生し立ちて、心猛き仁と聞ゆるを、撰び▼P2169(八四オ)見せらる。又入道の末子にて三川守知度と申す、此の三人を大将軍として、侍には上総守忠清以下、伊藤、斎藤、官あるも官なきも数百人、其の勢三万余騎を向けらる。彼の惟盛は貞盛より九代、正盛よりは五代、入道相国の嫡孫、小松内大臣重盛の嫡男也。平家嫡々の正統也。今凶徒乱を成すによりて大将軍の撰びに当る、ゆゆしかりし事也。
廿一 〔頼朝、追討すべきの由、官符下さるる事〕 十一日、頼朝追討すべきよし、宣下せらる。其の官符の宣に云はく、
 「左弁官下す 東海東山道諸国、
   早く伊豆国の流人源頼朝并びに与力の輩を追討すべき事
  右、大納言兼左近衛大将藤原実定、〔 〕勅を奉りて宣す。伊豆国の流人▼P2170(八四ウ)源頼朝、忽ちに凶党を相語らひて、当国・隣国を虜掠せんと欲す。叛逆の至り、既に常図に絶ゆ。宜しく追討せしむべし。右近衛権少将惟盛、薩摩守同じく忠度、参河守同じく忠度、参河守同じく知度等、兼ねては又、東海東山両道の武勇に堪ふる者、同じく之を追討すべし。其の中に群抜に殊功有る輩は、不次の賞を加ふべし。諸国宜しく承知すべし。宣に依つて之を行ふ。
   治承四年九月十六日、左大史小槻宿祢
  蔵人頭左中弁藤原経房が奉り」と書かれたり。
 昔は、朝敵を討ち平げむとて外土へ向かふ大将軍は、先づ参内して節刀を賜はる。震儀、南殿に出御し、兵衛階下に陣を引き、内弁・外弁の公卿、参列して中儀の節会を行はる。大将軍・副将軍、各礼▼P2171(八五オ)儀をただしくして是を賜はる。されども、承平天慶の前蹤も、年久しくなりて准へがたし。今度は、堀川院の御時、嘉承二年十二月、因幡守正盛が前の対馬守源義親を追討の為に出雲国へ下向せし例とぞ国(聞こ)へし。鈴ばかりは賜はりて、革の袋に入れて、人の頸に懸けさせたりけるとかや。
〔廿二〕〔昔将門を追討せられし事〕 朱雀院の御時、承平年中に、平将門、下総国相馬郡に住して、八ヶ国を押領し、自ら平親王と称して都へ打ち上りけり。帝位を傾け奉らむとする謀反の聞こえ有りければ、花洛の騒ぎなのめならず。これに依つて、天台山には、其の時の貫首、法性房の大僧都尊意を始め奉りて、延暦寺の講堂にて、天慶二年二月に、将門降伏の為に不動を安じ、▼P2172(八五ウ)鎮護国家の法に修する。是のみならず、諸寺諸社の僧侶に仰せて、将門調伏の祈精有りけり。
 平家の先祖にて貞盛、其の時無官にて上平太と申ける時、兵の聞こえ有りて、将門追討の宣旨を奉る。例に任せて、節刀を賜はりて、鈴の奏をして、相撲節、之を行はるる時、方の左右、大将の礼儀振舞なる。弓場殿の南の小戸より罷り出でけるに、副大将軍宇治民部卿忠久、大将軍には平貞盛、刑部大輔藤原忠舒、右京亮藤原国幹、大監物平清基、散位源就国、散位源経基等東国へ発向す。下野国の押領使藤原秀郷、国にして相伴ひけり。
 貞盛已下、東路に打ち向ひて、遥々と下りける道すがら、猛くやさしき事共有りけり。中にも駿河国清見が関に宿りたり▼P2173(八六オ)けるに、清原滋藤と云ふ者、民部卿に伴ひて、軍監と云ふ官で下りけるが、「漁舟の火の影は寒くして浪を焼く、駅路の鈴の声は夜山を過ぐ」と云ふ唐韻を詠じたりけるが、折から優に聞こえて、民部卿涙を流してぞ行きける。
 天慶三年二月十三日に、貞盛以下の官軍、将門が館へ押し寄せたり。将門が余勢、未だ来たり集まらず。先づ四千余騎を率して、下総国幸嶋郡北山に陣をとつて相待つ処に、同じく十四日の未申両剋に合戦をとぐ。爰に将門、順風を得たり。貞盛、風下に立ちたり。暴風枝を鳴らし、地籟塊を運ぶ。将門が南面の楯、前を払ふ。貞盛が北の楯、面に吹き掩ひけれども、貞盛事とせず。両陣乱れ逢ひて、数剋合戦を致す。貞盛が中の陣の兵八十余騎、追ひ靡びかさる。将門が凶徒等、▼P2174(八六ウ)跡目に付きて襲ひ来たる。貞盛以下の官兵等、身命を捨てて禦き戦ふ時、将門甲冑を着し、駿馬に乗りて懸け出でて支へたり。馬は風飛を忘れたり、人は梨老の術を失へり。将門が凶徒等、防き戦ふ事、輙く責め落とし難かりけるに、調伏の祈精酬いて、将門天罰を蒙り、神の鏑暗に中りて、終に誅戮せられけり。
 同じく四月廿五日に、下総国より将門が首、都へ献る。大路を渡して、左の獄門の木に懸けらる。譬へば、馬の前の薗、野原に遣り、俎の上の魚、海浦に帰するが如し。将門名を失ひ身を滅ぼす事、武蔵権守興世、常陸介藤原玄茂等が謀悪を致す所なり。徳を貪り君を背く者、鉾を踏む虎の如しと云へり。
 将門が伴類等、或いは誅たれ、或いは戦場を逃げ出でて、国々に逃げ籠りたり。将門が舎弟将頼并▼P2175(八七オ)びに常陸介藤原玄茂は相模国にして誅たる。武蔵権守興世は上総国にして首を刎らる。坂上の遂高、藤原玄明は常陸国にして誅戮せらる。此の外の舎弟以下伴類等は、命の捨てがたさには、深山に逃げ籠る。妻子を捨てて、山野に迷ふ輩、数を知らず。鳥に非ねども、空しく四鳥の別れを致し、山に非ずして徒らに三荊の悲しみを懐く。雷電の響きは百里の内には聞こゆ。将門、下総豊田の郡の凶徒、謀叛の聞こえ千里の外に通ず。一生一業、大康の罪業を致し、終に黄泉の道に迷ふらむ。無慙とも愚か也。
 時に勧賞行はる。上平太たりし貞盛、忽ちに平将軍と仰せ下さる。其の時、陣座の作法、左大臣実頼小野宮殿、右大臣師輔九条殿、此の外公卿・殿上人座列し給ひたりけるに、九条殿申させ▼P2176(八七ウ)給ひけるは、「大将軍すすむで襲ひ来たりて朝敵を平ぐる事は左右に及ばねども、後陣に副将軍の後に襲ひ来たるを憑もしく思ふによつて、合戦の思ひも弥よ猛なり。而るに、貞盛一人に勧賞を行はるる事、忠久、本意無くや存じ候はむずらむ。大将軍の程の賞こそ候はずとも、少しにおうたる賞や、忠久に行はるべく候ふらむ」と度々申させ給ひけれども、小野宮殿「さのみ勧賞行はれ候はむ事、無下に念なく候ふ」なんど申させ給ひければ、民部卿忠久の賞は遂に行はれざりけり。忠久忽ちに怒りをなして、内裏を罷り出でられけるに、天も響き地もくづるばかりなる大音声を捧て、「小野宮殿の末葉、永く九条殿の御末の婢となし給へ」と罵りて、手をはたと打ちて、左右の手をにぎり給ひける。十の爪二三寸計に、目にみすみす▼P2177(八八オ)なりて、にぎり通したりければ、見るもおびたたし。紅を絞りたるが如し。やがて宿所に帰りて、思ひ死にに死にて、悪霊とぞ成りにける。さればにや、果たして小野宮殿の御末は、今は絶えはてて、自ら有る人も数ならず。九条殿の御末は、今まで摂政絶えさせ給はず。小野宮殿の御末は、皆九条殿の婢にぞ成り給ひにける。朝敵を平ぐる儀式は、上代はかくこそあんなるに、維盛の撃手の使の儀式、先蹤を守らぬに似たり。「なじかは事行ふべき」とぞ時の人申し合ひたりける。
