平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第七

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平家物語巻第七(原本無題)
治承三年十一月十四日、太政入道数万騎の軍兵を率
して、福原より上洛すと聞えしかば、京中何と聞わけ
たる事はなけれども、さわぎつぶやく、此程は小松
殿の御事を歎き給ひて、とぢ籠りておはしつるに、
又いかなる事のあらんずるやらんとて、さわぎける
程に、朝家を恨み奉るべきよし披露す、上下万人こ
はいかにとあきれまどふ、関白殿も内々聞召さるる
事やありけん、内裏の御直廬より御参内あり、入道
相国の入洛の事は、偏にもとふさをほろぼすべきよ
し結搆と承る、いかなるめをか見候はんずらんと世
に心細げに奏せさせ給へり、主上もつての外にえい
りよ驚かせおはしまして、臣いかなるめをも見られ
ば偏に丸が見るにて社あらんずれとて、御衣の袖を
ぬらさせましますぞかたじけなき、天下政務は主上

の御気色を伺ひ摂政の御はからひにてこそあるに、
たとひその儀こそなからめ、いかにしつる事ぞや、
天照太神春日大明神の神慮もはかりがたし、十五日
入道朝家を恨みたてまつるべきよし聞えければ、法
皇じやうけん法印をもて、御使として入道のもとへ
仰せつかはされけるは、およそ近年朝廷静ならずし
て人の心もととのほらず、世間も落居せぬさまにな
りゆく事さうべつにつゐて聞しめし歎かるれども、
さてそこにあればたのみ思召されてこそあるに、天
下をしづむるまでこそなるらめ、事にふれてがうが
うなるていにて、あまつさへ丸を恨むる由風聞あり、
こは何事ぞこの条甚だをんびんならず、いか様なる
仔細にてさやうには思ふなるぞと仰せられければ、
じやうけん法印院宣を承りて六はらへわたられた
り、出あはれざりければ、中門にて源大夫判官すゑ
さだをもて、院宣の趣き申入て、御返事をあひまた
れけれども、巳の刻より申の刻に至るまで無音なり
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ければ、さればこそとやくなくおはするに、子息左
兵衛督知盛をもて、院宣の趣畏て承候畢ぬ、但入道
度々朝家の御ために命を惜まず候へども、忽に思召
し捨てられ候ぬる上は 自今以後に於ては院方の宮
仕は思ひ止まりぬれば、御返事に及ばずとこそ御ひ
ろう候はめと申されければ、法印是を聞て世間もい
よいよおそろしく思はれけれども、直に申すべき仔
細多く候が、見参に入ず候へばまかり出候ぬとて出
られければ、さすがに入道いかが思はれけん、庭まで
出られたりけるに、法印呼かへして中門に出であひ
てひざを並べて申されけるは、入道が内々君を恨み
奉るはひが事か、まづ内府がみまかり候ぬる事は、
唯恩愛のわかれのかなしきのみにあらず、当家の運
命をはかるに入道随分涙をおさへてまかりすぎ候、
けふともあすとも知らぬ老のなみにのぞんで、かか
る歎にあひ候心中をばいかばかりとかおぼしめされ
候、されば法皇いささかも思召し知りたる御気色に

て候はず、越前の国は重盛が軍功の賞にあて給候し
所を、内府死にはて候しかば、則召返して他人にた
び候き、たとへ重盛子息一人も候はずといふとも、
入道が一期はなどか思召しあてられざるべき、まし
て維盛以下の子息そのかず候、ぐん功の賞は子々孫
々につたはるとこそ承候へ、かつうは重盛かの国を
あて給候し時も、子々孫々までとこそ承候しか、か
つうは御へんの御心にも推察候へ、保元平治以後ら
んげき打つづき、君安き御心も渡らせ給はざりしに、
入道はただ大かたをとり行ふばかりにてこそ候し
か、内府こそまさしく手をおろして身を碎きたるも
のにて候へ、されば万死に入一生を得る事も度々な
り、その外臨時の御大事朝夕の政務君の御為に忠を
いたす事、内府程の功臣はあり難くこそ候らめ、こ
こをもて、むかしを思ふに、かの唐の大宗は魏徴大
臣におくれて、かなしみのあまりに彼墳墓にりん幸
あり、むかしの殷宗は良弼を夢中に得、今の朕は賢
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臣を覚ての後に沒す、といふ碑文を手づから書きて、
かの廟に立て、くわん幸ありけるとは承はれ、まぢ
かくは鳥羽院の御時まさしく見られし事に候、あき
よりの民部卿の逝去したりしかば、故院も殊に御歎
あて、旧臣一人失ひたるは朝家の御歎きとて、八幡
の御幸も延引し、御遊もやめられき、たださだのさ
いしやう中将闕国の時も、是を鳥羽院御歎きありし
かば、たださだ伝へ承りて、老の涙を催しき、然れ
ば忝き御幸かなとこそ人々感じ申しか、すべて臣下
の卒する事をば、代々の君も御歎きある事にて候ぞ
かし、さればこそ親よりもしたしく子よりもなつか
しきは、君と臣との中なりとは申事にて候へ、それ
に内府が中陰の間に、八幡の御幸もありき、所々の
御遊も候き、御歎きの色一事も見えず、たとひ入道
が歎きをあはれみましまさずといふとも、などか内
府が忠を思召しわするべき、たとひ内府が死去をあ
はれみおはしまさずとも、などか入道が歎きをあは

れみ思召さざるべき、父子共に叡慮に叶はざる事今
に面目を失ふ、是一、次に入道が高位我意に任する
よし、今更院中の御さたと承候事、代々朝敵を討ち
平げて、君の御世になし奉るによて昇進仕る条、全
く事由にあらずや、朝敵を討ちて、忠賞にあづかる
事、古今例なきにあらず、田村丸は刑部卿坂の上か
り田丸が子なり、然れども聖武天皇の御宇天平年中
に、奥州のえびすあくしのたか丸が謀反の時、追討
の官兵に下されて、正二位大納言左近衛大将を直任
せられき、是則ち辺土の凶害にて、都の騒動にはあ
らざりき、然れども忠賞の先規かくのごとし、ここ
に保元以後度々朝敵を打靡かししあひだ、昇進にあ
づかる、是二、次に中納言のけつの候し時、二位中
将殿御所望候しを、入道再三申候しに、摂政殿の御
子息三位中将殿をなし参らさせ給ひし事、入道いか
ばかりか口惜く候し、たとひ入道いかなるひきよを
申行ひ候とも、などか一度は聞し召し入られざるべ
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き、いかに申さんや、一の人の御子息なり、ちやく
けといひ、かかいといひ、理うんさらに及ばず候し
を引違へられ候し事、偏に入道を御あたみの候ゆゑ
なり、ずゐぶんほいなき御はからひとこそ存候しか、
是三、次に近習に人々をもて、此一門をほろぼさる
べきよしの御はからひ候、これ又かれらが私の計略
にあらず、しかしながら御許容たるによてなり、い
まめかしき申事にて候へども、たとひいかなるあや
まり候とも、いかでか七代までは思召しすてらるべ
き、入道すでに七旬に及で余命幾程ならず、一期の
間にもほろぼさるべきよしの御気色にて候、いはん
や子孫相續して召仕はれん事かたし、凡そ老て子を
失ふは朽木の枝なきにてこそ候へ、内府におくるる
をもて、運命のすゑにのぞみ候事、思ひ知られ候、
又天気の趣あらはれ候なり、然ればいかやうなる奉
公をいたすとも、叡慮に応ぜん事よも候はじ、その
上はいくばくならざるに、身心を尽しても何かせん

なれば、とてもかくても候なんと思なりて候なりと、
かつうは腹をたてかつうは涙を流されける間、法印
は哀にもおそろしくも覚えてあせ水になられたり、
その時はたれたれも一言の返事にも及びがたかりけ
り、その上我身も近習の人なり、成親の卿以下のは
からひし事ども正しく見聞し事なれば、その人数と
や思けがされんなれば、唯今も召籠られん事もやあ
らんずらんと、心の中には案じつづけらるるに、龍
のひげをなで、虎の尾をふむ心地せられけれども、
法印さる人にて驚かぬ体にて答へられけるは、誠に
度々の奉公浅からず、一たん恨み申させましますむ
ね、そのことわりなきに非ず、ただし官位といひ、
俸禄といひ、御身にとりてはみな満足す、既に軍功
ばく大なるをもて思召しあてられたるとこそ見えて
候へ、然るに近臣事をはからひ君の御きよやうある
などといふ事、偏に謀臣の凶がいと覚え候、耳をし
んじて目を疑ふは、俗弊なり、少人の浮言を信じま
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しまさんこと、めうけんに付てその憚すくなからず、
凡そ天地は蒼々としてはかりがたく、叡慮さだめて
その政候らん、下として上を逆する事、豈人臣のれ
いたらんや、よくよく御思惟候べし、さればとて忽
に院方の御出仕思召しとどまらん事いかがあるべく
候らん、君々たらずといふとも、臣もて臣たらずん
ばあるべからず、父々たらずといふとも、子もて子
たらずんばあるべからず、君は君の振舞たらずとい
ふとも、臣は臣のふるまひまさしかれとこそ、本文
には見えて候へ、所詮このよしをこそ披露仕候はめ
とてたたれけり、居並びたる軍兵耳をすまして、あ
なおそろしの法印の御房や、是程入道殿のくどき給
はんには、ただうちうなづくばかりにてこそ立たる
べきに、しづしづと本文申てたたれぬるいみじさよ
とささやきあひければ、貞能申けるは、さればこそ
そこばくの人の中に、僧なれども択び出されてかか
る御使にはたたるらめとぞ申ける、帰参して御返事

くはしく奏せられければ、道理しごくして、法皇更
に仰やられたる方もなし、こはいかにすべきとぞ仰
せられける、
治承三年十一月十五日、入道朝家を恨み奉るべきよ
し一定と聞えければ、さしもやはと人々思はれける
に、関白〈 松殿基房 〉同御子息中納言中将師家をはじめ奉り
て、太政大臣師長、按察大納言資賢以下の公卿殿上
人北面の輩、そうじて四十二人官職をとどめられて
追ひこめらる、この中に関白殿をば太宰権帥にうつ
し奉て、筑紫へ流し奉る、関白殿はかかる浮世にな
がらへて何かせんと思召しけるに、御命も危くおぼ
しければ、淀のこなた古河と云ところにて、大原の
本上々人を召して、御ぐしをおろさせ給ひけり、御
年三十五、御世中さがりとおぼしめし、れいぎもめで
たくしろしめして、くもりなきかがみにておはしつ
るものと申て、人々惜み奉る、出家の人は本、約束の
国へは赴かぬ事にて、筑紫へはくだし奉らずして、
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備前国湯迫といふ所へぞおはしましける、参議皇太
后権大夫右兵衛督藤原光能卿、大蔵卿左京大夫兼
伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁兼中宮権大夫藤
原泰親朝臣、以上三官をやめらる、按察使大納言源
資賢卿、中納言中将師家卿、右近衛権少将兼讃岐守
資時朝臣、太皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝
臣、以上二官をやめらる、
大臣流罪の例は左大臣〈 蘇我赤兄 〉右大臣〈 豊成公 〉右大臣〈 菅原今北野天神御事也 〉
左大臣〈 高明公 〉内大臣〈 伊周公 〉に至るまでその例すでに六人
なり、されども忠仁公照宣公よりこのかた摂政関白
の流罪せられ給ふ事是ぞはじめなる、浅ましかりけ
る事也、故中殿基実公御子二位中将基通公と申は、
今近衛入道殿下の御事なり、その時太政入道の御聟
にてましましけるを、一度に内大臣関白になし奉ら
る、
円融院の御宇天禄三年十一月一日、一条摂政伊尹〈 謙徳公 〉
御年四十九にて俄にうせさせ給ひしかば、御弟の法

