平家物語(龍谷大学本)巻第十一

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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本(龍谷大学善本叢書13)に拠りました。


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(表紙)
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平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第十一(だいじふいち)
逆櫓(さかろ)S1101元暦(げんりやく)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)十日(とをか)、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、院(ゐん)の
御所(ごしよ)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつね)朝臣(あそん)(あ(ツ)そん)をも(ッ)て奏聞(そうもん)し
けるは、「平家(へいけ)は神明(しんめい)にもはなたれ奉(たてまつ)り、君(きみ)にもす
てられまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、帝都(ていと)をいで、浪(なみ)のうへ【上】にただよふ
おちうと【落人】となれり。しかる【然る】を此(この)三箇年(さんがねん)があひだ、
せめ【攻め】おとさ【落さ】ずして、おほく【多く】の国々(くにぐに)をふさげ【塞げ】らるる
事(こと)、口惜(くちをしく)(くちおしく)候(さうら)へば、今度(こんど)義経(よしつね)にをいて(おいて)は、鬼界(きかい)・高麗(かうらい)・天
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竺(てんぢく)・震旦(しんだん)までも、平家(へいけ)をせめ【攻め】おとさ【落さ】ざらんかぎりは、
王城(わうじやう)へかへるべからず」とたのもしげ【頼もし気】に申(まうし)ければ、法
皇(ほふわう)(ほうわう)おほき【大き】に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、「相構(あひかまへ)て、夜(よ)を日(ひ)につぎ
て勝負(しようぶ)(せうぶ)を決(けつ)すべし」と仰下(おほせくだ)さる。判官(はうぐわん)宿所(しゆくしよ)に
帰(かへ)(ッ)て、東国(とうごく)の軍兵(ぐんびやう)どもにの給(たま)ひけるは、「義経(よしつね)、鎌
倉殿(かまくらどの)の御代官(ごだいくわん)として院宣(ゐんぜん)をうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て、平家(へいけ)を
追討(ついたう)す。陸(くが)は駒(こま)の足(あし)のおよば【及ば】んをかぎり、海(うみ)はろかい【艫櫂】
のとづか【届か】ん程(ほど)せめ【攻め】ゆくべし。すこし【少し】もふた心(ごころ)あらん
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人々(ひとびと)は、とうとう【疾う疾う】P2303これよりかへらるべし」とぞの給(たまひ)ける。
さる程(ほど)に、八島(やしま)にはひま【隙】ゆく駒(こま)の足(あし)はやくして、
正月(しやうぐわつ)もたち、二月(にぐわつ)(にんぐわつ)にもなりぬ。春(はる)の草(くさ)くれ【暮れ】て、秋(あき)
の風(かぜ)におどろき、秋(あき)の風(かぜ)やんで、春(はる)の草(くさ)になれり。
をくり(おくり)【送り】むかへ【向へ】てすでに三(み)とせになりにけり。都(みやこ)には
東国(とうごく)よりあら手(て)の軍兵(ぐんびやう)数万騎(すまんぎ)つい【着い】てせめ【攻め】下(くだ)る
ともきこゆ。鎮西(ちんぜい)より臼杵(うすき)・戸次(へつき)・松浦党(まつらたう)同心(どうしん)し
てをし(おし)【押し】わたる【渡る】とも申(まうし)あへ【合へ】り。かれをきき、是(これ)を聞(きく)にも、
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ただ耳(みみ)を驚(おどろ)(をどろ)かし、きも魂(たましひ)(たましゐ)をけすより外(ほか)の事(こと)ぞ
なき。女房達(にようばうたち)は女院(にようゐん)・二位殿(にゐどの)をはじめまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、
さしつどい(つどひ)【集ひ】て、「又(また)いかなるうきめをか見(み)んずらん。いか
なるうき事(こと)をかきか【聞か】んずらん」となげきあひ、かな
しみあへ【合へ】り。新中納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)の給(たま)ひけるは、「東国(とうごく)
北国(ほつこく)の物(もの)どもも随分(ずいぶん)重恩(ちようおん)(てうをん)をかうむ(ッ)【蒙つ】たりしかども、
恩(おん)(をん)をわすれ契(ちぎり)を変(へん)じて、[B 頼]朝(よりとも)・義仲等(よしなから)にしたがひ
き。まして西国(さいこく)とても、さこそ[B は]あらんずらめと思(おも)ひ
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しかば、都(みやこ)にていかにもならむとおもひ【思ひ】し物(もの)を、
わが身(み)ひとつ【一つ】の事(こと)ならねば、心(こころ)よはう(よわう)【弱う】あくがれ出(いで)
て、けふはかかるうき目(め)を見(み)る口惜(くちをし)(くちおし)さよ」とぞの給(たまひ)
ける。誠(まこと)にことはり(ことわり)【理】とおぼえて哀(あはれ)なり。同(おなじき)二月(にぐわつ)三日(みつかのひ)、
九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、都(みやこ)をた(ッ)て、摂津国(つのくに)渡辺(わたなべ)より
ふなぞろへして、八島(やしま)へすでによせんとす。参川【*三河】
守(みかはのかみ)範頼(のりより)も同(おなじき)日(ひ)に都(みやこ)をた(ッ)て、摂津国(つのくに)神P2304崎(かんざき)より
兵船(ひやうせん)をそろへて、山陽道(せんやうだう)へおもむか【赴か】んとす。同(おなじき)
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十三日(じふさんにち)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)・石[B 清]水(いはしみづ)・賀茂(かも)・春日(かすが)へ官幣
使(くわんべいし)をたてらる。「主上(しゆしやう)并(ならびに)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)、ことゆへ(ゆゑ)【故】
なうかへりいらせ給(たま)へ」と、神祇官[* 「館」と傍書補入するのを他本により「官」と訂正](じんぎくわん)の官人(くわんにん)、もろもろの社
司(しやし)、本宮(ほんぐう)本社(ほんじや)にて祈誓(きせい)申(まうす)べきよし仰下(おほせくだ)さる。
同(おなじき)十六日(じふろくにち)、渡辺(わたなべ)・神崎(かんざき)両所(りやうしよ)にて、この日(ひ)ごろそろへ
ける舟(ふね)ども、ともづなすでにとかんとす。おりふし(をりふし)【折節】
北風(ほくふう)木(き)をを(ッ)【折つ】てはげしう吹(ふき)ければ、大浪(おほなみ)に舟(ふね)ども
さんざんにうちそんぜ【損ぜ】られて、いだすに及(およ)(をよ)ばず。修理(しゆり)の
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ために其(その)日(ひ)はとどまる。渡辺(わたなべ)には大名(だいみやう)小名(せうみやう)よりあひ
て、「抑(そもそも)ふないくさ【舟軍】の様(やう)はいまだ調練(てうれん)せず。いかがあるべき」
と評定(ひやうぢやう)す。梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「今度(こんど)の合戦(かつせん)には、舟(ふね)に
逆櫓(さかろ)をたて候(さうらは)ばや」。判官(はうぐわん)「さかろとはなんぞ」。梶原(かぢはら)「馬(むま)は
かけんとおもへ【思へ】ば弓手(ゆんで)へも馬手(めて)へもまはしやすし。
舟(ふね)はき(ッ)とをし(おし)【押し】もどすが大事(だいじ)に候(さうらふ)。ともへ【艫舳】に櫓(ろ)を
たてちがへ、わいかぢ【脇楫】をいれ【入れ】て、どなた【何方】へもやすう
をす(おす)【押す】やうにし候(さうらは)ばや」と申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)の給(たまひ)けるは、
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「いくさ【軍】といふ物(もの)はひとひき【一引】もひか【引か】じとおもふ【思ふ】だにも、
あはひ【間】あしければひく【引く】はつねの習(ならひ)なり。もと
よりにげ【逃げ】まうけ【設け】してはなんのよからうぞ。まづ
門(かど)でのあしさ【悪しさ】よ。さかろをたてうとも、かへさま
ろ【返様櫓】をたてうとも、殿原(とのばら)の船(ふね)には百(ひやく)ちやう【梃】千(せん)ぢや
う【梃】もたて給(たま)へ。義経(よしつね)はもとのろ【櫓】で候(さうら)はん」との給(たま)P2305へ
ば、梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「よき大将軍(たいしやうぐん)と申(まうす)は、かく【駆く】
べき所(ところ)をばかけ、ひく【退く】べき処(ところ)をばひいて、
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身(み)をま(ッ)たう(まつたう)【全う】して敵(かたき)をほろぼすをも(ッ)てよ
き大将軍(たいしやうぐん)とはする候(ざうらふ)。かたおもむき【片趣】なるをば、
猪(ゐ)のしし武者(むしや)とてよきにはせず」と申(まう)せば、判
官(はうぐわん)「猪(ゐ)のしし鹿(か)のししはしら【知ら】ず、いくさ【軍】はただひら
ぜめ【平攻】にせめてか(ッ)【勝つ】たるぞ心地(ここち)はよき」との給(たま)へば、侍(さぶらひ)ども
梶原(かぢはら)におそれ【恐れ】てたかく【高く】はわらは【笑は】ねども、目(め)ひきは
な【鼻】ひききらめきあへ【合へ】り。判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と、すでに
どしいくさ【同士軍】あるべしとざざめきあへ【合へ】り。やうやう
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日(ひ)くれ夜(よ)に入(いり)ければ、判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「舟(ふね)の修
理(しゆり)してあたらしうな(ッ)たるに、をのをの(おのおの)【各々】一種(いつしゆ)一瓶(いつぺい)
していはひ給(たま)へ、殿原(とのばら)」とて、いとなむ様(やう)にて舟(ふね)に
物(もの)の具(ぐ)いれ【入れ】、兵粮米(ひやうらうまい)つみ、馬(むま)どもたてさせて、
「とくとく【疾く疾く】つかまつれ」との給(たま)ひければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)
申(まうし)けるは、「此(この)風(かぜ)はおい手(て)(おひて)【追手】にて候(さうら)へども、普通(ふつう)にすぎ
たる風(かぜ)で候(さうらふ)。奥(おき)はさぞふい【吹い】て候(さうらふ)らん。争(いかで)か仕(つかまつり)候(さうらふ)べき」
と申(まう)せば、判官(はうぐわん)おほき【大き】にいか(ッ)ての給(たま)ひけるは、「むか
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ひ【向ひ】風(かぜ)にわたらんといはばこそひが事(こと)【僻事】ならめ、順風(じゆんぷう)
なるがすこし【少し】すぎたればとて、是(これ)程(ほど)の御大事(おんだいじ)
にいかでわたらじとは申(まうす)ぞ。[B 舟(ふね)]つかまつらずは、一々(いちいち)に
しやつばら射(い)(ゐ)ころせ」と下知(げぢ)せらる。奥州(あうしう)(あふしう)の佐
藤(さとう)三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、片手矢(かたてや)
はげ[M て]、すすみ出(いで)て、「何条(なんでふ)(なんでう)子細(しさい)を申(まうす)ぞ。御(ご)ぢやう
でP2306あるにとくとく仕(つかまつ)れ。舟(ふね)仕(つかまつ)らずは一々(いちいち)に射(い)(ゐ)ころ
さ【殺さ】んずるぞ」といひければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)是(これ)をきき、
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「射(い)(ゐ)ころさ【殺さ】れんもおなじ事(こと)、風(かぜ)こはくは、ただはせ
じに【馳死】にしねや、物共(ものども)」とて、二百(にひやく)余艘(よさう)(よそう)の舟(ふね)のなかに、
ただ五艘(ごさう)(ごそう)いで【出で】てぞはしり【走り】ける。のこりの船(ふね)は風(かぜ)に
おそるるか、梶原(かぢはら)におづるかして、みなとどまりぬ。
判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「人(ひと)のいで【出で】ねばとてとどまる
べきにあらず。ただの時(とき)はかたき【敵】も用心(ようじん)すらん。かか
る大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)に、おもひ【思ひ】もよらぬ時(とき)にをし(おし)【押し】よせ【寄せ】て〔こそ〕、
おもふ【思ふ】かたきをばうた【討た】んずれ」とぞの給(たま)ひける。
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五艘(ごさう)(ごそう)の船(ふね)と申(まうす)は、まづ判官(はうぐわん)の船(ふね)、田代(たしろの)冠者(くわんじや)、後
藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)、淀(よど)の江内(がうない)忠俊(ただとし)とてふな【舟】
奉行(ぶぎやう)のの(ッ)【乗つ】たる舟(ふね)也(なり)。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「をのをの(おのおの)【各々】の
船(ふね)には篝(かがり)なともひ(ともい)【点い】そ。義経(よしつね)が舟(ふね)をほん【本】舟(ぶね)とし
て、ともへのかがりをまもれ【守れ】。火(ひ)かずおほく【多く】見(み)えば、
かたき【敵】おそれ【恐れ】て用心(ようじん)してんず」とて、夜(よ)もすがら
はしる【走る】程(ほど)に、三日(みつか)にわたる処(ところ)をただ三時(みとき)ばかりに
わたりけり。二月(にぐわつ)十六日(じふろくにち)の丑(うし)の剋(こく)に、渡辺(わたなべ)・福島(ふくしま)を
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いで【出で】て、あくる卯(う)の時(とき)に阿波(あは)の地(ち)へこそふき【吹き】
つけ【着け】たれ。勝浦(かつうら)付(つけたり)大坂越(おほざかごえ)S1102 P2307夜(よ)すでにあけければ、なぎさに赤旗(あかはた)
少々(せうせう)ひらめいたり。判官(はうぐわん)是(これ)を見(み)て「あはや我等(われら)が
まうけ【設】はしたりけるは。船(ふね)ひらづけにつけ、ふみかた
ぶけ【傾け】て馬(むま)おろさんとせば、敵(かたき)の的(まと)にな(ッ)てゐ(い)【射】られん
ず。なぎさにつかぬさきに、馬(むま)どもをひ(おひ)【追ひ】おろしをひ(おひ)【追ひ】
おろし、舟(ふね)にひき【引き】つけひきつけおよが【泳が】せよ。馬(むま)の
足(あし)だち【立】、鞍(くら)づめ【爪】ひたる【浸る】程(ほど)にならば、ひたひたとの(ッ)【乗つ】てかけよ、
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物(もの)ども」とぞ下知(げぢ)せられける。五艘(ごさう)の船(ふね)に物(もの)の具(ぐ)
いれ【入れ】、兵粮米(ひやうらうまい)つんだりければ、馬(むま)ただ五十疋(ごじつぴき)(ごじふひき)ぞたて
たりける。なぎさちかくなりしかば、ひたひたとうち
の(ッ)【乗つ】て、おめい(をめい)【喚い】てかくれば、なぎさに百騎(ひやくき)ばかりあり【有り】
ける物(もの)ども、しばしもこらへず、二町(にちやう)ばかりざ(ッ)とひ
いてぞのきにける。判官(はうぐわん)みぎはにう(ッ)【打つ】た(ッ)【立つ】て、馬(むま)の
いき【息】やすめ【休め】ておはしけるが、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)を
めし【召し】て、「あの勢(せい)のなかにしかる【然る】べい物(もの)やある。一人(いちにん)
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めし【召し】てまいれ(まゐれ)【参れ】。たづぬべき事(こと)あり」との給(たま)へば、
義盛(よしもり)畏(かしこま)(ッ)てうけ給(たま)はり【承り】、只(ただ)一騎(いつき)かたき【敵】のなかへかけ
いり、なにとかいひ【言ひ】たりけん、とし四十(しじふ)ばかりなる
男(をのこ)(おのこ)の、黒皮威(くろかはをどし)(くろかはおどし)の鎧(よろひ)(よろい)きたるを、甲(かぶと)をぬがせ、弓(ゆみ)の
弦(つる)はづさ【外さ】せて、具(ぐ)してまいり(まゐり)【参り】たり。判官(はうぐわん)「なに物(もの)
ぞ」との給(たま)へば、「当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)、坂西(ばんざい)の近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)」
と申(まうす)。「なに家(いへ)でもあらばあれ、物(もの)の具(ぐ)なぬがせそ。
やがて八島(やしま)の案内者(あんないしや)(あんないじや)に具(ぐ)せんずるぞ。其(その)男(をとこ)(おとこ)に
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目(め)はなつ【放つ】な。にげてゆかば射(い)ころせ、物共(ものども)」とぞ下知(げぢ)
せられける。「ここをばいづくといふP2308ぞ」ととは【問は】れければ、
「かつ浦(うら)と申(まうし)候(さうらふ)」。判官(はうぐわん)わら(ッ)【笑つ】て「色代(しきたい)な」との給(たま)へば、「一定(いちぢやう)
勝浦(かつうら)候(ざうらふ)。下臈(げらふ)(げらう)の申(まうし)やすひ(やすい)について、かつらと申(まうし)
候(さうら)へども、文字(もじ)には勝浦(かつうら)と書(かき)て候(さうらふ)」と申(まう)す。判官(はうぐわん)「是(これ)
きき給(たま)へ、殿原(とのばら)。いくさ【軍】しにむかふ【向ふ】義経(よしつね)が、かつ浦(うら)に
つく目出(めで)たさよ。此(この)程(ほど)に平家(へいけ)のうしろ矢(や)ゐ(い)【射】つ
べい物(もの)はないか」。「阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)がおとと【弟】、桜間(さくらば)の介(すけ)
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能遠(よしとほ)(よしとを)とて候(さうらふ)」。「いざ、さらばけ【蹴】ちらし【散らし】てとをら(とほら)【通ら】ん」とて、
近藤六(こんどうろく)が勢(せい)百騎(ひやくき)ばかりがなかより、卅騎(さんじつき)ばかりすぐ
りいだいて、我(わが)勢(せい)にぞ具(ぐ)せられける。能遠(よしとほ)(よしとを)が城(じやう)に
をし(おし)【押し】よせ【寄せ】て見(み)れば、三方(さんばう)は沼(ぬま)、一方(いつぱう)は堀(ほり)なり。堀(ほり)の
かたよりをし(おし)【押し】よせ【寄せ】て、時(とき)をど(ッ)とつくる。城(じやう)の内(うち)のつは
物(もの)ども【兵共】、矢(や)さき【矢先】をそろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】
にゐる(いる)【射る】。源氏(げんじ)〔の〕兵(つはもの)是(これ)を事(こと)ともせず、甲(かぶと)のしころを
かたぶけ【傾け】、おめき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】入(いり)ければ、桜間(さくらば)の介(すけ)
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かなは【叶は】じとやおもひけん、家子(いへのこ)郎等(らうどう)(らうとう)にふせき【防き】矢(や)
ゐ(い)【射】させ、我(わが)身(み)は究竟(くつきやう)の馬(むま)をも(ッ)たりければ、うち
の(ッ)【乗つ】て希有(けう)にして落(おち)にけり。判官(はうぐわん)ふせき【防き】矢(や)ゐ(い)【射】
ける兵共(つはものども)廿(にじふ)余人(よにん)が頸(くび)きりかけて、いくさ神(がみ)【軍神】にまつ
り、悦(よろこび)の時(とき)をつくり、「門(かど)でよし」とぞの給(たま)ひける。判
官(はうぐわん)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)をめし【召し】て、「八島(やしま)には平家(へいけ)のせい【勢】
いか程(ほど)あるぞ」。「千騎(せんぎ)にはよもすぎ候(さうら)はじ」。「などすく
なひ(すくない)【少い】ぞ」。「かくのごとく四国(しこく)の浦々(うらうら)島々(しまじま)に五十騎(ごじつき)、百騎(ひやくき)
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づつさしをか(おか)【置か】れて候(さうらふ)。其(その)うへ阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)
田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)は、河野(かはのの)P2309四郎(しらう)がめせ【召せ】どもまいら(まゐら)【参ら】ぬ
をせめ【攻め】んとて、三千(さんぜん)余騎(よき)で伊与【*伊予】(いよ)へこえて候(さうらふ)」。「さては
よいひまごさんなれ。是(これ)より八島(やしま)へはいか程(ほど)の道(みち)ぞ」。
「二日路(ふつかぢ)で候(さうらふ)」。「さらば敵(かたき)のきか【聞か】ぬさきによせよや」とて、
かけ足(あし)にな(ッ)つ、あゆま【歩ま】せつ、はせつ、ひかへつ、阿波(あは)と
讃岐(さぬき)とのさかゐ(さかひ)【境】なる大坂(おほざか)ごえといふ山(やま)を、夜(よ)も
すがらこそ越(こえ)られけれ。夜半(やはん)ばかり、判官(はうぐわん)たて
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ぶみ【立文】も(ッ)たる男(をとこ)(おとこ)にゆきつれて、物語(ものがたり)し給(たま)ふ。この
男(をとこ)(おとこ)よるの事(こと)[B で]はあり、かたき【敵】とは夢(ゆめ)にもしら【知ら】ず、み
かた【御方】の兵共(つはものども)八島(やしま)へまいる(まゐる)【参る】とおもひけるやらん、うち
とけてこまごまと物語(ものがたり)をぞ申(まうし)ける。「そのふみ【文】はい
づくへぞ」。「八島(やしま)のおほい【大臣】殿(との)へまいり(まゐり)【参り】候(さうらふ)」。「たがまいらせ(まゐらせ)【参らせ】ら
るるぞ」。「京(きやう)より女房(にようばう)のまいらせ(まゐらせ)【参らせ】られ候(さうらふ)」。「なに事(ごと)
なるらん」との給(たま)へば、「別(べち)の事(こと)はよも候(さうら)はじ。源氏(げんじ)
すでに淀河尻(よどかはじり)にいで【出で】うかう【浮う】で候(さうら)へば、それをこそ
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つげ申(まう)され候(さうらふ)らめ」。げにさぞあるらん。是(これ)も八島(やしま)
へまいる(まゐる)【参る】が、いまだ案内(あんない)をしらぬに、じんじよ【尋所】せよ」と
の給(たま)へば、「是(これ)はたびたびまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)間(あひだ)(あいだ)、案内(あんない)は存知(ぞんぢ)し
て候(さうらふ)。御共(おんとも)仕(つかまつ)らん」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)「そのふみ【文】とれ」
とて[B 文(ふみ)]ばい(ばひ)【奪ひ】とらせ、「しやつからめよ。罪(つみ)つくりに
頸(くび)なき(ッ)そ」とて、山(やま)なかの木(き)にしばりつけてぞ
とをら(とほら)【通ら】れける。さてふみ【文】をあけて見(み)給(たま)へば、げに
も女房(にようばう)のふみ【文】とおぼしくて、「九郎(くらう)はすすどき
P11213
おのP2310こ(をのこ)【男】にてさぶらふ【候ふ】なれば、大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)をもきらはず、
よせさぶらふ【候ふ】らんとおぼえさぶらふ。勢(せい)どもちらさ【散らさ】で
用心(ようじん)せさせ給(たま)へ」とぞかか【書か】れたる。判官(はうぐわん)「是(これ)は義経(よしつね)に
天(てん)のあたへ給(たま)ふ文(ふみ)なり。鎌倉殿(かまくらどの)に見(み)せ申(まう)さん」
とて、ふかう【深う】おさめ(をさめ)【納め】てをか(おか)【置か】れけり。あくる十八日(じふはちにち)の寅(とら)の
剋(こく)に、讃岐国(さぬきのくに)ひけ田(た)【引田】といふ所(ところ)にうちおりて、人
馬(にんば)のいきをぞやすめける。それより丹生屋(にふのや)・白
鳥(しろとり)、うちすぎうちすぎ、八島(やしま)の城(じやう)へよせ給(たま)ふ。又(また)近藤六(こんどうろく)
P11214
親家(ちかいへ)をめし【召し】て、「八島(やしま)の館(たち)の様(やう)はいかに」ととひ給(たま)
へば、「しろしめさ【知ろし召さ】ねばこそ候(さうら)へ、無下(むげ)にあさまに候(さうらふ)。塩(しほ)
のひ【干】て候(さうらふ)時(とき)は、陸(くが)と島(しま)の間(あひだ)(あいだ)は馬(むま)の腹(はら)もつかり候(さうら)
はず」と申(まう)せば、「さらばやがてよせよや」とて、高松(たかまつ)の
在家(ざいけ)に火(ひ)をかけて、八島(やしま)の城(ぢやう)へよせ給(たま)ふ。八島(やしま)には、
阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)、河野(かはのの)
四郎(しらう)がめせどもまいら(まゐら)【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千(さんぜん)余騎(よき)
で伊与【*伊予】(いよ)へこえたりけるが、河野(かはの)をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、
P11215
家子(いへのこ)郎等(らうどう)〔百〕五十(ひやくごじふ)[B 余]人(よにん)が頸(くび)き(ッ)て、八島(やしま)の内裏(だいり)へまい
らせ(まゐらせ)【参らせ】たり。「内裏[* 「大裏」と有るのを高野本により訂正](だいり)にて賊首(ぞくしゆ)の実検(じつけん)せ〔ら〕れん事(こと)
然(しか)るべからず」とて、大臣殿(おほいとの)の宿所(しゆくしよ)にて実検(じつけん)
せらる。百五十六人(ひやくごじふろくにん)が首(くび)也(なり)。頸(くび)ども実検(じつけん)しける処(ところ)に、
物共(ものども)、「高松(たかまつ)のかたに火(ひ)いで【出で】き【来】たり」とてひしめき
あへ【合へ】り。「ひるで候(さうら)へば、手(て)あやまちではよも候(さうら)はじ。
敵(かたき)のよせP2311て火(ひ)をかけたると覚(おぼえ)候(さうらふ)。定(さだ)めて大勢(おほぜい)
でぞ候(さうらふ)らん。とりこめられてはかなう(かなふ)【叶ふ】まじ。とうとう【疾う疾う】
P11216
