平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十二

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平家物語巻第十二
正月一日新玉の年立返りたれども、内裏には東国の
兵革、南都の火災に依て朝拝もなし、節会ばかりは
行はれたりけれども、主上も出御なし、関白以下藤
氏公卿一人も参らず、氏寺焼失に依てなり、唯平家
の人々計りぞ少々参りて執行はれける、夫も物の音
も吹ならさず、舞楽も不奏、よし野の国栖も参らず、
〓も不奏、かたのごとくの事にてぞ有ける、二日殿
上の淵醉なし、男女打ひそめて禁中の儀式淋しくぞ
見えける、朝儀も悉くすたれ、仏法王法ともにつき
にけるにやとぞ見えし、五日南都の僧綱等解官して、
公請を停止、所職没収せらるべき由の宣旨を下さる、
東大寺、興福寺を始めとして、堂塔、僧坊皆灰燼と
なる、衆徒は若きも老たるも、或は討たれ或は焼こ
ろされにけり、残るは山野に交りて跡をとどむるも

のなし、其うへ上綱さへかやうになりぬれば、南都
は併ながら失せはてけるにこそ、但かたのごとくも
御斎会は行はるべしとて、僧名の沙汰有けるに、南
都の僧は公請を止むべき由、五日に宣下せられぬ、さ
れば一向、天台宗の人計りを受らるべきか、又御斎
会を止らるべきか、又延引せらるべきかの由、官外
記に尋ねて、其申状を以て諸卿に被尋ところに、偏
に南都をすつべからざる由、各々被申ける間、三論宗
の僧成実已講と申、勧修寺に有ける僧一人を講師と
せられける、さる程に新院日比よりも御心地怠らず
のみ渡らせおはしましけるが、此世の中の有様を思
召なげきけるとかや、御悩いよいよ重くなりましま
す、かかりしかば、何のさたも不(レ)及、一院こそいか
がせんと歎き思召しけるほどに、十四日六波羅の池
殿にて終に崩御なりぬ、新院仰せ置かせ給ひけると
て、今夜頓て東山の麓清閑寺と云山寺へおくり奉る、
御供には上達部五人、隆季、邦綱、実定、通親其外
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殿上人十人、前駈十人供奉仕りけるとぞ聞えし、邦
綱卿御娘別当三位殿を始として、近く召仕れける女
房三人御髪下してけり、春の霞にたぐひ暮の煙と上
らせ給ひぬ、御歳僅に二十一にぞならせ給ける、内
には五戒を以て慈悲を先とし、外には五常を乱さず、
礼儀を正しうし給ひし末代の賢王にて渡らせ給ひし
かば、万人惜み奉る事一子を失へるよりも甚し、実
国大納言御笛を教へ奉りておはしければ、人しれず
哀にかなしくぞおもはれける、殿上にて後の御諱の
沙汰有につけても、高倉はいかなる大路にて浮名の
形見のこり、東山いかなる嶺にて終のすみかと定む
らんと思ふも悲し、大かた聖賢の名揚、仁徳の行を
施す事、皆君成人の後清濁をわかたせ給ひての上の
事にてこそ有るに、此君は無下に幼稚におはしまし
し時より、性を柔和に受させおはしまして、有がたく
哀なりし御事共こそ多かりしか、其中にも去ぬる嘉
応、承安のころ御在位の始め方なりしかば、御年十

歳計りにや成らせおはしましけん、紅葉を愛せさせ
給ひ[B 「給ひ」に「ましましイ」と傍書]て北の陣に小山を築き、紅葉山と名づけて、櫨、
鶏冠木なんどの色美しく、紅葉したるを折り立て、
終日に叡覧ありけれども、猶あきたらず思召けるに、
ある夜野分のはげしく吹たりけるに、この紅葉ふき
倒されて落葉頗狼藉なり、殿主の伴の宮つこ朝清め
するとて、悉く是をはき捨ぬ、残る枝ちれる木の葉か
き集めて風冷まじかりける朝、縫殿の陣にて酒をあ
たためてたべけるたき木にしてけり、近習の蔵人行
幸より先に急ぎ行て山を見るに、紅葉一枝もなし、
事の次第を尋るに、しかじかと申、蔵人手を打ち驚
きていふ、さしも君の執し思召したりつるものを、
か様にしつる浅間しき事也、しらず汝を只今鳥部吉
祥に仰せて禁獄もやせられんずらん、将又流罪にも
や行はれんずらんと仰ふくめられけり、是等まこと
に下臈の不覚のあやまりなれば、力及ばずいかなる
めをか見んずらんと、後悔しても益なし、蔵人もい
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かやうなる逆鱗かあらんずらんと、胸打塞がりて居
たる所に、御昼に成にければ、例の朝政にも不(レ)及、
夜のおとどを出もあへ給はず、いと疾くかしこへ行
幸なりて、紅葉を叡覧あるに、殊更あとかたもなし
いかがと御尋あり、蔵人何と奏せん方なかりければ、
恐れ恐れありの儘に奏聞す、天気殊に御こころよげ
にうち笑ひおはしまして、林間煖酒焼紅葉、石上題
詩払緑苔といふ事をば、それらにはたが教へたり
けるぞや、やさしくもしたりける物かなとて、返て
叡感に預りける上は仔細に不(レ)及、あへて勅勘もな
かりけり、かかりしかば、あやしの賎の男賎の女に至
るまで、唯此君の万歳千秋の御宝祚をぞいのり奉り
ける、され共願もむなしく、民の思ひも叶はざりけ
る世のならひこそかなしかりけれ、
建礼門院入内のころ、安元のはじめの年、中宮の御
方に候はれける女房の召つかひける女童の、思はざ
る外の事有りて、龍顔に咫尺する事有て、唯何とな

きあらまし事にてもなく、よなよな是をめされけり、
此事天下に其聞え有りしかば、当時謠詠云、生女勿
悲酸生男勿嘉歎、又曰男不封候女為妃、只今
女御、后にも立、国母、仙院ともいはれんず、いみ
じかりける幸哉と、申罵と聞召れて、後にはあへて
召るることもなし、御心ざしの尽たるにはあらねど
も、只世のあざけりを思召なりけり、されば常は詠め
がちにて夜のおとどにぞ入せ給ける、大殿此事を聞
し召て、御心苦敷御事にこそあんなれと、申なだめ[B 「なだめ」に「慰めイ」と傍書]
参らせんとて御参内ありて、さやうに叡慮にかから
せおはしまし候はば、何条御事か候べき、件の女召
され候べしと覚候、俗姓を尋らるるに不(レ)及候、忠通
猶子に仕候べしなんど申させ給ければ、いざとよ、
大臣の申さるるところも去ことなれども、位を退て
後はさる事希に有と聞け共、正敷在位の時袙など云
て、裾もなきもの着て、あやしきふるまひする程の
者を、身に近付事を不聞、丸が世に始んこと後代の
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あざけりたるべし、不(レ)可然と仰有ければ、法性寺
殿御なみだを押へて罷出させ給ひけり、其後何とな
き御手習の序に、古き歌をあまたかきすさませ給ひ
ける中に、みどりのうすやうの寔ににほひ深きに歌
をぞ遊ばしける、
しのぶれど色に出にけり我恋は
ものやおもふと人のとふまて W094 K117
御心知りの蔵人此手ならひを取て、彼女房に給はす、
女是を懐に引入て、心地例ならずとて引かつぎて伏
にけり、煩ふこと廿日ばかりにて、是をむねの上に当
て俄にはかなくなりにけり、いとど哀なりし事なり
けり、
主上是を聞召して御涙にむせばせ給ひ、為君一日
恩、誤妾百年身、寄言癡少人家女、慎勿将身軽
許人、とこそいましめたれども、恋慕の御思ひもさ
る事にて、世のあざけりをぞ猶ふかく歎思召ける、
彼唐大宗の鄭仁基が娘を元[B 得イ]花殿に入れられんとし給

ひしを、魏徴、彼の女既に陸氏に約せしと誡申せし
に依て、殿に入れらるる事を止られけるにも、猶増
れる御心ばせなり、又誠に哀れに忝なかりしことは、
御母儀建春門院かくれさせ給ひたりしをば、なのめ
ならず御歎有けり、帝王御いとまのほどは定れる習
ひにて、廃朝とて政を止られける、政を止め給ふこ
と返々天下の歎なり、一日を以て一月にあて、十二
日を以て十二月にあてて、十二日を過ぬれば御除服
ある事なれば、其日数過て御除服有けるに、参りあ
わせ給へつる人、皆殊更此御事色にも出されず、何
となきそぞろごとども申紛はしつし給ふ、君も何と
なき様にもてなしましましながら、なにとやらんみ
えさせおはします御気色、おのおの心の内には哀れ
と見奉り給ふ、高倉中将泰通朝臣参りて、既に御衣
めしかへけるに、御帯あて参らせたりけれども、結
びもやらせましまさず、御後より結び参らせけるに、
あたたかなる御涙の手にかかりけるを、泰通朝臣も
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たへずして涙を流されけり、是を見奉て多く参りつ
どはれたる公卿、殿上人も皆涙を流しけり、其後も
御袂を龍顔におし当てて御らんじもやらず、頓て夜
のおとどへ入てなかせおはしますとぞ聞えし、かや
うに何事に付てもかく思召入られたる御あり様なり
しかば、万人をしみ奉る事たとへん方なし、まして
法皇の御歎ことわりにも過たり、恩愛のみちなれば
何事もおろかならねども、此ことはさしも御心ざし
深かりき、故女院の御腹にておはしまししかば、位
につかせおはします其きは迄一つ御所にて、朝夕な
じみ参らせおはしましたりしかば、互の御心ざし深
かりけるにこそ、去々年の冬鳥羽殿に籠らせましま
したりしをも、不(レ)斜御歎有て、御書など奉らせ給た
りし事など思召し出ても、誠に高きも賎きも親の子
を思ふはせんかたなきわざぞかし、ましてかかる賢
王におくれ参らせおはします御心の内さこそは思し
けめ、さればむかし白河の法皇、堀河院におくれ参

らせて御歎有けんも理りに思召知られけり、彼堀河
院の御政を承るこそ、此君の御有様に不違似させま
しましたりけれ、此君は三代の曾祖父ぞかし、優に
やさしく人の思ひつき参らせける筋は、おそらくは
延喜、天暦もかくしもおはしまさずや有けんとぞ覚
えし、去る永長元年十二月、或所の御所へ御方たがへ
の行幸なりたりけるに、さらぬだに鶏人唱暁声驚
明王之眠程に成しかば、何れも御寝覚がちにて、王
業の艱難をとかく思召つづけらるるに、さゆる霜夜
の天気殊にはげしかりければ、うちとけ御寝もなら
ず、彼延喜の聖帝の四海の民いかにさむかるらんと
て、御衣をぬがせ給けんことなど思召出して、我帝
徳の至らぬことを歎おはしましつつ、御心をひそめ
返してましましけるに、遥にほど遠く女の声にてさ
けぶ声あり、供奉の人々は何とも聞とがめられざり
しに、君聞召咎めて、上臥したる殿上人を召して、上
日のものや候、只今さけぶものは何者ぞ見て参れと
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仰下さる、殿上人宣旨の趣を仰含らる[B 「含らる」に「ふくむイ」と傍書]、本所衆急ぎ
走行て見れば、怪しげなる女童なり、ある辻に長持
の蓋ひさげて泣て立たり、ことの仔細をとへば、わ
らはが主のをうなの朔日の出仕に奉らんとて、只一
所もたせ給ひて候つる御さとをうりて、仕立られて
候つる御装束を持て参候つる程に、男三人詣できて
うばひとりて罷り候ぬるぞや、今は御装束の候はば
こそ御所にも候はめ給はめ、又御里候はばこそたち
も入らせ給ひ候はめ、日数の延びて候はばこそ又も
仕立参らせ候はめ、又はかばか敷立寄せ給べき近き
御方も候はず、此ことをとかくおもひ煩ひ候へば、
きえも失なんと思ひ候なりとてさけび居たり、走り
帰りて此由を奏す、主上龍顔に御涙を流させ給ひて、
あなむざんや、いか成者の仕業にてあるらん、昔夏
禹犯者を罪するとて涙をながし給ひき、臣下の云、
犯せる者を罪するあはれぶにたらず、夏禹の云、尭
代の民は尭の心を心とする故に、人皆正しきなり、

