平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十六

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平家物語巻第十六(原本無題)
元暦元年正月一日、院は去年十二月十日五条[B ノ]内裏よ
り、大膳大夫業忠が六条西洞院の家へ渡らせ給たり
けるが、世間未だ落居せざるうへ、御所の体礼儀行
はるべき所にもあらねば、拝礼もなし、院の拝礼な
かりければ、殿下の拝礼も行はず、内裏に主上渡ら
せたまへども、例年は寅の一天に被行四方拝もな
し、清涼殿の御簾も上げられず、解陣とて南殿の御
格子三げんばかりをあげたりける、平家は讃岐国屋
島の磯に春を迎へて、年の始めなりけれども、元日元
三の儀式こそよろしからざりけれ、先帝おはしませ
ども四方拝もなく、小朝拝もなし、節会も行はず、
氷のためしも奉らず、〓使も奏せず、世乱たりしか
ども、都にてはさすがにかくはなかりし物をと哀な
り、青陽の春も来て、浦吹風も和に日影も長閑にな

り行けども、平家の人々は寒苦鳥にことならず、い
つとなく氷にとぢられたる心地して、春の朝、月の
夜、詩歌、管絃、小弓、扇合、絵合、様々興ありし事
思ひ出して、ながき日くらしかねたまふぞ哀なる、
十日、伊予守義仲、平家追討のために西国へ下らんと
て、今日門出すと聞えし程に、東国より兵衛佐の弟
蒲冠者、源九郎等を大将として、数万騎の軍兵をさ
しのぼせて、義仲を追討すべきよし聞えけり、其故
は義仲上皇を取籠め奉り、人々を解官して、平家の
悪行にも劣らず、朝威を忽諸し奉るよし頼朝是を聞
きて、義仲をさし上するは、仏神をもあがめ奉り、
王法をも恭くし、天下をも鎮め君をも守護し奉れと
てこそ上せしに、さやうに狼藉をいたす条甚奇怪也、
既に朝敵なりとて、いかりをなして差のぼする所の
勢、既に先陣は美濃国不破関につきたり、後陣尾張
国鳴海がたまでつづきたるよし聞えければ、義仲こ
れを聞きて、宇治勢多二道をふさがんが為に、親類
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郎従を分ち遣す、平家又福原へせめ上る、其比兵衛
佐の許に、摺墨、池月とて二疋の名馬あり、京へ立さ
まに、池月が事を蒲殿を始めとして、梶原源太景季
以下の侍、我も我もと所望しけれど、自然の事あらん
時、頼朝物の具して乗んずるとて惜まれければ、力
及ばずして、さもあれ今一度申て見んとて、かさね
て申たりければ、摺墨を与へんとてたびてけり、景
季悦でまかりいでぬ、その後佐々木四郎高綱、上洛
のいとま申に参りたりければ、兵衛佐いかがおもは
れけん、この馬に乗りて宇治川の先かけて高名せよ
とて、かの秘蔵の池月をたびてけり、面目いふばか
りなし、高綱申けるは、今度の合戦に高綱死にけり
と聞召させ候はば、宇治川の先陣に於ては、人にせら
れ候けりと思召され候べし、生て候と聞召し候はば、
一番してけりと御心得候べしとて出にけり、各々鎌倉
を打出て、浮島が原に人々おりゐて、馬かひける所
にて、多くの馬共をみるに、景季がするすみにまさ

る馬こそなけれ、さもあれ猶も見んとて、高き所に
打あがりてこれをみる、引馬ども何千疋といふ事を
知らず、思ひ思ひの鞍に色々のしりがひかけて、或は
もろくちに引くもあり、或は片口に引せ、乗引に引
せて引通し引通ししける中に、池月とおぼしき馬に金
覆輪の鞍置きて、こぶさの鞦かけて、しらあはかま
せて、舎人二人して引て出来、梶原打よて見れば、
まことの池月也、ふり事がら少しもたがはず、あれ
は誰が馬ぞと問、佐々木殿の御馬候、佐々木殿とは
三郎殿か四郎殿か、四郎殿[B ノ]御馬候、其時景季思ひけ
るは、同じ侍にて景季が先に申たるには給らで、佐
佐木にたびたりけるこそいこんなれ、日本国の大将
軍も時によりては偏頗したまひけるものを、これほ
どに思はれ奉りて、奉公して何にかはせん、平家の
侍に組んで死も同じ事也、今は是こそ敵なれ、佐々
木に言葉をかけんに悪く返答せば、真中いて射落し
て、景季自害して、大事を前にかかへておはする兵衛
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佐殿に、よき侍二人失はせてそんとらせんと思ひて、
佐々木を待所に、高綱何心もなく出来り、景季思ひ
けるは、おし並べてや組む、又向ふさまにやあて落す
といろいろになりて、や殿、佐々木殿、池月をば給
はられたりけるなと言葉をかく、高綱梶原がけしき
を見て、前に心得てければ、少しも騒がず、されば
こそ折ふし申つれどもたまはらず、時にびんぎよか
りつれば、盗みて宵にさかはまで遣はして、かくして
乗りたるぞ、昔天竺の国王の千頭の象をもち給ひた
りけるに、他国よりせめ来りし間、せめ戦はんがた
めに、兵をあつめて九百九十九頭の象をたびて軍に
向はせけり、今一頭の象をばもしの事あらば、国王召
さんとて残されたりけるを、或兵密に夜かの象を盗
みて乗りつつ、一番をかけてかたきの大将を討取り
て、勲功に預る由申伝へたり、高綱私の用にあらず、
兵衛佐殿の御為なり、和殿も所望せらるるこそ聞つ
れと申ければ、梶原打うなづきて、腹ゐたりげにて、

ねたびさらば、景季もぬすまでとぞ申ける、此馬を
池月といひける事は、馬をも人をも食ふ馬也、八寸(やき)
の馬とぞ聞えし、摺墨は黒き馬のふとくたくましき
にてぞありける、
十一日、伊予守義仲可為征夷大将軍由、被宣下
ける程に、木曾義仲を為追討、廿日辰の刻に東国よ
り軍兵二手に宇治勢多両方より都へ入る、勢多の大
将軍には蒲冠者、武田太郎、加々見太郎、同次郎、
一条次郎、板垣三郎、侍大将には、土肥次郎、稲毛
三郎、半替[B 「半替」に「榛名イ」と傍書]四郎、小山、宇都宮、山田、里見者共を
始めとして、三万五千余騎也、宇治の大将には、源九
郎義経、侍大将には畠山庄司次郎、梶原平三、嫡子
源太、佐々木四郎、渋谷庄司、糟屋藤太、平山武者
所を始めとして二万三千余騎、伊賀国を廻て宇治橋
に至る、二手の勢六万余騎にはすぎざりけり、木曾
義仲折節勢こそなかりけれ、樋口の次郎兼光をば、十
郎蔵人行家が、河内国石河と云所にあるよし聞えけ
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れば、それをせめんとて五百余騎にて下してけり、
今井四郎兼平を勢多を固めにさし遣はす、方等三郎
先生義弘、仁科、高梨子、三百余騎にて宇治へ向ふ、
京には力者三十人を副て、もしの事あらば、院をもと
り奉り、西国へ御幸なし奉らんと支度して、上野国
那和太郎弘隆を相具して、義仲が勢僅に百騎には過
ざりけり、今井四郎兼平、方等三郎先生義弘、宇治
勢多両方橋引て河には乱杭打、大綱をはへ、逆茂木
を緤ぎながしかけたりければ、輙く渡すべき様なか
りけり、九郎義経宇治川のはたに打寄せて見れば、比
は正月廿日余りの事なれば、比良の高根、志賀の山、
昔ながらの雪消えて、雪しるに水は増りけり、両岸
さかしくして白波おびただし、瀬まくら頻りにたぎ
りて、さかまく水も早かりければ、川ばたに兵共く
つばみを並べて、水の落あしを待べきなんど云所に、
畠山庄司次郎重忠生年廿一、長絹の直垂に赤綴の鎧
に、重籐の弓取直して、大中黒の矢負て、いか物作り

の太刀をはき、黒き馬にいかけ地の鞍置てぞ乗たり
ける、川端に打よせて向の岸を見渡して申けるは、兵
衛佐殿も、定めて宇治川勢多両所の橋は引んずらん
とこそ仰せられ候き、かねて知し召されぬ海川の、
俄に出来らばこそ扣へてかくとも申さめ、此河、近江
の水海のすゑなれば、待とも更に引かじ、誰かは橋
をも渡して参らすべき、此河の体を見るに、馬の足
立ぬ所五六反にはよもすぎじ、高倉の宮の御時足利
又太郎も渡せばこそ渡しけめ、神のなりてはよも渡
さじ[B 「神のなりてはよも渡さじ」に「鬼神にてはよもあらじイ」と傍書]、いでいで重忠瀬踏仕らん、武蔵の若党ども続
けやとて、丹党を始として五百余騎くつばみを並て
さとおとす所に、平等院の丑寅の隅、橘の小島が崎
より、佐々木四郎高綱と梶原源太景季とは、素より
いどむかたきなれば、我先にと二騎ひきかけひきかけ急
ぎたり、いまだ卯の時ばかりの事なれば、河霧深く
立こめて、馬のけも鎧の毛もさだかならず、梶原、三
たんばかり差進みたり、高綱、河の先せられんと思ひ
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て、やとの梶原殿、此河はやうある河ぞ、上も下も
早くて馬の足いく程ならず、はるびのびたるとみゆ
るぞ、しめよかしといひければ、さも有るらんと思
ひて、鐙をふみすかしてつゐ立上りて、はるびを二
三度ひつめひつめしけるまぎれに、佐々木めての脇よ
りはせぬけて、河へさとぞ打入れける、和殿にはだ
しぬかるまじきぞといひて、続て打入たり、河の半
ばかりまでは、佐々木に近付たりけるが、河中より
は梶原少し押流されて見ゆ、佐々木は河の案内者な
るうへ、池月といふ第一の馬にぞ乗たりける、馬の
首に大つなかかりたりけれども、兼てぞんぢしまう
けたる事なれば、三尺二寸の太刀を抜きてふつと切
て、十もんじに向への岸の思ふ所にさと着ぬ、近江
国住人佐々木四郎高綱、この河のまさき渡したりと
て、五百余騎が中へはせ入たり、是を見て橋の下に
ひかへたる畠山も渡しけり、木曾が手には山田次郎
が郎等表に立ちて放つ矢に、畠山が馬の額に深くた

つ、射られて馬よわりければ、鐙を越しており立た
り、水は早し底は深し、甲の星をあらはせてぞ通り
ける、水も早く鎧も重けれども、畠山少しもたゆま
ず渡りて行く、武蔵国住人大櫛次郎川の面を見下
して、あらいしの河の早さよといひいひ流れて、す
でにあぶなかりけるを、下手をきとみれば、弓だけ
ばかり下に甲のはちこそみえたれ、大櫛、畠山とみて
ければ、是を目にかけてするりとよつて、甲の鉢に
ぞ取付たり、畠山は是をも知らず渡し行ほどに、何
となくいしう甲の重きは、水の増るか我身のよわる
かと思ひて、ふりあふのいてうしろをみれば、褐衣
の直垂に洗革の鎧着て、黒つはの矢負たる武者也、
其時畠山甲に取付たるはいかなる物ぞ、とりあへず
大櫛次郎安則にて候と申せば、いしう取付たりとて、
渡りけり、畠山乱杭に渡りつきて申けるは、向への
岸へは三弓たけばかりにはよも過じ、河岸深くてな
んぢがためには叶ふまじ、是より向へに投げ越さん
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いかに、大櫛とも角も御はからひにて候べしと申け
れば、畠山、大櫛を弓手のかひなに乗せてなげこした
り、大櫛足をかがめて弓杖をついてぞ立ちたりける、
大櫛かぶとのををしめて弓取直して申けるは、橋よ
り下先陣は畠山先とは見ゆれども、向への岸に着事
は、武蔵国住人大櫛次郎安則渡したりやと申ければ、
敵も味方もわとぞ笑ひける、畠山渡りければ、二万五
千余騎の勢ども、我も我もと渡しけり、水はせかれ
て下は浅し、雑人共は下手につきて渡りければ、膝
よりかみは濡さざりけり、爰に渋谷右馬允重助、佐
々木五郎義清は、馬よりおりて橋桁に渡りければ、
平山武者所末重、糟屋藤太有季ぞ続きたる、三百余
騎矢先を揃へ、弓のほこを並べて射けれども、大勢せ
めかかりければ、宇治の川の手は破れて、都の方へ
ぞ落にける、勢田は稲毛三郎、榛谷四郎が計らひに
て、たながみの、貢御の瀬といふ所を渡して追落す、
今井四郎、三郎先生防ぎ戦ひけれども、素より無勢

なりければ、さんざんに駈ちらされて、同く京へ帰
り入る、さて宇治勢多渡したる日記鎌倉へ下りけれ
ば、兵衛佐取あへず、高綱ありやと問たまふに、候
と申ければ、此者ははや先してけりと覚して、日記
を見たまふに、今度宇治川の先陣は、近江国住人佐々
木四郎高綱とぞ有ける、義経は馬次第に京へはせ入
る、木曾は、宇治勢多両方落されぬと聞て、十四五騎
計りにて、院の御所六条殿へ馳参りて、義仲こそ勢
多もおとされて、さいごの見参に参て候へと申けれ
ば、法皇を始め参らせて、公卿殿上人北面の輩に至
るまで、またいかなる事をかせんずらんとて、おの
おの色を失ひておぢ騒ぎたまひける程に、敵すでに
最勝光院、柳原まで責近づくと聞えければ、南庭ま
では馬に乗ながら参りたりけれども、さして申旨も
なくて、木曾まかりいでにけり、院中には上下手を
挙、立ぬ願もなかりけるしるしにや、其後は急ぎ門々
さされにけり、木曾はあるみや腹の女房とりて置た
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りけるが、別を惜みてひき物の中に有けるを、越後
中太家光といふ者、かたきすでに近付たり、いかに
かくてはおはしますぞといへども、木曾はおともせ
ざりければ、家光終にのがるべからずとて、腹かき
切てふしにけり、木曾是を見て、義仲をすすめける自
害にこそとて、五百余騎の勢にて打立て河原へいづ
る、九郎義経が郎等、六条河原にて行あひて合戦す、
義仲最期の戦ひと思ひ切て戦ひけれども、運のきは
めになりにければ、義仲さんざんにかけちらされて、
思ひ思ひに落にけり、義経が郎等はせ付きて、是を
追ふ、大膳大夫業忠は、御所の東の築垣の上に上て
四方をみるに、六条東洞院より武者六騎、御所をさ
してはせ参り候と申ければ、法皇大に驚せおはしま
す、義仲帰り参るにや、此度こそ君も臣もうせはて
よ、こはいかがすべきとて、人々ふるひわななきけ
るに、業忠能々見て、義仲が与党にては候はざりけ
り、笠印ばかり見え候、只今京へ入候は、東国兵と

