平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十三

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平家物語巻第十三
六月三日、法皇園城寺へ御幸あり、山科寺の金堂被
造始行事弁官など下さるべき由聞えけり、去二月
廿五日、城の四郎長茂、当国廿七郡出羽迄催して、
敵の勢かさを聞せんと、雑人まじりにかり集めて、
六万余騎とぞ記したる、信濃の国へ越んとぞ出立け
る、先業限あり、あすを越べからずとよばひて打立
つ、六万余騎を三手に分て、築摩越には浜小平太、
伴太郎、大将軍にて一万余騎を差遣はし、植田越に
は津張庄司大夫宗親、一万余騎を差遣はし、大手に
は城四郎長茂大将軍にて、四万余騎の勢を引具して、
越後国府に着きにけり、明日信濃へ越えんとする所
に、先陣争ふ者ども誰々ぞ、笠原平五、其甥平四郎、
富部三郎、閑妻六郎、風間橘五、家の子には三河次
郎、渋谷三郎、庇野太郎、将軍三郎、郎等には相津

乗湛房、其子平新大夫、奥山石見守、子息藤新大夫、
坂東別当、里別当、我も我もと争ひければ、城四郎
味方打せさせじとて、何れも何れも争はずして、四万
余騎を引具して、信濃国へうち越えて、築摩川横田
の庄に陣を取る、城四郎はあはれ急ぎ寄せて聞ゆる
木曾を見ばやとぞ申ける、木曾これを聞て兵を召け
るに、信濃、上野両国より走参ると云条、其勢千騎
には過ざりけり、当国の内白鳥河原に陣を取る、楯
六郎申けるは、親忠にいとまを給候へかし、横田河
原に打向ひて、城四郎が勢見て参らんとぞ申ける、
此儀然るべしとて親忠を遣はす、親忠乗替ばかり相
具して、白鳥河原をうち出て、塩尻ざまへあゆませ
行て見渡せば、城四郎が方より、横田、篠野井、石河
ざまに火を懸て焼払ひ、親忠是を見て大本堂に走せ
寄せて、馬よりおりて甲を脱ぎ、八幡宮を拝して、
南無帰命頂礼八幡大菩薩、今度の合戦に木曾殿勝給
はば、十六人の八乙女、八人の神楽男、同じく神領
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を寄進し奉んとぞ祈申ける、親忠帰参してしかじか
と申ければ、八幡宮焼せぬ先に討や者共とて、引か
け引かけ歩ませて、夜の暁に本堂に馳付て、願書を八
幡に納めつつ、すなはち打立けるに、瀬下四郎、桃
井五郎、信濃には木角六郎、佐井七郎、根津次郎、
海野大平四郎、小室太郎、望月次郎、同三郎、志賀
七郎、同八郎、桜井太郎、同次郎、野沢太郎、本沢
次郎、千野太郎、諏訪次郎、平塚別当、手塚太郎ぞ
争ひける、木曾は人々の恨をおはじとて下知せられ
けるは、郎等乗かへを具すべからず、むねとの者ど
もかけよとぞいはれける、此計ひ然るべしとて、百
騎の勢くつばみを並べて、一騎もさがらず築摩川を
さつと渡す、敵の陣を南より北へはたと懸渡して、
後へつと通り、又引返して南へ駈通りけり、城四郎
十文字にかけ破られたるこそ口惜けれ、今度の戦ひ
如何有んずらんと危くて、笠原の平五を招きていひ
けるは、無勢にたやすく破られたるこそ口惜けれ、

ここかけ給へと云ければ、笠原平五申けるは、頼直
今年五十に成候ひぬ、大小事合戦に廿六度合ぬれど
も、不覚を仕らず、爰をかけて見参に入候はんとて、
百騎計りの勢を相具して、河をさつと渡して名乗け
るは、当国の人々知音とくいにて、見参せぬはすく
なし、他国の殿原も音には聞らん、笠原頼直ぞよき
敵なり、打取て木曾殿の見参に入よと呼はりてかけ
廻る、是を聞て上野国に高山の人々三百余騎計かけ
出て、笠原が勢の中へかけ入てさんざんに戦ひける、
両方の兵ども目をすます、しばしこらへて東西へさ
つと引て退にける、高山が三百余騎の勢は五十余騎
にせめなされ、笠原が百騎の勢は五十七騎討れて、
残る四十三騎に成にけり、大将軍の前にのけかぶと
に成て、馬よりおりて合戦のやう如何御らんぜられ
つるぞと申せば、城四郎是を感じて、御辺の高名今
に始ぬことにて候、中々余人ならば嘆く所いくらも
候ものかなといはれて、誉るに増る詞なれば、すず
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しげにこそおもひたれ、木曾の方には高名の者ども
残り少く討れて、安からぬ事におもひてある所に、
佐井七郎五十余騎にて、築摩川をかけ渡る、緋威の
鎧に白星の甲着て、紅の母衣懸て白あし毛なる馬に、
白ふくりんの鞍置て、乗たりけり、是を見て城四郎が
方より富部三郎十三騎にてあゆませ出たり、富部は
赤革威の鎧に鍬形打たる甲の緒をしめて、母衣をば
懸ざりけり、連銭蘆毛なる馬に、金ふくりんの鞍置
てぞ乗たりける、互に弓手に懸合せて、信濃国の住
人富部三郎家俊と名乗を、佐井七郎はたとにらまへ
て、扨は君は弘資にはあたはぬ敵ござんなれ、聞た
るらんものを、承平の将門を討て名を上し俵藤太秀
郷が八代のすゑ、上野国の住人佐井七郎弘資と名乗
ければ、富部三郎取あへず、わぎみは次かな、氏文
よまんとおもひけるは、家俊が品をば何としりて嫌
ふぞとよ、今に是名乗ずしてあらば、富部三郎はいか
程の者なれば、横田の軍に佐井七郎に嫌はれて名乗

返さであるぞと、人のいはんずれば、名乗ぞとよ、
わぎみ慥に聞、鳥羽院の上北面に有し下野兵衛大夫
正弘が嫡子左衛門大夫家弘とて、保元の合戦の時、新
院の御方に候て合戦仕たりし、其故に奥州に流され、
其子に富部三郎家俊とて、源平の末座に附ども嫌は
ず、汝をこそ嫌ひたけれ、正なき男の言葉かなと、
いひもあへず十三騎くつばみを並べて、佐井が五十
余騎の中をかけ破て、後へさつとぬけては又取て返
して、堅様横様にさんざんにかく、佐井面もふらず
戦ひけり、佐井五十騎は十三騎に討なされにけり、
富部が十三騎は四騎に成、佐井は敵を嫌ひて爰を引
けば、人に笑はれなんずとおもひて退かず、富部は
嫌れし詞を安からず思ひて、佐井も富部も互に目を
懸て、弓手を弓手とにさし向て組ん組んとしけれど
も、家の子郎等押隔て押隔てしければ組ざりけり、両方
ひしめきて戦ふ程に、あなたこなたの旗差も討れに
けり、やみやみと成て大将軍と引組んで落もしらざ
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りけり、富部三郎軍にも疲れたる上薄手数多負たり
ければ、佐井七郎に首をとられにけり、佐井七郎此
首を高らかに差上て、富部をこそ討たれやとて引退
く、富部が郎等に、杵淵小源太重光と云死生不(レ)知の
兵あり、此程主に勘当せられて、越後国の供もせざ
りけるが、今度城四郎に付ておはすなれば、よから
ん敵一騎討取て、勘当ゆるされんと思ひて居たりけ
るが、軍有と聞て急ぎ馳来りて、富部殿はいづくに
と問ければ、あそこにただ今佐井七郎と戦けるこそ
そよと教へければ、むちを上ておめいて馳入て見れ
ば、敵も味方も死臥り、旗ざしもうたれて見えず、
我主の馬と物の具とを見てそこへ馳よりて、上野佐
井七郎殿とこそ承れ、富部殿の郎等杵淵重光と申な
り、軍より先に御使に罷りて軍に外れて候ぞや、そ
の御返事を申且は主君の御顔をも、今一度見参らせ
ばやとて参りたり、持せ給たる御首に向奉て御返事
申さんと言ければ、新手の奴には叶はじと思ひて、