今の世の民は朕がこころを以て心とする故に、かた
ましき者有て罪を犯す、豈かなしまざらんやと歎給
ふ、今又丸が心の正しからざらん故に、〓物朝に有
て法を犯す、是丸が恥なりとて歎かせまします、扨も
とられつらん衣の色はいかにと問はせおはします、
しかじかと申せば、中宮の御方へ左様の御衣や候と
申させ給へば、今少し先のよりも清らかに美敷が参
りければ、この女童に給はす、夜いまだ深し、又も
やさるめにあはんとて、上日の者にて、主の女房のつ
ぼねへ送り遣したりけるとかや、彼女房の心の内い
か計か有りけん、同じ比究めて貧なる所の衆侍けり、
衆の交りもすべきにて有けるが、総じて思ひ立べき
便もなし、さりとて此事いとなまずば、衆に交らん
ことも人ならず、唯かかる身は世に有ても何かはせ
ん、出家入道をしてうせなんと思ひけり、去ままに
は妻子のことはさる事にて、何となく歳比なれむつ
びける衆の名残せんかたなくて、いはんや日比期し
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たりつる前途後栄をも空しくて、朝夕詣づる御垣の
内をふり捨て、山林流浪せんこと心細とも愚なり、
とてもかくても人の身に貧に過たる口惜き事なかり
けりと覚しつづくるに、先世の戒徳のうすきも思ひ
しられて打ち沈まる折々は、泣より外のことなかり
けり、しかも此君近習の女房臣下に内々仰の有ける
は、率土皆皇民なり、遠民何疎、近民何親、仁を施ば
やと思召せども、一人の耳には四海のことを不聞、
黄帝は四聴四目の臣に任せ、舜帝は八元八〓の臣に
委すなどいへり、され共遠き事はさのみ奏する人も
なければ、おのおの聞及ぶことあらば、穴賢、告知
らせ参らせよと仰せ置かれたりければ、或女房此所
の衆の歎く事を聞及びて奏聞したりければ、あなむ
ざんやと計にて、何といふ仰もなかりけり、西京の
座主良真僧正御持僧にて侍りけるに仰ありけるは、
臨時の御いのり有べし、日時并に何法といふ事は追
て宣下せらるべし、先兵衛尉一人の功、今度の除目

に召付申さるべしと仰也、僧正勅命にまかせて、成
功の人を召付て、貫首に頓て被成にけり、其頃の兵
衛尉の功は五百疋に有りしかば、これを座首坊に収
置て、日時のせん下を相待けれども、日数へければ、
良真夜居の次に思召しわすれたるかと奏せられけれ
ば、主上おぼせ有けるは、遠近親疎をろんせず、民
の患をなだめばやとこそ思召共、叡聞に不(レ)及事さだ
めて多からん、耳にもるる事有んをば、相かまへてめ
ぐみをほどこさばやと深く思召なり、然るに某と言
本所の衆あり、家貧にして衆の交り難叶間、既に其
身を失ふべしと聞召せども、明王有私人似金石
珠玉、无私人以官職事業、言事もあれば、何かは
苦しかるべき、但世にひろうせん事憚あり、只僧正
良真が給はす体にもてなすべし、御祈は長日の御修
法にすぎたる事あるべからずと仰ければ、僧正とか
くの御返事に不(レ)及、いか成大法秘法も是に過たる御
祈有べからず、良真己が微力をはげましたらん御祈、
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猶百分が一にも不(レ)及とて泣々退出す、依て彼所の衆
を西の京の坊に召て、勅命の趣をつぶさに仰ふくめ
て、その五百疋を給はりけり、此ものの心の内いか
計なりけん、又金田府生時光と言笛吹と市佐和与部
の茂光といふ篳篥吹有けり、常に寄合て碁を打て、
〓頭楽と云唱歌をして、心をすましけり、二人寄合
て碁をうちぬれば、世間のこと公私に付て総て聞も
入ざりけり、或時内裏より問のこと有て時光を召け
る、例の癖なれば更に耳に不聞入、こはいかに宣旨
の御使ありといへどもいへども唱歌打して不聞入、家中
の妻子所従までも大きにさわぎて、いかにいかにとい
へどもきかず、宣旨を欺くとて帰り、此由を有のま
まに奏聞す、いか計の勅定にて有んずらんとおもひ
ければ、王位は口惜きことかな、かほどのすきもの
に伴はざりける事よ、あはれすきたる者の心哉とて、
御涙を流して、あへて勅勘なかりける上は仔細にお
よばず、

小松大臣うせ給て後程なく、入道悪逆を極給けり、
其頃少納言入道信西の末の娘に天下第一の美人有け
り、容色もこまやかに芸能も世にすぐれたり、琵琶
のばち音世に聞え、琴の爪音珍らかに、手跡も寔に
美しくたぐひすくなき御事なり、楊梅桃李の粧ひ、は
なやかさも双ぶ方なし、世下りてより此かた、かやう
にみめも形も能もたぐひたる人あらじとぞ聞えし、
三条小河に住給ひければ、小河どのとぞ申ける、盛
まだしき程に、冷泉大納言の未だ少将にてましまし
ける時、何としてか見奉り給けん、人不(レ)知おもひの
病と成て、ひまなく御文通はしけれども、聞も入給は
ず、折節主上かかる人おはすと聞召て、小河殿を忍
び忍び夜な夜な御召あり、御気色浅からざりければ、
しのびて内裏に候はせ給ひけり、冷泉少将もこの事
を聞かるるより、さしたる用はなけれども、もしや
余所ながらも見参らせて慰むかたもやとて、夜の明
れば出仕とて、毎日参内有て、くつがたの板の御間
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に小河殿は住み給ひけり、其あたりをば常に通ひ給
ひけり、去れども見奉ること更になし、されば逢は
ぬ恋にうつもれて、絶て有べしともおもはず、とて
もかくても無甲斐出仕なれば、宿所に引かつぎて
いかがせんとぞ泣れける、君の御気色あさからぬ御
事にて、当時小河どの内裏にわたらせ給ふといふ事、
太政入道聞給ひて、小河がふるまひこそすべて心得
られね、冷泉の少将も入道が聟なり、一人は恋路に迷
ひて死ぬべしと聞く、二人の聟を損ざしぬる事無益
の次第なり、獵師山に有時は獣のこころ安からず、
光女さとにあるときは男子心をいたましむとは、こ
れ体のことをいふにこそ、されば何職の女房にても
おはせよ、入道が娘の女院をすさめ奉らせ給ふべき
様やはある、総じて小河の局があればこそ女院をば
すさめ給ふらめ、あな安からずや、さらんにおいて
は入道が娘のかたきなり、人手にかくまじ、髪をき
りてあまとなさんと叱り給ふよし、小河殿きき給ひ

て、寔にこの人の心にてはさし置せ給はじ、爰にて
はぢをさらし、人手にかからんよりはとて、忍びて
なくなく御所を出給ひけり、小河どの失せ給ひけれ
ば、主上の御歎き弥ふかく成給ひて、女院の御方へ
も行幸ならず、供御もつやつやまいらず、常は南殿
に出御ありて、月をのみ御覧じて、龍顔に御涙をう
かべ、御なうと成て御命も頼すくなくぞみえさせ給
ひける、太政入道此由を聞給ひて、大に腹を立て、
君こそ誠やらん、小河が失たるとて供御も参らず、
一日万機の政も怠らせ給ふなれ、其儀ならば浄海も
計ふ旨ありとて、百官の出仕を打とどめ、内侍、釆
女、御くしげ、更衣、女官召次さへ打とどめ、人跡
まれにもてなし、四面の御かうしもたてをさめ、日
月の光をさへ隔て参らせて、唯禁籠のごとし、禁中
忌々敷ぞなりにける、主上是をば少しも苦しとも思
召されず、唯小河どのの行衛を知らばやと歎かせ給
ふ、只一筋に位を去ばや、天下のあるじにて万乗の
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宝位を忝なくせば、これほどのことをえいりよに任
せたらばこそ、浮世の思ひ出にてもあらめ、心づき
なる人一人さへもたぬほどの御身にては、十善の位
につきても何のせんか有べき、只位を退て国々をも
修行し、契りあらばなどか小河にあはざらんとぞ思
召されける、或時更行くままに御心すみわたり、を
じか鳴く音と詠じけん、さか行く秋のよの中物うく
のみ思召されける、をりしも小河殿御覧じたくおぼ
しめして、人や候と召れけるに、夜深更に及びても
勅答申人もなし、重て人やあると御尋有ければ、高
兼と申て殿上蔵人候とて参りたり、近く参れと御定
有ければ、大床迄参りたり、猶近く参れ、仰せふく
むべき事ありと御気色ありければ、高兼近く参りた
り、高兼よ、小河が行衛尋ねて参りてんやと仰有け
れば、あら忝なの御事や、かほど通ふ御心の深きを、
太政入道なさけなくふるまひ給ふことこそ浅ましけ
れとおもひけるに、涙せきあへず、袖を顔に押あて

てしばしはうつ伏して候けるが、いと久敷有て申け
るは、仰下されし宣旨かたじけなく候へば、雲の末[B 果イ]
海のはてまでも、たづね参らせ候べしと申ければ、
神妙なり、いざとよ、仁和寺の方折戸とや聞ぞと勅
定有ける故、頓て罷出ぬ、主上めし返して、是に乗
てたづねよとて、御つぼにたてられたる寮の御馬を
給て、宣旨を頼みて、内野を筋違に、仁和寺の西の
端、常盤の辻にたちやすらひて、道行人にいひける
は、何れにて候ぞ、仁和寺の方折戸、小河のつぼね
の御宿所はと、高兼尋ければ、人興に入て、そぢや
うそこ、いづくの方折戸とこそ尋ぬるに、唯うはの
空に仁和寺の方折戸と尋ねたるはといひて、人多く
笑けり、高兼は、方折戸々々々と、夜もすがらたづ
ね行、さらぬだに、秋の哀れはものうきに、草むら
に声々すだく虫の音打副て、心細からずといふこと
なし、高兼駒を控へて、昔は宣旨と申ければ、枯た
る草木もたちまちに花さきみなり、飛鳥の類までも、
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落けるとこそ申つたへたれ、末の世こそ口をしけれ、
正敷寮の御馬を給て、直に宣旨を下されて、尋奉る
に、そことだにも知せぬ悲しさよ、君を守護し給天
照太神、正八幡宮、日月星宿堅牢地神は、おはしま
さぬやらんとなみだをながして、空敷かへりまいり
たらば、違勅のものになりなんず、是より髻を切て
失なんとおもひ、衣笠大路を下り、駒に任せて行ほ
どにまことや左様の人は、法輪寺なんどに、参り給
ひたることもやとおもひて、法輪寺を心ざし、大井
川の橋をわたらんとする所に、かめ山近きあたりに、
松の一村ありけるかた、秋霧の絶間より、爪おとや
さしき琴の音、幽にきこえければ、峯の嵐か松風か、
尋る人の琴の音かと、うたがはしき折節、高兼寔や
小河殿こそことの上手にて、ましまししとききしも
のをとおもひて、琴の音をしるべにて、衣笠大路の
北のつらに、長桧垣の破れたるにつたはひかかり、
奥深げなる方折戸あり、是なるらんと思ひて、高兼

