平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)
凡例
底本 『平家物語 長門本』黒川真道、堀田璋左右、古内三千代 校。国書刊行会・明治39。名著刊行会・昭和49再刊。底本・国書刊行会蔵本(現在、所在不明。)
参考
昭和49再刊に伴う別冊『平家物語箚記』(高橋伸幸・昭和50。延・長・盛三本の記事対照表、長門本の和歌索引等)。*この索引は本文と漢字や仮名の表記が異なります。W134とW152が抜けています。
『岡山大学本平家物語 二十巻 一〜五』 岡山大学池田家文庫等刊行会・森岡常夫。福武書店・昭和50〜52。底本・岡山大学蔵池田侯御筆本。
ページ数を記し、底本通りに改行しました。上段と下段の間は1行空けました。
傍書は、[B ]、又は[B 「 」に「 」と傍書]としました。
傍書補入は、O[BH ]としました。
漢文表記の返り点は、(レ)、(二)、(一)等としました。
カタカナの小さい「ノ」、「ン」は、[B ノ]、[B ン]としました。
漢字表記や仮名遣いは一部改めました。
和歌には独自に、通し番号としまして、W+番号3桁を後に付けました。
その後に、国歌大観の番号をK+番号3桁を後に付けました。1〜247は、「延慶本平家物語」の番号です。248〜296までが、「異本歌」としての「平家物語 長門本」の歌です。
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平家物語巻第一
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有、沙羅双樹の
花の色、生者必衰の理をあらはす、奢れる者も久しか
らず、唯春の夜の夢の如し、武き者も終には亡ぬ、
たとへば[B 「たとへば」に「ひとへにイ」と傍書]風の前の塵におなじ、遠く異朝をとふらへ
ば、夏の寒〓、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐
の禄山、是らは皆賢きをば譏り、才有をば妬み、酒
を以て漿を忘れ、侫なるをもて好とせり、旧主先皇
の政にも従はず、奢を恣にし楽を極めて、更に民黎
の愁をしらざりしかば、久しからずして亡びにしも
の也、たとひ人事をいつはるといふとも、天道をば
はかり難きものをや、王れいかくのごとし、人臣の
位に居る者いかでか不(レ)慎べき、まちかく本朝を尋
れば、神武天皇より此かた人王八十余代、或時は君
臣を誅し、或時は臣君を背くことありき、承平に将
門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、奢れる
心も猛き事も、とりどりにこそありけれ共、はやき瀬
に有とはみゆるうたかたの、音なくきゆるが如く也、
まぢかくは太政大臣平の清盛入道と申ける人の有様
を、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね、彼先祖を尋れ
ば、桓武天皇第五の王子一品武部卿葛原[B ノ]親王の九代
の後胤、讃岐守正盛が孫刑部卿忠盛の朝臣の嫡男也、
彼親王の御子高見[B ノ]王、無官無位にして失せ給ひぬ、
其御子高望[B ノ]王の時、寛平二年五月十二日に始て平朝
臣の姓を給はりて、上総介に成給ひてより此かた、忽
に王氏を出て、則人臣に列なる、其子鎮守府の将軍
義茂、後には常陸の大掾国香と改む、国香より貞盛
陸奥守、惟ひら伊豫守、正のり越前守、正衡出羽守、
正盛讃岐守に至る迄、六代は諸国の受領たりといへ
ども、いまだ殿上の仙籍をばゆるされず、忠盛の朝
臣備前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進
して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をす
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へ奉り、天承元年辛亥十一月十六日、公卿六人、職
事、弁官惣じて六十四人、清暑堂の大床にして供養
の日時を評定ありて、向廿一日午の時と定めらる、
すでに可(レ)被(レ)遂にて有けるに、其時刻に及びて、大風
雷雨夥しかりければ、其日は延引す、同廿五日に官
の庁にて猶せんぎ有、廿九日天老日なりければ、遂
らるべきにて有けるに、次の雨夥しく降下る、然る
間、牛馬車人打そんぜられて出行に及ばず、仍て其日
も延引せり、禅定法皇なげき思召れて、供養三ケ度
延引の後重ねて僉議あり、同じき次の年三月十三日、
曜宿相應の良辰なりとて、其日供養と定められぬ、禅
定法皇叡覧をふるに、外廊内院一つとして叡慮に應
ぜずといふ事なし、鐘楼、塔婆に至るまで、珠玉をか
ざり金銀をちりばめたれば、佛像端厳にしてがらん
美麗なり、きんこくのこずゑ、しやうゑんちの景気、
石の立様、言語道断也、供養の時刻に至りぬれば、
楽人乱声をそうし、衆僧伽陀を唄す、誠に諸天もこ
の所に影向し、龍神も忽ちに来臨し給ふらんと覚へ
たり、鍛冶番匠そま山の工、惣じて結縁経営の人夫
にいたるまで、ほどほどに随て、勧賞を蒙ること眞
実の御菩提なりとおぼえたり、さて供養の師事は、天
台座主大僧正忠尋と御評定ありしかども、堅くじた
い申させたまひて参り給はず、さらばとて興福寺の
別当僧正を召れけるに、是も再三辞し申されて参り
給はず、扨は誰にてか有べきと仰有けり、其時諸寺、
諸山より、名僧別当、我も我もと望申さるる貴僧高
僧、十三人ぞ有ける、其十三人と申は浄土寺の僧正実
印、同別当覚恵僧都、興福寺の大進法橋実信、同寺大
納言法印経雲、御室の御弟子祐範上人、園城寺の権大
僧都良円、同寺智覚僧都、東大寺大納言法印隆範、
花山院僧正覚雲、蓑尾法眼蓮生、徳大寺兵部卿僧都
祐全、宇治僧正観信、櫻井宮上人円妙、以上十三人
なり、此智徳たちは、或は法皇の御外戚、或は法皇の
御師範、或は御祈祷僧、其名徳皆以て公請を勤らる
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る人々也、誠に種姓尊[B 高イ]貴にして智恵分明也、浄[B 正イ]行持
律にして、説法富楼那のあとをつたへ給へり、我こ
そ天下第一の名僧よ、我こそ日本無双の正道よと、
おのおの驕慢を起して望申させ給ふもことわり也、
実にも天台座主の外は、此人々こそ器量よと、法皇
も御諚有、されば思召煩ひてぞ渡らせ給ひける、毎
日公卿僉議有けれ共未定らず、されば法皇いかヾす
べき、一人を導師に用ひば、残る十二人の恨を遺すべ
し、朕は人の恨を息んとこそ思召に、御堂供養の時、
十二人愁をおはん事社浅ましけれと仰下され、公卿
僉議して一向に申されけるは、彼十三人の僧達に、面
面に〓をとらせられ候へかし、〓を取当らんは悦也、
取当らざらんは力なき事にこそ候はんずれ、其恨候
まじと申さる、〓は如何様にか有べき、一を導師と
被(レ)遊て、十二人をば白紙にて候べしと申さる、法皇
仰有けるは、朕が現当二世の大事、只此事にあり、
白紙と導師と十三の〓を取らすならば、一定独りは
取当らんずらん、但十三ながら彿意に叶はぬ僧にて
もや有ん、されば若誠に導師たるべき人、此十三人の
外にや猶ましますらん、冥の照覧も知がたし、され
ば今一の〓をくはへて十四になすべし、十三の白紙
と一の〓と、都合十四の〓を取らすべしと仰下され
き、かねて此禅侶達を皆得長寿院に召れたり、ゆゆ
しき見物にてぞ侍りける、御諚に任せて十四の〓を
出されたり、十三人の僧徒面々に取給ふに皆白紙也、
御導師に可(レ)成〓一は残たり、冥の照覧誠に様有べし
と被(レ)仰けり、十三人の智徳達各宝の山に入て、手を
空しくしてぞ帰りける、法皇此僧共は佛意に叶はざ
りけり、されば導師は外に在と知し召して、此人々の
外誰にて可(レ)有とも覚えず、只願くは必ずしも智者に
非ずとも、能説に非ずとも、種姓下劣也とも、心に慈
悲有て、身に行徳いみじくて、天下第一に貧ならん僧
を、導師に用ひばやと思召はいかにと仰下されけれ
ば、公卿たち、いかなる人の参んずらんとあやしみを
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成し給ふ、或時法皇、得長寿院に御幸なりたり、八十
有余計なる老僧の、頭には雪をいたたきたる白髪生
ひ、額には四海の波をたたみ、腰ふたへにして杖に
すがり、蓑笠着たるが平あしだはきて惣門より来臨
す、怪しと御覧ずる所に、御前の階に参り、蓑笠ぬき
おきて、藤の衣の浅ましげなるを着て、古きけさのさ
んざんなるを懸たり、公卿殿上人挙ていかなる事候
や、かかる御座鋪に参りよるべきものにてもなし、狼
藉也罷出よと追はる、此僧少しも驚きたるけしきも
なくて、法皇の御前に参りて申けるは、誠にて候やら
ん、此御堂供養の御導師には、無智下賎なりとも心に
慈悲有て、行徳有ん貧僧を召るべしと承及候、此小僧
慈悲行徳はかけて候へども、貧者ばかりは日本第一
にて候、真実の御定にて候はば、参るべくや候はんと
奏す、其時公卿殿上人さこそ仰せ有んからに、和僧程
のものをばいかでか御導師に召るべき、見ぐるし、
とくどく罷出よと仰有、法皇不思議なりと思召なが
ら、和僧はいづくにぞ有ぞと御尋あれば、僧申けるは、
当時東坂本の地主権現の大床の下に、時々には草む
しりて候と申、扨はまめやかの無縁貧道の僧にこそ
あんなれとて、御導師に定らるる処也、来十三日午の
時以前に、此御堂に参るべしと御定の間、僧泪をはら
はらとこぼして、手を合て法皇を拝み参らせ、蓑笠を
取て打きてまかでにけり、其時法皇御つぼの召次を
召て、あの僧の居所を見て参れ、いか成有様したる
ぞ、能々見て参れとてつかはさせおはします、御使見
えがくれに行程に、申つるごとく、比叡山の東坂本地
主権現の大床の下に入ぬ、居所の有様は薦引廻して、
絵像の阿彌陀の三尊東向にかけて、はな机に花香供
して薫りしめたり、みのかさぬぎ置て、はな机の下に
紙にひねりたる物有、それを取出して茶器に少入て、
閼伽桶なる水を入てかき立てぞぶくしける、扨其後
獨言に申けるは、兎角してまうけたる松葉もはやす
くなく成にけり、いかにしてか露の命も支ふべき、
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哀れとく御仏事の日に成給へかし、扨もめでたき法
皇の御善根の潔きかな、南無山王大師七社権現じひ
納受を垂れて、法皇を守護し奉り給へかしと申て、念
珠うちして目をふさぎてぞ侍ける、召次感涙を流し、
急ぎ帰り参りて此由奏聞しければ、法皇聞召て大に
感じ思召れて、尊がらせましましける、去ほどに既に
御供養の日に成ければ、彼聖のもとへ四方輿を迎ひ
につかはす、聖申けるは、輿車に乗べき御導師を召
るべきならば、望み申さるる所の高僧をこそ召るべ
く候へ、わざと無縁貧道の僧をこそ供養せさせ給ぬ
れ、されば精誠の御善根なり、いかでか有名無実の
虚假の相をば現じ候べきとて、輿をば返し奉りて、
吉日吉良辰は十三日の午の刻也、されば午の時以前に
御幸行幸も成せ給ひぬ、男女雲客皆参り給へり、況や
京中田舎近国遠国の貴賎上下、幾千万と云数を知ら
ず参り集りたり、彼導師すでに参りのぞみ給ふ、蓑
笠こそけふはきねども、袈裟はただ有しまま也、老
老として腰かがまり給へり、従僧と覚しくて若き僧
二人有、御ふせ持たせん料と覚しくて、下僧十二人庭
上に候て、誠に弱気なるすがたなれば、万人目を
驚してぞ侍る、あなあさましのものや、いかなる事
にかさばかりの大願の御導師、是ほど成べしや、乞丐
人とは申も愚也、あなあさましあなあさましと口々に申あは
されけり、時にのぞんですでに御導師高座に登り給
へば、ひざふるひわななきて、法則の次第も前後ふか
くげに見え給へり、浅ましきやう也、りん打ならし、
何事をか申されけん、つぶつぶとくどき給ふを、聞わ
けたる人もなし、浅ましく覚えて、人々頭を打うな
だれて聞所に、暫くありて勧請の句をはたと打あげ
給ひたりければ、伽陵頻伽の声に過、三十三間の御
堂に響き渡り、一千一体の御仏も御納受有らんとめ
でたかりけり、表白ことに玉を吐、説法彌懸河の辯
説也、顕密教法、八万聖教十二部経引出されぬ法門も
なし、聴聞の衆皆随喜の泪を流して、無始の罪障よ
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り現在の悪業に至る迄、皆消除しぬらんと、見聞覚知
の道俗、歓喜の袖をかき合せて、即身菩薩の旨も発ぬ
べし、法皇も龍顔より御泪せきあへさせ給はず、か
かりける人をいるかせに思ひ奉りけん、凡夫の身の
口惜さよと思し召れける、むかししゆだつ長者が、祇
園精舎に四十九院を建て、如来の供養有りけんも、結
縁利生の御法は是には過じと覚えたり、御説法三時
ばかり有けるを、法皇は永々しとも思召れず、唯一口
刹那の程とぞ思召れける、ゑかうのすず打ならして、
高座よりおりて正面の左りの柱のもとに居給へり、
初は墨染の藤の衣と見えつれ共、今は錦の法服より
も増りて尊くぞ見え給ひし、御布施は千石千疋金千
両、其上に御加布施御堂の前に積置れたり、山の動
くが如くぞありける、御布施は無辺のくどくとなれ
とて、非人共に給りにけり、御導師身に相応する程
の御ふせにこそ預り[B 「り」に「るべくイ」と傍書]候へとて、御布施一つ取給けり、
二人の従僧も十二人の下僧も、同く一つ宛取てけり、
むかし田村の御門の御時、高子と申女御かくれさせ
給ひて後、安祥寺にて御わざせさせ給ひけるに、在
中将のよみたりける
山のみなうつりてけふにあふ事は
春のわかれをとふと成べし W001 K001
御善根の御志の深きは、御布施の色に顕れて目出た
かりし御事也、夕陽西に傾きて夜陰に及びければ、御
導師の前に万燈会をとぼされたり、御導師既に帰り
給ひけるに、聴聞の衆多くしてたやすく出させ給ふ
べき様もなし、其時御導師は初は正面より出でて、土
の上二尺計も歩ませ給ひけるが、後にはこくうをさ
して飛上りて、惣門の上よりかき消す様にて、行方見
え給はず、法皇彌不思議に思召されて、何様にも唯
事に非ず、仏菩薩の化現にて御座しけりと尊く思召
れて、真実の正体しめさせ給へと、其夜もすがら御祈
念あり、少し御まどろみ有けるに、二人の従僧と見
えつるは、日光月光の二菩薩光を輝し、十二人の下僧
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と見えつるは、十二神将にておはします、御導師は鎮
守権現の御本地、比叡山の根本中堂の薬師如来にて
おはします、各虚空に現じ給ふと夢幻ともなく、此仏
事に影顕ありと思召て、則悟らせ給ひけり、末代とい
へ共願主の御心精誠なれば、仏神のゐくわう猶以て
厳重なり、法皇御心の中さこそ悦しく思召けめ、申も
愚也、我仏意に叶けるこそうれしけれとて、随喜の
御泪せきあへさせ給はず、此御説法聴聞有ける、大宮
の女御、黄疔と申す瘡重くならせ給ひて、御限なり
けるが、さいごの御聴聞御結縁と思召て、希有にして
御参詣ありけるが、則御平愈ありけり、其の外聴衆一時
の中に、上下男女二万六[B 三イ]千七百余人が病立所にいえ
たり、それよりしてぞ此寺を平愈堂とも申けり、昔聖武天
皇の御願、東大寺金銅十六丈の盧舎那仏供養の導師
に、行基菩薩と御定有りけるに、行基菩薩堅く辞し申
させ給ひてけることは、此御願南閻浮提第一の大仏
事也、小国の比丘更に及び難し、昔霊山浄土の同聞
衆婆羅門尊者と申大阿羅漢、今猶天竺にましますと
承る、むかひを遣すべしとて寶瓶に花をたて、閼伽
折敷にすへて、難波の海に浮べ給ひければ、風に隨
て西を差て流れ行、七日を経て後、供養の日婆羅門尊
者、あみの折敷に乗て難波の津に来り給へり、其時行
基出むかひてのたまはく、
霊山のしやかの御前にちぎりてし
ふけんの光り爰にかかやく、 W002 K002
波羅門尊者の返事
かひら会の苔の莚に行逢し
文珠の御かほ今見つるかな、 W003 K003
其時一天の君を初め参らせて、万人皆感涙を押へず
といふ事なし、扨婆羅門尊者を講師として、行基菩薩
を講師じゆ願とし奉りて供養をとぐ、是に依りて婆
羅もん尊者を、則僧正になし奉んと宣旨なりけれど
も、不日に天竺にかへり給ひぬ、行基菩薩其後天平
勝寶元年二月中の五日、年八十にて入滅し給き、彼歌
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の心にて婆羅もん尊者、普賢菩薩、行基ぼさつは大
聖文珠也、さらば普賢、文珠の二菩薩来りて、大仏殿
の供養ましましき、しかのみならず天王寺をば難波
津の海より僧来りて供養す、だるま和尚と申、興福
寺をば曇天国の僧権化来りて供養す、今の得長寿院
は根本中堂の薬師如来、日光、月光を従僧とし、十二
神将をけんぞくとして御供養有、はるかに昔の聖跡
にも、当がらんの有様は勝り給へりと万人仰ぎ奉る
所也、忠盛朝臣か様に仏意に相叶ふ程の寺造営す、仍
て勧賞には闕国を給ふべき由仰下さる、凡国の費ひ
民の煩にも不(レ)及、僅に一両年の間に、成風の功を得
たりけるによりて、禅定法皇猶叡感にたへさせおは
しまさず、折節但馬国の明たりける故、忠盛年三十
七にして内の昇殿を許さる、雲の上人憤含[B 憎イ]みて、同年
十一月五節廿三日豊のあかりの節会の夜、闇討にせ
んとしけるを、忠盛の朝臣の郎等に、木工[B ノ]権[B ノ]佐平[B ノ]
貞光が孫進三郎大夫季房が子に、左兵衛尉家貞と云j
者ありけり、備前守の許に行向ひて申けるは、祖父貞
光は乍(レ)恐御一門のすゑにて候けるが、故入道殿の御
時、初て郎等職のふるまひを仕る、家貞祖父に勝るべ
き身にも候はねば、相[B 猶イ]続て御奉公を仕つり候、今年の
五節の御出仕には一定僻事出来べき由、粗承及ぶ旨
の候、殿中に我も我もと思ふ人どもあまた候らめど
も、か様の御詮の折節にはあひ参らせんと思ものは、
さすがにすくなくこそ候らめなれば、五節の出仕の
御供に於ては、家貞可仕と内々申たりければ、忠盛
是を聞て我右弼の身に非ず、武勇の家に生れたり、可
然とて具せられたり、武勇の家に生れ、今不慮の恥
に逢し事、家の為身のため心うかるべし、身を全くし
て君に仕るは臣の忠なれば、其用意こそせめとて、
一尺三寸有ける黒鞘巻の刀を用意して、着座の始め
より乱舞の終り迄、束帯の下にしどけなげにさして、
刀の柄四五寸計差出し、常は手打懸つくり眼して、火
のほのぐらき陰にては此刀をぬき出して、鬢髪に引
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あててのごはれけり、よそ目には氷抔の様にぞ見え
ける、傍輩の雲客是を見て恐れをののく心あらば闇
討はせられじとの籌也、家貞元より去ものなりけれ
ば、忠盛に目を懸て木賊色の狩衣の下に萌黄[B ノ]縅の腹
巻の胸板せめて、つる袋付たる太刀脇にはさみて、
殿上の小庭に候ひけるが、同じき舎弟薩摩の平六家
房とて十七歳なりけるが、健か者のたけ高く骨太く
力すぐれ度々はがねを顕はしたる者有けり、ひはだ
色の狩衣の下に黒糸縅の腹巻を着て、備前作りの三
尺五寸有けるわり鞘の太刀脇にはさみて、狩衣の袂
