平家物語(龍谷大学本)巻第五

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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。

P05171
(表紙)
P05173 P331
平家物語巻第五
都遷S0501治承四年六月三日、福原へ行幸有
べしとて、京中ひしめきあへり。此日
ごろ都うつりあるべしときこえしかども、
忽に今明の程とは思ざりつるに、こは
いかにとて上下さはぎ【騒ぎ】あへり。あま【剰】さへ三
日とさだめられたりしが、いま一日ひきあげ
て、二日になりにけり。二日の卯剋に、すでに
P05174
行幸の御輿をよせたりければ、主上は
今年三歳、いまだいと【幼】けなう在ましけれ
ば、なに心もなうめさ【召さ】れけり。主上おさな
う【幼う】わたらせ給時の御同輿には、母后こそ
まいら【参ら】せ給ふに、是は其儀なし。御めのと【乳母】、平
大納言時忠卿の北の方帥のすけ【典侍】殿ぞ、ひ
とつ御輿にはまいら【参ら】れける。中宮・一院上
皇御幸なる。摂政殿をはじめたてまて、太
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政大臣以下の公卿殿上人、我も我もと供奉せらる。
三日福原へいら【入ら】せ給ふ。池の中納言頼盛卿
の宿所、皇居になる。同四日、頼盛家の賞
とて正二位しP332給ふ。九条殿の御子、右大将
能通【*良通】卿、こえられ給ひけり。摂禄の臣の御子
息、凡人の次男に加階こえられ給ふ事、是
はじめとぞきこえし。さる程に、法皇を入道
相国やうやう思ひなを【直つ】て、鳥羽殿をいだし【出し】
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たてまつり、都へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】られたりしが、高
倉宮御謀反によて、又大にいきどをり【憤り】、福原
へ御幸なしたてまつり【奉り】、四面にはた【端】板して、
口ひとつあけたるうちに、三間の板屋をつく
ておしこ【押込】めまいらせ【参らせ】、守護の武士には、原田
の大夫種直ぞ候ける。たやすう人のまいり【参り】
かよふ事もなければ、童部は籠の御所
とぞ申ける。きく【聞く】もいまいま【忌々】しうおそろし
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かり【恐ろしかり】し事共也。法皇「今は世の政きこしめさ【聞し召さ】
ばやとは、露もおぼしめし【思召し】よらず。ただ山々
寺々修行して、御心のままになぐさまばや」
とぞおほせける。凡平家の悪行においては
きはまりぬ。「去る安元よりこのかた、おほく
の卿相雲客、或はながし、或はうしなひ【失ひ】、
関白ながし奉り、わが聟を関白になし、
法王を城南の離宮にうつし奉り、第二
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の皇子高倉の宮をうちたてまつり【奉り】、いま
のこる【残る】ところ【所】都うつりなれば、か様【斯様】にし給ふ
にや」とぞ人申ける。みやこうつりは是先蹤
なきにあらず。神武天皇と申は地神五代の
帝、彦波激武■■草不葺合尊の第四
の王子、御母は玉より【依】姫、海人のむすめなり。
神の代P333十二代の跡をうけ、人代百王の帝祖
なり。辛酉歳、日向国宮崎の郡にして皇王の
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宝祚をつぎ、五十九年といし己未歳十月に
東征して、豊葦原中津国にとどまり、この
ごろ大和国となづけたるうねび【畝傍】の山を点じて
帝都をたて、柏原の地をきりはらて宮室を
つくり給へり。これをかし原の宮となづけたり。
それよりこのかた、代々の帝王、都を他国他所
へうつさるる事卅度にあまり、四十度にをよ
べ【及べ】り。神武天皇より景行天皇まで十二
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代は、大和国こほりごほり【郡々】にみやこをたて、他国へは
つゐに【遂に】うつされず。しかるを、成務天皇元年に
近江国にうつて、志賀の郡に都をたつ。仲哀
天皇二年に長門国にうつて、豊良【*豊浦】郡に都を
たつ。其国の彼みやこにて、御門かくれさせ給し
かば、きさき神宮【*神功】皇后御世をうけとらせ給ひ、
女体として、鬼界・高麗・荊旦【*契丹】までせめ【攻め】したがへ
させ給ひけり。異国のいくさをしづめさせ給
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ひて後、筑前国三笠[B ノ]郡にして皇子御誕生、
其所をばうみの宮とぞ申たる。かけまくも
かたじけな【忝】くやわた【八幡】の御事これ也。位につかせ
給ひては、応神天皇とぞ申。其後、神宮【*神功】皇
后は大和国にうつて、岩根稚桜のみや【宮】にをはし
ます。応神天皇は同国軽島明の宮にすませ
給ふ。仁徳天皇元年に津国難波にうつて、
高津の宮にをはします。履中天皇二年に
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大和国にうつて、とうち【十市】の郡にみやこをたつ。
反正天皇元年に河内P334国にうつて、柴垣の宮
にすませ給ふ。允恭天皇四十二年に又大和国
にうつて、飛鳥のあすかの宮におはします。雄
略天皇廿一年に同国泊瀬あさくら【朝倉】に宮ゐ【居】
し給ふ。継体天皇五年に山城国つづき【綴喜】
にうつて十二年、其後乙訓に宮ゐ【居】し給ふ。
宣化天皇元年に又大和国にかへ【帰つ】て、桧隈
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の入[B ル]野の宮にをはします。孝徳天皇大化元年
に摂津国長良【*長柄】にうつて、豊崎の宮にすま
せ給ふ。斉明天皇二年、又大和国にかへ【帰つ】て、岡
本の宮におはします。天智天皇六年に近江
国にうつて、大津宮にすませ給ふ。天武天皇
元年に猶大和国にかへ【帰つ】て、岡本の南の宮に
すませ給ふ。これを清見原の御門と申き。持
統・文武二代の聖朝は、同国藤原の宮におは
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します。元明天皇より光仁天皇まで七代は、
奈良の都にすませ給ふ。しかるを桓武天皇
延暦三年十月二日、奈良の京春日の里よ
り山城国長岡にうつて、十年といし正月に、
大納言藤原小黒丸、参議左大弁紀のこさみ【古佐美】、
大僧都玄慶【*賢■王+景】等をつかはして、当国賀殿【*葛野】郡宇
多の村をみせ【見せ】らるるに、両人共に奏して云、「此
地の体を見るに、左青竜、右白虎、前朱雀、後
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玄武、四神相応の地也。尤帝都をさだむるに
たれり」と申。仍乙城都にをはします賀茂
大明神に告申させ給ひて、延暦十三年
十一月廿一日、長岡の京より此京へうつされP335て
後、帝王卅二代、星霜は三百八十余歳の
春秋ををくり【送り】むかふ。「昔より代々の帝王、国々
ところどころ【所々】におほくの都をたてられしかども、
かくのごとくの勝地はなし」とて、桓武天皇こと
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に執しおぼしめし【思召し】、大臣公卿諸道の才人等
に仰あはせ、長久なるべき様とて、土にて
八尺の人形をつくり、くろがね【鉄】の鎧甲をき【着】せ、
おなじうくろがねの弓矢をもたせて、東山がしやまの)
嶺に、西むきにたて[* 「たたて」と有るのを高野本により訂正]てうづま【埋ま】れけり。「末代に
此都を他国へうつす事あらば、守護神と
なるべし」とぞ、御約束あり【有り】ける。されば天下に
事いでこ【出来】んとては、この塚必ず鳴動す。将軍
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が塚とて今にあり【有り】。桓武天皇と申は、平家
の農祖【*曩祖】にておはします。なかにも此京をば
平安城と名づけて、たひらかにやすきみやこと
かけり。尤平家のあがむべきみやこなり。先
祖の御門のさしも執しおぼしめさ【思召さ】れたる
都を、させるゆへ【故】なく、他国他所へうつさるるこそ
あさましけれ。嵯峨の皇帝の御時、平城の
先帝、内侍[B ノ]かみのすすめ【勧】によて、世をみだり
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給ひし時、すでにこの京を他国へうつさんと
せさせ給ひしを、大臣公卿、諸国の人民そむ
き申しかば、うつされずしてやみにき。一天
の君、万乗のあるじ【主】だにもうつ【遷】しえ【得】給はぬ
都を、入道相国、人臣の身としてうつされける
ぞおそろしき【恐ろしき】。旧都はあはれめでたかりつる
都ぞかし。王城守護の鎮守は四方に光を
やはらP336げ、霊験殊勝の寺々は、上下に甍
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をならべ賜【*給】ひ、百姓万民わづらひなく、五畿七道
もたよりあり【有り】。されども、今は辻々をみな堀
きて、車などのたやすうゆき【行き】かふ事もなし。
たまさかにゆく人もこ【小】車にのり、路をへ【経】て
こそとをり【通り】けれ。軒をあらそひし人のすまひ、
日をへ【経】つつあれゆく。家々は賀茂河・桂河に
こぼちいれ【入れ】、筏にくみうかべ、資財雑具舟に
つみ、福原へとはこび下す。ただなりに花
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の都ゐ中になるこそかなしけれ。なに物の
しわざ[B に]やあり【有り】けん、ふるき都の内裏の柱に、
二首の歌をぞかい【書い】たりける。
ももとせを四かへり【返り】までにすぎき【過来】にし
乙城の里のあ【荒】れやはてなむ W030
さ【咲】きいづる花の都をふりすてて
かぜ【風】ふく原のすゑ【末】ぞあやうき【危ふき】 W031
同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、
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上卿〔には〕徳大寺左大将実定の卿、土御門の
宰相中将通信【*通親】の卿、奉行の弁には蔵
人左少弁行高【*行隆】、官人共めしぐし【召具し】て、和田の
松原の西の野を点じて、九城の地をわ【割】ら
れけるに、一条よりしも【下】五条までは其所あ
て、五条よりしもはなかりけり。行事官
かへりまい【参つ】てこのよしを奏聞す。さらば播
磨のいなみ【印南】野か、なを【猶】摂津国の児屋野か
