平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十七

P607
平家物語巻第十七(原本無題)
二月十四日、本三位中将重衡卿を六条を東へ渡す、
上下万人是を見る、いかなる罪の報いにや、あはれ
此人は、入道殿にも二位殿にも覚えの子にておはせ
しかば、一家の公達も重き人に思はれ給しものを、
院へも内へも参り給ひぬれば、老たるも若きもとこ
ろをおき詞をかけ奉りき、口をかしき事などいひ置
たまひて、人にしのばれ給ひしものを、南都をほろ
ぼし給ひぬる罪のむくいにやとぞ申合ひける、さて
河原まで渡して、蔵人右衛門の権の佐定長、法皇の仰
を蒙りて、故中の御門の中納言家成卿の八条堀川の
うらにて、重衡を召し問はる、土肥次郎実平、同し
やして来れり、土肥はもくらんぢの直垂に肌にはら
まきして、郎等三十人ばかり鎧着せて具したり、三
位中将はこむらごの直垂にねりぎぬの二小袖を着給

へり、蔵人右衛門権佐は、赤衣に笏をもたれたり、
昔はかくは覚えざりしさだながを、今は冥途にてめ
うくわん[* 「めうくわん」に「冥官」と振り漢字]にあへる罪人の心地も、かくや有らんと恐
しくぞ思はれける、院宣の趣条々おふせふくむ、せ
んずる所内侍所を都へ返し入奉らば、西国へ返しつ
かはすべしとぞありける、重衡申されけるは、今はか
かる身にまかりなりて候へば、親しき者どもに面を
合すべし共覚え候はず、又今一度見んと思ふ者候ま
じ、母にても候へば、もし二位の尼などやむざんとも
思ひ候らん、其外の者は情をかくべき者なるべしと
も覚え候はず、三種の宝物は神代より伝りて、人皇
の今に至る迄、暫くも帝王の御身を放ちたる事候は
ず、先帝ともに都へいらせおはしまし候はば、尤然
るべく候、さ候はざらんには、内侍所計り入奉る事
はあるべしとも覚え候はず、さりながら仰せ下さる
る旨忝く候へば、もしやと私の使にて申心見候べし、
前の右衛門の尉重国を下し遣すべき由申さるる、此
P608
重国は重衡の重代相伝の家人也、平家の人々いづれ
もといひながら、此三位中将は殊に誇り勇みたりし
人の、なのみならず心うげに思ひて目も見あげず、
涙のみ流して御返事も申もやらず、蔵人の佐も岩木
ならねば、赤衣の袖をぞぬらしける、十五日重衡卿
の御使、右衛門尉重国院宣をたいして、西国へ下る、
彼院宣云、
一人聖帝出北闕九禁之台而遷幸九州、三種神器、
於南海西海之境、而経御数年事、尤朝家之御歎、
又亡国之基也、彼重衡卿者焼失東大寺逆臣也、
任頼朝申請之旨、雖須被行死罪、独別親類
已為生虜、恋籠鳥雲之思、遙浮千里之南海、
失帰雁友之情、定通于九重之途中歟、然則奉
帰入三種之神器者、可被寛宥彼卿也、院宣
如斯、仍執達如件、
元暦元年二月十四日 大膳大夫江業忠奉
平大納言どのへとぞかかれたりける、三位中将も、内

大臣ならびに平大納言の許へ、院宣の趣を申給ふ、
二位殿へは御文こまごまとかきて奉り給へり、今一
度御覧ぜんとおぼされば、内侍所の事を大臣殿へよ
くよく申させ給へ、さなくては此世にて見参に入べ
しとも覚え候はずなどぞありける、北のかた大納言
典侍殿へも、御文奉りたく思はれけれども、私の文
はゆるされねば、詞に此六日を必限るとも思はず、
申うけ給し事のはかなさよ、頼もしき人もなうて、
いつとなく旅の空にあかし暮し給ふこそ心ぐるしけ
れ、心の中も身の有様もおしはかり給ふべしと、の
給ひもあへず涙にむせびたまへば、しげくにも涙を
流しけり、預り守り奉る武士も袖をぞぬらしける、
十三日に猶重衡を召とはる、重衡の卿年頃召仕ひけ
る侍に、むくの右馬允朝時と云者ありけり、土肥の
次郎が許に行むかひて申けるは、是は三位中将殿に、
年頃召仕はれ候し杢の右馬允と申者にて候が、さし
たる弓矢とる者にも候はねば、軍の御供をも仕り候
P609
はず、ただはぎのこうばかりをつかまつり候き、西
国へも御供仕るべく候しかども、八条院に見参の身
にて候しが、上つ方にはかねて知し召されて候ける
間、召し置れて候しかば、西国への御とも仕候はず、
昨日大路にて見参らせ候し事のあはれに悲しく覚え
候、然るべく候はば御ゆるしを蒙りて近く参りて、
今一度さいごの見参に罷り入候はばや、腰刀をもさ
して候はばこそ僻事も仕候はめと、なくなく申けれ
ば、実にもさよと思ひ給ふらめ、入奉りたりとて、
守護の武士余多あり、いかばかりの事をかし給ふべ
きとてゆるしてけり、さて朝時参りたりければ、中
将悦で昔今の物語などして、互に涙をぞ流されける、
中将のたまひけるは、抑汝をして文やりし人はいま
だだいりにかとのたまひければ、朝時さこそ承候へ
と申ければ、都を出し時も、汝がなかりし時に文を
も書置ず、物をもいひ置ざりしかば、年頃契りしこ
とは、皆偽にてありけりと思ふらんこそはづかしけ

れ、文をもやらばやと思ふはいかにとありければ、
安き御事にこそ候なれ、遊ばし候へとて、やがてか
きたりければ、懐中して出けるを、守護の武士いか
なる御文にてかあるならんとあやしみ申ければ、さ
らば見せよとてみせらる、誠に女房への御文と覚え
て、べちの御事なかりけりとて許しければ、朝時も
ちて内裏へ参りたりけれども、ひるは人目しげけれ
ば、近き程なる小家に立入て、たそがれ時計りにま
ぎれ入て、つぼねのへんにたたずみて聞ば、かの女房
の御声と覚えて、人にもすぐれて世のおぼえもあり
き、見め心地もきらきらしかりければ、なさけをか
けぬ人もなかりしに、人しもこそあれ、などや中将の
いけどられて都の大路をば渡さるらん、人は皆奈良
をやきたるつみのむくいといふなる、げにさやらん
とおぼゆる、此事中将さこそいひしか、我心におこ
らず、やけともいはず、されどもあまたのせいの中な
れば、心ならず火を出したれば、多くのがらんほろ
P610
び給ひぬ、末の露本の雫となるなれば、誠に我罪に
社ならんずらめといはれしが、げにさと覚ゆるとて
さめざめとなき給へば、あらいとをし、おなじ御こ
ころに思給へるあはれさよとおぼえて、物申さんと
うちたたけば、女房出でていづくよりと問ふ、三位
中将殿よりと申せば、女房うちより走りいで給ひた
りければ、御文奉りにけり、昔は恥ぢて出給はざり
けるが、余りのうれしさにや、みづからはしりいで
給ひたりけるこそあはれなれ、女房いそぎうちへ入
て文を見給へば、いかならん野山の末海河の底迄も、
かひなき命だにもあらば、申事も有なんとこそ思ひ
しに、そも叶はで生ながら捕れて、かく恥をさらす事
の心うさよ、是も此世ひとつの事にてあらじと思へ
ば、人をも身をも恨むべからず、此世に有ん事もけ
ふあすばかり、いかがして人づてならで今一度申う
け給るべきなど、哀なる事どもしほしほと書給ひて、
涙川うきなを流す身なれども

今一たびのあふせともがな W135 K199
此女房此文を見給ひて、涙にむせびて引かづきて伏
給へり、良久しく有りて起上りて、使者いつとなく
居待たるも心なければとて、御返事書き給てつかは
さる、誠にいづくの浦にもおはしまさば、みづから
申さん事こそかたくとも、露の命だにもきえやらで
あらば、風の便にはなどかとこそ思ひつるに、さては
けふを限りにておはすらん事こそかなしけれ、さも
あらば我身とてもながらへん事もありがたし、いか
にもして今一度みづから申べきなどと書給ひて、
君ゆゑに我もうき名を流せども
底のみくづとともになりなん W136 K200
中将是を見給ひて、二三日は慰む心地し給ひけり、
中将、土肥次郎に仰のありけるは、一日の文ぬしを
よびて見ばやと思ふはいかに、叶はじやとの給ひけ
れば、実にも女房にて渡らせ給はんには、何か苦しく
候べきと申せば、中将悦び給ひて、又朝時を召して乗
P611
物をからせられけるに、車をかり出したりければ、
やがて内裏の局へ参らせらる、女房おそろしくは思
はれけれども、心ざしをしるべにて急ぎ出給ひたり
ければ、中将のおはする方へ朝時車をさしよする、
中将出迎ひて、なおりさせ給ひそ、武士の見るが恥か
しきにとて、我身はあらはにて、車の簾ばかりを打
ちかづきて、互に目を見合せて、手を取組み、涙に
むせびて言葉もいだされず、良久しく有て中将の給
ひけるは、西国へ赴きし時も朝時がなかりしかば、
思ひながら何事も申さず、軍合戦の日も、けふ矢にあ
たりて死なば、又もおとづれ申さで、年比日比ちぎ
りし事ども皆空しき事にやならんずらんと思ひつる
に、生ながら捕れて大路を渡されし事は、人に二た
び見参すべき事にて侍つるものをといひもあへず、
涙流れければ、女房諸ともに涙せきあへ給はず、互
に言葉も出されざりける、此頃は夜ふけぬれば大路
の狼藉あんなるに、しづまらぬ先にとくとく帰らせ

給へ、後生には必ず一蓮のみとならん、さて軍をさ
し出さんとするに、袖をひかへて中将、
あふことも露の命も諸ともに
今夜ばかりと思ふかなしさ W137 K201
とありければ、かぎりとて立ち別れなば露の身の
君よりさきにきえぬべきかな W138 K202
とて立別れ給ひぬ、是にましまさんほどは、常によ
とありけれども、其後は武士ゆるし奉らねば、朝時
常に文ばかりはかよひけれども、逢見奉らず、女房
局へ帰り給ひて、引かづきてふし沈み給ひたれば、女
房達も実にことわりかなとて、皆袖を顔に当てて泣
給へり、其後は内裏へも参り給はず、常は御里にの
みぞおはしける、せめての事とおぼえて哀なり、
中将、土肥次郎に宣ひけるは、出家の志あり、かく
てあるも然るべからず、出家の志はいかにと宣ひけ
れば、実平、御曹司にこそ申候はめとて、九郎殿に申、
P612
義経、院へ申されたりければ、頼朝がはからひにこそ
法師にもなさめ、是にてはいかでか許すべきと仰あ
りければ、実平このよしを中将に申、中将又のたま
ひけるは、年頃頼み奉りし僧に今一度逢ひて、後生の
事を申談ぜんと思ふはいかにとありければ、上人を
ば誰と申候やらん、法然房と申人也とのたまへば、
さてはくるしく候まじとてゆるし申、嬉しと覚して
上人を請じ奉りて、中将泣々の給ひけるは、今度生
ながら捕れて候けるは、今一度上人の見参にまかり
入べきにて候けり、南都を亡し候し事重衡が所行と
人も申候、上人もさこそ思召され候らめ、其事努々
重衡が心を起して焼たる事候はず、大勢にて候へば、
いかにとして候けん、火出来しかば、折節風はげし
くて、心ならず多くの伽藍、仏像、経殿焼けほろび候
ぬ、責一人にきすと申候へば、重衡が下知にあらね
ども、さながら我罪にこそなるらめ、されば無間大
じやうの底に落ちて、ながく出離の期あらじとこそ

