平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第十九

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平家物語巻第十九(原本無題)
三位中将は、石金丸といふ舎人をぞ相具し給ひたり
ける、鎌倉へ下り給ひける時、八条院より、最期の
有さま見よとて、伊豆国迄附られたりける、杢馬
允朝時と云者を、大納言典侍殿召て宣ひけるは、三
位中将は、木津河か、奈良坂にてぞ斯られ給はんず
らん、首は定めて奈良の大衆うけ取て、奈良にぞか
けんずらんぞ、其跡を隠すべきものなきこそうたて
けれ、むくろをば、荒野にこそ捨られんずらめ、そ
れをかき戻れよ、孝養せんと宣ひて、杢馬允に、中
間地蔵冠者、力者十力法師、三人のものどもをそへ遣
はしける、此等も泪にくれて行先も見えざりけり、
唯三位中将の御馬の左右にとり付て、泣々ぞまかり
ける、大納言典侍殿は、はしり付てもおはしぬべく
思召しけれ共、これもさすがなれば、引かづきて伏

給ひぬ、くれ程に起あがりて、法興寺に有ける聖を
請じ奉りて、御髪をそり落してけり、あはれなりけ
る御事どもなり、本三位中将重衡卿、奈良へわたさ
れ候と聞えければ、大衆せんぎしてけるは、重衡卿
重犯の悪人なるうへ、五刑の内にももれたり、修因
感果の道理きはまりなせり、されば重衡卿を請取て、
東大寺興福寺の大垣を三度めぐらして、ほり首にや
すべき、鋸にてや斬べきと申ければ、老僧僉議して
曰く、此重衡と云は、治承の合戦の時、法花寺の鳥
居の前にうちたつて、南都を亡したりし大将軍なり、
其時衆僧が、うちも伏せきりも伏せて、搦めたらば
こそ鋸にてもきり、ほり首にもしてころさめ、武
士にからめられて年を送り、武士の手より請取て、
ほり首にもし、鋸にてもきりて、なぶり殺さん事、
僧徒の行にて然るべからず、ただいづくにても、武
士のきりたらん首をば請取て、伽藍の御敵なれば、
奈良坂にかくべしと僉議しければ、尤々とて、武士
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の方へ使者をつかはす、般若路より内へは入まじく
候、いづくにても切られ候へかし、伽藍の御敵にて
候へば、首をばうけ取候べしとぞ申ける、送りの武
士蔵人大夫頼兼、三位の中将を木津河のはたに引す
へ奉りて、切奉らんとす、三位中将は、今を限りと
思ひ給ひければ、せん方なく杢允に、此辺に仏御座
しなんやと宣へば、朝時泪にくれて、行先も見えざ
りけれども、其辺を走り廻りて尋けるに、ある古堂
に阿弥陀の三尊を尋出し奉りて、かはらに東向にす
へまいらせたり、三位中将、浄衣の左右の袖のくく
りを解きて、仏の御手に結び付奉りて、五色の糸を
ひかへたるよしにて、達多が五逆罪、かへつて天王
如来の記別に預る、是すなはち仏の御誓ひにあらず
や、重衡が年比の逆罪を飜して、安養浄土へ引導し
給へ、弥陀如来に四十八願御座す、第十八の願に、
一念十念を撰ばず、極楽浄土の地へすすめ入むと誓
ひおはします、重衡が只今の最期の十念を以て、必

ず極楽浄土へ導給へとのたまひて、西に向て念仏高
声に申させ給ひける、其御声のいまだ終らざるに、
御首は前にぞ落にける、杢馬允首を地に付けてをめ
きさけぶ、見る人幾千万、聞く人涙を流さずといふ
ことなし、杢馬允起あがりて、三位中将の空しき御
むくろを、あをだにかきて、日野へとて帰り行ける
こそむざんなれ、大納言典侍殿、走り出で給ひて、
首もなきむくろに取付きて、声もをしまずをめきさ
けびけるぞいとをしき、年ごろは今一度あひ見るこ
ともなくて、さてやみなんと思ひつる事は物の数な
らず、中々一の谷にて何にも成給たりせば、思ひ忘
るる事も有なまし、今朝は花やかなりし姿にて見奉
るに、夕べの無常の風は、いかなれば紅ふかくぞ染
まるらん、同じ道にもとたへこがれ給へども、今は
かひなし、さて有べき事ならねば、たきぎにつみこめ
て焼上奉りて、灰をば墓を築て卒都婆をたて、骨を
ば高野へ送り給へり、あはれなりし御事どもなり、
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三位中将の頸武士ども南都の大衆中へ送りければ、
大衆請取て、東大寺興福寺の大垣を三度めぐらして、
法花寺の鳥居の前にて、治承の合戦の時、ここに打
立て南都を亡したりし者とて、鉾に貫きて高く差あ
げ、人々に見せて、般若野のそとばに釘付にこそし
たりけれ、大仏を焼給はずば、かかるめに逢給ふべ
しやと申て、なみだを流しける人も多かりけり、頸
をば七日が程、奈良坂にかけたりけるを、春乗房上人
に、大納言[B ノ]典侍殿、三位中将のくびを乞ひうけ給て、
高野へ送り奉りたりけり、北の方の御心のうち、押
はかられて哀なり、彼春乗房の上人と申は、左馬大
夫季重が孫、右衛門大夫季能が子なり、上醍醐法師
にておはしけり、東大寺造営の勧進の上人なり、情
おはしましければ、三位中将の首をこひて、北の方
へ奉り給けるも、慈悲の深さも哀なり、つらつらこ
との心を案ずるに、重衡卿、槐門玉楼の家に生ると
いへども、神明仏陀の加護もなく、冥顕につけては

ことごとく、仁義礼智信の法に背き給ひけるかとぞ
覚えける、
同廿三日、大臣殿父子の御頸を、大炊御門河原にて、
武士の手より請取て、大炊御門の大路を西へ渡して、
左獄門の前のあふちの木にかけてけり、法皇、大炊
御門東洞院に御車を立て御覧あり、三位以上の人の
頸を、獄門の木にかくる先例なし、悪右衛門督信頼
卿、さばかりの罪を犯したりしかば、頸をはねられ
たりしかども、頸を獄門の木にかけられず、大臣殿
父子西国より入て、生ながら七条をひんがしへ渡さ
れ、東国より帰り上り給ては、死にて三条を西へ渡
さる、生ての恥死ての恥、いづれもおとらずぞ見え
ける、
女院は、吉田にもかりに立いらせ給ふとおぼししか
ども、五月もたち、六月も半ば過ぬ、今日までもな
がらへさせ給ふべくも、おぼしめされざりしかども、
御命は限りありければ、明ぬ暮ぬと過させ給ひけり、
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大臣殿父子、本三位中将、帰り上り給ふと聞し召れ
ければ、まことしからず思召されけれども、若甲斐
なき命ばかりもやと、おぼしめしける程に、大臣殿
父子は都近く、近江国しのはらと云所にて、失ぬと
きこしめしける、御歎きはまことにあさからず、大
臣殿父子、三位中将なんどの、今は限りの御有さま、
御首渡してかけられたりと、人参りて申ければ、女
院今更御胸せきて、御泪かきあへさせ給はず、都近
くてかやうの事を聞召すにつけても、つきせぬ御泪
やすむ時なく、露の御命風をまつほども、深き山の
奥迄も入なばやと思召しけれども、さるべきたより
もなかりけり、
元暦二年七月、平家残りなくほろびて世の中静り、
国は国司に従ひ、庄は領家のままなり、上下安堵し
て思ひし程に、七月九日の戌の時に、大地夥しく動
きて良久し、おそろしなどいふも愚かなり、赤縣の
中、白川の辺、六勝寺九重塔よりはじめて、あるひ

