平家物語 高野本 巻第五


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【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一



平家 五(表紙)
P05001
平家五之巻 目録
都遷 付新都之沙汰   月見
物怪之沙汰       大庭早馬
朝敵揃         感陽宮
文学荒行        勧進帳
文学被流        福原院宣
富士川合戦       五節之沙汰
帰洛          奈良炎上
P05002

P05003
平家物語巻第五
『都遷』S0501
○治承四年六月三日[B ノヒ]、福原へ行幸ある【有る】べし
とて、京中ひしめきあへり。此日ごろ都うつり
あるべしときこえ【聞え】しかども、忽に今明の程とは
思はざりつるに、こはいかにとて上下さはぎ【騒ぎ】あへ
り。あまさへ【剰さへ】三日とさだめ【定め】られたりしが、いま一日
ひき【引き】あげて、二日になりにけり。二日の卯剋に、
すでに行幸の御輿をよせたりければ、主上
は今年三歳、いまだいとけなう【幼けなう】ましましければ、
P05004
なに心【何心】もなうめさ【召さ】れけり。主上おさなう【幼う】わたらせ
給時の御同輿には、母后こそまいら【参ら】せ給ふに、
是は其儀なし。御めのと【乳母】、平大納言時忠卿の
北の方帥のすけ【帥の典侍】殿ぞ、ひとつ【一つ】御輿にはまいら【参ら】れ
ける。中宮・一院上皇御幸なる。摂政殿をはじ
めたてま【奉つ】て、太政大臣以下の公卿殿上人、我も我も
と供奉せらる。三日福原へいら【入ら】せ給ふ。池の中納言
頼盛卿の宿所、皇居になる。同四日、頼盛家の
賞とて正二位し給ふ。九条殿の御子、右大将
P05005
能通【*良通】卿、こえられ給ひけり。摂禄の臣の御子息、
凡人の次男に加階こえられ給ふ事、これ【是】はじめ
とぞきこえ【聞え】し。さる程に、法皇を入道相国やう
やう思ひなを【直つ】て、鳥羽殿をいだし【出し】たてまつり、都
へいれ【入れ】まいらせ【参らせ】られたりしが、高倉宮御謀反に
よて、又大にいきどをり【憤り】、福原へ御幸なしたて
まつり【奉り】、四面にはた板【端板】して、口ひとつ【一つ】あけたるうち
に、三間の板屋をつくてをし【押し】こめ【込め】まいらせ【参らせ】、守護
の武士には、原田の大夫種直ばかりぞ候ける。た
P05006
やすう人のまいり【参り】かよふ事もなければ、童部は
籠の御所とぞ申ける。きく【聞く】もいまいましう【忌々しう】おそ
ろしかり【恐ろしかり】し事共也。法皇「今は世の政しろし
めさ【知し召さ】ばやとは、露もおぼしめし【思し召し】よらず。ただ山々
寺々修行して、御心のままになぐさま【慰さま】ばや」とぞおほせける。凡平家の悪行にをひては
悉くきはまりぬ。「去る安元よりこのかた、おほく【多く】
の卿相雲客、或はながし、或はうしなひ【失ひ】、関白
ながし奉り、わが聟を関白になし、法王を城南
P05007
の離宮にうつし奉り、第二の皇子高倉の宮を
うちたてまつり【奉り】、いまのこる【残る】ところ【所】の都うつり
なれば、かやう【斯様】にし給ふにや」とぞ人申ける。都
うつりは是先蹤なきにあらず。神武天皇と申
は地神五代の帝、彦波激武■■草不葺合
尊の第四の王子、御母は玉より姫【玉依姫】、海人のむすめ
なり。神の代十二代の跡をうけ、人代百王の帝
祖也。辛酉歳、日向国宮崎の郡にして皇王の
宝祚をつぎ、五十九年といし己未歳十月に
P05008
東征して、豊葦原中津国にとどまり、このごろ
大和国となづけ【名付け】たるうねび【畝傍】の山を点じて帝都を
たて、柏原【橿原】の地をきりはら【払つ】て宮室をつくり給へ
り。これをかし原【橿原】の宮と名づけ【名付け】たり。それより
このかた、代々の帝王、都を他国他所へうつさるる
事卅度にあまり、四十度に及べり。神武天皇
より景行天皇まで十二代は、大和国こほりごほり【郡々】
にみやこをたて、他国へはつゐに【遂に】うつされず。し
かる【然る】を、成務天皇元年に近江国にうつて、
P05009
志賀の郡に都をたつ。仲哀天皇二年に長門
国にうつて、豊良【*豊浦】郡に都をたつ。其国の彼みや
こにて、御門かくれさせ給しかば、きさき神宮【*神功】皇后
御世をうけ【受け】とら【取ら】せ給ひ、女体として、鬼界・高麗・
荊旦【*契丹】までせめ【攻め】したがへさせ給ひけり。異国のい
くさ【軍】をしづめさせ給ひて帰朝の後、筑前国三
笠[B ノ]郡にして皇子御誕生、其所をばうみの
宮【産の宮】とぞ申たる。かけまくもかたじけなく【忝く】やわた【八幡】
の御事これ也。位につかせ給ひては、応神天皇
P05010
とぞ申ける。其後、神宮[B 「宮」に「功イ」と傍書]皇后は大和国にうつ
て、岩根稚桜のみや【宮】におはします。応神天皇は
同国軽島明の宮にすませ給ふ。仁徳天皇元
年に津国難波にうつて、高津の宮におはします。
履中天皇二年に大和国にうつて、とうち【十市】の
郡にみやこをたつ。反正天皇元年に河内国
にうつて、柴垣の宮にすませ給ふ。允恭天皇四
十二年に又大和国にうつて、飛鳥のあすかの
宮【飛鳥の宮】におはします。雄略天皇廿一年に同国泊
P05011
瀬あさくら【朝倉】に宮ゐ【宮居】し給ふ。継体天皇五年
に山城国つづき【綴喜】にうつて十二年、其後乙訓に宮
ゐ【宮居】し給ふ。宣化天皇元年に又大和国にかへ【帰つ】て、
桧隈の入野の宮におはします。孝徳天皇大
化元年に摂津国長良【*長柄】にうつて、豊崎の宮に
すませ給ふ。斉明天皇二年、又大和国にかへ【帰つ】て、
岡本の宮におはします。天智天皇六年に近江
国にうつて、大津宮にすませ給ふ。天武天皇元
年に猶大和国にかへ【帰つ】て、岡本の南の宮にすま
P05012
せ給ふ。これを清見原の御門と申き。持統・文
武二代の聖朝は、同国藤原の宮におはします。
元明天皇より光仁天皇まで七代は、奈良
の都にすませ給ふ。しかる【然る】を桓武天皇延暦三
年十月二日、奈良の京春日の里より山城国長
岡にうつて、十年といし正月に、大納言藤原
小黒丸、参議左大弁紀のこさむみ【古佐美】、大僧都玄慶【*賢■王+景】
等をつかはし【遣し】て、当国賀殿【*葛野】郡宇多の村を見
せらるるに、両人共に奏して云、「此地の体をみる【見る】に、
P05013
左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武、四神相応の
地也。尤帝都をさだむるにたれり」と申。仍乙城
都におはします賀茂大明神に告申させ給ひ
て、延暦十三年十二月廿一日、長岡の京より此京へ
うつされて後、帝王卅二代、星霜は三百八十余
歳の春秋ををくり【送り】むかふ【向ふ】。「昔より代々の帝
王、国々ところどころ【所々】に多の都をたてられしか
ども、かくのごとくの勝地はなし」とて、桓武天
皇ことに執しおぼしめし【思し召し】、大臣公卿諸道の
P05014
才人等に仰あはせ【合はせ】、長久なるべき様とて、土
にて八尺の人形をつくり、くろがね【鉄】の鎧甲をきせ【着せ】、お
なじうくろがね【鉄】の弓矢をもたせて、東山[B ノ]嶺に、
西むきにたててうづま【埋ま】れけり。「末代に此都を
他国へうつす事あらば、守護神となるべし」と
ぞ、御約束あり【有り】ける。されば天下に事いでこ【出で来】んと
ては、この塚必ず鳴動す。将軍が塚とて今に
あり【有り】。桓武天皇と申は、平家の曩祖にておはし
ます。なかにもこの【此の】京をば平安城と名づけて、
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たいらか【平か】にやすきみやことかけり。尤平家のあ
がむべきみやこなり。先祖の御門のさしも執し
おぼしめさ【思し召さ】れたる都を、させるゆへ【故】なく、他国他
所へうつさるるこそあさましけれ。嵯峨の皇
帝の御時、平城の先帝、内侍のかみのすすめ【勧め】
によて、世をみだり給ひし時、すでにこの京を
他国へうつさんとせさせ給ひしを、大臣公卿、諸
国の人民そむき申しかば、うつされずしてや
みにき。一天の君、万乗のあるじ【主】だにもうつし【遷し】
P05016
え【得】給はぬ都を、入道相国、人臣[* 「人身」と有るのを他本により訂正]の身としてうつ
されけるぞおそろしき【恐ろしき】。旧都はあはれめでた
かりつる都ぞかし。王城守護の鎮守は四方
に光をやはらげ、霊験殊勝の寺々は、上下に
甍をならべ給ひ、百姓万民わづらひ【煩ひ】なく、五畿
七道もたよりあり【有り】。されども、今は辻々をみな堀
きて、車などのたやすうゆき【行き】かふ事もなし。
たまさかにゆく人もこ【小】車にのり、路をへ【経】てこそ
とをり【通り】けれ。軒をあらそひし人のすまひ【住ひ】、
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日をへ【経】つつあれゆく。家々は賀茂河・桂河に
こぼちいれ【入れ】、筏にくみうかべ【浮べ】、資財雑具舟につみ、
福原へとてはこび下す。ただなりに花の都
ゐ中になるこそかなしけれ。なにもの【何者】のしわ
ざにやあり【有り】けん、ふるき都の内裏の柱に、二首の
歌をぞかい【書い】たりける。
ももとせを四かへり【返り】までにすぎき【過来】にし
乙城のさと【理】のあれ【荒れ】やはてなん W030
さき【咲き】いづる【出づる】花の都をふりすてて
P05018
風ふく原のすゑ【末】ぞあやうき【危ふき】 W031
同六月九日、新都の事はじめあるべしとて、上卿
には徳大寺[B ノ]左大将実定の卿、土御門の宰相中将
通信【*通親】の卿、奉行の弁には蔵人[B ノ]左少弁行隆、官
人共めし【召し】具して、和[B 田]の松原の西の野を点じて、
九城の地をわら【割ら】れけるに、一条よりしも【下】五条ま
では其所あて、五条よりしも【下】はなかりけり。行事
官かへりまい【参つ】てこのよしを奏聞す。さらば播磨のい
なみ野【印南野】か、なを【猶】摂津国の児屋野かなどいふ公卿僉
P05019
議あり【有り】しかども、事ゆくべしとも見えざりけり。
旧都をばすでにうかれぬ、新都はいまだ事
ゆかず。あり【有り】としある人は、身をうき雲【浮雲】のおもひ【思ひ】を
なす。もとこのところ【所】にすむ物は、地をうしな【失つ】てう
れへ、いまうつる人々は土木のわづらひ【煩ひ】をなげき
あへり。すべてただ夢のやうなりし事どもなり。
土御門宰相中将通信【*通親】卿申されけるは、異国には、
三条の広路をひらい【開い】て十二の洞門をたつと
見えたり。いはんや五条まであらん都に、などか
