平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十一

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平家物語巻第十一
兵衛佐殿は、使者を上総介、千葉介方へ遣して、各々急
ぎ来らるべし、是程の大事を引出しつつ、此上に頼
朝を世にあらせんとも、世にあらせじとも両人が心
なり、広常をば父と頼、常胤をば母と思ふべしと宣
ひける、両人ともに元より領状したりければ、常胤
三千余騎の軍兵を卒して、雪の浦に参会して、則兵
衛佐殿を相ぐし奉りて、下総の国府に入奉りてもて
なし参らせけり、常胤申けるは、此川のはたに大幕百
帳計り引ちらし、白旗六七十流打立打立置れ候べし、
是を見ん輩は江戸、葛西の者ども皆参り候はんずら
んと申ければ、尤さるべしとて、其定めにせられけ
るほどに、六千余騎に成りにけり、上総介広常は此
次第を聞て、我遅く参りぬとおもひて、当国中伊比
南、庁北、庁南、望西、望東、畔蘇、ほり口、むさ

山辺の者ども平家の方人して、強き輩をば押寄押寄
是をうち取、隨ふ者をば相具して一万余騎にて下総
の国府に参会す、この仔細を申あげたりければ、兵
衛佐殿聞給ひて、実平を使として宣ひけるは、遅参
の条存の外に覚ゆれども、さたの次第尤神妙たり、
速に後陣に候べきよしいはせらる、此勢相具して一
万六千余騎になりにけり、広常やかたに帰りて、む
ねとの郎等どもに逢ひていひけるは、此兵衛佐殿は
一定の大将軍也、広常是程の多勢を卒してむかひ参
りたらんには、悦感して急ぎ出会て耳と口とさし合
して、ささやきごと追従などをこそ宣はんとおもひ
けるに、実平を以て宣ひつる詞、一にはおほけなく、
一には大くわいなるこころなり、誰人にも荒涼にせ
られ給はじ、一定本意は遂給はんずらん、むかし将
門東八ヶ国を打ふさぎて、頓て王城に責入らんとし
けるに、俵藤太謀をめぐらして語らひよらんと思ひ
て、多勢を卒して来りければ、将門余りに悦んでけ
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づりける髪を取上ずして、白衣にて大童成が出向ひ
て、さまざまの饗応事をいひければ、秀郷さるかし
こき者にて、此人の体以の外に軽さう也、いかにも
日本国の大将軍とは得ならじとて、うちてけり、そ
れ迄こそなくとも、責ては御前近く召るべかりつる
ものをとぞいひける、扨て兵衛佐殿武蔵国と下総国
との境に角田川のはたに陣を取、武蔵の国の住人江
戸太郎葛西三郎等が一類、数をふるひて参上す、兵
衛佐殿宣ひけるは、彼等は皆衣笠の城にて我を射た
りし者にはあらずや、大庭、畠山同じ心にして、凶
心を挟みて参りたるやといはせられたりければ、彼
等再三陳じ申に依て免除せられぬ、兵衛佐殿宣ひけ
るは、平家の嫡孫小松新少将維盛を大将軍にて、五
万余騎にて上総介忠清を先陣として、斎藤別当実盛
を東国の案内者にて下るべき由聞ゆ、然らば甲斐、
信濃両国の敵の方にならぬ先に、此川をわたして足
柄を後にあて、富士川を前に当、陣をとらんとおも

ふなりと有ければ、此儀尤可然とぞ各々申ける、さ
らば江戸太郎此程の案内者也、浮橋を渡して参らせ
よと宣ひければ、江戸は兵衛佐殿の御きげんに入ん
と思ひければ、左右なく浮橋をわたして参らせける、
此橋を打渡して武蔵国豊島の上、滝の川の板橋とい
ふ所に陣を取、其勢すでに七万騎に及べり、八ヶ国
の大名、小名、別当、権守、庄司、大夫などいふ様
なる一党のものども我劣らじと、或は二三十騎、あ
るひは四五十騎、百騎面々に白旗をさしてぞ集りけ
る、兵衛佐はまづ当国六所の大明神にまいり給て、
上矢を抜て獻ぜらる、その時畠山次郎、めのとのき
さいの六郎成清を呼ていひけるは、当時世間のあり
さま如何なるべしとも覚えず、父庄司、叔父別当六は
らに伺公の上は、余所に思ふべきにはあらねども、
三浦の人々と一軍してかつは其仔細三浦の人々にも
いひ置ぬ、いま兵衛佐殿繁昌ただ事ともおぼえず、
ひらに推参せばやとおもふ也、いかにといひければ、
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成清申けるは、其事候、此旨を只今申合せんとぞん
じ候つる也、弓矢をとる習ひ、父子両方にわかるる事
常のことなり、かつうは又平家は今の主、佐殿は四
代相伝の君也、とかくの儀に及べからず、とくとく御
推参有べし、遅々せば定めて追討の使被遣ぬと覚え
候と申ければ、五百余騎にて白旗、白弓袋をさして
参りて、げんざんに入べきよしをぞ申ける、兵衛佐
殿宣ひけるは、汝は父重能、叔父有重平家に仕はる、
就中小坪にて我を射たりし上、頼朝が旗同じ様なる
をささせたり、定めて存る旨あるらんと宣ひければ、
重忠申けるは、小坪にて軍の事は、存の旨三浦の人
人に再三申置ぬ、その次第定めて披露候はん、私の
宿意にも候はず、君の御ことをも忽諸することも候
はず、次にはたのこと、御先祖八幡殿、武衡家衡を
追伐させ給ひし時、重忠が四代の祖父十郎武綱はじ
めて参りて、此旗をさして御供つかまつりて先陣懸
て、則ち彼の武衡追伐せられ候き、近くは御舎兄悪

