平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第六

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平家物語巻第六
后腹の皇子はもつともあらまほしき事なり、白河院
御在位の時、六条左大臣あきふさの御娘を、京極大殿
猶子にしまいらせ給ひて、入内ありしかば、皇后宮
賢子と申き、その御腹に皇子御誕生あらまほしく思
召されて、三井寺に実誠房の阿闍梨頼豪と聞えし有
験の僧を召して、皇子誕生祈申されき、御願成就せ
ば、けんしやうは請によるべしと仰下されたりけれ
ば、頼豪かしこまてうけ給候ぬとて肝胆を碎きて、
祈念し申されけるほどに、かひがひしく中宮御くわ
いにんあて、承保元年十二月十六日おほしめすまま
に、皇子御誕生ありしかば、主上殊にえいかんあり
て、頼豪をめして御皇子誕生の勧賞には、何事をか
申うくると仰せ下されければ、頼豪別の所望候はず、
三井寺のかいだんを建立して、年来の本意を遂げん

と申けり、主上仰のありけるは、こはいかに、かか
るけんしやうとや思し召されし、我身二かいの僧正
なんどを申べきかとこそ思召されつれ、是存外の所
望也、凡そ皇子誕生ありて祚をつがしめん事も、海
内無為の儀を思召す故也、今汝が所望を達せば、山
門憤り深くして、世上静なるべからず、両門合戦出
来りて、天台の仏法忽に亡びなんずとて、御ゆるし
なかりければ、頼豪悪心に住したるけしきにて申し
けるは、この事を申さんとてこそ、老の波に肝胆を
碎きて候ひつれ、かなはざらんには思死にこそ候な
れとて、水精のやうなる涙をはらはらと落して、な
くなく三井寺にまかり帰りつつ、持仏堂にたて籠り
て飲食を断ず、主上是をきこしめして震襟安からず、
朝政怠らせ給ふに及べり、御歎の余りに、江中納言
匡房その時は美作守と申けるを召して、頼豪が皇子
誕生の勧しやうに、園城寺に戒壇を建立せんと申す
を、望み申す旨御ゆるしなしとて悪心を発すよし聞
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ゆ、汝は契深からんなり、罷向ひてこしらへなだめ
てんやと仰下されたれば、頓て内裏より装束をも改
めず、そくたい正しくして、頼豪が宿坊へ罷向ひて
見れば、持仏堂のあかり障子護摩のけぶりにふすぼ
りて、何となく身の毛も立て覚ゆれども、宣旨の趣
を仰含とてかくと申入たりけれ共、対面もせず、持
仏堂にたて籠り、ねんじゆうちしてありけるが、や
や久しくありて、もての外にふすぼりたる幕の内よ
りはひいでて、持仏堂のしやうじあららかにさとあ
けて、さし出でけるを見れば、よはひ九十有余なる
僧のしらがながく目くぼみ、かほの正体も見えず、
誠におそろしげなるけしきにて、しはがれたる声に
て、何事をか仰せらるべきぞ、天子に二言なし、綸
言あせの如し、出でてかへらずとこそ承はれ、これ
程の所望をかなふまじからんには、いのり出し参ら
せし皇子を具し参らせて、ただ今魔道へ罷候なんず
とばかり申て、しやうじをちやうと立てて入にけり、

匡房力及ばず帰られにけり、頼豪は其後七日と申け
るに、持仏堂にて干死にしににけり、さしもやはと
思召ける程に、皇子常はなやませ給ひければ、御祈
おこたらせ給はず、頼豪があく霊になりにければ、
一乗寺御室戸なんどいふ智證の門徒に尊き僧ども召
して、御加持ありけれどもかなはず、承暦元年八月
六日、皇子御年四歳にてつひにうせさせ給にけり、
敦文親王の御事これなり、主上殊に歎思召されて、
西京座主りやうしん大僧正、その時は円融房の僧都
と申て、山門にあるやんごとなき人なりけるを召し
て、此事を歎き仰られければ、いづれの御代にも、
我山のちからにてこそ、か様の御願は成就すること
にて候へ、九条の右丞相慈恵僧正に契申されしによ
てこそ、冷泉院の御たんじやうもありしか、なじか
は御願成就ましまさざるべき、本山へ帰のぼりて、
両所三聖いわうぜんせいに他念なく祈祷申ければ、
同三年七月九日、御産平安皇子誕生ありき、堀河の
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院の御事なり、是より座主は二間三ョ[B ママ]に候はれけり、
思召さるに応徳三年十一月二十六日春宮にたたせ給
けり、同十二月廿九日御即位、寛治二年正月廿日御
とし十一歳にして御元服ありき、されどもおそろし
き事どもありて、御在位廿二年、嘉承二年七月十九
日御歳廿九にて、法皇にさきだたせましまして崩御
ありき、是も頼豪が死霊のいたす所なりとぞ時の人
申ける、さて頼豪は山門のささへにてこそ我宿願は
遂ざりしかとて、大なる鼠となりて山の聖教をくひ
ける間、この鼠を神といはふべしとせんぎありけれ
ば、社を作りて祝ひて後、かの鼠静りにけり、東さ
かもとに鼠のほこらとて当時あるは則是なり、今も
山には大なる鼠をば頼豪とぞ申ける、頼豪ゆゑなき
もうしうにひかれて、多年の行ごうをすて、畜趣の
報をぞ感じける、かなしかりかる事也、つつしむべ
しつつしむべし、治承三年にもなりぬ、正月元三の儀式、い
つよりもはなやかにめでたかりし事どもなり、誠に

さこそありけめとおしはからる、
丹波少将都遷
丹波の少将は、正月廿日賀世庄を立て京へ上り給へ
り、都に待人もいかに心もとなく思ふらんとて急が
れけれども、余寒も猶はげしくて、海上もいたくあ
れたりければ、浦伝ひ島伝ひして、二月十日頃に備
前の兒島にこぎよせて、船よりおりてそのあたりの
けいきを見給に、谷河の流水の色悠々として幽なり、
鶯のなみだのつらら打とけて、いそやま桜ほの見え
て、必春の霞秋の霧にはあらねども、海人の塩やく
島なれば、けぶりはいつもたえざりけり、故大納言
の御座ける所へ尋入て向給ひければ、国人申けるは、
始はこの島に渡らせ給ひしが、是は猶あしかりなん
とて、是より北備前備中両国の境に、細谷川を帯に
せる吉備の中山の麓、板倉の郷の内、悉談寺青蓬寺と
の中に有木別所と申す山寺の候に、難波太郎俊定と
申者の古屋に渡らせ給候と承り候しが、はや昔語り
にならせ給にきと申ければ、少将さぞかしといよい
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よかなしく思して、まづ初父大納言のおはしましけ
る所をたち入て見給へば、庭には葎のみはひかかり
て、柴のいほりに竹のあみ戸を引たてたり、浅まし
き山辺なり、岩間を伝ふ水の音、幽々として絶々た
り、峰を吹すさむ嵐の音さつさつとして心細し、い
かばかりかは思にたへず、かなしく御座けんと袖も
しぼりあへ給はず、それより又舟にのりてかのあり
木の別所を尋ね入て見給へば、是又うたてげなるし
づがふせ屋なり、かかる所に暫くもおはしましける
事よと、後までもいたはしくて、内に入て見廻給へ
ば、古き障子に手習したる所やぶれのこりたり、あ
はれ是は故大納言のかきおかれたるよなど打見給ふ
に、涙さつと浮びければ、少将袖を顔をおしあてて
立のき、やや入道殿それに書たる物御覧ぜよとすす
め給へば、判官入道近くよりて見れば、前には海水
〓々として月真如の光りを浮べ、後には巌松森々と
して風常楽の響を奏す、雲東天にはれ、波西海に静