興院入道、殿大納言大将にてわたらせ給ひけるが、内
大臣正二位にあがりて内覧の宣旨を蒙らせおはしま
したりしをこそ、時の人々不日にて驚きたる御昇進
と申しに、是はそれにも超過せり、非参議にて二位
中将より宰相大納言を経ずして、大臣関白になり給
へる、是やはじめなるらん、されば大外記大夫史執
筆の宰相にいたるまで、皆あきれたる体なり、大方
高きも賤しきも、ぜひにまよはぬは一人もなかりけ
り、去々年の夏の頃、成親の卿父子俊寛僧都北面下
臈どもが事にあひしをこそ浅ましと君も思召し、人
も思ひしに、是は今一きはの事なり、されば是は何
事の故ぞと覚束なし、此関白にならせ給へる二位中
将殿、中納言になり給ふべきにてありけるを、関白殿
の御子三位中将師家とて八歳になり給ひけるが、そ
ばよりおしちがへてなり給へる故とぞ人申ける、さ
れどもさやはあるべき、さらば関白殿こそいかなる
とがにもあたり給はめ、四十余人まで人の事にあふ
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べしや、なにさまにもやうあるべし、天満外道入道
の身に入かはりにけるとぞ見えける、按察大納言資
賢卿の子息左少将資時、まごの右少将まさかたの朝
臣以上三人をば京中ををはるべきよし、藤大納言さ
ねくにの卿上卿として博士判官中原章貞を召して宣
下せらる、いづくを定ともなく、都の外へおはるるこ
そかなしけれ、中有の旅とぞ覚えける、くわん人参
りて追ひければ、おそろしさの余りにものをだにの
たまひおかず、子息召し具していそぎ出給ふ、北の
方より始めて、女房侍どもをめきさけぶこと夥し、
三人涙にくれて行先も見えねども、その夜の中に九
重の内を紛れ出でて、八重たつ雲の外へぞ思ひたた
れける、七条朱雀より西をさして、彼大江山いく野
の道へぞ赴き給ひける、夢路をたどる心地す、いづ
み式部が保昌にあひぐして丹後の国に下向の時、内
裏に御賀の御会あり、少式部内侍母を尋ぬるかの勅
使度々たまはりて御返事に、

大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天のはし立 W061 K279
と申てめいしよたりけん道にかかりて、丹波の国村
雲といふ所に暫くやすらひ給ひけるが、のちには信
濃の国に落ちとどまり給ひけり、ある時諏訪の下宮
に詣で給ひて歌をうたひ給へるに、神殿俄に震動し
てあつと感ぜさせ給ふ御声ありけり、資賢の卿も身
の毛よだちて、神官等も感涙をおさへて御悦必定候
べしと申けり、その後程なく内侍所の御神楽のため
に資賢めしかへされ給ひけり、神感むなしからず、
ためしもすくなくぞ覚えし、さてかの卿入洛の夜、
院の御所へ参られたりければ、いつしかうたこそ聞
たけれと仰のありけるに、
信濃にあんなるきそぢ川
君に思ひの深かりし W062 K280
といふ歌をまさしく見るなれとて、しなのにありし
木曾路川とうたひたまひければ、ことにえいかんあ
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りけるとかや、さて資賢卿つづみをば参詣の時大明
神に参らせられたりければ、彼社に今にあるとぞ聞
えし、この卿は今様、らうえいの上手にて、院の近
習者の当時の、さいしんにておはしければ、法皇諸
事内外なく仰合せられける間、入道殊にあたまれけ
るとかや、太政大臣は去保元々年七月父悪左府のえ
んざによて、兄弟四人流罪せられ給ひし時、中納言
中将と申て御年十九にて同八月に土佐の国へ流され
たまひたりしが、御兄の右大将兼長卿も、御弟左中
将たか長朝臣、範長禅師も帰洛をまちつけず、配所
にてうせ給ひき、此太政大臣は九年を経て長くわん
二年六月廿七日めしかへされて、同十月十三日に本
位に復して内裏へ参り給ひたりければ、君をはじめ
参らせて雲客卿相、各いかなる曲をか配所にてたん
じ給ひたるらん、一曲候はばやと君も臣もおぼしけ
る御気色ありければ、大臣賀王恩といふがくをひき
給ひけり、是はことわりなり、皇の恩をよろこぶと

いふ楽なり、次にげんじやうらくをひき給ひけるに、
君も臣も思ひの外に聞し召しけり、そかう万秋楽の
五六調にかかりてさまざまの曲もあるぞかし、なぞ
尻ふりよこたはりたるげんじやうらくをひきしこと
はと御たづねありければ、都へかへりてたのしむと
申がく也と大臣申されければ、君をはじめ参らせて
感じ申されけるとかや、永まん元年八月十七日に正
二位に叙せらる、仁安元年十一月五日前中納言より
権大納言にうつり給ふ、大納言あかざりければかず
の外にぞ加はりたまひける、大納言六人になる事是
よりはじまれり、又前中納言にうつること、後山科
の大臣三守公、宇治大納言たか国卿の例とぞ聞えし、
先例まれなりとぞ申ける、くわんげんの道を長じ才
能人にすぐれて、君も臣もおもんじ奉り給しかば、
次第の昇進滞らず程なく太政大臣にあがらせ給へり
しに、いかなるぜん世の御宿業にて、又かかる事に
あはせ給らんとぞ申ける、保元のむかしは、南海土
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佐の国へうつり、治承の今は東関尾張の国へおもむ
き給ふ、もとより罪なくして配所の月を見んといふ
事は心ある人の願ふ事なれば、大臣あへて事ともし
給はず、十一月十七日暁ふかく出たまへば、あふ坂
山につもるゆき、四方の杪もしろくして、在明の月
の光ほのかなり、あいゑんこずえゑにおとづれて、遊
子ざん月に行けんかんこくの関おぼし出されて、昔
蝉丸の嵐を凌ぎ給ひけん、わらやの跡をうち詠め、
うちでの浜につき給ふ、
天智天皇の御宇、大和の国あすかの岡本のみやより
彼所にうつらせ給ひけん、昔の皇居のあとぞかしと
思ふにも涙とどまらず、あはづの原をうち過、瀬多
のから橋うちわたる程に、あけぼのの空になり行け
ば、水うみはるかにあらはれて、かのまんせい沙弥
が比良の山に居て、漕ぎ行く舟と詠めけん跡の白波
あはれなり、野路のしゆくにもかかりぬれば、かれ
野の草における霜、日影にとけて旅衣かわくまもな

くしほれつつ、しの原東西見渡せば、はるかに遠き
岡あり、北には郷人すみかをしめ、南には池水広く
すめり、むかひのみぎはには、みどり深き十八公、白
浪の色にうつろひて、南山影をひたさねども青くし
てくわうやうたり、すざきにさわぐをしかもの、あ
してをかくかと疑はれ、都を出る旅人は、此宿にの
みとまりしが、うちすぐるのみ多くして、むらさびし
くなりにけり、是を見るにつけてもかはり行く世の
有様は、飛鳥の川の淵は瀬にもかぎらざりけりとあ
はれなり、かかみの宿にもつきぬれば、大伴黒主が、
鏡山いざたちよりて見てゆかん
としへぬる身は老やしぬると W063 K224
と詠めけんもかの山の事なり、やどとりたくは思へ
ども、その夜は無作寺にとどまりぬ、あばらなると
この冬の嵐、夜ふくるままに身に入て、都には引か
はりたる心地なり、枕に近きかりがねの声、暁の空
におとづれて、かの遺愛寺の草の庵の、寐ざめもか
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くやと思ひしられけり、蒲生野を過行ば、おいその
もりの杉村に横雲幽にかかる雪、あさ立袖に拂ひか
ね、音に聞ゆるさめが井の、くらき岩ねに出る水、九
夏三伏の夏の日も、班〓〓が團雪の扇、かんふうにか
ふる名所なれば、玄冬そせつの冬の空、月にともな
ふせつせんのほとりなる、無熱の池を見る心地して、
関山にかかりぬれば、谷川雪のそこに音むすび、せ
いらん松の木ずゑに時雨つつ、日影も見えぬ木の下
の道、心細くも打すぐる、不破のせき屋の板びさし、
年ふりにけりとうちながめ、株瀬川へぞつきたまふ、
霜月廿日の事なれども、夜ふけ人静まれば、皆白妙の
はなの空、清き河瀬にうつろひ、照る月波もすみわ
たり、二千里が外の故人の心、思ひやられて旅の道、
いとどあはれに思しめす、尾張の国井戸田につきた
まふ、かの唐の太子ひんかく白楽天、元和十五年秋
のころ九江郡の司馬にさせんせられ給ひ、じんやう
江のほとりに踟〓とやすらひ、びはを聞給ひけんふ

るきよしみを思しめし出されて、なるみがたしほぢ
はるかに遠見して、常は浪月をのぞみ、浦吹風にう
そぶき、びはをたんじ、詩を詠じ、なほざりにあか
しくらし給ひけり、ある夜当国第三の宮熱田の明神
へ参詣あり、森の木の間よりもりくる月はさし入て、
あけの玉垣色を添へ、和光利物の庭に引くしめなは
風に乱れ、何事につけても神さびたるけいきなり、
此社と申はすさのをのみことなり、はじめはいづも
の国に宮造りありけり、やくもたつといふやまとこ
とのはも、是よりぞはじまりける、その後景行天皇
御宇に、このみぎりにあとをたれ給へり、此宮の本
体は、くさなぎと號し奉る神劔なり、景行天皇の第
二の皇子日本武の尊、東夷を平げて帰り給ふ時、尊
は白鳥になりて飛びさり給ひぬ、つるぎはあつ田に
とどまり給ひぬともいへり、さても一条院の御時、大
江の匡衡当国の守にて国務の時、大般若をとげける
ぐわんもんに、我願すでにまんじぬ任限又きはまり
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ぬ、故郷に帰らんとする期いくばくならずと書きた
りしこそ、哀に覚えてうらやましくは覚されけれ、
大臣大明神法楽のために宵のほどは笛をあそばし、
更闌人静まれば、風香調の中に花ふんふくの匂をふ
くむ、流泉の曲の間には、月清明の光をますといふ
朗詠をせさせたまひて、びはの三曲をととのへたま
ふ、大げんは〓々としてむら雨のごとし、少げんは
せつせつとしてさざめごとに似たり、されば妙音大
師は四徳のかたちをあらはして、左の御手のいんさ
うにふかき故ありと申はいまの三曲是也、かるが故
に明神も是に幸臨し仏陀も是を納受せり、もとより
むちの俗なればなさけをしれるもの希なり、邑老村
女漁人野叟、頭をたれ耳をそば立つといへども 更に
せいぢよくをわかちりつりよを知ることなし、され
ども瓠巴琴をたんじしかば、魚鱗をどり迸り、虞公
歌を発せしかば、れうぢんうごきさわぐ、物の妙をき
はむる自然のかんを催すことわりにて、まん座涙を