源太殿、帯刀先生殿を大倉館にて責られし時の軍に、
重忠が父此はたをさして、即時に打落候き、源氏の
御ためには旁重代相伝の御祝也とて、其名を吉例と
申なりと陳じ申ければ、兵衛佐、千葉介、土肥など
にいかか可候と問はれければ、是等申けるは、畠山
をば御勘当な候そ、畠山だに御勘当候なば、むさし、
相模の者ども努々御方に参り候まじ、彼等は畠山こ
そ守り候らめと一同に申ければ、まことに理りなり
と思はれければ、畠山に宣ひけるは、誠に陳じ申と
ころいはれなきにあらず、さらばわれ日本国を打平
げんほどは、一向先陣をつとむべし、汝が旗にはこ
の皮をおすべしとて、あゐ皮を一もん被遣けるとか
や、夫よりしてぞ小紋のはたとは申ける、是を聞き
て武蔵、相模の国の住人等一人ものこらず馳集る、
大庭の三郎此次第を聞きて叶はじと思ひて、平家の
迎ひに上りけるが、足柄を越てあひ沢の宿に着たり
けるが、先には甲斐源氏二万余騎にて駿河国へ越て
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けり、後には兵衛佐殿の勢、雲霞のごとく責来ると聞
えければ、中にとり込られて叶はじとて、鎧の一の
草ずりを切落して、二所権現へ奉りて、相模国へ引
かへりて奥の山へ逃籠りける、平家はか様におびた
だ敷儀をば不(レ)知、いか様にも兵衛佐の勢のつかぬ先
に討手を下すべしとて、太政入道の孫小松内大臣の
嫡子維盛と申少将并に入道の舎弟薩摩守忠度とて、
熊野より育ちて心猛き人と聞ゆる選び具せらるる、
又入道の末の子にて三河守知教と申、此三人を大将
軍として、侍には上総介忠清以下、伊藤、斎藤、有
官、無官数百人、その勢三万余騎をむけらる、かの
の維盛は貞盛よりは九代入道相国の嫡孫小松内大臣
重盛公の嫡男也、平家の嫡々正統として、今凶徒の
乱をなすによりて、大将軍の選びに当る、ゆゆしかり
しことなり、十一月に頼朝追伐すべきよし被御宣
下、官符宣言、
左弁官下 東海東山道諸国

応早追討伊豆国流人源頼朝并与力輩事、
右大納言藤原実定 勅宣奉、伊豆流人源頼朝、忽
相語凶党、欲虜掠当国隣国、叛逆之至、既絶常
篇、宜令追討、右近衛権少将維盛、薩摩守忠度、
三河守知教、兼又東海東山両道、堪武勇者、同
可追討之、其中抜群有義功輩、可加不次之
賞、依宣行之、
治承四年九月十六日 左大夫小槻宿禰
蔵人頭左中弁藤原経房
承るとかかれたり、昔は朝敵の討手、外出に向ふ大
将軍まづ参内して節刀を給る、宸儀南殿に出御有り
て、近衛階下に陣を引き、内弁、外弁、公卿参列し
て、中儀節会を行はれ、大将軍、副将軍各々礼儀を
正して是を給はる、されども承平、天慶の先蹤も年
久しく成りてたとへがたし、今度は堀川院の御時、
康和二年十二月、因幡守正盛が前対馬守源義親を追
伐の為に、出雲の国へ下向せし例とぞ聞えし、鈴ば
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かりをば給て皮の袋に入て、雑色の首に懸させたり
けるとかや、朱雀院の御時、承平年中に、平将門下
総国相馬の郡に住して八箇国を押領し、みづから平
親王と号して、都へ打上り帝位を傾ぶけ奉らんとす
る謀反のきざし有ければ、花洛のさわぎ不(レ)斜、天台
山には法性坊の大僧都の尊意を始として、諸寺、諸
山に調伏の祈祷を被致けるに、此人々の先祖平の貞
盛無官にて上平太と申ける時、つはものの聞え有て、
将門追伐の宣旨を承はるに、先例に任せ節刀を給る、
鈴の奏を以て、相撲節会の時、方屋左右の大将の礼
儀ふるまひなり、弓場どの南のほそどのより罷出け
るに、大将は貞盛、副将軍は宇治民部卿忠文なり、
東国へ向ふ道すがら、さまざまの猛くやさしき事も
あまた有けり、中にも駿河国清見が関、浮島が原に
とまりける時、清原重藤と云者民部卿に伴ひて、軍
監といふ官に行けるに、漁舟火影寒焼浪、駅路鈴声
夜過山といふから歌を詠じたりければ、折節優に聞

えて、民部卿涙をながしてぞ行ける、貞盛すでに将
門が館に打入て、戦宣旨うけ給るに依て、程なく将
門討れにけり、其かうべを抱へて、貞盛都へ上りて
奏聞す、君を始奉りて九重の貴賎上下是を悦ばずと
いふことなし、則大路を渡して獄門にかけられてけ
り、時に勧賞を行はれける、上平太たりし貞盛たち
まちに平将軍と仰下され、其時陣[B ノ]座の作法、左大臣
実頼〈 小野宮殿 〉、右大臣師輔〈 九条殿 〉、の外公卿、殿上人、陣の座に
列し給ひたりけるに、九条殿申させ給けるは、大将
軍進て襲来朝敵を平げたる事はさうに及ばねども、
後陣に副将軍、のちに襲来を頼もしく思ひて、合戦
の思ひいよいよ猛なり、然るに貞盛一人勧賞行はる
る事、忠文本意なくや存ずらん、大将軍ほどの賞に
こそ行はれずとも、すこしに応ずる賞や忠文に行は
るべくや候らんと申させ給けれども、小野宮殿さの
み勧賞行はるべき事、むげにむねんに候なんと申さ
せ給ひければ、民部卿忠文賞をば終に行はれざりけ
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り、忠文忽に怒りをなして、内裏を罷出られけるに、
天上も地も崩るる計なる大音声をあげて、小野宮殿
末葉、ながく九条殿のやつことならせ給へとさけび
て、手をはたと打ちて左右の手を握り給ける、十の
爪二三寸計目にみすみすなりて、手の甲迄にぎり通
したりければ、見るも夥しくくれなゐをしぼるがご
とし、頓て宿所にかへりて思ひじにに死けり、悪霊
とはなりにける、さればにや、小野宮殿の御すゑは
たえはてて、おのづからある人も人かずならず、九
条殿の御末は摂政たえさせ給はず、小野宮殿の御末
は皆九条殿の婢にぞ成にける、朝敵を平らぐる儀式
は、上代はかくこそ有けるに、維盛が討手の使の儀
式先蹤を守らぬに似たり、なじかは可奉行とぞ時
の人申合ける、維盛以下討手の使、九月十六日福原
の新都をいで、同じき十八日古き都に著く、是より
東国へ赴し甲冑、弓矢、馬鞍、郎等に至るまで、か
がやく計出立ちたりければ、みる人幾千万といふこ

