平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十

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平家物語巻第十
か様に文覚は心そうぞうにして物ぐるはしき様なれ
ども、父にも母にもわかれて孤にて候ひし間、朝夕
は只彼ぼだいを弔ふより外は他事をまじへず、愛別
離苦に堪へずして、出家入道するには似たれども、
本意はただ至孝報恩の道心なり、されば大龍王の第
一の願に答へてしゆごし給ふべき文覚なり、第二の
願は閑林出家と候へば、十八にして出家して、今に至
るまで、山林流浪のしんじやなり、などか守護し給
はざらんや、第三の願と云は仏法興隆の者を守護す
べしとちかひ給ひたれば、当時も文覚こそ仏法興隆
の志深くして、和殿原にはにくまれたれども、八大
龍王は憐み給ふらんものを、かかる法文聖教を悟る
身にて候し間、小龍などは物の数ならずと存ずるに
依て、龍王め龍王めとは申伝るなり、さ申和殿原も、親

の孝養する心ざしもふかくば、入道出家して閑林に
閉籠りて、仏法興隆のいとなみをもし給はんには、
八大龍王に守護せられ給ふべし、必しも文覚一人を
守らんと誓ひ給へる誓願にはあらず、かまへて殿原
も親の孝養して仏法に志しをはこび給ふべし、今生
後生の大幸なり、是こそ因果の理りなるにや、さて
もさても法皇の邪見こそ口惜けれ、さこそ小国の皇と
申ながら、きたなき人の欲心かな、大国は不企破戒
なれども、比丘をばうやまひ、無実なれども、くわん
しんには入給ふことにて侍るぞ、和殿原も相かまへ
て仏法疎略の人どもとみるぞ、能々はからひ給へ、
いかにだうりをのぶれども、文覚が言葉を信用し給
はぬ事の浅ましさよ、小龍を招きて風波の難を減じ
て、各の有さまを見、又文覚が仏法修行の徳用をも
つみ知らせ奉らんとして候なり、されば案の如くに
身の上に相当りたる難の来る時、驚きてぜむつきた
る礼義こそはかなくあはれに覚え候へ、小龍のさは
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ぎだになのめならず、ましてむじやうの風はさまざ
ま文覚だにも叶ふまじ、無上世尊だに入滅し給ひき、
此上は日本の主もよも叶ひ給はじ、まして其外の殿
原遁るべしとも覚えず、今度文覚が悪口して伊豆国
へ流罪せらるるは、仏の方便としり給ふべし、一向
文覚が申さんに隨ひて、今日より後は仏道に心をか
くべし、一樹の陰にやどるすら前世のちぎりと申な
り、いかにいはんや数日同船の睦びをや、抑仏道に
心をかくると申は、内心に常に念仏すれば、臨終に
必ず来迎し給へり、観音、勢至、阿弥陀如来、無数の
聖衆諸ともに弘誓の船にさほさして、廿五有の苦海
を渡り、宝蓮台の上に往生して、菩薩と共に遊ばん
事誰かこれのぞまざらんやと、かしこき父の子を教
る様に、事にふれて教訓しけり、かく折々にこしら
へけれども、真実に道心を起す者はなし、放寃〈 盛衰記作免 〉
両三人の中に生年廿三歳に成れる刑部丞県明隆と
いひける男計ぞもとどり切て、文覚が弟子に成てあ

りければ、文覚戒さづけて名をば文明とぞつけたり
ける、其外のもの共は聞時計ぞ道念にも趣きける、
まして出家とんせいするまでの者はなかりけり、但
しんかうしける色は紅よりも猶ふかかりけり、是程
通を得たる人にておはしける間、物をものとも宣は
ざりけり、さしも貴くおはしける人を賎しみ申ける
事の浅ましさよとて、敬ひかしづくこと斜ならず、
此文覚房は天狗の法を成就して、法師をば男になし、
男をば法師になしけるとかや、天狗と申は人にて人
ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬にもあらず、足
手は人、かしらは犬、左右に羽生ひて飛ありくもの
なり、人の心を転ずる事、上戸のよき酒をのめるが
ごとし、小通を得てすぎぬることをば知らずといへ
ども、未来をば悟る、是と申は持戒のひじりもしは
智者、若は行人などの我に過ぎたる者はあらじと慢
心を起したる故に、仏にもならず悪道にも落ずして、
かかる天狗といふ物に成なり、諸々の有験利生の人
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驕慢を起さずと云ことなし、然る間此果報を得るな
り、さても文覚伊勢国より大願を起していはく、我
もし二度故郷に帰て、彼神護寺を修造すべくば、国
へ下り着くまで断食すとも命全く絶べからず、若宿
願むなしかるべくば、今日より七日が中に死ぬべし
とて、つやつや物をも喰ず、湯水だにものどへ入ず、
廿一日と申に伊豆国へ着にけり、されども色かたち
も変ずる事もなく、行ぼううちして、かりそめにも
睡眠する事なかりける、常にはおかしき物語しつつ、
ぬしも笑ひ、人をも笑はせけり、つれづれ更になし、
伊豆国なごやのおくにとぢ籠りて、多くの年月を送
りけり、行法くんじゆ功つもりて、大悲誓願のぞみ
深し、昼はひねもす千手経をよみ、夜はつや三時行
法怠らず、人多くあはれをかけて、折々に物など送
りけれども受取ることは希なり、何としてとき料な
ども有べしとも覚えねども、同宿もあまたあり、凡
彼所にはをちこち人の旅寐には、炉壇のけぶりに心

をすまし、磯辺のあまの楫枕もとうろの光にめをす
ます、千鳥、かもめ、よぶこ鳥、懺法の音にともなひ
て、仏法僧をぞ唱へける、東がん西がんのうろくづ
も震鈴の音にうかびぬべし、霊山浄土のしやうじゆ
も常にはここに影現し、鷲峯けいぞくのほらの内も
思ひやられて哀なり、されば彼国の目代も信仰して、
かうべをかたむけ、帰依の思ひをなしけれども、諂
ふ心もなかりければ、真実にいさぎよかりけるひじ
りかなとて、上下万人敬ひけり、抑文覚が道心の因
縁を尋ぬれば、れんぼがふれいのすさび、愛別離苦
のかなしみにもよらざりけるに依てなり、たとへば
文覚がためには外戚のをば一人ありき、事の便り有
るに依て、昔は奥州の衣河にぞ住しける、是に依て
一家の者ども衣河殿とぞ申ける、わかくさかりなり
し時はみめかたち人にすぐれて、心ばへなども優に
やさしかりける女なり、しかれども今はさかり過ぎ
て、世の有さまも衰へたり、やもめずみのならひな
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れば、常は只物さびしきすまゐなり、娘一人有けり、
親に似たることなれば、青黛のまゆつき愛々しく、
翡翠のかんざしたけに余れり、芙蓉のまなじりけだ
かくして、柳髪風にけづれる粧ひ、楊貴妃、李夫人も
かくやとぞ覚えたるに、優婆忍辱を身に受て、物を
あはれみとがを恐るる事斜ならず、深窓にかしづか
れて、十四の春をむかへたり、然ればのきばの梅の
匂ひうるはしく、まがきの竹のたをやかなる気色も
すでに見えければ、母はただ此娘にのみなつさひて、
あかしくらしける程に、聞及ぶ人心をかけ便りをも
とめずといふ事なし、其中に左衛門尉わたるといふ
ものは一門なりけるが、頻りに心ふかく申ければ、
むこに取けり、男柄優に、なさけ深かりければ、下
紐とけし日よりして、日々の契浅からず、かくて三
とせを過けるに、或時衣河のもとへもののふ一人来
りつつ、さうなく刀をぬきて、ぜひなく衣河を取て
おさへて殺害せんとす、女あわてまどひて、いか成

ものぞと見れば、甥の遠藤武者盛遠なり、女泣々手
を合せて申けるは、抑和殿は我には他人にあらず、
現在の甥ぞかし、なんぢが父母死して後は親とも頼
み給へ、又我をのこ子なき身なれば同じ甥とはいひ
ながら、一向子とこそ頼み奉たるかひもなく、たと
へいかなる人のざんげんありとも、一度はなどか思
ひゆるし給はざるべき、いはんや何事のあやまりか
有べき、ただ理をまげてたすけ給へとて、手をすり
て泣けれども、盛遠一分のじひもなく、伯母がたて
くびを取て、伯母なれども盛遠をころさんとし給へ
ば敵ぞかし、わたなべとうのならひにて、一日なれ
ども敵を目にかけて置事なし、頓て只今ころし申さ
むとて、刀をぬきてくびにさしあてたり、をばさわ
ぎあわてていはく、誰人の申ぞ、わどのをころさん
とするとは思ひもよらぬ事なり、盛遠申ていはく、
人の申事はなし、我心にさ存候なり、娘御前を盛遠
がことし三年恋奉るによつて、空蝉などのやうに成
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て命ながらふべしとも覚えず、すでに限りと思ひ侍
るなり、昔よりこひに死にたるためし今にはじめぬ
事なれば、いろこそかはり心こそことなれども、命
を失ふ事は只いづれも同じ事なれば、則をば御前の
盛遠をころし給ふにあらずやとぞ申ける、をば是を
聞て、さては安きほどの事にこそあんなれ、はや刀
をさされ候へ、頓てよびて見参せさせ奉らんといひ
ければ、盛遠悦で、誠に左様にも候べくばはなし奉
らん、但しいまの難をのがれんが為にすかし給ふほ
どならば、御命を失ひ奉るのみならず、死骸までも
つみし奉らんずる也と申ければ、事もおろかや、いか
でか左様の空事を可申とげにげに敷かためければ、
刃をさやにさしつつ、こしうやうちして、夕さりは一
定なりとて帰にけり、伯母は涙を押のごひて、さて
も不思議の難にあひぬるものかな、もにすむ虫の我
からにうきめを見る事よとて、文をかきて娘のもと
へ遣はしけるは、いと久しくこそ何事か候らん、さて

は、此二三日煩ふこと侍るが、なほざりならず覚え
候なり、さればとてことごとしく披露し給はずして、
忍やかにおはしまし候へ、申合すべき事あり、病ま
ぬ身すらはかなき事のみ候、世の習ひくやしき事も
こそとて申候也、返々忍びつつ御渡り候べしとぞ書
たりける、娘是を見て、心細き御文の有さまかなと
て、はしたもの一人具してかりそめに出るやうにて、
ほどなく母のもとへ来たりければ、母は涙にむせび
つつ、引かつぎて泣ふしたり、いかにやいたはり給
はんからに、なき給ふこそあやしけれと、胸打さわ
ぎて心得わきたることはなけれども、すずろに袖を
ぞしぼりける、良久しく有て母申けるは、人はみな
子を生そだてては此世にては心安くはごくまれ、な
きあと迄もとぶらはるるかと思ひしに、和御前に我
身をころされぬるこそ口をしけれ、敵を知らずして、
便りなき身の有様に、わりなくはごくみそだてける
こそはかなけれと、涙もせきあへず泣ければ、娘こ
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れを聞て、かかる事とは知らずして、いかにかくは
仰給ふやらん、御子とてはわらは一人より外に又も
候はねば、御命の有らんかぎりは一日片時も立はな
れ奉らんとも覚え候はねども、御計ひとしてわたる
がもとへ遣はされ候しかば、この三とせがほどはつ
き添ひ奉る事も候はねども、母御前の御事より外は
朝夕心ぐるしき事候はず、わたるも偏に重き御事に
思ひ参らせて候へばなるらん、御あとまでも心の及
び候はんほどは、御孝養申べき身にてこそ候に、ふ
けうのよしをうけ給るこそ返々も口をしくこそ思ひ
参らせ候へと、かきくどき申ければ、母申けるは、
心ざしのおろかにおはすとは今始めて申なり、ただ
思ひの外の事ありて、盛遠がころさんとておもひ切
ふるまひつる有さま、又甲斐なき命を延んとて、約束
したりつること共かずかずに語りける、よの常の習
ひ、娘を持たる人の親は、夫一人にて今生をばさて
はてよ、又妻をかさぬるなとこそ教訓する事なるに、