より手を出して、犬居につゐひざまづいて、殿上の
方を雲透に見すかして居たりければ、貫首以下殿上
人怪みをなして、六位蔵人を召て、うつぼ柱より内
に布衣の者の候は何者ぞ、狼藉也、罷出よといはせ
ければ、家貞少も不騒、相伝の主備前守殿今夜闇討
にせらるべき由承れば、ならん様を見果んとてかく
て候へば、えこそ罷出まじけれとて、面魂眼ざし主
の事にあはば小庭より堂上迄も切上らん景色にて畏
て候ひければ、人々よしなしとや思しけん、其夜の
闇討はせられざりけり、五節の宴醉と申は昔清見原
の天皇の御時より始れり、清見原の天皇と申は天智
天皇の御弟也、御門譲りを受させ給ふべきにてまし
ましけるに、大伴の皇子のなんを恐れて、髪を剪て
出家と名付て吉野の奥に籠らせたまひけり、清見原
と申所に住せ給けるによりて、其所をつかせ給ふ、心
を澄せ給ひ、吉野川の水上にして琴をひかせ給ひし
に、神女天よりあま下り、
乙女子かおとめさひすもから玉の
おとめさひすも其から玉を W004 K115
五声うたひ五度袖を飜す、是ぞ五節の初めなる、扨
御門是を御覧じとどめさせ給ひて、御即位の時、其
御業を学ばせ給ふ、今の五節是也けり、扨御前の召有
て忠盛朝臣参られける時、内大臣拍子をかへて伊勢
平氏はすがめ也けるとぞはやされたる、此忠盛の朝
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臣は桓武天皇の御末と乍(レ)申、中古よりは無下に打く
だりて、官途も浅く、地下の殿上人にて、都の住居
もうとうと敷、常は伊賀、伊勢にのみ住国久しく成
て、此一門をば伊勢平氏と申習はしたるに、忠盛は右
目の少しすがみたりければ、彼国のうつはものに対
して伊勢平氏はすがめ也けりとぞ囃したりければ、
彼国の器に対して侍ると也、殿上のかたぬぎの拍子
には、白薄様、厚染紫紙、巻上の糸[B 筆イ]、巴かきたる筆
のぢくなんどこそはやすに、かくはやされければ、忠
盛心うしと思はれけれども、いかにすべき様もなく
て、御遊もいまだはてぬに、深更に及で罷出らるる
とて、紫宸殿の御後にて此腰の刀をかたへの殿上人
あまた見らるる所にて主殿司を召して、此刀殿上の
大盤に置べしとて預けて出られにけり、家貞は忠盛
朝臣を待受て、いかに別の事候はずやと尋ければ、
別の事なしとぞ答へられける、太宰権帥季仲卿は色
の黒かりければ、黒輔[B 帥イ]とぞ申ける、昔蔵人頭たりし
時、それも五節にあな黒々、黒き頭哉、いか成人の
漆ぬりけんとぞはやしたりければ、彼季仲に並たり
ける蔵人頭色の白かりければ、季仲の方人とおぼし
き殿上人、あな白々、白き頭哉、いか成人の粉をぬり
けんとはやしたりける、花山院の太政大臣忠雅公十
歳と申ける時、父の中納言忠家卿に後れ給ひて孤に
ておはしけるを、中御門中納言家成卿播磨守たりし
時聟に取、花やかにもてなし侍ければ、是も五節に
播磨米は木賊か、むくの葉か、人の綺羅をみがくは
とはやしたりけり、上代は如(レ)此の事させることもな
かりけり、末代は如何有んずらんと覚束なし、昔よ
りして昇殿の人の五節[B ノ]坊にて懐刀さす事なし、罪科
に申行べしなど人々憤申さるる由聞えしほどに、五
節はてにしかば、案の如く殿上人一同に各々訴申さ
れけるは、雄剱を帯して公宴に列し、兵仗を給て宮
中を出入するは皆格式礼を守り、綸言より有る先規
なり、然るを忠盛郎従をして兵具を帯せしめて、殿
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上の小庭に召置、其身又腰刀を横たへさして節会の
座に列す、両條共に希代未聞の狼藉也、事既に重疊
す、罪科尤のがれがたし、早々御札を削りて解官停
任すべき由訴申さる、主上崇徳院聞し召れて驚かせ
給ひ、忠盛を召て御尋有、則陳じ申けるは、先郎従
小庭に祇候の事、忠盛はかくご不仕候、但近日人々
相たくまるる仔細あるかの間、年来の家人此事を伝
へ承るによて、其恥を助んが為に、忠盛に知せずして
潜に参りける條力不(レ)及次第也、若猶罪科たるべきに
候はば其身を召進べきか、次に腰刀の事、件の刀既
に主殿司に預け置候、急ぎ是を被(二)召出(一)て、刀の実
否に付きて科の左右有べきかと申ければ、主上尤可
(レ)然と被(二)思召(一)て、彼刀を召出して叡覧有ければ、上
はさや巻の黒ぬり也けるが、中は木刀に紙薄白くぞ
押たりける、主上大にゑつぼに入せ御座して仰有け
るは、当座の恥辱を遁んが為に、刀を帯する由を見
すといへ共、後日の訴訟を存じて、木刀を帯しける用
意の程こそ神妙なれ、弓矢に携さはらんものの謀、
もつともかくこそあらまほしけれ、兼ては又郎従、
主の恥を雪がんが為に、潜に参候の條、且は武士の郎
従の習也、忠盛が科に非ずとて、還て叡感ありける上
は、あへて罪科のさたに及ばず、雲上人内々さざめき
あひけるは、上古はかかる事ありき、異国に王あり、
周の成王と申き、彼王の忠臣に早記大臣と云人あり、
世の政道めでたく人を愍む事君王に劣らず、かかり
ければ王の御気色世に超過して並ぶ人なかりけり、
仙客と云大臣是を憎んで、ややもすれば是を亡さん
と擬す、此早記大臣は元より天下無双の兵、弓箭に
携りて武勇の道をたてて事とす、麒麟と云兵有、戦
を究めたりし勧賞に、大臣に任ぜられて、かかる武き
人なれば左右なく討取難きに依て、皇居に左右之分
と云御遊を始て、其中にて闇討にせんと擬して、皆人
人帯剱を禁断す、是は彼大臣に太刀をはかせまじき
が為也、早記大臣は先立て其心をぞんじてければ、
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則木太刀を帯して参候す、かたへの君臣は禁法に任
せて一人も太刀をはかず、是によりて早記其夜の難
をのがれにけり、翌日に雲客参内して、早記当座一
同の僉議にくみせず、綸言を違背するに非ずや、殿上
に雄剱を帯し、大家の党に交る條、ことに違へる所
なり、尤罪科是重し、急ぎ誅せらるべきかと奏す、君
驚き思召て大臣に御尋あるに、早記陳辞の詞をば出
さず、雲客腰にたちをはき、忠臣雄剱を提るは是君
を守護し奉る所也、則此剱は不動の両剱を学ぶ、是
と申は皇居に大営を企るには、四鬼雲に乗じて来り
妨をなすが故に、是を降伏せんが為に、雲客両剱を学
んで太刀を帯せり、何ぞ明君の訴文節を立ながら武
を捨、太刀を戒むべきや、然ども一同の僉議に与す
るが故に、忠臣の法なれば太刀を帯すといへども、
是を見られよとて、木太刀を披見す、君大に御感あ
りて、誠に君を守る忠臣にて有けりとて、よろこび思
召れける上は、なんぞ罪を得んや、しかれば実の賢
臣也けりとて、人々是を仰ぎけり、則忠盛彼あとを
訪ひけるか、上古は太刀、末代は刀、かれは大臣、
是は雲客、さかいはるか也といへ共、擬へし様は対
句也とぞ譽られける、かかりしかども、其子孫は諸
衛佐さへ、殿上の交り人嫌に不(レ)及、忠盛備前国より
都へ上りたりけるに、中御門中納言家成卿、院の殿
上にて名にしおふ明石の浦の月はいかにと問れけれ
ば、忠盛とりあへず、
播磨路や月も明石の浦風に
波ばかりこそよると見えしか W005 K248
と読で参らせければ、ことにふれて心に色有けりと
て人々ののしりもてなされけり、其後千載集を撰ば
れしはじめ、此歌を入られけるに、俊成卿上の五文
字を直されて、
有明の月も明石の浦風に
波ばかりこそよると見えしか W006 K125
とぞ入られたりける、忠盛御所に思はれける女房あ
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り、或時彼の女房の局に月出したる扇を忘れて出ら
れたり、かたへの女房達是はいづくよりの月影ぞや、
出所こそおぼつかなけれとてわらはれしが、かくこ
そ聞えけれ、
雲井よりただもり来たる月なれば
おぼろ気にてはいはじとぞ思ふ W007 K124
似たるを友とかやの風情に忠盛住たりければ、此女
房も優なりとぞ人感じ申ける、忠盛朝臣備前守より
刑部卿にあがりて、仁平三年正月十五日年五十八に
て失給ひにき、清盛嫡男たりしかば、亡跡を継、国々
を譲のみならず、家の寶物他家へうつる事なければ、
清盛是を相つぐ、中にも唐皮小烏と云鎧、太刀は清
盛に授けらる、くだんの唐皮と申は人の作れるには
非ず、仏作の鎧也、其故は桓武天皇の御甥に香円法
印と申けるは、奥儀を究めたる天下第一の真言法の
中より、現在不思議を顕されき、我朝の形見にせんと
仰有ければ、香円綸言に応じて、紫宸殿の御前に壇を
立て、たいざうかいの不動尊を前にして、彼法を修
せらる、七日と申す未の刻に紫雲立て、うづ巻たる其
中よりあららかに壇の上に落たり、是を見るに一領
の鎧也、はじのにほひのすそ金物に白く、黄なる蝶
を打たり、件の毛は糸をどしには非ず、皮をどし也、
裏をかへして見れば、虎の毛所々に相残れり、故に
其名を唐皮とぞ名付られし、是はいかにと御尋あり、
香円申させ給ひけるは、則本朝のかため也、是則不
動明王の鎧也、不動尊は上に降魔の相を顕すといへ
ども、本地彌陀にてましませば、下には慈悲を具し
給へり、火えんを身に現ずるは如我相を顕すといへ
り、如我相といふは大日胎蔵の身を現ぜん科也、大
日胎蔵の身といふは大歳腹体を囲まんがれう也彼
桓[B 「彼桓」に「本のまま」と傍書]鎧にはしかじ、されば不動明王に七領の鎧あり、
兵尾甲冑也、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、
兵面とて皆是五天、五国、五花、五木是を相対せり、
是は人の五体を囲まん科也、然れば国中の守は甲冑
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にしかじ、彼唐皮は彼七領の中の兵面と云鎧なり、
されば本朝の守りには何物か是にしかんや、甲冑を
鎧はん時は、我着ると思ふべからず、国家の壁と思
ふべし、国を囲まん時は五の鎧と思へといへり、し
かる間は此[B 「は此」に「今」と傍書]真言教の中より此甲冑を出せり、六代迄
は内裏の寶と成、其後武家に遣て、将軍にもたせよ
と誓て下されければ、高望王の後平将軍に預け給は
りてより以来、今の唐皮是也、并に小烏と云太刀は
唐皮出来て後七日と申す未の時計に、主上南殿に出
御ありて、東天を御拝あるに、八尺の霊烏飛来りて
大床に侍り、主上御笏を以て御めし有、霊烏御ましの
御縁に嘴を懸たり、霊烏申て曰、我は大神宮よりの御
剱の御使也とて、羽の下より一の御佩刀を御前にお
としたり、主上此御はかせを自らめされて、八尺の
大霊烏の羽の中より出来たる所なればとて、小烏と
は付させ給ふ、唐皮、小烏共に天下の重寶と君執し
思召る、されば本朝の寶物には甲冑、砂金銀、兵杖、
水破、兵破、太刀我国に有と云事是也、頼もしかり
し事也、されば代々内裏に伝りしを、貞盛の時より此
家に伝る希代の寶物是なり、抜丸も此家に伝はるべ
かりしを、当腹さいあいなりし故に、頼盛の家に伝は
る、依(レ)之兄弟の中不快とかや、此清盛は初は希代の
貧者なり、閑に案じて思へり、我は国々の主なり、
たとへ何なくとも生得の儘[B 報イ]なれば、身一つたすくる
分は有とこそ聞、況や清盛が身に於て是程や有べき、
難(レ)有果報哉と怪む、或時清盛蓮台野なる所にて大な
る狐を追ひ出して、弓手に相つけ射んとす、其時狐
光りを放つ、程なく女に変じてにつこと笑て立向ひ、
然べくは命を助給へ、御辺の所望を叶へんと申けれ
ば、矢を差はづしていか成人にて渡らせ給ふぞと問
ければ、七十七道の中の王にて有ぞと聞ゆ、さては
貴孤天皇にておはします、ござんなれとて敬屈す、
其時もとの狐と成て失ぬ、清盛さては我財寶に飢た
る事、荒神の所為ござんなれ、荒神を静めて財寶を
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承[B 求イ]んには弁財妙音にはしかじ、今の貴狐天皇は妙音
の其一也、されば我天[B ノ]法成就せんずる物にこそと
て、妙音、弁財両天を本尊として彼法を被行けると
かや、又かへり案じ給ふに、実やらん外法成就の者
は子孫には伝へずと云ものを、如何可(レ)有と思はれけ
るが、よしよし当時の如くば貧者にて久しからんよ
りは、一時に富で名を上んと思ひて、彼法をたしな
まる、まづ清水寺に参詣して御利生を蒙らんとて、
千日参詣をはじめて満ずる夜は通夜あり、夜半計に
夢想に、左右の眼ぬけ出で、中に廻り剰へ失ぬとみ
る、清盛覚て不思議の事哉、真やらん三寶は来らぬ
報を願ふ[B 「願ふ」に「願ふなるイ」と傍書]事は却りて命をたつと云ものを、哀れ誰も
分らぬ事願ふに申て、観音の憎ませ給ひて魂のさる
がみゆるやらん、浅増ともおろか也、去にても人に
尋て見んとて、夢に我二つの眼ぬけて中に去とみた
るは、好か悪敷かと札を書て清水寺の大門に立られ
たり、或人是を見て打うな付て、哀夢や、此人は日
比煩はしきことをのみ見けるか、三寶に帰依し奉る
が故に、歎の眼を捨てて吉事をみんずる、新しき眼を
入かへんずる相にや、哀夢や哀夢やと、両三度合せて
去ぬ、扨は清盛が好相に有けるものをとて、彼符を
取て天をさして果報を相待、其後七日と申す夜、内裏
に上臥したり、夜半計南殿に鵺の音したる鳥ひびき[B 「ひびき」に「ひらめきイ」と傍書]
渡りたり、藤[B ノ]侍従季賢番にておはしけるが、人や候
人や候と召れければ、清盛其時左衛門尉にて有けるが、
候と答、南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰あり、清
盛こはいかに目に見ゆるもの也とも、飛行自在にて
天を翔らん物を捕る事やは有べき、況やすがたも無、
声計有物をいかでかさるべきと思はれけるが、実や
綸言と号せば、さる事の有物をと、漢家には宣旨の
使と号して、荒たる虎を取、勅定と号してけやけき
獅子を取大臣もあり、末代に及といへども日月いま
だ天に御座す、礼義を以て人臣の堺外なる事なし、い
かでか例を追ざらん、O[BH さらばイ]取て参らせばやと思ひて、畏
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て承候ぬとて、音につゐて宣旨ぞと申てをどりかか
る、鳥騒ぎ左衛門尉の右の袖の中に飛入てけり、取
て参らせたり、叡覧有に、誠に少き鳥也O[BH けりイ]、くせ物也
とて、御評定有て能々御覧ぜらるるに、年老たる毛
朱也、毛朱とは年老たる鼠の唐名也、毛朱が分にて
も皇居に繋念をなしけるにやとて、博士を召せとて
召れたり、各々占ひ申、毛朱が例、漢家本朝に希也、
推仁天皇三年二月二日、毛朱皇居に変をなす、武者
所仰を蒙りて取んとしけるに、捕へずして門外に出
し失へり、故に大災難をなして、あくれば飢饉、兵乱
廿一年が間、上下万民愁る事有き、然るに是は清盛
朝使として威勢重きがゆゑに、綸言の下に依て召と
られぬ、此條以て吉事也、仍て天下は六年が間、風
雨時に隨ひ、霜雪折にあやまつべからずと申、さて
は可(レ)然吉相にこそとて、南面の大竹を召て中に籠
て清水寺の岡に埋られたり、御悩の時は勅使を立て
宣命を含らる、毛朱一竹の塚と云は則是也、公卿僉
議有て天下穏に、万民憂を止んには何事か是にしか
ん、怪異を奉(レ)鎮是則朝敵を討に非ずや、勧賞可(レ)有
とて安芸守に任ぜらる、併清水寺の御夢想の験なり、
鼠と云は大黒の使者なり、此人栄花の前表是はじめ
也、希代不思議ともいふべし、
官途昇進事
保元二年に左大臣世を乱り給ふ時、清盛御方にて勲
功有しかば、播磨守にうつりて、同三年の冬は大宰
大弐と成にき、平治元年に左衛門督謀反の時、又御
方にて凶徒を討平げしに依て、勲功一に非ず、恩賞
是重かるべしとて、次年正三位に叙す、是をだにゆゆ
しきことに思ひしに、其後の昇進は龍の雲にのぼる
より速也、打続き、宰相、衛府、検非違使別当、中納
言、大納言に成あがる、兵仗を賜て、大将にあらね
ども隨身を召具す、牛車輦車を蒙りて、宮中を出入
す、偏に執政の人の如し、礼記月令の文を引かせ給
ひて、寛平法皇の御遺誡にも太政大臣は一人[B ノ]師範と
して四海に義刑せり、国を治め道を論ず、陰陽を和
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げ、柔強を調ふ、その人なくば則闕よといへりとぞ
書置せ給ひたる、されば 則闕官と名付て其人に非ず
ば汚すべき官にあらねども、一天四海掌中に有上は、
子細に不(レ)及、相国か様に繁昌するも只ごとに非ず、
偏に熊野権現の御利生とも覚えたり、其故は清盛そ
のかみ靱負佐たりし時、伊勢路より熊野へ参りたり
けるに、乗たる船の内へ目を驚かす程の大鱸飛入り
ければ、先達これを見て恠と思ひて、則置文をして見
るに、これ様[B 例イ]なき御利生也、急ぎ食給ふべ[B 「ふべ」に「へかイ」と傍書]しと勘へ
申ければ、清盛申されけるは、昔異国に周西伯昌[B 「西伯昌」に「武王」と傍書]と
いひける人の船にこそ白魚のをどり入たりとは申伝
たれ、何事に付ても吉事にてぞ有らん、其上先達の
計ひ申さるる上は、半ば権現の示し給ふ所也、尤可
然とて、さばかり六根情の罪をざんげし、精進けつ
さいの道にて手づから調味して、家の子郎等てふり
強力に至る迄、一人も残さず養はせけり、又清盛三十
七の時、二月十三日夜半に口あけ口あけと天に物いふ
よし夢に見て、驚きて現に恐ろしながら口をあけば、
是ぞ武士の精と云ものよ、武士の大将する者には、
天より精を授くる也とて、鳥の子の様成物の極てつ
めたきを三つのどへ入とみて、心も猛く奢り始けり、
一族親類数国を重ね、顕官、けん職、三品[B ノ]階級に至る
迄、先祖をぞ超られける、かかりし程に清盛仁安三年
十一月十一日歳五十一にて病に犯されて、存命の為
に忽に出家入道す、法名聖[B 清]蓮、程なく改名して浄海
と号す、出家の功徳莫大成故にや、宿痾忽愈えて、天
命を全す、人の隨ひ付事吹風の草木を靡すが如く、
世の普く仰ぐこと降雨の国土を潤すに異ならず、六
波羅殿の一家の公達とだに云てければ、華族も英雄
も面を向へ肩を並る人なかりけり、平大納言時忠卿
申されけるは、此一門にあらざらん者は、男も女も法
師も尼も皆人非人也とぞ申されける、さればいか成
人も相構へて此ゆかりに結ぼれんとぞしける、衣紋
のかき様烏帽子のため様より始て、何ごとも六波羅
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様と云てければ、一天四海の人皆是を学びけり、いか
成賢王聖主の御政をも、摂政関白の成敗をも、人の
聞ぬ所にては何となく世に余されたる従者などは、
云譏りかたむき申事は常の習也、然るにこの入道の
世ざかりの間は、人聞ぬ所なればとて聊も忽に申者
なかりけり、其故は入道の謀にて我一門の上を譏り
云者を尋聞んとて、十四五若は十七八ばかり成童べ
を、髪首の廻りよりそぎつつ、赤き帷子をきせ、黒き
袴を着せて、二三百人計召仕はれければ、京中に充
満して往反しけり、平家の烏と名付て翼に赤印を付
て面々に持せて遊行せさす、是は霊烏頭のみさきと
て神に応ずる大会宴の殊童を学ばれたり、又は耳聞
也、若し浄海があたりに意趣をみば、いるかせにい