とを不(レ)知、権亮少将維盛は赤地の錦の直垂、大くび、
はたそでは紺地の錦にて、いろへたるもよぎにほひ
のをどしの鎧に、れんぜん蘆毛なる馬のふとくたく
ましきに、いかけ地のきんぷくりんの鞍置きて乗り
たりけり、年二十一、みめ形ちすぐれたりければ、
絵にかくとも筆も及ぶべき共見えず、又忠度心ざし
浅からざる女房の許より、小袖を送り遣しけるに、
かくぞ書遣しける、
東路の草葉をわけん袖よりも
たへぬ袂の露ぞこぼるる W087 K108
と申送りたりければ、忠度
わかれ路をなにかなげかん越えて行
せき[B 「せ」に「さイ」と傍書]をむかしのあととおもへば W088 K109
と返したりけり、此人貞盛が流れなれば、昔将門が
討手の使のことをよめるにや、女房の本歌は大かた
の名残はさる事にて、返歌はいまいましくぞ覚えし、
薩摩守はかの貞盛のながれなればにや、此人大かた
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いうにやさしき人にてぞおはしける、是のみならず、
そのかみ或宮ばらの女房をかたらひよりて、夜な夜
な通はるる事有けり、大に忍ばるる習ひにて、相互
に深くつつまれける程に、或夜とみの事有りて、み
づからかしこへわたられたり、つかひなどいるべき
所にもなければ、まがきのもと迄立よりて、つくづく
と待れけれども、内よりも人も出ず、ことわり過る
ほどに成しかば、知らせんとや、扇をはらはらとつか
ひならし給ひたりければ、女房是を聞き内よりしの
びたる声にて、野もせにすだくむしの音かとぞいは
れければ、扇をやがてつかひやまれけり、はるかに
小夜も半に成りて後に、女房出あひて、など扇をば
つかひやみ給ひぬるぞ、いざかしかましとやらん承
つればよと、「かしかまし野もせにすだく虫の音よ我
だに物をいはでこそ思へ」といふ歌をおもひ出し、
かくいはれたりけるを、此人心得てかくふるまはれ
けり、互の心の中やさしくぞ覚えし、十九日ふるき

都より東国へ打立、今度合戦はじめにて、馬鞍、物
の具もあざやかなり、中にも大将軍維盛の朝臣其道
を思ひ入たりけるにや、平家は六はらより河原をの
ぼりにあゆませけり、その勢三万余騎なり、高辻河
原にて良空法印車にのりながら、維盛にやりかけて
鈴ふりかけつつ通りけり、ゆゆしくぞ見えける、見物
は幾千万といふことを不(レ)知、粟田口の十禅寺の社の
まへにて、年六十余りなる老僧の練色の衣をうちか
づきて、ぬり足駄はきて、香色の扇にて口おほひし
て鷲鼻なるが、維盛をつくづくと見てべし口してい
ひけるは、維盛は容顔は美麗なれども、大将軍の相
なし、軍兵千万騎ありとも、敵を平ぐることあるま
じ、道より逃帰る相有といひて、かきけすやうに失
にけり、何者のいひけるぞと尋ぬれ共、天狗の人に
変じていひければ見るに能はず、九月二十二日新院
また厳島へ御幸、去三月にも御幸ありき、其しるし
にや、一両月のほど、天下静りたる様に見えて、法
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皇鳥羽殿を出御などありしに、去る五月高倉の宮の
御事によつて、打つづき静りやらず、天変頻りにし、
地震常にありて、朝廷穏かならず、総じては天下静
謐の祈念、別しては聖体不予の御祈祷のためなり、
一年二度の御幸は、神慮もいかでか悦給はざるべき、
御願成就疑なしとぞ覚えける、御供には入道相国、
右大将宗盛以下、卿相雲客八人とぞ聞えし、この度
は、素紙墨字の法華経を書て供養せらる、其外御手
づから金泥にて提婆品を披遊たり、件の御願文も、
御宸文とぞ聞えし、其ぐわんもんにいはく、
蓋聞、法性山静、十四十五之月高晴、権化地深、
一陰一陽之風旁扇、夫伊都岐島社者、名稱普聞場、
効験無双之砌也、遙嶺之廻社壇也、自顕大慈之
高時、臣海之及祠宇也、暗表弘誓之深広、伏惟
初以庸昧之身、忝踏皇王之位、今翫謙遜於〓郷
之訓楽閑放於射山之居而偸抽一心精誠、先
詣孤島之幽、趣瑞籬之下、仰冥恩、凝懇念、

而流汗、宝宮之裏、垂霊託有其告銘意、就中
殊指怖畏謹慎之期、専当季夏初秋之候、而間病
痾忽侵、弥思神威之不空、萍桂頻轉、猶無医術
之施験、雖求祈祷、難散霧露、不如抽心府
之志、重企斗薮之行、漠々寒嵐之底、臥旅泊而
破夢、凄々微陽之前、望遠路而極眼、遂就枌
楡之砌、敬展清浄之筵、奉書寫色紙墨字妙法蓮
華経一部、開結二経般若心経阿弥陀経一巻、又手自
奉書寫金泥提婆品、于時蒼松蒼栢之陰、共添善
利之種、潮去潮来之響、暗和梵唄之声、彼弟子辞
北闕之雲八日、雖无涼燠之多廻、凌西海之波
二度、深知機縁之不浅、抑朝祈之客匪一、暮賽
之者且千、但尊貴之帰敬雖多、院宮之往詣未聞
之、禅定法皇、初貽其儀、弟子眇身深運其志、
彼嵩高山之月前、漢武未拝和光之影、蓬莱島之
雲底、天仙空隔垂跡之塵、仰顧大明神、如当社
者、曾无比類、伏乞一乗経典、新照丹祈、忽彰玄
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応、敬白、
治承四年九月二十八日 太上天皇敬白
御奉幣の後、廻廊に御通夜ありけるが、夜更て御前に
伺公の人をば皆除られて、入道ならびに宗盛として
ひそかに申されけるは、東国兵乱おこりて候、源氏
に御同心あらじと、御起請文被遊て入道に給候へ、
心安く存じ候て、いよいよ宮仕申候べし、若被聞召
候はずば、此離れ島に捨置参らせて罷帰り候べしと
被申たりければ、上皇少しもさわがせ給はで、その
条いと安し、ただし年来何事かは入道のはかり申た
つことを背きし、今初て二心ある身と思ふらんこそ
本意なけれと仰られければ、宗盛頓て硯、紙を以て
参られたり、扨いかにと書かんぞ、言葉は何と仰ご
とあり、入道申ままに被遊て給る、入道是を拝見し
て、上皇を奉拝て、今こそ頼母しく候とて、右大将
に見す、およそ目出度候と被申ければ、入道とりて
懐中に引入て退出す、其後人々御前に御参り候へと