是は忽に命をたたるべかりつる間、早すでにはかな
くも事うけしつるぞや、此物の有さま此こと本意を
遂させずば、しばしも生けて置べしとも覚え候はね
ば、よき様に計ひ給へ、母が命を生けんとも殺さん
とも、そこの心にて有べきなりとくどきけり、是を
聞より何事も覚えずあきれまどひけり、わたる左衛
門に隨ひてよりこのかた、今年三とせが間相互にわ
く方なかりしに、母の心やぶらじとて、盛遠になび
きぬるものならば、日比の契も乍併いつはりに成な
んず、其上盛遠が有さまを聞くに、あひ見て後とて
もさてはよもあらじ、いとどうき名をこそ世にはふ
らさんずれ、とてもかくても世の中にかひなき命の
あればこそかかるうきめにもあふらめと思ひつつ、
時をかへず水のそこにも入ばやとは思へども、すこ
しものびたることならばや、わらはが聞なしにや、
今夜と定られけることのかなしさよ、我はやすかさ
れけりと思ひて、母にうきめを見せ奉らんは、わら
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はが殺すになりぬべし、母子ともにないりのそこに
しづみなば、無量劫にも出難しと思ひければ、せん
方なくかなしけれども、母をたすけんとて、いかに
も仰をば背き参らすまじきなりと申ければ、心安く
ぞ思ひける、さる程に日も早暮ぬれば、盛遠は仕お
ほせたりと思ひて、ひとり笑み打しつつ、びんかき
ひげかきなでて、色めきてはや来てふせりけり、是
を聞かれを見るにつけても、夫のわたるが事のかな
しさも、我身の行衛の口惜さに、袖もしぼるばかり
なり、夜更人しづまりて、女かしこに至りたれば、
盛遠年比のいぶせさくどきければ、言葉すくなにあ
ひしらひけるほどに、鶏すでに鳴ければ、女心中に
嬉しくて、いとまを乞ければ、盛遠申けるは、あは
ずばあはぬにてこそあらめ、弓矢とる者のあかぬ女
にいとまを取せて、恋する習ひいまだ聞ず、あはで
思ひし夕は物の数ならず、いかなることになるべく
とも、いとま参らせんとは申まじ、けふより後は偕

老同穴のちぎりなりとて、たち刀をぬきてたて置て、
今は一向に世のみだれぞ、あふにしかへばさもあら
ばあれ、御前の為に命も更にをしからず、和ごぜんの
不祥、盛遠が不祥、わたるが不肖、三つの不祥一度
に来べき宿習にてこそありつらめとて、思ひ切たる
けしきにて、おどしければ、いかにも叶はじと思ひ
て、女申けるは、げに何事も此世ならぬことにてこ
そ候なれば、是をおろそかに思ひ参らせず、いつし
かかやうに申せば、御きやうしやくも有ぬべけれど
も、打とけ今は申なり、わたる左衛門に相馴れて今
年は三とせに成ぬれども、相思ひなさけも更になし、
されども母の仰の背き難きにこそ忍びすぐす妻とも
なれ、寔に御心ざしも深く思召さば、わたるをいけ
て置てはいかでか打とけ殿にも逢奉るべき、ただ左
衛門の尉を殺し給へ、其後心安く侍らんずるはかり
ごとをして、たやすくころさせ参らせんずるぞと申
ければ、盛遠是を聞て悦ぶ事限りなし、さて何とた
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ばかり給ふべきぞといへば、わらは夕さり帰りて、
左衛門尉に酒をすすめてゑひふさすべし、たかどの
に入てふさすべし、戸もたてをさむる事有まじけれ
ば、もとどりさぐりて首をかき給へと申ければ、盛
遠よき計ひなりとて、其儀に固く定めてけり、女い
とま得て帰りにけり、約束の如く渡左衛門を呼寄せ
て、酒肴を尋常にいとなみて申けるは、母のいたは
りの大事なりと聞たりつれば、あわてさわぎて行た
れ共、ことなる事も侍らねば、うれしなどいふ計な
し、悦のあそびせんずるなり、御心おちに参りたら
ば嬉しからんとすすめければ、是を聞て渡も何かは
すまふべき、じやうごまではなけれ共、もとより愛
酒にて好みける程に、思ひの如くゑはせてけり、其
後ちやうだいに入て、渡がたぶさをみだして女の髪
にけづりなし、我はたけなるかみをたぶさたけに切
てもとどりになしてけり、我身生きてあるならば、
母より始めて多くの人の命をほろぼすべし、ただ其

つみはわが身ひとりに報いなん、いかでかしやする
ことを得ん、昔東武の節女は夫の命にかはりけり、
今我身の上と覚えつつ、渡酔ひてふしたるけしきの
はかなさよ、今夜を限りの見はてなれば、さこそ悲
しく思ひけめ、宵のほどはかすかに火をかき立てて、
みぐるしき物したためて、か様に思ひ定めて、盛遠
にころされぬる有さまどもこまごまと書置て、夜更
人しづまりにければ、十念を唱へ侍る所に、子の刻
に及びて、盛遠おそひ来りければ、女いよいよ心を
一にして、弥陀の本願を念じてさし顕れてねたりけ
るを、さうなくもとどりをさぐりて、只一刀に首を
かきて、ひたたれの袖に包みて出にけり、首をば深
くをさめて家に帰つつ、日のたくるまで空寝して、
ふせる心のそこに思ひけるは、ことし三年寺々山々
に参詣して、財宝を尽し、こつずゐを砕きてきねん
申たりつるしるしはげんじやうにこそ覚えけれ、昔
も今も仏神の利生はやんごとなし、今より後いよい
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よ精進潔斎して、一々の寺社に参詣して悦申さんと
思ふ所に、郎等走り来て申けるは、不思議のことこ
そ候へ、何者か仕りて候やらん、渡左衛門殿の女房
の御首を今夜切参らせて候なる間、左衛門殿は首も
なきむくろをかかへて、閉門して渡らせ給ひ候と承
ると申ければ、盛遠浅ましやと思ひつつ、をさめ置
たる首を取出してみたりければ、今年三とせ恋ひ恋
ひて、只一夜あひたりつる女房の首にて侍ければ、
盛遠一目見てけるより、倒れふしておめきさけび、
声もをしまず悲しみけり、たけきもののふなれども、
恋の道には迷ひけり、辰の時より泣はじめて、未の
時までさけびけるが、四時計有て後、剛の物のしる
しにや、涙押のごひて、此事思ひつづくるに、なく
べきやうもなかりけり、中々一の悦なり、我と思は
ん郎等どもは、さいごの供仕るべしといひて出けれ
ば、郎等眷屬我も我もとなりみあひて、きらきら敷
こそ見えたりけれ、渡左衛門が許に打向ひて、盛遠

参りて候といはすれば、門をとぢてひらく事なし、
御わたり悦入て候へども、自今以後は人々のげんざ
んに候はじと申願をおこして候間、是へとも申さず
候なり、御光臨の条こそ悦入て候へといふ、盛遠か
さねて申けるは、けさ急ぎ参り御心ざしに、女房の
御首切参らせて候やつを不慮の外に承り出して、頓
てそこに打向ひてからめとりて参りて候なり、急ぎ
門を開かせ給へと申ければ、其時げにもとや思ひけ
ん、門を開きて入てけり、左衛門尉は首もなき女房
のかたはらにそひふして、肌にはだへを合せて泣し
づみてぞ居たりける、盛遠走り入て、御敵人具して
参りて候、御覚候へとて、懐より女房の首を取出し
て、其むくろにさし合せて、腰の刀をぬきて左衛門
尉にあてていはく、盛遠が所行なりとて、始めより
有つる次第を一事も残さず語りければ、左衛門尉は
我身に替りけるよと思ふより、いとど歎きぞ深かり
ける、盛遠は首をのべて、はやとくとく切落して少
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し心ゆかせ給へと申、自害せんとは思へども、同し
くは和殿の手に懸らんとて、思ひ切りて参りたるな
りと頻りにすすめて申ければ、左衛門尉申けるは、殊
に和殿も敵対の心をなして城にもたて籠りたらば、
尤討入てこそ其の本意遂ぐべけれども、かくし給は
ん上は、たとひ女房いきかへるべきことにても切奉
るべからず、自害も又せんなし、それよりはただな
き人の後生をとぶらひ、我も人も一仏浄土の往生こ
そあらまほしく覚ゆれ、今生後生むなしからんこと
永劫ちんりんの不覚なるべし、是にもかくし候なり
とて、渡刀を抜て盛遠が首をばかかずして、我本ど
りをこそ切たりけれ、其時盛遠これを見て、然るべ
し、此度生死をはなるべき善知識とや思ひけん、左
衛門尉をふし拝みて、これももとどりを切りてけり、
さて有べきならねば、有為無常の習ひ、力及ばずと
て、彼女房をばとりべ山に送りにけり、両方の家人
これを見て、あま、法師に成もの三十余人なり、衣河

の母も尼になりて、濃き墨染の袖いつかわくべしと
も見えざりけり、彼女房のせうそくこまごまと書置
て、箱の中にをさめたりけるをあけて見れば、いと
どしく女の身はつみ深き事にて候なるに、わらはが
故に多くの人のうせぬべく覚え候へば、我身ひとつ
を捨ぬるなり、但殊更つみ深く覚え候事は、老たる
母に先立参らせて、物を思はせまいらせんのみこそ
心うく候へ、あひかまへて後生よくよく弔はせ給ひ
候べし、ことには母の御命にかはり参らせぬるわら
はが身にて候なり、よろづ何事も細に申べく候へど
も、落る涙にかきくれて委しからず候こそほいなく
候へ、返々我身のぜん世のしゆくしうこそ悲しく覚
え候へとて、歌をぞよみたりける、
露深くあさぢが原に迷ふ身は
いとどやみぢに入ぞかなしき W081 K284
限りとてかく水ぐきのあとよりも
ぬるるたもとぞまづきえぬべき、 W082 K285
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げにも涙にかきくれて、心まどひしけるよと思しく
て、そこはかとなく書乱したり、母これを見るに、
いとど目もくれ心もきえはてて、もだえこがるるあ
り様はためし有べしとも覚えざりけり、めいどにも
ともにまどひ、猛火にもこがるる事ならばいかがは
せん、生きてかひなき露の身をむぐらの宿に留め置
て、恋慕の涙いつかわく時を得む、責てのことにじ
やうはりの鏡にうかんでや見ゆるとて、歌の返事を
よみて、泣々かたはらにぞならべける、
闇路にもともに迷はでよもぎふに
ひとりつゆけき身をいかがせん W083 K286
と書て、其後は天王寺に参りて、ただはやく命を召
して極楽に道引き給へ、仏道なりて後生をも求めつ
つ、一はちすの中に再会を遂げんと、祈念すること
怠らざる程に、いのる祈りやみてぬらん、次の年の
八月八日に生年四十五にて往生のそくわいを遂にけ
り、渡左衛門は年比の師匠を請じてうるはしく髪を

そりて、三聚浄戒を保ち、法名渡阿弥陀仏とぞ申け
る、在俗の時の名のりなり、心ざしはしやうじのく
がいを渡りて、ぼだいのきしに至らんことをぞくわ
んじける、遠藤武者盛遠入道はこれも始めには盛の
字を法名として、盛阿弥陀仏とぞ申ける、うせにし
女の骨を取て、うしろのそのにつかをつき、三年の
忌果までは、行道念仏たいてんなく勤めつつ、後往
生をぞいのりける、墓の上に蓮花ひらけたりと夢に
みて、歓喜の涙をぞ流しける、其後は東岱の煙[B 灯]との
ぼり、朝に反魂香の思ひをなし、西獄雲はれ、暮に
はれんだいののぞみをそふとぞ観じける、さて一首
君故にうき世をそむくすがたをば
こけの下にもさこそ見るらめ W084 K287
とて盛阿弥陀仏は日本国を修行してぐほうの心ざし
ねんごろなり、後にはさうなき智者に成て文覚房と
ぞ申ける、利根聡明にして、有験さへ世にすぐれたり
ける、かかる悪縁に引入て、罪業をつくるににたり
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といへども、つらつらことの心を案ずるに、彼女房
と申はしかしながら観音の変化にて、此人々を仏道
に入給ひけるとぞ覚えたる、毒薬変じて甘露となり、
ぼんなうそくぼだいのいはれをも、只今此事にこそ
と知られぬれ、或人申けるは、文覚は昔よりさるい
かめしきものにて、身の程顕はしたるものぞかし、
そのかみ道心を起してもとどりを切て、高野、粉河、
山々寺々修行しありきて、ある時はだしにて五穀を
たちて、熊野へ詣でて、三の山の参詣事故なく遂て、
那智の滝に七日断食してうたれんといふ不敵の願を
起しけり、比は十二月中旬の事なりければ、極寒の
最中にて、谷のつららも打とけず、松風も身にしみ
てたへがたく悲しき事限りなし、滝にうたれけるほ
どの久しさはせんぽう阿弥陀経おのおの一巻よむほ
どなり、すでに二三日にも成にければ、一身ひえつ
まりて、〓にたるひといふものさがりて、からから
となる程なり、しかも裸にてありければ、ひえつま