覚え候と申程に、九郎冠者門近くはせよて、馬より
飛下りて業忠に向て、鎌倉兵衛佐頼朝舎弟源九郎義
経と申者こそ参りて候へ、見参に入させたまへと申
たりければ、業忠余りのうれしさに、急ぎついがき
の上より飛おりるとて、こしをつきそんじてけり、
いたくじゆつなかりけれども、悦ばしさに紛れて、
はふはふ御所へ参りてそうしければ、上下大に悦給
けり、門を開きたりければ、義経赤地にしきの直垂
に、萌黄のから綾、裾紅の綴の冑に、鍬がた打たる甲
をば着ずして持せたり、金作りの太刀をはきたりけ
る、弓とりうちの程に、紙を一寸ばかりに切て、南
無宗廟八幡大菩薩とかきて左巻に巻たりけり、九郎
義経に相具して六人ぞありける、残り五人が中一人
は、武蔵国の住人秩父末葉畠山庄司次郎重忠、白き
唐綾の冑直垂の射向の袖には、紺地の錦をいろへた
るに、紫綴の鎧に大中黒のそやの篦には、やきゑをし
たるを負たりけり、一人は同国の住人河越太郎重頼、
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しげめゆひの直垂に、いむけの袖には赤地の錦をい
ろへたるに、黒糸をどしの冑、に大きりふの征矢のう
はやに、あまのをもてはぎたるをおひたりけり、一人
はさがみ国の住人渋谷三郎庄司重国、褐衣の直垂
に、大あらめの洗がはの冑に、烏がをの征矢をおひ
たり、一人は同国の住人梶原源太景季、蝶目ゆひの
直垂に、薄紅の綴の冑きて、妻白の征矢おひたり、
一人は近江国住人佐々木四郎高綱、萌黄のすずしの
冑直垂に、小中黒の征矢をぞ負たりける、重忠より
始て次第に名乗り申、六人の兵共甲をば皆持せたり、
直垂も冑も思ひ思ひ色々に変りたりけれども、弓は
皆塗籠にてぞ有ける、義経を始として中門の外車宿
の前に立並びたり、頬魂ひ、骨柄、何れこそ劣りたり
共覚えず、法皇中門のれんじより叡覧有て、ゆゆし
げなる奴原哉とて仰有けり、大膳大夫業忠仔細承て
尋ねければ、義経申けるは、義仲が謀叛の由頼朝承候
て、舎弟蒲冠者并に義経を始として、宗徒の郎等三

十人参らせ候、其勢六万余騎に及候、二手に分け宇治
勢多両方より罷り入候、範頼は勢多よりまかり入候
が、いまだ見えず候、義経は宇治を渡して先に参りて
候、義仲は河原を上りに落候つるを、郎等どもあま
た追かけ候つれば、今は定て討候ぬらんと、いと事も
なげにぞ申たる、院宣には、義仲が与党なども帰参
りて狼藉も仕らば、義経は此御所にて、よくよく守
護仕れと仰下されければ、何条事か候へきと申て、
門々堅めて候けり、その後義経が勢三十騎ばかり六
条河原に打立たり、三十騎が中に大将二人有けり、
一人はしほの屋五郎通成、一人は勅使河原権三郎有
直なり、しほの屋が申けるは、後陣の勢を待つべき
か、勅使河原申けるは、一陣破れぬれば、残党全か
らず、ただかけよやとぞ申ける、去程に追つづきて
三万よき馳来り、木曾は上野国住人那和太郎弘隆相
具して、その勢百騎にて三条河原と六条河原との間
にて、返し合せ返し合せ五六度までかけなびかして、終
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に三条河原をかけ破りて、北国の方へぞ落にける、去
年の春は北国の大将軍として上りしには、五万よき
にて有しかども、今粟田口に打出にければ其勢七騎
也、まして中有のたびのそら、思ひやるこそかなし
けれ、七騎が中一騎は女鞆絵といふ美女也、紫格子
のちやうの直垂に、萌黄の腹巻に、重籐に弓うすべ
うの廿四さしたる矢負ひて、白蘆毛なる馬のふとく
逞しきに、二どもゑすりたる貝鞍置てぞ乗たりける、
ここには誰とは知らず武者二騎追かけたり、ともゑ
叶はじとや思ひけん、馬をひかへて待処に、左右よ
りつとよる、その時左右の手をさし出して、二人が
冑のわたがみをとて、左右の脇にかいはさみて、一
しめしめてすてたりければ、二人ながら首ひしげて
死ににけり、女なれども究竟のがうの者、強弓の精
兵、矢つぎばやの荒馬乗の悪所おとしなり、木曾い
くさごとに身をはなさず具したりけり、よはひ三十
二にぞなりける、わらはべを仕ふ様につかひけり、

此ともゑはいかが思ひけん、逢坂よりうせにけり、
後に聞えけるは越後国友椙といふ所に落留りて、尼
になりてけるとかや、木曾もろば山の前、四宮河原に
打出でてみれば、今井四郎勢田を落て、五十騎ばか
りにてはたを巻て、京の方へ入る、木曾、今井と見て
ければ、急ぎ歩ませより、くつばみを並べて打立た
れども、夢の心地して物もいはざりけり、良久く有
て、木曾、都にて討死すべかりつれども、今一度汝
に見えもし見んと思て来たる也といへば、兼平勢多
にて討死すべく候つれども、御行衛の覚束なさに、
今一度見参らせんとて参りて候とぞ申ける、木曾が
はたざしは射殺されてなかりければ、兼平が旗をさ
せとてささせければ、勢多より落くははるともなく、
京より追つく者ともなく、五百よき馳くははる、木
曾是を見て、などか此勢にて一軍せざらんとて、甲
斐の一条次郎忠頼六千余騎にてひかへたるに、木曾
赤地の錦の直垂に、薄がねといふ唐あやをどしの鎧
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に、白星の甲きて、廿四差たる切生の矢に、金作の
太刀はきて、塗ごめ籐の弓取直し、蘆毛なる馬に金
覆輪の鞍おきて、厚ぶさの尻がいかけて乗たりけ
る、あゆませむかひて、清和天皇の十代の御末、八
幡太郎義家に四代の孫、帯刀先生義賢が次男木曾冠
者、今は左馬頭兼伊予守朝日将軍源義仲、甲斐一条次
郎と聞は誠か、義仲はよき敵ぞ、打取て頼朝に見せて
悦ばれよとて、くつばみを並べて、をめいてかけ入
て、十文字にぞ戦ひける、忠頼是を聞て、名のる敵討
てや若党どもとて、六千余騎が中に取こめて火出る
ほど戦てければ、其勢三百よき計に打なされて、佐
原十郎義連五百余騎にてひかへたる中へかけ入て、
しばし戦てかけ破り出ければ、百騎ばかりに討なさ
る、土肥次郎が五百余騎が中へ駈入て、しばし戦ひ
てかけやぶりて出たれば、五十騎に討なさる、其後
かしこに百騎、ここに四五十騎、所々ゆきあひゆきあひ
戦ふほどに、粟津の辺にては主従五騎にて落にけり、

手塚別党、同甥手塚太郎、今井四郎兼平、多胡次郎
家包と云者つづきたり、相構へて生捕にせよと、仰
せられたるぞ、家包ならば軍をやめたまへ、助け奉
らんと申けるを、何条さる事あるべきぞとて、今は
かうと戦ひけれども、終に生捕られてけり、木曾、今
井に向ひていひけるは、日頃何とも思はぬ薄がねの
重く覚ゆるぞと云ければ、今井が申けるは、日頃に
かねもまさず、べちのものもつかず、何か今にはじ
めぬ御きせながの重く思召され候べき、御身の疲れ
にて渡らせ給らん、勢のなしと思召して、臆病にて
ぞ候らん、兼平一人をばよの者の千騎と思召され候
べし、あれに見え候松のもとへ打よらせ給て、しづ
かに念仏申させ給ひて御自害候べし、射残して候矢
七八候、防矢仕候べしと申て、粟津の松のもとへは
せ寄けり、去程に勢多の方より武者三十騎計り出来
る、是を見て殿ははや松中へ入せ給へ、兼平はこの
荒手に打向ひて、死なば力及ばず、いきば帰り参ら
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ん、兼平が行衛を御らんじ果て、御自害候へとて、
かけんとする所に、木曾申けるは、都にて討死すべ
かりつるに、是まで来る事は、汝と一所に死なんが為
也、二騎に成てここかしこにて死なん事こそ口惜け
れとて、馬のはなをならべんとする所に、今井申け
るは、武者は死て後こそさねはかたまるものにて候
へ、年比日比はいかなる高名をして候へども、最後の
時ふかくしつれば、ながき世のきずにて候也、いふか
ひなき郎等共にこそ、木曾殿は討れ給ひにけれと、
いはれさせ給はん事こそ口惜く候へと云ければ、こ
とわりとや思はれけん、うしろ合せに馳せておはし
けり、彼松の本と申は、道より三町計り南へ入たる
所なり、それを守りて木曾落行、ここに相模国の住
人石田小次郎為久といふ者追かけて、大将軍とこそ
見参らせ候へ、きたなしや、源氏の名をりに返し合せ
給へといひければ、木曾射残したる矢一ありけるを
とてつがひて、おしひらいて射たりければ、石田が

馬のふと腹にのすくなく立たりけり、石田はまさか
さまに落にけり、木曾は松の方へ落行、頃は元暦元
年正月廿日の事なれば、粟津の下のひろなはての、
馬の頭もうづもれる程の深田に、氷のはりたりける
を、はせ渡らんと打入たりければ、馬もよわりて働か
ず、ぬしも疲れて身もひかず、さりとも今井はつづ
くらんと思ひて、うしろを見かへりけるを、為久よ
ひいて射たりければ、木曾が内甲に射つけたり、甲
のまかうを馬の頭にあてて、うつぶしに伏たり、為
久が郎等二人馬より飛びおりて、たうさぎをかき、
深田におりて、木曾が頸を取る、今井は木曾討れぬ
と見て、あら手にむかひ命を惜まず戦ひけり、今井
あゆませ出して申けるは、音にも聞き目にも見よ、信
濃国住人木曾仲三権守兼遠四男、今井四郎兼平と
は我事ぞ、木曾殿には乳母子、鎌倉殿もさる者あり
と知し召されたり、兼平が首とて、あれ功の一所に
もあへや殿原とて、数百騎の中へをめいてかけ入、
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たてざまよこざまにさんざんにかけけれども、大力
の剛の者なれば、よてくむものなかりけり、ただ引
つめてとほ矢にぞ射ける、されども鎧よければうら
かかず、あき間を射ねば手もおはず、さる程に八の
矢にて八騎のかたきは射殺す、日本第一の剛のもの、
主の御ともにじがいする、見習や八ヶ国のとのばら
とて、太刀をぬきてきつ先をくはへて、馬よりまへ
に落て、つらぬかれてこそ死にけれ、太刀の先二寸
ばかり草ずりのはづれに出たりけり、是よりしてこ
そ粟津の軍はとどまりにけれ、樋口次郎兼光は、十
郎蔵人行家を討べしとて、河内国へ下りたり、蔵人
を討逃して、兼光女どもを生捕にして京へ上りける
が、淀の大渡の辺にて木曾討れぬと聞きければ、生捕
ども皆ゆるして、命惜と思はん人は、是よりとくとく
落給へといひければ、五百余騎の者ども思ひ思ひに
落にけり、残る者僅に五十騎ばかりもありけるが、
鳥羽の秋山のほどにもなりければ、三十騎ばかりに

なりて、ここに児玉党に庄三郎庄四郎とて兄弟あり
けり、三郎は九郎御曹司につき奉りけり、四郎は木
曾殿にあり、然るを木曾討れ給ひて後、樋口が手に
付きて上ると聞えければ、兄の三郎使者をたてて弟
四郎にいひけるは、誰を誰とか思ひ奉るべき、木曾
殿は討れ給ひぬ、九郎御曹司へ参り給へかし、さる
べくば其様申あげ候はんといひ遣しければ、兄弟の
よしみ今にはじめぬことに候へども、誠に喜入て承
り候ぬ、急ぎ参らんとぞ返事したりける、兄三郎さ
ればこそといひ待ちけれども、見えざりければ、重
て使を遣したりければ、四郎申けるは、誠両度の御
使然るべく候へば、参るべくこそ候へども、且は御辺
の御為も面目なき御事也、弓矢取習ひ二心有を以て
今生の恥とす、昨日までは木曾殿に付奉りて、御恩
を蒙り、二なき命を奉らんと思ひき、今は又討れ給
て、幾程なく命を助らんとて、本主の敵九郎御曹司
に参らん事口惜候へば、御定は然るべく候へども、
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えこそ参り候まじけれ、御悦には先かけて討死して
名を後代にあげ、三郎殿の面目をもほどこし奉るべ
しと申たりければ、三郎力及ばず、さては四郎さる
者なれば、言葉違へずして死すべきなんずらん、人に
討せじ、同くは我討取て御曹司の見参に入べし、弓矢
取者のしるし是こそと思ひて待かけたり、案の如く
庄四郎うちはの旗ささせて、真先に進んで出で来る、
是を見て庄三郎、あはや四郎は出来るはと思ひて、
とかくの仔細に及ばず、扨並べてくんで落たり、し
ばしはからかひけるが、兄弟同じ程の力にてやあり
けん、互に組で伏したりけるを、三郎は多勢なりけ
れば、郎等数多落合ひて、四郎をば手取に取てけり、
御曹司に参らせたりければ、庄三郎神妙に仕たり、
四郎が命はたすくる也とのたまひければ、四郎申け
るは、命を助られ参せたらん印には、自今以後軍の候
はんには、真先かけて君に命を参らせ候べしとぞ申
ける、皆人是をかんじけり、去程に樋口次郎兼光、作

り道を上りに四塚へ向きてあゆませけり、兼光京へ
入と聞えければ、義経の郎等我も我もと七条朱雀四
塚へ向て合戦す、樋口が甥信濃国の武者千野太郎光
弘、進み出て申けるは、いづれか甲斐一条殿の御手
にて渡らせたまひ候ぞ、かく申は信濃武者諏訪上宮
千野大夫光家が嫡子、千野太郎光弘と申者ぞと云け
るを、筑前国の住人原十郎高綱進出申けるは、やと
の必一条殿の御手に限りて軍は有か、誰にてもあれ、
かたきな嫌ひそといひければ、十郎にてもあれとて、
十三束よひいて射たりければ、高綱が物いふ口をむ
かはせはたと射通して、鉢付の板にぞ射付たる、光弘
いひけるは、しれものをばかくならはすぞ、敵を嫌
ふにはあらねども、光弘が弟千野七郎が一条殿の御
手にある間、かれが見る前にて討死して、信濃に有
る妻子ども、光弘が最期の時、いかが有けんと思はん
事も不便なれば、弟七郎を証人に立んと思ひてこそ、
一条殿の御手とも申つれとて、引取引取さんざんに
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射る、敵余多射落して自害してこそ失にけれ、其弟
千野七郎も駈出て、敵四騎討取て討死してうせにけ
り、去程に児玉党うちわのはたささせて出来る、樋
口は児玉党が聟にてありければ、人の一家の広き中
へ入らんと云は、かかる時のため也、軍とどめよ、わ
どのをば助けんといひて、樋口を中に取こめて忽に
河を上りに具して、九郎御曹司に申ければ、院に申
べしとて、樋口をゐて、参りて奏聞す、
廿日、新摂政師家を留め奉りて、もとの摂政基通に
なし帰らせ給へり、わづかに六十日程のなさみはて
ぬ夢なり、粟田関白兼通と申は、内大臣通隆の御子、
正暦元年四月廿七日ならせ給ひて、御拝賀の後只七
日こそおはせしか、斯るためしもあるぞかし、これ
は六十日の間に除目も二ヶ度行ひ給ひしかば、思出
おはしまさぬにはあらず、一日にても摂を黷し、万
機の政を執行し給ひしこそやさしけれ、いはんや六
十日をや、

廿六日、伊予守義仲が首渡さる、法皇御車を六条東
洞院に立て御覧ぜらる、九郎義経六条河原にて検非
違使の手へ渡す、検非違使是を請取て、東洞院大路
を渡して左の獄門の前の椋の木にかく、首四あり、
伊予守義仲、郎等には高梨六郎忠直、根井小弥太幸
親、今井四郎兼平也、樋口次郎兼光は降人也、大路
を渡して禁獄せらる、是れはさせる其物にもなし、死
罪に行はるべきにあらざるを、法住寺殿へよせて合
戦しける、御所へ打入、然るべき女房達を取奉りて衣
裳をはぎとて、兼光が宿所に五六ヶ日迄こめ置き奉
りける故に、彼女房達以下かたへの女房達を語らひ
て、兼光をきらせ給はずしてなだめられば、淀川桂
川へ身を投げ深き山へ入、御所をも出なんと口々に
申されければ、力及ばずとて、樋口次郎兼光頸をはね
らる、彼兼光は昨日大路を渡して禁ごくせらるれど、
義仲が四天王の其一也、死罪をゆるされば、虎を養
ふ愁有るべしとてきられにけり、伝聞く虎狼国衰て
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諸将如蜂起りしに、沛公先咸陽宮に入といへども、
項羽後に来らん事を恐れて、金銀朱玉をも掠めず、
細馬美人をもをかさず、徒に函谷関を守て、漸々に
敵を亡て、終に天下を治むる事を得たり、義仲先都
に打入と雖も、其慎を以て頼朝の下知を待ましかば、
沛公の謀には劣らざらまし物をと哀也、義仲悪事を
好みて天命に従はず、剰叛逆及余殃身に積て、首を
京都に伝ふ、前業の拙き事おしはかられてむざんな
り、いかなる者かしたりけん、札に書てたてたり、
宇治川を水つけにしてかき渡る
木曾のごれうを九郎判官 W127 K187
田畠の作り物皆かりめして
木曾のごれうはたえはてにけり W128 K188
名に高き木曾のごれうはこぼれにき
よし中々に犬にくれなん W129 K189
木曾が世にありし時は、御料といはれて草木も靡き
てこそありしに、いつしか天下口遊に及べり、はか

