平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十八

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平家物語巻第十八
元暦二年正月十六日、九郎大夫判官義経、院の御所へ
参りて、大蔵卿高階泰経朝臣をもて申されけるは、平
家は宿報皆尽て、神明神道にも放たれ奉て、都の外に
迷ひ出て、波の上にただよふ落人を、此二三ヶ年の
間うち落さずして、多くの国々をふさがれたること
安からず候へば、平家をせめに西国へ向ひ候べし、
平家一人もありと聞かば、新羅、高麗、契丹、百済に至
迄る、せめ落さずば人をば知るべからず、義経は都
へ帰入べからずとぞ申されける、仰られけるは、相
構へて三種神器、事故なく帰し入るべしとぞの給ひ
ける、判官宿所に帰りて、国々の大名小名家子郎等
どもにのたまひけるは、義経は鎌倉殿の御代官とし
て、院宣を承て西国へ赴く、海は櫓棹のとどき、陸は
駒の蹄の通はん所までもせむべき也、少しも命を惜

み名をも惜まざらん人は、是より止り給へ、義経に
於ては、命あらん限りはせむべき也とぞのたまひけ
る、何かはおもてをあはすべきとぞ見えける、屋島
にはひま行駒の足早くして、元暦元年二月もたち、
三月も過ぎ四月にもなり、春草かれて秋風に衰へ、
秋風やみて冬も過ぎ、三とせにもなりぬれば、東国
の兵せめくだると聞えければ、又いかなる事かあら
んずらんと、女房達さしつどひ泣くより外の事ぞな
き、内大臣は、都を出で此二三ヶ年、浦伝ひ島伝ひ
して、あかし暮すは事のかずならず、入道世を去り
て福原へましましたりし手合に、高倉宮搦迯したり
し程、心うかりし事はなしとぞ宣ひける、新中納言
申されけるは、都を立し日より少しも後足をも踏み、
命をも惜むべしとは思はず、東国北国の奴ばらも、
ずゐぶん重恩をこそ蒙りたりしかども、今は恩を忘
れちぎりを変じて、皆頼朝に語らはれにき、西国と
てもさこそあらんずらめと思ひしかば、ただ都にて
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討死をもし、家に火をかけてちり灰ともならんと思
ひしに、人なみなみに心よわくも都を迷ひ出て、か
かるうきめを見るよとて、泣給ふぞ哀れなる、二月
十五日、三河守範頼、西河神崎を出て西国へ下向す、
山陽道より長門国に赴く、九郎大夫の判官義経四国
へ渡らんとす、日比は淀の江内忠俊をもて、神崎渡
辺両所にて船ぞろへしつるが、けふ既に纜をとく、
各々寄合々々軍の評定しけるに、梶原申けるは、陸の
軍には、弓手へ廻すもめてへ廻すも、よするもひくも
進退なれ、船は寄するも戻すも煩しく候に、船に逆
櫓を立て、艫舳を直さずとも、駈たからむ所をばか
け、ひきたからん所をばこぎちがふるしたくをせば
やと申、判官あるべからざる事なり、浦は一引もひ
かじ、一所にてしなんと思ふだにも、びんぎに従へ
ば親子も知らず落つるに、兼てよりにげ支度せん事
こそ物の始めにいまはしけれ、梶原重て申けるは、
武士の能と申は、かくべき所をば駈け、引くべき所

をば引候こそよきと申候へ、かけ足ばかりを知りて
引足を知らざるは、猪武者とて嫌はれたりげに候も
のをとぞいひける、判官いざとよ、よしつねはかの
しか猪は知らず、軍には幾度もひらぜめに攻て、勝
たるぞ心地はよき、和殿が船には立たくば百挺千挺
も立てよ、義経が船にはいまいましければ立たうも
なしとの給ひければ、満座どよみて〓笑けり、梶原
よしなき事を申出して、どよみたてられて、赤面し
てそぞろぎてぞ見えける、此君を大将軍としては、
軍は得せじとぞつぶやきける、それより判官を悪み
はじめて終に讒し失ひてけり、十六日大南烈しく吹
きて、船ども数多は損じたりければ、其日は船ども
しゆりして、翌日十七日出さんとしけるに、きのふ
の返し風大地木を折りてぞ吹たりける、判官此船只
今出し候へと下知せらる、水手梶取申けるは、かほ
どの大風大波には、けふ海の面に船の通ふ事あるま
じく候と申す、判官のたまひけるは、野の末山の奥
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にて死ぬるも、海河に入て死も、しかしながら前世
の宿業也、ただの時は敵も用心したるらん、かかる
時打とけたらんに押寄てこそ思ふ敵をば討んずれ、
ただ出し候へとせめ給へば、水手梶取ども、身を全う
して君に仕へよと申事こそ候へ、ふつとかなふまじ
く候と申す、判官瞋りての給ひけるは、鎌倉殿の御
代官として勅宣を承候、義経が下知をたびたび返す
は、おのれ等こそ朝敵なれ、きやつ原の首をきりて
軍神にまつれやとのたまへば、伊勢三郎義盛射殺さ
んとしければ、とても死ぬるものならば、馳死にし
ねやとて、船を出す、判官の勢六千余騎が船百五十
艘也、其中に船五艘ぞ出しける、判官の船、奥州佐
藤三郎兵衛継信が船、同四郎兵衛忠信が船、伊勢三
郎義盛が船、淀江内忠俊が船也、此等の船五艘に、
宗徒の者五十余人ぞ乗りたりける、乗かへぐそくす
るに及ばず、馬一疋舎人一人づつぞぐしたりける、
判官のたまひけるは、数多の船に篝をたきて船かず

見すな、義経が船にかがりを焚殿原とて、二月十七
日の寅の刻に渡辺富島を押出して、南に向ひてわづ
かにきなかに帆をあげて、とり梶になりおも梶にな
して走るほどに、十八日のいまだあけざるに、三日
の海上を二時計りに、阿波国八間浦、尼子が津にこそ
吹つけたれ、夜もあけければ渚の方に、赤旗さして
五十騎計りにてかためたり、あはや敵のかためたは、
渚について馬おろさば、さんざんにいられんずるに、
馬に鞍置て追おろせ、船ばたに引つけておよがせよ、
足立ならばおのおのひたと乗てかけよとぞ下知しけ
る、我劣らじと鞍を置き、追おろし追おろし船ばたに引
付て泳がせけり、足立ちければおのおのひたひたと
乗て、をめいてさつと打上る、敵一矢も射ずして、
上の野に二町計りぞ引たりける、判官はおひ手もお
はせず、渚に打立て、馬の後足に波のかかる程に扣
へ給ひて、伊勢三郎を召して、きやつ原無下の下ら
うどもにてありけるぞ、行向ひて是等が中に宗徒の
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もの一人ぐしてまいれとのたまへば、義盛ただ一騎
あゆませ向ひて、鎌倉殿の御弟九郎大夫判官殿、こ
の浦につかせ給ひたるぞや、我と思はん者共は、甲
をぬぎて急ぎ参れとぞ詈り廻りける、此者ども聞あ
へずみな甲をぬぐ、其中に大将とおぼしき者、褐衣
鎧直垂に黒革をどしの鎧に、鹿毛なる馬に乗て、よ
はひ五十余なるものを、甲をぬがせ弓を弛、先に立
てでぞ参りたる、判官汝はいづくの者ぞと尋給へば、
阿波国坂西の奥に臼井の近藤六親家と申者にて候、
もとより源氏の御方に心ざしを思ひ参らせ候、幸に
今参合まいらせたりとぞ申ける、判官神妙に申たり、
さりながら大将軍ばかりは物具なせそとて、鎧を脱
せられけり、抑屋島のせいいか程あるぞ、当時は屋
島に勢はよも候はじ、伊予国の住人河野四郎通信が
召せども参らず、せめよとて阿波民部成良が嫡子田
内左衛門成直大将として三千余騎向ひ候ぬ、残一二
千騎ぞ候らん、阿波讃岐両国の浦々津々を、百騎五十

騎にて固められて候へば、屋島には勢は候はすとぞ
申、屋島はいか程の道ぞ、二日路候、此先に軍しつ
べき所やある、是より一里計り打せ給候はば、阿波
民部が伯父桜馬助良遠、八十余騎にて固めて候と申
ければ、さらば道しるべせよとて、先に追立てて桜
馬助良遠が館に押寄せてときをつくる、桜馬一矢も
射ずして落けり、館に火をかけてやき払ふ、判官こ
れをば何といふ所ぞと尋ね給へば、勝浦と申候、軍
に吉例とおもひて、汝は色代を申か、さは候はず、
御室御領五ヶ庄内、下臈はかつらと申候べとも、字
には勝浦と書て候、昔崇道尽敬天皇異賊を平らげ給
ひしに、軍かち給しよりして、勝浦と申伝へたりと
ぞ申、判官大に悦てこれきき給へ殿原、軍しに来る
義経が勝うらに着たる不思議さよ、さても義経が渡
りたりと屋島に聞かざらん先に、うてや者どもとて、
所々打従へてかけ足になりぬ、あゆませつをどらせ
つうつ程に、阿波の国坂東坂西打過て、阿波と讃岐
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の境なる中山のみなみ口にぞ陣を取る、翌日十九日
に夜立して中山を打こえ給へば、中山の北の口より
一町ばかり入たる竹内に、粟守庄御領に金山寺と云
堂にて百姓太郎ども集りて観音講しけるが、大饗も
りそなへてすでに行はんととどめきけるを、判官聞
給ひてここにこそ敵のあんなれとて、ときをどつと
つくりて馳込たれば、百姓等取物も取あへず、山の
奥谷の底、ここかしこに逃げかくれにけり、判官う
ち入て見給へば、饗どももりそなへたり、我等がま
うけしたりけるぞや殿原、講の座につきて行ひ給へ
やとて、判官座に着給へり、判官の前には講の師の
御房の料とおぼしくて、殊に大きなる大饗を三本立
にぞ取すへたる、いかでかただは行べき、講式よみ
給へや殿原との給へば、伊勢の三郎義盛は、日光そ
だちの児なりければ、甲を脱て側に置き、矢おひな
がららいばん[* 「らいばん」に「礼盤」と振り漢字]に上りて、花机なる式をよみすました
り、此講師の御房の装束こそけしからねども、式は

いつよりもよみすましたりとぞ人々笑合ひける、饗
ども行をはりぬれば、今日の講はいしうしたりなど
言て打出けるが、判官の給ひけるは、義経が曾祖父
八幡太郎義家は、貞任をせむるとて、十二年が間合戦
し給ひけるには、甲の座臆の座を立ちて、甲座につ
きたるつはものをもてこそ、貞任をば討給ひけれ、殿
原今日一人も残らず、甲座に着給ぬれば、平家を亡さ
んこと疑ひなしとぞ笑ひ給ひける、昨日十八日の観
音講にて有けるを、大風にやみて、けふ十九日にぞ延
たりける、屋島には大臣殿、小博士清基を御使にて、
能登殿の許へ仰られけるは、源九郎義経、既に阿波
国八間尼子浦に着たる由聞え候、定て通夜中山をば
越候らん、御用心候べしとぞのたまひける、判官う
てや殿原とて、馬を早め道をすすめてうつ程に、げ
す男一人宣下と覚えて、藤染の直垂に立烏帽子にた
てふみ持たるが、判官より先に行きけるにこそ追付
たれ、判官此男を呼び留めて、いづくよりいづくへ
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行く人ぞ、京より屋島の内裏へ参り候なりとぞ申け
る、京よりはいかなる人の御もとよりぞ、六条摂政
殿北政所の御方より候と申、判官我も召されて参る
が道を知らぬぞ、つれておはせよとて具して行が、
破子の所にてあの殿に破子めさせよとて、わりごく
はせて又ぐして行に、判官ちかくうちよせて問はれ
けるは、屋島の城はいかなる所ぞと、無下に浅間に
候ぞ、敵がしらでこそ申候へ、汐のみちたる時こそ
島になり候て、船なくて通ふべくも候はね、汐干候
ぬれば、西にそひて馬の太腹もつからず候ぞ、かれ
に添ひて落さんには何も候まじとぞ申ける、城近く
なりければ、その男捕へて縛り付よとて、道の辻の
率都婆に縛付て、持たるたてぶみとりて見給へば、
此ほど源九郎義経が大将にて渡り候也、さるすすど
き男にて、此大風吹候とも定めて寄せんずらんと覚
候、勢を召して用心候へとぞ書かれたる、判官悦で
是こそ義経に天の与給つる文なれ、鎌倉殿に見せ奉

らんとて、おし巻て鎧の胸板にさしはさみてうち給
ふ、其日は引田浦、白鳥、丹生の社、牟礼、高松郷
を打過て、同廿日の寅の刻には屋島の城にぞ押寄せ
ける、いまだ汐がひずして、くらつめひたる程なる
に、しばらく引抱て塩たるむ、伊勢の三郎が申ける
は、かかる大将軍を頼みて討死せん事疑ひなし、但
多勢を打すてて、僅の小勢にて此城へ押寄する事以
外の僻案か、かく申せば命を惜むに似たれども、義
盛其先にこそ死んずれとて、塩花蹴立させて、先陣に
かけてぞ寄たりける、平家の方には敵の馬の蹄にけ
立てられて、塩花のあがるをば二三千騎の大勢とこ
そは見たりけれ、かれに取こめられなば叶ふまじ、
とくとく御船に召さるべしとて、惣門の前の渚に付
けたりける船どもに、主上を始め参らせて各々皆召さ
れにけり、ここに惣門の前に真先かけて武者一騎出
きたれ、赤地の錦の直垂に、唐紅裾滋のきせながに、
烏黒なる馬の六寸計りなるに、黄覆輪の鞍置きて、
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躍らせてこそ出来たれ、誰なるらんと平家の方には
思ふ所に、船方に向ひて、一院の御使検非違使五位尉
源義経とぞ名乗りたる、其次に鹿島六郎惟明、金子
十郎家貞、同余一家忠、伊勢三郎義盛と名乗て、五
騎打連てぞかけたる、平家の方より、あれや源九郎
にて有けるものを、あれ討てやといへども、力及ば
ず、城をすてぬる上は、敵城内にかけ入て、火をさ
して焼はらひてかけ出けり、平家は是をみて、遠矢
にいる人もあり、さし矢に射るものもあり、五騎の
者ども弓手にあゆませめてにすらせていてとほる、
残りの兵後藤兵衛真基、新兵衛基清、片岡兵衛経忠、
佐藤三郎兵衛次信、同四郎兵衛忠信と名乗て、四十
余騎の兵ども我劣らじとぞかけたりける、越中次郎
兵衛盛次が、舟の屋形の上にのぼりて申けるは、名
乗つれども海上はるかにへだたりて分明に承らず、
今日の大将軍は誰人にておはするぞといふ、伊勢三
郎歩ませ出で申けるは、あな事もおろかや、清和天

