平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十五

P506
平家物語巻第十五
寿永二年八月十五日、高倉院御子、先帝外三所おは
しましけるを、二宮をば、儲の君とて平家取立まつ
りて、西国におはしけり、三四宮を法皇迎へたてま
つりて、見参せさせ給ければ、三宮は法皇を面嫌ま
いらせて、おびただしくむつがらせ給ければ、とく
とくとて帰し参らせさせ給にけり、四宮をば法皇是
へと申させ給ければ、無左右御膝の上にわたらせ
給て、なつかしげにぞおもひまいらせさせたまひた
りける、そぞろならんものの、かかる老法師をばなに
とてかなつかしくおほすべき、この宮ぞまことの孫
なりけるとて、御ぐしかきなでて、故院のおさなく
おはせしにたがはざるものかなとて、只今のやうに
ぞ覚ゆる、かかる忘れがたみを留めおき給へるを、
今までみざりける事よとて、御涙をながさせ給へば、

浄土寺の二位殿、其時は丹後殿と申て御前に居給け
るも、御袖をしぼりつつ、とかくの御さたも力及ば
ず、御位はこの宮にてこそ渡らせ給はめと申させ給
ければ、法皇さこそあらめと仰ありて、定まらせ給に
けり、後鳥羽院と申は此御事なり、内々御いきどほ
りのありけるにも、四の宮子々孫々迄も、日本国の主
にて渡らせ給ふべしとぞ、神祇官陰陽寮ともに占申
ける、四歳にならせ給、御母は七条修理大夫信隆の
女にておはしけるが、建礼門院の中宮と申せし時、
中納言内侍とて上臈女房にてありけるが、忍びつつ
内の御方へ召されさせ給ひける程に、皇子さしつづ
き二所出来らせ給けるを、修理大夫平家の辺をも、
中宮の御きそくも深くおそれさせ給ひけるを、八条
二位殿御乳母に付き奉らんとせられけり、此宮をば
法勝寺執行能円法眼養ひ奉りけるが、西国へ平家に
ぐしておちける時も、あまりにあわてて、北の方をも
ぐせられざりければ、宮も京に留まらせ給ひたりけ
P507
るを、西国より人をかへして宮相具し参らせて、急
ぎ下給ふべしと申されたりければ、御母の妹の紀伊
守範光、かしこここを尋ね参らせて留め参らせたり
けり、それもしかるべき事なれども、範光ゆゆしき
奉公とぞ申されける、只今御運は開けんずるものを、
ものにくるふかとてとどめまいらせたりけるに、そ
の次日院は御尋ねありて、御車を御迎に参らせられ
たりけり、六日平家の一類、公卿、殿上人、衛府、
諸司、百八十人官を止めらる、時忠卿父子三人は此
中にもれにけり、十善の帝王三種の宝物かへし入さ
せ奉らしめ給へと、かの人の許へ仰せくだされたり
けるによりて、被宥けるとぞ聞えし、
昔田邑帝と申御門おはしましける、王子十二人、姫
宮十七人ぞましましける、第一の皇子をば惟喬の親
王と申、御母は紀氏、三国町と申けるとかや、御門こ
の御子を殊にいとをしく思召しければ、春宮に立せ
奉りて、御位をもつがせたてまつりたく思召しけれ

ども、惟仁親王とて后の腹にてまします、后の御父は
白河太政大臣良房公、天下の摂政として御後見にて
おはしける上は、世の人重く思ひ奉りて、此御子東
宮に立給ふべきを、御門猶惟喬の親王をいとをしき
御事に思ひわづらはせ給ひて、惟喬の御子、惟仁の御
子の御方を合せて、十番の競馬あるべし、その勝負
に付て東宮には立せ奉らんと仰下さる、惟喬の御方
には、よき乗尻を召しあつめて、寮の御馬をもよき
をゑり奉らせ給へば、一定勝給ふべしと人思ひけり、
御母の妹に柿本の紀僧正真済と申は、東寺の長者に
て貴人御祈し給ひけり、惟仁の親皇の御かたよりは、
相撲の節あるべしと仰下さる、御祈の師には、比叡
山に恵良和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、目出た
き上人御祈し給ひけり、和尚は比叡山の西塔に平等
坊といふ坊にて、大威徳の法をぞ行ひ給ひける、惟喬
の親王の御方よりは、六十人が力もちたりと聞えし、
名虎兵衛佐と言ける人を出されたりけり、惟仁親王
P508
御方には能雄少将とて、なべての力の人なりけるを
ぞ出されたりける、方々の御祈師肝胆を砕き給けり、
その日になりしかば、名虎はもとより大力なりけれ
ば、能雄の少将を提てなげけるを、見物の人々あはや
と思ひける程に、能雄一丈ばかり投られて、つくとし
て立たりける、やがて寄合てゑ声を出してからかひ
けり、競馬は右近馬場にて侍けるに、和尚は番勝
負を知度思ひ給ひて、右近馬場より平等坊迄、人を
立置給ひける事櫛のはの如し、勝負を云ひ伝ふるこ
とほどなく聞えけり、惟喬の御方引つづけて四番勝
にけり、和尚是を聞給ひて、今六番つづけてこなた
かたずば、惟仁親王かち給べからず、四番既に彼御
方勝ぬれば、後の頼みなしとおぼして、年来の所持
の獨古を以て、自御頂を突破て脳を取出して、炉壇の
火に置給ひたりければ、絵像の本尊大威徳の水牛、忽
に声を出してほえたりけり、それよりして引つづけ
て、惟仁親王御方六番勝にけり、又相撲節にも惟喬

の御方の名虎負にけり、能雄少将勝にければ、惟仁位
に即せ給にけり、清和の御門と申はすなはちこの御
門の御事なり、帝無本位思召給ひし事限なし、其
時三超といふ落書あり、御兄惟喬、惟修、惟彦、此三
人の親王を超えて、春宮にたて給事を落書にしたり
けるなり、此君御年三十にて御ぐし下して、水尾と
いふ所にましまして、行ひすまし給ひて、次年うせさ
せ給にけり、水尾の天皇とも申けり、惟喬御祈師柿
下紀僧正真済は、此事を鬱し思ひて、恵良和尚の御
弟子をぞ取失ひける、平等坊の座主慈念僧正と申人
は、和尚の末の門弟にてましましけり、彼僧正尊勝陀
羅尼を満てて、〓行道しておはしけるに、庭上にほ
れぼれとある物の、おろおろとしたる物をきて、老
法師の眼おそろしげなるが、うづくまり居たりける
を、僧正ただものにあらずと見給ひければ、あれは
何者ぞと問給ひければ、我は真済なり、和尚の御弟
子をば末までとり奉んと思て、僧正を思ひ懸け奉り
P509
てうかがひ侍るほどに、尊勝陀羅尼を尊くじゆせさ
せ給へるを聴聞仕て、悪念忽にとけて、信心発り侍
れば、このよしをしらせ申さんとてみえ奉るなり、
今は御弟子となりて縁を結び奉るべし、御弟子の中
に異様のもの出来ば、我と思召すべしと云てうせに
けり、僧正は真済の顕れて出し事を不思議に思して、
年月を送り給ふに、兵部卿の親王と申人の御子の若
君をぐし奉りて、僧正の御もとにおはして、弟子に
なしてかへり給ける、この君の食物をば、あれより奉
るべしとて出で給ければ、僧正も心得ず思召ける程
に、京より若君の御召物とて、大豆を送らせ給ひけ
り、この若君大豆より外は召さざりければ、僧正思
召けるは、真済の異様の者出来ば、我としれとのたま
ひしかば、此君は紀僧正の再誕とぞ知り給ける、出
家の後は鳩の禅師とぞ人申ける、文徳天皇、惟喬親王
を春宮の位に即奉り給はぬ事、心元なく覚しめして
左大臣信公を召て、東宮をしばしやりて、惟喬をな

して後に、清和に返しつけ奉らばやとて、仰せあはさ
れければ、東宮とならせ給て、たやすく改めがたく
候と申せしかば、力及ばずぞ有ける、此大臣信公は
嵯峨の天皇の御子北辺の大臣と申て、河原大臣融の
御兄なり、東宮位につき給て後、貞観八年閏三月十
日夜半に、大納言善男、応天門を焼きてけり、西三
条右大臣良相公と心を合て、此門をやく事を、堀川関
白基経公の宰相中将にてましましけるに仰て被宣
O[BH し字脱歟]とけるを、宰相中将、太政大臣は知り給へりO[BH や字脱歟]と申給
ければ、大納言、太政大臣は偏に仏法に帰して、朝議
を知る事なしと申されければ、宰相中将無宣下ば
たやすく難行とて、太相国の直廬にましまして、此
山を申給ければ、相国驚き給ひて、左大臣は君の御た
めに奉公の人なり、いかでか無左右とがおこなひ
侍るべきとて、退参して留め給ひけり、堀川関白と申
は、白河太政大臣忠仁公の御甥ながら、御子にし給
たりける、後には照宣公と申、平等坊の座主は延昌僧
P510
正なり、慈念は御いみ名なり、尊勝陀羅尼にて往生
し給へる人なり、されば帝王の御位は、凡人の申さん
にはよるべからず、天照太神正八幡宮の御はからひ
なれば、四の宮の御事もかかるにこそとぞ人々申さ
れける、
義仲行家任官之事
八月十日、法皇蓮花王院の御所より南所へ移らせ給
て、小除目行はる、木曾の冠者義仲左馬頭になされ
て、越後国を給はる、十郎蔵人行家、備後守になされ
にけり、各国を嫌申されければ、十六日除目に、義
仲は伊予国を給り、行家は備前守にうつされぬ、安田
三郎義宣は遠江守になされけり、その外源氏十人勲
功の賞とて、靱負尉、兵衛尉、受領、検非違使にな
されける、上使の宣旨を蒙る者もありけり、此十余
日先には、源氏を追討せよとのみこそ宣旨は下され
て、平家こそかやうに勧賞にあづかりしに、今は平
家を追討せよとのみ宣旨を下されて、源氏朝恩にお
ごるこそ、いつしか引かはりたるこそあはれなれ、

心ある人々は思ひつづけて、袂をぞしぼりける、
院の殿上にて除目を行はれし事、昔より未だ承及ば
ず、先例なし、今度始とぞ聞えし、珍しき事なり、
同十七日、平家筑前国御笠郡太宰府につき給へり、
都はすでに雲のよそにぞなりにける、はるばる来に
けりと思すにも、いとど古郷こそ恋しく思召されけ
れ、したがひ奉るところのつはもの菊池次郎高直、
石戸小将種直、臼木、戸続、松浦党を始として、各々
里内裏をぞ営みつくりける、かの内裏は山の中なれ
ば、木丸殿もかくやとこそ覚えしか、人々の家々は
野中田中なりければ、麻の衣はうたねども、とをぢ
の里とも申つべし、萩の葉向の夕嵐、ひとりまろね
の床の上、かたしく袖もしほれにけり、思ひやりぬ
れば都もはるかにへだたりぬ、かの在原の業平の都
鳥に事とひし、すみ田川のほとりもかくやと覚えて
あはれなり、
宇佐参詣事
主上を始め参らせて女院、北の政所、前の内大臣以下
P511
の一門の人々、皆宇佐宮へぞ参られける、拝殿は主上
の皇居となり、廻廊は月卿雲客の居所になる、大鳥
居は五位六位の官人等かためたり、庭上には四国九
国のつはもの甲冑をよろひ、弓箭を帯してかためた
り、ふりにしあけの玉籬も再磨けるかとぞ見えし、
御神馬七疋引せて七ヶ日御参籠あり、祈誓の御趣、主
上旧都還幸をぞ祈らせ給ける、第三日に当りける夜
半ばかりに、御神殿おびただしく震動してやや久あ
つて、御殿の内よりけだかき御声にて神歌あり、
世の中のうさには神もなきものを
こころつくしになに祈るらん W117 K172
此後ぞ大臣殿、なにのたのみも弱りはてられける、
これをきき給けん一門の人々、さこそは心ぼそくお
ぼされけめ、
廿四日、四宮は院の御車にて閑院殿へ入せ給にけれ
ば、公卿殿上人法皇の宣命にて節会行れけり、神璽
宝剱も渡らせ給はず、内侍所もましまさで、践祚の例

