平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第二十

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平家物語巻第二十(原本無題)
抑々平家の侍ども討もらされて、無甲斐命計り生た
る数多有けり、頸をのべて源氏に多く付たり、重代
相伝久成、心ざし深き者七八人有けり、源氏にも心
置れぬべし、我身にも人にも立交て、世にあるべし
とも覚えぬ者ども、山野に交り、爰かしこに隠れあ
りきけり、平家亡果てて、日本国鎌倉どのの世に成
て、大宮の主と申て、世にもおはせざりしが、鎌倉
の源二位の御妹にておはしければ、官位進みのぼり
て、今は一条殿とて、京都のかためにて、人の恐るる
こと斜ならず、見るも目ざましと人申けるとかや、
主馬入道盛国が末子に、主馬八郎左衛門盛久、京都
に隠れ居けるが、年来の宿願にて、等身の千手観音
を造立し奉りて、清水寺の本尊の右わきに居奉りけ
り、盛久ふるにも照にもはだしにて、清水寺へ千日、

毎日参詣すべき心ざし深くして、あゆみをはこび年
月を経るに、人是を知らず、平家の侍、打もらされ
たる越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景清、主馬八郎左
衛門盛久、是等は宗徒のもの共なり、尋出すべき由、
兵衛佐殿、北条四郎時政に被(レ)仰含けり、主馬八郎
左衛門盛久は、京都に隠れ居たる由聞えけれど、北
条京中を尋もとめけれども更に尋得ず、ある時下女
来りて、誠にや、主馬八郎左衛門を御尋さふらふな
るか、かの人は清水寺へ、夜ごとに詣給ふなりとぞ
申ける、北条悦て、いか成ありさまにて詣ずるぞと
とふ、白直垂き給て、ものもはき給はず、はだしにて
詣づる人にて候なりと申ければ、清水寺辺に人を置
き、うかがひ見するに、ある時、白直垂のしほれた
るに、はだしにて盛久詣けるを、召捕て兵衛佐殿へ
奉る、盛久まだしらぬ東路に、千行の泪を拭ひ、暁
月に袂をうるほして、我清水寺の霊場に、千日参詣
の志を運、多年本尊に祈奉る、信心の真をこらしつ
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るに、日詣むなしく成ぬ、あはれ西国の戦場に軍破
れて、人々海に入給ひし時、同じく底の水屑とも成
たりせば、今日かかるうきめにはあはじものをと、
おもはぬ事もなく、思ひつづけて歎き暮し、あした
の露に命をかけ、日数も漸く重れば、鎌倉にも下着
しぬ、梶原平三景時、兵衛佐殿の仰をうけて盛久を
召す、心中の所願を尋ね申に、仔細をのべず、盛久、
平家重代相伝の家人、重恩厚徳の者なり、はやく斬
刑に従ふべしとて、土屋三郎宗遠に仰て、首を刎ら
るべしとて、文治二年六月廿八日に、盛久を由井が
浜に引すへて、盛久西に向て念仏十遍計申けるが、
いかが思ひけん、みなみに向て、又念仏二三十遍計
申けるを、宗遠太刀をぬき頸をうつ、その太刀中よ
り打をりぬ、又打太刀も、目ぬきよりをれにけり、
不思議の思ひをなすに、富士のすそより光り二すぢ、
盛久が身に、差あてたりとぞ見えける、宗遠使者を
立て、此由を兵衛佐殿に申す、また兵衛佐殿の室家

の夢に、すみ染の衣きたる老僧一人出来て、盛久斬
首の罪にあてられ候が、まげて宥め候べきよし申す、
室家夢の中に、誰人にておはするぞ、僧申けるは、
我清水辺に候小僧なりと申すとおほじて夢覚て、兵
衛佐殿に、かかる不思議の夢をこそ見たれと宣ひけ
れば、さる事候、平家の侍に、主馬入道盛国が子に、
主馬八郎左衛門盛久と申者、京都に隠れて候つるを
尋取りて、只今宗遠に仰て、由井が浜にて、首をは
ねよとて遣て候、此事清水寺の観音の盛久が身にか
からせ給たりけるにや、首をはね候なるに、一番の
太刀は、中より三に折れて、また次のたちは目ぬき
より折て、盛久が頸は、きれず候よし申て候とて、
盛久を召返されたり、兵衛佐殿、信伏の首をかたぶ
け、手を洗ひ口をすすぎ御直垂めして、盛久に、抑
いかなる宿願ありて、清水寺へは参り給けるぞ、奇
特瑞相をあらはす不審なりと仰らるに、殊なる宿願
候はず、等身の千手観音を造立し奉て、清水寺の観
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音に並べ参らせて、内陣の右の脇に立奉て、千日、毎
日参詣をとぐべき由、宿願候て、既に八百余日参詣
し、今二百余日を残して召捕られ候とぞ申ける、右
兵衛佐殿、所帯はなきかと問給へば、紀伊国に候し
かども、君の御領に罷成て候と申す、さぞ候らんと
仰られて、件の所帯は、ながく相違有べからずと、
安堵の御下文たびて、もとのごとく還補すべきよし
仰られて、是を返さるる上、龍蹄一疋に鞍置て是を
給はる、北条四郎時政に仰て、越前国池田の庄をも
て、法住寺仙洞を造進せらるる其奉行せしむべきよ
し、かさねて御下文をたまはる、これは文治二年丙
午六月廿八日の事なり、盛久頸をつなぐのみならず、
本領を返給ふうへ、越前国池田庄を賜るも、これひ
とへに清水寺観音の御利生なり、盛久同七月下旬の
ころ帰洛して、宿所へは落つかず、先清水寺に参詣
して、本尊を拝し奉て、御利生の忝につけて、泪か
きあへず、当寺の師匠の良観阿闍梨に、由井が浜に

て頸きられんとしける事を、なくなく語り申に、良
観も泪をながし、去六月廿八日午の刻に、御辺の安
置し奉り給たりし本尊、俄に倒れおはしまして御手
二つに折れぬ、一寺奇特の思ひをなしつるに、さて
は遼遠の道を分て、信敬の人を資給つる御志、誠に
上代にも超たり、新造の観音の御利益、古仏身にすぐ
れたりと、仰がぬ貴賎上下はなかりけり、
平家の子孫は、去文治二年の冬、北条四郎時政上洛
して、一子二子迄も残らず、腹の中をもあけずと云
計り也、尋ねあなぐりて悉くうしなひはてぬ、権亮
三位中将の御子、六代御前ばかりぞ、高雄の文覚聖
人の申預りしかば、あつけられたりし外は、今は一
人も平家の子孫なしと思ひしに、新中納言知盛の御
子、三歳にて叙爵して、大夫知忠とて、紀伊次郎兵
衛為範が養ひ奉りけるが、ここかしこに隠れありき
給ひけり、年比は、伊賀国或山寺におはしけるが、
年もおとなに成て、地頭守護怪しみぬべかりければ、
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建久七年の秋のころより、法性寺の一橋の辺に忍て
おはしけるを、いかなる者かひろめたりけん、一条
二位入道聞給て、北方の乳父後藤兵衛実基が子に、
後藤左衛門基清、同子息兵衛尉基綱十六歳、父子に
仰て、同年十月七日の申の刻ばかり、五十余騎にて
法性寺一橋にはせ向て、新中納言の子息大夫知忠を
からめ取らんとしけるに、その内に思ひ切たる者ど
も、十二人籠りたりけり、彼所は前は深き堀にて、馬
通ふべくもなし、うしろは大竹滋て、人頭をさしい
れがたし、さりければ軍兵馬より下りて、堀にかり
橋渡して、一二人づつ打入けるを、伊賀大夫を始と
して究竟の弓の上手ども成ければ、大肩ぬぎにてさ
し顕て、さしつめ射けるに、多くのものども討殺さ
れて、堀をぞ埋たりける、軍兵はしつきはしつきに馳集
る、南北の家をこぼち退けて、左右より責入り、禦
戦事、時をうつす程なり、たけく思へども、力よわ
りて矢だね尽ければ、人手にかからじとて自害して

