平家物語巻第八


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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


P07155
(表紙)
P07157 P2118
平家物語巻第八
山門御幸S0801寿永二年七月廿四日夜半ばかり、法皇は按察
大納言資方【*資賢】卿の子息、右馬頭資時ばかり御
供にて、ひそかに御所を出させ給ひ、鞍馬へ御幸
なる。鞍馬寺僧ども「是は猶都ちかくてあしう
候なむ」と申あひだ、篠の峯・薬王坂など申
さが【嶮】しき嶮難を凌がせ給ひて、横河の解脱
谷寂場坊、御所になる。大衆おこて、「東塔へ
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こそ御幸あるべけれ」と申ければ、東塔の南谷
円融坊御所になる。かかりければ、衆徒も武士も、
円融房【*円融坊】を守護し奉る。法皇は仙洞をいでて天台山に、
主上は鳳闕をさて西海へ、摂政殿は吉野の奥と
かや。女院・宮々は八幡・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西
山・東山のかたほとりにつゐ【付い】て、にげ【逃げ】かくれさせ給へり。
平家はおち【落ち】ぬれど、源氏はいまだ入かはらず。既に
此京はぬしなき里にぞなりにける。開闢よりこの
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かた、かかる事あるべしともおぼえP2119ず。聖徳太子の
未来記にも、けふのことこそゆかしけれ。法皇
天台山にわたらせ給ふときこえさせ給ひしかば、馳ま
いら【参ら】せ給ふ人々、其比の入道殿とは前関白松殿、
当殿とは近衛、太政大臣・左右大臣・内大臣・大納
言・中納言・宰相・三位・四位・五位の殿上人、すべて
世に人とかぞへられ、官加階に望をかけ、所帯・所職を
帯する程の人、一人ももるるはなかりけり。円融坊には、
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あまりに人まいり【参り】つどひ【集ひ】て、堂上・堂下・門外・
門内、ひまはざまもなうぞみちみちたる。山門繁昌・
門跡の面目とこそ見えたりけれ。同廿八日に、法皇
宮こ【都】へ還御なる。木曾五万余騎にて守護し奉る。
近江源氏山本の冠者義高、白旗さひて先陣に
候。この廿余年見えざりつる白旗の、けふはじめて
宮こ【都】へいる、めづらしかりし事どもなり。さる程に
十郎蔵人行家、宇治橋をわたて都へいる。陸奥
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新判官義康が子、矢田判官代義清、大江山を
へて上洛す。摂津国・河内の源氏ども、雲霞の
ごとくにおなじく宮こ【都】へみだ【乱】れいる。凡京中には
源氏の勢みちみちたり。勘解由小路中納言経房
卿・検非違使別当左衛門督実家、院の殿上の
簀子に候て、義仲・行家をめす。木曾は赤地の
錦の直垂に、唐綾威の鎧きて、いか物づくりの
太刀をはき、きりふ【切斑】の矢をひ【負ひ】、しげ藤の弓脇にはさみ、
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甲をばぬぎたかひもP2120にかけて候。十郎蔵人は、紺地
の錦の直垂に、火おどしの鎧きて、こがねづくりの
太刀をはき、大なか黒の矢をひ【負ひ】、ぬりごめどう【塗籠籐】の弓
脇にはさみ、是も甲をばぬぎたかひもにかけ、ひざま
づゐて候けり。前内大臣宗盛公以下、平家の一族
追討すべきよし仰下さる。両人庭上に畏て承る。
をのをの【各々】宿所のなきよしを申す。木曾は大膳大
夫成忠が宿所、六条西洞院を給はる。十郎蔵人は
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法住寺殿の南殿と申、萓の御所をぞ給りける。
法皇は主上外戚の平家にとらはれさせ給て、
西海の浪の上にただよはせ給ふことを、御歎き
あて、主上并に三種神器宮こ【都】へ返し入奉る
べきよし、西国へ院宣を下されたりけれ共、
平家もちゐたてまつら【奉ら】ず。高倉院の皇子は、
主上の外三所ましましき。二宮をば儲君にしたて
まつら【奉ら】んとて、平家いざなひまいらせ【参らせ】て、西国へ
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落給ぬ。三四は宮こ【都】にましましけり。同八月五日、
法皇この宮たちをむかへ【向へ】よせ【寄せ】まいらせ【参らせ】給ひて、まづ
三の宮の五歳にならせ給ふを、「是へ是へ」と仰ければ、
法皇を見まいら【参らつ】させ給ひて、大にむつからせ給ふ〔あひだ〕、
「とうとう【疾う疾う】」とて出しまいら【参らつ】させ給ぬ。其後四の宮の
四歳にならせ給ふを、「是へ」と仰ければ、すこしも
はばからせ給はず、やがて法皇の御ひざの
うへにまいら【参ら】せ給ひて、よにもなつかしげにてぞ
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ましましP2121ける。法皇御涙をはらはらとながさせ
給ひて、「げにもすぞろならむものは、かやうの老法師
を見て、なにとてかなつか【懐】しげには思ふべき。是ぞ
我まことの孫にてましましける。故院のおさな
をひ【少生】にすこしもたがは【違は】せ給はぬものかな。かかるわすれ
がたみ【忘れ形見】を今まで見ざりけることよ」とて、御涙
せきあへさせ給はず。浄土寺の二位殿、其時は
いまだ丹後殿とて、御前に候はせ給ふが、
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「さて御ゆづりは、此宮にてこそわたらせおはしまし
さぶらはめ」と申させ給へば、法皇「子細にや」とぞ
仰ける。内々御占ありしにも、「四の宮位につかせ
給ひては、百王まで日本国の御ぬしたるべし」とぞ
かん【勘】がへ申ける。御母儀は七条修理大夫信隆
卿の御娘なり。建礼門院のいまだ中宮にて
ましましける時、その御方に宮づかひ給ひしを、
主上つねはめされける程に、うちつづき宮あまた
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いできさせ給へり。信隆卿御娘あまたおはし
ければ、いかにもして女御后にもなしたてまつら【奉ら】
ばやとねがは【願は】れけるに、人のしろい鶏を千かう【飼う】つれば、
其家に必后いできたるといふ事ありとて、
鶏の白いを千そろへ【揃へ】てかは【飼は】れたりける故にや、此
御娘皇子あまたうみまいらせ【参らせ】給へり。信隆卿
内々うれしう思はれけれども、平家にもはば
かり、中宮にもおそれ【恐れ】まいらせ【参らせ】て、もてなし奉る
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事もおはせざりしを、入道相国の北の方、
八条の二位殿「くP2122るしかる【苦しかる】まじ。われそだてまい
らせ【参らせ】て、まうけの君にしたてまつら【奉ら】ん」とて、御めのと
どもあまたつけて、そだてまいらせ【参らせ】給ひけり。中
にも四の宮は、二位殿のせうと、法勝寺執行能円
法印のやしなひ君にてぞ在ましける。法印
平家に具せられて、西国へ落し時、あまりにあはて【慌て】
さはひで、北方をも宮をも京都にすて【捨】をきまいらせ【参らせ】て、
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下られたりしが、西国よりいそぎ人をのぼせて、
「女房・宮具しまいらせ【参らせ】て、とくとく【疾く疾く】くだり給べし」と
申されたりければ、北方なのめならず悦、宮いざ
なひまいらせ【参らせ】て、西七条なる所まで出られたりしを、
女房のせうと紀伊守教光【*範光】、「是は物のつゐ【付い】て
くるひ給ふか。此宮の御運は只今ひらけさせ給はん
ずる物を」とて、とりとどめ【留め】まいらせ【参らせ】たりける次の
日ぞ、法皇より御むかへ【向へ】の車はまいり【参り】たりける。
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何事もしかる【然る】べき事と申ながら、四の宮の御
ためには、紀伊守教光【*範光】奉公の人とぞ見えたり
ける。されども四の宮位につかせ給ひて後、その
なさけをもおぼしめし【思し召し】いでさせ給はず、朝恩も
なくして歳月を送りけるが、せめての思ひの
あまりにや、二首の歌をようで、禁中に
落書をぞしたりける。
一声はおもひ【思ひ】出てなけほととぎす
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おいそ【老蘇】の森の夜半のむかしを W059
籠のうちもなを【猶】うらやまし山がらの
身のほどかくすゆふがほのやど W060 P2123
主上是を叡覧あて、「あなむざんや、さればいまだ
世にながらへ【永らへ】てあり【有り】けるな。けふまで是をおぼし
めし【思し召し】よらざりけるこそをろか【愚】なれ」とて、朝恩
かうぶり、正三位に叙せられけるとぞきこえし。
名虎S0802同八月十日、院の殿上にて除目おこなはる。木曾は
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左馬頭になて、越後国を給はる。其上朝日の
