平家物語(龍谷大学本)灌頂巻

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【底本】
本テキストの底本は、龍谷大学大宮図書館所蔵『平家物語』です。直接には、思文閣出版発行の影印本に拠りました。

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平家(へいけ)灌頂巻(くわんぢやうのまき)
女院出家(にようゐんしゆつけ)S1301 建礼門院(けんれいもんゐん)は、東山(ひがしやま)の麓(ふもと)、吉田(よしだ)の辺(へん)なる所(ところ)にぞ
立(たち)いらせ給(たま)ひける。中納言(ちゆうなごんの)(ちうなごんの)法印(ほふいん)(ほうゐん)慶恵(きやうゑ)と申(まうし)ける
奈良(なら)法師(ぼふし)(ぼうし)の坊(ばう)なりけり。住(すみ)あらして年(とし)久(ひさ)しう
なりにければ、庭(には)には草(くさ)ふかく、簷(のき)にはしのぶ【忍】茂(しげ)れり。
簾(すだれ)たえ【絶え】閨(ねや)あらはにて、雨風(あめかぜ)たまるやうもなし。花(はな)
は色々(いろいろ)にほへども、あるじとたのむ【頼む】人(ひと)もなく、月(つき)は
よなよな【夜な夜な】さしいれ【入れ】ど、ながめてあかすぬし【主】もなし。
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昔(むかし)は玉(たま)の台(うてな)をみがき、錦(にしき)の帳(ちやう)にまとはれて、あかし
暮(くら)し給(たま)ひしに、いまはありとしある人(ひと)にはみな
別(わかれ)はてて、あさましげなるくち坊(ばう)【朽ち坊】にいらせ給(たま)ひける
御心(おんこころ)の内(うち)、おしはから【推し量ら】れて哀(あはれ)なり。魚(うを)(うほ)のくが【陸】にあがれ【上がれ】る
がごとく、鳥(とり)の巣(す)をはなれたるがごとし。さるままには、
うかり【憂かり】し浪(なみ)の上(うへ)、船(ふね)の中(うち)の御(おん)すまゐ(すまひ)【住ひ】も、今(いま)は恋(こひ)しう
ぞおぼしめす【思し召す】。蒼波(さうは)路(みち)遠(とほ)(とを)し、思(おもひ)を西海(さいかい)千里(せんり)の
雲(くも)によせ、白屋(はくをく)苔(こけ)ふかくして、涙(なんだ)東山(とうざん)一庭(いつてい)の月(つき)に
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おつ。かなしともいふはかりなP2424し。かくて女院(にようゐん)は文治(ぶんぢ)元
年(ぐわんねん)五月(ごぐわつ)一日(ついたちのひ)、御(おん)ぐしおろさせ給(たま)ひけり。御戒(おんかい)の師(し)には
長楽寺(ちやうらくじ)の阿証房(あしようばう)(あしやうばう)の上人(しやうにん)印誓(いんぜい)(ゐんぜい)とぞきこえ【聞え】し。
御布施(おんふせ)には、先帝(せんてい)の御直衣(おんなほし)(おんなをし)なり。今(いま)はの時(とき)までめさ
れたりければ、その御(おん)うつり香(が)もいまだうせ【失せ】ず。御(おん)かた
みに御(ご)らむ(らん)ぜんとて、西国(さいこく)よりはるばると都(みやこ)までも
たせ給(たま)ひたりければ、いかならん世(よ)までも御身(おんみ)をはなた
じとこそおぼしめさ【思し召さ】れけれども、御布施(おんふせ)になりぬ
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べき物(もの)のなきうへ、かつうは彼(かの)御菩提(ごぼだい)のためとて、泣々(なくなく)
とりいださせ給(たま)ひけり。上人(しやうにん)是(これ)を給(たま)は(ッ)て、何(なに)と奏(そう)する
むねもなくして、墨染(すみぞめ)の袖(そで)をしぼりつつ、泣々(なくなく)罷出(まかりいで)
られけり。此(この)御衣(ぎよい)をば幡(はた)にぬう【縫う】て、長楽寺(ちやうらくじ)の仏前(ぶつぜん)に
かけられけるとぞ聞(きこ)えし。女院(にようゐん)は十五(じふご)にて女御(にようご)の
宣旨(せんじ)をくだされ、十六(じふろく)にて后妃(こうひ)の位(くらゐ)に備(そなは)り、君王(くんわう)の
傍(かたはら)に候(さうら)はせ給(たま)ひて、朝(あした)には朝政(あさまつりごと)をすすめ、よるは夜(よ)を専(もつぱら)
にし給(たま)へり。廿二(にじふに)にて皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)、皇太子(くわうたいし)(くはうたいし)にたち、
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位(くらゐ)につかせ給(たま)ひしかば、院号(ゐんがう)蒙(かうぶ)らせ給(たま)ひて、建礼門院(けんれいもんゐん)
とぞ申(まうし)ける。入道(にふだう)(にうだう)相国(しやうこく)の御娘(おんむすめ)なるうへ、天下(てんが)の国母(こくぼ)
にてましましければ、世(よ)のおもう【重う】し奉(たてまつ)る事(こと)なのめならず。
今年(ことし)は廿九(にじふく)にぞならせ給(たま)ふ。桃李(たうり)の御粧(おんよそほひ)猶(なほ)こまやか
に、芙蓉(ふよう)の御(おん)かたちいまだ衰(おとろへ)(をとろへ)させ給(たま)はね共(ども)、翡翠(ひすい)
の御(おん)かざしつけても何(なに)にかはせさせ給(たま)ふべきなれば、
遂(つひ)(つゐ)に御(おん)さまをかへさ【返さ】せ給(たま)ふ。浮世(うきよ)をいとP2425ひ、まこと【誠】の道(みち)に
いらせ給(たま)へども、御歎(おんなげき)は更(さら)につきせず。人々(ひとびと)いまはかく
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とて海(うみ)にしづみし有様(ありさま)、先帝(せんてい)・二位殿(にゐどの)の御面影(おんおもかげ)、
いかならん世(よ)までも忘(わすれ)がたくおぼしめすに、露(つゆ)の
御命(おんいのち)なにしに今(いま)までながらへ【永らへ】て、かかるうき目(め)を見(み)る
らんとおぼしめしつづけて、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)
はず。五月(ごぐわつ)の短夜(みじかよ)なれども、あかしかねさせ給(たま)ひつつ、
をのづから(おのづから)もうちまどろませ給(たま)はねば、昔(むかし)の事(こと)は夢(ゆめ)に
だにも御(ご)らんぜず。壁(かべ)にそむける残(のこん)の燈(ともしび)の影(かげ)かすか【幽】に、
夜(よ)もすがら窓(まど)うつくらき雨(あめ)の音(おと)(をと)ぞさびしかりける。
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上陽人(しやうやうじん)が上陽宮(しやうやうきゆう)(しやうやうきう)に閉(とぢ)られけむかなしみも、是(これ)には
過(すぎ)じとぞ見(み)えし。昔(むかし)をしのぶ【忍ぶ】つまとなれとてや、も
とのあるじのうつし【移し】うへ(うゑ)【植ゑ】たりけむはな橘(たちばな)の、簷(のき)ち
かく風(かぜ)なつかしう【懐しう】かほりけるに、郭公(ほととぎす)二(ふた)こゑ【声】三(み)こゑ【声】
をとづれ(おとづれ)ければ、女院(にようゐん)ふるき事(こと)なれ共(ども)おぼしめし【思し召し】出(いで)て、
御硯(おんすずり)のふたにかうぞあそばさ【遊ばさ】れける。 郭公(ほととぎす)花(はな)たちばな
