平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第二

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平家物語巻第二
北面は上古にはなかりけり、白河院の御時はじめ置
れて、衛府どもあまた候けり、為利、盛重わらはべ
より千じゆ丸、今犬丸とてきりものにて有けり、千
手丸は三浦、後には駿河の守、今犬丸は周防国の住
人、後には肥後のかみ、鳥羽院の御時も、季範源左
衛門の大夫、子息やすすゑ河内の守、同季頼大夫尉、
父子近く召仕はれて、傳奏するをりも有と聞えしか
共、皆身の程をばふるまひてこそありしに、此御時
の北面の者共は、殊の外に過分にて、公卿、殿上人を
も物ともせず、禮義もなかりけり、下北面より上北
面にうつり、上北面より殿上を許さるるも有けり、
かくのみ有る間、驕れる心どもありけり、其中に故
小納言入道のもとに師光、成景と云者あり、小舎人
童、もしは恪勤者などのけしかる者ども也けれども、

さかさかしかりければ、院の御目にもかかりて召仕
はれけり、小納言入道の事にあひし時、二人共に出
家して、法名の一字を加へて左衛門入道西光、右衛
門入道西景とぞ云ける、二人ながら御蔵n預りにて召
仕はれけり、其西光が子に師高もきりものにて有け
れば、検非違使五位の尉迄成りて、安元元年十二月廿
九日、追儺除目に加賀守に任て国務を行ふ間、様々
のひほふひれい張行せし餘りに、神社、仏寺、権門、
勢家の庄頭をたふし、さんざんのこと共にてぞ有け
り、たとへ邵公があとをへだつとも、おんびんの政
をこそ行ふべかりしに、よろづ心の儘に振舞しほど
に、同二年八月に白山末寺に温泉寺と云山寺にいで
湯あり、彼湯に目代馬を引入て洗ひけるを、大衆申
けるは、是は白山権現の一切衆生の諸[B 衆イ]病の薬の為に
いだし給ふ所の出湯也、悉き所に馬を引入て、洗ふ
事狼藉也と制しをくはふ、猶きかず、然る間大衆起り
て、白山、中宮八院三社のそう長吏、智積、覚明等張
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本として、とねり男が本どりを切、馬の尾を切て追
ひ放つ、目代申けるは、馬の湯あらひれいなくば、
何度もせいしをこそくはふべけれ、さうなく馬の尾
を切べき様やある、はぢ有者の乗馬の尾を切る事、本
どりを切に同じといふ、安からぬこと也とて、国方
より大勢を揃へて押寄て、温泉寺の坊舎を焼拂ふ、
此事によつて八院の大衆の中に、秀衡が孫に金台房
を大将軍として、明台房、室大房、能登房、加賀房、
越前房、同白山の大衆五百餘騎にて加賀の国府へ押
寄せて、かう堂にたて籠りて、廰へ使をたてたれば、
目代はひがごとしつとや思ひけん、廰屋にもとまら
ずして、迯げて京へぞ上りにける、大衆力及ばで、そ
れよりて帰てせんぎしけるは、此所は本山の末寺也、
しよせん叡山へ訴へ奉らん、若訴訟叶はぬものなら
ば、我等長く生土へ帰らじと一同にせんぎして、神
水、仏水を飲み、同年八月に白山の早松の御輿をか
ざり奉り、むねとの大衆三百餘人、御輿をささげ奉

りて上洛す、富時の天台座主は明雲僧正にておはし
ます、此事聞たまひて、専当法師、宮仕法師二人を
とて、当時は院の御熊野詣也、上洛せられたりとも、
御裁許有るべからず、とくとく是より帰られて、御
悦の時、上洛せらるべき由被r仰けれども、白山大衆
猶聞かず、明雲僧正此事を聞給ひて、門跡の大衆四
十餘人差下して、早松の御輿をば奪取り、かねがさ
きの観音堂に休め奉り、白山の大衆を追返す、衆徒
等よりあひて歎けるは、我等此訴訟叶はずは、長く
しやうどへ帰らじと誓たるに、いつしか敦賀の津よ
り帰らん事こそ口惜けれ、いかがすべき、我等生土
へかへるべからずと一同に神水仏水を飲つ、おして
上るべしとて、八月五日宇河を立て、勧成寺に着き
給ふ、御供の大衆すでに一千餘人なり、勧成寺より
同じき六日、仏が原、金剣宮へ入らせ給ふ、爰に一両
日逗留す、同九日留守所より牒状あり、使者には橘n
次郎大夫則次、但田次郎大夫忠利等也、
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留守所、牒(二)白山中宮衆徒(一) 衙
欲3早停(二)止衆徒参洛(一)事
牒、奉(レ)捧(二)神輿(一)、衆徒企(二)参洛(一)、令(レ)致(二)訴訟(一)事之
趣、非(レ)無(二)不審(一)、因(レ)茲差(二)遺在庁忠利(一)、尋(二)申仔
細(一)之処、為(二)石井法橋訴申(一)令(二)参洛(一)之由、有(二)返
答(一)云々、此[B ノ]条理豈不(レ)可(レ)然、争依(二)小事(一)、可(レ)奉(レ)動(二)
大神(一)哉、若為(二)国之沙汰(一)、可(レ)為(レ)裁(二)許訴訟(一)歟、者
賜(二)其解状(一)可(二)申上(一)也、乞哉察(レ)状、以牒、
安元三年二月九日 散位財部朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣
目代源朝臣
とぞ書たりける、依(レ)之衆徒返牒在(レ)状云、
白山中宮大衆政所返牒 留守所
来牒一紙被(レ)載(二)送神輿御上洛(一)事
牒、今月九日牒、同日到来、依(レ)状案(二)仔細(一)、在(二)神明
和合(一)、而黙(二)定吉日(一)進(二)発旅路(一)次、以(二)人力(一)不(レ)可(二)

成敗(一)之、冥罰豈不(レ)恐(レ)之哉、仍以後日任(二)牒返之
状(一)仔細[B ノ]状如件、
安元三年二月九日 大衆等
同十日仏原を出て、椎津へ着せ給ふ、同日又留守所
より使二人あり、税所大夫成貞、橘次郎大夫則次等、
野代山に大衆の後陣に追付たり、則、件の使者落馬
して又馬の足折れたり、是を見て衆徒弥々神力を取、
同十一日に二人の使、椎津に到来す、あへて返牒な
し、ことばを以て使者神輿を留め奉るといへ共、こ
と共せず上洛す、明雲僧正重ねて奉(レ)留、神輿守護衆
徒状云、
謹請 延暦寺御寺牒
欲(レ)被(二)裁許(一)奉(レ)振(二)上神輿於山上(一)、目代師高罪
科事
右雖(レ)令(レ)言(二)上仔細(一)、于(レ)今不(レ)蒙(二)裁許(一)之間、神輿
入洛之処、抑留之条是一山之大訴也、倩案(二)事之情(一)、
白山者雖(レ)有(二)敷地(一)、是併三千之聖供也、雖(レ)有(二)免
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田(一)、当任有名無実也、然者仏神事、断絶顕然也、
仍当年八講、三十講、同以断絶、我山者大悲権現
和光同塵之素意候、近来参向拝社之族、又以断絶、
当(二)此時(一)而深歎切也、然者奉(レ)振(二)神輿(一)、所(レ)啓(二)参
向(一)也、永忌(二)向後之栄(一)、五尺之洪鐘徒響、黄昏之
勤誰明、冥道之徳、在(二)于人倫(一)迷癡之用深也、蓋
全元(二)現将来吉凶(一)哉、権現御示現有(レ)之、然則不(レ)被
(レ)拘(二)制法(一)、既令(レ)附(二)敦賀[B ノ]津(一)、任御寺牒(一)之状、止(二)
神輿[B ノ]上洛之儀(一)、可(レ)侍(二)御裁報(一)之状如(レ)件、
安元三年二月廿日 衆徒等
とぞ書たりける、同廿一日せん当此状を取て帰り上
ぬるうへは、裁報を相待所に、遅々の間、衆徒等潜
に神輿をぬすみ出し奉りてとらばやと伺ふ所に、御
輿守護の者共は、専当法師、宮仕法師等也、是を呼
び寄て、白き小袖を一つづつとらせて、酒をしひふ
せたり、宮仕、専富しひられて、前後も知らで酔伏
せり、其間に早松の御こしをぬすみ取、東路にかか

りて、丹生の御輿を柳井が瀬を通り、近江国河内の
濱にぞ着にける、それより小船に御輿をかきのせ奉
りて、東坂本へ押渡らんとする処に、辰巳の風荒くし
て、小松が濱にぞ吹付たる、白山の大衆手づから御
輿捧げ奉りて、十ぜんじの御前にかきすへ奉る、山
門の大衆等せん議しけるは、末社の神おろかならず、
本社の権現のごとし、まつじの僧徒いやしからず、
本山の大衆と同じ、目代ほどのものに一院を燒れて、
いかでかさて有べき、尤山門の大訴たるべし、但当
時は院の御熊野詣也、御悦を相待参らせんとて、白
山権現をば日吉には客人の社といはひ参らせたり、
早松の御輿を客人の社に休め奉りて、院の御熊野詣
の御悦を相待参らせけり、去程に院すでに御下向有、
山門の大衆等、白山の訴状を受取て、末寺の僧徒等
が申状かくのごとし、真実この事もだしがたく候や、
国司師高を流罪に行はれ、目代もろつねをきんごく
せらるべきよし奏聞せしを、裁許おそかりければ、
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太政大臣以下、さも可(レ)然公卿たちは、哀とくとく御
裁許可(レ)有ものを、山門の訴訟は昔より他に異なる
事也、大蔵卿為房、太宰の帥季仲は朝家の重臣なり
しかども、大衆の訴訟によりて流罪せられにき、師
高などがことは物の數ならず、仔細にや及ぶべきと、
内々は申されけれども、言葉に顕はして奏聞の人な
し、大臣は禄を重んじてものいはず、小臣は罪を恐
れて諌めずと云事なれば、各口をとぢておはしけ
り、其時の見任の公卿に兼実、師長をはじめとして、
貞房隆季に至るまで、身を忘れて君を諌め奉り、力
を盡して国を全ふすべき人々にておはせし上に、武
威をかがやかして、天下をしづめし入道の子息、重
盛などの夙夜のきんらうをつみてこそおはせしに、
かれといひ是と云、師高一人にはばかりて、言葉に
はかたぶけ申されけれども、いさめ申さざりければ、
君に仕ふまつるに、私法然るべきや、前車のくつが
へるをたすけずば、後車のめぐる事を頼んやとこそ

蕭何をば太宗は仰られけれ、君もくらく、臣も諂ふ
べき人々にやおはせし、いかにいはんや、君臣の国
を乱らんに於てをや、又権勢の政事のたがはんに於
てをや、鴨河の水、双六のさい、山法師是ぞ我心に
叶はぬものと、白河院も仰ありけると申伝へたり、
鳥羽院の御時、平泉寺を以ておんじやう寺に附らる
べき由、其聞えあり、依(レ)之山門の衆徒たちまちに騒
動して奏状す、其状に云、
延暦寺衆徒等解申請(二)院庁裁(一)事
請曲垂(二)恩恤(一)任(二)応徳寺牒(一)、以(二)白山平泉寺(一)永
為(二)当山末寺(一)状
右謹検(二)案内(一)、去応徳元年白山僧徒等、以(二)彼平泉
寺(一)寄(二)附当山末寺(一)已畢、于時座主良真任(二)寄文旨(一)、
成(二)寺牒(一)附(二)彼山(一)畢、自(レ)爾以降依(レ)無(二)住僧之訴
訟(一)、不(レ)及(二)衆徒之沙汰(一)、然間去春彼山之住僧等、
来訴(二)于当山(一)、是延暦寺之末寺也、応徳寺[B ノ]牒尤足(二)
證験(一)、爰薗城寺之覚宗、任(二)彼別当職(一)、非法濫行遂
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(レ)日倍増、積愁為(レ)枕之間、以(二)当山(一)、欲(レ)為(二)薗城
寺之末寺(一)云々、此条当山自(レ)本非(レ)無(二)本山(一)、就(レ)中
日吉客人宮者白山権現也、垂跡猶測(二)彼神慮(一)、定有(二)
其故(一)歟、叡慮忽変、非(二)君之不明(一)、非(二)臣之不直(一)、
我山[B ノ]仏法将以欲(レ)令(二)滅逃(一)也、泣而有(レ)余、仰(二)蒼天(一)
而揮(レ)涙而何為丘中丹銷(レ)魂、衆徒若忽(二)諸朝威(一)者、
懷愁不(レ)可(レ)止、一山之騒動裁報(レ)之、何無(二)〓迹(一)、望
請(二)庁裁(一)、曲垂(二)恩恤(一)以(二)白山平泉寺(一)如(レ)旧可(レ)為(二)
天台末寺(一)之由、被(二)裁許(一)者、将(レ)慰(二)浄行(一)三千之愁
吟、弥祈(二)仙院数百之遐齢(一)、仍勒(レ)状謹解、
久安三年四月 日
とぞ書たりける、此申状に依て下さるる院宣云、
集(二)官軍(一)可(レ)決(二)雌雄(一)之由、謳(二)歌山上(一)風(二)聞洛中(一)、
此事非(二)叡慮(一)之間、武士解(レ)郡、被(レ)返(二)本国(一)畢如(二)
衆徒[B ノ]申(一)者、仰(二)上裁(一)之間、六時不断之行法不(二)退
転(一)之条、非(レ)無(二)叡感(一)、然者於(二)白山平泉寺(一)者、被
(レ)付(二)山門(一)畢、此条依(レ)不(レ)浅(二)当山御帰依(一)、以(レ)非