P05020
内裏をたてざるべき。かつがつさと内裏[* 「さう内裏」と有るのを他本により訂正]【里内裏】つくるべき
よし議定あて、五条大納言国綱【*邦綱】卿、臨時に周防
国を給て、造進せられるべきよし、入道相国はからひ
申されけり。この国綱【*邦綱】卿は大福長者にておはすれ
ば、つくりいだされん事、左右に及ばねども、いかが
国の費へ、民のわづらひ【煩ひ】なかるべき。まこと【誠】にさしあ
たたる大事、大嘗会などのおこなはるべきをさし【差し】
をい【置い】て、かかる世のみだれに遷都造内裏、すこし【少し】も
相応せず。「いにしへのかしこき御代には、すなはち内
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裏に茨をふき、軒をだにもととのへず。煙のとも
しき【乏しき】を見給ふ時は、かぎりある御つぎ物をもゆ
るさ【免さ】れき。これすなはち民をめぐみ【恵み】、国をたすけ【助け】
給ふによてなり。楚帝花【*章華】の台をたてて、黎民あ
らけ【索げ】、秦阿房の殿をおこし【起こし】て、天下みだるといへり。
茅茨きらず、采椽けづらず、周車かざらず、衣
服あや【文】なかりける世もあり【有り】けん物を。されば唐
の大宗は、離山宮【*驪山宮】をつくて、民の費をやはばから
せ給けん、遂に臨幸なくして、瓦に松をひ【生ひ】、墻に
P05022
蔦しげて止にけるには相違かな」とぞ人申ける。
『月見』S0502
○六月九日、新都の事はじめ、八月十日上棟、十一
月十三日遷幸とさだめ【定め】らる。ふるき都はあれ【荒れ】ゆ
けば、いまの都は繁昌す。あさましかりける夏
もすぎ、秋にも已になりにけり。やうやう秋もなか
ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、
名所の月をみんとて、或は源氏の大将の昔の
跡をしのび【忍び】つつ須ま【*須磨】より明石の浦づたひ【浦伝ひ】、淡路の
せとををし【押し】わたり、絵島が磯の月をみる【見る】。或は
P05023
しらら【白良】・吹上・和歌の浦、住吉・難波・高砂・尾上の月
のあけぼのをながめてかへる人もあり【有り】。旧都にの
こる人々は、伏見・広沢の月を見る。其なかにも
徳大寺の左大将実定の卿は、ふるき都の月を
恋て、八月十日あまりに、福原よりぞのぼり【上り】給ふ。
何事も皆かはりはてて、まれにのこる家は、門前
草ふかくして庭上露しげし。蓬が杣、浅茅が
原、鳥のふしど【臥所】とあれ【荒れ】はてて、虫の声々うらみ【恨み】つつ、
黄菊紫蘭の野辺とぞなりにける。故郷の
P05024
名残とては、近衛河原の大宮ばかりぞましまし
ける。大将その御所にまい【参つ】て、まづ随身に惣門を
たたかせらるるに、うちより女の声して、「た【誰】そや、
蓬生の露うちはらう人もなき所に」ととがむ
れば、「福原より大将殿の御まいり【参り】候」と申。「惣門は
じやう【錠】のさされてさぶらふぞ。東面の小門よりいら【入ら】
せ給へ」と申ければ、大将さらばとて、東の門より
まいら【参ら】れけり。大宮は御つれづれに、昔をやおぼし
めし【思召し】いで【出で】させ給ひけん。南面の御格子あげさせて、
P05025
御琵琶あそばさ【遊ばさ】れけるところに、大将まいら【参ら】れ
たりければ、「いかに、夢かやうつつ【現】か、これへこれへ」とぞ
仰ける。源氏の宇治の巻には、うばそくの宮
の御むすめ、秋のなごり【名残】をおしみ【惜しみ】、琵琶をしらべ【調べ】
て夜もすがら心をすまし【澄まし】給ひしに、在明の月
のいで【出で】けるを、猶たえ【堪へ】ずやおぼしけん、撥にてま
ねき給ひけんも、いまこそおもひ【思ひ】しられけれ。待
よひ【待宵】の小侍従といふ女房も、此御所にぞ候ける。
この女房を待よひと申ける事は、或時御所
P05026
にて「まつよひ、かへる【帰る】あした、いづれかあはれ【哀】はまさ
れる」と御尋あり【有り】ければ、
待よひのふけ【更け】ゆく鐘の声きけば
かへるあしたの鳥はものかは W032
とよみ【詠み】たりけるによてこそ待よひとはめさ【召さ】れけ
れ。大将かの女房よび【呼び】いだし、昔いまの物がたり【物語】
して、さ夜もやうやうふけ行ば、ふるきみやこの
あれ【荒れ】ゆくを、いまやう【今様】にこそうたはれけれ。ふる
き都をき【来】てみれ【見れ】ばあさぢ【浅茅】が原とぞあれ【荒れ】にける
P05027
月の光はくまなくて秋風のみぞ身にはしむ K037 Iと、三
反うたひ【歌ひ】すまされければ、大宮をはじめまいらせ【参らせ】て、
御所中の女房たち【達】、みな袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。去
程に夜もあけ【明け】ければ、大将いとま申て、福原へこそ
かへら【帰ら】れけれ。御ともに候蔵人をめし【召し】て、「侍従
があまりなごりおしげ【惜し気】におもひ【思ひ】たるに、なんぢかへ【帰つ】
てなにともいひ【言ひ】てこよ」と仰せければ、蔵人
はしり【走り】かへ【帰つ】て、「「畏り申せ」と候」とて、
物かはと君がいひけん鳥のねの
P05028
けさ【今朝】しもなどかかなしかる【悲しかる】覧 W033
女房涙ををさへ【抑へ】て、
また【待た】ばこそふけゆく鐘も物ならめ
あかぬわかれの鳥の音ぞうき W034
蔵人かへりまい【参つ】てこのよし申たりければ、「され
ばこそなんぢをばつかはし【遣し】つれ」とて、大将大
に感ぜられけり。それよりしてこそ物かはの蔵
『物怪之沙汰』S0503
人とはいはれけれ。○福原へ都をうつされて後、
平家の人々夢見もあしう【悪しう】、つねは心さはぎ【騒ぎ】
P05029
のみして、変化の物どもおほかり【多かり】けり。ある【或】夜入
道のふし【臥し】給へるところ【所】に、ひとま【一間】にはばかる程
の物の面いできて、のぞきたてまつる【奉る】。入道相国
ちともさはが【騒が】ず、ちやうどにらまへ【睨まへ】ておはし【在し】ければ、
ただぎえ【唯消え】にきえうせぬ。岡の御所と申はあ
たらしうつくら【造ら】れたれば、しかる【然る】べき大木もな
かりけるに、ある【或】夜おほ木のたふるる【倒るる】音して、
人ならば二三十人が声して、どとわらふ【笑ふ】こと
あり【有り】けり。これはいかさまにも天狗の所為といふ
P05030
沙汰にて、ひきめ【蟇目】の当番となづけ【名付け】て、よる百人
ひる五十人の番衆をそろへて、ひきめをゐ【射】
させらるるに、天狗のあるかた【方】へむい【向い】てゐ【射】たる時は
音もせず。ない方へむい【向い】てゐ【射】たるとおぼしき時は、
どつとわらひ【笑ひ】などしけり。又あるあした【朝】、入道相
国帳台よりいで【出で】て、つま戸【妻戸】ををし【押し】ひらき、坪の
うちを見給へば、死人のしやれかうべ【骸骨】どもが、いく
らといふかず【数】もしら【知ら】ず庭にみちみちて、うへ【上】になり
した【下】になり、ころびあひころびのき、はし【端】なるは
P05031
なか【中】へまろびいり中なるははし【端】へいづ。おびたたしう【夥しう】
からめきあひければ、入道相国「人やある、人や
ある」とめさ【召さ】れけれども、おりふし【折節】人もまいら【参ら】ず。
かくしておほくのどくろ【髑髏】どもがひとつ【一つ】にかた
まりあひ、つぼ【坪】のうちにはばかるほど【程】になて、たか
さは十四五丈もあるらんとおぼゆる【覚ゆる】山のごとくに
なりにけり。かのひとつ【一つ】の大がしら【頭】に、いき【生き】たる人
のまなこの様に大のまなこどもが千万いで
きて、入道相国をちやうどにらまへ【睨まへ】て、まだた
P05032
き【瞬き】もせず。入道すこし【少し】もさはが【騒が】ず、はたとにら
まへ【睨まへ】てしばらくたた【立た】れたり。かの大がしら余に
つよくにらまれたてまつり霜露などの日に
あたてきゆる【消ゆる】やうに、跡かた【跡形】もなくなりにけり。
其外に、一の厩にたててとねり【舎人】あまたつけられ、
あさゆふ【朝夕】ひまなくなで【撫で】かは【飼は】れける馬の尾に、
一夜のうちにねずみ【鼠】巣をくひ、子をぞうん【産ん】だ
りける。「これただ事にあらず」とて、七人の陰陽
師にうらなは【占は】せられければ、「おもき【重き】御つつしみ」と
P05033
ぞ申ける。この御馬は、相模[B ノ]国の住人大庭三郎
景親が、東八ケ国一の馬とて、入道相国にまいら
せ【参らせ】たり。くろき馬の額しろかり【白かり】けり。名をば望
月とぞつけられたる。陰陽頭安陪【*安倍】の泰親給はり
けり。昔天智天皇の御時、竜【*寮】の御馬の尾に
一夜の中に鼠す【巣】をくひ、子をうん【産ん】だりけるには、
異国の凶賊蜂起したりけるとぞ、日本記には
みえ【見え】たる。又、源中納言雅頼卿のもとに候ける青
侍が見たりけるゆめ【夢】も、おそろしかり【恐ろしかり】けり。たとへば、
P05034
大内の神祇官とおぼしきところ【所】に、束帯ただ
しき上臈たちあまたおはして、儀定【*議定】の様なる
事のあり【有り】しに、末座なる人の、平家のかたう
ど【方人】するとおぼしきを、その中よりお【追つ】たて【立て】らる。
かの青侍夢の心に、「あれはいかなる上臈にて
ましますやらん」と、ある【或】老翁にとひ【問ひ】たてま
つれ【奉れ】ば、「厳島の大明神」とこたへ給ふ。其後座
上にけだかげなる宿老の在ましけるが、「この
日来平家のあづかり【預り】たりつる節斗をば、
P05035
今は伊豆国の流人頼朝にたば【賜ば】うずる也」と仰
られければ、其御そばに猶宿老の在ましける
が、「其後はわが孫にもたび【賜び】候へ」と仰らるるといふ
夢を見て、是を次第にとひたてまつる【奉る】。「節斗
を頼朝にたばうとおほせられつるは八幡大菩
薩、其後はわが孫にもたび候へと仰られつるは
春日大明神、かう申老翁は武内の大明神」と
仰らるるといふ夢を見て、これを人にかたる
程に、入道相国もれ【漏れ】きい【聞い】て、源大夫判官秀貞【*季貞】
P05036
をもて雅頼卿のもとへ、「夢O[BH 見]の青侍、いそぎ【急ぎ】是
へたべ」と、の給ひつかはさ【遣さ】れたりければ、かの夢見
たる青侍やがて逐電してんげり。雅頼卿い
そぎ入道相国のもとへゆき【行き】むかて、「またくさる
こと候はず」と陳じ申されければ、其後さた【沙汰】もな
かりけり。それにふしぎなりし事には、清盛公
いまだ安芸守たりし時、じんばい【神拝】のつゐでに、れい
む【霊夢】をかうぶて、厳島の大明神よりうつつに
たまはれたりし、銀のひるまきしたる小長刀、
P05037
つねの枕をはなたず、たてられたりしが、ある夜
俄にうせにけるこそふしぎなれ。平家日ごろ