りて僅にいき計通へども、のちには通ひつる息も留
りて、すでに此世にもなきものになりて、那智の滝
つぼへぞ倒れ入にける、ある者の滝のおもてにて文
覚をひたと取てたてりと思へば、童子二人来て、左
右の手と思しき所を取て、文覚が首より足手の爪の
先までひしひしとなで下しければ、ひえたる身も皆
とけて、文覚、人心地つきて息出にけり、さて文覚息
の下に、我を取てなで給ひつるは誰人にて渡らせ給
ひつるぞと問ひければ、いまだ知ずや、大聖不動明
王の御使こんがら、せいたかといふ二人の童子の来
れるなり、恐るる心有べからず、汝此滝にうたれん
といふ願を起したるが、其願果さずして命終るを明
王御覧じて、此滝けがすな、彼法師依てたすけよと
仰られつる間、我等来るなりとて帰給へば、文覚不
思議の事ござんなれ、さるにてもいかなる人ぞ、末
代の物語にもせんと思ひて、立帰りて見ければ、十
四五計にて赤頭なる童子二人、雲をわけて上り給ひ
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にけり、文覚思ひけるは、これほどに明王の守護し
給はんには、此次に今三七日うたれんといふ願を起
して、すなはち又うたれぬ、其後は文覚が身には水
一もあたらず、もれてあたる水は湯の如し、かかり
ければ思ひの如くに三七日うたれて、終に宿願を遂
げにけり、さる文覚なれば、さも有らんと恐れあひ
けり、
かくて伊豆国に下着して、年月を経ける程に、北条
ひるが島の傍になごやが崎といふ所になごや寺とて
観音の霊地おはします、文覚彼所に行て諸人をすす
めて草堂を一宇立てて、毘沙門の像を安置し奉て、
平家を咒咀しけり、彼堂に三十町の免田今にあり、
此堂の側に湯屋を立てて一万人によくす、ある時折
ゑぼしにかうの小袖一つ着て、白き小ばかまにあし
だはきて、黒漆の太刀脇にはさみて杖つきたる男一
人来て、湯屋の東西を見まはる、文覚は目ももてあ
げず、釜の火打たきて居たりけるに、又たかしこつ

けたる男の黒漆の弓持たる一人来る、先に来つる人
の下人とおぼしくてともにあり、小童べどもが兵衛
佐殿こそおはしたれといひてささやくめり、其時文
覚さては聞ける人にこそと思ひて、かほをもちあげ
て見れば、彼人湯におりぬ、ともにある男来て申様、
御房湯の呪[B 宿イ]願とかやして人にあびせ参らせよといへ
ば、かやうの乞食法師の近く参るも恐れあり、水舟
に湯を汲てたべ、ここにてともかくも呪[B 宿イ]願のまねか
たせんといひければ、いふごとくして湯浴せらる、
いまだざう人はおりず、ともの男文覚がそばにゐて
火にあたる、文覚忍びやかに、これは流されておは
す兵衛佐殿かと問ければ、男にが笑ひて物もいはず、
文覚あれこそ入道が相伝の主と申ければ、男申ける
は、主ならば見知り奉りたるらんに、事新しくとは
るるものかなといふ、文覚申けるは、そよ和殿おさ
なくおはせしほどは宮仕、かやうに乞食法師になり
て後は、国々に迷ひありくほどに、参りよる事もな
P332
し、世におとなしくなられたり、人は名のりよかる
べきぞ、頼朝といふ名のよきぞ、大将軍のさうもおは
します、君に申て勅勘をもゆり、父の恥をもすすが
んとは思さぬか、さればこそかかる貴賎上下集る湯
屋などへは出給ひぬらめ、人は思ひたもちある事こ
そよけれ、此法師とても敵にてあらば難かるべきか、
人に首打切られうとて不覚人かなといひければ、此
男ふしぎのひじりのひた口かなと思へども、とかく
いふに及ばずして、余りに雑人の多く候に、はやあ
がらせ給へと主をすすめて、此よしを主にささやき
けるにや、此男立かへりてさとに出給ひたらん時は、
必尋ねておはせよと文覚が耳にささやきければ、わ
殿下りはてば、見参に入ばやと思ひしかども、さすが
ことごとしくすゐさんも事なくて罷り過候つるに、
今日びんぎに御目に懸りぬる事こそ嬉しけれ、便宜
には必参るべし、先に申つるすずろ事、みづから口
の外に洩し給ふなとぞいひける、其後兵衛佐恥かし

く思して、彼湯屋にはおはせず、廿日計すぎて文覚
里にいでたりける次に、さらぬ様にて兵衛佐のもと
へ尋来りければ、佐は法華経よみて居られたる所へ
よび入られたりければ、文覚手を合せて、尤本意に
て候、たうとく候とて、さめざめとなく、酒、菓子
体のもの取出して進められて後、さても御房今日は
しづかに居給ひて、世間の物語して遊び給へ、つれ
づれなるにと宣ひければ、さうけ給り候とて、兵衛
佐殿膝近く居よりて申けるは、花一時人一時と申す
たとへあり、平家は世のすゑに成たりと見ゆ、太政
入道の嫡子小松内大臣こそはかりごともかしこく心
もかうにして、父のあとをも継ぎ、また天下をも治
むべき人にておはせしが、小国に相応せぬ人にて、
父に先立て失給ひぬ、其弟はあまたあれども、右大
将宗盛をはじめとして、いうじやくはう〈 盛衰記作柔弱放逸 〉の人
どもにて、一人として日本国の大将軍となりぬべき
人見ぬぞや、殿はさすがに頼母しき人にておはする
P333
上、かう運の相もおはす、大将軍になり給ふべき相
もあり、されば小松殿についでは殿ぞ日本国の主共
成給ふべき人にておはす、今は何事かはあるべき、
はや謀叛を起して、日本国の大将軍となり給へ、か
つうは天の与へをとらざれば、返て其とがをうく、
時至て行ざれば、返て其禍をうくといふ本文あり、
文覚はかく賎しけれども、究竟の相人にて、右の眼
は大聖不動明王なり、左の眼は孔雀明王の御眼なり、
人の果報を知りて、日本国を見んと覚ゆる事たなご
ころをさすが如し、今も末も少しもたがはず、何様
にも殿は大果報の人と見申ぞ、とくとくおもひ立給
へ、いつを期し給ふべきぞと、憚る所もなく細々と
語ければ、佐おぼされけるは、心ふかく恐しき者に
て流さるるほどの者なれば、かく語らひよりてもろ
く相従はば、頼朝が首を取て平家に出して、汝がつ
みをのがれんと計るやらんとおぼされければ、佐宣
ひけるは、去永暦元年の春の比より、池の尼御前に

たすけられて、命を生きて当国に住して廿余年を送
りぬ、また池の尼御前の仰せらるる旨有しかば、毎
日に法華経を二部読みて、一部をば池の尼御前の御
ぼだいに回向し奉り、一部をば父母の孝養するより
外に、また二つといつなむ事なし、勅勘の者は日月
の光にだにも当らずとこそ申伝へたれ、いかでか此
身にて左様の事をば思立べきと、言葉すくなに宣ひ
けれども、心中には南無八幡三所大菩薩、伊豆箱根
の権現願くは神力を与へ給へ、多年の宿望を遂げて
かつうは君臣の憤りをやすめ、かつうは亡父のそく
わいを遂げんと思ふ心ざし深かりければ、隙を窺け
るものをとおぼされども、文覚には打とけられざり
けり、やや久しくして文覚帰りぬ、又四五日ありて
文覚来りければ、佐殿出あはれたり、いかにと宣へ
ば、文覚懐より白布のふくろの持ならしたるが中に
物を入たるを取出したれば、佐殿何やらんとあやし
く思はれけるに、文覚申けるは、是こそ殿の父御下
P334
野殿の御首よ、去平治の乱の時、左のごくもんのあ
ふちの木に懸られたりしが、ほどへて後はめもみか
けず、木の下に落て有しを、是へ流さるべしとかね
て聞たりし時に、年比見奉りし本意も有ぬ、世はとか
うして有ものなれば、みづから殿に対面の事もあら
ば奉りてんと思ひて、獄所のしもべをすかして乞と
りて、持経まぼりとて首にかけて、人めには我親の
かうべをたくはへたる様にて、京を流されて出る時
に、いかにもして世を取らん人を旦那にして、本意
を遂げばやと思ひし志深く、三宝に祈りて、声をあ
げて我願成就せよと、おめきさけんでものもくはで
有しかば、見聞人は皆文覚には天狗のつきて物に狂
ふかなどと申あひたりき、今其願みちぬ、はや殿世
におはして此法師をもかへり見給へ、其ためにこそ
年ごろたくはへ持て侍しか、念仏どく経の音にはこ
んぱく聞給ひて、めつざいの道ともなられぬらんと
て、さめざめとなきければ、人の心を見んとて、何

となくいふかと思ひたれば、まめやかに心ざしのあ
りけるこそ哀れなれ、定めて此世一の事にあらじと
思はれければ、一定はしらねども、父のかうべと聞
よりなつかしく覚えて、直垂の袖を広げて泣々請取
給ひて、経のしよくの上に置て、哀なるちぎりかな
とて、涙をこぼし給ふぞいとほしき、後にこそまこ
とならずと知られけれども、其時はまことと思はれ
ければ、それより後は打とけられけり、又とちぎり
て文覚帰りにけり、さて彼かうべを箱に入て仏の御
前に置て、兵衛佐誓はれけるは、誠に我父のかうべ
にておはしまさば、頼朝に冥加をさづけ給へ、頼朝
世にあらば過にし御恥をもすすぎ奉り、後生をもた
すけ奉らんとて、仏経の次でには花を供し香をたき
て供養せらる、其後文覚又来ければ対面して、扨も
いかがして勅勘をゆるさるべき、さなくば何事も思
立べからず、何様にも道ある事こそ始終はよかるべ
けれ、さても藤九郎盛長を具して、三島に夜々一千
P335
日のまうでをして、まんぜし夜、通夜したる夢に、
三島の東の社より猶二町ばかり隔てて、第三の王子
の前に大なる楠木あり、其王子の前を又二町ばかり
行て、また大なる楠木あり、此木二本が間に黒がね
の網をはりて、あけのいとをすやりにして、平家の
人々の首をかけ並べたりとみたりしは、いかなるべ
きやらんとのたまひければ、それは殿天下を打平げ
て、朝てき平氏の一門を亡し給はんずる事うたがひ
有べからずとぞ申ける、将又勅勘申ゆるし奉らん事
安じたべ、京へ上て院宣申て奉らん、其身勅勘の身
にておはしますやは叶ひ給ふべきとあれば、文覚申
けるは、院の近習の者に右兵衛の督光能といふ人あ
り、彼人内々ゆかり有りて、年比申うけ給はる事あ
り、彼人のもとへみそかにまかりて此由を申べし、
物ぐるはしくいつともなく承るものかなと思召すな
とて、弟子どもには三七日入ぢやうすべきなり、も
し人尋ねばかくあひしらへとて、弟子共へも知らせ