為(レ)理、所(レ)被(二)宣下(一)也、但含(二)一山之咲(一)、招(二)諸寺之
嘲(一)歟、於(二)自今以後(一)者、可(レ)停(二)止非義之濫妨(一)之
由、可(レ)被(レ)觸(二)仰衆徒(一)之旨所(レ)候也、仍執啓如(レ)件
久安三年四月八日 民部卿顕頼
天台座主御房
昔江[B ノ]中納言匡房とて和漢の才人の申されける様は、
神輿を陣頭にふりくだし奉て訴申さん時は、君はい
かが叶はせ給ふべきと申されたりけるに、げにもだ
しがたきことなりとぞ仰せられける、去嘉応元年甲
戌、美濃守源の義綱朝臣、当国の新立の庄をたふす
間、山門久住者円応をせつがいす、此事訴申さんと
て、大衆参洛すべき由聞えければ、武士を河原へ差
遣して防がれしほどに、日吉[B ノ]社のしやし、延暦寺の
寺くわん三十余人許、申文を捧げて、押破りて陣頭
へさんじけるを、後二条関白殿、中づかさの丞源の
頼治におほせて防がる、猶内裏へ押入らんとする間、
よりはるが郎等八騎是をいる、矢に当るもの八人、
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死ぬる者二人、社司、所司四方へ迯げ失せぬ、もん
との僧綱仔細を奏聞のために下らくせんとしけれ
ども、武士を西坂元へ差遺して入られず、大衆日吉
の神輿を中堂に振上奉て、関白殿を呪咀し奉る、い
まだ昔より此の如きのことなし、神輿を動し奉る事
是が始とぞ承はる、匡房の卿申されけるは、あはれ
亡国の基かな、宇治殿の御時、大衆の張本とて頼寿、
良円等ながさるべきにて有しだにも、山王の御たく
せんいさぎよかりしかば、則罪名を宥められて、さ
まざまの御おこたり申させ給ひしぞかし、されば、
此事いかが有んずらんと歎申されけり、三千人の衆
徒等は八王子へ参りてしんどくの大般若を読誦し奉
て、申あげの導師には中胤僧都也、その頃の説法は
表白に秀句を以て先とす、かね打ならして、大音聲
をあげて申されけるは、我等がけしの竹馬よりおふ
したてられ奉る七の社の御神たち、さをじかの耳ふ
り立て聞給へ、後二条関白殿へ鳴矢一[B ツ]放たせ給へ、

さらずば三千人の衆徒等に於ては長く住山の思ひを
たち、離山の思ひにぢうして、八王子権現二度拝し
参らせんこと有がたしと申、権現御納受渡らせ給
へと申上を聞て、三千人の大衆一同にそとぞ喚きた
る、其頃或人八王子の社に詣て通夜をしたりける夜
の夢にみたりけるは、御殿の内よりけだかき御聲に
て、兵主々々とぞ召れければ、近江国夜須郡におは
します兵主の大明神おはしまして参りて候と申させ
給ひければ、神のおんてきかうぶくせよと仰られけ
れば、承り候ぬとて、白箆にうすやうづくりに作り
たるかぶら矢を重籐の弓に打くはせて、西へ射給ひ
ければ、其かぶら矢夥く京中をなり廻りて、二条の
御所のもやの御みすのへりに立と見て、夢打驚き覚
てうつつに聞ければ、御殿の上のほどよりかぶら矢
の聲出て、ひえの大たけをこえて、西を差て行ぬ、
不思議のこと也と思ひける程に、其あした二条殿の
かうしの役しける侍の見ければ、もやの御みすのも
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かうにしきみの葉[B 枝イ]一たちたりけり、それより関白殿
は山王の御とがめとて、左の御かほ先に御かぶれ出
て、頓ておもらせ給ひしかば、御兄にて天台貫主仁
源理智房のざすと申し人は、大峯などにのぼりて世
に聞えある有験の人にておはしければ、随分に祈申
されけれども、其験もなかりければ、大殿の北の政
所、せめての御歎の余りにや、御すがたをやつさせ
給ひ、忍びて十禅師の御前に七ヶ日御参籠有て、関
白もろみちの御病をやめて、命ばかりをたすけさせ
給へとぞ祈申させ給ひける、もろみち今度寿命助け
させ給たらば、一には東坂本より西坂本へ、廻廊を
建て、山僧らが三山の参詣の時、霜雪雨露を凌がんが
ため也、一には八王子の御前より十ぜんじの御前迄
廻廊を造て、大衆以下の参り下向の輩に風雨を凌ん
と也、一には三千人の衆徒に毎年の冬に小袖一づつ
着せ参らせ候べし、一には我一期の間、郡の住居を捨
て、宮籠りと相交はりて、宮仕へ申候べし、一には長

日の法花八講たいてんなく修行候べし、一には廊の
御かぐら退転なく、又七社権現に御百度四季にこれ
を勤ずべく候、一には大とうろうをかかげ候べし、一
にはもろみち五人のむすめあり、王城一の美女也、
是を以て田楽をせさせて、七社の権現にみせ奉んと
なり、なくなく立願ありけり、此御立願は御心中に
こそ思召けれ、人是を不(レ)知、然るを山王権現あした
にあらはさせ給ひける事こそおそろしく、身の毛も
立ちて覚えけれ、折節其頃出羽の国羽黒より、月山
の三吉と申ける童御子一人上りて、御社に参籠した
りけるが、俄に御前の庭にをどり出て、一時ばかり
舞をどり庭に倒れふして絶入したりければ、かきい
だせとて、門より外へいだしすてられけり、二時ば
かり有て、生出て十ぜんじの御前に、参りて、舞を
どる事おびただし、参詣の諸人、こはいかにと是を
みる、しばらくありて大息をつきて汗を押拭ひて申
けるは、我円宗教法をまぼらんがために、遙に実報
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花王の土を捨て、穢悪じうまんの塵にまじはり、十
地円満の光を和げて、この山の麓に年久し、鬼門の
凶害を防がんとては、嵐はげしき峰にて日をくらし、
皇帝の宝祚を守んが為には、雪ふかき谷にて夜を明
す、抑ぼん夫はしれりや否や、前関白師実の北のま
ん所、子息師通が所労のこと祈り申さんがために、
此七ヶ日我前に参籠して、肝腑をくだき、紅涙を流
して、せめてのことにや、心中に種々の立願あり、
第一の願には八王寺の社より此砌まで廻廊を立て、
衆徒の参社の時、雨露の難をふせぐべしとなり、此
願誠に有がたし、されども我山の山僧等三の山の参
籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行心のせつをあ
はれふ、同じく又八王子の八町坂の廻廊、是誠に殊勝
の事に思ふらん、され共一切衆生迷ひ多く、さとり
すくなし、されば皆悪道に落つべし、是をあはれみ
て、和光同塵のけちえんとして、此ふもとに所をしめ
て、我にちかづかんものをばあはれまんと也、されば

廻廊の願はうけ思召すべからず、次に五人の娘、王城
一の美女を以て、田楽の事誠に此願の事、申に付て哀
也、せめての思の余りと覚えたり、尤可(レ)然といへど
も、摂政関白の御娘達に、いかが左様の役をばせさせ
奉るべき、十方旦那多ければ、此願とりどりに多し、
さればうけ思召すべからず、次に大殿の北の政所、
我下殿に参籠して、きね[B 「きね」に「禰宜イ」と傍書]に交らんとの願、此事又同
じくいとをしく思ひ奉る、さはあれども大殿の北の
政所程の人を、争でかそれに同座せさせ奉るべき、
此事逆事也、一々の願の中に、八王子八講に於ては、
仏事なれば我受思召す、今生に於ては叶ふまじ、後
生をばたすけ奉らん、疑ひ思召べからず、誠に親子
の眤び、恩愛の契りなれば、さこそかなしく思ひ給
ふらめ、但しもろみちに武士に仰て、我を馬のひづ
めにけさせ、衆徒多く疵を蒙り、宮仕、せんたう、射
殺されぬ、三千の衆徒なくなく本山へかへりのぼり
て、をめきさけんでせんぎする音、天をひびかし、
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地を動かす、則衆徒の愁に非ず、しかしながら我な
げき也、武士どもが射たる矢めといふは、則我身に
当る[B 「当る」に「ありイ」と傍書]、諸人是を見よとて、みこかたぬぎたれば、左の
脇の下に大なるかはらけの口計、かけ破れて血流れ
たり、見る人身の毛だちて恐しなどは云ばかりなし、
是はいかに、我ひがごとか、祈るとも叶ふまじ、定
業かぎり有、我力及ばずとて、山王上らせ給ひにけ
り、是を聞せ給ひけん北の政所の御心の中、いかば
かりなりけん、誠に、御身の毛立ち、御涙にくれてなく
なく御下向あり、いつ習はせ給ひたる御あゆみなら
ねども、御子のかなしさに人目をもつつませ給はず
御下向あり、御心ざしのほどこそ哀なれ、されば仏
も父母の恩深き事、大海のごとしとぞ仰られける、
神罰かぎりある事なれば、いのるいのりもかなはせ
給はず、色々の御願も御納受なし、関白殿のさいご
の御詞には、あなむつかしのさるのおほさよおほさよ
とばかり仰られて、去承徳元年六月二十六日に大殿

にさきだたせ給て、つゐにうせさせ給ひにけり、御
年三十八、御心のたけくことわりゆゆしき人にてわ
たらせ給ひけれども、まめやかに事の急になりにけ
れば、御命をぞをしませ給ひける、まことにをしか
るべき御命なり、四十にだにいまだたらせ給はず、
おやにさきだたせ給ふもくちをし、時に取てあさま
しかりし御事也、此御やまひかん病し奉る人、御う
しろに候人も、御前に候人も、立ゑぼしきたるが、
見えぬ程の事にて、高く大きに腫れたりけり、入棺
し奉るべき様もなかりけり、大殿是を御らんじて、
御涙にむせばせ給ひつつ、御いかけめして、かすが
の大明神の御方をふしをがませ給ひて、申させ給ひ
ける事こそあはれなれ、たとひ山王大師の御とがめ
にて、もろみち世をはやうし候とも、かかるありさ
まにて、恥を隠すべき様も候はず、定業かぎりある
命を申さばこそ、難き事をも申とも思召され候はめ、
此おびたたしきすがたを、もとの形になして給はり
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候へ、けうやう仕候はんと申させ給ひたりければ、
御納受有ければにや、忽ちに御腹の腫しえさせ給ひ
て、入棺事終りにけり、其御願の中に、長日[B ノ]八講の
こと、関白殿かくれさせ給ひぬる上は、はたすに及
ばず、八王子の御憤り深くして、後二条関白殿を八
王子の後ろの御子の、大ばんじやくの下に籠てせめ
奉り給ふ、雨ふり風吹さゆる夜半ごとに、ばんじや
く重く成てくるしみたへがたき間、聲を上げてをめ
き給ふ、目には見えず、聲ばかりする間、上下諸人
おそれをののく処に、宮籠りに附きてたくせんせら
られけるは、我は二条関白師通といふ者なり、山王
の御憤り深くして、此ばんじやくの下に籠られけり、
此くるしみいかがせんとて、左右の袖をおもてに当
てなき給ふ、宮仕是を聞て大殿へ此よしを申す、誠
しからず、実否を見て参れとて、侍一人差遣す、誠
に夥しくをめく聲はすれども、一定の関白殿とも知
まいらせず、疑ひをなす処に、御子わらはにうつり