皇十代の御苗裔、八幡太郎義家には四代の御孫、鎌倉
殿の御弟、九郎大夫判官殿にて渡らせ給ふぞかしと
申、盛次申けるは、去事あるらん、平治の乱に義朝討
れて後、尋出されて九条院雑仕常葉が抱て参りたり
し、二歳子が赦免の後、舎那王丸とてくらまにあり
し小童か、金商人が従者にて、粮料せおうて陸奥へ
まよひくだりし小冠者が事かとぞ申ける、伊勢三郎
申けるは、舌の動くままに、判官殿の御事を掛くも
忝く申か、いとど冥加のつくるに、明日甲斐なき命の
惜からんずれば、助けさせ給へとこそ申さんずらめ、
かく申者はとなみ山のいくさにまけて、山に追籠ら
れて、はうはう乞食して京へ上りたりし者どもか、
口のあきたるままに申かといへば、次郎兵衛が申け
るは、我君の御恩にていとけなくより衣食にとぼし
からず、何とてか乞食すべき、さ申人どもも、年来は
跂跪[B 「跂跪」に「ママ」と傍書]こそありしか、汝等は高瀬両村の辺にて、山賊
して妻子を養ひけるとこそ聞け、それらはさすがあ
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る事なれば、得あらがはじ物をとぞ申ける、金子十
郎家貞申けるは、せんなき殿原の雑言かな、なき事
をいはんには、たがひに夜ぞ明け日ぞ暮んずる、去
年の春一谷にて、武蔵さがみの若殿原の手なみは、
皆よく見たるらんものをとぞ申ければ、同余一がな
らびて立たりけるが、よく引て暫しかためて放ちけ
れば、悪口する越中次郎兵衛盛次が鎧の胸板に、し
たたかにこそ当りたれ、其後こそ詞戦ひは止りて音
もせざりけれ、能登の守、口惜きものかな、運の尽る
とてなになるらん、あれ程の無下の小勢を、大勢と見
て城を捨てて、御所内裏を焼せられぬるこそ安から
ね、いざや一矢射ん、船軍はやうある物ぞとて、唐
巻染の小袖にたうさぎかきて、唐綾をどしの鎧を着
て、渚に飛下りて、内裏の前のしばついぢにかいそ
ひて、寄する敵をまち給ふ、判官の乳母子に、奥州の
佐藤三郎兵衛次信とてかかりけるを、能登殿よくひ
きて放たりければ、弓手の脇をめてへつと射させて、

真逆様にぞ落ちける、のとの守童菊王丸とて大力の
剛のもの、長刀とりて三郎兵衛が首を取らんと寄せ
合するを、弟の四郎兵衛忠信が放つ矢に、菊王丸が
浅ぎ糸威しの腹巻の引合を、のぶかにこそ射通した
れ、菊王丸犬居に伏す、四郎兵衛菊王丸が首をとら
んと落合けるを、能登守差越して、大刀を抜きて片
手うちに禦ぎて、片手にては我童の左の脇をつかん
で、乗たる船にこそ投入れ給ひたれ、敵に首をば取
られねども、痛手負たる者を強く投られて、なじか
はたすかるべき、やがて船の底にて死ににけり、判
官頼みたりつる乳母子討れて、陣の後の松原に引過
ぎており居給ひつつ、三郎兵衛が首を膝の上にかき
のせて、次信いかが覚ゆるとのたまへば、いきをつ
き出して申けるは、源平両家の御あらそひのはじめ
に、屋島の浦にてかばねをさらしたりし次信といは
れんこそ、後代の面目なれ、但君の御戦未だ終らぬ
を、見置参らせて失せ候ぬるこそ、憂世に思ひ置事と
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ては候へと、申もあへずきえ入ければ、判官涙を流
して、此あたりに僧や有との給へば、あるもの僧一
人尋ね出して参らせたり、奥の秀衡入道が参らせた
りしするすみとて、黒馬の六寸にはづんで太くたく
ましかりけるが、鎌倉に早打にも、此馬一疋にて陸
奥より通りたりければ、奉公の馬也とて、我五位尉
になり給ける時、五位になして、大夫黒と名付けて
秘蔵の馬に、黄覆輪の鞍置て、件の僧にひけとて、
是は殊に思ふ様ありて引なり、相かまへて彼等が孝
養よくよくせよとてひかれければ、兵共是を見て、
此君のために誰か命をすてざらんとて、涙を流しけ
る、昔唐の太宗の高麗国を討んとて、自ら戦場に臨
幸し給て、大軍柳城に宿るに及んで、前後の戦に死
たる亡卒の遺骸を集て、哭し悲しみ給て大牢の備を
儲、自ら是を祭給へり、死兵の爺嬢是を聞て、男子
の喪せるをば天子啼哭給て、自ら是を祭り給へる上
は、死ても怨こころなしとて、帝徳をぞ感ける、諸

の勇士も是を見、いよいよ忠義を竭けんと思ひ知り
てあはれ也、武蔵国住人片岡兵衛経忠とて、をめい
てよせければ、能登守能ひきて放ち給へば、経忠が
鎧の引合羽房までこそ射こうたれ、しばしもたまら
す落にけり、是をしらまさじと新兵衛基清をめいて
駈ければ、能登守の放つ矢に内甲をしころへ射出さ
れて、矢に付てこそ落にけれ、能登守の矢先にかか
りて究竟の者五六騎は失にけり、それを始として平
家の侍ども揉にもうで戦ひける、其日判官軍に負て
引退けり、当国内牟礼高松の境なる野山に陣をとて
居給てけり、其夜平家、源氏を夜討にせんとぞ支度し
ける、平大納言の北方帥典侍殿の半物関屋が夫は、東
国の者にて、葛原又太郎と申者、源氏の陣を伺ひ見
て参候はん、今夜夜討にせさせ給へと申ければ、平
家の人々尤さもあらんとて、当国住人島尾次郎を差
添へてぞ遣しける、二人の者ども夫男の様にて、か
いまじはりて見ければ、甲を脱ぎて枕にしたるもあ
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り、箙を解て枕にしたるもあり、手負て吟居たるも
あり、いたみて東西を知らざるもあり、かかりけれ
ば、彼等走帰りて此由を申ければ、能登守大将軍と
して、我をば敵卅人にむけよとて、鎧とて打着て大
長刀つきて出立給へり、越中次郎兵衛盛次、上総悪
七兵衛尉、美濃国住人恵美次郎と三人副将軍の仰を
蒙て、寄すべきにて有けるに、源氏の方には判官と
片岡太郎経春と伊勢三郎義盛ばかりぞ、平家定めて
今夜夜討にせんと計るらん、一昨日渡辺より阿波国
へただ三時に走りて、大浪にゆられて又早打して、
今日終日戦ひ暮したる者どもにて、皆疲れふして音
するものこそなかりけれ、此三人ばかりぞ敵只今寄
せなんずとて、高き所にて遠見しつ、窪所には木楯
を構へて、敵来らば打おとさんと窺ひけり、されど
も越中次郎兵衛と美恵次郎と先を争ふ程に、既にど
しいさかひせんといとなむ程に、其夜の夜討はせざ
りけり、是も平家の運の尽ぬる所也、さる程に、阿

波と讃岐とに平家を背きて、源氏に志を思ふともが
ら、あそこの山のはざま、谷の底より隠れ居てあり
けれが、ここかしこよりはせ集りて、判官の勢三百
余騎にぞなりにける、其外又引別れて武者こそ七騎
来りけれ、判官何者ぞと尋ね給ふに、八幡殿の御め
のと子に、雲上の後藤内範明が三代の孫、後藤兵衛範
忠と申者也、年来山林に隠れ居て候つるが、源氏の
御代にならせ給ふと承りて、参りたりとぞ申ける、判
官は昔の好み思ひやられて殊に哀にぞ覚されける、
あくる廿一日の未明けざるに、判官又屋島の城にぞ
よせ給ふ、平家は昨日より船に乗居て、或は二三町
四五町に押うかびて、互にときを作りて寄合、時うつ
る迄射合けり、去程に日もくれほどになりて、尋常
にかざりたる船一艘、渚に向ひて船を平付に直す、
是は何船やらんと見る所に、紅のはかまに、やなぎ
の五衣きたる女房の、よはひ十八九計りと見えたる
が、紅の扇をくしにはさみて、船の舳さきにさし上
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げて是をいよとぞ叩きたる、判官是をみて、いかが
はすべき、射ざらんも無下なるべし、射はづしたら
んも不覚也、いつべき物やあると尋ね給けるに、後
藤兵衛真基申けるは、下野国の住人奈須太郎助高が
子に、奈須余一惟宗こそ、かけ鳥なんどを三かひな
に二かひなは仕る者にて候へ、小兵にてこそ候へど
も、余一を召て仕らせ給へとぞ申ける、余一仰を承
りて、褐衣の鎧ひたたれに、くろかはをどしの鎧き
て、きかはらげなる馬にのりて、渚に向ひてあゆま
せけり、馬の太腹つかるまで打入て見れば、馬はし
きりにすすみけるを、小手綱にゆらへて引拘たれば、
扇立てたる所は七たんばかりぞ見えたりける、かぶ
ら矢打くはせてみるに、扇は風に吹けて座敷にたま
らず、くるりくるりとぞめぐりける、まことに射にく
げなり、余一矢をはづして目を塞ぎて、帰命頂礼吾
国仏神、取わけては日光の大権現、宇津宮大明神、
この矢はづしつる物ならば、再び我が国へ帰るべか

らず、ただ今腹かき切りてすなはち海に沈むべし、
願くは此矢はづさせ給ふなと祈念して、目を見あげ
たれば、扇の座敷ぞ定りたり、矢束は十二束、飽ま
で引てしばしかためて放ちたれば、弓はつよし、海
の面に長なりして、あやまたずかなめ所を一寸ばか
りあげて、ひいはたと射たり、扇は空にさつと上る、
紅の扇の夕日にかがやきて、空にしばしひらめきた
るぞ面白き、海のおもてにさと落て、白波にこそ浮
びたれ、龍田河の紅葉の、河瀬の波に散まよふに異
ならず、月出したる扇の、浪の上にただよひたるが
面白さに、陸には箙をたたきてどよむ、海にはふな
ばたをたたきて感じけり、此の興に入て、黒皮威の
鎧を着たる武者の五十余ばかりなるが、扇立たる所
にさし出て、三時ばかり舞ひたりけり、奈須余一中
指をとてつがひて、首の骨をひやうつと射きりけれ
ば、海へ逆さまにこそまろび入けれ、こんどはにが
りて音もせず、色もなういたりと云人もあり、手全
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く射たりと云者もあり、彼扇たてたる女房は、もと
は建春門院の雑仕に参て、玉虫と召されけるが、当
時は平大納言時忠卿の中愛の前とぞ申ける、天下に
聞えたる美女なり、是をもて扇をたてたらば、九郎
判官さるなさけある男なれば、近く打寄せて興に入
んずらんとはかりて、船の艫屋形に簾をかけて、そ
の中に能登守教経、上総悪七兵衛景清以下惣じて十
余人、究竟の手たりの精兵をととのへて、近付より
たらば、一矢にい落さんと巧みて、さらぬ様にもて
なして、渚近くさし寄せたれば、判官先に心えて、
はるかに引退てぞ見られける、蘇武が胡国に囚られ
し事も、一百の城をかまへたりけるに、九十九の城
おとして、今一の城を攻落さんとしたるに、美女を
出て扇をたてて射させけるに、心ゆるしをやしたり
けん、生ながらとられて、十九年の春秋をぞ送りけ
る事どもぞんぢし、平家のはかりごと賢かりけれど
も、源氏それに落ざりけるこそいみじけれ、去程に

平家の方より、はし船に弓取一人、打ものもちたる
一人、楯付一人、以上三人乗せてするりと押し寄せ
て、渚に下りて楯を付きて、敵をよせよと招きたり、
判官これを見給ひて、先若党一あてあてよとのたま
へば、常陸国住人水深屋十郎、同弥藤次、同三郎、
武蔵国住人金子十郎、同余一、究竟の者五騎連てを
めいてかく、真先に水深屋が進むを、楯の陰より黒
つはの征矢の、塗のの十二束三ぶせあるを能引て放
ちければ、水深屋が馬の草分に、矢筈隠るる迄こそ
射こうたれ、馬がはぬれば足をこしてひらとたつ、
太刀を抜て額にあてて飛でかかるに、楯の陰より大
の男の大長刀持ちて走り向ふを、水深屋十郎しばし
むかひあひけるが、大長刀に叶はじとや思ひけん、
かいふして迯げけり、やがて追かけたり、大長刀を
ば左の脇にはさみて、右の手を差のべて、水深屋が
甲のしころをつかまんつかまんとするが、二三度取はづ
しけるが、追懸てむずととらへて、ゑいとひく、水
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深屋一すまひすまふやうにぞ見えける、鉢付の板よ
りしころをつと引ちぎりてぞ迯げたりける、残の四
騎は馬を惜みてかけず、どうれうどもが馬のかげに
迯入てかへり見れば、たけ七八尺ばかりなる大の男
が、左の手には大長刀を持て、右の手にはしころをさ
げて、あざ笑ひてぞ立たりける、我をば誰とか見る、
わらべの云なる上総悪七兵衛景清とこそ申なれとて
帰りにけり、平家は是をもて少し色直りたり、平家
勝に乗て船三十余艘を渚に押寄せて、兵三百人おり
立て源氏を射る、判官安からず思ひて、せめよや者
共平せめにせめよとてをめいてかく、源氏は馬武者
にて、さんざんにかけては引退て、馬の息を休め、又
押寄せては散々にせめ、我身をも休め、平家は徒武者
にて敵のよするをば防げ共、引時敵におつかけず、平
家はさんざんにかけられてけちらされ、こらへずし
て取物も取あへず、我先にと船に取乗て押出す、判
官は馬の太腹つかるまでせめ入て戦ひけり、船の中