て、常よりも心地よげなる気色にて被申ける時、国
綱卿被参たり、かたへの人々つやつや其心を得ず、
余りに覚束なかりけるとかや、十月五日還幸、今度
は福原の新都より御幸なれば、斗薮の御わづらひな
かりけり、十七日夢殿と云所に法皇新しき御所をた
てて渡らせ給けるが、三条どのへ渡らせ給べき由、
入道相国被申ければ、渡らせ給へき、御輿にてぞ有
ける、御供には右京大夫修範候はれけり、ろうの御所
とて忌々しき名ある御所を出させ給ふぞ目出度き、
是も厳島の御幸のしるしにや、入道殊の外になほる
はとこそ思召れけれ、
平家の討手使三万よきの軍兵を率して、国々宿々に
日を経て宣旨を読かけけれ共、兵衛佐の威勢に恐れ
て従ひ附者なかりけり、さる程に兵衛佐足柄を取こ
えて、駿河の国うき島が原に陣を取り勢を揃へける、
二十万六千余騎と記したり、兵衛佐木瀬川に宿し給
ぬ、平家は三万余騎にて、同じ国の内蒲原の宿に陣
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を取る、十月二十四日明日は矢合せとぞ定めらる、
爰に常陸国の住人たけの次郎よしともが下人もりの
五郎真近が男、主の使に文持ちて京上するに、平家
の先陣は上総介忠清が、彼文を奪取てあやしとて見
られけるに、別のことなき文也、とくとくのぼれと
て、文はたびてけり、抑兵衛のすけの勢はいくらほ
どか見つる、真近が男申けるは、いくら程とは下郎
は其たけは計知候はず、但当時の勢はひたちの国白
川よりして、武蔵の国府へひしと続きて候、先陣は
きせ川へつづきて候、総じて八日、九日の道ひまな
く候、山も川も皆武者にて候と申せば、上総介是を
聞て申けるは、大将軍の御心ののびさせ給るばかり
口をしかりける物はあらじ、同じいとまを給はるな
らば、とくだに給はりなば、今は足柄をこえて大庭
の三郎、畠山の次郎を召ぐしたらんには、兵衛佐に
よもぜいつかじと申けれども、大将軍ただふさ斎藤
別当実盛を召て、あすの合戦のことをぎせられける

序に、そもそも頼朝が勢の中に、己れ程の弓勢の物
はいか計有なんと問はれければ、実盛をだにも弓勢
の物と思召され候か、おくざまには十二束、十三束、
十四そくを射るもののみこそ多く候へ、弓は二人ば
り、三人ばりをのみ持て候、鎧二三領などかさねて
羽房までいぬき候もの、実盛覚えてだにも七八十人
も候はん、馬は早走りのきよく進退の逸物なるに、
くつきやうの乗尻共が乗おほせて、馬のはなを並べ
て、親もしね、主もしね、子もしね、従者もしね、
それをもみあつかはんづる事もゆめゆめ候はず、如
何なる郎等も一人して、強き馬四五匹づつ乗かへに
もたぬ者は候はず、京武者、四国の者どもは一人手
おひぬれば、それをかきあつかふとて、先へ退く、
馬はばくらう馬の京出四五町ばかりこそ頭も持上候
へ、下りつかれて候はんに、東国の荒手の武者ども
に一あてあてられなば、いかでか、面をむかひ候べ
き、坂東むしや十人に京武者二百人をむけられ候と
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も、こたへ候べしとも覚えず候、就中源氏の勢は二
十万余騎と聞え候、御方の勢はわづかに三万余騎に
てこそ候へ、同じほどに候はんだにも猶四分一にて
こそ候へ、彼等は国々の案内者にて候、各々は国の案
内も知り候はず、追立られたち候なば、ゆゆしき御
大事にて候べしと、京よりさばかり申候しものを、
当時源氏に与力したる人々の名字粗承り候に、敵た
い候はぬとも覚えず候、急ぎ御下向有て、むさし、
さがみへ入せ給ひて、当国の勢を召具して、長井の
渡りに陣を取りて敵を待せ給べしと、再三申候ひし
を聞召候はで、兵衛佐に当国の勢をとられ給ぬる上
は、今度のいくさ叶ひがたく候はんずらん、かく申
候へばとて、実盛落ていくさをせじと申すには候は
ず、さは候へども、右大将どの御恩重き身にて候へ
ば、今一度見参に入て、急ぎいとまを給て帰り参り
て討死仕るべしとて、千騎勢を引わけて京へ帰り上
りけり、大将軍聞臆して心よわく思はれけれども、

上には実盛がなき所には軍はせぬか、いざさらば頓
て足柄山を打越て八箇国にて軍せんと、大将軍達は
はやられけるを、ただ清申けるは、八箇国のつはも
の皆兵衛佐に従ふよし聞候、伊豆、駿河の者共参るべ
きだにも未だみえず候、御勢は三万余騎とは申候へ
ども、事にあひぬべきもの二三百人にはよも過候は
じ、左右なく山を打越てはなかなか悪しく候べし、
ただ富士川を前に当て防がせ給て、勢をめして又こ
そ御下り候はめと申ければ、大将軍の命を背く事や
あるといはれけれども、それも事のやうにより候、
福はらを立給ひし時、入道殿の仰に、合戦の次第は
忠清が計らひ申さんに、隨はせ給べきよし正しく仰
候き、そのことば聞召候けん者をとて、すすまざり
ければ、一人かけ出るにも及ばず、手綱をゆらへて
顔見合せて敵を相待けるほどに、十月二十二日兵衛
佐八箇国の勢をふるひて、足柄を越て木瀬川に陣を
とりて、つはものの数をしるしけり、侍、郎等、乗替
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相具して、馬上二十八万五千余騎とぞ記しける、其
外甲斐源氏に一条次郎忠頼を宗徒として二万余騎に
て兵衛佐に加はる、平家の勢は富士の麓に引上げて、
ひらばり打ちてやすみけるに、兵衛佐使を立てて、
親の敵とうどんげにあふ事は、極めて有がたき事に
て候に、御下り候こと悦存候、あすは急ぎ見参に入
候べく候といひおくられたり、使は雑色新先生とい
ふ者なり、布きせたる者八人具してむかひて平家の
人々の陣を次第に觸れ廻りけるに、人々まんのまく
打明て入られたりけれども、返事云ふ人もなし、此
御返事はいか様成べきぞと相待所に、返事に及ばず
かの使をからめて、一々にくびを切りてけり、兵衛
佐是を聞きて、むかしより今に至るまで、牒使のく
びを切ることいまだ聞及ばず、平家はすでに運尽に
けりと宣ひければ、軍兵いよいよ兵衛佐に帰服した
りけり、
さる程に兵衛佐の方には、九郎義経奥州より来り加