是ぞ始なる、摂政近衛殿かへり給はず、御所に住な
し給ひて、万とり行はせ給ふ、平家の御聟にてましま
しけれども、西国へも落させ給はぬによりて、三宮
の御乳母は、無本意口惜き事に思ひて、なき給けれ
ども其かひなし、帝王の御位などは凡夫のとかく思
ふにもよるべからざる事なり、天照太神の御はから
ひとこそ承れ、天に二の日なし、地に二人の主なしと
は申せども、異国にか様の例もあるにや、我朝には
帝王ましまさで、或二年或三年などありけれども、京
田舎に二人の帝王座す事いまだきかず、世のすゑに
なればかかることもありけり、四宮こそ既に践祚あ
りと聞えければ、平家の人々は、あはれ三宮四宮を
も取ぐし参らせでと申されければ、さらましかば、高
倉の宮の御子、木曾が具し奉りて上りたるこそ位に
は即給はましかと申あはれけり、平大納言時忠、兵部
少輔尹明などの申けるは、天武天皇は春宮にて御座
しが、天智天皇の御譲を受させ給べきにて有けるに、
P512
大伴の皇子の、位に即給はば討奉り給はんといふ事
を聞給ひて、御虚病を構へさせ給ひて、遁れ申させ
給ひけるを、帝強ちに住申させ給ければ、大仏殿の
南面にして髪ひげをそらせ給て、吉野山へ入らせ給
たりけるが、伊賀伊勢尾張三ヶ国の兵発て、大伴の皇
子をうち奉て位に即き給にけり、孝謙天皇も位辞さ
せ給て尼にならせ給ふ、御名を法基尼と申けれども、
位に返つかせ給ひにき、唐の則天聖皇帝も、又位に
帰て即せ給へりしぞかし、されば木曾が申宮、何条御
事かあらめと申て、咲あひ給ひけるとかや、九月二
日、院より公卿勅使を立られ、平家追討の御いきどほ
りなり、勅使参議修範とぞ聞えし、太上天皇の伊勢
へ公卿の勅使を立らるる事、朱雀白河鳥羽院三代の
蹤跡ありと云事ども、皆御出家以前の御事ども也、
御出家以後の例今度始とぞ承る、八幡宮放生会も九
月十五日にぞ延びにける、此日法皇日吉社へ御幸あ
り、公卿殿上人束帯にてうるはしき御幸なり、御神

馬も数多引れけり、御車のともには中納言朝方、検
非違使など仕る、
筑紫には内裏既に造て、大臣殿より始め奉りて、人々
の館ども造り始めて「少し安堵して思はれけり、然に
豊後国は刑部卿三位頼輔の知行にてありければ、子
息頼経国司代官にてくだりけるに、三位いひ下され
けるは、平家年頃朝家の御敵にてありしが、人民を
なやまし悪行年積て鎮西へおちくだつて、九国の輩
悉く帰伏の条、既に招罪科所行なり、須く当国の
輩に於ては、殊更其旨を存じて敢て成敗に従ふべか
らず、是またく非私下知、しかしながら一院の御定
なり、当国にも限るべからず、九国二島の輩後勘を
かへりみ、身を全くせぬと思はんものは、一味同心に
九国中を追出すべしと、云つかはされたりければ、
頼経朝臣、当国住人緒方三郎伊能に下知せらる、伊能
豊後国より始て、九国二島の弓矢とるともがらに申
送りければ、臼木、戸続、松浦党を始として皆平家
P513
を背てけり、其中に原田大夫種直、菊池の二郎高直が
一類ばかりぞ、伊能が下知にしたがはず、平家につき
たりける、其外は皆伊能が命に随ひけり、かの伊能
は恐ろしき者の末にて、国土をも討取らんとおほけな
き心あり、九国二島には従はぬものなかりけり、国
王よりかかる仰を承うへは、子細に及ばずとて興に
入たりけり、豊後国に知田村と云所に、赤雁大夫と
いふ者の娘ありけり、柏原御許とぞいひける、国中に
同程なるものの、聟にならんといひけれ共用ひず、
我よりすぐれたる者はいはざりけり、随分に秘蔵し
て後園に尋常なる屋一宇造てわたり、なにさまにし
つらひて、この娘住せける程に、たかきも賎しきも、
男といふ者をば通はさず、常には淋しさをのみ思ひ
て明しくらす程に、或年の九月半より、此娘よもす
がら心をすましてうちながめてふしたりけるに、い
づくより来れるとも覚えぬに、尋常なる男の狩衣着
たるが、この女房のそばにたをやかにさしよりて、さ

まざま物語しけるに、しばしはつつみけれども、
夜な夜な度重りければ、この娘さすが岩木ならぬ身
なれば、打とけにけり、その後夜がれもせず、通ひけ
るをかくしけれども、使はれける女房など父母にか
くとかたりければ、驚き騒ぎて急ぎ娘を呼出して、
事のさまを問ければ、面はぢていはざりけれども、
父母あながちに尋ねける程に、親の命背きがたくて、
ありのままにぞかたりける、不思議の事ござんなれ
とて、さらばかの人の来らん時、しるしをしてその
行末を尋ぬべしと、ねんごろに教へけり、狩衣のくび
かみと覚しき所に、しづのをだまきのはしに針を付
てさしてけり、夜明後父母にかくと告たりければ、誠
にしづのをだまきくりはへて、千尋百尋に引はへた
り、大夫父子三人、をとこ家人四五十人ばかり引ぐし
て、糸の行衛を尋ける程に、当国の中に深山あり、嫗
嶽と云山の奥に、苔深き巌の穴へぞ引入たりける、
彼穴の口にて聞ければ、大に痛み悲しむ声あり、是を
P514
聞るに、皆人身の毛よだつてぞ覚ける、父が教によ
りて娘糸をひかへて、わらはこそ参たれ、何事をい
たはり給ふぞ、見奉らんと云ければ、塚の穴の中より
大に恐しき声にて、我はそれへよなよな通ひつる者
なり、去夜思ひの外に頷に疵を蒙りてそれをいたは
るなり、これまで尋来る心ざしの程は目出たし、見
もしみえもすべけれども、日ごろの変化の力すでに
つきたり、其の上凡夫の身に非ず、本身はこれ此山
を領する大蛇也、汝に見えば肝魂もあるべからずと
いひければ、なにかはくるしかるべき、夜な夜なな
じみ奉りて久しくなりしかば、当時の姿をかへずし
てみえ給へといひけれども、見ゆべきならば始めよ
りこそ見えべけれ、汝を不便と思ふが故に見えぬな
り、但汝が胎内に一人の男子をやどせり、相構て安
穏にそだつべし、九国二島を領するほどの者にもな
るべし、草の陰にても守らんずるなりといひて、其
のちは音もせざりければ、父大夫を始として恐しき

事なのめならず、あわて騒ぎ各々にげ帰りにけり、
さても月日もやうやく満ちければ、一人の男子を生
てけり、生長するに随て、容顔ゆゆしく心ざまもた
けく、九国に聞ゆる程の大力、何事に付ても人にす
ぐれたるものにてぞありける、元服せさせて、母方
の祖父が片名を付て大太とぞいひける、足にはおび
ただしくあかがり切ければ、異名に赤雁大太とぞ申
ける、今の伊能はかの大太が五代の孫にて、心猛く
恐ろしき者にて有けるが、院宣を下さるる上は、興に
入て九国二島の武勇の輩をかり催して、数万騎の兵
を引率して、太宰府へ発向しければ、九国の者ども
皆平家を背きて伊能に随ひけり、平家の人々此一両
月は少しおちゐて、今は所をしめ跡を留めて、内裏
をも作り家々をも作りしかば、いかがして源氏をほ
ろぼして都へ帰り上るべき、さまざまのはかりごと
を廻らして、寄合寄合評定しける所に、かかる事を
聞てさこそ浅ましく思されけめ、筑前守家貞が申け
P515
るは、小松殿公達両人を相具し参らせて、勢多くい
り候まじく候、四五十騎ばかりにて豊後国へ越て、伊
能をこしらへて見候はばやと申たりげれば、もつと
もしかるべしとて、新三位中将清経、小松新少将有
盛二人を大将にて、六十余騎計りにて豊後国へ打こ
えて、伊能を拵へ宥めければ、伊能申けるは、一院
の御定にて候へば力及ばず、やがて公達をもとりこ
め参らせたく候へども、大事の中に小事なしと存候
へば、とりこめ参らせず候、又とり籠参らせ候とも
いかばかりの御事か候べき、とくとく御帰候て、一
所にていかにもならせ給候へと申ければ、家貞面目
をうしなひて帰にけり、やがて緒方三郎が嫡子小太
郎伊久、次男野尻次郎伊村とて二人ありけるが、伊
村を使として平家の方へ申送りけるは、御恩をも蒙
りて候き、相伝の君にて渡らせ給候上、十善の帝王
にて渡らせ給ひ候上は、奉公可仕由存候へども、九
国中を追出し参らせよと院宣下され候間、今は力及

ばず候、とくとく出させ給へと申たりければ、平大
納言時忠、ひをくぐりの直垂に糸蘭の袴きて、野尻次
郎に出向ての給ひけるは、我君は天孫四十九世の正
統、人皇八十一代の帝、太上天皇の后腹の第一の王子
也、伊勢太神宮入替り給へり、御裳濯川の流、忝神代
より伝りたる神璽宝剱内侍所をば、正八幡宮も守り
奉り給らん、九国の人民いかでかたやすくかたむけ
奉るべき、その上当家平将軍貞盛、相馬小二郎将門
を追討して、東八ヶ国を平げてより以来、故入道太政
大臣、右衛門督信頼を誅戮して、朝家を鎮めしに至
るまで、代々の間おのおの国家の固めとして、帝王
の御まぼりなり、就中鎮西の輩は皆召仕はれて、重
恩の者どもにてあるに、それに頼朝義仲が東国北国
の凶徒を相語て、我うちかちたらば国をもとらせん、
庄をもとらせんといふに、鳴呼奴原が実と思ひて与
力して、軍兵に対して軍するこそ不便なれ、九国の
輩当家の重恩を忘れて、鼻豊後が下知にしたがはん
P516
事甚だしかるべからず、能々相はからふべしとのた
まひければ、伊村は畏承候畢、父伊能に此やうを申
候べしとて立かへりぬ、伊能は縁塗の烏帽子に引梯
の直垂打かけて、引かたぬひで、弓の弦をさしつゐ
て居たる所に、伊村帰り来れり、伊能はいかに心も
となく思ひつるに、物語せよといひければ、伊村此よ
しを語りて、是はところところこそ申候へ、聞知候は
ぬ事どもいくらも申されつる間、人にとひ候へば、
このもの仰せられ候人は、平大納言殿とこそ申候つ
れ、仰られ候ひし詞は、紙三四枚にも記し候はんずる
なり、大かたかね黒なる公達若殿原誰とか申候らん、
いくらも集り居てましまし候つるが、軍などにはか
ひがひしくあるべしとも見え候はぬといひければ、
伊能申けるは、汝もよくよく案ぜよ、帝王と申奉る
は京都におはしまして、宣旨を四角八方へ下さるれ
ば、草木も靡くことにてあるにこそ、この帝王は事
事しくのたまふなれども、源氏に責おとされて、こ