也、まことに三尊来迎の儀式もたよりあり、九品往
生の望たりぬべし、けいべんがまくちて蛍むなしく
さる、諌鼓苔深うして鳥驚かずとぞかかれたる、是
を見奉るにこそ、いささか厭離穢土欣求じやうどの
心もおはしましけるにやと、かぎりなき思ひの中に
も少し心安くおぼしけれ、又常に居給ひけるかと覚
しき、かたはらの障子に、六月十三日出家、同廿七
日のぶとし下向とぞかかれたりける、故入道殿の御
手跡とこそ見参らせ候へと申ければ、少将なくなく
立よりてこまこまと見給ふに、まことに父の手跡違
はず、さてこそ源左衛門尉が下りたりけるよと知り
給ひにけれ、信俊が都より下りたりける事を悦ばし
さの余りにや、ゐられたりける所の西の障子にぞ、
日かずを忘れじとかかせ給たりけると思しくて哀な
り、誠に父存生の筆のあと、其御子として後に見給
ひけん手跡は千年もありぬべしとは、是やらんと悲
しくて少将かくぞ思ひつづけられける、
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はかなしや主はきえぬる水ぐきの
あとを見るこそかたみなりけれ W056 K278
康頼入道、
くちはてぬその名ばかりはありきにて
あとかたもなくなりちかのさと W057 K056
御墓はいづくぞと問給へば、この屋のうしろの一村
の松のほどと申ければ、少将涙をおさへて、草葉を
わきて尋ね入給へば、露も涙もあらそひてぬれぬ所
もなかりけり、そのしるしと見る事もなし、誠に誰
かは立べきなれば、卒都婆の一本も見えず、ただ土
の少し高くて、八重むぐら引ふさぎたるが苔深く茂
る計りなるぞそのあととも見えける、少将その前に
つゐ居給ひて、袖をかほにおしあてて、涙にむせび
給ふ、判官入道も是と見て、余りにかなしくて、墨
染のたもとしぼるばかりなり、少将やや久しくあり
て、涙をおさへて、さても備中国に流さるべきと承
りしかば、渡らせ給ふ国近くや候らんと悦ばしくて、

相見奉る事はなくとも、何となくも頼母しく悦ばし
くこそ候つるに引かへて、さつまのかたに、流され
候てのちに、かの島にてはやはかなくならせ給ひて
候と計り、僅鳥なんどのおとづれて通る様に、かす
かに承り候し心中のかなしさは、唯おしはからせ給
ふべし、万里の波涛を渡りて鬼海が島へ流されし後
は、一日片時もたえてあるべしとも覚え候はざりし
に、遠きまほりとならせ給たりけるにや、露命消え
ずして、三年を待くらし、ふたたび都へかへり、妻子
を見る事は悦ばしく候へども、ながらへて渡らせ給
はんと見奉らばこそ、かひなき命のあるかひも候は
め、たとひ定業かぎりある御命なりとも、などか去
年の秋より今年の春まで、是に御座ざらん、これま
ではいそぎつれども、これより後は行空もあるべし
とも覚え候はずと、生たる人に物をいふ様に、墓の
前に夜もすがらくどき給へども、春風にそよぐ松の
音ばかりにて答ふる人も更になし、歳さり年来れど
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も、忘れがたきは撫育のむかしの恩、如夢如幻而、尽
がたきは恋慕の今の涙、求姿而無容、只想像苔の
底朽る骨、尋声而無益、徒聞墳墓松風こそかなし
けれ、成経が参りたりと聞給はんに、いかなる火の
中水の底におはしますとも、などか一言のなかるべ
き、生死をへだつるならひこそかなしけれとのたま
ひて、なくなく旧苔をうち拂ひ、はかをつき、父の
御ためとて、道すがらつくり持たせられたりけるそ
とばを取よせて、かの有木の別所院主、覚円房の阿
闍梨とて、貴僧を請じて供養をいたさる、聖霊決定と
いふ文の下に、孝子成経と自筆に書き給ひて、はか
に立てて、くぎぬきしまはして、又も参らぬ事もこ
そあれとて、はかにかり屋を作り、七日七夜ふだん
念仏申て、くわこしやうりやうしやうとう正覚とん
せうほだいといのり給ふ、草のかげにもいかに哀れ
と思ひ給ひけん、あやしの賤のを賤のめに至るまで、
袖をぬらさぬはなかりけり、父の御名残もをしく思

はれけれども、北の方少なき人々の御行へもさすが
覚束なく思ひ給ひければ、まうじやにいとま申て、な
くなく備前国をもこぎいで給ひにけり、都もやうや
う近づき侍につけても、哀はつきせずぞ覚えける、
宰相は少将の上り刻限も近くなりたりとて、むろた
かさごの島まで迎ひに人を遣しつつ、しかるべき船
なんどの通る時は、かかる人やおはするなど、尋ける
心の程こそ返々せつなりけれ、三月十六日に少将い
まだあかかりけるに、鳥羽につき給へり、今夜六波
羅の宿所へ急ぎ行ばやと思しけれども、三とせが間
余りにやせ衰へたる有さまを、人々に見られんこと
もはづかしくて、宰相の方へ文にて申されけるは、
これまではとかくしてたどりつきてこそ候へ、昼は
見苦しく候に、ふくるほどに牛車給るべしと申され
たりければ、宰相のもとには、少将の御文とて、鳥羽
までつき給ふよし青侍来りて申たりければ、宰相を
始め奉りて、高きも賤しきも悦び給へり、福原へめ
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し下されし御歎きの涙よりも、只今上り給ふよし聞
給ひける御悦びの御涙ははるかにまさりたり、つぼ
ねつぼねの女房めの童迄、昼はいかなるぞや、必しも
ふけて入せ給ふべき事やはとて、心もとなげにぞ申
あひける、
成親山荘事
新大納言の宿所は都の内、山ざとにも限らず、所々に
あまたありける中に、鳥羽の田中の山庄はてうぼう
四方にすぐれて、地形水色興をまし哀を催す所なり、
大納言随分秘蔵して洲浜殿と名づけて作くり置かれ
たりし亭なり、少将かの宿所に暫くやすらはれける
に、いつしか田舎に引かへてありしにもあらぬさま
也、されども三とせが程聞かざりし入相のかねのこ
ゑごゑおとづれて、日の入ほどになりにけり、比は
三月の中六日のことなれば、やうばいたうりの色折
しりがほなるにほひもなつかしく、うぐひすの百囀
の声すでに老たれども、詠ぜし人も今はなし、庭の
桜は所々にちり残りて、また名残がもとさすがに哀