なき世の習といひながら、咎むべき人もなし、日頃
の振舞も不当也、自業自得果の理りなれば、とかく
いふに及ばず、
九郎御曹司は上洛し、はてはいそぎ鞍馬へ参りて、
師の東光坊に見参して、祈精をも申さんと思はれけ
るに、このみだれ打つづき隙なくして、思ひながら
さて過ぎられけり、木曾も討れぬ、京中も静まりて
後、伊勢三郎義盛、渋谷右馬允重助、佐藤三郎、同
四郎以下郎等十余騎にて鞍馬へ参りて、東光坊に見
参し給ひて、昔今の物語して、互に喜泣をぞせられ
ける、夜に入て御だうに参り給て、夜もすがら昔申
し本意をとげたるよし申されて、少しまどろみ給ひ
たるに、御宝殿の中より八十余りの老僧出で給て、
汝に是を取らせんとて置たるぞとて、しろさやまき
を給ふとみて、驚きて見給へば、夢に示し給へるさや
まき也、いよいよ頼もしく思ひて、感涙を流し、師の
御坊に帰りてかくなんと申されたり、東光坊是を聞
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きて、毘沙門のはなち思召されざりけるにやとぞ申
されける、御曹司暫く候て、心静に申べき事候へど
も、京都も覚束なし、又こそ参り候はめとて、下向せ
らる、きぶねへ参りて、社頭昔にたがひたる事はな
けれども、いにしへ見し草木ども遙に茂りて、神さ
びたる有様あはれに覚えて、暫くねんじゆせられけ
る程に、神主いかが思ひけん、白羽のかぶら矢を一取
出して、いささか夢想の告候とて奉れば、御曹司か
しこまて給て出でられけり、さてこそやしまへ渡り
給ひし時、大風に船もあやうく見えしかば、此矢を
白はたの竿にぞゆひつけられける、
廿九日、九郎義経いつしか平家征伐の為に、西国へ下
向、義経を院御所六条殿へ召して仰ありけるは、我朝
に神代より伝りたる三の御宝あり、神璽、宝剱、内侍
所是也、相構へて事ゆへなく都へ返し入奉れと仰下
さる、義経畏承候ぬとてまかりいでぬ、平家は播磨
国室山、備中国水島、両度の合戦に打勝て、山陽道七

ヶ国南海道六ヶ国、都合十三ヶ国打なびかして、其
勢十万よきに及べり、木曾討れぬと聞えければ、さ
ぬきの国八島をこぎいでて、摂津国と播磨とのさか
ひなる、難波がた、一谷といふ所にぞ籠りける、去正
月よりこれはくつきやうの城なりとて、城郭を構へ
て、先陣は生田森、湊川、福原の都に陣を取る、後
陣は室、高砂、明石の浦迄つづき、海上には数千艘
の船をうかべ、浦々島々にみちみちたり、一谷は口
挟て奥広し、みなみは海、北は山、岸高くして屏風
をたてたるが如し、馬も人も少しも通ふべきやうな
かりけり、誠にゆゆしき城也、赤旗其数を知らず、
立て並べたりければ、春風に吹れて天に飜るは火焔
の燃上るが如し、誠に夥く敵もおくしぬべくぞ見え
ける、平家は年比祇候人伊賀伊勢近国の死に残りた
る輩、北陸南海よりぬけぬけに参りつきたる者ども
は申に及ばず、山陽山陰四国九国より宗と聞えて参
りけるは、播磨の国には、津田四郎高基、美濃国には
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江見入道、豊田権守、備前国には難波次郎経遠一類、
同三郎経房、備中国には妹尾太郎兼康一類、石賀入
道、建部太郎、新見郷司、備後国には奴可入道、伯
耆国には小鴨介基康、村尾海六成盛、日野郡司義行、
出雲国には塩屋大夫、多久七郎、朝山、木次、身白、横
田兵衛惟行、富田押領使、安芸国には源五兵衛頼房、
周防国には石国源太維道、介太郎有朝、周防介高綱、
石見国には案主大夫、横川郡司、長門国には、豊東
郡司秀平、豊西大夫義親、厚東入道、鎮西の輩には菊
池次郎高直、原田大夫種直、松浦太郎高俊、郡司権
頭真平、佐伯三郎是康、坂三郎維良、山鹿兵藤次秀
遠、坂井兵衛種遠、阿波民部大夫成良が謀にて、伊
予、河野四郎通信が与党の外は大略参りにけり、昔項
羽が鴻門に向ひしがごとし、何かは是をせめ落しな
んとぞ見えける、さる程に讃岐国在庁、少々平家に
中をたがひて、源氏に心を通はして、船十三艘に乗
りて都へ上る、其勢二千余騎には過ざりけり、源氏

方へ参るにいかがただは参らん、平家に矢一射かけ
て、是を表に立てて参らんと思ひて、備前国へおし渡
るが、門脇中納言教盛父子三人五百余騎にて、備前
国下居郡におはしますと聞て、かしこへ押寄せ、討
奉らんずる由聞えければ、越前三位通盛、能登守教
経此事を聞きて、にくき奴原かな、きのふまでは、
我らが馬の草かひたる物どもの、二心あらんこそき
つくわいなれ、其儀ならば一人も余すまじとて、彼
等がたて籠りたる所へ押寄せて戦ふ、彼等は人目ば
かりに矢一射かけんとこそ思つるに、能登守大にい
かりて攻ければ、在庁こらへずして都の方へおもむ
きけるが、暫く息継がんとて淡路福津と云所に着に
けり、彼国に掃部冠者、淡路冠者とて源氏二人あり、
是は六条判官為義が孫也、掃部冠者は掃部介頼仲が
子也、淡路冠者は四郎左衛門頼方が子なりければ、
淡路国住人皆この両人につきにけり、讃岐国在庁も
此二人を大将と頼みけり、是を聞きて通盛、教経、淡
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路へ渡りて、一日一夜戦ける程に、掃部冠者も淡路冠
者も討れにけり、能登守、在庁以下百三十二人が首を
切て、交名かき添へて福原へ奉る、越前三位、能登守
二人は、伊予河野四郎通信をせめんとて、三手に分け
て四国へおし流る、三位は阿波国北郡花薗につき給
ふ、能登守讃岐国屋島の御所に着給ふ、通信此事を
聞きて、安芸奴田太郎も源氏に心ざし有る由聞えけ
れば、奴田太郎と一にならんとて、奴田尻へ渡るが、
今日は備後国簑島にとどまる、次日みの島を出でて、
奴田城に着きにけり、平家やがて追かけて一日一夜
せめけるに、矢種い尽しければ、奴田太郎甲をぬぎ弓
をはづして降人に参りけり、河野四郎通信は郎等三
十余人討取られて、わづかに主従七騎になりて落け
るを、能登守の侍に平八為員といふ者、引取引取討た
りければ、六騎をば落してけり、六騎が内三人は目の
前にて死にけり、残三人は未だ死なず、河野立帰り
て、平八為員をばうちにけり、三人の中讃岐七郎為

包といふ者は、命にかへて思ふ郎等なりければ、河
野肩に引かけて小船にのせて伊予の国へ落にけり、
能登守、河野をば討ち逃したりけれども、大将たる奴
田太郎を生捕にして、福原も覚束なしとて帰り給に
けり、淡路国住人阿間六郎宗員、是も源氏に心ざしあ
りて都へ上りけるを、能登守聞給ひて、小船三十艘に
百五十人をもて追かけけり、西宮の沖にて追付たり、
あまの六郎は矢一も射ずして、紀伊路をさして落ち
にけり、紀伊国住人薗部兵衛重光と云者、是も源氏に
志ありけるが、淡路のあまの六郎こそ源氏に志あり
て京へ上なるが、紀伊国ふけい、たがはと云浦に着
ぬと聞きて、一になりてありけるを、能登守、紀伊路
におし渡りてこれをせむ、兵三十人首を切りて福原
へ奉る、備前国今木城に河野四郎通信、豊後国住人
緒方三郎惟能、海田兵衛宗通、臼木次郎惟高等に、一
になりて籠りたる由聞えければ、能登守二千余騎勢
にて、今木城へ押寄せて一日一夜戦ひて、城内まけ
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にければ、鎮西の者ども惟能を始めとして、豊後の
地へ落にけり、河野はれいの事なれば、四国の方へ
落にけり、能登守今木城をせめ落して、福原も覚束
なしとて、夜を日につぎて帰り給にけり、能登殿申さ
れけるは、頓て四国九国へもおし渡りて、彼等をせ
め落して参らすべく候と思ひつれども、京より源氏
の勢向ふと承て、覚束なさに参りて候と申されけれ
ば、天晴大将軍やとぞ見えし、
元暦元年二月四日、平家福原にて、故太政入道忌日
とて、かたの如く仏事行はれけり、過行月日しらねど
も、手を折てこれをかぞふれば、去年もことしにめ
ぐり来て、うかりし春にもなりにけり、世の世にて
あらましかば、起立塔婆、供仏施僧の営も、さすがに
耳目を驚かす事にてこそあるべきに、かたの如くの
いとなみあはれ也、男女の公達さしつどひてかなし
まれけるこそかなしけれ、既に都へ帰り入給ふべき
よし聞えければ、残り止りたりし門客郎従、おち下て

勢いとどつきにけり、三種の神器を帯して、君かく
て渡らせ給へば、今は是こそ都なれとて、叙位除目
僧事などを行はれて、僧も俗も官なされたり、大外記
中原師兼が子周防介師隆は、大外記になり、兵部少
輔政明は五位蔵人になさる、蔵人少輔とぞ申ける、
昔将門が東八ヶ国を靡かして、下総の国相馬郡に都
をたて、我身は平親王と称して、百官をなしたりけ
るが、暦博士ばかりこそなかりけれ、是は夫に似る
べきにあらず、古京をこそ出させ給ひたれども、万
乗の位に備り給へり、内侍所おはしませば、叙位除
目行はるるもひが事とも覚えずと人々申けり、権亮
三位中将維盛は、年隔たり日重るに随ひて、故郷に
とどめおきし人々の事をのみ恋しく思されて、あき
人の分便などにおのづから文などの通ふにも、北方は
構へて迎へとり給へ、幼きものども斜ならず恋しが
り奉る、我もつきせぬ歎きにながらふべくもなしな
ど、細々と書つづけ給へるを見給ひては、むかへと
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りて、一所にてとも角もならばやと、思ひ給ふ事はひ
まなかりけれども、人の為いとをしければ、思忍び
て日を送る、さるままに与三兵衛石童丸などを跡枕
に置き給て、明けても暮れても唯此事をのみのたま
ひて、伏し沈みておはしければ、人々もこのやうを
見たまひて、三位中将は池大納言の様に、頼朝にここ
ろを通はして二心ありとて、大臣殿もうちとけ給は
ねば、努々さは思はぬ物をとて、いとどあぢきなくぞ
おぼさるる、愛欲増長一切煩悩の文を思ふには、穢
土をいとふいさみなし、閻浮愛執のきづなふかけれ
ば、浄土を願ふに物うし、宿執開発の身ならねば、
今生に妻子を思て、心ふかく合戦に向ふ思ひに身を
落沈めて、来生には修羅道に落んことうたがひなし、
しかしただ一門にしられずして、都に忍び上て、今一
度妻子をも見て、妄念を払ひて、閑に臨終せんより
外の事あるべからずと、思ひなかれにければ、何事
をも思ひ入給はず、ふししづみ給ぞあはれなる、二

位僧部全親は、梶井の宮のとし比の御同宿なりけれ
ば、便の御文つかはされけるにも、旅の空のありさ
ま思ひやるこそ心ぐるしけれ、都もいまだしづかな
らずなど細々あそばして、
人しれずそなたを忍ぶ心をば
かたぶく月にたぐへてぞやる[B 「や」に「見イ」と傍書] W130 K191
四日、源氏二手に分けて福原へよせんとしけるが、
けふの仏事を妨げん事罪深かるべし、五日は西塞り、
六日は悪日とて、七日の卯の刻に東西の城戸口の矢
合と定む、追手の大将軍は蒲冠者範頼、四日京を立
て、津の国播磨路より一谷へ向ふ、相従ふ輩には、
武田太郎信義、同兵衛有義、加賀見太郎遠光、同次
郎長清、一条次郎忠頼、板垣三郎兼信、侍大将には
梶原平三景時、同嫡子源太景季、同平次景高、畠山
庄司次郎重忠、稲毛三郎重成、半替四郎重朝、小山
田五郎幸重、千葉介常胤、同太郎常時、同小太郎成
つね、相馬小次郎師胤、同五郎胤道、同六郎胤頼、
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武者三郎胤盛、大須賀四郎胤信、山田太郎重助、山
名次郎義幸、渋谷三郎庄司重国、同右馬允重資、讃
岐四郎大夫広綱、村上次郎判官代忠国、小野寺前司
太郎通綱、庄次郎家長、同三郎忠家、同五郎広方、
渋谷五郎通綱、中村三郎時つね、勅旨河原権三郎有
直、河原太郎高直、同次郎盛直、秩父武者四郎行綱、
久下次郎重光、小代八郎行平、海老名太郎、同三郎、
同四郎、同五郎、中条藤次家長、安保次郎種光、品
川次郎清綱、曾我太郎資宣、中村太郎を始として、
五万余騎にて、六日酉刻に摂津国生田の森に着にけ
り、搦手の大将軍九郎義経は、同日京をいでて、三
草山を越えて、丹波路より向ふ、相従ふ輩は、安田
三郎義方、田代冠者信綱、大内太郎惟成、斎院次官
親能、佐原十郎義連、侍大将には土肥次郎実平、嫡
子弥太郎遠平、山名三郎能教、矢野次郎直経、糟屋
藤太有季、河越太郎重頼、同小太郎重房、平山武者
所季[B 末イ]重、平迫太郎為重、熊谷次郎直実、同小次郎直

家、佐々木四郎高綱、小河小次郎佐義、諸岡兵衛重
経、三郎清益、金子十郎家忠、同与一家員、猪俣近
平六教綱、渡柳弥太郎清忠、同四郎忠信、伊勢三郎
義盛、源八広綱、長野太郎能包、奥州佐藤三郎継信、
同四郎忠信、多々良五郎義治、同六郎光義、片岡太
郎経治、筒井次郎能行、葦名太郎清高、蓮間太郎忠
俊、同五郎国長、岡部太郎忠澄、同三郎忠泰、江田
源三、熊井太郎、武蔵房弁慶等を始として、一万余
騎丹波路よりかかりて、三草山の山口に其日の戌の
刻ばかりに着たり、九郎義経は、赤地の錦の直垂に
黄返の冑きて、宿鴾毛なる馬の太くたくましきが、飽
まで尾かみたらひたるが、名をばあまぐもと云にぞ
乗りたりける、東国一の名馬なり、二日路を一日に
ぞうちたりける、三草山は山内三里なり、平家は是
を聞きて、三草山の西の山口を固むべしとて、大将
軍には新三位中将資盛、同少将有盛、備中守師盛、
副将軍には平内左衛門清家、江見太郎清平を先とし
P571
て、七千余騎にて三草山へぞむかひける、三里の山
を隔て、源平両方に陣を取る、東の山口にて、九郎
義経、土肥次郎実平を相具して、一万余騎にて扣へた
り、九郎義経土肥次郎にのたまひけるは、軍のはか
らひいかが有るべき、夜うちにやすべき、又明日に
やなすべきといはれければ、土肥にはいはせで、伊豆
国の住人田代冠者信綱は近く候けるが、申けるは、
平家はよも今夜用心候はじ、夜討よく候ぬとおぼえ
候、平家の勢は七千余騎と承候、御方は一万余騎な
り、はるかの理にて候也と申ければ、土肥、田代殿い
しう申させ給たり、実平もかく社存候へとぞ申ける、
田代冠者と申は、伊豆国司為綱在国の時、工藤介茂
光が娘を思てまうけたる子也、為綱任はてて上りけ
れども、信綱は母方の祖父工藤介茂光に付て、伊豆
国にて育てられたりけるが、生年十歳の年より流人
兵衛佐の見参に入て宮仕けるが、弓矢とて勝れたる
上、ゆゆしき剛の者、精兵の手ききにてぞありける、