ふ者も有んずらん、さあらば聞出して申せよ相尋ん
との給ふ、されば京中小路、門外[B 前]に耳を側つ、自ら
六波羅殿の上をあし様にも申す者あれば、聞出すに
隨つて急ぎ行向て即時に魔滅す、後には御門の上は
さとかやの風情なれば、思も思はざるも、夫をいふは
常の事ぞかし、されば吹毛の科を求て滅し失ふ間、
怖と申も疎なり、されば目に見、心に知るといへど
も、あへて詞には顕していふ者なし、六波羅殿の禿
といひてければ、上下恐れをなして、道を過る馬、車
も曲てぞ通りける、禁門を出入すといへども、姓名
を問はず、京師長吏是がために目を側むとぞみえた
りける、入道悪行張行の余りに、此禿童を召仕様を
案ずるに、昔漢朝に王莽と云大臣有けるが、国の位
を奪んと思ふ心ありければ、謀を回らして、海中の
亀を取集めて、甲の上に勝といふ字を書て、若干の
亀を海中に入る、又銅にて鎧甲を着たる人形の馬に
乗たるが長三寸なるを多く鋳集て、竹のいまだ笋な
る時よごとにわりて、是を入置てけり、また懐胎[B 妊イ]の
女十人に朱砂を煎じ飲せけり、是を万仙薬と云、彼
等が産る子を取集て、潜に深山に隠し置O[BH 養ひたイ]てけり、
十二三に成ければ、彼等を取出して見るに、赤くし
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て偏に鬼のごとし、髪を首の廻りにそぎて、禿童に
なして赤き扇を持せて、王城へ出して歌を教へてう
たはせけり、亀の甲の上には勝と云文字あり、竹の
よ[B ナシイ]の中には銅の人馬あり、彼といひ是といひ、王莽天
下の位を持べき瑞相也とぞうたひける、其時漢帝大
に驚て、海中の亀を取集て是を見るに、甲ごとに勝
と云文字あり、林に入りて見る時に銅の人馬あり、
此事天のなす変也、王位を遁るるにはしかじとて、
位を王莽に譲り給ひぬ、国を持事二十七年といへり、
入道禿を召仕給ふこと少しもたがはぬ体[B 科イ]也、是を伝
聞てかくせられけりと言儀もあり、又家々にささや
きけるは、昔かかる例有やと尋るに、本朝に例なし、
漢家に八葉の大臣と申しける天下第一の賢臣おはし
けり、忠なる者を賞し、罪有者を愍むこと、如来の
大慈悲にことならず、諸国の人民、百姓の愁歎天聴
に達せぬ事多く有らん、汝聞出して奏せよ、直ちに
召質[B ン]とちかひて、今のごとく禿童に八葉の金貴鳥と
言鳥を持せて、国々の辻々に彼等を放し置れたり、か
かりければ愁を残す者なく、恨を含人もなし、国豊に
して世治れり、かかりければ不動尊慈悲を授られた
る金伽羅童子の如しとて、是をば善者童子と名付た
り、入道の禿をば悪者童子とも云つべし、漢家、本
朝隔て善悪共にこと也といへども、権威の程はかわ
らずとぞ申ける、凡只ごとに非ず、我身の栄華を極
るのみならず、嫡子重盛内大臣[B ノ]左大将、次男宗盛中
納言[B ノ]右大将、三男知盛三位[B ノ]中将、四男重衡蔵人頭、
嫡孫維盛四位[B ノ]少将、舎弟頼盛正二位大納言、教盛中
納言、一門の公卿十余人、殿上人三十余人、諸衛府、
所司都合八十余人、世には又人すくなくぞ見えける、
昔奈良の帝の御時神亀五年戊辰、朝家に中衛[B ノ]大将を
定られてより此かた、左右に兄弟相並ぶこと僅に五
ヶ度也、初は平城天皇の御宇、左に内麿内大臣左大
将、右田村麿大納言右大将、文徳天皇の御宇斎衡二
年八月二十二日、閑院贈太政大臣冬嗣、次男染殿関白
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太政大臣〈 忠仁|公 〉内大臣左大将、同九月廿五日男西三條
右大臣良相大納言右大将、朱雀院御宇、天慶八年十
一月廿五日に一條関白太政大臣貞信公の嫡男、小野
宮関白実頼〈 清慎|公 〉内大臣左大将、次男九條右大臣師資
公、同日大納言右大将、冷泉院御宇、左頼通宇治殿、
右頼実堀川殿、共に御堂関白道長の公達也、二條院
御宇永暦元年九月四日、法性寺関白太政大臣忠通公
の御息、松殿関白太政大臣基房公、内大臣左大将に御
任ありて、御弟月輪関白兼実公同十月に右に並び御
座す、其時の落書かとよ、
いよ讃岐左右の大将取籠て
欲のかたには一の人かな W008 K005
是皆摂録の臣の御子息也、凡人に於て未だ其例なし、
上代はかくこそ近衛大将をば惜みおはしまして、一
の人の公達計にてなり給ひしか、是れは殿上の交り
をだにきらはれし人の子孫の、禁色雑袍をゆりて、
綾羅きんしうを身にまとひ、大臣大将に成て兄弟左
右に相並ぶ、末代といへども不思議なりしこと也、
御娘九人おはしき、とりどりに幸ひ給へり、第一の
娘は桜町中納言成範の北の方にておはしけるが、後
中納言平治の逆乱の時、事に逢て失給ひし後は、花山
院左大臣兼雅の御台盤所に成せ給ひて、御子あまた
御座しき、万ひき替たる目出さにて[B 「にて」に「ナシイ」と傍書]おはしける、始
御悦の朝、何者かよみたりけん、花山院の四足の門
のはしらに札を書て打たりける、
花の山高き梢と聞しかと
海士の子なれやふるめひろふは W009 K006
是はさまでのことなかりけり、此北の方八歳の時、
桜町の中納言にはO[BH 申イ]名付られたりと也、成範卿を桜町
と申ける事は、彼卿桜をことにあいし給ひて、姉小
路室町の宿所に惣門の見入より、東西の町かけて並
木に桜を植通されたりければ、春の朝、遠近人の異
名に此町をば桜町とぞ申ける、又はひたすら花に心
を移し給ひて、長春の日も木[B ノ]下にして詠暮し、朧月
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夜も花の陰にて守り明されければ、桜本[B ノ]中納言共甲
けり、誠に此中納言桜をふかく愛せられしかば、過
行春をかなしみ、来れる春を悦び、桜を待し人なれ
ば、桜待の中納言とぞ詔には下されける、町に植と
ほされたりける桜の中に、殊に執し思はれけん花有
けり、七日にちる習を、たらずや思はれけん、花の
祈のためにとて春をむかふる朝には、先づ泰山府君
を祭り、又種々の珍寶、色々の幣帛をささげて、天
照太神に祈申給ひければ、其験にや、七日にちる花
なれども、二十日のよはひ延つづき、三七日まで梢
に名残ぞ残りける、中納言花のよはひの延たる事を
悦びて、かくぞ思ひつづけO[BH られイ]ける、
千はやぶるあら人神の神なれば
はなもよはひを延にけるかな W010 K249
いづ方に付ても彼成範卿はすき心のあらはれて、優
しき人にてぞおはしける、北かたは御はらからの中
に御みめもすぐれ、御心のさまもいうにおはしける
上、天下無双の絵かきにてぞおはしける、花山院の公
卿の座の障子に、いせ物語を所々書せ給ふこと有け
り、昔、氏の中に御子生れ給へり、御産屋に人々歌
をよみ給ひけるに、御祖父方なりける翁のよみける、
我やどに千尋の竹を植つれば
なつ冬たれか隠さざるべき W011 K250
と云所を書給へり、御産屋とは貞員親王の生れ給へ
る御産所也、其産屋の前に鳳凰の居たる千尋の竹の
姿を書給へり、其後彼公卿座の障子のもとに、時々笙
笛を調る音有けり、北の方の被遊たりける千尋の竹
の上なる鳳凰の囀る声にて侍けり、千字文と云文に
曰、鳴鳳は樹にあり、白駒は庭に啄むといへり、昔忠
平中将の扇に書たりける時鳥こそ、扇を開きて使ふ
度毎に、時鳥々々と鳴けるとは承れ、又円心と申け
る絵師が宇治の関白殿中門、法成寺の後戸に書たり
ける鶏こそ、さゆる霜夜の暁は二声三声鳴けれ、又定
朝が作りて金峰山の座王権現に参らせたりし狛犬こ
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そ夜毎にくひ合て大床の下に落けれ、又証賢法橋が
柏木をもて作りて、芹谷の地蔵堂に進じたりし小鬼
こそ失る事ありて、暁は必露にそぼぬれて本座にあ
り、其頃ちかあたりには女常に鬼子を産事ありけり、
寺僧あやしみをなして、金のくさりを以て件の鬼を
つなぎたりければ、其後鬼露にもぬれず女又鬼を産
ことなかりけり、かれは上古也、末代不思議なりし
こと共也、
二は後白川の法皇の第三の皇子高倉の上皇の后に成
給ひて、皇子御誕生の後は院号を蒙らせ給ひて、建
礼門院とぞ申ける、天下の国母にて渡らせ給ふ上は、
とかく子細を申に及ず、
三は法性寺殿の御子息六條摂政基実の北政所也、是
は優れたる琵琶引にてぞ御座しける、経信大納言よ
りは四代の門徒、治部卿の尼上の流を伝へて、流泉啄
木まできはめ給へり、抑流泉と申がくは兜卒天の秘
曲也、もとはぼだい楽とぞ申ける、みろく常に調べ
給ひて、聖衆のためにぼたいをつとめ給ふ故也、其
教文に曰、
三界無安、猶如火宅、発菩提心、永証無為、 G147
と申経文也、漢の武帝仙を求め給ひし時、同院の聖
主下て武帝の前にて調べ給き、時に龍王潜に来りて
南庭の泉の底に隠れ居て此楽を聴聞す、其時泉なが
れて庭上に満たりしよりして流泉とは名付たり、我
朝は逢坂の蝉丸、天人より此楽を伝へたりけり、蝉
丸いたく是を秘蔵せられしを、其弟子に博雅の三位
といひし人、三年がほど潜に立聞て僅に伝たりしか
共、それも又秘蔵せしほどに、今は日本に絶て久し
き曲也、然るをいか成人の伝へにて引せ給ふやらん
と思ふこそめでたけれ、又啄木と申は是も天人の楽
也、本名は解脱楽とぞ申ける、ぼだい、聖衆此楽の
声を聞て、則解脱を得給ふ故也、その文に曰、
我心無礎法界円、我心虚空其体一、
我心応用無差別、我心本来常住仏、 G148
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震旦の蕭山に仙人多く集りて、潜に此曲を引けるに、
山神、虫に変じて木上に是を喰しより啄木と申也、
此楽を引時は、天より必花ふり甘露定て海老尾に結
びけり、かかる目出度秘曲どもを天然として伝へ給
ふぞ不思議なる、況んや高倉上皇の御即位の時、御
母代とて三后に准ふるせんじを蒙りて、世に重き人
にてぞおはしましける、白河殿と申は是也、
四は帥大納言隆季卿の子息冷泉大納言隆房卿の御前
にて、御子あまたおはしましき、是は琴の上手也、
随分管絃還自足、等閑篇詠被人知、
と常には詠じ給けり、是は白楽天の作、文集五十四[B ノ]
巻にあり、しかるを楽天は一天無双の文者にて、聊
も作り給ふ詩篇は人に能しられたり、管絃の道は等
閑なれども、悪くも是を調るに情を養ふみちたりぬ
べしと作給へる心也、其様摂政殿の北政所ほどの琵
琶ひきにてこそおはしまさね共、随分の管絃は心を
養ふと思給へる心也、西園寺の御名王、閑院[B ノ]少将、当
麻寺[B ノ]紅葉、堀河[B ノ]侍従とて四天王にかぞへらるる琴
引ども侍りき、代々の寶物秋風、鈴虫、唐琴、潺波
と云四張の琴を引せて、入道相国常に聞給ひけるに、
異なる瑞相もなかりき、然るに此の卿の北の方村雲
と云琴を引給ひける時、村雲暫くたなびきて、万人
目を驚しけるぞ不思議なる、狭衣の大将源氏の宮な
んどの管絃を奏し給ふ時こそ、あめ若御子も天より
あまくだり、聖衆も影向し給ひしか、世の末なれども
かかる琴引手書き給けるこそ、不思議なれ[B 「なれ」に「と覚ゆれ」と傍書]、
五は六條摂政殿の御子息近衛殿下基通公の北政所也
御形いつくしくして歌人にてぞ御座ましける、され
ば父の入道殿は愛し奉て、衣通姫と呼参らせ給ひけ
れば、よばれてまた答給ひけるもやさし、殿下此由
を聞し召れて、歌道の事実否を知し召れんが為に、
北の政所をそとほり姫とよび参らせ給へば、我名と
心得て、をと答へおはしましたりければ、互に笑は
せ給ひて一所に並居給へり、殿下の仰に、只今俄に
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内より召あり、何事ぞと承れば、当座の御会と申也、
基通天性の遅口なり、少々よみて給[B たび候イ]へと仰あり、北
の方題を知らではいかにと仰有ければ、殿下の仰に
は、頭[B ノ]弁さる心有ものにて、潜に申遣して侍り、聞
ゆるが如くば、春日山神祇、鷲峰山釈教、是心是
仏、また旅立空の秋無常、恋昔旧跡と候也、此五題
を日夕以前と承る、日すでに未の刻に及たり、基通
は装束し侍るべし、少々よみてO[BH 訪せイ]給へとO[BH 仰イ]有ければ、
北の政所打うなづかせ給ひて、やがて墨をすり筆を
染て、
春日山神祇
春日山かすめる空にちはやふる
神の光りも[B 「も」に「はイ」と傍書]のどけかりけり W012 K252
鷲峰山釈教
鷲の山おろす嵐のいかなれば
雲間残らず照す月影 W013 K253
是心是仏
迷ひつつ仏の道を求むれば
我心にぞたづね入ぬる W014 K254
旅立空秋無常
草枕おく白露に身をよせて
ふく秋風を聞ぞかなしき W015 K255
恋昔旧跡
あるじなきやどの軒端に匂ふ梅
いとどむかしの春ぞ恋しき W016 K256
以上五首の歌を脂燭一寸の内によみ給ひたりけり、
父の入道そとほり姫とよび給ひけるも理也とて、殿
下不(レ)斜感じ覚しけるとかや、
六は七條修理大夫信隆卿の北の方也、是も翠黛、紅顔
錦繍の粧、花よりもいつくしく、玉のかんざしてる
月のすがたあたりもかがやくばかり也、是も連歌を
し、歌よみ給ふこと人にもおとり給はず、絵かき花
も結び給ひけり、殊にすぐれておはしましけるは、
慈悲ふかくして人を憐み給ふこと不(レ)斜、さるままに
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は法華八軸を暗に悟りて、ぼだいの道をぞ祈らせ給
ひける、かの龍女作仏のあとを追はせ給ひけるにや
とめでたくぞ覚えし、
七は後白河院へ参らせて、女御の様にておはしまし
き、安芸の厳島の内侍が腹の娘也、さしたる才芸は
おはさねども、形は誰にもすぐれ給へり、嬋娟たる
両鬢は秋のせみの翅、宛轉たる双娥は遠山の色秋の
夜、月を待に山を出る清光を見るが如く、夏の日蓮
を思へば、水を穿つ紅艶の始て開きたるよりも浄し、
更衣の后にてぞましましける、
八は坊門大納言有房卿の御前也、是も絵かき、花結
び、諸道朗におはしましき、女房の身なれ共、連句、
作文、無双にて、手跡もすぐれて、しき紙のかたな
ども書給ふ[B ひきイ]、画圖の障子に百詠の心を絵に書せ給ひ
て、一筆に諸[B 銘イ]文を遊ばしたりければ、院も御覧有て、
希代の珍女也、有難き筆跡と御ほめ有けるとかや、
九は九條院の雑仕ときはが腹の女也是も又天下第一
の美女なり、花山院左大臣殿の御もとに御台盤所の
御妹にておはしければ、上臈女房にて廊の御方と申
けるに、ひそかに姫君一人おはしければ、不(レ)斜もて
なすかしづきおはしましき、三條殿と申は是なり、
和琴の上手にて、かなさへいつくしく遊ばされけれ
ば、手本書せたびて給はり候はんとて、色々の料紙
を人おほく進せたりける、浅緑の紙もあり、こき紅
の紙もあり、だんし、うす様、色々の料紙ども御座
のほとりに集りて、錦をさらす如く[B 「如く」に「砌」と傍書]也、如(レ)此九人の
女子達九重の中にとなへ給ひて、〓利天の栄華もこ
れにはいかで過べきと、聞人羨まずと云事なし、其頃
世にすぐれて貧しき人おはしき、伏見の中将兼時と
ぞ申ける、男子二人、女子三人おはしき、嫡子は持[B 山イ]
病の気重くおはしましければ、世に立給事もなし、次
男おととみに煩て、両眼更に盲目也、大姫君は母方
のうはなり神の崇とていつとなく物狂なり、正念都
て身に副はず、第二の娘は七歳より中風にふして、行
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歩も不(レ)叶、第三の娘は生れ付おしにて物いふことな
かりけり、二人の親達是を歎き給ふこと、猛火の中
に身を焦すが如く、羨ましきかなや、太政入道の男
子八人の栄華に、女子九人の繁昌と、朝夕なきかな
しみ給へけるこそ哀なれ、人間界の果報色々さまざ
まなること共也、
日本秋津島は僅に六十六ヶ国也、平家の知行の国は
三十余ヶ国已に半国に及べり、其上庄薗、田畑は数
を不(レ)知、綺羅充満して、堂上花の如し、車騎群集し
て、門前市を成す、楊州の金、荊岫の玉、呉郡の綾、
蜀江の錦、七珍万寶一つとして缺けたる事なし、歌
堂舞閣の台、魚龍爵[B ママ]馬の弄、帝闕も仙洞もいかでか
是に過べきとめでたくぞ見えし、
昔より源平両氏朝家に被(二)召仕(一)てより以来、皇化に
隨はず、朝憲を軽くするものは互にいましめを加へ
しかば、世の乱なかりしに、保元に為義きられ、平治
に義朝討せられし後は、末々の源氏有しか共、或は
流され、或は誅せられて、今は平家の一類のみはん
昌して、頭を差出す者もなし、いか成ん末の世迄も
何事か有んとめでたくぞ見えける、鳥羽院の御あん
かの後は、兵革打続て、死罪、流刑、解官、停任常
に行れて、海内も静ならず、世間も落居せず、就中
永暦、応保の頃より、内の近習者をば院より誡あり、
院の近習者をば内より誡めらる、かかりければ高き
も卑きも恐れをののきて安き心もなし、深淵に臨で
薄氷をふむがごとし、其故は内の近習者経宗、惟方
が計にて法皇を軽しめ奉りければ、法皇安からぬこ
とに思召て、清盛に仰て阿波国、長門国へ流されけ
り、去程に主上を呪咀し奉る由聞え有て、賀茂上の
社に主上の御形を書て、種々のこと共をする由、実長
卿聞出して奏聞したりければ、宮人一人搦捕てこと
の仔細を召問るるに、院の近習者資長卿など云かく
ごの人の所為也と白状したりければ、資長修理大夫
解官せられけり、又時忠卿の妹小弁殿、高倉院を恨
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み参らせけるにつゐて、過言をしたりけるとて、其
前の年解官せられたりける、か様のこと共行合て、
資長、時忠二人、応保二年六月廿三日一度に流され
にけり、又法皇多年の御宿願にて、千手観音千体の
御堂を造らんとおぼしめして、清盛に仰て、備前国
をもてつくられにけり、長寛二年十二月十七日、御
供養有き、行幸をなしたてまつらんと、法皇おぼし
めされけれ共、主上なじかはとて、御みみにも聞入
させ給はざりけり、寺官の勧賞申されけれども、其
沙汰にも及ばず、親範職事にて奉行しけるを、御所
へめして勧賞の事はいかにと仰られければ、親範許
許候はぬにこそと申て畏て候ければ、法皇御涙を浮
べさせ給ひて、何のにくさにかほどまでは思召たる
らんと仰られけるぞあはれなる、此御堂を蓮華王院
とぞ名付ける、胡摩僧正行慶といひし人は、白河院
の御子也、三井門跡にはぶさうの有智徳行の人、な
りければ、法皇ことに頼みおぼしめされて、真言の
御師にておはしましけるが、此御堂はことに執りさ
たし給て、手体の中尊の丈六の御面像をば、手づか
ら自らあらはされたりけると承るこそ目出たけれ、
主上上皇父子の御中なれば、何事の御へだてかある
べきなれども、かやうに御心よからざる事共多かり
ける中に、人耳目をおどろかし、世もて傾申ける事
ありけり、
二代后事
太皇大后宮と申は、右大臣公能公の御女、御母は中
納言俊忠卿女、近衛院の后也、中宮より太皇大后宮
にあがらせ給たりけるが、先帝におくれまいらせさ
せ給てのちは、九重の外、近衛河原の御所にぞ移り住
せ給ひける、先朝の后宮にして、古めかしく幽なる御
有様なりけるが、永暦、応保の頃は御年廿二三にも
やおはしましけん、御盛り少し過させおはしましけ
