平家物語(龍谷大学本)巻第十二

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P12415 P2379
平家物語巻第十二
大地震S1201平家みなほろびはてて、西国もしづまりぬ。
国は国司にしたがひ【従ひ】、庄は領家のままなり。上下
安堵しておぼえし程に、同七月九日の午刻
ばかりに、大地おびたたしく【夥しく】うごいて良久し。
赤県のうち、白河のほとり、六勝寺皆やぶれ
くづる。九重の塔もうへ六重ふりおとす【落す】。得長
寿院も三十三間の御堂を十七間までふり【震り】
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たうす【倒す】。皇居をはじめて人々の家々、すべて
在々所々の神社仏閣、あやしの民屋、さながら
やぶれくづる。くづるる音はいかづちのごとく、
あがる塵は煙のごとし。天暗うして日の光も
見えず。老少ともに魂をけし、朝衆悉く心を
つくす。又遠国近国もかくのごとし。大地さけ[* 「さけん」と有るのを高野本により訂正]【裂け】
て水わきいで、磐石われて谷へまろぶ。山くづれ
て河をうづみ、海ただよひて浜をひたす。汀
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こぐ船はなみにゆられ、陸ゆく駒は足のたてど
をうしなへ【失へ】り。洪水みなぎり来らば、P2380岳に
のぼ【上つ】てもなどかたすからざらむ、猛火もえ来
らば、河をへだててもしばしもさん【去ん】ぬべし。
ただかなしかり【悲しかり】けるは大地振【*大地震】なり。鳥にあら
ざれば空をもかけりがたく、竜にあらざれば雲
にも又のぼりがたし。白河・六波羅、京中にうち
うづま【埋ま】れてしぬる【死ぬる】ものいくらといふかず【数】をしら【知ら】ず。
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四大衆【*四大種】の中に水火風は常に害をなせども、
大地にをいてはことなる変をなさず。こはいかに
しつる事ぞやとて、上下遣戸障子をたて、
天のなり地のうごくたびごとには、只今ぞし
ぬる【死ぬる】とて、こゑごゑ【声々】に念仏申おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事
おびたたし【夥し】。七八十・九十の者も世の滅するなど
いふ事は、さすがけふあすとはおもは【思は】ずとて、大に
驚さはぎ【騒ぎ】ければ、おさなき【幼き】もの共も是をきい【聞い】て、
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泣かなしむ事限りなし。法皇はそのおり【折】しも
新熊野へ御幸なて、人多くうちころさ【殺さ】れ、触
穢いできにければ、いそぎ六波羅殿へ還御なる。
道すがら君も臣もいかばかり御心をくだかせ給
ひけん。主上は鳳輦にめし【召し】て池の汀へ行幸なる。
法皇は南庭にあく屋【幄屋】をたててぞましましける。
女院・宮々は御所共皆ふり【震り】たおし【倒し】ければ、或御輿に
めし【召し】、或御車にめし【召し】て出させ給ふ。天文博士ども
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馳まい【参つ】て、「よさりの亥子の刻にはかならず大地
うち返すべし」と申せば、おそろし【恐ろし】などもをろ
か【愚】なり。昔文徳天皇の御宇、斉衡三年三月八
日の大地振【*大地震】には、東大寺の仏の御くしをP2381ふりおとし【落し】
たりけるとかや。又天慶二年四月五日の大地振【*大地震】には、
主上御殿をさて常寧殿[* 「清寧殿」と有るのを他本により訂正]の前に五丈のあく屋【幄屋】を
たててましましけるとぞうけ給[B は]る【承る】。其は上代の
事なれば申にをよば【及ば】ず。今度の事は是より後も
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たぐひあるべしともおぼえず。十善帝王
都を出させ給て、御身を海底にしづめ、大臣公卿
大路をわたしてその頸を獄門にかけらる。昔
より今に至るまで、怨霊はおそろしき【恐ろしき】事なれば、
世もいかがあらんずらむとて、心ある人の歎かなし
まぬはなかりけり。紺掻之沙汰S1202 同八月廿二日、鎌倉の源二位
頼朝卿の父、故左馬頭義朝のうるはしき
かうべとて、高雄の文覚上人頸にかけ、鎌田兵衛
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が頸をば弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下られ
ける。去治承四年のころとり【取り】いだし【出し】てたてま【奉つ】
たりけるは、まこと【誠】の左馬頭のかうべにはあらず、謀
反をすすめ奉らんためのはかり事に、そぞろなる
ふるい【古い】かうべをしろい【白い】布につつんでたてま【奉つ】たりける
に、謀反をおこし世をうちとて、一向父の頸と信ぜ
られけるところ【所】へ、又尋出してくだりけり。是は年
ごろ義朝の不便にしてめし【召し】つかは【使は】れける紺かき
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の男、年来獄門にP2382かけられて、後世とぶらふ人も
なかりし事をかなしんで、時の大理にあひ奉り、
申給はりとりおろして、「兵衛佐殿流人でおはす
れども、すゑたのもしき【頼もしき】人なり、もし世に出て
たづね【尋ね】らるる事もこそあれ」とて、東山円覚寺と
いふところにふかう【深う】おさめ【納め】てをき【置き】たりけるを、文覚
聞出して、かの紺かき男ともにあひ具して
下りけるとかや。けふ既に鎌倉へつくと聞えし
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かば、源二位片瀬河まで迎におはしけり。それより
色の姿になりて、泣々鎌倉へ入給ふ。聖をば大床に
たて、我身は庭に立て、父のかうべをうけ【受け】とり【取り】給ふ
ぞ哀なる。是を見る大名小名、みな涙をながさずと
いふ事なし。石巌のさがしきをきりはら【払つ】て、新
なる道場を造り、父の御為と供養じて、勝長寿
院と号せらる。公家にもかやうの事をあはれ【哀】と思
食て、故左馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈
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らる。勅使は左大弁兼忠とぞきこえ【聞え】し。頼朝
卿武勇の名誉長ぜるによて、身をたて家を
おこすのみならず、亡父聖霊贈官贈位に及けるこそ
目出けれ。平大納言被流S1203同九月廿三日、平家の余党の都にある
を、国々へつかはさ【遣さ】るべきよし、鎌倉殿P2383より公家へ
申されたりければ、平大納言時忠卿能登国、子息
讃岐中将時実上総国、内蔵頭信基安芸国、
兵部少輔正明隠岐国、二位僧都専信【*全真】阿波国、
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法勝寺執行能円備後国、中納言律師忠快
武蔵国とぞきこえ【聞え】し。或西海の波の上、或東
関の雲のはて、先途いづくを期せず、後会其期
をしら【知ら】ず。別の涙ををさへ【抑へ】て面々におもむか【赴か】れけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。そのなかに、平大納
言は建礼門院の吉田にわたらせ給ふところ【所】にまい【参つ】
て、「時忠こそせめ【責め】おもう【重う】して、けふ既に配所へおもむ
き【赴き】候へ。おなじみやこの内に候て、御あたりの御事共
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うけ給はら【承ら】まほしう候つるに、つゐに【遂に】いかなる御
ありさまにてわたらせ給候はんずらむと思をき
まいらせ【参らせ】候にこそ、ゆく空もおぼゆ【覚ゆ】まじう候へ」と、
なくなく【泣く泣く】申されければ、女院、「げにもむかしの名残
とては、そこばかりこそおはしつれ。今は哀をもかけ、
とぶらふ人も誰かはあるべき」とて、御涙せきあへ
させ給はず。此大納言と申は、出羽前司具信が
孫、兵部権大輔贈左大臣時信が子なり。故建
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春門院の御せうど【兄】にて、高倉の上皇の御外
戚なり。世のおぼえとき【時】のきら目出たかりき。入
道相国の北方八条の二位殿も姉にておはせし
かば、兼官兼職、おもひ【思ひ】のごとく心のごとし。されば
程なくあが【上がつ】て正二位の大納言にいたれり。P2384検非
違使別当にも三ケ度までなり給ふ。此人の庁