廿三 〔惟盛以下、東国へ向かふ事〕 維盛以下の撃手の使、九月十七日、福原の新都を出でて、同じき十八日、古京に着く。是れより東国へ趣く。甲冑・弓・胡〓[竹+録]・馬の鞍、郎等に至るまで、かかやく計りぞ出で立ちたりければ、見る人幾千万と云ふ事をしらず。▼P2178(八八ウ)権亮少将惟盛は、赤地の錦の直垂に大頸はた袖は紺地の錦にて綺へたり。萌黄匂の糸威の鎧に、連銭葦毛の馬の太く逞しきに、鋳懸地の黄覆輪の鞍置きたり。年廿二、みめ皃勝れたりければ、画に書くとも筆も及ぶべくもみえず。 志浅からざりける女房、忠度の許へ云ひ遣はしける。
  東路の草葉をわけむ袖よりもたたぬたもとぞ露けかりける K108
と申したりければ、忠度、
  別れ路をなにかなげかむこえて行くせきを昔のあとと思へば K109
と返したりけり。此の人、貞盛が流れなれば、昔将門が討手の使の事をよめるにや。女房の本歌は、大方のなごりはさる事にて、返歌は▼P2179(八九オ)いまいましくぞ覚ゆる。
〔廿四〕〔新院厳嶋へ御幸事 付けたり願文あそばす事〕 同じき九月廿二日、新院又厳嶋へ御幸。去んぬる三月にも御幸ありて、其の験にや、一両月の程に天下鎮まりたる様にみえて、法皇も鳥羽殿より出御などありしに、去んぬる五月、高倉宮の御事より打ち連き、又しづまりもやらず。天変頻りに示し、地夭常にあつて、朝庭穏しからざりしかば、惣じては天下静謐の御祈念、別しては聖体不予の御祈祷の為也。誠に一年に二度の御幸は、神慮争か喜び給はざるべき。御願成就も疑ひなしとぞ覚えし。御共には入道相国右大将宗盛公以下、卿相雲客八人とぞ聞こえし。此の度は、素紙墨字の法花経を書供養せらる。其の外、御手づから金泥にて提婆品をあそばされたり▼P2180(八九ウ)けり。件の願文は、御真文とぞ聞こえし。其の御願文に云はく、
  蓋し聞く、法性の山静かにして、十四十五の月高く晴れ、権化の地深くして、一陰一陽の風旁らに扇ぐ。それ伊都岐嶋の社は、称名普聞の場なれば、効験無双の砌也。遙嶺の社壇を廻るなり。自ら大慈の高く峙てるを顕し、巨海の祠宇に及ぶなり。暗に弘誓の深湛を表す。
 伏して惟れば、初めは庸昧の身を以て、忝く皇王の位を踏む。今は〓[言+庶]遊を勵郷の訓へに翫ぶ。閑放を射山の居に楽しぶ。而るを、偸かに一心の精誠を抽きんでて、孤嶋の幽埃に詣す。瑞籬の下に冥恩を仰ぐ。懇念を凝らして汗を流しぬ。宝宮の裏に霊託を垂る。其の告げの意に銘ずる有り。就中、怖畏謹慎の期を指すに、専ら季夏初秋の候に当たる。而る間、病痾忽ちに侵し、弥よ神威(感ィ)の空しからざることを思ふ。萍桂頻りに転ず、猶医術の験を施すこと無し。▼P2181(九〇オ)祈祷を求むと雖も、霧露を散じ難し。如かじ、心府の志を抽きんでて、重ねて斗藪の行を企てむと欲す。
 漠々たる寒嵐の底に旅泊に臥して、夢を破り、凄々たる微陽の前に、遠路を望みて眼を極む。遂に枌楡の砌に就きて、敬ひて清浄の莚を展べて、書写し奉る、色紙墨字の妙法蓮花経一部、開結二経、般若心経、阿弥陀経各一巻、手づから自ら書写し奉る、金泥の提婆品一巻。時に蒼松蒼柏の蔭、共に善利の種を添へ、潮去り潮来たる響き、暗に梵唄の声に和す。弟子北闕の雲を辞して八日、涼燠の多く廻ること無しと雖も、西海の浪を凌ぐこと二度、深く機縁の浅からざることを知る。
 抑も、朝に祈る客、一つに匪ず。暮に賽申しする者千且なり。但し、尊貴の帰敬多しと雖も、院宮の往詣、未だ之を聞かず。禅定法皇、初めて其の儀を胎す。弟子、眇身深く其の志を運らす。彼の嵩高山の月の前に、漢武未だ和光の影を▼P2182(九〇ウ)拝せず。蓬莱嶋の雲の底に、天仙空しく垂跡の塵を隔つ。当社の如きは曽て比類〔無し〕。仰ぎ願はくは大明神、伏して乞ふ一乗経、新たに丹祈を照らして、忽ちに玄応を影し給へ。敬ひて白す。
治承四年九月廿八日 太上天皇 御諱 敬ひて白す
廿五 〔大政入道院に起請文書かせ奉る事〕 御奉幣の後、廻廊に御通夜あり。遥かに夜ふけて、御前に祗候の人々をば皆のけられて、入道并びに宗盛公参りて密かに申されけるは、「東国に兵乱起こりて候ふ。源氏に御同心あらじと御起請文あそばして、入道に給はり候へ。心安く存じて、弥よ宮仕へ申し候ふべし。若し聞こし召され候はずは、此の離島に棄て置き進らせて、罷り帰り候ふべし」と申されければ、上皇少しも騒がせ給はず、打ち咲はせ給ひて、「其の条いと安し。但し、年来何▼P2183(九一オ)事かは、入道はからひ申したる事を背きたる。今初めて二心ある身と思はるらむこそ本意なけれ」と仰せ有りければ、宗盛公、硯紙持ちて参りたり。「さていかにと書く事ぞ」と仰せあり。入道の申すままにあそばして給はる。入道是を拝見して、上皇を拝し奉りて、「今こそたのもしく候へ」とて、前の右大将に見す。「凡そ目出たく候」と申されければ、入道取りて懐に入れて退出す。「人々御前へ御参り候へ」と、常よりも心よげなる気色にて申されける時、邦綱卿参られたり。かたへの人はつやつや其の心をえず。余りにおぼつかなかりけるとかや。
 十月五日、還幸。今度は福原の新都より御幸なれば、斗藪の御煩ひなかりけり
廿六 〔法皇夢殿へ渡せ給事〕 十七日、夢殿と云ふ所にあたらしき御所を立てて、日来渡らせ給ひけるが、▼P2184(九一ウ)三条へ渡らせ給ふべきよし、入道相国申しければ、法皇渡らせ給ふ。御輿にてぞ有りける。御共には、左京大夫修範候はれけり。楼の御所とて、いまいましき名ある御所を出でさせ給ひき。世の常の御所へ入らせ給ふぞ目出たき。是も厳島の御幸の験にやとぞ思し召されける。入道、事の外に思ひ直らるるにこそと思し召さる。