門をあららかにたたけば、弾きつる琴の音もせず、
内より老たる尼出て、いづくよりと申、内裏よりの
御使、殿上蔵人高兼と申者参りて候、小河の御つぼ
ね、是に渡らせ給ふよし聞召して、御参り有べき由、
宣旨とぞ申ける、此尼申けるは、是には左様の人は
渡らせ給はず、おもひ寄らずとて門をたてんとす、
立られなんには、いかにも叶はじとおもひて、高兼
はしたたかに押入て、縁の際へ参りて、内裏よりの
御使にて候と申ければ、其時内よりおとなしき女房
出て、去こと是に候べき、此程是に渡らせ給ひしが、
昨日の朝出させ給ひて候が、御行衛をも不(レ)知と申け
り、其時高兼被遊つる御琴の音を、正敷承しり参ら
せて候ものを、宣旨を背かせ給はんは、恐有御事に
て候ものをとぞ申ける、小河どのは、内々支度し給
ひけるは、君の御気色はかたじけなけれども、入道
のおそれあり、何となく迷ひ出しかば、如何成もの
にかこころを通はすらんと、思召候はんも浅まし、
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此世幾ほどならず出家して、後世を願はんとて、既
に戒の師を受て、御ぐしをすまし袈裟ころも用意し
て、只今髪をそらんとし給ひけるが、今生にて心に
かかることあらば、後生の障とも成なんずとて、朝
夕手馴給たりける琴を取寄て、最期の楽と思ひて、
ひかせ給ける折節に、この高兼は参りたり、高兼申け
るは、宣旨の御使にて候へば、急ぎ御返事候へとて、
御文を参らせけり、
せみの羽の薄き契りの甲斐なくて
結びもはてぬ夢ぞ悲しき W095 K288
と被遊けり、小河殿御顔に当て、涙にむせび給ひけ
り、まことに君の御名残、かたじけなく思召て、今
一度龍顔に近付参らせばやと、御心弱く思召なられ、
出家もし給はず、たへかねてすだれの際より、我は
是にあり、世の中ものうく、恥しきこと有るべしと
聞えしかば、おそろしきまま迷ひ出たり、汝はいか
にして尋来りたるぞ、夢とこそおぼゆれ、まことに

君の御事わすれ参らせねば、あらはれて汝に逢たる
ことこそ不思議なれ、此よし奏聞せよ、我は今宵計
ぞこれにあらんずる、明なば小原の奥に、おもひ立
事有と計にて、御涙押へ難き気色にて、すだれより
外まで聞えければ、蔵人も忍難く、狩衣の袖を顔に
押し当て、人の聞くをもかへりみず、声を出して泣
居たり、良久しく有て、あるじの女房呼び出して申
けるは、小原の奥に思召し立とは、御出家有べきに
こそ、目放ち参らせ給ふな、此由奏聞して、頓て帰り
参るべしとて、蔵人は寮の御馬に打乗て、急ぎはせ
帰ぬ、内裏へ参りて、南殿の階を上りて、南庭を見
参らせければ、主上は宵に月御覧じて、打ふしてま
します所に、少もはたらかせ給はず、高兼を待せ
まします、蔵人を御覧じつけて、あれはいかに高兼
か、小河の局には尋ね逢たるかと仰下されければ、
尋ね逢ひ参らせて候と、申聞召もあへず、いとうれ
しげに、思召たる御気色にて、御涙のこぼれければ、
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蔵人も袖を顔におし当て、御前にひき伏て泣き居た
り、主上良久しく有て仰ありけるは、そこはかとも
なくしらざるに、何として尋ね逢けるぞと御尋あり、
嵯峨野内をば尋かね参らせ候て、法輪寺の方へたづ
ね参り候つる程に、大井川の岩波高き所に、河瀬の
波に迷ひつつ、琴をひかせ給ふが、御楽は想夫恋と
申御楽を、くりかへしくりかへしひかせましまし候つる間、
それに付て尋参りて候つると申せば、いしうもたづ
ね逢たり、件の楽は男を恋る楽也、扨は小河局も忘
るる事はなかりけり、世のおそろしさに、我にしら
れずして失にけるこそ哀なれ、車を迎に参らせよと
仰有ければ、蔵人夜の中に車をしたため、小河のつ
ぼね内裏へ入参らせたりければ、主上不(レ)斜悦せば給
ひて、人もしらざる所に隠し置奉り、時々忍びて召
れけり、それより高兼をば、琴聞の三位になさせ給
ふ、周の穆王の時、湯流と言ひし賢人、月を見て、
月見の大臣に補せらる、今高兼は琴を聞て三位に至

る、やさしかりし例也、かかりければ、人口のおそ
ろしさは、此ことささやきつぶやきける程に、太政
入道聞付て、大にいかりをなし、福原より馳上り、
小河の局のおはする亭に破り入て、たけなる髪を入
道手にからませて、つぼの内へ引出して見られけれ
ば、誠に君の思召るるも理りなり、天下第一の美人
にて有けるものをとて、世になつかしげにおもはれ
けり、剰へ耳にさし寄りて、入道に近付給へ、今の
なんを助け奉らんと聞えければ、小河殿、日月はい
まだ天にまします、玉体に近付参らせながら、いか
でか去このと候べき、貞女両夫にまみえざることは
しらせ給へるかと、いささかもゆるげなきよし宣ひ
ければ、入道腹を立、もとよりの意趣なりければ、
ふしぎのふるまひをせらるるこそきくわいなれ、入
道が帰り聞事といひ、又女院の思召るる所を、いか
でか思はざるべきと宣ひて、髪を切尼になし、耳を
切はなをそぎて追放つ、入道人倫の法として、情け
P401
なくもし給たり、つみの深さよと人あざみ申て、袂
をしぼらぬはなかりけり、扨も小河の局、いかがな
り給ぬらんとおもひやるこそむざんなれ、主上この
事聞召して、口惜き事也、我万乗の主と云ながら、
是ほどのこと叡慮に任せぬことこそ口惜けれ、丸が
代に始て、王法つきぬるこそかなしけれと、御歎有
しよりして、いとど中宮の御方へも行幸もならず、深
く思召し沈ませ給けるが、御病となり、終にはかなく
成らせ給ひにけりとぞ承りし、仁風率土に蒙らしめ、
孝徳天に顕はるる、誠に尭舜禹湯周の文武漢の文景
と言とも、かくこそはとぞ覚えし、
されば後白河法皇、此君におくれ参らせ給ひて後、
仰の有けるは、世を此君に継せたてまつらせたまは
ましかば、おそらくは延喜天暦の昔にも、立かへり
なましとぞおもひけるに、かく先立ち給ひぬる事は、
ただ我身の微運の尽ぬるのみにあらず、国の衰〓、
民の果報の拙きが致すところ也とぞなげかせ給ひけ

る、目近くは故院の近衛院に、おくれ参らせ給たり
けん御ありさま、挙賢義孝先少将後少将といはるる
も、さばかりなりし人の兄弟、一日の中に失たりしか
ば、父一条摂政伊尹公、母その北の方の思ひなどを
始て、彼二条関白師実公におくれ給ひ、京極の摂政
の思ひなど、数々思召て、朝綱が澄明におくれて、
悲之至悲、莫過於老後子之悲、恨而更恨、莫過
於少先親之恨、雖老少不定、猶迷前後相違とな
くなく書たりけん、さこそかこつ方なかりけめと、
御涙せきあへず、永万元年七月に、第一の御子、二
条の院も失させたまひにき、第二の御子高倉の宮、
治承四年五月に誅せられ給ぬ、現世後生とふかく頼
奉り給へる新院さへ、か様に先立せ給ぬ、今はいと
ど心弱くならせ給ひて、いか成べしとも思召わかず、
老少不定は人間のならひなれども、先後相違は、生
前の御恨み猶深し、ひよくの鳥れんりの枝と、天に
仰ぎ星をさして、御契り浅からざりし建春門院も、
P402
安元二年七月七日、秋風情けなくして夜半の露と消
させ給ひしかば、雲のかけはしかきたえて、天の河
の逢瀬を余所に御覧じて、生者必滅、会者定離の理
を深く思召とりて、年月は経たれども、きのふけふ
の様に思召て、御涙未だかわきあへぬに、又この御歎
きさへ打そひぬるぞ申ばかりなき、近く召つかはれ
し輩、睦しく思召しし人々も、或は流され、あるひは
誅せられにき、今は何ごとにか御心をも慰さめさせ
給ふべき、去ままには、一乗妙典の御読誦も怠らず、
三密行法の御薫修も積れり、今生の妄念は思召捨て、
唯来世の御つとめより外に他事ましまさず、これ又
かつうは然るべき善知識哉とぞ思召されける、天下
諒闇になりしかば、雲の上人花の袂をひるがへして、
藤衣に成にけり、興福寺別当権僧正教縁も、伽藍炎
上のけぶりを見て、病付てほどなく失せられにけり、
誠に心有らん人の、たへてながらふべき世とも見え
ず、法皇の御心の内申もおろか也、我十善の余薫に

報いて、万乗の宝位を忝くす、四代の帝王を思へば、
子なり孫也、いかなれば万機の政務をも止められて、
年月を送るらんと、日比の御愁も休むかたなかりけ
る上、新院の御事さへ打そへぬれば、内外につきて
思召しづませまします、入道相国此有様を伝へ聞て、
いたく情なくふるまひたりしことを、恐しとや思ひ
けん、廿四日太政入道の乙娘、安芸の厳島の内侍が腹
に、十七に成給けるを院へ参らせ給て、上臈女房数
多候はせ、公卿殿上人多く供奉して、女御参の儀式
などの様にありける、かかりけるに付ても、法皇は
こは何ごとぞとすさまじくぞ思召れける、高倉の院
かくれさせ給ひてのち、けふ僅十四日にこそなるに、
いつしか斯るべしやと、ねざめ悲しくぞ覚けるに、
御召仕の[B 「と、ねざめ悲しくぞ覚けるに、御召仕の」に「はきつねめかしくぞおぼえしそれに候はれしイ」と傍書]女房の中に、鳥飼大納言伊実の娘おはしけ
り、大宮殿とぞ申ける、一条大納言の御娘をば近衛
殿とぞ申ける、それも時めき給ひけれども、その中
に大宮殿ぞ御気色はよかりける、御妹〈 盛衰記作せうと 〉の実保
P403
伊輔、二人一度に少将に成れにけるぞ、ゆゆしく聞え
し程に、相模守業房が後家忍びて参り〈 参考源平盛衰記に召れとあり 〉け
るに、姫宮出来給へり、二人の上臈女房も本意なき
ことにぞ思召されける、大宮殿は、後には平中納言
親実卿、時々通ひ給ひける、北の方にも成らずして、
物思ふこそ口惜けれ、近衛殿は、後には九郎判官義
経が一腹の弟、侍従能成に名立られけるぞ、うたて
くはきこえし、かの能成は、判官が世に有し程は、武
者だちてゆゆしかりけるが、判官西国へ落し時、紫
藤染のかの綾の直垂に、赤をどしの鎧に蘆毛なる馬
に乗て、判官が尻に打たりしが、大物の浦にてちり
ぢりに成にけり、夫より和泉の国へ迷ひ行けるが生
捕られて、上野国小幡と云所へ流されて、三年あり
けるとかや、近衛殿はけがされたる計りにて、本意
なかりけり、
信濃の国安曇郡木曾といふ所あり、故六条判官為義
が孫、帯刀先生義賢が二男、木曾冠者義仲と云者有、