けり、打て出る者もなかりければ、軍兵心のままに
乱入て見れば、紀伊次郎兵衛為範は、伊賀大夫の自
害したるを、膝のうへに引懸て、為範も腹かいきり
てふしたり、為範が子、兵衛太郎兵衛次郎兄弟、太
刀を差違て二人うつ伏に伏たり、所々に火をかけた
りけるに、いかがしたりけんもえつかず、為範が舎
人男一人ぞ、腰ぼねを射させて、いきつき居たりけ
る、其外のもの一人も見えず、人は籠りたるかと思ひ
つるに、洩にけるやらんと彼舎人男に問ければ、人
は廿余人おはしつるが、後よりみな落給ぬとぞ申け
る、越中次郎兵衛盛次、上総悪七兵衛景清も、例の生
上手なればみな落にけり、後藤左衛門基清、自害の
頸共ささげて、一条殿へ参れり、二位入道一条にお
はしければ、一条殿とぞ申ける、入道殿、子息左衛
門督高能同車して、一条を南へやりいでて実検せら
る、為範が頸は知たる者ども有けり、其外の頸はし
らざりけり、伊賀大夫知忠の頸は、一定やらんと覚
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束なくて、治部卿殿とて、七条院にさぶらひ給ひけ
るを、むかへ奉りて見せられければ、七歳と申しに
捨置て、西国へ中納言に相具して罷りし後は、生た
るとも死たるとも知らず、まして相見ことは思よら
ず、慥にそとも覚えねども、故中納言の思ひ出さる
る所のあるは、さにこそとて、泪を流しけるぞむざ
んなる、
小松殿の御子息六人おはしけるも、爰かしこにて誅
せられ給て、末の子に、丹後侍従忠房とておはしけ
るが、讃岐国屋しまの戦を落て、行方もしらざりけ
るが、紀伊国の住人、湯浅権守宗重がもとにかくれ
居給へり、平家の侍越中次郎兵衛盛次、悪七兵衛景
清なんどもつきたりけり、是を聞て、和泉紀伊国摂
津大和河内山城伊賀伊勢八箇国に隠れ居たりける、
平家の家人ども、一人二人参り集るほどに、五百余
人籠たり、鎌倉殿聞召て、阿波民部大夫成良に仰て
攻らる、成良紀伊国に越て、御所野といふ所に陣を

取て扣へたり、此上熊野別当湛増法眼、子息湛快父
子に仰て攻らる、湯浅には究竟の城あり、岡村岩野
岩村の城とて、三ヶ所あり、彼城のうち、岩村の城
に五百余人楯籠る、此外湯浅が家子郎等数を知らず、
中にも湯浅が甥、神崎尾藤太、舎弟尾藤次、聟に藤
波の十郎、其養子に泉源太、源三兄弟、岩殿三郎宗
賢なんど云、一人当千の兵ども楯籠たる間、たやす
く責落しがたし、湛増たのみ来たる侍、須々木五郎
左衛門允と云者、人に勝て進出て攻め戦けるを、尾
藤太、中ざし十五束有を、あく迄引て放つ矢に、五
郎左衛門尉が甲の鉢付の板を、主を籠て射通したり、
是を寄手の兵ども見て進み戦はず、惣て三月の間、
八ヶ度の戦に、熊野の侍郎等以下多く討れにけり、
湛増鎌倉殿へ申けるは、今は官兵の力つきて候、湛
増計りにては叶べからず候、国をも四五ヶ国寄せさ
せ給ひて後、官兵をもて攻候べきかとぞ申ける、鎌
倉殿仰せられけるは、官兵の云甲斐なきにこそあれ、
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始終はいかでか怺へてあるべき、勢をものぼせ、国
をも寄べけれども、籌、山海をよく守護して、山賊
海賊をとどむべし、国を守護せば、凶徒兵粮尽て、
一人二人おちん程に、一人も有まじきぞ、小松殿君
達、降人たらんをば宥め申べし、立合給はん人をば
誅すべし、頼朝平治の乱に流罪に定りたりしかば、
池の尼御前の御使にて、小松殿、太政入道殿に詞を
加へて、よきやうに申されたりしによつて、流罪に
定てありしも、小松殿の御恩なりと申されける、此
上高雄文覚上人をもて、内々湯浅権守宗重を、誘へ
仰られけるは、鎌倉殿にむかひ奉りて、合戦を致す
事は、日本国を敵にしたり、たとひ一年二年こそ怺
へて有とも、始終はいかでか怺ふべきと思て、鎌倉
殿の仰に随ひ奉りにけり、宗重、侍従殿に申けるは、
鎌倉殿申され候なるは、小松殿君達降人たらんをば
宥め奉れ、たて合給はん人をば誅し奉るべしと、官
兵等に仰含められて候なり、始終は宗重も叶ふべか

らず候、只降人に参らせ給へと申ければ、宗重を打
憑て来る事なれば、いかにもよき様にこそはからは
めと申されければ、九郎大夫判官、京都の守護にて
おはしましければ、判官のもとへ丹後侍従を送り奉
る、判官より鎌倉殿へ奉る、鎌倉殿、侍従殿に御対
面ありて、頼朝が流罪に定り候し事は、併小松殿の
御恩なり、其御子息、少しもおろかに思ひ奉らず候、
加様に見参に入候ぬる上は、都の片辺に思ひあてま
いらする事候、とくとく上洛候へとて、都へ返し上
せ奉る、侍従殿、実にも命は生なんと思ひ給ひける
に、都へは入奉らず、近江国勢多にて切奉る、いか
成る事ぞやと人かたぶき申けり、
小松殿の末御子、土佐守宗実と申けるは、頭をおろ
し、東大寺春乗坊の上人の許におはして、我は故小
松内大臣重盛の子なり、生年三歳まで、大炊御門左
大臣経宗の取離て、父母にも見せず、我実子のごと
くにおほし立たりしかば、弓矢の向きたるらんかた
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も知らず、されば平家都を落しにも相具せざりき、
おそるる事なく罷過ぎつるが、平家子孫どもならぬ
をも、とらるるなど承はれば、恐をなしてたちしの
びてありつれども、いかにして身一つを隠すべくも
なければ、髻を切て参りたり、甲斐なき命ばかり助
け給へやと泣々宣ふ、年十八にぞなり給ひける、美
しげなる入道なり、上人是をあはれみて、いか様に
も是に暫くおはしませと宣ひて、東大寺油倉と云所
にすへ奉りて、急ぎ使をかま倉へ下し、二位殿へ此
よしを申たまふ、あながちにつみ深くあるべき人に
あらぬうへ、出家入道しておはすなれば、さやうに
てそれに差置給へと、申されたりければ、上人斜な
らず悦びて置奉りけり、後には、高野の蓮花谷とい
ふ所に住して、生蓮房とぞ申ける、伊賀の事出で来、
猶あしかりなんとて、土佐入道生蓮房をば、かまく
らへ呼下されければ、京をいで給ひける日より飲食
を断て、十三日と申に足柄の山を越て、関本といふ