さそふ、その声〓々せつせつとしてまたしやうしやう
たり、大絃小げんのきんけいの操、大珠小珠の玉盤
におつるに相似たり、調弾数曲を尽し夜漏深更に及
て、願以今生世俗文字業狂言綺語過、飜為当来世々
讃仏乗因転法輪縁、
といふ朗詠を兩三返せさせ給ひければ、神明かん応
にたへず宝殿震動す、衆人身の毛よだちて奇異の思
ひをなす、大臣は平家のかかる悪行を致さずば、今
このずゐさうをはいせましやはと、かつうはかんじ、
かつうは悦給ひけり、十二三ばかりのかんなぎの御
ほう前にて、地の上三尺ばかり空に立て託宣にいは
く、君配所におもむき給はずば我今いかで此秘曲を
聞べき、然れば帰京のそくわいうたがひなし、じや
うじゆしてほん位に復したまふべき事ただいまなり
と申てあがらせ給ひけり、衆人身のけよだちて感涙
をぞ流しける、抑此秘曲と申は、仁明天皇御宇承和
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二年に掃部頭定敏勅宣を承て、遣唐使として牒状を
もて、観察府奉しに、上覧に達して、琵琶のはかせ
をのぞみ申しに、海清二年の秋の比、れんせうぶを
送られて秘曲をさづけられて後、我朝に伝へしは、
流泉啄木陽真操の三曲なり、或時此大臣御とぜんの
余りに、宮地山に入らせ給ふ、比は神無月廿日あまり
の事なれば、木ずゑまばらにして落葉道をうづみ、
白霧山をへだてて鳥の一声かすかなり、山又山をか
さぬれば里遠し、賤が居所もほど隔りぬ、松山峨々
として白石に瀧の水みなぎり、落る所もあり、則ち
石上流泉のたよりを得たる勝地なり、苔石面に生て、
上雲の曲を調へつべし、いつもの御事なれば、しと
うの甲の御琵琶一めん、御ずゐじんあり、石の上な
がら皮をうちしき、北に向ひて御琵琶を御膝の上に
かきすへ、ばちをとりつつ、絃をうちならし、四絃
弾の中にはきうしやう弾をむねとし、五絃弾の中に
は玉商弾をさきとせり、風香調の中は花ふんふくの

気をふくみ、流泉の曲の間には月せいめいの光を添
ふ、かろくおさへゆるく捻て撹ては又撹返す、はじ
めは霓裳をなす、後にはりくえうす、大げんは〓々
としてむら雨のごとし、小絃はせつせつとしてさざ
めごとに似たり、第一第二の絃は索々たり、春の鶯
くわんくわんとして花のもとになめらかなり、第三第
四の絃は颯々たり、寒泉幽咽して氷の下なやまし、
大珠小珠の玉盤に落つる声金桂の操、鳳凰鴛鴦の和
鳴、音をそへずといへども、事のてい山神感をたれ
給ふらんと覚えたり、さびしき木ずゑなれども、そ
う花喙木はそらに玲瓏のひびきを送る、曲おはりば
ちををさめ給ふに、水の底より青黒色の鬼神出現し
てひざ拍子うち給ひ、びはにつゐていつくしげなる
声にて、しやうかせり、何者のしわざなるらんと思
召しながらおはしますに、鬼神申さく、我は是水の
底にいまして多くの年月をふるといへども、いまだ
かかるめでたき御事をうけ給はらず、此御悦にはい
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ま七日のうちに御帰洛のあらんずる候と申もはてね
ば、かきけつやうにうせにけり、水神の所行とはい
ちじるし、是等の事を思召しつつくるに、あくえん
はすなはち善えんにてありけりと思召知られけり、
その後第五日と申に、御帰洛あるべきよしの奉書下
されて、則ち上洛ありけり、くわんげんの音曲を極
め、近代までも妙音院の太政大臣と申し人の御事な
り、妙音ぼさつのげんじ給へるとぞ申ける、村上の
聖主天暦のすゑのころ、神無月の半、月すさまじく風
の音しづかに、夜ふけ人静まりて、清涼殿にましまし
て水牛の角のばちにてげんじやうらくの破を調させ
給ひつつ、御心をすまさせ給けるに、雲、南殿に引お
ほひて、影の如くして仙人飛び来てひさしの間にや
すむ、みかど是を御覧じて誰人ぞととはせましませ
ば、我は是れ大唐の琵琶のはかせれんせうぶと申者
なり、天人の果報を得て虚空を飛行する身にて候、
ただ今是をまかりすぎ候が御琵琶の音をうけ給るに

つきて参りたり、いかにとなれば、去承和のころ、定
敏にさづけしに秘曲を一のこせり、君玄上を弾じ給
ふがめでたければ、おほそれながら君に授け奉らん
と申せば、聖主ことに感じ給ひて御琵琶をさしおき
給へば、れんせうぶ是を給て妙にことなる秘曲をぞ
尽しける、上玄石上是なり、帝是を伝へ給ひしかば
仙人飛去りぬ、みかど雲ゐはるかにえいらんありて、
感涙を流させ給ひけり、物の妙を極むる自然の感を
催すことわり是也、されば山神も影向し給ひけるに
にそ、高転と申人の母重き病ひを身に請けて存命不
定なりしかば、稲荷のやしろに七ヶ日参籠して母の
病を祈り申しに、夜深更に及びて、この曲を弾ぜし
時、御前のとうろの火消えんとしけるを、ほうでんよ
り童子一人出現して、法燈をぞかかげ給ひける、神
慮の御納受たのもしく覚えて下向の後、母の病たち
どころに平癒す、かかるめでたき秘曲なれば、神明
の恵みもことわりなり、此大臣を平家殊に悪み申さ
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れける事は、大唐より難字を作りて公家へ送りたり
けり、是を読む人なかりけるに、此殿よまれたりけ
り、これは平家の為にあしかりける故なり、文字三
あり、一には国のつくり、是をば王なき国と読まれた
り、一には国のつくりの中に分といふ字を三書きた
り、是は国みだれてかまびすしとよまれたり、一に
は身体の身文字を二つならべて書きたり、是をばし
たためにやらんずとよまれたり、有否兩度の文を此
殿見給ひて、唇をあけて笑ひて皆読まれたりけれど
も、うけ給ける人々はこまかに覚えず、是は平家の
悪行異国まで聞えて、国王をはぢしめ奉る文なるべ
しとぞのちには人申ける、左衛門佐なりふさは伊豆
の国へ流さる、備中守光憲はもとどりきりてんけり、
江大夫判官遠業は、流罪せらるべき四十二人の中に
入たりと聞いて、今はいかにものがるべからずと思
ひて、誠にや流人前兵衛佐頼朝こそ平治の逆乱に、
父下野守誅せられてのち切りのこされて、伊豆の国

蛭の島に流されておはすなれ、かの人は頼母しきひ
となり、うち頼みて下りたらば、もしこの難やのが
るる事もやとて、かはら坂の家を打いで、父子二人い
なり山に籠りたりけるが、よくよく思へば、兵衛佐た
うじは世にある人にてもなし、左右なく受とる事も
ありがたし、又あふ坂不破の関こえ過ん事もおだし
かるべしとも覚えず、その上平家の家人国々に充満
したり、路頭にしていひがひなくからめとられて、
生ながら恥をさらさん事、心うかるべしとて、思ひ
返してかはら坂の宿所へ帰りて、家々に火をさして
父子手をとりくむで、ほのほの中へ走入て焼しにに
けり、時に取てはゆゆしかりけることどもなり、此
外の人々も迯迷ひあわて騒ぎあへり、浅ましともい
ふ計りなし、去々年七月讃岐院御追號、宇治左府贈
官の事ありしかども、怨霊も猶しづまり給はぬやら
ん、此世のありさま偏にてんまの所行とぞ見えし、
およそ是にてもかぎるまじ、入道腹をすへかね給へ
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り、のこりの人々おぢをののきける程に、そのころ
左少弁行隆とておはしける人は、故中山中納言顕
時卿の長男にておはせしが、二条院御代に近く召仕
はれて、弁になりたまへり、はいにんの時も右少弁
長方をこえなどして左にくははり給へり、正五位上
し給ふ時も、顕要の人八人をこえてゆゆしかりしが、
二条院におくれ参らせて時をうしなへりしかば、仁
安元年四月六日、官をやめられて籠居し給ひしより、
長くせんどを失て、十五年の春秋を送りつつ、夏冬
の更衣にもおよばず、朝夕の食事も心にかなはずし
て、かなしみてあかしくらし給ひけるほどに、十六
日のさ夜ふくるほどに、太政入道よりとて使者来て
立よりたまへ、急ぎ申合すべき事ありといへり、何
事やらんとて行隆さわぎ給へり、人々多くことにあ
はるめり、我もいかなるべきにか、此十四年の間は
何事にもあひまじはらねばとはおぼしけれども、さ
るにつけてもむほんなどに與力するよし、人の讒言

したるむねばしのあるやらんと思はぬ事もなく、む
なさわぎしておぼしけり、いそぎ参るべきとのたま
ひたりけれども、牛車もなし、装束もなし、おもひ
煩ひて、弟の前左衛門佐ときみつと申ける人おはし
けり、かかる事こそあれといひ送られたりければ、
牛車ざつ色の装束などいそぎ奉り給へりければおは
しけり、北の方公達などはいかなる事にやとてきも
心をまどはし給へり、西八条へをののくをののくおはし
たれば、入道げんざんし給ひてのたまひけるは、故
中納言殿と親しくましまししうへ、殊にたのみ奉て
大小事申合せ候き、その御名残にてましませば、おろ
そかに思ひ奉る事なし、御籠居年久くなりにき、そ
の事なげき思給へども、法皇の御はからひなれば力
及ばざりつるに、今は御出仕あるべく候、さも思召
し候はば、御くわんとの事不日に口入申すべしとあ
りければ、行隆のたまひけるは、此十四五年は迷者
になりはて候て、出仕のありさま見苦しげにこそ候
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はんずれども、ともかくもいかでか仰をば背き申す
べき、今の仰偏に春日大明神の御はからひと仰ぎ奉
候とて、涙を流して出られぬ、ともなる者ども別の
事なしと思ひて急ぎ帰り、弟の左衛門佐の許へ人を
つかはして、只今帰りて候とつげられたりければ、
やがておはしたり、行隆、入道の宣ひつるやうを語
られければ、北の方よりはじめて、皆泣笑して悦あ
へり、後の朝に源大夫判官すゑさだが、小八葉の車
に入道のうしかけて牛飼装束あひぐして、百疋百兩
百貫百石を送られたりけるに、家中の上下手足の置
所をしらず、余りの事にて夢かとぞ思ひける、さて
十七日左少弁親宗追ひ籠られしそのかはりに、行隆
左少弁になりかへりて、十八日五位蔵人に補せられ
き、今年五十一になり給ふ、いささかわかやぎ給ふ
もあはれなり、
廿日院御所七条殿に軍兵雲霞の如く四面に打圍みた
り、二三万騎もあるらんと見ゆ、こは何事ぞと御所

