平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)

凡例
底本 『平家物語 長門本』黒川真道、堀田璋左右、古内三千代 校。国書刊行会・明治39。名著刊行会・昭和49再刊。底本・国書刊行会蔵本(現在、所在不明。)
参考
昭和49再刊に伴う別冊『平家物語箚記』(高橋伸幸・昭和50。延・長・盛三本の記事対照表、長門本の和歌索引等)。*この索引は本文と漢字や仮名の表記が異なります。W134とW152が抜けています。
『岡山大学本平家物語 二十巻 一〜五』 岡山大学池田家文庫等刊行会・森岡常夫。福武書店・昭和50〜52。底本・岡山大学蔵池田侯御筆本。

ページ数を記し、底本通りに改行しました。上段と下段の間は1行空けました。
傍書は、[B ]、又は[B 「 」に「 」と傍書]としました。
傍書補入は、O[BH ]としました。
漢文表記の返り点は、(レ)、(二)、(一)等としました。
カタカナの小さい「ノ」、「ン」は、[B ノ]、[B ン]としました。
漢字表記や仮名遣いは一部改めました。

和歌には独自に、通し番号としまして、W+番号3桁を後に付けました。
その後に、国歌大観の番号をK+番号3桁を後に付けました。1〜247は、「延慶本平家物語」の番号です。248〜296までが、「異本歌」としての「平家物語 長門本」の歌です。

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平家物語巻第一

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有、沙羅双樹の
花の色、生者必衰の理をあらはす、奢れる者も久しか
らず、唯春の夜の夢の如し、武き者も終には亡ぬ、
たとへば[B 「たとへば」に「ひとへにイ」と傍書]風の前の塵におなじ、遠く異朝をとふらへ
ば、夏の寒〓、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐
の禄山、是らは皆賢きをば譏り、才有をば妬み、酒
を以て漿を忘れ、侫なるをもて好とせり、旧主先皇
の政にも従はず、奢を恣にし楽を極めて、更に民黎
の愁をしらざりしかば、久しからずして亡びにしも
の也、たとひ人事をいつはるといふとも、天道をば
はかり難きものをや、王れいかくのごとし、人臣の
位に居る者いかでか不(レ)慎べき、まちかく本朝を尋
れば、神武天皇より此かた人王八十余代、或時は君
臣を誅し、或時は臣君を背くことありき、承平に将

門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、奢れる
心も猛き事も、とりどりにこそありけれ共、はやき瀬
に有とはみゆるうたかたの、音なくきゆるが如く也、
まぢかくは太政大臣平の清盛入道と申ける人の有様
を、伝へ承るこそ心も詞も及ばれね、彼先祖を尋れ
ば、桓武天皇第五の王子一品武部卿葛原[B ノ]親王の九代
の後胤、讃岐守正盛が孫刑部卿忠盛の朝臣の嫡男也、
彼親王の御子高見[B ノ]王、無官無位にして失せ給ひぬ、
其御子高望[B ノ]王の時、寛平二年五月十二日に始て平朝
臣の姓を給はりて、上総介に成給ひてより此かた、忽
に王氏を出て、則人臣に列なる、其子鎮守府の将軍
義茂、後には常陸の大掾国香と改む、国香より貞盛
陸奥守、惟ひら伊豫守、正のり越前守、正衡出羽守、
正盛讃岐守に至る迄、六代は諸国の受領たりといへ
ども、いまだ殿上の仙籍をばゆるされず、忠盛の朝
臣備前守たりし時、鳥羽院の御願、得長寿院を造進
して、三十三間の御堂をたて、一千一体の御仏をす
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へ奉り、天承元年辛亥十一月十六日、公卿六人、職
事、弁官惣じて六十四人、清暑堂の大床にして供養
の日時を評定ありて、向廿一日午の時と定めらる、
すでに可(レ)被(レ)遂にて有けるに、其時刻に及びて、大風
雷雨夥しかりければ、其日は延引す、同廿五日に官
の庁にて猶せんぎ有、廿九日天老日なりければ、遂
らるべきにて有けるに、次の雨夥しく降下る、然る
間、牛馬車人打そんぜられて出行に及ばず、仍て其日
も延引せり、禅定法皇なげき思召れて、供養三ケ度
延引の後重ねて僉議あり、同じき次の年三月十三日、
曜宿相應の良辰なりとて、其日供養と定められぬ、禅
定法皇叡覧をふるに、外廊内院一つとして叡慮に應
ぜずといふ事なし、鐘楼、塔婆に至るまで、珠玉をか
ざり金銀をちりばめたれば、佛像端厳にしてがらん
美麗なり、きんこくのこずゑ、しやうゑんちの景気、
石の立様、言語道断也、供養の時刻に至りぬれば、
楽人乱声をそうし、衆僧伽陀を唄す、誠に諸天もこ

の所に影向し、龍神も忽ちに来臨し給ふらんと覚へ
たり、鍛冶番匠そま山の工、惣じて結縁経営の人夫
にいたるまで、ほどほどに随て、勧賞を蒙ること眞
実の御菩提なりとおぼえたり、さて供養の師事は、天
台座主大僧正忠尋と御評定ありしかども、堅くじた
い申させたまひて参り給はず、さらばとて興福寺の
別当僧正を召れけるに、是も再三辞し申されて参り
給はず、扨は誰にてか有べきと仰有けり、其時諸寺、
諸山より、名僧別当、我も我もと望申さるる貴僧高
僧、十三人ぞ有ける、其十三人と申は浄土寺の僧正実
印、同別当覚恵僧都、興福寺の大進法橋実信、同寺大
納言法印経雲、御室の御弟子祐範上人、園城寺の権大
僧都良円、同寺智覚僧都、東大寺大納言法印隆範、
花山院僧正覚雲、蓑尾法眼蓮生、徳大寺兵部卿僧都
祐全、宇治僧正観信、櫻井宮上人円妙、以上十三人
なり、此智徳たちは、或は法皇の御外戚、或は法皇の
御師範、或は御祈祷僧、其名徳皆以て公請を勤らる
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る人々也、誠に種姓尊[B 高イ]貴にして智恵分明也、浄[B 正イ]行持
律にして、説法富楼那のあとをつたへ給へり、我こ
そ天下第一の名僧よ、我こそ日本無双の正道よと、
おのおの驕慢を起して望申させ給ふもことわり也、
実にも天台座主の外は、此人々こそ器量よと、法皇
も御諚有、されば思召煩ひてぞ渡らせ給ひける、毎
日公卿僉議有けれ共未定らず、されば法皇いかヾす
べき、一人を導師に用ひば、残る十二人の恨を遺すべ
し、朕は人の恨を息んとこそ思召に、御堂供養の時、
十二人愁をおはん事社浅ましけれと仰下され、公卿
僉議して一向に申されけるは、彼十三人の僧達に、面
面に〓をとらせられ候へかし、〓を取当らんは悦也、
取当らざらんは力なき事にこそ候はんずれ、其恨候
まじと申さる、〓は如何様にか有べき、一を導師と
被(レ)遊て、十二人をば白紙にて候べしと申さる、法皇
仰有けるは、朕が現当二世の大事、只此事にあり、
白紙と導師と十三の〓を取らすならば、一定独りは

取当らんずらん、但十三ながら彿意に叶はぬ僧にて
もや有ん、されば若誠に導師たるべき人、此十三人の
外にや猶ましますらん、冥の照覧も知がたし、され
ば今一の〓をくはへて十四になすべし、十三の白紙
と一の〓と、都合十四の〓を取らすべしと仰下され
き、かねて此禅侶達を皆得長寿院に召れたり、ゆゆ
しき見物にてぞ侍りける、御諚に任せて十四の〓を
出されたり、十三人の僧徒面々に取給ふに皆白紙也、
御導師に可(レ)成〓一は残たり、冥の照覧誠に様有べし
と被(レ)仰けり、十三人の智徳達各宝の山に入て、手を
空しくしてぞ帰りける、法皇此僧共は佛意に叶はざ
りけり、されば導師は外に在と知し召して、此人々の
外誰にて可(レ)有とも覚えず、只願くは必ずしも智者に
非ずとも、能説に非ずとも、種姓下劣也とも、心に慈
悲有て、身に行徳いみじくて、天下第一に貧ならん僧
を、導師に用ひばやと思召はいかにと仰下されけれ
ば、公卿たち、いかなる人の参んずらんとあやしみを
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成し給ふ、或時法皇、得長寿院に御幸なりたり、八十
有余計なる老僧の、頭には雪をいたたきたる白髪生
ひ、額には四海の波をたたみ、腰ふたへにして杖に
すがり、蓑笠着たるが平あしだはきて惣門より来臨
す、怪しと御覧ずる所に、御前の階に参り、蓑笠ぬき
おきて、藤の衣の浅ましげなるを着て、古きけさのさ
んざんなるを懸たり、公卿殿上人挙ていかなる事候
や、かかる御座鋪に参りよるべきものにてもなし、狼
藉也罷出よと追はる、此僧少しも驚きたるけしきも
なくて、法皇の御前に参りて申けるは、誠にて候やら
ん、此御堂供養の御導師には、無智下賎なりとも心に
慈悲有て、行徳有ん貧僧を召るべしと承及候、此小僧
慈悲行徳はかけて候へども、貧者ばかりは日本第一
にて候、真実の御定にて候はば、参るべくや候はんと
奏す、其時公卿殿上人さこそ仰せ有んからに、和僧程
のものをばいかでか御導師に召るべき、見ぐるし、
とくどく罷出よと仰有、法皇不思議なりと思召なが

ら、和僧はいづくにぞ有ぞと御尋あれば、僧申けるは、
当時東坂本の地主権現の大床の下に、時々には草む
しりて候と申、扨はまめやかの無縁貧道の僧にこそ
あんなれとて、御導師に定らるる処也、来十三日午の
時以前に、此御堂に参るべしと御定の間、僧泪をはら
はらとこぼして、手を合て法皇を拝み参らせ、蓑笠を
取て打きてまかでにけり、其時法皇御つぼの召次を
召て、あの僧の居所を見て参れ、いか成有様したる
ぞ、能々見て参れとてつかはさせおはします、御使見
えがくれに行程に、申つるごとく、比叡山の東坂本地
主権現の大床の下に入ぬ、居所の有様は薦引廻して、
絵像の阿彌陀の三尊東向にかけて、はな机に花香供
して薫りしめたり、みのかさぬぎ置て、はな机の下に
紙にひねりたる物有、それを取出して茶器に少入て、
閼伽桶なる水を入てかき立てぞぶくしける、扨其後
獨言に申けるは、兎角してまうけたる松葉もはやす
くなく成にけり、いかにしてか露の命も支ふべき、
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哀れとく御仏事の日に成給へかし、扨もめでたき法
皇の御善根の潔きかな、南無山王大師七社権現じひ
納受を垂れて、法皇を守護し奉り給へかしと申て、念
珠うちして目をふさぎてぞ侍ける、召次感涙を流し、
急ぎ帰り参りて此由奏聞しければ、法皇聞召て大に
感じ思召れて、尊がらせましましける、去ほどに既に
御供養の日に成ければ、彼聖のもとへ四方輿を迎ひ
につかはす、聖申けるは、輿車に乗べき御導師を召
るべきならば、望み申さるる所の高僧をこそ召るべ
く候へ、わざと無縁貧道の僧をこそ供養せさせ給ぬ
れ、されば精誠の御善根なり、いかでか有名無実の
虚假の相をば現じ候べきとて、輿をば返し奉りて、
吉日吉良辰は十三日の午の刻也、されば午の時以前に
御幸行幸も成せ給ひぬ、男女雲客皆参り給へり、況や
京中田舎近国遠国の貴賎上下、幾千万と云数を知ら
ず参り集りたり、彼導師すでに参りのぞみ給ふ、蓑
笠こそけふはきねども、袈裟はただ有しまま也、老

老として腰かがまり給へり、従僧と覚しくて若き僧
二人有、御ふせ持たせん料と覚しくて、下僧十二人庭
上に候て、誠に弱気なるすがたなれば、万人目を
驚してぞ侍る、あなあさましのものや、いかなる事
にかさばかりの大願の御導師、是ほど成べしや、乞丐
人とは申も愚也、あなあさましあなあさましと口々に申あは
されけり、時にのぞんですでに御導師高座に登り給
へば、ひざふるひわななきて、法則の次第も前後ふか
くげに見え給へり、浅ましきやう也、りん打ならし、
何事をか申されけん、つぶつぶとくどき給ふを、聞わ
けたる人もなし、浅ましく覚えて、人々頭を打うな
だれて聞所に、暫くありて勧請の句をはたと打あげ
給ひたりければ、伽陵頻伽の声に過、三十三間の御
堂に響き渡り、一千一体の御仏も御納受有らんとめ
でたかりけり、表白ことに玉を吐、説法彌懸河の辯
説也、顕密教法、八万聖教十二部経引出されぬ法門も
なし、聴聞の衆皆随喜の泪を流して、無始の罪障よ
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り現在の悪業に至る迄、皆消除しぬらんと、見聞覚知
の道俗、歓喜の袖をかき合せて、即身菩薩の旨も発ぬ
べし、法皇も龍顔より御泪せきあへさせ給はず、か
かりける人をいるかせに思ひ奉りけん、凡夫の身の
口惜さよと思し召れける、むかししゆだつ長者が、祇
園精舎に四十九院を建て、如来の供養有りけんも、結
縁利生の御法は是には過じと覚えたり、御説法三時
ばかり有けるを、法皇は永々しとも思召れず、唯一口
刹那の程とぞ思召れける、ゑかうのすず打ならして、
高座よりおりて正面の左りの柱のもとに居給へり、
初は墨染の藤の衣と見えつれ共、今は錦の法服より
も増りて尊くぞ見え給ひし、御布施は千石千疋金千
両、其上に御加布施御堂の前に積置れたり、山の動
くが如くぞありける、御布施は無辺のくどくとなれ
とて、非人共に給りにけり、御導師身に相応する程
の御ふせにこそ預り[B 「り」に「るべくイ」と傍書]候へとて、御布施一つ取給けり、
二人の従僧も十二人の下僧も、同く一つ宛取てけり、

むかし田村の御門の御時、高子と申女御かくれさせ
給ひて後、安祥寺にて御わざせさせ給ひけるに、在
中将のよみたりける
山のみなうつりてけふにあふ事は
春のわかれをとふと成べし W001 K001
御善根の御志の深きは、御布施の色に顕れて目出た
かりし御事也、夕陽西に傾きて夜陰に及びければ、御
導師の前に万燈会をとぼされたり、御導師既に帰り
給ひけるに、聴聞の衆多くしてたやすく出させ給ふ
べき様もなし、其時御導師は初は正面より出でて、土
の上二尺計も歩ませ給ひけるが、後にはこくうをさ
して飛上りて、惣門の上よりかき消す様にて、行方見
え給はず、法皇彌不思議に思召されて、何様にも唯
事に非ず、仏菩薩の化現にて御座しけりと尊く思召
れて、真実の正体しめさせ給へと、其夜もすがら御祈
念あり、少し御まどろみ有けるに、二人の従僧と見
えつるは、日光月光の二菩薩光を輝し、十二人の下僧
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と見えつるは、十二神将にておはします、御導師は鎮
守権現の御本地、比叡山の根本中堂の薬師如来にて
おはします、各虚空に現じ給ふと夢幻ともなく、此仏
事に影顕ありと思召て、則悟らせ給ひけり、末代とい
へ共願主の御心精誠なれば、仏神のゐくわう猶以て
厳重なり、法皇御心の中さこそ悦しく思召けめ、申も
愚也、我仏意に叶けるこそうれしけれとて、随喜の
御泪せきあへさせ給はず、此御説法聴聞有ける、大宮
の女御、黄疔と申す瘡重くならせ給ひて、御限なり
けるが、さいごの御聴聞御結縁と思召て、希有にして
御参詣ありけるが、則御平愈ありけり、其の外聴衆一時
の中に、上下男女二万六[B 三イ]千七百余人が病立所にいえ
たり、それよりしてぞ此寺を平愈堂とも申けり、昔聖武天
皇の御願、東大寺金銅十六丈の盧舎那仏供養の導師
に、行基菩薩と御定有りけるに、行基菩薩堅く辞し申
させ給ひてけることは、此御願南閻浮提第一の大仏
事也、小国の比丘更に及び難し、昔霊山浄土の同聞

衆婆羅門尊者と申大阿羅漢、今猶天竺にましますと
承る、むかひを遣すべしとて寶瓶に花をたて、閼伽
折敷にすへて、難波の海に浮べ給ひければ、風に隨
て西を差て流れ行、七日を経て後、供養の日婆羅門尊
者、あみの折敷に乗て難波の津に来り給へり、其時行
基出むかひてのたまはく、
霊山のしやかの御前にちぎりてし
ふけんの光り爰にかかやく、 W002 K002
波羅門尊者の返事
かひら会の苔の莚に行逢し
文珠の御かほ今見つるかな、 W003 K003
其時一天の君を初め参らせて、万人皆感涙を押へず
といふ事なし、扨婆羅門尊者を講師として、行基菩薩
を講師じゆ願とし奉りて供養をとぐ、是に依りて婆
羅もん尊者を、則僧正になし奉んと宣旨なりけれど
も、不日に天竺にかへり給ひぬ、行基菩薩其後天平
勝寶元年二月中の五日、年八十にて入滅し給き、彼歌
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の心にて婆羅もん尊者、普賢菩薩、行基ぼさつは大
聖文珠也、さらば普賢、文珠の二菩薩来りて、大仏殿
の供養ましましき、しかのみならず天王寺をば難波
津の海より僧来りて供養す、だるま和尚と申、興福
寺をば曇天国の僧権化来りて供養す、今の得長寿院
は根本中堂の薬師如来、日光、月光を従僧とし、十二
神将をけんぞくとして御供養有、はるかに昔の聖跡
にも、当がらんの有様は勝り給へりと万人仰ぎ奉る
所也、忠盛朝臣か様に仏意に相叶ふ程の寺造営す、仍
て勧賞には闕国を給ふべき由仰下さる、凡国の費ひ
民の煩にも不(レ)及、僅に一両年の間に、成風の功を得
たりけるによりて、禅定法皇猶叡感にたへさせおは
しまさず、折節但馬国の明たりける故、忠盛年三十
七にして内の昇殿を許さる、雲の上人憤含[B 憎イ]みて、同年
十一月五節廿三日豊のあかりの節会の夜、闇討にせ
んとしけるを、忠盛の朝臣の郎等に、木工[B ノ]権[B ノ]佐平[B ノ]
貞光が孫進三郎大夫季房が子に、左兵衛尉家貞と云j

者ありけり、備前守の許に行向ひて申けるは、祖父貞
光は乍(レ)恐御一門のすゑにて候けるが、故入道殿の御
時、初て郎等職のふるまひを仕る、家貞祖父に勝るべ
き身にも候はねば、相[B 猶イ]続て御奉公を仕つり候、今年の
五節の御出仕には一定僻事出来べき由、粗承及ぶ旨
の候、殿中に我も我もと思ふ人どもあまた候らめど
も、か様の御詮の折節にはあひ参らせんと思ものは、
さすがにすくなくこそ候らめなれば、五節の出仕の
御供に於ては、家貞可仕と内々申たりければ、忠盛
是を聞て我右弼の身に非ず、武勇の家に生れたり、可
然とて具せられたり、武勇の家に生れ、今不慮の恥
に逢し事、家の為身のため心うかるべし、身を全くし
て君に仕るは臣の忠なれば、其用意こそせめとて、
一尺三寸有ける黒鞘巻の刀を用意して、着座の始め
より乱舞の終り迄、束帯の下にしどけなげにさして、
刀の柄四五寸計差出し、常は手打懸つくり眼して、火
のほのぐらき陰にては此刀をぬき出して、鬢髪に引
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あててのごはれけり、よそ目には氷抔の様にぞ見え
ける、傍輩の雲客是を見て恐れをののく心あらば闇
討はせられじとの籌也、家貞元より去ものなりけれ
ば、忠盛に目を懸て木賊色の狩衣の下に萌黄[B ノ]縅の腹
巻の胸板せめて、つる袋付たる太刀脇にはさみて、
殿上の小庭に候ひけるが、同じき舎弟薩摩の平六家
房とて十七歳なりけるが、健か者のたけ高く骨太く
力すぐれ度々はがねを顕はしたる者有けり、ひはだ
色の狩衣の下に黒糸縅の腹巻を着て、備前作りの三
尺五寸有けるわり鞘の太刀脇にはさみて、狩衣の袂
より手を出して、犬居につゐひざまづいて、殿上の
方を雲透に見すかして居たりければ、貫首以下殿上
人怪みをなして、六位蔵人を召て、うつぼ柱より内
に布衣の者の候は何者ぞ、狼藉也、罷出よといはせ
ければ、家貞少も不騒、相伝の主備前守殿今夜闇討
にせらるべき由承れば、ならん様を見果んとてかく
て候へば、えこそ罷出まじけれとて、面魂眼ざし主

の事にあはば小庭より堂上迄も切上らん景色にて畏
て候ひければ、人々よしなしとや思しけん、其夜の
闇討はせられざりけり、五節の宴醉と申は昔清見原
の天皇の御時より始れり、清見原の天皇と申は天智
天皇の御弟也、御門譲りを受させ給ふべきにてまし
ましけるに、大伴の皇子のなんを恐れて、髪を剪て
出家と名付て吉野の奥に籠らせたまひけり、清見原
と申所に住せ給けるによりて、其所をつかせ給ふ、心
を澄せ給ひ、吉野川の水上にして琴をひかせ給ひし
に、神女天よりあま下り、
乙女子かおとめさひすもから玉の
おとめさひすも其から玉を W004 K115
五声うたひ五度袖を飜す、是ぞ五節の初めなる、扨
御門是を御覧じとどめさせ給ひて、御即位の時、其
御業を学ばせ給ふ、今の五節是也けり、扨御前の召有
て忠盛朝臣参られける時、内大臣拍子をかへて伊勢
平氏はすがめ也けるとぞはやされたる、此忠盛の朝
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臣は桓武天皇の御末と乍(レ)申、中古よりは無下に打く
だりて、官途も浅く、地下の殿上人にて、都の住居
もうとうと敷、常は伊賀、伊勢にのみ住国久しく成
て、此一門をば伊勢平氏と申習はしたるに、忠盛は右
目の少しすがみたりければ、彼国のうつはものに対
して伊勢平氏はすがめ也けりとぞ囃したりければ、
彼国の器に対して侍ると也、殿上のかたぬぎの拍子
には、白薄様、厚染紫紙、巻上の糸[B 筆イ]、巴かきたる筆
のぢくなんどこそはやすに、かくはやされければ、忠
盛心うしと思はれけれども、いかにすべき様もなく
て、御遊もいまだはてぬに、深更に及で罷出らるる
とて、紫宸殿の御後にて此腰の刀をかたへの殿上人
あまた見らるる所にて主殿司を召して、此刀殿上の
大盤に置べしとて預けて出られにけり、家貞は忠盛
朝臣を待受て、いかに別の事候はずやと尋ければ、
別の事なしとぞ答へられける、太宰権帥季仲卿は色
の黒かりければ、黒輔[B 帥イ]とぞ申ける、昔蔵人頭たりし

時、それも五節にあな黒々、黒き頭哉、いか成人の
漆ぬりけんとぞはやしたりければ、彼季仲に並たり
ける蔵人頭色の白かりければ、季仲の方人とおぼし
き殿上人、あな白々、白き頭哉、いか成人の粉をぬり
けんとはやしたりける、花山院の太政大臣忠雅公十
歳と申ける時、父の中納言忠家卿に後れ給ひて孤に
ておはしけるを、中御門中納言家成卿播磨守たりし
時聟に取、花やかにもてなし侍ければ、是も五節に
播磨米は木賊か、むくの葉か、人の綺羅をみがくは
とはやしたりけり、上代は如(レ)此の事させることもな
かりけり、末代は如何有んずらんと覚束なし、昔よ
りして昇殿の人の五節[B ノ]坊にて懐刀さす事なし、罪科
に申行べしなど人々憤申さるる由聞えしほどに、五
節はてにしかば、案の如く殿上人一同に各々訴申さ
れけるは、雄剱を帯して公宴に列し、兵仗を給て宮
中を出入するは皆格式礼を守り、綸言より有る先規
なり、然るを忠盛郎従をして兵具を帯せしめて、殿
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上の小庭に召置、其身又腰刀を横たへさして節会の
座に列す、両條共に希代未聞の狼藉也、事既に重疊
す、罪科尤のがれがたし、早々御札を削りて解官停
任すべき由訴申さる、主上崇徳院聞し召れて驚かせ
給ひ、忠盛を召て御尋有、則陳じ申けるは、先郎従
小庭に祇候の事、忠盛はかくご不仕候、但近日人々
相たくまるる仔細あるかの間、年来の家人此事を伝
へ承るによて、其恥を助んが為に、忠盛に知せずして
潜に参りける條力不(レ)及次第也、若猶罪科たるべきに
候はば其身を召進べきか、次に腰刀の事、件の刀既
に主殿司に預け置候、急ぎ是を被(二)召出(一)て、刀の実
否に付きて科の左右有べきかと申ければ、主上尤可
(レ)然と被(二)思召(一)て、彼刀を召出して叡覧有ければ、上
はさや巻の黒ぬり也けるが、中は木刀に紙薄白くぞ
押たりける、主上大にゑつぼに入せ御座して仰有け
るは、当座の恥辱を遁んが為に、刀を帯する由を見
すといへ共、後日の訴訟を存じて、木刀を帯しける用

意の程こそ神妙なれ、弓矢に携さはらんものの謀、
もつともかくこそあらまほしけれ、兼ては又郎従、
主の恥を雪がんが為に、潜に参候の條、且は武士の郎
従の習也、忠盛が科に非ずとて、還て叡感ありける上
は、あへて罪科のさたに及ばず、雲上人内々さざめき
あひけるは、上古はかかる事ありき、異国に王あり、
周の成王と申き、彼王の忠臣に早記大臣と云人あり、
世の政道めでたく人を愍む事君王に劣らず、かかり
ければ王の御気色世に超過して並ぶ人なかりけり、
仙客と云大臣是を憎んで、ややもすれば是を亡さん
と擬す、此早記大臣は元より天下無双の兵、弓箭に
携りて武勇の道をたてて事とす、麒麟と云兵有、戦
を究めたりし勧賞に、大臣に任ぜられて、かかる武き
人なれば左右なく討取難きに依て、皇居に左右之分
と云御遊を始て、其中にて闇討にせんと擬して、皆人
人帯剱を禁断す、是は彼大臣に太刀をはかせまじき
が為也、早記大臣は先立て其心をぞんじてければ、
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則木太刀を帯して参候す、かたへの君臣は禁法に任
せて一人も太刀をはかず、是によりて早記其夜の難
をのがれにけり、翌日に雲客参内して、早記当座一
同の僉議にくみせず、綸言を違背するに非ずや、殿上
に雄剱を帯し、大家の党に交る條、ことに違へる所
なり、尤罪科是重し、急ぎ誅せらるべきかと奏す、君
驚き思召て大臣に御尋あるに、早記陳辞の詞をば出
さず、雲客腰にたちをはき、忠臣雄剱を提るは是君
を守護し奉る所也、則此剱は不動の両剱を学ぶ、是
と申は皇居に大営を企るには、四鬼雲に乗じて来り
妨をなすが故に、是を降伏せんが為に、雲客両剱を学
んで太刀を帯せり、何ぞ明君の訴文節を立ながら武
を捨、太刀を戒むべきや、然ども一同の僉議に与す
るが故に、忠臣の法なれば太刀を帯すといへども、
是を見られよとて、木太刀を披見す、君大に御感あ
りて、誠に君を守る忠臣にて有けりとて、よろこび思
召れける上は、なんぞ罪を得んや、しかれば実の賢

臣也けりとて、人々是を仰ぎけり、則忠盛彼あとを
訪ひけるか、上古は太刀、末代は刀、かれは大臣、
是は雲客、さかいはるか也といへ共、擬へし様は対
句也とぞ譽られける、かかりしかども、其子孫は諸
衛佐さへ、殿上の交り人嫌に不(レ)及、忠盛備前国より
都へ上りたりけるに、中御門中納言家成卿、院の殿
上にて名にしおふ明石の浦の月はいかにと問れけれ
ば、忠盛とりあへず、
播磨路や月も明石の浦風に
波ばかりこそよると見えしか W005 K248
と読で参らせければ、ことにふれて心に色有けりと
て人々ののしりもてなされけり、其後千載集を撰ば
れしはじめ、此歌を入られけるに、俊成卿上の五文
字を直されて、
有明の月も明石の浦風に
波ばかりこそよると見えしか W006 K125
とぞ入られたりける、忠盛御所に思はれける女房あ
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り、或時彼の女房の局に月出したる扇を忘れて出ら
れたり、かたへの女房達是はいづくよりの月影ぞや、
出所こそおぼつかなけれとてわらはれしが、かくこ
そ聞えけれ、
雲井よりただもり来たる月なれば
おぼろ気にてはいはじとぞ思ふ W007 K124
似たるを友とかやの風情に忠盛住たりければ、此女
房も優なりとぞ人感じ申ける、忠盛朝臣備前守より
刑部卿にあがりて、仁平三年正月十五日年五十八に
て失給ひにき、清盛嫡男たりしかば、亡跡を継、国々
を譲のみならず、家の寶物他家へうつる事なければ、
清盛是を相つぐ、中にも唐皮小烏と云鎧、太刀は清
盛に授けらる、くだんの唐皮と申は人の作れるには
非ず、仏作の鎧也、其故は桓武天皇の御甥に香円法
印と申けるは、奥儀を究めたる天下第一の真言法の
中より、現在不思議を顕されき、我朝の形見にせんと
仰有ければ、香円綸言に応じて、紫宸殿の御前に壇を

立て、たいざうかいの不動尊を前にして、彼法を修
せらる、七日と申す未の刻に紫雲立て、うづ巻たる其
中よりあららかに壇の上に落たり、是を見るに一領
の鎧也、はじのにほひのすそ金物に白く、黄なる蝶
を打たり、件の毛は糸をどしには非ず、皮をどし也、
裏をかへして見れば、虎の毛所々に相残れり、故に
其名を唐皮とぞ名付られし、是はいかにと御尋あり、
香円申させ給ひけるは、則本朝のかため也、是則不
動明王の鎧也、不動尊は上に降魔の相を顕すといへ
ども、本地彌陀にてましませば、下には慈悲を具し
給へり、火えんを身に現ずるは如我相を顕すといへ
り、如我相といふは大日胎蔵の身を現ぜん科也、大
日胎蔵の身といふは大歳腹体を囲まんがれう也彼
桓[B 「彼桓」に「本のまま」と傍書]鎧にはしかじ、されば不動明王に七領の鎧あり、
兵尾甲冑也、兵頭、兵体、兵足、兵腹、兵背、兵指、
兵面とて皆是五天、五国、五花、五木是を相対せり、
是は人の五体を囲まん科也、然れば国中の守は甲冑
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にしかじ、彼唐皮は彼七領の中の兵面と云鎧なり、
されば本朝の守りには何物か是にしかんや、甲冑を
鎧はん時は、我着ると思ふべからず、国家の壁と思
ふべし、国を囲まん時は五の鎧と思へといへり、し
かる間は此[B 「は此」に「今」と傍書]真言教の中より此甲冑を出せり、六代迄
は内裏の寶と成、其後武家に遣て、将軍にもたせよ
と誓て下されければ、高望王の後平将軍に預け給は
りてより以来、今の唐皮是也、并に小烏と云太刀は
唐皮出来て後七日と申す未の時計に、主上南殿に出
御ありて、東天を御拝あるに、八尺の霊烏飛来りて
大床に侍り、主上御笏を以て御めし有、霊烏御ましの
御縁に嘴を懸たり、霊烏申て曰、我は大神宮よりの御
剱の御使也とて、羽の下より一の御佩刀を御前にお
としたり、主上此御はかせを自らめされて、八尺の
大霊烏の羽の中より出来たる所なればとて、小烏と
は付させ給ふ、唐皮、小烏共に天下の重寶と君執し
思召る、されば本朝の寶物には甲冑、砂金銀、兵杖、

水破、兵破、太刀我国に有と云事是也、頼もしかり
し事也、されば代々内裏に伝りしを、貞盛の時より此
家に伝る希代の寶物是なり、抜丸も此家に伝はるべ
かりしを、当腹さいあいなりし故に、頼盛の家に伝は
る、依(レ)之兄弟の中不快とかや、此清盛は初は希代の
貧者なり、閑に案じて思へり、我は国々の主なり、
たとへ何なくとも生得の儘[B 報イ]なれば、身一つたすくる
分は有とこそ聞、況や清盛が身に於て是程や有べき、
難(レ)有果報哉と怪む、或時清盛蓮台野なる所にて大な
る狐を追ひ出して、弓手に相つけ射んとす、其時狐
光りを放つ、程なく女に変じてにつこと笑て立向ひ、
然べくは命を助給へ、御辺の所望を叶へんと申けれ
ば、矢を差はづしていか成人にて渡らせ給ふぞと問
ければ、七十七道の中の王にて有ぞと聞ゆ、さては
貴孤天皇にておはします、ござんなれとて敬屈す、
其時もとの狐と成て失ぬ、清盛さては我財寶に飢た
る事、荒神の所為ござんなれ、荒神を静めて財寶を
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承[B 求イ]んには弁財妙音にはしかじ、今の貴狐天皇は妙音
の其一也、されば我天[B ノ]法成就せんずる物にこそと
て、妙音、弁財両天を本尊として彼法を被行けると
かや、又かへり案じ給ふに、実やらん外法成就の者
は子孫には伝へずと云ものを、如何可(レ)有と思はれけ
るが、よしよし当時の如くば貧者にて久しからんよ
りは、一時に富で名を上んと思ひて、彼法をたしな
まる、まづ清水寺に参詣して御利生を蒙らんとて、
千日参詣をはじめて満ずる夜は通夜あり、夜半計に
夢想に、左右の眼ぬけ出で、中に廻り剰へ失ぬとみ
る、清盛覚て不思議の事哉、真やらん三寶は来らぬ
報を願ふ[B 「願ふ」に「願ふなるイ」と傍書]事は却りて命をたつと云ものを、哀れ誰も
分らぬ事願ふに申て、観音の憎ませ給ひて魂のさる
がみゆるやらん、浅増ともおろか也、去にても人に
尋て見んとて、夢に我二つの眼ぬけて中に去とみた
るは、好か悪敷かと札を書て清水寺の大門に立られ
たり、或人是を見て打うな付て、哀夢や、此人は日

比煩はしきことをのみ見けるか、三寶に帰依し奉る
が故に、歎の眼を捨てて吉事をみんずる、新しき眼を
入かへんずる相にや、哀夢や哀夢やと、両三度合せて
去ぬ、扨は清盛が好相に有けるものをとて、彼符を
取て天をさして果報を相待、其後七日と申す夜、内裏
に上臥したり、夜半計南殿に鵺の音したる鳥ひびき[B 「ひびき」に「ひらめきイ」と傍書]
渡りたり、藤[B ノ]侍従季賢番にておはしけるが、人や候
人や候と召れければ、清盛其時左衛門尉にて有けるが、
候と答、南殿に朝敵あり、罷出て搦よと仰あり、清
盛こはいかに目に見ゆるもの也とも、飛行自在にて
天を翔らん物を捕る事やは有べき、況やすがたも無、
声計有物をいかでかさるべきと思はれけるが、実や
綸言と号せば、さる事の有物をと、漢家には宣旨の
使と号して、荒たる虎を取、勅定と号してけやけき
獅子を取大臣もあり、末代に及といへども日月いま
だ天に御座す、礼義を以て人臣の堺外なる事なし、い
かでか例を追ざらん、O[BH さらばイ]取て参らせばやと思ひて、畏
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て承候ぬとて、音につゐて宣旨ぞと申てをどりかか
る、鳥騒ぎ左衛門尉の右の袖の中に飛入てけり、取
て参らせたり、叡覧有に、誠に少き鳥也O[BH けりイ]、くせ物也
とて、御評定有て能々御覧ぜらるるに、年老たる毛
朱也、毛朱とは年老たる鼠の唐名也、毛朱が分にて
も皇居に繋念をなしけるにやとて、博士を召せとて
召れたり、各々占ひ申、毛朱が例、漢家本朝に希也、
推仁天皇三年二月二日、毛朱皇居に変をなす、武者
所仰を蒙りて取んとしけるに、捕へずして門外に出
し失へり、故に大災難をなして、あくれば飢饉、兵乱
廿一年が間、上下万民愁る事有き、然るに是は清盛
朝使として威勢重きがゆゑに、綸言の下に依て召と
られぬ、此條以て吉事也、仍て天下は六年が間、風
雨時に隨ひ、霜雪折にあやまつべからずと申、さて
は可(レ)然吉相にこそとて、南面の大竹を召て中に籠
て清水寺の岡に埋られたり、御悩の時は勅使を立て
宣命を含らる、毛朱一竹の塚と云は則是也、公卿僉

議有て天下穏に、万民憂を止んには何事か是にしか
ん、怪異を奉(レ)鎮是則朝敵を討に非ずや、勧賞可(レ)有
とて安芸守に任ぜらる、併清水寺の御夢想の験なり、
鼠と云は大黒の使者なり、此人栄花の前表是はじめ
也、希代不思議ともいふべし、
官途昇進事
保元二年に左大臣世を乱り給ふ時、清盛御方にて勲
功有しかば、播磨守にうつりて、同三年の冬は大宰
大弐と成にき、平治元年に左衛門督謀反の時、又御
方にて凶徒を討平げしに依て、勲功一に非ず、恩賞
是重かるべしとて、次年正三位に叙す、是をだにゆゆ
しきことに思ひしに、其後の昇進は龍の雲にのぼる
より速也、打続き、宰相、衛府、検非違使別当、中納
言、大納言に成あがる、兵仗を賜て、大将にあらね
ども隨身を召具す、牛車輦車を蒙りて、宮中を出入
す、偏に執政の人の如し、礼記月令の文を引かせ給
ひて、寛平法皇の御遺誡にも太政大臣は一人[B ノ]師範と
して四海に義刑せり、国を治め道を論ず、陰陽を和
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げ、柔強を調ふ、その人なくば則闕よといへりとぞ
書置せ給ひたる、されば 則闕官と名付て其人に非ず
ば汚すべき官にあらねども、一天四海掌中に有上は、
子細に不(レ)及、相国か様に繁昌するも只ごとに非ず、
偏に熊野権現の御利生とも覚えたり、其故は清盛そ
のかみ靱負佐たりし時、伊勢路より熊野へ参りたり
けるに、乗たる船の内へ目を驚かす程の大鱸飛入り
ければ、先達これを見て恠と思ひて、則置文をして見
るに、これ様[B 例イ]なき御利生也、急ぎ食給ふべ[B 「ふべ」に「へかイ」と傍書]しと勘へ
申ければ、清盛申されけるは、昔異国に周西伯昌[B 「西伯昌」に「武王」と傍書]と
いひける人の船にこそ白魚のをどり入たりとは申伝
たれ、何事に付ても吉事にてぞ有らん、其上先達の
計ひ申さるる上は、半ば権現の示し給ふ所也、尤可
然とて、さばかり六根情の罪をざんげし、精進けつ
さいの道にて手づから調味して、家の子郎等てふり
強力に至る迄、一人も残さず養はせけり、又清盛三十
七の時、二月十三日夜半に口あけ口あけと天に物いふ

よし夢に見て、驚きて現に恐ろしながら口をあけば、
是ぞ武士の精と云ものよ、武士の大将する者には、
天より精を授くる也とて、鳥の子の様成物の極てつ
めたきを三つのどへ入とみて、心も猛く奢り始けり、
一族親類数国を重ね、顕官、けん職、三品[B ノ]階級に至る
迄、先祖をぞ超られける、かかりし程に清盛仁安三年
十一月十一日歳五十一にて病に犯されて、存命の為
に忽に出家入道す、法名聖[B 清]蓮、程なく改名して浄海
と号す、出家の功徳莫大成故にや、宿痾忽愈えて、天
命を全す、人の隨ひ付事吹風の草木を靡すが如く、
世の普く仰ぐこと降雨の国土を潤すに異ならず、六
波羅殿の一家の公達とだに云てければ、華族も英雄
も面を向へ肩を並る人なかりけり、平大納言時忠卿
申されけるは、此一門にあらざらん者は、男も女も法
師も尼も皆人非人也とぞ申されける、さればいか成
人も相構へて此ゆかりに結ぼれんとぞしける、衣紋
のかき様烏帽子のため様より始て、何ごとも六波羅
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様と云てければ、一天四海の人皆是を学びけり、いか
成賢王聖主の御政をも、摂政関白の成敗をも、人の
聞ぬ所にては何となく世に余されたる従者などは、
云譏りかたむき申事は常の習也、然るにこの入道の
世ざかりの間は、人聞ぬ所なればとて聊も忽に申者
なかりけり、其故は入道の謀にて我一門の上を譏り
云者を尋聞んとて、十四五若は十七八ばかり成童べ
を、髪首の廻りよりそぎつつ、赤き帷子をきせ、黒き
袴を着せて、二三百人計召仕はれければ、京中に充
満して往反しけり、平家の烏と名付て翼に赤印を付
て面々に持せて遊行せさす、是は霊烏頭のみさきと
て神に応ずる大会宴の殊童を学ばれたり、又は耳聞
也、若し浄海があたりに意趣をみば、いるかせにい
ふ者も有んずらん、さあらば聞出して申せよ相尋ん
との給ふ、されば京中小路、門外[B 前]に耳を側つ、自ら
六波羅殿の上をあし様にも申す者あれば、聞出すに
隨つて急ぎ行向て即時に魔滅す、後には御門の上は

さとかやの風情なれば、思も思はざるも、夫をいふは
常の事ぞかし、されば吹毛の科を求て滅し失ふ間、
怖と申も疎なり、されば目に見、心に知るといへど
も、あへて詞には顕していふ者なし、六波羅殿の禿
といひてければ、上下恐れをなして、道を過る馬、車
も曲てぞ通りける、禁門を出入すといへども、姓名
を問はず、京師長吏是がために目を側むとぞみえた
りける、入道悪行張行の余りに、此禿童を召仕様を
案ずるに、昔漢朝に王莽と云大臣有けるが、国の位
を奪んと思ふ心ありければ、謀を回らして、海中の
亀を取集めて、甲の上に勝といふ字を書て、若干の
亀を海中に入る、又銅にて鎧甲を着たる人形の馬に
乗たるが長三寸なるを多く鋳集て、竹のいまだ笋な
る時よごとにわりて、是を入置てけり、また懐胎[B 妊イ]の
女十人に朱砂を煎じ飲せけり、是を万仙薬と云、彼
等が産る子を取集て、潜に深山に隠し置O[BH 養ひたイ]てけり、
十二三に成ければ、彼等を取出して見るに、赤くし
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て偏に鬼のごとし、髪を首の廻りにそぎて、禿童に
なして赤き扇を持せて、王城へ出して歌を教へてう
たはせけり、亀の甲の上には勝と云文字あり、竹の
よ[B ナシイ]の中には銅の人馬あり、彼といひ是といひ、王莽天
下の位を持べき瑞相也とぞうたひける、其時漢帝大
に驚て、海中の亀を取集て是を見るに、甲ごとに勝
と云文字あり、林に入りて見る時に銅の人馬あり、
此事天のなす変也、王位を遁るるにはしかじとて、
位を王莽に譲り給ひぬ、国を持事二十七年といへり、
入道禿を召仕給ふこと少しもたがはぬ体[B 科イ]也、是を伝
聞てかくせられけりと言儀もあり、又家々にささや
きけるは、昔かかる例有やと尋るに、本朝に例なし、
漢家に八葉の大臣と申しける天下第一の賢臣おはし
けり、忠なる者を賞し、罪有者を愍むこと、如来の
大慈悲にことならず、諸国の人民、百姓の愁歎天聴
に達せぬ事多く有らん、汝聞出して奏せよ、直ちに
召質[B ン]とちかひて、今のごとく禿童に八葉の金貴鳥と

言鳥を持せて、国々の辻々に彼等を放し置れたり、か
かりければ愁を残す者なく、恨を含人もなし、国豊に
して世治れり、かかりければ不動尊慈悲を授られた
る金伽羅童子の如しとて、是をば善者童子と名付た
り、入道の禿をば悪者童子とも云つべし、漢家、本
朝隔て善悪共にこと也といへども、権威の程はかわ
らずとぞ申ける、凡只ごとに非ず、我身の栄華を極
るのみならず、嫡子重盛内大臣[B ノ]左大将、次男宗盛中
納言[B ノ]右大将、三男知盛三位[B ノ]中将、四男重衡蔵人頭、
嫡孫維盛四位[B ノ]少将、舎弟頼盛正二位大納言、教盛中
納言、一門の公卿十余人、殿上人三十余人、諸衛府、
所司都合八十余人、世には又人すくなくぞ見えける、
昔奈良の帝の御時神亀五年戊辰、朝家に中衛[B ノ]大将を
定られてより此かた、左右に兄弟相並ぶこと僅に五
ヶ度也、初は平城天皇の御宇、左に内麿内大臣左大
将、右田村麿大納言右大将、文徳天皇の御宇斎衡二
年八月二十二日、閑院贈太政大臣冬嗣、次男染殿関白
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太政大臣〈 忠仁|公 〉内大臣左大将、同九月廿五日男西三條
右大臣良相大納言右大将、朱雀院御宇、天慶八年十
一月廿五日に一條関白太政大臣貞信公の嫡男、小野
宮関白実頼〈 清慎|公 〉内大臣左大将、次男九條右大臣師資
公、同日大納言右大将、冷泉院御宇、左頼通宇治殿、
右頼実堀川殿、共に御堂関白道長の公達也、二條院
御宇永暦元年九月四日、法性寺関白太政大臣忠通公
の御息、松殿関白太政大臣基房公、内大臣左大将に御
任ありて、御弟月輪関白兼実公同十月に右に並び御
座す、其時の落書かとよ、
いよ讃岐左右の大将取籠て
欲のかたには一の人かな W008 K005
是皆摂録の臣の御子息也、凡人に於て未だ其例なし、
上代はかくこそ近衛大将をば惜みおはしまして、一
の人の公達計にてなり給ひしか、是れは殿上の交り
をだにきらはれし人の子孫の、禁色雑袍をゆりて、
綾羅きんしうを身にまとひ、大臣大将に成て兄弟左

右に相並ぶ、末代といへども不思議なりしこと也、
御娘九人おはしき、とりどりに幸ひ給へり、第一の
娘は桜町中納言成範の北の方にておはしけるが、後
中納言平治の逆乱の時、事に逢て失給ひし後は、花山
院左大臣兼雅の御台盤所に成せ給ひて、御子あまた
御座しき、万ひき替たる目出さにて[B 「にて」に「ナシイ」と傍書]おはしける、始
御悦の朝、何者かよみたりけん、花山院の四足の門
のはしらに札を書て打たりける、
花の山高き梢と聞しかと
海士の子なれやふるめひろふは W009 K006
是はさまでのことなかりけり、此北の方八歳の時、
桜町の中納言にはO[BH 申イ]名付られたりと也、成範卿を桜町
と申ける事は、彼卿桜をことにあいし給ひて、姉小
路室町の宿所に惣門の見入より、東西の町かけて並
木に桜を植通されたりければ、春の朝、遠近人の異
名に此町をば桜町とぞ申ける、又はひたすら花に心
を移し給ひて、長春の日も木[B ノ]下にして詠暮し、朧月
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夜も花の陰にて守り明されければ、桜本[B ノ]中納言共甲
けり、誠に此中納言桜をふかく愛せられしかば、過
行春をかなしみ、来れる春を悦び、桜を待し人なれ
ば、桜待の中納言とぞ詔には下されける、町に植と
ほされたりける桜の中に、殊に執し思はれけん花有
けり、七日にちる習を、たらずや思はれけん、花の
祈のためにとて春をむかふる朝には、先づ泰山府君
を祭り、又種々の珍寶、色々の幣帛をささげて、天
照太神に祈申給ひければ、其験にや、七日にちる花
なれども、二十日のよはひ延つづき、三七日まで梢
に名残ぞ残りける、中納言花のよはひの延たる事を
悦びて、かくぞ思ひつづけO[BH られイ]ける、
千はやぶるあら人神の神なれば
はなもよはひを延にけるかな W010 K249
いづ方に付ても彼成範卿はすき心のあらはれて、優
しき人にてぞおはしける、北かたは御はらからの中
に御みめもすぐれ、御心のさまもいうにおはしける

上、天下無双の絵かきにてぞおはしける、花山院の公
卿の座の障子に、いせ物語を所々書せ給ふこと有け
り、昔、氏の中に御子生れ給へり、御産屋に人々歌
をよみ給ひけるに、御祖父方なりける翁のよみける、
我やどに千尋の竹を植つれば
なつ冬たれか隠さざるべき W011 K250
と云所を書給へり、御産屋とは貞員親王の生れ給へ
る御産所也、其産屋の前に鳳凰の居たる千尋の竹の
姿を書給へり、其後彼公卿座の障子のもとに、時々笙
笛を調る音有けり、北の方の被遊たりける千尋の竹
の上なる鳳凰の囀る声にて侍けり、千字文と云文に
曰、鳴鳳は樹にあり、白駒は庭に啄むといへり、昔忠
平中将の扇に書たりける時鳥こそ、扇を開きて使ふ
度毎に、時鳥々々と鳴けるとは承れ、又円心と申け
る絵師が宇治の関白殿中門、法成寺の後戸に書たり
ける鶏こそ、さゆる霜夜の暁は二声三声鳴けれ、又定
朝が作りて金峰山の座王権現に参らせたりし狛犬こ
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そ夜毎にくひ合て大床の下に落けれ、又証賢法橋が
柏木をもて作りて、芹谷の地蔵堂に進じたりし小鬼
こそ失る事ありて、暁は必露にそぼぬれて本座にあ
り、其頃ちかあたりには女常に鬼子を産事ありけり、
寺僧あやしみをなして、金のくさりを以て件の鬼を
つなぎたりければ、其後鬼露にもぬれず女又鬼を産
ことなかりけり、かれは上古也、末代不思議なりし
こと共也、
二は後白川の法皇の第三の皇子高倉の上皇の后に成
給ひて、皇子御誕生の後は院号を蒙らせ給ひて、建
礼門院とぞ申ける、天下の国母にて渡らせ給ふ上は、
とかく子細を申に及ず、
三は法性寺殿の御子息六條摂政基実の北政所也、是
は優れたる琵琶引にてぞ御座しける、経信大納言よ
りは四代の門徒、治部卿の尼上の流を伝へて、流泉啄
木まできはめ給へり、抑流泉と申がくは兜卒天の秘
曲也、もとはぼだい楽とぞ申ける、みろく常に調べ

給ひて、聖衆のためにぼたいをつとめ給ふ故也、其
教文に曰、
三界無安、猶如火宅、発菩提心、永証無為、 G147
と申経文也、漢の武帝仙を求め給ひし時、同院の聖
主下て武帝の前にて調べ給き、時に龍王潜に来りて
南庭の泉の底に隠れ居て此楽を聴聞す、其時泉なが
れて庭上に満たりしよりして流泉とは名付たり、我
朝は逢坂の蝉丸、天人より此楽を伝へたりけり、蝉
丸いたく是を秘蔵せられしを、其弟子に博雅の三位
といひし人、三年がほど潜に立聞て僅に伝たりしか
共、それも又秘蔵せしほどに、今は日本に絶て久し
き曲也、然るをいか成人の伝へにて引せ給ふやらん
と思ふこそめでたけれ、又啄木と申は是も天人の楽
也、本名は解脱楽とぞ申ける、ぼだい、聖衆此楽の
声を聞て、則解脱を得給ふ故也、その文に曰、
我心無礎法界円、我心虚空其体一、
我心応用無差別、我心本来常住仏、 G148
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震旦の蕭山に仙人多く集りて、潜に此曲を引けるに、
山神、虫に変じて木上に是を喰しより啄木と申也、
此楽を引時は、天より必花ふり甘露定て海老尾に結
びけり、かかる目出度秘曲どもを天然として伝へ給
ふぞ不思議なる、況んや高倉上皇の御即位の時、御
母代とて三后に准ふるせんじを蒙りて、世に重き人
にてぞおはしましける、白河殿と申は是也、
四は帥大納言隆季卿の子息冷泉大納言隆房卿の御前
にて、御子あまたおはしましき、是は琴の上手也、
随分管絃還自足、等閑篇詠被人知、
と常には詠じ給けり、是は白楽天の作、文集五十四[B ノ]
巻にあり、しかるを楽天は一天無双の文者にて、聊
も作り給ふ詩篇は人に能しられたり、管絃の道は等
閑なれども、悪くも是を調るに情を養ふみちたりぬ
べしと作給へる心也、其様摂政殿の北政所ほどの琵
琶ひきにてこそおはしまさね共、随分の管絃は心を
養ふと思給へる心也、西園寺の御名王、閑院[B ノ]少将、当

麻寺[B ノ]紅葉、堀河[B ノ]侍従とて四天王にかぞへらるる琴
引ども侍りき、代々の寶物秋風、鈴虫、唐琴、潺波
と云四張の琴を引せて、入道相国常に聞給ひけるに、
異なる瑞相もなかりき、然るに此の卿の北の方村雲
と云琴を引給ひける時、村雲暫くたなびきて、万人
目を驚しけるぞ不思議なる、狭衣の大将源氏の宮な
んどの管絃を奏し給ふ時こそ、あめ若御子も天より
あまくだり、聖衆も影向し給ひしか、世の末なれども
かかる琴引手書き給けるこそ、不思議なれ[B 「なれ」に「と覚ゆれ」と傍書]、
五は六條摂政殿の御子息近衛殿下基通公の北政所也
御形いつくしくして歌人にてぞ御座ましける、され
ば父の入道殿は愛し奉て、衣通姫と呼参らせ給ひけ
れば、よばれてまた答給ひけるもやさし、殿下此由
を聞し召れて、歌道の事実否を知し召れんが為に、
北の政所をそとほり姫とよび参らせ給へば、我名と
心得て、をと答へおはしましたりければ、互に笑は
せ給ひて一所に並居給へり、殿下の仰に、只今俄に
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内より召あり、何事ぞと承れば、当座の御会と申也、
基通天性の遅口なり、少々よみて給[B たび候イ]へと仰あり、北
の方題を知らではいかにと仰有ければ、殿下の仰に
は、頭[B ノ]弁さる心有ものにて、潜に申遣して侍り、聞
ゆるが如くば、春日山神祇、鷲峰山釈教、是心是
仏、また旅立空の秋無常、恋昔旧跡と候也、此五題
を日夕以前と承る、日すでに未の刻に及たり、基通
は装束し侍るべし、少々よみてO[BH 訪せイ]給へとO[BH 仰イ]有ければ、
北の政所打うなづかせ給ひて、やがて墨をすり筆を
染て、
春日山神祇
春日山かすめる空にちはやふる
神の光りも[B 「も」に「はイ」と傍書]のどけかりけり W012 K252
鷲峰山釈教
鷲の山おろす嵐のいかなれば
雲間残らず照す月影 W013 K253
是心是仏

迷ひつつ仏の道を求むれば
我心にぞたづね入ぬる W014 K254
旅立空秋無常
草枕おく白露に身をよせて
ふく秋風を聞ぞかなしき W015 K255
恋昔旧跡
あるじなきやどの軒端に匂ふ梅
いとどむかしの春ぞ恋しき W016 K256
以上五首の歌を脂燭一寸の内によみ給ひたりけり、
父の入道そとほり姫とよび給ひけるも理也とて、殿
下不(レ)斜感じ覚しけるとかや、
六は七條修理大夫信隆卿の北の方也、是も翠黛、紅顔
錦繍の粧、花よりもいつくしく、玉のかんざしてる
月のすがたあたりもかがやくばかり也、是も連歌を
し、歌よみ給ふこと人にもおとり給はず、絵かき花
も結び給ひけり、殊にすぐれておはしましけるは、
慈悲ふかくして人を憐み給ふこと不(レ)斜、さるままに
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は法華八軸を暗に悟りて、ぼだいの道をぞ祈らせ給
ひける、かの龍女作仏のあとを追はせ給ひけるにや
とめでたくぞ覚えし、
七は後白河院へ参らせて、女御の様にておはしまし
き、安芸の厳島の内侍が腹の娘也、さしたる才芸は
おはさねども、形は誰にもすぐれ給へり、嬋娟たる
両鬢は秋のせみの翅、宛轉たる双娥は遠山の色秋の
夜、月を待に山を出る清光を見るが如く、夏の日蓮
を思へば、水を穿つ紅艶の始て開きたるよりも浄し、
更衣の后にてぞましましける、
八は坊門大納言有房卿の御前也、是も絵かき、花結
び、諸道朗におはしましき、女房の身なれ共、連句、
作文、無双にて、手跡もすぐれて、しき紙のかたな
ども書給ふ[B ひきイ]、画圖の障子に百詠の心を絵に書せ給ひ
て、一筆に諸[B 銘イ]文を遊ばしたりければ、院も御覧有て、
希代の珍女也、有難き筆跡と御ほめ有けるとかや、
九は九條院の雑仕ときはが腹の女也是も又天下第一

の美女なり、花山院左大臣殿の御もとに御台盤所の
御妹にておはしければ、上臈女房にて廊の御方と申
けるに、ひそかに姫君一人おはしければ、不(レ)斜もて
なすかしづきおはしましき、三條殿と申は是なり、
和琴の上手にて、かなさへいつくしく遊ばされけれ
ば、手本書せたびて給はり候はんとて、色々の料紙
を人おほく進せたりける、浅緑の紙もあり、こき紅
の紙もあり、だんし、うす様、色々の料紙ども御座
のほとりに集りて、錦をさらす如く[B 「如く」に「砌」と傍書]也、如(レ)此九人の
女子達九重の中にとなへ給ひて、〓利天の栄華もこ
れにはいかで過べきと、聞人羨まずと云事なし、其頃
世にすぐれて貧しき人おはしき、伏見の中将兼時と
ぞ申ける、男子二人、女子三人おはしき、嫡子は持[B 山イ]
病の気重くおはしましければ、世に立給事もなし、次
男おととみに煩て、両眼更に盲目也、大姫君は母方
のうはなり神の崇とていつとなく物狂なり、正念都
て身に副はず、第二の娘は七歳より中風にふして、行
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歩も不(レ)叶、第三の娘は生れ付おしにて物いふことな
かりけり、二人の親達是を歎き給ふこと、猛火の中
に身を焦すが如く、羨ましきかなや、太政入道の男
子八人の栄華に、女子九人の繁昌と、朝夕なきかな
しみ給へけるこそ哀なれ、人間界の果報色々さまざ
まなること共也、
日本秋津島は僅に六十六ヶ国也、平家の知行の国は
三十余ヶ国已に半国に及べり、其上庄薗、田畑は数
を不(レ)知、綺羅充満して、堂上花の如し、車騎群集し
て、門前市を成す、楊州の金、荊岫の玉、呉郡の綾、
蜀江の錦、七珍万寶一つとして缺けたる事なし、歌
堂舞閣の台、魚龍爵[B ママ]馬の弄、帝闕も仙洞もいかでか
是に過べきとめでたくぞ見えし、
昔より源平両氏朝家に被(二)召仕(一)てより以来、皇化に
隨はず、朝憲を軽くするものは互にいましめを加へ
しかば、世の乱なかりしに、保元に為義きられ、平治
に義朝討せられし後は、末々の源氏有しか共、或は

流され、或は誅せられて、今は平家の一類のみはん
昌して、頭を差出す者もなし、いか成ん末の世迄も
何事か有んとめでたくぞ見えける、鳥羽院の御あん
かの後は、兵革打続て、死罪、流刑、解官、停任常
に行れて、海内も静ならず、世間も落居せず、就中
永暦、応保の頃より、内の近習者をば院より誡あり、
院の近習者をば内より誡めらる、かかりければ高き
も卑きも恐れをののきて安き心もなし、深淵に臨で
薄氷をふむがごとし、其故は内の近習者経宗、惟方
が計にて法皇を軽しめ奉りければ、法皇安からぬこ
とに思召て、清盛に仰て阿波国、長門国へ流されけ
り、去程に主上を呪咀し奉る由聞え有て、賀茂上の
社に主上の御形を書て、種々のこと共をする由、実長
卿聞出して奏聞したりければ、宮人一人搦捕てこと
の仔細を召問るるに、院の近習者資長卿など云かく
ごの人の所為也と白状したりければ、資長修理大夫
解官せられけり、又時忠卿の妹小弁殿、高倉院を恨
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み参らせけるにつゐて、過言をしたりけるとて、其
前の年解官せられたりける、か様のこと共行合て、
資長、時忠二人、応保二年六月廿三日一度に流され
にけり、又法皇多年の御宿願にて、千手観音千体の
御堂を造らんとおぼしめして、清盛に仰て、備前国
をもてつくられにけり、長寛二年十二月十七日、御
供養有き、行幸をなしたてまつらんと、法皇おぼし
めされけれ共、主上なじかはとて、御みみにも聞入
させ給はざりけり、寺官の勧賞申されけれども、其
沙汰にも及ばず、親範職事にて奉行しけるを、御所
へめして勧賞の事はいかにと仰られければ、親範許
許候はぬにこそと申て畏て候ければ、法皇御涙を浮
べさせ給ひて、何のにくさにかほどまでは思召たる
らんと仰られけるぞあはれなる、此御堂を蓮華王院
とぞ名付ける、胡摩僧正行慶といひし人は、白河院
の御子也、三井門跡にはぶさうの有智徳行の人、な
りければ、法皇ことに頼みおぼしめされて、真言の

御師にておはしましけるが、此御堂はことに執りさ
たし給て、手体の中尊の丈六の御面像をば、手づか
ら自らあらはされたりけると承るこそ目出たけれ、
主上上皇父子の御中なれば、何事の御へだてかある
べきなれども、かやうに御心よからざる事共多かり
ける中に、人耳目をおどろかし、世もて傾申ける事
ありけり、
二代后事
太皇大后宮と申は、右大臣公能公の御女、御母は中
納言俊忠卿女、近衛院の后也、中宮より太皇大后宮
にあがらせ給たりけるが、先帝におくれまいらせさ
せ給てのちは、九重の外、近衛河原の御所にぞ移り住
せ給ひける、先朝の后宮にして、古めかしく幽なる御
有様なりけるが、永暦、応保の頃は御年廿二三にも
やおはしましけん、御盛り少し過させおはしましけ
れど、天下第一の美人と聞させ給ひければ、主上〈 二條|院 〉
御心にのみ染る御心地にて、世の謗をも御顧みもな
かりけるにや、高力士に詔して、潜に外宮に捜し求む
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るに及んで、忍びつつ彼宮に御消息あり、あへて聞
召入られず、さればひたすらはやほに顕はれまし
まして、后入内可有由、右大臣家に宣旨を下さる、
此事天下に於て異なる笑じなりければ、公卿僉義あ
りて、先異朝の先蹤を尋るに、則天皇后は太宗、高
宗両帝の后に立給る事有き、則天皇后は太宗の后、
高宗皇帝の継母なり、太宗の後室と成て、感業寺に
籠り給ふ[B 「給ふ」に「給へり」と傍書]高宗の給はく、願はくは宮室に入て助け給
へと、天使五度来るといへども、あへて従ひ給はず、
爰に帝自ら感業寺へ臨幸して、朕あへて私の心を遂
んとには非ず、只天下の為なりと、皇后更に勅にな
びく言葉なし、先帝の他界をとぶらはん為に、たま
たま釈門に入、再び塵衣にかへるべからずと、皇帝
内外の群籍を勘て、強て還幸を勧むといへ共、皇后
くわく然としてひるがへさず、爰に扈従の群士等よ
こしまに取奉るが如くして都に入奉れり、高宗在位
卅四年、国静に民楽む、皇帝、皇后と二人政を治めき、

故に彼御時をば二和御宇と申き、高宗崩御の後、皇
后女帝として位に即給へり、年号を神功元年と改む、
周の王孫なるが故に、唐の世を改て大周則天大聖皇
帝と稱す、爰に臣下歎て曰く、先帝の太宗世を経営し
給へる事、其功を次ぎて古今類なしと云つべし、太
子なきにしも非ず、願くは位を授けて太宗の功業を
長からしめ給へと、仍て在位廿一年にして、高宗の
御子中宗皇帝に授給へり、則、代を改て神龍元年と稱
す則我朝の文武天皇慶雲二乙巳年に当れり、両帝の
后に立ち給ふこと、異朝には如(レ)此例ありといへど
も、本朝の先規を勘るに、神武天皇より此かた、人皇
七十四代、未だ二代の后に立給へる例を聞不(レ)及と、
諸卿の僉義一同也、法皇も此事聞召て不(レ)可(レ)然由、
度々申させおはしましけれ共、主上の仰有けるは、
天子に父母なし、万乗の寶位を忝くせん上は、是程
のこと叡慮に任せざるべきとて、既に入内の日時迄
宣下せらるる上は仔細に及ばず、此事被(二)聞召(一)ける
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より、宮は物うき事に思召して、引きかつぎてふさせ
給へり、御歎きの色ふかくぞみえさせ給ひける、誠
に覚えて哀なり、先帝におくれ参らせし久寿の秋の
はじめに、同草葉の露とも消え、家をば出て世を遁
れたりせば、かかるうきことをば聞かざらまし、口
惜き事哉とぞ思召れける、父の大臣参じ給ひて、なぐ
さめ申されけるは、世に隨はざるを以て狂人とすと
いへり、既に詔命を被下たり、仔細を申に所なし、
只速に参らせおはしますべきなり、是偏に愚老を資
け、且は孝養の御はからひたるべし、不(レ)知又此御末
に皇子御誕生有て、国母といはれましまして、愚老
も帝祖といはるべき家門の栄花にてもや侍らん、大
かたか様の事は此世一ならぬ上に、天照太神の御計
ひにてこそ候はめと、さまざま申させ給へども、御い
らへもなかりけり、其頃何となき御手習にかくぞ書
すきませ給ひける、
浮ふしに沈みもやらてかは竹の

世にためしなき名をや流さん W017 K008
世にはいかにしてや[B 「や」に「ナシイ」と傍書]もれ聞えけるやらん、哀にやさ
しきためしにぞ讃歎せし、既に入内の日時定りけれ
ば、御出立様々に営給ひけり、出車の儀式常よりも
珍らかに、心ことに出立せ参らせ給へり、宮は物う
かるべき出立なればとみに出させ給はず、遥に打ふ
け小夜も半過てぞ、御車には助けのらせおはしまし
ける、殊更色ある御衣なども召れず、白き御衣十四
五計りぞ召れたりける、内へ参らせ給にしかば、軈、
恩を承らせ給ひて、れいけい殿にぞ渡らせおはしま
す、清涼殿の画圖の御障子に秋月を書れたる所あり、
近衛院未だ幼帝にて渡らせ給ひける、そのかみ何と
なき御手ずさみに書くもらせおはしましけるが、少
しもむかしにかはらずして有けるを御覧ぜられける
に、先帝のむかしの御俤思召出させおはしまして、
何となく思召つづけらる、
思ひきやうき身なからにまよひ[B 「まよひ」に「廻りイ」と傍書]きて
P030
同じ雲井の月を見んとは W018 K009
此御詠哀に類少くぞ聞えける、楊貴妃がたぐひいで
きなんずと人申けり、さまざまにちかはせ給ふも有
けり、大方其頃は是のみならず、か様の思ひの外の
事共多かりけり、世澆季に及び、人凶悪を先とする故
也、
かかりし程に永万元年の春の頃より主上御不豫の事
御座ますと聞えしかば、其年の夏の始に成しかば、殊
にかは[B 「かは」に「よわイ」と傍書]らせ給ひき、是によりて大膳大夫兼成が娘の
腹に、主[B 今イ]上の御子二歳に成せ給ひしを、皇太子に立
させ給べき由聞しほどに、六月廿五日に俄に親王の
宣旨を被(レ)下て、頓て其夜位を禅らせ給ひしを、何と
なく上下あわてたりき、我朝の童帝は清和天皇九歳
にて、文徳天皇の御譲を請させ給しより始れり、周公
旦の成王にかはりつつ、南面にして一日に万機の政
を行ひしになずらへて、外祖忠仁公幼主を輔佐し給
へり、摂政又是より始まれり、鳥羽院五歳、近衛院三

歳にて御即位有しをこそ、疾き事に人思ひしに、是
は纔に二歳、先例なし、物さわがしと人思へり、六
月廿七日新帝御即位のこと有しに、閏七月廿八日御
年廿三にて新院失させ給ひにき、御位を去せ給ひて、
纔三十余日也、新院とは二條院の御事也、天下の憂
喜相交りて、取あへざりしに、八月七日香隆寺にあ
からさまにやどし参らせて後、彼寺の艮に蓮台野と
云所に納め奉り、八條の中納言長方卿其時左大弁宰
相にておはしけるが、御葬送の御幸を見て、かくぞ
思ひつづけらる、
常に見し君か御幸を今朝とへは
かへらぬたひと聞そかなしき W019 K010
忠胤僧都が秀句此時のこと也、七月廿八日如何なる
日ぞや、去る人のかへらず、香隆寺いか成所ぞや、
出御ありて還御なしと被申しかば、皆人袂をしぼ
りけり、哀なりしこと共なり、近衛大宮は此君にお
くれ参らせ給しかば、頓て御髪おろさせましましけ
P031
るとぞ聞えし、定めなきよのためし今更に哀也、
額立論事
御葬送の夜、延暦寺、興福寺の僧徒の輩がく打論をし
て、互に狼藉に及ぶ、昔は主上、上皇の崩御には南
北二京の大小僧徒等悉く供養有て、我寺々の印に行
を立、額をうたれしに、三條院の御時よりうたれざ
りしを、初て額立あり、南都は東大寺、興福寺を始
として、末寺々々相伴ふ、東大寺は聖武天皇の御願、
あらそふべき寺なければ一番也、二番は大職冠淡海
公の氏寺興福寺の行を立、園城寺、元興寺、清水寺、
雲居寺、東光寺、遍照寺、大覚寺、歓喜寺とて末々
の額を打、各々気色節に觸たる景気ども面白かりし
見物なり、今度の葬送の時延暦寺の衆徒等先例を背
き、ことを猥りて、東大寺の次、興福寺の上に行を立
る間、衆徒僉議しけるは、東大寺、興福寺は一二也、
自由に任せて延暦寺の額を興福寺の上に打せぬるこ
そ安からね、山をやせむべき、延暦寺をや焼き亡すべ
きなど議する所に、清水寺は興福寺の末なる故に、

清水寺法師に観音房、勢至房、金剛房、力士房とて四
人あり、進出でて申けるは、愚意の至に候へども、此
御せん議は延て覚候、只今打破りて本意を遂んとて、
四人の悪僧等小具足犇々と取付て、或は三枚冑に、
左右の小手、或は大荒目の鎧草搦長なるを一色にさ
ざめかせて、茅のほの如くなる、大長刀を持て走り
廻りて、さんざんに切破りて、延暦寺の額を切倒し
て、うれしや水なるは滝の水とはやして、興福寺の衆
徒の中に走入ぬ、此観音房と申は昌春とぞ名乗ける、
後には土佐房と改名して、南都西金堂の衆徒となる、
延暦寺の衆徒即時に手向ひをすべきに、心深くねら
ふこともや有けん、其時は一言も出さざりけり、扨
も一天の君、万乗の主、世を早くせさせおはしましか
ば、心なき草木迄愁たる色あり、いはんや人倫僧徒
の法に、其歎き浅からずこそ侍に、喧嘩出きたりて、
或は散々として高きも賎きも、誰を敵ともなければ
四方へ退散す、れんだい野の奥船岡山のほりにぞ落
P032
入ける、さけぶ声雲を響かし、地を動す、誠に此君
は宮の御弟子になし参らせて、仁和寺に入らせおは
したりしを、王胤猶大切なりとて取かへし奉りて、
頓て立坊有けり、されば御室は此御眤にて御位の時
も殊に頼み被(二)思召(一)て、二條内裏の辺、三條坊門烏丸
に御壇所を造給て渡らせ給ければ、常には万の政に
御口入有けるとぞ聞えし、
仰彼昌春南都をうかれける事は、興福寺領針圧と云
所有、去る仁安の頃、衆徒代官を入たりけるを、西金
堂の御油衆の代官として、小河四郎遠忠と云者、是
非なく庄務をうち止る間、衆徒の中より侍従五郎快
尊を遣して、遠忠が乱妨を押へさす、其時西金堂衆
土佐房昌春、数輩の悪徒と結[B 語ひイ]て、遠忠を夜打にして、
則彼庄を横領せんとけつかうする間、衆徒昌春を追
入[B 籠イ]て、仔細を奏聞の為に、御榊を先に立奉りて上洛
する由聞えければ、昌春多勢を率して彼御榊をさん
ざんに切すて奉りてけり、是によりて衆徒彌々憤り

をなして、昌春を召捕て禁獄せらるべき由訴申問、
長者より時の別当兼忠僧正に仰て召れければ、昌春
あへてこと共せず、然る間是を拵へて昌春が申所其
謂れ有るか、委く聞召て御成敗可(レ)有由重て被(二)仰下(一)
間、昌春おめおめと上洛したりけるを、寺家に仰付
て昌春を召取て、大番衆土肥次郎実平に預られぬ、
昌春鬼神にとられたる心ちして、年月を渡りける程
に、後には土肥と親しく成にけり、又其後公家より
も御さたもなかりければ、南都は皆敵なれば、しゐ
て還住せんことたよりなし、まことや伊豆国流人兵
衛佐こそ頼母しき人なれと思召して、土肥と云合せ
て北條に下て兵衛佐に奉公す、心ききたる者也けれ
ば、兵衛佐にも大切に思はれけり、兵衛佐治承四年
に院宣、高倉の宮の令旨を給て、謀反起し給し時、昌
春は二文字に結雁金の旗を給て、切者にて有ける間、
人申けるは、春日大明神の罰を蒙べかりける者をや
と申けるに、其後鎌倉殿より九郎大夫判官討とて京
P033
都へ差上られたりけるに、打そんじて北をさして落
けるが、くらまの奥、僧正が谷よりからめとられ、
六條河原にて頭をはねられける、時は遅速こそあり
けれ、神明の罰は恐しきことかなと人申けるとかや、
同九日午の時計に、山門の大衆下ると聞えければ、
武士、検非違使、西坂本へ馳向たりけれども、衆徒
神輿をささげ奉りて押破りて乱入す、貴賎さわぎ迷
へる事不(レ)斜、内蔵頭教盛の朝臣布衣にて、左衛門の
陣に候はる、上皇山の大衆に仰て、平中納言清盛卿
を追討せらるべき故に、山門衆徒都へ入と何者かい
ひ出したる事聞えければ、平家一類六波羅へ馳集る、
上下あわてたりけれ共、左衛門督重盛卿壹人ぞ、何故
に只今さるべきぞとて静められける、法皇も驚き思
召て、急ぎ六波羅へ御幸なりて、全く去事なしとぞ
仰られける、御幸の上は中納言も大に畏て驚かれけ
り、山門大衆は清水寺へ押寄て焼払べき由聞えけり、
去る七日の夜の会稽の恥をすすがんと云也、異朝に

稽山の洞と云所有、彼山得分有、夫と申は十七の蠶
あり、まゆ一を以て糸千両を置く、されば一万七千
両の糸也、故に此山をば蠶山と名付たり、会稽山共い
ふ、彼山に二人の主あり、会台将軍、稽貞鬼風と云、
弐人して一年づつ此得分を取、七月七日合戦を遂て、
去年勝たる者は今年負、今年かちたる者は、来年負
くる故に、稽山の麓にて年々打替て本意を遂る故に、
先の恥を今清む、仍ち会稽のはぢを清むとはいへり、
去七日は山門忽に恥にあひ、今九日は清水寺又恥を
見る、されば則会台鬼風に違ふべきや、清水寺法師
老少をいはず二手に分て相待けり、一手は滝尾の不
動堂に陣を取、一手は西門にて待懸たり、山門の搦
手はすでにくくめ路、せんがん寺、歌の中山迄責来
る、大手は覇陵の観音寺迄寄せて坊舎に火を懸けれ
ば、折節西風はげ敷して、黒煙り東へふきおほふ、
かかりければ清水寺法師一矢を射るに不(レ)及、取物も
取あへず四方にたいさんす、
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昔嵯峨天皇の第二[B 三イ]の皇子門居親王の后二條右大将坂
の上田村丸の御娘春子女御御懐妊の時、若御産平安
ならば、我氏寺に三重の塔をくむべき由御願に立さ
せ給ひし、九りん高く輝かし三重の塔も焼にけり、兒
安の塔と申は是也、いかがしたりけん塔にて火は消
にけり、本堂一宇計ぞ残りける、無動寺法師に伯耆
の竪者乗円と云ふ学匠悪僧の有けるが、進み出て申
けるは、罪業もとより所有なし、妄想轉倒よりおこ
る、心性O[BH 深イ]清ければ、衆生即仏也、只本堂に火を懸
よや懸よやと罵りければ、衆徒尤尤と同じて、手毎
に松明を燈して、本堂の四方へ付たりければ、煙り
忽に雲井はるかに立上り、一時がほどに回禄す、浅
ましとも愚なり、思ふ[B のイ]ごとく堂舎一宇も残さず焼払
て帰上りければ、上皇も還御なりにけり、重盛卿は
御送りに参られけれ共、清盛は留まられにけり、猶
用心のためにや、左衛門督御供より帰られたりけれ
ば、中納言宣ひけるは、法皇の入せおはしましつる

こそ畏れ多けれ、乍(レ)去かけてもO[BH 思ひよりイ]仰らるる旨のあれ
ばこそか様にも聞ゆらめ、其故は善導の御釈をひら
き見るに、一切の隠密を久しく不(レ)可(レ)行といへり、
必披露する事は聞えねとも、密する事は顕はるぞと
よ、それいかんとなれば、水[B ノ]下の砂に隠るる魚は鵜
のためにあらはれ、深山に籠る鳥ははやき鷹のため
にのがれぬといへり、必有事は聞えけるぞとよ、され
ば夫にも打とけらるまじと宣へば、左衛門督はこの
こと努々御気色にも御詞にも出さるべからず、人の
心付て申はあしきこと也、叡慮に背き給はず、人の
ために仁おはしまさば、神明三寶のかご有べし、仍
御身の恐有べからずとて立給へば、左衛門督はゆゆ
しく大様成者かなとぞ中納言は立給ひける、法皇は
還御の後、うとからぬ近習者あまた御前に候はれけ
れば、さるにてもふしぎの事をいひ出しつる、誰か
かかる事はいひつらんと仰有ければ、西光法師が候
ひけるが、天に口なし人を以ていはせよとて、六波
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羅辺殊の外に過分に成行は、天道の御罰にやと申け
れば、此ことよしなし壁に耳有と云事あり、恐し恐し
とぞ申合ける、清水寺焼たりける後朝に火坑変成池
は如何にと札を書て、大門の焼柱に打たりければ、
歴劫不思議これなりと返礼をたてたりけり、いか成
跡なし者のしはざ成けんとおをかしかりけり、是は去
年にて、今年は諒闇にて有しかば、御禊、大嘗会も
なし、同十二月二十五日、東御方の御腹に法皇の御子
親王の宣旨蒙らせ給ふ、今年五歳に成せ給ふ、年来は
打籠られて座しつるに、万機の政法皇聞召は御憚無、
東の御方と申は、時信朝臣の娘、知信の朝臣の孫也、
弁殿とて候はせ給けるを、法皇時々召れける程に、皇
子出き給ひければ、彌々重き人にて、始は皇后宮と申
けるが、皇子位に即せ給ひてのちは、院号有て、建
春門院とぞ申ける、相国の次男宗盛をば彼女御御子
にせさせ給ひければにや、平家殊にもてなし申され
ける、仁安元年今年は大嘗会有べきなれば天下の営

み也、同年三月七日、去年親王の宣旨蒙らせ給ひたり
し皇子、東三條にて春宮立の御事有、春宮と申は、
御門の御子也、是を太子と申、又御門の御弟の儲の
君に備らせ給ふ事あり、是をば太弟と申、皇太弟共
申、それに是は御甥はわづかに三歳、春宮伯父六歳
にならせ給ふ、昭穆相かなはず、ものさわがしとい
へり、但寛仁二年、一條院は七歳にて御即位、三條
院は十一歳にて春宮に立せ給ふ、先例なきに非ずと
人申けり、同三年二月十九日東宮高倉院八歳にて大
極殿にて御即位有しかば、先帝は五歳にて御位を退
き給ひて、新院と申き、いまだ御元服なくて御童形
にて太上天皇の尊号ありき、漢家、本朝是ぞはじめ
成らんと珍しかりけること也、此君の位に即せおは
しましぬることは、彌々平家の栄華とぞ見えし、国母
建春門院と申は、平家の一門にておはしまし候上、
とりわき入道の北の方二位殿の御姉にておはしまし
ければ、相国の公達に二位殿の腹は、当今の従父兄弟
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にむすぼほれ奉りて、ゆゆしかりけることども也、
平大納言時忠卿と申は女御の御せうと、主上の御外
戚にておはしましければ、内外に附たる執権の人に
て、叙位、除目以下公家の御政偏に此卿のさた也、
されば世に平関白とぞ申ける、当今御即位の後は、法
皇もいとどわく方なく院に近く召仕はるる、公卿殿
上人上下北面の輩に至迄、ほどほどに隨ひて官位ほ
うろく身に余る迄朝恩を蒙りたれども、人の心の習
ひなれば、猶あきたらず覚えて、此入道の一類、国
をも官をも多くふさげたる事を目ざましく思ひて、
此人亡びたらば其国はあきなん、其官はあきなんと、
心中には思ひけり、疎かならぬ輩は忍びつつささや
く時も有けり、法皇も内々思召れけるは、昔より今に
朝敵を打平ぐる者多けれ共、斯る事やあらじ、貞盛、
秀郷が将門を討、頼義が貞任を亡し、義家が武衡、
家衡を攻しも勲賞行れしこと受領には過ざりき、清
盛がさしたるし出したることもなくて、心の儘に振