所にて終に失せ給ひぬ、あはれなりける事共なり、
上総悪七兵衛景清は、降人に参りたりけるが、大仏
供養の日をかぞへて、建久七年三月七日にてありけ
るに、湯水をとどめて終に死にけり、越中の次郎兵
衛盛次は、都にも安堵しがたくて、但馬国に落行て、
気比の権守道広がもとに隠れ居たりけり、人これを
知らず、始めは廐につかはれて馬をぞ飼ける、馬を
もよく飼けり、馬洗に出つつ、馬に乗てはせたり、
あがかせたり、物射るまねしたりなんどしけり、後
には、道広が娘のありける方へ遣して、今参のよく
つかはるるぞ、とのゐなどさせよとてつかはしける、
次第にありつる程に、如何したりけん、彼娘に近付
て、よなよな忍びかよひけり、錐ふくろを通す風情
にて、隠れなかりけり、道広も、越中次郎兵衛盛次
にてありと知てけり、盛次忍び度々京へ上りて、年
比しりたりける女のもとへぞかよひける、或夜彼女、
さてもいくつにおはするぞ、か様に昔のよしみを忘
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れ給はで、情をかけ給へば、露おろかに思ひ奉らず
と、ねんごろに申ければ、我は但馬国気比の権守通
広といふものの許にあり、あなかしこ、人に披露す
なとぞ語りける、鎌倉殿より越中次郎兵衛盛次を、
からめても打てもまいらせたらん者には、勧賞を行
はるべき由、鎌倉殿より披露あり、いづくにか隠居
たらん、からめて勧賞を蒙らばやとぞ申ける、盛次
がさばかり披露すなと、打とけて語りたるに、女の
うたてさは、わらはこそ次郎兵衛があり所は知りた
れと申たりければ、男悦て女によくよく尋とひて、
鎌倉殿に此由を申す、頓て気比の権守道広に仰て、
からめてまいらすべきよし、建久五年の比仰られに
けり、道広境節[B 「境節」に「ママ」と傍書]大番にて在京したりけり、我身は下
らず、妹聟朝倉大夫高清ならびに家人等に、越中次
郎兵衛盛次をからめて参らせよ、相構へて迯すなと
ぞ申たりけり、たやすくも討べくもなかりければ、
温室にてからむべしとて、温室におろして、したた

か者七八人用意したり、盛次温室におりけるに、腰
刀に帯をまきて、温室のうちのなげしにぞ置ける、
これ用心のためなり、盛次温室におりたり、此七八
人の者からめんとす、盛次さしたるとて、おのれら
には一度もからめらるまじきぞといひて、温室の内
を走出たり、にげも隠れもしつるものならば、権守
が大事になるべし、又からめられずしてあらば、お
ぼつかなくも恐しくも、汝等おもはんずれば、まく
まし縄にてはしばらるまじと云て、帯を以て心とし
ばられけり、気比権守、盛次を鎌倉殿へ参らせたり
ければ、盛次を召出て、いかに汝は平家の侍ながら、
平家の一門にてあんなるに、西海の浪の上にて、平
家の人々と一所にて、打死をもなどせざりけるぞと
仰られければ、平家の君達、させるし出したる事も
なくて亡び給ひぬ、よき主をも執候かとてこそ、残
り留て候へとぞ申ける、抑汝は、九郎につかはれけ
るなと仰られければ、さる事候き、若や伺奉り候と
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て、近付奉り候しかども、判官殿意得たりげにて、
心ゆるしも候はず、よるは御ふしども、人しられず
しておはしまし候しかば、恐しくておのづから走向
には、見参に入ことも候しかども、御目をはたと見
合せて、おはしまし候しかば、少しも透間候はで、
組参らせんと思ふ心も候はず、都を落させ給ひて後
は、御心を置せ給はねばこそ候しか、其後は腰刀の
かねよきも、征矢の尻のかねよく候も、鎌倉殿の御
ためとこそをしみ持て候つれども、今は運尽て、か
く召とられ候ぬる上は、力及ばずとこそ申ける、鎌
倉殿打うなづきて、是等生てめしつかはばやとおぼ
しめしけれども、平家の侍の中には、これら一二の
ものなり、虎をやしなふうれひありとて、終に盛次
きられにけり、大名小名惜まぬ人もなかりけり、
平家の子孫といひ侍と云ひ、皆切られぬ、今は何事
かあるべきと申あひけるに、平家のすゑの君達だに
も謀叛起し給ふ、まして高雄の文覚上人の申預り給

し、小松内大臣の御子孫、権亮三位中将維盛の子息
六代御前、平家の嫡々なり、小松内大臣殿、世の中
傾かんずる事、兼て知り給ひて、熊野へ詣給ひ、つ
ゐに申合て命を失ひ給ふ、父三位中将維盛、軍の最
中に、讃岐の屋嶋を迯れ出給て、高野にまいりて出
家し給て、やがて熊野に参り給ひ、那智の沖にて身
を投給ふ、かかる人の御子なり、頭をそり給へども、
心のたけき事よもうせじ、あはれとく失はばやと人
人申けれども、鎌倉殿御ゆるしなかりけり、その故
は、文覚上人の有ん限りは、さてこそあらめと思召
ける、かくこそ鎌倉殿、日来のよしみ御情もありけ
る、有がたき御心ざしなり文覚上人、元より恐し
き心もちたる者にて、内々怒りけるは、当今は御遊
にのみ御心入させ給ひて、世の御政をも知しめさ
ず、九条殿の御籠居の後、郷局のままにてあれば、
人の愁歎も斜ならず、故[B 後カ]高倉院をば、其比二の宮と
申て、二宮こそ学問もおこたらせ給はず、正理を先
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としておはしませば、位に即参らせて、世の政を行
はせ参らせんと計ひけれども、源二位昇進かかはら
ず、大納言を経、右大将迄成給ひにけり、右大将お
はせし限りは叶はざりけるが、正治元年正月十三日、
御年五十三にてうせ給ぬ、文覚上人の方人する人も
なかりければ、文覚上人忽に勅勘を蒙りて、二条猪
熊の宿所に、検非違使付て水火の責に行て、終に隠
岐国へ流されにけり、
其後六代御前、打絶え高雄にもおはせず、山々寺々
修行して、父の後生菩提を弔ひ給ひけるが、文覚上
人流罪せられたるよし伝聞給ひて、高雄へ帰おはし
たりけるを、安左衛門大夫資兼に仰て、同年二月五
日、猪熊の文覚の宿所に押寄て、六代御前を召取て、
関東へ下し奉る、駿河国の住人、岡部三郎大夫好康
承て、千本松原にて斬てけり、十二歳にて、北条四
郎時政の手に懸りて、爰にきられ給べき人の、年廿
六まで命のいき給ひける事は、長谷の観音の御利生