めされ候(さうら)へ」とて、惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさに船(ふね)どもつけ
ならべたりければ、我(われ)も我(われ)もとのり給(たま)ふ。御所(ごしよ)の御
舟(みふね)には、女院(にようゐん)・北(きた)の政所(まんどころ)・二位殿(にゐどの)以下(いげ)の女房達(にようばうたち)めさ
れけり。大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は、ひとつ【一つ】船(ふね)にのり給(たま)ふ。其(その)外(ほか)
の人々(ひとびと)おもひ【思ひ】おもひ【思ひ】にとりの(ッ)【乗つ】て、或(あるい)(ある)は一町(いつちやう)ばかり、或(あるい)(ある)は
七八段(しちはつたん)、[B 五六段(ごろくたん)]な(ン)ど(など)こぎいだしたる処(ところ)に、源氏(げんじ)の兵物(つはもの)ども、
ひた甲(かぶと)七八十(しちはちじつ)騎(き)、惣門(そうもん)のまへのなぎさにつ(ッ)と
いで【出で】[B き【来】たり。]塩干(しほひ)がたの、おりふし(をりふし)【折節】塩(しほ)ひるさかりなれば、
P11217
馬(むま)のからすがしら【烏頭】、ふと腹(ばら)にたつ処(ところ)もあり。そ
れよりあさき処(ところ)もあり。け【蹴】あぐる【上ぐる】塩(しほ)のかすみ
とともにしぐらふ(しぐらう)だるなかより、白旗(しらはた)ざ(ッ)とさし
あげ【差し上げ】たれば、平家(へいけ)は運(うん)つきて、大勢(おほぜい)とこそ見(み)てん
げれ。判官(はうぐわん)かたき【敵】に小勢[* 「少勢」と有るのを他本により訂正](こぜい)と見(み)せじと、五六騎(ごろくき)、七八
騎(しちはつき)、十騎(じつき)ばかりうちむれうちむれいできたり。嗣信最期(つぎのぶさいご)S1103 九郎(くらう)大
夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)、其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、
紫(むらさき)すそごの鎧(よろひ)(よろい)きて、こがねづくりの太刀(たち)をはき、
P11218
きりふ【切斑】の矢(や)をひ(おひ)【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)のま(ン)なか(まんなか)【真ん中】と(ッ)て、P2312
舟(ふね)のかたをにらまへ[M て]、大音声(だいおんじやう)(だいをんじやう)をあげて、「一院(いちゐん)の
御使(おんつかひ)、検非違使(けんびゐし)(けんびいし)五位尉(ごゐのじよう)(ごゐのぜう)源(みなもとの)義経(よしつね)」となのる【名乗る】。其(その)次(つぎ)
に、伊豆国(いづのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)田代(たしろの)冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)金子(かねこの)
十郎(じふらう)家忠(いへただ)、同(おなじく)与一(よいち)親範(ちかのり)、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)とぞなの(ッ)【名乗つ】
たる。つづゐ(つづい)【続い】て名(な)のるは、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)、子息(しそく)の新
兵衛(しんびやうゑ)(しんびやうへ)基清(もときよ)、奥州(あうしう)(あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)、同(おなじく)四郎
兵衛(しらうびやうゑ)(しらうびやうへ)忠信(ただのぶ)、江田(えだ)(ゑだ)の源三(げんざう)、熊井(くまゐ)太郎(たらう)、武蔵房(むさしばう)弁
P11219
慶(べんけい)と、声々(こゑごゑ)に名(な)の(ッ)【乗つ】て馳来(はせきた)る。平家(へいけ)の方(かた)には「あれ
ゐ(い)【射】とれや」とて、或(あるい)(ある)はとを矢(や)(とほや)【遠矢】に射(いる)舟(ふね)もあり、或(あるい)(ある)はさし
矢(や)にゐる(いる)【射る】船(ふね)もあり、源氏(げんじ)の兵(つはもの)ども、弓手(ゆんで)になし
てはゐ(い)【射】てとをり(とほり)【通り】、馬手(めて)になしてはゐ(い)【射】てとをり(とほり)【通り】、あげ
をい(おい)【置い】たる舟(ふね)の陰(かげ)を、馬(むま)やすめ処(どころ)にして、おめき(をめき)【喚き】
さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)は、ふる兵(づはもの)(ふるつはもの)【古兵】
にてあり【有り】ければ、いくさ【軍】はせず、まづ内裏(だいり)にみだれ【乱れ】
いり、手々(てんで)(て(ン)で)に火(ひ)をはな(ッ)【放つ】て片時(へんし)の煙(けぶり)とやきはらふ。
P11220
大臣殿(おほいとの)、侍(さぶらひ)どもをめし【召し】て、「抑(そもそも)源氏(げんじ)が勢(せい)いか程(ほど)あるぞ」。
「当時(たうじ)わづかに七八十(しちはちじつ)騎(き)こそ候(さうらふ)らめ」と申(まうす)。「あな心(こころ)うや。
髪(かみ)のすぢを一(ひと)すぢづつわけてとるとも、此(この)勢(せい)
にはたるまじかりける物(もの)を。なかにとりこめてうたず
して、あはて(あわて)【慌て】て船(ふね)にの(ッ)【乗つ】て、内裏(だいり)をやかせつる事(こと)
こそやすからね。能登殿(のとどの)はおはせぬか。陸(くが)へあが(ッ)【上がつ】て
ひといくさ【軍】し給(たま)へ」。「さうけ給(たまはり)【承り】候(さうらひ)ぬ」とて、越中(ゑつちゆうの)(ゑつちうの)次郎兵
衛(じらうびやうゑ)[B 盛次【*盛嗣】(もりつぎ)]を相具(あひぐ)して、小船[* 「少船」と有るのを高野本により訂正](せうせん)どもにとりの(ッ)【乗つ】て、やきはらひ【払ひ】
P11221
たる惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさに陣(ぢん)をとる。判官(はうぐわん)八十(はちじふ)余
騎(よき)、矢(や)ごろP2313によせ【寄せ】てひかへたり。越中(ゑつちゆうの)(ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)
盛次【*盛嗣】(もりつぎ)、船(ふね)のおもてに立(たち)いで、大音声(だいおんじやう)(だいをんじやう)をあげて申(まうし)ける
は、「名(な)のられつるとは聞(きき)つれども、海上(かいしやう)はるかにへだた(ッ)
て、其(その)仮名(けみやう)実名(じつみやう)分明(ふんみやう)ならず。けふの源氏(げんじ)の大将
軍(たいしやうぐん)は誰人(たれびと)でおはしますぞ」。伊勢(いせ)の三郎(さぶらう)義盛(よしもり)あゆ
ま【歩ま】せいで【出で】て申(まうし)けるは、「こともおろかや、清和天皇(せいわてんわう)十代(じふだい)の
御末(おんすゑ)、鎌倉殿(かまくらどの)の御弟(おんおとと)、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)ぞかし」。
P11222
盛次【*盛嗣】(もりつぎ)「さる事(こと)あり。一(ひと)とせ平治(へいぢ)の合戦(かつせん)に、父(ちち)うた【討た】れ
てみなし子(ご)にてありしが、鞍馬(くらま)の児(ちご)して、後(のち)には
こがね商人(あきんど)の所従(しよじゆう)(しよじう)になり、粮料(らうれう)せをう(せおう)【背負う】て奥州(あうしう)(あふしう)へ
おち【落ち】まどひし小冠者[* 「少冠者」と有るのを他本により訂正](せうくわんじや)が事(こと)か」とぞ申(まうし)たる。義盛(よしもり)「舌(した)
のやはらかなるままに、君(きみ)の御事(おんこと)な申(まうし)そ。さてわ
人(ひと)どもは砥浪山(となみやま)のいくさ【軍】にをい(おひ)おとさ【落さ】れ、からき命(いのち)い
きて北陸道(ほくろくだう)にさまよひ、乞食(こつじき)してなくなく【泣く泣く】京(きやう)へ
のぼ(ッ)【上つ】たりし物(もの)か」とぞ申(まうし)ける。盛次【*盛嗣】(もりつぎ)かさね【重ね】て申(まうし)けるは、
P11223
「君(きみ)の御恩(ごおん)(ごをん)にあきみちて、なんの不足(ふそく)にか乞食(こつじき)を
ばすべき。さいふわ人(ひと)どもこそ、伊勢(いせ)の鈴鹿山(すずかやま)にてやま
だち【山賊】して、妻子(さいし)をもやしなひ、我(わが)身(み)もすぐる【過ぐる】とはきき
しか」といひければ、金子(かねこ)の十郎(じふらう)家忠(いへただ)(いへだだ)「無益(むやく)の殿原(とのばら)の
雑言(ざふごん)(ざうごん)かな。われも人(ひと)も虚言(そらごと)いひ【言ひ】つけ【付け】て雑言(ざふごん)(ざうごん)せんに
は、誰(たれ)かはおとるべき。去年(こぞ)の春(はる)、一(いち)の谷(たに)で、武蔵(むさし)・相模(さがみ)の
若殿原(わかとのばら)の手(て)なみの程(ほど)は見(み)てん物(もの)を」と申(まうす)処(ところ)〔に〕おとと【弟】
の与一(よいち)そばにあり【有り】けるが、いはせもはてず、十二束(じふにそく)二(ふたつ)
P11224
ぶせ、よ(ッ)ぴい【引い】てひやうどはなつ【放つ】。盛次【*盛嗣】(もりつぎ)が鎧(よろひ)のむないた
に、うらかく程(ほど)P2314にぞた(ッ)たりける。其(その)後(のち)は互(たがひ)(たがい)に詞(ことば)だたかい(ことばだたかひ)
とまりにけり。能登守(のとのかみ)教経(のりつね)「ふないくさ【舟軍】は様(やう)ある物(もの)ぞ」
とて、鎧直垂(よろひびたたれ)はき【着】給(たま)はず、唐巻染(からまきぞめ)の小袖(こそで)に唐綾威(からあやをどし)(からあやおどし)
の鎧(よろひ)(よろい)きて、いか物(もの)づくりの[B 大]太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたるたか
うすべう【鷹護田尾】の矢(や)をひ(おひ)【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)をもち給(たま)へり。王
城一(わうじやういち)のつよ弓(ゆみ)【強弓】[B せい兵(びやう)【精兵】]にておはせしかば、矢(や)さき【矢先】にまはる物(もの)、
い【射】とをさ(とほさ)【通さ】れずといふ事(こと)なし。なかにも九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判
P11225
官(はうぐわん)をゐ(い)【射】おとさ【落さ】んとねらはれけれども、源氏(げんじ)の方(かた)にも
心得(こころえ)て、奥州(あうしう)(あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)・同(おなじく)四郎兵衛(しらうびやうゑ)
忠信(ただのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太
郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)な(ン)ど(など)いふ一人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ども、我(われ)も我(われ)もと、
馬(むま)のかしらをたてならべて大将軍(たいしやうぐん)の矢(や)おもてにふさ
がりければ、ちからおよび【及び】給(たま)はず、「矢(や)おもての雑人原(ざふにんばら)(ざうにんばら)
そこのき候(さうら)へ」とて、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ(い)【射】給(たま)へば、や
にはに鎧武者(よろひむしや)(よろいむしや)十(じふ)余騎(よき)ばかりゐ(い)【射】おとさ【落さ】る。なかにもま(ッ)さき
P11226
にすすむ(すすん)だる奥州(あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)が、弓手(ゆんで)の肩(かた)
を馬手(めて)の脇(わき)へつ(ッ)とゐ(い)【射】ぬか【貫か】れて、しばしもたまらず、
馬(むま)よりさかさまにどうどおつ。能登殿(のとどの)の童(わらは)に菊
王(きくわう)といふ大(だい)ぢからのかう【剛】の物(もの)あり。萌黄(もよぎ)おどし(もよぎをどし)の腹
巻(はらまき)に、三枚甲(まいかぶと)の緒(を)(お)をしめて、白柄(しらえの)長刀(なぎなた)のさやをはづ
し【外し】、三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)が頸(くび)をとらんとはしり【走り】かかる。佐藤(さとう)四
郎兵衛(しらうびやうゑ)、兄(あに)が頸(くび)をとらせじとよ(ッ)ぴいてひやうど
ゐる(いる)【射る】。童(わらは)が腹巻(はらまき)のひきあはせをあなたへつ(ッ)とゐ(い)【射】ぬ
P11227
か【貫か】れて、犬居(いぬゐ)にたふれ【倒れ】P2315ぬ。能登守(のとのかみ)是(これ)を見(み)て、いそぎ
舟(ふね)よりとんでおり、左(ひだり)の手(て)に弓(ゆみ)をもちながら、右(みぎ)の
手(て)で菊王丸(きくわうまる)をひ(ッ)【引つ】さげて、舟(ふね)へからりとなげられ
たれば、[B 敵(かたき)に]頸(くび)はとられねども、いた手(で)【痛手】なればしに【死に】にけり。
是(これ)はもと[B 越前(ゑちぜん)の]三位(さんみ)(さんゐ)の童(わらは)なりしが、三位(さんみ)うたれて後(のち)、
おとと【弟】の能登守(のとのかみ)につかは【使は】れけり。生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)に
ぞなりける。この童(わらは)をうたせてあまりにあはれ【哀】
におもは【思は】れければ、其(その)後(のち)はいくさ【軍】もし給(たま)はず。判
P11228
官(はうぐわん)は佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)を陣(ぢん)のうしろへかきいれ【入れ】
させ、馬(むま)よりおり、手(て)をとらへて、「三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)、いかが
おぼゆる【覚ゆる】」との給(たま)へば、いき【息】のしたに申(まうし)けるは、「いまはかうと
存(ぞんじ)候(さうらふ)」。「おもひ【思ひ】をく(おく)【置く】事(こと)はなきか」との給(たま)へば、「なに事(ごと)をか
おもひ【思ひ】をき(おき)【置き】候(さうらふ)べき。君(きみ)の御世(おんよ)にわたらせ給(たま)はんを
見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】で、死(し)に候(さうら)はん事(こと)こそ口惜(くちをしく)(くちおしく)覚(おぼえ)候(さうら)へ。さ候(さうら)
はでは、弓矢(ゆみや)とる物(もの)の、敵(かたき)の矢(や)にあた(ッ)てしなん事(こと)、
もとより期(ご)する処(ところ)で候(さうらふ)也(なり)。就中(なかんづく)に「源平(げんぺい)[B の]御合戦(ごかつせん)に、
P11229
奥州(あうしう)(あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)といひける物(もの)、讃岐国(さぬきのくに)
八島(やしま)のいそにて、しう(しゆう)【主】の御命(おんいのち)にかはりたてま(ッ)【奉つ】て
うた【討た】れにけり」と、末代(まつだい)の物語(ものがたり)に申(まう)されん事(こと)こそ、
弓矢(ゆみや)とる身(み)は今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥途(めいど)の思出(おもひで)にて候(さうら)へ」と
申(まうし)もあへ【合へ】ず、ただよはり(よわり)【弱り】によはり(よわり)【弱り】にければ、判官(はうぐわん)涙(なみだ)を
はらはらとながし、「此(この)辺(へん)にた(ッ)とき僧(そう)やある」とて、たづね【尋ね】
いだし、「手負(ておひ)(ておい)のただいまおち【落ち】いるに、一日経(いちにちぎやう)かいてとぶ
らへ」とて、黒(くろ)き馬(むま)のふとう【太う】たくましゐ(たくましい)【逞しい】に、き(ン)ぶくりん(きぶくりん)【黄覆輪】の
P11230
鞍(くら)P2316をい(おい)て、かの僧(そう)にたびにけり。判官[* 「官判」と有るのを高野本により訂正](はうぐわん)五位尉(ごゐのじよう)(ごゐのぜう)になら
れし時(とき)、五位(ごゐ)になして、大夫黒(たいふぐろ)(たゆふぐろ)とよばれし馬(むま)也(なり)。一(いち)の
谷(たに)ひへ鳥(どり)ごえ(ひえどりごえ)【鵯越】をもこの馬(むま)にてぞおとさ【落さ】れたりける。弟(おとと)
の四郎兵衛(しらうびやうゑ)をはじめとして、是(これ)を見(み)る兵(つはもの)ども皆(みな)
涙(なみだ)をながし、「此(この)君(きみ)の御(おん)ために命(いのち)をうしなは【失は】ん事(こと)、ま(ッ)
たく露塵(つゆちり)程(ほど)もおしから(をしから)【惜しから】ず」とぞ申(まうし)ける。那須与一(なすのよいち)S1104さる程(ほど)に、
阿波(あは)・讃岐(さぬき)に平家(へいけ)をそむいて、源氏(げんじ)を待(まち)ける物(もの)ども、
あそこの峯(みね)、ここの洞(ほら)より、十四五騎(じふしごき)、廿騎(にじつき)、うち【打ち】つれ【連れ】
P11231
うち【打ち】つれ【連れ】まいり(まゐり)【参り】ければ、判官(はうぐわん)程(ほど)なく三百(さんびやく)余騎(よき)にぞ
なりにける。「けふは日(ひ)くれぬ、勝負(しようぶ)(せうぶ)を決(けつ)すべからず」とて
引退(ひきしりぞ)く処(ところ)に、おきの方(かた)より尋常(じんじやう)にかざ(ッ)たる小舟(せうしう)
一艘(いつさう)、みぎはへむいてこぎよせけり。磯(いそ)へ七八段(しちはつたん)ばかりに
なりしかば、舟(ふね)をよこさまになす。「あれはいかに」と見(み)る
程(ほど)に、船(ふね)のうちよりよはひ十八九(じふはつく)ばかりなる女房(にようばう)の、
まこと【誠】にゆう(いう)【優】にうつくしきが、柳(やなぎ)のいつつぎぬ【五衣】に、紅(くれなゐ)
のはかま【袴】きて、みな紅(ぐれなゐ)の扇(あふぎ)の日(ひ)いだし【出し】たるを、舟(ふね)の
P11232
せがいにはさみ【鋏み】たてて、陸(くが)へむいてぞまねひ(まねい)【招い】たる。判官(はうぐわん)、
後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)をめして、「あれはいかに」との給(たま)へば、「ゐよ(いよ)【射よ】
とにこそ候(さうらふ)めれ。但(ただし)大将[B 軍](たいしやうぐん)矢(や)おP2317もてにすすんで、傾城(けいせい)を
御(ご)らんぜば、手(て)だれにねらうてゐ(い)【射】おとせ【落せ】とのはかり
こととおぼえ候(さうらふ)。さも候(さうら)へ、扇(あふぎ)をばゐ(い)【射】させらるべうや候(さうらふ)らん」
と申(まうす)。「ゐ(い)【射】つべき仁(じん)はみかた【御方】に誰(たれ)かある」との給(たま)へば、「上手(じやうず)
どもいくらも候(さうらふ)なかに、下野国(しもつけのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)、那須(なすの)太郎(たらう)資
高(すけたか)が子(こ)に、与一(よいち)宗高(むねたか)こそ小兵[* 「少兵」と有るのを高野本により訂正](こひやう)で候(さうら)へども、手(て)きき【手利】で
P11233
候(さうら)へ」。「証拠(しようこ)(しやうこ)はいかに」との給(たま)へば、「かけ鳥(どり)な(ン)ど(など)あらがうて、三(みつ)
に二(ふたつ)は必(かなら)ずゐ(い)【射】おとす物(もの)で候(さうらふ)」。「さらばめせ」とてめされ
たり。与一(よいち)其(その)比(ころ)は廿(にじふ)ばかりのおの子(こ)(をのこ)【男】也(なり)。かち【褐】に、あか地(ぢ)の錦(にしき)
をも(ッ)ておほくび【大領】はた【端】袖(そで)いろえ(いろへ)【彩へ】たる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もよぎ)
おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、足(あし)じろの太刀(たち)をはき、きりふ【切斑】の
矢(や)の、其(その)日(ひ)のいくさ【軍】にゐ(い)【射】て少々(せうせう)のこ(ッ)たりけるを、かしら
だかにおひなし、うすぎりふに鷹(たか)の羽(は)はぎまぜ
たるぬた目(め)のかぶらをぞさしそへたる。しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)
P11234
脇(わき)にはさみ【鋏み】、甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけ、判官(はうぐわん)の
前(まへ)に畏(かしこま)る。「いかに宗高(むねたか)、あの扇(あふぎ)のま(ン)なか(まんなか)【真ん中】ゐ(い)【射】て、平家(へいけ)に
見物(けんぶつ)せさせよかし」。与一(よいち)畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「ゐ(い)【射】おほせ
候(さうら)はん事(こと)は不定(ふぢやう)に候(さうらふ)。射(い)損(そん)じ候(さうらひ)なば、ながきみかた【御方】
の御(おん)きずにて候(さうらふ)べし。一定(いちぢやう)つかまつらんずる仁(じん)に
仰付(おほせつけ)らるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうす)。判官(はうぐわん)大(おほき)にいか(ッ)て、「鎌
倉(かまくら)をた(ッ)て西国(さいこく)へおもむか【赴か】ん殿原(とのばら)は、義経(よしつね)が命(めい)
をそむくべからず。すこし【少し】も子細(しさい)を存(ぞん)ぜん人(ひと)は、
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とうとう是(これ)よりかへらるべし」とぞの給(たま)ひける。与
一(よいち)かP2318さねて辞(じ)せばあしかり【悪しかり】なんとや思(おも)ひけん、「は
づれんはしり【知り】候(さうら)はず、御定(ごぢやう)で候(さうら)へばつかま(ッ)てこそ
み候(さうら)はめ」とて、御(おん)まへを罷立(まかりたち)、黒(くろ)き馬(むま)のふとう【太う】
たくましゐ(たくましい)【逞しい】に、小(こ)ぶさの鞦(しりがい)かけ、まろぼやす(ッ)たる
鞍(くら)をい(おい)【置い】てぞの(ッ)【乗つ】たりける。弓(ゆみ)とりなをし(なほし)【直し】、手綱(たづな)
かいくり、みぎはへむひ(むい)てあゆま【歩ま】せければ、みかた【御方】
の兵(つはもの)どもうしろをはるかに見(み)をく(ッ)(おくつ)【送つ】て、「此(この)わか物(もの)【若者】
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一定(いちぢやう)つかまつり候(さうらひ)ぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)」と申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)も
たのもしげ【頼もし気】にぞ見(み)給(たま)ひける。矢(や)ごろすこし【少し】
遠(とほ)かりければ、海(うみ)へ一段(いつたん)ばかりうちいれ【入れ】たれども、
猶(なほ)(なを)扇(あふぎ)のあはひ七段(しちたん)ばかりはあるらんとこそ
見(み)えたりけれ。比(ころ)は二月(にぐわつ)(にんぐわつ)十八日(じふはちにち)の酉(とり)の剋(こく)ばかり
の事(こと)なるに、おりふし(をりふし)【折節】北風(ほくふう)はげしくて、磯(いそ)うつ
浪(なみ)もたかかりけり。船(ふね)はゆりあげゆりすゑただ
よへば、扇(あふぎ)もくしにさだまら【定まら】ずひらめいたり。
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おきには平家(へいけ)船(ふね)を一面(いちめん)にならべて見物(けんぶつ)す。陸(くが)には
源氏(げんじ)くつばみをならべて是(これ)を見(み)る。いづれもいづれも
晴(はれ)ならずといふ事(こと)ぞなき。与一(よいち)目(め)をふさいで、
「南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、我(わが)国(くに)の神明(しんめい)、日光(につくわうの)(につくはうの)権現(ごんげん)宇
都宮(うつのみや)、那須(なす)のゆぜん大明神(だいみやうじん)、願(ねがは)くはあの扇(あふぎ)の
ま(ン)なか(まんなか)【真ん中】ゐ(い)【射】させてたばせ給(たま)へ。是(これ)をゐ(い)【射】そんずる物(もの)
ならば、弓(ゆみ)きりおり(をり)【折り】自害(じがい)して、人(ひと)に二(ふた)たび【二度】面(おもて)を
むかふ【向ふ】べからず。いま一度(いちど)本国(ほんごく)へむかへ【向へ】んとおぼし
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めさ【思し召さ】ば、この矢(や)はづさ【外さ】せ給(たま)ふな」と、心(こころ)のうちに祈
念(きねん)して、目(め)を見(み)ひらひ(ひらい)【開い】たれば、風(かぜ)もすこし【少し】吹(ふき)よはP2319り(よわり)【弱り】、
扇(あふぎ)もゐ(い)【射】よげにぞな(ッ)たりける。与一(よいち)鏑(かぶら)をと(ッ)てつ
がひ、よ(ッ)ぴいてひやうどはなつ【放つ】。小兵(こひやう)といふぢやう
十二束(じふにそく)三(みつ)ぶせ、弓(ゆみ)はつよし、浦(うら)ひびく程(ほど)ながなり【長鳴】
して、あやまたず扇(あふぎ)のかなめぎは一寸(いつすん)ばかりをい(おい)
て、ひ(イ)ふつとぞゐ(い)【射】き(ッ)たる。鏑(かぶら)は海(うみ)へ入(いり)ければ、扇(あふぎ)は空(そら)へ
ぞあがり【上がり】ける。しばしは虚空(こくう)にひらめきけるが、春
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風(はるかぜ)に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、海(うみ)へさ(ッ)とぞち(ッ)【散つ】たり
ける。夕日(せきじつ)のかかやい【輝い】たるに、みな紅(ぐれなゐ)の扇(あふぎ)の日(ひ)いだし
たるが、しら波(なみ)【白波】のうへにただよひ、うきぬしづみぬ
ゆられければ、奥(おき)には平家(へいけ)ふなばたをたたいて感(かん)
じたり、陸(くが)には源氏(げんじ)ゑびら(えびら)【箙】をたたいてどよめきけり。
弓流(ゆみながし)S1105あまりの面白(おもしろ)さに、感(かん)にたへ【堪へ】ざるにやとおぼしくて、
舟(ふね)のうちよりとし五十(ごじふ)ばかりなる男(をのこ)(おのこ)の、黒革(くろかは)お
どし(をどし)の鎧(よろひ)(よろい)きて、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)も(ッ)たるが、扇(あふぎ)たてたり
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ける処(ところ)にた(ッ)て舞(まひ)しめたり。伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、
与一(よいち)がうしろへあゆま【歩ま】せよ(ッ)て、「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつ
れ」といひければ、今度(こんど)はなかざし【中差】と(ッ)てうちくはせ、
よ(ッ)ぴい【引い】てしや頸(くび)の骨(ほね)をひやうふつとゐ(い)【射】て、ふなぞ
こ【船底】へさかさま【逆様】にゐ(い)【射】たをす(たふす)【倒す】。平家(へいけ)のP2320方(かた)には音(おと)(をと)もせず、源
氏(げんじ)の方(かた)には又(また)ゑびら(えびら)【箙】をたたいてどよめきけり。「あ、ゐ(い)【射】
たり」といふ人(ひと)もあり、又(また)「なさけなし」といふものも
あり。平家(へいけ)これをほい【本意】なしとやおもひ【思ひ】けん、楯(たて)つい【突い】
P11241
て一人(いちにん)、弓(ゆみ)も(ッ)て一人(いちにん)、長刀(なぎなた)も(ッ)て一人(いちにん)、武者(むしや)三人(さんにん)なぎ
さにあがり【上がり】、楯(たて)をついて「かたき【敵】よせよ【寄せよ】」とぞまねひ(まねい)【招い】たる。
判官(はうぐわん)「あれ、馬(むま)づよ【強】ならん若党(わかたう)ども、はせ【馳せ】よせ【寄せ】て