て、いかに汝は我をばしれりや否や、二条関白師通
といふ者なり、山王の御憤り深くして、いまだ中有
迄も行ずして、此大ばんじやくの下に籠られ奉る、
其故は大殿の北の政所、師通が為に御願だてさせた
まふ中に、八王子の法華八講は受思召して、後生ぼ
だいを助けんと、御りやうじやう有しを、もろみち
死したればとて、勤められざるに依て、此大ばんじ
やくの下に籠めらるる、ばんじやくのおす事たとへ
ん方なくたへがたし、神に祈り仏に誓ふとも、助る事
有べからず、件の八講を勉めて、此苦を逃れしめば、
草の陰にも立そひて、くらき所にはともし火ともな
り、あしからん道には橋とも成らんずるぞと申、親
に先立奉る我身の果報の拙なさ云ばかりなし、急ぎ
帰りて此由を申せと計にて、雨しづくと泣き給ふ、侍
も只今見奉る心地して、左右の袖をしぼりあへず、
泣く泣くはせかへりて、此由を申せば、大殿仰せられ
けるは、一期のほどををはらず、命を召れぬる上は、
P058
是ほど又深き御勘当こそ口惜けれ、春日の大明神は
渡らせ給はぬにこそ、同じ氏子と申ながら、関白に昇
るほどの者をすてさせおはしまして、是程末迄物な
くせめさせ給ふ事、生々世々口惜く候と、くどき立
て泣き給ひけれども、かひなき事にてぞ有ける、さ
て八講つとめよとて、日別に供料をあげて、八講を
つとめさす、七日と申けるに、関白殿大ばんじやく
の下をのがれさせ給ひて、紫雲にのり西をさしてお
はするとて、大殿の御所の上にて、大きなる聲を以て
宣ひけるは、恐れても恐るべきは七社権現の御風情、
頼ても頼むべきは八王子権現の本地、千手千眼の御
ちかひなり、我法華八講の功徳に依りて、只今極楽
浄土へ参り候、御心安く思召候へ、とほき守りとな
り参らすべしと告げしめし給へば、大殿庭上に走出
させ給ひて西へ行、紫雲に御手を合せて、我をも同
じく具しておはせよやとて、人目をも憚らず御聲を
上げてをめきさけび給へどかひなし、其後彼の八講

の為に、御家領紀伊国田中の庄をぞ寄られける、老
少不定也、必親に先立まじといふことはなけれども、
生死のおきてに随ふ習ひ、まんとく円満の世尊、十
地究竟の大士も、力及ばざることなれば、慈悲具足
の山王なさけなく、降伏し給ふべしやなれども、和光
利もつの方便なれば、折節とがめさせ給ふ、されば
むかしも今も山門の訴訟は、恐しきこととぞ申し伝
へたる、
安元二年六月十二日、高松の女院かくれさせ給ひぬ、
御年三十三、是は鳥羽院第六の姫宮、二条院の后に
ておはしましき、永寿元年に御年廿二にて御出家あ
りき、大かたの御心様わりなき人にて、人をしみ奉
る事かぎりなし、
同年七月八日建春門院かくれさせ給ひぬ、御年卅五、
是は贈左大臣時のぶの御娘也、法皇の女御、当帝高
倉院の御母儀也、先年に不例の御願をはたさんとて、
御歩行にて御熊野詣有けり、四十日に本宮に参り着
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せ給ひて、権現法楽のために、胡飲酒と云舞をまは
せておはしましけるに、俄に大雨ふりけれども舞を
とどめず、ぬれぬれ舞けり、せんじを返す舞なれば、
権現もめでさせ給ひけるにや、去春の頃より御身の
中くるしく、世の中あじきなく思召けるが、去る十
日院號を御じたいあり、今日の朝に御出家ありて、
夕に無常の道に赴かせ給ふ、院中の御歎き申も愚な
り、天下諒闇のせんじを下さる、かかりければ御孝
養の為に、殺生きんだんを行はれけり、其頃折節伯
耆の僧都玄尊、近江の国大鹿の庄を召されて歎ける
に、院御歎やうやく期過て、人々に御目ざまし申さ
れける時、げんそんつい立て、殺生きんだんとはい
へども殺生きんだんとはいへどもと三度申て、院の御前近く参りて、大鹿
はとられぬと申て走り入ぬ、院ゑつぼに入せ給ひて、
彼大鹿を返給てけり、同廿七日六条院崩御、御年十
三、故二条院の御嫡子ぞかし、御年五歳にて、太上
天皇の尊號有しかども、いまだ御元服なくて、崩御

なりぬるこそ哀なれ、
治承元年丁酉四月十日は日吉の御祭りにて有べかり
けるを、大衆打とどめて、十三日辰の時に、衆徒日吉
七社の御輿をかざり奉り、中堂へ振上奉りて、八王
子、客人、十ぜんじ等の三社の御輿を陣頭へふり下
し奉て、師高を流罪せらるべきよしを訴へ申さんと
て、西坂本、さがり松、きれつつみ、賀茂河原、糺の
とうほく院、法城寺辺に神人、宮仕充満して、聲を
上てさけぶ、京中白川の貴賤来集りて是を拝み奉る、
是につづきて、ぎおん、北野二社、都合十一社の御
輿を陣頭へふりくだし奉る、その時の皇居は、里内
裏閑院殿にてありけるに、白玉、金鏡、緑羅、紅絹
をかざり奉る、神輿朝日の光りにかがやきて、日月
の地に落給ふかとあやまつ、一条を西へ入せ給ひけ
るが、十ぜんじの御輿既に、二条、烏丸、室町辺に近
付せたまひければ、源平の兵四方の陣をかためたり、
其時平氏の大将軍には小松の内大臣重盛公、俄の事
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なりければ、直衣に矢負てこがね作りの太刀帯て、
連銭葦毛の馬のふとくたくましきに、黄ぶくりんの
鞍置きてのり、伊賀、伊勢両国の若党ども、三千余
騎相具して、東おもての左衛門のぢんをかためたり、
源兵庫頭頼政は、顕紋紗の狩衣に上ぐくりて、ひを
どしの鎧に切生の征矢に、重籐の弓の真中とり、二
尺九寸のいかもの作の太刀、かもめじりにはきなし、
鹿毛なる馬に白ぶくりんの鞍置きて乗たりけり、連
の源太、授、省、競、唱とて一人当千のはやりをの
若党、三百余人相具して、北のぢんの唐もんをぞかた
めける、神輿彼もんより入らせ給ふべきよし聞えけ
れば、頼政さる古兵にて、神輿を敬屈し奉る由を見
せんとて、馬より飛おりて甲をぬぐ、大将軍かくす
れば、家の子郎等以下三百余人皆かぶとを脱、大衆
是を見て、様有らんとて暫く御輿をゆらへ奉る、頼
政は郎等渡部の丁七唱を召て、大衆の中へ使者をた
つ、唱は生年三十四、長七尺計成男の白く清げなる

が、褐衣の鎧直垂に、黒皮をどしの大荒目の鎧のか
なもの打たるに、豹の皮のしりざやの太刀をはきて、
黒つ羽のそやの角はず入たる廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、ぬりごめ籐の弓の握り太なるに、
大長刀取添たり、鹿毛の馬の太くたくましきに、黒
鞍置てぞ乗たりける、御輿既に近付せ給へば、馬よ
り飛で下り、かぶとを左のうでにかけて、弓取直し
て、御輿の前にひざまづきて申けるは、北おもての
唐門をば源兵庫の頭頼政かためられて候、大衆の中
へ申せと候、昔は源平両家左右のつばさのごとくに
て、少しも勝劣候はざりしが、源氏に於ては保元、
平治より皆絶はてて、大りやくなきがごとし、雁股
をさかさまにはむる身にて候へども、六孫王のすゑ
とては、頼政一人こそ候へ、山王の御輿陣頭へ入べ
き由、其聞え候間、公家ことに噪ぎ驚ましまして、
源平の官兵四方の陣をかたむべき由、宣旨を蒙り候
に依て、王土にはらまれながら、勅命をたいかんせ
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んも其恐れ有に依て、なまじひに此門をかためて候、
この度山門の御訴訟利運の条勿論に候、御聖断の遅
遅こそよそ迄もゐこんに候へ、其上頼政はいわう山
王にかうべをかたむけて年久しく候、わざ共此門よ
り入参らすべく候へども、神威を恐れ奉て、御輿を
入れ参らせ候はんは、綸言をかろくする科あり、綸
言をおもんじて神輿を防ぎ奉らば、冥の照覧はかり
難し、しんたい是れきはまれり、かつうは又小松内
大臣以下の官兵、大勢にて固めて候門々をばえやぶ
らせ給はで、わづかの小勢の所を御覧じて入らせ給
ひぬるものならば、山の大衆はめだりいんぢをしけ
りなどと、京わらんべの口のさがなさは申候はん事
も、山の御名折にてや候はんずらん、かつはことに天
聴をも驚かし奉らんと思召され候はば、わざとも東
西の多勢の門を打やぶらせ給ひて入せ給ひ候はば、
弥山王の御威光も目出度ましまし、衆徒の御訴訟も
成就しましまさんこと、今一気味にて候ぬべければ、

御輿をば左衛門陣へ廻し参せらるべくや候らん、所
詮かく申候はん上を、押破らせ給へ候はば力及候は
ず、後代の名が惜く候へば自今以後に於ては、六孫
王より伝へて候弓矢の手をこそ放ち候はんずらめ、
命を山王大師に奉り、骸をば御輿の前にて曝すべし
と申せと候、御使は渡辺丁七唱と申者にて候とて、
射向の袖を引納て畏て候ければ、大衆是を聞、何条
別の仔細にや及ぶべき、只打破れと云者もあり、其
中に西塔法師摂津竪者高運と申けるは、三塔一の言
口、大悪僧也けるが、萌黄糸縅の腹巻、衣の下に着
て、太刀脇に挟て進み出て申けるは、此頼政は年頃
地下にのみ有し事を歎きて、
いつとなく大内山の山もりは
木かくれてのみ月を見る哉 W021 
とよみて、昇進ゆりたりしやさ男ござんなれ、また
四十計なる大衆の素絹の衣に頭つつみたるが、しは
がれたる大の聲にて申けるは、今頼政が条々申立る
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所、其いはれなきに非ず、神輿を先に立て奉て、衆
徒訴訟をいだしながら、善悪大手を打破つてこそ後
代の名もいみじからめ、さすが頼政は六孫王より以
後、弓矢のげいにのぞんで、いまだ其ふかくを聞き
及ばず、武芸においては当家の職なれば如何はせん、
風月のたつしや、和歌の才人にて世に聞えある名人
ぞかし、一年近衛院御時、鳥羽殿にて当座の御会に、
深山の花と云題を簾中より出されたりけるに、左中
将有房など聞えし歌人共も読わづらひたりしに、頼
政召されて、頓て仕りたりける、
深山木の其梢ともみえさりし
桜は花にあらはれにけり W022 K012
と云名歌を読だりしかば、天感有、満座興を催して、
勅禄に預て名を上たりしものぞかし、又同院の御時、
嵯峨野へ御行の有しに、道にてかるかやと云題給て、
遠山をまもりにきたる今夜しも
そよそよめくは人のかるかや W023 K257

うちつづき御方の北の対にて、ひだりまきの藤鞭、
きりびをけ、よりまさと云題を給て、
水ひたりまきのふちふちおちたぎり
ひをけさいかによりまさるらん W024 K258
とよみて勅感にあづかりけるものぞかし、それのみ
ならず、弓矢に取てこそぶさうのものなれ、鳥羽院
の御時、ぬえと申化鳥が、竹の御つぼに鳴事度かさな
りければ、天聴を驚かし奉る、公卿せん議有て、武
士に仰て射べきに定りて、頼政を召て仕れと仰下さ
る、昔より内裏を守護して奉公しける間、辞し申に
及ばず、かしこまて承候ぬとて、仕るべきに成ぬ、
頼政思ひけるは、けさ八幡へ参りたりつるが、さい
ごにてありけり、是を射はづしつるものならば、弓
と本取とは唯今切捨んずるものをとて、八幡大菩薩
源氏をすてさせ給はずば、弓矢にたちかけりまぼら
せ給へときせいして、しげ籐の弓にかぶら矢二筋と
りぐして、竹のつぼへまいる、見物の上下諸人目も
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あへず見るほどに、夜更人静まりてのち、例の怪鳥
二聲ばかりおとづれて、雲井はるかに飛上る、頼政
おししづめて、一の矢に大き成かぶらを打くはせて、
よぴきて暫しかためて、ひやうといたり、大鳴りし
て雲の上へ上りければ、化鳥かぶらの音に驚きて、
上へは上らず、しもへちがひて飛さがる、頼政是を
見て、二の矢にこかぶらを取てつがひ、こびきにひ
きてさし当[B あげてイ]、ひやうと射たり、ひふつと真中を射切
ておとしたり、手元にこたへて覚ければ、えたりお
ふと矢さけびする、太上天皇御感の余りに、御衣を
一重かつげさせおはしますとて、御前のきざはしを
なからばかりおり給ふ、頃は五月の二十日余りの事
なるに、左大臣しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
と連歌をしかけられたりければ、三階に右のひざを
つきて、左の袖をひろげて御衣を給とて、頼政好む
口なれば、

たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
とぞつけたりける、左大臣是を聞し召して、余りの
おもしろさに立帰らせ給はず、しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
と押返し押返し詠じ給ひたりけり、昔の養由は雲の外
に雁を聞て、夜聲を射る、今の頼政は雨の中にぬえ
を得たりとぞほめたりける、是はいかに、弓矢取て
もならびなし、歌道の方にもやさしをのこの、山王
にかうべをかたぶけ参らせたる者の、固めたる門よ
り、なさけなくやぶりて入参らせて、いかでか辱降
をばから[B かイ]すべき、色なしや色なしやとののしりければ、
数輩の大衆尤も尤もとぞ同じける、やがて神輿をす
すめ奉て、内大臣重盛のかためられける左衛門のぢ
んへぞ入ける、閑院殿へ神輿を振り奉ること是はじ
め也、内大臣の軍兵我劣らじと、馬のくつばみを並
べて防ぎけれども、大衆神輿を先として押入らんと
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する間、心より外の狼藉出来て、武士矢を放つ、矢
十ぜんじの御輿にたつ、神人一人、宮仕一人、矢に
あたりて死ぬ、其外疵を被る者多し、神輿に矢立ち、
神人、宮仕射殺されける上は、衆徒声をあげてをめ
きさけぶ、梵天までも及ぶらんと夥しき、是れを聞
く貴賤上下、悉く身の毛よだつ、大衆神輿を陣頭に
捨置奉りて、ほう[B 「ほう」に「なくイ」と傍書]ほう本山へかへり登りにけり、
抑かの高運訴訟ありて、後白河法皇に参りたりける
に、折節南殿に出御あり、ある殿上人を以て、何者ぞ
と御尋有けるに、山僧摂津の竪者高運と申者にて候
と奏す、扨は山門に聞ゆる僉議者ござんなれ、おの
れが山門の講堂の庭にてせんぎすらん様に、只今申
せ、そせうあらば直に聖断有るべきよし仰下さる、
高運かうべを地に付て、山門の申候はことなる事に
て候、先王舞を舞候には面摸の下にて、はなをにが
む事にて候なる、定に三塔のせんぎと申候は、大か
う堂の庭に三千人の衆徒会合仕て、やぶれたる袈裟

にてかしらをつつみて、入堂杖とて二三尺計候杖を
めんめんにつきて、みちしばの露打拂ひ、ちいさき
石を一つづつ持て、其石に尻をかけて居並びて候へ
ば、どうしゆくなども得しらぬ様にて候、満山の大
衆たちめぐられ候へやと申て、そせうの趣をせんぎ
仕候に、然るべきをばどうずとこたへ候、然るべか
らざるをばいはれなきとは、我山の定れる法にて候、
勅定にて候へば迚、ひた面にてはいかでかせんぎ仕
候べきと申たりければ、法皇奥に入せおはしまして、
とくとくさらば、汝が山門にてせんぎすらん様に、
いでたちて参りて、せんぎ仕れと仰せ下さる、高運
勅定を蒙りて、同宿十余人にかしら裏ませて、下部
の者どもはひたたれ、小袖などをもて頭裏みたりけ
る、以上二三十人ばかり引具して、御所の雨うちの
石にしりかけて、各居並びて、高運おのれがそせ
うの趣をはじめよりをはり迄、一時したりければ、
同宿ども兼て議したることなれば、一同に尤々と申
P065
たりければ、法皇興に入せましまして、当座に勅裁
をかうぶりたりし、高運なりとぞ聞えし、神輿の御
事、蔵人左少弁仰を奉て、先例を大外記出羽守もろ
直に尋らる、保安四年癸卯七月、神輿御入洛の時は、
座主に仰て、神輿を赤山の社へ送り奉る、又保延四
年戊午四月、御入洛の時は祇園[B ノ]別当に仰て、神輿
を祇園へ送り奉らるなど勘へ申ければ、殿上にて俄
にせんぎあり、今度は保延の例たるべしとて、神輿
を祇園の社へわたし奉るべきよし、諸卿一同に定め
申されければ、未の刻に及びて、彼社の別当権大僧
都澄憲を召して、神輿をむかへ奉るべき由仰せ下されけ
れば、澄憲申されけるは、此神と申は天下無双の垂
跡延寿鎮護の霊神なり、はくちうに塵灰の中にけた
て奉て、当社へ入奉ること、生々世々口惜かるべし、
王法は是仏法のかごを以て国土を保ち行に非ずや、
されば、昔嵯峨天皇の御時、弘仁九年に諸国飢饉、
疫病おこりて、死人道路にみてり、其時、帝、民を憐

み給ひ、御志ふかくして、諸寺、諸山に仰て、是を
祈らせ給ひけれども、更に其しるしなかりしかば、
帝思召し歎かせ給ひて、叡山の衆徒に仰て、是を祈
らるべきよし仰下さる、三塔の大衆会合して、此事
いかがあるべからん、昔より雨をいのり日をいのり
て、ふらしてらす事はあれども、飢饉、疫病をたち
所にいのる事、未だ承り及ばず、さればとて辞し申
さば、王命を背くに似たり、しんたい是極れりとい
ふ衆徒もあり、又仏法の威げんおろそかならねば、
ききん、疫病なりとも、などか我山の医王山王の御
力にてしりぞけ給はざるべきなれば、法華経を講じ
奉て、きねん有べしとせんぎする大衆もあり、或は
大衆の申けるは、法華経は諸経の王なれども、護国
護王の方法、悪魔たいさんのきせいは、仁王経にし
くは非ず、仁王経を講どくし奉るべきよし申ければ、
尤々と同じて、三千人の衆徒たんせいを出してこん
ぽん中堂、大講堂、文珠楼にて七ヶ日の間に、十四
P066
萬七千余座の仁王経を講読し奉て、供養はいかが有
べきとせんぎす、御経すでに本地医王善逝の御前に
て講じ奉りつ、供養はすゐじやく山王の御宝前にて
遂げらるべきかと有る、大衆申ければ、誠に然かる
べしとて、地主十ぜんじの社だんにて、供養有り、
頃は卯月の半のことにや、飢饉、疫病にせめられて、
おや死ぬる者は其子歎きしづみ、子におくれたる親
は其思ひまだ深かりければ、いがきにのぞむ人もな
し、是を以て導師、説法はてがたに、卯月はすゐじ
やくの月なれども、弊帛捧る人もなし、八日は薬師
の日なれども、南無ととなふる音もせずと申たりけ
れば、衆徒あはれに覚えて、一度にはつとかんじて、
衣の袖をぞぬらしける、扨其夜、帝御夢想のありけ
るは、ひえの山より童子一人京へ下りて、青き鬼と
赤き鬼と有けるを、白拂にてうち拂ければ、鬼神ど
も南をさして飛行ぬと御覧じて、本山のきせいすで
にかん応して、飢饉も疫難も直りぬと思召して、御

夢想の次第を御自筆に遊ばして、御感の綸旨を衆徒
へ下されけるとぞ承る、其後国土立直りて、民のか
まど賑ひて、けぶりたちければ、帝かくぞ詠じさせ
給ひけり、
高き屋にのぼりて見れば烟たつ
民のかまどはにぎはひにけり W026 K013
かかる目出度やんごとなき御神を日中に雑人にまじ
へ奉て、祇園へ入参らせんこと心うかるべしと申て、
日すでに入、くらきほどに成て、当社の神人、宮仕
参りて、三社の御輿を祇園へ入奉る、神輿に立所の
矢をば、神人にてぬかせらる、大衆、山王の御輿を
京へふり下し奉り、陣頭へ参ることは永久元年より
以来、既に六ヶ度也、武士をもて防がせらるる事も
度々也、然れ共まさしく神輿に矢を射立て奉る事、
あさましといふもおろか也、人憤り神怒れば、災害
必おこるとはいへり、唯今天下の大事出来なんとぞ
思ひあひけり、
P067
十四日に大衆猶下るべき由聞えければ、夜中に主上
腰輿に召して、院[B ノ]御所法住寺殿へ行幸なる、大臣重
盛以下、供奉の人々、非常けいごにて、直衣に矢負
ひて供奉せらる、左少将雅賢は、脇立に平えびら負
ひて供奉せらる、内大臣のずゐひやう御輿の前後に
うちかこみて候、中宮は御車にて行啓あり、禁中の
上下驚き騒ぎ、京中の貴賤走りまどへり、関白以下
大臣、諸卿、殿上の侍臣、皆走せ参る、裁報遅々の
上、神輿に矢たちて、神人、宮仕矢にあたりて死す、
衆徒多く疵を蒙る上は、今は只山門の滅亡此時也と
て、大宮、二宮以下の七社、かう堂以下の諸堂一字
ものこさず焼拂ひて、山野にまじはるべき由、一同
にせんぎすと聞こえければ、山門の上綱を召して、衆
徒の申ところ御成敗有るべき由仰下す、十五日に僧
綱等、勅定を奉て、仔細を衆徒に相觸れんが為に登
山するところに、衆徒猶いかりをなして追返す、僧
綱等色を失ひて迯下る、院より衆徒をなだめんがた

めに、大衆の鬱訴を達すべき由の勅使とて、とうざん
すべき由仰下されけれ共、公卿の中にも殿上人も、我
勅使にたたんと申人なし、皆辞し申されける間、平大
納言時忠其時は中納言右衛門督にておはしけるを、
登山すべき由仰下されければ、時忠卿心中には無益
の事かなと思はれけれども、君の仰背がたき上に、
かつは家のめんぼくなりと存じて、殊にきらめきて
出立給へり、侍十人花を折て、雑色までよろづ清げ
にて登山して、大講堂の庭に立れたりければ、三塔
の大衆蜂のごとくに起り合ひて、院々谷々よりをめ
きさけびて群集する有さま、夥しなどは斜ならず、
時忠卿色を失ひ魂をけしあきれて立たりけるに、衆
徒等時忠卿を見て弥いかりをなして、何の故に時忠
登山すべきぞや、返々奇怪なり、不思議なり、既に
山王大師の御敵なり、すみやかに大衆の前に引出し
て、紗冠を打落して、足手を引はりて、もと取を切
て水海にはめよやと、声々にののしりけるを聞て、
P068
供なりつる侍も雑色も、いづ地にか行ぬらん、皆う
せぬ、時忠あぶなく思はれけれども、元よりさる人
にて、乱の中の面目とや思はれけん、さわがぬ體に
て宣ひけるは、衆徒の申さるる所尤いはれあり、但
人を損ふもの君の御敵たるべきか、非例を訴へ申さ
るるによて、御裁報遅々すること国家の法なり、さ
れども今御成敗有るべき由仰下さるる上は、なんぞ
衆徒強ちに憤り、いかりをなさるるやとて、懐中より
小硯を取出して、承仕を召して水を入させて、たた
う紙をひろげて、一句を書て大衆の中へなげ出され
たり、
大衆致(二)濫悪(一)魔縁之所行歟、明王加(二)制止(一)善逝之
加護也、
大衆是を見て、各々興に入て、あちとりこちとり見て
かんじあへり、老僧どもは打なきなどして、夥しか
りつる大衆のけいきも少ししづまりければ、其まぎ
れに中納言迯下り給ひけり、其時迯かくれたりつる