なり、終に駿河国千本の松原にて切られ給ひぬる、
先世の宿世とおぼして、哀なりし事どもなり、是よ
り平家の子孫は絶果て給ひにける、
灌頂巻 寂光院
元暦二年四月十六日、平家は物うかりし浪のうへ、
船の中の御住居、あらぬことに成果てて、生捕ども
けふすでに都へ帰り入べきよし聞し程に、其日にも
成ぬれば、女房どもは思ひ思ひに忍び給ふ、或は都
近き山さとへ立入、或は又捨がたかりしやどに帰給
ぬれども、あらぬ草生て、いにしへのかたちもなか
りけり、浦島が子の心地して、いとど悲しくぞ思召
す、国母北の政所は、すみなれ給にし御所などもか
はり果てて、今は入らせ給ふべき様もなし、西八条
の御宿所も焼失して、寄方なく思召ければ、東山の
ふもと、吉田のほとりなる所へ入らせ給ふ、中納言
法橋慶恵と申ける、なら法師の房なりけり、すみ荒
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して年久敷成にければ、軒には昔を忍ぶ草生茂り、
いとど露けき宿と成、花は色々匂へども、あるじと
頼む人もなく、月は夜な夜なもり入れど、ながめて
あかす友もなく、庭には草高くしげりて、荊棘道を
とざし、簾絶えてねやあらはなれば、姑蘇台の露清
くすみ、道の程伴ひ奉りし人々も、心々に立別れ、
あやしげ成朽坊の、其跡とも見えぬに落つかせ給へ
ば、見なれさせ給ぬる人もなし、今又御心も消入様
にぞ思召す、露の御命、何にか懸てながらふべしと
も思召し煩へる様なり、さるままには、うかりし船
の中、浪のうへの御住居、今は引かへて恋敷ぞ思召
れける、
蒼波路遠、寄思於西海千里之雲、
白露苔深、落涙於東山一亭之月、
天上の五衰もかくやと思召し知られてあはれ也、五
月一日御ぐしおろさせ給ふ、御年廿九にぞならせ給
ふ、芙蓉の御すがたは、つきせぬ御物思ひに衰へ、

汐風にやせくろませ給ひて、其ものともあらず成せ
給へ共、かかるうき世には、なほ人にはいかでかま
がはせ給べき、然どもひすいのかんざし御身につけ
ても、かかるうき世には、今は何かはせんなれば、
翠黛紅顔もよしなく思召しつつ、御さまをかへさせ
給ふ、御戒師には、長楽寺の印西上人、参らせ給け
り、御布施は、先帝の御直垂を泣々取出させ給ふ、
上人かね打ならして、
流転三界中 恩愛不能断
奇恩入無為 真実報恩者 K293
御願旨趣者、併三宝知見おはしますらんと計り申さ
せ給て、墨染の衣の袖をぞしぼられける、中にも哀
のまさりしは、今はの期迄奉りたりし御衣なれば、
御うつり香もなつかしくのこり、斜ならずゆかしく
て、いかならん世迄も、御身をはなたせ給はじと思
召けれども、差当りて御布施に成ぬべきものなかり
し上、且は彼御菩提の御為にやと、よその袂も絞る
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計なり、五月の短夜もあかしかねさせ給ひつつ、お
のづからうちまどろませ給ふこともなければ、むか
しのことをゆめにだにも御覧せず、壁に背ける残の
灯のかげ、幽に窓をうつ暗雨の音閑なり、上陽人が
上陽宮にとぢこめられて、凾谷年深して、自髪人と
いはれけんも恨あれば、さびしさは是にはまさじと
ぞ覚たる、去ままには、もとのあるじの植置たる、
軒近きはなたち花ありけるが、風なつかしき折節、
時鳥幽におとづれければ、女院御泪を押へつつ、御
硯の蓋にかくぞすさませ給ふ、
時鳥はな橘の香をとめて
鳴はむかしの人や恋しき W154 K222
いざさらば泪くらべん郭公
我も雲井に音をのみぞなく W155 K242
かりに立入らせ給ひたりけれども、五月も半に成に
ける、扨も彼所にては、いかにして過させ給ふべき
なれば、六月廿一日に、吉田のほとりなる、野沢の

御所へ入らせ給ふ、彼御所と申は、花山の法皇の世
をのがれさせ給ひし時、造進せられし御山庄(ごさんぞう)なり、
是も人すまで年久しく成にしかば、御所も皆たをれ
ふし、其跡ともなくあれにけり、傾る台のみぎりに
は石ずゑ計りぞ残りたる、或はかたぶきやぶれつつ、
雨風たまるべくもなし、人跡まれ成草村には、白露
のみぞおき増る、取つくろふ人なければ、日にした
がひてあれぞゆく、かかりし程に、七月九日地震お
びただしくして、あれたるやどもたをれふし、築地
も崩れておほひもなく、門は破れて扉もなし、あれ
たる古宮なれば、緑衣の監使の宮門を守るもなし、
荒たるまがきのありさまは、しげき野辺よりも露ぞ
おく、昼は終日に、あれまがきの露を御覧じて、上
越す風もうらめしく、夜は終夜、荒たるやどの板間
より、晴間の月を詠れば、閑亭[B 庭カ]の虫の音もすさまじ
く、心のくだくるは、ほくゑんの草むらに、声もを
しまぬ鈴虫と、壁にうらむるきりぎりす、幽に聞ゆ
P748
る松むしの、秋の最中と名乗して、哀さいとど忍び
がたし、尽せぬ御物思ひに、秋の哀を打そへて、さ
らぬだに思ひみだるる夕暮に、軒にさまよふささが
にの、いとより細き玉の緒の、何にかかりてか今日
までも、ながらふべきとは覚えねども、かぎりあれ
ばあかしくらさせ給ふ程に、秋もやうやう暮なんと
す、また世間もいまだしづまらずなど聞召につけて
も、走馬のいばゆるをも物さわがしく、心うく思召
折ふし、宗盛親子共に、生取られて都へ入らせ給ひ
たりしが、関東へ下らせたまふと聞召ければ、いと
ど心うくて、さりとも奥のかたへぞ下され給はんず
らんと、心すこしとりのべさせ給ひけるほどに、六
月廿一日、近江国にて終に切られ給ひて、京中を渡
さるなど聞召ける、御心の内おし計られて哀なり、
かかりければ、いよいよ深き山の奥にも、とぢこも
らばやと思召けれども、是へと申人もなく、さるべ
き便もなかりければ、思召立つかたもなくて、秋冬