の香(か)をとめてなくはむかしの人(ひと)や恋(こひ)しき W093 女房達(にようばうたち)
さのみたけく、二位殿(にゐどの)・越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)(さんゐ)のうへのやうに、水(みづ)の
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底(そこ)にも沈(しづ)み給(たま)はねば、武(もののふ)のあらけなき【荒けなき】にとらはれて、
旧里(きうり)にかへり、わかき【若き】もおい【老い】たるもさまをかへ、かたち
をやつし、あるにもあらぬありさまにてぞ、おもひ【思ひ】も
かけぬ谷(たに)の底(そこ)、岩(いは)のはざまにあかし暮(くら)し給(たま)ひける。
すまゐ(すまひ)【住ひ】し宿(やど)は皆(みな)煙(けぶり)とのぼりにしP2426かば、むなしき【空しき】
跡(あと)のみ残(のこ)りて、しげき野(の)べとなりつつ、みなれ【見馴れ】し人(ひと)
のとひくるもなし。仙家(せんか)より帰(かへ)(ッ)て七世(しちせ)の孫(まご)に
あひけんも、かくやとおぼえて哀(あはれ)なり。さる程(ほど)に、七月(しちぐわつ)
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九日(ここのかのひ)の大地震(だいぢしん)に築地(ついぢ)もくづれ、荒(あれ)たる御所(ごしよ)もかた
ぶきやぶれて、いとどすませ給(たま)ふべき御(おん)たよりもなし。
緑衣(りよくい)の監使(かんし)宮門(きゆうもん)(きうもん)をまぼるだにもなし。心(こころ)のままに
荒(あれ)たる籬(まがき)は、しげき野辺(のべ)よりも露(つゆ)けく、おりしり
がほ(をりしりがほ)【折知顔】にいつしか虫(むし)のこゑごゑ【声々】うらむる【恨むる】も、哀(あはれ)なり。
夜(よ)もやうやうながくなれば、いとど御(おん)ね覚(ざめ)がちにて
明(あか)しかねさせ給(たま)ひけり。つきせぬ御(おん)ものおもひ【物思ひ】に、
秋(あき)のあはれ【哀】さへうちそひて、しのび【忍び】がたくぞおぼし
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めさ【思し召さ】れける。何事(なにごと)もかはりはてぬる浮世(うきよ)なれば、をの
づから(おのづから)あはれ【哀】をかけ奉(たてまつ)るべき草(くさ)のたよりさへかれ
はてて、誰(たれ)はぐくみ奉(たてまつ)るべしとも見(み)え給(たま)はず。
大原入(おほはらいり)S1302 されども冷泉(れいぜいの)大納言(だいなごん)隆房卿(たかふさのきやう)・七条(しつでう)修理大夫(しゆりのだいぶ)信隆卿(のぶたかのきやう)
の北方(きたのかた)、しのび【忍び】つつやうやうにとぶらひ【訪ひ】申(まう)させ給(たま)ひけり。
「あの人々(ひとびと)どものはぐくみにてあるべしとこそ昔(むかし)は
おもは【思は】ざりしか」とて、女院(にようゐん)御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)へば、つき
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】P2427たる女房達(にようばうたち)もみな袖(そで)をぞしぼられける。
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此(この)御(おん)すまゐ(すまひ)【住ひ】も都(みやこ)猶(なほ)ちかく、玉(たま)ぼこの道(みち)ゆき人(びと)の
人目(ひとめ)もしげくて、露(つゆ)の御命(おんいのち)風(かぜ)を待(また)ん程(ほど)は、うき【憂き】事(こと)
きかぬふかき山(やま)の奥(おく)のおくへも入(いり)なばやとはおぼし
けれども、さるべきたよりもましまさず。ある女房(にようばう)の
まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て申(まうし)けるは、「大原山(おほはらやま)のおく、寂光院(じやくくわうゐん)と申(まうす)所(ところ)こそ
閑(しづか)にさぶらへ【候へ】」と申(まうし)ければ、「山里(やまざと)は物(もの)のさびしき事(こと)こそ
あるなれども、世(よ)のうきよりはすみよかんなる物(もの)を」
とて、おぼしめし【思し召し】たたせ給(たま)ひけり。御輿(おんこし)な(ン)ど(など)は隆
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房卿(たかふさのきやう)の北方(きたのかた)の御沙汰(ごさた)あり【有り】けるとかや。文治(ぶんぢ)元年(ぐわんねん)
長月(ながつき)の末(すゑ)に、彼(かの)寂光院(じやくくわうゐん)へいらせ給(たま)ふ。道(みち)すがら
四方(よも)の梢(こずゑ)の色々(いろいろ)なるを御覧(ごらん)じすぎさせ給(たま)ふ程(ほど)に、
山(やま)かげなればにや、日(ひ)も既(すでに)くれかかりぬ。野寺(のでら)の鐘(かね)の入(いり)
あひの音(おと)(をと)すごく、わくる草葉(くさば)の露(つゆ)しげみ、いとど
御袖(おんそで)ぬれまさり、嵐(あらし)はげしく木(こ)の葉(は)みだりがは
し。空(そら)かきくもり【曇り】、いつしかうちしぐれつつ、鹿(しか)の音(ね)
かすか【幽】に音信(おとづれ)(をとづれ)て、虫(むし)の恨(うらみ)もたえだえ【絶え絶え】なり。とにかくに
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とりあつめ【集め】たる御心(おんこころ)ぼそさ、たとへやるべきかたも
なし。浦(うら)づたひ島(しま)づたひせし時(とき)も、さすがかくは
なかりしものをと、おぼしめす【思し召す】こそかなしけれ。
岩(いは)に苔(こけ)むしてさびたる所(ところ)なりければ、すま【住ま】まほし
うぞおぼしめす【思し召す】。露(つゆ)結(むす)ぶ庭(には)の萩原(はぎはら)霜(しも)がれて、
籬(まがき)の菊(きく)のかれがれ【枯れ枯れ】にうつろふ色(いろ)を御(ご)らんじても、御身(おんみ)
の上(うへ)とやおぼしけん。仏(ほとけ)の御前(おんまへ)にまいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ひP2428て、
「天子(てんし)聖霊[* 「座霊」と有るのを他本により訂正](しやうりやう)成等(じやうどう)正覚(しやうがく)、頓証菩提(とんしようぼだい)(とんしやうぼだい)」といのり申(まう)させ
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給(たま)ふにつけても、先帝(せんてい)の御面影(おんおもかげ)ひしと御身(おんみ)にそひ
て、いかならん世(よ)にかおぼしめし【思し召し】わすれさせ給(たま)ふべき。
さて寂光院(じやくくわうゐん)のかたはらに方丈(はうぢやう)(はうじやう)なる御庵室(ごあんじつ)を
むすんで、一間(いつけん)を御寝所(ごしんじよ)にしつらひ、一間(いつけん)をば仏
所(ぶつしよ)に定(さだめ)、昼夜(ちうや)朝夕(あさゆふ)の御(おん)つとめ、長時(ちやうじ)不断(ふだん)の御念仏(おんねんぶつ)、
おこたる事(こと)なくて月日(つきひ)を送(おく)(をく)らせ給(たま)ひけり。かくて
神無月(かみなづき)中(なか)の五日(いつか)の暮(くれ)がたに、庭(には)に散(ちり)しく楢(なら)の葉(は)を
ふみならして聞(きこ)えければ、女院(にようゐん)「世(よ)をいとふところ【所】に