より熊手を打かけて、判官の甲のしころをひかんと
す、如何したりけん弓をかけ落されて、うつぶして
是を取らんとするに、既にしころの上に熊手をから
と打かけたり、兵ども後に扣へて、御棲枝[B 「棲枝」に「たらしイ」と傍書]ただ捨て
て帰らせ給へや帰らせ給へやと申せども、終にふちにてかき
よせて、弓を取て帰給ふ、兵ども申けるは、たとへ
いかなる御弓にて候とも、御命にかへてとらせ給ふ
事、口惜しき事候と申ければ、義経宣ひけるは、弓を
惜むに非ず、大将の弓といはんものは、五人十人し
ても張らばこそあらめ、わうじやくの弓をとりもち
て、源氏の大将が弓よとて笑はん事のねたければ、
命にかへて取たるぞかしとのたまへば、兵ども皆理
とぞ申ける、熊野別当湛増は、源氏の方へや参るべ
き、平家の方へや参るべきとためらひけるが、唯神
慮に任せ奉り、田辺の新宮にて御神楽をしけるに、
御子託宣して申けるは、白鳩は白旗に付と申けれ共、
湛増猶用ひずして赤鶏七、白鶏七とり合せて、白は
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源氏の方、赤鶏は平家の方とて、社頭にて合せける
に、赤鶏は一つがひもつがはず負にけり、此上は疑
ふ所なしとて、若宮王子の御正体下し奉りて、柳の
枝に付け奉りて、旗文には金剛童子、倶利加羅明王を
かき奉り、二百余艘の兵をととのへて、田辺の湊よ
り漕ぎ渡りて源氏に加はる、河野四郎通信、一千余
騎の軍兵を率して、伊予国よりはせ来て源氏に加は
る、かかりければ九郎判官いとどちから付て、入替
入替荒手の兵どもをもてせめければ、平家こらへず
して屋島のいそをば引退、当国のうちしどの道場に
こもりて、伊予の国の勢をぞ相待ける、判官伊勢三
郎義盛を召して、伊予へ越たんなる阿波民部成良が
嫡子、田内左衛門尉成直を召して参れとの給へば、
義盛承候ぬとて十五騎の勢にて向ひけり、田内左衛
門は河野をば打迯しけれども、河野が伯父福茂新次
郎以下のともがら、百六十人が首を切て先に持せて、
家子郎等数多虜にして、館に火をかけて焼払ふ、三

千余騎の大勢にてゆゆしげにて帰る所に、伊勢三郎
義盛はなつきにこそ行合たれ、義盛が申けるは、いか
に和殿はいづくへとてましますぞ、屋島の城は追落
してやき払ひたるぞ、大臣殿はいけどられ、左衛門
尉殿は討死、新中納言殿、能登殿こそいしかりつれ、
和殿の父阿波民部殿は、降人に参てましましつるを、
義盛がもとに預け奉りて候ぞ、源氏の世には平家を
討ち、平家の世には源氏を射る、今に始めざること
ぞ、何か苦しかるべき、和殿も甲をぬぎ弓を弛て参
り給へ、義盛かくてあれば、和殿親子の命は申うけ
んずるぞと申ければ、是を聞て三千余騎の兵ども、
国々よりはせあつまられたる夷なれば、我前にとぞ
おちにける、年頃の者二三十騎残たれども、彼等申
けるは、然るべき事にてこそ候らめ、大殿もあれに渡
らせ給候なるに、唯とく甲を脱ぎて、弓をはづして
参らせ給へと申せども、軍せんおもひきるといふ者
一人もなし、力及ばず、田内左衛門甲をぬいて降人
P667
に社参りけれ、平家は田内左衛門生捕れぬと聞えけ
れば、頼む木の下に雨のたまらぬ心地して、しどの
浦をも押出し、波にゆられ風に随ひてぞ漂ひける、
阿波民部も、田内左衛門生どられぬと聞しかば、浦
浦島々につきたれども、気も心も身にそはず、我子
のゆくゑをぞかなしみける、四国の輩もこれをみて
進まず、所々の軍も、平家は成良を副将軍とも頼たり
ければ、四国の輩がすすまねば、次第にすいてぞみ
えたりける、廿二日、渡辺神崎両所にありつる源氏
の兵船、五百余艘になりて、かぢはらを先として、む
らめいてこそこぎきたれ、判官のともなりける兵ど
も是を見て、六日の菖蒲会はてての花いさかひ、いさ
かひはててのちぎり木かなとぞ笑ひける、三月十七
日、住吉の神主長盛院の御所へ参りて申けるは、去
十六日の丑刻に、当社の第三の神殿よりかぶらの音
聞えて、西をさして罷りぬと奏しければ、法皇御剱
を長盛に付て、御神宝以下種々のへい帛を相ぐして

奉らせ給ひけり、昔神功皇后新羅をせめ給し時、伊
勢太神宮より二人の荒御前をさし添給ふ、二神船の
ともへに立ちて守り給ふ、ついに新羅をうちたひら
げて、一神は摂津国住吉郡に止り給ふ、今の住吉大
明神と申是也、此大明神は苦海の塵に交り給ひて、
利生を施し給ふ事年久し、社は千木のかたそぎ神さ
びて、行合ぬまの霜をいとひ、御顔はよはひ八旬に
まします老人とぞ承る、一神は信濃の国諏方の郡に
とどまり給ふ、諏方大明神これ也、昔の征伐の事を
思召わすれず、か様にぞ祈り申させ給ひける、源氏
は三月十八日長門国おいつ、へいつに陣をとれば、平
家は門司の関壇の浦、ひく島にこそ陣を取れ、勝浦
引島いかがあるべからん覚束なし、源平両陣中間わ
づかに三十余町なり、四方浦々よりいくらといふ数
をしらず、兵船どもこぎ来り、源氏の勢はかさなれ
ば、平家の勢は落ぞゆく、されども平家の方にも跡目
に付て来り集る、兵船五百余艘なり、源氏のふねは
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三千余艘ぞありける、壇の浦にて判官とかぢはらと
して、いくさせんとする事あり、梶原、判官に申ける
は、今日の先陣は侍どもにたび候へ、判官のたまひ
けるは、義経がなくばこそとありければ、梶原いか
にまさなく君は大将にてましまし候へといへば、判
官、鎌倉殿こそ大将よ、よしつねは御代官として奉行
をこそうけたまはれ、和殿原も義経も唯同じ事ぞ、
一谷は南は海北は山、東西の道ほり切りて、籠る敵
十万余騎、たやすく攻め落しがたかりしを、義経鵯
越より身を捨て、ただ三時に追おとしつ、屋島の城
を落ししも、人は皆波風に恐れて渡らざりしを、義
経がただ五艘にてわたして、屋島の城を追落しつ、
いまはここばかりの詰軍になりたれば、先を駈て鎌
倉殿に奉公申さんずるなりとのたまへば、梶原先陣
を望かねて、此殿は侍のしうにはなりとげじとぞつ
ぶやきける、判官は腹をたてて、梶原は日本一のを
この者にてありけるはとの給へば、梶原もへりもお

かず、是はいかに鎌倉殿の外に主はなきものをとい
ふ、判官馬に打乗て、矢を取て打くはせんとし給ふ、
梶原も馬に打乗て矢取たばさみけり、伊勢三郎義盛
判官の馬の前に進んで、太刀の柄に手をうちかけて
三寸ばかり抜きまうけて、真中切らんと梶原をにら
まへてぞ立たりける、武蔵房弁慶大長刀のさやはづ
してつと寄る、佐藤四郎兵衛忠信つとよる、梶原が
嫡子源太景季、同平次景高、二人父が左右の脇につ
とよる、判官の馬の口に土肥の次郎実平、三浦介義
澄、左右の輿に取付て、両人共に泣々申けるは、是
程の大事を御前にあてさせ給て、同士軍せさせまし
まし候はば、敵の力になり候なんず、偏に天魔の所
為とこそ覚候へ、鎌倉殿のかへり聞召候なん事こそ
穏便ならず候へと申ければ、判官静まり給にけり、
梶原すすむに及ばず止にけり、三月廿四日源氏数万
艘の兵船、夜のあけぼのに押寄せたる、平家の軍兵
十万余人待かけて、互に鬨をつくる声おびただし、
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うへは悲相天までもひびき、下は海龍王も驚くらん
とぞおぼえたる、門司関壇の浦はたぎりて落つる汐
はやなり、平家の船は汐におひて出来たりけり、源
氏の船は汐に向て押落され、沖の汐の早ければ、梶
原船を押へて、敵の船の行ちがふ所を熊手を打かけ
て乗移り、小長刀を取持ちて、ともからへまでぞな
いたりける、首二取りて新中納言知盛の船の真先に
出来ければ、渚よりここなる船は誰が船ぞといふ、
船より答へけるは、東国の奴原の君の御笠印見知り
参らせぬものやある、名乗れと申せば、斎院次官親
能と申、ことわりや親能は古筆などぞとらんずる、
弓矢のかたは珍しなどとてはと笑ふ、和田左衛門尉
が未だ和田太郎とて有けるが、褐衣の鎧直垂に、赤
地錦にて袖かへて、黒皮威の鎧に、黄河原毛なる馬に
乗て打立つ、沖なる新中納言の船をささへて射る、
渚より沖にむけて二町余り三町に及びて、新中納言
の船を射越して、二の征矢を一所にこそ射うかべた

れ、中納言此矢を召寄せて見給へば、鷹の羽染羽、中
黒わり合せて作りたりけるが、かざらぬ十三束三ぶ
せに口巻より一束あけて、白箆に和田小太郎義盛と
焼書をこそしたりけれ、此矢ぞ物にも強く立ちて遠
くも行きける、和田小太郎其矢給はらんとぞ招ける、
新中納言これに遠矢射つべき兵や有ると尋給へば、
伊予国住人新紀四郎親家ぞ撰れて参りける、御船の
屋形に召されて二の征矢を暫くつまよりて、和田太
郎は渚より沖へ二町余り三町をこそ射たるに、是は
沖より渚へむかひて四町余りぞ射たりける、親家一
家の者どもが申けるは、和田小太郎が我ほど射る者
あらじと思ひて、まねきてかきたる黷弓かなとぞ申
ける、和田小太郎射劣りぬと思ひて、意趣を立てて、
小船に乗て漕ぎめぐり漕ぎめぐり、おもてに立たる者を差
つめ差つめ射払ければ、おもてを合するものなかりけ
れば、新中納言船をぞこぎ去り給ひける、新中納言
船の屋形に立出て、四方を見渡し給ての給けるは、
P670
日本我朝にもかぎらず、天竺震旦にもならびなき名
将勇士といへども、運命の尽ぬるのちは力及ばず、
されども名こそ口惜けれ、東国の奴原に弱げ見ゆる
な者どもとのたまへば、越中次郎兵衛盛次が侍ども、
此仰承れと申ければ、あはれ同くは大将軍九郎義経
に組ばやといふ、盛次が申けるは、九郎はせい小き
男の白きが、向ふ歯そりたるなるぞ、さまをやつし
て尋常なる鎧は着ぬ也、ここにて着たる鎧をば、か
しこにてはかへ、かしこにて着たる鎧をばここにて
かへ、常に鎧を着かゆるなるぞ、これを心得てくめと
云ば、中坂東の奴原は、馬の上にてこそ口はきく共、
船軍はいつ習べきぞ、魚の木に上りたるに似てこそ
有んずれ、九郎は心こそ猛く共、せい小き者なれば、
目懸てんにはなじかは組ざるべき、ひくんで海へ入
んずる物をとぞ申ける、新中納言か様に下知し廻り
て、大臣殿の御船に参り給て、今日は御方の兵共軍は
よくしつと覚え候、侍共が事柄よくみえ候、但し成

良が色の変りてみえ候しや、首討候ばやと申給へば、
只今見えたる事もなきに、いかがさうなく切んずる
ぞ、一定を聞き定めてこそとて、分明の御返事なし、
軈てめせとて、阿波民部成良を召さる、木蘭地の直垂
に、赤威の鎧をぞ着たりける、御船のせがいに畏て
候けり、大臣殿いかに成良は色かはりて見ゆるぞ、
おくしたか、四国の者共に軍よくせよといふべしと
仰ければ、なじかは臆し候べきとて立にけり、新中
納言哀れしや首をうたばやと覚されけれども、大臣
殿ゆるし給はねば力及ばず、平家は五百余艘の船よ
り山鹿兵藤次秀遠、菊池三郎孝康以下、強弓せいび
やうを五百人撰び出して、矢面に立ちて射ければ、
源氏の先陣こらへずして、兵船ども少し退く、平家は
御方勝ちぬとて、せめつづみ打て悦の鬨をぞ作りけ
る、其最中にいくらと云数を知らず、鯨ぞ喰て出来
る、大臣殿、小博士を召していかなるべきぞと御尋あ
れば、博士勘申けるは、此鯨が喰かへらば御方御悦
P671
なり、喰通りぬる物ならば、御方御大事只今にあり
とぞ申ける、それに平家の方の船の下を無相違喰
通りぬ、博士泣々今はかう候とぞ申ける、是を聞給ひ
ける人々の御心の内、さこそ浅ましく覚されけめ、
判官は射しらまされて、いかがあるべきと思ひ煩ひ
給けるに、しばしは白雲やらんと見えけるが、空よ
り白旗一ながれ判官の船の前に押付け、渚の見ゆる
迄おりければ、八幡大菩薩の現ぜさせ給ひたるとて、
判官以下の軍兵甲を脱ぎて拝み奉る、平家もはるか
に是を見て、 身の毛もよだちてぞ覚えける、平家五
百余艘と申は、松浦党の船百余艘、山鹿兵藤次秀遠が
一党三百余艘、平家の一門の船百余艘也、平家は四
国九州の兵をば、後陣の武者に頼みて、定めてとも
に鬨を合せ進むらんと思ひ給ひければ、四国の者ど
も源氏と一になりて、平家を中に取籠てさんざんに
射る、平家周章てまよひ給にけり、今まで御方と思
しつる者どもが、我に向て弓を引剱をぬきければ、

敵も御方も見分けず、源氏は唐船をぞ心にくうはせ
んずらんとて、唐船にはけしかる物どもを、武者に
作りてのせあつめて、兵船には究竟の船をのせて、
源氏唐船に乗うつらば、兵船にて押まきて討んとし
たりけるに、阿波民部がかへり忠してければ、源氏
唐船に目をもかけず、兵船に押寄せて、水手梶取ど
もを射伏せ切りふせければ、船を直すに及ばず、ろ
棹を捨てて、船の底に倒れ伏しければ、源氏みな平
家の船に乗移り、さんざんに戦ふ、哀れ新中納言の
よくのたまひつる物をと、人々後悔しけれどもかひ
なし、阿波民部成良は此二三年平家に忠をつくし、
度々の軍に父子ともに身命を惜まず戦ひけるが、事
の体いかにも叶はじと思ける上、嫡子成直生捕られ
にければ、判官に心を通はしければ、当国の住人等
源氏に従ひ、忽にかくしけるこそ人の心はむざんな
れ、是も平家の運の尽ぬる故也、新中納言知盛は、
女房達の御船に参りて、見ぐるしきものども取清め
P672
候へやとのたまへば、女房達軍はいかにと問はれけ
れば、軍は今かう候、はやいつしか珍しき東男どもを
こそ御覧ぜんずらめとて、打笑ひ給へば、何といふ只
今の戯ぞやとて、泣あひ給ひけり、二位殿はこれを
聞召し、鈍色の二衣に袴のそばとりてはさみ、八歳
にならせ給ふ先帝を抱き奉り、我身に二所結付け奉
る、宝剣をば腰にさし、神璽をば脇にはさみて出給
ひければ、先帝是はいづくへぞと仰ありければ、弥
陀の浄土へぞ我君とて、波の下にしづみ給ふとて、
今ぞしる身もすそ川の御ながれ
波の下にもみやこありとは W141 K214
かなしきかなや、無常の風、忽に花のすがたをちら
し奉る、いたはしきかなや、分段の荒き波、忽に玉
体を沈め奉る、昔は万乗の主として、殿をば長生と
名付け、門をば不老と号せしかども、雲上の栄花尽
はて給て、海底に沈み給ふ、女院是を御覧じて、御焼
石御硯箱を左右の御袖に入れさせおはしまして、一