れど、天下第一の美人と聞させ給ひければ、主上〈 二條|院 〉
御心にのみ染る御心地にて、世の謗をも御顧みもな
かりけるにや、高力士に詔して、潜に外宮に捜し求む
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るに及んで、忍びつつ彼宮に御消息あり、あへて聞
召入られず、さればひたすらはやほに顕はれまし
まして、后入内可有由、右大臣家に宣旨を下さる、
此事天下に於て異なる笑じなりければ、公卿僉義あ
りて、先異朝の先蹤を尋るに、則天皇后は太宗、高
宗両帝の后に立給る事有き、則天皇后は太宗の后、
高宗皇帝の継母なり、太宗の後室と成て、感業寺に
籠り給ふ[B 「給ふ」に「給へり」と傍書]高宗の給はく、願はくは宮室に入て助け給
へと、天使五度来るといへども、あへて従ひ給はず、
爰に帝自ら感業寺へ臨幸して、朕あへて私の心を遂
んとには非ず、只天下の為なりと、皇后更に勅にな
びく言葉なし、先帝の他界をとぶらはん為に、たま
たま釈門に入、再び塵衣にかへるべからずと、皇帝
内外の群籍を勘て、強て還幸を勧むといへ共、皇后
くわく然としてひるがへさず、爰に扈従の群士等よ
こしまに取奉るが如くして都に入奉れり、高宗在位
卅四年、国静に民楽む、皇帝、皇后と二人政を治めき、
故に彼御時をば二和御宇と申き、高宗崩御の後、皇
后女帝として位に即給へり、年号を神功元年と改む、
周の王孫なるが故に、唐の世を改て大周則天大聖皇
帝と稱す、爰に臣下歎て曰く、先帝の太宗世を経営し
給へる事、其功を次ぎて古今類なしと云つべし、太
子なきにしも非ず、願くは位を授けて太宗の功業を
長からしめ給へと、仍て在位廿一年にして、高宗の
御子中宗皇帝に授給へり、則、代を改て神龍元年と稱
す則我朝の文武天皇慶雲二乙巳年に当れり、両帝の
后に立ち給ふこと、異朝には如(レ)此例ありといへど
も、本朝の先規を勘るに、神武天皇より此かた、人皇
七十四代、未だ二代の后に立給へる例を聞不(レ)及と、
諸卿の僉義一同也、法皇も此事聞召て不(レ)可(レ)然由、
度々申させおはしましけれ共、主上の仰有けるは、
天子に父母なし、万乗の寶位を忝くせん上は、是程
のこと叡慮に任せざるべきとて、既に入内の日時迄
宣下せらるる上は仔細に及ばず、此事被(二)聞召(一)ける
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より、宮は物うき事に思召して、引きかつぎてふさせ
給へり、御歎きの色ふかくぞみえさせ給ひける、誠
に覚えて哀なり、先帝におくれ参らせし久寿の秋の
はじめに、同草葉の露とも消え、家をば出て世を遁
れたりせば、かかるうきことをば聞かざらまし、口
惜き事哉とぞ思召れける、父の大臣参じ給ひて、なぐ
さめ申されけるは、世に隨はざるを以て狂人とすと
いへり、既に詔命を被下たり、仔細を申に所なし、
只速に参らせおはしますべきなり、是偏に愚老を資
け、且は孝養の御はからひたるべし、不(レ)知又此御末
に皇子御誕生有て、国母といはれましまして、愚老
も帝祖といはるべき家門の栄花にてもや侍らん、大
かたか様の事は此世一ならぬ上に、天照太神の御計
ひにてこそ候はめと、さまざま申させ給へども、御い
らへもなかりけり、其頃何となき御手習にかくぞ書
すきませ給ひける、
浮ふしに沈みもやらてかは竹の
世にためしなき名をや流さん W017 K008
世にはいかにしてや[B 「や」に「ナシイ」と傍書]もれ聞えけるやらん、哀にやさ
しきためしにぞ讃歎せし、既に入内の日時定りけれ
ば、御出立様々に営給ひけり、出車の儀式常よりも
珍らかに、心ことに出立せ参らせ給へり、宮は物う
かるべき出立なればとみに出させ給はず、遥に打ふ
け小夜も半過てぞ、御車には助けのらせおはしまし
ける、殊更色ある御衣なども召れず、白き御衣十四
五計りぞ召れたりける、内へ参らせ給にしかば、軈、
恩を承らせ給ひて、れいけい殿にぞ渡らせおはしま
す、清涼殿の画圖の御障子に秋月を書れたる所あり、
近衛院未だ幼帝にて渡らせ給ひける、そのかみ何と
なき御手ずさみに書くもらせおはしましけるが、少
しもむかしにかはらずして有けるを御覧ぜられける
に、先帝のむかしの御俤思召出させおはしまして、
何となく思召つづけらる、
思ひきやうき身なからにまよひ[B 「まよひ」に「廻りイ」と傍書]きて
P030
同じ雲井の月を見んとは W018 K009
此御詠哀に類少くぞ聞えける、楊貴妃がたぐひいで
きなんずと人申けり、さまざまにちかはせ給ふも有
けり、大方其頃は是のみならず、か様の思ひの外の
事共多かりけり、世澆季に及び、人凶悪を先とする故
也、
かかりし程に永万元年の春の頃より主上御不豫の事
御座ますと聞えしかば、其年の夏の始に成しかば、殊
にかは[B 「かは」に「よわイ」と傍書]らせ給ひき、是によりて大膳大夫兼成が娘の
腹に、主[B 今イ]上の御子二歳に成せ給ひしを、皇太子に立
させ給べき由聞しほどに、六月廿五日に俄に親王の
宣旨を被(レ)下て、頓て其夜位を禅らせ給ひしを、何と
なく上下あわてたりき、我朝の童帝は清和天皇九歳
にて、文徳天皇の御譲を請させ給しより始れり、周公
旦の成王にかはりつつ、南面にして一日に万機の政
を行ひしになずらへて、外祖忠仁公幼主を輔佐し給
へり、摂政又是より始まれり、鳥羽院五歳、近衛院三
歳にて御即位有しをこそ、疾き事に人思ひしに、是
は纔に二歳、先例なし、物さわがしと人思へり、六
月廿七日新帝御即位のこと有しに、閏七月廿八日御
年廿三にて新院失させ給ひにき、御位を去せ給ひて、
纔三十余日也、新院とは二條院の御事也、天下の憂
喜相交りて、取あへざりしに、八月七日香隆寺にあ
からさまにやどし参らせて後、彼寺の艮に蓮台野と
云所に納め奉り、八條の中納言長方卿其時左大弁宰
相にておはしけるが、御葬送の御幸を見て、かくぞ
思ひつづけらる、
常に見し君か御幸を今朝とへは
かへらぬたひと聞そかなしき W019 K010
忠胤僧都が秀句此時のこと也、七月廿八日如何なる
日ぞや、去る人のかへらず、香隆寺いか成所ぞや、
出御ありて還御なしと被申しかば、皆人袂をしぼ
りけり、哀なりしこと共なり、近衛大宮は此君にお
くれ参らせ給しかば、頓て御髪おろさせましましけ
P031
るとぞ聞えし、定めなきよのためし今更に哀也、
額立論事
御葬送の夜、延暦寺、興福寺の僧徒の輩がく打論をし
て、互に狼藉に及ぶ、昔は主上、上皇の崩御には南
北二京の大小僧徒等悉く供養有て、我寺々の印に行
を立、額をうたれしに、三條院の御時よりうたれざ
りしを、初て額立あり、南都は東大寺、興福寺を始
として、末寺々々相伴ふ、東大寺は聖武天皇の御願、
あらそふべき寺なければ一番也、二番は大職冠淡海
公の氏寺興福寺の行を立、園城寺、元興寺、清水寺、
雲居寺、東光寺、遍照寺、大覚寺、歓喜寺とて末々
の額を打、各々気色節に觸たる景気ども面白かりし
見物なり、今度の葬送の時延暦寺の衆徒等先例を背
き、ことを猥りて、東大寺の次、興福寺の上に行を立
る間、衆徒僉議しけるは、東大寺、興福寺は一二也、
自由に任せて延暦寺の額を興福寺の上に打せぬるこ
そ安からね、山をやせむべき、延暦寺をや焼き亡すべ
きなど議する所に、清水寺は興福寺の末なる故に、
清水寺法師に観音房、勢至房、金剛房、力士房とて四
人あり、進出でて申けるは、愚意の至に候へども、此
御せん議は延て覚候、只今打破りて本意を遂んとて、
四人の悪僧等小具足犇々と取付て、或は三枚冑に、
左右の小手、或は大荒目の鎧草搦長なるを一色にさ
ざめかせて、茅のほの如くなる、大長刀を持て走り
廻りて、さんざんに切破りて、延暦寺の額を切倒し
て、うれしや水なるは滝の水とはやして、興福寺の衆
徒の中に走入ぬ、此観音房と申は昌春とぞ名乗ける、
後には土佐房と改名して、南都西金堂の衆徒となる、
延暦寺の衆徒即時に手向ひをすべきに、心深くねら
ふこともや有けん、其時は一言も出さざりけり、扨
も一天の君、万乗の主、世を早くせさせおはしましか
ば、心なき草木迄愁たる色あり、いはんや人倫僧徒
の法に、其歎き浅からずこそ侍に、喧嘩出きたりて、
或は散々として高きも賎きも、誰を敵ともなければ
四方へ退散す、れんだい野の奥船岡山のほりにぞ落
P032
入ける、さけぶ声雲を響かし、地を動す、誠に此君
は宮の御弟子になし参らせて、仁和寺に入らせおは
したりしを、王胤猶大切なりとて取かへし奉りて、
頓て立坊有けり、されば御室は此御眤にて御位の時
も殊に頼み被(二)思召(一)て、二條内裏の辺、三條坊門烏丸
に御壇所を造給て渡らせ給ければ、常には万の政に
御口入有けるとぞ聞えし、
仰彼昌春南都をうかれける事は、興福寺領針圧と云
所有、去る仁安の頃、衆徒代官を入たりけるを、西金
堂の御油衆の代官として、小河四郎遠忠と云者、是
非なく庄務をうち止る間、衆徒の中より侍従五郎快
尊を遣して、遠忠が乱妨を押へさす、其時西金堂衆
土佐房昌春、数輩の悪徒と結[B 語ひイ]て、遠忠を夜打にして、
則彼庄を横領せんとけつかうする間、衆徒昌春を追
入[B 籠イ]て、仔細を奏聞の為に、御榊を先に立奉りて上洛
する由聞えければ、昌春多勢を率して彼御榊をさん
ざんに切すて奉りてけり、是によりて衆徒彌々憤り
をなして、昌春を召捕て禁獄せらるべき由訴申問、
長者より時の別当兼忠僧正に仰て召れければ、昌春
あへてこと共せず、然る間是を拵へて昌春が申所其
謂れ有るか、委く聞召て御成敗可(レ)有由重て被(二)仰下(一)
間、昌春おめおめと上洛したりけるを、寺家に仰付
て昌春を召取て、大番衆土肥次郎実平に預られぬ、
昌春鬼神にとられたる心ちして、年月を渡りける程
に、後には土肥と親しく成にけり、又其後公家より
も御さたもなかりければ、南都は皆敵なれば、しゐ
て還住せんことたよりなし、まことや伊豆国流人兵
衛佐こそ頼母しき人なれと思召して、土肥と云合せ
て北條に下て兵衛佐に奉公す、心ききたる者也けれ
ば、兵衛佐にも大切に思はれけり、兵衛佐治承四年
に院宣、高倉の宮の令旨を給て、謀反起し給し時、昌
春は二文字に結雁金の旗を給て、切者にて有ける間、
人申けるは、春日大明神の罰を蒙べかりける者をや
と申けるに、其後鎌倉殿より九郎大夫判官討とて京
P033
都へ差上られたりけるに、打そんじて北をさして落
けるが、くらまの奥、僧正が谷よりからめとられ、
六條河原にて頭をはねられける、時は遅速こそあり
けれ、神明の罰は恐しきことかなと人申けるとかや、
同九日午の時計に、山門の大衆下ると聞えければ、
武士、検非違使、西坂本へ馳向たりけれども、衆徒
神輿をささげ奉りて押破りて乱入す、貴賎さわぎ迷
へる事不(レ)斜、内蔵頭教盛の朝臣布衣にて、左衛門の
陣に候はる、上皇山の大衆に仰て、平中納言清盛卿
を追討せらるべき故に、山門衆徒都へ入と何者かい
ひ出したる事聞えければ、平家一類六波羅へ馳集る、
上下あわてたりけれ共、左衛門督重盛卿壹人ぞ、何故
に只今さるべきぞとて静められける、法皇も驚き思
召て、急ぎ六波羅へ御幸なりて、全く去事なしとぞ
仰られける、御幸の上は中納言も大に畏て驚かれけ
り、山門大衆は清水寺へ押寄て焼払べき由聞えけり、
去る七日の夜の会稽の恥をすすがんと云也、異朝に
稽山の洞と云所有、彼山得分有、夫と申は十七の蠶
あり、まゆ一を以て糸千両を置く、されば一万七千
両の糸也、故に此山をば蠶山と名付たり、会稽山共い
ふ、彼山に二人の主あり、会台将軍、稽貞鬼風と云、
弐人して一年づつ此得分を取、七月七日合戦を遂て、
去年勝たる者は今年負、今年かちたる者は、来年負
くる故に、稽山の麓にて年々打替て本意を遂る故に、
先の恥を今清む、仍ち会稽のはぢを清むとはいへり、
去七日は山門忽に恥にあひ、今九日は清水寺又恥を
見る、されば則会台鬼風に違ふべきや、清水寺法師
老少をいはず二手に分て相待けり、一手は滝尾の不
動堂に陣を取、一手は西門にて待懸たり、山門の搦
手はすでにくくめ路、せんがん寺、歌の中山迄責来
る、大手は覇陵の観音寺迄寄せて坊舎に火を懸けれ
ば、折節西風はげ敷して、黒煙り東へふきおほふ、
かかりければ清水寺法師一矢を射るに不(レ)及、取物も
取あへず四方にたいさんす、
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昔嵯峨天皇の第二[B 三イ]の皇子門居親王の后二條右大将坂
の上田村丸の御娘春子女御御懐妊の時、若御産平安
ならば、我氏寺に三重の塔をくむべき由御願に立さ
せ給ひし、九りん高く輝かし三重の塔も焼にけり、兒
安の塔と申は是也、いかがしたりけん塔にて火は消
にけり、本堂一宇計ぞ残りける、無動寺法師に伯耆
の竪者乗円と云ふ学匠悪僧の有けるが、進み出て申
けるは、罪業もとより所有なし、妄想轉倒よりおこ
る、心性O[BH 深イ]清ければ、衆生即仏也、只本堂に火を懸
よや懸よやと罵りければ、衆徒尤尤と同じて、手毎
に松明を燈して、本堂の四方へ付たりければ、煙り
忽に雲井はるかに立上り、一時がほどに回禄す、浅
ましとも愚なり、思ふ[B のイ]ごとく堂舎一宇も残さず焼払
て帰上りければ、上皇も還御なりにけり、重盛卿は
御送りに参られけれ共、清盛は留まられにけり、猶
用心のためにや、左衛門督御供より帰られたりけれ
ば、中納言宣ひけるは、法皇の入せおはしましつる
こそ畏れ多けれ、乍(レ)去かけてもO[BH 思ひよりイ]仰らるる旨のあれ
ばこそか様にも聞ゆらめ、其故は善導の御釈をひら
き見るに、一切の隠密を久しく不(レ)可(レ)行といへり、
必披露する事は聞えねとも、密する事は顕はるぞと
よ、それいかんとなれば、水[B ノ]下の砂に隠るる魚は鵜
のためにあらはれ、深山に籠る鳥ははやき鷹のため
にのがれぬといへり、必有事は聞えけるぞとよ、され
ば夫にも打とけらるまじと宣へば、左衛門督はこの
こと努々御気色にも御詞にも出さるべからず、人の
心付て申はあしきこと也、叡慮に背き給はず、人の
ために仁おはしまさば、神明三寶のかご有べし、仍
御身の恐有べからずとて立給へば、左衛門督はゆゆ
しく大様成者かなとぞ中納言は立給ひける、法皇は
還御の後、うとからぬ近習者あまた御前に候はれけ
れば、さるにてもふしぎの事をいひ出しつる、誰か
かかる事はいひつらんと仰有ければ、西光法師が候
ひけるが、天に口なし人を以ていはせよとて、六波
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羅辺殊の外に過分に成行は、天道の御罰にやと申け
れば、此ことよしなし壁に耳有と云事あり、恐し恐し
とぞ申合ける、清水寺焼たりける後朝に火坑変成池
は如何にと札を書て、大門の焼柱に打たりければ、
歴劫不思議これなりと返礼をたてたりけり、いか成
跡なし者のしはざ成けんとおをかしかりけり、是は去
年にて、今年は諒闇にて有しかば、御禊、大嘗会も
なし、同十二月二十五日、東御方の御腹に法皇の御子
親王の宣旨蒙らせ給ふ、今年五歳に成せ給ふ、年来は
打籠られて座しつるに、万機の政法皇聞召は御憚無、
東の御方と申は、時信朝臣の娘、知信の朝臣の孫也、
弁殿とて候はせ給けるを、法皇時々召れける程に、皇
子出き給ひければ、彌々重き人にて、始は皇后宮と申
けるが、皇子位に即せ給ひてのちは、院号有て、建
春門院とぞ申ける、相国の次男宗盛をば彼女御御子
にせさせ給ひければにや、平家殊にもてなし申され
ける、仁安元年今年は大嘗会有べきなれば天下の営
み也、同年三月七日、去年親王の宣旨蒙らせ給ひたり
し皇子、東三條にて春宮立の御事有、春宮と申は、
御門の御子也、是を太子と申、又御門の御弟の儲の
君に備らせ給ふ事あり、是をば太弟と申、皇太弟共
申、それに是は御甥はわづかに三歳、春宮伯父六歳
にならせ給ふ、昭穆相かなはず、ものさわがしとい
へり、但寛仁二年、一條院は七歳にて御即位、三條
院は十一歳にて春宮に立せ給ふ、先例なきに非ずと
人申けり、同三年二月十九日東宮高倉院八歳にて大
極殿にて御即位有しかば、先帝は五歳にて御位を退
き給ひて、新院と申き、いまだ御元服なくて御童形
にて太上天皇の尊号ありき、漢家、本朝是ぞはじめ
成らんと珍しかりけること也、此君の位に即せおは
しましぬることは、彌々平家の栄華とぞ見えし、国母
建春門院と申は、平家の一門にておはしまし候上、
とりわき入道の北の方二位殿の御姉にておはしまし
ければ、相国の公達に二位殿の腹は、当今の従父兄弟
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にむすぼほれ奉りて、ゆゆしかりけることども也、
平大納言時忠卿と申は女御の御せうと、主上の御外
戚にておはしましければ、内外に附たる執権の人に
て、叙位、除目以下公家の御政偏に此卿のさた也、
されば世に平関白とぞ申ける、当今御即位の後は、法
皇もいとどわく方なく院に近く召仕はるる、公卿殿
上人上下北面の輩に至迄、ほどほどに隨ひて官位ほ
うろく身に余る迄朝恩を蒙りたれども、人の心の習
ひなれば、猶あきたらず覚えて、此入道の一類、国
をも官をも多くふさげたる事を目ざましく思ひて、
此人亡びたらば其国はあきなん、其官はあきなんと、
心中には思ひけり、疎かならぬ輩は忍びつつささや
く時も有けり、法皇も内々思召れけるは、昔より今に
朝敵を打平ぐる者多けれ共、斯る事やあらじ、貞盛、
秀郷が将門を討、頼義が貞任を亡し、義家が武衡、
家衡を攻しも勲賞行れしこと受領には過ざりき、清
盛がさしたるし出したることもなくて、心の儘に振
まふ事こそ然るべからね、是も世の末に成りて、王
法の尽ぬるにやと思召けれども、ことの次なければ
君も御誡なし、又平家も朝家を恨み奉る事もなかり
しなり、世の乱れ初めける根元は、去ぬる嘉応二年
十月十六日、小松内大臣重盛公の次男新三位中将資
盛、其時は越前守たりし時、蓮台野に出て小鷹狩を
せられけるに、小侍共二三十騎打むれて、鷂あまた
据させて、鶉、ひばり追立て、折しも雪は降て枯野の
気色面白かりければ、終日狩暮して夕日山の端にか
かりければ、帰られけるに、時の関白松殿基房、院
の御所法住寺殿へ参らせ給ひて、還御有けるに、六
角京極にて参り逢、よるにてありければ、殿下の御
出とも不(レ)知越前守おごり勇みて世を世ともせざり
ける上、召具したる侍共みなみな十六七の若者にて、
骨法を弁へたる者壹人もなかりければ、殿下の御出
ともいはず、一切下馬の礼義もなし、依(レ)之前駈の御
隨身、しきりに是をいらつ[B ふイ]、何者ぞ御出なるに、速
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に罷留りて下り候へと申けれども、更に耳にも聞入
ず、蹴ちらして通りけり、暗きほどの事にてありけ
れば、御供の人々も、つやつや入道孫とも知ざりけ
れば、資盛以下侍五六人馬より取て引落し、頗る恥
辱に及ぶ、資盛の朝臣六波羅の宿所へかへりて、祖
父入道になくなく訴へければ、入道さいあいの孫に
ておはしけり、大にいかりて、殿下也ともいかでか
入道があたりの事をば憚り思はざるべき、おいさき
有若者に、さうなく恥辱をあたへらるるこそ意恨な
る次第なれ、此事思ひしらせ申さではえこそ有まじ
けれ、かかる事より人にもあなづりはじめらるると