はられければ、佐いよいよ力附きて、夜もすがら昔
今の事ども語りて相互に涙を流す、佐殿宣ひけるは、
此二十余年の間、各をば音には聞けれども、その顔
をいまだ見申さざりければ、如何にして見参すべき
と思給ひけるに、最前に馳来り給へば、故殿の生か
へり給へるかと覚えて頼もしく覚え候、かの項羽は
沛公を以て秦を滅すことをえたりき、今は頼朝、義経
を得たり、なにか平家を誅伐して、亡父の本意を遂
ざるべきとぞ宣ひける、抑此合戦のことを聞きて、
秀衡いかが申けるぞと尋られければ、ゆゆしく感じ
申候つ、新大納言以下近臣を失ひ、三条の宮をうち、
源三位入道を誅せし折節毎には、兵衛佐は聞給らん
などと申候き、去ぬる承安四年の春の比より都をい
でて、奥州へ罷下りて候しに、秀衡むかしのよしみ
を忘れず、事にふれて憐を致し候き、かく参り候つ
るも甲冑、弓矢、馬鞍、郎等に至るまで併出したて
られ候しかば、かく参り候、不然してはいかでか郎
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等一人も相具し候べき、十余年がほど彼がもとに候
し志、いかにして報じ尽しぬとも覚えず候とこそ九
郎義経は申されけれ、
二十四日あすは両方の矢合せと定めて、日も暮にけ
り、平家の軍兵、源氏の方を見やりたれば、かがり
火の見ゆること野山といひ、里村といひ、雲霞、空
の星、浜の真砂のごとくなり、東南北三方は敵の方
なり、西一方ばかりぞ我方の勢なりける、源氏の軍
兵弓のつる打、鎧つきしとどめきさけびける音に、
ふじの沼に群居たる水鳥共、羽打返し立居する音お
びただしかりけり、これを聞きて敵すでに寄せて、
鬨を作るとおもひて、搦手へ廻らぬ先に、取るもの
もとりあへず、平家の軍兵われさきにとまどひ落け
り、鎧は著たれども兜を取らず、矢は負ひたれども
弓をとらず、あるひは馬一疋に二三人取附きて、誰
が馬といふこともなく乗らんとす、或はつなぎ馬に
のりてあをりければ、くるくるとめぐるものもあり、

か様にあわてさわぎて、一人も残らず夜の内に皆落
けり、夜やうやう暁方に成りて、源氏の方より二十
八万六千余騎は勢を調へて、鬨を作ること三箇度な
り、東八箇国をひびかして、山のかせぎ、川のいろ
くづに至るまで肝をけし、こころをまどはさずとい
ふことなし、おびただしなどいふ計なかりけれども、
平家の方には鬨の声も合せず、つやつや音もせざり
ければ、怪みをなして人を遣して見せければ、屋形
屋形に大幕をもとらず、鎧、腹巻、太刀、刀、弓矢、
具足いくらといふこともなくすて置きて、人一人も
見えざりけり、兵衛佐是を聞きて、此こと頼朝がか
うみやうに非ずと、〈 落行歟 〉表矢をぬきて奉り給けり、か
の水鳥の中に鳩あまた有けるとかや、其ころ海道の
遊女どもが歌につくりて笑ひけるは、
富士川の瀬々の岩越す水よりも
はやくもおつるいせ平氏かな K089 K110
十五日、東国へ下りし維盛以下の官兵共、けふ旧都
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へ入が、昼は人目をはぢて、夜にかくれてぞ入ける、
三万余騎を卒して下りし時は、昔より是ほどの大勢
をいまだ聞もし見も及ばす、保元平治の兵革の時、
源氏、平家両方我も我もと有しかども、是が十分一
にだにも及ばざりき、あなおびただし、誰かは面をむ
かふべき、ただ今打靡かしなんずと見えしほどに、
矢一筋も射ず、敵の顔をも見ず、鳥の羽音におどろ
きて、兵衛佐のぜいおほく有らんと聞臆して逃のぼ
る、其間人々多く源氏の方へつきにければ、いよいよ
兵衛佐の勢重なりにけり、古き都の人々是を聞きて
申けるは、むかしより物の勝負に見にげといふこと
は伝へたり、それだにもうたてきに、是は聞にげに
こそあんなれ、手合せの討手の使、矢一も射ずして
逃上る、あな忌々し、向後もはかばかしかるまじき
ござんなれ、一陣やぶれぬれば、ざんとう全からず
とて、聞人爪はじさをぞしける、例の又いかなるあ
どなし者がしわざにや有りけむ、平家をひらやとよ

み、討手の大将をば権亮と云、都の大将をば宗盛と
いへば、是等を取合せて歌によみたりけり、
ひらやなるむねもりいかにさわぐらん
柱と頼むすけをおとして W090 K111
上総守忠清が実名とりて歌によみたりけり、
ふじ川に鎧はすてつすみ染の
衣ただきよのちの世のため W091 K112
ただかげはにげの馬にやのりにけん
かけぬに落るかづさしりがい W092 K113
忠清が本名をばただかげといひければ、かくよみた
りけるにや、げににげの馬にやのりたりけん、当時
奈良法師こそ平家をばあだを結びたりければ其所行
にや有けん、入道相国よに口をしがりて、権亮少将
は鬼界が島に流し、忠清をばくびを切らんとぞ宣ひ
ける、忠清まことに身のとがのがれがたく、いかに
ちんずともかひあらじ、いかがせましとためらひけ
るが、折節主馬の判官盛国以下人ずくなにて、かや
P378
うのさたども有ける所へ、忠清おづおづ窺ひよりて
申けるは、忠清十八の年と覚え候、鳥羽殿に盗人籠
りて候しを、よるものも候はざりしに、築地よりの
ぼり越て入てからめて候しよりこのかた、保元、平
治の合戦をはじめとして、大小事に一ども君を離れ
参らせ候はず、又不覚をもしたること候はず、今度
東国へはじめて罷下り候て、かかる不覚を仕ること
は、ただ事とも覚え候はず、よくよく御祈り有べし
と覚え候と申ければ、入道相国げにもとやおぼしけ
ん、物も宣はず、忠清勘当に及ばざりけり、
十一月二十二日五条大納言国綱卿内裏作りいたして
主上渡せら給、ただし遷幸のぎしきよのつねならず
ぞ聞えし、今年は大嘗会遂げ行はるべきかといふ、
議定有けれども其さたもなし、大嘗会は十月の末に
東河に御幸して御禊あり、大内の北野に斎場所を作
りて、神服、神膳を調へ、大極殿の龍尾堂の壇下に
廻立殿をたて、御湯を召す、大嘗宮をつくりて神膳