ずして、みそかに京へ上りにけり、
院は其時福原の楼の御所に渡らせ給ひけるに、夜に
紛れて光能卿のもとに行て人に知らせず、あるつぼ
ねの女房をもてみそかにふみを遣したりければ、光
能げんざんして、さても夢の様にこそ覚ゆれ、いか
にと問ひ給ひければ、文覚近くよりて、やぶに目、
かべに耳といふ事あり、いとど忍びて申合すべき事
ありて、わざと人にも知らせず、夜に紛れて参りて
候なり、さてささやきけるは、伊豆国に候兵衛佐頼
朝こそ院のかくて渡らせ給ふ事を承りて、歎きて院
宣を給りたらば、東八ヶ国の家人相催して、京へ打
上て君の御敵平家を亡して、逆鱗をやすめ奉り、人
人の歎きをもしづめて参らせんと申候へ、東国の大
名小名一人も従はぬものはよも候はじ、此やうをみ
そかに法皇に申させ給へといひければ、光能卿誠に
君もかく打籠られさせ給ひて世の政をもしろし召さ
ず、我も参議右兵衛督皇太后宮権大夫三官皆平家に
P336
やめられて心うしと思ひ歎き居たりと思はれけれ
ば、何様にも隙を窺ひて御気色を取べし、かく宣ふ
も然るべき事にこそあるらめ、今二三日の程はこれ
におはせよとて其夜も明けぬ、次の朝に光能卿院参
せらる、夕に帰て彼事隙なくていまだ奏せぬなりと
有ければ、文覚かたすみにかがまり居たり、次の日
参り給ひて、ひそかに御気色を伺ひ給へけるに、法
皇仰の有けるは、浄海が当時のふるまひを見るに、
頼朝世を取らん事有がたくこそ思召せ、もし果し遂
ずば、君も臣も安穏なるべからず、此事いかが有べ
からんと思召し煩はせおはしまして、俄に御精進あ
りて、鳥羽院よりつたはりおはします不動尊の像を
両殿にかけ奉らせ給ひて、頼朝兵略をめぐらし朝敵
を退くべくば、一つの瑞相を知らしめ給へと終夜の
御行法有けるに、其しるしなかりければ、次の日一
日一夜御祈誓有て、願くは生生而加護の御誓むなし
からずば感応をたれ給へと、御かんたんを砕きてい

のり申させ給ひけるに、暁方に法皇仏前に暫くまど
ろませおはしましけるに、御夢想に白き装束したる
男一人、白羽の矢負て弓脇にはさみて、南庭に畏り
て候けり、何者ぞと御尋有けるに、伊豆の国の流人
前右兵衛佐頼朝と名乗と御覧じて、打おとろかせお
はしまして、急ぎ光能を召て、とくどく院宣を下す
べきよし御ゆるし有ければ、院宣を書て給りけるを、
文覚給りて首にかけて、昼夜五日に伊豆の国へはし
り下りて、兵衛佐殿に奉たりければ、手口洗ひてO[BH 浄衣にイ]ひ
もをさして院宣を見給ふ、
可早追討清盛入道并一類事
右彼一類非忽諸朝家、失神威亡仏法、既為
仏神怨敵、為皇法朝敵、仍仰前右兵衛佐源頼朝、
宜令追討彼輩、奉息逆鱗之状、依院宣執達
如(レ)件、
治承四年七月六日 前右兵衛督藤原光能奉
前右兵衛佐殿
P337
とぞ書れたりける、兵衛佐此院宣を見奉りて、泣々
都の方へ向ひて、八幡大菩薩をふし拝み奉る、当国
には伊豆箱根二所に願を立てて、先北条四郎時政に
宣ひ合せて思ひ立給へり、石橋の合戦の時も白旗の
上に此院宣を横様にむすび付られたりとぞ聞えし、
兵衛佐流され給ひて後廿一年と申に、院宣を給て北
条四郎時政を招き寄せて、如何すべきと宣へば、時
政申けるは、東八ヶ国中に誰か君の御家人ならぬも
のは候はじ、かづさの介八郎広常、平家の御勘当に
て其子息大和の権守忠常京に召籠られて候つるが、
此ほど逃下りてようじんして候と承る、上総介広常、
千葉介常胤、三浦大介義明此三人を語らひ給へ、是
等だにもしたがひ付参らせ候ほどならば、土肥、岡
崎、ふところ島、是等はもとより心ざし思ひ参らせ候
ものにて候へば、参り候はんずらん、もし君を強く
射参らせ候はんずるものは、畠山の庄司次郎重忠、
しぶ谷兄弟、いなげの三郎重成是等なり、父畠山庄

司重能、同じき弟小山田別当有重兄弟二人、平家に
仕へて候へば、強き御敵にて候べし、相模の国には
鎌倉党大場の三郎景親、三代相伝の御家人にて候へ
ども、当時平家の大御恩の者にて候へば、君を射奉
らんずる者にて候、広常、党胤、義明是等三人だに
もまいり候なば、日本国は御手の下に思召せと申け
れば、兵衛佐宣ひけるは、此事頓て明日にてもと思
へども、八月十五夜以前に思ひ立べしとも覚えず、
其故は、謀叛を起さば、諸国にいははれ給ふ八幡大
菩薩の放生会の違乱となりなんず、しかれば彼放生
会の後思立べしと宣ひければ、時政尤さ候べしとて、
月日の立を待けるほどに、八月九日大場の三郎京よ
り下りて、佐々木三郎秀義をよびて申けるは、長田
入道、上総介が許へ伊豆の兵衛佐を、北条四郎かもん
の丞引立奉りて、謀叛を起さんとしたく仕る由承る、
急ぎ召上て隠岐の国へながさるべしといふ文をつけ
たりけるを、上総の介取出して、景親に見せ候しか
P338
ば、かもんの丞ははや死に候き、北条四郎はさも候
はんと申たりしかば、いかさまにも太政入道殿の福
原よりのぼらせ給ひたらんに、げんざんに入らんと
て、銘かきて置き候き、此度高倉の宮の三井寺に引
籠らせ給ひて後は、国々の源氏一人もあらすまじと
候しかば、よもただは候はじと語りけるを、秀義浅
ましく思ひて、急ぎ宿所に帰りて、景親がかかる事
をこそ語申つれ、伊豆の国へ申さんとしけるに、三
郎ふけうの子なり、次郎はいまだ佐殿見しり給はず、
太郎行けとて、下野の宇都宮にありける太郎定綱を
よびて、態と定綱を参らせ候、日ごろ内々だんぎ申
候と、景親もれ聞たるげに候ぞ、思召したたば急が
るべし、さなくば奥州へ越させ給へ、是までは藤九
郎計を具して渡らせ給へ、子供を附け参らせて送り
申べしとて遣しけり、十二日定綱はせ参て申ければ、
此事くはしく承候畢、頼朝も先達て聞たるなり、召
に遣さんと思ひつるに、神妙に来りたり、さらば頓

て是に候へととどめ給ひけれども、急ぎ罷帰て弟ど
もをも具し、物の具をも取て参らんと申しかば、さ
てはよも来じ人にも聞せられんなどと宣ひしかば、
誓言を立て候しを聞給ひて、十六日には必来れ、汝
を待つけて伊豆のもの共を具して、兼隆をば討んず
るなり、但次郎をばしぶやの庄司が聟にして、子に
もおとらず思ひたるなれば、よも与力はせじ、三郎
ばかりを具せと仰有ければ、次郎経高是を聞て申け
るは、三郎にも四郎にもなつげ給ひそ、是等は如何
にも思ひきるまじき者どもなり、兵衛佐殿さほどの
大事を思ひ立給はんに人をば知るべからず、経高に
於ては善悪参るべしと申ければ、さらばとて頓て相
模の国波多野に有ける、三郎盛綱が許へ使者をはし
らかす、四郎高綱平家に奉公して有けるが、兵衛佐
謀叛の企有と聞ければ、うき雲にふちをあげて東国
へはせ下て、太郎が方にかくれ居たる方へも使者を
ぞ遣しける、つつむとすれども、景親是を伝へ聞て、
P339
如何すべきと国中の人々にいひ合する由聞えけり、
さる程に佐々木の者ども兄弟四人はせ集りて、頓て
夜のうちに北条へ行けるに、次郎経高しうとのしぶ
やの庄司、人を走らかして経高に申けるは、いかに
人をばまどはせんとはするぞ、ことなる人どもは行
とも、経高はとまるべしといひつかはしたりければ、
経高申けるは、こと人どもこそ恩を得たれば、大事
とも思ひ給はめ、経高はさして見えたる恩も更に大
事とも思はず、かくいふにとまらずば、妻子を取て
いかにもこそはなさめ、おもひ切て出ぬることなれ
ば、全く妻子のこと心にかからず、さりとも佐殿世
をも取給はば、経高が妻子をば誰かとりはつべきと、
さんざんに返答して打通りぬ、十六日にも成にけれ
ば、兵衛佐北条四郎を召て宣ひけるは、日ごろ月日
の立こそ待つれ、今夜平家の家人当国の目代和泉の
判官兼隆が屋牧の館に有なるをよせて、夜討にせん
と思ふなり、もし打損じたらば自害をすべし、うち

おほせたらば頓て合戦思ひ立べし、これを以て頼朝
がみやうがの運と又和人共の運不運をばしるべし、
但佐々木の者共にやくそくしたりしが、いまだ見え
ぬこそ本意なけれと宣ひければ、時政申けるは、今
夜は当国の鎮守三島大明神の御神事にて、当国の中
に弓矢を取事不(レ)叶、かつうは佐々木の者ども待給
へ、吉日にても候、明日にて候べしとて出にけり、
さる程に佐々木の兄弟十七日未の時計に北条へはせ
つく、兵衛佐あはせの小袖に藍摺の小ばかまばかり
着て、ゑぼし押入て、姫君の二つばかりにやましまし
けんを側にすへ奉りて、是が末よと見給ひて、よに
うれしげに思して、経高はしぶやが浅からず思ひた
るなれば、よも参らじとこそ思ひつるに、いかにし
て来りたるぞと宣へば、千人の渋谷を君一人に思か
へ参らせ候べきにあらずと申ければ、さ程に思はん
ことはとかくいふに及ばず、頼朝此事を思ひたつは
和人どもが冥加とは知らぬかと宣ひければ、只今ぞ
P340
世ならぬことまでは思ひ候はず、但かほどの大事を
思召し立たらんには、今日参り候はでは、いつをか
期すべきと存ずる計なりと申ければ、頼朝はもとは
肥たりしが、此百日ばかり夜昼此事を按ずるほどに、
やせたるぞとよ、今日十七日丁酉の日を吉日に取て、
此暁当国目代和泉の判官平の兼隆を討たせんと思ひ
つるに、口惜くをのをの昨日みえざるに依て、今日
さてやみぬ、明日はしやうじんの日なり、十九日は
日なみ悪しし、廿日迄のびば返て景親におそはれぬ
と覚ゆるぞと宣ひければ、三郎四郎をも待ち候し上、
折節此程の大雨大水に思はずに三日逗留して候と申
ければ、あはれ遺恨の事かな、さらばをのをのやす
み給へと宣ひければ、侍に出て休みてありけるほど
に、日すでに暮てくらく成ぬ、又暫く有て各々物の
具してこれへと有ければ、やがて物の具して参りた
れば、是にあるげす女を兼隆ざつしき男がめにして
有けるが、只今是に来りけるなり、是がけしきをみ

てしうにかたりなば、一定おそはれぬべければ、彼
男をからめ置たるなり、兼隆が館に用心するやいな
や、内々相尋ぬる所に、当時は別に用心の儀なく候、
其上宗徒の殿原十五六人は、伊豆の島田の宿に遊君
と遊ばんとて出られ候ぬ、残る人々廿余人は候らめ
ども、さるべき人はすくなく候よし申なり、此上は
とくとく今夜よせて討べしと宣ひければ、十七日子
の刻に北条四郎時政、子息三郎宗時、小四郎義時、
佐々木太郎定綱、次郎経高、三郎盛綱、四郎高綱以
下、彼是馬上歩行ともなく三十余人、四十人計もや
あるらん、屋牧の館へぞ押寄ける、門を打出ければ、
当国の住人加藤次景廉と申は、元は伊豆の国の住人
加藤五景員が子息加藤太光員が兄なり、父かげかず
敵に恐れて、伊豆国を逃出て、工藤の介茂光が聟に
なりて居たりけり、弓矢の道兄弟いづれもおとらざ
りけれど、殊に景廉はくくきりなきはやりもの、そ
ばひら見ずの猪武者にて有けるが、いかが思ひけん、
P341
兵衛佐に奉公しけるが、其夜佐殿の御もとにひしめ
くことありと聞て、何事やらんとて行たりけるなり、
北条、佐々木の者共は、ひた河原といふ所に打出て、
北条四郎申けるは、屋牧へ渡るつつみのはなに、い
づみの判官が一の郎等権の守兼行といふ者あり、殿
原はそれより寄せて討給へ、時政は打通りておくの
判官をかこむべしとて、案内者をつく、定綱と高綱
とは彼案内者を先として、うしろへからめてにまは
る、前よりからめてのまはらぬ先に打入て見れば、
もとよりふるつはものにて待うけたり、さしりたり
とて、さんざんに射る、かたきは未申にむかふ、経
高は丑寅に向ふ、月はあかかりければ、互のしわざ
かくるることなし、寄合せて戦ふほどに、経高薄手
負ぬ、さる程に高綱うしろより来くははりたりける
に、矢をばぬかせてけり、さて兼行をば定綱、盛綱
押寄せて討おほせつ、判官が館と兼行が家との間五
町計なり、敵打おほせて後、頓て奥のやまきの館へ