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なにもののとひくるやらむ。あれ見(み)よや、忍(しの)ぶべきもの
ならばいそぎしのば【忍ば】ん」とて、みせ【見せ】らるるに、をしか【牡鹿】の
とおる(とほる)【通る】にてぞあり【有り】ける。女院(にようゐん)いかにと御尋(おんたづね)あれば、大納
言佐殿(だいなごんのすけどの)なみだをおさへて、
岩根(いはね)ふみたれかはとは【問は】むならの葉(は)の
そよぐはしかのわたるなりけり W094
女院(にようゐん)哀(あはれ)におぼしめし【思し召し】、窓(まど)の小障子(こしやうじ)に此(この)歌(うた)を
あそばし【遊ばし】とどめ【留め】させ給(たま)ひけり。かかる御(おん)つれづれの
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な[B か]におぼしめし【思し召し】なぞらふる事共(ことども)は、つらき中(なか)にも
あまたあり。軒(のき)にならべるうへ木(き)(うゑき)【植木】をば、七重(しちぢゆう)(しちぢう)宝樹(ほうじゆ)とかた
どれり。岩間(いはま)につもる水(みづ)をば、八功徳水[* 「八功徳池」と有るのを高野本により訂正](はつくどくすい)とおぼしめす【思し召す】。
無常(むじやう)は春(はる)の花(はな)、風(かぜ)に随(したがひ)て散(ちり)やすく、有涯(うがい)は秋(あき)の
月(つき)、雲(くも)に伴(ともな)(ッ)て隠(かく)れやすし。承陽殿(しようやうでん)(せうやうでん)に花(はな)を翫(もてあそび)し
朝(あした)には、風(かぜ)来(きたつ)て匂(にほひ)を散(ちら)し、長秋宮(ちやうしうきゆう)(ちやうしうきう)に月(つき)を詠(えい)(ゑい)ぜ
し夕(ゆふべ)には、雲(くも)おほ(ッ)【覆つ】て光(ひかり)をかくす。昔(むかし)は玉楼(ぎよくろう)金殿(きんでん)に
錦(にしき)の褥(しとね)(シトネ)をしき、P2429たへ【妙】なりし御(おん)すまゐ(すまひ)【住ひ】なりしか共(ども)、
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今(いま)は柴(しば)引(ひき)むすぶ草(くさ)の庵(いほ)、よそのたもともしほれ(しをれ)【萎れ】
けり。大原御幸(おほはらごかう)S1303 かかりし程(ほど)に、文治(ぶんぢ)二年(にねん)の春(はる)の比(ころ)、法皇(ほふわう)(ほうわう)、建
礼門院(けんれいもんゐん)大原(おほはら)の閑居(かんきよ)の御(おん)すまゐ(すまひ)【住ひ】、御覧(ごらん)ぜまほしう
おぼしめさ【思し召さ】れけれども、きさらぎ【二月】やよひ【三月】の程(ほど)は風(かぜ)
はげしく、余寒(よかん)もいまだつきせず。峯(みね)の白雪(しらゆき)消(き)え
やらで、谷(たに)のつららもうちとけず。春(はる)すぎ夏(なつ)きた(ッ)て
北(きた)まつりも過(すぎ)しかば、法皇(ほふわう)(ほうわう)夜(よ)をこめて大原(おほはら)の奥(おく)へぞ
御幸(ごかう)なる。しのびの御幸(ごかう)なりけれども、供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)、
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徳大寺(とくだいじ)・花山院(くわさんのゐん)・土御門(つちみかど)以下(いげ)、公卿(くぎやう)六人(ろくにん)、殿上人(てんじやうびと)八人(はちにん)、
北面(ほくめん)少々(せうせう)候(さうらひ)けり。鞍馬(くらま)どおり(くらまどほり)【鞍馬通り】の御幸(ごかう)なれば、清原[B ノ](きよはらの)深
養父(ふかやぶ)が補堕落寺【*補陀落寺】(ふだらくじ)、小野(をの)の皇太后宮(くわうだいこうぐう)の旧跡(きうせき)〔を〕叡
覧(えいらん)あ(ッ)て、それより御輿(おんこし)にめされけり。遠山(とほやま)(とをやま)にかかる白雲(しらくも)
は、散(ちり)にし花(はな)のかたみなり。青葉(あをば)に見(み)ゆる梢(こずゑ)には、
春(はる)の名残(なごり)ぞおしま(をしま)【惜しま】るる。比(ころ)は卯月(うづき)廿日(はつか)あまりの
事(こと)なれば、夏草(なつぐさ)のしげみが末(すゑ)を分(わけ)いらせ給(たま)ふに、はじ
めたる御幸(ごかう)なれば、御覧(ごらん)じなれたるかたもなし。人跡(じんせき)たえ【絶え】
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たる程(ほど)もおぼしめし【思し召し】しられて哀(あはれ)なり。P2430西(にし)の山(やま)
の[ふ]もとに一宇(いちう)の御堂(みだう)あり。即(すなはち)寂光院(じやくくわうゐん)是(これ)也(なり)。
ふるう作(つく)りなせる前水(せんずい)木(こ)だち、よしあるさま
の所(ところ)なり。「甍(いらか)やぶれては霧(きり)不断(ふだん)の香(かう)をたき、
枢(とぼそ)おち【落ち】ては月(つき)常住(じやうぢゆう)(ぢやうぢう)の燈(ともしび)をかかぐ」とも、かやうの所(ところ)
をや申(まうす)べき。庭(には)の若草(わかくさ)しげりあひ、青柳(あをやぎ)の
糸(いと)をみだりつつ、池(いけ)の蘋(うきくさ)浪(なみ)にただよひ、錦(にしき)を
さらすかとあやまたる。中島(なかじま)の松(まつ)にかかれる藤(ふぢ)
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なみの、うら紫(むらさき)にさける色(いろ)、青葉(あをば)まじりのをそ
桜(ざくら)(おそざくら)【遅桜】、初花(はつはな)よりもめづらしく、岸(きし)のやまぶきさき
みだれ、八重(やへ)(やえ)たつ雲(くも)のたえ間(ま)より、山郭公(やまほととぎす)の一声(ひとこゑ)も、
君(きみ)の御幸(ごかう)をまちがほなり。法皇(ほふわう)(ほうわう)是(これ)を叡覧(えいらん)(ゑいらん)あ(ッ)て、
かうぞおぼしめし【思し召し】つづけける。
池水(いけみづ)にみぎはのさくら散(ちり)しきて
なみの花(はな)こそさかりなりけれ W095
ふりにける岩(いは)のたえ間(ま)より、おち【落ち】くる水(みづ)の音(おと)(をと)
P13561
さへ、ゆへび(ゆゑび)【故び】よしある所(ところ)なり。緑蘿[B ノ](りよくらの)牆(かき)、翠黛[B ノ](すいたいの)山(やま)、画(ゑ)(え)
にかくとも筆(ふで)もをよび(および)【及び】がたし。女院(にようゐん)の御庵室(ごあんじつ)を御
覧(ごらん)ずれば、軒(のき)には蔦槿(つたあさがほ)はひかかり【這ひ掛かり】、信夫(しのぶ)まじりの
忘草(わすれぐさ)、瓢箪(へうたん)(ひようたん)しばしばむなし、草(くさ)顔淵(がんゑん)(がんえん)が巷(ちまた)にしげし。
藜(れい)でうふかくさせり、雨(あめ)原憲(げんけん)が枢(とぼそ)をうるほす
ともい(ッ)【言つ】つべし。杉(すぎ)の葺目(ふきめ)もまばらにて、時雨(しぐれ)も
霜(しも)もをく(おく)【置く】露(つゆ)も、もる月影(つきかげ)にあらそひて、たまる
べしとも見(み)えざりけり。うしろは山(やま)、前(まへ)は野辺(のべ)、
P13562
いささをざさ【小笹】に風(かぜ)さはぎ(さわぎ)【騒ぎ】、世(よ)にたたぬ身(み)のならひ【習ひ】とて、
うきふししげき竹柱(たけばしら)、P2431都(みやこ)の方(かた)のことづては、ま
どを(まどほ)【間遠】にゆへ【結へ】るませ垣(がき)や、わづかにこととふものとては、