を備ふ、清暑堂にして神宴あり、御遊あり、大極殿
にて大礼行はる、豊楽院にて宴会あり、然るにこの
里内裏の体、大極殿もなければ、大礼行ふべき所な
し、豊楽院もなければ宴会も行ふべからず、礼儀行
ふべき所つやつやなかりければ、新嘗会にて五節ば
かりは有べき由、諸卿定め申されければ、二十八日福
原にて五節ばかりは行はる、新嘗会のまつりは古き
京の神紙宮にて是を行はる、五節と申は昔清見原の
帝、吉野の宮にて御心をすまして、かうりと申楽を
琴にたんじ給しかば、神女天より下りて「乙女子が
乙女をひすもから玉を乙女さひすもそのから玉を W093 K115」
と五こゑうたひ給て、廻雪の袖をひるがへす、是を
五節の初とす、
旧都は山門、南都ほど近くて、ともすれば大衆日吉
の神輿を捧げ奉りて下落し、神人春日の御榊を持奉
りて上洛す、か様のこともうるさし、新都は山重り
江重り、行道は遠くして程隔たりたればたやすから
P379
じとて、遷都といふ事は、太政入道計ひいたされたり
けれども、諸寺諸山の訴へ、貴賎上下の歎きなる上、
山門の衆徒三箇度まで奏状を捧て、天聴を驚かし奉
る、第三箇度の状に曰、
延暦寺衆徒等誠惶誠恐謹言、
請被特蒙天恩停止遷都子細状、
右釈尊以遺教、附属国王者、仏法皇法之徳、互
護持故也、就中延暦年中、桓武天皇、伝教大師、
深結契約、聖主則興此都、親崇一乗円宗大師
又開当山、備百王御願、其後歳及四百余廻、
仏日久耀四明之峯、世過三十代、天朝各保十善
之徳、盖山洛占隣、彼是相助故也、而今朝議忽変、
俄有遷幸、是総四海之愁、別一山之歎也、況山僧
等峯嵐雖閑、恃花洛以送日、谷雪雖烈、瞻
王城以継夜、洛陽隔遠路、往還不容易者、豈
不辞姑射山之月交辺鄙之雲哉、若変荒野
者、峯豈留人跡乎、悲哉数百歳之法燈、今時忽消、

千万輩之禅林、此世将滅、当寺是鎮護国家之道場、
為一天之固、霊験殊勝之伽藍、秀満山之中、所
令魔滅何亦無衆徒之愁歎乎、法之滅亡、豈非
朝家之大事哉、況七社権現之宝前、一人拝観之霊
場也、若王宮路遠、社壇不近者、瑞籬之月前、鳳
輦勿臨、〓祠之露下、鳩集永絶、若参詣疎、礼奠
違例者、非無冥応、恐又残神明恨歟、凡当都
者、輙不(レ)可捨勝地也、昔聖徳太子記文云、所有
王葉、必建帝城、大聖遠鑒、誰忽諸之、況左青
龍、右白虎悉備、前朱雀、後玄武勿闕、天然吉処、
不(レ)可不執、彼月氏之霊山、則攀王城之東北、
大聖遊〓、日域之叡岳、又峙帝都之丑寅、護国之
勝地、忝同天竺勝境、久払鬼門之凶害、所謂賀
茂、八幡、比叡、春日、平野、大原野、松尾、稲
荷、祇園、北野、鞍馬、清水、広隆、仁和寺、如
此之神社仏寺、大聖垂跡者、占地建護国護山之
宗廟、安勝敵勝軍之霊像、遶王城八方、利洛中
P380
万人、貴賎帰依往来為市、仏神利生感応如(レ)此、
何避霊応之砌、忽赴無下之境哉、誤新建精舎
更請神明、世及濁乱、人非権化、大聖感降、必
不在歟、此等霊壇之中、或有諸家氏寺、修不退
勤行、子胤相続、自興仏法之所也、而〓従公務
乍愁捨去、豈非抑人之善心之応乎、諸寺衆徒、
各従公請之時、朝参逢壷、暮帰練若、宮城遠
移、往還云何、若捨本尊、若背王命、左右有憚、
進退惟谷、夫憶昔国豊民厚、興都無傷、今国乏民
窮、遷移有煩、是以或有忽別親属企旅宿者、
或有纔破私宅不堪運載者、歎之声已動天
地、仁恩之至、不顧之乎、諸国七道之調貢、万
物運上之便宜、西河東津、有便無煩、若移余所、
定有後悔歟、又大将軍在酉方角已塞、何背陰
陽、忽違東西、山門禅徒、専思玉体安穏、愚意之所
及、争不鳴諌皷、俄有遷都、是依何事乎、
若由凶徒乱逆者、兵革既静、朝廷何動、若因鬼

物怪異者、可帰三宝謝夭災、可撫育万民
資皇徳、何動本宮、故棄仏神囲遶之砌、剰企
遠行、態犯人民脳乱之咎、抑退国之怨敵、払朝
家之夭厄、従昔以来、偏山門之営也、或大師祖師
擁護百皇、或医王山王誓護一天、或恵亮摧脳、
或尊意振剱、凡捨身事恩、無如我山、古今勝
験、載在人口、今何有遷都、欲滅此処哉、尭
雲舜日之耀一朝、天枝帝葉之伝万代、即是九条
右丞相願力也、豈非慈慧大僧正加持乎、聖朝詔
云、朕是右丞相末葉也、何背慈覚大師之門跡、忘
前蹤、不顧本山滅亡邪、山僧之訴訟、雖不必
当理、且以所功労久、為蒙裁許由来哉、
於此鬱望者、非獨衆徒愁、且奉為聖朝、兼又
為兆民哉、加之於今度之事、抽愚忠、一門園
城雖相招、仰勅宣、万人之誹謗、充閭巷、伏祈
御願、何因尽勤労、還欲滅、此処運功蒙罰、
豈可然哉、縦雖無別天感、只欲蒙此裁許、当
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山之存亡、只在此左右故也、望請天恩再廻叡慮、
被止件遷都、三千之衆徒等、胸火忽滅、百千万
衆徳、鬱水弥乏、衆徒不耐悲歎之至、誠惶誠恐謹
言、
治承四年七月日 大衆法師等
是に依て二十一日俄に都帰有べしと聞えければ、高
きも賎しきも手をすり額をつきよろこびあへり、山
門の訴訟は昔も今も、大事も小事も空しからぬ事な
りければ、いか成非法非礼なれども、聖代明主もか
ならず御裁許あり、いかにいはんや是程の道理を以
て再三か様に申さんに、いかに横紙をやぶり給ふ入
道相国なりとも、いかでか靡かざるべき、是を聞き
て右京に残りてさびしさを歎きつる人々も、悦び給
ふことかぎりなし、二十二日新院福原を出御有て、
旧き都へ御幸なる、大方も常には御不予の上、新都
の体、宮室卑質にして、城地くだりうるほへり、一
のあくき漸くたりて、風波いよいよすさまじ、都帰