将軍といふ院宣を下されけり。十郎蔵人は
備後守になる。木曾は越後きらへば、伊与【*伊予】を
たぶ。十郎蔵人備後をきらへば、備前をたぶ。
其外源氏十余人、受領・検非違使・靭負尉・兵衛
尉になされけり。同十六日、平家の一門百六十
余人が官職をとどめ【留め】て、殿上のみふだをけづらる。
其中に平大納言時忠〔卿〕・内蔵頭信基・讃岐
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中将時実、これ三人はけづられず。それは
主上并に三種の神器、都へ帰しいれ【入れ】奉るべき
よし、彼時忠の卿のもとへ、度々院宣を下され
けるによて也。同八月十七日、平家は筑前国
三かさ【三笠】の郡太宰府にこそ着給へ。菊池二郎
高直は都より平家の御供に候けるが、「大津山の
関あけてまいらせ【参らせ】ん」とて、肥P2124後国にうちこえて、
をのれ【己】が城にひ【引つ】こもり、めせ【召せ】どもめせ【召せ】どもまいら【参ら】ず。当時は
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岩戸の諸境大蔵種直ばかりぞ候ける。九国二
島の兵どもやがてまいる【参る】べきよし領状をば申ながら、
いまだまいら【参ら】ず。平家安楽寺へまい【参つ】て、歌よみ
連歌して宮づかひ【仕ひ】給ひしに、本三位中将
重衡卿、
すみなれしふるき宮こ【都】の恋しさは
神もむかしにおもひ【思ひ】しる【知る】らむ W061
人々是をきいてみな涙をながされけり。同廿日
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法皇の宣命にて、四宮閑院殿にて位につかせ
給ふ。摂政はもとの摂政近衛殿かはらせ給はず。頭
や蔵人なしをきて、人々退出せられけり。三宮の
御めのとなきかなしみ、後悔すれども甲斐ぞ
なき。「天に二の日なし、国にふたりの王なし」と申
せども、平家の悪行によてこそ、京・田舎にふたりの
王は在ましけれ。昔文徳天皇は、天安二年
八月廿三日にかくれさせ給ひぬ。御子の宮達あまた
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位に望をかけて在ますは、内々御祈どもあり【有り】けり。一の
御子惟高【*惟喬】親王をば小原の王子とも申き。王者
の財領を御心にかけ、四海の安危は掌の中に
照し、百王の理乱は心のうちにかけ給へり。されば
賢聖の名をもとらせましましぬべき君なりと
見え給へり。二宮惟仁親王は、其比の執柄忠仁
公の御娘、染殿のP2125后の御腹也。一門公卿列して
もてなし奉り給ひしかば、是も又さしをきがたき
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御事也。かれは守文継体の器量あり、是は
万機輔佐の心操あり。かれもこれもいたはし
くて、いづれもおぼしめし【思し召し】わづらはれき。一宮惟高【*惟喬】
親王の御祈は、柿下の紀僧正信済とて、東寺の
一の長者、弘法大師の御弟子也。二宮惟仁の
親王の御祈は、外祖忠仁公の御持僧比叡山の
恵良【*恵亮】和尚ぞうけ給はら【承ら】れける。「互におとらぬ高
僧達也。とみに事ゆきがたうやあらんずらん」と、
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人々ささやきあへり。御門かくれさせ給ひしかば、
公卿僉議あり。「抑臣等がおもむぱかりをもてゑらび【選び】て
位につけ奉らん事、用捨私あるにに【似】たり。万人
脣をかへすべし。しら【知ら】ず、競馬相撲の節をと
げて、其運をしり【知り】、雌雄によて宝祚をさづ
けたてまつる【奉る】べし」と儀定畢ぬ。同年の九月
二日、二人の宮達右近馬場へ行げい【行啓】あり。ここに
王公卿相、花の袂をよそほひ、玉のくつばみを
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ならべ、雲のごとくにかさなり、星のごとくにつら
なり給ひしかば、此事希代の勝事、天下の
荘観、日来心をよせ奉し月卿雲客両方に引
わかて、手をにぎり心をくだき給へり。御祈の
高僧達、いづれかそらく【粗略】あらむや。信済は東寺に
壇をたて、恵良【*恵亮】は大内の真言院に壇をたてて
おこなはれけるに、恵良【*恵亮】和尚うせたりといふ
披露をなす。信済僧正たゆP2126む心もやあり【有り】けん。
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恵良【*恵亮】はうせたりといふ披露をなし、肝胆を
くだひて祈られけり。既に十番競馬はじまる。
はじめ四番、一宮惟高【*惟喬】親王かたせ給ふ。後
六番は二宮惟仁親王かたせ給ふ。やがて相撲の
節あるべしとて、惟高【*惟喬】の御方よりは名虎の右兵
衛督とて、六十人がちから【力】あら【顕】はしたるゆゆしき
人をぞいだされたる。惟仁親王家よりは能雄の少将
とて、せいちい【小】さうたえ【妙】にして、片手にあふべしとも
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見えぬ人、御夢想の御告ありとて申うけてぞ
いでられたる。名虎・能雄よりあふ【逢う】て、ひしひしとつま
どりしての【退】きにけり。しばしあて名虎能雄の
少将をとてささげて、二丈ばかりぞなげたりける。ただ
なを【直つ】てたをれ【倒れ】ず。能雄又つとより、ゑい声をあ
げて、名虎をとてふせむとす。名虎もともに声
いだして、能雄をとてふせむとす。いづれおと
れりとも見えず。されども、名虎だい【大】の男、かさに
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まはる。能雄はあぶなう見えければ、二宮惟仁家の
御母儀染殿の后より、御使櫛のは【歯】のごとく
はしり【走り】かさなて、「御方すでにまけ色にみゆ。いかが
せむ」と仰ければ、恵良【*恵亮】和尚大威徳の法を修せ
られけるが、「こは心うき事にこそ」とて独古【*独鈷】をもて
なづき【脳】をつきくだき、乳和して護摩にたき、
黒煙をたててひともみもまれたりければ、能雄す
まうにかちにけり。親王位につかせ給ふ。清和の
P07183
御門是也。後には水尾天皇とぞ申ける。
それよりP2127してこそ山門には、いささかの事にも、
恵良【*恵亮】脳をくだきしかば、二帝位につき給ひ、
尊意智剣を振しかば、菅丞納受し給ふ
とも伝へたれ。是のみや法力にてもあり【有り】けむ。其外
はみな天照大神の御ぱからひとぞ承はる。平家は
西国にて是をつたへきき、「やすからぬ。三の宮をも
四の宮をもとりまいらせ【参らせ】て、落くだるべかりし
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物を」と後悔せられければ、平大納言時忠卿、「さらむ
には、木曾が主にしたてま【奉つ】たる高倉宮御子を、御めのと
讃岐守重秀が御出家せさせ奉り、具し
まいらせ【参らせ】て北国へ落くだりしこそ、位にはつかせ
給はんずらめ」との給へば、又或人々の申されけるは、
「それは、出家の宮をばいかが位にはつけたてまつる【奉る】
べき」。時忠「さもさうず。還俗の国王のためし【例】、
異国にも先蹤あるらむ。我朝には、まづ天武天皇
P07185
いまだ東宮の御時、大伴の皇子にはばからせ
給ひて、鬢髪をそり、芳野の奥にしのば【忍ば】せ
給ひたりしかども、大伴の皇子をほろぼして、
つゐに【遂に】は位につかせ給ひき。孝謙天皇も、大
菩提心をおこし、御かざりをおろさせ給ひ、御名をば
法幾尓と申しかども、ふたたび位につゐ【即い】て
称徳天皇と申しぞかし。まして木曾が主に
したてまつり【奉り】たる還俗の宮、子細あるまじ」とぞ
P07186
の給ひける。同九月二日、法皇より伊勢へ公卿の
勅使をたてらる。勅使は参議長教とぞP2128聞えし。
太政天皇の、伊勢へ公卿の勅使をたてらるる
事は、朱雀・白河・鳥羽三代の蹤跡ありと
いへども、是みな御出家以前なり。御出家以後の
例は是はじめとぞ承る。緒環S0803 さる程に、筑紫には
内裏つくるべきよし沙汰ありしかども、いまだ宮
こ【都】も定められず。主上は岩戸の諸境大蔵の種直が
P07187
宿所にわたらせ給ふ。人々の家々は野中田なか【田中】
なりければ、あさ【麻】の衣はうたねども、とをち【十市】の里とも
いつべし。内裏は山のなかなれば、かの木の丸殿も
かくやとおぼえて、中々ゆう【優】なる方もあり【有り】けり。
まづ宇佐宮へ行幸なる。大郡司公道が宿所
皇居になる。社頭は月卿雲客の居所になる。庭
上には四国鎮西の兵ども、甲冑弓箭を帯して
雲霞のごとくになみゐたり。ふりにしあけ【朱】の
P07188
玉垣、ふたたびかざるとぞ見えし。七日参籠の
あけがたに、大臣殿の御ために夢想の告ぞあり
ける。御宝殿の御戸をし【押し】ひらきゆゆしく
けだかげなる御こゑ【声】にて、
世のなかのうさには神もなきものを
なにいのるらん心づくしに W062 P2129
大臣殿うちおどろき、むねうちさはぎ【騒ぎ】、
さりともとおもふ心もむし【虫】のね【音】も
P07189
よはり【弱り】はてぬる秋の暮かな W063
といふふる歌【古歌】をぞ心ぼそげに口ずさみ給ける。
さる程に九月も十日あまりになりにけり。荻の葉
むけの夕嵐、ひとりまろねの床のうへ、かたしく
袖もしほれ【萎れ】つつ、ふけゆく秋のあはれ【哀】さは、いづくも
とはいひながら、旅の空こそ忍がたけれ。九月十三