まふ事こそ然るべからね、是も世の末に成りて、王
法の尽ぬるにやと思召けれども、ことの次なければ
君も御誡なし、又平家も朝家を恨み奉る事もなかり
しなり、世の乱れ初めける根元は、去ぬる嘉応二年
十月十六日、小松内大臣重盛公の次男新三位中将資
盛、其時は越前守たりし時、蓮台野に出て小鷹狩を
せられけるに、小侍共二三十騎打むれて、鷂あまた
据させて、鶉、ひばり追立て、折しも雪は降て枯野の
気色面白かりければ、終日狩暮して夕日山の端にか
かりければ、帰られけるに、時の関白松殿基房、院
の御所法住寺殿へ参らせ給ひて、還御有けるに、六
角京極にて参り逢、よるにてありければ、殿下の御
出とも不(レ)知越前守おごり勇みて世を世ともせざり
ける上、召具したる侍共みなみな十六七の若者にて、
骨法を弁へたる者壹人もなかりければ、殿下の御出
ともいはず、一切下馬の礼義もなし、依(レ)之前駈の御
隨身、しきりに是をいらつ[B ふイ]、何者ぞ御出なるに、速
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に罷留りて下り候へと申けれども、更に耳にも聞入
ず、蹴ちらして通りけり、暗きほどの事にてありけ
れば、御供の人々も、つやつや入道孫とも知ざりけ
れば、資盛以下侍五六人馬より取て引落し、頗る恥
辱に及ぶ、資盛の朝臣六波羅の宿所へかへりて、祖
父入道になくなく訴へければ、入道さいあいの孫に
ておはしけり、大にいかりて、殿下也ともいかでか
入道があたりの事をば憚り思はざるべき、おいさき
有若者に、さうなく恥辱をあたへらるるこそ意恨な
る次第なれ、此事思ひしらせ申さではえこそ有まじ
けれ、かかる事より人にもあなづりはじめらるると
て、殿下を恨奉らばやと宣ひければ、小松内府此事
を聞て、夢々不(レ)可有、重盛が子共なんど申さんず
る者の、殿下の御出に参りあうて馬よりも車よりも
おりぬこそ尾籠にて候へ、左様にせられ参らするは
ひと数に思召なさるるによりてなり、この事却りて
面目に非ずや、頼政、時光なんど体の源氏などにあ

ざむかれたらば誠に恥辱にても候なん、かやうの事
より[B 「より」に「はイ」と傍書]大事に及で世の乱ともなることにて候と宣ひけ
れば、其後は内府には宣ひあらせず、片田舎の侍共の
こはらかにて入道殿の仰より外に重き事なしと思ひ
て、前後も弁へざる者十四五人計り招寄て、来二十
一日主上の御元服の定に、殿下御参内有んずる道に
て待請申て、前駈御隨身等のもとどりきれと下知せ
られければ、其日に成て中[B ノ]御門猪のくま辺に六十余
騎の軍兵を揃へて、殿下の御出を待請たり、殿下は
かかる事有とも知し召れず、主上明年の御元服の加
冠、拝官のさだめのために、今日より大内の御直廬
に七日候はせおはしますべきにて有ければ、常の御
出よりも引繕せ給ひて、今度は待賢門より入せおは
しますべきよしにて、何心なく中[B ノ]御門を西へ御出な
りけるを、猪のくま堀川の辺に六十余騎の軍兵待受
参らせて、射殺し切殺さね共、さんざんにかけちら
して打落しはり落す、馬に任せて逃る者もあり、馬
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を捨て隠るる者もあり、前駈、御隨身共れうりやく
して、前駈六人次第に本鳥を切てけり、其中に藤蔵
人の大夫高則が本鳥を切ける時、汝が本鳥を切には
非、汝が主の本鳥を切也といひ含めて是を切、隨身
十人が内右府生武光、同本鳥を切られにけり、剰へ
御牛の尻がへを切たちて、御車の内へ弓をあららか
につきいれければ、殿下も御車よりくづれ落させた
まひて、あやしの賎の家に立入せ給ひければ、前駈
も御隨身もいづちへか失たりけん壹人も無りけり、
供奉の殿上人或は物見うちやぶられ、或はしりがひ、
むながひ切はなたれて、くもの子をちらす様にしち
らして、中御門おもてにて悦の鬨を作りて六波羅へ
帰りにけり、入道はゆゆしくしたりとかんじけるに、
小松大臣こそ大にさわがれ、景綱、家貞きくわいな
り、たとへ入道いか成ふしぎを下知し給ふとも、い
かでか重盛には夢にも知ら[B 「にも知ら」に「をば見イ」と傍書]せ給はざりけるぞとて、
行向ひたる侍共十余人勘当せられけり、重盛なんど

が子共にて有んものは、殿下を恐れ奉り、礼義をな
してふるまふべきに、云甲斐なき若者共を召具して、
左様の尾籠を現じて、剰父祖の悪名を立る事不孝の
至り、偏に汝にあり、自今以後は親子の儀に非ずと、
越前守をも深く誡めらるとかや、この大臣は何事に
付ても能人とぞ世にも人にも[B 「人にも」に「ナシイ」と傍書]誉られける、其後は殿
下の御行衛も知参らせたる人壹人もなかりけるに、
御車ぞへの古老の者に、淀の住人因幡[B ノ]先使国久丸と
申ける男、下臈なりけれどもさかさかしかりける者
にて、抑君はいかにならせ給ひぬるにかとて、爰か
しこを尋求め参らせけるに、殿下はあやしの賎の家
に遣戸の際に立かくれて、御直衣しほしほとして渡
らせ給ひけり、国久丸只壹人しりがひ、むながひむ
すび集めて御車仕りて、是より中御門へ還御なりに
けり、還御の儀式心うしとも疎也、摂政関白のかか
るうきめを御覧ずる事昔も今もためしすくなくこそ
有けめ、是ぞ平家の悪行の初なる、
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翌日西八條の門前に作り物をぞしたりける、法師の
腰からみて長刀を荷て持上て物を切んとするけいき
を作りたり、又前に石鍋にし[B もイ]立たる物を置たり、道
俗男女門外に市をなす、されども心得たる者壹人も
なし、こは何事を申[B 「を申」に「ナシイ」と傍書]ぞやと云所に、五十ばかりなる
僧のさし寄打見て申けるは、さればよべの事を作り
たる也と申せば、何ぞと云に、よべ殿下の御出なり
けるを、平家の侍、中御門ゐのくまにて待うけ参ら
せて、さんざんに追ちらし、御車をくつがへし、前
駈、御隨身の本鳥を切たりけるを作りたり、是こそ
むし[B くイ]物にあうてこしがらみといふことよと申せば、
一同にはと笑ひてのく、如何成あとなし者のしわざ
成らんとおかしかりけり、扨前駈者たりける蔵人大
夫高範あやなく本鳥を切られたり、いかにすべき様
なくて宿所にかへり、引かつきてふしたりけるが、
俄に大とのゐの綾織のなかに目あかく、手のきき
たらん二人ばかり、きと召し進せよといひければ、

妻子ども何事やらんと、覚束なく思ひける所に、程
なく召して参りたりけるを、妻子けんぞくにも見せ
ず、一間成所に籠りゐて、切られたる本鳥をかづら
をさ[B たをイ]して、一夜の内に結びて続せて、びんしととか
き、ゑぼし打着て、蔵人所に参して申けるは、我いや
しくも武家に生れ、如(レ)此弓矢を取て重代罷り過ぐ、
其日しかるべき不祥にあひたりしかども、そくたい
をまとひ、つめきるほどの小刀体の物も身に隨へず、
人に手をかくる迄こそなくとも、あたる所口をしき
めを見んよりは、自害こそ仕るべかりしも不(レ)叶、剰
へ本鳥を切れたりと云不実さへいひ付られ、弓矢取
者の死ぬべき所にて死ざるが致す所也、則世をもの
がれ家をも出べけれども、左右なく出家したらば本
鳥を切れたるは一定也とさたせられんずらん事、生
生世々のかきん也、今一度誰誰にも対面と存じて
参りたり、但し憖(なまじひ)に人並々に立まじればこそ、かか
る不実をもいひ付らるれ、思ひ立たること有とて、
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懐より刀を取出して本鳥をおし切て、乱髪にゑぼう
し引入て袖打かつぎて罷出けるこそ賢かりけれ、廿
二日摂政殿は法皇に御参りありて、心うきめにこそ
あうて候へと申させ給ひつれば、法皇も浅ましく思
召て、此由を入道にこそいはめと仰ありける、入道
此よしをもれ聞て、殿下の入道がことを院に訴へ申
されたりけるとて、又しかりののしりけり、殿下か
く事にあはせ給ひければ、廿五日院殿上にてぞ御元
服の定は有ける、さりとて、さて有べきにあらねば、
摂政殿十二月九日兼て宣旨を蒙らせ給ひて、十四日
太政大臣に成せ給、これは明年御元服の加冠の科也、
同十七日に御拝賀有、ゆゆしくにがりてもありし、
太政入道第三の姫后立御定あり、今年十五にぞ成給
ひける、建春門院の猶子也、
妙音院の入道太政大臣の内大臣の右大将にておはし
ましけるが、もとより出家の御志有ける上、入道相
国年を経、日に隨て過分に成て、天下の事を我儘に

執行し、重盛を大将になしつる上、次男の宗盛を大
将になさんと心に懸て、其闕を窺ふ由聞せ給ひける、
折節松殿かく事にあひ給ふに附ても、一定大将はが
れなんずと思召て、急ぎ大将を辞退申されけるを、
徳大寺大納言実定の一の大納言にておはしましける
が、理運にて成給べきよし聞えけり、其外花山院の
兼雅も所望せられけり、さては殿[B ノ]三位中将帥家卿抔
や成給んずらんと世間には申合ける程に、故中[B ノ]御門
中納言家成卿三男新大納言成親卿平に申されける、
院御気色善りけれ様々の祈を初て、去ともと思れ
たり、或時八幡宮に僧を籠めて真読の大般若を読せ
られける程に、半部ばかり読たりける時、高良大明
神の上なる松の木より山鳩二つ来りて、くひ合ひて
死にけり、鳩は八幡大菩薩の第一の使者也、宮寺に
かかるふしぎなしとて、別当浄清ことの由を公家へ
奏聞したりければ、神祇官にて御占あり、天子、大
臣の御慎に非ず、臣下の慎とぞ占ひ申たりける、是
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のみならず賀茂の上社へ七ヶ日、下鴨社へ七ヶ日、
忍びて歩行にて日詣をして百度詣をせられけるに、
第三日に当る夜詣で下向して、中[B ノ]御門の宿所に大納
言臥れたりける夜の夢に、詣で上の御前に候と覚し
きに、神風すごく吹下し、寶殿の御戸をきつと開れ
たりける、やや暫く有て、ゆゆ敷けだかき女房の声
にて一首の歌を詠ぜさせ給ひけり、
梅の[B 「梅の」に「桜イ」と傍書]花賀茂の川かぜうらむなよ
ちるをばえこそとどめざりけれ W020 K011
成親卿夢の内にうちなきて驚れけり、我[B 是にイ]もしひず、
上の社には仁和寺の俊尭法印を籠めて真言秘[B 「真言秘」に「だきにてんのイ」と傍書]法を行
せられける程に、七日に満る夜、俄に天ひびき、地
揺く程の大雨ふり、大風吹て雷なりて寶殿の後の妻
戸杉に雷落かかり、火もえ付て若宮の社は焼にけり、
神は非礼を受給はねば、かかる不思議も出来にける
とかや、成親卿猶是にも思ひ知り給はぬぞ[B 「ぬぞ」に「ざりけるこそイ」と傍書]浅ましき[B けれイ]、
去程に嘉応元年正月三日、主上御元服せさせ給て、

十三日てうきんの行幸とぞ聞えし、法皇、女院御心
もとなく待受参らせ給ひて、初冠の御すがたらうた
くいつくしく渡らせ給ひける、三月入道相国第二[B ノ]
娘、女御に参らせ給ひて、中宮徳子とぞ申ける、法皇
御猶子の儀なり、七月には角力の節あり、重盛宿運お
はしければ、右のあくやにて事を行ひ給ふを、人見て
申けるは、果ほうこそめでたく、近衛大将に成んから
に、容儀進退さへ人にすぐれ給ふべしやはと申あひ
けりとかや、加様にほめ奉りて、切ての事には末代に
相応せで、御命やみじかくおはせんずらんと申ける
こそいまはしけれ、御子息大夫侍従羽林なんどいひ
て、あまたおはしけるも皆いうにやさしく花やかな
る人にておはしあひける上、大将は心ばへよき人に
て、子息たちも詩歌、管絃を習はせ、事にふれてよし
有事をすすめらる、去ほどに此程の叙位、除目は平家
のままにて、公家、院中の御計にてもなし、摂政関白
の御成敗にてもなかりければ、治承元年正月十四日
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の除目に、徳大寺、花山院、中将殿もなり給はず、まし
て新大納言思ひやはよるべき、入道の嫡子重盛右大
将にておはしけるが、左にうつりて、次男宗盛中納言
にておはしけるが、数輩の上臈を超過して、右にかは
られけるこそ申計もなかりけれ、嫡子重盛の大将に
成給ひたりしをだにゆゆしき事に人思へりしに、次
男迄打続並び給ふ、世には又人有とも見えず、中にも
後徳大寺の大納言、一の大納言にて才学優長に、家重
代にて越られ給ひしこそ不便の事なりしか、定て御
出家など有んずらんと、世の人申あひけれども、此世
の成らんやうをも見はてんと思ひ給ひけるか、猶余
の悲しさに大納言を辞し申て御籠居有、既に出家し
て山林に交るべき由思召立けるに、源蔵人大夫賢基
が申けるは、御出家候て世を捨させ給はば、君の頼み
参らせ候青侍青女たち皆餓死になんず、口惜く候、平
家四海を打平げ、天下を掌に握、爰に一天の君をだに
なやまし参らせ候、左ほどの人のふるまひをとかく

申に不(レ)及、三家の君達に越られさせ給て候はばこ
そ、御恨みにても候はめ、世は謀を以て先とす、安芸
の厳島へ御参あるべしと存候、七日の御参籠候はば、
其社のみこをば内侍と申候、それに種々の引出物を
たびて、内侍四五人相具して京へ御上り可(レ)有候、内
侍京へ上候程ならば、太政入道に一定見参し候はん
ずらん、何しに上りたるぞと尋られ候はば、内侍有の
ままに申候はば、大将は一定参らぬとおぼえ候とて、
様々に拵へ申されければ、さらばとて厳島へ参らせ
給へり、案のごとく内侍共参りたり、支度したる事な
れば、種々の引出物をたびて、色々様々にもてなし給
ひけり、かくて七日の御参籠もはてければ、京へ上り
給ひけるに、内侍共名残を惜み奉りて、一日送り参ら
せて、次日内侍ども帰んとする所に、徳大寺殿被(レ)仰
けるは、やや内侍達、王城の鎮守を差置き参らせて、
国を隔て海を分て参りて候志を思ひやられ候べし、
内侍達をば大明神とこそ思ひ奉れ、今一日名残を惜
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み給へかしと宣ひければ、承りぬとて送り奉る、次日
又内侍いとま申て帰んとする所に、種々の引出物を
たびて、内侍を情なし、今一日送れかしと宣ひけれ
ば、承りぬとて又送り奉る、かくて一日々々送り奉る
ほどに、都近く送奉る、徳大寺殿被(レ)仰けるは、是迄上
りたるに、いざかし都へ内侍たちに京づとをも尋て
取らせんと宣ひければ、承りぬとて、内侍十余人京へ
のぼる、内侍共申けるは、太政入道殿に見参に入て下
らんとて参じたれば、入道殿出会て見参し給ひて、内
侍ども何しにのぼりたるぞと問れけり、内侍申ける
は、徳大寺殿大将を超られさせ給ひたるとて、御出家
ありて山林に交らんとせさせ給ふが、厳島大明神は
れいげんあらたに渡らせ給へば、祈請申て其後出家
せんとて御参籠候つるに、御心いうにやさしく御座
つる間、御名残惜くて、一日々々と送り参らせ候つる
程に、京へ上りて候へば、見参に入ていとま申さんと
て参りて候と申ければ、入道打うなづきて一定か、内

侍達さん候とぞ申ける、入道宣ひけるは、浄海があが
め奉る大明神を尊く渡らせ給ふと伝聞て参り給たり
けるこそいとをしけれ、大明神御威光も恐れあり、と
くどく重盛大将あけよとて、徳大寺殿左大将になし
奉る、新大納言彌口惜と思はれけり、いかにして平
家を亡して本望を遂んと思ふ心付にけるこそ恐しけ
れ、父卿は中納言迄こそ至られしに、其末の子にて位
正二位官大納言、年僅に四十二、大国あまた給はり
て、家中たのしく子息所従に至迄、朝恩にあきみち
て、何の不足ありてか、かかる心付にけん、是も天魔
の致す所也、信頼の卿の有様をまのあたり見し人ぞ
かし、其度の謀反にも与して、既に誅せらるべきにお
はせしが、小松内大臣の恩を蒙て首を継たりし人に
非ずや、然を疎き人も入ざる所にて兵具を調へ集め
て、可然者を語らひ、此いとなみの外他事なかりけ
り、東山に鹿の谷と云所は、法性寺の執行俊寛が領
也、件の所は後は三井寺に続きてよき城也とて、そこ
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に城郭を構へて、平家を討て引籠らんと支度せらる、
多田蔵人行綱、法性寺の執行俊寛、近江の中将入道れ
ん生〈 俗名は|なりまさ 〉山城守もとかね、式部大夫のり綱、平判官
康頼、宗判官信房、新平判官すけゆき、左衛門の入道
西光寺を始として北面の下臈あまた同意したりけ
り、平家を亡すべき与力の人々、新大納言成親卿を始
として、鹿の谷俊寛が坊を会所として、常により合
より合だんぎしけり、法皇も時々入らせ給て聞し召け
り、入せ給ふ所ごとに、俊寛がさたにて、御儲ていね
いにしてもてなし参らせて、御延年抔有時もあり、か
の人々例の俊寛が坊に寄合て終日酒宴して遊ばれけ
り、去程に酒盛半に成りて、万興有けるに、多田蔵人
が前に盃流れとどまりたり、新大納言青侍を壹人招
よせて、何事やらんささやきてければ、程なく清げな
る長びつ一合縁の上にかきすへたり、尋常なる白布
五十端取出して、やがて多田蔵人が前に置せて、大納
言めをかけて日頃だんぎ申つる事、大将軍には一向

御辺を頼み奉る、其弓袋の料に進候、今一度候はばや
としひたりければ、行綱畏て三度して、布に手うちか
けて押のけ、是は則郎等寄て取てけり、其頃静憲法印
と申けるは、故少納言入道しんせいが子也、万事思知
りて引入て真の人にてぞ有ければ、平相国も殊に用
ひて、世の中のことなど時々いひ合せられけり、法皇
の御気色もよくて、蓮華王院の執行に成しなんどし
て、天下の御政常には仰合せられけるに、成親卿取あ
へず、平氏既に倒れたりと申されければ、法皇ゑつぼ
に入らせ給ひて、康頼参りて、当弁仕れと、仰のあり
ければ、己が能なれば、つゐ立て、凡近頃は平氏が余
り多くしてもてあつかひておぼえ候、首をこそ取候
はめとて、瓶子の首を取て入にけり、法皇も興に入せ
給ふ、着座の人々もゑみを含みてぞおはしける、静憲
法印計は浅ましと思ひて、物をも宣はず打頷きて、声
もあらく立ざりけり、彼康頼はもとは阿波国[B ノ]住人、
人品さしもなき者也けれども、諸道に心得たる者に
P045
て、君にも近く召仕れ参らせて、検非違使五位の尉ま
で成にけり、末座に候ひけるが召出されけるも時に
取て面目とぞ見えける、土の穴をほりていふなる事
だにも、もるると云ことあり、まして左程の座席なり
ければ、なじかはかくるべき、人人聞伝へてささやき
けり、空恐しく覚えける、成親卿のもとに、みめよき
上わらは二人ありけり、名をば松の前、鶴の前とぞい
ひける、松は顔すぐれたりけれ共、心の色少しさしお
くれたり、鶴は顔は尋常なれ共、心に哀[B 念イ]あり、此談義
のために俊寛始めて大納言のもとへおはしたりけれ
ば、杯酌進けるに、彼上童二人出して色々さまざまに
しゐたりけり、是を始として俊寛常はよばれければ、
二人ながら時々こしうたせなどせられけるほどに、
鶴が腹に女子一人出来たりけるとかや、彼俊寛は木
寺の法印寛雅の子、京極の源大納言雅俊の孫也、させ
る弓矢とる家にはあらね共、彼大納言ゆゆ敷心猛く、
腹あしき人にておはしけり、京極の家の前をば人を

もたやすく通さず、常は歯をくひしばりておはしけ
れば、人歯ぐひの大納言とぞ申ける、かかる人の孫な
ればにや、此俊寛も僧なれども心たけくおごりし人
にて、か様のことにもくみせられけるにや、
三月五日除目に内大臣師長公太政大臣に任じ給へる
かはりに、左大将重盛、大納言定房卿を超て、内大臣
に成給ひにけり、院御所三條殿にて大饗行はれ、近
衛大将に成給し上は、子細に及ばねども、大臣の大将
いと目出たし、左右の大将只今闕あり気なし、師長押
上られ給へり、又一[B ノ]上こそ前途なれども、宇治左大
臣の御例憚あり、又太政入道も心元なげにいはれけ
れば、よしなしと被(レ)仰けるとかや、五條中納言邦綱[B ノ]
卿大納言にならる、年五十六、一の中納言にておはし
けれども、第二迄は中[B ノ]御門中納言宗長卿、第三迄は
花山院中納言兼雅卿、此人々の成給ふべかりけるを
おそとどめ、邦綱卿のなられける事は、太政入道万事
思ふ様成が故也、此邦綱卿は提中納言兼輔の八代の
P046
末葉、式部大夫盛綱が孫前右馬介盛国が子也、然る
に二三代は内[B ノ]蔵人だにもならず、受領、諸司[B ノ]助など
にてありけるが、進士、雑色とて、近衛院の御時近く
召仕はれけるが、去久安四年正月七日、家を起して、
蔵人頭に成にけり、其後次第に成上りて、中宮の亮ま
で成にけり、法性寺殿かくれさせ給て後、太政入道に
取入て様々宮仕ける上、毎日何にても一種を獻ぜら
れければ、所詮現世の得意に此人に過たる人有まじ
とて、子息二人入道の子にして、清国とて侍従になさ
れぬ、又三位中将重衡を聟になして後、中将内の御乳
母子になられたりければ、其北の方は御母代にて、大
納言典侍とぞ申ける、治承四年の五節は福原にてぞ
有ける、殿上の淵醉の日、雲客后宮の御方に推参せら
れたりけるに、式部卿の竹湘浦に斑也と云朗詠を投
げ出されけるを、此邦綱の卿聞給て、取あへず、あな
浅まし、是は禁忌とこそ承れ、かかる事聞とも、聞か
じとて、ぬき足をしてにげられけり、させる屬文の人

にておはせざれども、か様の事まで聞とがめ、貴賎を
いはず親疎をわかず必訪はれけり、人望もすぐれた
り、何よりも一の所の御家領の事を計ひ申されける
が、目出たき事にてぞ有ける、此邦綱卿の母、賀茂大
明神に志をはこび奉りつつ詣ては、邦綱に一日の蔵
人を経させ候はばやと祈申されけるに、賀茂の御社
の氏人檳榔の車をいて来て、我家の車やどりに立る
と夢みたりけるを、不(二)心得(一)覚えて、人にかかる夢こ
そ見たれと語ければ、公卿の北の方にこそ成給はん
ずらんといひければ、我身年たけたり、夫まうくべき
に非ずと思ひ給ひけるに、邦綱の卿蔵人は事もおろ
そかや、忝く夕郎貫首を経て、終に正二位大納言に至
らせ給ふ[B 「せ給ふ」に「れけるイ」と傍書]ものを、太政入道のさりがたく思ひ給ひけ
るも、しかしながら賀茂大明神の御利生なりとぞ人
申ける、

平家物語巻第一終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第二

P047
平家物語巻第二
北面は上古にはなかりけり、白河院の御時はじめ置
れて、衛府どもあまた候けり、為利、盛重わらはべ
より千じゆ丸、今犬丸とてきりものにて有けり、千
手丸は三浦、後には駿河の守、今犬丸は周防国の住
人、後には肥後のかみ、鳥羽院の御時も、季範源左
衛門の大夫、子息やすすゑ河内の守、同季頼大夫尉、
父子近く召仕はれて、傳奏するをりも有と聞えしか
共、皆身の程をばふるまひてこそありしに、此御時
の北面の者共は、殊の外に過分にて、公卿、殿上人を
も物ともせず、禮義もなかりけり、下北面より上北
面にうつり、上北面より殿上を許さるるも有けり、
かくのみ有る間、驕れる心どもありけり、其中に故
小納言入道のもとに師光、成景と云者あり、小舎人
童、もしは恪勤者などのけしかる者ども也けれども、

さかさかしかりければ、院の御目にもかかりて召仕
はれけり、小納言入道の事にあひし時、二人共に出
家して、法名の一字を加へて左衛門入道西光、右衛
門入道西景とぞ云ける、二人ながら御蔵n預りにて召
仕はれけり、其西光が子に師高もきりものにて有け
れば、検非違使五位の尉迄成りて、安元元年十二月廿
九日、追儺除目に加賀守に任て国務を行ふ間、様々
のひほふひれい張行せし餘りに、神社、仏寺、権門、
勢家の庄頭をたふし、さんざんのこと共にてぞ有け
り、たとへ邵公があとをへだつとも、おんびんの政
をこそ行ふべかりしに、よろづ心の儘に振舞しほど
に、同二年八月に白山末寺に温泉寺と云山寺にいで
湯あり、彼湯に目代馬を引入て洗ひけるを、大衆申
けるは、是は白山権現の一切衆生の諸[B 衆イ]病の薬の為に
いだし給ふ所の出湯也、悉き所に馬を引入て、洗ふ
事狼藉也と制しをくはふ、猶きかず、然る間大衆起り
て、白山、中宮八院三社のそう長吏、智積、覚明等張
P048
本として、とねり男が本どりを切、馬の尾を切て追
ひ放つ、目代申けるは、馬の湯あらひれいなくば、
何度もせいしをこそくはふべけれ、さうなく馬の尾
を切べき様やある、はぢ有者の乗馬の尾を切る事、本
どりを切に同じといふ、安からぬこと也とて、国方
より大勢を揃へて押寄て、温泉寺の坊舎を焼拂ふ、
此事によつて八院の大衆の中に、秀衡が孫に金台房
を大将軍として、明台房、室大房、能登房、加賀房、
越前房、同白山の大衆五百餘騎にて加賀の国府へ押
寄せて、かう堂にたて籠りて、廰へ使をたてたれば、
目代はひがごとしつとや思ひけん、廰屋にもとまら
ずして、迯げて京へぞ上りにける、大衆力及ばで、そ
れよりて帰てせんぎしけるは、此所は本山の末寺也、
しよせん叡山へ訴へ奉らん、若訴訟叶はぬものなら
ば、我等長く生土へ帰らじと一同にせんぎして、神
水、仏水を飲み、同年八月に白山の早松の御輿をか
ざり奉り、むねとの大衆三百餘人、御輿をささげ奉

りて上洛す、富時の天台座主は明雲僧正にておはし
ます、此事聞たまひて、専当法師、宮仕法師二人を
とて、当時は院の御熊野詣也、上洛せられたりとも、
御裁許有るべからず、とくとく是より帰られて、御
悦の時、上洛せらるべき由被r仰けれども、白山大衆
猶聞かず、明雲僧正此事を聞給ひて、門跡の大衆四
十餘人差下して、早松の御輿をば奪取り、かねがさ
きの観音堂に休め奉り、白山の大衆を追返す、衆徒
等よりあひて歎けるは、我等此訴訟叶はずは、長く
しやうどへ帰らじと誓たるに、いつしか敦賀の津よ
り帰らん事こそ口惜けれ、いかがすべき、我等生土
へかへるべからずと一同に神水仏水を飲つ、おして
上るべしとて、八月五日宇河を立て、勧成寺に着き
給ふ、御供の大衆すでに一千餘人なり、勧成寺より
同じき六日、仏が原、金剣宮へ入らせ給ふ、爰に一両
日逗留す、同九日留守所より牒状あり、使者には橘n
次郎大夫則次、但田次郎大夫忠利等也、
P049
留守所、牒(二)白山中宮衆徒(一) 衙
欲3早停(二)止衆徒参洛(一)事
牒、奉(レ)捧(二)神輿(一)、衆徒企(二)参洛(一)、令(レ)致(二)訴訟(一)事之
趣、非(レ)無(二)不審(一)、因(レ)茲差(二)遺在庁忠利(一)、尋(二)申仔
細(一)之処、為(二)石井法橋訴申(一)令(二)参洛(一)之由、有(二)返
答(一)云々、此[B ノ]条理豈不(レ)可(レ)然、争依(二)小事(一)、可(レ)奉(レ)動(二)
大神(一)哉、若為(二)国之沙汰(一)、可(レ)為(レ)裁(二)許訴訟(一)歟、者
賜(二)其解状(一)可(二)申上(一)也、乞哉察(レ)状、以牒、
安元三年二月九日 散位財部朝臣
散位大江朝臣
散位源朝臣
目代源朝臣
とぞ書たりける、依(レ)之衆徒返牒在(レ)状云、
白山中宮大衆政所返牒 留守所
来牒一紙被(レ)載(二)送神輿御上洛(一)事
牒、今月九日牒、同日到来、依(レ)状案(二)仔細(一)、在(二)神明
和合(一)、而黙(二)定吉日(一)進(二)発旅路(一)次、以(二)人力(一)不(レ)可(二)

成敗(一)之、冥罰豈不(レ)恐(レ)之哉、仍以後日任(二)牒返之
状(一)仔細[B ノ]状如件、
安元三年二月九日 大衆等
同十日仏原を出て、椎津へ着せ給ふ、同日又留守所
より使二人あり、税所大夫成貞、橘次郎大夫則次等、
野代山に大衆の後陣に追付たり、則、件の使者落馬
して又馬の足折れたり、是を見て衆徒弥々神力を取、
同十一日に二人の使、椎津に到来す、あへて返牒な
し、ことばを以て使者神輿を留め奉るといへ共、こ
と共せず上洛す、明雲僧正重ねて奉(レ)留、神輿守護衆
徒状云、
謹請 延暦寺御寺牒
欲(レ)被(二)裁許(一)奉(レ)振(二)上神輿於山上(一)、目代師高罪
科事
右雖(レ)令(レ)言(二)上仔細(一)、于(レ)今不(レ)蒙(二)裁許(一)之間、神輿
入洛之処、抑留之条是一山之大訴也、倩案(二)事之情(一)、
白山者雖(レ)有(二)敷地(一)、是併三千之聖供也、雖(レ)有(二)免
P050**
田(一)、当任有名無実也、然者仏神事、断絶顕然也、
仍当年八講、三十講、同以断絶、我山者大悲権現
和光同塵之素意候、近来参向拝社之族、又以断絶、
当(二)此時(一)而深歎切也、然者奉(レ)振(二)神輿(一)、所(レ)啓(二)参
向(一)也、永忌(二)向後之栄(一)、五尺之洪鐘徒響、黄昏之
勤誰明、冥道之徳、在(二)于人倫(一)迷癡之用深也、蓋
全元(二)現将来吉凶(一)哉、権現御示現有(レ)之、然則不(レ)被
(レ)拘(二)制法(一)、既令(レ)附(二)敦賀[B ノ]津(一)、任御寺牒(一)之状、止(二)
神輿[B ノ]上洛之儀(一)、可(レ)侍(二)御裁報(一)之状如(レ)件、
安元三年二月廿日 衆徒等
とぞ書たりける、同廿一日せん当此状を取て帰り上
ぬるうへは、裁報を相待所に、遅々の間、衆徒等潜
に神輿をぬすみ出し奉りてとらばやと伺ふ所に、御
輿守護の者共は、専当法師、宮仕法師等也、是を呼
び寄て、白き小袖を一つづつとらせて、酒をしひふ
せたり、宮仕、専富しひられて、前後も知らで酔伏
せり、其間に早松の御こしをぬすみ取、東路にかか

りて、丹生の御輿を柳井が瀬を通り、近江国河内の
濱にぞ着にける、それより小船に御輿をかきのせ奉
りて、東坂本へ押渡らんとする処に、辰巳の風荒くし
て、小松が濱にぞ吹付たる、白山の大衆手づから御
輿捧げ奉りて、十ぜんじの御前にかきすへ奉る、山
門の大衆等せん議しけるは、末社の神おろかならず、
本社の権現のごとし、まつじの僧徒いやしからず、
本山の大衆と同じ、目代ほどのものに一院を燒れて、
いかでかさて有べき、尤山門の大訴たるべし、但当
時は院の御熊野詣也、御悦を相待参らせんとて、白
山権現をば日吉には客人の社といはひ参らせたり、
早松の御輿を客人の社に休め奉りて、院の御熊野詣
の御悦を相待参らせけり、去程に院すでに御下向有、
山門の大衆等、白山の訴状を受取て、末寺の僧徒等
が申状かくのごとし、真実この事もだしがたく候や、
国司師高を流罪に行はれ、目代もろつねをきんごく
せらるべきよし奏聞せしを、裁許おそかりければ、
P051
太政大臣以下、さも可(レ)然公卿たちは、哀とくとく御
裁許可(レ)有ものを、山門の訴訟は昔より他に異なる
事也、大蔵卿為房、太宰の帥季仲は朝家の重臣なり
しかども、大衆の訴訟によりて流罪せられにき、師
高などがことは物の數ならず、仔細にや及ぶべきと、
内々は申されけれども、言葉に顕はして奏聞の人な
し、大臣は禄を重んじてものいはず、小臣は罪を恐
れて諌めずと云事なれば、各口をとぢておはしけ
り、其時の見任の公卿に兼実、師長をはじめとして、
貞房隆季に至るまで、身を忘れて君を諌め奉り、力
を盡して国を全ふすべき人々にておはせし上に、武
威をかがやかして、天下をしづめし入道の子息、重
盛などの夙夜のきんらうをつみてこそおはせしに、
かれといひ是と云、師高一人にはばかりて、言葉に
はかたぶけ申されけれども、いさめ申さざりければ、
君に仕ふまつるに、私法然るべきや、前車のくつが
へるをたすけずば、後車のめぐる事を頼んやとこそ

蕭何をば太宗は仰られけれ、君もくらく、臣も諂ふ
べき人々にやおはせし、いかにいはんや、君臣の国
を乱らんに於てをや、又権勢の政事のたがはんに於
てをや、鴨河の水、双六のさい、山法師是ぞ我心に
叶はぬものと、白河院も仰ありけると申伝へたり、
鳥羽院の御時、平泉寺を以ておんじやう寺に附らる
べき由、其聞えあり、依(レ)之山門の衆徒たちまちに騒
動して奏状す、其状に云、
延暦寺衆徒等解申請(二)院庁裁(一)事
請曲垂(二)恩恤(一)任(二)応徳寺牒(一)、以(二)白山平泉寺(一)永
為(二)当山末寺(一)状
右謹検(二)案内(一)、去応徳元年白山僧徒等、以(二)彼平泉
寺(一)寄(二)附当山末寺(一)已畢、于時座主良真任(二)寄文旨(一)、
成(二)寺牒(一)附(二)彼山(一)畢、自(レ)爾以降依(レ)無(二)住僧之訴
訟(一)、不(レ)及(二)衆徒之沙汰(一)、然間去春彼山之住僧等、
来訴(二)于当山(一)、是延暦寺之末寺也、応徳寺[B ノ]牒尤足(二)
證験(一)、爰薗城寺之覚宗、任(二)彼別当職(一)、非法濫行遂
P052
(レ)日倍増、積愁為(レ)枕之間、以(二)当山(一)、欲(レ)為(二)薗城
寺之末寺(一)云々、此条当山自(レ)本非(レ)無(二)本山(一)、就(レ)中
日吉客人宮者白山権現也、垂跡猶測(二)彼神慮(一)、定有(二)
其故(一)歟、叡慮忽変、非(二)君之不明(一)、非(二)臣之不直(一)、
我山[B ノ]仏法将以欲(レ)令(二)滅逃(一)也、泣而有(レ)余、仰(二)蒼天(一)
而揮(レ)涙而何為丘中丹銷(レ)魂、衆徒若忽(二)諸朝威(一)者、
懷愁不(レ)可(レ)止、一山之騒動裁報(レ)之、何無(二)〓迹(一)、望
請(二)庁裁(一)、曲垂(二)恩恤(一)以(二)白山平泉寺(一)如(レ)旧可(レ)為(二)
天台末寺(一)之由、被(二)裁許(一)者、将(レ)慰(二)浄行(一)三千之愁
吟、弥祈(二)仙院数百之遐齢(一)、仍勒(レ)状謹解、
久安三年四月 日
とぞ書たりける、此申状に依て下さるる院宣云、
集(二)官軍(一)可(レ)決(二)雌雄(一)之由、謳(二)歌山上(一)風(二)聞洛中(一)、
此事非(二)叡慮(一)之間、武士解(レ)郡、被(レ)返(二)本国(一)畢如(二)
衆徒[B ノ]申(一)者、仰(二)上裁(一)之間、六時不断之行法不(二)退
転(一)之条、非(レ)無(二)叡感(一)、然者於(二)白山平泉寺(一)者、被
(レ)付(二)山門(一)畢、此条依(レ)不(レ)浅(二)当山御帰依(一)、以(レ)非

為(レ)理、所(レ)被(二)宣下(一)也、但含(二)一山之咲(一)、招(二)諸寺之
嘲(一)歟、於(二)自今以後(一)者、可(レ)停(二)止非義之濫妨(一)之
由、可(レ)被(レ)觸(二)仰衆徒(一)之旨所(レ)候也、仍執啓如(レ)件
久安三年四月八日 民部卿顕頼
天台座主御房
昔江[B ノ]中納言匡房とて和漢の才人の申されける様は、
神輿を陣頭にふりくだし奉て訴申さん時は、君はい
かが叶はせ給ふべきと申されたりけるに、げにもだ
しがたきことなりとぞ仰せられける、去嘉応元年甲
戌、美濃守源の義綱朝臣、当国の新立の庄をたふす
間、山門久住者円応をせつがいす、此事訴申さんと
て、大衆参洛すべき由聞えければ、武士を河原へ差
遣して防がれしほどに、日吉[B ノ]社のしやし、延暦寺の
寺くわん三十余人許、申文を捧げて、押破りて陣頭
へさんじけるを、後二条関白殿、中づかさの丞源の
頼治におほせて防がる、猶内裏へ押入らんとする間、
よりはるが郎等八騎是をいる、矢に当るもの八人、
P053
死ぬる者二人、社司、所司四方へ迯げ失せぬ、もん
との僧綱仔細を奏聞のために下らくせんとしけれ
ども、武士を西坂元へ差遺して入られず、大衆日吉
の神輿を中堂に振上奉て、関白殿を呪咀し奉る、い
まだ昔より此の如きのことなし、神輿を動し奉る事
是が始とぞ承はる、匡房の卿申されけるは、あはれ
亡国の基かな、宇治殿の御時、大衆の張本とて頼寿、
良円等ながさるべきにて有しだにも、山王の御たく
せんいさぎよかりしかば、則罪名を宥められて、さ
まざまの御おこたり申させ給ひしぞかし、されば、
此事いかが有んずらんと歎申されけり、三千人の衆
徒等は八王子へ参りてしんどくの大般若を読誦し奉
て、申あげの導師には中胤僧都也、その頃の説法は
表白に秀句を以て先とす、かね打ならして、大音聲
をあげて申されけるは、我等がけしの竹馬よりおふ
したてられ奉る七の社の御神たち、さをじかの耳ふ
り立て聞給へ、後二条関白殿へ鳴矢一[B ツ]放たせ給へ、

さらずば三千人の衆徒等に於ては長く住山の思ひを
たち、離山の思ひにぢうして、八王子権現二度拝し
参らせんこと有がたしと申、権現御納受渡らせ給
へと申上を聞て、三千人の大衆一同にそとぞ喚きた
る、其頃或人八王子の社に詣て通夜をしたりける夜
の夢にみたりけるは、御殿の内よりけだかき御聲に
て、兵主々々とぞ召れければ、近江国夜須郡におは
します兵主の大明神おはしまして参りて候と申させ
給ひければ、神のおんてきかうぶくせよと仰られけ
れば、承り候ぬとて、白箆にうすやうづくりに作り
たるかぶら矢を重籐の弓に打くはせて、西へ射給ひ
ければ、其かぶら矢夥く京中をなり廻りて、二条の
御所のもやの御みすのへりに立と見て、夢打驚き覚
てうつつに聞ければ、御殿の上のほどよりかぶら矢
の聲出て、ひえの大たけをこえて、西を差て行ぬ、
不思議のこと也と思ひける程に、其あした二条殿の
かうしの役しける侍の見ければ、もやの御みすのも
P054
かうにしきみの葉[B 枝イ]一たちたりけり、それより関白殿
は山王の御とがめとて、左の御かほ先に御かぶれ出
て、頓ておもらせ給ひしかば、御兄にて天台貫主仁
源理智房のざすと申し人は、大峯などにのぼりて世
に聞えある有験の人にておはしければ、随分に祈申
されけれども、其験もなかりければ、大殿の北の政
所、せめての御歎の余りにや、御すがたをやつさせ
給ひ、忍びて十禅師の御前に七ヶ日御参籠有て、関
白もろみちの御病をやめて、命ばかりをたすけさせ
給へとぞ祈申させ給ひける、もろみち今度寿命助け
させ給たらば、一には東坂本より西坂本へ、廻廊を
建て、山僧らが三山の参詣の時、霜雪雨露を凌がんが
ため也、一には八王子の御前より十ぜんじの御前迄
廻廊を造て、大衆以下の参り下向の輩に風雨を凌ん
と也、一には三千人の衆徒に毎年の冬に小袖一づつ
着せ参らせ候べし、一には我一期の間、郡の住居を捨
て、宮籠りと相交はりて、宮仕へ申候べし、一には長

日の法花八講たいてんなく修行候べし、一には廊の
御かぐら退転なく、又七社権現に御百度四季にこれ
を勤ずべく候、一には大とうろうをかかげ候べし、一
にはもろみち五人のむすめあり、王城一の美女也、
是を以て田楽をせさせて、七社の権現にみせ奉んと
なり、なくなく立願ありけり、此御立願は御心中に
こそ思召けれ、人是を不(レ)知、然るを山王権現あした
にあらはさせ給ひける事こそおそろしく、身の毛も
立ちて覚えけれ、折節其頃出羽の国羽黒より、月山
の三吉と申ける童御子一人上りて、御社に参籠した
りけるが、俄に御前の庭にをどり出て、一時ばかり
舞をどり庭に倒れふして絶入したりければ、かきい
だせとて、門より外へいだしすてられけり、二時ば
かり有て、生出て十ぜんじの御前に、参りて、舞を
どる事おびただし、参詣の諸人、こはいかにと是を
みる、しばらくありて大息をつきて汗を押拭ひて申
けるは、我円宗教法をまぼらんがために、遙に実報
P055
花王の土を捨て、穢悪じうまんの塵にまじはり、十
地円満の光を和げて、この山の麓に年久し、鬼門の
凶害を防がんとては、嵐はげしき峰にて日をくらし、
皇帝の宝祚を守んが為には、雪ふかき谷にて夜を明
す、抑ぼん夫はしれりや否や、前関白師実の北のま
ん所、子息師通が所労のこと祈り申さんがために、
此七ヶ日我前に参籠して、肝腑をくだき、紅涙を流
して、せめてのことにや、心中に種々の立願あり、
第一の願には八王寺の社より此砌まで廻廊を立て、
衆徒の参社の時、雨露の難をふせぐべしとなり、此
願誠に有がたし、されども我山の山僧等三の山の参
籠の間、霜雪雨露にうたるるを以て、行心のせつをあ
はれふ、同じく又八王子の八町坂の廻廊、是誠に殊勝
の事に思ふらん、され共一切衆生迷ひ多く、さとり
すくなし、されば皆悪道に落つべし、是をあはれみ
て、和光同塵のけちえんとして、此ふもとに所をしめ
て、我にちかづかんものをばあはれまんと也、されば

廻廊の願はうけ思召すべからず、次に五人の娘、王城
一の美女を以て、田楽の事誠に此願の事、申に付て哀
也、せめての思の余りと覚えたり、尤可(レ)然といへど
も、摂政関白の御娘達に、いかが左様の役をばせさせ
奉るべき、十方旦那多ければ、此願とりどりに多し、
さればうけ思召すべからず、次に大殿の北の政所、
我下殿に参籠して、きね[B 「きね」に「禰宜イ」と傍書]に交らんとの願、此事又同
じくいとをしく思ひ奉る、さはあれども大殿の北の
政所程の人を、争でかそれに同座せさせ奉るべき、
此事逆事也、一々の願の中に、八王子八講に於ては、
仏事なれば我受思召す、今生に於ては叶ふまじ、後
生をばたすけ奉らん、疑ひ思召べからず、誠に親子
の眤び、恩愛の契りなれば、さこそかなしく思ひ給
ふらめ、但しもろみちに武士に仰て、我を馬のひづ
めにけさせ、衆徒多く疵を蒙り、宮仕、せんたう、射
殺されぬ、三千の衆徒なくなく本山へかへりのぼり
て、をめきさけんでせんぎする音、天をひびかし、
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地を動かす、則衆徒の愁に非ず、しかしながら我な
げき也、武士どもが射たる矢めといふは、則我身に
当る[B 「当る」に「ありイ」と傍書]、諸人是を見よとて、みこかたぬぎたれば、左の
脇の下に大なるかはらけの口計、かけ破れて血流れ
たり、見る人身の毛だちて恐しなどは云ばかりなし、
是はいかに、我ひがごとか、祈るとも叶ふまじ、定
業かぎり有、我力及ばずとて、山王上らせ給ひにけ
り、是を聞せ給ひけん北の政所の御心の中、いかば
かりなりけん、誠に、御身の毛立ち、御涙にくれてなく
なく御下向あり、いつ習はせ給ひたる御あゆみなら
ねども、御子のかなしさに人目をもつつませ給はず
御下向あり、御心ざしのほどこそ哀なれ、されば仏
も父母の恩深き事、大海のごとしとぞ仰られける、
神罰かぎりある事なれば、いのるいのりもかなはせ
給はず、色々の御願も御納受なし、関白殿のさいご
の御詞には、あなむつかしのさるのおほさよおほさよ
とばかり仰られて、去承徳元年六月二十六日に大殿

にさきだたせ給て、つゐにうせさせ給ひにけり、御
年三十八、御心のたけくことわりゆゆしき人にてわ
たらせ給ひけれども、まめやかに事の急になりにけ
れば、御命をぞをしませ給ひける、まことにをしか
るべき御命なり、四十にだにいまだたらせ給はず、
おやにさきだたせ給ふもくちをし、時に取てあさま
しかりし御事也、此御やまひかん病し奉る人、御う
しろに候人も、御前に候人も、立ゑぼしきたるが、
見えぬ程の事にて、高く大きに腫れたりけり、入棺
し奉るべき様もなかりけり、大殿是を御らんじて、
御涙にむせばせ給ひつつ、御いかけめして、かすが
の大明神の御方をふしをがませ給ひて、申させ給ひ
ける事こそあはれなれ、たとひ山王大師の御とがめ
にて、もろみち世をはやうし候とも、かかるありさ
まにて、恥を隠すべき様も候はず、定業かぎりある
命を申さばこそ、難き事をも申とも思召され候はめ、
此おびたたしきすがたを、もとの形になして給はり
P057
候へ、けうやう仕候はんと申させ給ひたりければ、
御納受有ければにや、忽ちに御腹の腫しえさせ給ひ
て、入棺事終りにけり、其御願の中に、長日[B ノ]八講の
こと、関白殿かくれさせ給ひぬる上は、はたすに及
ばず、八王子の御憤り深くして、後二条関白殿を八
王子の後ろの御子の、大ばんじやくの下に籠てせめ
奉り給ふ、雨ふり風吹さゆる夜半ごとに、ばんじや
く重く成てくるしみたへがたき間、聲を上げてをめ
き給ふ、目には見えず、聲ばかりする間、上下諸人
おそれをののく処に、宮籠りに附きてたくせんせら
られけるは、我は二条関白師通といふ者なり、山王
の御憤り深くして、此ばんじやくの下に籠られけり、
此くるしみいかがせんとて、左右の袖をおもてに当
てなき給ふ、宮仕是を聞て大殿へ此よしを申す、誠
しからず、実否を見て参れとて、侍一人差遣す、誠
に夥しくをめく聲はすれども、一定の関白殿とも知
まいらせず、疑ひをなす処に、御子わらはにうつり

て、いかに汝は我をばしれりや否や、二条関白師通
といふ者なり、山王の御憤り深くして、いまだ中有
迄も行ずして、此大ばんじやくの下に籠られ奉る、
其故は大殿の北の政所、師通が為に御願だてさせた
まふ中に、八王子の法華八講は受思召して、後生ぼ
だいを助けんと、御りやうじやう有しを、もろみち
死したればとて、勤められざるに依て、此大ばんじ
やくの下に籠めらるる、ばんじやくのおす事たとへ
ん方なくたへがたし、神に祈り仏に誓ふとも、助る事
有べからず、件の八講を勉めて、此苦を逃れしめば、
草の陰にも立そひて、くらき所にはともし火ともな
り、あしからん道には橋とも成らんずるぞと申、親
に先立奉る我身の果報の拙なさ云ばかりなし、急ぎ
帰りて此由を申せと計にて、雨しづくと泣き給ふ、侍
も只今見奉る心地して、左右の袖をしぼりあへず、
泣く泣くはせかへりて、此由を申せば、大殿仰せられ
けるは、一期のほどををはらず、命を召れぬる上は、
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是ほど又深き御勘当こそ口惜けれ、春日の大明神は
渡らせ給はぬにこそ、同じ氏子と申ながら、関白に昇
るほどの者をすてさせおはしまして、是程末迄物な
くせめさせ給ふ事、生々世々口惜く候と、くどき立
て泣き給ひけれども、かひなき事にてぞ有ける、さ
て八講つとめよとて、日別に供料をあげて、八講を
つとめさす、七日と申けるに、関白殿大ばんじやく
の下をのがれさせ給ひて、紫雲にのり西をさしてお
はするとて、大殿の御所の上にて、大きなる聲を以て
宣ひけるは、恐れても恐るべきは七社権現の御風情、
頼ても頼むべきは八王子権現の本地、千手千眼の御
ちかひなり、我法華八講の功徳に依りて、只今極楽
浄土へ参り候、御心安く思召候へ、とほき守りとな
り参らすべしと告げしめし給へば、大殿庭上に走出
させ給ひて西へ行、紫雲に御手を合せて、我をも同
じく具しておはせよやとて、人目をも憚らず御聲を
上げてをめきさけび給へどかひなし、其後彼の八講

の為に、御家領紀伊国田中の庄をぞ寄られける、老
少不定也、必親に先立まじといふことはなけれども、
生死のおきてに随ふ習ひ、まんとく円満の世尊、十
地究竟の大士も、力及ばざることなれば、慈悲具足
の山王なさけなく、降伏し給ふべしやなれども、和光
利もつの方便なれば、折節とがめさせ給ふ、されば
むかしも今も山門の訴訟は、恐しきこととぞ申し伝
へたる、
安元二年六月十二日、高松の女院かくれさせ給ひぬ、
御年三十三、是は鳥羽院第六の姫宮、二条院の后に
ておはしましき、永寿元年に御年廿二にて御出家あ
りき、大かたの御心様わりなき人にて、人をしみ奉
る事かぎりなし、
同年七月八日建春門院かくれさせ給ひぬ、御年卅五、
是は贈左大臣時のぶの御娘也、法皇の女御、当帝高
倉院の御母儀也、先年に不例の御願をはたさんとて、
御歩行にて御熊野詣有けり、四十日に本宮に参り着
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せ給ひて、権現法楽のために、胡飲酒と云舞をまは
せておはしましけるに、俄に大雨ふりけれども舞を
とどめず、ぬれぬれ舞けり、せんじを返す舞なれば、
権現もめでさせ給ひけるにや、去春の頃より御身の
中くるしく、世の中あじきなく思召けるが、去る十
日院號を御じたいあり、今日の朝に御出家ありて、
夕に無常の道に赴かせ給ふ、院中の御歎き申も愚な
り、天下諒闇のせんじを下さる、かかりければ御孝
養の為に、殺生きんだんを行はれけり、其頃折節伯
耆の僧都玄尊、近江の国大鹿の庄を召されて歎ける
に、院御歎やうやく期過て、人々に御目ざまし申さ
れける時、げんそんつい立て、殺生きんだんとはい
へども殺生きんだんとはいへどもと三度申て、院の御前近く参りて、大鹿
はとられぬと申て走り入ぬ、院ゑつぼに入せ給ひて、
彼大鹿を返給てけり、同廿七日六条院崩御、御年十
三、故二条院の御嫡子ぞかし、御年五歳にて、太上
天皇の尊號有しかども、いまだ御元服なくて、崩御

なりぬるこそ哀なれ、
治承元年丁酉四月十日は日吉の御祭りにて有べかり
けるを、大衆打とどめて、十三日辰の時に、衆徒日吉
七社の御輿をかざり奉り、中堂へ振上奉りて、八王
子、客人、十ぜんじ等の三社の御輿を陣頭へふり下
し奉て、師高を流罪せらるべきよしを訴へ申さんと
て、西坂本、さがり松、きれつつみ、賀茂河原、糺の
とうほく院、法城寺辺に神人、宮仕充満して、聲を
上てさけぶ、京中白川の貴賤来集りて是を拝み奉る、
是につづきて、ぎおん、北野二社、都合十一社の御
輿を陣頭へふりくだし奉る、その時の皇居は、里内
裏閑院殿にてありけるに、白玉、金鏡、緑羅、紅絹
をかざり奉る、神輿朝日の光りにかがやきて、日月
の地に落給ふかとあやまつ、一条を西へ入せ給ひけ
るが、十ぜんじの御輿既に、二条、烏丸、室町辺に近
付せたまひければ、源平の兵四方の陣をかためたり、
其時平氏の大将軍には小松の内大臣重盛公、俄の事
P060
なりければ、直衣に矢負てこがね作りの太刀帯て、
連銭葦毛の馬のふとくたくましきに、黄ぶくりんの
鞍置きてのり、伊賀、伊勢両国の若党ども、三千余
騎相具して、東おもての左衛門のぢんをかためたり、
源兵庫頭頼政は、顕紋紗の狩衣に上ぐくりて、ひを
どしの鎧に切生の征矢に、重籐の弓の真中とり、二
尺九寸のいかもの作の太刀、かもめじりにはきなし、
鹿毛なる馬に白ぶくりんの鞍置きて乗たりけり、連
の源太、授、省、競、唱とて一人当千のはやりをの
若党、三百余人相具して、北のぢんの唐もんをぞかた
めける、神輿彼もんより入らせ給ふべきよし聞えけ
れば、頼政さる古兵にて、神輿を敬屈し奉る由を見
せんとて、馬より飛おりて甲をぬぐ、大将軍かくす
れば、家の子郎等以下三百余人皆かぶとを脱、大衆
是を見て、様有らんとて暫く御輿をゆらへ奉る、頼
政は郎等渡部の丁七唱を召て、大衆の中へ使者をた
つ、唱は生年三十四、長七尺計成男の白く清げなる

が、褐衣の鎧直垂に、黒皮をどしの大荒目の鎧のか
なもの打たるに、豹の皮のしりざやの太刀をはきて、
黒つ羽のそやの角はず入たる廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、ぬりごめ籐の弓の握り太なるに、
大長刀取添たり、鹿毛の馬の太くたくましきに、黒
鞍置てぞ乗たりける、御輿既に近付せ給へば、馬よ
り飛で下り、かぶとを左のうでにかけて、弓取直し
て、御輿の前にひざまづきて申けるは、北おもての
唐門をば源兵庫の頭頼政かためられて候、大衆の中
へ申せと候、昔は源平両家左右のつばさのごとくに
て、少しも勝劣候はざりしが、源氏に於ては保元、
平治より皆絶はてて、大りやくなきがごとし、雁股
をさかさまにはむる身にて候へども、六孫王のすゑ
とては、頼政一人こそ候へ、山王の御輿陣頭へ入べ
き由、其聞え候間、公家ことに噪ぎ驚ましまして、
源平の官兵四方の陣をかたむべき由、宣旨を蒙り候
に依て、王土にはらまれながら、勅命をたいかんせ
P061
んも其恐れ有に依て、なまじひに此門をかためて候、
この度山門の御訴訟利運の条勿論に候、御聖断の遅
遅こそよそ迄もゐこんに候へ、其上頼政はいわう山
王にかうべをかたむけて年久しく候、わざ共此門よ
り入参らすべく候へども、神威を恐れ奉て、御輿を
入れ参らせ候はんは、綸言をかろくする科あり、綸
言をおもんじて神輿を防ぎ奉らば、冥の照覧はかり
難し、しんたい是れきはまれり、かつうは又小松内
大臣以下の官兵、大勢にて固めて候門々をばえやぶ
らせ給はで、わづかの小勢の所を御覧じて入らせ給
ひぬるものならば、山の大衆はめだりいんぢをしけ
りなどと、京わらんべの口のさがなさは申候はん事
も、山の御名折にてや候はんずらん、かつはことに天
聴をも驚かし奉らんと思召され候はば、わざとも東
西の多勢の門を打やぶらせ給ひて入せ給ひ候はば、
弥山王の御威光も目出度ましまし、衆徒の御訴訟も
成就しましまさんこと、今一気味にて候ぬべければ、

御輿をば左衛門陣へ廻し参せらるべくや候らん、所
詮かく申候はん上を、押破らせ給へ候はば力及候は
ず、後代の名が惜く候へば自今以後に於ては、六孫
王より伝へて候弓矢の手をこそ放ち候はんずらめ、
命を山王大師に奉り、骸をば御輿の前にて曝すべし
と申せと候、御使は渡辺丁七唱と申者にて候とて、
射向の袖を引納て畏て候ければ、大衆是を聞、何条
別の仔細にや及ぶべき、只打破れと云者もあり、其
中に西塔法師摂津竪者高運と申けるは、三塔一の言
口、大悪僧也けるが、萌黄糸縅の腹巻、衣の下に着
て、太刀脇に挟て進み出て申けるは、此頼政は年頃
地下にのみ有し事を歎きて、
いつとなく大内山の山もりは
木かくれてのみ月を見る哉 W021 
とよみて、昇進ゆりたりしやさ男ござんなれ、また
四十計なる大衆の素絹の衣に頭つつみたるが、しは
がれたる大の聲にて申けるは、今頼政が条々申立る
P062
所、其いはれなきに非ず、神輿を先に立て奉て、衆
徒訴訟をいだしながら、善悪大手を打破つてこそ後
代の名もいみじからめ、さすが頼政は六孫王より以
後、弓矢のげいにのぞんで、いまだ其ふかくを聞き
及ばず、武芸においては当家の職なれば如何はせん、
風月のたつしや、和歌の才人にて世に聞えある名人
ぞかし、一年近衛院御時、鳥羽殿にて当座の御会に、
深山の花と云題を簾中より出されたりけるに、左中
将有房など聞えし歌人共も読わづらひたりしに、頼
政召されて、頓て仕りたりける、
深山木の其梢ともみえさりし
桜は花にあらはれにけり W022 K012
と云名歌を読だりしかば、天感有、満座興を催して、
勅禄に預て名を上たりしものぞかし、又同院の御時、
嵯峨野へ御行の有しに、道にてかるかやと云題給て、
遠山をまもりにきたる今夜しも
そよそよめくは人のかるかや W023 K257

うちつづき御方の北の対にて、ひだりまきの藤鞭、
きりびをけ、よりまさと云題を給て、
水ひたりまきのふちふちおちたぎり
ひをけさいかによりまさるらん W024 K258
とよみて勅感にあづかりけるものぞかし、それのみ
ならず、弓矢に取てこそぶさうのものなれ、鳥羽院
の御時、ぬえと申化鳥が、竹の御つぼに鳴事度かさな
りければ、天聴を驚かし奉る、公卿せん議有て、武
士に仰て射べきに定りて、頼政を召て仕れと仰下さ
る、昔より内裏を守護して奉公しける間、辞し申に
及ばず、かしこまて承候ぬとて、仕るべきに成ぬ、
頼政思ひけるは、けさ八幡へ参りたりつるが、さい
ごにてありけり、是を射はづしつるものならば、弓
と本取とは唯今切捨んずるものをとて、八幡大菩薩
源氏をすてさせ給はずば、弓矢にたちかけりまぼら
せ給へときせいして、しげ籐の弓にかぶら矢二筋と
りぐして、竹のつぼへまいる、見物の上下諸人目も
P063
あへず見るほどに、夜更人静まりてのち、例の怪鳥
二聲ばかりおとづれて、雲井はるかに飛上る、頼政
おししづめて、一の矢に大き成かぶらを打くはせて、
よぴきて暫しかためて、ひやうといたり、大鳴りし
て雲の上へ上りければ、化鳥かぶらの音に驚きて、
上へは上らず、しもへちがひて飛さがる、頼政是を
見て、二の矢にこかぶらを取てつがひ、こびきにひ
きてさし当[B あげてイ]、ひやうと射たり、ひふつと真中を射切
ておとしたり、手元にこたへて覚ければ、えたりお
ふと矢さけびする、太上天皇御感の余りに、御衣を
一重かつげさせおはしますとて、御前のきざはしを
なからばかりおり給ふ、頃は五月の二十日余りの事
なるに、左大臣しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
と連歌をしかけられたりければ、三階に右のひざを
つきて、左の袖をひろげて御衣を給とて、頼政好む
口なれば、

たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
とぞつけたりける、左大臣是を聞し召して、余りの
おもしろさに立帰らせ給はず、しばしやすらひて、
五月やみ名をあらはせる今夜哉
たそかれ時も過ぬと思ふに W025 K084
と押返し押返し詠じ給ひたりけり、昔の養由は雲の外
に雁を聞て、夜聲を射る、今の頼政は雨の中にぬえ
を得たりとぞほめたりける、是はいかに、弓矢取て
もならびなし、歌道の方にもやさしをのこの、山王
にかうべをかたぶけ参らせたる者の、固めたる門よ
り、なさけなくやぶりて入参らせて、いかでか辱降
をばから[B かイ]すべき、色なしや色なしやとののしりければ、
数輩の大衆尤も尤もとぞ同じける、やがて神輿をす
すめ奉て、内大臣重盛のかためられける左衛門のぢ
んへぞ入ける、閑院殿へ神輿を振り奉ること是はじ
め也、内大臣の軍兵我劣らじと、馬のくつばみを並
べて防ぎけれども、大衆神輿を先として押入らんと
P064
する間、心より外の狼藉出来て、武士矢を放つ、矢
十ぜんじの御輿にたつ、神人一人、宮仕一人、矢に
あたりて死ぬ、其外疵を被る者多し、神輿に矢立ち、
神人、宮仕射殺されける上は、衆徒声をあげてをめ
きさけぶ、梵天までも及ぶらんと夥しき、是れを聞
く貴賤上下、悉く身の毛よだつ、大衆神輿を陣頭に
捨置奉りて、ほう[B 「ほう」に「なくイ」と傍書]ほう本山へかへり登りにけり、
抑かの高運訴訟ありて、後白河法皇に参りたりける
に、折節南殿に出御あり、ある殿上人を以て、何者ぞ
と御尋有けるに、山僧摂津の竪者高運と申者にて候
と奏す、扨は山門に聞ゆる僉議者ござんなれ、おの
れが山門の講堂の庭にてせんぎすらん様に、只今申
せ、そせうあらば直に聖断有るべきよし仰下さる、
高運かうべを地に付て、山門の申候はことなる事に
て候、先王舞を舞候には面摸の下にて、はなをにが
む事にて候なる、定に三塔のせんぎと申候は、大か
う堂の庭に三千人の衆徒会合仕て、やぶれたる袈裟

にてかしらをつつみて、入堂杖とて二三尺計候杖を
めんめんにつきて、みちしばの露打拂ひ、ちいさき
石を一つづつ持て、其石に尻をかけて居並びて候へ
ば、どうしゆくなども得しらぬ様にて候、満山の大
衆たちめぐられ候へやと申て、そせうの趣をせんぎ
仕候に、然るべきをばどうずとこたへ候、然るべか
らざるをばいはれなきとは、我山の定れる法にて候、
勅定にて候へば迚、ひた面にてはいかでかせんぎ仕
候べきと申たりければ、法皇奥に入せおはしまして、
とくとくさらば、汝が山門にてせんぎすらん様に、
いでたちて参りて、せんぎ仕れと仰せ下さる、高運
勅定を蒙りて、同宿十余人にかしら裏ませて、下部
の者どもはひたたれ、小袖などをもて頭裏みたりけ
る、以上二三十人ばかり引具して、御所の雨うちの
石にしりかけて、各居並びて、高運おのれがそせ
うの趣をはじめよりをはり迄、一時したりければ、
同宿ども兼て議したることなれば、一同に尤々と申
P065
たりければ、法皇興に入せましまして、当座に勅裁
をかうぶりたりし、高運なりとぞ聞えし、神輿の御
事、蔵人左少弁仰を奉て、先例を大外記出羽守もろ
直に尋らる、保安四年癸卯七月、神輿御入洛の時は、
座主に仰て、神輿を赤山の社へ送り奉る、又保延四
年戊午四月、御入洛の時は祇園[B ノ]別当に仰て、神輿
を祇園へ送り奉らるなど勘へ申ければ、殿上にて俄
にせんぎあり、今度は保延の例たるべしとて、神輿
を祇園の社へわたし奉るべきよし、諸卿一同に定め
申されければ、未の刻に及びて、彼社の別当権大僧
都澄憲を召して、神輿をむかへ奉るべき由仰せ下されけ
れば、澄憲申されけるは、此神と申は天下無双の垂
跡延寿鎮護の霊神なり、はくちうに塵灰の中にけた
て奉て、当社へ入奉ること、生々世々口惜かるべし、
王法は是仏法のかごを以て国土を保ち行に非ずや、
されば、昔嵯峨天皇の御時、弘仁九年に諸国飢饉、
疫病おこりて、死人道路にみてり、其時、帝、民を憐

み給ひ、御志ふかくして、諸寺、諸山に仰て、是を
祈らせ給ひけれども、更に其しるしなかりしかば、
帝思召し歎かせ給ひて、叡山の衆徒に仰て、是を祈
らるべきよし仰下さる、三塔の大衆会合して、此事
いかがあるべからん、昔より雨をいのり日をいのり
て、ふらしてらす事はあれども、飢饉、疫病をたち
所にいのる事、未だ承り及ばず、さればとて辞し申
さば、王命を背くに似たり、しんたい是極れりとい
ふ衆徒もあり、又仏法の威げんおろそかならねば、
ききん、疫病なりとも、などか我山の医王山王の御
力にてしりぞけ給はざるべきなれば、法華経を講じ
奉て、きねん有べしとせんぎする大衆もあり、或は
大衆の申けるは、法華経は諸経の王なれども、護国
護王の方法、悪魔たいさんのきせいは、仁王経にし
くは非ず、仁王経を講どくし奉るべきよし申ければ、
尤々と同じて、三千人の衆徒たんせいを出してこん
ぽん中堂、大講堂、文珠楼にて七ヶ日の間に、十四
P066
萬七千余座の仁王経を講読し奉て、供養はいかが有
べきとせんぎす、御経すでに本地医王善逝の御前に
て講じ奉りつ、供養はすゐじやく山王の御宝前にて
遂げらるべきかと有る、大衆申ければ、誠に然かる
べしとて、地主十ぜんじの社だんにて、供養有り、
頃は卯月の半のことにや、飢饉、疫病にせめられて、
おや死ぬる者は其子歎きしづみ、子におくれたる親
は其思ひまだ深かりければ、いがきにのぞむ人もな
し、是を以て導師、説法はてがたに、卯月はすゐじ
やくの月なれども、弊帛捧る人もなし、八日は薬師
の日なれども、南無ととなふる音もせずと申たりけ
れば、衆徒あはれに覚えて、一度にはつとかんじて、
衣の袖をぞぬらしける、扨其夜、帝御夢想のありけ
るは、ひえの山より童子一人京へ下りて、青き鬼と
赤き鬼と有けるを、白拂にてうち拂ければ、鬼神ど
も南をさして飛行ぬと御覧じて、本山のきせいすで
にかん応して、飢饉も疫難も直りぬと思召して、御

夢想の次第を御自筆に遊ばして、御感の綸旨を衆徒
へ下されけるとぞ承る、其後国土立直りて、民のか
まど賑ひて、けぶりたちければ、帝かくぞ詠じさせ
給ひけり、
高き屋にのぼりて見れば烟たつ
民のかまどはにぎはひにけり W026 K013
かかる目出度やんごとなき御神を日中に雑人にまじ
へ奉て、祇園へ入参らせんこと心うかるべしと申て、
日すでに入、くらきほどに成て、当社の神人、宮仕
参りて、三社の御輿を祇園へ入奉る、神輿に立所の
矢をば、神人にてぬかせらる、大衆、山王の御輿を
京へふり下し奉り、陣頭へ参ることは永久元年より
以来、既に六ヶ度也、武士をもて防がせらるる事も
度々也、然れ共まさしく神輿に矢を射立て奉る事、
あさましといふもおろか也、人憤り神怒れば、災害
必おこるとはいへり、唯今天下の大事出来なんとぞ
思ひあひけり、
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十四日に大衆猶下るべき由聞えければ、夜中に主上
腰輿に召して、院[B ノ]御所法住寺殿へ行幸なる、大臣重
盛以下、供奉の人々、非常けいごにて、直衣に矢負
ひて供奉せらる、左少将雅賢は、脇立に平えびら負
ひて供奉せらる、内大臣のずゐひやう御輿の前後に
うちかこみて候、中宮は御車にて行啓あり、禁中の
上下驚き騒ぎ、京中の貴賤走りまどへり、関白以下
大臣、諸卿、殿上の侍臣、皆走せ参る、裁報遅々の
上、神輿に矢たちて、神人、宮仕矢にあたりて死す、
衆徒多く疵を蒙る上は、今は只山門の滅亡此時也と
て、大宮、二宮以下の七社、かう堂以下の諸堂一字
ものこさず焼拂ひて、山野にまじはるべき由、一同
にせんぎすと聞こえければ、山門の上綱を召して、衆
徒の申ところ御成敗有るべき由仰下す、十五日に僧
綱等、勅定を奉て、仔細を衆徒に相觸れんが為に登
山するところに、衆徒猶いかりをなして追返す、僧
綱等色を失ひて迯下る、院より衆徒をなだめんがた

めに、大衆の鬱訴を達すべき由の勅使とて、とうざん
すべき由仰下されけれ共、公卿の中にも殿上人も、我
勅使にたたんと申人なし、皆辞し申されける間、平大
納言時忠其時は中納言右衛門督にておはしけるを、
登山すべき由仰下されければ、時忠卿心中には無益
の事かなと思はれけれども、君の仰背がたき上に、
かつは家のめんぼくなりと存じて、殊にきらめきて
出立給へり、侍十人花を折て、雑色までよろづ清げ
にて登山して、大講堂の庭に立れたりければ、三塔
の大衆蜂のごとくに起り合ひて、院々谷々よりをめ
きさけびて群集する有さま、夥しなどは斜ならず、
時忠卿色を失ひ魂をけしあきれて立たりけるに、衆
徒等時忠卿を見て弥いかりをなして、何の故に時忠
登山すべきぞや、返々奇怪なり、不思議なり、既に
山王大師の御敵なり、すみやかに大衆の前に引出し
て、紗冠を打落して、足手を引はりて、もと取を切
て水海にはめよやと、声々にののしりけるを聞て、
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供なりつる侍も雑色も、いづ地にか行ぬらん、皆う
せぬ、時忠あぶなく思はれけれども、元よりさる人
にて、乱の中の面目とや思はれけん、さわがぬ體に
て宣ひけるは、衆徒の申さるる所尤いはれあり、但
人を損ふもの君の御敵たるべきか、非例を訴へ申さ
るるによて、御裁報遅々すること国家の法なり、さ
れども今御成敗有るべき由仰下さるる上は、なんぞ
衆徒強ちに憤り、いかりをなさるるやとて、懐中より
小硯を取出して、承仕を召して水を入させて、たた
う紙をひろげて、一句を書て大衆の中へなげ出され
たり、
大衆致(二)濫悪(一)魔縁之所行歟、明王加(二)制止(一)善逝之
加護也、
大衆是を見て、各々興に入て、あちとりこちとり見て
かんじあへり、老僧どもは打なきなどして、夥しか
りつる大衆のけいきも少ししづまりければ、其まぎ
れに中納言迯下り給ひけり、其時迯かくれたりつる

侍、雑色、爰かしこの荊蕀の中より出来て、主をも
てなしかしづきて下向す、をこびれてぞみえける、
一紙一句を以て、三塔三千人の愁を休め、洛中山王
の乱を鎮るのみに非ず、虎の口をのがれ、公私の恥
をきよむる、有がたかりけること也、山門に衆徒は発
向のかまびすき計りかとこそ存じつれ、理をも知た
りけるにこそ、いかで御成敗なるべきとぞ申あはれ
ける、扨時忠卿は院の御前へ参られたりければ、扨
も衆徒の所行いかにととりあへず御尋有ければ、大
方ともかくも申に及び候はず、只山王大師助けさせ
給とばかりにて、はふばふ迯下て候、いそぎいそぎ御
裁報有べく候と奏聞せられければ、法皇力及ばせ給
はずして、加賀守師高解官して、尾張国へ流罪のよ
し宣下せらるる状に云、
従五位上加賀守藤原朝臣師高解官追位尾張国、
職事権中納言光能仰(二)上卿別当忠親(一)、々々右少弁藤
原光雅仰、光雅左京大夫小槻隆職仰、官符、参議
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平頼宗卿、少納言藤原維基等参請(二)印官符(一)、又仰云、
検非違使右衛門志中原重成、早可(レ)追(二)遣配所(一)者、
今月十三日、叡山衆徒舁(二)日吉社感神院等神輿(一)、不
(レ)憚(二)勅制(一)、乱(二)入陣中(一)、爰警固輩相(二)禦凶党(一)之間、
其矢誤中(二)神輿(一)事、雖(レ)不(レ)図何不(レ)行(二)其科(一)、宜仰(二)
検非違使(一)召(二)平利家、同家兼、藤原通久、同成直、
同光景、田使俊行等(一)給(二)獄所者(二)畢、加賀守師高流
罪、并奉(レ)射(二)神輿(一)官兵六人禁獄事、今日宣下訖、件
間事二通遣(レ)之、以(二)此之旨(一)可(下)令(レ)披(二)露山上(一)給(上)
之由所(レ)候也、恐々謹言、
四月廿日 権中納言藤原光能
執当法眼御房
追申
禁獄官兵交名山上令(二)不審(一)歟、仍内々委細相尋、
究付交名一通所(レ)披(二)相副(一)也、禁獄人等平利家字平
次、是者薩摩入道家秀孫中務丞家資子、同家兼字
平五、筑前入道家貞孫平内太郎家継子、藤原通久

字加藤太、同成直、早尾十郎右馬允成高、同光景
字新次郎、前右衛門尉忠清子、田使俊行難波五郎
也、
か様にぞ書たりける、
廿四日亥の刻ばかりに樋口、富[B ノ]小路より火出来ける
が、辰巳の風はげしく吹て、京中多く焼にけり、昭
宣公の堀川殿、忠仁公の閑院殿、冬嗣大臣のそめ殿、
よしすけ公の西三条、具平親王の千草殿、高明親王
寛平法皇の亭子院、北野天神の紅梅殿、神泉苑、鴨居殿を
はじめとして、名所廿一ヶ所、公卿の家十七ヶ所焼
にけり、殿上人、諸大夫の家は数を知らず、のちに
は大裏へ吹付けて、朱雀門より始て応天門、会昌門、
大極殿、豊楽院、諸司、八省、大学寮、真言院まで
焼ほろびにけり、家々の日記、代々の文書、資財、
雑具、七珍萬寶さながら灰塵となりぬ、人の焼死る
事数百人、牛馬犬の類数を知らず、総じて都三分一
は焼にけり、樋口、富[B ノ]小路よりすぢかへにいぬゐの
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方をさして、大裏へしやりんばかりなるほむらとび
行けり、おそろしなどはいふばかりなし、只事に非
ず、ひえい山より猿ども多く松に火を付けて持下り
て焼とぞ、人の夢にはあまた見えける、
大極殿は清和天皇御宇貞觀十八年四月九日、始めて
焼たりければ、次の年正月三日陽成院の御即位は、豊
楽院にてぞ有ける、元慶元年四月九日事はじめあり
て、同三年十月八日つくり出されたりけり、後冷泉
院御宇天喜五年二月廿一日また焼たり、治暦四年八
月二日、事始有て、同じ年十月十日上棟ありけれど
も、作りも出されずして、後冷泉院はかくれさせ給
ひにけり、後三条院御時、延久四年十月五日作り出さ
れて行幸ありて、宴会行はれて、文人詩をたてまつ
り、伶人がくを奏す、今は代末になり、国の力おと
ろへて、又作り出さん事もかたくや有んとぞ歎きあ
へる、
治承元年五月五日、天台座主明雲僧正、公請をとど

められ、上蔵人を遣はして、如意輪の御本尊を召返
し、御持僧を改易せらる、すなはち使[B ノ]庁のつかひを
つけて水火のせめに及ぶ、今度神輿を捧げ奉りて、
陣頭へ参りたる大衆の帳本を召さる、加賀の国に座
主の御坊領有り、師高是を停廢の間、其しゆくいに
依て門徒の大衆を語らひて、そせうをいたす、既に
朝家の御大事に及ぶ由、西光法師父子がざんそうの
間、法皇大にげきりん有て、重科に行はるべき由思
召けり、明雲はか様に法皇の御気色あしかりければ、
印鑰を返し奉て、座主を辭し申けり、十一日、七宮、
天台の座主にならせ給、鳥羽院第七宮、故青蓮院大
僧正行玄の御弟子也、十二日、前座主所職をとどめ
らるる上に、検非違使二人付けて、水火の責に及ぶ、
此事に依て大衆、奏状を上げて憤り、猶参洛すべき
由聞えければ、内裏并に法住寺殿に軍兵を召集めら
る、京中貴賤さわぎあへり、大臣、公卿馳参、廿日
前座主ざいくわ有べきせんぎとて、太政大臣以下、
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公卿十三人参内して、ぢん[B ノ]座につきて、定め申さる、
八条中納言長方卿、其時は左大弁さいしやうにてお
はしけるが申されけるは、法家の勘申に任せて、死
罪一等をほろぼして、遠流せらるべしといへども、
明雲僧正は顕密兼学、浄行持律の上、大乗妙典を公
家にさづけ奉る、明王聖主には一乗円宗の御師範た
り、太上天皇には日頃受戒の和尚たり、御経の師、
御戒師、重科に行れん事は冥の照覧はかり難し、還
俗遠流をゆるさるべきかと、憚る所なく申されけれ
ば、残十二人の公卿各々左大弁定申さるる儀にどうず
と申されけれども、法皇御憤り深く思ひければ、猶
流罪に定にけり、是によりて三千の大衆等、大講堂
の庭に三塔会合して、落書有り、其状に云、
告申自(二)大衆中(一)可(レ)被(レ)遣(二)入道相国許(一)事、
夫座主明雲僧正者、挑(二)法燈於三院之学〓(一)、灑(二)戒
水於四海之受者(一)、顕密之大将大戒之和尚也、三觀
之隙必専(二)金輪之久転(一)、六時之次先奉(レ)祈(二)玉體之長

生(一)、誠是仏法之命也、王法之守也、爰興隆之思深
援(二)九院之朽梁(一)、護国之志厚而却(二)六蠻之凶徒(一)、依
(レ)之法侶擅(二)修学(一)、悪党隠(二)矢弓(一)、已運(二)修羅道之巧(一)、
而餝(二)護国之道場(一)、豈非(レ)為(二)山門之奇異(一)哉、亦停(二)
兵俗之具(一)而残(二)法僧之具(一)、寧非(二)朝家嚴制(一)也、為(二)
天朝(一)為(二)国家(一)治者明人也、然有(二)一類謗家(一)而所
(レ)悪也、成(二)創瘠(一)矣、是不(レ)被(レ)糺(二)是非(一)、不(レ)尋(二)真
僞(一)、預(二)於重科(一)、蒙(二)流罪(一)之条、非(二)是君[B ノ]有(一)(レ)偏、非(二)
是臣無(一)(レ)忠、讒奏酷僞言之巧故也、讒口鑠(二)荒金(一)、
毀言銷(二)白骨(一)此謂歟、抑明法道之勘状所(レ)載三箇条
事、先快修僧正事、全以非(二)前座主之推印(一)代々
座主之替補、未(レ)任(二)自由(一)、唯衆徒探(二)器量(一)而申(二)
乞貫首之職(一)、亦先座主依(レ)為(二)二宗[B ノ]英花(一)、主(二)於一山
之貫長(一)、是只衆徒之採用也、全非(二)自力結構(一)也、
矧雖(レ)有(二)犯過(一)、於(二)赦免之後(一)者、非(レ)所(レ)糺(二)法量(一)、
何由無罪而被(レ)趣(二)勘責(一)哉、若本自不(レ)叶(二)叡情(一)者、
何於(二)其時(一)可(レ)被(レ)補(二)座主職(一)哉、次成親卿訴訟発
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起之由、亦以無実也、夫末寺末社之訴者、非(レ)始(二)
当代(一)、皆是往代之例也、或将(レ)断(二)根本之常燈(一)、或
闕(二)恒規之祭祀(一)依(レ)之受(二)末所之愁訴(一)而及(二)本寺之
悲歎(一)、列(二)大師門徒(一)之習皆成(レ)之、教納者不(レ)歎(二)三
聖之威光消(一)、誰輩不(レ)悲(二)一山之仏法滅(一)、衆徒三千
之蜂起、何被(レ)引(二)座主一人之結構(一)哉、何况於(二)先
座主(一)者、大畏(二)勅制(一)而頻雖(レ)制(二)大衆[B ノ]蜂起(一)、依(レ)残(二)
愁訴(一)、尚以蜂起矣、抑於(二)成親卿師高(一)者、瑕瑾何
事哉、於(二)今度事(一)、自(レ)始固雖(レ)加(二)禁制(一)、及(二)大事(一)
者、不(レ)拘(二)禁遏(一)、戴(二)三社神輿(一)而参(二)九重之金闕(一)、
曩時之例中古之法也、厥皇化者専(二)天下之大平(一)、貫
首者慕(二)山上之安穏(一)、臣下可(レ)思奏者可(レ)量、有(二)何
幸(一)者可(レ)存(二)乱世之基(一)、豈勸(二)騒動於三千人之衆
徒(一)、招(二)朝勘於一身(一)乎、凡大衆不(レ)叶(二)貫首[B ノ]進止(一)、遂(二)
訴訟之本意(一)事、先皇之代在(レ)之、明哲之時有(レ)之、
天之所(レ)壊不(レ)可(レ)支歟、衆徒所為不(レ)可(レ)妨、已此理
歟、為(レ)承(二)罪科之由緒(一)、雖(レ)挙(二)度々[B ノ]陳状(一)、於(レ)事依(二)