務のときは、窃盜強盗をばめし【召し】と【取つ】て、様もなく右
のかいな【腕】をば、うでなかより打おとし【落し】打おとし【落し】おい【追ひ】すて【捨て】
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らる。されば、悪別当とぞ申ける。主上并三種
神器みやこへ返し入奉るべきよし、西国へ
院宣をくだされたりけるに、院宣の御使花形が
つらに、浪がたといふやいじるし【焼印】をせられけるも、此
大納言のしわざなり。法皇も故女院の御せうど【兄】
なれば、御かたみに御覧ぜまほしうおぼしめし【思し召し】
けれども、か様【斯様】の悪行によて御憤あさから【浅から】ず。九
郎判官もしたしう【親しう】なられたりしかば、いかにも
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して申なだめ【宥め】ばやと思はれけれどもかなは【叶は】ず。
子息侍従時家とて、十六になられけるが、流罪
にももれ【漏れ】て、伯父の時光卿のもとにおはし
けり。母うへ帥のすけ【佐】どのとも【共】に大納言の袂に
すがり、袖をひかへて、今を限の名残をぞおし
み【惜しみ】ける。大納言、「つゐに【遂に】すまじき別かは」とこころ
づようはの給へども、さこそは悲うおもは【思は】れけめ。年
闌齢傾て後、さしもむつまじかりし妻子にも
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別はて、すみなれし都をも雲ゐのよそに
かへりみて、いにしへは名にのみ聞し越路の旅に
おもむき【赴き】、はるばると下り給ふに、「かれは志賀唐崎、
これは真野の入江、交田の浦」と申ければ、大納言
泣々詠じ給ひけり。
かへりこむことはかた田にひくあみの
目にもたまらぬわがなみだかな W092 P2385
昨日は西海の波の上にただよひて、怨憎懐苦
P12432
の恨を扁舟の内につみ、けふは北国の雪のしたに
埋れて、愛別離苦のかなしみを故郷の雲に
かさね【重ね】たり。土佐房被斬S1204 さる程に、九郎判官には、鎌倉殿より
大名十人つけられたりけれども、内々御不審を
蒙り給ふよし聞しかば、心をあはせて一人づつ
皆下りはて【果て】にけり。兄弟なるうへ、殊に父子の
契をして、去年の正月木曾義仲を追討
せしよりこのかた、度々平家を攻おとし【落し】、ことし
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の春ほろぼしはて【果て】て、一天をしづめ、四海をす
ます【澄ます】。勧賞おこなはるべき処に、いかなる子細
あてかかかる聞えあるらむと、かみ一人をはじめ
奉り、しも万民に至るまで、不審をなす。此事
は、去春、摂津国渡辺よりふなぞろへして八島へ
わたり給ひしとき、逆櫓たて【立て】うたて【立て】じの
論をして、大きにあざむかれたりしを、梶原遺
恨におもひ【思ひ】て常は讒言しけるによてなり。定謀
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反の心もあるらん、大名共さしのぼせ【上せ】ば、宇
治・勢田の橋をもひき、京中のさはぎ【騒ぎ】となて、
中々あしかり【悪しかり】なんとて、土佐房正俊【*昌俊】をめして、
「和僧のぼ【上つ】て物詣するやうにて、たばかてうて」と
の給ひければ、正俊【*昌俊】P2386畏てうけ給り【承り】、宿所へも帰
らず、御前をたてやがて京へぞ上りける。同九
月廿九日、土佐房都へついたりけれども、次日まで
判官殿へもまいら【参ら】ず。正俊【*昌俊】がのぼりたるよし
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聞給ひ、武蔵房弁慶をもてめされければ、
やがてつれ【連れ】てまいり【参り】たり。判官の給ひけるは、
「いかに鎌倉殿より御文はなきか」。「さしたる御事
候はぬ間、御文はまいらせ【参らせ】られず候。御詞にて申せ
と候しは、『「当時まで都に別の子細なく候事、
さて御渡候ゆへ【故】とおぼえ候。相構てよく守護せ
させ給へ」と申せ』とこそ仰せられ候つれ」。判官
「よもさはあらじ。義経討にのぼる御使なり。
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「大名どもさし上せば、宇治・勢田の橋をも
ひき、都鄙のさはぎ【騒ぎ】ともなて、中々あしかり【悪しかり】
なん。和僧のぼせ【上せ】て物詣する様にてたばかて
うて」とぞ仰付られたるらんな」との給へば、正俊【*昌俊】
大に驚て、「何によてか只今さる事の候べき。いささか
宿願によて、熊野参詣のために罷上て候」。そ
のとき判官の給ひけるは、「景時が讒言によて、
義経鎌倉へも入られず。見参をだにし給はで、
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おひ【追ひ】のぼせ【上せ】らるる事はいかに」。正俊【*昌俊】「其事はい
かが候らん、身にをいてはまたく御腹ぐろ候はず。起
請文[M 「記請文」とあり「記」をミセケチ「起」と傍書]をかき進べき」よし申せば、判官「とても
かうても鎌倉殿によしとおもは【思は】れたてま【奉つ】たら
ばこそ」とて、以外気しき【気色】あしげになり給ふ。
正俊【*昌俊】一旦の害をのがれ【逃れ】んがために、P2387居ながら七枚
の起請文[M 「記請文」とあり「記」をミセケチ「起」と傍書]をかいて、或やいてのみ、或社に納など
して、ゆり【許り】てかへり、大番衆にふれめぐらして
P12438
其夜やがてよせ【寄せ】んとす。判官は磯禅師といふ
白拍子のむすめ、しづか【静】といふ女を最愛せられ
けり。しづかもかたはらを立さる事なし。しづか申
けるは、「大路はみな武者でさぶらふなる。是より
催しのなからむに、大番衆の者どもこれほど
さはぐ【騒ぐ】べき様やさぶらふ。あはれ是はひる【昼】の起請[M 「記請」とあり「記」をミセケチ「起」と傍書]
法師のしわざとおぼえ候。人をつかはし【遣し】てみせ【見せ】
さぶらはばや」とて、六波羅の故入道相国のめし【召し】
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つかは【使は】れけるかぶろを三四人つかは【使は】れけるを、二人
つかはし【遣し】たりけるが、程ふるまで帰らず。「中々女はくる
しからじ」とて、はしたものを一人見せにつかはす【遣す】。
程なくはしり【走り】帰て申けるは、「かぶろとおぼしきものは
ふたりながら、土佐房の門にきりふせ【伏せ】られてさぶらふ。
宿所には鞍をき馬【鞍置き馬】どもひしとひ【引つ】たて【立て】て、大幕の
うちには、矢おひ【負ひ】弓はり【張り】、者ども皆具足して、
只今よせんといで立さぶらふ【候ふ】。すこし【少し】も物まうで
P12440
のけしきとは見えさぶらはず」と申ければ、判官
是をきい【聞い】て、やがてう【打つ】たち【立ち】給ふ。しづかきせなが【着背長】とて
なげかけ奉る。たかひも【高紐】ばかりして、太刀とて出給へば、
中門の前に馬に鞍をいてひ【引つ】たてたり。是に打
乗て、「門をあけよ」とて門あけさせ、今や今やと待
給ふ処に、しばしあてひた甲四五十騎門の前に
おしP2388よせて、時をどとぞつくりける。判官鐙ふば
り立あがり【上がり】、大音声をあげて、「夜討にも昼戦
P12441
にも、義経たやすう討べきものは、日本国に
おぼえぬものを」とて、只一騎おめい【喚い】てかけ給へば、
五十騎ばかりのもの共、中をあけてぞ通しける。
さる程に、江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶
などいふ一人当千の兵共、やがてつづゐ【続い】て攻戦。
其後侍共「御内に夜討いたり」とて、あそこのや
かたここの宿所より馳来る。程なく六七十騎
集ければ、土佐房たけくよせたりけれ共たた
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かふ【戦ふ】にをよば【及ば】ず。散々にかけちらさ【散らさ】れて、たすかる
ものはすくなう、うたるるものぞおほかり【多かり】ける。
正俊【*昌俊】希有にしてそこをばのがれ【逃れ】て、鞍馬の奥に
にげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なり
ければ、彼法師土佐房をからめて、次日判官の許へ
送りけり。僧正が谷といふ所にかくれ【隠れ】ゐたりけると
かや。正俊【*昌俊】を大庭にひ【引つ】すへ【据ゑ】たり。かちの直垂にす
ちやう頭巾【首丁頭巾】をぞしたりける。判官わら【笑つ】ての給ひ
P12443
けるは、「いかに和僧、起請にはうてたるぞ」。土佐房す
こしもさはが【騒が】ず、居なをり【直り】、あざわら【笑つ】て申けるは、
「ある事にかいて候へば、うてて候ぞかし」と申。「主
君の命をおもんじて、私の命をかろんず。こころ