け【蹴】ちらせ」との給(たま)へば、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)、みをの屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】四郎(しらう)・
同(おなじく)藤七(とうしち)・同(おなじく)十郎(じふらう)、上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)丹生(にふ)の四郎(しらう)、信濃
国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)木曾(きそ)の中次(ちゆうじ)(ちうじ)、五騎(ごき)つれておめい(をめい)【喚い】てかく。
楯(たて)のかげ【陰】よりぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】はいだる大(だい)の矢(や)を
も(ッ)て、ま(ッ)さきにすすん【進ん】だるみをのやの(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)が馬(むま)の
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左(ひだり)のむながいづくしを、ひやうづばとゐ(い)【射】て、はず【筈】
のかくるる【隠るる】程(ほど)ぞゐ(い)【射】こう【込う】だる。屏風(びやうぶ)をかへす【返す】様(やう)に
馬(むま)はどうどたふるれ【倒るれ】ば、主(ぬし)は馬手(めて)の足(あし)をこい【越い】てお
りた(ッ)て、やがて太刀(たち)をぞぬい【抜い】たりける。たて【楯】のかげ
より大長刀(おほなぎなた)うちふ(ッ)てかかりければ、みをの屋(や)
の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)、小太刀(こだち)長刀(なぎなた)にかなは【叶は】じとや思(おもひ)けむ、か
いふい【伏い】てにげ【逃げ】ければ、軈(やがて)つづいてお(ッ)【追つ】かけ【掛け】たり。長
刀(なぎなた)でなが【薙が】んずるかと見(み)る処(ところ)に、さはなくして、長刀(なぎなた)
P11243
をば左(ひだり)の脇(わき)にかいばさみ、右(みぎ)の手(て)をさしのべて、み
をの屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)が甲(かぶと)のしころをつかま【掴ま】んとす。つ
かま【掴ま】れじとはしる【走る】。三度(さんど)つかみはづい【外い】て、四度(しど)
のたび【度】む(ン)ずとつかむ。しばしぞたま(ッ)て見(み)えし、
鉢(はち)つけ【鉢付】のいた【板】よりふつとひ(ッ)【引つ】P2321き(ッ)【切つ】てぞにげ【逃げ】たり
ける。のこり四騎(しき)は、馬(むま)ををしう【惜しう】でかけず、見物(けんぶつ)
してこそゐたりけれ。みをの屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)は、みかた【御方】
の馬(むま)のかげににげ【逃げ】入(いり)て、いき【息】づきゐたり。敵(かたき)は
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おう【追う】てもこ【来】で、長刀(なぎなた)杖(つゑ)(つえ)につき、甲(かぶと)のしころを
さしあげ【差し上げ】、大音声(だいおんじやう)(だいをんじやう)をあげて、「日(ひ)ごろは音(おと)(をと)にもきき
つらん、いまは目(め)にも見(み)給(たま)へ。是(これ)こそ京(きやう)わらんべの
よぶなる上総(かづさ)の悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)景清(かげきよ)よ」となのり【名乗り】捨(すて)
てぞかへりける。平家(へいけ)是(これ)に心地(ここち)なをし(なほし)【直し】て、「悪(あく)七兵
衛(しつびやうゑ)うた【討た】すな。つづけや物(もの)ども」とて、又(また)二百(にひやく)余人(よにん)
なぎさにあがり【上がり】、楯(たて)をめん鳥羽(どりば)【雌鳥羽】につきならべて、
「敵(かたき)よせよ【寄せよ】」とぞまねひ(まねい)【招い】たる。判官(はうぐわん)是(これ)を見(み)て、「やす
P11245
からぬ事(こと)なり」とて、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)を
さきにたて、奥州(あうしう)(あふしう)の佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)
を〔弓手(ゆんで)〕馬手(めて)にたて、田代(たしろの)冠者(くわんじや)をうしろにたてて、八十(はちじふ)
余騎(よき)おめい(をめい)【喚い】てかけ給(たま)へば、平家(へいけ)の兵(つはもの)ども馬(むま)には
のらず、大略(たいりやく)かち武者(むしや)にてあり【有り】ければ、馬(むま)にあて【当て】ら
れじとひきしりぞひ(しりぞい)【退い】て、みな船(ふね)へぞのりにける。
楯(たて)は算(さん)をちらし【散らし】たる様(やう)にさんざん【散々】にけ【蹴】ちらさ【散らさ】る。源
氏(げんじ)のつは物(もの)ども【兵共】、勝(かつ)にの(ッ)【乗つ】て、馬(むま)のふと腹(ばら)ひたる【浸る】程(ほど)に
P11246
うち【打ち】いれ【入れ】て[B せめ【攻め】]たたかふ【戦ふ】。判官(はうぐわん)ふか入(いり)【深入り】してたたかふ【戦ふ】程(ほど)に、
舟(ふね)のうちより熊手(くまで)をも(ッ)て、判官(はうぐわん)の甲(かぶと)のしころに
からりからりと二三度(にさんど)までうちかけけるを、みかた【御方】
の兵(つはもの)ども、太刀(たち)長刀(なぎなた)でうちのけうちのけしける程(ほど)に、いかが
したりけん、判官(はうぐわん)弓(ゆみ)をかけおとさ【落さ】れぬ。うつぶし
で、鞭(むち)をP2322も(ッ)てかきよせて、とらうとらうどし給(たま)へば、兵(つはもの)
ども「ただすてさせ給(たま)へ」と申(まうし)けれども、つゐに(つひに)【遂に】と(ッ)て、
わらう【笑う】てぞかへられける。おとなどもつまはじき【爪弾き】
P11247
をして、「口惜(くちをし)(くちおし)き御事(おんこと)候(ざうらふ)かな、たとひ千疋(せんびき)万疋(まんびき)に
かへさせ給(たまふ)べき御(おん)たらしなりとも、争(いかで)か御命(おんいのち)に
かへさせ給(たまふ)べき」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)「弓(ゆみ)のおしさ(をしさ)【惜しさ】
にとら【取ら】ばこそ。義経(よしつね)が弓(ゆみ)といはば、二人(ににん)してもはり【張り】、
若(もし)は三人(さんにん)してもはり【張り】、おぢ(をぢ)の為朝(ためとも)が弓(ゆみ)の様(やう)ならば、
わざともおとし【落し】てとらすべし。■弱(わうじやく)たる弓(ゆみ)を
かたき【敵】のとりも(ッ)て、「是(これ)こそ源氏(げんじ)の大将(たいしやう)九郎(くらう)義
経(よしつね)が弓(ゆみ)よ」とて、嘲哢(てうろう)せんずるが口惜(くちをし)(くちおし)ければ、命(いのち)に
P11248
かへてとるぞかし」との給(たま)へば、みな人(ひと)是(これ)を感(かん)じ
ける。さる程(ほど)に日(ひ)くれ【暮れ】ければ、ひきしりぞひ(しりぞい)【退い】て、
むれ高松(たかまつ)のなかなる野山(のやま)に陣(ぢん)をぞと(ッ)たり
ける。源氏(げんじ)のつは物(もの)ども【兵共】この三日(みつか)が間(あひだ)(あいだ)はふさ【臥さ】ざり
けり。おととひ(をととひ)【一昨日】渡辺(わたなべ)・福島(ふくしま)をいづる【出づる】とて、其(その)夜(よ)
大浪(おほなみ)にゆられてまどろまず。昨日(きのふ)阿波国(あはのくに)勝
浦(かつうら)にていくさ【軍】して、夜(よ)もすがらなか山(やま)【中山】こえ【越え】、けふ又(また)
一日(いちにち)たたかひ【戦ひ】くらしたりければ、みなつかれ【疲れ】はてて、
P11249
或(あるい)(ある)は甲(かぶと)を枕(まくら)にし、或(あるい)(ある)は鎧(よろひ)(よろい)の袖(そで)、ゑびら(えびら)【箙】な(ン)ど(など)枕(まくら)に
して、前後(ぜんご)もしら【知ら】ずぞふし【臥し】たりける。其(その)なかに、
判官(はうぐわん)と伊勢(いせの)三郎(さぶらう)はねざりけり。判官(はうぐわん)はたかき【高き】と
ころ【所】にのぼりあが(ッ)【上がつ】て、敵(かたき)やよする【寄する】と遠見(とほみ)し給(たま)へば、
伊勢(いせの)三郎(さぶらう)はくぼき処(ところ)にかくれゐて、かたき【敵】よせ【寄せ】ば、
まづ馬(むま)の腹(はら)ゐ(い)【射】んとてまち【待ち】かけたり。平家(へいけ)のP2323方(かた)には、
能登守(のとのかみ)を大将(たいしやう)にて、其(その)勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、夜討(ようち)にせん
としたく【支度】したりけれども、越中(ゑつちゆうの)(ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次【*盛嗣】(もりつぎ)と
P11250
海老(えみの)(ゑみの)次郎(じらう)守方【*盛方】(もりかた)と先陣(せんぢん)をあらそふ程(ほど)に、其(その)夜(よ)は
むなしう【空しう】あけにけり。夜討(ようち)にだにもしたらば、源氏(げんじ)
なにかあらまし。よせ【寄せ】ざりけるこそせめての運(うん)の
きはめなれ。志渡【*志度】合戦(しどかつせん)S1106あけければ、平家(へいけ)船(ふね)にとりの(ッ)【乗つ】て、当
国(たうごく)志度(しど)の浦(うら)へこぎしりぞく。判官(はうぐわん)三百(さんびやく)余騎(よき)が
なか【中】より馬(むま)や人(ひと)をすぐ(ッ)て、八十(はちじふ)余騎(よき)追(おう)(をう)てぞかか
りける。平家(へいけ)是(これ)を見(み)て、「かたき【敵】は小勢[* 「少勢」と有るのを高野本により訂正](こぜい)なり。なかに
とりこめてうてや」とて、又(また)千余人(せんよにん)なぎさにあがり、
P11251
おめき(をめき)【喚き】さけむ(さけん)でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。さる程(ほど)に、八島(やしま)にのこり【残り】
とどま(ッ)【留まつ】たりける二百(にひやく)余騎(よき)の兵(つはもの)ども、おくればせに
馳来(はせきた)る。平家(へいけ)是(これ)を見(み)て、「すはや、源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)の
つづくは。なん【何】十万騎(じふまんぎ)かあるらん。とりこめられてはかなふ【叶ふ】
まじ」とて、又(また)舟(ふね)にとりの(ッ)【乗つ】て、塩(しほ)にひか【引か】れ、風(かぜ)にしたが(ッ)て、
いづくをさすともなくおち【落ち】ゆき【行き】ぬ。四国(しこく)はみな大夫(たいふ)(たゆふ)
判官(はうぐわん)におい(おひ)【追ひ】おとさ【落とさ】れぬ。九国(くこく)へは入(いれ)られず。ただ中
有(ちゆうう)(ちうう)の衆生(しゆじやう)とぞ見(み)えし。P2324判官(はうぐわん)志度(しど)の浦(うら)におり
P11252
ゐて、頸(くび)ども実検(じつけん)しておはしけるが、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)
義盛(よしもり)をめしての給(たま)ひけるは、「阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡
子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)は、河野(かはのの)四郎(しらう)道信【*通信】(みちのぶ)がめせども
まいら(まゐら)【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千(さんぜん)余騎(よき)にて伊与【*伊予】(いよ)へこえ
たりけるが、河野(かはの)をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、家子(いへのこ)郎等(らうどう)百
五十人(ひやくごじふにん)が頸(くび)き(ッ)て、昨日(きのふ)八島(やしま)の内裏(だいり)へまいらせ(まゐらせ)【参らせ】たりけるが、
けふ是(これ)へつくときく。汝(なんぢ)ゆきむか(ッ)【向つ】て、ともかうもこ
しらへて具(ぐ)してまいれ(まゐれ)【参れ】かし」との給(たま)ひければ、
P11253
畏(かしこま)(ッ)てうけ給(たま)はり【承り】、旗(はた)一流(ひとながれ)給(たまは)(ッ)てさすままに、其(その)勢(せい)
わづかに十六騎(じふろくき)、みなしら装束(しやうぞく)【白装束】にて馳(はせ)むかふ【向ふ】。義盛(よしもり)、
教能(のりよし)にゆきあふ(あう)【合う】たり。白旗(しらはた)、赤旗(あかはた)、二町(にちやう)ばかりをへ
だててゆらへたり。伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、使者(ししや)をたてて
申(まうし)けるは、「是(これ)は源氏(げんじ)〔の〕大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)の御
内(みうち)に、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)と申(まうす)物(もの)で候(さうらふ)が、大将(たいしやう)に申(まうす)べき
事(こと)あ(ッ)て、是(これ)までまかり【罷り】むか(ッ)【向つ】て候(さうらふ)。させるいくさ合戦(かつせん)の
れう【料】でも候(さうら)はねば、物(もの)の具(ぐ)もし候(さうら)はず。弓矢(ゆみや)ももた
P11254
せ候(さうら)はず。あけ【明け】ていれ【入れ】させ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、三千(さんぜん)
余騎(よき)の兵(つはもの)どもなかをあけ【明け】てぞとをし(とほし)ける。義盛(よしもり)、
教能(のりよし)にうちならべて、「かつきき給(たまひ)てもあるらん。鎌倉(かまくら)ど
のの御(おん)おとと【弟】九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官殿(はうぐわんどの)、院宣(ゐんぜん)をうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て
西国(さいこく)へむかは【向は】せ給(たまひ)て候(さうらふ)が、一昨日(をととひ)(おととひ)阿波[B 国](あはのくに)勝浦(かつうら)にて、御辺(ごへん)の
伯父(をぢ)(おぢ)、桜間[B ノ]介(さくらばのすけ)うた【討た】れ給(たま)ひぬ。昨日(きのふ)八島(やしま)によせて、
御所(ごしよ)内裏(だいり)みなやき【焼き】はらひ【払ひ】、おほいとの父子(ふし)いけど
り【生捕り】にしたてまつり【奉り】、能登殿(のとどの)は自害(じがい)し給(たま)P2325ひぬ。その
P11255
外(ほか)のきんだち、或(あるい)(ある)はうちじに、或(あるい)(ある)は海(うみ)に入(いり)給(たま)ひぬ。余
党(よたう)のわづかにありつるは、志度(しど)の浦(うら)にてみなうた【討た】れ
ぬ。御辺(ごへん)のちち、阿波[B ノ](あはの)民部殿(みんぶどの)は降人(かうにん)にまいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)
ひて候(さうらふ)を、義盛(よしもり)があづかりたてま(ッ)【奉つ】て候(さうらふ)が、「あはれ、田内
左衛門(でんないざゑもん)が是(これ)をば夢(ゆめ)にもしらで、あすはいくさ【軍】してう
た【討た】れまいらせ(まゐらせ)【参らせ】んずるむざんさよ」と、夜(よ)もすがらなげ
き給(たま)ふがあまりにいとをしく(いとほしく)て、此(この)事(こと)しらせたて
まつら【奉ら】むとて、是(これ)までまかり【罷り】むか(ッ)【向つ】て候(さうらふ)。そのうへは、いくさ【軍】
P11256
してうちじに【討死】せんとも、降人(かうにん)にまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て父(ちち)をいま一
度(いちど)見(み)たてまつら【奉ら】んとも、ともかうも御(ご)へん【辺】がはから
ひ[B ぞ]」といひ【言ひ】ければ、[B 田]内左衛門(でんないざゑもん)(でんないざへもん)きこゆる【聞ゆる】兵(つはもの)なれども、運(うん)
やつきにけむ、「かつきく事(こと)にすこし【少し】もたがは【違は】ず」とて、
甲(かぶと)をぬぎ弓(ゆみ)の弦(つる)をはづい【外い】て、郎等(らうどう)にもたす。大将(たいしやう)
が加様(かやう)にするうへは、三千(さんぜん)余騎(よき)の兵(つはもの)どもみなかくのご
とし。纔(わづか)に十六(じふろく)騎(き)に具(ぐ)せられて、おめおめと降人(かうにん)に
こそまいり(まゐり)【参り】けれ。「義盛(よしもり)がはかりこと【策】まこと【誠】にゆゆし
P11257
かりけり」と、判官(はうぐわん)も感(かん)じ給(たま)ひけり。やがて田内左
衛門(でんないざゑもん)(でんないざへもん)をば、物具(もののぐ)めされて、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)にあづけらる。
「さてあの勢(せい)どもはいかに」との給(たま)へば、「遠国(をんごく)の物(もの)どもは、
誰(たれ)をたれとかおもひ【思ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうらふ)べき。ただ世(よ)のみだ
れをしづめて、国(くに)をしろしめさ【知ろし召さ】んを君(きみ)とせん」と
申(まうし)ければ、「尤(もつとも)しかる【然る】べし」とて、三千(さんぜん)余騎(よき)をみな
我(わが)勢(せい)にぞ具(ぐ)せられける。P2326同(おなじき)廿二日(にじふににち)〔の〕辰剋(たつのこく)ばかり、
渡辺(わたなべ)にのこりとどま(ッ)【留まつ】たりける二百(にひやく)余艘(よさう)(よそう)の船(ふね)ども、
P11258
梶原(かぢはら)をさきとして、八島(やしま)の磯(いそ)にぞつきにける。
「西国(さいこく)はみな九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)にせめおとさ【落さ】れぬ。今(いま)は
なんのようにか逢(あふ)べき。会(ゑ)にあはぬ花(はな)、六日(むゆか)の
菖蒲(しやうぶ)、いさかい(いさかひ)はて【果て】てのちぎりきかな」とぞわらひ【笑ひ】
ける。判官(はうぐわん)都(みやこ)をたち給(たま)ひて後(のち)、住吉(すみよし)の神主(かんぬし)
長盛(ながもり)、院(ゐん)の御所(ごしよ)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、大蔵卿(おほくらきやう)康経【*泰経】(やすつねの)朝臣(あそん)(あ(ツ)そん)
をも(ッ)て奏聞(そうもん)しけるは、「去(さんぬる)十六日(じふろくにち)丑剋(うしのこく)に、当社(たうしや)第
三(だいさん)の神殿(じんでん)より鏑矢(かぶらや)の声(こゑ)いで【出で】て、西(にし)をさして罷(まかり)候(さうらひ)
P11259
ぬ」と申(まうし)ければ、法皇(ほふわう)(ほうわう)大(おほき)に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、御剣(ぎよけん)以下(いげ)、
種々(しゆじゆ)の神宝(じんぼう)等(ら)を長盛(ながもり)して大明神(だいみやうじん)へまいら
せ(まゐらせ)【参らせ】らる。むかし神宮【*神功】皇后(じんごうくわうこう)、新羅(しんら)をせめ【攻め】給(たま)ひし
時(とき)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)より二神(にじん)のあらみさきをさ
しそへさせ給(たま)ひけり。二神(にじん)御船(みふね)のともへ【艫舳】に立(た)(ッ)て、
新羅(しんら)をやすくせめ【攻め】おとさ【落さ】れぬ。帰朝(きてう)の後(のち)、一神(いちじん)は
摂津国(つのくに)住吉(すみよし)のこほり【郡】にとどまり給(たま)ふ。住吉(すみよし)の
大明神(だいみやうじん)の御事(おんこと)也(なり)。いま一神(いちじん)は信濃国(しなののくに)諏方【*諏訪】(すは)の
P11260
こほりに跡(あと)を垂(た)る。諏方【*諏訪】(すは)の大明神(だいみやうじん)是(これ)也(なり)。昔(むかし)の征
戎(せいじう)の事(こと)をおぼしめし【思し召し】わすれず、いまも朝(てう)の怨敵(をんでき)
をほろぼし給(たまふ)べきにやと、君(きみ)も臣(しん)もたのもしう【頼もしう】
ぞおぼしめされける。P2327鶏合(とりあはせ)壇浦合戦(だんのうらかつせん)S1107さる程(ほど)に、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、
周防(すはう)の地(ち)におしわた(ッ)【渡つ】て、兄(あに)の参川【*三河】守(みかはのかみ)とひとつに
なる。平家(へいけ)は長門国(ながとのくに)ひく島(しま)【引島】にぞつきにける。源氏(げんじ)
阿波国(あはのくに)勝浦(かつうら)について、八島(やしま)のいくさ【軍】にうちかちぬ。
平家(へいけ)ひく島(しま)【引島】につくときこえ【聞え】しかば、源氏(げんじ)は同国(どうごく)の
P11261
うち【内】、おい津(つ)(おひつ)【追津】につくこそ不思議(ふしぎ)なれ。熊野(くまのの)別当(べつたう)湛
増(たんぞう)は、平家(へいけ)へやまいる(まゐる)【参る】べき、源氏(げんじ)へやまいる(まゐる)【参る】べきとて、
田(た)なべ【田辺】の新熊野(いまぐまの)にて御神楽(みかぐら)奏(そう)して、権現(ごんげん)に
祈誓(きせい)したてまつる【奉る】。白旗(しらはた)につけと仰(おほせ)けるを、猶(なほ)(なを)うた
がひをなして、白(しろ)い鶏(にはとり)七(なな)つ赤(あか)き鶏(にはとり)七(なな)つ、是(これ)をも(ッ)て権現(ごんげん)の
御(おん)まへにて勝負(しようぶ)(せうぶ)をせさす。赤(あか)きとり一(ひとつ)もかたず。みな
まけ【負け】てにげにけり。さてこそ源氏(げんじ)へまいら(まゐら)【参ら】んとお
もひ【思ひ】さだめけれ。一門(いちもん)の物(もの)どもあひ【相ひ】もよをし(もよほし)【催し】、都合(つがふ)(つがう)
P11262
其(その)勢(せい)二千(にせん)余人(よにん)、二百(にひやく)余艘(よさう)(よそう)の舟(ふね)にのりつれて、若王
子(にやくわうじ)の御正体(ごしやうたい)を船(ふね)にのせ【乗せ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、旗(はた)のよこがみ【横上】には、
金剛童子(こんがうどうじ)をかきたてま(ッ)【奉つ】て、檀【*壇】(だん)の浦(うら)へよする【寄する】を見(み)て、
源氏(げんじ)も平家(へいけ)もともにおがむ(をがむ)。されども源氏(げんじ)の方(かた)へ
つきければ、平家(へいけ)はけう(きよう)【興】さめ【醒め】てぞおもはれける。又(また)
伊与【*伊予】国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)、河野(かはのの)四郎(しらう)道信【*通信】(みちのぶ)、百五十艘(ひやくごじつさう)の兵船(ひやうせん)に
のりつれ【連れ】てこぎ来(き)たり、源氏(げんじ)とひとつ【一つ】になりにけり。
判官(はうぐわん)かたがたたのもしう【頼もしう】ちから【力】つい【付い】てぞP2328おもは【思は】れける。
P11263
源氏(げんじ)の船(ふね)は三千(さんぜん)〔余(よ)〕艘(さう)(そう)、平家(へいけ)の舟(ふね)は千(せん)余艘(よさう)(よそう)、唐船(たうせん)少々(せうせう)
あひまじれり。源氏(げんじ)の勢(せい)はかさなれ【重なれ】ば、平家(へいけ)の
せいは落(おち)ぞゆく。元暦(げんりやく)二年(にねん)三月(さんぐわつ)廿四日(にじふしにち)の卯剋(うのこく)に、
門司(もじ)赤間(あかま)の関(せき)にて源平(げんぺい)矢合(やあはせ)とぞさだめける。
其(その)日(ひ)判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)とすでにどしいくさ【同士戦】せんとする
事(こと)あり。梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「けふの先陣(せんぢん)をば景時(かげとき)に
たび候(さうら)へ」。判官(はうぐわん)「義経(よしつね)がなくばこそ」。「まさなう候(さうらふ)。殿(との)は
大将軍(たいしやうぐん)にてこそましまし候(さうら)へ」。判官(はうぐわん)「おもひ【思ひ】もよらず。
P11264
鎌倉殿(かまくらどの)こそ大将軍(たいしやうぐん)よ。義経(よしつね)は奉行(ぶぎやう)をうけ給(たまはつ)【承つ】
たる身(み)なれば、ただ殿原(とのばら)とおなじ事(こと)ぞ」との給(たま)へば、
梶原(かぢはら)、先陣(せんぢん)を所望(しよまう)しかねて、「天性(てんぜい)この殿(との)は
侍(さぶらひ)の主(しゆう)(しゆ)にはなり難(がた)し」とぞつぶやきける。判官(はうぐわん)
これをきい【聞い】て、「日本一(につぽんいち)のおこ(をこ)の物(もの)かな」とて、太刀(たち)の
つかに手(て)をかけ給(たま)ふ。梶原(かぢはら)「鎌倉殿(かまくらどの)の外(ほか)に主(しゆう)(しゆ)を
もたぬ物(もの)を」とて、是(これ)も太刀(たち)のつかに手(て)をかけけ
り。さる程(ほど)に嫡子(ちやくし)の源太(げんだ)景季(かげすゑ)、次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)、
P11265
同(おなじく)三郎(さぶらう)景家(かげいへ)、ちち【父】と一所(いつしよ)によりあふ(あう)【合う】たり。判官(はうぐわん)の
景気(けいき)を見(み)て、奥州(あうしうの)佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)・伊勢(いせの)
三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・江田[B ノ](えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)
弁慶(べんけい)な(ン)ど(など)いふ一人当千(いちにんたうぜん)のつは物(もの)ども【兵共】、梶原(かぢはら)をなかに
とりこめて、われう(ッ)【討つ】とら【取ら】んとぞすすみける。されども
判官(はうぐわん)には三浦介(みうらのすけ)とり【取り】つき【付き】たてまつる【奉る】。梶原(かぢはら)には
土肥(とひの)(といの)次郎(じらう)つかみつき、両人(りやうにん)手(て)をす(ッ)て申(まうし)けるは、
「是(これ)程(ほど)の大事(だいじ)をまへにかかへながら、どしいくさ【同士戦】候者(さうらはば)、
P11266
平家(へいけ)ちからつき【付き】候(さうらひ)なんず。就中(なかんづく)鎌倉殿(かまくらどの)P2329のかへり
きかせ給(たま)はん処(ところ)こそ穏便(をんびん)ならず候(さうら)へ」と申(まう)せば、判
官(はうぐわん)しづまり給(たま)ひぬ。梶原(かぢはら)すすむに及(およ)(をよ)ばず。それ
よりして梶原(かぢはら)、判官(はうぐわん)をにくみそめて、つゐに(つひに)【遂に】
讒言(ざんげん)してうしなひ【失ひ】けるとぞきこえ【聞え】し。さる程(ほど)に、
源平(げんぺい)の陣(ぢん)のあはひ、海(うみ)のおもて卅余町(さんじふよちやう)をぞ
へだてたる。門司(もじ)・赤間(あかま)・檀【*壇】(だん)の浦(うら)はたぎ(ッ)ておつる塩(しほ)
なれば、源氏(げんじ)の舟(ふね)は塩(しほ)にむかふ(むかう)【向う】て、心(こころ)ならずをし(おし)【押し】おと
P11267
さ【落さ】る。平家(へいけ)の船(ふね)は塩(しほ)におう(あう)【逢う】てぞいで【出で】き【来】たる。おき【沖】は
塩(しほ)のはやけれ【早けれ】ば、みぎは【渚】について、梶原(かぢはら)敵(かたき)の舟(ふね)の
ゆきちがふ処(ところ)に熊手(くまで)をうちかけて、おや子(こ)【親子】主
従(しゆうじゆう)(しゆうじう)十四五人(じふしごにん)のり【乗り】うつり【移り】、うち物(もの)ぬい【抜い】て、ともへ【艫舳】にさんざん【散々】に
ない【薙い】でまはる。分(ぶん)どりあまたして、其(その)日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)