所にぞ入せ給ひける、判官の郎等に渡辺右馬允眤が
熊手に懸て引上奉る、小船にのせ奉りて漕去りぬ、
大納言典侍殿、内侍所をとり参らせ給て、海へ入ら
んとせがひに出給けるを、御衣の裾を船端に射付ら
れて、引もかなぐり給はず、内侍所をおさへ参らせ
て、うち伏せ給たりけるを、斎院次官とり参らせて、
小船にのせ奉りて漕ぎ去りぬ、これを始として女房
達我先にとぞ入給ふ、入らんとするをば扣へたり、
入たるをば取上る、女房取上られてをめきさけび給
ふ声、いくさ叫びにも劣らず、天も響き海中もひび
くばかりなり、先帝御としのほどよりもおとなしく
こえさせ給て、御姿いつくしく、御すがた髪もゆら
ゆらとして御肩すぎ、せ中にふさふさとかからせ給
たり、御面影いつの世まで忘るべきならねば、人々
女房たちも泣かなしみ給ふも理也、門脇中納言教盛、
修理大夫経盛兄弟二人、鎧のうへに碇を負ひて一所
に入給ふ、内侍所の入せ給ひたる御からびつのくさ
P673
り、かなくりからげをきりて、武士あけんとしまいら
せけるが、忽に目くれ鼻血たりけるを、平大納言時
忠いけどられて、からからおはしけるが、あれは内侍
所のわたらせ給ふ物をとのたまひければ、九郎判官
あらかたじけなの御事や、そこのき候へとのたまへ
ば、武士共ちりぢりにのきけり、判官平大納言に仰
てもとのごとくをさめ給ひぬ、小松御子息新三位中
将資盛、左少将有盛、若くいとけなき人々の弓を差ち
がへ、手を取組みて抱合て一所に入給ふ、丹後侍従
忠房はかきけすやうにうせ給ぬ、大臣殿は入らんと
もし給はず、船端に立ちて四方を見まはしておはし
けるを、余りのにくさに侍が通るやうにてつき入奉
る、是を見て右衛門督飛で入給にけり、大臣殿は右
衛門督沈まば我も沈み、右衛門督取上られば我も生
捕れんとおぼしけるに、右衛門督は大臣殿助り給は
ば我も助り、沈み給はば我も沈まんと思ひて、互に目
をかけあなたこなたゆられ給けり、人は皆鎧の上に

重き物を負ひ、或は抱合て入ればこそ沈みても死け
れ、大臣殿親子は素肌にて入給たりける上、究竟の
水練にておはしけり、立およぎにしつ抜手およぎに
しつ、犬掻游してふつと死げにもなし、伊勢三郎義
盛が熊手に懸て右衛門督をとりて引上げ奉る、大臣
殿はわざと游ぎよつて捕はれ給ひぬ、御乳母子の飛
騨三郎左衛門景経、何者なれば君をば生捕奉るぞと
て、太刀を抜て懸るに、義盛が童中にへたつるが、
景経一の刀に甲を打落す、次の刀に頭を二に切りわ
りぬ、堀弥太郎近くはよらで立止りて、能引て放つ
矢に、景経が内甲を射させて、ひるむやうにしける
を、弓を打捨て引組て投げまるばして、押へて首をぞ
取りてける、大臣殿我身捕上られて、目の前にて乳
母子がかくなりけるを見給て、いかなる御心地し給
ひけんと思ふぞ浅ましき、平中納言教盛の御子能登
守教経は、大力の剛の人、強弓のせいひやう矢つぎ
ばやの手ぎきなり、打もの取ては鬼神にもまけまじ
P674
と振舞給ふ、廿七にぞなり給ふ、矢つぎばやの手ぎ
きなり、打物とりては、所々の軍にいまだきず一所
もおひ給はず、矢比に参る者は射殺さずといふ事な
し、矢だね皆射つくして、打物持てぞ戦ひ給ひける、
向ふ者をばないたりいたり、にぐる物をば追かけて、
さんざんに討取給けり、我太刀長刀皆打折り、向ふ
敵に寄せ合せて、足をあげてふみたをして、其太刀
長刀を奪ひ取りて戦ひ給ひけり、それも皆打折て、
能登守殿黒革威の鎧を袖も草摺もちぎりすて、胴ば
かりを身に巻きて、丸ざやの太刀の鞘ばかりぞ腰に
残りたる、甲をも着給はず、大あらはになりてなに
も持たず、左右の手をひろげて、敵を待てのたまひ
けるは、所知しらんと思はん者は、我を生捕にして
鎌倉に行け、頼朝にいふべき事あり、対面させよと呼
はり給ふ、寄する者をばかいつかんで海へ投入れふ
み入れ、あたりを払ひて振舞ひ給へば、敵も御方も
目をすまして見ける所に、判官是を見て申されける

は、昔より弓箭取て名をなす人にも、まけ軍になり
ぬれば、みな臆する習也、あはれ能登守は手もきき
心も剛なる者かな、あの殿一人を助けて大将にせば
や、此三四年のほど源氏の矢種を尽して、今まで天
下を鎮ざる事、あの殿故ぞかし、のがれ給ふべき事
ならば、あたら大将かなとぞの給ふ、新中納言のた
まひけるは、能登殿や、いたくな罪作り給ひそ、さ
せるよき者にてもなかりけりとのたまひければ、能
登守は、あな是は大将軍九郎に組めとのたまふござ
んなれ、我もさこそ思へども、九郎が見えばこそ、
いかにもして相構へてくまんと思ひ給ふに、能登殿
と判官と寄せ合する事二度ありけり、能登守は鎧甲
に小長刀持ちておはしけり、判官もよろひかぶとに
小長刀にてありけるに、能登守、判官と見てければ、
則ち乗移り給て、艫より舳まてぞ追掛給ふ、既に討
れぬと見えけるに、判官長刀脇にかいばさみて、そ
ばなる船の八尺余り一丈ばかりのきたるに、ゆらと
P675
飛びたまふ、能登守早わざやおとり給ひけん、続て
飛び給はず、かかる事二度ありけり、其後は判官人
をすすめんとて、面にたつやうにせられけれども、人
だにも進めば、かい紛てうちへ入らざりければ、す
べて組べき様ぞなかりける、安芸守が子孫にてはな
けれども、安芸大領が子に、安芸太郎真光といひ
ける大力のがうの者、我身に劣らぬしたたか者二人
を語ひて、三人心を一にして申けるは、いざや能登
殿に組ん、一人づつ寄すればこそ取詰らるれ、我等三
人取付たらんには、たけ十丈の鬼神なりとも、しば
しはなどかひかへざるべき、いざ組んとて、三人小
船に乗て、能登殿の船の袂に小船の舳をがはとつか
せて、打物にて飛でかかりけり、一人進みけるを、能
登殿よせ合せて蹴給へば、海へさとけ入給て、残二
人つと寄を、左右の脇にかいばさみて、一しめしめ
て少しこはしとや思はれけん、いざこれさればおの
れ等とて、はさみながら海へつと飛入給ふ、其後は

又も浮び出ざりけり、新中納言見べき事はみつ、今
はさてこそあらめ、此奴原もけしかる者どもにてこ
そありけれとて、乳母子の伊賀平内左衛門家長を召
して、いかに家長やくそくはとのたまへば、忘れ候
まじとて、主にも鎧二領を着せ奉る、おのれも鎧二領
着て、主と手を取り組て一所にぞ入にける、筑紫の
者に八代の大夫重安は、鎧物の具ぬぎすて、親子二
人連ておよぎけり、にくし射殺せとて、源氏の軍兵
さしつめさしつめ射ければ、海の底をすみて廿余町游て
のち、重安嫡子小太郎重茂に申けるは、右の足を物
がくはへて引入るれば、今は斯と覚ゆるぞ、我を助け
よといひければ、父が足をとりて見れば、余りにあ
はてて右のすね当の上の緒をば解て、下の緒を解か
ざりければ、すねあてがすびきて、海の底に引入る
るやうにしければ、重茂父がすねあての緒を喰ひ切
て捨てたりければ、大息をつきて今は助りぬとて、父
子連て海上一里余り游ぎて、豊前国柳が津にこそ上
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りたれ、空しき船は浪にゆられ、風にしたがひてぞ
ただよひける、赤旗赤符海上にちぎりすてたれば、
紅葉を嵐の吹散せるに異ならず、水血に変じて渚に
よる浪も紅なり、生捕には前内大臣宗盛公、御子息
右衛門督清宗、八歳若公童名副将軍殿とぞ申ける、
平大納言時忠、同子息内蔵頭信基、讃岐中将時実、兵
部大輔尹明、僧には二位僧都全親、中納言律師忠快、
経誦房阿闍梨祐円、侍には肥後守貞能、源大夫判官
季貞、摂津判官盛澄、橘内左衛門季康、女房には女
院、重衡北政所、大納言典侍、人々の北方、上下女
房廿三人、都て生捕三十八人也、二位の外は千尋の
底に沈給ふ人もなし、一目も見給はざりつる荒夷ど
もの手にかかりて、都へ帰り給ふ心の中、王昭君が
夷に囚て、胡国へ行けんかなしみも、いかでか是に
はまさるべきとぞ覚えける、此御門受禅の日は、昼
の御座の御しとねの縁を犬喰やぶり、夜の御殿の御
帳の内に鳩入籠る、御即位の時は高御厨後に女房俄

に絶入り、御禊の日は、百子の帳の前に夫男上り居、
御在位三ヶ年が間、天変地夭打続て、諸寺諸社より恠
を奏する事ひまなし、春夏は早魃、秋冬は大風洪水、
東作の業を致すと云ども、西収の勤めにも及ばず、
三月に雨無うしては、青苗秀でずして多く横れ、九
月に霜降て秋早く寒し、秋穂は熟せずして青ながら
乾く、天下人民餓死に及ぶ、わづかにいのち生たる
者も、譜代相伝の住所を捨て、境を越えて浪人となり
て、心をくだき、愁る者里に満て、浦々には海賊、関
関道々には山賊、東国北国の合戦騒動、天行時疫飢饉
疫病大兵乱大焼亡三災七難、残る事なかりき、貞観の
旱永祚の風、上代の事なれども、此御門の御時程の事
はなしとぞ承る、秦始皇は荘襄王が子にはあらね
ども呂不韋が子也、然而天下を持事三十七年ありき、
然れば或人の申けるは、異国には斯る例も多かりけ
り、重華と申す御門は民家より出たりとこそ申しか、
高祖も太公の子なりしかども位につきたりき、本朝
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には人臣の子として、位をふむ事未だ承らずとぞ申
ける、元暦二年の春の暮、いかなる年月なればにや、
一人海中に沈み、百官波の上にただよふらん、
元暦二年四月三日未刻ばかり、九郎大夫判官義経、
使を院へ参らせて申けるは、去月廿四日長門国壇の
浦門司関にて、平家の輩悉く生捕にして、三種の神
器、事故なく返し入させ給べしと申たりければ、上
下悦あへり、使、源八広綱とぞ申ける、広綱を御所に
召て合戦の次第委く御尋あり、御感の余りに左兵衛
尉に召仰られけり、五日猶御不審の間、北面の下ら
う藤判官信盛を西国へ下し遣はす、宿所へもかへら
ず、やがてむちを上げてはせ下りける、
十六日九郎大夫判官生捕ども相具して都へのぼる、
播磨国明石浦にとどまりけるに、夜の更行ままに月
隈なくて、秋の空にもおとらざりけり、渚の浪も静
にて、女房たちかしらさしつどひて忍び声になく、
さらぬだにもの哀なるべき磯の苫屋の旅ねなりけれ

ば、さこそは悲しく覚しけめ、中にも帥典侍殿つく
づくと詠め給て、いと思召し残す事なかりければ、
枕もうかぶばかりにて、
ながむればぬるる袂にやどりけり
月よ雲井のものがたりせよ W142 K215
雲のうへに見しにかはらぬ月影は
すむにつけてもものぞかなしき W143 K216
本三位中将北方、
我身こそあかしの浦に旅ねせめ
おなじ水にもやどる月かげ W144 K217
と口ずさみ給ひたりけるが、さこそものかなしくて
昔も恋しかるらめ、折しも哀に聞えけり、
昔北野天神大宰府に遷給けるに、此所に止り給たり
けるに、名にしおふ明石の浦の月なれど都より猶く
もる空哉と、詠じ給ひける御心の中もかくやと覚て
哀也、されどもそれは御身一人の御事なりしかば、
是はさしもむつましく思召しける人々は、そこのみ
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くづとなりはて給ひぬ、百官浪の上に浮び、平家の
一門は軍兵に囲まれ、国母官女は東夷西戎にかこま
れて、各々故郷へ帰入せ給たりとても、むなしき跡の
見えて、落付居させ給ふべき所もなかりければ、た
だいかにもならばやとぞ思召ける、せめてのかなし
さの余りに、月よ雲井の物語せよと、常は口ずさみ
給ひけるぞ哀なる、九郎大夫判官東人なれども、優
に艶ある心地して、ものめでしける人なれは、身に
入て哀にぞ思ひ給ひける、
同廿五日に、内侍所神璽鳥羽殿に着せ給ければ、勘
解由小路の中納言経房、高倉宰相中将泰道、権右中
弁兼忠、蔵人左衛門権佐親雅、榎並中将公時、但馬
少将範能御迎に参られけり、御ともの武士には九郎
大夫判官義経、石河判官代義兼、伊豆蔵人大夫頼
兼、同左衛門尉有綱とぞ聞えし、子刻先太政官の庁へ
入せ給ふ、内侍所注の御箱帰り入せ給ふ事はめでた
けれ共、宝剣はうせにけり、神璽を注の御箱と申、海