国中の兵を隨ひ付たること[B 「を隨ひ付たること」に「徒を付る事イ」と傍書]、一千余人に及べり、彼
義賢、去る仁平三年の夏のころ、上野国多胡郡に居
住したりけるが、秩父次郎大夫重隆が養子に成て、
武蔵国比企郡へ通ひける程に、当国にも不限、隣国
迄もしたがひけり、かくて年月を経ける程に、久寿
二年八月十六日、故左馬頭義朝が一男、悪源太義平
が為に、大蔵の館にて義賢重隆共に誅せられにけり、
其時義仲は二歳になりけるを、母泣々相ぐして信濃
に越て、木曾の仲三兼遠と云者を見て、これを養ひ
て置たまへ、世の中は用ある者ぞなど打頼ければ、兼
遠是を得てあないとをしと云て、木曾の山下と云所
にて育てけり、二歳より兼遠が懐の内にて人と成よ
り、万おろそかならずぞありける、此ちごみみかた
ちあしからず、色しろく髪美しくて、やうやう七歳
に成にけり、弓など翫(もてあそ)ぶありさま、殊に末頼もしく、
人これを見て、此ちごのみめのよさよ、弓射たるは
したなさよ、誠の養子かなど問ひければ、これは相知
P404
たる遊君の、父なし子を産て、兼遠にたびたりしを、
乳の中よりとり置きて候が、父母と申候也、扨其の
ち男になしてけり、打ふるまひ物などいひたる有様
も、まことにさかりしげなり、かくて廿年が程、隠
し置て養育す、成長する程に武勇の心猛くして、弓
矢の道人に勝れたりければ、兼遠妻に語りけるは、
此冠者君少より手習学問させ、法師になして誠の父
母の孝養をもせさせ、我等が後世をも弔はせんと思
ひしに、心さかさかしければ、用有と思ひて男にな
したり、たが教たる事なけれども、弓矢を取たる姿
のよさよ、力もこの比の人にはすぐれたり、馬にも
したたかに乗り、空飛ぶ鳥地を走るけだ物、矢所に
まいるもの、射はづすと云ことなし、歩行立馬の上
の風情、誠に天の授ける業なり、酒盛などして、人
をもてなしあそぶ有様もあしからず、さるべき人の
娘がな、いひ合せんと思ふに、流石無下成はいかが
とためらひけり、或時この冠者、今はいつを期すべ

しとも不覚、身のさかり成時京へ上りて、公家の見
参にも入て、先祖の敵平家を討て、世をとらばやと
いひければ、兼遠打笑ひて、其ためにこそ和殿をば、
是ほどまでは養育したりけれとぞいひける、義仲さ
まざまの謀を廻らして、平家を窺ひ見ん為に、忍び
て京へ上り、人に紛れて日夜窺ひけれども、平家さ
かりなりければ、本意を遂ざりけり、義仲本国へ帰
り下りけるに、兼遠都の物語し給へといひければ、
京を王城とはよくぞ申ける、三方に高き嶺あり、も
しものことあらば、逃籠りたらんに、きと恥に逢ま
じ、六波羅は無下のひとへ所、西風北風吹たらんと
き、火をかけたらんに、いづれも残るまじとこそ見
えて候へとぞいひける、明暮れ過ける程に、平家此
事をもれ聞て大におどろき、仲三兼遠を召て、汝義
仲を養ひ置、謀叛を起し天下を乱すべき由企てあん
なる、不日に汝が頭をはぬべけれども、今度はゆる
めらるるぞ、急ぎ義仲を召進すべきよし、起請文を
P405
書せて本国へ返しつかはす、兼遠起請文は書ながら、
年来の養育むなしく成らんことを歎て、おのれが命
の失んことをばかへり見ず、木曾が世を取んずる謀
をのみぞ、明ても暮ても思ひける、其後は世の聞え
をおそれて、当国の大名根井小弥太、滋野幸親と云者
に義仲を授け、幸親これを請取て、もてなしかしづ
きける程に、国中挙て木曾御曹司とぞいひける、父
多胡先生義賢が好にて、上野国勇士、足利が一族以
下、皆木曾に従付にけり、去程に伊豆国の流人、兵衛
佐頼朝謀叛を起して、東八ヶ国を押領するよし聞え
ければ、義仲も木曾のかけはしを強く固めて、信濃国
を押領す、彼所は信濃国にとりては、西南の隅、美
濃国の境なれば、都も幾程も遠からずとて、平家の
人々さわぎあへり、東海道も兵衛佐に打とられぬ、
東山道も又かかれば、あわてさわぐもことわりとぞ
申ける、是を聞て平家の侍ども、何事かは有べき、
越後国には城太郎資長兄弟あり、多勢の者也、木曾

義仲が信濃国の兵を語ふとも、十分が一にも及ぶべ
からず、只今誅して奉りなんずといひけれども、東
国の背くだにも不思議なるに、北国さへかかれば、
これすぐなる事にあらずとぞ申あひける、
廿八日東国源氏、尾張国迄せめ上る由、彼国目代早
馬を立て申たりければ、亥時ばかり六はら辺さわぎ
あへり、都に打入たるやうに、物を運び東西南北へ
隠し持さまよふ、馬に鞍置き腹巻しめなんどしけれ
ば、京中さわぎて、こはいかにせんずるぞと上下迷
ひあへり、畿内より上る所の武士の郎等ども、兵粮の
さたはなし、飢にのぞむ程に、人の家に走り入、食
物を奪ひとりければ、一人としておだしからず、
廿九日右大将宗盛卿、近江国の総官に捕せられ、天
平三年の例とぞ聞えし、十郎蔵人といふ源氏、美濃
の国蒲倉と云所に楯籠りたりけるを、平家の征夷大
将軍左兵衛督知盛卿、中宮亮通盛朝臣、左少将清経、
薩摩守忠度、侍大将には尾張守貞康、伊勢守景綱以
P406
下、三千余騎にて馳下りて、上の山より火を放ちけれ
ば、堪へずして追落されて、当国の中原と云所に、
千余騎にてたて籠りたるとぞきこえし、平家、近江美
濃尾張三ヶ国の凶徒、山本柏木錦古利佐々木の一族
打従てければ、平家の勢五千余騎に成て、尾張国墨
俣川といふ所につくとぞ聞えし、
二月七日大臣以下家々にて、尊勝陀羅尼、不動明王
を書き、供養し奉るべきよし宣下せらる、兵乱の御
祈とぞ聞えし、諸寺の御読経、諸社の御奉幣使、大
法秘法残る所なく行はれけれども、其験なし、源氏は
只せめにせめ上る、何としたらばはかばかしき事の
あらんずるぞ、ただ人苦しめなり、神は非礼を受け
給はずといふ事あり、誤りは心の外のことなれば、
ざんげすれば助かることなり、平家のふるまひは余
りなりつる事なりといひて、僧侶も神主もいさいさ
とておのおの頭を振合やみけり、
九日武蔵権守義基法師が首、并子息石河判官代義兼

を生捕にして、検非違使七条河原にて、武士の手よ
り請取て、頭を獄門の木にかけて、生捕を禁獄せら
る、見物人数を不(レ)知、馬車衢に充満して夥し、諒闇
の歳、賊首大路を渡さるる事まれなり、康和二年七
月十八日、堀河天皇崩御、同三年正月廿九日、対馬
守源義親が首を、渡されし例とぞ聞えし、彼義基は、
故陸奥守義家孫、五郎兵衛尉義明の子、河内国石川
郡の住人なり、兵衛佐頼朝に同意の間、忽ち誅戮せ
られぬとぞきこえし、
十三日宇佐宮大宮司公通、かくりき[* 「かくりき」に「脚力」と振り漢字]を立申けるは、
九州の住人菊地次郎高直、原田四郎大夫種益、緒方
三郎伊能、臼杵経続、松浦党を始として、しかしな
がら謀叛を企つ、太宰府の下知に不従と申たりけれ
ば、こはいかなる事ぞとて、手を打てあざみけり、
東国謀叛の限りと思ひて、西国は手武者なれば、め
しのぼせて合戦させんとこそ頼ければ、承平将門天
慶純友が、一度に東西に乱逆を起したるに相にたり
P407
とて、大に驚きさわぎあへり、肥後守貞能が申ける
は、ひが事にてぞ候らん、いかでかしやつばら君を
ば背き参らせ候べき、東国北国をば君にまかせ参ら
せ候、西国は手の下に覚え候、貞能罷り下り候てし
づめ候べしと、頼もしげにぞ申ける、
十七日近江美濃両国の凶徒が首を、七条堀川にて武
士の手より、検非違使請取て、大路を渡し西獄門に
かく、其日午の時計り、伊予の国より飛脚来り申け
るは、当国の住人河野介通清、去年の冬より謀叛を
起して、当国の道前道後の境なる高直の城に楯籠た
りけるを、備中国の住人、沼賀入道西寂、彼を討た
んとて、備後の鞆より十余艘の兵船をととのへて、
通清を攻む、昼夜九日ほど戦ひけれども、勝負をも
決せず、爰に西寂が甥、沼賀七郎伊重といふ者、城内
に攻め入て戦ひけるところに、いかがしたりけん、
太刀をひらめける所を、通清よき隙と思ひて、馬の
首より足を越して、得たりやあふとて、沼賀七郎に

引組んだり、伊重暫くからかひけれども叶はざりけ
り、力劣りなりければ、生捕れて城内へ押込められ、
辛き目に逢たりける、此所に折を得て、通清が舎弟
北条三郎通経といふ者、勝に乗りて城内より主従轡
を並べて駈け出て戦けり、西寂甥をとられてやすか
らずとやおもひけん、今を限りと思ひきりて戦ける
に、通経が郎等を討取、唯一人に成て戦けるを、西
舜多勢の中に取籠めて、通経を手取にするぞ悲しき、
西寂使者を以ていひけるは、城内にも生捕候らん、
又生捕を取かへて、弓矢に付て互に勝負を決すべき
よし申たり、通清申けるは、敵に生捕るるほどの不
覚人をば、いけても何かはせん、只斬るに過たる事
なしとて、則使の見る所にて、沼賀七郎伊重が首を
切る、使者帰て此由を申ければ、通経をも切可と有
ければ、通経申けるは、弓矢取る習ひ、生捕らるる
事常の法なり、同じ兄弟の中に、情けなくもするこ
そ口惜けれ、一日の暇をゆるし給へ、館の案内者な
P408
り手引して、通清を打落すべし、其後生死は入道殿
のはからひなりと申ければ、西寂これを放してけり、
其夜の子の刻ばかりに、北条三郎通経を案内者とし
て、後の渦地より押寄て、時をどつと作り、竹林に
火をかけ、一時が程攻ければ、こらへずしてとる物
もとりあへず落ちにけり、大将軍河野介通清も討れ
にけり、子息通信は落ちにけり、安芸国へ押渡りて、
沼田郷に引籠る、爰に通清が養子出雲坊宗厳と云僧
あり、是は平家の忠盛が子也、大力の剛の者なり、
軍以前に他行したりけるが、是を聞て急ぎ伊予へ越
て、舎弟通信に尋ね逢せて、西寂を窺ひける程に、西
寂運の極むる事は、去月朔日より、室高砂の遊君共
を召集めて、浅海にて舟遊びどもしける処を、家の
子郎等ども磯に下りひたりて、西寂只一人残りたり
けり、出雲坊さらぬやうにて舟に乗移り、ともづな
舳綱を打ち切て、西寂をば舟梁に縛り付て、沖をさ
してこぎ出ぬ、家の子郎等しばしは入道のこぐと心

