平家物語巻第一

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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書 13)に拠りました。

文責:荒山慶一・菊池真一



P01003

一巻 
一 祇園精舎
二 殿上暗打  しかるを忠盛ヨリ
三 鱸  太政大臣は一人にヨリ
四 禿の沙汰  かくて清盛公ヨリ
五 吾身之栄花  吾身の栄花を極るヨリ
六 二代后  されども鳥羽院ヨリ
七 額打論  一天の君崩御ヨリ
P01004
八 清水炎上  御門かくれさせヨリ
九 殿下乗合  仁安三年ヨリ
十 厳嶋詣  嘉応三年ヨリ 但此奥二ノ巻ニアリ
十一 師子谷之謀反 徳大寺花山院ヨリ
十二 鵜河合戦  然るによつて師光ヨリ 
十三 願立  御裁断おそかりければヨリ
十四 御輿振  さるほどにヨリ
十五 内裏炎上  蔵人左少弁兼光ヨリ
P01005
P83
平家物語巻第一
『祇園精舎』S0101
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりを
あらはす。おごれる人も久しからず。只春の
夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶ
らへば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊、唐の
禄山、是等は皆旧主先皇の政にもしたがはず、
P01006
楽みをきはめ、諫をもおもひいれず、天下の
みだれむ事をさとらずして、民間の愁る
所をしらざしかば、久しからずして、亡じ
にし者どもなり。近く本朝をうかがふに、承平の
将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、
おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそ
ありしかども、まぢかくは、六波羅入道前太政
大臣平朝臣清盛公と申し人のありさま、
P01007
伝承るこそ心も詞も及ばれね。P84其先祖を尋
ぬれば、桓武天皇第五の皇子、一品式部卿葛原
親王九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛
朝臣の嫡男なり。彼親王の御子高視の王、無官
無位にしてうせ給ぬ。其御子高望の王の時、始て
平の姓を給て、上総介になり給しより、忽に王
氏を出て人臣につらなる。其子鎮守府将軍
義茂、後には国香とあらたむ。国香より正盛に
P01008
いたるまで、六代は諸国の受領たりしかども、
二 殿上の仙籍をばいまだゆるされず。 『殿上闇討』S0102 しかるを
忠盛備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿
院を造進して、三十三間の御堂をたて、一千一体の
御仏をすへ奉る。供養は天承元年三月十三日なり。
勧賞には闕国を給ふべき由仰下されける。
境節但馬国のあきたりけるを給にけり。上
皇御感のあまりに内の昇殿をゆるさる。忠盛
P01009
三十六にて始て昇殿す。雲の上人是を猜み、同き
年の十二月廿三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を
闇打にせむとぞ擬せられける。忠盛是を伝聞て、
「われ右筆の身にあらず、武勇の家にむまれて、
今不慮の恥P85にあはむ事、家の為身の為心う
かるべし。せむずる所、身を全して君に仕と
いふ本文あり」とて、兼て用意をいたす。参
内のはじめより、大なる鞘巻を用意して、
P01010
束帯のしたにしどけなげにさし、火の
ほのぐらき方にむかて、やはら此刀をぬき
出し、鬢にひきあてられけるが氷などの様に
ぞみえける。諸人目をすましけり。其上忠盛の
郎等、もとは一門たりし木工助平貞光が孫、
しんの三郎大夫家房が子、左兵衛尉家貞といふ
者ありけり。薄青のかり衣のしたに萠黄威の
腹巻をき、弦袋つけたる太刀脇ばさむで、
P01011
殿上の小庭に畏てぞ候ける。貫首以下あやしみを
なし、「うつほ柱よりうち、鈴の綱のへんに、布
衣の者の候はなに者ぞ。狼籍なり。罷出よ」と六位を
もていはせければ、家貞申けるは、「相伝の主、備
前守殿、今夜闇打にせられ給べき由承候
あひだ、其ならむ様をみむとて、かくて候。えこそ
罷出まじけれ」とて、畏て候ければ、是等を
よしなしとやおもはれけむ、其夜の闇打なかりけり。
P01012
忠盛御前のめしにまはれければ、人々拍子を
かへて、「伊勢平氏はすがめなりけり」とぞはや
されける。此人々はかけまくもかたじけなく、柏
原天皇の御末とは申ながら、中比は都のすま
ゐもうとうとしく、地下にのみ振舞なて、いせの
国に住国ふかかりしかば、其国のうつはものに
事よせて、伊勢平氏とぞP86 申ける。其上忠盛
目のすがまれたりければ、か様にははやされ
P01013
けり。いかにすべき様もなくして、御遊もいまだ
をはらざるに、偸に罷出らるるとて、よこだへ
さされたりける刀をば、紫震殿の御後にして、
かたえの殿上人のみられける所に、主殿司を
めしてあづけをきてぞ出られける。家貞待
うけたてまて、「さていかが候つる」と申ければ、
かくともいはまほしう思はれけれども、いひ
つるものならば、殿上までもやがてきりのぼらむ
P01014
ずる者にてある間、別の事なし」とぞ答
られける。五節には、「白薄様、こぜむじの紙、巻
上の筆、鞆絵かいたる筆の軸」なむど、さまざま
面白事をのみこそうたひまはるるに、中比
太宰権帥季仲卿といふ人ありけり。あまりに
色の黒かりければ、みる人黒帥とぞ申ける。
其人いまだ蔵人頭なりし時、五節にまはれ
ければ、それも拍子をかへて、「あなくろぐろ、くろき
P01015
頭かな。いかなる人のうるしぬりけむ」とぞはや
されける。又花山院前太政大臣忠雅公、いまだ
十歳と申し時、父中納言忠宗卿にをくれ
たてまて、みなし子にておはしけるを、故中御
門藤中納言家成卿、いまだ播磨守たりし時、
聟にとりて声花にもてなされければ、それも
五節に、「播磨よねはとくさか、むくの葉か、人の
きらをみがくは」とぞはやされける。P87「上古には
P01016
か様にありしかども事いでこず、末代
いかがあらむずらむ。おぼつかなし」とぞ人申
ける。案のごとく、五節はてにしかば、殿上人
一同に申されけるは、「夫雄剣を帯して公宴に列し、
兵杖を給て宮中を出入するは、みな格式の
礼をまもる。綸命よしある先規なり。然を
忠盛朝臣、或は相伝の郎従と号して、布衣の
兵を殿上の小庭にめしをき、或は腰の刀を
P01017
横へさいて、節会の座につらなる。両条希
代いまだきかざる狼籍なり。事既に重
畳せり、罪科尤のがれがたし。早く御札を
けづて、闕官停任ぜらるべき」由、をのをの
訴へ申されければ、上皇大に驚おぼしめし、
忠盛をめして御尋あり。陳じ申けるは、「まづ
郎従小庭に祗候の由、全く覚悟仕ず。但近日
人々あひたくまるる子細ある歟の間、年来の
P01018
家人事をつたへきく歟によて、其恥を
たすけむが為に、忠盛にしられずして
偸に参候の条、力及ばざる次第也。若猶其咎
あるべくは、彼身をめし進ずべき歟。次に刀の
事、主殿司にあづけをきをはぬ。是をめし出