廿七 〔平家の人々駿河国より逃上ぐる事〕 平家の討手の使、三万余騎の官軍を率して、国々宿々に日を経て宣旨を読み懸けけれども、兵衛佐の威勢に怖れて、従ひ付く者なかりけり。駿河国清見が関まで下りたりけれども、国々の輩一人も従はず。兵衛佐の勢は日に随ひて馳せ重ると聞こえければ、大将維盛・忠度等、斎藤別当実盛を召して、明日の合戦の事を談議▼P2185(九二オ)せられける次でに、「抑も、頼朝が勢の中に己ほどの弓勢の者何計りか有る」なんど問はれければ、「実盛をだにも弓勢の者と思し召され候ふか。奥さまには、矢づかは十二三束、十四五束を射る者のみこそ多く候へ。弓は二人張の弓をのみ持ちあひて候ふ。冑を二三両なんど重ねて、羽ぶさまで、射貫き候ふ者、実盛おぼえてだにも七八十人も候ふらむ。馬は早走りの進退逸物なる究竟の乗尻共、乗りおほせて、馬の鼻を並べてかけ候ふ。親もしね、主もしね、子も死ね、従者もしね。それを見あつかはむとする事、ゆめゆめ候はず。只死人の上をも乗りこえて、敵に取り付かむとするふて者にて候ふ。何なる又郎等も、一人してつよき馬四五疋づつ乗替に持たぬ者候はず。京武者、西国の者共は、一人手負ひ候ひぬれば、それをかき▼P2186(九二ウ)あつかはむとて七八人は引き退く。馬は、伯楽馬の乗り出で四五丁計りこそ頭持ち上げ候へ、下りつかれて候はむに、東国の荒手の武者に一あてあてられ候ひなば、争か面を向け候ふべき。坂東武者十人、京武者一二百人向られ候ふとも、答ふべしとも覚え候はず。就中に、源氏の勢は、二十万余騎と聞こえ候ふ。御方の勢は、纔かに三万余騎こそ候ふらめ。同じ程に候はむだにも、なほ四分が一にてこそ候へ。彼等は、国々の案内者共にて候ふ。各は国の案内も知り侯はず。追ひ立てられ候ひなば、ゆゆしき御大事にて候ふべし。京よりもさばかり申し候ひし物を。当時、源氏に与力したる人々の交名、粗承り候ふに、敵対すべしとも覚え候はず。『急ぎ御下りありて、武蔵・相模へ入らせ給ひて、両国の勢を具して、▼P2187(九三オ)長井の渡に陣を取りて敵を待たせ給へ』と、再三申し候ひしを、きかせ給はずして、兵衛佐に両国の勢を取られ候ひぬる上は、今度の軍は叶ひ難くぞ候はむずらむ。かく申し候へばとて、実盛落ちて軍をせじと存ずるにては候はず。恐れながら、実盛ばかりぞ軍は仕り候はむずる。されども、右大臣殿の御恩重き身にて候へば、きと暇を給はりて、今一度見参に入りて、怱ぎ帰り参りて討ち死に仕るべし」とて、千騎の勢を引き分けて、京へ帰り上りにけり。
 大将軍、聞き憶して、心弱くは思はれけれども、上には、「実盛がなき所にては軍はせぬか。いざさらば、やがて足柄山を打ち越えて、八ヶ国にて軍をせむ」と、大将達ははやられけるを、忠清申しけるは、「八ケ国の兵、皆兵衛佐に従ふよし聞こえ候ふ。伊豆・駿河の者共、▼P2188(九三ウ)参るべきだにも、未だ見え候はず。御勢は三万余騎とは申し候へども、事に合ひぬべき者、二三百人にはよも過ぎ候はじ。左右無く山を打ち越えては、中々あしく候ふべし。只富士川を前にあてて防かせ給ひ候はむに、叶はずは、都へ帰り上らせ給ひて、勢を召して、又こそ御下り候はめ」と申しければ、「大将軍の命を背く事やは有る」といはれけれど、「それも様による事にて候ふ上、福原をたたせ給ひし時、入道殿の仰せに、合戦の次第は忠清が計らひ申さむに随はせ給ふべきよし、正しく仰せ事候ひき。其の事きこしめされ候ひなむ者を」とて、すすまざりければ、一人懸け出づるにも及ばず、手綱をゆらへ、目を見合はせて、敵を相ひ待ちける程に、十月廿二日、兵衛佐八ヶ国の勢を振るひて、足柄を超えて、木瀬川に陣を取りて兵の数を注しけり。侍・郎等・▼P2189(九四オ)乗替相ひ具して、馬の上、十八万五千余騎とぞ注しける。其の上、甲斐源氏には、一条次郎忠〔頼〕を宗として、二万余騎にて兵衛佐に加はる。
 平家の勢は、富士の麓に引きあがり、平張打ちてやすみ居たりけるに、兵衛佐使を立てて申されけるは、「親の敵と優曇花とに合ふ事は、惣じて有り難き事にて候ふに、近く御下り候ふなるこそ、悦び存じ候へ。明日は急ぎ見参に入るべし」と、云ひ送られたり。使は雑色新先生と云ふ者也。当色きせたる者八人具して向かひて、平家の人々の陣にて次第に此の由を触れ廻りけるに、人々幔幕打ち上げて居られたりけれども、返事云ふ人もなし。「此の御返事は、いかがし給はむずらむ」と相ひ待つ処に、返事に及ばず、彼の使者を搦めて、一々に頸を切りてけり。兵衛佐是▼P2190(九四ウ)を聞きて、「昔も今も、牒の使の首を切る事、未だ聞き及ばず。平家已に運尽きにけり」と宣ひければ、軍兵弥よ兵衛佐に帰伏したりけり。
 さるほどに、兵衛佐には、九郎義経、奥州より来加はりければ、佐、弥よ力付きて、終夜昔今の事共を語りて、互に涙を流す。佐宣ひけるは、「此の廿余年が間、名をば聞きつれども、其の皃を見申さざりつれば、いかがして見参すべきと思ひ給へつるに、最前に馳せ来たり給へば、故頭殿の生き帰り給へるかと覚えて、たのもしく覚え候ふ。彼の項羽は、沛公を以て秦を滅ぼす事を得たりき。今、頼朝次将を得たり。何ぞ平家を誅伐して、亡父が本意を遂げざるべき」と宣ひて後、「抑も此の合戦の事を聞きて、秀衡はいかが申しし」と尋ねられければ、「ゆゆしく感じ申し候ふぞ。新大▼P2191(九五オ)納言已下の近臣を失ひ、三条宮、源三位入道を誅たれし折節、殊には『いかに、兵衛佐殿は聞給はぬやらむ』と、度々申し候ひき。去んぬる承安四年の春の比より、都を出でて奥州へ罷り下りて候ひしに、秀衡昔の好みを忘れず、事にふれて憐れみを至し候ひき。かく参り候ひつるにも、甲冑・弓箭・馬の鞍・郎従に至るまで、併ら出だし立てられて候ふ。しからずは、争か郎等一人をも相具し候ふべき。十余年が程、彼が許に候ひし程の志、いかにして報じ尽くすべしとも覚えず候ふ」とぞ、九郎義経申しける。
 廿四日、明日は両方矢合せと定めて、日も晩れにけり。平家の軍兵、源氏の方を見遣りたれば、篝火のみゆる事、野山と云ひ里村と云ひ、雲霞、はれたる空の星の如くなり。東・南・北三方は敵の方也。西一方計りぞ、我が方の勢なり▼P2192(九五ウ)ける。源氏の軍兵、弓の絃打ちし、鎧づきし、どどめき罵りける音に驚きて、富士の沼に群れ居る水鳥ども、羽打ちかはし、立居する声おびたたしかりけり。是を聞きて、敵既によせて時を作るかと思ひて、搦手廻らぬ先にと、取る物も取りあへず、平家の軍兵、我先にと迷ひ落ちにけり。鎧はきたれども、甲をばとらず。矢は負ひたれども、弓をとらず。或いは馬一疋に二三人づつ取り付きて、誰が馬と云ふ事もなく乗らむとす。或いはつなぎたる馬に乗りてあふりければ、くるくると廻る物も有りけり。かやうにあわてさわぎて、一人も残らず、夜中に皆落ちにけり。
 さて夜漸く暁方に成りて、源氏の方より廿万六千余騎、声を調へて時を作る事、三ヶ度也。凡そ東八ヶ国ひびかして、山のかせぎ、河の▼P2193(九六オ)鱗に至るまで、肝をけし、心を迷はさずと云ふ事なし。おびたたしなんど云ふも愚かなり。かかりけれども、平家の方には時の声をも合はせず、つやつやおともせざりければ、あやしみを成して、人を遣はして見せければ、屋形大幕をも取らず、鎧・腹巻・大刀・刀・弓箭・小具足まで、いくらと云ふ事もなく捨て置きて、人一人もみえざりけり。兵衛佐、是を聞きて、「此の事、頼朝が高名に非ず。併ら八幡大菩薩の御計らひ也」とて、王城を伏し拝み給ひて、表矢をぬいてぞ献り給ひける。彼の水鳥の中に、山鳩あまた有りけるなんどぞ聞こえし。其の比、海道の遊女共が口遊みに、