なしとももとより旧都へ還幸成べきにて有ければ、
仔細に及ばず、
二十五日、主上は五条の内裏へ行幸なる、両院六波
羅池殿へ還幸、平家の人々太政入道以下皆かへり上
らる、まして他家の人々は一人も留らず、世にも有り
人にもかぞへらるる輩は皆うつりたりければ、家々
はことごとく運びくだして、此五六箇月の間造立し
てゐつつ、資財、雑具を運び寄せたりつるほどに、
又物狂はしく都帰りあれば、何の顧みにも不(レ)及、古
京へ帰るうれしさに、取る物も取あへず、資財、雑
具を運び返すに不(レ)及、まどひ上りたれば、いづくに
落附きていかにすべしとも覚えず、今更旅立ちて西
山、東山、加茂、八幡などの片辺につきて、廻廊や
社の拝殿などにたちとまりてぞ、然るべき人々おは
しあひける、とてもかくても人を煩はする外はさせ
ることもなし、
十二月一日、兵乱の御祈祷に安芸の厳島へ奉幣の使
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を立らる、当時近江国の凶賊道をふさぐ間、太神宮
への御使進発に不能して、暫く神紙官におかる、討
手の使都へ帰りのぼりにし後は、東国北国の源氏ど
もいとど勝に乗りて、国々のつはもの多く靡きつつ、
勢は日々に隨ひてつきにけり、間近き近江国にも山
本、柏木などいふあふれ源氏さへ東国に心を通はし
て、関をとぢ道をかためて、今は人をも通さず、
十二月一日、土佐の国の流人ふく田の冠者希義を誅
せらる、かの希義は故左馬頭義朝が四男、頼朝には
一腹一姓の弟也、去る永暦元年に当国に流されて、
年月を送りける程に、関東に謀反起りければ、同意
の疑にて、かの国の住人蓮池の次郎清常に仰せて、誅
せられにけりとぞ聞えし、同じ月伊予の国の住人河
野大夫越智通清こころを源氏に通はして、平家を背
き、国中を管領し、正税官物を抑留するよし聞えけ
れば、東は美濃の国まで源氏に討とられぬ、西国さ
へかかれば、平家大に驚きさわぎて、阿波民部大輔

しげよし、備後の国の住人貫賀野入道高信法師に抑
せて是を追討せらる、通清いかめしく思ひ立ちけれ
ども、力を合するものなければ、俄に高信法師が手
にかかりて討れにけり、
三日、左兵衛督知盛、小松少将資盛、越前三位通盛、
左馬頭行盛、薩摩守忠度、左少将清経、筑前守貞能
以下の軍兵、又東国へ発向す、其勢七千余騎、路次
のは武者催し倶したりければ、その勢一万余騎にて
下向す、山本、柏木、并に美濃、尾張の源氏を追伐
のためなり、四日山本冠者よしまさ、柏木判官代よ
し兼を攻落す、やがて美濃国へ越て、尾張国まで討
手くる由聞えしかば、太政入道すこしきそく直りて
ぞみえられける、
南都の大衆いかにも静らず、いよいよさう動す、公
家よりも御使しきなみに下されつつ、されば何事を
鬱申ぞ、存の旨あらば幾度も奏聞にこそ及ばめと被
仰下ければ、別の訴訟候はず、ただ清盛入道に逢ひ
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て死候はんとぞ、唯一口に申ける、是もただ事に非
ず、入道相国と申は、忝も当今の御外祖ぞかし、夫
に少しも不憚か様に申けるもあさまし、凡南都の大
衆にも天魔の附にけるとぞみえし、ことのもれ易き
は禍を招く媒也、ことの不慎は取敗の道也といふ、
三井寺より牒状を遣したりし返牒に、平氏の先祖の
瑕瑾を筆を尽して書たりしを、安からぬことに相国
おもはれたり、さればぜひ有まじ、急ぎ官兵を遣し
て南都を攻めらるべしといふさた有りて、かつかつ
とて備中国妹尾太郎兼康と云侍を、大和国の検非違
使所になして、三百余騎のつはものを相倶して下し
遣す、衆徒一切不用、いよいよ蜂起して、兼康がも
とに押寄せて、さんざんに打ちらして、兼康が家の
子郎等三十六人が首を切りて、猿沢の池のはたにか
けたりけり、兼康は希有にして逃上る、其後南都い
よいよ騒動す、又大なる法師の頭を作りて、太政入
道清盛が頭なりと銘をかきて、毬打の玉のごとくあ

ちこち打上げふみけり、入道是を伝へ聞きて安から
ぬことなりとて、三千余騎の軍兵を南都へ差向らる、
大衆此由を聞きて、奈良坂、般若寺の二道を切ふさ
ぎて、在々所々に城郭を構へて、老少、中年、弓矢
を帯しかつちうをよろひて待かけたり、
十二月二十八日、重衡の朝臣、南都へ発向す、三千
余騎を二手にわけて、奈良坂、般若寺へ向ふ、大衆
かち立打物にて防ぎ戦ひけれども、三千余騎の軍兵
馬上にてさんざんにかけたりければ、二の城戸口ほ
どなく破れにけり、其中に坂四郎房永覚とて聞ゆる
悪僧あり、打物取ても弓矢取ても、七大寺十五大寺
に肩をならぶるものなし、大力の強弓、大矢の矢継
早の手ききにて、さげ針もいはづさず、百度射ると
もあだ矢なきおそろしきものなり、其たけ七尺計也、
褐衣よろひ直垂に、萌黄の糸をどしの腹巻の上に、
黒皮をどしの鎧かさねて著て、三尺五寸の太刀をは
き、二尺九寸の大長刀を持ちたりけり、同宿十二人
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左右に立て、足軽の法師原三十余人に楯つかせて、
手掻門より打出たりけるのみぞ、しばしは支へたり
ける、多くの官兵馬足をきられてうたれにけり、さ
れども大勢のしこみければ、永覚一人たけく思ひけ
れ共かひなし、いた手負ひて落にけり、重衡朝臣は
法華寺の鳥居の前に打立ちて、南都をやきはらふ、
軍兵の中にはりまの国福井庄司次郎大夫俊賢といふ
者、たてを破りてたいまつにして、両方の城を初と
して、寺中に打入て、敵の籠りたる堂舎坊中に火を
かけて是をやく、恥をもおもひ名をもをしむほどの
者は、奈良坂にて討死し、般若寺にて討れにけり、
身の力もあり、行歩に叶へる輩はよし野、十津川の
方へ落失せぬ、行歩にも叶はぬ老僧、修学者、ちご
共、女房、尼などは山階寺の天井の上に七百余人かく
れのぼる、大仏殿の二かいのもこしの上には、千七
百余人逃のぼりにけり、敵をのぼせじとてはしごを
引きてけり、十二月のはてにては有けり、風はげし