の筆(ふで)にぞつきにける。すでに源平(げんぺい)両方(りやうばう)陣(ぢん)をあ
はせて時(とき)をつくる。上(かみ)は梵天(ぼんでん)までもきこえ【聞え】、下(しも)は
海竜神(かいりゆうじん)(かいりうじん)もおどろくらんとぞおぼえける。新中納
P11268
言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)舟(ふね)の屋形(やかた)にたちいで、大音声(だいおんじやう)(だいをんじやう)をあげて
の給(たま)ひけるは、「いくさ【軍】はけふ【今日】ぞかぎり、物(もの)ども、すこし【少し】も
しりぞく心(こころ)あるべからず。天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)にも日本(につぽん)我(わが)朝(てう)
にもならびなき名将(めいしやう)勇士(ゆうし)といへども、運命(うんめい)つき
ぬれば力(ちから)及(およ)(をよ)ばず。されども名(な)こそおしけれ(をしけれ)【惜しけれ】。東国(とうごく)の
物共(ものども)によはげ(よわげ)【弱気】見(み)ゆな。いつのために命(いのち)をばおしむ(をしむ)【惜しむ】
べき。是(これ)のみぞおもふ【思ふ】事(こと)」との給(たま)へば、飛騨[B ノ](ひだの)三郎左
衛門(さぶらうざゑもん)(さぶらうさへもん)景経(かげつね)御(おん)まへに候(さうらひ)けるが、「是(これ)うけ給(たま)はれ【承れ】、侍(さぶらひ)ども」
P11269
とぞ下知(げぢ)しけP2330る。上総(かづさの)悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)すすみ出(いで)て申(まうし)
けるは、「坂東武者(ばんどうむしや)は馬(むま)のうへでこそ口(くち)はきき候(さうらふ)とも、ふな
いくさ【舟軍】にはいつ調練(てうれん)し候(さうらふ)べき。うを【魚】の木(き)にのぼ(ッ)【上つ】たる
でこそ候(さうら)はんずれ。一々(いちいち)にと(ッ)て海(うみ)につけ【浸け】候(さうら)はん」とぞ
申(まうし)たる。越中(ゑつちゆうの)(ゑつちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)申(まうし)けるは、「おなじくは大将
軍(たいしやうぐん)の源九郎(げんくらう)にくん給(だま)へ。九郎(くらう)は色(いろ)しろう【白う】せい【背】ちい
さき(ちひさき)【小さき】が、むかば【向歯】のことにさしいで【出で】てしるかん【著かん】なるぞ。ただし
直垂(ひたたれ)と鎧(よろひ)をつねにきかふ【着替ふ】なれば、き(ッ)と見(み)わけ【分け】がた
P11270
かん也(なり)」とぞ申(まうし)ける。上総(かづさの)悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)申(まうし)けるは、「心(こころ)こそ
たけくとも、其(その)小冠者(こくわんじや)、なに程(ほど)の事(こと)あるべき。片
脇(かたわき)にはさんで、海(うみ)へいれ【入れ】なむ物(もの)を」とぞ申(まうし)たる。新中
納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)は加様(かやう)に下知(げぢ)し給(たま)ひ、大臣殿(おほいとの)の御(おん)まへにまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、
「けふは侍(さぶらひ)どもけしきよう見(み)え候(さうらふ)。ただし阿波(あはの)民部(みんぶ)
重能(しげよし)は心(こころ)がはりしたるとおぼえ候(さうらふ)。かうべをはね候(さうらは)
ばや」と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)「見(み)えたる事(こと)もなう
て、いかが頸(くび)をばきる【斬る】べき。さしも奉公(ほうこう)の物(もの)であるもの
P11271
を。重能(しげよし)まいれ(まゐれ)【参れ】」とめし【召し】ければ、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)にあら
いかは(あらひかは)【洗革】の鎧(よろひ)きて、御(おん)まへに畏(かしこま)(ッ)て候(さうらふ)。「いかに、重能(しげよし)は心(こころ)がはり
したるか、けふこそわるう見(み)ゆれ。四国(しこく)の物(もの)どもに、いく
さ【軍】ようせよと下知(げぢ)せよかし。おくし【臆し】たるな」との給(たま)へば、
「なじかはおくし【臆し】候(さうらふ)べき」とて、御(おん)まへをまかり【罷り】たつ。新中
納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)、あはれきやつが頸(くび)をうちおとさ【落さ】ばやとおぼし
めし【思し召し】、太刀(たち)のつか【柄】くだけよとにぎ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)の御(おん)かた【方】
をしきりに見(み)給(たま)P2331ひけれども、御(おん)ゆるされ【許され】なければ、
P11272
力(ちから)及(およ)(をよ)ばず。平家(へいけ)は千(せん)余艘(よさう)(よそう)を三手(みて)につくる。山賀(やまが)の
兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ)(ひでとを)、五百(ごひやく)余艘(よさう)(よそう)で先陣(せんぢん)にこぎむかふ。松
浦党(まつらたう)、三百(さんびやく)余艘(よさう)(よそう)で二陣(にぢん)につづく。平家(へいけ)の君達(きんだち)、
二百(にひやく)余艘(よさう)(よそう)で三陣(さんぢん)につづき給(たま)ふ。兵藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ)(ひでとを)は、
九国(くこく)一番(いちばん)の勢兵(せいびやう)にてあり【有り】けるが、我(われ)程(ほど)こそなけれども、
普通(ふつう)ざまの勢兵(せいびやう)ども五百人(ごひやくにん)をすぐ(ッ)て、船々(ふねぶね)のとも
へ【艫舳】にたて、肩(かた)を一面(いちめん)にならべて、五百(ごひやく)の矢(や)を一度(いちど)に
はなつ【放つ】。源氏(げんじ)は三千(さんぜん)余艘(よさう)(よそう)の船(ふね)なれば、せい【勢】のかず【数】さこそ
P11273
おほかり【多かり】けめども、処々(ところどころ)よりゐ(い)【射】ければ、いづくに勢兵(せいびやう)
ありともおぼえず。大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)、ま(ッ)さきに
すす(ン)【進ん】でたたかふ【戦ふ】が、楯(たて)も鎧(よろひ)もこらへずして、さんざん【散々】にゐ(い)【射】し
らまさる。平家(へいけ)みかた【御方】勝(かち)ぬとて、しきりにせめ【攻め】皷(つづみ)
う(ッ)て、よろこびの時(とき)をぞつくりける。遠矢(とほや)S1108源氏(げんじ)の方(かた)にも、
和田(わだの)小太郎[* 「少太郎」と有るのを高野本により訂正](こたらう)義盛(よしもり)、船(ふね)にはのらず、馬(むま)にうちの(ッ)【乗つ】てなぎ
さにひかへ、甲(かぶと)をばぬいで人(ひと)にもたせ、鐙(あぶみ)のはな【鼻】ふみ【踏み】
そらし、よ(ッ)ぴいてゐ(い)【射】ければ、三町(さんぢやう)(さんちやう)がうちと【内外】の物(もの)ははづ
P11274
さ【外さ】ずつよう【強う】ゐ(い)【射】けり。そのなかに、ことに遠(とほ)うゐ(い)【射】たるとP2332
おぼしきを、「其(その)矢(や)給(たま)はらん」とぞまねひ(まねい)【招い】たる。新中
納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)是(これ)をめし【召し】よせて見(み)給(たま)へば、しらの【白篦】に鶴(つる)のもと
じろ【本白】、こう【鴻】の羽(は)をわりあはせては【矧】いだる矢(や)の、十三
束(じふさんぞく)ふたつぶせ【二伏】あるに、くつまき【沓巻】より一束(そく)ばかりをい(おい)
て、和田(わだの)小太郎(こたらう)平(たひらの)(たいらの)義盛(よしもり)とうるしにてぞかき【書き】つけ
たる。平家(へいけ)の方(かた)に勢兵(せいびやう)おほし【多し】といへども、[B さすが]〔とを矢(や)(とほや)【遠矢】ゐる(いる)【射る】物(もの)は〕すくな【少】かり
けるやらん、良(やや)久(ひさ)しうあ(ッ)て、伊与【*伊予】国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)仁井(にゐ)
P11275
の紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)めし【召し】いだされ、この矢(や)を給(たま)は(ッ)てゐ(い)【射】返(かへ)
す。是(これ)も奥(おき)よりなぎさへ三町(さんぢやう)(さんちやう)余(よ)をつ(ッ)とゐ(い)【射】わたして、
和田(わだの)小太郎(こたらう)がうしろ一段(いつたん)あまりにひかへたる三浦(みうら)の
石左近(いしざこん)の太郎(たらう)が弓手(ゆんで)のかいな(かひな)【腕】に、したたかにこそた(ッ)た
りけれ。三浦(みうら)の人共(ひとども)これを見(み)て、「和田(わだの)小太郎(こたらう)が
われにすぎて遠矢(とほや)ゐる(いる)【射る】ものなしとおもひ【思ひ】て、恥(はぢ)
かいたるにくさよ。あれを見(み)よ」とぞわらひ【笑ひ】ける。和田(わだの)
小[B 太]郎(こたらう)是(これ)をきき、「やすからぬ事(こと)也(なり)」とて、小船(せうせん)にの(ッ)【乗つ】て
P11276
こぎいださせ、平家(へいけ)のせい【勢】のなかをさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】
さんざん【散々】にゐ(い)【射】ければ、おほく【多く】の物(もの)どもゐ(い)【射】ころさ【殺さ】れ、手負(ておひ)(てをひ)
にけり。又(また)判官(はうぐわん)ののり給(たま)へる船(ふね)に、奥(おき)よりしらの【白篦】の
おほ矢(や)【大矢】をひとつ【一つ】ゐ(い)【射】たてて、和田(わだ)がやうに「こなたへ給(たま)は
らん」とぞまねいたる。判官(はうぐわん)是(これ)をぬかせて見(み)給(たま)へば、
しらのに山鳥(やまどり)の尾(を)(お)をも(ッ)てはいだりける矢(や)の、十四(じふし)束(そく)
三(みつ)ぶせあるに、伊与【*伊予】国(いよのくにの)住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)、仁井[B ノ](にゐの)紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)とぞ
かきつけたる。判官(はうぐわん)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)(ごとうびやうへ)実基(さねもと)をめし【召し】て、
P11277
「この矢(や)ゐ(い)【射】つべきもの、みかた【御方】P2333に誰(たれ)かある」との給(たま)へば、
「甲斐(かひ)(かい)源氏(げんじ)に阿佐里[B ノ](あさりの)与一殿(よいちどの)こそ、勢兵(せいびやう)にて在(まし)
まし候(さうら)へ」。「さらばよべ」とてよばれければ、阿佐里[B ノ](あさりの)与
一(よいち)いできたり。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「奥(おき)よりこの矢(や)を
ゐ(い)【射】て候(さうらふ)が、ゐ(い)【射】かへせ【返せ】とまねき候(さうらふ)。御(ご)へん【辺】あそばし【遊ばし】
候(さうらひ)なむや」。「給(たまはつ)て見(み)候(さうら)はん」とて、つまよ(ッ)て、「是(これ)はすこ
し【少し】よはう(よわう)【弱う】候(さうらふ)。矢(や)づか【矢束】もち(ッ)とみじかう【短かう】候(さうらふ)。おなじうは
義成(よしなり)が具足(ぐそく)にてつかまつり候(さうら)はん」とて、ぬりごめ
P11278
藤(どう)【塗籠籐】の弓(ゆみ)の九尺(くしやく)ばかりあるに、ぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】はい
だる矢(や)の、わが大手(おほで)にをし(おし)【押し】にぎ(ッ)【握つ】て、十五(じふご)束(そく)あり【有り】ける
をうちくはせ、よ(ッ)ぴいてひやうどはなつ【放つ】。四町余(しちやうよ)を
つ(ッ)とゐ(い)【射】わたし【渡し】て、大船(たいせん)のへ【舳】にた(ッ)たる仁井[B ノ](にゐの)紀四郎(きしらう)
親清(ちかきよ)がま(ッ)ただなかをひやうふつとゐ(い)【射】て、ふなぞこ【船底】へ
さかさまにゐ(い)【射】たうす(たふす)【倒す】。生死(しやうし)をばしら【知ら】ず。阿佐里[B ノ](あさりの)
与一(よいち)はもとより勢兵(せいびやう)の手(て)きき【手利】なり。二町(にちやう)にはしる【走る】
鹿(しか)をば、はづさ【外さ】ずゐ(い)【射】けるとぞきこえ【聞え】し。其(その)後(のち)
P11279
源平(げんぺい)たがひに命(いのち)をおしま(をしま)【惜しま】ず、おめき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】で
せめ【攻め】たたかふ。いづれおとれりとも見(み)えず。されども、
平家(へいけ)の方(かた)には、十善(じふぜん)帝王(ていわう)、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)
してわたらせ給(たま)へば、源氏(げんじ)いかがあらんずらんとあぶ
なうおもひ【思ひ】けるに、しばしは白雲(はくうん)かとおぼしくて、
虚空(こくう)にただよひけるが、雲(くも)にてはなかりけり、主(ぬし)も
なき白旗(しらはた)ひとながれ【一流】まい(まひ)さが(ッ)て、源氏(げんじ)の船(ふね)の
へ【舳】に棹(さを)(さほ)づけ【付】のお(を)【緒】のさはる程(ほど)にぞ見(み)えたりける。P2334
P11280
判官(はうぐわん)、「是(これ)は八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の現(げん)じ給(たま)へるにこそ」と
よろこ(ン)で、手水(てうづ)うがひをして、是(これ)を拝(はい)し奉(たてまつ)る。
兵(つはもの)どもみなかくのごとし。又(また)源氏(げんじ)の方(かた)よりいるか【海豚】
といふ魚(うを)一二千(いちにせん)はう【這う】て、平家(へいけ)の方(かた)へむかひ【向ひ】ける。大
臣殿(おほいとの)これを御(ご)らんじて、小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)をめし【召し】て、
「いるか【海豚】はつねにおほけれ【多けれ】ども、いまだかやう[B の]事(こと)
なし。いかがあるべきとかんがへ【勘へ】申(まう)せ」と仰(おほせ)られければ、
「このいるか【海豚】はみ【食み】かへり【返り】候(さうら)はば、源氏(げんじ)ほろび候(さうらふ)べし。
P11281
はう【這う】てとをり(とほり)【通り】候(さうら)はば、みかた【御方】の御(おん)いくさ【軍】あやうう(あやふう)【危ふう】候(さうらふ)」
と申(まうし)もはてねば、平家(へいけ)の船(ふね)のしたをすぐに
はう【這う】てとをり(とほり)【通り】けり。「世(よ)の中(なか)はいまはかう」とぞ申(まうし)
たる。阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)は、この三(さん)[B が]年(ねん)があひだ、平家(へいけ)に
よくよく忠(ちゆう)(ちう)をつくし、度々(どど)の合戦(かつせん)に命(いのち)をおしま(をしま)【惜しま】ず
ふせき【防き】たたかひ【戦ひ】けるが、子息(しそく)田内左衛門(でんないざゑもん)(でんないざへもん)をいけ
どり【生捕り】にせられて、いかにもかなは【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、
たちまちに心(こころ)がはりして、源氏(げんじ)に同心(どうしん)してん
P11282
げり。平家(へいけ)の方(かた)にははかりこと【策】に、よき人(ひと)をば兵船(ひやうせん)
にのせ【乗せ】、雑人(ざふにん)(ざうにん)どもをば唐船(たうせん)にのせ【乗せ】て、源氏(げんじ)心(こころ)にく
さに唐船(たうせん)をせめ【攻め】ば、なかにとりこめてうたんとし
たく【支度】せられたりけれども、阿波(あはの)民部(みんぶ)がかへりちう(かへりちゆう)【返忠】の
うへは、唐船(たうせん)には目(め)もかけず、大将軍(たいしやうぐん)のやつしの
り給(たま)へる兵船(ひやうせん)をぞせめ【攻め】たりける。新中納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)「やす
からぬ。重能(しげよし)めをき(ッ)てすつ【捨つ】べかりつる物(もの)を」と、ち
たび【千度】後悔(こうくわい)せられけれどもかなは【叶は】P2335ず。さる程(ほど)に、
P11283
四国(しこく)・鎮西(ちんぜい)の兵(つはもの)ども、みな平家(へいけ)をそむいて源氏(げんじ)に
つく。いままでしたがひ【従ひ】ついたりし物(もの)どもも、君(きみ)に
むか(ッ)【向つ】て弓(ゆみ)をひき、主(しゆう)(しう)に対(たい)して太刀(たち)をぬく。かの
岸(きし)につかむとすれば、浪(なみ)たかくしてかなひ【叶ひ】がた
し。このみぎはによらんとすれば、敵(かたき)矢(や)さき【矢先】を
そろへてまち【待ち】かけたり。源平(げんぺい)の国(くに)あらそひ、けふを
かぎりとぞ見(み)えたりける。先帝身投(せんていみなげ)S1109源氏(げんじ)の兵(つはもの)ども、すでに
平家(へいけ)の舟(ふね)にのりうつりければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)ども、ゐ(い)【射】
P11284
ころされ、きりころさ【殺さ】れて、船(ふね)をなをす(なほす)【直す】に及(およ)(をよ)ば
ず、舟(ふな)ぞこにたはれ【倒れ】ふしにけり。新中納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)知盛卿(とももりのきやう)
小船(こぶね)にの(ッ)【乗つ】て御所(ごしよ)の御舟(おんふね)にまいり(まゐり)【参り】、「世(よ)のなかいまは
かうと見(み)えて候(さうらふ)。見(み)ぐるしからん物(もの)どもみな海(うみ)へ
いれ【入れ】させ給(たま)へ」とて、ともへ【艫舳】にはしり【走り】まはり、はい【掃い】たり、
のごう【拭う】たり、塵(ちり)ひろい(ひろひ)【拾ひ】、手(て)づから掃除(さうぢ)せられけり。女房
達(にようばうたち)「中納言殿(ちゆうなごんどの)(ちうなごんどの)、いくさ【軍】はいかにやいかに」と口々(くちぐち)にとひ給(たま)
へば、「めづらしきあづま男(をとこ)(おとこ)をこそ御(ご)らんぜられ候(さうら)
P11285
はんずらめ」とて、からからとわらひ【笑ひ】給(たま)へば、「なんでうP2336の
ただいまのたはぶれ【戯れ】ぞや」とて、声々(こゑごゑ)におめき(をめき)【喚き】さけび【叫び】
給(たま)ひけり。二位殿(にゐどの)はこの有様(ありさま)を御(ご)らんじて、
日(ひ)ごろおぼしめし【思し召し】まうけたる事(こと)なれば、にぶ色【鈍色】のふ
たつ【二つ】ぎぬ【衣】うちかづき、ねりばかまのそばたかくはさみ【鋏み】、
神璽(しんし)をわきにはさみ【鋏み】、宝剣(ほうけん)を腰(こし)にさし、主上(しゆしやう)
をいだきたてま(ッ)【奉つ】て、「わが身(み)は女(をんな)(をうな)なりとも、かたき【敵】の
手(て)にはかかるまじ。君(きみ)の御(おん)ともにまいる(まゐる)【参る】なり。
P11286
御心(おんこころ)ざしおもひ【思ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)はん人々(ひとびと)は、いそぎつづ
き給(たま)へ」とて、ふなばたへあゆみ【歩み】いでられけり。主
上(しゆしやう)ことしは八歳(はつさい)にならせ給(たま)へども、御年(おんとし)の程(ほど)
よりはるかにねびさせ給(たま)ひて、御(おん)かたちうつく
しく、あたりも[B てり]かかやく【輝く】ばかり也(なり)。御(おん)ぐしくろう【黒う】
ゆらゆらとして、御(おん)せなかすぎさせ給(たま)へり。あきれ
たる御(おん)さまにて、「尼(あま)ぜ、われをばいづちへぐし【具し】てゆ
かんとするぞ」と仰(おほせ)ければ、いとけなき君(きみ)にむかい(むかひ)【向ひ】
P11287
たてまつり【奉り】、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)申(まう)されけるは、「君(きみ)はいまだ
しろしめさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善(じふぜん)戒行(かいぎやう)の
御(おん)ちからによ(ッ)て、今(いま)万乗(ばんじよう)(ばんぜう)のあるじと生(うま)れさせ給(たま)へ
ども、悪縁(あくえん)にひかれて、御運(ごうん)既(すで)につきさせ給(たま)ひ
ぬ。まづ東(ひがし)(ひ(ン)がし)にむかは【向は】せ給(たまひ)て、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いと
ま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西方(さいはう)浄土(じやうど)の来迎(らいかう)にあづ
からんとおぼしめし【思し召し】、西(にし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて、御念
仏(おんねんぶつ)さぶらふ【候ふ】べし。この国(くに)は心(こころ)うきさかゐ(さかひ)【境】にて
P11288
さぶらへ【候へ】ば、極楽(ごくらく)浄土(じやうど)とてめでたき処(ところ)へぐし【具し】ま
いらせ(まゐらせ)【参らせ】さぶらふ【候ふ】ぞ」と、なくなく【泣く泣く】申(まう)させ給(たま)ひければ、
山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)P2337にびんづらゆはせ給(たまひ)て、御涙(おんなみだ)に
おぼれ、ちいさく(ちひさく)【小さく】うつくしき御手(おんて)をあはせ、まづ
東(ひがし)(ひ(ン)がし)をふしをがみ【拝み】、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ
給(たま)ひ、其(その)後(のち)西(にし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、
二位殿(にゐどの)やがていだき奉(たてまつ)り、「浪(なみ)のしたにも都(みやこ)のさぶ
らう(さぶらふ)【候ふ】ぞ」となぐさめたてま(ッ)【奉つ】て、ちいろ(ちひろ)【千尋】の底(そこ)へぞいり
P11289
給(たま)ふ。悲(かなしき)哉(かな)、無常(むじやう)の春(はる)の風(かぜ)、忽(たちまち)に花(はな)の御(おん)すがた
をちらし【散らし】、なさけなきかな、分段(ぶんだん)のあらき浪(なみ)、玉
体(ぎよくたい)をしづめたてまつる【奉る】。殿(てん)をば長生(ちやうせい)と名(な)づけて
ながきすみかとさだめ、門(もん)をば不老(ふらう)と号(かう)して、老(おい)
せぬとざしととき【説き】たれども、いまだ十歳(じつさい)のうちにして、
底(そこ)のみくづ【水屑】とならせ給(たま)ふ。十善(じふぜん)帝位(ていゐ)の御果報(ごくわほう)、
申(まう)すもなかなかをろか(おろか)【愚】なり。雲上(うんしやう)の竜(りよう)(れう)くだ(ッ)て海
底(かいてい)の魚(うを)となり給(たま)ふ。大梵(だいぼん)高台(かうだい)の閣(かく)のうへ、釈
P11290
提(しやくだい)喜見(きけん)の宮(みや)の内(うち)、いにしへは槐門(くわいもん)棘路(きよくろ)のあひだに
九族(きうぞく)をなびかし、今(いま)は船(ふね)のうち、浪(なみ)のしたに御命(おんいのち)
を一時(いつし)にほろぼし給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。能登殿(のとどの)最期(さいご)S1110女院(にようゐん)は
この御有様(おんありさま)を御(ご)らんじて、御(おん)やき石(いし)、御硯(おんすずり)、左
右(さう)の御(おん)ふところ【懐】にいれ【入れ】て、海(うみ)へいらせ給(たま)ひたり
けるを、渡辺党(わたなべたう)に源五(げんご)馬允[M 「高允」とあり「高」をミセケチ「馬」と傍書](むまのじよう)(むまのぜう)むつる[B 「むへる」とあり「へ」に「つ」と傍書]【眤】、たれ【誰】とはし
り【知り】たてP2338まつらねども、御(おん)ぐしを熊手(くまで)にかけて
ひき【引き】あげ奉(たてまつ)る。女房達(にようばうたち)「あなあさまし。あれは
P11291
女院(にようゐん)にてわたらせ給(たまふ)ぞ」と、声々(こゑごゑ)口々(くちぐち)に申(まう)され
ければ、判官(はうぐわん)に申(まうし)て、いそぎ御所(ごしよ)の御船(おんふね)へわたし
たてまつる【奉る】。大納言(だいなごん)の佐殿(すけどの)は、内侍所(ないしどころ)の御(おん)からうと【唐櫃】
をも(ッ)て、海(うみ)へいら【入ら】んとし給(たま)ひけるが、袴(はかま)のすそを
ふなばたにゐ(い)【射】つけ【付け】られ、け【蹴】まとい(まとひ)てたふれ【倒れ】給(たまひ)
たりけるを、兵(つはもの)どもとりとどめ【留め】奉(たてまつ)る。さて武士(ぶし)ども
内侍所(ないしどころ)のじやう【鎖】ねぢき(ッ)て、[B 既(すで)に]御(おん)ふた【蓋】をひらかんと
すれば、忽(たちまち)に目(め)[B くれ]、鼻血(はなぢ)たる。平(へい)大納言(だいなごん)いけどり【生捕り】に
P11292
せられておはしけるが、「あれは内侍所(ないしどころ)のわたらせ
給(たま)ふぞ。凡夫(ぼんぶ)は見(み)たてまつら【奉ら】ぬ事(こと)ぞ」との給(たま)へば、
兵(つはもの)どもみなのき【退き】にけり。其(その)後(のち)判官(はうぐわん)、平(へい)大納言(だいなごん)
に申(まうし)あはせて、もとのごとくにからげおさめ(をさめ)【納め】奉(たてまつ)る。
さる程(ほど)に、平(へい)中納言(ぢゆうなごん)(ぢうなごん)教盛(のりもり)、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)兄弟(きやうだい)、鎧(よろひ)
のうへにいかりををひ(おひ)、手(て)を取組(とりくみ)て、海(うみ)へぞ入(いり)給(たま)ひ
ける。小松[B ノ](こまつの)新三位(しんざんみの)(しんざんゐの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)資盛(すけもり)、同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、いとこの
左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、手(て)に手(て)をとりくんで一所(いつしよ)にしづみ
P11293
給(たま)ひけり。人々(ひとびと)は加様(かやう)にし給(たま)へども、大臣殿(おほいとの)おや子(こ)は
海(うみ)に入(い)らんずる気色(けしき)もおはせず、ふなばたに立(たち)
いで【出で】て四方(しはう)み【見】めぐらし、あきれたる様(さま)にておはし
けるを、侍(さぶらひ)どもあまりの心(こころ)うさに、とほるやうにて、
大臣殿(おほいとの)を海(うみ)へつき入(いれ)奉(たてまつ)る。右衛門督(うゑもんのかみ)是(これ)を見(み)て、
やがてとび入(いり)給(たま)ひけり。みな人(ひと)はおもき【重き】鎧(よろひ)(よろい)のうへに、
おもき【重き】物(もの)をおう【負う】たりいだひ(いだい)【抱い】たりしていれ【入れ】P2339ばこそ
しづめ、この人(ひと)おやこ【親子】はさもし給(たま)はぬうへ、なまじゐ(なまじひ)に
P11294
究竟(くつきやう)の水練(すいれん)にておはしければ、しづみもやり
給(たま)はず。大臣殿(おほいとの)は右衛門督(うゑもんのかみ)しづまばわれもしづ
まん、たすかり給(たま)はばわれもたすからんとおもひ【思ひ】給(たま)ふ。
右衛門(うゑもんの)督(かみ)も、父(ちち)しづみ給(たま)はばわれもしづまん、たす
かり給(たま)はば我(われ)もたすからんとおもひ【思ひ】て、たがひに
目(め)を見(み)かはしておよぎ【泳ぎ】ありき【歩き】給(たま)ふ程(ほど)に、伊勢(いせの)三
郎(さぶらう)義盛(よしもり)、小船(こぶね)をつ(ッ)とこぎよせ、まづ右衛門督(うゑもんのかみ)