中に候あひたる公卿殿上人、上下の北面の輩、つぼ
ねの女房までもさこそ浅ましくおぼしけめ、心中た
だおしはかるべし、むかし悪右衛門督が三条殿をし
たりけん様に、火を懸て人を皆焼き殺さんとすると
いふ者もありければ、局の女房うへわらはなどはお
めきさけびて、かちはだしにて物をだにかつがずし
て、恐れふためきまとひてさわぎあへる事いふばか
りなし、日ごろの世の有さまにあひて、今日の軍兵
の圍みざま、さにこそとはおぼし知られけれども、
さすがに忽に是ほどの事あるべしとも思し知られず
やありけん、法皇もあきれさせおはしますていなり
けるに、右大将宗盛参られたり、こは何事ぞ、いかに
なるべきにてあるぞ、遼遠なる島へはなたれんとす
るか、さ程に罪深かるべしとこそ覚えね、主上さて
おはしませば、政に口入するばかりにてこそあれ、
その事さるまじくば、是より後は天下の事いろはで
こそあらめ、我さてあれば思はなたじとたのみてこ
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そあるに、いかにかく心うきめを見するぞと仰せら
れければ、大将申されけるは、さしもの御事はいか
が候べき、世をもしづめ候はんほど暫く鳥羽殿へわ
たらし参らせ候べき由を入道申候つと申せば、とも
かくもと仰せられければ御車をよす、大将やがて御
車寄に候、右衛門佐と申女房出家の後は、あまぜとめ
さるあま女房一人ぞ御車の尻に参りける、御物の具
には御経のはこ一合ばかりぞ御車には入られける、
法皇は、さらば宗盛も参れかしと仰せありけれども、
入道気色に恐れて参らず、夫につけても法皇は、内
府には殊の外に劣りたりけるものかなとぞ思召され
けるもことわりなる、丸は一年かかるめを見べかり
しを、内府が命にかはりていひとどめざりしによて
こそ、いままであんをんなりつれ、内府うせぬる間、
今は諌る人なしとて、その所を得てはばかる所もな
くかやうにするにこそ、行末こそ更にたのもしから
ねとぞ思し召されける、公卿殿上人の一人も供奉す

るもなし、北面下臈二三人と御力者金行法師ばかり
ぞ、君はいづくへ渡らせ給ひぬるやらんと思ひける、
心うさのあまりに御車の尻に、下臈なればかい紛れ
てぞ参りける、その外の人々は七条殿より皆ちりぢ
りにうせにけり、御車の前後左右には、二三万騎の
軍兵うち圍みて、七条を西へ朱雀を下りに渡らせ給
へば、京中の貴賤上下、賤のをしづのめまでも、院の
流されさせ給ふとののしりて見奉らんとて、たけき
武士までも涙を流さぬはなかりけり、鳥羽の北殿へ
入らせ給ふ、肥前守泰綱と申ける平家の侍、守護し
奉る、法皇の御住居おしはかり参らすべし、然るべ
き人も候はず、この右衛門佐と申あま女房ばかりぞ
ゆるされて参りける、ただ夢の御心地して長日の御
修法毎日の御勤め、御心ならずたいてんせさせおは
しましまさず、供御参りたりけれども、御覧じも入
ず、先立ものは御涙ばかりなり、門の内外に武士充
満したり、国々よりかり上られたりしえびすなれば、
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見なれたるものはなし、つらたましげなるかほけし
き、うとましげなることがらなり、大膳大夫業忠
は十六歳の年、兵庫助と申けるが、いかにとしてま
ぎれ参りたりけるやらん、候けるを召して、今夜我
をば一定うしなはれぬと覚ゆるをいかがせんずる、
御行水を召さばやと思召すはかなはじとやと仰あり
ければ、業忠さらぬだにけさよりはきもたましひそ
の身に隨はず、おんはくばかりにてありけるが、此
仰を承りければ、いとどきえ入やうに覚えて、もの
も覚えずかなしかりけれども、余りのかたじけなさ
にじやう衣の上に玉だすきかけて、水汲み入て、小柴
垣をこぼち、大ゆかの束柱をわりなどして、とかく
して御湯し出して参らせたりければ、御行水召され
て御経とり出させ給ひて、御おこなひぞありける、
さいごの御つとめと思召されけるこそかなしけれ、
されども別の御事なくその夜は明にけり、去七日の
大地震はかかる不思議のあるべかりけるぜんへうに

て、十六洛叉の底までもこたへて、堅牢地神もおど
ろきさわぎ給ひけるとぞ覚えし、陰陽頭泰親朝臣は
せ参て、なくなく奏聞しけるもことわりなり、かの
康親の朝臣は、晴明五代の跡をうけて天文のえんげ
んをきはめ、上代にもたぐひすくなく、当世にもな
らびなし、すゐ条たな心をさすが如く、一事もたが
はず、さすの御子とぞ申ける、去安元の夏のころ、泰
親院の御所法住寺殿へ参りけるに、七条河原より夕
立して雷おろおろなりけるが、柳原かはら坂の辺に
ては、殊の外に夥しくなて、いなびかり隙なくして、
泰親が車のあたり近く落ちぬべかりければ、車をや
りとどめて、ざつしき牛飼をば車の下にいれて、天
やくのいんをむすび、五気親をじゆつして少しもさ
わがず、雷ことにたかくなりて、あやまたず、車の
右一丈ばかりのきてぞ落ちたりける、見れば何とは
知らずかがやきて目もあざやかなり、誠にや雷はあ
しざまに落ちぬれば、えあがらざんなる物をと思ひ
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て、急ぎ車より飛おりて、笏を捧げたれば、是に取
りつきてぞ上りける、但し雷火に上の衣の袖ばかり
はやけにけれども、その身はつつがもなかりけり、院
の御所へ参りてしかじかと奏しければ、法皇聞しめ
して泰親はただものに非ずとぞ仰せられける、じや
うけん法印は今度は御つかひの儀にはなくて、思ひ
切たるけしきにて、太政入道の方に行むかひて申さ
れけるは、法皇の鳥羽殿に渡らせおはしまし候なる、
人一人もつき参らせ候はぬよし承り候が、余りにか
なしく存候、しかるべくはじやうけん一人許されを
蒙りて、参り候はばやとなくなく申されければ、入
道、法印はうるはしき人の、心正直に事あやまつまじ
き人にておはしければ、ゆるされにけり、法印手を
合せて悦で急ぎ鳥羽殿へ参られたりければ、法皇は
うちあげうちあげ御経たつとくあそばす御声もことにす
ごく聞えさせおはします、御前には一人も候はざり
けり、法印参られたりけるを御覧じて、うれしげに

思召して、あれはいかにと仰られはてぬに、御経に
御涙をはらはらと落ちかからせおはしますをきうた
いの御袖を御顔におしあて、わたらせましますを、
法印見参らせて余りにかなしく覚えければ、何と申
やるかたなくて、御前にうつぶしに伏て、声もをし
まずなきたまへり、女房右衛門佐も思入てふししづ
みたりけるが、法印の参られたりけるを見て、起き
上りてのたまひけるは、昨日のあした七条殿にて供
御参りたりし外は、夜べもけさも御湯漬をだにも御
覧じ入られず、ながき終夜御しんもならず、御歎き
のみくるしげに渡らせましませば、ながらへさせた
まはん事もいかがと覚ゆる事こそ悲しけれとて、は
らはらとなきければ、法印涙をおしのごひて申され
けるは、いかに供御は参らぬにや、此事更に歎き思
召すべからず、平家世をわがままにして既に廿余年
になり候ぬ、何事も限りある事なれば、栄華極まつ
て宿運つきなむとする上、天魔のかの入道が身に入
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かはりて、かやうに悪行を企つといへども、君あや
まちたまふ事なし、かくて渡らせたまふとも、伊勢
太神宮正八幡宮以下君のとりわけたのみ参らせさせ
たまふ、日吉山王七社一乗しゆごの御ちかひたがふ
事なくして、かの法花八軸に立かかりてこそ君を守
り参らせさせましますらめ、私あらじと思召めさば、
天下は君の御世に帰り、あくとは水のあわと消えう
せん事ただ今の事なり、とくとく供御参候へとてす
すめ参らせられければ、御湯漬少し御覧じ入られに
けり、かかりければあまぜも少しちからづきて思は
れけるうへ、君もいささかなぐさむ心おはしけり、
法印その日より出られず、やがてしこうして、朝夕
にかやうの事どもとぞ申なぐさめ参らせられける、
此右衛門佐と申女房は、若くより法皇の御母儀、待賢
門院の御妹の上西門院に候はれけるが、器量いみじ
き人にてはなかりけれども、さかさかしきうへ、然
るに一生ふばんの女房にておはしければ、清きもの

なりとて、法皇御幼稚の時より近くめしつかはせた
まひけり、臣下も君の御気色によりてあま御前とか
しづきてよばれけるを、法皇の御かたことにあまぜ
と仰ありけるとかや、
主上高倉の院は臣下の多く滅びうせ、関白殿事に合
せ給ふだにも、なのめならず歎き思召されて後は、
何事も聞召入ぬさまなり、日を経つつ思ししづみて
供御もはかばかしく参らず、御しんも打とけてもな
らず、常は御心地なやましとて、夜のおとどにのみ
ぞ入らせましませば、后宮をはじめ参らせて、近く
候はせ給ふ女房達も、いかなるべき御事ぞやと心ぐ
るしくぞ見参らせ給ひける、
廿日法皇鳥羽殿に打こめられさせ給ひし日より、内
裏には俄にりんじの神楽はじめられて、毎夜に清涼
殿の石灰の壇の上にて太神宮をぞ拝し参らせましま
しける、法皇の御事を祈り申させましましけるにこ
そ、同じ御親子の御なからひと申ながら、是ほど御
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志の深さこそやんごとなかりけれ、それ行に百行あ
り、百行の中にて孝行をもてさきとす、明王は孝をも
て天下ををさむともいへり、されば唐尭は老おとろ
へたる母をたつとび、虞しゆんはかたくななる父を
敬ふといへり、漢の高祖帝位につき給ひて後、父大
公をうやまひ給ひしかば、天に二の日なし地に二の
主なしとていよいよおそれ給ひしに、太上天皇の位
を父にさづけたまひき、かの賢皇聖主の先規をおは
せましましけん、天子の御まつり事こそ目出たけれ、
二条院も賢王にて渡らせ給ひしかども、御位につか
せ給ひて後は、天子に父母なしと常には仰られて、
法皇の御諌も用ひ参らせ給はざりしかば、ほいなき
御事に思召たりし故にや、世をしろし召事もほどな
かりき、されば、継体の君にてわたらせ給はず、ま
さしく御ゆづりを受させおはしましたりける御子の
六条院も、御位ありてわづかに三ヶ年、宝算五歳に
て御位退かせ給ひて、太上天皇の尊號ありしかども、