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などいふ公卿僉議あり【有り】しかども、事ゆくべし
ともみえ【見え】ざりけり。P337旧都をばすでにうかれ
ぬ、新都はいまだ事ゆかず。あり【有り】としある人
は、身をうき【浮】雲のおもひ【思ひ】をなす。もと〔こ〕の
ところ【所】にすむ物は、地をうしな【失つ】てうれへ、いま
うつる人々は土木のわづらひをなげき
あへり。すべてただ夢のやうなりし事
どもなり。土御門宰相中将通信【*通親】卿申され
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けるは、異国には、三条の広路をひらい【開い】て
十二の洞門をたつと見えたり。况[B ヤ]五条まで
あらん都に、などか内裏をたてざるべき。かつがつ
さと【里】内裏つくるべきよし議定あて、五条
大納言国綱【*邦綱】卿、臨時に周防国を給て、造進
せられるべきよし、入道相国はからひ申されけり。
この国綱【*邦綱】卿は大福長者にてをはすれば、
つくりいだされん事、左右に及ばねども、[* 末尾に「いかが」と書き消している]
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いかが国の費へ、民のわづらひ【煩】なかるべき。まこと【誠】に
さしあたたる大事、大嘗会などのおこなは
るべきをさし【差し】をい【置い】て、かかる世のみだれに遷
都造内裏、すこしも相応せず。「いにしへの
かしこき御代には、すなはち内裏に茨を
ふき、軒をだにもととのへず。煙のとも【乏】しき
を見給ふ時は、かぎりある御つぎ【貢】物をも
ゆる【免】されき。これすなはち民をめぐ【恵】み、国
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をたすけ給ふによてなり。楚帝花【*章華】の
台をたてて、黎民あら【索】げ、秦阿房の殿を
をこし【起こし】て、天下みだるといへり。茅茨きらず、
采椽けづらず、周車かざらず、衣服あや【文】なかり
ける世もあり【有り】けん物を。されば唐の大宗は、
離宮山【*驪山宮】をつくて、民の費をやP338はばからせ給
けん、遂に臨幸なくして、瓦に松をひ【生ひ】、墻に
蔦しげて止にけるには相違かな」とぞ人
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申ける。月見S0502六月九日、新都の事はじめ、八月十日
上棟、十一月十三日遷幸とさだめらる。ふるき
都はあ【荒】れゆけば、いまの都は繁昌す。あ
さましかりける夏もすぎ、秋にも已になりに
けり。やうやう秋もなかばになりゆけば、福原
の新都に在ます人々、名所の月をみんとて、
或は源氏の大将の昔の跡をしのび【忍び】つつ須
間【*須磨】より明石の浦づたひ、淡路のせとをおし
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わたり、絵島が磯の月をみる【見る】。或はしらら【白良】・吹
上・和歌の浦、住吉・難波・高沙【*高砂】・尾上の月
のあけぼのをながめてかへる人もあり【有り】。旧都に
のこる人々は、伏見・広沢の月を見る。其
なかにも徳大寺の左大将実定の卿は、ふるき
都の月を恋て、八月十日あまりに、福原
よりぞのぼ【上】り給ふ。何事も皆かはりはてて、ま
れにのこる家は、門前草ふかくして
P05198
庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が原、鳥のふし
ど【臥所】と荒はてて、虫の声々うらみ【恨み】つつ、黄菊紫
蘭の野辺とぞなりにける。故郷の名残と
ては、近衛P339河原の大宮ばかりぞ在ましける。
大将その御所にまい【参つ】て、まづ随身に惣門をたた
かせらるるに、うちより女の声して、「た【誰】そや、
蓬生の露うちはらう人もなき所に」と
とがむれば、「福原より大将殿の御まいり【参り】候」と
P05199
申。「惣門はじやう【錠】のさされてさぶらうぞ。東面がしおもて)
の小門よりいら【入ら】せ給へ」と申ければ、大将さらば
とて、東がし)の門よりまいら【参ら】れけり。大宮は御
つれづれに、昔をやおぼ【思】しめしい【出】でさせ給
ひけん。南面なみおもて)の御格子あげさせて、御琵琶
あそばさ【遊ばさ】れけるところに、大将まいら【参ら】れたり
ければ、「いかに、夢かやうつつ【現】か、これへこれへ」とぞ
仰ける。源氏の宇治の巻には、うばそくの宮
P05200
の御むすめ、秋の名残ををしみ、琵琶をしら【調】
めて夜もすがら心をすまし給ひしに、在明の
月のい【出】でけるを、猶たえ【堪へ】ずやおぼしけん、撥
にてまねき給ひけんも、いまこそおもひ【思ひ】しら
れけれ。待よひ【宵】の小侍従といふ女房も、此
御所にぞ候ける。この女房を待よひと申
ける事は、或時御所にて「まつよひ、かへ【帰】る
あした、いづれかあはれ【哀】はまされる」と御尋あり【有り】ければ、
P05201
待よひのふ【更】けゆく鐘の声きけば
かへるあしたの鳥はものかは W032
とよ【詠】みたりけるによてこそ待よひとは
めさ【召さ】れけれ。大将かの女房よび【呼び】いだし、昔
いまの物語して、さ夜もやうやうふけ行ば、ふ
るきみやこのあ【荒】れゆくを、P340いま【今】様にこそ
うたはれけれ。ふるき都をき【来】て見ればあ
さぢ【浅茅】が原とぞあ【荒】れにける月の光はくま
P05202
なくて秋風のみぞ身にはしむ K037 Iと、三反う
たひ【歌ひ】すまされければ、大宮をはじめまいら
せ【参らせ】て、御所ぢう【中】の女房達、みな袖をぞぬ【濡】らさ
れける。さる程に夜もあけ【明け】ければ、大将い
とま申て、福原へこそかへ【帰】られけれ。御ともに
候蔵人をめして、「侍従があまりなごりおしげ【惜し気】に
おもひ【思ひ】たるに、なんぢかへ【帰つ】てなにともいひ【言ひ】て
こよ」と仰ければ、蔵人はしり【走り】かへ【帰つ】て、「「畏り
P05203
申せ」と候」とて、
物かはと君がいひけん鳥のねの
けさ【今朝】しもなどかかな【悲】しかるらむ W033
女房涙ををさへて、
また【待た】ばこそふけゆくかねも物ならめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W034
蔵人かへりまい【参つ】てこのよし申たりければ、
「さればこそなんぢをばつかはし【遣し】つれ」とて、大
P05204
将おほきに感ぜられけり。それよりしてこ
そ物かはの蔵人とはいはれけれ。P341 物怪之沙汰S0503 福原へ都を
うつされて後、平家の人々夢見もあ【悪】しう、
つねは心さはぎ【騒ぎ】のみして、変化の物ども
おほかりけり。或夜入道のふ【臥】し給へる
ところ【所】に、ひと間にはばかる程の物の面いでき
て、のぞきたてまつる【奉る】。入道相国ちとも
さはが【騒が】ず、ちやうどにら【睨】まへてをはし【在し】ければ、
P05205
ただぎ【消】えにきえうせぬ。岡の御所と申すは
あたらしうつく【造】られたれば、しかるべき大木も
なかりけるに、或夜おほ木のたふるる【倒るる】音し
て、人ならば二卅人が声して、どとわらふ【笑ふ】こと
あり【有り】けり。これはいかさまにも天狗の所為と
いふ沙汰にて、ひきめ【蟇目】の当番となづ【名付】けて、
よる百人ひる五十人の番衆をそろ
へて、ひきめをゐ【射】させらるるに、天狗
P05206
のある方へむ【向】いてゐ【射】たる時は音もせず。
ない方へむいてゐ【射】たる時は、はとわらひ【笑ひ】
などしけり。又あるあした【朝】、入道相国帳
台よりいでて、つま【妻】戸ををし【押し】ひらき、坪
のうちを見給へば、死人のしやれかう
べ【骸骨】どもが、いくらといふかず【数】もしらず庭に
みちみちて、うへ【上】になりした【下】になり、ころ
びあひころびのき、はし【端】なるはなか【中】へ
P05207
まろびいり中なるははし【端】へいづ。おびたた【夥】
しうがらめきあひければ、入道相国「人や
ある、人やある」とめさ【召さ】れけれども、おりふし【折節】
人もまいら【参ら】ず。かくしておP342ほくのどく
ろ【髑髏】どもがひと【一】つにかたまりあひ、つぼ【坪】の
うちにはばかる程になて、たかさは十四五
丈もあるらんとおぼゆる山のごとくになりに
けり。かのひとつの大がしら【頭】に、いき【生き】たる人の
P05208
まなこの様に大のまなこどもが千万いできて、
入道相国をちやうどにら【睨】まへて、まだた【瞬】き
もせず。入道すこしもさはが【騒が】ず、はたとにらまへ
てしばらくたた【立た】れたり。かの大がしらあまりに
つよくにらまれたてまつり霜露などの
日にあたてき【消】ゆるやうに、跡かたもなくなり
にけり。其外に、一の厩にたててとねり【舎人】
あまたつけられ、あさゆふ【朝夕】ひまなくな【撫】で
P05209
か【飼】はれける馬の尾に、一夜のうちにねずみ【鼠】
巣をくひ、子をぞう【産】んだりける。「これただ
事にあらず」とて、七人の陰陽師にうらな【占】は
せられければ、「おもき【重き】御つつしみ」とぞ申ける。
この御馬は、相模国の住人大庭三郎景親
が、東八ケ国一の馬とて、入道相国にまいら
せ【参らせ】たり。くろき馬の額しろ【白】かりけり。名を
ば望月とぞつけられたる。陰陽頭安陪【*安倍】
P05210
の泰親給はりけり。昔天智天皇の御時、竜【*寮】
の御馬の尾に鼠す【巣】をくひ、子をう【産】んだり
けるには、異国の凶賊蜂起したりけるとぞ、
日本記ぽんぎ)にはみえ【見え】たる。又、源中納言雅頼卿の
もとに候ける青侍がみ【見】たりける夢も、おそ
ろしかり【恐ろしかり】けり。たとへば、大内の神祇官と
おぼしきところ【所】に、束帯ただしき上臈たち
あP343またおはして、儀定【*議定】の様なる事のあり【有り】しに、
P05211
末座なる人の、平家のかたうどするとおぼしき
を、その中よりおたて【追つ立て】らる。かの青侍夢の心に、
「あれはいかなる上臈にて在ますやらん」と、
或老翁にと【問】ひたてまつれ【奉れ】ば、「厳島の大明
神」とこたへ給ふ。其後座上にけだかげなる
宿老の在ましけるが、「この日来平家のあづ
か【預】りたりつる節斗をば、今者伊豆国の流人
頼朝にた【賜】ばうずる也」と仰られければ、其御そ
P05212
ばに猶宿老の在ましけるが、「其後者わが
孫にもた【賜】び候へ」と仰らるるといふ夢をみて、
是を次第にとひたてまつる【奉る】。「節斗を頼朝にたばう
とおほせられつるは八幡大菩薩、其後
わが孫にもたび候へと仰られつるは春日大明
神、かう申老翁は武内の大明神」と仰らるる
といふ夢を見て、これを人にかたる程に、入
道相国もれ【漏れ】きいて、源大夫判官季貞[* 「秀貞」と有るのを高野本により訂正]をもて
P05213
雅頼卿のもとへ、「夢み【見】の青侍、いそ【急】ぎこれへたべ」
と、の給ひつかはされたりければ、かの夢見
たる青侍やがて逐電してんげり。雅頼卿い
そぎ入道相国のもとへゆき【行き】むかて、「またくさる
こと候はず」と陳じ申されければ、其後沙汰も
なかりけり。平家日ごろは朝家の御かため