空敷暮にけり、文治元年八月にも成にけり、侍ひ給
ふ女房のゆかりにて、大原のおく、寂光院と申候所
こそ、しづかにて候へとて、尋出して候へと申けれ
ば、その方様は本意なりと思召たたせ給ふ、右衛門
督隆房卿の北の方より、御輿などは沙汰し参らせら
れけり、忍びたる女房車二両参らせられけり、御具
足女房達など取のせて出させ給ふ、比は神無月の始
の事なれば、そらうち雲り、あられはげしくて、木
の葉打みだれて、四方の山辺は紅葉して、そことも
しらぬ草むらを、はるばるわけ行せ給ふに、山陰な
ればにや、日も既に暮れぬと、野寺の鐘の声すごく、
草葉の露に御袖しほれて、虫の音迄も心ぐるしげな
り、
けふもまた暮れぬと鐘の声すなり
いのちつきぬと驚かすかは W156 K294
と思召つづけられしも、哀にかなしくぞ聞えし、西
の山の麓にふりたる草の庵あり、民烟村遠くして、
P749
行かふ人もなく、暁峡蘿深して、巴猿の声すさまじ
く、鹿の遠ごゑ幽に、しらぬ鳥の音のみ鳴き渡り、
田面の雁もおとづれて、荻の上風打そよぎ、松吹風
も身にしみて、谷河の岩に苔むせり、
青苔似衣掛巌肩、白雲似帯廻山腰、 K295
水の音はむなしく昔の浪に准して、行人の衣しぼる
らんも理なり、
村幽翠黛の蔦のとぼそには、小篠のあみ戸をた
て、
即来迎念の夕べの窓には、鈴の簾をかけられた
り、
山より凛々[B 「凛々」に「ママ」と傍書]にかけくだしたる、懸樋(かけひ)の水も氷柱(つらら)ゐて、
人目も草も枯果てて、庭の浅茅の霜がれは、露かさ
なるもなつかしく、樒のはながら花がつみ、かつみ
るからに哀なり、道場のしつらひ迄、心すごき様な
り、座禅床年ふりて、檀上に苔むせり、雨風たまら
ぬ栖なり、たまたまこととふものとては、巴峡の猿

の一さけび、しづが妻木の截[B 鐡カ]の音、かれらが音信な
らでは、まさきのかづら青かづら、来る人稀なる所
なり、
至極甚深の床の上には、真理の玉をみがきかけ、
後夜晨朝の鐘の声には、生死の眠も覚ぬべし、
真(まこと)に得達の門も開くべしと見えたり、聖一人あり、
そのさまを御覧ずれば、濃き墨染の衣の上に、結袈
裟(ゆひけさ)をこそ懸られたれ、髪少し生ひ延びて、護摩の煙
りにふすぼり、薫じかほれる有さま、かくこそあら
まほしく思召されけれ、あれを見これを御覧ずるに
も、閑居のありさま、御心にかなはずと云事なし、
此聖と申は、是は近来成頼の宰相とて、天下に聞え
し賢人なり、世の中の成行あり様を心うく思ひて、
縦大中納言正二位を経ても何かはせんとて、いまだ
四十にも成給はざりしに、出家して高野粉川を廻ら
れけるが、是は少しすごき所なりとて、行すまして
おはしけり、女院は、隆房卿の北の方の計ひにて、
P750
柴の庵結びつつ渡しまいらせらる、これにてぞ、形
の如く御仏事どもいとなみて、御孝養などは有ける、
御供の人々其数おはせしかど、今はわづかに四五人
ばかりなり、一人は女院の御乳母に、帥典侍殿老人
にてぞおはしましける、一人は先帝の御乳母、五条
大納言邦綱卿の御娘、大夫三位の御妹大納言佐殿と
て、本三位中将重衡卿の北の方なり、一人は平大納
言時忠卿最愛の御娘なり、一人は大宮太政大臣伊通
公の孫、鳥飼中納言伊実卿の御娘なり、一人は少納
言入道信西子、弁入道定憲の娘、阿波内侍と申ける
人なり、各々夫妻の契を悲しみ、父母の別れに絶ずと
て籠り給けり、吉田にてはわざとならねども、道行
人の行かふに付ても、おのづから玉章のつては有し
に、今は仮初の事とふ人さへまれなりければ、今更
旅立て便もなくぞ思召ける、かくて神無月中の五日
の夕暮に、ならの古葉を踏しだく音のしければ、事
とふ人にやとて、急ぎみづから網戸を押開て御覧ず

れば、人にはあらずして、鹿ぞ一つれ踏わけて、向
への谷に入りける、是を御覧じて、
岩根ふみ誰かは問はんならのはの
そよぐは鹿のわたる成けり W157 
秋も漸たけぬれば、冬の空にも成にけり、岩間をわ
くる谷河の、さざれ水だに音もせず、四方の山辺を
見渡せば、皆白妙に隙もなく、深山の木々の淋しさ
に、梢の月ぞ冴え増る、庭には白雪つもれども、跡
ふみ付る人もなく、池には氷とぢかさね、うき音を
なく鴛鴦もなし、冬のけいきの淋しきは、いづくも
かくとはいひながら、山家の景気は猶かなし、いつ
しか炭釜の煙、霞の空に立かへり、谷立出る鶯の、
涙の氷柱(つらら)打とけて、軒端の梅に鳴く鳥の、うつろふ
こゑを聞せ給ふにも、いかに昔恋しくおぼしめされ
けん、帰雁がねの空に音づるるも、故郷へ事づてせ
まほしく、正月もたち、二月の廿日比にも成ぬれば、
深山木の其梢とも見えざりし、桜は花に顕れて、白
P751
雲かからぬ山ぞなき、いとどわりなくものすごし、
扨も成瀬の宰相入道、かくてもあるべく思はれけれ
ども、世の中おそろしく、又いか成うき名もやたたん
ずらんと思はれつつ、心さとくも立出て、高野の方
へ参られけり、建礼門院と申は、高倉天皇の后、太
政大臣清盛入道の御娘、安徳天皇の御母儀なり、高
倉天皇と申は、後白河法皇の第二の太子なり、女院、
先帝におくれまいらせ給ひて、うき世を背き、真の
道に入らせ給ひつつ、かすかなる御栖居にて、行す
まさせ給ふ由法皇聞召して、まぢかきほどにもすま
させ参らせばやと、常は思召けれども、近習の人々、
源二位の洩れ聞んことあしく候なんと、各々申されけ
れば、おぼしめしわづらひつつ、空しく月日を送ら
せ給ひけり、風の便の御ことづても、せまほしくは
思されけれども、御心に叶はせ給はぬ事にてぞあか
しくらさせ給ける、大原は、浅ましき山家の御栖
居なれ共、流石に過行月日かさなりつつ、文治も二