れまでゆられおはしたる、且は見苦しき事ぞかし、
是は院には御孫ぞかし、法皇はまさしき祖父にて、京
都にはたらかでましませばこそ、誠の帝王よ、親祖
父にまさり給ふべき事やある、今は今、昔はむかしに
てこそあれ、院宣を下さるる上は、子細にや及ぶべ
きと申て、やがて博多津に押寄てときを作りたりけ
れば、平家の方には、筑前守貞家を大将軍として、
菊池原田が一党を差向て防がれけれども、三万余騎
の大勢責かかりければ、とるものもとりあへず太宰
府をぞ落されける、かの頼もしかりし天満天神のし
めのあたりを、心細くぞ立はなれ給ひける、主上は
駕輿丁もなければ、荵花鳳輦の玉の御輿にもめされ
ず、御供の公卿殿上人さしぬきのそばをとり、女房
達は裳唐衣泥にひたして、かちはだしにて我先にと
逃出給ひけり、折節降雨は車軸を流し吹風いさごを
あぐ、住吉の社を左にし筥崎の松原に一夜明、あく
る日香椎、宗像など伏拝みて、みちのたよりの法施に
P517
も立願の心ざし、主上今一度旧都の行幸のみぞ被申
ける、されども前業の致す処なれば、今生の感応空
しきに似たり、雨もなみだもいづれともみえわかず、
鳥にもあらねば天にかけらず、龍にあらねば雲へも
のぼりがたし、かの玄弉三蔵の流砂葱嶺を凌がれけ
るも、是にはいかでか増るべき、かれは求法のためな
れば、後世菩提の資糧也、是は順業の悲みなれば、来
世の苦輪頼みなし、后妃、女は涙を流して岩石を凌
ぎ、三公、九卿、群寮、百司の数々に随ひ奉る事もな
し、其日は蘆屋の津といふ所にとどまり給ふ、都より
福原に通ひ給ふ時聞給し里の名なれば、いづれの里
の名よりもなつかしくて、今さらあはれぞまさりけ
る、きかい高麗の方へも渡らばやとはおぼせども、
浪風心に叶はねば、山鹿の兵藤次秀遠に伴て山鹿城
にぞ籠りたまふ、去程に九月中旬にもなりにけり、
ふけ行く秋の哀さはいづくもといひながら、旅の空
には忍びがたく、海辺の泊も珍らしく覚しける、あま

人の柴の苫屋に立る煙、朝げの風も身にしみて、蘆間
をわけてつたふる船より又虫の声嵐の音、ものにふ
れ折に随ひて、もにすむ虫の我からとねをのみぞな
かれける、十三夜は名を得たる月なれど、殊に今宵
はさやけくて、都の恋しさもあながちなりければ、
各一所にさしつどひてながめけるに、薩摩守かくぞ
詠じ給ける、
月を見し去年の今宵の友のみや
みやこに我を思ひいづらん W118 K177
修理大夫経盛
恋しとよこぞのこよひのよもすがら
月見しともの思ひ出られて W119 K178
平大納言時忠
君すめば是も雲ゐの月なれど
なほこひしきは都なりけり W120 K179
左馬頭行盛
名にしおふ秋の半も過ぬなり
P518
いつより露の霜にかはらむ W121 K180
大臣殿
うちとけてねられざりけり梶枕
今宵の月のゆくへ見んとて W122 K181
思ひきや彼の蓬壷の月を、此海上にうつして見るべ
しとは、九重の雲の上、久方の花月になれし友がら、
今さら切に思ひ出られて、思ひ思ひに口ずさみ給ふ、
さこそ悲しくおぼしけめ、かくて暫く慰む心地して
ありける程に、又緒方三郎十万余騎にてよすると聞
えければ、山鹿城をも取ものも取あへず、たかせ船
に棹して、通夜豊前国柳浦といふ所にぞおちつき給
ひける、河の辺の叢になく虫のねまでもよわり果ぬ
るを聞給ひて、大臣殿かくぞ思ひつづけ給ける、
さりともと思ふ心も虫の音も
よわりはてぬる秋のゆふ暮[B 「ゆふ暮」に「くれかな」と傍書] W123 K182
彼所は地景眺望少し故ある所也、桜梅桃李引植て、
九重の景気思ひ出ければ、さても渡らせ給ふべき御

心ありけり、薩摩守忠度何となく口ずさみに、
都なる九重のうち恋しくば
柳の御所を春よりて見よ W124 K518
緒方三郎やがて襲来ると聞えければ、かの御所にも
わづかに七ヶ日ぞおはしける、御船に召て通夜おぼ
しけるに、ころは九月のすゑなれば月くまなくさえ
たり、修理大夫経盛、
すみなれし旧き都の恋しさを
神もむかしを思ひ出らめ W125 K154
さて四国の方へおもむき給けるに、小松内大臣の三
男左中将清経、都をば源氏に追落され、鎮西をば伊
能に追出され、いづくへ行たらばかなふべきや、終に
は不(レ)可遁とて、閑に御経よみ念仏申て海にぞ沈給
ひける、人々惜み給けれどもかひなし、長門は新中
納言殿国務し給ければ、目代紀伊民部大夫通助、平家
小船に乗給へると聞て、安芸周防長門三ヶ国の桧物
や正木つみたる船卅六艘點定して平家に奉ければ、
P519
夫に乗給ひて讃岐国へ越え給けり、阿波民部大夫盛
良は折ふし讃岐の屋島にありけるが、澳の方に木の
葉のごとく船どもの浮で候と、遠見に置たる者いひ
ければ、盛良申けるは、源氏はいまだ都を出たりと
も聞えぬものを、もし平家の公達の九国の者にすげ
なくあたられて、帰上り給ふござんめれ、敵か御方
か盛良行向て見奉るべし、源氏ならば盛良は死なん
ずらん、矢一射ずるなりといひ置て、小船に乗てこ
ぎ向ふ、御方の船と見えければ、大臣殿の御船に参り
て、盛良申けるは、左候へばこそ最前より只是には
わたらせ給候へと能々申候しが、鎮西の者どもは志
深く思ひ参らせ候はん者は参るべし、二心を存ぜん
者はよも参り候はじ、ここかしこ渡らせ給て、人々も
背き参らせ候はば、中々あしく候なんと、さしも申
参らせつるものを、此屋島の浦は城郭にて候なり、
只是に御渡らせ給べきなりと申て、入参らす、あや
しの民の家を皇居とするにたらざれば、しばらく御

船をもて御所とす、大臣殿以下の月卿雲客は賎の伏
屋に夜を明し、あまの苫屋に日を送り、草枕梶枕波
に引れ露にしほれて、明し暮し給ける、かかる住居
は、誰もいつか習ひ給べきならねど、あだし世のう
き身の習なれば、人々涙を流しふし沈給ふもあはれ
なり、盛良は馳向て阿波国の住人等を始として、四
国の者ども靡かして頼もしきやうに振舞ければ、盛
良が御気色ゆゆしき者なりとて、阿波守になされに
けり、家貞は九国をも従へず、追出されにければ力な
し、原田大夫種直、菊池二郎高直、肥前豊前の守に
なりけれども、伊能に追出されて国務にも及ばず、
ただ名ばかりにてありける上は心がはりしてけり、
何事も盛良がはからひ申にしたがひ給ければ、四国
の者ども彼が心にしたがはんとふるまひける、その
中に伊予河野四郎通信ばかりぞ参らざりける、盛良
がさたにて、内裏とて板屋の御所を作出したりけれ
ば、主上わたらせ給ふ、人々もあやしの丸やども造
P520
りて住給けり、
都には法皇の御なげきなのめならず、その故は三種
の神器外土にまします事、月日多く重りぬれば、追
討の使を遣はさんとするに付ても、異国の財ともな
り、海底の塵ともやならんずらんとぞ思召し、代の
すゑになるといひながら、我目の前にかかる不思議
のあるこそ心うけれ、御禊大甞会もすでに近くなり
たり、いかがして都へ帰入奉り候はんと、さまざまの
御祈どもを始めらる、人々に仰合せられなどしけれ
ば、御使を下されて時忠卿に仰候べしと議定ありけ
り、誰か使節をつとむべしと評定ありけるに、時光
をめし、かれを下さるべきよし諸卿はからひ申され
ければ、法皇修理大夫時光にのたまひけるは、吾朝
の大事唯この事にあり、西国へまかり下て、子細を
委しく時忠に仰含よと仰られければ、時光申けるは、
朝家の御大事君の仰、かたがた申すべき子細にては
候はず、急ぎまかり下るべく候、但まかり下候はば、

帰参候はん事ありがたかるべし、その故は西国へ平
家おもむき候し時、必相伴ふべき由を時忠申候しか
ば、君の御幸なり候はば力及ばず候、しからずばお
もひよらずと、心中に存候し程に、君の御幸も候は
ざりしかば止り候き、その後もまかり下るべきよし
度々申遣して候しかども、たとひ万人の肩をこえて、
三公に至り候べく候とも、君をはなれ参らせて、外
土へ赴くべしとも、かねておもひよらず候事なれば、
返答にも及ばずして、罷りすぎ候なりと申されたり
ければ、さては帰り上らん事誠にかたかるべしとて、
修理大夫時光は留められけり、かの時光、は平大納言
の北方、安徳天皇の御乳母、帥典侍の妹にてありけれ
ば、時忠にしたしくて、西国よりも左様に申されけ
るとかや、さらば院宣を下さるべしとて、蔵人左兵
衛権佐宣長院宣を書て、御壷の召次にて平大納言の
もとへ下されたり、その院宣を平大納言見給ひて大
に瞋て、彼院宣をなげすて、御使を召出して顔に火印
P521
をさして追上せらるる、是によるべき事にあらず、
大納言の所行返々おとなげなく情なしとぞ申あはれ
ける、天性腹あしき人にて、思ひの余りにかくせられ
けり、兵衛佐頼朝は輙く都へは上りがたかるべしと
て、鎌倉に居ながら征夷大将軍の宣旨を蒙る、その
状にいはく、
左弁官下、五畿内、東海、東山、北陸、山陰、山陽、
南海、西海已上諸国、
可令為早源頼朝朝臣征夷大将軍事
使 左史生中原康定
右史生同景家
右、左大臣藤原兼実宣、奉勅、従四位下行前右兵衛
権佐源頼朝之朝臣可令為征夷大将軍、者宜令
承知、依宣行之、
寿永二年八月日 左大史小槻宿禰
左大弁藤原朝臣在判
とぞ書れたりける、御使左史生中原康定、同九月四日

鎌倉に下着して、兵衛佐に院宣を奉り、勅定の趣を仰
含て、兵衛佐の請文を請取て、同廿七日に上洛して、
院御所の御壷の内に参りて、関東の有様をくはしく
申たり、兵衛佐の申され候しは、頼朝は勅勘を蒙と
いへども、御使を奉て朝敵を退て、武勇の名誉を長じ
たるに依てなり、忝征夷将軍の宣旨を蒙る、都へさ
んぜずして宣旨を奉請取事、其恐不少、若宮にて
可奉請取と申され候しかば、康定若宮の社だんへ
まいりむかふ、又康定は雑色男に宣旨袋をかけさせ
て候き、若宮とは、鶴が岡と申所に八まんを遷し奉
て候なり、地形石清水に相似て候、其に宿院あり、
四面の廻廊あり、作り道十余町見下たり、さて院宣
をば誰してうけとり奉るべきと評定候けるに、三浦
の介義澄をもて可奉請取と被定候、かの義澄は
東八ヶ国第一の弓取、三浦平太郎為継とて、柏原天皇
の御末にて候なる上、父の大介義明は君の御為に命
をすてたる者なり、然れば義明が黄泉の冥暗をも照
P522
さんがためなり、義澄は家の子二人郎等十人相ぐし
て候き、家の子二人と申一人は、比企藤四郎能員、
一人は和田三郎宗実と申者にて候、郎等十人は大名
十人して俄に出したてて候なり、以上十二人はみな
ひた甲、義澄は赤威の鎧を着て、甲をば着候はず、
弓わきばさみて、左のひざをつき、右のひざをたて、
宣旨をうけとり参らせんと仕る、宣旨をばつづらの
はこのふたに入参らせて、抑御使はたれたれにて候
ぞと尋申候しかば、三浦介とは名乗らで、三浦荒次郎
義澄と申て、宣旨をうけとりたてまつらせて後、良久
しく候て、らん箱のふたに、砂金百両入られて返し
候ぬ、拝殿にむらさき縁のたたみ二帖しきて康定を
居候て、高杯肴二種にて酒をすすめ候に、斎院次官
を陪膳にたて、五位一人出し肴に馬引候しに、大宮の
侍の一臈にて候し工藤左衛門祐経是を引候ぬ、其日
兵衛佐の館へは、請じ候はず、五間なる萱屋をしつ
らひて、〓飯豊にして、厚絹二領小袖十重長櫃に入