にて、天下を守護せしかども、今者勅命に
そむけば、節斗をもめしかへさ【召返さ】るるにや、心ぼそう
P05214
ぞきこえし。なかにも高野におはしける宰相[* 「宇相」と有るのを高野本により訂正]
入道成頼、か様【斯様】の事どもをつたへきいて、P344「すは平
家の代はやうやう末になりぬるは。いつくしま
の大明神の平家の方うど【方人】をし給ひける
といふは、そのいはれあり【有り】。ただしそれは沙羯羅
竜王の第三の姫宮なれば、女神とこそうけ給
はれ。八幡大菩薩の、せつと【節斗】を頼朝にた【賜】ばうど
仰られけるはことはり【理】也。春日大明神の、其後
P05215
はわが孫にもたび候へと仰られけるこそ心えね。
それも平家ほろび、源氏の世つきなん後、大織
冠の御末、執柄家の君達の天下の将軍に
なり給ふべきか」などぞの給ひける。又或僧の
おりふし【折節】来たりけるが申けるは、「夫神明は和
光垂跡の方便まちまちに在ませば、或時は俗
体とも現じ、或時は女神ともなり給ふ。誠
に厳島の大明神は、女神とは申ながら、三明
P05216
六通の霊神にて在ませば、俗体に現じ給はんも
かたかるべきにあらず」とぞ申ける。うき世をいとひ
実の道に入ぬれば、ひとへに後世菩提の
外は世のいとなみあるまじき事なれども、善
政をきい【聞い】てはかん【感】じ、愁をきいてはなげ【歎】く、
これみな人間の習なり。早馬S0504 同九月二日、相模国
の住人大庭三郎景親、福原へ早馬をもて
申けるP345は、「去八月十七日、伊豆国流人前右兵
P05217
衛佐頼朝、しうと【舅】北条四郎時政をつかはして、
伊豆の目代、和泉判官兼高【*兼隆】をやまき【山木】の館
で夜うち【討】にうち候ぬ。其後土肥・土屋・岡崎
をはじめとして三百余騎、石橋山に立籠
て候ところ【所】に、景親御方に心ざしを存ずる
ものども一千余騎を引率して、おしよ【押寄】せせめ
候程に、兵衛佐七八騎にうちなされ、おほ童にたた
かい【戦ひ】なて、土肥の椙山へにげこもり【逃籠り】候ぬ。其後
P05218
畠山五百余騎で御方をつかまつり、三浦大介
義明が子共、三百余騎で源氏方をして、湯井【*由井】・
小坪の浦でたたかふ【戦ふ】に、畠山いくさまけて武
蔵国へひきしりぞく。その後畠山が一族、河
越・稲毛・小山田・江戸・笠井【*葛西】、其外七党の兵
ども三千余騎をあひぐし【具し】て、三浦衣笠の
城にをし【押し】よせてせめ【攻め】たたかふ。大介義明うた
れ候ぬ。子共は、くり【久里】浜の浦より船にのり、
P05219
安房・上総へわたり候ぬ」とこそ申たれ。平
家の人々都うつりもはやけふ【興】さめぬ。わかき
公卿殿上人は、「あはれ、とく【疾く】事のいでこよ【出来よ】かし。
打手にむか【向】はう」などいふぞはかなき。畠山の庄
司重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門
朝綱、大番役にて、おりふし【折節】在京したりけり。畠
山申けるは、「僻事にてぞ候らん。した【親】しうなて
候なれば、北条はしり【知り】候はず、自余の輩は、
P05220
よも朝敵が方人をば仕候はじ。いまきこしP346めし【聞召】
なをさんずる物を」と申ければ、げにもとい
ふ人もあり【有り】。「いやいや只今天下の大事に
及なんず」とささやく物どもおほ【多】かりけり。
入道相国、いから【怒ら】れける様なのめならず。「頼朝
をばすでに死罪におこなはるべかりしを、
故池殿のあながちなげきの給ひし間、
流罪に申なだめたり。しかるに其恩忘て、
P05221
当家にむかて弓をひくにこそあんなれ。神明
三宝もいかでかゆるさせ給ふべき。只今だいま)天のせ
め【責】かうむら【蒙ら】んずる頼朝なり」とぞの給ひける。
朝敵揃S0505 夫我朝に朝敵のはじめを尋れば、やまといは
れ【日本磐余】みこと[* 「ひこと」と有るのを他本により訂正]の御宇四年、紀州なぐさ【名草】の郡高雄
村に一の蜘蛛あり【有り】。身みじかく、足手ながくて、
ちから【力】人にすぐれたり。人民をおほく損害
せしかば、官軍発向して、宣旨をよみかけ、
P05222
葛の網をむす【結】んで、つゐに【遂に】これをおほひ【覆ひ】ころ
す。それよりこのかた、野心をさしはさんで朝
威をほろぼ【滅】さんとする輩、大石[B ノ]山丸、大山王子、
守屋の大臣、山田[B ノ]石河、曾我[B ノ]いるか【入鹿】、大友のま
とり【真鳥】、文屋[B ノ]宮田、[B 橘]逸成、ひかみ【氷上】の河次、伊与の親
王、太宰少弐藤原広嗣、ゑみ【恵美】の押勝、佐あら【早良】の
太子、井上の広公、藤原P347仲成、平将門、藤原
純友、安陪【*安部】貞任・宗任、対馬守源義親、悪
P05223
左府・悪衛門督にいたるまで、すべて廿余人、
されども一人として素懐をとぐる物なし。かばね
を山野にさらし、かうべを獄門にかけられる。此世に
こそ王位も無下にかる【軽】けれ、昔は宣旨をむ
か【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さき実な
り、とぶ鳥もしたがひ【従ひ】けり。中比の事ぞかし。延喜
御門神泉苑に行幸あて、池のみぎはに
鷺のゐたりけるを、六位をめして、「あの鷺と
P05224
てまいらせよ【参らせよ】」と仰ければ、争かとら【取ら】んとおもひ【思ひ】
けれども、綸言なればあゆみむかふ。鷺はねづ
くろひ[* 「はねつくひ」と有るのを高野本により訂正]【羽繕ひ】してたた【立た】んとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひ
ら【平】んで飛さらず。これをと【取つ】てまいり【参り】たり。「なんぢが
宣旨にしたがてまいり【参り】たるこそ神妙なれ。や
がて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされ
ける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし」といふ
札をあそばひ【遊ばい】て、頸にかけてはなたせ給。またく
P05225
鷺の御れう【料】にはあらず、只王威の程をしろしめさ【知ろし召さ】ん
がためなり。感陽宮【*咸陽宮】S0406 又先蹤を異国に尋に、燕の太子
丹といふも、秦始皇にとらはれて、いましP348めを
かうぶる事十二年、太子丹涙をながひ【流い】て申
けるは、「われ本国に老母あり。いとまを給はて
かれをみん」と[B 申せば、]始皇帝あざわら【笑つ】て、「なんぢに
いとまをた【賜】ばん事は、馬に角おひ【生ひ】、烏の
頭の白くならん時を待べし」。燕丹天に
P05226
あふぎ地に臥て、「願は、馬に角をひ【生ひ】、烏の頭
しろく【白く】なしたべ。故郷にかへ【帰つ】て今一度母をみん」
とぞ祈ける。かの妙音菩薩は霊山浄
土に詣して、不孝の輩をいましめ、孔子・
顔囘はしな【支那】震旦に出て忠孝の道を
はじめ給ふ。冥顕の三宝孝行〔の〕心ざしを
あはれみ給ふ事なれば、馬に角をひ【生ひ】て宮
中に来り、烏の頭白くなて庭前の木に
P05227
す【栖】めりけり。始皇帝、烏頭馬角[* 「馬の角」と有るのを他本により訂正]の
変におどろき、綸言かへらざる事を信じ
て、太子丹をなだめつつ、本国へこそかへさ【返さ】れ
けれ。始皇なを【猶】くや【悔】しみて、秦の国と燕
の国のさか井【境】に楚国といふ国あり【有り】。大なる河な
がれたり。かの河にわたせ【渡せ】る橋をば楚国の橋
といへり。始皇官軍をつかはして、燕丹がわたる
時、河なかの橋をふまばお【落】つる様にしたためて、
P05228
燕丹をわたらせけるに、なじかはおちい【陥】らざるべ
き。河なかへおち入ぬ。されどもちとも水にもお
ぼれず、平地を行ごとくして、むかへの岸へ付に
けり。こはいかにとおもひ【思ひ】てうしろをかへり見け
れば、亀どもがいくらといふかずもしらず、水の上に
うかれ【浮かれ】来て、こう【甲】をならべてあゆ【歩】ませたりける。
これも孝行のこころざしを冥顕P349あはれみ給ふに
よてなり。太子丹うらみ【恨み】をふくむで又始皇帝
P05229
にしたがはず。始皇官軍をつかはして燕丹を
うた【討た】んとし給ふに、燕丹おそれ【恐れ】をののき、荊訶【*荊軻】
といふ兵をかたらふて大臣になす。荊訶【*荊軻】又田
光先生といふ兵をかたらふ。かの先生申けるは、
「君はこの身がわか【若】うさかん【壮】なし事をしろし
めさ【知ろし召さ】れてたのみ【頼み】仰らるるか。騏■は千里を飛
ども、老ぬれば奴馬にもおとれり。いまはいか
にもかなひ【適ひ】候まじ。兵をこそかたらふてまいらせ【参らせ】
P05230
め」とて、かへ【帰】らむとするところ【所】に、荊訶【*荊軻】「この事
あなかしこ、人にひろふ【披露】すな」といふ。先生申けるは、
「人にうたが【疑】はれぬるにす【過】ぎたる恥こそなけれ。
此事もれ【漏れ】ぬる物ならば、われうたがはれなんず」
とて、門前なる李の木にかしらをつ【突】きあて、
うちくだいてぞ死にける。又范予期【*樊於期】といふ
兵あり【有り】。これは、秦の国のものなり。始皇のためにおや【父】・
おぢ【伯叔】・兄弟をほろぼされて、燕の国ににげ【逃げ】こもれ
P05231
り。秦皇四海に宣旨をくだ【下】いて、「范予期【*樊於期】が
かうべは【刎】ねてまいらせ【参らせ】たらん物には、五百斤
の金をあたへん」とひろふ【披露】せらる。荊訶【*荊軻】これを
きき、范予期【*樊於期】がもとにゆひ【行い】て、「われきく【聞く】。なんぢがかう
べ五百斤の金にほう【報】ぜらる。なんぢが首われに
か【貸】せ。取て始皇帝にたてまつらん。よろこで叡覧
へ【経】られん時、つるぎ【剣】をぬき、胸をささんにやす【安】
かりP350なん」といひければ、范予期【*樊於期】おどり【躍り】あがり、
P05232
大いき【息】ついて申けるは、「われおや・おぢ・兄
弟を始皇のためにほろぼされて、よるひる是
をおもふ【思ふ】に、骨髄にとを【徹つ】て忍がたし。げにも始
皇帝をほろぼすべくは、首をあたへんこ
と、塵あくたよりもなを【猶】やすし」とて、手づから
首を切てぞ死にける。又秦巫陽【*秦舞陽】といふ
兵あり【有り】。これも秦の国の物なり。十三の歳
かたきをうて、燕の国ににげこもれり。ならび
P05233
なき兵なり。かれが嗔てむかふ時は、大の男も
絶入す。又笑てむかふ時は、みどり子もいだ【抱】かれ
けり。これを秦の都の案内者にかた【語】らうて、
ぐし【具し】てゆく程に、ある片山のほとりに宿したり
ける夜、其辺ちかき里に管絃をするを
きい【聞い】て、調子をもて本意の事をうらな【占】ふに、
かたきの方は水なり、我方は火なり。さる程
に天もあけ【明け】ぬ。白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。
P05234
「我等が本意とげん事ありがたし」とぞ申ける。さり
ながら帰べきにもあらねば、始皇の都咸陽宮に
いたりぬ。燕の指図ならびに范予期【*樊於期】が首も【持つ】て
まいり【参り】たるよし奏しければ、臣下をもてう
けとらんとし給ふ。「またく人してはまいらせ【参らせ】じ。直