峯(みね)に木(こ)づたふ猿(さる)のこゑ【声】、しづ【賎】がつま木(ぎ)のおの(をの)の音(おと)(をと)、こ
れらが音信(おとづれ)(をとづれ)ならでは、まさ木(き)のかづら青(あを)つづら、くる
人(ひと)まれなる所(ところ)なり。法皇(ほふわう)(ほうわう)「人(ひと)やある、人(ひと)やある」とめさ【召さ】れ
けれども、お(ン)(おん)いらへ【御答】申(まうす)ものもなし。はるかにあ(ッ)て、
老衰(おいおとろへ)(おいをとろへ)たる尼(あま)一人(いちにん)まいり(まゐり)【参り】たり。「女院(にようゐん)はいづくへ御幸(ごかう)なり
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ぬるぞ」と仰(おほせ)ければ、「此(この)うへの山(やま)へ花(はな)つみにいらせ給(たま)ひ
てさぶらふ【候ふ】」と申(まうす)。「さやうの事(こと)につかへ奉(たてまつ)るべき人(ひと)も
なきにや。さこそ世(よ)を捨(すつ)る御身(おんみ)といひながら、御(おん)いたはしう
こそ」と仰(おほせ)ければ、此(この)尼(あま)申(まうし)けるは、「五戒(ごかい)十善(じふぜん)(じうぜん)の御果報(ごくわはう)(ごくわほう)つ
きさせ給(たま)ふによ(ッ)て、今(いま)かかる御目(おんめ)を御覧(ごらん)ずるにこそ
さぶらへ【候へ】。捨身(しやしん)の行(ぎやう)になじかは御身(おんみ)ををしま【惜しま】せ
給(たま)ふべき。因果経(いんぐわきやう)(ゐんぐわきやう)には「欲知過去因(よくちくわこいん)(よくちくわこゐん)、見其現在果(けんごげんざいくわ)、欲
知未来果(よくちみらいくわ)、見其現在因(けんごげんざいいん)(けんごげんざいゐん)」ととかれたり。過去(くわこ)未来(みらい)の
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因果(いんぐわ)(ゐんぐわ)をさとらせ給(たま)ひなば、つやつや御歎(おんなげき)あるべからず。悉
達太子(しつだたいし)は十九(じふく)にて伽耶城(がやじやう)をいで、檀徳山【*檀特山】(だんどくせん)のふもと【麓】
にて、木葉(このは)をつらねてはだえ(はだへ)【膚】をかくし、嶺(みね)にのぼりて
薪(たきぎ)をとり、谷(たに)にくだりて水(みづ)をむすび、難行(なんぎやう)苦行(くぎやう)の
功(こう)によ(ッ)て、遂(つひ)(つい)に成等(じやうどう)正覚(しやうがく)し給(たま)ひき」とぞ申(まうし)ける。
此(この)尼(あま)のあり様(さま)を御覧(ごらん)ずれば、きぬ布(ぬの)のわきも見(み)えぬ
物(もの)を結(むす)びあつめ【集め】てぞき【着】たりける。「あのあり様(さま)にても
かやうの事(こと)申(まう)すふしぎさ【不思議さ】よ」とおぼしめし【思し召し】、「抑(そもそも)
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汝(なんぢ)はいかなるP2432ものぞ」と仰(おほせ)ければ、さめざめとないて、しばしは
御返事(おんぺんじ)にも及(およ)(をよ)ばず。良(やや)あ(ッ)て涙(なみだ)ををさへ(おさへ)て申(まうし)けるは、
「申(まうす)につけても憚(はばかり)おぼえさぶらへ【候へ】ども、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)(にうだう)
信西(しんせい)がむすめ、阿波(あは)の内侍(ないし)と申(まうし)しものにてさぶらふ【候ふ】也(なり)。
母(はは)は紀伊(きい)の二位(にゐ)、さしも御(おん)いとおしみ(いとほしみ)ふかう【深う】こそさぶら
ひしに、御覧(ごらん)じ忘(わすれ)させ給(たま)ふにつけても、身(み)のおと
ろへぬる程(ほど)も思(おも)ひしられて、今更(いまさら)せむかたなうこそ
おぼえさぶらへ【候へ】」とて、袖(そで)をかほにおしあてて、しのび【忍び】
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あへぬさま、目(め)もあてられず。法皇(ほふわう)(ほうわう)も「されば汝(なんぢ)は阿波(あは)
の内侍(ないし)にこそあんなれ。今更(いまさら)御覧(ごらん)じわすれける。
ただ夢(ゆめ)とのみこそおぼしめせ【思し召せ】」とて、御涙(おんなみだ)せきあへ
させ給(たま)はず。供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)も、「ふしぎ【不思議】の尼(あま)かなと
思(おも)ひたれば、理(ことわり)(ことはり)にてあり【有り】けり」とぞ、をのをの(おのおの)【各々】申(まうし)あはれける。
あなたこなたを叡覧(えいらん)(ゑいらん)あれば、庭(には)の千種(ちくさ)露(つゆ)おもく、
籬(まがき)にたおれ(たふれ)【倒れ】かかりつつ、そとも【外面】のを田(だ)【小田】も水(みづ)こえて、鴫(しぎ)
たつひまも見(み)えわかず。御庵室(ごあんじつ)にいらせ給(たま)ひて、
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障子(しやうじ)を引(ひき)あけて御覧(ごらん)ずれば、一間(ひとま)には来迎(らいかう)〔の〕三尊(さんぞん)おは
します。中尊(ちゆうぞん)(ちうぞん)の御手(みて)には五色(ごしき)の糸(いと)をかけられたり。
左(ひだり)には普賢(ふげん)の画像(ゑざう)(えざう)、右(みぎ)には善導和尚(ぜんだうくわしやう)并(ならび)に先
帝(せんてい)の御影(みえい)(みゑい)をかけ、八軸(はちぢく)の妙文(めうもん)・九帖(くでう)の御書(ごしよ)もをか(おか)【置か】れ
たり。蘭麝(らんじや)の匂(にほひ)に引(ひき)かへて、香(かう)の煙(けぶり)ぞ立(たち)のぼる。彼(かの)
浄名居士(じやうみやうこじ)の方丈(はうぢやう)(はうじやう)の室(しつ)の内(うち)に三万二千[* 「三万三千」と有るのを高野本により訂正](さんまんにせん)の床(ゆか)を
ならべ、十方(じつぱう)の諸仏(しよぶつ)を請(しやう)じ奉(たてまつ)り給(たま)ひけむも、かく
やとぞおぼえける。障子(しやうじ)には諸経(しよきやう)の要文共(えうもんども)(ようもんども)、P2433色紙(しきし)に
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かいて所々(しよしよ)におされたり。そのなかに大江(おほえ)の貞基(さだもと)法師(ぼふし)(ぼうし)が
清凉山(せいりやうざん)にして詠(えい)(ゑい)じたりけむ「笙歌(せいが)遥(はるかに)聞(きこゆ)孤雲[B ノ](こうんの)
上(うへ)、聖衆(しやうじゆ)来迎[B ス](らいかうす)落日(らくじつの)前(まへ)」ともかかれたり。すこし引(ひき)
のけて女院(にようゐん)の御製(ぎよせい)とおぼしくて、
おもひ【思ひ】きやみ山(やま)のおくにすまゐ(すまひ)【住ひ】して
雲(くも)ゐの月(つき)をよそに見(み)むとは W096
さてかたはらを御覧(ごらん)ずれば、御寝所(ぎよしんじよ)とおぼしくて、
竹(たけ)の御(おん)さほ(さを)にあさ【麻】の御衣(おんころも)、紙(かみ)の御衾(おんふすま)な(ン)ど(など)かけられたり。
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さしも本朝(ほんてう)漢土(かんど)のたへなるたぐひ数(かず)をつくして、
綾羅(りようら)(れうら)錦繍(きんしう)の粧(よそほひ)もさながら夢(ゆめ)になりにけり。供奉(ぐぶ)