ておき、此外上品の絹百疋、次絹百疋、白布百端、
紺藍摺百端づつ積て候き、馬十三疋送て候しに中に、
三疋はくら置候、あくる日兵衛佐の館へ罷越候しに、
内外に侍候、ともに十二間にて候、外侍には国々の大
名ども肩を並べて居候、内侍には源氏どもひざを組
で並居候、末座には郎等ども居たり、少引のけて、
紫縁の畳しきて康定を居候しが、良久しく有て兵衛
佐の命に随て、康定寝殿へ高麗縁のたたみ一帖しき
て、簾を上られたり、広簷に紫縁のたたみを一帖敷
て、康定を居させ候ぬ、兵衛佐出合たり、布衣に葛
袴にて候、容顔あしからず、顔大にして少しひきぶ
とにみえ候、かたち優美にて言語分明なり、仔細と
うこまかに述べられしなり、行家義仲は頼朝が使に
都へは向ひ候ぬ、平家は頼朝に討れて、京都に跡を
とどめず、西国へ落うせ候、その跡にはいかなる尼
君なりともなどか打入ざるべき、それに義仲行家わ
れ高名がほに、恩賞に預り、剰へ両人ともに国をき
P523
らひ申候なる、返々奇怪に候、義仲僻事仕候はば、
行家に仰て誅せられ候べし、行家ひが事仕候はば、
義仲に仰て誅せられ候べし、当時も頼朝が書状の表
書には、木曾冠者、十郎蔵人と書て候へども、返事は
してこそ候へと申され候し程に、折ふし聞書到来候
とて、兵衛佐是を見てよに不得心気に思ひて、秀衡
が陸奥守になされ、資職が越前守になさる、隆義が
常陸介になりて候とて、頼朝が命にしたがはず候し
も、無本意次第に候へば、早く彼等を追討すべきよ
し、院宣を仰下され候べしとこそ申候しか、其後康定
色代仕候て、故名簿をして参るべく候へども、今度
は宣旨の御使にて候へば、追て申候べし、舎弟にて
候史大夫重良同心に申候きと申て候しかば、当時頼
朝が身として、争か各々名簿をば給はり候べき、さ候
はずとも、疎略の儀候まじと返答してこそ候しか、
都にも覚束なく思召され候らんに、頓てまかり立べ
きよし申て候しかば、今日ばかりは逗留あるべしと

申候間、其日は宿へまかり帰て候しに、追様に荷懸
駄卅疋送りたびて候き、次の日兵衛佐の館へ向て候
しかば、金作の太刀に九指たる征矢一腰給て候き、
其上鎌倉を出で候し日よりして、かがみの宿迄宿々
には米五石あて置候間、沢山なるに依て少々は人に
とらせて候、又みちみち施行に引てこそ候つれと、
こまかに申たりければ、人にとらせて康定が得分に
はせでとぞ、法皇は仰あて笑ばせたまひける、むか
し武蔵権守平将門以下の朝敵首両獄門に収められ、
文覚白地に獄に宿入られたらん者の、いかでか輙く
左馬頭義朝が首を掠取べき、只偽て兵衛佐に謀叛を
申すすめんが為に、野原にすてたる頸を取て、かく
申たりけるに依てなり、石橋の軍には兵衛佐負たり
けれども、次第に勢付て、所々の軍に打勝てのち、
父の恥を清め、誠に義朝死て後、会稽を雪たりと覚
て哀なり、
木曾冠者義仲はみやこの守護にて候けるが、みめか
P524
たちは清く美男にてありけれども、起居の振舞のこ
つなさ、ものなどいひたる詞つづきのかたくななる
事、堅固の田舎人にて浅猿くおかしかりけり、実にも
理なりとぞ人々申ける、信濃国木曾の山下といふ所
に、二歳よりして廿余迄隠居たりければ、さるべき
人ともなれ近付たる事もなし、今始めて都人となれ
ける程に、なじかはおかしからざるべき、
猫間中納言光隆卿、木曾が方へおはして、雑色をも
て参てこそ候へ、見参に入れ候はんと申せといはせ
入させ給たりければ、木曾が方に今井四郎、樋口次
郎、高梨子、根井といふ四人ありけり、其中に根井と
いふ者、木曾に猫殿の参りてこそ候へと仰せられ候
と云たりければ、木曾心得ずげにて、とはなんぞ、猫
の来るとは何といふ事ぞ、猫の人に見参する事やあ
ると云て、腹立ける時、根井又立返て、使の雑色、
猫殿参りたりとは何事ぞ、御料のしからせ給ふとい
ひければ、雑色おかしと思て、七条坊城壬生の辺を

ば南猫間と申候、是は北猫間に渡らせ給ひ候、上臈の
猫間中納言殿と申参らせ候人にて渡らせ給候なり、
鼠取候猫にては候はぬなりと、こまごまと云たりけ
れば、其時能々心得たりげにて、根井委しく木曾に
申たりければ、さては人ござんなれ、いでさらば見
参せんとて、中納言殿を請じ入奉りて出合けり、木
曾取あへず猫殿のまれまれわしたるに、根井やもの
参らせよといひければ、中納言浅ましく覚て、只今
何も所望なしと宣ひけれども、いかが食時にわした
るに物参らせではあるべき、無塩平茸もありつ、と
くとくといひければ、よしなき所へ来にけりと、今
更帰らん事もさすがなり、かばかりの事こそなけれ
と思して、の給ふべき事もよろづ興さめて、かたづを
呑みてましましけるに、いつしか黒々としてけだち
たる飯を、高く大にもりあげて、御さい三種平茸の
汁一折敷にすへて根井持来りて、中納言の御前に据
たり、大かたとかく云ばかりなし、木曾がまへにも
P525
同じ様にすへたり、すへはつれば、木曾箸を取てお
びただしきさまにくひけり、中納言は青醒ておはし
ければ、いかにかめさぬぞ、がうしをきたなみたまふ
か、あれは義仲が観音講に毎月にすふる精進合子に
て候ぞ、ただよそへ無塩平茸の汁もあり、猫殿かひ
給へやといひければ、食てもあしき事もやありとて、
食まねせられたりければ、木曾はつかとくひて、手
づから合子も皿も取かさねて、中納言を打みて、あ
の猫殿は天性小食にておはしけるや、猫殿今少しか
ひ給へと申けり、根井よりて猫間殿のそなへをあげ
て、猫殿御供の人や候と申たりければ、因幡潤と云
雑色是に候とて参たりければ、是は猫殿の御わけぞ、
給はれとて取らせたりければ、とかく申すに及ばず、
縁の下へなげ入たりけるとかや、是のみならず、か
やうにおかしき事ども数を知らずぞ有ける、
木曾官なりたるしるしもなく、さのみ直垂にてある
も悪しとて、布衣取装束して車に乗て、院参しける

が着も習はぬたてゑぼしより始て、さしぬきのすそ
までかたくなさ、事もいふばかりなし、牛飼童は平
家の内大臣の童を取たりければ、高名のやつなりけ
り、我主の敵ぞかしとめざましく心うかりければ、
車にこそ乗たるありさまいふばかりなし、おかしか
りけり、人形か道祖神かとぞみえし、鎧うちきて馬
に乗たるにはにず、あぶなく落つべしとぞ見えける、
牛車共に、屋島大臣殿のをおさへとりたりけり、牛
飼童も大臣殿次郎丸なり、世にしたがへばとられて
使はれけれども、主の敵なればめざましく思ひて、い
と心にも入ざりけり、牛は聞ゆるこあめなり、逸物
のこの二三年すへかうたるが、門出に一ずはえにて
あてたらんに、なじかは滞るべき、飛出たりければ、
木曾あふのけに車の内にまろびけり、牛はまひあが
りてをどる、いかにと木曾浅ましく思ひて、起き上ら
んとしけれども、なじかは起上るべき、袖を蝶の羽
を広げたるがごとくにて、足を空にささげて、なま
P526
り声にてしばしやれしばしやれといひけれども、牛飼そら
きかずして、四五町ばかりがほどあがらせたりけれ
ば、供奉にある郎等ども走り付て、いかに御車をと
どめよといひければ、御牛のはなこはくて留り兼て
候、其上しばしやれしばしやれと候へばこそ仕て候へとぞ
陳じける、車留て後、木曾ほれぼれとして起上りけ
れども、猶あぶなく見えければ、牛飼童さしよりて、
それに候手形にとりつかせ給へといひければ、いづ
れを手形ともしらぬげにて、見まはしければ、それ
に候穴に取つかせ給へといひける折、取付てあはれ
したくや、是は牛小舎人の支度か、主殿のやうが木
のなりかとぞとひたりける、車の後よりおりんとし
ける間、前よりこそ下させ給はめと雑色申ければ、天
性はり魂の男にて、いかでかすどほりをばせんずる
といひけるぞ、おかしかりける事どもなり、
平家は讃岐国八島にありながら、山陽道をぞ打取け
る、木曾左馬頭只今是を聞て、信濃国住人矢田判官

代海野矢平四郎行広を大将軍として、五百余騎の勢
を差遣しけり、平家は讃岐国屋島にあり、源氏は備中
国水島がみちにひかへたり、源平たがひに海を隔て
支へたり、閏十二月一日水島が途に小舟一艘出来、
海舟釣舟かと見る所に、それにはあらず、平家の牒使
の船なりけり、源氏是を見てともづなをといて、ほ
しあげたる船どもをめき叫びておろしけり、平家是
を見て、五百余艘の船を二百余艘をば敵の方へ差う
け、残る三百余艘をば、百艘づつ手々に分て、源氏
の船を一そうも漏さじと、水島が途を押まひたり、
源氏大将軍海野矢平四郎行広、搦手の大将軍矢田判
官、平家の大将軍には本三位の中将重衡、新三位中将
資盛、越前三位通盛、からめ手の大将軍には新中納
言知盛、門脇の中納言教盛、次男能登守教経也、教
経の給ひけるは、東国北国の奴原に始めて生捕にせ
られ、随仕へん事をば返りみるべからず、軍こそゆ
るなれ、船軍はやうある物也とて、唐巻染の小袖に、
P527
精好の大口に黒糸威の鎧のすそ紅に端匂ひしたるを
きて、小船に乗て三尺にすぎたる大長刀の、銀のひる
巻したるを取持て、敵の船にのりうつりて、ともよ
りへ、へよりともざまになぎてめぐりければ、面を
向る者もなし、或は切たをされ、或は海へ落入しけ
るほどに、敵多く亡びうせぬ、其上五百余艘のとも
づなを結合て、中にはもやひを入て上には歩の板を
引渡たれば、平々として足立よし、船の中にて遠者を
ば射、近者をば打物にて勝負をする、熊手にかけて
とるもあり、組て落るものもあり、さしちがへて死
ものもあり、思ひ思ひこころこころに勝負をぞ決しけ
る、巳の刻より未の下刻に至るまで、隙ありとも見
えざりけり、然るに源氏終にまけ軍になりて、大将軍
矢田判官代も討れにけり、海野矢平四郎行広は、今
は叶はじと思ひて、郎等我身ともに鎧武者八人はし
舟にのりて、沖の方へこぎさりける程に、舟はほそ
し浪風烈しかりけり、踏沈で一人ものこらず皆死に

けり、平家は船中に鞍置馬ども用意したりければ、
五百余艘の船のともづなを切放て渚に舟をよせて、
船腹を乗傾けて、馬をさつとおろす、ひたと乗て教
経を先として、をめいてかけ給ひければ、討漏され
たる源氏の郎等ども、取物もとりあへず、はうはう
都へ逃上る、義仲是を聞て安からぬ事に思ひて、夜
を日についで備中国へはせ下る、去六月北陸道加賀
国安高篠原の戦に、備中の妹尾太郎兼康、平泉寺長吏
斉明威儀師を生捕にしたりけるが、斉明をば六条河
原にて切られ、又兼康はさる古兵にて、木曾に二心な
きやうに随けり、去六月頃よりかひなき命を助けら
れ参らせて候へば、今は夫に過ぎたる御恩何にかは
候べき、自今以後命候はんずる限は、御先をかけて、
命は君に参らせ候はんと申て、内々はひまあらば木
曾を討んとぞ狙ひける、蘇子卿が胡国にとらはれ李
少卿が漢国へ帰らざりしがごとし、遠く異朝に着す
ること昔の人の悲しめりし所なり、〓は〓〓の幕こ
P528
れらを以て寒温を防ぎ、〓き肉を酪漿、彼等を以て
は飢饉を養、夜はいぬる事あたはず、昼は悲の涙を
たれて明しくらす、薪をとり草を切らずといふばか
りなり、何事に付ても心うく悲しからずといふ事な
し、されども二心なく木曾につかはれけり、心中に
はいかにもして故郷へ帰てふるき主をも見奉り、本
意をも遂げんと思ふ心深かりけり、さる間謀にかく
は振舞けるをば、木曾つゆも知らざりけるにこそ、
寿永二年十月四日、木曾都を出て播磨路にかかりて
今宿といふ所に着ぬ、今宿より妹尾を先達にて備中
の国へ下り、船坂といふ所にて兼康木曾にいひける
は、今に兼康いとまを給て、先立て親き奴原数多候
へば、御馬の草をも儲させ候ばやと申ければ、木曾
もつとも然るべしとて、さらば義仲はここに三日逗
留すべしと申ける、兼康木曾をばよくすかしおほせ
つと思て、子息に太郎兼道宗俊等を相具して下らん
とす、兼康をば加賀国の住人倉光五郎といふ者に生