を熊手(くまで)にかけてひきあげたてまつる【奉る】。大臣殿(おほいとの)
P11295
是(これ)を見(み)ていよいよしづみもやり給(たま)はねば、おなじう
とりたてまつり【奉り】けり。大臣殿(おほいとの)の御(おん)めのと子(ご)【乳母子】飛
弾【*飛騨】[B ノ](ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)(さぶらうざへもん)景経(かげつね)、小船(こぶね)にの(ッ)【乗つ】て義盛(よしもり)が舟(ふね)にのり
うつり、「我(わが)君(きみ)とり奉(たてまつ)るは何物(なにもの)ぞ」とて、太刀(たち)をぬいて
はしり【走り】かかる。義盛(よしもり)すでにあぶなう見(み)えけるを、
義盛(よしもり)が童(わらは)、しう(しゆう)【主】をうた【討た】せじとなかにへだたる【隔たる】。景
経(かげつね)がうつ太刀(たち)〔に〕甲(かぶと)のま(ッ)かう【真甲】うちわられ、二(に)の太刀(たち)に
頸(くび)うちおとさ【落さ】れぬ。義盛(よしもり)なを(なほ)【猶】あぶなう見(み)えけるを、
P11296
ならびの舟(ふね)より堀(ほり)の弥太郎(やたらう)親経(ちかつね)、よ(ッ)ぴゐ(よつぴい)てひや
うどゐる(いる)【射る】。景経(かげつね)うち甲(かぶと)をゐ(い)【射】させてひるむ処(ところ)に、
堀(ほりの)弥太郎(やたらう)のりうつ(ッ)て、三郎左衛門(さぶらうざゑもん)(さぶらうざへもん)にくんでふす【伏す】。
堀(ほり)が郎等(らうどう)、主(しゆう)(しう)につづゐ(つづい)【続い】てのりうつり、景経(かげつね)が鎧(よろひ)(よろい)の
草摺(くさずり)ひきあげて、二刀(ふたかたな)さす。飛弾【*飛騨】[B ノ](ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)(さぶらうざへもん)
景経(かげつね)、きこゆる【聞ゆる】大力(だいぢから)のかう【剛】のものなれども、運(うん)やつ
きにけん、いた手(で)【痛手】はをう(おう)【負う】つ、敵(かたき)はあまたあり、そこにて
つゐに(つひに)【遂に】うた【討た】れにけり。大臣殿(おほいとの)は生(いき)ながらとりP2340あげ
P11297
られ、目(め)の前(まへ)でめのと子(ご)【乳母子】がうたるるを見(み)給(たま)ふに、
いかなる心地(ここち)かせられけん。凡(およ)(をよ)そ能登守(のとのかみ)教経(のりつね)の
矢(や)さき【矢先】にまはる物(もの)こそなかりけれ。矢(や)だねのある
程(ほど)ゐ(い)【射】つくし【尽くし】て、けふを最後(さいご)とやおもは【思は】れけん、
赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどし(をどし)の鎧(よろひ)(よろい)きて、いか
ものづくりの大太刀(おほだち)ぬき、白柄(しらえ)の大長刀(おほなぎなた)のさや
をはづし【外し】、左右(さう)にも(ッ)てなぎ【薙ぎ】まはり給(たま)ふに、おもて
をあはする物(もの)ぞなき。おほく【多く】の物(もの)どもうた【討た】れにけり。
P11298
新中納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)使者(ししや)をたてて、「能登殿(のとどの)、いたう罪(つみ)なつ
くり給(たま)ひそ。さり[B とて]よき敵(かたき)か」との給(たま)ひければ、「さては
大将軍(たいしやうぐん)にくめ【組め】ごさんなれ」と心(こころ)えて、うち物(もの)くき
みじか【茎短】にと(ッ)て、源氏(げんじ)の船(ふね)にのりうつりのりうつり、おめき(をめき)【喚き】
さけむ(さけん)でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官(はうぐわん)を見(み)しり給(たま)はねば、物(もの)
の具(ぐ)のよき武者(むしや)をば判官(はうぐわん)かとめ【目】をかけて、はせ【馳せ】ま
はる。判官(はうぐわん)もさきに心(こころ)えて、おもてにたつ様(やう)には
しけれども、とかくちがひ【違ひ】て能登殿(のとどの)にはくま【組ま】れ
P11299
ず。されどもいかがしたりけん、判官(はうぐわん)の船(ふね)にのりあた(ッ)て、
あはやとめ【目】をかけてとんでかかるに、判官(はうぐわん)かなは【叶は】じ
とやおもは【思は】れけん、長刀(なぎなた)脇(わき)にかいばさみ、みかた【御方】の
船(ふね)の二丈(にぢやう)ばかりのい【退い】たりけるに、ゆらりととびのり
給(たま)ひぬ。能登殿(のとどの)ははやわざ【早業】やおとられたりけん、
やがてつづいてもとび給(たま)はず。いま【今】はかうとおもは【思は】れ
ければ、太刀(たち)長刀(なぎなた)海(うみ)へなげいれ【入れ】、甲(かぶと)もぬいですて
られけP2341り。鎧(よろひ)(よろい)の草摺(くさずり)かなぐりすて、どう【胴】ばかり
P11300
きて、おほ【大】童(わらは)になり、おほ手(で)をひろげてたたれたり。
凡(およそ)(をよそ)あたりをはら(ッ)【払つ】てぞ見(み)えたりける。おそろし【恐ろし】な(ン)ど(など)も
をろか(おろか)【愚】也(なり)。能登殿(のとどの)大音声(だいおんじやう)(だいをんじやう)をあげて、「われとお
もは【思は】ん物(もの)どもは、よ(ッ)て教経(のりつね)に組(くん)でいけどりにせよ。
鎌倉(かまくら)へくだ(ッ)て、頼朝(よりとも)にあふ(あう)【逢う】て、物(もの)ひと詞(こと)いはんと
おもふ【思ふ】ぞ。よれやよれ」との給(たま)へども、よる物(もの)一人(いちにん)もなかり
けり。[B ここに]土佐国(とさのくに)の住人(ぢゆうにん)(ぢうにん)安芸郷(あきがう)を知行(ちぎやう)しける安芸(あき)の
大領(だいりやう)実康(さねやす)が子(こ)に、安芸(あきの)太郎(たらう)実光(さねみつ)とて、卅人(さんじふにん)が
P11301
力(ちから)も(ッ)たる大(だい)ぢからのかう【剛】の物(もの)あり。われにち(ッ)ともおと
らぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、おとと【弟】の次郎(じらう)も普通(ふつう)にはすぐれ
たるしたたか物(もの)なり。安芸(あき)の太郎(たらう)、能登殿(のとどの)を見(み)
たてま(ッ)【奉つ】て申(まうし)けるは、「いかにたけう【猛う】ましますとも、
我等(われら)三人(さんにん)とりついたらんに、たとひたけ十丈(じふぢやう)の鬼(おに)
なりとも、などかしたがへざるべき」とて、主従(しゆうじゆう)(しうじう)三人(さんにん)小船(こぶね)に
の(ッ)【乗つ】て、能登殿(のとどの)の舟(ふね)にをし(おし)【押し】ならべ、ゑい(えい)といひ【言ひ】てのり
うつり、甲(かぶと)のしころをかたぶけ【傾け】、太刀(たち)をぬいて一面(いちめん)に
P11302
う(ッ)てかかる。能登殿(のとどの)ち(ッ)ともさはぎ(さわぎ)【騒ぎ】給(たま)はず、ま(ッ)さきに
すすんだる安芸(あきの)太郎(たらう)が郎等(らうどう)をすそ【裾】をあはせて、
海(うみ)へどうどけ【蹴】いれ【入れ】給(たま)ふ。つづいてよる安芸(あきの)太郎(たらう)
を弓手(ゆんで)の脇(わき)にと(ッ)てはさみ【鋏み】、弟(おとと)の次郎(じらう)をば馬手(めて)
のわきにかいばさみ、ひとしめ【一締】しめて、「いざうれ、さらば
おれら死途(しで)の山(やま)のともせよ」とて、生年(しやうねん)廿六(にじふろく)
にて海(うみ)へつ(ッ)とぞいり【入り】給(たま)ふ。P2342内侍所都入(ないしどころのみやこいり)S1111新中納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)「見(み)るべき
程(ほど)の事(こと)は見(み)つ、いまは自害(じがい)せん」とて、めのと子(ご)【乳母子】の
P11303
伊賀(いがの)平(へい)内左衛門(ないざゑもん)(ないざへもん)家長(いへなが)をめし【召し】て、「いかに、約束(やくそく)は
たがう(たがふ)【違ふ】まじきか」との給(たま)へば、「子細(しさい)にや及(および)(をよび)候(さうらふ)」と、中納言(ちゆうなごん)(ちうなごん)に
鎧(よろひ)(よろい)二領(にりやう)きせ奉(たてまつ)り、我(わが)身(み)も鎧(よろひ)(よろい)二領(にりやう)きて、手(て)をとり
く(ン)【組ん】で海(うみ)へぞ入(いり)にける。是(これ)を見(み)て侍(さぶらひ)ども廿(にじふ)余人(よにん)をく
れ(おくれ)【後れ】たてまつら【奉ら】じと、手(て)に手(て)をとり【取り】くん【組ん】で、一所(いつしよ)にしづ
みけり。其(その)中(なか)に、越中(ゑつちゆうの)(ゑちちうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)(じらうびやうへ)・上総(かづさの)五郎兵衛(ごらうびやうゑ)(ごらうびやうへ)・
悪(あく)七兵衛(しつびやうゑ)(しつびやうへ)・飛弾【*飛騨】(ひだの)四郎兵衛(しらうびやうゑ)(しらうびやうへ)はなにとしてかのがれ【逃れ】
たりけん、そこをも又(また)落(おち)にけり。海上(かいしやう)には赤旗(あかはた)あか
P11304
じるし【赤印】なげ【投げ】すて、かなぐりすて【捨て】たりければ、竜田川(たつたがは)の
紅葉(もみぢ)ばを嵐(あらし)の吹(ふき)ちらし【散らし】たるがごとし。汀(みぎは)によする【寄する】
白浪(しらなみ)もうすぐれなゐにぞなりにける。主(ぬし)もなき
むなしき【空しき】船(ふね)は、塩(しほ)にひかれ風(かぜ)にしたが(ッ)て、いづくを
さすともなくゆられゆくこそ悲(かな)しけれ。生(いけ)どりに
は、前(さき)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、平(へい)大納言(だいなごん)時忠(ときただ)、右衛門督(うゑもんのかみ)清
宗(きよむね)、内蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)時実(ときざね)、兵部少輔(ひやうぶのせう)雅
明(まさあきら)、大臣殿(おほいとの)の八歳(はつさい)になり給(たま)ふ若公(わかぎみ)【若君】、僧(そう)には二位(にゐの)僧都(そうづ)
P11305
宣真【*全真】(せんしん)・法勝寺(ほつしようじの)(ほつせうじの)執行(しゆぎやう)能円(のうゑん)(のうえん)・中納言(ちゆうなごんの)(ちうなごんの)律師(りつし)仲快[M 「仲快」とあり「仲」をミセケチ「忠」と傍書](ちゆうくわい)(ちうくわい)・経誦
房(きやうじゆばうの)阿闍梨(あじやり)融円(ゆうゑん)、侍(さぶらひ)には源(げん)大夫(だいふの)(だゆふの)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)・摂津(つの)
判官(はんぐわん)盛澄(もりずみ)・橘(きつ)内左衛門(ないざゑもん)(ないざへもん)季康(すゑやす)・藤(とう)内左衛門(ないざゑもん)(ないざへもん)信康(のぶやす)・
阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)父子(ふし)、已上(いじやう)卅八人(さんじふはちにん)也(なり)。菊地【*菊池】(きくちの)次郎(じらう)高直(たかなほ)(たかなを)・
原田(はらだの)大夫(たいふ)(たゆふ)P2343種直(たねなほ)(たねなを)は、いくさ【軍】已前(いぜん)より郎等(らうどう)どもあい(あひ)ぐし【具し】
て降人(かうにん)にまいる(まゐる)【参る】。女房(にようばう)には、女院(にようゐん)、北(きた)の政所(まんどころ)、廊(らう)の御方(おんかた)、
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、帥(そつ)のすけどの【典侍殿】、治部卿局(ぢぶきやうのつぼね)已下(いげ)四十三
人(しじふさんにん)とぞきこえ【聞え】し。元暦(げんりやく)二年(にねん)の春(はる)のくれ【暮】、いかなる
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年月(としつき)にて一人(いちじん)海底(かいてい)にしづみ、百官(ひやくくわん)(ひやつくわん)波(なみ)の上(うへ)にう
かぶらん。国母(こくぼ)官女(くわんぢよ)は東夷(とうい)(とうゐ)西戎(せいじゆう)(せいじう)の手(て)にしたがひ【従ひ】、臣
下(しんか)卿相(けいしやう)は数万(すまん)の軍侶【*軍旅】(ぐんりよ)にとら【捕】はされて、旧里(きうり)に帰(かへ)
り給(たま)ひしに、或(あるい)(ある)は朱買臣(しゆばいしん)が錦(にしき)をきざる事(こと)をなげ
き、或(あるい)(ある)は王照君【*王昭君】(わうせうくん)が胡国(ここく)におもむき【赴き】し恨(うらみ)もかくや
とぞかなしみ給(たま)ひける。同(おなじき)四月(しぐわつ)(しんぐわつ)三日(みつかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)
義経(よしつね)、源八(げんぱち)(げんばつ)広綱(ひろつな)をも(ッ)て、院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)しけるは、
去(さんぬる)三月(さんぐわつ)廿四日(にじふしにち)、豊前国(ぶせんのくに)田(た)の浦(うら)、門司関(もじがせき)、長門国(ながとのくに)檀[B ノ]
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浦【*壇浦】(だんのうら)、赤間[B ノ]関(あかまのせき)(あかまがせき)にて平家(へいけ)をせめ【攻め】おとし【落し】、三種(さんじゆの)神器(しんぎ)
事(こと)ゆへ(ゆゑ)【故】なく返(かへ)し入(いれ)奉(たてまつ)るよし申(まうし)たりければ、院中(ゐんぢゆう)(ゐんぢう)
の上下(じやうげ)騒動(さうどう)す。広綱(ひろつな)を御坪(おつぼ)のうちへめし【召し】、合戦(かつせん)の
次第(しだい)をくはしう御尋(おんたづね)ありて、御感(ぎよかん)のあまりに
左兵衛尉(さひやうゑのじよう)(さひやうへのぜう)になされけり。「一定(いちぢやう)かへりいら【入ら】せ給(たま)ふか
見(み)てまいれ(まゐれ)【参れ】」とて、五日(いつかのひ)、北面(ほくめん)に候(さうらひ)ける藤判官(とうはんぐわん)信盛(のぶもり)
を西国(さいこく)へさしつかはさる。宿所(しゆくしよ)へもかへらず、やがて
院(ゐん)の御馬(おんむま)を給(たまはつ)て、鞭(むち)をあげ、西(にし)をさいて馳(はせ)くだる。
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同(おなじき)十六日(じふろくにち)、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、平氏(へいじ)男女(なんによ)[B の]いけどりども【生捕り共】、
あひぐし【具し】てのぼりけるが、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)にぞつき
にける。名(な)[B を]えたる浦(うら)なれば、ふけゆくままに月(つき)さえ(さへ)
のぼり、秋(あき)の空(そら)にもおとらず。女房達(にようばうたち)さしつどひ【集ひ】
て、「一(ひと)とせ是(これ)をとをり(とほり)【通り】P2344しには、かかるべしとはおもは【思は】ざ
りき」な(ン)ど(など)いひて、しのびね【忍び音】になき【泣き】あはれけり。帥(そつ)の
すけ殿(どの)つくづく月(つき)をながめ給(たま)ひ、いとおもひ【思ひ】のこす【残す】こと
もおはせざりければ、涙(なみだ)にとこ【床】もうく【浮く】ばかりにて、
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かうぞおもひ【思ひ】つづけ給(たま)ふ。
ながむればぬるる【濡るる】たもとにやどり【宿り】けり
月(つき)よ雲井(くもゐ)のものがたりせよ W085
雲(くも)のうへに見(み)しにかはらぬ月影(つきかげ)の
すむ【澄む】につけてもものぞかなしき【悲しき】 W086
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)
わが身(み)こそあかしの浦(うら)に旅(たび)ねせめ
おなじ浪(なみ)にもやどる月(つき)かな W087
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「さこそ物(もの)がなしう、昔(むかし)恋(こひ)しうもおはしけめ」と、判
官(はうぐわん)物(もの)のふなれどもなさけあるおのこ(をのこ)【男】なれば、身(み)に
しみてあはれ【哀】にぞおもは【思は】れける。同(おなじき)廿五日(にじふごにち)、内侍
所(ないしどころ)しるしの御箱(みはこ)、鳥羽(とば)につかせ給(たま)ふときこえ【聞え】
しかば、内裏(だいり)より御(おん)むかへ【向へ】にまいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ふ人々(ひとびと)、
勘解由小路[* 「勘解由少路」と有るのを他本により訂正](かでのこうぢの)中納言(ちゆうなごん)(ちうなごん)経房卿(つねふさのきやう)・高倉(たかくらの)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)
泰通(やすみち)・権(ごんの)右中弁(うちゆうべん)(うちうべん)兼忠(かねただ)・左衛門(さゑもんの)(さへもんの)権佐(ごんのすけ)親雅(ちかまさ)・江
浪[B ノ](えなみの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)公時(きんとき)・但馬(たじまの)少将(せうしやう)教能(のりよし)、武士(ぶし)には伊豆(いづの)蔵
P11311
人(くらんど)大夫(たいふ)(たゆふ)頼兼(よりかね)・石川(いしかはの)判官代(はんぐわんだい)能兼(よしかぬ)・左衛門尉(さゑもんのじよう)(さへもんのぜう)有
綱(ありつな)とぞきこえ【聞え】し。其(その)夜(よ)の子(ね)の剋(こく)に、内侍所(ないしどころ)
しるしの御箱(みはこ)太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)へいらせ給(たま)ふ。宝
剣(ほうけん)はうせ【失せ】にけり。神璽(しんし)は海上(かいしやう)にうかびたりける
を、片岡(かたをかの)太郎(たらう)経春(つねはる)〔が〕とりあげたてま(ッ)【奉つ】たりける
とぞきこえ【聞え】し。P2345剣(けん)S1112吾(わが)朝(てう)には神代(じんだい)よりつたはれる
霊剣(れいけん)三(みつ)あり。十(と)づか【十握】の剣(けん)、あまのはやきりの
剣(けん)、草(くさ)なぎ【草薙】の剣(けん)是(これ)也(なり)。十(と)づか【十握】の剣(けん)は、大和国(やまとのくに)いその
P11312
かみ【石上】布留[B ノ](ふるの)社(やしろ)におさめ(をさめ)【納め】らる。あまのはやきりの
剣(けん)は、尾張国(をはりのくに)(おはりのくに)熱田(あつた)の宮(みや)にありとかや。草(くさ)なぎ【草薙】
の剣(けん)は内裏(だいり)にあり。今(いま)の宝剣(ほうけん)是(これ)也(なり)。この剣(けん)の
由来(ゆらい)を申(まう)せば、昔(むかし)素戔[B ノ]烏(そさのを)の尊(みこと)、出雲国(いづものくに)曾
我(そが)のさとに宮(みや)づくりし給(たま)ひしに、そのところ【所】に
八(や)いろの雲(くも)常(つね)にたちければ、尊(みこと)これを御(ご)らん【覧】
じて、かくぞ詠(えい)(ゑい)じ給(たま)ひける。
八雲(やぐも)たつ出雲(いづも)八(や)へがき【八重垣】つまごめに
P11313
やへがき【八重垣】つくるその八重(やへ)がき【八重垣】を W088
是(これ)を三十一字(さんじふいちじ)のはじめとす。国(くに)を出雲(いづも)となづ
くる事(こと)も、すなはちこのゆへ(ゆゑ)【故】とぞうけ給(たま)はる【承る】。
むかし、みこと、出雲国(いづものくに)ひの川上(かはかみ)にくだり給(たま)ひし
とき、国津神(くにつのかみ)に足(あし)なづち手(て)なづちとて夫神(をがみ)
婦神(めがみ)おはします。其(その)子(こ)に端正(たんじやう)のむすめあり。
ゐなだ姫(ひめ)(いなだひめ)と号(かう)す。おや子(こ)【親子】三人(さんにん)なき【泣き】ゐたり。みこと
「いかに」ととひ給(たま)へば、こたへ申(まうし)ていはく、P2346「われにむすめ
P11314
八人(はちにん)ありき。みな大蛇(だいじや)のためにのまれぬ。いま
一人(いちにん)のこるところの少女(せうぢよ)、又(また)のまれんとす。件(くだん)の
大蛇(だいじや)は尾(を)(お)かしらともに八(やつ)あり。をのをの(おのおの)【各々】〔八(やつ)のみね〕八(やつ)の谷(たに)には
い(はひ)【這ひ】はびこれり。霊樹(れいじゆ)異木(いぼく)せなかにおひ【生ひ】たり。いく千
年(せんねん)をへたりといふ事(こと)をしら【知ら】ず。まなこは日月(じつげつ)の
光(ひかり)のごとし。年々(ねんねん)に人(ひと)をのむ【飲む】。おや【親】のまるる物(もの)は
子(こ)かなしみ、子(こ)のまるる物(もの)はおやかなしみ、村南(そんなん)村
北(そんぼく)に哭(こく)する声(こゑ)たえず」とぞ申(まうし)ける。みことあは
P11315
れ【哀】におぼしめし【思し召し】、この少女(せうぢよ)をゆつつまぐし【爪櫛】にとり
なし、御(おん)ぐし【髪】にさしかくさ【隠さ】せ給(たま)ひ、八(やつ)の船(ふね)に酒(さけ)
をいれ【入れ】、美女(びぢよ)のすがたをつく(ッ)てたかき【高き】をか【岡】にたつ。
其(その)影(かげ)酒(さけ)にうつれり。大蛇(だいじや)人(ひと)とおも(ッ)て其(その)かげを
あくまでの(ン)で、酔(ゑひ)(えひ)臥(ふし)たりけるを、尊(みこと)はき【佩き】給(たま)へる
十(と)づか【十握】の剣(けん)をぬいて、大蛇(だいじや)をくだくだにきり給(たま)ふ。其(その)
なかに一(ひとつ)の尾(を)(お)にいた(ッ)てきれず。尊(みこと)あやしとお
ぼしめし【思し召し】、たてさまにわ(ッ)て御(ご)らんずれば、一(ひとつ)の霊
P11316
剣(れいけん)あり。是(これ)をと(ッ)て天照大神(てんせうだいじん)にたてまつり給(たま)ふ。
「これはむかし、高間(たかま)の原(はら)にてわがおとし【落し】たりし
剣(けん)なり」とぞのたまひける。大蛇(だいじや)の尾(を)(お)のなかにあり【有り】
ける時(とき)は、村雲(むらくも)つねにおほひ【覆ひ】ければ、あまのむら
雲(くも)の剣(けん)とぞ申(まうし)ける。おほん神(がみ)これをえて、あめ【天】
の宮(みや)の御(み)たからとし給(たま)ふ。豊葦原中津国(とよあしはらなかつくに)の
あるじとして、天孫(あめみま)をくだし奉(たてまつ)り給(たま)ひし時(とき)、
この剣(けん)をも御鏡(みかがみ)にそへてたてまつら【奉ら】せ給(たま)ひ
P11317
けり。第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おほんとき)までは、ひ
とつ【一つ】殿(てん)P2347におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)崇神
天皇[B ノ](すじんてんわうの)御宇(ぎよう)に及(およん)(をよん)で、霊威(れいゐ)におそれ【恐れ】て、天照大神(てんせうだいじん)
を大和国(やまとのくに)笠(かさ)ぬい(かさぬひ)【笠縫】の里(さと)、磯(いそ)がきひろきにうつし
たてまつり【奉り】給(たま)ひし時(とき)、この剣(けん)をも天照大神(てんせうだいじん)の社
檀【*社壇】(しやだん)にこめたてまつら【奉ら】せ給(たま)ひけり。其(その)時(とき)剣(けん)を作(つく)
りかへて、御(おん)まもり【守り】とし給(たま)ふ。御霊威(ごれいゐ)もとの剣(けん)に
あひおとらず。あまの村雲(むらくも)の剣(けん)は、崇神天皇(すじんてんわう)より
P11318
景行天皇(けいかうてんわう)まで三代(さんだい)は、天照大神(てんせうだいじん)の社檀【*社壇】(しやだん)にあがめ
をか(おか)【置か】れたりけるを、景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(ぎよう)四[B 十]年(しじふねん)六月(ろくぐわつ)
に、東夷(とうい)反逆(ほんぎやく)のあひだ、御子(みこ)日本武尊(やまとたけるのみこと)(ヤマトタケノみこと)御心(みこころ)もかう【剛】
に、御力(おんちから)も人(ひと)にすぐれておはしければ、精撰(せいせん)に
あた(ッ)てあづまへくだり給(たま)ひし時(とき)、天照大神(てんせうだいじん)へま
い(ッ)(まゐつ)【参つ】て御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひけるに、御(おん)いもうといつ
き【斎】の尊(みこと)をも(ッ)て、「謹(つつしん)でおこたる事(こと)なかれ」とて、
霊剣(れいけん)を尊(みこと)にさづけ申(まうし)給(たま)ふ。さて駿河国(するがのくに)に
P11319
くだり給(たま)ひたりしかば、其(その)ところ【所】の賊徒等(ぞくとら)「この
国(くに)は鹿(しか)のおほう【多う】候(さうらふ)。狩(かり)してあそば【遊ば】せ給(たま)へ」とて、
たばかりいだし【出し】たてまつり【奉り】、野(の)に火(ひ)をはな(ッ)【放つ】て既(すで)に
やきころし【殺し】たてまつら【奉ら】んとしけるに、尊(みこと)はき【佩き】給(たま)
へる霊剣(れいけん)をぬいて草(くさ)をなぎ給(たま)へば、はむけ【刃向】一里(いちり)が
うちは草(くさ)みななが【薙が】れぬ。みこと又(また)火(ひ)をいださ【出さ】れた
りければ、風(かぜ)たちまちに異賊(いぞく)の方(かた)へ吹(ふき)おほひ【覆ひ】、
凶徒(きようど)(けうど)ことごとく【悉く】やけ死(じ)にぬ。それよりしてこそ、
P11320
あまの村雲(むらくも)の剣(けん)をば草(くさ)なぎ【草薙】の剣(けん)とも名(な)づけ
けれ。尊(みこと)猶(なほ)(なを)奥(おく)へい(ッ)【入つ】て、三箇年(さんがねん)があひだところどころ【所々】の
賊徒(ぞくと)をうちたいらげ(たひらげ)【平げ】、国々(くにぐに)の凶P2348党[M 「凶徒」とあり「徒」をミセケチ「党」と傍書](きようたう)(けうたう)をせめ【攻め】したがへ
てのぼらせ給(たま)ひけるが、道(みち)より御悩(ごなう)つかせ給(たま)
ひて、御年(おんとし)卅(さんじふ)と申(まうす)七月(しちぐわつ)に、尾張国(をはりのくに)(おはりのくに)熱田(あつた)の
へん【辺】にてつゐに(つひに)【遂に】かくれ【隠れ】させ給(たま)ひぬ。其(その)たまし
ゐ(たましひ)【魂】はしろき【白き】鳥(とり)とな(ッ)て天(てん)にあがり【上がり】けるこそふし
ぎ【不思議】なれ。いけどり【生捕り】のゑびす(えびす)【夷】どもをば、御子(みこ)たけひこ【武彦】
P11321
のみことをも(ッ)て、御門(みかど)へたてまつら【奉ら】せ給(たま)ふ。草(くさ)
なぎ【草薙】の剣(けん)をば熱田(あつた)の社(やしろ)におさめ(をさめ)【納め】らる。あめの御
門(みかどの)御宇(ぎよう)七年(しちねん)に、新羅(しんら)の沙門(しやもん)道慶(だうぎやう)、この剣(けん)を
ぬすんで吾(わが)国(くに)の宝(たから)とせむとおも(ッ)て、ひそかに船(ふね)に
かくしてゆく程(ほど)に、風波(ふうは)巨動(きよどう)して忽(たちまち)に海底(かいてい)
にしづまんとす。すなはち霊剣(れいけん)のたたりなりと
して、罪(つみ)を謝(しや)して先途(せんど)をとげず、もとのごとく
かへし[* 「かくし」と有るのを高野本により訂正]おさめ(をさめ)【納め】たてまつる【奉る】。しかる【然る】を天武天皇(てんむてんわう)朱
P11322
鳥(しゆてう)元年(ぐわんねん)に、是(これ)をめし【召し】て内裏(だいり)にをか(おか)【置か】る。いまの宝
剣(ほうけん)是(これ)也(なり)。御霊威(ごれいゐ)いちはやうまします。陽成院(やうぜいゐん)
長病(ちやうびやう)にをかされましまして、霊剣(れいけん)をぬかせ給(たま)ひ
ければ、夜(よ)るのおとどひらひらとして電光(でんくわう)にこと
ならず。恐怖(くぶ)のあまりになげすてさせ給(たま)ひけ
れば、みづからはたとな(ッ)【鳴つ】てさやにさされにけり。
上古(しやうこ)にはかうこそめでたかりしか。たとひ二位殿(にゐどの)
腰(こし)にさして海(うみ)にしづみ給(たま)ふとも、たやすう
P11323
うす【失す】べからずとて、すぐれたるあまうど【海人】共(ども)をめ
し【召し】て、かづき【潛き】もとめ【求め】られけるうへ、霊仏(れいぶつ)霊社(れいしや)に
た(ッ)とき僧(そう)をこめ、種々(しゆじゆ)の神宝(じんぼう)をささげていの
り申(まう)されけれども、つゐに(つひに)【遂に】うせにけり。その