怨家之語(一)而全不(レ)達(二)上聞(一)、弁官隨(二)奸人之謀(一)不(二)
奏聞(一)、然間不(レ)被(レ)決(二)理非(一)、忽蒙(二)使庁之責(一)、不(レ)被
(レ)糺(二)実否(一)、俄定(二)配流之国(一)、是傷(レ)人之言甚(二)劔〓(一)
此謂歟、以(二)好言(一)而全(レ)人、以(二)悪口(一)而損(レ)人者也、
故忘(二)先例讒達之巧(一)故也、亦君非(レ)寄(二)叡山[B ノ]仏法(一)、
怨人之不(レ)顧(レ)所(レ)疵歟、誠魔界競(二)我山(一)而法滅之期
得(二)此時(一)歟、波旬荒(二)洛城(一)而無実之咎達(二)叡聽(一)歟、
爰衆徒等悲(二)仏法之命根之断(一)歎(二)大戒之血脈[B ノ]失(一)之
処、如(二)風聞(一)者、師高行(二)向二村之辺(一)、可(レ)夭(二)害先
座主(一)云々、弥々失(二)前後(一)亡(二)思慮(一)、且芳(二)明徳(一)、且為(二)
最後[B ノ]面拝(一)、被(レ)向(二)宿所(一)而為(レ)陳(二)申仔細(一)、乍(レ)恐留(二)
申先座主(一)之許也、夫根朽枝葉枯、一宗長[B ノ]者衰、三千
之倶可(レ)哀、非(レ)痛(二)貫首之流罪(一)、且悲(二)師資相承之
断(一)、非(レ)惜(二)人名(一)、偏惜(二)法[B ノ]疵〓(一)、祇(二)候於鳳城(一)而皆
護(二)持龍顔(一)、縦雖(レ)有(二)重疊之〓(一)、何不(レ)被(レ)免(二)於積
労(一)、縦雖(レ)有(二)過去之業(一)何不(レ)被(レ)置(二)禮於戒師(一)、若
夫有(二)證據(一)者、尤可(レ)賜(二)正文(一)也、非(レ)返(二)勅定(一)、陳(二)
P073
仔細(一)也、又恵信僧正事、謂(二)其例(一)者、不(レ)及(二)大海
之一滴(一)、不(レ)足(二)須弥之蠧害(一)、而彼寺僧進而申(二)朝罰(一)、
此者依(レ)為(二)天台依怙(一)、而衆徒軽惜(二)流罪(一)而已、以(二)
此旨(一)可(レ)被(二)執啓(一)、夫国之理乱者、任(二)臣之忠否(一)也、
若不(レ)被(レ)糺(二)邪正之道(一)者、寧天子之守在(二)海外(一)矣、
とぞ書たりける、太政入道是を見給ひて、尤いはれ
ありと思はれければ、此事申とどめんとて参られた
りければ、御風気と仰せられて、御前へも仰されざ
りければ、憤りふかくして出られにけり、
廿一日、前座主明雲僧正をば僧の流罪の例にせられ
んとて、度縁を召返されて、大納言大夫藤井[B ノ]松枝と
俗名を附けていづの国へ流さるべきよし宣下せらる
皆人傾申けれども、西光法師のむじつのざんそうに
依てかく行はれけり、其頃京中にはきせん上下門々
にさかもぎを引きて用心しけり、かかりければいか
なる者がよみたりけん、ふだに書て立たりけり、
松枝は皆さかむきになり果て

山には座主にするものぞなき W027 K014
衆徒西光法師父子が名字を書きて、根本中堂におは
します十二神将のとら神に当り給へる金毘羅大将の
御足の下に踏せ奉て、十二神将、七千夜叉時刻を廻さ
ず西光法師もろたか父子二人が一つのたましひを召
給へやと、じゆそしけるこそをそろしけれ、今夜都
を出し奉れと院宣厳しく、追立のけんびゐし白河の
坊に参りて、此由申ければ、廿一日白河の坊を出給
ひて、伊豆国の配所へ赴給ふ御有様こそかなしけれ、
昨日までは三千人の貫首と仰られて、堂輿、四方輿
にこそ乗給へるに、あやしげなるてんまにゆひぐら
と云物をきてのせ奉り、いつくしげなる御手に皆す
ゐしやうの御ねん珠を持給たりけるを、手綱に取ぐ
してくらの前輪にうつぶき入給ひて、みなれ給ひし
御弟子一人も附奉らず、門との衆徒も見送り奉らず、
官人どものさきに追立られて、関より東に赴き給ふ、
御心のうち、中有のたびとぞ覚しける、爰にゆめみ
P074
る心地して、流るる涙に御目もくれ、行先も見え給
はず、是を見奉て上下涙を流さぬはなかりけり、日
もすでに暮ければ、あはたぐちの辺、一切経の別所
と云所にやすらひ給ふ、夜を待あかして、次の日の
午の時ばかりにあはづの国分寺の堂にしばらく休み
給ふ、是に依て満山の大衆一人も残らず東坂本へ下
りて、十ぜんじの前にしゆ会して、せん議しけるは、
伝へ聞く、震旦の天台山は長安より丑寅、我朝のひ
えいざんは、平安城より鬼門也、伝経、慈覚、智證
大師の御ことは申に及ばず、義真和尚より此かた五
十五代、いまだ天台座主流罪の例を聞かず、末代と
いへどもいかでか我山に疵をばつくべき、所詮三千
人の大衆身を我山の貫首に奉り、命をばいわう山王
に奉て、あはづへ罷向ひ貫首を取とどめ奉るべし、
但追立の官人、領送使あんなれば、取得奉んこと難
し、山王大師の御ちかひより外は頼方なし、事故な
く取得奉べくは、只今しるしを見せ給へと、三千人

の衆徒一同にかんたんを碎きてきねんす、爰に一人
の物ぐるひ出来れり、無動寺ぼうしに乗円律師の童
べに生年十八に成けるが、暫く狂ひをどり、五體よ
り汗を流して申けるは、世はすゑなれども、日月は
いまだ地におちず、国はいやしけれども、霊神光を
かがやかす、爰に貫首明雲は我山の法燈、三千の依
怙たり、然るを罪なくして、他国へうつされん事、
一山のかきん、生々世々心うかるべし、さ有んに取
ては、我山のふもとに跡をとどめて何かせん、本土
へこそ帰んずらめとて、袖を顔に押当て、さめざめ
となきければ、大衆是をあやしんで、誠に山王の御
たくせんならば、我等ねんじゆを奉らんを、少しも
たがへず元の主にかへし給へとて、念珠を同時に宝
前へなげたりければ、物狂ひ是を悉く拾ひ集めて、
いかに我をば引みるぞ、返す返す存外なる次第也、
左はあれどもくわくわうけとれと、一々にもとのぬ
しになげ返したびけり、殊に我山の七社権現の霊験
P075
あらたかにおはします忝なさに、大衆涙を流しつつ、
さらばとくとくむかへ奉らんとて、或はべうべうた
る志賀の唐崎の濱路に、駒にむち打衆徒もあり、或は
まんまんたるやまだ、やばせの湖上に舟にさほさす
大衆もあり、東坂本よりあはづへつづいて、国分寺
の堂におはしましける座主をとめ奉りければ、きび
しげなりつる追立の官人も見えず、領送使もいつち
にか行ぬらんうせにけり、座主は大きにおそれ給ひ
て、勅勘のものは月日の光にだにもあたらずとこそ
申せ、時刻をめぐらさず追ひ下すべきよし宣下せら
るる処に、しばらくもやすらふべからず、衆徒こと
ごとく帰登り給へとて、はしぢかく居給ひて宣ひけ
るは、三台槐門の家を出で、四明幽渓のまどに入し
より此かた、広く円宗の教法をまなび、わが山興隆
をのみ思ひ、国家をいのり奉こともおろそかならず、
門徒をはごくむ心ざしもふかかりき、身にあやまる
ことなく、両所、三聖も定めて照覧し給ふらん、無

実のざんそうに依て、遠流の重科を蒙る、是も前世
の宿業にてこそ有らめと思へば、世をも人をも神を
も仏をも更に恨み奉る事なし、是まで訪ひ来り給へ
る衆徒のほうしこそ申盡しがたけれとて、涙にむせ
び給ふ、香ぞめの御袖もしぼる計也、これを見奉て、
そこばくの大衆も皆涙を流し、やがて御輿をよせて
乗せ奉らんとしければ、昔こそ三千人の貫首たりし
かども、今はかかる様になりぬれば、いかでかやん
ごとなき修学者、智恵深き大徳たちにはかかげられ
て、我山へはかへり上るべき、わらぐつなど云もの
しばりはきて、おなじ様に歩みつづきてこそ上らめ
とて、のり給はざりければ、らんげきの中なれども、
萬もの哀也けるに、西塔、西谷に戒浄房の阿闍利祐
慶とて、三塔に聞えたる荒僧有けり、黒草をどしの
鎧の大荒目なるを草ずりながに着て、三枚甲を猪首
にきなし、三尺五寸の大長刀の茅の葉の如く成をつ
き、大衆の御中に申候はんとて、さしこえさしこえ分行
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て、座主の御前に参りて、かぶとをぬぎ、荊の方へ
がはとなげ入ければ、しもべ法師原取てけり、長刀
を脇にはさみ、ひざをかがめて申けるは、か様に御
心つたなくわたらせ給ふに依て、一山に疵をもつけ
させ給ひ、心憂めをも御らんぜられ候ぞかし、貫首は
三千人の衆徒にかはりて流罪の宣旨を蒙り給ふ、三
千の衆徒は貫首にかはり奉て、命を失ふとも何の愁
か有ん、とくとく御輿に召れ候へと申て、座主の御
手をむずと取て、御輿にかき乗せ奉りければ、座主
はわななくわななく乗給ひぬ、やがて祐慶輿の先ぢんを
かく、後ぢんわかき大衆、行人などかき奉りて、あ
わづより鳥の飛がごとくして登山する、祐慶阿闍梨
には一度もかはらざりけり、長刀の柄もこしのなが
えもくだくる計ぞ見えたりけり、後ぢんは怺へずし
て各々かはりけれども、さしもさかしき東坂本を平
地を歩むにことならず、大講堂の庭にかきすへ奉る、
行歩叶はであはづへくだらぬ老僧共は、此事はか様

に有るべきぞや、日頃一山の貫首とあふぎ奉りつれ
ども、今は勅かんを蒙り給ひて、遠流せらるる人を
中途にて横取にとどむる事、始終いかが有べからん
など議すれども、祐慶少しもはばからず、扇子ひら
きつかひ、むねをしあけて、むな板きらめかして申
けるは、恵良、脳をくだきしかば、一人是をたつと
び、尊意、威を振ひしかば、萬方是をあふぐ、然れば
我山は是れ日本無双の霊地ちんご国家の道場也、山
門の御威光弥々さかんにして、仏法、王法牛角也、し
ゆとの意趣も余山に越、いやしき小法師原に至まで、
世以て猶かろしめず、いかにいはんや明雲僧正は智
恵かうきにして、一山の和尚たり、徳行無双にして、
三千の貫首たり、しかるを罪なくして罪を蒙給ふこ
と、是しかしながら山上洛中の鬱り、興福をむじや
う寺のあざけりか、かなしき哉や、此時に当て、けん
みつの主をしくわんのまどの前には蛍雪のつとめす
たれ、三みつのだんの上にはごまのけぶりたえず、
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心うき事に非や、伝へ聞く、ぎをん寺の住僧は密多羅
王の宣をかへし、せい凉山の斉僧は会昌天子の軍を
防ぐ、法のために身を殺し、師にかはりて命を捨る、
月氏、震旦、其例是多し、誠に中途にしてとどめ奉
たる事、違勅の罪科のがれがたくば、所詮今度三塔
の張本にさされて、きんごく流罪せられ、かうべを
はねられんこと、全いたみ存べからず、かつうは今
生の面目めいどの思ひ出たるべしと高声にののしり
て、両眼より涙をながしければ、満山の衆徒是を聞
て、老たるも若きも衣の袖をぬらしつつ、尤尤と
一同す、頓て座主をかき奉て、東塔の南谷妙光坊へ
ぞ入り奉りけり、夫よりして祐慶をば異名にはいか
め房とは名附けれ、其弟子慧慶律師をば子いかめ、
其弟子さんけい、備前注記を孫いかめと申けるとか
や、
時のわうわいは権化の人ものがれざりけるにや、大
唐の一行阿闍梨は玄宗皇帝の御時、無実のあやまち

に依てつみを蒙りしことありけり、其故は楊貴妃と
云人おはしき、もとは仙女にておはしけるが、唐女
とげんじ給へり、蓬莱宮へ帰り給ふべき期も近くな
りにけり、御兄の楊国忠を召して、帝にわかれ奉る
べき期の近づきたるやらん、此程は胸さわぎうちつ
づきはかなき夢の見えて、常は心のすむぞとよと宣
ひければ、人の身に拂難延命事、受戒のくりきにし
くはなし、一行阿闍梨を召して、后戒受け給べき由
聞えけれども、帝の御ゆるしなるらんには、たやす
く戒を授奉り難き旨を申さる、和尚は菩薩の行を立
てて、一切衆生みちびき給ふなるに、なんぞ我身一
にかぎりて戒を授け給はざるべきやと、后うらみ給
ひければ、さらばとて野坂宮といふ所へ入奉り、七
日七夜ぼさつの浄戒を授け奉る、其ころあんろくざ
んといひける大臣、奸心をさしはさみて、やうこく
ちうを失ひて、国務をとらばやと思ふ心深くして、
つゐでをもとめける折節、此事をもらし聞て、密に
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皇帝に申けるは、后すでに帝にふた心おはしまして、
国忠に御心を合せて、一行に近附給ふことあん也、
君うちとけ給ふべからずと、帝是を聞給ひて、貴妃
は我に心ざし浅からず、一行又尊き僧也、何故にか
只今さること有るべきと宣ひけれども、実否を知給
はんために、やうきひの真のすがたを少しもたがへ
ず繪に書き奉べきよしを一行に仰らる、一行もとよ
り大唐一のにせゑの上手にておはしければ、斯るは
かりごと有とも知給はず、筆を盡して貴妃の形をう
つして参られけるほどに、いかがしたりけん筆を取
はづして、貴妃のほぞの程にあたりて墨附てけり、
墨の附所に貴妃のほぞには黒子と云もの有けるとか
や、書直さばやと思はれけれども、帝おそしとせめ
給ひければ奉りぬ、帝是を見給ひて、安禄山は誠を
いひけり、一行貴妃に近づき給はずば、いかでかは
だへなる黒子をば知るべきとて、すなはち一行を火
羅国といへる国に流さる、件の国はふるき王宮なり

ければ、彼の国へ下る道三あり、一をば林池道とい
ふ、此道は行幸の道也、一の道をば極池道と名附、
貴賤上下を嫌はず行通ふ道也、一の道をばあんけつ
道と名附たり、犯科の者の出来ぬれば、遣す道也、
此道は四十里の河あり、水湛々としてきはもなく、
もろもろの毒蟲あり、さればわたり着事難し、自然
わたり附ぬれば、又七日七夜空を見ずして行道ある
国也、冥々としてひとり行、峰よりみねに登れば、
雲霧風をわけて跡もなし、谷より谷に下れば、がん
くつそびえて底もなし、行天くらくして、前後道ま
どひ、しんしんとして人なし、幽谷の鶏一声鳴、さ
こそ心細く思ひ給ひけめ、思ひやられて哀也、一行
無実にて遠流の罪を蒙る事、天道あはれみ給ひて、
九曜のかたちを現じて守り給ふ、一行ずゐきの余り
に、右の小ゆびをくひ切、左の三衣の袂に九曜のか
たちをうつしとどめ給ひにけり、火羅の圖とて我朝
まで流布する九曜まんだらと申は是也、抑一行阿闍
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梨と申は、元は天台一行三まいの禅師也、其後真言秘
法にうつりて、専此行を行給ひしかば、一行とは名付
たり、其聖跡を尋ぬれば、大日八代の末葉、龍猛菩
薩よりは五代、龍智阿闍梨よりは四代、善無畏三蔵
の孫弟子、金剛智三蔵の嫡弟也、国家の重寶として
人しんの依怙たりしを讒し申けることこそ浅ましけ
れ、我朝の明雲僧正は両宗の法燈をかかげて、一朝
の護持を致す、遠くは釈迦、大日の教法を学び 、近
くは伝教、慈覚の余流をくむ、法雲一天におほひ、
徳水四海にみてり、先賢にもありがたく、後哲にも
まれなるべし、末代に相応し給はで、かかるうきめ
を見給ふこそかなしけれ、昔の禄山は一行をざん奏
して、ほどなくめつしにき、今の西光は明雲を讒言
して、即時に亡ぶべきかと智臣傾申けるとかや、大
衆前座主を取とどめ奉るべき由、法皇聞し召し、いと
ど安からず思召けるに、西光入道内々申けるは、昔
より山門の大衆乱れがはしき訴訟仕ることは、今に

はじめねども、いまだ是ほどの狼藉承り及ばず、今
度ゆるゆるに御さたあれば、世は世にても有べから
ず、能々御いましめ有べしなどとぞ申ける、身の只
今亡びんずる事をもかへり見ず、山王の神辺をも憚
からず、か様にのみ申て、震襟をなやまし奉る、浅
ましきことなりけり、讒臣国をみだし、妬婦家をや
ぶる、実なる哉、〓蘭欲茂、秋風敗之、王者欲明、
讒臣蔽(レ)之といへり、斬(レ)人刃自(レ)口出斬(レ)之、敬(レ)人種
自(レ)身出蒔(レ)之と云、本文違はず、西光法師が天台座
主を様々に讒奏し奉り、山門の滅亡、朝家の御大事
を引出す事こそ浅ましけれ、此事武家に仰せられけ
れども、すすまざりければ、新大納言以下の輩、武
士を集めて山をせめらるべき由さた有けり、物も覚
えぬ若き人々、北面、下臈などは興有ことに思てい
さみあへり、少し物の心をも弁へたる人は、只今天
下大事出来なんこは心うきわざかなと歎きあへり、
又内々大衆をも拵へ仰せられければ、院宣度々下る、
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かたじけなければ、左のみ詔命をたいかんせんも恐
れ有ければ、思ひ返しなびき奉る衆徒もありけり、
座主は妙覚坊におはしましけるが、大衆二必有と聞
給ひければ、何にと成んずらんと心ぼそくぞ思しけ
る、
成親卿は山門の騒動により、私の宿意をばおさへら
れけり、其内儀したくさまざまなりけれども、儀勢
ばかりにて叶ふべしとも見えざりけり、初は太相国
うつべきしたく各々はかり申けるは、来六月七日は祇
園の神事にて京中六波羅何となくひしめく事有らん
ず、其紛れに、多田蔵人大将軍として八条おもてに
よすべし、法勝寺の執行平判官は七条がまへの小川
に向ふべし、近江入道式部大夫修善寺の西裏へ押寄
て、後ろの竹林に火をかけて攻んに、太政入道天へ
あがり地に入べきか、只今宿望は遂なんずとぞ申あ
へけり、其中に多田蔵人行綱はさしものちぎり深く
頼れたりけるが、この事無益なりと思ふ心つきにけ

り、さて弓袋の料に新大納言より得たりける五十た
んの布ども、ひたたれ、はかまに裁繼して、家の子
郎等に着せつつ、目うちしばだたきて居たりけるが、
つらつら平家のはん昌する有さまを見るに、当時や
すくかたぶけがたし、大納言のかたらはれたる兵も
いくほどなし、よしなき事に與力してけり、若此事
もれぬるものならば、誅せられん事疑ひなし、いひ
がひなき命こそ大切なれ、他人の口よりもれぬ先に
返り忠して命生なんと思ひて、五月廿九日夜うち更
て太政入道の方へ行向ひて、行綱こそ申べきこと候
て参て候へと申ければ、常にも参らぬ者の、只今夜
中に来るこそ心得ね、何ごとぞきけとて、平権頭も
り遠が子主馬判官もり国を出されたり、人伝に申す
べきことにては候はず、直に見参に入て申すべしと
申ければ、入道右馬頭重衡を相具して、中門の廊に
出あはれたり、入道宣ひけるは、六月無禮とてひもと
かせ給ひ、入道も白衣に候ぞとて、白かたびらに大
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口ふみくくみて、すずしの小袖うちかけて、左の手
にうち刀ひさげて、右の手にて蒲あふぎつかはる、
此夜はまさにふけぬらん、いかに何事におはしたる
にか、行綱近々とさし寄て、小声に成りてささやき
申けるは、いと忍て申すべきこと候て、昼は人めの
つつましきに、わざと夜に入て紛て参りて候、院中
の人々兵具を調へ、軍兵を召し集めらるる事をばし
ろし召れて候やらんと申ければ、いざ我は山の大衆
を責らるべきとこそ承れと、いと事もなげに宣ひけ
れば、其儀にては候はずとて、日頃年月新大納言を
始として、俊寛が鹿の谷の山庄にて寄合々々、内議
支度しける事、某はとこそ申候しが、かくこそ申候
しがと、人のよきことしたるを、我が申たりと云ひ、
我が悪口したるをば人の申たるに語なし、五十たん
の布のことをば一端もいひ出ざりけり、有のままに
さし過て、さまざまの事ども取つけて委く申ければ、
入道大に驚きて宣ひけるは、保元平治より此かた、

君の御ために命をすてんとする事すでに度々也、人
はいかに申とも、君々にて渡らせ給はばいかで入道
をば子々孫々迄も捨させ給ふべき、おほそれながら
君もくやしくこそ渡らせ給はんずらめ、抑此こと院
は一定しろし召れたるかと宣ひければ、仔細にや及
候、大納言の軍兵催され候しも、院宣とてこそ催さ
れ候しかとて、其外もさまざまの事どもいひちらし
て、いとま申とて帰にけり、新大納言にさしもちぎ
りふかく頼れける行綱が、返り忠しけるうたてさよ、
曲戦在昔不変も心とこそ文選の中にも申されたれ、
空行鳥をも取つべし、海底の魚をも釣つべし、唯は
かりがたきは人の心のうち也、弓矢取ほどの者の同
じくは思切べかりけるものをとぞのちは人申ける、
入道大音にて子どもよびあげられけるけしき、門外
まで聞えければ、行綱さしもやはとこそ思ひつるに、
たしかの證人にや立られんずらん、あなおそろしと
て、野に火を附たる心地して、人も追はぬにとりは
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かまして急ぎ馳かへりぬ、入道貞能を召して、むほ
んの者どものあんなるぞ、侍どもきと召集めよ、一
家の人々にも各々ふれ申せと宣ひければ、面々に使を
はしらかして、此由を申に、およそいづれもいづれもさ
わぎあひて、我先にとはせあつまる、右大将宗盛、
三位中将知もり、左馬頭重衡、其外の人々、侍、郎等
各々かつちうをよろひ、弓矢を帯してはせつどふ、其
勢雲霞のごとし、夜の内に五千余騎に成りにけり、
六月朔日いまだほのぐらき程に、入道の内のけんび
ゐし安部の資成を召して、院の御所へ参りて大膳大
夫の信業を呼出して申べしよな、ちかく召仕はるる
者共の朝恩にほこる余りに、世を乱さんと仕由承候
へば、尋さた仕るべく候と申せとて参らせらる、資
成急ぎ院の御所へ参りて、信業を呼出して此由を申
ければ、信業色を失ひて御前へ参りて奏聞しけれど
も、分明の御返事なかりける、此事こそ御心得られ
ね、こは何事ぞとばかり仰あり、資成急ぎ馳帰りて

此由を申ければ、入道よし御返事あらじ、何にとか
は仰有るべきぞや、君もしろし召されたりけり、行綱
はまことしけりとて、筑後守家貞、常陸守景家等を
召して、むほんの輩其数あり、上下北面の者ども、
一人ももらさずからめとるべきよし下地せられけれ
ば、或は一二百騎、二三百騎を以て押寄からめ取け
り、
西光法師事
其中に左衛門入道西光は日の始より根本與力の者な
りければ、かまへてからめ迯すなとて、松浦太郎重
としが承り、方便を附て伺ひける程に、西光は院の
御前にて人々の事にあひける事を聞て、人のうへと
も思はず浅ましと思ひて、あからさまに宿所を出て、
又御前へ参けるに、物のぐしたる武士には目もかけ
ず、足ばやにあゆみけるを、先に待かけたる武士申
けるは、八条の入道殿より、きと立より給へ、申合す
べき事有と仰せられ候といひければ、西光少し赤面
してにが笑ひし、公事に附て申上べき事候、やがて
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参り候べしと云ひて、あゆみすぎんとするに、後に有
ける武士かはひや和入道らが何事をか君に申べき、
世の大事を引出して、我も人もわづらひあり、物な
いはせそとて、打ふせてつな附けて、武士十余人が
中に追立て行て、八条にてかくと申入たりければ、
門より内へは入られず、すなはち重俊が承て、事の
起りを尋られければ、はじめは大きに争ひて、我身
にあやまたぬ由をちんじければ、入道大に腹を立て
乱形にかけて打せたげて向ひければ、有事無きこと
皆落にけり、かかせて判せさせて、入道殿に奉る、
入道是を見給ひて、西光とりて参れと宣ひければ、
重俊が家の子郎等ら、空にもつけず地にもつけず、
中にさげて参りたり、やがてめんだうの唐かきの前
に引すへらる、入道は長絹の直垂に黒糸をどしの腹
巻にこがね作りの太刀かもめじりにはきなして、尻
きれはきて、中門の簀の辺に立れたり、其気色やく
なげにぞ見えられける、西光をにらまへて宣ひける

は、いかに己ほどの奴は入道をかたぶけんとするぞ、
もとより下郎の過分したるはかかるぞとよ、あれほ
どの奴原を召し上げて、なさるまじき官職をなし給
ひて召仕はせ給へば、父子ともに過分のふるまひす
るものかなと見しに合て、罪もおはせぬ天台座主ざ
んげんし奉て、遠流に申行て、天下の大事引出して、
あまつさへ此事に與力してけるが、根元よりきの者
と聞たり、其仔細具に申せと宣ひければ、西光もと
よりさる者なりければ、少しも色も変せずわろびれ
たる気色もなくて、あざ笑ひて、のちことせんとて
申けるは、院中に召し仕はるる身にて候へば、執事
別当新大納言殿、院宣とて催され候しことによりき
せずとはいかでか申べき、與力して候き、但耳にと
どまる御言葉をつかはせ給ふもの哉、他人の前は知
らず、西光が前にては過分の詞はえこそつかはせ給
ふまじけれ、見ざりしことか、入道殿の父忠盛は中
御門のとう中納言家成卿の辺に朝夕ひらあしだはき
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て閑道より通り給ひしをば、人高平太と申て笑ひし
が、わ入道殿も忠盛の嫡子といひしかども、十四五
迄は叙爵をだにもし給はず、かふりをだにも給はら
せ給はで、継母の池の尼上に小目見せられて有し時
は、あは六波羅の高平太が通るはとて、京童はゆび
をさして申しが、其後故刑部殿海賊張ぼん三十余人
からめ参せられたりし軍功の賞に、去保延の頃とか
や、とし十八九がほどにて四位して、兵衛佐になり
給ひしをこそゆゆしきことかなと、世以て傾申しか、
王孫とはいひながら、数代久なりくだりて、殿上人
の交りをだにも嫌はれて、闇討にせられんとし給ひ
し人の子にて、今恭く即闕官を奪ひ取て、太政大臣
まで成あがりて、剰天下を我ままにせらるる、是を
こそ過分と申べけれ、侍ほどの者の受領検非違使靱
負尉になる事、傍例、先例なきに非ず、なじかは過
分なるべき、わ入道こそ過分よ過分よとゐたけ高く成
て、詞もたわまずさんざんに申ければ、入道余りにい

かりて物も宣はず、暫ありてはらをすへかねて、つ
とあゆみよりて、尻きれはきながら、西光がつらを
ひたひたとけて検非違使の下部を召して、西光めさ
うなくくびきるな、よくよくさいなめと宣ひければ、
重としが郎等つつとよりて、大しもとをもて七十五
ヶ度の考棒を、ほうに任てくはへてけり、心たけく
西光思ひけれども、もとより問ぞんぜられたりける
上、しもとの身にしみて術なければ、声をあげてぞ
さけびける、西光法師は三位[B ノ]中将知盛のめのと紀伊
次郎兵衛尉ためのりがしうとなりければ、三位[B ノ]中将
も西光を我に預け給へと、二位殿に附て申されけれ
ども、聞入られず、ためのりも人手にかけ候はんよ
り、預り候ていましめ候はんと申けれども、預給は
ず、是によて三位中将も、次郎兵衛も、二人ながら
世を恨みて、世間さわがしかりけれども、さしも出
されざりけるとかや、
新大納言成親事
其後入道小平太と云中げんを召して、中御門新大納
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言の許に行て、申合すべきことあり、急ぎ立寄給へ
と申べしと宣ひければ、使はしりつきて此様を申、
大納言思はれけるは、あはれ是は例の山の大衆のこ
とを申されんずるやらん、此事はゆゆしく御憤り深
げなり、叶ふまじきものをと思ひて、我身の上とは
露ちり知給はで出立れけるこそはかなけれ、八葉の
車のあざやかなるに、前駈二人、侍三四人ばかり召
具して、なゆ清げなる布衣たほやかに着なし、雑色、
牛かひまでも常の出仕より引繕ひたる體にて出られ
ける、それを最後の出仕とは後にぞ思ひ合せ給ひけ
めと哀也、入道おはする西八条近くやりよせて、其
程を見給へば、軍兵充満したり、あな夥し、こはい
かなる事ぞ、只今山を責られんずるにやと、胸打さ
わぎて車よりおり給ひければ、門の内には兵、所も
なくうちこめて、只今ことの出来たる體也、中門の
戸にこぐそくばかりつけたる者二人立向ひ、大納言
の左右の手を取て飛が如くにして内へ入ければ、た

だ夢の心地して、あきれて物も覚え給はざりけるに、
又兵七八人ばかりつとよりて、しや、もとどりを取
ぬれば、御ゑぼうしも落ち、布衣も破れにけり、兵
前後に立圍みて、中門の上へ引のぼせて、侍の上に
一間成処に押こめつ、是を見てともに有つる諸大夫、
侍も、雑色牛かひも目口はたかりて、とかく物もい
はれず、牛車を捨て四方に逃失ぬ、大納言は六月の
さしもあつきに、一間なる処に籠られて、装束もく
つろげずしておはしければ、あつさもたへがたさも、
せん方なくて涙も汗も争ひてぞながれける、中にも
はや日頃あらましことの聞えけるにこそ、いか成者
のもらしつらん、北面の者の中にこそ有らん、小松
大臣は見え給はぬやらん、さりとも思ひはなち給は
じものを、同じく死ぬるとも、物一こといひ置て死
ばやと思はれけれども、誰して宣ふべしともなし、
身のかくなるに附てもあとの有さまいかならん、お
さなきものども覚束なしなど、さまざまあんじつづ
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け給ひけるほどに、良久有りて、内の方より人の足
おと高らかにして来りければ、大納言は只今失はれ
んずるやらんと、気も心もけして居られたりけるに、
入道、大納言のおはしける後の障子を荒らかにさつ
と明られたり、そけんの衣のみじからかなるを、白大
口とふみくくみて、ひじり柄の刀をおしくつろげて、
大にいかれる気色にて、大納言をにらみ附て宣ひけ
るは、大納言殿一とせ平治の逆乱の時、信より義朝
に御同心あて、朝敵と成給ひたりし時、越後の中将
とてしまずりの直垂にはかま着て、折ゑぼし引入て、
六波羅のむまやの前に引すへられておはせしかば、
死罪に定りて、すでに誅せらるべきにて有しを、内
府がとかく申なだめたりしかば、七代まで守りの神
とならんと手を合せて、なくなく宣ひし事は忘給ひ
たるな、人はみめかたちのなだらかなるをば人とは
申さぬぞ、恩をしるを人と申ぞ、わ殿の様なる者を
こそ人のかはを着たるちく生とはいへ、されば何に

のくわたいに依て当家を亡すべき御結構は有けるや
らん、されども微運盡ざるに依て、此事顕はれてむ
かへ申たり、日頃御結構の次第、只今直に承るべし
と宣ひければ、大納言涙を流して、なまじひに身に取
て全く誤りたる事候はず、人のざんげんにて候はん、
委くは御尋有べく候と宣ひければ、入道いはせもは
てず、西光法師が白状参らせよと宣ひければ、捧て
参りたり、入道急ぎ引広げて、くり返しくり返し二三通
までよまれたり、成親卿を始として、俊寛が鹿の谷の
坊にて平家を亡すべき結構の次第、法皇の御幸、
康頼がこたへに、一事としてもるる所なく、四五枚
にしるされたり、是はいかに、此上はひちんにや及
ぶべき、是をばどこを争ふぞ、荒にくやとて、白状
を大納言の顔に投附て、障子をちやうとたてて入給
ひけるが、なほはらをすへかねて、つねとほ、兼や
すはなきかと宣ひければ、つねとほ、かねやす、す
ゑさだ、盛国など参りければ、誰が下知にて大納言
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をば、障子の内にはのぼせたるぞ、あれ坪の内に引
おとして取ふせて、したたかにさひなみて、おめか
せよと宣ひければ、つね遠以下兵どもつとよりて、
大納言を庭に引おとす、其中にすゑさだ元より情あ
る者にて、大納言を取ておさへて、左の手にて大納
言の首を強くとらへ、右の手にて胸をおす様にて、
さすが強くもおさず、すゑさだ口を大納言の耳にさ
し当て、入道殿の聞せ給はん様に、御声を只をめか
せ給へとささやきければ、大納言声を上て二声三声
をめかれけるを、入道聞給ひて只おしころせやおしころせや
とぞ宣ひける、其ありさまめも当られず、地獄にて
ごくそつ阿防羅刹の浄はりの鏡に罪人を引むかへ、
先世につくりし所の業によて呵責をくはへ、業のは
かりにかけて、軽重を糺して、刑罰を行はんも、か
くやと覚えて哀なり、かくしてすゑさだ退にけり、
なんばの次郎つね遠と云あたかほなし、我もかくし
て御気色に入んと思ひて、又つと寄りて、大納言の

上にひたと馬のりに乗ゐて、左の手の中の指をのけ
ざまにおり附けて、縄附け候べきやらんと申ければ、
入道さすがに今日こそ敵ならめ、昨日まで禁裏、仙
洞にて扇を並べし卿相に、忽にはぢを見せんこと、
かはゆくや思はれけん、おとなしにておはしければ、
又兵よて引起しておし立てて、もとの所に押込てけ
り、昔蕭囚執、韓彭〓醢、晁錯受(レ)戳、周魏見(レ)〓、
受(二)小人之讒(一)、受(二)禍敗之辱(一)といへり、蕭何樊〓、韓
信、彭越、皆高祖の功臣たりしかども、かくのみこそ
ありけり、唐朝にも限らず、我朝にも保元、平治の頃
は浅ましかりしことども有しぞかし、新大納言一人
に限らずこはいかにせんずるとて、人歎あひける、
小松内大臣しげ盛公は其後いと久ありて、ゑぼし、
直垂にて子息中将車の尻に乗せて、衛府四五人、ず
ゐじん二三人ばかり召具して、それも皆布衣にて物
具したる者一人も具せず、いとのどやかにおはした
り、入道をはじめ奉て、人々思はずに思ひ給へり、
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いかに是ほどの大事出来たるにはと、人々宣ひけれ
ば、内府宣ひけるは、天下の御大事をぞ大事とは云、
何程のことか有るべきぞと仰せられければ、人々皆
しらけにけり、兵具を帯したる者そぞろきてぞ有け
る、内府さるにても大納言をばいかにしけるやらん、
今のほどには死罪、流罪にはよも及ばじと覚して見
廻り給へば、侍の障子の上にふしぬぎと云大きなる
木をくもでにゆひちがへたる一間なる所あり、日ご
ろはかかる様にもなし、俄に出来ければ、爰に大納
言は籠らせたりなどおぼして、只今通る由をおとづ
れらる、あんの如く大納言はくもでのあいより内府
を見附けて、地蔵菩薩を見奉りたるも、是には過じと
うれしくて、是ぞいかなることにて候ぞ、誤りたる
ことも候はぬものを、さておはしませば、さりとも
とこそ思ひ奉り候とて、はらはらとなき給ふもむざ
ん也、大臣は人のざんげんにてぞ候はん、御命ばか
りは申請ばやと思へども、それもいかが候はんずら

んと頼もしげなく宣へば、心うし、平治のらんの時、
うせぬべかりしに、御恩をもて命をいけられ奉て、
位正二位、官大納言にいたり、年すでに四十あまりに
なり侍ぬ、生々世々にも報じがたくこそ思給へ、今
度は命ばかりを同じくいけさせ給へ、髪をおろして
かうや粉がはにもこもり居て、一筋に後生のつとめ
をせんと宣へば、哀に覚えて、重盛かくて候へば、
さりともと思召さるべし、御命にかはり奉るべしと
て立れにければ、かく宣ふに附ても、かひなき涙の
みぞ流れける、少将も召とられぬらん、残りとどま
るあとの有さまもいか成らん、おさなきものどもも
覚束なし、我身の御事は去事にて、是を思ひつづく
るにも、むねもせき上げて、あつさもたへがたきに、
くるるを待て、命もたえぬべくぞ思ひ給ひける、内
大臣のおはしつるほどはいささかなぐさむ心地もし
つるに、いと言葉すくなくてかへり給ひて後は、今
少しものもおそろしくかなしくぞおぼされける、大
P089
臣は入道の前におはしたりければ、入道宣ひけるは、
大納言むほんの事と聞れざるか、さん候皆承て候、
さていか様なる罪に行はるべきにて候やらん、こと
もおろかや、只今きらんずるものをと宣ひければ、
扨は不便のことにてこそ候なれ、大納言失はれん事
は、能々御はからひ候べし、七条修理大夫あきすゑ
の卿、白河院に召仕はれてよりこのかた、家久しく
成てすでに位正二位、官大納言までのぼりて、当時
も君の御いとをしみの者なるを、我身に仇をなせば
とて、忽にかうべをはねられん事いかが有べからん、
かく聞し召れ候とも、若僻事にても候はば不便の事
にて候はずや、北野の天神は時平の大臣のざんげん
によて、八重のしほぢに赴給ふ、西の宮の左大臣は
多田新発意がざんげんに依て尾張辺どへうつされ給
ふ、各々無実なりけれども、流罪せられ給ひき、是皆
えん喜聖主、安和御門の御僻事とこそ申伝へたれ、
上古猶かくのごとし、いかにいはんや末代をや、賢

王猶御あやまりあり、いはんや凡夫をや、くはしく
御尋あるべし、御思惟も有べきか、ものさわがしき
事は後悔先にたたずとこそ申候へ、すでにかく召置
れ候上は、急ぎ失はれずとも、何のくるしみか有べ
き、罪のうたがはしをば只軽くせよ、功のうたがは
しきをば只重くせよとこそ申伝へたれ、いか様にも
今夜かうべをきられん事然る可らずと宣ひければ、
入道猶心ゆかずげにて、返事もし給はず、内大臣かさ
ねて申されけるは、重盛彼[B ノ]大納言のいもとに相具し
て候、これもり又大納言のむこ也、か様に近くなり
候へばとて、申とや思し召され候らん、其儀にては
候はず、世のため君のためを存て申也、一年保元逆
らんの時、故少納言入道信西が執権の時に相当て、
本朝にたえて久しかりし死罪を行ひて、左府の死骸
を実検せられし事などは、余りなる御政とこそ覚候
しか、古人の申されしは、死罪を行はるれば、むほ
んの輩絶べからず、此言葉はたして中二年ありて、
P090
平治に事出来て、信西が埋まれたりしをほり出して、
かうべを切て渡されにき、保元に申行事忽に報て、
身の上にむかはれにけり、思ひ合せられて恐ろしく
候ひしが、是はさせる朝敵にもあらず、かたがたお
それ有べし、御身栄華は残る所なければ、今は思召
事なけれども、子々孫々に至るまではん昌こそあら
まほしけれ、しやく善の家には余慶あり、積悪の家
には余殃とどまるとこそ承れ、されば周の文王は大
公望に命ぜられて、おのれがかうべを恐るるごとく
にせよ、唐の太宗は張温古を切りて、後五覆奏を用
ひらる、又善を行へば、則休徴報(レ)之、あくをおこな
へば、すなはち咎徴随(レ)之などとも申たり、又世をし
づめん事は琴を鳴すがごとし、大絃急なる時は小絃
絶ずきるとこそ、天りやくの帝も仰られけれなどと
こまごまこしらへ申されければ、げにもとや思はれ
けん、今夜切べき事は思ひなだめて、其日は暮にけ
り、内大臣はかくこしらへおき給ひけるが、猶心安

からず覚えて、然るべき侍どもを召て宣ひけるは、
仰なればとて、重盛にしらせずして、左右なく大納
言を失ふこと有べからず、腹の立ちのままものさわ
がしき事は後悔先に立給ふまじ、ひが事仕出して、
重盛を恨むなといましめられければ、武士ども舌を
ふりておぢあへり、つねとほ、かねやすなどが大納
言になさけなく当りたりける、返す返す奇怪也、重
盛がかへり聞ん所をばいかでか憚らざるべき、忠清、
景家ていの者ならば、たとひ入道殿いかに仰らるる
ともかくはよもあらじ、かた田舎の者はかかるぞと
よと宣ひければ、難波次郎、瀬の尾太郎ら恐れ入
たり、
平家物語巻第二終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第三

P091
平家物語巻第三

偖大納言供したりける者共走帰て、大納言殿は西八
条に召こめられ給ひぬ、夕さり失ひ奉るべしとてく
るるを待とこそうけ給つと、ありつる有様をなくな
く申ければ、北方よりはじめて、男女声を上てをめ
きさけぶ、さこそかなしかりけめと推量せられてあ
はれなり、夢かや夢かやと思へども、うつつにてぞ有
ける、叫喚地獄の衆生とぞみえし、あたりの人の申
けるは、いかにかくては渡らせ給ふやらん、叶はざ
らんまでも、立忍ばせ給へ、少将殿を始奉て、きん
達皆召させ給べしとこそ承つれ、涙もかきあへず申
あひければ、是ほどの事に成て残りとどまる身とも
あんをんにて何のかひかは有べき、我も一野の露と
消なん事こそ本意なれ、けさを限りと思はざりつる
ことのかなしさよとて、伏まろびてなきかなしみ給

ふもことわり也、すでにつはもの来り向ふと申けれ
ば、かくて恥がましく有ん事もさすがなるべければ、
ひとまどなりともたち忍んとて出給ふ、跡先ともな
きおさなき人どもとりのせて、いづくをさして行と
もなくやりいだす、牛飼これはいづくへ仕べきにて
候やらんと申ければ、北山の方へと車の内よりのた
まへば、大宮を上りに、北山の雲林院の辺までまし
ましにけり、その辺なりつるそう坊におろしすへた
てまつりて、送りの者ども、身々のすてがたければ、
各いとま申てなくなく帰りにけり、今はいひがひな
き小歳人々ばかりとどまりゐて、又事とふ人もなく
てましましけむ、北方の心中推量せられていとをし、
日のくれ行影を見給ふにつけても、大納言の露の命
今夜を限りなりと思ひやられて、消入心地ぞせられ
ける、女房侍ども、かちはだしにて恥をもしらずま
よひいでにけり、家中の見ぐるしきものども、取し
たたむるにも及ばず、門をだにもおしたつる人もな
P092
し、馬どもは馬屋に立並びたれども、草かふ者もな
し、夜あくれば馬車門に立て、賓客座につらなり、
遊びたはぶれ舞をどり、世は世とも思はず、近きあ
たりの人は物をだに高くいはず、門前を過るものも
おぢ恐れてこそ昨日までも有つるに、夜の間にかは
り行こそかなしけれ、盛者必衰のことわり、目の前
にこそあらはれけれ、此北方と申は、山城守敦方が
娘にてましましけるを、けんしゆん門院の御乳母諸
人とて、御身近き人に召仕はれけるものなりけるが、
我身あやしの下臈なるを、御身ちかく召仕はるる事
おそれありとて、養子にして参らせけるを、法皇浅
からず思召して、十四の年より十六まで御いとをし
み深かりけるを、二条院の御位の時是を御覧じて、
忍忍に御書を遣されけり、しばしはとかくれ申
けれども、ただ法皇をばすて参らせて参るべき由、
仰しきりなりければ、内々諸人にいひ合せられける
に、女院の思召す所も恐れ覚ゆれども、力及ばずし

てこそ過しつれ、左程に仰のあらん上は、内へ参ら
せ給たらば、かたがた然るべしと許しければ、法皇
の御所を遁出て、内裏へ参り給にけり、兼て思ひあ
らまし給けるにもたちまさりて、御心ざしたぐひな
く深かりけり、最後の御惱の重らせ給ひける御事も、
此人のとがなりとて、大夫三位殿とて重き人のさぶ
らひけるにもただ御里へ出給へ、かくてはいよいよ
あしかりなんとて、いさめ申されける間、闇路に迷
ふ心地して、思ばかりはなけれども、泣々まかり出
給ひぬ、事なをざりなる御惱ならば、更に許し奉ま
じけれども、日に添へておもくならせ給へば、力及
ばで出給ぬ、又十六歳より内へ参り給て、中二年に
て十九と申けることし、御門かくれさせ給ひにけり、
日頃月頃給らせ給ひける御書どもあさまにならんう
しろめたさに、返し奉べき仰ありければ、くちせぬ
千代の御かたみともしのばれ、濱千鳥跡ばかりだに
もと、ためらひ申されけれども、御心うちをもらせ
P093
給ひたるにうちそへて、是まで御心ぐるしく、仰の
ありければ、唐ねこほりはめたる御手箱二合にをさ
めて、なくなく参らせたりければ、新大納言経之卿
承りて、御前にて煙もよそにたきあげられにけり、
いかばかりかは女房もをしくかなしかりけん、御前
に候人々も袖をしぼらぬはなかりけり、崩御成にし
後は、諸人が宿所に大炊御門たか倉なるもろおり戸
の内にとぢこもりて、君の御菩提をのみとぶらひ奉
給て、年月ましましけるを、此大納言成親卿中御門
烏丸の花亭を磨て徒移の夜は、法皇の御幸なり奉る
べき由申されけり、其ころ御所に大納言の局、三条の
局とてさぶらひ給ひける女房どもも、大納言は心ざ
し有ければ、此人々思はれけるは、法皇入れ参らせ
んあるじには、我々にてぞ有んずらんとおのおの思
はれけるに、大納言御所へ参りて申されけるは、忝
く御幸をなし参らせ候はんずるに、家童子がねこそ
覚候はね、三条も大納言もあるじには不能覚候と

ぞ内々申されける、是まで打とけもらし申されけり、
法皇暫く御あんあて仰のありけるは、御幸あらんに
つけても、なみなみならんものは、誠に然るべから
ず、抑諸人が参らせたりし今参りとて、有しものこ
そ二条院も心ざし浅からぬと聞えしか、崩御の後は
諸人がもとに、かきこもりたる由聞召す、いかなる
玉をつらねたらん花亭のあるじといふとも、かたは
らいたからんものを、諸人はみなれたりしかば、こ
しらへよりて聞けかしと、ゑみをふくませ給ひて仰
の有ければ、新大納言うけ給もはてず罷出て、諸人
をぞ尋ける、則ち参りたりければ、故女院の御時は
つねにみなれ申しに、などかおのづからも是へ入給
はぬとのたまへば、誠に女院御かくれの後は、月日
の光り失へるごとくにて、あけくれはなきふしての
み、とぢこもりて侍れば、いづれの御方にも対面申
さずと申けるに、やがて酒すすめて美絹百疋ひきで
物にとり出されければ、諸人いかにも思ひまうけぬ
P094
心地して覚給けるに、大納言宣ひけるは、さても此
ほど宿所のわたましに法皇入せ給ふべき由仰あて、
今更面目も色そふ心地にて覚ゆるに、あるじかねを
もち給へるよしを聞、あひかまへてあひかまへてよきやうに
計ひ給へと、おどしつこしらへつうちくどかれけれ
ば、諸人申けるはいかに申ともわかき人の御心には、
雲井の月のむかしがたりわすれかねて、たへぬなが
めの夜な夜なは、袖香る光をも物すさまじくうらみ
給へば、こしらふともかなひがたくこそと、うちと
けがたく答けれども、大納言思ひかね、ほどへだた
らばさはりもぞ出でくるとて、やがて諸人がかへり
つかぬ先に、さしちがへて女房どもを取のせて、車
をかの宿所にやり入て、事の由をばこまかにいひ聞
せ奉らず、心ならずたすけのせ奉りて帰りにけり、
其後しばしは引かつぎてふし給へたりけれども、さ
すが男女の習ひなれば、近附給てより後、志たがひ
に浅からず、御子もあまた出来にければ、目出度御中

らひとこそ人々羨みけるも、今はかかる物思ひにな
られけるも、しかるべき先世のむくいと覚て、よそ
の袂もしほれけり、彼大納言日ごろ浅からず思はれ
ける遊君のありさまを伝聞て、宿所をみれば、い
つしかかはりて主なきやどと荒にければ、あまりの
かなしさにとびらにかくぞ書つけける、
おほかたは誰あさがほをよそに見む
日かげを待ぬ世とはしらずや W028 K259
夜もやうやう明ければ、大納言は今夜失はるべきと
聞給ければ、命のあらん限り、ただ今ばかり誰かあ
らん、此世に思ひ置事どもいひ置ん、北の方幼きも
のども、いかが成ぬらん、あはれあはれ言伝を今一た
びせばやとかなしみ給、しなん事は力及ばぬ事なれ
ども、是が心に懸るこそよみぢのさはりなれと、覚
しつづけてさめざめとなき給ふもことわりなり、今
夜ばかりの命なれば、今や今やと待給ふほどに、夜
も明がたに成にけり、大納言殿は今夜とこそ聞つる
P095
に、いかに今まではさたなきやらん、もし御命のた
すかり給はんずるにやとて武士ども悦あへり、
坂東大夫親信事
此大納言は大かたおほけなく思慮なき心したる人に
て、人の聞とがめぬべき事をもかへりみ給はず、常
にたはぶれにくき人にて、はかなき事にも物のたま
ひすぐすこともありけり、後白河院の近習者にて坊
門中納言親信といふ人ましましき、父左京大夫信輔
朝臣、武蔵守たりし時、彼国へ下されしにまうけら
れける子也、叙爵し給ひたりければ、異名に坂東大
夫とぞ申ける、院にさぶらひ給ければ、兵衛佐にな
られにけり、又坂東兵衛佐などと申けるを、ゆゆし
くほいなき事に思入られたりける程に、新大納言法
皇の御前に候はれけるが、げにや親信坂東に何事か
あると申されたりければ、とりあへず別の事候はず、
縄目の色革こそ多く候へと、返答せられたりければ、
成親卿かほけしきすこしたがひてせき面して、又物
ものたまはざりけり、人々あまた候はれけり、按察

大納言入道資賢も候はれけるが、後にのたまひける
は、兵衛佐はゆゆしく返答はしたりつるものかな、こ
との外にこそにがりたりつれと申されけるとかや、
これと申は新大納言いまだ官も浅く、殿上人にて越
後中将と申し時、しのぶずりのひたたれをきせ、を
り烏帽子の引たてたるをきせさせて、六波羅のむま
やの前にひかへられたりし事を思ひ出で、なはめの
いろがはとは返答せられけり、
丹波少将被召取事
新大納言嫡子丹波少将成経、歳二十一、院御所に上
臥して、未だ罷出られぬほどなるに、大納言の御と
もなりつる侍一人、殿の御所へ馳参て、大納言殿は
西八条に召籠られ給ぬ、夕さり失奉るべきよし聞え
候、公達皆めされさせ給べしとこそ承りつれと申け
れば、こはいかにとあきれ給ひて、物も覚え給はざ
りけり、さりとも宰相のもとよりいかにつげ給はぬ
やらんと、しうとの門脇の宰相をぞ怨給ひける、去
程にやがて宰相のもとより使あり、具し奉て来れと
P096
八条より申されたり、いそぎいそぎわたり給へ、こはい
かなる事にか、浅ましともおろかなりと申されたり、
その時少将は誠と聞定め給ひて、院御所に候ける兵
衛佐と云女房を尋出して、かかる勝事こそ候なれ、
よべより世間物さわがしと承候つれば、例の山の大
衆のくだるやらんと、よそに思て候へば、身の上に
て候也、御所へも奉り候て君をも拝み参らせ候べき
に、今はかかる身にて候へば、はばかり候とて罷出
ぬと、披露せさせ給へとのたまひもあへずなき給、
日頃なれ奉る女房達出て、浅ましがりて泣給へり、
少将重ねて申されけるは、成経は八歳にて見参に罷
入て、十二歳よりは夜ひる御前に候て所労などの候
はぬ外は、一日も御前へ参らぬ事も候はざりつるも
のを、君の御いとをしみ忝して、朝夕龍顔に咫尺し
て、朝恩にのみあきみちてこそ明しくらし候つるに、
今はいかなるめを見べきにて候やらん、大納言も今
夜死罪に行はるべきと承り候、もし左様に罷成候な

ん上は、成経が身も同罪にこそ行はれ候はんずらめ
と、いひつづけて、かり衣の袖もしぼるばかり也、
よその袂もしぼりあへず、女房御前へ参りて、此由
申されければ、法皇も大に驚かせ給ひて、是等が内
々はかりし事のもれにけるよとおぼしめすもあさま
し、今日相国が使のありつるに、事いできぬとはお
ぼしめしつ、さるにても是へと御気色ありければ、
世はおそろしけれども、今一度君をも拝し参らせん
と思はれければ、御前へ参られたりけれども、君も
仰やりたるかたもなし、龍顔より御泪のみせきあへ
ぬ御様なり、少将も又申やりたる方もなし、袖をか
ほにおしあてて罷出ぬ、日頃なれ睦給へる女房達、
門まではるかに見送りて、誰か限りの名残を惜まざ
らん、しぼらぬ袂もなかりけり、法皇も遥に御覧じ
やりて御涙をおしのごはせ給ひて、又御覧ぜぬ事も
やとおぼしめすぞあはれなる、末代こそこころうけ
れ、かくしもやあるべき、王法のつきぬる事こそ口
P097
惜けれとぞ申られける、近く召仕はるる人々も人の
上と思ふべきにあらず、いかなる事かあらんずらん
と、やすき心なし、此事聞給へるより、少将の北方
はあきれまどひて、物も覚えぬ体にてぞましましけ
る、ちかく座し給ふべき人にて、何となく月ごろも
なやみ給つるに、かかる浅ましき事を聞給へば、い
とどふししづみ給、少将はけさより流るる涙つきせ
ぬに、北方の気色を見給ふに、いとどせん方なくぞ
おぼさるる、あはれ此人の身を身とならんを見置て、
いかにもならばやと思はれけるも、せめての事と覚
えていとをしけれ、六条とて年頃つき奉たる乳母の
女房ありけり、此事を聞より、伏まろびて、もだえ
こがるる事斜ならず、ちの中にましまししを取上参
らせて、洗ひあげ奉りて、いとをしかなしと思そめ
奉りしより、冬の寒き朝には、しとねをあたためて
ねせ奉り、夏のあつき夜は、すずしき所にすへ奉て、
明てもくれても、此御事より外、又いとなむことな

し、我身の年のつもるは知らず、いそぎ人に成給は
んことをのみ思ひて、夜のあくるもおそく、日のく
るるも心もとなくて、廿一までおふし奉りて、院内
へ参給て、おそく出給へば、覚つかなくて、恋しく
のみ思奉りつるに、こはいづくへとて出させましま
すべきぞや、すてられ奉りて、一日片時もあるべし
とこそおぼえねと、くどきてなけば、げにもさこそお
もふらめとおぼせば、少将涙をおさへて、いたくな
思ひそ、我身あやまたねば、さりともとこそ思へ、
宰相さてましませば、命ばかりはなどか申うけられ
ざるべきと、なぐさめ給へども、人目もしらずなき
もだえけるぞむざんなる、又八条よりとて使あり、
おそしとあれば、何さまにも罷むかひてこそ、とも
かくも申さめとて、宰相出給へば、車に乗具して少
将も出給ぬ、なき人をとり出すやうに見送りて、泣
あひけり、保元、平治より此かた、平家の人々たの
しみ栄えはあれども、悲歎はなかりつるに、門脇宰
P098
相ばかりこそ、よしなかりけるむこ故にかくは歎を
せられけれ、八条近くやりよせられたれば、その四
五町には、武士充満していく千万と云数を知ず、い
と恐ろしなどはいふばかりなし、少将は是を見給ふ
につけても、大納言殿の御事をおぼすぞ悲しき、宰
相車を門外にとどめて、案内を申給へば、内へは入
れ給まじとありければ、少将をばその辺近き侍の家
におろし置きて、宰相ばかり内へ入給ひぬ、見もし
らぬ兵あまた来て、居廻てまほり申、少将は、憑たり
つる宰相は入給ひぬ、いとど心細くかなし、宰相入て
見給へば、おほかた内のありさま、武士どものいそ
めきあへるけしき、誠におびただし、教盛こそ参り
て候へ、見参に入候はんと宣ひけれども、入道出あ
ひ給はざりければ、季貞をよび出して、宰相申され
けるは、よしなき者に親しくなり候こと、今更思ひ
合せられて、くやしく候へども、かひ候はず、成経
に相ぐせさせて候ものいたくもだえこがれ候ほど

に、おんあいの道、力及ばざることにて、むざんに覚
え候、近く産すべきものにて候が、いかに候やらん、
月頃なやみ候へつるに、此歎うちそへ候なば、身を
身とならぬさきに、命もたえ候なんず、たすけばや
と思ひて、おほそれながら申候、成経をば申あつか
り候はばや、教盛かくて候へば、いかでひが事せさ
せ候べき、覚束なく思召すべからずと、なくなく申
給ふ、季貞此由を入道殿に申ければ、世に心得ずげ
にて、とみに返事ものたまはず、宰相中門にていか
にいかにと待給ふ、良久ありて、入道のたまひけるは、
成親卿此一門をほろぼして、天下を乱さんとする企
ありけり、しかるを一家の運盡ざるによて、此事顕
れたり、少将はすでにかの大納言の嫡子也、したし
くましますとても、えこそなだめ申まじけれ、かの
企遂まじかば、それ御辺とてもおたしくてやましま
すべき、いかに御身の上をばかくはのたまふぞ、聟
も子も身にまさるべきかと、少しもゆるきけもなく
P099
のたまへば、すゑさだかへり出て、此よしを申けれ
ば、宰相大にほいなげに思ひ給ひて、おし返しのた
まひけるは、加様の仰に及ぶ上を、かさねて申はその
恐れふかけれども、心中に思はんほどのことを、残
さんも口惜ければ申ぞ、季貞今一度よく申せよ、保
元、平治両度の合戦にも、身を捨て御命にかはり奉
らんとこそ思ひしか、是より後も、荒き風をばまづ
防がんとこそ思候へ、のり盛こそ今は年の寄て候と
も、若き者どもあまた候へば、御大事もあらん時は、
などか一方の御かためとなして候べき、のりもりが
たのみ奉候ほどは、つやつや思召され候はざりける、
成経をしばらくまかり預らんと申を、覚つかなく思
召て、御ゆるされのなからんは、すでに二心有もの
と覚し候にこそ、是ほどうしろめたなきものにおも
はれ奉て、世にあても何かはすべき、世にあらば又
いかばかりの事かはあるべき、ただ今身のいとまを
給て、出家入道もして、片山寺に籠りゐて、後生菩

提のつとめを仕るべし、よしなきうき世のまじはり、
世にあればこそ望もあれ、望かなはねばこそ恨みも
あれ、しかしただ世をのがれて、誠の道に入なんに
はとのたまへば、季貞にがにがしき事かなと思ひて、
此よしをくはしく入道殿に申ければ、物に心得ぬ人
かなとて、また返しものたまはず、季貞申けるは、
宰相殿はおぼしめしきりたる御気色に渡らせ給め
り、よくよく御計やあるべく候らんと申ければ、其
時入道のたまひけるは、先御出家あるべきよし仰ら
れ候なるこそ驚存候へ、大方是ほどに、恨みられ参
らすべしとこそ存ぜねども、かほどの仰に及ばん上
は、少将をばしばらく御宿所におかれ候べしと、し
ぶしぶにありければ、宰相悦で出給ひにけり、少将
は何となくたのもしげに思ひて、いかにと問給ふぞ
哀なる、宰相仰せられけるは、あなむざんのありさ
まや、我身にかへて申さざらんには叶ふまじかりつ
る命ぞかし、人の娘子を持事はむやくのことかな、
P100
我子の縁に結ぼれざらんには、人の上とこそ見べき
ものを、身の上になして肝心をけすこそよしなけれ
とぞ仰せられける、いざとよ、入道殿の憤りなのめ
ならず、ふかげにて、のりもりには対面もしたまは
ず、叶うまじきよしたびたびのたまひつれども、季
貞をもて出家入道をもせんとまで申たりつれば、し
ばらく宿所に置給へとばかりのたまひつれども、し
じうよかるべしとも覚えずのたまひければ、少将申
されけるは、成経御恩にて一日の命ものび候にける
こそ一日とてもおろかの儀にて候はず、たすかり候
はんことこそ然るべきにて候へ、是につけても大納
言の行衛いかがきこしめされ候つるとのたまへば、
宰相はいざとよ御事をこそとかく申つれ、大納言殿
の御事までは、心も及候はずとのたまひければ、げ
にも理りかなと思へども、大納言今夜失はれ候はば
御恩にて、成経けふばかり命生ても、なにかはし候
べき、しでの山をも諸ともに越え、片時もおくれじ

とこそ存候へ、おなじ御恩にて候はば大納言のいか
にも成候はん所にて、ともかくも罷成候はばや、同
くはさやうに申行はせましますべうや候らんとてさ
めざめとなかれければ、宰相又心にくげにて、まこ
とや大納言殿は内大臣のとり申されければ、それも
今夜はのび給ぬるやらんとこそ聞候つれ、心やすく
思ひ給ふべしとのたまひければ、少将その時手を合
て悦給ひけり、今夜ばかりなりとものび給へかしと
て悦ばれけるを見給ふにこそ、宰相又むざんやな、
子ならざらんものは、ただ今誰かは是ほどに我身の
上をさし置て、覚束なくも思ひのびたるを聞て、身
にしみてうれしく思ふべき、誠の思は父子の志にこ
そとどめてけれ、子をば人のもつべかりけるものを
と、頓てぞ思ひ返されける、宰相は少将を具して帰
り給にけり、宰相の宿所には、少将殿出給つるより、
北方を始として、母上乳母の六条、ふし沈みて、い
かなる事をか聞んずらんと、気も心もまどひておぼ
P101
しける程に、宰相帰り給ふといひければ、いとどむ
ねせきあげて、打捨ててましますにこそ、いまだ命
もましまさば、いかにいよいよ心細く思すらんと、
悲しく思はれけるに、少将殿もかへらせ給ふと、先
に人はしり向ひて告申たりければ、車よせに出むか
ひて、誠かやとて、又声々に泣給へり、のちは知ら
ずかへりましましたれば、死したる人の生がへりた
るやうに覚えて、悦泣どもし合れけり、此平宰相と
申は、太政入道のさいあいの弟にて、片時も身を放
ち給はず、されば六波羅の惣門の内小屋を立すへら
れたりければ、人異名に門脇宰相と申けり、当時は入
道八条にましませども、世もなほつつましとて、門
さし蔀のかみばかりあけてぞおはしける、
入道相国可押寄院御所事
入道はか様に人々あまたいましめをかれたりけれど
も、猶心ゆかず思はれければ、善悪法皇をむかへ奉
て鳥羽殿におしこめ奉て、いづちへも御幸なし奉ら
んと思こころつきにけり、赤地の錦のひたたれに、

白かな物打たる黒糸をどしの腹巻のむな板せめて、
其かみ安芸守と申し時、いつくしまの社より、神拝
の次に、霊夢を蒙りてまうけられたる白がねのひる
巻したる秘蔵の長刀手ほこの常の枕を放たれざりけるを
左の脇にはさみて、中門の廊につと出て立れたり、
其気色ゆゆしくぞ見えける、貞能をめす、筑後守貞
能は木蘭地の直垂にひをどしの鎧着て、御前にひざ
まづいて候、入道のたまひけるは、貞能此事いかが
思ふ、浄海が存ずるはひが事か、一年保元の逆乱の
時平右馬助忠正を始として、したしきものども中
半過て院の御方に参りにき、一の宮の御事は故刑部
殿の養君にて渡らせ給しかば、かたがた思ひ放ち奉
りがたかりしかども、故院の御遺誡に任せて、御方
にて先をかけたりき、是一の奉公なりき、次に平治
の逆乱の時、信頼、義朝が振まひ、入道命を惜みて
はかなふまじかりしかば、命を捨て凶徒を追落して、
天下をしづむ、その後つね宗、これかたを誡にいたる
P102
まで、君の御ために命をすてんとする事度々也、た
とへ人はいかに申とも、浄海が子孫をいかで捨させ
給ふべき、されば浄海がことをいるかせに申さんも
のをば、御いましめあるべきに、いましめらるるま
でこそなからめ、大納言が讒訴につかせ給ひて、な
さけなく此一門を追討せらるべきよし、院中の御結
構こそ遺恨なれ、此事行綱告知らせずばあらはるべ
しや、あらはれずば入道あんをんにあるべしや、猶
北面の下臈どもが諌め申事あらば、当家追討の院宣
下されぬと覚ぬるぞ、朝敵ならん後は、悔に益ある
まじ、世をしづめんほど、仙洞を鳥羽の北殿へうつ
し奉るか、然らずば御幸を是へなし奉らんと思ふな
り、其儀ならば北面の者どもの中に、矢をも一筋い
んずる者もありぬと覚ゆるぞ、侍どもに用意せよと
ふれべし、大かたは浄海、院方の宮仕思ひ切たり、
きせながども取出せ馬に鞍置せよとぞ、下知せられ
ける、鳥羽殿への御幸とは聞えけれども、内々は法

皇を西国の方へながし参らすべき由をぞ議せられけ
る、
小松殿被諌父事
主馬判官盛国此景色を見奉て、小松殿へ馳参て、大臣
殿に申けるは、今かうと見え候、入道殿すでに御き
せながめされ候、侍ども皆打立候、法住寺殿へよせ
られ候か、鳥羽殿への御幸とは聞え候へども内々は
西国の方へ御幸なしまいらすべきにて候やらんとこ
そ承り候へ、いかに此御所へは今まで御使は候はぬ
やらんと、いきもつぎあへず申ければ、内大臣大に
さわがれけり、いかでさしもの事あるべきと思へど
も、けさの入道の気色さる物ぐるはしきことも有ら
んとおぼされければ、内府急ぎ馳来、その時もおな
じく甲冑をよろふに及ばず、八葉の古車のけしかる
に、子息のこれ盛車の尻に乗て、衛府四五人、隨身
二三人召具して、今朝のていにて烏帽子、直衣にて
ぞおはしたりける、西八条へさし入て見られければ、
一門の卿相雲客数十人、思ひ思ひの直垂に、色々の
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鎧着て、中門の廊に二行に着かれたり、衛府、諸司、
諸国の受領などは、梃に居こぼれて、つぼにもひし
と並居たり、はたざほ引そばめて、馬のはるびをし
めて、甲をばひざの上に置て、ただいまかけ出んず
る体と見えたりけるに、内大臣、烏帽子、直衣にて、
さしぬきのそばを取て、さやめき入られけり、事の外
にぞみえられける、入道は是を遠くより見給て、少
ふしめに成て、例の此内府が世をへうする様にふる
まふはとて、心得ずげに思はれたり、此内大臣は内
には五戒を持、外には五常をみださず、仁義禮智信
にただしく、無双の賢人にてましましければ、子な
がらもさすが此すがたに腹巻を着て、あひむかはん
こと、面はゆくや思はれけむ、障子をすこし引たて
て、腹巻のうへに素絹の衣を引かけて、胸板の金物
のはづれて、きらきらとして見えけるを隠さんと、
しきりにむねを引ちがへ引ちがへぞせられける、内大臣
は弟の右大将宗盛卿より上に座たかく着座せられた

り、檜扇中半に開きてつかはれけり、内大臣もしば
しは物ものたまはず、入道殿も又音もし給はず、良久
あて、入道のたまひけるは、抑此間の事、西光法師
にくはしく相尋候へば、成親父子がむほんの企は事
の始にて候けるぞ、大かた近来よりいとしもなき近
習者どもが、折にふれ時に隨て、さまざまのことを
すすめ申なる間、御かろがろ敷君にて渡らせ給、一
定天下の煩、当家の大事引出させ給ぬと覚ゆる間、
法皇を是へむかへ参らせて、片辺に押籠参らせんと
存ずる間、此事申合奉らんとて、待奉つるに、いか
なるちちにか候、大方は浄海が思と思ふ事、御辺の御
心に一々に違ひ候らん事こそ、遺恨に覚え候らへと
宣へば、内府畏承候ぬと計にて、御眼よりはらはらと
涙を落し給ふ、入道浅ましと覚して、こはいかにと
のたまへば、内府直衣の御袖にて、涙をおしのごひ
て、申されけるは、此仰をかうふり候に、御運のす
でに末になり候と覚えて、不覚の涙のこぼれて、先
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なにかの仔細は知候はねども、此御すがたを見参ら
せ候こそ少もうつつとも覚候はね、さすが我朝は辺
鄙粟散の境と申ながら、天照太神の御子孫、国のあ
るじとして、天津兒屋根の尊の御末、朝政を典給し
より以来、太政大臣にのぼれる人、甲冑をよろふ事
輙かるべしとも覚えず、就中出家の御身となり、か
たがた御はばかりあるべかりけるものを、夫三世諸
仏の解脱幢相の法衣をぬぎすて、忽に甲冑を帯しま
しまさんこと、内には既に破戒無慚の罪を招き給ふ
のみに非ず、外にはまた仁義禮智信の法にも背き候
ぬらんとこそ覚え候へ、先重盛一々に御意に違ひ、
ふしぎ成仰を蒙候上は、すでに不孝の仁に罷成候に
こそ候なれ、さやうに候はんに於ては思ふことを心
中に残し候はんは、口惜かるべう候へば、一々に申
開くべし、おほそれながら暫く御心をしづめさせお
はしまして、重盛が申状を具に聞召さるべうや候ら
ん、かつうは又最後の申状にて候、ただ今御院参の

条何事に哉、たとへ御院参有べう候とも、重盛に仰
合され、申所の一儀をも聞召され候べかりける物を、
以の外に物さわがしく覚え候物かな、むほんの輩召
置れ候ぬる上は、何とか君をば恨み参らせ給ふべき、
まさしく君の叡慮より思召し立つ御事よも候はじ、
近習の人々の申すすめ参らせ候によてこそ、御許容
なども候らめ、たとひ又君の御結搆にて、正しく院
宣をもてむほんの事仰せ下さるといふとも、しゐて
御ひが事ども覚候はず、その故は上古を思ひやり候
に、平将軍貞盛、将門を討たりしも、勸賞に預りし
事受領には過ざりき、伊予守頼義が十二年まで戦ひ
て、貞任、宗任を亡したりしも、いつか丞相位に昇
て父子ともに朝恩にあづかりし、しかるを此一門は
代々に朝敵をうち平げ、四海の逆浪をしづめば、隨
分忠なりといへども、其賞に預る事は、已に身に余
れり、先例傍れいなし、君事の序をもて、余りの事
なりと御気色あらん事、全以御ひが事とも覚え候は
P105
ず、むほん張本と仰られて、新大納言召置るる事、
是又ふつうの儀に非ず、我君の御寵臣あるひは禁中
伺候の人を、我が為にあだをなせばとて、心のまま
に召おかれ、罪科に行はれん事然るべからず哉、い
く度も君に仔細を奏して、御気色にこそ任せらるべ
きに、押て召捕られぬるは、すでに君をなめなめに
しまいらするにあらずや、此上は今は御身を慎で君
の御ためには、いよいよ奉公の忠節を存じ、民のた
めには倍々憮育の御あいれんをいたしましまし、先
非を悔いさせ給ひて、政務に私あらじと思召さば、
諸天善神の擁護浅からず、神明仏陀の御加護しきり
にして、君の御政引かへて、逆臣忽に滅亡し、凶徒
則退散し、四海の狂乱しづかに、満点の嵐やまんこ
と、掌を返さんよりも猶早々なるべし、大方は諸経
の説相不同にして、内外存知各別なりといへども、
しばらく心地觀経第二巻によらば、世に四恩あり、
一には天地恩、二には国王恩、三には師長父母恩、

四には衆生恩是也、是を知るを以て人倫とし、知ざ
るを以て鬼畜とす、その中に殊に重きは朝恩也、あ
まねく天下王土に非ずと云事なし、率土の濱王臣に
非ずと云ことなし、就中国王の恩此一もん極れり、
日本はわづかに六十六ヶ国、しかるを三十余ヶ国は、
一門の分国にて政を執行す、その上庄薗、田畠、
家門の所領也、此一門の朝恩にほこる事は、依法将
軍とも云つべし、昔も今もためしすくなし、彼頴川
の水に耳を洗ひ、首陽山に蕨を取ける賢人も、勅命
の遁れがたき禮儀をば存ずとこそ承はれ、忝くも御
先祖桓武天皇の御苗裔、葛原親王の御後胤と申しな
がら、中古より無下に官途も打くだり、わづかに下
国の受領をだにもゆるされずして候けるに、故刑部
卿殿備前の国務の時、鳥羽院の御朝、得長寿院造進の
勧賞によて、久絶たりし内昇殿をゆるされ給し時も、
万民口びるを返しけるとこそ承れ、いかにいはんや、
御身はすでに拝任の例を聞ざりし、太政大臣の位き
P106
はめさせ給ひ、御末又大臣大将にいたれり、所謂重
盛などが短才愚暗の身をもて、蓮府塊門の位に至る、
是希代の重恩にあらずや、今是等の朝恩を忘れて、
君をかたぶけ参らせ給はんこと、天照太神、正八幡
宮、日月星宿、堅牢地神に至るまで、御許や候べき、
唯今天の責を蒙て朝敵となり給ふべし、朝敵となる
ならば、近くは百日、遠くは三年を出ずとこそ申伝
へたれ、君事の次をもて、奇怪なりと思召さんこと
は尤ことわりにてこそ候へ、しかるを御運いまだ盡
ざるによて、此事すでに顕はれて、仰合らるる人々
か様に召置れぬ、たとひ又君いかなる事を思召し立
といふとも、暫何の恐れかましますべき、大納言已
下の輩に所当の罪科を行はれ候はん上は、しりぞい
て事の仔細をちんじ申させ給ふべきにてこそ候へ、
みだれがはしく法皇をかたぶけ参らせられん事、然
るべしとも覚え候はず、以父命不辞王命、以王
命辞父命、以家事不辞王事、以王事辞家事

ともいへり、又君と臣とを准ずるに、親疎をわけて
君に附奉るは忠臣の法也、道理と僻事とを並べんに
いかでか道理につかざらんや、是は君の御道理にて
こそ候へ、重盛に於ては、御院参の御供仕べしとも
存じ候はず、叶はざらんまでも、院中を守護し参ら
せんとこそ存候へ、その故は重盛始て六位に叙せし
より、今三公のすゑにつらなるまで、朝恩を蒙る事、
身に於てはすこぶる過分也、その重きを思へば、千
顆万顆の玉にも越え、其深きことを諭ずれば、一入
再入の紅にも過たるらん、然れば重盛君の御方へ参
候はば、侍二三万騎はなどか候はざらん、その中に
命にかはり身にも代らんと思ふ侍、二三百人はなど
か候はざらんや、是等を引具して院の御方へ参りて、
禦戦候はば以の外の御大事にてこそ候はんずらめ、
是を以て昔を案ずるに、保元逆乱の時、六条判官為
義は新院の御方に候、子息下野守義朝は、内裏に候
て、合戦事終て、大炊殿戦場の煙りの底に成し後は、
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一院讃岐の国へ御下向、左府はながれ矢に当りうせ
給ひて後、大将軍法師に成りて、子息義朝がもとへ
降人になり、手を合て向ひたりけれども、今度朝敵
の大将軍なりとて、断罪に定りにければ、義朝力及
ばず、人手に懸らんよりとて、朱雀大路に引出して、
父がかうべを刎候しこと、同じ勅定と申しながら、
悪逆無道の至り口惜き事かなとこそ存候しか、今度
君討かたせましまし候はば、彼保元の例に任て、重盛
五逆のその一にやなり候はんずらんと存候こそ、予
て心うく候へ、かなしきかなや、君の御為に忠を致
さんとすれば、迷盧八万の頂なほくだれる父の恩、
忽にわすれて不孝の罪かろからず、いたましきかな
や、不孝の罪をのがれんとすれば、また君の御為に
不忠の逆臣となりぬべし、君々たらずといふとも、
臣以臣たらずば有るべからず、父々たらずとも、子以
子たらずばあるべからず、是といひ、かれといひ、
むやくのことにて候、末代に生をうけてかかるうき

めを見る、重盛が果報のほどこそ口惜く候へ、され
ば申うくるところ、猶御承引なくして、御院参有べ
う候はば、先重盛がかうべを召さるべう候、所詮院
中をも守護すべからず、 又御供をも仕べからず、申
うくるごとく、只首を召さるべき也、いざ思しめし
合せましまし候へ、御運一定すゑになりて候と、お
ぼえ候也、人の運のすゑにのぞむ時こそ、かかる僻
事を思ひ企つる事にて候なれ、老子の言葉こそ思ひ
合られ候へ、功成名遂、退身避位、即不遇害と
も申、彼漢蕭何は大功を立つる事傍輩に越えたるに
よて、官太相国に至り、劒を帯し沓をはきながら、殿
上にのぼることをゆるされたりき、しかれども、叡
慮に背くことありしかば、高祖来て重くいましめて、
廷尉にくだして深くつみせられき、論語と申文には
邦無道則富且貴恥也と云文あり、かやうの先蹤を
思ひ合せ候にも、御富貴といひ、朝恩といひ、重職
といひ、一かたならずきはめて、年久しくなりまし
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ませば御運の盡ん事も非可堅、富貴の家、禄位重
疊せるは、猶再び実る木其根如傷ともいへり、心
細くこそ覚候へ、いつ迄命いきて乱れる世を見候べ
き、只急ぎ急ぎかうべを刎られ候べし、侍一人に仰
付て、ただ今御つぼに引出されて、かうべをはねら
れん事は、よにやすき事にてこそ候はんずれ、是は
殿原いかが聞給やとて、直衣のふところの中より、
たたう紙を取出して、はなうちかみうちかみ、さめざめ
と泣諌め申されければ、一門の人々よりはじめ、侍
どもに至るまで、鎧の袖をぞぬらされける、入道も
岩木ならねば、道理につまりて、返事もし給はず、
すがたのはづかしさに、障子のおくへすべり入て、
かたづをのんでましましけるが、のたまひけるは、
是程まではあるべくも候はず、唯ものも覚えぬ悪党
等が申さん事に付き給ひて、御僻事やいでこんずら
んと思ふばかりぞとくどきのたまひければ、内府申
されけるは、たとひいか成御僻事出で来とも、いか

がせさせ給ふべき、掛巻もかしこく少しも思召寄ほ
どのことをこそ御言葉にも出され候はめ、あなまが
まがしとて、がはと立ち給ふ、車のうちに用意せら
れたりける物の具召し寄せて、紫地の鎧直垂に、は
じのにほひの鎧を着て、白星のかぶと、春近といふ
雑色のくびにかけさせて、おとどの右大将宗盛の黒
くり毛の馬に黄ぶくりんの鞍置て、とねりが扣へた
るを引かなぐりて、乗給ひ馬をひかへて打立給ふ、
さも然るべき侍兵にあひて、のたまひけるは、重盛
が申つる事は各々承はらずや、されば院参の御供に於
ては、重盛がかうべをはねられんを見て後仕べきと
覚ゆるはいかに、けさより是にてかなはざらんまで
も、諌め申さばやと存ずれども、是体のありさま、
ひたあわてに見えつる間、存ずる旨あて、かへりつ
る也、今ははばかる所あるべからず、頸を召さるべ
きよし申つれば、その旨をこそ存ぜめ、但今までさ
も仰出されぬはいかなるべきぞや、今日より後は中
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違奉る、重盛を重盛と思はん人どもは、よろうて小松
へ参れ、是を以て志のありなしをば見んするぞと、
のたまひ捨て御馬を飛せつつ、急ぎ小松殿へかへり
給ひぬ、是を聞て西八条にありける侍ども、入道殿
にかくとも申さで、我先にとぞ馳参る、おぼろげに
てはさわぎたまはぬ人の、かかる仰の下るは、別の
仔細あると覚ゆとて、夜明にければ、洛中の外、白
河、西京、木はた、伏見、宇治、岡のや、淀、羽束
瀬、醍醐、小栗栖、日野、勸修寺、大原、志津原に
至まで、我劣らじと馳集りければ、西八条には青女
房古尼公より筆執などぞ少々残りける、弓箭携へた
る者は一人もなかりけり、入道殿人やあると喚れけ
れば、貞能候とて、肥後守つと参る、侍に誰々かあ
る、貞能ならでは、一人も候はず、去にても、誰か
ある、小松殿へ皆参りて貞能が外は一人も候はぬも
のをと申ければ、入道殿去にてもとて、走り出て見
給へば、げにも侍には人一人もなし、ここにやある、