いまだ御元服もなくて、御年十三にて、安元二年七
月廿七日に失せさせ給ひにき、よき事ならざりし事
也、内裏には鳥羽殿へ忍て御ふみあり、世もかくな
り君もさやうにて渡らせ給はんうへは、かくて雲井
に跡をとどめて何にかはすべき、かの寛平のむかし
の跡を尋ね、花山のふるきよしみをとぶらひて、家
をも出で世をものがれて、山林るらうの行者ともな
り候はんと申させおはしましたりければ、鳥羽殿よ
りの御返事は、我身は君のさてわたらせおはします
をこそひとつの憑にては候へ、さやうに思召し立な
ん後は、何のたのみか候べき、ともかくも愚老がなり
はてん様を聞召し果んと社思召され候はめ、ゆめゆ
めあるべからざる御事なり、いたくしんきんをなや
まし給はん事、返て心苦しかるべし、さな思召され候
ひぞなどと、細々と慰め申させおはしましければ、
主上此御返事を龍顔にあてさせおはしまして、御涙
にむせばせおはしますぞかたじけなき、ことわりや
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内典外典のおきてにも、孝養のともがらをほめ給ふ、
天神地神も孝やうのかうべをなで給ふ、あはれなる
父子の御なからひなり、およそ君は舟なり臣は水な
り、水、浪をしづむれば舟よくうかぶ、水、浪をたたふ
れば、舟又くつがへす、臣よく君をたもつ、臣又君
をくつがへす、保元平治兩度のげきらんには入道相
国君をたもち奉るといへども、安元治承の今は君を
くつがへし奉る、貞観政要の文にたがはざりけるも
のをや、
廿六日明雲大僧正天台座主に還補したまふ、七宮御
しだいありけるとかや、入道はか様にしちらして、
中宮内裏に渡らせ給ふ、関白殿我御聟なり、かたがた
心やすかるべしとや思はれけん、天下御政一筋に内
裏の御計ひたるべしと申すてて福原へ帰り下られけ
り、宗もり卿参内して此よしを奏せられけれども、
主上は院の御譲りを給へえたる代ならばこそ政をも
しらめ、院は心うきありさまにて鳥羽殿に渡らせ給

ふに、何のいさましさに世の政をも知るべき、ただと
くとく執柄に申合せて、宗盛はからふべしと仰られ
て、あへて聞召入られず、あけてもくれても法皇の御
事をのみぞ、御心苦しくいたましく思召されける、
法皇は城なんのりきうにしてことしもすでに暮にけ
り、鳥羽殿には月日もかさなるにつけても、御なげ
きはおこたらず、をりをりの御遊、所々の御賀表めで
たく、いまやう合の興ありし事も思召し忘れず、相
国もゆるし参らせず、法皇も恐れさせ給へば、参り
よる人もなし、秋の山のあらしの音のみいつくしく、
故宮の月の影のみぞさやけき、しづがいたすうぶね
のともしは、御目の前をすぎ、りんうに擣衣のつち
のおと、行客の車馬は御みみにこたへて、眠りを覚
し奉る、庭には雪ふりつもれども、あとふみつくる
人もなし、池には氷のみとぢかさねて、むれ居し鳥
も見えず、大寺のかねの声はゐあい寺の聞をおどろ
かす、四方の山の雪の色かうろ峯ののぞみを催す、
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あかつきの氷をきしる車の音は、遥に門の前に横た
はり、夜の霜にさむけききぬたのおと、幽に御枕に
かよふなり、浜田を過る行人、征馬のいそがはしげな
るさもうき世を渡るありさま思召ししられてあはれ
なり、宮門を守るはんいの、夜ひるけいごをつとむ
るも、前世にいかなる契にていま縁をむすぶらんと
思召し続くるもあはれ也、さるままにはくわいきう
の御涙おさへがたくて年も暮ぬ、治承四年正月にも
なりぬ、元三のあひだ年去り年来ども、鳥羽殿へは
事とひ参る人もなし、とぢこめられ給ひけるぞかな
しき、とう中納言なりのり卿、左京大夫修範兄弟二
人ぞゆるされて参られける、ふるく物など仰せあは
せられし大宮太相国三条内大臣、はむろの大納言、
中山中納言などと申し人々もうせられにき、いまは
古き人とては宰相なりより、民部卿ちかのり、左大
弁宰相としつねばかりこそおはせしも、此世のなり
ゆくありさまを見るに、とてもかくてもありなん、

朝廷につかへて身をたすけ、三公九卿にのぼりても、
何にかはせん、たまたまよわうをのがれ給ひし人も、
高野の雲に交はり大原の別所に居をとめ、或はだい
ごの霞にかくれ、仁和寺の閑居にとぢ籠りて、一向
後生ぼだいのいとなみより外二心なくおこなひすま
してぞおはしける、むかし商山の四皓、竹林の七賢
是皆はくらんせいてつにして、世をのがれたるにあ
らずや、中にもなりより卿は、この事どもを伝へ聞
て、あはれ心とくも世をのがれにけるものかなと、
かくて聞も同じ事なれども、世に立ち交はりて、見
聞ましかば、いかばかり心うからまし、保元平治の
乱をこそ浅ましと思ひしに、世のすゑになれば、い
やましましにのみなり行めり、此後又いかなる事か
あらんずらん、雲をわけてものぼり土をほりても入
りぬべくこそ、覚ゆれとぞのたまひける、世のすゑ
なれどもゆゆしかりける人々なり、
廿日はとう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花
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やかなる事ども世間にはののしりけれども、法皇は
耳のよそに聞召すぞあはれなる、
二月十九日春宮御ゆづりを受けさせ給ひて、御即位
あり、是を安徳天皇と申、今年三歳にこそならせお
はしませ、いつしかなりと人おもへり、先帝も異な
る御恙もおはしまさぬに、おしおろし奉る、是太政
入道の万事思ふさまなるがいたす所なり、或人あは
れいつしかなる譲位かな、二歳三歳の例はいとよく
もなきものを、老子経に云、飄風は朝をへず、霓雨
は月を終ずといへり、飄風とは疾風也、霓雨とはあ
らしの雨也、いふ心は、疾するものはながき事能は
ず、頓にする者は久しからずといへり、此君とく位
につかせ給ひて、とく位を退き給はんずらんとささ
やきければ、平大納言のもとへ或人の又行向ひて、
かさねて京都にふるくさかさかしき仁の、この御位
をはやしと譏り申候はといひければ、時忠卿申され
けるは、今度譲位なりしかばいつしかなりと人かた

ぶけ申べき、異国には周成王三歳、晋穆帝二歳、吾
朝には近衛院三歳、六条院二歳、各きやうほうの中
に包まれて、衣帯をただしくせざしかども、或は摂
政おひて位につけ、或は母后抱きて朝にのぞむとも
いへり、後漢のかうやう皇帝は、生れて百余日の中
にせんそありき、和漢かくの如くなり、人かたむけ
申すべきやうやはあるとていかられければ、その時
有職の人々はあなおそろしものいはじ、さればそれ
がよき例かとぞつぶやきける、春宮御ゆづりをうけ
させおはしましてのち、外祖父外祖母とて、入道夫
婦ともに准三后のせんじを蒙りて、年官年爵を賜て、
上日のものを召仕はれければ、ゑかき花つけたる侍
出入して、偏に院宮のごとくにぞありける、出家入
道の後も、えいやうはつきせざりけりとぞ見えける、
出家の人の准三后のせんじを蒙る事は、法興院大入
道殿の御例なり、それも一の人の御例准じがたくや
とぞ人申ける、か様にはなやかにめでたき事はあり
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けれども、世間はおだしからず、
廿九日申の時ばかりに、京中に大きなるつじ風吹き
て、一条大宮よりはじめて東へ十二町とみの小路よ
りはじめて、南へ六町、中御門東へ一町、京極を下
りに十二町、四条を西へ八町、西の洞院わたりにて
とどまりぬ、又その間の門々家々についがきつつみ
を吹ぬき、たふれ吹きちらすありさま、木の葉のご
とし、馬人牛車などを吹あげておちつく所にてうち
そんじ死ぬるもの多し、むかしも今もためしなきほ
どのもののけとぞ申あへりける、
三月十七日新院安芸の一宮厳島の社へ御幸なるべき
にありけるが、東大寺興福寺園城寺の大衆等、京へ
うち入べきよし聞えて、京中さわぎければ、御幸俄
に思召とどまらせ給ひけり、帝皇は位を去らせ給ひ
て後、諸社の御幸のはじめには先八幡賀茂春日平野
などへ御幸ありてこそいづれの社へも御幸なれ、い
かにして島国にわたらせ給ふ神へ御幸はなるやらん

と人あやしみければ、白河院位を去せ給ひて後、熊
野へ御幸也、法皇は日吉へ御幸なりき、先例かくの
ごとし、すでに知ぬえい慮にありといふことを、そ
のうへ御心中に深く御ぐわんあり、又夢想の告あり
などとぞ仰事ありける、この厳島の社は、入道相国
しきりにあがめ奉る、かの社に内侍とてありける御
子までもてなし愛せられけり、かかりければ、上は
御同心のよしにて、下には神明御はからひにて、入
道のむほんの心もやはらぎやすると思召して、御祈
祷の為に八幡賀茂よりも先に、彼社へは参らせ給ふ
ともいへり、是は法皇のいつとなく押こめられさせ
給ひて渡らせ給ふ事を歎き思召しける余りにや、さ
る程に南都三井寺の大衆もしづまりければ、厳しま
へ御幸とげさせおはしますとぞ聞えし、
十八日かねて思召しまうけたる御幸なれども、御言
葉にも出させ給はざりけるが、そのよひになりて、
前大将宗盛をめして、明日びんぎにてもあり、鳥
P242
羽殿へ参りて対面申さばやと思召すはいかに、相国
に知らせずしては悪かりなんやと仰せられあへず、
御涙の浮びければ、大将もあはれに覚えて、何かは苦
しく候べきと申されければ、世にうれしげに思召し
て、さらば鳥羽殿にその気色を申せと仰ありければ、
大将急ぎ申されたり、法皇なのめならず御悦思召し
て、余りに思召す事なれば、夢に見ゆるやらんとま
で、仰のありけるぞかたじけなき、
十九日太政入道の西八条の宿所よりいまだ暁出させ
給ふ時は、三月十日余りの比なれば、露に曇る有明
の月の光もおぼろにて、雲路をさして帰雁の遠ざか
り行声々も、折から殊にあはれなり、御供の公卿に
は、五条大納言国つな、前右大将宗盛、土御門宰相中
将通親、四条三位たかすゑ、殿上人には右中将たか
ふさ、右中弁かね光、宮内少輔むねのりとぞ聞えし、
春の影既にくれなんとし、夏の木立になり、残のは
なの色おとろへて、宿の鶯の声老たり、こぐらくさ