年に成にけり、昵月は余寒もいまだ尽ず、風はげし
く、残雪もいまだ消やらず、谷の氷も打とけねば、
思召立かたなくて、弥生の中ばに成にけり、南面の
桜咲て、梢こと成あさみどり、もえ出る千草の色迄
も、折知がほにいとやさし、春をとどむるに春とど
まらず、春帰りて人寂莫たり、何事に付ても、日々
に御行衛は聞召たくて、けふや明日やと御心にすす
めども、垣根や春をへだつらん、夏来にけりとしらる
るは、そともに咲る卯の花、葵をかざす祭も過しか
ば、法皇寂光院御幸事、夜をこめて、補陀落寺の御
幸とて出させ給ふ、忍たる御幸なれば、ふりたる車
に下簾を懸て奉る、近習の人々少々めしぐせらる、
後徳大寺の右大臣公能の御子、内大臣実定、右大臣
実隆、当関白花山院太政大臣忠雅の御子、大納言兼
雅、侍従大納言成通の御子、宰相泰通、三条内大臣
公教の御子、大納言実雅、土御門内大臣雅通の御子、
宰相中将通親、閑院大将、吉田中納言などぞ候ける、
P752
其外若き殿上人、北面少々供養す、大江山の麓を過
させ給へば、清原深養父が心をとどめて立置し、補
陀落寺をがませ給ひつつ、小塩の山の麓、芹生(せりふ)の里、
大原の別墅寂光院へぞ御幸なる、頃は卯月の中ばの
事なれば、夏草のしげみがすゑを分入らせ給ふ、道
すがら旧苔はらふ人もなく、寂寞の柴の庵には、無
人声とて人もなし、人跡たえたる程を、且は思ひや
らせ給ふも哀なり、遠山にかかる白雲は、散にし花
のかたみなり、青葉に見ゆる梢には、春の名残ぞ思
はるる、池の汀を叡覧あれば、中島の松にかかれる
藤、岸の青柳いとみだれ、若紫に咲る花、八重たつ
霞[B 雲カ]のたえ間より、初音ゆかしき時鳥、をりしり顔に
音信つつ、おほあらきの森の下草しげりあひ、けふ
の御幸を待顔に、青葉交りの遅桜、風にしられぬ山
陰は、梢に残りて幽なり、残の花の、水の面にちり
しくを御覧じて、法皇御心の内に、
池水に汀の桜ちりしきて

波のはなこそ盛りなりけれ W158 K229
西の山の麓に、一宇の草堂あり、則寂光院是なり、
彼寺の眺望を御覧あれば、山復山、何の工か苔巌の
形をけづりなさざれども、ふりにける石の色、水復
水、誰の人か碧潭(へきたん)の色を染ざれども、落来る水の色
緑蘿の垣、紅葉の山、ゑに書とも筆も及がたし、野
路に僧なくして、護摩の道場すたれ、香花を備ざれ
ば本尊仏像かうさびたり、甍破れて霧不断の香をた
き、枢落て月常住の灯をかかぐ、北の山のおくに一
つの草庵あり、即女院の住せ給ふ御庵室なり、四方
に長山連れり、纔にこととふ物とては、巴峡のさる
の一叫び、妻木こる斧の音計なり、事にふれて愁傷
を断し、閑かなる窓の中には、月影計ぞすみまさる、
かかる閑居のありさまを、忍すぐさせ給らんと思召
やるこそ悲しけれ、垣にはつた、朝がほはひ懸り、
軒には朽葉深くして、忍交りのわすれ草、宿は葎の
しげりつつ、とりのふしどにことならず、瓢箪しば
P753
しば空、草顔淵が巷にしげしとも申つべし、柴の網
戸、竹のすいがき、たかすがき、竹のすだれも荒は
てて、藜〓深鎖、雨原憲が枢をうるほすとも云つべ
し、御庵室に立入せ給ひて、一間なる御障子をのぞか
せ給へば、昔の蘭〓の匂ひを引かへて、空薫れと匂へ
る不断香の煙なり、三尺計の御身泥の、来迎の三尊、
東向におはします、仏の左には、普賢の絵像を懸奉
り、前には八軸の妙文置れたり、右には善辱和尚の御
影を懸、机には浄土の三部経、毎日の御所作と覚しく
て、あそばしさして、半巻ばかりに巻れたり、傍な
る御棚には、浄土の御書ども置れたり、又時々御慰
みと覚して、御双紙ども取ちらし、御障子には諸経
の要文、色紙に書れたり、
一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐思実相
若有重業障 無生浄土因 乗弥陀願力 必生安楽国
極重悪人 無他方便 唯称弥陀 得生極楽
法身遍満諸衆生 客塵煩悩為覆蔵 不(レ)知我身常如

来 流転生死無出期
と書れたり、又三河入道大江の定基法師が、清涼山(しやうりやうぜん)
の麓に住ける時、詠ける詩もあり、
草庵無人助病起、香爐有火向西眠、笙歌遙聞
孤雲上、聖衆来迎落日前、
とぞ書れたる、其次に女院の御歌とおぼしくて、
かわくまもなき墨染の袂かな
こはたらちめの袖のしづくか W159 K235
又一間なる障子をあけて御覧ずれば、御寝所とおぼ
しくて、あやしげなる竹の簀子に、敷ならしたるた
たみを敷、下にはわらびのほとろを敷て、ふりたる敷
皮引返して置れたる、御竿に懸られたるものとては、
麻の衣に紙の衾(ふすま)をかけさせられたり、御休み所と覚
しき所には、大和絵書たる紙屏風を立て、女院の御
手にて、かくぞあそばされける、
思ひきやみ山の奥に住居して
雲井の月をよそに見んとは W160 K237
P754
東の壁にふりたる琴、琵琶、一面づつ立られたり、
管弦、歌舞の菩薩、来迎の儀式を思召やるにやと哀
なり、かかる御有さまを御覧ずるに、龍顔も所せきあ
へずならせ給ふ、供奉の人々の、直衣の袖もしぼり
るばかりなり、むかしは漢宮入内の居として、御賀
などの折節は、春は南殿の桜に心を懸て、
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重に匂ひぬるかな W161 K238
夏は清涼殿のすずしきに、御遊ありて、
打しめりあやめぞかほる時鳥
なくや五月の雨の夕くれ W162 K239
など詠じ、秋は九重の中に雲井の月を、
久かたの月のかつらも秋はなほ
紅葉すればやてりまさるらん W163 K240
とながめ、冬は右近の馬場の雪を面白と御覧じて、
待人の今も来らばいかがせん
ふままくをしき庭の雪哉 W164 K241

など打詠じ、傍には玄上、すずか、青葉の曲を聞召て、
紅葉色々の御衣、数を尽して懸られたり、尚侍命を
受てだに、たやすく参らせさりしに、かはりはてぬ
る世の中を、浅ましと思召て、人や有人や有と、宣旨
二三度なりければ、老たる尼一人差出て、侍ふと答
申せば、女院はいづくかと御尋有、此上の山へ、花
つみに入らせ給ぬと申ければ、法皇哀に思召し、世
をのがれさせ給ふとは云ながら、手づからみづから
つませ給はずば、御事やかくべきと仰有ければ、尼
さめざめと泣、泪を押へて申けるは、女院は、入道
相国の御娘、既に天下の国母にておはしまし候御事
は、中々申に及候はず、雖然善現宮の楽も、春の花
久からず、色無色の報も、秋の月早くかくる、生あ
る者は必滅す、始ある者は終あり、されば因果経云、
欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因、
過去の因を知んと思はば、其現在の果を見よとなれ
ば、善因に依て、后妃の位を得給、悪因に酬て、か
P755
かる憂目を御覧ずると思し候ぞ、欲知未来果、見其
現在の因なれば、昔の蘭〓の匂ひにかへ、谷の水を
結び、峯のはなを折、難行苦行を修し、捨身の行ひ
をなしたまはば、九品往生の蓮、御疑ひあるべから
ず、されば悉達太子は浄飯王宮を出て、父の王に忍
て、檀特山に籠らせ給ひ、難行苦行の功に依て、遂
に正覚成らせ給ふ、彼は釈尊是は女院、手づから花
をつませ給ひ、世尊に手向奉り給はん事、何の御い
たはりか候べきと申、法皇此尼の気色を見給ふに、
浅ましき様申ばかりなし、下には四手などのやうな
るきぬに、上には墨染の衣をぞ着たりける、かかる
身の有様にて、か様のことを申不思儀さよと思召て、
汝はいか成者ぞと御尋有けれども、しばしは物も申
さで、度々宣旨有ければ、いかでか勅答申さである
べきと思給て、良久しくありて、申に付て憚多く候
へども、一とせ平治の時、悪右衛門督信頼に失れ候
し、少納言入道信西が子、弁入道定憲が娘、阿波内