かしこにやあると、ここのかくれ、かしこのえんと
うのぞきありき給ひけれども、人一人も見えざりけ
り、こはいかに、内府に中違ては、片時も世に立ま
ひてあらん事は、かなふまじかりけるものをとてこ
そ、うそぶきてよに心えず、興さめげにて、腹巻脱
ぎ置て、縁行道してそけんの衣に袈裟打かけて、い
と心も起らぬ念珠くりてぞおはしける、貞能にのた
まひけるは、いかに世間の様何とあらんずるぞとの
たまひければ、貞能申けるは、御子も御子にこそよ
らせ給候へ、何か苦しく候べき、御退望候て、御中を
直らせましまし候へかしとこそ存候へと申ければ、
入道さこそとよ、能いひたり、入道もかくこそ存ずれ
とのたまふ所に、入道の舎弟さつまの守忠度小具足
ばかりとりつけて、ただ一騎はせ来られけり、入道
此人を見つけて、少し力づきたる心地して、あれは
薩摩殿か、さん候、内府が元へましましたりつるか、
さん候参りて候つ、いかによろふと聞は誠候か、さ
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ん候御よろひ候、それは何事ぞ、入道殿御悪行、法に
過させましまし候へば、いか様にも父の悪行子孫に
報いて、日本国に末代には子孫一人もあるべからず、
されば恩重しといへども、朝恩にくらぶれば、みぢ
んのごとし、君の御方に参りて、君を守護し参らせ
んとて、小具足召れ候て、只今院参有んと候と申さ
れければ、入道興さめて、や殿薩摩殿、わどのと内
府とは以の外に心通て、中よき人にてましませば申
也、まづまづ問ひてなだめて見給へかし、何となだ
め参らせ候はんずるやらん、なだめ給はんずる様は、
此ほど世の中しづかならねば、法皇をしばらく鳥羽
殿に置参らせて、世を静めんとすれば、嫡子に捨ら
るるこそかなしけれ、老て子に捨らるるは、朽木の
枝なきがごとくなり、院参に於ては思ひとどまり候
ぬ、自今以後は内府の計ひ申されん事をば、一切背
き申まじきぞ、きと立寄給へ、なに事も申承べしとの
たまふべしとぞ申されける、さつ摩の守小松殿へ馳

向て、此由を申されければ、小松殿袖を顔におし当
てて、はらはらと泣給ふ、いと久しくあての給ひけ
るは、おろかなる親にも隨ふは能子也、入道殿いか
に愚に渡らせ給ふとも、その子なれば隨ひ奉るべき
にてこそあれども、君をなやまし奉る事のかなしさ
に、君を守護し奉らんとすれば、いかにも隨ひ奉る
べき重盛に、父の御身として却て順ひ給ふことこそ
哀なれ、仏神のいかに思召すらん、抑御院参あるべき
由仰られ候つればこそ、御中違奉り、院を守護し参
らせんとは申つれ、御院参思召とどまり候はんにお
いては、いかが中をば違参らすべき、やがて仰に隨
て参るべく候、総じて事の心をあんずるに、父の命
に隨ひて、君を捨奉候はん事は、恩をしらぬ畜生に
似たり、父を捨て君の御方へ参候はば、又不孝の重
盛罪深し、所詮君の御方へも参るべからず、父の命
にも順ふまじ、しかじただもとどりをきり、山野に
まじはり、後生菩提の勤より外他事候まじとこそ御
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返事は申されけれ、さつ摩守馳帰て此由を申された
れば、入道殿是を聞て、はづかしきにつけても、よ
きにつけても、さしも邪見にましましけるが、墨染
の袖をぞしぼられける、それにつけても、おくちな
くぞ見えられける、さて小松殿は西八条殿へ入せ給
ひてこそ、御中は和平し給ひけれ、
幽王被討事
小松殿は参り集たる侍共にあひて仰られけるは、ひ
ごろの契約たがへず、かやうに参りたるこそ神妙な
れ、重盛別して不思議を聞出したりつるほどに、か
くは催したりけれども、その事聞直しつ、ひが事に
ありけるぞ、いそぎいそぎ帰れ、異国にか様のためし
あり、昔唐国に周幽王褒氏国を責給ふ時、国亡て防
ぎ戦ふに力すでに盡ぬ、褒氏国の人はかりごとをめ
ぐらして、千年経たる狐の子を取て、有験の僧に加
持せさせて、目出度美女に加持し出す、褒氏国の大臣
公卿集てのたまはく、君は昔は千里の野を栖とする
獣なり、今は人に加持しなす、いかでか奉公を知らざ

らんや、此国すでに幽王にせめられ、父母兄弟に放
れ畢ぬ、ねがはくは、君幽王のもとへましまして、
皇の心をたばかりて、此国をたすけ給へ君と、くど
き立て幽王の許へ申送りけるは、此世にありがたき
美女を奉らん、亡し給ふことやめ給ひてんやと申け
れば、幽王答て曰、誠に有がたき美女ならば朕請取
て、国をかたむくる事をば則とどむべしと返答あり、
よて件の美女を幽王のもとへつかはす、天下無双の
美女楊貴妃、李夫人のごとし、然れば則褒氏妃と名
づけ、幽王の第一の后と定む、幽王の后たちは褒氏后
に光をとられて、籠居し給へり、大王褒氏后をおぼ
しめすことわりなく類ひすくなかりけり、されども
此后あへて物いふことをし給はず、いはんやまたゑ
みをふくむこともなし、此后に物をいはせて聞き、
ゑみをふくませて、見んずると思召されけり、彼国
には官兵を召集んとての籌には、飛火をあぐるなら
ひあり、烽火とは我朝にも飛火の野もりといひて、
P112
たかき峯に火をとぼす事ありき、ある時幽王朝敵を
亡さんとて烽火大皷と云物あり、烽火大皷とは大鼓
の中に火を入て天を翔飛する術あり、是則遠国のつ
はものを集るはかりごと也、今此飛火をあげたる時、
褒氏后のいはく、ふしぎや大鼓翅はなけれども、天
を翔る術ありけりとて、始て物をのたまひて大に笑
ひ給ひき、其時幽王悦で、すはこの后は物のたまひた
るぞ、ゑみをふくみ給ひけるはとて、后を笑はせ奉
らんずるはかりごとには、飛火をあぐ、是を見て諸
国の官兵驚きて、王宮にこと出来とて馳参る、かか
る謀なりければ、事なき故に各本国へかへりけり、
東海へ帰る者は山ざとの山川を分、西海へ赴く者は、
八重のしほぢを凌ぎけり、かくする事すでに度々な
り、その後は兵心得て、馳せ参ずる事もせず、かく
国をたばかりおほせて、秦公と云大将軍をもて、褒
氏国より幽王の内裏へおし寄たり、大王人々驚きて、
頻りに飛火を揚るといへども、兵是を見て、例の后

の物のたまひ笑み給ふと思ひければ、馳参る事もせ
ざりけり、兵王宮へ乱入て、幽王をうちとり国を亡
してけり、かくして後は褒氏后は白狐の尾三つ有に
現して失にけり、異国にもかかるためしあるぞとよ、
重盛別して大事を聞出しつる間、相催したるに時を
かへず、各々馳参ずる条、返々神妙なり、たのもしく
覚ゆるものかな、今此事を聞直しつ、ただ今事なけ
ればとて、努々幽王の類ひに隨ふことなかれ、自今
以後も重て相催す事あらば、更に遅々あるべからず、
急ぎ急ぎ帰て物の具ぬぎて、やすまれよとて、兵と
もをば返されけり、着到披露ありければ、二万七千
三百余騎とぞしるしたる、抑美女をけいせいとは、
幽王の時より名付たり、都をかたむくるといふ談あ
り、此よみをばそのかみは、いましめられけれども、
当世都には傾城とぞよばるなる、狐の女にばけて人
の心をたぶらかすと云本説あるにや、内大臣まこと
はさしたる事をも聞出されざりけれども、父入道を
P113
諌め奉つる言葉に隨ひて、我身に勢のつくか、付ぬ
かのほどをも知り、かつうは又父と軍をせんにはあ
らず、父のむほんの心をもや思宥め給んとのはかり
ごとなるべし、内大臣の存知のむね、文宣公のたまひ
けるに違はず、君の為に忠あり、父の為に孝あり、
あはれゆゆしかりける人かな、法皇此次第を聞召さ
れて今に始ぬことなれども、重盛が心中こそはづか
しけれ、あだをば恩をもて報ぜよといふ文あり、九
はやあだを恩にて報ぜられけりと、仰ありけるとぞ
聞えし、その後さゑもん入道西光をば、朱雀の大路に
引出して首をはねらる、郎等三人同はねられにけ
り、
成親流罪事
二日、成親卿をば、夜のやうやう明方に公卿座に出
奉て、物参らせたりけれども、むねせきのども塞り
て、いささかも召さず、やがて追立の官人参りて、
車をさし寄て、急ぎ急ぎと申ければ、心ならずのり
給ひぬ、御車のすだれをさかさまにかけて、うしろ

様にのせ奉て、先火丁一人つと寄て引落し奉りき、
誡の〓を三度あて奉る、次に看督長一人寄て、殺害
の刀とて、二刀つくまねをし奉る、次に山城判官秀
助宣命をふくめ奉る、かかる事は人の上にても御覧
じ給はじ、まして御身の上にはいつかならひ給ふべ
きと、御心中推量せられてあはれ也門外よりは軍兵
数百騎、車の前後に打圍みて、守護すれども、我方様
の者は一人もなし、いかなる所へ行やらんもしらす
る人もなし、内大臣に今一度あひ奉らんとおぼしけ
れども、それもかなはず、ただ身にそふものとては
盡せぬ御涙ばかり也、朱雀を南へ下りに行ければ、
大内山をはるかにかへり見て、思ひ出す事多かりけ
り、昔唐の呂房といひし人、故宮の月に膓を断、是
も旅行に月を見てこそありしか、彼大納言は日月の
光りをだにも見せ奉らず、車の前後に障子をぞ立た
りける、大納言の御歎きの深さに、くるるを待つべ
しとも覚えずなん、難波の次郎経遠をもて、内府へ申
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されたりければ、その後月日の光をゆるされ給ひに
けり、かかる歎きの中にもかくぞ思ひつづけられけ
る、
極楽とおもふ都をふり捨てて
ならくの底に入らんかなしさ W029 K015
鳥羽院につき給へば、年ごろ見なれ奉つる舎人、牛
飼ども、並み居つつ涙をながす、あやしの賤の男、
しづの女に至るまで、よそのものだにもあはれをか
く、まして都に残りとどまる跡の有さま、いかばか
りかなしかりけん、我世にありし時は、したがひ付
たりしもの一二千人もありけんに、一人も身にそふ
者なく、けふを限りにて都を出るこそかなしけれ、
重き罪を蒙て遠国へ行者も、我方ざまの人一人具せ
ぬ事やはあると、さまざまひとり言をのたまひて、
車の内にて声もをしまず泣給へば、車の前後に近き
兵は、鎧の袖をぞぬらしける、鳥羽殿を過給へば、
此御所へ御幸のなりしには、一度も外れざりしもの

をなどと思ひ給ひて、我とのゐ所の前を通り給へば、
今はよそに見入て過給ふも哀也、南門を出ぬれば、
河原まで御舟のしやうぞく急ぎ急ぎといそがす、こ
はいづくへやらん、失はるべくはただ此ほどにても
あれかしとぞおぼす、せめてのかなしさのあまりに
や、近く付たりける武士を是はたぞと問ひ給へば、
経遠と名乗けり、難波次郎と云者也、此程に我ゆか
りの者やあると尋てんや、舟に乗らぬ前にいひ置く
べきことありとのたまひければ、その辺近きあたり
を打めぐりて尋けれども、あへて答ふるものもなし、
帰参りてこのよしを申ければ、世におそれをなした
るにこそ、などかはゆかりの者のなかるべき、命に
もかはらんといひ契りし者一二百人もありけんもの
を、よそにも我有さま見んと思ふ者のなきこそ口惜
けれとて、涙をながし給へば、武きもののふなれど
も、哀とぞ思ひける、大納言御舟に乗給ひて、鳥羽
殿を見渡して、守護の武士に語給ひけるは、去永万
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の頃、法皇鳥羽殿に御幸あて、ひねもすに御遊あり
き、四条太政大臣師長、御びはの役にきんぜらる、
花山院中納言忠雅、御笛の役に参らせらる、葉室の
中納言俊賢、ひちりきの役に参りたまふ、楊梅三位
あきちか笙の笛を仕り、もり定、行ざね打ものの役
をつとむ、かかりしかば宮中すみ渡り、群集の諸人
かんるゐを流しき、時に調子ばんしき調、万秋楽の
ひきよくを奏せられしに、五六の調になりしかば、
天井の上にびはの音ほのかに聞ゆ、着座の公卿各々色
を失ふ、君少もさわがせ給はず、その日四位少将に
て末座にしこうしたりしを召されて、いかなる人に
て渡らせ給ふぞ、尋申べきよし仰下されしかば、成
親畏て天井に向て君はいかなる人にて渡らせ給ふぞ
と、院宣の趣を申たりしかば、我は住よしの辺に候
小掾なりと答て、やがてびはの音もせず、答ふる人
も失にけり、住吉大明神の御影向ありけるにや、か
かりし御遊の時も人こそ多くありしかども、成親こ

そ召ぬかれて、御使をもしたりしが、いま朝敵にも
非ずして、配所へ赴くこそかなしけれとて、声もを
しまず泣き給へば、経遠をはじめとして、多くの武
士共鎧の袖をぞぬらしける、熊野、天王寺まうでなど
には、二瓦三棟につくりたる船にて、次の船二三十
艘漕續けてありしに、是はけしかるかきすへやかた
の舟に、大幕引廻して我方ざまの者一人もなくて、
見もしらぬ兵どもに乗具していづちといふことも知
らずおはしけん、さこそかなしかりけめ、よどの渡
り、草津、くずはの渡、きんや、かた野山、心細くぞ
ましましける、さるほどにはしら松といふ所に着き
給ふ、
柱松因縁事
此名は大和言葉にはあらずして、仏説ともいひつべ
し、その故は天ぢくに唯円上人と申人ましましき、
五天竺無の僧也、生は死の始とて年闌行法功積で、
期近づき給しかば唯円入滅し給き御弟子唯智と申僧
ありき、長老入滅し給しことを歎わび、別れし事を
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悲しみ、我後れ奉て、輪廻する事の悲しさよと窃に
覚されて、日数は積れども、昨日けふの様に覚えて
其思ひ浅からず、斯りし程に、来年の初秋の中の五
日の暮程に、いつよりも故上人の御事恋しかりけれ
ば、御墓所に詣でて、やうやうに御菩提を弔ひ奉てま
しますが、御面影身にそふ心地して、旧跡哀に覚え
ければ、唯智思はれけるは、盂蘭盆経には七月十四、
十五日には、亡者必ずしやばに来て、弟子、子息恩
愛の供養をうくるといふ事あり、誠に来り給ふもの
ならば、則現し給へとちかひつつ、御墓の御前に神
応草一もとありけり、我朝には芭蕉といふ是なり、
彼神応草の枝に、不死教草といふ草のかれ葉をとり
かけて、火をつけて、此光りにげんざいにさり給し
影をあらはし給へ、現身照光明と唱へ給へば、故上
人古のかたちをすこしもたがへず、現ぜられたり、唯
智しんかんにめいじ、哀に覚えて泣涙ひきうして、
是ほどに有がたきをおんみつせん事むねんなりと

て、国中に流布せらる、是を聞人々名残をしき父母
親類におくれたる人、七月半の盂蘭盆に葬所に光明
揚とて、夕に火をとぼす事は、其光りにて恋しき故
人を見む心ざしなり、
花秋大納言事
此事少しもたがはず、かかる風情我朝にあり、崇神
天皇の御宇に、花秋大納言と申ける人他界せられた
りき、御子の少将と聞えし人、おくれ奉て後は、か
なしみの心いつもその日の心地して、紅の涙を流し
つつ、昔の唯智が跡を聞伝へて、来年の七月中の五
日の暮ほどに、父の御墓にまうでつつ、やうやう後
世を弔ひ奉て、彼唯智がしわざを違へずして、御墓
所の前にかれたる木の一本ありけるに、草のかれ葉
をむすびかけ、火をとぼして、
玉すがたしのばば我に見せ給へ
むかしがたりの心ならひに W030 K260
と書つけて、火をかけられたり、誠に昔の風情に違
はず、故大納言現じて、御子の少将に見え給ふ、少
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将手を合せて隨喜の涙ひまもなし、昔の権化はした
がふ弟子にほどこし、今の賢人は恋る子にまみえ給
ふ、抑是をば諸名をさし伝へんとて、昔漢国に六宮
明寿と云皇ましましき、大願をおこして我国中の衆
生等がたぐひ少からんものの、父母妻子死して、先
だたんをれんぼせん者の、心をやすむるじゆつをえ
させんとちかひ給ふ、彼ちかひに応じて、天に声あ
て告、なんぢが皇居より北に命還山といふ山あり、
此山の頂に高部といふ松あり、その松を取て丸き柱
と磨て立よといふ声あり、此教によりて、彼高部の
松を取て、まはり一丈二尺、高さ五丈八寸に磨て、
かれをば真言秘蔵威勢移柱と名付たり、西の角に立
られたり、入さの月の影うつる時、彼松の根にして、
わかれし故人を念ずれば、入日の影に映じて必ず現
ずといへり、さればてんぢくの神応草も、彼柱に似
たり、我朝の少将の古松も是がごとし、然れば是は
六宮の移柱にことよせて、是れを柱松と名付べしと

て、初秋の十四五日の暮、もしはひがんを待て、高
きも賤しきも草を結び、火をとぼし、霊にたむくる
ともし火を柱松とぞ申ける、我朝に此火をともし初
ることは、此因縁ありしをもて、柱松といふ名をあ
らはす事、今にたえず、成親住吉天王寺まうでども
のありし時、かやうの所々を過しにも何とも思ひ寄
ざりしが、我身に歎のある時ぞむかしの思もしられ
ける、
土仏因縁事
所々を過行ば 、つち仏といふ所に着き給ふ、是は孝
徳天皇の御宇、吉野尾少将と申し人、月花門の女御
に近付奉るといふあだ名をたちて、備後国篠尾とい
ふ所に配流せらる、少将無実を蒙るだにもかなしき
に、か様の遠流の重科を蒙る事かなしみの中の悲な
れば、いかにもして無実をはればやと思はれければ、
其所にありける仏工に仰て、土をもて千仏の薬師を
つくり、義見僧をもて、供養せらる、かかりしくり
きにや、程なく無実はれてめし返さる、それよりし
P118
て是をば、現仏の浦とも申、土仏の湊とも申けるを、
此所の者のいひやすきままに、土仏と名けてほど久
しくなりぬ、是は大唐の一行あじやり、楊貴妃に近
づくと名をたちて火羅国にうつされたりけるが、さ
る権化の僧にてかやうに配所にさせんせらるるこ
と、後代にもこころ憂思はれければ、こがねを以て、
千仏を作りて、此無実をはれんと誓はれけり、ほど
なく願望をとげて、御しやめん蒙りて、八祖の内に
入給ふ、徳をほどこしたりし事を思ひ寄せて、千仏を
土像に作らる、是といひかれといひ、思ひ寄せて、
我方に悲しみのある時は、昔の歎きも知られけり、
かやうに思ひつづけて、入江入江すざきすざきを行ほ
どに、大納言爰はいづくといふぞと問はれければ、
津の国長柄と申ければ、
津の国やその名ながらのくちもせで
むかしのはしを聞わたるかな W031 K261
と打詠てさしていそがずすぐれとも、いとど都の遠

ざかる、爰に人のものを荒くいふも失はんとするや
らんと、きもをけし、かしこにささやき舟をおさふ
るも、我をしづめんとするやらんと、心をまよはす、
耳にふれさせ給ふこととては、すざきにさわぐ千鳥、
みぎはにそよぐあしたづ、きし打浪の音ばかり也、
暮にければ西河尻の内大もつにぞ着給ふ、
二日新大納言死罪をゆるされて、流罪に定りにけり
と聞えければ、さも然るべき人々は悦びあはれけり、
内府の入道に強にのたまひけるゆゑなり、国に諌臣
あれば、その国必安し、家にかん子あれば、その家
必直しといへり、まことや此大納言の宰相中将の時、
異国より来る相人に逢給ひたりければ、位正二位官
大納言に昇給ふべし、但獄に入べき相のましますぞ、
然らずば流罪せられ給ふべき人なりと相したりける
とかや、今思ひ合せられてふしぎ也、又中納言にて
ましましける時、尾張の国知行し給ひけるに、去嘉
応元年の冬のころ、目代右衛門尉政朝当国へ下ると
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て 、杭瀬川に泊りたりけるに、山門領美濃の国平野
庄神人事をいたす事ありけり、平野庄神人葛をうり
けるに、彼まさともが宿にてあたひの高下をろんじ
けるが、後には葛に墨を付たりけるをとがめけるほ
どに、互にいひあがりて、神人をにんじやうしたりけ
り、是によて、平野庄の神人山門へ訴へければ、同
年十二月廿四日に、例の大衆起て、日吉七社の神輿
を捧げ奉りて陣頭へ参す、武士をさし遣はして、防
がれけれどもかなはず、近衛御門より入て、建禮門
の前に並べすへ奉て、成親卿を流罪せられ、目代政
朝を禁ごくせらるべきよし訴へ申ければ、成親卿備
前国へ流され、目代政朝を獄舎に入らるべきよし宣
下せらる、大納言はすでに、西朱雀なる所まで出ら
れたるほどに、大衆たちどころに裁訴を蒙ることを
悦て、成親卿の罪科をば、ゆるさるべきよし申間、
同廿八日に召返されて、同廿九日に本位に復して、
中納言に成り帰給ふ、同正月五日右衛門督を兼して

検非違使別当にならる、其後も目出度時めき栄え給
ふ、去承安二年七月廿一日従二位し給ふ時も、すけ
かた、兼まさをこえ給ひき、すけかたは古人おとなに
てましましき、兼雅は清花の人なりしに、こえられ
給ひし、不便なりし事なり、是は三条殿を造進の賞
なり、御移徒の日也、同三年四月十三日に又正二位
し給ふ、今度は中御門中納言宗家卿こえられ給ふ、
去々年承安元年十一月廿日、第二中納言をこえて権
大納言にあがりて、かやうに繁昌せられければ、人
嘲て山門の大衆には、のろはるべかりけるものをと
ぞ申ける、されどもその後にや、今かかるめを 見給
ふぞおそろしき、神明のばちも人のじゆそも、とき
もあり、おそきもあり、不同事也、
三日いまだあかつきに京より御使ありとてひしめき
けり、すでに失へとにや聞給へば、備前の国へとい
ひて、舟を出すべきよしののしる、内大臣のもとよ
り御文あり、都近き山里などに置奉んと、再三申つ
P120
れども、叶はぬことこそ世にあるかひ候はね、是に
つけても、世の中あぢきなく候へば、親にも先だち
て、後生を助け給へと、天道にも祈り申候へ、心に
かなふ命ならば、かはらまほしく思へども、叶候は
ず、御命ばかりは申うけて候ぞ、御心ながくおぼし
めせ、程へなば、入道聞直す事もやとこそ存候へと
て、様々の御よういこまごまと調へて奉り給へり、
なんばの次郎の許へも御文あり、あなかしこ、おろ
かにあたり奉るな、宮仕よくよくすべし、おろかに
あたり申て、我恨むなとぞ仰られたりける、大納言
はさばかり不便に思召したる君にもはなれ奉り、い
とけなきものどもをもふり捨てて、いづちと行らん、
二たび都へ帰て、妻子を見ん事もありがたし、一年
山の大衆によて、日吉七社の御輿ふり奉て、朝家の
御大事に成て、夥しかりしだにも、西七条に五ヶ日
こそありしか、それも御ゆるされありき、是は君の
御いましめにもあらず、大衆の訴にもなし、こはい

かにしつる事ぞやと、天にあふぎ地にふしておめき
さけび給へどもかひなし、夜も漸明ければ、舟をお
し出しつつ、難波の浦、蘆屋のさと、いく田の前を
こぎ過て、すまの関やの浦づたひも、しほたれてや
ながめたまひけん、住吉の方を遠見すれば、遠き松
のみどりも、今ばかりや見んずらんと思ふも、夢の
心地す、我九歳より住吉大明神を敬し奉て、すでに
四十にあまり五十に及まで、こころざしをはこぶ事
今におこたらず、いのり奉ん事も今ばかり也、しば
らく船をとどめて、すずりをめしよせて、自筆にて
大明神に願書を参らせらる、其状に云、
敬白住吉大明神御寳前立願事、
一可奉唱毎日千返本地寳號事、
一可奉唱毎日千返垂跡御名事、
一可奉納重代御劒事、
右甄録如斯、夫以郷向鴻雁之北屬秋而重〓、
還桜花之根、迎春而忽開、再会〓期者永別也、
P121
男女子息尚在花洛九重内、成経所生之中為嫡子、
鐘愛不残、撫育此深、然則歎炎焼而難消、如胸
火増薪、悲涙落而不留、似眼下灑雨、仰願大
明神憐無二丹誠、令納受心中立願、成経以下男
女令守平安給也、仍立願如(レ)件、
治承二年六月三日 成親 敬白
と書給ひて、難波次郎に仰せられけるは、竹現と申
太刀、門脇宰相のもとにあり、それを取て此願書と
ともに、必参らせよと経遠に仰付らる、仰のごとく
是をまいらす、竹現は神劒と成て寳蔵第一の重寳と
ぞ聞えし、今の世までにあり、まことに祈は叶ふこ
とにやと覚ゆる事は、げにも此大納言は業因つたな
かりけるにや、配所の土となり、いわうが島まで流
罪せられ給へる少将は召返されて、二たび殿上に昇
られし事ありがたかりし事ども也、爭、成親の祈叶は
ざらん、
諸仏念衆生、 衆生不念仏、 父母常念子、

子不念父母、 K262
とて思はぬ子をだにもこそ、親のじひは思ふ習なれ、
是は父子の禮儀といひながら、心ざし深かりしかば、
神明も憐をたれ給ふらんとぞ覚えし、今は舟をとく
とくいださせとて、浪路はるかにこぎうかぶ、思を
思はぬ人だにも、わだのみはらの旅の空、心をなや
ますすさみぞかし、まして一かたならぬ歎き取集め
たる心ぐるしさ、さこそかなしくましましけめ、尾
上吹こす松風、すずしく袖にぞわたりける、高砂の松
よそになるに附ても、いとど都遠ざかりぬるこそか
なしけれ、故郷は雲井はるかに立帰り、むしの音し
げき遠国は、日にしたがひて近くなりまさる、爰の
しま、かしこの浦、入江々々、名所々々過ぎ行程に、日
数も積りにければ、備前国小島の内下津井と云所を
ば通庄と云、是につけて、田井の浦にましまして、
それよりして民の家のあやしげなる、柴のあみ戸の
内へぞ入給ひにける、三方は土にて壁をぬりまはし
P122
て、口一をあけたれば、はにふの小屋とも云つべし、
大納言は殊更家居を結構し、山庄をすごく面白くこ
そ好まれしに、身は習はしのものといひながら、か
かる所にも住めば住るるやと、身のおき所なくぞ思
はれける、されども思に消えぬ命なれば、明しくら
し給ひけり、後は山、前は磯なれば、松にこたふ嵐
の声、岩にくだくる浪の音、浦に友よぶはま千鳥、
しほぢにさわたるかもめ、たまたまさし入ものとて
は、都にて詠めし月の光ぞ面かはりせず、すみまさ
りける、大納言はただねてもさめても故郷のみ恋し
くて、朝夕は故郷に帰らんことをのみぞ祈り給ひけ
る、せめて心ぐるしさには、濱のほとりに出て遊び
給ひけるが、澳の方を見給へば、海士のいさり火い
くらともなく見えければ、大納言おもひつづけて、
大海にうつらば影のきゆべきに、
底さへもゆるあまのいさり火、 W032 K263
と打ながめて、さめざめとなき給ふ御心の中さこそ

はと覚えて哀也、大納言父子にもかぎらず、いまし
めらるる人多くありき、近江入道蓮浄をば、土肥次
郎預りて、常陸の国へ遣はす、新平判官資行をば、
源大夫判官預りて、佐渡の国へ遣はす、山城守もと
かねをば、進次郎むね正預りて、淀の宿所にいましめ
置く、平判官康頼、法勝寺の執行俊寛僧都をば、備中
国の住人瀬尾太郎兼やす預りて、福原に召しおかる、
丹波少将をば、しうとの平宰相に預けらる、
加賀守師高被討事
西光の嫡子前の加賀守師高、舎弟右衛門尉師近、右
衛門尉師平等追討すべきよし、太政入道下知し給ひ
ければ、武士尾張の国の配所井土田へ下りて、河狩を
はじめて、遊君をめし集めて酒もりして、師高をお
びき出して、頭を刎ねべきよしを支度したりけるほ
どに、五日師高が母の許より使を急ぎ下して申ける
は、入道殿は西八条より召捕られ給ひぬ、さりとも
院御所よりたづね御さたあらんずらんと思しほど
に、やがて其夕にきられ給ぬ、尾張の子息たちも追
P123
討せらるべきよし承及、急ぎ下りて夢みせよといひ
ければ、則、使此よしを申ければ、師高井土田を迯去
て、当国に蚊野と云所に忍びてゐたりけるを、小熊
郡司惟長と云者聞つけて、よせてからめんとしける
に、師高なかりければ、兵ども帰らんとしけるとこ
ろに、檀紙にて髪のあかをのごひて、捨たるがあり
けり、是を見つけて、猶よくよくあなくりもとめける
ほどに、民の家にはつしと云所あり、それに師高か
くれて居たりけるを、求め出してからめんとしけれ
ば、自害してけり、郎等に近平四郎何某と申ける者
一人附たりけるも、同く自害してけり、師高が首を
ば、小熊郡司取て六波羅へ奉る、骨をば師高が思ひけ
る鳴海の宿の遊君手づからとり納めけるぞむざんな
る、西光父子きりものにて、世を世と思はず、人を
も人と思はざりけるあまりにや、さしもやんごとな
くましましける人の、あやまり給はぬをさへやうや
うに讒言を奉たりければ、山王大師の神罰冥罰を立

所に蒙て、時こくをめぐらさず、かかるめにあへり、
さ見つることよさ見つることよとぞ人申あへりし、大かたは下
臈はさがさがしきやうなれども、思慮なきもの也、
西光も下臈のはてなりしが、さばかり君に召仕はれ
参らせて、果報やつきにけむ、天下の大事引出して、
我身もかくなりし、浅ましかりし事ども也、廿日福
原より太政入道、平宰相のもとへ、丹波少将是へわた
し給へ、相はからひていづちへもつかはすべし、都
の内にてはあしかるべしとのたまひければ、宰相あ
きれて、こはいかなる事にか、人をば一度こそころ
せ、二たびころす事やある、日数も隔らばさりとも
とこそ思ひつれ、中々有し時ともかくもなしたらば、
二度物は思はざらまし、おしむとも叶うまじと思は
れければ、とくとくとのたまひて、少将諸共に出立給
ふ、今までもかく有つるこそ不思議なれと、少将の
たまひければ、北方乳母も六条も思ひ儲たることな
れども、今更もだえこがる、猶も宰相の申給へかし
P124
とぞ思ひあへる、存ずる所はくはしく申つ、その上
はかやうにの給はんは、力及ばず、今は世を捨るよ
り外はなにとかは申べきと宰相のたまひける、さり
とも御命のうする程の事はよもとこそ覚ゆれ、いづ
くの浦にましますとも、訪ひ奉らんずる事なれば、
たのもしく思ひ給へとのたまふも哀なり、少将はこ
とし四歳に成給へる若君をもち給へり、若き人にて、
日頃は公達の行末など細々にのたまふ事もなかりけ
れども、其恩愛の道のかなしさ、今の都に成ぬれば、
さすが心に懸けられけん、小歳者今一度見んとて、
呼寄られたり、若君少将を見給ひて、いとうれしげ
にて、取附給ひたれば、少将髪をかき撫でて、七歳
にならば男になして、御所に参らせんとこそ思ひし
かども、今は其こといひがひなし、かしらかたく生
ひたちたらば、法師になりて我後世をとぶらへよと、
おとなに物いふやうに涙もかきあへずのたまへば、
若君何と聞分給はざりしかども、父の御顔を見あげ

てうなづき給ふはいとをしき、是を見て北方も六条
もふしまろびて、声もをしまずおめきさけび給ひけ
れば、若君もあさましげに覚しける、今夜は鳥羽ま
でとて急ぎ給へば、宰相は出だち給ひたりけれども、
世のうらめしければとて、此度は伴ひ給はぬにつけ
ても、いよいよ心細くぞ思はれける、

平家物語巻第三終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第四

P125
平家物語巻第四
廿三日、少将福原におはしつきたれば、瀬尾太郎が
預りて、頓て宿所に置奉る、我方様の者一人もつけ
ざりけり、瀬尾は宰相の帰り聞給はん事を思ひける
にや、さまざまにいたはり志ある様にふるまひけれ
ども、慰む方もなし、さるにつけてもかなしさの尽
せず、仏の御名を唱へて、夜も昼もなくより外の事
もなし、備中の国せのをといふ所にながさるべきと
聞へければ、少将は打あんじて、大納言殿は備前の
国へと聞えければ、そのあたり近くにや逢見奉るべ
きにてはなけれども、あたりの風もなつかしかりな
んとのたまひけるぞ哀なる、その儀にはあらず、法
勝寺執行俊寛、平判官康頼、硫黄が島へ流されける、
同罪にてさつまがたへとぞ聞えし、少将は一すぢに
きゆべき身の、父のりん国のよし聞えしなつかしさ

に、あやしのつけにかかへられて、今日まできえずし
て、重ねてうき事を聞くかなしさよ、ふかきより深
きに沈み、くらきより暗に逢ふ心地して、いとど歎
ぞ重りける、
六月廿五日には少将福原を立給ひ、三人つれて西国
へ赴く、平判官康頼は一条より上紫野といふ所に老
たる母のあるを始て、妻子親しきものどもあまたあ
り、今一度行ていとまをもこひ、名残をしまばやと
思ひながら、くだる歎きのほどは、誰にもおとらじ、
さつまがたへ下りなん後は、二たび召返されんこと
かたしとて、津の国こまの林と云所にて出家してけ
り、本どりはしそくの康もとがともしたりけるにも
たせて、都へのぼす、出家はもとより好みけり、か
やうに栄花の袂を引かへて、墨ぞめの袖となる折を
得て、かくぞ思ひつづけける、
いにしへのはなの衣をぬぎかへて、
いまぞ着そむる墨ぞめの袖、 W033 K264
P126
終にかく背きはてける世の中を、
とくすてざりしことぞ悔しき、 W034 K021
と打ながめて、法名性照と名乗れり、なくなく三人
つれて西国へ下向せられけり、既に備中国せのをに
下着せり、少将瀬尾をめして、いかにまことか、兒
島、せのをの間、ま近きよし聞ゆ、かかる身なれば、
見奉り見え奉らんといはばこそかたからめ、御文を
参らせて、大納言殿の御返事を取て得させよ、生た
らんほどの形見にもせむ、又死せばそれをしるしに
て後生までも尋奉らん、我硫黄が島へくだりなん後
は、帰り上らんことかたきによて、かやうにいふな
りと仰せられければ、片道僅に海上二三里の道を兼
康かくし申けり、仰のむねかしこみて承りぬ、備前、
備中はりん国とは申候へども、せのを、兒島の遠さ
は、片道三十余日に罷り候、上下向六十余日の道に
て候へば、宣下の時刻推移て叶ふまじきよしを申せ
ば、少将あな心憂や、行ゑしらせじとぞ、かやうに

はいふやらん、日本は纔に三十三ヶ国にてありしを、
崇神天皇の御宇より六十六ヶ国に別られたり、つく
しは島一つにてありしかども、九州の名をつけ、伊
予は一ヶ国にてありしを、阿波、土佐、讃岐を出て、
四国と名づく、はりまは一ヶ国にてありしを、備前、
摂津、美作、丹波を出て、五州と名づく、これてい
に国の名をかさぬといへども、いかでか境を遠く、
国中広くはなるべき、漢土に万里の山なければ、獅
子住まず、日本に千里の野なきが故に、虎すまずと
こそみえたれ、成経も一院の御おぼえ人におとらざ
りしかば、大国あまたふさぎ、大庄その数知行して
過つれども、又こそ西国に三十余日つづいて、片道
のあるは聞ざりしが、つくしより〓の使の上るこそ
廿日の道とは聞えしか、瀬尾、兒島遠しといふとも、
二三日にはよも過じ、あはれ是は行衛しらせじとて
いふよと思はれければ、何とすべき方なくて、泣よ
り外の事ぞなき、
P127
式部大輔章綱は、播磨の国明石に流されける、増位
寺と云薬師の霊地に参籠して、都帰のことをかんた
んをくだきて祈り申ける程に、百日満じける夜の夢
想に、
きのふまで岩間をとぢし山川の
いつしかたたく谷の下水 W035 K017
と御帳の内より詠じ給ふと見て、打驚て聞けば、御
堂の妻戸をたたく音しけり、誰なるらんと聞く程に、
京にて召仕し青侍也、いかにと問へば、太政入道殿
の御免の御文とて持ち来る、悦ばしなどいふばかり
なくて、頓て本尊にいとま申て出にけり、ありがた
かりし御利生也、
廿三日、大納言すこしくつろぐこともやとおぼしけ
れども、いとどおもく聞えければ、形をかへずして
つれなく月日すぐさんも恐れあり、何事を待にや猶
世にあらんと思ふかと、人の思はむもはづかしけれ
ば、出家の志あると内々小松殿に申合せられたりけ

れば、さもし給べしとのたまひたりければ、大納言
備中の安養寺の住侶調語房と云戒師請じて、出家し
給ひけり、大納言の北の方の北山の住居推はかるべ
し、住なれぬ山ざとはさらぬだに物うかるべし、い
と忍てすまゐければ、過行月日も暮しかね、あかし
わづらふさま也、女房侍どもも、その数多かりしか
ども、身の捨がたければ、世を恐れて人めをつつむ
ほどに、とひ訪ふ者もなかりけり、その中に大納言
の年ごろ近く召つかひける源右衛門尉のぶとしとい
ふ侍あり、よろづなさけあるをのこにて、時々奉事
問、ある暮ほどに参たりければ、北の方簾の際近く
召してのたまひけるは、あはれや、とのはびせんの国
兒島とかやに流され給ひけるが、過ぬる頃より有木
の別所といふ所にましますとばかり聞しかども、世
のつつましければ、是よりも一人も下ることもな
し、生きてやおはすらん、その行衛も知らず、いま
だ命も生ておはせば、さすが此あたりの事いかばか
P128
りか聞かまほしくおぼすらん、のぶとしいかなるあ
りさまをもしても、尋参りなんや、文の一をも遣は
して、返事をも待みるならば、限りなき心の内も少
し慰む事もやと思ふはいかがすべきとのたまひけれ
ば、のぶとし涙をおさへて、誠にとしごろ召仕はれ
し身にて候へば、限りの御ともを仕るべくこそ候
しかども、御下りの有さま、人一人もつき参らすま
じきよし承り候ひしかば、力に及ばずしてまかりと
どまり候き、あけても暮ても、君の御事より外、何
事をか思ふべく候、召され候し御声耳にとどまり、
諌られ参られ候し御言葉も肝にめいじて忘れず候、
今此仰を承る上は、身は何になり候ともいかがは仕
候べき、御ふみを給はりて、尋まいり候はんと申け
れば、北の方大に悦び給ひて、御文くはしくかきて
たびてけり、若君姫君も面々に父の御もとへとて、
御文かきてたびてけり、のぶとし是を給りて、備前
のこ島へ尋参りて、武士なんばの二郎に、今一度見

奉る事もやとて、年ごろの侍源左衛門尉信俊と申者
はるばると尋参り候と申ければ、武士もあはれとや
思ひけん、ゆるしてけり、参りて見奉れば、土を壁
にぬり廻して、あやしげなる柴の庵の中に、わらの
つかみといふものの上に、僅の御まし一枚しきて、
すへ奉りける、御住居の心うさもさることにて、御さ
まさへかはりにけりと、墨染の袂を見奉るに付ても、
目もくれ、心も消えはてにけり、大納言入道殿も今
更かなしみの心ぞ増給ふ、多くのものどもの中に、
いかにして尋来るぞとのたまふもあへず、こぼるる
涙も哀也、信俊なくなく申けるは、北の方去六月一
日より北山雲林院の僧房にぼたい講を行ふ所候、彼
所に忍びて渡らせ給候が、御歎きの深く渡らせ給ふ
事斜ならず候、公達のこひかなしひ給ふ事、又仰せら
れつる次第、くはしく申て、御文取出して参らせけ
り、大納言入道是を見て、涙にくれて、水ぐきのあ
とそことも見えわかねども、若君姫君の恋かなしひ
P129
給ふ有さま、我身もまた月日を過ぐべき様もなく、
心細くかすかなる御有さまを思つづけ給ひたりける
を見給ひては、日ごろ覚束なかりつるよりも、いと
どもだえこがれ給へる有さま、げにことわりと覚え
て哀也、信俊二三日は候けるが、泣々申けるは、かく
てつきはて参らせて、かぎりの御ありさまをも見は
てまいらせ候はばやと存候へども、都にもまたみゆ
づり参らせ候方も候はざりつる上、つみ深く、御返事
を今一度御覧ぜばやと思召され候つるに、むなしく
程を経候はば、跡もなくしるしもなくや思召され候
はんずらん、心ぐるしく思ひやり参らせ候、今度は
御返事を給候て、もちて参りて、又こそやがてまい
り下り候はめと申ければ、大納言よに名残をしげに
思はれながら、誠にさるべし、とくとく帰り上れ、
汝がこんたびを待つくべき心地もせぬぞ、いかにも
なりぬときかば、後生をこそとぶらはめとて、御返事
くはしく書き給ひて、御ぐしの有けるを引包みて、

かつうは是をかた見とも御らんぜよ、ながらへてし
も聞はてられ奉らじ、こん世にこそなど心細く書つ
づけて、給ひてそのおくに、
行あはむことのなければ黒髪を
かたみとてやる見てもなぐさめ W036 K018
と書とどめてたびてけり、若君姫君の御返事もあり、
信俊持てかへり上るが、いでもやらず、大納言もさし
てのたまふべきことは皆つきにけれども、したはし
さの余りに、たびたび是をめし返す、たがひの心さこ
そありけめと推量せらる、さてもあるべき事ならね
ば、信俊都へ上りにけり、北山へ参りて御返事奉け
れば、北の方あなめづらし、いかにいかに、さればい
まだ御命はいきてましましけるなとて、急ぎ急ぎ御
返事を引ひろげて見給ふに、御ぐしのくろぐろとし
てありけるを、ただ一目ぞ見給ひける、此人は様か
へられにけりとばかりの給ひて、又物ものたまはず、
引かつぎてふし給ひぬ、此御ぐしをふところに入て
P130
むねにあて、かほにあててぞもだえこがれ給ひける、
うつり香もいまだ尽ざりければ、御ぬしは只面影ば
かり也、若君姫君もいくら父御前の御ぐしはとて、
面々に取わたし取わたしして泣給ふぞむざんなる、かた
見こそ今はあだなれ、是なかりせば、今更かくは思
はざらまじとぞ覚されける、太政入道此事を聞ての
たまひけるは、誰がゆるしにて、大納言は本どりを
切たりけるぞ、さやうのことをこそじゆの事とはい
へ、流し置たらばさてはあらでふしぎ也とて、小松
殿にはかくしてなんばがもとへ、大納言急ぎうしな
ふべしとぞのたまひ遣しける、
丹波少将は備中のくに瀬尾の湊、ゆく井といふ所よ
り御船に召して波路はるかにこぎうかぶ、是は伊予
の国夏地につきてめぐられける、高く聳えたる遠山
のはるかに見えければ、あれはいづくぞと少将問給
へば、土佐のはた、足摺みさきと申ければ、少将思い
だして、さては昔、理一と申僧ありき、有漏の身をも

て、ふだらく山を拝んと誓ひて、一千日の行ほうを
始めて御弟子のりけんと申一人ばかり召具して、御
船にめして、おしうかび給ふに、むかひ風烈しく吹き
て、元のなぎさに吹返す、理一猶行法の功をはらざ
りけりとて、又百日の行法をし給ひて、百日過けれ
ば、聖人もとより人を具してはかなふまじとて、御
船にただ一人めす、彼舟はうつほ船なり、白きぬの
の帆をかけて、順風に任す、げにもおいて事をへだ
て、遥に遠ざかる、御弟子のりけんは、聖人に捨て
られ奉りて、ふだらくせんををがむべからざる事を
かなしむ、りんゑして生死を出まじきやらんと、はや
御船のかくるるほどなれば、名残をしくしたひ奉り、
余りのたへがたさに倒れふし、足摺をしておめきか
なしむ、足摺地をうがち、身をかくすばかりになり
ぬ、聖人をしたひ奉りし志の切なりしによりて、魂
去りて現に聖人のともをして、普陀らくせんを拝み
奉りき、すがたは此所にとどまれり、本地くわんを
P131
んにてましませば、垂跡足摺の明神にてましますご
ざんなれ、昔の別れ、因位の時の御事しり給はず、
成つねが歎をやめさせ給へ、本地観世音菩薩、すゐ
じやく大慈大悲足摺明神とて、よそながらふし拝み
奉り、はるかにこぎわかる、何事なるらんとて、又少
将の御有さま、あはれともおもはぬものはなかりけ
り、かくて日数をふるほどに、伊予と豊後との境な
るさがのみさきのわたりして、心づくしにも着給ら
て、さて豊後の国米水の浦と申所に、花見てとひけ
る歌人おほうみの水のみかさやまさるらんといひけ
る、をちの瀧そのしら瀧のあの浦はたたなるらんと
ぞ思はれける、あはれ歩行にて下る事なりせば、小
野小町が歌のふし、あづまや、かちを、駒いななけ
ば、たにくら谷とかやを見てましものをと思はれけ
り、かくて日数もつもりゆけば、日向の国あや部の
港わかの津にこそ着かれけれ、それよりして、鐡輪三
足のさかに取り上りたまふ、下臈はかなは坂とも申

けり、是は我朝人皇のはじめ、神武天皇の日向国宮
崎の郡に、帝都をたて、御即位有し時、三女一男下
りて土の仏を作りて、てつりん三足をたてて、供御
をしてまつりけり、それよりして、最初竈門三足の
峯とも申、都にありし時は家の日記を以て是れを知
るといへども、いかでか親に見べき、をん流の思ひ
でには、かかる名所を見るこそすこしなぐさむ心地
すれ、それ室野、船引、大山といひて月影日影もささ
ぬ深山の峨々たるせきがんを凌きこえて、日向国西
方が島津の庄に着給ふ、彼庄内にあさくら野と云所
に、ひとつの峯高くそびえて、煙りたえせぬ所あり、
日本最初の峯、霧島のだけと號す、金峯山、しやかの
だけ、富士の高根よりも、最初の峯なるが故に、名
付て最初の峯といふ、六所権現の霊地也、彼いただ
きに巌穴あり、長時に猛火もえ上りて、雲に續く、
いつとなく黒砂ふり下りて、すゑ何千里とはかる事
なし、然れども彼峯を何の本地ともしらざりけるを、
P132
はりまの国、書写の山を建立してける、證空上人彼峯
に登山して、我この神の本地を拝み奉らんと誓ひ給
ひて、七日参籠して、法花経をどくじゆせられける、
五日といふ子の刻ばかりに、大山震動して、岩崩れ、
めう火もえて、ことに煙りうずまきて、暫ばかりし
て、廻り一二丈そのたけ十余丈ばかりある大蛇の、
角はかれ木の如くおほひかかり、眼は日月の如くか
がやきて、大にいかる様にて出来給ふ、上人是を御
覧じて、此山の有さまを見るに、もとより龍宮じや
うとはぞんぜられ候ぬ、思ふにすゐじやくは龍のす
がたにてあつし候か、本地をこそ拝み奉度候へ、と
くとく本地を現はさせ給へ、あしくもげんぜさせ給
ふものかなとて、はたと守り奉る、大蛇本地に帰り
ぬ、つぎの日の未の刻計に、三尺計なる大鷹の尾ふ
さの鈴をふりならして、めう火の中より飛び出て、
前なる平岩に居たり、しやうくう腹を立て、龍をだ
に用ひ奉らず、いはんやいやしき野鳥のすがたをば

用奉るべきや、然らば心眼ともにひらきて、仏体を
拝み奉らんとこそ思ふに、見仏せざらんには、双眼
ともに無益なりとて、どこを持て双眼をささんとし
給へば、鷹去てしばらく計して、十一面の観音光明
かくやくとして幻のごとくにて見えさせ給ふ、その
時上人夢うつつともわかず、ずゐき申ばかりなくし
て涙を流されけり、性空上人心中のせいぐわんには、
こんど仏たいを拝み奉程ならば、法華の行者と成て、
彼教に従ひて、衆生をけどせんと誓はる、したがひ
て心願成就のうへは、法華を殊に信仰し給へり、此
煙の中より光さして末のとどまらん所を、我在所と
定めんと思召されけるに、煙の中より光をさして、
はりまの国書寫にとどまる、よてかの所をこんりう
して、長きすみかとし給ふ、かかるごんけの人の徳
をほどこし給へる峯なれば、成経も参籠して拝まば
や、我さつま方へ行なん後は、二たび故郷にかへら
んことかたし、しやさんして後世をたすからんと思
P133
ふはとありければ、預りの武士なさけある者にて、
何かくるしく候はんとて、具し奉り参りたり、殊に
地ぎやうすぐれて、眺望世にこえたり、ためし少き
所也、少将あまり名残をしくして、七日参籠して、
法華廿八品、尺の石の面に書寫してこめ奉りて、そと
ばを作り、五輪をきざみ、梵漢両字を書きなどして、
忘れがたみを残し、梅桜をみづから植置き、さまざま
に、彼山にかたみをのこしなどして、御宿に下向あ
り、少将月日の重るにつけても、ただ故郷のみ恋し
くて、暮にも及びければ、今様をうたひ、らう詠を
しなど心をすまし、涙を流し、いつとなくしほれた
る御有さま也、心あるも心なきも、互に袖をぞしぼ
りける、預の武士ども申けるは、此君になれ参らせ
て、名残はをしく成ませども、思ひあき奉る事はな
し、さればとて都に聞れん事も恐れあり、とくさつま
がたへ渡し奉らんとて、又出立せ奉る、少将是をこ
そ、ずゐぶんにつらき所と思ふに、猶いたましき所

のあらんずるにやと先しられてかなしかりけり、さ
てはやに夏影、とかみ、あかさかといふ所を打過て、
大隅の国けしきのもりにつき給ふ、少将此森を見給
ひて、
秋近きけしきの森になく蝉の
涙の露や下葉染むらん W037 K265
と云名所は是やらんとぞ思しめしける、正八幡宮の
御あたりをよそながら拝み奉り、宿願をたてて、通
られけり、少将は都にてさつまがたへと聞給ひしか
ば、さもやはと思給けるに、九州のうちには有ざり
けり、誠に世の常の流罪だにかなしかるべし、まし
て此島の有様伝聞ては、各もだえこがれけるこそむ
ざんなれ、道すがら旅の寒さこそ哀を催しけめと、
推量せられて哀也、せんどにまなこさきだつれば、
とくゆかんことをかなしみ、きうりに心をとうずれ
ば、はやく帰らん事かたし、或は海辺すいたくの幽
かなるみぎりには、蒼波眇々として、恨心綿々たり、
P134
或は山関よう谷のくらき道には、巌路峨々として、
ひるはゆうゆうたり、さらぬだに旅のうきねはかな
しきに、更る夜の月のほがらかなるに、夕つげ鳥か
すかに音づれて、遊子残月に行けむ、凾谷の思ひ出
られてかなしからずといふ事なし、さつまがたとは
惣名也、きかいは十二の島なれば、くち五島は日本
へ随へり、おく七しまはいまだ我朝に従はずといへ
り、白石、、あこしき、くろ島、いわうが島、あせ納、
あ世波、やくの島とて、ゑらぶ、おきなは、きかい
が島といへり、くち五島の内、少将をば三のとまり
の北いわうが島に捨て置く、康頼をばあこしきの島、
しゆんくわんをば白石がしまにぞ捨置ける、彼島に
は白鷺多くして、石白し、水の流に至るまで、波白く
ぞ見えていさぎよし、かかりければ白石島とは云け
るかや、せめては一島にも捨てられたらば、なぐさむ
方も有るべきに、遥なるはなれ島どもにすて置きけ
れば、かなしきなどいふも愚也、かかるはういつじ

やけんの島には、一島にあらんだにもかなしかるべ
し、まして所々の思いかにして一日片時も日を送る
べきとなきけり、とかくして俊くわんも、康よりも、
少将のましましけるいわうが島へたどりつきて、互
に血の涙をぞ流しける、彼島西北十里の島也、その
地乾地にして、山田うつ賤が業もなければ、米穀も
なし、そののくわをもかはざれば、絹布のたぐひも
希なり、島の中に高き山あり、峯には火もえ、麓に
は雨ふり、雷なる事ひまなかりければ、魂をけすよ
り外の事なし、めいどにつづきたるともいへり、寒
暑ことわりにも過たり、さつまがたよりはるばると
浪路をわたりて行く道なれば、おぼろげにては人の
通ふことなし、をのづから有ものも此土の人には似
ず、色黒くて牛のごとし、身には毛長く生たり、け
ん布の類ひなければ、きたるものもなし、男と覚し
きものは木の皮をはぎて、たうさぎにかき、はねか
づらといふものをし、女は木の皮を腰にまきたれど
P135
も、男女のかたちもみえわかず、髪は空ざまへおひ
上り、びんは夜しやにことならず、いふ事も聞しら
ず、偏に鬼の如し、何事につけても聞しらず、命生
くべき様なかりけり、少将はただ中々首を切られた
らばいかがせん、生きながら地ごくに落ちぬるこそ
とぞかなしまれける、各が身のかなしさはさる事に
て、故郷に残りとどまる父母妻子どもの此有さまを
伝へ聞て、もだえこがれける心中どもむざん也、人
の思ひのつもる平家のすゑこそおそろしけれ、彼海
まんまんとして風かうかうたる雲の波煙の浪にむせ
ぶなる、蓬莱方丈瀛洲の三の神山の島には、不死の
くすりもあんなれば、すゑもたのもしかるべし、此
さつまがたの白石、あこしき、いわうが島には、何
事かは慰むべき、哀也、眼にさへぎるものとては、
山の峯にもえ上る、耳にみてるものとては百千万
の雷の音、ひたすら無間大じやうと覚えて、見聞に
つけても、ただ身の毛ばかりぞたちける、少将判官

入道は、きえもうせなんと思けれども、せめてのか
なしさのあまりに、浦々島々を見廻りて、都の方を
詠めやる、僧都はあまりにかなしみやせて、岩のは
ざまに沈みいたり、慰む事とては常には一所になみ
居つつ、尽せぬ昔物語のみして、さればとて一日に
もきえもせぬ身どもなれば、木の葉をかき集め、も
くづを拾ひて、かたのごとくなる庵を結びて、あか
しくらしける、されども少将のしうと、平宰相の領、
ひぜんの国かせの庄といふ所あり、折節につきて忍
び忍びにあひとぶらはる、太政入道の聞給はん所を
恐れて、思ふほどこそなけれども、かたのごとく衣
食を送られければ、康頼もしゆんくわんもそれにか
かりて日を送りけり、此人々露の命きえやらぬ身に、
惜むべきには有らねども、朝な夕なをとぶらふべき
人一人もつきしたがはぬ事なれば、いつならはねど
も、薪をひろはんとて、山路にまどふ時もあり、水
を結ばんとては、澤につかるる折もあり、さこそた
P136
よりなくかなしかりけめと、推量せられてむざん也、
判官入道申けるは、さのみなき歎てもいかがせむ、
仏の御名を唱へてこそ、みやうけんの恵をあふぎて
二度都に帰らんことをねがひ、後生ぼたいをも祈ら
めと申て、己がのふなれば、歌をうたひ、舞をまひ
て、島の明神に報じ奉る、島の者ども、時々来て是
を見て、興に入てなくもあり、笑ふもあり、康頼日
にそへて、都の恋しさもなぐさまず、中にも母の七
十有余なるが、紫野にありしを思ひやりけるに、い
とどせん方なく、我流されし時もかくと知せまほし
かりけれども、きかば老のなみに歎きかなしまんず
ることのいたはしさに、思ながら告ざりしかば、今
一度見もしみえざりしに、此有さまを伝へ聞て、今
までながらへてあらむ事をもあり難しなど、来し方
行末のことまでつくづくと思ひつづけられて、ただ
なくより外の事ぞなかりける、康頼島に着きて、廿
日と申けるに、不思議の夢をぞ見たりける、夢の心

地に前の濱に出で遊びけるに、海上を見渡しければ、
こがねにて作りたる大船一艘出できたる、艫舳には
しやうしんの龍をすへたり、やかたには幔の幕を引
きたり、風のさつと吹上げたるたえ間より見入たれ
ば、十七八ばかりの女房たち、琴をだんじ、びはを
引き、今様をうたひ、朗詠し管絃しすましたり、都
をはなれて後、いまだ是ほど心を養ひたる事こそな
けれと思ふ所に、よはひたけたる老僧五六人なみゐ
させ給ひて、こんでいの法華経机に置きまいらせて、
同音に読じゆあり、しんかんにめいじて、随喜なの
めならず、船の帆には、一乗妙法蓮華経の文字様々
にあらはれさせ給ひたるをかけて、順風に任せ、前
の浦を走通ると見たり、あなたつとや、是は此極楽
浄土のくぜいの船とかやは、是やらんと思ふ所に、
我子の康基が、白き馬に乗て、此島にあがると見た
りけり、康頼入道夢さめて、あな不思議や、夢と知
りせば今暫くもまどろみて見てまし、はやくも覚め
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ぬる事のむねんさよと恨む、誠に此夢は康頼入道が
子息、康基が毎日都清水寺に参詣して、法華経の二
の巻の信解品をどくじゆし奉て、南無千じゆ千眼大
慈大悲観世音菩薩、願はくはこの経の功力によて、
父の骸姿を今一度見せさせ給へときせい申ける、誠
熊野参詣事
にくわん音の御利生あて康頼を守らせ給ふやらんと
ぞ覚えし、天性康頼は、熊野信心のものにてありけ
れば、或時少将に申けるは、此島に熊野権現をいは
ひ奉て参りて、帰洛の祈誓を申候ばやと思ひ候はい
かにと申ければ、少将我も昔は君の御ともに参りて
候き、又私にも参詣しき、成経都に候し時猶参詣の
志深く候しを、一方ならぬまぎれに、本意をとげず
して、かやうにまかり下て候事、後生ぼたいのさは
りともなりぬと覚え候とありければ、康頼入道申け
るは、権現遠からず願へば、その心に来り給ふ、仏
陀近きにあり、きせいすれば、道場に入り給ふといへ
り、然れば当山権現と申は、本地はあみだ如来にて

まします、いかならん野の末、山のふもとなりとも、
衆生の真実をいたさば、いくわうをささんとちかひ
給ふ、此島なりとも、我等まことをいたし奉てあがめ
奉らんに、などかは光をさし給はざらん、いざさせ
給へ、此島を廻りて見候はんに、くまの山に似させ
給ひたる所候はば、権現を崇め奉て、帰洛の祈をも
仕候はばやと申ければ、少将是を感じ悦び給ひけり、
法勝寺の執行にのたまひあはせければ、御宿願はさ
る事にて候へども、若都にめしかへされて候はん時、
さんそうどもの、比叡のじむじやは、本社へだにも
参詣せず、法勝寺の執行こそ硫黄が島へ流罪せられ
てありける、かなしさのあまりに、よしなきもろも
ろの岩の角を熊野権現と崇めて、拝みありきたりけ
りと笑はれん事のはづかしく候へば、参り候まじ、
山王の御事ならばさもありなんとて、参詣にはあた
はざりけり、二人の人々島をめぐりて見給ふに、は
るかにわけ入て、人跡たえて鳥の声だにもせぬ所に
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河ながれたり、音なし河に相似たり、高く聳えたる
峯あり、雲取志古峯と名づけて、遥の峯に上りて、
南の方を見わたせば、雲海ちんちんとして、蒼天霞
をこめ、へきがん峨々として、奥のたきを見わたせ
ば、白浪峰より流れたり、瀧の音も涼しく、松吹く
風も神さびたり、そのけいき瀧山ひりやうごん現の
まします、なちの御山に似たりければ、則ち那智山
と號す、東をはるかにかへり見れば、いさごへいへ
いとして銀河渺茫たり、月真如の影をうかぶ、元和
十五年の秋、長安倡家の女の船中にしてびはを弾ぜ
しかば、白楽天月毛の駒をとどめ詠めけん、〓陽江
の辺もかくやと思ひなずらへて、新宮の湊にたとへ
たり、すこしうちはれたる所あり、大きなる岩屋あ
り、それに松一むら生たり、是を本宮と名づけ奉て、
草打拂ひ、しめ引まはしたり、傍に石巌高く聳え、
白雲腰に〓き、神さびたる所あり、神くらにぞたと
へたる、浪間左右にむらだちて、みぎはのしら洲も

入ちがひ、千鳥しばなく所をば、玉津しまの明神、
和歌、吹上など、三の山にかたどりて、道々の岩を
ば、切部、藤代、鹿の瀬、米持、こんがう童子五だい
王子と名付けつつ、四方の木の下には、一万十万禪
師、聖兒子宮、岩代はしもと、あひどく山など、王
子々々とまりどまりの名をつくる、その夜はくろめに
下向して、法勝寺の執行に御参り候へや、眺望本社
におとらせ給はずとのたまひければ、僧都難澁なり
ければ二人の人々たちかふべき浄衣なければ、麻の
衣を洗ひつつ、澤辺の水を垢離にかき、七日精進し
てまうでけり、津の国くぼ津の王子よりはじめてま
うずる時、さして道のれいぎおこたらず、なれこま
ひなど、かたの如くかなでてぞ通りける、康頼法師
は己がのうなれば、さまざまにあはれなる事どもか
ぞへつづけて、舞ひすまして通りけり、是しかしな
がら我等丹誠をいたす心ざしの深さを権現納受し
て、地形便を得、かつがうの信心をまし給ふ上は、
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いかでか所願成就せざるべきとたのもしくぞ覚えけ
る、夕に濱路を出るには、千里の濱思出られて、山
川谷川を渡るには悪業煩悩、無始の罪しやう、消ゆ
なるものをと頼もしくぞ思ひける、かくの如くして、
八十余所の王子々々詣で過て、本宮しやうじやうでん
御前にまうでつつ、本地あみだ如来にてまします、
十悪五逆をもすて給はぬ御ちかひあるなれば、遠き
近きにはよるまじ、心の至誠なるをこそ権現金剛童
子も、あはれみ覚さんずらめと思ひて、南無日本第
一大霊験熊野三所権現、和光の恵を施して、成経性
照、今一度都へ返させ給へと、肝胆を碎きていのり
申されける、康頼けつさいの次にのつとをぞ思ひつ
づけ申あげける、性照御幣紙に花ぶさをささげて、
謹請再拝、維当歳次治承二年戊戌月並十月二月日
数三百五十四ヶ日、八月廿八日神己未択吉日良辰、
掛畏忝日本第一大霊験熊野三所権現、並飛龍大薩
〓、教令宇津弘前、信心大施主羽林藤原成経沙弥

性照致一心清浄誠、抽三業相応志、謹以敬白、
夫證誠大権現濟度苦海教主、三身円満覚王也、
両所権現或東方浄瑠璃醫王主、衆病悉除如来也、
或南方補堕落能化主、入重玄門大士、若王子娑婆
世界本主、施無畏者大士、頂上仏面現、衆生所願満
給、雖然法性真如都出、自和光同塵道入給以
来、神通自在難化衆生誘、善巧方便利益施給、因
茲自上一人迄下万民、朝結清水肩懸、煩悩
垢濯、暮向深山寳號唱、感応無懈時、峨々峯高
神徳高喩、嶮々谷深弘誓深准、雲分昇露凌下、爰
利益地不憑爭歩運嶮難道権現徳不施、何必幽
遠堺御、仍證誠大権現飛龍大薩〓青蓮慈悲眦相並、
早鹿八御耳振立、我等無弐丹誠知見、一懇志令納
受給、成経性照遠流苦止、早旧城故郷令付、当
人間有為妄執改、速法性無為證真理而已、然則
結早玉両所権現、各機隨有縁衆生引導、無縁群類
為救、七寶荘厳棲捨、八万四千和光、六道三有
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塵同給、故定業亦能将求長寿、得長寿禮拝、連
袖無隙、漫々深海、罪障垢重々、峨々高峯、懺
悔風扇、戒律乗急心調、忍辱衣重、覚道花捧、神
殿床動、信心水澄利生地湛、神明納受給、諸願何
不成就、仰願十二所権現利生翅並、遥翔苦海底、
慰左遷愁速令遂帰路本懐給、敬白再拝、
とぞ申ける、康頼は子息左衛門尉康基が示し知らせ
ける夢想の事なんど思ひ出して、大江の匡房が無常
の筆をぞ思ひ續けて、生死の嶮路定めがたし、老少
いづれの時を期すべき、ぼうこんいたづらに去て、
野外の崇廟幽々たり、彼かんやう宮のけぶり片々と
して雲となる、いづ方へか去ん、思へば皆夢の如し
とて、本宮をいで、苔路をさしたるまねをして、新
宮へつたふ、雲とりしこの峰と申、けはしき山こえ
て、なちへ詣でつつ、三山の奉幣とげにければ、悦
の道になりて、切めの王子のなぎの葉を、稲荷の社
の杉の葉にとりかさねて、今は黒めにつきぬと思ひ

てぞ下向しける、かく詣づる事こぞの八月より懈ら
ず、さるほどに、同九月上旬にもなりにけり、或日
本宮に詣で、法施をつくづくと手向け奉てありけれ
ば、いつよりも信心肝にめいじ、五体に汗出て、身
の毛よだち、ごんげんこんごう童子の御影向も忽に
ある心地して、嵐すごく吹おろして、木の葉かつち
りけるに、なぎの葉二つ、康頼がひざに散りかかる
を見れば、一は帰雁とむしくひたり、一には二文字
をくひたり、又よくよく見れば、歌を一首むしくひ
たるを見出したり、
千早振神のいかきを頼む人
などか都にかへらざるべき W038 K032
康頼入道是を御覧候へ、此島にはなぎは候はぬに、此
葉の出て来たり候はとて、少将に奉る、少将取りて
見て、あら不思議や、いまは権現の御利生に預りて
都へ返らん事は一定也とて、弥々祈念せられけるに、
康頼入道申けるは、入道が家には蜘蛛だにもさがり
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ぬれば、むかしより必ず悦を仕候が、けさの道にこ
ぐものおちかかり候つるに、権現の御利生にて、少
将殿召返されさせ給はん次に、入道も都へ帰り候は
んずるにやと思ひて候つる也、さても帰雁二とよま
れて候こそあやしく候へ、いかさまにも残りとどま
る人候はんずると覚え候とて、涙を流して下向せら
れけり、康頼はあやしげなる草堂のまねかたを作り
て、浦人、島人集りたる時、念仏をすすめて、同音
に申させて、念仏を拍子にて、乱拍子を舞ひけり、
あみだの三ぞんのいみじき事をばしらねども、此舞
のおもしろさに、是をはやすとて心ならず念仏をぞ
申ける、彼草堂は島人どもが寄合所にて、今にある
とかや、又をのづから汀に寄たる木を拾ひ集めて、
千本のそとばを刻みて一面には阿字を書きて、その
下に年號月日を書たり、一面には二首の歌を書く、
さつまがた沖の小島に我ありと
親には告げよ八重の潮風 W039 K034

思ひやれしばしと思ふ旅だにも
猶古さとの恋しきものを W040 K033
此二首の歌の下に平判官やす頼法師とかな、まなを
書きて心あらん人、是を御覧じて、康頼が故郷へ送
り給へとぞ、卒都婆ごとに書きたりける、書終りて、
天に仰ぎてちかひけるは、願くは上ぼんてん帝釋、四
大天王、閻羅王、けんらう地神、別しては日本第一
大霊験、熊野證誠一所、両所権現、一万十万、金剛
童子、日吉山王、厳島明神、哀と思し召して、我書
付くる言の葉、必ず日本の地へつけさせ給へときね
んして、西風の吹く度に此そとばを、八重のしほぢ
へぞなげ入ける、其きねんのこたへて、思ふ思ひや風
となりけん、まんまんたる波の上なれども、同じ流
のすゑなれば、浪に引かれ風にさそはれて、はるか
の日数を経て、そとば一本は熊野の新宮のみなとへ
よりたりけり、浦の者取て熊野の別当の許へ持て行
たりけれども、見とがむる人もなくてやみにけり、
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又そとば一本は、安芸の国厳島の大明神の御前にぞ
よりたりける、哀なる事は康頼がゆかりある僧の、
康頼西海の波に沈みぬと聞えければ、あまりのむざ
んさに、何となく都をあくがれ出て、西国の方へ修
行しける程に、便風もあらば彼島へ渡りて、生死を
も聞かばやと思はれけれども、おぼろげにては船も
通ふ事なし、おのづからあき人などの渡るも、はる
かに順風を待ちてこそわたれなど申ければ、たやす
く尋渡るべき心地せず、さりながらいかにもしてそ
のおとづれを聞かばや、生死も覚束なし、いかがは
すべきなどと思ひて、あきの国まで下りにけり、び
んぎなりければ、厳島の社へぞまうでにける、明神
の御在所をはいけんするに、後には御山高くそびえ
て、等覚、めうがくの迹門は十四、十五の秋の月に
かたどり、内せう、げせうのしやだんには、三十三
天の春花をくらすと見えたり、誠に大日の霊地、し
んごんひみつの浦と相応せり、潮来ては海となり、

潮去ては島となる、それ和光同塵の利生さまざまな
りといへども、いかなりけるいんえんにて、此神か
やうに海畔のうろくづに縁を結ぶらんと思ふも哀
也、当社大明神は、三十三の大願あり、第一の願に
は道心の者をまぼらんとの御誓なれば、一度参詣す
れば、後生ぼだいの憑あり、一切衆生の所望を悉く
かなふべしとの御誓あり、我のぞむ所は舎兄康頼入
道が死しても候はば、そのしるしを見せ給へ、若生
きて候はば、そのおとづれを聞候ばやときせい申け
り、まことや此神は太政入道ことに崇敬し給へるぞ
かし、されば平家のいきどほり深き人をかやうに思
へば、神もいかに思召すらんと恐しくて、ぬさも取
あへぬ程あれば、ひねもすにほつせたむけ奉りける、
日も暮方になりにけり、月出で汐みちけるに、そこは
かとなき藻屑の流れける中に、小そとばのやうなる
もの見えければ、あやし、何なるらんと思ひて取り
て見れば、彼二首の歌をぞ書たりける、是を見て哀
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なる事限りなし、ずゐきの涙を流しつつ、おいのか
たにさして都へもちて上て、康頼が母の宿所紫野に
行て、とらせたりければ、老母妻子集りて、各々是を
見て悲しみの涙をぞ流しける、新宮の湊によりたり
けるそとばも、熊野より出来ける山伏につけて、お
なじく都へ着きたりけるぞふしぎなる、たとひ一丈、
二丈の木なりとも、硫黄が島にてまんまんたる海に
入たらんは新羅、高麗、百済、震旦へもゆられゆか
で、安芸国までよるべきや、まして渚にうち上げら
れたるもくづの中に、交はりたるこけらにて、千本
まで作りたりけるそとばなれば、一二尺にはよも過
じ、文字はゑり入きざみつけたりければ、なみにも
洗はれずして、あざあざとして彼しまより都まで伝
はりけんこそ哀なれ、余りに思ふ事はかくほどなく
かなひけるも目出たし、康頼三年の命消えやらで、
都へ文を伝へたりとて、此二首の歌を都に披露しけ
れば、彼のそとばの事えいぶんに及びて、召し出し

てえいらんあり、誠に康頼法師が手跡也、少しもま
ぎるべくもなし、露の命消えやらで、いまだ彼島に
有ける事のむざんさよとて、法皇龍顔より御涙を流
させ給ひけるぞかたじけなき、昔大江のさだもと、
出家の後、大唐国にて、仏生国阿育大王の作り給へ
りし八万四千基の石塔内、日本江州石塔寺に一基留
る事を、かの震旦国にしてかきあらはしたる事の、は
りまの国そうゐ寺にながれよりたりけん、ためしに
も、此有がたさはおとらざりけるものをやと哀なり、
此事小松内府聞給ひて、かかる哀なる事こそ候はね、
康頼が硫黄が島にての手跡都に伝はりて哀なる事に
て候とて、世間には披露し候こそ不便に候へとて、
入道殿に申されければ、入道は音もし給はず、柿の
もとの人麿は、島がくれ行船をおしみ、山辺の赤人
は、あしべのたづをながむ、住吉の大明神は、かた
そぎの思ひをなし、三輪の明神は杉たてる門をさす、
そさのをのみこと、三十一字をはじめ給ひしよりこ
P144
のかた、諸明神、此字の内に、百千万の思ひをのべ
給ふ、いはんや太政入道木石にあらねば、いかでか
此歌をあはれと思ひ給はざるべき、
昔唐国に漢の武帝と申す帝ましましけり、王昭君と
いふ后を胡国のえびすに給りたりける事をくやしと
思し召して、彼の后を奪ひとどめんために、李陵と
いふ者を大将軍として、十万騎を卒して、ここくへ
つかはす、李陵微力をはげまして、せめ戦ひけれど
も、胡国の軍こはくして、官兵皆亡びて、敵のため
に李陵とらはれて、ここくの皇につかはる、武帝是
を聞て、李陵をばむねと憑み思ひつればこそ、大将
軍にえらびつかはしつるに、かく二心ありけるもの
をとて、李陵が母をとらへて、せめ殺し、父が墓を
ほりて、その骸をうつ、是のみならず、李陵がしん
るゐ兄弟皆以て罪せらる、李陵是を伝へ聞て、かな
しみを含みて曰く、我思ひき、胡国追討の使にえら
まれし時は、彼国を亡して君のために忠を致さんと

す、然れども軍やぶれて後、胡王のためにとらはれ
てつかはるといへども、隙をうかがひて、胡王を亡
して日ごろの恨を報ぜんとこそ思ひつれども、今か
かるめにあひぬる上はとて、胡王を頼みて年月を送
りけるに、武帝我に志ありけるよしを聞給ひて、李
陵をよび給ひけれども来らず、さて漢の軍まけぬる
事を帝安からぬ事におぼして、天漢元年に李将軍と
いふ兵また蘇子荊と申つはもの、とし十六になりけ
るを右大臣になして大将軍として、又十二万騎の勢
をもて、胡国を攻につかはされけるに、蘇子荊をば
蘇武といふ、彼をめして軍の旗を給ふとて、武帝仰ら
れけるは、此旗をば汝が命とともに持べし、若汝死
なば、我方へ返すべしと、宣命を含められけり、さ
て蘇武ここくへ行てせめ戦ひけれども、蘇武まけに
ければ、大将を始としてむねとのもの三十人生捕ら
れて、窟の中にこめおく、三年といふに取出してひ
ざぶしよりかた足を切て、あれ田にはなちおく、或
P145
は一日二日に死ぬるもあり、或は五六日に死するも
あり、蘇武一人生き残りて、年月をふるに、故郷の
恋しき事旦暮片時忘るる時もなし、ただ恋しきこと
かぎりなし、草葉を引結ぶあやしのかりのやどりも
なければ、ただ野澤の田中にはひありきて、春は田
豆をほり、秋はほを拾ひ、羊のちちをのみなどして
ぞまどひありきける、かかりければ、禽獣鳥類のみ
友となれり、秋の田の面の雁も、他国へ飛行けども
春はこし路に帰る習あり、我思ふ国へもや行らんと
なつかしくぞ思ひける、朝夕みなるる事なれば、雁
一、殊に近づきたりけるに、蘇武右の指をくひ切り
て、そのちをもて、柏の葉に一筆書すさみて、雁の
翅に結びつけてことづてけり、武帝上林苑といふ所
に御行あて、千草の色を御覧じて御遊ありける所に、
雁一行飛び来て、遥かに雲の上に初音の聞ゆると覚
ゆるに、一の雁ほどなく飛下る、あやしとえいらん
をふる所に、翅に結びつけたる文をくひほどきて、

落したりけるを、官人是を取て、漢王に奉る、帝み
づから叡覧あり、其状に云、
昔被籠巌崛洞、徒送三春之愁歎、今被放秋山
田〓、空為胡狄之族失一足、設此身留而朽胡
国、魂還而再仕漢君、
とぞ書たりける、是を御覧じて、帝御涙おさへがた
くして、蘇武はいまだ生きてありけるものをとて、
永律といふ賢者を大将軍として百万騎の勇士を卒し
て、又胡国をせめ給ふに、此度は胡国の軍まけにけ
り、蘇武片足は切られたりけれども、十九年の星霜
をへて、王昭君をとり返して都へ帰りけるに、李陵
君の御ために二心なし、就中に胡国追討の大将軍に
えらばれ参らせし事、誠に面目のその一也、然れど
も我宿運尽ぬることにや、官軍破れて我胡国にとら
はれぬ、されどもいかにもして胡王を亡して、御門
の御ために忠をいたさんとこそ存つるに、今母を殺
され参らせ、父が骸をほりおこして打たたかる、亡
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魂いかに思ひけんとかなしくてせん方なし、またあ
やまらぬしんるゐ兄弟も、残らず皆罪せらるる事、
つみふかくこそ候へども、文を一巻書て蘇武にこと
づてて武帝に奉る、帝是を見給ふに、その状に云、
双鳧倶北飛、一鳥獨南翔、
とぞ書たりける、帝大に憐を含て、後悔し給ひけれ
どもかひなし、蘇武かんていに参りて賜たりし旗を
懐よりとり出して奉る、さて御方のいくさ破れて、
胡王にとらはれける、田にはなたれて、年月かなし
かりつる事、李陵がかなしみ歎し事を、委しく語り
申ければ、武帝悲涙せきあへ給はず蘇武生年十六歳
にて、胡国におもむき、久沒したりしかども、三十
五にて旧都へ帰りたりしに、白髪の老翁にぞなりに
ける、後に伝息国といふ官を給て、君に仕へ奉る、
孝宣皇帝の御代、神爵二年に八十余にて死にけり、
その後廿露三年に御門賢人どもを、麒麟閣に昼し給
ひけるに、蘇武その中にあるとかや、是よりして文

をばがん書といひ、がんさつとも名づけたり、使を
ばがんしともいへるとかや、彼は胡国、是は硫黄が
島、彼は雁の翅、是はそとばの面、彼は一筆、是は
二首の歌、彼は雲路を通し、是は浪の上を伝ひ、か
れは十九年を送りむかへ、是は三年の夢さめにけり、
有がたかりける事どもかな、上古末代、昔今世はか
はり、さかひはへだたれども、思ひはひとつにて、
哀れにぞ覚えける、康頼が嫡子、平左衛門尉やすも
と、津の国こまの林まで父康頼がともして見送りた
りけるが、康頼出家したりければ、やすもとなくな
くこまの林より都へ帰り上て、頓て精進けつさいし
て、百日清水寺へ参詣す、法華経の廿八品のその中
に、信解品を習ひ読て、百ヶ日の間隔夜にする折も
あり、〓[B 通イ]夜する時もあり、願はくは大慈大悲千手千
眼、枯たる木草も花さき実なるべしと御ちかひある
なり、されば此体をかへずして、二たび父にあはせ
給へと三千三百三十三度の拝を参らせける、かかり
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けるしるしにや、硫黄がしまなる判官入道の夢想に
も、やすもとが白馬に乗りて来るとみえけり、くわ
んおんの御へん化は白馬に現じさせ給ふとかや、偏
に是やすもとがきねん感応して、観音の御利生にて
都へ帰り上にけりと、後には父子共に涙をぞ流しけ
る、少将、康頼入道は本宮に参りて、各々能を尽さんと
て、少将に拍子をうたせ奉りて、舞を面白くまひす
ましたり、少将はやうぢやう取出して、万秋楽の秘
曲を吹かれけり、その夜は本宮に通夜し給ひ、夜深
更に及びて、少将夢想あり、なにとなく沖の方を見
給へば天かきくもり俄に時雨うちして、沖の方より
大船一艘出来りけり、次第に近づくにしたがひて、
浪はしづまりぬ、かの船の中に迦陵頻迦の声にて法
華経のだいぼほんをぞよまれける、やや久あて、う
つくしげなる童子八人出来て、仰せられけるは、汝
らが拝にいのり申によて、権現御納受あり、故郷へ
帰られん事疑ひあるべからず、来暮秋のころしるし