は朝家の御かためにて、天下を守護せしかども、
今は勅命にそむけば、節斗をもめし【召し】かへ
さ【返さ】るるにや、心ぼそうぞきこえ【聞え】し。なかにも高
野におはしける宰相入道成頼、か様【斯様】の事共
をつたへきい【聞い】て、「すは平家の代はやうやう末に
なりぬるは。いつくしまの大明神の平家のかた
うど【方人】をし給ひけるといふは、そのいはれあり【有り】。但
P05038
それは沙羯羅竜王の第三の姫宮なれば、女神
とこそうけ給はれ【承れ】。八幡大菩薩の、せつと【節斗】を頼朝
にたば【賜ば】うど仰られけるはことはり【理】也。春日大明神
の、其後はわが孫にもたび候へと仰られけるこそ
心えね。それも平家ほろび、源氏の世つきなん
後、大織冠の御末、執柄家の君達の天下の将
軍になり給ふべき歟」などぞの給ひける。又或
僧のおりふし【折節】来たりけるが申けるは、「夫神明は
和光垂跡の方便まちまちにましませば、或時は
P05039
俗体とも現じ、或時は女神ともなり給ふ。誠に
厳島の大明神は、女神とは申ながら、三明六通
の霊神にてましませば、俗体に現じ給はんも
かたかるべきにあらず」とぞ申ける。うき世をいとひ
実の道に入ぬれば、ひとへに後世菩提の外は
世のいとなみあるまじき事なれども、善政を
きい【聞い】ては感じ、愁をきい【聞い】てはなげく【歎く】、これみな人
『早馬』S0504
間の習なり。○同九月二日、相模国の住人大庭三
郎景親、福原へ早馬をもて申けるは、「去八月
P05040
十七日、伊豆国流人右兵衛佐頼朝、しうと【舅】北条
四郎時政をつかはして、伊豆の目代、和泉[B ノ]判官
兼高【*兼隆】をやまき【山木】が館で夜うち【夜討】にうち候ぬ。其後
土肥・土屋・岡崎をはじめとして三百余騎、石
橋山に立籠て候ところ【所】に、景親御方に心ざし
を存ずるものども一千余騎を引率して、
をし【押し】よせ【寄せ】せめ【攻め】候程に、兵衛佐七八騎にうちなさ
れ、おほ童にたたかひ【戦ひ】なて、土肥の椙山へにげこ
もり【逃籠り】候ぬ。其後畠山五百余騎で御方を
P05041
つかまつる。三浦[B ノ]大介義明が子共、三百余騎で
源氏方をして、湯井【*由井】・小坪の浦でたたかふ【戦ふ】に、
畠山いくさ【軍】にまけて武蔵国へひき【引き】しりぞく。
その後畠山が一族、河越・稲毛・小山田・江戸・笠井【*葛西】、
惣じて其外七党の兵ども三千余騎をあひ
ぐし【具し】て、三浦衣笠の城にをし【押し】よせてせめ【攻め】たた
かふ。大介義明うた【討た】れ候ぬ。子共は、くり浜【久里浜】の浦より
舟にのり、安房・上総へわたり候ぬ」とこそ申たれ。
[BH 是ヨリ朝敵揃ト云本モアリ]
平家の人々都うつりもはやけう【興】さめぬ。わかき
P05042
公卿殿上人は、「あはれ、とく【疾く】事のいでこよ【出来よ】かし。
打手にむかは【向は】う」などいふぞはかなき。畠山の庄司
重能、小山田の別当有重、宇都宮左衛門朝
綱、大番役にて、おりふし【折節】在京したりけり。畠山
申けるは、「僻事にてぞ候らん。したしう【親しう】なて候
なれば、北条はしり【知り】候はず、自余の輩は、よも
朝敵が方人をば仕候はじ。いまきこしめし【聞し召し】なを
さんずる物を」と申ければ、げにもといふ人もあり【有り】。
「いやいや只今天下の大事に及なんず」とささや
P05043
く物もおほかり【多かり】けり。入道相国、いから【怒ら】れける様なのめ
ならず。「頼朝をばすでに死罪におこなはるべかり
しを、故池殿のあながちになげきの給ひしあひ
だ【間】、流罪に申なだめ【宥め】たり。しかる【然る】に其恩わすれ【忘れ】
て、当家にむか【向つ】て弓をひくにこそあんなれ。神
明三宝もいかでかゆるさ【許さ】せ給ふべき。只今天のせ
め【責】かうむら【蒙ら】んずる頼朝なり」とぞの給ひける。
『朝敵揃』S0505
○夫我朝に朝敵のはじめを尋れば、やまといは
れみこと[* 「ひこと」と有るのを他本により訂正]【日本磐余命】の御宇四年、紀州なぐさ【名草】の郡高
P05044
雄村に一の蜘蛛あり【有り】。身みじかく、足手ながくて、
ちから【力】人にすぐれたり。人民をおほく【多く】損害せしかば、
官軍発向して、宣旨をよみかけ、葛の網を
むすん【結ん】で、終にこれをおほひ【覆ひ】ころす。それよりこ
のかた、野心をさしはさんで朝威をほろぼさ【滅さ】ん
とする輩、大石山丸、大山王子、守屋の大臣、山田
石河、曾我[B ノ]いるか【入鹿】、大友のまとり【真鳥】、文屋宮田、橘逸
成、ひかみ【氷上】の河次、伊与の親王、大宰【*太宰】少弐藤原広
嗣、ゑみ【恵美】の押勝、佐あら【早良】の太子、井上の広公、藤
P05045
原[B ノ]仲成、平[B ノ]将門、藤原[B ノ]純友、安陪【*安部】貞任・宗任、対馬
守源義親、悪左府・悪衛門[B ノ]督にいたるまで、すべて
廿余人、されども一人として素懐をとぐる物なし。
かばねを山野にさらし、かうべを獄門にかけらる。
この【此の】世にこそ王位も無下にかるけれ【軽けれ】、昔は宣旨を
むか【向つ】てよみければ、枯たる草木も花さきみ【実】なり、
とぶ鳥もしたがひ【従ひ】けり。中比の事ぞかし。延喜
御門神泉苑に行幸あて、池のみぎはに鷺のゐたりけるを、六位をめし【召し】て、「あの鷺とてま
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いらせよ【参らせよ】」と仰ければ、いかで【争】かとら【取ら】んとおもひ【思ひ】けれ
ども、綸言なればあゆみ【歩み】むかふ【向ふ】。鷺はねづくろ
ひ【羽繕ひ】してたた【立た】んとす。「宣旨ぞ」と仰すれば、ひらん【平ん】
で飛さらず。これをと【取つ】てまいり【参り】たり。「なんぢが
宣旨にしたがてまいり【参り】たるこそ神妙なれ。や
がて五位になせ」とて、鷺を五位にぞなされ
ける。「今日より後は鷺のなかの王たるべし」といふ
札をあそばひ【遊ばい】て、頸にかけてはなたせ給。またく
鷺の御れう【料】にはあらず、只王威の程をしろし
P05047
『感陽宮【*咸陽宮】』S0506
めさ【知ろし召さ】んがためなり。○又先蹤を異国に尋に、燕の太
子丹といふもの、秦始皇にとらはれて、いまし
めをかうぶる事十二年、太子丹涙をながひ【流い】て
申けるは、「われ本国に老母あり。いとまを給はて
かれを見ん」と申せば、始皇帝あざわら【笑つ】て、「なん
ぢにいとまをたば【賜ば】ん事は、馬に角おひ【生ひ】、烏の
頭の白くならん時をまつ【待つ】べし」。燕丹天に
あふぎ地に臥て、「願は、馬に角をひ【生ひ】、烏の頭しろ
く【白く】なしたべ。故郷にかへ【帰つ】て今一度母をみん」とぞ
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祈ける。かの妙音菩薩は霊山浄土に詣して、
不孝の輩をいましめ、孔子・顔回はしな【支那】震旦に
出て忠孝の道をはじめ給ふ。冥顕の三宝
孝行の心ざしをあはれみ給ふ事なれば、馬に
角をひ【生ひ】て宮中に来り、烏の頭白くなて庭
前の木にすめ【栖め】りけり。始皇帝、烏頭馬[M の]角
の変におどろき、綸言かへらざる事を信じて、
太子丹をなだめ【宥め】つつ、本国へこそかへさ【返さ】れけれ。
始皇なを【猶】くやしみ【悔しみ】て、秦の国と燕の国のさ
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かひ【境】に楚国といふ国あり【有り】。大なる河ながれたり。
かの河にわたせ【渡せ】る橋をば楚国の橋といへり。
始皇官軍をつかはし【遣し】て、燕丹がわたらん時、河
なかの橋をふまばおつる【落つる】様にしたためて、燕丹
をわたらせけるに、なじかはおちいら【陥ら】ざるべき。河
なかへおち【落ち】入ぬ。されどもちとも水にもおぼれず、
平地を行ごとくして、むかへの岸へつき【付き】にけり。こは
いかにとおもひ【思ひ】てうしろをかへり見ければ、亀ども
がいくらといふかずもしら【知ら】ず、水の上にうかれ【浮かれ】来て、
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こう【甲】をならべてぞあゆま【歩ま】せたりける。これも孝行
のこころざしを冥顕あはれみ給ふによてなり。太
子丹うらみ【恨み】をふくん【含ん】で又始皇帝にしたがはず。
始皇官軍をつかはし【遣し】て燕丹をうた【討た】んとし給ふ
に、燕丹おそれ【恐れ】をののき、荊訶【*荊軻】といふ兵をかたらふて
大臣になす。荊訶【*荊軻】又田光先生といふ兵をか
たらふ。かの先生申けるは、「君はこの身がわかう【若う】
さかん【壮】なし事をしろしめさ【知ろし召さ】れてたのみ【頼み】仰らるる
か。騏■は千里を飛ども、老ぬれば奴馬にも
P05051
おとれり。いまはいかにもかなひ【適ひ】候まじ。兵をこそ
かたらふてまいらせ【参らせ】め」とて、かへら【帰ら】んとするところ【所】に、
荊訶【*荊軻】「この事あなかしこ、人にひろふ【披露】すな」といふ。
先生申けるは、「人にうたがは【疑は】れぬるにすぎ【過ぎ】たる恥
こそなけれ。此事もれ【漏れ】ぬる物ならば、われうた
がはれなんず」とて、門前なる李の木にかしら【頭】を
つき【突き】あて、うちくだいてぞ死にける。又范予期【*樊於期】
といふ兵あり【有り】。これは、秦の国のものなり。始皇の
ためにおや【父】・おぢ【伯叔】・兄弟をほろぼされて、燕の国に
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にげ【逃げ】こもれり。秦皇四海に宣旨をくだい【下い】て、「范
予期【*樊於期】がかうべはね【刎ね】てまいらせ【参らせ】たらん物には、五百
斤の金をあたへん」とひろう【披露】せらる。荊訶【*荊軻】これを
きき、范予期【*樊於期】がもとにゆい【行い】て、「われきく【聞く】。なんぢ
がかうべ五百斤の金にほうぜ【報ぜ】らる。なんぢが首
われにかせ【貸せ】。取て始皇帝にたてまつらん。よろ
こで叡覧をへ【経】られん時、つるぎ【剣】をぬき、胸を
ささんにやすかり【安かり】なん」といひければ、范予期【*樊於期】お
どり【躍り】あがり、大いき【息】ついて申けるは、「われおや・おぢ・
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兄弟を始皇のためにほろぼされて、よるひる
これ【是】をおもふ【思ふ】に、骨髄にとを【徹つ】て忍がたし。げにも
始皇帝をほろぼすべくは、首をあたへんこと、
塵あくたよりも尚やすし」とて、手づから首
を切てぞ死にける。又秦巫陽【*秦舞陽】といふ兵あり【有り】。こ