され、刀の実否について咎の左右あるべき
か」と申。しかるべしとて、其刀を召出して叡
覧あれば、うへは鞘巻の黒くぬりたりけるが、
P01019
なかは木刀に銀薄をぞおしたりける。「当座の
恥辱をのがれむが為に、刀を帯する由あ
らはすといへども後P88日の訴詔を存知して、
木刀を帯しける用意のほどこそ神妙なれ。
弓箭に携らむ者のはかりことは、尤かうこそ
あらまほしけれ。兼又郎従小庭に祇候の条、
且は武士の郎等の習なり。忠盛が咎にあらず」とて、
還て叡感にあづかしうへは、敢て罪科の沙汰も
P01020
なかりけり。 『鱸』S0103 其子ども、諸衛の佐になる。昇殿
せしに、殿上のまじはりを人きらふに及ばず。
其比忠盛、備前国より都へのぼりたりけるに、
鳥羽院「明石浦はいかに」と、尋ありければ、
あり明の月も明石の浦風に
浪ばかりこそよるとみえしか W001
と申たりければ、御感ありけり。此歌は金葉集
にぞ入られける。忠盛又仙洞に最愛の女房を
P01021
もてかよはれけるが、ある時其女房のつぼねに、
妻に月出したる扇を忘て出られたりければ、
かたえの女房たち、「是はいづくよりの月影ぞや。出どころ
おぼつかなし」とわらひあはれければ、彼女房、
雲井よりただもりきたる月なれば
おぼろけにてはいはじとぞおもふ  W002 P89
とよみたりければ、いとどあさからずぞ思はれ
ける。薩摩守忠教の母是なり。にるを友とかやの
P01022
風情に、忠盛もすいたりければ、彼女房もゆう
なりけり。かくて忠盛刑部卿になて、仁平三年
正月十五日、歳五十八にてうせにき。清盛嫡男
たるによて、其跡をつぐ。保元元年七月に宇治の
左府代をみだり給し時、安芸守とて御方に
て勲功ありしかば、播磨守にうつて、同三年太
宰大弐になる。次に平治元年十二月、信頼卿が
謀叛の時、御方にて賊徒をうちたいらげ、勲功
P01023
一にあらず、恩賞是おもかるべしとて、次の年正
三位に叙せられ、うちつづき宰相、衛府督、検非
違使別当、中納言、大納言に経あがて、剰へ烝相の
位にいたる。左右を経ずして内大臣より太
政大臣従一位にあがる。大将にあらねども、兵杖を
給て随身をめし具す。牛車輦車の宣
旨を蒙て、のりながら宮中を出入す。偏に
三 執政の臣のごとし。「太政大臣は一人に師範として、
P01024
四海に儀けいせり。国ををさめ道を論じ、陰
陽をやはらげおさむ。其人にあらずは則かけ
よ」といへり。されば即闕の官とも名付たり。其人
ならではけがすべき官ならねども、一天四海を
掌の内ににぎられしうへは、子細に及ばず。平家
か様に繁昌せられけるも、熊野権現の御
利生とぞきこえし。其故は、P90古へ清盛公いまだ
安芸守たりし時、伊勢の海より船にて熊野へ
P01025
まいられけるに、おほきなる鱸の船に踊入
たりけるを、先達申けるは、「是は権現の御利生也。
いそぎまいるべし」と申ければ、清盛のたまひけるは、
「昔、周の武王の船にこそ白魚は躍入たりけるなれ。
是吉事なり」とて、さばかり十戒をたもち、精
進潔斎の道なれども、調味して家子侍共に
くはせられけり。其故にや、吉事のみうちつづ
いて、太政大臣まできはめ給へり。子孫の官途も竜の
P01026
雲に昇るよりは猶すみやかなり。九代の先蹤を
四 こえ給ふこそ目出けれ。 『禿髪』S0104 かくて清盛公、仁安三年
十一月十一日、年五十一にてやまひにをかされ、存
命の為に忽に出家入道す。法名は浄海とこそ
名のられけれ。其しるしにや、宿病たちどころに
いへて、天命を全す。人のしたがひつく事、
吹風の草木をなびかすが如し。世のあまねく
仰げる事、ふる雨の国土をうるほすに同じ。
P01027
六波羅殿の御一家の君達といひてしかば、花
族も栄耀も面をむかへ肩をならぶる人なし。
されば入道相国のこじうと、平大納言時忠卿の
のたまひけるは、「此P91一門にあらざらむ人は皆人
非人なるべし」とぞのたまひける。かかりしかば、いかなる
人も相構て其ゆかりにむすぼほれむとぞ
しける。衣文のかきやう、鳥帽子のためやうより
はじめて、何事も六波羅様といひてげれば、
P01028
一天四海の人皆是をまなぶ。又いかなる賢王賢
主の御政も、摂政関白の御成敗も、世にあま
されたるいたづら者などの、人のきかぬ所にて、
なにとなうそしり傾け申事はつねの習なれ
ども、此禅門世ざかりのほどは、聊いるかせにも
申者なし。其故は、入道相国のはかりことに、
十四五六の童部を三百人揃て、髪を禿に
きりまはし、あかき直垂をきせて、めし
P01029
つかはれけるが、京中にみちみちて往反し
けり。をのづから平家の事あしざまに申
者あれば、一人きき出さぬほどこそありけれ、
余党に触廻して其家に乱入し、資財雑
具を追捕し、其奴を搦とて、六波羅へゐて
まいる。されば目にみ、心にしるといへども、詞にあ
らはれて申者なし。六波羅殿の禿といひて
しかば、道をすぐる馬・車もよぎてぞとほりける。
P01030
禁門を出入すといへども姓名を尋らるるに
及ばず京師の長吏是が為に目を側とみえ
たり。P92『吾身栄花』S0105 吾身の栄花を極るのみならず、一門共に
繁昌して、嫡子重盛、内大臣の左大将、次男
宗盛、中納言の右大将、三男具盛、三位中将、嫡孫
維盛、四位少将、惣じて一門の公卿十六人、殿上人
卅余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人
なり。世には又人なくぞみえられける。昔奈良
P01031
御門の御時、神亀五年、朝家に中衛の大将を
はじめをかれ、大同四年に中衛を近衛と改
られしより以降、兄弟左右に相並事纔に
三四箇度なり。文徳天皇の御時は、左に良房、右
大臣の左大将、右に良相、大納言の右大将、是は閑院の
左大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇には、左に
実頼小野宮殿、右に師資九条殿、貞仁公の
御子なり。後冷泉院の御時は、左に教通大二条殿、
P01032
右に頼宗堀河殿、御堂の関白の御子なり。二条院
御宇には、左に基房松殿、右に兼実月輪殿、
法性寺殿の御子なり。是皆摂禄の臣の御子息、
凡人にとりては其例なし。殿上の交をだに
きらはれし人の子孫にて、禁色雑袍をゆり、
綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になて
兄弟左右に相並事、末代とはいひながら不思
議なりし事どもなり。P93其外御娘八人おはしき。
P01033
皆とりどりに、幸給へり。一人は桜町の中納言重教
卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の時約
束斗にて、平治のみだれ以後引ちがへられ、
花山院の左大臣殿の御台盤所にならせ給て、
君達あまたましましけり。抑此重教卿を桜
町の中納言と申ける事は、すぐれて心数奇給へる
人にて、つねは吉野山をこひ、町に桜をうへならべ、
其内に屋をたててすみ給しかば、来る年の春毎に
P01034
みる人桜町とぞ申ける。桜はさいて七箇日に
ちるを、余波を惜み、あまてる御神に祈り
申されければ、三七日まで余波ありけり。君も
賢王にてましませば、神も神徳を耀かし、花も
心ありければ、廿日の齢をたもちけり。一人は后に
たたせ給ふ。王子御誕生ありて皇太子にたち、
位につかせ給しかば、院号かうぶらせ給て建
礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なるうへ、
P01035
天下の国母にてましましければ、とかう申に
及ばず。一人は六条の摂政殿の北政所にならせ
給ふ。高倉院御在位の時、御母代とて准三后の
宣旨をかうぶり、白河殿とておもき人にて
ましましけり。一人は普賢寺殿の北政所にならせ
給ふ。一人は冷泉大納言隆房卿の北方、一人は七条
修理大夫信隆卿に相具し給へり。又安芸国
厳島の内侍が腹に一人おはせしは、後白河法皇へ
P01036
まいらせ給て、女御のやうでましましける。
其外九条院の雑仕P94常葉が腹に一人、是は花山院
殿に上臈女房にて、廊の御方とぞ申ける。
日本秋津島は纔に六十六箇国、平家知行の
国卅余箇国、既に半国にこえたり。其外庄園
田畠いくらといふ数を知ず。綺羅充満して、
堂上花の如し。軒騎群集して、門前市を
なす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の
P01037
錦、七珍万宝一として闕たる事なし。歌堂
舞閣の基、魚竜爵馬の翫もの、恐くは帝闕も
六 仙洞も是にはすぎじとぞみえし。 『二代后』S0107 昔より今に
至るまで、源平両氏朝家に召つかはれて、王
化にしたがはず、をのづから朝権をかろむずる
者には、互にいましめをくはへしかば、代のみだれも
なかりしに、保元に為義きられ、平治に義朝
誅せられて後は、すゑずゑの源氏ども或は流され、
P01038
或はうしなはれ、今は平家の一類のみ繁昌して、
頭をさし出す者なし。いかならむ末の代までも
何事かあらむとぞみえし。されども、鳥羽院
御晏駕の後は、兵革うちつづき、死罪・流刑・
闕官・停任つねにおこなはP108れて、海内もしづか
ならず、世間もいまだ落居せず。就中に永暦
応保の比よりして、院の近習者をば内より
御いましめあり、内の近習者をば院よりいま
P01039
しめらるる間、上下おそれをののいてやすい
心もなし。ただ深淵にのぞむで薄氷をふむに
同じ。主上上皇、父子の御あひだには、何事の
御へだてかあるべきなれども、思のほかの事
どもありけり。是も世澆季に及で、人梟
悪をさきとする故也。主上、院の仰をつねに
申かへさせおはしましけるなかにも、人耳目を
驚かし、世もて大にかたぶけ申事ありけり。
P01040
故近衛院の后、太皇太后宮と申しは、大炊御門の
右大臣公能公の御娘也。先帝にをくれたて
まつらせ給て後は、九重の外、近衛河原の
御所にぞうつりすませ給ける。さきのきさ
いの宮にて、幽なる御ありさまにてわたらせ
給しかば、永暦のころほひは、御年廿二三に
もやならせ給けむ、御さかりもすこしすぎ
させおはしますほどなり。しケれども、天下
P01041
第一の美人のきこえましましければ、主上
色にのみそめる御心にて、偸に行力使に
詔じて、外宮にひき求めしむるに及で、
此大宮へ御艶書あり。大宮敢てきこしめしも
いれず。さればひたすらはやほにあらはれて、
后御入内あるべき由、右大臣家に宣旨を下さる。
此事天下にをいてことなる勝事なれば、公卿
僉議あり。をのをの意見をいふ。「先P109異朝の先蹤を
P01042
とぶらふに、震旦の則天皇后は唐の太宗の
きさき、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の
後、高宗の后にたち給へる事あり。是は異
朝の先規たるうへ、別段の事なり。しかれども
吾朝には、神武天皇より以降人皇七十余代に
及まで、いまだ二代の后にたたせ給へる例を
きかず」と、諸卿一同に申されけり。上皇も
しかるべからざる由、こしらへ申させ給へば、主上
P01043
仰なりけるは、「天子に父母なし。吾十善の戒功に
よて、万乗の宝位をたもつ。是ほどの事、などか
叡慮にまかせざるべき」とて、やがて御入内の
日、宣下せられけるうへは、力及ばせ給はず。大宮
かくときこしめされけるより、御涙にしづ
ませおはします。先帝にをくれまいらせにし
久寿の秋のはじめ、同じ野の露ともきえ、
家をもいで世をものがれたりせば、かかるうき
P01044
耳をばきかざらましとぞ、御歎ありける。父の
おとどこしらへ申させ給けるは、「「世にしたがは
ざるをもて狂人とす」とみえたり。既に詔命を
下さる。子細を申にところなし。ただすみやかに
まいらせ給べきなり。もし王子御誕生ありて、
君も国母といはれ、愚老も外祖とあふがる
べき瑞相にてもや候らむ。是偏に愚老を
たすけさせおはします御孝行の御いたり
P01045
なるべし」と申させ給へども、御返事もなかりけり。
大宮其比なにとなき御P110手習の次に、
うきふしにしづみもやらでかは竹の
世にためしなき名をやながさむ W004
世にはいかにしてもれけるやらむ、哀にやさ
しきためしにぞ、人々申あへりける。既に御
入内の日になりしかば、父のおとど、供奉のかん
だちめ、出車の儀式など心ことにだしたてまいらせ
P01046
給けり。大宮ものうき御いでたちなれば、と
みにもたてまつらず。はるかに夜もふけ、さ夜もなかばになて後、御車にたすけ
のせられ給けり。御入内の後は麗景殿にぞ
ましましける。ひたすらあさまつりごとをすすめ
申させ給ふ御ありさまなり。彼紫震殿の
皇居には、賢聖の障子をたてられたり。伊尹・
鄭伍倫・虞世南、太公望・角里先生・李勣・
P01047
司馬、手なが足なが・馬形の障子、鬼の間、季将軍が
すがたをさながらうつせる障子也。尾張守小野
道風が、七廻賢聖の障子とかけるもことはりとぞ
みえし。彼清凉殿の画図の御障子には、昔
金岡がかきたりし遠山のあり明の月もありと
かや。故院のいまだ幼主ましましけるそのかみ、な
にとなき御手まさぐりの次に、かきくもら
かさせ給しが、ありしながらにすこしもたがはぬを
P01048
御らむじて、先帝の昔もや御恋しくおぼし
めされけん、P111
おもひきやうき身ながらにめぐりきて
おなじ雲井の月をみむとは W005
其間の御なからへ、いひしらず哀にやさし
かりし御事也。『額打論』S0108 さるほどに、永万元年の春の
比より、主上御不予の御事ときこえさせ
給しかば、夏のはじめになりしかば、事のほかに
P01049
おもらせ給ふ。是によて、大蔵大輔伊吉兼盛が
娘の腹に、今上一宮の二歳にならせ給ふがましましけるを、
太子にたてまいらせ給ふべしときこえし程に、
同六月廿五日、俄に親王の宣旨くだされて、や
がて其夜受禅ありしかば、天下なにとなうあはて
たるさまなり。其時の有職の人々申あはれ
けるは、本朝に童体の例を尋れば、清和天皇
九歳にして文徳天皇の御禅をうけさせ給ふ。
P01050
是は彼周旦の成王にかはり、南面にして一日
万機の政ををさめ給しに准へて、外祖忠仁公
幼主を扶持し給へり。是ぞ摂政のはじめなる。
鳥羽院五歳、近衛院三歳にて践祚あり。かれを
こそいつしかなりと申しに、是は二歳にならせ
給ふ。先例なし。物さはがしともおろかなり。P112さるほどに、
同七月廿七日、上皇つゐに崩御なりぬ。御歳廿
三、つぼめる花のちれるがごとし。玉の簾、錦の
P01051
帳のうち、皆御涙にむせばせ給ふ。やがて其
夜、香隆寺のうしとら、蓮台野の奥、船岡山に
おさめ奉る。御葬送の時、延暦・興福両寺の
大衆、額うち論と云事しいだして、互に狼籍に
七 及ぶ。一天の君崩御なて後、御墓所へわたし
奉る時の作法は、南北二京の大衆悉く供奉して、