夜は名をえたる月なれども、其夜は宮こ【都】を思ひ
いづる涙に、我からくも【曇】りてさやかならず。九重の
P07190
雲のうへ、久方の月におもひ【思ひ】をのべしたぐひも、
今の様におぼえて、薩摩守忠教【*忠度】
月を見しこぞのこよひの友のみや
宮こ【都】にわれをおもひ【思ひ】いづらむ W064
修理大夫経盛
恋しとよこぞのこよひの夜もすがら
ちぎりし人のおもひ【思ひ】出られて W065
皇后宮亮経正
P07191
わけてこし野辺の露ともきえずして
おもは【思は】ぬ里の月を見るかな W066
豊後国は刑部卿三位頼資卿の国なりけり。
子息[B 頼]経朝臣を代官にをか【置か】れたり。京より頼経の
もとへ、平家は神明にもはなたれたてまつり【奉り】、君
にも捨られまいらせ【参らせ】て、帝都をいで、浪の上に
ただよふおち人となれり。しかる【然る】を、鎮P2130西の者共が
うけ【受け】と【取つ】て、もてなすなるこそ奇怪くわい)なれ、当国に
P07192
おいてはしたがふ【従ふ】べからず。一味同心して追出すべき
よし、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、頼経朝臣是を
当国の住人、緒方三郎維義に下知す。彼維義は
おそろしき【恐ろしき】ものの末なりけり。たとへば、豊後国の
片山里に昔をんな【女】あり【有り】けり。或人のひとりむ
すめ、夫もなかりけるがもとへ、母にもしら【知ら】せず、男
よなよな【夜な夜な】かよふ程に、とし月もかさなる程に、身も
ただならずなりぬ。母是をあやしむで、「汝がもとへ
P07193
かよふ者は何者ぞ」ととへば、「く【来】るをば見れども、帰るをば
しら【知ら】ず」とぞいひける。「さらば男の帰らむとき、しる
しを付て、ゆかむ方をつなひで見よ」とをしへ
ければ、むすめ母のをしへにしたがて、朝帰する
男の、水色の狩衣をきたりけるに、狩衣の頸かみに
針をさし、しづ【賎】のをだまき【緒環】といふものを付て、
へ【経】てゆくかたをつなひでゆけば、豊後国に
とても日向ざかひ、うばだけといふ嵩のすそ、
P07194
大なる岩屋のうちへぞつなぎいれ【入れ】たる。をんな
岩屋のくちにたたずんできけば、おほき【大き】なるこゑ【声】
してによびけり。「わらはこそ是まで尋まいり【参り】
たれ。見参せむ」といひければ、「我は是人のすがたには
あらず。汝すがたを見ては肝たましゐ【魂】も身に
そふまじきなり。とうとう【疾う疾う】帰れ。汝がはらめる子は男
子なるべし。弓矢打物とて九州二島にならぶ
者もP2131あるまじきぞ」と〔ぞ〕いひける。女重て申けるは、
P07195
「たとひいかなるすがたにてもあれ、此日来のよしみ
何とてかわするべき。互にすがたをも見もし見えむ」と
いはれて、さらばとて、岩屋の内より、臥だけは
五六尺、跡枕べは十四[B 五]丈もあるらむとおぼゆる
大蛇にて、動揺してこそはひ【這ひ】出たれ。狩衣の
くびかみにさすとおもひ【思ひ】つる針は、すなはち大
蛇ののぶゑ(のどぶえ)にこそ[B さ]いたりけれ。女是を見て肝
たましゐ【魂】も身にそはず、ひき具したりける所従
P07196
十余人たふれ【倒れ】ふためき、おめき【喚き】さけむ【叫ん】でにげさ
りぬ。女帰て程なく産をしたれば、男子にてぞ
あり【有り】ける。母方の祖父太大夫そだてて見むとて
そだてたれば、いまだ十歳にもみたざるに、せいおほ
き【大き】にかほながく、たけ【丈】たかかり【高かり】けり。七歳にて元服
せさせ、母方の祖父を太大夫といふ間、是をば大太と
こそつけたりけれ。夏も冬も手足におほき【大き】
なるあかがりひまなくわれければ、あかがり大太と
P07197
ぞいはれける。件の大蛇は日向国にあがめられ給へる
高知尾の明神の神体也。此緒方の三郎はあ
かがり大太には五代の孫なり。かかるおそろしき【恐ろしき】
ものの末なりければ、国司の仰を院宣と号して、
九州二島にめぐらしぶみをしければ、しかる【然る】べき
兵ども維義に随ひつく。P2132 太宰府落S0804 平家いまは宮こ【都】をさだめ、
内裏つくるべきよし沙汰ありしに、維義が謀叛
と聞えしかば、いかにとさはが【騒が】れけり。平大納言時忠卿
P07198
申されけるは、「彼維義は小松殿の御家人也。
小松殿の君達一所むかは【向は】せ給ひて、こしらへて
御らんぜらるべうや候らん」と申されければ、「まこと【誠】にも」
とて、小松の新三位中将資盛卿、五百余騎で
豊後国にうちこえて、やうやうにこしらへ給へども、
維義したがひたてまつら【奉ら】ず。あまさへ【剰へ】「君達をも
只今ここでとりこめまいらす【参らす】べう候へども、「大事の
なかに小事なし」とてとりこめまいらせ【参らせ】ず候。なに
P07199
程の事かわたらせ給ふべき。とうとう太宰府へ
帰らせ給ひて、ただ御一所でいかにもならせ給へ」とて、
追帰し奉る。維義が次男野尻の二郎維村
を使者で、太宰府へ申けるは、「平家は重恩の
君にてましませば、甲をぬぎ弓をはづゐてま
いる【参る】べう候へども、一院の御定【*御諚】に速に追出し
まいらせよ【参らせよ】と候。いそぎ出させ給ふべうや候らん」と
申をく【送つ】たりければ、平大納言時忠卿、ひをぐくり【緋緒括】の
P07200
直垂に糸くず【糸葛】の袴立烏帽子で、維村にいで
むか【向つ】ての給ひけるは、「それ我君は天孫四十九世の
正統、仁王八十一代の御門なり。天照大神・正八幡
宮も我君をこそまもり【守り】P2133まいら【参ら】させ給ふらめ。
就中に、故太政大臣入道殿は、保元・平治両度の
逆乱をしづめ、其上鎮西の者どもをばうち様に
こそめされしか。東国・北国の凶徒等が頼朝・義仲
等にかたらはされて、しおほせたらば国をあづけう、
P07201
庄をたばんといふをまこととおもひ【思ひ】て、其鼻豊
後が下知にしたがはむ事しかる【然る】べからず」とぞの給ひ
ける。豊後の国司刑部卿三位頼資卿はきはめて
鼻の大におはしければ、かうはの給ひけり。維村帰て
父に此よしいひければ、「こはいかに、昔はむかし今は今、
其義ならば速かに追出したてまつれ【奉れ】」とて、勢そろ
ふるなど聞えしかば、平家の侍源大夫判官季定・
摂津判官守澄「向後傍輩のため奇怪くわい)に候。
P07202
めし【召し】とり候はん」とて、其勢三千余騎で筑後国
高野本庄に発向して、一日一夜せめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。
されども維義が勢雲霞のごとくにかさなりければ、
ちからをよば【及ば】で引しりぞく。平家は緒方三郎
維義が三万余騎の勢にて既によすと聞えしかば、
とる物もとりあへず太宰府をこそ落給へ。
さしもたのもしかり【頼もしかり】つる天満天神のしめ【注連】のほとりを、
心ぼそくもたちはなれ、駕輿丁もなければ、そう
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花【葱花】・宝輦はただ名のみききて、主上要輿にめさ
れけり。国母をはじめ奉て、やごとなき女房達、
袴のそばをとり、大臣殿以下の卿相・雲客、指貫の
そばをはさみ、水き【水城】の戸を出て、P2134かちはだしにて我
さきに前にと箱崎の津へこそ落給へ。おりふし【折節】くだる
雨車軸のごとし。吹風砂をあぐとかや。おつる涙、
ふる雨、わきていづれも見えざりけり。住吉・筥崎・
香椎・宗像ふしをがみ【拝み】、ただ主上旧都の還幸と
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のみぞ祈られける。たるみ山・鶉浜などいふ峨々
たる嶮難をしのぎ、渺々たる平沙へぞおもむき【赴き】
給ふ。いつならはしの御事なれば、御足よりいづる
血は沙をそめ、紅の袴は色をまし、白袴はすそ
紅にぞなりにける。彼玄弉三蔵の流砂・葱嶺を
凌がれけんくるしみ【苦】も、是にはいかでかまさるべき。
されどもそれは求法のためなれば、自他の利益も
あり【有り】けむ、是は怨敵のゆへ【故】なれば、後世のくるしみ【苦】
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かつおもふこそかなしけれ。新羅・百済・高麗・
荊旦、雲のはて海のはてまでも落ゆかばやとは
おぼしけれども、浪風むかふ【向う】てかなは【叶は】ねば、兵
藤次秀遠に具せられて、山賀の城にこもり給ふ。山
賀へも敵よすと聞えしかば、小舟どもにめし【召し】て、
夜もすがら豊前国柳が浦へぞわたり給ふ。ここに
内裏つくるべきよし汰汰ありしかども、分限なかり
ければつくられず、又長門より源氏よすと聞え
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しかば、海士のを【小】舟にとりのりて、海にぞうかび
給ひける。小松殿の三男左の中将清経は、
もとより何事もおもひいれ【思ひ入れ】たる人なれば、「宮こ
をば源氏がためにせめ【攻め】おとさ【落さ】れ、鎮西をば維義が
ために追出さる。網にかかP2135れる魚のごとし。いづくへ
ゆか【行か】ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつべき身にも
あらず」とて、月の夜心をす【澄】まし、舟の屋形に
立出でて、やうでう【横笛】ねとり【音取】朗詠してあそば【遊ば】れ
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けるが、閑かに経よみ念仏して、海にぞしづみ