捕られて、木曾には仕へけり、兼康倉光にいひける
は、や給へ倉光殿、兼康を生捕にし給ひたりし勧賞
いまだ行ひ給はず、備中の妹尾はよき所也、兼康が
本領也、勲功の賞に申給て下り給へかし、同くは打
具し奉てといひければ、倉光の五郎、実と思ひて妹尾
を望申ければ、木曾下文をなしてけり、倉光五郎頓て
兼康を先に立て、下りける道にて思ひけるは、倉光を
妹尾まで相ぐし下りぬるものならば、新司とて国の
者どももてなしてんず、又悦ぶ者もあらば、倉光勢
付てはいかにもかなはじと思ひて、備前国に別の渡
といふ所より東に藤野寺といふ所にて、兼康、倉光に
申けるは、斯る乱の世なれば所も合期せん事かたし、
兼康先立て所にもふれ廻り、親き者どもにもかかる
人こそ下り給へと申て、御儲をもいとなませ候はん
とて、彼所に倉光をばすかし置て、兼康先に立にけ
り、草加部といふ所に宿して、その夜倉光を夜討に
して、西川、三のわたりして、近隣の者ども驅催して、
P529
福龍寺なはてを堀切る、かの畷と申は、遠さ廿町ば
かりなり、北は峨々たる山、南は海へつづきたる沼
なり、西は石ばいの別所とて寺あり、この寺を打すぎ
て、当国の一宮を伏拝みて、ささが迫に懸りにけり、
小竹が迫は西の方は高山なりければ、上に石弓をは
りて木曾を待かけたり、後は津高町とて谷口は沼也、
何万騎の敵向ひたりとも輙くおとしがたし、爰に兵
どもをさしおきて、我身は唐皮の宿に引籠る、倉光五
郎もとよりすくやかなる者にて、妹尾太郎を生捕に
するのみにあらず、度々高名したる者にてあるに、
いかにして兼康にはいふかひなくおびき出されて、
うたれにけるやらんと人申ければ、或者の申けるは、
ことわりや、北国の住人ながら傍輩をかへり見ず、
案内者たたでここかしこにあなぐりありき、もとよ
りも馬のはなも向はぬ所へも武士を入なんどして、
木曾に悪き事を申すすむれば、悪行積りて本社の御
咎めやあるらん、それも知らず、又斉明威儀師を六条

河原にて首をきられしも、倉光が讒言なり、末社の
長吏なれば白山権現の御祟にて、倉光もいひ甲斐な
くうたれにけりとも申けり、妹尾太郎申けるは、兼
康こそ北陸道の軍に生捕にせられてありつるが、木
曾をすかいて、いとまをえて平家の御方へ参れり、木
曾は既に船坂に着たり、御方に志思ひ参らせん者ど
もは、兼康に付て木曾を一矢射よやと、山彦、木だま
のごとくののしりて通りければ、妹尾の者どもは、
馬鞍郎等をも持たる輩は、皆平家について屋島に参
りぬ、物の具持たぬ者は妹尾に留ま[B ッ]てありけるが、
是を聞て或は柿のひたたれに、つめひぼゆひたる者
もあり、或は布小袖にあづまをりしたる者もあり、狩
うつぼにさび矢四五さいてかきおひ、箙に鷹俣五六
指てかきつけたる者、あなたこなたより二三百人ば
かり集りにけり、物具したる者七八人には過ぎざり
けり、妹尾太郎に夜討にうちもらされたる倉光が下
人、船坂山に罷り向て木曾に申けるは、倉光殿こそ
P530
夜討に討れて候へ、妹尾太郎殿は先立て馬草をも尋、
御儲をもせさせ候べし、其程は此寺にましませと申
て、倉光殿をば古堂に止置奉りて、急ぎ使を奉るべ
しと申て罷候しが、使も参らせ候はぬと申ければ、木
曾殿大に驚て、さて夜討の勢は何ほどかありつると
とへば、四五十騎には過候はじといひければ、さて
は兼康めがしわざにこそ、さ思ひつる物を安からぬ
ものかなとて、木曾腹立て、三百余騎にて今宿を打
出で夜を日についで馳下り、その暮方には三石につ
き、明る日藤野につきて、倉光さてはここにてうた
れ候けるよとて、それをも打すぎて、別のわたりを
して福龍寺畷堀切りたりければ、加波郷へ行て、惣
官をしるべにて北の方の鳥岳を廻りて、小竹が井を
こそおとしけれ、妹尾は木曾は今宿に三日の逗留と
いひしかばとて、いまだ城郭をもかまへぬに、木曾は
と押よせたりければ、思ひまうけたる事なれども、
あわて騒ぎたりけり、さはあれども、暫くこらへて支

へたり、走り武者どもはこらへずして皆落てうせぬ、
少恥をもしり名をも惜むほどの者は、一人も残らず
皆討れにけり、多くは深田に追はめられて、頸をぞ
被切ける、妹尾太郎は矢種つくして、主従三騎千本
山へぞ籠りけるが、相構へて屋島に伝らんと心ざし
たりけるが、妹尾嫡子小太郎兼道は、父には似ず肥
ふとりたる男にて、歩みもやらず、足をはらして、
山の中に留りにけり、父は小太郎をもすてて、思ひ
切りて落行けるが、恩愛のみち力及ばざる事なれば、
小太郎が事を思ふに行もやらず、郎等宗俊にいひけ
るは、兼康は年来数千騎の敵の中に向て戦しかども、
四方はればれとしてぞ覚えしに、只今は行先もみえ
ぬは、小太郎をすてて行時に、眼に霧ふりて行先もみ
えぬと覚ゆるぞ、いづくへ行たり共、しなば一所に
てこそ死にたけれ、屋島へ参じて今一度君をも見奉
り、又軍に木曾殿に生捕られて、此日比朝夕仕へつる
事共をも、語り申さばやとこそ思へども、妹尾こそ
P531
最期にあまりにあわてて、子をすてて落たりといは
れん事も心うし、そのうへ小太郎も恨めしくこそあ
るらめと思へば、もとより取て返し、小太郎と一所に
て死ばやと思ふはいかにといへば、宗俊もさこそ存
候へ、急ぎ帰らせたまへとて、十余町走り帰て、小
太郎が足病て臥たる所に走付て、汝と一所に死なん
と思ひて、帰りたるなりと云ければ、小太郎おきあ
がりて手を合せて涙を流し、前にはしがきをさし矢
間をあけ、うしろには大木を当てて、木曾をまちか
けたり、さるほどに木曾三百余騎にて、妹尾が跡め
に付て追かけたり、兼康此山に籠りたるは、いづく
にあるやらんとて、人を入てさがさせよものどもと
いひければ、聞もあへず妹尾太郎兼康ここにありと
いふままに、さしつめさしつめ射る、十三騎をば射おとし
つ、馬九疋をば射ころしぬ、妹尾矢だねつきてけれ
ば、腹を切てふしにけり、子息小太郎もさんざんに
戦て、同じく自害して臥にけり、郎等宗俊はしがき

の上より、妹尾が郎等に宗俊といふ剛の者の、自害す
るを見よや殿原と云て太刀の先を口に含て、さかさ
まに落ちつらぬかれて死にけり、木曾、妹尾が父子自
害の頸を取て、備中国鷺の森へ引退き、万寿庄に陣を
取て勢を揃へける、去程に京の留守に置たりける樋
口次郎兼光、早馬をたて申けるは、十郎蔵人殿こそい
たちのなきまにてん[* 「てん」に「貂」と振り漢字]ほこる風情して、院の切人して
木曾殿を討奉らんと、支度せらると告げたりければ、
木曾大に驚て、平家をば打すてて、夜を日についで都
へはせのぼる、十郎蔵人是を聞て木曾にたがはんと
て、十一月二日、三千余騎にて丹波国へかかりて、
播磨路へぞ下りける、木曾は津国より京へいる、
平家は門脇の中納言教盛、本三位中将重衡を大将軍
にして、其勢一万余騎、はりまの国室の津につく、
平家討手を五にわかつ、一陣には飛騨の三郎左衛門
景経五百余騎、二陣は越中次郎兵衛盛次五百余騎、
三陣は上総五郎兵衛五百余騎、四陣は伊賀平内左衛
P532
門家長五百余騎、五陣は大将軍新中納言七千余騎に
て、室坂を歩ませ向ふ、ここに十郎蔵人出来、一陣の
勢是を防ぎ、暫く支へて二陣に向ひたり、此手も防
様にてめての林へおち下る、それを追ひ落て三陣の
勢にあゆませ向ふ、そこをもこらへずして北のふも
とを射落さる、四陣によせ合ひたり、是もかなはず
南の山際へ追ひ落さる、五陣の大勢によせ合たり、
新中納言の侍に紀七、紀八、紀九郎とて兄弟三人あり
けるが、精兵の手ききなりけるを先として、弓の上
手をそろへていさせければ、面をむかへ寄べきやう
もなかりけり、行家かなひがたくて引退きければ、
軍兵ときを作りておつかくる、鬨の声を聞て、四陣
三陣二陣一陣の勢、山のみねよりもとの跡に来り集
りて、是をささへたり、行家は敵にたばかされけり
と心得て、中にとりこめられじとて、敵に向て弓を
ひかず、太刀をもぬかず、ここを通せや若党どもと
て、四陣をけやぶり三陣につぎ、爰をもかけとほり、

一陣同じくかけ破りて通つつ、十郎蔵人後を返りみ
れば、三千余騎の勢皆討とめられて、わづかに五十
よきになりにけり、此中にも手負数多ありける、大
将軍行家ばかりぞ手一ヶ所もおはざりける、行家あ
まの命生て津国へおちにけり、平家の勢いふしろ
にしこみければ、さんざんに射払ひてのぼる、播磨
の方は平家に恐る、都は木曾に恐れて、和泉国へぞ
落ちにける、平家、室山、水島両度の軍に打勝てこそ、
会稽の恥をば清めけれ、源氏の世になりたりとも、さ
せるゆかりならざらん者は、何の悦かあるべきなれ
ども、人の心のうたてさは、平家の方弱ると聞けば悦
び、源氏の方つのると聞ては興に入てぞ悦びあひけ
る、さはあれども、平家西国へおち給しかば、其騒
ぎにひかれて安き心なし、妻子を東西南北へはこび
かくし候ほどに、引失ふこと数をしらず、穴を掘て
埋みし物をも或は打破り、或は朽損じてぞ失せにけ
る、浅ましともおろかなり、まして北国の狄打入て
P533
後は、八幡、加茂の領地をも憚らず、麦田を刈らせて
馬に飼ひ、人の倉を打あけて物をとる、可然大臣家
などをばしばしは憚りけれども、かたほとりに付て
は、武士乱入して少しも残す所なし、家々を追捕し、
家々には武士ある所にもなき所にも、門々に白はた
を立置て、道をすぐる者安き事なし、衣裳をはぎ取
ければ、男も女も見苦しき事にてぞありける、平家の
世には六波羅殿御一家と云てければ、ただ恐をなし
てこそありしか、か様に目を合て食物着物を奪ふ事
やはありし、老たるも若きも歎あへる事なのめなら
ず、木曾かかる悪事を振舞ける事は、加賀国井上次郎
師資が教に依てとぞ後には聞えし、院の北面に候け
る壱岐の判官知康をば、異名には皷の判官とぞいひ
ける、それを御使にて、狼藉をとどむべきよし被(レ)仰
下ければ、木曾遠国の夷とはいひながら、無下にひ
たすら者不覚の荒夷にて、院宣をも事ともせず、さん
ざんにふるまひければ、前入道不便に思召て、内々木