得て目もかけず、次第に沖の方へ遠くなりければ、
あれはいかにあれはいかにと申せ共、又外に舟もなければ力
不(レ)及、ぬけぬけととられけり、出雲坊は夜に入て或
なぎさに舟をつけて、通信を尋るところに、河野は
沼田郷より多勢を引卒して、伯父北条三郎を討取て、
并に太子源三を生捕て、出雲坊に行逢ぬ、二人の敵
を生どりて、おのおの是を悦び、高直の城に持帰り
て、太子をば磔にして、西寂をば首を鋸にて切てけ
り、これに依て当国には、新井武知が一族を始とし
て、皆河野にしたがひて候なり、惣じて四国住人等、
ことごとく東国に与力したりと申たりければ、平家
又さわぎあへり、又熊野の別当田辺法印湛増以下、
吉野十津川の悪党等までも、花の都を背き、東夷に
属する由きこゆ、東国北国既に背きぬ、南海西海静
かならず、逆乱の瑞相頻りなり、兵革忽に起り、仏
法ほろび王法なきがごとし、我朝唯今失なんとす、
こは心うき業かなとて、平家の一門ならぬ人も、物
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の心をもわきまへたる人は歎あへり、
十七日前右大将宗盛、法皇の御所に参られたり、常
よりも心よげ成気色にて、法皇にかはらはせ給て御
覧ぜらる、大将畏て申されけるは、入道申上よと申
候つるは、世に有んと仕るは君の御宮仕の為なり、
二つ共なき命を奪はんと仕敵をば、命も沙汰仕べく
候、夫に君も御方人をば思召まじく候、其外のこと
は何事も、天下の政もとのごとく、御はからひ有べ
く候とまめやかに申されければ、法皇仰ありけるは、
丸が然るべき運命の催やらん、此二三年は何となく
世間あぢきなくて、後生ぼだいのことより外は思は
ねば、今は政に口入せんともおもはず、唯おのおのこ
そはからはめ、さなきだにも心うきめを見るにあな
よしなやと被(レ)仰ければ、宗盛卿申されけるは、いか
にかくは仰候ぞ、入道は親ながらもおそろ敷ものに
て候、此事申かなへず候はば、君の御気色の悪敷か、
又は君の入道をにくませ給ふかとて、腹を立候なん

ず、ただきこしめしつとばかり仰せ候べきなりと被
申ければ、さればこそ何れにもはからへと被(レ)仰て、
御経をとらせ給ひて遊ばされければ、宗盛少し気色
かはりて御前を立れけり、是を承る人々ささやき合
けるは、何となく世の中そそろく間、入道流石お
それ奉てかく申成べし、あなことも愚や、天下は大
王の御計ひぞかし、何とこは申やらんとぞ云あはれ
ける、
廿七日前右大将宗盛、数千騎を引率して、関東へ下
り給べきにて、出立ち給ひける程に、入道相国例な
らず心地出来よしありければ、けしからじといふ人
もありけり、又年来片時も不例と云ことをせざりつ
る人の、折節か様におはすれば、たとへ打立て後に
道にて聞給たり共、御帰りあるべし、まして是を御
覧じ置ながら、捨て奉りて立給べきやうなしとあり
ければ、止り給にけり、
太政入道所労付事
廿八日には太政入道重病と成給て、六波羅辺騒ぎあ
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へり、様々の祈祷共始められけると聞えしかば、さ
みつる事をとぞ貴賎ささやきつつやきける、病付給
へる日よりして、白き水をだに咽へ入給はず、身の内
あつきこと火の燃るがごとく、臥給へる二三間が内
へいるものは、あつさたへがたければ、近く寄るも
の希なり、宣ふこととてはあたあたと計なり、少し
も直る事はみえず、二位殿より始め奉りて、公達近き
人々いかにすべきとも覚えず、あきれてぞましまし
あひける、さるままには、きぬぎぬの糸綿の類は云
に及ばず、馬、鞍、鎧、甲、太刀、刀、征矢、胡〓、
金銀、七珍万宝を積て、神社仏寺に奉り、大法秘法
数を尽して修し奉り、陰陽師七人を以て、如法泰山
符君を祭らせ、残る所の祈もなく、いたらぬ療治も
なかりしかども、次第に重く成にけり、可然定業と
ぞみえける、入道は声いかめしき人にておはしける
が、声わななき息もよわく、殊の外によわりて、身の
膚の赤きことべにを差たるにことならず、吹出すい

きの末にあたるもの、炎にあたるに似たり、
閏二月二日、二位殿あつさはたへがたけれども、屏
風を隔て、枕近く居寄て泣々宣ひけるは、御病気日
日に重く成て頼すくなくみえ給ふ、御所に於ては心
の及ぶほどは尽しつれども、そのかろみもなし、今
は一筋に後生のことを祈給へ、又思召置く事あらば、
いひ置給へと申されければ、入道くるしげ成声にて、
息の下に宣ひけるは、我平治元年よりこのかた、天
下を掌に握り、世を保つ事廿三年、何ごとかは心に
かなはざりし、四海を足の下に靡かして、自らを傾
けんとせしものは、時日を廻らさず忽に滅しき、帝
祖太政大臣に至て、栄花既に子孫に及べり、一人と
して背く者なかりしかば、一天四海に肩をならぶる
人なし、されども死と云ことは人毎に有をや、我一
人がことならばこそ始て驚かめ、但し最期に安から
ずと思ひ置ことあり、流人頼朝が頭を見ざりつるこ
とのみこそ口惜けれ、死出の山を安く越べしとも覚
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えず、入道死して後には、追福作善のいとなみ努々
有べからず、相かまへて頼朝が頭を切て、我はかに
懸よ、それをぞ草の陰にても嬉しとは思はんずる、
我を思はんずる子共侍らば、深く此旨を存じて、頼
朝追討の志を先として、仏法供養の沙汰に及べから
ずと遺言し給ける、大将より始めて御子達並居て聞
給へり、いとど罪ふかくぞ覚えし、晴明が術、道満が
印を結て祈けれども軽みなし、其日のくれ程に、入
道病に責伏られてたへがたさに、比叡山の千手院の
水を取下して、石の舟に入て入道彼水に入て冷給へ
共、下の水上に湧上り、上の水は下に湧きこぼれけ
れども、少しも助かり給ふ心ちもし給ざりければ、
せめての事にや板敷に水を汲流して、其上に臥まろ
びて冷給へども、猶も助かる心地もし給はず、後に
は帷子を水にひたして、二間を隔てて投げかけ投げかけ
しけれども、ほどなくはらはらとなりにけり、かか
へおさふる人一人もなし、口にてはとかくののしり

けれども不(レ)叶、悶絶僻地して、七日と申に終にあつ
さ[B ちイ]死に死たまひけり、馬車はせ違ひ上下騒ぎののし
る、京中は塵灰にけたてられて、暮れのやみにぞ有
ける、禁中仙洞までも静かならず、一天の君いか成
ことのおはしまさんも、是ほどにはあらじとぞみえ
し、夥しなとはなのめならず、今年六十四にぞなり
給へる、七八十迄ある人も有ぞかし、老死と云べき
にあらざれども、宿運たちまちに尽きて、天の責の
がれず、立てぬ願もなく、残る祈もなけれども、仏
力神力も、事により時に従ふ事なれば、すべてその
しるしなし、数万騎の軍兵有しか共、ごくそつのせ
めをば防ぐに能はず、一家の公達も多けれども、め
いどのつかひをば隔つるに及ばず、命に替り身に替
らんと、契りしものも許多有しかども、誰かは一人
としてつき従ふべき、死出の山をばただ一人こそ越
給ふらめと哀なり、つくり置し罪業計りや身に副ぬ
らん、
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太政入道死去し給はんとて、前七日に当りけるに、
夜半計りに入道のつかひ給ける女房、不思議の夢を
ぞみたりける、たてぶち打たる八葉の車の内に、炎
の夥しくもえ上りたる、其中に無と云文字を札に書
て立たりけるを、青き鬼と赤き鬼と二人、福原の御
所東の四あしの門へ引入ければ、女房夢の心地にあ
れはいづくよりぞといへば、鬼神答へて云く、日本
第一の大伽藍、聖武天皇の御願、金銅十六丈の廬遮
那仏を焼奉りたる、伽藍の冥罰のがれがたきに依て、
太政入道取入んとて、ゑんま王の炎の車を持来る也
と申ければ、女房見るも身の毛だちておそろしなど
云計りなし、浅ましとおもひて、女房さてあの札は
何ぞと問へば、永く無間大城のそこに入んずる囚人
なるが故に、無と云文字を書たる也、無間地ごくの
札なりと、申とおもひければ夢さめけり、むなさわ
ぎして冷あせたりて、おそろしなど愚かなり、彼女
房のこの夢みたりけるより、病付て二七日と云に死

にけり、
播磨国福井庄司次郎大夫信方といふもの、南都の軍
はてて、都へ帰りて三ヶ日と云に、ほむら身を責む
る病付て、死けるこそおそろしけれ、正月には高倉
院の御こと悲しかりき、わづかに中一月を経て又此
ことあり、世の無常今に始めぬことなれども殊に哀
なり、七日六波羅にて焼上げて、骨を円実法眼、首
に懸て福原へ下りて納めけり、扨もその夜六波羅の
南に当りて、二三十人が音して、舞躍る者ありけり、
嬉しや水と云拍子を取て、をめき叫びてはやしのの
しり、はつと笑ひなどしけり、高倉の院失させ給て
諒闇になりぬ、其御中陰の内に、太政入道も失せら
れぬ、しかるに今宵は、六波羅にて火葬しける最中
に、かかる音のしければ、いかにも人の仕業にあら
ず、天狗の所行にてぞ有らんなど思ひけるほどに、
法性寺殿の御所の侍二人、東の釣殿に人を集めて、酒
もりをしける程に、酒に酔て舞ひけり、越中前司盛
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俊、御所領左衛門尉基宗に相尋ねければ、御所侍二
人が結構と申ければ、彼二人の輩を搦めて、右大将
の許へゐて参りたり、ことの仔細を尋ねられければ、
相知りて候もの、数多来て候つるに、酒をすすめ候
つるほどに、俄に物狂ひの気出来て、そぞろに舞候
つるなりと申ければ、科に処せらるるに及ばずとて、
即追ひ払はれけり、醉狂ひとはいひながら、さしも
やは有べき、天狗の附にけるよとぞ人申あひける、
興福寺の角、一言主明神とて社あり、前に大なる木
〓子の木あり、彼焼亡の火、此木のうつろに入て焼
上りけり、大衆の沙汰にて水を汲て度々入けれども、
烟少しも立止まず、水を入ける度ごとに火焔立増り
ければ、木のもと近く立寄者、烟にむせびければ、
その後はさたもせず、七日に及びて太政入道死し給
て後、彼火も消えにけり、是も其比の世の物語にて
ぞ有ける、人の死するあとには、怪しの物だにもほど
ほどに隨ひて、朝夕に例時懺法など読せて、かね打