はたふれ崩れ、在々所々、神社、仏閣、皇居、人家、全
きは一宇もなし、崩るる声は雷のごとく、上る塵は
けぶりのごとく、天くらくして日の光りも見えず、老
少ともに魂をけし、禽獣悉く心を迷はす、こはいか
にしつる事ぞやとをめきさけぶ、或は打殺さるるも
のもあり、打損じらるる人も多し、近国遠国も又か
くのごとし、山は崩れて河を埋み、海かたぶきて浜
をひたし、巌われて谷にころび入り、洪水漲り来れ
ば、をかにあがりてもなどか助からざるべき、猛火
燃え来らば、河を隔てても暫くありぬべし、ただ悲
しかりけるは大地震なり、鳥にあらざればそらをも
翔りがたし、龍にあらざれば雲にも入がたし、心憂
しともなのめならず、主上は鳳輦に奉りて、池の汀
に渡らせ給ひけり、法皇は、其比新熊野に御参籠有
けるが、折しも御花参らせさせ給ひけるに、人の家
を振倒して、人多く打ころされて、濁穢出来て、六
条殿へ還御成にけり、天文博士参りて占申、占文か
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ろからず、今夜は南殿に仮屋をたてて渡らせ給ふ、
諸宮諸院も御所ども倒れにける上に、ひまなく振け
れば、御車に召し、或は御こしに召してぞ渡らせ給ひ
ける、公卿僉議有て御祈はじまる、今夜の亥子丑寅
の時には、地打かへさんずると、御占ありなんどいひ
て、家の内に居たる人は、上下一人もなかりけり、
戸をたて障子をたてて、天なり地うごく度には、唯
今死にぬといひて、高念仏を申ければ、所々のこゑ
ごゑ夥し、七八十、八九十の者も、いまだかかる事
おぼえずとぞ申ける、世の滅するなどいふ事は、さ
すがけふあすとは覚えざりつる者をといひて、おと
なの泣きをめきければ、おさなき者共もこれを聞て、
諸共にをめきさけぶ事、夥しなんどもおろかなり、
昔文徳天皇の御宇、斎衡三年、朱雀院の御時、天慶
元年四月に、かかる大地震有けりと記せり、天慶に
は御殿を去て、常寧殿の前に五丈の幄屋をたてて、
主上渡らせ給ひけり、四月十五日より八月に至る迄、

うちつづきて振ひければ、上下家中に安堵せずと承
る、それは見ぬことなればいかがありけん、この度
の地震は、これより後もあるべしとも覚えざりけり、
平家の怨霊にて、世のうすべきよし申あへり、十善
帝王都をせめ落され御座して、御身を海中に沈め、
大臣公卿大路を渡して首をはね、其首を獄門にかけ、
異国には其例ありもやすらん、本朝には未だ聞かざ
る事なり、これ程ならぬ事だにも、昔より今に怨霊
はおそろしき事なれば、いかがあらんずらんとぞ泣
合ける、建礼門院、吉田には去る九日の地震に、御
栖も破れ果てて、築地も崩れ、あれたる宿も傾きて、
住せ給ふべき御ありさまにも見えさせ給はず、頼も
しき人一人も候はず、地うち返すべしなどきこしめ
せば、惜しかるべき御命にてはなけれども、よの常
にて消入ばやとぞ思召されける、緑衣監使、宮門を
守る者、心のなき儘に、荒たる籬はしげき野べより
も露けくて、をりしりがほに、虫の声々に恨むも哀
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なり、
八月十四日除目行はる、源氏六人一度に受領になさ
る平家[B 氏イ]誅戮の勲功賞なり、志太三郎先生義憲、伊豆
守大内冠者維義、越中守上総太郎義兼、上総守加々
美次郎遠光、信濃兵衛尉義資、越後守伊予守兼九郎
大夫判官義経とぞきこえし、
同日改元あり、文治元年とぞ申ける、鎌倉源二位宣
ひけるは九郎大夫判官には、伊予国を賜はり、其外
院の御厩の別当になして、京都の守護に候べしとて、
侍十人附られたり、判官思ひ給けるは、父の敵を討
つれば、是に過たる悦び何事かはあるべき、度々の
合戦に、命を捨てすでに大功をなして、世の乱れを
鎮む、是莫大の軍功にあらずや、関より東はいふに
及ばず、京より西をば預け給はんずらんと思ふに、
僅に伊予国と、没管領廿ヶ所計、あて付たるこそ本
意なけれと思はれけれど、さりとも京都にも鎌倉に
も、思召計ひ給ふ様も有なんとて、過しけるほど

に、僅に十人つけたりける侍も、心を合せてければ、
とかく云て東国へ迯下りにけり、判官は西国に恩を
せん、下れとぞいひける、かくいふ程こそあれ、源二
位より判官を討んと計る由聞えけり、都の貴賎上下、
またいか成事の有らんずらんと、爰かしこにささや
きあへりければ、建礼門院聞召して、さては尚鎮か
なるまじきにこそ、少し深くかき籠らばやと思召け
れども、さるべき便もなくて、秋も半になりぬ、つ
きせぬ御もの思ひに、いとど忍びがたくて、夜の漸
く長くなるままに、ねざめがちにて、明しくらしか
ねさせ給けるぞあはれなる、
九月廿三日、平家のよとうの僧俗生捕り、国へ流し
つかはす、平大納言時忠卿をば追立(おつたて)、官人信盛承り
て能登国へつかはす、同じき子息讃岐中将時実をば、
公朝承りて周防国へつかはす、内蔵頭信基をば、章
貞承りて備後国へつかはす、熊野の別当行明法眼を
ば、識[B 誠イ]景承りて常陸国へつかはす、二位僧都全真を
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ば、経広承りて安芸国へ遣す、法勝寺執行能円をば、
経広同じく承りて阿波国へ遣す、中納言律師忠快も、
陸奥国とぞ聞えし、東国へ赴く人は、粟田口関山に
打懸る、西国へ下向する人は、西朱雀造り道へぞ赴き
ける、各々心の内推はかられて哀なり、平大納言時忠
卿、建礼門院へ参りて申されけるは、今は生きてか
ひなき身にて候へども、同都にて御あたりの御事、
承り度候つれども、責重くして、けふ既に都を出候
ぬ、いかなる御ありさまにて、渡らせましまし候は
んずらんと、思ひ置き参らせ候こそ、行空も覚え候
まじけれと、こまやかに申されたりければ、女院聞
召して、さては遠国へ赴き給ふらんこそ悲しけれ、
此人ばかりこそ、昔の名残にて有つるにと思召せば、
いとどかきくらす御心地してぞ思召しける、彼平大
納言は、出羽前司知信が孫、兵部権大夫時信が子な
り、建春門院の御思ひ人にておはせしかば、高倉の
上皇の御外戚なり、楊貴妃幸し時、楊国忠思ひもの

にて栄しが如し、八条二位にも妹にておはせしが、
太政入道の小舅にて、世の覚え時のきらめでたかり
き、されば顕官顕職心のままに、思ふがごとく、ほ
どなく経昇て正二位大納言に至り、子息時実時家も、
中少将に成て、太政入道と親くて、万事申合せられ
ければ、天下の事を我儘にとり行はせられける間、
平関白とぞ時の人申ける、検非違使別当にも、三度
迄なられたりき、いまだ先例なきことなり、今暫くも
平家の世にておはせしかば、大臣は疑ひなからまし、
庁務の時も、さまざまのこと強行して、強盗廿八人
が右手切なんどし給ひたりけり、昔悪別当経成と申
人こそ、強盗の首を切落し給たりけれ、此時忠は心
ざま猛き人にておはしければ、西国にましましし時、
院より、帝王都へ入参らせよ、三種の神器返し参ら
せよとおほせつかはす、院宣持て下りたりける、御
つぼの召次花方がつらに、波形と云火印をさして、汝
をするにあらずとぞ宣ひける、されば誰を申されけ
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るぞ、故女院の御ゆかりなれば、被宥べかりしかど
も、かかる事ども思召忘れさせ給はねば、法皇の御
気色よからずして、流されけるもこの故とぞきこえ
し、
大納言都を出給ひて、近江国志賀の唐崎を打過て、
堅田と云うらにて、ここはいづくといふ所ぞと、網
人らにとひ給へば、これは堅田の浦と申すと申けれ
ば、時忠卿かくぞおもひつづけ給ひける、
かへりこんことはかた田に引網の
目にもたまらぬ泪なりけり W153 K226
九郎大夫判官にも親く成にしかば、其好みもおろか
ならず、流罪をも申宥んとせられけれども、法皇の御
気色あしく、鎌倉の源二位のゆるしもなかりけり、
合戦の先をかけ給はねども、はかりごとを帷帳の中
にめぐらす事、かの大納言のしわざなり、年たけ齢
傾きて、妻子にも別れ見送る人もなく、遙かの境へ
赴かれける、いかばかり心うく思ひ給けんと、推し