上に浮たりけるを、常陸国住人片岡太郎経春、取上
げ奉りたりけるとぞ承る、神代より伝はりたる霊剣
三あり、草薙剣、天蛇斫剣、十握剣是也、十握剣は
大和国いその上布留の社にこめらる、天蛇斫剣と申
は、元は羽々斬の剣と申けるとかや、此剣の刃の上
にあたる物の、自ら斫れずと云事なし、されば利剣
と申し候より蛇の剣と申伝たり、此剣は尾張国熱
田宮にあり、草なぎの剣は内裏にとどまる、代々の
御門の御守也、即宝剣と申は是也、昔素盞烏尊、出雲
国素鵞の里に宮作りし給し時、其所に八色の雲常に
たなびきければ、尊御覧じてかくぞ詠ぜさせ給ひけ
る、
八雲たつ出雲八重垣つまごめに
八重垣つくるその八重垣を W145 K219
これぞ大和言葉の三十一字のはじめなる、国を出雲
と号するも、此の故とぞ承はる、素盞烏尊出雲国へ
流され給たりけるに、其国の簸の川上の山にいたり
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給時、村南村北に哭する声たえず、これを恠しみて
尋行給ふに、一人の老翁老婆あり、其娘十三人あり、
十二人は年ごとに大蛇のゑじきになりぬ、一人の娘
生年十三になる、容顔人に勝れたり、名をば奇稲田
姫と号す、曾波姫とも申けり、大蛇呑んとする故に
なくなりと申ければ、尊是を憐み給て、其ひめ我に
得させてんやとの給へば、命をいけられ奉りてんに
は、いかでかをしみ奉るべきと申て、かの曾波姫を
尊に奉る、すなはち后になし給にけり、装束せさせ
奉りて、湯津の妻櫛と云に取なして、御もとどりに
さし給て、后の父出雲国美須の郡に長者にて有けり、
名をば手摩乳と云、母妻をば足摩乳といふ、かかる
長者にてありければ、八〓の酒を八の船にたたへて、
后を大蛇の居たるうへの山岡に立て奉りて、そのか
げを酒船の底にうつしたまひたりけるに、大蛇来れ
り、尾頭ともに八あり、せなかの上には苔むしても
ろもろの木生ひたり、眼は日月の光のごとし、年々

人をのむ事幾千万といふ事をしらず、是によて村南
村北に哭する音絶ざりけり、大蛇八の頭八の尾、八の
岳八の谷に匍はびこれり、此酒をみるに、后八の船
にうつり給たりければ、大蛇后の影を見て、后を呑
奉らんと、八の頭八の船に各々一つづ酒船に落入て、
あくまでのみてゑひふしたり、其時素盞烏尊帯給へ
る十握の剱をぬいて、大蛇を寸々に切給ふに、其尾
あへて伐せず、割て見給へば、尾の中に一の剱あり、
是神剱也、則天照太神に獻りつつ、我天岩戸にとぢ
籠りたりし時、近江国伊吹が嶽に落したる剱也と申
されければ、伊吹大明神と申は是也、此剱大蛇の尾
に有る時、常に黒くもおほへり、故に天むらくもの
剱と名づく、天孫天下給しに、天照太神三種神器を
さづけたまひしその一なり、昔ある者鬼神に追れて
逃けるに、いかにも逃のびつべくもなくて、既に囲
まれんとしければ、懐よりつまぐしを取出して、う
ちかきたりければ、鬼神追はずしてかへりにけり、
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素盞烏尊も是をおぼし出して、かの后を湯津の妻ぐ
しに取なし給ひけるにや、命はのびにけり、素盞烏
尊と申は、出雲国杵築大社と申は是也、此村雲の剱
は、天の宮の御宝とし給けるに、葦原中国の主にて
天孫をくだし奉り給しとき、御剱を御鏡に添へて獻
り給けり、代々帝王内裏に崇置給たりけるを、崇神
天皇御宇六年に、霊威に恐れて天照御神豊鋤入姫の
命に授け奉りて、大和国笠縫村磯城のひもろぎにう
つし奉りし時、草薙の剱を天照御神に副奉り給ふ、
彼時石凝姫と天目一箇の二神の苗裔にて、剱を鋳改
て御守とし給しに、もとの剱にあひ劣り給はず、草
薙の剱は、崇神天皇より景行天皇迄、天照御神の社
壇に崇置れたりけるを、まきむくの日代の朝の御宇
四十年に、東夷叛逆の聞えある間、日本武尊御心も
剛に御力もすぐれてましましければ、此尊を東国へ
下し奉りけるに、伊勢太神宮へ参りて、倭姫命をもて
御いとまを申させ給けるに、崇神天皇の御時、内裏よ

り納奉し天の村雲の剱を、倭姫命をもて日本武尊に
授け奉給ふ、尊これを給て、東国へおもむき給て、
駿河国に着給ふ、浮島が原にて其国の賊徒偽て、此野
に鹿多し、狩て遊ばせ給へと申ければ、尊野に出て狩
したまひけるに、草深くして弓矢をかくす計り也、
凶徒尊を焼殺し奉らんとて、四面に火を放つ、尊帯
給へる天の村雲の剱をもて草を薙給ければ、火とど
まりにけり、又是より火を出し給たりければ、風忽
に夷賊の方へ吹覆ひて、凶徒悉く焼死にけり、それ
より此所をば焼けつぼといふ、天の村雲剱を是より
草薙の剱とあらたむ、日本武尊国々の凶徒を討平げ
て、所々の悪神を鎮て、同四年〈 癸丑 〉に尾張国へ帰り給
て、伊勢国へ移り給しに、伊吹の山神の毒気に当り
給て、御脳重かりければ、生取の夷共をば太神宮へ
参らせ、日本武彦をば都へ奉て、天皇に奏し給ふ、
去程に御年三十にて薨給て、白鳥となりて西を差て
飛去り給にき、讃岐国に白鳥の明神と申は、日本武尊
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の御事也、草薙の剱をば、尾張国熱田の社に納たて
まつりたりしを、其後天智天皇七年に新羅の沙門道
鏡、是を盗み取て新羅へ渡る、波風荒くして忽に海
底に没せんとす、是霊剱の崇也とて、彼剱を海中に
投[B 没イ]つ、龍王是をのせて奉獻す、天智天皇朱鳥元年に、
尾張国熱田社へ送り奉る、是のみならず、陽成院狂
病にをかされ給て、宝剱をぬき給へりけるに、夜の
御殿ひらひらとして雷のごとし、恐怖て宝剱を〓給
たりければ、白旗となりてさやにさしにけり、世の
世にて有る程はかうこそありけれ、平家取て都の外
へ出給ひ、二位殿腰にさして海に入給とも、上古な
らばなじかはうすべき、末代こそ心うけれ、かづき
する海人に仰せて是を求させ、すゐれんするものを
めしているれども見えず、天神地祇に幣帛を奉て、
祈り大法秘法行はれけれども其験なし、竜神是を取
て龍宮に納てければにや、つひに出来らざりけり、
時の有職の申されけるは、八幡大菩薩百王鎮護の御

誓あらたまらずして、石清水の御流つきざる上、天
照御神月読尊、明かなる御光いまだ地に落給はず、
末代澆季なり共、帝運の極る程の事あらじとぞ申給
へりける、或儒士の申けるは、昔出雲国素盞烏尊に打
殺され奉る大蛇、霊剱を惜む執心深くして八頭八尾
標木として、人王八十代後八歳の帝となりて、霊剱
を取返して、海底に入給ふ共申、九重の淵底の竜神の
宝となりにければ、二たび人間に返らざるもことわ
りなりとぞ傾申ける、二宮今夜京へ入らせおはしま
す、院より御迎に御車を参らせらる、七条侍従信清
御供に候はれけり、七条坊城の御母儀のもとに渡ら
せ給ひけるを、もしの事あらば儲の君にとて、二位
殿のさかさかしく具し参らせられたる也、都にまし
まさば、此宮こそ御位に即せおはしまさましか、し
かるべき事なれども、四宮の御運のめでたくましま
すとぞ時の人申ける、御心ならず旅の空に出させ給
て、波の上に三年を過させ給ければ、御母儀も御乳
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母の持明院の宰相も覚束なくて、恋しく思ひ奉りつ
つ、いかなる御まさにか聞なし参らせんずらんと思
けるに、安穏に入せ給たりければ、見奉りてたれもた
れも悦泣しておはしましける、此御子は今年七歳に
ならせ給ふとぞ聞えし、四月廿六日には、内大臣以
下平氏の生捕ども京へ入る、八葉の車にのせ奉て、
前後の簾を上げ、右左の物見を開く、内大臣は浄衣を
ぞ着給へる、御子右衛門督清宗御年十七、白き直垂
着て車の尻に乗給へり、季貞、成澄、馬にて供にあり、
平大納言おなじくやりつづく、子息讃岐中将時実、
同車してわたさるべきにてありけるが、身所労なり
ければ渡さず、内蔵頭信基疵を蒙りたりければ、閑
道より入にけり、軍兵前後左右に打囲めていくらと
いふ事をしらず、雲霞のごとし、内大臣は四方を見
廻して、いたく思ひ入り給つる御気色もなし、さし
も花やかになさけありし人の、あらぬものに疲衰給
へるぞ哀なる、右衛門督はうつぶして目も見あけ給

はず、ふかく思入給へる御気色なり、貴賎上下見る
人都の内にも限らず、遠国近国山々寺々より、老た
る若き来集て、鳥羽の南門作道四塚に続きて、是を
見る人は顧ることをしらず、車は轅もめぐらすこと
を得ず、仏の御智恵猶籌尽がたし、治承養和の飢饉、
東国北国の合戦に、人は皆死うせたると思ふに、猶
残り多かりけりとぞ見えし、都を落給てわづかに中
一年也、無下に間近き事なれば、めでたかりし事も
忘れず、今日の有さま夢まぼろしとも分けがたきも
のの、心なきあやしの賎の男しづの女に至るまで、
涙を流し袖を絞らぬはなかりけり、ましてなれちか
づき、詞のつてにもかかりけん人の、いかばかりのこ
と思ひけん、年来重恩を蒙り、親祖父の時より伝はり
たる輩も、身の捨がたさに多く源氏に附きたりしか
ども、昔のよしみは忽に忘るべきにあらず、いかば
かりかなしかりけん、おしはかられていとをし、さ
れば袖を顔におしあて、目も見あげぬ者もありける
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とかや、今日内大臣の車やりつる牛飼は、木曾が院
参の時車やりて門を出したりし、孫次郎丸が弟の小
次郎丸也けり、西国にてはかりに男になりて有ける
が、今一度大臣殿の御車をやらんと思ふ心深かりけ
れば、鳥羽にて九郎大夫判官の前にすすみ出て、舎
人牛飼など申者は、下臈のはてにて心あるべき者に
は候はねども、年来おほしたてらて、その志浅から
ず候、さも然るべく候はば、大臣殿の最後の御車を
仕らばやと思ひ候と、なくなく申ければ、九郎大夫
判官憐み給て何かは苦しかるべきとてゆるされにけ
り、手をすりつつ悦で尋常にとてしやうぞきて、大
臣殿の御車をやりたりけり、道すがらもここにけと
どめては涙をながし、かしこにとどめては袖をしぼ
る、人皆袖をぞゆらしける、法皇六条東洞院に御車
を立てて御覧ぜらる、公卿殿上人車を立て並べられ
たり、さしも睦しく思召けるを、けふよそに御覧ず
るぞ憐なる、御供にさぶらはれける人々も、只夢と

ぞ思はれける、いかにしてあの人に目をも見かけら
れ、一詞をもきかばやとぞ思ひしに、かく見なすべ
しとは少しも思はざりし事かなとぞのたまひける、
一年大臣になりて拝賀の時、花山院大納言をはじめ
て十二人供してやりつづけ給へり、中納言四人三位
中将三人迄おはしき、殿上人は蔵人頭右大弁親宗以
下十六人、公卿も殿上人も今日を晴ときらめきてぞ
見えし、此平大納言は時忠左衛門督とておはしき、
院御所を始めて参り給ふ所ごとに、御前へ召され給
ひて、御引出物給てめでたかりし事ぞかし、かかる
べしとは誰かは思ひし、大路を渡して後は、大臣殿
父子、九郎大夫判官の宿所、六条堀河におはしけり、
物参らせたりけれども、御箸もたて給はず、互に物
はのたまはねども、父子御目を見合せ給て、隙なく
涙をぞ流したまひける、夜になれども装束もくつろ
げ給はず、御袖をかたしきてぞふし給ふ、右衛門督
も寝給ひたりけるを、大臣殿御袖を打きせ給ひける
P684
を、源八根井太郎江田源三などいふ、預り守奉りけ
る者ども是を見て、あないとをしや、あれ見給へ、
父子の煩悩ばかりむざんなる事こそなかりけれと
て、猛き武士なれども袖をぞしぼりける、
建礼門院は東山の麓、吉田の頭なる所にぞ立入らせ
給ひける、中納言法橋慶恵と申ける奈良法師の坊な
りけり、住荒して年久しくなりにければ、庭には草高
く軒にはしのぶ茂りつつ、簾絶ねやあらはにて、雨風
もたまるべくもなし、昔は玉の台を磨き、錦の帳にま
とはれて、あかし暮し給ひしに、今はありとありし
人々には皆離れはてて、浅ましげなる朽坊に、只一
人落付給へる御心の内いか計りなりけん、道の程伴
ひ奉りたりける女房達も、これよりちりぢりになり
ぬ、心細さにいとどきえ入るやうにぞおぼしめされ
たれ、はぐくみ奉るべしとも見えず、魚の陸に上り
たるかごとし、鳥の巣を離れたるよりもなほ悲しく、
波の上船の中の御住居、今は恋しくぞ思召さるる、