れも秦の国の物なり。十三の歳かたき【敵】をう【打つ】て、
燕の国ににげこもれり。ならびなき兵なり。かれが
嗔てむかふ【向ふ】時は、大の男も絶入す。又笑で向ふ
時は、みどり子もいだか【抱か】れけり。これを秦の都の
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案内者にかたらう【語らう】て、ぐし【具し】てゆく程に、ある片
山のほとりに宿したりける夜、其辺ちかき里
に管絃をするをきい【聞い】て、調子をもつて本意
の事をうらなふ【占ふ】に、かたき【敵】の方は水なり、我方は
火なり。さる程に天もあけ【明け】ぬ。白虹日をつらぬひ【貫い】
てとをら【通ら】ず。「我等が本意とげん事ありがたし」と
ぞ申ける。さりながら帰べきにもあらねば、始皇
の都咸陽宮にいたりぬ。燕の指図ならびに
范予期【*樊於期】が首も【持つ】てまいり【参り】たるよし奏しければ、
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臣下をもてうけ【受け】とら【取ら】んとし給ふ。「またく人しては
まいらせ【参らせ】じ。直にたてまつら【奉ら】ん」と奏する間、さらば
とて、節会の儀をととのへて、燕の使をめされ
けり。咸陽宮はみやこのめぐり一万八千三百八
十里につもれり。内裏をば地より三里たかく築
あげて、其上にたてたり。長生殿・不老門あり【有り】、
金をもて日をつくり、銀をもて月をつくれり。
真珠のいさご、瑠璃の砂、金の砂をしき【敷き】みてり。
四方にはたかさ四十丈の鉄の築地をつき、殿の
P05056
上にも同く鉄の網をぞ張たりける。これは冥
途の使をいれ【入れ】じとなり。秋の田のも【面】の鴈、春は
こしぢ【越路】へ帰も、飛行自在のさはり【障】あれば、築地
には鴈門となづけ【名付け】て、鉄の門をあけてぞとをし【通し】
ける。そのなかにも阿房殿とて、始皇のつねは
行幸なて、政道おこなはせ給ふ殿あり【有り】。たかさは
卅六丈東西へ九町、南北へ五町、大床のしたは
五丈のはたほこをたてたるが、猶及ばぬ程也。上は
瑠璃の瓦をもてふき、したは金銀にてみがき
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けり。荊訶【*荊軻】は燕の指図をもち、秦巫陽【*秦舞陽】は范予
期【*樊於期】が首をも【持つ】て、珠のきざ橋【階】をのぼりあがる【上がる】。あま
りに内裏のおびたたしき【夥しき】を見て秦巫陽【*秦舞陽】わな
わなとふるひ【震ひ】ければ、臣下あやしみて、「巫陽【*舞陽】謀
反の心あり【有り】。刑人をば君のかたはら【側】にをか【置か】ず、君子
は刑人にちかづか【近付か】ず、刑人にちかづく【近付く】はすなはち死を
かろんずる道なり」といへり。荊訶【*荊軻】たち【立ち】帰て、「巫陽【*舞陽】
またく謀反の心なし。ただ田舎のいやしき【卑しき】にのみ
なら【習つ】て、皇居になれ【馴れ】ざるが故に心迷惑す」と申
P05058
ければ、臣下みなしづまりぬ。仍王にちかづき【近付き】たて
まつる【奉る】。燕の指図ならびに范予期【*樊於期】が首げざん【見参】に
いるる【入るる】ところ【所】に、指図の入たる櫃のそこ【底】に、氷の様なる
つるぎの見えければ、始皇帝これを見て、や
がてにげ【逃げ】んとしたまふ【給ふ】。荊訶【*荊軻】王の御袖をむずと
ひかへ【控へ】て、つるぎをむね【胸】にさしあてたり。いまは
かうとぞ見えたりける。数万の兵庭上に袖をつ
らぬ【連ぬ】といへども、すくは【救は】んとするに力なし。ただ君
逆臣におかさ【犯さ】れ給はん事をのみかなしみあへり。
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始皇の給はく、「われに暫時のいとまをえ【得】させよ。
わが最愛の后の琴のね【音】を今一度きかん」との
給へ【宣へ】ば、荊訶【*荊軻】しばしをかし【犯し】たてまつらず。始皇は
三千人のきさきをもち給へり。其中に花陽
夫人とて、すぐれたる琴の上手おはしけり。凡此
后の琴のね【音】をきい【聞い】ては、武きもののふ【武士】のいかれ【怒れ】る
もやはらぎ、飛鳥もおち【落ち】、草木もゆるぐ【揺ぐ】程なり。況
やいまをかぎりの叡聞にそなへ【供へ】んと、なくなく【泣く泣く】ひき
給ひけん、さこそはおもしろかりけめ。荊訶【*荊軻】も頭を
P05060
うなたれ、耳をそばだて、殆謀臣のおもひ【思ひ】もたゆみ【弛み】
にけり。きさき【后】はじめてさらに一曲を奏す。「七尺
屏風はたかく【高く】とも、おどら【躍ら】ばなどかこえ【越え】ざらん。一条
の羅こくはつよくとも、ひか【引か】ばなどかはたえ【絶え】ざらん」
とぞひき【弾き】給ふ。荊訶【*荊軻】はこれをきき【聞き】しら【知ら】ず、始皇
はきき【聞き】知て、御袖をひ【引つ】きり【切り】、七尺の屏風を飛こ
えて、あかがね【銅】の柱のかげににげ【逃げ】かくれ【隠れ】させ給ひぬ。荊
訶【*荊軻】いか【怒つ】て、つるぎ【剣】をなげ【投げ】かけたてまつる。おりふし【折節】
御前に番の医師の候けるが、薬の袋を荊訶【*荊軻】が
P05061
つるぎになげ【投げ】あはせ【合はせ】たり。つるぎ薬の袋をかけ【掛け】
られながら、口六尺の銅の柱をなから【半】までこそき【切つ】
たりけれ。荊訶【*荊軻】又剣ももたねばつづい【続い】てもなげ
ず。王たちかへ【立ち返つ】てわがつるぎ【剣】をめし【召し】よせて、荊訶【*荊軻】を
八ざき【八つ裂】にこそし給ひけれ。秦巫陽【*秦舞陽】もうた【討た】れにけり。
官軍をつかはし【遣はし】て、燕丹をほろぼさる。蒼天ゆ
るし給はねば、白虹日をつらぬいてとほら【通ら】ず。
秦の始皇はのがれ【逃れ】て、燕丹つゐに【遂に】ほろびにき。
「されば今の頼朝もさこそはあらんずらめ」と、色代
P05062
『文学【*文覚】荒行』S0507
する人々もあり【有り】けるとかや。○抑かの頼朝と申は、
去る平治元年十二月、ちち【父】左馬頭義朝が謀反
によて、年十四歳と申し永暦元年三月廿日、
伊豆国蛭島へながされて、廿余年の春秋ををくり【送り】
むかふ【向ふ】。年ごろもあればこそあり【有り】けめ、ことしいか
なる心にて謀反をばおこさ【起さ】れけるぞといふに、高
雄の文覚上人の申すすめ【勧め】られたりけるとかや。彼
文覚と申は、もとは渡辺の遠藤佐近将監茂
遠が子、遠藤武者盛遠とて、上西門院の衆也。
P05063
十九の歳道心をこし【起こし】出家して、修行にいで【出で】んとし
けるが、「修行といふはいかほど【程】の大事やらん、ためい【試い】て
み【見】ん」とて、六月の日の草もゆるが【揺が】ずて【照つ】たるに、片山
のやぶ【薮】のなかにはいり、あをのけ【仰ふのけ】にふし、あぶぞ、蚊ぞ、
蜂蟻などいふ毒虫どもが身にひしととり【取り】つい【付い】て、
さしくひ【刺食】などしけれども、ちとも身をもはたら
かさ【働かさ】ず。七日まではおき【起き】あがら【上がら】ず、八日といふにおき
あが【上がつ】て、「修行といふはこれ程の大事か」と人にとへ
ば、「それ程ならんには、いかでか命もいく【生く】べき」といふ
P05064
あひだ、「さてはあんべい【安平】ごさんなれ」とて、修行にぞ
いで【出で】にける。熊野へまいり【参り】、那智ごもり【籠り】せんとしける
が、行の心みに、きこゆる【聞ゆる】滝にしばらくうた【打た】れて
みんとて、滝もと【滝下】へぞまいり【参り】ける。比は十二月十日
あまりの事なれば、雪ふり【降り】つもり【積り】つららゐ【凍】て、
谷の小河も音もせず、嶺の嵐ふき【吹き】こほり【凍り】、滝の
しら糸【白糸】垂氷となり、みな白妙にをし【押し】なべて、よも
の梢も見えわかず。しかる【然る】に、文覚滝つぼ【滝壺】におり【下り】
ひたり、頸ぎはつかて、慈救の呪をみて【満て】けるが、二三
P05065
日こそあり【有り】けれ、四五日にもなりければ、こらへ【耐へ】ずし
て文覚うき【浮き】あがりにけり。数千丈みなぎり【漲ぎり】おつる
滝なれば、なじかはたまるべき。ざとをし【押し】おとさ【落さ】れ
て、かたな【刀】のは【刃】のごとくに、さしもきびしき【厳しき】岩かどの
なかを、うき【浮き】ぬしづみぬ五六町こそながれ【流れ】たれ。時
にうつくしげなる童子一人来て、文覚が左右の
手をとてひき【引き】あげ【上げ】給ふ。人奇特のおもひ【思ひ】をなし、
火をたき【焚き】あぶりなどしければ、定業ならぬ命
ではあり【有り】、ほどなくいき【生き】いで【出で】にけり。文覚すこし【少し】人
P05066
心ち【人心地】いでき【出で来】て、大のまなこを見いからかし【怒らかし】、「われ此
滝に三七日うた【打た】れて、慈救の三洛叉をみて【満て】うど
おもふ【思ふ】大願あり【有り】。けふはわづかに五日になる。七日だ
にもすぎ【過ぎ】ざるに、なに物【何者】かここへはと【取つ】てきたるぞ」
といひければ、見る人身のけ【毛】よだてものいはず。
又滝つぼ【滝壺】にかへり【帰り】たてうた【打た】れけり。第二日といふに、
八人の童子来て、ひき【引き】あげんとし給へども、さん
ざん【散々】につかみ【掴み】あふ【合う】てあがら【上がら】ず。三日といふに、文覚つ
ゐに【遂に】はかなく【果敢く】なりにけり。滝つぼ【滝壺】をけがさ【汚さ】じとや、
P05067
みづらゆう【結う】たる天童二人、滝のうへ【上】よりおり【下り】く
だり【下り】、文覚が頂上より手足のつまさき【爪先】・たなうら【手裏】に
いたるまで、よにあたたか【暖たか】にかうばしき【香ばしき】御手をもて、
なで【撫で】くだし給ふとおぼえければ、夢の心ち【心地】して
いき【生き】いで【出で】ぬ。「抑いかなる人にてましませば、かうは
あはれみ給ふらん」ととひ【問ひ】たてまつる【奉る】。「われはこれ【是】大
聖不動明王の御使に、こんがら【矜迦羅】・せいたか【制■迦】といふ二童子
なり。「文覚無上の願をおこし【起こし】て、勇猛の行をくは
たつ【企つ】。ゆい【行い】てちから【力】をあはすべし」と明王の勅によて
P05068
来れる也」とこたへ給ふ。文覚声をいからかし【怒らかし】て、
「さて明王はいづくに在ますぞ」。「都率天に」と
こたへて、雲井はるかにあがり【上がり】給ひぬ。たな心を
あはせ【合はせ】てこれを拝したてまつる【奉る】。「されば、わが行
をば大聖不動明王までもしろしめさ【知ろし召さ】れたるに
こそ」とたのもしう【頼もしう】おぼえて、猶滝つぼ【滝壺】にかへりた
てうた【打た】れけり。まこと【誠】にめでたき瑞相どもあり【有り】
ければ、吹くる風も身にしまず、落くる水も