の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)もをのをの(おのおの)【各々】見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】し事(こと)なれば、
今(いま)のやうに覚(おぼえ)て、皆(みな)袖(そで)をぞしぼられける。さる程(ほど)に、
うへの山(やま)より、こき墨染(すみぞめ)の衣(ころも)きたる尼(あま)二人(ににん)、岩(いは)のかけ
路(みち)をつたひつつ、おりわづらひ【煩ひ】給(たま)ひけり。法皇(ほふわう)(ほうわう)是(これ)を
御覧(ごらん)じて、「あれは何(なに)ものぞ」と御尋(おんたづね)あれば、老尼(らうに)涙(なみだ)を
をさへ(おさへ)て申(まうし)けるは、「花(はな)がたみ【筐】ひぢにかけ、岩(いは)つつじ
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とり具(ぐ)してもたせ給(たま)ひたるは、女院(にようゐん)にて渡(わた)らせ給(たま)
ひさぶらふ【候ふ】なり。爪木(つまぎ)に蕨(わらび)折具(をりぐ)(おりぐ)してさぶらふは、
鳥飼(とりかひ)の中納言(ちゆうなごん)(ちうなごん)維実(これざね)のむすめ、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱【*邦綱】
卿(くにつなのきやう)の養子(やうじ)、先帝(せんてい)の御(おん)めのと、大納言佐(だいなごんのすけ)」と申(まうし)も
あへずなき【泣き】けり。法皇(ほふわう)(ほうわう)もよに哀(あはれ)げにおぼしめし【思し召し】
て、御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず。女院(にようゐん)は「さこそ世(よ)を捨(すつ)る
御身(おんみ)といひながら、いまかかる御(おん)ありさまを見(み)えまいら
せ(まゐらせ)【参らせ】むずらんはづかしさよ。消(きえ)もうせばや」とおぼしP2434
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めせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水(みづ)、結(むす)ぶた
もともしほるる(しをるる)【萎るる】に、暁(あかつき)をき(おき)【起き】の袖(そで)の上(うへ)、山路(やまぢ)の露(つゆ)も
しげくして、しぼりやかね[* 「かさね」と有るのを高野本により訂正]させ給(たま)ひけん、山(やま)へも
帰(かへ)らせ給(たま)はず、御庵室(ごあんじつ)へもいらせ給(たま)はず、御涙(おんなみだ)にむせ
ばせ給(たま)ひ、あきれてたたせましましたる所(ところ)に、内侍(ないし)
の尼(あま)まいり(まゐり)【参り】つつ、花(はな)がたみをば給(たま)はりけり。六道之沙汰(ろくだうのさた)S1304 「世(よ)をいとふ
ならひ【習ひ】、なにかはくるしう【苦しう】さぶらふ【候ふ】べき。はやはや御(ご)
たいめんさぶらふ(さぶらう)て、還御(くわんぎよ)なしまいら(ッ)(まゐらつ)【参らつ】させ給(たま)へ」と申(まうし)
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ければ、女院(にようゐん)御庵室(ごあんじつ)にいらせ給(たま)ふ。「一念(いちねん)の窓(まど)の前(まへ)には
摂取(せつしゆ)の光明(くわうみやう)を期(ご)し、十念(じふねん)(じうねん)の柴(しば)の枢(とぼそ)には、聖衆(しやうじゆ)の
来迎(らいかう)をこそ待(まち)つるに、思外(おもひのほか)に御幸(ごかう)なりけるふし
ぎさ【不思議さ】よ」とて、なくなく【泣く泣く】御(ご)げんざん【見参】ありけり。法皇(ほふわう)(ほうわう)此(この)御(おん)
ありさまを見(み)まいら(ッ)(まゐらつ)【参らつ】させ給(たま)ひて、「非想(ひさう)の八万劫(はちまんごふ)(はちまんごう)、猶(なほ)(なを)
必滅(ひつめつ)の愁(うれへ)に逢(あふ)。欲界(よくかい)の六天(ろくてん)、いまだ五衰(ごすい)のかなしみ
をまぬかれず。善見城(ぜんげんじやう)の勝妙(せうめう)の楽(らく)、中間禅(ちゆうげんぜん)(ちうげんぜん)の高台(かうだい)
の閣(かく)、又(また)夢(ゆめ)の裏(うち)の果報(くわはう)(くわほう)、幻(まぼろし)の間(あひだ)(あいだ)のたのしみ、既(すで)に
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流転(るてん)無窮(むきゆう)(むきう)也(なり)。車輪(しやりん)のめぐるがごとし。天人(てんにん)の五衰(ごすい)の
悲(かなしみ)は、人間(にんげん)にも[* 「には」と有るのを高野本により訂正]候(さうらひ)ける物(もの)を」とぞ仰(おほせ)ける。P2435「さるにてもたれか
事(こと)とひまいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうらふ)。何事(なにごと)につけてもさこそ古(いにしへ)おぼし
めし【思し召し】いで候(さうらふ)らめ」と仰(おほせ)ければ、「いづかたよりをとづるる(おとづるる)事(こと)
もさぶらはず。隆房(たかふさ)・信隆(のぶたか)の北方(きたのかた)より、たえだえ【絶え絶え】申(まうし)送(おく)(をく)る
事(こと)こそさぶらへ【候へ】。その昔(むかし)あの人(ひと)どものはぐくみにてある
べしとは露(つゆ)も思(おもひ)より候(さぶら)はず」とて、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)へば、
つきまいらせ(まゐらせ)【参らせ】たる女房達(にようばうたち)もみな袖(そで)をぞぬらされける。
P13574
女院(にようゐん)御涙(おんなみだ)ををさへ(おさへ)て申(まう)させ給(たま)ひけるは、「かかる身(み)に
なる事(こと)は一旦(いつたん)の歎(なげき)申(まうす)にをよび(および)【及び】候(さぶら)はねども、後生(ごしやう)菩提(ぼだい)
の為(ため)には、悦(よろこび)とおぼえさぶらふ【候ふ】なり。忽(たちまち)に釈迦[* 「尺迦」と有るのを高野本により訂正](しやか)の遺弟(ゆいてい)に
つらなり、忝(かたじけな)く弥陀(みだ)の本願(ほんぐわん)に乗(じよう)(ぜう)じて、五障(ごしやう)三従(さんじゆう)(さんじう)の
くるしみ【苦しみ】をのがれ【逃れ】、三時(さんじ)に六根(ろつこん)をきよめ、一(ひと)すぢに九品(くほん)
の浄刹(じやうせつ)をねがふ。専(もつぱら)一門(いちもん)の菩提(ぼだい)をいのり、つねは三尊(さんぞん)
の来迎(らいかう)を期(ご)す。いつの世(よ)にも忘(わすれ)がたきは、先帝(せんてい)の御
面影(おんおもかげ)、忘(わす)れんとすれども忘(わす)られず、しのば【忍ば】んとすれども
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しのば【忍ば】れず。ただ恩愛(おんあい)(をんあい)の道(みち)ほどかなしかり【悲しかり】ける事(こと)は
なし。されば彼(かの)菩提(ぼだい)のために、あさゆふのつとめおこたる
事(こと)さぶらはず。是(これ)もしかる【然る】べき善知識(ぜんぢしき)とこそ覚(おぼ)へ(おぼえ)
さぶらへ【候へ】」と申(まう)させ給(たま)ひければ、法皇(ほふわう)(ほうわう)仰(おほせ)なりけるは、