御墓所のめぐりにわが寺々の額をうつ事あり。
まづ聖武天皇の御願、あらそふべき寺なければ、
P01052
東大寺の額をうつ。次に淡海公の御願とて、
興福寺の額をうつ。北京には、興福寺にむかへて
延暦寺の額をうつ。次に天武天皇の御願、
教大和尚・智証大師の草創とて、園城寺の額を
うつ。しかるを、山門の大衆いかがおもひけむ、先例を
背て、東大寺の次、興福寺のうへに、延暦寺の
額をうつあひだ、南都の大衆、とやせまし、
かうやせましと僉議する所に、興福寺の
P01053
西金堂衆、観音房・勢至房とてきこえたる
大悪僧二人ありけり。観音房は黒糸威の腹巻に、
しら柄の長刀くきみじかにとり、勢至房は萠
黄威の腹巻に、黒漆の大太刀もて、二人つと
走出、延暦寺の額をきておとし、散々に打わり、
「うれしや水、なるは滝の水、日はてるともたえずと
うたへ」とはやしつつ、南都の衆徒のなかへぞ
入にける。P113『清水寺炎上』S0109 山門の大衆、狼籍をいたさば手むかへ
P01054
すべき所に、ふかうねらう方もやありけむ、
ひと詞もいださず。御門かくれさせ給ては、心
なき草木までも愁たる色にてこそある
べきに、此騒動のあさましさに、高も賎も、
肝魂をうしなて、四方へ皆退散す。同廿九日の
午剋斗、山門の大衆緩う下洛すときこえ
しかば、武士検非違使、西坂下に、馳向て防
けれども、事ともせず、をしやぶて乱入す。
P01055
何者の申出したりけるやらむ、「一院山門の大衆に
仰て、平家を追討せらるべし」ときこえし
ほどに、軍兵内裏に参じて、四方の陣頭を
警固す。平氏の一類、皆六波羅へ馳集る。
一院もいそぎ六波羅へ御幸なる。清盛公其比
いまだ大納言にておはしけるが、大に恐れさ
はがれけり。小松殿「なにによてか只今さる事
あるべき」としづめられけれども、上下ののしりさはぐ事
P01056
緩し。山門の大衆、六波羅へはよせずして、すぞ
ろなる清水寺におしよせて、仏閣僧坊一宇も
のこさず焼はらふ。是はさんぬる御葬送の
夜の会稽の恥を雪めむが為とぞきこえし。
清水寺は興福寺の末寺なるによてなり。清
水寺やけたりける朝、「や、観音火坑変成
池はいかに」と札を書て、大門の前にたてたり
ければ、P114次日又、「歴劫不思議力及ばず」と、かへしの
P01057
札をぞうたりける。衆徒かへりのぼりにければ、
一院六波羅より還御なる。重盛卿斗ぞ御
ともにはまいられける。父の卿はまいられず。猶
用心の為かとぞきこえし。重盛卿御送より
かへられたりければ、父の大納言のたまひけるは、「
一院の御幸こそ大に恐れおぼゆれ。かけても
思食より仰らるる旨のあればこそ、かうはきこゆ
らめ。それにもうちとけ給まじ」とのたまへば、
P01058
重盛卿申されける、「此事ゆめゆめ御けしき
にも、御詞にも出させ給べからず。人に心づけ
がほに、中々あしき御事也。それにつけても、
叡慮に背給はで、人の為に御情をほど
こさせましまさば、神明三宝加護あるべし。さらむに
とては、御身の恐れ候まじ」とてたたれければ、
「重盛卿はゆゆしく大様なるものかな」とぞ、父の
卿ものたまひける。一院還御の後、御前にうと
P01059
からぬ近習者達あまた候はれけるに、「さても
ふし議の事を申出したるものかな。露も思食
よらぬものを」と仰ければ、院中のきりものに
西光法師といふ者あり。境節御前ちかう候
けるが、「天に口なし、にんをもていはせよと申。
平家以外に過分に候あひだ、天の御ぱからひ
にや」とぞ申ける。人々「此事よしなし。壁に耳あり。
おそろしおそろし」とぞ、P115申あはれける。『東宮立』S0110 さるほどに、其年は
P01060
諒闇なりければ、御禊大嘗会もおこなはれず。
同十二月廿四日、建春門院、其比はいまだ東宮の御
方と申ける、御腹に一院の宮のましましけるが、
親王の宣旨下され給ふ。あくれば改元あて仁安と
号す。同年の十月八日、去年親王の宣旨蒙らせ
給し皇子、東三条にて春宮にたたせ給ふ。春
宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、詔目にあひ
かなはず。但寛和二年に一条院七歳にて御即位、
P01061
三条院十一歳にて春宮にたたせ給ふ。先例
なきにあらず。主上は二歳にて御禅をうけさせ
給ひ、纔に五歳と、申二月十九日、東宮践祚
ありしかば、位をすべらせ給て、新院とぞ
申ける。いまだ御元服もなくして、太上天皇の
尊号あり。漢家本朝是やはじめならむ。仁
九 安三年三月廿日、新帝大極殿にして御即
位あり。此君の位につかせ給ぬるは、いよいよ平家の
P01062
栄花とぞみえし。御母儀建春門院と申は、
平家の一門にてましますうへ、とりわき入道相
国の北方、二位殿の御妹也。平大納言P116時忠卿と申も
女院の御せうとなれば、内の御外戚なり。内外に
つけたる執権の臣とぞみえし。叙位除目と申も
偏に此時忠卿のままなり。楊貴妃が幸し時、楊
国忠がさかへしが如し。世のおぼえ、時のきら、めでた
かりき。入道相国天下の大小事をのたまひあはせ
P01063
られければ、時の人平関白とぞ申ける。『殿下乗合』S0111 さるほどに、
嘉応元年七月十六日、一院御出家あり。御出
家の後も万機の政をきこしめされしあひだ、
院内わく方なし。院中にちかくめしつかはるる
公卿殿上人、上下の北面にいたるまで、官位捧
禄皆身にあまる斗なり。されども人の心のな
らひなれば、猶あきだらで、「あぱれ、其人のほろび
たらば其国はあきなむ。其人うせたらば其官にはなりなむ」
P01064
など、うとからぬどちはよりあひよりあひささやき
あへり。法皇も内々仰なりけるは、「昔より代々の朝
敵をたいらぐる者おほしといへども、いまだ加様の
事なし。貞盛・秀里が将門をうち、頼義が貞
任・宗任をほろぼし、義家が武平・家平をせめ
たりしも、勧賞おP117こなはれし事、受領には
すぎざりき。清盛がかく心のままにふるまう
こそしかるべからね。是も世末になて王法のつき
P01065
ぬる故なり」と仰なりけれども、つゐでなければ御
いましめなし。平家も又別して、朝家を恨奉る
事もなかりしほどに、世のみだれそめける根本は、
去じ嘉応二年十月十六日、小松殿の次男新三位
中将資盛卿、其時はいまだ越前守とて十三に
なられけるが、雪ははだれにふたりけり、枯野の
けしき誠に面白かりければ、わかき侍ども卅騎
斗めし具して、蓮台野や紫野、右近馬場に
P01066
うち出て、鷹どもあまたすへさせ、鶉雲雀を
おたておたて、終日かり暮し、薄暮に及て六
波羅へこそ帰られけれ。其時の御摂禄は松殿
にてましましけるが、中御門東洞院の御所より
御参内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、
東洞院を南へ、大炊御門を西へ御出なる。資盛
朝臣、大炊御門猪熊にて、殿下の御出にはな
づきにまいりあふ。御ともの人々「なに者ぞ、狼籍なり。
P01067
御出のなるに、のりものよりおり候へおり候へ」といらて
けれども、余りにほこりいさみ、世を世ともせざり
けりうへ、めし具したる侍ども、皆廿より内の
わか者どもなり。礼儀骨法弁へたる者一人も
なし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼儀
にも及ばず、かけやぶてとほらむとする間、
くらさは闇し、つやつや入道の孫ともしらず、又