給ひける。男女なきかなしめども甲斐ぞなき。
長門国は新中納言知盛卿の国なりけり。目代は
紀伊刑部大夫道資といふものなり。平家の
小舟どもにのり給へる由承て、大舟百余艘
点じて奉る。平家これに乗うつり四国の
地へぞわたられける。重能が沙汰として、四国の
内をもよほして、讃岐の八島にかたのやうなる
P07208
いた屋【板屋】の内裏や御所をぞつくらせける。其程は
あやしの民屋を皇居とするに及ばねば、舟を
御所とぞ定めける。大臣殿以下の卿相・雲客、
海士の篷屋に日ををくり【送り】、しづ【賎】がふしど【臥処】に夜を
かさね、竜頭鷁首を海中にうかべ、浪のうへの
行宮はしづかなる時なし。月をひたせる潮の
ふかき愁にしづみ、霜をおほへ【覆へ】る蘆の葉の
もろき命をあやぶむ。州崎にさはぐ【騒ぐ】千鳥
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の声は、暁恨をまし、そはゐにかかる梶の音、夜
半に心をいたましむ。遠松に白鷺のむれゐる
を見ては、源氏の旗をあぐるかとうたがひ、野
鴈の遼海になくを聞ては、兵どもの夜もす
がら舟をこぐかとおどろかる。清嵐はだえ【肌】をを
かし、翠黛紅顔の色やうやうおとろへ、蒼
波眼穿て、外都望郷のP2136涙をさへがたし。翠
帳紅閨にかはれるは、土生の小屋のあしすだれ【蘆簾】、
P07210
薫炉の煙にことなるは、蘆火たく屋のいやし
きにつけても、女房達つきせぬ物おもひ【思ひ】に
紅の涙せきあへねば、翠の黛みだれつつ、其人
とも見え給はず。征夷将軍院宣S0805 さる程に鎌倉の前右兵衛
佐頼朝、ゐながら征夷将軍の院宣を蒙る。
御使は左史生中原泰定とぞ聞えし。十月
十四日関東へ下着。兵衛佐の給けるは、「頼朝年
来勅勘を蒙たりし〔か〕ども、今武勇の名誉
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長ぜるによて、ゐながら征夷将軍の院宣を
蒙る。いかんが私でうけ【受け】とり【取り】奉るべき。若宮の
社にて給はらん」とて、若宮へまいり【参り】むかは【向は】れけり。
八幡は鶴が岡にたたせ給へり。地形石清水にた
がは【違は】ず。廻廊あり、楼門あり、つくり道十余町
見くだしたり。「抑院宣をばたれ【誰】してかうけ【受け】とり【取り】
奉るべき」と評定あり。「三浦介義澄してうけ【受け】
とり【取り】奉るべし。其故は、八ケ国に聞えたりし弓
P07212
矢とり、三浦平太郎為嗣が末葉也。其上父
大介は、君の御ために命をすてたる兵なれば、彼
義明が黄泉の迷暗をてらさむがため」とぞ聞え
し。P2137院宣の御使泰定は、家子二人、郎等十
人具したり。院宣をばふぶくろ【文袋】にいれ【入れ】て、雑色が
頸にぞかけさせたりける。三浦介義澄も家子
二人、郎等十人具したり。二人の家子は、和田三郎
宗実・比木【*比企】の藤四郎能員なり。十人の郎等を
P07213
ば大名十人して、俄に一人づつしたて【仕立て】けり。三浦の
介が其日の装束には、かち【褐】の直垂に、黒糸威の
鎧きて、いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる
大中黒の矢をひ【負ひ】、しげどうの弓脇にはさみ、
甲をぬぎ高ひもにかけ、腰をかがめて院宣を
うけ【受け】とる【取る】。泰定「院宣うけ【受け】とり【取り】奉る人はいか
なる人ぞ、名のれや」といひければ、三浦介とは
名のらで、本名を三浦の荒次郎義澄とこそ
P07214
なの【名乗つ】たれ。院宣をば、らん箱【乱箱】にいれ【入れ】られたり。兵衛
佐に奉る。ややあて、らんばこ【乱箱】をば返されけり。お
もかりければ、泰定是をあけて見るに、沙金百
両いれ【入れ】られたり。若宮の拝殿にして、泰定に
酒をすすめらる。斎院次官親義陪膳す。五
位一人役送をつとむ。馬三疋ひかる。一疋に鞍
をい【置い】たり。大宮のさぶらひたし工藤一臈資経【*祐経】是を
ひく。ふるき萱屋をしつらうて、いれ【入れ】られたり。
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あつ綿【厚綿】のきぬ二両、小袖十重、長持にいれ【入れ】て
まうけたり。紺藍摺白布千端をつめり。盃
飯ゆたかにして美麗なり。次日兵衛佐の
館へむかふ【向ふ】。内外に侍あり、ともに十六間なり。外
侍には家子P2138郎等肩をならべ、膝を組てなみ
ゐたり。内侍には一門源氏上座して、末座に
大名小名なみゐたり。源氏の座上に泰定をすへ【据ゑ】らる。
良あて寝殿へ向ふ。ひろ廂に紫縁の畳を
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しひて、泰定をすへ【据ゑ】らる。うへには高麗縁の畳
をしき、御簾たかくあげさせ、兵衛佐どの
出られたり。布衣に立烏帽子也。■大に、せいひ
き【低】かりけり。容■悠美にして、言語分明也。
「平家頼朝が威勢におそれ【恐れ】て宮こをおち【落ち】、その
跡に木曾の冠者、十郎蔵人うちいりて、わが
高名がほに官加階をおもふ様になり、おもふ
さまに国をきらひ申条、奇怪くわい)也。奥の秀衡が
P07217
陸奥守になり、佐竹四郎高義が常陸介に
なて候とて、頼朝が命にしたがはず。いそぎ追
討すべきよしの院宣を給はるべう候」。左史
生申けるは、「今度泰定も名符まいらす【参らす】べう
候が、御使で候へば、先罷上て、やがてしたためて
まいらす【参らす】べう候。おとと【弟】で候史の大夫重能も其義
を申候」。兵衛佐わら【笑つ】て、「当時頼朝が身として、
各の名符おもひ【思ひ】もよらず。さりながら、げにも申
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されば、さこそ存ぜめ」とぞの給ひける。軈今日
上洛すべきよし申ければ、けふばかりは、逗留
あるべしとてとどめ【留め】らる。次日兵衛佐の館へむかふ【向ふ】。
萌黄の糸威の腹巻一両、しろう【白う】つくたる太刀
一振、しげどうの弓、野矢そへてたぶ。馬十三疋
ひかる。三疋に鞍をひ【置い】たり。P2139家子郎等十二人に、直
垂・小袖・大口・馬鞍にをよび【及び】、荷懸駄卅疋あり【有り】けり。
鎌倉出の宿より鏡の宿にいたるまで、宿々に
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十石づつの米ををか【置か】る。たくさんなるによて、施行
にひきけるとぞ聞えし。猫間S0806 泰定都へのぼり院
参して、御坪の内にして、関東のやうつぶさに
奏聞しければ、法皇も御感あり【有り】けり。公卿
殿上人も皆ゑつぼにいり給へり。兵衛佐はかう
こそゆゆしくおはしけるに、木曾の左馬頭、都の
守護してあり【有り】けるが、たちゐの振舞の無骨
さ、物いふ詞つづきのかたくななることかぎりなし。
P07220
ことはり【理】かな、二歳より信濃国木曾といふ山里に、
三十まですみなれたりしかば、争かしる【知る】べき。或
時猫間中納言光高卿といふ人、木曾にの給ひ
あはすべきことあておはしたりけり。郎等ども
「猫間殿の見参にいり申べき事ありとて、
いらせ給ひて候」と申ければ、木曾大にわら【笑つ】て、
「猫は人にげんざうするか」。「是は猫間の中納言殿と
申公卿でわたらせ給ふ。御宿所の名とおぼえ
P07221
え候」と申ければ、木P2140曾「さらば」とて対面す。猶も
猫間殿とはえいはで、「猫殿のまれまれ【稀々】おはゐたるに、
物よそへ」とぞの給ひける。中納言是をきいて、
「ただいまあるべうもなし」との給へば、「いかが、けどき【食時】に
おはゐたるに、さてはあるべき」。何もあたらしき
物を無塩といふと心えて、「ここにぶゑん【無塩】のひらたけ【平茸】
あり、とうとう【疾う疾う】」といそがす。祢のゐ〔の〕小野太陪膳す。
田舎合子のきはめて大に、くぼかりけるに、飯うづ
P07222
だかくよそゐ、御菜三種して、ひらたけのしる【汁】で
まいらせ【参らせ】たり。木曾がまへにもおなじ体にてすへ【据ゑ】
たりけり。木曾箸とて食す。猫間殿は、合子の
いぶせさにめさざりければ、「それは義仲が精進
合子ぞ」。中納言めさでもさすがあしかるべければ、
箸とてめすよししけり。木曾是を見て、
「猫殿は小食におはしけるや。きこゆる【聞ゆる】猫おろし
し給ひたり。かい給へ」とぞせめたりける。中納言
P07223
かやうの事に興さめて、のたまひあはすべきこと
も一言もいださず、軈いそぎ帰られけり。木曾は、
官加階したるものの、直垂で出仕せん事ある
べうもなかりけりとて、はじめて布衣とり、装
束烏帽子ぎはより指貫のすそまで、まこと【誠】に
かたくななり。されども車にこがみのんぬ。鎧とてき、
矢かきをひ【負ひ】、弓もて、馬にのたるにはに【似】もにずわろ
かりけり。牛車は八島の大臣殿の牛車也。
P07224
牛飼もそなP2141りけり。世にしたがふ習ひなれば、
とらはれてつかは【使は】れけれ共、あまりの目ざまし
さに、すゑ【据ゑ】かう【飼う】たる牛の逸物なるが、門いづる
時、ひとずはへあてたらうに、なじかはよかるべき、
飛でいづるに、木曾、車のうちにてのけにたふ
れ【倒れ】ぬ。蝶のはねをひろげたるやうに、左右の袖をひ
ろげて、おきんおきんとすれども、なじかはおきらるべき。
木曾牛飼とはえいはで、「やれ子牛こでい、やれ
P07225
こうしこでい」といひければ、車をやれといふと心えて、
五六町こそあがかせたれ。今井の四郎兼平、