存候つるに、今日生ながら捕れて大路を渡され候ぬ
れば、無間の業生ながら報い候ぬとこそ存候へ、其
上皆人のしやうじん[* 「しやうじん」に「生身」と振り漢字]の如来と仰奉る上人のおんがん
を拝し候ぬれば、今は思ひ置く事候はず、出家はゆ
るされなければ、もとどりを付ながら戒を請け参ら
さばやと存候、さて重衡が後生いかがし候べき、身
の身にて候し時は、出仕にまぎれ世の望にほだされ
て、けうまんの心のみ深くして、当来のしやうじん
をかへり見ず、いはんや運尽き世乱てより後は、是
にあらそひ彼に争ふ、人をほろぼし身を助けんとい
となみ、悪心のみさへぎりて、善心はかつて起らざ
りき、就中南都炎上の事、王命といひ父の命といひ、
君に仕へ代に従ふ法のがれがたくして、衆徒の悪行
をしづめんがためにまかりむかひて候き、いかにし
て一こうも助かるべしとも覚え候はぬこそ心うく候
へ、つらつら一生のしよぎやうを思ひしり候に、罪
業は須弥よりも高く、善業は微塵よりもすくなし、
P613
かくして空しく命をはりなば、火穴刀の苦、はたし
あへで疑ひなし、願くは慈悲をおこし憐みを垂給ひ
て、かかる悪人を助りぬべき方法候はば、示し給へ、
其時上人涙を流して、しばしは物ものたまはず、良
久しく有て、誠にうけがたき人身を受けながら、空
しく三途に今おはしまさん事、悲しみても猶余りあ
り、然れば今穢土をいとひ浄土を願ひ、悪心を捨て
善心を起し給ふ事は、三世の諸仏も定てずゐきし給
ふべし、それしゆつりの道まちまちなりといへども、
末法ぢよくらむ[* 「ぢよくらむ」に「濁乱」と振り漢字]の機には、称名をもてすぐれたりと
す、志を九品にわけ、愚癡闇鈍のものもとなふるに
たよりあり、然れば則ち罪深ければとてひげし給ふ
べからず、十悪五逆も回向すれば往生す、功徳すく
なければとて望をたち給ふべからず、一念十念をい
たせば来かうす、専称名号至心西方と釈して、もは
ら名号を称すれば、ざんげするなりと教へ給へり、
利剱即是弥陀号と頼めば魔縁もちかつかず、一声称

念罪皆除としんずれば、罪皆のぞかるとみえたり、
浄土宗の至極各々畧を存して、大略是を肝心とす、但
し往生のとくふ[* 「とくふ」に「得否」と振り漢字]は、信心の有無によるべし、ただ深
心にして努々疑ひをなすことなかれといへり、もし
深くこの教をしんじて、行住座臥、時所諸縁をきら
はず、三業四儀に於て心念くせうをわすれずして、
畢命を期として、この苦域の界をいでて、彼の不退
の土に往生し給はん事、何の疑ひか有んと教化し給
ひければ、中将うれしと思ひて、ずゐきの涙を流し
て、此ついでに戒を受候ばやと存候、出家仕候はで
は、かなひ候はじやとのたまひければ、出家せぬ人も
戒を保つ事常の事なりとて、いただきにかみそりを
あててそるまねして、十戒をさづけられければ、中将
悦で是を受け奉り保たれけり、上人よろづに哀に覚
えて、かきくらす心地し給ひければ、泣々戒をぞと
かれける、御布施と覚しくて、年頃常にありてあそび
給ひける侍の許に、何としてか取落されたりけん、
P614
草紙箱をとり寄せて上人に奉り給ふ時、是は常に御
目のかかり候はん所に置れ候て、それが物ぞかしと
御覧ざられ候はん度ごとに思し出して、いつも御念
仏は怠り候はねど、其故と思召しきざして念仏候べ
し、御ひまには経をも一巻御回向候はば、然るべく
候など申されければ、上人ふところに入て泣々帰り
給ひにけり、十八日、在々所々の武士狼藉をとどむ
べきよし、蔵人右衛門の権の佐定長、院宣をうけ給
りて頭の右中弁光政の朝臣におほす、廿二日、諸国
兵粮米のせめをとどむべきよし、又蔵人佐、頭弁に
仰す、
重国西国へ下着し、院宣を平家につげ奉り、并に重
衡卿のの給ひける様を、さきの内大臣に申ければ、
時忠の卿を初として一門の月卿雲客、寄合て勅答の
趣を僉議せらる、重国、三位中将の御文二位殿に奉た
りければ、二位どのさめざめと泣きて、文を顔におし
当てて、人々の並居られたる所の障子を明けて、内

大臣の前にたふれふして、泣々のたまひけるは、三
位中将が京よりたびたる文御覧ぜよ、かきつづけた
ることのむざんさよ、実にも心の中にいか計りの事
をか思ひたるらん、唯あまりに思ひゆるして、内侍
所を都へ返し入奉り給へとのたまひければ、人々浅
ましと思ひあひ給へり、内大臣のたまひけるは、誠
に宗盛もさこそ存候へども、さすが世の聞えもいひ
がひなく候、かつは頼朝が思はん事もはづかしく候
へば、左右なく内侍所を返し入参らせん事も叶ひ候
まじく候、帝王の世をたもたせ給ふ事は、内侍所の
御故也、子のかなしきも様にこそより候へ、三位中
将一人に、数多の子共をも親しき人々にも、思召しか
へさせ給ひなんやとのたまひければ、二位殿又のた
まひけるは、故入道におくれて後は、片時も命生て
有るべしとも思はざりしかども、主上かくていつと
なく旅立せ給へる心ぐるしさと、又君たちをも世に
あらせばやと思心ざしの深きにこそ、けふまで存へ
P615
てもありつれ、中将は一谷にて生捕にせられぬと聞
しより、気もたましひも身にそはず、いかにして此
世にて今一度逢見べきと思へども、夢にだにもみえ
ねば、いとど胸せきあげて湯水をも咽へ入らず、此
文をみて後は弥々おもひやる方なし、中将世になしと
聞かば、我も同じ道にきえむずれば、二度ものを思
はぬ先に、ただ尼を失ひ給へとをめきさけばれけれ
ば、実にもさこそ思はるらめと覚えて、人々涙をお
さへて立給ひぬ、さて重国を召して時忠卿院宣の受
文をたぶ、二位殿は泣々中将の返事をぞ書給ひける、
涙にくれて筆のたてども覚え給はねども、心ざしを
しるべにて、こまごまと書き給ひて重国に給てけり、
北の方大納言典侍殿は、唯泣より外の事なくて、つ
やつや返事もし給はず、さこそ思ひ給ふらめと推は
かられていとをし、重国も狩衣の袂をしぼり涙を押
へて立にけり、廿七日帰参して、前内大臣の申され
ける院宣の御受文を、蔵人右衛門権の佐定長の宿所

へ参りて奉りければ、定長の朝臣院へ参りて奏聞す、
今月十四日院宣、同廿四日到来讃岐国屋島磯、謹
以承所如件、就之案之、通盛以下当家数輩、於摂
津州一谷已被誅畢、何重衡一人可悦寛宥之院
宣哉、我君者、受御高倉院御譲、而御在位已四箇
年、雖無御患、東夷北狄結党成群入洛之間、
且幼帝母后之御情殊深、且依不浅外舅外家之
志、暫雖有遷幸西国、於無還幸旧都者、三
種之神器、争可被離玉体哉、夫臣者以君為体、
君者以臣為体、君安又臣安、君上愁臣下労、臣内
不楽帝外無悦、爰平将軍貞盛、追討朝敵誅臣、
伝代々世々、奉守禁闕朝家、然間亡、父太政大臣、
保元平治之合戦之時、重勅命而軽愚命畢、是
偏奉為君非為身、而不顧身命、就中彼頼朝
者、父義朝謀叛之時、頻可討罰之由、雖被(二)仰下(一)
故相国禅門、以慈悲憐愍余、所申宥流罪也、
忘昔之高恩、不顧今芳志、忽以流人之身、濫連
P616
凶徒之列、愚意之至、思慮之儲也、尤招神兵、天罰
期廃跡沈滅者歟、日月未堕地照天下、其明王
者為一人不枉其法、以一失猜不蔽其徳、
若不忘思食亡父数度之奉公、君早可有御幸
西国也、然者為始四国九国、都西国之輩、如雲
集如雨通、靡異賊事不(レ)可有疑焉、其時奉
相具主上帯三種神器、可奉成行幸之還御、若
不雪会稽之恥者、人王八十一代之御宇、牽浪随
風、可零行御新羅高麗百済鶏旦、終可成異国
之財歟、以此等趣、可然之様可令奏聞給、宗
盛謹言、
元暦元年二月廿八日 前内大臣宗盛
とぞかかれたりける、かかりければ、平家帰京其期
を知らず、西国にも安堵しがたくして、既にほろび
なんとす、公家より兵衛佐の許へ仰遣はさるる事、
平家所知之事
一文書紛失并義仲行家等給事

右子細被書載目録畢、
一庄領惣数之事
各被一族知行庄領、数百箇所之由、世間風聞、而
院宮并摂録家庄園、或芳恩有之、或所従等、致
慇懃輩預之、如(レ)此所々全非御進止、皆是本所
左右也、仍注入惣数許也、又院御領庄々等、近
年逆乱之間、有限相伝預所本主等、依令愁歎、
少々返給之除之、或又損亡事、非無由緒、
少々沙汰給也、
一諸国家領等事
右文書紛失之間、暗不注付、且大概此中歟、
一東国領之事
右有御存知之旨、被残畢、他国々未補、又
以同前也、於今者可令領知給、縦非平家知
行之地、東国御領山田庄以下便宜之御領、随令
申請、可成給御下文、於御年貢者、可令
進済給歟、以前条々仰旨如(レ)此、執達如件、
P617
三月七日 前大蔵卿奉
前兵衛佐殿
とぞ仰下されける、
三月二日、本三位中将重衡、土肥の次郎実平が許より
九郎義経の許へ渡す、三位中将を土肥次郎が守護し
ける事は、梶原は大手蒲冠者の方の侍大将也、九郎
申されけるは、義経が上の山より落さずば、東西の
木戸口破れがたし、生捕も死捕も義経が見参に入て
こそ、とも角もはからふべきに、物の用にも叶ひ給
はぬ蒲殿の見参に入るこそ心得ね、三位中将是へ渡
し給へ、給はらずば参りて給はらんとの給ひければ、
土肥梶原にいひ合せて土肥が許へ渡しければ、其後
預りにけり、置申すべき処家の後に作りてまたれけ
り、巳の刻計りに下すだれかけたる女房車にて、庭
の内にやり入たり、武士ども実平を始として三十騎
ばかりあり、九郎義経は木蘭地の直垂に下腹まき着
て、妻戸よりおり迎ひて、門させと下知せられぬ、

中将手づから簾を巻あげて居られたり、九郎袖かき
合せて御うらなし参らせよと、あなおびただしの雑
人哉と申て、中将を先にたてて供し奉て入る、中将
は白き直垂をぞ着給ひたりける、九郎申けるは、内へ
入せ給ひて御装束ぬがせ給ひて御休息あれと申て、
四壷所を清げに拵へたり、中将内へ入られたり、九郎
は縁に候て申されけるは、哀口をしく渡らせ給ふ御
命かな、いかなる事をかおぼすらん、御心中推はか
り参らせ候、鎌倉兵衛佐の許より、下し参らせよ見
参せんと申候、いかが御はからひ候と申ければ、中
将は扇をつかひていかにもとぞ有ける、夜は一間な
る所に籠奉りて、外よりかけがねをかけて、火をと
もして武士守り申けり、七日板垣三郎兼信、土肥
次郎実平、平家追討の為に西国へ下向す、十日、重衡
をば兵衛佐申請られければ、関東へ下し申す、中将
もいづれの日やらんと不審に思召して、守護の武士
に問はれけれども、しらぬ由を申ける、とかくいふ
P618
程に夜もほのぼのとあけける時、夏毛のむかばきに
二毛なる馬に乗せ参らせて、白布をよりて鞍に引廻
して、外より見えぬ様にまへわにからめ付けて、竹笠
のいとしなきをぞ着せたりける、あゆずりの直垂着
たる男に馬の口をとらせ、先陣三十騎ばかりうちて、
次に又三十騎計りうちたる中に、打ぐせられたりけ
れば、よそには何とも見わかず、梶原平三景時を始
として、後陣は百騎ばかり也、東路へおもむかるる
心の中いかばかりなりけむ、先立ものは唯涙ばかり
也、日数もふれば、三月半すぎて、春も既に暮なん
とす、遠山の花は残の雪かと見えて、浦々もかすめ
り、こし方行末の事さまざまに思ひつづけても、さ
ればこはいかなる前世のしゆくしうのうたてさよと
おぼすぞかなしき、御子の一人もなき事をなげきし
かば、二位殿も北の方も、本意なき事に思ひ給ひて、
仏神に申されしものを、哀かしこくぞ子のなかりけ
る、あらましかばいかに心ぐるしからましと、それ