て、殿下を恨奉らばやと宣ひければ、小松内府此事
を聞て、夢々不(レ)可有、重盛が子共なんど申さんず
る者の、殿下の御出に参りあうて馬よりも車よりも
おりぬこそ尾籠にて候へ、左様にせられ参らするは
ひと数に思召なさるるによりてなり、この事却りて
面目に非ずや、頼政、時光なんど体の源氏などにあ
ざむかれたらば誠に恥辱にても候なん、かやうの事
より[B 「より」に「はイ」と傍書]大事に及で世の乱ともなることにて候と宣ひけ
れば、其後は内府には宣ひあらせず、片田舎の侍共の
こはらかにて入道殿の仰より外に重き事なしと思ひ
て、前後も弁へざる者十四五人計り招寄て、来二十
一日主上の御元服の定に、殿下御参内有んずる道に
て待請申て、前駈御隨身等のもとどりきれと下知せ
られければ、其日に成て中[B ノ]御門猪のくま辺に六十余
騎の軍兵を揃へて、殿下の御出を待請たり、殿下は
かかる事有とも知し召れず、主上明年の御元服の加
冠、拝官のさだめのために、今日より大内の御直廬
に七日候はせおはしますべきにて有ければ、常の御
出よりも引繕せ給ひて、今度は待賢門より入せおは
しますべきよしにて、何心なく中[B ノ]御門を西へ御出な
りけるを、猪のくま堀川の辺に六十余騎の軍兵待受
参らせて、射殺し切殺さね共、さんざんにかけちら
して打落しはり落す、馬に任せて逃る者もあり、馬
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を捨て隠るる者もあり、前駈、御隨身共れうりやく
して、前駈六人次第に本鳥を切てけり、其中に藤蔵
人の大夫高則が本鳥を切ける時、汝が本鳥を切には
非、汝が主の本鳥を切也といひ含めて是を切、隨身
十人が内右府生武光、同本鳥を切られにけり、剰へ
御牛の尻がへを切たちて、御車の内へ弓をあららか
につきいれければ、殿下も御車よりくづれ落させた
まひて、あやしの賎の家に立入せ給ひければ、前駈
も御隨身もいづちへか失たりけん壹人も無りけり、
供奉の殿上人或は物見うちやぶられ、或はしりがひ、
むながひ切はなたれて、くもの子をちらす様にしち
らして、中御門おもてにて悦の鬨を作りて六波羅へ
帰りにけり、入道はゆゆしくしたりとかんじけるに、
小松大臣こそ大にさわがれ、景綱、家貞きくわいな
り、たとへ入道いか成ふしぎを下知し給ふとも、い
かでか重盛には夢にも知ら[B 「にも知ら」に「をば見イ」と傍書]せ給はざりけるぞとて、
行向ひたる侍共十余人勘当せられけり、重盛なんど
が子共にて有んものは、殿下を恐れ奉り、礼義をな
してふるまふべきに、云甲斐なき若者共を召具して、
左様の尾籠を現じて、剰父祖の悪名を立る事不孝の
至り、偏に汝にあり、自今以後は親子の儀に非ずと、
越前守をも深く誡めらるとかや、この大臣は何事に
付ても能人とぞ世にも人にも[B 「人にも」に「ナシイ」と傍書]誉られける、其後は殿
下の御行衛も知参らせたる人壹人もなかりけるに、
御車ぞへの古老の者に、淀の住人因幡[B ノ]先使国久丸と
申ける男、下臈なりけれどもさかさかしかりける者
にて、抑君はいかにならせ給ひぬるにかとて、爰か
しこを尋求め参らせけるに、殿下はあやしの賎の家
に遣戸の際に立かくれて、御直衣しほしほとして渡
らせ給ひけり、国久丸只壹人しりがひ、むながひむ
すび集めて御車仕りて、是より中御門へ還御なりに
けり、還御の儀式心うしとも疎也、摂政関白のかか
るうきめを御覧ずる事昔も今もためしすくなくこそ
有けめ、是ぞ平家の悪行の初なる、
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翌日西八條の門前に作り物をぞしたりける、法師の
腰からみて長刀を荷て持上て物を切んとするけいき
を作りたり、又前に石鍋にし[B もイ]立たる物を置たり、道
俗男女門外に市をなす、されども心得たる者壹人も
なし、こは何事を申[B 「を申」に「ナシイ」と傍書]ぞやと云所に、五十ばかりなる
僧のさし寄打見て申けるは、さればよべの事を作り
たる也と申せば、何ぞと云に、よべ殿下の御出なり
けるを、平家の侍、中御門ゐのくまにて待うけ参ら
せて、さんざんに追ちらし、御車をくつがへし、前
駈、御隨身の本鳥を切たりけるを作りたり、是こそ
むし[B くイ]物にあうてこしがらみといふことよと申せば、
一同にはと笑ひてのく、如何成あとなし者のしわざ
成らんとおかしかりけり、扨前駈者たりける蔵人大
夫高範あやなく本鳥を切られたり、いかにすべき様
なくて宿所にかへり、引かつきてふしたりけるが、
俄に大とのゐの綾織のなかに目あかく、手のきき
たらん二人ばかり、きと召し進せよといひければ、
妻子ども何事やらんと、覚束なく思ひける所に、程
なく召して参りたりけるを、妻子けんぞくにも見せ
ず、一間成所に籠りゐて、切られたる本鳥をかづら
をさ[B たをイ]して、一夜の内に結びて続せて、びんしととか
き、ゑぼし打着て、蔵人所に参して申けるは、我いや
しくも武家に生れ、如(レ)此弓矢を取て重代罷り過ぐ、
其日しかるべき不祥にあひたりしかども、そくたい
をまとひ、つめきるほどの小刀体の物も身に隨へず、
人に手をかくる迄こそなくとも、あたる所口をしき
めを見んよりは、自害こそ仕るべかりしも不(レ)叶、剰
へ本鳥を切れたりと云不実さへいひ付られ、弓矢取
者の死ぬべき所にて死ざるが致す所也、則世をもの
がれ家をも出べけれども、左右なく出家したらば本
鳥を切れたるは一定也とさたせられんずらん事、生
生世々のかきん也、今一度誰誰にも対面と存じて
参りたり、但し憖(なまじひ)に人並々に立まじればこそ、かか
る不実をもいひ付らるれ、思ひ立たること有とて、
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懐より刀を取出して本鳥をおし切て、乱髪にゑぼう
し引入て袖打かつぎて罷出けるこそ賢かりけれ、廿
二日摂政殿は法皇に御参りありて、心うきめにこそ
あうて候へと申させ給ひつれば、法皇も浅ましく思
召て、此由を入道にこそいはめと仰ありける、入道
此よしをもれ聞て、殿下の入道がことを院に訴へ申
されたりけるとて、又しかりののしりけり、殿下か
く事にあはせ給ひければ、廿五日院殿上にてぞ御元
服の定は有ける、さりとて、さて有べきにあらねば、
摂政殿十二月九日兼て宣旨を蒙らせ給ひて、十四日
太政大臣に成せ給、これは明年御元服の加冠の科也、
同十七日に御拝賀有、ゆゆしくにがりてもありし、
太政入道第三の姫后立御定あり、今年十五にぞ成給
ひける、建春門院の猶子也、
妙音院の入道太政大臣の内大臣の右大将にておはし
ましけるが、もとより出家の御志有ける上、入道相
国年を経、日に隨て過分に成て、天下の事を我儘に
執行し、重盛を大将になしつる上、次男の宗盛を大
将になさんと心に懸て、其闕を窺ふ由聞せ給ひける、
折節松殿かく事にあひ給ふに附ても、一定大将はが
れなんずと思召て、急ぎ大将を辞退申されけるを、
徳大寺大納言実定の一の大納言にておはしましける
が、理運にて成給べきよし聞えけり、其外花山院の
兼雅も所望せられけり、さては殿[B ノ]三位中将帥家卿抔
や成給んずらんと世間には申合ける程に、故中[B ノ]御門
中納言家成卿三男新大納言成親卿平に申されける、
院御気色善りけれ様々の祈を初て、去ともと思れ
たり、或時八幡宮に僧を籠めて真読の大般若を読せ
られける程に、半部ばかり読たりける時、高良大明
神の上なる松の木より山鳩二つ来りて、くひ合ひて
死にけり、鳩は八幡大菩薩の第一の使者也、宮寺に
かかるふしぎなしとて、別当浄清ことの由を公家へ
奏聞したりければ、神祇官にて御占あり、天子、大
臣の御慎に非ず、臣下の慎とぞ占ひ申たりける、是
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のみならず賀茂の上社へ七ヶ日、下鴨社へ七ヶ日、
忍びて歩行にて日詣をして百度詣をせられけるに、
第三日に当る夜詣で下向して、中[B ノ]御門の宿所に大納
言臥れたりける夜の夢に、詣で上の御前に候と覚し
きに、神風すごく吹下し、寶殿の御戸をきつと開れ
たりける、やや暫く有て、ゆゆ敷けだかき女房の声
にて一首の歌を詠ぜさせ給ひけり、
梅の[B 「梅の」に「桜イ」と傍書]花賀茂の川かぜうらむなよ
ちるをばえこそとどめざりけれ W020 K011
成親卿夢の内にうちなきて驚れけり、我[B 是にイ]もしひず、
上の社には仁和寺の俊尭法印を籠めて真言秘[B 「真言秘」に「だきにてんのイ」と傍書]法を行
せられける程に、七日に満る夜、俄に天ひびき、地
揺く程の大雨ふり、大風吹て雷なりて寶殿の後の妻
戸杉に雷落かかり、火もえ付て若宮の社は焼にけり、
神は非礼を受給はねば、かかる不思議も出来にける
とかや、成親卿猶是にも思ひ知り給はぬぞ[B 「ぬぞ」に「ざりけるこそイ」と傍書]浅ましき[B けれイ]、
去程に嘉応元年正月三日、主上御元服せさせ給て、
十三日てうきんの行幸とぞ聞えし、法皇、女院御心
もとなく待受参らせ給ひて、初冠の御すがたらうた
くいつくしく渡らせ給ひける、三月入道相国第二[B ノ]
娘、女御に参らせ給ひて、中宮徳子とぞ申ける、法皇
御猶子の儀なり、七月には角力の節あり、重盛宿運お
はしければ、右のあくやにて事を行ひ給ふを、人見て
申けるは、果ほうこそめでたく、近衛大将に成んから
に、容儀進退さへ人にすぐれ給ふべしやはと申あひ
けりとかや、加様にほめ奉りて、切ての事には末代に
相応せで、御命やみじかくおはせんずらんと申ける
こそいまはしけれ、御子息大夫侍従羽林なんどいひ
て、あまたおはしけるも皆いうにやさしく花やかな
る人にておはしあひける上、大将は心ばへよき人に
て、子息たちも詩歌、管絃を習はせ、事にふれてよし
有事をすすめらる、去ほどに此程の叙位、除目は平家
のままにて、公家、院中の御計にてもなし、摂政関白
の御成敗にてもなかりければ、治承元年正月十四日
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の除目に、徳大寺、花山院、中将殿もなり給はず、まし
て新大納言思ひやはよるべき、入道の嫡子重盛右大
将にておはしけるが、左にうつりて、次男宗盛中納言
にておはしけるが、数輩の上臈を超過して、右にかは
られけるこそ申計もなかりけれ、嫡子重盛の大将に
成給ひたりしをだにゆゆしき事に人思へりしに、次
男迄打続並び給ふ、世には又人有とも見えず、中にも
後徳大寺の大納言、一の大納言にて才学優長に、家重
代にて越られ給ひしこそ不便の事なりしか、定て御
出家など有んずらんと、世の人申あひけれども、此世
の成らんやうをも見はてんと思ひ給ひけるか、猶余
の悲しさに大納言を辞し申て御籠居有、既に出家し
て山林に交るべき由思召立けるに、源蔵人大夫賢基
が申けるは、御出家候て世を捨させ給はば、君の頼み
参らせ候青侍青女たち皆餓死になんず、口惜く候、平
家四海を打平げ、天下を掌に握、爰に一天の君をだに
なやまし参らせ候、左ほどの人のふるまひをとかく
申に不(レ)及、三家の君達に越られさせ給て候はばこ
そ、御恨みにても候はめ、世は謀を以て先とす、安芸
の厳島へ御参あるべしと存候、七日の御参籠候はば、
其社のみこをば内侍と申候、それに種々の引出物を
たびて、内侍四五人相具して京へ御上り可(レ)有候、内
侍京へ上候程ならば、太政入道に一定見参し候はん
ずらん、何しに上りたるぞと尋られ候はば、内侍有の
ままに申候はば、大将は一定参らぬとおぼえ候とて、
様々に拵へ申されければ、さらばとて厳島へ参らせ
給へり、案のごとく内侍共参りたり、支度したる事な
れば、種々の引出物をたびて、色々様々にもてなし給
ひけり、かくて七日の御参籠もはてければ、京へ上り
給ひけるに、内侍共名残を惜み奉りて、一日送り参ら
せて、次日内侍ども帰んとする所に、徳大寺殿被(レ)仰
けるは、やや内侍達、王城の鎮守を差置き参らせて、
国を隔て海を分て参りて候志を思ひやられ候べし、
内侍達をば大明神とこそ思ひ奉れ、今一日名残を惜
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み給へかしと宣ひければ、承りぬとて送り奉る、次日
又内侍いとま申て帰んとする所に、種々の引出物を
たびて、内侍を情なし、今一日送れかしと宣ひけれ
ば、承りぬとて又送り奉る、かくて一日々々送り奉る
ほどに、都近く送奉る、徳大寺殿被(レ)仰けるは、是迄上
りたるに、いざかし都へ内侍たちに京づとをも尋て
取らせんと宣ひければ、承りぬとて、内侍十余人京へ
のぼる、内侍共申けるは、太政入道殿に見参に入て下
らんとて参じたれば、入道殿出会て見参し給ひて、内
侍ども何しにのぼりたるぞと問れけり、内侍申ける
は、徳大寺殿大将を超られさせ給ひたるとて、御出家
ありて山林に交らんとせさせ給ふが、厳島大明神は
れいげんあらたに渡らせ給へば、祈請申て其後出家
せんとて御参籠候つるに、御心いうにやさしく御座
つる間、御名残惜くて、一日々々と送り参らせ候つる
程に、京へ上りて候へば、見参に入ていとま申さんと
て参りて候と申ければ、入道打うなづきて一定か、内
侍達さん候とぞ申ける、入道宣ひけるは、浄海があが
め奉る大明神を尊く渡らせ給ふと伝聞て参り給たり
けるこそいとをしけれ、大明神御威光も恐れあり、と
くどく重盛大将あけよとて、徳大寺殿左大将になし
奉る、新大納言彌口惜と思はれけり、いかにして平
家を亡して本望を遂んと思ふ心付にけるこそ恐しけ
れ、父卿は中納言迄こそ至られしに、其末の子にて位
正二位官大納言、年僅に四十二、大国あまた給はり
て、家中たのしく子息所従に至迄、朝恩にあきみち
て、何の不足ありてか、かかる心付にけん、是も天魔
の致す所也、信頼の卿の有様をまのあたり見し人ぞ
かし、其度の謀反にも与して、既に誅せらるべきにお
はせしが、小松内大臣の恩を蒙て首を継たりし人に
非ずや、然を疎き人も入ざる所にて兵具を調へ集め
て、可然者を語らひ、此いとなみの外他事なかりけ
り、東山に鹿の谷と云所は、法性寺の執行俊寛が領
也、件の所は後は三井寺に続きてよき城也とて、そこ
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に城郭を構へて、平家を討て引籠らんと支度せらる、
多田蔵人行綱、法性寺の執行俊寛、近江の中将入道れ
ん生〈 俗名は|なりまさ 〉山城守もとかね、式部大夫のり綱、平判官
康頼、宗判官信房、新平判官すけゆき、左衛門の入道
西光寺を始として北面の下臈あまた同意したりけ
り、平家を亡すべき与力の人々、新大納言成親卿を始
として、鹿の谷俊寛が坊を会所として、常により合
より合だんぎしけり、法皇も時々入らせ給て聞し召け
り、入せ給ふ所ごとに、俊寛がさたにて、御儲ていね
いにしてもてなし参らせて、御延年抔有時もあり、か
の人々例の俊寛が坊に寄合て終日酒宴して遊ばれけ
り、去程に酒盛半に成りて、万興有けるに、多田蔵人
が前に盃流れとどまりたり、新大納言青侍を壹人招
よせて、何事やらんささやきてければ、程なく清げな
る長びつ一合縁の上にかきすへたり、尋常なる白布
五十端取出して、やがて多田蔵人が前に置せて、大納
言めをかけて日頃だんぎ申つる事、大将軍には一向
御辺を頼み奉る、其弓袋の料に進候、今一度候はばや
としひたりければ、行綱畏て三度して、布に手うちか
けて押のけ、是は則郎等寄て取てけり、其頃静憲法印
と申けるは、故少納言入道しんせいが子也、万事思知
りて引入て真の人にてぞ有ければ、平相国も殊に用
ひて、世の中のことなど時々いひ合せられけり、法皇
の御気色もよくて、蓮華王院の執行に成しなんどし
て、天下の御政常には仰合せられけるに、成親卿取あ
へず、平氏既に倒れたりと申されければ、法皇ゑつぼ
に入らせ給ひて、康頼参りて、当弁仕れと、仰のあり
ければ、己が能なれば、つゐ立て、凡近頃は平氏が余
り多くしてもてあつかひておぼえ候、首をこそ取候
はめとて、瓶子の首を取て入にけり、法皇も興に入せ
給ふ、着座の人々もゑみを含みてぞおはしける、静憲
法印計は浅ましと思ひて、物をも宣はず打頷きて、声
もあらく立ざりけり、彼康頼はもとは阿波国[B ノ]住人、
人品さしもなき者也けれども、諸道に心得たる者に
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て、君にも近く召仕れ参らせて、検非違使五位の尉ま
で成にけり、末座に候ひけるが召出されけるも時に
取て面目とぞ見えける、土の穴をほりていふなる事
だにも、もるると云ことあり、まして左程の座席なり
ければ、なじかはかくるべき、人人聞伝へてささやき
けり、空恐しく覚えける、成親卿のもとに、みめよき
上わらは二人ありけり、名をば松の前、鶴の前とぞい
ひける、松は顔すぐれたりけれ共、心の色少しさしお
くれたり、鶴は顔は尋常なれ共、心に哀[B 念イ]あり、此談義
のために俊寛始めて大納言のもとへおはしたりけれ
ば、杯酌進けるに、彼上童二人出して色々さまざまに
しゐたりけり、是を始として俊寛常はよばれければ、
二人ながら時々こしうたせなどせられけるほどに、
鶴が腹に女子一人出来たりけるとかや、彼俊寛は木
寺の法印寛雅の子、京極の源大納言雅俊の孫也、させ
る弓矢とる家にはあらね共、彼大納言ゆゆ敷心猛く、
腹あしき人にておはしけり、京極の家の前をば人を
もたやすく通さず、常は歯をくひしばりておはしけ
れば、人歯ぐひの大納言とぞ申ける、かかる人の孫な
ればにや、此俊寛も僧なれども心たけくおごりし人
にて、か様のことにもくみせられけるにや、
三月五日除目に内大臣師長公太政大臣に任じ給へる
かはりに、左大将重盛、大納言定房卿を超て、内大臣
に成給ひにけり、院御所三條殿にて大饗行はれ、近
衛大将に成給し上は、子細に及ばねども、大臣の大将
いと目出たし、左右の大将只今闕あり気なし、師長押
上られ給へり、又一[B ノ]上こそ前途なれども、宇治左大
臣の御例憚あり、又太政入道も心元なげにいはれけ
れば、よしなしと被(レ)仰けるとかや、五條中納言邦綱[B ノ]
卿大納言にならる、年五十六、一の中納言にておはし
けれども、第二迄は中[B ノ]御門中納言宗長卿、第三迄は
花山院中納言兼雅卿、此人々の成給ふべかりけるを
おそとどめ、邦綱卿のなられける事は、太政入道万事
思ふ様成が故也、此邦綱卿は提中納言兼輔の八代の
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末葉、式部大夫盛綱が孫前右馬介盛国が子也、然る
に二三代は内[B ノ]蔵人だにもならず、受領、諸司[B ノ]助など
にてありけるが、進士、雑色とて、近衛院の御時近く
召仕はれけるが、去久安四年正月七日、家を起して、
蔵人頭に成にけり、其後次第に成上りて、中宮の亮ま
で成にけり、法性寺殿かくれさせ給て後、太政入道に
取入て様々宮仕ける上、毎日何にても一種を獻ぜら
れければ、所詮現世の得意に此人に過たる人有まじ
とて、子息二人入道の子にして、清国とて侍従になさ
れぬ、又三位中将重衡を聟になして後、中将内の御乳
母子になられたりければ、其北の方は御母代にて、大