  富士川の瀬々の岩越す波よりも早くも落つる伊勢平氏哉 K110
廿八 〔平家の人々京へ上り付く事〕 十五日、東国へ下りし惟盛已下の官兵共、今日旧都へ入る。昼は▼P2194(九六ウ)人目に恥ぢて、夜陰れてぞ入りける。三万余騎を率して、下りし時は、「昔より是程の大勢、聞きもし見も及ばず。保元平治の兵革の時、源氏・平氏、我も我もと有りしかども、是が十分が一だにも及ばざりき。あな、おびたたし。誰か面を向くべき。只今打ち靡かしてむず」と見えし程に、矢一筋をも射ず、敵の皃をもみず、鳥の羽音に驚き、兵衛佐の勢多かるらむと聞き臆して逃げ上りたるぞ、無下にうたてき。折節、在京したりける関東の武士少々、惟盛に付きて下りたりけるが、小山四郎朝政以下、多く源氏の方へ付きにければ、弥勢かさなりにけり。旧都の人々、是を聞きて申しけるは、「昔より物の勝負には見逃げと云ふ事、云ひ伝へたりつれども、其だにもうたてきに、是は聞き逃げにこそあむなれ。手▼P2195(九七オ)合はせの討手の使、矢一つをも射ず、逃げ上る、あな、いまいまし。向後もはかばかしかるまじきごさんめれ。一陣破れぬれば、残党固からず」とて、聞く人、弾指をぞしける。
〔廿九 京中に落書する事〕 例の又何なるあどなし者のし態にや有りけむ、平家をば平屋と読み、討手の大将をば権亮と云ひ、都の大将軍は宗盛といへば、是等を取り合はせて歌によみたりけり。
  平屋なる宗盛いかに騒ぐらむ柱とたのむすけを落として K111
上総守忠清が富士川に鎧を忘れたりける事を
  富士川に鎧は捨てつ墨染の衣只きよ後の世のため K112
  忠景はにげの馬にや乗りつらむかけぬに落る上総しりがひ K113
▼P2196(九七ウ)忠清が本名をば、忠景と云ひければ、かくよみたりけるにや。げに鼠毛の馬にや乗りたりけむ。当時、奈良法師こそ平家に讎を結びたりしかば、其の所行にてや有りけむ。入道相国、余りに口惜しがりて、権亮少将をば鬼海の嶋へ流し、忠清をば頸を切らむとぞ宣ひける。忠清、誠に身の咎遁れ難し。いかに陳ずとも甲斐あらじ。いかがせましとためらひけるが、折節、主馬の判官盛国以下、人ずくなにて、かやうの沙汰共有りける所へ、忠清をづをづ伺ひよりて申しけるは、「忠清十八の歳と覚え候ふ。鳥羽殿に盗人の籠もりて候ひしを、寄する者一人も候はざりしに、築地より登り越えて、搦めて候ひしよりこのかた、保元平治の合戦を初めとして、大小の事に一度も君を離れ▼P2197(九八オ)参らせ候はず。又不覚を現はしたる事も候はず。今度東国へ初めて罷り下りて、かかる不覚を仕る事、ただ事とは覚え候はず。よくよく御祈り有るべしと覚え候ふ」と申しければ、入道相国げにもとや思し召されけむ、物も宣はず。忠清勘当に及ばざりけり。
三十 〔平家三井寺を焼き払ふ事〕 去んぬる五月、高倉宮を扶持し奉る事によりて、三井寺責めらるべしと沙汰有りければ、大衆発りて、大津の南北の浦にかいだてをかき、矢倉をかきて防くべき由、結構す。十一月十七日、頭の中将重衡朝臣を大将軍として、一千余騎の軍兵を率して、三井寺へ発向す。衆徒防き戦ふと云へども何事か有るべき、三百余人討たれにけり。残る所の大衆、こらへずして落ちにけり。或いは耆▼P2198(九八ウ)老を引きて高き峯に昇り、或いは是幼稚にして深き谷に入る。かかりければ、重衡朝臣、寺の中に打ち入りて、次第に是を焼き払ふ。南北中の三院の内、焼くる所の堂舎塔廟神社仏閣、本覚院・鶏足坊・常喜院・真如院・桂薗院・尊星王堂・普賢堂・青龍院・大宝院・今熊野の宝殿・同じく拝殿等・護法善神の社壇・教待和尚の本坊〈同じく御殿影像同じく本尊等〉・鐘楼七宇・二階大門〈金剛力士在り〉・八間四面大講堂・三重宝塔一基・阿弥陀堂・同じく宝蔵・山王宝殿・四足一宇・四面の廻廊・五輪院・十二間の大坊・三院各別、灌頂堂各一宇、但し金堂計りは焼けざりけり。其の外、僧房六百余宇、在家千五百余家、地を払ひ畢ぬ。仏像二千余体、▼P2199(九九オ)顕密両宗の章疏、大師の渡し給へる唐本一切経七千余巻、忽ちに灰燼となりぬ。又焼け死ぬる所の雑人、既に千人に及ぶとぞ聞えし。凡そ顕密須臾に滅びて、伽藍実に跡なし。三宝の道場もなければ振鈴の音も聞かず。一花の仏前もなければ闘伽の声も絶えたり。宿老有智の明匠も修学を怠りたり。受法相承の弟子も経教に別れたり。
 此の寺と申すは、元は近江のギ大領と申す者の私の寺たりしを、天武天皇に寄進し奉りてより以降、御願と号す。専ら南岳天台の古風を学び、深く青龍玄法の教跡を翫ぶ。数百歳の智水、此の時に永く渇き、大小乗之法輪、此の時に忽ちに止どまりぬ。仏法の経句、人法の最後なり。遠近皆傷嗟す、況や寺門の住侶に於てをや。▼P2200(九九ウ)老少挙りて憂悲す、況や有情の諸人に於てをや。本仏と申すは、彼の天皇の御本尊なりしを、生身の弥勒如来と聞こえ給ひし教待和尚の百六十二年の間、昼夜朝夕懈らず行ひて、智置大師に付属し給ひたりける弥勒とぞ聞こえし。「都吏多天上摩尼宝殿より天降り坐して、遥かに龍花下生の朝を待ち給ふ」と聞きつるに、「こはいかになりぬるやらむ、当寺の恵命も既に尽きはてぬるにや」とぞ見えし。天智・天武・持統三代の御門の御鵜の羽葺湯の水を汲みたりける故に三井寺と号したり。又は大師此の所を伝法灌頂の霊跡として井花水の水を汲む事、慈尊三会の朝を待つ故に三井寺とも申しけり。かくやむごとなき聖跡なれども、事とも云はず、弓▼P2201(一〇〇オ)箭を入れぬる事こそ悲しけれ。
卅一 〔円恵法親王天王寺の寺務止めらるる事〕 廿一日、薗城寺の円恵法親王、天王寺の別当止められ給ふ。彼の宮と申すは後白川院の御子也。院宣に云はく、「薗城寺の悪徒等、朝家を違背して忽ちに謀叛を企つ。仍に門徒の僧綱已下、皆悉く公請を停止して、見任并に〓徳(そうとく)を解却し、兼ねては又、末寺・庄園、及ひ彼の寺の僧等が私領、諸国の宰吏に仰せて、早く収公せしむ。但し寺用に限り有るに於ては、国司の沙汰と為て、寺家の所司に付けて、其の用途に任せて、恒例の仏事を退転せしむること莫れ。無品円恵法親王、宜く所帯の天王寺の検校職を停止せしむべし」とぞ書かれたりける。