ぞはせ通りける、兵衛佐は縁に立れたりけるが、景
廉が来るを見給ひて、折ふし神妙なり、景廉は頼朝
が所に候へとて置れたり、遥に夜更て後、今夜時政
を以て兼隆を討に遣しつるが、討おほせたらば家に
火をかけよといひつるが、はるかになれ共火の見え
ぬは、打損じたるやらんとひとり言に宣ひければ、
景廉聞あへず、さては日本第一の御大事を思召し立
けるに、景廉にしらせ給はざりける事の心うさよと
いふままに、かぶとの緒をしめてつと出けるを、兵
衛佐景廉を召返して、白金のひる巻したる小長刀を
手づから取出して、是を給はる、兼隆が首をば是に
て貫きて参れとぞ宣ひける、景廉はやまきへ馳むか
ふ、歩人一人ぞ具したりける、佐殿よりざつしき一
人付られたりけるに長刀をば持せて、判官が館へ馳
よせて見れば、北条は家の子郎等にあまた手負せて、
馬ども射させて、しらみて立たる所に、景廉来くは
はりければ、北条いひけるは、敵手ごはく、すでに五
P342
六度まで引退きたるぞ、佐々木の者共兼行を討て此
館のうしろへからめてに向ひたるなりといへば、し
たたかならんものにたてつかせてたべ、一あて当て
見んと申ければ、北条がざつしき男源藤次といひけ
る者にたてをつかせて、馬よりおりて、弓矢をば元
よりもたざりければ、人の弓一張、矢三すぢかなぐ
りて、たてのかげより進み出て、矢面に立もの三人
射殺しつ、さて弓をば投げ捨て、長刀をみじかに取
なして、かぶとのしころをかたぶけて、打払ひて内
へつと入り侍るをみれば、高燈台に火かきたてて、
其前にじやう衣着たる男の、長刀を鞘はづして立む
かへけるを、加藤次走り違て、小長刀にて弓手の脇
をさしてなげ伏たり、頓て内へ攻入てみれば、額突
の前に火おこしたりぬ、火白くかきたてたり、ふし
から紙の障子をたてたりけるをほそめにあけて、太
刀のおびとり、五六寸計引残して、敵これに入たり
と思ひて、見出したり、加藤次小長刀を以て障子を

さしひらきてみれは、いづみの判官をば住所に付て、
やまきはう官とぞ申ける、判官かたひざを立て太刀
をひたいひあてて、入らば切らんと思ひたるげにて
待かけたり、加藤次しころをかたぶけて、つと入ら
んとする様にすれば、判官敵を入れじとむずと切る
所に、上の鴨居に切付て太刀をぬかんぬかんとしける
を、ぬかせもはてさせず、しや胸を突き貫きて、な
げふせて首をかくを見て、判官が後見の法師、元は
山法師にて注記といふもの、つとよる所を、二の太
刀に首を打落しつ、さて主従二人が首を取て、障子
に火を吹附て、つと出て、兼隆をば景廉が討たるぞ
やとぞののしりける、判官が宿所焼けるを兵衛佐見
給ひて、兼隆をば一定景廉が打たりと覚ゆるぞ、門
出よしとて悦び給ひける程に、北条使者をたてて、
兼隆をば景廉が討て候なりと申たりければ、兵衛佐
さればこそとぞ宣ひける、是を始めとして伊豆の国
より兵衛佐に相隨ふ輩、北条四郎時政、子息三郎宗
P343
時、同次郎義時、工藤の介茂光、子息かのの五郎親
光、宇佐美の平太、同平次、同三郎すけなか、加藤
太光員、舎弟加藤次景廉、藤九郎盛長、天野の藤内
遠景、同六郎、新田四郎忠常、きせう房じやうしん、
堀の藤次親家、佐々木太郎定綱、同次郎経高、同三
郎盛綱、同四郎高綱、七郎武者信親、中四郎惟重、
中八惟平、橘次頼時、くしまの四郎宗房、近藤七郎
国平、大見平次家秀、新藤次俊長、小中太光家、城
平太、あひざはの六郎宗家、懐島平権の守景義、舎
弟豊田四郎景俊、筑次次郎義行、同八郎義安、土肥
の次郎実平、同子息弥太郎遠平、新貝の荒四郎実重、
土屋三郎宗遠、同小四郎義清、県の弥次郎忠光、岡
崎四郎義実、真田の余一義忠、中村五郎、同次郎、
飯田五郎、平佐古太郎為重、大沼四郎、多毛三郎
義国、丸五郎信とし、安西四郎為景〈 已上五十一人 〉等を召具
して、八月廿日相模の国土肥へ越て、時政、宗遠、
実平ごときのおとなどもを召て、さて此上は如何有

べきと評定あり、実平先申けるは、国々の御家人の
方へ廻文候べきなりと申ければ、尤さるべしとて、
藤九郎盛長を御使にて、廻文を遣はさる、先相模の
国住人はた野の小次郎、馬の允信景を召れけれども、
参らず、上総介広常、千葉介常胤左右なく領状申た
りけれども、わたりあまた有て、八月下旬のことな
れば、風波の難によつて遅参す、山内須藤刑部丞義
通が孫、須藤滝口俊通が子共、滝口三郎、同四郎を召
れければ、三郎弟の四郎に向ひて、盛長が聞をも憚
らず申けるは、人は至てわびしく成ぬれば、すまじ
き事をもし、思ひよるまじき事をも思ふとは是なり、
其故は兵衛佐殿当時のさほふにて、平家に立会奉ら
んとてかくの如くのことを引出し給ふ事よ、ほうの
ごとくふじの山と長くらべし、猫のひたひにある物
を鼠のねらふに似たり、南無阿弥陀仏、々々々々々
々とぞ高声に申ける、御返事に及ばず、三浦の介義
明がもとへ御文持むかひたりければ、折節風気とて
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ふして有が、兵衛佐殿より御文ありと聞て、急ぎ起
き上りてゑぼし押し入て、直垂うちかけて、盛長に
出向ひて、廻文披見して申けるは、故左馬頭殿御末
は、皆絶はて給ひぬるにやと思ひたれば、義明が世
にも御末出来給はん事、只身一人の悦なり、子孫皆
来るべしとて集りける、嫡子椙下太郎義宗は、長寛
二年秋の軍に、あはの国長狭城を攻るとて、大事の
手負て、三浦に帰りて、百日に満じけるに、廿九に
て死にけり、次男三浦別当義澄、大和多三郎義直、
佐原十郎義連、孫共には和田の小太郎義盛、同次郎
義茂、同三郎宗実、多々良三郎、同四郎、佐野平太
惣八、橘五、矢藤太、三浦藤平是等をよびすへて申け
るは、昔は三十三年を以て一昔としき、今は廿一年
を以て一昔とす、廿一年過ぬれば、淵は瀬になる、
平家既に廿余年のかぎり天下を保つ、今はすゑに成
て、悪行日を経てばいぞうす、滅亡の期来るかとみ
えたり、其後又源氏繁昌疑ひなし、各々はやばや一味

同心に兵衛佐殿御方へ参るべし、君冥加おはせずし
て討死をもし給はば、各又かうべを一所に並ぶべし、
山賊海賊をもしたらばこそ瑕瑾ならめ、佐殿若くわ
はうおはして、世をも取給はば、をのれ等が中に一人
も生残りたらん者、世に有て繁昌すべしと申ければ、
各左右に及ばずとぞ申ける、
去程に兵衛佐殿は北条時政、佐々木が一類を始とし
て、伊豆相模両国の住人同意与力する輩三百余騎に
は過ざりけり、八月廿二日の夕、土肥の郷を出て早
川尻に陣を取る、早川党申けるは、戦場には悪く候
べし、湯本の方より敵山を越て後を打囲み、中に取
籠られ候なば、一人ものがるべからずと申ければ、
引退きて石橋といふ所に陣を取て、上の山越には掻
楯をかき、下大道をば切ふさぎてたて籠る、平家の
方人当国の住人大場三郎景親、武州相州の勢を招き、
同廿三日寅卯の時おそひ来、相従ふ輩には、大場三
郎景親、舎弟股野五郎景久、長尾の新五新六、八木
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下五郎、香河五郎以下鎌倉の者ども一人も洩ざりけ
り、此外は、ゑびなの源八権守秀定、子息おぎのの五
郎、同彦太郎、ゑびなの小太郎、川村の三郎、原惣
四郎、曾我太郎祐信、渋谷の庄司重国、山内滝口三
郎、同四郎、稲毛三郎重成、久下権の守直光、同舎
弟熊谷次郎直実、瀬間三郎、広瀬太郎、岡部の六弥
太忠澄などを始として、むねとの者三百余人、家の
子、郎等都合三千余騎にて石橋の城へ押よす、道々
兵衛佐方人の家々焼払ひて、谷を隔てて海を後に当
てて陣をとる、さる程に酉の時にもなりにけり、稻
毛の三郎いひけるは、今日は既に暮たり、合戦は明
日たるべきかと申、大場の三郎申けるは、明日なら
ば兵衛佐殿方に、勢いよいよはせ重るべし、後より三
浦の人々来ると聞、両方を防がんこと、道せばくし
て足立悪し、明日は一向三浦の人々と勝負を決すべ
しとて、三千余騎を整へて鬨を作る、兵衛佐の方より
も、ときの声を合せて、蟇目かぶらを射ければ、山彦

こたへて敵の大勢にも劣らずぞ聞えける、大場の三
郎景親鐙ふんばり弓杖ついて立あがりて申けるは、
抑近代日本国に光を放ちて肩を双ぶる人なき平家の
御世を、傾け奉らんと結構するは誰人ぞや、北条四郎
あゆみ出て申けるは、汝は知らずや、我君は清和天皇
第五の皇子六孫王経基より八代の後胤、八幡太郎殿
には御彦兵衛佐殿にてまします也、忝くも太上天皇
の院宣を給て首に懸させ給へり、東八ヶ国中の輩誰
人か御家人にあらざるや、馬に乗ながら仔細を申条
甚奇怪なり、速に下りて申べし、さて御供には北条
四郎時政を始として、子息宗時、同四郎義時、佐々
木が一党、土肥、土屋をはじめとして、伊豆、相模両
国の住人忝く参りたり、景親又申けるは、昔八幡殿後
三年の合戦の御供して、出羽国金沢の城をせめられ
し時、十六歳にて先陣かけて、敵に左の眼を射させ
て、当の矢射てその敵取て名を後代に留めし鎌倉の
権五郎景政が末葉、大場の三郎景親を大将軍として、
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兄弟親類其勢三千余騎なり、御方の勢こそ無下にす
くなく見え候へ、いかでか敵対せさせ給ふべき、時
政申けるは、抑景政が末葉と名乗申か、さては仔細
は知たりけり、いかでか三代相伝の君に向ひ奉て、弓
を引矢を放つべき、速に引退候へ、景親又申けるは、
主にあらずとは申さぬぞ、但昔は主、今は敵、弓矢
取もとらぬも恩こそ主よ、当時は平家の御恩、山よ
りも高く海よりもふかし、昔ぶりして降人に成べき
にあらずとぞ申ける、兵衛佐宣ひけるは、武蔵、相
模に聞ゆるもの共あんなり、中にも大場三郎、股野
は名高き兵と聞置たり、誰人にてくますべきぞ、岡
崎の四郎進み出で申けるは、敵一人に組ぬ者の候か、
親の身にて申べきには候はねども、義実が子息白物
冠者義忠こそ候はめと申ければ、さらばとて真田の
余一義忠を召して、今日の軍の一陣仕れと宣ひけれ
ば、余一承りぬとて立にけり、余一が郎等文三家安
を招き寄て申けるは、母にも女房にも申せ、義忠今