曾に仰せられけるは、平家の世にはかやうの狼藉な
る事やはありしと諸人云歎く也、人を殺し火を放つ
事不尽と聞ゆる、急ぎ鎮めらるべしと被(レ)仰けれど
も其しるしなし、院よりなほ知康をもて上洛して、叛
逆の徒を追ひ落したる事は本意也、誠にや室山より
備前守行家が引退きける由聞ゆ、尤覚束なし、さて
は此間洛中狼藉にて諸人の歎きあり、はやく可鎮と
仰有ければ、木曾義仲畏申けるは、先行家が引退候
なるも、やうこそ候らめ、さればとてやは平家世をば
取候べき、はからふむね候、驚き思召さるべからず
候、次に京都の狼藉つやつや不存知仕、いかさま
尋ねさた仕候べし、下人など多く候へばさやうの事
も候らん、又義仲が下人に事をよせて、落たる平家の
家の子もや仕候らん、又京中なる古盗人もや仕候ら
ん、目に見え耳に聞え候はんには、いかでかさやう
の狼藉仕らせ候べき、今日より後義仲が下人と申て、
左様の事仕候はん者をば、直に搦め給はるべく候、
P534
一々頸を切て見参に入奉るべしと申ければ、知康帰
り参じて義仲が申つる様に、こまこまと申上たりけ
れば、存知の所よく申にこそとぞありける、義仲かく
はきらきらしく申たりけれ共、京中の狼藉はあへて
止まらざりければ、猶知康をもて相構々々狼藉を止
めよ、天下泰平とこそ祈申事なるに、かく乱れがは
しき事せんなしと仰下されければ、木曾今度は気色
あれて目も持ちあけず、和御使殿をば誰といふぞと
問ければ、壱岐の判官知康と申也とぞ答へける、わど
のを皷の判官と童のいひけるは、よろづの人のたた
くか、はられたるか、皷にておはせばとひやうしけれ
ば、義仲が申たる旨を院に申されねばこそ、さやう
に狼藉するらん者をも、搦めて遣はさざるらめなど
云事、さたの道をも不覚とて殊の外いかりければ、
知康さらば罷帰りなんといひければ、木曾そへに帰
らでは何事をしたまふべきと、あららかにいひけれ
ば、知康帰参して義仲は鳴呼の者にて候けり、向ふ

さまにかくこそいひ候つれ、勢を給て追討仕候はば
やとぞ申ける、此知康は究竟の皷の上手にてありけ
れば、皷の判官とぞ申ける、是を木曾伝聞てかくは
申たりけるにや、木曾かかる荒夷にて院宣をも事と
もせず、さんざんに振まひければ、平家にかへおと
りとて、院の御所の御前に札に書て立たりけり、
赤さいて白たなごいにとりてかへて
頭にまける小入道かな W126 K185
後には山々寺々に乱入して、堂塔仏像を破り焼払け
れば、とりどり云に及ばず、神社にも不憚狼藉とど
めざりければ、早く義仲を追討して、洛中の盗人を
とどむべきよし、知康申ける上、法皇も奇怪に思召さ
れければ、はかばかしく人々に仰合せらるるにも不
及して、ひしひしと思召立て、法住寺殿に城郭を構
て、兵共を召集められ、松葉をもて笠印にすべし、
明雲天台座主に帰り給たりけると、八条宮の寺の長
吏にましましけるを、法住寺へよび参らせて、山、三
P535
井寺の悪僧共を召て参らすべきよし仰けり、其外君
に心ざし思ひ参らせん者は、御方へ可参由仰られけ
れば、義仲に日来随ひたる摂津国、河内の源氏近江美
濃のかり武者、北陸道の兵者ども、木曾を背て我も
我もと参り籠にけり、これのみならず、諸寺諸堂の
別当長吏に仰て兵を召されければ、北面の者どもわ
か殿上人諸大夫などは、面白きことに思ひて、興に入
たりけり、少しも物の心をわきまへおとなしき人ど
もは、こは浅ましき事哉、只今天下の大事出来など
すとあざむきあへりけり、知康は御方の大将軍にて、
門外に床子に尻かけて、赤地の錦の直垂に脇楯具足
計りにて、廿四さいたる征矢を一筋ぬき出して、さら
りさらりとつまよりて、あはれしれ者の頸の骨を、此矢
を以て只今射貫かばやとぞ詈りける、又よろづの大
師の御影を書集めて、御所の四方の隣に広げかけた
り、御方の人々のかたらひたりける者共は、堀川商
人町冠者原、向礫、関地、乞食法師、合戦の様もいつか

習ふべき、風も荒く吹ば倒れぬべくて、逃足のみぞ
ふみたる者多く参籠りける、物の用に可立もの一人
もなかりけり、木曾是を聞て申けるは、平家の謀叛
を起して君を君ともし奉らず、人をも損じ民をもな
やまし、悪行年久しきによりて、義仲命をすてて責
落して、君の御代になし奉りたるは、希代の奉公にあ
らず哉、それ何の咎あて、只今義仲をうたるべきや、
東西の国々ふさがつて都へ物ものぼらず、もて来る
方もなし、餓飢して死ぬべければ、命を助からんた
めに兵粮米をとり、青田を刈らせて馬に飼ふ、力及
ばざる事也、さればとて王城を守護してあらん者が、
馬一疋宛のらせではいかでかあるべき、さりとて宮
原へも打入り大臣家へも乱入て、狼藉をもせばこそ
奇怪ならめ、かた畔に付て、少々物とりなどせんを
ば、院強ちに咎め給ふべき様やある、是は皷めが讒
言也、やすからぬもの哉、皷めを討破てすてんとい
ひければ、左右に及ばずといふ者もあり、樋口次郎
P536
兼光、今井四郎兼平など申けるは、十善の帝王に向
参らせて、弓を引き矢を放たせ給はん事、いかがあ
るべからん、只あやまたせ給はぬよしを、幾度も陳
じ申させ給ひて、甲をぬぎ弓をはづして、降人に参
じ給ふべくや候はんと申ければ、木曾申けるは、義
仲年来何ヶ度か軍しつる、北国、信濃、たけをみまの
軍を始として、横田川、砥並山、安高、篠原、黒坂口、
備中国板倉の城を落ししまで、以上九ヶ度の軍をし
つれども、一度も敵に後を見せず、十善帝王にてま
しますなればとて、甲をゆぎ弓をはづして、おめおめ
と降人に参ずべしとは覚えず、皷めに頸打切られて、
悔とも益あるまじ、法皇は無下に思ひ知りおはせぬ
ものかな、義仲に於ては今度最後の軍也とぞ申ける、
木曾かくいひけりと聞きければ、知康いとど嗔をな
して、急ぎ義仲を可追討由をぞ申行ひける」、義仲北
国の合戦に、所々にて官兵を打落して都へ責上るに、
比叡坂本を通らん時、衆徒輙く通さじとて、越前国

府中より書状を書て、山門へ送りたりしに、衆徒木
曾に与力してければ、源氏の軍兵天台山へ登りにけ
り、其後木曾都へ打入て、狼藉なのめならず、山門
の領に所を置かず、悪行法に過ければ、衆徒契を変じ
て木曾を可背由聞えければ、依(レ)之義仲怠状書て山
門へ遣しける、其状に云、
山上貴所義仲謹解
叡山之大衆、忝振上神輿於山上、猥構城郭於
東西、爰不開修学窓、偏専兵仗之営云云、尋
其根源者、義仲結構悪心、可追捕山上坂本之
由風聞、此条極僻事候、且満山三宝護法可令垂
知見給、自企参洛之、奉仰医王山王之冥助、
顕者憑山上大衆之与力、今始何致忽諸哉、雖
有帰依(レ)之志、無凶悪之思者也、但於京中搦
山僧之由、有其聞之条、尤恐怖、号山僧好
猛悪之輩在之、仍為糺真偽、粗尋承之間、自然
狼藉出来候歟、全不満通儀、惣山者聞可令軍
P537
兵登山之由、依(レ)之大衆下洛之由承之、是偏所天
魔之構出歟、相互不(レ)可有信用、怱以此旨可
令披露山中之給状、如件、
十二月十三日 伊予守義仲
進上 天台座主御房へ
とぞ書たりける、山上には是にも鎮まらず、弥蜂起
するよし聞えたり、昔周の武王殷の王を討んとしけ
るに、冬天に雲寒て、雪降る事高さ二十丈に余れり、
五車二馬に乗れる人、門外に来て王を助け、紂を誅す
べしと云てさんぬ、深雪に車馬のあとなし、是則海
人の天使として来るなるべし、然る後紂を討事を得
たりき、漢の高祖は韓信が軍に囲れて危くありける
に、天俄に霧降闇して遁るる事を得たり、木曾為人
倫有讎、仏神に憚りをなさず、何によてか天の助に
も預り、人の憐みあるべきなれば、法皇の御憤も弥
深く、知康も日に随て急ぎ可追討之由申行ひけり、
知康は赤地の錦の直垂にわざと鎧は着ざりけり、甲

計をぞきたりける、四天王の像を絵に書て、甲には
さ[B をイ]し、右の手には金剛鈴をふり、左には鉾をつき、
法住寺殿の四面の築地の上にのぼりて、事を招きて
時々舞にけり、是を見る者、知康には天狗の付にけり
とぞ申ける、木曾が軍の吉例に、陣をとるに七手に分
けて、一手は二手に行合けり、樋口次郎兼光は三百余
騎にて新熊野の方へさし遣す、残六手は各々居たる家
小路より河原へ馳出、七条河原へ行合べしとて、二
条をかくる者もあり、楯、根井は三条をかく、物井、
蛭川は四条をかく、滋秋兄弟は楊梅をかく、手塚別
当、手塚太郎は佐妻牛をかく、仁科、高梨、山田次郎は
六条をかくれば、左馬頭、今井四郎を始として、七
条河原に馳向ふ、六手が一に行合たり、其勢千騎に
過ざりけり、義仲既に打立由聞えければ、大将軍知
康以下近国の官兵北面の輩、公卿殿上人侍中間山法
師以下二万余騎とぞ詈りける、木曾河原へ打出るほ
どこそあれ、鬨をどと作て高くをめき、荒くはせて西
P538
面の門際へ責寄せたり、知康進出て申けるは、汝等
忝も十善帝王に向て、弓を引矢を放ん事いかでかあ
るべき、昔は宣旨を読懸られしかば、枯たる草木も
花開き菓なり、無水池には水湛へ、悪鬼神も奉随
けるとかや、末代と云ながら、夷の身としていかで
か君をばそむき奉るべき、汝等が放む矢は還て己等
が身にあたるべし、ぬきたる剱にては吾身を切るべ
し、御方より放矢は征矢とがり矢をすけずとも、己
等が甲はよもたまらじ、速に引退き候へやと云けれ
ば、木曾大にあざ咲て、さないはせそとて、をめい
てかく、やがて御所の北の在家に火をかけてければ、
折節北風烈しく吹て、猛火御所へ吹覆て東西を失へ
るに、御所の後口今熊野の方より、樋口次郎三百余騎
にて鬨を作て寄たりければ、参り籠りたりける公卿
殿上人、山々寺々の僧徒駈武者肝魂も身にそはず、手
足の置所を知らず、太刀の柄をとらへたれども、さ
しはたらかで逃られず、長刀を逆に突て己が足を突