はかられてぞいとをしき、西海の浪の上にただよひ
て、又北国の雪の中に、とぢられんこそむざんなれ、
北の方の帥典侍殿は、何ごとも深くおもひ入給ひた
る人にて、終にすまじきわかれかと思ひ給て、心づ
よくもてなし給ふ、それも今はのことになれば、か
なしみの涙かきあへず、其腹に侍従とて、今年十四
に成給ふ男子ましましけり、是を見おき給ひて、い
つかへるべしとも知らぬ遠国に、赴く事の心うさを
歎き給ふ、侍従もおくれ奉らじと泣かなしみ給へど
も、いふにかひなし、あはれにぞありける、
十月三日九郎大夫判官義経、関東源二位殿を、背き
奉る由きこえて、あしこここにてささやきあへり、
兄弟なる上父子の契りをなして、去年正月に、源二
位の代官として、木曾義仲を追討せしより、たびたび
平氏を討て、今年の春悉く亡しはてて、四海を澄し、
一天を鎮め、軍功比類なきところに、いかなる子細
ありて、いつしかかかるきこえあるらんと人あざみ
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あへり、この事は梶原が讒言とぞ聞えし、鎌倉殿梶
原を召て、今は日本国に頼朝が敵に成べきもの、誰か
有と仰せければ、梶原申けるは、今は九郎判官殿の外
は覚えず候、其故は摂津国一の谷の合戦の時も、丹波
国より搦手に廻りて、鵯越とて岨き山を越え、城の内
にかけ入て、平家追おとし給ひしは、偏に判官殿の
御計なり、前は海後は山、東西深き谷にて、遠き者
をば射落し、近き者をば石弓を持ちて打殺し、城の
内にも兵多くして、落すべきやうもなかりしを、た
だ三時のうちに落し給ふ、凡そ凡夫の所為とも覚え
ず候、鬼神の振舞なり、船にて通るべくもなかりし
大風大浪にも、わづかに五艘の船に、五十騎ばかり
打乗り、小勢にて四国の地にはしり渡り、屋しまの
城をせめ落ししも彼計なり、今は日本国の中に、何
人か判官殿にならぶべき、定めて君の御敵と成給ふ
べき人なりと申ければ、源二位殿、我もさ思ふぞと
宣ひけるぞおそろしき、是は去年渡辺にて、合戦の

評定しけるに、梶原船に逆櫓を立べき由申たりしを、
被閉口て安からず思て、意趣深くおもひければ、
かくぞ讒し申ける、判官殿も、箇様の事どもをもれ
聞えて、始終よかるまじと思ひ給ければ、偏に思ひ
切て、頼朝を追討せらるべき由、大蔵卿泰経朝臣を
もて、院へ申されければ、十月六日、蔵人頭右大弁光
雅朝臣、院宣をうけ給りて、従二位源朝臣追討すべ
き由、院宣を下されてけり、上卿は右大臣経宗とぞ
聞えし、京都の堅めにてかくて候、申ところもだし
がたし、義経心ざま情ある、人のため世のため、殊
に心よかりければ、上一人より下万民に至る迄、帰
伏せずといふことなし、さればにや事とはず鳳含の
詔を下されぬ、かかりければおそれをなして、落ちて
鎌倉へ行ものもあり、またとどまりて判官に附くも
のもあり、その間、京中何となくききわきたる事は
なけれども、貴賎上下騒ぎあへり、二位殿、梶原を
召て宣ひけるは、九郎が下りたりしを、金洗沢にと
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どめ置て、鎌倉へも入ずして、京都の守護に候へと
て追のぼせしかば、遺恨にぞ思らん、大名をものぼ
せ、しかるべき討手をものぼすならば、用心をもし、
落ち隠るる事もありぬと覚ゆるに、土佐房を差のぼ
せて、討たんと思ふはいかがあるべしとの給ければ、
梶原思ふ事なれば、尤しかるべく候なんとぞすすめ
申ける、昌俊を召して、さらば和僧のぼりて、九郎
を夜討にせよとて、隈井太郎、江田源三、源八兵衛
広継をそへて、文治元年九月廿九日に、鎌倉を立て
上洛す、左女牛町にぞやどしたる、判官のもとへ、
二位殿より一紙の御文もなかりければ、土佐房判官
の宿所へ参らず、土佐房上りたりと判官聞給て、召
されけれども、御使に上りたる事は候はず、七大寺
まいりの志に依て、私に罷り上りて候、精進仕候へ
ば、得参り候はず候、其上さして申べき事も、仰せ
蒙るべき事も候はず、参るべくば、精進果て下りざま
に参るべく候とて、参らざりければ、判官にくいや

つが言葉哉、かいがいしからぬ身こそ安からね、彼
法師ほどの奴が、召に参らぬと宣ひければ、武蔵坊
是を聞て、弁慶召て参候はんとて、萌黄糸威のはら
巻に、三尺五寸の大太刀はき、一尺三寸の打刀を抜
まうけて、昌俊が宿所に馳入、四間の所の椽際にが
はと打寄りて、馬より飛下りて、内へつと入て見け
れば、折節昌俊がより伏たる、しや背中の上にむん
ずとのり懸り、抜まうけたる打刀を咽に差当て、い
かに和僧ほどの奴が、判官殿の召には参らぬぞ、慥
に参れと責たりければ、昌俊聊の儀をものべば、忽
ちに首をかかれぬべければ、同じ死すとも、判官に
逢ひてこそ死なめと思ひて、申けるは、物参りの精
進の間、参らず候事返々恐入候、いかでかゆるがせの
儀存じ候べき、是ほどの仰せに及び候はん上は、い
そぎ具して参り給へと、降をこひければ、弁慶なほ
刀をさし当ながら、直垂着て馬にのせて、我身は尻
馬に乗て、少しもはたらかば、しや首かかんと、刀
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を打あててぞ参りたる、そこばくの家の子郎等有け
れども、聊もあらき事もあらば、なかなか主の命を
失ひつべき間、とかく子細に及ばず、昌俊も鬼神にと
られたる心地して、みちに思ひけるは、いかにもして
判官を討たらんこそ本意なれ、我身は何にもなれ、
判官の見参に入ならば、頓て組んと思ひけるに、判
官先に心得て、弁慶、昌俊をいて参らば、きらんと思
ひ設けて、備前みの金作りの太刀を抜まうけて、袖
にてしとしとのごひて待給ふ所に、弁慶、昌俊を具し
て参りたり、よらばきらんとにらまへて有ければ、昌
俊相違して、向ふべき様ぞなかりける、判官宣ひけ
るは、和僧は義経を討に上りしな、大名をも然るべ
き人をも、討手にのぼすべけれども、中々用心をし、
落隠るる事もあり、和僧のぼりて夜討にせよとて、鎌
倉殿の仰せられたるなと宣へば、いかでか其儀候べ
き、起請文仕り候べしと申ければ、必書かせんとは
思はね共、書かうかかじは和僧が心なりと宣へば、熊

野の宝印の裏に起請文七枚かきて、一枚をば昌俊焼
て呑でけり、さてもどつて宿所へ帰る、昌俊起請は
書たれども、今夜討ずんば叶はじと思て、夜討の支
度をぞしける、
判官は其比礒の禅師が娘、しづかと云白拍子を思は
れけり、判官しづかに宣ひけるは、何とやらん心騒
ぎのするぞとよ、土佐房めが夜討によすると覚ゆる
ぞと宣へば、大路は塵灰にけ立て、何となく京中ひ
そめくなり、一定昼の起請法師めが、しわざにてぞ
さぶらふらんとしづか申けり、太政入道殿の十四五、
十六七ばかりなる童べを、かみ肩のまはりにそぎて、
二三百人召仕給けるを、判官これ二人を取てつかひ
給ける、かれ等二人、土佐房が宿所、きつと見てま
いれとて遣して、今や今やと、まてどもまてども見えざ
りければ、半物を以て、年来の寝男を尋ぬるやうに
て、土佐房が宿所見て参れとて遣す、かの女頓て帰
りて、これの御使と覚え候、土佐房が宿所の小門に、
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二人打殺されて候、土佐房はあかつき大仏へ参り候
べしとて、大庭に大まく引て候、其内に鞍置馬四五
十疋計引たてて、鎧物具身に取付たるものども、手
綱を取、鞍に手をうち懸て、只今乗らんとしつると
申もはてぬに、後より敵判官の宿所、六条堀川へ押
寄せたり、判官鬨の音を聞て、さればこそ土佐房め
がよするか、何事のあらんぞといひて、すこしも騒
ぎ給はず、物はあなづらぬ事にてさふらふぞとて、鎧
を取て判官になげかけたり、判官其比灸治をしみだ
したりけるが、鎧取て着、太刀引さげて出られたり、
いつのほどにか設たりけん、とねり男馬に鞍置て、
縁のきはに引付たり、判官此馬にひたとのりて、門ひ
らけよやと云て、打出て、日本国に今日このごろ、
義経を夜討にも昼討にもすべき者は、覚えぬものを
といひて、ただ一騎うち出給へば、敵の中をあけて
通す、判官取返し、竪ざま横ざまさんざんにかけた
りけり、木の葉の風にふかるるが如し、あなたこな