鞭あぶみをあはせて、お【追つ】つゐ【付い】て、「いかに御車をばかうは
つかまつるぞ」としかり【叱り】ければ、「御牛の鼻がこはう候」と
ぞのべたりける。牛飼なかなをり【仲直り】せんとや思けん、
「それに候手がたにとりつかせ給へ」と申ければ、木曾
手がたにむずととりつゐ【付い】て、「あぱれ支度や、是は
牛こでいがはからひか、殿のやう【様】か」とぞとふ【問う】たりける。
P07226
さて院御所にまいり【参り】つゐ【付い】て、車かけはづさせ、
うしろよりをり【降り】むとしければ、京者の雑色に
つかは【使は】れけるが、「車には、めされ候時こそうしろより
めされ候へ。をり【降り】させ給ふには、まへよりこそをり【降り】させ
給へ」と申けれども、「いかで車であらむがらに、す
どをり【素通り】をばすべき」とて、つゐに【遂に】うしろよりをり【降り】て
げり。其外おかしきこと共おほかり【多かり】けれども、おそれ【恐れ】て是を
申さず。P2142 水島合戦S0807 平家は讃岐の八島にありながら、山陽道
P07227
八ケ国、南海〔道〕六ケ国、都合十四箇国をぞうちとり
ける。木曾左馬頭是をきき、やすからぬ事なり
とて、やがてうつて【討手】をさしつかはす【遣す】。うつて【討手】の大将には
矢田判官代義清、侍大将には信濃国の住人
海野の弥平四郎行広、都合其勢七千余騎、
山陽道へ馳下り、備中国水島がとに舟をうかべて、
八島へ既によせむとす。同閏十月一日、水島が
とに小船一艘いできたり。あま舟釣舟かと見る
P07228
ほどに、さはなくして、平家方より朝の使舟なりけり。
是を見て源氏の舟五百余艘ほし【干し】あげたるを、お
めき【喚き】さけむ【叫ん】でおろしけり。平家は千余艘で
おしよせたり。平家の方の大手の大将軍には新中納言
知盛卿、搦手の大将軍には能登守教経なり。能登
殿のたまひけるは、「いかに者共、いくさ【軍】をばゆるに仕るぞ。
北国のやつばらにいけどら【生捕ら】れむをば、心うしとは
おもは【思は】ずや。御方の舟をばくめ【組め】や」とて、千余艘がとも
P07229
綱・へづなをくみあはせ、中にむやゐ【舫】をいれ【入れ】、あゆみ【歩み】
の板をひきならべひきならべわたひ【渡い】たれば、舟のうへはへいへい【平々】
たり。源平両方時つくり、矢合して、互に舟ども
おしあはせてせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。遠きをば弓でゐ【射】、近きP2143をば、
太刀できり、熊手にかけてとるもあり、とらるるも
あり、引組で海にいるもあり、さしちがへて死ぬるも
あり。思ひ思ひ心々に勝負をす。源氏の方の侍大将
海野の弥平四郎うた【討た】れにけり。是を見て大将軍
P07230
矢田の判官代義清[* 「義澄」と有るのを高野本により訂正]主従七人小舟に乗て、
真前さき)にすすで戦ふ程に、いかがしたりけむ、船ふみ
しづめて皆死にぬ。平家は鞍をき馬を舟のうちに
たてられたりければ、舟さしよせ、馬どもひきおろし、
うちのりうちのりおめい【喚い】てかけければ、源氏の勢、大将軍
はうた【討た】れぬ、われさきにとぞ落行ける。平家は
水島のいくさ【軍】に勝てこそ、会稽の恥をば雪め
けれ。瀬尾【*妹尾】最期S0808 木曾の左馬頭是をきき、やすからぬ事也
P07231
とて、一万騎で山陽道へ馳下る。平家の侍
備中国の住人妹尾太郎兼康は、北国の戦ひに、加賀国
住人倉光の次郎成澄が手にかかて、いけどり【生捕り】にせられ
たりしを、成澄が舎弟倉光の三郎成氏にあづけ
られたり。きこゆる【聞ゆる】甲の者、大ぢから也ければ、木曾殿
「あたらおのこをうしなふ【失なふ】べきか」とて、きら【斬ら】ず。人
あひ心ざまゆう【優】に情あり【有り】ければ、倉P2144光もねんごろに
もてなしけり。蘇子荊【*蘇子卿】が胡国にとらはれ、李少卿が
P07232
漢朝へ帰らざりしが如し。とをく【遠く】異国に付る事
は、昔の人のかなしめりし処也といへり。韋環【*■】・鴨【*毳】
の膜【*幕】もて風雨をふせき【防き】、腥【*羶】肉・駱【*酪】のつくり水もて
飢渇にあつ。夜るはいぬる事なく、昼は終日に
つかへ、木をきり草をからずといふばかりに随ひつつ、
いかにもして敵をうかがひ【伺ひ】打て、いま一度旧
主を見たて奉らんと思ひける兼康が心の程こそ
おそろしけれ【恐ろしけれ】。或時妹尾太郎、倉光の三郎に
P07233
あふ【逢う】て、いひけるは、「去五月より、甲斐なき命を
たすけられまいらせ【参らせ】て候へば、誰をたれとかおもひ【思ひ】
まいらせ【参らせ】候べき。自今以後御いくさ【軍】候ば、真前さき)かけ【駆け】
て木曾殿に命をまいらせ【参らせ】候はん。兼康が知行
仕候し備中の妹尾は、馬の草飼よい所で候。御
辺申て給はらせ候へ」といひければ、倉光此様を
申す。木曾殿「神妙の事申ごさんなれ。さらば汝
妹尾を案内者にして、先くだれ。誠に御馬の草
P07234
なんどをもかまへさせよ」との給へば、倉光三郎かし
こまり悦て、其勢卅騎ばかり、妹尾太郎をさきと
して、備中へぞ下ける。妹尾が嫡子小太郎宗康は、
平家の御方に候けるが、父が木曾殿よりゆるされ
て下るときこえしかば、年来の郎等どももよほし
あつめ、其勢五十騎ばかりでむかへ【向へ】にのぼる程に、
播磨[* 「幡磨」と有るのを高野本により訂正]の国府でゆきあふ【逢う】て、つれて下る。P2145備前国
みつ石の宿にとどま【留まつ】たりければ、妹尾がしたしき
P07235
者共、酒をもたせて出きたり。其夜もすがら悦
のさかもりしけるに、あづかりの武士倉光の三郎、
所従ともに卅余人、しゐ【強ひ】ふせ【臥せ】ておこしもたてず、
一々に皆さしころし【殺し】てげり。備前国は十郎蔵人
の国なり。其代官の国府にあり【有り】けるをも、をし【押し】よせ【寄せ】て
うてげり。「兼康こそいとま給て罷下れ、平家に
心ざし思ひまいらせ【参らせ】む人々は、兼康を先として、
木曾殿の下給ふに、矢ひとつゐ【射】かけ奉れ」と
P07236
披露しければ、備前・備中・備後三箇国の
兵ども、馬・物具しかる【然る】べき所従をば、平家の御方へ
まいらせ【参らせ】て、やすみける老者共、或は柿の直垂に
つめひも【詰紐】し、或は布の小袖にあづまおり【東折】し、
くさり腹巻つづりきて、山うつぼ・たかゑびら【竹箙】に
矢ども少々さし、かきをひ【負ひ】かきをひ【負ひ】妹尾が許へ馳集る。
都合其勢二千余人、妹尾太郎を先として、備
前国福りうじ【福隆寺】縄手、ささ【篠】のせまり【迫り】を城郭に
P07237
かまへ、口二丈ふかさ【深さ】二丈に堀をほり、逆もぎ引、
高矢倉かき、矢さきをそろへて、いまやいまやと待
かけたり。備前国に十郎蔵人のをか【置か】れたりし代
官、妹尾にうた【討た】れて、其下人共がにげて京へ上る
程に、播磨と備前のさかひふなさか【舟坂】といふ所にて、
木曾殿にまいり【参り】あふ。此由申ければ、「やすか
らぬ。きて捨べかりつる物を」と後悔せられけれP2146ば、
今井の四郎申けるは、「さ候へばこそ、きやつがつら
P07238
だましゐ【面魂】ただものとは見候はず。ちたび【千度】きらうど
申候つる物を、助けさせ給て」と申。「思ふに
何程の事かあるべき。追懸てうて【討て】」とぞの給ひ
ける。今井四郎「まづ下て見候はん」とて、三千
余騎で馳下る。ふくりう寺【福隆寺】縄手は、はたばり【端張】弓
杖一たけばかりにて、とをさ【遠さ】は西国一里也。左右は
深田にて、馬の足もをよば【及ば】ねば、三千余騎が心は
さきにすすめども、馬次第にぞあゆま【歩ま】せける。押
P07239
よせてみければ、妹尾太郎矢倉に立出て、大音
声をあげて、「去五月より今まで、甲斐なき
命を助られまいらせ【参らせ】て候をのをの【各々】〔の〕御芳志には、是を
こそ用意仕て候へ」とて、究竟きやう)のつよ弓勢兵
数百人すぐりあつめ、矢前をそろへてさし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざんにゐる【射る】。おもてを向べき様も
なし。今井四郎をはじめとして、楯・祢[B ノ]井・
宮崎三郎・諏方【*諏訪】・藤沢などいふはやりをの
P07240
兵ども、甲のしころをかたぶけて、射ころさ【殺さ】るる
人馬をとりいれ【入れ】ひきいれ【入れ】、堀をうめ、おめき【喚き】さ
けむ【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。或は左右の深田に打いれ【入れ】て、
馬のくさわき【草脇】・むながいづくし・ふと腹などにたつ
所を事ともせず、むら【群】めかいてよせ【寄せ】、或は谷ふけ
をも嫌はず、懸いり懸いり一日戦暮しけり。夜に
いりて妹尾が催しあつめたるかり【駆】武者共、皆
せめ【攻め】おとさ【落さ】れて、たすかる者はすくなう、うたるる
P07241
者ぞおほかり【多かり】ける。妹尾P2147太郎篠のせまり【迫り】の城
郭を破られて、引退き、備中国板倉川の
はた【端】に、かいだて【垣楯】かいて待懸たり。今井四郎軈をし【押し】
よせ【寄せ】責ければ、山うつぼ・たかゑびら【竹箙】に矢種のある
程こそふせき【防き】けれ、みな射つくしてげれば、
われさきにとぞ落行ける。妹尾太郎ただ主従
三騎にうちなされ、板倉川のはたにつゐ【着い】て、
みどろ山のかたへ落行程に、北国で妹尾いけ
P07242
どり【生捕り】にしたりし倉光[B ノ]次郎成澄、おとと【弟】はうた【討た】れ
ぬ、「やすからぬ事なり。妹尾においては又いけどり【生捕り】に
仕候はん」とて、群にぬけてをう【追う】てゆく。あはひ【間】一町