石橋の合戦の時、伊東入道祐親法師を追落して、御
方を山へのばし奉りし兵なり、かかりければ、九郎
が副将軍に成りたまへとて、兵衛佐さしそへられた
り、俗姓を尋ぬれば、後三条院第三王子御子左皇の
五代の孫とぞきこえし、さては夜討にすべしとて、
其夜の丑の刻計りに一万余騎にて、三草山の西の山
口をかためたる平家の陣へ押寄せたり、平家の先陣
はおのづから用心しけれ共、後陣は明日の軍にてぞ
有んずらんとて、軍にもねぶたきは大事也、今夜よ
く寐て軍せんとて、甲を脱て枕にし、或は箙をとき、
冑の袖をたたみ枕として伏たりける所に、押寄せて
鬨を作りて、しばしもひかへず、やがて蹴散して通
りければ、弓とるものは矢をとらず、矢とるものは
弓をすて、馬の蹄にかけられじとて、あわて惑ひて
逃る者のみ有けれども、軍せんとする者は一人もな
かりけり、一騎も打留めず、皆通しつ、大将軍新三
位中将は追落されて、おはする事面目なしとや思は
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れけん、福原へは帰り給はず、船にのりこみて讃岐
国へぞ渡り給ひにける、弟備中守師盛、平内左衛門
清家は、明日五日大臣殿へ参りて、三草山は去夜の
夜半ばかりに、源氏の軍兵に散々に追落され候ぬ、猶
山へ手を向けられべくや候らんと申たりければ、大
臣殿大に驚きて、東西の城戸口へ重ねて勢を遣さる、
さて安芸右馬助能康を御使にて、能登守の方へいひ
遣はされけるは、三草山の手は既に破られ候也、一
の谷へは貞能、家仲を差遣し候ぬれば、さりともと覚
え候、生田へは新中納言向はれ候へば、それ又心安
く候、山の手には盛俊むかへ申候へば、山は一大事
の所にて候と承候へば、重ねて勢をさしそへばやと
存候、いづれの殿原も山へはむかはじと申候、いか
が候べき、さりとては御辺向はせ給へと仰られけれ
ば、能登殿申されけるは、軍と申は面々に我一人が
大事と思ひて、同心に候こそよく候へ、其手は叶はじ
その人むけ、かの手は向はじなど候はんには、軍に

勝つ事は候まじ、向後もはかばかしかるべしとも覚
え候はず、されば人の上の大事と各々思召しあはるる
かや、但幾度もこはからん方へは教経を差遣はされ
候へ、命あらん限りは身をたばひ候まじとて、頓て義
康が見る処にて、打立て物具ひしひしとして向はれ
けり、誠に甲斐々々しくぞみえ給ける、程なく三草山
へ馳つきて、越中の前司盛俊が陣の前に、仮屋をう
ちて待かけたり、さる程に五日もくれぬ、源氏小屋
野に陣をとて、遠火をたてたり、平家生田より見渡
せば、更行くままに晴たる空の星の如し、平家の方
にも向火焚けとて、生田の森にもかたの如く焚たり
けり、其夜越前三位は、弟能登守の仮屋に物具ぬぎ
て、女房むかへて伏し給けり、能登守是を見て申され
けるは、いかにか様に打とけて渡らせ給ぞ、此手は
敵こはくて教経向へと候つれば向て候、誠にこはか
るべき所と見えて候、弓を手に持たりとも、矢をは
げずばおそかるべし、矢をはげたりとも、引かずば
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猶おそかるべし、上のかさより敵只今押かけて候は
んには、取ものも取あへ候まじ、まして物具ぬぎお
かせ給ひては、何の用にかあはせ給べきと、再三申
されければ、心ならずおきわかれ、まだむつ言もつ
きなくに、宵のまぎれに引わかれて、女を返しつか
はさる、後に思ひ合せられけるに、それを最期のみは
てなる、哀なりしわかれのほど、思ひやるこそ悲しけ
れ、
六日卯刻に上の山より岩崩れして落る音しけり、す
はや敵のよするとて、各々馬に乗甲の緒をしめて、矢
筈を取て待所に、敵には非ず、大鹿二、妻鹿一出来る、
平家の人々申けるは、いかにかからんずる鹿も、人
に恐れて山深くこそ入べきに、この鹿のここへ落た
るこそ怪しけれ、野に人伏す時は、飛雁行を乱ると
いふ事のある物を、あはれ上の山より敵のよするに
こそといふほどに、伊予国住人武智武者所清章と云
ふ者、大鹿二は射とりて妻鹿一をば逃してけり、心

ならぬ狩したり、鹿めせ殿原とぞ申ける、軍は七日
卯刻に矢合あるべしと定らる、義経が勢中に奥州佐
藤三郎継信、同四郎兵衛忠信、江田源三、熊谷次郎直
実、平山武者所季重、片岡八郎為治、佐原十郎義連、
後藤兵衛実元を始として、兵三十余騎、その勢二千
余騎、義経に附き、残り七千余騎をば、土肥次郎、田
代冠者両人を大将軍として、山の手を破り給へ、我
身は三草山をうち廻りて、鵯越へむかふべしとて歩
ませける、九郎義経宣ひけるは、抑此山悪所にてあ
んなる物を、馬を落してあやまちすな、誰か此山の
案内知りたると尋ければ、平山武者所弓取なほして、
季重こそ案内はしるべく候へ、御免蒙りて先陣を仕
るべしと申ければ、熊谷次郎取もあへず申けるは、
幼少より武蔵国に住居して、今始めて見る山の案内
せんと申されけるこそ、まこととも覚えね、山につづ
かんと思はん人は、用意はかうこそあらめといひけ
れば、季重申けるは、心すきたる歌人、吉野龍田に
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分入て花紅葉を尋ぬるに、花はみねの梢におもしろ
く、紅葉は谷河の岸の岩根に色深し、されどもその
里人はしらねども、すき人こそ知れ、敵の籠る城の
うしろの山なれば、さこそあるらめと思ひなして、
剛の者こそ案内者よ、さてこそ季重先をかけんと申
たれといひければ、人々是を聞きて、面白しと声々
に感じてぞあゆませける、御曹司是を聞給て、傍若無
人なりとぞの給ひける、かくはいさみののしれども、
まことには山の案内知りたる兵一人もなし、いづれ
の谷へ落し、いづれの嶺を越ゆべしともしらざりけ
り三草山の夜討の時、生捕数多したりけるを、切べ
きは忽にきられぬ、国々のかり武者のけしかるをば、
木のもとにしばりつけなどして通りけるに、生捕の
中に祗候させんとて、一人ぐせられたりけるを、召出
してとはるるに、申けるは、此山は鵯越とて冷じき山
にて候、底には落穴をほり、馬も人も通ふべくも候
はず候、すこしもふみはづし候はんものはおとさん

とて、底に管をうへて候とぞ申ける、抑此山に鹿は
あるかとの給へば、いくらも候、さて鹿は彼悪所を
ば通るかとありければ、世間寒くなり候へば、浅み
にはまんとて、丹波の鹿は一の谷へわたり、世間暖
になり候へば、草深に伏さんとて、一の谷より丹波
へ帰り候と申ければ、さては鹿の通ふ程の道を、馬は
通はぬ事やは有る、よき馬場ござんなれ、唯落せとぞ
のたまひける、さて和君は平家の祗候人か、国々の
かり武者かととはれければ、平家の家人にても候は
ず、狩武者にても候はず、播磨国安田庄下司、賀古管
六久利と申者にて候が、去る比先祖相伝の所領を、故
なく平家の侍越中前司盛俊と申者に押領せられて、
此二三年の間訴申候へ共、未還して罷過候て、きず
なく死し候はんよりは、弓矢取て軍にこそ死候はめ
と存候て、此手に付て候と申ければ、扨は平家の祗候
人にてもなかりけり、誠に山の案内者久利にすぎじ
とて、先にたててぞおはしける、比は二月六日の事な
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れば、いまだ宵ながら傾く月をうちまもりて、四方
をただしくして行くほどに、嶽々のふもとにつもる
残の雪、花かと見ゆる所もあり、白雲重して高く聳
えたる所もあり、くだらんとすれば谷深くして峯高
く、深山には松のゆきまも消やらで、苔の細道かす
か也、木々の梢も重なれば、友まよはせる所もあり、
さる程に月も高根にかくれて、山深くて道見えず、
心計りはいそげども、夢に道ゆく心地して、馬次第に
うちける程に、敵の城のうしろなる鵯越にぞあがり
ける、菅六東を指て申けるは、あれに見え候所は、大
物が浜、難波の浦、こや野、打出、蘆屋の里と申候
は、あのあたりにて候なり、南は淡路島、西は明石の
浦汀つづきにて候、火の見え候も、播磨摂津国二ヶ国
堺、両国の内には第一の谷にて候間、一の谷と申候
なり、冷はみえ候へども、小石交りの白すなごにて、
御馬は損じ候はじ、一の谷こそ大事の所にて候へ、
磐石高く聳えふして馬の足立べしとも見えず候、踏

はづして転び候なん、馬骨を砕かずといふ事候まじ、
東西の城戸の上、東の岡は檀原とて、海路遙に見渡
して眺望面白く、望海楼をも構へ候べし、西の岡は
高松の原とて、春塩風秋の嵐の音、殊に烈しき所に
て候也とぞ申ける、大将軍は宗徒の侍近くめして、
おのおのやかたをならべ、その外の兵は、東西の城戸
口に二重に屋形をならべて候なり、弓矢取の習にて、
恥が悲しく候間、室山、水島の軍に度々命をすて、合
戦仕て候へども、思もしりたまはぬがくちをしく候
へば、今日ぞ始めてかばねを顕はして、見参に入候
はんずるとぞ喜びける、九郎義経は空もみえぬ深山
の道を、いづくともしらず歩ませつつ、かかる山を
打出でて、漫々たる海上を見渡せば、なぎさなぎさの
篝火、海人の苫屋のもしほ火かと、御曹司面白くぞ思
はれける、感にたへ給はず、兵仗具足をば態と取ら
せぬぞよ、是にて敵を招きて打物奪取て高名せよ、勲
功は取申べしとて、皆紅に月出したる扇をぞ賀古菅
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六に給ける、未だ夜深かりければ、暫くここにて馬の
足をば休めける、大手の勢は宵の程はこや野に陣を
取り、しころをならべて居たりけるが、越前三位、能
登守、三草の手に向ひたりける陣の火、湊川よりうち
あがて、北の岡に火をぞたきたりける、大手の兵こ
れを見て、九郎御曹司既に城戸口につき給へり、う
てやうてやとて、我先にかけんと、五万余騎手ごとに続
松をもちて急ぎけり、所々に火をはなちければ、万
燈会の如く、生田の森迄続きたり、海上光り渡りて、
身の毛もよだちて夥し、源氏平家の陣の火、見えぬ所
ぞなかりける、熊谷次郎子息次郎に申けるは、此大
勢にぐして山を落さんに、高名ふかくも知まじ、其
上明日の軍は打こみにて誰先といふ事も有まじ、今
度の合戦に一方の先を駈たりと、兵衛佐殿に聞かれ
奉んと思ふぞ、其故は兵衛佐殿しかるべき侍どもを
一間所に呼び入て、今度の軍には汝一人を頼むぞ、
妻にもいふべからず、今度の軍に於ては、忠を尽し

て頼朝を恨よとぞのたまひける、直実もかく仰せら
れし事を承りて、一方の先をば心にかく、いざこれ
小次郎、西の方より播磨に下りて、一の谷に先せん、
卯時の矢合なれば、只今が始にてぞあらんとて、打出
んとしけるが、あはれ平山も先を心にかけたると見
しものを、平山は前にや此山を出ぬらんと思ひて、
下人を遣はして平山が陣を見せけるに、下人走帰り
て申けるは、平山殿の御陣には只今馬のはみ物して
がうげに候、そのうへ御物具召し候かとおぼしくて、
御鎧の草ずりの音幽かに聞え候、御乗馬かと覚えて、
鞍置てくつは計りはづして、舎人ひかへて物かひ候
が、平山殿の御声とおぼしくて、八幡大菩薩も御覧
ぜよ、けふの軍には真先せんずるものをと候と申け
れば、熊谷さればこそと思ひて、小次郎直家と旗ざ
しともに三騎にて、浜路をみぎみぎに心をかけて打
出んとする所に、武者こそ四五騎出来れ、申されけ
るは、只今爰に出来る者は何者ぞ、名乗り候へと云け
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る声聞けば、九郎御曹司の声とききて直実申けるは、
是は直実にて候、君の御出と承て御供に参り候と申
ける、後に申けるは御曹司の御声、其時聞たりしは、
百千のほこ先を身にあててきられたらんも是には過
じと恐しく候しとぞ申ける、御曹司は若も我より先
にかかる者や有る、また敵や襲来ると思て夜廻りし
給ひけるなり、いしう参りたるとの給ひて引かへり
ける所に、ともするやうにてぬき足にこそあゆませ
たれ、抑渚へ出る道の案内しらぬはいかがせんずる、
なまじひにいでは出ぬ山に迷ひては、笑はれてかへ
りて恥がましかるべしと申ければ、小次郎申けるは、
武蔵国にてある人申候しは、山に迷はぬ事はやすき
ことにて候也、山沢を下に谷にまかり候へばいかに
も人ざとへ出るとこそ申候しか、そのぢやうを山沢
を尋て下させ給へと申ければ、さもありなんとて、
山沢の有けるをしるべにて下ける程に、思ひの如く
播磨路の渚に打出て、七日卯の刻計りに一の谷の西

の城戸口へ押寄せて見れば、城郭の構へ様誠に夥し、
陸には北山の麓迄大木を切伏せて、そのかげに数万
騎の勢なみゐたり、渚々には山の麓より海の遠浅ま
で大石をたたみて大船数を知らず、其蔭に数万疋の
馬ども十重廿重にひきたてたり、うしろには数千艘
のまうけ船をうかべたりければ、容易く破るべしと
もみえざりけり、熊谷次郎直実は褐衣の冑直垂に、紺
村濃の鎧に紅の母衣かけて、ごんだくり毛と云馬に
黒鞍置てぞ乗たりける、大中黒の廿四さしたるを頭
高に負ひて、二所籐の弓のきはめて太く強げなるを
ぞ持たりける、子息小次郎直家はおもたかを所々に
すりたる直垂に、藤縄目の冑に、鹿毛なる馬に黒鞍
置てぞ乗たりける、旗ざしは秋の野すりたる直垂に、
洗革の鎧に三枚甲をきて、黒月毛なる馬の名をば白
浪とぞいひける、まことの逸物なり、此馬は陸奥栗
原あねはといふ所の牧よりいでたり、尾髪逞しく白
かりければ、白浪とぞつけたりける、熊谷父子二騎
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城戸口近くせめよりて、武蔵国住人熊谷次郎直実、
嫡子小次郎直家生年十六歳、伝へても聞くらんもの
を、我と思はん人々は楯の表にかけ出よやといひて
父子くつばみをならべてはせ参りけれども、出合ふ
者なかりけり、ただ遠矢にてさんざんにぞ射ける、
熊谷馬の太腹射させてはね落せば、鎧をこしており
立たり、しころを傾け、弓杖つきて、城の内をにら
まへて申けるは、去年の冬相模国鎌倉を立ちし日よ
り、命をば兵衛佐殿に奉り、かばねをば一の谷にさら
し、名をば後代にとどむべし、平家の侍ども落合や
落合やと大音あげてののしりけれども、落合ふ者な
かりけり、室山、水島二ヶ度の合戦に、高名したりと
云なる越中次郎兵衛、悪七兵衛、上総五郎兵衛はな
きか、高名は敵によてこそすらめ、直実おや子にあ
ひては高名えせじものを、能登守殿はおはせぬか、あ
らむざんの殿原や、かけ出て組めや組めやといひけれ
ども、かけいづるものなかりけり、やや久しくまて