たへかけ散らされぬ、去程に判官の手勢も、五百余
騎になりにけり、かかりければ、或は鞍馬の奥、或
は貴布禰の奥、僧正が谷なんどへぞ迯籠りける、隈
井太郎は内甲を射させて、其夜死にけり、源八兵衛広
綱も、膝節を射させて、死生未定なり、土佐房は龍
花越に北山をさして落けるが、判官二手三手に軍兵
共を分てつかはしければ、先をきられてのびやらず、
大原へかへりて薬王坂を越て、くらまの僧正が谷に
ぞ籠りける、判官元より鞍馬の児にてありければ、鞍
馬の大衆昔のよしみ思ひしりて、土佐房をからめて
判官に奉る、褐衣の直垂に袴をぞ着たりける、判官
の前に引すへたり、判官、いかに和僧は、義経討ま
じといふ起請文を書きて呑たるものが、呑も引入ず
義経を討んとする時に、神罸忽にかうぶりたりなと
宣へば、土佐房今はかうと思ひければ、詞もたまは
ずさんざんに悪口ども申たり、判官腹を立てて、しや
首うてとてうたせらる、何にもうたせ給へ、少しも
P717
痛うも候はず、昌俊が討るるにては候はず、是は鎌
倉殿の討れさせ給ふにて候へば、このかはりには、ま
た殿の御首を、鎌倉殿の打返し参らせさせ給はんず
るに候と申ければ、判官打笑ひ給ひて、汝が心ざし
のほどありがたし、さこそあるべけれ、神妙なり、
命や惜しき、二位殿へ参らせんと宣へば、とりかへ[B 「とりかへ」に「兎も角もイ」と傍書]
もなき命を、鎌倉殿に参せて、鎌倉を立しより、
生て帰るべしとも存じ候はず、夜べ君を討奉らんと
て、御館へまいりて候つれども、討えまいらせずし
て、運のつきぬるにてからめられ候ぬ、今更命を申請
にあらず、御芳恩には、とく首をめせとぞ申ける、
人これを感じける、さらばきれとて、六条河原に引
出して、これをきらんとするに、きらんといふ者一
人もなかりけり、京の者の中に、中務丞知国といふ
者、申請て切てけり、判官には二位殿より、安達新
三郎清経といふ雑色を付られたりけり、きやつは下
臈なれども能者ぞ、若事あらば旗ざしにたのめとて

付られたり、誠には判官のひがごとをもし、謀叛を
も起しげならば、告よとてけんみに付られたりける
が、土佐房がきらるるを見て、其暁鎌倉へ走り下り
て、二位殿に此よしを申す、さては九郎は頼朝を敵
にせられたり、この事今はつつむともかなふまじと
て、二位殿の弟、三河守範頼を大将軍にて、六万余
騎をさしのぼせらる、三河守小具足ばかりにて、熊
王丸と云わらはに甲持せて、二位殿の見参に入給ふ
に、二位殿、和殿も九郎が様に、二舞し給ひそと宣
へば、小具足脱て、いかでか其儀候べき、起請文仕
るべしとて、一日に一枚づつ百日が間百枚の起請か
きて、二位殿に奉り給にけれども、用ひずしてつい
に三河守きられ給ひにけり、大将軍にて上り給ふべ
き三河守はきられ給ひぬ、切給ふ心を人これを知ら
ず、大名小名怪みをなす、其後北条四郎時政を大将
軍にて、三百余騎都へ上せらる、
元暦二年十一月一日、肥後国住人菊地次郎隆直、此
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三ヶ年の間、平家に附て度々の合戦に軍功有しかど
も、平家滅亡の後は安堵しがたくして、もしや命い
きるとて、二位殿へ降人に参りたりけれども、平家
方人として合戦を致す事、其科のがれがたき間、終
に隆直切られにけり、
同二日、判官、大蔵卿泰経朝臣を以て、後白河法皇
に申けるは、義経兵衛佐が代官として、君の御敵平
家を追討つかまつり亡し、父義朝が会稽をすすぎ[B 「すすぎ」に「きよめイ」と傍書]、
四海を澄して頼朝日本国を手に挙て候は、希代の軍
功に候はずや、然るを義経させる其咎も候はねども、
頼朝がために討せらるべしとて、北条四郎時政承り
て上り候なり、東国に罷向ひ候て、日来の軍功又あ
やまりなき子細をも、頼朝に申べく候へども、今は
かなひがたき上、敵対すべきにても候はねば、東国
へもまかり下らず候、又京都にて時政を待請て、何
にも成べく候へども、君の御ため人の煩ひあるべく
候へば、西国へ下り候はばやと存候、やがて御下文

を給候なんや、豊後の国の住人惟栄、雅隆等に始終
を見放たず、心を一つにして力を合すべき由、仰せ
下さるべく候、度々の軍功いかでか思召し捨てられ
候べき、最期の所望、ただこの事に候と申給たりけ
れば、法皇思召し煩はせ給ひて、大蔵卿泰経を以て
殿下〈 近衛殿 〉へ申され、花山院左府兼雅、左大臣経宗に仰せ
下さる、又蔵人左少弁宗長御使にて、右大臣〈 兼実月輪殿 〉
に申あはせらる、各々計ひ申されけるは、義経、時政
等、洛中にて合戦をいたさば、朝家の御大事たるべ
し、逆臣京都を出でば、おだしき御事にてこそ候は
めと、はからひ申ければ、義経が申処、尤不便の次
第なりとて、後京極左大臣良経と名乗せ給へば、判官
義顕と改名して申請がごとく、頓て御下文をなされ
にけり、判官畏て給て、同十一月三日、事の由を申
て、京都に少しも煩ひなさず、卯刻都を出て、西国
へ下向す、備前守同く相伴ふ、かれこれの手勢、わ
づかに五百余騎にはすぎざりけり、関東に志ある在
P719
京の武士近国の源氏ども、追懸て射けれ共、物ともせ
ず、散々に蹴ちらかして、河尻迄は事故なく着にけ
り、大物の浜にて船に乗らんとしけるに、折節大[B 悪イ]風
吹て船を出すに及ばず、摂津国源氏、多田蔵人、豊島
冠者、大田太郎追かけて射ければ、たへずして皆さ
んざんに成にけり、義経も行家も行方を知らず、と
りぐしたりし女房共は、捨おきたりければ、真砂の
うへ松の本に、袖をかたしきはかまをふみしだきて
泣伏したりければ、其辺のものども、あはれみて都
へおくりけり、白拍子しづかばかりぞ判官に付て見
えたりける、
六日美濃近江両国の源氏、義経、行家を追討の為に西
国へ下さる、山陽道南海道の輩、彼両人をめして奉
るべき由院宣を下さる、今又頼朝が申により、義経
を追討せらるべきよしを宣下せらる、世間の不定、
うき世の中の転変なれば、朝になり夕に変ずとは、
加様のことを申にや、

同日関東より源二位の代官、北条四郎時政上洛す、
九郎判官義経都を落ければ、合戦するに及ばず、天
下しづまる上は、諸国に守護を置き、庄園に地頭を
居て、国衙庄保をいはず、段別をあて、十一町に一町
の給田を賜はる、帝王の怨敵を亡す者は、半国を賜は
ると云こと無量義経に見えたりと申せども、この申
状は過分の事なりと法皇思し煩はせ給へども、源二
位の申さるる旨もだしがたきに依て、白河関すでに
東は日本国の半分にあたるなれば、経文にまかせて、
謀叛のともがらを長く断がために、源二位ひらに申
されければ、諸国七道に守護地頭を置れけり、
北条四郎時政披露しけるは、平家の子孫を尋ね出し
たらん者には、訴訟も所望も功によるべしと申けれ
ば、京の者の中に、案内はしりたり、所望は多し、
爰かしこより尋ね出して殺させけり、正しく平家の
子孫にあらざるも、物のほしさに平家の子共と云て、
害させけるぞうたてしき、おさなきをば水に入、土に
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うづみ殺し、少しおとなしきをば頸をきり、母のお
もひめのとの歎きいづれも愚ならず、鎌倉殿、北条
に仰せ含められけるは、権亮三位中将維盛が子息、
中御門の新大納言の娘の腹に、六代といふなるこそ
おとなしくもあんなれ、平家の嫡々にてもあれ、相
かまへて尋出して失ふべしと、追々仰遣はされけれ
ば、北条いかにもとめけれども尋ねいださずして、
暁鎌倉へたたんとしける所に、六波羅にけしかる下
す女、一人いで来て申けるは、是より西に大覚寺と
云山寺の北へ入て、奥深きに作りたる坊にこそ、権亮
三位中将殿の若君一人、姫君一人、ぐそくしてこの
三とせ忍びてましますと告げたりければ、北条人を
遣はして伺ひ見せければ、まがきのはたより犬の子
の出るをとらんとて、なのめならずうつくしげなる
若君の走り出たるを、めのとと覚しきが続て出でて、
あなあさましや、人もこそ見れとて、急ぎ呼び入る
を、是ぞそれなるらんとて、かへりてこの由を申け