さへおぼすぞせめての事と覚えてあはれなり、頃は
三月十日あまりの事なれば、霞に曇る鏡山、比良の
高根を北にして、伊吹が嶽にも近付きぬ、心をとむ
るとしもなけれども、あれて中々にやさしきは、不
破の関屋の板びさし、いかに鳴海の汐干潟、神は涙
にしほれつつ、彼在原の業平が、きつつなれにしと
詠めけん、三河の国の八はしにも着給へば、蜘手に
ものをぞ思はれける、浜名の橋をも過行ば、又越べ
しとも覚えねば、さよの中山あはれなり、つたやか
へでの生茂る、宇津の山べの蔦の道、清見が関をも
過ぬれば、富士の裾べにもなりにけり、左には松山
ががとそびえて、松吹く風もさくさくたり、右には
海上漫々として、岸打浪もれきれきたり、恋せばや
せぬべし、恋せずも有ぬべしと、うたひ始め給ひし
足柄の関も過ぬれば、こよろぎのいそ相模川、八松
やとがみ河原、みこしが崎をも打過て、鎌倉へも下
り着給ひにけり、廿八日大ばと云所に未の刻ばかり
P619
に着きて、そこにて立烏帽子に浄衣を着せ参らせて、
静に下し奉る、是より鎌倉へは一里といひ合ひけり、
常の道より人しげし、中将何となくむなさわぎして
ぞおはしける、さてほどなくかくと申入たりければ、
門外にて粧あり、左右の御手をむねの内に納め参ら
せてけり、門はしら二本ばかりにて、棟もあげず、
扉もたてず、大垣も跡ばかりみえてくわうくわうとあ
り、内を見入れば、南面に三間四面に新しき板ぶき
のしん殿に、すだれかけたり、東舎東のまへに、五
間四面の板屋あり、梶原平三先達ちて中将を入らる、
板やの内西の庄には小紋の畳三畳敷きて、東座には
紫べりの畳五畳敷きたり、中将西の座の畳に東向に
居らる、景時は北より第二けんのえんに居たり、み
る人数を知らず、暫くありて新殿の母屋の西の間の
左のみすを一枚、僧の浄衣着たるが出来て巻上げて、
僧は北の間の縁に居たり、兵衛佐は渋塗の烏帽子に、
白小袖に長絹の直垂に袴着て、空色の扇の月出した

る持ちて、母屋の間の東の柱のもとにさし出られた
り、中将をつくづくとまぼりて、良久しくありて、
兵衛佐のたまひけるは、父の恥を清め、君の御憤り
を休め奉らんと思ひたりし上は、平家を亡し奉らん
事案の内に候き、よろづは唯天道を仰ぎまいらせて
候に、近きげんざんにこそ身にとり候て高名と存候
へ、一ぢやうかたへの公達にも見参に入ぬと覚え候、
抑南都を焼給し事は、太政入道殿の仰にて候しか、
また時にのぞめる御計らひにて候けるか、以外罪
業にてこそ候へとのたまひければ、中将是を聞れて
涙を袂にのごひて、目のふち少しあかみての給ひけ
るは、昔より源平両家朝家の御守にて、帝皇の宮仕を
仕り、近頃源氏の運傾き候し事、ことあたらしく始
めて申すべきに非ず、人皆知る事にて候、其げんし
やうを始めとして、平家世中を平ぐる間、一天の君
の御外戚として、一族の昇進八十余人、廿余年のこの
かた楽みさかえ申ばかりなし、今又運尽きぬれば、
P620
重衡めし人にて参る、此くわんしやう[* 「くわんしやう」に「勧賞」と振り漢字]にいたらせ給
はん事疑なし、夫れ帝皇の御敵を討たる者は、七代
迄朝恩失はずといふはひがことにて候けり、故入道
は法皇の御為には申せばおろか也、御命にかはり奉
る事も度々也、され共わづかに其身一代の幸にて、
後にはかばねを山野にさらし、名を西海に流すべし
とこそ存ぜず候しか、是まで参るべしとは曾て思は
ざりき、ただ先世の宿業こそ口惜く候へ、但殷は夏
台に捕はれ文王は〓里に捕はるるといふ文あり、上
古なほかくの如し、況や末世をや、弓矢とる習、敵の
為に捕はれて命を失ふ事全く恥に非ず、御芳恩には
急ぎ急ぎ首を召さるべしとぞのたまひける、兵衛佐
又平家を私の敵と思ひ奉る事努々候はず、帝皇の仰
こそ忝候へとぞのたまひける、中将又宣ひけるは、
事新しく平家は公私の敵を、かたきならずとあるべ
しとも存ぜずとの給ひければ、是を聞て人々涙を流
す、世の人も此中将殿は、いたいけしたる口ききか

なとぞ誉ける、さて兵衛佐、宗茂これへと有ければ、
えむなる僧是を召つぐ、東のえんより白き直垂着た
る男の、年四十計りにもやあるらんと覚しきが出来
て、兵衛佐の前にえんをおさへて、腰を屈めて立て
り、兵衛佐のたまひけるは、あの三位中将殿預り参
らせて、よくよくもてなしいたはり奉れ、懈怠をし
て我を恨むなとのたまひて、手づからみすを引おろ
して立れけり、むねもちもとの侍にかへりて、とも
のものどもにいひ合せて、新殿の前にこしうやまふ
様して、西の屋のえんなる景時とささやき事して、
さらば今は出させ給へと申ければ、中将立出らる、
景時は門よりいとま申て止りぬ、むねもちが郎じう
三十人ばかりひしひしと来て、鹿毛なる馬にかき乗
せ奉て、打こみて行ぬ、めいどにて罪人を七日々々
に獄卒の手へ渡すらんもかくこそあるらめ、又いか
なる情なき者にてか有るらんと、いとど心細くぞ思
はれける、廿九日狩野介むねもちがさたにて、新し
P621
き湯ぶね構へて、三位中将に湯あみせ奉らんとす、有
がたくぞ思はる、中々道すがらよりも是にてはいた
く厳しからずして、守護の武士も近く参らず、夜は
えんに、ひるは庭にあり、さればとてにげさるにも
非ず、門外道つじまでもさこそ囲むらんとおしはか
らる、此日ごろあせくらはしくありつるにとて、嬉
しくぞ思召されける、又一つには身を清めて、とも
かくもせんとにや、心むなばしりて思はれける所に、
色白く清げに髪のかかりなどさる様なる女の、いふ
によし有るが、齢ひ廿六七にやと覚しきが、三めゆ
ひの帷子に白き裳着て、袷の小袖打かづきたるが来
て、湯屋の妻戸を細目にあけて、御身あかに参り候
はんと申ければ、中将こはいかにとあきれ給ひて、
これは誰ぞと有りければ、女申、兵衛佐殿より参ら
せられて候、男も童部も人こそ数多候へども、こつ
なく思召されん事も候、女はくるしかるまじ、何事
なりとも仰承れとてなん参りて候と申ければ、むね

もちかなへ殿よりして、何事をか事ながく申さるる
ぞ、とくとく御あかに参れよといへば、女内へ入ぬ、
また年十三四ばかりなる女童の紫の小袖着て、髪は
おびし程成が、かなもの打ちたる盥に櫛二入て来り、
先の女あかに参りぬ、かみを洗ひて良久しくあみて
あがらせ給ひぬ、其後此二人の女湯あみて、中将の
前に来りて、何事にて候とも、思召さん事こまかに仰
候へ、兵衛佐殿には申べしと申ければ、何事をか申
すべし、唯思ふ事とては、此髪をそらばやとぞ申た
きとあり、あすほど首きられんずるよと心えて、し
のびしのび念仏をぞ申されける、かの女帰て、中将のの
たまひけるやうをかたりければ、佐これを聞給ひて、
是こそ心得られね、私の敵にて取籠参らせたらば、
さも計らふべきに、是は朝の御敵として預り参らせ
たるぞかし、返々もあるべくもなしとぞ申されける、
折しも此夕雨少し降りて物さびしかりけるに、昼の
女来て仰のやう申て候へば、兵衛佐の仰しかじかと
P622
申ければ、中将打うなづきてものものたまはず、さ
るほどに日も暮にければ、上燈参らせたり、むねも
ち参りたり、郎じう十余人あり、中将宵より伏され
たる所に、此女琵琶を持て来りければ、中将おきあ
がり、是を見らる、宗茂御酒をかかへて参りたりけ
れば、此女酌をとる、中将すこしさしうけていと興
もなかりければ、宗茂申けるは、かつうは聞召され
て候つらん、かまへてよくもてなし参らせよ、愚に
て我恨むなと兵衛佐仰候しかば、是にては旅にて
候へども、心の及び候はんほどは宮づかひ候べし、
御前一声申てすすめ参らせよと申ければ、女酌をさ
し置きてうちうめきて、羅綺為重衣といふ朗詠を
四五へんしたりければ、声もすみふしもととのほり
て、よろづ心すみたりけり、又しやくとりて近く参
る、中将のたまひけるは、此朗詠せん人をば一日に
三度守らんと、北野天神の御ちかひあるよし承る、
但重衡が身今生はすてられまいらせぬ、助音申ても

何かせん、此身に取ては今は命も惜しからず、後生
こそ願はしけれ、ざいしやうのかろみぬべき事なら
ば、じよいんも申なんとのたまひければ、此女又さ
しうつむいて、十悪なりと云ともなほ引接すといふ
朗詠を四五へんして、極楽願はん人は皆といふ今様
をうたひすまして、酌を取りてすすめ申ければ、中
将ちとさしうけらる、この女給りて、宗茂とりなが
して、郎等四五人たべ止めつ、其後此女琴を引く、
中将琵琶をとりてばちをならさる、女しばしは琴を
つけけれども、しらべあはざりければ引とどまりぬ、
夜漸く更け行くままに、静にものあはれ也、又何事
まれとのたまひければ、女、一樹の陰にやどるもと
いふ白拍子をかそへたり、中将ともし火くらうして
は数行ぐしが涙といふ朗詠を、二三遍せられて後、
此世の思ひ出なるべし、今はとくやすまれよ、我も
夢見んとて、母屋のまくを引おろされければ、武士
ども畏てまかり出ぬ、中将は枕を西にそばだてらる、
P623
此女御前にふしにけり、其夜ほどなく明ければ、女
起きていづ、よろづ心にくう覚えて、中将しとみあ
げらる武士に、さてもよべの女はいたいけしたり、い
づくより参りたるにか、名をば誰とかいふととはれ
ければ、武士申けるは、あれは白河の関の君が娘に
て候が、何となく心ざま情あるものにて候間、此五
六年隔なく召仕はれ候、名をば千寿と申候とぞ申け
る、かの千寿、兵衛佐のあした法華経よみておはしけ
る所に来る、因幡前司広元文書きて居られたり、兵衛
佐うち笑ひて、千寿に中人をば面白くしたる物かな、
平家の人々は弓矢の外はいとなみあらじとこそ思ひ
つるに、此中将は口ずさみびはのばち音夜もすがら
立聞つ、いかに聞れずやとのたまひければ、広元筆
をさし置きて、平家の殿原は、代々の歌人にておは
し候、近頃都に花喩といふ落書の候しに、此中将は
いまだおさなくてそれには入候はず、兄の小松大臣
をば、牡丹の花園の大臣と申て、西国におはする大臣

をふかみ草の花にたとへ申候しぞかし、よべいささ
か相煩ふ事候て承候はず、後には必立聞候べしと申
ければ、兵衛佐のたまひけるは、朗詠にともし火く
らうしてといふは、いかなる事やらん、広元申ける
は、[B 已下本のまま]昔唐に漢の高祖と申ける帝、ぐしと申みめよき
女をけう愛せられけり、楚の項羽と申者高祖を襲ひ
候けるに、すゐといふ馬一日に千里を飛ぶに乗て、
此ぐしとともにさりなんとし給ひけれども、馬いか
が思けん、足をととのへて働かざりければ、かうそ
は涙を流して、我威勢既にすたれたり、今はのがる
べき方なし、襲ひ来らば事の数ならず、此虞氏に別
れんずる事こそかなしとて、歎かれけるほどに、灯
火くらくなるままに心細くて、虞氏涙を流し、夜深
くなるままに、四面にときを作り候けり、是を橘の相
公がともし火くらうして数行虞氏が涙、夜ふけ四面
のそのうたふ声と作りて候也、兵衛佐又びはに引か
れしがくは何やらんとのたまひければ、千寿申ける
P624
は、はじめはわうじやうのきう[* 「わうじやうのきう」に「皇〓急」と振り漢字]にて候しが、後には
くわいこつにて候しと申ければ、くらいこつとは文
字には骨を回(めぐ)るとかきて候、大国には人の死たる葬
送には必この楽をし候なり、中将の今の心中、朗詠
のふしびはの曲、終りに合て哀に候とて、広元涙を
流す、佐もさすが敵なれどもあはれげに覚されたり、
翌くれば四月一日、いつしか兵衛佐の方よりとて、
長持の蓋に三重の浅黄の直垂に、すずしのこうしの
袴、白き帷子、絵扇、だむし一束入て、湯屋に来し女
童にいただかせて千寿参りて、三位中将殿に申、中
将打見給ひて、ともかくも物ものたまはず、千寿はお
もはずに思ひて、物も仰せられ候はずと申ければ、
佐打笑ひてぞおはしける、
権亮三位中将維盛は、与三兵衛重景、石童丸と、武
里と云舎人、此三人を召しぐして、忍びつつ屋島の
たちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡
り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国

懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着
給へり、是より山伝ひ都へ赴きて、こひしき人々を
も今一度見んとぞ覚しけるが、さまをやつし給へど
も、よの人にはまがふべくもなし、本三位中将の生な
がら捕へられたるにも心うきに、我さへうき名をな
がさんもかなしくて、千たび心はすすみ給けれども、
心にからかひて、泣々高野へ参り給ひて、人をぞ尋
ねられける、三条斎藤左衛門大夫もちよりが子に、
斎藤滝口時頼とて小松殿に候けるが、建礼門院の后
宮にて渡らせ給ける時、刈萱、横笛とて、二人の美
女あり、かる萱には越中の次郎兵衛盛次さいあいし
て通ひけり、横笛には滝口時頼二世の縁を結びて通
ひけり、横笛が先跡を尋ぬれば、神崎の君の長者の
侍従が娘也、みめかたちはけうらんにして、姿は春
の花、顔は秋の月、翡翠のかんざしもながければ、
せいたいがたて板に水を流せるがことくみゆ、肌も
白ければ、王昭君にもことならず、入道福原より上
P625
洛有しに、都へとて相ぐし内へ参らせらる、折節滝
口本所に候しが、横笛を見しよりむしんの心ざし丹
誠のまことをたのみ契しに、父もちより此よしをも
れ聞き、滝口を召よせて制して申けるは、然るべき
世にあらん人の聟子ともなして、出仕の便ともなら
ば、みんもめやすかりなん、世になき者にもとさま
ざまいさめけれども、諌にも憚らず、人の世に有す
まゐには心に任せたるを思ひ出とす、是程の事を心
に任せざらんには、世にありても何かはせん、此世は
幾程もあるまじき所也、命長しといふとも七八十に
はよも過じ、栄花ありとも廿余年に過べからず、た
のしければとて、あしき女に相ぐしてなにかはすべ
き、親の諌を背かば不孝の身になりぬべし、従はば
又あぢきなし、女の思ひをかうぶれば、五障三従の罪
深しと思ひ切りて、生年十八の年俄にぼだい心を起
し、嵯峨なる所にて出家して、往生院と云所に行ひ
すまして有けるに、横笛此由を知らずして、とはれ

ぬ事をかなしみて、滝口が年頃申むつびし三条にい
たりて、滝口殿はといひしかば、返事はなくて扇を
一本なげいだす、一首の歌あり、
そるまでも頼しものをあづさゆみ
誠の道に入ぞうれしき W139 K207
と書たるをみてこそ、滝口出家してけれと思ひて、萩
がさねの小袖に紅梅のきぬ一重ばかりにて、桔梗か
るかや女郎花、かきわけかきわけ行程に、裾は露袖は涙
にくちはてて、かはく所ぞなかりける、其夜の夜半ば
かりに法輪寺に参りて、虚空蔵の御前に終夜の祈念
にかくぞ申ける、虚空蔵菩薩は衆生の願をみて給ふ
ぼさつなり、今生にてあかで別れしつまを、今一度逢
せてたばせ給へと申、虚空蔵ぼさつも哀とか覚しけ
ん、風は吹ねども御戸をさつと開き、いうなる御声
にて、汝が夫妻[B 「夫妻」に「ママ」と傍書]は是より北の谷に、柴の庵を結びてあ
る也、此世の対面うすかるべしとて、御戸はをさま
りぬ、其時よりよこ笛夢の枕に驚きて、東に横雲引
P626
しかば、やもめ烏のうかれ声、哀にぞ覚えける、夜
もほのぼのと明けしかば、示現のごとくに北の谷に
行てみければ、滝口があんしつと覚しくて、柴の庵
を引結び、松の柱、竹すがき、かけ樋の清水、しきも
習はぬすがむしろ、法花経の提婆品をよみて居たり
けり、其時横笛、竹の編戸をほとほととたたく、内よ
り誰人ぞと問ふ、声を聞ば我尋ぬる人の声也、是に
有りける物をと思ふに、今更かなしく涙もかきあへ
ず、やや久しく有て、御行衛を知らせ給はぬ事は、い
かなる御こころづよさとや、虎伏すのべ蓬が杣なり
とも、おくれじと契り給ひし事は、さながら偽にてあ
りけるものを、されども昔のよしみ忘れがたくて、
是まで尋ね参りたり、一蓮の身ともならんといひも
あへず、泣く声を聞ば、我わりなく思ひし女の声と聞
に、胸さわぎてかきくらす心地して、いかにして是
まではおはしたるぞと云て、走出ばやと思ひけれど
も、さては仏に成らん哉、生死のきつなにこそと心づ

よく思ひて、いとど門をとぢて返事もせざりければ、
横笛心をしるべにて是迄等尋来りたるかひもなく、と
ぢ籠り給へる御心強さよ、せめては今一度御声なり
とも聞させ給へやといひけれども、深くとぢ籠りて
一言葉の返事もせざりければ、女恨みて、時雨にそ
むる松だにも、かはらぬ色はあるものを、後の世ま
でと契りしに、早くもかはる心かなとて、袖をしぼり
つつ帰りにけり、神無月六日の事なれば、嵐にたぐ
ふ鐘の音、けふも暮ぬと打響き、涙のかかる袖の上、
いく重木葉の積るらん、おしはかられてむざん也、
さて横笛法輪寺をばよそにみて、梅津の里へと行し
が、かかるうき世に存へて、何にかはせんと思ふに、
ただし思おく事とては都に老たる親一人、それも仏
道なるならば、などか迎へ取ざらんと思ひて、さつ
た王子のうへたる虎に身を投げ、生年十七と申に、
底のみくづとなりにけり、桂川の辺に女房の身をな
げたるといひければ、その時入道あやしく思ひて、
P627
尋行て見れば、あらざるさまになりたり、入道云ば
かりなくて、みづからたき木を拾ひ、栴檀の煙りと
たき上げ、空しく骨をひろひ、都の辺り猶妄念もこそ
おこれとて、高野へ上て奥の院に行ひすまして、五六
年になりにけり、高野の御山にてきれん坊とぞ申け
る、一門の者どもは高野の上人の御房と申て、いと
をしがりもてなしけり、かれを尋ねて三位中将おは
したりければ、聖、見参したりけり、幼少より小松殿
に候けるが、十三の年より本所にしこうして、大内
の出仕の時は、絵かき花結びたる狩衣に立ゑぼし、
私のありきには、直垂に折ゑぼし、鬢をなで衣紋をか
きしきそくをや、出家の後はけふ初めて是を見給ふ、
いまだ三十にだにも成らざるに、殊の外にやせおと
ろへて、いつしか老僧姿になりたり、こき墨ぞめの
衣に同じ色の袈裟を打かけて、香の煙りにしみかへ
り、かしこげに思ひたる心中うらやましくぞ思はれ
ける、庵室を見給へば、槇の板戸につた茂り、晋の

七賢がこもりたりけん竹林寺、漢の四皓が住し商山
も、斯やありけんと思ひ合せられて哀也、聖、中将
を見奉りて夢の心地してあきれまどひたる様なり、
中将も涙にむせびてものものたまはず、良久しくあ
りて滝口入道申けるは、君はやしまに渡らせ給ふと
こそ承つるに、いかにして是まで伝ひ渡らせ給にや、
更に現とも覚えずとて泣ければ、三位中将のたまひ
けるは、都にていかにもなるべかりしに、人並々に
西国へ落下りてありつれども、きも心も身にそはず、
故郷にとどめ置きし者どもの事より外に、心にかか
ることなくて、世の中あぢきなく思ひ、年月を経し
かば、大臣殿も池大納言の様にありなんとおぼして
打とけ給はねば、いとど心もとどまらず、あくがれ
出て是までまとひ来り、いかにも故郷へ向ひて、か
はらぬすがたを今一度見ばやと思ひつれども、本三
位中将の生ながらとられて、京鎌倉引しろはれて、恥
を曝すだにも心うきに、此身さへ又とられて、父の
P628
かばねに血をあやさん事のうたてければ、是にて髪
をおろして水の底にも入なんと思ふ也、父の大臣殿
いまだ世ざかりにおはせしだにも、後生のことのみ
祈り申、命を権現に奉り給ひき、いはんや我身は期
する所なし、来世のことより外は心にかかる事なし、
父の跡を尋て、権現に祈誓申さばやと思ふ也とのた
まへば、時より入道申けるは、老衰へたる父母を心
づよくふりすてて、か様にまかりなりて候も、世の
中のはかなき事を深く思ひとりて候ゆゑなり、程々
の栄花に候へば、くわしよく[* 「くわしよく」に「花族」と振り漢字]嫡家の、近衛大将も、
家の殿原の三事をかねて大弁の宰相に昇り給ふも、
侍の廷尉をけがし、大夫尉が拾遺をかがやかすに劣
らず、滝口が弓矢をたいして禁〓を出入し、布衣の
姿にて、龍顔にまみえ奉る身に於ての面目、名残も
惜く、身もすて難くて覚え候き、されども弃恩入無
為とも観じ、唯戒及施とも思ひ取て、人並々にかく
まかりなりし事、月日の隔たりにしたがひてうれし

く候也、況や君の御一門御繁昌きはめ残さるる事一
事も候はず、大臣殿の一男にておはしまししかば、
兼官昇進滞らせ給はず、御運ここに極らせおはしま
して、一族皆亡びさせ給ふ事御身ひとつの恥に非ず、
申せば此世は秋の芭蕉の霜に〓よりもあやうく、夜
の雲の嵐に随ふよりもあたなり、ついでなくともす
てたき身なり、悦ありとても何にかはせん、是然る
べきは善智識なりと思して、順縁逆縁ともに菩提の
たね也、悦も恨みも得道の縁と思しかへさせ給ふべ
し、ぶんだむりんゑ[* 「ぶんだむりんゑ」に「分段輪廻」と振り漢字]のさとに生るる者、必ず死滅の恨
みを得、妄想如幻の家にきたるもの、終に別離のか
なしみあり、かのしやらりん[* 「しやらりん」に「娑羅林」と振り漢字]の春の霞をたづぬれば、
万徳の月かくれ、一他の縁ながくつきぬ、くわむぎ[* 「くわむぎ」に「歓喜」と振り漢字]
苑の秋の風を聞ば、五衰の露きえて、千年のたのし
み又むなし、況や人間電泡の身に於てをや、ゑんぶ[* 「ゑんぶ」に「閻浮」と振り漢字]
たん命の国に於てをや、これによて老たるも去る、
若きも去ておほく生死のくいきめぐる、貴も過ぎ、
P629
賎も過て、併ながら三づのけんだんにしづむ、三界
廿五有のすみか、いづれの所か此苦しみをまぬかれ
ん、六しゆたいらんしつけ[* 「しゆたいらんしつけ」に「趣胎卵湿化」と振り漢字]のかたち、いづれの族か
其患をのかるべき、もつともいとふべきは浮世、も
つとも願ふべきは浄せつ也、君御一族の公達にとも
なはせ給て、西国に赴き給へるうへは、敵の為にと
られて海中にこそ沈給べきに、やんごとなき大師入
定の霊地、胎金両部の聖地に参り給て御出家有ん事、
現身に安養浄刹に参り給ふべしと思召さるべしとぞ
申ける、やがて聖を先達にて、堂塔巡礼したまふに、
説法衆会の庭もあり、念仏三眛のみぎりもあり、入
定座禅の窓もあり、瑜伽しん鈴の壇もあり、奥の院
に参りて大師の御廟を拝み給ふに、誠に高野御山は
帝城を去りて二百里、郷里をはなれて無人声、青嵐
こずゑをならせども、夕日の影は閑也、嵐にまがふ鈴
の音、雲井にきゆる香の煙、いづれも尊くぞ覚ゆる、
花の色林霧のそこによどみ、鐘の声斉江の霜にひび