鞭を上て逃る、重光は馬も疲れず、佐井七郎は我身
もよわりたり、二反ばかり先立たりけれども、五六
たんが内に追ひ詰て、馳並て引組でどうと落たり、
重光は聞ゆる大力の剛者にて有ければ、佐井七郎を
取て押へて首をかく、水もさはらず切れにけり、重
光は鞍のとつけに、我主の首の附たるを切落して、
敵の首に双べ置て、泣々申けるは、重光こそ参りて
候へ、人のざん言に依て、あやまちなき重光を勘当
せられて候つれども、聞も直られ候はんずらん、始
たる人に使はれて今参りといはれ候はんこと口惜候
へば、今度の軍によき敵打取て御勘当をゆるされ候
はんとこそおもひつるに、かく見なし参らせ候こそ
悲しけれ、重光候はば先討れ候て、後にこそ討れ給
べきに、遅く参りて討れさせ給たるこそ口惜けれ、
去ながら御敵の佐井七郎が首は直にとりて候ぞ、死
出の山をば安く越させ給へと申て、二の首を左右の
手に差上て、敵も味方も是を見給へ、佐井七郎殿の手
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に懸りて富部三郎殿は討れ給ひぬ、富部殿の郎等に
杵淵小源太重光、主の敵をばかくこそうてやとぞ申
ける、其時佐井七郎が家の子郎等三十七騎おめいて
かく、重光二つの首を結び合せて、取付につけて、
馬にひたと乗て太刀を抜き、中に馳入てさんざんに
戦ひ切落けるは、胡人が虎がり、縛多王が鬼がりと
ぞ覚えける、敵廿余騎打取て後へさつと出にけり、
追つくるものこそなかりけれ、其時重光申けるは、
敵も味方も御らんぜよ、終に遁るべき身ならねば、
主の供するぞやとて、太刀の先を口に含みて逆さま
に貫ぬかれて死にけり、是を見て惜まぬ者こそなか
りけれ、木曾是を見て、哀けのやつかな、あれ程の
者五十騎あらば、一万騎の敵なりとも面は合すまじ
とぞ宣ひける、城四郎は多勢なれども、皆かり武者
にて、手勢の者はすくなし、木曾は僅の無勢なれど
も、或は源氏の末葉、或は年頃の思ひ附たる郎等共
なれば、一味同心に入れ替へ入れ替へ戦ひけり、信濃源

氏に井上九郎光盛とて、殊にいさめる兵あり、内々
木曾に申けるは、大手に於ては任せ奉る、搦手に取
ては光盛に任せ給へと、相図をさしたりければ、本堂
の前にて俄に赤はたを作りて、赤鈴を付て、保科党
三百余騎を引具してかけ出る、木曾これを見て、怪
しみをなし、あれはいかにと問ければ、光盛日頃の
やくそく違へ奉るべき者と御覧ぜられ候か、只今御
らんじ候へとて、築摩川の端を艮にむかつて、城の
四郎が後陣へぞあゆませける、木曾下知しけるは、
井上は早駈出たり、からめて渡しはてて、義仲渡し
合せてかけんずるぞ、一騎もおくるな若党共とて、
甲の緒をしめて待所に、城四郎は井上が赤はたを見
付て、搦手に遣しつる津破庄司宗親が勢と心得て、
こなたへはな渡しそ、敵はむかへぞと使を立て下知
する所に、そら聞ずして築摩川をさつと渡して、敵
の陣の前に打上る、彼陣の前には大きなる堀あり、
広さ二丈計なり、光盛さしくつろげて堀を越す、向へ
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のはたにとび渡り、続いて渡る者あり、堀の底に落る
者もあり、光盛越はつれば赤旗かなぐり捨、白はた
をさつと上て申けるは、伊予入道頼義舎弟乙葉三郎
頼遠が子息、隠岐守光明孫浅羽の次郎長光が末葉、信
濃国住人井上九郎光盛、敵をばかくこそたばかれと
て、三百余騎の馬の鼻をならべて、北より南へかけ
通る、大手の木曾二千余騎にて南より北へかけ通る、
搦手も大手も取て返し取て返し、七より八よりかけけれ
ば、城四郎が大勢四方へかけ散されて、むら雲だち
にかけなされて、立合ふ者は討れにけり、逃る者は
大やう川にぞ馳こみける、馬も人も水におぼれて死
にけり、大将軍城四郎、笠原平五返合せて戦けるが、
長茂はこらへかねて、越後へ引退く、川に流るる馬
や人は、くがより落る人よりも先に湊へ流れ出づ、
笠原平五山に懸りて、かひなき命生きて申けるは、世
世生々子々孫々に伝ても、頼むまじきは越後武者の
方人なり、今度の大勢にては、木曾をば生どりにもし

つべかりつるものを、逃ぬることこそ運の極なれと
て、出羽国へぞ落にける、木曾横田の軍に切かくる
所の首五百余人なり、即城四郎が跡につきて、越後
の国府に着たれば、国の者ども皆源氏に従ひける、
城四郎安堵しがたかりければ、会津へ落にけり、
北陸道七ヶ国の兵皆木曾に附て、従ふ輩誰々ぞ、越
後国には稲津新介、斎藤太、平泉寺長吏斉明威儀
師、加賀国には林、富樫、井上、津能、能登国には
土田の者共、越中国には野尻、石黒、宮崎、佐美太
郎等、是等互に牒状を遣して申けるは、木曾殿こそ
城四郎打落して、越後の国府に着てせめ上て御座す
なれば、いざや志ある様にて、召されぬ先に参らんと
言ければ、仔細なしとて打連れ打連れ参れば、木曾悦
で信濃馬一疋づつぞ給りたりける、扨こそ五万騎に
成にけれ、定めて平家の討手下らんずらん、京近き
越前国の火打城を拵へて籠候へと下知し置て、我身
は信濃へ帰りて、横田の城にぞ住しける、七月十四
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日改元有て、養和元年とぞ申ける、
八月三日、肥後守貞能鎮西へ下向す、太宰少弐大蔵
権亮が謀叛の聞え有に依て、為追討也、
九日官庁にて大仁王会被行、承平将門が乱逆の
時、座主奉にて是を被行例とぞ聞えし、其時朝綱の
宰相の願文を書てしるし有と聞えしかども、今度は
さる沙汰も聞えず、
廿五日除目に城四郎長茂彼国守に被成、同兄城太郎
資長、去十二月廿五日他界間、長茂任国す、奥州の
住人藤原秀衡彼国守に被任、両国ともに似頼朝義
仲為追討也とぞ聞ゆ、書には被載たりけれども、
越後国は木曾押領して、長茂を追落す上は、国務に
も及ばざりけり、廿六日中宮亮通盛、能登守教経以
下北国へ下向す、木曾義仲を追討の事は、城四郎長
茂に仰附たれども、猶下し遣す官兵、九月九日越後
国にして源氏と合戦す、平家終に追落されにけり、
かかりければ、廿八日左馬頭行盛、薩摩守忠度、軍

兵数千騎を率して、越後国へ発向す、兵革の御祈一
方ならず、さまざまの御願を立られ、諸社に神領を
寄られ、神紙官人諸社の宮司、本宮末社までをのをの
祈申べき由院より仰せらる、諸寺の僧綱、神社仏閣
まで調伏の法を行はれ、天台座主明雲僧正は摂政殿
の御さたにて、根本中堂にして七仏薬師の法を行は
れ、園城寺の円恵法親王は新宰相泰通の奉にて、金
堂にて北斗尊星王法を行はれ、仁和寺の守覚法親王
は九条大納言有遠の奉にて、孔雀法を被行、此外諸
僧勅宣を奉て、不動、大元、如意輪法、普賢延命、大熾
盛光法に至る迄、をのをの肝胆を砕きて被行けり、
院御所にては五檀の法を行はれ、中檀の大阿闍梨は
房覚前大僧正、降三世の檀は昌雲権僧正、軍荼利は
覚誉権大僧都、大威徳は公憲大僧正、金剛夜叉は朝
憲僧正等、面々抽忠勤丹精をいだして行はる、逆
臣いかでか亡ざらんとぞ人申ける、又日吉社にて謀
叛の輩を調伏のために、五檀の法を三七日始行しに、
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初七日の第五日に当りて、降三世の大阿闍梨覚算法
印、大行事の彼岸所にて寝死に死にけり、神明三宝
も御納受なしと云事既に焉也、又朝敵追討の仰を
奉て、大元法を被行ける、安祥寺の実厳阿闍梨、御
巻数を進たりけるを披露有る所に、平家追討の由注
進したりけるこそ浅ましけれ、仔細を尋ねらるる所
に、申けるは、朝敵を調伏の由被宣下間、当時の
体を見るに、平家こそ朝敵とは見えたれ、仍て平家
を調伏す、いかにとが有るべきやとぞ申ける、平家此
事を憤りて、この僧流罪にや行はるべき、いかがす
べきとさたありけれども、大少事怱劇にて、何とな
くやみぬ、さる程に平家亡びて、源氏の世となりし
かば、源氏大にかんじて仔細を奏聞す、法皇ことに
御感ありて、其勧賞に権律師になされにけり、又去
十一日に神紙官にて神饗例幣を廿一社に立られ、十
四日鉄の御甲冑を太神宮へ奉らる、昔天慶に将門を
追討の御祈に、鉄の鎧甲を奉られたるが、去嘉応元