れば、次の日、百騎計にて打向て、大覚寺の坊の四
方を打囲て、人を入ていはせけるは、権亮三位中将
殿の若君、六代御前渡らせ給ふよし承り候、御迎に
参りたり、出し奉り給へと申ければ、斎藤五斎藤六、
坊の四方を見れども、若君をもらし奉り候べき方も
なし、いかがはすべきと申ければ、母御前は若君に
とり付て、まづ我をころしてゆけやとなきかなしみ
給ふ、めのとの女房、御足にとりつきてをめきさけ
ぶ、此三とせがほどありつれども、男も女もこゑを
だに高く笑はずして、今は何をか忍ぶべき、何をか
おそるべきなれば、ありとあるもの声もをしまずを
めきさけぶ、北条申けるは、別の御ことは候まじ、
世もいまだしづまり候はねば、その程暫く渡し奉れ
と鎌倉殿よりの仰を承りて、北条四郎時政と申もの
参りて候なり、御輿よせてとくとく奉るべきよし申
けれども、返答せず、皆人をめきさけぶ、たけきも
ののふも、子孫は持たればさこそあるらめと思ひし
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られて、其後はいたく苛薄にもせめざりけり、斎藤
五、母御前に申けるは、今迄もかくて渡らせ候つる
こそ不思儀にて候へ、是はかねて思召し設けつるこ
となりと申ければ、とく遣せ、暫くもあらば、いと
まこひて見まいらせに参り候はんぞ、遅く出させ給
はば、彼等打入てさがさば、見ぐるしき有様、見えさ
せ給はん事口惜しかるべし、疾々遣せと宣へば、此
詞によわりて、母御前も乳母も泣々出し奉る、乳母
は若君の御ぐし結び奉る、今を限りと思ひける心の
うちのかなしさ、たとへんかたぞなかりける、母御
前は黒き念珠の小きとり出して、我をば只今別ると
も、これにて念仏申て、父のありせん所へ生れんと
願ひ給へと宣へば、若君念珠取、いかならん所にて
もあらばあれ、父御前のましまさん所へぞ生れたき
と宣へば、いとど人々泪もせきあへずなきあへり、
若君十二にぞ成給ひける、御せいもふときに、御か
たちもなのめならず、美しくぞ御こころだちもつき

つきしく、わりなくましましけり、若君既に御輿に奉
り、武士によわげを見えじとて、おさふる袖の下よ
りもあまる泪ぞこぼれける、斎藤五斎藤六、歩行に
て御ともにまいりけり、北条乗り替へ共をおろして、
是にのれと申けれども、若君の最期の御ともなれば、
今いくほどか乗るべきとて、大覚寺より六波羅まで、
はだしにてぞ罷りける、母や乳母の許に置て、時々
見ることも有ぞかし、是は持たぬものを持たる様に、
二人が中にてそだてつるものを、此三とせこそ父は
なけれども、二人のものを左右にふせてこそなぐさ
みつるに、一人はあれども一人はなし、おとなしく
成ままに、三位中将に少しも違はず、形見にせんと
こそ思ひつるに、かたみさへとられぬる事の悲しさ
よ、長谷の観音に産[B ういイ]子に申たりしかば、さりともと
観音をこそ深くたのみ奉らせつるに、終にとられぬ
ることの悲しさよ、ほどけも定業をばかなへ給はざ
りけるぞや、此三とせ今や今やと思ひ設けたる事な
P722
れども、今出来不思議の様にぞ覚えける、平家の子
どもとり集めて、おさなきをば土にうづみ、水に入
て害し、おとなしきをば切ると聞ゆれば、これは少
しおとなしければ、定めてきりこそせんずらめ、い
か計おそろしと思はんずらん、をのこ子ほど悲しき
ものはなし、われを歎かせじとて、暫くもあらばい
とま乞て見に来らんといひて、さりげなくもてなし
て出つる面影、いか成らん世迄もげにいかでかわす
るべき、夢ならば又も見ざらん悲しさよ、いかにせ
んとぞもだえ給ひける、長きよもすがら、まどろみ
給ことなければ、夢にだにも見え給はず、かぎりあ
れば夜も更にけり、斎藤六、六はらより参りたり、御
文候とて参らせけり、母御前御らんずれば、よのほ
ども何事か渡らせましまし候はん、いつしか誰々も
恋しくこそ成らせましまして候へなど、細々にかか
れたり、是にて手習せしよりも、筆の立所のみだれ
たるは、泣々書たるにこそ有らめとぞ泣れける、乳

母の女房、御言葉には何とか仰せられつると尋ぬれ
ば、わびずしてあると申せと、仰せられ候つると申
せば、御科は参りたるかといへば、夕べも今朝も参
らせたれども、御はしをだにもたてさせ給はずと申
ければ、あな心うや、思召入たればこそ御料は参ら
ざるらめ、わらはをわびしめじとて、わびずして有
と仰せられつらん、悲しさよとてもだえこがれける
こそむざんなれ、斎藤六、暫くも覚束なく覚え候へ
ば、帰り参り候はん、御返事を給はりてと申せば、
母御前御返事を書かんとし給ふが、泪にくれて筆の
立所(たちど)も見え給はず、されども思ふ心を知べにて、書
みだしてぞたびたりける、乳母の女房は悲しさの余
りに、有にもあらぬ心地して、足に任せてあるきけ
るほどに、近き程なる者のとぶらひて申けるは、是
より奥、高雄といふ処に、文覚房といふ聖こそ、京都
にも鎌倉にも大事にはせらるる聖なれ、上臈の君達
をも、弟子にしたけれと申ければ、よき事ききつと
P723
思ひて、母御前にもかくとも申さず、則高雄へ走り
行て、文覚房の坊へ尋行きて申けるは、上臈若君の
なのめならず美しくましましつるを、殺し奉らんと
て、とりまいらせてまかり候ぬるぞや、かれたすけ
参らせて、御弟子にせさせましませやとて、ふしま
ろびこゑもをしまず泣をめきければ、むざんとや思
はれけん、聖事の子細を尋ぬるに、権亮三位中将殿
の北の方、したしき人の御子をとりて、養ひ参らせ
つるを、誠の三位中将殿の御子とや人の申たりけん、
殺し奉るとて、とり参らせて罷り候ぬるぞや、こと
し十二にならせ給ひ候ひつるが、御せいも大きに、
御かたちも美しく、御心だてもおとなしくましまし
つるが、乳のなかより取上げ参らせて、片時も別れ
参らせざりつるものを、昨日よりとられてさふらふ
なり、あれ助させ給へや、御功徳いかでか是に過ん
とて、則聖の前に倒れ伏して悶絶しける有さま、誠に
たへがたげなり、聖武士をばたれとかいひつると尋

ぬれば、北条四郎とかやとぞ申候つれといへば、聖さ
ては助奉りたらば、是に置奉るべきかと問れければ、
あなことも愚かや、命を生られ給ひなば何とも上人
の御心にてこそはと申す、さてはといひて、行向ひ
て見んとて、頓て六はらへおはしにけり、乳母の女
房大覚寺へ帰りて、此由を母御前に申ければ、母は今
朝よりいでて見え給はねば、思にたへずして身を投
給ぬるにやと、我身もいとど便なく、たへて有べし
共覚えずして、水の底へもと思たちつるにとて、声
も惜まず泣給ふ、あはれ聖が乞うけて、今一度我に
見せよかしとてまた泣たまふ、聖六波羅へおはした
れば、北条申けるは、権亮三位中将殿の若君六代御
前を、いかにも尋出し奉らずして、既に下るべきに
て候つるを、思はざる外に求め出して、きのふより
渡り奉て候へども、余りに美しく渡らせ給へば、い
づくに刀をあつべしとも覚えずして候と申ければ、
聖いで見奉らんとて、傍なりければ、ましましける所
P724
の障子をひきあけて見奉りければ、二重織物の直垂
著給ひたるが、本結際より始めて、袴のすそ迄しな
やかなり、今宵寐給はざりけりと覚えて、少し面疲給
ひたるに付ても哀なり、黒き念珠のちいさきをくり
ておはするが、何とか思はれけん、聖を見て泪ぐみ
てましましければ、聖あなむざんや、何なる怨敵成
とも、いかが是を失ふべきとて、北条にいはれける
は、此若君を見奉るに、余りに不便に覚ゆるなり、
且は知給はざる事ぞかし、法師が鎌倉殿に世をとら
せ奉らんとて、院宣を伺ひにのぼりしに、昼は山中
に隠れありき、夜こそ道には出でしか、富士川のし
りに夜渡り懸りて、押流されてすでに死なんとしけ
る事もありき、高瀬山盗人に逢て、着物を皆はぎと
られて、手をすりて命ばかり生たりし事ありき、又
粮料の支度にも及ばずして、飢に臨みて死なんとせ
し事も度々なり、契りを重くして命をかるくし、千
里の道を遠しともせず、五六日には行かへり、院宣を