湯のごとし。かくて三七日の大願つゐに【遂に】とげ【遂げ】にけれ
P05069
ば、那智に千日こもり、大峯三度、葛城二度、高
野・粉河・金峯山、白山・立山・富士の嵩、伊豆、箱
根、信乃【*信濃】戸隠、出羽[B ノ]羽黒、すべて日本国のこる【残る】所なく
おこなひまは【廻つ】て、さすが尚ふる里や恋しかりけん、
宮こ【都】へのぼりたりければ、凡とぶ鳥も祈おとす【落す】程
『勧進張』S0508
のやいば【刃】の験者とぞきこえ【聞え】し。○後には高雄と
いふ山の奥におこなひすまし【澄し】てぞゐたりける。彼
たかお【高雄】に神護寺といふ山寺あり【有り】。昔称徳天皇
の御時、和気の清丸がたてたりし伽藍也。久しく
P05070
修造なかりしかば、春は霞にたちこめられ、秋は
霧にまじはり、扉は風にたふれ【倒れ】て落葉の
した【下】にくち【朽ち】、薨は雨露にをかされて、仏壇
さらにあらはなり。住持の僧もなければ、まれに
さし【差し】入物とては、月日の光ばかりなり。文覚是を
いかにもして修造せんといふ大願をおこし、勧進
帳をささげて、十方檀那をすすめ【勧め】ありき【歩き】ける程
に、或時院御所法住寺殿へぞまいり【参り】たりける。御奉
加あるべき由奏聞しけれども、御遊のおりふし【折節】で
P05071
きこしめし【聞し召し】も入られず、文覚は天性不敵第一の
あらひじり【荒聖】なり、御前の骨ない様をばしら【知ら】ず、
ただ申入ぬぞと心えて、是非なく御坪のうちへ
やぶりいり【破り入り】、大音声をあげて申けるは、「大慈大
悲の君にておはします。などかきこしめし【聞し召し】入ざるべ
き」とて、勧進帳をひき【引き】ひろげ、たからか【高らか】にこそよ
う【読う】だりけれ。沙弥文覚敬白す。殊に貴賎道俗
助成を蒙て、高雄山の霊地に、一院を建立し、
二世安楽の大利を勤行せんと乞勧進状。夫以ば、
P05072
真如広大なり。生仏の仮名をたつといへども、
法性随妄の雲あつく覆て、十二因縁の峯に
たなびいしよりこのかた【以来】、本有心蓮の月の光かす
か【幽】にして、いまだ三毒四慢の大虚にあらはれ【現はれ】ず。悲
哉、仏日早く没して、生死流転の衢冥々たり。
只色に耽り、酒にふける、誰か狂象重淵【*跳猿】の迷を
謝せん。いたづらに人を謗じ法を謗ず、あに閻羅
獄卒の責をまぬかれ【免かれ】んや。〔爰に文覚たまたま俗塵をうちはら【払つ】て〕法衣をかざるといへ共、
悪行猶心にたくましうして日夜に造り、善苗
P05073
又耳に逆て朝暮にすたる。痛哉、再度三途の
火坑にかへ【帰つ】て、ながく四生苦輪にめぐらん事を。
此故に無二の顕章千万軸、軸々に仏種の因を
あかす。随縁至誠の法一として菩提の彼岸にいた
らずといふ事なし。かるがゆへに、文覚無常の観
門に涙をおとし【落し】、上下の親俗をすすめて上品蓮台
にあゆみ【歩み】をはこび、等妙覚王の霊場をたてんと也。
抑高雄は、山うづたかくして鷲峯山の梢を、
表し、谷閑にして商山洞の苔をしけ【敷け】り。巌泉
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咽で布をひき【引き】、嶺猿叫で枝にあそぶ。人里と
をう【遠う】して囂塵[* 「器塵」と有るのを他本により訂正]なし。咫尺好う【事無う】して信心のみ有。
地形すぐれたり、尤も仏天をあがむべし。奉加すこ
しきなり、誰か助成せざらん。風聞、聚沙為仏
塔功徳、忽に仏因を感ず。況哉一紙半銭の
宝財にをひてをや。願は建立成就して、金闕
鳳暦御願円満、乃至都鄙遠近隣民親疎、尭
舜無為の化をうたひ【歌ひ】、椿業再会の咲をひらかん。
殊には、聖霊幽儀先後大小、すみやかに一仏真
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門の台にいたり、必三身万徳の月をもてあそば【翫ば】ん。
仍勧進修行の趣、蓋以如斯治承三年三月日
『文学【*文覚】被流』S0509
文覚とこそよみ【読み】あげたれ。○おりふし【折節】、御前には太
政大臣妙音院、琵琶かき【掻き】ならし【鳴らし】朗詠めでたうせ
させ給ふ。按察大納言資方【*資賢】卿拍子とて、風俗催
馬楽うたはれけり。右馬頭資時・四位侍従盛定
和琴かき【掻き】ならし【鳴らし】、いま様【今様】とりどりにうたひ【歌ひ】、玉の簾、
錦の帳の中ざざめきあひ、まこと【誠】に面白かりけれ
ば、法皇もつけ歌【附け歌】せさせおはします。それに文覚
P05076
が大音声いでき【出で来】て、調子もたがひ【違ひ】、拍子もみな
みだれ【乱れ】にけり。「なに物【何者】ぞ。そくびつけ【突け】」と仰下さるる程
こそあり【有り】けれ、はやりを【逸男】の若物共、われもわれもと
すすみ【進み】けるなかに、資行判官といふものはしり【走り】
いで【出で】て、「何条事申ぞ。まかり【罷り】いでよ」といひければ、
「高雄の神護寺に庄一所よせ【寄せ】られざらん程は、
またく文覚いづ【出づ】まじ」とてはたらか【働か】ず。よてそ
くびをつか【突か】うどしければ、勧進帳をとりなをし【直し】、
資行判官が烏帽子をはたとう【打つ】てうちおとし【落し】、
P05077
こぶし【拳】をにぎてしやむね【胸】をつゐ【突い】て、のけ【仰】につきた
をす【倒す】。資行判官もとどり【髻】はな【放つ】て、おめおめと大
床のうへ【上】へにげ【逃げ】のぼる。其後文覚ふところ【懐】より
馬の尾でつか【柄】まい【巻い】たる刀の、こほり【氷】のやうなるを
ぬき【抜き】いだひ【出い】て、より【寄り】こん物をつか【突か】うどこそまち【待ち】
かけたれ。左の手には勧進帳、右の手には刀をぬいて
はしり【走り】まはるあひだ【間】、おもひ【思ひ】まうけぬにはか事【俄事】では
あり【有り】、左右の手に刀をも【持つ】たる様にぞ見えたり
ける。公卿殿上人も、「こはいかにこはいかに」とさはが【騒が】れければ、
P05078
御遊もはや荒にけり。院中のさうどう【騒動】なのめ
ならず。信乃【*信濃】国の住人安藤武者右宗、其比当職の
武者所で有けるが、「何事ぞ」とて、太刀をぬいてはし
り【走り】いでたり。文覚よろこ【喜こん】でかかる所を、き【斬つ】てはあし
かり【悪かり】なんとやおもひ【思ひ】けん、太刀のみね【峯】をとりなをし【直し】、
文覚がかたな【刀】も【持つ】たるかいな【腕】をしたたかにうつ。うた【打た】れ
てちとひるむところ【所】に、太刀をすてて、「え【得】たりをう」
とてくん【組ん】だりけり。くま【組ま】れながら文覚、安藤武
者が右のかいな【腕】をつく【突く】。つかれ【疲れ】ながらしめ【締め】たりけり。
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互におとらぬ大ぢからなりければ、うへ【上】になりした【下】に
なり、ころび【転び】あふところ【所】に、かしこがほ【賢顔】に上下よ【寄つ】て、文
覚がはたらく【働く】ところ【所】のぢやうをがうし【拷し】てげり。され
どもこれを事ともせず、いよいよ悪口放言す。門外へ
ひき【引き】いだひ【出い】て、庁の下部にたぶ。給てひつぱる。ひ
ぱら【引つ張ら】れて、立ながら御所の方をにらまへ【睨まへ】、大音声を
あげて、「奉加をこそし給はざらめ、これ程文覚に
からい【辛い】目を見せ給ひつれば、おもひ【思ひ】しらせ申さんずる
物を。三界は皆火宅なり。王宮といふとも、其難を
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のがる【逃る】べからず。十善の帝位にほこつ【誇つ】たうとも、黄
泉の旅にいでなん後は、牛頭・馬頭のせめ【責】をば
まぬかれ【免かれ】給はじ物を」と、おどり【躍り】あがり【上がり】おどり【躍り】あがり【上がり】
ぞ申ける。「此法師奇怪なり」とて、やがて獄定せ
られけり。資行判官は、烏帽子打おとさ【落さ】れて恥
がましさに、しばし【暫し】は出仕もせず。安藤武者、文覚
くん【組ん】だる勧賞に、当座に一廊【*一臈】をへ【経】ずして、右馬允
にぞなされける。さるほど【程】に、其比美福門院かくれ【隠れ】
させ給ひて、大赦あり【有り】しかば、文覚程なくゆるさ【許さ】れ
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けり。しばらくはどこ【何処】にもおこなふ【行なふ】べかりしが、さはな
くして、又勧進帳をささげてすすめ【勧め】けるが、さらば
ただもなくして、「あつぱれ、この世の中は只今みだれ【乱れ】、
君も臣もみな【皆】ほろび【滅び】うせんずる物を」など、おそろ
しき【恐ろしき】事をのみ申ありくあひだ【間】、「この法師都に
をひ【置い】てかなう【叶ふ】まじ。遠流せよ」とて、伊豆国へぞなが
されける。源三位入道の嫡子仲綱の、其比伊豆守
にておはしければ、その沙汰として、東海道より
舟にてくだす【下す】べしとて、伊勢国へゐ【率】てまかり【罷り】
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けるに、法便[* 「法使」と有るのを他本により訂正]両三人ぞつけ【付け】られたる。これらが申ける
は、「庁の下部のならひ【習ひ】、かやうの事につゐ【突い】てこそ、を
のづから依怙も候へ。いかに聖の御房、これ程の事
に逢て遠国へながされ給ふに、しりうと【知人】はもち
給はぬか。土産粮料ごときの物をもこひ【乞ひ】給へかし」と
いひければ、文覚は「さ様の要事いふべきとくゐ【得意】
ももたず。東山の辺にぞとくゐ【得意】はある。いでさらば
ふみ【文】をやらう」どいひければ、けしかる【怪しかる】紙をたづね【尋ね】て
え【得】させたり。「かやうの紙で物かく【書く】やうなし」とて、なげ
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かへす【返す】。さらばとて、厚紙をたづね【尋ね】てえ【得】させたり。文
覚わら【笑つ】て、「法師は物をえかか【書か】ぬぞ。さらばおれら【己等】か
け【書け】」とて、かか【書か】するやう、「文覚こそ高雄の神護寺
造立供養のこころざしあて、すすめ【勧め】候つる程に、
かかる君の代にしも逢て、所願をこそ成就せざらめ、
禁獄せられて、あまさへ【剰へ】伊豆国へ流罪せられ候へ。遠
路の間で候。土産粮料ごときの物も大切に候。此使に
たぶ【賜ぶ】べしとかけ」といひければ、いふままにかいて、「さて
たれどの【誰殿】へとかき【書き】候はうぞ」。「清水の観音房へとかけ」。
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「これは庁の下部をあざむく【欺く】にこそ」と申せば、「さり