にたてまつら【奉ら】ん」と奏する間、さらばとて、節
会の儀をととのへて、燕の使をめされけり。
咸陽宮はみやこのめぐり一万八千三百
P05235
八十里につもれり。内裏をば地より三里
たかく築あげて、其P351上にたてたり。長生
殿・不老門あり【有り】、金をもて日をつくり、銀を
もて月をつくれり。真珠のいさご、瑠璃の砂、
金の砂をし【敷】きみてり。四方にはたかさ四十
丈の鉄の築地をつき、殿の上にも同鉄
の網をぞ張たりける。これは冥途の使を
いれ【入れ】じとなり。秋の田のも【面】の鴈、春はこしぢ【越路】へ
P05236
帰も、飛行自在のさはり【障】あれば、築地には鴈門
となづけて、鉄の門をあけてぞとをし【通し】ける。
そのなかにも阿房殿とて、始皇のつねは行
幸なて、政道おこなはせ給ふ殿あり【有り】。たかさは
卅六丈東西へ九町、南北へ五町、大床のしたは
五丈のはたぼこをたてたるが、猶及ばぬ程也。
上は瑠璃の瓦をもてふき、したは金銀に
てみがけり。荊訶【*荊軻】は燕の指図をもち、秦巫
P05237
陽【*秦舞陽】は范予期【*樊於期】が首をも【持つ】て、珠のきざ【階】橋を
のぼりあがる。あまりに内裏のおびたたし
きを見て秦巫陽【*秦舞陽】わなわなとふるひければ、
臣下あやしみて、「巫陽【*舞陽】謀反の心あり【有り】。刑人を
ば君のかたはら【側】にをか【置か】ず、君子は刑人にちかづ
か【近付か】ず、刑人にちかづく【近付く】はすなはち死をかろんずる
道なり」といへり。荊訶【*荊軻】たち【立ち】帰て、「巫陽【*舞陽】またく
謀反の心なし。ただ田舎のいや【卑】しきにのみ
P05238
なら【習つ】て、皇居にな【馴】れざるが故に心迷惑す」と
申ければ、臣下みなしづまりぬ。仍王に
ちかづき【近付き】たてまつる【奉る】。燕の指図ならびに范
予期【*樊於期】が首げざん【見参】にいるる【入るる】ところ【所】に、指図の入
たる櫃のそこ【底】に、氷の様なるつるぎの
見えければ、始皇帝P352これをみて、やがてに
げ【逃げ】んとし給ふ。荊訶【*荊軻】王の御袖をむずとひか【控】へ
て、つるぎをむね【胸】にさしあてたり。いまはかう
P05239
とぞ見えたりける。数万の兵庭上に袖
をつら【連】ぬといへども、すく【救】はんとするに力なし。
ただ君逆臣にをか【犯】され給はん事をのみか
なしみあへり。始皇の給く、「われに暫時の
いとまをえ【得】させよ。わが最愛の后の琴の音
を今一度きかん」との給へば、荊訶【*荊軻】しばしをか【犯】したて
まつらず。始皇は三千人のきさきをもち給へ
り。其なかに花陽夫人とて、すぐれたる琴の
P05240
上手おはしけり。凡この后の琴のね【音】をきい【聞い】ては、
武きもののふ【武士】のいかれ【怒れ】るもやはらぎ、飛鳥もおち、草
木もゆる【揺】ぐ程なり。况哉いまをかぎりの叡聞に
そな【供】へんと、なくなく【泣く泣く】ひき給ひけん、さこそはおもし
ろかりけめ。荊訶【*荊軻】も頭をうなだれ、耳をそばだて、
殆謀臣のおもひ【思ひ】もたゆ【弛】みにけり。后はじめて
さらに一曲を奏す。「七尺屏風はたかく【高く】とも、おど
ら【躍ら】ばなどかこへ【越え】ざらん。一条の羅■はつよくとも、
P05241
ひか【引か】ばなどかはたえ【絶え】ざらん」とぞひ【弾】き給ふ。荊訶【*荊軻】は
これをききし【聞知】らず、始皇はきき知て、御袖をひ【引つ】き【引切】り、
七尺の屏風を飛こえて、あかがね【銅】の柱のかげにに
げかく【逃隠】れさせ給ひぬ。荊訶【*荊軻】いか【怒】て、つるぎ【剣】をなげ【投げ】か
けたてまつる。おりふし【折節】御前に番の医師の候
けるが、薬の袋を荊訶【*荊軻】がつるぎになげ【投げ】あはせたり。
つるぎ薬の袋をかけ【掛け】られながら、口六尺の銅の
柱をなから【半】まP353でこそき【切つ】たりけれ。荊訶【*荊軻】又剣ももたね
P05242
ばつづ【続】いてもなげず。王たちかへ【立返】てわがつるぎ【剣】を
めしよせて、荊訶【*荊軻】を八[B ツ]ざき【裂】にこそし給ひけれ。
秦巫陽【*秦舞陽】もうた【討た】れにけり。官軍をつか【遣】はして、
燕丹をほろぼさる。蒼天ゆるし給はねば、
白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。秦の始皇は
のがれて、燕丹つゐに【遂に】ほろびにき。「されば今の
頼朝もさこそはあらんずらめ」と、色代する人々も
あり【有り】けるとかや。文学【*文覚】荒行S0507 抑かの頼朝とは、去る平治元
P05243
年十二月、ちち【父】左馬頭義朝が謀反によて、年十
四歳と申し永暦元年三月廿日、伊豆国蛭島
へながされて、廿余年の春秋ををくり【送り】むかふ。年
ごろもあればこそあり【有り】けめ、ことしいかなる心にて
謀反をばおこさ【起さ】れけるぞといふに、高雄の文
覚上人の申すす【勧】められたりけるとかや。彼文覚
と申は、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂遠が
子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。十九の
P05244
歳道心をこし【起こし】出家して、修行にいで【出で】んとし
けるが、「修行といふはいか程の大事やらん、ため【試】い
て見ん」とて、六月の日の草もゆる【揺】がずて【照】たるに、
片山のやぶ【薮】のなかにはいり、あをのけ【仰ふのけ】にふし、あぶ
ぞ、蚊ぞ、P354蜂蟻などいふ毒虫どもが身にひしと
とり【取り】つゐ【付い】て、さしくひ【刺食】などしけれども、ちとも身
をもはたらかさず。七日まではお【起】きあがらず、八
日といふにおきあがて、「修行といふはこれ程
P05245
の大事か」と人にとへば、「それ程ならんには、いかで
か命もいく【生く】べき」といふあひだ、「さてはあんべい【安平】ご
さんなれ」とて、修行にぞいで【出で】にける。熊野
へまいり【参り】、那智ごも【籠】りせんとしけるが、行の心み
に、きこゆる【聞ゆる】滝にしばらくうた【打た】れてみんとて、
滝もと【下】へぞまいり【参り】ける。比は十二月ぐわつ)十日あま
りの事なれば、雪ふ【降】りつもりつららゐ【凍】て、
谷の小河も音もせず、嶺の嵐ふ【吹】きこほ【凍】り、
P05246
滝のしら【白】糸垂氷となり、みな白妙にをし【押し】なべ
て、よもの梢も見えわかず。しかるに、文覚滝
つぼにお【下】りひたり、頸きはつかて、慈救の呪を
み【満】てげるが、二三日こそあり【有り】けれ、四五日にもなり
ければ、こら【耐】へずして文覚う【浮】きあがりにけり。
数千丈みな【漲】ぎりおつる滝なれば、なじかはたまる
べき。ざとをし【押し】おと【落】されて、かたな【刀】のは【刃】のごとくに、
さしもきび【厳】しき岩かどのなかを、う【浮】きぬしづみぬ
P05247
五六町こそながれ【流れ】たれ。時にうつくしげなる
童子一人来て、文覚が左右の手をとてひ
きあ【引上】げ給ふ。人奇特のおもひ【思ひ】をなし、火をた【焚】
きあぶりなどしければ、定業ならぬ命では
あり【有り】、ほどなくいきいで【生出】にけり。文覚すこし人心
地いでき【出来】て、P355大のまなこを見いか【怒】らかし、「われこの
滝に三七日うたれて、慈救の三洛叉をみて【満て】う
どおもふ【思ふ】大願あり【有り】。けふはわずかに五日になる。
P05248
七日だにもす【過】ぎざるに、なに【何】物かここへはと【取つ】てき
たるぞ」といひければ、みる【見る】人身のけ【毛】よだても
のいはず。又滝つぼにかへ【帰】りたてうた【打た】れけり。第
二日といふに、八人の童子来て、ひき【引き】あげんとし
給へども、さんざん【散々】につか【掴】みあふ【合う】てあがらず。三日といふに、
文覚つゐに【遂に】はかな【果敢】くなりにけり。滝つぼをけ
が【汚】さじとや、みずらゆう【結う】たる天童二人、滝のうへ
よりお【下】りくだり、文覚が頂上より手足のつま
P05249
さき【爪先】・たなうらにいたるまで、よにあた【暖】たかにかう
ばし【香】き御手をもて、なで【撫】くだし給ふとおぼえ
ければ、夢の心地していき【生き】いでぬ。「抑いかなる
人にてましませば、かうはあはれみ給ふらん」とと【問】ひ
たてまつる【奉る】。「われは是大聖不動明王の御使
に、こんがら【矜迦羅】・せいたか【制■迦】といふ二童子なり。「文覚無上
の願ををこし【起こし】て、勇猛の行をくはた【企】つ。ゆい【行い】て
ちから【力】をあはすべし」と明王の勅によて来れ
P05250
る也」とこたへ給ふ。文覚声をいか【怒】らかして、「さて
明王はいづくに在ますぞ」。「都率天に」とこたへ
て、雲居はるかにあがり給ひぬ。たな心をあはせ
てこれを拝したてまつる【奉る】。「されば、わが行をば大
聖不動明王までもしろしめさ【知ろし召さ】れたるにこそ」
とたのもしう【頼もしう】おぼえて、猶滝つぼにかP356へり
たてうた【打た】れけり。まこと【誠】にめでたき瑞相ども
あり【有り】ければ、吹くる風も身にしまず、落くる
P05251
水も湯のごとし。かくて三七日の大願つゐに【遂に】
と【遂】げにければ、那智に千日こもり、大峯三
度、葛城二度、高野・粉河・金峯山ぜん)、白山・立
山・富士の嵩、信乃【*信濃】戸隠、出羽羽黒、すべて日
本国のこる【残る】所なくおこなひまは【廻】て、さすが
尚ふる里や恋しかりけん、宮こ【都】へのぼりたりけれ
ば、凡とぶ鳥も祈おと【落】す程のやいば【刃】の検者【*験者】と
ぞきこえし。勧進張S0508 後には高雄といふ山の奥におこ
P05252
なひすま【澄】してぞゐたりける。かのたかを【高雄】に神護
寺といふ山寺あり【有り】。昔称徳天王の御時、和気
の清丸がたてたりし伽藍也。久しく修造な
かりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は霧
にまじはり、扉は風にたふれ【倒れ】て落葉の
した【下】にく【朽】ち、薨は雨露にをかされて、仏壇さ
らにあらはなり。住持の僧もなければ、まれに
さし【差】入物とては、月日の光ばかりなり。文覚
P05253
これをいかにもして修造せんといふ大願を
おこし、勧進帳をささげて、十方檀那を
すす【勧】めありき【歩き】ける程に、或時院御所法住
寺殿へぞまいり【参り】たりける。御奉加あP357るべき由
奏聞しけれども、御遊のおりふし【折節】できこしめし【聞し召し】
も入られず、文覚は天性不敵第一のあらひじり【荒聖】
なり、御前の骨ない様をばしら【知ら】ず、ただ申入
ぬぞと心えて、是非なく御坪のうちへやぶりい【破入】り、
P05254
大音声をあげて申けるは、「大慈大悲の君
にてをはします。などかきこしめし【聞し召し】入ざるべき」とて、
勧進帳をひきひろげ、たからか【高らか】にこそよう【読う】だり
けれ。沙弥文覚敬て)白す。殊に貴賎道俗助成
を蒙て、高雄山の霊地に、一院を建立
し、二世安楽の大利を勤行せんと乞勧進[B ノ]
状。夫以ば、真如広大なり。生仏の仮名をたつと
いへども、法性随妄の雲あつく覆て、十二因
P05255