少々はP118知たれどもそらしらずして、資盛朝臣を
P01068
はじめとして、侍ども皆馬よりとて引おとし、
頗る恥辱に及けり。資盛朝臣はうはう六波羅へ
おはして、おほぢの相国禅門に此由うたへ申され
ければ、入道大にいかて、「たとひ殿下なりとも、浄海が
あたりをばはばかり給べきに、おさなき者に左右
なく恥辱をあたへられけるこそ遺恨の次第
なれ。かかる事よりして、人にはあざむかるるぞ。
此事おもひしらせたてまつらでは、えこそあるまじ
P01069
けれ。殿下を恨奉らばや」とのたまへば、重盛卿
申されけるは、「是はすこしもくるしう候まじ。頼政・
光基など申源氏どもにあざむかれて候はんは、
誠に一門の恥辱でも候べし。重盛が子どもとて
候はんずる者の、殿の御出にまいり逢て、
のりものよりおり候はぬこそ尾籠に候へ」とて、其時
事にあふたる侍どもめしよせ、「自今以後も、汝等
能々心うべし。あやまて殿下へ無礼の由を
P01070
申さばやとこそおもへ」とて帰られけり。其後
入道相国、小松殿には仰られもあはせず、片田舎
の侍どもの、こはらかにて入道殿の仰より外は、
又おそろしき事なしと思ふ者ども、難波・瀬尾を
はじめとして、都合六十余人召よせ、「来廿
一日、主上御元服のさだめの為に、殿下御出
あるべかむなり。いづくにても待うけ奉り、前
駆御随身どもがもとどP119りきて、資盛が恥
P01071
すすげ」とぞのたまひける。殿下是を夢にも
しろしめさず、主上明年御元服、御加冠
拝官の御さだめの為に、御直盧に暫く
御座あるべきにて、常の御出よりもひき
つくろはせ給ひ、今度は待賢門より入御
あるべきにて、中御門を西へ御出なる。猪熊堀
河のへんに、六波羅の兵ども、ひた甲三百余
騎待うけ奉り、殿下をなかにとり籠まいらせて、
P01072
前後より一度に、時をどとぞつくりける。前駆
御随身どもがけふをはれとしやうぞひたるを、
あそこに追かけここに追つめ、馬よりとて
引おとし、さむざむに陵礫して、一々にもと
どりをきる。随身十人がうち、右の府生武基が
もとどりもきられにけり。其中に、藤蔵人
大夫隆教がもとどりをきるとて、「是は汝が
もとどりと思ふべからず。主のもとどりと思ふべし」と
P01073
いひふくめてきてげり。其後は、御車の内へも
弓のはずつきいれなどして、簾かなぐりおとし、
御牛の鞦・胸懸きりはなち、かく散々にし
ちらして、悦の時をつくり、六波羅へこそま
いりけれ。入道「神妙なり」とぞのたまひける。御
車ぞひには、因幡のさい使、鳥羽の国久丸と云
おのこ、下臈なれどもなさけある者にて、泣々
御車つかまて、中御門の御所へ還御なし奉る。
P01074
束帯の御袖にて御涙ををさへつつ、還御の
儀式あさましさ、申も中々おろかなり。
大織冠・淡海公の御事はあげて申に及P120ず、
忠仁公・昭宣公より以降、摂政関白のかかる
御目にあはせ給ふ事、いまだ承及ず。是こそ
平家の悪行のはじめなれ。小松殿こそ大に
さはがれけれ。ゆきむかひたる侍ども皆勘
当せらる。「たとひ入道いかなるふし議を下地し
P01075
給ふとも、など重盛に夢をばみせざりけるぞ。
凡は資盛奇怪なり。栴檀は二葉よりかうばしと
こそみえたれ。既に十二三にならむずる者が、今は
礼儀を存知してこそふるまうべきに、か様に
尾籠を現じて、入道の悪名をたつ。不孝の
いたり、汝独りにあり」とて、暫くいせの国に
をくださる。されば此大将をば、君も臣も御感
ありけるとぞきこえし。『鹿谷』S0112 是によて、主上御
P01076
元服の御さだめ、其日はのびさせ給ぬ。同
廿五日、院の殿上にてぞ御元服のさだめは
ありける。摂政殿さてもわたらせ給べきな
らねば、同十一月九日、兼宣旨をかうぶり、十四日太
政大臣にあがらせ給ふ。やがて同十七日、慶申
ありしかども、世中にがにがしうぞみえし。さるほどに
ことしも暮ぬ。あくれば嘉応三年正月五日、
主上御元服あッて、P121同十三日、朝覲の行幸ありけり。
P01077
法皇・女院待うけまいらせ給て、叙爵の
御粧もいか斗らうたくおぼしめされけむ。
入道相国の御娘、女御にまいらせ給ひけり。御年
十五歳、法皇御猶子の儀なり。其比、妙音院殿の
太政のおほいどの、内大臣の左大将にてましまし
けるが、大将を辞し申させ給ふ事ありけり。
時に徳大寺の大納言実定卿、其仁にあたり
給ふ由きこゆ。又花山院の中納言兼雅卿も
P01078
所望あり。其外、故中御門の藤大納言家成卿の
三男、新大納言成親卿もひらに申されけり。院の
御気色よかりければ、さまざまの祈をぞはじめ
られける。八幡に百人の僧をこめて、信読の大
般若を七日よませられける最中に、甲良の大明
神の御まへなる橘の木に、男山の方より山鳩三
飛来て、くひあひてぞ死にける。鳩は八幡大菩薩の
第一の仕者なり。宮寺にかかるふしぎなしとて、時の
P01079
検校、匡清法印奏聞す。神祇官にして御占
あり。天下のさはぎとうらなひ申。但、君のつつしみに
非ず、臣下のつつしみとぞ申ける。新大納言
是におそれをもいたさず、昼は人目のしげ
ければ、夜なよな歩行にて、中御門烏丸の宿
所より賀茂の上の社へ、なな夜つづけてまいられ
けり。なな夜に満ずる夜、宿所に下向して、
くるしさにうちふし、ちとまどろみ給へる夢に、
P01080
賀茂の上の社へまいりたるとおぼしくて、P122御宝殿の
御戸おしひらき、ゆゆしくけだかげなる御声にて、
さくら花かもの河風うらむなよ
ちるをばえこそとどめざりけれ W006
新大納言猶おそろれをもいたさず、かもの上の
社に、ある聖をこめて、御宝殿の御うしろなる
杉の洞に壇をたてて、拏吉尼の法を百日
おこなはせられけるほどに、彼大椙に雷おち
P01081
かかり、雷火緩うもえあがて、宮中既にあや
うくみえけるを、宮人どもおほく走あつまて、
是をうちけつ。さて彼外法おこなひける
聖を追出せむとしければ、「われ当社に百
日参籠の大願あり。けふは七十五日になる。またく
いづまじ」とてはたらかず。此由を社家より
内裏へ奏聞しければ、「只法にまかせて追出
せよ」と宣旨を下さる。其時神人しら杖をもて、
P01082
彼聖がうなじをしらげ、一条の大路より南へ
おひだしてげり。神非礼を享給はずと
申に、此大納言非分の大将を祈申されければ
にや、かかるふしぎもいできにけり。其比の
叙位除目と申は、院内の御ぱからひにも
非ず、摂政関白の御成敗にも及ばず。只一向
平家のままにてありしかば、徳大寺・花山院もなり
給はず。入道相国の嫡男小松殿、大納言の右大将にて
P01083
おはしけるが、左にうつりて、次男宗盛中納言に
ておはせしが、数輩の上臈を超越して、右に
くははられP123けるこそ、申斗もなかりしか。中にも徳大
寺殿は一の大納言にて、花族栄耀、才学雄長、
家嫡にてましましけるが、超られ給けるこそ遺
恨なれ。「さだめて御出家などやあらむずらむ」と、
人々内々は申あへりしかども、暫世のならむ
様をもみむとて、大納言を辞し申て、籠居とぞ
P01084
きこえし。新大納言成親卿のたまひけるは、
十一 「徳大寺・花山院に超られたらむはいかがせむ。平家の
次男に超らるるこそやすからね。是も万おもふ
さまなるがいたす所なり。いかにもして平家を
ほろぼし、本望をとげむ」とのたまひけるこそ
おそろしけれ。父の卿は中納言までこそいた
られしか、其末子にて位正二位、官大納言に
あがり、大国あまた給はて、子息所従朝恩に