びしきけしきなれば、門をさし入せ給より、御涙ぞ
すすみける、去正月四日朝覲のために、七条殿へ行
幸なりし事など思召し出て、世の中はただ皆夢なり
けり、諸衛陣をひき、諸卿れつにたち、がくやに乱
声を奏し、院司の公卿さんかうして幔門をひらき、
掃部寮莚道をしき、ただしかりしぎしき一事もなし、
なりのり中納言参りて気色申されければ、法皇は又
寝殿の階隠の間まで御幸あて、心もとなく待ち参ら
せおはします、はるかに御らんじ出せば、上皇いつ
しか入らせ給ひにけり、法皇も上皇も、御目を御ら
んじあはせて、物をも仰せなくて、ただ御涙にのみ
むせばせ給ふ、すこしさしのきて、あま女房一人候
けるも、両所の御有さまを見奉てうつぶして涙を流
す、やや久しくあて、法皇御涙をおしのごはせ給て、
召し立つにやと申させたまへば、上皇は深く思もや
すむね候とばかり申させおはしまして、又はじめの
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如く御涙の浮ばせ給ひければ、さればこそ我身の御
事を祈り申させ給はんとてよと御心得あておはしま
しけるに、いとどかなしく思召して、法皇も上皇も
又御涙にむせばせおはします、御衣の袖もしぼるば
かりにぞ見えさせおはしましける、昔今の事どもた
がひに申かよはさせおはしましけるほどに、日をか
さね夜をかさぬとも尽すべからず、よろづ御名残惜
く思召されて、とみにもえたたせ給はず、上皇は今
日の御対面を悦び申させおはします、上皇はことし
いまだはたちにたたせおはしまさず、御もの思ひに
月日をかさねて、少し御おもやせてわたらせ給ふに
つけても、御冠ぎはよりはじめてけだかくあいあい
しく、此世の人とも見えさせ給はず、いと清げなる
御びんぐきほがらかに、御じやう衣の御袖さへあさ
露にしほれにけるも、いとどらうたく故女院に似参
らせ給ひたれば、むかしの御面影覚し召し出られて
あはれにそ思召されける、今一度見まいらせずして

いかなる事もやと心うく候つるにとて、上皇たたせ
給へば、法皇は御名残尽せずおぼされけれども、日
影たかくなれば、え今しばらくとも申させ給はず、
何となきやうにもてなさせおはしましけれども、御
涙にかはかせおはしまさず、御袖いたくしほれけれ
ば、しるくぞ見えさせ給ひける、人々も皆袖をぞう
るほしにける、上皇は法皇のりきうの故亭にて幽閑
せきばくの御住居を御心くるしく見置参らせおはし
ませば、法皇は又上皇の旅泊の御行宮、船中浪の上
の御ありさまをぞいたましく思ひやり参らせおはし
ます、互の御心中いづれもいづれもあはれにかたじけな
し、誠に宗廟八幡賀茂などをさしおき奉て都をはな
れ、八重のしほぢを凌ぎて、はるばると安芸の国ま
で思召し立けん御志の深さをば、神明も定めて御納
受あるらん、御願成就疑ひなしとぞ覚えし、法皇は
御うしろのかくれさせ給ふ迄、のぞきて御覧じ参ら
せ給ふ、成範修範二人門まで参りて御こしの左右に
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候はれければ、上皇ひそかに仰のありけるは、人こ
そ多くあれ、かやうにちかづき給ふこそ本意なれ、
御いのりはよくよく申べしと仰ごとありければ、各
畏まてじやう衣をしぼりてとどまりにけり、南門に
御舟をまうけたりければ、ほどなくうつらせ給ひに
けり、供奉の上達部大様は船津より帰られぬ、安芸
の国まで参られける人々は、各じやう衣にて参りま
うけられたり、前の右大将のずゐひやうじんじやう
に出立て、数百騎に及べり、きらきらしくぞ見えけ
る、
十七日、御つきあり、御願書を神殿にこめさせおは
します、七日御参籠ありて、澄憲僧都を召具せられ
たりければ、御けつぐわんの日一座の説法あり、そ
の後神主佐伯景弘座主尊仁国司在経蒙勧賞御悦の
時、かさねてくわんしやうあるべきよし、直に仰下
さる、御子十人召されて、色々のろくにあづかる、
日数事終りて還幸なる、

四月七日福原につかせ給ふ、太政入道待まうけ参ら
せらる、儀式一期の大栄、今じやうの思出と見えた
り、平家一門公卿殿上人くびすをつぎ、蔵人青待御
船のつなをひく、新院くがへあがらせ給へば、入道
御手をひき参らせ給ふ、時忠卿御衣のすそをとて
新都の地形を御覧ありけり、さてこそ島の御所へは
入御なりけれ、くわいらい苫屋形に袖をつらねて拍
子を扣、遊君は船の中にかさをならべて皷をうつ、
琴曲を集めて御前をかがやかす、紅葉をかさねて、
れんぐわいをかざる競馬あり、隨身鳴絃伶人あり、
平家の侍さるがくあり、うしろ戸にてすまうあり、
貢御あり、夜に入て管弦あり、連歌会あり、丹波守
清国両道のきりやうたるによて、立所にて有賞に預
る、五位上下す、色々のろくを給、さまざまの忠を
いたす、惣じてきだいの見物ぶさうのてうもんなり、
然れば諸天も是にあまくだり、龍神も此浦にうかせ
給ふらんと覚えたり、あくれば九日けふばかりとし
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きりに相国とどめ申されけれども、御かんもなかり
けるやらん、おして還幸なる、平家一門西宮の沖ま
で送り参らせらる、相国は福原へ帰られぬ、上皇は
京へ入らせおはします、御迎の人々には鳥羽の草津
へ参らる、右宰相中将さねもり卿一人その外雲各四
五人ぞ参られける、今日新主はじめて大裏へ還幸あ
りければ、人々大略それへ参られけるによて也、い
つくしま供奉の人々は、舟津にとどまりてさがりて
京へいられけり、
廿二日新帝御即位あり、御即位は大極殿にて行はる
る事なれども、去々年焼にしかば、後三条院の御即
位治暦四年の例に任せて、太政官庁にて行はるべき
にてありけるを、官庁は凡そ人にとらば公文所てい
の所なり、大ごく殿なからんには、紫しんでんにて
こそ行はるべけれと左大臣申させ給ひけり、その故
ありとて、紫宸殿にてぞ御即位ありける、
康保四年十一月一日冷泉院の御即位紫宸殿にてあり

ける事、御邪気の故大極殿へ御幸叶はざりし故也、
その例いかがあるべからん、ただまちかくは、後三
条院の嘉例について、官の庁にてあるべかりけるも
のをと、人々申させおはしましけれども、左大臣の
御はからひ時に取て左右なき事也ければ、子細に及
ばず、中宮弘徽でんより仁寿殿へうつされおはしま
して、高御くらへ参らせ給ひける御有さま、いはん
かたなく目出たかりけり、されども内々はさまざま
のさとしどもありけるとかや、平家の人々は、宗も
り卿行幸の供奉せらる、また小松大臣の公達は重盛
うせ給ひしよりは、維盛、資盛、有盛なども、皆い
ろにて籠居し給へり、ほいなかりし事なり、左兵衛
督知盛、蔵人頭重ひら朝臣出仕せられたりける、後
朝に蔵人左衛門権佐定長、昨日の御即位事に相違な
くめでたかりし由、こまごまと四五枚に書つけて二
位殿へ参らせらる、相国二位殿ゑみをふくみて悦あ
られけり、
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一院第二の御子もちひとの王と申は、御母はかがの
大納言すゑなり卿の御娘とかや、三条高倉の御所に
ましましければ、高倉の宮とぞ申ける、去永万元年
十二月十六日、御とし十五と申しに、太皇太后宮の
近衛河原の御所にて御元服ありしが、今年は三十に
ならせ給ひぬれども、いまだ親王のせん旨をだにも
かうむらせ給はず、ちんりんしてぞ渡らせ給ひける、
御手跡もいつくしく遊ばし、和かんの才に長じ給へ
りしかば、位にもつかせおはしましたらば、末代の
賢王とも申つべしなど人々申されけれども、此女院
には継子にて、うちこめられて、花のもとの春の遊
には、宸筆をおろして手づから御製をかき、月の前
の秋の夕には、玉笛を吹てみづから雅音をあやつり
まことに心細く幽なる御ありさま也、
卯月九日ひそかに夜うち更るほどに、源三位入道頼
政忍て彼宮の御所に参りて、勧め申ける事こそ恐し
けれ、君は天照太神四十九世の御苗裔、太上法皇第

二の皇子なり、太子にも立せ給ひ、帝位にもつかせ
給ふべき御身の、親王のせんじをだにもゆるされお
はしまさずして、すでに三十にならせおはしましぬ
る事、心うしとはおぼし召されずや、平家世をとて
廿余年になりぬ、何事もかぎりある事なれば、悪行
とし久くなりて栄華たちまちに尽なんとす、君この
時いかなる御はからひもなくては、いつを期しさせ
おはしますべきぞ、とくとくおぼし召し立て、源氏に
おほせて、平家を追討せらるべし、慎しみすごさせ
給ふとも、終にあんをんにて果てさせおはしまさん
事もありがたし、君さやうにもおぼし召し立ば、入
道も七十に余り候へども、子ども一両人候へば、な
どか御供仕候はざるべき、世のありさまを見候に、
うへこそしたがひたる様に候へども、内々は平家を
そねまぬものやは候、就中ほうげん平治以後ほろび
うせたりとは申候へども、その外の源氏どもこそさ
すが多く候へとて申つづく、京都には、
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出羽判官光信子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判
官光長、出羽冠者光義、熊野には為義が子、十郎義
盛とて、平治の乱よりくま野の御宮にかくれて候、
津の国には、
多田蔵人行綱、多田次郎知実、同三郎高頼、大和国
には、宇野七郎親治子、宇野太郎有治、同次郎清治、
同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山本、柏木、
錦古利八島一党、美濃尾張には、山田次郎重弘、河
辺太郎重直、同三郎重房、和泉太郎重光、浦野太郎
重遠、葦敷次郎重頼、同太郎重助、同三郎重隆、木
田三郎重長、関田判官代重国、八島先生斉時、同三
郎時清、甲斐国には逸見冠者義清、同太郎清光、武
田太郎信義、加賀見次郎遠光、一条次郎忠頼、板垣
次郎兼光、武田兵衛有義、同五郎信光、小笠原次郎
長清、信濃国には、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、
同四郎義信、帯刀先生義賢子、木曾冠者義仲、伊豆
国には兵衛佐頼朝、為義子〈 義朝養子 〉、志田三郎先生義憲、