縁の峯にたなびいしよりこのかた【以来】、本有心
蓮の月の光かすか【幽】にして、いまだ三毒四慢
の大虚にあらはれず。悲哉、仏日早く没して、
生死流転の衢冥々たり。只色に耽り、酒に
ふける、誰か狂象重淵の迷を謝せん。いたづらに
人を謗じ法を謗ず、あに閻羅獄卒の責を
まぬかれんや。爰に文覚たまたま俗塵をう
ちはら【払】て法衣をかざるといへども、悪行猶心に
P05256
たくましうして日夜に造り、善苗又耳に逆
て朝暮にすたる。痛哉、再度三途の火■に
かへ【返つ】て、ながく四生苦輪にめぐらん事を。此故に無
二の顕章千万軸、軸々に仏種の因をあかす。
随縁至誠の法一[B ツ]として菩提の彼岸に
いたらずP358といふ事なし。かるがゆへに、文覚無常
の観門に涙をおとし、上下の親俗をすすめて
上品蓮台にあゆ【歩】みをはこび、等妙覚王
P05257
の霊場をたてんと也。抑高雄は、山うづたかく
して鷲峯山せん)の梢を、表し、谷閑にして
商山洞の苔をし【敷】けり。巌泉咽で布を
ひき、嶺猿叫で枝にあそぶ。人里とをう【遠う】し
て囂塵なし。咫尺好うして信心のみあり【有り】。
地形すぐれたり、尤も仏天をあがむべし。奉
加すこしきなり、誰か助成せざらん。風聞、聚沙
為仏塔功徳、忽に仏因を感ず。况哉一紙半
P05258
銭の宝財においてをや。願は建立成就し
て、金闕鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近
隣民親疎、■舜無為の化をうたひ【歌ひ】、椿葉
再会の咲をひらかん。殊には、聖霊幽儀先
後大小、すみやかに一仏真門の台にい〔た〕り、必
三身万徳の月をもてあそ【翫】ばん。仍勧進修
行の趣、蓋以て)如斯治承三年三月日 文覚
とこそよみ【読み】あげたれ。文学【*文覚】被流S0509 おりふし【折節】、御前には太政大
P05259
臣妙音院、琵琶かきら【鳴】らし朗詠めでたうせさ
せ給P359ふ。按察大納言資方【*資賢】卿拍子とて、風
俗催馬楽うたはれけり。右馬頭資時・四位侍
従盛定和琴かきなら【掻鳴】し、いま【今】様とりどりにうたひ【歌ひ】、
玉の簾、錦の帳ざざめきあひ、まこと【誠】に面白かり
ければ、法皇もつけ【附】歌せさせおはします。それ
に文覚が大音声いでき【出来】て、調子もたがい【違ひ】、拍
子もみなみだ【乱】れにけり。「なに【何】物ぞ。そくびつ【突】け」と
P05260
仰下さるる程こそあり【有り】けれ、はやりをの若者共、
われもわれもとすす【進】みけるなかに、資行判官といふ
ものはしり【走り】いでて、「何条事申ぞ。まか【罷】りいでよ」
といひければ、「高雄の神護寺に庄一所よ【寄】せ
られざらん程は、またく文覚い【出】づまじ」とてはた
らかず。よてそくびをつ【突】かうどしければ、勧進
帳をとりなをし【直し】、資行判官が烏帽子をは
たとう【打つ】てうちおとし、こぶし【拳】をにぎてしやむね【胸】
P05261
をつゐ【突い】て、のけ【仰】につきたをす【倒す】。資行判官もとど
り【髻】はな【放】て、おめおめと大床のうへへにげ【逃げ】のぼる。
其後文覚ふところ【懐】より馬の尾でつか【柄】ま【巻】
いたる刀の、こほり【氷】のやうなるをぬき【抜き】いだひ【出い】
て、よ【寄】りこん物をつ【突】かうどこそまち【待ち】かけたれ。
左の手には勧進帳、右の手には刀をぬい
てはしり【走り】まはるあいだ【間】、おもひ【思ひ】まうけぬに
はか【俄】事ではあり【有り】、左右の手に刀をも【持つ】たる
P05262
様にぞ見えたりける。公卿殿上人も、「こはいか
にこはいかに」とさはが【騒が】れければ、御遊もはや荒にけり。
院中のさうどう【騒動】なのめならず。信乃【*信濃】国の住
人安藤武者右宗、其比当職のP360武者所で
有けるが、「何事ぞ」とて、太刀をぬいてはし
り【走り】いでたり。文覚よろ【喜】こでかかる所を、き【斬】ては
あし【悪】かりなんとやおもひ【思ひ】けん、太刀のみね【峯】をと
りなをし【直し】、文覚がかたな【刀】も【持つ】たるかいな【腕】をした
P05263
たかにうつ。うた【打た】れてちとひるむところ【所】に、太刀をす
てて、「え【得】たりをう」とてくむ【組ん】だりけり。く【組】まれな
がら文覚、安藤武者が右のかいな【腕】をつ【突】く。つかれ
ながらし【締】めたりけり。互におとらぬ大ぢからな
りければ、うへ【上】になりした【下】になり、ころ【転】びあ
ふところ【所】に、かしこ【賢】がほに上下よて、文覚がはた
らくところ【所】のぢやうをがう【拷】してげり。されども
これを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門外
P05264
へひき【引き】いだひ【出い】て、庁の下部にひぱら【引つ張ら】れて、立な
がら御所の方をにらまへ、大音声をあげて、
「奉加をこそし給はざらめ、これ程文覚にから【辛】い
目を見せ給ひつれば、おもひ【思ひ】しらせ[* 「しり」と有るのを高野本により訂正]申さんずる
物を。三界は皆火宅なり。王宮といふとも、其
難をのがるべからず。十善の帝位にほこ【誇】たうとも、
黄泉の旅にいでなん後者、牛頭・馬頭のせ
め【責】をばまぬ【免】かれ給はじ物を」と、おどり【躍り】あがり
P05265
おどり【躍り】あがりぞ申ける。「此法師奇怪くわい)なり」とて、
やがて獄定せられけり。資行判官は、烏帽
子打おとされて恥がましさに、しばし【暫し】は出仕もせず。
安藤武者、文覚く【組】んだる勧賞に、当座に一廊
をへ【経】ずして、右馬允にぞなされける。さる程に、
其比美福門院かくれ【隠れ】させ給ひて、大P361赦あり【有り】し
かば、文覚程なくゆるされけり。しばらくはどこ【何処】
にもおこ【行】なふべかりしが、さはなくして、又勧
P05266
進帳をささげてすす【勧】めけるが、さらばただもなくして、
「あつぱれ、この世[B ノ]中は只今みだ【乱】れ、君も臣も
皆ほろ【滅】びうせんずる物を」など、おそろしき【恐ろしき】こ
とをのみ申ありくあいだ【間】、「この法師都に
をい【置い】てかなう【叶ふ】まじ。遠流せよ」とて、伊豆国
へぞながされける。源三位入道の嫡子仲綱の、
其比伊豆守にておはしければ、その沙汰とし
て、東海道より船にてくだ【下】すべしとて、伊勢
P05267
国へゐ【率】てまかりけるに、法便両三人ぞつ【付】けられ
たる。これらが申けるは、「庁の下部のならひ【習】、
かやうの事につゐ【突い】てこそ、をのづから依怙
も候へ。いかに聖の御房ばう)、これ程の事に逢て
遠国へながされ給ふに、しりうと【知人】はもち給はぬか。
土産粮料ごときの物をもこひ【乞ひ】給へかし」といひ
ければ、文覚は「さ様の要事いふべきとくゐ【得意】
ももたず。東山がしやま)の辺にぞとくゐ【得意】はある。いで
P05268
さらばふみ【文】をやらう」どいひければ、け【怪】しかる紙
をたづねてえ【得】させたり。「かやうの紙で物かく【書く】や
うなし」とて、なげかへす【返す】。さらばとて、厚紙をたづ
ねてえさせたり。文覚わら【笑つ】て、「法師は物をえ
かか【書か】ぬぞ。さらばおれらかけ【書け】」とて、かか【書か】するやう、「文覚
こそ高雄の神護寺造立供養のこころざ
しあて、すす【勧】め候つる程に、かかる君の代にしも
逢て、所願をこそ成就せP362ざらめ、禁獄せられて、
P05269
あまさへ【剰へ】伊豆国へ流罪せらる。遠路の間で候。
土産粮料ごときの物も大切に候。此使にた【賜】
ぶべしとかけ」といひければ、いふままにかいて、「さて
たれどの【誰殿】へとかき【書き】候はうぞ」。「清水の観音房へ
とかけ」。「これは庁の下部をあざむ【欺】くにこそ」と
申せば、「さりとては、文覚は観音をこそふか【深】う
たのみ【頼み】たてま【奉】つたれ。さらでは誰に〔か〕は用事をば
いふべき」とぞ申ける。伊勢国阿野【*阿濃】の津より船
P05270
にの【乗】てくだりけるが、遠江の天竜難だにて、
俄に大風ふき、大なみ【浪】たて、すでに此船をうち
かへさ【返さ】んとす。水手【*水主】梶取ども、いかにもしてたす【助】から
むとしけれども、波風いよいよあれ【荒】ければ、或は
観音の名号をとなへ、或は最後の十念
にをよぶ【及ぶ】。されども文覚これを事ともせず、た
かいびき【高鼾】かいてふ【臥】したりけるが、なに【何】とかおもひ【思ひ】
けん、いま【今】はかうとおぼえける時、かぱとおき、舟の
P05271
へ【舳】にたて奥の方をにらまへ、大音声をあげて、
「竜王やある、竜王やある」とぞよう【呼う】だりける。
「いかにこれほどの大願おこい【起い】たる聖がの【乗つ】たる
船をば、あやま【過】たうどはするぞ。ただいま天
の責かうむら【蒙ら】んずる竜神どもかな」とぞ申ける。
そのゆへ【故】にや、浪風ほどなくしづま【鎮まつ】て、伊豆
国へつき【着き】にけり。文覚京をい【出】でける日より、
祈誓する事あり【有り】。「われ都にかへ【帰つ】て、高雄の
P05272
神護寺造立供養すべくは、死ぬべからず。其
願むなしかるべくは、道にP363て死ぬべし」とて、京
より伊豆へつきけるまで、折節順風なかり
ければ、浦づたひ島づたひして、卅一日が間は
一向断食にてぞあり【有り】ける。されども気力
すこしもおと【劣】らず、おこな【行】ひうちしてゐたり。
まこと【誠】にただ人ともおぼえぬ事どもおほ【多】かり
けり。福原院宣S0510 近藤四郎国高といふものにあづ【預】けられて、
P05273
伊豆国奈古屋がおくにぞすみ【住み】ける。さる
程に、兵衛佐殿へつねはまい【参つ】て、昔今の物
がたりども申てなぐさむ程に、或時文覚申
けるは、「平家には小松のおほいどの【大臣殿】こそ、
心もがう【剛】に、はかり事もすぐれておはせし
か、平家の運命が末になるやらん、こぞ【去年】の八
月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わど
の程将軍の相も【持つ】たる人はなし。はやはや
P05274
謀反おこして、日本国したがへ給へ」。兵衛佐
「おもひ【思ひ】もよらぬ事の給ふ聖御房ばう)かな。われ
は故池の尼御前にかいなき命をたす【助】けら
れたてまて候へば、その後世をとぶら【弔】はんために、
毎日に法花経一部転読する外は他事
なし」とこその給ひけれ。文覚かさねて申ける
は、「天のあたふるをとら【取ら】ざれば、かへて【却つて】P364其とが【咎】を
うく。時いたておこなはざれば、かへて【却つて】其殃をうく
P05275
といふ本文あり【有り】。かう申せば、御辺の心をみん
とて申などおもひ【思ひ】給か。御辺に心ざしふかい【深い】色
を見給へかし」とて、ふところ【懐】よりしろい【白い】ぬの【布】につつ
むだる髑■をひとつとりい【出】だす。兵衛佐「あ
れはいかに」との給へば、「これこそわどのの父、故
左馬頭殿のかうべ【頭】よ。平治の後、獄舎のまへ
なる苔のしたにうづ【埋】もれて、後世とぶらふ
人もなかりしを、文覚存ずる旨あて、獄
P05276
もり【守】にこふ【乞う】て、この十余年頸にかけ、山々寺々
おがみ【拝み】まはり、とぶら【弔】ひたてまつれ【奉れ】ば、いまは一