なり、少将内へ入て見めぐられければ、門はあれど
も戸びらなし、ついぢはあれどもおほひなし、らん
もんみだれて地に落ち、から垣破れて〓[B ママ]滋り、田向
の桟敷をはじめとして、屋数はむらむら残りたれど
も、ひはだも椽もくちはてて、しとみやり戸もなか
りけり、軒にしのぶ草おひ茂り、月もれとてはふか
ねども、いたくまばらになりにけり、庭には人あと
たえてあともなし、みたりとも覚えぬ千草生て、ふ
みわけたるあともなし、あさぢがはずゑに露むすび、
鶉の床とぞなりにける、故大納言はかれよりこそい
でられしか、ここは妻戸なりしかば、故大納言はこ
こにはいられしかなど、つくづくと思ひ続け給ひて
そぞろに涙ぞ流れける、大納言ひざうして、住吉の住
の江殿をうつしてつくられたり、去ぬる応保二年二
月廿一日に事はじめありて、同三年に造畢あり、造り
出して廿一日と申に法皇御幸なる、大納言家の面目
これに過ずと思はれければ、様々にもてなし参らせ
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て 、法皇の御前には八葉の御車に五をの御すだれか
けて壹岐太とてひざうせられたる御牛にかけて、御
車皆ぐし進らる、公卿十人にうし一かしらつつに南
廷十宛、殿上人十二人に鞍置馬一疋、裸馬一疋あて、
上北面十六人にそめ物十二、絹十、綿五十両づつそへ
られたり、下北面の輩にはいろいろの装束に白布十
たんづつ具られたり、御力者とねりうしかひ御車ぞ
ひなんどが中には、鵝眼五百貫出されたり、かかり
ければ人耳目を驚かす、其の日も暮にければ、終夜
の御酒宴ありけるに、夜しんかうに及ぶ、一つのふ
しぎあり、法皇南殿を御覧じ出して渡らせ給ひける
に、御えんの柱に年八十有余なる老翁白髪をいただ
きて、たえゑぼししりさがりにきなして、すそはく
ずのはかまにしたくぐりて、上はけんもしやのかり
衣の、もてのほかにすすけたるをたほやかにきて、
ひさまづいてつまじやくとりて、畏て居たり、余の
人はかかる人ありとも見知りたる気色もなし、法皇

御めをかけて、あれは何者ぞと御尋ありければ、しは
がれたる声にて是は住吉の辺に候こせうにて候が、
君にうつたへ申すべき事候て、恐れをかへりみず推
参仕て候なり、われ年来ひざうして朝夕愛し候住の
江と申所を、此ていしゆにうつされて候間、住吉無
下にあさまになりて、ないがしろになりはて候なん
ずと存候て、その仔細を歎き申さんとて、よひより
参りて候つれども、見参に入る人も候はぬ間、五夜
まさに明なんと仕候へば、直奏仕候事恐入て候、所せ
んこのよしをよくよく仰ふくめらるべく候やらん、
か様に申入候はんをも、御用ひ候はずば、常に参り
かよひ候はんずれば、御はからひに候とて、南をさ
して飛さりぬ、法皇不思議の事かなと思召されてけ
れども、御披露にも及ばず、そのうへ御醉乱のほどな
りければ、後には思召わすれさせ給ひけるにや、大
納言も常に宿し山水木立面白き所なればとて、法皇
も時々御幸なりて、さまざま御遊ありければ、住吉
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のとがめも通り給ひけるにや、次の年の夏の頃、住
吉の明神の御とがめとて、上皇常に御なう渡らせ給
ひければ、御存命のために御出家ありけるとぞ聞え
し、さればなりちかの卿もかの明神の御とがめにや、
いく程なく備前のこじまへ下られければ、後にぞ彼
所もあれはてて、今は野干のすみかとなりはてぬ、
いよいよおそろしくこそ覚しか、少将見めぐり給へ
ば旧苔ひきふさぎて人跡まれなる宿なれや、弥生も
中の六日になりぬれば、青陽の春もすでに暮れなん
として、宮の鴬の声も既に老たり、桜梅は四季をわ
すれず咲きたれど、花にともにちりはてて、詠ぜし
友は目に見ず、されば古き詩を思ひいでて、
桃李不言春幾暮、烟霞無跡昔誰栖、 K057
人はいさ心もしらず古さとの
花ぞむかしにかはらざりける W058 K058
さて姑射山仙洞の池の汀を望ば、白波うちかけて鴛
鴦白鴎せうようして、興せし人の恋しさに涙もさら

にとどまらず、南楼の木の下には嵐のみおとづれて
夢をさます友となり、木の間もる月影の袖に宿借し
名残をしたふかと覚えたり、終日になきくらし給ふ
ほどに、宰相殿より御迎の車参りたりと申ければ、
少将判官入道おなじく車にあひのりて北へぞ向はれ
ける、判官入道申けるは、一ごう所かんの事なれど、
先世の芳縁も浅からず、しかれども、漕出し硫黄が
島たへがたう悲しかりし事、僧都の残しすてられて
なげきかなしみしあり様、我等があらましの熊野ま
うでのしるしにや、二たび都へかへりのぼりぬる事
のありがたさなんどたがひにかたりつつ、各袖をぞ
しぼられける、さても三とせの間はなれ参らせ候つ
る御なごりこそ、この世にて忘るべしとも覚え候は
ね、今は同じ都のすまゐにて候はんずれば、日比の
御名残は参り候て申べしとこそ、契ねんごろにして、
墨染の袖しぼるばかりにて申けるは、むかしめしつ
かひ候し下人、ひんがしやま双林寺と申所に候、い
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まだながらへて候はば、草のいほりを結びて、今は
一向後生ほだいのいとなみの外は他事候まじ、もし
真如堂雲居寺なんどへ御参詣候はん御ついでには、
必す御たづね候へ、性照も世しづまり候はば、つね
は六はら辺へは参り候べしとて、七条東の朱雀より
おりて、東山へぞ行ける、少将は六波羅へおはした
れば、乳母の六条は黒かりしかみも白みて見え、北
の方も事の外にやせおとろへ給へり、思歎きの浅か
らざりける程も思ひやられて哀なり、わが流されし
時、四になりし若君も、髪くびのまはりなりしが、お
ひのびてゆふ程なり、見わすれ給はざりけるにや、少
将の御ひざ近くなつかしげに近づきたまふ、又北の
方のかたはらに、三ばかりなるおさない人のおはし
ましけるはたぞとのたまひければ、北の方これこそ
とばかりにて、涙を流しうつぶしたまふにこそ、さ
てはながされし時、心ぐるしく見おきし腹のうちな
りしが、生れて人となりにけるよと心得てければ、