侍、雑色、爰かしこの荊蕀の中より出来て、主をも
てなしかしづきて下向す、をこびれてぞみえける、
一紙一句を以て、三塔三千人の愁を休め、洛中山王
の乱を鎮るのみに非ず、虎の口をのがれ、公私の恥
をきよむる、有がたかりけること也、山門に衆徒は発
向のかまびすき計りかとこそ存じつれ、理をも知た
りけるにこそ、いかで御成敗なるべきとぞ申あはれ
ける、扨時忠卿は院の御前へ参られたりければ、扨
も衆徒の所行いかにととりあへず御尋有ければ、大
方ともかくも申に及び候はず、只山王大師助けさせ
給とばかりにて、はふばふ迯下て候、いそぎいそぎ御
裁報有べく候と奏聞せられければ、法皇力及ばせ給
はずして、加賀守師高解官して、尾張国へ流罪のよ
し宣下せらるる状に云、
従五位上加賀守藤原朝臣師高解官追位尾張国、
職事権中納言光能仰(二)上卿別当忠親(一)、々々右少弁藤
原光雅仰、光雅左京大夫小槻隆職仰、官符、参議
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平頼宗卿、少納言藤原維基等参請(二)印官符(一)、又仰云、
検非違使右衛門志中原重成、早可(レ)追(二)遣配所(一)者、
今月十三日、叡山衆徒舁(二)日吉社感神院等神輿(一)、不
(レ)憚(二)勅制(一)、乱(二)入陣中(一)、爰警固輩相(二)禦凶党(一)之間、
其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図何不(レ)行(二)其科(一)、宜仰(二)
検非違使(一)召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、
同光景、田使俊行等(一)給(二)獄所者(二)畢、加賀守師高流
罪、并奉(レ)射(二)神輿(一)官兵六人禁獄事、今日宣下訖、件
間事二通遣(レ)之、以(二)此之旨(一)可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)
之由所(レ)候也、恐々謹言、
四月廿日 権中納言藤原光能
執当法眼御房
追申
禁獄官兵交名山上令(二)不審(一)歟、仍内々委細相尋、
究付交名一通所(レ)披(二)相副(一)也、禁獄人等平利家字平
次、是者薩摩入道家秀孫中務丞家資子、同家兼字
平五、筑前入道家貞孫平内太郎家継子、藤原通久

字加藤太、同成直、早尾十郎右馬允成高、同光景
字新次郎、前右衛門尉忠清子、田使俊行難波五郎
也、
か様にぞ書たりける、
廿四日亥の刻ばかりに樋口、富[B ノ]小路より火出来ける
が、辰巳の風はげしく吹て、京中多く焼にけり、昭
宣公の堀川殿、忠仁公の閑院殿、冬嗣大臣のそめ殿、
よしすけ公の西三条、具平親王の千草殿、高明親王
寛平法皇の亭子院、北野天神の紅梅殿、神泉苑、鴨居殿を
はじめとして、名所廿一ヶ所、公卿の家十七ヶ所焼
にけり、殿上人、諸大夫の家は数を知らず、のちに
は大裏へ吹付けて、朱雀門より始て応天門、会昌門、
大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、真言院まで
焼ほろびにけり、家々の日記、代々の文書、資財、
雑具、七珍萬寶さながら灰塵となりぬ、人の焼死る
事数百人、牛馬犬の類数を知らず、総じて都三分一
は焼にけり、樋口、富[B ノ]小路よりすぢかへにいぬゐの
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方をさして、大裏へしやりんばかりなるほむらとび
行けり、おそろしなどはいふばかりなし、只事に非
ず、ひえい山より猿ども多く松に火を付けて持下り
て焼とぞ、人の夢にはあまた見えける、
大極殿は清和天皇御宇貞觀十八年四月九日、始めて
焼たりければ、次の年正月三日陽成院の御即位は、豊
楽院にてぞ有ける、元慶元年四月九日事はじめあり
て、同三年十月八日つくり出されたりけり、後冷泉
院御宇天喜五年二月廿一日また焼たり、治暦四年八
月二日、事始有て、同じ年十月十日上棟ありけれど
も、作りも出されずして、後冷泉院はかくれさせ給
ひにけり、後三条院御時、延久四年十月五日作り出さ
れて行幸ありて、宴会行はれて、文人詩をたてまつ
り、伶人がくを奏す、今は代末になり、国の力おと
ろへて、又作り出さん事もかたくや有んとぞ歎きあ
へる、
治承元年五月五日、天台座主明雲僧正、公請をとど

められ、上蔵人を遣はして、如意輪の御本尊を召返
し、御持僧を改易せらる、すなはち使[B ノ]庁のつかひを
つけて水火のせめに及ぶ、今度神輿を捧げ奉りて、
陣頭へ参りたる大衆の帳本を召さる、加賀の国に座
主の御坊領有り、師高是を停廢の間、其しゆくいに
依て門徒の大衆を語らひて、そせうをいたす、既に
朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子がざんそうの
間、法皇大にげきりん有て、重科に行はるべき由思
召けり、明雲はか様に法皇の御気色あしかりければ、
印鑰を返し奉て、座主を辭し申けり、十一日、七宮、
天台の座主にならせ給、鳥羽院第七宮、故青蓮院大
僧正行玄の御弟子也、十二日、前座主所職をとどめ
らるる上に、検非違使二人付けて、水火の責に及ぶ、
此事に依て大衆、奏状を上げて憤り、猶参洛すべき
由聞えければ、内裏并に法住寺殿に軍兵を召集めら
る、京中貴賤さわぎあへり、大臣、公卿馳参、廿日
前座主ざいくわ有べきせんぎとて、太政大臣以下、
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公卿十三人参内して、ぢん[B ノ]座につきて、定め申さる、
八条中納言長方卿、其時は左大弁さいしやうにてお
はしけるが申されけるは、法家の勘申に任せて、死
罪一等をほろぼして、遠流せらるべしといへども、
明雲僧正は顕密兼学、浄行持律の上、大乗妙典を公
家にさづけ奉る、明王聖主には一乗円宗の御師範た
り、太上天皇には日頃受戒の和尚たり、御経の師、
御戒師、重科に行れん事は冥の照覧はかり難し、還
俗遠流をゆるさるべきかと、憚る所なく申されけれ
ば、残十二人の公卿各々左大弁定申さるる儀にどうず
と申されけれども、法皇御憤り深く思ひければ、猶
流罪に定にけり、是によりて三千の大衆等、大講堂
の庭に三塔会合して、落書有り、其状に云、
告申自(二)大衆中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道相国許(一)事、
夫座主明雲僧正者、挑(二)法燈於三院之学〓(一)、灑(二)戒
水於四海之受者(一)、顕密之大将大戒之和尚也、三觀
之隙必専(二)金輪之久転(一)、六時之次先奉(レ)祈(二)玉體之長

生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆之思深
援(二)九院之朽梁(一)、護国之志厚而却(二)六蠻之凶徒(一)、依
(レ)之法侶擅(二)修学(一)、悪党隠(二)矢弓(一)、已運(二)修羅道之巧(一)、
而餝(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)
兵俗之具(一)而残(二)法僧之具(一)、寧非(二)朝家嚴制(一)也、為(二)
天朝(一)為(二)国家(一)治者明人也、然有(二)一類謗家(一)而所
(レ)悪也、成(二)創瘠(一)矣、是不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)尋(二)真
僞(一)、預(二)於重科(一)、蒙(二)流罪(一)之条、非(二)是君[B ノ]有(一)(レ)偏、非(二)
是臣無(一)(レ)忠、讒奏酷僞言之巧故也、讒口鑠(二)荒金(一)、
毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、抑明法道之勘状所(レ)載三箇条
事、先快修僧正事、全以非(二)前座主之推印(一)代々
座主之替補、未(レ)任(二)自由(一)、唯衆徒探(二)器量(一)而申(二)
乞貫首之職(一)、亦先座主依(レ)為(二)二宗[B ノ]英花(一)、主(二)於一山
之貫長(一)、是只衆徒之採用也、全非(二)自力結構(一)也、
矧雖(レ)有(二)犯過(一)、於(二)赦免之後(一)者、非(レ)所(レ)糺(二)法量(一)、
何由無罪而被(レ)趣(二)勘責(一)哉、若本自不(レ)叶(二)叡情(一)者、
何於(二)其時(一)可(レ)被(レ)補(二)座主職(一)哉、次成親卿訴訟発
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起之由、亦以無実也、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)
当代(一)、皆是往代之例也、或将(レ)断(二)根本之常燈(一)、或
闕(二)恒規之祭祀(一)依(レ)之受(二)末所之愁訴(一)而及(二)本寺之
悲歎(一)、列(二)大師門徒(一)之習皆成(レ)之、教納者不(レ)歎(二)三
聖之威光消(一)、誰輩不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)、衆徒三千
之蜂起、何被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何况於(二)先
座主(一)者、大畏(二)勅制(一)而頻雖(レ)制(二)大衆[B ノ]蜂起(一)、依(レ)残(二)
愁訴(一)、尚以蜂起矣、抑於(二)成親卿師高(一)者、瑕瑾何
事哉、於(二)今度事(一)、自(レ)始固雖(レ)加(二)禁制(一)、及(二)大事(一)
者、不(レ)拘(二)禁遏(一)、戴(二)三社神輿(一)而参(二)九重之金闕(一)、
曩時之例中古之法也、厥皇化者専(二)天下之大平(一)、貫
首者慕(二)山上之安穏(一)、臣下可(レ)思奏者可(レ)量、有(二)何
幸(一)者可(レ)存(二)乱世之基(一)、豈勸(二)騒動於三千人之衆
徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首[B ノ]進止(一)、遂(二)
訴訟之本意(一)事、先皇之代在(レ)之、明哲之時有(レ)之、
天之所(レ)壊不(レ)可(レ)支歟、衆徒所為不(レ)可(レ)妨、已此理
歟、為(レ)承(二)罪科之由緒(一)、雖(レ)挙(二)度々[B ノ]陳状(一)、於(レ)事依(二)

怨家之語(一)而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官隨(二)奸人之謀(一)不(二)
奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被
(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、是傷(レ)人之言甚(二)劔〓(一)
此謂歟、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)而損(レ)人者也、
故忘(二)先例讒達之巧(一)故也、亦君非(レ)寄(二)叡山[B ノ]仏法(一)、
怨人之不(レ)顧(レ)所(レ)疵歟、誠魔界競(二)我山(一)而法滅之期
得(二)此時(一)歟、波旬荒(二)洛城(一)而無実之咎達(二)叡聽(一)歟、
爰衆徒等悲(二)仏法之命根之断(一)歎(二)大戒之血脈[B ノ]失(一)之
処、如(二)風聞(一)者、師高行(二)向二村之辺(一)、可(レ)夭(二)害先
座主(一)云々、弥々失(二)前後(一)亡(二)思慮(一)、且芳(二)明徳(一)、且為(二)
最後[B ノ]面拝(一)、被(レ)向(二)宿所(一)而為(レ)陳(二)申仔細(一)、乍(レ)恐留(二)
申先座主(一)之許也、夫根朽枝葉枯、一宗長[B ノ]者衰、三千
之倶可(レ)哀、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、且悲(二)師資相承之
断(一)、非(レ)惜(二)人名(一)、偏惜(二)法[B ノ]疵〓(一)、祇(二)候於鳳城(一)而皆
護(二)持龍顔(一)、縦雖(レ)有(二)重疊之〓(一)、何不(レ)被(レ)免(二)於積
労(一)、縦雖(レ)有(二)過去之業(一)何不(レ)被(レ)置(二)禮於戒師(一)、若
夫有(二)證據(一)者、尤可(レ)賜(二)正文(一)也、非(レ)返(二)勅定(一)、陳(二)
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仔細(一)也、又恵信僧正事、謂(二)其例(一)者、不(レ)及(二)大海
之一滴(一)、不(レ)足(二)須弥之蠧害(一)、而彼寺僧進而申(二)朝罰(一)、
此者依(レ)為(二)天台依怙(一)、而衆徒軽惜(二)流罪(一)而已、以(二)
此旨(一)可(レ)被(二)執啓(一)、夫国之理乱者、任(二)臣之忠否(一)也、
若不(レ)被(レ)糺(二)邪正之道(一)者、寧天子之守在(二)海外(一)矣、
とぞ書たりける、太政入道是を見給ひて、尤いはれ
ありと思はれければ、此事申とどめんとて参られた
りければ、御風気と仰せられて、御前へも仰されざ
りければ、憤りふかくして出られにけり、
廿一日、前座主明雲僧正をば僧の流罪の例にせられ
んとて、度縁を召返されて、大納言大夫藤井[B ノ]松枝と
俗名を附けていづの国へ流さるべきよし宣下せらる
皆人傾申けれども、西光法師のむじつのざんそうに
依てかく行はれけり、其頃京中にはきせん上下門々
にさかもぎを引きて用心しけり、かかりければいか
なる者がよみたりけん、ふだに書て立たりけり、
松枝は皆さかむきになり果て