卅二 〔薗城寺の衆徒僧綱等、解官せらるる事〕 悪僧には僧正房覚、権僧正覚智、法印権大僧都定恵、▼P2202(一〇〇ウ)能慶、実慶、行乗、権少僧都真円、豪禅、兼智、良智、顕舜、権律師道顕、慶智、覚増、勝成、行智、行舜、已上十七人、見任解却。次に法印公性、行暁、慶実、法眼真勝、道澄、経尊、道俊、弁宗、勝慶、乗智、実印、偏円、漂猷、観忠、法橋良俊、忠祐、良覚、前の大僧正覚讃、前の権僧正公顕、前の権少僧都道任、已上廿人、上に准ふ。次に二会の講師円全、章猷、澄兼、公胤、已上四人、公請を停止す。殊に僧綱十三人、公請を止めらる。官を召し、所領を没官して同じく、
卅三 〔薗城寺の悪僧等を水火の責めに及ぶ事〕 使庁の使を付けて、水火の責め〔に及び〕て、明俊已下の悪僧を召さる。一乗院の房覚少将僧正をば飛騨判官景高朝臣奉る。▼P2203(一〇一オ)桂薗院実慶常陸法印をば上総判官忠綱朝臣奉る。行乗中納言法印をば博士の判官章貞奉る。能慶真如院の法印をば和泉判官仲頼奉る。其円亮僧都をば源大夫判官奉る。覚智美乃僧都をば摂津判官盛澄奉る。勝慶蔵人法橋をば祇薗の博士基康奉る。公顕宰相僧正をば出羽判官光長奉る。覚讃大納言僧正をば斎藤判官友実奉る。乗智明王院の僧正をば新志明基奉る。実印右大臣法眼をば仁府生経広奉る。▼P2204(一〇一ウ)観忠中納言法眼をば能府生兼康奉る。行暁大蔵卿法印をも同兼康承るとぞ聞こえし。
卅四 〔邦綱卿、内裏造りて主上を渡し奉る事〕 十一月廿二日、五条大納言邦綱卿、内裏造り出だして、主上渡らせ給ふ。此の大納言は、大福長者なりける上に、世の大事する人にて、ほどなくきらきらしく造り出だして、めでたかりけり。但し、遷幸の儀式をば世の常ならずぞ聞こえし。内裏の前に札に書きて立てたりけり。
思ひきや花の都を発ちしより風吹く原も危うかりけり K114
卅五 〔大嘗会延引事 付けたり五節の由来の事〕 今年大嘗会行はるべきかと云ふ儀定有りけれども、其の沙汰なし。大嘗会は十月の末に東河に御幸して御禊あり。大▼P2205(一〇二オ)内の北の野に斎壇所を立てて、神服・神供を調ふ。大極殿の前の龍尾道の壇上に廻立殿を立てて御湯をめす。同じき壇に大嘗宮の神膳を備ふ。清暑堂にして神宴あり。御遊あり。大極殿にて大礼行はる。豊楽院にて宴会あり。而るに、此の里内裏の体、大極殿もなければ、大礼行ふべき所もなし。豊楽院もなければ、宴会も行ふべからず。礼儀行はるべき所、つやつやなかりければ、新嘗会にて五節計り行はる。新嘗会の祭をば、猶古京神祇官にて是を行はる。五節と申すは、昔、清見原の御門、吉野宮にて御心をすまして琴を弾かせ給ひしかば、神女天より天降りて、▼P2206(一〇二ウ)
  をとめごがをとめさびすも唐玉ををとめさびすも其の唐玉を K115
と五声を嫗ひ給ひて、五度袖を翻す。是を五節の初めとす。
 旧都は山門南都程近くて、ともすれば大衆日吉の神輿を振り奉りて下洛し、神人春日の神木を捧げ奉りて上洛す。加様の事もうるさし。新都は山重なり江重なりて、道遠く程隔たれば、輙からじとて、遷都と云ふ事は大政入道計らひ出だされたりけれども、諸寺諸山の訴へ、貴賎上下の歎きなりけるに依つて、
〔卅六〕〔山門の衆徒都帰りの為に奏状を捧ぐる事 付けたり都帰り有る事〕 山門の衆徒三ヶ度まで奏状を捧げて天聴を驚かし奉る。第三度の奏状に云はく、
 延暦寺の衆徒等、誠惶誠恐謹言 ▼P2207(一〇三オ)
  特に天恩を蒙りて遷都を停止せられむと請ふ子細の状
 右、謹みて案内を検(かんが)ふるに(ィ)、釈尊違教を以て国王を付属するは、仏法・王法互ひに護持の故也。就中延暦年中に、桓武天皇・伝教大師、深く契(約ィ)りを結び、聖主は則ち此の都を興して、親り一乗円宗を崇め、大師は又当山を開きて、遠く百王の御願を備ふ。其の後、歳四百廻に及ぶまで、仏日久しく四明の峯に輝き、世三十代を過ぎて、天朝各十善の徳を保ちたまふ。上代の宮城、此くの如くなるは無きものか(無し)。蓋し山路隣を占め、彼是相ひに助くるが故也。而るを今、朝議忽ちに変じて、俄かに遷幸有り。是、惣じては四海の愁へ、別しては一山の歎きなり。
 先づ山僧等、峯の嵐閑か也と雖も、花洛を恃んで以て日を送り、谷の雪烈しと雖も、王城を瞻(にな)つて以て夜を継ぐ。若し洛陽遠路を隔て、往還容易(たやす)からずは、豈故山の月を辞して辺鄙の雲に交じらはざらむや。是一つ。
 門▼P2208(一〇三ウ)徒の上綱等、各公諸に従ひ、遠く旧居を抛てて後、徳音通じ難く、恩言絶へ易き時、一門の小学等、寧ぞ山門に留まらむや。是二つ。
 住山の者の為体、遥かに故郷を去つる輩、帝京を語らひて撫育を蒙り、家王都に在るの類は、近隣を以て便宜と為す。麓若し荒野と変ぜば、峯に豈人跡を留めむや。悲しき哉、数百歳の法燈、今時に忽ちに消え、千万輩の禅侶、此の世に将に滅びなむとす。是三つ。
 但し、当寺は鎮護国家の道場、特に一天の固め為り。霊験殊勝の伽藍、又万山の中に秀でたり。所の魔滅、何ぞ必ずしも衆徒の愁歎のみならむ。法の滅亡(淪)、豈朝家の大事に非ず哉。是四つ(ィ)。
 況や七社権現の宝前は、是れ万人拝観の霊場也。若し王宮遠くして社壇近からずは、瑞籬の月の前に鳳輦臨み勿く、叢祠の露の▼P2209(一〇四オ)下に鳩集永く絶えむ。若し参詣是疎かに、礼奠例に違はば、只冥応無きのみに非ず、恐らくは又神の恨みを残したまはんか。是五つ(ィ)。
 凡そ当都をば是輙く棄つべからざる勝地也。昔聖徳太子の記文に云はく、「王気(ィ)有らむ所に必ず帝城を建てむ」と云々(ィ)。太聖遠く鑑みたまふ、誰か之を忽緒せむ。況んや青龍白虎悉く備へて、朱雀玄武忽に円(無闕)なり。天然として吉き処なり。執せざるべからず。是六つ(ィ)。
 彼の月氏の霊山は、王城の東北に則ち攀づ(是ィ)、大聖の遊崛なり。日域の叡岳には、又帝都の丑寅に峙つ、護国の勝地なり。既に天竺の勝境に同じくして、久しく鬼門の凶害を払ふ。地形の奇特、豈惜しまざらむや。是七つ(ィ)。
 賀茂・八幡・春日・平野・大原野・松尾・稲荷・祇薗・北野・鞍馬・清水・広隆・仁和寺、此くの如き神社仏寺大聖跡を垂れ、権者地を占め、護国護山(王ィ)▼P2210(一〇四ウ)の崇廟を建てて、勝敵勝軍の霊像を安ず。王城の八方を遶つて、洛中の万人を利す。貴賎帰敬の往来、市を為す。仏神利生の感応、此くの如し。何ぞ霊像の砌を避けて、忽ちに無仏の境に起かむ哉。設ひ新たに精舎を建てて、縦ひ更に神明を請ずとも、世、濁乱に及び、人、権化に非ず。大聖の感降必ずしも之有らじか。是八つ(ィ)。