劫もたすかり給ぬらん。されば、文覚は故守殿
の御ためにも奉公のものでこそ候へ」と申けれ
ば、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、父のかうべ
ときく【聞く】なつかしさに、まづ涙をぞながされける。
其後はうちとけて物がたりし給ふ。「抑頼朝
勅勘をゆ【許】りずしては、争か謀反をばおこ
P05277
すべき」との給へば、「それやす【安】い事、やがてのぼ【上】
て申ゆるいてたてまつら【奉ら】ん」。「さもさうず、御房
も勅勘の身で人を申ゆるさうどの給ふ
あてがいやうこそ、おほ【大】きにまことしからね」。「わが
身の勅勘をゆりうど申さばこそひがこと【僻言】
ならめ。わどのの事申さうは、なにかくるしかる【苦しかる】べ
き。いまの都福原の新都へのぼ【上】らうに、三日に
す【過】ぐまじ。院宣うかがは【伺は】うに一日がとうりう【逗留】ぞ
P05278
あらんずる。都合七日八日にはす【過】ぐべからず」P365とて、
つきい【出】でぬ。奈古屋にかへ【帰つ】て、弟子共には、伊豆の
御山に人にしのん【忍ん】で七日参籠の心ざしあり【有り】
とて、いでにけり。げにも三日といふに、福原の新
都へのぼりつつ前右兵衛督光能卿のもとに、い
ささかゆかりあり【有り】ければ、それにゆい【行い】て、「伊豆国
流人、前兵衛佐頼朝こそ勅勘をゆるさ【許さ】れて
院宣をだにも給はらば、八ケ国の家人ども催
P05279
しあつめて、平家をほろぼし、天下をしづ
め【鎮め】んと申候へ」。兵衛督「いさとよ、わが身も当時は
三官ともにとどめられて、心ぐるしいおりふし【折節】
なり。法皇もおしこめられてわたらせ給へば、
いかがあらんずらん。さりながらもうかがう【伺う】てこそみ
め」とて、此由ひそかに奏せられければ、法皇や
がて院宣をこそくだ【下】されけれ。聖これをく
びにかけ、又三日といふに、伊豆国へくだ【下】りつく。
P05280
兵衛佐「あつぱれ、この聖御房ばう)は、なまじゐによし
なき事申いだして、頼朝又いかなるう【憂】き目
にかあはんずらん」と、おも【思】はじ事なうあん【案】じつづ【続】
けておはしけるところ【所】に、八日といふ午剋ば
かりくだ【下】りついて、「すは院宣よ」とてたてまつる【奉る】。
兵衛佐、院宣ときくかたじ【忝】けなさに、手水うがひ
をし、あたらしき烏帽子・浄衣きて、院宣を
三度拝してひらかれたり。項年より以来、平
P05281
氏王皇蔑如して、政道にはばかる事なし。仏
法を破滅して、朝威をほろぼさんとす。夫
我朝は神国也。宗■あひならんで、神徳是P366
あらたなり。故朝廷開基の後、数千余歳
のあひだ、帝猷をかたぶけ、国家をあやぶめ
むとする物、みなもて敗北せずといふ事
なし。然則且)は神道の冥助にまかせ、且)は
勅宣の旨趣しゆ)をまも【守つ】て、はやく平氏の
P05282
一類を誅して、朝家の怨敵をしりぞけよ。譜
代弓箭の兵略を継、累祖奉公の忠勤
を抽で、身をたて、家をおこすべし。ていれば【者】、
院宣かくのごとし。仍執達如件。治承四年
七月十四日前右兵衛督光能が奉り謹上
前右兵衛佐殿へとぞかか【書か】れたる。此院宣をば
錦の袋にいれ【入れ】て、石橋〔山〕の合戦の時も、兵衛
佐殿頸にかけられたりけるとかや。富士川S0511 さる程に、福原
P05283
には、勢のつかぬ先にいそぎ打手をくだすべし
と、公卿僉議あて、大将軍には小松権亮少将
維盛、副将軍には薩摩守忠教【*忠度】、都合其勢
三万余騎、九月十八日に都をたて、十九日には
旧都につき、やがて廿日、東国へこそうたた【討つ立た】れ
けれ。大将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容
儀体拝絵にかP367くとも筆も及がたし。重代の
鎧唐皮といふきせなが【着背長】をば、唐櫃にいれ【入れ】てかか【舁か】
P05284
せらる。路打には、赤地の錦の直垂に、萠黄
威のよろひ【鎧】きて、連銭葦毛なる馬に、黄
■輪の鞍おいてのり給へり。副将軍薩
摩守忠教【*忠度】は、紺地の錦のひたたれに、ひお
どしの鎧きて、黒き馬のふと【太】うたくましゐ【逞しい】に、
いかけ【沃懸】地の鞍をい【置い】てのり給へり。馬・鞍・鎧・甲・弓
矢・太刀・刀にいたるまで、て【照】りかかや【輝】く程にい
でたた【出立た】れたりしかば、めでたかりし見物也。
P05285
薩摩守忠教【*忠度】は、年来ある宮腹の女房の
もとへかよ【通】はれけるが、或時おはしたりけるに、其
女房のもとへ、やごとなき女房まらうと【客人】きた
て、やや久しう物語し給ふ。さよ【小夜】もはるかに
ふ【更】けゆくまでに、まらうとかへり給はず。忠教【*忠度】
軒[* 「斬」と有るのを高野本により訂正]ばにしばしやすらひて、扇をあらくつかは【使は】れけ
れば、宮腹の女房、「野もせ【狭】にすだく虫の音
よ」と、ゆふ【優】にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守や
P05286
がて扇をつかひやみてかへ【帰】られけり。其後又おはし
たりけるに、宮腹の女房「さても一日、なに【何】とて扇
をばつか【使】ひやみしぞや」とと【問】はれければ、「いさ、か
しがましなどきこえ【聞え】候しかば、さてこそつか【使】ひ
やみ候しか」とぞの給ひける。かの女房のもとよ
り忠教【*忠度】のもとへ、小袖を一かさねつか【遣】はすとて、
ち【千】里のなごり【名残】のかなしさに、一首の歌をぞ送られける。P368
あづま路の草葉をわけん袖よりも
P05287
たえ【堪え】ぬたもとの露ぞこぼるる W035
薩摩守返事には
わかれ路をなにかなげかんこえて行
関もむかしの跡とおもへ【思へ】ば W036
「関も昔の跡」とよめる事は、平将軍貞
盛、将門追討のために、東国へ下向せし事を
おもひ【思ひ】いでてよ【詠】みたりけるにや、いとやさしう
ぞきこえし。昔は朝敵をたいらげ【平げ】に外土へ
P05288
むかふ将軍は、まづ参内して切刀を給はる。
震儀【*宸儀】南殿に出御し、近衛階下に陣をひ
き、内弁外弁の公卿参列して、誅儀【*中儀】の節
会おこなは【行なは】る。大将軍副将軍、おのおの礼儀
をただしうしてこれを給はる。承平天慶
の蹤跡も、年久しうなて准へがたしとて、今
度は讃岐守正盛が前対馬守源義親追
討のために出雲国へ下向せし例とて、鈴ばか
P05289
り給はて、皮の袋にいれ【入れ】て、雑色が頸にかけ
させてぞくだ【下】られける。いにしへ、朝敵をほろ
ぼさんとて都をいづる将軍は、三の存
知あり【有り】。切刀を給はる日家をわすれ、家を
いづるとて妻子をわすれ、戦場にして
敵にたたかふ【戦ふ】時、身をわする。されば、今の平
氏の大将維盛・忠教【*忠度】も、定てかやうの事を
ば存知せられたりけん。あはれなりし事共也。
P05290
同廿二日新院又安芸国厳島へ御幸
なる。去る三月にも御幸あり【有り】き。そのゆP369へ
にや、なか一両月世もめでたくおさま【治まつ】て、民
のわづらひもなかりしが、高倉宮の御謀反
によて、又天下みだれて、世上もしづかならず。
これによて、且)は天下静謐のため、且)は聖代
不予の御祈念のためとぞきこえし。今
度は福原よりの御幸なれば、斗薮の
P05291
わづらひもなかりけり。手づからみづから
御願文をあそばひ【遊ばい】て、清書をば摂政
殿せさせをはします。
蓋聞[B ク]。法性雲閑也、十四十五の月高晴[B レ]、権
化智深し、一陰一陽の風旁扇ぐ。夫厳
島の社は称名あまねくきこゆる【聞ゆる】には【場】、効
験無双の砌也。遥嶺の社壇をめぐる、おのづ
から大慈の高く峙てるを彰し、巨海の
P05292
詞宇【*祠宇】にをよぶ【及ぶ】、空に弘誓の深広なるこ
とを表す。夫以、初庸昧の身をもて、忝皇
王の位を践む。今賢猷を霊境の群に翫
で、閑坊〔を〕射山の居にたのしむ。しかるに、ひそかに
一心の精誠を抽で、孤島の幽祠に詣、瑞
籬の下に明恩を仰ぎ、懇念を凝して
汗をながし、宝宮のうちに霊託を垂。その
つげの心に銘ずるあり【有り】。就中にことに怖
P05293
畏謹慎の期をさすに、もはら季夏初秋
の候にあたる。病痾忽に侵し、猶医術の験
を施す事なし。平計頻に転ず、弥神感の
空しからざることを知ぬ。祈祷を求といへ
ども、霧露散じがたし。しかじ、心符のこころざし
を抽でて、かさねて斗薮の行をくはたてん
とおもふ【思ふ】。漠々たP370る寒嵐の底、旅泊に臥て
夢をやぶり、せいせい[* 「さいさい」と有るのを高野本により訂正]【凄々】たる微陽のまへ、遠
P05294
路に臨で眼をきはむ。遂に枌楡の砌について、
敬て、清浄の席を展、書写したてまつる
色紙墨字の妙法蓮花経【*妙法蓮華経】一部、開結二経、
阿弥陀・般若心等の経各一巻。手から自から
書写したてまつる【奉る】金泥の提婆品一巻。
時に[* 「時々」と有るのを高野本により訂正]蒼松蒼栢の陰、共に善理の種をそへ、
潮去潮来響、空に梵唄の声に和す。弟子
北闕の雲を辞して八実【*八日】、凉燠のおほく
P05295
廻る事なしといへども、西海の浪を凌事二
たび【二度】、深く機縁のあさからざる事を知ぬ。朝
に祈る客一にあらず、夕に賽【賽申】するもの且千
也。但し、尊貴の帰仰おほしといへども、院宮
の往詣いまだきかず。禅定法皇初て其
儀をのこい【残い】給ふ。彼嵩高山の月の前には
漢武いまだ和光のかげ弁ぜず。蓬莱洞の
雲の底にも、天仙むなしく垂跡の塵を
P05296
へだつ。仰願くは大明神、伏乞らくは〔一〕乗経、新
に丹祈をてらして唯一の玄応を垂給へ。治承
四年九月廿八日太上天皇とぞあそばさ【遊ばさ】れ
たる。さる程に、此人々は九重の都をたて、
千里の東海におもむき給ふ。たいら【平】かにかへ【帰】り
のぼらむ事もまこと【誠】にあやうき【危ふき】有さまども
にて、或は野原の露にやどをかり、或はたかね
の苔に旅ねをし、山をこえ河をかさね、日かず【数】
P05297
ふれば、P371十月十六日には、するが【駿河】の国清見が
関にぞつ【着】き給ふ。都をば三万余騎でい【出】で
しかど、路次の兵めしぐし【召具し】て、七万余騎とぞ
きこえし。先陣はかん【蒲】原・富士河にすすみ、後
陣はいまだ手越・宇津[B ノ]屋にささへたり。大将軍
権亮少将維盛、侍大将上総守忠清をめして、
「ただ維盛が存知には、足柄をうちこえて坂東
にていくさをせん」とはやられけるを、上総守
P05298
申けるは、「福原をたたせ給し時、入道殿の御
定には、いくさをば忠清にまかせさせ給へと仰
候しぞかし。八ケ国の兵共みな兵衛佐にしたが
ひ【従ひ】ついて候なれば、なん【何】十万騎か候らん。御方の
御勢は七万余騎とは申せども、国々のかり【駆】
武者共なり。馬も人もせめふせて候。伊豆・駿
河の勢のまいる【参る】べきだにもいまだみえ【見え】候はず。
ただ富士河をまへにあてて、みかたの御勢を
P05299
また【待た】せ給ふべうや候らん」と申ければ、力及ばで
ゆらへたり。さる程に、兵衛佐は足柄の山を
打こえて、駿河国きせ河【黄瀬河】にこそつき給へ。甲
斐・信濃の源氏ども馳来てひとつになる。浮