ともども落合はず、城戸口の上の高矢倉より雨のふ
るごとく射ける矢をば、冑の袖をふり合せふり合せして
ぞ射させける、熊谷子息直家にいひけるは、敵よれば
とてさわぐ事なせぞ、鎧のいむけの袖を甲の真向に
当て、あきまをおしめゆり合せゆり合せして、常に鎧づ
きせよ、働かで鎧にうらかかすなとぞ云ける、去程
に夜もほのぼのと明ければ、熊谷又申けるは、平山
は九郎御曹司の御供にて山はよもおとさじ、浜の手
には心はかけたるらん、今つづくらんものをと、父
子いひて立ちたる所に、いひもはてぬに浜の方より
平山武者所旗ざし相具して、二騎出来り、平山はし
げめゆひの直垂に、赤がは威の鎧に三枚甲に薄紅の
母衣かけて、目かす毛といふ馬にぞ乗たりける、旗
ざしは、黒糸威の鎧に、三枚甲を着たりけり、熊谷、
平山を見て、あれは平山殿かといひければ、季重と
名乗りて城戸口へせめ寄りければ、さればこそとぞ
申ける、平山申けるは、季重もとくより寄すべかり
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つるに、成田五郎にすかされて、今まで和殿にさが
りたるぞ、成田いふやうは先をかくといふ共、大勢
を後にあててこそかくる事なれ、唯一騎かけ入たら
ば、百に一命を生たりとも、誰か証人にも立つべき、
後陣の勢を待つと云に、げにもとおもひて暫くひか
へてまつ所に、やがて成田先へのぶる間、此君は季
重をだしぬくよ、其儀ならば馬の尻にはつくまじき
ぞ、和殿が馬は弱きものをとて、弓手になして一ふ
ちあてて、あゆませつれば、二三だんばかりさがり
つると見つるが、今は十四五町さがりつらん、たけ
く思へども馬弱くては先をかくる事かなふまじき物
を、熊谷殿の馬と季重が馬とはあはれ逸物やとぞ申
ける、かくいふほどに、城には矢倉を二重にかまへ
て、上には平家の侍、下には郎等国々の兵どもなみ
居たり、岸にそへてやかたをうちて大将軍ゐられた
り、口一開たりければいづくよりかけ入べしともみ
えざりけり、其後城内よりいざ夜もすがら悪口しつ

る熊谷生捕にせんとて、越中次郎兵衛盛次、上総五
郎兵衛忠光、同悪七兵衛景清、飛騨三郎左衛門景経、
後藤内定綱以下究竟の若武者廿三騎、城戸の逆茂木
引のけさせて、くつばみをならべてをめいてかけ出
たり、越中次郎兵衛盛次真先かけて出来、このむ装
束なれば、紺村濃の直垂に、赤綴の鎧に、白星の甲
き、白あし毛なる馬にぞ乗たりける、熊谷におしな
らべて組まんとはしけれども、少しも退かず父子あ
ひもすかさず立たりけり、越中次郎兵衛一たん許隔
てて、和君に逢ひては命はすつまじきぞ、大将軍に
あひてこそくみたけれといひければ、熊谷きたなし
やきたなしや組めや組めやとぞ申ける、越中次郎兵衛がひか
へたるを憎しとやおもひけん、悪七兵衛景清、次郎兵
衛をめ手になしてかけけるを、次郎兵衛申けるは、
わどの君の御大事は是に限るまじ、あれ程のふてが
たきにあひ、命を失ひてせんなしや、とのとのといひ
ければ、悪七兵衛かけざりけり、廿三騎の者ども熊
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谷にくまざりけり、互に戦ふばかりなり、平山をば
其時まで誰とも知らず、熊谷が郎等かと平家の方の
人々思ひて目かくる者もなかりけり、城戸口を開た
るを喜で、遠くは音にも聞け、近くは目にもみよ、武
蔵国住人平山武者所季重、けふの軍の真先と名乗り
てをめいて城の内へかけ入ぬ、是を見て城内雲霞の
勢さわげり、高矢倉の上よりその男に組めや組めやと
口々に詈りけれども、平山が乗たる馬は逸物なり、
城内の者共が乗りたる馬は、船に立たる馬なれば疲
損じたり、一あてあてたらば倒れぬべければ、おそ
ろしさに近づく者なかりけり、廿三騎の者どもは熊
谷父子をうち捨てて、平山がうしろをおひてぞかけ
たりける、平山は旗ざしをうたせて、其敵平山打ち
てその首を取てと付につけ、熊谷父子は、廿三騎が
後につづいてかけ入ぬ、廿三騎の者ども平山をも取
こめず、城内にかけ入て、熊谷平山を外様になして
ぞ戦ひける、熊谷小次郎直家生年十六歳、軍はけふ

ぞ始なるとて、かいだての際にせめ寄せて戦けるが、
小ひぢをいさせて引しりぞく、平山ははたざしをう
たせたりけれども、城戸口ひらきたりければ、平山
は先にかけ入ぬ、さてこそ熊谷、平山が一陣二陣をあ
らそふ所はこれなり、さるほどに、西の渚より成田
五郎三十騎ばかりにてはせ来る、それにうちつづき
又五六十騎出来る、熊谷是を見て誰人にておはしま
すぞととひければ、信濃国住人村上次郎判官代基国
と名乗りて、をめいてかく、是を始として秩父、足
利、武田、吉田、三浦、鎌倉その外小沢、横山、児
玉、猪俣、野寺、山口の者ども我劣らじとかけ入て、
源平両家白はた赤はたあひまじはりたるこそおもし
ろけれ、龍田山の秋の暮、白雲かかる紅葉の風にちれ
るにことならず、互に乱れ合ひてをめきさけぶ声山
をひびかし、馬のはせちがふ音大地震いかづちのご
とし、組で落つるものもあり、おちかさなる者もあ
り、源平いづれひまありとも見えざりけり、熊谷平
P581
山馬の足休め、我身も息継がんとて、引退く時は母
衣をかなぐり落し、又かかるをりは母衣をかけてを
めいてかけ入る、ここにて平家の軍兵残りすくなく
討れにけり、一の谷の北の小篠原あけになりてぞみ
えわたる、源氏搦手一万余騎なりけるが、七千余騎三
草山へ向ひぬ、三千余騎は、はりまぢのなぎさに副
て、一の谷へぞ寄せたりける、平家は摂津国生田森
を一の城戸口としてほりをほり、逆茂木を引き、東
にはほりに引橋をわたして、口一あけたり、北の山
よりみなみの海際までかいたてをかきて、さまをあ
けてまちかけたり、浜の大手より蒲冠者範頼、大将
軍として三千余騎にておしよせたり、白はたその数
をしらずさしあげたれば、白さぎのつばさならべた
るがごとし、我も我もと先陣を志すつはもの多く有
ける中に、武蔵国住人私党に河原太郎高直、同次郎
盛直、兄弟二人はせ来りて馬より飛下り、生田森の
城戸口へせめよてつらぬきはきて、逆茂木をのりこ

えて城内へ入けるを、城内より備中国住人真鍋四郎
同五郎とて兄弟ありけるが、四郎は一の谷におかれ
たり、五郎助光は究竟の弓の上手せい兵手ぎきなり
けるを、城戸口に置れたりけるが、河原太郎がのぼり
越を見て、さしつめてよひいていたりければ、河原
太郎が弓手のくさずりのはづれを射させて、ひざす
くみて弓杖にすがりて落ちたりけるを、弟次郎つと
よて兄を肩に引かけて帰る所を、助光又よひいて二
の矢をいたりけるに、次郎が馬手の膝の節にあたり
にければ、兄と一枕にたふれにけり、真鍋が下人落
合ひて取ておさへて兄弟が首をとていりにけり、梶
原平三これを見て、口惜きとのばらかな、つづきて
人のいらねばこそ、太郎兄弟をばうたせたれ、あた
ら者どもをとて、五百余騎おしよせて足かろどもに
逆茂木を引のけさせて、をめいてかけ入ば、新中納
言の父子、本三位中将重衡、二千余騎にて梶原平三
を中に取こめて、一時ばかり戦ひけるが、無勢なり
P582
ければかけたてられて引退くが、郎等どもに源太が
見えぬはととへば、源太殿は大勢の中に取籠られて
戦ひつれば、討れてもおはすらんと申ければ、梶原
聞もあへず、あな心うや、源太うたせて景時一人生
残りたらば、何事かあるべきとて、又押寄せて、相
模国住人鎌倉権五郎景政が末葉梶原平三景時一人当
千の兵也、誰かおもてをならぶべきといひてかけ入
たりければ、名乗にやをめけん、城内の兵ともさつ
と引てぞのきにける、源太はいまだうたれずして、
敵三騎が中に取こめられて、大あらはになりて、岩
かげに後をあてて、今は限りと戦けり、梶原かけ入
て是にあるぞといひて、源太を後になして、我身は
矢おもてにふさがり散々に射払ひて、源太に息つか
せて、いざこれ源太とてかいつれて、かけ破りていで
にけり、梶原が一の谷二度のかけとは是也、梶原源
太かくる時は、はたをささげ母衣をかけ、ひく時は
旗を巻き母衣をぬきて、度々入かへ入かへ戦ひけり、

武芸道ゆゆしく見えける中に、やさしき事は、片岡
なる梅のまだ盛なるを、一枝折て箙にさしぐして、
敵の中へかけ入て、戦時もひく時も、梅は風にふか
れてさとちりければ、敵も味方も是を見て感じける
所に、城内よりよはひ三十ばかりなる男の、褐衣の
直垂に洗皮の鎧着て、馬にはのらず、弓脇に挟みて
すすみ申けるは、本三位中将殿御使にて候、梅かざ
させ給て候に申せと候、こちなくも見ゆるものかな
桜狩と申もはてぬに、源太馬より飛下りて、しばし
御返事申候はんとて、生捕とらん為と思へばとぞ申
たりける、九郎義経一の谷の上、鉢伏と蟻のとと云
所へ打上りて見れば、軍は真盛りと見えたり、下を
見おろせば、或は十町ばかりの谷もあり、或は廿町
ばかりの岩もあり、人も馬も通ふべき様もなし、さ
ても馬おりぬべきか心みんとて、よき馬二疋に鞍を
置き、白轡をはげ、手綱を結びて頸にかけて、下へ
むけて追落す、一町ばかりは白石まじりのすなごな
P583
れば、すべるともなく落るともなく、越中前司盛俊が
やかたに落てけり、一疋は足をそこなひて伏たり、
一疋は身ぶるひして立たりければ、思ひよらぬ上の
山より鞍おきたる馬の二疋おちたりければ、敵のよ
すればこそ此馬どもはおちたるらめとて、城内さわ
ぎあへり、九郎義経はるかにのぞきて是を見て、一
疋は伏たり一疋は立たり、主が心えておとさば損す
まじきぞ、ただ落せ殿原とて、白旗三十流を城の上
へ靡かして、七千余騎さとおちたり、少平なる所に、
落ち留てひかへて見おろせば、底は屏風を立てたる
が如く、苔むしたる岩なりければ、落すべき様もな
し、返りあがるべき道もなし、いかがすべきと面々
に扣へたる所に、佐原十郎義連進み出て申けるは、
三浦にて朝夕狩するに、狐を一落しても鳥を一立て
ても、是より冷じき所をも落せばこそ落すらめ、い
ざこれ若党共とて、我が一門には、和田小太郎義盛、
同小次郎義茂、同三郎宗実、同四郎義種、蘆名太郎

清澄、多々良五郎義春、郎等には三浦藤平、佐野平
太を始として御曹司の前後左右に立ち直り、手綱か
いくり鎧ふんばり、目をふさぎ馬に任せて落しけれ
ば、義経よかんめるは、落せや若党とて、前に落し
ければ、おちとどこほりたる七千余騎兵共我劣らじ
と皆落す、畠山は赤綴のよろひに薄べうの矢負て、
みか月といふ黒馬のふとくたくましきにぞ乗たりけ
る、ふちうちに月がたのありければ、みか月とぞつ
けたりける、一騎も損ぜず城のうしろかりやの前に
ぞ落つきたる、おとしはつれば白旗三十ながればか
りさとささげて、平家の数万騎の中へ乱れ入て、鬨
をどと作りたれば、味方も皆敵にぞみえけるうへは、
あわてまどふ事限なし、馬より引落し射落さねども、
おちふためき、上になり下になりける程に、城の後
の仮屋に火をかけたりければ、西の風烈しくふきて
猛火城の上に吹きおほひける上は、煙にむせびて目
も見あけず、取物もとりあへず、海へのみぞ馳入け
P584
る、助船あまたありけれども、船に乗は少く海に沈む
は多かりけり、所々にて高名せられたりし能登守も
いかが思はれけん、平三武者が薄雲といふ馬に乗り
て、須磨の関屋へ落給ひて、それより船にて淡路の
岩屋へぞおちにける、越中前司は、とてものがるべ
き身ならばこそとて、一引もひかず残り止て戦ひけ
り、盛俊も猪俣小平六則綱とよせ合せて引組んで馬
より落にけり、盛俊は世に聞えたる大力の大男なり、
人には三十人が力もちたりとしられたりけれども、
内には七十人しておろしける大船を、一人してやす
やすとあげつおろしつしけり、小平六もしたたか者
にて、ふつうには強かりけれども、下におし付らる、
盛俊少も働かさず、小平六刀をぬかんとつかに手を
かけたれども、大男の大力の取ておさへたりければ、
刀をぬくに及ばず、既に頸かかんとしけるに、がう
の物しるしにや、力は劣りたれども、小平六申ける
は、やとの和殿は誰といふぞ、敵をうつ法には名字

をたしかに名乗らせて討たればこそ、勲功の賞にも
あづかれ、名もしらぬ頸をいくらとりたりとても、
物の用に立つべからず、我名のりつるをば聞給ひつ
るかと問ければ、よくも知らずと答ふ、さらば名乗
て聞せ奉らん、武蔵国住人猪俣小平六則綱とて名誉
の者にて、兵衛佐殿までも知り給たるぞ、和殿原は
落軍なれば、則綱を討ちて何にかはし給ふべき、平
家うち勝給はん事今はかたかるべし、されば主の世
におはせばこそ勲功にも勧賞にもあづかり給はん、
殿原は落人ぞ、則綱が命を助け給ひたらば、兵衛佐
殿に申て、和殿の親しき人どもあらば、何十人も助
け奉らんずるはいかが、和殿は誰と云人ぞと問けれ
ば、これは平家の侍越中前司盛俊とて、昔は一門にて
有しが、近頃より侍になりたる也、さては殿は聞ゆ
る人ござんなれといひければ、さぞかし盛俊いひけ
るは、子共数多あり、男子女子の間に廿余人候ぞ、
さらば助け給へ、一定かといへば、仔細に及ばず、い
P585
かでか命を助けたらん人をばたすけ申さざるべき、
八幡大ぼさつの罰あたらん、いかで空事を申べきと
いひければ、悦ばしさの余りに頸をかくに及ばず、
ぬきたる刀をさしてひき起して居たり、後は深田前
は水田の中に堀の有けるに、盛俊は冑の高紐といて、
二人の者ども尻打かけて息つき居たり、去程に猪俣
党に、人見四郎と云者、黒糸綴の冑にかはらげなる
馬に乗て、浜の方より出来たり、盛俊小平六には打
とけて目もかけず、今来る人見四郎に目をかけて、
ここに来る武者は何者ぞと問て、あやしげに思ひた
り、小平六少しも騒がず、あれは則綱が母方のいと
こ人見四郎と云者也、覚束なく思ひたまふべからず
といひければ、猶人見に目をかけて猪俣には心を置
ず、後をさし任せて居たり、則綱人見を待ち付て、討
ちたらば、二人してこそ討たれといはれなんずと思
ひ、諸手をもて先へ強く突きたれば、盛俊まさかさ
まに深田の水のそこに頸をつきこみて、足は上にあ