是を見るにもつきせぬものはただ涙ばかり也、むか
しもろこしに臣宗憲朔とて二人のあきひとありき、
天台山にのぼりけるが、帰らんずる道をわすれて、
山の中にまよひしに、谷河よりさかづきの流れいで
たるを見つけて、人の栖家の近き事を心得て、その
水上を尋ねつつ行こといくばくをへずして、一の仙
家にいたりにけり、ろうかく重疊として草木もみな
春の景気なり、しかうして帰らん事を望みしかば、
仙人いでて、帰るべき道を教ふ、急ぎ山を出でて、
おのれがさとをかへり見れば、人も栖家もことごと
くありしにもあらずなりにけり、浅ましく悲しくて、
くはしく行末を尋ねければ、あるもののいはく、わ
れはむかし山に入てうせにし人のその名残七世の孫
也とぞ答へける、少将今度の宿所の荒にけるありさ
ま、此人どもの人となりたまひけるを見たまひしこ
そ、彼仙家より帰りけん人の心地して、夢のやうには
おぼされけれ、少将はいつしか御所へ参りて、君を
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も拝み奉らばやと思しけれども、恐れをなして、左
右なくも参り給はず、法皇もいつしか御らんぜまほ
しく思はせたまひけれども、世にはばかりありて召
されざりけり、判官入道は東山の旧跡に行てつくづ
くと見れば、見しにもあらずかはりたれども、植置
し草木は花盛に咲みだれつつ、さ夜ふくるままに、い
つよりも月すみていとど心のすみければ、
古郷の軒のいたまに苔むして
思ひしよりももらぬ月哉 W059 K060
少将は世も猶おそろしくつつましければ、人にもい
で合ひたまはず、深く忍びてぞおはしましける、六
はらの門脇なれば、別に何事かはあるべきなれども、
常はもとどりをはなち、しとみのうへばかりをあけ
て、用心して御座ける、都帰りしたまひて後、十二
三日の程にもやなりたまひけん、少将のもとへと康
頼入道が許へ、太政入道使者をつかはして、時のほ
どに西八条に立寄らせ給候へ、申談ずべき事候とぞ

よばれける、人々是を聞て何となく又なきあひけり、
中にも康頼入道が母の歎こそ申ばかりなくむざんな
れ、我が子の袖に取つきて、三とせがほどなきくら
して、たまたま帰京の恩赦にあうて後は、そこをこ
そは今世後生も頼み思ふに、それまでこそなからめ、
剰へ重ねて老の涙に袖をぬらすかなしさよ、ありし
時露命のきえたらましかば、二たび物は思はざらま
しと泣き悲みければ、母の思ひさこそと思ひやられ
て、康頼入道も袖をぞしぼりける、使者二三度に及び
ければ、少将もあまりの事にて物ものたまはず、さ
いしやうの北の方、少将の北の方、六条寄あひてを
めきかなしむ、これ程ならば、ただ島にても置たて
まつらで、今一度あひ見奉るは嬉しけれども、又目
の前にてうしなひ奉て歎んことこそ悲しけれ、当時
何事をか入道殿、少将殿にのたまひ合られん、この御
言葉は御身にあててはいまいましき言ぞかし、大納
言のうせ給とても、時の程立寄らせ給へとてこそ、
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二度も帰り給はで、終にむなしく成らせ給ひしか、
然らばこの少将殿もいかなる罪にかあたりたまはん
ずらんといひつづけて、泣悲しむ中にも宰相殿のた
まひけるは、あな心うや一とせ目の前にて失せたま
ふべかりしを、様々に申こうてあづかり奉りし程に、
ほどなく召し返されて、硫黄が島に流されにき、そ
の時心うく思ひしかば、思ひ切るべかりしを、恩愛
の道力及ばぬことなれば思ひ切らずして、人のそし
り恥をもかへり見ず、隙を伺ひて申のぼせ奉りたれ
ば、又幾ほどなくかやうにのたまへば、今度少将い
かにもなりはて給はば、教盛も本どり切り、かうや
粉河にもとぢ籠り、うき世はいくほどならぬ習なれ
ば、しづかに念仏申て後生をたすからん、少将の後
生もとぶらふべしとて泣き給へば、少将の北の方こ
のありさまを見奉りて、御志は今にはじめぬ事なれ
ども、是程まで思召つらん事よと、且はかたじけな
く且はいたはしくて、とにかくに尽きせぬものは涙

なり、さればとてあるべきにもなきうへ、使者重疊
してければ、少将後世にてはかならずといとまこひ
てなくなく出給ひにけり、先には流罪なりしかば、
ひまもあらばさりともと頼まれつるに、今度は定め
て死罪にてぞあらんずらん、今ぞ限りのわかれにや
となきかなしみ給ふぞ理なる、さて少将西八条にお
はしたれば、康頼入道ともに中門の廊に入奉る、何
なるうき目を見んずらんと思ひ給ふ所に、太政入道
出たまひて居直り上居して暫くありて、人や候と召
されけり、越中の前司盛俊とて参りたり、御酒参ら
せよとのたまひければ、かねて用意したりければに
や、瓶子一具に種々の肴けつかうして出されたり、こ
れも何事なるらんと二人の人々おそろしかりけり、
されどもことなる仔細なかりけり、入道酒をすすめ
給て、酒もりなかばになりにければ、少将の前に馬
十疋に鞍おきて、その上になんりやう砂金よき羽な
んどあまた出されけり、康頼入道もともにもてなさ
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る、少将殿をば本の如く安堵せさせ奉る、重ねて庄
園三ヶ所奉られけり、かくもてさなるるは何故ぞと
尋ぬれば、この少将のしうと平宰相と申は、入道の
さいあいの舎弟なり、この少将殿を三年がほど心を
いたましめ給へるその思ひを慰め奉り、かつうは宰
相の心をもなだめんが為に、かくもてなさるるとぞ
うけ給る、入道よき事顔に、いかにこのほどすまれ候
けん、硫黄が島の眺望はいかで、いかなる所にて候
けんぞと問ひ給へば、少将彼島と申候は山高くそび
えて、火常にもえ上り、いかづちなりさかり、隣里
には雨しげくふり候て、物うき所の一にて候と、世
につらげに申されければ、入道うちうなづきて、さ
ては興ある所にて候ひけり、さぞ御名残はおしく思
され候らんと大に笑ひて内へいり給ぬ、今は別事よ
もあらじとて二人つれて出で給ふ、先使者を遣して
少将殿事故なく帰りたまふよしを申ければ、人々是
をあまりに思ふ事なれば、夢にてばしやあるらん、

夢ならば覚めて後いかにせんとぞ思はれける、少将
車より下りて入給ふを見奉るにこそ、誠とも思はれ
けれ、死たる人のよみがへりたるが如く悦びなきど
もせられけり、入道使をたてて申つかはされけるは、
少将殿もとの如く御所の出仕候べしとのたまへば、
少将引つくろひはじめて出仕あり、御所中の女房た
ちしかるべき人々少将を見たまひて、露命きえやら
ずしておなじ世にある人は、あひ見る事にこそ、硫
黄が島と聞し時は、二たび見奉らんとも思はざりし
に、おなじ君の御代に出仕せしめたまふ事の不思議
さよと、哀に思はれければ、人々袖をぞしぼりける、
院は少将を御前に召して一目御覧じて、両眼ところ
せくおはしますぞかたじけなき、少将も涙にむせび
てものも申されず、たがひに哀なる御ありさまなり、
やや久しくありて法皇いかにと御定あり、硫黄が島
のてうばうは、いはまの波のおと、松吹嵐のすさま
じく、旅泊に夢をやぶり、何事につけても一日露命
P203
のながらへ候べき様も候はねども、君を拝み参らせ
候べき縁の候けるにこそ、けふまでつれなくながら
へて、龍顔を拝み参らせ候へと申されたりければ、
理なりとて哀に思召けり、誠に父大納言住吉に祈り
申されし事のかなひければにや、はるかに命ながら
へて万里の波涛を凌ぎ帰り、二たびめしつかはれ、
父大納言の家を継ぎて、雲上につらなり、宰相の中
将になりて、後には祖父跡中納言までになられしこ
そ、ありがたくは人思ひけれ、かやうに栄花の家にか
へりてこそ、さつまがた鬼海が島の思ひをも慰めた
まひけれ、さても俊寛僧都ばかりは罪深く方人もな
ければ、非常の大赦にももれて、心うき島のすもり
となりはてて、ただひとりまよひありきけるこそむ
ざんなれ、その中にことに哀なりし事、僧都世にあ
りける時、多く思召仕はれける者どもの中に、殊に
不便に思はれける者兄弟二人あり、兄をば亀[B 松カ]王丸、
弟をば有王丸とぞ申ける、彼等二人は、越前国水江