き切りなどぞしける上は、まして弓を引矢を放ん事
までは、思ひもよらず、か様の者のみ多く参り籠り
たりけり、西は大手せめ向ふ、北は猛火もえ来る、東
の後からめてまはりて待かけたり、南門を開いてぞ
まどひ出られける、西面の八条が末をば山法師のか
ためたりけるが、楯の六郎懸破て入にければ、築地の
上にて金剛鈴を振つる知康も、いつちへ失ぬらん人
より先に落にけり、知康落失ける上は、残留りて防ん
と云者なかりけり、名をも惜み恥をも知るほどの者
はみな討死しけり、其外の者どもは、匐々御所を逃
出て、あそこここにて打伏切伏らるる事其数を知ら
ず、むざんとも云ばかりなし、七条末は摂津国源氏
多田蔵人、豊島冠者、左田太郎固めたりけれ共、七条
を西へ落にけり、軍以前に在地の者どもに、落ん者
をば打伏よと知康下知したりければ、在地人等、家
の上に登りて楯をつき、石つぶてをもて拾ひ置きて
待処に、御所の兵どもの落けるを敵の落ると心得て、
P539
我おとらじとうちければ、是は御方ぞ院方ぞと面々
名乗て助よと云ければ、さはいはせそ、院宣にてある
ぞ、落武者は唯打伏よ打伏よと打ければ、多くの人々打
損ぜらる、はうはうにして軒の下に立寄て助らんと
する者をば、向の屋の上より打間、こらへずして物[B ノ]
具ぬぎすてはうはうにぞ落にけり、御所にもよきも
のども少々ありけり、出羽判官光長は伯耆守に成、
子息左衛門尉光経は検非違使に成たりけり、父子共
に懸出、散々に戦て討死する、信濃国住人村上判官
代父子七人籠たりけるが、三郎判官代計ぞ討死して
けり、残六人は落けり、天台座主明雲僧正は香染の
御衣に、みな水精の念珠をもち給ひて、殿上の小侍
の妻戸をさし出て、馬に乗らんとし給けるを、楯の
六郎が放矢に御腰骨を射させて、犬居に倒給けるを、
兵よりてやがて御頸をとり奉りけり、寺の長吏円恵
法親王御輿にて東門より出させ給けるを、兵馳せつ
づき追落し奉りければ、或は小家に逃入せ給はんと

せしところを、根井小矢太が射ける矢に、右の御耳
の根よりかぜに射貫かれさせ給て臥給けるを、兵よ
りて御頸を切奉りけり、法皇は御輿にめし、南の門
より出させおはしましけるを、武士ども多く責かか
り参らせければ、御力者御輿を捨て奉りて、面々に
逃失せにけり、公卿、殿上人も皆立隔られてさんざん
になりて、御供にも参る者もなかりけり、豊後の少将
宗長計ぞ木蘭地の直垂小袴にくくりあげて、御供に
候はれける、宗長はもとよりしたたかなる人にて、
法皇に少しもはなれ参らせで附たりけり、武士追付
て既に危かりけれども、少将立向て、是は院の渡ら
せ給ふぞ、誤り仕るなと申たりければ、武士馬より
下りて畏、何者ぞと尋ければ、信濃国住人根井小矢太
并楯六郎親忠、弟八島四郎行綱と申者にて候と申て、
三人制参らせて、五条内裏へ奉渡て、守護し奉る、
宗長ばかりぞ御供に候はれける、其外の人々は一人
も不見、大かたとかく申計なし、更にうつつとも覚
P540
えず、主上の御事をもさたし参らする人もなし、兵ど
も乱入ぬ、御所には火かかりたり、七条侍従信清、
紀伊守範光只二人候けるが、池にありける御船に乗
まいらせて、さしのけたりけれども、流矢まきかくる
やうに参りければ、信清是は内のわたらせ給ふぞ、
いかにかくは射参らするぞと申されけれども、猶狼
藉なりければ心うく悲くて、主上をば御船の底に伏
参らせ奉りてぞ居たりける、夜に入て坊城殿へ渡し
参らせて、それより閑院殿へ入せ給ふ、行幸の有さ
ま只推量るべし、いまいましとも愚なり、法住寺殿
は御所より始て、人々の家々軒をきしりて作たりつ
るを、一宇も残らず皆焼亡にけり、播磨中将雅賢は
させる武略の家にはあらねども、天性武勇の人にて
おはしけるが、糸威の腹巻に重目ゆひの直垂を被着
たりけるが、殿上の西面の下侍の妻戸を押開て被出
けるを、楯の六郎能引て頸の骨を志て射たりけるが、
烏帽子の上を射付て、妻戸に矢は立にけり、其時我

は播磨の中将と云者ぞ、過ちすなと騒がぬ体にて宣
ひければ、楯の六郎馬より飛下り、生捕にして我宿
所に戒め置き奉る、又越前守信行と云人有けり、布
衣に下括して有けるが、ともに具したる侍も雑色も、
いづちへか失けん一人も見えす、二方よりは武士せ
め来り、一方よりは黒けぶり押覆て、いかにともす
べきやうもなし、大垣の有けるを越えむ越えむとしけ
る程に、後より射貫かれて死にけり、むざんとも云
ばかりなし、主水正近業は大外記頼業真人が子、薄
青の狩衣に上ぐくりして葦毛の馬に乗て、七条河原
を西へ馳けるが、木曾の郎等今井四郎馳並て、妻手
の脇つぼを射たりければ、馬より逆に落て死にけり、
狩衣の下に腹巻着たりけるとかや、明経道の博士也、
兵具を帯する事不(レ)可然と人傾申けり、河内守光資、
弟蔵人仲兼は南の門を固めたりけるが、近江源氏錦
古利冠者義弘打通りさまに、殿原は何をかためて今
までおはするぞ、院他所へ行幸成たるものをとて落
P541
ければ、さてはとて河内守はうへの山に籠りぬ、源蔵
人は南へ向て落にけり、河内国の住人加賀坊源秀と
云ける者、葦毛なる馬の極て口強なるに乗たりける
が、源蔵人に打並で申けるは、此馬のあまりにはや
りて、乗給へるべしとも覚えず、いかにし候べきと
申たりければ、いざさらば仲兼が馬に乗替んとて、
栗毛なる馬に裏尾白かりけるに乗かへたり、主従八
騎打つれて、瓦坂の手向に三十騎計にてひかへたる中
へかけ出ぬ、半時計り戦てさつと引てのきければ、加
賀坊を始として五騎討れぬ、仲兼主従三騎計破て通
りけり、加賀坊が乗たる裏白馬走り出たりければ、
源蔵人の家子に信濃次郎頼成と云もの、源秀が乗か
へたるをばしらで、舎人男のありけるが、此馬は蔵人
殿の馬と見たるは僻事か、さん候、我主は討れにけ
り、さ候へばこそ御馬は候らんといひければ、あな
心うや、蔵人より先に討れてこそみえんと思ひつる
に、何地へむきてかけつるぞや、あの見えつる勢の中

へこそと申ければ、信濃治郎さござんなれとて、をめ
いてかけ入討死してけり、源蔵人は木幡山にて、近衛
殿御車にて落させ給ひけるに追付奉りぬ、あれは仲
兼か、さん候、人もなきに近く参れと仰ありければ、
宇治まで御とも仕て、それより河内国へぞ落にける、
刑部卿三位は迷ひ出で帰られけるが、七条河原にて
表裏皆はがれけり、烏帽子さへ落にければ、十一月
十九日の事にてはあり、河原風さこそ寒く身にしみ
給けんに、赤裸にて立れたりけるに、此三位の姉聟
に越前法橋章救といふ人なりけり、彼法橋のあとに
ありける中間法師、さるにても軍はいかが成ぬらん
と思て立出たりけるが、此三位の有さまを見て、目
も当られず、浅ましく思ひて、我着たる衣をぬぎて
着せ奉りたりければ、衣をうつ[* 「うつ」に「空」と振り漢字]にほうかぶりて、こ
の中間法師を先に立てぞおはしける、御供の法師も
白衣也、三位もほうかづきしたる人なれば、人々お
かしげに思ひしかば、とくとく歩み給へかしと思ひ
P542
けれども、急ぎ歩み給はで、ここはいづくぞ、あれ
は誰家ぞとしづしづとの給ひけるぞ、余りにわびし
かりしかとぞ、後に人々に語りけるとかや、是のみな
らず、おかしく浅ましかりしことども多かりけり、
寒中に一衣着たる者をも、上下をいはずとられけれ
ば、男も女も皆赤裸にはがれて心うき事限りなし、か
ひなき命ばかり生たる人もにげかくれつつ、都の外
なる山へぞまじはりける、
廿一日辰の時に、木曾六条河原に出で、昨日きる所の
頸ども竹に結でかけさせたり、左の一の頸には、天台
座主明雲大僧正の御頸、右の一には寺の長吏円恵法親
王の御頸をぞ懸たりける、其外七重八重にかけ並べ
たる首ども、惣じて三百余とぞ人かぞへ申ける、是
を見て天に仰ぎ地に倒て、をめきさけぶ者多かりけ
る、父母妻子などにてもこそありけめ、むざんとも
愚なり、越前守信行朝臣、近江前司為清、主水正近業
などが首も此中にありけり、先にこりさせ給はで、か

かるいひがひなき事引出させ給ひて、万人が命を失
はせ給のみならず、我身も禁囚せられさせ給ふ事、せ
めての御罪の報かと、後世迄もいかならんとぞ、貴賎
上下遠近親疎爪弾をして申あひける、八条の宮坊官
大進法橋行清と云者ありけり、宮の討れさせ給ひぬ
と聞ければ、こき墨染の衣につぼね笠を着て、六条
河原へ出て頸どもを見るに、明雲僧正の御頸と宮の
御頸をば、左右の一番に懸たり、行清法橋見奉て、
人目もつつましかりけれども、余りの心うさに衣の
袖を顔にあてて、御頸に取付き奉らばやと思ひけれ
ども、さすがそれもかなはねば、泣々帰りにけり、其
夜行清忍びて彼御頸を盗み取りて、高野に閉籠りて
宮の御菩提をぞ奉訪けり、故少納言入道の末子宰
相修憲と云人おはしけり、此合戦の有さま心うく思
はれける上、院をも木曾奉取て、兵物厳しく奉守と
聞えければ、いかにしてか今一度見参らせんと思は
れければ、俗体にてよもゆるされじ、出家したらんの
P543
みぞ宥されんずると思ひて、俄にもとどりを切て頭
をそり、五条内裏へ参られたりければ、守護の武士
ゆるして入てけり、法皇の御前に参り給て、俄に出
家を思立候事、今一度龍顔を拝し奉らんが為にと申
されたりければ、法皇聞召されて、真実の志かなと
て、感涙をぞ流させ給ける、人多く誅せられたりと
聞召つれば、覚束なく思召しつるに、命全かりけるこ
そうれしく思召せとて、御涙を流させ給ければ、宰
相入道墨染の袖をしぼりあへず、良久あて、仰有け
るは、抑今度の軍に誰々か討れたると御尋ありけれ
ば、宰相入道涙を押へて申されけるは、八条の宮も
見えさせ給ひ候はず、山の座主明雲僧正もながれ矢
に当て失せ給ぬ、信行、為清も討れ候ぬ、能盛も手負
て万死一生とこそ承り候へと申されたりければ、む
ざんや明雲は非業の死をすべき人にてはなき物を、
今度は我いかにもなるべかりけるに、かはりにける
こそとて、御涙を流させ給けるこそ忝かりける、良

久ありて、又仰ありけるは、我国は辺地[B ノ]悪敷とはい
ひながら、我前生に十戒の力有て、十善の位に生な
がら、先世の罪報に一度ならず斯るうきめをみるら
んと、国土の人民の思ふらんこそ恥かしけれとて、
御涙をうかめさせ給ひければ、宰相入道被申ける
は、龍顔をあやまち奉る事、是言語の及ぶ所にあら
ず、いはんや法体を苦しめ奉らんに於てをや、日月
天にかがやけり、照さぬもの誰かある、神明地を照
し給へば、災害を起す者いき給はんや、さりとも宗
廟すて給はじものを、只神慮をはからせ給はずして、
知康如きの奴原が奏し申けるを、御許容候けるのみ
こそ口惜く覚え候へとて、墨染の袖をばしぼりける、
木曾は昨日の軍に打勝て、今日頸ども六条河原にか
けて返て万事思ふさまなれば、内にならんとも院に
ならんとも我心也、但内は小童なり、一日みしかば
院は小法師なり、内にならんとても、童にもなりが
たくもなし、院に成んとて法師にもいかでかなるべ
P544
き、関白にかならましと云ければ、今井以下の郎等
どもいひけるは、関白には藤原氏ならでは、えなら
ぬとこそ承り候へ、君は源氏にて渡らせ給へば、難
叶こそと云ければ、判官代にならばやと申ければ、
今井、代は吉官にては候はぬござんめれと申ければ、
さらば院の御厩の別当にならんとて、押て御厩の別
当になりにけり、
廿一日に摂政を奉止、松殿御子権大納言師家とて
十三に成けるを、大臣に奉成て、頓て摂政の詔書を
被下、大臣折節あかざりければ、後徳大寺の左大将
実定の内大臣にてましましけるを、暫く借て成給た
りければ、昔こそ迦留の大臣と申人おはしけれ、こ
れはからるるの大臣とぞ時の人申ける、かやうの事
をば大宮太相国伊通卿[B ママ]こそ宣けるに、其人おはせね
ども、申人もありけるにや、
廿八日三条大納言朝方卿以下、文官諸国受領都合四
十九人を木曾解官してける其中に、公卿五人とぞ聞