同じ底の水屑となりぬべかりし身の、せめての罪の
報にや、のこり止りてとおぼせどもかひぞなき、天
上の五衰の悲しみ、人間にもありけるものをとぞ思
し召しあはせられける、四月廿七日、前右兵衛佐頼
朝従二位し給ふ、前内大臣宗盛追討の勧賞とぞ聞え
し、越階とて二階をするこそゆゆしき朝恩にてある
に、もと正下の四位なれば既に三階也、先例なき事
也、今夜内侍所太政官庁より温明殿へ入せ給て、行
幸なりて三箇夜臨時の御神楽あり、長久元年九月、
永暦元年四月の例とぞ聞えし、右近将監秦の好方別
勅を承て、家に伝はりたる湯立宮人といふ神楽の秘
曲仕て、勧賞蒙りしこそやさしけれ、此歌は好方が
祖父、八条判官資忠と申舞人の外は知れる者なし、
後に資忠堀河院に授奉り、子近方には伝へずしてう
せにけるを、内侍所の御神楽を行れけるに、主上御
簾の内にましまして、拍子を取らせ給ひつつ、近方
にをへさせ給けり、希代の勝事いまだ昔よりあらず、
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父に習たらんはよのつねの事也、賎しきみなしごま
で、かかる面目をほどこすこそめでたけれ、道をた
だしく思召たる君の御はからひの忝き事を、世の人
感涙を流しけり、今の好方は近方が子にて伝たりけ
る也、内侍所と申は、天照太神の天の岩戸におはし
ましし時、御かたちをうつしとどめんとて鋳給へる
御鏡也、我子孫此鏡を見ては、我を見るが如くにお
もへ、同殿に祝、床を一にし給へとて、御子天忍穂耳
尊に授け給たりけるが、次第に伝はりて人代に及、
第九代の御門開化天皇の御時までは内侍所と申、御
門と一御殿にましまししが、第十代の崇神天皇の御
宇に及びて、霊威に恐れて別殿にうつし奉る、近比
よりは温明殿にぞましましける、遷幸の後百六十年
を経て、村上天皇の御宇天徳四年九月廿三日子刻に、
内裏中宮を始て焼亡ありき、火左衛門陣より出来け
れば、内侍所の温明殿もほどちかかりけるうへ、如
法夜半のことなれば、内侍も女官も参あはずして、

賢所をも出し奉らず、小野宮殿急ぎ参らせ給て、内
侍所すでにうせさせ給ぬ、世はかうにこそありけれ
と思召て、御涙を流させ給ひけるほどに、南殿の桜
の木の梢にかからせ給たりけり、光明かくやくとし
て、朝日の山のはより出たるが如し、世はいまだう
せざりけりと思召しけるに、悦の御涙せきあへさせ
給はず、右の御膝をつき左の御袖をひろげて、昔天
照御神百王を守り奉らんといふ御誓ひあり、其御誓
ひあらたまり給はずば、神鏡実頼が袖にやどり給へ
と、御詞のすゑいまだ終らざるに飛入せ給へり、御袖
に包み給て御先を参らせて、主上の御在所、太政官
朝所へぞわたし参らせ給ける、此代の人はうけ奉ん
と思ひよるべき人、誰かはましますべき、御鏡も入
せ給ふまじ、上代こそめでたけれと承るにも、身の
毛よだちてぞ覚えける、平大納言時忠、其子讃岐中将
時実、九郎大夫判官の宿所近くおはしけり、大納言は
心猛き人にておはしければ、かく世のなりぬるうへ
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は、とても角てもとおぼすべきに、猶いのちをしく
思しけるにや、御子の中将にのたまひけるは、いか
がせんずる、ちらすまじき大事の皮籠を一合、判官
にとられたるぞとよ、かの文共鎌倉に見えては、人多
くそこねなんず、我身もいけらるまじと歎給ひけれ
ば、中将のたまひけるは、判官は大方なさけある者
にて候なると承る、まして女房などのうちたえ歎く
事をば、いかなる事をももてはなれぬと申めり、何か
苦しく候べき、したしくならせ給へかし、さらばな
どか少し情もかけ奉らざるべきとのたまひければ、
我世に有し時は、姫どもをば女御后にもとこそ思ひ
しか、並々の人に見せんとは思はざりきとて、はら
はらとなき給へば、中将も涙を押のごひて、今は其
事仰せらるるに及ばずとて、当時の北方帥典侍殿の
御腹に今年十八に成給へる姫君の、なのめならずい
つくしく壮なるがおはしけるをと中将はおぼしける
を、其をば大納言惜しくおぼしければ、先の北の方

の腹に、廿八に成給へるをぞ、判官にはみせられにけ
る、年は少しおとなしくおはしけれども、清げに誇
かにて手いつくしく書き、色ありはなやかなる人に
ておはしましければ、判官さりがたくおぼされて、
もとのうへ河越太郎重頼が姫ありけれども、是をば
別のかた尋常にしつらひてもてなされけり、中将の
はからひ少しもちがはず、大納言の御事をもなのめ
ならず哀と申されけり、かの皮籠の封もとかずして、
平大納言の許に返しつかはされけり、大納言悦でつ
ぼのうちにてみな焼すてられにけり、かかるわるき
事を書おき給けるか、日記にてぞありける、
五月一日、建礼門院御ぐしおろさせ給ふ、御戒の師
は長楽寺阿称房上人印西とぞ聞えし、御布施は先帝
の御直衣とぞ承し、上人是を給て、何と云事をば申
さざりけれども、涙を流しすみ染の袖しぼるばかり
なり、先帝海へ入せたまふその期まで奉りたりけれ
ば、御うつり香いまだ尽ず、御かた見とて西国より
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持せ給たり、いかならん世迄も、御身を放たじと思
召されけれども、御布施になりぬべきものなきうへ、
かの御菩提の為とて、泣々取出させ給けるぞかなし
き、印西上人御直衣を給て、女院のいかならん世ま
でも、先帝の御形見と思召して、御身をはなたさせ
おはしまさず、もたせ給たりけれども、後の御菩提
の為とて、取出させ給ひたる御志の程、あはれに悲
しくて、この御直衣をもて御幡を裁継し給て、長楽
寺の常行堂にぞかけられたりける、同追善といひな
がら莫大の御善根也、たとへ蒼海の底に沈おはしま
すとも、此功徳によて、修羅道の苦患をまぬかれお
はしまして、安養の浄刹に御往生疑ひあらじと頼母
しくぞ思召されける、女院は年十五にて内へ参り給
へりしかば、やがて女御の宣旨下されき、十六にて
后妃の位に備はり君王の傍に候し給て、朝には朝政
をすすめ奉り、夜は夜を専にし給ふ、廿二にて皇子
御誕生ありき、いつしか皇太子に立せ給ふ、春宮位

に即せ給ひしかば、廿五にて院号ありて建礼門院と
申き、太政入道の御娘の上、天下の国母にておはし
まししかば、世に重くしたてまつることなのめなら
ず、今年は廿九になり給ふ、桃李に粧ひこまやかに、
芙蓉の御顔ばせいまだ衰させ給はねども、今は翡翠
の簪つけても何かはせさせ給ふべきなれば、御さま
かへさせ給へり、うき世をいとひまことの道に入ら
せ給へども、御歎は休まらせ給はず、人々の今はか
うとて、海に入給ひし有様、先帝の御俤、いかなら
ん世にかおぼしめし忘れさせ給ふべき、露の御命も
何にかかりて今まで消えやらざるらんと、思召つづ
けさせおはしまし、唯御涙のみせきあへさせ給はね
ば、五月の短夜なれども明しかねさせ給て、打まど
ろませ給ふ事もなければ、昔の事を夢にだに御らん
ぜす、かうかうたるかべにそむけたるともし火のか
げかすかに、蕭々たる窓をうつ暗夜の雨の音閑也、
上陽人が上陽宮にとぢられたりけんかなしみもかぎ
P688
りあれば、淋しさは是には過ざりけんとぞ思召され、
昔をしのぶ妻となれとてや、もとのあるじ移し植た
りけん、軒近き花たちばなのありけるに、風なつか
しくかほりける折しも、時鳥近くおとづれたれば、
御涙をおさへ拭はせ給て、御硯のふたに書すさませ
たまひける、
時鳥はなたち花の香をとめて
なくはむかしの人や恋しき W146 K222
女房達二位殿の外は、さのみ猛水の底に沈み給はね
ば、もののふの荒けなき手にとられ給て、故郷へ帰
り給ふ御心の中、推はかられて哀也、若きも老いた
るも皆さまをかへ姿をやつしつつ、あるにもあらぬ
ありさまにて、思ひがけぬ谷の底、岩のはざまに明
し暮し給ふぞかなしかりける、住なれしやども煙と
なりにしかば、空しき跡のみ残りて、しげき野辺とな
りはてて、そこはかともなく、みなれたりし人の問
くる者なし、仙家より帰り出て、七世の孫に逢たり

けむも、かくやありけんとぞ覚えし、
本三位中将重衡の北方は、五条大納言邦綱卿の御娘、
先帝の御めのとにて、大納言典侍とておはしけるが、
重衡卿一谷にて生捕にせられて、京へ上り給にしか
ば、北の方旅の空に頼もしき人もなくて、悲しみ歎
給しかども、先帝につき奉りてましまししかば、西
国より上りて姉の大夫三位に同宿して、日野と云所
におはしけるが、三位の中将も露の命、草葉にすがり
て消やらずと聞給ひければ、いかにしてか今一度見
もしみえもすべきと、おぼしけれどもかなはねば、
ただ泣くより外の慰なくて、あかしくらし給ふとぞ
聞えし、今は国々も鎮りて、人の行かふも煩ひなし、
都も穏しければ、九郎判官程の人こそなけれとて、
京中の者ども手をすり悦あへり、此事鎌倉の二位殿
聞給て、何事か九郎はしいだしたる、高名などとい
ふなり、法皇の御気色もめでたし、唯此人の世にて
あるべしなどいふときこゆ、頼朝がよくはからひて
P689
兵を差上すればこそ、平家は滅びぬれ、九郎ばかり
にてはいかでか世をば鎮むべき、かく人のいふにほ
こりて、世も我ままに思ひたるにこそ、下ても定め
て過分の事はからはんずらん、いつしか人こそ多け
れ、平大納言をもてあつかふなるもうけられず、世
におそれをもなさず、平大納言、九郎を聟にとるも、
いはれなしとぞの給ひける、抑々生捕三十人が中、八
歳の童としるしたるは、大臣殿の乙子の若君の御事
也、北方このわかぎみを産置給ひて、七日と申しに
うせ給にけり、北方今は限りになりてのたまひける
は、われはかなくなりぬるものならば、齢若くおは
すれば、いかならん人にもなれ給て、子をも設給ふと
も、此子をばにくまで、我を見ると思して、前にてそ
だて給へといひしかば、左衛門督には世を譲り将軍
をせさせんずるとて、名を副将軍とつけておはしけ
れば、北方よに嬉しげに思給て、今は思ひ置事なし、
死出の山安く越てんずと、是を最期にてうせ給にけ

り、かくいひおきし事なればとて、乳母の許へもや
り給はず、朝夕前にて養ひたまひけり、生ひたちた
まふままには、大臣殿に似給ひつつ、御心きはもわ
りなかりければ、たぐひなくかなしみ給へり、三歳
になり給ければ、冠して能宗とぞ申ける、清宗は大将
軍、能宗は副将軍とあいして常にの給ひければ、此
副将軍御前とぞ申ける、西国の旅にてもよるひる立
離れ給はぬに、檀の浦にて軍破にし後は、若君に添
給はず、若君をば九郎判官の小舅に、河越太郎重房が
預り奉りければ、其宿所に介借乳人女房二人ぞつけ
たりける、はていかならんずらんと、女房達若君を
中にすへて、明ても暮ても泣きかなしみけり、大臣殿
も恋しく覚しけれども、え見給はねば、兎に角にな
みだのかわくひまはなかりけり、去程に九郎大夫判
官、暁に鎌倉へ下るべしと聞えければ、さては近付
にけるにこそとおぼすもかなしくて、若君恋しく思
召ければ、小童未だ世に候はば、今一度見候ばやと
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判官にのたまひければ、何かはくるしかるべき、と
くとくわたし奉れとてわたしければ、若君大臣殿を
見奉りて、急ぎ女房の手をくづれおりて、大臣殿の
御膝の上に居給へり、哀にぞ見えける、大臣殿是を
見給ふに、今更御涙せきあへ給はず、右衛門督も涙
をながし給ふ、若君の介借乳の人もしほたれてぞあ
りける、まぼりたてまつるゑびすどももあはれと思
ひて、岩木ならねば皆袖をぞぬらしける、わかぎみ
浅ましげにおぼして、かひをつくり給ふぞいとをし
き、日もすでにくれければ、今はとくとく帰れ、う
れしく見つと大臣殿の給へば、若君泣き給て、大臣
殿の御浄衣の袖にひしと取付給へば、大臣殿物はの
たまはで、御涙にむせび給ぞ哀なる、右衛門督今夜
は我に見ぐるしき事あるべし、帰りてあす参れとな
くなくのたまへども、若君大臣殿の御浄衣の袖をは
なち給はず、夜もふけければさりとてはとて、乳の
人若君をおさへて取奉りて、泣々出にけり、日比の

恋しさは事の数ならざりけりと、大臣殿泣々の給ひ
けるぞあはれなる、
十六日の暁、大臣殿以下平氏の生捕ども、九郎判官
相ぐして六条堀川の宿所を打出で関東へ下る、大臣
殿の御子右衛門督清宗、源大夫判官季貞、章清、盛澄
なども下るとぞ聞えし、大臣殿武士を呼びて、此おさ
なき者は母もそへぬぞ、殿原不便にし給へとのたま
ひもあへず、御涙すすみけり、若君をば河越小太郎
重房が預りたりけるが、重房は関東へ下り候へば、
若君をば緒方三郎惟能が許に渡し参らせ候べしと申
て、大臣殿の御宿所より車にのせ奉りて、六条河原
にやり出し、ここに車を止めて、敷皮をしきてこれ
と申せば、介借の乳母の女房、日ごろいかが見なし
奉らんずらんと思ひまうけたる事なれども、さし当
りては人目も知らず、こはいかにやと泣もだゆ、若
君もあやしげに覚したり、御乳母の少納言の局、若
君を抱き奉りて放ち給はず、さればとて二人ながら
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切るべきに非ず、思ひわづらひたり、さてあるべき
にあらざれば、夜の明ぬ先にとくとく郎等と河越す
すめ申ければ、少納言のつぼねふところより若君を
出し奉りて、さし殺し奉る、武士どもみな袖をぞし
ぼりける、
大臣殿は都を出給て、あふ坂の関に懸りて都の方を
見送り給ふに、大内山は思ふ事なく越えたり、東路を
けふぞ始て踏見ると、はるかに思召しつづけ給ける
御心の中ぞあはれなる、昔蝉丸といふ世捨人此関の
辺にわらやのとこを結びて、常はびはを弾きて心を
すまし、和歌を詠じて思ひをのべけり、蝉丸は延喜
第四の宮にてぞおはしましける故に、此関のあたり
を四宮河原とぞ名付たりける、東三条院石山に参り
給て還御有りけるに、関清水を過させ給ふとて、
あまたたび行あふ坂の関みづの
けふをかぎりのかげぞ悲しき、 W147 K223
と申させ給ひけり、是もいかなる御心の中やらん、