年十二月廿一日の炎上の時焼にけり、今度もその例
とぞ聞えし、御使は神紙権少副大中臣定隆これを勤
む、父祭主も同じく下向す、同十七日伊勢離宮院に
下着す、申の時ばかりに天井より一尺四五寸ばかり
成くちなは落かかりて、定隆が左の袖の中へはひ入
にけり、怪しと思ひて袖を振ひけれども見えず、座
をたちて上の衣を脱て懐を見れどもみえず、不思議
かなとて扨止ぬ、折節人々数多寄合ひて酒を呑ける
に、何となく日も暮にけり、扨其の夜の丑の刻計に、
定隆寝入ながら苦しげにうめきければ、父の祭主い
かにいかにと驚かしけれども驚かず、すでにいき少く
みえければ、築地より外にかき出したりければ、定
隆頓て死にけり、父の祭主忌に成ぬ、去る程に奉幣
使の中臣に事の闕たりければ、大宮司祐成がさたに
て、藤侍従従五位下在信以下を遣して、次第に御祭
に成にけり、此外臨時の官幣を立て、源氏追討の御祈
有けるに、宣命に雷電神猶三十六里をひびかさず、況
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や源頼朝日本国を響すべしやと書くべかりけるを、
源氏頼にと書れたり、宣命の外記奉て書例成に、態
とは書あやまたじ、是も可然失錯也、頼の字は資く
といふよみあり、源をたすくと書れたり、僧も俗も
平家の方人する者は、忽に亡びにけるこそ怪しけれ、
されば神明も三宝も御納受なしといふこと掲焉也、
十一月今年諒闇に成しかば、大嘗会又行はれず、大
嘗会は天武天皇の御時より始れり、七月以前御即位
あれば、其年の内に行はるることなれども、去年は
遷都にて有しかば、新都にて叶ふべくもなかりけれ
ば、さまざまの評定ありて、五節計ぞ形のごとく行
はれて、終に行はれず、今年又諒闇なればさたにも不
及、大嘗会延引の例は平城天皇の御時、大同二年御
禊有て、十一月に大嘗会行はるべかりしを、兵革に依
て同三年十月に御禊有て、十一月にとげ行はる、嵯峨
天皇の御宇、同四年大嘗会有べかりけるを、平城宮
を作らるるに延引して、次の年弘仁元年十一月にぞ

行はれける、朱雀院の御時は承平元年七月十九日、
宇多院失させ給ひしかば延にけり、三条院の御時、
寛弘八年十一月廿四日、冷泉院の御ことに依て行は
れず、次の年長和元年にぞ行はれける、次の年まで
延ける例は有といへども、二ヶ年延引の例は未だ聞
及ばず、去年新都にてその所なかりしかば、力及ば
ず、大極殿、豊楽院は未だ作り出さず、三条院の御
時の例に任せて、太政官庁にて行はるべかりつるに、
天下諒闇になりぬる上は、とかくの仔細に及ばず、
二ヶ年まで延ぬること、いか成べきことやらんと入
怪しみ申けり、
十二月三日皇嘉門女院失させ給ひぬ、御年六十一、
是は法性寺の禅定殿下の御娘、崇徳院の后、院讃岐
へ遷されましましし時の御物、思いか計なりけん、
おもひやるこそ哀なれ、命限りある御ことにて、思
ひには死なれぬなれば、頓て御出家ありて、一向後
生ぼだいの御いとなみより外は、他事おはしまさざ
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りければ、院の御ぼだいの賽共也、我御身の御得道
も疑ひなし、したがひて時を覚えさせ給て、最期の
御あり様目出たく、仏前に霊香有、御善知識には大
原来迎院の本成坊湛敬とぞ聞えし、昔の御名残とて
残らせ給たりつると覚えて哀也、同六日戌の刻計に、
前座主覚快法親王失させ給ぬ、是は鳥羽院第七の宮
にて渡らせ給ふ、御年四十八とぞ聞えし、十三日院
御所わたましあり、公卿十人、殿上人四十人供奉し
て、うるはしき粧ひにてぞ有ける、もと渡らせ給ひ
し法性寺殿の御所をこぼちて、千体御堂の旁に作れ
り、女院方々すへ並べ参らせて、思召すさまにてぞ
渡らせ給ひける、
養和二年壬寅改元あり、寿永元年と号す、正月一日
諒闇に依て節会も行はれず、十六日踏歌の節会もな
く、当帝御忌月たるに依て留めらる云々、二月廿三
日、太白犯昴星、是重変也、天文要録云、太白犯
昴星、大将軍失国堺、又云、四夷来在兵起事とい

へり、
四月十四日、前権少僧都顕真、貴賎上下をすすめて、
日吉の社にて如法に、法華経一万部を転読すること
ありけり、法皇御結縁のために御幸成たりける程に、
何者がいひ出したりけるにや、山門の大衆法皇を取
奉て、平家を討んとすると聞えしかば、平家の人々
さわぎ合て六波羅へはせ集る、京中の貴賎まどひあ
へり、軍兵内裏へ馳参て四方の陣をかたむ、十五日
本三位中将重衡卿大将軍として、三十騎の官兵を相
具して、日吉の社へ参向す、山上には又衆徒源氏と
与力して、北国へ通ふよし平家洩れききて、山門追
討の為に軍兵既に東坂下に寄すると聞えければ、大
衆くだりて大宮門楼の所に三塔会合す、かかりしか
ば山上、洛陽騒動夥しきこと斜ならず、法皇大に驚
かせおはしまして、供奉の公卿、殿上人色を失へり、
北面の輩の中には黄水をつく者もありけり、此上は
むやくなりとて急ぎ還御なりぬ、重衡の卿穴穂辺に
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て向へとり奉りて帰りにけり、誠には大衆平家をせ
めんと云事もなし、平家又山門を追討せんと云事も
なし、何れも何れもあと方なきこと共なり、是偏に天狗
の所行也、御結縁も打さましつ、かくのみあらば、御
物詣も今は御心に任すまじきやらんとぞ思召ける、
五月廿四日臨時に廿二社の奉幣使を立らる、飢饉疾
疫によつてなり、九月四日、右大将宗盛大納言に還
任して、十月三日内大臣に成り給ひ、大納言の上臈五
人超られにき、中にも後徳大寺左大将実定一の大納
言にて、花族英雄才覚優長にて御座ますが、大将の
時といひ此度といひ、二か度まで超られ給ひしこそ
ふびん成しか、七日兵仗を給はりぬ、十三日賀申あ
りき、当家他家の公卿十二人、扈従蔵人以下、殿上
人十六人前駈す、我劣らじと面々にきらめき給ひし
かば、目出たき見物にてぞ有ける、東国、北国の源
氏蜂のごとくに起り合ひて、只今せめ上らんとする
に、浪の立、風の吹やらんも知らず、花やか成こと