 此等の霊場の中に、或いは多年奉仕して掲焉の利益を蒙り、日夕に歩みを運びて緇素愛惜の所有り。或いは諸家の氏寺の不退の勤行を修し、子胤相続して自ら仏法を興隆する所有り。而るに、憖ひに公務に従ひて、愁へながら捨てて去る。豈に人の善を抑へ、聖の応を止むるに非ずや。是九つ(ィ)。
 諸寺の衆徒、各公請に従ふ時、朝には蓬壷に参りて、暮には練若に帰す。宮城遠く移らば往還云何。若し本寺を捨てて、若し王命を背かば、左右怖れ有るに、▼P2211(一〇五オ)進退惟れ谷まれり。是十(ィ)。
 昔を憶ふに、国豊かに民厚くして、都を興する傷み無し。今は国乏しく民窮まつて、遷移に煩ひ有り。是を以て、或いは忽ちに親属を別れて旅宿を企つる者有り。或いは纔かに私宅を破れども、運載に堪へざる者有り。悲歎の声、已に天地を動かす。仁恩の至り、豈之を顧みざらむや。若し尚遷都有らば、政清浄の道に背して、天心に違はむ。是十一。
 七道諸国の調貢、万物運上の便宜、西に河あつて東に津あり。便に煩ひ無し。若し余所に移らば定めて後悔有らむか。
是十二。
 又、大将軍酉に在り。方角既に塞がる。何ぞ陰陽を背きて忽ちに東西を違(迷ィ)へむ。山門の禅徒等、専ら玉体の安穏を思ふ。愚意の及ぶ所、争か諌鼓を鳴らさざる。是十三。
 但し、俄かに遷都有る、何事に依るぞや。若し凶徒の乱逆に由つては、兵革既に静かなり。朝庭何ぞ動かむ。若し鬼物の怪異に因つては、三宝に帰して以て夭災を謝すべし。万民を撫して、以て ▼P2212(一〇五ウ)皇徳を資くべし。何ぞ本宮を動かして、態と仏神囲繞の砌を避り、剰へ遠行を企てて、還りて人民悩乱の咎を犯ぜむ。是十四。
 抑も、国の怨敵を退け、朝の夭厄を払ふこと、昔従り以来、偏へに山門の営み也。或いは大師祖師の百皇を誓護し、或いは伊王山王の一天を擁護す。或いは恵亮脳を摧き、或いは尊意剣を振るふ。凡そ身を捨てて君に仕る事、我が山に如くは無し。古今の勝験、載りて人口に在り。今何ぞ遷都有りて、此の処を滅ぼしたまはむと欲するや。是十五。
 況んや、尭雲舜日の一朝に耀き、天枝帝葉の万代に伝はる。即ち是、九条の右丞相の願力也。豈慈恵大僧正の加持に非ずや。度々の明詔に云はく、「朕は是、九条右丞相の末葉也。何ぞ慈覚大師の門跡に背くべからざる」と云々。今云はく何んぞ前蹤を忘れて本山の滅亡を顧みざらむや。山僧の訴詔、必ずしも理に当たらずと雖も、只所功の労を以て、久しく裁許を蒙り来れり。況んや▼P2213(一〇六オ)鬱望に於いては、独り衆徒の愁へのみに非ず。且は聖朝の奉為(おんため)に、兼ねては又兆民の為なるを哉。是十六。加之(しかのみならず)、今度の事に於いては殊に愚忠を抽きんづ。一門の薗城、(頻りにィ)相招くと雖も、仰ぎて勅宣に従ふ。万人の誹謗、閭巷に充つと雖も、伏して御願を祈り。何ぞ固く勤労を尽くして、還りて此の処を滅ぼさむと欲する。功を運び罰を蒙る、豈然るべけんや。者れば縦ひ別の天感無く、只此の裁許を蒙らむと欲するのみ。当山の存亡、只此の左右に在る故也。是十七。望み請ふらくは、天恩再び叡慮を廻らして、件の遷都を止められば、三千人の衆徒等、胸火忽ちに滅へ、百千万の衆徒、鬱水弥久しからむ。衆徒等悲歎の至りに耐へず。誠惶誠恐謹言。
  治承四年七(六ィ) 月 日大衆法師等
 之に依つて、廿一日に俄に都返り有るべしと聞こえければ、高きも卑しきも手をすり、▼P2214(一〇六ウ)額をつきて悦びあへり。山門の訴詔は、昔も今も大事も小事も空しからざる事にこそ止事なけれ。云何なる非法非例なれども、聖代も明時も必ず御裁許あり。是程の道理を以て再三かやうに申さむに、横紙を破る入道相国なりとも争か靡かざるべき。廿二日、新院先づ福原を出御あつて、旧都へ御幸なる。大方も常は御不予の上、新都の体、宮室卑質にして城地くだり湿へり。悪気漸く降りて風波弥冷じ。都帰りなくとも、元より旧都へ還幸なるべきにて有りければ、子細に及ばず。
 廿六日に主上は五条内裏へ行幸なる。両院は六波羅の池殿へ還幸。平家の人々、太政入道已下、皆帰り上らる。増して他家の人々は一人も留ま▼P2215(一〇七オ)らず。世にもあり、人にもかぞへらるる輩は皆移りたりしかば、家々悉く運び下して、此の五六ヶ月の間に造立してし居ゑつつ、資財雑具を運び寄せたりつるほどに、又物狂はしく都帰りあれば、何の顧みにも及ばず、古京へ還るうれしさに、取る物も取りあへず、資財雑具を運び返すにも及ばず、迷ひ上りたれども、いづくに落ち着きていかにすべしともおぼえず。今更に旅立ちて、西山・東山・賀茂・八幡など片畔に付きて、堂の廻廊や社の拝殿などに立ち留りてぞ然るべき人々もおはし合ひける。とてもかくても人煩はしき事より外はさせる事なし。
 兵衛佐謀反の事に依つて、重ねて宣旨を下されて云はく、
  伊豆国の流人源頼朝、早く野心を挟みて、忽ちに朝威を軽んじ、人民を劫略して、▼P2216(一〇七ウ)州県を抄掠す。縡希幾に入る間、誅伐を加へむと欲する処に、甲斐国の住人源信義、猥りがはしく雷同を成し、已に月諸を送る。各魚麗鶴翼の陣を結び、旁皇旗電戟の威を耀かす。茲に因つて、赳々の輩、往々起こり募り、逆謀の甚しき、古今未だ聞かず。啻に丁壮の軍旅を苦しむるのみに非ず、兼ねては老弱の転漕を罷むる有り。細民の愚かなる衆庶の賎しき、鳳衙の炳誠を顧みず、自ら梟悪の勧誘に従ふか。此と云ひ彼と云ひ、責めて余り有り。仍つて其の凶党を払はむが為に、追討使を遣す所也。東海・東山・北陸等の道、強弱を論ぜず老少を謂はず、表裏力を勠まし逆賊を討たしむ。就中、美濃国には、勇武伝家の者、弓馬長芸の輩、多く其の聞こえ有り。尤も採用に足る。殊に彼等に仰せて、其の辺境の要害を塞ぎ、通関の防禦に備へしめ、便ち憂国の貞心を励まして、忘▼P2217(一〇八オ)身の構戦を致すべし。兼ねては又、編列の間、卒伍の中、其の雅懐に非ずして、縦ひ凶悪に与すとも、すなはち此の旨を察し、過ちを悔い、善に反らむ。卒土は皆皇民也。普天は悉く王土也。糸綸の旨誰か随順せざらむ。若し夫れ鋭を執りて撓まず、事に臨みて功を立つる者有らば、其の勤節を馬の汗に量り、賜ふに不翅の鴻賞を以てす。宜しく遽適に布告し、詳かに委曲を知ら俾むべし者。
  治承四年十一月八日 帥大納言左中弁
とぞ宣下せられける。かかりけれども一切宣下の旨にかかはらず、弥日に随ひて兵衛佐の威に恐れて、東海東山等の諸道の輩皆源氏に随ひにけり。
卅七 〔厳嶋へ奉幣使を立てらるる事〕 十二月一日、兵乱の御祈りに、安芸厳嶋へ奉幣使を立てらる。当▼P2218(一〇八ウ)時近江国の凶賊、道を塞ぐ間、大神宮の御使ひ、進発にあたはざりければ、暫く神祇官にをさめおかる。討手の使ひ、空しく帰り上りて後、東国北国の源氏共、いとど勝つに乗りて、国々の兵多く靡かしつつ、勢は日々に随ひて付きにけり。目近き近江国にも、山本・柏木なんど云ふあぶれ源氏共さへ東国に心を通はして、関を閉ぢて道をかためて人も通さず。