侍と申尼にて候と申ければ、法皇聞召もあへず、御
涙にむせばせ給ふ、紀伊の二位にも孫なり、二位と
申は法皇の御乳母なり、さればこの内侍は御乳母の
孫にて、殊に御身近く召仕れしか共、かはりはてぬ
る形にて、御覧じ忘れさせ給けるこそ哀なれ、猶奥に
若き尼一人あり、いか成者ぞと御尋有ければ、前平
大納言時忠卿の御娘、いささか成事有て、九郎判官
義経にしたしまれし時、此御娘をば惜み奉らせ給け
り、北国へ配流の時も、斜ならず心苦しく宣ひける、
帥典侍殿の腹にてぞおはしける、歳わづかに十九歳
と申、是を見、彼を聞召に付ても、哀れにかなしか
らずと云事なく、なかなかよしなし、この有様ども
見奉りける物かなとおぼしめし、逢坂の蝉丸の、心
に懸て詠ける
世の中はとてもかくても有ぬべし
みやもわらやもはてしなければ W165 K230
と真に理なりと思召あはせらる、中にも実隆卿の申
P756
つげられけるぞをりふし哀れなる、
朝有紅顔誇世路、夕成白骨朽郊原、年々歳
歳花相似、歳々年々人不同、
と詠られけるも、折に随て哀れ也、北の山際のあか
棚に、樒入たる花がたみ置れ、あられ玉散あかのを
しきもかけぐせられたり、良久ありて、後の山より
こき墨染の衣着給へる尼二人、木の根を伝へており
下る、前に立給へるは、樒、つつじ、藤の花入たるは
ながたみ、臂にかけ給へり、是ぞ建礼門院なり、一
人の尼は、爪木に蕨ぐし給へり、是は大宮太政大臣
伊通の御子、鳥飼の中納言伊実卿の娘なり、法皇は
女院を見付参らせて、上へ歩み向はせ給へば、女院
はかくともしらせ給はで、下らせ給けるほどに、法
皇を見付参らせ給て、
十念の柴枢には、摂取の光明を待し、
一念の窓の前には、聖衆の来迎を待つるに、
思の外に法皇の御幸ならせ給にけるよと、思召しけ

るに、胸打さわがせ給て、消えも失せばやと思召せ
ども、霜雪ならねばそれもかなはせ給はず、立隠れ
させ給ふ事もやと思召せども、霧霞ならではさるべ
き御事なかりければ、漸く歩み下らせ給ふ、あかの棚
に花がたみ置せ給て、かみの御ぞの上に御衣引かけ
させ給て、わらざをしかせ給ふ、昔の御名残と思し
くて、にぶ色の二つぎぬ同じく上にめされたり、別
の間なる所へ入参らせ給ひて、御袖かき合せて渡ら
せ給ひければ、法皇、こは浅ましき御栖居かなと計
にて、互に仰せ出さるる事もなし、あきれたる御気
色にて、御顔をのみ赤めさせ給けり、良久有て、法
皇仰の有けるは、人間有為の習ひ、悲しみ有に付て
も、歎きに付ても皆愁あり、然れば昔を思召しいだ
して、今更いかに歎き深く候らん、かかる有様にて
渡らせ給ふとは知り参らせず、誰かは事問ひ参らせ
候と仰有ければ、信隆の卿の北方の計ひにてこそ、
かくても候へ、昔は彼人々のはぐくみにて、世にある
P757
べしとは思ひよらずこそ候しかと、申させ給ふぞ理
りなる、法皇を始め参らせて、供奉の公卿、殿上人
各々袖をしぼるばかりなり、六条摂政の方よりは、申
事は候はぬにやと仰有ければ、世に恐れてや、其よ
りはかりそめのおとづれも候はすと申させ給へば、
いつしかかはる心ぞと哀れ也、閑院大将は、
昔為京洛磬[B 繁イ]花客、今作江湖僚倒翁、 K296
と詠給ひけり、女院申させ給けるは、扨は君をば高
山深海とも宗盛は憑参らせて、西国へも御幸なし参
せんと、内々計ひ申候しに、渡らせ給はずして山へ
御幸なりて候も、後にこそ承て候しか、君に捨られ
参らせて、頼む木の下(もと)に何とかやの風情にて、宗盛
泣々都を落て、長夜に迷へる心地して、寿永の秋の
空に、主上ばかり取参らせて、都を出候ひし有様、御
輿を差寄て、疾々と進候しかども、主上を抱き奉り、
神璽宝剱計り取具して、自らも心ならず御輿にのり
ぬ、御供には平大納言時忠、内蔵頭信基ばかりぞ候

し、行末も涙にくれて路見えず、西海の浪上に、
御栖居にて明し暮し、浦風、松風、磯辺の千鳥、空
のかりがね声々に、海人のもしほにむせびかね、た
ぐ縄くりかへして長々敷、船の中にて年月を送り、
春は越路にかへる雁、秋は燕(つばめ)の古郷へかへるを羨み、
夜はなぎさの千鳥と共になき明し、昼は磯辺の波に
袖をぬらし、海人のたくもの夕煙、むせびもあへず、
筑前国太宰府とかやに落着て候しかば、近きは夷ど
も皆まいり、遠きは使を参らせて、いまだ参らず、
豊後の住人緒方三郎惟能、一院の御定とて、大勢に
て寄と申しかば、取物も取あへず、駕輿丁も候はね
ば、玉の御輿をも打捨て、主上を次の輿にのせ参ら
せて、怪しの者ども御輿まいらせつつ、公卿殿上人
指貫のそば取、筥崎と申所へ、我先にとあらそひ行
ども行ども、猶道遠く、一日に行き帰る道を行もやら
ず、日も暮れ夜も更けぬ、雨風はげしくて砂をあぐ、
龍にあらねば雲にものぼらず、鳥にあらざれば天に
P758
もかけらず、ただ長夜に迷へる心地して、男女の泣
き悲しむ声、地獄の罪人もかくやと思ひ知られて、
哀れに悲しく候き、人々は鬼海、高麗とかやへも渡ら
んと申しかども、浪風むかひてかなはねば、山鹿兵
藤次秀遠にぐせられ、山鹿の城に籠りて候しに、な
ほ惟能が寄すると申しかば、高瀬船とてちいさき船
どもにのり連れて、夜もすがら落まかりて、豊後国
柳と申所に着て、其にも七日ぞ候し、是へも敵寄す
ると申しかば、又船に取のりて、汐に引れ風に任せ
て、ただよひ行候しに、小松内大臣の子息、清経中
将は、都をば源氏にほろぼされ、鎮西は惟能に追出
されて、何方へ行かばのがるべきかとて、月隈なく
さぶらひし夜、船の屋形の上にのぼりて、東西南北
見渡して、あはれはかなき世の中、いつまであるべ
き所ぞ、網に懸る魚の様に、物を心苦敷思ふらんと
申て、静に念仏申て、波の底に沈み候き、是ぞうき
ことのはじめにて候し、其後、讃岐の屋島に渡りて、