伺て奉りし奉公には、いかならん大事なれ共、聖が
いはんことを、鎌倉殿我一期の間は、一事もたがへ
じと宣ひしが、受領神尽給はずば、よも忘れ給はじ
ものを、廿日が命をのべ給へ、申ゆるさんとて、其
暁鎌倉へ下る、斎藤六大覚寺へまいりて此由申けれ
ば、母御前手を摺て悦び給ふ、観音の守らせ給ける
よな、後はしらず、廿日の命の延たる事のうれしさ
よとて、うれしきに付ても又泣給ふ、去程に廿日も
夢のごとくにて過ぬれども、聖の音づれもなかりけ
り、斎藤五斎藤六二人のものども、手を握り心を砕
けどもかひなし、北条はさてしも都にて年を送るべ
きにもあらずとて、下らんとひしめく、此度は斎藤
五大覚寺へ参りて申けるは、北条こそ暁立ち候へ、
聖はいかに待候へ共いまだ見えず候とて、おとなし
き者共は、よしなくも馴れ奉りて、むざんの事を見
んずらん悲しさよとて、泣く者も数多候、又念仏申者
も候と申せば、いづくにてか切らんずるとか聞つる
P725
と宣へば、あふ坂山か、勢多の辺かとこそ承り候つ
れと申ければ、この子はしりたるかと宣へば、しら
せて候へばこそ人の見参らせ候時は、何となき様に
て渡らせ給ひ候へども、人の見参らせぬ時は、泪を
のみながしてましまし候らめと申ければ、あなむざ
んや、いかなれば聖は見えぬやらん、叶はねばこそ
見えざるらめ、暫くもあらば、暇こひて見えに来ら
んといひしかども、廿日も過ぬれども彼も来らず、
人は夢をば頼むまじかりける事ぞや、今夜此子が白
き直垂著て、蘆毛なる馬に乗て、是へ来て、余りに
恋しく思ひ参らすれば、北条にいとま乞て参りて候
とて、傍に居てさめざめと泣くと見つるぞや、ほどな
く打驚きて、もしやとて傍をさぐれどもなし、夢と
思せば今暫くも驚かざらまし、観音の守らせ給けり
と、あはせてありつるに、さては暁たたむずるが見
えけるぞや、今夜計の古さととて何に名残の惜かる
らん、あはれ北条とかやが用ふべからん人のいへか

し、聖が逢ん所迄ぐせよといへかし、もし不思儀にて
も宥され有らんに、はや切てといひたらん口惜さは
いかがせんずるやとてぞ泣れける、さても己等はい
かにと宣へば、いづく迄も御供仕てこそ、御ほねをも
取て、高野粉河にも納め奉り候はんずれと申ければ、
斜ならず悦び給ひて、さればこそ三位中将も、多く
の人の中に己等をば止め置れしか、さればとくとく
行け、心もとなく思らんにと宣へば、斎藤五帰りけ
り、責ての悲しさの余りに、母も乳母もうしろの隠
るる迄見送り給て、もだえこがれ給けり、文治元年
十二月十六日いまだ夜深く、北条四郎時政六代御前
を具し奉りて、六はらを立給ふ、会坂山を見給ては、
是や我臥所と成らんと思ひ給ひけるこそむざんな
れ、あふ坂山を打すぎて、勢多が野路かと思へども、
かがみの宿にも着給にけり、遠ざかり行につけても、
いかばかり心のうちに、ふる里恋しく思ふらんと哀
也、聖や上り逢ふと、二人の者ども思へども、聖も
P726
見えず、明ぬれば鏡の宿をも立て、はるばるの東路
に向て、血の泪を流して、二人の者ども、若君のこし
の左右に付てぞ下にける、馬にのれと北条申されけ
れども、馬にものらず、物をだにもはかず、只袖を
しぼりて泣々足に任せてぞ行ける、若君も駒を早む
るものあれば、我を誅しに来るかと疑はれ、又人々
私語事あれば、我事をいふやらんと覚すに付ても、
御涙せきあへ給はず、年も既にくれぬとて、宿々を
も打すてて、駒をはやめて行ほどに、美濃尾張三河
遠江も過ぎゆきて、駿河国千本松原といふ所におろ
しすへて、北条斎藤五斎藤六に、今は鎌倉もすでに
近くなりたり、各々とくこれより帰り上り給へ、是よ
りおくは、何か覚束なく思はるべきと宣へば、二人
の者ども思ひけるは、ここにて若君をば失ひ奉ぬる
よと、むねもせきものも覚えず、此三ヶ年が間、夜
も昼も付奉りて、一日片時も離れ奉らず、何にも成
給はんを見はて参らせんとてこそ、これまでも参り

て候へと申て、涙もかきあへず泣く、北条も岩木な
らねば、涙を押のごひて、若君をこれまで供し奉り
候つるは、聖や申請て上り候とて、是迄も供し参ら
せ候つれども、けふまで聖も見え候はず、使をだに
ものぼせ候はねば、力及ばず候、鎌倉と申候は、一
日二日の内に過ぎず候、足がら山をも越べく候へど
も、聖箱根をもや上り候らんと、覚束なく候て、こ
こには逗留してこそ候へ、さのみ日数をへて具しま
いらせて山を越候はん事、鎌倉殿の聞召され候はん
所其恐候、日来浅からず思ひ参らせ候つる志は、見
えまいらせ候ぬ、又先世の事と思召候て、世をも人
をも神をも仏をも、恨み参らする御心なくして、窃
に御念仏申させ給候べしと申ければ、若君其御返事
とおぼしくて、二度打うなづかせ給ひける、御心の中
いか計り思ひ給けんといとをし、若君西に向ひて、
今は限りの念仏の声もみだれてぞ聞えける、北条申
けるは、平家の公達尋取らば、暫くも有べからず、
P727
いそぎ失ひ奉れ、程経べからずと、度々仰を承りた
りしかども、若君の御事は、聖さりがたく申されし
かば、いま迄相待てども、約束の日数もすぎて、久
しくなりぬれば、御ゆるしのなきにこそ、日来なじ
みまいらせて、何にし奉るべしともおぼえずとて、
北条泪をながしければ、家の子郎等共も、若君の首
切らんと云者一人もなし、唯力及ばずとのみ申けれ
ば、あるもの太刀をとりて寄たりけれども、あまり
になみだしげければ、いづくに刀を当べしとも覚え
ざれば、他人に仰付らるべしとてのきにけり、さて
はいかがすべきと云て、思ひ煩ひてありけるに、す
み染の衣はかまきたる僧の、文袋首懸たるが、鴾毛
なる馬にのりたるが上りけり、何なる者ぞと思ひけ
る程に、高雄の聖の弟子なりけり、今一足もいそぎ上
れとて先立ける、北条思ひ煩ひける所に走り付て、
若君ゆるし給たりといふ二位殿の御文あり、北条急
ぎて見給へば、御自筆にて

小松の権亮三位中将維盛の子息、生年十二に成、
字六代といふなるを尋出したるなる、高雄の文
覚上人頻に申請給ぞ、いまだあらば預け奉り給
べし
文治元年十二月廿五日 頼朝
北条四郎殿へ
とぞ書れたりける、北条四郎高くはよみ給はで、神
妙々々と宣ひて打おき給へば、若君ゆり給にけり、
あまりにいとをしく思ひ給つるにと申て、武士共皆
悦びあへり、斎藤五斎藤六が心のうち、いか計あり
けんと推はかられてむざんなり、去ほどに聖も頓て
馳付たり、若君は申預りたり、一足もとくとて、鎌
倉殿の御文をば先立て奉る、定て見給ひつらんと申
て、斜ならず悦ばしげに思へり、平家の嫡々の正統な
り、父三位中将、初度の討手の大将軍なりき、いかに
もゆるしがたしと宣へつれども、ひらに申受たり、聖
が心を破り給ひては、鎌倉殿いかでか冥加おはすべ
P728
きと、からかひ奉る程に、今までありつるなりと申
て、けしきゆゆしげ也、北条宣ひけるは、廿日と宣
ひしに、日数も過しかば、御宥されもなきと思ひて、
さのみ京都に有べきならねば、罷下りつるに、賢ぞ
あやまり仕たらんにとぞ宣ひける、若君はこれより
聖具し奉りて都へかへり上り給ふ、今一時も有せば、
切奉り候べきにてありけるに、蘇り給けるもあさま
し、只夢の心地してぞ御座しける、斎藤五斎藤六猶
うつつとも覚えずとぞ申ける、北条鞍置馬二疋引出
して、斎藤五斎藤六を乗せてのぼす、日比の情有が
たくあたりつることどもいひ続けて、二人ながら又
なく、若君も物こそ宣はね共、日比の歎きのなかに、
情をかけらるるけしき見え給へば、北条も涙をなが
して、今一日も送り参らすべけれども、二位殿に急
ぎ申べき事候へばとて、北条下りにけり、聖は若君
を先立てよる昼急ぎのぼる、文治元年の暮にて有け
れば、尾張国熱田の社にて歳を取る、明日正月五日、