ざしの程、尤神妙なり。和僧いのちおしく【惜しく】は鎌倉
へ返しつかはさ【遣さ】んはいかに」。P2389土佐房、「まさなうも御諚[* 「御定」と有るのを高野本により訂正]候
ものかな。おし【惜し】と申さば殿はたすけ【助け】給はんずるか。鎌
倉殿の「法師なれども、をのれ【己】ぞねらはんずる者」
P12444
とて仰せかうぶしより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。
なじかはとり返し奉るべき。ただ御恩にはとくとく
頸をめされ候へ」と申ければ、「さらばきれ」とて、六条川原に
ひき【引き】いだい【出い】てき【斬つ】てげり。ほめぬ人こそなかりけれ。判官都落S1205ここに
足立新三郎といふ雑色は、「きやつは下臈なれども以
外さかざかしいやつで候。めし【召し】つかい【使ひ】給へ」とて、判官にまい
らせ【参らせ】られたりけるが、内々「九郎がふるまひみてわれにしら
せよ」とぞの給ひける。正俊【*昌俊】がきらるるをみて、新
P12445
三郎夜を日についで馳下り、鎌倉殿に此由申
ければ、舎弟参河【*三河】守範頼を討手にのぼせ【上せ】給ふべ
きよし仰られけり。頻に辞申されけれ共、重てお
ほせられける間、力をよば【及ば】で、物具していとま申に
まいら【参ら】れたり。「わとのも九郎がまねし給ふなよ」と仰
られければ、此御詞におそれ【恐れ】て、物具ぬぎをきて京
上はとどまり給ぬ。全不忠なきよし、一日に
十枚づつの起請を、昼はかき、夜は御坪の内P2390にて
P12446
読あげ読あげ、百日に千枚の起請を書てまいらせ【参らせ】られ
たりけれども、かなは【叶は】ずして終にうた【討た】れ給ひ
けり。其後北条四郎時政を大将として、討手
のぼると聞えしかば、判官殿鎮西のかたへ落ばやと
おもひ【思ひ】たち給ふ処に、緒方三郎維義は、平家を九
国の内へも入奉らず、追出すほどの威勢のものなりければ、
判官「我にたのま【頼ま】れよ」とぞの給ひける。「さ候ば、御内候菊
地【*菊池】二郎高直は、年ごろの敵で候。給[B は]て頸を
P12447
きてたのま【頼ま】れまいらせ【参らせ】ん」と申。左右なうたう
だりければ、六条川原に引いだし【出し】てきてげり。
其後維義かひがひしう領状す。同十一月二日、
九郎大夫判官院御所へまい【参つ】て、大蔵卿泰経朝臣
をもて奏聞しけるは、「義経君の御為に奉公
の忠を致事、ことあたらしう初て申上にをよ
び【及び】候はず。しかる【然る】を頼朝、郎等共が讒言によて、義
経をうたんと仕候間、しばらく鎮西の方へ罷
P12448
下らばやと存候。院庁の御下文を一通下預候
ばや」と申ければ、法皇「此条頼朝がかへりきかん事
いかがあるべからむ」とて、諸卿に仰合られければ、「義経
都に候て、関東の大勢みだれ入候ば、京都〔の〕狼籍【*狼藉】
たえ【絶え】候べからず。遠国へ下候なば、暫其恐あらじ」と、
をのをの【各々】一同に申されければ、緒方三郎をめし【召し】て、
臼杵・戸次・松浦党、P2391惣じて鎮西のもの、義経を
大将として其下知にしたがふべきよし、庁の御
P12449
下文を給はてげれば、其勢五百余騎、あくる三日
卯刻に京都にいささかのわづらひ【煩ひ】もなさず、浪風
もたてずして下りにけり。摂津国源氏、太田太
郎頼基「わが門の前をとをしながら、矢一射かけ
であるべきか」とて、川原津といふ所にお【追つ】ついてせめ【攻め】
たたかふ【戦ふ】。判官は五百余騎、太田太郎は六十余騎にて
あり【有り】ければ、なかにとりこめ、「あますなもらす【漏らす】な」とて、
散々に攻給へば、太田太郎我身手おひ、家子郎等
P12450
おほく【多く】うたせ、馬の腹い【射】させて引退く。判官
頸どもきりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と悦
で、だいもつ【大物】の浦より船にの【乗つ】て下られけるが、折
節西のかぜはげしくふき、住吉の浦にうちあげ
られて、吉野のおくにぞこもりける。吉野法師に
せめ【攻め】られて、奈良へおつ。奈良法師に攻られて、又
都へ帰り入、北国にかかて、終に奥へぞ下られける。
都よりあひ具したりける女房達十余人、住吉
P12451
の浦に捨をきたりければ、松の下、まさごのうへに
袴ふみしだき、袖をかたしい【片敷い】て泣ふしたりけるを、
住吉神官共憐んで、みな京へぞ送りける。凡判
官のたのま【頼ま】れたりける伯父信太三郎先生義教【*義憲】・
十郎蔵人行家・緒方三郎維義が船共、浦々島々
に打よせられて、互にその行ゑ【行方】をしら【知ら】ず。忽に西の
かぜふきける事も、平家の怨霊P2392のゆへ【故】とぞお
ぼえける。同十一月七日、鎌倉の源二位頼朝卿の
P12452
代官として、北条四郎時政、六万余騎を相具して
都へ入、伊与【*伊予】守源義経・備前守同行家・信太
三郎先生同義教【*義憲】追討すべきよし奏聞し
ければ、やがて院宣をくだされけり。去二日は義経が申
うくる旨にまかせて、頼朝をそむくべきよし
庁の御下文をなされ、同八日は頼朝卿申状によて、
義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕に変
ずる世間の不定こそ哀なれ。吉田大納言の沙汰S1206さる程に、鎌倉殿
P12453
日本国の惣追補使【*惣追捕使】を給はて、反別に兵粮米を
宛行べきよし申されけり。朝の怨敵をほろ
ぼしたるものは、半国を給はるといふ事、無量義
経に見えたり。され共我朝にはいまだ其例なし。
「是は過分の申状なり」と、法皇仰なりけれ共、公卿
僉議あて、「頼朝卿の申さるる所、道理なかばなり」
とて、御ゆるされ【許され】あり【有り】けるとかや。諸国に守護を
をき、庄園に地頭を補せらる。一毛ばかりもかくる【隠る】
P12454
べき様なかりけり。鎌倉殿かやうの事人おほし【多し】と
いへ共、吉田大納言経房卿をもて奏聞せらP2393れ
けり。この大納言はうるはしい人と聞え給へり。
平家にむすぼほれたりし人々も、源氏の世の
つより【強り】し後は、或ふみ【文】をくだし、或使者をつかはし【遣し】、
さまざまにへつらひ給ひしか共、この人はさもし給
はず。されば平家の時も、法皇を鳥羽殿におし
こめまいらせ【参らせ】て、後院の別当ををか【置か】れしには、勘
P12455
解由小路[* 「勘解由少路」と有るのを高野本により訂正]中納言此経房卿二人をぞ後院の
別当にはなされたりける。権右中弁光房朝臣
の子也。十二の年父の朝臣うせ給ひしかば、みなし
子にておはせしか共、次第の昇進とどこほらず、
三事の顕要を兼帯して、夕郎の貫首をへ【経】、
参議・大弁・中納言・太宰帥、遂に正二位大納言に
至れり。人をばこえ【越え】給へども、人にはこえられ給はず。
されば人の善悪は錐袋をとおす【通す】とてかくれ【隠れ】なし。
P12456
ありがたかりし人なり。六代S1207北条四郎策に「平家の
子孫といはん人尋出したらん輩にをいては、
所望こふ【乞ふ】によるべし」と披露せらる。京中の
ものども、案内はしたり、勧賞蒙らんとて、尋
もとむるぞうたてき。かかりければ、いくらも尋
いだしたりけり。P2394下臈の子なれども、いろ【色】しろう【白う】
見めよきをばめし【召し】いだい【出い】て、「是はなんの中将殿の
若君、彼少将殿の君達」と申せば、父母なき【泣き】
P12457
かなしめども、「あれは介惜【介錯】が申候」。「あれはめのとが
申」なんどいふ間、無下におさなき【幼き】をば水に入、土
に埋み、少おとなしきをばおしころし【殺し】、さしころ
す。母がかなしみ、めのとがなげき、たとへんかたぞ
なかりける。北条も子孫さすが多ければ、是をいみじ
とは思はねど、世にしたがふならひ【習ひ】なれば、力をよば【及ば】ず。中
にも小松三位中将殿若君、六代御前とておはす
なり。平家の嫡々なるうへ、とし【年】もおとなしう
P12458
ましますなり。いかにもしてとり奉らむとて、
手をわけ【分け】てもとめ【求め】られけれども、尋かねて、既に
下らんとせられける処に、ある女房の六波羅に出
て申けるは、「是より西、遍照寺のおく、大覚寺と
申山寺の北のかた、菖蒲谷と申所にこそ、
小松三位中将殿の北方・若君・姫公おはしませ」と
申せば、時政頓て人をつけて、そのあたりをう
かがは【伺は】せける程に、或坊に、女房達おさなき【幼き】人
P12459
あまた、ゆゆしくしのび【忍び】たるてい【体】にてすまゐ【住ひ】けり。
籬のひまよりのぞきければ、白いゑのこ【犬子】の走出たる
をとらんとて、うつくしげなる若公【若君】の出給へば、めの
との女房とおぼしくて、「あなあさまし。人もこそ
見まいらすれ【参らすれ】」とて、いそぎひき【引き】入奉る。是ぞ一定
そにておはしますらむとおもひ【思ひ】、P2395いそぎ走帰て
かくと申せば、次の日北条かしこに打むかひ【向ひ】、四
方を打かこみ、人をいれ【入れ】ていはせけるは、「平家小松
P12460