き、河原に松おひ垣に苔むして、星霜久しくおぼゆ
るも哀也、中将は御廟の御前に少し差のいて、念誦し
ておはしけるに、かたはらにしらぬ老僧の、齢七十
有余なる参りて観念をしてあり、中将差よりて、大師
御入定は、いくら程経て渡らせおはすらんと問れけ
れば、老僧申けるは、御入定は仁明天皇の御宇六十二
年と申、承和二年三月廿一日寅の一點の事なれば、
既に三百余歳に成侍り、釈尊御入滅の後、五十六億
七千万歳を経て、都卒陀天より、弥勒慈尊下生しお
はしまさんずる、三会の暁を待給ふ御誓ひありと申
ければ、御入じやうののち、御たいを拝みまいらせ
たる人や候らんと、中将のたまひければ、老僧又申
けるは、延喜の比にて侍けるにや、般若寺のくわん
けん僧正と申ける人、御廟たうに参りて石室を開き
て、生身を拝み奉らんと祈誓申けるに、霧深く立籠り
てみえさせ給ざりければ、僧正かなしみの涙を流し
て、我生をうけしより此かた、禁戒をおかさず、何
P630
の故に大聖に隔てられ奉るべきとて、五体を地にな
げてはつろざんげし給ひければ、念願は至りけん、
忽に霧はれて、月の雲間を出てたるがごとくして、
生身の御体少しもくもりなく拝まれさせ給にけり、
御ぐしのながく生て御膝に余りけり、僧正随喜の涙
をおさへて、御くじをそり奉りければ、風そぞろ吹
てもとの御衣をば吹やられにけり、さてひはだ色の
御衣を着せ参らせて、まかり出んとし給ひける時、
僧正の弟子に石山の内供奉しゆんいう[* 「しゆんいう」に「俊祐」と振り漢字]と申人は、其
時いまだ若くておはしけるに、大師の御体を拝し奉
るかと問ひ給ひければ、見えさせ給はずと申給ひけ
れば、さらばとて御弟子の手を取て、御膝をさぐら
せ給ひけるに、御ひざあたたかにてさぐられ給ひに
けり、其後一生のうち右の手のかうばしくおはしけ
りと、五分法身の香にふれ給ひける故にこそ侍りけ
め、其後醍醐の天皇の御夢想のつげによりて、香ぞ
めの御衣を調へて送り奉り給ひける、勅使に相ぐし

て又僧正先の如く参り給ひて、きせ参らせ侍りける
に、今度は御出立ありて御勅答は申させ給ひける、
其詞とぞ申伝へ侍ける、
我昔遇薩陲、親恙伝印明、発無比誓願、莅辺
地異域、昼夜愍万民、住普賢悲願、肉身証三眛、
待慈尊下生、
とぞ申させ給ひける、惣じて生身の御体を拝み奉る
ことたやすからず、末代に人是を拝み奉らずば、疑ふ
心をなすべしとて、其後は石室をとぢて永く出入を
止められけり、其後公家よりも勅使もいらず、御体を
拝み奉る人侍らず、白河院御時寛治二年正月十五日、
臣下卿相せんとうにて、種々の御だんぎどもありけ
る、其中にある人、抑当時天竺に如来出世し給ひて、
説法利生しましますと聞きおよばむに、参りて聴聞
すべしやといふ一言いでたりけるに、皆人参らんと
ぞ仰せられける、其ころ江帥まさふさ卿いまだ右大
弁三位にて、末座に候はれけるが申されけるは、皆
P631
人は参らんと仰せられ候へども、匡房においては参
るべしとも覚え候はず候とぞ申されける、月卿雲客
疑ふ心をなして、皆人の参らんと仰せらるる中に、
御辺一人参らじと申さるる子細、いかやうなる事ぞ
や、匡房かさねて申されけるは、さん候、本朝大宋
のさかひは、よのつねのとひなれば、安きことも候
なん、天竺震旦のさかひ、流沙葱嶺の嶮難、渡りがた
く越えがたき道なり、先葱嶺と申山は、西北は大雪
山につづき、東南は海はるかに聳え出でたり、此山
をさかひて、西を天竺といひ、東を震旦と名づく、
道の遠さは三千余里、草木も生ひず水もなし、銀漢
にのぞんて日を暮し、白雲を踏で天に上る、多く嶮難
ある中に殊に、高き峯あり、〓波羅最難と名付たり、
雲の表衣を抜割て、苔の衣もきぬ、山の岩の角を挑つ
つ十日にこそ越はつなれ、此峯に上りぬれば、三千
世界の広狭は眼前にあきらかに、一閻ぶたいのゑん
きんは足下にあつめたり、又流沙といふ川あり、こ

の河を渡るには、水を渡りては河原を行、河原を行
ては水を渡る事、八ヶ日の間に六百四十七度なり、
昼は驚風吹起りて、砂を飜して雨の如し、夜は妖鬼走
り散て、火をとぼす事星に似たり、青淵水巻て木葉
を沈め、白浪みなぎり落ちて岩石をうがつ也、たと
ひ深き淵を渡るといふとも、妖鬼の害のがれがたし、
たとひ鬼魅の怖畏をまぬかるとも、水波のただよひ
さりがたし、さればかの玄弉三蔵も、六度迄此界に
赴きて命を失ひ給ひき、されども次の受生の時にこ
そ法をば渡し給けれ、然るに天竺に非ず、震旦に非
ず、我朝高野山に生身の大師入定してまします、此霊
地をだにもいまだふまずして、徒に月日を送る身の、
忽に十万余里の山海を凌ぎ険難をすぎて、霊鷲山迄
参るべしとも覚え候はず、天竺の釈迦如来、我朝の
弘法大師、ともに即身成仏のむねを得たる、験証こ
れあらたなりとぞ申されける、昔嵯峨の皇帝御時、
大師勅命によて清涼殿にて四家の大乗宗を集め、顕
P632
密法門の論談をいたし給ふことありけるに、法相宗
には源仁、華厳宗には道応、三論宗には道性、天台宗
には円澄、おのおの我宗のめでたき様を立て申す、
先法相宗の源仁は、三時教を立てて一代の聖教を判
ず、所謂有空中これなり、三論宗の道性、我しうには
二蔵をたてて一代の聖教をおさむ、二蔵とはしやう
もん蔵ぼさつ蔵是なり、華厳宗の道応、吾しうには
五教を立て一切の聖教ををしふ、聖教とは、小乗教、
始教修教、頓教円教、是也、天台宗の円澄、我宗には
四教五味を立てて一切のしやう教を教ふ、四教とは
蔵、通、別、円これ也、五味といふは乳、酪、生、熟、醍
醐是也、其時真言宗の弘法、我宗にはしばらくじさう[* 「じさう」に「事相」と振り漢字]
けうさう[* 「けうさう」に「教相」と振り漢字]を教ふといへども、唯身成仏の義をたつ、
一代の聖教広しといへども、いづれか是に及ふべき
や、其時四人のせきとく、真言の即身成仏を各々疑ひ
申されけり、先法相宗の源仁僧都、弘法を難じ奉る、
そのことばに曰く、凡一代三時の教文をみるに、皆

三時成仏の文のみ有て、即身成仏の文なし、何れの文
証によりて即身成仏の義を立てらるるぞや、つぶさ
にもんせうあらばいだされて、衆会の疑をはらさる
べしといへり、弘法答てのたまはく、汝が聖教の中
には皆三劫成仏の文のみあて、即身成仏の文なし、
もんせうをいだしてのたまはく、
若人求仏慧、通達菩提心、父母所生身、即証大覚
位、
この文をはじめとして文証を引給ふ事、その数はん
たなり、源仁重ねていはく、文証は既に出されたり、
其文のごとく即身成仏のむねを得たる人せう誰人ぞ
や、弘法答てのたまはく、遠く尋れば大日金剛薩〓、
ちかく尋ぬれば我身即是也、忝も龍顔に向ひ奉り、
口に密言を誦し、手に密印を結び、祈念をこらし、
身にききをそなふ、生身のにくしん忽に変じて、紫
磨わうごんの肌となりたまふ、かうべに五仏の宝冠
を現じ、光明蒼天をてらし、日輪光をうばひ、朝廷
P633
婆梨に輝きて、浄土の荘厳を現はす、其時皇帝御座
を去りて礼をなし、臣下身をつづめて驚愕して地に
伏す、百官かうべをかたむけ、諸衆掌を合す、誠に
南部六宗の賓、地につくばひてけいしゆし、北嶺四
明の客、ていにふして、せつそく[* 「せつそく」に「接足」と振り漢字]す、成仏きそく[* 「きそく」に「軌則」と振り漢字]の
流派には、源仁円澄も舌を巻き、発心色相のなんた
うには、道応常性も口をとぢ、終に四宗帰伏して門
葉に交り、一朝しんかうしてたうりをうけ、三密五
智の水、四海に満ちて塵垢をそそぎ、六大無礙の月、
一天にかがやきて長夜をてらす、されば御一期の後
も、しやうじん不変にして、慈尊の出世を待ち、六
性かはらずして祈念の報恩を聞し召す、此故に現世
の利生も頼あり、後生の引導も疑ひなしとぞ申され
ける、上皇是を聞召し、誠にもめでたき御事なり、
是を今までおぼしめし知らざりけるこそ返々もおろ
かなれ、か様の事は延引しぬれば、自然に障ある事
もあり、やがて明日の御幸とぞ仰られける、匡房重

て申されけるは、明朝の御幸余りに卒爾に覚え候、
昔釈尊霊山説法の砌に、十六の大国の諸王たちの御
幸し給ひし儀式、金銀をのべて宝輿を作り、珠玉を
つらねて冠葢をかざり給ふ、これ皆希有難遭のおも
ひをこらし、随喜渇仰のこころざしを尽し給ひし作
法なり、君の御幸それに劣らせたまふべからず、高
野山をば霊鷲山と思召しなずらへて、御幸の儀式、引
繕はせ給ふべくや候らんと申されければ、実にもと
て卅日をのべさせおはします、綾羅錦繍をあつめて
衣裳をととのへ、金銀をのべて鞍馬を給ふ、これ
高野御幸のはじめ也、白河院かやうに高野をしゆ[* 「しゆ」に「執」と振り漢字]し
思召されけるにや、其御子にて清盛も高野の大塔を
修理せられけるにや、不思議なりしことどもなりと
委しく申ければ、中将嬉しく承り候ぬとの給ひて、
下向し給ひけるに、道にての給ひけるは、大師の御
入じやうは承和二年のことなれば、過にしかたも三
百余歳になるに、猶五十六億七千万歳の慈尊三会の
P634
暁を待ち給ふらんこそはるかなれ、維盛が身の雪山
の鳥鳴らん、かやうにけふか明日かと思ふ物をとて、
涙ぐみ給ふぞいとをしき、塩風に黒み尽せぬ物思ひ
に衰へて、其物ともなくなり給ひたれども、猶人に
はまがふべくもみえ給はず、いかなる敵なりとも哀
れと思ひぬべし、其日も暮れにけり、時頼入道が庵
室に帰て、昔今の物がたりし給ひて、互になくより
外のことなかりけり、聖が行儀を見給へば、しごくし
んじんの床のうへには、真理の玉を磨き、入我々入
のくわんの前には、人性の月あらはるらんと思ひや
るこそたつとけれ、軒窓に風さえて、音さへさむき
暁の、深夜の月の光りこそ、涙を催す友となれ、後
夜じん朝の鐘の音には、生死の眠をさますらんと覚
えたり、のがれぬべくば、かくてこそあらまほしく
は思はれけれども、かひなし、明けぬれば、東禅院
智覚上人と申しける上人を請じ奉りて、出家せんと
ぞせられける、三位中将、与三兵衛石童丸にのたまひ

けるは、我こそ道せばく遁れがたき身なれ、此頃は
世にある人こそおほけれ、己等はいかならん有様を
すとても、なじかはながらへざるべき、いかにも成
んさまを見はてなんうへは、都へ帰上りて各々身を
も助けよ、妻子をもはごくみ、かつうは維盛が後生
をも、とぶらふべしなどとの給ひければ、重景も石
童丸もかたがたに向ひて、さめざめとなきて、重か
げが父かげやすは、平治の乱の時、故殿の御ともに
候けるが、義朝が郎等鎌田次郎政清に組で、悪源太
に討れ候にけり、其年重景は二歳にて候けるが、七
歳にて母にはおくれ候ぬ、あはれいとをしと申、し
たしき者も候はざりしに、景康は我命にかはりたり
し者の子なればとて、殊に御憐み候て、御前よりお
ほし立られ参らせて、九と申候し年、君の御元服候
しに、かたじけなくも、其夜もとどりをとりあげら
れまいらせて、もりの字は家の字なれば五代につけ
り、重の字をば松王にたぶとて、重景とは付させお
P635
はしまして候き、童名を松王と付させ給ひて候事も、
二さいの年母がいだきて参りて候ければ、此御家を
ば小松と云ば、いはひて付くるなりと仰せ候き、と
りわけ御方に候て、としは十七年になり候とこそ覚
候へ、隔てなく召仕はれて、一日片時も立離れ参らす
る事も候はず、故殿の失せさせ給ひし時は、此世の
事を一すぢに思召しすてさせ給ひて、仰おかせ給ふ
事も候はざりしかども、重景を召して汝は重盛を父
がかたみと思ひ、重盛は汝を景やすがかたみと思て
こそ慰みつれ、今度の除目には靭負尉になして、己
が父を召候様にめさばやとこそ思ひつるに、空しく
なるこそ本意なけれ、少将殿に宮仕へよくよくして、
御心にたがふなと計りこそ、さいごの御詞にて候し
か、世にある人こそ多けれど、仰を蒙り候は、源氏
の郎等こそ候なれ、左候へば日比はいかならん御事
も候はば、すて参らせて落べき者と思召候けるが、
御心中こそはづかしく候へ、君の神にも仏にもなら