庄の住人黒居三郎が子どもなり、かの水江は法勝寺
の寺領也、沙汰すべき事ありて、執行自身下られた
りけるが、かの黒居が子どもを見給ひて、よきわら
べどもなりとて、われに得させよとありければ、奉
りけり、斜ならずいとをしみの者に思はれたり、上
にはわらはにつかはれけれども、心ざしは子の如く
思はれてありけり、中にも松王丸は法師になりて法
勝寺の一のあづかりにてぞありける、弟はわらはに
てつかひ侍りけり、さるほどに有王丸は僧都の流さ
れて、淀におはしましける所へ尋ね行て、さいごの
御ともはこれが限りにて候へば、いづくまでも参り
候べしとなくなく申ければ、僧都の給ひけるは、誠
に主従のちぎりむかしも今も浅からずといへども、
多くの者共のありしかども、今の世におそれてとひ
来るもの一人もなけれども、それ更にうらみ思ふべ
きに非ず、汝が一人かく申必ざしの程こそ返す返す
哀なれ、ただしわれ一人にも限らず、丹波の少将に
P204
も判官入道なんどにも人一人もしたがはずとこそき
け、各皆さつまの国硫黄が島とかやへ流さるべしと
聞ゆれば、命のあらん事もありがたし、道のほどに
てもやはかなくならんずらん、我身の事はさておき
ぬ、都に残りとどまる女房幼き者どもの心ぐるしさ
思ふばかりなし、かの人々につきて杖はしらともな
るべし、我につきたらん心ざしにはつゆすくなかる
まじきぞ、とくとく帰れとのたまひける所に、宣旨
の御使並びに六波羅の使、何事を申わらはぞと怪し
め尋ぬれば、おそろしさになくなくよどより都へか
へりにけり、兄の松王丸は僧都に別れ奉りてのちは、
宮仕侍る方もなくして、或は大原、しづはら、さが法
輪寺の方にまよひ行て、峰のはなをつみ谷の水をむ
すびて、山々寺々の仏の前に報じ奉りて、我主に今
一度あはさせ給へとぞ祈り申ける、有王丸は女房お
さなき人々に仕へて心ざしを尽し、其ひまには、ちや
うもんのみぎりや見物の所々に忍び行て、僧都の行

衛をぞ尋ね聞きける、ある所にて人の申けるは、去
々年の秋の比、硫黄が島へ流されし人々召しかへさ
れたるよし承りしが、丹波少将も平判官もすでに鳥
羽までつき給ふよし申ければ、有王丸我主も定てお
はしますらんと、斜ならず悦びて急ぎ見奉らん、か
つうは御迎にもとて四つかまで走りたりけるに、此
人々に行逢ひたてまつりたれども、僧都は見え給は
ず、わらは浅ましと思ひて、さがりたる人に立より
てひそかに問ければ、その御房いまだ島におはしま
すとこそきけとばかりにて分明ならず、一定を承ら
んとて六波羅へ行向ひ、少将の辺に尋ねとひければ、
今度の赦免にはもれていまだ島におはしますとぞ答
へける、わらはこのよしを聞定てければ、むねふさ
がりて東西も覚えず、涙にくれてうちふしけるが、
かなしみてもかひなし、なきてもあまりあり、もし
生きてもおはしまさば、いかばかり心うく思し召す
らん、したしきものにもかくともいはず、我身はい
P205
かになるとてもいかがせんと思ひ切りて、ただ一人
都をすごすご迷ひいでて、まだしらぬ道をはるばる
とさつまがたへぞ尋ね行きける、卯月十日ごろ都を
立ちて、足に任せてぞ下りける、道すがらもあやし
の者の行あひたるにつけても、我主もかくぞおはす
らめと思ひつづけられて、或時は海上に船をこし、
あるときは山川にまよふ時もあり、日数やうやうつ
みければ、百余日も過て七月下旬にぞかの鬼海が島
には着きたりける、彼島のありさま、日ごろ都にて
伝へ聞しはことの数ならず、東はまんまんたる蒼海
に、白浪ちんちんとしてうろくづだにも浮ばす、西
はががたるせい山に雲霞ふんふんとして、鳥だにも
かけらず、峰嶺に黒けぶりもえて眼にさへぎり、野
沢におつるいかづちの音耳にみてり、北の方をかへ
り見ればべうべうとしてあとも見えず、ぜんとをは
るかにのぞめば、悠々として底もわかず、何事につ
けても心細き事多かりけり、さても漁する海人に逢

うて尋ければ、京より流されさせたまひし法勝寺の
執行僧都の御房の御事やしりたるととひければ、か
しらをふりて、答ふるものなかりけり、聞もしらず
といふやらん、てんせいしらずといふやらん、いか
にも不定やことわりや、是等がありさまをみるに、
法勝寺とは何をいふやらん、執行とは何ものやらん、
僧都とは人の名ともしるべきならねば、其後は一と
せ流されておはしまししが、二人は召し帰されて今
一人おはします人はといふ時、おのづからある者申
けるは、いざとよさる人は過しころまでは何となく
まよひありきしかども、行末もしらずといひければ、
有王丸少し心落居て、この人はいまだ世におはしま
するにこそと思ひつつ、四五日はさとをめぐりて尋
ねけれども見え給はず、もしやとて山路の方にわけ
入ば、さんろに日くれぬれども、耳に満る物なし、
山遠くして雲行客のあとを埋むと覚えたり、磯べに
いでて夜を明す、松寒くして風旅人の夢をやぶる、
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樵歌牧笛の音にも非ずして、ただ耳に聞え眼にさへ
ぎるものとては、雷の声のみなり、わらはいかにす
べしとも覚えずして、峰より谷へくだり谷より峰に
上るに、渓鳥嶺猿の外おとづれを聞く事なし、白雲
あとを埋みて、往来の迹もさだかならず、青嵐ゆめ
を破りてその面かげだにも見え給はで、この人思ひ
にたへずしてはかなくなられけるにや、せめてはあ
れこそその人の骨よとしる人のあれかし、骨なりと
も拾ひて帰り上らんと思て、なくなくまた磯のかた
へ出にけり、この間は打續き空かきくもり浦風すさ
まじかりけるが、けふは日ものどかに波も心やはら
かなりければ、汐ひがたをはるばると行けども、荒
いそにて船も人もかよへるけしきもみえず、砂頭に
印をきざむかもめ、沖の白洲にすだく浜千鳥の外は
あとふみつくるかたもなし、都をいでて後、多くの
うら山をしげくわけこし、心ざし深けれども、さす
がに日数経にければ、身もつかれくたびれつつ、磯