のみ有も、いひがひなくぞみえし、かく花やか成こ
とはあれども、世の中は猶静まらず、南部北嶺の大
衆、四国九国の住人、熊野、金峯山の僧徒、伊勢太
神宮の神官、宮人に至るまで、悉く平家を背きて源
氏に心を通はす、四方に宣旨を下し、諸国へ院宣を
下さるといへども、宣旨も院宣も皆平家の下知との
み心得ければ、したがひ附もの一人もなかりけり、
廿一日大嘗会御禊〈 三条が末 〉、十一月廿日大嘗会〈 近江丹波 〉行はる、
かくて年も暮ぬ、
寿永二年正月一日、節会以下常のごとし、三日八条
殿の拝礼あり、今朝より俄にさたありけり、鷹司殿
の例とかや、建礼門院は六波羅の泉[B 池イ]殿に渡らせ給ふ、
其御所にて此事あり、中次は左少将清経朝臣、公卿九
人、内大臣宗盛、平大納言時忠、按察使頼盛、平中
納言教盛、新中納言知盛、修理大夫経盛、三位侍従
清宗、三位中将重衡、新三位中将維盛、殿上人十三
人、頭蔵人右大弁親宗朝臣、右中将隆房朝臣、右中
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将資盛朝臣、薩摩守忠度朝臣、但馬守経正朝臣、右
中将清経朝臣、勘解由次官親国、左馬頭行盛、八条
殿の御方に可有拝礼由は、御せうとの左衛門督申
行はれたりけり、皇后宮母后に准じ給ひければ、拝
礼なかりけり、八条殿の拝礼さし過てぞ覚ゆる、二
条の大宮にも上西門院母后に被准けれども、拝礼な
かりしものを、東国北国の乱天下静ならず、世すで
に至極せり、今は入舞にやとぞ宰相入道成頼は被申
けるとかや、世を遁れ深き山に籠り居たまへ共、折
節に附てはかくのみぞ申されける、うるはしき人に
思ひ奉りけり、
二月二日、当今始て朝拝の為に、院御所、蓮花王院
の御所へ行幸あり、鳥羽院六歳にて朝覲行幸あり、
其例なり、正月御忌月なれば此月に及べり、建礼門
院夜拝ありと聞ゆ、新中納言帛袷敷新めたりけるが、
女院の御座上敷したり、平大納言時忠卿見とがめて、
新中納言知盛を以て敷直されにけり、

三月廿五日官兵今日門出すと聞ゆ、来る四月十七日
に北国へ発向して、木曾義仲を追討のためなり、
廿六日宗盛公従一位に叙せらる、廿七日内大臣を辞
し申さるれども御許なし、只重任を遁れむがため也、
八条高倉の亭にて此事あり、平大納言時忠卿、按察
大納言頼盛卿、新中納言知盛卿、左三位中将重衡卿、
右大弁親宗朝臣ぞ御座ける、その外の人は見えざり
けり、
去比より兵衛佐と木曾冠者と不和の事ありて、木曾
を討たんとす、其故は兵衛佐は先祖の所なればとて、
相模国鎌倉に住す、伯父十郎蔵人行家は、太政入道の
鹿島詣でと名付て、東国へ下あるべかりけるに、大庭
三郎がさたとして、作りまうけたりける相模国松田
の御所にぞ居たりける、所領一所もなければ、近隣
の在家を追捕し、夜討強盗をして世をすごしけり、
或時行家兵衛佐の許へいひ遣しけるは、行家御代官
として美濃国の墨俣へ向ふ事十一ヶ度なり、八ヶ度
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は勝て、三ヶ度は負ぬ、子息を始として家の子郎等
ども多く打取られぬ、其歎き申ばかりなし、国一ヶ
国預けたまへ候へ、是等が孝養せんとぞ書たりける、
兵衛佐の許より則返事あり、其状にいはく、木曾冠
者は信濃、上野両国の勢を以て北陸道七ヶ国を討取
て、已に九ヶ国の主に成て候也、頼朝は僅六ヶ国こ
そ打従へて候へ、御辺もいくらの国を討んとも御心
にてこそ候はめ、院、内よりも当時頼朝が支配にて、
国庄を人に分与ふべしと云仰をも蒙り候はずと有け
れば、行家兵衛佐を頼て、世に有ん事有がたし、木
曾を頼まんとて、千騎の勢にて信濃へ越にけり、兵
衛佐是を聞て、十郎蔵人がいはんことに附て、木曾
は頼朝をせめんと思ふ心附てんず、おそはれぬ先に
急ぎ木曾を討んとぞ思ひける、折節甲斐源氏武田五
郎信光兵衛佐に申けるは、信濃木曾次郎は去年六月
に越後城四郎長茂を討落してより以来、北陸道を管
領して、其勢雲霞のごとし、梟悪の心をさしはさみ

て、平家のむこになりて、佐殿を討奉らんとはかる
由承る、平家をせめんとて京へ打上る由聞ゆれども、
まことは平家の小松内大臣の女子の十八に成候なる
を、伯父内大臣の養子にして、木曾をむこに取らん
とて、内々文ども遣し候なるぞ、其御用意有るべし
と密かに告申たりければ、佐大に怒りて、十郎蔵人
が語ふに附て、さる支度有るらんとて、鎌倉を立て北
国へ向はんとしけるを、其日坎日と成ければいかが
有るべき、明る暁にて有べき物をと老輩諌め申けれ
ば、佐宣ひけるは、昔頼義朝臣貞任が小松の館をせ
め給ひける時、今日往亡日也、明日合戦すべしと人
人申されければ、武則先例を勘へて申けるは、宋の
武帝敵を討しこと往亡日也、兵の習ひ敵を得て以て
吉日とすと申て、小松の館を打落したりけり、況や
坎日何の憚か有べき、先規を存ずるに吉例なりとて
打立たり、木曾此由を聞て、国中の勇士を卒して、
越後国へ越て、越後と信濃の境関山と云処に陣を取
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て、厳敷固めて兵衛佐を待懸たり、兵衛佐は武田五
郎を先に立て、武蔵、上野を打通り、臼井坂に至け
れば、八ヶ国の勢共我劣らじと馳重なりて、十万余
騎に成にけり、信濃国佐樟川の端に陣を取、義仲此
事を聞て、軍は勢の多少に寄るべからず、大将軍の
冥加の有無に寄るべし、城四郎長茂は十万余騎と聞
えしかども、義仲二千余騎にてけちらしき、されば
兵衛佐十万余騎と聞ゆれども、さまでのことはよも
有らじ、但当時兵衛佐と義仲と中たがひたるは、平
家の悦にて有べし、いとどしく都の人の、平家は皆一
門の人々思ひ合ひて有しかば、おだしくて廿余年を
も保ちつれ、源氏は親を討ち子を殺し同士討せん程
に、又平家の世にぞならんずらんと云なれば、当時
兵衛佐に敵対するに不(レ)及とて引返し、信濃へ越えけ
るが、又いかが思ひけん、猶関山を固めさせて、越
後の国府へ帰りにけり、木曾是より兵衛佐の許へ文
を遣はす、其状にいはく、殿は源氏の嫡子の末なれ

ば、大将軍と仰ぎ奉り、義仲は次男の末なれば、如
本意平家をせめんと思ふ心ざし深し、然るを今何の
故を以て義仲をせめらるべきぞと申、兵衛佐此文を
見て、たばかりいふらめとて返事なし、木曾重ねて
状を遣はす、顕には八幡大菩薩御照覧わたらせ給ふ
べし、内には鎌倉殿の御代官と存る所に、義仲追討
の由存外の次第也、内に附外に附虚言を申ならば、
仏神の冥罰神罰を義仲罷蒙るべしと詳に書れたり、
此文を兵衛佐驚きて返事はせず、天野藤内遠景と岡
崎四郎義実二人を使者として、佐宣ひけるは、木曾
次郎にあひて言んずる様はよな、平家内には違勅の
族なり、外には相伝の敵也、然るを今頼朝かれを可
追討之由、承院宣条、生涯の天恩にあらずや、且
は君を敬奉り、且は家をおもひ給はば、尤可有合
力の処、一族の義を忘れて、平家と被同心之由洩
承る間、実否を承らん為に是迄参向する所なり、十
郎蔵人がいはんことに付きて、頼朝を敵とし給ふか、
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さも有るべくば蔵人を是へ返し給へと申さるべし、
返さじと申さば、御辺の子息清水太郎義守を頼朝に
たべ、隔てなき人と頼み奉らん、頼朝は成人の子を
持ねばか様に申す也、彼をも是をも仔細を申さざれ
ば、頓て押寄せて勝負を決すべしと慥にいふべし、
面まけて云かいはぬか慥に聞けとて、足立新三郎清
経と云雑色を差添へて遣しけり、此こと申さんとて
罷り向ふ所に、犀川の水増りて三日逗留す、此事聞
えて犀川に浮橋を渡して、二人の御使を迎へよす、
天野藤内罷向ひて、面も振らず少しもおとさず、兵衛
佐の詞の上に己が詞を加へてしたたかにぞいひたり
ける、木曾是を聞て、根井小室の者共を召集めて、
我心にて我身の上の事ははかりにくきぞ、是計へと
云ければ、郎等ども一同に申けるは、日本国は六十
余ヶ国と申を、僅に二十余ヶ国をこそ源氏は討取ら
せ給ひて候へ、今四十余ヶ国は当時平家の儘にて候、
打あけられたる所もなくて鎌倉殿と御中違はせ給候