卅八 〔福田冠者希義を誅せらるる事〕 十二月一日、土佐国の流人福田冠者希義を誅伐せらる。彼の希義は、故左馬頭義朝が四男、頼朝には一つ腹の弟也。去んじ永暦元年に当国へ流されて歳月を送りけるほどに、関東に謀叛起こりければ、同意の疑ひによつて、彼の国の住人蓮池二郎清経に仰せて▼P2219(一〇九オ)討たれけるとぞ聞こえし。
 同月、伊与国の住人河野大夫越智通清、源氏に通じ平家を背きて国中を管領し、正税・官物を抑留する由聞こえければ、東は美乃国まで源氏に打ちとられぬ。西国さへ又かかれば、平家大きに驚き騒ぎて、阿波民部成良・備後国の住人奴可田入道高信法師に仰せて、是を追討せらる。通清はいかめしく思ひ立ちたりけれども、力を合はする者なかりければ、終に高信法師が手に懸かりて打たれにけり。
卅九 〔平家、近江国山下柏木等を責め落とす事〕 三日、左兵衛督知盛・小松少将資盛・越前三位通盛・左馬頭行盛・薩摩守忠度・左少将清経・筑前守貞能已下の軍兵、東国へ発向。其の勢七千余騎にて下向。山本・柏▼P2220(一〇九ウ)木并びに美乃・尾張の源氏追討の為なり。四日、山本冠者義広・柏木判官代義兼を責め落として、やがて美乃国へ越えて、尾張国まで討ち平らぐる由聞こえければ、太政入道少し気色なほりてぞ見えられける。
四十 〔南都を焼き払ふ事 付けたり左少弁行隆の事〕 又、南都の大衆いかにも鎮まりやらず、弥騒動す。公家よりも御使ひ鋪波に下されて、「されば何事を鬱り申すぞ。存知の旨あらば、いく度も奏聞にこそ及ばめ」など、仰せ下されければ、「別の訴訟に候はず。只清盛入道に逢ひて死に候はむ」とぞ、只一口に申しける。是も直事にあらず。入道相国と申すは、忝くも当今の御外祖父ぞかし。其を少しも憚からず、かやうに申しけるもあさまし。凡そ南都の大衆にも天魔の付きに▼P2221(一一〇オ)けるとぞみえし。
  「言葉の洩れ易きは、招禍の媒也。事の慎まざるは、取敗の道也」
と云へり。只今事に会ひなむずとぞ見えし。
 其の上、去んぬる五月、高倉宮の御事により三井寺より牒状を遣はしたりし返牒に、平氏の先祖の瑕瑾を筆を尽くして書きたりし事を、安からぬ事に相国思はれたりければ、「是非有るまじ。急ぎ官兵を遣はして南都を責むべし」と云ふ沙汰あり。且々とて、備中国妹尾太郎兼康と云ふ侍を大和国の検非違所に成し、三百余騎の兵を相具せさせて下し遣はす。衆徒一切にしひず、弥蜂起して兼康が許へ押し寄せて散々に打ち散らして、兼康が家子・郎従三十六人が頸を斬りて、猿▼P2222(一一〇ウ)沢の池のはたに懸けたりけり。兼康希有にして逃げ上る。其の後は南都弥騒動す。
 又大きなる法師の頭を造りて、「大政入道清盛法師が首也」と銘を書きて、毬打の玉の如くに、あちこち打ち蹴踏みけり。入道是を伝へ聞きて、安からぬ事なりとて、四男頭中将重衡朝臣を大将軍として、三万余騎の軍兵を南都へ差し向けられけり。大衆此の由を聞きて、奈良坂、般若路、二つの道を切り塞ぎて、在々所々に城廓を構へて、老少中年をきらはず、弓箭を帯し、甲冑を鎧ひて待ちかけたり。
 十二月廿八日、重衡朝臣南都へ発向。三万余騎を二手に分けて、奈良坂・般若路へ向かふ。大衆、かち立ち・打物にて防き戦ひけれども、▼P2223(一一一オ)三万余騎の軍兵、馬の上にて散々にかけたりければ、二つの城戸口、程なく破られにけり。
 其の中に、坂四郎房永覚とて聞こゆる悪僧あり。打物に取りても弓箭とつても、七大寺・十五大寺に肩をならぶる者なし。大力のつよ弓・大矢の矢次早の手ききにて、さげ針もはづさず、百度射けれどもあだ矢なかりけるおそろしき者也。其の長七尺計り也。褐衣の鎧直垂に、萌黄の糸威の腹巻の上に、黒皮威の鎧を重ねて着たり。帽子甲の上に三枚甲を重ねて着たり。三尺五寸の大大刀はきて、二尺九寸の大擲刀をぞ持ちたりける。同宿十二人左右に立て、足軽の法師原卅余人に楯突かせて、手擦門より打ち出でたりけるのみぞ、暫く支へたり▼P2224(一一一ウ)ける。多くの官兵、馬の足を切られて討たれにけり。されども大勢仕込みければ、永覚一人武く思ひけれども甲斐なし。痛手負ひて落ちにけり。
 重衡朝臣は、法花寺の鳥居の前に打つ立ちて、次第に南都を焼き払ふ。軍兵の中に、幡磨国福井庄の下司、次郎大夫俊方と云ひける者、楯を破りて続松にして、両方の城を初めとして寺中に打ち入りて、敵の龍りたる堂舎・坊中に火をかけて、是を焼く。恥をも思ひ、名をも惜しむ程の者は、奈良坂にて打ち死に、般若寺にて討たれにけり。行歩に叶へる輩は、吉野・十津河の方へ落ち失せぬ。行歩に叶はぬ老僧、身も合期せぬ修学者・児共・女房・尼公なんどは、山階寺の天井の上に七八百人が程隠れ上る。▼P2225(一一二オ)大仏殿の二階のこしには、一千七百余人逃げ上りにけり。敵を上せじとて階をば引きにけり。師走の月のはてにてはあり、風はげしくて、所々にかかりたる火一つに燃え合ひて、多くの堂舎に吹き移す。興福寺より始めて、東金堂・西金堂・南円堂・七円重の御塔・二階の楼門・鐘楼・経蔵・三面の僧坊・四面の廻廊・元興寺・法花寺・薬師寺まで焼けて後、西風弥つよかりければ、大仏殿へ吹き移す。猛火の燃え近付くに随ひて、逃げ上る所の一千余人の輩、叫喚大叫喚、天を響かし地を動かす。なにとてか一人も助かるべき、皆焼け死ににけり。彼の無間大城の炎の底に罪人共がこがるらむも、是にはすぎじとぞ見えし。千万の骸は七仏の上に燃えかかれり。守護の武士は兵▼P2226(一一二ウ)杖に中りて命を失ひ、修学の高僧は猛火に交りて死ににけり。
 悲しき哉、興福寺は淡海公の御願、藤氏一家の氏寺也。元明天皇の御宇、和銅三年〈庚戌〉の歳、建立せられてより以降、星宿五百六十余歳に及べり。東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃を比べし四面の廊、紫檀を交ふる二階の楼、九輪耀きし二基の塔、空しき煙となりにしこそ悲しけれ。東大寺は常在不滅、実報寂光の生身の御仏と思し食し准へて、釈尊初成道の儀式を表し、天平年中に聖武天皇思し食し立ちて、高野天皇・大炊天皇、三代の聖主自ら精舎を建立し、仏像を冶鋳し奉り給ふ。婆羅門僧正・隆▼P2227(一一三オ)尊律師・良弁僧正・行基菩薩・鑑真和尚等の菩薩聖衆達、導師呪願として供養し給ひてより以来、四百七十余歳になる金銅十六丈の毘慮舎那仏、烏瑟の尊容を模したりし尊像も、御頭は焼け落ちて大地にあり。御身は涌き合ひて塚の如し。目の当り見奉る者も目もあてられず、遥かに伝へ聞く人も涙を流さずと云ふ事なし。瑜伽・唯識の両部を始めとして、法文聖教一巻も残らず。吾が朝は申すに及ばず、天竺・振旦にも是程の法滅は争か有るべきなれば、梵釈四王・龍神八部・冥官冥衆に至るまで驚き騒ぎ給ひけむとぞ覚えし。法相擁護の春日の大明神、何なる事をか思し食すらむ、神慮の内も測りがたし。されば春日野の▼P2228(一一三ウ)露の色も替はり、三笠山の嵐の音も怨めるさまにぞ見えける。