阿波民部大夫成良、もてなし奉る、内裏作るべしな
ど聞えしかば、少し安堵したる心地して候しほどに、
是をも九郎判官に責落されて、屋しまを漕出て、又
しほにひかれ風に従ひて、いつかたを指して行とも
なく、長門国門司関、壇の浦にて、今はかうとて海
へ入候き、二位の尼も先帝をいだき奉り、ねり袴の
そばたかくはさみて、宝剱は君の御まぼりなればと
て、二位殿の腰にさし、神璽をば脇にはさみて、に
ぶ色の衣打かづきて、船ばたにのぞみ候しかば、先
帝あきれさせ給て、是はいづくへ行かんずるぞと仰
られ候しかば、夷兵ども御船に矢を参らせ候へば、
御船殊に行幸なし参らせ候と、申もはてねば、波の
底へ入候き、先帝の御乳母帥典侍、大納言典侍以
下の女房達、是を見て、声をととのへて、をめき叫
ぶ事おびただし、軍よばひにも劣り候はず、或は波
の底に沈み、或は生捕にせられて命を失ふ中にも、
宗盛清宗父子、生ながらとり上られて候しを、目(ま)の
P759
あたり見候しことは、いつか忘れ候べき、みづから
も同じく底のみくづと成候しを、渡辺党、右馬允番
とかや申に取あげられて、荒けなき武士の手に懸り
て、都へかへり上り候し事、ただおぼしめしやらせ
給へ、人は生を隔てこそ、六道をば経廻りさぶらふ
なるに、自らこそ此身をかへずして、六道を廻りて
候ぞや、それに付てもいよいよ穢土をいとひ、浄土
を願ふ志のみ日に随て候へば、此たび生死をはなれ
んと、今に於ては思さだめて候なりと、申させ給け
れば、法皇申させ給けるは、是こそ不審におぼえ候
へ、異国の玄奘三蔵は、悟(さとり)のうちに仏経を釈し、我
朝の金峯山の日蔵上人は、蔵王権現の御誓にて、ま
さしく六道を見たりといふ事は、伝てこそ承りしか、
天にのぼり海に入し大梵天も、年を経月をかへしけ
る魯運も、此みながら、六道をば見ずとこそ申伝た
れ、目のあたりに女人の御身として、六道を御らん
ぜられけるこそ、不思議におぼえ候へと仰けれど、

女院申させ給けるは、入道の世に候し時は、何事に
付てもとぼしからず、故院の御位の時、十五にして
内へ参り、十六の年后妃の位に備りて、君王の傍に
侍ひ、朝夕には朝政り事をすすめ奉り、百敷の大宮人
にかしづかれ、龍桜鳳闕の九重の内、綾羅錦繍に身
をまとひ、南殿の春の花、清涼殿の秋の月を詠め、玄
上、鈴鹿、河霧、牧馬のしらべ、常に耳を悦しめ、是
しかしながら、三十三天の雲の上、善現城の宮の内
も、かくやと思ひやられたり、今か様の身に成はて
ぬるは、五衰の悲しみに逢へるにことならず、一の
谷、壇の浦、ここかしこの戦、修羅道もかくやと思
ひやられたり、兵粮米も尽、供御も参らせざりしは、
餓鬼道の苦しみに同じ、玄冬素雪の寒夜も、ふすま
袖みじかく、九夏三伏の炎天にも、松風泉をむすば
ず、是又八寒八熱とかやも思やられたり、ある夜の夢
に、ゆゆしげ成御所に、先帝二位殿を始として、宗
盛以下の公卿殿三人並居たり、是はいづくぞと尋ぬ
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れば、龍宮城とこたふ、此所に苦しみはなきかと問
へば、いかでかくるしみなかるべきと答て夢覚ぬ、
夢現異なりといへども、是則畜生道なり、其後は弥々
谷の水を結び、峯の花をつみ、仏に手向奉り、此人
人の後生菩提を弔ひ候、朝夕の行業積りて罪業をか
ろみ、吾後生菩提もなどかたすかり候はざらんと、
頼もしくこそおぼえ候へ、扨も有がたき御幸に、何
とも口がましき事こそと、仰られもあへず、御涙に
むせばせ給へば、法皇を始め参らせて、御供の人々、
袖をしぼらぬはなかりけり、法皇御涙を押拭はせ給
ひて、一乗妙典の御法をたもち、九品の往生を願ひ、
聖衆の来迎を待ち、過別れさせ給ひし高倉の先帝、
安徳天皇、二品太相国、屋島の内府に至る迄、兄弟
骨肉六親眷属諸ともに、敵のために亡され、浪の底
にしづみし輩、一仏浄土に生まれたまへと、難行苦
行しておはしませば、妄念の罪きえて、菩提に縁を
結び給はんこと、御疑ひあらじと仰申させ給けるに、

漸(やうやう)日も暮がたになりにければ、入相の鐘もおとづれ
て、松風の響身にしみて、御心細からずと云事なし、
供奉の人々も皆しほれて、暁かけて還御なりにけり、
芹生のさとの細道、来迎院の淋しさ、有がたくぞ覚
えける、女院は法皇の還御の後、御うしろの隠れさ
せ給ふ迄、遙に見送りまいらせさせ給て、流石に御
名残をしくおぼしめして、ありし昔の大内山の御栖
家、思召し出させ給ふにつけても、御心ところせば
くぞ思召されける、其後建久三年三月十三日に、御
年六十にて法皇隠れさせ給ひぬ、平家都を落て、西
海の波の上にただよひて、先帝海中に沈ませ給ひ、百
官悉く波底に入りし事、只今の様に思召しけり、い
かなりける罪報にて、うき事をのみ見聞くらんと、
御歎きつきせざりけり、されども山林の御すまひ、
寂莫の境なれば、思召し慰まるる事多かりけり、峯
にならべる梢をば、七重宝樹となぞらへ、岩間を伝
ふ谷水をば、八功徳水と観じつつ、春の花、秋の月、
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山時鳥にたぐへても、西吹く風に心をかけ、御年六
十一と申貞応二年春の比、紫の雲の迎ひを待得つつ、
御往生の素懐を遂させ給けり、一期の御回向空しか
らざれば、御一門の人々も、一仏浄土の縁御疑ひ有
べからず、昔の后妃の位におはしまさば、栄耀御心
に染で、御執心もおはしますべし、源平の逆乱に、
神を砕き、厭離穢土の御志深かりけり、されば悪縁
を善縁として、遂に御本意を成就せられけり、
或人の云、建礼門院は、妙音菩薩の化身にてお
はしますと云々、

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平家物語巻第二十大尾

黒川真道
堀田璋左右 校
古内三千代