「此(この)国(くに)は粟散(そくさん)辺土(へんど)なりといへども、忝(かたじけな)く十善(じふぜん)(じうぜん)の余
薫(よくん)に答(こた)へて、万乗(ばんじよう)(ばんぜう)のあるじとなり、随分(ずいぶん)一(いつ)として
心(こころ)にかなは【叶は】ずといふ事(こと)なし。就中(なかんづく)仏法(ぶつぽふ)(ぶつぽう)流布(るふ)の世(よ)に
むまれ【生れ】て、仏道(ぶつだう)修行(しゆぎやう)の心(こころ)ざしあれば、後生(ごしやう)善所(ぜんしよ)
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疑(うたがひ)あるべからず。人間(にんげん)のあだなるならひ【習ひ】は、今更(いまさら)おP2436ど
ろくべきにはあらねども、御(おん)ありさま見(み)奉(たてまつ)るに、
あまりにせむかたなうこそ候(さうら)へ」と仰(おほせ)ければ、女院(にようゐん)重(かさね)
て申(まう)させ給(たま)ひけるは、「我(われ)平相国(へいしやうこく)のむすめとして
天子(てんし)の国母(こくぼ)となりしかば、一天四海(いつてんしかい)みなたなごころ
のままなり。拝礼(はいれい)の春(はる)の始(はじめ)より、色々(いろいろ)の衣(ころも)がへ【衣更】、仏名(ぶつみやう)
の年(とし)のくれ、摂禄(せつろく)以下(いげ)の大臣(だいじん)公卿(くぎやう)にもてなされし
ありさま、六欲(ろくよく)四禅(しぜん)の雲(くも)の上(うへ)にて八万(はちまん)の諸天(しよてん)に囲繞(ゐねう)
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せられさぶらふ【候ふ】らむ様(やう)に、百官(ひやくくわん)悉(ことごとく)あふが【仰が】ぬものや
さぶらひし。清凉(せいりやう)紫宸(ししん)の床(ゆか)の上(うへ)、玉(たま)の簾(すだれ)のうち
にてもてなされ、春(はる)は南殿(なんでん)の桜(さくら)に心(こころ)をとめて日(ひ)を
くらし、九夏(きうか)三伏(さんぷく)のあつき日は、泉(いづみ)をむすびて心(こころ)を
なぐさめ、秋(あき)は雲(くも)の上(うへ)の月(つき)をひとり見(み)む事(こと)をゆる
さ【許さ】れず。玄冬(けんとう)素雪(そせつ)のさむき夜(よ)は、妻(つま)を重(かさね)てあたた
かにす。長生(ちやうせい)不老(ふらう)の術(じゆつ)をねがひ、蓬莱(ほうらい)不死(ふし)の
薬(くすり)を尋(たづね)ても、ただ久(ひさ)しからむ事(こと)をのみおもへ【思へ】り。
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あけてもくれても楽(たのしみ)さかへ(さかえ)【栄え】し事(こと)、天上(てんじやう)の果報(くわはう)(くわほう)も
是(これ)には過(すぎ)じとこそおぼえさぶらひしか。それに寿永(じゆえい)(じゆゑい)
の秋(あき)のはじめ、木曾(きそ)義仲(よしなか)とかやにおそれ【恐れ】て、一門(いちもん)の人々(ひとびと)
住(すみ)なれし都(みやこ)をば雲井(くもゐ)のよそに顧(かへりみ)て、ふる里(さと)を
焼野(やけの)の原(はら)とうちながめ、古(いにしへ)は名(な)をのみききし須磨(すま)
より明石(あかし)の浦(うら)づたひ、さすが哀(あはれ)に覚(おぼえ)て、昼(ひる)は漫々(まんまん)たる
浪路(なみぢ)を分(わけ)て袖(そで)をぬらし、夜(よる)は州崎(すざき)の千鳥(ちどり)と共(とも)に
なきあかし、浦々(うらうら)島々(しまじま)よしある所(ところ)を見(み)しかども、ふる
P13579
里(さと)の事(こと)はわすれず。かくてよる【寄る】方(かた)なかりしは、五衰(ごすい)
必滅(ひつめつ)のかなしみとこそおぼえさぶらひしか。人間(にんげん)のP2437事(こと)は
愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(をんぞうゑく)、共(とも)に我(わが)身(み)にしられて侍(さぶ)らふ。
四苦(しく)八苦(はつく)一(ひとつ)として残(のこ)る所(ところ)さぶらはず。さても筑前国(ちくぜんのくに)
太宰府(ださいふ)といふ所(ところ)にて、維義(これよし)とかやに九国(くこく)の内(うち)をも
追出(おひいだ)(をひいだ)され、山野(さんや)広(ひろし)といへども、立(たち)よりやすむべき所(ところ)も
なし。同(おな)じ秋(あき)の末(すゑ)にもなりしかば、むかしは九重(ここのへ)(ここのえ)の
雲(くも)の上(うへ)にて見(み)し月(つき)を、いまは八重(やへ)(やえ)の塩路(しほぢ)にながめ
P13580
つつ、あかしくらしさぶらひし程(ほど)に、神無月(かみなづき)の比(ころ)
ほひ、清経(きよつね)の中将(ちゆうじやう)(ちうじやう)が、「都(みやこ)のうちをば源氏(げんじ)がためにせめ【攻め】おと
さ【落さ】れ、鎮西(ちんぜい)をば維義(これよし)がために追出(おひいだ)(をひいだ)さる。網(あみ)にかかれる魚(うを)(うほ)
の如(ごと)し。いづくへゆか【行か】ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつべき
身(み)にもあらず」とて、海(うみ)にしづみ侍(さぶら)ひしぞ、心(こころ)うき
事(こと)のはじめにてさぶらひし。浪(なみ)の上(うへ)にて日(ひ)をくら
し、船(ふね)の内(うち)にて夜(よ)をあかし、みつぎものもなかりし
かば、供御(ぐご)を備(そな)ふる人(ひと)もなし。たまたま供御(ぐご)はそな
P13581
へむとすれども、水(みづ)なければまいら(まゐら)【参ら】ず。大海(だいかい)にうかぶと
いへども、うしほ【潮】なればのむ事(こと)もなし。是(これ)又(また)餓鬼道(がきだう)の
苦(く)とこそおぼえさぶらひしか。かくて室山(むろやま)・水島(みづしま)、ところ
どころのたたかひ【戦ひ】に勝(かち)しかば、人々(ひとびと)すこし【少し】色(いろ)なを(ッ)(なほつ)【直つ】て
見(み)えさぶらひし程(ほど)に、一(いち)の谷(たに)といふ所(ところ)にて一門(いちもん)おほ
く【多く】ほろびし後(のち)は、直衣(なほし)(なをし)束帯(そくたい)をひきかへて、くろがね
をのべて身(み)にまとひ、明(あけ)ても暮(くれ)てもいくさよば
ひ【軍呼】のこゑ【声】たえ【絶え】ざりし事(こと)、修羅(しゆら)の闘諍(とうじやう)(たうじやう)、帝釈(たいしやく)の
P13582
諍(あらそひ)も、かくやとこそおぼえさぶらひしか。「一谷(いちのたに)を攻(せめ)
おとさ【落さ】れて後(のち)、おやは子(こ)にをくれ(おくれ)【遅れ】、妻(つま)は夫(おつと)(をつと)にP2438わかれ、
沖(おき)につりする船(ふね)をば敵(かたき)の船(ふね)かと肝(きも)をけし、遠(とほ)(とを)き
松(まつ)にむれゐる鷺(さぎ)をば、源氏(げんじ)の旗(はた)かと心(こころ)をつくす。
さても門司(もじ)・赤間(あかま)の関(せき)にて、いくさ【軍】はけふを限(かぎり)と見(み)え
しかば、二位(にゐ)の尼(あま)申(まうし)をく(おく)【置く】事(こと)さぶらひき。「男(をとこ)(おとこ)のいき
残(のこら)む事(こと)は千万(せんまん)が一(ひとつ)もありがたし。設(たとひ)又(また)遠(とほ)(とを)きゆかり
はをのづから(おのづから)いきのこりたりといふとも、我等(われら)が後世(ごせ)を
P13583
とぶらはむ事(こと)もありがたし。昔(むかし)より女(をんな)(をうな)はころさ【殺さ】ぬな