我身の上にやと思召し続けて、関山を打過ぎ、大津
の浜に出ぬれば、あはづの原と聞し召けるに、昔天
智天皇六年、大和国飛鳥宮より近江の国志賀郡に遷
都ありて、大津の宮を作られたりける所にやと思召
出して、せたのから橋打渡り、湖はるかにあらはれ
て、野路しの原をも打過ぎ、鏡の宿に至りぬれば、
昔ならの叟の老をいとひてよみける歌の中に、
鏡山いざたちよりて見てゆかん
としへぬる身は老やしぬると、 W148 K224
詠じ給ける事思召出して、牟佐寺をも打過て、醒が
井といへるを見給へば、影深き木の下の岩根より、
流れ出る水すずしくすみ渡りて、御心細からずと云
事無し、美濃の国関山にもかかりぬれば、細谷川の
水音すごくおとづれ、嵐、松の梢に時雨れつつ、日影
も見えぬ木の下路に、関屋の板びさし年経にけりと
覚えて、杭瀬川を打波り、萱津の宿を打過ぎ、尾張国
熱田の宮にも至りぬ、是は景行天皇の御代に、此砌に
P692
跡を垂れ給ふ、一条院御時、大江匡衡と云博士あり
けり、長保の末に当国守にて下りたりけるに、大般
若を書て此宮にて供養をとぐ、其願文に曰く、此願
既に満ぬ任又満たり、故郷へ帰らんとするに、其期
幾程ならずと書たりけん事、我身の上にやと思召知
られて、鳴海がたにもかかりぬれば、いそべの浪袖
をひたし、友なし千鳥時々おとづれ渡り、二村山を
も越ぬれば、三河の八橋を渡り給ふに、在原の業平
が杜若の歌よみたりけるに、皆人干餉の上に、涙を
落したりける所よと思ひ給けるにも、御涙せきあへ
給はず、矢矧の宿をも打過ぎ、宮路山打越え赤坂と
聞ゆれば、三河守大江定基が、此宿の遊君の故に家
を出けんも、ことわりに思召ししられて、たかしの
山をも過ぬれば、遠江国はしもとといふ所あり、南
は海湖あり漁舟浪にうかぶ、北は湖水あり人家岸に
連れり、すざきには松きびしく生つづき、嵐頻に咽
ぶ、松の響浪の音いづれも分がたし、さて池田宿に

とどまり給ぬれば、侍従といふ君御とぶらひにまい
りて、まへじきのたたみにそひふして、涙をながし
て、
東路のはにふの小屋の淋しさに
故郷いかに恋しかるらん、 W149 K203
と申たりければ、大臣殿
故郷も恋しくもなし旅のそら
都もつひの住家ならねば、 W150 K204
池田の宿を立給ぬ、尽せぬ御歎きを武士ども見奉り
て、皆袖をぞしぼりける、天龍河のわたりにもなり
ぬれば、水まされば船覆すと聞召すにも、西国の波の
上のすまゐもおぼしめしいでられける、かの巫峡の
ながれを、我身の危き心にやと思召しつづけて、佐
夜の中山にかかりぬ、あらしきびしく、南は野山、
谷より峰にうつる浮雲に分入心地して、菊川を打す
ぎ、大井川を御覧ずるに、紅葉乱れて流れけん、龍
田川思召し出して哀也、宇津の山にもなりぬれば、
P693
昔業平が都鳥に事問ひけん程、いづくなるらんと打
詠め給ひて、清見が関にかかりぬれば、朱雀院御時、
将門が討手に宇治民部卿忠文、奥州へ下りける時、
此関に止まりて、唐歌を詠じける所にこそと涙をな
がし、田子の浦にも着ぬれば、富士の高根と見給ふ
に、時わかぬ雪なれども、皆白妙に見え渡りて、浮
島が原にも到りぬ、北はふじの高根、東西はるばると
長沼あり、いづくよりも心すみて、山の翠かげしげ
く、空も水も一なり、葦かり小舟所々に棹さして、
群居鳥もすずろに物さわがしく、南は海上の面渺
渺として、雲の濤いと深き詠め、孤島に眼に遮ぎる、
わづかに遠帆空に連り、眺望何れもとりどりに心細
く、浦々に塩やくけぶりへんへんたり、浦吹風松の
梢に咽ぶ、昔は海上に浮んで、蓬莱の三の島の如く
に有けるによりて、此島をば浮島と名づけたるとか
や、駿河国千本の松原をもすぎ、伊豆国三島の社に
つき給ふにも、此社は伊予国三島大明神をうつし奉

るときき給にも、能因入道、伊予守範国が命に依て、
歌よみ奉りければ、炎旱の天より雨俄にふり、かれ
たる稲葉たちまちにみどりになりたりける、現人神
の御名残なれば、ゆふだすきかけまくも恃しく思召
しけるぞ哀なる、箱根山を打越給ひて、湯下に到り
ぬれば、谷川みなぎり岩瀬の浪に咽ぶ、源氏の物語
に、涙催す滝の音かなといへるもおぼしめし出られ
て、涙せきあへ給はず、九郎大夫判官は事にふれて
情ありける人にて、途すがらも劬はり慰め申されけ
れば、いかにもして父子の命申うけ給へ、法師になり
て心静に念仏申て、後世たすからんと宣へば、御命
計りはさりともとこそ存候へ、奥の方へぞ渡し奉ら
んずらん、義経が勲功の賞には、二所の御命申請候
べしと頼もしげに申されければ、大臣殿嬉しげに思
して、御涙を流しあくろつかるつぼの石碑、かずまひ
なる千島なりとも、かひなき命だにあらばとおぼす
ぞ、せめての事とおぼえてあはれなる、道々すくすく
P694
うちすぎうちすぎ、腰越稲村をも歎き過ぎて、鎌倉に着
給ぬ、大臣殿父子九郎大夫判官ぐしたてまつりて、
鎌倉へ下り給ひぬと女院聞召て、御歎き浅からず伏
し沈ませ給ひける、世の聞えを恐れて、おのづから
言葉のつてにも申人なかりけり、九郎大夫判官はあ
やしの人の為までも情ありければ、まして女院の御
事をば心苦しき事に思ひまいらせて、御衣さまざま
にととのへまいらせて、女房の装束までも奉られけ
り、これを御らんずるにつけても、只夢とのみぞ思
しめされける、だんの浦にてゑびすどもがとりたり
ける物の中にも、御物とおぼしきをば、尋取りて参
らせられたりける、其中に先帝の朝夕御手なれさせ
給たりける、御遊びのぐそくどもあり、御てならひ
しすまさせ給たるほんぐの、御てばこの底に有ける
を御覧じ出して、御顔におしあててしのびあへさせ
給はず、をめきさけばせ給けるこそかなしけれ、恩
愛の道はいづれもおろかなるまじけれども、内裏に

ましまして、雲ゐはるかにて時々見奉る御事ならば、
かほどは思召さざらまし、此二三年の間は、一御船
の中にて朝夕手ならし奉りつつ、いとをしかなしと
もなのめならず、御年の程よりもおとなしく、御す
がた心ばへなどもすぐれておはせし物を、さまざま
くちずさませ給ふぞあはれにきこえし、
十七日大臣殿父子鎌倉へ下りつき給ぬ、判官二位殿
は見参したりけり、いけどりども相具して下りたら
んには、二位殿いかばかり軍の事ども尋ね感じ給は
んずらんと判官おぼされけるに、いとうちすさみた
るけしきなくて、よろづ言葉ずくなにて、くるしく
おはすらん、とくとく休み給へとて、二位殿立給へ
ば、判官は思はずの外に思はれけるに、次のあした
使者にて存る旨あり、暫く金洗沢の辺に宿給ておは
すべし、大臣殿をば是に奉るべき由ありければ、判
官こは如何にと思はれけれども、やうこそあるらめ
とて、彼所に宿しけり、二位殿のたまひけるは、九
P695
郎はあやしき者也、打解べき者に非ず、ただし頼朝
が運のあらん程は、何事かはあるべきと内々の給ひ
て、十八日まで金洗沢におき給て、其後は鎌倉へは
入れられず、さて大臣殿をば是へとありければ、二
位殿のおはしましける処の庭を隔てて、向ひなる屋
に据奉て、二位殿はすだれの中より見出て出あひ給
はず、満座目をすまし耳をそばだつる処に、比企藤
四郎能員をもての給ひけるは、平家の人々更に私の
意趣を思ひ奉らず、其上池殿尼御前いかに申させ給
ふとも、頼朝が流罪に定めし事、ひとへに入道殿の御
恩なり、されば廿余年まで、さてこそ罷りすぎ候し
かども、朝敵になり給て、追討すべき由宣旨を承る上
は、王土に胎て勅命を背くべきにあらされば、力及
ばず、かやうに見参に入こそ本意なれ、又いきんと
や思召す、又死んとや思召すと申せとのたまひけれ
ば、能員このよしを申さんとて、大臣殿の御前にま
いりたれは、居直り畏て聞給けるこそうたてけれ、

右衛門督のたまひけるは、源平二の家はじまて朝家
に召仕はれてより以来、源氏の狼藉をば平家をもて
鎮み、平氏の狼藉をば源氏を以て鎮み、互に牛角の
如くに候き、けふは人の上明日は身の上と思召して、
御芳恩にはただとく首を召さるべしと申せよとぞの
たまひける、国々の大名小名なみ居たり、その中に
京の者もあり、平家の家人たりし者もあり、皆爪は
じきをして申けるは、居直り畏り給たらば、御命の
生給はんずるかや、心うくも振舞給つるものかな、
西国にていかにもなり、海にも沈み給ふべき人の、
是までさまよひ給ふこそことわりなきとぞ、口々に
申ける、ある人又涙を流して、力及ばぬ事にてある
者を、猛虎在深山百獣震恐、反在牢之中搖尾而
求食、云本文有、猛き虎も深山に在る時は、もろもろ
のけもの威におそる、人をも疎き者に思ふ、囚れて
檻牢などにこめられぬる後は、人に向ひて尾をふり
て食を求む、猛き大将軍なれども、かやうになりぬ
P696
る上は、心もかはる事なれば、大臣殿もかくおはす
るにこそと申す人もありけり、
同十七日改元あり、文治元年とぞ申ける、大臣殿以
下の人々首を刎られん事は、天下の御煩ひ国土の歎
なれば、左右なく首を刎らるるに及ばずとて、大な
る魚に刀を添へて、大臣殿父子おはする中におきた
り、これはもし自害もやし給ふとての謀なり、いま
やいまやとまてどもまてども自害もしたまはず、思ひ寄り
たる気色だにもおはせざりければ、力及ばずとて、
大臣殿をば讃岐権守末国と改名して、又九郎判官に
受取らせて、京へ返し給ふべきにさだまりけり、判
官は二位殿の又見参もあらんずらんと思はれけれど
も、下着の日ちと見えて、その後は音信不通なり、剰
鎌倉をおはれ腰越に追却して、二十二日の間ありけ
れば、おもひの余に状を書き、起請文を添へて二位
殿へ是を参らする、
源義経乍恐申上候意趣者、被撰御代官之其一、

為勅宣御使、傾朝敵顕累代弓箭之芸、雪会稽
之恥辱、可被行忠賞之処、思外依虎口之讒言、
被默止莫大之軍功、義経無犯而蒙咎、有功雖
無誤、蒙御勘気之間、流紅涙、倩案事意、良薬
苦口、忠言逆耳、先言也、因茲不被糺讒者之
実否、不被入鎌倉中之間、不能述素意、徒
送数日、当于此時、永不奉拝恩顔、絶骨肉同
胞之義、既似空宿運之極処歟、将又先世之業歟、
悲哉此条、亡父不再誕給者、誰人申被愚意之悲
歎、何輩不被垂哀憐哉、事新申状、雖似迷
懐、受身体髪膚於父母、不経幾時節、故殿御他
界之間、成無実子、被抱母之懐中、赴大和国宇
多郡龍門牧之以来、一日片時不住安堵之思、雖
存無甲斐命許、京都之経廻難治之間、令流
行諸国、隠身於在々所々、為栖遠土遠国、令服
仕土民百姓、而幸慶忽能熟、而為平家一族追討
令上洛、手合誅戮木曾義仲之後、為責傾平家、
P697
或時峨々巌石策駿馬、為敵不顧己命、或時漫々
大海凌風波之難、不歎沈身於海底、懸骸於
鯨鯢之〓、加之甲冑為枕、弓箭為業、本意併休
亡魂之憤、欲遂年来之宿望之外無他事、剰
補任義経五位尉之条、当家之面目希代之重職、何
事如是哉、雖然今愁深歎切、自非仏神之御助
者、争達愁訴、因茲以諸寺諸社牛王宝印之裏、不
挿野心之旨、奉請驚日本国中大小神祇冥道、
雖書進数通之起請文、猶以無御宥免、我国神
国也、神不(レ)可禀非礼、所憑非于他、偏仰貴
殿広大之御慈悲、伺便宜令達高聞、被廻秘
計被優無誤之旨、預芳免者、積善之余慶家
門、永伝栄花於子孫、開年来之愁眉、得一期之
安寧、自余不書尽詞、併令省略候畢、諸事欲被
垂御賢察、義経恐惶謹言、
元暦二年五月 日 源義経
大膳大夫殿

広元二位殿にこのよし見参に入れたりければ、鎌倉
殿無返事にてありけるが、やや久しくありて、先づ
生捕ども京へぐして上て、軍功は公家の御はからひ
なりとぞ仰られける、判官は大臣殿父子請取て、六月
九日京へ上らせ給ふ、是にていかにもならんずらん
と、大臣殿おもひ給つるに、都へ返り上りたまへば、
心得ずおぼしけるを、右衛門督ぞよく心得給ひたり
ける、京にて首切りて渡さんずるにこそと思はれけ
り、大臣殿は今少しも日数の延る事を、嬉しき事に
おぼしけるぞいとをしき、道すがらもここにやここにや
とたましひをけし給けるに、国々宿々すき行き、尾
張の国にもなりぬ、野間内海といふ所あり、ここに
て義朝が首を斬りたりし所なり、ここにて一定きら
れなんずとおもはれけるに、そこもすぎ、それにぞ
大臣殿少したのもしく、命のいきんずるやらんとの
たまひけるぞあはれなる、右衛門督なじかはいけん
ずる、かく暑きころなれば首の損ぜぬ様に、京近く
P698
なりてぞ切られんずらんと思ひ給けれども、大臣殿
いたく心ぼそげにおもひ給はん事の心ぐるしさに、
さはのたまはで、唯念仏をのみぞ申させ給ひける、
大臣殿をも勧め奉り給ふ、日数経れば都も近きて、
同廿日近江の国しの原の宿に着給ふ、きのふ廿日迄
は大臣殿も右衛門督も一所におはしけるを、けふ廿
一日より引わけたてまつりて、所々にすへ奉る、大
臣殿のたまひけるは、さてはけふを限にてあること
よと、悲しく思してさまをかへんと思給へども、鎌
倉殿ゆるし給はねば力及ばず、戒をたもたばやとの
たまへば、篠原と云所よりひじりを召されたり、今
性房湛幸とぞ聞えし、上人参りて最期の御事を勧め
申けるに、大臣殿御涙せきあへさせ給はず、さて右
衛門督はいつくにぞ、手を取組ても死に、かうべは
落たりとも、一むしろにふさんとこそ思ひつれ、生
ながら別れぬる事こそ悲しけれ、十七年が間、一日も
立離れざりつるものを、水の底にも沈まで浮名を流