りて、起きん起きんとしけるを、則綱ひたとのりゐて
とておさへて、起しもたてず太刀をぬきて柄もこぶ
しも通れとさして、やがて頸かいて、太刀の先にさ
し貫きて、指あげて申けるは、聞ゆる平家の侍越中
前司盛俊が首ぞや、正しく則綱これをうちたり、証
人に立給へ殿原とぞ申ける、かの刀は浪平が作也、
つかにはくはに竹を合はせたるとぞ聞えし、又猪俣
党に藤田三郎大夫は深入て戦けるが、姉が子に武蔵
国住人江戸四郎とて十七になる若武者が、藤田をば
敵と思てよひいて遠矢にて射たりければ、母方の伯
父がふりあふのきて物見んずる頸の骨をぞ射たりけ
る、射られてかたぶきける所を、阿波民部大夫成良
が甥、桜葉の外記大夫良連が郎等落合てうちてけり、
か様に思ひ思ひに戦ふ程に、大事の城戸口をば熊谷
平山かけ入、信濃源氏村上判官代基国、平家の仮屋に
火をかけたれば、西の風冷じくて黒烟東へ吹覆ひて、
東の大手生田森を固めたる軍兵、是を見て今はいか
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にも叶はじとて、船に乗らんと渚に落行ども、唯海
へのみぞ入りける、たすけ船あれども多くこみ乗り
ければ、目の前に船二艘乗沈めぬ、然るべき人々を
ばのせ申すべし、つぎつぎの者をば乗すべからずと
て、船によりつく者をば、太刀長刀などにて薙ぎけ
れば、手などきらるる者もあり、かくはせられけれ
ども、敵にあひて死なんとはせざりけり、唯いかに
もして船にのらんとぞしける、御方うちにぞ多くう
たれにける、先帝を始奉りて、女院北の政所二位殿
以下の女房達大臣殿御子の右衛門督、然るべき人々
は兼て御船に召て海に浮び給けり、一の谷の渚を西
へさして武者一騎落行く、齢ひ四十ばかりの人〓黒
なるが、黒革威の冑毛色も見えぬほどなるに、射残
したると覚しくて、箙に大中黒の矢四五残りたり、
白葦毛なる馬に遠雁うちたる鞍置て、小房の鞦かけ
てぞ乗たりける、引返引返蘆屋を下へ落ちけるを、
武蔵国住人岡部の六弥太忠澄といふものはせ付て、

ここにただ一騎落行は誰ぞや、敵か味方か名乗給へ
といひければ、御方ぞと答へけり、忠澄はせならべ
てさしうつぶいて見れば、うすかね付たり、源氏の
方にはかね付たる人は覚えぬ者をと思ひてきたなく
も敵に後を見せ給ものかなといふ時、忠度、六弥太に
おしならべて組で、馬二疋があひに落てけり、忠度
落さまに三刀まで敵をさす、一の刀には手がいをつ
き、二の刀には口をつき、三の刀は内かぶとをつき
たれば頬をつき貫きたり、六弥太が郎等落合ひて、
打刀をもて忠度の弓手のかいなをかけず討落す、さ
れども忠度少しもひるまず、馬手のかひなに六弥太
をのせて三尋計り投げられたり、忠澄起上て忠度に
組む、上に乗りゐて押へて誰人ぞ名乗り給へといふ、
おのれにあひては名乗まじきぞ、おのれがみしらぬ
こそ人ならね、さりながらよき勧賞には預らんずら
めとぞいはれける、六弥太が郎等落かさなて、忠度
の冑のくさずりを引あげてさす、忠澄も敵の名乗ね
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ばとて、いつとなくおさへて待つべきならねば、刀
をぬきて内甲をさすかとみければ、首は前に落にけ
り、忠澄首を太刀の先に貫きて、此頸を名乗れとい
ひつれども、名乗らず、誰人やらんと思ひけるに、
箙に巻物一巻さされたり、是を取出してみけるに、
旅宿の花といふ題にて
行くれて木の下蔭を宿とせば
花や今宵の主人ならまし W131 K289
と書きて、奥に薩摩守と書れたりけるほどにこそ、
忠度とはしりたりけれ、忠澄、兵衛佐殿の見参に入
て、薩摩の守の年来知行の所五ヶ所ありけるを忠澄
に給けり、
本三位中将重衡卿は、生田の森の大将軍にておはし
けるが、国々の駈武者なれどもとり集めて三千余騎
ばかりやありけん、城内やぶれにければ皆かけへだ
てられ、四方へ落うせぬ、少しも恥をしり名を惜む
ほどの者は皆うたれにけり、走り付の奴原は或は海

に入り、或は山へこもりぬ、それも生くるは少く死
者は多くぞありける、中将その日は褐衣に村千鳥を
縫たる直垂に、紫すそごの冑に童子鹿毛と云て、兄
の大臣殿より得給ひける馬に乗られけり、花やかに
いうにぞみえられける、中将もしの事あらば乗かへ
にせんとて、年来秘蔵して持たれたりける夜目なし
月毛と云馬には、一所に死なんと契り深かりし、後
藤兵衛盛長といふ侍に乗せて身をはなたずうたせら
れたり、御方には、おしへだてられぬ、助船どもこ
ぎ出しにければ、西をさしてぞあゆませける、経島
を打過て湊川を打渡りて、刈藻河、駒の林をば弓手に
見なし、蓮池をば馬手になし、板屋戸、須磨にぞかか
らせ給ふ、明石のうらを渚にそひてひかへひかへおち
られけり、ここに源氏の侍梶原平三景時、乗かへ一
騎相ぐして、中将に目をかけて追かけたり、中将乗
給へる童子鹿毛ははやあしの逸物なりければ、ただ
のびにはせられける間、景時叶はじとや思ひけん、
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もしやとおふやうに遠矢にいたりければ、童子鹿毛
が三頭の上に立にけり、馬に矢たちて後はいかに鐙
を合せ給へども働かず、盛長是を見て思ひけるは、
我身をも冑着たり、後には敵せめ来、此馬めされな
ばかなふまじと思ふうへ、甲斐なき命こそ大切なれ
と思ひて、射向けの袖なるあかじるしかなぐりすつ
るとぞみえける、ふちをあてひらみて逃ぐ、中将は
是をみ給てあた心うや盛長よ、年比はさやは契らじ、
我を捨ていづくへ落るぞや、其馬参らせよ参らせよと声
をあげての給へども、一目も見かへらずいよいよ鞭
をあげて落ちにけり、中将力及ばず、海へうち入れ
られたりけれども、馬よわくてはたらかねば、おり
下て汀におり立て、刀をぬき冑のひきあはせを押き
り、高紐はづして小具足ちぎりすてぬぎすてられけ
れば、自害せんとや海へ入らんとや思ひ煩ひ給たる
体にてたたれたり、敵せめかけければ、自害すべき
ひまもなし、遠浅なりければ海へも入給はず、去ほ

どに梶原平三はせ付て馬より飛下り、長刀をひらめ
てかしこまて申けるは、景時こそ君の渡らせ給ふと
見参らせて御迎に参りて候へ、御乗替の逃候こそ無
下に見苦く候へ、いかにあれが様なる侍をば召仕は
れ候けるやらんと申て、とくとく御馬にめされ候へ
とて、我乗たる馬にとて打のせ申て、さし縄にて鞍
の前わにしめつけて、我身は乗替に乗りて先に立て
てぞまかりける、大将軍いきながらとられけるこそ
口惜けれ、重衡後にのたまひけるは、その時言葉か
けられたりしは、たとへば三百の鉾にて一度にむね
をさかれたらんも、これにはいかでまさらじとぞお
ぼえしとぞのたまひける、盛長はいきながき逸物に
乗ければ、はせ延て命ばかり助りにけり、後には熊
野法師に雄中法橋と申ける僧の後家あまが後見して
ぞありける、かの尼訴訟ありて、後白河法皇の伝奏
し給ひける人の許へまいりけるに、盛長ともしたり
けり、人之を見て申けるは、本三位中将のさばかり
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いとをしくし給しに、一所にていかにもならで、さ
ばかりの名人にてあるものの、思ひがけぬ尼君の尻
先にたちて、はれふるまひするこそむざんなれとて
あざみければ、盛長さすがものまばゆく思て、隠れ
けるこそあまりににくかりけれ、
新中納言知盛卿は武蔵国の国司におはしければ、児
玉党見知り奉りけるにや、武者一騎はせ来て、大将
軍に申せと候、御後を御覧じ候へ、今は何を御戦候
やらんと申ければ、中納言後をみかへり給へば、黒
烟り吹おほひたり、大手は破れけるかとの給ひて、
浜へむきて歩ませ給ふ、船ども皆沖へ漕ぎ出してけ
れば、乗をくれ給ひてあきれてぞおはしける、うち
わの旗ささせたるこそ児玉党にや、三騎をめいてか
けけるを、新中納言の侍監物太郎頼堅とて、強弓の上
手にてありけるがよひていたり、あやまたず旗ざし
が頸の骨を射させて逆さまに落にけり、残二騎少し
もしらまず、しころを傾けてかかりけるを、中納言

の御子武蔵守知章、中に隔てて組で落ち、とておさ
へて首をかき給けるを、敵の童おち合て武蔵守をば
討ちてけり、監物太郎又落重て童が首を取る、頼堅
も膝ぶし射させて立上らず、腹かき切て死にけり、
此間に中納言のび給ひぬ、井上といふ逸物の馬に乗
給ひたりければ、海上三町計り游て船につき給ひけ
り、船も所なくて馬立べき様もなかりければ、中納
言せがいに乗うつりて、馬のくびを磯へ引むけて、
一鞭あて給ひけれども、馬船に付て二三度迄游ぎ廻
りけれども、のすべきけしきもなかりければ、游ぎ
帰て敵の物になりなんず、射殺し給へと阿波民部成
良申ければ、敵の物になるとても、命を生たる馬を
ばいかでか殺すべきとぞの給ひける、馬は渚に游ぎ
上りて、しほしほとして、畜生なれども年比のよし
みをや忘れがたく思ひけん、船の方を見送りて、二
三度いなないて足がきしけるぞむざんなる、九郎義
経此馬を取て院へ被進たりければ、名高き馬なりと
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て、御馬屋に立られけり、黒き馬の太く逞しきにて
ぞ有ける、中納言武蔵国務の時、河越といふ所より、
信濃の井上小次郎といふ者が奉りたりければ、河越
黒とつけられたり、又井上とも申しけり、中納言此
馬を余りに秘蔵して馬の祈の為とて、小博士と申陰
陽師に、月に一度泰山府君を祭られけり、其故にや今
度の軍にこの馬に助けられて、御命ものび給ひ、馬
の命も生にけりとぞ人々申ける、爰に赤地の錦の直
垂に赤威の冑き、白星の甲に滋籐の弓持ち、切めの
矢負ひて金作の太刀はきて、月毛なる馬に金覆輪の
鞍置きて、あつぶさのしつがいかけて乗たる武者一
人、中納言に続きて打入ておよがせたり、一たん計
りおよぎてうきぬ沈みぬただよひけり、熊谷次郎直
実渚に打立けるが、是をみて大将軍とこそ見奉り候
へ、まさなく候物かな、返させ給へや返させ給へやと詈かけ
られて、いかが思はれけん、渚へむきてぞ漂せける、
馬の足立程になりにければ、弓を投げすて太刀をぬ

き額にあてをめいてはせあがる、熊谷まちまうけた
る事なれば、あげもたてずくんで波うちぎはにどう
と落つ、上になり下になりみはなれ四はなれ組みた
りけれ共、終に熊谷上になる、左右の膝をもて、冑
の左右の袖をむずと押へたれば少しも働かず、熊谷
刀を抜て内甲へ入、引あげてみれば、齢十五六計り
なる若上臈の薄化粧してかね黒なり、熊谷あないと
をしやと心よわく覚えて、抑君は誰人の御子にて渡
らせおはしまし候ぞと問ければ、とくきれとぞの給
ひける、直実又申けるは、雑人の中にすて置参らせ
候はん事の余りに御いたはしく思参らせ候、御名を
つぶさに承て必御孝養を申候べし、これは武蔵国住
人熊谷次郎直実と申者にて候也と申たりければ、何
のなじみ早晩の対面といふ事もなきに、これ程にな
さけを思ふらん不便なれと思はれければ、我は太政
入道の弟修理大夫経盛の末子、大夫敦盛とて生年十
六歳になるぞ、はやきれと宣へば、熊谷殊に哀に思
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て、直実が子息直家も生年十六歳になるぞかし、さ
ては我子と同年にておはしますなり、かく命を捨て
軍をするも直家が末の世を思ふ故也、我子を思ふや
うにこそ人の親も思ひ給らめ、此殿一人うたずとも、
兵衛佐殿かち給ふべき軍よも負は給はじ、うちたり
ともまけ給ふべくば、それによるべからず、敦盛討
れぬと聞給て、経盛いかに歎き給はんずらんなど思
ひ煩ひける程に、後にも組で落る者あり、首を取者
もあり、去程に土肥次郎実平三十騎計りにて出来れ
ば、土肥次郎がみる所にて此殿を助たらば、熊谷こ
そ手取にしたる敵をゆるしてけれと、兵衛佐殿に帰
りきかれ奉らんも口惜かるべしと思ひければ、君を
ただ今助参らせて候とも、終にはのがれさせ給ふべ
からず、御孝養に於ては直実よくよく仕候べしとて、
目をふさぎて首をかき切けり、波うち際に伏したり
けるむくろを返してみければ、ねりぬきに五色の糸
をもて、籬に菊をぬひたりける直垂をぞ召されたる、

冑を引のけ見れば、漢竹の篳篥の色なつかしきを、紫
檀のいへに入て引合にぞさされたる、それに細き巻
物さし具せられたり、これを見るに打出で給ひける
近日の程に、よまれぬるかと覚しくて、四季の長歌
をかかれたり、桜梅桃李の春初になりぬれば、すに
囀る鶯の野辺になまめく心地して、野径の霞の顕は
れて、そともの桜いかばかり、しげく咲らん八重桜、
九夏三伏の夏の天にもなりぬれば、藤波厭ふ時鳥、よ
なよなかがりびした燃えて、忍べる恋の心地する、
黄菊紫蘭の秋の晩にもなりぬれば、かきねにすだく
きりぎりす、荻の上風身にしみて、妻こふ鹿のうら
む声、白菊黄菊とりどりに、龍田の紅葉色かへて、
からにしきとやまがふらん、玄冬素雪の冬のそらに
なりぬれば、谷のを川も氷柱ゐて、皆白妙になりに
けり、名残をしかりし故郷の、木々の梢をふりすて
て、万里の波涛に身を任せ、今は摂津国難波のほと
り、一の谷の苔のしたに埋れんとぞかかれたる、熊
P592
谷是をみ、さては打いでたまひけるその日より、し
ぬべしとはかねて思ひまうけ給ひけるにこそと、か
れを見是を思ふにも、いとど涙もせきあへず、さて
こそ熊谷が発心の心はつきにけれ、元暦元年二月七
日巳の尅、平家は一谷を落されて、同十三日讃岐国屋
島のいそに着給ふ、同八日熊谷は見し面影のみ身に
添ひて、忘れがたさぞまさりける、此首をおくらば
やとは思へども、私の物になしせめての思の余りに
や召されたりける御直垂に空しき死骸を押巻、かの
篳篥さしそへて、雑色二人水手二人添へて、釣船に
乗せ、屋島の磯へぞ送りける、同十三日酉の刻ばか
りに、熊谷使平家の船にはおひつきたり、御船に申
べき事候と申ければ、平家の船よりいづくよりぞと
いひければ、源氏の御方に候給ふ、熊谷殿よりの御
使とぞ申ける、平家の船中何となく熊谷が使ときき、
あわてさわぐ事斜ならず、去程に熊谷が使の船も近
付きて、五たんばかりにぞゆらへたる、新中納言の