らひ【習ひ】なれば、いかにもしてながらへ【永らへ】て主上(しゆしやう)の後世(ごせ)をも
とぶらひ【弔ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、我等(われら)が後生(ごしやう)をもたすけ【助け】給(たま)へ」と
かきくどき【口説き】申(まうし)さぶらひしが、夢(ゆめ)の心地(ここち)しておぼえ
さぶらひし程(ほど)に、風(かぜ)にはかにふき、浮雲(うきぐも)あつくたな
びいて、兵(つはもの)心(こころ)をまどはし、天運(てんうん)つきて人(ひと)の力(ちから)にをよび(および)【及び】
がたし。既(すで)に今(いま)はかうと見(み)えしかば、二位(にゐ)の尼(あま)先帝(せんてい)を
いだき奉(たてまつり)て、ふなばたへ出(いで)し時(とき)、あきれたる御様(おんさま)(をんさま)にて、
P13584
「尼(あま)ぜわれをばいづちへ具(ぐ)してゆかむとするぞ」と仰(おほせ)
さぶらひしかば、いとけなき君(きみ)にむかひ【向ひ】奉(たてまつ)り、涙(なみだ)を
おさへて申(まうし)さぶらひしは、「君(きみ)はいまだしろし
めさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善(じふぜん)(じうぜん)戒行(かいぎやう)の御力(おんちから)に
よ(ッ)て、今(いま)万乗(ばんじよう)(ばんぜう)のあるじとはむまれ【生れ】させ給(たま)へども、悪
縁(あくえん)にひかれて御運(ごうん)既(すで)につき給(たま)ひぬ。まづ東(ひがし)(ひ(ン)がし)に
むかは【向は】せ給(たま)ひて、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ
給(たま)ひ、其(その)後(のち)西方(さいはう)浄土(じやうど)の来迎(らいかう)にあづからむとおぼし
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めし【思し召し】、西(にし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて御念仏(おんねんぶつ)侍(さぶ)らふべし。此(この)
国(くに)は心(こころ)うき堺(さかひ)にてさぶらへ【候へ】ば、極楽(ごくらく)浄土(じやうど)とてめで
たき所(ところ)へ具(ぐ)しまいらせ(まゐらせ)【参らせ】侍(さぶ)らふP2439ぞ」と泣々(なくなく)申(まうし)さぶ
らひしかば、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)にび(ン)づら(びんづら)【鬢】いはせ給(たま)ひ
て、御涙(おんなみだ)におぼれ、ちいさう(ちひさう)【小さう】うつくしい御手(おんて)を
あはせ、まづ東(ひがし)(ひ(ン)がし)をふしおがみ(をがみ)【拝み】、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いと
ま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西(にし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)
ありしかば、二〔位(にゐの−)尼(あま)やがて〕[* 〔 〕内は虫食い、高野本により補う]いだき奉(たてまつり)て、海(うみ)に沈(しづみ)し
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御面影(おんおもかげ)、目(め)もくれ、〔心(こころ)〕も消(き)〔えは〕て[* 〔 〕内は虫食い、高野本により補う]て、わすれんとすれ
ども忘(わす)られず、忍(しの)ばむとすれどもしのば【忍ば】れず、残(のこり)とどまる
人々(ひとびと)のおめき(をめき)【喚き】さけび【叫び】し声(こゑ)、叫喚(けうくわん)大叫喚(だいけうくわん)のほの
お(ほのほ)【炎】の底(そこ)の罪人(ざいにん)も、これには過(すぎ)じとこそおぼえさぶ
らひしか。さて武共(もののふども)にとらはれてのぼりさぶらひし時(とき)、
播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)について、ち(ッ)とうちまどろみてさぶらひ
し夢(ゆめ)に、昔(むかし)の内裏(だいり)にははるかにまさりたる所(ところ)に、
先帝(せんてい)をはじめ奉(たてまつり)て、一門(いちもん)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)みなゆゆし
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げなる礼儀(れいぎ)にて侍(さぶら)ひしを、都(みやこ)を出(いで)て後(のち)かかる所(ところ)は
いまだ見(み)ざりつるに、「是(これ)はいづくぞ」ととひ侍(さぶら)ひし
かば、二位(にゐ)の尼(あま)と覚(おぼえ)て、「竜宮城(りゆうぐうじやう)(りうぐうじやう)」と答(こたへ)(こたえ)侍(さぶら)ひし時(とき)、「めで
たかりける所(ところ)かな。是(これ)には苦(く)はなきか」ととひさぶらひし
かば、「竜畜経[* 「竜蓄経」と有るのを高野本により訂正](りゆうちくきやう)(りうちくきやう)のなかに見(み)えて侍(さぶ)らふ。よくよく後世(ごせ)をとぶ
らひ【弔ひ】給(たま)へ」と申(まう)すと覚(おぼ)えて夢(ゆめ)さめぬ。其(その)後(のち)はいよいよ
経(きやう)をよみ念仏(ねんぶつ)して、彼(かの)御菩提(ごぼだい)をとぶらひ【弔ひ】奉(たてまつ)る。是(これ)
皆(みな)六道(ろくだう)にたがは【違は】じとこそおぼえ侍(さぶら)へ」と申(まう)させ給(たま)へば、
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法皇(ほふわう)(ほうわう)仰(おほせ)なりけるは、「異国(いこく)の玄弉(げんじやう)三蔵(さんざう)は、悟(さとり)の前(まへ)に
六道(ろくだう)を見(み)、吾(わが)朝(てう)の日蔵(にちざう)上人(しやうにん)は、蔵王(ざわう)権現(ごんげん)の御力(おんちから)(おちから)にて
六道(ろくだう)を見(み)たりとこそうけ給(たま)はれ【承れ】。P2440是(これ)程(ほど)まのあたりに
御覧(ごらん)ぜられける御事(おんこと)、誠(まこと)にありがたうこそ候(さうら)へ」とて、御
涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)へば、供奉(ぐぶ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)もみな袖(そで)を
ぞしぼられける。女院(にようゐん)も御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)へば、つき
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】たる女房達(にようばうたち)もみな袖(そで)をぞぬらされける。
女院死去(にようゐんしきよ)S1305 さる程(ほど)に寂光院(じやくくわうゐん)の鐘(かね)のこゑ【声】、けふもくれ【暮れ】ぬとうち
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しら【知ら】れ、夕陽(せきやう)西(にし)にかたむけば、御名残(おんなごり)おしう(をしう)【惜しう】はおぼし