せ給ひなん後、いかなるたのしみ栄ありとも、世に
あるべしとこそおぼえ候はね、西王母、東方朔が三千
年の命、皆昔がたりにて名をのみ伝へ聞候と申て、
みつから髻を切りて時頼入道にぞそらせける、石ど
う丸是を見て、同じく元結際より切りてけり、これも
八よりつき奉て、中将の跡ふところより生立ちて、
ことしは十一年にぞ成ける、志ふかくいとをしがり
給ひければ、重景にも劣らず思ひ給ひたりけり、是
等がさきだちてそるを見給ふにつけても、御涙せき
あへ給はず、
流転三界中、恩愛不能断、弃恩入無為、真実報恩者
と三度となへてそり給ひけるにも、あはれ北の方に
かはらぬすがたを、いま一度見えて、ともかくもな
らば、思ふ事あらじとおぼすぞ罪深き、三位中将も
与三兵衛も同年にて廿七也、石どう丸十八にぞなり
ける、中将たけさとにのたまひけるは、我ともかく
もなりなば、都へ向ふべからず、今一度何事もいひ
P636
やらばやと思へども、今は世になきものときかば、
思にたへずしてさまをもかへ、すがたをもやつさん
事不便也、幼き者どものこざかしく歎かん事もいと
をし、終にはかくれあるまじけれども、いつしかし
らせじと思ふぞ、急ぎ迎へとらんとこしらへおきし
事も、終に空しくなりぬ、いかばかりかはつらしと
思はんずらん、心中をばしらず恨るもことわりなり
との給ひて、御涙せきあへ給はず、ただ是より屋島
へ帰て、三位中将、左中将などにもありのままに申す
べし、かつうは御覧ぜられし様に、大かたの世間も
物うきさまにのみまかりなりしかば、よろづあぢき
なさも数そひて、各々にも別れ奉てかくなり侍りぬ、
侍どももいかに不審に思ふらん、かくとも知らせず
とて、いかに恨むらんと思こそ中々心ぐるしけれ、
抑唐皮といふ鎧、小烏といふ太刀、平将軍よりこの
かた、当家嫡々相伝して、我までは九代に当れり、其
鎧太刀貞能が許にあづけ置たり、急ぎ取よせて三位

中将殿に奉れ、若し不思議にて代にもおはせば、六
代にたべなど申せと細々と泣々の給ひけり、是より
熊野へ参らんとのたまひければ、いかにもなりたま
はん有さまを見奉らんとて、時頼入道も参りけり、
山伏修行者の体にて、紀伊国山東と云所に出つつ、
藤城の王子よりぞ参り給ひける、それより峠にのぼ
り給へば、眺望殊にすぐれたり、故郷の方を雲井は
るかに眺めつつ、妻子の御事思ひ出し給ひて、御涙
にむせび給けり、かれは姫の明神、衣通姫の旧跡、こ
れは玉津島、和歌、吹上の浦とかや、よたの浦、苫
屋潟、日前、国懸の古木の森、沖の釣舟磯うつ浪、あ
はれはいづれもとりどり也、千里の浜の南、岩代の
王子のほどにて、狩装束したる者七八騎ばかり打連
て逢たりければ、既に敵来てからめとられぬと思ひ
て、各々腰の刀に手をかけて、自害せんとし給ひける
程に、急ぎ馬よりおりてふかく畏て通りければ、み
知たる者にこそ、誰なるらんと浅ましく思して、い
P637
とど足ばやにさし給ふ、是は湯浅権守入道宗重が子、
湯浅兵衛宗光といふ者なりけり、郎等ども此山伏は
誰にておはすぞと問ければ、小松大臣殿の御子権
亮三位中将殿よ、屋島よりこれ迄は、いかにしてつ
たはり給ひけるにか、近く参りて見参にも入たかり
つれども、はばかりも思召すと思てすごす、あない
とをしの御有様やとて涙をながしけり、やうやうづ
つさし給へども、日数経ければ岩田河にかかりぬ、
一瀬の水をかき、この河をわたれば、悪業煩悩無始
のざいしやうきゆるなる者をとのたまひて、頼もし
くぞ思ひ給ひける、其日は滝のしりに着給ふ、王子
に一夜つやし給ひて、後生の事をぞ申されける、不
空〓索にておはする、当来じそんの暁を待ち給ふこ
そめでたけれ、これより山路に入給ふ、高天の峯に
身をまかせ、中天ぢくも遠からず、発心門をうち過
ぎて、本宮にもかかぐり着き給ひにけり、仏性真如
の月の影は、生死の御かほにくまぞなき、此御山の

景気、誠に心も言葉も及ばれず、大悲応護の霞は熊
野山の峯にそ[B なカ]びき、和光利物のかげは音無河に跡を
たれ給へり、めでたかりける地形なり、一人かうべ
をかたぶけ、万人掌を合せけるも、ことわりかなとぞ
思はれける、一心敬礼と唱れば、三世諸仏も随喜し、
第二第三と礼すれば、むしのざいしやうも皆滅しぬ
べし、証誠殿の御前につい居給ふより、父大臣の命
をめして、後生を助させ給へと申給ひけん事おぼし
いだして、ただ今の様にぞ思はれける、其夜は通夜
し給ひて、後生の事を申されける中にも、我身こそ
かくなりぬとも、故郷の妻子平安にと祈り給ふこそ、
浮世を厭ひ誠の道に入ても、忘れぬものは恩愛の道
なりけりと、あはれを催すたよりなり、明ぬれば本宮
を出で、新宮へつたひ、雲取、しこの峯といふががた
る山を分け過て、やけいの露にそぼぬれて、神のく
らを伏拝み、那智へ参り給ひけり、佐野の渡りをは
るばるとさし給ふ、まんまんたる南海を見渡せば、
P638
補陀落山も思ひやらる、三の御山の景気、いづれもと
りどりなりと云ながら、当山殊にすぐれたり、垂跡
飛滝権現の本地、千手観音の化現也、三重百尺の滝
の水は、衆生の塵垢をすすぎ、六根ざいしやうもけ
し、千手如意輪の本誓は、弘誓の船にさをさして、
沈淪の生類を、どし給ふときくこそたのもしけれ、
遙なる岩の上にはくわん音の霊像座し給へり、補陀
落山ともいひつべし、法花読誦の声は霞の底に聞ゆ、
霊鷲山とも申つべし、千手千眼観世音、生々世々希
有者、一聞名号滅重罪、無量仏子得成就とふしをが
みて、妙法さいせうが峯を拝み給ふに、昔仏説法し
給ひし、祇園精舎きつこどくおんも、是には過じと
みえたり、中にも如意輪の滝へまいりて、ついでに
去寛和のころ、花山の法皇のおこなひ給ひける、滝
もとへ下りて、その旧しつを拝み給へば、庭の若草
茂りつつ、人跡たえて苔深し、時を待ち昔を忍ぶと
よみ給ひける、老木の桜も咲にけり、それより千手

堂へ参りたりけるに、当山籠の僧の中に、都にて見知
奉たりける山伏あり、同行の僧に語りけるは、あれ
におはする道者こそ、平家小松内大臣殿の嫡子、権
亮三位中将殿よ、あの殿の四位少将と申し時、安元
二年の春の頃、法皇法住寺殿にて、報恩経供養の時、
五十の御賀の有しに、父重盛は内大臣の左大将、叔父
宗盛は中納言右大将にて、階下に着座せられたりき、
頭中将通盛、三位中将重衡卿以下の卿相うんかく十
余人、はなやかなる姿にて引つくろひて、垣代にた
たれたりし中より、桜梅を折かざして、青海波を舞て
出られたりし景気は、たとへば嵐にたぐふ花の匂ひ
御身にあまり、風にひるがへる袂天にかがやき、地
をてらすばかりなりし、御有様の今の様におぼゆる
ぞや、今両三年もあらば、大臣の大将疑ひあらじと
こそ見奉りしに、今かく見なし奉るべしとは、かつ
て思はざりし事かな、うつればかはる世の習といひ
ながら、むざんのありさま哉とて、袖を顔におしあ
P639
ててければ、心あるかたへの僧共、苔の袖をぞぬら
しける、此僧と申は越中前司盛俊が叔父兄弟にて有
ければ、いとけなきより見奉りてかくいひけるにや、
さて三山の参詣事故なくとげられにければ、浜の南
宮と申王子の御前より、一葉の船に棹さして、万里
の沖へぞ浮ばれける、はるかに漕ぎ出で、山なりの
島といふ島あり、かしこへ漕ぎよせて大なる松をけ
づりて、中将の名せきを書付らる、平家太政入道清
盛法名浄海には孫、小松内大臣左大将重盛には嫡子、
権亮三位中将維盛生年廿七歳、合戦の最中に讃岐
の国屋島をいで、熊野の御山へ参詣せしめて、今生の
たのしみさかえかたをならぶる人なし、後生ぜん所
また権現の御ちかひたのみあり、元暦元年三月廿八
日、那智の沖にして入水しをはんと書付給ひて、漕ぎ
出で給ひぬ、思ひ切たる道なれ共、今は限りの時に
のぞみければ、心細くかなしからずといふ事なし、
頃は三月の末なれば、春のそら何となく名残をしか

るべけれども、唯へんしの詠め其色とはわかねども、
雲も海も一にて浪にきえ入様にぞ覚えける、海人の
〓〓(こぶね)のさすがにきえもはてぬを見給ふにも、我身の
上とぞおぼしける、おのが一つら引連て、今はと帰
るかりがねの、越路をさして飛行にも、故郷へこと
づてせまほしく、蘇武が胡国のうらみまで思ひ残さ
る[B ぬカ]くまもなし、何となくこし方ゆく末の、うれしう
つらかりし面影、或は龍顔に咫尺して春の花を見て
も遊び、或は旧院に〓夜して秋月を詠め、或はもじ
の関の波上にうきねして、からろの音に夢を残し、或
は屋島のあまの苫屋に、かたしく袖に月を宿し、見
しことまでも思ひ出さずといふことなし、抑是は何
事ぞ、妄執の拙きにこそと思ひかへして、正しく西
方に向ひ念仏申給ふ中にも、すでに只今を限りとは
いかでか知るべきなれば、風の便のことづても、今
や今やと待らんに、終に隠れあるまじければ、此世
になきものと聞て、いかばかり歎かんずらんと思ひ
P640
つづけ給へば、主従念仏をやめて、合掌して聖に向
ひてのたまひけるは、あはれ人の身に、妻子と云物
をば持まじかりけるものかな、此世にてものを思は
するのみにあらず、後生菩提の妨となりけることの
口惜さよ、親しき人にもしられずして、屋島の館を
出でしも、もしや都へかかぐりつきて、今一度見も
しみえもやするとてこそ迷ひ出て有しかども、本三
位中将の事人の上とも思はず、我さへと思念じて、
か様に出家しなん上は、更に妄念あるべしとも覚え
ざりしに、本宮、証誠殿の御前に通夜したりし時も、
終夜後生の事を申中にも、故郷の妻子平安に守り給
へと申き、かつうは神慮の中も恥しくこそ覚えしか、
只今も最ごの一念なれば、又何ごとをか思ひますべ
きに、いかに聞てもたへこがれんずらんと思ひ出ら
るるぞや、是をほだしといひ、是をきづなと名づく
るも今こそ思合すれ、思ふ程の事を残すは罪ふかし
と申なれば、ざんげする也とのたまへば、聖もあは