えし、僧には権少僧都範玄、法勝寺執行安能も所帯
を没官せられき、平家四十二人をこそ解官したりし
に、木曾は四十九人を解官す、平家の悪行にはなほ
こえたりけり、かかりしほどに、北面に候ける宮内
判官公朝、藤左衛門尉時成、二人よるひる尾張国へ馳
くだる、その故は兵衛佐の弟蒲冠者範頼、九郎冠者義
経、両人熱田大宮司の許におはすとききければ、木
曾が僻事したるよしを申さんとなり、この人尾張ま
で被上けることは、平家世をみだられし後、東八ヶ
国の年貢を不進送之間、領家本家は誰人やらん、国
司目代も何やらんとも不(レ)知、そのうへ道のらうぜき
もありければ、平家落て後三ヶ年が未進、皆たづね
さたして、O[BH 此処落行歟]千人を兵士を着副て、兄弟二人を法住寺
殿によせて合戦をいたし、御所をやきはらひたりけ
る最中に、東国より大勢のぼるときこえければ、な
にごとやらんとて、今井四郎をさしつかはして、鈴
鹿不破関をかためたりときこえけるあひだ、この人
P545
人兵衛佐に申あはせずして、さうなく木曾といくさ
せん事あしかりなんとて、引しりぞく、熱田の大宮
司の許にゐて、鎌倉へ飛脚をたてて、其返事をあひ
まちけるをりふし、公朝、時成馳下て、このよしを申
ければ、九郎義経申されけるは、ことの次第分明に
うけたまはりぬ、別の使あるべからず、やがて御辺
はせくだりて、申さるべしと宣ひければ、公朝夜を
日に継で鎌倉にはせくだる、いくさの時みなにげう
せて、下人一人もなかりければ、生年十五歳になり
ける嫡子宮内公朝を下人にしてくだりけり、よるは
子を馬に乗せ、ひるは父を馬にのせて程なく下着す、
知康が凶害にて、このたび乱を発したるよし申けれ
ば、兵衛佐大に驚て、義仲奇怪ならば、いくたびも
頼朝に仰せてこそ誅候はめ、無左右君を申勧まい
らせて、御所をやかせたるこそふしぎなれ、さやう
のものを召つかはれんにおいては、自今以後ひがご
とのもの出来べし、知康めしつかふべからざるよし

申たりければ、知康陳ぜんとて、追付鎌倉へ下て、
兵衛佐の許へ参て、見参に入らんと伺申けれども、
めなみせそとの給ければ、申入るる人もなかりけり、
侍所に推参したりければ、兵衛佐簾中より見出して、
子息左衛門督頼家の未だ稚くましましけるに、あの
知康は究竟の比布の上手にてあんなるぞ、是にて比
布あるべしとて、砂金十二両若君に奉り給たりけれ
ば、若君此をもて、比布あるべしと宣べしとありけれ
ば、知康十二両の金を給て、砂金は吾朝の重宝なり、
輙く争か玉にはとるべきやとて、懐中するままに、
庭より石三を取て、やがて挺を上りさまに、目より下
にて数百千の比布をかた手にてつき、左右の手にて
つき、さまざまに乱舞して、応といふこゑをあげて、
一時ばかりついたりければ、簾中より始めて、参会し
たる大名小名興に入て、ゑつぼのおもひにてぞあり
ける、誠に名をえたるもの、しるしはありけりとて、
其後見参せられたりければ、知康、木曾が都へせめ入
P546
て、在々所々を追捕し、大臣公卿に所をおかず、権
門勢家の御領をもはばからず乱入して、狼藉なのめ
ならず、神社仏寺にもおそれたてまつらず、堂塔を
やぶりたきはてて、院の御所法住寺殿へ押寄て合戦
をいたし、八条[B ノ]宮も討れさせ給ひぬ、天台座主明雲
僧正も討れ給ぬなど、あることもなきこともくはし
く申けれども、兵衛佐先立てこころ得たりければ、
よろづ無返事にてましましければ、知康棹をのみた
るここちして、すくみて匐々にげのぼりにけり、人
も能はあるべきものかな、知康をばさしもいきどほ
りふかくして、院にてもめしつかはせ給べからずと
申されたりけるに、はかなき比布にめでて、兵衛佐
見参せられたりけり、
さる程に、東国より兵衛佐の舎弟、蒲の御曹司範頼、
九郎御曹司義経を大将軍として、数万騎の軍兵差副、
都へ上せ、木曾を可討之由申のぼせらる、山門にも
牒状あり、其状云、

牒、遠尋往昔、近思今来、天地開闢以降、世途之
間、依仏祖之鎮護、天子治政、依天子敬礼、仏祖
増威光、云仏祖、云天子、奉守故也、于茲云
源氏、云平民、以両氏之奉公者、為鎮海内之
夷敵、為誅国土之〓士也、而当家親父之時、依
不慮之勧誘処叛逆之勅罪、其刻頼朝被宥幼稚、
預于配流、然而平氏獨歩洛陽之楼、恣究爵賞之
位、家之繁昌、身富貴而誇両箇朝恩、偏蔑如皇威、
奉討三条宮、因茲頼朝為君為世、追討凶徒
仰相伝之郎従、起東国之武士、去治承以後、励
勲功之間、以山道北陸之余勢、先令襲之処、平
氏退散、落向西海之浪、爰義仲等忽忘朝敵之追
討、先申賜勧賞、次押領国庄、無程追平家之跡、
専逆意、去十一月十九日、奉襲一院、焼払御所、
追捕卿相、就中当山座主并御子宮、令入其列、
叛逆之甚古今無比類、仍催上東国之軍兵、可追
討逆徒也、権其首雖無疑、且祈請仏神且大
P547
衆之与力、殊欲被引率、仍牒送如件以牒、
寿永二年十二月廿二日 前右兵衛佐源頼朝
とぞかかれける、山門の衆徒此牒状を見、三塔会合
して既に兵衛佐に与力してけり、平家又西国よりせ
めのぼる、木曾東西に通じて、平家と一に成て、関
東をせむべきよしおもひたち、さまざま謀をめぐら
して、人にしらすべき事にあらねば、おとなしき郎等
などにも云合するにもおよばず、世になし人の手能
書やありと尋ねければ、東山より或僧を一人語ひて、
郎等具してきたりたり、木曾此僧を一間なる所に入
て、引出物に小袖二給て、酒などすすめ、ぎやく心
なきよし申文をかかせけるに、木曾がいふにすこし
もちがはず、此僧文を書、二位殿へは見めよきひめ
やおはする、聟に成たてまつらん、いまより後は、
すこしもうしろめたなく思ひ給ふべからず、もしも
空事を申さば、諏訪大明神の御罸をあたへらるべし
などかかせたり、惣じて文二通かかせ、一通をば平家

大臣殿へと書す、一通をば其母の二位殿へと書かせ
て、雑色男を召よせて、西国へつかはしけり、此文
を見て大臣殿ことに悦給けり、二位殿もさもやとお
もはれたりけるを、新中納言の給けるは、故郷にか
へりのぼらんはうれしけれども、木曾と一に成てこ
そと人は申さんずらめ、頼朝がおもはん所もはづか
しく候、弓矢をとる家は名こそをしく候へ、君かく
てわたらせおはしませば、甲をぬぎ弓をはづして降
人にさんずべしと返答あるべしとぞの給ける、木曾
都へうち入て、在々所々を追捕し、貴賎上下をなや
まし奉り、院の御所法住寺殿を焼き、殿上人を誡め
おきて、少しもはばかる所なきよしを、平家伝聞て
申されけるは、君も臣も山も奈良も、此一門をそむ
いて源氏の世になしたれども、さもあるにやと、大
臣殿よりはじめたてまつりて、人々興に入てぞ申さ
れける、権亮三位の中将は、月日の過行けるままに
は、あけてもくれても、故郷の事をのみ恋しくおぼし
P548
て、唯かりそめの新まくらもかたり給はずあまりに、
左兵衛重景、石童丸などを近く御そばにおき、北の
かた、若君、ひめぎみの御事をのみぞの給いだし、い
かなる有様にてかあるらん、誰かあはれみたれかい
とをしといふらん、我身のおきどころだにあらじ、
おさなきものどもをひきぐして、いかばかりの事を
おもふらん、ふりすてていでしこころつよさもさる
ことにて、いそぎむかへとらんとこしらへおきし事
も、程へぬれば、いかにうらめしく思ふらんとの給
ひつづけて、なみだをながし給ふぞいとをしき、北[B ノ]
方はこのありさまをつたへききて、只いかならん人
をもかたらひて、心をもなぐさめ給へかし、さりと
ておろかにおもふべきにあらずとて、つねには引か
づきふし給ふも無慙なれ、木曾は五条内裏に候て、
法皇をきびしく守護しまいらせけるあひだ、公卿殿
上人一人もまいらず、合戦の時生捕にしたりし人を
もゆるさず、なほいましめおきたりければ、前人道

殿下、内々木曾におほせられけるは、かくはあるまじ
き事ぞ、ひが事なり、能々思慮あるべし、故清盛入
道は神明をもあがめたてまつり、仏法にも帰依し、
希代の大善をもあまた修したりしかばこそ、一天四
海を掌の内にして、二十余年までたもちたりしか、
大果報の者也、上古にも類すくなく当代にもためし
すくなし、其が法皇をわづらはしたてまつりしより、
天の責をかうむりて忽に亡びにき、子孫又たえはて
ぬ、おそれてもおそるべきは悪行なり、非道をのみ
好で世を保つ事はあるべからずと仰られければ、誡
め置たりし人々をもあはれみ、禁獄しつる事をもや
めてけり、物の心をもしらぬあらえびすなれども、
かきくどきこまかに被(レ)仰ければ、奉(レ)靡けり、され
どもなほもとのこころはうせざりけり、仏事にもむ
くいたらば、平家こそ百年まで世をたもため、弓矢
をとるならひ、二なき命をうばはれん敵は、今より
後も手向ひせではよもあらじ、我腹のゐんまではと
P549
思へども、入道殿をこそ親とも申したれ、親のおほ
せのあらん事を、子とてはいかでかただはあるべき
と云ける事こそおかしけれ、十二月十日は、法皇五条
の内裏をいでさせ給て、大膳大夫業忠が六条西洞院
へわたされ給にけり、かくてその日より歳末の御懺
法は始められけり、同十三日木曾除目を行ておもふ
さまに官途も成てけり、木曾が所行も、平家の悪行
におとらずぞきこえし、我身は御厩の別当に押成て、
左馬頭伊予守になりし上に、丹波国を知行して、其
外畿内近国の庄国、院、宮の御領、又上下の所領をし
かしながらおさへとり、神社仏寺の庄領をも不憚振
舞けり、前漢後漢の間、王莽といひけるもの[B 「王莽といひけるもの」に「王刹玄と云ける者二人イ」と傍書]、世を
取て、十八年わがままにおこなひけるがごとく、平
家はおちたれども、源氏は未だうちいらず、其中間
によしなか行家二人して、京中をほろぼしけるも、
いつまでとおぼえて、あやうくこそ見えけれ、され
どもあぶなながらことしもくれぬ、東は近江国、西

は摂津国まで、みちふさがつて、君のみつぎ物もた
てまつらず、京中の貴賎上下、すこしき魚の水にあ
つまれるごとく、ほしあげられていのちもいきがた
くぞ見えられける、
平家物語巻第十五終