 今度焼くる所の堂舎、東大寺には、大仏殿・講堂・金堂・四面の廻廊・三面の僧坊・戒壇・尊勝院・安楽院・真言院・薬師堂・東南院・八幡宮・気比の社・気多の社。興福寺には、金堂・講堂・南円堂・東金堂・五重の塔・西金堂・北円堂・四面の廻廊・三面の僧坊・観自在院・西の院・一乗院・大乗院・中の院・松陽院・小院・東北院・橋志院・東相院・観禅院・五大院・北の戒壇・唐院・松の院・伝法院・真言院・円成院・皇嘉門院の御塔・惣宮・一言主の社・龍蔵院・住吉の社・鐘楼・経蔵・大湯屋〈但し釜は焼けず〉・宝蔵▼P2229(一一四オ)十四宇、此の外大小の諸門、寺外の諸堂は、注すに及ばず。然るべき所々は、院の御塔・長者の御塔・四面の廻廊・門楼・一切経蔵・章疏の形木・佐保殿も焼けにけり。此の外、菩提院・龍花院・円坊両三宇・禅定院・新薬師寺・春日の社四所・若宮の社なんどぞ僅かに残りたりける。焼け死ぬる所の雑人、大仏殿にて千七百余人、山階寺にて五百余人、或る御堂には三百余人、或る御堂には二百余人、後日に委しく算ふれば、惣じて一万一千四百余人とぞ聞こえし。軍の庭にて討るる所の大衆七百余人が内、四百余人が首をば都へ上す。其の中に尼公の首も少々ありけるとかや。
 廿九日、重衡朝臣、南都を滅ぼして京へ帰り入らる。入道相国一人ぞ鬱り晴れて悦ばれける。夫も▼P2230(一一四ウ)両大伽藍の焼けぬる事をば、心中にはあさましくぞ思はれける。一院・新院・摂政殿下・大臣・公卿を始め奉りて、少しも前後を弁へ物の心ある程の人は、「こはいかにしつる事ぞや。悪僧をこそ失ふとも、さばかりの伽藍共を焼滅すべしや。口惜しき事なり」とぞ、悲しみあひ給ひける。衆徒の首共をば、大路を渡して獄門の木に懸けらるべきにてありけるが、東大寺・興福寺の焼けにけるあさましさに渡すに及ばず。ここかしこの溝や堀にぞ投げ捨てける。穀倉院の南の堀をば奈良の大衆の首にてうめたりなんど沙汰しけり。聖武天皇の書き置かせ給ひける東大寺の碑文に云はく、「吾が寺興複せば、天下も興複せむ。吾が寺衰微せば、天下も衰微せむ」と云々。今灰燼となりぬる上は、国土の▼P2231(一一五オ)滅亡疑ひなし。
 其の上、去んぬる十一月十七日に、四教五時の萼、独り盛りなる薗城の梢、三井も尽きぬ。此の十二月廿八日に、三性八識の風、専ら扇ぐ興福の〓[片+戸+甫]、南都も滅びぬ。八宗の流れ異なりと雖も、一如の源、是同じ。本願を尋ぬれば、魚水の契り、是深し。本仏を謂へば、釈迦慈尊の眦(まなか)ひ浅からず。昔日の芳縁、惟馨ばし、当世の値遇、又切也。山階と薗城とは乳水の如し、法相と天台とは兄弟に同じ。茲に因つて、喜び有る時は倶に之を喜び、憂へ有る時は同じく之を憂ふ。山階は、我等が本師釈迦善逝、一化を残して一切の霊地を化し、薗城は、如来補処の弥勒慈尊、三会を期して三有の清濁を利する砌也。而るを両月の中に灰燼となりぬ。一天の歎き何事か是に過ぎむ。一物を掠め一屋を焼く、罪科尚重し。況や南▼P2232(一一五ウ)都薗城数千の堂塔・財宝に於いてをや。一文を謗り、一仏を謗する、破戒是深し。況や法相・天台の数万の仏像・経巻に於いてをや。遠く先蹤を異域に尋ぬれば、会昌天子の犯罪に過ぎたり。近く悪例を本朝に考ふれば、守屋大臣の逆悪に超えたり。極悪の分限量り難し。逆臣の将来、其奈かむ。
 抑も我が朝に鎮護国家の道場と号して、朝夕星を載いて、百王無為の御願を祈り奉る四ヶの大寺、是あり。三ヶ寺既に跡なし。適残る叡岳も、行学闘乱の事によつて、雲に臥しぬ〔る〕名のみ有りて、四禅の夜の月暗く、雪に映ずる勤めを抛てて、腰に三尺の秋の霜を横だふ。彼の寺、又無きが如し。さすがに法滅の今日此の比とは思はざりしを、「こはいかなりける事やらむ」と、歎かぬ人も▼P2233(一一六オ)なかりけり。
 澄憲法印の『法滅の記』と云ふ文をかかれたる、其の言葉を聞くぞ悲しき。「山階の三面の僧坊には、五色の花再び開けず。春日四所の社壇には、三明の燈更に耀くことなし。仏像経論の焼くる煙には、大梵天王の眼忽ちに晩し。堂塔僧房の燃ゆる音には、堅牢地神の胸をこがすらむ」とぞ覚えける。
 左少弁行隆と申す人、先年八幡へ参りて、通夜せられたりける夜の示現に、「東大寺奉行の時は是を持つべし」とて、笏を給はると見て、打ちおどろきみるに、見るに実に笏ありけり。不思議に思ひて、其の筋を取りて下向し給ひたりけれども、「当時何事にかは東大寺造り替へらるる事あらむずる。いかなる事やらむ」▼P2234(一一六ウ)と、心の内に思ひ給ひて、年月を送り給ふ程に、此の焼失せし後、大仏殿造営の沙汰有りける時、弁官の中に彼の行隆撰ばれて、奉行すべきよし仰せ下さる。其の時、行隆宣ひけるは、「勅勘を蒙らずして次第にすすみ昇らましかば、今まで弁官にてはあらざらまし。多くの年を隔てて、今弁官に成り帰りて、奉行の弁に当たる。是も先世の結縁浅からぬにこそ」と悦び給ひて、八幡大菩薩より給はりたりし笏取り出して、大仏造営の事始めの日より持たれたりけるこそありがたけれ。
 平家物語第二末
 ▼P2235(一一七オ)時に応永廿六年〈己亥〉三月廿日、大伝法院の別院十輪院に於いて、悪筆為りと雖も、忝くも御誂へに依つて、之を書写せしめ畢はんぬ。
                                               行識房
                                             執筆 有重
                                                多聞丸
                                                                                                        
▼P2236(一一七ウ)          (花押)