あるべし、我を誰とか思ふ、娑竭羅龍宮の八天童子
也、万秋楽こそことに奇異なれ、今はいとま申とて
帰り給ひぬと、夢に見給ひけり、悦ばしきなどは、
事もおろか也、是につけても、弥々権現をば信敬し給
ひけり、
新大納言成親卿若くよりしだい昇進かかはらず、家
にいまだなかりし大納言に至る、栄花先祖にすぐれ
給へり、めでたかりし人の、いかなる前世の宿業に
てうきめを見給ひて二たび、故郷にかへり給はで配
所にて失給ひけん、少将も硫黄が島へ流されそのお
ととどもの幼少におはするも安堵ならず、爰かしこ
に迯かくるなどと聞給ひて、いとど心ぐるしくて、
日に隨ていよいよわり給へり、思ひの積りにや、
なやみ給ひて、七月十日ころより起臥もたやすから
ず、是につけてもわかれにし人々のみ恋しく今一度
思ひ見る事もならで、露の命消えはてん事をぞかな
しくおばされける、かく御心地のなやましくくるし
P148
きに付ても、あと枕にゐて哀といふ人一人もなし、
前に近きものとては、あらげなきつはものばかり也、
大納言殿をば小松内府にはかくして、入道相国のも
とよりとくとく失ひ奉るべきよし、つね遠うけ給け
れば、或時つね遠もとより大納言のかいしやくにつ
けたりける智明と申ほうし、大納言入道殿に申ける
は、是は海中の島にて候間、何事につきてもすみう
く候、此所につね遠所領の近く候所に、きびの中山、
ほそたに川など申て、名ある所にある木のべつしよ
とていたいけしたる山寺の候こそ、水木たたへてよ
き所にて候へ、それに渡らせ給ひ候へかし、わたし
参らせんと申ければ、大納言げにもと覚して、とも
かくもはからひにこそ隨はめとのたまひければ、彼
山寺に難波の太郎としさだが作り置きたりける僧房
を借て、わたしすへ奉てけり、はじめはとかくいた
はり奉るよしにて、同七月十九日坊の後にあなをふ
かくほらせて、穴の底に〓(ひし)を植へて上にかりばしを

わたして、その上に土をはねかけて、年ごろふみつけ
たるやうに調へておきたりけるを、大納言入道知り
給はで、ひえおはすとて、その上をあゆみ給ふとて、
落入給けるを、用意したる事なれば、やがて上に土
をはねかけて埋みてけり、此事かくしけれども、世
間に披露しければ、北の方此よしを伝へ聞給けん心
の中こそかなしけれ、
黄泉何所、一住不還、去台何方、再会無期、懸
書欲訪、存沒隔路兮飛鳥不通、擣衣欲寄、
生死界異兮意馬徒疲、
といへり、かはらぬすがたを今一度見ゆる事もやと
てこそ、憂き身ながら髪をもつけてありつれども、今
はいひがひなしとて、北の方自ら御くしをきり給ひ
て、雲林院のぼたい講と申す古寺にて、忍で戒を保
ち給ひけり、又その寺にてぞ形のごとく追ぜんなど
もいとなみて、彼のぼたいを弔ひ聞えける、若君あ
かの水をむすび給ひける日は、姫君は樒をつみ、姫
P149
君水をとり給ふ日は、若君花を手折りなどして、父
の後生を弔ひ給ふも哀也、時うつり事さり、たのし
み尽てかなしみ来、天人の五衰とぞ見えし、されど
も大納言の御妹、小松内府の北の方より、折にした
がひてさまざまのおくりものありけり、是を見る人
涙を流さぬはなし、なきあとまでも内大臣の志のふ
かきこそやさしけれ、大納言の最期のありさま都に
はさまざまに聞えけり、歎き日数をつみてやせ衰へ
て、思死にに給たりともきこゆ、又酒にどくを
入てすすめ奉たりとも申、また沖にこぎいだして海
に入たてまつりたりともさたしけり、但〓(ひし)につらぬ
かれて死給ひたる事は、まこととおぼしき事は、彼
の智明がさいあいの娘三人あり、七月下旬の頃より
一度にやまひつきて、俄に物に狂ひて、竹の林の中
にはしり入て、竹の切ぐいにつらぬかれて三人なが
ら一度に死にけり、是則ち大納言の霊と覚えて、忽
に報いけるぞ恐しかりし事どもなる、さても大納言

かくれ給ひて、九日と申けるに申の刻計に、天かき
くもり、雨俄にそそいてふり下る、一時ばかりふり
ければ、大洪水いづる程なり、雷電夥く鳴り落ちて、
地のそこに声ありき、つね遠に別のいしゆなし、然
るを我命終りし時、くらくらとしてほだいの道に妨
をなせり、汝においては安穏にあるべからずとて、
なりくだりなりくだり五六ヶ度震動す、難波の次郎此事を聞
て、大に恐れつつ、文武二道のをのこなりければ、
かりぎぬ着し、ゑぼしのぎしきを正しくして、幣帛
を捧げ、かしこまて天に向ひて、我あやまりなし、
主君の命によるよしをつぶさに敬白す、大納言の霊
ことわりとや思はれけん、しづまりにけり、則ち彼
雷落ちたるところをば龍宮城と號す、人申けるは、
此大納言は遠祖にも超過し、位正二位を極め、あま
つさへ大将に心をかけ給へる事は、かかる人なるに
よて也、又目をとめて見ければ、此人の京の宿所の
うへに常に黒雲おほふ事ありけり、龍の住む所にこ
P150
そ、かかる事はあれなどと怪みしに、かやうに死し
て後、かたのごとくの瑞相現じけり、返すがえす恐し
かりし事ども也、
新院讃州配流の後は、さのきの院と申けるを、廿九
日追號あり、崇徳院と申、去保元元年七月に当国に
うつされ給ひて、はじめはなほ島にましましけるが、
後にはさぬきの国の一在廰野太夫たかとをが堂に渡
らせ給ひけるが、後にはつづみの岡に御所を立てぞ
わたらせ給ひける、さぬきの院の主上にて渡らせ給
ひける時、小河の侍従隆憲と申けるが、院かくなら
せ給ひければ、後の御門に仕へむ事も物うかるべし
とて、もとどり切りて、今は蓮如上人とぞ申ける、
山林に交はりて一向まことの道に入たりけるほど
に、院の御跡を尋参らせて、さんしうへまいり、な
ほ島といふ所に、ついがき高くして惣門を隔てて、
内には屋一宇をつくりて、門に武士をそへて、外よ
り鎖をさし、供御をまいるより外はたやすく門を開

くことなし、かかりければ、蓮如参りたりけれども、
見参に入事もせず、我かかる遁世の身なり、何かく
るしかるべき、一目見参らせて罷上り候ばや、まげ
て御許を蒙らんと、守護の武士になくなく申けれど
も、ゆるされず、力及ばず此蓮如俗にてありし時、
笛を面白く吹ける間、笈の中に笛を入て持たりける
を取出して、参りたりとだにも知らせ参らせんとて、
一町の築垣を終夜笛を吹てぞまはりける、是をきこ
しめして、年ごろ是に笛吹くものこそなかりつれ、
いかなる者の吹やらん、小河侍従隆憲が吹し笛の音
に、少しも違はぬものかなと思し召して、今更恋し
くならせ給ひて、惣門近く出御あて、きこしめせば、
姿は御らんぜねどもたかのりが声にて、今生の思ひ
出、後生の訴に、今一度をがみ参らせんとなくなく
申けり、院是を聞召して、かなしみの御涙せきあへ
ず、蓮如なくなくかくぞ申ける、
身を捨てて木の丸殿に入ながら
P151
君にしられで帰るかなしさ W041 K266
院是を聞召して、さればこそと思召されければ、人
にもはばかり給はず、御声をあげてなかせ給ふ、や
や久しくあて、何とも御詞をば出さずかたみにせよ
とや思召されけん、御一筆を書きすさみて、門より
外へなげ出し給ひぬ、蓮如是を給て、月の光に見け
れば、
あさくらやただいたづらに返すにも
つりするあまの音をのみぞなく W042 K267
蓮如此御一筆をむねにあて、かほにあてて、ただこ
がるる事限りなし、心のゆくほどなきあきて、あな
口をしや、生をへだてて候らんもかくこそ候らめ、
六道の巷にこそおもはしきものの声ばかりは聞候な
れと、目に見る事はなかんなれ、その定に多くの国
国を隔てて、浪路はるかにわけ参りて候に、わづか
に壁を隔てて見参に入候はぬ事こそ口惜く候へ、た
だし是に付ても今生はただうき所と思召し、此度生

死をはなれて極楽浄土へ参らせ給へ、蓮如も此身に
なり候へば、ただ極楽浄土の恋しさに、うき世をい
とひて候なり、君もはかなきかりのやどに都へ帰ら
せ給ひても、何かはせさせ給ふべき、ただ急ぎ浄土
へ参らんと思召さるべしと、蓮如も必来世にては参
りあひ候べしとて、笈を肩にかけて、島をなくなく
罷出ぬ、蓮如が申ける事肝に思召されて、今生のこ
とを思召し捨て、後生ぼだいのために、五部の大乗
経を、御筆に三年の間書集めさせ給ひて、御室へ申
させ給ひけるは、墨付に五部の大乗経を三年が間に
書き集めて候を、かいかねの声せぬ遠国に捨て置き
奉らんことうたてしく覚え候、御経ばかり都近き八
幡辺に置き奉候はばやと申させ給ひける、御書のお
くに、
はま千鳥跡は都に通へども
身は松山にねをのみぞなく W043 K268
御室より此由関白殿へ申させ給ふ、関白殿内裏へ申
P152
させ給ひければ、少納言入道信西が申けるは、いか
でかさる事候べき、叡聞に及ぶべからずと、大に諌
め奉りければ、御経を都へ入参らする事叶ふべから
ずと仰下されけり、新院此事聞召して、心うかりけ
るためしかな、しんら、はくさい、けいたんに至る
まで、或は兄弟位を論じ、或はをぢをひ国を争ひて、
合戦をいたす事、常の習ひなれども、果報のましお
とりにより、兄もまけをぢまくる、されども手を合
せて、降人に来れば、かさねて科におこなふ事にや
ある、我今悪行の心をもて、かかる人を見れば、今
生の事を思ひ捨てて、後生ぼだいのために経を書き
奉る、置所だにもゆるされず、此世ひとつのかたき
のみにあらず、後生までのかたきござんなれと、大
悪心をたてて思し召しければ、御舌のさきをくひ切
らせ給ひて、その血をもて御経の軸のもとごとに、
御誓言をぞ遊ばしける、我此五部の大乗経を、三悪
道になげこうて、此大善根の力をもて、日本国をめ

つする大まゑんとならんと誓はせ給ひて、その後は
御爪も切らせ給はず、生ながら天狗の形にならせ給
ひて、九年と申長寛二年秋八月廿六日、御年四十二
にて志度といふ処にてつゐにかくれさせ給ひにけ
り、御骨をばかならず高野山へ送り奉れとさいごに
仰せられけるとかや、それもいかがならせ給ひけむ
覚束なし、
去仁安三年の冬の頃、佐殿兵衛入道西行、後には大
法房円位と改名しける、国々修行しけるに、讃岐の
松山といふ所にて、是は新院の渡らせ給ひし所ぞか
しと思ひ出奉て参りたりけれども、そのあとも見え
ず、松の葉に雪ふりかかりつつ、道を埋みて人の通
ひたる跡もなし、なほ島より志度といふ所にうつら
せ給ひて、年久なりにければ、ことわり也、
よしさらば道をばうづめつもる雪
さなくば人の通ふべきかは W044 K045
とうち詠じて、白峯といふ所の御はか所に尋参りた
P153
りけるに、怪しの国人の墓のやうにて草ふかくしげ
りたり、いかなりける御宿業にて渡らせ給ふやらん
と、心うく覚えて、昔は十善のあるじとて、九重の
内にまつはれて、あかし暮し給ひしに、今は三途の
闇にまどひて、八重の葎の下にふしましましけんと、
かなしからずといふ事なし、翠帳紅閨の中には、三
千の主と仰がれ、龍楼鳳闕の中には、二八の主とか
しづかれ給ふ、辨才世にかまびすし、威徳朝にふる
ひ給ひしに、徒に名ばかりとどまるならひなれば、
宮もわらやもはてしなし、世の中はとてもかくても
有ぬべきかなと、思ひつづけてつらつらと、御墓所
のまへに候へども、法華三まいつとむる禅侶もなく、
念仏三まい勤むる僧も一人もなかりければ、
なほ島の波にゆられて行く舟の
行衛も知らずなりにける哉 W045 K269
とよみたりければ、御墓震動して、俄に黒雲うづ巻、
真黒ざまになりにけり、斜ならず御憤り深かりける

を、行衛もしらずと読みたりけるを、御とがめあり
て、あしく読奉りけるにやとて、ひがさをのけ、袖
かきつくろひて、
よしや君昔の玉のゆかとても
かからん後は何にかはせん W046 K047
と読みたりければ、御はか元の如くしづまらせ給ふ、
この歌に怨霊も御心なだまり給ふらんとぞ覚えし、
さて松の枝にて、庵をむすびて七日七夜ふだん念仏
申て御菩だいを弔ひまいらせて、罷出けるが、庵の
前なる松にかくぞ書付ける、
ひさに経て我後の世をとへよ松
あと忍ぶべき人もなき身を W047 K048
八月三日宇治の左大臣贈位の御事あるべしとて、勅
使の少納言これもと彼墓にまかりて、宣命を捧げて
太政大臣正一位を贈らるるよしをぞ読かけ奉りけ
る、件の御はかは大和国添の上郡河上の林、般若野
の五三まいなり、昔保元の秋のはじめに掘おこして
P154
捨られし後は、死骸を路頭の土となして、年々の春
の草のみ茂るに、今勅使尋ね来て、宣命を伝へけん、
亡魂いかが思ひけん覚束なし、思の外の事どもあり
て、世の乱は、ただ事にあらず、偏に怨霊のいたす
所也と、人々はからひ申されければ、かやうに行は
れけり、或人夢に見たりけるは、さぬきの院鳳輦の
御輿に乗奉り、左府又腰輿に召て、先陣に候はせ給
ふ、平右馬助忠正後陣を仕り、六条判官為義子息ど
も皆引具して、都合その勢三百余騎にて、白旗赤旗
さしぐして、御輿の前後に候けるが、忠正鳥羽の南
門にて、馬をゆらへて、是は何方へ御輿をば仕るべ
く候やらんと申ければ、左府の仰に、院の御所法住
寺殿へと仰せられければ、忠正申けるは、それには
当時ことに御祈きびしくて、日吉山王の御宿直かた
く候へば、かなふべしとも存ぜずと申ければ、さら
ば太政入道の西八条へと仰られければ、承候ぬとて
三百余騎の兵ども、同時にときをつくりて、さうな

く惣門より攻入ぬとぞ見えたりける、さればにや程
なく入道相国例ならぬ心づきて、法皇を押込めなや
まし奉り、物ぐるはしきことのみありて、悪行数を
尽しける、恐しとも申に及ばざりけり、冷泉院の御
ものぐるはしくましまし、花山法皇の位を去らせ給
ひ、三条院の御目くらかりし、元方民部卿の悪霊の
たたりとこそ承はれ、抑三条院の御目も御覧ぜられ
ざりけるこそ、心うかりけれ、御眼はいと清らかに、
いささかもかはりたる事わたらせ給はざりければ、
空事のやうにぞ見えさせ給ひける、伊勢斎宮のたた
らせ給ふに、くしなげさせ給ひたりけるを、見奉ら
せてこそは、たたらせ給ひけめ、是を人見参らせて
こそ、さればこそとは申けれ、むかしも今も怨霊は
恐しき事なれば、早良の廢太子をば崇道天皇と號し、
井上内親王をば皇后の職位に補す、是皆怨霊をなだ
め給ひけるはかりごと也、同十二月廿四日彗星出、
又いかなる事のあらんずるやらんと人あやしみあへ
P155
り、彗星は五行之気、五星之変、内有大兵外大乱
といへり、
平家物語巻第四終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第五

P156
平家物語巻第五
治承二年正月一日、院御所には拝禮行はれ、四日朝
覲の行幸ありて、例にかはりたる事はなけれども、
去年の夏成親卿以下近習の人々多くうすなはれし
事、安からず法皇思召され、御憤りいまだ休まらず、
世の政ものうく思召して、御こころよからぬ事にて
ぞありける、入道も、多田蔵人行綱が告知らせての
ちは、君をも後めたなき御事に思ひ奉りて、世間打
とけたる事なし、上には事なきやうなれども、下に
は用心してただにが笑ひてぞありける、七日彗星東
方に見ゆ、光をます事十八日、蚩尤旗とも申、また
赤気とも申す、陰陽頭泰親朝臣申しけるは、蚩尤旗
にもあらず赤気にもあらず、天文要集のごとくは、
太白犯昂井者、天子浮海、失珍宝、西海血流、
大臣被誅といへり、何事のあるべきやらんと、人怪

みをなす、法皇は三井寺公顕僧正を御師範として真
言秘法の伝じゆせさせ給ひけるに、今年の春、大日
経金剛頂経蘇悉地経と申す三部の秘法を受けさせ給
ひて、二月五日をんじやう寺にて灌頂あるべきよし
思召し立と覚えし程に、天台の大衆此事を憤り申し、
昔より今に至るまで、御灌頂御受戒皆我山にて遂げ
させおはします事、すでに先規なり、然るを就中山
王の化導は受戒灌頂のため也、今三井寺にて遂させ
給ふ事然るべからずと申しければ、さまざまにこし
らへ仰せられけれども、例の大衆の、こはさは、一
切院宣を用ひず、三井寺にて御灌頂あるべきならば、
園城寺を焼拂べきよしせんぎすと聞えければ、御加
行結願して思召とどまらせ給ひけり、されども、法
皇猶その御本意なりければ、公顕僧正を召具して天
王寺へ御幸なりて、五智光院を立て、亀井の水結び
あげて、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ
伝法くわん頂をばとげさせおはしましける、山門の
P157
騒動を静めんがために、三井寺の御灌頂はとどまり
たれども、学生と堂衆と中悪くして山上静ならず、
山門に事いで来ぬれば、世も乱るといへり、又いか
なる事もあらんずるやらんと恐し、此事はこぞの春
の頃、義竟四郎叡俊、越中国へ下向して、釈迦堂衆来
乗房が立ておく神領を押へ取て、知行の跡を押領す、
来乗房怒りをなして、敦賀の津にあひて、義竟四郎
をさんざんに打散らして、物の具をはぎ取て恥に及
べり、叡俊山に逃入て、夜に紛れてはうばう登山して
衆徒に訴へければ、大衆大きに憤りて、忽に騒動す、
来乗房又堂衆を語ふ間、同心して来乗房を助けんと
す、
建禮門院その頃中宮と申ししが、春の暮ほどより、
常に御乱れ心地にして、供御をもはかばかしく参ら
ず、御寝も打とけてならざりしかば、何の御沙汰に
も及ばず、総じては天下の騒ぎ別しては平家の歎き
とぞ見えし、太政入道、二位殿きも心を惑はし給ふも

理也、諸寺諸山に御読経はじまり、諸宮諸社に奉幣
使を立てらる、陰陽術を尽し、醫家薬をはこぶ、大
法秘法残所なく修せられき、かくて一両月を経るほ
どに、御悩ただにもあらず、御くわい妊と聞えしか
ば、平家日頃は歎しかども、引かへて、今は悦にて
ぞありける、御懐妊の事定りにければ、高僧貴僧に
仰せて御産平安をいのり、日月星宿につきて皇子御
誕生をいのる、主上今年は十八にならせ給ふ、皇子
もいまだ渡らせおはしまさず、中宮二十二にならせ
給ふ、皇子御誕生などあらんに、いかにめでたかりな
ん、相国、二位殿などは、ただ今皇子御誕生などある
やうにあらましの事をぞ悦れける、平家の繁昌時を
得たり、然れば皇子誕生疑ひなしと人々申けり、か
かりしほどに、六月十八日中宮御着帯とぞ聞えし、月
日積るままに御悩なほわづらはしき様也、常は夜の
おとどにのみぞ入らせ給ひける、少し面やせてまた
ゆげに見えさせ給ふぞ心ぐるしき、さるにつけても、
P158
いとどらうたくぞ渡らせ給ひける、かの漢の李夫人
の照陽殿の病の床に臥したりけんもかくやありけん
と人申けるとかや、桃李の雨を含み芙蓉の風にしぼ
みけるよりも心ぐるしき御ありさまなり、かかりけ
る御悩の折節にあはせて、こはき御物のけ度々取つ
き奉る、有験の僧ども数多召されて、護身加持隙な
し、よりましら明王の縛にかかりて、さまざまの霊
ども顕れたり、総じては、讃岐院の御怨霊別しては
悪左府の御怨念、成親卿西光法師が怨霊、丹波少将成
経平判官入道康頼法勝寺執行俊寛などが生霊ども占
ひ申けり、是によて入道相国生霊どもたやすからず
と恐しく聞えければ、なだめらるべきよしの御政あ
るべしと計ひ申されけり、
門脇の宰相はいかなる序もがな、丹波少将が事なだ
めんとおもはれけるが、此折を得て急ぎ小松内大臣
のもとに行向ひて、御産の御いのりにさまざまの攘
災行はるべきよし聞え候、いかなる事と申候とも、

非常大赦に過たる事あるべからず、就中成経がめし
返されんほどの功徳善根はいかでか候べき、大納言
が怨霊をなだめんと思召されんにつけても、まづい
きたる成経をこそ召返され候はめと、此事とり申さ
じとは存候へども、娘にて候もの思ひ沈で命も危く
見え候時に、強にかくな思ひそ、教盛かくてあればさ
りとも少将をば申預らんずるぞと慰め申候へども、
教盛を恨候ては涙を流して返事に及ばず候、内々申
し候なるは宰相殿御一門の片端にておはす、親をも
つとも此時はわざとも宰相ほどの親を持べけれ、な
どか少将一人申預けられざるべきと恨候なるが、げ
にもと覚えていたくむざんに覚候、成経が事しかる
べきやうにも申させ給へとなくなくくどきければ、
内府も涙を流して、子のかなしさをば重盛も身につ
みて候へば、さこそ思召され候らめと申候べしとて、
八条に渡り給ひて、入道のけしきいたくあしからざ
りければ、宰相の成経が事を強に歎き申され候こそ
P159
ふびんにおぼえ候へ、もつとも御許しあるべしと覚
え候、中宮御さんの御いのりに定めて、非常の大赦
をこなはれ候はんずらん、その中に入させ給ふべく
候、宰相の申され候やうに、誠にたぐひなき御祈に
てぞ候はんずらんと覚え候、大かたは人の願をかな
へさせ給ひ候はば、御願成就疑ひあるべからず、御
願成就せば、皇子誕生ありて家門の花いよいよさ
かんなるべしなどこまごまと申給へば、入道今度は
皇子誕生が耳に入て、以外にやはらぎてげにもと思
はれたるげにて、さて俊寛康頼が事はいかにとあり
ければ、それをもゆるされて候はばしかるべくこそ
候はめ、一人もとどめられ候はん事は、中々なる罪
業にてこそ候はんずらめと申されければ、康頼が事
はさる事にて、俊寛は見られし様に随分入道が口入
にて、法勝寺の寺務にも申なし抔して人となるもの
ぞかし、それに人しれず城郭を構へて、事にふれて安
からぬ事のみいひけるよしを聞が、特に奇怪に覚ゆ

る也とぞのたまひける、中宮御さんの御祈りにより
て大赦を行はるべしと入道申行れければ、則職事奉
書を申下さるる間、七月上旬に丹波少将召返さるべ
き事一定になりにけり、其状に云、
為中宮御産御祈、依被行非常大赦、薩摩方硫
黄島流人、前左少将藤原朝臣成経并平判官康頼法
師、可令帰参之由、所候也、依仰執達如(レ)件、
治承二年七月三日
とぞかかれたりける、宰相是を聞給ひて、悦などは
斜ならず、少将の北の方は、猶現とも覚給はずふし沈
みてぞおはしける、七月十三日御使下りければ、平
宰相あまりによろこばしくて、私の使を相添て、夜
を日に繼て下れとのたまひけるぞ哀なる、それもた
やすく行べき船路ならねば、波風あらくて船中にて
日を送りけるほどに、九月半過ぎてぞかの島へ渡り
つきにける、島には春過ぎ夏たけて三ヶ年をぞ送り
ける、折節日もうららかにて、少将も康頼も磯に出
P160
てはるかに汐干がたを詠れば、まんまんたる海上に
何とやらんはたらくものあり、あやしくてやや入道
殿、あの沖にまなこにさへぎる物あるは何やらんと
少将のたまひければ、康頼是を見て、にほのうきす
の浪にただよふにこそと申けり、次第に近づくを見
れば、船の体に見なしてけり、是は端島の浦人ども
が、硫黄をほりに渡るものあればさにこそと思ふ程
に、磯近くこぎ寄せて船中にいひかはす言葉どもを
聞ば、さしも恋しき都の人の声に聞なし、少将思は
れけるは、我らがやうにつみをかうふりて、此の島
に流さるる人などにこそと思はれければ、とくとく
こぎよせよかし、都の事どもをも尋とはんとぞ思は
れける、されどもまめやかに近づく時は、おのおの
見ぐるしきあり様を、見えんことのはづかしさに、
急ぎ立のき濱松がえだの木の下の岩の隱に休ひて、
見えがくれにこそまたれけれ、さるほどに船こぎつ
けて急ぎ下りて我らが方に近づく、俊寛僧都は余り

にくたびれて、ただ朝夕のかなしみに思ひむすばは
れて、神明仏陀の御名をも唱へず、あらましの熊野
詣もせず、常は岩のはざま苔の下にのみむもれ居ら
れたりけるが、いかにしてただ今の有さまを見られ
けるやらん、此人々のおはする所に来れり、六はら
の使申けるは、太政入道殿の御教書、平宰相殿の御
使用添へられて、都へ御帰りあるべきよしの御使下
りて候、丹波少将殿はいづくに渡らせ給ひ候やらん、
此御教育を参らせ候はばやと申しければ、余りに思
ふ事なれば、なほ夢やらんとぞ思はれにける、三人
一所に並び居られたり、いそぎ出向ひつつ悦ばれけ
る心の中、譬へん方ぞなかりける、三の御文あり、一
は奉書一は入道の施行一は平宰相のわたくし文也、
僧都手水うがひなどして、三度拝で先づ奉書を披て
見られければ、為中宮御産御祈、依被行大赦、
成経、康、頼、可帰洛とありけれども、俊寛といふは
一行もなかりけり、僧都我が身ははやもれにけるよ
P161
と思ふより、涙双眼に浮びて生きたる心地もせず、
若ひが目かとて又見れども俊寛といふ文字はなし、
又見れとも二人とこそかかれたれ、三人とはよまれ
ず、せめてのかなしさにひろげては巻、巻てはひろ
げ、奥へ見つ端へ見つ、取ては置きおきては取りつ
して、伏まろびてをめきさけび、かなしみの涙をなが
す、抑夢かと思へども現也、現かと思へば又夢かや、
夢に夢見る心地して、かれもいづれもわきがたし、
ことわりや、いかでか歎かざらん、三人同罪にて此
島へ流されしに、二人は召返され、僧都一人残りと
どまり給へば、誠にさこそ思はれけめ、二人の悦び、
一人の歎き水火の違事のきはめとぞみえし、僧都な
くなく申されけるは、三人同罪にて流しつかはされ
たるが、二人は勅免にあづかりてめし返され、俊寛一
人恵澤にもれてとどめらるべきやうはなきものを、
是は入道殿おぼしめし忘れ給ひたるにや、また執筆
の誤りか、申入る人のなかりけるかやと、くちをし

がりて、天に仰ぎ地に伏して泣かなしむこと限りな
し、是を聞に誠にことわりと思へば、都よりの御使も
むざんに覚えて目もあてられず、日頃の思歎は事の
数にもあらず、残り留らんと思ひけるに、いとどせ
ん方なくいかになるべしとも覚えず、その上少将の
もとには、宰相のもとより旅の粧ひさまざまの装束
までおくられたり、判官入道のもとにも、或は妻子或
はゆかりゆかりの方より、様々の消息有りけれども、
僧都のもとへは一行のこととふ文もなし、今はわが
ゆかりの者、都の中に一人もなきよと知り給ふにつ
けても、歎の深さは限なし、さればいかに前世の宿
業やらんとぞ思はれける、少将も判官入道も、しほ
風のさたにも及ばず、今一日もと急ぎて硫黄津とい
ふに移りにけり、僧都余りのかなしさに船津まで来
りて、二人の人々に少しも目をはなたず、少将の袖
に取つきて、涙を流し、判官入道の袂をひかへてさ
けびけり、年ごろ日ころはをのをのおはしつればこ
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そ、昔物語をもしていたう都の恋しき事をも、島の
心うきも申なぐさみてこそありつるに、打捨られ奉
りては一日片時かんにんすべき心地もせず、赦され
なければ都へは思ひもよらず、只船にのせて出させ
給へ、底の水くづ共なりてまぎれうせなん、なかな
か新羅、高麗とかやの方へもわたりゆかば、思ひ絶
えてあるべきに、俊寛一人残り留まりて、島のすもり
とならんことこそかなしけれとて、又をめきさけび
ければ、少将なくなくのたまひけるは、誠にさこそ
おぼしめされ候らめ、成経がまかりのぼる嬉しさは
さることにて候へども、御有様を見おき奉るこそ更
に行空も覚え候はね、御心中おしはかり候へども、都
の御使も叶まじきよし申候うへ、三人船津を出候ひ
しと聞えん事もあしかりぬべし、何ともしてもかひ
なき命ばかりこそ大切に候へ、かつうは成経のぼり
候なば、身にしられて候へば、宰相などに申合せて、
かかるむざんの事こそ候しかと申さば、入道殿気色

をも伺ふべし、なにさまにも御身をなげてもよしな
し、ただいかにもして今一度都のおとづれを聞んと
こそ思召され候はめ、そのほどは日ごろおはせしや
うに思ひなして待せ給へと、かつうはなぐさめ、か
つうはこしらへければ、僧都返事に及ばず、少将に
目を見合せて、俊くわんをばさておき給ひなんずか、
ただしゆんくわんをも具して上り給ふべし、のぼり
たる御とがめもあらば、又も流され候べしなど、さ
まざまくどきけれども、是ほどの罪ふかく残し留め
らる程の人を、宥されもなきに具して上りたらば、
まさるとがにもこそあたれと思はれければ、誠にさ
こそ思召すらめとばかりのたまひて、少将かたみに
は夜のふすまをぞ置かれける、判官入道の忘れがた
みには、本尊持経をぞとどめける、誠に花の春、桜
がりして志賀の山をこえ、よし野のおくへ尋ね入る
人も、風にさそはるる習ひあれば、ちりぬる後は木
の下を惜むとて、岩の枕に夜をもあかさす、家路を
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急ぐなる、月の秋、明月を尋ねてすま明石へ浦伝ひ
する人も、山のはにかたむくためしあれば、入りぬ
る後をしたひて、あまのとまやに宿をもからず、過
し跡を尋ねけり、たとひ恋路にまどふ人までも、我
身にまさるものやあるとたがひにいひかはしつつ、
少将も判官入道も、いそぐ心は情なき道行人の一む
ら雨の木下、おなじ流れをくむ友だにも、過ぎわか
るる名残は猶惜くこそ覚ゆるに、まして僧都の心中
思ひやられてむざんなり、さるほどに順風よかりけ
れば、僧都のもだえこがれける隙に、やほら纜をと
きてこぎ出んとするに、思ひにたへかねて、御使に
向ひて、手をすりてただ倶しておはせよやおはせよやとお
めかれければ、人の身に我身をかへぬことにて候へ
ば、力及ばず情なくぞ答へける、僧都あまりのかな
しさに船のともへに走り廻りて、のりてはおりおり
てはのり、あらましをぞせられける、其有さま目も
当られずぞ覚えける、次第に船をおし出せば、僧都

纜に取つきて、たけの立つ所まではひかれていづ、
そこしも遠浅にて、一二町ばかり行けれども、満く
る汐立かへりて口に入ければ、纜に取つきて、しゆ
んくわんをばすておき給ひぬるとて、また声も惜ま
ずさけびけり、少将もいかにすべしとも覚えず、諸
共にぞ泣かれける、僧都猶も心のありけるやらん、
とかくして波にもおぼれず、磯へかへり上りて、渚
にひれふして、舟を見送りて、幼き者の母やめのと
にすてられて、跡を慕ふやうに足ずりをして、少将
どのや判官入道殿やとをめきさけびけるは、父よ母
よとよぶにぞ似たりける、をめきさけぶ声のはるか
に波をわけて聞えければ、誠にさこそ思ふらめと少
将、康頼も共に涙をぞ流しける、つやつや行空もなか
りけり、こき行く船の跡の白波、さこそはうらやま
しく思はれけめ、いまだこぎ別れぬ船なれども、涙
にくれてこぎ消ぬと見えければ、岩の上に上りて舟
を招きけるは、かの松浦さよひめがもろこし船をし
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たひつつ、ひれふりたりけるにいづれか又劣るべき、
よしなき少将のなさけの詞をたのみて、そのせに身
をもなげざりけるこそ、せめてのつみのむくいとは
見えしか、日すでに暮れけれども、あやしのふしど
へ立返るべき空もおぼえず、なぎさにたふれふし、
澳の方をまぼらへて露にしほれ、浪にうたれつつ、
かうべを扣、むねをうちて、血の涙を流して、よも
すがらくどきあかしければ、袖は涙すそは浪にぞぬ
れにける、少将は情も深く、物の哀をも知りたる人
なれば、かかるむざんなる事こそありしかなど申さ
ば、もしくつろぐ事もやとたのみて、べうべうたる
磯をまはりて、命をたすけ、まんまんたる海をまは
りて心をなぐさめ明かし暮らしけるは、さうりそく
りにことならず、さこそはありけめと推はからる、
されどもそれは兄弟二人ありければ、慰む方もやあ
りけむ、僧都の悲しさはたとへやる方ぞなき、少将
は九月半過てしまを出給ふ、すでに都へ上るべきに

てありけるが、下向の時大隅正八幡宮に宿願ありき、
願望成就したり、その願を遂んとて正宮にぞ参詣し
給ひける、さつまがた、房の泊りといふ所より、鹿兒
島、逢の湊、木入津、向島をも押過ぎて、鳩脇八幡崎
にぞ着き給ふ、それより取りあがりて、宮中の馬場
執印清道と申がもとにやどせられたり、御湯仕出し
て、溢せ参らせ、さまざまに御身いたはりなどし奉
る、その後正宮の御宝前に参りてさまざま念誦あり、
折ふし月の夜なりければ、宮中澄みわたり、ことに
面白かりけり、台明寺法師に俊恵房あじやりと申究
竟の歌皷の上手のありけるに、撃せて少将今様をぞ
うたはれける、
月もおなじ月空もおなじ空のいかなれば今夜の空
のてりまさるらん、 W048 K270
と押返し押返しぞうたはれける、心なき賤の男賤の女
にいたるまで、かんるゐをぞ流しける、
少将はつくづくと古の事を思ひつづくるに、当社大
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菩薩のそのかみあはれにぞ覚さるる、因位の御時は
人皇十四代、仲哀天皇御后婆伽羅女神功皇后の御腹
に宿り給ふ時に、新羅高麗発向して、わが朝をかた
ぶけんとせし時、皇后女帝の御身として新羅を打平
げて本朝へ返りましまして、王子産給へり、応神天
皇是なり、その後唐国に陳の大王と申王ましましき、
七歳の姫宮渡らせ給ひけり、俄にただならぬ御事お
はします、父の大王仰せられけるは、汝七歳なり、
いかなるしさいあてかくは聞ゆるぞと御尋ありけれ
ば、姫君答給はく、われことなるしさいなし、朝日
むねの中に光りをさし給つる時より、心乱ておぼえ
き、それより外は他事なきよしを申させ給へば、大
王諸道のはかせを召集めて勘へ聞召されける時、各
申けるは、当州の主にあらず、是より東方に日本国
といふ国の神明たるべきよし奏聞す、大王勅定あり
けるは、さては此国にては誕生あるべからず、親子
のなごりはをしけれども、日本へわたり給へとて、

珠杖銀杖印鎰を授け奉て、ただ一人空船に乗せ奉て、
波路はるかにおしうかべ、万里の波涛を凌いて、臣海
を分けて、日本西州大隅国姫木浦銚子の島に寄せ給
ふ、鳥の羽音の聞えければ、汀近くなりたるかと思
召されて、姫君空船の窓を開きて御覧ずれば、已に
汀に寄せたり、浪の音立る鳥は、山鳩なりけり、件
の鳩巌と成て今の世にあり、しかればここを鳩脇と
名づけたり、姫君は二の杖藜をしるべとして、州中
にいたり給ふ、大菩薩の使者に鳩をする事は、最初
にわが朝に着給ふ時、御迎に参りたる故也、さて当
国の戸神をかたらひて、大隅国の主早人を打ちて、石
が城の岩の上にてとり返して、早人失て後、こと井
隅前海老隅の麓頭良向の中に宮室をたて、王子を産
給へり、則天をあふぎて我が正覚の位につきぬ、神
號を給はらんと誓ひましましし、その時、天より八
の旗降り下りしが故に、八幡大菩薩と號す、今の七
歳の姫君と申は、昔の神功皇后是也、応神天皇と申
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は今の八幡大菩薩の御事也、因位の御時も母ごとな
り、垂跡の今も母ごとまします、御ちぎりのほどの
めでたさを凡夫はいかでか申べき、御本地事石体に
現はれ給へり、石体の文は深さ八寸ゑり入たる、金
銘云、
昔於霊鷲山、説妙法華経、今在正宮中、示現
大菩薩、
となり此ことは御本地は釈迦と覚えたり、本朝に八
幡参所と申は、大隅宇佐男山是を三所八幡とは申也、
中にも正宮は石体にとどまれり、されば大隅を正八
幡とは號す、ここに本朝に異国の賊徒可襲来よし
其聞えありしに、牒使をつかはして、大船一万艘着
べき湊を伺ひ見せしに、当州によき湊あり、すでに
よせんとする所に、敵をよせじがために、一夜の中
に田畑二千余町ばかりの島をつかせ給ふ、かの島の
影異国までうつりしかば、異敵すみやかに退散しぬ、
故に彼島を向島と號す、是則八幡大菩薩の御力なり、

七歳の姫君と申は、昔神功皇后因位のひぐわんなり
ければ、筑前国糟屋東郷香椎宮にあとを垂まします、
聖母大多羅如知女是なり、異敵降伏の為に女帝の御身
ににんにくの鎧を奉り、逆謀をしりぞけ、手には智
恵の劍をにぎりて、本朝の悪賊を鎮め給ひつつ、日
夜に君をまもり奉り、国を助くる霊神なり、抑八幡
大菩薩宇佐より行教和尚の袂にやどりましまして、
男山石清水に移りて和光同塵結縁始、八相成道利物
終とて、さまざまに方便を廻らし、霊跡をたれ給ふ、
石体銘文の如くば、八幡の御本地は釈迦にて渡らせ
給ふを、末代のためにとて行教の袂にやどり給ひし
時より、弥陀の三尊と現じ給ひき、大菩薩の御祭に
放生会といふ事あり、神功皇后の昔、異敵をせめん
とて、旱珠を大海に入給ひしに、多くの生を亡し、大
隅におはしましては、向島をつき給ふとて、数多の
うろくづの命をたち給ふ、然ればかの孝やうのため
にとて、御濱殿と名づけて、生をはなつ会と號して、
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梵網経を読誦し奉給へり、毎年八月十五日の放生会
は是なり、かやうにめでたき霊神に渡らせ給へども、
因位の御時、本国を去らせ給ひて、御父母の御わか
れさこそかなしく思召されけめ、か様の御歎きを思
召しいたさせおはしましつつ、今、成経が思を休めさ
せ給ふやらんと思ひ参らすれば、かつうはめでたく、
かつうは哀に覚えけり、あけにければ宿所に下向せ
させ給ひけり、
宿のあるじ清道が妻女は少将の京にて御覧じたりし
人なり、久我大臣殿の侍に左衛門尉朝重と申けるが
娘に、童名牛王殿とてありけるが、太政入道殿の西
八条に宮仕して、伯耆の局とて候けり、斜ならず心
さま花やかにて、事様も優なりけり、少将見参して、
わりなき事どもなりけるに、少将ながされ給ひて後、
伯耆殿その心くるしさに、宮仕もすさまじく、ものう
かりければ、引籠りて思入てありけり、清道は入道
殿御気色よきものにて、都へ上りたる時は入道殿の

内にはえて振舞ひけり、その時あからさまにこの伯
耆殿を見そめしより、命もたえてあるべしとも覚え
ずかなしかりければ、かの清道が謀に人をもていは
せけるは、少将殿をば、清道が預かり奉りたるなり、
今一度此世にて見奉らんと思ひ給はば、かの船に忍
び乗りて、下て見奉り給ふべしと隔なくそのあたり
の者をもていはせければ、伯耆局はかのあたりとい
はん所には、虎伏す野べりなりとも尋ねまほしく思ふ
折節なれば、夢ともわかぬほどに嬉しくて、忍びて
かの便船をして大隅に下り給ひにけり、清道が家に
着きにければ、少将はいづくにましますらんと思へ
ども、急ぎて見する事もなし、さらば此おとづれを
だに聞かせたくは思へども、当時はこちなしとて、日
数をふる余りにおとつれを聞ばやと歎かれければ、
清道申けるは、誠には少将殿は薩摩がたとて日本国
にも離れて、澳の小島に硫黄がしまと申所に流され
てまします也、便の風もかれへ吹く事まれなり、さ
P168
れば船の行ことも思ひ切りたり、是へ具し奉し事は
思ひよらぬ事なれども、男女の習ひよそながら見参
らせし面影、さながらその時の心地して覚え侍りし
ほどに、申下し奉りたり、何かはくるしかるべき、下
紐とけておはしませといひし時こそ、心うさの余り
にきえ失なんとかなしくぞ覚えける、都をばうかれ
いで、恋しき人には近づかず、途中になりぬる我身
かな、長安倡家の女のあき人にかたらはれ、涛陽江の
頭に捨られて、びはを弾じてなぐさみけん心中も是
には過じとぞ覚えし、清道しきりにあひなるべきよ
し契をすといへども、伯耆殿しばらく三年がほどは
かなふまじ、いとまをえさせよとこひうく、夜毎に
正宮に通夜をして、ひねもすよもすがら法華経をど
く誦し、少将の帰洛の祈をしけるが、げにもかなひ
けるにや、かやうに再び帰給ひ、又見奉るも哀なり、
すでに少将曉立給はんとての夜は、伯耆殿少将殿に
見参し給ひて、ありし世の歎き今に至る迄の思ひ、

こまごま申つらねて、涙を流す、少将立給へば伯耆
殿涙の中に、
限りあればさはにおりぬるあしたづの
もとの雲井に帰る嬉しさ W049 K272
少将
君ばかりおぼゆる人があらばこそ
思ひもいでめ山のはの月 W050 K273
とて、をしき名残をふり捨て立給ふ、袖に霜をおき
すごくも宮内を立給ふ、それより都へ上らんと急が
れけるほどに、門脇の宰相のもりより重て使者下り
て、去々年よりかの島にましまして、さだめて身も
つかれ損て、病もつきておはすらん、寒き空にはる
ばると上り給はば、道にてあやまちも出来ぬべし、
肥前国かせの庄といふ所はのり盛が所領なり、此冬
は彼所におはして身をもいたはりて、明春風やはら
かになりて、長閑にのぼり給へといひ遣されたりけ
れば、その冬はかの庄にとどまりて、ゆあみなどし
P169
て便りの風をぞ待れける、さるほどに年もすでに暮
ぬ、
学生堂衆合戦事
八月六日、学生、義竟四郎を大将軍として堂衆が坊舎
十三宇きり拂ひて、そこばくの資財雑具を追捕し取
て、大納言が岡に城郭を構へて立籠る、八日夜堂衆
登山して、東陽坊に城郭を構へて、大納言が岡に立
籠る所の学生と合戦す、堂衆八人しころをかたぶけ
て、城戸口へせめよせたりけるを、学生義竟四郎を
始として六人打出て、一時ばかり打組ける程に、八
人の堂衆引退きけるを義竟四郎うちいかりて、長追
しけるほどに、堂衆返し合せて、又打組む所に、義
竟四郎長刀の柄をひる巻のもとより打折りにけり、
腰刀をぬきてはねてかかりけるを、首をうち落しぬ、
大将軍とたのみたる四郎討れにければ、学生おちに
けり、十日堂衆東陽坊を引きて近江国三ヶ庄へ下向
して、国中の悪黨をかたらふ、数多の勢を引卒して
学生を亡さんとす、堂衆に語らはさるる所の悪黨と

申は、古盗古強盗山賊海賊等也、年来貯持たる米穀、
絹布の類をあたへければ、当国にも限らず他国より
も聞伝へて、津の国河内大和山城の武勇の輩、雲霞
のごとく集りけりと聞えしほどに、九月廿日、堂衆
数多の勢を相具して登山して、早尾坂に城郭を構へ
てたて籠る、学生不日に押寄たりけれども、散々に
打落されぬ、安からぬ事に思ひつつあかりをかりけ
れどもかひなし、大衆公家に奏聞し、武家に觸れ申
しけるは、堂衆等師生の命を背きて、悪行を企つる
間、衆徒等誡を加ふる所に、諸国の悪徒を相語らひ
て、山門へ発向して、合戦すでに度々に及で、学侶
も多くうたれぬ、仏法忽に失はんとす、はや官兵を
差添へられて、追討せらるべしと申、是によて院よ
り太政入道に仰せ下さる、入道院宣を承て、紀の国
の住人湯浅権守宗重を大将軍として、大衆三千人、
官兵二千余騎、都合五千余騎をさし遺はす、つくし
人并和泉紀の国伊賀伊勢つのくに、河内の武者なり、
P170
然るべきものはなかりけり、
十月四日、学生官兵を給て、早尾の城へ押よす、今
度は去ともと思ひけるに、衆徒は官兵をすすめんと
す、官兵は衆徒を先だてんと思へり、斯の如くの間は
かばかしく責寄する者なし、堂衆は執心ふかくおも
てもふらざりける上、語らふ所の悪黨等は、欲心強盛
にして死生知らずの奴原の、各我一人と戦ひければ、
官兵も学生もさんざんに打落されて、戦場にして死
ぬる者二千余人、手負は数を知らずとぞ覚えし、五
日、学生一人も残らず下洛して、かしこここに宿し
つつ、息つき居たり、かかるままには、山上は谷々
の講説ことごとく断絶し、だうだうの行法皆たいて
んす、修学窓をとぢ座禅の床を空しくす、四教五時
の春の花も匂はず、三蹄即是の秋の月もくもれり、
義竟四郎神人一庄をおさへ取て、知行すとも、しゐ
ていかほどの所得かあらんずるに、つるがの中山に
て、恥を見るのみにあらず、とりかへなき命を失ひ、

山門の滅亡朝家の御大事に及びたることこそ浅まし
けれ、人はよくよく思慮あるべきものをやとぞ覚え
ける、貪欲は身をはむといへり深く慎むべし、
十一月七日、学生等上座寛賢并威儀師斉明等大将軍
として、堂衆が立籠る早尾坂のじやうへ押寄せて戦
ふ、夜に入て、学生終に責落されて四方へにげ失せ
ぬ、学生の方にうたるる者百余人、その後山門弥あ
れはてて、西塔衆の外は、山住の僧侶もなし、当山
草創よりこのかた、未だかくのごとくの事はなし、
世のすゑにはあしき者は強く、善者はよわくなれば
にや、行人はよわく智者の謀も及ざれば、皆散々に
行別て、人なき山となりにけり、中堂衆などと云も
のも、又うせにけり、八日は薬師の日なれども、南
無と唱ふる人もなし、卯月はすゐじやくの月なれど
も、へいはく捧ぐるものもなし、あけの玉がき神さび
て、引しめなはもたえにけり、三百余年の法燈をか
かぐる人もなし、六時不断の香のけぶりもたえやし
P171
にけん、堂舎高くそびえて、三重の花構を青漢の中
にさしはさみ、棟梁遥に透て四めんのたるき白霧の
懸りたりき、めでたかりし高山なりしかども、今は
供仏を峰の嵐に任せ、金客を空瀝に潤す、夜の月の
ともし火をかかげて、天井のひまよりもり、軒の板間
よりもる、あか月の露玉をたれて、蓮座のよそほひ
をそふ、それ末代の俗に至ては、三国の仏法も次第
にすゐびせり、遠く天竺の仏跡をとぶらへば、昔釈
尊の法を説き給ひし祇園精舎も、竹林精舎も、給狐獨
園も中比より虎狼野干のすみかとなり、礎のみこそ
残るなれ、白鷺池には水たえて、草のみ深く茂れり、
退凡下乗のそとばには、苔のみむしてかたむきぬ、
震旦の仏法も同じく滅しにき、天台山五台山双林寺
玉泉寺も、此ころは住侶なき様になりはてて、大小
乗の法文も箱の底にぞくちにける、菩提樹院観音の
霊像も御身は土にむもれて、烏瑟ばかりぞ残りける、
すでに遐代に及で、烏瑟もともにかれやし給ひぬら

んと思ひやるこそ悲しけれ、我朝の仏法も又同じ、
南都七大寺も皆荒れはてて八宗九宗もあとたえぬ、
瑜伽唯識の両部の外は残る法文もなく、東大寺興福
寺の外は残る堂舎一宇もなかりき、あたご高尾の山
もむかしは堂舎軒をきしりたりけれども、一夜の中
に荒れにしかば、今は天狗のすみかとなりはてぬ、
昔玄弉三蔵貞観三年の比、仏法を弘めんとて流砂〓
嶺をしのいで、仏しやう国へ渡り給ひしに、春秋寒
暑一十七年、耳目見聞一百三十八ヶ国、或は三百六
十余の国々を見まはし給ひしに、大乗流布の国わづ
かに十五ヶ国ぞありける、さしもひろき月氏の境に
だにも、仏法流布の所はあり難かりけるぞかし、さ
ればやらん、やむ事なかりける天台の仏法も、治承
の今に至て亡びはてぬるにやと、心ある人々はかな
しまずといふことなし、離山したりける僧の中に、
堂のはしらに書付けるとかや、
祈こし我たつ杣の引かへて
P172
人無き山と荒やはてなん W051 K052
昔伝教大師当山草創の後、阿耨多羅三藐三菩提の仏
達に、祈申させ給ひけることを思出て読たりけるに
や、いとやさしくぞ覚えし、法性寺殿の御子、宮の御
弟子天台座主慈円大僧正、其時は法印にておはしけ
るが、人知れず此事をかなしみて、雪のふりけるあ
した、尊円阿闍梨がもとへつかはされける、
いとどしく昔のあとやたえなんと
思ふもかなしけさのしら雪 W052 K053
尊円あじやり返事、
君が名ぞ猶あらはれんふる雪に
むかしのあとは絶えはてぬとも W053 K054
堂衆は学生の所従にて、あしだ、しりきれなどとる
わらはべの法師になりたるが、中げん法師どもなり、
僣上をおこしつつ、きりものよせもののさたして、
徳つきて、けさ衣きよげになりて、行人とて、はて
は公名つき、学生をも物ともせず、大湯屋にも申の

時をば堂衆とこそ定られたりけるに、午の刻よりお
りて学生の後にゐて、ゆびをさして笑ひければ、か
くやはあるべきとて、学者是を咎めければ、堂衆申
けるは、われらなからん山は山にてもあるまじ、学
生とて、ともすれば聞もしらぬ論議といふことはな
んぞ、あなおかしなどいひあひけり、近頃金剛寿院の
座主覚尋権僧正治山の時より三塔に度衆とて結番し
て仏に花香を奉るとぞ聞えし、
善光寺炎上事
去三年廿四日信濃国善光寺炎上のよしその聞えあ
り、この如来と申すは、昔中天竺舎利国に五種の
悪病おこりて、人だね皆つきし時、月蓋長者がさい
あいのひとり娘に悪病つきて命のびがたし、月蓋は
外道が弟子也、はじめて釈尊のみもとに参りて申け
るは、ただ一人持て候娘に、五種の悪病つきて候、
願はくは釈尊此悪病を拂ふ術ををしへ給へと申、仏
外道をあざむきてのたまひけるは、われもその悪病
を拂ふ術を知らずとのたまへば、月蓋重ねて申ける
P173
は、我は外道が弟子にて候、外道が術及がたき間、
外道の門を出て始めて釈尊の御弟子になり奉り候、
仏も知給はずば、外道と以同前にこそ候なれ、さては
何をもてか貴しと思ひ奉らんと申せば、其時釈尊の
たまひけるは、誠にはいかでか件の悪病を拂ふ術を
知ざらんや、是より西方に十万おくの国を隔てて仏
土あり、名をば極楽世界と名つけ、其院主阿弥陀如
来と申仏のおはしますぞ、請じ参らせよ、五種の悪
病をば立所に拂ひ給はんずるぞと教給ふ、月蓋申け
るは、是又釈尊の御いつはりと申すべし、西方十万
億まで遠く隔てていますなる、弥陀如来をばいかで
か請じ参らすべきと申せば、釈尊のたまひけるは、十
万億まで遠くおはします如来を迎へ奉らんこと、使
者をもてはかなふまじ、これにつきても仏の方便の
不思議なるを知れりや、六字名号といふ事あるを、
南無はこれ帰命のこと葉、阿字の体は仏のかたちな
り、これをかさねて六字名號陀羅尼とす、こころを

いたして西方に向ひ、たなごころを合て南無阿弥陀
仏と申さば、西方十万億まで、遠くおはするあみだ
如来ききつけて、須臾の間に来つつ悪病を拂ひ給は
んずるぞと教給ふ、月蓋是をうけ給はりて誠に尊く
候とて、西方に向ひ合掌隨喜の涙を流しつつ、南無
阿弥陀仏南無阿弥陀仏と三べん唱へはてぬに、観音勢至引具
して月蓋が前に現じ給ひつつ、十方へ光りをはなち
給ふ、仏の光りに恐れつつ悪病立所にやみぬ、月蓋
が娘の悪病やむのみにあらず、近く死したる者三万
余人皆活く、かくて阿弥陀如来は極楽浄土へかへり
給ふところに、月蓋長者是程にしんへんあらたに渡
らせ給ふあみだ如来を、今日より後いかにして拝し
奉るべき、願くはみだ如来極楽浄土へ相具しておは
しませと名残を惜み奉て、かなしみなく、釈尊是を
見給ひて善哉善哉とほめつつ、あみだ如来の御形を
とどめ奉らんために、もくれん尊者を龍宮へ遣はし
て、ゑんぶだんごんを召寄せて、釈尊とかせうと長
P174
者と一心にて鋳うつし奉りし一磔手半の弥陀の像、
閻浮提第一霊仏也、仏滅し給ひて後、天竺にとどま
りおはします事五百歳、仏法東漸のことわりにて、百
済国に渡り給ひて一千歳の後、欽明天皇御宇に及で、
逆臣守屋にあひたまひて、難波の堀江にすてられて、
光うづもり給ひてのち、聖徳太子世に出で給ひて、
逆臣守屋を討て、難波四天王寺に仏法を弘め給ふ時
に、信濃国の民本太善光、年貢運上の為に難波の京へ
上りける時、如来難波堀江を出で給ひて、十方へ光
を放ちつつ、ことばをあらはしてのたまひけるは、
なんぢは我が三生の檀那なり、我は汝が三生の本尊
なり、汝をまたんとて難波の堀江に光をうづみて年
久し、汝が過去の因をしらしめん、つぶさにきけ、
天竺にしては月蓋長者といひき、百済国にて斉明王
とかしづかれ、日本国に渡りては遠国の民本太善光
といふ也と告げ給ふ、善光是を承て、三生まで生れ
合ひまゐらせけるちぎりのほどの忝さに、善光袖を

顔にあてて、声も惜まず泣きにけり、良久あて、う
しろをさし任せ奉りければ、阿弥陀観音勢至善光が
後にとび付き給ひぬ、善光如来を負ひ奉りて、夜は
かたかたに立て参らせて打ふして、ねぬるかと思ひ
たれば、如来善光を負給ふ、よるひる下り給ひけれ
ば、ほどなく下着給ひて、信濃国水落郡をうみの東
人本太善光あんちし奉りてよりこのかた、五百八十
余歳の星霜を送り給ふとぞ聞えし、王法傾かんとて
は、仏法先滅すといへり、さればにやか様にさしも
やんごとなき霊寺霊山も多く滅しぬるは、王法の末
にのぞめる瑞相にやと歎きあへり、
中宮御産事
十月十二日寅の時より中宮の御産気渡らせ給とて、
天下ののしりあへり、去月廿八日の頃より、時々其
気渡らせおはしましけれども、取立たる御事もなか
りける程に、この暁よりは隙なく取しきらせ給へど
も、御産もならずとて、平家の一門は申すに及ばず、
関白殿を始め奉りて、公卿殿上人馳参らせらる、法
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皇は西おもての小門より御幸なる、御げんじやには
房覚昌雲兩僧正、豪禅実全両僧都、俊尭法印、此上
法皇も祈申させ給ひけり、内大臣は善悪についてい
とさわがぬ人にて、少し日たけて公達あまた引具し
て参り給へり、のどやかにぞ見え給ひける、権亮少将
維盛、左少将清経、越前侍従資盛などやりつつけさ
せて、御馬十二疋、御劔七腰、御衣十二兩広蓋に入
て参られたり、きらきらしくぞ見えける、女院后宮
の御産の御祈に、時にのぞんで大赦行はるること先
例也、且大治二年九月十一日待賢門院の御産、当法
皇御誕生時也、大赦行はれき、その例とて重科の者
十二人寛宥せらる、内裏より御使しきなみ也、右中
将通親朝臣、左中将隆房朝臣、右衛門権佐貞仲朝臣、
蔵人所衆、瀧口等各二三返づつ馳参らる、永万には
寮の御馬を給て是に乗る、今度はその儀なし、殿上
人をのをの車にて馳参らる、所衆などは騎馬にてぞ
ありける、八幡賀茂日吉春日北野平野大原野などへ

行啓あるべきよし御願を立らる、啓白は五檀法隆三
世のあじやり全玄法印とぞ聞えし、又神社には石清
水加茂を始め奉て、北野平野いなり祇園今西宮東光
寺にいたるまで四十一ヶ所、仏寺には東大寺興福寺
延暦薗城広隆円宗寺にいたるまで、七十四ヶ所の御
読経あり、神馬をひかるる事太神宮石清水をはじめ
参らせて、厳島にいたるまで廿五社也、内大臣の御
馬を参らせらるる事は然るべし、后宮の御せうとに
ておはするうへ、殊に父子の御契なれば、寛弘に上
東門院御産の時、御堂関白神馬を奉らる、その例相か
なへり、今度五条大納言邦綱、神馬を二疋参らせらる
る事然るべからずと人々傾きあへり、志のいたりか
徳の余りか、物をしらざるかとぞ申ける、仁和寺守
覚法親王は孔雀経御修法、山座主覚快親王は七仏薬
師法、長吏円恵法親王は金剛童子法、この外五大虚
空蔵、六観音、一字金輪、五だん法、六字阿臨、八
字文珠、普賢延命、大熾盛光に至るまで、残る所も
P176
やあるべき、仏士法印召されて、等身の七仏薬師並
五大尊の像造りはじめらる、御誦経の御劔御衣諸寺
諸社へ奉らせ給ふ、御使には宮侍の中に有官輩之を
勤む、平文狩衣に帯劔したる者どもの、東の対より
南庭を渡りて、西の中門へ持つづきてゆゆしき見物
にてぞありける、相国、二位殿はつやつや物も覚え給
はず、余りの事にて人の物申ければ、ともかくもと
てあきれてぞおはしける、さりとも軍の陣ならばか
くも臆せじものをとぞ、後には入道のたまひける、
新大納言西光法師さまざまの御物のけ、さまざま申
者共ありて、御産とみになりやらず、時刻おしうつ
りければ、御げんじやたち面々各々にそうかの句あ
げて、本寺本山の三宝年来所持の本尊帰状し奉り、
各黒煙をたてて、声々にもみふせらるる気色心中ど
も、おしはからる、いづれもいづれも誠にさこそはと覚
えて、尊き中にも法皇の御声の出でたりけるに社、
今一きは事かはりて人々皆身の毛たち涙を流しけ

れ、をどりくる御よりましどもの縛どもも少しう
ちしめりたり、その時法皇御帳近く居よらせおはし
まして、千手経を尊くあそばして仰ありけるは、阿
遮一睨窓前には、鬼病手束懐、多隷三遏床上には魔
軍かうべをふりておそる、いかなる悪霊なりとも、
この老法師かくて候はんには、いかでか近づき奉る
べき、いかにいはんやあらはるる所の悪霊ども、皆
丸か朝恩にて人と成し輩にはあらずや、たとへ報謝
の心をこそ存ぜざらめ、あに障碍をなすに及ばんや、
その事然るべからず、速に罷りしりぞき候へとて、
女人胎臨生産時、邪魔遮障苦難忍、至心稱誦
大悲咒、鬼神退散安楽生、
とて御ねん珠をさらさらとおしもませおはしませ
ば、御産やすやすとなりにけり、頭中将重衡朝臣中
宮亮にておはしけるが、簾中よりつと出でて、御産平
安皇子御誕生と高らかに申されければ、入道は余り
の嬉さに声をあげ、手を合せてぞなかれける、中々
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いまいましくぞ覚えし、関白殿太政大臣以下公卿殿
上人、御修法の諸の大阿闍梨助修数輩の御験者、陰
陽頭典薬助より始めて道々のともがら、雲上堂下の
人人一同にあつと悦ける、声とよみてぞありける、し
ばしは静りやらざりけり、内大臣参りて天をもて父
とす、地もて母とすと、祝参らせて、金の吉文字の
銭九十九文御枕におきて、やがて御ほぞのをを切参
らせ給ふ、故建春門院の御妹あの御方いだき参らせ
給ふ、左衛門督時忠卿の北の方洞院殿、御乳付に参り
給ひにけり、圍碁手の銭を出したり、弁、靱負佐かけ
ものにて、是をうつ、是又例ある事にや、法皇は新
熊野へ御参詣有べきにてありければ、急ぎ出させお
はしまして、御車を門外に立てられたり、むかしよ
り御后の御産常のことなれども、太上法皇の御げん
者は希代の例也、前代にも聞かず後代にもありがた
かるべし、是は当帝の后宮にて渡らせ給へば、法皇
も御志浅からざるうへ、猶太政入道を重く思召さる

る故也、但此事軽々しきに似たり、然るべからず
と申す人もありき、凡そかろがろしき御ふるまひを
ば、故女院受けさせ給はぬ御事に申させ給ひしかば、
法皇も憚り思召しけり、今も女院だに渡らせ給はま
しかば、申留め参らせ給ひなましと、事のまぎれに
旧女房たちささやきあひ給へり、富士綿千両、美濃
絹百疋御験者の禄に法皇に参らせらるるこそ、いよ
いよ奇異の珍事にてありけれ、此送文を法皇御覧じ
て丸は験者してもすぐべきよなとぞ仰ありけり、あ
まつさへ来十七日法住寺殿にて御請用ほこりあるべ
しなど申て、京童笑ひ合けり、陰陽頭助以下多く参
り集りたりけるが、御占ありけるに、亥子丑寅の時
などと申けり、姫君と申けるが、陰陽頭安部泰親朝
臣一人ばかりぞ御産はただ今也、皇子にて渡らせ給
ふべしと申ける、詞いまだ終らざるに、御産はなり
にけり、さすの御子とぞ申ける、
内大臣よのはかせどもは巳午申酉亥子丑の時抔とさ
P178
まざまに申けるに、しかも姫君などと申に、何として
泰親は御産ただ今しかも皇子とは申けるやらん、尋
ねばやと思給ひて、陰陽頭は是に候かと御尋ありけ
れば、候とて参りたり、いかに自余の博士どもは、
時刻不定に姫宮などと申に、汝は御産只今しかも皇
子とは申けるぞと仰られければ、泰親さ候、せいめ
いが流にはまづ推条をする候ぞ、その故は晴明が推
条のはじめには、或時春雨つれづれとふりて、もの
うく候けるに、数返してえんに立て候けるに、男が
からかさをさして来候けるが、門のからいしきには
づしてたてて入る気色を見候て、あはれ此者は物問
に来ござんなれ、推条をさして返さんと思ひて、い
かにあれは何者ぞと尋ね候ければ、やはたよりさわ
く事候て、尋ね参らせんとて参りて候と申ければ、
晴明その時己が家のかまの前に茸の生たるかと申候
ければ、さん候と答ふ、ゆめゆめくるしかるまじき
ぞ、とくとく帰れとて返して候けり、さ候へばこの

推条にて名をあげ候也、その時の君御前にて、此箱
の中なる物を占て参らせよと仰せられければ、打あ
んじて見る所に、鳥の木の枝をくひて西へ行を見て
くりに候と申ければ、服物のうらは恥かましき事に
てありけりと思召しながら、尚左大臣殿この中なる
ものを申せとて、桶を出されて候けるに、打あんじ
て蛇といはんとすれば是足あり、龍といはんとすれ
ば角なし、いかが申べき、陰陽道すたれなんず、あ
はれとかげにて候やらんと申たりければ、仔細なし
とて開かれぬ、かやうに徳を施したる推条にて候、そ
の語をうけて五代にあたり候間、推条をむねとして
申て候、皆人々は色を失ひて立たせ給ひ候へども、君
は少しもさわがせ給はず、泰親に御産はいつぞと仰
せ候て障子をさつと明けて出でさせ給ひ候つるが、
少しもさはる所も候はず、君又目出度き男子にて渡
らせおはしまし候へば、さてこそ御産は只今しかも
皇子とは申て候へといふ、大臣殿げにもと思ひ給ひ
P179
て、柑子二らん箱に入て御封を付て、陰陽頭と時春と
両人が中に出されたり、陰陽頭はきと見渡せば、御つ
ぼの柑子の木の北へさしたる枝に二さがりたるを見
て、とりあへずかん子ふたつ候と申、時春はとこには
ねずみこそ二候へと申、大臣殿時春はふかくしたり
と思給ひて取入んとせさせ給ふに、時春が唯御前に
て御封をとかれ参らせんと申けり、されども時春も
当時は九重の中に一二の者にてあるに、ここにてふ
かくをしつるものならば、長きかきんにてあらんず
ると、不便に思召し、つづらをとり入れさせ給ふに、
時春がただひらかれ奉らんと申、さらば開けとて御
封を切てふたを開かれたりければ、鼠二いでて坪の
中へ走り入りたり、こはいかに不思議の事かなとて
所衆をもて召し寄せ御覧ずれば、たがはぬ柑子也、
いかに泰親はとりあへずかん子と申けるぞと仰せら
れければ、ただ今御坪の柑子の本の枝に二さがりた
るを見候て、とりあへず柑子とは申て候と申す、時

春は又柑子をば鼠とは申ぞと仰せられければ、左は
候へども、始めに泰親が柑子と申て候に、時春がそ
れ候と申候はん事、無下に覚え候ほどに鼠とは申て
候、誠に鼠を出して御目にかけ候はずばこそと申、
座敷の人々いかに泰親がかん子と申ながら鼠とはな
すぞと仰せければ、時春が封じ違へてこそ候へと申
す、内大臣聞給ひて誠にいづれもいづれも神妙なり、あ
はれくせものどもかなとて、御馬四疋きぬ十疋召寄
せて、絹五疋馬二疋づつ添へてひかせ給ひけり、大
臣殿ろくのかけやう目出度ぞ見えさせ給ひける、国
を守り位を執する臣下とは覚えてめでたくぞおぼえ
し、今度の御産にさまざまの事どもありける中に、
めでたかりし事は、太上法皇の御加持有がたかりけ
る御事也、不思議なりし事は太政入道のあきれざま、
優なりける事は小松大臣殿の振舞、ほいなかりける
事は右大将の籠居、出仕し給ましかばいかにめでた
からまし、あやしかりし事は甑を姫宮の誕生のやう
P180
に、北の御つぼにまろばかして、又とり上げて南へお
としたりける事ぞ希代の勝事とは人申ける、をかし
かりける事は、前陰陽頭安部時春が千度御祓勤めけ
るが、ある所のめんだうにてかうふりをつき落して
ありけるが、余りにあわててそれをも知らず、束帯
ただしくしたるものの、もとどりはなちにてさばか
りの御前へねりいでたりける気色、かばかりの大事
の中に公卿殿上人腹を切り給へり、こらへずして閑
所へ入る人もありけり、御産の間参り給人々、
松殿関白基房 妙音院太政大臣師長
徳大寺左大臣実定 大炊御門左大臣経家
月輪右大臣兼実 小松内大臣重盛
源大納言定房 三条大納言実房
五条大納言邦綱 藤大納言実国
中御門中納言宗家 按察使資賢
花山院中納言兼雅 左衛門督時忠
藤中納言資長 別当春宮大夫忠親

左兵衛督成範 右兵衛督頼盛
源中納言雅頼 権中納言実綱
皇太后宮大夫朝方 右宰相中将実家
平宰相教盛 左宰相中将実宗
六角宰相家通 右宰相中将実清
堀川宰相頼定 新宰相中将定範
左大弁俊経 右大弁長方
左京大夫修範 太宰大弐親信
菩提院三位中将公衡 新三位中将実清
以上三十三人右大弁外は直衣にて参給へり、
不参の人々、
花山院前太政大臣忠雅〈 自近事無出仕 〉前大納言実長〈 同 〉但布衣を
着して、太政入道の宿所へ向給へり、大宮大納言隆
季、第一女法性寺殿御子息左三位中将兼房室、去る
七月の頃難産の事によて出仕なし、不吉と存らるる
にや、前右大将宗盛、去七月に室家逝去の事によて
出仕し給はず、彼所労の時大納言並大将両官辭し申
P181
さる、前治部卿光隆、近衛殿の御子息二位少将基通、
宮内卿永範、七条修理大夫信隆、前三位基家、権大
納言朝経所労、新三位隆輔、松殿御子息三位中将隆
忠、〈 以上十二人不参とぞきこえし、 〉御修法結願して、勧賞を行はるる、
仁和寺法親王は公家の御沙汰にて、東大寺修造せら
れて後七日御修法、大元法灌頂興行せらるべき由宣
下せらるるうへ、御弟子法印覚成をもて権大僧都に
任ぜらる、座主宮は二品並牛車の宣旨を申させ給ひ
けるを、仁和寺法親王ささへ申させ給ひけるによて、
しばらく御弟子法眼円良を以て法印に任ぜらる、こ
の両事蔵人頭皇太后宮大夫右兵衛督光能朝臣承て是
を仰す、醍醐聖宝僧正余流権少僧都実繼、准〓牛王
加持を勤めて、大僧都に任ず、この外の勧賞どもは毛
擧にいとまあらず、右大将宗盛卿の北の方御帯を参
らせられたりしかば、御めのとに参り給ふべかりし
が、去七月失せ給ひにければ、左衛門督御乳母に定
り給ひぬ、北方洞院殿は故中山中納言顕時卿女、も

とは建春門院に候はれき、皇子受禅の後は内侍のす
けになりたまひて輔典侍殿と申ける、中宮日数経に
ければ、内へ参らせ給ひぬ、
十二月八日皇子親王宣旨を下さる、十五日皇太子に
たたせ給ふ、十七日伝には小松内大臣、大夫には右
大将宗盛、権大夫には時忠卿ぞなられける、いみじ
かりしことどもなり、
室泊遊君歌事
建禮門院后に立たせ給ひにければ、いかにして皇子
御誕生あて位につけ奉て、外祖父にて弥天下を掌に
握らんと思はれければ、入道、二位殿日吉社に百日の
日詣をしていのり申されけれども、しるしなかりけ
るほどに、入道思はれけるは、さりともなどか我祈
り申さんに、かなはざるべきとて、殊に憑み参らせ
られたる安芸国一宮、厳島の社へ月詣を始めて祈申
されけり、或時入道相国下向の時、室の泊につかれ
たり、かの所の習ひなれば、遊君ども参りて思ひ思ひ
に幸ひをひく、或君一人その中に縁やなかりけん、
P182
思ひむすぶ方もなし、浪のうへに浮でこなたかなた
へたどりけり、夜もすでに深更に及で鶏鳴しきりな
り、扨あるべきならねば宿所へおし帰る、ふねを漕
ぎ行きけるが、心のすみければ、暁白拍子をかぞへ
すましたり、誠に声もくまもなし、ふしもたらひた
る上手にてありける、是を聞く人袖をしぼるばかり
に哀にいひあへりけるに、所こそ多けれ、入道殿め
しの御船のもとにて歌をやめて世の定めなきうさを
思ひつづけて、
はなうるしぬる人もなき我身かな
むろありとてもなににかはせん W054 K275
入道ねざめし給ひて心すまれけるに、かく申を聞給
ひて、いと面白き事に思召して、いそぎせかいに立
出給ひて、是へ是へと召しあげて、越中次郎兵衛尉を
めしよせて、この御前に引出物せよと仰せられけれ
ば、盛次巻絹百疋しや金百両ひきたりけり、入道い
しうもふる舞たりとぞほめられける、

西八条被立札事
入道殿の西八条の宿所の東門に札をぞ一つ打たりけ
る、
世を見るに瀬の如し、人の奢はうたかたに似たり、
今はありとすれども消るがごとし、就中平入道禅門
のふるまひ旧宅に超え、その仁のためにくわぶんな
り、今の栄花たるにも先祖をなどか恥ざらん、高望
王の時始て皇闕を出て、大家の宗をうしろにあて、
雲上より此かた上天に乗ずる事たえぬ、しかる間、
忠盛が昇殿を人めづらしき事に思ひ、卿相驚きて深
夜に恥を施さんとす、然れども先立ちて忠盛この心
を得てしかば、横心の謀をめぐらして、希有に恥を
たすかりし仁の末としてすでに三公を極る事、しか
しながら先世の行徳の熟するがいたす所なり、全以
てその仁にあらずといへども、当君の御いとをしみ
によて、家の名をあげ身の名をあぐる、是誠に過分
也、よくつつしむで涯分をはかるべき所に、なんぞ
皇子を孫に持ちて外祖父にあらんとこのむ所、偏に
P183
浄海が運命の極まる瑞相をあらはさんが為なり、欲
心は身を亡すといへり、またはんくわいがじひには
一代のはん昌よりは、重代の悦喜を思へといへり、
なんぞ我身ひとつのよくをのみおもひて、子孫の歎
をしらざらんや、太政入道不当哉々々々とぞ書たり
ける、並歌、
入道はかずの栄花をもちかねて
あらぬさまなるまどひをぞする W055 K276
と札をぞ打たりける、是を見て腹をたていかられけ
れどもかなはず、か様の事は歌人文者ならねばいか
でかすべきとて、京中のすき人文者を数を尽して召
しおかれたり、大方ふしやうにてぞありける、小松
内府申されけるは、北野天神は無実をはらさんと誓
ひ給ふ、か様のわざは一人の所行なり、しかるを万
人を召置かれん事諸人の歎なり、中宮御なうの折ふ
ししかるべからず覚え候、北野の御前にて、起請文を
かかせて、失を守りてとがを行ひ候はばやと申され

ければ、此儀然るべしとて、奉行人書手十六人をも
て、天神の御前にて終日終夜かの起請をかかす、し
かるに羅土水金日火計月木とて九曜の中に火曜星又
計或星といふ、この星七十七星詞をのぶる所為なり、
げにも、かの星の天下の事を仁口としてやのたまひ
つらん、その中に一人として失をあらはす者なし、心
得たる人々申けるは、賢人世のなんをなげかば政道
世にあらはるといへり、げにも大臣のしきりに人の
損ずる事を歎思給ひけるにや、天神の御心に叶ひ参
らせて、人を損ぜじと失をば顕はさせ給はざりけり
と哀なり、起請文を書く所の人数一千三百三十六人
なり、
宋朝班花大臣事
宋朝のはんくわ大臣は、一日一夜の内に一千人、詩人
を集めて、誦の風流をせさせて見物す、今の入道浄
海は、一夜の中に一千余人歌人を集めて、とがに処
せんと企つ、本朝漢土はかはれども、権威のほどの
ゆゆしさは違ひなくぞ覚ゆる、
P184
厳島次第事
今度の厳島参詣に入道相国夢さうの告あり、光くま
なき剣を給てしばらく后の御懐にもたせ参らせて後
には、二位殿給りたまふと夢見給ひてけり、皇子誕
生疑ひあるべからずと悦んで下向あり、そのしるし
ありけるとかや、その頃京童申けるは、かやうに祈
精をせざらん者は、娘に産せさせて孫をまうくまじ
きか、さらば貧者のためにはいしゐ大事かなとぞ申
ける、平家厳島を信じたまひける事は、鳥羽院の御
宇に清盛安芸守たりし時、彼国をもて高野の大塔破
壊したりけるを、造営すべしと院より仰下されたり
ければ、渡辺黨にゑんどう六よりかたといひける侍
を奉行につけて、六ヶ年に造営せられにけり、入道高
野へ詣で給ひて供養を遂げたまふ時、八十有余の老
僧かうべには雪に似たる白髪をいただき、額には四
海の浪をたたみ、腰はふたへにして杖にすがりたる
が、一人出来、貞能を呼び出して、や殿、肥後守殿
わどのの主の安芸守殿の見参に入たまひてんやとの

たまひければ、貞能安芸守殿に此よしを申、事のよ
しを聞きて、たたびとに非ずとや思はれけん、新しき
むしろしき直し、是へと請じ入れ奉り見参に入る、
此老僧のたまひけるは、高野の大塔造営したまひつ
ること返々貴し貴し、但又仔細のあらんずるぞ、越
前国気比の社は金剛界の神なり、北陸道は畜生道た
り、仍てあらちの中山は畜生道の口なり、されば北
国の輩かの所に落べし、気比大ぼさつ是を憐み給ひ
て、この所の麓をしめて、和光同塵の結縁として、
我に近づかん者をば畜生の苦をのがれて、来世には
必ず浄土へ引導せんといふ願を立て、敦賀の津に跡
をたれ給へり、されば気比の社さかんなり、安芸国
厳島の社は胎蔵界の神なり、この二神は胎金両部の
垂跡なり、厳島の社破壊してなきがごとくなり、わ
どの申て造進し給へ、造進しつるものならば、官位
に於ては肩を並ぶる人あるまじきぞ、清盛是を承て
たた人ならずとおもひ奉りければ、深くかしこまて
P185
承候畢と領状申す、かの老僧大に悦て感涙を流して
立たまひぬ、安芸守、貞能を招き寄せて、此老僧の入
給はん所を見て来れ、ただびとにはいませじ、僧に
しらせ参らすなと教へて遣はす、貞能はるかに引さ
がりて、僧のおはします後に行く、よも知り給はじ
と思ふ所に、三町ばかり行て後、この老僧立帰ての
たまひけるは、貞能近く参れ、いかに隠るるぞ、こ
の老僧は知たるぞとのたまへば、貞能近く参りたり、
老僧のたまひけるは、あはれわどのが主の安芸守殿
はゆゆしき人かな、この大塔を造進しつるこそ返々
嬉しけれ、又安芸国厳島の社破壊したるを増進しつ
る者ならば、官位と云[B ヒ]一門繁昌肩を並ぶる人あるべ
からず、但それも一期ぞよとのたまひて、かき消や
うにうせたまひぬ、弘法の御告と覚えて身の毛よだ
ちて覚えけり、このよし安芸守へ語り申ければ、一
期と聞くこそ心細けれ、一期は夢のごとし、子孫相
伝へてはん昌せんことこそあらまほしけれ、この事

祈り申さんとて、寺中に籠居して、金堂に曼陀羅を
書きて安置せられける、西まんだらは、静妙行智と
て院にも召仕はせ給ひける繪師をもてかかせらる、
東まんだらをば、清盛かかむとて、自筆に八葉九尊宝
冠をば清盛わがなうの血を出してこそかかせけれ、
さて下向の後、清盛院参して大師しめしたまひつる
事をありのままに奏聞せられたりければ、任をのべ
て修造すべしとて彼厳島を修造せらる、社々を作り
かへ、鳥居を立てかへ、百廿間の廻廊をつくる、修
造功終りて入道厳島へ詣でたまへり、遷宮したまひ
たりけるに、大明神内侍につきて託宣あり、汝しれ
りや、高野弘法を以告げしめしし事はいかに、修造事
終る事、返々目出たし、一期に於ては我まぼるべし、
但今夜夢に財をさづけんずるぞ、それをもて今生の
まぼりとすべし、努々おそれ思ふべからずとて、大
明神あがらせ給ひぬ、清盛悦でその夜御前に通夜せ
られたりければ、宝殿内より白がねのひる巻したる
P186
少長刀を給はると見たりけるが、うち驚きてかたは
らをさぐりければ、まことにあり、かしこまて是を
給つつ下向せられにけり、それよりしてぞ平家いよ
いよ厳島の大明神をばことに崇敬し給ひける、
厳島大明神と申は、旅の神にまします、仏法興行の
あるじ慈悲第一の明神なり、婆竭羅龍王の娘八歳の
童女には妹、神宮皇后にも妹、淀姫には姉なり、百
王を守護し、密教を渡さん謀に皇城をちかくとおぼ
して、九州より寄給へり、その年記は推古天皇の御
宇端政五年癸丑九月十三日、播磨国印南野に七声鳴
く鹿あり、御門えいらんあらばやと綸言あり、佐伯
蔵本綸言を承て、河内国柿明神の檀を取て、弓に作
りて、いなみ野に分入て、件の鹿を射取て見参に入、
此鹿金色の鹿にて、九色の鹿なり、公卿僉議ありて、
むかし金色の鹿ありき、是権者也といへり、しかれ
ば権者を殺害の輩罪科ふかしとて、安芸国ささら浜
に流さる、蔵本飢をやすめんがため、つれづれをな