三位中将殿の若君六代御前、是におはしますと
承はて、鎌倉殿の御代官に北条四郎時政と申
ものが御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。はやはや出しまいら【参らつ】させ
給へ」と申ければ、母うへ是を聞給ふに、つやつや
物もおぼえ給はず。斎藤五・斎藤六はしり【走り】ま
はて見けれども、武士ども四方を打かこみ、いづかたより
出し奉るべしともおぼえず。めのとの女房も
御まへにたふれ【倒れ】ふし、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずおめき【喚き】さけ
P12461
ぶ【叫ぶ】。日ごろはものをだにもたかく【高く】いはず、しのび【忍び】つつ
かくれ【隠れ】ゐたりつれども、今は家の中にありと
あるもの、こゑ【声】を調へて泣かなしむ。北条も是
をきい【聞い】て、よに心くるしげ【苦し気】におもひ【思ひ】、なみだ【涙】おし
のごい、つくづくとぞま【待つ】たりける。ややあてかさね【重ね】
て申されけるは、「世もいまだしづまり候はねば、しど
けなき事もぞ候とて、御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。別
の御事は候まじ。はやはや出しまいら【参らつ】させ給
P12462
へ」と申ければ、若君母うへに申されけるは、「つゐ
に【遂に】のがる【逃る】まじう候へば、とくとくいださせおはしませ。
武士共うち入てさがすものならば、うたてげ
なる御ありさまどもを見えさせ給ひなんず。
たとひまかり【罷り】出候とも、しばしも候はば、いとまこう【乞う】
てかへりまいり【参り】候はん。いたくな歎かせ給ひ候そ」
と、なぐさめ給ふこそいP2396とおしけれ。さてもあるべ
きならねば、母うへなくなく【泣く泣く】御ぐしかきなで、
P12463
ものき【着】せ奉り、既に出し奉らむとしたまひ
けるが、黒木のずず【数珠】のちいさう【小さう】うつくしいを
とりいだして、「是にていかにもならんまで、念仏
申て極楽へまいれ【参れ】よ」とて奉り給へば、若君是
をとて、「母御前にけふ既にはなれ【離れ】まいらせ【参らせ】なんず。
今はいかにもして、父のおはしまさん所へぞま
いり【参り】たき」との給ひけるこそ哀れなれ。是を
きい【聞い】て、御妹の姫君の十になり給ふが、「われも
P12464
ちち御前の御もとへまいら【参ら】む」とて、はしり【走り】出
給ふを、めのとの女房とりとどめ【留め】奉る。六代御前
ことしはわづかに十二にこそなり給へども、よのつ
ねの十四五よりはおとなしく、みめかたちゆう【優】に
おはしければ、敵によはげ【弱気】をみえ【見え】じと、おさふる袖の
ひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。さて御輿
にのり給ふ。武士ども前後左右に打かこ【囲ん】で出に
けり。斎藤五・斎藤六御輿の左右についてぞ
P12465
まいり【参り】ける。北条のりがへ【乗替】共おろしてのすれ【乗すれ】ども
のらず。大覚寺より六波羅までかちはだしに
てぞ走ける。母うへ・めのとの女房、天にあふぎ地に
ふしてもだえ【悶え】こがれ給ひけり。「此日ごろ平家の
子どもとりあつめ【集め】て、水にいるるもあり、土にう
づむ【埋む】もあり、おP2397しころし【殺し】、さしころし【殺し】、さまざまに
すときこゆれば、我子は何としてかうしなは【失は】ん
ずらん。すこし【少し】おとなしければ、頸をこそきら【斬ら】ん
P12466
ずらめ。人の子はめのとなどのもとにをきて、時々
見る事もあり。それだにも恩愛はかなしき【悲しき】
習ぞかし。况や是はうみおとし【落し】て後、ひとひ【一日】
かたとき【片時】も身をはなたず、人のもたぬものを
もちたるやうにおもひ【思ひ】て、朝ゆふふたりの中にて
そだて【育て】しものを、たのみ【頼み】をかけし人にもあかで
別しそののちは、ふたりをうらうへ【裏表】にをきて
こそなぐさみつるに、ひとりはあれどもひとりは
P12467
なし。けふより後はいかがせん。此三とせが間、よる
ひるきも【肝】心をけしつつ、おもひ【思ひ】まうけ【設け】つる
事なれども、さすが昨日今日とはおもひ【思ひ】よらず。
年ごろは長谷の観音をこそふかう【深う】たのみ【頼み】
奉りつるに、終にとられぬる事のかなしさよ。
只今もやうしなひ【失ひ】つらん」とかきくどき【口説き】、泣より
外の事ぞなき。さ夜もふけけれどむね【胸】せき
あぐる心ち【心地】して、露もまどろみ給はぬが、めの
P12468
との女房にの給ひけるは、「ただいまちとうちま
どろみたりつる夢に、此子がしろい【白い】馬にのりて
来りつるが、「あまりに恋しうおもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候へば、
しばしのいとま【暇】こう【乞う】てまいり【参り】て候」とて、そばにつ
いゐて、何とやらん、よにうらめしげ【恨めし気】に思ひて、さめざめ
と泣つるが、程なくうちおどろかれて、もしやとかた
はらをさぐれ【探れ】ども人もなし。夢なり共しばしも
あらで、さめぬるP2398事のかなしさよ」とぞかたり給ふ。
P12469
めのとの女房もなきけり。長夜もいとど明し
かねて、涙に床も浮ばかり也。限あれば、鶏人暁
をとなへて夜も明ぬ。斎藤六帰りまいり【参り】たり。
「さていかにやいかに」と問ひ給へば、「只今まではべち【別】
の御事も候はず。御文の候」とて、とりいだい【出い】て奉る。
あけて御らんずれば、「いかに御心ぐるしうおぼし
めされ候らむ。只今までは別の事も候はず。いつしか
たれだれも御恋しうこそ候へ」と、よにおとなし
P12470
やかにかき給へり。母うへ是を見給ひて、とかうの
事もの給ず。ふみをふところ【懐】に引入て、うつ
ぶしにぞなられける。誠に心の内さこそはおはし
けめとおしはから【推し量ら】れて哀なり。かくて遥に時刻
おしうつりければ、「時の程もおぼつかなう候に、帰まい
ら【参ら】ん」と申せば、母うへ泣々御返事かいてたう【賜う】で
けり。斎藤六いとま申て罷出。めのとの女房せ
めても心のあられずさに、はしり【走り】出て、いづくを
P12471
さすともなく、その辺を足にまかせてなき
ありく程に、ある人の申けるは、「此おくに高雄
といふ山寺あり。その聖文覚房と申人こそ、鎌
倉殿にゆゆしき大事の人におもは【思は】れまいらせ【参らせ】て
おはしますが、上臈の御子を御弟子にせんとて
ほしがら【欲しがら】るなれ」と申ければ、うれしき事をきき
ぬと思ひて、母うへにかく共申さず、ただP2399一人高
雄に尋入り、聖にむかひ【向ひ】奉て、「ち【血】のなかよりおほ
P12472
し【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】て、ことし十二にならせ給ひ
つる若君を、昨日武士にとられてさぶらふ【候ふ】。御命
こい【乞ひ】うけ【請け】まいらせ【参らせ】給ひて、御弟子にせさせ給ひ
なんや」とて、聖のまへにたふれ【倒れ】ふし、こゑ【声】もおしま【惜しま】ず
なきさけぶ【叫ぶ】。まこと【誠】にせんかたなげにぞ見えたり
ける。聖むざんにおぼえければ事の子細をとひ
給ふ。おきあが【上がつ】て泣々申けるは、「平家小松三位
中将の北方の、したしうまします人の御子を
P12473
やしなひ奉るを、もし中将の君達とや人
の申さぶらひけん、昨日武士のとりまいらせ【参らせ】て
まかり【罷り】さぶらひぬるなり」と申。「さて武士をば誰と
いひつる」。「北条とこそ申さぶらひつれ」。「いでいでさらば
行むかひ【向ひ】て尋む」とて、つきいで【出で】ぬ。此詞をたのむ【頼む】
べきにはあらね共、聖のかくいへば、今すこし【少し】人の心
ち【心地】いできて、大覚寺へかへりまいり【参り】、母うへにかくと
申せば、「身をなげに出ぬるやらんとおもひ【思ひ】て、我も
P12474
いかならん淵河にも身をなげんと思ひたれば」
とて、事の子細をとひ給ふ。聖の申つる様を
ありのままに語りければ、「あはれこい【乞ひ】うけ【請け】て、今一度
見せよかし」とて、手をあはせてぞなかれける。聖
六波羅にゆきむか【向つ】て、事の子細をとひ給ふ。北条申
けるは、「鎌倉殿のおほせに、「平家の子孫京中に多く
しのん【忍ん】でありときく。中にも小松三位中将のP2400子息、
中御門の新大納言のむすめの腹にありときく。
P12475
平家の嫡々なるうへ、年もおとなしかんなり。いかにも
尋いだし【出し】て失ふべし」と仰せを蒙て候しが、此
程すゑずゑのおさなき【幼き】人々をば少々取奉て候つれ共、
此若公【若君】は在所をしり奉らで、尋かねて既むな
しう【空しう】罷下らむとし候つるが、おもは【思は】ざる外、一昨日
聞出して、昨日むかへ【向へ】奉て候へども、なのめならず
うつくしうおはする間、あまりにいとおしくて、
いまだともかうもし奉らでをきまいらせ【参らせ】て候」
P12476