しつるも、右衛門督が故なりとの給ひて、涙を流し
たまふ、善智識の上人申けるは、今はこの事思しめ
すまじ、最期の御ありさまを見奉らんもみえ奉らん
も、たがひの御こころかなしかるべし、生をうけさ
せ給ひしよりこのかた、たのしみ栄え昔も今もため
し少し、御門の御外戚にて丞相位に至らせ給へり、
今生の栄華一時も残る所無かりき、今かかる事にあ
はせ給ふもぜん世の御宿業なり、世をも人をも恨み
おぼしめすべからず、卅九年を過させ給へるも、お
ぼしめしつづけさせ給へ、ただ一夜の夢の如し、この
後七八十のよはひを保たせ給ふも、又程やはあるべ
き、されば仏この理をしめして、未得真覚、恒処夢中、
故仏説為、生死長夜と申も、又我心自空、罪福無主、
観心無心、法不住法ともいへり、我心おのづから空
なれば、罪福無主心観ずるに心なし、法々の内にぢう
せず、善も悪も空なりと観じつるが、仏の御心に叶
ふ事なれば、何事も有なりとは思召すまじきものな
P699
り、いかなる弥陀如来なれば五劫が間思惟し、おこ
しがたき観をおこしおはしまして、我等を引摂し給
ふ、いかなる我等なれば、値がたき仏教に遇て、一
意の妄執に引れて、おくおく万劫が間生死にりんゑ
して、宝の山に入ながら、手を空くして故郷へ帰り給
はん事、恨の中の怨、ぐちなる中に口惜き事に候は
ずや、一切有為の法をば皆夢也まぼろし也、水月鏡
像也と思ふこそまさしき仏の御本意にて、〓虫有為
をいとふ心あり、寸間寒苦、無宅煩公、只暗夜也、わづ
かの小虫のうき世をいとふ、一寸の心の中にあり、
是生死無常の間なる事を知る、いかでか人として此
ことわりをしろしめさざるべき、今は唯一心不乱に
浄土へ参らんと思召して、余念をかすべからすと申
して、戒を保たせ奉り、念仏すすめ申ければ、大臣殿
西に向ひたなごころを合せて、余言をやめて念仏た
かく二三百遍計り申給けるに、橘右馬允公長が子に
橘三郎公忠、太刀を抜きて大臣殿の左により、御後へ

まはりけるを、念仏をやめて右衛門督もすでにかと
のたまひける、御言葉のいまだおはらざるに、御首
は前におちにけり、上人も切手の公忠も涙かきあへ
ず、猛きもののふなれども、いかでかあはれと思は
ざるべき、況はんや公忠は平家重代相伝の家人、新
中納言の御もとに朝夕しこうの侍なり、世にあらん
と思ふこそうたてけれとぞ申ける、此公忠は西国に
て軍最中に、九郎大夫判官につきたりける者なり、
其後右衛門督も又上人さきの如く、戒たもたせ奉り
て念仏すすめ給けるに、大臣殿のさいごの御ありさ
ま、いかがおはしまし候つるやと問ひ給ひけるこそ
悲しけれ、めでたくましましつと上人申されければ、
涙をながしうれしげにおぼして、いまは疾くとのた
まひければ、今度は堀弥太郎切にけり、九郎大夫判
官相具して京へ上り給ぬ、むくろをば公忠が沙汰に
て、大臣殿も右衛門督も一穴に埋みてけり、さしも
罪深くのたまひければかくしてけり、むざんといふ
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も愚なり、故修理大夫経盛の嫡子皇后宮亮経正の北
の方は、左大臣伊通の御孫、鳥飼中納言の御娘とか
や、其腹に六歳になる若君おはしけり、仁和寺の奥
なる所に忍びておはしけるを、武士尋出してけふ六
条河原にて首を切てけり、折節大原の上人、此程多
くあるなる死骸ども見て、無常を観ぜんとおぼして
河原へ出られたりけるに、武士五六騎が程物の具し
て出で来りければ、上人世はしづまりたるかとこそ
きくに、物具したる者の出来たるこそ怪しけれと覚
して、目をつけて見給へば、髪肩のまはりなる若君
いたいけしたるを、武士鎧の上に抱きたり、若君手を
さし出てままやままやと泣給ふ、其後朽葉の衣着たる
女房年廿二三と覚しきが、我子よ我子よとなくなく走
るがあり、しばしこそ衣も肩に掛り、うらなしもは
きたりけれ、後にはきぬもぬぎ、うらなしもはかず、
若君よといふ声もたてず、ああといふ声ばかりにて
走る女房あり、上人あれはいかにと見給ふに、武士

かの若君の首をやがてかい切りて河原にすてけり、
おさなければにや、首をも渡さず獄門にもかけられ
ず、彼女房よりて首を取て、身に差合せて、余りの
事なればにや泣もし給はず、只生たるおさなき者を
抱きたる様にいだき、身に気も心もありとも見えず、
ほれぼれとしておはしけり、上人河原を下りに通り
給ひけるが、是を見て立とどまりてのたまひけるは、
今はいかに思召すともかひあるまじ、人は死のえん
とてまちまちなりといへども、根闕の罪業にすぎた
る罪人なし、ただ後生を弔ひて一業もうかべ給はん
事しかるべしと、の給ひけれども放ち給はず、かか
へて泣給けるを、さまざまにけうくんせられて、身
をば河原に埋み給けるを、上人あひともになくなく
石をひろひはかをたて、経をよみ念仏申て後、彼女
房の持たりけるかうべを、御供の法師に持たせて、
いざさせ給へ小原へとてぐし奉り給ひ、小原の来迎
院へ送り置きつ、女房やがて出家せられにけり、か
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うべはふところに入れて出られにけり、そののち行
方を知り給はず、上人次の年天王寺に参り給たりけ
るに、大門よりはるかに遠くのきて髑髏のあまとい
ふ非人ありけり、同乞食の中にもまじらず、其故は
懐におさなきもののかうべをもちたるが、日数ふる
ままに、その香なのめならず臭かりければ、非人是
をくはへず、さる程に只一人すごくすぐしけり、上
人立よりて見給へば、さすが心のありけるにや、上人
を見奉て伏目になりにけり、此尼のありさまを見る
に、目も当られずやせ黒みてありし、その形人にて
人ならず、ふところにおさなきものの首の黒みてあ
り、上人是は誰なるらんと、いとをしく思ひて通ら
せ給ふに、次の日未刻ばかりに上人御堂へ参り給ひ
けるに、非人ども数多立ならびたり、又さならぬ在
家人ども数をしらず、立あひなくものもあり、あは
れむ者もあり、上人何事ぞと問ひ給へば、是等申け
るは、是に候つる髑髏の尼の無言にて念仏申つるが、

けさ卯の時程に渡辺の橋の上にて、西に向ひ高声に
念仏申つるが、午の時計りに橋より身を投て候が、紫
雲立音楽していきやう薫じて、殊勝の往生して候を
弔ひ申候也と申ければ、上人渡辺におはしまして、
かの身を取上てけうやうし、経を読み念仏申給ての
ち、よくよくかのあまのゆくゑを尋ね給ければ、あ
りし時河原にて見給て、小原へかへり出家せさせて
おはしましける女房なり、さてこそは皇后宮亮経正
の北方、左大臣伊通の御孫、鳥飼中納言の御娘とも
人は知りにけり、あはれなりし事どもなり、
本三位中将をば、南都の大衆の中へ出して、首を切
て奈良坂にかくべしとて、源三位入道の子息蔵人大
夫頼兼承てぐそくしてのぼる、京へは入れ奉らず、
醍醐路を南都へおはしましけり、猶故郷恋しくぞ思
ひ給ける、はるばる都を見渡し給ふに、いつしか荒
にける物かなと、涙ぐみてぞましましける、三位中
将具し奉りける武士どもになくなくの給けるは、と
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しごろ日ごろなさけをかけ、あはれみつる事、ありが
たしうれしとも云尽しがたし、同くは最後の恩をか
うぶるべき事あり、年比相ぐしたりしものの、日野に
大納言の局とて女房のあると聞く、今一度変らぬ姿
を見もし見えばやと思ふはいかに、我一人の子なけ
れば、此の世に思置くべき事なきに、此事心にかか
りて、よみぢもやすく行くべしとも覚えぬぞとの給
へば、武士どもさすがに岩木ならねば各々涙を流しつ
つ、何かはくるしく候はんとてゆるしてけり、三位
中将手を合せて悦給ひて、かの大夫三位の局のもと
へ尋ねおはしましけり、三位の局と申は五条大納言
邦綱卿の御娘也、平家都を落給し時、人々の館に火を
懸て、西国より都へ帰入給たれども、立入給ふべき
所もなければ、日野大夫三位のつぼねは、三位中将
の北の方の姉にておはしければ、彼所に忍びておは
しましける所へ尋ね入て、大納言典侍殿は、是に渡
らせ給ふか、三位中将重衡こそ通り候へ、東国にて

いかにもなるべく候つるが、南都をほろぼしたりと
て、衆徒の手へ渡され候也、立ながら見参せんと申さ
れたりければ、北の方少も誠とも思ひ給はず、夢の
心地し急ぎ迷ひ出見給へば、なめらかなる浄衣着た
る人の痩黒みたるが、縁に居給ひたりけるを、そと
見なし給ひたりけるに、いかにや夢か現か是へ入せ
給へとのたまひける、御声を聞給ふに、三位中将涙
はらはらとおちて、袖を顔にぞ押あてられける、大
納言典侍も、目もくれ心もきえて物もえの給はず、
やや久しく有て、三位中将なからばかり縁に居より
て、すだれをうちかつぎて、何とも言葉をば出し給
はねども、北方の御目に目を見合て、ひまなく涙を
ぞおとし給ける、大納言典侍殿もうつぶしにふして
一言も出し給はず、二所の御心のうちいかにすべし
とも覚えず、只涙にぞむせび給ける、大納言典侍殿
起上りて、是へ入せ給へやとて、三位中将の御手をと
りて、すだれの内へ引入奉りて、先御料参らせよや
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とて、白き御れうの二階に有けるを、水に洗ひて参ら
せたりけれども、御むねせきて御のどもふさがりて、
いささかもまいらず、せめての御志の切なる事を見
え奉らんと、水ばかりぞすすめ入れ給ひける、よに
したるげに渡らせ給ふに、これに召かへさせ給へと
て、袷の御小袖白きかたびら取出して奉りたりけれ
ば、練色の御小袖のしほれたるにぬきかへ給へば、
北方是を取て胸にあてさけび給けるぞあはれなる、
三位中将も涙かきあへず、かくぞ申されける、
ぬぎかふる衣も今は何かせむ
けふを限りのかたみと思へば、 W151 K225
北の方なくなく
いかなれどちぎりはくちぬものといへば
のちの世までもわするべきかは、 W152 K292
三位中将申されけるは、去年の春いかにもなりぬべ
かりし身の、せめての罪の報にや、人しれず命生て、
はては奈良の大衆に渡して切るべしとてまかる也、

命いけらん事もけふを限れり、今一度見奉りつ、今
は死出の山安く越てんと思ふこそ嬉しけれ、人にす
ぐれてつみふかくあらんずらめども、後世とぶらふ
べきものもおぼえず、いかならむ御ありさまにてお
はしますとも、忘れ給ふな、出家をもしてかたみに
髪をも奉らんとは思へども、いましめの身なればゆ
るされぬぞやとて、又涙を流し給ふ、北の方も日頃
の思ひ歎きは、事の数ならざりけり、たへしのぶべ
き心地もし給はず、軍は常の事なりしかば、必しも
こぞの二月六日を限りとも思はざりしかども、離れ
奉りて後は、越前三位の上の様に、水の底にも沈む
べかりし身の、先帝の御事の心ぐるしかりし上に、
正しく此世におはせぬとも聞ざりしかば、今一たび
見奉る事もやと思ひて、つれなく昔の姿をかへずし
て、今まですごしつるかひ有りて、見え奉り見奉る
ことこそうれしけれ、けふまでものびつれば、もし
やと思ひつるたのみもありつるに、さてはけふ限り
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にておはすらん事の悲しさよとて、泣き給ふぞ心苦
しき、むかしいまの事どものたまひかはすにつけて
も、悲しさのみ思ひ深く成まさりて慰む事はなし、
日を重ね夜を重ぬとてもつくべきに非ず、程ふれば
武士どもの、いつとなく待ゐて思はん事も心なけれ
ば、嬉しくも見奉りつ、今はよみぢやすく罷りなんず
との給ひて立給へば、北の方は袂に取付き、こはい
かに今宵は御とどまり候へかし、武士もなどか一夜
のいとま得させざらん、明年かへりたまはんずると
もたのまれず、五年十年にて帰り給はんずるとも覚
えず、思へば最後の別也、しばししばしとて、三位中
将の御袖に取付給ひて、庭の面まで出給たりけれど
も、さりとてあるべきにあらねばとて、三位中将泣
泣引はなれて出給ひぬれども、馬をも得すすめ給は
ず、引返し引返し涙にむせび給ふ、武士どもこれを見
て、皆袖をぞしぼりける、大納言典侍殿も、走付て
もおはしますべく思しけれども、さすがなれば、衣

引かづきてふし給ふ、異朝の昔を案ずるに、漢高祖
の為に項羽滅されし時、項羽は軍にまけて今は限り
になりしかば、志深く思ひける虞氏がもとへ落迯き
て、互に今を限りの別れを惜み給ひしに、敵まぢかく
攻めかかるよしきこえしかば、なくなく別れ給ひつ
つ、落行き給ひけんも此にはしかじとぞ見えし、さ
れば、燈暗数行虞氏涙、夜深四面楚歌声と云詩をさ
へおぼし合せつつ、羊のあゆみ漸く近づきければ、
新野池も打過て、光明山の鳥居の前にも着給ひぬ、
ここは治承四年五月に、高倉宮の流矢に中りて、失
させ給ひし処にこそと見給ひけるにも、我身の上と
覚えて、あはれをもよほすたぐひなり、又六堂もう
ちすぎ給へば、源三位入道の一門多く当家の敵とな
りて、命をうしなひし所と見られけるにも、むかしい
まうつりかはるも世のならひまで、思ひ残し給ふ事
なし、さるにつけても涙ばかりぞつきせざりける、
平家物語巻第十八終