の松陰にしばらく寄ふしたれば、僧都のありし昔の
姿にて幻のごとく見られたり、さらぬだに旅人の夢
をやふるといひながら、しばしありてほどなくさめ
ぬる事のかなしくて、涙を流しけり、けふは日もく
れぬれば、岩の枕に宿をしむ、耳にともなふものと
ては磯辺の波の音、松ふく風ばかりなり、かくて夜
も明ぬれば、今は力も尽きて覚えける時、いそのか
たより人か人にもあらざるか、がけろふなどのやう
なるものはたらくが、あやしやなどいかなるらんと
おそろしながら、さすがにゆかしければ、近づきよ
りて見れば、もとは法師なりけるかと覚えて、いた
だきの髪は天をさしてのぼりたりけるもの、やせく
ろみたるが、きたるものはきぬぬのの類にも非ずし
て、しでなんどの様なるものを身に引まとひつつ、
こしにはあらめをはさみ、左右の手にはちいさき魚
を二三にぎりて、かげもなげにてよろよろとして来
るが、ずゐぶんにあゆむやうには見えけれども、一
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所にゆるぎ立ちたり、誠にくるしげなるけしきを見
て、あなむざんの者のありさまや、京にてひん人こ
つがい多く見しかども、かかる者はいまだ見ず、物
いふべしとは思はねども、もしかやうなる者のふし
ぎに知たる事もやと思ひて、物語りせんとて近づき
よる、あはれ我主もかやうにこそ御座すらめ、せめ
てはあれほど御座すとも、いのちいきて尋ねあひ奉
りたらば、いかに悦ばしからましと思て、ややもの
申べき事あり、一とせ都より流されさせ給ひたりし
法勝寺の執行の御房のことやしり給ひたると問けれ
は、僧都はわらはを見わすれざりければ、我こそそ
よといはばやと思ひけれども、すがたこそかはらめ、
腰にさすあらめ手にもつ所の魚、いづれもいかがせ
ん、心さへ拙くなりにけるよと思はん事こそはづか
しけれ、名のらじとは思はれけれども、はるばると
尋来る心ざしをうしなはん事つみふかしなど思かへ
して、我こそそなれ有王丸かといひもはてず、手に

もちたる魚なげ捨てて、わらはが前にうつぶしに倒
れにけり、わらは我名をよぶもまことなり、その名
を名のるも実正也、かくのたまふよりなつかしくお
ぼえて、我主のなり給へるかたちを見るにせん方な
くて、僧都と手をとりちがへて涙にむせび、しばし
はたがひになくより外はなくて、一言葉もいださず、
やや久しくありて、僧都起上りつつのたまひけるは、
抑いかにしてこれまでは尋ね来るぞ、この事こそ更
にうつつとも覚えね、明ても暮ても都の事のみ思ひ
たれば、恋しき者どもの面かげは夢にも見ゆる折も
あり、うつつにまみゆるやうなる時もありき、身も
いたくつかれてのちは、夢ともうつつともわけざれ
ば、汝が来るともひとへに覚えぬぞ、朝なゆふなは
いたく都の事をおもへば、天魔、野干の我をたぶら
かさんとて、汝が姿にへんげして来ると覚ゆるぞや、
此事夢ならばさめての後いかがせん、わらはなみだ
をおさへて申けるは、誠の有王丸にて候けり、御心
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安く思召せと申ければ、僧都少し心の落居て、わら
はが手に手をとり組みて、またのたまひけるは、さ
ても多くの者の中に汝ひとり尋ね来る心ざしのよろ
こばしさは、中々とかく云に及ばず、先づ我身のあ
りさま聞よな、この島は多くの海山をへだて、雲の
よそなれば、おぼろげならでは人のかよふ事もなし、
されば都のことづてもありがたく、丹波少将のあり
し程は平宰相のもとより春のつばくらめ、秋のかり
がねにおとづれしかば、送りしものを三人してすご
しき、よろこばしき事もかなしき事も、たがひにい
ひ合せて、いたう都の恋しき時は、昔物がたりをも
し、浦づたひ島伝ひして、心をやる折もありしに、
その人々にも去年の秋より打捨られて後は、たより
なかりし事ただおしはかるべし、この輩の別れし時、
淵瀬に身をもなげ、底のみくづともならんとせしを、
少将今一度都の音づれを待聞けと、よしなく情をか
けし言葉につらされて、おろかにもしやと待つつな

がらへばやとせしかども、島の内には食事なければ、
身の力のありし程は、山に入てしほ木といふものを
きり、また硫黄をほりて、おのづから九国へかよふ
あき人にあひて、是をあきなひなんどして過しかど
も、今はちからもおとろへて、そのわざもせず、さ
ればとてすてられぬ命なれば、こつじきをせしなり、
この島じやけんの所にて、かてをあたふる人もなし、
かやうに日も静なる時は、つりする海人に向ひて、
手を合せひざをくつしてかかる魚を貰ひ、又あらめ
など拾ひてやはらかなる所をくひてこそ過ぎしか、
さらでは誰かはたすくべき、露の命の何にかかりて
けふまできえやらざるらんと思ひたれば、汝が心ざ
しを今一度見んとてけふまでありけるぞや、汝一人
を見るをもて、都の人々を皆見たる心地すとてなき
給ふもあはれなり、有王丸は涙を流しながら、九国
の地よりさまざまの菓子どもを用意しければ、取出
してなくなく進めけれども、かかる物のきびも今は
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忘れたるうへ、ただ今是をくひたればとて、しじう
是をくふべきやとて目をもかけ給はず、日暮方にな
りければ、いざ我すみか見せんとて、わらはに手を
引れておはしましけり、見れば松の四五本ある下に
竹二本よせかけて、上には草の枯葉よせきたるもく
づをひしととりかけたり、雲の通ひぢ雨風もたまる
べくもなし、下には物もしかず、砂をほりくぼめて
よろづの木葉をかきおきたり、内に入てふし給ひた
れば、足はほかにさし出たり、京のわらはの犬の家
とて作りたるは猶まだし、目もあてられずむざんな
りともおろかなり、かたはらなる竹柱に、
見せばやな哀と思ふ人やあると
ただひとりすむ岩のこけやを W060 K061
かきのからなんどにてかきつけたりなんどおぼしく
て、かすかにただよひたるやうにぞ書きたりける、
かの僧都のぞくしやうを尋ぬれば、かたじけなくも
村上のせんていの七代の後胤、官位をいへば権少僧