と申せば、聖、「いでさらば見奉らむ」とて、若公【若君】の
おはしける所へまい【参つ】て見まいらせ【参らせ】給へば、ふたへおり
もの【二重織物】の直垂に、黒木の数珠手にぬき【貫き】入ておは
します。髪のかかり、すがた、事がら、誠にあてに
うつくしく、此世の人とも見え給はず。こよひ
うちとけてね給はぬとおぼしくて、すこし【少し】
おもやせ給へるにつけて、いとど心ぐるしうらう
たくぞおぼえける。聖を御らんじて何とかおぼし
P12477
けん、涙ぐみ給へば、聖も是を見奉てすぞろに
墨染の袖をぞしぼりける。たとひ末の世に、いか
なるあた敵になるともいかが是を失ひ奉るべきと
かなしう【悲しう】おぼえければ、北条にの給ひけるは、「此若
君を見奉るに、先世の事にや候らん、あまりに
いとおしうおもひ【思ひ】奉り候。廿日が命をのべてたべ。
鎌倉殿へまい【参つ】て申あづかり候はん。聖鎌倉殿を
世にあらせ奉らむとて、我身も流人であり
P12478
ながら、P2401院宣うかがふ【伺う】て奉らんとて、京へ上るに、案
内もしらぬ富士川の尻による【夜】わたりかかて、既に
おしながされんとしたりし事、高市の山にて
ひぱぎ【引剥】にあひ、手をすて命ばかりいき、福原の
籠の御所へまいり【参り】、前右兵衛督光能卿につき奉て、
院宣申いだいて奉しときのやくそく【約束】には、「いかなる
大事をも申せ。聖が申さむ事をば、頼朝が一期の
間はかなへ【適へ】ん」とこその給ひしか。其後もたびたび
P12479
の奉公、かつは見給ひし事なれば、事あたらしう
はじめて申べきにあらず。契をおもう【重う】して
命をかろうず【軽うず】。鎌倉殿に受領神つき給はずは、
よもわすれ給はじ」とて、その暁立にけり。斎藤五・
斎藤六是をきき、聖を生身の仏の如くおもひ【思ひ】
て、手を合て涙をながす。いそぎ大覚寺へまい【参つ】て
此由申ければ、是をきき給ひける母うへの心のうち、
いか斗かはうれしかりけん。されども鎌倉のはか
P12480
らひなれば、いかがあらむずらんとおぼつかなけれ
ども、当時聖のたのもしげ【頼もし気】に申て下りぬる
うへ、廿日の命ののび給ふに、母うへ・めのとの女房
すこし【少し】心もとりのべて、ひとへに観音の御た
すけ【助け】なればたのもしう【頼もしう】ぞおもは【思は】れける。かくて
明し暮し給ふ程に、廿日のすぐる【過ぐる】は夢なれ
や、聖はいまだ見えざりけり。「何となりぬる事や
らん」と、なかなか心ぐるしうて、今更またもだえ【悶え】こがP2402れ
P12481
給ひけり。北条も、「文学房のやくそく【約束】の日数も
すぎぬ。さのみ在京して年を暮すべきにも
あらず。今は下らむ」とてひしめきければ、斎藤五・
斎藤六手をにぎり肝魂をくだけ共、聖もいまだ
見えず、使者をだにも上せねば、おもふ【思ふ】はかりぞ
なかりける。是等大覚寺へ帰りまい【参つ】て、「聖もいまだ
のぼり候はず。北条も暁下向仕候」とて、左右の袖を
かほにおしあてて、涙をはらはらとながす。是をきき
P12482
給ひける母うへの心のうち、いかばかりかはかなし
かり【悲しかり】けむ。「あはれおとなしやかならむものの、聖の
行あはん所まで六代をぐせよといへかし。もし
こひうけ【乞請】てものぼらむに、さきにきりたらんか
なしさをば、いかがせむずる。さてとく【疾く】うしなひ【失なひ】
げなるか」とのたまへば、「やがて此暁の程とこそ見え
させ給候へ。そのゆへ【故】は、此程御とのゐ仕候つる北条の家
子郎等ども、よに名残おしげ【惜し気】におもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】て、
P12483
或念仏申者も候、或涙をながす者も候」。「さて此子
は何としてあるぞ」との給へば、「人の見まいらせ【参らせ】候ときは
さらぬやうにもてないて、御数珠をくらせおはし
まし候が、人の候はぬとき【時】は、御袖を御かほにおしあてて、
御涙にむせばせ給ひ候」と申。「さこそあるらめ。おさ
なけれ【幼けれ】ども心おとなしやかなるものなり。こよひ
かぎりの命とおもひ【思ひ】て、いかに心ぼそかるらん。しばし
もあらば、いとまこう【乞う】てまいら【参ら】むといひしか共、P2403廿日
P12484
にあまるに、あれへもゆかず、是へも見えず。けふ
より後又何の日何の時あひ見るべしともおぼえ
ず。さて汝等はいかがはからふ」との給へば、「これはいづく
までも御供仕り、むなしう【空しう】ならせ給ひて候はば、
御骨をとり奉り、高野の御山におさめ【納め】奉り、出家
入道して、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】むとこそおもひ
なて候へ」と申。「さらば、あまりにおぼつかなうおぼゆる【覚ゆる】
に、とうかへれ」との給へば、二人の者泣々いとま申て
P12485
罷出つ。さる程に、同十二月十六日、北条四郎若公【若君】具
し奉て、既都を立にけり。斎藤五・斎藤六涙に
くれてゆくさきも見えね共、最後の所までとお
もひ【思ひ】つつ、泣々御供にまいり【参り】けり。北条「馬にのれ」と
いへどものらず、「最後の供で候へば、くるしう【苦しう】候まじ」とて、
血の涙をながしつつ、足にまかせてぞ下ける。六代御
前はさしもはなれがたくおぼしける母うへ・めのとの
女房にもわかれはて、住なれし都をも、雲井の
P12486
よそにかへりみて、けふをかぎりの東路におもむ
かれけん心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。駒をはやむ
る武士あれば、我頸うたんずるかと肝をけし、物
いひかはす人あれば、既に今やと心をつくす。四の宮河
原とおもへ【思へ】ども、関山をもうち越て、大津の浦に
なりにけり。粟津の原かとうかがへ【伺へ】ども、けふもはや
暮にけり。国々宿々打過々々行程に、駿河[* 「駿川」と有るのを他本により訂正]国にP2404も
つき給ひぬ。若公【若君】の露の御命、けふをかぎりとぞ
P12487
きこへ【聞え】ける。千本の松原に武士どもみなおりゐて、
御輿かきすゑさせ、しきがは【敷皮】しいて、若公【若君】すへ【据ゑ】奉る。
北条四郎若公【若君】の御まゑ【前】ちかうまい【参つ】て申けるは、
「是まで具しまいらせ【参らせ】候つるは、別の事候はず。もし
みちにて聖にもや行あひ候と、まち【待ち】すぐしまい
らせ【参らせ】候つるなり。御心ざしの程は見えまいらせ【参らせ】候ぬ。山
のあなたまでは鎌倉殿の御心中をもしり【知り】がたう
候へば、近江国にてうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】て候よし、披露
P12488
仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれば、よも
叶候はじ」と泣々申ければ、若君ともかうもその
御返事をばしたまはず、斎藤五・斎藤六を近う
めし【召し】て、「我いかにもなりなん後、汝等都に帰て、穴
賢道にてきら【斬ら】れたりとは申べからず。そのゆへ【故】は、
終にはかくれ【隠れ】あるまじけれども、まさしう此有様
きい【聞い】て、あまりに歎給はば、草の陰にてもこころ
ぐるしう【心苦しう】おぼえて、後世のさはりともならむずる
P12489
ぞ。鎌倉まで送りつけてまい【参つ】て候と申べし」と
の給へば、二人の者共肝魂も消えはてて、しばしは
御返事にもをよば【及ば】ず。良あて斎藤五「君にを
くれ【遅れ】まいらせ【参らせ】て後、命いきて安穏に都まで上り
つくべしともおぼえ候はず」とて、涙ををさへてふしにけり。既に今はの時になりしかば、若公【若君】西
にむかひ【向ひ】手を合て、静に念仏唱つつ、頸をのべ
てぞ待給ふ。狩野工P2405藤三親俊切手にえら
P12490
ばれ、太刀をひ【引つ】そばめて、右のかた【方】より御うしろに
立まはり、既にきり奉らむとしけるが、目もくれ心も
消はてて、いづくに太刀を打あつべしともおぼえ
ず。前後不覚になりしかば、「つかまつ【仕つ】とも覚候
はず。他人に仰付られ候へ」とて、太刀を捨てのきに
けり。「さらばあれきれ、これきれ」とて、切手をえ
らぶ処に、墨染の衣袴きて月毛なる馬にの【乗つ】
たる僧一人、鞭をあげてぞ馳たりける。既に只今
P12491
切り奉らむとする処に馳ついて、いそぎ馬
より飛おり、しばらくいきを休て、「若公【若君】ゆるさせ
給ひて候。鎌倉殿の御教書是に候」とてとり【取り】出し
て奉る。披て見給へば、まことや小松三位中将維
盛卿の子息尋出されて候なる、高雄の聖御房申
うけんと候。疑をなさずあづけ奉るべし。北条四
郎殿へ  頼朝とて御判あり。二三遍おしかへしおしかへし
よう【読う】で後、「神妙々々」とて打をか【置か】れければ、「斎藤五・
P12492
斎藤六はいふにをよば【及ば】ず、北条の家子郎等共も
皆悦の涙をぞ流しける。P2406泊瀬六代S1208さる程に、文覚つと出
きたり、若公【若君】こい【乞ひ】うけ【請け】たりとて、きそく【気色】誠にゆゆし