たまひけるは、いかなる樊噌張良が乗たりとも、か
程の小船に何事のあるべきぞ、平内左衛門はなきか、
行向ひて事の仔細尋よかし、伊賀平内左衛門尉家仲
は、木蘭地に色々の糸をもて、獅子に牡丹をぬひたる
ひたたれ、こしあて小具足ばかりにて、郎等二人に腹
巻きせ、はし船にとり乗り、熊谷が使の船におしむ
かひて、事の様をぞ尋ねける、源氏の御方に候熊谷
殿より、修理大夫殿へ御状の候と申ければ、新中納
言見給ひて、これは私の状と覚ゆるぞとて、修理大夫
殿へ奉らる、修理大夫殿あけて見給ふに、御子敦盛
の空しき死骸をぞ送りたりける、打いで給ふその日
よりして、いまやいまやと期したりける事なれども、
時にさしあたりては恩愛の道力及ばぬ御事にて、御
涙更にせきあへず、御母北の方夢の様なる心地して、
御涙にぞかきくれける、見そめ見えそめしそのいに
しへさへくやしくて、後悔せらるるぞ哀なる、御船
に候ける貴賎上下皆袖をぞぬらしける、熊谷はされ
P593
ばひたすらあらゑびすかとこそ思ひたれば、情深く
もこれをば送りたる物かなとて、御涙をおさへ、修
理大夫殿、熊谷が状をあけて見給ふ、其状に云、直
実謹言上、不慮奉此君参会間、直欲決勝負刻、
俄忘怨敵思、忽〓武意之勇、剰加守護奉供奉
所、雲霞之大勢襲来、成落花過時、直実始参平家
雖射源氏、彼多勢是無勢也、樊噌還而縮、慎養由芸、
爰直実適得生於弓馬家、幸耀武勇於日域、謀廻
洛西、怨敵靡旗、寃敵、雖得天下無双名、群蚊
虻成雷、蟷螂集如覆流車、〓引弓放矢、抜剱築
楯命於奪、同方軍士名於流西海浪、於世々繁
繁以非自他面目哉、雖然奉仰君之御素意所、唯
御命於早給直実、可奉訪御菩提由、頻被(二)仰下(一)
間、落涙乍抑、不量給御頸畢、怨哉悲哉、此君
与直実、結怨縁於多生、歎哉痛哉、宿縁既除而奉
成怨敵害、非彼逆縁者、争互切生死縛、一蓮身還
而至順縁哉、然則自卜閑居地行、可奉訪御菩

提、直実申状進否真偽、定後聞無其隠歟、以此旨
可然様可有洩御披露候歟、誠惶誠恐謹言、
寿永三年二月八日 直実
進上 伊賀平内左衛門尉殿
とぞかきたりける、修理大夫殿御涙にぞかきくれ給
ひける、御母、北方一所にさしつどひて空しき死骸
を中に置き、件篳篥をあなた此方へ取渡し、こはさ
れば夢かや夢かやとて、唯なくより外の事ぞなき、さ
れども熊谷が使の余りに久しく待けるが、さすがに
おもはれければ、修理大夫殿御涙をおさへて御返事
あり、今月七日、於摂州一谷、被討所敦盛死骸
并遺物等慥送給畢、此事出花洛古郷、自漂西海浪
上已来、思尽運命事、今更非可驚、自元望戦
場上者、何有思返哉、会者定離者憂世之習、生者
必滅者穢土之悲、釈尊すら御子羅〓羅尊者を悲給、
応身権化猶以如(レ)此、何況於凡夫哉、成親成子前
世之契不浅、去七日打出自朝其面影未離身、燕
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来囀無聞其声、双翅雁飛帰、不通音信、必定被
討之由、雖伝承、未聞実否間、何風便聞其音
信、仰天臥地、奉祈誓仏神、相待感応之処、七
ヶ日中、得見彼死骸、是併守仏天之処也、然則
内々信心弥銘肝、外感涙増催心浸袖、但生二度
如帰来、又是相同即活、抑非貴辺芳恩者、争得
見之哉、一門風塵皆以捨之、矧於怨敵、尋和漢
両朝、古今未聞其例、貴恩高、須弥山頗低、芳志深、
蒼溟海還而浅、欲進而酬、過去遠々、欲退而報未
来永々、万端雖多、難尽筆紙併察之、恐々謹言、
同年二月八日 修理大夫経盛
熊谷次郎殿
小松殿未の御子備中守師盛は小船に乗りて渚を落給
ふ、助船へと心ざしておちたまひけるに、薩摩守郎
等豊島九郎直治といふ者、究竟の剛の者大力にて有
けるが、岸の上に立ちて、あれは備中守殿のわたら
せ給とみ参らせ候が、ひが事にて候か、薩摩守殿御

内に豊島九郎と申者にて候、守殿には後れ参らせ候
ぬ、助させ給へと申たりければ、年比ほしと思はれ
ける直治なりければ、此船寄て乗せよとの給ひけれ
ば、御船狭く候、いかにして乗せ候べきと侍ども申
ければ、ただ寄せて乗せよとの給ふ、力なく寄せて
けり、直治は大の男の冑きながら高岸より飛び乗り
ければ、舷に飛びかかりて船を踏かたむけて、乗直
さんとしける程に、ふみ返して一人も残らずみな海
に入にけり、是を見て河越太郎重頼が郎等、十郎大夫
八騎はせ来りて、熊手にかけてこれらを引あげて首
をきる、長刀持たる男の首をかかんとてよりて申け
るは、かね付させ給て候は、平家の御一門にてわたら
せ給候ござめれ、名乗らせ給へといふ、師盛宣ける
は、おのれらにあひては名乗まじきぞ、後に人にと
へとて名乗り給はずして討れ給にけり、或人にとひ
ければ、小松殿御子備中守殿とぞ申ける、爰に常陸
国住人臂屋四郎、五郎といものあり、四郎、弟の五郎
P595
に申けるは、今日一定よき敵と組んと覚ゆるぞ、過
し夜の夢見よかりつると申もはてねば、兵二人出来
る、一人は大あらはなりけるを、臂屋四郎馳よせて、
かみをつかんで前わにおし付けて首をかく、一人は
萌黄匂ひの冑に鹿毛なる馬にのておちけるを、臂屋
五郎はよき敵と目をかけて、さしならべてくで落ぬ、
渚のはたに古き井の有ける中へ二人くで落入てふし
たり、五郎は下に敵は上に有けれども、井の中はせ
ばし、おちはさまで、互に何ともせざりけり、四郎
はせめぐり見れども、弟の五郎見えざりけり、井の
ありけるをはせ来りてさしのぞき見れば、兵二人あ
り、五郎はここにあるかととへば、かすかなるこゑ
にて安重と名のりければ、馬より飛おりて敵の首を
かく、十六七ばかりの若き人の薄化粧してかね黒な
り、これは門脇中納言御子大夫業盛にておはしけり、
むざんともいふばかりなし、新中納言大臣殿に申給
けるは、武蔵守にもおくれ候ぬ、頼賢もうたれ候ぬ、

今は心よわくこそ覚え候へ、家長もよもいき候はじ、
只一人持たる子の、親を助けんとて敵にくむと見な
がら、引も返さざりつるこそ命はよく惜きものかな
と恨めしく覚ゆれ、いかに人の思ふらんとてなき給
ひければ、大臣殿の給ひけるは、武蔵守は手もきき、
心も剛にてよき大将軍にておはしつるものを、あら
をしや、あたらものかなとて、御子の左衛門督のお
はするを見給ひて、ことしは同年十七ぞかしとて、
涙ぐみ給へば、是をみる人々皆鎧の袖をぞぬらしけ
る、家長は伊賀平内左衛門也、是は新中納言の近習
なり、命にもかはり一所にていかにもならんと、契
ふかかりしものなり、然るべき人々の頸、竹をゆひ
渡してとりかけたり、千二百人とぞしるしたる、大
将軍には越前三位通盛、薩摩守忠度、但馬守経正、
若狭守経俊、武蔵守知章、小松殿公達には、備中守
師盛、門脇中納言御子蔵人大夫業盛、修理大夫経盛
の御子敦盛以上八人、侍には、越中前司盛俊、筑後
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守家貞うたれにけり、惣じて大将軍とおぼしき人十
人とぞきこえし、或は利剱を蹈て地に倒れ、或は流
矢に中て失命類、麻をちらせるが如し、水に溺れ山
に隠れし輩、幾千万かありけん其数をしらず、主上、
女院、内大臣、平大納言以下の人々の北の方船にめ
し、親くこれを御らんぜられけり、いかばかりの事
をおぼしけむ、御心の中おしはかられてあはれなり、
翠帳紅閨万事の礼法異るのみにあらず、船中浪上、
一生の悲みたとへん方もあらじ物をと、思ひやられ
てむざんなり、父は船にあて子は磯に倒れ、妻は船
にあれば夫は渚に伏す、友を捨て主を捨ても、片時
の命ををしむ、兄を忘れ弟をわすれてもしばしの身
をたばふ、湖中の魚の泡にいきつくが如し、龍頭の
羊の笙楽を恐るるに似たり、主上をはじめ参らせて、
宗徒の人々御船にめして出給ふ、船路の習なれば潮
にひかれて伊勢へ赴く船もあり、或は蘆屋のさとを
こぎ出で、便風を待もえず、浪に漂ふ船もあり、須

磨明石を浦伝ひ行く船もあり、順に四国へ渡る船は
鳴門の沖をこぎ渡る、いまだ一谷の沖にかかるもあ
り、浦々島々は多けれども、互に死生をしりがたし、
国を靡す事も十三ヶ国、勢のつき随ふ事も十万余騎、
都へ近付く事も一日路也、今度はさりとも思はれけ
る一谷をもおちられける上は、ちからつきはてて
ぞおもはれける、この度討れ給へる人々の北の方、
皆さまをかへて、墨染のたもとになりつつ、念仏申
て後生をとぶらひ給ふ、本三位中将の北方大納言典
侍殿ばかりぞ、内の御乳人なればとて、大臣殿制し
申されければ、さまをやつし給はざりける、
小宰相身投給事
越前三位通盛卿は、大臣殿の御娘となづけられ給け
れども、姫君いまだおさなくおはしければ、近づき
給事もなし、故藤刑部卿憲方の御娘小宰相殿とて、
上西門院の中宮と申ける時、宮中一の美人の聞えあ
りておはしけり、容がん人にすぐれて心操なさけふ
かくおはしければ、きく人思かけぬはなかりけり、
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其中に越前三位の左衛門佐とて未だ若冠にておはし
ける時、小宰相殿も幼くおはしけり、朝夕は一所に候
給て、心さまつれなき人とぞ見給ける、かくと知給
て後は、文の数のみつもりけれども、聞入給はずして
年月をぞ重ねける、御文つたへける人は間近く参る
人なりければ、三位みとせの思ひにたへずして、今
は思ひ切て、世をのがるべきなど細々とかきまうけ
て、便宜を窺ひける程に、或時小宰相殿御所へ参り
給、伝ふる人御心を合せて、青侍をして此文を車の
内へなげ入させて、使はかきけすやうにうせにけり、
小宰相殿是を如何なる人のつてぞやとて、車の内に
てしのびしのびにさわぎ給へども、御供の者ども知ら
ずと申ければ、大路にすてんもさすが也、車に置か
んもつつまじくて、思ひ煩ひ給ひける程に、御所近
くなりければ、いかにすべき様もなくて、袴の腰には
さみて御車よりおり給ひにけり、折しも御あそびの
ほどなりければ、御前へ参りて御かひおほひなどし

て遊び給ける程に、此文を落し給けり、女院の御目
にしも御覧じいだして、御ふところにひき入させ給
て、女房達を召し集めて、やさしきものをこそ求め
たれ、人々これ御覧ぜよとて取出させ給たりければ、
かの文也、女房達我も知らず知らずと仏神にかけて申
されければ、小宰相殿顔気色かはりて御渡らせ給へ
ば、御涙うくほどにぞ見えられける、女院御文をひ
らきて御覧ぜらるるに、妓爐煙なつかしくにほひて、
筆の跡なのめならず、いふによしありてかくぞかき
たりける、
ふみかへす谷の浮橋うき世ぞと
思ひしりてもぬるるそでかな W132 K195
つれなき御心も中々いま嬉しくなどかきたり、女院
仰のありけるは、是は逢はぬを恨みたる文にこそあ
れ、いかに思なるべき人にや、内々は殿上の交りを
もすさむと聞ゆる、当時太政入道の子孫どものなに
のともしさにか斯は思ふべき、左衛門佐とかやと風
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に聞しかど、こまかにはしらず、余りに人の心強き
も身の仇となりぬらめ、此世には親り青き鬼となり
て、身を徒らになし、獨なさけなき事にあたり、後の
世迄もさはりとなりて、世々に身をはなれぬとこそ
きけ、人をも身をも鬼となして何かはせん、繋念無
量劫とかやも罪深し、小野小町といひけるものは、
いろすがた人にすぐれ情もふかかりければ、見る人
聞く人心をいためぬはなかりけり、されどもその道
には心強き名をとりたりけるにや、人の思ひやうや
う積りて、はては風を防ぐ便もなく、雨をもらさぬわ
ざもなし、やどに雲らぬ月星を涙にやどして日をお
くり、人の惜むものをしゐてこひける悲しさ、野辺
の若菜をつみて命を継ぎけるに、青鬼のみ身をはな
れず、友となりて此世も後の世もよしなき事ぞとよ、
さてしもあらじ、終に人に見え給はんには、余り人々
のいはん事をばいかでかきき給はざるべき、唯思ひ
直りて人の心を休め給へ、此返事をばわがせんとて、

御硯引寄せ給て、
谷水の下にながれてまろきばし
ふみみての後ぞくやしかりける W133 K197
かくぞ遊ばして遣はさせ給ければ、小宰相殿力及び
給はず、終になびき給にけり、仙宮玉妃の天地をか
ねて契り深かりし心にや、ゆかしく潔き御心にて、
せいなる事のみ多かりける、よのつねの夫の思はぬ
を打歎きてくやしき事などこそあれ、これはもの思
ひ顔にて、雲の上宮中の御遊びにも物うく思ひ給け
るにや、やさしかりし習也、かくてなれそめ給ひて、
年ごろにもなり給にければ、互に御心ざし浅からず
思はれたりければ、ちち母したしき人々にもはなれ
ておはしましけるにや、越前三位のつかひ給ける宮
太滝口時貞といふ侍、走来て北の方に申けるは、三
位殿は湊川のしもにて佐々木四郎高綱が勢とて、七
騎が中に取籠られて討れさせ給ぬ、やがて討死をも
自害をも仕て、後世の御ともをも申すべきにて候つ
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れども、我いかにもなりなん後は命をすてずして、
かまへて御行衛みつぎ参らせよと、かねて仰おかれ
て候し程に、つれなく参りて候となくなく申ければ、
北の方是を聞き給て、討れ給ぬとは聞給へども、も
しやひが事もやと思て、二三日の旅に出たる人を待
つ御心地しておはしけるこそはかなけれ、さるほど
に空しき日数はかさなりて、四五日にもなりければ、
もしやのたのみもよわりはてて、いよいよ思ひぞま
さりける、めのと子なりける女房のただ一人付奉り
たりけるに、十三日の夜のうちふけて、人しづまての
ち、北の方なくなくのたまひけるは、あはれ此人の
あすうち出んとて、世中の心うき事どもいひつづけ
て、涙を流ししかば、いかにかくはいひ給らんと、
心さわぎして覚えしかども、必かかるべしとも思は
ざりしに、限りにてありける事よ、我いかにもなり
なん後、いかやうなるありさまにてあらんずらんと
思ふも心苦し、世中の習なれば、さてしもあらじ、