島が原にて勢ぞろへあり【有り】。廿万騎とぞしる
いたる。常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使に
ふみ【文】も【持つ】て京へのぼるを、平家の先陣上総
守忠清これをとどめて、も【持つ】たる文をばひ【奪】とり、
P05300
あけて見れば、女房のもとへの文なり。くるし
かる【苦しかる】まじとて、とらせてげり。「抑兵衛佐殿P372の
勢、いかほどあるぞ」ととへば、「凡八日九日の道に
はたとつづいて、野も山も海も河も武者で候。
下臈は四五百千までこそ物のかずをば
知て候へども、それよりうへはしら【知ら】ぬ候。おほ【多】い
やらう、すくな【少】いやらうをばしり【知り】候はず。昨日
きせ河【黄瀬河】で人の申候つるは、源氏の御勢廿万
P05301
騎とこそ申候つれ」。上総守これをきい【聞い】て、「あ
はれ、大将軍の御心ののび【延び】させ給たる程
口おしい【惜しい】事候はず。いま一日も先に打手を
くださせ給たらば、足柄の山打こへて、八
ケ国へ御出候ば、畠山が一族、大庭兄弟などか
まいら【参ら】で候べき。これらだにもまいり【参り】なば、
坂東にはなびかぬ草木も候まじ」と、後
悔すれどもかいぞなき。又大将軍権亮少
P05302
将維盛、東国の案内者とて、長井の斎
藤別当実盛をめして、「やや実盛、なんぢ程の
つよ弓勢兵、八〔ケ〕国にいか程あるぞ」とと【問】ひ給へ
ば、斎藤別当あざわら【笑つ】て申けるは、「さ候へば、君は
実盛を大矢とおぼしめし【思召し】候歟。わづかに十三
束こそ仕候へ。実盛程ゐ【射】候物は、八ケ国にいくらも
候。大矢と申ぢやう【定】の物の、十五束におとて
ひく【引く】は候はず。弓のつよさもしたたかなる物五
P05303
六人しては【張】り候。かかるせい【精】兵どもがゐ【射】候へ者、
鎧の二三両をもかさねて、たやすうゐとをし【射通し】
候也。大名一人と申は、せい【勢】のすくないぢやう【定】、五
百騎におとるは候はず。馬にの【乗つ】つればお【落】つ
る道をしらず、悪所をは【馳】すれどP373も馬をた
をさ【倒さ】ず。いくさは又おや【親】もうたれよ、子もうた
れよ、死ぬればのりこへ【乗越へ】のりこへ【乗越へ】たたかふ【戦ふ】候。西国の
いくさと申は、おや【親】うた【討た】れぬれば孝養し、
P05304
いみ【忌】あけてよせ、子うたれぬれば、そのおもひ【思ひ】な
げき【歎き】によ【寄】せ候はず。兵粮米つきぬれば、田つ
くり、かり【刈り】おさめ【収め】てよせ、夏はあつし【暑し】といひ、冬は
さむしときら【嫌】ひ候。東国にはすべて其儀候
はず。甲斐・信乃【*信濃】の源氏ども、案内はし【知つ】て候。
富士のこし【腰】より搦手にやまは【廻】り候らん。かう
申せば君をおく【臆】せさせまいらせ【参らせ】んとて申には
候はず。いくさはせい【勢】にはよらず、はかり事に
P05305
よるとこそ申つたへて候へ。実盛今度の
いくさに、命いき【生き】てふたたびみやこ【都】へまいる【参る】べし
とも覚候はず」と申ければ、平家の兵共こ
れきい【聞い】て、みなふるい【震ひ】わななきあへり。さる程に、
十月廿三日にもなりぬ。あすは源平[* 「源氏」と有るのを高野本により訂正]富士河
にて矢合とさだめたりけるに、夜に入て、平家
の方より源氏の陣を見わたせ【渡せ】ば、伊豆・駿河〔の〕
人民・百姓等がいくさにおそれ【恐れ】て、或は野にいり、
P05306
山にかくれ、或は船にとりの【乗つ】て海河にうかび、いと
なみの火のみえ【見え】けるを、平家の兵ども、「あなお
びたたしの源氏の陣のとを【遠】火のおほさ
よ。げにもまこと【誠】に野も山も海も河もみな
かたきであり【有り】けり。いかがせん」とぞあはて【慌て】ける。其
夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむ
れ【群れ】ゐたりける水鳥どもが、なに【何】にかおどろ【驚】き
たりけん、ただP374一ど【度】にばと立ける羽音の、
P05307
大風いかづち【雷】などの様にきこえければ、平家の
兵共、「すはや源氏の大ぜい【勢】のよ【寄】するは。斎藤
別当が申つる様に、定て搦手もまはるらん。
とりこ【取込】められてはかなう【叶ふ】まじ。ここをばひい【引い】て尾
張河州俣をふせけ【防け】や」とて、とる物もとりあへず、
我さきにとぞ落ゆきける。あまりにあはて
さはい【騒い】で、弓とる物は矢をしら【知ら】ず、矢とるもの
は弓をしらず、人の馬にはわれのり【乗り】、わが馬を
P05308
ば人にのら【乗ら】る。或はつないだる馬にの【乗つ】てくゐ【杭】を
めぐる事かぎりなし。ちかき【近き】宿々よりむか【迎】へ
とてあそびける遊君遊女ども、或はかしら【頭】け【蹴】
わられ、腰ふみ【踏み】おら【折ら】れて、おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】物おほかり
けり。あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、
ふじ河にをし【押し】よせて、天もひびき、大地もゆるぐ
程に、時をぞ三ケ度つくりける。五節之沙汰S0512平家の方
には音もせず、人をつかはして見せければ、「皆お【落】ち
P05309
て候」と申。或は敵のわすれたる鎧とてまいり【参り】
たる物もあり【有り】、或はかたきのすて【捨て】たる大幕
とてまいり【参り】たるものもあり【有り】。「敵の陣には蝿だにも
か【翔】けり候はず」と申。P375兵衛佐、馬よりおり、甲を
ぬぎ、手水うがいをして、王城の方をふしをが【伏拝】み、
「これはまたく頼朝がわたくしの高名にあらず。
八幡大菩薩の御ぱからひなり」とぞの給ひける。
やがてうとり【打取】所なればとて、駿河国をば
P05310
一条次郎忠頼、遠江をば安田三郎義定に
あづけらる。平家をばつづゐ【続い】てもせ【攻】むべけ
れども、うしろ【後ろ】もさすがおぼつかなしとて、浮島
が原よりひきしり【引退】ぞき、相模国へぞかへら【帰ら】れける。
海道宿々の遊君遊女ども「あないまいまし【忌々し】。打
手の大将軍の矢ひと【一】つだにもゐ【射】ずして、にげ【逃げ】
のぼり給ふうたてしさよ。いくさには見にげ【逃げ】
といふ事をだに、心うき事にこそするに、是は
P05311
きき【聞き】にげし給ひたり」とわらひ【笑ひ】あへり。落書
どもおほかりけり。都の大将軍をば宗盛と
いひ、討手の大将をば権亮といふ間、平家
をひらやによみ【読み】なして、
ひらやなるむねもりいかにさはぐ【騒ぐ】らむ
はしら【柱】とたのむ【頼む】すけををとして W037
富士河のせぜ【瀬々】の岩こす水よりも
はやくもおつる伊勢平氏かな W038
P05312
上総守が富士河に鎧をすて【捨て】たりけるをよめり。
富士河によろひはすてつ墨染の
ころもただき【着】よ後の世のため W039
ただきよはにげの馬にぞのり【乗り】にける
上総しりがいかけてかひなし W040 P376
同十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原
の新都へのぼりつく。入道相国大にいかて、
「大将軍権亮少将維盛をば、鬼界が島へ
P05313
ながすべし。侍大将上総守忠清をば、死罪
におこなへ」とぞの給ひける。同九日、平家
の侍ども老少参会して、忠清が死罪
の事いかがあらんと評定す。なかに主馬判官
盛国[* 「重国」と有るのを他本により訂正]すすみいでて申けるは、「忠清は昔
よりふかく【不覚】人とはうけ給及候はず。あれが十八
の歳と覚候。鳥羽殿の宝蔵に五畿
内一の悪党二人、にげ籠て候しを、よ【寄】て
P05314
からめうど申物も候はざりしに、この忠清、白
昼唯一人、築地をこへ【越え】はね入て、一人をば
うち【討ち】とり、一人をばいけど【生捕】て、後代に名を
あげたりし物にて候。今度の不覚はただ
ことともおぼえ候はず。これにつけてもよくよく
兵乱の御つつしみ候べし」とぞ申ける。同
十日、大将軍権亮少将維盛、右近衛中将に
なり給ふ。打手の大将ときこえしかども、さ
P05315
せるしいだし【出し】たる事もおはせず、「これは何事
の勧賞ぞや」と、人々ささやきあへり。昔将門
追討のために、平将軍貞盛、田原藤太秀
里【*秀郷】うけ給て、坂東へ発向したりしかども、
将門たやすうほろ【亡】びがたかりしかば、重て
打手をくだすべしと公卿僉議あて、宇治
の民部卿忠文、清原重藤【*滋藤】、軍監といふ官
を給はてくP377だられけり。駿河国清見が関に
P05316
宿したりける夜、かの重藤【*滋藤】漫々たる海上
を遠見して、「漁舟火影寒焼浪、駅路鈴
声夜過山」といふから歌をたからか【高らか】に口ずさみ
給へば、忠文いふ【優】におぼえて感涙をぞながさ【流さ】
れける。さる程に将門をば、貞盛・秀里【*秀郷】つゐに【遂に】
打とてげり。其かうべ【頭】をもたせてのぼる程に、
清見が関にてゆき【行】あふたり。其より先後
の大将軍うちつれて上洛す。貞盛・秀里【*秀郷】に
P05317
勧賞おこなはれける時、忠文・重藤【*滋藤】にも勧
賞あるべきかと公卿僉議あり【有り】。九条[B ノ]右丞相
師資【*師輔】公の申させ給ひけるは、「坂東へ打手は
むかふたりといへども、将門たやすうほろ【亡】びがた
きところ【所】に、この人共仰をかうむ【蒙つ】て関の東がし)へ
おもむく時、朝敵すでにほろびたり。されば
などか勧賞なかるべき」と申させ給へども、其
時の執柄小野宮殿、「「うたが【疑】はしきをばなすこと
P05318
なかれ」と礼記の文に候へば」とて、つゐに【遂に】なさせ
給はず。忠文これを口惜[B キ]事にして「小野宮
殿の御末をばやつ子【奴】に見なさん。九条殿の
御末にはいづれの世までも守護神とならん」
とちか【誓】ひつつひじに【干死】にこそし給ひけれ。されば
九条殿の御末はめでたうさかへ【栄え】させ給へども、
小野宮殿の御末にはしかるべき人もまし
まさず、いまはたえ【絶え】はて給ひけるにこそ。さる
P05319
程に、入道相国の四男頭中将重衡、左近衛
中将になり給ふ。同十一月P378十三日、福原には
内裏つく【造】りいだして、主上御遷幸あり【有り】。
大嘗会あるべかりしかども、大嘗会は
十月のすゑ、東河に御ゆきして御禊
あり【有り】。大内の北の野に斎場所[* 「税庁所」と有るのを訂正]をつくて、神
服神具をととのふ。大極殿のまへ、竜尾道の
壇下に廻竜殿【*廻立殿】をたてて、御湯をめす。同壇の
P05320
ならびに太政宮をつくて、神膳をそなふ。震
宴【*宸宴】あり【有り】、御遊あり【有り】、大極殿にて大礼あり【有り】、清
暑堂にて御神楽あり【有り】、豊楽院にて宴
会あり【有り】。しかるを、この福原の新都には大
極殿もなければ、大礼おこなふべきところ【所】も
なし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき
様もなし。豊楽院もなければ、宴会[B も]おこ
なはれず。今年はただ新嘗会・五節
P05321
ばかりあるべきよし公卿僉議あて、なを【猶】新