げなり。「「此若公【若君】の父三位中将殿は、初度の戦の
大将也。誰申共叶まじ」との給ひつれば、「文覚が
心をやぶつては、争か冥加もおはすべき」など、悪
口申つれ共、猶「叶まじ」とて、那須野の狩に下り
給ひし間、剰文覚も狩庭の供して、やうやうに
P12493
申てこい【乞ひ】うけ【請け】たり。いかに、遅ふおぼしつらん」と
申されければ、北条「廿日と仰られ候し御約束
の日かずも過候ぬ。鎌倉殿の御ゆるされ【許され】なきよ
と存じて、具し奉て下る程に、かしこうぞ。爰
にてあやまち仕るらむに」とて、鞍をい【置い】てひか【引か】せたる
馬共に、斎藤五・斎藤六をのせ【乗せ】てのぼせらる。「我
身も遥に打送り奉て、しばらく御供申たう
候へ共、鎌倉殿にさして申べき大事共候。暇申
P12494
て」とてうちわかれてぞ下られける。誠に情ふ
かかりけり。聖若公【若君】を請とり奉て、夜を日に
ついで馳のぼる程に、尾張国熱田の辺にて、
今年も既に暮ぬ。明る正月五日の夜に入て、
都へのぼりつく。二条猪熊なる所に文覚房の
宿所あり【有り】ければ、それに入奉て、しばらくやすめ奉り、
夜半ばP2407かり大覚寺へぞおはしける。門をたたけ共
人なければ音もせず。築地のくづれより若公【若君】の
P12495
かひ【飼ひ】給ひけるしろい【白い】ゑのこ【犬子】のはしり【走り】出て、尾
をふてむかひ【向ひ】けるに、「母うへはいづくにまします
ぞ」ととは【問は】れけるこそせめての事なれ。斎藤六、築
地をこえ、門をあけていれ【入れ】奉る。ちかう【近う】人の住
たる所とも見えず。「いかにもしてかひなき命を
いか【生か】ばやと思ひしも、恋しき人々を今一度見ばや
とおもふ【思ふ】ため也。こはされば何となり給ひけるぞや」とて、
夜もすがら泣かなしみ給ふぞまこと【誠】にことはり【理】と
P12496
覚て哀なる。夜を待あかして近里の者に尋
給へば、「年のうちに大仏まいり【参り】とこそうけ給【承り】候しか。
正月の程は長谷寺に御こもりと聞え候しが、其
後は御宿所へ人の通ふとも見候はず」と申ければ、
斎藤五いそぎ馳まい【参つ】て尋あひ奉り、此よし
申ければ、母うへ【上】・めのとの女房つやつやうつつともおぼえ
給はず、「是はされば夢かや。夢か」とぞの給ひける。
いそぎ大覚寺へ出させ給ひ、若公【若君】を御覧じ
P12497
てうれしさにも、ただ先立ものは涙なり。「早々
出家し給へ」と仰られけれども、聖おしみ【惜しみ】奉て
出家もせさせ奉らず。やがてむかへ【向へ】とて高雄
に置奉り、北の方のかすか【幽】なる御有様をもとぶ
らひ【訪ひ】けるとこそ聞えし。観音の大慈大悲は、
つみ【罪】あるもつみなきをもたすけ【助け】給へば、昔もかかる
ためし【例】多しといへども、ありがたかりし事共
なり。P2408さる程に、北条四郎六代御前具し奉て
P12498
下りけるに、鎌倉殿御使鏡の宿にて行逢
たり。「いかに」ととへば、「十郎蔵人殿、信太三郎先生
殿、九郎判官殿に同心のよし聞え候。討奉れとの
御気色で候」と申。北条「我身は大事のめしうど【召人】
具したれば」とて、甥の北条平六時貞が送りに
下りけるを、おいそ【老蘇】の森より「とう【疾う】わとの【和殿】は帰て
此人々〔の〕おはし所聞出して討てまいらせよ【参らせよ】」とて
とどめ【留め】らる。平六都に帰て尋る程に、十郎蔵人殿の
P12499
在所知たりといふ寺法師いできたり。彼僧に
尋れば、「我はくはしう【詳しう】はしら【知ら】ず。しり【知り】たりといふ僧
こそあれ」といひければ、おし【押し】よせ【寄せ】てかの僧をからめ
とる。「是はなんのゆへ【故】にからむるぞ」。「十郎蔵人殿の
在所し【知つ】たなればからむる也」。「さらば「おしへよ【教へよ】」とこそ
いはめ。さうなうからむる事はいかに。天王寺にと
こそきけ【聞け】」。「さらばじんじよせよ」とて、平六が聟の
笠原の十郎国久、殖原の九郎、桑原次郎、服部
P12500
の平六をさきとして其勢卅余騎、天王寺へ
発向す。十郎蔵人の宿は二所あり。谷の学頭伶
人兼春、秦六秦七と云者のもとなり。ふた手に
つくて押よせたり。十郎蔵人は兼春がもとに
おはし【在し】けるが、物具したるもの共の打入を見て、
うしろより落にけり。学頭がむすめ二人あり。とも
に蔵人のおもひもの【思者】なり。是等をとらへて蔵人の
ゆくゑ【行方】を尋れば、姉は「妹にとへ」といふ、妹は「姉にとへ」P2409と
P12501
いふ。俄に落ぬる事なれば、たれにもよもしら【知ら】せじ
なれども、具して京へぞのぼりける。蔵人は熊野
の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足をやみ
ければ、和泉国八木郷といふ所に逗留してこそ
ゐたりけれ。彼家主の男、蔵人を見し【知つ】て夜も
すがら京へ馳のぼり、北条平六につげたりければ、
「天王寺の手の者はいまだのぼらず。誰をかやるべき」
とて、大源次宗春といふ郎等をよう【呼う】で、「汝が宮たて
P12502
たりし山僧はいまだあるか」。「さ候」。「さらばよべ」とてよばれ
ければ、件法師いできたり。「十郎蔵人のおはします、
討て鎌倉殿にまいらせ【参らせ】て御恩蒙り給へ」。「さうけ
給【承り】候ぬ。人をたび候へ」と申。「やがて大源次くだれ、人も
なきに」とて、舎人雑色人数わづかに十四五人
相そへてつかはす【遣す】。常陸房正明といふものなり。
和泉国に下つき、彼家にはしり【走り】入て見れ共
なし。板じきうちやぶ【破つ】てさがし、ぬりごめ【塗籠】の
P12503
うちを見れどもなし。常陸房大路にたて
みれ【見れ】ば、百姓の妻とおぼしくて、おとなしき女の
とをり【通り】けるをとらへて、「此辺にあやしばうだる
旅人のとどま【留まつ】たる所やある。いはずはきて捨む」と
いへば、「ただいまさがさ【探さ】れさぶらふつる家にこそ、
夜部までよに尋常なる旅人の二人とどま【留まつ】て
さぶらひつるが、けさなどいで【出で】てさぶらふ【候ふ】やらむ。
あれに見えさP2410ぶらふおほや【大屋】にこそいまは
P12504
さぶらふ【候ふ】なれ」といひければ、常陸房黒革威の
腹巻の袖つけたるに、大だち【太刀】はいて彼家に
走入てみれ【見れ】ば、歳五十ばかりなる男の、かち【褐】の直
垂におり烏帽子【折烏帽子】き【着】て、唐瓶子菓子などとり
さばくり、銚子どももて酒すすめむとする処に、
物具したる法師のうち入をみて、かいふいてにげ
ければ、やがてつづいてお【追つ】かけたり。蔵人「あの僧。
や、それはあらぬぞ。行家はここにあり」との給へば、
P12505
はしり【走り】帰て見るに、白い小袖に大口ばかりきて、
左の手には金作の小太刀をもち、右の手には
野太刀のおほき【大き】なるをもた【持た】れたり。常陸房「太
刀なげさせ給へ」と申せば、蔵人大にわらは【笑は】れけり。
常陸房走よ【寄つ】てむずときる。ちやうどあはせて
おどり【躍り】のく。又よ【寄つ】てきる。ちやうどあはせておどり【躍り】
のく。よりあひよりのき一時ばかりぞたたかふ【戦う】たる。
蔵人うしろなるぬりごめの内へしざりいら【入ら】むと
P12506
し給へば、常陸房「まさなう候。ないら【入ら】せ給ひ候そ」と
申せば、「行家もさこそおもへ【思へ】」とて又おどり【躍り】出て
たたかふ【戦ふ】。常陸房太刀を捨てむずとくむ【組ん】でどう
どふす【臥す】。うへ【上】になり下になり、ころびあふ処に、大源
次つといできたり。あまりにあはて【慌て】てはいたる太刀
をばぬかず、石をにぎて蔵人のひたいをはたと
うて打わる。蔵人大にわら【笑つ】て、「をのれ【己】は下臈なれば、
太刀長刀でこそ敵をばうて、つぶてにて敵うつ
P12507
様やある」。P2411常陸房「足をゆへ」とぞ下知しける。
常陸房は敵が足をゆへとこそ申けるに、あまりに
あはて【慌て】て四の足をぞゆう【結う】たりける。其後蔵人の
頸に縄をかけてからめ、ひき【引き】おこし【起し】ておしすへ【据ゑ】
たり。「水まいらせよ【参らせよ】」との給へば、ほしい【干飯】をあらふ【洗う】てまい
らせ【参らせ】たり。水をばめし【召し】て糒をばめさず。さしをき
給へば、常陸房とてくうてげり。「わ僧は山法師か」。「山
法師で候」。「誰といふぞ」。「西塔北谷法師常陸房正
P12508
明と申者で候」。「さては行家につかは【使は】れんといひし
僧か」。「さ候」。「頼朝が使か、平六が使か」。「鎌倉殿の御使候。
誠に鎌倉殿をば討まいらせ【参らせ】むとおぼしめし【思し召し】候しか」。「是
程の身になて後おもは【思は】ざりしといはばいかに。おもひ【思ひ】
しといはばいかに。手なみの程はいかがおもひ【思ひ】つる」と
の給へば、「山上にておほく【多く】の事にあふ【逢う】て候に、いまだ
是ほど手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人に
逢たる心地こそし候つれ」と申。「さて正明をばいかが
P12509