いかなる人にみえんずらんとそれも心うしなどいひ
し時、ただならぬ事をその夜はじめてしらせたりし
かば、よろこびて通盛すでに三十になりなんずるに、
子といふものなかりつるに、始て子を見んずる事の
嬉しさに、あはれ同くは男子にてあれかし、さるに
つきても斯いつとなき船の中、浪の上のすまゐなれ
ば、身々ともなり給はん時もいかがせんずらんと、
ただ今あらんずる事のやうに歎きし物を、はかなか
りけるかね事かな、軍はいつもの事なれば、それを
最期とは思はざりしに、六日の暁を限りと思はば、
後世とも契なまし、誠やらん女は身々となるは十に
九は死なれば、かくてはぢがましき目を見んよりも、
ともかくもならん、此世をしのびすぐしてながらへ
ても、心にまかせぬ世のならひなれば、ふしぎの事
にて思はぬ事もあるぞかし、さもあらば、草のかげ
にて見んもはづかしければ、この世にながらへても
なにかはせん、まどろめば夢に見え、さむれば面影
P600
に立ぞとよ、さればこのついでに底のみくづとも思
入て、しでの山三づの川とやらんをも同じ道にとの
み思ふが、そこにひとりとどまりゐて歎かん事もい
とをし、故郷に聞給て歎き給はん事こそ罪深けれど
も、思はざる外の事もあるぞかし、さもあらばわら
はが装束をばいかならん僧にもとらせて、我後世を
も亡き人のぼだいをもたすけ給へ、書置たる文ども
をば都へ届給へと、来し方行末の事迄も細々とかき
くどきの給ひければ、ひごろはなくより外の事なく
て、物をだにのたまはざりつるに、かやうにかきく
どき給ふこそあやしけれ、実にも千尋の底までも、思
入給はんずるやらんとむね打さわぎて申けるは、今
はいかに思召すともかひあるまじ、始てさわぎ思し
めすべきにも非ず、其上御身ひとりの御事にても候
はず、薩摩守殿、但馬守殿、若狭守殿、備中守殿の北
の方の御歎きいづれも愚ならず、されどもかたがた
御さまをかへて、後世をこそとぶらひ参らせ給へど

も、御身を投給人もおはしまさず、又同じ道にとは思
召すとも、生れかはらせ給ぬれば、六道四生の間に、
いかなるくにていかなる道へかおもむき給はんずら
ん、行合せ給はん事もありがたし、いづれにも平ら
かに身々とならせ給ひて、幼き人をもそだて、なき
人の御かたみとも見参らせ給へかし、猶それもあき
たらず思召さば、御さまをもかへさせ給ひて、いか
ならん片山寺にもとぢ籠らせ給て、静に念仏申させ
給て、故殿の御ぼだいをとぶらひまいらさせ、我御
身の後世をも助からせ給はんに、すぎたる御善根は
いかでか候べき、其上都に渡らせ給ふ人々の御事を
ば、誰に見ゆづり、いかにならせ給べきとて、かくは
思召たつにか、わらはも老たる親にも離れ、おさな
き子をもふりすてて、ただ一人つき奉るかひも候は
ず、かく憂目をみせんと思召すらんこそ口惜しけれ
など、かきくどきさまざま慰め申ければ、懐妊の身
となりては、死する事遠からずといふなれば、かや
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うにて浪の上にてあかしくらせば、思ひがけぬ浪風
にあひて、心ならず身を徒らになすためしもあるぞ
かし、たとへこのたびおもひのびたりとも、おさな
きものをそだてて見んをりをりは、昔の人のみ恋し
くて、思ひの数はまさるとも、忘るる時はよもあら
じ、今は中々みそめ見えそめし、雲の上の夜半の契さ
へくやしくて、かの源氏大将の朧月夜の内侍尚侍、
弘徽殿のほそ殿も、我身の上と覚ゆるぞとひそかに
の給ひければ、此四五日ははかばかしく湯水をだに
見入給はぬ人の、かやうにこまごまとのたまへば、
げにも思立給ふ事もやと、大方はげにさこそ思召す
らめなれば、いかならん海河の底へ入らせ給ふとも、
おくれまいらせ候まじきぞ、憂目見せさせ給ふなよ
と、涙もかきあへず申しければ、此事悟られてとぶら
はれなんずとや思しけん、これはその身の上に思ひ
なして、すいりやうしてごらんぜよ、わかれのみち
のかなしさは、大方の世のうらめしさに、身をなげ

ばやといふ事は、世の常の事ぞかし、さればとてげ
にはいかで思立つべき、又たまたま人界の生をうけ
たるものが、月日の光をだに見せずして失はん事、か
はゆくもあるぞかし、たとひいかなる事を思ひ立と
も、いかでそこにしらせではあるべき、心やすくお
もひ給へとの給て、三位殿筆にてかき給ひたるさご
ろもを取出して、あはれなる所々よみて、しのびしのび
に念仏申給ければ、げに思のべ給にこそと心やすく
覚えて、御側にありながら、ちとまどろみたりける
ひまに、やをら舷に立出給たれば、漫々たる海上な
れば月朧に霞渡りて、いづくを西とは分かねども、
月の入さの山のはを、そなたの空と思なし、たなご
ころを合せて念仏をぞ申給ける、心の中にも、さす
がにただいまこそ限りとは、都にはよもしられじ、
たよりもがな、かくとしらせんと思ひ乱れ給につけ
ても、沖のしらすに鳴く千鳥、とわたるふねのかぢ
ごたへ、かすかに聞ゆるゑいや声、いづれも哀也、さ
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て念仏百返計り申て、南無西方極楽世界、大慈大悲
阿弥陀如来、本願謬給はず浄土に導給て、あかで別
れしいもせの中、一蓮の縁となし給へとて、千尋の
底へ入給ぬ、一谷より屋島へ漕ぎもどる夜半計りの
事なれば、人皆寝入にけり、梶取一人見付奉りて、
こはいかに女房の海へ入給ぬと叫びければ、乳母の
女房うち驚きて、あは此人の沈み給ぬるよと、心う
くてかたはらを求むれども人もなし、あれやあれやと
さわぎあわてけれども、阿波の鳴門のしほざかひ、満
しほ引しほ早くして、船も心に任せねば、折しも月
は朧也、きぬも白し、浪も白かりければ、しらみあ
ひてしばしは見つくる事もなし、とかくしてかづき
あげ奉りけれども、はやなき人になり給にけり、白
き袴にねりぬきの二衣ひきまつひて、かみよくあげ
てしほしほとして、わづかにいきばかりすこしかよ
ひ給けれども、目も見あげ給はず、なでしこの露に
そぼちたるやうにて、死たる人なれども、ただね入り

たるやうにて、らうたくぞ見え給ける、乳母の女房
御手に手をとりくみて、御かほにかほをあはせて、
なくなく申けるは、子をも親をも振すてて、つき奉
る志をも知り給はず、いかにかく心うき目をば見せ
給ぞ、げにおぼしめしたらば、浪の底へもひきぐして
こそ入給はめ、かた時立はなれ奉らんとも思はぬ物
をや、今一度一ことばの給てきかせ給へとて、もだ
えけれども、なじかは一言葉の返事にも及ぶべき、
僅に通ひ給へる御いきも止まりてきれはてければ、
みる人袖をぞしぼりける、さる程に、朧にかすみた
る月かげも雲上にかたぶきて、かすめる空もあけに
ければ、さてしもあるべき事ならねば、故三位の着
背の一両残りたりけるに、浮もぞあがり給とて、おし
巻て又海へ入てけり、乳母女房おくれじととび入け
るを、人数多とりとどめければ、船の底にふしまろ
びてをめき叫ぶこと限なし、かなしみの余りに自ら
髪をきりおろして、門脇中納言御子律師忠快とてお
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はしけるが、戒をたもたせられけり、三位此女房の
十三の年より見そめ給ひて、ことしは十九にぞなら
れける、片時も離れ給はんとは思ひ給はざりけれど
も、大臣殿の御聟にておはしければ、そなた様の人
人には知られじとて、軍兵どもの乗たる船にやどし
置給て、時々げざんせられけり、三草山の仮屋にて
見参ありけるも此女房の御事也、中納言は頼みきり
給たりつる嫡子越前三位、又乙子の斜ならず悲がり
給つる大夫業盛も討れ給ひにければ、かたがた歎き
給ひけるに、此北の方さへかくなり給ぬる哀さに、
なきふしてぞおはしける、御心の中さこそは悲しか
りけめとおし量られていとをし、薩摩守但馬守の北
方もおはしけれども、なげきに沈みながらさてこそ
おはしましけれ、昔も今も夫におくるる人多けれど
も、さまなどかふるは世の常の事也、忽に身を投た
る事は例すくなくぞ覚ゆる、みる人きく人涙を流さ
ずといふ事はなし、されば忠臣は二君に仕へず、貞女

は両夫にまみえずといへり、誠なるかな此言、権亮
三位中将は此有さまを見給て、か様に一人あかしく
らすは慰む方もなけれども、かしこくも此者どもを
とどめてける、我も引具したりせばかかる事こそあ
らましかと、せめての事には思ひつづけ給ひけり、
七日、九郎義経一谷に押寄て、卯の刻に矢合して、
巳の刻に平家を攻落して、宗徒の人々の頸、同十日京
へ入と詈合たりければ、平家方の人々の京にのこり
とどまりたる肝心をまどはして、誰々なるらんと思
ひあひけるぞいとをしき、其中に権亮三位中将北
方、遍照寺の奥小倉山のふもと、大覚寺といふ寺に忍
びてすみ給けるが、風の吹日はけふもや此人船に乗
り給たるらんと心をけし、今日は軍と聞ゆる日は、此
人も討れやしぬらんと思ひつるに、さては此頸ども
の中にはよもはづれ給はじとおぼすにも、なくより
外の事ぞなき、三位中将といふ人生捕にせられての
ぼると聞ゆれば、幼きものどもの恋しさも忍びがた
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し、いかにもして此世にて相見んずらんと返々いひ
たりしかば、同じ都の中に入たらばなど思ひて、わざ
ととられて上るやらんとさへ、一方ならず思乱れて
ふし沈給へば、若君姫君も同枕に伏給へり、頸どもの
中にも御座まさず、三位中将と申は本三位中将の御
事也と、人慰め申けれども、猶誠とも思ひ給はず、
若君は父の御事にてはあらぬと申ぞ、御ゆづけまい
れ、われもくはんとおとなしくの給へば、それに付
けても哀にて、此たびはづれたりとも、終にはいか
が聞なんずらんと思へば、とけん心地もせぬぞとの
たまひければ、若君の心の内にも、げにもかと覚さ
れけん、またはらはらと泣き給へば、御前なる女房
達もなみだをぞながしける、
十三日、大夫判官仲頼以下検非違使六条河原に出会
ひて、平氏の首どもを武士の手より請取て、東洞院
の大路を北へ渡して、左の獄門の木にかく、越前三
位通盛、薩摩守忠度、但馬守経正、前武蔵守知章、

前備中守師盛、門脇中納言乙子業盛、修理大夫経
盛子息敦盛、此二人は未だ官おはしまさず、大夫と
ぞ申ける、越中前司盛俊が頸も渡されけり、鳳闕に跌
を蹈みし昔は、怖恐る輩多かりき、街衢に頸を渡さ
る今は、哀憐の者すくなし、愛楽忽変じぬ、これを見
ん人深く心得べきものかな、くびどもおのおの大路
を渡して後、獄門にかけらるべき由、範頼義経申さ
れければ、法皇思召し煩はせ給ひて、蔵人右衛門権
佐定長御使にて、太政大臣、左右大臣、内大臣、堀河
大納言等に召とはる、五人の公卿各々申されけるは、
先朝の御時此輩戚里の臣として、久しく朝家に仕て
候き、就中卿相の頸大路を渡して獄門に懸らるる事、
未だ其例をきかず、其上範頼義経が申状、強而不(レ)可
有許容と申されたりければ、渡さるまじきにてあ
りけるを、父の恥を清めんが為、君の仰を重くする
によて、命を惜まず合戦を仕て、申請所御免なくば、
自今以後何の勇みありて朝敵をば追討すべきと、よ
P605
しつね殊更申されければ、渡されてかけられにけり、
権亮三位中将の北方は、此度一谷にて平家残少く討
れ給ぬと聞給ひければ、何れも此人のがれじと思け
る余りに、斎藤五宗員をめして、おのれらは無官の
者にて、晴の供をもせざりしかば、人には見知られ
じと覚ゆるぞ、くびどもの渡されたる中に、此人の
首もあるかみて参れとの給ければ、承候ぬとてさま
をやつしてみれば、我主の頸はなけれども、事の有
さま目もあてられず、つつめども涙もれ出ければ、
人のあやしげにみるもおそろしくて、ほどなく帰参
りにけり、申けるは小松殿公達は、備中守殿計りぞ
渡らせ給候つる、其外は誰々と申ければ、北の方聞
給て、さればとて、少しも人の上とは思はぬぞと泣給
ければ、斎藤五申けるは、雑色と覚しくて、男四五人
物見候つるかげにてみつれば、それ等がどしに申候
つるは、小松殿の公達は今度三草山を固めておはし
けるが、一谷に落ければ、新三位中将殿二所船にの

りて讃岐の地へつき給にけり、此備中守殿は、いかに
して兄弟の御中をはなれて、討れ給ひけんと申つる時
に、さては権亮三位中将殿は、其殿は軍以前に御所
労とて、御船にて、淡路の地へ着給にけりとこそ承れ
と、申つると申ければ、あな心強の人や、所労あらば
かうこそとなどかつげざるべき、軍にあはぬ程の所
労なれば大事にこそあらめ、思ふ嘆きの積りにや、病
のつきにけるこそ、都を出しより我身の佗しきとい
ふ事は一度もいはず、ただ幼き物どもこそ心うけれ、
終に一所にこそすまんずれとのみなぐさめしかば、
左こそ頼たるに、さては身のわづらひけるこそ皆人
もぐすればこそぐしたるらめ、野のすゑやまのおく
までも引具して一所にあらば、たがひに心苦しき事
も慰むべきに、何となく海山をへだてて、折にした
がひ事にふれて、音をのみなく悲しさよとてなげき
給へば、いかなる御やまひぞとこそとはましかと、
若君の給ひけるぞいとをしけれ、いかで問候べき、
P606
いとどあやしげに人の見候間、まぎれてこそ帰り参
りて候へとぞ申ける、いかがして人をもつかはして、
慥に御行衛を聞かましと思召けれども、誰して遣す
べしともなく、かきくらす心地して又涙もかきあへ
給はず、中将もかよふ心なれば、都にいかに覚束な
くおぼすらん、くびどもの中にもなければ、水のそ
こにも入にけるとこそ思ふらめ、風の便もあらば、
忍びて住所を人にみせんもさすがなれば、うとから
ぬ思ひにこそ、一くだりの文をもつかはさめと思召
して、隔てなくおもはれける侍を一人、ひそかに出
立たせてぞ上せられける、今日までは露の命もきえ
やらず、おさなき人々何事かあるらんなど、こまごま
にかき給て、おくにかくぞ、
いづくともしらぬ渚のもしほ草
かきおくあとをかたみとは見よ W134 K198
と書給へり、心の中には思給ふ事どもあれば、これ
ばかりにてか有んずらんと思しけるに、涙にくれて

つづけ給はざりけれども、世になき者となりなば、か
たみにもせよかしとて、若君の御方へも御文奉り給
ふ、はるかに久しく見奉らずして、恋しさ云ばかり
なし、いかにおとなしく見忘るる程になりぬらん、
いそぎ迎へとりてあらせんずるぞ、心細くな覚しそ
など、頼もしげに細々と書つけ給も、ついにいかに
ききなして、いかばかりの事をおもはんずらんとお
ぼすぞかなしき、
平家物語巻第十六終