れに思ひけれども、我さへ心よわくては叶ふまじと
思て、涙を押のごひてさらぬ体にもてなして、誠に
さこそおぼしめすらめ、高きも賎きも恩愛の道は、
力及ばぬ事にて候也、中にも夫妻は一夜の枕を双べ
たる、猶五百生の縁と申せば、此世一の御契りにも
非ず、生者必滅会者定離は、人界の定まれる習、六道
の常の理なれば、さらぬ別のみならず、心に任せぬ世
の有様、末の露本の雫のためしあれば、たとひ遅速
の不同はありとも、おくれ先だつ御わかれ、終には
なくてしもや候べき、かの驪山宮の秋の夕のちぎり、
終には心をくだくはしとなり、かんせん殿のしやう
ぜんのおんも、をはりなきにしにも非ず、松子梅生々
涯限在等覚十地生死のおきてにしたがふ、君たとひ
長生の楽みにほこり給ふとも、前後相違の御歎はの
がれさせたまふまじ、たとひ百年の齢を保たせ給と
も、此恨は唯同じ事なりと思召さるべし、第六天の
魔王と云外道は、欲界六天を我物と領して、此界の
P641
衆生の生死をはなるる事ををしみて、諸々の方便をめ
ぐらして、或は妻となり或は夫となり、是を妨ぐる
に、三世の諸仏は、一切衆生を我子の如くおぼして、
極楽浄土の不退の地にすすめ入れんとし給ふに、人
の身に妻子といふものは、無始曠劫よりこのかた、
永く仏種をだんじ、生死に流転するきづななるが故
に、仏是をいましめ給ふはすなはち是也、さればとて
御心よわく思召すべからず、源氏の先祖伊予守入道
頼義、十二年の間人の首を切る事一万五千人、山野
の獣、江海の鱗、その命をたつ事幾千万といふ事を知
らず、されども臨終の一念の菩提心を起ししに依て、
往生のそくわいを遂げたりとぞ、往生伝には見えて
候へ、又ある経文にいはく、一念ほつきぼたいしん[* 「ほつきぼたいしん」に「発起菩提心」と振り漢字]
しようおざうりう[* 「しようおざうりう」に「勝於造立」と振り漢字]百千塔とも説れたり、御先祖平将
軍貞盛、将門を追討し給ひて、東八ヶ国を守り給し
より以来、代々相続して朝家の御守りにて、君迄は
嫡々九代に当らせ給へば、君こそ日本国の大将軍に

て渡らせ給へども、故大臣殿世を早くせさせ給しか
ば、力及ばず、されば其末にて御罪業も重かるべし
とも覚えず候、就中出家の功徳莫大なれば、前世の
罪障皆悉く滅しさせ給ぬらん、百千歳の間、百羅漢
を供養したらん功徳も、一日出家の功徳には及ばず、
たとひ人あて七宝の塔を建ん事、高き三十三天に至
るとも、出家の功徳には及ばずと説給へり、ある経
には一子出家すれば、七世父母皆成仏すともとき給
ひき、一日の出家万劫の罪を滅すとも見えたり、さ
しも罪深かりし頼義、心の健故に往生を遂ぐ、さし
たる御罪業おはしまさざらんに、などか浄土へまい
り給はざるべき、其上当山権現は、本地阿弥陀仏に
ておはす、はじめ無三悪趣の願より、終り得三法忍
の願に至るまで、一々の誓願衆生化度の願ならずと
云事なし、中にも第十八の願には、設我得仏、十方衆
生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正
覚と説れたれば、一念十念頼みあり、小阿弥陀経に
P642
は、成仏以来於今十劫ともときて、正覚ならじと誓
ひ給ひし、仏すでに正覚なりて十劫を経給へり、さ
れば聊も本願に疑をなさず、無二の懇念を出して、
若は十遍若は一遍となへ給ふものならば、弥陀如来、
八十万おく那由多恒河沙の御身をつつめて、丈六八
尺の御かたちにて、観音勢至無数のしやうじゆ、化
仏菩薩百重千重に囲繞し、妓楽歌詠して、只今極楽
の東門を出、来迎し給はんずれば、御身こそ蒼海の
底に沈むと思しめすとも、紫雲の上にのぼらせ給ふ
べし、来迎引摂はかの仏の本願なれば、努々疑ひお
ぼしめすべからず、成仏得道して、悟をひらかせ給
ひなば、しやばの故郷に立帰らせ給ひて、さいしを
みちびきましまさん事、還来穢国度人天の本願、な
じかは疑ひ侍るべき、待我閻浮同行人少しもあやま
るべからずとて、頻にりんを打鳴し、ひまなくすす
め奉りければ、中将入道、然るべき善知識かなと嬉く
おぼして、忽に妄念を飜して西に向ひて手を合せ、

高声に念仏三百遍計り唱へすまして、海へ入給ひに
けり、兵衛入道も石童丸も同く御名を唱へつつ、つ
づきて海にぞ入にける、たけさとも悲しさの余りに
たへかねて、続て入らんとしけるが、いかにうたて
くも御遺言をばたがへ奉るぞ、下らうこそなほ口惜
けれとて、聖なくなくとりとどめければ、船の底に
伏まろび、をめき叫びけるありさま、悉達太子十九
にて王宮を出で、檀特山へいり給ひし時、舎匿舎人
がすてられ奉りてもだえこがれけるも、是には過じ
とぞ見えし、暫くは船を押廻らして浮びやあがると
見けれども、三人ともに深く沈て見え給はず、いつ
しかあみた経一巻読誦して、過去聖霊、出離生死、往
生極楽と回向しけるこそ哀れなれ、去程に夕陽西に
傾きて海の面もくらくなりければ、名残は尽せず思
へども、さてしもあるべきならねば、空しき船を漕
ぎ戻し、熊野灘の習にてみち来る汐さかひ、と渡る船
のかいしづく、聖が袖に伝はる涙も、あらそひかね
P643
てぞ泣れける、聖は高野へ入られければ、武里はや
しまへ帰りにき、維盛の弟新三位中将に、有の儘に
申ければ、心うやいかなる事なりとも、などかすけ
もりには知らせ給はざるべき、我頼み奉る程は、思ひ
給はざりけるこそ口惜けれ、一所にていかにもなら
んとこそ契り申ししかとて、涙もかきあへず泣給ふ、
池大納言の様に、頼朝に心をかよはして京へ上りに
けりと、大臣殿も心得て、資盛にも打とけ給はざり
つるに、さては御身を投ておはするむざんなれ、さる
にてもいひ置き給ふ事はなかりしかと問ひ給へば、
たけさと申けるは、京へはあなかしこのぼるべから
ず、屋島へ帰て有つる様を委く申せ、一所にていか
にもならんとこそ思ひしかども、都にとどめ置きし
物どもの、あながちに覚束なく恋しくて、あるそら
もなかりしかば、もしみづからつたはり上て、今一
ど見もやするとて、あくがれ出たりしか共、叶ふべ
くもなかりしかば、かくなん罷りなりぬ、備中守も

討れぬ、維盛もかくなりぬれば、いかに便なく思ひ給
ふらんと心ぐるしくこそ、唐皮といふ鎧、小烏と云
太刀の事までも、おとさずこまごまと申たりければ、
我身とてもながらふべしとも覚えずとのたまひもあ
へず、さめざめと泣給ふこそいとをしけれ、故三位
中将殿に似給ひたりければ、見奉るもかなしく覚ゆ
るぞと申て、見る人ごとに涙をぞながしける、
三月廿八日、鎌倉兵衛佐頼朝四位正下し給ふ、もと
は五位なりしに、五階を越え給へるぞゆゆしき、是は
伊予守義仲を追討の勧賞とぞ聞えし、
四月十五日、崇徳院を神に崇奉るべしとて、昔合戦
のありし大炊殿の跡に、社をたてて遷宮あり、加茂
の祭り以前なれども、院の御さたにて、公家しろし
めさずとぞ聞えし、
池大納言関東下向事
五月三日、池大納言頼盛関東へ下り給ふ、頼朝代に
あらん限りは、いかにもいかにも宮仕ふべし、故尼御前
の御恩をば、大納言殿に報じ奉るべしと、八幡大菩薩
P644
をかけ奉て、誓文をして度々申されければ、落残り給
ひにけり、兵衛佐こそかくは思ひ給へども、木曾も
十郎蔵人もいかがせんずらん、魂を消すより外の事
なし、かくておはしけるが、兵衛佐より故尼御前を
見奉ると思ひて、とくとく見参せんとのたまひけれ
ば、大納言下り給にけり、弥平左衛門尉宗清といふ
侍あり、相伝専一の者なりけるが、相具し奉ても下
らざりければ、大納言いかにと問ひ給ければ、今度
は御とも仕候はじと存候、其故はかくて渡らせ給へ
ども、御一家の公達の、西海の浪の上に漂はせ給ふ
事、心うく覚え候て、いまだ安堵しても覚え候はず、
こころ少し落ゐて追ひざまに参るべしと申ければ、
大納言にがにがしく恥かしく思ひ給て、の給ひける
は、一門を引別れて残とどまりたるは、我身ながら
もいみじとは思はねども、さすが身もすてがたく命
もをしければ、なまじひにとどまりにき、其上は下
らざるべきにあらず、はるかの旅の空におもむくに、

いかでか見おくらざるべき、うけず思はば、など留
まりし時はさはいはざりしぞ、大小の事一向汝にこ
そ云合せしかとのたまひければ、宗清居直り畏て申
けるは、高きも賎きも人の身に、命ばかり惜きもの
や候、又身をばすつれども、世をばすてずとこそ申
候ぬれ、御とどまりをわろしとには候はず、兵衛佐
も命を生けられ参らせて候しかばこそ、今かかる幸
も候へ、流罪せられし時も、故尼御前の仰にて篠原
迄送りて候き、其事など忘れずと承候へば、御とも
にまかり下て候はば、定めて引出物きやうようせら
れ候はんずらんと覚え候、それにつけても心うかる
べく候、西国におはします公達侍共のかへり聞候は
ん事、返々恥かしく候へば、今度ばかりはとどまり
候べく候、君は落ちとどまらせ給ひ候程にては、い
かでか御下りなうて候べき、はるばると旅立たせ給
ふ御事は、誠に覚束なく御心ぐるしく思ひ参らせ候
へども、敵をせめに御下り候はば、一陣にこそ候べ
P645
けれども、是は参らずとても更にくるしき御事候ま
じ、兵衛佐尋ねられ候はば、聊いたはる事ありと仰
候べしと申ければ、心ある侍共は、是を聞て涙を流
さぬはなかりけり、大納言もさすが恥かしくぞ思は
れける、さればとてとどまり給ふべきにあらねば、
やがて立給ひぬ、十六日池大納言鎌倉に下り着き給
ひたりければ、兵衛佐見参し給ふ、まづ宗清は御と
もして候かと尋ね申されければ、此程あひいたはる
事ありて下らずとのたまひければ、世にほいなげに
思ひ給て、いかに何事の候べきぞ、なほ意趣を存候
にこそ、むかし宗清が許に候しに、事にふれてあり
がたくあり候し事、わすれがたく覚えて恋しく候へ
ば、急ぎ見たく候て、一定御供に参り候はんずらん
と、心もとなく存候へば、口惜しくも候はぬものか
なとて、まめやかにほいなげにぞのたまひける、所
知たばんとて、下文あまたなしまうけて、馬鞍引出
物などたばんとて、然るべき大名どもに馬鞍物具以

下の物用意したりけるに、下らざりければ、上下本
意なきことにぞありける、六月五日、池大納言関東
より帰上給ふ、兵衛佐暫くもかくておはせかしとの
給ひけれ共、都にも覚束無く思ふらんとて、上り給
ひければ、大納言になしかへさるべき由、院へ申さ
れたりけるうへ、もと知給ける庄薗私領、一所も相
違あるまじき由下文を奉り給ふ、此外所知八ヶ所が
下文書き副て奉らる、鞍おき馬三十疋、はだか馬三
十疋、長持三十えだ、羽こかねそめ物巻絹ていの物
入てぞ奉らる、兵衛佐かやうにもてなし奉られけれ
ば、大名小名我も我もと引出物奉る、馬だにも三百疋
に及べり、命いき給ふのみに非ず、とくつきてぞ帰
上られける、
十八日、伊賀伊勢両国の住人、肥後守貞能が兄平田
入道貞継法師を大将軍として、近江国へ発向して合
戦をいたす、然るに両国の住人等、一人も残らずさ
んざんにうちおとさる、平家重代相伝の家人、皆昔
P646
のよしみを忘れぬ事は哀なれども、思ひ立こそ覚束
なけれ、せめての思ひの余りにやとこそ覚ゆれ、三
日平氏とは此ことをいふにや、
七月四日、権亮三位中将の北方、おのづから風の便
の事づても絶果てて久しくなりにければ、何とした
ることやらんと待給へども、春も過ぎなつもたけぬ、
三位中将は今は屋島にはおはせぬ物をと、云人あり
と聞給ひければ、いかになり給ひけるぞとあさまし
く覚えて、心うくかなしく思はれけるあまりに、屋
島へ人を奉り給ひたりけれども、急ぎ立帰らず、秋
にもなりぬ、八月中旬にかのつかひ帰来る、いかに
御返事はと尋給へば、去三月十五日に屋島をいで、
高野へ詣でて御ぐしおろして、熊野へつたはりつつ、
那智の沖にてみを投げ給ひてけりと、御ともしたり
ける舎人たけ里がかたり申しと申ければ、北のかた
さればこそあやしかりつるものをとばかりのたまひ
て、引かづきてをめき給ふ、若君姫君もこゑごゑにか