ては、平家の悦にてこそ候はんずらめ、蔵人殿返ら
じと候はば、何かくるしく候べき、清水の御曹子を
鎌倉殿へ渡し参らせさせ給へかしと申ければ、木曾
がめのと子今井四郎進み出で申けるは、恐れたる申
事にて候へ共、おのおの悪く申させ給ふ者哉、弓矢取
の習は後日を期する事はなき者を、遠くしては御中
よかるべし共覚え候はず、多胡先生殿をば悪源太殿
の討参らせておはしませば、親の敵とぞ思ひ給ふら
んと、定めて鎌倉殿もおもひ給ふらん、何様にも一
軍さは候はんずらんものを、唯はや事のついでに、
御冥加のほどをも御らんぜよかしと云ければ、木曾
是を聞て、今井はめのと子也、根井小室は今参なり、
めのと子が云はん事に附て、是等がいふことを用ひ
ずば定めて恨みなんず、是等にすてられてはあしか
りなんとて、使をたぞと聞すれば、天野藤内遠景、
岡崎四郎義実と申ければ、聞ゆる者共也、岡崎の四
郎は三浦介が弟、東国にはおとな也、天野藤内はか
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まくら殿のきりもの也、能き者共にて有けり、是へ
とて出屋へ請じ入て、木曾殊に引繕ひて対面す、木
曾申けるは、御使おのおの心得て申給へ、十郎蔵人
殿は鎌倉殿の御為にも、義仲がためにも、伯父にてお
はする人の打頼みて越され候間、すげなくあたり奉
らん事、其憚少なからず候ほどに、只有か無かにて
こそ候へ、それを出すか出さぬかとの仰せは、存の
外におぼえ候、おやかたなどをいかでか出し参らせ
候はんとも、出し参らせじとも申候べき、清水の冠
者は子にて候へば、何事も仰に従ひて参らせ候べく
候、義仲が参りて宿直宮仕のごとくに思召され候べ
し、義仲一方へむかひ候とも、御代官にてこそ候へ
と、能々心得て申され候べしとて、歳十一歳に成清
水冠者を呼出して、おのれは子共多しといへども、
初めに儲けたる子なれば、身をはなたじと思へども、
鎌倉殿の子にせんと乞はるれば遣すぞ、義仲に宮仕
と思ひて、鎌倉殿を背べからず、少も命を背くもの

なれば切られんずるぞ、そこを心得てふるまへ、平
家を攻んといふ志も、子どもを世に有せんが為なり、
義仲にはなれたればとて心細く思ふべからず、たと
へ副たりといふとも、果報なくば運命縮まるべし、
はなれたりと云とも、果報あらば親子の契り浅から
じ、一所に寄合ふべきなり、そこを心得て鎌倉殿の
命を少しもたがふべからずと宣ひければ、清水御曹
子さすが十一歳の人なれば、とかく返事もし給はず、
父の宣ふ事ごとにさ承候ぬと計宣ひて、母やめのと
の方へ行て宣ひけるは、冠者をば鎌倉殿の子にせん
と宣へばとて遣はされ候なり、二たび見参らせ又み
え参らせ候はんこともかたく候べし、其故は鎌倉殿
と父御前とは、親しくおはしまし候と承候に、させ
るすごしたる御ことも候はねども、父御前を討参ら
せんとて越られて候也、去程に情なき人にておはし
まさんずる上は、少しも御命を背くならば切られん
ずるぞと、父御前も仰候、是最期の別れにて候はんず
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るにこそ、自らかひなき命ながらへて、罷帰らんほ
どのかたみにせさせ給へとて、笠懸七番射て、母や
めのとにみせければ、母もげにも是がみ果にや有ら
んとて、泪を押へて見給けるこそ悲しけれ、其後木
曾二人の使に酒をすすめて、種々の引出物の上に信
濃馬一疋づつひかれけり、心得て申されよとて、清
水冠者をぞ遣はしける、二人の御使共御曹子を請取
てぞ帰りにける、清水冠者には同じ年成侍二人うぶ
ごやの太郎行氏、海野小太郎重氏と云ける者をぞ附
たりける、清水冠者は道すがら歎きければ、いかに
かくは渡らせ給ふぞ、幼けれども弓矢の家に生れぬ
るは、さは候はぬものを、まさなしと申ければ、義隆
かくぞいひける、
はや来つる道の草葉や枯ぬらん
あまりこがれてものをおもひば W099 K127
といひたりければ、重氏
思ふには道の草葉もよもかれじ

涙のあめのつねにそそげば W100 K128
武田五郎信光木曾をあたみて、兵衛佐に讒言しける
意趣は、彼清水冠者を信光聟に取らんと云けるを、
木曾請ひかで返事に申けるは、同じ源氏とてかくは
宣ふか、娘持たらば参らせよ、清水冠者につがはせ
んといひけるぞ荒かりける、信光是を聞て安からず
思ひて、いかにもして木曾を失はんと思ひて、兵衛
佐に讒言したりけると後には聞えけり、兵衛佐木曾
が返答を聞て、尤本意也、元よりさこそ有べけれと
て、清水冠者を相具して、鎌倉へ引返しけり、義仲
は木曾に帰りて、きり者三十余人が妻どもを呼び集
めて申けるは、各々が夫共の身代に清水冠者を遣しつ
る也、いかにと云に、冠者を遣さぬ物ならば、鎌倉殿
打越えて軍あるべし、軍あらば義仲も恥をおもへば
手は引まじ、和人共の夫々も討死すべし、されば世
の中を鎮めんとて、清水冠者を嫡子なれども引放ち
てやりつるぞと宣ひて、猛き心なれども涙をぞ流さ
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れける、三十余人の女房ども是を聞て、あな忝なの
御ことや、か様に思召されたる主を打すて参らせて、
妻子共が恋にければとて、何くの浦よりも落来らん
夫共をば、あひみ候はじ、照る日月の下にすまじ、社
社の前を通らじと、おのおの起請を書てぞ立たりけ
る、夫共は是をみて手を合せて悦びけり、
四月十七日、木曾義仲を追討の為に官兵等北国へ発
向して、次東国にせめ入て、兵衛佐頼朝を追討すべき
由聞えけり、大将軍には権亮三位中将維盛卿、越前
三位通盛卿、薩摩守忠度朝臣、三河守知度朝臣、但
馬守経正朝臣、淡路守清房朝臣、讃岐守維時朝臣、
刑部大夫広盛、侍大将には越中前司盛俊、同子息越
中判官盛綱、同次郎兵衛盛次、上総守忠清、同子息
五郎兵衛忠光、同七郎兵衛景清、飛騨守景家、同子
息大夫判官景高、上総判官忠経、河内判官季国、高
橋判官長綱、武蔵三郎左衛門尉有国以下、受領検非
違使、靱負尉、兵衛尉、有官輩三百四十余人、大略