ならすは常のことぞかし、是は供仏たえ、僧の営に
も及ばず、追福追善のさたもなかりけり、明ても暮
ても、軍合戦の営みより外は他事なし、うたてく心
うかりしこと共也、入道一人こそおはさねども、年
比日ごろさばかり貯へ置し、七珍万宝はいつちにか
行べき、たとへ愚に遺言し給ふとも、などかをりを
り仏事孝養せられざるべきと、人爪を弾きける事な
のめならず、さしも執し作り磨かれし八条殿も、去
る六日に焼けぬ、人の家の焼るはつねの事なれども、
折節がらも浅まし、いか成者のつけたりけるやらん、
放火とぞ聞えし、何者がいひ出したりけん、謀叛の
輩、八条殿に火をさしたりけりと聞えければ、京中
は地をうちかへしたるが如く、騒ぎあへる事夥し、上
下心を迷はす事ひまなし、誠あらん事はいかがせん、
か様にそらごとにさわぎあへる事の心うさよ、如何
に成なんずる世の中やらん、天狗もあれ怨霊もこは
くて、平家の一門運尽なんとぞ覚えし、
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此入道、運命漸く傾たりしころ、家にさまざまの怪
異ある中にも、不思議あり、坪の厩に立られたりけ
る秘蔵の馬の尾に、鼠巣をくひて子を産たりけり、
舎人数多付て夜昼なく飼ふ馬の尾に、一夜に巣をく
ひて子を産事、返す返すも有がたしとぞ聞えし、入
道驚きて陰陽師七人にうらなはせられければ、おの
おの重きけとぞ申ける、これに依てさまざまの御願
どもを立られけり、その馬をば、陰陽頭泰親にぞ給
ひける、黒駒の額白かりければ、名をば望月とぞ申
ける、相模の国住人大庭三郎景親が、東八ヶ国第一
の名馬なりとて奉りし馬なり、此事昔も今も不思議
にて、例しあるべしともおぼえぬ事なり、むかし天
智天皇元年壬戌四月に、寮の御馬の尾に、鼠巣をく
ふ事ありけり、それも驚きおぼしめして、御卜筮な
ど行はれけるに、御慎浅からずと申けり、彼御代に
おいせなど言事有て、世のなか静ならず、其後幾ほ
どもなくて、天皇崩御なりにけりとかや、此外さま

ざまの不思議多くぞ有ける、
福原の常の御所と名付られたる坪の内に、植そだて
て朝夕愛し給ひつる五葉の松の、片時が程に枯にけ
り、入道召仕の禿の中に、天狗数多交りて、常は田
楽を躍とどめきけり、大かたさらぬ不思議ども多か
りけるとかや、
兵庫島築始事
この入道、最期の病の有様はうたてけれども、一期
の運命一生の果報は、只人にしも有ざりけるやらん
とぞ覚ゆる事も多かりけり、神社を敬ひ仏法を崇む
る事も人にはすぐれたり、日吉の社へ参らせけるに
も、人の加茂春日などへ参詣有らんも、是ほどの事
あらじとぞみえし、殿上人前駈、上達部やりつづけ
などしてぞましましける、日吉にて持経者のかぎり
をえらびて、千僧供養有けり、有がたくゆゆしかり
し事なり、中にも福原の経のしま築かれたるこそ、
人の仕業ともおぼえず不思議なれ、彼海はとまりの
なくて、風と波とのたち合ぬれば、通へる船を覆し、
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乗る人の死すること昔より絶えず、怖しき渡りと人
人申ければ、入道聞給ひて、阿波民部大夫成良に仰
せて、謀をめぐらし人を勧めて、去ぬる承安三年癸
巳歳築始めたりしを、次の年風にうち失はれて、次
の年、石の面に一切経を書て、船に入ていくらとい
ふこともなく沈められけり、扨こそこの島をば経島
とは名付られけれ、石は世に多きものなり、さのみ
惜むべきにあらねども、船は人の宝也、さのみ船を
積ながら沈めらるること、国家の費也、またさのみ
経を書んも筆をとるたぐひ希なり、唯往返の船に仰
せて、十の石を取もちて彼島に入べし、末の世まで
も此仰を背くべからずと、宣旨を申下さるべしと、
成良以下計ひ申ければ、誠にさも有なんとて、其様
を定められけり、はたより沖、一里三十六町出して
ぞ築出したりける、始めは河船計ぞ有ける、それを
便りにて波にゆらるるもくづ、風にふき寄られて程
なく広く成にけり、同じくは陸へ築つづけたらばよ

かりなんとて、やうやく築続けられぬ、催しはなけ
れども、心有る人は皆土をはこび石をつきけり、み
るみる船もとどまり、家なども出来、日月星宿の光
明々として、蒼海の眺望渺々たり、今少し年月を重
ぬるものならば、名高き室高砂にもおとるべしとも
みえざりけり、世を過す習なれば、遊女の有もにく
からず、小船の陰に居て、四周を見渡せば、心細き
方もあり、遊女二三人来て、「こぎ行舟のあとのしら
波」と歌をうたひ遊ぶめり、或は屋形の内にて、船中
浪上の歓会惟同じと詠めて、和琴緩調臨潭月、唐櫓
高推入水烟、など朗詠をす、皷をならし拍子を打ち、
余波をしき曲を謡ふ、いろある旅人は、笛を吹き絃
を弾き、この時は故郷の亭の鬼瓦のことわすれぬ、
国司以下は長持のそこをはらひ、商人下臈はもと手
を倒しつつ、のちは悔ゆれども、逢にしなれば力な
き習ひなり、されば唐土の大王迄も聞給ひて、日本
輪田平親王と号して、帝王へだにも奉り給はぬ宝物
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ども召渡されけるとかや、古人の申けるは、此人の
果報かかりけるこそ理りなれ、正しく白河院の御子
孫ぞかし、其故は、かの院の御時、祇園女御と申け
る幸人おはしましき、彼女御、中宮に中臈女房にて
有けるを、上皇しのびて召るる事有けり、或時忠盛、
殿上の番勤めて伺公したりけるに、遥に夜うち更て、
殿上口を人の通ふ音しけり、火のくらき隙よりみた
りければ、優なる女房にてぞ有ける、忠盛誰とも見
知るまではなかりけれども、何となく彼女房の袖を
扣へければ、女いたくもはなたぬ気色にて、立止り
てかくぞ詠じける、
おぼつかなたれ杣山の人ぞとよ
此くれに引く主をしらばや W096 K123
忠盛、こはいか成ことぞやと、やさしく覚えて、袖
をはづさずして、
雲間より忠盛きつる宵なれば
おぼろげにてはあかすべきかは W097 (K124)

と申て、女の袖をはづしつ、女すなはち御前へ参り
て、此由を有のままに申たりければ、扨は忠盛ござ
んなれとて、頓て忠盛を召て、いかにおのれは丸が
もとへ参る女をば、殿上口にて引たりけるぞと御尋
ありければ、忠盛色を失ひてとかく申に及ばず、如
何なるめをか見んずらんと、恐れをののきてありけ
るに、上皇打笑はせ給ひて、此女一首をしたりける
に、取あへず辺歌したりけるこそやさしけれ、さら
ばと仰有て、別の勅勘なかりければ、其時ぞ心落付
きて罷出ける、是をもれきく人申けるは、歌をば人
の読べきもの哉、是をよまずば如何成めをか見るべ
き、この歌に依て御かんに預る事、時に取ては希代
のめんぼくなり、是も先世のことにやとぞ申ける、
上皇思召けるは、忠盛が秀歌こそ面白けれとて、心
をかけたる女、序もがな、忠盛に給はんと御心にか
けて、月日を送らせ給けるほどに、永久の頃、上皇
若殿上人一両人召具して、俄に彼御所へ御幸成ける
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に、五月の廿日余のことなれば、大かた空もいぶせ
き程の夜半なるに、五月雨にさへかきくれて、何とな
うそぞしき御心地しけるに、常の御所の方に立るも
の有けり、頭は白銀の針などのやうにきらめきて、
右の手には槌の様成物を取て、左の手には光物を捧
げて、とばかり有てはさつと光りさつと光りしけり、供奉
の人々是を見て、ならはぬ心地にさこそ思ひあはれ
けめ、疑なき鬼なり、持たる物はきこゆる打出の小
槌にや、穴おそろしやとてをののき消え入てぞ候け
る、院もけうとく思召す、忠盛上北面の下臈にて候
へけるを召て、彼射も留め切も留めよと仰有ければ、
忠盛承候ぬとて、少しも憚る所なくあゆみ寄けるが、
さしもつよかるべきものと覚えず、思ふに狐狼体の
物にてこそ有るらめ、射も殺し切りも殺したらば、
返て念なかるべし、手とりにして見参に入れんとお
もひて、此度光る所をいだかんと次第に向ひ寄り、
案のごとく光る所をみしといだく、抱かれて此者こ

はいかにとさわぐ、いや人にてぞ有ける、何者ぞと
とへば、承仕法師にて候と答ふ、火をとぼさせて御
覧ずれば、六十計なる法師の、片手には手瓶といふ物
に油を入て持ちたり、片手には土器に火を入れて持
てり、頭には雨にぬれじとて、小麦と云ふ物のから
を、笠の様に引結びてうちかづきたり、御堂の承仕
が御幸なりぬと聞きて、御あかし参らせんとて、後
ろ戸の方より参りけるが、火や消えたるみんとて、
持たる火を道々吹けるなり、かづきたる小麦のから、
針のやうにみえけるなり、ことのやう一々に顕れぬ、
是をあわてて射も殺し、打も殺したらば、いかにか
はゆくふびんならまし、忠盛が思慮ふかくぞ有ける、
弓矢取者は猶予ありけりとて、其勧賞に件の女を賜
はる、上皇仰せありけるは、此女懐姙に成りて五月
なるぞ、男子ならば忠盛が嫡子に立よ、女子ならば
丸が子とせんと仰られて、忠盛是を給りて罷出にけ
り、月日漸く重なる程に男子を産めり、養育したて
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て忠盛が嫡子とす、清盛則是也、此児生れたりける時
も、女御珍しきことに思召して、幼き児とくとく見
んとて、産の内より若女房どもはいだき遊びけり、
此児ひるは音もせで、夜もすがらなき明しける、後
には他の人まで憎み合ければ、女房心ぐるしきこと
に思ひて、人にとらせんとしけれる夜、女御の御ゆ
めに、夜なきすと忠盛たてよ此子をば
清く盛ふることもこそあれ W098 K126
と御覧じて有ければ、この故にや夜なき俄にやみて、
人となるままに、姿も人にすぐれて心もかしこかり
けり、清盛と名のる清く盛ふるといふよみあり、彼
女御の御夢少しも違はず、不思議なりし事なり、かか
りければ、忠盛が詞にあらはれていはざりけれども、
偏に是を重くしけり、院もさぞかしと思召しはなた
ず、生年十二より左兵衛佐に成、十八の年四位兵衛
佐と申けるを、花族の人などこそかくあれなど人の

申ければ、清盛も花族は人におとらじものをと、鳥
羽院も仰有けるとかや、院も知し召たりけるにや、
まことに王胤にておはしければにや、一天四海を掌
の内にして、君をもなやまし奉り、臣をも戒られ、
始終こそなけれども、遷都迄もし給ひけるやらん、
昔もかかる例有けり、天智天皇の御時、姙み給へる
女御を、大職冠に賜ふとて、この女御産したらん子、
女子ならば朕が子にせん、男子ならば臣が子とすべ
しと仰せられけるに、男子を産みたまへり、やうい
くして大職冠の子とす、淡海公には御兄、藤原真人
と申き、後には出家して定恵と号し、多武峯建立し
て住給ひけるが、求法の為に入唐して、返朝の後入
滅、定恵和尚と申は是なり、
同六日宗盛卿院奏せられけるは、入道既に薨じ候ぬ、
天下の御政務、今は御計ひたるべき由申けるに依て、
院の殿上にて兵乱のこと定申さる、二月八日東国へ
は、本三位中将重衡を大将として遣はさるべし、鎮
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西には貞能下向すべし、伊予の国へは召次を下さる
べきに定め、其上兵衛佐頼朝以下、東国北国の賊徒を
追討すべきよし、東海東山へ院庁の御下文を下さる、
其文に云、
応早令追討流人右兵衛佐源頼朝事
右奉仰〓、件頼朝去永暦元年、坐〓配流伊豆国、
須悔身之過、永可従朝憲之所、而尚懐〓悪
之心、旁企狼戻之謀、或虐[B 寃イ]陵国宰之使、或侵奪
土民之財、東海東山両道国々、除伊賀伊勢飛騨出
羽陸奥之外、皆従其勧誘之詞、悉随彼謀[B 布イ]略之中、
因茲差遣官軍、殊令防禦之処、近江美濃両国
之叛者、即敗績、尾張三河以東之賊、尚以同、仰
源氏等皆悉可被誅戮之由、依有風聞、一姓之
輩発悪云々、此事於頼政法師者、依顕然之罪
科、所被加刑罰也、従院宣之趣帰皇化者、
仍奉仰下知件諸国、宜承知依宣行、敢不(レ)可
違失之、故下