ばかりに追付て、「いかに妹尾殿、まさなう〔も〕敵に
うしろをば見する物かな。返せやかへせ」といはれて、
板倉川を西へわたす河中に、ひかへて待懸たり。
倉光馳来て、おしならべむずと組で、どうどおつ。
互におとらぬ大力なれば、うへになり、したになり、ころび
P07243
あふ程に、川岸に淵のあり【有り】けるにころびいりて、
倉光は無水練なり、妹尾はすぐれたる水練なり
ければ、水の底で倉光をとてをさへ、鎧の草摺
ひきあげ、つか【柄】もこぶし【拳】もとをれ【通れ】とをれ【通れ】と三刀さいて
頸をとる。我馬は乗損じたれば、敵倉光が馬に
乗て落行程に、妹尾が嫡子小太郎宗康、馬には
のらず、歩行にて郎等とつれ【連れ】て落行程に、い
まだ廿二三の男なれども、あまりにふとて一町とも
P07244
えはしら【走ら】ず、物具ぬぎすててあゆめ【歩め】どもかなは【叶は】ざり
けり。父は是をうち捨て、十余町こそ逃のび
たれ。P2148郎等にあふ【逢う】ていひけるは、「兼康は千万の敵に
むか【向つ】て軍するは、四方はれ【晴れ】ておぼゆるが、今度は
小太郎をすててゆけばにや、一向前がくらうて
見えぬぞ。たとひ兼康命いきて、ふたたび平家の御方へ
まいり【参り】たりとも、どうれい【同隷】ども「兼康いまは六十にあ
まりたる者の、いく程の命をおしう【惜しう】で、ただひとり
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ある子を捨ておち【落ち】けるやらん」といはれん事こそ
はづかしけれ」。郎等申けるは、「さ候へばこそ、御一
所でいかにもならせ給へと申つるはここ候。かへさ【返さ】せ
給へ」といひければ、「さらば」とて取てかへす【返す】。小太郎は足かばかり
はれ【腫れ】てふせ【臥せ】り。「なむぢがえお【追つ】つかねば、一所で打死せうどて
帰たるは、いかに」といへば、小太郎涙をはらはらとながい【流い】て、
「此身こそ無器量の者で候へば、自害をも仕候べきに、
我ゆへ【故】に御命をうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】む事、五逆
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罪にや候はんずらん。ただとうとう【疾う疾う】のびさせ給へ」と申
せども、「思ひきたるうへは」とて、やすむ処に、今井の
四郎まさきかけて、其勢五十騎ばかりおめい【喚い】て
追かけたり。妹尾太郎矢七[B ツ]八[B ツ]射のこしたるを、さし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】に射る。死生はしら【知ら】ず、やにはに
敵五六騎射おとす【落す】。其後打物ぬいて、先小
太郎が頸打おとし【落し】、敵の中へわていり、さんざん【散々】に戦ひ、
敵あまたうちとて、つゐに【遂に】打死してげり。郎等
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も主にちともおとらず戦ひけるが、大事の手
あまたをひ【負ひ】、たたP2149かひつかれて自害〔せんと〕しけるが、いけどり【生捕り】に
こそせられけれ。中一日あてしに【死に】にけり。是等主
従三人が頸をば、備中国鷺が森にぞかけたりける。
木曾殿是を見給ひて、「あぱれ剛の者かな。是をこそ
一人当千の兵ともいふべけれ。あたら者どもを助て
見で」とぞのたまひける。室山S0809 さる程に、木曾殿は
備中国万寿の庄にて勢ぞろへして、八島へ
P07248
既によせむとす。其間の都の留守にをか【置か】れたる
樋口次郎兼光、使者をたてて、「十郎蔵人殿
こそ殿のましまさぬ間に、院のきり人【切り人】して、やうやうに
讒奏せられ候なれ。西国の軍をば暫さしをか【置か】せ
給ひて、いそぎのぼらせ給へ」と申ければ、木曾「さらば」
とて、夜を日につゐ【継い】で馳上る。十郎蔵人あしかり
なんとやおもひ【思ひ】けむ、木曾にちがはむと丹波路に
さしかかて、播磨国へ下る。木曾は摂津国をへて、
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宮こ【都】へいる。平家は又木曾うたんとて、大将軍には
新中納言知盛卿・本三位中将重衡、侍大将には、
越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】・上総五郎兵衛忠光・悪七
兵衛景清・都合其P2150勢二万余人、千余艘の舟に
乗、播磨の地へおしわたりて、室山に陣をとる。
十郎蔵人、平家と軍して木曾と中なをり【仲直り】せん
とやおもひ【思ひ】けむ、其勢五百余騎で室山へこそ
をし【押し】よせ【寄せ】たれ。平家は陣を五[B ツ]にはる。一陣越中
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次郎兵衛盛次【*盛嗣】二千余騎、二陣伊賀平内左衛門
家長二千余騎、三陣上総五郎兵衛・悪七兵衛
三千余騎、四陣本三位中将重衡三千余騎、
五陣新中納言知盛卿一万余騎でかためらる。十
郎蔵人行家五百余騎でおめい【喚い】てかく。一陣越中
次郎兵衛盛次【*盛嗣】、しばらくあひしらう様にもて
なひて、中をさとあけてとをす。二陣伊賀平内
左衛門家長、おなじうあけてとをしけり。三陣上総
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五郎兵衛・悪七兵衛、ともにあけてとをしけり。四陣
本三位中将重衡卿、是もあけていれ【入れ】られけり。
一陣より五陣まで兼て約束したりければ、敵
を中にとりこめて、一度に時をどとぞつくりける。
十郎蔵人今は遁るべき方もなかりければ、たば
かられぬとおもひ【思ひ】て、おもて【面】もふらず、命もおし
ま【惜しま】ず、ここを最後とせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。平家の侍ども、
「源氏の大将にくめや」とて、我さきにとすすめども、さ
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すが十郎蔵人にをし【押し】ならべてくむ武者一騎も
なかりけり。新中納言のむねとたのま【頼ま】れたりける
紀七左衛門・紀八衛門・紀九郎などいふ兵ども、そこにて
皆十郎蔵人にうちとられぬ。かくして十郎蔵人、
五百余騎が纔に卅騎ばかりにうちなされ、
四方はP2151みな敵なり、御方は無勢なり、いかにして
のがる【逃る】べしとは覚えねど、おもひ【思ひ】きて雲霞の如
なる敵のなかをわてとをる【通る】。されども我身は手を
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をはず、家子郎等廿余騎大略手負て、播磨
国高砂より舟に乗、をし【押し】いだひ【出い】て和泉国にぞ
付にける。それより河内へうちこえて、長野
城にひ【引つ】こもる。平家は室山・水島二ケ度のいく
さ【軍】に勝てこそ、弥勢はつきにけれ。皷判官S0810 凡京中には
源氏みちみちて、在々所々にいりどりおほし【多し】。賀茂・
八幡の御領ともいはず、青田を苅てま草にす。
人の倉をうちあけて物をとり、持てとをる【通る】物
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をうばひとり、衣裳をはぎとる。「平家の都に
おはせし時は、六波羅殿とて、ただおほかたおそろし
かり【恐ろしかり】しばかり也。衣裳をはぐまではなかりし
物を、平家に源氏かへおとりしたり」とぞ人申
ける。木曾[B ノ]左馬頭のもとへ、法皇より御使あり。
狼籍【*狼藉】しづめよと仰下さる。御使は壱岐守朝親【*知親】が
子に、壱岐判官朝泰【*知康】といふ者也。天下にすぐれ
たる皷の上手であり【有り】ければ、時の人皷判官とぞ
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申ける。木曾対面して、先御返事を申さで、
「抑P2152わどのを皷判官といふは、よろづの人にうた【打た】れ
たうか、はられたうか」とぞとふ【問う】たりける。朝泰【*知康】返事
にをよば【及ば】ず、院御所に帰りまい【参つ】て、「義仲おこの者で
候。只今だいま)朝敵になり候なんず。いそぎ追討せさせ給
へ」と申ければ、法皇さらばしかる【然る】べき武士には仰
せで、山の座主・寺の長吏に仰られて、山・三井寺
の悪僧どもをめされけり。公卿殿上人のめされける
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勢と申は、むかへつぶて【向へ礫】・いんぢ【印地】、いふかひなき辻冠者
原・乞食法師どもなりけり。木曾左馬頭、院の御
気色あしうなると聞えしかば、はじめは木曾にした
がふたりける五畿内の兵ども、皆そむゐて院方へ
まいる【参る】。信濃源氏村上の三郎判官代、是も
木曾をそむゐて法皇へまいり【参り】けり。今井四郎申
けるは、「是こそ以外の御大事で候へ。さればとて十善帝王に
むかい【向ひ】まいらせ【参らせ】て、争か御合戦候べき。甲をぬぎ弓を
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はづゐて、降人にまいら【参ら】せ給へ」と申せば、木曾大に
いかて、「われ信濃を出し時、をみ【麻績】・あひだ【会田】のいくさ【軍】より