時(とき)の有識【*有職】(いうしよく)(ゆうしき)の人々(ひとびと)申(まうし)あはれけるは、「昔(むかし)天照大
神(てんせうだいじん)、百王(はくわう)をまもら【守ら】んP2349と御(おん)ちかひあり【有り】ける、其(その)御(おん)
ちかひいまだあらたまらずして、石清水(いはしみづ)の御(おん)な
がれいまだつきざるうへに、天照大神(てんせうだいじん)の日輪(にちりん)の
P11324
光(ひかり)いまだ地(ち)におち【落ち】させ給(たま)はず。末代(まつだい)澆季(げうき)なり
とも、帝運(ていうん)のきはまる程(ほど)の御事(おんこと)はあらじかし」と
申(まう)されければ、其(その)中(なか)にある博士(はかせ)のかんがへ申(まうし)
けるは、「むかし出雲国(いづものくに)ひの川上(かはかみ)にて、素戔烏(そさのを)の
尊(みこと)にきりころさ【殺さ】れたてまつ(ッ)し大蛇(だいじや)、霊剣(れいけん)を
おしむ(をしむ)【惜しむ】心(こころ)ざしふかくして、八(やつ)のかしら八(やつ)の尾(を)(お)
を表事(へうじ)として、人王(にんわう)八十代(はちじふだい)の後(のち)、八歳(はつさい)の帝(てい)と
な(ッ)て霊剣(れいけん)をとりかへして、海底(かいてい)に沈(しづ)み給(たま)ふ
P11325
にこそ」と申(まう)す。千(ち)いろ(ちひろ)【千尋】の海(うみ)の底(そこ)、神竜(しんりよう)(しんりう)のたからと
なりしかば、ふたたび人間(にんげん)にかへらざるもことはり(ことわり)【理】
とこそおぼえけれ。一門大路渡(いちもんおほちわたし)S1113さる程(ほど)に、二(に)の宮(みや)かへりいら【入ら】せ
給(たま)ふとて、法皇(ほふわう)(ほうわう)より御(おん)むかへ【向へ】に御車(おんくるま)をまいら
せ(まゐらせ)【参らせ】らる。御心(おんこころ)ならず平家(へいけ)にとられさせ給(たま)ひて、
西海(さいかい)の浪(なみ)の上(うへ)にただよはせ給(たま)ひ、三(み)とせをす
ごさせ給(たま)ひしかば、御母儀(おぼぎ)も御(おん)めのと【傅】持明院(ぢみやうゐん)の
宰相(さいしやう)も御心(おんこころ)ぐるしき事(こと)におもは【思は】れけるに、
P11326
別(べち)の御事(おんこと)なくかへりのぼらせ給(たま)ひたりしかば、
さしつどひてみな悦(よろこ)びなき【泣き】どもせられけり。P2350お
なじき廿六日(にじふろくにち)、平氏(へいじ)のいけどりども【生捕り共】京(きやう)へいる。み
な八葉(はちえふ)(はちえう)の車(くるま)にてぞありける。前後(ぜんご)のすだれ
をあげ、左右(さう)の物見(ものみ)をひらく。大臣殿(おほいとの)は浄衣(じやうえ)(じやうゑ)
をきたまへり。右衛門督(うゑもんのかみ)はしろき【白き】直垂(ひたたれ)にて、車(くるま)
のしりにぞのら【乗ら】れたる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)の車(くるま)、おな
じくやりつづく。子息(しそく)讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)時実(ときざね)も、同車(どうしや)
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にてわたるべかりしが、現所労(げんじよらう)とてわたされず。内
蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)は疵(きず)をかうぶ(ッ)たりしかば、閑道(かんだう)より入(いり)にけり。
大臣殿(おほいとの)、さしも花(はな)やかにきよげ【清気】におはせし人(ひと)の、あら
ぬさまにやせおとろへ給(たま)へり。されども、四方(しはう)見(み)めぐ
らして、いとおもひ【思ひ】しづめる気色(けしき)もおはせず。右衛
門督(うゑもんのかみ)はうつぶして目(め)も見(み)あげ給(たま)はず。誠(まこと)におもひ
いれ【思ひ入れ】たるけしき也(なり)。土肥(とひの)(といの)次郎(じらう)実平(さねひら)、木蘭地(むくらんぢ)の
直垂(ひたたれ)に小具足(こぐそく)ばかりして、随兵(ずいびやう)卅(さんじふ)余騎(よき)、車(くるま)の
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先後(ぜんご)にうちかこ(ン)【囲ん】で守護(しゆご)し奉(たてまつ)る。見(み)る人(ひと)都(みやこ)の
うちにもかぎらず、凡(およそ)(をよそ)遠国(をんごく)近国(きんごく)、山々(やまやま)寺々(てらでら)より、老(おい)
たるも若(わか)きも、来(き)たりあつまれり。鳥羽(とば)の南(みなみ)の
門(もん)・つくり道(みち)・四基【*四塚】(よつづか)までひしとつづいて、いく千万(せんまん)と
いふかず【数】をしら【知ら】ず。人(ひと)は顧(かへりみ)る事(こと)をえず。車(くるま)は輪(わ)
をめぐらす事(こと)あたはず。治承(ぢしよう)(ぢせう)・養和(やうわ)の飢饉(ききん)、東
国(とうごく)・西国(さいこく)のいくさ【軍】に、人(ひと)だねほろびうせ【失せ】たりといへども、
猶(なほ)(なを)のこりはおほかり【多かり】けりとぞ見(み)えし。都(みやこ)をいで【出で】て
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中(なか)一年(いちねん)、無下(むげ)にまぢかき程(ほど)なれば、めでたかりし
事(こと)もわすれず。さしもおそれ【恐れ】おののき(をののき)し人(ひと)のけ
ふのありさま、夢(ゆめ)うつつともわきかねたり。心(こころ)なき
あやしのしづP2351のお(しづのを)【賎男】、しづのめ【賎女】にいたるまで、涙(なみだ)をなが
し袖(そで)をしぼらぬはなかりけり。ましてなれ【馴れ】ちかづ
き【近付き】ける人々(ひとびと)の、いかばかりの事(こと)をかおもひ【思ひ】けん。
年来(としごろ)重恩(ぢゆうおん)(ぢうをん)をかうぶり、父祖(ふそ)のときより祗侯(しこう)
したりし輩(ともがら)の、さすが身(み)のすてがたさに、おほく【多く】は
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源氏(げんじ)につゐ(つい)【付い】たりしかども、昔(むかし)のよしみ忽(たちまち)にわする【忘る】
べきにもあらねば、さこそはかなしくおもひ【思ひ】けめ。
されば袖(そで)を■(かほ)【*顔】にをし(おし)【押し】あてて、目(め)を見(み)あげぬ物(もの)も
おほかり【多かり】けり。大臣殿(おほいとの)の御牛飼(おんうしかひ)は、木曾(きそ)が院参(ゐんざん)の
時(とき)、車(くるま)やりそんじ【損じ】てきら【斬ら】れにける次郎丸(じらうまる)がおとと【弟】、
三郎丸(さぶらうまる)なり。西国(さいこく)にてはかり【仮】男(をのこ)(おのこ)にな(ッ)たりしが、今(いま)[B 一]度(いちど)
大臣殿(おほいとの)の御車(おんくるま)をつかまつらんとおもふ【思ふ】心(こころ)ざしふかか
り【深かり】ければ、鳥羽(とば)にて判官(はうぐわん)に申(まうし)けるは、「とねり【舎人】牛飼(うしかひ)
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な(ン)ど(など)申(まうす)物(もの)は、いふかひなき下臈(げらふ)(げらう)のはてにて候(さうら)へば、
心(こころ)あるべきでは候(さうら)はねども、年(とし)ごろめし【召し】つかは【使は】れま
いらせ(まゐらせ)【参らせ】て候(さうらふ)御心(おんこころ)ざしあさから【浅から】ず。しかる【然る】べう候者(さうらはば)、御(おん)
ゆるされ【許され】をかうぶ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)の御車(おんくるま)を
つかまつり候(さうらは)ばや」とあながちに申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)「子細(しさい)
あるまじ。とうとう【疾う疾う】」とてゆるされける。なのめならず
悦(よろこび)て、尋常(じんじやう)にしやうぞき【装束き】、ふところ【懐】よりやり
縄(なは)【遣縄】とりいだしつけ【付け】かへ、涙(なみだ)にくれてゆくさきも
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見(み)えねども、袖(そで)をかほにをし(おし)【押し】あてて、牛(うし)のゆくに
まかせつつ、なくなく【泣く泣く】や(ッ)てぞまかり【罷り】ける。P2352法皇(ほふわう)(ほうわう)は六条(ろくでう)
東洞院(ひがしのとうゐん)(ひ(ン)がしのとうゐん)に御車(おんくるま)をたてて叡覧(えいらん)(ゑいらん)あり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)
の車(くるま)ども、[B 同(おなじ)う]たてならべたり。さしも御身(おんみ)ちかうめし【召し】
つかは【使は】れしかば、法皇(ほふわう)(ほうわう)もさすが御心(おんこころ)よはう(よわう)【弱う】、哀(あはれ)にぞ
おぼしめさ【思し召さ】れける。供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)はただ夢(ゆめ)とのみこそ
思(おも)はれけれ。「いかにもしてあの人(ひと)にめ【目】をもかけられ、
詞(ことば)の末(すゑ)にもかからばやとこそおもひ【思ひ】しかば、かかるべし
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とは誰(たれ)かおもひ【思ひ】し」とて、上下(じやうげ)涙(なみだ)をながしけり。ひと
とせ【一年】内大臣(ないだいじん)にな(ッ)て悦(よろこび)申(まうし)給(たま)ひし時(とき)は、公卿(くぎやう)には
花山院(くわさんのゐん)の大納言(だいなごん)をはじめとして、十二人(じふににん)扈従(こしよう)し
てやりつづけ給(たま)へり。殿上人(てんじやうびと)には蔵人頭(くらんどのとう)親宗(ちかむね)
以下(いげ)十六人(じふろくにん)前駆[* 「前馳」と有るのを高野本により訂正](せんぐ)す。公卿(くぎやう)も殿上人(てんじやうびと)もけふを晴(はれ)と
きらめいてこそありしか。中納言(ちゆうなごん)(ちうなごん)四人(しにん)、三位(さんみの)(さんゐの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)
も三人(さんにん)までおはしき。やがてこの平(へい)大納言(だいなごん)も
其(その)時(とき)は左衛門督(さゑもんのかみ)(さへもんのかみ)にておはしき。御前(ごぜん)へめされ
P11334
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、御引出物(おんひきでもの)給(たま)は(ッ)て、もてなされ給(たま)
ひしありさま、めでたかりし儀式(ぎしき)ぞかし。けふは
月卿(げつけい)雲客(うんかく)一人(いちにん)もしたがはず。おなじく檀【*壇】(だん)の浦(うら)
にていけどり【生捕り】にせられたりし侍(さぶらひ)ども廿(にじふ)余人(よにん)、しろ
き【白き】直垂(ひたたれ)きて、馬(むま)のうへにしめ【締め】つけてぞわたされ
ける。川原(かはら)までわたされて、かへ(ッ)【帰つ】て、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は
九郎(くらうの)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)、六条堀川(ろくでうほりかは)にぞおはしける。
御物(おんもの)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】たりしかども、むねせきふさが(ッ)て、
P11335
御(お)はしをだにもたてられず。たがひに物(もの)はの給(たま)はねど
も、目(め)を見(み)あはせて、ひまなく涙(なみだ)P2353をながされけ
り。よるになれども装束(しやうぞく)もくつろげ給(たま)はず、袖(そで)を
かたしゐ(かたしい)【片敷い】てふし【臥し】給(たま)ひたりけるが、御子(おんこ)右衛門督(うゑもんのかみ)(うへもんのかみ)
に御袖(おんそで)をうちきせ給(たま)ふをまもり【守り】たてまつる【奉る】
源八(げんぱつ)兵衛(ひやうゑ)(ひやうへ)・江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)これをみて、「あは
れたかきもいやしきも、恩愛(おんあい)(をんあい)の道(みち)程(ほど)かなしかり【悲しかり】
ける事(こと)はなし。御袖(おんそで)をきせ奉(たてまつ)りたらば、いく程(ほど)
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の事(こと)あるべきぞ。せめての御心(おんこころ)ざしのふかさ【深さ】かな」
とて、たけき【猛き】物(もの)のふどももみな涙(なみだ)をぞながし
ける。鏡(かがみ)S1114同(おなじき)廿八日(にじふはちにち)、鎌倉(かまくら)の前(さきの)兵衛佐(ひやうゑのすけ)(ひやうへのすけ)頼朝(よりともの)朝臣(あそん)(あつそん)、従二
位(じゆにゐ)し給(たま)ふ。越階(をつかい)とて二階(にかい)をするこそありがたき
朝恩(てうおん)(てうをん)なるに、是(これ)はすでに三階(さんがい)なり。三位(さんみ)(さんゐ)をこそ
し給(たま)ふべかりしかども、平家(へいけ)のし給(たま)ひたりし
をいまう【忌まう】てなり。其(その)夜(よ)の子剋(ねのこく)に、内侍所(ないしどころ)、太政
官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)より温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正](うんめいでん)へいら【入ら】せ給(たま)ふ。主上(しゆしやう)行幸(ぎやうがう)
P11337
な(ッ)て、三(さん)か夜(よ)臨時(りんじ)の御神楽(みかぐら)あり。右近将監(うこんのしやうげん)小
家(をふ)(ヲフ)の能方(よしかた)、別勅(べつちよく)をうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て、家(いへ)につたはれる
弓立宮人(ゆだちみやうど)(ユタチみやうど)といふ神楽(かぐら)の秘曲(ひきよく)をつかま(ッ)て、勧賞(けんじやう)
かうぶりけるこそ目出(めでた)けれ。この歌(うた)〔は〕、祖父(そぶ)八条(はつでうの)判官(はうぐわん)
資忠(すけただ)とい(ッ)し伶人(れいじん)の外(ほか)は、しれ【知れ】るもP2354のなし。あまり
に秘(ひ)して子(こ)の親方(ちかかた)にはをしへ【教へ】ずして、堀川【*堀河】
天皇(ほりかはてんわう)御在位(ございゐ)の時(とき)つたへ【伝へ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て死去(しきよ)したり
しを、君(きみ)親方(ちかかた)にをしへ【教へ】させ給(たま)ひけり。道(みち)をう
P11338
しなは【失は】じとおぼしめす【思し召す】御心(おんこころ)ざし、感涙(かんるい)おさへ難(がた)
し。抑(そもそも)内侍所(ないしどころ)と申(まうす)は、昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)に閉(とぢ)
こもらんとせさせ給(たま)ひし時(とき)、いかにもして我(わが)御(おん)かた
ちをうつしをき(おき)て、御子孫(ごしそん)に見(み)せ奉(たてまつ)らんとて、
御鏡(みかがみ)をゐ(い)【鋳】給(たま)へり。是(これ)なを(なほ)【猶】御心(みこころ)にあはずとて、又(また)
鋳(い)かへさ【返さ】せ給(たま)ひけり。さきの御鏡(みかがみ)は紀伊国(きいのくに)日前(にちぜん)
国懸(こくけん)の社(やしろ)是(これ)也(なり)。後(のち)の御鏡(みかがみ)は御子(みこ)あまのにいほみ【天忍穂耳】の
尊(みこと)にさづけまいらせ(まゐらせ)【参らせ】させ給(たま)ひて、「殿(てん)をおなじう
P11339
してすみ給(たま)へ」とぞ仰(おほせ)ける。さて天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の
岩戸(いはと)にとぢこもらせ給(たま)ひて、天下(てんが)くらやみと
な(ッ)たりしに、八百万代(やほよろづよ)の神(かみ)たち神(かみ)あつまり【集まり】に
あつま(ッ)【集まつ】て、岩戸(いはと)の口(くち)にて御神楽(みかぐら)をし給(たま)ひけれ
ば、天照大神(てんせうだいじん)感(かん)にたえ(たへ)【堪へ】させ給(たま)はず、岩戸(いはと)をほそめ【細目】に
ひらき見(み)給(たま)ふに、互(たがひ)にかほ【顔】のしろく【白く】見(み)えけるより
面白(おもしろ)といふ詞(ことば)ははじまりけるとぞうけ給(たま)はる【承る】。その
時(とき)こやねたぢからを【児屋根手力雄】といふ大(だい)ぢからの神(かみ)よ(ッ)て、ゑい(えい)と
P11340
いひてあけ給(たま)ひしよりしてたて[* 「たれ」と有るのを高野本により訂正]【閉て】られずといへり。さて
内侍所(ないしどころ)は[* 「に」と有るのを高野本により訂正]、第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おんとき)まで
はひとつ【一つ】殿(てん)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)崇
神天皇(すじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及(およん)(をよん)で、霊威(れいゐ)におそれ【恐れ】て、別(べつ)の
殿(てん)へうつし【移し】たてまつらせ給(たま)ふ。近来(ちかごろ)は温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正](うんめいでん)に
おはします。遷都(せんと)・遷幸(せんがう)の後(のち)百六十年(ひやくろくじふねん)をへて、P2355
村上天皇(むらかみてんわう)の御宇(ぎよう)、天徳(てんとく)四年(しねん)九月(くぐわつ)廿三日(にじふさんにち)の子剋(ねのこく)に、
内裏(だいり)なかのへ【中重】にはじめて焼亡(ぜうまう)ありき。火(ひ)は左衛門(さゑもん)(さへもん)
P11341
の陣(ぢん)よりいで【出で】き【来】たりければ、内侍所(ないしどころ)のおはします
温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正](うんめいでん)も程(ほど)ちかし。如法(によほふ)(によほう)夜半(やはん)の事(こと)なれば、内
侍(ないし)も女官(によくわん)もまいり(まゐり)【参り】あはずして、かしこ所(どころ)【賢所】をいだ
し奉(たてまつ)るにも及(およ)(をよ)ばず。小野宮殿(をののみやどの)いそぎまいら(まゐら)【参ら】せ
給(たま)ひて、「内侍所(ないしどころ)すでにやけさせ給(たま)ひぬ。世(よ)はいまは
かうごさんなれ」とて御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふ程(ほど)に、内侍
所(ないしどころ)はみづから炎(ほのほ)(ほのを)の中(なか)をとびいでさせ給(たま)ひ、南
殿(なんでん)の桜(さくら)の梢(こずゑ)にかからせおはしまし、光明(くわうみやう)かく
P11342
やく【赫奕】として、朝(あさ)の日(ひ)の山(やま)の端(は)をいづる【出づる】にことならず。
其(その)時(とき)小野宮殿(をののみやどの)「世(よ)はいまだうせ【失せ】ざりけり」とおぼし
めす【思し召す】に、よろこびの御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず、右(みぎ)の
御(おん)ひざをつき、左(ひだり)の御袖(おんそで)をひろげて、泣々(なくなく)申(まう)させ
給(たま)ひけるは、「昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)百王(はくわう)をまもら【守ら】んと御(おん)ち
かひあり【有り】ける、其(その)御誓(おんちかひ)(ごちかひ)いまだあらたまらずは、神
鏡(しんきやう)実頼(さねより)が袖(そで)にやどらせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)ふ御
詞(おんことば)のいまだをはらざるさきに、飛(とび)うつらせ給(たま)ひ
P11343
けり。すなはち御袖(おんそで)につつんで、太政官(だいじやうぐわん)の朝所(あいだんどころ)(アイタントコロ)へ
わたしたてまつらせ給(たま)ふ。近来(ちかごろ)は温明殿[* 「霊景殿」と有るのを他本により訂正](うんめいでん)におはし
ます。この世(よ)にはうけ【受け】とり【取り】奉(たてまつ)らんとおもひよる人(ひと)も
誰(たれ)かはあるべき。神鏡(しんきやう)も又(また)やどらせ給(たま)ふべからず。
上代(じやうだい)こそ猶(なほ)(なを)も目出(めでた)けれ。P2356文之沙汰(ふみのさた)S1115平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父子(ふし)も、
九郎(くらう)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)ちかうぞおはしける。世(よ)の中(なか)
のかくなりぬるうへは、とてもかうてもとこそおも
は【思は】るべきに、大納言(だいなごん)猶(なほ)(なを)命(いのち)おしう(をしう)【惜しう】やおもは【思は】れけん、
P11344
子息(しそく)讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)をまねひ(まねい)【招い】て、「ちらす【散らす】まじきふみ
ども【文共】を一合(いちがふ)(いちがう)、判官(はうぐわん)にとられてあるぞとよ。是(これ)を鎌倉(かまくら)
の源二位(げんにゐ)に見(み)えなば、人(ひと)もおほく【多く】損(そん)じ、我(わが)身(み)も命(いのち)
いけらるまじ。いかがせんずる」との給(たま)へば、中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)申(まう)
されけるは、「判官(はうぐわん)はおほ方(かた)【大方】もなさけある物(もの)にて候(さうらふ)
なるうへ、女房(にようばう)な(ン)ど(など)のうちたへ(うちたえ)【うち絶え】なげく【歎く】事(こと)をば、いか
なる大事(だいじ)をももてはなれ【離れ】ぬとうけ給(たまはり)【承り】候(さうらふ)。
何(なに)かくるしう【苦しう】候(さうらふ)べき。姫君達(ひめぎみたち)あまたましまし候(さうら)へば、
P11345
一人(いちにん)見(み)せさせ給(たま)ひ、したしうならせおはしまして
後(のち)、仰(おほせ)らるべうや候(さうらふ)らん」。大納言(だいなごん)涙(なみだ)をはらはらとながい【流い】て、
「我(われ)世(よ)にありし時(とき)は、むすめどもをば女御(にようご)きさきと
こそおもひ【思ひ】しか。なみなみの人(ひと)に見(み)せんとはかけても
おもは【思は】ざりし物(もの)を」とてなか【泣か】れければ、中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)「今(いま)は其(その)
事(こと)ゆめゆめおぼしめし【思し召し】よらせ給(たま)ふべからず。たう
ほく【当腹】の姫君(ひめぎみ)の十八(じふはち)になり給(たま)ふを」と申(まう)されけれども、
大納言(だいなごん)それをば猶(なほ)(なを)かなしき【悲しき】事(こと)におぼして、さきの
P11346
腹(はら)の姫君(ひめぎみ)の廿三(にじふさん)になり給(たま)ふをぞ、判官(はうぐわん)には見(み)せ
られける。是(これ)も年(とし)こそすこし【少し】おとなしうおは
しP2357けれども、みめかたちうつくしう、心様(こころざま)ゆう(いう)【優】に
おはしければ、判官(はうぐわん)さりがたうおもひ【思ひ】たてま(ッ)【奉つ】て、
もとのうへ川越【*河越】(かはごえの)太郎(たらう)重頼(しげより)がむすめもありし
かども、是(これ)をば別(べち)の方(かた)尋常(よのつね)にしつらうてもて
なしけり。さて女房(にようばう)件(くだん)のふみの事(こと)をの給(たま)ひいだし【出し】
たりければ、判官(はうぐわん)あま(ッ)さへ(あまつさへ)【剰へ】封(ふう)をもとかず、いそぎ時
P11347
忠卿(ときただのきやう)のもとへをくら(おくら)【送ら】れけり。大納言(だいなごん)なのめならず
悦(よろこび)て、やがてやき【焼き】ぞすてられける。いかなるふみ
ども【文共】にてかあり【有り】けん、をぼつかなう(おぼつかなう)ぞきこえ【聞え】し。平
家(へいけ)ほろびて、いつしか国々(くにぐに)しづまり、人(ひと)のかよふも
煩(わづらひ)なし。都(みやこ)もおだしかり【穏しかり】ければ、「ただ九郎(くらう)判官(はうぐわん)程(ほど)
の人(ひと)はなし。鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)何事(なにごと)をかしいだしたる。
世(よ)は一向(いつかう)判官(はうぐわん)のままにてあらばや」な(ン)ど(など)いふ事(こと)を、
源二位(げんにゐ)もれ【漏れ】きい【聞い】て、「こはいかに、頼朝(よりとも)がよくはからひて
P11348
兵(つはもの)をさしのぼすればこそ、平家(へいけ)はたやすうほろ
びたれ。九郎(くらう)ばかりしては争(いかで)か世(よ)をしづむべき。
人(ひと)のかくいふにおご(ッ)【奢つ】ていつしか世(よ)を我(わが)ままにしたる
にこそ。人(ひと)こそおほけれ【多けれ】、平(へい)大納言(だいなごん)の聟(むこ)にな(ッ)て、大
納言(だいなごん)も(ッ)てあつかう(あつかふ)なるもうけられず。又(また)世(よ)にもはば
からず、大納言(だいなごん)の聟(むこ)どりいはれなし。くだ(ッ)ても定(さだめ)て
過分(くわぶん)の振舞(ふるまひ)せんずらん」とぞの給(たま)ひける。P2358副将被斬(ふくしやうきられ)S1116同(おなじき)五月(ごぐわつ)
七日(なぬかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)、平氏(へいじ)のいけどりども【生捕り共】あひぐし【具し】て、
P11349
関東(くわんとう)へ下向(げかう)ときこえ【聞え】しかば、大臣殿(おほいとの)判官(はうぐわん)のもとへ
使者(ししや)をたてて、「明日(みやうにち)関東(くわんとう)へ下向(げかう)とうけ給(たまはり)候(さうらふ)。恩愛(おんあい)(をんあい)
の道(みち)はおもひ【思ひ】きられぬ事(こと)にて候(さうらふ)也(なり)。いけどり【生捕り】のう
ちに八歳(はつさい)の童(わらは)とつけられて候(さうらひ)しものは、いまだ此(この)
世(よ)に候(さうらふ)やらん。今(いま)一度(いちど)見(み)候(さうらは)ばや」とのたまひつかはさ【遣さ】
れたりければ、判官(はうぐわん)の返事(へんじ)には、「誰(たれ)も恩愛(おんあい)(をんあい)はお
もひ【思ひ】きられぬ事(こと)にて候(さうら)へば、誠(まこと)にさこそおぼし
めさ【思し召さ】れ候(さうらふ)らめ」とて、河越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)があづかりたて
P11350
ま(ッ)【奉つ】たりけるを、大臣殿(おほいとの)の〔許(もと)へ〕若君(わかぎみ)いれ【入れ】たてまつる【奉る】
べきよしの給(たま)ひければ、人(ひと)に車(くるま)か(ッ)てのせ【乗せ】たてま
つり【奉り】、女房(にようばう)二人(ににん)つきたてまつり【奉り】しも、ひとつ【一つ】車(くるま)に
のりぐし【具し】て、大臣殿(おほいとの)へぞまいら(まゐら)【参ら】れける。わか公(ぎみ)【若君】ははる
かに父(ちち)を見(み)奉(たてまつ)り給(たまひ)て、よにうれしげにおぼしたり。
「いかに是(これ)へ」との給(たま)へば、やがて御(おん)ひざのうへにまいり(まゐり)【参り】
給(たま)ふ。大臣殿(おほいとの)、若公(わかぎみ)【若君】の御(おん)ぐしをかきなで、涙(なみだ)をはらはらと
ながひ(ながい)【流い】て、守護(しゆご)の武士(ぶし)どもにのたまひ【宣ひ】けるは、「是(これ)は
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をのをの(おのおの)【各々】きき給(たま)へ。母(はは)もなき物(もの)にてあるぞとよ。此(この)子(こ)が
はは【母】は是(これ)をうむとて、産(さん)をばたいらか(たひらか)【平か】にしたりし
かども、やがてうちふし【臥し】てなやみしが、「いかなる人(ひと)の
腹(はら)に公達(きんだち)をまうけ給(たま)ふとも、おもひ【思ひ】P2359かへずして