思食され候つる」と申せば、「それはとられなんうへは」とぞ
の給ひける。「その太刀とりよせよ」とて見給へば、蔵
人の太刀は一所もきれず、常陸房が太刀は四十二
所きれたりけり。やがて伝馬たてさせ、のせ【乗せ】奉ての
ぼる程に、其夜は江口の長者がもとにとどま【留まつ】て、
夜もすがら使をはしらかす【走らかす】。明る日の午刻斗、
北条平六其勢百騎ばかり旗ささせて下る程に、
淀のあかゐ河原【赤井河原】でゆき逢たり。「都へP2412はいれ【入れ】奉る
P12510
べからずといふ院宣で候。鎌倉殿の御気色も
其儀でこそ候へ。はやはや御頸を給はて、鎌倉殿の
見参にいれ【入れ】て御恩蒙り給へ」といへば、さらばとて
あかゐ河原【赤井河原】で十郎蔵人の頸をきる。信太三郎
先生義教【*義憲】は醍醐の山にこもりたるよしき
こえ【聞え】しかば、おしよせてさがせどもなし。伊賀の
方へ落ぬと聞えしかば、服部平六先として、伊賀
国へ発向す。千度の山寺にありと聞えし間、おし
P12511
よせてからめむとするに、あはせの小袖に大口
ばかりきて、金にてうちくくんだる腰の刀にて腹
かききつ[* 「きん」と有るのを高野本により訂正]てぞふしたりける。頸をば服部平六とて
げり。やがてもたせて京へのぼり、北条平六に見せ
たりければ、「軈てもたせて下り、鎌倉殿の見参に
入て御恩蒙り給へ」といひければ、常陸房・服部
平六、おのおの頸共もたせて鎌倉へくだり、見参に
いれ【入れ】たりければ、「神妙也」とて、常陸房は笠井へ
P12512
ながさる。「下りはてば勧賞蒙らむとこそおもひ【思ひ】
つるに、さこそなからめ、剰流罪に処せらるる
条存外の次第なり。かかるべしとしり【知り】たりせば、
なにしか身命を捨けん」と後悔すれ共かひぞ
なき。されども中二年といふにめし【召し】かへさ【返さ】れ、「大将
軍討たるものは冥加のなければ一旦いましめ
つるぞ」とて、但馬国に多田庄、摂津国に葉室
二ケ所給はて帰り上る。服部平六平家の祗候人
P12513
たりしかば、没官せられたりけP2413る服部返し給
はてげり。六代被斬S1209さる程に、六代御前はやうやう十四五にもなり
給へば、みめかたちいよいようつくしく、あたりもてり
かかやく【輝く】ばかりなり。母うへ是を御覧じて、「あはれ
世の世にてあらましかば、当時は近衛司にてあらん
ずるものを」との給ひけるこそあまりの事なれ。鎌
倉殿常はおぼつかなげにおぼして、高雄の聖の
もとへ便宜ごとに、「さても維盛卿の子息は何と
P12514
候やらむ。昔頼朝を相し給ひしやうに、朝の
怨敵をもほろぼし、会稽の恥をも雪むべき
ものにて候か」と尋申されければ、聖の御返事
には、「是は底もなき不覚仁にて候ぞ。御心やすう
おぼしめし【思し召し】候へ」と申されけれ共、鎌倉殿猶も
御心ゆかずげにて、「謀反おこさばやがてかたうどせう
ずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か傾べき。
子孫のすゑぞしら【知ら】ぬ」との給ひけるこそおそろし
P12515
けれ【恐ろしけれ】。母うへ是をきき給ひて、「いかにも叶まじ。はやはや
出家し給へ」と仰ければ、六代御前十六と申し
文治五年の春の比、うつくしげP2414なる髪をかた【肩】の
まはりにはさみ【鋏み】おろし、かきの衣、袴に笈などこし
らへ、聖にいとまこう【乞う】て修行にいでられけり。斎藤
五・斎藤六もおなじさまに出立て、御供申けり。
まづ高野へまいり【参り】、父の善知識したりける滝
口入道に尋あひ、御出家の次第、臨終のあり様
P12516
くはしう【詳しう】きき給ひて、「かつはその御跡もゆかし」とて、
熊野へまいり【参り】給ひけり。浜の宮の御前にて父の
わたり給ひける山なり【山成】の島を見渡して、渡らま
ほしくおぼしけれども、浪かぜむかう【向う】てかなは【叶は】ねば、力
をよば【及ば】でながめやり給ふにも、「我父はいづくに沈給
ひけむ」と、沖よりよする【寄する】しら波【白波】にもとは【問は】まほしく
ぞおもは【思は】れける。汀の砂も父の御骨やらんとなつ
かしう【懐しう】おぼしければ、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、塩くむ
P12517
あまの衣ならねども、かはく【乾く】まなくぞ見え給ふ。
渚に一夜とうりう【逗留】して、念仏申経よみ、ゆび【指】
のさきにて砂に仏のかたちをかき【書き】あらはして、
あけ【明け】ければ貴き僧を請じて、父の御ためと供養
じて、作善の功徳さながら聖霊に廻向して、亡者に
いとま申つつ、泣々都へ上られけり。小松殿の御子
丹後侍従忠房は、八島のいくさ【軍】より落てゆくゑ【行方】も
しら【知ら】ずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗
P12518
重をたのん【頼ん】で、湯浅の城にぞこもられける。是を
きい【聞い】て平家に心ざしおもひ【思ひ】ける越中次郎兵衛・
上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛P2415弾【*飛騨】四郎兵衛以下の
兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀伊勢両国の
住人等、われもわれもと馳集る。究竟の者共〔数〕百騎
たてこもるよし聞えしかば、熊野別当、鎌倉殿
より仰を蒙て、両三月が間八ケ度よせて攻戦。城
の内の兵ども、命をおしま【惜しま】ずふせき【防き】ければ、毎度に
P12519
みかた【御方】おい【追ひ】ちらさ【散らさ】れ、熊野法師数をつくひ【尽くい】てう
たれにけり。熊野別当、鎌倉殿へ飛脚を奉て、
「当国湯浅の合戦の事、両三月が間に八ケ度よ
せて攻戦。され共城の内の兵ども命をおしま【惜しま】ず
ふせく【防く】間、毎度に御方おいおとさ【落さ】れて、敵を寃に
及ず。近国二三ケ国をも給はて攻おとす【落す】べき」よし
申たりければ、鎌倉殿「其条、国の費[* 「貴」と有るのを高野本により訂正]人の煩なる
べし。たてごもる所の凶徒は定て海山の盜人にてぞ
P12520
あるらん。山賊海賊きびしう守護して城の口を
かためてまぼるべし」とぞの給ひける。其定に
したりければ、げにも後には人一人もなかりけり。鎌
倉殿はかりこと【策】に、「小松殿の君達の、一人も二人も
いきのこり給ひたらむをば、たすけ【助け】奉るべし。其
ゆへ【故】は、池の禅尼の使[* 「便」と有るのを他本により訂正]として、頼朝を流罪に申なだ
め【宥め】られしは、ひとへに彼内府の芳恩なり」との給ひ
ければ、丹後侍従六波羅へ出てなのら【名乗ら】れけり。やがて
P12521
関東へ下し奉る。鎌倉殿対面して「都へ御上
候へ。かたほとりにおもひ【思ひ】あて【当て】まいらする【参らする】事候」とて、
すかし上せ奉り、おさま【追つ様】に人をのぼせ【上せ】て勢
田の橋の辺にて切てげり。P2416小松殿の君達六人
の外に、土佐守宗実とておはしけり。三歳より大炊
御門の左大臣経宗卿の養子にして、異姓他人
になり、武芸の道をばうち捨て、文筆をのみたし
なで、今年は十八になり給ふを、鎌倉殿より
P12522
尋はなかりけれ共世に憚ておい出されたりければ、
先途をうしなひ【失ひ】、大仏の聖俊乗房のもとに
おはして、「我は是小松の内府の末の子に、土佐守
宗実と申者にて候。三歳より大炊御門左大臣
経宗公養子にして、異姓他人になり、武芸のみち
を打捨て、文筆をのみたしなんで、生年十八歳に
罷成。鎌倉殿より尋らるる事は候はね共、世におそれ【恐れ】
ておい出されて候。聖の御房御弟子にせさせ給へ」
P12523
とて、もとどりおしきり給ぬ。「それもなを【猶】おそ
ろしう【恐ろしう】おぼしめさ【思し召さ】ば、鎌倉へ申て、げにもつみ【罪】ふかかる
べくはいづくへもつかはせ【遣せ】」との給ひければ、聖いとお
しくおもひ【思ひ】奉て、出家せさせ奉り、東大寺の油
倉といふ所にしばらくをき奉て、関東へ此よし
申されけり。「何さまにも見参してこそともかうも
はからはめ。まづ下し奉れ」との給ひければ、聖力をよ
ば【及ば】で関東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし日より
P12524
して、飲食の名字をたて、湯水をものどへいれ【入れ】ず。
足柄こえて関本と云所にてつゐに【遂に】うせ給ひぬ。
「いかにも叶まじき道なれば」とておもひ【思ひ】きら【切ら】れける
こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。P2417さる程に、建久元年十一月七日
鎌倉殿上洛して、同九日、正二位大納言になり給ふ。
同十一日、大納言右大将を兼じ給へり。やがて両職
を辞て、十二月四日関東へ下向。建久三年三月十
三日、法皇崩御なりにけり。御歳六十六、偸伽【*瑜伽】振鈴
P12525
の響[* 「闇」と有るのを他本により訂正]は其夜をかぎり、一乗案誦の御声は其暁に