養和元年閏二月十二日 左大史小槻宿禰奉
十五日頭中将重衡、権亮少将維盛、数千騎の軍兵を
相具して東国へ発向す、前後追討使、美濃国に聚会
して、既に一万余騎に及べり、太政入道失せ給ひて、
けふ十二日にこそなるに、さこそ遺言ならめ、仏経
供養のさたにも及ばず、合戦におもむき給ふ事、け
しからずとぞ申あひける、
十九日越後国城太郎平資長と云者あり、是は余五将
軍維茂が後胤、奥山太郎永家が孫、城鬼九郎資国が
子也、国中に争ふものなかりければ、境の外までも
背かざりけり、又陸奥国奥郡に、藤原秀衡と云者あ
り、彼武蔵守秀郷が末葉、修理権大夫経清が孫、権
太郎清衡が子なり、出羽陸奥両国を管領して、肩を
並ぶる人なかりければ、隣国までも靡きにけり、彼
二人に仰せて、頼朝義仲を追罰すべき由、宣旨を申
下さる、去年十二月廿五日除目の聞書、今年二月廿
二日に到来、資長当国守に任ず、資長朝恩の忝なき
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事を悦びて、義仲を追罰の為に、同廿五日に五千余
騎にて暁に打立つ所に、雲の上に音有て、日本第一
の大伽藍、聖武天皇の御願たる、東大寺盧遮那仏焼
たる太政入道の方人するもの、唯今召とれやと罵る
声しければ、これをききける時より、城太郎中風に
あひ、片[B 遍イ]身すくみてつやつやはたらかねば、思ふこ
とを書置かず、舌もすくみければ、思ふ事をもいひ
置かず、男子三人女子一人有けれども、一言の遺言
にも不(レ)及、其日の酉の時ばかりに死しけり、怖しな
ど云ばかりなし、同く舎弟城次郎資職、後には城四
郎長茂と改名す、春のほどは兄の孝養して、本意を
遂げんと思ひけり、秀衡は頼朝の舎弟九郎義経、承
安元年のころより、打頼みて来りしを、十ヶ年の間
養育して、兵衛佐の許へ送り遣しき、多年のよしみ
を空しくして、今宣旨なればとて、彼に敵たいする
に不(レ)及とて、領状申さざりけり、
五条大納言死去事
廿三日五条大納言邦綱卿失せ給ひぬ、太政入道と契

り深く、心ざし浅からずおはせし人也、その上頭中
将重衡の舅にておはしければ、殊に甚深かりけり、
この邦綱卿近衛院の御時、進士雑色にておはしける
時、仁平三年六月七日、四条内裏焼亡ありけり、主
上関白の亭に行幸なるべきにてありし折節、近衛司
一人も参りもあはず、御輿のさたする人もなかりけ
れば、南殿に出御ありけれども、思召しわかず、あ
きれてたたせ給ひけるに、此邦綱つと参りて、か様
の時は腰輿にこそ召れ候なれとて、腰輿をかき出し
て参りたりければ、主上出御成ぬ、かく申は何者ぞ
と御たづね有ければ、進士雑色藤原邦綱也と申けれ
ば、下臈なれどもさかさか敷もの哉と思召て、法性
寺殿御対面の時、御感の余りに御物語有ければ、そ
れよりして殿下殊に召仕れて、御領数多賜ひなどし
て候はれけるに、同帝の御時、八月十七日石清水の
行幸有けるに、いかがしたりけん、人長が淀川に落
入て、ぬれ鼠の如くにて、かたかたに振ひ隠れ居て、
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御神楽にも参らざりけるに、此邦綱、殿下の御許に
候けるが、何として用意したりけん、人長が装束を
目出度して持たりけるを取出して、いと神妙には候
はね共、人長が装束は候者をとて、一具参らせけれ
ば、人長是を着て御神楽ことなく行はる、少しへだ
ちけれ共、神楽の音もすみ上り、舞の袖も拍子に合
て、いつよりも面白かりけり、ものの音身に入て面
白きことは、神も人も同じ心なり、伝へ聞、昔天の
巌戸を押ひらかれし神代のこと迄も、かくやと推計
られてぞ覚えける、時に取てはゆゆしき高名なりけ
り、それのみならず、か様の行幸にいろいろの装束
用意し持つれさせられたりけり、かやうに思ひがけ
ぬ用意、ためしすくなかりけり、此人の先祖、山蔭
の中納言と申人有き、太宰大弐にて鎮西へ下されけ
る、道にて継母の謬りの様にて、二歳に成ける継子
を海へ落し入れてけり、失せにける母の、当所天王
寺へ参りけるに、鵜飼が亀を取てころさんとしける

を、彼女房はうすぎぬをぬぎて、彼亀を取[B おきイ]〈 盛衰記作買 〉て、
思ひしれとて放ちてけり、件の亀昔の恩を思ひ知て、
甲に乗せて浮出て、助たりける也とぞ伝たる、如無
僧都とぞ申ける人、帝尊み給ひて重くせさせ給ひき、
昌泰元年の比、寛平法皇大井川に御幸有けり、此僧
も候はれける、月卿雲客袖をつらね、もすそを並べ
て其数多かりけり、中に和泉大将定国、いまだ若殿
上人にて、供奉せられたりけるが、嵐山の山おろし
はげしかりけるに、烏帽子を大井川に吹き入れられ
て、せんかたなくて、袖をもてもとどりを押へてま
しましけるを、僧都三衣の袋より烏帽子を取出して、
彼大将に渡されたりければ、見る人耳目を驚かしけ
り、是も時に取ては思ひ寄ざりける高名也、又一条
院の御孫、平等院僧正行尊は鳥羽院の御持僧なり、
或時御遊びの始りたりけるに、琴をひかれける時、
殿上人、琴の緒を切らしてひかざりければ、彼僧正、
畳紙の中より緒を一筋取出して、渡されけるとかや、
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此人々は用意も深く、知恵もかしこかりければ、申
に及ばず、此邦綱は、さしもかしこかるべき文才に
はなけれども、度々の高名こそ有難けれ、太政入道
にせめての心ざしのふかきにや、同日に病付きて、
同月に遂に失せ給ひぬ、哀れなりける契かなとぞ人
申ける、
廿五日法皇法住寺殿へ御幸あり、治承四年の冬の御
幸には、武士御車の前後に候て、夥しくのみありし
に、是は公卿殿上人数多供奉し、うるはしき儀式に
て、警蹕の声なども、ことごと敷やうなりければ、
今更珍らしく目出度ぞ覚えし、鳥羽殿へ御幸ありし
ことまでも、福原の遷都の忌々敷名有し御所の御事
までも思召し出されけり、御所共少し破壊したりけ
れば、修理して渡し参らせんと前右大将申されけれ
共、只とくとくと仰せ有て御幸なりぬ、此御所は、
応保元年四月十三日御わたましありて後、山水木立
方々の御しつらひに至るまで、思召す様にさせまし

ましつつ、新日吉、新熊野をその近辺にいはひ参らせ
て、年を経ましまししに、此二三年旅立てましまし
ければ、御心うかれ立て渡らせ給へば、今一日もと
くと思召しけり、中にも前の女院の御方など御覧ぜ
らるるに、峯の松、汀の柳、ことの外に木高くなりけ
れば、それに付ても、彼自南宮西内に遷給けるむ
かしのあと、思召し出すに、大掖芙蓉未央柳、対此
如何涙不垂、
三月一日東大寺興福寺の僧綱本位に復し、寺領等も
とのごとく、知行すべき由宣下せらる、此上は大会
共に行はるべしと会議して、恒例の三会行はる、十
四日舎利会、十五日船若会つねのごとし、仏力は尽
ぬるかと思ひつるに、法燈の光消えずして、十六日
常楽会と申は、南閻浮提第一の会也といへり、されば
日本国の人、閻魔庁にさんだん有には、興福寺の常楽
会は拝みたりしかと、先一番に閻魔王の問給ふと申
伝へたり、されば鳥羽院の鳥羽殿を建立有りて、此
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会をうつして行はれ給けるは、恐らくは本寺には、
無下に劣りたりと云沙汰有りて、其後は又も行はれ
ざりけり、此寺の下は竜宮城の上に当りたる故に、
楽の拍子も舞の曲節も、殊にすむとかや、されば尾
張国より、熱田大明神の此見物に渡らせ給ふなれば、
河南浦と云舞をまふ、中門の前にて、三尺の鯉を切
りて、呑む様を舞とかや、河南浦の包丁、古徳楽の
酒盛とは、是を云成べし、別当僧正良円のさたとし
て、楽人の禄物、常よりも花を折りて、目出度見物
にてぞ有りける、
墨俣河合戦事
知盛重衡維盛以下の追討の使、去ぬる二月廿日、美
濃国杭瀬河まで下りたりけるが、源氏の大勢、尾張
国まで向ふと聞えければ、平家の軍兵、墨俣河の南
の鰭に陣を取て、源氏を相待つ所に、三月十一日の
曙に、東の河原に武者千騎計り馳せ来る、すなはち
東の河端に陣をとる、是は兵衛佐には伯父、十郎蔵
人行家と名乗る、又千騎計り馳せ来る、是は兵衛佐の

弟、鳥羽の卿公円全と云僧なり、常盤が腹の子、九
郎一腹一姓の兄なり、十郎蔵人に力を付んとて、兵
衛佐、千騎の勢を付てさし上りたりけるなり、十郎
蔵人が陣に二町計り隔てて陣を取る、平家は西の河
端に七千余騎、源氏は東の河原に二千余騎、河を隔
てて陣を取る、明る卯の刻に東西の矢合せと聞ゆ、
行家と円全と互に先を心にかけたり、同巳刻計に、
墨染の衣に桧笠頸に懸たる乞食法師一人、源氏の陣
屋に来て、経を読て物を乞ひけるを、警固見る者に
こそあんなれとて、是非なく搦め捕てけり、結付て
置たりければ、乞食殺させ給ふや、あら悲しや、飯
たべやなど申き、其法師め、足挟みて問へなどいひ
けるを聞て、此法師縄を引切て河へさと飛び入て、
およぎてにげけるを、あはさればこそとて人あまた
追懸て射ければ、矢の来る時は水のそこへつと入、
射止めばうき上る、浮きぬ沈みぬおよぎける程に、
平家のかたよりふねに楯をつかせて、河中に押合せ
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て船にとりのぼせて帰りにけり、さればこそ、すな
はち首を切ばやといひけれども叶はず、去程に暫く
有て、この法師褐衣の鎧直垂に、黒革威の鎧着て、
もみゑぼし引入て、鹿毛なる馬に乗て、河端に歩ま
せいだして河ごしに申けるは、人は高名して名乗こ
そいみじけれ、にげて名乗はおかしけれども、只今
捕はれて、河をおよぎけるは此法師なり、かく申は
主馬判官盛国が孫、越中前司盛俊が末子、近江の国
石山寺の住僧、悪土佐全蓮と名乗て入にけり、卿公
は平家けこみて一定渡されなんず、十郎蔵人に先を
懸られては、兵衛佐に面を合すべきかと思ひければ、
明日の矢合せを待けるが、余りに心もとなさに、人
一人も召し具せず、只一人馬に乗て陣より二町計り
歩せ上て、烏森といふ所をするりとわたして、敵陣
の前岸の陰にぞ扣へたる、十郎蔵人は夜の明ぼのに、
余波をつくりて河を渡さんと聞くより、円全今日の
大将軍と名乗懸んとおもひて、東やしらむ、夜や明