そだて【育て】て、わらはが形見(かたみ)に御(ご)らんぜよ。さしはな(ッ)【放つ】て、
めのと【乳母】な(ン)ど(など)のもとへつかはす【遣す】な」といひしことが不便(ふびん)さ
に、あの右衛門督(うゑもんのかみ)(うへもんのかみ)をば、朝敵(てうてき)をたいらげ(たひらげ)【平げ】ん時(とき)は
大将軍(たいしやうぐん)せさせ、これをば副将軍(ふくしやうぐん)せさせんずれ
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ばとて、名(な)を副将(ふくしやう)とつけたりしかば、なのめならず
うれしげにおもひ【思ひ】て、すでにかぎりの時(とき)までも
名(な)をよびな(ン)ど(など)してあひせ(あいせ)【愛せ】しが、なぬか【七日】といふにはか
なく【果敢く】なりてあるぞとよ。此(この)子(こ)を見(み)るたびごとには、
その事(こと)がわすれがたくおぼゆる【覚ゆる】なり」とて涙(なみだ)もせき
あへ給(たま)はねば、守護(しゆご)の武士(ぶし)どももみな袖(そで)をぞし
ぼりける。右衛門督(うゑもんのかみ)(うへもんのかみ)も泣(なき)給(たま)へば、めのとも袖(そで)をし
ぼりけり。良(やや)久(ひさ)しうあ(ッ)て大臣殿(おほいとの)「さらば副将(ふくしやう)、
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とく【疾く】かへれ、うれしうも見(み)つ」との給(たま)へども、若公(わかぎみ)【若君】
かへり給(たま)はず。右衛門(うゑもんの)督(かみ)これを見(み)て、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)
ての給(たま)ひけるは、「やや副将(ふくしやう)御(ご)ぜ、こよひはとくとく帰(かへ)れ。
ただいまま〔ら〕う人(と)【客人】のこ【来】うずるぞ。あしたはいそぎまい
れ(まゐれ)【参れ】」との給(たま)へども、父(ちち)の御浄衣(おんじやうえ)(おんじやうゑ)の袖(そで)にひしととり
ついて、「いなや、かへらじ」とこそなき【泣き】給(たま)へ。かくてはる
かに程(ほど)ふれば、日(ひ)もやうやう暮(くれ)にけり。さてしもある
べき事(こと)ならねば、めのとの女房(にようばう)いだきと(ッ)て、御
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車(おんくるま)にのせ【乗せ】奉(たてまつ)り、二人(ににん)の女房(にようばう)どもも袖(そで)を■(かほ)【*顔】に
をし(おし)【押し】あてて、泣々(なくなく)いとま申(まうし)つつ、ともにの(ッ)【乗つ】てぞいで【出で】
にける。大臣殿(おほいとの)はうしろをはるかに御覧(ごらん)じを
く(ッ)(おくつ)【送つ】て、「日来(ひごろ)の恋(こひ)しさは事(こと)のかずならず」とぞか
なしみ給(たま)ふ。「このP2360わか公(ぎみ)【若君】は、母(はは)のゆひごん(ゆいごん)【遺言】がむざん【無慙】な
れば」とて、めのとのもとへもつかはさ【遣さ】ず、あさゆふ御(おん)
まへにてそだて【育て】給(たま)ふ。三歳(さんざい)にてうゐかぶり(うひかうぶり)【初冠】きせて、
義宗(よしむね)とぞなのら【名乗ら】せける。やうやうおい(おひ)【生ひ】たち【立ち】給(たま)ふままに、
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みめかたちうつくしく、心(こころ)ざまゆう(いう)【優】におはしけれ
ば、大臣殿(おほいとの)もかなしう【悲しう】いとをしき(いとほしき)事(こと)におぼして、
西海(さいかい)の旅(たび)の空(そら)、浪(なみ)のうへ、船(ふね)のうちのすまひ【住ひ】にも、
かた時(とき)もはなれ給(たま)はず。しかる【然る】をいくさ【軍】やぶれて
後(のち)は、けふぞたがひ【互】にみ【見】給(たま)ひける。河越(かはごえの)小太郎(こたらう)、判官(はうぐわん)
の御(おん)まへにまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、「さてわか公(ぎみ)【若君】の御事(おんこと)をばなにと御(おん)
ぱからひ候(さうらふ)やらん」と申(まうし)ければ、「鎌倉(かまくら)までぐし【具し】たて
まつる【奉る】に及(およ)(をよ)ばず。なんぢともかうも是(これ)であひはか
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らへ」とぞの給(たま)ひける。河越(かはごえの)小太郎(こたらう)二人(ににん)の女房(にようばう)どもに
申(まうし)けるは、「大臣殿(おほいとの)は鎌倉(かまくら)へ御(おん)くだり候(さうらふ)が、わか公(ぎみ)【若君】は京(きやう)に
御(おん)とどまりあるべきにて候(さうらふ)。重房(しげふさ)もまかり【罷り】下(くだり)候(さうらふ)あ
ひだ、おかた(をかた)【緒方】の三郎(さぶらう)惟義(これよし)が手(て)へわたし奉(たてまつ)るべきに
て候(さうらふ)。とうとうめさ【召さ】れ候(さうら)へ」とて、御車(おんくるま)よせたりければ、
わか公(ぎみ)【若君】なに心(ごころ)【何心】もなうのり【乗り】給(たま)ひぬ。「又(また)昨日(きのふ)のやうに
父(ちち)御前(ごぜん)の御(おん)もとへか」とてよろこば【喜ば】れけるこそ
はかなけれ。六条(ろくでう)を東(ひがし)(ひ(ン)がし)へや(ッ)てゆく。この女房(にようばう)ども
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「あはやあやしき物(もの)かな」と、きも魂(たましひ)(たましゐ)をけち【消ち】て思(おもひ)ける
程(ほど)に、すこし【少し】ひきさが(ッ)て、兵(つはもの)五六十騎(ごろくじつき)が程(ほど)河原(かはら)へ
うちいでたり。やがて車(くるま)をやりとどめ【留め】て敷皮(しきがは)し
き、「おりさせ給(たま)へ」と申(まうし)けP2361れば、わか公(ぎみ)【若君】車(くるま)よりおり
給(たま)ひぬ。よにあやしげにおぼして、「我(われ)をばいづちへ
ぐし【具し】てゆかんとするぞ」ととひ給(たま)へば、二人(ににん)の女房(にようばう)ども
とかうの返事(へんじ)にも及(およ)(をよ)ばず。重房(しげふさ)が郎等(らうどう)太刀(たち)を
ひきそばめて、左(ひだり)の方(かた)より御(おん)うしろに立(たち)ま
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はり、すでにきりたてまつら【奉ら】んとしけるを、わか公(ぎみ)【若君】見(み)
つけ給(たまひ)て、いく程(ほど)のがる【逃る】べき事(こと)のやうに、いそぎ
めのと【乳母】のふところ【懐】のうちへぞ入(いり)給(たま)ふ。さすが心(こころ)づよう
とりいだし奉(たてまつ)るにも及(およ)(をよ)ばねば、わか公(ぎみ)【若君】をかかへたて
まつり【奉り】、人(ひと)のきく【聞く】をもはばからず、天(てん)にあふぎ地(ち)に
ふしておめき(をめき)【喚き】さけみける心(こころ)のうち、をしはから(おしはから)【推し量ら】れ
て哀(あはれ)也(なり)。かくて時剋(じこく)はるかにをし(おし)【押し】うつりければ、
川越【*河越】(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て、「いまはいかにおぼ
P11359
しめされ〔候(さうらふ)〕とも、かなは【叶は】せ給(たまひ)候(さうらふ)まじ。とうとう」と申(まうし)け
れば、其(その)時(とき)めのと【乳母】のふところ【懐】のうちよりひきいだし
奉(たてまつ)り、腰(こし)の刀(かたな)にてをし(おし)【押し】ふせ【伏せ】て、つゐに(つひに)【遂に】頸(くび)をぞ
かいて(ン)げる。たけき【猛き】物(もの)のふどももさすが岩木(いはき)なら
ねば、みな涙(なみだ)をながしけり。頸(くび)をば判官(はうぐわん)のげ(ン)ざん(げんざん)【見参】に
いれ【入れ】んとて取(とり)てゆく。めのとの女房(にようばう)かちはだしにて
を(ッ)(おつ)【追つ】つゐ(つい)【付い】て、「なにかくるしう【苦しう】候(さうらふ)べき。御頸(おんくび)ばかりをば
給(たま)は(ッ)て、後世(ごせ)をとぶらひまいらせ(まゐらせ)【参らせ】ん」と申(まう)せば、判
P11360
官(はうぐわん)よにあはれ【哀】げにおもひ【思ひ】、涙(なみだ)をはらはらとながい【流い】て、
「まこと【誠】にさこそはおもひ【思ひ】給(たま)ふらめ。も(ッ)ともさるべし。
とうとう」とてたびにけり。是(これ)をと(ッ)てふところ【懐】にいれ【入れ】て、
なくなく【泣く泣く】京(きやう)の方(かた)へ帰(かへ)るとぞ見(み)えし。其(その)P2362後(のち)五六日(ごろくにち)
して、桂川(かつらがは)に女房(にようばう)二人(ににん)身(み)をなげたる事(こと)あり【有り】けり。
一人(いちにん)おさなき(をさなき)【幼き】人(ひと)の頸(くび)をふところ【懐】にいだひ(いだい)【抱い】てしづ
みたりけるは、此(この)わか公(ぎみ)【若君】のめのとの女房(にようばう)にてぞあり
ける。いま一人(いちにん)むくろをいだひ(いだい)【抱い】たりけるは、介惜(かいしやく)【介錯】の
P11361
女房(にようばう)なり。めのとがおもひ【思ひ】きる【切る】はせめていかがせん、かい
しやく【介錯】の女房(にようばう)さへ身(み)をなげけるこそありがた
けれ。腰越(こしごえ)S1117さる程(ほど)に、大臣殿(おほいとの)は九郎(くらう)大夫[B ノ](たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)にぐせ【具せ】られ
て、七日(なぬか)のあかつき、粟田口(あはたぐち)をすぎ給(たま)へば、大内山(おほうちやま)、雲
井(くもゐ)のよそにへだたりぬ。関(せき)の清水(しみづ)を見(み)給(たまひ)ても、
なくなく【泣く泣く】かうぞ詠(えい)(ゑい)じ給(たま)ひける。
都(みやこ)をばけふをかぎりの関水(せきみづ)に
又(また)あふ坂(さか)【逢坂】のかげやうつさ【映さ】む W089
P11362
道(みち)すがらもあまりに心(こころ)ぼそげにおぼしければ、判
官(はうぐわん)なさけある人(ひと)にて、やうやうになぐさめ奉(たてまつ)る。「あひ
かまへて今度(こんど)の命(いのち)をたすけ【助け】てたべ」との給(たま)ひけ
れば、「遠(とほ)き国(くに)、はるかの島(しま)へもうつし[B ぞ]まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)はん
ずらん。御命(おんいのち)うしなひ【失ひ】奉(たてまつ)るまではよも候(さうら)はじ。
たとひさるとも、義経(よしつね)が勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)かへて、
御命(おんいのち)ばかP2363りはたすけ【助け】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうらふ)べし。御心(おんこころ)やすく
おぼしめさ【思し召さ】れ候(さうら)へ」と、たのもしげ【頼もし気】に申(まう)され〔けれ〕ば、「たとひ
P11363
ゑぞ(えぞ)【蝦夷】が千島(ちしま)なりとも、甲斐(かひ)なき命(いのち)だにあらば」と
の給(たま)ひけるこそ口惜(くちをし)(くちおし)けれ。日数(ひかず)ふれば、同(おなじき)廿四日(にじふしにち)(にじふよつか)、鎌
倉(かまくら)へくだりつき給(たま)ふ。梶原(かぢはら)さきだ(ッ)て鎌倉殿(かまくらどの)
に申(まうし)けるは、「日本国(につぽんごく)は今(いま)はのこるところ【所】なうした
がひたてまつり【奉り】候(さうらふ)。ただし御弟(おんおとと)九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官
殿(はうぐわんどの)こそ、つゐ(つひ)の御敵(おんかたき)とは見(み)えさせ給(たまひ)候(さうら)へ。その
ゆへ(ゆゑ)【故】は、「一(いち)の谷(たに)をうへの山(やま)よりおとさ【落さ】ずは、東西(とうざい)の
木戸口(きどぐち)やぶれがたし。いけどり【生捕り】も死(し)にどりも
P11364
義経(よしつね)にこそ見(み)すべきに、物(もの)のよう【用】にもあひ給(たま)
はぬ蒲殿(かばどの)の方(かた)へ見参(げんざん)に入(いる)べき様(やう)やある。
本三位(ほんざんみの)(ほんざんゐの)中将殿(ちゆうじやうどの)(ちうじやうどの)こなたへたば【賜ば】じと候(さうらは)ば、まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て給(たま)
はるべし」とて、すでにいくさ【軍】いで【出で】き【来】候(さうら)はんとし
候(さうらひ)しを、景時(かげとき)が土肥(とひ)(とい)に心(こころ)をあはせて、三位(さんみの)(さんゐの)中将
殿(ちゆうじやうどの)(ちうじやうどの)を土肥(とひの)(といの)次郎(じらう)にあづけて後(のち)こそしづまり
給(たまひ)て候(さうらひ)しか」とかたり申(まうし)ければ、鎌倉殿(かまくらどの)うち
うなづいて、「けふ九郎(くらう)が鎌倉(かまくら)へいる【入る】なるに、おのおの
P11365
用意(ようい)し給(たま)へ」と仰(おほせ)られければ、大名(だいみやう)小名(せうみやう)馳(はせ)あつ
ま(ッ)【集まつ】て、程(ほど)なく数千騎(すせんぎ)になりにけり。金洗沢(かねあらひざは)に
関(せき)すへ(すゑ)【据ゑ】て、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)うけ【受け】とり【取り】たてま(ッ)【奉つ】て、判官(はうぐわん)
をば腰(こし)ごえ【腰越】へお(ッ)【追つ】かへさ【返さ】る。鎌倉殿(かまくらどの)は随兵(ずいびやう)七重(ななへ)(ななえ)八重(やへ)(やえ)
にすへ(すゑ)【据ゑ】をい(おい)て、我(わが)身(み)は其(その)中(うち)におはしましながら
「九郎(くらう)はこのたたみ【畳】のしたよりはひ【這ひ】いでんずる
ものなり。ただし頼朝(よりとも)はせらP2364るまじ」とぞの給(たまひ)
ける。判官(はうぐわん)おもは【思は】れけるは、「こぞの正月(しやうぐわつ)、木曾(きそ)義
P11366
仲(よしなか)を追討(ついたう)(つゐたう)せしよりこのかた、一(いち)の谷(たに)・檀【*壇】(だん)の浦(うら)に
いたるまで、命(いのち)をすてて平家(へいけ)をせめ【攻め】おとし、内
侍所(ないしどころ)しるしの御箱(みはこ)事(こと)ゆへ(ゆゑ)【故】なく返(かへ)しいれ【入れ】
たてまつり【奉り】、大将軍(たいしやうぐん)父子(ふし)いけどり【生捕り】にして、ぐし【具し】
て是(これ)まで下(くだ)りたらんには、たとひいかなるふし
ぎ【不思議】ありとも、一度(いちど)はなどか対面(たいめん)なかるべき。凡(およそ)(をよそ)は九
国(くこく)の惣追補使【*惣追捕使】(そうづいぶし)(そうづゐぶし)にもなされ、山陰(せんいん)(せんゐん)・山陽(せんやう)・南海道(なんかいだう)、い
づれにてもあづけ、一方(いつぱう)のかためともなされんずると
P11367
こそおもひ【思ひ】つるに、わづかに伊与【*伊予】国(いよのくに)ばかりを知行(ちぎやう)
すべきよし仰(おほせ)られて、鎌倉(かまくら)へだにも入(いれ)られぬ
こそほいなけれ。さればこは何事(なにごと)ぞ。日本国(につぽんごく)を
しづむる事(こと)、義仲(よしなか)・義経(よしつね)がしわざにあらずや。
たとへばおなじ父(ちち)が子(こ)で、先(さき)にむまるる【生るる】を兄(あに)とし、
後(のち)にむまるる【生るる】を弟(おとと)とするばかり也(なり)。誰(たれ)か天下(てんが)を
しら【知ら】んにしら【知ら】ざるべき。あま(ッ)さへ(あまつさへ)【剰へ】今度(こんど)見参(げんざん)(げ(ン)ざん)を
だにもとげずして、をい(おひ)【追ひ】のぼせ【上せ】らるるこそ遺恨(ゐこん)(いこん)
P11368
の次第(しだい)なれ。謝(しや)するところ【所】をしらず」とつぶや
かれ[B けれ]ども、ちからなし。ま(ッ)たく不忠(ふちゆう)(ふちう)なきよし、たびたび
起請文(きしやうもん)をも(ッ)て申(まう)されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)に
よ(ッ)て、鎌倉殿(かまくらどの)もちゐ給(たま)はねば、判官(はうぐわん)泣々(なくなく)一通(いつつう)の
状(じやう)(でう)をかいて、広基(ひろもと)のもとへつかはす【遣す】。
源(みなもとの)義経(よしつね)恐(おそれ)ながら申上(まうしあげ)候(さうらふ)意趣(いしゆ)者(は)、御代官(おんだいくわん)の其(その)
一(ひとつ)に撰(えら)ばれ、勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)として、朝敵(てうてき)をかたむ
け、会稽(くわいけい)の恥辱(ちじよく)をすすぐ。勲賞(くんしやう)おこなはる
P11369
べき処(ところ)に、虎P2365口(ここう)の讒言(ざんげん)によ(ッ)てむなしく紅涙(こうるい)
にしづむ。讒者(ざんしや)の実否(じつぷ)をただされず、鎌倉中(かまくらぢゆう)(かまくらぢう)
へ入(いれ)られざる間(あひだ)(あいだ)、素意(そい)をのぶるにあたはず、い
たづらに数日(すじつ)ををくる(おくる)【送る】。此(この)時(とき)にあた(ッ)てながく恩
顔(おんがん)(をんがん)を拝(はい)したてまつら【奉ら】ず(ン)〔ば〕、骨肉(こつにく)同胞(どうはう)(どうほう)の義(ぎ)す
でにたえ【絶え】、宿運(しゆくうん)きはめてむなしき【空しき】にに【似】たるか、将又(はたまた)
先世(ぜんぜ)の業因(ごふいん)(ごうゐん)の感(かん)ずる歟(か)。悲(かなしき)哉(かな)、此(この)条(でう)、故(こ)亡父(ばうぶ)
尊霊(そんれい)再誕(さいたん)し給(たま)はずは、誰(たれ)の人(ひと)か愚意(ぐい)の悲歎(ひたん)
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を申(まうし)ひらかん、いづれの人(ひと)か哀憐(あいれん)をたれられん
や。事(こと)あたらしき申状(まうしじやう)(まうしでう)、述懐(しゆつくわい)に似(に)たりといへども、
義経(よしつね)身体(しんだい)髪膚(はつぷ)を父母(ふぼ)にうけて、いくばくの
時節(じせつ)をへず故(こ)守殿(かうのとの)御他界(ごたかい)の間(あひだ)(あいだ)、みなし
子(ご)となり、母(はは)の懐(ふところ)のうちにいだかれて、大和国(やまとのくに)宇
多郡(うだのこほり)におもむき【赴き】しよりこのかた、[B いまだ]一日(いちにち)片時(へんし)
安堵(あんど)のおもひ【思ひ】に住(ぢゆう)(ぢう)せず。甲斐(かひ)(かい)なき命(いのち)は存(そん)す
といへども、京都(きやうと)の経廻(けいくわい)難治(なんぢ)の間(あひだ)(あいだ)、身(み)を在々(ざいざい)所々(しよしよ)
P11371
にかくし、辺土(へんど)遠国(をんごく)をすみかとして、土民(どみん)百姓
等(ひやくしやうら)〔に〕服仕(ぶくじ)せらる。しかれども高慶(かうけい)忽(たちまち)に純熟(じゆんじゆく)して、
平家(へいけ)の一族(いちぞく)追討(ついたう)のために上洛(しやうらく)せしむる手(て)
あはせに、木曾(きそ)義仲(よしなか)を誅戮(ちゆうりく)(ちうりく)の後(のち)、平氏(へいじ)をか
たむけんがために、或(ある)時(とき)は峨々(がが)たる巌石(がんぜき)に駿馬(しゆんめ)
に鞭(むち)う(ッ)て、敵(てき)のために命(いのち)をほろぼさん事(こと)を
顧(かへりみ)ず、或(ある)時(とき)は漫々(まんまん)たる大海(だいかい)に風波(ふうは)の難(なん)をしの
ぎ、海底(かいてい)にしづまん事(こと)をいたま【痛ま】ずして、かばね
P11372
を鯨鯢(けいげい)(ケイケイ)の鰓(あぎと)(アキト)にかく。しかのみならず、甲冑(かつちう)を
枕(まくら)とし弓箭(きゆうせん)(きうせん)を業(わざ)とする本意(ほい)、しかしながら
亡魂(ばうこん)のいきどほりをやすめたてP2366まつり、年来(ねんらい)
の宿望(しゆくまう)をとげんと欲(ほつ)する外(ほか)他事(たじ)なし。あま(ッ)
さへ(あまつさへ)【剰へ】義経(よしつね)五位尉(ごゐのじよう)(ごゐのぜう)に補任(ふにん)の条(でう)、当家(たうけ)の重職(ちようじよく)(てうじよく)何
事(なにごと)か是(これ)にしかん。しかりといへども今(いま)愁(うれへ)ふかく歎(なげき)切(せつ)
也(なり)。仏神(ぶつじん)の御(おん)たすけ【助け】にあらずより外(ほか)は、争(いかで)か愁
訴(しうそ)を達(たつ)せん。これによ(ッ)て諸神(しよじん)諸社(しよしや)の牛王[* 「牛玉」と有るのを高野本により訂正](ごわう)宝
P11373
印(ほういん)(ほうゐん)のうらをも(ッ)て、野心(やしん)を挿(さしはさ)まざるむね、日本
国中(につぽんごくぢゆう)(につぽんごくぢう)の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を請(しやう)じ驚(おどろ)(をどろ)かし奉(たてまつ)て、数通(すつう)
の起請文(きしやうもん)をかき【書き】進(しん)ずといへども、猶(なほ)(なを)以(もつて)(も(ツ)て)御宥免(ごいうめん)(ごゆうめん)
なし。我(わが)国(くには)神国(しんこく)也(なり)。神(かみは)非礼(ひれい)を享(うけ)給(たまふ)べからず。■(たのむ)
処(ところ)他(た)にあらず。ひとへに貴殿(きでん)広大(くわうだい)の慈悲(じひ)を
仰(あふ)ぐ。便宜(びんぎ)をうかがひ【伺ひ】高聞(かうぶん)に達(たつ)せしめ、秘計(ひけい)
をめぐらし、あやまりなきよしをゆうぜ(いうぜ)【宥ぜ】られ、放
免(はうめん)にあづからば、積善(しやくぜん)の余慶(よけい)家門(かもん)に及(およ)(をよ)び、栄花(えいぐわ)(ゑいぐわ)
P11374
をながく子孫(しそん)につたへむ。仍(よつて)年来(ねんらい)の愁眉(しうび)を
開(ひら)き、一期(いちご)の安寧(あんねい)を得(え)ん。書紙(しよし)につくさず。
併(しかしながら)令省略(せいりやくせしめ)候(さうらひ)畢(をはんぬ)。義経(よしつね)恐惶(きようくわう)(けうくわう)謹言(つつしんでまうす)。元暦(げんりやく)二年(にねん)
六月(ろくぐわつ)五日(いつかのひ)源(みなもとの)義経(よしつね)進上(しんじやう)因幡守殿(いなばのかみどの)へとぞかか【書か】れ
たる。大臣殿被斬(おほいとのきられ)S1118 P2367さる程(ほど)に、鎌倉殿(かまくらどの)大臣殿(おほいとの)に対面(たいめん)あり。おはし
ける〔所(ところ)〕、庭(には)をひとつ【一つ】へだててむかへ【向へ】なる屋(や)にすへ(すゑ)【据ゑ】たて
まつり【奉り】、簾(みす)のうちより見(み)いだし、比気【*比企】[B ノ](ひきの)藤四郎(とうしらう)義
員【*能員】(よしかず)を使者(ししや)で申(まう)されけるは、「平家(へいけ)の人々(ひとびと)に別(べち)の
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意趣(いしゆ)おもひ【思ひ】たてまつる【奉る】事(こと)、努々(ゆめゆめ)候(さうら)はず。其上(そのうへ)
池殿(いけどの)の尼御前(あまごぜん)いかに申(まうし)給(たまふ)とも、故(こ)入道殿(にふだうどの)(にうだうどの)の
御(おん)ゆるされ【許され】候(さうら)はずは、頼朝(よりとも)いかでかたすかり候(さうらふ)べ
き。流罪(るざい)になだめ【宥め】られし事(こと)、ひとへに入道殿(にふだうどの)(にうだうどの)の
御恩(ごおん)(ごをん)也(なり)。されば廿余年(にじふよねん)までさてこそ罷過(まかりすぎ)候(さうらひ)
しかども、朝敵(てうてき)となり給(たま)ひて追討(ついたう)すべき由(よし)
院宣(ゐんぜん)を給(たま)はる間(あひだ)(あいだ)、さのみ王地(わうぢ)にはらまれて、詔
命(ぜうめい)をそむくべきにあらねば、力(ちから)不及(およばず)(をよばず)。か様(やう)【斯様】に
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見参(げんざん)に入(いり)候(さうらひ)ぬるこそ本意(ほんい)に候(さうら)へ」と申(まう)され
ければ、義員【*能員】(よしかず)このよし申(まう)さんとて、御(おん)まへにま
いり(まゐり)【参り】たりければ、ゐ【居】なをり(なほり)【直り】畏(かしこま)り給(たま)ひけるこそ
うたてけれ。国々(くにぐに)の大名(だいみやう)小名(せうみやう)なみ【並み】ゐたる其(その)
中(なか)に、京(きやう)の物(もの)どもいくらもあり、平家(へいけ)の家人(けにん)
たりし物(もの)もあり、みなつまはじき【爪弾き】をして
申(まうし)けるは、「ゐ【居】なをり(なほり)【直り】畏(かしこまり)給(たま)ひたらば、御命(おんいのち)の
たすかり給(たまふ)べきか。西国(さいこく)でいかにもなり給(たまふ)べき人(ひと)の、
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[B いきながらとらはれて、]是(これ)までくだり[* 「のぼり」と有るのを高野本により訂正]給(たま)ふこそことはり(ことわり)【理】なれ」とぞ申(まうし)
ける。或(あるい)(ある)は涙(なみだ)をながす人(ひと)もあり。其(その)中(なか)にある人(ひと)の
申(まうし)けるは、「猛虎(まうこ)深山(しんざん)にある時(とき)は、百獣(はくじう)ふるひ【震ひ】おづ。
檻井(かんせい)のうちにあるに及(およん)(をよん)で、尾(を)(お)を動(うご)かして食(しよく)
をもとむとて、たけひ(たけい)【猛い】虎(とら)のふかい山(やま)にある時(とき)は、
もも【百】のけだ物(もの)おぢをそる(おそる)【恐る】といへども、と(ッ)ており(をり)【檻】
の中(なか)にこめられぬる時(とき)P2368は、尾(を)(お)をふ(ッ)て人(ひと)にむかふ【向ふ】
らんやうに、いかにたけき【猛き】大将軍(たいしやうぐん)なれども、加様(かやう)に
P11378
な(ッ)て後(のち)は心(こころ)かはる事(こと)なれば、大臣殿(おほいとの)もかくおは
するにこそ」と申(まうし)ける人(ひと)もありけるとかや。さる程(ほど)
に、九郎(くらう)大夫(たいふの)(たゆふの)判官(はうぐわん)やうやうに陳(ちん)じ申(まう)されけれ
ども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て鎌倉殿(かまくらどの)さらに分明(ふんみやう)の
御返事(おんぺんじ)(おんへんじ)もなし。「いそぎのぼらるべし」と仰(おほせ)られ
ければ、同(おなじき)六月(ろくぐわつ)九日(ここのかのひ)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)し奉(たてまつ)て都(みやこ)
へぞ帰(かへ)りのぼられける。大臣殿(おほいとの)はいますこし【少し】も
日数(ひかず)ののぶるをうれしき事(こと)におもは【思は】れけり。
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道(みち)すがらも「ここにてやここにてや」とおぼしけれども、国々(くにぐに)
宿々(しゆくじゆく)うちすぎうちすぎとほりぬ。尾張国(をはりのくに)(おはりのくに)うつみ【内海】と
いふ処(ところ)あり。ここは故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が誅(ちゆう)(ちう)せられし
所(ところ)なれば、これにてぞ一定(いちぢやう)とおもは【思は】れけれども、
それをもすぎ【過ぎ】しかば、大臣殿(おほいとの)すこし【少し】たのもし
き【頼もしき】心(こころ)いで【出で】き【来】て、「さては命(いのち)のいき【生き】んずるやらん」と
の給(たま)ひけるこそはかなけれ。右衛門督(うゑもんのかみ)(うへもんのかみ)は「なじかは
命(いのち)をいくべき。か様(やう)【斯様】にあつき比(ころ)なれば、頸(くび)の損(そん)
P11380
ぜぬ様(やう)にはからひ、京(きやう)ちかうな(ッ)てきらんずるに
こそ」とおもは【思は】れけれども、大臣殿(おほいとの)のいたく心(こころ)ぼそ
げにおぼしたるが心(こころ)ぐるしさに、さは申(まう)されず。ただ
念仏(ねんぶつ)をのみぞ申(まうし)給(たま)ふ。日数(ひかず)ふれば都(みやこ)もちかづ
き【近付き】て、近江国(あふみのくに)しの原(はら)【篠原】の宿(しゆく)につき給(たま)ひぬ。判官(はうぐわん)
なさけふかき人(ひと)なれば、三日路(みつかぢ)より人(ひと)を先(さき)だ
てて、善知識(ぜんぢしき)のために、大P2369原(おほはら)の本性房(ほんしやうばう)(ほんせうばう)湛豪(たんがう)といふ