嘗のまつりをば、旧都の神祇官にして
とげられけり。五節はこれ清御原のそのかみ、
吉野の宮にして、月しろく【白く】嵐はげしか
りし夜、御心をすましつつ、琴をひき給ひ
しに、神女あまくだり、五たび袖をひるがへす。
これぞ五節のはじめなる。都帰S0513 今度の都遷を
ば、君も臣も御なげきあり【有り】。山・奈良をはじめ
P05322
て、諸寺諸社にP379いたるまで、しか【然】るべからざる由
一同にうたへ【訴へ】申あひだ、さしもよこ紙をや【破】らるる
太政入道も、「さらば都がへりあるべし」とて、京
中ひしめきあへり。同十二月二日、にはかに
都がへりあり【有り】けり。新都は北は山にそ【添】ひて
たかく、南は海ちかくしてくだれり。浪の
音つねはかまびすしく、塩風はげしき所也。
されば、新院いつとなく御悩のみしげ【滋】かりけれ
P05323
ば、いそぎ福原をいでさせ給ふ。摂政殿をはじ
めたてまて、太政大臣以下の公卿殿上人、われ
もわれもと供奉せらる。入道相国をはじめとし
て、平家一門の[B 公卿]殿上人、われさきにとぞの
ぼられける。誰か心う【憂】かりつる新都に片時も
のこるべき。去六月より屋共こぼちよせ、
資材雑具はこ【運】びくだし、形のごとくとり
たて【取り立て】たりつるに、又物ぐるはしう都がへり
P05324
あり【有り】ければ、なんの沙汰にも及ばず、うちすて【捨て】打
すてのぼられけり。おのおのすみかもなくして、
やわた【八幡】・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西山・東山がしやま)のかた
ほとりにつゐ【着い】て、御堂の廻廊、社の拝殿
などにたちやど【立宿】てぞ、しかる【然かる】べき人々も在
ましける。今度の都うつ【遷】りの本意をい
かにといふに、旧都は南都・北嶺ちかくして、
いささかの事にも春日の神木、日吉の
P05325
神輿などいひて、みだりがはし。福原は山へだた
り【隔たり】江かさなて、程もさすがとをけれ【遠けれ】ば、さ様の
ことたやすからじとP380て、入道相国のはからひ
いだされたりけるとかや。同十二月廿三日、近
江源氏のそむきしをせめ【攻め】むとて、大将軍
には左兵衛督知盛、薩摩守忠教【*忠度】、都合
其勢二万余騎で近江国へ発向して、山
本・柏木・錦古里などいふあぶれ源氏共、
P05326
一々にみなせめ【攻め】おとし、やがて美乃【*美濃】・尾張へ
こえ【越え】給ふ。奈良炎上S0514 都には又「高倉宮園城寺へ入御
時、南都の大衆同心して、あまさへ【剰へ】御むかへ
にまいる【参る】条、これもて朝敵なり。されば南
都をも三井寺をもせめ【攻め】らるべし」といふ
程こそあり【有り】けれ、奈良の大衆おびたた
しく蜂起す。摂政殿より「存知の旨あらば、
いくたびも奏聞にこそ及ばめ」と仰下され
P05327
けれども、一切もちゐ【用ゐ】たてまつら【奉ら】ず。右官の
別当忠成を御使にくだされたりければ、
「しやのり【乗】物よりとてひきおと【引落】せ。もとどり【髻】きれ」
と騒動する間、忠成色をうしな【失つ】てにげ【逃げ】
のぼる。つぎに右衛門佐親雅をくだ【下】さる。是
をも「もとどりきれ」と大衆ひしめきければ、と
る【取る】ものもとりあへずにげのぼる。其時は勧学
院の雑色二人がP381もとどりきら【切ら】れにけり。又南
P05328
都には大なる球丁の玉をつくて、これは平
相国のかうべ【頭】となづけて、「うて【打て】、ふめ【踏め】」などぞ申
ける。「詞のもらし【漏らし】やすきは、わざはひ【災】をまねく
媒なり。詞のつつし【慎】まざるは、やぶ【敗】れをとる【取る】
道なり」といへり。この入道相国と申すは、
かけまくもかたじけなく当今の外祖にて
おはします。それをかやうに申ける南都の大衆、
凡は天魔の所為とぞ見えたりける。入道相
P05329
国かやうの事どもつた【伝】へきき給ひて、いかでかよし
とおもは【思は】るべき。かつがつ南都の狼籍【*狼藉】をしづめん
とて、備中国住人瀬尾太郎兼康、大和国の
検非所に補せらる。兼康五百余騎で南都へ
発向す。「相構て、衆徒は狼籍【*狼藉】をいたすとも、汝
等はいたすべからず。物の具なせそ。弓箭な帯
しそ」とてむけられたりけるに、大衆かかる
内儀をばしらず、兼康がよせい【余勢】六十余人から
P05330
めとて、一々にみな頸をきて、猿沢の池の
はたにぞかけなら【懸並】べたる。入道相国大にいかて、
「さらば南都をせめ【攻め】よや」とて、大将軍には
頭中将重衡、副将軍には中宮亮通
盛、都合其勢四万余騎で、南都へ発向
す。大衆も老少きらはず、七千余人、甲の緒
をしめ、奈良坂・般若寺二ケ所、路をほり【掘り】
きて、堀ほり、かいだて【掻楯】かき、さかもぎ【逆茂木】ひいて待
P05331
かけたり。平家は四万余騎を二手にわか
て、奈良坂・般若寺二ケ所の城郭に
おしよせて、時をどとつくる。大衆はみなかちP382
立うち【打】物也。官軍は馬にてか【駆】けまはしかけ
まはし、あそこここにおかけ【追つ掛け】おかけ【追つ掛け】、さしつめ【差し詰め】ひきつ
め【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】ければ、ふせく【防く】ところ【所】の大衆、かず
をつくゐ【尽くい】てうた【討た】れにけり。卯剋に矢合して、
一日たたかう【戦ふ】ひくらす。夜に入て奈良坂・般若寺
P05332
二ケ所の城郭ともにやぶれぬ。お【落】ちゆく衆徒
のなかに、坂四郎永覚といふ悪僧あり【有り】。打物
も【持つ】ても、弓矢をとても、力のつよさも、七大寺・
十五大寺にすぐれたり。もえぎ威の腹巻
のうへに、黒糸威の鎧をかさねてぞき【着】たりける。
帽子甲に五枚甲の緒をしめて、左右の
手には、茅の葉のやうにそ【反】たる白柄の大長
刀、黒漆の大太刀もつままに、同宿十余人、前
P05333
後にたて、てがい【碾磑】の門よりう【打つ】ていでたり。これぞ
しばら【暫】くささへたる。おほくの官兵、馬の足な【薙】が
れてうた【討た】れにけり。されども官軍は大勢
にて、いれかへ【入れ替へ】いれかへ【入れ替へ】せめければ、永覚が前後左右
にふせく【防く】所の同宿みなうたれぬ。永覚
ただひとりたけ【猛】けれど、うしろ【後】あらはになり
ければ、南をさいておちぞゆく。夜いくさに
なて、くらさ【暗さ】はくらし、大将軍頭中将、般若寺
P05334
の門の前にうた【打立】て、「火をいだせ」との給ふほど
こそあり【有り】けれ、平家のせい【勢】のなかに、播摩国
住人福井庄下司、二郎大夫友方といふもの、
たて【楯】をわ【破】りたい松にして、在家に火をぞ
かけたりける。十二月廿八日の夜なりけ
れば、風ははげ【烈】しし、ほP383もと【火元】はひとつなりけれ共、
ふ【吹】きまよふ風に、おほくの伽藍に吹かけ
たり。恥をもおもひ【思ひ】、名をもおしむ【惜しむ】程のものは、
P05335
奈良坂にてうちじに【討死】し、般若寺にして
うた【討た】れにけり。行歩にかなへ【叶へ】る物は、吉野十
津河の〔方へ〕落ゆく。あゆみもえぬ老僧や、
尋常なる修学者児共、おんな童部は、
大仏殿・やましな【山階】寺のうちへ、われさきにとぞ
にげ【逃げ】ゆきける。大仏殿の二階の上には千
余人のぼりあがり、かたき【敵】のつづ【続】くをのぼせじ
と、橋をばひい【引い】てげり。猛火はまさしうおし
P05336
かけ【押し掛け】たり。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、焦熱・大焦熱・無
間阿毘のほのを【炎】の底の罪人も、これにはすぎじ
とぞみえ【見え】し。興福寺は淡海公の御願、藤氏
累代の寺也。東金堂におはします仏法
最初の釈迦の像、西金堂にをはします自然
涌出の勧世音、瑠璃をならべし四面の廊、
朱丹をまじへし二階の楼、九輪そらにかかや【輝】き
し二基の塔、たちまちに煙となるこそかなし
P05337
けれ。東大寺は、常在不滅、実報寂光の
生身の御仏とおぼしめし【思召し】なぞらへて、聖武皇
帝、手づからみづからみが【磨】きたて給ひし金銅
十六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれて
半天の雲にかくれ、白毫新におがまれ給ひし
満月の尊容も、御くし【髪】はや【焼】けおちて大地
にあり【有り】、御身はわきあひ【鎔合】て山の如し。八万四千
の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼ
P05338
れ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなP384しく十
悪の風にただよふ。煙は中天にみちみち、ほの
を【炎】は虚空にひまもなし。まのあたりに見たてまつ
る【奉る】物、さらにまなこ【眼】をあてず。はるかにつたへきく
人は、肝たましゐ【魂】をうしなへ【失へ】り。法相・三輪の法
門聖教、すべて一巻のこらず。我朝はいふに及ず、
天竺震旦にも是程の法滅あるべしともおぼえず。
うでん【優填】大王の紫磨金をみがき、毘須羯磨が
P05339
赤栴檀をきざ【刻】んじも、わづかに等身の御仏也。
况哉これは南閻浮提のうちには唯一無双
の御仏、ながく朽損の期あるべしともおぼえざりし
に、いま毒縁の塵にまじはて、ひさしくかなしみ
をのこし給へり。梵尺四王、竜神八部、冥官
冥衆も驚きさはぎ【騒ぎ】給ふらんとぞみえ【見え】し。法相
擁護の春日の大明神、いかなる事をかおぼし
けん。されば春日野の露も色かはり、三笠
P05340
山の嵐の音うらむる【恨むる】さまにぞきこえける。
ほのを【炎】のなかにてや【焼】けしぬる人数をしる【記】い
たりければ、大仏殿の二階の上には一千七
百余人、山階寺には八百余人、或御堂には
五百余人、或御堂には三百余人、つぶさに
しるいたりければ、三千五百余人なり。戦
場にしてうたるる大衆千余人、少々は
般若寺の門の前にきりかけ、少々はもたせて
P05341
都へのぼり給ふ。廿九日、頭中将、南都ほろ
ぼして北京へ帰りいら【入ら】る。入道相国ばかり
ぞ、いきどほり【憤】は【晴】れてよろこばれける。中宮・一
院・上皇・摂政殿以下の人々は、P385「悪僧をこそ
ほろ【亡】ぼすとも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御
歎あり【有り】ける。衆徒の頸共、もとは大路をわたし
て獄門の木に懸らるべしときこえしかども、
東大寺・興福寺のほろびぬるあさまし
P05342
さに、沙汰にも及ず。あそこここの溝や堀にぞす
て【捨て】をきける。聖武皇帝震筆【*宸筆】の御記文に
は、「我寺興福せば、天下も興福し、吾寺衰
微せば、天下も衰微すべし」とあそばさ【遊ばさ】れたり。され
ば天下の衰微せん事も疑なしとぞ見えたり
ける。あさましかりつる年もくれ、治承も五年に成にけり。
平家物語巻第五P386



入力者:荒山慶一

校正者:菊池真一

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