納言典侍とぞ申ける、治承四年の五節は福原にてぞ
有ける、殿上の淵醉の日、雲客后宮の御方に推参せら
れたりけるに、式部卿の竹湘浦に斑也と云朗詠を投
げ出されけるを、此邦綱の卿聞給て、取あへず、あな
浅まし、是は禁忌とこそ承れ、かかる事聞とも、聞か
じとて、ぬき足をしてにげられけり、させる屬文の人
にておはせざれども、か様の事まで聞とがめ、貴賎を
いはず親疎をわかず必訪はれけり、人望もすぐれた
り、何よりも一の所の御家領の事を計ひ申されける
が、目出たき事にてぞ有ける、此邦綱卿の母、賀茂大
明神に志をはこび奉りつつ詣ては、邦綱に一日の蔵
人を経させ候はばやと祈申されけるに、賀茂の御社
の氏人檳榔の車をいて来て、我家の車やどりに立る
と夢みたりけるを、不(二)心得(一)覚えて、人にかかる夢こ
そ見たれと語ければ、公卿の北の方にこそ成給はん
ずらんといひければ、我身年たけたり、夫まうくべき
に非ずと思ひ給ひけるに、邦綱の卿蔵人は事もおろ
そかや、忝く夕郎貫首を経て、終に正二位大納言に至
らせ給ふ[B 「せ給ふ」に「れけるイ」と傍書]ものを、太政入道のさりがたく思ひ給ひけ
るも、しかしながら賀茂大明神の御利生なりとぞ人
申ける、
平家物語巻第一終
平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第二
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平家物語巻第二
北面は上古にはなかりけり、白河院の御時はじめ置
れて、衛府どもあまた候けり、為利、盛重わらはべ
より千じゆ丸、今犬丸とてきりものにて有けり、千
手丸は三浦、後には駿河の守、今犬丸は周防国の住
人、後には肥後のかみ、鳥羽院の御時も、季範源左
衛門の大夫、子息やすすゑ河内の守、同季頼大夫尉、
父子近く召仕はれて、傳奏するをりも有と聞えしか
共、皆身の程をばふるまひてこそありしに、此御時
の北面の者共は、殊の外に過分にて、公卿、殿上人を
も物ともせず、禮義もなかりけり、下北面より上北
面にうつり、上北面より殿上を許さるるも有けり、
かくのみ有る間、驕れる心どもありけり、其中に故
小納言入道のもとに師光、成景と云者あり、小舎人
童、もしは恪勤者などのけしかる者ども也けれども、
さかさかしかりければ、院の御目にもかかりて召仕
はれけり、小納言入道の事にあひし時、二人共に出
家して、法名の一字を加へて左衛門入道西光、右衛
門入道西景とぞ云ける、二人ながら御蔵n預りにて召
仕はれけり、其西光が子に師高もきりものにて有け
れば、検非違使五位の尉迄成りて、安元元年十二月廿
九日、追儺除目に加賀守に任て国務を行ふ間、様々
のひほふひれい張行せし餘りに、神社、仏寺、権門、
勢家の庄頭をたふし、さんざんのこと共にてぞ有け
り、たとへ邵公があとをへだつとも、おんびんの政
をこそ行ふべかりしに、よろづ心の儘に振舞しほど
に、同二年八月に白山末寺に温泉寺と云山寺にいで
湯あり、彼湯に目代馬を引入て洗ひけるを、大衆申
けるは、是は白山権現の一切衆生の諸[B 衆イ]病の薬の為に
いだし給ふ所の出湯也、悉き所に馬を引入て、洗ふ
事狼藉也と制しをくはふ、猶きかず、然る間大衆起り
て、白山、中宮八院三社のそう長吏、智積、覚明等張
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本として、とねり男が本どりを切、馬の尾を切て追
ひ放つ、目代申けるは、馬の湯あらひれいなくば、
何度もせいしをこそくはふべけれ、さうなく馬の尾
を切べき様やある、はぢ有者の乗馬の尾を切る事、本
どりを切に同じといふ、安からぬこと也とて、国方
より大勢を揃へて押寄て、温泉寺の坊舎を焼拂ふ、
此事によつて八院の大衆の中に、秀衡が孫に金台房
を大将軍として、明台房、室大房、能登房、加賀房、
越前房、同白山の大衆五百餘騎にて加賀の国府へ押
寄せて、かう堂にたて籠りて、廰へ使をたてたれば、
目代はひがごとしつとや思ひけん、廰屋にもとまら
ずして、迯げて京へぞ上りにける、大衆力及ばで、そ
れよりて帰てせんぎしけるは、此所は本山の末寺也、
しよせん叡山へ訴へ奉らん、若訴訟叶はぬものなら
ば、我等長く生土へ帰らじと一同にせんぎして、神
水、仏水を飲み、同年八月に白山の早松の御輿をか
ざり奉り、むねとの大衆三百餘人、御輿をささげ奉
りて上洛す、富時の天台座主は明雲僧正にておはし
ます、此事聞たまひて、専当法師、宮仕法師二人を
とて、当時は院の御熊野詣也、上洛せられたりとも、
御裁許有るべからず、とくとく是より帰られて、御
悦の時、上洛せらるべき由被r仰けれども、白山大衆
猶聞かず、明雲僧正此事を聞給ひて、門跡の大衆四
十餘人差下して、早松の御輿をば奪取り、かねがさ
きの観音堂に休め奉り、白山の大衆を追返す、衆徒
等よりあひて歎けるは、我等此訴訟叶はずは、長く
しやうどへ帰らじと誓たるに、いつしか敦賀の津よ
り帰らん事こそ口惜けれ、いかがすべき、我等生土
へかへるべからずと一同に神水仏水を飲つ、おして
上るべしとて、八月五日宇河を立て、勧成寺に着き
給ふ、御供の大衆すでに一千餘人なり、勧成寺より
同じき六日、仏が原、金剣宮へ入らせ給ふ、爰に一両
日逗留す、同九日留守所より牒状あり、使者には橘n
次郎大夫則次、但田次郎大夫忠利等也、
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留守所、牒(二)白山中宮衆徒(一) 衙
欲3早停(二)止衆徒参洛(一)事
牒、奉(レ)捧(二)神輿(一)、衆徒企(二)参洛(一)、令(レ)致(二)訴訟(一)事之
趣、非(レ)無(二)不審(一)、因(レ)茲差(二)遺在庁忠利(一)、尋(二)申仔
細(一)之処、為(二)石井法橋訴申(一)令(二)参洛(一)之由、有(二)返
答(一)云々、此[B ノ]条理豈不(レ)可(レ)然、争依(二)小事(一)、可(レ)奉(レ)動(二)
大神(一)哉、若為(二)国之沙汰(一)、可(レ)為(レ)裁(二)許訴訟(一)歟、者
賜(二)其解状(一)可(二)申上(一)也、乞哉察(レ)状、以牒、
安元三年二月九日 散位財部朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣
目代源朝臣
とぞ書たりける、依(レ)之衆徒返牒在(レ)状云、
白山中宮大衆政所返牒 留守所
来牒一紙被(レ)載(二)送神輿御上洛(一)事
牒、今月九日牒、同日到来、依(レ)状案(二)仔細(一)、在(二)神明
和合(一)、而黙(二)定吉日(一)進(二)発旅路(一)次、以(二)人力(一)不(レ)可(二)
成敗(一)之、冥罰豈不(レ)恐(レ)之哉、仍以後日任(二)牒返之
状(一)仔細[B ノ]状如件、
安元三年二月九日 大衆等
同十日仏原を出て、椎津へ着せ給ふ、同日又留守所
より使二人あり、税所大夫成貞、橘次郎大夫則次等、
野代山に大衆の後陣に追付たり、則、件の使者落馬
して又馬の足折れたり、是を見て衆徒弥々神力を取、
同十一日に二人の使、椎津に到来す、あへて返牒な
し、ことばを以て使者神輿を留め奉るといへ共、こ
と共せず上洛す、明雲僧正重ねて奉(レ)留、神輿守護衆
徒状云、
謹請 延暦寺御寺牒
欲(レ)被(二)裁許(一)奉(レ)振(二)上神輿於山上(一)、目代師高罪
科事
右雖(レ)令(レ)言(二)上仔細(一)、于(レ)今不(レ)蒙(二)裁許(一)之間、神輿
入洛之処、抑留之条是一山之大訴也、倩案(二)事之情(一)、
白山者雖(レ)有(二)敷地(一)、是併三千之聖供也、雖(レ)有(二)免
P050**
田(一)、当任有名無実也、然者仏神事、断絶顕然也、
仍当年八講、三十講、同以断絶、我山者大悲権現
和光同塵之素意候、近来参向拝社之族、又以断絶、
当(二)此時(一)而深歎切也、然者奉(レ)振(二)神輿(一)、所(レ)啓(二)参
向(一)也、永忌(二)向後之栄(一)、五尺之洪鐘徒響、黄昏之
勤誰明、冥道之徳、在(二)于人倫(一)迷癡之用深也、蓋
全元(二)現将来吉凶(一)哉、権現御示現有(レ)之、然則不(レ)被
(レ)拘(二)制法(一)、既令(レ)附(二)敦賀[B ノ]津(一)、任御寺牒(一)之状、止(二)
神輿[B ノ]上洛之儀(一)、可(レ)侍(二)御裁報(一)之状如(レ)件、
安元三年二月廿日 衆徒等
とぞ書たりける、同廿一日せん当此状を取て帰り上
ぬるうへは、裁報を相待所に、遅々の間、衆徒等潜
に神輿をぬすみ出し奉りてとらばやと伺ふ所に、御
輿守護の者共は、専当法師、宮仕法師等也、是を呼
び寄て、白き小袖を一つづつとらせて、酒をしひふ
せたり、宮仕、専富しひられて、前後も知らで酔伏
せり、其間に早松の御こしをぬすみ取、東路にかか
りて、丹生の御輿を柳井が瀬を通り、近江国河内の
濱にぞ着にける、それより小船に御輿をかきのせ奉
りて、東坂本へ押渡らんとする処に、辰巳の風荒くし
て、小松が濱にぞ吹付たる、白山の大衆手づから御
輿捧げ奉りて、十ぜんじの御前にかきすへ奉る、山
門の大衆等せん議しけるは、末社の神おろかならず、
本社の権現のごとし、まつじの僧徒いやしからず、
本山の大衆と同じ、目代ほどのものに一院を燒れて、
いかでかさて有べき、尤山門の大訴たるべし、但当
時は院の御熊野詣也、御悦を相待参らせんとて、白
山権現をば日吉には客人の社といはひ参らせたり、
早松の御輿を客人の社に休め奉りて、院の御熊野詣
の御悦を相待参らせけり、去程に院すでに御下向有、
山門の大衆等、白山の訴状を受取て、末寺の僧徒等
が申状かくのごとし、真実この事もだしがたく候や、
国司師高を流罪に行はれ、目代もろつねをきんごく
せらるべきよし奏聞せしを、裁許おそかりければ、
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太政大臣以下、さも可(レ)然公卿たちは、哀とくとく御
裁許可(レ)有ものを、山門の訴訟は昔より他に異なる
事也、大蔵卿為房、太宰の帥季仲は朝家の重臣なり
しかども、大衆の訴訟によりて流罪せられにき、師
高などがことは物の數ならず、仔細にや及ぶべきと、
内々は申されけれども、言葉に顕はして奏聞の人な
し、大臣は禄を重んじてものいはず、小臣は罪を恐
れて諌めずと云事なれば、各口をとぢておはしけ
り、其時の見任の公卿に兼実、師長をはじめとして、
貞房隆季に至るまで、身を忘れて君を諌め奉り、力
を盡して国を全ふすべき人々にておはせし上に、武
威をかがやかして、天下をしづめし入道の子息、重
盛などの夙夜のきんらうをつみてこそおはせしに、
かれといひ是と云、師高一人にはばかりて、言葉に
はかたぶけ申されけれども、いさめ申さざりければ、
君に仕ふまつるに、私法然るべきや、前車のくつが
へるをたすけずば、後車のめぐる事を頼んやとこそ
蕭何をば太宗は仰られけれ、君もくらく、臣も諂ふ
べき人々にやおはせし、いかにいはんや、君臣の国
を乱らんに於てをや、又権勢の政事のたがはんに於
てをや、鴨河の水、双六のさい、山法師是ぞ我心に
叶はぬものと、白河院も仰ありけると申伝へたり、
鳥羽院の御時、平泉寺を以ておんじやう寺に附らる
べき由、其聞えあり、依(レ)之山門の衆徒たちまちに騒
動して奏状す、其状に云、
延暦寺衆徒等解申請(二)院庁裁(一)事
請曲垂(二)恩恤(一)任(二)応徳寺牒(一)、以(二)白山平泉寺(一)永
為(二)当山末寺(一)状
右謹検(二)案内(一)、去応徳元年白山僧徒等、以(二)彼平泉
寺(一)寄(二)附当山末寺(一)已畢、于時座主良真任(二)寄文旨(一)、
成(二)寺牒(一)附(二)彼山(一)畢、自(レ)爾以降依(レ)無(二)住僧之訴
訟(一)、不(レ)及(二)衆徒之沙汰(一)、然間去春彼山之住僧等、
来訴(二)于当山(一)、是延暦寺之末寺也、応徳寺[B ノ]牒尤足(二)
證験(一)、爰薗城寺之覚宗、任(二)彼別当職(一)、非法濫行遂
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(レ)日倍増、積愁為(レ)枕之間、以(二)当山(一)、欲(レ)為(二)薗城
寺之末寺(一)云々、此条当山自(レ)本非(レ)無(二)本山(一)、就(レ)中
日吉客人宮者白山権現也、垂跡猶測(二)彼神慮(一)、定有(二)
其故(一)歟、叡慮忽変、非(二)君之不明(一)、非(二)臣之不直(一)、
我山[B ノ]仏法将以欲(レ)令(二)滅逃(一)也、泣而有(レ)余、仰(二)蒼天(一)
而揮(レ)涙而何為丘中丹銷(レ)魂、衆徒若忽(二)諸朝威(一)者、
懷愁不(レ)可(レ)止、一山之騒動裁報(レ)之、何無(二)〓迹(一)、望
請(二)庁裁(一)、曲垂(二)恩恤(一)以(二)白山平泉寺(一)如(レ)旧可(レ)為(二)
天台末寺(一)之由、被(二)裁許(一)者、将(レ)慰(二)浄行(一)三千之愁
吟、弥祈(二)仙院数百之遐齢(一)、仍勒(レ)状謹解、
久安三年四月 日
とぞ書たりける、此申状に依て下さるる院宣云、
集(二)官軍(一)可(レ)決(二)雌雄(一)之由、謳(二)歌山上(一)風(二)聞洛中(一)、
此事非(二)叡慮(一)之間、武士解(レ)郡、被(レ)返(二)本国(一)畢如(二)
衆徒[B ノ]申(一)者、仰(二)上裁(一)之間、六時不断之行法不(二)退
転(一)之条、非(レ)無(二)叡感(一)、然者於(二)白山平泉寺(一)者、被
(レ)付(二)山門(一)畢、此条依(レ)不(レ)浅(二)当山御帰依(一)、以(レ)非
為(レ)理、所(レ)被(二)宣下(一)也、但含(二)一山之咲(一)、招(二)諸寺之
嘲(一)歟、於(二)自今以後(一)者、可(レ)停(二)止非義之濫妨(一)之
由、可(レ)被(レ)觸(二)仰衆徒(一)之旨所(レ)候也、仍執啓如(レ)件
久安三年四月八日 民部卿顕頼
天台座主御房
昔江[B ノ]中納言匡房とて和漢の才人の申されける様は、
神輿を陣頭にふりくだし奉て訴申さん時は、君はい
かが叶はせ給ふべきと申されたりけるに、げにもだ
しがたきことなりとぞ仰せられける、去嘉応元年甲
戌、美濃守源の義綱朝臣、当国の新立の庄をたふす
間、山門久住者円応をせつがいす、此事訴申さんと
て、大衆参洛すべき由聞えければ、武士を河原へ差
遣して防がれしほどに、日吉[B ノ]社のしやし、延暦寺の
寺くわん三十余人許、申文を捧げて、押破りて陣頭
へさんじけるを、後二条関白殿、中づかさの丞源の
頼治におほせて防がる、猶内裏へ押入らんとする間、
よりはるが郎等八騎是をいる、矢に当るもの八人、
P053
死ぬる者二人、社司、所司四方へ迯げ失せぬ、もん
との僧綱仔細を奏聞のために下らくせんとしけれ
ども、武士を西坂元へ差遺して入られず、大衆日吉
の神輿を中堂に振上奉て、関白殿を呪咀し奉る、い
まだ昔より此の如きのことなし、神輿を動し奉る事
是が始とぞ承はる、匡房の卿申されけるは、あはれ
亡国の基かな、宇治殿の御時、大衆の張本とて頼寿、
良円等ながさるべきにて有しだにも、山王の御たく
せんいさぎよかりしかば、則罪名を宥められて、さ
まざまの御おこたり申させ給ひしぞかし、されば、
此事いかが有んずらんと歎申されけり、三千人の衆
徒等は八王子へ参りてしんどくの大般若を読誦し奉
て、申あげの導師には中胤僧都也、その頃の説法は
表白に秀句を以て先とす、かね打ならして、大音聲
をあげて申されけるは、我等がけしの竹馬よりおふ
したてられ奉る七の社の御神たち、さをじかの耳ふ
り立て聞給へ、後二条関白殿へ鳴矢一[B ツ]放たせ給へ、
さらずば三千人の衆徒等に於ては長く住山の思ひを
たち、離山の思ひにぢうして、八王子権現二度拝し
参らせんこと有がたしと申、権現御納受渡らせ給
へと申上を聞て、三千人の大衆一同にそとぞ喚きた
る、其頃或人八王子の社に詣て通夜をしたりける夜
の夢にみたりけるは、御殿の内よりけだかき御聲に
て、兵主々々とぞ召れければ、近江国夜須郡におは
します兵主の大明神おはしまして参りて候と申させ
給ひければ、神のおんてきかうぶくせよと仰られけ
れば、承り候ぬとて、白箆にうすやうづくりに作り
たるかぶら矢を重籐の弓に打くはせて、西へ射給ひ
ければ、其かぶら矢夥く京中をなり廻りて、二条の
御所のもやの御みすのへりに立と見て、夢打驚き覚
てうつつに聞ければ、御殿の上のほどよりかぶら矢
の聲出て、ひえの大たけをこえて、西を差て行ぬ、
不思議のこと也と思ひける程に、其あした二条殿の
かうしの役しける侍の見ければ、もやの御みすのも
P054
かうにしきみの葉[B 枝イ]一たちたりけり、それより関白殿
は山王の御とがめとて、左の御かほ先に御かぶれ出
て、頓ておもらせ給ひしかば、御兄にて天台貫主仁
源理智房のざすと申し人は、大峯などにのぼりて世
に聞えある有験の人にておはしければ、随分に祈申
されけれども、其験もなかりければ、大殿の北の政
所、せめての御歎の余りにや、御すがたをやつさせ
給ひ、忍びて十禅師の御前に七ヶ日御参籠有て、関
白もろみちの御病をやめて、命ばかりをたすけさせ
給へとぞ祈申させ給ひける、もろみち今度寿命助け
させ給たらば、一には東坂本より西坂本へ、廻廊を
建て、山僧らが三山の参詣の時、霜雪雨露を凌がんが
ため也、一には八王子の御前より十ぜんじの御前迄
廻廊を造て、大衆以下の参り下向の輩に風雨を凌ん
と也、一には三千人の衆徒に毎年の冬に小袖一づつ
着せ参らせ候べし、一には我一期の間、郡の住居を捨
て、宮籠りと相交はりて、宮仕へ申候べし、一には長
日の法花八講たいてんなく修行候べし、一には廊の
御かぐら退転なく、又七社権現に御百度四季にこれ
を勤ずべく候、一には大とうろうをかかげ候べし、一
にはもろみち五人のむすめあり、王城一の美女也、
是を以て田楽をせさせて、七社の権現にみせ奉んと
なり、なくなく立願ありけり、此御立願は御心中に
こそ思召けれ、人是を不(レ)知、然るを山王権現あした
にあらはさせ給ひける事こそおそろしく、身の毛も
立ちて覚えけれ、折節其頃出羽の国羽黒より、月山
の三吉と申ける童御子一人上りて、御社に参籠した
りけるが、俄に御前の庭にをどり出て、一時ばかり
舞をどり庭に倒れふして絶入したりければ、かきい
だせとて、門より外へいだしすてられけり、二時ば
かり有て、生出て十ぜんじの御前に、参りて、舞を
どる事おびただし、参詣の諸人、こはいかにと是を
みる、しばらくありて大息をつきて汗を押拭ひて申
けるは、我円宗教法をまぼらんがために、遙に実報
P055
花王の土を捨て、穢悪じうまんの塵にまじはり、十
地円満の光を和げて、この山の麓に年久し、鬼門の
凶害を防がんとては、嵐はげしき峰にて日をくらし、
皇帝の宝祚を守んが為には、雪ふかき谷にて夜を明
す、抑ぼん夫はしれりや否や、前関白師実の北のま
ん所、子息師通が所労のこと祈り申さんがために、
此七ヶ日我前に参籠して、肝腑をくだき、紅涙を流
して、せめてのことにや、心中に種々の立願あり、
第一の願には八王寺の社より此砌まで廻廊を立て、
衆徒の参社の時、雨露の難をふせぐべしとなり、此
願誠に有がたし、されども我山の山僧等三の山の参
籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行心のせつをあ
はれふ、同じく又八王子の八町坂の廻廊、是誠に殊勝