とては、文覚は観音をこそふかう【深う】たのみ【頼み】たてまつ【奉つ】
たれ。さらでは誰にかは用事をばいふべき」とぞ申
ける。伊勢国阿野【*阿濃】[B 「阿濃」と傍書]の津より舟にの【乗つ】てくだり【下り】けるが、
遠江の天竜難多【天竜灘】にて、俄に大風ふき、大なみ【浪】たて、
すでに此舟をうちかへさ【返さ】んとす。水手【*水主】梶取ども、いか
にもしてたすから【助から】んとしけれども、波風いよいよあれ【荒】
ければ、或は観音の名号をとなへ、或は最後の十
念にをよぶ【及ぶ】。されども文覚これを事ともせず、たか
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いびき【高鼾】かいてふし【臥し】たりけるが、なに【何】とかおもひ【思ひ】けん、いま【今】
はかうとおぼえける時、かぱとおき、舟のへ【舳】にたて奥の
方をにらまへ【睨まへ】、大音声をあげて、「竜王やある、竜王
やある」とぞよう【呼う】だりける。「いかにこれほどの大願おこ
い【起い】たる聖がの【乗つ】たる舟をば、あやまた【過た】うどはするぞ。
ただいま天の責かうむら【蒙ら】んずる竜神どもかな」と
ぞ申ける。そのゆへ【故】にや、浪風ほどなくしづま【鎮まつ】て、
伊豆国へつき【着き】にけり。文覚京をいで【出で】ける日より、祈
誓する事あり【有り】。「われ都にかへ【帰つ】て、高雄の神護寺
P05086
造立供養すべくは、死ぬべからず。其願むなし
かるべくは、道にて死ぬべし」とて、京より伊豆へ
つきけるまで、折節順風なかりければ、浦づたひ【浦伝ひ】
島づたひ【島伝ひ】して、卅一日があひだ【間】は一向断食にてぞ
あり【有り】ける。され共気力すこしもおとら【劣ら】ず、おこなひ【行ひ】う
ちしてゐたり。まこと【誠】にただ人ともおぼえぬ事ども
『福原院宣』S0510
おほかり【多かり】けり。○近藤四郎国高といふものにあづけ【預け】ら
れて、伊豆国奈古屋がおくにぞすみ【住み】ける。さる程に、
兵衛佐殿へつねはまい【参つ】て、昔今の物がたりども申て
P05087
なぐさむ程に、或時文覚申けるは、「平家には小松の
おほいとの【大臣殿】こそ、心もがう【剛】に、はかり事もすぐれてお
はせしか、平家の運命が末になるやらん、こぞ【去年】の
八月薨ぜられぬ。いまは源平のなかに、わとの程
将軍の相も【持つ】たる人はなし。はやはや謀反おこして、
日本国したがへ給へ」。兵衛佐「おもひ【思ひ】もよらぬ事の
給ふ聖御房かな。われは故池の尼御前にかひ【甲斐】なき
命をたすけ【助け】られたてま【奉つ】て候へば、その後世をとぶら
は【弔は】んために、毎日に法花経一部転読する外は他事
P05088
なし」とこその給ひけれ。文覚かさね【重ね】て申けるは、「天
のあたふるをとら【取ら】ざれば、かへて【却つて】其とが【咎】をうく。時い
たておこなはざれば、かへて【却つて】其殃をうくといふ本文
あり【有り】。かう申せば、御辺の心をみんとて申など思ひ
給か。御辺に心ざしのふかい【深い】色を見給へかし」とて、
ふところ【懐】よりしろい【白い】ぬの【布】につつんだる髑■をひ
とつ【一つ】とりいだす【出だす】。兵衛佐「あれはいかに」との給へ【宣へ】ば、「これ
こそわとのの父、故左馬頭殿のかうべ【頭】よ。平治の後、獄
舎のまへなる苔のしたにうづもれ【埋もれ】て、後世とぶらふ
P05089
人もなかりしを、文覚存ずる旨あて、獄もり【獄守】にこふ【乞う】
て、この十余年頸にかけ、山々寺々おがみ【拝み】まはり、とぶ
らひ【弔ひ】たてまつれ【奉れ】ば、いまは一劫もたすかり給ぬらん。
されば、文覚は故守殿の御ためにも奉公のもので
こそ候へ」と申ければ、兵衛佐殿、一定とはおぼえねども、
父のかうべときく【聞く】なつかしさに、まづ涙をぞながされ
ける。其後はうちとけて物がたりし給ふ。「抑頼朝
勅勘をゆり【許り】ずしては、争か謀反をばおこすべき」
との給へ【宣へ】ば、「それやすい【安い】事、やがてのぼ【上つ】て申ゆるい
P05090
てたてまつら【奉ら】ん」。「さもさうず、御房も勅勘の身で
人を申ゆるさ【許さ】うどの給ふあてがいやう【宛行様】こそ、おほ
き【大き】にまことしからね」。「わが身の勅勘をゆりうど申
さばこそひが事【僻言】ならめ。わとのの事申さうは、なにか
くるしかる【苦しかる】べき。いまの都福原の新都へのぼら【上ら】うに、三
日にすぐ【過ぐ】まじ。院宣うかがは【伺は】うに一日がとうりう【逗留】ぞ
あらんずる。都合七日八日にはすぐ【過ぐ】べからず」とて、つきい
で【出で】ぬ。奈古屋にかへ【帰つ】て、弟子ども【共】には、伊豆の御山【*雄山】に人
にしのん【忍ん】で七日参籠の心ざしあり【有り】とて、いでにけり。
P05091
げにも三日といふに、福原の新都へのぼりつつ前右
兵衛[B ノ]督光能卿のもとに、いささかゆかりあり【有り】ければ、
それにゆい【行い】て、「伊豆国流人、前兵衛佐頼朝こそ勅勘
をゆるさ【許さ】れて院宣をだにも給はらば、八ケ国の家
人ども催しあつめ【集め】て、平家をほろぼし、天下をし
づめ【鎮め】んと申候へ」。兵衛[B ノ]督「いさとよ、わが身も当時は
三官ともにとどめ【留め】られて、心ぐるしいおりふし【折節】なり。
法皇もをし【押し】こめられてわたらせ給へば、いかがあらん
ずらん。さりながらもうかがう【伺う】てこそ見め」とて、此由ひ
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そかに奏せられければ、法皇やがて院宣をこそくだ
さ【下さ】れけれ。聖これをくびにかけ、又三日といふに、伊豆国
へくだり【下り】つく。兵衛[B ノ]佐「あつぱれ、この聖御房は、なまじゐ
によしなき事申いだし【出し】て、頼朝又いかなるうき【憂き】目
にかあはんずらん」と、おもは【思は】じ事なうあんじ【案じ】つづけ【続け】て
おはしけるところ【所】に、八日といふ午刻ばかりくだり【下り】つい
て、「すは院宣よ」とてたてまつる【奉る】。兵衛佐、院宣と
きくかたじけなさ【忝さ】に、手水うがひをして、あたらし
き烏帽子・浄衣きて、院宣を三度拝してひ
P05093
らかれたり。項年より以来、平氏王皇蔑如して、
政道にはばかる事なし。仏法を破滅して、朝威を
ほろぼさんとす。夫我朝は神国也。宗廟あひならん
で、神徳これ【是】あらたなり。故朝廷開基の後、数千余
歳のあひだ、帝猷をかたぶけ【傾け】、国家をあやぶめんと
する物、みなもて敗北せずといふ事なし。然則且は
神道の冥助にまかせ【任せ】、且は勅宣の旨趣をまも【守つ】て、
はやく平氏の一類を誅して、朝家の怨敵を
しりぞけよ。譜代弓箭の兵略を継、累祖奉公の
P05094
忠勤を抽て、身をたて、家をおこすべし。ていれば【者】、
院宣かくのごとし。仍執達如件。治承四年七月十
四日前右兵衛[B ノ]督光能が奉はり謹上前[B ノ]右兵衛佐
殿へとぞかか【書か】れたる。此院宣をば錦の袋にいれ【入れ】て、
石橋山の合戦の時も、兵衛佐殿頸にかけられたり
『富士川』S0511
けるとかや。○さる程に、福原には、勢のつかぬ先にいそぎ
打手をくだすべしと、公卿僉議あて、大将軍には小
松権亮少将維盛、副将軍には薩摩守忠教【*忠度】、都合
其勢三万余騎、九月十八日に都をたて、十九日には
P05095
旧都につき、やがて廿日、東国へこそう【討つ】たた【立た】れけれ。大
将軍権亮少将維盛は、生年廿三、容儀体拝絵に
かくとも筆も及がたし。重代の鎧唐皮といふきせ
なが【着背長】をば、唐櫃にいれ【入れ】てかか【舁か】せらる。路打うちには、赤地
の錦の直垂に、萠黄威のよろひ【鎧】きて、連銭葦
毛なる馬に、黄覆輪の鞍をい【置い】てのり給へり。副
将軍薩摩守忠教【*忠度】は、紺地の錦のひたたれに、
黒糸おどしの鎧きて、黒き馬のふとう【太う】たくましゐ【逞しい】
に、いかけ地【沃懸地】の鞍をい【置い】てのり給へり。馬・鞍・鎧・甲・弓矢・
P05096
太刀・刀にいたるまで、てり【照り】かかやく【輝く】程にいでたた【出で立た】れたり
しかば、めでたかりし見物なり。薩摩[B ノ]守忠教【*忠度】は、年
来ある宮腹の女房のもとへかよは【通は】れけるが、或時
おはしたりけるに、其女房のもとへ、やごとなき女房
まらうと【客人】にきたて、やや久しう物がたり【物語】し給ふ。さ
よ【小夜】もはるかにふけ【更け】ゆくまでに、まらうと【客人】かへり給は
ず。忠教【*忠度】軒ばにしばしやすらひて、扇をあらくつか
は【使は】れければ、宮腹の女房、「野もせ【野狭】にすだく虫のね【音】
よ」と、ゆふ【優】にやさしう口ずさみ給へば、薩摩守やがて
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扇をつかひやみてかへら【帰ら】れけり。其後又おはしたり
けるに、宮腹の女房「さても一日、なに【何】とて扇をば
つかひ【使ひ】やみしぞや」ととは【問は】れければ、「いさ、かしかましなど
きこえ【聞え】候しかば、さてこそつかひ【使ひ】やみ候しか」とぞの
給ひける。かの女房のもとより忠教【*忠度】のもとへ、小袖を
一かさね【重ね】つかはす【遣はす】とて、ちさと【千里】のなごり【名残】のかなしさに、
一首の歌をぞをくら【送ら】れける。
あづまぢ【東路】の草葉をわけん袖よりも
たたぬたもとの露ぞこぼるる W035
P05098
薩摩守返事には
わかれ路をなにかなげかんこえてゆく【行く】
関もむかしの跡とおもへ【思へ】ば W036
「関も昔の跡」とよめる事は、平将軍貞盛、将門
追討のために、東国へ下向せし事をおもひ【思ひ】いで【出で】て
よみ【詠み】たりけるにや、いとやさしうぞきこえ【聞え】し。
昔は朝敵をたいらげ【平げ】に外土へむかふ【向ふ】将軍は、ま
づ参内して切刀を給はる。震儀【*宸儀】南殿に出御し、
近衛階下に陣をひき【引き】、内弁外弁の公卿参列
P05099
して、誅儀【*中儀】の節会おこなは【行なは】る。大将軍副将軍、お
のをの礼儀をただしうしてこれを給はる。承平天
慶の蹤跡も、年久しうなて准へがたしとて、今度
は讃岐守平の正盛が前対馬守源[B ノ]義親追討
のために出雲国へ下向せし例とて、鈴ばかり給て、
皮の袋にいれ【入れ】て、雑色が頸にかけさせてぞく
だら【下ら】れける。いにしへ、朝敵をほろぼさんとて都を
いづる【出づる】将軍は、三の存知あり【有り】。切刀を給はる日家
をわすれ、家をいづる【出づる】とて妻子をわすれ、戦場に
P05100