文覚上人の里の坊、二条猪隈へぞ着にける、若君は大
覚寺へましますべきにて有けれども、暫旅の疲を休
みつつ、夜に入て大覚寺へぞましましける、栖なれ
しやどを見れば、たて納めて人もなし、近きほどの
人に問はばやと思へども、夜も更けさ夜も隔たり、
犬の声もすむほどになりにければ、人の音もせずな
りにけり、むかし手なれ飼ひし犬の、籬のひまより
走り出て、尾をふりてなつかしげに向ひければ、我
を見知たりけるものは、おのれ計こそのこりけり、
母御前、乳母の女房、妹の姫君はいづくにぞ、我下り
し其思ひにたへ給はずして、身を投給ひにけるやら
ん、また平家の方人とて、武士のとりけるやらん、
さまざまに思ひつづくるに、心うくて主はいづくへ
ぞと、この犬に問はまほしけれども、御返事すべき
ならねば、思ひ歎き浅からずして、いづくへかまし
まし候べきなれば、今夜はここにとどまりて、こし
方行末のことども、つくづくと思ひつづけ給ひて、
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命のをしかりつるも、かへり上りたかりつるも、此
人々を今一度見奉り、見え奉らんとこそ思ひつるに、
こはいづくへぞや、ありし松原にて如何にも成らで
と、責てのことに思召しけり、限りあれば夜も漸く
明にけり、斎藤五斎藤六、其辺を走り廻りて、人々
に問ひければ、若君は鎌倉へ下り給ぬと母御前御乳
母の女房聞かせ給て、その御歎きあさからずして、ふ
ち瀬にも身を投げんと宣ひしが、もしや帰り上り給
ふとて、かひなき命を惜みて、この世になき人とも
なるならば、山々寺々修行して、後世を弔ひ奉らん
とて、大仏参籠し給て候なるが、歳は奈良にてとら
せ給ひて、当時長谷にこそ籠らせ給たると承ると申
ければ、左もあらんとて、斎藤六長谷へぞ参りにけ
る、母上乳母の女房は、長谷の観音堂の正面に候ひ
給ひて、別れし若君今一度今生にて合せ給へ、それ
かなはず候はば、急ぎ命を召して、若君と一蓮の上
に向へ給へ、大慈大悲の御誓は、枯れたる草木も花

咲き実なるとこそ承はれ、悲願あやまたず合せ給へ
と申もはて給はず、御涙にむせびて、法施の音も弱
りにける、斎藤六是を聞に、袖もしぼるばかりにて、
斎藤六こそ参りて候へと申たりければ、母うへ乳母
の女房、これを聞くに夢の心地して、いかにやいかにや、
この若君はいかになり給たるぞと、問ひ給へば、若
君は別の御事候はず、御上り候て、大覚寺に渡らせ
給ひ候が、急ぎ参りてこの由を申候間、参りたりと
申せば、あなよろこびの事や、年来観音にあゆみを
運び、志をいたしつつ参りし事も、又参籠せし事も
ありき、此度は若君の事を祈り申て、今生かなはず
ば、来世のため共思ひて、百日の参籠と思ひつるも、
この若君の故なり、又こそ参らめとて、観音にいと
ま申て京へ出給ぬ、さても斎藤六、有し鎌倉への下の
道すがらの事をぞかたりける、大慈大悲の御誓は、罪
あるをも罪なきをも引導し給ふ事なれば、昔今もか
かるたぐひ多かりきと宣ひて、大覚寺にて若君を見
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奉り給ふに、猶現とも覚え給はず、夢の心地ぞし給
ける、若君日ごろ思ひつる事、又道すがら旅の哀を
こまごまとかたり給へば、母うへ乳母女房これを聞
き給ふに、御泪のみぞつきせぬ、見る人きく人袂を
しぼらずといふ事なし、若君旅に出で給ひたる効と
おぼえて、日くろみして少しおもやせて見え給ふ、
それにつけてもいとど悲しくて、つきせぬ物は御涙
ばかりなり、若君かくてしばしもましますべけれど
も、世の聞えもおそろし、また聖の思はん事もあれ
ばとて、急ぎ高雄へ入らせ給ぬ、聖斜ならず悦びか
しつき奉り、斎藤五斎藤六をもはぐくみ、母うへの大
覚寺の御すまゐの幽なるをも、こまやかに訪ひ奉け
り、
去程に北条鎌倉へ下る、鎌倉殿より御使はしり向て
申けるは、十郎蔵人行家、志太三郎先生義憲、河内
国にかくれ籠りたる由其きこえあり、搦めとりて参
らせらるべしと申たりければ、北条是迄下りたるを、

かへり上るべきにあらずとて、京の代官に置たる北
条甥平六時定といふもののもとへ、十郎蔵人行家、志
太三郎先生義憲等、河内国に隠れ籠りたるよし其聞
えあり、からめとりて参すべく候由、鎌倉殿より仰
付られたり、これまで下る間かへり上るに及ばず、
かの人々を搦め取て可参候由、時定がもとへ申上せ
たり、時定が郎等に大源次宗安と云者あり、時定申
けるは、此こといかに有るべき、誰にてからめさす
べき、又彼人々を見知たらばこそあらめ、但是に今
まいりの法師の有しは、いまだ是にあるか、召せと
て召出したり、もとは山門西塔法師ひたち房昌明と
云者なり、時定申けるは、十郎蔵人殿、志太三郎先生
殿、両人をからめ捕てまいらせよと、鎌倉殿より仰
かうぶりたり、彼人どもは天王寺に隠れ居たりと聞
ゆ、罷下搦め参らせよと云ば昌明、十郎蔵人殿をこ
そ見知り参らせ候はねと云ければ、時定が郎等大源
次宗安を先として、信濃国住人笠原十郎国久、同国
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住人桑原の次郎、上原の九郎、伊賀の国住人羽鳥部
平六、常陸国住人岩下太郎、同次郎等を始として、都
合三十余騎にて天王寺へ下る、天王寺に秦六秦七と
いふ舞人兄弟がもとに隠れ居たり、中にもくぼの学
頭と云者、娘二人あり、かれを十郎蔵人思て忍びて
ましましけり、先昌明、秦六秦七がもとを見るに人
もなく、くぼの学頭兼治がもとをみるに、唯今迄人
ありと見えたるが、そこにもましまさず、昌明力及
ばずして、天を仰て京へ帰り上るに、十郎蔵人熊野
へ立給ふが、暫く和泉国八木郷司が許にあり、郷司
京へ上りて、平六時定に申けるは、和泉国八木郷司
と申者にて候、此四五日某がもとにこそ、あやしば
うたる人は忍びてましまし候へ、一定十郎蔵人殿に
てましますと覚え候と申たりければ、時定悦びて五
十騎計の勢にて下る、東河の桜岸の辺にて昌明に行
合ひたり、十郎蔵人殿は和泉国八木郷と云所にまし
ますなるぞ、急ぎ馳下て搦めよと云て、先に遣はす、