くして、所々に懸たる火一にもえあひて、多くの堂
舎にふきうつす、興福寺より始て、東金堂、西金堂、
南円堂、七重の塔、二階楼門、しゆろう、経蔵、
三面僧房、四面廻廊、元興寺、法華寺、やくし寺迄
やけて後、西の風いよいよ吹ければ、大仏でんへ吹
うつす、猛火もえ近附くに隨ひて、逃上る所の一千七
百余人の輩、叫喚大叫喚、天をひびかし、地をうご
かす、何とてか一人も助かるべき、焼死にけり、かの
無間大城のそこに罪人共がこがるらんも是には過じ
とぞみえし、千万の骸は仏の上にもえかかる、守護の
武士は兵仗に当りて命を失ふ、修学の高僧は猛火に
まじりて死にけり、悲しき哉、興福寺は淡海公の御
願、藤氏の一家の氏寺なり、元明天皇の御宇和銅二
年庚戌年、建立せられてより以来、星霜五百六十
余歳に及べり、東金堂におはします仏法最初のしや
かの像、西金堂におはします自然湧出の観世音、る
りを並べし四面廊、紫檀を学べる二階の楼、九輪空に
P385
かがやきし二基の塔も、空しく烟りと成にけるこそ
かなしけれ、
澄憲僧都の法滅の記と云ものをかかれたりける、そ
の詞こそめでたかりしか、山階の三面の僧房には五
分の花再不開、春日四社の社壇には法燈かがくるこ
ともなし、仏像経論の烟には、大梵天王の眼忽にく
れ、堂塔、僧坊のもえ音には、堅牢地神もむねをこ
がし給けんとぞかかれたりける、東大寺は常在不滅
実報寂光の生身の御仏と思召しなずらへて、釈尊初
成道の儀式を表し、天平年中に聖武天皇思召立ち、
高野天皇、大炊天皇三代の聖主手づから精舎を建立
し、仏像を冶鋳し奉り給ふ、婆羅門僧正、澄尊、律
師、良弁僧正、行基菩薩、鑒真和尚等の菩薩聖衆た
ち、導師咒願として供養し給ひてより以来、四百七
十余歳になりにし、金銅十六丈の盧遮那仏、烏瑟高く
あらはれて、半天の雲にかくれ、白毫新に磨いて、
万徳の尊容を摸したりし尊像、八万四千の相好の秋

の月、五重の雲にかくれ、四十一地の瑠璃の夜のほ
し、空しく十悪の風ふかし、烟は中天の上ひまなく、
猛火虚空に満ちみてり、みぐしはやけ落ちて地に有、
御身は涌合ひて湯のごとし、まのあたりに奉見もの
目もあてられず、はるかに伝へきく人も涙を流さぬ
はなかりけり、瑜伽、唯識両部を始として、法文聖教
一巻も不残、我朝は申に不(レ)及、天竺、震旦にも是
ほどの法滅はいかでか有べき、されば梵釈四王、龍
神八部、冥官、冥衆に至るまで、驚きさわぎ給けん
とぞ覚えし、法相擁護の春日野の露の色かはり、三
笠の山の嵐の音も恨るさまにぞ似たりける、今焼る
所の大舎、東大寺には大仏殿、講堂、金堂、四面の
廻廊、三面僧坊、戒壇、尊勝院、安楽院、真言院、
薬師院、東南院、八幡宮、気比の社、気多の社、興
福寺には金堂、講堂、南円堂、東金堂、五重の塔、
北円堂、東円堂、四面廻廊、三面僧坊、観自在院、
西院、一乗院、中院、松陽院、北院、唐院、松の院、
P386
伝法院、真言院、円城院、皇嘉門御塔、総宮、一
言主社、龍蔵社、住吉社、鐘楼、経蔵、大湯屋〈 但釜不焼 〉、
宝蔵、四十四宇、此外大小諸門寺外の諸堂は、注す
るに不(レ)及、然るべき所々は院の御堂、長者の御塔、
四面の廻廊、門楼、一切経蔵、章疏、形木、率川社、
佐保殿もやけにけり、此外菩薩院、龍華院、円坊両
三宇、彈定院、新薬師寺、春日の社四所、若宮社な
どぞわづかに焼残りたりける、焼死ぬる所の雑人、大
仏殿にて千七百余人、山階寺にて七百余人、ある御
堂に三百余人、ある御堂には二百人、後の日に委し
くかぞへたりければ、総じて一万二千三百余人とぞ
聞えし、戦場にて討るる所の大衆七百余人、内四百
余人が首をば法華寺の鳥居の前にかけてけり、残る
所三百余人が首をば都へ上す、その中に尼公の首も
少々有けるとかや、〈 校者曰く此文段澄憲以下堅牢地神も云々迄数行若宮社などぞわづかに云々の次に
繰込める別本あるが如し、 〉
二十九日、重衡の朝臣南都を滅して京へ帰り入らる、

入道相国一人ばかりぞ憤りはれて悦び給ひける、そ
れも多くの大がらんの焼ぬることをば、心中には浅ま
しくこそ思はれけめ、一院、新院、摂政殿以下、大臣、
公卿を始奉て、少しも前後を弁へ心ある程の人は、
こはいかにしつることぞや、悪僧をこそ失ふとも、
さばかりのがらんどもを焼亡すべしや、口惜しき次
第なりとぞ悲しみあひ給ける、衆徒の頭ども大路を
渡して獄門にかけらるべきにて有けるが、東大、興
福の焼にける浅ましさに、渡すに及ばず、爰かしこ
の溝や堀にぞなげ入られにける、穀倉院の南の堀を
ば、奈良法師のかうべにて埋みてけりとぞさたしけ
る、聖武天皇の書置かせ給ける東大寺の碑文云、吾
寺興復せば天下も興復せん、吾寺衰微せば天下も衰
微せんとなり、今灰燼と成ぬる上は、国土の滅亡疑
ひなしとぞ悲しみあひける、左少弁行隆先年八幡に
参りて通夜せられたりける、夜の示現に東大寺奉行
の時は是を持べしとて、笏を給ると見て、打驚て見
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るに、真に有けり、不思議に覚えて、此笏を以て下
向したりけれども、当時何ごとにかは東大寺造替せ
らるる事あるべきと、心中におもひ給て、年月を送り
給ふほどに、此焼失の後、大仏殿造替のさたありけ
る時、弁官の中に此行隆えらばれて奉行すべきよし
被(二)仰下(一)、其時行隆宣ひけるは、勅勘を蒙らずして次
第に進みのぼらましかば、今迄弁官にてはあらざら
まし、多年を隔てて今弁官に成て奉行の弁に当る、
是も先世のしゆくえん浅からぬことよと悦給て、八
幡大菩薩より給りたりし笏をとり出して、大仏殿造
営の事はじめの日よりもたれたりけるこそありがた
かりけれ、
平家物語巻第十一終