P01085
ほこれり。何の不足にかかる心つかれけむ。是偏に
天魔の所為とぞみえし。平治には越後中将とて、
信頼卿に同心のあひだ、既に誅せらるべかり
しを、小松殿やうやうに申て頸をつぎ給へり。
しかるに其恩をわすれて、外人もなき所に
兵具をととのへ、軍兵をかたらひをき、其営みの
外は他事なし。東山のふもと鹿の谷と云所は、
うしろは三井寺につづいてゆゆしき城郭にてぞ
P01086
ありける。俊寛僧都の山庄あり。かれにつねは
よりあひよりあひ、平家ほろP124ぼさむずるはかりことをぞ
廻らしける。或時法皇も御幸なる。故少納言入道
信西が子息、浄憲法印御供仕る。其夜の酒宴に、
此由を浄憲法印に仰あはせられければ、「あなあ
さまし。人あまた承候ぬ。只今もれきこえて、
天下の大事に及候なむず」と、大にさはぎ申
ければ、新大納言けしきかはりて、さとたたれけるが、
P01087
御前に候ける瓶子をかり衣の袖にかけて引
たうされたりけるを、法皇「あれはいかに」と仰
ければ、大納言立かへりて、「平氏たはれ候ぬ」とぞ
申されける。法皇ゑつぼにいらせおはして、「者ども
まいて猿楽つかまつれ」と仰ければ、平判官康
頼まいりて、「ああ、あまりに平氏のおほう候に、
もて酔て候」と申。俊寛僧都「さてそれをば
いかが仕らむずる」と申されければ、西光法師「頸を
P01088
とるにはしかず」とて、瓶子のくびをとてぞ
入にける。浄憲法印あまりのあさましさに、
つやつや物を申されず。返々もおそろしかりし
事どもなり。与力の輩誰々ぞ。近江中将入道
蓮浄俗名成正、法勝寺執行俊寛僧都、
山城守基兼、式部大輔雅綱、平判官康頼、
宗判官信房、新平判官資行、摂津国源氏
多田蔵人行綱を始として、北面の輩おほく
P01089
与力したりけり。P125『俊寛沙汰鵜川軍』S0113 此法勝寺の執行と申は、
京極の源大納言雅俊の卿の孫、木寺の法印
寛雅には子なりけり。祖父大納言させる弓箭を
とる家にはあらねども、余に腹あしき人にて、三
条坊門京極の宿所のまへをば、人をもやすく
とほさず、つねは中門にたたずみ、歯をくひしばり、
いかてぞおはしける。かかる人の孫なればにや、
此俊寛も僧なれども、心もたけく、おごれる
P01090
人にて、よしなき謀叛にもくみしけるにこそ。
新大納言成親卿は、多田蔵人行綱をようで、
「御へんをば一方の大将に憑なり。此事おほせ
つるものならば、国をも庄をも所望によるべし。
まづ弓袋の料に」とて、白布五十端送られけり。
安元三年三月五日、妙音院殿、太政大臣に
転じ給へるかはりに、大納言定房卿をこえて、
小松殿、内大臣になり給ふ。大臣の大将めでたかりき。
P01091
やがて大饗おこなはる。尊者には、大炊御門右大臣
経宗公とぞきこえし。一のかみこそ先達なれども、
父宇治の悪左府の御例其憚あり。北面は上古には
なかりけり。白河院の御時はじめをかれてより
以降、衛府どP126もあまた候けり。為俊・重盛
童より千手丸・今犬丸とて、是等は左右なききり
ものにてぞありける。鳥羽院の御時も、季教・季頼
父子ともに朝家にめしつかはれ、伝奏するおりも
P01092
ありなどきこえしかども、皆身のほどをばふる
まうてこそありしに、此御時の北面の輩は、
以外に過分にて、公卿殿上人をも者とも
せず、礼儀礼節もなし。下北面より上北面に
あがり、上北面より殿上のまじはりをゆるさるる
者もあり。かくのみおこなはるるあひだ、おごれる
心どもも出きて、よしなき謀叛にもくみ
しけるにこそ。中にも故少納言信西がもとに
P01093
めしつかひける師光・成景と云者あり。師光は
阿波国の在庁、、成景は京の者、熟根いやしき
下臈なり。健児童もしは格勤者などにて
召つかはれけるが、さかざかしかりしによて、師光は
左衛門尉、成景は右衛門尉とて、二人一度に
靭負尉になりぬ。信西が事にあひし時、二人
ともに出家して、左衛門入道西光・右衛門入道
西敬とて、是は出家の後も院の御倉あづかり
P01094
にてぞありける。彼西光が子に師高と云者
あり。是もきり者にて、検非違使五位尉に
経あがて、安元元年十二月二十九日、追儺の除目に
加賀守にぞなされける。国務ををこなふ間、非
法非例を張行し、神社仏寺、権門勢家の
庄領を没倒し、散々の事どもにてぞありける。縦せうこうがあとをへだつと云とも、穏便の
政おこP127なふべかりしが、心のままにふるまひしほどに、
P01095
同二年夏の比、国司師高が弟、近藤判官師経、
加賀の目代に補せらる。目代下着の始、国府の
へんに鵜河と云山寺あり。寺僧どもが境節
湯をわかひてあびけるを、乱入しておいあげ、
わが身あび、雑人どもおろし、馬あらはせなど
しけり。寺僧いかりをなして、「昔より、此所は
国方の者入部する事なし。すみやかに
先例にまかせて、入部の押妨をとどめよ」とぞ
P01096
申ける。「先々の目代は不覚でこそいやしまれ
たれ。当目代は、其儀あるまじ。只法に任よ」と
云ほどこそありけれ、寺僧どもは国がたの者を
追出せむとす、国がたの者どもは次をもて乱入
せむとす、うちあひはりあひしけるほどに、
目代師経が秘蔵しける馬の足をぞうちおりける。
其後は互に弓箭兵杖を帯して、射あひ
きりあひ数剋たたかふ。目代かなはじとや思けん、
P01097
夜に入て引退く。其後当国の在庁ども催し
あつめ、其勢一千余騎、鵜河におしよせて、坊舎
一宇ものこさず焼はらふ。鵜河と云は白山の
末寺なり。此事うたへんとてすすむ老僧
誰々ぞ。智釈・学明・宝台坊、正智・学音・土佐
阿闍梨ぞすすみける。白山三社八院の大衆悉く
起りあひ、都合其勢二千余人、七月九日の
暮方に、目代師経が館ちかう〔こ〕そおしよせたれ。
P01098
けふは日暮ぬ、あすのいくさとさだめて、其日は
よせでゆらへたり。露ふきむすぶ秋風は、
ゐP128むけの袖を翻し、雲井をてらすいな
づまは、甲の星をかかやかす。目代かなはじとや
思けむ、夜にげにして京へのぼる。あくる
卯剋におしよせて、時をどとつくる。城の
うちには音もせず。人をいれてみせければ、
「皆落て候」と申。大衆力及ばで引退く。さらば
P01099
山門へうたへんとて、白山中宮の神輿を
賁り奉り、比叡山へふりあげ奉る。同八月十
二日の午剋斗、白山の神輿既に比叡山東
坂本につかせ給ふと云ほどこそありけれ、北国の
方より雷緩う鳴て、都をさしてなりのぼる。
白雪くだりて地をうづみ、山上洛中おしなべて、
常葉の山の梢まで皆白妙に成にけり。『願立』S0114 神
輿をば客人の宮へいれたてまつる。客人と申は
P01100
白山妙利権現にておはします。申せば父子の
御中なり。先沙汰の成否はしらず、生前の
御悦、只此事にあり。浦島が子の七世の孫に
あへりしにもすぎ、胎内の者の霊山の父を
みしにもこえたり。三千の衆徒踵を継ぎ、七社の
神人袖をつらぬ。時々剋々の法施P129祈念、
言語道断の事どもなり。山門の大衆、国司
加賀守師高を流罪に処せられ、目代近藤
P01101
判官師経を禁獄せらるべき由奏聞す。御
十二 裁断おそかりければ、さも然るべき公卿殿上人は、
「あはれとく御裁許あるべきものを。昔より
山門の訴詔は他に異なり。大蔵卿為房・太宰
権帥季仲は、さしも朝家の重臣なりしかども、
山門の訴詔によて流罪せられにき。况や
師高などは事の数にやはあるべきに、子細にや及べき」
と申あはれけれども、「大臣は禄を重じて諫めず、
P01102
小臣は罪に恐れて申さず」と云事なれば、をのをの