昌明聞あへず、鞭を揚て馳下て、八木郷を尋ぬるに、
此家にこそましまし候へと申ければ、昌明つと入て
見るに、爰にも唯今迄人ありと見えたりけるに御は
せず、昌明仰天して、彼家の後口に立たる所に、ある
下す女の通るをとらへて、かかる人はいづくにまし
ますぞ、慥に申せと云に、知らずと申ければ、いは
ぬ物ならば首を切らんと申て、太刀をぬかんとしけ
れば、女おろしさに、あれに候家にこそ、いかなる
人やらん、尋常なる旅人の忍てましまし候と申けれ
ば、昌明押寄せて彼家を見るに、褐衣に菊とぢした
る鎧直垂着たる男の、唐瓶子にくち包みて取出した
り、唯今行はんとて取ちらしたりけるに、昌明が寄
するを見て、彼男つと出て、北をさして迯るを、昌
明是を十郎蔵人と思ひて追かくる、十郎蔵人は金作
りの太刀左手に持ち給へり、つばは後生菩提のため
とて、熊野山へ誦経にまいらせ給へり、右手には三
尺五寸の大太刀ぬき持て、ぬりごめの前に立向ひた
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り、昌明むんずと切れば、行家丁とあはす、行家丁
と切て、左の手に持たる金作りの太刀にて、づばと
さし、づんとをどりのきをどりのきする、昌明も流石太刀
にこらへずあやうくおぼえけり、されども少しもお
そるる事なく、ただ切に切ければ、十郎蔵人こらへ
ずして、ぬりごめの内につと入る、昌明申けるは、
きたなうも後を見せさせ給ふ物かなといふに、さら
ば和僧そこのけ、出んと宣へば、昌明つとをどりの
く、太刀を額に当て蔵人つと出たり、昌明丁と切あは
す、いかがしたりけん、太刀と太刀と切くみて、昌
明太刀を投すてて得たりおうといだきたり、上に成
下に成するに、大源次宗安大石をとり、十郎蔵人の
ひたいを丁と打わりたり、蔵人朱になりて、己は下
臈なり、弓矢を取者は弓矢を持て勝負はすれ、石な
どにて敵をうつ事や有ると宣へば、不覚仁哉、足を
結(ゆひ)かしと申たりければ、宗安、昌明が足をこめて結た
りければ、少しも働かず、蔵人を引起して見れば、

額より流るる血は〓の水をこぼすが如し、蔵人、昌明
を見給て、和僧は行家を組んと思ひしかと宣へば、
山上にて多くの悪僧共に打組む事は候つれども、君
の太刀ほどの事にはいまだあはず、就中左の御手に
てささせ給へる太刀に、何に怺へがたくこそ候つれ
とぞ申ける、又昌明をいかが思召候つる、何とか思
ふべき、和僧にしばられぬる上はとぞ宣ひける、志
太三郎先生義憲、河内国を落ちて、醍醐山に籠りた
りと聞えて、山をさがすに、伊賀国をさして落行け
るを、羽鳥平六を先として、山路を見するに、所々
に太刀腹巻ぬぎすてて、ある深山に隠れ居たりける
が、終に自害してけり、両人が首を刎て、損ぜぬ様
にとて脳をいだして、塩をつけみそをこうて、昌明
が鎌倉へ持下りにけり、いかなる勧賞にか預らんず
らんと人々申けるに、勧賞にはあつからずして、常
陸国へ流されにけり、諸人こはいかなる事ぞやと驚
き申けれ共、其心を知らず、流されて二年と申に、
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抑行家誅したりし僧は、常陸国へ流しつるは、未だ
あらば召せとて召し返して、いかに和僧わびしく思
ひつらん、下臈の大将軍たるものを誅しつれば、冥
加のなきぞ、時に和僧が冥加のために流し遣しつる
なりとて、摂津国土室庄、但馬国太田庄をぞ賜たり
ける、平六が勧賞には本領を返し給はる、
権亮三位中将維盛の子息六代御前は、年積り給ふほ
どには、御みめ形ち御心ざま立居の振舞迄、勝れてま
しましければ、文覚上人そら恐しくぞ思はれける、
鎌倉殿も常には覚束なげに宣ひて、六代は頼朝がや
うに、朝敵をも打平げ、親の恥をも清めつべき者
か、又頼朝を昔愛し給ひしが如く、いか様見給へと
申されければ、是はいひがひなき不覚仁なり、少し
も覚束なく思召候まじと申ければ、世を打とらせて
方人してんと思ひ給へばこそ、乞うけ給ふらめ、但
頼朝が一期はいか成者なりとも、いかでかかたむく
べき、子孫の末ぞ知らぬと宣へるぞ怖しき、是に付

ても世をつつみ給ひけるぞいとをしき、九条右大臣
摂禄せさせ給べきよし、鎌倉殿より院へとり申さる
と聞えしほどに、十二月廿八日、内覧宣旨を下され
しを、昌泰の頃、北野天神、本院左大臣相並て内覧
のこと有し外、幼主の御時、左右に並て内覧の例な
しと、右大臣仰られければ、次年三月十三日、摂政の
詔書を下されき、前の日、院より右少弁定長を御使
にて、右大臣摂禄の事頼朝卿尚執申之由、近衛殿へ
申させ給ひたりければ、忽に門さされにけり、御分
丹波国辞し申させ給ひつつ御籠居あり、右大臣撰ば
れましまししもさる御事にて、しばしなれども平家
にむすぼれてましまししかば、理なりとぞ申ける、法
皇殊に歎き思召けれども、鎌倉の源二位の執申さる
ることさりがたければ力及ばず、かうさびて九条に
ましましけるが、保元平治より以後、世のみだれ打
続きて、人の損ずる事隙なく、朝夕歎き思召ける陰
徳むなしからず、陽報忽に顕はれにけるやらん、斯
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る悦び有き、かひがひしくみだれたる世を治め、す
たれたる事を起し給ふ、
六代御前十四五にも成給ふ、されば世の恐しさいた
ましさに、とく剃りおとし給へかしと母上も宣へど
も、見奉りては是ほどうつくしき人を、やつし奉ら
ん事の悲しさよ、世の世にて有せば、今は近衛司に
てこそあらましかばなどおぼすぞあまりの事なりけ
る、十六と申年の文治四年の春のころ、さてしも有
べき事あらねばとて、柿衣袴負などしたためて、う
つくしげなる髪を肩の辺りより押切つつ、文覚上人
にいとま乞て、修行に出給ひにけり、斎藤五斎藤六
も、同じやうに出たち供に参る、先高野に参りて、
時頼入道が庵室に尋入て、我はしかじかの者なり、
父の成はて給ひけんことの聞まほしくて、来りたり
と宣へば、時頼入道かく宣ふをききてより、権亮三
位中将の身投給ひしも、只今の事のやうに思ひ出て
哀なり、この山伏すこしも三位中将にたがはず似給

へり、有しはじめより終迄の事、細にかたり申けれ
ば、この山伏ども泪もかきあへず、頓て熊野へまい
り給ひて、新宮那智へ伝ひ給ひ、浜宮の王子の前に
て、父三位中将身を投給たる、漫々たる沖の方をは
るばると打詠め給ひて、そぞろに涙ぞ流しける、父
はこの御前の沖にて、身を投たりけるものを、いづ
くの程、何たる所にてましますらんと覚束なくて、
沖より立きて磯うつ浪にも、父の御もとへ事つてま
ほしくぞ思召しける、ひねもすに泣暮し給ひて、さ
てあるべきにあらねば、浜の砂に仏の御形を書て、
てづから開眼して、念仏申行道して、過去聖霊成等
正覚頓証菩提を祈り給ひて、磯打浪にいとま乞て、泣
泣京へ上り給ひて、高雄の辺に住給ふ、三位禅師の
君とぞ申ける、
建久元年十一月七日、鎌倉殿上洛有て、院内の見参
に入て、正二位し給ひて、頓て正二位大納言に成て、
同年十二月四日、大納言右大将に成給ひて、両官を
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辞して、同十六日に関東へ下向、同三年三月十三日
に、法皇隠れさせ給ひにけり、同六年三月十三日に大
仏供養あり、平家の侍上総悪七兵衛景清、鎌倉殿へ降
人に参りたりければ、和田左衛門尉義盛に預らる、
昔平家に候し様に少しも口へらず、和田左衛門に所
をも置かず、一座をせめて盃先に取、或は〓のわき
に、馬引寄て乗たりなどして有ければ、もて扱ひて
他人に預給へと申ければ、常陸国住人八田左衛門尉
知家に預らる、
鎌倉殿、大仏供養の随兵の守護の為に、建久六年二
日に御上洛、同三月十二日南都へ入らせ給ふ、大衆
恐れて引たるが、悉くある中に、怪しばみたる者見
えければ、梶原を召て入らせ給ひつる、南の大門の
東のわきに、怪しばみたる者有と、大衆の中へかき
わけかきわけ入て、頭〓たる袈裟を引剥ぎて見れば、髭
をばそりて頭をばそらざりけり、何者ぞと問ふに、
平家の侍薩摩中務丞宗助と申者にて候なり、それは

いかにといへば、もしや君をねらひ参らせ候とてな
りと申せば、鎌倉殿打うなづかせ給ひて、汝が心ざ
し神妙なりとて、召置れて、大仏供養果てて、都へ
御上り有て、宗助をば六条河原にて斬れにけり、
平家物語巻第十九終