数を尽す、其外畿内は山城、大和、摂津、河内、和
泉、紀伊国の兵共、去年の冬の頃より催し集められた
り、東海道には遠江已東の者共こそ参らざりけれ、
伊賀、伊勢、美濃、尾張、三河の者共少々参りけり、
東山道には近江、美濃、飛騨三ヶ国の者共少々参り
けり、北陸道には若狭已北の者ども惣て一人も参ら
ず、山陰道には丹後、但馬、因幡、伯耆、出雲、石
見、山陽、南海、西海道、四国の者どもは参らざり
けり、播磨、美作、備前、備中、安芸、周防、長門、豊前、
筑前、筑後、大隅、薩摩、此国の人々も去年の冬よ
り召集められ、明年は馬の草飼に附て、合戦有べしと
内儀有けれども、春も過夏に成てぞ打立ける、其勢
十万余騎、大将軍六人、宗徒の侍廿余人、先陣後陣
を定むる事もなく、思ひ思ひに我先にと進みけり、
此勢には何か面をむくべき、只打従へなんずとぞ見
えし、片道を給てければ、路次に逢たる者をば、権門
勢家をいはず、正税官物といはず、逢坂より奪ひ取
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ければ、狼藉斜ならず、大津、唐崎、三津、山田、
やばせ、まの、高島、比良の麓、塩津、海津に至る
迄次第に追捕す、人民山野に逃隠る、義仲此事を聞
て、我身は信濃に有ながら、平泉寺長吏斉明威儀師
を大将にて、稲津新介、斎藤太、林、富樫、井上、
津幡、野尻、川上、石黒、宮崎、佐美が一党、落合
五郎兼行等を始として、五千余騎にて越前国火打城
をぞ堅めける、火打城元より究竟の城なれば、南は
荒地、中山、近江の湖、北の橋、塩津、海津、浅妻の
浜に続き、北は海津、柚尾山、木辺、戸倉と一なり、
東は帰[B ル]山の麓、越の白根に続きたり、西は能美、越
海山ひろく打廻りて、越路はるかにみえ渡り、磐を峙
て山高く立上て、四方峯を連ねたりければ、北陸道
第一の城郭也、山を後にして山を前に当つ、両峯の
間城郭の前、東より西へ大き成山河流れ出たり、大
きなる巌を重ねて、柵にかきて水をせき留たり、あ
なたこなたの谷をふさぐ、南北の岸夥し、水の面遙

に見え渡りて、水海のごとし、かげ南山を浸して、
青くして滉瀁たり、浪西日を沈めて、紅にして〓淪
たり、かかりければ舟なくしては輙く渡すべきやう
もなかりけり、
四月廿七日、平家の軍兵火打城にせめ寄せたり、城
の有様いかにして落すべしともみえざりければ、十
万余騎の勢向への山に宿して、徒に日を送る程に、
源氏の大将軍斉明威儀師、平家の勢十万余騎に及べ
り、かなはじとや思ひけん、忽に変ずる心有て、我
城をぞせめさせける、或時城の中より平家の方へ鏑
矢を一射懸たり、怪しと思ひて取てみれば、中に結
びたる文あり、是をとりて見れば、城の内へ寄すべ
き様をぞ書たりける、此川のはたに五町ばかり行て、
河の端に大き成椎の木あり、彼木のもとに瀬あり、
おそが瀬と云、其瀬を渡りて東へ行けば、ほそぼそ
したる谷あり、谷のままに二三町計行けば道二わか
れたり、弓手なる道は城の前へ通りたり、めでなる
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道は後へ通りたり、此道を城の後へ押寄せて、軍の
鬨を作り給へ、鬨の声を聞ならば城に火を懸候べし、
然ば北へのみぞ落候はんずる、其時大手を押合せて
中に取込めてうち給へ、又川は山川をせき上て候へ
ば、河尻へ足軽を廻してしがらみを切落し候はば、水
はほどなく落候べし、斉明が一党五十余騎にて城の
後へ落候べし、若敵かとて闇紛れにあやまちし給な、
頓て御方へ参候べし、外戚に附て親しかりければ、
越中次郎兵衛殿へとぞ書たりける、平家の軍兵是を
見て、是はたばかりておびくやらんと思ひけれども、
ことの体さも有なんと思ひければ、よき兵五百余騎
を選びて遣しけり、状に書たる旨に任せてあゆませ
行けば、河端に椎の木あり、瀬あり、打入て渡せば、
鐙のはなも濡ざりけり、打越て見れば谷あり、道あ
り馬手なる道を行けば、案のごとく城の後へぞ出た
る、又教のごとくしがらみを切落しければ、夥しく
見えつる水もへりぬ、甲の緒をしめ、やなみかいつく

ろひて、勢を待揃へて声をととのへて鬨を作る、頓
て城のうちより火を出す、是をみて敵既に打入て火
を懸たりとて、城のうちに籠りたる者どもあわてさ
わぎて、我劣らじと木戸を開き、北へぞまどひ落け
る、平家の大半[B 軍カ]押寄せて、中に取込めて戦ひければ、
源氏の軍兵数を知らず討れにけり、斉明頓て平家の
方に落くははりて、北陸道の案内者は斉明に任せ給
へとぞ申ける、源氏の軍兵火打城を追落されて、加
賀の国へ引退く、安高の橋を引て支へたり、平家の
先陣越中前司盛俊、五千よきにて安高の湊へ打入て、
渡せや渡せやと下知しつつ、我劣らじと渡しけり、加
賀の国の住人富樫の太郎、越中国の住人宮崎太郎二
人馳帰りて、一人も渡すな、河に射はめよ者共とて、
河中へ落ふさがりて戦けり、富樫の太郎は越中前司
盛俊がはなつ矢に首の骨射させて、河中に真逆に落
にけり、宮崎太郎も内かぶとを後へ射ぬかれて河中
に落たりけるを、郎等四五人寄て肩に懸て上りたり、
P450
河端に置たれば、僅に目計働きけり、郎等共今は力
及ばず、敵は已に近付候、人手にかけ参らせんより
は、御首を給て本国に帰りて、女房にみせ参らせん
と云ければ、一門の者ども五十余人さし集りて、い
かでかはゆく目の働くほどの人の首をばかくべき、
我等今は生きても何かはせん、死なんまで防ぎ矢は
射んずるぞ、あをだにかいて行けとて、あをだにか
かせて先に立て、一門の者共五十余人防ぎ矢射て戦
ひければ、平家の大将やがても続かず、こと故なく
越中国へぞ越にける、宮崎は宿所へかき入て、それ
にてくすしをつけて医療する程に、療治に叶ひて、
廿日と云に療治やめつ、畏くぞ首をかかざりける、
去程に平家越中前司盛俊が一党五千余騎にて加賀国
を馳せ過る所に、富樫太郎宗親、林六郎光明、一城
に籠る、件の城の構へ様は前は深田の細縄手也、後
は大竹しげくして巌石なり、上のだんに矢倉を箕の
ふちの様にかきて、下手には所もなく石弓を張て、

何万騎の勢襲ひ来るとも、一騎も遁るべからざる構
へなり、平家の侍越中前司盛俊、飛騨判官景高六千
余騎にて押寄せたれども、大方落べき様もなかりけ
り、城の内には頻りに招く、いかにしてよすべきと
議する所に、夜に入て斉明威儀師が謀に、野にいく
らも放ちたる牛共を取集めて、松明に火をともして
牛の角に結付て、五千余騎城の木戸口の上の坂へ向
て追上げたり、後にはどつと鬨を作りたりければ、
牛は陣の上へ走り向ふ、敵已に夜討に寄せたりと心
得て、急ぎ石弓を切放ちければ、下り坂になじかはた
まるべき、転ぶ間、牛共頭の火のあつさといひ、石
弓転ぶに驚きて走り廻る、或は城に向ひて角をかた
ぶけて走り入り、或は深田に落ひたりておめき狂ふ
もあり、又打殺さるるもあり、牛のためこそ不祥な
れ、かくひしめく間に、平家入替々々攻ければ、林、
富樫しばしこそ戦ひけれども力及ばず、皆追落され
にけり、昔斉燕両国の軍有けるに、田単と云者、斉の
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将軍にて有けるが、燕国より斉を討たんとするに、
田単五十余頭の牛を設けて、赤衣をきせて龍の文を
書き、剱を牛の角に結付て、葦を束ねて尾に結付て、
油を濯ぎて火を附て、城の内より燕の軍の中へ追入
つつ、早走の剛の者五千人、牛のあとに附きて追ふ、
牛の尾の火もえ上りければ、燕の兵是を見るに、龍
文にて物怖しけなる牛共が、尾の火のあつさにたへ
ずして、軍の中に走りさわぐほどに、当る人は皆角
の剱に切突れて死にけり、城中には鼓を打鐘をうち、
おめきののしる声天地を響かしけり、燕の兵大に敗
れて、斉国かちにける、斉明その事を思出して、我
身の謀のほどをあらはしけるこそゆゆしけれ、
林六郎光明城をば追おとされて、山に籠りて有ける
が、早馬を立て、木曾にこの由を告たりければ、是を
聞て木曾大に驚きて打立ける所に、子息清水冠者の
弟四人有、力寿とて十歳、鶴王とて八歳、余名王と
て三歳、又当歳の女子あり、十と八とを呼び寄せて