日の軍の先陣をかくべき由兵衛佐殿仰を承る間、先
陣仕るべし、おととひ、それを打出候しを限りと思召
し候へ、生きて二度帰るべからず、若兵衛佐殿世を
うちとらせ給はば、二人の子息等佐殿に参らせて、
岡崎と真田とを継で子共の後見して、義忠が後生を
も弔ひてたべといへと申ければ、文三申けるは、殿
を二歳より今年廿五に成給ふまでもりそだて奉て、
只今死ぬると宣ふを見捨てて帰るべきにあらず、こ
れ程の事をば三郎丸して宣へかしとて、三郎丸召し
て家安此よしをいひ含めて遣はしけり、余一十七騎
の勢にてあゆみ出て申けるは、三浦大助義明、舎弟三
浦悪四郎義実が嫡子、さなだの余一義忠生年廿五歳、
源氏の世を取給ふべき軍の先陣なり、我と思はん輩
は出てくめとてかけ出たり、平家の軍兵是を聞て、
真田はよき敵ぞや、いざ我股野くんで取らんとて、
すすむ者ども長尾の新五、新六、八木下五郎、荻野の
五郎、曾我太郎、渋谷の庄司、原四郎、滝口三郎、
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稲毛の三郎、久下権の守、加佐摩三郎、広瀬太郎、
岡部六弥太、熊谷次郎を始として、むねとの者共七
十三騎、我劣らじとおめいてかく、弓手は海、妻手
は山、くらさはくらし、雨はいたくふる、道はせば
し、心は先にとはやれども、力及ばぬ道なれば、馬
次第にぞかけたりける、真田、文三家安あゆみ出て申
けるは、東八ヶ国の殿原、誰人か君の御家人ならず
や、明日ははつかしからんずるに、矢一つ射ぬ先に
御味方に参れやと申ければ、渋谷の庄司重国が、か
く申は誰人の言葉ぞや、家安申にや、あたら詞を主
にはいはせで、人々しくまた郎等のと云ければ、家
安重ねて申けるは、人の郎等、人ならぬか二人の主
にあはず、他人の門に足ぶみ入ず、和殿原こそ秩父の
末葉とて口はきき給へども、一方の大将軍をせで、
大場の三郎がしりまひして迷ひ行給へ、よき人のき
たなきふるまひするをこそ人とはいはぬ、矢一すぢ
奉らんとて、鶴の本白の中ざしをぬき出して、ぬり

ごめの弓に十三束をよひきて射たりければ、かぶと
の手先を射つらぬく、其時敵も味方も一同にわつと
ぞ笑ひける、さる程に廿三日たそがれ時にも成にけ
り、大場の三郎、舎弟股野の五郎に申けるは、股野
殿構へてさなだにくめよ、景親も落あはんずるぞと
いふ、股野いはく、余りにくらくして、敵も味方も
見わかばこそ組候はめといひければ、大場いひける
は、真田はあしげ成馬に乗たりつるが、かたしろの
鎧にすそ金物打て白き母衣かけたりつるぞ、それを
印にてかまへてくめとぞ申ける、承り候ぬとて、股
野すすみ出て申けるは、抑さなだの余一がここに有
つるが見えぬは、はや落けるやらんといへども、さ
なだ音もせず、敵間近くはせよせて、有どころ慥に
聞おほせて、股野が傍らにゐたり、真田の余一ここ
にあり、かう申は誰人ぞやといふ声に付て、股野五
郎景久なりと云はつれば、頓て押しならべてさしう
つぶひてみたりければ、馬あしげなり、よろひのす
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そ金物きらめいて見えければ、打よせて引組でどう
と落にけり、上に成下に成、山のそばを下りに大道
まで三段計転びたり、今一返し返したらば海へ入な
まし、股野は大力と聞えたりけれども、如何したり
けん下に成うつぶしに、くだり頭にふしたりければ、
枕はひくしあとは高し、起きん起きんとしけれ共、さ
なだ上にのり居たりければ、叶はじとや思ひけん、
大場の三郎舎弟股野五郎景久、さなだの余一に組だ
り、つづけやつづけやと云ければ、家安を始として郎等
共皆かけ隔てられてつづく者なかりけり、股野が従
弟長尾の新五落合ひて、上や敵下や敵と問ければ、
余一は敵の声に成て上ぞ景久、長尾殿あやまちすな、
股野は下にて下ぞ景久、長尾殿あやまちすなといふ
程に、かしらは一所にあり、くらさはくらし、いづ
れとも見わかず、上ぞ景久、下ぞさなだ、下ぞ景久
と互にいふ、股野いひけるは、不覚の者哉、よろひ
の毛をもさぐれかしといひければ、二人の者共が鎧

の引合せをさぐりけるを、さなださぐられて、右の
足にて長尾がむねをむずとふむ、新五ふまれて、そば
ざまに二弓だけばかりとどばしりて倒れにけり、其
間にさなだ刀をぬいてかくにきれず、させどもさせども
通らず、刀をもちあげて雲すきに見れば、さやまき
のくりかたかけて、さやながら抜たり、さやじりを
加へてぬかんとする所を、新五が舎弟新六落重りて、
余一が箙のあはひにひたと乗ゐて、かぶとのてへん
に手を入てむずと引、あをのけてさなだが首をかき
たれば、水もたまらずきれにけり、頓て股野を引起
して手負たるかと問ければ、頂こそしびて覚ゆれと
いふを、さぐれば手のぬれたりければ、敵の刀を取
て見れば、さや尻一寸計くだけて有、誠につよくさ
したるとみえたりけり、其手を痛みて、股野は軍も
せざりけり、股野の五郎景久、さなだの余一をうち
取たりとののしりければ、源氏の方には歎き、平家
の方には悦けり、父の岡崎が兵衛佐殿に余一冠者こ
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そすでに討れて候へと申ければ、兵衛佐はあたら兵
を討せけるこそ口惜けれ、若頼朝世にあらば、義忠
が孝養はすべしとて、あはれげに思されけり、岡崎
申けるは、十人の子におくれ候とも、君の世に渡ら
せ給ひ候はんことをこそ願はしく候へと申ながら、
さすが恩愛の道なれば、よろひの袖をぞぬらしける、
文三家安は余一が討れたる所より尾一隔てて戦ひけ
るを、稲毛の三郎云けるは、主は既にうたれぬ、今
は和君落よかしといひければ、家安申けるは、幼少
よりかけ組む事は習ひたれ共、逃る事はいまだ知ら
ず、さなだ殿討れ給ひぬと聞つるより、心こそいよ
いよたけくこそおぼゆれとて、くきやうの敵八人分
捕して討死しけり、軍はよもすがら有けり、暁方に
成て、兵衛佐の勢土肥をさして引退く、佐殿も後陣
にひかへて、あな心うや、同じ引ともおもふ矢一射
て落よや落よやと宣ひけれ共、一騎も返さず皆落ぬ、
堀口といふ所にて加藤次景廉、佐々木四郎高綱、大

和田の三郎よしなほ落残て、十七度まで返合せて、
さんざんに戦ふ、敵は数千騎有けれ共、道せばく足
だち悪くして、一度にも押寄せず、僅に二三騎づつ
ぞかけたりける、此者共敵多く討取て、矢種射尽し
てければ、同じく一度に引退く、さる程に夜もほの
ぼのとあけにけり、廿四日辰の刻に山上人々引退き
けるを、荻野五郎末守、同子息彦太郎秀光以下兄弟
五人、兵衛佐の跡めに付て追かかりて、此先に落給
ふは大将軍とこそ見申せ、いかに源氏の名折に鎧の
後をば見せ給ふぞ、きたなしや返し合せ給へと、お
めいてかく、佐殿叶はじとや思されけん、只一人返
合せて、矢一つこそ射られけれ、荻野五郎が弓手の
草ずりぬひざまに射つらぬく、二矢にはくらのふく
りんに射立、次の矢には荻野が子息彦太郎が馬のむ
ながひつくしに立にけり、乗馬はねふしければ、足
をこしており立ぬ、伊豆の国の住人大見の平次が佐
の前にははさまりけり、又佐々木四郎馳来て大見が
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前に扣へたり、昔物語にも大将軍の御軍なき事にて
候、只ここを落させ給へと申ければ、防矢射る者な
ければこそと宣ひければ、伊豆の国の住人飯田の三
郎家能候と申て、矢三すぢいたりけり、敵三人は射
落しつ、兵衛佐椙山に入給ひにけり、残りの人ども
みちさかしくて、たやすく山へ入べき様もなかりけ
り、太刀計はきてぞ山へは入にける、伊豆国の住人
工藤介茂光は太りて大なる男にて、山へものぼら
ず、あゆみも得ず、のぶべきとも覚えずして、子息
狩野五郎ちか光を招き寄せて、人手にかくな、我首
を討てと云ければ、親光父の生首を切らんことの悲
しさに、父を肩に引かけて山へ上りしが、峨々たる山
なれば、たやすく上るべしとも覚えねば、とみにも
のびやらず、敵は間近く攻かくるとて、すでにいけ
どりにせらるべかりければ、茂光腹かききりて死に
けり、茂光がむすめ伊豆の国の国司為綱が具してま
うけたりける田代冠者信綱これを見て、祖父工藤介

が首取て、子息かのの五郎に取せて山へ入にけり、
北条が嫡子三郎宗時も伊藤の入道祐信法師に討れに
けり、兵衛佐は峰に上りてふし木の有けるにこし打
かけておはしたりけるに、人々あとめを尋て来りけ
れば、佐宣ひけるは、人々多くては中々あしかりな
ん、各々是よりちりぢりになるべし、我世にあらば
必尋ぬべし、各も尋らるべしと宣ひければ、人々申
けるは、我等もすでに日本国を敵にうけて候へば、
いづくへまかるべしとも覚え候はず、同じくは一所
にてこそ塵灰ともなり候はめと申ければ、頼朝思ふ
様有てこそかくもいふに、相従はずば不興なり、し
ゐていはん人は存ずる旨ありと心を置べしと宣ひけ
れば、此上はとて思ひ思ひにおち行けり、北条時政、
子息義時父子二人はそれより山伝へに甲斐の国へ赴
きにけり、加藤次景廉、田代冠者信綱とは伊豆国三
島の御宝殿に籠りたりけるが、夜のほのぼのと明に
ければ、御宝前を出て思ひ思ひに落行く、景廉は兄
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の光員に行合ひて甲斐の国へ落にけり、残る輩は伊
豆、駿河、武蔵、相模の山林に逃籠る、兵衛佐に附
き山にある人とては土肥の次郎、同子息弥太郎、甥
の新貝の荒次郎、土屋の三郎、岡崎の四郎以上侍五
人、下臈には土肥の次郎が小舎人男七郎丸、兵衛佐
殿をぐし奉て、上下ただ七人ぞ有ける、土屋が申け
るは、天喜年中に故伊予入道殿の貞任をせめ給ひし
時、僅に七騎に落なりて、一旦は山に籠り給ひしか
共、終に其御本意をとげ給ひけり、今日の御有さま
こそ少しもそれにたがはず候へ、尤吉例なりとぞ申
ける、兵衛佐殿すでに敵近付くといふ、ここを去り
ても山の案内を知たらばこそ中々敵に行合ひぬと覚
ゆ、さり共ここには来らじとて、彼杉のまろぶしの
うつろの中に七人入籠り給ひぬ、大場あとめにつき
て尋ね来て、ふし木の本までさがしたり、足あとは
是まで来たりたるが、すゑは見えぬぞ、おぼつかな、
いか成らんとてふし木のそばひらにおりゐたり、大

場をはじめて、不思議の事かな、まさしくここまで
六七人がほどの足あと有ものを、いづちへ落ぬらん
とて、東西をさがす、むちを以てふし木を打たたけ
ば、中、大にうつろなり、是はいかに、此木はまはり
大きなり、此うつろには人籠るとも十人廿人もこも
らんずるものを、若此中にもや有らん、入てさがせ
やと下知しける、大場の平三景時、後には梶原と申
者立寄て見るに、ふし木のそばにまろ穴あり、誠に
左もや有らんとて、さしうつむきて見入たれば、人
六七人が程あり、其中にしも兵衛佐殿の御目にきら
りと見合せたり、すでに思ひ切たる御有さまなり、
是を見て景時思ひけるは、あな心うや、いへば此殿
は譜代相伝の主人ぞかし、然れども一旦の恩により
て平家に従ひて、弓を引て向ふといひながら、浅ま
しき事かな、たとひ勝負をする事ならばいかがはせ
ん、ここにていひがひなく討奉らんこと心うしと思
ひければ、若世にも渡らせ給はば、思召し知らせ給
P352
へかしと思ひければ、足を以て此穴をふみかくして、
何ものの此木の穴には有べきぞ、さりながらいで入
てさがして見んとてふし木の中に入り、口にふさが
りて人を入らじとて弓矢むちを以てからりからりとさ
がし廻る、人々我も我もと入らんとしけれども、景
時口にふさがりて尋さがしければ、各腰の刀を抜て
自害せんとし給ふ所に、景時此気色を見て、小声にて
そそめきて、あな心うや、景時が候ぞ、何事も有る
まじく候、御自害思ひも寄べからずと申て、はひ出
て申けるは、有りがたきふし木めかな、景時に骨を
折せつる、焼すつべけれども、後には思ひしれよとて、
伏木を荒らかにたたきたり、兵衛佐殿、景時は我に心
を寄するものにこそとおぼししづめ、八幡大菩薩た
すけさせ給へときせい申給ひけるに、彼木のまろの
中より兎三つ連て、大場が前にはしり出たり、大場
これをみて、こはいかに珍らしき兎あり、これや殿
原といへば、人々諸共に我も我もと射て取らんとて