佐竹冠者昌義、同太郎忠義、同次郎義宗、同四郎高
義、同五郎義孝、陸奥には、義朝末子九郎冠者義経、
また頼政法師が一党にも、仲綱、兼綱以下少々候ら
ん、是等は皆六孫王の苗裔多田新発意満仲が後いん
也、また佐々木が一党も源氏と申、此等は皆大衆を
もふせぎ、凶徒をもしりぞけ、朝賞にもあづかりし
ゆく望をとげし事、源平両家はたがひに勝負なかり
しかども、当時は雲泥のまじはりをへだてて、主従
の礼よりもなほことなり、わづかにかひなき命ばか
りは生くれども、国々の民百姓となりて、所々にか
くれ居たり、国にはもく代にしたがひ、庄にはあづ
かり所につかはれ、公事ざうじにかり立られて、よ
るひる安き心なし、いかばかり心うく候らん、君思
召し立て、令旨をだに下されば、夜を日に継ぎてう
ち上て、平家を亡さん事、時日をめぐらすべからず、
平家をほろぼして法皇の打籠られておはします御心
も、休め奉りたまひたらば、かつうは御至孝にてこ
P248
そ渡らせたまひ候はめ、なかんづく今年尋、治承四
年庚子者、相当如陽子平相国被追討之時代、何
当此時而令黙止哉、爰浄海当時之謀叛者、超先
代事、稍過千万億矣、昔将門者出都城外而企
濫悪、今浄海者於洛陽之内発謀叛、所謂捕納
言宰相、搦関白大臣、而配流、或追籠当今聖主、
奪位譲子孫責出新本天皇入楼、留理政哉、此
謀叛絶古今、先代未聞之処也、仍云院宣、云勅
宣、令宣下事、皆以漏宣也、是則下何君勅定、
何院之宣旨哉、抑自平治元年以降、平家持世廿
一年、是故一昔帝氏而相当源氏世之持乎、而今案
事情捧平氏赤色持世、是火性也、今既果報之薪
尽而無可令放光之処、又平氏以平治元年号而
持世之事、治承之比、上下之字具水以黒色水可
滅赤色火、昔平治、今治承以三水之字作年号、
只本末以水火事、古今不(レ)可有疑者也、兼又今年
支干金与水也、故色者白与黒也、爰尋其先跡者、

八幡太郎義家捧白色則金性也、刑部卿忠盛、捧黒
色黒色則水性也、金与水和合生長之持相也、浄海生
年六十三歳支干共土也、死冬季、水者冬旺、当冬
季而可破滅時也、然者被討平氏之事、更不(レ)可
有其疑者也、就中八幡大菩薩百王守護八十一代
也、全其誓不(レ)可誤給、此時不被報会稽之恥者、
又何時乎、当冬季而水性也、利令滅火有徳、事
不(レ)可被延今明、日本国中之挙向源氏可令入
洛也、是又機感相応之時也、早打入王宮静天下
可奉改国土、凡如風聞者、飽与財産相語山
門南都僧徒云々、是則御発起遅々故也などと細々と
申たりければ、此事いかが有べからんと返々思召さ
れけれども、少納言伊長と申ける人は、右大臣とし
家の息阿古丸大納言むねみちの孫、肥後の前司すゑ
みちの子也、めでたき相人にておはしければ、時の
人相少納言とぞ申ける、その人の此宮をば位につき
給ふべきさうまします、天下の事思召しはなさせ給
P249
ふまじと申しかば、是も然るべき事にてこそ、頼政
入道もかく申すすむらめと、かつうは天照太神の御
使にてやあるらんと思召ければ、既に令旨を国々へ
つかはされて、思召し立せ給ひにけり、その令旨云、
下東山東海北陸三道諸国軍兵等所可被追
討早清盛法師并従類叛逆輩事
右前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣、奉最勝親王
勅〓、清盛法師并宗盛等、威勢職而起凶徒、亡国
家、令悩乱百官万民掠領五畿七道閇籠皇院
流罪臣公、視命沈身、込楼潔資則領勅奪官
職、赴配過、即冠超昇、巫女宮室不留尤多或不
守高僧威徳、禁獄修学之僧徒、或給下叡岳之絹
米、相具於謀叛粮米、失百皇懇切一人之験、帝皇
違逆、仏法破滅、無古代者也、于時天地悉悲
之、臣民皆愁之、仍一院第二皇子呼天武皇帝
旧、俄追討王位催凡下之輩、任上宮太子古、
打亡諸仏法破滅之党類、唯非憑人之稱位

仰天地臣理也、帝皇如有三宝神冥也、何况
無四岳合力哉、則源家之人藤氏之人、兼三道諸
国之旨[B 堪勇士者同令与力(東鑑)]〓莫任被聞食与力追討清盛、可行配流
追禁之罪主者若於有勝功者、先諸国之使庄兼
御即位之後、必依宣行之、
治承四年五月九日 伊豆守正五位下源朝臣
とぞ書かれたりける、此令旨を兵衛佐給はりて、国
国へ令旨の趣、書き下給状云、
被最勝親王之勅命〓、召具東山東海北陸道湛
武勇之輩、守令旨可致用意、今明行幸於洛
陽者、近江国源氏令執行国務、廻北陸道、之
而令参向勢多之辺、相待御上洛可被供奉洛
陽也、依親王之御気色、執達以宣、
治承四年七月日 前兵衛佐源朝臣
と書きてぞ国々へ下されけり、これによて、勇士等
皆兵衛佐の下知に従ひければ、そむくもの一人もな
かりけり、抑源三位入道がかかるあしき事を宮にす
P250
すめ申奉る事は、嫡子伊豆守仲綱恨みふかき事あり
けり、仲綱としごろ家人東国にありけるが、ぬかの
そだちのかげなる馬のふとくたくましきに、くきや
うのいちもつなりけるを、伊豆守に送りたりけり、
武士のたからには、馬にすぎたるたからはいかでか
あるべきに、ある殿上人の仲つなが下にこそ、東国
よりくきやうの馬出で来て候なれと申たり、大将さ
る人にて、伊豆守のもとへいひつかはされたりける
は、誠にや面白き御馬をまうけておはしまし候なる、
給て見候はばやといはれければ、伊豆守しばしは物
もいはず、良久しくありて、心得ざる事のたまふ人
かな、いまだあかぬ馬なりとてさる馬まき、遠国よ
りのぼせて候間、つめをかいて見ぐるしく候しかば、
いたはり候はんとて此ほどゐなかへ下して候と返事
したりけるに、つゐしやうする人あて申けるは、そ
の馬はただ今それに候つるものを、ゆあらひし候つ
るなどと申ければ、大将やがておし返して、一定い

ままでそれに候なるものを、是に給らんには候はず、
聞ゆる御馬にて候へば、ちと見候はんずるばかりな
り、後には返しまいらせべしと、一日に三度までつ
かひをつかはさるれども、仲綱とかくいひまぎらか
して、つかはさざりければ、次日五度までせめたり、
三位入道此事を聞給ひて、馬鵜や鷹ていのものをば、
人のこひかけたらんに、いかでかをしむべき、まし
て当世あの人々のことばをかけんをば、たとひ白か
ねこがねをまろめたる馬なりとも、をしみおきては
家の中にて乗んずるか、つかひの又こぬ先に急ぎそ
の馬つかはすべしとのたまひければ、仲つな力及ば
ず、父の命をそむくべきにあらねば、をしとは思は
れけれども、馬を大将のもとへ遣はしけり、大将馬
をとりながら返しもしたまはず、もとよりよき馬な
れば仲綱といふ名を附て、とねり数多つけて内うま
やにたてて、秘蔵して伺はれけるほどに、人々大将
のもとへおはしたりけるに、ある人伊豆守が秘蔵の
P251
木の下丸是に参りて候よしうけ給り候、はやばしり
のきよく、しんたいの逸物にて候ものを、あはれ見候
ばやと申されければ、その馬此ほど是へつかはして
候、其仲綱めにくつわはめて引出してうちはて、庭
のりして見せ参らせよとのたまひければ、木の下丸
を引出して、侍庭のりをしけるに、大将此馬をおそ
くえさせたりけるをねたしとや思はれけん、その仲
綱丸つよくうちはてのれと、思ふさまにのたまひけ
る事、やがて其日伊豆守伝へ聞て、父の入道の方に
行て、仲綱こそ此馬故に現に皇城の笑ひぐさになり
て候へとて、なくなくいひければ、平家は桓武天皇
末葉時代久しくなり下て候、当家は清和天皇の御末
まちかき事にて候、源平両家いづれか甲乙の候べき、
されどもくわはうのまさりおとり力をよばず、大将
がこと葉の憎く候しかば、木の下丸をばおしみ遂候
はばやと存じ候しを、ただつかはすべしと仰の候し
かば、御命ありがたく候てつかはして候へば、返事

をだにも候はず、あまつさへ昨日自門他門の人々多
く集まりて酒宴の候けるに、その座しきにて仲綱め
に轡はめて、引出してうちはて庭のりして人々に見
せ奉れと、度々大将申候ける事返々口惜しく候、すで
にちく生にたとへられ候なれば、今生のいこん何事
か是に過ぎ候べき、此うへは又再び人におもてを合
すべき身にて候はねば、宗もりが方へまかり向ひて
いかにもなるべく候、そのぎかなふまじくば、いと
ま給て山林にとぢこもりて、世をすつるより外、他
事候まじと、涙をかきあへず申ければ、入道も是を
聞て、親の身なればさこそ思ひ給ひけめ、是よりし
ていかにも平家をほろぼさんと思ふ心つきにけり、
さて思ひの余に、此あしき事をば宮にも申すすめ奉
りたりけるとぞ、のちには聞えし、此大将は小松大
臣には心ぎはよりはじめて少しも似たまはず、事の
外にふるまひことがらおとりたまへり、是につけて
も小松殿の御事をしのび申さぬ人はなかりけり、あ
P252
る時内府内裏へ参られたりけるに、夜陰に清涼殿に
て帥のすけ殿を呼びいだし参らせて、御物がたりあ
りけるに、いつよりいできたるともなく、五尺ばか
りなる口なはひとつ出来けるが、内府のかたにはひ
かかりたりける、内府是を見たまひけれども、驚き
たまはずふり捨たまはば、此女房おそれさわぎ給な
んずとおもひたまひて、御身をうごかしたまはで、
つくづくとものがたりせられけるほどに、くちはは
は内府のさしぬきのももだちにはひ入て、又左のも
もだちへかしらをさし出す時、左の手にて袖ごしに
頭を押へて、右の手にて尾をおさへて、その後人や
候と召しけれども、参る人もなかりければ、かさね
て六位や候と召されけるに、その時伊豆守にて候け
るが、仲つな候とて参りたりければ、内府ももだち
を引きあけて、是は見らるるかとのたまへば、さん
候と申てさし寄りて右の手にて頭をにぎり、彼くち
なはを表衣のふところの中に入て左の手にて尾をに