の事に思ふらん、され共一切衆生迷ひ多く、さとり
すくなし、されば皆悪道に落つべし、是をあはれみ
て、和光同塵のけちえんとして、此ふもとに所をしめ
て、我にちかづかんものをばあはれまんと也、されば
廻廊の願はうけ思召すべからず、次に五人の娘、王城
一の美女を以て、田楽の事誠に此願の事、申に付て哀
也、せめての思の余りと覚えたり、尤可(レ)然といへど
も、摂政関白の御娘達に、いかが左様の役をばせさせ
奉るべき、十方旦那多ければ、此願とりどりに多し、
さればうけ思召すべからず、次に大殿の北の政所、
我下殿に参籠して、きね[B 「きね」に「禰宜イ」と傍書]に交らんとの願、此事又同
じくいとをしく思ひ奉る、さはあれども大殿の北の
政所程の人を、争でかそれに同座せさせ奉るべき、
此事逆事也、一々の願の中に、八王子八講に於ては、
仏事なれば我受思召す、今生に於ては叶ふまじ、後
生をばたすけ奉らん、疑ひ思召べからず、誠に親子
の眤び、恩愛の契りなれば、さこそかなしく思ひ給
ふらめ、但しもろみちに武士に仰て、我を馬のひづ
めにけさせ、衆徒多く疵を蒙り、宮仕、せんたう、射
殺されぬ、三千の衆徒なくなく本山へかへりのぼり
て、をめきさけんでせんぎする音、天をひびかし、
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地を動かす、則衆徒の愁に非ず、しかしながら我な
げき也、武士どもが射たる矢めといふは、則我身に
当る[B 「当る」に「ありイ」と傍書]、諸人是を見よとて、みこかたぬぎたれば、左の
脇の下に大なるかはらけの口計、かけ破れて血流れ
たり、見る人身の毛だちて恐しなどは云ばかりなし、
是はいかに、我ひがごとか、祈るとも叶ふまじ、定
業かぎり有、我力及ばずとて、山王上らせ給ひにけ
り、是を聞せ給ひけん北の政所の御心の中、いかば
かりなりけん、誠に、御身の毛立ち、御涙にくれてなく
なく御下向あり、いつ習はせ給ひたる御あゆみなら
ねども、御子のかなしさに人目をもつつませ給はず
御下向あり、御心ざしのほどこそ哀なれ、されば仏
も父母の恩深き事、大海のごとしとぞ仰られける、
神罰かぎりある事なれば、いのるいのりもかなはせ
給はず、色々の御願も御納受なし、関白殿のさいご
の御詞には、あなむつかしのさるのおほさよおほさよ
とばかり仰られて、去承徳元年六月二十六日に大殿
にさきだたせ給て、つゐにうせさせ給ひにけり、御
年三十八、御心のたけくことわりゆゆしき人にてわ
たらせ給ひけれども、まめやかに事の急になりにけ
れば、御命をぞをしませ給ひける、まことにをしか
るべき御命なり、四十にだにいまだたらせ給はず、
おやにさきだたせ給ふもくちをし、時に取てあさま
しかりし御事也、此御やまひかん病し奉る人、御う
しろに候人も、御前に候人も、立ゑぼしきたるが、
見えぬ程の事にて、高く大きに腫れたりけり、入棺
し奉るべき様もなかりけり、大殿是を御らんじて、
御涙にむせばせ給ひつつ、御いかけめして、かすが
の大明神の御方をふしをがませ給ひて、申させ給ひ
ける事こそあはれなれ、たとひ山王大師の御とがめ
にて、もろみち世をはやうし候とも、かかるありさ
まにて、恥を隠すべき様も候はず、定業かぎりある
命を申さばこそ、難き事をも申とも思召され候はめ、
此おびたたしきすがたを、もとの形になして給はり
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候へ、けうやう仕候はんと申させ給ひたりければ、
御納受有ければにや、忽ちに御腹の腫しえさせ給ひ
て、入棺事終りにけり、其御願の中に、長日[B ノ]八講の
こと、関白殿かくれさせ給ひぬる上は、はたすに及
ばず、八王子の御憤り深くして、後二条関白殿を八
王子の後ろの御子の、大ばんじやくの下に籠てせめ
奉り給ふ、雨ふり風吹さゆる夜半ごとに、ばんじや
く重く成てくるしみたへがたき間、聲を上げてをめ
き給ふ、目には見えず、聲ばかりする間、上下諸人
おそれをののく処に、宮籠りに附きてたくせんせら
られけるは、我は二条関白師通といふ者なり、山王
の御憤り深くして、此ばんじやくの下に籠られけり、
此くるしみいかがせんとて、左右の袖をおもてに当
てなき給ふ、宮仕是を聞て大殿へ此よしを申す、誠
しからず、実否を見て参れとて、侍一人差遣す、誠
に夥しくをめく聲はすれども、一定の関白殿とも知
まいらせず、疑ひをなす処に、御子わらはにうつり
て、いかに汝は我をばしれりや否や、二条関白師通
といふ者なり、山王の御憤り深くして、いまだ中有
迄も行ずして、此大ばんじやくの下に籠られ奉る、
其故は大殿の北の政所、師通が為に御願だてさせた
まふ中に、八王子の法華八講は受思召して、後生ぼ
だいを助けんと、御りやうじやう有しを、もろみち
死したればとて、勤められざるに依て、此大ばんじ
やくの下に籠めらるる、ばんじやくのおす事たとへ
ん方なくたへがたし、神に祈り仏に誓ふとも、助る事
有べからず、件の八講を勉めて、此苦を逃れしめば、
草の陰にも立そひて、くらき所にはともし火ともな
り、あしからん道には橋とも成らんずるぞと申、親
に先立奉る我身の果報の拙なさ云ばかりなし、急ぎ
帰りて此由を申せと計にて、雨しづくと泣き給ふ、侍
も只今見奉る心地して、左右の袖をしぼりあへず、
泣く泣くはせかへりて、此由を申せば、大殿仰せられ
けるは、一期のほどををはらず、命を召れぬる上は、
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是ほど又深き御勘当こそ口惜けれ、春日の大明神は
渡らせ給はぬにこそ、同じ氏子と申ながら、関白に昇
るほどの者をすてさせおはしまして、是程末迄物な
くせめさせ給ふ事、生々世々口惜く候と、くどき立
て泣き給ひけれども、かひなき事にてぞ有ける、さ
て八講つとめよとて、日別に供料をあげて、八講を
つとめさす、七日と申けるに、関白殿大ばんじやく
の下をのがれさせ給ひて、紫雲にのり西をさしてお
はするとて、大殿の御所の上にて、大きなる聲を以て
宣ひけるは、恐れても恐るべきは七社権現の御風情、
頼ても頼むべきは八王子権現の本地、千手千眼の御
ちかひなり、我法華八講の功徳に依りて、只今極楽
浄土へ参り候、御心安く思召候へ、とほき守りとな
り参らすべしと告げしめし給へば、大殿庭上に走出
させ給ひて西へ行、紫雲に御手を合せて、我をも同
じく具しておはせよやとて、人目をも憚らず御聲を
上げてをめきさけび給へどかひなし、其後彼の八講
の為に、御家領紀伊国田中の庄をぞ寄られける、老
少不定也、必親に先立まじといふことはなけれども、
生死のおきてに随ふ習ひ、まんとく円満の世尊、十
地究竟の大士も、力及ばざることなれば、慈悲具足
の山王なさけなく、降伏し給ふべしやなれども、和光
利もつの方便なれば、折節とがめさせ給ふ、されば
むかしも今も山門の訴訟は、恐しきこととぞ申し伝
へたる、
安元二年六月十二日、高松の女院かくれさせ給ひぬ、
御年三十三、是は鳥羽院第六の姫宮、二条院の后に
ておはしましき、永寿元年に御年廿二にて御出家あ
りき、大かたの御心様わりなき人にて、人をしみ奉
る事かぎりなし、
同年七月八日建春門院かくれさせ給ひぬ、御年卅五、
是は贈左大臣時のぶの御娘也、法皇の女御、当帝高
倉院の御母儀也、先年に不例の御願をはたさんとて、
御歩行にて御熊野詣有けり、四十日に本宮に参り着
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せ給ひて、権現法楽のために、胡飲酒と云舞をまは
せておはしましけるに、俄に大雨ふりけれども舞を
とどめず、ぬれぬれ舞けり、せんじを返す舞なれば、
権現もめでさせ給ひけるにや、去春の頃より御身の
中くるしく、世の中あじきなく思召けるが、去る十
日院號を御じたいあり、今日の朝に御出家ありて、
夕に無常の道に赴かせ給ふ、院中の御歎き申も愚な
り、天下諒闇のせんじを下さる、かかりければ御孝
養の為に、殺生きんだんを行はれけり、其頃折節伯
耆の僧都玄尊、近江の国大鹿の庄を召されて歎ける
に、院御歎やうやく期過て、人々に御目ざまし申さ
れける時、げんそんつい立て、殺生きんだんとはい
へども殺生きんだんとはいへどもと三度申て、院の御前近く参りて、大鹿
はとられぬと申て走り入ぬ、院ゑつぼに入せ給ひて、
彼大鹿を返給てけり、同廿七日六条院崩御、御年十
三、故二条院の御嫡子ぞかし、御年五歳にて、太上
天皇の尊號有しかども、いまだ御元服なくて、崩御
なりぬるこそ哀なれ、
治承元年丁酉四月十日は日吉の御祭りにて有べかり
けるを、大衆打とどめて、十三日辰の時に、衆徒日吉
七社の御輿をかざり奉り、中堂へ振上奉りて、八王
子、客人、十ぜんじ等の三社の御輿を陣頭へふり下
し奉て、師高を流罪せらるべきよしを訴へ申さんと
て、西坂本、さがり松、きれつつみ、賀茂河原、糺の
とうほく院、法城寺辺に神人、宮仕充満して、聲を
上てさけぶ、京中白川の貴賤来集りて是を拝み奉る、
是につづきて、ぎおん、北野二社、都合十一社の御
輿を陣頭へふりくだし奉る、その時の皇居は、里内
裏閑院殿にてありけるに、白玉、金鏡、緑羅、紅絹
をかざり奉る、神輿朝日の光りにかがやきて、日月
の地に落給ふかとあやまつ、一条を西へ入せ給ひけ
るが、十ぜんじの御輿既に、二条、烏丸、室町辺に近
付せたまひければ、源平の兵四方の陣をかためたり、
其時平氏の大将軍には小松の内大臣重盛公、俄の事
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なりければ、直衣に矢負てこがね作りの太刀帯て、
連銭葦毛の馬のふとくたくましきに、黄ぶくりんの
鞍置きてのり、伊賀、伊勢両国の若党ども、三千余
騎相具して、東おもての左衛門のぢんをかためたり、
源兵庫頭頼政は、顕紋紗の狩衣に上ぐくりて、ひを
どしの鎧に切生の征矢に、重籐の弓の真中とり、二
尺九寸のいかもの作の太刀、かもめじりにはきなし、
鹿毛なる馬に白ぶくりんの鞍置きて乗たりけり、連
の源太、授、省、競、唱とて一人当千のはやりをの
若党、三百余人相具して、北のぢんの唐もんをぞかた
めける、神輿彼もんより入らせ給ふべきよし聞えけ
れば、頼政さる古兵にて、神輿を敬屈し奉る由を見
せんとて、馬より飛おりて甲をぬぐ、大将軍かくす
れば、家の子郎等以下三百余人皆かぶとを脱、大衆
是を見て、様有らんとて暫く御輿をゆらへ奉る、頼
政は郎等渡部の丁七唱を召て、大衆の中へ使者をた
つ、唱は生年三十四、長七尺計成男の白く清げなる
が、褐衣の鎧直垂に、黒皮をどしの大荒目の鎧のか
なもの打たるに、豹の皮のしりざやの太刀をはきて、
黒つ羽のそやの角はず入たる廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、ぬりごめ籐の弓の握り太なるに、
大長刀取添たり、鹿毛の馬の太くたくましきに、黒
鞍置てぞ乗たりける、御輿既に近付せ給へば、馬よ
り飛で下り、かぶとを左のうでにかけて、弓取直し
て、御輿の前にひざまづきて申けるは、北おもての
唐門をば源兵庫の頭頼政かためられて候、大衆の中
へ申せと候、昔は源平両家左右のつばさのごとくに
て、少しも勝劣候はざりしが、源氏に於ては保元、
平治より皆絶はてて、大りやくなきがごとし、雁股
をさかさまにはむる身にて候へども、六孫王のすゑ
とては、頼政一人こそ候へ、山王の御輿陣頭へ入べ
き由、其聞え候間、公家ことに噪ぎ驚ましまして、
源平の官兵四方の陣をかたむべき由、宣旨を蒙り候
に依て、王土にはらまれながら、勅命をたいかんせ
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んも其恐れ有に依て、なまじひに此門をかためて候、
この度山門の御訴訟利運の条勿論に候、御聖断の遅
遅こそよそ迄もゐこんに候へ、其上頼政はいわう山
王にかうべをかたむけて年久しく候、わざ共此門よ
り入参らすべく候へども、神威を恐れ奉て、御輿を
入れ参らせ候はんは、綸言をかろくする科あり、綸
言をおもんじて神輿を防ぎ奉らば、冥の照覧はかり
難し、しんたい是れきはまれり、かつうは又小松内
大臣以下の官兵、大勢にて固めて候門々をばえやぶ
らせ給はで、わづかの小勢の所を御覧じて入らせ給
ひぬるものならば、山の大衆はめだりいんぢをしけ
りなどと、京わらんべの口のさがなさは申候はん事
も、山の御名折にてや候はんずらん、かつはことに天
聴をも驚かし奉らんと思召され候はば、わざとも東
西の多勢の門を打やぶらせ給ひて入せ給ひ候はば、
弥山王の御威光も目出度ましまし、衆徒の御訴訟も
成就しましまさんこと、今一気味にて候ぬべければ、
御輿をば左衛門陣へ廻し参せらるべくや候らん、所
詮かく申候はん上を、押破らせ給へ候はば力及候は
ず、後代の名が惜く候へば自今以後に於ては、六孫
王より伝へて候弓矢の手をこそ放ち候はんずらめ、
命を山王大師に奉り、骸をば御輿の前にて曝すべし
と申せと候、御使は渡辺丁七唱と申者にて候とて、
射向の袖を引納て畏て候ければ、大衆是を聞、何条
別の仔細にや及ぶべき、只打破れと云者もあり、其
中に西塔法師摂津竪者高運と申けるは、三塔一の言
口、大悪僧也けるが、萌黄糸縅の腹巻、衣の下に着
て、太刀脇に挟て進み出て申けるは、此頼政は年頃
地下にのみ有し事を歎きて、
いつとなく大内山の山もりは
木かくれてのみ月を見る哉 W021
とよみて、昇進ゆりたりしやさ男ござんなれ、また
四十計なる大衆の素絹の衣に頭つつみたるが、しは
がれたる大の聲にて申けるは、今頼政が条々申立る
P062
所、其いはれなきに非ず、神輿を先に立て奉て、衆
徒訴訟をいだしながら、善悪大手を打破つてこそ後
代の名もいみじからめ、さすが頼政は六孫王より以
後、弓矢のげいにのぞんで、いまだ其ふかくを聞き
及ばず、武芸においては当家の職なれば如何はせん、
風月のたつしや、和歌の才人にて世に聞えある名人
ぞかし、一年近衛院御時、鳥羽殿にて当座の御会に、
深山の花と云題を簾中より出されたりけるに、左中
将有房など聞えし歌人共も読わづらひたりしに、頼
政召されて、頓て仕りたりける、
深山木の其梢ともみえさりし
桜は花にあらはれにけり W022 K012
と云名歌を読だりしかば、天感有、満座興を催して、
勅禄に預て名を上たりしものぞかし、又同院の御時、
嵯峨野へ御行の有しに、道にてかるかやと云題給て、
遠山をまもりにきたる今夜しも
そよそよめくは人のかるかや W023 K257
うちつづき御方の北の対にて、ひだりまきの藤鞭、
きりびをけ、よりまさと云題を給て、
水ひたりまきのふちふちおちたぎり
ひをけさいかによりまさるらん W024 K258
とよみて勅感にあづかりけるものぞかし、それのみ
ならず、弓矢に取てこそぶさうのものなれ、鳥羽院
の御時、ぬえと申化鳥が、竹の御つぼに鳴事度かさな
りければ、天聴を驚かし奉る、公卿せん議有て、武
士に仰て射べきに定りて、頼政を召て仕れと仰下さ
る、昔より内裏を守護して奉公しける間、辞し申に
及ばず、かしこまて承候ぬとて、仕るべきに成ぬ、
頼政思ひけるは、けさ八幡へ参りたりつるが、さい
ごにてありけり、是を射はづしつるものならば、弓
と本取とは唯今切捨んずるものをとて、八幡大菩薩
源氏をすてさせ給はずば、弓矢にたちかけりまぼら
せ給へときせいして、しげ籐の弓にかぶら矢二筋と
りぐして、竹のつぼへまいる、見物の上下諸人目も
P063
あへず見るほどに、夜更人静まりてのち、例の怪鳥
二聲ばかりおとづれて、雲井はるかに飛上る、頼政
おししづめて、一の矢に大き成かぶらを打くはせて、
よぴきて暫しかためて、ひやうといたり、大鳴りし
て雲の上へ上りければ、化鳥かぶらの音に驚きて、
上へは上らず、しもへちがひて飛さがる、頼政是を
見て、二の矢にこかぶらを取てつがひ、こびきにひ
きてさし当[B あげてイ]、ひやうと射たり、ひふつと真中を射切
ておとしたり、手元にこたへて覚ければ、えたりお
ふと矢さけびする、太上天皇御感の余りに、御衣を
一重かつげさせおはしますとて、御前のきざはしを
なからばかりおり給ふ、頃は五月の二十日余りの事
なるに、左大臣しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
と連歌をしかけられたりければ、三階に右のひざを
つきて、左の袖をひろげて御衣を給とて、頼政好む
口なれば、
たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
とぞつけたりける、左大臣是を聞し召して、余りの
おもしろさに立帰らせ給はず、しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
と押返し押返し詠じ給ひたりけり、昔の養由は雲の外
に雁を聞て、夜聲を射る、今の頼政は雨の中にぬえ
を得たりとぞほめたりける、是はいかに、弓矢取て
もならびなし、歌道の方にもやさしをのこの、山王
にかうべをかたぶけ参らせたる者の、固めたる門よ
り、なさけなくやぶりて入参らせて、いかでか辱降
をばから[B かイ]すべき、色なしや色なしやとののしりければ、
数輩の大衆尤も尤もとぞ同じける、やがて神輿をす
すめ奉て、内大臣重盛のかためられける左衛門のぢ
んへぞ入ける、閑院殿へ神輿を振り奉ること是はじ
め也、内大臣の軍兵我劣らじと、馬のくつばみを並
べて防ぎけれども、大衆神輿を先として押入らんと
P064
する間、心より外の狼藉出来て、武士矢を放つ、矢
十ぜんじの御輿にたつ、神人一人、宮仕一人、矢に
あたりて死ぬ、其外疵を被る者多し、神輿に矢立ち、
神人、宮仕射殺されける上は、衆徒声をあげてをめ
きさけぶ、梵天までも及ぶらんと夥しき、是れを聞
く貴賤上下、悉く身の毛よだつ、大衆神輿を陣頭に
捨置奉りて、ほう[B 「ほう」に「なくイ」と傍書]ほう本山へかへり登りにけり、
抑かの高運訴訟ありて、後白河法皇に参りたりける
に、折節南殿に出御あり、ある殿上人を以て、何者ぞ
と御尋有けるに、山僧摂津の竪者高運と申者にて候
と奏す、扨は山門に聞ゆる僉議者ござんなれ、おの
れが山門の講堂の庭にてせんぎすらん様に、只今申
せ、そせうあらば直に聖断有るべきよし仰下さる、
高運かうべを地に付て、山門の申候はことなる事に
て候、先王舞を舞候には面摸の下にて、はなをにが
む事にて候なる、定に三塔のせんぎと申候は、大か
う堂の庭に三千人の衆徒会合仕て、やぶれたる袈裟
にてかしらをつつみて、入堂杖とて二三尺計候杖を
めんめんにつきて、みちしばの露打拂ひ、ちいさき
石を一つづつ持て、其石に尻をかけて居並びて候へ
ば、どうしゆくなども得しらぬ様にて候、満山の大
衆たちめぐられ候へやと申て、そせうの趣をせんぎ
仕候に、然るべきをばどうずとこたへ候、然るべか
らざるをばいはれなきとは、我山の定れる法にて候、
勅定にて候へば迚、ひた面にてはいかでかせんぎ仕
候べきと申たりければ、法皇奥に入せおはしまして、
とくとくさらば、汝が山門にてせんぎすらん様に、
いでたちて参りて、せんぎ仕れと仰せ下さる、高運
勅定を蒙りて、同宿十余人にかしら裏ませて、下部