ぐさまんれうにやありけん、あみ舟つり舟に乗など
して、此浦々を伝ひあるく所に、或日午の時ばかり
におきの方を見れば、くれなゐの帆をひきたる大船
一艘出来、近づくを見れば、船にはあらず、瑠璃の
つぼにありき、ぬさをつけて順風に任せ、佐伯が舟
に寄せたり、いかにと見る所に、壷の中よりめでた
き貴女の十二一重に成見え給へるが、我は是西の国
にありつるが、思ふ心ある故にはるかに遠旅せり、
我すでに食物たえてつかれにのぞめり、食物をあた
へよと仰せられければ、蔵本大きに恐れて、折節御
食物になり候べき候はずと申せば、さるにてもとお
し返し御尋あり、白米こそ少し候へと申、いかほど
と御尋あり、本器の五升と申、それを参らせよと仰
せらる、何としてと申せば、洗ひてと仰す、よて洗
ひてうつはものを尋ぬ、かしこに見ゆる塩、かやの
葉にと仰せければ、かやうにして奉る、殿はいづく
と申せば擁護のことば、
P187
大宮より左八右九中は十六、かかる御たくせんに
つきてそのかずを奉供す、
今は飢をやめぬとてわれ此所に住まんと思ふ、しか
るべくは汝先達として此島を見せよと仰せられけれ
ば、蔵本仰に隨ひて島廻りす、あをこけ、むかふ、あ
りの浦、をいしま、よぶへ、こもりの浦、三笠の浜此所
所を御覧ずるに、中にもこもりの浦みかさの浜とい
ふ所を御らんじて、あらいつくしと仰せられたりし
をもて、いつくしまと號す、もとは御賀島と申す、そ
の故は神武天皇長門国にうつり住せ給ひし時、この
島の眺望殊勝なるよし聞召されて、この島に渡らせ
給ひて御賀の舞をせさせてえいらんあり、波のうへ
に舞台をしつらひて蝶鳥の舞を遂げさせらる、折節
夕日浪にうつりて山の端も又かざられたり、かんざ
しの花をうごかし、錦の袖にひるがへす、天に主あ
り、波に人あり、空に楽あり、海に舞あり、大かた
殊勝なる御見物にてぞありける、御門殊更御かんの

余りに島に官をなして、御賀島とぞ申しける、然る
を今の明神の御詞によていつく島と改めたり、蔵本
に仰られけるは、とくとく御殿十七間廻廊百八十間
造進し我を入れ参らせよとありければ、仰に隨ひて
かり殿を造りて入れ参らせんとす、始めは一身にて
ましましけるが、後には三十三所にて入らせ給ふ、
蔵本都に上り、朝に申入れよと仰せられければ、我
も遠流の者なり、流人として赦免を蒙らずして、上洛
せん事いかが候べかるらんと申ければ、大明神のた
まはく、汝を是へ下すもわがはからひなり、印南野
に金色の鹿に現ぜしも我なり、汝を下して乳母にせ
んがため也、とくとく上洛して伝奏をへよ、その時
霊烏と成て、一二万榊の枝を啄集めて紫宸殿の上に
置き、大星三星に三光を放ちて、皇居を照さん時、
驚きて神領を寄進あるべしと仰す、仍て恐恐蔵本
上洛して仔細を申あぐ、怪をなさるる所に仰られし
如く、大きなる光三つ御座のしとねの上にさす、驚
P188
きて神領四十八箇所を寄せらる、蔵本下向して、彼
神に宮仕へしき、今の神主是也、擁護の詞に曰、
我一心精誠を抽で、孤島の霊幽に詣ず、是則道心
を発し仏法を興行せんが為なり、仍て三十三の大
願を発す、中に道心の願第一也、其文の心に曰、
一度参詣諸衆生、三途八難永離苦、
和光同塵結縁者、八相成道常作仏、
といへり、一度参詣の輩はながく悪道に堕せずと誓
あり、その證據弘法大師に御ちいんをもてその色を
あらはす、我朝に密宗の渡ることはこの神の御願な
り、鎮西〓門峯を去つてこの島にうつらせ給ふこと
は、しかしながら此志の故なり、されば弘法大師こ
の神に生れあひ参らせ給へり、弘法と申すは漢家本
朝代々の賢人也、東方朔大公望黄石公弘法と申是な
り、賢王代にいでたまふ時はともに出て仕へ、愚王
世に出でたまふ時は則迯かくれて出でず、然るに我
朝に弘法生れ給ひて、今此真言を伝へたまふ、御入

唐の時は先づ厳島に詣でて、七日参籠あて、願くば
我密宗を伝へんと思ふ心ざし懇切なり、三千三の願
の中に第一の御願のごとくは、我に力をそへさせ給
へときせい申させ給ふ、大明神新に御対面あて、我
神武天皇御代のたちはじめに、供御の峰なるが故に、
かまど山に居すといへども、是を去つて此島にうつ
りたることしかしながらこの法を興行のためなり、
とくとく御入唐あるべし、我現じて力をそへ奉るべ
しと云々、よつて弘法入唐を遂げたまひて、恵果和
尚に逢ひ奉て、真言の奥義を極めて、帰朝せんとした
まひし時、天台山に上り、あかの水を取て桶に入て
天になげらる、黒雲来り、是を巻上て、我朝高野の峰
に置く、今の奥院のあかの水是なり、この黒雲と申
は、厳島の御妹のよど姫の威現なり、又大師三鈷を
なげ給ふべき事を厳島先立て、知見ありければ、御
妹よど姫に仰て、御父婆竭羅龍王に参らせて西門の
金松を申、高野山に植ゑ置かれぬ、然るに大師三鈷を
P189
なげ給ふとて、誓てのたまはく、此三鈷のおちつき
たらん所を我、ながき在所と誓ひ給ふに、三鈷飛来
て、彼金松にかかる、仍てこの峰に住みたまふ、今
の三鈷松是也、大師是ほどまで執したまひし峰なれ
ば、誠に両部の山にてぞありける、弘法帰朝の時も、
先づ厳島に参詣あて大明神に金泥法華経一部、唐鞍、
瑪瑙の枕、多羅葉此等を参らせられけり、彼のたら
えうに本地の文をかかれけり、
本体観世音、常在補陀落
為度衆生故、示現大明神
ある岩の下に隠して納め置かる、秘密第一の秘所に
て、人是を知らず、大縁起につけて、高野山に是を
知れる人一人ばかりあるべしといへり、かやうに仏
法をかねて守り給へる神明なり、慈悲広大にして誓
願自余に超過し給へり、かくのごとくれいげん厳重
の神にまします間、院も御信敬ましますにや、

平家物語巻第五終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第六

P190
平家物語巻第六
后腹の皇子はもつともあらまほしき事なり、白河院
御在位の時、六条左大臣あきふさの御娘を、京極大殿
猶子にしまいらせ給ひて、入内ありしかば、皇后宮
賢子と申き、その御腹に皇子御誕生あらまほしく思
召されて、三井寺に実誠房の阿闍梨頼豪と聞えし有
験の僧を召して、皇子誕生祈申されき、御願成就せ
ば、けんしやうは請によるべしと仰下されたりけれ
ば、頼豪かしこまてうけ給候ぬとて肝胆を碎きて、
祈念し申されけるほどに、かひがひしく中宮御くわ
いにんあて、承保元年十二月十六日おほしめすまま
に、皇子御誕生ありしかば、主上殊にえいかんあり
て、頼豪をめして御皇子誕生の勧賞には、何事をか
申うくると仰せ下されければ、頼豪別の所望候はず、
三井寺のかいだんを建立して、年来の本意を遂げん

と申けり、主上仰のありけるは、こはいかに、かか
るけんしやうとや思し召されし、我身二かいの僧正
なんどを申べきかとこそ思召されつれ、是存外の所
望也、凡そ皇子誕生ありて祚をつがしめん事も、海
内無為の儀を思召す故也、今汝が所望を達せば、山
門憤り深くして、世上静なるべからず、両門合戦出
来りて、天台の仏法忽に亡びなんずとて、御ゆるし
なかりければ、頼豪悪心に住したるけしきにて申し
けるは、この事を申さんとてこそ、老の波に肝胆を
碎きて候ひつれ、かなはざらんには思死にこそ候な
れとて、水精のやうなる涙をはらはらと落して、な
くなく三井寺にまかり帰りつつ、持仏堂にたて籠り
て飲食を断ず、主上是をきこしめして震襟安からず、
朝政怠らせ給ふに及べり、御歎の余りに、江中納言
匡房その時は美作守と申けるを召して、頼豪が皇子
誕生の勧しやうに、園城寺に戒壇を建立せんと申す
を、望み申す旨御ゆるしなしとて悪心を発すよし聞
P191
ゆ、汝は契深からんなり、罷向ひてこしらへなだめ
てんやと仰下されたれば、頓て内裏より装束をも改
めず、そくたい正しくして、頼豪が宿坊へ罷向ひて
見れば、持仏堂のあかり障子護摩のけぶりにふすぼ
りて、何となく身の毛も立て覚ゆれども、宣旨の趣
を仰含とてかくと申入たりけれ共、対面もせず、持
仏堂にたて籠り、ねんじゆうちしてありけるが、や
や久しくありて、もての外にふすぼりたる幕の内よ
りはひいでて、持仏堂のしやうじあららかにさとあ
けて、さし出でけるを見れば、よはひ九十有余なる
僧のしらがながく目くぼみ、かほの正体も見えず、
誠におそろしげなるけしきにて、しはがれたる声に
て、何事をか仰せらるべきぞ、天子に二言なし、綸
言あせの如し、出でてかへらずとこそ承はれ、これ
程の所望をかなふまじからんには、いのり出し参ら
せし皇子を具し参らせて、ただ今魔道へ罷候なんず
とばかり申て、しやうじをちやうと立てて入にけり、

匡房力及ばず帰られにけり、頼豪は其後七日と申け
るに、持仏堂にて干死にしににけり、さしもやはと
思召ける程に、皇子常はなやませ給ひければ、御祈
おこたらせ給はず、頼豪があく霊になりにければ、
一乗寺御室戸なんどいふ智證の門徒に尊き僧ども召
して、御加持ありけれどもかなはず、承暦元年八月
六日、皇子御年四歳にてつひにうせさせ給にけり、
敦文親王の御事これなり、主上殊に歎思召されて、
西京座主りやうしん大僧正、その時は円融房の僧都
と申て、山門にあるやんごとなき人なりけるを召し
て、此事を歎き仰られければ、いづれの御代にも、
我山のちからにてこそ、か様の御願は成就すること
にて候へ、九条の右丞相慈恵僧正に契申されしによ
てこそ、冷泉院の御たんじやうもありしか、なじか
は御願成就ましまさざるべき、本山へ帰のぼりて、
両所三聖いわうぜんせいに他念なく祈祷申ければ、
同三年七月九日、御産平安皇子誕生ありき、堀河の
P192
院の御事なり、是より座主は二間三ョ[B ママ]に候はれけり、
思召さるに応徳三年十一月二十六日春宮にたたせ給
けり、同十二月廿九日御即位、寛治二年正月廿日御
とし十一歳にして御元服ありき、されどもおそろし
き事どもありて、御在位廿二年、嘉承二年七月十九
日御歳廿九にて、法皇にさきだたせましまして崩御
ありき、是も頼豪が死霊のいたす所なりとぞ時の人
申ける、さて頼豪は山門のささへにてこそ我宿願は
遂ざりしかとて、大なる鼠となりて山の聖教をくひ
ける間、この鼠を神といはふべしとせんぎありけれ
ば、社を作りて祝ひて後、かの鼠静りにけり、東さ
かもとに鼠のほこらとて当時あるは則是なり、今も
山には大なる鼠をば頼豪とぞ申ける、頼豪ゆゑなき
もうしうにひかれて、多年の行ごうをすて、畜趣の
報をぞ感じける、かなしかりかる事也、つつしむべ
しつつしむべし、治承三年にもなりぬ、正月元三の儀式、い
つよりもはなやかにめでたかりし事どもなり、誠に

さこそありけめとおしはからる、
丹波少将都遷
丹波の少将は、正月廿日賀世庄を立て京へ上り給へ
り、都に待人もいかに心もとなく思ふらんとて急が
れけれども、余寒も猶はげしくて、海上もいたくあ
れたりければ、浦伝ひ島伝ひして、二月十日頃に備
前の兒島にこぎよせて、船よりおりてそのあたりの
けいきを見給に、谷河の流水の色悠々として幽なり、
鶯のなみだのつらら打とけて、いそやま桜ほの見え
て、必春の霞秋の霧にはあらねども、海人の塩やく
島なれば、けぶりはいつもたえざりけり、故大納言
の御座ける所へ尋入て向給ひければ、国人申けるは、
始はこの島に渡らせ給ひしが、是は猶あしかりなん
とて、是より北備前備中両国の境に、細谷川を帯に
せる吉備の中山の麓、板倉の郷の内、悉談寺青蓬寺と
の中に有木別所と申す山寺の候に、難波太郎俊定と
申者の古屋に渡らせ給候と承り候しが、はや昔語り
にならせ給にきと申ければ、少将さぞかしといよい
P193
よかなしく思して、まづ初父大納言のおはしましけ
る所をたち入て見給へば、庭には葎のみはひかかり
て、柴のいほりに竹のあみ戸を引たてたり、浅まし
き山辺なり、岩間を伝ふ水の音、幽々として絶々た
り、峰を吹すさむ嵐の音さつさつとして心細し、い
かばかりかは思にたへず、かなしく御座けんと袖も
しぼりあへ給はず、それより又舟にのりてかのあり
木の別所を尋ね入て見給へば、是又うたてげなるし
づがふせ屋なり、かかる所に暫くもおはしましける
事よと、後までもいたはしくて、内に入て見廻給へ
ば、古き障子に手習したる所やぶれのこりたり、あ
はれ是は故大納言のかきおかれたるよなど打見給ふ
に、涙さつと浮びければ、少将袖を顔をおしあてて
立のき、やや入道殿それに書たる物御覧ぜよとすす
め給へば、判官入道近くよりて見れば、前には海水
〓々として月真如の光りを浮べ、後には巌松森々と
して風常楽の響を奏す、雲東天にはれ、波西海に静

也、まことに三尊来迎の儀式もたよりあり、九品往
生の望たりぬべし、けいべんがまくちて蛍むなしく
さる、諌鼓苔深うして鳥驚かずとぞかかれたる、是
を見奉るにこそ、いささか厭離穢土欣求じやうどの
心もおはしましけるにやと、かぎりなき思ひの中に
も少し心安くおぼしけれ、又常に居給ひけるかと覚
しき、かたはらの障子に、六月十三日出家、同廿七
日のぶとし下向とぞかかれたりける、故入道殿の御
手跡とこそ見参らせ候へと申ければ、少将なくなく
立よりてこまこまと見給ふに、まことに父の手跡違
はず、さてこそ源左衛門尉が下りたりけるよと知り
給ひにけれ、信俊が都より下りたりける事を悦ばし
さの余りにや、ゐられたりける所の西の障子にぞ、
日かずを忘れじとかかせ給たりけると思しくて哀な
り、誠に父存生の筆のあと、其御子として後に見給
ひけん手跡は千年もありぬべしとは、是やらんと悲
しくて少将かくぞ思ひつづけられける、
P194
はかなしや主はきえぬる水ぐきの
あとを見るこそかたみなりけれ W056 K278
康頼入道、
くちはてぬその名ばかりはありきにて
あとかたもなくなりちかのさと W057 K056
御墓はいづくぞと問給へば、この屋のうしろの一村
の松のほどと申ければ、少将涙をおさへて、草葉を
わきて尋ね入給へば、露も涙もあらそひてぬれぬ所
もなかりけり、そのしるしと見る事もなし、誠に誰
かは立べきなれば、卒都婆の一本も見えず、ただ土
の少し高くて、八重むぐら引ふさぎたるが苔深く茂
る計りなるぞそのあととも見えける、少将その前に
つゐ居給ひて、袖をかほにおしあてて、涙にむせび
給ふ、判官入道も是と見て、余りにかなしくて、墨
染のたもとしぼるばかりなり、少将やや久しくあり
て、涙をおさへて、さても備中国に流さるべきと承
りしかば、渡らせ給ふ国近くや候らんと悦ばしくて、

相見奉る事はなくとも、何となくも頼母しく悦ばし
くこそ候つるに引かへて、さつまのかたに、流され
候てのちに、かの島にてはやはかなくならせ給ひて
候と計り、僅鳥なんどのおとづれて通る様に、かす
かに承り候し心中のかなしさは、唯おしはからせ給
ふべし、万里の波涛を渡りて鬼海が島へ流されし後
は、一日片時もたえてあるべしとも覚え候はざりし
に、遠きまほりとならせ給たりけるにや、露命消え
ずして、三年を待くらし、ふたたび都へかへり、妻子
を見る事は悦ばしく候へども、ながらへて渡らせ給
はんと見奉らばこそ、かひなき命のあるかひも候は
め、たとひ定業かぎりある御命なりとも、などか去
年の秋より今年の春まで、是に御座ざらん、これま
ではいそぎつれども、これより後は行空もあるべし
とも覚え候はずと、生たる人に物をいふ様に、墓の
前に夜もすがらくどき給へども、春風にそよぐ松の
音ばかりにて答ふる人も更になし、歳さり年来れど
P195
も、忘れがたきは撫育のむかしの恩、如夢如幻而、尽
がたきは恋慕の今の涙、求姿而無容、只想像苔の
底朽る骨、尋声而無益、徒聞墳墓松風こそかなし
けれ、成経が参りたりと聞給はんに、いかなる火の
中水の底におはしますとも、などか一言のなかるべ
き、生死をへだつるならひこそかなしけれとのたま
ひて、なくなく旧苔をうち拂ひ、はかをつき、父の
御ためとて、道すがらつくり持たせられたりけるそ
とばを取よせて、かの有木の別所院主、覚円房の阿
闍梨とて、貴僧を請じて供養をいたさる、聖霊決定と
いふ文の下に、孝子成経と自筆に書き給ひて、はか
に立てて、くぎぬきしまはして、又も参らぬ事もこ
そあれとて、はかにかり屋を作り、七日七夜ふだん
念仏申て、くわこしやうりやうしやうとう正覚とん
せうほだいといのり給ふ、草のかげにもいかに哀れ
と思ひ給ひけん、あやしの賤のを賤のめに至るまで、
袖をぬらさぬはなかりけり、父の御名残もをしく思

はれけれども、北の方少なき人々の御行へもさすが
覚束なく思ひ給ひければ、まうじやにいとま申て、な
くなく備前国をもこぎいで給ひにけり、都もやうや
う近づき侍につけても、哀はつきせずぞ覚えける、
宰相は少将の上り刻限も近くなりたりとて、むろた
かさごの島まで迎ひに人を遣しつつ、しかるべき船
なんどの通る時は、かかる人やおはするなど、尋ける
心の程こそ返々せつなりけれ、三月十六日に少将い
まだあかかりけるに、鳥羽につき給へり、今夜六波
羅の宿所へ急ぎ行ばやと思しけれども、三とせが間
余りにやせ衰へたる有さまを、人々に見られんこと
もはづかしくて、宰相の方へ文にて申されけるは、
これまではとかくしてたどりつきてこそ候へ、昼は
見苦しく候に、ふくるほどに牛車給るべしと申され
たりければ、宰相のもとには、少将の御文とて、鳥羽
までつき給ふよし青侍来りて申たりければ、宰相を
始め奉りて、高きも賤しきも悦び給へり、福原へめ
P196
し下されし御歎きの涙よりも、只今上り給ふよし聞
給ひける御悦びの御涙ははるかにまさりたり、つぼ
ねつぼねの女房めの童迄、昼はいかなるぞや、必しも
ふけて入せ給ふべき事やはとて、心もとなげにぞ申
あひける、
成親山荘事
新大納言の宿所は都の内、山ざとにも限らず、所々に
あまたありける中に、鳥羽の田中の山庄はてうぼう
四方にすぐれて、地形水色興をまし哀を催す所なり、
大納言随分秘蔵して洲浜殿と名づけて作くり置かれ
たりし亭なり、少将かの宿所に暫くやすらはれける
に、いつしか田舎に引かへてありしにもあらぬさま
也、されども三とせが程聞かざりし入相のかねのこ
ゑごゑおとづれて、日の入ほどになりにけり、比は
三月の中六日のことなれば、やうばいたうりの色折
しりがほなるにほひもなつかしく、うぐひすの百囀
の声すでに老たれども、詠ぜし人も今はなし、庭の
桜は所々にちり残りて、また名残がもとさすがに哀

なり、少将内へ入て見めぐられければ、門はあれど
も戸びらなし、ついぢはあれどもおほひなし、らん
もんみだれて地に落ち、から垣破れて〓[B ママ]滋り、田向
の桟敷をはじめとして、屋数はむらむら残りたれど
も、ひはだも椽もくちはてて、しとみやり戸もなか
りけり、軒にしのぶ草おひ茂り、月もれとてはふか
ねども、いたくまばらになりにけり、庭には人あと
たえてあともなし、みたりとも覚えぬ千草生て、ふ
みわけたるあともなし、あさぢがはずゑに露むすび、
鶉の床とぞなりにける、故大納言はかれよりこそい
でられしか、ここは妻戸なりしかば、故大納言はこ
こにはいられしかなど、つくづくと思ひ続け給ひて
そぞろに涙ぞ流れける、大納言ひざうして、住吉の住
の江殿をうつしてつくられたり、去ぬる応保二年二
月廿一日に事はじめありて、同三年に造畢あり、造り
出して廿一日と申に法皇御幸なる、大納言家の面目
これに過ずと思はれければ、様々にもてなし参らせ
P197
て 、法皇の御前には八葉の御車に五をの御すだれか
けて壹岐太とてひざうせられたる御牛にかけて、御
車皆ぐし進らる、公卿十人にうし一かしらつつに南
廷十宛、殿上人十二人に鞍置馬一疋、裸馬一疋あて、
上北面十六人にそめ物十二、絹十、綿五十両づつそへ
られたり、下北面の輩にはいろいろの装束に白布十
たんづつ具られたり、御力者とねりうしかひ御車ぞ
ひなんどが中には、鵝眼五百貫出されたり、かかり
ければ人耳目を驚かす、其の日も暮にければ、終夜
の御酒宴ありけるに、夜しんかうに及ぶ、一つのふ
しぎあり、法皇南殿を御覧じ出して渡らせ給ひける
に、御えんの柱に年八十有余なる老翁白髪をいただ
きて、たえゑぼししりさがりにきなして、すそはく
ずのはかまにしたくぐりて、上はけんもしやのかり
衣の、もてのほかにすすけたるをたほやかにきて、
ひさまづいてつまじやくとりて、畏て居たり、余の
人はかかる人ありとも見知りたる気色もなし、法皇

御めをかけて、あれは何者ぞと御尋ありければ、しは
がれたる声にて是は住吉の辺に候こせうにて候が、
君にうつたへ申すべき事候て、恐れをかへりみず推
参仕て候なり、われ年来ひざうして朝夕愛し候住の
江と申所を、此ていしゆにうつされて候間、住吉無
下にあさまになりて、ないがしろになりはて候なん
ずと存候て、その仔細を歎き申さんとて、よひより
参りて候つれども、見参に入る人も候はぬ間、五夜
まさに明なんと仕候へば、直奏仕候事恐入て候、所せ
んこのよしをよくよく仰ふくめらるべく候やらん、
か様に申入候はんをも、御用ひ候はずば、常に参り
かよひ候はんずれば、御はからひに候とて、南をさ
して飛さりぬ、法皇不思議の事かなと思召されてけ
れども、御披露にも及ばず、そのうへ御醉乱のほどな
りければ、後には思召わすれさせ給ひけるにや、大
納言も常に宿し山水木立面白き所なればとて、法皇
も時々御幸なりて、さまざま御遊ありければ、住吉
P198
のとがめも通り給ひけるにや、次の年の夏の頃、住
吉の明神の御とがめとて、上皇常に御なう渡らせ給
ひければ、御存命のために御出家ありけるとぞ聞え
し、さればなりちかの卿もかの明神の御とがめにや、
いく程なく備前のこじまへ下られければ、後にぞ彼
所もあれはてて、今は野干のすみかとなりはてぬ、
いよいよおそろしくこそ覚しか、少将見めぐり給へ
ば旧苔ひきふさぎて人跡まれなる宿なれや、弥生も
中の六日になりぬれば、青陽の春もすでに暮れなん
として、宮の鴬の声も既に老たり、桜梅は四季をわ
すれず咲きたれど、花にともにちりはてて、詠ぜし
友は目に見ず、されば古き詩を思ひいでて、
桃李不言春幾暮、烟霞無跡昔誰栖、 K057
人はいさ心もしらず古さとの
花ぞむかしにかはらざりける W058 K058
さて姑射山仙洞の池の汀を望ば、白波うちかけて鴛
鴦白鴎せうようして、興せし人の恋しさに涙もさら

にとどまらず、南楼の木の下には嵐のみおとづれて
夢をさます友となり、木の間もる月影の袖に宿借し
名残をしたふかと覚えたり、終日になきくらし給ふ
ほどに、宰相殿より御迎の車参りたりと申ければ、
少将判官入道おなじく車にあひのりて北へぞ向はれ
ける、判官入道申けるは、一ごう所かんの事なれど、
先世の芳縁も浅からず、しかれども、漕出し硫黄が
島たへがたう悲しかりし事、僧都の残しすてられて
なげきかなしみしあり様、我等があらましの熊野ま
うでのしるしにや、二たび都へかへりのぼりぬる事
のありがたさなんどたがひにかたりつつ、各袖をぞ
しぼられける、さても三とせの間はなれ参らせ候つ
る御なごりこそ、この世にて忘るべしとも覚え候は
ね、今は同じ都のすまゐにて候はんずれば、日比の
御名残は参り候て申べしとこそ、契ねんごろにして、
墨染の袖しぼるばかりにて申けるは、むかしめしつ
かひ候し下人、ひんがしやま双林寺と申所に候、い
P199
まだながらへて候はば、草のいほりを結びて、今は
一向後生ほだいのいとなみの外は他事候まじ、もし
真如堂雲居寺なんどへ御参詣候はん御ついでには、
必す御たづね候へ、性照も世しづまり候はば、つね
は六はら辺へは参り候べしとて、七条東の朱雀より
おりて、東山へぞ行ける、少将は六波羅へおはした
れば、乳母の六条は黒かりしかみも白みて見え、北
の方も事の外にやせおとろへ給へり、思歎きの浅か
らざりける程も思ひやられて哀なり、わが流されし
時、四になりし若君も、髪くびのまはりなりしが、お
ひのびてゆふ程なり、見わすれ給はざりけるにや、少
将の御ひざ近くなつかしげに近づきたまふ、又北の
方のかたはらに、三ばかりなるおさない人のおはし
ましけるはたぞとのたまひければ、北の方これこそ
とばかりにて、涙を流しうつぶしたまふにこそ、さ
てはながされし時、心ぐるしく見おきし腹のうちな
りしが、生れて人となりにけるよと心得てければ、

是を見るにもつきせぬものはただ涙ばかり也、むか
しもろこしに臣宗憲朔とて二人のあきひとありき、
天台山にのぼりけるが、帰らんずる道をわすれて、
山の中にまよひしに、谷河よりさかづきの流れいで
たるを見つけて、人の栖家の近き事を心得て、その
水上を尋ねつつ行こといくばくをへずして、一の仙
家にいたりにけり、ろうかく重疊として草木もみな
春の景気なり、しかうして帰らん事を望みしかば、
仙人いでて、帰るべき道を教ふ、急ぎ山を出でて、
おのれがさとをかへり見れば、人も栖家もことごと
くありしにもあらずなりにけり、浅ましく悲しくて、
くはしく行末を尋ねければ、あるもののいはく、わ
れはむかし山に入てうせにし人のその名残七世の孫
也とぞ答へける、少将今度の宿所の荒にけるありさ
ま、此人どもの人となりたまひけるを見たまひしこ
そ、彼仙家より帰りけん人の心地して、夢のやうには
おぼされけれ、少将はいつしか御所へ参りて、君を
P200
も拝み奉らばやと思しけれども、恐れをなして、左
右なくも参り給はず、法皇もいつしか御らんぜまほ
しく思はせたまひけれども、世にはばかりありて召
されざりけり、判官入道は東山の旧跡に行てつくづ
くと見れば、見しにもあらずかはりたれども、植置
し草木は花盛に咲みだれつつ、さ夜ふくるままに、い
つよりも月すみていとど心のすみければ、
古郷の軒のいたまに苔むして
思ひしよりももらぬ月哉 W059 K060
少将は世も猶おそろしくつつましければ、人にもい
で合ひたまはず、深く忍びてぞおはしましける、六
はらの門脇なれば、別に何事かはあるべきなれども、
常はもとどりをはなち、しとみのうへばかりをあけ
て、用心して御座ける、都帰りしたまひて後、十二
三日の程にもやなりたまひけん、少将のもとへと康
頼入道が許へ、太政入道使者をつかはして、時のほ
どに西八条に立寄らせ給候へ、申談ずべき事候とぞ

よばれける、人々是を聞て何となく又なきあひけり、
中にも康頼入道が母の歎こそ申ばかりなくむざんな
れ、我が子の袖に取つきて、三とせがほどなきくら
して、たまたま帰京の恩赦にあうて後は、そこをこ
そは今世後生も頼み思ふに、それまでこそなからめ、
剰へ重ねて老の涙に袖をぬらすかなしさよ、ありし
時露命のきえたらましかば、二たび物は思はざらま
しと泣き悲みければ、母の思ひさこそと思ひやられ
て、康頼入道も袖をぞしぼりける、使者二三度に及び
ければ、少将もあまりの事にて物ものたまはず、さ
いしやうの北の方、少将の北の方、六条寄あひてを
めきかなしむ、これ程ならば、ただ島にても置たて
まつらで、今一度あひ見奉るは嬉しけれども、又目
の前にてうしなひ奉て歎んことこそ悲しけれ、当時
何事をか入道殿、少将殿にのたまひ合られん、この御
言葉は御身にあててはいまいましき言ぞかし、大納
言のうせ給とても、時の程立寄らせ給へとてこそ、
P201
二度も帰り給はで、終にむなしく成らせ給ひしか、
然らばこの少将殿もいかなる罪にかあたりたまはん
ずらんといひつづけて、泣悲しむ中にも宰相殿のた
まひけるは、あな心うや一とせ目の前にて失せたま
ふべかりしを、様々に申こうてあづかり奉りし程に、
ほどなく召し返されて、硫黄が島に流されにき、そ
の時心うく思ひしかば、思ひ切るべかりしを、恩愛
の道力及ばぬことなれば思ひ切らずして、人のそし
り恥をもかへり見ず、隙を伺ひて申のぼせ奉りたれ
ば、又幾ほどなくかやうにのたまへば、今度少将い
かにもなりはて給はば、教盛も本どり切り、かうや
粉河にもとぢ籠り、うき世はいくほどならぬ習なれ
ば、しづかに念仏申て後生をたすからん、少将の後
生もとぶらふべしとて泣き給へば、少将の北の方こ
のありさまを見奉りて、御志は今にはじめぬ事なれ
ども、是程まで思召つらん事よと、且はかたじけな
く且はいたはしくて、とにかくに尽きせぬものは涙

なり、さればとてあるべきにもなきうへ、使者重疊
してければ、少将後世にてはかならずといとまこひ
てなくなく出給ひにけり、先には流罪なりしかば、
ひまもあらばさりともと頼まれつるに、今度は定め
て死罪にてぞあらんずらん、今ぞ限りのわかれにや
となきかなしみ給ふぞ理なる、さて少将西八条にお
はしたれば、康頼入道ともに中門の廊に入奉る、何
なるうき目を見んずらんと思ひ給ふ所に、太政入道
出たまひて居直り上居して暫くありて、人や候と召
されけり、越中の前司盛俊とて参りたり、御酒参ら
せよとのたまひければ、かねて用意したりければに
や、瓶子一具に種々の肴けつかうして出されたり、こ
れも何事なるらんと二人の人々おそろしかりけり、
されどもことなる仔細なかりけり、入道酒をすすめ
給て、酒もりなかばになりにければ、少将の前に馬
十疋に鞍おきて、その上になんりやう砂金よき羽な
んどあまた出されけり、康頼入道もともにもてなさ
P202
る、少将殿をば本の如く安堵せさせ奉る、重ねて庄
園三ヶ所奉られけり、かくもてさなるるは何故ぞと
尋ぬれば、この少将のしうと平宰相と申は、入道の
さいあいの舎弟なり、この少将殿を三年がほど心を
いたましめ給へるその思ひを慰め奉り、かつうは宰
相の心をもなだめんが為に、かくもてなさるるとぞ
うけ給る、入道よき事顔に、いかにこのほどすまれ候
けん、硫黄が島の眺望はいかで、いかなる所にて候
けんぞと問ひ給へば、少将彼島と申候は山高くそび
えて、火常にもえ上り、いかづちなりさかり、隣里
には雨しげくふり候て、物うき所の一にて候と、世
につらげに申されければ、入道うちうなづきて、さ
ては興ある所にて候ひけり、さぞ御名残はおしく思
され候らんと大に笑ひて内へいり給ぬ、今は別事よ
もあらじとて二人つれて出で給ふ、先使者を遣して
少将殿事故なく帰りたまふよしを申ければ、人々是
をあまりに思ふ事なれば、夢にてばしやあるらん、

夢ならば覚めて後いかにせんとぞ思はれける、少将
車より下りて入給ふを見奉るにこそ、誠とも思はれ
けれ、死たる人のよみがへりたるが如く悦びなきど
もせられけり、入道使をたてて申つかはされけるは、
少将殿もとの如く御所の出仕候べしとのたまへば、
少将引つくろひはじめて出仕あり、御所中の女房た
ちしかるべき人々少将を見たまひて、露命きえやら
ずしておなじ世にある人は、あひ見る事にこそ、硫
黄が島と聞し時は、二たび見奉らんとも思はざりし
に、おなじ君の御代に出仕せしめたまふ事の不思議
さよと、哀に思はれければ、人々袖をぞしぼりける、
院は少将を御前に召して一目御覧じて、両眼ところ
せくおはしますぞかたじけなき、少将も涙にむせび
てものも申されず、たがひに哀なる御ありさまなり、
やや久しくありて法皇いかにと御定あり、硫黄が島
のてうばうは、いはまの波のおと、松吹嵐のすさま
じく、旅泊に夢をやぶり、何事につけても一日露命
P203
のながらへ候べき様も候はねども、君を拝み参らせ
候べき縁の候けるにこそ、けふまでつれなくながら
へて、龍顔を拝み参らせ候へと申されたりければ、
理なりとて哀に思召けり、誠に父大納言住吉に祈り
申されし事のかなひければにや、はるかに命ながら
へて万里の波涛を凌ぎ帰り、二たびめしつかはれ、
父大納言の家を継ぎて、雲上につらなり、宰相の中
将になりて、後には祖父跡中納言までになられしこ
そ、ありがたくは人思ひけれ、かやうに栄花の家にか
へりてこそ、さつまがた鬼海が島の思ひをも慰めた
まひけれ、さても俊寛僧都ばかりは罪深く方人もな
ければ、非常の大赦にももれて、心うき島のすもり
となりはてて、ただひとりまよひありきけるこそむ
ざんなれ、その中にことに哀なりし事、僧都世にあ
りける時、多く思召仕はれける者どもの中に、殊に
不便に思はれける者兄弟二人あり、兄をば亀[B 松カ]王丸、
弟をば有王丸とぞ申ける、彼等二人は、越前国水江

庄の住人黒居三郎が子どもなり、かの水江は法勝寺
の寺領也、沙汰すべき事ありて、執行自身下られた
りけるが、かの黒居が子どもを見給ひて、よきわら
べどもなりとて、われに得させよとありければ、奉
りけり、斜ならずいとをしみの者に思はれたり、上
にはわらはにつかはれけれども、心ざしは子の如く
思はれてありけり、中にも松王丸は法師になりて法
勝寺の一のあづかりにてぞありける、弟はわらはに
てつかひ侍りけり、さるほどに有王丸は僧都の流さ
れて、淀におはしましける所へ尋ね行て、さいごの
御ともはこれが限りにて候へば、いづくまでも参り
候べしとなくなく申ければ、僧都の給ひけるは、誠
に主従のちぎりむかしも今も浅からずといへども、
多くの者共のありしかども、今の世におそれてとひ
来るもの一人もなけれども、それ更にうらみ思ふべ
きに非ず、汝が一人かく申必ざしの程こそ返す返す
哀なれ、ただしわれ一人にも限らず、丹波の少将に
P204
も判官入道なんどにも人一人もしたがはずとこそき
け、各皆さつまの国硫黄が島とかやへ流さるべしと
聞ゆれば、命のあらん事もありがたし、道のほどに
てもやはかなくならんずらん、我身の事はさておき
ぬ、都に残りとどまる女房幼き者どもの心ぐるしさ
思ふばかりなし、かの人々につきて杖はしらともな
るべし、我につきたらん心ざしにはつゆすくなかる
まじきぞ、とくとく帰れとのたまひける所に、宣旨
の御使並びに六波羅の使、何事を申わらはぞと怪し
め尋ぬれば、おそろしさになくなくよどより都へか
へりにけり、兄の松王丸は僧都に別れ奉りてのちは、
宮仕侍る方もなくして、或は大原、しづはら、さが法
輪寺の方にまよひ行て、峰のはなをつみ谷の水をむ
すびて、山々寺々の仏の前に報じ奉りて、我主に今
一度あはさせ給へとぞ祈り申ける、有王丸は女房お
さなき人々に仕へて心ざしを尽し、其ひまには、ちや
うもんのみぎりや見物の所々に忍び行て、僧都の行

衛をぞ尋ね聞きける、ある所にて人の申けるは、去
々年の秋の比、硫黄が島へ流されし人々召しかへさ
れたるよし承りしが、丹波少将も平判官もすでに鳥
羽までつき給ふよし申ければ、有王丸我主も定てお
はしますらんと、斜ならず悦びて急ぎ見奉らん、か
つうは御迎にもとて四つかまで走りたりけるに、此
人々に行逢ひたてまつりたれども、僧都は見え給は
ず、わらは浅ましと思ひて、さがりたる人に立より
てひそかに問ければ、その御房いまだ島におはしま
すとこそきけとばかりにて分明ならず、一定を承ら
んとて六波羅へ行向ひ、少将の辺に尋ねとひければ、
今度の赦免にはもれていまだ島におはしますとぞ答
へける、わらはこのよしを聞定てければ、むねふさ
がりて東西も覚えず、涙にくれてうちふしけるが、
かなしみてもかひなし、なきてもあまりあり、もし
生きてもおはしまさば、いかばかり心うく思し召す
らん、したしきものにもかくともいはず、我身はい
P205
かになるとてもいかがせんと思ひ切りて、ただ一人
都をすごすご迷ひいでて、まだしらぬ道をはるばる
とさつまがたへぞ尋ね行きける、卯月十日ごろ都を
立ちて、足に任せてぞ下りける、道すがらもあやし
の者の行あひたるにつけても、我主もかくぞおはす
らめと思ひつづけられて、或時は海上に船をこし、
あるときは山川にまよふ時もあり、日数やうやうつ
みければ、百余日も過て七月下旬にぞかの鬼海が島
には着きたりける、彼島のありさま、日ごろ都にて
伝へ聞しはことの数ならず、東はまんまんたる蒼海
に、白浪ちんちんとしてうろくづだにも浮ばす、西
はががたるせい山に雲霞ふんふんとして、鳥だにも
かけらず、峰嶺に黒けぶりもえて眼にさへぎり、野
沢におつるいかづちの音耳にみてり、北の方をかへ
り見ればべうべうとしてあとも見えず、ぜんとをは
るかにのぞめば、悠々として底もわかず、何事につ
けても心細き事多かりけり、さても漁する海人に逢

うて尋ければ、京より流されさせたまひし法勝寺の
執行僧都の御房の御事やしりたるととひければ、か
しらをふりて、答ふるものなかりけり、聞もしらず
といふやらん、てんせいしらずといふやらん、いか
にも不定やことわりや、是等がありさまをみるに、
法勝寺とは何をいふやらん、執行とは何ものやらん、
僧都とは人の名ともしるべきならねば、其後は一と
せ流されておはしまししが、二人は召し帰されて今
一人おはします人はといふ時、おのづからある者申
けるは、いざとよさる人は過しころまでは何となく
まよひありきしかども、行末もしらずといひければ、
有王丸少し心落居て、この人はいまだ世におはしま
するにこそと思ひつつ、四五日はさとをめぐりて尋
ねけれども見え給はず、もしやとて山路の方にわけ
入ば、さんろに日くれぬれども、耳に満る物なし、
山遠くして雲行客のあとを埋むと覚えたり、磯べに
いでて夜を明す、松寒くして風旅人の夢をやぶる、
P206
樵歌牧笛の音にも非ずして、ただ耳に聞え眼にさへ
ぎるものとては、雷の声のみなり、わらはいかにす
べしとも覚えずして、峰より谷へくだり谷より峰に
上るに、渓鳥嶺猿の外おとづれを聞く事なし、白雲
あとを埋みて、往来の迹もさだかならず、青嵐ゆめ
を破りてその面かげだにも見え給はで、この人思ひ
にたへずしてはかなくなられけるにや、せめてはあ
れこそその人の骨よとしる人のあれかし、骨なりと
も拾ひて帰り上らんと思て、なくなくまた磯のかた
へ出にけり、この間は打續き空かきくもり浦風すさ
まじかりけるが、けふは日ものどかに波も心やはら
かなりければ、汐ひがたをはるばると行けども、荒
いそにて船も人もかよへるけしきもみえず、砂頭に
印をきざむかもめ、沖の白洲にすだく浜千鳥の外は
あとふみつくるかたもなし、都をいでて後、多くの
うら山をしげくわけこし、心ざし深けれども、さす
がに日数経にければ、身もつかれくたびれつつ、磯

の松陰にしばらく寄ふしたれば、僧都のありし昔の
姿にて幻のごとく見られたり、さらぬだに旅人の夢
をやふるといひながら、しばしありてほどなくさめ
ぬる事のかなしくて、涙を流しけり、けふは日もく
れぬれば、岩の枕に宿をしむ、耳にともなふものと
ては磯辺の波の音、松ふく風ばかりなり、かくて夜
も明ぬれば、今は力も尽きて覚えける時、いそのか
たより人か人にもあらざるか、がけろふなどのやう
なるものはたらくが、あやしやなどいかなるらんと
おそろしながら、さすがにゆかしければ、近づきよ
りて見れば、もとは法師なりけるかと覚えて、いた
だきの髪は天をさしてのぼりたりけるもの、やせく
ろみたるが、きたるものはきぬぬのの類にも非ずし
て、しでなんどの様なるものを身に引まとひつつ、
こしにはあらめをはさみ、左右の手にはちいさき魚
を二三にぎりて、かげもなげにてよろよろとして来
るが、ずゐぶんにあゆむやうには見えけれども、一
P207
所にゆるぎ立ちたり、誠にくるしげなるけしきを見
て、あなむざんの者のありさまや、京にてひん人こ
つがい多く見しかども、かかる者はいまだ見ず、物
いふべしとは思はねども、もしかやうなる者のふし
ぎに知たる事もやと思ひて、物語りせんとて近づき
よる、あはれ我主もかやうにこそ御座すらめ、せめ
てはあれほど御座すとも、いのちいきて尋ねあひ奉
りたらば、いかに悦ばしからましと思て、ややもの
申べき事あり、一とせ都より流されさせ給ひたりし
法勝寺の執行の御房のことやしり給ひたると問けれ
は、僧都はわらはを見わすれざりければ、我こそそ
よといはばやと思ひけれども、すがたこそかはらめ、
腰にさすあらめ手にもつ所の魚、いづれもいかがせ
ん、心さへ拙くなりにけるよと思はん事こそはづか
しけれ、名のらじとは思はれけれども、はるばると
尋来る心ざしをうしなはん事つみふかしなど思かへ
して、我こそそなれ有王丸かといひもはてず、手に

もちたる魚なげ捨てて、わらはが前にうつぶしに倒
れにけり、わらは我名をよぶもまことなり、その名
を名のるも実正也、かくのたまふよりなつかしくお
ぼえて、我主のなり給へるかたちを見るにせん方な
くて、僧都と手をとりちがへて涙にむせび、しばし
はたがひになくより外はなくて、一言葉もいださず、
やや久しくありて、僧都起上りつつのたまひけるは、
抑いかにしてこれまでは尋ね来るぞ、この事こそ更
にうつつとも覚えね、明ても暮ても都の事のみ思ひ
たれば、恋しき者どもの面かげは夢にも見ゆる折も
あり、うつつにまみゆるやうなる時もありき、身も
いたくつかれてのちは、夢ともうつつともわけざれ
ば、汝が来るともひとへに覚えぬぞ、朝なゆふなは
いたく都の事をおもへば、天魔、野干の我をたぶら
かさんとて、汝が姿にへんげして来ると覚ゆるぞや、
此事夢ならばさめての後いかがせん、わらはなみだ
をおさへて申けるは、誠の有王丸にて候けり、御心
P208
安く思召せと申ければ、僧都少し心の落居て、わら
はが手に手をとり組みて、またのたまひけるは、さ
ても多くの者の中に汝ひとり尋ね来る心ざしのよろ
こばしさは、中々とかく云に及ばず、先づ我身のあ
りさま聞よな、この島は多くの海山をへだて、雲の
よそなれば、おぼろげならでは人のかよふ事もなし、
されば都のことづてもありがたく、丹波少将のあり
し程は平宰相のもとより春のつばくらめ、秋のかり
がねにおとづれしかば、送りしものを三人してすご
しき、よろこばしき事もかなしき事も、たがひにい
ひ合せて、いたう都の恋しき時は、昔物がたりをも
し、浦づたひ島伝ひして、心をやる折もありしに、
その人々にも去年の秋より打捨られて後は、たより
なかりし事ただおしはかるべし、この輩の別れし時、
淵瀬に身をもなげ、底のみくづともならんとせしを、
少将今一度都の音づれを待聞けと、よしなく情をか
けし言葉につらされて、おろかにもしやと待つつな

がらへばやとせしかども、島の内には食事なければ、
身の力のありし程は、山に入てしほ木といふものを
きり、また硫黄をほりて、おのづから九国へかよふ
あき人にあひて、是をあきなひなんどして過しかど
も、今はちからもおとろへて、そのわざもせず、さ
ればとてすてられぬ命なれば、こつじきをせしなり、
この島じやけんの所にて、かてをあたふる人もなし、
かやうに日も静なる時は、つりする海人に向ひて、
手を合せひざをくつしてかかる魚を貰ひ、又あらめ
など拾ひてやはらかなる所をくひてこそ過ぎしか、
さらでは誰かはたすくべき、露の命の何にかかりて
けふまできえやらざるらんと思ひたれば、汝が心ざ
しを今一度見んとてけふまでありけるぞや、汝一人
を見るをもて、都の人々を皆見たる心地すとてなき
給ふもあはれなり、有王丸は涙を流しながら、九国
の地よりさまざまの菓子どもを用意しければ、取出
してなくなく進めけれども、かかる物のきびも今は
P209
忘れたるうへ、ただ今是をくひたればとて、しじう
是をくふべきやとて目をもかけ給はず、日暮方にな
りければ、いざ我すみか見せんとて、わらはに手を
引れておはしましけり、見れば松の四五本ある下に
竹二本よせかけて、上には草の枯葉よせきたるもく
づをひしととりかけたり、雲の通ひぢ雨風もたまる
べくもなし、下には物もしかず、砂をほりくぼめて
よろづの木葉をかきおきたり、内に入てふし給ひた
れば、足はほかにさし出たり、京のわらはの犬の家
とて作りたるは猶まだし、目もあてられずむざんな
りともおろかなり、かたはらなる竹柱に、
見せばやな哀と思ふ人やあると
ただひとりすむ岩のこけやを W060 K061
かきのからなんどにてかきつけたりなんどおぼしく
て、かすかにただよひたるやうにぞ書きたりける、
かの僧都のぞくしやうを尋ぬれば、かたじけなくも
村上のせんていの七代の後胤、官位をいへば権少僧

都、大がらんの寺務八十八ヶ庄の領を司りたまひし
かば、むねがど平門を立て、三百余人の所従けんぞ
くにゐねうせられてこそ過られしか、白河殿御坊、
鹿の谷のさんざう、京極殿宿所、ちりもすへじとみ
がかれおぼされしものを、まのあたりにかかるやう
にならせ給ふこそ、とかくいふばかりもなかりけれ、
僧都は内にてなき給へば、わらはは外にて悲しみけ
り、業にさまざまのごうあり、順現、順生、順後、順
不定業といへり、僧都一期のあいだの所用は、伽藍
の寺物しやうじやの仏物にあらずといふ事なし、然
れば信施の無所謝罪歟、何なるつみの報いなるら
んとぞ覚ゆる、
燈台鬼
昔推古天皇の御宇、迦留大臣といひし人、遣唐使に
渡りて、おんやう道をならひ、えんていをつくし奥
儀を極めて、帰朝せんとせし時、おんやうの淵源、
日域へわたさん事ををしみて、かるの大臣の帰朝を
留め、つらのかはをはぎ、ひたひにとうかいをうち、
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とうだいきと作りなせり、そののち皇極天皇の御時、
かるの大臣の御子弼の宰相、親の行末を悲しみて渡
唐せられたりけるに、かのとうだい鬼に行あはれた
りけれども、鬼はその子を見知りたれども、子は親
をしらざりけり、鬼かくぞ書たりける、
吾是日本花京客、汝則同性一宅人、
成祖成子前世契、隔山隔海慕情辛、
経年落涙蓬蒿宿、累月馳思蘭菊親、
形壊他州成燭鬼、何還旧里捨此身、
と書たりけり、宰相これを見てこそ、我が父かるの
大臣とはしり給ひしか、俊寛が主従こそかの弼の宰
相父子にちがはざりける物をや、これは有王丸との
たまふにこそ、しゆんくわん僧都とは知られける、
かれは万里の波涛を凌ぎて、唐土まで渡り、是は千
里の山川をわけて硫黄が島へ尋ねけり、昔今は異な
れども、徳を謝する心ざし是おなじ、父子主従はか
はりたれども、恩をはうずる心はひとつなり、僧都

のたまひけるは、此島のありさまあらあら見つべし
な、急ぎてかひなき旅なれども、かかる所にしもす
めばすまるる習ひにてありけるぞ、海山を隔て、
げに人渡らねば、暦博士を見ざれども、白月黒月の
光りをはかりて、一月二月とさとり、越路へ帰しか
りがねもやうやうまたおとづれ、峯の木葉もつもり、
雪もかつふりしくを見ては、冬になりけりと知り、
谷の氷も漸くとけて、花のさまざまに咲けるに鶯の
木ずゑにさへずるあそびを見ては、春の来にけりと
思ふに、卯花なでしこ咲みだれ、山ほとどぎすの鳴
く声聞ては、夏になりけりと思ふ、そのうつりかは
る気色をはからへば、年の三とせをおくれり、それ
にさしもの便に一こど葉のつてをいひ、文をだにな
かるらんことのうらめしさよ、いきたりとも死たり
とも、その行末を聞ばやと歎くもののなかりけるこ
そうたてけれ、我身のかくなるにつけても、故郷の
事はゆかしくこそ覚ゆれ、心つよくも三とせを過し
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つるものかな、さてもさてもおさないものどもの、事
こそ聞まほしけれ、少将の迎への便にも文もなし、
おのれが便にもおとづれもせぬは、是へ下るともい
はざりけるにや、又したしき人々は一人もなきかと
うらみ給へば、有王丸涙をおさへて申けるは、哀れ
猶君ははかなくおはしまし候ひけるものを、君の西
八条に召こめられさせ給ひし時、すなはち追捕のつ
かひ入り候うて、御あたりの人々上下を嫌はずとら
へからめて、らうの人やに入、せめいたましめて、
むねんの事を尋問はれ候て知も知らざるもみなうし
なはれ候ぬ、たまたま残る者も、諸国七道へ落ちう
せ、或は山林ににげかくれ、跡をとどむる者一人も
候はず、御一家人々わづかに残りとどまり給ふも、
いかにもしたまふまでの事は思ひよらず候、女房公
達の御事はただ思食やらせ給候へ、その時すでには
ぢに及び給ふべく候しかども、とかくしてもれ出つ
つ、鞍馬のおくや、醍醐なる所に忍ばせ給つつ、僅

かに御身命ばかりこそたすからせ給ひ候しかども、
いふがひなきやうにて渡らせ給ひ候し間、若御前は
常におさなき御心に、我父はいづくに渡らせ給らん、
行ばやと仰候しかば、この子はそなたとをしへ侍る
人あらば、一定行んずるものぞ心のはやりのままに
走りいでたりとも、島へも行つかず、是へも帰らず、
中にてうせん事のかなしきに、あなかしこあなかしこ、し
らすなと母御前の仰候しほどに、人のし候もがさと
申ものをせさせ給ひ候て、去年の七月十四日にはか
なくならせ給ひ候き、女房は一かたならぬ御歎の中
に、いとど思召しづませ給ひて候しが、御やまひつ
かせたまひて、同十月上旬に失させ給ひ候き、今は
姫御前ばかりこそ御わたり候が、御ありさまとかく
申もおろかなり、母御前うせ給ひて後は、都の御住
居も便なくて、去ぬる正月より奈良のおば御ぜんの
御もとに渡らせ御はしませども、心うきことのみ候
とこそ承り候へ、是へたづね参り候はんと思ひ立候
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し時、参り候て、かくと申入て候しかば、昔はいか
でか直に仰を承り候べきに、はし近く御出候て、な
のめならず御悦候て、あはれ女の身程口をしかりけ
るものはなし、おのこ子ならば、なんぢにつれてゆ
きなまし、父の恋しきはたとへんかたはなけれども、
思に叶はぬ事なれば、さてこそありつれ、多くの人
の中に汝一人尋ね参る悦ばしさよ、たいらかに参り
つきたらば、是を参らせよ、余りになかれて筆のた
てども覚え候はずとて、給りて候し御文などをば、島
の津にて奪ひとり候よし人のおどし候し間、もとゆ
ひの中にしこめて参りたりとて、取出して奉る、僧
都なくなくひろげて見給へば、父御前には生ながら
わかれ参らせて、すでに三とせになり候、御事をこ
そ明ても暮ても三人してなげき候しほどに、若君は
こぞの秋はかなくなり候ぬ、母御前と二人して、生
てのわかれ死してのわかれのかなしきを歎き候しほ
どに、思ひ歎きのつもりて、やまふとならせ給て、

母御前にも同冬かくれさせ給ひて候へば、母御前の
我が死なば、いかがしてたへてもあるべき、奈良のさ
とに伯母といふものあり、尋ね行と最期に仰られ候
しかば、ならの伯母御前のもとに候へども、昼はひ
めもすにかべに向ひてなきくらし、夜はよもすがら
枕とともになきあかし、月日の空しく過行につけて
も恋しく思ひ参らせ候に、かまへてかまへてこのわらは
に具して上らせ給候へと、はかなげにうら書はし書
うすくこく、さまざまに書下し給へり、僧都是を見
て暫くは物ものたまはず、此文をかほにあててたえ
入たえ入はせられけり、やや久しくありておき上りつ
つのたまひけるは、みやうけん三ぼういかにしたま
ひぬる事ぞや、たとひくわはう尽きてかかるありさ
まになるとも、夫妻は二世のちぎりと申に、去年の
秋よりはかなくなりておはしましけるを、かくと夢
にも告げ知らせ給はざりける口惜しさよ、かひなき命
のをしく故郷の恋しきも、今一度妻子を見んためな
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り、さりとしりたりせば、何しに今までながらふべ
きぞ、干死にもすべかりけるものを、さても姫が文
のやうこそむざんなれ、此子は今年十三か四かとこ
そ思ふに、年のほどよりもおとなしくこと葉つづき
も尋当也、されどもいふかひなき一筆をかきたるこ
そはかなけれ、この心ばへにてはいかでか身をもた
すくべき、とくとくしてのぼれとは何事ぞ、うちま
かせたるいなかくだりとこそ覚えたれ、心に任せた
る身ならば、何しにかくは留るべきとて、恩愛の道
のかなしさは、我身の上をばさしおきて、この子の
ゆくゑを思ひやりなかれけるこそあはれなれ、さて
わらは山に入て硫黄をほりてあき人にうり、いそに
いでては磯なを摘みなどして主の命をたすけつつ、
いかにもなりはて給はんを見んと思ひける程に、僧
都のたまひけるは、今までながらへつるは、恋しき者
どものゆくゑを聞んためにこそありつれ、今はかへ
り上りて何にかはせん、その上この島へ流されし時

も、一人も人をつれられざりしに、今人こそ下りてつ
きたれと都に聞えん事も憚りあり、さればとくとく
帰り上れとのたまひければ、有王丸主に向てつまは
じきをして申けるは、あな口をしや、その御身のあ
りさまにても猶世をばおそろしく思召され候か、こ
の上はいかやうなる御目を御覧じ候べきぞ、東方朔
が言葉には、用る時は虎となり、捨る時は鼠となる
と申ければ、いざとよ我こそかく類ひなき罪に沈む
とも、おのれさへ心うき所にてむなしくなさん事の
不便さに、かくはいふなりとのたまへば、京都を立
出し時、思ひ切りて捨てたる命を、このしまにて思
ひ返すべきにても候はず、たとひまかりのぼり候と
も、この御ありさまを見おき候て、いかでかのぼる
空も候べき、同じくは、いかにもならせ給ひ候はん
時を見参らせ、をはらせ給ひて候はん日をもさだか
に知りて、我主はいづれの月いづれの日をはらせ給
ひ候と、かつうは姫御前にも申、かつうは御教やうを
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も申候はん為なりとかきくどき泣ければ、僧都こと
わりと思ひて、さらばこのわらはのあるときいかに
もならばやと思ひ給へどもかなはず、日数を送り給
へり、されども日々に隨ひて次第によわり給ひけれ
ば、さまざまの遺言どもしおき給ひ、今はかぎりと
見え給へば、念仏すすめて、都へかへらざりつる事
の口惜さなど、思召わすれざる御心おはしますべか
らず、今は極楽浄土へ参らんと思召せと申せば、僧
都のたまひけるは二人召返されしにもれし後は、思
ひ切りてこそありしかども、同じつみにてありし身
なれば、なほさりともと思ふ心もありつるに、今はい
ふにかひなしとて泣給へども、涙も落ちず声もいで
ず、かくして二三日ぞありける九月中ばの比、かの
庵の下にて終にはかなくなりにけり、むなしきかば
ねをわらはは取り収て、心の行々なきあきて、我身
も同じく後世の御供仕るべく候へども、やがて出家
して御ぼだいを弔ひ奉るべく候、かつうは姫御前に

今一度この御ありさまをも申さんと思ひければ、だ
だ一人ぞとかくいとなみて、そのもとの土をあらた
めず、松の落葉あしのかれ葉などとりおほひて、夕
の雲とたきあげて、葬禮事終りぬれば、骨をばとり
てくびにかけつつ、なくなく都へのぼりて、奈良の
姫御前にこのよし申ければ、ものをものたまはず、
父の骨を御覧じて、さめざめと泣給へる心の中、誠に
さこそ思召らめとおしはかられてあはれなり、わら
はも涙をおさへて申けるは、御文を御覧ぜられ候て
こそ、殊に御歎はまさらせ給て候しか、彼所は硯も
紙も候はで、御返事にも及ばずして思召候し御心中
さながらむなしく候し事、御遺言の次第こまこまと
語り申ければ、姫御前いよいよ涙にむせびて返事も
し給はず、出家の心ざしありとばかりのたまひて、
引かつぎてふし給へり、日も暮るる程に自ら髪をは
さみ切りて、いづくをさすともなくまよひ出給ひに
けり、後に聞えけるは、高野の山の麓にあまのとい
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ふ別所にとぢ籠りけり、心しづかに行ひて、真言の
行者となり父のぼだいを弔い給ひにけり、念仏の功
つもりつつ、一生不犯にて、終に往生のそくわいを
遂げにけり、有王丸は主の骨を首にかけ、高野の山
にのぼりつつ、奥の院にをさめ置、則ち法師になり
主のぼだいを弔ひける志のほどこそ、いよいよたぐ
ひなく覚ゆれ、かやうの人々の思ひ歎きの積りける
平家のすゑこそおそろしけれ、
旋風
同年六月十四日、おびただしく吹て、人の家多く
てんだうす、風は中御門京極の辺より起りて、未申
の方へ吹きもて行く、棟門平門などふきぬきて、四
五町十町ふきもてゆきて、なげすてなどしけるうへ
は、桁、うつばり、なげし、柱などは虚空に散在して、
かしここにぞちりける、人馬六ちく多くうちころ
されにけり、ただ舎屋の破そんするのみならず、命
を失ふもの多し、法勝寺の九重のたうも上六重は吹
落す、おたぎの十三重の塔も僅に二重ばかりぞ残り

ける、此時の風に堂舎、仏閣、禁裏、仙洞皆ことご
とく破損しぬ、そのほか資財雑具七珍万宝のちり失
せし事いかばかりぞ、此事ただ事にあらずぞ見えし、
天下に於てことなるせうじなりければ、御うらあり、
百日が内に大葬白衣の怪異天子大臣の御つつしみな
り、就中禄おもき大臣のつつしみ、別ては天下大兵
乱仏法王法共にめつし、ひやうかくさうぞくし、き
きんえきれいの相なりとぞじんぎくわんおんやうれ
うどもうらなひ申けるほどに、
重盛逝去
同年〈 治承三年 〉八月一日小松内大臣重盛公うせたまひぬ、
今年四十三にぞなりたまひける、いまだ五十にだに
もみち給はず、世はさかりと見え給ひつるに、父に
先だちてこうじ給ひぬるこそくちをしけれ、ようが
ん美麗にしてさいかくいうちやうなり、一門に並び
なく他家にたぐひすくなかりき、この大臣のうせ給
ひぬるは、平家の運のつくるのみならず、世のため
人のため愚あるべし、入道よこがみをやぶり給つる
P216
も、この大臣のなだめられつるにこそ、世はおだや
かなりつるに、行すゑいかにならんずらんと、高き
も賤しきも歎きあへり、老たるはとどまり、わかき
は先だつならひ、老少不定のさかひなれば、はじめ
て驚くべきにあらねども、時にとりては浅ましかり
しことどもなり、前右大将の
平家物語巻第六終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第七

P217
平家物語巻第七(原本無題)
治承三年十一月十四日、太政入道数万騎の軍兵を率
して、福原より上洛すと聞えしかば、京中何と聞わけ
たる事はなけれども、さわぎつぶやく、此程は小松
殿の御事を歎き給ひて、とぢ籠りておはしつるに、
又いかなる事のあらんずるやらんとて、さわぎける
程に、朝家を恨み奉るべきよし披露す、上下万人こ
はいかにとあきれまどふ、関白殿も内々聞召さるる
事やありけん、内裏の御直廬より御参内あり、入道
相国の入洛の事は、偏にもとふさをほろぼすべきよ
し結搆と承る、いかなるめをか見候はんずらんと世
に心細げに奏せさせ給へり、主上もつての外にえい
りよ驚かせおはしまして、臣いかなるめをも見られ
ば偏に丸が見るにて社あらんずれとて、御衣の袖を
ぬらさせましますぞかたじけなき、天下政務は主上

の御気色を伺ひ摂政の御はからひにてこそあるに、
たとひその儀こそなからめ、いかにしつる事ぞや、
天照太神春日大明神の神慮もはかりがたし、十五日
入道朝家を恨みたてまつるべきよし聞えければ、法
皇じやうけん法印をもて、御使として入道のもとへ
仰せつかはされけるは、およそ近年朝廷静ならずし
て人の心もととのほらず、世間も落居せぬさまにな
りゆく事さうべつにつゐて聞しめし歎かるれども、
さてそこにあればたのみ思召されてこそあるに、天
下をしづむるまでこそなるらめ、事にふれてがうが
うなるていにて、あまつさへ丸を恨むる由風聞あり、
こは何事ぞこの条甚だをんびんならず、いか様なる
仔細にてさやうには思ふなるぞと仰せられければ、
じやうけん法印院宣を承りて六はらへわたられた
り、出あはれざりければ、中門にて源大夫判官すゑ
さだをもて、院宣の趣き申入て、御返事をあひまた
れけれども、巳の刻より申の刻に至るまで無音なり
P218
ければ、さればこそとやくなくおはするに、子息左
兵衛督知盛をもて、院宣の趣畏て承候畢ぬ、但入道
度々朝家の御ために命を惜まず候へども、忽に思召
し捨てられ候ぬる上は 自今以後に於ては院方の宮
仕は思ひ止まりぬれば、御返事に及ばずとこそ御ひ
ろう候はめと申されければ、法印是を聞て世間もい
よいよおそろしく思はれけれども、直に申すべき仔
細多く候が、見参に入ず候へばまかり出候ぬとて出
られければ、さすがに入道いかが思はれけん、庭まで
出られたりけるに、法印呼かへして中門に出であひ
てひざを並べて申されけるは、入道が内々君を恨み
奉るはひが事か、まづ内府がみまかり候ぬる事は、
唯恩愛のわかれのかなしきのみにあらず、当家の運
命をはかるに入道随分涙をおさへてまかりすぎ候、
けふともあすとも知らぬ老のなみにのぞんで、かか
る歎にあひ候心中をばいかばかりとかおぼしめされ
候、されば法皇いささかも思召し知りたる御気色に

て候はず、越前の国は重盛が軍功の賞にあて給候し
所を、内府死にはて候しかば、則召返して他人にた
び候き、たとへ重盛子息一人も候はずといふとも、
入道が一期はなどか思召しあてられざるべき、まし
て維盛以下の子息そのかず候、ぐん功の賞は子々孫
々につたはるとこそ承候へ、かつうは重盛かの国を
あて給候し時も、子々孫々までとこそ承候しか、か
つうは御へんの御心にも推察候へ、保元平治以後ら
んげき打つづき、君安き御心も渡らせ給はざりしに、
入道はただ大かたをとり行ふばかりにてこそ候し
か、内府こそまさしく手をおろして身を碎きたるも
のにて候へ、されば万死に入一生を得る事も度々な
り、その外臨時の御大事朝夕の政務君の御為に忠を
いたす事、内府程の功臣はあり難くこそ候らめ、こ
こをもて、むかしを思ふに、かの唐の大宗は魏徴大
臣におくれて、かなしみのあまりに彼墳墓にりん幸
あり、むかしの殷宗は良弼を夢中に得、今の朕は賢
P219
臣を覚ての後に沒す、といふ碑文を手づから書きて、
かの廟に立て、くわん幸ありけるとは承はれ、まぢ
かくは鳥羽院の御時まさしく見られし事に候、あき
よりの民部卿の逝去したりしかば、故院も殊に御歎
あて、旧臣一人失ひたるは朝家の御歎きとて、八幡
の御幸も延引し、御遊もやめられき、たださだのさ
いしやう中将闕国の時も、是を鳥羽院御歎きありし
かば、たださだ伝へ承りて、老の涙を催しき、然れ
ば忝き御幸かなとこそ人々感じ申しか、すべて臣下
の卒する事をば、代々の君も御歎きある事にて候ぞ
かし、さればこそ親よりもしたしく子よりもなつか
しきは、君と臣との中なりとは申事にて候へ、それ
に内府が中陰の間に、八幡の御幸もありき、所々の
御遊も候き、御歎きの色一事も見えず、たとひ入道
が歎きをあはれみましまさずといふとも、などか内
府が忠を思召しわするべき、たとひ内府が死去をあ
はれみおはしまさずとも、などか入道が歎きをあは

れみ思召さざるべき、父子共に叡慮に叶はざる事今
に面目を失ふ、是一、次に入道が高位我意に任する
よし、今更院中の御さたと承候事、代々朝敵を討ち
平げて、君の御世になし奉るによて昇進仕る条、全
く事由にあらずや、朝敵を討ちて、忠賞にあづかる
事、古今例なきにあらず、田村丸は刑部卿坂の上か
り田丸が子なり、然れども聖武天皇の御宇天平年中
に、奥州のえびすあくしのたか丸が謀反の時、追討
の官兵に下されて、正二位大納言左近衛大将を直任
せられき、是則ち辺土の凶害にて、都の騒動にはあ
らざりき、然れども忠賞の先規かくのごとし、ここ
に保元以後度々朝敵を打靡かししあひだ、昇進にあ
づかる、是二、次に中納言のけつの候し時、二位中
将殿御所望候しを、入道再三申候しに、摂政殿の御
子息三位中将殿をなし参らさせ給ひし事、入道いか
ばかりか口惜く候し、たとひ入道いかなるひきよを
申行ひ候とも、などか一度は聞し召し入られざるべ
P220
き、いかに申さんや、一の人の御子息なり、ちやく
けといひ、かかいといひ、理うんさらに及ばず候し
を引違へられ候し事、偏に入道を御あたみの候ゆゑ
なり、ずゐぶんほいなき御はからひとこそ存候しか、
是三、次に近習に人々をもて、此一門をほろぼさる
べきよしの御はからひ候、これ又かれらが私の計略
にあらず、しかしながら御許容たるによてなり、い
まめかしき申事にて候へども、たとひいかなるあや
まり候とも、いかでか七代までは思召しすてらるべ
き、入道すでに七旬に及で余命幾程ならず、一期の
間にもほろぼさるべきよしの御気色にて候、いはん
や子孫相續して召仕はれん事かたし、凡そ老て子を
失ふは朽木の枝なきにてこそ候へ、内府におくるる
をもて、運命のすゑにのぞみ候事、思ひ知られ候、
又天気の趣あらはれ候なり、然ればいかやうなる奉
公をいたすとも、叡慮に応ぜん事よも候はじ、その
上はいくばくならざるに、身心を尽しても何かせん

なれば、とてもかくても候なんと思なりて候なりと、
かつうは腹をたてかつうは涙を流されける間、法印
は哀にもおそろしくも覚えてあせ水になられたり、
その時はたれたれも一言の返事にも及びがたかりけ
り、その上我身も近習の人なり、成親の卿以下のは
からひし事ども正しく見聞し事なれば、その人数と
や思けがされんなれば、唯今も召籠られん事もやあ
らんずらんと、心の中には案じつづけらるるに、龍
のひげをなで、虎の尾をふむ心地せられけれども、
法印さる人にて驚かぬ体にて答へられけるは、誠に
度々の奉公浅からず、一たん恨み申させましますむ
ね、そのことわりなきに非ず、ただし官位といひ、
俸禄といひ、御身にとりてはみな満足す、既に軍功
ばく大なるをもて思召しあてられたるとこそ見えて
候へ、然るに近臣事をはからひ君の御きよやうある
などといふ事、偏に謀臣の凶がいと覚え候、耳をし
んじて目を疑ふは、俗弊なり、少人の浮言を信じま
P221
しまさんこと、めうけんに付てその憚すくなからず、
凡そ天地は蒼々としてはかりがたく、叡慮さだめて
その政候らん、下として上を逆する事、豈人臣のれ
いたらんや、よくよく御思惟候べし、さればとて忽
に院方の御出仕思召しとどまらん事いかがあるべく
候らん、君々たらずといふとも、臣もて臣たらずん
ばあるべからず、父々たらずといふとも、子もて子
たらずんばあるべからず、君は君の振舞たらずとい
ふとも、臣は臣のふるまひまさしかれとこそ、本文
には見えて候へ、所詮このよしをこそ披露仕候はめ
とてたたれけり、居並びたる軍兵耳をすまして、あ
なおそろしの法印の御房や、是程入道殿のくどき給
はんには、ただうちうなづくばかりにてこそ立たる
べきに、しづしづと本文申てたたれぬるいみじさよ
とささやきあひければ、貞能申けるは、さればこそ
そこばくの人の中に、僧なれども択び出されてかか
る御使にはたたるらめとぞ申ける、帰参して御返事

くはしく奏せられければ、道理しごくして、法皇更
に仰やられたる方もなし、こはいかにすべきとぞ仰
せられける、
治承三年十一月十五日、入道朝家を恨み奉るべきよ
し一定と聞えければ、さしもやはと人々思はれける
に、関白〈 松殿基房 〉同御子息中納言中将師家をはじめ奉り
て、太政大臣師長、按察大納言資賢以下の公卿殿上
人北面の輩、そうじて四十二人官職をとどめられて
追ひこめらる、この中に関白殿をば太宰権帥にうつ
し奉て、筑紫へ流し奉る、関白殿はかかる浮世にな
がらへて何かせんと思召しけるに、御命も危くおぼ
しければ、淀のこなた古河と云ところにて、大原の
本上々人を召して、御ぐしをおろさせ給ひけり、御
年三十五、御世中さがりとおぼしめし、れいぎもめで
たくしろしめして、くもりなきかがみにておはしつ
るものと申て、人々惜み奉る、出家の人は本、約束の
国へは赴かぬ事にて、筑紫へはくだし奉らずして、
P222
備前国湯迫といふ所へぞおはしましける、参議皇太
后権大夫右兵衛督藤原光能卿、大蔵卿左京大夫兼
伊予守高階泰経朝臣、蔵人右少弁兼中宮権大夫藤
原泰親朝臣、以上三官をやめらる、按察使大納言源
資賢卿、中納言中将師家卿、右近衛権少将兼讃岐守
資時朝臣、太皇太后宮権少進兼備中守藤原光憲朝
臣、以上二官をやめらる、
大臣流罪の例は左大臣〈 蘇我赤兄 〉右大臣〈 豊成公 〉右大臣〈 菅原今北野天神御事也 〉
左大臣〈 高明公 〉内大臣〈 伊周公 〉に至るまでその例すでに六人
なり、されども忠仁公照宣公よりこのかた摂政関白
の流罪せられ給ふ事是ぞはじめなる、浅ましかりけ
る事也、故中殿基実公御子二位中将基通公と申は、
今近衛入道殿下の御事なり、その時太政入道の御聟
にてましましけるを、一度に内大臣関白になし奉ら
る、
円融院の御宇天禄三年十一月一日、一条摂政伊尹〈 謙徳公 〉
御年四十九にて俄にうせさせ給ひしかば、御弟の法

興院入道、殿大納言大将にてわたらせ給ひけるが、内
大臣正二位にあがりて内覧の宣旨を蒙らせおはしま
したりしをこそ、時の人々不日にて驚きたる御昇進
と申しに、是はそれにも超過せり、非参議にて二位
中将より宰相大納言を経ずして、大臣関白になり給
へる、是やはじめなるらん、されば大外記大夫史執
筆の宰相にいたるまで、皆あきれたる体なり、大方
高きも賤しきも、ぜひにまよはぬは一人もなかりけ
り、去々年の夏の頃、成親の卿父子俊寛僧都北面下
臈どもが事にあひしをこそ浅ましと君も思召し、人
も思ひしに、是は今一きはの事なり、されば是は何
事の故ぞと覚束なし、此関白にならせ給へる二位中
将殿、中納言になり給ふべきにてありけるを、関白殿
の御子三位中将師家とて八歳になり給ひけるが、そ
ばよりおしちがへてなり給へる故とぞ人申ける、さ
れどもさやはあるべき、さらば関白殿こそいかなる
とがにもあたり給はめ、四十余人まで人の事にあふ
P223
べしや、なにさまにもやうあるべし、天満外道入道
の身に入かはりにけるとぞ見えける、按察大納言資
賢卿の子息左少将資時、まごの右少将まさかたの朝
臣以上三人をば京中ををはるべきよし、藤大納言さ
ねくにの卿上卿として博士判官中原章貞を召して宣
下せらる、いづくを定ともなく、都の外へおはるるこ
そかなしけれ、中有の旅とぞ覚えける、くわん人参
りて追ひければ、おそろしさの余りにものをだにの
たまひおかず、子息召し具していそぎ出給ふ、北の
方より始めて、女房侍どもをめきさけぶこと夥し、
三人涙にくれて行先も見えねども、その夜の中に九
重の内を紛れ出でて、八重たつ雲の外へぞ思ひたた
れける、七条朱雀より西をさして、彼大江山いく野
の道へぞ赴き給ひける、夢路をたどる心地す、いづ
み式部が保昌にあひぐして丹後の国に下向の時、内
裏に御賀の御会あり、少式部内侍母を尋ぬるかの勅
使度々たまはりて御返事に、

大江山いく野の道の遠ければ
まだふみも見ず天のはし立 W061 K279
と申てめいしよたりけん道にかかりて、丹波の国村
雲といふ所に暫くやすらひ給ひけるが、のちには信
濃の国に落ちとどまり給ひけり、ある時諏訪の下宮
に詣で給ひて歌をうたひ給へるに、神殿俄に震動し
てあつと感ぜさせ給ふ御声ありけり、資賢の卿も身
の毛よだちて、神官等も感涙をおさへて御悦必定候
べしと申けり、その後程なく内侍所の御神楽のため
に資賢めしかへされ給ひけり、神感むなしからず、
ためしもすくなくぞ覚えし、さてかの卿入洛の夜、
院の御所へ参られたりければ、いつしかうたこそ聞
たけれと仰のありけるに、
信濃にあんなるきそぢ川
君に思ひの深かりし W062 K280
といふ歌をまさしく見るなれとて、しなのにありし
木曾路川とうたひたまひければ、ことにえいかんあ
P224
りけるとかや、さて資賢卿つづみをば参詣の時大明
神に参らせられたりければ、彼社に今にあるとぞ聞
えし、この卿は今様、らうえいの上手にて、院の近
習者の当時の、さいしんにておはしければ、法皇諸
事内外なく仰合せられける間、入道殊にあたまれけ
るとかや、太政大臣は去保元々年七月父悪左府のえ
んざによて、兄弟四人流罪せられ給ひし時、中納言
中将と申て御年十九にて同八月に土佐の国へ流され
たまひたりしが、御兄の右大将兼長卿も、御弟左中
将たか長朝臣、範長禅師も帰洛をまちつけず、配所
にてうせ給ひき、此太政大臣は九年を経て長くわん
二年六月廿七日めしかへされて、同十月十三日に本
位に復して内裏へ参り給ひたりければ、君をはじめ
参らせて雲客卿相、各いかなる曲をか配所にてたん
じ給ひたるらん、一曲候はばやと君も臣もおぼしけ
る御気色ありければ、大臣賀王恩といふがくをひき
給ひけり、是はことわりなり、皇の恩をよろこぶと

いふ楽なり、次にげんじやうらくをひき給ひけるに、
君も臣も思ひの外に聞し召しけり、そかう万秋楽の
五六調にかかりてさまざまの曲もあるぞかし、なぞ
尻ふりよこたはりたるげんじやうらくをひきしこと
はと御たづねありければ、都へかへりてたのしむと
申がく也と大臣申されければ、君をはじめ参らせて
感じ申されけるとかや、永まん元年八月十七日に正
二位に叙せらる、仁安元年十一月五日前中納言より
権大納言にうつり給ふ、大納言あかざりければかず
の外にぞ加はりたまひける、大納言六人になる事是
よりはじまれり、又前中納言にうつること、後山科
の大臣三守公、宇治大納言たか国卿の例とぞ聞えし、
先例まれなりとぞ申ける、くわんげんの道を長じ才
能人にすぐれて、君も臣もおもんじ奉り給しかば、
次第の昇進滞らず程なく太政大臣にあがらせ給へり
しに、いかなるぜん世の御宿業にて、又かかる事に
あはせ給らんとぞ申ける、保元のむかしは、南海土
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佐の国へうつり、治承の今は東関尾張の国へおもむ
き給ふ、もとより罪なくして配所の月を見んといふ
事は心ある人の願ふ事なれば、大臣あへて事ともし
給はず、十一月十七日暁ふかく出たまへば、あふ坂
山につもるゆき、四方の杪もしろくして、在明の月
の光ほのかなり、あいゑんこずえゑにおとづれて、遊
子ざん月に行けんかんこくの関おぼし出されて、昔
蝉丸の嵐を凌ぎ給ひけん、わらやの跡をうち詠め、
うちでの浜につき給ふ、
天智天皇の御宇、大和の国あすかの岡本のみやより
彼所にうつらせ給ひけん、昔の皇居のあとぞかしと
思ふにも涙とどまらず、あはづの原をうち過、瀬多
のから橋うちわたる程に、あけぼのの空になり行け
ば、水うみはるかにあらはれて、かのまんせい沙弥
が比良の山に居て、漕ぎ行く舟と詠めけん跡の白波
あはれなり、野路のしゆくにもかかりぬれば、かれ
野の草における霜、日影にとけて旅衣かわくまもな

くしほれつつ、しの原東西見渡せば、はるかに遠き
岡あり、北には郷人すみかをしめ、南には池水広く
すめり、むかひのみぎはには、みどり深き十八公、白
浪の色にうつろひて、南山影をひたさねども青くし
てくわうやうたり、すざきにさわぐをしかもの、あ
してをかくかと疑はれ、都を出る旅人は、此宿にの
みとまりしが、うちすぐるのみ多くして、むらさびし
くなりにけり、是を見るにつけてもかはり行く世の
有様は、飛鳥の川の淵は瀬にもかぎらざりけりとあ
はれなり、かかみの宿にもつきぬれば、大伴黒主が、
鏡山いざたちよりて見てゆかん
としへぬる身は老やしぬると W063 K224
と詠めけんもかの山の事なり、やどとりたくは思へ
ども、その夜は無作寺にとどまりぬ、あばらなると
この冬の嵐、夜ふくるままに身に入て、都には引か
はりたる心地なり、枕に近きかりがねの声、暁の空
におとづれて、かの遺愛寺の草の庵の、寐ざめもか
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くやと思ひしられけり、蒲生野を過行ば、おいその
もりの杉村に横雲幽にかかる雪、あさ立袖に拂ひか
ね、音に聞ゆるさめが井の、くらき岩ねに出る水、九
夏三伏の夏の日も、班〓〓が團雪の扇、かんふうにか
ふる名所なれば、玄冬そせつの冬の空、月にともな
ふせつせんのほとりなる、無熱の池を見る心地して、
関山にかかりぬれば、谷川雪のそこに音むすび、せ
いらん松の木ずゑに時雨つつ、日影も見えぬ木の下
の道、心細くも打すぐる、不破のせき屋の板びさし、
年ふりにけりとうちながめ、株瀬川へぞつきたまふ、
霜月廿日の事なれども、夜ふけ人静まれば、皆白妙の
はなの空、清き河瀬にうつろひ、照る月波もすみわ
たり、二千里が外の故人の心、思ひやられて旅の道、
いとどあはれに思しめす、尾張の国井戸田につきた
まふ、かの唐の太子ひんかく白楽天、元和十五年秋
のころ九江郡の司馬にさせんせられ給ひ、じんやう
江のほとりに踟〓とやすらひ、びはを聞給ひけんふ