はせ向ふ、よにいよげにて三の道にかかりて、しづ
しづと走る、此兎に従て大勢大道に出にけり、佐殿
敵行さりてのち、あらふしざや、八まん大菩薩誠に
頼朝をば守らせ給ひけり、月の前に兎ありといふ事
の有ものを、大菩薩の本地阿弥陀と申せば、観音、
勢至、脇士としてまします、月即ち勢至なり、今は
東国をしるべき因縁うたがひあらじとて、大にかん
じ給ひけり、
三浦の人々はまりこ河のはた、浜の宮の前に陣を取
て、各申けるは、石橋の軍は此夕までなかりけり、
今日は日も暮ぬ、暁天あけてのちよすべしとて、こ
らへて有ける程に、兵衛佐の方に大沼四郎といふ者
あり、敵の中を紛れて、三浦の人々の陣の前を河端
に来て呼はりければ、たぞといふ、大沼四郎なり、
石橋の軍既に始りて、さんざんの事どもあり、其次
第を参て申さんとすれば、馬にははなれぬ、夜は更
たり、河のふち瀬も見えわかず、馬をたべ、参りて
P353
申さんといひければ、急ぎ馬を渡しけり、大沼来て
申けるは、酉の刻に軍始りて只今まで火の出る程合
戦あり、工藤の介、真田の余一すでに討れぬ、兵衛
佐殿も討れ給ひけるとぞ申合ひて候つれ、誠にのが
れ給ふべき様もなかりつる上、自ら手を砕きて戦ひ
給ひつれば、一定討れ給ひぬらんとぞ申ける、人々
是を聞て、兵衛佐殿討れ給ひたりといふ共、実正を
知らず、但大将軍ましますと聞ばこそ、百騎が一騎
になるまでも戦はめ、前には大場の三郎、伊東入道
雲霞の勢にて待かけたり、後には畠山次郎、武蔵党
の物共引ぐして、五百余騎にて金江河のはたに陣を
取る、あんなる中に取籠られて、一人ものがるべし
共覚えず、たとひ一方を打破りて通りたり共、朝敵
となる上は、安穏にて有まじ、しかじ人手にかからん
よりは、各自害をすべしといひければ、義澄申ける
は、しばし殿原じがいあまりに物さわがしとよ、か
やうの事はひがごと空ごとも多し、兵衛佐殿一定討

れてもやましましぬらん、のがれもやし給ひぬらん、
其かばねを見申さず、土肥、岡崎は相模の国の人々
なり、先此人々討れて後こそ大将軍は討れ給はめ、
海辺近ければ船に乗給ひて、あはかづさの方へもや
心ざし給ひぬらん、石橋山深山かすかにつらなりた
れば、それにもや籠りてましますらん、何様にも兵
衛佐殿の御おとづれを聞かん程は、自害せん事悪か
りなん、さりとも兵衛佐殿荒涼に討れ給はじものを、
たとひ死に給ふとも、敵にものをば思はせ給はんず
らん、何さまにも大場にも畠山にも一方に向ひて討
死射死をこそせめ、畠山が勢五百余騎と聞く、此勢
三百余騎押向ひたらば、などかしばしもささへざる
べき、是を破りて三浦に引籠りたらんには、日本国
の勢一方によせたりとも、火出る程に戦ひて矢だね
射尽なば、其時こそ義澄は自害をもせんずれとて、
頓てかぶとの緒をしめて、夜半計に小磯原を打過て、
波うち際を下りに、金江河の河尻へ向てぞあゆませ
P354
ける、和田の小太郎義盛が舎弟次郎義茂は高名ある
兵、大太刀、大矢の精兵、大力のものなりけるが、
此道はいつもの習ひの閑道ぞや、上の大道をばうち
給はぬか、只大道をうちて過ざまに畠山が陣をかけ
破りて、強馬ども少々取集めてゆかんといひければ、
何条すずろごと宣ふか、畠山此程馬かひたてて休み
居たり、強馬取らんとて返てよわき馬とられよかし、
馬の足音は波に紛れて聞まじ、くつわをならさで通
れ、若党と下知しければ、或はうつぶしてみづつき
を取り、或は轡をゆひからげてぞ通りける、案のご
とく畠山の重忠聞付て、めのとはん沢の六郎成清を
呼ていひけるは、只今三浦の人々の通ると覚ゆるぞ、
重忠此人々に意趣なしといへ共、かれらは一向佐殿
の方人なり、重忠父庄司平家に奉公して、当時在京
したり、是を一矢射ずして通しぬるものならば、大
場、伊東などにざん言せられて、一定平家の勘当蒙
りぬと覚ゆるなり、いざ追かけてひと矢射むといひ

ければ、成清尤さ候べしとて、馬の腹帯強くしめて
追かけたり、三浦の人々はかくともしらで、相模河
を打渡り、腰越、稲村、由井の浜などを打過て、小
坪坂にも打上れば、夜も漸く明にけり、小太郎義盛
がいひけるは、是までは別の事なく来りたり、今は
何事か有べき、たとひ敵追来たりとも、足立わろき
所なれば、などか一ささへせざるべき、馬をも休め
わりごなども行給へかし、殿原とて各馬よりおりゐ
て、後の方を見帰たれば、稲村崎に武者こそ三四十
騎ばかり打出たれ、小太郎これを見て、ここに来た
る武者は敵か、又此ぐそくのさがりたるかといひけ
れば、三浦の藤平実光、ぐそくにはさるべき人も候
はず、次郎殿ばかりこそ鎌倉を上りに打せ給ひつれ、
あれより来るべき人覚えずと申ければ、小太郎、さ
ては敵ござんなれとて、叔父の別当義澄に向ひてい
ひけるは、畠山すでに追かけたり、殿ははや東の地
にかかりてあぶずり究竟の城なれば、かいたてかか
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せて待給へよ、義盛はここにて一軍して、もし叶は
ずば、引かけて諸共に戦ふべしと申ければ、義澄尤
さるべしとて、あぶずりへぞ行ける、畠山次郎五百
余騎にて赤はたかがやかして、由井の浜、稲瀬河の
はたに陣を取、畠山次郎使者を立て、和田の小太郎
が方へいひ送りけるは、重忠是までこそ来て候へ、
各に別の意趣を思ひ奉るべきにあらねども、父庄司、
叔父小山田別当、平家の召に依て折節六波羅に伺公
す、重忠が陣の前を無音にて通し奉りたらば、平家
に勘当せられんこと疑ひなきに依て是まで参たり、
是へ出させ給べきか、それへ参り候べきかと申とて
遣しけり、義盛、実光を召て彼使者に相具して返答
しけるは、御使申様、こまかに承り候ぬ、仰尤その
いはれあり、但庄司殿と申は大介の孫聟ぞかし、さ
れば曾祖父に向ひて、いかでか弓矢を取て向ふべき、
尤宿意有べしといはせたりければ、重忠かさねて云
けるは、元より申つる様に介殿御事と申、各の御事

といひ、意趣思ひ奉らず、ただ父と叔父との首をつ
がんが為に是迄来るなり、さらば各々三浦へかへり給
へ、重忠も罷帰るべしとて、和平して帰る所に、か
様に問答和平するも、いまだ聞定めぬ先に、義盛が
下人一人舎弟義茂が方へ走り行て、由井の浜に軍す
でに始りて候といひければ、義茂是を聞て、あな心
うや、太郎殿はいかにといひて、甲の緒をしめて、
犬懸坂を走せ越て、名越の下まで浜を見渡せば、何
とは知らずひた甲四五百騎計うち立たり、義茂只一
騎にておめいてかく、畠山これを見て、あれはいか
に、和平のよしは空事なり、からめてを待たんとて
いひけるものを、安からずいだしぬきけるにやとて
かけ出んとす、さる程に兄の義盛小坪坂にて是を見
て、ここに下ざまに七八騎計にてはしるは次郎よな、
和平の仔細を聞もひらかず、左右なくかくると覚ゆ
るなり、次郎討すな、いざさらば戦はんとてかけ出
たり、小太郎義盛、実光に云けるは、楯突の軍は度々
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したれども、はせ組の軍は是ぞはじめ、いか様に有
べきぞと云ければ、実光申けるは、今年五十八には
成候が、軍に合ふ事十九ヶ度、誠に軍の先立実光に
て有べしとて申様、敵も弓手、我も弓手に合んずる
なり、打とけ弓を引べからず、あき間を心にかけて
ふり合せふり合せして、内申ををしみ、あだ矢を射じと
矢をはめながら、矢をたばひ給ふべし、矢一つ放ち
ては、次の矢を急ぎ打くはせて、敵の内甲を心に懸
給へ、昔様は馬を射る様はせざりけれ共、中比より
は先しや馬のふと腹を射つれば、はねおとさせてか
ち立に成ぬれば、手やすきぞ、また近代はやうもな
く押並べて組で中に落ぬれば、太刀、刀にて勝負は候
なりとぞ申ける、さる程にあぶずりに引上て、かい
たてかいてまちつる三浦別当義澄、すでに合戦始ま
ると見て、小坪坂をおくればせにして押よす、道せ
ばくして僅に二三騎づつ走せ来ければ、遥につづき
て見えければ、畠山此勢を見て、三浦の勢計にては

なかりけり、上総、下総の人々共一味に成てけり、
大勢に取込られて叶はじとて、おろおろ戦ひて引退
く、三浦の人々いよいよかつに乗り、追ざまに射け
れば、浜の御霊井の前にて和田の次郎義茂と相模の
国の住人連の太郎と組で落ぬ、連は大の男の人にす
ぐれて長高くふつたいなり、和田はすこしせいちい
さけれども聞ゆる小相撲にて、敵をまめにかけてゑ
い声を出して波打際に枕をせさせて、のけざまにな
げ寄せて、胸板の上をふまへて刀をぬいて首をかく、
是を見て連が郎等落合たりけれ共、和田太刀を内か
ぶとに打入たりければ、唯一うちに首を打落す、二
の首をすすがせて休み居たる所に、連が子息の次郎
走せ来てさんざんに射ければ、義茂がいひけるは、
親の敵をば手取にこそとれ、和殿が弓勢にてしかも
遠矢に義茂が鎧は通らじものを、討れぬ先に落合か
し、恐しきか寄らぬは、但し義茂軍につかれたれば
手向はすまじ、首をばのべて切れんずるぞとはげま
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されて、つらの次郎太刀を抜て落合たり、和田の次
郎はわざと甲のはちをからとうたせて取て引よせ、
みしと押へて刀をぬいて首をかく、二の首をくらの
とつけに附て、連が首をば片手に持て帰来たり、其
日の高名和田の次郎に極りたりと、敵も味方ものの
しりけり、畠山が方には連の太郎、河口次郎大夫、
秋岡四郎等を始として、究竟の者ども三十余人ぞ
討れける、手負は数を知らず、三浦方には、多々良
十郎、同次郎と郎等二人ぞ討れける、其時畠山我方
の軍兵あまた討れ、引退くけしきを見ていひけるは、
弓矢取道ここに返合すは各永く弓矢を小坪坂に切す
つべしとて、片手矢はめてあゆみ出て申けるは、音
にも聞、目にも見給へ、武蔵の国の住人秩父の余流、
畠山庄司重義次男庄司次郎重忠生年十七歳、軍にあ
ふ事今日ぞはじめ、我と思はん人々は出合とてかけ
出たり、はん沢の六郎はせ並べて、馬のくつばみに
取付て申けるは、命を捨る事は様にこそより候へ、