ると待懸たり、平家の勢十騎計、松明をてにてに灯
して河ばたを巡りけるに、峯の陰に馬を引立て、其
側に人こそ立たりけれ、是をみて、爰なる者は敵か
御方かと問ひたりければ、これを聞きて円全すこし
もさわがず、御方の者の馬かひひやし候と答へたり、
御方ならばかぶとをぬぎて名乗れといひければ、馬
にひたとのりて陸へ打あがり、兵衛佐頼朝が舎弟、
鳥羽卿公円全といふ者なりと名乗て、十騎が中へか
け入、十騎の者共中をさとわけて通しけり、円全は
三騎を打とりて二騎に手を負せて、残五騎に取籠め
られて討れにけり、十郎蔵人是を知らずして、卿公
に先をかけさせじとて、使を遣して卿公が陣を見せ
けるに、大将軍見え給はずと申ければ、さればこそ
とて十郎蔵人打立にけり、千騎の勢をば陣に置きて、
二百騎を相具して、稲葉河の瀬を歩ませて、河を西
へさと渡して、平家の中へぞ駈入ける、去程に夜も
明がたに成ければ、平家敵の大勢にて夜討に寄たり
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とさわぎけるが、火を出して見れば、わづかに二百
騎計なり、無勢にて有けるものをて、七千余騎に
て差向ひたり、十郎蔵人大勢の中にかけ入りて、時
をうつす迄戦ふに、大勢に取こめられて、手取足取
に捕はれし程に、二百余騎わづかに二騎に打なされ
て、河を東へ引退く、二騎の中一騎は大将軍とみえ
たり、赤地の錦の直垂に、小桜を黄にかへしたる鎧
に、鹿毛成馬に金ふくりんの鞍置てぞ乗たりける、
東の汀につきて、鎧の水はたはたと打て歩み行、大
将軍とは見けれども、平家無左右追はざりけり、
尾張源氏泉太郎重光百騎の勢にて、きのふより搦手
に向ひたりけるが、大手の鬨の声を聞て、平家の大
勢の中へ馳せ入けり、是も取こめられて、半分は討
れて残りは引退く、大将軍和泉太郎も討れにけり、
十郎蔵人は、墨俣の東に小熊と云所に陣を取る、平
家は七千余騎の勢にて押寄せたり、射しらまかされ
て引退く、二番には上総守忠清、一千余騎にて差向

ひたり、是も射しらまかされて引き退く、三番には
越中前司盛俊、千騎の勢にて向ひたり、是も射しら
まかされて引退く、四番には高橋判官隆綱、千騎の
勢にて向ひたり、是もしらみて引退く、五番には頭
中将重衡、権亮少将維盛、両大将軍二千余騎にて入
替りたり、平家七千余騎を、五手に分て戦ひければ、
十郎蔵人心計は猛く思へども、こらへずして小熊を
引退く、折津宿に陣を取る、折津の陣をもおひ落さ
れて熱田へ引退く、熱田にて在家をこぼちて、かい
だてを構へ、爰にて暫く支へたりけれども、熱田を
も追落されて、三河の国失矧河の東の峯に、かいだ
てを構へてささへたり、平家頓て矢矧へ追かくる、
河より西に扣へたり、額田郡の兵共走り来て、源氏
について戦けれども、叶ふべくもなかりければ、十
郎蔵人謀をして、雑色三人旅人の体に装束せさせて、
笠蓑持せて平家の方へ遣はす、何と聞く事あらば、
兵衛佐東国の大勢、只今矢矧に着て候時に、今落ち
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候つる源氏は、其勢と一つに候ぬらんといひて遣し
けり、案のごとく平家聞ければ、教のごとく申けれ
ば、聞ゆる東国の大勢にとり籠られてはいかがせん
とて、平家取物も取あへず、思ひ思ひに逃ふためき
て、同廿七日に都へかへり上りにけり、十郎蔵人は
乗替を方々へはせさせて、美濃尾張の者ども、平家
を一矢も射ざらん者は、源氏の敵なりと申させたり
ければ、源氏に心ざし有者ども、平家を追かけてさ
んざんに射る、平家は答の矢をも射ずして、西をさ
してぞ馳せ行ける、十郎蔵人は軍に負てはせ帰る、
水沢を後にすることなかれとこそいふに、河を後に
して戦ふ事尤もひがごとなり、今源氏の謀あしかり
けりとぞ申あひける、
十郎蔵人伊勢進願事
十郎蔵人三河国府より、伊勢太神宮へ、願書をぞ奉
りける、其願書に云、
伊勢野度会乃、伊鈴乃河上乃、下津磐根仁、大宮柱
広敷立天、高天原仁千木高知天、奉称申定、天照

皇太神乃広前仁、恐美申給恵止申、正六位上源朝臣
行家、去治承三年之比、蒙最勝親王勅、云、太相
国入道、自去平治元年以来、昇不当之高位、令
随百官万民之間、去安元元年、終不蒙勅定、
正二位権大納言藤原成親、同子息成経等、処遠流、
夫称同意之輩、院中近習上下諸人、其数令殺
害、其身或流、遠近無指事、智之[B 臣イ]前太相国入道以
下四十余人、処罪科、或今上聖主、奪位、譲于
謀臣之孫、或本新天皇入楼、已留於理政、又為
一院第二皇子当国之器、同四年五月十五日夜、俄
可被配流之由風聞、呑[B 奔カ]園城寺退入之処、以
左少弁行隆恣称漏宣、放天台山副於与力、或
仰護国之司集軍兵、已絶於皇法擬滅仏法
之処、早尋天武天皇之旧儀、討王位押取之輩、訪
上宮太子之古跡、已仏法破滅之類如元、国之政奉
仕一院、令諸寺之仏法繁昌、無諸社神事違例、
以正法治国、誇万民鎮天許、爰行家先跡者、
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昔天国押開給御宇、清和天皇王子、貞純親王七代
孫、自六孫王下津方、励武弓護朝家、高祖父
頼信朝臣、搦忠常蒙不次之賞、曾祖父頼義朝
臣、康平六年鎮奥州之党、後代為規摸、祖父義
家朝臣、寛平年中雖不経上奏、為国家不忠、
討武平家平等、威振于東夷、名上于西洛、親父
為義、奈良大衆之発向討止、鎮護王法、無宝位
驚、太上天皇之威及夷域、普照四海掌内、懸百
司心中、王事靡監、而去平治元年、此氏被止出
仕、後入道偏以武威、都城内蔑官事、洛陽之外
放謀宣、然則行家訪先代、天照太神初日本国岩
戸扉天、新豊葦原水穂濫觴之給、彼天降給聖体忝
行家三[B 六ヵ]十九祖宗也、垂跡以来、鎮護国家之誓厳重
天、冥威无隙之処、入道不恐神慮、企逆乱、是
所致愚意也、遙昇高位、所致朝恩也、又行
家親父朝臣、如太相国、誇私威非于起謀反、
依上皇之仰参白河御所許、然称謀反之仇、依

不仕朝廷、相伝所従、塞於耳目天不随順、
普代之所領者、被止知行無衣粮、独身不屑行
家、彼入道万一所不(レ)及也、然入道忽依起謀反
天、行家為防朝敵、東国下向天、頼朝朝臣相共、
且誘於源家子孫、且催相伝之所従、所企於上
洛也、如案任意、東海東山諸国已令同意畢、
是朝威之貴所致、且所令神明之然、百王守護之
誓、所令感応也、随又如風聞者、自太神宮放
鏑、入道其身已没、見之聞之上下万人、況宮中
民等、何人不恐於霊威、誰人不仰於源家、仰
東海諸国之神宮御領事、依先例分神役、可令
備進之旨、雖加先下知、或恐平家不(レ)可下
使者、或人令下使者、有奉納備進之所、不令
制止於神領、僅兵粮米催計也、早可令停止、
又始自院宮諸家臣下之領等、国々庄々之年貢闕
如之事、全不誤也、数多軍兵、或云源家、云大
名、参集思々之間、不慮外難済歟、就中、国郡
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村閭住人百姓等之愁歎、同難制止有多其煩、行
家同哀歎不少、雖切撫民之意、徒送数月、爰
行家帰参於王城、奉護於王尊、於頼朝者居
東州之辺堺、耀西洛之朝威也、神明必垂神願、
早鎮於天下給、縦云平家之兄弟骨肉、於護国
家之輩、速施於神恩給、又云源家之子孫累葉、
度有二意者、必令冥罰給、皇太神此状平安聞
召天、無為無事令遂於上洛、速成鎮護国家之衛
官[B 宮イ]給、天皇朝廷之宝位無動、源家大小従類、無
患夜守昼護幸給、恐々申給へと申、
治承五年五月十九日 正六位源朝臣行家
とぞ書たりける、四月廿日、兵衛佐頼朝を討べきよ
し、常陸国の住人佐竹太郎高義がもとへ、院の庁の
御下文を申さる、其故は、高義が父佐竹三郎昌義、
去年の冬、頼朝がために誅罰せらるる間、定めて宿
意有るらんとて、彼よしをぞんして、平家かの国の
守に高義を以て申任ず、これに依て高義頼朝と合戦

を致す、然れ共物のまねかさんざん[B 「さんざん」に「ちりちりイ」と傍書]に打ちらされて、
高義奥州へにげ籠りたり、去々年小松内大臣被薨
ぬ、今年又入道相国も失せられぬ、此上は平家の運
尽ぬる事顕れたり、然れば年来の恩顧の輩の外は、
従付もの更になし、去程に去年諸国七道の合戦、諸
寺諸山の破滅もさることにて、春夏の炎旱夥しく、
秋冬の大風洪水打続きてしかば、いつしか東作の業
を致すといへども、西収の業もなきがごとし、かか
りければ、天下大に飢饉して多く餓死に及ぶ、かく
て今年も暮にけり、明年はさりとも立直ることもや
とおもひしほどに、ことしは又疫癘さへ打そへて、
餓死病死の者数を知らず、死人砂の如し、されば事
宜しきさましたる人も、すがたをやつし、又さまを
かくしてへつらひありくかとすれば、病付きて打臥
し、ふすかとすれば軈て死しけり、かしこの木のもと
築地の脇、大路中門の前ともいはず、死人の横たは
れふす事算を乱せるが如し、されば車なども直にか
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よはず、死人の上をぞやり通はしける、臭香充満し
て行き通ふ人もたやすからず、さるままには、人の
家を片はしよりこぼちて、市に持ち出して薪のため
に売けり、其中に箔や朱やなどの付ける木の有ける
は、すべき方なき迷人の卒塔婆や、ふるき仏像など
やぶりて売りけるにや、誠に乱世乱漫の世といひな
がら、口惜かりしことどもなり、
平家物語巻第十二終