るきよしみを思しめし出されて、なるみがたしほぢ
はるかに遠見して、常は浪月をのぞみ、浦吹風にう
そぶき、びはをたんじ、詩を詠じ、なほざりにあか
しくらし給ひけり、ある夜当国第三の宮熱田の明神
へ参詣あり、森の木の間よりもりくる月はさし入て、
あけの玉垣色を添へ、和光利物の庭に引くしめなは
風に乱れ、何事につけても神さびたるけいきなり、
此社と申はすさのをのみことなり、はじめはいづも
の国に宮造りありけり、やくもたつといふやまとこ
とのはも、是よりぞはじまりける、その後景行天皇
御宇に、このみぎりにあとをたれ給へり、此宮の本
体は、くさなぎと號し奉る神劔なり、景行天皇の第
二の皇子日本武の尊、東夷を平げて帰り給ふ時、尊
は白鳥になりて飛びさり給ひぬ、つるぎはあつ田に
とどまり給ひぬともいへり、さても一条院の御時、大
江の匡衡当国の守にて国務の時、大般若をとげける
ぐわんもんに、我願すでにまんじぬ任限又きはまり
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ぬ、故郷に帰らんとする期いくばくならずと書きた
りしこそ、哀に覚えてうらやましくは覚されけれ、
大臣大明神法楽のために宵のほどは笛をあそばし、
更闌人静まれば、風香調の中に花ふんふくの匂をふ
くむ、流泉の曲の間には、月清明の光をますといふ
朗詠をせさせたまひて、びはの三曲をととのへたま
ふ、大げんは〓々としてむら雨のごとし、少げんは
せつせつとしてさざめごとに似たり、されば妙音大
師は四徳のかたちをあらはして、左の御手のいんさ
うにふかき故ありと申はいまの三曲是也、かるが故
に明神も是に幸臨し仏陀も是を納受せり、もとより
むちの俗なればなさけをしれるもの希なり、邑老村
女漁人野叟、頭をたれ耳をそば立つといへども 更に
せいぢよくをわかちりつりよを知ることなし、され
ども瓠巴琴をたんじしかば、魚鱗をどり迸り、虞公
歌を発せしかば、れうぢんうごきさわぐ、物の妙をき
はむる自然のかんを催すことわりにて、まん座涙を

さそふ、その声〓々せつせつとしてまたしやうしやう
たり、大絃小げんのきんけいの操、大珠小珠の玉盤
におつるに相似たり、調弾数曲を尽し夜漏深更に及
て、願以今生世俗文字業狂言綺語過、飜為当来世々
讃仏乗因転法輪縁、
といふ朗詠を兩三返せさせ給ひければ、神明かん応
にたへず宝殿震動す、衆人身の毛よだちて奇異の思
ひをなす、大臣は平家のかかる悪行を致さずば、今
このずゐさうをはいせましやはと、かつうはかんじ、
かつうは悦給ひけり、十二三ばかりのかんなぎの御
ほう前にて、地の上三尺ばかり空に立て託宣にいは
く、君配所におもむき給はずば我今いかで此秘曲を
聞べき、然れば帰京のそくわいうたがひなし、じや
うじゆしてほん位に復したまふべき事ただいまなり
と申てあがらせ給ひけり、衆人身のけよだちて感涙
をぞ流しける、抑此秘曲と申は、仁明天皇御宇承和
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二年に掃部頭定敏勅宣を承て、遣唐使として牒状を
もて、観察府奉しに、上覧に達して、琵琶のはかせ
をのぞみ申しに、海清二年の秋の比、れんせうぶを
送られて秘曲をさづけられて後、我朝に伝へしは、
流泉啄木陽真操の三曲なり、或時此大臣御とぜんの
余りに、宮地山に入らせ給ふ、比は神無月廿日あまり
の事なれば、木ずゑまばらにして落葉道をうづみ、
白霧山をへだてて鳥の一声かすかなり、山又山をか
さぬれば里遠し、賤が居所もほど隔りぬ、松山峨々
として白石に瀧の水みなぎり、落る所もあり、則ち
石上流泉のたよりを得たる勝地なり、苔石面に生て、
上雲の曲を調へつべし、いつもの御事なれば、しと
うの甲の御琵琶一めん、御ずゐじんあり、石の上な
がら皮をうちしき、北に向ひて御琵琶を御膝の上に
かきすへ、ばちをとりつつ、絃をうちならし、四絃
弾の中にはきうしやう弾をむねとし、五絃弾の中に
は玉商弾をさきとせり、風香調の中は花ふんふくの

気をふくみ、流泉の曲の間には月せいめいの光を添
ふ、かろくおさへゆるく捻て撹ては又撹返す、はじ
めは霓裳をなす、後にはりくえうす、大げんは〓々
としてむら雨のごとし、小絃はせつせつとしてさざ
めごとに似たり、第一第二の絃は索々たり、春の鶯
くわんくわんとして花のもとになめらかなり、第三第
四の絃は颯々たり、寒泉幽咽して氷の下なやまし、
大珠小珠の玉盤に落つる声金桂の操、鳳凰鴛鴦の和
鳴、音をそへずといへども、事のてい山神感をたれ
給ふらんと覚えたり、さびしき木ずゑなれども、そ
う花喙木はそらに玲瓏のひびきを送る、曲おはりば
ちををさめ給ふに、水の底より青黒色の鬼神出現し
てひざ拍子うち給ひ、びはにつゐていつくしげなる
声にて、しやうかせり、何者のしわざなるらんと思
召しながらおはしますに、鬼神申さく、我は是水の
底にいまして多くの年月をふるといへども、いまだ
かかるめでたき御事をうけ給はらず、此御悦にはい
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ま七日のうちに御帰洛のあらんずる候と申もはてね
ば、かきけつやうにうせにけり、水神の所行とはい
ちじるし、是等の事を思召しつつくるに、あくえん
はすなはち善えんにてありけりと思召知られけり、
その後第五日と申に、御帰洛あるべきよしの奉書下
されて、則ち上洛ありけり、くわんげんの音曲を極
め、近代までも妙音院の太政大臣と申し人の御事な
り、妙音ぼさつのげんじ給へるとぞ申ける、村上の
聖主天暦のすゑのころ、神無月の半、月すさまじく風
の音しづかに、夜ふけ人静まりて、清涼殿にましまし
て水牛の角のばちにてげんじやうらくの破を調させ
給ひつつ、御心をすまさせ給けるに、雲、南殿に引お
ほひて、影の如くして仙人飛び来てひさしの間にや
すむ、みかど是を御覧じて誰人ぞととはせましませ
ば、我は是れ大唐の琵琶のはかせれんせうぶと申者
なり、天人の果報を得て虚空を飛行する身にて候、
ただ今是をまかりすぎ候が御琵琶の音をうけ給るに

つきて参りたり、いかにとなれば、去承和のころ、定
敏にさづけしに秘曲を一のこせり、君玄上を弾じ給
ふがめでたければ、おほそれながら君に授け奉らん
と申せば、聖主ことに感じ給ひて御琵琶をさしおき
給へば、れんせうぶ是を給て妙にことなる秘曲をぞ
尽しける、上玄石上是なり、帝是を伝へ給ひしかば
仙人飛去りぬ、みかど雲ゐはるかにえいらんありて、
感涙を流させ給ひけり、物の妙を極むる自然の感を
催すことわり是也、されば山神も影向し給ひけるに
にそ、高転と申人の母重き病ひを身に請けて存命不
定なりしかば、稲荷のやしろに七ヶ日参籠して母の
病を祈り申しに、夜深更に及びて、この曲を弾ぜし
時、御前のとうろの火消えんとしけるを、ほうでんよ
り童子一人出現して、法燈をぞかかげ給ひける、神
慮の御納受たのもしく覚えて下向の後、母の病たち
どころに平癒す、かかるめでたき秘曲なれば、神明
の恵みもことわりなり、此大臣を平家殊に悪み申さ
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れける事は、大唐より難字を作りて公家へ送りたり
けり、是を読む人なかりけるに、此殿よまれたりけ
り、これは平家の為にあしかりける故なり、文字三
あり、一には国のつくり、是をば王なき国と読まれた
り、一には国のつくりの中に分といふ字を三書きた
り、是は国みだれてかまびすしとよまれたり、一に
は身体の身文字を二つならべて書きたり、是をばし
たためにやらんずとよまれたり、有否兩度の文を此
殿見給ひて、唇をあけて笑ひて皆読まれたりけれど
も、うけ給ける人々はこまかに覚えず、是は平家の
悪行異国まで聞えて、国王をはぢしめ奉る文なるべ
しとぞのちには人申ける、左衛門佐なりふさは伊豆
の国へ流さる、備中守光憲はもとどりきりてんけり、
江大夫判官遠業は、流罪せらるべき四十二人の中に
入たりと聞いて、今はいかにものがるべからずと思
ひて、誠にや流人前兵衛佐頼朝こそ平治の逆乱に、
父下野守誅せられてのち切りのこされて、伊豆の国

蛭の島に流されておはすなれ、かの人は頼母しきひ
となり、うち頼みて下りたらば、もしこの難やのが
るる事もやとて、かはら坂の家を打いで、父子二人い
なり山に籠りたりけるが、よくよく思へば、兵衛佐た
うじは世にある人にてもなし、左右なく受とる事も
ありがたし、又あふ坂不破の関こえ過ん事もおだし
かるべしとも覚えず、その上平家の家人国々に充満
したり、路頭にしていひがひなくからめとられて、
生ながら恥をさらさん事、心うかるべしとて、思ひ
返してかはら坂の宿所へ帰りて、家々に火をさして
父子手をとりくむで、ほのほの中へ走入て焼しにに
けり、時に取てはゆゆしかりけることどもなり、此
外の人々も迯迷ひあわて騒ぎあへり、浅ましともい
ふ計りなし、去々年七月讃岐院御追號、宇治左府贈
官の事ありしかども、怨霊も猶しづまり給はぬやら
ん、此世のありさま偏にてんまの所行とぞ見えし、
およそ是にてもかぎるまじ、入道腹をすへかね給へ
P231
り、のこりの人々おぢをののきける程に、そのころ
左少弁行隆とておはしける人は、故中山中納言顕
時卿の長男にておはせしが、二条院御代に近く召仕
はれて、弁になりたまへり、はいにんの時も右少弁
長方をこえなどして左にくははり給へり、正五位上
し給ふ時も、顕要の人八人をこえてゆゆしかりしが、
二条院におくれ参らせて時をうしなへりしかば、仁
安元年四月六日、官をやめられて籠居し給ひしより、
長くせんどを失て、十五年の春秋を送りつつ、夏冬
の更衣にもおよばず、朝夕の食事も心にかなはずし
て、かなしみてあかしくらし給ひけるほどに、十六
日のさ夜ふくるほどに、太政入道よりとて使者来て
立よりたまへ、急ぎ申合すべき事ありといへり、何
事やらんとて行隆さわぎ給へり、人々多くことにあ
はるめり、我もいかなるべきにか、此十四年の間は
何事にもあひまじはらねばとはおぼしけれども、さ
るにつけてもむほんなどに與力するよし、人の讒言

したるむねばしのあるやらんと思はぬ事もなく、む
なさわぎしておぼしけり、いそぎ参るべきとのたま
ひたりけれども、牛車もなし、装束もなし、おもひ
煩ひて、弟の前左衛門佐ときみつと申ける人おはし
けり、かかる事こそあれといひ送られたりければ、
牛車ざつ色の装束などいそぎ奉り給へりければおは
しけり、北の方公達などはいかなる事にやとてきも
心をまどはし給へり、西八条へをののくをののくおはし
たれば、入道げんざんし給ひてのたまひけるは、故
中納言殿と親しくましまししうへ、殊にたのみ奉て
大小事申合せ候き、その御名残にてましませば、おろ
そかに思ひ奉る事なし、御籠居年久くなりにき、そ
の事なげき思給へども、法皇の御はからひなれば力
及ばざりつるに、今は御出仕あるべく候、さも思召
し候はば、御くわんとの事不日に口入申すべしとあ
りければ、行隆のたまひけるは、此十四五年は迷者
になりはて候て、出仕のありさま見苦しげにこそ候
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はんずれども、ともかくもいかでか仰をば背き申す
べき、今の仰偏に春日大明神の御はからひと仰ぎ奉
候とて、涙を流して出られぬ、ともなる者ども別の
事なしと思ひて急ぎ帰り、弟の左衛門佐の許へ人を
つかはして、只今帰りて候とつげられたりければ、
やがておはしたり、行隆、入道の宣ひつるやうを語
られければ、北の方よりはじめて、皆泣笑して悦あ
へり、後の朝に源大夫判官すゑさだが、小八葉の車
に入道のうしかけて牛飼装束あひぐして、百疋百兩
百貫百石を送られたりけるに、家中の上下手足の置
所をしらず、余りの事にて夢かとぞ思ひける、さて
十七日左少弁親宗追ひ籠られしそのかはりに、行隆
左少弁になりかへりて、十八日五位蔵人に補せられ
き、今年五十一になり給ふ、いささかわかやぎ給ふ
もあはれなり、
廿日院御所七条殿に軍兵雲霞の如く四面に打圍みた
り、二三万騎もあるらんと見ゆ、こは何事ぞと御所

中に候あひたる公卿殿上人、上下の北面の輩、つぼ
ねの女房までもさこそ浅ましくおぼしけめ、心中た
だおしはかるべし、むかし悪右衛門督が三条殿をし
たりけん様に、火を懸て人を皆焼き殺さんとすると
いふ者もありければ、局の女房うへわらはなどはお
めきさけびて、かちはだしにて物をだにかつがずし
て、恐れふためきまとひてさわぎあへる事いふばか
りなし、日ごろの世の有さまにあひて、今日の軍兵
の圍みざま、さにこそとはおぼし知られけれども、
さすがに忽に是ほどの事あるべしとも思し知られず
やありけん、法皇もあきれさせおはしますていなり
けるに、右大将宗盛参られたり、こは何事ぞ、いかに
なるべきにてあるぞ、遼遠なる島へはなたれんとす
るか、さ程に罪深かるべしとこそ覚えね、主上さて
おはしませば、政に口入するばかりにてこそあれ、
その事さるまじくば、是より後は天下の事いろはで
こそあらめ、我さてあれば思はなたじとたのみてこ
P233
そあるに、いかにかく心うきめを見するぞと仰せら
れければ、大将申されけるは、さしもの御事はいか
が候べき、世をもしづめ候はんほど暫く鳥羽殿へわ
たらし参らせ候べき由を入道申候つと申せば、とも
かくもと仰せられければ御車をよす、大将やがて御
車寄に候、右衛門佐と申女房出家の後は、あまぜとめ
さるあま女房一人ぞ御車の尻に参りける、御物の具
には御経のはこ一合ばかりぞ御車には入られける、
法皇は、さらば宗盛も参れかしと仰せありけれども、
入道気色に恐れて参らず、夫につけても法皇は、内
府には殊の外に劣りたりけるものかなとぞ思召され
けるもことわりなる、丸は一年かかるめを見べかり
しを、内府が命にかはりていひとどめざりしによて
こそ、いままであんをんなりつれ、内府うせぬる間、
今は諌る人なしとて、その所を得てはばかる所もな
くかやうにするにこそ、行末こそ更にたのもしから
ねとぞ思し召されける、公卿殿上人の一人も供奉す

るもなし、北面下臈二三人と御力者金行法師ばかり
ぞ、君はいづくへ渡らせ給ひぬるやらんと思ひける、
心うさのあまりに御車の尻に、下臈なればかい紛れ
てぞ参りける、その外の人々は七条殿より皆ちりぢ
りにうせにけり、御車の前後左右には、二三万騎の
軍兵うち圍みて、七条を西へ朱雀を下りに渡らせ給
へば、京中の貴賤上下、賤のをしづのめまでも、院の
流されさせ給ふとののしりて見奉らんとて、たけき
武士までも涙を流さぬはなかりけり、鳥羽の北殿へ
入らせ給ふ、肥前守泰綱と申ける平家の侍、守護し
奉る、法皇の御住居おしはかり参らすべし、然るべ
き人も候はず、この右衛門佐と申あま女房ばかりぞ
ゆるされて参りける、ただ夢の御心地して長日の御
修法毎日の御勤め、御心ならずたいてんせさせおは
しましまさず、供御参りたりけれども、御覧じも入
ず、先立ものは御涙ばかりなり、門の内外に武士充
満したり、国々よりかり上られたりしえびすなれば、
P234
見なれたるものはなし、つらたましげなるかほけし
き、うとましげなることがらなり、大膳大夫業忠
は十六歳の年、兵庫助と申けるが、いかにとしてま
ぎれ参りたりけるやらん、候けるを召して、今夜我
をば一定うしなはれぬと覚ゆるをいかがせんずる、
御行水を召さばやと思召すはかなはじとやと仰あり
ければ、業忠さらぬだにけさよりはきもたましひそ
の身に隨はず、おんはくばかりにてありけるが、此
仰を承りければ、いとどきえ入やうに覚えて、もの
も覚えずかなしかりけれども、余りのかたじけなさ
にじやう衣の上に玉だすきかけて、水汲み入て、小柴
垣をこぼち、大ゆかの束柱をわりなどして、とかく
して御湯し出して参らせたりければ、御行水召され
て御経とり出させ給ひて、御おこなひぞありける、
さいごの御つとめと思召されけるこそかなしけれ、
されども別の御事なくその夜は明にけり、去七日の
大地震はかかる不思議のあるべかりけるぜんへうに

て、十六洛叉の底までもこたへて、堅牢地神もおど
ろきさわぎ給ひけるとぞ覚えし、陰陽頭泰親朝臣は
せ参て、なくなく奏聞しけるもことわりなり、かの
康親の朝臣は、晴明五代の跡をうけて天文のえんげ
んをきはめ、上代にもたぐひすくなく、当世にもな
らびなし、すゐ条たな心をさすが如く、一事もたが
はず、さすの御子とぞ申ける、去安元の夏のころ、泰
親院の御所法住寺殿へ参りけるに、七条河原より夕
立して雷おろおろなりけるが、柳原かはら坂の辺に
ては、殊の外に夥しくなて、いなびかり隙なくして、
泰親が車のあたり近く落ちぬべかりければ、車をや
りとどめて、ざつしき牛飼をば車の下にいれて、天
やくのいんをむすび、五気親をじゆつして少しもさ
わがず、雷ことにたかくなりて、あやまたず、車の
右一丈ばかりのきてぞ落ちたりける、見れば何とは
知らずかがやきて目もあざやかなり、誠にや雷はあ
しざまに落ちぬれば、えあがらざんなる物をと思ひ
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て、急ぎ車より飛おりて、笏を捧げたれば、是に取
りつきてぞ上りける、但し雷火に上の衣の袖ばかり
はやけにけれども、その身はつつがもなかりけり、院
の御所へ参りてしかじかと奏しければ、法皇聞しめ
して泰親はただものに非ずとぞ仰せられける、じや
うけん法印は今度は御つかひの儀にはなくて、思ひ
切たるけしきにて、太政入道の方に行むかひて申さ
れけるは、法皇の鳥羽殿に渡らせおはしまし候なる、
人一人もつき参らせ候はぬよし承り候が、余りにか
なしく存候、しかるべくはじやうけん一人許されを
蒙りて、参り候はばやとなくなく申されければ、入
道、法印はうるはしき人の、心正直に事あやまつまじ
き人にておはしければ、ゆるされにけり、法印手を
合せて悦で急ぎ鳥羽殿へ参られたりければ、法皇は
うちあげうちあげ御経たつとくあそばす御声もことにす
ごく聞えさせおはします、御前には一人も候はざり
けり、法印参られたりけるを御覧じて、うれしげに

思召して、あれはいかにと仰られはてぬに、御経に
御涙をはらはらと落ちかからせおはしますをきうた
いの御袖を御顔におしあて、わたらせましますを、
法印見参らせて余りにかなしく覚えければ、何と申
やるかたなくて、御前にうつぶしに伏て、声もをし
まずなきたまへり、女房右衛門佐も思入てふししづ
みたりけるが、法印の参られたりけるを見て、起き
上りてのたまひけるは、昨日のあした七条殿にて供
御参りたりし外は、夜べもけさも御湯漬をだにも御
覧じ入られず、ながき終夜御しんもならず、御歎き
のみくるしげに渡らせましませば、ながらへさせた
まはん事もいかがと覚ゆる事こそ悲しけれとて、は
らはらとなきければ、法印涙をおしのごひて申され
けるは、いかに供御は参らぬにや、此事更に歎き思
召すべからず、平家世をわがままにして既に廿余年
になり候ぬ、何事も限りある事なれば、栄華極まつ
て宿運つきなむとする上、天魔のかの入道が身に入
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かはりて、かやうに悪行を企つといへども、君あや
まちたまふ事なし、かくて渡らせたまふとも、伊勢
太神宮正八幡宮以下君のとりわけたのみ参らせさせ
たまふ、日吉山王七社一乗しゆごの御ちかひたがふ
事なくして、かの法花八軸に立かかりてこそ君を守
り参らせさせましますらめ、私あらじと思召めさば、
天下は君の御世に帰り、あくとは水のあわと消えう
せん事ただ今の事なり、とくとく供御参候へとてす
すめ参らせられければ、御湯漬少し御覧じ入られに
けり、かかりければあまぜも少しちからづきて思は
れけるうへ、君もいささかなぐさむ心おはしけり、
法印その日より出られず、やがてしこうして、朝夕
にかやうの事どもとぞ申なぐさめ参らせられける、
此右衛門佐と申女房は、若くより法皇の御母儀、待賢
門院の御妹の上西門院に候はれけるが、器量いみじ
き人にてはなかりけれども、さかさかしきうへ、然
るに一生ふばんの女房にておはしければ、清きもの

なりとて、法皇御幼稚の時より近くめしつかはせた
まひけり、臣下も君の御気色によりてあま御前とか
しづきてよばれけるを、法皇の御かたことにあまぜ
と仰ありけるとかや、
主上高倉の院は臣下の多く滅びうせ、関白殿事に合
せ給ふだにも、なのめならず歎き思召されて後は、
何事も聞召入ぬさまなり、日を経つつ思ししづみて
供御もはかばかしく参らず、御しんも打とけてもな
らず、常は御心地なやましとて、夜のおとどにのみ
ぞ入らせましませば、后宮をはじめ参らせて、近く
候はせ給ふ女房達も、いかなるべき御事ぞやと心ぐ
るしくぞ見参らせ給ひける、
廿日法皇鳥羽殿に打こめられさせ給ひし日より、内
裏には俄にりんじの神楽はじめられて、毎夜に清涼
殿の石灰の壇の上にて太神宮をぞ拝し参らせましま
しける、法皇の御事を祈り申させましましけるにこ
そ、同じ御親子の御なからひと申ながら、是ほど御
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志の深さこそやんごとなかりけれ、それ行に百行あ
り、百行の中にて孝行をもてさきとす、明王は孝をも
て天下ををさむともいへり、されば唐尭は老おとろ
へたる母をたつとび、虞しゆんはかたくななる父を
敬ふといへり、漢の高祖帝位につき給ひて後、父大
公をうやまひ給ひしかば、天に二の日なし地に二の
主なしとていよいよおそれ給ひしに、太上天皇の位
を父にさづけたまひき、かの賢皇聖主の先規をおは
せましましけん、天子の御まつり事こそ目出たけれ、
二条院も賢王にて渡らせ給ひしかども、御位につか
せ給ひて後は、天子に父母なしと常には仰られて、
法皇の御諌も用ひ参らせ給はざりしかば、ほいなき
御事に思召たりし故にや、世をしろし召事もほどな
かりき、されば、継体の君にてわたらせ給はず、ま
さしく御ゆづりを受させおはしましたりける御子の
六条院も、御位ありてわづかに三ヶ年、宝算五歳に
て御位退かせ給ひて、太上天皇の尊號ありしかども、

いまだ御元服もなくて、御年十三にて、安元二年七
月廿七日に失せさせ給ひにき、よき事ならざりし事
也、内裏には鳥羽殿へ忍て御ふみあり、世もかくな
り君もさやうにて渡らせ給はんうへは、かくて雲井
に跡をとどめて何にかはすべき、かの寛平のむかし
の跡を尋ね、花山のふるきよしみをとぶらひて、家
をも出で世をものがれて、山林るらうの行者ともな
り候はんと申させおはしましたりければ、鳥羽殿よ
りの御返事は、我身は君のさてわたらせおはします
をこそひとつの憑にては候へ、さやうに思召し立な
ん後は、何のたのみか候べき、ともかくも愚老がなり
はてん様を聞召し果んと社思召され候はめ、ゆめゆ
めあるべからざる御事なり、いたくしんきんをなや
まし給はん事、返て心苦しかるべし、さな思召され候
ひぞなどと、細々と慰め申させおはしましければ、
主上此御返事を龍顔にあてさせおはしまして、御涙
にむせばせおはしますぞかたじけなき、ことわりや
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内典外典のおきてにも、孝養のともがらをほめ給ふ、
天神地神も孝やうのかうべをなで給ふ、あはれなる
父子の御なからひなり、およそ君は舟なり臣は水な
り、水、浪をしづむれば舟よくうかぶ、水、浪をたたふ
れば、舟又くつがへす、臣よく君をたもつ、臣又君
をくつがへす、保元平治兩度のげきらんには入道相
国君をたもち奉るといへども、安元治承の今は君を
くつがへし奉る、貞観政要の文にたがはざりけるも
のをや、
廿六日明雲大僧正天台座主に還補したまふ、七宮御
しだいありけるとかや、入道はか様にしちらして、
中宮内裏に渡らせ給ふ、関白殿我御聟なり、かたがた
心やすかるべしとや思はれけん、天下御政一筋に内
裏の御計ひたるべしと申すてて福原へ帰り下られけ
り、宗もり卿参内して此よしを奏せられけれども、
主上は院の御譲りを給へえたる代ならばこそ政をも
しらめ、院は心うきありさまにて鳥羽殿に渡らせ給

ふに、何のいさましさに世の政をも知るべき、ただと
くとく執柄に申合せて、宗盛はからふべしと仰られ
て、あへて聞召入られず、あけてもくれても法皇の御
事をのみぞ、御心苦しくいたましく思召されける、
法皇は城なんのりきうにしてことしもすでに暮にけ
り、鳥羽殿には月日もかさなるにつけても、御なげ
きはおこたらず、をりをりの御遊、所々の御賀表めで
たく、いまやう合の興ありし事も思召し忘れず、相
国もゆるし参らせず、法皇も恐れさせ給へば、参り
よる人もなし、秋の山のあらしの音のみいつくしく、
故宮の月の影のみぞさやけき、しづがいたすうぶね
のともしは、御目の前をすぎ、りんうに擣衣のつち
のおと、行客の車馬は御みみにこたへて、眠りを覚
し奉る、庭には雪ふりつもれども、あとふみつくる
人もなし、池には氷のみとぢかさねて、むれ居し鳥
も見えず、大寺のかねの声はゐあい寺の聞をおどろ
かす、四方の山の雪の色かうろ峯ののぞみを催す、
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あかつきの氷をきしる車の音は、遥に門の前に横た
はり、夜の霜にさむけききぬたのおと、幽に御枕に
かよふなり、浜田を過る行人、征馬のいそがはしげな
るさもうき世を渡るありさま思召ししられてあはれ
なり、宮門を守るはんいの、夜ひるけいごをつとむ
るも、前世にいかなる契にていま縁をむすぶらんと
思召し続くるもあはれ也、さるままにはくわいきう
の御涙おさへがたくて年も暮ぬ、治承四年正月にも
なりぬ、元三のあひだ年去り年来ども、鳥羽殿へは
事とひ参る人もなし、とぢこめられ給ひけるぞかな
しき、とう中納言なりのり卿、左京大夫修範兄弟二
人ぞゆるされて参られける、ふるく物など仰せあは
せられし大宮太相国三条内大臣、はむろの大納言、
中山中納言などと申し人々もうせられにき、いまは
古き人とては宰相なりより、民部卿ちかのり、左大
弁宰相としつねばかりこそおはせしも、此世のなり
ゆくありさまを見るに、とてもかくてもありなん、

朝廷につかへて身をたすけ、三公九卿にのぼりても、
何にかはせん、たまたまよわうをのがれ給ひし人も、
高野の雲に交はり大原の別所に居をとめ、或はだい
ごの霞にかくれ、仁和寺の閑居にとぢ籠りて、一向
後生ぼだいのいとなみより外二心なくおこなひすま
してぞおはしける、むかし商山の四皓、竹林の七賢
是皆はくらんせいてつにして、世をのがれたるにあ
らずや、中にもなりより卿は、この事どもを伝へ聞
て、あはれ心とくも世をのがれにけるものかなと、
かくて聞も同じ事なれども、世に立ち交はりて、見
聞ましかば、いかばかり心うからまし、保元平治の
乱をこそ浅ましと思ひしに、世のすゑになれば、い
やましましにのみなり行めり、此後又いかなる事か
あらんずらん、雲をわけてものぼり土をほりても入
りぬべくこそ、覚ゆれとぞのたまひける、世のすゑ
なれどもゆゆしかりける人々なり、
廿日はとう宮の御袴着、御魚味聞し召べきなど、花
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やかなる事ども世間にはののしりけれども、法皇は
耳のよそに聞召すぞあはれなる、
二月十九日春宮御ゆづりを受けさせ給ひて、御即位
あり、是を安徳天皇と申、今年三歳にこそならせお
はしませ、いつしかなりと人おもへり、先帝も異な
る御恙もおはしまさぬに、おしおろし奉る、是太政
入道の万事思ふさまなるがいたす所なり、或人あは
れいつしかなる譲位かな、二歳三歳の例はいとよく
もなきものを、老子経に云、飄風は朝をへず、霓雨
は月を終ずといへり、飄風とは疾風也、霓雨とはあ
らしの雨也、いふ心は、疾するものはながき事能は
ず、頓にする者は久しからずといへり、此君とく位
につかせ給ひて、とく位を退き給はんずらんとささ
やきければ、平大納言のもとへ或人の又行向ひて、
かさねて京都にふるくさかさかしき仁の、この御位
をはやしと譏り申候はといひければ、時忠卿申され
けるは、今度譲位なりしかばいつしかなりと人かた

ぶけ申べき、異国には周成王三歳、晋穆帝二歳、吾
朝には近衛院三歳、六条院二歳、各きやうほうの中
に包まれて、衣帯をただしくせざしかども、或は摂
政おひて位につけ、或は母后抱きて朝にのぞむとも
いへり、後漢のかうやう皇帝は、生れて百余日の中
にせんそありき、和漢かくの如くなり、人かたむけ
申すべきやうやはあるとていかられければ、その時
有職の人々はあなおそろしものいはじ、さればそれ
がよき例かとぞつぶやきける、春宮御ゆづりをうけ
させおはしましてのち、外祖父外祖母とて、入道夫
婦ともに准三后のせんじを蒙りて、年官年爵を賜て、
上日のものを召仕はれければ、ゑかき花つけたる侍
出入して、偏に院宮のごとくにぞありける、出家入
道の後も、えいやうはつきせざりけりとぞ見えける、
出家の人の准三后のせんじを蒙る事は、法興院大入
道殿の御例なり、それも一の人の御例准じがたくや
とぞ人申ける、か様にはなやかにめでたき事はあり
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けれども、世間はおだしからず、
廿九日申の時ばかりに、京中に大きなるつじ風吹き
て、一条大宮よりはじめて東へ十二町とみの小路よ
りはじめて、南へ六町、中御門東へ一町、京極を下
りに十二町、四条を西へ八町、西の洞院わたりにて
とどまりぬ、又その間の門々家々についがきつつみ
を吹ぬき、たふれ吹きちらすありさま、木の葉のご
とし、馬人牛車などを吹あげておちつく所にてうち
そんじ死ぬるもの多し、むかしも今もためしなきほ
どのもののけとぞ申あへりける、
三月十七日新院安芸の一宮厳島の社へ御幸なるべき
にありけるが、東大寺興福寺園城寺の大衆等、京へ
うち入べきよし聞えて、京中さわぎければ、御幸俄
に思召とどまらせ給ひけり、帝皇は位を去らせ給ひ
て後、諸社の御幸のはじめには先八幡賀茂春日平野
などへ御幸ありてこそいづれの社へも御幸なれ、い
かにして島国にわたらせ給ふ神へ御幸はなるやらん

と人あやしみければ、白河院位を去せ給ひて後、熊
野へ御幸也、法皇は日吉へ御幸なりき、先例かくの
ごとし、すでに知ぬえい慮にありといふことを、そ
のうへ御心中に深く御ぐわんあり、又夢想の告あり
などとぞ仰事ありける、この厳島の社は、入道相国
しきりにあがめ奉る、かの社に内侍とてありける御
子までもてなし愛せられけり、かかりければ、上は
御同心のよしにて、下には神明御はからひにて、入
道のむほんの心もやはらぎやすると思召して、御祈
祷の為に八幡賀茂よりも先に、彼社へは参らせ給ふ
ともいへり、是は法皇のいつとなく押こめられさせ
給ひて渡らせ給ふ事を歎き思召しける余りにや、さ
る程に南都三井寺の大衆もしづまりければ、厳しま
へ御幸とげさせおはしますとぞ聞えし、
十八日かねて思召しまうけたる御幸なれども、御言
葉にも出させ給はざりけるが、そのよひになりて、
前大将宗盛をめして、明日びんぎにてもあり、鳥
P242
羽殿へ参りて対面申さばやと思召すはいかに、相国
に知らせずしては悪かりなんやと仰せられあへず、
御涙の浮びければ、大将もあはれに覚えて、何かは苦
しく候べきと申されければ、世にうれしげに思召し
て、さらば鳥羽殿にその気色を申せと仰ありければ、
大将急ぎ申されたり、法皇なのめならず御悦思召し
て、余りに思召す事なれば、夢に見ゆるやらんとま
で、仰のありけるぞかたじけなき、
十九日太政入道の西八条の宿所よりいまだ暁出させ
給ふ時は、三月十日余りの比なれば、露に曇る有明
の月の光もおぼろにて、雲路をさして帰雁の遠ざか
り行声々も、折から殊にあはれなり、御供の公卿に
は、五条大納言国つな、前右大将宗盛、土御門宰相中
将通親、四条三位たかすゑ、殿上人には右中将たか
ふさ、右中弁かね光、宮内少輔むねのりとぞ聞えし、
春の影既にくれなんとし、夏の木立になり、残のは
なの色おとろへて、宿の鶯の声老たり、こぐらくさ

びしきけしきなれば、門をさし入せ給より、御涙ぞ
すすみける、去正月四日朝覲のために、七条殿へ行
幸なりし事など思召し出て、世の中はただ皆夢なり
けり、諸衛陣をひき、諸卿れつにたち、がくやに乱
声を奏し、院司の公卿さんかうして幔門をひらき、
掃部寮莚道をしき、ただしかりしぎしき一事もなし、
なりのり中納言参りて気色申されければ、法皇は又
寝殿の階隠の間まで御幸あて、心もとなく待ち参ら
せおはします、はるかに御らんじ出せば、上皇いつ
しか入らせ給ひにけり、法皇も上皇も、御目を御ら
んじあはせて、物をも仰せなくて、ただ御涙にのみ
むせばせ給ふ、すこしさしのきて、あま女房一人候
けるも、両所の御有さまを見奉てうつぶして涙を流
す、やや久しくあて、法皇御涙をおしのごはせ給て、
召し立つにやと申させたまへば、上皇は深く思もや
すむね候とばかり申させおはしまして、又はじめの
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如く御涙の浮ばせ給ひければ、さればこそ我身の御
事を祈り申させ給はんとてよと御心得あておはしま
しけるに、いとどかなしく思召して、法皇も上皇も
又御涙にむせばせおはします、御衣の袖もしぼるば
かりにぞ見えさせおはしましける、昔今の事どもた
がひに申かよはさせおはしましけるほどに、日をか
さね夜をかさぬとも尽すべからず、よろづ御名残惜
く思召されて、とみにもえたたせ給はず、上皇は今
日の御対面を悦び申させおはします、上皇はことし
いまだはたちにたたせおはしまさず、御もの思ひに
月日をかさねて、少し御おもやせてわたらせ給ふに
つけても、御冠ぎはよりはじめてけだかくあいあい
しく、此世の人とも見えさせ給はず、いと清げなる
御びんぐきほがらかに、御じやう衣の御袖さへあさ
露にしほれにけるも、いとどらうたく故女院に似参
らせ給ひたれば、むかしの御面影覚し召し出られて
あはれにそ思召されける、今一度見まいらせずして

いかなる事もやと心うく候つるにとて、上皇たたせ
給へば、法皇は御名残尽せずおぼされけれども、日
影たかくなれば、え今しばらくとも申させ給はず、
何となきやうにもてなさせおはしましけれども、御
涙にかはかせおはしまさず、御袖いたくしほれけれ
ば、しるくぞ見えさせ給ひける、人々も皆袖をぞう
るほしにける、上皇は法皇のりきうの故亭にて幽閑
せきばくの御住居を御心くるしく見置参らせおはし
ませば、法皇は又上皇の旅泊の御行宮、船中浪の上
の御ありさまをぞいたましく思ひやり参らせおはし
ます、互の御心中いづれもいづれもあはれにかたじけな
し、誠に宗廟八幡賀茂などをさしおき奉て都をはな
れ、八重のしほぢを凌ぎて、はるばると安芸の国ま
で思召し立けん御志の深さをば、神明も定めて御納
受あるらん、御願成就疑ひなしとぞ覚えし、法皇は
御うしろのかくれさせ給ふ迄、のぞきて御覧じ参ら
せ給ふ、成範修範二人門まで参りて御こしの左右に
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候はれければ、上皇ひそかに仰のありけるは、人こ
そ多くあれ、かやうにちかづき給ふこそ本意なれ、
御いのりはよくよく申べしと仰ごとありければ、各
畏まてじやう衣をしぼりてとどまりにけり、南門に
御舟をまうけたりければ、ほどなくうつらせ給ひに
けり、供奉の上達部大様は船津より帰られぬ、安芸
の国まで参られける人々は、各じやう衣にて参りま
うけられたり、前の右大将のずゐひやうじんじやう
に出立て、数百騎に及べり、きらきらしくぞ見えけ
る、
十七日、御つきあり、御願書を神殿にこめさせおは
します、七日御参籠ありて、澄憲僧都を召具せられ
たりければ、御けつぐわんの日一座の説法あり、そ
の後神主佐伯景弘座主尊仁国司在経蒙勧賞御悦の
時、かさねてくわんしやうあるべきよし、直に仰下
さる、御子十人召されて、色々のろくにあづかる、
日数事終りて還幸なる、

四月七日福原につかせ給ふ、太政入道待まうけ参ら
せらる、儀式一期の大栄、今じやうの思出と見えた
り、平家一門公卿殿上人くびすをつぎ、蔵人青待御
船のつなをひく、新院くがへあがらせ給へば、入道
御手をひき参らせ給ふ、時忠卿御衣のすそをとて
新都の地形を御覧ありけり、さてこそ島の御所へは
入御なりけれ、くわいらい苫屋形に袖をつらねて拍
子を扣、遊君は船の中にかさをならべて皷をうつ、
琴曲を集めて御前をかがやかす、紅葉をかさねて、
れんぐわいをかざる競馬あり、隨身鳴絃伶人あり、
平家の侍さるがくあり、うしろ戸にてすまうあり、
貢御あり、夜に入て管弦あり、連歌会あり、丹波守
清国両道のきりやうたるによて、立所にて有賞に預
る、五位上下す、色々のろくを給、さまざまの忠を
いたす、惣じてきだいの見物ぶさうのてうもんなり、
然れば諸天も是にあまくだり、龍神も此浦にうかせ
給ふらんと覚えたり、あくれば九日けふばかりとし
P245
きりに相国とどめ申されけれども、御かんもなかり
けるやらん、おして還幸なる、平家一門西宮の沖ま
で送り参らせらる、相国は福原へ帰られぬ、上皇は
京へ入らせおはします、御迎の人々には鳥羽の草津
へ参らる、右宰相中将さねもり卿一人その外雲各四
五人ぞ参られける、今日新主はじめて大裏へ還幸あ
りければ、人々大略それへ参られけるによて也、い
つくしま供奉の人々は、舟津にとどまりてさがりて
京へいられけり、
廿二日新帝御即位あり、御即位は大極殿にて行はる
る事なれども、去々年焼にしかば、後三条院の御即
位治暦四年の例に任せて、太政官庁にて行はるべき
にてありけるを、官庁は凡そ人にとらば公文所てい
の所なり、大ごく殿なからんには、紫しんでんにて
こそ行はるべけれと左大臣申させ給ひけり、その故
ありとて、紫宸殿にてぞ御即位ありける、
康保四年十一月一日冷泉院の御即位紫宸殿にてあり

ける事、御邪気の故大極殿へ御幸叶はざりし故也、
その例いかがあるべからん、ただまちかくは、後三
条院の嘉例について、官の庁にてあるべかりけるも
のをと、人々申させおはしましけれども、左大臣の
御はからひ時に取て左右なき事也ければ、子細に及
ばず、中宮弘徽でんより仁寿殿へうつされおはしま
して、高御くらへ参らせ給ひける御有さま、いはん
かたなく目出たかりけり、されども内々はさまざま
のさとしどもありけるとかや、平家の人々は、宗も
り卿行幸の供奉せらる、また小松大臣の公達は重盛
うせ給ひしよりは、維盛、資盛、有盛なども、皆い
ろにて籠居し給へり、ほいなかりし事なり、左兵衛
督知盛、蔵人頭重ひら朝臣出仕せられたりける、後
朝に蔵人左衛門権佐定長、昨日の御即位事に相違な
くめでたかりし由、こまごまと四五枚に書つけて二
位殿へ参らせらる、相国二位殿ゑみをふくみて悦あ
られけり、
P246
一院第二の御子もちひとの王と申は、御母はかがの
大納言すゑなり卿の御娘とかや、三条高倉の御所に
ましましければ、高倉の宮とぞ申ける、去永万元年
十二月十六日、御とし十五と申しに、太皇太后宮の
近衛河原の御所にて御元服ありしが、今年は三十に
ならせ給ひぬれども、いまだ親王のせん旨をだにも
かうむらせ給はず、ちんりんしてぞ渡らせ給ひける、
御手跡もいつくしく遊ばし、和かんの才に長じ給へ
りしかば、位にもつかせおはしましたらば、末代の
賢王とも申つべしなど人々申されけれども、此女院
には継子にて、うちこめられて、花のもとの春の遊
には、宸筆をおろして手づから御製をかき、月の前
の秋の夕には、玉笛を吹てみづから雅音をあやつり
まことに心細く幽なる御ありさま也、
卯月九日ひそかに夜うち更るほどに、源三位入道頼
政忍て彼宮の御所に参りて、勧め申ける事こそ恐し
けれ、君は天照太神四十九世の御苗裔、太上法皇第

二の皇子なり、太子にも立せ給ひ、帝位にもつかせ
給ふべき御身の、親王のせんじをだにもゆるされお
はしまさずして、すでに三十にならせおはしましぬ
る事、心うしとはおぼし召されずや、平家世をとて
廿余年になりぬ、何事もかぎりある事なれば、悪行
とし久くなりて栄華たちまちに尽なんとす、君この
時いかなる御はからひもなくては、いつを期しさせ
おはしますべきぞ、とくとくおぼし召し立て、源氏に
おほせて、平家を追討せらるべし、慎しみすごさせ
給ふとも、終にあんをんにて果てさせおはしまさん
事もありがたし、君さやうにもおぼし召し立ば、入
道も七十に余り候へども、子ども一両人候へば、な
どか御供仕候はざるべき、世のありさまを見候に、
うへこそしたがひたる様に候へども、内々は平家を
そねまぬものやは候、就中ほうげん平治以後ほろび
うせたりとは申候へども、その外の源氏どもこそさ
すが多く候へとて申つづく、京都には、
P247
出羽判官光信子、伊賀守光基、出羽蔵人光重、源判
官光長、出羽冠者光義、熊野には為義が子、十郎義
盛とて、平治の乱よりくま野の御宮にかくれて候、
津の国には、
多田蔵人行綱、多田次郎知実、同三郎高頼、大和国
には、宇野七郎親治子、宇野太郎有治、同次郎清治、
同三郎義治、同四郎業治、近江国には、山本、柏木、
錦古利八島一党、美濃尾張には、山田次郎重弘、河
辺太郎重直、同三郎重房、和泉太郎重光、浦野太郎
重遠、葦敷次郎重頼、同太郎重助、同三郎重隆、木
田三郎重長、関田判官代重国、八島先生斉時、同三
郎時清、甲斐国には逸見冠者義清、同太郎清光、武
田太郎信義、加賀見次郎遠光、一条次郎忠頼、板垣
次郎兼光、武田兵衛有義、同五郎信光、小笠原次郎
長清、信濃国には、岡田冠者親義、平賀冠者盛義、
同四郎義信、帯刀先生義賢子、木曾冠者義仲、伊豆
国には兵衛佐頼朝、為義子〈 義朝養子 〉、志田三郎先生義憲、

佐竹冠者昌義、同太郎忠義、同次郎義宗、同四郎高
義、同五郎義孝、陸奥には、義朝末子九郎冠者義経、
また頼政法師が一党にも、仲綱、兼綱以下少々候ら
ん、是等は皆六孫王の苗裔多田新発意満仲が後いん
也、また佐々木が一党も源氏と申、此等は皆大衆を
もふせぎ、凶徒をもしりぞけ、朝賞にもあづかりし
ゆく望をとげし事、源平両家はたがひに勝負なかり
しかども、当時は雲泥のまじはりをへだてて、主従
の礼よりもなほことなり、わづかにかひなき命ばか
りは生くれども、国々の民百姓となりて、所々にか
くれ居たり、国にはもく代にしたがひ、庄にはあづ
かり所につかはれ、公事ざうじにかり立られて、よ
るひる安き心なし、いかばかり心うく候らん、君思
召し立て、令旨をだに下されば、夜を日に継ぎてう
ち上て、平家を亡さん事、時日をめぐらすべからず、
平家をほろぼして法皇の打籠られておはします御心
も、休め奉りたまひたらば、かつうは御至孝にてこ
P248
そ渡らせたまひ候はめ、なかんづく今年尋、治承四
年庚子者、相当如陽子平相国被追討之時代、何
当此時而令黙止哉、爰浄海当時之謀叛者、超先
代事、稍過千万億矣、昔将門者出都城外而企
濫悪、今浄海者於洛陽之内発謀叛、所謂捕納
言宰相、搦関白大臣、而配流、或追籠当今聖主、
奪位譲子孫責出新本天皇入楼、留理政哉、此
謀叛絶古今、先代未聞之処也、仍云院宣、云勅
宣、令宣下事、皆以漏宣也、是則下何君勅定、
何院之宣旨哉、抑自平治元年以降、平家持世廿
一年、是故一昔帝氏而相当源氏世之持乎、而今案
事情捧平氏赤色持世、是火性也、今既果報之薪
尽而無可令放光之処、又平氏以平治元年号而
持世之事、治承之比、上下之字具水以黒色水可
滅赤色火、昔平治、今治承以三水之字作年号、
只本末以水火事、古今不(レ)可有疑者也、兼又今年
支干金与水也、故色者白与黒也、爰尋其先跡者、

八幡太郎義家捧白色則金性也、刑部卿忠盛、捧黒
色黒色則水性也、金与水和合生長之持相也、浄海生
年六十三歳支干共土也、死冬季、水者冬旺、当冬
季而可破滅時也、然者被討平氏之事、更不(レ)可
有其疑者也、就中八幡大菩薩百王守護八十一代
也、全其誓不(レ)可誤給、此時不被報会稽之恥者、
又何時乎、当冬季而水性也、利令滅火有徳、事
不(レ)可被延今明、日本国中之挙向源氏可令入
洛也、是又機感相応之時也、早打入王宮静天下
可奉改国土、凡如風聞者、飽与財産相語山
門南都僧徒云々、是則御発起遅々故也などと細々と
申たりければ、此事いかが有べからんと返々思召さ
れけれども、少納言伊長と申ける人は、右大臣とし
家の息阿古丸大納言むねみちの孫、肥後の前司すゑ
みちの子也、めでたき相人にておはしければ、時の
人相少納言とぞ申ける、その人の此宮をば位につき
給ふべきさうまします、天下の事思召しはなさせ給
P249
ふまじと申しかば、是も然るべき事にてこそ、頼政
入道もかく申すすむらめと、かつうは天照太神の御
使にてやあるらんと思召ければ、既に令旨を国々へ
つかはされて、思召し立せ給ひにけり、その令旨云、
下東山東海北陸三道諸国軍兵等所可被追
討早清盛法師并従類叛逆輩事
右前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣、奉最勝親王
勅〓、清盛法師并宗盛等、威勢職而起凶徒、亡国
家、令悩乱百官万民掠領五畿七道閇籠皇院
流罪臣公、視命沈身、込楼潔資則領勅奪官
職、赴配過、即冠超昇、巫女宮室不留尤多或不
守高僧威徳、禁獄修学之僧徒、或給下叡岳之絹
米、相具於謀叛粮米、失百皇懇切一人之験、帝皇
違逆、仏法破滅、無古代者也、于時天地悉悲
之、臣民皆愁之、仍一院第二皇子呼天武皇帝
旧、俄追討王位催凡下之輩、任上宮太子古、
打亡諸仏法破滅之党類、唯非憑人之稱位

仰天地臣理也、帝皇如有三宝神冥也、何况
無四岳合力哉、則源家之人藤氏之人、兼三道諸
国之旨[B 堪勇士者同令与力(東鑑)]〓莫任被聞食与力追討清盛、可行配流
追禁之罪主者若於有勝功者、先諸国之使庄兼
御即位之後、必依宣行之、
治承四年五月九日 伊豆守正五位下源朝臣
とぞ書かれたりける、此令旨を兵衛佐給はりて、国
国へ令旨の趣、書き下給状云、
被最勝親王之勅命〓、召具東山東海北陸道湛
武勇之輩、守令旨可致用意、今明行幸於洛
陽者、近江国源氏令執行国務、廻北陸道、之
而令参向勢多之辺、相待御上洛可被供奉洛
陽也、依親王之御気色、執達以宣、
治承四年七月日 前兵衛佐源朝臣
と書きてぞ国々へ下されけり、これによて、勇士等
皆兵衛佐の下知に従ひければ、そむくもの一人もな
かりけり、抑源三位入道がかかるあしき事を宮にす
P250
すめ申奉る事は、嫡子伊豆守仲綱恨みふかき事あり
けり、仲綱としごろ家人東国にありけるが、ぬかの
そだちのかげなる馬のふとくたくましきに、くきや
うのいちもつなりけるを、伊豆守に送りたりけり、
武士のたからには、馬にすぎたるたからはいかでか
あるべきに、ある殿上人の仲つなが下にこそ、東国
よりくきやうの馬出で来て候なれと申たり、大将さ
る人にて、伊豆守のもとへいひつかはされたりける
は、誠にや面白き御馬をまうけておはしまし候なる、
給て見候はばやといはれければ、伊豆守しばしは物
もいはず、良久しくありて、心得ざる事のたまふ人
かな、いまだあかぬ馬なりとてさる馬まき、遠国よ
りのぼせて候間、つめをかいて見ぐるしく候しかば、
いたはり候はんとて此ほどゐなかへ下して候と返事
したりけるに、つゐしやうする人あて申けるは、そ
の馬はただ今それに候つるものを、ゆあらひし候つ
るなどと申ければ、大将やがておし返して、一定い

ままでそれに候なるものを、是に給らんには候はず、
聞ゆる御馬にて候へば、ちと見候はんずるばかりな
り、後には返しまいらせべしと、一日に三度までつ
かひをつかはさるれども、仲綱とかくいひまぎらか
して、つかはさざりければ、次日五度までせめたり、
三位入道此事を聞給ひて、馬鵜や鷹ていのものをば、
人のこひかけたらんに、いかでかをしむべき、まし
て当世あの人々のことばをかけんをば、たとひ白か
ねこがねをまろめたる馬なりとも、をしみおきては
家の中にて乗んずるか、つかひの又こぬ先に急ぎそ
の馬つかはすべしとのたまひければ、仲つな力及ば
ず、父の命をそむくべきにあらねば、をしとは思は
れけれども、馬を大将のもとへ遣はしけり、大将馬
をとりながら返しもしたまはず、もとよりよき馬な
れば仲綱といふ名を附て、とねり数多つけて内うま
やにたてて、秘蔵して伺はれけるほどに、人々大将
のもとへおはしたりけるに、ある人伊豆守が秘蔵の
P251
木の下丸是に参りて候よしうけ給り候、はやばしり
のきよく、しんたいの逸物にて候ものを、あはれ見候
ばやと申されければ、その馬此ほど是へつかはして
候、其仲綱めにくつわはめて引出してうちはて、庭
のりして見せ参らせよとのたまひければ、木の下丸
を引出して、侍庭のりをしけるに、大将此馬をおそ
くえさせたりけるをねたしとや思はれけん、その仲
綱丸つよくうちはてのれと、思ふさまにのたまひけ
る事、やがて其日伊豆守伝へ聞て、父の入道の方に
行て、仲綱こそ此馬故に現に皇城の笑ひぐさになり
て候へとて、なくなくいひければ、平家は桓武天皇
末葉時代久しくなり下て候、当家は清和天皇の御末
まちかき事にて候、源平両家いづれか甲乙の候べき、
されどもくわはうのまさりおとり力をよばず、大将
がこと葉の憎く候しかば、木の下丸をばおしみ遂候
はばやと存じ候しを、ただつかはすべしと仰の候し
かば、御命ありがたく候てつかはして候へば、返事

をだにも候はず、あまつさへ昨日自門他門の人々多
く集まりて酒宴の候けるに、その座しきにて仲綱め
に轡はめて、引出してうちはて庭のりして人々に見
せ奉れと、度々大将申候ける事返々口惜しく候、すで
にちく生にたとへられ候なれば、今生のいこん何事
か是に過ぎ候べき、此うへは又再び人におもてを合
すべき身にて候はねば、宗もりが方へまかり向ひて
いかにもなるべく候、そのぎかなふまじくば、いと
ま給て山林にとぢこもりて、世をすつるより外、他
事候まじと、涙をかきあへず申ければ、入道も是を
聞て、親の身なればさこそ思ひ給ひけめ、是よりし
ていかにも平家をほろぼさんと思ふ心つきにけり、
さて思ひの余に、此あしき事をば宮にも申すすめ奉
りたりけるとぞ、のちには聞えし、此大将は小松大
臣には心ぎはよりはじめて少しも似たまはず、事の
外にふるまひことがらおとりたまへり、是につけて
も小松殿の御事をしのび申さぬ人はなかりけり、あ
P252
る時内府内裏へ参られたりけるに、夜陰に清涼殿に
て帥のすけ殿を呼びいだし参らせて、御物がたりあ
りけるに、いつよりいできたるともなく、五尺ばか
りなる口なはひとつ出来けるが、内府のかたにはひ
かかりたりける、内府是を見たまひけれども、驚き
たまはずふり捨たまはば、此女房おそれさわぎ給な
んずとおもひたまひて、御身をうごかしたまはで、
つくづくとものがたりせられけるほどに、くちはは
は内府のさしぬきのももだちにはひ入て、又左のも
もだちへかしらをさし出す時、左の手にて袖ごしに
頭を押へて、右の手にて尾をおさへて、その後人や
候と召しけれども、参る人もなかりければ、かさね
て六位や候と召されけるに、その時伊豆守にて候け
るが、仲つな候とて参りたりければ、内府ももだち
を引きあけて、是は見らるるかとのたまへば、さん
候と申てさし寄りて右の手にて頭をにぎり、彼くち
なはを表衣のふところの中に入て左の手にて尾をに

ぎり、女房に見えずして南殿へ出て御つぼのめしつ
ぎをめして、これとてすつべしとて、ふところより
差出したりければ、めしつぎ色を失ひ逃げ失せにけ
り、その後仲綱が郎等に渡辺党はぶくの次郎といふ
者を召して給たりければ、はぶくくちなはをとて罷
いづるとて、右の手にてくちなはの中をにぎりたり
ければ、五からみ六からみからまれて、差上げて門
より外にもて出で捨ててけり、そのあしたに内府自
筆に状を書きて、仲綱がもとへつかはされける、よべ
の御ふるまひげんじやうらくとこそ見奉て候しか、
是へ申てこそ参らすべく候へども駑馬一疋秋霜一佩
まいらせ候とて、黒き馬のふとくたくましきに、白
ふくりんの鞍をいてあつふさのしりがひかけて、長
ふくりんの銀剱錦の袋に入てもりつぐを使にておく
られたり、伊豆守はこはいかにと覚えて、則ち返事
を申さる、六位の者なればりうていきんげんかしこ
まてくだし預り候畢、誠に夜部の仰を承り候し時は、
P253
げんじやうらくの心地こそ仕て候しかなどとある由
の体にて申されたりけり、小松殿はかくこそ、御な
さけもふかく御心も優におはしまししか、此大将は
むげになさけなくひあいなる人かな、人のをしむ馬
をこひとりて、ぬしの名を馬につけてたちまちにむ
ほんを思企てさせけるこそ浅ましけれ、
一院は成親父子のごとく、をん国はるかなる島にも
はなちうつさんとするかと思召しけるほどに、城南
りきうにして春すぎ、夏たけぬれば、すでに二年に
もなりにけり、いかなるべきやらんと御心細く思召
されて、読誦の御経もいよいよしんかんにめいじて
ぞ思召されける、大将もさすが鳥羽殿へ御幸なりし
時も涙を流しけるが、つねに案内を申されけり、此
人のおとづれを頼み思召して渡らせたまひける程
に、常に御心ながく思召され候へ、事のつゐでごとに
御方人をば仕り候なり、さすが入道の心をば終には
宗盛こそ申くつろげ候はんずれなどど申されけれ

ば、法皇も嬉しく思召され人々もたのもしく思へり
ける程に、五月十二日午の刻ばかりに、俄に赤く大き
なるいたちいづくより来参りたりとも覚ぬに、御前
を二三返走り廻りてきらめいて法皇にむかひ奉て、
をどり上りをどり上り御衣の御袖にくひつきなどしてうせ
にけり、法皇大にあやしみさわぎ思召す、きんじゆ
鳥類のけをなす事多しといへども、此けだものはこ
とに様あるもの也、入道の憤りなほふかくして死罪
に行はんずるやらんと思召さるるにつけても、南無
普賢大士十羅刹たすけさせ給へと、御きねんありけ
るぞかなしき、そのころ源蔵人仲かねと申者ありけ
り、後には近江守とぞ申ける、法皇鳥羽殿に渡らせ
給へどもたやすく参りよる事もなかりければ、余り
にかなしく覚えて、忍びつつ参りけるを、法皇御覧
じて、仲かねにただ今しかじかの事あり、此占かた
をもて泰親が宿所へはせ向ひよくよく占ふべしとい
ふべしと御定ありければ、仲かねうけ給もあへず御
P254
占形を給てやすちかが宿所へ馳向ひて門をたたきけ
れば、いづくよりと答ふ、鳥羽殿よりと申ければ、
泰親俄におり向ひてかしこまて、御占かたを給りて、
重代相伝の秘書ども披見して、よくよく占ひて、今
三日の中に大きなる御悦候べしと勘へ申ければ、そ
の勘文をもて鳥羽殿へ帰参てこのよしを奏し申けれ
ば、法皇ただ今何事の悦かあるべきなどと思召しけ
るほどに、大将しきりに法皇の御事を歎き申されけ
れば、入道漸く悪行の心直りて、同十四日鳥羽殿よ
り八条烏丸の御所へ渡し奉る、是偏に新院の厳島御
幸の故とぞ見えし、例の軍兵御車の左右にうちかこ
み奉る、泰親今三日の内に御悦あるべしと占ひ申た
りける、少しもたがはず、大将いつしか参て、御悦
を申ぬ、申入るべき事どもつもりて、心もとなく思
されけれども、相国におそれて思ひながらまいられ
ざりけるほどに、口惜かりける事は、いかなるもの
かもらしたりけん、その日高倉の宮謀叛の御企あり

と聞えければ、入道大にいかりて、ぜひなくとり奉
て土佐のはたへ流し奉るべしとぞ聞えし、職事蔵人
左少弁行たかそのよし披露す、上卿三条大納言さね
ふさ卿宣奉勅、別当時忠卿仰を承て、官人源太夫判官
かね綱、出羽判官光長、博士判官かねなり等を召し
てもちひとの王を土佐のはたへ配流し奉るべきよし
仰す、此宮の御謀叛のとくあらはれける事は、熊野
の本宮より聞えたりけるとぞ披露しける、その故は
那智と新宮とは、十郎蔵人義盛を源氏の大将とす、
本宮は平家方にて合戦しけるほどに、本宮まけにけ
り、その憤りを大江法橋、高坊法橋、正寺主、権寺
主等夜を日につぎて馳上て、太政入道にうつたへ申
けるは、宮の令旨を給て、かれらたちまちに謀叛を
企て候よし申たりけるとかや、かねつなやがて父三
位入道のもとへ夢見せたりければ、則ち宮へ告申た
りけり、三位入道のすすむる事ども、平家つやつや
知給はで子息大夫判官をしもつけられけるも不思議
P255
也、宮はすこしも思召しよらで、五月雨のはれまの
月うち御覧じて御心すましわたらせたまひけるに、
入道のもとより、御文ありとて、使者さわぎたるけ
しきにて、馳来りしと申ければ、何事やらんとて急
ぎ文を御らんぜられければ、世をみださせ給ふべき
御企ありとて取参らせんとて、ただ今けんびゐしど
も参り候なるぞ、かね綱もその中にて候也、ひとま
となりとも、急ぎ立忍ばせたまへ、入道も急ぎまゐ
るべく候、京都はいづくも悪く候なんずれば、いか
にもして三井寺までだにも、事なく渡らせたまひな
ば、さりともと申たり、宮是を御覧ずるに、浅まし
ともおろかなり、佐大夫宗信といふ人の候けるを召
してかかる事こそあれ、こはいかがせんずると仰ら
れければ、振ひわななくばかりにて、申やりたる方
もなかりけり、長兵衛尉長谷部信連といふ侍あり、
さかさかしきものにてぞありける、此宮の御年ごろ
の青侍にも非ず、妻は日吉の神子にてありけるが、

宮の青女房に思ひつきて常に参りかよひけるが、後
には宮の見参に入て、時々参りて御とのゐなど仕り
けるが、折節その夜候けるを召して仰合せられけれ
ば、やすく候、女房の御すがたにて出御候べしとて、
御もとどりをみだし参らせて、うすぎぬをうちかつ
がせ参らせ、いちめがさをめさせ参られて、まぎれ
出させ給ひにけり、御所中の人々一人も知参らせず、
くろ丸といふ御中間、佐大夫宗信といふ殿上人、侍に
は信連ばかり御供には参りけり、宗信はけしかるひ
たたれ小ばかまにからかさ一本打かつぎて、くろ丸
にはふくろ一もたせてありければ、青侍体のものの
女むかへて行とぞ見えたりける、五月雨のころなれ
ども、雲はれて月くまなかりけるに、溝のひろかり
けるをしやくとこえさせたまひたりければ、あひ参
らせたりける人の女房かとおもへば、はしたなくも
こえたるものかなとおもひたるげにて、たちとどま
りて、あやしげに見おくりまいらせたりけるにぞ、
P256
佐大夫いとどひざふるひて、つやつやあゆまれざり
ける、
景行天皇第二皇子日本武尊は、伊勢国川上郡にたけ
るといふものありけるをも、乙女の姿をかりてこそ
賊主の河上にたちたりけるをば、討たまひたりけれ、
とりあへざりし事なれば、御所中をとりしたためら
るるに及ばず、きいの御ほう物ども皆打捨させおは
します、御づしに置れたりける御ほんこどもなから
んあとまでもいかがと思召さるる、御琵琶以下御遊
のぐそくいづれもいづれも御心にかからずしもはなけれ
ども、その中にさえたといふ聞えし寒竹の御笛、誠
に御秘蔵ありけるをば、いかならん世までも、御身
をはなたじとこそかねて思召けるに、あまりの御心
まどひにただ今しも常の御所の御枕に残しとどめら
れけるこそ、ひしと御心にかけて立帰らせたまひて
もとらまほしきほどに思召して、のびもやらせおは
しまさず、信連を召して仰ありけるは、かやうの有

さまにては何事も心にかかるべきならねども、小枝
しもわすれぬる事の口をしさよ、いかがすべきと仰
ありければ、信つらさるをのこにて、いとやすきこ
とにこそ候なれ、とりて参り候べしとて走りかへり
にけり、御所中の見ぐるしきものどもとりしたため
て、此御笛を取て二条高くらにて追つき参らせたり
ければ、御涙を流して悦ばせおはします、信連申ける
は、日ごろはいづくのうらまでも御供仕るべきよし
をこそ存候つれとも、こんどは御所中にまかりとど
まり候はんとぞんじ候、そのゆゑは、官人ただ今御所
へむかひ候はんずるに、もの一言葉申もの候はざら
んこそ、むげにくちをしき次第にて候へ、信つらは
なかりけるか、逃にけるこそなど、平家のかへり聞
候はんもゐこんに覚え候、弓矢をとるならひ、かり
にも名こそをしき事にて候へといとまを申ければ、
宮は誠に申旨もさることなれども、汝にはなれては、
いたくたよりなかるべし、野山のすゑまでも見おく
P257
らん事こそ、本意なるべけれと仰ありけれども、信
つらしゐて御いとまを申ければちから及ばず、我身
とても、いづくまでかと思へば、後世にこそと仰せ
られもあへず、御涙のこぼるるを見参らせけるに、
信連もきえ入やうに覚えけれども、かく心よわくて
はかなふまじきものをと思ひ切りて、涙をおしのご
ひてはせ帰りにけり、
平家物語巻第七終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第八

P258
平家物語巻第八
高倉宮御所には、検非違使いまだ向はざりけり、信
連はうすあをのかりぎぬのしわまへよられたるに、
衛府の太刀をはきて、つるぶくろうしろへおしまは
して、ゑぼしぼんのくぼに推入て、狩衣の小袂より
手を出して、中門の中にたたずみたり、宮は今十余
町ものびさせ給ひぬと覚しきほどに、けんびゐし三
人、その勢三百余騎にておし寄せたり、源大夫判官
は、存ずる者ありと見えて、はるかに門外に扣へた
り、博士判官、出羽の判官、乗ながら門の内へう
ち入て申けるは、君世をみださせ給ふべきよし聞え
候によて、仔細をうけ給らん為に、別当宣を承てく
わん人光長かねなり参りて候と高らかに申ければ、
信連出合ひて当時は是は御所にて候はず、忍たる御
所にて候ぞ、参りて奏聞仕るべく候と申ければ、は

かせの判官、こはいかに、此御所ならでいづくにわ
たらせたまふべきぞ、下部どもはなきか、御所をお
しまきてもとめまいらせよと下知しければ、信連、
ものも覚えぬ田舎けんびゐしどもの言ばかな、我君
今こそかたきと思ふとも、乗ながら門の内へ入たる
も奇怪なるに、下部どももとめ参らせよとは、いかに
当時是は御所にてはなきぞといはばいはせよかし、
口のあきたるままに申ものかな、かねても聞置きた
るらん宮の侍の中に、右兵衛尉長谷部の信連といふ
ものなり、いまだ知らぬかとて、かり衣のおび引き
りてなげて、はかまのそば高くはさむ、草ずりのす
そ見えたり、衛府の太刀をぬきてとんでかかるまま
に、事もあたらしく使庁の下べら是をからめんとて
よる所を、さんざんに切りはらひ、七八人は切りふ
せたり、やがて光長が前へうちてかかる、光長が下
部にかねたけと申けるくきやうのはういつのありけ
るが、大はらまきに左右の小手さいて打刀をぬき合
P259
せて、中にへだてたりければ、それをば打捨てて、
御所へ乱れ入んとしたりける官兵五十余人が中へは
しり入て、さんざんに切りまはりければ、木の葉の
風に吹れてちるやうに庭へさつとぞちりにける、信
つら御所の案内は知たり、今は限りと思ひければ、
あそこにおいつめて丁ときり、ここに追ひ詰め、は
たと切る、信つら、もとよりさるものにてゑふの太
刀なれども、身をば少し心得て作らせたれども、あ
まりに打れてゆがみければ、ひざにあてておしなほ
しおしなほしして、また廿余人切り伏せたり、手負は数を
しらず、うちとるかたき三十余人とぞ聞えし、信連
あまりに戦ひつかれて柱に立添ひてあるを、かねな
りが郎等近藤四郎行なりといふ者、長刀をもちてね
らひよりて、長刀のえをかけず、すんと切りてけれ
ば、長刀の柄を捨てて、逃るを追ひざまにうしろを
たてざまに切られてうつぶしにふしにけり、光長が
下部に七郎康清とて、たけ七尺ばかりなる男の大力

のものの十余人が力持たりと聞えし、猿眼の赤髭な
るが、もえ黄糸をどしの腹巻鎧に、白柄の長刀持ち
たりけるが、一人当千の思ひをなして主の馬のくつ
ばみにつきたりけるが、甲をばきず、大わらはに成て
長刀をひらめて、信連が方へとんでかかりければ、
信連さしりたりとて、十文字に向ひ、康清すそをさ
つとなぐ、信つら太刀をさげて丁と合す、二の太刀
をうたせず、むずとくんで、此男を左の脇にかいは
さみて、右の手にて太刀を打振りて、出羽判官は是
をば見候はぬかや、我君の随分頼たるなる、聞ゆる猿
眼の赤髭男めをこそつかみそんじつれ、たすけたく
ばたすけよといひけれども、光長あへておともせず
さりければ、しばししめて命をたつべけれども、己
ほどの奴原つみつくりにとて、強くすてたりければ、
死入て庭にうつぶしにふしにけり、信つらにさきさ
まに追立られて、逃ちりたりける下部ども、まかげ
をさして見けるが、さる眼の赤髭のさうにはよらざ
P260
りけりといひあひければ、誠にかなしげなる顔をも
ちあげて申けるは、まさる犬まなこにあひぬれば、
かなはぬぞかしと申けるぞおかしかりける、信つら
はものの疵いた手なりければ、かなはじとや思ひけ
ん、小門より走り出で、東をさして高倉をのぼりに
名乗りけるは、長兵衛尉信連大事の手おひたり、留め
んと思はんものはとどめよやとののしりて、しづし
づと行けるを、かねなりが下部にたけみつといふ者
ねらひよりて、長刀をくきみじかに取て、さつとな
ぎけるを、信連長刀の柄にのらんとしけるほどに、
いかがしたりけんのりはづして、生けどられにけり、
則信連をからめて六波羅へゐて参る、前右大将宗盛
卿大に怒て信連を庭上に引すゑてのたまひけるは、
まづ汝がせんじの御使に向ひて、種々の悪口放言に
及びたるだにきつくわいなるに、あまつさへそこば
くの下部せつがいにんじやうの条はいかに、せんず
る処きうもんを加へて、宮の御在所并事の仔細を委

しく召問ひて白状記録の後は、河原に引き出してか
うべをはねよとのたまひければ、信連少しもさわが
ずあざ笑ひて申けるは、日本国をかたきにうけてお
はします君の御内に候ほどの者の、せんじの御使を
悪口し、使庁の下べを刃傷事もおろかに候へ、たと
ひ何万騎の軍兵なりとも、一人してうちとらばやと
こそ存つれども、折節の太刀をとりあへず候て、思
ふほども切りえず候て、あんをんにて、多く返し候
ぬるこそ、返す返すゐこんにて候へ、所詮とりかへ
なき命を君に参らせて、一人御所に残とどまり候ぬ
る上は、たとひ君の御在所知り参らせて候とも申候
まじ、その上何方へか渡らせたまひ候ぬらん知り参
らせず候、侍ほどの者の申さじと申切なん事を糾問
によて申すべき哉、是は存の中の事にて候、君の御
ために信連が頭をはねられん事、今生の面目冥途の
思ひ出也、とくとく首を召さるべしとぞ申ける、是を
聞たまひて、何条別の仔細にや及ぶべき、とくとく
P261
河原に引出して、頭を切れとぞのたまひける、侍ど
も口々に申けるは、弓矢とるものの手本御覧じ候へ、
かくこそあるべけれ、信連は度々高名したりし者ぞ
かし、一年本所に候ける時、末座の衆の、事をいた
して狼藉に及ぶ間、ともにもて聞ゆるがうの者にて
あり、諸衆等力及ばずして一らう二らう座を立てさ
わぎ合ひけるに、信つらよて是をしづむるに叶はざ
りければ、信連つとよるままに二人を取ておさへて
左右の脇にはさんで座を罷いで、狼藉をしづめて、
高名その一なりと聞えし者ぞかしと申せば、またあ
る侍申けるは、その次のとしと覚ゆる、大番衆ども
がとどめかねて、通りける大和強盗六人を、のぶ連
ただ一人してよせ合て、四人をばただちにうちとど
め、二人をば生捕にしたりしげんしやうぞかし、
兵衛尉は毎度にはがねを顕はしたりし者ぞかし、か
かる名誉のものをやがて切れん事こそふびんなれ、
是体の者をこそいくらも召仕はれ候はめ、思ひ直し

て御内に候はば一人当千の者にてこそ候はんずれ、
あたら者かなあたら者かなと面々にささやきて、壁見参に惜
み合へり、さらばな切そとてすてられにけり、後に
聞えしは、信連は本所衆長右馬允忠連が子なり、
伯耆国にれいらくして金持が辺に経めぐりけるを、
平家滅亡の後兵衛佐頼朝是を聞給ひて、信連はさる
者にてあんなり、さやうの者こそ大せつなるべけれ
とて、彼国の守護に仰て、去文治二年に関東へ召下
されて、奉公をいたすほどに、隨分きりものにて、兵
衛佐自筆のかなの下文にて、能登国大屋庄〈 号蛤庄 〉を信
連たまはり始めけるよりして、その後庄園あまた給
ひて、大名にてぞありける、高倉の宮失せさせ給ぬ
とののしりければ、京中も馳さわぎけるうへに、山の
大衆既に三条京極の辺までくだるよし聞えければ、
平家の人々右大将以下の軍兵馳向ひたりけれども、
法師一人も見えざりけり、凡あとかたなきひが事な
りければ、静まりにけり、天狗よくあれにけるとぞ
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覚えし、十五日に高倉宮三井寺に逃籠らせたまふよし聞えけ
り、此宮と申も法皇の御子にてましませば、よその
事にあらず、いつしかかかる浅ましき事出来たれば、
ただ鳥羽殿にしづかにましまさで、よしなくも都へ
出けるかなとぞ思召されける、相国の嫡子重盛、去
年八月にうせたまひしかば、次男右大将宗盛に、わ
くかたなく世間の事ゆづりて、入道福原へ下り給ひ
し手合せに、大衆不覚して宮を逃し参らせたる事口
惜しとぞ申あひける、宮は高倉をのぼりに近衛河原
まで出させ給て、やがてその夜の中に如意山へぞ入
せたまひける、知らぬ山路をよもすがら入せましま
しけるに、夏草のしげみが下の露けさは、さこそ所
せばくも思召されけれ、されば御足皆そんじてつか
れよわらせ給ひつつ、はふはふぞ渡らせ給ひける、
いと道もなき深山の中を、心あてにたどり渡らせ給
ければ、白くいつくしき御足葎のためにあかくなる、

黒く翠なる御くしささがにのいとにまつはれ、是は
いかになりはてんずることやらんと思召しつづくる
折節、ほととぎすの一声幽に聞えければ、御心の中
にかくぞ思召つづけらる、
時鳥しらぬ山路にまよふには
なくぞ我身のしるべなりける W064 K068
昔、天武天皇大友の皇子におそはれて、よし野山へ
入たまひけんも、かくこそ思し召れけめとおしはか
られてあはれなり、さて三井寺にたどりつかせ給ひ
て、かひなき命のをしさに大乗を憑て来れり、助け
よとなくなく仰られければ、大衆起りて、ほうりん
院といふ所に御所かまへつつ、入参らせて、さまざ
まにいたはり奉る、衆徒せんぎしけるは、当寺の世
上の体を案ずるに、仏法すゐび王法の牢籠この時に
ありと云つべし、爰に宮入御の事是偏に正八幡の擁
護しんら明神の御たすけなり、じやうすゐもはら今
にあり、此時に当つて平相国がぼうあくをいましめ
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ずば、いつの時をか期すべきや、天神地祇も納受を
垂れ、仏力神力降伏をくはへましまさん事何の疑ひ
あるべき、抑北嶺はゑんしゆいちみのえいち、南部
は夏臈得度の戒だんなり、てつそうの所になんぞ与
力せざらんや、同心々々もつともしかるべきよし衆
議一同して、山門へも南都へも牒状をつかはすべし
とぞ申ける、山門へ可合力之由遣牒状其状云、
薗城寺牒、延暦寺衙、
欲殊致合力、被助当寺仏法破滅状
右入道浄海恣失皇法、又滅仏法愁歎無極之間、
去十五日夜、一院第二皇子不慮之外、所令入寺
給也、爰号院宣雖有可奉出之責、皇子令固
(辞)之処、可放遣官軍之旨、有其聞、当寺破滅
将当此時、延暦園城両寺者、雖相分門跡二所、
学是同、円頓一味教文也、譬如鳥二翔、亦似車
二輪、於一方関者、争無其歎者、特致合力
被助仏法破滅者、早忘年来之遺恨、復住山之

昔、衆徒之僉議如斯、仍牒送如(レ)件、
治承四年五月廿一日 小寺主法師成賀
都維那大法師定算
寺主大法師忍慶
上座法橋上人位忠成
とぞ書たりける、山門の衆徒此牒状を見て、山門の
末寺にて当寺と山門とは鳥の二のつばさの如く、車
の二輪に似たりと、押て書之条無其謂と一同に僉
議して、返牒なし、又南都へも遣牒状、
薗城寺牒 興福寺衙
請蒙殊合力被助当寺仏法破滅状
右仏法殊勝事者、為守皇法、皇法亦長久事者、
則依仏法也、然頃年以降、入道前太政大臣平清
盛恣盗国威、乱朝制、付内付外成恨成歎之
間、今月十五日夜、一院第二皇子忽為免不慮之
難、俄令入当寺給、然号院宣、可奉出当寺
之由、雖有責、不能奉出、衆徒一向奉惜之、
P264
仍彼禅門欲入武士於当寺、云皇法云仏法、一
時正欲破滅諸衆盍愁歎乎、昔唐恵性天子以
軍兵令滅仏法時、清涼山之衆徒合戦防之、皇
憲猶如斯、何況於謀叛八逆之輩哉、誰人之恊猜
哉、就中南都者、無例無罪、被配流長者、定位
由内動、非今度者、何日遂会稽之願衆徒内
助仏法之破滅、外退悪逆之伴類、同心之至可足
本懐、衆徒会議如斯仍牒送如(レ)件、
とぞ書たりければ、これについて興福寺返牒云、
興福寺牒 薗城寺衙
被載来牒一紙、為清盛入道浄海欲滅貴
寺仏法由事
牒今月廿日牒状〓、今日到来披閲之処、悲喜相交、
如何者、玉泉玉花雖立両家之宗義、金章金句同
出一代之教文、南京北京共如来弟子也、貴寺他寺
互可伏調達之魔障、就中貴寺者我等本師弥勒慈
尊常住之精舎也、或公家、或姑射山諸宮、或上聞
**
講砌之時、令戦智諍議事、是則天台法相三論華
厳等、若一宗相関、豈不恨哉、〈 是一 〉、次天台学徒、
被魔滅之、法相獨留為何、凡論師之論甲乙者
則是兄弟之諍也、白衣之仏法欲蔑如者、寧非魔
軍之企哉、悲喜之所及尤可相済者也、〈 是二 〉、次異
域并本朝之時、携弓馬之類力労苦身雖平皇
敵、抽賞以不過千金万戸、官位未必不(レ)及子孫兄
弟〈 是三 〉、次我朝者、古貴武之道、授高位事無之、
既異当家、天平御宇大野東人雖切魁首、僅預末
座、〈 是四 〉、次弘仁御宇坂上将軍遠払奥州甲活、近鎮
平城之淵陣、僅加九卿無昇三公、〈 是五 〉、次清盛入
道者、平氏糟糠、武家塵芥也、祖父正盛者、仕蔵
人五位之家、執諸国受領之鞭大蔵卿為房為加州
之刺史、被補検非違使、〈 是六 〉、次修理大夫顕秀卿為
播磨太守之昔、任馬屋別当職、〈 是七 〉、次親父忠盛昇
殿之時、都鄙老少皆惜蓬壷之瑕瑾、内外之英豪、
各泣馬台之懺文、忠盛雖副青雲之翅、世人猶
P265
令軽白屋之種、惜名青侍莫莅其家、〈 是八 〉、次平
治元右金吾信頼卿謀叛之時、太上天皇感合戦之
功、被行不次賞之時、高位昇相国、兼賜兵仗、
男子者、或忝台階、連羽林、女子備中宮職、或
准后蒙宣、群弟庶子皆歩玉路、其孫彼甥者、悉
割竹符、〈 是九 〉、加之通領九州不弁符賀納官進
退百司、皆為奴婢僕従、一毛違心者、縦雖皇公
禁之、片言逆耳雖為公卿搦之、為是於究醤
之、爰以為延君一旦之身命欲逢片時聾耳之
苦、万乗聖主猶成面展媚、重代之君還致七孝之
礼、雖奪代々相伝之家領、上裁恐命、巻舌、
雖取宮々相承之庄薗、憚権威無言、乗勝之
余、其驕倍増、〈 是十 〉、次去年十一月追捕太上皇之棲、
抄掠種々之財宝、押流博陸公之身、奪取国々
庄薗、謀逆之甚、誠絶古今、其時我等須行向賊衆
可問其罪、〈 是十一 〉、然而或相量神慮、或依稱皇憲
押欝陶送光陰之間、清盛入道重起軍兵、打