都、大がらんの寺務八十八ヶ庄の領を司りたまひし
かば、むねがど平門を立て、三百余人の所従けんぞ
くにゐねうせられてこそ過られしか、白河殿御坊、
鹿の谷のさんざう、京極殿宿所、ちりもすへじとみ
がかれおぼされしものを、まのあたりにかかるやう
にならせ給ふこそ、とかくいふばかりもなかりけれ、
僧都は内にてなき給へば、わらはは外にて悲しみけ
り、業にさまざまのごうあり、順現、順生、順後、順
不定業といへり、僧都一期のあいだの所用は、伽藍
の寺物しやうじやの仏物にあらずといふ事なし、然
れば信施の無所謝罪歟、何なるつみの報いなるら
んとぞ覚ゆる、
燈台鬼
昔推古天皇の御宇、迦留大臣といひし人、遣唐使に
渡りて、おんやう道をならひ、えんていをつくし奥
儀を極めて、帰朝せんとせし時、おんやうの淵源、
日域へわたさん事ををしみて、かるの大臣の帰朝を
留め、つらのかはをはぎ、ひたひにとうかいをうち、
P210
とうだいきと作りなせり、そののち皇極天皇の御時、
かるの大臣の御子弼の宰相、親の行末を悲しみて渡
唐せられたりけるに、かのとうだい鬼に行あはれた
りけれども、鬼はその子を見知りたれども、子は親
をしらざりけり、鬼かくぞ書たりける、
吾是日本花京客、汝則同性一宅人、
成祖成子前世契、隔山隔海慕情辛、
経年落涙蓬蒿宿、累月馳思蘭菊親、
形壊他州成燭鬼、何還旧里捨此身、
と書たりけり、宰相これを見てこそ、我が父かるの
大臣とはしり給ひしか、俊寛が主従こそかの弼の宰
相父子にちがはざりける物をや、これは有王丸との
たまふにこそ、しゆんくわん僧都とは知られける、
かれは万里の波涛を凌ぎて、唐土まで渡り、是は千
里の山川をわけて硫黄が島へ尋ねけり、昔今は異な
れども、徳を謝する心ざし是おなじ、父子主従はか
はりたれども、恩をはうずる心はひとつなり、僧都

のたまひけるは、此島のありさまあらあら見つべし
な、急ぎてかひなき旅なれども、かかる所にしもす
めばすまるる習ひにてありけるぞ、海山を隔て、
げに人渡らねば、暦博士を見ざれども、白月黒月の
光りをはかりて、一月二月とさとり、越路へ帰しか
りがねもやうやうまたおとづれ、峯の木葉もつもり、
雪もかつふりしくを見ては、冬になりけりと知り、
谷の氷も漸くとけて、花のさまざまに咲けるに鶯の
木ずゑにさへずるあそびを見ては、春の来にけりと
思ふに、卯花なでしこ咲みだれ、山ほとどぎすの鳴
く声聞ては、夏になりけりと思ふ、そのうつりかは
る気色をはからへば、年の三とせをおくれり、それ
にさしもの便に一こど葉のつてをいひ、文をだにな
かるらんことのうらめしさよ、いきたりとも死たり
とも、その行末を聞ばやと歎くもののなかりけるこ
そうたてけれ、我身のかくなるにつけても、故郷の
事はゆかしくこそ覚ゆれ、心つよくも三とせを過し
P211
つるものかな、さてもさてもおさないものどもの、事
こそ聞まほしけれ、少将の迎への便にも文もなし、
おのれが便にもおとづれもせぬは、是へ下るともい
はざりけるにや、又したしき人々は一人もなきかと
うらみ給へば、有王丸涙をおさへて申けるは、哀れ
猶君ははかなくおはしまし候ひけるものを、君の西
八条に召こめられさせ給ひし時、すなはち追捕のつ
かひ入り候うて、御あたりの人々上下を嫌はずとら
へからめて、らうの人やに入、せめいたましめて、
むねんの事を尋問はれ候て知も知らざるもみなうし
なはれ候ぬ、たまたま残る者も、諸国七道へ落ちう
せ、或は山林ににげかくれ、跡をとどむる者一人も
候はず、御一家人々わづかに残りとどまり給ふも、
いかにもしたまふまでの事は思ひよらず候、女房公
達の御事はただ思食やらせ給候へ、その時すでには
ぢに及び給ふべく候しかども、とかくしてもれ出つ
つ、鞍馬のおくや、醍醐なる所に忍ばせ給つつ、僅

かに御身命ばかりこそたすからせ給ひ候しかども、
いふがひなきやうにて渡らせ給ひ候し間、若御前は
常におさなき御心に、我父はいづくに渡らせ給らん、
行ばやと仰候しかば、この子はそなたとをしへ侍る
人あらば、一定行んずるものぞ心のはやりのままに
走りいでたりとも、島へも行つかず、是へも帰らず、
中にてうせん事のかなしきに、あなかしこあなかしこ、し
らすなと母御前の仰候しほどに、人のし候もがさと
申ものをせさせ給ひ候て、去年の七月十四日にはか
なくならせ給ひ候き、女房は一かたならぬ御歎の中
に、いとど思召しづませ給ひて候しが、御やまひつ
かせたまひて、同十月上旬に失させ給ひ候き、今は
姫御前ばかりこそ御わたり候が、御ありさまとかく
申もおろかなり、母御前うせ給ひて後は、都の御住
居も便なくて、去ぬる正月より奈良のおば御ぜんの
御もとに渡らせ御はしませども、心うきことのみ候
とこそ承り候へ、是へたづね参り候はんと思ひ立候
P212
し時、参り候て、かくと申入て候しかば、昔はいか
でか直に仰を承り候べきに、はし近く御出候て、な
のめならず御悦候て、あはれ女の身程口をしかりけ
るものはなし、おのこ子ならば、なんぢにつれてゆ
きなまし、父の恋しきはたとへんかたはなけれども、
思に叶はぬ事なれば、さてこそありつれ、多くの人
の中に汝一人尋ね参る悦ばしさよ、たいらかに参り
つきたらば、是を参らせよ、余りになかれて筆のた
てども覚え候はずとて、給りて候し御文などをば、島
の津にて奪ひとり候よし人のおどし候し間、もとゆ
ひの中にしこめて参りたりとて、取出して奉る、僧
都なくなくひろげて見給へば、父御前には生ながら
わかれ参らせて、すでに三とせになり候、御事をこ
そ明ても暮ても三人してなげき候しほどに、若君は
こぞの秋はかなくなり候ぬ、母御前と二人して、生
てのわかれ死してのわかれのかなしきを歎き候しほ
どに、思ひ歎きのつもりて、やまふとならせ給て、