の者どもはひたたれ、小袖などをもて頭裏みたりけ
る、以上二三十人ばかり引具して、御所の雨うちの
石にしりかけて、各居並びて、高運おのれがそせ
うの趣をはじめよりをはり迄、一時したりければ、
同宿ども兼て議したることなれば、一同に尤々と申
P065
たりければ、法皇興に入せましまして、当座に勅裁
をかうぶりたりし、高運なりとぞ聞えし、神輿の御
事、蔵人左少弁仰を奉て、先例を大外記出羽守もろ
直に尋らる、保安四年癸卯七月、神輿御入洛の時は、
座主に仰て、神輿を赤山の社へ送り奉る、又保延四
年戊午四月、御入洛の時は祇園[B ノ]別当に仰て、神輿
を祇園へ送り奉らるなど勘へ申ければ、殿上にて俄
にせんぎあり、今度は保延の例たるべしとて、神輿
を祇園の社へわたし奉るべきよし、諸卿一同に定め
申されければ、未の刻に及びて、彼社の別当権大僧
都澄憲を召して、神輿をむかへ奉るべき由仰せ下されけ
れば、澄憲申されけるは、此神と申は天下無双の垂
跡延寿鎮護の霊神なり、はくちうに塵灰の中にけた
て奉て、当社へ入奉ること、生々世々口惜かるべし、
王法は是仏法のかごを以て国土を保ち行に非ずや、
されば、昔嵯峨天皇の御時、弘仁九年に諸国飢饉、
疫病おこりて、死人道路にみてり、其時、帝、民を憐
み給ひ、御志ふかくして、諸寺、諸山に仰て、是を
祈らせ給ひけれども、更に其しるしなかりしかば、
帝思召し歎かせ給ひて、叡山の衆徒に仰て、是を祈
らるべきよし仰下さる、三塔の大衆会合して、此事
いかがあるべからん、昔より雨をいのり日をいのり
て、ふらしてらす事はあれども、飢饉、疫病をたち
所にいのる事、未だ承り及ばず、さればとて辞し申
さば、王命を背くに似たり、しんたい是極れりとい
ふ衆徒もあり、又仏法の威げんおろそかならねば、
ききん、疫病なりとも、などか我山の医王山王の御
力にてしりぞけ給はざるべきなれば、法華経を講じ
奉て、きねん有べしとせんぎする大衆もあり、或は
大衆の申けるは、法華経は諸経の王なれども、護国
護王の方法、悪魔たいさんのきせいは、仁王経にし
くは非ず、仁王経を講どくし奉るべきよし申ければ、
尤々と同じて、三千人の衆徒たんせいを出してこん
ぽん中堂、大講堂、文珠楼にて七ヶ日の間に、十四
P066
萬七千余座の仁王経を講読し奉て、供養はいかが有
べきとせんぎす、御経すでに本地医王善逝の御前に
て講じ奉りつ、供養はすゐじやく山王の御宝前にて
遂げらるべきかと有る、大衆申ければ、誠に然かる
べしとて、地主十ぜんじの社だんにて、供養有り、
頃は卯月の半のことにや、飢饉、疫病にせめられて、
おや死ぬる者は其子歎きしづみ、子におくれたる親
は其思ひまだ深かりければ、いがきにのぞむ人もな
し、是を以て導師、説法はてがたに、卯月はすゐじ
やくの月なれども、弊帛捧る人もなし、八日は薬師
の日なれども、南無ととなふる音もせずと申たりけ
れば、衆徒あはれに覚えて、一度にはつとかんじて、
衣の袖をぞぬらしける、扨其夜、帝御夢想のありけ
るは、ひえの山より童子一人京へ下りて、青き鬼と
赤き鬼と有けるを、白拂にてうち拂ければ、鬼神ど
も南をさして飛行ぬと御覧じて、本山のきせいすで
にかん応して、飢饉も疫難も直りぬと思召して、御
夢想の次第を御自筆に遊ばして、御感の綸旨を衆徒
へ下されけるとぞ承る、其後国土立直りて、民のか
まど賑ひて、けぶりたちければ、帝かくぞ詠じさせ
給ひけり、
高き屋にのぼりて見れば烟たつ
民のかまどはにぎはひにけり W026 K013
かかる目出度やんごとなき御神を日中に雑人にまじ
へ奉て、祇園へ入参らせんこと心うかるべしと申て、
日すでに入、くらきほどに成て、当社の神人、宮仕
参りて、三社の御輿を祇園へ入奉る、神輿に立所の
矢をば、神人にてぬかせらる、大衆、山王の御輿を
京へふり下し奉り、陣頭へ参ることは永久元年より
以来、既に六ヶ度也、武士をもて防がせらるる事も
度々也、然れ共まさしく神輿に矢を射立て奉る事、
あさましといふもおろか也、人憤り神怒れば、災害
必おこるとはいへり、唯今天下の大事出来なんとぞ
思ひあひけり、
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十四日に大衆猶下るべき由聞えければ、夜中に主上
腰輿に召して、院[B ノ]御所法住寺殿へ行幸なる、大臣重
盛以下、供奉の人々、非常けいごにて、直衣に矢負
ひて供奉せらる、左少将雅賢は、脇立に平えびら負
ひて供奉せらる、内大臣のずゐひやう御輿の前後に
うちかこみて候、中宮は御車にて行啓あり、禁中の
上下驚き騒ぎ、京中の貴賤走りまどへり、関白以下
大臣、諸卿、殿上の侍臣、皆走せ参る、裁報遅々の
上、神輿に矢たちて、神人、宮仕矢にあたりて死す、
衆徒多く疵を蒙る上は、今は只山門の滅亡此時也と
て、大宮、二宮以下の七社、かう堂以下の諸堂一字
ものこさず焼拂ひて、山野にまじはるべき由、一同
にせんぎすと聞こえければ、山門の上綱を召して、衆
徒の申ところ御成敗有るべき由仰下す、十五日に僧
綱等、勅定を奉て、仔細を衆徒に相觸れんが為に登
山するところに、衆徒猶いかりをなして追返す、僧
綱等色を失ひて迯下る、院より衆徒をなだめんがた
めに、大衆の鬱訴を達すべき由の勅使とて、とうざん
すべき由仰下されけれ共、公卿の中にも殿上人も、我
勅使にたたんと申人なし、皆辞し申されける間、平大
納言時忠其時は中納言右衛門督にておはしけるを、
登山すべき由仰下されければ、時忠卿心中には無益
の事かなと思はれけれども、君の仰背がたき上に、
かつは家のめんぼくなりと存じて、殊にきらめきて
出立給へり、侍十人花を折て、雑色までよろづ清げ
にて登山して、大講堂の庭に立れたりければ、三塔
の大衆蜂のごとくに起り合ひて、院々谷々よりをめ
きさけびて群集する有さま、夥しなどは斜ならず、
時忠卿色を失ひ魂をけしあきれて立たりけるに、衆
徒等時忠卿を見て弥いかりをなして、何の故に時忠
登山すべきぞや、返々奇怪なり、不思議なり、既に
山王大師の御敵なり、すみやかに大衆の前に引出し
て、紗冠を打落して、足手を引はりて、もと取を切
て水海にはめよやと、声々にののしりけるを聞て、
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供なりつる侍も雑色も、いづ地にか行ぬらん、皆う
せぬ、時忠あぶなく思はれけれども、元よりさる人
にて、乱の中の面目とや思はれけん、さわがぬ體に
て宣ひけるは、衆徒の申さるる所尤いはれあり、但
人を損ふもの君の御敵たるべきか、非例を訴へ申さ
るるによて、御裁報遅々すること国家の法なり、さ
れども今御成敗有るべき由仰下さるる上は、なんぞ
衆徒強ちに憤り、いかりをなさるるやとて、懐中より
小硯を取出して、承仕を召して水を入させて、たた
う紙をひろげて、一句を書て大衆の中へなげ出され
たり、
大衆致(二)濫悪(一)魔縁之所行歟、明王加(二)制止(一)善逝之
加護也、
大衆是を見て、各々興に入て、あちとりこちとり見て
かんじあへり、老僧どもは打なきなどして、夥しか
りつる大衆のけいきも少ししづまりければ、其まぎ
れに中納言迯下り給ひけり、其時迯かくれたりつる
侍、雑色、爰かしこの荊蕀の中より出来て、主をも
てなしかしづきて下向す、をこびれてぞみえける、
一紙一句を以て、三塔三千人の愁を休め、洛中山王
の乱を鎮るのみに非ず、虎の口をのがれ、公私の恥
をきよむる、有がたかりけること也、山門に衆徒は発
向のかまびすき計りかとこそ存じつれ、理をも知た
りけるにこそ、いかで御成敗なるべきとぞ申あはれ
ける、扨時忠卿は院の御前へ参られたりければ、扨
も衆徒の所行いかにととりあへず御尋有ければ、大
方ともかくも申に及び候はず、只山王大師助けさせ
給とばかりにて、はふばふ迯下て候、いそぎいそぎ御
裁報有べく候と奏聞せられければ、法皇力及ばせ給
はずして、加賀守師高解官して、尾張国へ流罪のよ
し宣下せらるる状に云、
従五位上加賀守藤原朝臣師高解官追位尾張国、
職事権中納言光能仰(二)上卿別当忠親(一)、々々右少弁藤
原光雅仰、光雅左京大夫小槻隆職仰、官符、参議
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平頼宗卿、少納言藤原維基等参請(二)印官符(一)、又仰云、
検非違使右衛門志中原重成、早可(レ)追(二)遣配所(一)者、
今月十三日、叡山衆徒舁(二)日吉社感神院等神輿(一)、不
(レ)憚(二)勅制(一)、乱(二)入陣中(一)、爰警固輩相(二)禦凶党(一)之間、
其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図何不(レ)行(二)其科(一)、宜仰(二)
検非違使(一)召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、
同光景、田使俊行等(一)給(二)獄所者(二)畢、加賀守師高流
罪、并奉(レ)射(二)神輿(一)官兵六人禁獄事、今日宣下訖、件
間事二通遣(レ)之、以(二)此之旨(一)可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)
之由所(レ)候也、恐々謹言、
四月廿日 権中納言藤原光能
執当法眼御房
追申
禁獄官兵交名山上令(二)不審(一)歟、仍内々委細相尋、
究付交名一通所(レ)披(二)相副(一)也、禁獄人等平利家字平
次、是者薩摩入道家秀孫中務丞家資子、同家兼字
平五、筑前入道家貞孫平内太郎家継子、藤原通久
字加藤太、同成直、早尾十郎右馬允成高、同光景
字新次郎、前右衛門尉忠清子、田使俊行難波五郎
也、
か様にぞ書たりける、
廿四日亥の刻ばかりに樋口、富[B ノ]小路より火出来ける
が、辰巳の風はげしく吹て、京中多く焼にけり、昭
宣公の堀川殿、忠仁公の閑院殿、冬嗣大臣のそめ殿、
よしすけ公の西三条、具平親王の千草殿、高明親王
寛平法皇の亭子院、北野天神の紅梅殿、神泉苑、鴨居殿を
はじめとして、名所廿一ヶ所、公卿の家十七ヶ所焼
にけり、殿上人、諸大夫の家は数を知らず、のちに
は大裏へ吹付けて、朱雀門より始て応天門、会昌門、
大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、真言院まで
焼ほろびにけり、家々の日記、代々の文書、資財、
雑具、七珍萬寶さながら灰塵となりぬ、人の焼死る
事数百人、牛馬犬の類数を知らず、総じて都三分一
は焼にけり、樋口、富[B ノ]小路よりすぢかへにいぬゐの
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方をさして、大裏へしやりんばかりなるほむらとび
行けり、おそろしなどはいふばかりなし、只事に非
ず、ひえい山より猿ども多く松に火を付けて持下り
て焼とぞ、人の夢にはあまた見えける、
大極殿は清和天皇御宇貞觀十八年四月九日、始めて
焼たりければ、次の年正月三日陽成院の御即位は、豊
楽院にてぞ有ける、元慶元年四月九日事はじめあり
て、同三年十月八日つくり出されたりけり、後冷泉
院御宇天喜五年二月廿一日また焼たり、治暦四年八
月二日、事始有て、同じ年十月十日上棟ありけれど
も、作りも出されずして、後冷泉院はかくれさせ給
ひにけり、後三条院御時、延久四年十月五日作り出さ
れて行幸ありて、宴会行はれて、文人詩をたてまつ
り、伶人がくを奏す、今は代末になり、国の力おと
ろへて、又作り出さん事もかたくや有んとぞ歎きあ
へる、
治承元年五月五日、天台座主明雲僧正、公請をとど
められ、上蔵人を遣はして、如意輪の御本尊を召返
し、御持僧を改易せらる、すなはち使[B ノ]庁のつかひを
つけて水火のせめに及ぶ、今度神輿を捧げ奉りて、
陣頭へ参りたる大衆の帳本を召さる、加賀の国に座
主の御坊領有り、師高是を停廢の間、其しゆくいに
依て門徒の大衆を語らひて、そせうをいたす、既に
朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子がざんそうの
間、法皇大にげきりん有て、重科に行はるべき由思
召けり、明雲はか様に法皇の御気色あしかりければ、
印鑰を返し奉て、座主を辭し申けり、十一日、七宮、
天台の座主にならせ給、鳥羽院第七宮、故青蓮院大
僧正行玄の御弟子也、十二日、前座主所職をとどめ
らるる上に、検非違使二人付けて、水火の責に及ぶ、
此事に依て大衆、奏状を上げて憤り、猶参洛すべき
由聞えければ、内裏并に法住寺殿に軍兵を召集めら
る、京中貴賤さわぎあへり、大臣、公卿馳参、廿日
前座主ざいくわ有べきせんぎとて、太政大臣以下、
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公卿十三人参内して、ぢん[B ノ]座につきて、定め申さる、
八条中納言長方卿、其時は左大弁さいしやうにてお
はしけるが申されけるは、法家の勘申に任せて、死
罪一等をほろぼして、遠流せらるべしといへども、
明雲僧正は顕密兼学、浄行持律の上、大乗妙典を公
家にさづけ奉る、明王聖主には一乗円宗の御師範た
り、太上天皇には日頃受戒の和尚たり、御経の師、
御戒師、重科に行れん事は冥の照覧はかり難し、還
俗遠流をゆるさるべきかと、憚る所なく申されけれ
ば、残十二人の公卿各々左大弁定申さるる儀にどうず
と申されけれども、法皇御憤り深く思ひければ、猶
流罪に定にけり、是によりて三千の大衆等、大講堂
の庭に三塔会合して、落書有り、其状に云、
告申自(二)大衆中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道相国許(一)事、
夫座主明雲僧正者、挑(二)法燈於三院之学〓(一)、灑(二)戒
水於四海之受者(一)、顕密之大将大戒之和尚也、三觀
之隙必専(二)金輪之久転(一)、六時之次先奉(レ)祈(二)玉體之長
生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆之思深
援(二)九院之朽梁(一)、護国之志厚而却(二)六蠻之凶徒(一)、依
(レ)之法侶擅(二)修学(一)、悪党隠(二)矢弓(一)、已運(二)修羅道之巧(一)、
而餝(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)
兵俗之具(一)而残(二)法僧之具(一)、寧非(二)朝家嚴制(一)也、為(二)
天朝(一)為(二)国家(一)治者明人也、然有(二)一類謗家(一)而所
(レ)悪也、成(二)創瘠(一)矣、是不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)尋(二)真
僞(一)、預(二)於重科(一)、蒙(二)流罪(一)之条、非(二)是君[B ノ]有(一)(レ)偏、非(二)
是臣無(一)(レ)忠、讒奏酷僞言之巧故也、讒口鑠(二)荒金(一)、
毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、抑明法道之勘状所(レ)載三箇条
事、先快修僧正事、全以非(二)前座主之推印(一)代々
座主之替補、未(レ)任(二)自由(一)、唯衆徒探(二)器量(一)而申(二)
乞貫首之職(一)、亦先座主依(レ)為(二)二宗[B ノ]英花(一)、主(二)於一山
之貫長(一)、是只衆徒之採用也、全非(二)自力結構(一)也、
矧雖(レ)有(二)犯過(一)、於(二)赦免之後(一)者、非(レ)所(レ)糺(二)法量(一)、
何由無罪而被(レ)趣(二)勘責(一)哉、若本自不(レ)叶(二)叡情(一)者、
何於(二)其時(一)可(レ)被(レ)補(二)座主職(一)哉、次成親卿訴訟発
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起之由、亦以無実也、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)
当代(一)、皆是往代之例也、或将(レ)断(二)根本之常燈(一)、或
闕(二)恒規之祭祀(一)依(レ)之受(二)末所之愁訴(一)而及(二)本寺之
悲歎(一)、列(二)大師門徒(一)之習皆成(レ)之、教納者不(レ)歎(二)三
聖之威光消(一)、誰輩不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)、衆徒三千
之蜂起、何被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何况於(二)先
座主(一)者、大畏(二)勅制(一)而頻雖(レ)制(二)大衆[B ノ]蜂起(一)、依(レ)残(二)
愁訴(一)、尚以蜂起矣、抑於(二)成親卿師高(一)者、瑕瑾何
事哉、於(二)今度事(一)、自(レ)始固雖(レ)加(二)禁制(一)、及(二)大事(一)
者、不(レ)拘(二)禁遏(一)、戴(二)三社神輿(一)而参(二)九重之金闕(一)、
曩時之例中古之法也、厥皇化者専(二)天下之大平(一)、貫
首者慕(二)山上之安穏(一)、臣下可(レ)思奏者可(レ)量、有(二)何
幸(一)者可(レ)存(二)乱世之基(一)、豈勸(二)騒動於三千人之衆
徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首[B ノ]進止(一)、遂(二)
訴訟之本意(一)事、先皇之代在(レ)之、明哲之時有(レ)之、
天之所(レ)壊不(レ)可(レ)支歟、衆徒所為不(レ)可(レ)妨、已此理
歟、為(レ)承(二)罪科之由緒(一)、雖(レ)挙(二)度々[B ノ]陳状(一)、於(レ)事依(二)
怨家之語(一)而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官隨(二)奸人之謀(一)不(二)
奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被
(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、是傷(レ)人之言甚(二)劔〓(一)
此謂歟、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)而損(レ)人者也、
故忘(二)先例讒達之巧(一)故也、亦君非(レ)寄(二)叡山[B ノ]仏法(一)、
怨人之不(レ)顧(レ)所(レ)疵歟、誠魔界競(二)我山(一)而法滅之期
得(二)此時(一)歟、波旬荒(二)洛城(一)而無実之咎達(二)叡聽(一)歟、
爰衆徒等悲(二)仏法之命根之断(一)歎(二)大戒之血脈[B ノ]失(一)之
処、如(二)風聞(一)者、師高行(二)向二村之辺(一)、可(レ)夭(二)害先
座主(一)云々、弥々失(二)前後(一)亡(二)思慮(一)、且芳(二)明徳(一)、且為(二)
最後[B ノ]面拝(一)、被(レ)向(二)宿所(一)而為(レ)陳(二)申仔細(一)、乍(レ)恐留(二)
申先座主(一)之許也、夫根朽枝葉枯、一宗長[B ノ]者衰、三千
之倶可(レ)哀、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、且悲(二)師資相承之
断(一)、非(レ)惜