聖(ひじり)を請(しやう)じ下(くだ)されたり。昨日(きのふ)まではおや子(こ)【親子】一所(いつしよ)に
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おはしけるを、けさよりひき【引き】はな(ッ)【放つ】て、別(べち)の所(ところ)に
すへ(すゑ)【据ゑ】たてまつり【奉り】ければ、「さてはけふを最後(さいご)にてある
やらん」と、いとど心(こころ)ぼそうぞおもは【思は】れける。大臣殿(おほいとの)
涙(なみだ)をはらはらとながひ(ながい)【流い】て、「抑(そもそも)右衛門督(うゑもんのかみ)はいづくに
候(さうらふ)やらん。手(て)をとりくんでもをはり、たとひ頸(くび)は
おつとも、むくろはひとつ【一つ】席(むしろ)にふさ【臥さ】んとこそおもひ【思ひ】
つるに、いきながらわかれぬる事(こと)こそかなし
けれ。十七年(じふしちねん)が間(あひだ)(あいだ)、一日(いちにち)片時(へんし)もはなるる事(こと)なし。
P11382
海底(かいてい)にしづまでうき名(な)をながすも、あれゆへ(ゆゑ)【故】
なり」とてなか【泣か】れければ、聖(ひじり)もあはれ【哀】におもひ【思ひ】けれ
ども、我(われ)さへ心(こころ)よはく(よわく)【弱く】てはかなは【叶は】じとおもひ【思ひ】て、涙(なみだ)
をし(おし)【押し】のごひ【拭ひ】、さらぬていにもてないて申(まうし)けるは、
「いまはとかくおぼしめす【思し召す】べからず。最後(さいご)の御有
様(おんありさま)を御(ご)らん【覧】ぜんにつけても、たがひ【互】の御心(おんこころ)のうち
かなしかる【悲しかる】べし。生(しやう)をうけさせ給(たまひ)てよりこの
かた、たのしみさかへ(さかえ)【栄え】、昔(むかし)もたぐひすくなし。御
P11383
門(みかど)の御外戚(ごぐわいせき)にて丞相(しようじやう)(せうじやう)の位(くらゐ)にいたらせ給(たま)へり。
今生(こんじやう)の御栄花(ごえいぐわ)(ごゑいくわ)一事(いちじ)ものこるところなし。いま
又(また)かかる御目(おんめ)にあはせ給(たま)ふも、先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)(しゆくごう)なり。
世(よ)をも人(ひと)をも恨(うら)みおぼしめす【思し召す】べからず。大梵(だいぼん)
王宮(わうぐう)の深禅定(しんぜんぢやう)のたのしみ、おもへ【思へ】ば程(ほど)なし。い
はんや電光(でんくわう)朝露(てうろ)の下界(げかい)の命(いのち)にをいて(おいて)をや。
■利天(たうりてん)の億千歳(おくせんざい)、ただ夢(ゆめ)のごとし。卅九年(さんじふくねん)の
すぐさせ給(たま)ひけんも、わづかに一時(いつし)の間(あひだ)(あいだ)なり。たれか
P11384
甞(なめ)たりし不老(ふらう)不死(ふし)P2370の薬(くすり)、誰(たれ)かたもち【保ち】たりし
東父(とうぶ)西母(せいぼ)が命(いのち)、秦(しん)の始皇(しくわう)の奢(おごり)をきはめしも、
遂(つひ)(つゐ)には麗山【*驪山】(りさん)の墓[* 「基」と有るのを高野本により訂正](つか)にうづもれ、漢(かん)の武帝(ぶてい)の命(いのち)を
おしみ(をしみ)【惜しみ】給(たま)ひしも、むなしく杜陵(とりよう)(とりやう)の苔(こけ)にくちに
き。「生(しやう)あるものは必(かならず)滅(めつ)す。釈尊(しやくそん)いまだ栴檀(せんだん)の
煙(けぶり)をまぬかれ給(たま)はず。楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。天人(てんにん)
尚(なほ)(なを)五衰(ごすい)の日(ひ)にあへり」とこそうけ給(たま)はれ【承れ】。されば
仏(ほとけ)も「我心自空(がしんじくう)、罪福無主(ざいふくむしゆ)、観心無心(くわんじんむしん)、法不住〔法〕(ほふふぢゆうほふ)(ほうふぢうほう)」〔とて〕、善(ぜん)
P11385
も悪(あく)も空(くう)なりと観(くわん)ずるが、まさしく仏(ほとけ)の御心(おんこころ)に
あひかなふ【叶ふ】事(こと)にて候(さうらふ)也(なり)。いかなれば[* 「いかなる」と有るのを高野本により訂正]弥陀如来(みだによらい)は、五劫(ごこふ)(ごこう)が
間(あひだ)(あいだ)思惟(しゆい)して、発(おこし)がたき願(ぐわん)を発(おこ)しましますに、
いかなる我等(われら)なれば、億々万(おくおくまん)劫(ごふ)(ごう)が間(あひだ)(あいだ)生死(しやうじ)に輪廻(りんゑ)
して、宝(たから)の山(やま)に入(いり)て手(て)を空(むなし)うせん事(こと)、恨(うらみ)の
なかの恨(うらみ)、愚(おろか)(をろか)なるなかの口惜(くちをし)(くちおし)い事(こと)に候(さうら)はずや。
ゆめゆめ余念(よねん)をおぼしめす【思し召す】べからず」とて、戒(かい)たもた【保た】
せたてまつり【奉り】、念仏(ねんぶつ)すすめ【進め】申(まうす)。大臣殿(おほいとの)しかる【然る】べき
P11386
善知識(ぜんぢしき)かなとおぼしめし【思し召し】、忽(たちまち)に妄念(まうねん)ひるがへし
て、西(にし)にむかひ【向ひ】手(て)をあはせ、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)し給(たま)ふ
処(ところ)に、橘(きつ)右馬允(むまのじよう)(むまのぜう)公長(きんなが)、太刀(たち)をひきそばめて、左(ひだり)
の[B 方(かた)より]御(おん)うしろにたちまはり、すでにきりたてまつ
らんとしければ、大臣殿(おほいとの)念仏(ねんぶつ)をとどめ【留め】て、「右衛
門督(うゑもんのかみ)もすでにか」との給(たま)ひけるこそ哀(あはれ)なれ。公
長(きんなが)うしろへよるかと見(み)えしかば、頸(くび)はまへにぞ落(おち)
にける。善知識(ぜんぢしき)の聖(ひじり)も涙(なみだ)に咽(むせ)び給(たま)ひけり。たけき【猛き】
P11387
もののふも争(いかで)かあはれ【哀】とおもは【思は】ざるべき。まして
かの公長(きんなが)は、平家(へいけ)重代(ぢゆうだい)(ぢうだい)の家人(けにん)、新中納言(しんぢゆうなごん)(しんぢうなごん)のもとに
朝夕(てうせき)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)也(なり)。P2371「さこそ世(よ)をわづらう(わづらふ)といひ
ながら、無下(むげ)になさけなかりける物(もの)かな」とぞみな
人(ひと)慚愧(ざんぎ)しける。其(その)後(のち)右衛門督(うゑもんのかみ)をも、聖(ひじり)前(まへ)の
ごとくに戒(かい)たもた【保た】せ奉(たてまつ)り、念仏(ねんぶつ)すすめ申(まうす)。「大臣
殿(おほいとの)の最後(さいご)いかがおはしましつる」ととは【問は】れける
こそいとをしけれ(いとほしけれ)。「目出(めで)たうましまし候(さうらひ)つるなり。
P11388
御心(おんこころ)やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候(さうら)へ」と申(まう)されければ、涙(なみだ)
をながし悦(よろこび)て、「今(いま)はおもふ【思ふ】事(こと)なし。さらばとう」
とぞの給(たま)ひける。今度(こんど)は堀[B ノ](ほりの)弥太郎(やたらう)き(ッ)て(ン)げり。
頸(くび)をば判官(はうぐわん)もたせて都(みやこ)へいる。むくろをば公長(きんなが)
が沙汰(さた)として、おや子(こ)【親子】ひとつ【一つ】穴(あな)にぞうづみける。
さしも罪(つみ)ふかくはなれ【離れ】がたくの給(たま)ひければ、かやう
にしてんげり。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)のかうべ都(みやこ)へいる。
検非違使(けんびゐし)(けんびいし)ども、三条河原(さんでうかはら)にいで向(むかひ)て是(これ)をうけ【受け】
P11389
とり【取り】、大路(おほち)をわたして左(ひだり)の獄門(ごくもん)の樗(あふち)の木(き)にぞ
かけたりける。三位(さんみ)(さんゐ)以上(いじやう)の人(ひと)の頸(くび)、大路(おほち)をわたして
獄門(ごくもん)にかけらるる事(こと)、異国(いこく)には其(その)例(れい)もやある
らん、吾(わが)朝(てう)にはいまだ先蹤(せんじよう)(せんぜう)をきかず。されば平治(へいぢ)に
信頼(のぶより)は悪行人(あくぎやうにん)たりしかば、かうべをばはねられたり
しかども、獄門(ごくもん)にはかけられず。平家(へいけ)にと(ッ)てぞかけ
られける。西国(さいこく)よりのぼ(ッ)【上つ】てはいき【生き】て六条(ろくでう)を東(ひがし)(ひ(ン)がし)へ
わたされ、東国(とうごく)よりかへ(ッ)【帰つ】てはしん【死ん】で三条(さんでう)を西(にし)へわた
P11390
され給(たま)ふ。いきての恥(はぢ)、しんでの恥(はぢ)、いづれもおと
らP2372ざりけり。重衡被斬(しげひらのきられ)S1119本三位(ほんざんみの)(ほんざんゐの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)者(は)、狩野介(かののすけ)宗
茂(むねもち)にあづけられて、去年(こぞ)より伊豆国(いづのくに)におはし
けるを、南都(なんとの)大衆(だいしゆ)頻(しきり)に申(まうし)ければ、「さらばわたせ【渡せ】」
とて、源(げん)三位(ざんみの)(ざんゐの)入道(にふだう)(にうだう)頼政(よりまさ)の孫(まご)、伊豆(いづの)蔵人(くらんど)大夫(たいふ)(たゆふ)頼
兼(よりかぬ)に仰(おほせ)て、遂(つひ)(つゐ)に奈良(なら)へぞつかはし【遣し】ける。都(みやこ)へは
入(いれ)られずして、[B 大津(おほつ)より山(やま)しなどをり(やましなどほり)【山科通り】に、]醍醐路(だいごぢ)をへてゆけば、日野(ひの)は
ちかかり【近かり】けり。此(この)重衡卿(しげひらのきやう)の北方(きたのかた)と申(まうす)は、鳥飼(とりかひ)の
P11391
中納言(ちゆうなごん)(ちうなごん)惟実(これざね)のむすめ、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱【*邦綱】卿(くにつなのきやう)の
養子(やうじ)、先帝(せんてい)の御(おん)めのと【乳母】大納言佐殿(だいなごんのすけどの)とぞ申(まうし)
ける。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)一谷(いちのたに)でいけどり【生捕り】にせられ給(たま)ひし
後(のち)も、先帝(せんてい)につきまいらせ(まゐらせ)【参らせ】ておはせしが、
檀【*壇】(だん)の浦(うら)にて海(うみ)にいらせ給(たま)ひしかば、もののふの
あらけなきにとらはれて、旧里(きうり)に帰(かへ)り、姉(あね)の
大夫(だいぶ)三位(ざんみ)(ざんゐ)に同宿(どうじゆく)して、日野(ひの)といふ所(ところ)におはし
けり。中将(ちゆうじやう)の露(つゆ)の命(いのち)、草葉(くさば)の末(すゑ)にかか(ッ)てきえ
P11392
やらぬときき給(たま)へば、夢(ゆめ)ならずして今(いま)一度(いちど)見(み)も
し見(み)えもする事(こと)もやとおもはれけれども、[B それも]
かなは【叶は】ねば、なく【泣く】より外(ほか)のなぐさめなく[M し]て、あか
し【明かし】くらし給(たま)ひけり。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)守護(しゆご)の武士(ぶし)にの
給(たま)ひけるは、「此(この)程(ほど)事(こと)にふれてなさけP2373ふかう【深う】芳
心(はうじん)おはしつるこそ[B ありがたう]うれしけれ。同(おなじ)くは最後(さいご)に
芳恩(はうおん)(はうをん)か(ウ)ぶりたき事(こと)あり。我(われ)は一人(いちにん)の子(こ)なければ、
この世(よ)におもひ【思ひ】をく(おく)【置く】事(こと)なきに、年来(としごろ)あひぐし【具し】
P11393
たりし女房(にようばう)の、日野(ひの)といふところ【所】にありときく。
いま一度(いちど)対面(たいめん)して、後生(ごしやう)の事(こと)を申(まうし)をか(おか)【置か】ばや
とおもふ【思ふ】なり」とて、片時(へんし)のいとまをこは【乞は】れけり。
武士(ぶし)どもさすが岩木(いはき)ならねば、おのおの涙(なみだ)をながし
つつ「なにかはくるしう【苦しう】候(さうらふ)べき」とて、ゆるしたてまつる【奉る】。中
将(ちゆうじやう)(ちうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、「大納言佐殿(だいなごんのすけどの)の御局(おんつぼね)は
これにわたらせ給(たまひ)候(さうらふ)やらん。本(ほん)三位(ざんみの)中将殿(ちゆうじやうどの)(ちうじやうどの)の只
今(ただいま)奈良(なら)へ御(おん)とをり(とほり)【通り】候(さうらふ)が、立(たち)ながら見参(げんざん)に入(いら)ばやと
P11394
仰(おほせ)候(さうらふ)」と、人(ひと)をいれ【入れ】ていは【言は】せければ、北方(きたのかた)聞(きき)もあへ
ず「いづらやいづら」とてはしり【走り】いで【出で】て見(み)給(たま)へば、藍
摺(あいずり)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし)(おりゑぼし)きたる男(をのこ)(おのこ)の、やせくろみ【黒み】
たるが、縁(えん)によりゐたるぞそなりける。北方(きたのかた)みす【御簾】の
きはちかく【近く】よ(ッ)て、「いかに夢(ゆめ)かやうつつか。これへいり【入り】
給(たま)へ」との給(たま)ひける御声(おんこゑ)をきき給(たま)ふに、いつしか先立(さきだつ)
ものは涙(なみだ)也(なり)。大納言佐殿(だいなごんのすけどの)目(め)もくれ心(こころ)もきえはてて、
しばしは物(もの)もの給(たま)はず。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)御簾(みす)うちかづいて、
P11395
なくなく【泣く泣く】の給(たま)ひけるは、「こぞの春(はる)、一(いち)の谷(たに)でいかにも
なるべかりし身(み)の、せめての罪(つみ)のむくひにや、
いきながらとらはれて大路(おほち)をわたされ、京(きやう)鎌
倉(かまくら)恥(はぢ)をさらすだに口惜(くちをし)(くちおし)きに、はて【果】は奈良(なら)の
大衆(だいしゆ)の手(て)へわたされてきらるべしとて罷(まかり)候(さうらふ)。
いかにもして今(いま)一度(いちど)御(おん)すがたをみ【見】たP2374てまつら【奉ら】
ばやとおもひ【思ひ】つるに、いまは露(つゆ)ばかりもおもひ【思ひ】
をく(おく)【置く】事(こと)なし。出家(しゆつけ)して形見(かたみ)にかみ【髪】をもたてまつら【奉ら】
P11396
ばやとおもへ【思へ】ども、ゆるされ【許され】なければ力(ちから)及(およ)(をよ)ばず」とて、
ひたゐ(ひたひ)【額】のかみをすこし【少し】ひきわけて、口(くち)のをよぶ(およぶ)【及ぶ】
ところ【所】をくひき(ッ)て、「是(これ)を形見(かたみ)に御(ご)らんぜよ」とて
たてまつり【奉り】給(たま)ふ。北方(きたのかた)は、日来(ひごろ)おぼつかなくおぼしける
より、いま一(ひと)しほかなしみの色(いろ)をぞまし給(たま)ふ。
「まこと【誠】に別(わかれ)たてまつり【奉り】し後(のち)は、越前(ゑちぜんの)三位(さんみ)(さんゐ)のうへの
様(やう)に、水(みづ)の底(そこ)にもしづむべかりしが、まさしう
この世(よ)におはせぬ人(ひと)ともきか【聞か】ざりしかば、もし
P11397
不思議(ふしぎ)にて今(いま)一度(いちど)、かはら【変ら】ぬすがたをみ【見】もし
見(み)えもやするとおもひ【思ひ】てこそ、うき【憂き】ながら今(いま)
までもながらへ【永らへ】てありつるに、けふ【今日】をかぎりにて
おはせんずらんかなしさよ。いままでのび【延び】つるは、
「もしや」とおもふ【思ふ】たのみ【頼み】もありつる物(もの)を」とて、昔(むかし)
いまの事(こと)どもの給(たま)ひかはすにつけても、ただつき
せぬ物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。「あまりに[B 御(おん)]すがたのしほれ(しをれ)【萎れ】てさぶ
らふ【候ふ】に、たてまつりかへよ」とて、あはせの小袖(こそで)に
P11398
浄衣(じやうえ)(じやうゑ)をいださ【出さ】れたりければ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)是(これ)をきかへ
て、もと[M の]き【着】給(たま)へる物(もの)どもをば、「形見(かたみ)に御(ご)らん【覧】ぜ
よ」とてをか(おか)【置か】れけり。北方(きたのかた)「それもさる事(こと)[B にて]さぶ
らへ【候へ】ども、はかなき筆(ふで)の跡(あと)こそながき世(よ)のかた
み【形見】にてさぶらへ【候へ】」とて、御硯(おんすずり)をいださ【出さ】れたりければ、
中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)なくなく【泣く泣く】一首(いつしゆ)の歌(うた)をぞかかれける。P2375
せきかねて涙(なみだ)のかかるからごろも【唐衣】
のちのかたみにぬぎ【脱ぎ】ぞかへぬる W090
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女房(にようばう)ききもあへず
ぬぎかふる【変ふる】ころも【衣】もいま【今】はなにかせん
けふ【今日】をかぎりのかたみとおもへ【思へ】ば W091
「契(ちぎり)あらば後(のちの)世(よ)にてはかならず【必ず】むまれ【生れ】あひたて
まつら【奉ら】ん。ひとつ【一つ】はちす【蓮】[B に]といのり【祈り】給(たま)へ。日(ひ)もたけぬ。
奈良(なら)へも遠(とほ)う候(さうらふ)。武士(ぶし)どものまつ【待つ】も心(こころ)なし」とて、
出(いで)給(たま)へば、北方(きたのかた)袖(そで)にすが(ッ)て「いかにやいかに、しばし」とて
ひき【引き】とどめ【留め】給(たま)ふに、中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)「心(こころ)のうちをばただをしはかり(おしはかり)
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給(たまふ)べし。されどもつゐに(つひに)【遂に】のがれ【逃れ】はつべき身(み)にも
あらず。又(また)こ【来】ん世(よ)にてこそ見(み)たてまつら【奉ら】め」とて
いで【出で】給(たま)へども、まことに此(この)世(よ)にてあひ見(み)ん事(こと)は、是(これ)ぞ
かぎりとおもは【思は】れければ、今(いま)一度(いちど)たちかへりたく
おぼしけれども、心(こころ)よはく(よわく)【弱く】てはかなは【叶は】じと、おもひ【思ひ】き(ッ)て
ぞいでられける。北方(きたのかた)御簾(みす)のきはちかくふし【臥し】
まろび、おめき(をめき)【喚き】さけび【叫び】給(たま)ふ御声(おんこゑ)の、門(かど)の外(ほか)まで
はるかにきこえ【聞え】ければ、駒(こま)をもさらにはやめ給(たま)は
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ず。涙(なみだ)にくれてゆくさきも見(み)えねば、中々(なかなか)なり
ける見参(げんざん)かなと、今(いま)はくやしうぞおもは【思は】れける。
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)やがてはしり【走り】ついてもおはしぬべく
はおぼしけれども、それもさすがなれば、ひきかづい
てぞふし給(たま)ふ。南都[B ノ](なんとの)大衆(だいしゆ)うけ【受け】と(ッ)【取つ】て僉議(せんぎ)す。「抑(そもそも)此(この)
重衡卿(しげひらのきやう)者(は)大犯(だいぼん)の悪人(あくにん)たるうへ、三P2376千五刑(さんぜんごけい)のうち
にもれ【漏れ】、修因(しゆいん)(しゆゐん)感果(かんくわ)の道理(だうり)極上(ごくじやう)せり。仏敵(ぶつてき)法敵(ほふてき)(ほうてき)
の逆臣(げきしん)なれば、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)の大垣(おほがき)をめぐらし
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て、のこぎりにてやきるべき、堀頸(ほりくび)にやすべき」と
僉議(せんぎ)す。老僧(らうそう)どもの申(まう)されけるは、「それも僧徒(そうと)
の法(ほふ)(ほう)に穏便(をんびん)ならず。ただ守護(しゆご)の武士(ぶし)にたう【賜う】で、
粉津【*木津】(こつ)の辺(へん)にてきらすべし」とて、武士(ぶし)の手(て)へぞ
かへしける。武士(ぶし)是(これ)をうけ【受け】と(ッ)【取つ】て、粉津川【*木津川】(こつがは)のはたにて
きらんとするに、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)、見(み)る人(ひと)いくらと
いふかず【数】をしら【知ら】ず。三位(さんみの)(さんゐの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)のとしごろめし【召し】つか
は【使は】れける侍(さぶらひ)に、木工(もく)右馬允(むまのじよう)(むまのぜう)知時(ともとき)といふ物(もの)あり。八条(はつでうの)
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女院(にようゐん)に候(さうらひ)けるが、最後(さいご)をみたてまつら【奉ら】んとて、鞭(むち)を
う(ッ)てぞ馳(はせ)たりける。すでに只今(ただいま)きりたてまつら【奉ら】ん
とする処(ところ)にはせ【馳せ】つゐ(つい)【着い】て、千万(せんまん)立(たち)かこう【囲う】だる人(ひと)の
中(なか)をかきわけかきわけ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)のおはしける御(おん)そ
ばちかうまいり(まゐり)【参り】たり。「知時(ともとき)こそただいま最後(さいご)の
御有様(おんありさま)みまいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)はんとて、是(これ)までまいり(まゐり)【参り】て
こそ候(さうら)へ」となくなく【泣く泣く】申(まうし)ければ、中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)「まこと【誠】に心(こころ)ざし
の程(ほど)神妙(しんべう)也(なり)。仏(ほとけ)ををがみ【拝み】たてま(ッ)【奉つ】てきらればやと
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おもふ【思ふ】はいかがせんずる。あまりに罪(つみ)ふかう【深う】おぼ
ゆる【覚ゆる】に」との給(たま)へば、知時(ともとき)「やすい御事(おんこと)候(ざうらふ)や」とて、守
護(しゆご)の武士(ぶし)に申(まうし)あはせ、そのへん【辺】におはしける
仏(ほとけ)を一体(いつたい)むかへ【向へ】たてま(ッ)【奉つ】て出(いで)きたり。幸(さいはひ)に阿弥
陀(あみだ)にてぞましましける。川原(かはら)のいさごのうへに
立(たて)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、やがて知時(ともとき)が狩衣(かりぎぬ)の[B 袖(そで)の]くくり【括り】をといP2377
て、仏(ほとけ)の御手(みて)にかけ、中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)にひかへさせ奉(たてまつ)る。是(これ)
をひかへ奉(たてまつ)り、仏(ほとけ)にむかひ【向ひ】たてま(ッ)【奉つ】て申(まう)されけるは、
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「つたへきく、調達(でうだつ)が三逆(さんぎやく)をつくり、八万[B 蔵](はちまんざう)の聖教(しやうげう)を
ほろぼしたりしも、遂(つひ)(つい)には天王如来(てんわうによらい)の記■(きべつ)に
あづかり、所作(しよさ)の罪業(ざいごふ)(ざいごう)まこと【誠】にふかしといへども、聖
教(しやうげう)に値遇(ちぐう)せし逆縁(ぎやくえん)くち【朽ち】ずして、かへ(ッ)て【却つて】得道(とくだう)
の因(いん)(ゐん)と〔も〕なる。いま重衡(しげひら)が逆罪(ぎやくざい)をおかす(をかす)事(こと)、ま(ッ)たく
愚意(ぐい)の発起(ほつき)にあらず、只(ただ)世(よ)に随(したが)ふことはり(ことわり)【理】を
存(ぞんずる)斗(ばかり)也(なり)。命(いのち)をたもつ【保つ】物(もの)誰(たれ)か王命(わうめい)を蔑如(べつじよ)(べつぢよ)する、
生(しやう)をうくる物(もの)誰(たれ)か父(ちち)の命(めい)をそむかん。かれといひ、
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是(これ)といひ、辞(じ)するに所(ところ)なし。理非(りひ)仏陀(ぶつだ)の照覧(せうらん)
にあり。抑(そもそも)罪報(ざいはう)(ざいほう)たちどころにむくひ、運命(うんめい)只今(ただいま)
をかぎりとす。後悔(こうくわい)千万(せんばん)かなしんでもあまり[B あり]。ただし
三宝(さんぼう)の境界(きやうがい)は慈悲(じひ)を心(こころ)として、済度(さいど)の良
縁(りやうえん)まちまちなり。唯縁楽意(ゆいえんらくい)、逆即是順(ぎやくそくぜじゆん)、此(この)文(もん)肝(きも)
に銘(めい)ず。一念(いちねん)弥陀仏(みだぶつ)、即滅無量罪(そくめつむりやうざい)、願(ねがは)くは逆縁(ぎやくえん)
をも(ッ)て順縁(じゆんえん)とし、只今(ただいま)の最後(さいご)の念仏(ねんぶつ)によ(ッ)て
九品(くほん)託生(たくしやう)をとぐべし」とて、高声(かうしやう)に十念(じふねん)(じうねん)唱(とな)へ
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つつ、頸(くび)をのべてぞきらせられける。日来(ひごろ)の悪
行(あくぎやう)はさる事(こと)なれども、いまのありさまを見(み)たて
まつる【奉る】に、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)も守護(しゆご)の武士(ぶし)も、みな
涙(なみだ)をぞながしける。其(その)頸(くび)をば、般若寺(はんにやじ)大鳥井【*大鳥居】(おほどりゐ)
のまへに釘(くぎ)づけ【付】にこそかけたりけれ。治承(ぢしよう)(じせう)の合
戦(かつせん)の時(とき)、ここにう(ッ)【打つ】た(ッ)【立つ】て伽藍(がらん)をほろぼし給(たま)へるゆ
へ(ゆゑ)【故】なり。北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、かうべをこそはね【刎ね】られ
たりとも、むくろをばとりよせて孝P2378養(けうやう)せんとて、
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輿(こし)をむかへ【向へ】につかはす【遣す】。げにもむくろをばすて【捨て】をき(おき)
たりければ、と(ッ)て輿(こし)にいれ【入れ】、日野(ひの)へかい【舁い】てぞかへり
ける。是(これ)をまちうけ見(み)給(たま)ひける北方(きたのかた)の心(こころ)の
うち、をしはから(おしはから)【推し量ら】れて哀(あはれ)也(なり)。昨日(きのふ)まではゆゆし
げにおはせしかども、あつき【暑き】ころなれば、いつしか
あらぬさまになり給(たま)ひぬ。さてもあるべきなら
ねば、其(その)辺(へん)に法界寺(ほふかいじ)(ほうかいじ)といふ処(ところ)にて、さるべき僧(そう)
どもあまたかたらひて孝養(けうやう)あり。頸(くび)をば大仏(だいぶつ)
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のひじり俊乗房(しゆんじようばう)(しゆんぜうばう)にとかくの給(たま)へば、大衆(だいしゆ)に
こう【乞う】て日野(ひの)へぞつかはし【遣し】ける。頸(くび)もむくろも
煙(けぶり)になし、骨(こつ)をば高野(かうや)へをくり(おくり)【送り】、墓[* 「基」と有るのを高野本により訂正](はか)をば日
野(ひの)にぞせられける。北方(きたのかた)もさまをかへ、かの
後生(ごせ)菩提(ぼだい)をとぶらはれけるこそ哀(あはれ)なれ。
平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第十一(だいじふいち)



入力者:荒山慶一

校正者:菊池真一

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