なしみ給へり、若君の御めのとなりける女房なくな
く申けるは、此御事今更驚き思召さるべきにあらず、
日頃思ひ設けたりつる御事ぞかし、本三位中将殿の
様に、生ながらとられさせ給ひて都へ帰り、弓矢の
先にかかりて御命をうしなはせ給ひ候はば、いかば
かりかはかなしかるべきに、高野にて御ぐしおろさ
せ給ひて、熊野へ参らせ給ひて、後生の御事よくよく
申させ給ひつつ、りんじう正念にして失せさせ給ひ
ぬる御事、御心安くこそ思召候べけれ、いたくな歎
かせ給ひそ、今はいかなる岩のはざまにて、おさあひ[B 「あひ」に「なきカ」と傍書]
人をおほし立て参らせて、世になき人の御かたみと
も見参らせんと思召せとなぐさめ申ければ、思ひ忍
びてながらへ給ふべしともみえず、さまをもかへ、
身をも投給ふべくぞみえ給ふもむざんなり、権の亮
三位中将高野に詣でて、身をなげ給ひたりと兵衛佐
聞給ひて、あはれ隔てなく打向ひて来給ひたらば、
命ばかりは生け申てまし、小松の内府の事おろかに
P647
思ひ奉らず、池の尼御前の御使にて、頼朝を流罪に
申なだめられし事、偏にかの大臣の芳恩なりき、い
かでか其恩を忘るべきなれば、その子息たちおろか
に思はず、まして出家などせられたらん上は、子細
にや及ぶべきとぞのたまひける、
平家屋島へ渡り給ひて後も、東国より荒手の軍兵二
万余騎京に着きて、既に西国にせめ下ると聞ゆ、ま
た九州よりをがたの三郎、臼杵、戸槻、松浦党をは
じめとして、三千余艘にて渡らんとすともいへり、
彼を聞是を聞にも唯耳を驚かし、たましひをけすよ
り外の事なし、一門の人々も、一谷にて七八十人迄
討たれにき、頼み切たる侍ども半過てうせぬ、今は
力つきはてて、阿波の民部大夫成良が兄弟、四国の
輩を語らひて、さりともといひけるを、たかき山深
き海とぞ頼まれける、女房には、女院二位殿を始め
奉て、さしつどひて唯泣より外の慰めぞなかりける、
去程に廿五日にもなりけり、去年のけふ都を出しぞ

かし、程なく廻り来にけりと思すも、せめての事に
やと哀也、あはただしかりし事どものたまひいだし
て、泣きぬ笑ひぬぞせられける、荻のうは風も漸く
すさまじく、萩の下露もいよいよしげく、いな葉打
そよぎ、木葉も猥て物思はざらんだにも、秋になり
行くたびの空はかなしかるべし、まして此春より後
は、越前の三位の北方の様に、身を海の底に沈むる
迄こそなけれども、明ても暮ても伏しづみて、物を
思ひ給へる人々、いかばかりの事どもを思ひつらね
給ふらんと哀なり、
廿八日には、新帝御即位あり、大極殿はいまだ作り
出されねば、太政官の庁にてぞおこなはれける、後
三条院御即位、治暦四年七月の例とぞ聞えし、神璽宝
剱もなくて、御即位ある事、神武天皇より以来八十
二代、是ぞ始なる、
八月六日、九郎義経一谷の合戦の勧賞に左衛門中尉に
なさる、即、使の宣旨を蒙りて九郎判官とぞ申ける、
P648
十五日、屋島には、秋も半になりにけりと哀に覚え
て、さやけき月をながめても、都の今夜いかなるら
んと思ひやられて心をすまし、涙を流してぞあかし
くらされける、
九月十八日、九郎判官は五位尉に叙して、大夫判官
とぞ申ける、蒲の御曹司範頼三河守になさる、
同廿二日、三河守、平家追討のために西国へ発向す、
相したがふ輩、足利蔵人義兼、北条四郎時政、武田
兵衛有義、侍大将には、千葉介経胤、同孫境平次経
秀、長野三郎重清、稲毛三郎重成、同弟半替四郎重
朝、笠井三郎重清、小山四郎朝政、同七郎朝光、中
沼五郎宗政、宇都宮四郎武者知家、子息太郎朝重、
佐々木三郎盛綱、比企藤内朝宗、同藤四郎能員、大
多和次郎義成、安西三郎秋益、同小次郎秋景、公藤
一臈資経、同三郎秋義、宇佐美三郎助義、天野藤内
遠景、大野太郎実秀、小栗十郎重成、井佐小次郎朝
正、朝沼間四郎広綱、安田三郎義兼、同小太郎、大河

戸太郎広行、同三郎広政、中条藤次家長、一法房昌
寛、土佐房昌俊、小野禅師太郎道綱等を始として、
三万余騎の軍兵、数千艘室に着きて、急ぎやしまへも
責寄せず、西国にやすらひて、室、高砂の遊君遊女を
召集めて、遊びたはぶれてぞ月日を送りける、され
ば国を費し民を煩はすより外の事ぞなき、東国の大
名小名ども多くありけれども、大将軍の下知にした
がふ事なれば、一人たけく思へども、力及ばず、平
家は讃岐のやしまにありながら、山陽道をうち取て
けり、左馬頭行盛、飛騨守景家を大将軍として、一万
余艘にて備前国小島に着たりけり、源氏の大将軍三
河守も室に着きたりけるが、船より上て備前備中両
国の境、西河智、河尻、藤戸の渡りと云所に押寄せて
陣を取る、かの渡りは、海のおもて地より近くて、陸
へ五町ばかり隔たりたる所にて、平家の方より海の
底には菱をうへ、くもでゆひて、陸には軍兵をすへた
り、船をば皆島に引付たりければ、地の方より渡す
P649
べき様もなし、土肥、梶原を始として、源氏の軍兵多
かりけれども、力及ばず、平家の方より源氏の方へ渡
せや渡せやとぞ招きける、九月廿五日の夜半ばかり、
佐々木三郎盛綱唯一騎打出て、彼浦の者を語ひて、
さしたりける白鞘巻を取らせて、此渡りに浅みはな
きか、有のままに教へよ、教へたらばこれならず悦
すべしと約束しければ、浦人申けるは、此渡りに瀬
は二候なり、月がしらには東が瀬になり候、是をば
大根川と申す、月の末には西が瀬になり候、是をば
藤戸の渡りと申候、当時は西が瀬になり候ぞ、東西
二の瀬の間、とほき中二町ばかり候、瀬のはたばり
二反ばかり候、其うち馬の足たたぬ所二三反にはよ
も過ぎ候はじと申ければ、扨は其浅さ深さをいかで
か知るべきと問ひければ、浅き所は浪のたちやう高
く立候ぞと申ければ、さらば瀬踏して見せよといひ
て、彼浦人を先に立てぞ渡りける、膝に立所もあり、
股腰に立所もあり、むねわきに立所もあり、ふかき

所ぞかみをぬらす程なる、中二反計りぞありける、
さて是より島の方は浅く候とぞ申て帰りにける、あ
くる廿六日辰の刻に、平家又扇を上げて、渡せや渡せや
とて源氏を招く、思まうけたる事なれば、佐々木三
郎盛綱、黄なる生絹の直垂に黒いと威の鎧に、黒い
馬にぞ乗たりける、家子郎等相ぐして已上廿七騎に
て、盛綱瀬踏仕らんとて渡しけり、三河守、土肥の次
郎是をみて、馬にて海を渡すやうやあるといさむれ
ども、盛綱耳にも聞入ず、渡しけり、馬の草わきむ
な帯つくし、鞍壷に立所もあり、馬のおよぐ所もあ
り、浅々なれば源氏の軍兵是を見て(我も我もと渡し
けり、佐々木三郎以下敵の前に渡り着きて戦ふ、上野
の住人八いろの八郎と、平家郎等讃岐国の住人かへ
の源次と組だり、かへの源次が郎等、八いろの八郎を
さしたりければ、則まろびにけり、八いろが従弟に小
林の重隆と云者、かへの源次に組だりけり、組ながら
二人海へさつと入たりけり、小林が郎等に岩田源太
P650
しうは海へ入ぬ、つづきて入べきやうもなかりけれ
ば、弓の筈をとらへてあわの立つ所へさし入てうち
ふれば、物こそ取つきたれ、引あげて見れば敵也、主
は敵が腰につかみ付たり、主をば取上て、敵をば船
のせがいにおし当て、首をかい切てけり、平家是を
見て、船どもおし出してけり、源氏は船なければ、
追ても行かず、遠矢に射れども、勝負を決せず、力
及ばでもとの陣へぞ帰りける、昔より馬にて大海を
渡すことなかりけるに、佐々木三郎もりつな海を渡
す事是ぞ始めなる、時に取てはゆゆしき高名にてぞ
ありける、十月又冬にもなりぬ、屋島には浦吹風も
はげしく、磯越す浪も荒ければ、おのづから兵のせ
め来ることもなし、船の行かふも稀也、天もかきく
もり、いつしかうち時雨つつ、日数ふれば、いとど
消入る心地し給ひければ、新中納言知盛、かくぞ詠
じたまひける、
住なれし都の方はよそながら

袖に浪こすいその松風 W140 K213
廿三日、都にははらへの行幸あり、同廿五日に豊の
禊今年ぞせさせ給ひける、節下には後徳大寺左大臣
実定の、其時内大臣の左大将にておはせしが勤め給
ひけり、去々年の先帝の御はらへの行幸には、平家内
大臣宗盛の節下のおはせしが、節下の幄に着て、前に
たつのはた立つつ居給へるありさま、あたりを払ひ
てみえ給ひしものを、冠りぎは袖のかかり、表袴の
すそまでも、殊にすぐれて見え給ひき、其外一門の
人々三位中将以下の、近衛佐の御縄に候はれしには、
又立並ぶ人もなかりき、九郎大夫判官義経も、其日
は本陣に供奉したりき、木曾などがありさまには少
も似ず、ことの外に京なれてぞ見えける、されども
平家の中に撰びすてられし人々にだにも及ばず、な
ほ無下におとりてぞ見えける、
十一月十八日には、大じやうゑをとげ行はる、去治
承四年より以来、諸国七道の人民百姓等、平家の為
P651
に悩まされ、源氏のために滅ぼされて、郷里をすてて
山林にまじはりき、春は東作の思を忘れ、秋は西収
のいとなみにも及ばず、公家の貢物をも奉らず、い
かにしてかかやうの大礼をば行はるべきなれども、
さてしもあるべき事ならねば、かたのごとくぞとげ
行はれける、
十二月廿日比までは、三河の守のりより西国にやす
らひて、しいだしたる事なくて、今年も暮れにけり、
平家都を落ちて、西海の浪上に漂ひ給へども、死生
いまだ定らず、東国北国は鎮まりたれども、都は上
下諸国の住民等、是非にまどひけるこそ不便なれ、
是によて兵衛佐より院へ申されける、状に云、
一朝務以下除目等事
右、守先規、殊可施徳政、但諸国受領等、尤可
有計御沙汰候歟、東国北国、此両道国々、追討
謀叛輩之間、如元土民自今者、浪人等帰住旧里、
可令安堵候、然者来秋之時被(レ)仰国司、被行

吏務者可宣候、
一平家追討事
右、畿内近国、号源氏携弓箭輩、住人等、早任
義経之下知、可引率之由、可被(二)仰下(一)候、海路
雖不任意、殊可追討之由、可被(レ)仰付義
経候也、於勲功賞者、其後頼朝可計申上候、
一諸社事
我朝者神国也、往古之神領無相違、其外今度初各々
可被新加歟、就中去比、鹿島大明神御上洛之
由、風聞出来之後、賊徒追討、神戮不空者歟、兼又
若有諸社破壊顛倒之事者、随功之程可被召
付受領之功候、其後可被裁許候、
一恒例神事
守式目無懈怠、可勤行之由、可尋沙汰候、
一仏寺事
諸山御領、如旧恒例勤不(レ)可退転、如近年者、僧
家皆存武勇、忘仏法之間、行徳不同、先閇枢
P652
候、尤可被禁制候歟、於自今以後者、為頼朝
沙汰於僧家之武具者、任法奪取、可与給追
討朝敵之官兵等之由、所思給候也、以前条々
言上如件、
とぞ書かれたりける、
平家物語巻第十七終