宣ひけるは、おのれ等は十四五とだに思ひなば、弓
手馬手にうたせてこそ上るべけれども、幼ければと
どむるぞ、清水冠者をば鎌倉殿へ乞はれぬ、一あれ
ば一はかくるならひにて、物を思ふこそ悲しけれ、世
を取らばやと思ふもおのれ等が為也、北陸道より帰
らば二月三月にはよも過じ、頓て京へも上らば、一
二年も有んずらん、其程のつれづれならであれよ、
常には精進して八幡へ参りて祈をせよ、心も慰めよ
などいひて、五万よきを引率して上る、是が最期に
て有けるとも後にこそ人に申出して悲しみけれ、木
曾既に国山を越て、砺波山へ向ひける、合戦の祈祷
にとて、願書を書きて白山へ奉る、彼願書云、
立申大願事 三ヶ条何れも馬長
一可奉勤仕加賀馬場白山本宮卅講事、
一可奉勤仕越前馬場平泉寺卅講事、
一可奉勤仕美濃馬場長滝寺卅講事、
右白山妙理権現者、観音薩〓之垂跡、自在吉祥之化
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現也、卜三州高嶺之巌窟、利四海率土尊卑、参詣
合掌輩、満二世之悉地、帰依低頭類、誇一生之栄
耀、惣鎮護国家之宝社、天下無双之霊神者歟、而自
今年以来、平家登不当之高位、飽誇非巡之栄爵、
忝蔑如十善万乗之聖主恣陵辱三台九棘之臣下、
或追捕太上法皇之陬、或押取博陸殿下之身、或
打囲親王之仙居、或奪取諸宮之権勢、五畿七道
何処不愁之、百官万人誰人不歎、已欲断王孫、
豈非朝家之御敵乎、〈 是第一 〉、次焼南京七寺之仏閣、
断東漸八宗之恵命、尽三井園城之法水、減智証
一門之学侶、其逆勝調達、其過越波旬、月支大天
之再誕歟、日域守屋重来歟、已磨滅仏像経巻、并
焼払堂塔僧坊、寧非法家怨敵哉、〈 是第二 〉、次源平両
家、自昔至自今如牛角、天子左右之守護、朝
家前後之将軍也、而觸事決雌雄、伺隙致鉾楯、
仍代々企合戦、度々諍勝負、已有宿世之怨、是
私之大敵歟、〈 是第三 〉、因忝蒙神明之冥助、為降伏

仏法王法之怨敵、立大願於三州馬場、仰感応於
三所権現、就中先代伏王敵、皆由仏神贔負、此
時降謀叛輩、寧無権現之勝利哉、加之白山本
地観音大士者、於怖畏急難之中、能施無畏、雖
平家軍兵如雲集如霞下、衆怨退散之金言有憑、
縦雖謀臣凶徒加咒咀致怨念還著於本人之誓
約无疑、然者還念権現本誓、感応不(レ)可廻踵、
何況我家自先祖、仰八幡大菩薩之加護、振威施
徳、而八幡本地者観音本師阿弥陀也、白山御体弥
陀脇士観世音也、師弟合力者、感応潜通者歟、況
弥陀有無量寿之号、豈不授千秋万歳之算哉、
観音現薬於王之身、寧不食不老不死之薬、云
本地云垂迹、勝利掲焉也、附公附私、欲遂
素懐、所志无私、奉公在頂、偏為降王敵、
為守天下、忽為興仏法、為仰神明、伝聞天
神无怒、但嫌不善、地祇無崇、唯厭過失所
以平家奪王位、是不善之至歟、謀臣滅仏法、亦
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過患之甚也、日月未堕地、星宿懸天、神明為
神明者、此時施験、三宝為三宝者、此時振威、
然則権現、照我等之懇誠、宜令罰平家之族、
我等蒙権現加力、顕欲討謀叛之輩、若酬丹祈、
感応速通者、上件大願无解怠可果遂也、而者
弥悦源氏面目、新添社檀之荘厳、鎮誇神道之冥
加、倍致仏法之興隆矣、仍所立申如件、敬白、
寿永二年四月日 源義仲敬白
とぞ書たりける、五月二日、林六郎光明并に富樫太
郎が城廓二ヶ所を打破られて、次第にせめ入る由、官
兵国々より早馬を立て申ければ、都には嘉〓けり、
平家は白山の一橋を引てぞ籠りける、十一月平家十
万余騎の勢を二手に分て、三万余騎をば志雄の手に
向けてさし遣し、七万余騎をば大手へ向けて、越中
前司盛俊が一党五千余騎を引分て、加賀国を打過て、
終夜砺波山を越て、中黒坂の猿が馬場にひかへたり、
木曾是を聞て、五万よきを相具して、越中国へ馳せ

越て、池原の般若野にこそ控へたれ、越中国住人木
曾に付中にも、宮崎太郎は安高の湊の軍に内かぶと
を射させて、前後不覚なりけるを、あをだにかきて
越中国へ越て、宮崎にていたはりけるに、廿日と云
に疵は愈ぬ、うひだちに鎧着て、木曾殿へ参りたり
ければ、木曾殊に是を感じ給、弓矢とる身こそ哀な
れ、二つもなき命を的に懸けて、大事の手を負て、
已に死ぬべかりける人のよみがへりて、又鎧着て出
給たるこそいとをしけれ、今度の軍は殿原を頼むぞ、
義仲は小勢なり、平家は大勢と聞ゆ、面白く計ひて
敵を討たんずるぞ、此山の案内者をば殿原にて有ら
んずるぞ、今度の軍にかたせうかたせじは殿原の計
ひぞと宣ひければ、宮崎申けるは、誠に山の案内は
いかで知らで候べき、此砺波山には三の道候なり、
北黒坂、中黒坂、南黒坂とて三候、平家の先陣は中黒
坂の猿が馬場に向へて候也、後陣は大野、今湊、井
家、津幡、竹橋なんどに宿して候也、中の山はすい
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てぞ候らん、よも続き候まじ、南黒坂のからめては
楯六郎親忠千騎の勢にてさし廻して、鷲が島うち渡
りて弥勒山へ上るべし、中黒坂の大将軍は根井小弥
太、千騎の勢にて倶利迦羅を廻りて、弥勒山へ打合
せよ、北黒坂の大将は、巴といふ美女千騎の勢にて安
楽寺を越て、弥勒山へ押寄て、三手が一手に成て鬨
を作るならば、搦手の鬨はよも聞えじ、平家後陣の
勢続きて襲と思ひて、後へ見返らば、白旗のいくら
も有らんをみて、源氏の搦手廻りたりと心得て、あ
わてながら鬨を合候はんずらん、其時鬨の声聞え候
はんずらん、其時搦手は廻りにけりと心得て、是よ
り大勢に押寄に押寄すならば、前にはいかでよるべ
き後には搦手あり、逃べき方なくて、南の大谷へ向
けて落候はんずらん、矢一射ずとも安く討んずるぞ
と申ける、木曾是を聞てあら面白や、弓矢取の謀は
かくぞとよ、平家何万騎の勢有りとも、安く討ちて
んずるな、殿原とて、宮崎が計ひに附きて搦手をぞ