山には座主にするものぞなき W027 K014
衆徒西光法師父子が名字を書きて、根本中堂におは
します十二神将のとら神に当り給へる金毘羅大将の
御足の下に踏せ奉て、十二神将、七千夜叉時刻を廻さ
ず西光法師もろたか父子二人が一つのたましひを召
給へやと、じゆそしけるこそをそろしけれ、今夜都
を出し奉れと院宣厳しく、追立のけんびゐし白河の
坊に参りて、此由申ければ、廿一日白河の坊を出給
ひて、伊豆国の配所へ赴給ふ御有様こそかなしけれ、
昨日までは三千人の貫首と仰られて、堂輿、四方輿
にこそ乗給へるに、あやしげなるてんまにゆひぐら
と云物をきてのせ奉り、いつくしげなる御手に皆す
ゐしやうの御ねん珠を持給たりけるを、手綱に取ぐ
してくらの前輪にうつぶき入給ひて、みなれ給ひし
御弟子一人も附奉らず、門との衆徒も見送り奉らず、
官人どものさきに追立られて、関より東に赴き給ふ、
御心のうち、中有のたびとぞ覚しける、爰にゆめみ
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る心地して、流るる涙に御目もくれ、行先も見え給
はず、是を見奉て上下涙を流さぬはなかりけり、日
もすでに暮ければ、あはたぐちの辺、一切経の別所
と云所にやすらひ給ふ、夜を待あかして、次の日の
午の時ばかりにあはづの国分寺の堂にしばらく休み
給ふ、是に依て満山の大衆一人も残らず東坂本へ下
りて、十ぜんじの前にしゆ会して、せん議しけるは、
伝へ聞く、震旦の天台山は長安より丑寅、我朝のひ
えいざんは、平安城より鬼門也、伝経、慈覚、智證
大師の御ことは申に及ばず、義真和尚より此かた五
十五代、いまだ天台座主流罪の例を聞かず、末代と
いへどもいかでか我山に疵をばつくべき、所詮三千
人の大衆身を我山の貫首に奉り、命をばいわう山王
に奉て、あはづへ罷向ひ貫首を取とどめ奉るべし、
但追立の官人、領送使あんなれば、取得奉んこと難
し、山王大師の御ちかひより外は頼方なし、事故な
く取得奉べくは、只今しるしを見せ給へと、三千人

の衆徒一同にかんたんを碎きてきねんす、爰に一人
の物ぐるひ出来れり、無動寺ぼうしに乗円律師の童
べに生年十八に成けるが、暫く狂ひをどり、五體よ
り汗を流して申けるは、世はすゑなれども、日月は
いまだ地におちず、国はいやしけれども、霊神光を
かがやかす、爰に貫首明雲は我山の法燈、三千の依
怙たり、然るを罪なくして、他国へうつされん事、
一山のかきん、生々世々心うかるべし、さ有んに取
ては、我山のふもとに跡をとどめて何かせん、本土
へこそ帰んずらめとて、袖を顔に押当て、さめざめ
となきければ、大衆是をあやしんで、誠に山王の御
たくせんならば、我等ねんじゆを奉らんを、少しも
たがへず元の主にかへし給へとて、念珠を同時に宝
前へなげたりければ、物狂ひ是を悉く拾ひ集めて、
いかに我をば引みるぞ、返す返す存外なる次第也、
左はあれどもくわくわうけとれと、一々にもとのぬ
しになげ返したびけり、殊に我山の七社権現の霊験
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あらたかにおはします忝なさに、大衆涙を流しつつ、
さらばとくとくむかへ奉らんとて、或はべうべうた
る志賀の唐崎の濱路に、駒にむち打衆徒もあり、或は
まんまんたるやまだ、やばせの湖上に舟にさほさす
大衆もあり、東坂本よりあはづへつづいて、国分寺
の堂におはしましける座主をとめ奉りければ、きび
しげなりつる追立の官人も見えず、領送使もいつち
にか行ぬらんうせにけり、座主は大きにおそれ給ひ
て、勅勘のものは月日の光にだにもあたらずとこそ
申せ、時刻をめぐらさず追ひ下すべきよし宣下せら
るる処に、しばらくもやすらふべからず、衆徒こと
ごとく帰登り給へとて、はしぢかく居給ひて宣ひけ
るは、三台槐門の家を出で、四明幽渓のまどに入し
より此かた、広く円宗の教法をまなび、わが山興隆
をのみ思ひ、国家をいのり奉こともおろそかならず、
門徒をはごくむ心ざしもふかかりき、身にあやまる
ことなく、両所、三聖も定めて照覧し給ふらん、無

実のざんそうに依て、遠流の重科を蒙る、是も前世
の宿業にてこそ有らめと思へば、世をも人をも神を
も仏をも更に恨み奉る事なし、是まで訪ひ来り給へ
る衆徒のほうしこそ申盡しがたけれとて、涙にむせ
び給ふ、香ぞめの御袖もしぼる計也、これを見奉て、
そこばくの大衆も皆涙を流し、やがて御輿をよせて
乗せ奉らんとしければ、昔こそ三千人の貫首たりし
かども、今はかかる様になりぬれば、いかでかやん
ごとなき修学者、智恵深き大徳たちにはかかげられ
て、我山へはかへり上るべき、わらぐつなど云もの
しばりはきて、おなじ様に歩みつづきてこそ上らめ
とて、のり給はざりければ、らんげきの中なれども、
萬もの哀也けるに、西塔、西谷に戒浄房の阿闍利祐
慶とて、三塔に聞えたる荒僧有けり、黒草をどしの
鎧の大荒目なるを草ずりながに着て、三枚甲を猪首
にきなし、三尺五寸の大長刀の茅の葉の如く成をつ
き、大衆の御中に申候はんとて、さしこえさしこえ分行
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て、座主の御前に参りて、かぶとをぬぎ、荊の方へ
がはとなげ入ければ、しもべ法師原取てけり、長刀
を脇にはさみ、ひざをかがめて申けるは、か様に御
心つたなくわたらせ給ふに依て、一山に疵をもつけ
させ給ひ、心憂めをも御らんぜられ候ぞかし、貫首は
三千人の衆徒にかはりて流罪の宣旨を蒙り給ふ、三
千の衆徒は貫首にかはり奉て、命を失ふとも何の愁
か有ん、とくとく御輿に召れ候へと申て、座主の御
手をむずと取て、御輿にかき乗せ奉りければ、座主
はわななくわななく乗給ひぬ、やがて祐慶輿の先ぢんを
かく、後ぢんわかき大衆、行人などかき奉りて、あ
わづより鳥の飛がごとくして登山する、祐慶阿闍梨
には一度もかはらざりけり、長刀の柄もこしのなが
えもくだくる計ぞ見えたりけり、後ぢんは怺へずし
て各々かはりけれども、さしもさかしき東坂本を平
地を歩むにことならず、大講堂の庭にかきすへ奉る、
行歩叶はであはづへくだらぬ老僧共は、此事はか様

に有るべきぞや、日頃一山の貫首とあふぎ奉りつれ
ども、今は勅かんを蒙り給ひて、遠流せらるる人を
中途にて横取にとどむる事、始終いかが有べからん
など議すれども、祐慶少しもはばからず、扇子ひら
きつかひ、むねをしあけて、むな板きらめかして申
けるは、恵良、脳をくだきしかば、一人是をたつと
び、尊意、威を振ひしかば、萬方是をあふぐ、然れば
我山は是れ日本無双の霊地ちんご国家の道場也、山
門の御威光弥々さかんにして、仏法、王法牛角也、し
ゆとの意趣も余山に越、いやしき小法師原に至まで、
世以て猶かろしめず、いかにいはんや明雲僧正は智
恵かうきにして、一山の和尚たり、徳行無双にして、
三千の貫首たり、しかるを罪なくして罪を蒙給ふこ
と、是しかしながら山上洛中の鬱り、興福をむじや
う寺のあざけりか、かなしき哉や、此時に当て、けん
みつの主をしくわんのまどの前には蛍雪のつとめす
たれ、三みつのだんの上にはごまのけぶりたえず、
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心うき事に非や、伝へ聞く、ぎをん寺の住僧は密多羅
王の宣をかへし、せい凉山の斉僧は会昌天子の軍を
防ぐ、法のために身を殺し、師にかはりて命を捨る、
月氏、震旦、其例是多し、誠に中途にしてとどめ奉
たる事、違勅の罪科のがれがたくば、所詮今度三塔
の張本にさされて、きんごく流罪せられ、かうべを
はねられんこと、全いたみ存べからず、かつうは今
生の面目めいどの思ひ出たるべしと高声にののしり
て、両眼より涙をながしければ、満山の衆徒是を聞
て、老たるも若きも衣の袖をぬらしつつ、尤尤と
一同す、頓て座主をかき奉て、東塔の南谷妙光坊へ
ぞ入り奉りけり、夫よりして祐慶をば異名にはいか
め房とは名附けれ、其弟子慧慶律師をば子いかめ、
其弟子さんけい、備前注記を孫いかめと申けるとか
や、
時のわうわいは権化の人ものがれざりけるにや、大
唐の一行阿闍梨は玄宗皇帝の御時、無実のあやまち

に依てつみを蒙りしことありけり、其故は楊貴妃と
云人おはしき、もとは仙女にておはしけるが、唐女
とげんじ給へり、蓬莱宮へ帰り給ふべき期も近くな
りにけり、御兄の楊国忠を召して、帝にわかれ奉る
べき期の近づきたるやらん、此程は胸さわぎうちつ
づきはかなき夢の見えて、常は心のすむぞとよと宣
ひければ、人の身に拂難延命事、受戒のくりきにし
くはなし、一行阿闍梨を召して、后戒受け給べき由
聞えけれども、帝の御ゆるしなるらんには、たやす
く戒を授奉り難き旨を申さる、和尚は菩薩の行を立
てて、一切衆生みちびき給ふなるに、なんぞ我身一
にかぎりて戒を授け給はざるべきやと、后うらみ給
ひければ、さらばとて野坂宮といふ所へ入奉り、七
日七夜ぼさつの浄戒を授け奉る、其ころあんろくざ
んといひける大臣、奸心をさしはさみて、やうこく
ちうを失ひて、国務をとらばやと思ふ心深くして、
つゐでをもとめける折節、此事をもらし聞て、密に
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皇帝に申けるは、后すでに帝にふた心おはしまして、
国忠に御心を合せて、一行に近附給ふことあん也、
君うちとけ給ふべからずと、帝是を聞給ひて、貴妃
は我に心ざし浅からず、一行又尊き僧也、何故にか
只今さること有るべきと宣ひけれども、実否を知給
はんために、やうきひの真のすがたを少しもたがへ
ず繪に書き奉べきよしを一行に仰らる、一行もとよ
り大唐一のにせゑの上手にておはしければ、斯るは
かりごと有とも知給はず、筆を盡して貴妃の形をう
つして参られけるほどに、いかがしたりけん筆を取
はづして、貴妃のほぞの程にあたりて墨附てけり、
墨の附所に貴妃のほぞには黒子と云もの有けるとか
や、書直さばやと思はれけれども、帝おそしとせめ
給ひければ奉りぬ、帝是を見給ひて、安禄山は誠を
いひけり、一行貴妃に近づき給はずば、いかでかは
だへなる黒子をば知るべきとて、すなはち一行を火
羅国といへる国に流さる、件の国はふるき王宮なり

ければ、彼の国へ下る道三あり、一をば林池道とい
ふ、此道は行幸の道也、一の道をば極池道と名附、
貴賤上下を嫌はず行通ふ道也、一の道をばあんけつ
道と名附たり、犯科の者の出来ぬれば、遣す道也、
此道は四十里の河あり、水湛々としてきはもなく、
もろもろの毒蟲あり、さればわたり着事難し、自然
わたり附ぬれば、又七日七夜空を見ずして行道ある
国也、冥々としてひとり行、峰よりみねに登れば、
雲霧風をわけて跡もなし、谷より谷に下れば、がん
くつそびえて底もなし、行天くらくして、前後道ま
どひ、しんしんとして人なし、幽谷の鶏一声鳴、さ
こそ心細く思ひ給ひけめ、思ひやられて哀也、一行
無実にて遠流の罪を蒙る事、天道あはれみ給ひて、
九曜のかたちを現じて守り給ふ、一行ずゐきの余り
に、右の小ゆびをくひ切、左の三衣の袂に九曜のか
たちをうつしとどめ給ひにけり、火羅の圖とて我朝
まで流布する九曜まんだらと申は是也、抑一行阿闍
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梨と申は、元は天台一行三まいの禅師也、其後真言秘
法にうつりて、専此行を行給ひしかば、一行とは名付
たり、其聖跡を尋ぬれば、大日八代の末葉、龍猛菩
薩よりは五代、龍智阿闍梨よりは四代、善無畏三蔵
の孫弟子、金剛智三蔵の嫡弟也、国家の重寶として
人しんの依怙たりしを讒し申けることこそ浅ましけ
れ、我朝の明雲僧正は両宗の法燈をかかげて、一朝
の護持を致す、遠くは釈迦、大日の教法を学び 、近
くは伝教、慈覚の余流をくむ、法雲一天におほひ、
徳水四海にみてり、先賢にもありがたく、後哲にも
まれなるべし、末代に相応し給はで、かかるうきめ
を見給ふこそかなしけれ、昔の禄山は一行をざん奏
して、ほどなくめつしにき、今の西光は明雲を讒言
して、即時に亡ぶべきかと智臣傾申けるとかや、大
衆前座主を取とどめ奉るべき由、法皇聞し召し、いと
ど安からず思召けるに、西光入道内々申けるは、昔
より山門の大衆乱れがはしき訴訟仕ることは、今に