母御前にも同冬かくれさせ給ひて候へば、母御前の
我が死なば、いかがしてたへてもあるべき、奈良のさ
とに伯母といふものあり、尋ね行と最期に仰られ候
しかば、ならの伯母御前のもとに候へども、昼はひ
めもすにかべに向ひてなきくらし、夜はよもすがら
枕とともになきあかし、月日の空しく過行につけて
も恋しく思ひ参らせ候に、かまへてかまへてこのわらは
に具して上らせ給候へと、はかなげにうら書はし書
うすくこく、さまざまに書下し給へり、僧都是を見
て暫くは物ものたまはず、此文をかほにあててたえ
入たえ入はせられけり、やや久しくありておき上りつ
つのたまひけるは、みやうけん三ぼういかにしたま
ひぬる事ぞや、たとひくわはう尽きてかかるありさ
まになるとも、夫妻は二世のちぎりと申に、去年の
秋よりはかなくなりておはしましけるを、かくと夢
にも告げ知らせ給はざりける口惜しさよ、かひなき命
のをしく故郷の恋しきも、今一度妻子を見んためな
P213
り、さりとしりたりせば、何しに今までながらふべ
きぞ、干死にもすべかりけるものを、さても姫が文
のやうこそむざんなれ、此子は今年十三か四かとこ
そ思ふに、年のほどよりもおとなしくこと葉つづき
も尋当也、されどもいふかひなき一筆をかきたるこ
そはかなけれ、この心ばへにてはいかでか身をもた
すくべき、とくとくしてのぼれとは何事ぞ、うちま
かせたるいなかくだりとこそ覚えたれ、心に任せた
る身ならば、何しにかくは留るべきとて、恩愛の道
のかなしさは、我身の上をばさしおきて、この子の
ゆくゑを思ひやりなかれけるこそあはれなれ、さて
わらは山に入て硫黄をほりてあき人にうり、いそに
いでては磯なを摘みなどして主の命をたすけつつ、
いかにもなりはて給はんを見んと思ひける程に、僧
都のたまひけるは、今までながらへつるは、恋しき者
どものゆくゑを聞んためにこそありつれ、今はかへ
り上りて何にかはせん、その上この島へ流されし時

も、一人も人をつれられざりしに、今人こそ下りてつ
きたれと都に聞えん事も憚りあり、さればとくとく
帰り上れとのたまひければ、有王丸主に向てつまは
じきをして申けるは、あな口をしや、その御身のあ
りさまにても猶世をばおそろしく思召され候か、こ
の上はいかやうなる御目を御覧じ候べきぞ、東方朔
が言葉には、用る時は虎となり、捨る時は鼠となる
と申ければ、いざとよ我こそかく類ひなき罪に沈む
とも、おのれさへ心うき所にてむなしくなさん事の
不便さに、かくはいふなりとのたまへば、京都を立
出し時、思ひ切りて捨てたる命を、このしまにて思
ひ返すべきにても候はず、たとひまかりのぼり候と
も、この御ありさまを見おき候て、いかでかのぼる
空も候べき、同じくは、いかにもならせ給ひ候はん
時を見参らせ、をはらせ給ひて候はん日をもさだか
に知りて、我主はいづれの月いづれの日をはらせ給
ひ候と、かつうは姫御前にも申、かつうは御教やうを
P214
も申候はん為なりとかきくどき泣ければ、僧都こと
わりと思ひて、さらばこのわらはのあるときいかに
もならばやと思ひ給へどもかなはず、日数を送り給
へり、されども日々に隨ひて次第によわり給ひけれ
ば、さまざまの遺言どもしおき給ひ、今はかぎりと
見え給へば、念仏すすめて、都へかへらざりつる事
の口惜さなど、思召わすれざる御心おはしますべか
らず、今は極楽浄土へ参らんと思召せと申せば、僧
都のたまひけるは二人召返されしにもれし後は、思
ひ切りてこそありしかども、同じつみにてありし身
なれば、なほさりともと思ふ心もありつるに、今はい
ふにかひなしとて泣給へども、涙も落ちず声もいで
ず、かくして二三日ぞありける九月中ばの比、かの
庵の下にて終にはかなくなりにけり、むなしきかば
ねをわらはは取り収て、心の行々なきあきて、我身
も同じく後世の御供仕るべく候へども、やがて出家
して御ぼだいを弔ひ奉るべく候、かつうは姫御前に

今一度この御ありさまをも申さんと思ひければ、だ
だ一人ぞとかくいとなみて、そのもとの土をあらた
めず、松の落葉あしのかれ葉などとりおほひて、夕
の雲とたきあげて、葬禮事終りぬれば、骨をばとり
てくびにかけつつ、なくなく都へのぼりて、奈良の
姫御前にこのよし申ければ、ものをものたまはず、
父の骨を御覧じて、さめざめと泣給へる心の中、誠に
さこそ思召らめとおしはかられてあはれなり、わら
はも涙をおさへて申けるは、御文を御覧ぜられ候て
こそ、殊に御歎はまさらせ給て候しか、彼所は硯も
紙も候はで、御返事にも及ばずして思召候し御心中
さながらむなしく候し事、御遺言の次第こまこまと
語り申ければ、姫御前いよいよ涙にむせびて返事も
し給はず、出家の心ざしありとばかりのたまひて、
引かつぎてふし給へり、日も暮るる程に自ら髪をは
さみ切りて、いづくをさすともなくまよひ出給ひに
けり、後に聞えけるは、高野の山の麓にあまのとい
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ふ別所にとぢ籠りけり、心しづかに行ひて、真言の
行者となり父のぼだいを弔い給ひにけり、念仏の功
つもりつつ、一生不犯にて、終に往生のそくわいを
遂げにけり、有王丸は主の骨を首にかけ、高野の山
にのぼりつつ、奥の院にをさめ置、則ち法師になり
主のぼだいを弔ひける志のほどこそ、いよいよたぐ
ひなく覚ゆれ、かやうの人々の思ひ歎きの積りける
平家のすゑこそおそろしけれ、
旋風
同年六月十四日、おびただしく吹て、人の家多く
てんだうす、風は中御門京極の辺より起りて、未申
の方へ吹きもて行く、棟門平門などふきぬきて、四
五町十町ふきもてゆきて、なげすてなどしけるうへ
は、桁、うつばり、なげし、柱などは虚空に散在して、
かしここにぞちりける、人馬六ちく多くうちころ
されにけり、ただ舎屋の破そんするのみならず、命
を失ふもの多し、法勝寺の九重のたうも上六重は吹
落す、おたぎの十三重の塔も僅に二重ばかりぞ残り

ける、此時の風に堂舎、仏閣、禁裏、仙洞皆ことご
とく破損しぬ、そのほか資財雑具七珍万宝のちり失
せし事いかばかりぞ、此事ただ事にあらずぞ見えし、
天下に於てことなるせうじなりければ、御うらあり、
百日が内に大葬白衣の怪異天子大臣の御つつしみな
り、就中禄おもき大臣のつつしみ、別ては天下大兵
乱仏法王法共にめつし、ひやうかくさうぞくし、き
きんえきれいの相なりとぞじんぎくわんおんやうれ
うどもうらなひ申けるほどに、
重盛逝去
同年〈 治承三年 〉八月一日小松内大臣重盛公うせたまひぬ、
今年四十三にぞなりたまひける、いまだ五十にだに
もみち給はず、世はさかりと見え給ひつるに、父に
先だちてこうじ給ひぬるこそくちをしけれ、ようが
ん美麗にしてさいかくいうちやうなり、一門に並び
なく他家にたぐひすくなかりき、この大臣のうせ給
ひぬるは、平家の運のつくるのみならず、世のため
人のため愚あるべし、入道よこがみをやぶり給つる
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も、この大臣のなだめられつるにこそ、世はおだや
かなりつるに、行すゑいかにならんずらんと、高き
も賤しきも歎きあへり、老たるはとどまり、わかき
は先だつならひ、老少不定のさかひなれば、はじめ
て驚くべきにあらねども、時にとりては浅ましかり
しことどもなり、前右大将の
平家物語巻第六終