けれども、御涙(おんなみだ)ををさへ(おさへ)て還御(くわんぎよ)ならせ給(たま)ひけり。
女院(にようゐん)は今更(いまさら)いにしへをおぼしめし【思し召し】出(いだ)させ給(たま)ひて、
忍(しのび)あへぬ御涙(おんなみだ)に、袖(そで)のしがらみせきあへさせ給(たま)はず。
はるかに御覧(ごらん)じをくら(おくら)【送ら】せ給(たま)ひて、還御(くわんぎよ)もやうやう
のびさせ給(たま)ひければ、御本尊(ごほんぞん)にむかひ【向ひ】奉(たてまつ)り、「先帝(せんてい)
聖霊(しやうりやう)、一門(いちもん)亡魂(ばうこん)、成等(じやうどう)正覚(しやうがく)、頓証菩提(とんしようぼだい)(とんしやうぼだい)」と泣々(なくなく)いの
らせ給(たま)ひけり。むかしは東(ひがし)(ひ(ン)がし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて、「伊勢
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大神宮(いせだいじんぐう)、正八幡大菩薩(しやうはちまんだいぼさつ)、天子(てんし)宝算(ほうさん)、千秋(せんしう)万歳(ばんぜい)」と
申(まう)させ給(たま)ひしに、今(いま)はひきかへて西(にし)にむかひ【向ひ】、手(て)を
あはせ、「過去(くわこ)聖霊(しやうりやう)、一仏(いちぶつ)浄土(じやうど)へ」といのらせ給(たま)ふこそ悲(かな)
しけれ。御寝所(ぎよしんじよ)の障子(しやうじ)にかうぞあそばさ【遊ばさ】れける。
このごろはいつならひてかわがこころ
大(おほ)みや人(びと)【大宮人】のこひしかるらむ W097 P2441
いにしへも夢(ゆめ)になりにし事(こと)なれば
柴(しば)のあみ戸(ど)もひさしから【久しから】じな W098
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御幸(ごかう)の御供(おんとも)に候(さうら)はれける徳大寺(とくだいじの)左大臣(さだいじん)実定公(さねさだこう)、御
庵室(ごあんじつ)の柱(はしら)にかきつけられけるとかや。
いにしへは月(つき)にたとへし君(きみ)なれど
そのひかりなきみ山辺(やまべ)のさと W099
こしかた行末(ゆくすゑ)の事共(ことども)おぼしめし【思し召し】つづけて、御涙(おんなみだ)(おなみだ)に
むせばせ給(たま)ふ折(をり)(おり)しも、山郭公(やまほととぎす)音信(おとづれ)(をとづれ)ければ、女院(にようゐん)
いざさらばなみだくらべむ郭公(ほととぎす)
われもうき世(よ)にねをのみぞなく W100
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抑(そもそも)壇浦(だんのうら)にていきながらとられし人々(ひとびと)は、大路(おほち)を
わたして、かうべをはねられ、妻子(さいし)にはなれて、
遠流(をんる)せらる。池(いけ)の大納言(だいなごん)の外(ほか)は一人(いちにん)も命(いのち)をいけ
られず、都(みやこ)にをか(おか)【置か】れず。されども四十余人(しじふよにん)の女房達(にようばうたち)
の御事(おんこと)、沙汰(さた)にもをよば(およば)【及ば】ざりしかば、親類(しんるい)に
したがひ【従ひ】、所縁(しよえん)についてぞおはしける。上(かみ)は玉(たま)の簾(すだれ)
の内(うち)までも、風(かぜ)しづかなる家(いへ)もなく、下(しも)は柴(しば)の枢(とぼそ)
のもとまでも、塵(ちり)おさまれ(をさまれ)【納まれ】る宿(やど)もなし。枕(まくら)をならべ
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しいもせ【妹背】も、雲(くも)ゐのよそにぞなりはつる。やし
なひたてしおや子(こ)【親子】も、ゆきがたしらず別(わかれ)けり。
しのぶ【忍ぶ】おもひ【思ひ】はつきせねども、歎(なげき)ながらさてこそ
すごされけれ。是(これ)はただ入道(にふだう)(にうだう)相国(しやうこく)、一天四海(いつてんしかい)を掌(たなごころ)(たなこころ)に
にぎ(ッ)て、上(かみ)は一人(いちにん)をもおそれ【恐れ】ず、下(しも)は万民(ばんみん)をも顧(かへりみ)ず、
死罪(しざい)流刑(るけい)、おもふ【思ふ】さまに行(おこな)ひ、世(よ)をも人(ひと)をも憚(はば)
かられざりしがP2442いたす所(ところ)なり。父祖(ふそ)の罪業(ざいごふ)(ざいごう)は子
孫(しそん)にむくふ【報ふ】といふ事(こと)疑(うたがひ)なしとぞ見(み)えたり
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ける。かくて年月(としつき)をすごさせ給(たま)ふ程(ほど)に、女院(にようゐん)御
心地(おんここち)(おここち)例(れい)ならずわたらせ給(たま)ひしかば、中尊(ちゆうぞん)(ちうぞん)の御手(みて)の
五色(ごしき)の糸(いと)をひかへつつ、「南無(なむ)西方極楽世界教主(さいはうごくらくせかいけうしゆ)
弥陀如来(みだによらい)、かならず引摂(いんぜふ)(ゐんぜう)し給(たま)へ」とて、御念仏(おんねんぶつ)あり
しかば、大納言佐(だいなごんのすけ)の局(つぼね)・阿波(あはの)内侍(ないし)、左右(さう)によ(ッ)【寄つ】て、
いまをかぎりのかなしさに、こゑ【声】もおしま(をしま)【惜しま】ずなき
さけぶ【叫ぶ】。御念仏(おんねんぶつ)のこゑ【声】やうやうよはら(よわら)【弱ら】せましましければ、
西(にし)に紫雲(しうん)たなびき、異香(いきやう)室(しつ)にみち、音楽(おんがく)(をんがく)
P13595
そら【空】にきこゆ。かぎりある御事(おんこと)なれば、建久(けんきう)二
年(にねん)きさらぎの中旬(ちゆうじゆん)(ちうじゆん)に、一期(いちご)遂(つひ)(つい)におはら(をはら)せ給(たま)ひ
ぬ。きさいの宮(みや)の御位(おんくらゐ)よりかた時(とき)もはなれまいらせ(まゐらせ)【参らせ】
ずして候(さうらひ)なれ給(たまひ)しかば、御臨終(ごりんじゆう)(ごりんじう)の御時(おんとき)、別路(わかれぢ)に
まよひしもやるかたなくぞおぼえける。此(この)女房
達(にようばうたち)は昔(むかし)の草(くさ)のゆかりもかれはてて、よるかたも
なき身(み)なれ共(ども)、おりおり(をりをり)【折々】の御仏事(おんぶつじ)営(いとなみ)給(たま)ふぞ哀(あはれ)なる。
遂(つひ)(つい)に彼(かの)人々(ひとびと)は、竜女(りゆうによ)(りうによ)が正覚(しやうがく)の跡(あと)をおひ、韋提
P13596
希夫人(ゐだいけぶにん)(いだいけぶにん)の如(ごとく)に、みな往生(わうじやう)の素懐(そくわい)をとげける
とぞ聞(きこ)えし。
平家(へいけ)灌頂巻(くわんぢやうのまき)P2443
P13597[* 以下の〔 〕内は虫食い、高野本により補う]
于時応安四年 亥辛 三月十五日、平家物
語一部十二巻付灌頂、当流之師説、伝受之
秘决、一字不闕以口筆令書写之、譲与定
一検校訖。抑愚質余算既過七旬、浮命
難期後年、而一期之後、弟子等中雖為一句、
若有廃忘輩者、定及諍論歟。仍為備
後証、〔所令〕書留之也。此本努々不可出他
所、又不可〔及〕他人之披見、附属弟子之
P13598
外者、雖〔為〕同朋并弟子、更莫令書
取之。凡此〔等〕条々〔背〕炳誡之者、仏神
三宝冥罰可蒙厥躬而已。
沙門覚一
P13599 P2444



入力者:荒山慶一

校正者:菊池真一

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