口をとぢ給へり。「賀茂河の水、双六の賽、山
法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と、白河院も仰
なりけり。鳥羽院御時、越前の平泉寺を
山門へつけられけるには、当山を帰依あさ
からざるによて、「非をもて理とす」とこそ宣下
せられて、院宣をば下されけり。江帥匡房
卿の申されし様に、「神輿を陣頭へふり
P01103
奉てうたへ申さむには、君いかが御ぱからひ
候べき」と申されければ、「げにも山門の訴詔は
もだしがたし」とぞ仰ける。去じ嘉保二年
三月二日、美濃守源義綱朝臣、当国新立の
庄をたをすあひだ、山の久住者円応を殺
害す。是によて日吉の社司、延暦寺の寺官、都
合卅余P130人、申文をささげて陣頭へ参じけるを、
後二条関白殿、大和源氏中務権少輔頼春に
P01104
仰てふせかせらる。頼春が郎等箭をはなつ。
やにはにゐころさるる者八人、疵を蒙る者十余
人、社司諸司四方へちりぬ。山門の上綱等、子細を
奏聞の為に下洛すときこえしかば、武士検
非違使、西坂本に馳向て、皆おかへす。山門には
御裁断遅々のあひだ、七社の神輿を根本
中堂にふりあげ奉り、其御前にて信読の
大般若を七日ようで、関白殿を呪咀し奉る。結願の
P01105
導師には仲胤法印、其比はいまだ仲胤供奉と
申しが、高座にのぼりかねうちならし、表白の
詞にいはく、「我等なたねの二葉よりおほしたて
給ふ神だち、後条の関白殿に鏑箭一はなち
あて給へ。大八王子権現」と、た〔か〕らかにぞ祈誓し
たりける。やがて其夜ふしぎの事あり。八王子の
御殿より鏑箭の声いでて、王城をさして、なて
行とぞ、人の夢にはみたりける。其朝、関白殿の
P01106
御所の御格子をあけけるに、只今山よりとて
きたるやうに、露にぬれたる樒一枝、たたり
けるこそおそろしけれ。やがて山王の御とがめとて、
後二条の関白殿、おもき御病をうけさせ給し
かば、母うへ、大殿の北の政所、大になげかせ給つつ、
御さまをやつし、いやしき下臈のまねをして、
日吉社に御参籠あて、七日七夜P131が間祈
申させ給けり。あらはれての御祈には、百番の
P01107
芝田楽、百番のひとつもの、競馬・流鏑馬・相撲
をのをの百番、百座の仁王講、百座の薬師講、
一■手半の薬師百体、等身の薬師一体、並に
釈迦阿弥陀の像、をのをの造立供養せられけり。
又御心中に三の御立願あり。御心のうちの事
なれば、人いかでかしり奉るべき。それにふしぎ
なりし事は、七日に満ずる夜、八王子の御社に
いくらもありけるまいりうど共のなかに、陸奥より
P01108
はるばるとのぼりたりける童神子、夜半斗
にはかにたえ入にけり。はるかにかき出して
祈ければ、程なくいきいでて、やがて立てまひ
かなづ。人奇特のおもひをなして是をみる。
半時斗舞て後、山王おりさせ給て、やうやう
御詫宣こそおそろしけれ。「衆生等慥に
うけ給はれ。大殿の北の政所、けふ七日わが
御前に籠らせ給たり。御立願三あり。一には、
P01109
今度殿下の寿命をたすけてたべ。さも候
はば、したどのに候もろもろのかたは人にまじ
はて、一千日が間朝夕みやづかひ申さむとなり。
大殿の北の政所にて、世を世ともおぼしめ
さですごさせ給ふ御心に、子を思ふ道に
まよひぬれば、いぶせき事もわすられて、
あさましげなるかたはうどにまじはて、一千日が間、
朝夕みやづかひ申さむと仰らるるこそ、誠に哀に
P01110
おぼしめせ。二には、大宮の橋づめより八王子の
御社まで、廻廊つくてまいらせP132むとなり。三千
人の大衆、ふるにもてるにも、社参の時いた
はしうおぼゆるに、廻廊つくられたらば、いかに
めでたからむ。三には、今度の殿下の寿命をた
すけさせ給はば、八王子の御社にて、法花問
答講毎日退転なくおこなはすべしとなり。いづれも
おろかならねども、かみ二はさなくともありなむ。
P01111
毎日法花問答講は、誠にあらまほしうこそおぼし
めせ。但、今度の訴詔は無下にやすかりぬべき
事にてありつるを、御裁許なくして、神人
宮仕射ころされ、疵を蒙り、泣々まいて訴へ
申事の余に心うくて、いかならむ世までも
忘るべしともおぼえず。其上かれ等があたる所の
箭は、しかしながら和光垂跡の御膚にたたる
なり。まことそらごとは是をみよ」とて、肩ぬいだるを
P01112
みれば、左の脇のした、大なるかはらけの口斗
うげのいてぞみえたりける。「是が余に心うければ、
いかに申とも始終の事はかなふまじ。法花
問答講一定あるべくは、三とせが命をのべて
たてまつらむ。それを不足におぼしめさば力及
ばず」とて、山王あがらせ給けり。母うへは御立願の
事人にもかたらせ給はねば、誰もらしつらむと、
すこしもうたがう方もましまさず。御心の
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内の事共をありのままに御詫宣ありければ、
心肝にそうて、ことにたとくおぼしめし、
泣々申させ給けるは、「縦ひと日かた時にてさぶ
らふとも、ありがたうこそさぶらふべきに、ましてP133
三とせが命をのべて給らむ事、しかるべう
さぶらふ」とて、泣々御下向あり。いそぎ都へ
いらせ給て、殿下の御領紀伊国に田中庄と
云所を、八王子の御社へ寄進ぜらる。それより
P01114
して法花問答講、今の世にいたるまで、毎日
退転なしとぞ承る。かかりしほどに、後二条関
白殿御病かろませ給て、もとの如くにならせ給ふ。
上下悦あはれしほどに、みとせのすぐるは
夢なれや、永長二年になりにけり。六月廿一日、
又後二条関白殿、御ぐしのきはにあしき御
瘡いでさせ給て、うちふさせ給ひしが、同
廿七日、御年卅八にて遂にかくれさせ給ぬ。
P01115
御心のたけさ、理のつよさ、さしもゆゆしき人
人にてましましけれども、まめやかに事のきうに
なりしかば、御命を惜ませ給ける也。誠に惜
かるべし。四十にだにもみたせ給はで、大殿に
先立まいらせ給ふこそ悲しけれ。必しも父を
先立べしと云事はなけれども、生死のをきてに
したがふならひ、万徳円満の世尊、十地究
竟の大士たちも、力及び給はぬ事ども也。
P01116
慈悲具足の山王、利物の方便にてましませば、
十三 御とがめなかるべしとも覚ず。P134『御輿振』S0115 さるほどに、山
門の大衆、国司加賀守師高を流罪に処
せられ、目代近藤判官師経を禁獄せらる
べき由、奏聞度々に及といへども、御裁許
なかりければ、日吉の祭礼をうちとどめて、安
元三年四月十三日辰の一点に、十禅師・客人・
八王子三社の神輿賁り奉て、陣頭へ
P01117
ふり奉る。さがり松・きれ堤・賀茂の河原、糾・
梅ただ・柳原・東福院のへんに、しら大衆・神人・
宮仕・専当みちみちて、いくらと云数をしらず。
神輿は一条を西へいらせ給ふ。御神宝天に
かかやいて、日月地に落給ふかとおどろかる。
是によて、源平両家の大将軍、四方の陣頭を
かためて、大衆ふせくべき由仰下さる。平家には、
小松の内大臣の左大将重盛公、其勢三千余騎
P01118
にて大宮面の陽明・待賢・郁芳三の門を
かため給ふ。弟宗盛・具盛・重衡、伯父頼盛・教
盛・経盛などは、にし南の陣をかためられけり。源氏には、
大内守護の源三位頼政卿、渡辺のはぶく・さ
づくをむねとして、其勢纔に三百余騎、北の
門、縫殿の陣をかため給ふ。所はひろし勢は少し、
まばらにこそみえたりけれ。大衆無勢たるに