して敵にたたかふ【戦ふ】時、身をわする【忘る】。されば、今の
平氏の大将維盛・忠教【*忠度】も、定てかやうの事をば
存知せられたりけん。あはれなりし事共也。同廿
二日新院又安芸国厳島へ御幸なる。去る三
月にも御幸あり【有り】き。そのゆへにや、なか一両月世
もめでたくおさま【治まつ】て、民のわづらひ【煩ひ】もなかりしが、
高倉宮の御謀反によて、又天下みだれて、世上
もしづかならず。これによて、且は〔天下静謐のため、且は〕聖代不予の御祈
念のためとぞきこえ【聞え】し。今度は福原よりの御幸
P05101
なれば、斗薮のわづらひ【煩ひ】もなかりけり。手づからみ
づから御願文をあそばい【遊ばい】て、清書をば摂政殿せ
させおはします。蓋聞。法性雲閑也、十四十五の
月高晴、権化智深し、一陰一陽の風旁扇ぐ。夫
厳島の社は称名あまねくきこゆる【聞ゆる】には、効験無
双の砌也。遥嶺の社壇をめぐる、をのづから大慈
の高く峙てるを彰し、巨海の詞宇【*祠宇】にをよぶ【及ぶ】、空
に弘誓の深広なる事を表す。夫以、初庸昧の身
をもて、忝皇王の位を践む。今賢猷を霊境の
P05102
群に翫で、閑坊を射山の居にたのしむ。しかる【然る】に、
ひそかに一心の精誠を抽で、孤島の幽祠に詣、瑞
籬の下に明恩を仰ぎ、懇念を凝して汗をながし、
宝宮のうちに霊託を垂。そのつげの心に銘ずる
あり【有り】。就中にことに怖畏謹慎の期をさすに、も
はら季夏初秋の候にあたる。病痾忽に侵し、
猶医術の験を施す[* 「絶す」と有るのを他本により訂正]事なし。平計頻に転ず、
弥神感の空しからざることを知ぬ。祈祷を求と
いへども、霧露散じがたし。しかじ、心符の心ざし【志】を
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抽でて、かさね【重ね】て斗薮の行をくはたて【企て】んとおもふ【思ふ】。
漠々たる寒嵐の底、旅泊に臥て夢をやぶり、
せいせい【凄々】たる微陽のまへ、遠路に臨で眼をきはむ。
遂に枌楡の砌について、敬て、清浄の蓆を展、書
写したてまつる色紙墨字の妙法蓮華経一部、
開結二経、阿弥陀・般若心等の経各一巻。手づから
自から書写したてまつる【奉る】金泥の提婆品一巻。時
に蒼松蒼栢の陰、共に善理の種をそへ、潮去[* 「湖去」と有るのを他本により訂正]潮来[* 「湖来」と有るのを他本により訂正]
響、空に梵唄の声に和す。弟子北闕の雲を辞し
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て八実【*八日】、涼燠のおほく【多く】廻る事なしといへども、西海
の浪を凌事二たび【二度】、深く機縁のあさから【浅から】ざる事
を知ぬ。朝に祈る客一にあらず、夕に賽【賽申】する
もの且千也。但し、尊貴の帰仰おほし【多し】といへども、
院宮の往詣いまだきかず。禅定法皇初て其
儀をのこい【残い】給ふ。弟子眇身深運其志、彼嵩高
山の月の前には漢武いまだ和光のかげを拝せず。
蓬莱洞の雲の底にも、天仙むなしく垂跡の
塵をへだつ。仰願くは大明神、伏乞らくは一乗経、
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新に丹祈をてらして唯一の玄応を垂給へ。治承
四年九月廿八日太上天皇とぞあそばさ【遊ばさ】れたる。
さる程に、此人々は九重の都をたて、千里の東
海におもむか【赴か】れける。たいらか【平か】にかへり【帰り】のぼらん事も
まこと【誠】にあやうき【危ふき】有さまどもにて、或は野原の露
にやどをかり、或たかねの苔に旅ねをし、山をこえ
河をかさね【重ね】、日かず【数】ふれば、十月十六日には、するが【駿河】の
国清見が関にぞつき【着き】給ふ。都をば三万余騎で
いで【出で】しかど、路次の兵めし【召し】具して、七万余騎とぞ
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きこえ【聞え】し。先陣はかん原【蒲原】・富士河にすすみ、後陣は
いまだ手越・宇津のやにささへたり。大将軍権亮
少将維盛、侍大将上総守忠清をめし【召し】て、「ただ維
盛が存知には、足柄をうちこえて坂東にていくさ【軍】を
せん」とはやら【逸ら】れけるを、上総守申けるは、「福原をたた
せ給し時、入道殿の御定には、いくさ【軍】をば忠清に
まかせ【任せ】させ給へと仰候しぞかし。八ケ国の兵共みな
兵衛佐にしたがひ【従ひ】ついて候なれば、なん【何】十万騎か候
らん。御方の御勢は七万余騎とは申せども、国々の
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かり武者共【駆武者共】なり。馬も人もせめふせて候。伊豆・駿河
のせい【勢】のまいる【参る】べきだにもいまだみえ【見え】候はず。ただ富士
河をまへにあてて、みかた【御方】の御勢をまた【待た】せ給ふべうや
候らん」と申ければ、力及ばでゆらへたり。さる程に、兵
衛佐は足柄の山を打こえて、駿河国きせ河【黄瀬河】にこそ
つき給へ。甲斐・信濃の源氏ども馳来てひとつ【一つ】に
なる。浮島が原にて勢ぞろへあり【有り】。廿万騎とぞしる
いたる。常陸源氏佐竹太郎が雑色、主の使にふみ【文】も【持つ】
て京へのぼるを、平家の先陣上総守忠清これを
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とどめ【留め】て、も【持つ】たる文をばひ【奪ひ】とり、あけてみれ【見れ】ば、女房
のもとへの文なり。くるしかる【苦しかる】まじとて、とらせ[B て]げり。
「抑兵衛佐殿の勢、いかほどあるぞ」ととへば、「凡八日九
日の道にはたとつづいて、野も山も海も河も武
者で候。下臈は四五百千までこそ物の数をば知て
候へども、それよりうへ【上】はしら【知ら】ぬ候。おほい【多い】やらう、すく
ない【少い】やらうをばしり【知り】候はず。昨日きせ川【黄瀬川】で人の申
候つるは、源氏の御勢廿万騎とこそ申候つれ」。上
総守これをきい【聞い】て、「あつぱれ、大将軍の御心ののび【延び】
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させ給たる程口おしい【惜しい】事候はず。いま一日も先に
打手をくださ【下さ】せ給たらば、足柄の山こえて、八ケ国へ
御出候ば、畠山が一族、大庭兄弟などかまいら【参ら】で候べ
き。これらだにもまいり【参り】なば、坂東にはなびかぬ草
木も候まじ」と、後悔すれどもかひ【甲斐】ぞなき。又大将
軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井
の斎藤別当実盛をめし【召し】て、「やや実盛、なんぢ程の
つよ弓【強弓】勢兵、八ケ国にいかほど【程】あるぞ」ととひ【問ひ】給へば、
斎藤別当あざわら【笑つ】て申けるは、「さ候へば、君は実
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盛を大矢とおぼしめし【思し召し】候歟。わづかに十三束こそ仕
候へ。実盛程ゐ【射】候物は、八ケ国にいくらも候。大矢と
申ぢやう【定】の物の、十五束におとてひく【引く】は候はず。弓
のつよさもしたたかなる物五六人してはり【張り】候。
かかるせい兵【精兵】どもがゐ【射】候へば、鎧の二三両をもかさね
て、たやすうゐとをし【射通し】候也。大名一人と申は、せい【勢】の
すくない【少い】ぢやう【定】、五百騎におとるは候はず。馬にの【乗つ】つれ
ばおつる【落つる】道をしら【知ら】ず、悪所をはすれ【馳すれ】ども馬をた
をさ【倒さ】ず。いくさ【軍】は又おや【親】もうた【討た】れよ、子もうた【討た】れよ、
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死ぬればのり【乗り】こえ【越え】のり【乗り】こえ【越え】たたかふ【戦ふ】候。西国のいくさ【軍】と
申は、おや【親】うた【討た】れぬれば孝養し、いみ【忌】あけてよせ、
子うた【討た】れぬれば、そのおもひ【思ひ】なげき【歎き】によせ【寄せ】候はず。
兵粮米つきぬれば、春は田つくり、秋はかり【刈り】おさめ【収め】て
よせ、夏はあつし【暑し】といひ、冬はさむしときらひ【嫌ひ】候。
東国にはすべて其儀候はず。甲斐・信乃【*信濃】の源氏共、
案内はし【知つ】て候。富士のすそ【裾】より搦手にやまはり【廻り】
候らん。かう申せば君をおくせ【臆せ】させまいらせ【参らせ】んとて
申には候はず。いくさ【軍】はせい【勢】にはよらず、はかり事に
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よるとこそ申つたへて候へ。実盛今度のいくさ【軍】に、
命いき【生き】てふたたびみやこ【都】へまいる【参る】べしとも覚候は
ず」と申ければ、平家の兵共これをきい【聞い】て、みな
ふるい【震ひ】わななきあへり。さる程に、十月廿三日にも
なりぬ。あすは源平富士河にて矢合とさだめ【定め】
たりけるに、夜に入て、平家の方より源氏の陣を
見わたせ【渡せ】ば、伊豆・駿河〔の〕人民・百姓等がいくさ【軍】におそ
れ【恐れ】て、或は野にいり、山にかくれ、或は舟にとりの【乗つ】
て海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平
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家の兵ども、「あなおびたたしの源氏の陣のとを
火【遠火】のおほさよ。げにもまこと【誠】に野も山も海も河も
みなかたき【敵】であり【有り】けり。いかがせん」とぞあはて【慌て】ける。
其夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらもむれ【群れ】
ゐたりける水鳥どもが、なに【何】にかおどろき【驚き】たりけん、
ただ一ど【度】にばと立ける羽音の、大風いかづち【雷】など
の様にきこえ【聞え】ければ、平家の兵ども【共】、「すはや源氏
の大ぜい【勢】のよする【寄する】は。斎藤別当が申つる様に、定て
搦手もまはるらん。とり【取り】こめ【込め】られてはかなふ【叶ふ】まじ。ここ
P05114
をばひい【引い】て尾張河州俣をふせけ【防け】や」とて、とる
物もとりあへず、我さきにとぞ落ゆきける。あまり
にあはてさはい【騒い】で、弓とる物は矢をしら【知ら】ず、矢とる
もの【者】は弓をしら【知ら】ず、人の馬にはわれのり【乗り】、わが馬をば
人にのら【乗ら】る。或はつないだる馬にの【乗つ】てはすれ【馳すれ】ば、く