おはりぬ。同六年三月十三日、大仏供養あるべしとて、
二月中に鎌倉殿又御上洛あり。同十二日、大仏殿へ
まいら【参ら】せ給ひたりけるが、梶原を召て、「てがい【碾磑】の門の南の
かたに大衆なん十人をへだてて、あやしばうだる
ものの見えつる。めし【召し】とてまいらせよ【参らせよ】」との給ひけ
れば、梶原承はてやがて具してまいり【参り】たり。ひげをば
そてもとどりをばきらぬ男也。「何者ぞ」ととひ
P12526
給へば、「是程運命尽はて候ぬるうへは、とかう申に
をよば【及ば】ず。是は平家の侍薩摩中務家資と申
ものにて候」。「それは何とおもひ【思ひ】てかくはなりたるぞ」。
「もしやとねらひ申候つるなり」。「心ざしの程はゆゆし
かり」とて、供養はて【果て】て都へいら【入ら】せ給ひて、六条河原
にてきら【斬ら】れにけり。平家の子孫は去文治元年の冬
の比、ひとつ【一つ】子ふたつ【二つ】子をのこさず、腹の内をあけ
て見ずといふばかりに尋とて失てぎ。今は一人も
P12527
あらじとおもひ【思ひ】しP2418に、新中納言の末の子に、伊賀
大夫知忠とておはしき。平家都を落しとき、
三歳にてすて【捨て】をか【置か】れたりしを、めのとの紀伊次郎
兵衛為教やしない【養ひ】奉て、ここかしこにかくれあり
き【歩き】けるが、備後国太田といふ所にしのび【忍び】つつゐたり
けり。やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護あや
しみける程に、都へのぼり法性寺の一の橋なる所に
しのん【忍ん】でおはしけり。爰は祖父入道相国「自然の
P12528
事のあらん時城郭にもせむ」とて堀をふたへ【二重】に
ほて、四方に竹をうへ【植ゑ】られたり。さかも木【逆茂木】ひいて、昼は
人音もせず、よるになれば尋常なるともがらおほ
く【多く】集て、詩作り歌よみ、管絃などして遊ける
程に、何としてかもれ【漏れ】聞えたりけむ。その比人のおぢ
をそれ【恐れ】けるは、一条の二位入道義泰【*能保】といふ人なり。その
侍に後藤兵衛基清が子に、新兵衛基綱「一の橋に
違勅の者あり」と聞出して、建久七年十月七日の
P12529
辰の一点に、其勢百四五十騎、一の橋へはせ【馳せ】むかひ【向ひ】、
おめき【喚き】さけん【叫ん】で攻戦。城の内にも卅余人あり【有り】ける
者共、大肩[* 「眉」と有るのを他本により訂正]ぬぎに肩[* 「眉」と有るのを他本により訂正]ぬいで、竹の影よりさし
つめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】散々にい【射】れば、馬人おほく【多く】射ころ
さ【殺さ】れて、おもてをむかふ【向ふ】べき様もなし。さる程に、一の
橋に違勅の者ありとききつたへ、在京の武士ども
われもわれもと馳つどふ【集ふ】。程なく一二千騎になりしかば、
近辺の小いゑをこぼちよせ、堀をうめ、おめき【喚き】さけん【叫ん】
P12530
で攻入けり。城のうちの兵共、うち物ぬいて走出P2419て、
或討死にするものもあり、或いたで【痛手】おうて自害す
る者もあり。伊賀大夫知忠は生年十六歳になられ
けるが、いた手【痛手】負て自害し給ひたるを、めのとの紀
伊次郎兵衛入道ひざの上にかきのせ【乗せ】、涙をはらはらと
ながい【流い】て高声に十念となへつつ、腹かき切てぞ死に
ける。其子の兵衛太郎・兵衛次郎ともに討死してん
げり。城の内に卅余人あり【有り】ける者共、大略討死自
P12531
害して、館には火をかけたりけるを、武士ども馳入て
手々に討ける頸共とて、太刀長刀のさきにつら
ぬき、二位入道殿へ馳まいる【参る】。一条の大路へ車やり出
して、頸ども実検せらる。紀伊次郎兵衛入道の頸は
見したるものも少々あり【有り】けり。伊賀大夫の頸、人争か
みしり奉るべき。此人の母うへは治部卿局とて、八条の
女院に候はれけるを、むかへよせ奉り見せ奉り給ふ。「三歳
と申し時、故中納言にぐせ【具せ】られて西国へ下し後は、
P12532
いき【生き】たり共死たり共、そのゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず。但故
中納言のおもひ【思ひ】いづる【出づる】ところどころ【所々】のあるは、さにこそ」
とてなか【泣か】れけるにこそ、伊賀大夫の頸共人し【知つ】てげれ。
平家の侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】は但馬国へ落行て
気比四郎道弘が聟になてぞゐたりける。道弘、越
中次郎兵衛とはしら【知ら】ざりけり。され共錐袋にた
まらぬ風情にて、よるになればしうと【舅】が馬ひき【引き】いだ
い【出い】てはせ【馳せ】ひき【引き】したり、海の底十四P2420五町、廿町くぐり
P12533
などしければ、地頭守護あやしみける程に、何としてか
もれ聞えたりけん、鎌倉殿御教書を下されけり。
「但馬国住人朝倉太郎大夫高清、平家の侍越中
次郎兵衛盛次【*盛嗣】、当国に居住のよしきこしめす【聞し召す】。
めし【召し】進せよ」と仰下さる。気比[B ノ]四郎は朝倉[B ノ]大夫が聟
なりければ、よびよせて、いかがしてからめむずると儀
するに、「湯屋にてからむべし」とて、湯にいれ【入れ】て、した
たかなるもの五六人おろしあはせてからめむとするに、
P12534
とりつけばなげたおさ【倒さ】れ、をき【起き】あがれ【上れ】ばけたおさ【倒さ】る。互に
身はぬれたり、とりもためず。され共衆力に強力か
なは【叶は】ぬ事なれば、二三十人ばとよ【寄つ】て、太刀のみね長刀
のゑ【柄】にてうちなやしてからめとり、やがて関東へまいら
せ【参らせ】たりければ、御まへにひ【引つ】すゑさせて、事の子細を
めし【召し】とは【問は】る。「いかに汝は同平家の侍といひながら、故親
にてあんなるに、しな【死な】ざりけるぞ」。「それはあまりに平家
のもろくほろびてましまし候間、もしやとねらひ
P12535
まいらせ【参らせ】候つるなり。太刀のみ【身】のよきをも、征矢の
尻のかねよきをも、鎌倉殿の御ためとこそこしらへ
もて候つれ共、是程に運命つきはて候ぬるうへは、と
かう申にをよび【及び】候はず」。「心ざしの程はゆゆしかり
けり。頼朝をたのま【頼ま】ばたすけ【助け】てつかは【使は】んは、いかに」。「勇士
二主に仕へず、盛次【*盛嗣】程の者に御心ゆるしし給ひては、
かならず【必ず】御後悔候べし。ただ御恩にはとくとく頸P2421を
めされ候へ」と申ければ、「さらばきれ【斬れ】」とて、由井の浜に
P12536
ひきいだひ【出い】て、きてげり。ほめぬものこそなかりけれ。
其比の主上は御遊をむねとせさせ給ひて、政道
は一向卿の局のままなりければ、人の愁なげきも
やまず。呉王剣角をこのんじかば天下に疵を蒙る
ものたえ【絶え】ず。楚王細腰を愛しかば、宮中に飢て
死するをんなおほかり【多かり】き。上の好に下は随ふ間、世の
あやうき【危ふき】事をかなしんで、心ある人々は歎あへ【合へ】り。ここ
に文覚もとよりおそろしき【恐ろしき】聖にて、いろう【綺ふ】ま
P12537
じき事にいろい【綺ひ】けり。二の宮は御学問おこたらせ
給はず、正理を先とせさせ給ひしかば、いかにもして
此宮を位に即奉らむとはからひけれども、前右大
将頼朝卿のおはせし程にかなは【叶は】ざりけるが、建久十年
正月十三日、頼朝卿うせ給ひしかば、やがて謀反をおこ
さんとしける程に、忽にもれ【漏れ】きこえ【聞え】て、二条猪熊の
宿所に官人共つけられ、めし【召し】とて八十にあまて後、
隠岐国へぞながされける。文覚京を出るとて、「是
P12538
程老の波に望で、けふあすともしらぬ身をたとひ
勅勘なりとも、都のかたほとりにはをき給はで、隠岐
国までながさるる及丁【*毬杖】冠者こそやすからね。つゐに【遂に】は
文覚がながさるる国へむかへ【向へ】申さんずる物を」と申
けるこそおそろしけれ【恐ろしけれ】。されば、承久に御謀反おこ
させ給ひて、国こそおほけれ【多けれ】、隠岐国へうつされ
給ひけるこそふP2422しぎなれ。彼国にも文覚が亡霊
あれ【荒れ】て、つねは御物語申けるとぞ聞えし。さる程に
P12539
六代御前は三位禅師とて、高雄におこなひすまし【澄まし】て
おはしけるを、「さる人の子なり、さる人の弟子なり。
かしらをばそたりとも、心をばよもそらじ」とて鎌倉
殿より頻に申されければ、安判官資兼に仰て召
捕て関東へぞ下されける。駿河[* 「駿川」と有るのを高野本により訂正]国住人岡辺権守
泰綱に仰て、田越河にて切[B ラ]れてげり。十二の歳
より卅にあまるまでたもち【保ち】けるは、ひとへに長谷の
観音の御利生とぞ聞えし。それよりしてこそ
P12540
平家の子孫はながくたえ【絶え】にけれ。
平家物語巻第十二
応安三年十一月廿九日 仏子有阿書



入力者:荒山慶一

校正者:菊池真一

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