はじめて、北国には、砥浪山・黒坂・塩坂・篠原、西国には
福隆寺縄手・ささ【篠】のせまり【迫り】・板倉が城を責しか
ども、いまだ敵にうしろを見せず、たとひたとひ十善
帝王にてましますとも、甲をぬぎ、弓をはづいて
降人にはえこそまいる【参る】まじけれ。たとへば都の守護
してあらんものが、馬一疋づつかう【飼う】てのら【乗ら】ざるべきか。い
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くらもある田どもからせて、P2153ま草にせんを、あながちに
法皇のとがめ給ふべき様やある。兵粮米もな
ければ、冠者原共がかたほとりにつゐ【付い】て、時々いりどり
せんは何かあながちひが事【僻事】ならむ。大臣家や宮々の
御所へもまいら【参ら】ばこそ僻事ならめ。是は皷判官が
凶害とおぼゆるぞ。其皷め打破て捨よ。今度は
義仲が最後の軍にてあらむずるぞ。頼朝が帰
きかむ処もあり、軍ようせよ。者ども」とてう【打つ】たち【立ち】
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けり。北国の勢ども皆落下て、纔に六七千騎ぞ
あり【有り】ける。我軍の吉例なればとて、七手につくる。先今
井四郎兼平二千騎で、新熊野のかたへ搦手に
さしつかはす【遣す】。のこり六手は、をのをの【各々】がゐたらむ条里
小路より川原へいでて、七条河原にてひとつになれ
と、あひづ【合図】をさだめて出立けり。軍は十一月十九日の
朝なり。院御所法住寺殿にも、軍兵二万余人ま
いり【参り】こもり【籠り】たるよし聞えけり。御方のかさじるし【笠印】には、
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松の葉をぞ付たりたる。木曾法住寺殿の西門に
をし【押し】よせ【寄せ】て見れば、皷判官朝泰【*知康】軍の行事
うけ給【承つ】て、赤地の錦の直垂に、鎧はわざとき【着】ざりけり。
甲斗ぞきたりける。甲には四天をかいて、をし【押し】たり
けり。御所の西の築墻の上にのぼて立たりけるが、
片手にはほこ【矛】をもち、片手には金剛鈴をもて、金剛
鈴を打振打振、時々は舞おり【折】もあり【有り】けり。若き公卿
殿上人「風情なし。朝泰【*知康】には天狗ついたり」とぞわら
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は【笑は】れける。大音P2154声をあげて、「むかしは宣旨をむ
か【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さきみ【実】なり、
悪鬼悪神も随ひけり。末代ならむがらに、いかんが
十善帝王にむかひ【向ひ】まいらせ【参らせ】て弓をばひくべき。
汝等がはなたん矢は、返て身にあたるべし、ぬかむ
太刀は身をきるべし」などとののしりければ、木曾
「さないはせそ」とて、時をどとつくる。さる程に、搦手
にさしつかはし【遣し】たる樋口次郎兼光、新熊野の
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方より時のこゑ【声】をぞあはせたる。鏑のなかに火を入て、
法住寺殿の御所に射たて【立て】たりければ、おりふし【折節】
風ははげしし、猛火天にもえあが【上がつ】て、ほのを【炎】は虚空に
ひまもなし。いくさ【軍】の行事朝泰【*知康】は、人よりさきに
落にけり。行事がおつるうへは、二万余人の官軍
ども、我さきにとぞ落ゆきける。あまりにあはて【慌て】さは
い【騒い】で、弓とる者は矢をしら【知ら】ず、矢とる者は弓をしら【知ら】ず、
或は長刀さかさまについて、我足つきつらぬく
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者もあり、或は弓のはず物にかけて、えはづさで捨
てにぐる者もあり。七条がすゑは摂津国源氏の
かためたりけるが、七条を西へおち【落ち】て行。かねて【予て】軍
いぜん【以前】より、「落人のあらむずるをば、用意してうち
ころせ」と、御所より披露せられたりければ、在路の者共、
やねいに楯をつき、おそへの石をとりあつめて、待懸
たるところ【所】に、摂津国源氏のおち【落ち】けるを、「あはや落人
よ」とて、石をP2155ひろい【拾ひ】かけ、さんざん【散々】に打ければ、「これは院
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がたぞ、あやまち仕るな」といへども、「さないはせそ。
院宣であるに、ただ打ころせ打ころせ」とて打間、或は
馬をすてて、はうはう【這ふ這ふ】にぐる者もあり、或はうちこ
ろさ【殺さ】るるもあり【有り】けり。八条がすゑは山僧かためたり
けるが、恥あるものはうち死し、つれなきものは
おち【落ち】ぞゆく。主水正親〔成〕薄青の狩衣のしたに、
萌黄の腹巻をきて、白葦毛なる馬にのり、河
原をのぼりに落てゆく。今井四郎兼平を【追つ】かけ
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て、しや頸の骨を射てゐ【射】おとす。清大外記頼成が
子なりけり。「明経道の博士、甲冑をよろふ
事しかる【然る】べからず」とぞ人申ける。木曾を背て
院方へまい【参つ】たる信濃源氏、村上三郎判官代も
うた【討た】れけり。是をはじめて院方には、近江中将
為清・越前守信行も射ころされて頸とられぬ。
伯耆守光長・子息判官光経、父子共にうた【討た】
れぬ。按察大納言資方【*資賢】卿の孫播磨少将
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雅方【*雅賢】も、鎧に立烏帽子で軍の陣へいでられ
たりけるが、樋口次郎に生どりにせられ給ひぬ。
天台座主明雲大僧正、寺の長吏円慶法親王も、
御所にまいり【参り】こもらせ給ひたりけるが、黒煙既に
をしかけければ、御馬にめし【召し】て、いそぎ川原へ
いでさせ給ふ。武士どもさんざん【散々】に射たてまつる。
明雲大僧正、円慶法親王も、御馬よりゐ【射】おとさ【落さ】れて、
御頸とられさせ給ひP2156けり。豊後国司刑部卿
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三位頼資卿も、御所にまいり【参り】こもられたりけるが、
火は既にをし【押し】かけたり、いそぎ川原へ逃出給。
武士の下部共に衣裳皆はぎとられ、まぱだかで
たたれたり。十一月十九日のあしたなれば、河原の
風さこそすさまじかりけめ。三位〔の〕こじうとに越
前法眼性意といふ僧あり。其中間法師軍
見んとて河原へいでたりけるが、三位のはだかで
たたれたるに見あふ【逢う】て、「あなあさまし」とてはしり【走り】より、
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此法師は白小袖二[B ツ]に衣きたりけるが、さらば小袖を
もぬいできせたてまつれ【奉れ】かし、さはなくて、衣をひ
ぬいでなげかけたり。短き衣うつほにほうかぶて、
帯もせず。うしろさこそ見ぐるしかりけめ。白衣
なる法師どもに具しておはしけるが、さらばいそぎ
もあゆみ【歩み】給はで、あそこ爰に立とどまり、「あれは
たが家ぞ、是は何者が宿所ぞ、ここはいづくぞ」と、
道すがらとはれければ、見る人みな手をたたゐて
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わらひ【笑ひ】あへり。法皇は御輿にめし【召し】て他所へ御幸
なる。武士どもさむざむ【散々】に射たてまつる【奉る】。豊後少将
宗長、木蘭地の直垂に折烏帽子で供奉せら
れたりけるが、「是は法皇の御幸ぞ。あやまちつか
まつるな」との給へば、兵ども皆馬よりをり【降り】てかしこ
まる。「何者ぞ」と御尋あり【有り】ければ、「信濃国住人
矢島の四郎行綱」となのり【名乗り】申。P2157軈御輿に手かけま
いらせ【参らせ】、五条内裏にをし【押し】こめたてま【奉つ】て、きびしう
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守護し奉る。主上は池に船をうかべてめされ
けり。武士どもしきりに矢をまいらせ【参らせ】ければ、七条
侍従信清・紀伊守教光【*範光】御舟に候はれけるが、「是は
うちのわたらせ給ふぞ、あやまち仕るな」との
たまへば、兵ども皆馬よりをり【降り】てかしこまる。閑院
殿へ行幸なし奉る。行幸の儀式のあさまし
さ、申も中々をろか【愚】なり。法住寺合戦S0811 院方に候ける近江守
仲兼、其勢五十騎ばかりで、法住寺殿の西の門
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をかためてふせく【防く】処に、近江源氏山本冠者義
高馳来たり、「いかにをのをの【各々】は、誰をかばはんとて軍を
ばし給ふぞ。御幸も行幸も他所へなりぬとこそ
承はれ」と申せば、「さらば」とて、敵の大勢の中へおめ
い【喚い】てかけいり、さむざむ【散々】に、戦かひ、かけやぶてぞとをり【通り】ける。
主従八騎にうちなさる。八騎がうちに、河内のくさ
か【日下】党、加賀房といふ法師武者あり【有り】けり。白葦毛
なる馬の、きはめて口こはきにぞの【乗つ】たりける。「此馬が
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あまりひあひ【悲愛】で、乗たまるべしともおぼえ候P2158はず」と