よて、北の門、縫殿の陣より神輿を入奉らんとす。
P01119
頼政P135卿さる人にて、馬よりおり、甲をぬいで、
神輿を拝し奉る。兵ども皆かくのごとし。
衆徒の中へ使者をたてて、申送る旨あり。
其使は渡辺の長七唱と云者なり。唱、其日は
きちんの直垂に、小桜を黄にかへいたる
鎧きて、赤銅づくりの太刀をはき、白羽の矢
おひ、しげどうの弓脇にはさみ、甲をばぬぎ、
たかひもにかけ、神輿の御前に畏て申けるは、
P01120
「衆徒の御中へ源三位殿の申せと候。今度
山門の御訴詔、理運の条勿論に候。御成敗
遅々こそ、よそにても遺恨に覚候へ。さては神
輿入奉らむ事、子細に及候はず。但頼政無勢候。
其上あけて入奉る陣よりいらせ給て候はば、
山門の大衆は目だりがほしけりなど、京童部
が申候はむ事、後日の難にや候はんずらむ。
神輿を奉らば、宣旨を背くに似たり。
P01121
又ふせき奉らば、年来医王山王に首をかた
ぶけ奉て候身が、けふより後弓箭の道に
わかれ候なむず。かれといひ是といひ、かたがた
難治の様に候。東の陣は小松殿大勢でかため
られて候。其陣よりいらせ給べうや候らむ」と
いひ送りたりければ、唱がかく申にふせかれて、
神人宮仕しばらくゆらへたり。若大衆どもは、
「何条其儀あるべき。ただ此門より神輿を入
P01122
奉れ」と云族おほかりけれども、老僧のなかに
三塔一の僉議者ときこえし摂津竪者
豪運、進み出て申けるは、「尤もさいはれたり。
神輿をさきだP136てまいらせて訴詔を致さば、大
勢の中をうち破てこそ後代のきこえもあらん
ずれ。就中に此頼政卿は、六孫王より以降、源
氏嫡々の正棟、弓箭をとていまだ其不覚を
きかず。凡武芸にもかぎらず、歌道にもすぐれ
P01123
たり。近衛院御在位の時、当座の御会あり
しに、「深山花」と云題を出されたりけるを、人々
よみわづらひたりしに、此頼政卿、
深山木のそのこずゑともみえざりし
さくらは花にあらはれにけり W007
と云名歌仕て御感にあづかるほどのやさ
男に、時に臨で、いかがなさけなう恥辱をば
あたふべき。此神輿かきかへし奉や」と
P01124
僉議しければ、数千人の大衆先陣より後
陣まで、皆尤々とぞ同じける。さて神輿を
先立まいらせて、東の陣頭、待賢門より入奉
らむとしければ、狼籍忽に出来て、武士ども
散々に射奉る。十禅師の御輿にも箭ども
あまた射たてたり。神人宮仕射ころされ、衆徒
おほく疵を蒙る。おめきさけぶ声梵天までも
きこえ、堅牢地神も驚らむとぞおぼえける。
P01125
大衆神輿をば陣頭にふりすて奉り、泣々
本山へかへりのぼる。P137『内裏炎上』S0116 蔵人左少弁兼光に仰て、
殿上にて俄に公卿僉議あり。保安四年七
月に神輿入洛の時は、座主に仰て赤山の
社へ入奉る。又保延四年四月に神輿入洛の時は、
祇園別当に仰て祇園社へ入奉る。今度は
保延の例たるべしとて、祇園の別当権大僧都
澄兼に仰て、秉燭に及で祇園の社へ入奉る。
P01126
神輿にたつ所の箭をば、神人して是を
ぬかせらる。山門の大衆、日吉の神輿を陣頭へ
ふり奉る事、永久より以降、治承までは六箇
度なり。毎度に武士を召てこそふせかるれ
ども、神輿射奉る事是始とぞ承る。「霊
神怒をなせば、災害岐にみつといへり。おそろし
おそろし」とぞ人々申あはれける。同十四日夜
半斗、山門の大衆又下洛すときこえしかば、
P01127
夜中に主上要輿にめして、院御所法住寺
殿へ行幸なる。中宮は御車にたてまつて
行啓あり。小松のおとど、直衣に箭おうて
供奉せらる。嫡子権亮少将維盛、束帯に
ひらやなぐひおうてまいられけり。関白殿を
始奉て、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我もと
はせまいる。凡京中の貴賎、禁中の上下、
さはぎののしる事緩し。山門には、神輿に
P01128
箭たち、神人宮仕射ころされ、衆徒おほく
疵をかうぶりしかP138ば、大宮二宮以下、講堂中堂
すべて諸堂一宇ものこさず焼払て、山野に
まじはるべき由、三千一同に僉議しけり。是に
よて大衆の申所、御ぱからひあるべしとき
こえしかば、山門の上綱等、子細を衆徒にふれん
とて登山しけるを、大衆おこて西坂本より
皆おかへす。平大納言時忠卿、其時はいまだ左衛
P01129
門督にておはしけるが、上卿にたつ。大講堂の
庭に三塔会合して、上卿をとてひぱらむと
す。「しや冠うちおとせ。其身を搦て湖に
しづめよ」などぞ僉議しける。既にかうとみえ
られけるに、時忠卿「暫しづまられ候へ。衆徒の
御中へ申べき事あり」とて、懐より小硯たた
うがみをとり出し、一筆かいて大衆の中へ
つかはす。是を披てみれば、「衆徒の濫悪を
P01130
致すは魔縁の所行なり。明王の制止を加るは
善政の加護也」とこそかかれたれ。是をみて
ひぱるに及ばず。大衆皆尤々と同じて、谷々へ
おり、坊々へぞ入にける。一紙一句をもて三塔三
千の憤をやすめ、公私の恥をのがれ給へる
時忠卿こそゆゆしけれ。人々も、山門の衆徒は
発向のかまびすしき斗かとおもひたれば、
ことはりも存知したりけりとぞ、感ぜられける。
P01131
同廿日、花山院権中納言忠親卿を上卿にて、
国司加賀守師高遂に闕官P139ぜられて、尾張の
井戸田へながされけり。目代近藤判官師経
禁獄せらる。又去る十三日、神輿射奉し武士
六人獄定ぜらる。左衛門尉藤原正純、右衛門尉
正季、左衛門尉大江家兼、右衛門尉同家国、
左兵衛尉清原康家、右兵衛尉同康友、
是等は皆小松殿の侍なり。同四月廿八日亥剋斗、
P01132
樋口富少路より火出来て、辰巳の風はげ
しう吹ければ、京中おほく焼にけり。大なる
車輪の如くなるほむらが、三町五町へだてて
戌亥のかたへすぢかへに、とびこえとびこえやけ
ゆけば、おそろしなどもおろかなり。或は具平
親王の千種殿、或は北野の天神の紅梅殿、
橘逸成のはひ松殿、鬼殿・高松殿・鴨居
殿・東三条、冬嗣のおとどの閑院殿、昭宣公の
P01133
堀川殿、是を始て、昔今の名所卅余箇所、
公卿の家だにも十六箇所まで焼にけり。
其外、殿上人諸大夫の家々はしるすに及ばず。
はては大内にふきつけて、朱雀門より
始て、応田門・会昌門、大極殿・豊楽院、諸
司八省・朝所、一時が内に灰燼の地とぞ
なりにける。家々の日記、代々の文書、七珍
万宝さながら麈灰となりぬ。其間の費へ
P01134
いか斗ぞ。人のやけしぬる事数百人、牛馬の
たぐひは数を知ず。是ただ事に非ず、山王の
御とがめとて、比叡山より大なる猿どもが
二三千おりくだり、手々に松火をともひて京中
をやくとぞ、人の夢にはみえたりける。P140大極
殿は清和天皇の御宇、貞観十八年に始て
やけたりければ、同十九年正月三日、陽成院の
御即位は豊楽院にてぞありける。元慶元年
P01135
四月九日、事始あて、同二年十月八日にぞつくり
出されたりける。後冷泉院の御宇、天喜五年二
月廿六日、又やけにけり。治暦四年八月十四日、事
始ありしかども、造り出されずして、後冷泉院崩
御なりぬ。後三条の院の御宇、延久四年四月
十五日作り出して、文人詩を奉り、伶人楽を
奏して遷幸なし奉る。今は世末になて、
国の力も衰へたれば、其後は遂につく
P01136
られず。

平家物語巻第一 P141


入力者:荒山慶一

校正者:菊池真一



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