囲一院第二親王宮之処、八幡三所賀茂春日権現速
垂影向、捧銭弼、送貴寺奉預新羅権現之処、
打開枢皇法不(レ)可尽之旨明白也、〈 是十二 〉、隨捨貴
寺命奉守護之条、顔色之類、誰不被隨喜、我
等在逢恩域感其情之処、清盛入道重起兵器
欲打入貴寺之由、幽以承及、兼致用意、為成与
力、廿二日辰旦、起大衆、同廿三日牒送諸寺、
下知末寺調軍士之後、欲達案内之処、飛
来青鳥、投一芳緘、数日之欝念一時皆散、〈 是十三 〉、次
彼唐家清涼山密宗尚返武副之官兵、況和国南北両
門之衆徒、盍打払謀臣之群類、能固良宴左右之
陣、宜我党待進発之告者、録衆議牒送如(レ)件、
請察状莫成疑貽之故牒、
治承四年五月廿三日 都維那法師祐実
権寺主大法師俊範
寺主大法師顕盛
権上座法橋上人位禅慶
P266
上座法橋上人位朝芸
廿日、今夜三位入道頼政、子息伊豆守仲綱、次男大
夫判官兼綱、三郎三位判官代頼兼、六条蔵人仲家、
同子息蔵人太郎長光、侍には渡島党さつく、播磨の
兵衛はぶく、播磨の次郎あたふ、右馬允つづく、源
太丁七となふ、清進を始として三百余騎、皆三井寺
へ馳参る、かの六条蔵人と申は、父帯刀の先生よし
かた討れて後、みなし子にてありけるを、三位入道
養ひ子にしたりけるとかや、兼綱も三位入道の実子
には非ず、三位判官代と申は舎弟源蔵人大夫頼行が
四男にてありけるを、幼少よりをぢの三位入道とり
て養育して、仲綱がとぎにせんとて、甥を養子にし
たりけるとぞ聞えし、三位入道のもとに侍数多あり
ける中に、入道もふかくたのみ、主をも大事に思ひ
ける三田の源太が末葉競の滝口といふ者ありけり、
本所の三臈なり、右大将の宿所は六条也、かの宿所
のうらついぢの中にきおふが家はありけるに、三位

入道寺へ参られける時、侍ども競に告候はばやと申
ければ、入道思よらずただ今かくと知せたらば、女
童べ以下資財雑具東西南北へ持ちはこびなどせば大
将怪しみてんず、さるものなれば、追て参らんずら
ん、告げてきおふがちじよくかかすなとて、一党引
きぐして落ちにけり、入道おちぬといふ事ののしり
ければ、三位入道は三井寺へ落ぬ、きおふは是にあ
るかとて、内々見せられけるに、是に候と申ければ、
さらばきおふめせとて、召しよせて大将のたまひけ
るは、いかに三位入道の宮の御供にて、三井寺へ参
るに参らざりけるぞ、きおふ申けるは、相伝の主も
告られ候はば参り候はめ、弓矢とるものの鎧着る程
の事に、心をおきて告げられ候はざらんに参るべき
に候はず、したがふも様にこそより候へと申ければ、
大将年ごろほししほししと、三位入道にも度々こはれ
けれども奉給はず、競は渡辺党のその一、王城第一の
美男也、右大将のうらついぢのうちより朝夕出入す
P267
る、ほししほししと思はれける間、此をりふしを得て、
さらばわどの宗盛をたのまれ候へ、三位入道のし給
ひたらん恩には、少しも劣るまじきぞとのたまひけ
れば、競かしこまて候ぬと御返事申す、大将大によ
ろこびて、先しよさんしたる引出物にとて、あし毛
なる馬の太くたくましきと、黒鹿毛なる馬のいち物
なるとよき鞍置て給ひたり、競申けるは黒馬を御恩
に蒙るべきにて候はば、同くは伊豆殿より参りて候
し木下丸が、かひ口になり候ばや、御用の時は進上す
べく候と申ければ、大将あざ笑ひて、一定か、さん候、
かひ口になり候て御用の時は必進上すべく候と申た
れば、木下丸を競に給てけり、宿所にかへる、その
のち大将より競はあるかととはるれば、候候と度
度答へて日のくるるをぞ待ける、さる程に日すでに
くれて入相のかねつくほどに、木下丸には競乗り、
あし毛の馬には乗かへのわらは乗せて、家子三騎郎
等二騎我身ともに六騎つれて、ひたかぶとにて、大

将殿の惣門の前を下馬もせず、少し見入て通りけり、
大将殿の侍ども是を見て、むかへの競こそ此御所よ
り今朝給て候つる二疋の御馬のうち、木下丸には競
乗てあし毛にはのりかへのわらはをのせて、家子三
騎郎等二騎我身ともに六騎つれて、此御所の御門を
下馬も仕らで通り候、奇怪に覚え候、追かけて一矢
い候はばやと申ければ、右大将のたまひけるは、
きおふは聞ゆる強弓精ひやう、矢つぎばやの手きき
なり、そやはかねよく調へて廿四さしておひたり、
追かけたらばさる剛の者にて返合せてたたかはん程
に、矢つぼをさしているものにてあんなれば、宗盛
がをしと思ふ侍廿四五人も一定射殺されなん、左様
のしれ物にはめなかけそ、音なせそとぞのたまひけ
る、さればにや手さすものなくて、三井のかたへぞ
馳せ参る、きおふこそ参りて候へと申ければ、三位
入道さればこそとぞのたまひける、同僚どもに申け
るは、無下なる殿原かな、年比日比は一所に死なん
P268
とこそ契りしに、などきおふには告げざりけるぞと
申ければ、三位入道殿のなつげそ、只今はくちうに告
げたらば、女わらんべ資財ざうぐ東西南北へはこび
ありかんほどに、大将に聞つけられて、競にはぢか
かすな、さるものなれば、追て参らんずるぞと仰ら
れつればこそ、告げ申さねと口々に申ければ、さては
参るべきものと思召されけるこそうれしけれとぞ申
ける、又申けるは、きおふこそ以外のぬすみして参
りて候へ、大将殿より召され候つるに、きおふ参り
て候へば、宗盛をたのめと候間、畏うけ給候ぬと返
事申て候へば、大将殿大に悦で、あし毛なる馬と黒鹿
毛の馬と、二疋によき鞍おきて給て候つる間、黒馬
を御恩に蒙るべきにて候はば、伊豆殿より参りて候
し木下丸がかひ口になりて、御用の時は進上候はん
と申て候へば、大将殿心よげにて木下丸を給て候間、
乗て参りて候なり、されば競を君をはなれ参らせて、
他門につくべきものと大将殿見給ひけん事こそ、あ

ぶなくものたまふものかなと高声に申ければ、人々
一同にどつと笑ひけり、伊豆殿のたまひけるは、一
定わどのは木下丸を取て来りたまひたるか、仲綱に
その馬えさせよとのたまへば、さうけ給り候とて、
引出したり、伊豆守是を見たまひて、いかなる先世
の宿ごうにて、此馬故にかかる大事を思ひ企つらん、
うれしくもわどの取て帰り来給ひたり、いかなる大
将なれば是程志を思ふに、世になき仲綱に思ひつき
て身をいたづらになし給ふ、いかにしてこのうれし
さを思ひ知らせ奉るべき、世になくてさて果てて心
を見せ奉らざらん事こそ口惜けれとて、涙ぐみ給ひ
ければ、侍ども皆袖をしぼりける、重ねてのたまひ
けるは、あし毛馬もわどの一定得給ひたるか、さん
候、さらばそれも仲綱に得させよとのたまひければ、
参らせ候はんとて、引出して参らせける、伊豆殿是
を見給ひて、大将の秘蔵する京中第一の名馬、なんれ
う丸にてありけるや、大将よくわどのをほしと思け
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る、命とともにと聞しなんれう丸をも、わどのにと
らせたり、木下丸をもとらせたり、いかなる人は是
ほどに志深きぞ、仲綱も志は深けれども、世になき
ものにて思ひ出もなき事こそ口をしけれども、なん
れう丸を名を改めて左右のももに宗盛といふかねや
きをあてられける、木下丸をせられけるやうに宗盛
め引出して、なでよはたけよ、宗盛めうちはりて、
あららかに庭のりせよなどのたまひ、三井寺の大衆
大津の在家人などに聞せて、その後京中の人に見も
し聞せんために、とねり男を召し寄せて、やや此宗
盛めを乗て京へ上りて、大将が宿所二三町が程にて
くつわはづして追はなちてとてつかはす、とねり男
乗りて京へ上りて、たそがれ時程に大将の宿所近く
乗上り、くつわはづして追はなちたれば、かひたる
所にてありしかば、大将の宿所へ走り入、侍どもこ
れを見て、こはいかに競に給て候つるなんれう丸が
かへり参りて候と口々に申ければ、とらへよとて、

あつまりて火をともして引まはさせて見給ふに、左
右のももに宗盛といふ火印あり、大将是を見給ひて
かなしうたうはせられたり、それにつけても競こそ
いとをしけれ、身を捨てとどまりゐて、たばかりて
馬をとり返して行かんずるものをと思ひけんこそあ
はれなれ、是をしらずしてぬけぬけととられてたう
わをせられたるこそ安からね、あはれ人のはぢある
侍をば、命にかへても深く思ふべきぞ、ただ一人残
りとどまりて、二疋の馬を取て行、はぢのたうわをし
返したる事こそいとをしけれとぞ競をほめあひけ
る、
山門ならびに南都の大衆同心のよし、その聞えあり、
山へは太政入道座主めいうん僧正をあひかたらひ奉
て、近江米一万石往来に寄せたる、うちしきにはみ
のぎぬ三千疋相添てのぼせて、谷々坊々に四五疋十
疋づつなげ入られけり、米絹送らるる状に云、
園城寺者、本是可謂謀叛之地誠哉此事、非寺
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之訴非人之訴訟、八逆之輩恣失皇法、欲滅仏
法、早今日中企登山、勅定之趣仰聞衆徒、内祈
善神、外降伏悪魔耳、抑深懸叡念於叡山、盍
隨一寺於一門、其上以兵甲防凶徒、定隠遁
山上歟、以此之旨兼被守護者尤可宜守院
宣之趣状如斯、仍而言上如(レ)件、
治承四年五月廿五日 左少弁行隆奉
謹上山座主御房
とぞ書たりける、これによて座主登山したまひて衆
徒等をなだめせいしたまひければ、山門いよいよ与
力せざりけり、山門心かはりしければ、南都大衆、座
主経一巻実語教一巻作りて、根本中堂に送置、
欲心貪如説経
爾時座主三千人の大衆に告てのたまはく、汝等よく
聞け、よく是を思念せよ、近江米壹万石おりのべ絹
三千疋は、大衆の身においてあひてもあひがたきも
の也、我是もろもろの絹米を以て、衆にあてんと思

ふ、ただし大衆の心に於ていかん、座主に申て云、
我今日に於て大利を得て、心大にくわんきをなす、た
だ願くは座主その故をときたまへ、時に座主説ての
たまはく、汝等三井寺の大衆に与力する事なかれ、
教の如くならば我ぐわんすでに満じ、衆ののぞみ又
たりぬ、その時大衆せつの如く、三井寺の大衆により
きの心をたつ、時に座主もろもろの絹米をもて、大
衆に与、咒説言
〓山法師衣ありや、米もありや、はろきていあら
ばさなやそはか
実語教一巻
山高きが故にたつとからず、
僧あるをもてたつとしとす、
僧こえたるが故にたつとからず、
恥あるを以て貴しとす、
織延は一たんの宝、
身めつすれば則ともに破る、
P271
恥は是れ万代のきず、
命をはれどもともにうする事なし、
倉内のたからは朽ることあり、
身中のはぢは朽ることなし、
よくは是一生のはぢ、
恥なきをもて愚人とす、
四大日々におとろへて、
三たう夜々にくらし、
かるが故に書を読むともがらなし、
学文さらにあとをめつす、
眠を除いて夜討を好、
うへを忍で城郭を構ふ、
四等のふねにのらずば、
海ぞくの道を得がたし、
師に逢ふといへどもおそれず、
弟子に逢といへども恥ぢず、
師君には孝なし、

木石に異ならず、
父母常に向拝せず、
なほしちくしやうに同じ、
みはほりのべにかへつ、
妻子にえさせて相ほどこす、
これ学文のはじめ也、
命終るまで忘失する事なかれ、
一乗仏子と名乗りては、
一文ふつうのたぐひなり、
二宮参りと名付ては、
二目かけたる山法師、
三井の堂舎を焼てこそ、
三づのぐほうを定めけれ、
四海にかけりて朝夕に、
四ちうきんをぞ犯しける、
五きにつみたる悪行は、
五道しやうじのもとゐ也、
P272
六くん比丘のすがたにて、
六はらにこそつかはるれ、
七社の神輿をふりてこそ、
七道諸国流さるれ、
八宗の名をだにさとらねば、
八講ごとにねをぞなく、
九重のさたをする時は、
公卿せんぎにもちゐなし、
十種供養に事よせて、
十方施主にすすめこふ、
百姓をどして物をとる、
千僧供をこそせめいたせ、
慢心驕慢高けれど、
臆病一のけ武者なり、
帰命預礼平将ぐん、
今日より我等を捨てずして、
生々世々につげつかへ、

在々所々にともをせん、
又ぬりあしだに歌二首、
山法師おりのべ衣薄くして
はぢをばえこそかくさざりけれ、 W065 K069
山法師味噌かひしほかさかしほか
へいしのしりにつきてめぐれば、 W066 K070
此事洛中にこぞりてののしり嘲りつつやきつつ、中
にもしほのこうぢの童は、みそ大衆とぞはやしける、
きぬにもあはざりける山僧のよみたりけるとかや、
おりのべを一切もえぬ我等さへ
うす恥をかく数に入るかな、 W067 K072
源三位入道山門くみせざりける事を聞て、かくぞよ
みける、
たき木こるしづがねりそのみじかきか
いふことの葉のすゑのあはぬは、 K068 K071
主上俄に太政入道の宿所西八条へ行幸なる、新院日
ごろ是に渡らせ給ふ、日次かたがたあしかりけれ共、
P273
そのさたにも及ばず、ことの外にさわぎてぞ聞えし、
御輿の前後には軍兵数千騎うち囲みて候けり、
堀川院御宇永保元年十一月八日、八幡賀茂両社に行
幸の日、園城寺の悪徒等さんらくすべしと聞えしに
よて、前陸奥守義家弓箭を帯して軍兵三千余騎相具
して、御輿の前後右衛門の陣に候しをこそ万人目を
驚し、希代の事に申しに、近来の行幸には、つはも
の前後に仕ぞ浅ましき、同廿三日、源三位入道頼政
寺より六はらへ押寄せて、太政入道を夜討にせんと
ぞ支度しける、老僧たちを引ぐして如意が峯より一
千人ばかり手々に松明をともして、足軽ども少々白
川の在家中へさし遣はして、火をかけさせんに、六
はらよりはやりをの武者ども、軍を招かれてはせ向
はば、矢どもいさせて岩坂桜下に引あがりて、戦場
によきもの四五百人ばかり引ちがへて、六はらへ入
て、風上より火をかけて、入道を討たん事相違ある
べからずと申ける、この儀もつともしかるべし、山

門の大衆も心がはりしてくみせず、南都の大衆もけ
ふけふと申せども、いまだ見えず、いつを限りと待
べきぞとて、貝鐘をならしければ、講堂に大衆発向
してせんぎす、その中に太政入道のいのりの師、一
如房阿闍梨真海、弟子同宿廿余人引具して、せんぎ
の庭にすすみ出て申けるは、かやうに申せば相国の
方人とぞ各思召され候らん、たとへ方人にても候へ、
門跡の名といひ我寺のはぢといひ、いかでか門徒の
中をばはなれ参らせ候べき、又我等が名を惜まで候
べき、昔源平両家左右の翅にて、たがひに威勢を争
ひしかども、近来よりは源氏果報おとりて運命つき
ほろびはて候ぬ、今は太政入道一天四海を守護し、
天下の守となつてなびかぬ草木もなし、内々かのた
ちのありさまを見候に、たやすく小勢をもて思ひか
からるべきに非ず、但蚊虻岡をになひ、蟷螂車をく
つがへすといふ事あれば、それにはよるまじけれど
も、各々なほ勢をも催しぐして、はかりごとをも外に
P274
めぐらして、後日のさたあるべきにて候かとて、夜
をふかさんとて、長せんぎをす、ここに乗円房のあ
じやりけいしう、衣装束にかしらつつみて、大なる
うち刀さしてすすみ出て申けるは、証據を外にもと
むべきにあらず、我寺の本願清見原天皇、大友の皇
子におそはれて、吉野山を出させ給ひて、大和の国
宇多の郡をすぎさせたまひけるには、上下十七騎と
ぞうけ給る、伊賀伊勢をへて美濃尾張の勢を催して、
美濃と近江との境川といふ所を隔てて、大友の皇子
と戦ひたまふに、その川黒血にて流れたりけり、そ
れよりして此川を黒血川と申なり、さて終に軍に勝
ち給ひたりとぞ申伝へたる、窮鳥ふところに入れば
じんりんあはれむ心ありといふ本文あり、忝くも宮
此寺をたのみ給ひて入せおはしましたらんに、いか
で力をあはせまいらせざるべき、余はしるまじ慶秀
が弟子六波羅にうち入て、太政入道の首取て参らせ
よとぞ申たる、ゑんまん院の大輔といふ悪僧すすみ

出て申けるは、せんぎばし多し、然るを五月の短夜
に時刻おしうつるに、さらばとくとく打立とて、二
手にわかつ、如意越をば源三位入道頼政ぜうゑん房
のあじやりけいしう、帥のほういん善智、その弟子
きほうぜんえい、白川よりして五十騎を引ぐして来
りくははる、老少ともなく千余人、手々につい松を
して白川へ向ひけり、六はらの手にはほうりん院の
大輔弟子あら土佐、りつじやう房日印が弟子伊門房、
ゑんまん院の大輔、是等三人は打もの取ても弓矢取
ても、一人当千の悪僧也、平等院にはいなばのりつ
しや、あら大夫松井の肥後、すみの六郎房、松島のあ
じやり、北院には金光院の六天狗、しきぶの大輔、
能登、加賀、佐渡、備後等なり、じやうき院の鬼佐
渡、筒井法師に郷あじやり、あく少納言、かなちくぜ
ん、南勝院の肥後、日尾定雲、四郎房、大箭修定、後
中院の但馬、ぜうゑん房のあじやり、房六十人の中、
加賀光乗刑部房、一来法師、是等ぞすぐれたるつは
P275
ものにてありける、堂衆には筒井の浄妙明俊、小倉
尊月、尊栄、慈慶、楽住、かなこぼし源王房、武士
には伊豆守仲綱、源大夫判官かねつな、六条蔵人仲
家、蔵人太郎、渡辺のはぶくはりまの次郎、さづく
さつまの兵衛、つづく源太、競の滝口、あたふ右馬允、
長七となふ、きよし、すすむを始として、七百余人、六
はらへとて向ひけり、如意が峰の手は遅々しけり、
その故は宮、寺へ入御の後は、大関小関を堀切りさか
もぎを引きたりければ、逆茂木取のけ、はし渡しなど
するほどに、時刻おしうつりて、関路のにはとり鳴
きあへり、仲つな申けるは、五月の短夜なれば、夜
すでに明なんとす、無勢にて多勢をうつ事夜討こそ
よかりつれ、日中はかなふまじ、とくとく各々帰り給
へと申ければ、ゑんまん院の大輔すすみ出て申ける
は、宋朝は三百六十箇国の地也、かのはんこくの将
軍是をなづけてまうしやうくんといふ、威勢殊にす
ぐれて、三千人を朝夕に召仕ひて、昼夜にけいゑい

す、時の気色雲上のふるまひに異らず、てうおんを
もかんぜず、人のそしりをもかろくせず、ふるまひ
世にすぐれたり、こはくきうといふ物をまうしやう
くん秘蔵して持たりけるを、秦の昭王この事を聞給
ひて、所持のこはくきう我に得させよとのたまひけ
れば、我身に於ては、第一のたからと思ひけれども、
是を与へずば我ほろびなんと思ひて、こはくきうを
昭王に与ふ、則ち官軍に納めてけり、然るをまうし
やうくんおごりをきはむるあひだ、八ぎやくにしよ
せらるべしとて、忽にてう敵となる、まうしやうく
んは裘をうしなひたる事安からぬ事に思ひて、日別
のしよくじをやめて裘の惜き事を歎けり、この人心
広き賢者にて、さまざまの能ある者を召つかひけり、
或は鶏の鳴くまねをする者もあり、或は犬のほゆる
まねするものもあり、或は盗に長じたる者もあり、
その中に李父丁といふ者盗に長ぜり、ただ狐白裘盗
み出して奉らんといひければ、孟嘗君大に悦で李父
P276
丁を遣す、則ち昭王のかたに行て宝蔵を事故なく開
きてかの裘を盗出で、まうしやうくんに奉る、われ
朝敵となりぬる上は、暫くもやすらふべからずとて、
三千人の客を引具して落ちて行道に長飼山、龍剱山、
竹業山、明谷山、拾嶺山などいふ所々にて戦ふ事す
でに廿七ヶ度に及ぶといへども、とかくしてうち勝
て通り行くほどに、今頭牛山をうち過ぎて、函谷関
にかかる、城戸五あり、第一の城戸をば函谷名関と
いふ、是は日夜をきらはず、尊勝陀羅尼を誦する者
をば開きて通す関なり、ここにかくの中に、尊名と
いふつはものあり、文武二道の武者なり、尊勝陀羅
尼を七返となへたりければ、鎖をはづしてさつとと
ほす、第二の城戸にはかつちうよろひて弓矢を帯し
ては通さざる関あり、これは摩尼宝冠の関といふ、
たいはうしうといふ者あり、聖教にもくらからず、
武道にも達せり、又その身の力は八千三百人が力也、
まうしやうくん方の弓箭兵仗かつちうを取り集め

て、大箱に入て、是は八万聖教の箱と号して戴きて、
かのまにほうくわんに向ひて迷故三界城、悟故十万
空、本来無東西、何所有南北、朝去朝来道、惣じて
かかる所無、何心のあるによて関の戸をとづるぞや
といふ、関守答へていふ、弓矢を袋に入てもち、兵
仗をかくして禍を好む輩に於ては通すべからずと云
ふ、たいはうしう答へていふ、我則ち凶徒に非ず、
九しう山の衆徒なり、召ぐする所は一山の大乗なり、
持所は聖教の箱也、是を見よとて関の戸に当りたれ
ば、大地震のごとし、関守あらしとて、あけんとて
戸を開あひだ、むらむらとかけ通る、その後兵具を
帯せり、かくのごとく芸能一づつある客は、皆是主
のせんにたたんずるため也、その中に文武二道にも
かけ、力よわき事水草のごとし、然れども大食大酒
也、されども心ひとつたけくして、合戦と聞てはわ
れ一人先をかけんと勇みける事、殊に余人に超えた
り、傍輩是を見てにくみそしる事限りなし、その名
P277
を鶏鳴といふ、兵糧米の費え也、又万人の威をうし
なへるもの也、先を争といへども廿八ヶ度の戦にあ
へて以てその益なし、召しぐせられてむやく也とい
へり、君もしろし召たりといへども、にはとりの鳴
声をまねけるが、少しもたがひぬべくもなかりけれ
ば、是を愛して召つかはれけり、すでに第三の城戸
かんこくの関といふにかかる、是は鶏の鳴ざる外は
戸をひらかざるせき也、ただ今はいぬの終り亥の刻
のはじめ也四方のにはとりいまだ鳴ず、仍て関の戸
更にあけがたし、如何せんと孟嘗君歎きて、ただ今
手取にせられなんと恥をかなしむ、その時鶏鳴みて
りの法をかぢして、かたきを三まい儀を前後にはた
らかさず、木ずゑにあがり、殊鷲木といふ木あり、
かの杪に上りあがつて、水印を成就し、関守がため
にあけんと思ふ心をつけて烏帽子をたたきて、鶏の
鳴声をしたりければ、四方の鶏うけ取うけ取はらはら
となく、よくよく時をはかる関路の博士にある金花

といふ鶏、請取て三声鳴ける上はあけんとて、急ぎ
戸をあけたり、まうしやうくん悦をなして、はつと
打通す、鶏鳴は左右の翅をうごかし、中天にかけて
水印をやむ、見ればいまだ亥の刻也、関守いかに夜
や長きとて鶏鳴ともにおちにけり、その時関守驚き
て陰陽も不調也、博士も不覚したりけりと、かさね
て通る事あらば、関のきずといひ、勅勘のがれがた
しとて、天をよくまもりて、関の戸をさしかたむ、こ
こに官軍追かけてまうしやうくんをとどめんとす、
しかれども関の戸を開かざる間、夜の明くるを待程
にはるかに打のびて孟嘗君当座のはぢをのがれにけ
り、是則ち鶏鳴が徳也、されば人は心広くもいやし
き能なりとも賞すべかりけりと思へり、今命を助く
る事何事か是にしかんや、上古にも合戦の道のはか
り事かくの如し、しかれば一如房がはかりごとに関
路のにはとりを鳴せつらん夜をはかり馬を限りにう
つべしとて、手々に火をともしよせよやよせよやと申け
P278
れども、夜はただ明に明にければ、是は一如房が長せ
んぎのしわざなりとて、かの房へおしよせて切りは
らひ、一如房が弟子ども防ぎ戦ひけるほどに、同宿
多く討れにけり、あじやりはうはう六はらへ行向ひ
て、此よしを訴ふ、六はらにはもとより馳せ集たり
ける勢なれば、少しもさわがず、宮は山の大衆与力
せばかくて暫く渡らせ給ふべきに、山門与力せざり
ければ、寺ばかりにてはかなはじとて、廿四日南都
へ赴かせ給ひけり、その次に金堂に御入堂あり、此
宮小枝、せみをれといふ二の御笛をもたせ給ひたり
けり、蝉をれを弥勒に奉給ふ、此御笛は鳥羽院御時こ
がねを千両唐土の御門に奉らせたまひたりければ、
その御返報とおぼしくて漢竹一を奉らせ給けり、院
秘蔵し思召されて、三井寺のほうりん院僧正覚祐に
仰て、壇の上に立て、七日加持ありてほらせられた
りける御笛なり、おぼろげの御遊には取いだされず、
御賀のありけるに、高松中納言実平卿給てふかれた

りけるに、御遊はてて不通のやうに思て、ひざの下
におきて又取出してふかんとせられければ、笛とが
めてや思ひけん、取はづして落して蝉をうちをりて
けり、希代の不覚何事か是にしかんや、是よりして、
彼御笛をば蝉をれとは名付られたり、高倉の宮くわ
んげんに長じて渡らせ給ひけるうへ、殊更御笛の上
手にてわたらせ給ひければ、後白河法皇よりたまは
らせ給ひけるなり、御かた見とてしうしんふかく思
召されたりしかども、龍花の値遇のためとや思召し
けん、終夜万秋楽を遊されて後、此笛をばみろくに
奉らせ給へり、そののちある雲客日吉へまうでて、
夜陰に下向しけるに、三井寺に笛の声のしければ、
暫くやすらひて立聞ければ、故宮の蝉折の音に聞な
して仔細を尋ねければ、金堂執行慶俊あじやり、その
ころ笛ふく児を持たりけるに、時々此御笛を取いだ
してふかせたりける也、ゆゆしく聞しりたりける人
かな、大衆此由を聞て、此御笛をおろそかにする事
P279
あるべからずとて、その時より始めて一和尚の箱に
納められて、園城寺の宝物のその一なり、今にあり
とかや、
乗円房の阿闍梨慶俊〈 ○前段作慶秀与此齟齬 〉はとの杖にすがりすす
み出て申けるは、よはひ八旬にたけて、としきみを
こえぬ身にて候へば、御ともには参り候まじ、是に
候弟子、ぎやうぶ房俊秀とまうす法師は、相模の国
の住人山内すどう刑部丞としみちと申者の子息、父
は平治の乱の時義朝が供にて、五条河原にて討れ候
ぬ、みなし子にて候しを取おき候て、けいしゆんが
跡ふところよりそだて候へば、心ふるまひもよくよ
く知りて候なり、不敵の法師にて候、御身をはなた
せ給はで、此僧が参りて候と思召れ候て、召具せさ
せましまし候へとて、涙を流しければ、宮是を御覧
じていつのなじみ、いつの対面ともなきに、いかに
してかくは思ひ入たるやらんと思召すに、御涙うる
ばせ給ひけり、御方には三位入道の勢并寺の悪僧彼

是都合三百余騎にて、醍醐路より南都へおもむかせ
たまひけるが、御馬にがうごせさせ給はで、寺と宇
治との間にて六度まで御落馬あり世の人桃尻とぞ申
ける、此ほど御しんもならでねぶり落させたまふに
こそとて、宇治橋を中三間ばかりひきて暫く平等院
に立入せ給ひて御休みあり、平家是を聞て軍兵をさ
しつかはして是を追伐せらる、則
左兵衛督知盛、蔵人頭重衡朝臣、新少将資盛朝臣、
権亮少将維盛、中宮亮通盛、左少将清経朝臣、左馬
頭行盛、三河守知度、薩摩守忠度、侍には上総介忠
清、飛騨守かげ家、河内守安つな、飛騨判官景高、
上総の太郎ただつな、武蔵の三郎左衛門尉有国、以
上三万余騎木幡山をはせ越て、平等院へぞ向ひける、
軍兵すでに雲霞の如くにて、馳来るといふほどこそ
あれ、平等院にかたきありと見てければ、馬のはな
をならべてときを作る事三ヶ度也、三位入道もとよ
り思ひまうけたる事なれば、少しもさわがず、三百
P280
余騎にてときをぞ合せける、平家の方より上総介忠
清討手の先陣うけ給て、三百余騎の勢にてはし上へ
ぞ進みける、宮の御方に三井寺の悪僧筒井のじやう
妙めいしゆんといふもの、自門他門にゆるされたる
者也、橋の上の手へこそ向ひけれ、めいしゆん事を
好て装束したり、褐衣の鎧直垂に黒革のをどしの大
あらめの鎧に、黒つ羽の三矢廿四さしたるを、かし
ら高におひなして、七曲したる黒ぬりの弓持ち、三
尺五寸の太刀に熊の皮の尻ざや入てさげはいたり、
三枚甲を猪首に着なし、好む長刀取ぐしてからす黒
の馬のふとくたくましきに黒鞍おきて乗たりけり、
同宿廿余人皆おなじ色の褐衣の直垂に黒革をどしの
鎧着たり、足軽三十余人同黒革をどしのはらまきき
て、橋の上へあゆみ向ひて申けるは、さしたる世に
あるものにてなければ、音にはよもきかせ給はじ、
筒井のじやう妙めいしゆんとて、園城寺にはかくれ
なし、我と思はん人々は、明俊に向へやとて、引き

たる橋げたを隔てて、半時ばかり射合たり、廿四さ
したる矢にて敵十二人射殺して、十一人に手おはせ、
矢一はえびらに残りたり、明俊矢をさしはづして申
けるは、殿原暫く軍をとどめよ、その故はかたきの
たてに我矢を射たて、敵の矢を我たてにいたてられ
ては、いつ勝負あるべしとも見えず、橋の上の戦ひ
は、明俊が命を捨てて、勝負あるべし、つづかんと
思はん人々は、急ぎつづけやといふままに、馬より
とびおりて、弓をからとなぎすてけり、あれはいか
にと見る所に、箙をとき捨て、つらぬきて、好む長
刀のさやはづして、左の脇にかいはさんで、いむけ
の袖をゆり合せて、甲の錏をかたぶけて、橋の行け
たを走り渡り、敵三百騎が中へ向て入にけり、人の
一条二条の大路を走るよりも、猶やすく見えたりけ
る、余人はおそれて一人も渡らざりけるに、生年十七
歳になりける一来法師ぞ少しも劣らず渡りにける、
もとよりつかひつけたる長刀をけふを限りとつかひ
P281
ければ、面をむくる者もなし、されども八人薙ぎ倒
し、九人といふに長刀のめぬきの際より折れにけり、
やがて太刀をぬきて戦ひける、太刀にて四人切伏せ、
五人といふに余りにうちしかりて、向ひあひたる敵
の甲のまつかうを強くうちたりけるほどに、目貫の
もとより打折りて、太刀は河へさつと入、今はたの
む所は腰刀ばかりなり、暫く気つきて、刀のつかに
手うちかけて小をどりしてぞ立たりける、後なる一
来法師明俊がわきよりつといで、前に立きりてぞふ
せぎける、めいしゆんうたせじとて、三位入道の郎
等渡辺のはぶく、さづく、競、つづく、あたふ、き
よし、すすむをはじめとして、一文字名のりどもし
て廿二人ぞ渡りける、明俊是等を後に立てて、忠清
が三百余騎の勢と戦ひたる、三十余騎は大略明俊一
人して討取てければ、残ひき退きけるを、平家の大
勢是を見て、先陣の討手のひくこそ見苦しけれ、返
し合せよとて、我も我もと橋の上へぞ馳かさなる、こ

こには敵のよするぞ、あやまちすなといふも聞ず、
二百余騎我先にと打あがる間、河霧たちてくらかり
ければ、後陣の勢に押されて先陣二百余騎おとされ
て流れにけり、此まぎれに明俊は敵二人手とりにし
て、大事の手負て行げたを走りかへりて、平等院の
後にて、物の具ぬぎおきて、おりかけたる矢をかぞ
へて見れば六十二筋、大事の手は五所、薄手は数を
知らず、此いくさを見れば、かなふべしとも覚えず
とて、ふる衣うちきてかしらゆひて、弓きり折りて、
杖につきて、南無阿弥陀仏と申て奈良の方へ行にけ
り、渡辺党廿四人が中に二人は討れぬ、十人はいた
手おひ、のこりはうす手をおひて、皆分どりして首
どもひさげしてひさげして走り帰りたりけり、上総の介忠
清、討手の先陣にて橋の上に向ひたりけれども、めい
しゆん一人がために或はうたれ或はうち落されぬ、
わづかに二百騎がうちになりて引帰、同寺の悪僧大
矢の修定但馬房は、平家の先陣引返すを見て、黒皮を
P282
どしのよろひを着、三尺五寸の大長刀の茅のはのご
とくなるを持て、橋の上を走りわたりて、おもしろ
く長刀をふりてぞをどりける、平家方より矢先をそ
ろへて是をいる、さがる矢をばをどり越、あがる矢
をばさしうつぶきてうち落し、向ひてくる矢をば切
おとす、横に来る矢をもきりければ、時のほどに三
百三十筋までぞ切たりける、向ふ敵十四人きりころ
す、それよりして矢切修定の但馬房とはいはれける、
是は三井寺第一の大矢を射けれども、手少あはらな
りければ、その日は弓をばもたざりけり、打物取て
は一番の手ききなり、信濃国の住人吉田安藤右馬允
かさ原の平三、千葉三郎等二百余騎にておしよせた
り、千葉三郎はうち甲をいさせて引退く、平家の軍
兵宇治橋の北のつめにくつばみをならべて打ち立た
りけるが、橋の上を走り渡り走り帰るものもあり、
うへが上にこみければ、折ふし川霧たちて、いまだ
くらさはくらし、橋を三間引たりけるをも知らず、

後陣の勢におされて、先陣二百余騎また河へ入にけ
り、色々のよろひ色々のかさじるしの宇治川に浮た
りければ、嵐の紅葉を心のままに吹ちらしたるに似
たりける、その中に伊勢国住人古市白児党に館六郎
貞康、同十郎真景、黒田後平五、已上三騎馬をいさ
せて火をとしあかじるしの鎧武者河に流れて、うき
ぬしづみぬして、網代にながれかかりて、弓のはず
を岩のはざまにねぢ立て、それに取つきてうきたり、
その時三位入道はかくぞ申ける、
伊勢武者は皆ひをどしの鎧きて、
宇治の網代にかかりぬるかな、 W069 K075
忠清引き帰て、知盛の卿に申けるは、今日の軍の手
合せこそいと然るべしとも覚え候はね、この河を見
候へば、五月雨のころにて、ことに水早く候へば、
橋よりうはても渡るべしとも覚え候はず、したても
渡るべき所見え候はず、さればとて馬をはなれて、
行げたを渡すにも及ばず候、いかが仕るべく候、夜
P283
に入て是より下供御の瀬の方へ人をつかはして、瀬
ぶみをせさせて、静に明日川をや渡るべき、又上に
案内を申て、淀芋あらひ河内路などを廻べきかと申
ければ、数万人の兵の中に、もの申者もなかりける
に、下野の国の住人足利の又太郎忠綱といふもの進
み出で、あはれ上総殿ならぬ事を申され候ものかな、
此河は近江の水うみの下なれば、待とも更に水はひ
まじ、川をへだて山をへだてたればとて、目にかけ
たる敵をうたであるべきやうやはある、善悪軍の延
びてよき事は候はざらんものを、就中奈良法師三万
余騎の大勢にて、宮の御迎に参る由聞え候、敵に勢
をつけてなんのせんか候べき、かたきの無勢なる時、
ただ渡して急ぎ勝負を決せらるべし、淀いもあらひ
をば唐土天ぢくのつはものをめしては、よも渡され
じなれば、終には各が大事にもこそむかはんずれ、
昔秩父足利と中を違ひて、度々合戦をしけるに、武
蔵と上野との境に利根川といふ大河あり合戦のため

によする時は、瀬を尋て渡せども落つる時は、ふち
瀬もきらはず渡りけり、人もながれず馬も死なず、
ある時足利より秩父へよせし時、上野新田入道を憑
てからめ手をよせさす、大手は長沢の渡をす、搦手
は古我粉の渡りといふ所をわたさんとすれば、ちち
ぶが方より五百余艘の舟を河原に引あげられて、新
田わたりをせざりしに、人にたのまれて、今日の軍
のからめ手によするもの、敵に舟をとられたればと
て、ここにひかへてあるものならば、かへりちうし
てけりと思けがされん事口をしかるべし、かべねは
そこのみくづとなすとも、名をば此河に流がせやと
て、五百余騎の勢にて馬いかだをつくりて渡して、
その日のいくさにはかちにけり、されば新田も渡せ
ばこそ渡してけめ、此河を見るに橋より上のながれ
やう長井の渡りによもすぎじ、いざわたさん殿原と
て、伴なふ者ども、足利が一党のものどもには、小
野寺の禅師太郎、吉水五郎、戸矢子七郎、その子太
P284
郎、佐貫広綱四郎大夫、大子、大室、深栖、山上那和太
郎、郎等には金子丹次郎、大岡太郎、利根四郎、彦
田四郎、田中藤太、宗太、鎮西八、喜里宇六郎、うぶご
やの次郎をはじめとして、家子七十余騎、郎等二百
余騎くつばみを並べてさつとわたす、是を見てむか
へのきしより、三位入道の三百余騎矢先をそろへて
射けれども、馬も射させず、手も負はず、忠綱申け
るは、つよき馬をば、うは手に立てよ、弱き馬をば
したてにたてよ、かたを並べて手をとりくめ、先な
る馬の尾に取つけ、遠からんものには弓はずをとら
せよ、あまたが力を一にして、馬の足の及ばん所を
ば、手綱をすくひてあゆませよ、馬の足のたたぬ所
をば、手綱をくれておよがせよ、かしらあがらば前
輪にかかれ、かしらしづまば、しづわにのりさがれ、
うは手のあぶみを強くふめ、水には多く馬にはすく
なくかかるべし、手綱にみをあらせよ、さればとて
引かつぐな、河中にて弓ばし引くな、かぶとの錏を

かたぶけよ、かたぶけすごしててへん射さすな、射
むけの袖をまつかうにあてよ、水ははやし、底は深
し一文字にな渡しそ、水にしなひて、五六段はさが
らばさがれ、馬たをひて敵によわげ見ゆるな、渡せ
や渡せや殿原とて、三百余騎一騎も流さず、橋より下
五六段ばかりさがりて、むかへのきしにさつとつき
てうちあがり、あぶみふんばり弓杖つきて、馬の気
つかせて、暫く物の具の水はしらかす、さるほどに
夜もほのぼのとあけにけり、忠綱もくらん地の直
垂に、ひをどしの鎧のおもだかをば金ものにうちた
るに、鍬がたうちたる白星のかぶとをゐくびに着な
して、紅のほろをかけ、大中黒の廿四さしたる征矢
かしら高におひなして、重籐の弓の真中取てれんぜ
んあしげなる馬の七寸にはづみ、ふとくたくましき
に、白ふくりんの鞍おきてぞ乗たりける、平等院の
前にうちよせて、皆くれなゐのあふぎひらきつかひ
て申けるは、ただ今此河を渡して候者をば、何者と
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も君はよもしろしめされ候はじ、是は、昔承平の比
朝敵将門を討ちて、帝王のげんざんに入て、名を後
代にあげて候し俵藤太秀郷には五代の孫、下野国住
人足利の又太郎忠綱、童名王法師、生年十七歳、小
事はしらず、大事にあふ事三ヶ度、いまだ不覚を仕
らず、か様の無官無位の身にて君に向ひ参らせて、
弓を引き、矢をはなち候はん事、神慮も御照覧候へ、
その恐れ少なからず候へども、太政入道殿御使にて
候へば、くわほうも冥加も、入道殿に任し奉り候、
今日先陣に於ては、忠綱渡して候、源三位入道殿に
見参に入候はんとて、やがて門の内へぞせめ入ける、
是を見て平家の軍兵我も我もと渡しけり、三万余騎
の大勢一度に河に打入たりければ大勢にせかれて水
流れやらず、暫くよどみてぞ見えける、下の瀬を渡る
雑人などは腹巻のくさずりもぬらさでわたり着く、
乗かへ郎等などの河の案内もしらぬ者共の、むまや
人やとひざよりをのづからはづむ水に、なにもたま

らずながれけり、かれ是八百余騎は流れにけり、そ
の外は皆渡り着にけり、三万余騎の勢大略渡りたり
ければ、宮の御方の兵三百余騎を中にとりこめて戦
ふ、三位入道頼政は、ちやうけんの直垂にしながは
をどしの鎧を着、今日を限りと思はれければ、わざ
とかぶとをば着ざりけり、子息伊豆守仲綱は、赤地
の錦の直垂に黒革をどしの鎧きて、是も矢束をなが
くひかんがためにかぶとをば着ざりけり、舎弟源太
夫判官かね綱は、萠黄のすずしの直垂に、緋威の鎧
に白星のかぶとを着て、白あしげなる馬にぞのりた
りける、六条蔵人父子渡辺の郎等共、我も我もと命
を惜まず戦ひけり、此間に宮はのびさせたまひける
を、平家の大勢せめかかりければ、兼綱父をのばさ
んと返合て戦ひけるぼどに、兼綱大事の手負ひてぶ
ちをあげて、奈良路をさして落けるを、上総の太郎
判官忠綱、七百余騎にて追かけて、此先へ落たまふは
源大夫判官殿とこそ見えたれ、いかでうたてくも源
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氏の名折に、鎧のうしろをば敵に見せ給ふぞ、きた
なしや、返し合せよやといひてせめかかりければ、
是は宮の御ともに参るぞと答へけれども、敵無下に
責よりたりければ、今はかなはじとや思ひけん、我
身相具してただ十一騎ぞありける、馬のはなを引返
して、十文字にかけ入たりければ、中をあけてさつ
ととほす、一人もくむものなかりければ、立さま横
さまにさんざんにぞかけたりける、忠綱これをみて
よくひきていたりければ、兼つな内かぶとをいさせ
て、少しひるむやうにしける所を、忠つながわらは
次郎丸すぐれたる大りきなりけるが、おしならべて
組で落ちぬ、取ておさへたりけれども、暫く首をか
かざりけるを、忠つなが郎等落ち合ひて鎧の草ずり
をたたみあげて、二刀さしたりければ、内かぶとも
いた手にてよわりたりけるうへ、かくさされてけれ
ば、はたらかざりけるを、首をかき切てけり、三位
入道是をも知らず、兼つなが引返すを見て、同く引

返て平家の大勢をたびたび河ばたへ追返して、敵数
多討取り、手おはせてさいごのかつせんとぞはげま
れける、此入道わかくてはゆゆしき精兵と聞しかど
も、七十にあまりて、今は弓の力もことの外におと
り、矢つかもみじかく成たりけれども、なべての人
にはにざりけり、矢おもての物ども、うらかかせず
といふ事なし、矢だね皆つくして太刀をぬいて走り
まはりける程に、右のひざぶしすねあてのはづれを
いさせて、あぶみをふまざりければ、郎等のかたに
かかりて、平等院のつりどのへぞ入にける、伊豆守
も父のもとに同く引籠りぬ、鎧ぬぎける所へ六条蔵
人仲家、三位入道のもとへ使をたてて申けるは、御
やくそくたがへ参らせで、防ぎ矢をばよくよく仕候
ぞ、源大夫判官どのもすでに討れたまひぬ、しづか
に御念仏申させたまへ、やがて御とも仕るべく候と
申つかはしたりければ、その時三位入道今はかうご
ざんなれと思ひて、郎等どもにふせぎ矢いさせてじ
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がいせんとしけるが、箙の中より小硯をとりいだし
て、つりどののはしらにかくぞ書付られける、
むもれ木の花さく事もなかりしに
身のなりはてぞ哀なりける W070 K076
此時など歌よむべしとも覚えね共、かやうの時もせ
られけるにこそとあはれなり、さてわたなべの丁七
となふをよびて首をうてといふ、主の首うたん事さ
すがにかはゆく覚えて、御自害候べしとて、太刀を
さしやりたりければ、入道太刀をぬきて、伊豆どの
自害ばしわろくすな、是は後代の物語にてあらんず
るぞ、是を本にしたまへとて、念仏百へんばかり申
て太刀の先をはらにあててたふれかかり死にけり、
その後下総国住人下河辺藤三郎よりて首をとり、直
垂の袖に包みて、板敷のかべ板をつきやぶりて、か
くしてけり、伊豆守是をみていなばの国住人弥太郎
もりかねといふものを召して、我首をば入道どのの
首といつしよにおけとて、はらかき切りてふしにけ

り、盛兼首をとつて、平等院の後戸の壁板をはなち
てなげ入たり、人是を知ず、後日に血の流れ出たりけ
るを見て、かべをうちはなちて見ければ、死人の首
一あり、伊豆守なり、さてこそじがいの門とて今に
あり、六条蔵人は門にて郎等どもと防ぎ矢いけるが、
もりかね走り出て、すでに入道どのも伊豆殿も御自
害候ぬといひければ、仲家いまはかうござんなれと
て、父子自害して伏しにけり、大将軍ども自害して
ければ、渡辺の者どもの中にも、競となふ以下のむ
ねとの者どもは、自害しつ、おちつべきものども落
ちにけり、下河辺のものどもあまたありけるも、落
ちにけり、伊豆守のかたに、伊豆国住人工藤四郎五
郎とて、兄弟ありけるも、落ちにけり、その中に滝
口が事をば大将安からぬ事にして、軍兵うちたちけ
る所にて、相かまへて競いけどりにせよ、のこぎり
にて首をきらんとのたまひければ、侍ども随分心に
懸たりけれども、競先に心得て、敵にとられば、自
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害してんず、一度もはぢをば見まじき物をと思ひ切
て、さんざんに戦ひて、敵あまた打ち取て自害して
けり、人は皆落ちけれども、はぶくは、宇治橋のを
とこ柱をこだてに取て、命もをしまず戦ひけり、二
人の子ども尋ね来て、三位入道どのも伊豆殿も御自
害候ぬと申ければ、入道殿には誰かつき参らせたる
と言ければ、丁七となふが附き参らせて候と申けれ
ば、さては心安し、御首など無下に敵にとらるる事
よもあらじとて軍をばせで、中ざしぬきてをとこ柱
に並べ立て、歌をぞ一首よみたりける、
君がために身をばはぶくとせし程に
世を宇治川に名をばながしつ W071 K281
といひはつれば、自害せんとしけるを、二人の子ど
も、左右の手に取付て、わかれを惜みてなく、力及
ばで親子三騎にておちけるが、栗子山のたうげへは
せ行て、いかが思ひけん、はぶくいひけるは、抑弓
矢取者のちぎりを変ずる様やある、三位入道殿一所

にてと御ちぎり有つるに、入道殿は平等院にて自害
したまひぬ、はぶくかひなき命をここまで落たるこ
そ口惜けれ、たとひ人々の落つるといふとも、日
本国を敵にうけたり、いづくへ行たりともおだしか
るべしとも思はず、ここにて自害して入道殿に追付
参らせん、わどの原はとくとく伊豆の兵衛佐殿に参
るべし、末頼もしき人ぞ、若ければいかなるふるま
ひをもして、各々が身ひとつを助かりて、兵衛佐殿
の御ありさまを見はて参らせよ、はぶくが後世をも
とぶらへとて、自害せんとしければ、二人の子ども、
我もともに自害せんとなきけり、若くさかんなる子
どもの命を失はん事ものうかるべしとて、思わづら
ひて居たりけるが、いと久しくあて、水のほしく覚
ゆるぞ、いかがせんといひければ、軍にはしつかれ
たり、さる事あるらんとて、二人の子ども谷へ走り
下て、水をもとむ、はぶく水のほしきといひけるは、
子どもをのけんとのはかりごと也、二人の子どもお
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りたりける所に、物の具ぬぎすて、念仏百返ばかり
となへて、腹かきやぶりて死にぬ、二人の子ども谷
に行て、小川のありける所にて水をくみて行べきも
のもなかりければ、白帷子をぬぎ、よくよく谷川に
て洗ひて、水をしめて持ちて行たれども、父は自害
して死にぬれば、水を進むるに及ばず、父が足手に
取つきて、声もをしまずなき居たり、されども帰来
る事に能はず、力及ばずしてむなしき父の首をかき
落して、鎧直垂の袖に包みて、なくなく落行けるこ
そむざんなれ、ゑんまん院の大輔は、ひをどしの鎧
にゆひがしらして、大長刀をくきみじかに取なして、
宮いまだ是に渡らせたまふ、我と思はんものどもは
参りて見参に入やと申ければ、兵ども馬の足をなが
れじとて、百人ばかり馬よりおりたちて、太刀をぬ
きてかかりければ、大輔長刀打ふりて、百余人が中
へおめいて走り入ければ、敵中をあけてさつと散る
所を走り越えて、河へ入て水の底をくぐりむかへの

岸にののしりあがる、しころ打ふり、よろひぬぎし
て、物の具の水はしらかしけり、長刀打ふりて平家
の殿ばらここに来られなんや、いとま申てとて頭打
ふりて、寺のかたへぞ落にける、宮は平等院をおち
させたまひて、男山をふしをがませ給ひて、二井の
池をもすぎさせ給ひにけり、此のほど御しんはなら
ず御のどかわかせたまひて水参りたく思召されけれ
ば、ある所に小川ながれたりけるを、汲みて参らせ
たり、此所をばいづくといふぞ、又此川をば何川と
いふぞと尋させ給ひけるに、此辺をば山城の井での
たかのは川と申、川をば水なし川と申候と申たりけ
れば、御うちうなづかせ給ひて、
山城のたかのわたりに時雨して
水なし川に波やたつらん W072 K077
と口ずさませ給ひて、光明山の前にぞかからせ給ひ
ける、飛騨の判官かげたか、宮は先立せたまひぬと
見てければ、平等院の軍をばうち捨てて、宮の御あ
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とにつきて追奉りけるほどに、光明山の鳥居の前に
て追ひ付き奉けり、郎等ども、遠矢に射るほどに、流
矢宮の御そば腹に中りて、御馬よりさかさまに落さ
せ給ひぬ、御目も御覧じあげられず、寺法師にさぬ
きのあじやり覚尊といひけるもの、御ともにありけ
るが、此ほど宮に思ひ付参らせて、御身近く候けり、
そけんの衣にちがへ袖して、したはら巻着て、三位
入道の秘蔵の馬あぶら鹿毛にぞ乗たりける、此馬に
乗て御ともすべしとてえたりけるとかや、かくそん
馬よりとび下りて、宮をかかへ参らせてありけれど
も、ものも仰せられずして御息たえにけり、くろ丸と
いふ御中間、御馬にかきのせ奉りけれどもかなはず、
さるほどに敵すでにせめかかりて、飛騨判官鞭を差
てあれあれといひければ、郎等どもあまたおち合ひ
て、宮の御首を取奉らんとするに、かくそん太刀を
抜きて打払ひていひけるは、わぎみは飛騨の判官か
げたかと見るはいかにひが事か、君かくて渡らせ給

ふ、又かくそんあるにいかに馬にのりながら事をば
下知するぞ、おのれは日本第一のしれものかなとい
ひければ、さないはせそとて、郎等十余人落合たり、
かくそんも驚かず、中へとび入てさんざんに切まは
る、寺法師に、りつじやう房日胤が弟子伊賀房、ぜ
うゑん房が弟子、刑部房俊秀等のこりとどまりて、
命を惜まず八方を切まはる、ここによて、十余人の
者ども皆討れにけり、遠矢に射ける程にかくそんが
膝ぶしをかせぎに射つなぬかれて、片膝ついて、腰
刀をぬきて、腹巻の引あはせをおし切りて腹かき切
つて、宮の御とのごもりたる御あとにふして、腹わ
たくり出して、やがて御ともに参るぞとて死ににけ
り、日胤はなほ敵の中へ走り入て、敵六人うちとり
て討死す、伊賀房は八人切伏せて、四人に手を負せ
て、奈良の方へぞ落ちにける、此紛れに黒丸も失せ
にけり、さて宮の御首をば、景高まいりて取参らせ
てけり、寺法師りつじやう房日胤は、伊豆の兵衛佐
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頼朝いまだ国におはしける時、諸寺諸山にきそうを
尋ね聞て、忍で祈りをせさせられけるに、園城寺に
は日胤をもて、いのりの師とせられけるが、日胤八
幡に千日こもりて、無言にて大はんにやを読誦しけ
り、七百日にあたる夜、御ほう殿よりこがねのかぶ
とを給はると示現を蒙りてありければ、日胤伊豆の
国へはしり下りて、兵衛佐にかたり申、佐大きに悦
で、なにさまにも末頼母しき事にてこそ候なれと、
夢合せし給ひて、頼朝世にあらば思ひしるべしとぞ
のたまひける、さるほどに騒動ありと聞えければ、に
ちいん急ぎはせ上て、此事にあひて死にけり、平家
ほろびて後、兵衛佐代を取て、彼りつじやう房尋られ
けるに、去治承のころ、高倉の宮に御とも申て討死
仕て候と、寺より申たりければ、さてはひぶんのこ
とにこそあんなれとて、かつうは祈りの師なり、
昔かたりし夢のくわんしやうにも、孝養すべし、是
しかしながら律静房の故なりとて、かの報恩孝養い

まにたえずぞありける、
南都大衆三万余人御迎に奉る、すでに先陣は木津川
までむかふ、後陣はいまだ興福寺の南大門にありな
んとののしりければ、たのもしく思召されけれども、
今四五十町渡らせ給つかで、討れさせ給ひけるこそ
かなしけれ、まさしき法皇の御子なり、位につかせ
給ひて、代をしろし召すとても、かたかるべきに非
ず、それまでこそなからめ、今かかる御事あるべき
や、いかなる先世の御宿業ぞと思ふもあはれなり、
宮は、光明山の鳥居の前にてうたれさせ給ひぬと聞
えければ、大将軍のおはせざらんいくさすべきに非
ずとて、南都の大衆なら坂より引退きにけり、佐大
夫宗信は、馬よわくて、宮の御ともにもえ参りつか
ず、さがりたりけるが、後には敵すでにせめかかり
たり、せん方なくて、二井の池の南のはたの水の中
に入て、草にて顔をかくして、わななきふせりける
が、軍兵どものけかぶとになりて、道あらそひて、
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いくらともなく馳行ありさま、おそろしなどはいふ
ばかりなし、宮はさりとも今は木津川を渡らせたま
ひて、なら坂などへはかからせ給ひぬらんと思ひけ
るに、浄衣きたる死人の首もなきを、たごしにのせ
てかきて通りけるを見れば、宮の御むくろなり、御
笛を御腰にささせ給へり、はや討れさせたまひけり
と見参らせければ、やがてめもくれ、心も消えはて
て、いだきつき参らせばやと思ひけれども、さすが
走りも出られず、その時は命はよくをしかりけるも
のかなと身ながら覚えける、御笛は御秘蔵のさえだ
なりけり、此笛を我死にたらば、必棺に入れよとま
で仰られけるとぞ、のちには人々かたりける、佐大
夫は、夜に入て池の中よりはひ出でて、はうはう京
へ帰りにけり、かひなき命ばかり生きて、五十まで
よるかたもなかりけるが、正治元年に改名して伊賀
守になりて邦輔とぞ申ける、此宗信は、六条宰相宗
保の孫、左衛門佐宗光の子なり、

さて宮よりはじめ奉て、源三位入道以下五十余人が
首をささげて、軍兵都へ帰入、事のありさま目もあ
てられず、頼政入道の首とて持ちたりけるは、はる
かに若き首をぞ、頼政が首とて渡しける、惣じて宮
の御かたにてうたるる者六十余人、手負四十余人也、
平家の方には、手負数をしらず、しぬる者七百余人
とぞ聞えし、此宮は、常に人の参りよる事もなかり
ければ、はかばかしく見知り参らせたる者もなかり
けり、たれ人か見知り参らせたると、京中を尋ねら
るれば、典薬頭定成朝臣こそ先年に御悩の時御療治
に参りて、見知り参らせたる人と申ければ、定成朝
臣を召して見せらるべきにてありければ、定成是を
聞ておほきにいたみ申ける程に、よくよく見知り参
らせたる女房を尋出されて、見せられたりければ、
御首見けるより、ともかくもものもいはで、袖をか
ほにおしあて、さめざめとなきければ、一定の御首
とはしりにけり、年ごろなれ近づき奉て、御子もお
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はしましければ、おろかならず思召しける人なり、
女房もいかにもして、今一度見奉んと思はれける志
の深さの余に、見奉りけり、中々よしなかりける事
かなとぞ覚えし、心の中いかばかりなりけん、おし
はかられていとをし、宮は御顔にきずの渡らせたま
ひて、すでにあやうくわたらせ給ひけるを、定成朝
臣すぐれたる名醫にてありければ、めでたくつくろ
ひ出し参らせて、そのたびたすからせ給ひにけり、
御かほのきずはそのあととぞうけたまはる、かの定
成朝臣は、いえがたき痛をもいやしければ、時に取
ては耆婆、扁鵲の如くにおもへり、
平家物語巻第八終


平家物語 長門本(国書刊行会蔵本)巻第九

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平家物語巻第九
治承四年六月二日、俄に太政入道としごろ通ひ給ひ
ける福原へ行幸ありけり、都うつりとぞ申ける、中
宮、一院、新院、摂政殿を始奉て、公卿、殿上人皆
参り給へり、三日と聞えけるを、俄に引あげられけ
る間、供奉の人々、上下いとどあわてさわぎ、取る
物も取あへず、帝皇の幼くおはしますには、后こそ
同輿には奉るに、御めのと平大納言時忠卿の北の方
典侍殿と申しぞ参り給ける、是は先例なき事なりと
ぞ人あざみあへりける、
三日池大納言頼盛の家を皇居と定めて、主上渡らせ
たまふ、四日頼盛家のしやうをかうぶりて、正二位
したまへり、右大臣兼実の御子右大将よしみち越ら
れ給へり、
法皇福原に三間なる板屋をつくりて、四面にはたい

たしまはして、南にむけて口一あけたるにぞわたら
せ給ひける、いつものくせなれば童、楼の御所とぞ
申ける、法皇鳥羽殿にてはさすがにひろくてよかり
しものを、よしなくも出にけるものかなとぞ思召し
ける、せめての事とおぼえてあはれなり、筑紫の武士
いはとの小郷たねなほが子に、佐原大夫たねます守
護し奉る、守護の武士きびしくて、一日に二度供御
の参る外は、たやすく人も参らざりけり、鳥羽殿を出
させ給ひしかばくつろぐやらんと思召しけるに、
高倉の宮の御事出きて、今又かくのみあればいかに
となりなんずるやらんと御心細くぞ思召しける、今
は世の事もしろし召したくもなし、花山法皇のまし
ましけるやうに、山々寺々をも修行して、御心に任
せておはしまさばやとぞ思召されける、
神武天皇は天神七代地神五代十二代の御すゑをうけ
つつ、人代百王のはじめの帝にておはしましける、
辛酉の年、日向の国宮前郡にて、皇王の宝祚をつぎ
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給へり、五十九年と申しつちのとひつじの年十月、
東征して、豊葦原の中津国にとどまりつつ、大和の
国うねび山をてんじて、帝都を立てて、橿原の地を伐
り払ひて、宮室を作りたまひき、則ち橿原の宮と申
ししよりこのかた、代々帝皇の御時都を遷さるる事
三十度に余り四十度に及べり、神武天皇より景行天
皇まで十二代は大和の国に所々に宮造してうつりお
はしまししが、
成務天皇元年、大和国より近江の国志賀の郡に都を
うつし給ふ、
仲哀天皇二年九月、長門の国に移りてとよらの郡に
御座す、仁徳天皇元年に、津の国難波に都を立て
て、高津宮にすみ給ふ、
覆中天皇二年、大和国に帰て十市郡に都を立、反正
天皇元年大和の国より河内の国に遷り、柴籬の宮に
おはします、
允恭天皇四十二年に、河内の国よりまた大和国へ帰

て、遠明日香の宮をつくる、
安康天皇三年、大和国泊瀬朝倉に宮を定、
継体天皇五年、山城国つづきにうつされて十二年お
はしき、そののち乙国に住給ふ、
宣化天皇元年に、猶大和の国へ帰て、桧曲の盧入野に
宮居し給ふ、欽明天皇より皇極天皇まで七代は、大
和国郡々におはしまして、他国へはうつり給はず、
孝徳天皇大化元年、津の国ながらにうつされて豊
崎に宮をたつ、
斉明天皇[B 「天皇」に「女帝」と傍書]二年に、猶大和の国へ帰て、あすかの岡本の
宮におはします、
天智天皇六年に、また近江国志賀郡にうつりて、大
津の宮をつくる、天武天皇元年に大和国へ帰て、
岡本の南宮に住み給ふ、ここをあすかの清見原の宮
と申、持統天皇より光仁天皇まで九代は、猶大和
の国奈良の京におはしまししが、桓武天皇の御宇延
暦三年の十月に、山城の国長岡に移り給ひて、十年は
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此京にましましし程に、同十二年の正月に、大納言
藤原小黒丸、参議左大弁古佐美、大僧都賢〓等を遣
はして、当国の葛野郡宇太村を見せらるるに、両人
ともに申ていはく、此地は、左青龍、右白虎、前朱雀、
後玄武、四神相応地なりと申ければ、愛宕郡におは
します、加茂大明神つげ申されて、同十三年、長岡
京より此の平安城へ移り給ひしより、都を他所へ移
されず、帝皇は三十二代星霜は四百余歳也、むかし
より多くの都有けれども、此京ほどのめでたき所な
しとて、いかがして末代まで此京を他国へうつされ
ぬ事あるべきとて、大臣公卿諸道の博士才人達を召
し集めて、せんぎあて長久成るべき様とて、土にて
八尺の人形を作りて、甲冑をきせつつ、弓矢を持せ
て、王城を守れとて東山の嶺に西に向て立て、ほり埋
みたり、将軍塚とて今にあり、天下に事いてき、ひ
やうかく起らんとては、必ず告知らしめんとて、此
塚なり動くといへり、かしは原の天皇と申は、平

家の先祖にておはします、先祖の御門これ程にしゆ
し思召したる都を、その御末をうけて、さしたるそ
の故もなく、他所へ移す事心得がたし、此京をば字
には平安城といふ、平やすしとかけるめり、かたが
たもて捨てがたし、就中主上も上皇も皆もて平家の
外孫にて、おはします君もいかですてさせ給べき、
是は国々のえびす共せめ上りて、平家都に跡をとど
めず、山野に交るべきずゐさうなりとぞ覚えたる、
ただ今世はうせなんず心うきこと也、もはら平家も
てなしたまふべき都を他国へうつし、当帝をおろし
奉て、太政入道の孫を位につけ奉て、高倉宮の皇子
うち奉てかうべをきり、関白松殿を流し奉て、我む
こ近衛殿をなし奉り、大臣公卿殿上人以下北面の下
臈にいたるまで、或は流し或は殺す、悪行のある限
りをつくして、残る所都遷りばかりなれば、かくし
給ふにこそと人申ける、嵯峨天皇御時大同五年に、
都を他国へうつさんとしても、人さわぎ歎きしかば、
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とどまらせ給ひにき、一天の君万乗の主だにもうつ
しえ給はぬ都を、たやすく凡人の身として思企てら
れけんぞおほけなき、
まことにめでたかりつる平安城ぞかし、王城鎮守の
やしろやしろ四方に光を和らげ、れいけん殊勝の寺々
上下に居をしめ給ふ、百姓万民も煩ひなく、五畿七道
に便あり、是を捨給はん事守護の仏神非をうけ給ふ
べしや、四海の黎民鬱あるべし、いかに況んや論語云
犯人者有乱亡患、犯神者有疾夭禍恐ろし恐ろし
といへり、此京は西方分なり、大将軍酉にあり、方
角すでにふさがる、されば勘文を召されける中に、
陰陽博士安倍季弘の勘状云、
本脩所差、大将軍王相、不論遠近、同可忌避
諸事、然而至遷都者、先例不避之歟、桓武天
皇延暦十三年十月廿一日、長岡京より遷都於葛野
京、今年為冬分、当王相方已不被避之、是依
旧不論方忌、次大将軍之禁忌猶不(レ)及、王相方

就延暦之佳例被遷都、雖為大将軍之方、何可
有其憚哉、
といへり、是を聞てある人申けるは、延暦の遷都に
御方違ありといへり、ながく旧都をすてられんに於
ては、方角の禁忌あるべからずともいへり、何様にも
御方違はあるべかりけるものをと人唇を返しける、
新都へ供奉の人の中に、旧都の柱にかきつけらる、
百年を四かへりまでに過きにし
おたぎの里のあれやはてなん W073 K086
咲出るはなの都をふりすてて
風ふく原のすゑぞあやうき W074 K088
六月九日、福原の新都の事始とぞ聞えし、福原とい
ふ所は北には神明跡をたれ、いく田、広田、西の宮、
千代にかはらぬみどりは雀の松原、みかけの松、雲
井にさらす布引の滝、南をのぞめば、うみまんまん
たるあはぢ島山、眼の前にさへぎる船、ゑんほの行
かふも哀に心すめる眺望なり、上卿は左大将実定、
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宰相には右中将通親、奉行には頭左中弁経房、蔵人
左少弁行隆とぞ聞えし、河内のかみ光行丈尺をとり
て、和田の松原西野に宮城の地を定られけるに、一
条より五条までこそ小路ありけれ、五条より下其所
なかりけり、土御門宰相中将通親三条大路の広さを
あけて、十二の通門をたつ、大国にもかうこそしけ
れ、我朝に五条まであるはなんの不足かあるべきと
ぞ申されける、されども行事官どもちから及はで帰
りにけり、さては小屋野にてあるべきか又いなみ野
にてあるべきかなど、公卿僉議ありけれども、事も
ゆかず先づ里内裏を作るべきよし議定あて、五条大
納言国綱、周防国を給てつくり進せらるべきよし、
太政入道申されければ、六月廿三日事はじめあて八
月十日棟上あるべしと定め申されけり、
彼大納言大福長者なり、つくり出さん事は左右に及
ばねども、いかでか民の煩ひなかるべき、殊にさし
あたりたる大会を差置て、かかる世の乱に遷幸造

内裏海賊かつきぬとぞ見えたる論語に云、楚起章花
之台而黎民散、秦興阿房殿而天下乱ともいへり、
又帝範云茅茨不剪、採椽不〓、舟車不餝、衣服無
文といへり、唐の太宗の驪山宮を作りながら、民の
費をいたみて、終に臨幸なくしてかきに苔むし瓦に
松生ひてやみにけり、さるままに新都は繁昌して、
旧都は荒れはてて、たまたま残れる家々には門ぜん
に草生て、庭上につゆふかし、空しきあとは雉兎禽
獣のすみか、黄竹紫蘭の野辺とぞ成にける、
廿一日園城寺の円恵法親王と申は、後白河院の御子
なり、天王寺別当とどめられたまひて、検非違使つ
きて悪僧を召され給ふ、院宣云、
園城寺悪僧等違背朝家、忽企謀叛、仍門徒僧綱以
下皆悉停止公請解却見任并綱徳兼又末寺庄園
及彼寺僧等私領仰諸国宰吏早令収公、但於有
限寺用者、為国司之沙汰付寺家、所司任其
用途莫令退転、恒例仏事無品円恵法親王宜令
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停止所帯天王寺検校職、
とぞかかれたりける、上綱には
僧正房覚、権僧正覚智、法印権大僧都定慧、能慶、実
慶、行乗、権少僧都真円、豪禅、兼智、良智、顕舜、
慶智、権律師道顕、覚増、勝成、行智、行舜、〈 以上十七人 〉
見任解却、
法印公経、行暁、慶実、法眼真勝、道澄、道俊、弁
窓、実印、倫円、源獻、観忠、法橋良俊、忠祐、良
覚、前大僧正覚讃、前権僧正公顕、前権少僧都道任、
〈 以上廿人准上、 〉次二会講師、円全、障〓、証兼、公胤〈 以上四人令停止公請、 〉
殊僧綱十三人、公請をやめられ、官を召さる、所領
を没官して、同使庁使を付て水火のせめに及で、悪
僧を召さる、
房覚一乗院僧正をば飛騨判官景高朝臣承る、実慶常
陸法印をば、上総判官忠綱朝臣承る、行乗中納言法
印をば、博士判官章貞承る、能慶真如院法印をば、
和泉判官仲頼承る、真円亮僧都をば、源大夫判官季

貞承る、覚智美濃僧正をば、摂津判官盛澄承る、勝
慶蔵人法橋をば、祇園博士判官基広承る、公顕宰相
僧正をば、出羽判官光長承る、覚讃僧正をば、斎藤
判官友実承る、乗智明王院僧都をば、新志明基承る、
実印右大臣法眼をば、任府生経広承はる、観忠中納
言法眼、行暁大蔵法印をば、紀府生兼康承はる、去
五月に高倉宮扶持し奉りし事によて、三井寺せめら
るべしとさたありければ、大衆発て大津の南北の浦
にかひたてかき矢倉かきて、防ぐべきよし結構す、
十一月十七日、頭中将重衡朝臣を大将軍にて、一千
余騎の軍兵を卒して、三井寺へ発向す、衆徒防ぎ戦
ふといへども、何事かはあるべき、三百余人討れに
けり、残る所の大衆こらへずしておちにけり、重衡
朝臣寺中にうち入て、次第に是を焼拂ふ、南北の中
三院内焼所の堂舎塔廟、神社、仏閣、本覚院、鶏足
坊、常喜院、真如院、桂薗院、尊皇院、王堂、普賢
堂、青龍院、大宝院、今熊野宝殿、同拝殿等、護法
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善神社檀教待和尚本坊〈 同御身影像同本尊等 〉鐘楼七宇、二階大門、
〈 右金剛力士 〉八間四面大講堂、三重宝塔一基、阿弥陀堂、同
宝蔵、山王宝殿四足一宇、四面廻廊、五輪院、十二
間大坊三院、各別灌頂堂〈 各一宇 〉、但金堂ばかりはやけざ
りけり、其外の僧房六百宇大津の在家千五百余家地
を拂畢、
仏像二千余体、顕密両宗章疏大師の渡したまへる唐
本一切経五千余巻、忽に灰燼と成ぬ、又焼死する所
の雑人既に千余人とぞ聞えし、凡顕密須臾に滅して
伽藍更にあともなし、三密道場もなければ、振鈴の
声も聞えず、一花も仏前になければ、あかの水もた
えにけり、宿老有智の大徳も行学に怠り、受法相承
も経教にわかれたり、此寺と申は本は近江大領私の
寺たりしを天智天皇に寄進し奉りしより以来、御願
寺となる、本仏と申も彼の帝の御本尊なりしを、生身
の弥勒如来と聞給ひし、教待和尚百六十二年行て、
その後、智証大師に附属したまひたりける弥勒とぞ

聞えし、都史多天上摩尼宝殿よりあまくだりましま
して、はるかに龍花下生の朝を待たまふと聞つるに、
こはいかになりぬるやらん、当時の恵命もすでに尽
き果てぬるにやとぞ見えし、天智天武持統三代の帝
の御鵜葺湯の水を汲たりける故に、御井寺と名付た
り、または此所を伝法灌頂の霊跡として、井花水を
汲む事慈尊の朝を待故に、三井寺とも申也、かくや
んごとなき聖跡ともいばず、弓矢を入、凶徒乱入して
塵灰となされける事こそ悲しけれ、
廿一日園城寺円恵法親王、天王寺別当をやめられ給
ふ、彼宮と申は、後白河院御子なり、院宣云、
園城寺悪僧、奉違背朝家、企謀叛仍門徒僧綱
以下悉停止公請、兼又末寺庄園及彼寺僧等私領、
仰諸国宰吏可令収公、但有限寺用者、為国
司沙汰、付寺家所司、任其用途勿令退転、恒
例仏寺無品円恵法親王、宜令停止天王寺検校
職、
P301
とぞかかれたりける、〈 ○今按二十一日以下之文恐衍 〉新都は益々繁昌し、
旧都は弥あれゆくめり、小路には辻毎に堀をほり、
逆茂木を引きて、車など通ふべくもなければ、たま
さかに小車に乗る人も、道をへてぞ行通ひける、程
なく田舎にたたなりになるも、夢の心地して浅まし
き、人々の家々皆こぼちつつ、筏にくみて福原へと
ぞ賀茂川かつら川にうけて下す間、むなしきあとの
み多ければ浅ぢが原、よもぎがそま、鳥のふしどと
なりはてて、虫の声のみぞ恨むる、残る所も門をと
ぢて、庭には草深くして茂き野辺とぞなりにける、心
細くかなしからずといふ事なし、新都の道のほとり
を見れば、車にのるべきものは、馬にのり、衣冠布
衣なるべき者は、多く直垂を着たり、都の手ぶり忽
に改りて、ただひなびたる武士に異ならず、秋もふ
かくなり行けば、心ある人々名所々々の月を見る、
源氏大将のあとを追、須磨より明石へ浦伝ふ人もあ
り、あはぢの瀬戸をおし渡りゑじまの月見る人もあ

り、都のほとりの恋しさに広沢へ行人もあり、この
中に後徳大寺の左大将実定古き都を恋て、八月十日
余の比にや、入道の宿所に行向ひて、今一度旧都の
月を見候はばやと存候、実定いとまを給候なんやと
のたまひければ、入道いつよりも心よげにて、何か
くるしく候べき、とくとくとありければ、実定悦で
むちをあげてぞのぼられける、鳥羽田のおもの秋の
暮、稲葉がすゑを渡る風、恨むる虫の声までも身に
しみ、露も涙に争ひて袂をしぼるばかりなり、大将
その夜は大宮の御所にまいらせたまひ、待宵の小侍
従をぞ尋ねたまひける、かの小侍従と申は、もとは
安房の局とぞ申ける、高倉院御位の時御悩あて供御
も参らず、歌よみたらは供御参りてんとありければ、
時もかはらず、
君が代は二万の里人数そひて
今も備ふるみつぎものかな W075 K091
とよみたりければ、その時のけん賞に侍従には成さ
P302
れたりけるとぞ申、のちには皇太后宮に参り、せい
のちいさかりければ、小侍従とぞ召されける、かの
母と申は、鳥羽院の御内に小大進の局とて候けるが、
いささかなる事によて、御内を住うかれ、かた辺土
なる所にかすかなる住居にてぞ候ける、或時小大進
のつぼねうづまさに参りて七日籠り、我身のありわ
びたる事をぞいのり申ける、七日にまんじける暁、
下向せんとての夜半ばかり、薬師の十二の誓願の中
に、衆病悉除のたのもしきことを思ひ出し、
南無薬師憐み給へ世の中に
すみわびたるも同じ病ひぞ W076 K282
と読で参らせ下向し、十二日と申しに、やはたのけ
ん校広清にぐそくしてまうけたりし子なり、此子二
と申けるに、父母ともに南おもてに出てぞ遊びける、
此子母がひざよりおり広縁をはひありきけり、比は
九月中旬のころ南面の籬に薯蕷はひかかり、その蘇
なりさがりたりけるを、広清これを見て、

いもが子ははやはふほどに成にけり、と口ずさみた
りければ、母此子をいだきてとるとて、
いまはもりもやとるべかるらん、 W077 K283とぞつけたりける、
父母ともにすきたりける者なりければ、かの小侍従
も歌よみにてぞ候ける、大将年ごろ浅からず思ひて
通はせられけるに、ある夜待わび、さむしろ打拂ひ
富士のけぶりのたえぬ思の心地して、宵のかねうち
過おくれがねかすかに聞えければ、侍従なくなくか
うぞ思ひ続けける、
待宵のふけゆくかねの音きけば
あかぬわかれの鳥はものかは W078 K093
と申たりける事を聞召されてぞ上様にも待宵の小待
従とは召されける、大将かの御所に参らせ給ひ、惣
門をたたかせられければ、内より女のこゑしてたぞ
や、此程はよもぎふの露打払ひ参よる人一人も候は
ぬに、小夜もはるかに更さふらひぬるにととがめけ
れば、御供の人々福原より後徳大寺殿の御参り候に
P303
と申ければ、さては惣門は鎖のささりて候に、西表
の小門より入せ給へといひ捨てて、女は内へぞ入に
ける、大将西表へまいり給ひけり、侍従も小門へ参
りあひ参らせ、手をとり組みてぞ入給ひける、たえ
て久とはれ奉らぬ事を恨み申てなき居たり、大将の
たまひけるは、此ほどは新都の事はじめあるべし、
よろづひまなく候つれば、かきまぎれて候よしを仰
せられければ、侍従誠にも思召さるるそのいろふか
くば、たとひ海山をば隔つとも、などか一度のつて
には預らざらんと恨申てなきければ、大将もげにこ
とわりやと思召され、御直衣のそでしぼるばかりに
なり給ひける、ややあて大将、宮はいづくに渡らせた
まひ候やらんととひたまひければ、月を待せ給はん
とて東のだいに御びは遊ばしてましまし候と申けれ
ば、さては参りて候由を申され候へと仰られければ、
侍従参りて此よしを申す、宮聞召され、あな珍し、
これへとの御気色なり、大将うけたまはり、しやく

にやうちやうとりそへて、南庭をわたり東おもてへ
ぞ参られける、宮は秋風楽と申がくを三返あそばし、
御びはをさしおかせ給ひける、ばちしてこれへと招
かせたまへば、大将月の光ともろともにさしぞ入せ
給ひける、さてこそ源氏の宇治巻には、うばそくの
宮の御むすめ秋の名残を惜みつつ、びはを調べて夜
もすがら、御心を慰め給ひけるに、八月十五夜ゐま
ちの月を待わび、猶たへずやおぼされけん、ばちし
て招きたまひける、その夜の月のおもかげも今こそ
思召し知られけれ、折しりがほなる初雁の声ほのか
におとづれ、妻恋鹿の恨こゑ、虫の声々たえだえな
るも時しあればと思召れ、草の戸ざしもかれにけり、
更け行ままに大将やうちやう音とりすまし御びはに
つけ、がく二三あそばし、ふるき詩を詠じ給ひける、
霜草欲枯虫思苦、風枝未定鳥栖難、古き都の荒行
けるを、大将今やうにつくりてぞうたはれける、古
き都を来てみれば、浅茅が原と荒れはてて、月の光
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はくまなくて、秋風のみぞ身には入と、押返押返二
三べんうたはれければ、大宮をはじめ参らせて、侍
従以下の女房たち袖をしぼらぬはなかりけり、
たまたまの御上なれば、暫御逗留あらんずらんと思
召されけれども、八声の鳥もかさなり、しののめや
うやう明けければ、大将いとまを申て帰られけり、
御所中の女房たち御名残ををしみ参らせ、はるかに
見送り参らせ、涙にむせび給ひけり、まして侍従が
心中さこそと思ひ知られてあはれなり、大将も心づ
よくは出給たりけれども、ただうしろ引返す心地し
て駒更にすすまれず、御ともに候ける蔵人をめし、
侍従が門送りしてはるかまで出たりつるを、何とも
いはで帰りたるが心にかかりて覚ゆるぞや、行て何
事をもいひかけて帰れかしと仰られければ、蔵人承
て侍従がなきゐたりける所に馬よりおり、是は大将
殿の申せとの仰にて候と申、
ものかはと君がいひけん鳥の音の

けさしもいかにかなしかるらん W079 K094
と申ければ、侍従もなくなく御返事申けり、
またばこそ更け行かねもつらからめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W080 K095
蔵人六田河原の辺にて追つき参らせたり、大将蔵人
を待得給ひ、よにうれしげに思召したるげにて、い
かにと御尋ある、蔵人しかじかとぞ申ける、わりな
し神べうなりとて、津の国なるしきの庄をぞ給ける、
それよりしてこそ蔵人をば、物かはの蔵人ともめさ
れ、又やさ蔵人とも申けれ、夏もすぎ秋にもなりぬ、
月日はすぎ行けれども世はいまだ静まらず、胸に手
を置たる心ちして、常に心さわぎ打してぞありける、
平家の人々は、二位殿をはじめ奉てさまざまに夢見
あしく、さとしども多くありければ、神社仏寺、事に
祈りぞ頻りなりける、そのころ入道福原にましまし
けるに、不思