申ければ、蔵人、「いでさらばわが馬に乗かへよ」とて、
栗毛なる馬のしたお【下尾】しろい【白い】に乗かへて、祢のゐ【根井】の
小野太が二百騎ばかりでささへたる川原坂の
勢の中へ、おめい【喚い】て懸いり、そこにて八騎が五騎は
うた【討た】れぬ。ただ主従三騎にぞなりにける。加賀房は
わが馬のひあい【悲愛】なりとて、主の馬に乗かへたれども、
そこにてつゐに【遂に】うた【討た】れにけり。源蔵人の家の子に、
P07273
信濃次郎蔵人仲頼といふ者あり。敵にをし【押し】へだ
て【隔て】られて、蔵人のゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず、栗毛なる馬の
したお【下尾】しろい【白い】がはしり【走り】いで【出で】たるを見て、下人を
よび【呼び】、「ここなる馬は源蔵人の馬とこそみれ【見れ】。はや
うた【討た】れけるにこそ。死なば一所で死なんとこそ契しに、
所々でうた【討た】れむことこそかなしけれ。どの勢の中へ
かいる【入る】と見つる」。「川原坂の勢のなかへこそ懸いらせ
給ひ候つるなれ。やがてあの勢の中より御馬も
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出きて候」と申ければ、「さらば汝はとうとう是より
帰れ」とて、最後のありさま故郷へいひつかはし【遣し】、
只一騎敵のなかへ懸いり、大音声あげて名
のり【名乗り】けるは、「敦実親王より九代の後胤、信濃
守仲重が次男、信濃次郎蔵人仲頼、生年
廿七歳。我とおもは【思は】む人々はよりあへや、見参せん」
とて、竪様・横様・くも手【蜘蛛手】・十文字に懸わり懸
まはり戦ひけるが、敵あまた打とて、つゐに【遂に】
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うち死してげり。蔵人是をば夢にもしら【知ら】ず、
兄[B ノ]河P2159内守・郎等一騎打具して、主従三騎、
南をさして落行程に、摂政殿の都をば軍に
おそれ【恐れ】て、宇治へ御出なりけるに、木幡山にて
追付たてまつる【奉る】。木曾が余党かとおぼしめし【思し召し】、
御車をとどめ【留め】て「何者ぞ」と御尋あれば、「仲兼、
仲信」となのり申。「こはいかに、北国凶徒かなとおぼし
めし【思し召し】たれば、神妙にまいり【参り】たり。ちかう候て
P07276
守護つかまつれ」と仰ければ、畏て承り、宇治の
ふけ【富家】殿までをくり【送り】まいらせ【参らせ】て、軈此人どもは、
河内へぞ落ゆきける。あくる廿日、木曾左馬頭
六条川原にう【打つ】た【立つ】て、昨日きるところ【所】の頸ども、
かけならべてしるひ【記い】たりければ、六百卅余人也。
其中に明雲大僧正・寺の長吏円慶法親王の
御頸もかからせ給ひたり。是を見る人涙を
ながさずといふことなし。木曾其勢七千余
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騎、馬の鼻を東がし)へむけ、天も響き大地もゆるぐ
程に、時をぞ三ケ度つくりける。京中又さはぎ【騒ぎ】
あへり。但是は悦の時とぞ聞えし。故少納言
入道信西の子息宰相長教、法皇のわたらせ給
五条の内裏にまい【参つ】て、「是は君に奏すべき事が
あるぞ。あけてとをせ【通せ】」とのたまへども、武士共ゆるし
たてまつら【奉ら】ず。力をよば【及ば】である小屋に立いり、
俄に髪そりおろし法師になり、墨染の衣袴
P07278
きて、「此上は何かくるしかる【苦しかる】べき、いれよ【入れよ】」との給へば、
其時ゆるし奉る。御前へまい【参つ】て、今度うた【討た】れ
給へるむねとの人々の事どもつぶさP2160に奏聞し
ければ、法皇御涙をはらはらとながさせ給ひて、「明
雲は非業の死にすべきものとはおぼしめさ【思し召さ】ざりつ
る物を。今度はただわがいかにもなるべかりける御
命にかはり【変り】けるにこそ」とて、御涙せきあへさせ給はず。
木曾、家子郎等召あつめて評定す。「抑義仲、
P07279
一天の君にむかひ【向ひ】奉て軍には勝ぬ。主上にや
ならまし、法皇にやならまし。主上にならうど
おもへ【思へ】ども、童にならむもしかる【然る】べからず。法皇になら
うど思へ共、法師にならむもをかしかるべし。よしよし
さらば関白にならう」ど申せば、手かきに具せられたる
大夫房覚明申けるは、「関白は大織冠の御末、藤
原氏こそならせ給へ。殿は源氏でわたらせ給ふに、
それこそ叶ひ候まじけれ」。「其上は力をよば【及ば】ず」とて、
P07280
院の御厩の別当にをし【押し】なて、丹波国をぞ知行
しける。院の御出家あれば法皇と申、主上のいまだ
御元服もなき程は、御童形にてわたらせ給ふを
しらざりけるこそうたてけれ。前関白松殿の姫君
とりたてま【奉つ】て、軈松殿の聟にをし【押し】なる。同十一月
廿三日、三条中納言朝方卿をはじめとして、卿相雲
客四十九人が官職をとどめ【留め】てお【追つ】こめ【籠め】奉る。平家の
時は四十三人をこそとどめ【留め】たりしに、是は四十九人なれば、
P07281
平家の悪行には超過せり。P2161さる程に、木曾が狼籍【*狼藉】
しづめむとて、鎌倉の前兵衛佐頼朝、舎弟蒲の
冠者範頼・九郎冠者義経をさしのぼせられけるが、
既に法住寺殿焼はらひ、院うちとり奉て天下
くらやみ【暗闇】になたるよし聞えしかば、左右なうのぼて
軍すべき様もなし。是より関東へ子細を申
さむとて、尾張国熱田大郡司が許におはしけるに、
此事うたへ【訴へ】んとて、北面に候ける宮内判官公朝・
P07282
藤内左衛門時成、尾張国に馳下り、此由一々次第に
うたへ【訴へ】ければ、九郎御曹司「是は宮内判官の関東へ
下らるべきにて候ぞ。子細しらぬ使はかへしとは
るるとき不審の残るに」との給へば、公朝鎌倉へ馳
下る。軍におそれ【恐れ】て下人ども皆落うせたれば、
嫡子の宮内どころ【所】公茂が十五になるをぞ具したり
ける。関東にまひ【参つ】て此よし申ければ、兵衛佐大に
おどろき、「まづ皷判官知泰【*知康】が不思議〔の〕事申いだして、
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御所をもやかせ、高〔僧〕貴僧をもほろぼしたてま【奉つ】たる
こそ奇怪くわい)なれ。知泰【*知康】においては既に違勅の者
なり。めし【召し】つかは【使は】せ給はば、かさねて御大事いでき候
なむず」と、宮こ【都】へ早馬をもて申されければ、皷
判官陳ぜんとて、夜を日についで、馳下る。兵衛佐
「しやつにめ【目】な見せそ、あひしらゐなせそ」との給へども、
日ごとに兵衛佐の館へむかふ【向ふ】。終に面目なくして、
宮こ【都】へ帰りのぼりけり。後には稲荷の辺なる所に、
P07284
命ばかりいき【生き】てすごしけるとぞ聞えし。P2162木曾[B ノ]左
馬頭、平家の方へ使者を奉て、「宮こ【都】へ御のぼり候へ。
ひとつになて東国せめ【攻め】む」と申たれば、大臣殿は
よろこばれけれども、平大納言・新中納言「さこそ世
すゑにて候とも、義仲にかたらはれて宮こ【都】へ帰り
いらせ給はむこと、しかる【然る】べうも候はず。十善帝王三種[B ノ]神
器を帯してわたらせ給へば、「甲をぬぎ、弓を
はづいて降人に是へまいれ【参れ】」とは仰候べし」と申
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されければ、此様を御返事ありしかども、木曾も
ちゐ奉らず。松殿入道殿許へ木曾をめし【召し】て
「清盛公はさばかりの悪行人たりしかども、希代の
大善根をせしかば、世をもをだしう廿余年
たもたりしなり。悪行ばかりで世をたもつ
事はなき物を。させるゆへ【故】なくとどめ【留め】たる人々
の官ども、皆ゆるすべき」よし仰られければ、
ひたすらのあらゑびすのやうなれども、した
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がひ奉て、解官したる人々の官どもゆるし
たてまつる【奉る】。松殿の御子師家のとのの、
其時はいまだ中納言中将にてましましける
を、木曾がはからひに、大臣摂政になし奉る。
おりふし【折節】大臣あかざりければ、徳大寺左大将
実定公の、其比内大臣でおはしけるをかり【借り】
たてま【奉つ】て、内大臣になし奉る。いつしか人の
口なれば、新摂政殿をばかるの大臣とぞ申
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ける。同十二月十日、法皇は五条内裏をいで
させ給ひて、大膳大夫成忠が宿所六P2163条西洞院へ
御幸なる。同十三日歳末の御修法あり【有り】
けり。其次に叙位除目おこなはれて、木曾が
はからひに、人々の官どもおもふさまに
なしをきけり。平家は西国に、兵衛佐は
東国に、木曾は宮こ【都】にはり【張り】おこなふ。前漢・
後漢の間、王まう【王莽】が世をうちとて、十八年おさめ【納め】
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たりしがごとし。四方の関々皆とぢたれば、
おほやけの御調物をもたてまつら【奉ら】ず。私の
年貢ものぼらねば、京中の上下の諸人、ただ
少水の魚にことならず。あぶな【危】ながら年
暮て、寿永も三とせになりにけり。
平家物語巻第八



入力者:荒山慶一

校正者:菊池真一

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