さしたる宿世の敵親の敵にもあらず、か様の公事に
付たる事に命をすつる事は候はず、若御心の趣あら
ば後の軍にて有べしとて、取とどめければ、力及ばず
相模の本間の宿に引き退く、かの宿に兵衛佐殿の方
人多く居住したりければ、其家に火を懸て、山下の
村まで焼払ふ、三浦の人々は此軍の次第を大助に語
ければ、ふるまひ尤神妙なり、就中義茂が高名左右
に及ばずとて、太刀一振取出して孫の義茂にとらす、
敵只今来らんず、急ぎ衣笠の城に籠るべしと云けれ
ば、義茂が申けるは、衣笠は口あまた有て無勢にて
は叶まじ、奴田城こそ廻りは石山にて一方は海なれ
ば、よき者百人計候はば、一二万騎寄たり共苦しか
るまじき所なれと申ければ、大介いひけるは、さか
しき冠者のいひ事哉、今日は日本国を敵に請て討死
せんと思はんずるに、同じくは名所の城にてこそ死
べけれ、先祖の聞えある館にて討死してけりと、平家
にも聞れたけれといひければ、尤さるべしとて、衣
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笠の城に籠りけり、
上総の介広常が舎弟金田大夫よりつねは義明がむこ
なりければ、七十余騎にてはせ来りて、同じ城に籠
りけり、此勢相具して四百余騎に及びければ、城中
にも過分したり、大介いひけるは、若党をはじめて
うまや冠者原に至るまで、強弓の輩矢ぐらをかまへ
てさんざんに射べし、又討手にかしこからん者ども
は、手々に長刀を以て深田に追はめて討べし、城の西
裏の手をば義澄防ぐべしとぞ下知しける、かく云程
に廿六日辰の刻武蔵の国の住人江戸太郎、河越太郎、
党の者共には金子、村山、股野、山口、児玉党を始
として、八百余騎にて押寄せたり、先連の五郎は、父
と兄とを小坪にて討せたる事を安からず思ひける故
に、真先にかけて出来たり、支度のごとく城内より
矢先を揃へて射る、一方は石山、二方は深田なれば、
寄する武者多く討れけり、又打物冠者原肩を並べて
打向ひて戦ひければ、面を向る者なかりけり、かか

りければ連がとう少し引退きけるを、金子の者共入
替へて、金子十郎木戸口へせめ寄せたり、城中より
例の矢先を揃へて射けれども、金子少しも退かず、
廿一まで立たる矢をば折かけ折かけして戦けり、其時
内よりこれをかんじて、酒肴一具家忠が方へ送りて
いひけるは、軍の様誠に面白く見えたり、此酒召し
て力つきて手際の軍し給へといひ送りたりければ、
金子返事に申けるは、さ承り候ぬ、能々のみて城を
ば只今落し申べしとて、頓て甲の上に浅黄糸をどし
の腹巻を打かけて、少しもひるまずせめ寄せければ、
大介是を見て、若物共に下知しけるは、あはれいひ
がひなき者共かな、二三十騎馬のはなをならべてか
けいでて、武蔵の国の者共の案内も知らぬ深田へ追
はめて笑へかしとののしりければ、いく程もなき勢
にて打出ん事も中々あしかりなんとて、出ざりけれ
ば、大介らうらうとしてしかも所労の折節なりける
が、白き直垂にゑぼし押入て馬にかきのせられて、
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ざつしき二人を馬の左右に付て、膝をおさせて太刀
計はいて、敵の中へ打出んとしければ、いとこの佐
野平太はせ来て、介殿は物に付給ひたるか、うち出
給ひては、何のせんか有べきとて引とどめければ、
おのれらぞ物の付たるとは見る、軍といふはきけ、
或時はかけ出て敵をも追ちらし、ある時は敵に追れ
て引退きなどするこそめをも覚して面白けれ、いつ
といふ事もなく草鹿、さをじか、まとなど射る様に
みならはずといふ儘に、佐野平太をむちをもて打た
りける、さる程に日暮ぬ、軍に各しつかれて、大介
殊の外によわげにみえけれ共、いひけるは、各され
ばとて、自害すべからず、兵衛佐殿はよも荒涼に討れ
給はじ、佐殿の生死をも聞定めむほどは、かひなき
命を生て始終を見はて奉るべし、いかにも、あは、か
づさの方へ落給ひぬらん、今夜ここをひきて舟にの
りて佐殿の行末を尋奉るべし、義明は今年七十九に
せまれり、其上所労の身なれば、義明幾程の命を惜

みて城中をば出けるぞと、後、見聞ん人のいはん事
も口惜ければ、我をば捨て落べし、更に恨み有べか
らず、急ぎ急ぎ佐殿に落加はり奉て、本意を遂ぐべ
しと云けれ共、さればとてすて置べきにあらず、子
孫とも手ごしにかきのせて落んとしければ、大介大
にしかりて、手ごしにも乗らず、されどもとかく拵へ
て押乗せて、城中をば落にけり、むねとの者どもは
浜の御崎にありける船共に打乗々々、安房の方へぞ
おもむきける、大介がこしをばざつしき共がかきた
りけるが、敵はちかくせめ懸りければ、こしを捨て
にげにけり、近く付つかはれける女一人ぞ付たりけ
る、敵の冠者原追かけて大介が衣裳をはぎければ、
我は三浦大介といふ者ぞ、かくなせそといひけれど
も、叶はず、直垂はがれてけり、さる程に夜も明に
けり、大介あはれ我はよくいひつる物を、城中にて
こそ死なんと思ひつるに、若者共がいふに付て、犬死
してんずるこそ口惜けれ、さらば同じくは畠山が手
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にかかりて死ばやと云けれども、江戸太郎はせ来て
大介が首を討にけり、いかにもおとなのいふ事は様
有べし、もとより大介がいひつるやうにすて置たら
ば、か程の恥に及ばざらましとぞ人申ける、
兵衛佐は土肥のかちやが入といふ山に籠りてましま
しけるが、峯にて見ければ、伊藤の入道土肥におし
寄せて、重ねて実平が家を追捕しやき払ひけり、実
平山の峯より遥に見下して、土肥に三光あり、第一
の光は八幡大菩薩の君を守り奉給ふ御光、次の光は
君の御はんじやうありて、一天四海をかがやかし給
はんずる御光也、次の光は実平が君の御恩にて放光
する光なりとて、舞かなでしければ、人皆笑ひけり、
さる程に実平が妻子の方より使者をつかはしていひ
けるは、三浦の人々は小坪の軍には勝て、畠山の人
人多く討れたりけるが、衣笠の城の軍に打落されて、
君を尋奉て安房の国へ赴きけり、いそぎ彼人々に落
くははり給ふべしと申たりければ、実平此由を聞て、

さては嬉しき事ござんなれとて、相かまへて今夜中
に海船を召て、安房の国へ落給ひて、重ねて広常、
常胤等を召て、今一度冥加のほどをも御らん候べし
と申ければ、尤さるべしとて、小袖といふ所へ出給
ひて、船一艘に乗りて安房の国へぞおもむき給ひけ
る、兵衛佐以下の人々七人ながら皆大わらはにて、
ゑぼし着たる人もなかりければ、其浦に次郎大夫と
て有ける者、かひがひ敷ゑぼし十かしら参らせたり
ければ、兵衛佐悦給ひて、此勧賞には国にても庄に
ても汝が功によるべしとぞ宣ひける、次郎大夫宿所
に帰りて妻子に向ひて申けるは、ゑぼし一だにも持
ち給はぬ落人にて、逃まどふ人の荒涼にも預りたう
つる国庄かなと申て笑ひけり、実平この御船取出せ
といひければ、子息弥太郎遠平暫く御待事候といひ
ければ、をのれが舅の伊藤入道待つけて、君をも我
らをも討せんとするか、岡崎殿其弥太郎めがしや首
うち落してたべといひければ、岡崎いかでか主と父
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との事を舅に思ひ替て、さやうの心おはすべきとぞ
いひける、頓て船さし出しければ、案の如く伊藤の
入道三十騎計、ひたかぶとにて片手矢はめて追て来
る、追様にも数百騎にてせめ来たる、かしこくぞ御
船を出しけるとぞ人々いひ合ける、さて北条時政は
かひの国へ越えて、一条、武田、小笠原、安田、か
きそねのぜんじ、那古若人此人々に告けるをば、
兵衛佐殿知給はで、此事甲斐の人々に知せばやとて、
宗遠行けとて、御文書て遣はされけり、夜に入て足
柄を越ければ、関屋の前に火高くたきたり、人数多
ふしたり、土屋三郎歩み寄て足音高くしはぶきして
ののしりけれども、たぞともいはず、土屋の三郎思
ひけるは、寝入たる由をして通して、先に人を置て
中に取込んとするやらん、さればとて帰るべきにも
あらずとて、はしり通りければ、誠に寝入たりける
間、おともせず、さて一人行合たれども、恐れて物
もいはず、是もおぢて音もせず、一反計隔てて互に

にらまへて時をうつす程立たり、土屋の三郎はさる
古兵にて有ければ、声をかへて問けり、只今此山を
越るはいかなる人ぞといひければ、かく宣ふは又い
かなる人ぞと、和殿はたぞたぞと問ほどに、互に知
りたる声に聞なして、土屋殿のましますか、宗遠ぞ
かし、小次郎殿か、よしもち候、土屋はもとより子
なかりければ、兄の岡崎の四郎が子を取ておひなが
ら養子にして、平家に仕へて在京して有けるが、此
事を聞て夜昼下りけるが、然るべき事にや親に行合
ひけり、夜中の事なれば、互にかほをば見ず、声ば
かりを聞て、手に手を取組ていひやりたる方もなく、
只いかにいかにとぞいひける、山中へ入て木のもとに
ゐて、小次郎申けるは、京にて此事を承りて下り候
つるが、今日五日は馬をたうして歩行にて下り候つ
るに、下人もえ追付ず、此昼きせ川にて承りつるは、
石橋の軍には兵衛佐殿も討れ給ひぬ、土屋、岡崎も
討れたりと申つれば、なまじひに京をば罷出で候ぬ、
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浪にも磯にもつかぬ心地して候つるなりと語りけれ
ば、土屋思ひけるは、人の心のにくさは誠の親にて
もなし、かれは只今まで平家に仕はれたり、是は源
氏をたのみてあり、首を取て平家の見参にもや入ん
と思ふらんと思ひければ、有の儘にも語らざりけり、
討れたる人とては和殿の兄の余一と北条三郎、さは
の六郎、工藤の介は自害しつ、甲斐国へと聞、時に尋
奉らんとて赴くなり、いざさらば和殿もとて具して
行、甲斐国へ越て、一条次郎のもとにてぞ有のまま
には語りける、三浦の人々は主にははなれぬ、親に
はおくれぬ、舟ながしたる心地して、安房の北方に
りう島にぞ着にける、暫くやすらふ程に、はるかの
沖に雲井に見えて、船こそ一艘みえたりけれ、此人
人申けるは、あれにみゆる船こそあやしけれ、此ほ
どの大風大浪にあま舟つり舟商人船などはあらじ、
あはれ兵衛佐殿の御船にてや有らん、また敵の船に
てや有らんとて、弓の弦しめして用心して有けるが、

船は次第に近附、是を見れば誠に兵衛佐殿の御船な
りと笠印を見付て、三浦の船よりも笠印をぞさし上
たる、猶用心して兵衛佐殿をば打板の下に隠し奉て、
其上に殿原並居たり、三浦の人々はいつしか心もと
なくて、御船にぞ押合せける、和田の太郎申けるは、
いかに佐殿は渡らせ給はぬか、岡崎申けるは、我等
も御行衛を知まいらせぬ間、尋参らせて行なりとい
ふ、三浦は大介がいひし事ども語りてなく、岡崎は
余一が討れし事はとてなく、昨日一昨日の軍の物語
をぞしける、兵衛佐は打板の下にて是を聞給ひて、
あはれ世に有て、是等に恩をせばやとぞさまざまに
思はれける、いたく隠れて是等に恨みられじとて、
頼朝は爰に有はとて、うち板の下より出給ひたりけ
れば、三浦の人々是を見奉て、各悦てなき合ひけり、
和田の小太郎申けるは、父も死ね、子孫も死ね、只
今君を見奉れば、それに過たる悦はなし、今は本意
を遂ん事疑ひ有べからず、君今は只侍共に国々をば
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わけ給へ、義盛には侍別当をたぶべし、上総の権の守
忠清が、平家より八ヶ国の侍別当を捨てもてなされ
候しが、浦山しく候しにとぞ申ける、兵衛佐殿安房の
国安戸新八幡大菩薩に参詣して、千返の礼拝奉て、
みなもとはおなじ流れぞいは清水
せきあけ給へ雲のうへまで W085 K106
其夜の夢想に御宝殿より
ちひろまでふかくもたのめいは清水
只せきあげん雲のうへまで W086 K107
平家物語巻第十終