廻しける、楯六郎親忠千騎の勢にて、南黒坂をうち
めぐりて、弥勒山へぞ上ける、根井小弥太千騎の勢
にて中黒坂を打廻り、くりからを廻りて、是も弥勒
山へぞ上りける、巴も千騎の勢にて北黒坂を打廻り、
安楽寺を越て、弥勒山へぞさし合する、去程に木曾
は搦手を廻して後、木曾宣ひけるは、平家の大手す
でに砺波山を打越て、黒坂柳原へ打出づと聞ゆ、聞
てい大勢也、柳原の広く打出たる物ならば、馳合の
合戦にて有べし、はせ合の合戦は勢の多少によるこ
となれば、大勢のかさにかけられて、あしきことも
や有んずらん、敵を山に籠めて日を暮して後、くり
からが谷の巌石に向けて追落さんと思ふなり、其儀
ならば義仲先急ぎて、黒坂口に陣を取るべし、敵す
でに向ひたりといはば、此山四方巌石なり、無左右
敵よも寄せじ、いざ馬の足安めんとて山に下り居た
り、但平家の先陣山を越さじとて、はたさじ一人強
き馬に乗せて、砺波山の東の麓なる大宮林の高木の
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末に白旗一流結立たり、案のごとく平家是を見て、
あはや源氏の先陣向ひたりとて、敵は案内者也、各
は無案内なり、無左右広みへ打出て、四方よりか
け立られてあしかりなん、此山は四方巌石也、敵無
左右よせつとも見えず、馬の草飼水の便りともに能
き所也、山をからせて馬の蹄もよわりたるままに、
おり下りて休めばやとて、砺波山に下り居つつ、猿
が馬場にぞ陣をとる、
木曾殿は平家が山を越ぬ後にとて、つよき馬をかき
えりかきえり取乗て、十三騎にてあゆませをどらせつ、
あがらせつきて砺波山の東の麓に馳せ着ぬ、四方を
きつと見まはすに、一村の森あり、夏山の緑りの木
の間より朱の玉垣ほの見えて、かたそぎ作りの社あ
り、前には鳥居ぞ立にける、里の長を召て、あれは
何の宮と申ぞ、如何なる神を崇め奉りたるぞと問ひ
給へば、是は埴生の社とて、八幡大菩薩をいはひ奉
る、当国の新八幡宮と申候と云ければ、木曾先喜び思

て、手書きに大夫坊覚明と云者有けるを呼びて云け
るは、義仲幸に当国の新八幡宮の御宝前に近付き奉
りて合戦を遂げんとす、今度の軍には疑なくかちぬ
と覚ゆるぞ、それに取ては且は後代の為め、且は当
時祈祷にも願書を一筆書て進せばやと思ふぞ、いか
が有るべきと云ければ、尤可然候なんと云て、箙の
中より小硯を取出して、帖紙を押広げて書く、覚明
其日褐衣の鎧直垂に首丁頭巾して、ふしの縄目の鎧
に黒羽の矢負ひて、赤銅作りの太刀の少し寸長なる
に、ぬりごめ籐の弓脇に挟みて、木曾が前に膝まづき
て書たり、あはれ文武の達者かなとぞみえたりける、
其状に云、
帰命頂礼八幡大菩薩者、日域朝廷之本主、累聖明
君之曩祖也、為護宝作、為利衆生、顕三身之
金容、扉三所権扉、爰頃年之間、平相国云者、管
領四海而令悩乱万民、是既仏法〓、皇法敵也、
義仲苟生弓馬家、僅継箕裘芸、見彼暴悪、不
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能顧思慮、任運於天道、投身於国家、試起義
兵欲退凶器、而闘戦雖合両陣、士卒未得一
致勇之間、區心忙処、今於一陣揚旗為戦場、
忽拝三所和光社壇、機感之純熟既明也、凶徒誅戳
無疑、歓喜降涙渇仰銘肝、就中、曾祖父前陸奥
守義家朝臣、寄附身於宗廟之社族、号於名八幡
太郎、以降、為其門葉者莫不帰敬、義仲為其
後胤、傾首年久、興今此大功、縦以嬰児蠡量
臣海、蟷螂取斧如向立車、然而為君為国興
之、志之至神〓在暗、〓哉悦哉、伏願冥慮加威、
霊神合力、決勝於一時、退〓於四方、然則丹祈
叶冥慮、顕有加護、先令見一瑞相給、敬白、
寿永二年六月一日 源義仲敬白
とぞ書たりける、此願書と十三表矢をぬきて雨降け
るに、簑笠着たる男の簑の下にかくし持せて、忍び
やかに大菩薩の社壇へ送り奉る所に、〓哉八幡大菩
薩、其二なき志をや〓給ひけん、霊鳩天より飛来り

て、白旗の上に翩翻す、義仲馬よりこぼれ落て、か
ぶとをぬぎ、首を地に附て是を拝し奉る、平家の軍
兵は遙にこれを遠見して、身の毛立てぞ覚えける、
去程に木曾が勢三千よきにて馳せ来る、敵に勢のか
さを見られてはあしかりなんとて、松長、柳原に引
かくす、とばかりありては五千余騎、とばかり有ては
一万余騎、三万余騎の勢を四五度十度にぞ馳せ付に
ける、皆柳原に引かくす、平家砺波山の口、くりか
らがだけのふもとに松山を後にして、北向に陣を取
る、木曾は黒坂の北の麓に松長、柳原を後にして、
南向に陣をとる、両陣の間僅に五六段隔てて、おの
おのたてをつき向へたり、木曾は勢をまち得ても合
戦を急がず、平家の方よりも進まず、鬨の声三ヶ度
合て後は、静り返りてぞみえける、しばらくあひし
らひて、源氏の陣の方より精兵十五騎を楯の表へ進
ませて、十五の鏑を同音に平家の陣へぞ射入ける、
平家少しもさわがず、十五騎を出し合せて、十五の
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鏑を射返さす、両方十五騎づつともに、楯の表へ進
み出て、互に勝負を決せんとはかりけれども、内よ
り制して招き入れつ、又とばかり有て、三十騎を出
せば、三十騎を出して射返さす、五十騎を出せば、
五十騎を出す、百騎を出せば、百騎を出合て、矢を
射て返させたる計にて、両方勝負に及ばず、本陣へ
引退く、かくすること辰の刻より巳の時迄六ヶ度に
及べり、平家は源氏の搦手のまはるを待て、日を暮
さんとする謀は知らずして、共にあひしらひて日を
暮しけるこそはかなけれ、去程に日もくれがたに成
にければ、今井四郎兼平、楯六郎親忠、八島四郎、
落合五郎を先として、一万余騎の勢にて平家の陣の
うしろ、西の山の上よりさし廻して、鬨をどつと作
り懸たりければ、黒坂口、柳原に扣へたる大手二万
余騎、同時に鬨を作る、前後四万余騎がをめく声、谷
をひびかし峯にひびきて夥し、平家は北は山巌石也、
夜軍よもあらじ、夜明けてぞ有らんとゆだんしける

処に、鬨を作り懸たりければ、東西を失ひてあわて
さわぐ、後は山深くして嶮かりつれば、搦手へ向ひ
ぬべしともおぼえざりけるものを、いかがせんずる、
前は大手なればえすすまず、後へも引返されず、鳥
にあらねば天へものぼらず、日はすでに暮れぬ、案
内は知らず、力及ばぬ道なれば、心ならず南谷へ向
けてぞ落しける、さばかりの巌石を闇の夜に我先に
と落ちける間、杭につらぬかれ岩に打れても死にけ
り、前に落るもの後に落す者にふまれ死ぬ、後に落
す者は今落す者にふみころさる、父落せば子も落す、
子おとせば父もつづく、主落せば郎等も落重なる、
馬には人、人には馬、上が上に落重なりて、くりから
が谷一をば平家の大勢にて馳埋てけり、谷の底に大
なる柳あり、一枝は十丈計有けるが、かくるるほど
に埋たりけるこそむざんなれ、大将軍三河守知度以
下、侍には飛騎判官景高、衛府、諸司、有官の輩百
六十人、宗徒の者ども二千人はくりからが谷にて失
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せにけり、巌泉血を流し、死骸岡をなせり、されば
くりからが谷には、箭の孔、刀痕、木の本毎に残り、
枯骨谷にみちて、今の世まで有とぞ承る、木曾か様
に平家の大勢打落して、くりからが黒坂口の手向に
弓杖突て扣へたる所に、平家の馳重て埋たる谷の中
より俄に火炎もえ上る、木曾大に驚きて郎等を遣し
て見するに、今剱の宮の御宝殿にてぞ渡らせ給ひけ
る、今剱の宮と申は白山の剱宮の御こと也、木曾馬
より下り、かぶとをぬぎて三度拝し奉りて、此軍は
義仲が力の及ぶ所にあらず、白山権現の御計ひにて、
平家の勢は亡びにけるこそとて、剱の宮はいづくに
当りて渡らせ給やらん、御悦び申さんとて鞍置馬廿
疋、手綱結びて打かけ、白山の方へ追遣す、これほ
どの神験をばいかでかさて有べきとて、加賀国林六
郎光明が所領横江庄を白山権現に寄進し奉る、今に
違はず神領にて伝はりけるとかや、

平家物語巻第十三終