ぎり、女房に見えずして南殿へ出て御つぼのめしつ
ぎをめして、これとてすつべしとて、ふところより
差出したりければ、めしつぎ色を失ひ逃げ失せにけ
り、その後仲綱が郎等に渡辺党はぶくの次郎といふ
者を召して給たりければ、はぶくくちなはをとて罷
いづるとて、右の手にてくちなはの中をにぎりたり
ければ、五からみ六からみからまれて、差上げて門
より外にもて出で捨ててけり、そのあしたに内府自
筆に状を書きて、仲綱がもとへつかはされける、よべ
の御ふるまひげんじやうらくとこそ見奉て候しか、
是へ申てこそ参らすべく候へども駑馬一疋秋霜一佩
まいらせ候とて、黒き馬のふとくたくましきに、白
ふくりんの鞍をいてあつふさのしりがひかけて、長
ふくりんの銀剱錦の袋に入てもりつぐを使にておく
られたり、伊豆守はこはいかにと覚えて、則ち返事
を申さる、六位の者なればりうていきんげんかしこ
まてくだし預り候畢、誠に夜部の仰を承り候し時は、
P253
げんじやうらくの心地こそ仕て候しかなどとある由
の体にて申されたりけり、小松殿はかくこそ、御な
さけもふかく御心も優におはしまししか、此大将は
むげになさけなくひあいなる人かな、人のをしむ馬
をこひとりて、ぬしの名を馬につけてたちまちにむ
ほんを思企てさせけるこそ浅ましけれ、
一院は成親父子のごとく、をん国はるかなる島にも
はなちうつさんとするかと思召しけるほどに、城南
りきうにして春すぎ、夏たけぬれば、すでに二年に
もなりにけり、いかなるべきやらんと御心細く思召
されて、読誦の御経もいよいよしんかんにめいじて
ぞ思召されける、大将もさすが鳥羽殿へ御幸なりし
時も涙を流しけるが、つねに案内を申されけり、此
人のおとづれを頼み思召して渡らせたまひける程
に、常に御心ながく思召され候へ、事のつゐでごとに
御方人をば仕り候なり、さすが入道の心をば終には
宗盛こそ申くつろげ候はんずれなどど申されけれ

ば、法皇も嬉しく思召され人々もたのもしく思へり
ける程に、五月十二日午の刻ばかりに、俄に赤く大き
なるいたちいづくより来参りたりとも覚ぬに、御前
を二三返走り廻りてきらめいて法皇にむかひ奉て、
をどり上りをどり上り御衣の御袖にくひつきなどしてうせ
にけり、法皇大にあやしみさわぎ思召す、きんじゆ
鳥類のけをなす事多しといへども、此けだものはこ
とに様あるもの也、入道の憤りなほふかくして死罪
に行はんずるやらんと思召さるるにつけても、南無
普賢大士十羅刹たすけさせ給へと、御きねんありけ
るぞかなしき、そのころ源蔵人仲かねと申者ありけ
り、後には近江守とぞ申ける、法皇鳥羽殿に渡らせ
給へどもたやすく参りよる事もなかりければ、余り
にかなしく覚えて、忍びつつ参りけるを、法皇御覧
じて、仲かねにただ今しかじかの事あり、此占かた
をもて泰親が宿所へはせ向ひよくよく占ふべしとい
ふべしと御定ありければ、仲かねうけ給もあへず御
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占形を給てやすちかが宿所へ馳向ひて門をたたきけ
れば、いづくよりと答ふ、鳥羽殿よりと申ければ、
泰親俄におり向ひてかしこまて、御占かたを給りて、
重代相伝の秘書ども披見して、よくよく占ひて、今
三日の中に大きなる御悦候べしと勘へ申ければ、そ
の勘文をもて鳥羽殿へ帰参てこのよしを奏し申けれ
ば、法皇ただ今何事の悦かあるべきなどと思召しけ
るほどに、大将しきりに法皇の御事を歎き申されけ
れば、入道漸く悪行の心直りて、同十四日鳥羽殿よ
り八条烏丸の御所へ渡し奉る、是偏に新院の厳島御
幸の故とぞ見えし、例の軍兵御車の左右にうちかこ
み奉る、泰親今三日の内に御悦あるべしと占ひ申た
りける、少しもたがはず、大将いつしか参て、御悦
を申ぬ、申入るべき事どもつもりて、心もとなく思
されけれども、相国におそれて思ひながらまいられ
ざりけるほどに、口惜かりける事は、いかなるもの
かもらしたりけん、その日高倉の宮謀叛の御企あり

と聞えければ、入道大にいかりて、ぜひなくとり奉
て土佐のはたへ流し奉るべしとぞ聞えし、職事蔵人
左少弁行たかそのよし披露す、上卿三条大納言さね
ふさ卿宣奉勅、別当時忠卿仰を承て、官人源太夫判官
かね綱、出羽判官光長、博士判官かねなり等を召し
てもちひとの王を土佐のはたへ配流し奉るべきよし
仰す、此宮の御謀叛のとくあらはれける事は、熊野
の本宮より聞えたりけるとぞ披露しける、その故は
那智と新宮とは、十郎蔵人義盛を源氏の大将とす、
本宮は平家方にて合戦しけるほどに、本宮まけにけ
り、その憤りを大江法橋、高坊法橋、正寺主、権寺
主等夜を日につぎて馳上て、太政入道にうつたへ申
けるは、宮の令旨を給て、かれらたちまちに謀叛を
企て候よし申たりけるとかや、かねつなやがて父三
位入道のもとへ夢見せたりければ、則ち宮へ告申た
りけり、三位入道のすすむる事ども、平家つやつや
知給はで子息大夫判官をしもつけられけるも不思議
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也、宮はすこしも思召しよらで、五月雨のはれまの
月うち御覧じて御心すましわたらせたまひけるに、
入道のもとより、御文ありとて、使者さわぎたるけ
しきにて、馳来りしと申ければ、何事やらんとて急
ぎ文を御らんぜられければ、世をみださせ給ふべき
御企ありとて取参らせんとて、ただ今けんびゐしど
も参り候なるぞ、かね綱もその中にて候也、ひとま
となりとも、急ぎ立忍ばせたまへ、入道も急ぎまゐ
るべく候、京都はいづくも悪く候なんずれば、いか
にもして三井寺までだにも、事なく渡らせたまひな
ば、さりともと申たり、宮是を御覧ずるに、浅まし
ともおろかなり、佐大夫宗信といふ人の候けるを召
してかかる事こそあれ、こはいかがせんずると仰ら
れければ、振ひわななくばかりにて、申やりたる方
もなかりけり、長兵衛尉長谷部信連といふ侍あり、
さかさかしきものにてぞありける、此宮の御年ごろ
の青侍にも非ず、妻は日吉の神子にてありけるが、

宮の青女房に思ひつきて常に参りかよひけるが、後
には宮の見参に入て、時々参りて御とのゐなど仕り
けるが、折節その夜候けるを召して仰合せられけれ
ば、やすく候、女房の御すがたにて出御候べしとて、
御もとどりをみだし参らせて、うすぎぬをうちかつ
がせ参らせ、いちめがさをめさせ参られて、まぎれ
出させ給ひにけり、御所中の人々一人も知参らせず、
くろ丸といふ御中間、佐大夫宗信といふ殿上人、侍に
は信連ばかり御供には参りけり、宗信はけしかるひ
たたれ小ばかまにからかさ一本打かつぎて、くろ丸
にはふくろ一もたせてありければ、青侍体のものの
女むかへて行とぞ見えたりける、五月雨のころなれ
ども、雲はれて月くまなかりけるに、溝のひろかり
けるをしやくとこえさせたまひたりければ、あひ参
らせたりける人の女房かとおもへば、はしたなくも
こえたるものかなとおもひたるげにて、たちとどま
りて、あやしげに見おくりまいらせたりけるにぞ、
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佐大夫いとどひざふるひて、つやつやあゆまれざり
ける、
景行天皇第二皇子日本武尊は、伊勢国川上郡にたけ
るといふものありけるをも、乙女の姿をかりてこそ
賊主の河上にたちたりけるをば、討たまひたりけれ、
とりあへざりし事なれば、御所中をとりしたためら
るるに及ばず、きいの御ほう物ども皆打捨させおは
します、御づしに置れたりける御ほんこどもなから
んあとまでもいかがと思召さるる、御琵琶以下御遊
のぐそくいづれもいづれも御心にかからずしもはなけれ
ども、その中にさえたといふ聞えし寒竹の御笛、誠
に御秘蔵ありけるをば、いかならん世までも、御身
をはなたじとこそかねて思召けるに、あまりの御心
まどひにただ今しも常の御所の御枕に残しとどめら
れけるこそ、ひしと御心にかけて立帰らせたまひて
もとらまほしきほどに思召して、のびもやらせおは
しまさず、信連を召して仰ありけるは、かやうの有

さまにては何事も心にかかるべきならねども、小枝
しもわすれぬる事の口をしさよ、いかがすべきと仰
ありければ、信つらさるをのこにて、いとやすきこ
とにこそ候なれ、とりて参り候べしとて走りかへり
にけり、御所中の見ぐるしきものどもとりしたため
て、此御笛を取て二条高くらにて追つき参らせたり
ければ、御涙を流して悦ばせおはします、信連申ける
は、日ごろはいづくのうらまでも御供仕るべきよし
をこそ存候つれとも、こんどは御所中にまかりとど
まり候はんとぞんじ候、そのゆゑは、官人ただ今御所
へむかひ候はんずるに、もの一言葉申もの候はざら
んこそ、むげにくちをしき次第にて候へ、信つらは
なかりけるか、逃にけるこそなど、平家のかへり聞
候はんもゐこんに覚え候、弓矢をとるならひ、かり
にも名こそをしき事にて候へといとまを申ければ、
宮は誠に申旨もさることなれども、汝にはなれては、
いたくたよりなかるべし、野山のすゑまでも見おく
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らん事こそ、本意なるべけれと仰ありけれども、信
つらしゐて御いとまを申ければちから及ばず、我身
とても、いづくまでかと思へば、後世にこそと仰せ
られもあへず、御涙のこぼるるを見参らせけるに、
信連もきえ入やうに覚えけれども、かく心よわくて
はかなふまじきものをと思ひ切りて、涙をおしのご
ひてはせ帰りにけり、
平家物語巻第七終