はじめねども、いまだ是ほどの狼藉承り及ばず、今
度ゆるゆるに御さたあれば、世は世にても有べから
ず、能々御いましめ有べしなどとぞ申ける、身の只
今亡びんずる事をもかへり見ず、山王の神辺をも憚
からず、か様にのみ申て、震襟をなやまし奉る、浅
ましきことなりけり、讒臣国をみだし、妬婦家をや
ぶる、実なる哉、〓蘭欲茂、秋風敗之、王者欲明、
讒臣蔽(レ)之といへり、斬(レ)人刃自(レ)口出斬(レ)之、敬(レ)人種
自(レ)身出蒔(レ)之と云、本文違はず、西光法師が天台座
主を様々に讒奏し奉り、山門の滅亡、朝家の御大事
を引出す事こそ浅ましけれ、此事武家に仰せられけ
れども、すすまざりければ、新大納言以下の輩、武
士を集めて山をせめらるべき由さた有けり、物も覚
えぬ若き人々、北面、下臈などは興有ことに思てい
さみあへり、少し物の心をも弁へたる人は、只今天
下大事出来なんこは心うきわざかなと歎きあへり、
又内々大衆をも拵へ仰せられければ、院宣度々下る、
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かたじけなければ、左のみ詔命をたいかんせんも恐
れ有ければ、思ひ返しなびき奉る衆徒もありけり、
座主は妙覚坊におはしましけるが、大衆二必有と聞
給ひければ、何にと成んずらんと心ぼそくぞ思しけ
る、
成親卿は山門の騒動により、私の宿意をばおさへら
れけり、其内儀したくさまざまなりけれども、儀勢
ばかりにて叶ふべしとも見えざりけり、初は太相国
うつべきしたく各々はかり申けるは、来六月七日は祇
園の神事にて京中六波羅何となくひしめく事有らん
ず、其紛れに、多田蔵人大将軍として八条おもてに
よすべし、法勝寺の執行平判官は七条がまへの小川
に向ふべし、近江入道式部大夫修善寺の西裏へ押寄
て、後ろの竹林に火をかけて攻んに、太政入道天へ
あがり地に入べきか、只今宿望は遂なんずとぞ申あ
へけり、其中に多田蔵人行綱はさしものちぎり深く
頼れたりけるが、この事無益なりと思ふ心つきにけ

り、さて弓袋の料に新大納言より得たりける五十た
んの布ども、ひたたれ、はかまに裁繼して、家の子
郎等に着せつつ、目うちしばだたきて居たりけるが、
つらつら平家のはん昌する有さまを見るに、当時や
すくかたぶけがたし、大納言のかたらはれたる兵も
いくほどなし、よしなき事に與力してけり、若此事
もれぬるものならば、誅せられん事疑ひなし、いひ
がひなき命こそ大切なれ、他人の口よりもれぬ先に
返り忠して命生なんと思ひて、五月廿九日夜うち更
て太政入道の方へ行向ひて、行綱こそ申べきこと候
て参て候へと申ければ、常にも参らぬ者の、只今夜
中に来るこそ心得ね、何ごとぞきけとて、平権頭も
り遠が子主馬判官もり国を出されたり、人伝に申す
べきことにては候はず、直に見参に入て申すべしと
申ければ、入道右馬頭重衡を相具して、中門の廊に
出あはれたり、入道宣ひけるは、六月無禮とてひもと
かせ給ひ、入道も白衣に候ぞとて、白かたびらに大
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口ふみくくみて、すずしの小袖うちかけて、左の手
にうち刀ひさげて、右の手にて蒲あふぎつかはる、
此夜はまさにふけぬらん、いかに何事におはしたる
にか、行綱近々とさし寄て、小声に成りてささやき
申けるは、いと忍て申すべきこと候て、昼は人めの
つつましきに、わざと夜に入て紛て参りて候、院中
の人々兵具を調へ、軍兵を召し集めらるる事をばし
ろし召れて候やらんと申ければ、いざ我は山の大衆
を責らるべきとこそ承れと、いと事もなげに宣ひけ
れば、其儀にては候はずとて、日頃年月新大納言を
始として、俊寛が鹿の谷の山庄にて寄合々々、内議
支度しける事、某はとこそ申候しが、かくこそ申候
しがと、人のよきことしたるを、我が申たりと云ひ、
我が悪口したるをば人の申たるに語なし、五十たん
の布のことをば一端もいひ出ざりけり、有のままに
さし過て、さまざまの事ども取つけて委く申ければ、
入道大に驚きて宣ひけるは、保元平治より此かた、

君の御ために命をすてんとする事すでに度々也、人
はいかに申とも、君々にて渡らせ給はばいかで入道
をば子々孫々迄も捨させ給ふべき、おほそれながら
君もくやしくこそ渡らせ給はんずらめ、抑此こと院
は一定しろし召れたるかと宣ひければ、仔細にや及
候、大納言の軍兵催され候しも、院宣とてこそ催さ
れ候しかとて、其外もさまざまの事どもいひちらし
て、いとま申とて帰にけり、新大納言にさしもちぎ
りふかく頼れける行綱が、返り忠しけるうたてさよ、
曲戦在昔不変も心とこそ文選の中にも申されたれ、
空行鳥をも取つべし、海底の魚をも釣つべし、唯は
かりがたきは人の心のうち也、弓矢取ほどの者の同
じくは思切べかりけるものをとぞのちは人申ける、
入道大音にて子どもよびあげられけるけしき、門外
まで聞えければ、行綱さしもやはとこそ思ひつるに、
たしかの證人にや立られんずらん、あなおそろしと
て、野に火を附たる心地して、人も追はぬにとりは
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かまして急ぎ馳かへりぬ、入道貞能を召して、むほ
んの者どものあんなるぞ、侍どもきと召集めよ、一
家の人々にも各々ふれ申せと宣ひければ、面々に使を
はしらかして、此由を申に、およそいづれもいづれもさ
わぎあひて、我先にとはせあつまる、右大将宗盛、
三位中将知もり、左馬頭重衡、其外の人々、侍、郎等
各々かつちうをよろひ、弓矢を帯してはせつどふ、其
勢雲霞のごとし、夜の内に五千余騎に成りにけり、
六月朔日いまだほのぐらき程に、入道の内のけんび
ゐし安部の資成を召して、院の御所へ参りて大膳大
夫の信業を呼出して申べしよな、ちかく召仕はるる
者共の朝恩にほこる余りに、世を乱さんと仕由承候
へば、尋さた仕るべく候と申せとて参らせらる、資
成急ぎ院の御所へ参りて、信業を呼出して此由を申
ければ、信業色を失ひて御前へ参りて奏聞しけれど
も、分明の御返事なかりける、此事こそ御心得られ
ね、こは何事ぞとばかり仰あり、資成急ぎ馳帰りて

此由を申ければ、入道よし御返事あらじ、何にとか
は仰有るべきぞや、君もしろし召されたりけり、行綱
はまことしけりとて、筑後守家貞、常陸守景家等を
召して、むほんの輩其数あり、上下北面の者ども、
一人ももらさずからめとるべきよし下地せられけれ
ば、或は一二百騎、二三百騎を以て押寄からめ取け
り、
西光法師事
其中に左衛門入道西光は日の始より根本與力の者な
りければ、かまへてからめ迯すなとて、松浦太郎重
としが承り、方便を附て伺ひける程に、西光は院の
御前にて人々の事にあひける事を聞て、人のうへと
も思はず浅ましと思ひて、あからさまに宿所を出て、
又御前へ参けるに、物のぐしたる武士には目もかけ
ず、足ばやにあゆみけるを、先に待かけたる武士申
けるは、八条の入道殿より、きと立より給へ、申合す
べき事有と仰せられ候といひければ、西光少し赤面
してにが笑ひし、公事に附て申上べき事候、やがて
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参り候べしと云ひて、あゆみすぎんとするに、後に有
ける武士かはひや和入道らが何事をか君に申べき、
世の大事を引出して、我も人もわづらひあり、物な
いはせそとて、打ふせてつな附けて、武士十余人が
中に追立て行て、八条にてかくと申入たりければ、
門より内へは入られず、すなはち重俊が承て、事の
起りを尋られければ、はじめは大きに争ひて、我身
にあやまたぬ由をちんじければ、入道大に腹を立て
乱形にかけて打せたげて向ひければ、有事無きこと
皆落にけり、かかせて判せさせて、入道殿に奉る、
入道是を見給ひて、西光とりて参れと宣ひければ、
重俊が家の子郎等ら、空にもつけず地にもつけず、
中にさげて参りたり、やがてめんだうの唐かきの前
に引すへらる、入道は長絹の直垂に黒糸をどしの腹
巻にこがね作りの太刀かもめじりにはきなして、尻
きれはきて、中門の簀の辺に立れたり、其気色やく
なげにぞ見えられける、西光をにらまへて宣ひける

は、いかに己ほどの奴は入道をかたぶけんとするぞ、
もとより下郎の過分したるはかかるぞとよ、あれほ
どの奴原を召し上げて、なさるまじき官職をなし給
ひて召仕はせ給へば、父子ともに過分のふるまひす
るものかなと見しに合て、罪もおはせぬ天台座主ざ
んげんし奉て、遠流に申行て、天下の大事引出して、
あまつさへ此事に與力してけるが、根元よりきの者
と聞たり、其仔細具に申せと宣ひければ、西光もと
よりさる者なりければ、少しも色も変せずわろびれ
たる気色もなくて、あざ笑ひて、のちことせんとて
申けるは、院中に召し仕はるる身にて候へば、執事
別当新大納言殿、院宣とて催され候しことによりき
せずとはいかでか申べき、與力して候き、但耳にと
どまる御言葉をつかはせ給ふもの哉、他人の前は知
らず、西光が前にては過分の詞はえこそつかはせ給
ふまじけれ、見ざりしことか、入道殿の父忠盛は中
御門のとう中納言家成卿の辺に朝夕ひらあしだはき
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て閑道より通り給ひしをば、人高平太と申て笑ひし
が、わ入道殿も忠盛の嫡子といひしかども、十四五
迄は叙爵をだにもし給はず、かふりをだにも給はら
せ給はで、継母の池の尼上に小目見せられて有し時
は、あは六波羅の高平太が通るはとて、京童はゆび
をさして申しが、其後故刑部殿海賊張ぼん三十余人
からめ参せられたりし軍功の賞に、去保延の頃とか
や、とし十八九がほどにて四位して、兵衛佐になり
給ひしをこそゆゆしきことかなと、世以て傾申しか、
王孫とはいひながら、数代久なりくだりて、殿上人
の交りをだにも嫌はれて、闇討にせられんとし給ひ
し人の子にて、今恭く即闕官を奪ひ取て、太政大臣
まで成あがりて、剰天下を我ままにせらるる、是を
こそ過分と申べけれ、侍ほどの者の受領検非違使靱
負尉になる事、傍例、先例なきに非ず、なじかは過
分なるべき、わ入道こそ過分よ過分よとゐたけ高く成
て、詞もたわまずさんざんに申ければ、入道余りにい

かりて物も宣はず、暫ありてはらをすへかねて、つ
とあゆみよりて、尻きれはきながら、西光がつらを
ひたひたとけて検非違使の下部を召して、西光めさ
うなくくびきるな、よくよくさいなめと宣ひければ、
重としが郎等つつとよりて、大しもとをもて七十五
ヶ度の考棒を、ほうに任てくはへてけり、心たけく
西光思ひけれども、もとより問ぞんぜられたりける
上、しもとの身にしみて術なければ、声をあげてぞ
さけびける、西光法師は三位[B ノ]中将知盛のめのと紀伊
次郎兵衛尉ためのりがしうとなりければ、三位[B ノ]中将
も西光を我に預け給へと、二位殿に附て申されけれ
ども、聞入られず、ためのりも人手にかけ候はんよ
り、預り候ていましめ候はんと申けれども、預給は
ず、是によて三位中将も、次郎兵衛も、二人ながら
世を恨みて、世間さわがしかりけれども、さしも出
されざりけるとかや、
新大納言成親事
其後入道小平太と云中げんを召して、中御門新大納
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言の許に行て、申合すべきことあり、急ぎ立寄給へ
と申べしと宣ひければ、使はしりつきて此様を申、
大納言思はれけるは、あはれ是は例の山の大衆のこ
とを申されんずるやらん、此事はゆゆしく御憤り深
げなり、叶ふまじきものをと思ひて、我身の上とは
露ちり知給はで出立れけるこそはかなけれ、八葉の
車のあざやかなるに、前駈二人、侍三四人ばかり召
具して、なゆ清げなる布衣たほやかに着なし、雑色、
牛かひまでも常の出仕より引繕ひたる體にて出られ
ける、それを最後の出仕とは後にぞ思ひ合せ給ひけ
めと哀也、入道おはする西八条近くやりよせて、其
程を見給へば、軍兵充満したり、あな夥し、こはい
かなる事ぞ、只今山を責られんずるにやと、胸打さ
わぎて車よりおり給ひければ、門の内には兵、所も
なくうちこめて、只今ことの出来たる體也、中門の
戸にこぐそくばかりつけたる者二人立向ひ、大納言
の左右の手を取て飛が如くにして内へ入ければ、た

だ夢の心地して、あきれて物も覚え給はざりけるに、
又兵七八人ばかりつとよりて、しや、もとどりを取
ぬれば、御ゑぼうしも落ち、布衣も破れにけり、兵
前後に立圍みて、中門の上へ引のぼせて、侍の上に
一間成処に押こめつ、是を見てともに有つる諸大夫、
侍も、雑色牛かひも目口はたかりて、とかく物もい
はれず、牛車を捨て四方に逃失ぬ、大納言は六月の
さしもあつきに、一間なる処に籠られて、装束もく
つろげずしておはしければ、あつさもたへがたさも、
せん方なくて涙も汗も争ひてぞながれける、中にも
はや日頃あらましことの聞えけるにこそ、いか成者
のもらしつらん、北面の者の中にこそ有らん、小松
大臣は見え給はぬやらん、さりとも思ひはなち給は
じものを、同じく死ぬるとも、物一こといひ置て死
ばやと思はれけれども、誰して宣ふべしともなし、
身のかくなるに附てもあとの有さまいかならん、お
さなきものども覚束なしなど、さまざまあんじつづ
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け給ひけるほどに、良久有りて、内の方より人の足
おと高らかにして来りければ、大納言は只今失はれ
んずるやらんと、気も心もけして居られたりけるに、
入道、大納言のおはしける後の障子を荒らかにさつ
と明られたり、そけんの衣のみじからかなるを、白大
口とふみくくみて、ひじり柄の刀をおしくつろげて、
大にいかれる気色にて、大納言をにらみ附て宣ひけ
るは、大納言殿一とせ平治の逆乱の時、信より義朝
に御同心あて、朝敵と成給ひたりし時、越後の中将
とてしまずりの直垂にはかま着て、折ゑぼし引入て、
六波羅のむまやの前に引すへられておはせしかば、
死罪に定りて、すでに誅せらるべきにて有しを、内
府がとかく申なだめたりしかば、七代まで守りの神
とならんと手を合せて、なくなく宣ひし事は忘給ひ
たるな、人はみめかたちのなだらかなるをば人とは
申さぬぞ、恩をしるを人と申ぞ、わ殿の様なる者を
こそ人のかはを着たるちく生とはいへ、されば何に

のくわたいに依て当家を亡すべき御結構は有けるや
らん、されども微運盡ざるに依て、此事顕はれてむ
かへ申たり、日頃御結構の次第、只今直に承るべし
と宣ひければ、大納言涙を流して、なまじひに身に取
て全く誤りたる事候はず、人のざんげんにて候はん、
委くは御尋有べく候と宣ひければ、入道いはせもは
てず、西光法師が白状参らせよと宣ひければ、捧て
参りたり、入道急ぎ引広げて、くり返しくり返し二三通
までよまれたり、成親卿を始として、俊寛が鹿の谷の
坊にて平家を亡すべき結構の次第、法皇の御幸、
康頼がこたへに、一事としてもるる所なく、四五枚
にしるされたり、是はいかに、此上はひちんにや及
ぶべき、是をばどこを争ふぞ、荒にくやとて、白状
を大納言の顔に投附て、障子をちやうとたてて入給
ひけるが、なほはらをすへかねて、つねとほ、兼や
すはなきかと宣ひければ、つねとほ、かねやす、す
ゑさだ、盛国など参りければ、誰が下知にて大納言
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をば、障子の内にはのぼせたるぞ、あれ坪の内に引
おとして取ふせて、したたかにさひなみて、おめか
せよと宣ひければ、つね遠以下兵どもつとよりて、
大納言を庭に引おとす、其中にすゑさだ元より情あ
る者にて、大納言を取ておさへて、左の手にて大納
言の首を強くとらへ、右の手にて胸をおす様にて、
さすが強くもおさず、すゑさだ口を大納言の耳にさ
し当て、入道殿の聞せ給はん様に、御声を只をめか
せ給へとささやきければ、大納言声を上て二声三声
をめかれけるを、入道聞給ひて只おしころせやおしころせや
とぞ宣ひける、其ありさまめも当られず、地獄にて
ごくそつ阿防羅刹の浄はりの鏡に罪人を引むかへ、
先世につくりし所の業によて呵責をくはへ、業のは
かりにかけて、軽重を糺して、刑罰を行はんも、か
くやと覚えて哀なり、かくしてすゑさだ退にけり、
なんばの次郎つね遠と云あたかほなし、我もかくし
て御気色に入んと思ひて、又つと寄りて、大納言の

上にひたと馬のりに乗ゐて、左の手の中の指をのけ
ざまにおり附けて、縄附け候べきやらんと申ければ、
入道さすがに今日こそ敵ならめ、昨日まで禁裏、仙
洞にて扇を並べし卿相に、忽にはぢを見せんこと、
かはゆくや思はれけん、おとなしにておはしければ、
又兵よて引起しておし立てて、もとの所に押込てけ
り、昔蕭囚執、韓彭〓醢、晁錯受(レ)戳、周魏見(レ)〓、
受(二)小人之讒(一)、受(二)禍敗之辱(一)といへり、蕭何樊〓、韓
信、彭越、皆高祖の功臣たりしかども、かくのみこそ
ありけり、唐朝にも限らず、我朝にも保元、平治の頃
は浅ましかりしことども有しぞかし、新大納言一人
に限らずこはいかにせんずるとて、人歎あひける、
小松内大臣しげ盛公は其後いと久ありて、ゑぼし、
直垂にて子息中将車の尻に乗せて、衛府四五人、ず
ゐじん二三人ばかり召具して、それも皆布衣にて物
具したる者一人も具せず、いとのどやかにおはした
り、入道をはじめ奉て、人々思はずに思ひ給へり、
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いかに是ほどの大事出来たるにはと、人々宣ひけれ
ば、内府宣ひけるは、天下の御大事をぞ大事とは云、
何程のことか有るべきぞと仰せられければ、人々皆
しらけにけり、兵具を帯したる者そぞろきてぞ有け
る、内府さるにても大納言をばいかにしけるやらん、
今のほどには死罪、流罪にはよも及ばじと覚して見
廻り給へば、侍の障子の上にふしぬぎと云大きなる
木をくもでにゆひちがへたる一間なる所あり、日ご
ろはかかる様にもなし、俄に出来ければ、爰に大納
言は籠らせたりなどおぼして、只今通る由をおとづ
れらる、あんの如く大納言はくもでのあいより内府
を見附けて、地蔵菩薩を見奉りたるも、是には過じと
うれしくて、是ぞいかなることにて候ぞ、誤りたる
ことも候はぬものを、さておはしませば、さりとも
とこそ思ひ奉り候とて、はらはらとなき給ふもむざ
ん也、大臣は人のざんげんにてぞ候はん、御命ばか
りは申請ばやと思へども、それもいかが候はんずら

んと頼もしげなく宣へば、心うし、平治のらんの時、
うせぬべかりしに、御恩をもて命をいけられ奉て、
位正二位、官大納言にいたり、年すでに四十あまりに
なり侍ぬ、生々世々にも報じがたくこそ思給へ、今
度は命ばかりを同じくいけさせ給へ、髪をおろして
かうや粉がはにもこもり居て、一筋に後生のつとめ
をせんと宣へば、哀に覚えて、重盛かくて候へば、
さりともと思召さるべし、御命にかはり奉るべしと
て立れにければ、かく宣ふに附ても、かひなき涙の
みぞ流れける、少将も召とられぬらん、残りとどま
るあとの有さまもいか成らん、おさなきものどもも
覚束なし、我身の御事は去事にて、是を思ひつづく
るにも、むねもせき上げて、あつさもたへがたきに、
くるるを待て、命もたえぬべくぞ思ひ給ひける、内
大臣のおはしつるほどはいささかなぐさむ心地もし
つるに、いと言葉すくなくてかへり給ひて後は、今
少しものもおそろしくかなしくぞおぼされける、大
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臣は入道の前におはしたりければ、入道宣ひけるは、
大納言むほんの事と聞れざるか、さん候皆承て候、
さていか様なる罪に行はるべきにて候やらん、こと
もおろかや、只今きらんずるものをと宣ひければ、
扨は不便のことにてこそ候なれ、大納言失はれん事
は、能々御はからひ候べし、七条修理大夫あきすゑ
の卿、白河院に召仕はれてよりこのかた、家久しく
成てすでに位正二位、官大納言までのぼりて、当時
も君の御いとをしみの者なるを、我身に仇をなせば
とて、忽にかうべをはねられん事いかが有べからん、
かく聞し召れ候とも、若僻事にても候はば不便の事
にて候はずや、北野の天神は時平の大臣のざんげん
によて、八重のしほぢに赴給ふ、西の宮の左大臣は
多田新発意がざんげんに依て尾張辺どへうつされ給
ふ、各々無実なりけれども、流罪せられ給ひき、是皆
えん喜聖主、安和御門の御僻事とこそ申伝へたれ、
上古猶かくのごとし、いかにいはんや末代をや、賢

王猶御あやまりあり、いはんや凡夫をや、くはしく
御尋あるべし、御思惟も有べきか、ものさわがしき
事は後悔先にたたずとこそ申候へ、すでにかく召置
れ候上は、急ぎ失はれずとも、何のくるしみか有べ
き、罪のうたがはしをば只軽くせよ、功のうたがは
しきをば只重くせよとこそ申伝へたれ、いか様にも
今夜かうべをきられん事然る可らずと宣ひければ、
入道猶心ゆかずげにて、返事もし給はず、内大臣かさ
ねて申されけるは、重盛彼[B ノ]大納言のいもとに相具し
て候、これもり又大納言のむこ也、か様に近くなり
候へばとて、申とや思し召され候らん、其儀にては
候はず、世のため君のためを存て申也、一年保元逆
らんの時、故少納言入道信西が執権の時に相当て、
本朝にたえて久しかりし死罪を行ひて、左府の死骸
を実検せられし事などは、余りなる御政とこそ覚候
しか、古人の申されしは、死罪を行はるれば、むほ
んの輩絶べからず、此言葉はたして中二年ありて、
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平治に事出来て、信西が埋まれたりしをほり出して、
かうべを切て渡されにき、保元に申行事忽に報て、
身の上にむかはれにけり、思ひ合せられて恐ろしく
候ひしが、是はさせる朝敵にもあらず、かたがたお
それ有べし、御身栄華は残る所なければ、今は思召
事なけれども、子々孫々に至るまではん昌こそあら
まほしけれ、しやく善の家には余慶あり、積悪の家
には余殃とどまるとこそ承れ、されば周の文王は大
公望に命ぜられて、おのれがかうべを恐るるごとく
にせよ、唐の太宗は張温古を切りて、後五覆奏を用
ひらる、又善を行へば、則休徴報(レ)之、あくをおこな
へば、すなはち咎徴随(レ)之などとも申たり、又世をし
づめん事は琴を鳴すがごとし、大絃急なる時は小絃
絶ずきるとこそ、天りやくの帝も仰られけれなどと
こまごまこしらへ申されければ、げにもとや思はれ
けん、今夜切べき事は思ひなだめて、其日は暮にけ
り、内大臣はかくこしらへおき給ひけるが、猶心安

からず覚えて、然るべき侍どもを召て宣ひけるは、
仰なればとて、重盛にしらせずして、左右なく大納
言を失ふこと有べからず、腹の立ちのままものさわ
がしき事は後悔先に立給ふまじ、ひが事仕出して、
重盛を恨むなといましめられければ、武士ども舌を
ふりておぢあへり、つねとほ、かねやすなどが大納
言になさけなく当りたりける、返す返す奇怪也、重
盛がかへり聞ん所をばいかでか憚らざるべき、忠清、
景家ていの者ならば、たとひ入道殿いかに仰らるる
ともかくはよもあらじ、かた田舎の者はかかるぞと
よと宣ひければ、難波次郎、瀬の尾太郎ら恐れ入
たり、
平家物語巻第二終