ゐ【杭】をめぐる事かぎりなし。ちかき【近き】宿々よりむかへ【迎へ】
とてあそびける遊君遊女ども、或はかしら【頭】け【蹴】わ
られ、腰ふみ【踏み】おら【折ら】れて、おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】物おほかり【多かり】けり。
あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、ふじ河に
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をし【押し】よせて、天もひびき、大地もゆるぐ程に、時をぞ
『五節之沙汰』S0512
三ケ度つくりける。○平家の方には音もせず、人を
つかはし【遣し】て見せければ、「みな【皆】落て候」と申。或は敵の
わすれたる鎧とてまいり【参り】たる物もあり【有り】、或はかた
き【敵】のすて【捨て】たる大幕とてまいり【参り】たるものもあり【有り】。
「敵の陣には蝿だにもかけり【翔けり】候はず」と申。兵衛佐、
馬よりおり、甲をぬぎ、手水うがいをして、王城の
方をふし【伏し】おがみ【拝み】、「これはまたく頼朝がわたくしの
高名にあらず。八幡大菩薩の御ぱからひなり」
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とぞの給ひける。やがてうとる【打つ取る】所なればとて、
駿河国をば一条次郎忠頼、遠江をば安田三
郎義定にあづけらる。平家をばつづゐ【続い】てもせ
む【攻む】べけれども、うしろ【後ろ】もさすがおぼつかなしとて、浮
島が原よりひき【引き】しりぞき【退ぞき】、相模国へぞかへら【帰ら】れける。
海道宿々の遊君遊女ども「あないまいまし【忌々し】。打
手の大将軍の矢ひとつ【一つ】だにもゐ【射】ずして、にげ【逃げ】
のぼり給ふうたてしさよ。いくさ【軍】には見にげ【見逃げ】といふ
事をだに、心うき事にこそするに、これ【是】はききにげ【聞き逃げ】し
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給ひたり」とわらひ【笑ひ】あへり。落書どもおほかり【多かり】けり。
都の大将軍をば宗盛といひ、討手の大将をば
権亮といふ間、平家をひら屋によみ【読み】なして、
ひらやなる宗盛いかにさはぐ【騒ぐ】らん
はしら【柱】とたのむ【頼む】すけをおとして W037
富士河のせぜ【瀬々】の岩こす水よりも
はやくもおつる伊勢平氏かな W038
上総守が富士河に鎧をすて【捨て】たりけるをよめり。
富士河によろひはすてつ墨染の
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衣ただきよ【着よ】後の世のため W039
ただきよはにげの馬にぞのり【乗り】にける
上総しりがいかけてかひなし W040
同十一月八日、大将軍権亮少将維盛、福原の新都へ
のぼりつく。入道相国大にいかて、「大将軍権亮少将
維盛をば、鬼界が島へながすべし。侍大将上総守
忠清をば、死罪におこなへ」とぞの給ひける。同九日、
平家の侍ども老少参会して、忠清が死罪
の事いかがあらんと評定す。なかに主馬判官
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守国【*盛国】すすみいで【出で】て申けるは、「忠清は昔よりふかく
人【不覚人】とはうけ給【承り】及候はず。あれが十八の歳と覚候。鳥
羽殿の宝蔵に五畿内一の悪党二人、にげ籠
て候しを、よ【寄つ】てからめうど申物も候はざりしに、
この忠清、白昼唯一人、築地をこえ【越え】はね入て、一
人をばうち【討ち】とり、一人をばいけど【生捕つ】て、後代に名を
あげたりし物にて候。今度の不覚はただこと【唯事】
ともおぼえ候はず。これにつけてもよくよく兵乱
の御つつしみ候べし」とぞ申ける。同十日、大将軍
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権亮少将維盛、右近衛中将になり給ふ。打手の
大将ときこえ【聞え】しかども、させるしいだし【出し】たる事も
おはせず、「これは何事の勧賞ぞや」と、人々ささ
やきあへり。昔将門追討のために、平将軍貞
盛、田原藤太秀里【*秀郷】うけ給【承つ】て、坂東へ発向し
たりしかども、将門たやすうほろび【亡び】がたかりし
かば、かさね【重ね】て打手をくだすべしと公卿僉議あ
て、宇治の民部卿忠文、清原重藤【*滋藤】、軍監といふ
官を給はてくだられけり。駿河国清見が関に
P05121
宿したりける夜、かの重藤【*滋藤】漫々たる海上を遠
見して、「漁舟火影寒焼浪、駅路鈴声夜過山」
といふから歌をたからか【高らか】に口ずさみ給へば、忠文
ゆふ【優】におぼえて感涙をぞながさ【流さ】れける。さる程に
将門をば、貞盛・秀里【*秀郷】つゐに【遂に】打とてげり。その【其の】かう
べ【頭】をもたせてのぼる程に、清見が関にてゆき【行き】あふ
たり。其より先後の大将軍うちつれて上洛
す。貞盛・秀里【*秀郷】に勧賞おこなはれける時、忠文・
重藤【*滋藤】にも勧賞あるべきかと公卿僉議あり【有り】。九
P05122
条右丞相師資【*師輔】公の申させ給ひけるは、「坂東へ打
手はむかふ【向う】たりといへども、将門たやすうほろび【亡び】がた
きところ【所】に、この人共仰をかうむ【蒙つ】て関の東へおも
むく時、朝敵すでにほろびたり。さればなどか勧
賞なかるべき」と申させ給へども、其時の執柄小野[B ノ]
宮殿、「「うたがはしき【疑はしき】をばなす事なかれ」と礼記の文に
候へば」とて、つゐに【遂に】なさせ給はず。忠文これを口おしき
事にして「小野[B ノ]宮殿の御末をばやつ子【奴】にみなさん。
九条殿の御末にはいづれの世までも守護神とならん」
P05123
とちかひ【誓ひ】つつひ〔じ〕に【干死】にこそし給ひけれ。されば九条殿の
御末はめでたうさかへ【栄え】させ給へども、小野[B ノ]宮殿の御末
にはしかる【然る】べき人もましまさず、いまはたえ【絶え】はて給ひ
けるにこそ。さる程に、入道相国の四男頭中将重衡、左
近衛中将になり給ふ。同十一月十三日、福原には内裏つ
くり【造り】いだし【出し】て、主上御遷幸あり【有り】。大嘗会あるべかり
しかども、大嘗会は十月のすゑ、東河に御ゆき
して御禊あり【有り】。大内の北の野に税庁所【*斎場所】をつくて、
神服神具をととのふ。大極殿のまへ、竜尾道の壇[B ノ]
P05124
下に廻竜殿【*廻立殿】をたてて、御湯をめす。同壇のならびに
太政宮をつくて、神膳をそなふ。震宴【*神宴】あり【有り】、御遊
あり【有り】、大極殿にて大礼あり【有り】、清暑堂にて御神楽あり【有り】、
豊楽院にて宴会あり【有り】。しかる【然る】を、この福原の新都
には大極殿もなければ、大礼おこなふ【行ふ】べきところ【所】も
なし。清暑堂もなければ、御神楽奏すべき様も
なし。豊楽院もなければ、宴会もおこなはれず。今
年はただ新嘗会・五節ばかりあるべきよし公卿
僉議あて、なを【猶】新嘗のまつりをば、旧都の神
P05125
祇館【*神祇官】にしてとげられけり。五節はこれ清御原の
そのかみ、吉野の宮にして、月しろく【白く】嵐はげしかり
し夜、御心をすまし【澄まし】つつ、琴をひき給ひしに、神
女あまくだり【下り】、五たび袖をひるがへす。これぞ五節
『都帰』S0513
のはじめなる。○今度の都遷をば、君も臣も御
なげきあり【有り】。山・奈良をはじめて、諸寺諸社にいたる
まで、しかる【然る】べからざるよし【由】一同にうたへ【訴へ】申あひだ、
さしもよこ紙【横紙】をやら【破ら】るる太政入道も、「さらば都
がへりあるべし」とて、京中ひしめきあへり。同十
P05126
二月二日、にはかに都がへりあり【有り】けり。新都は北は
山にそひ【添ひ】てたかく、南は海ちかく【近く】してくだれり。
浪の音つねはかまびすしく、塩風はげしき所也。
されば、新院いつとなく御悩のみしげかり【滋かり】ければ、
いそぎ福原をいでさせ給ふ。摂政殿をはじめたて
ま【奉つ】て、太政大臣以下の公卿殿上人、われもわれもと
供奉せらる。入道相国をはじめとして、平家一門
の公卿殿上人、われさきにとぞのぼられける。誰か
心うかり【憂かり】つる新都に片とき【片時】ものこるべき。去六月
P05127
より屋ども【共】こぼちよせ、資材雑具はこび【運び】くだし、
形のごとくとりたて【取り立て】たりつるに、又物ぐるはしう
都がへりあり【有り】ければ、なんの沙汰にも及ばず、うち
すて【捨て】打すてのぼられけり。をのをのすみか【栖】もなくし
て、やわた【八幡】・賀茂・嵯峨・うづまさ【太秦】・西山・東山のかたほと
りにつゐ【着い】て、御堂の廻廊、社の拝殿などにたち【立ち】や
ど【宿つ】てぞ、しかる【然かる】べき人々もましましける。今度の都
うつり【遷り】の本意をいかにといふに、旧都は南都・北嶺
ちかく【近く】して、いささかの事にも春日の神木、日吉の
P05128
神輿などいひて、みだりがはし。福原は山へだたり【隔たり】
江かさな【重なつ】て、程もさすがとをけれ【遠けれ】ば、さ様のことたや
すからじとて、入道相国のはからひいだされたりける
とかや。同十二月廿三日、近江源氏のそむきしを
せめ【攻め】んとて、大将軍には左兵衛[B ノ]督知盛、薩摩守忠
教【*忠度】、都合其勢二万余騎で近江国へ発向して、
山本・柏木・錦古里などいふあぶれ源氏ども【共】、一々に
『奈良炎上』S0514
みなせめ【攻め】おとし【落し】、やがて美乃【*美濃】・尾張へこえ【越え】給ふ。○都には
又「高倉宮園城寺へ入御時、南都の大衆同心して、
P05129
あまさへ【剰へ】御むかへにまいる【参る】条、これもて朝敵なり。されば
南都をも三井寺をもせめ【攻め】らるべし」といふ程こそ
あり【有り】けれ、奈良の大衆おびたたしく【夥しく】蜂起す。摂政殿
より「存知の旨あらば、いくたびも奏聞にこそ及
ばめ」と仰下されけれども、一切もちゐ【用ゐ】たてまつら【奉ら】ず。
右官の別当忠成を御使にくださ【下さ】れたりければ、「しや
のり物【乗物】よりとてひき【引き】おとせ【落せ】。もとどり【髻】きれ」と騒動する
間、忠成色をうしな【失つ】てにげ【逃げ】のぼる。つぎに右衛門佐
親雅をくださ【下さ】る。これ【是】をも「もとどり【髻】きれ」と大衆
P05130
ひしめきければ、とる【取る】物もとりあへずにげのぼる。
其時は勧学院の雑色二人がもとどり【髻】きら【切ら】れに
けり。又南都には大なる球丁【*毬杖】の玉をつくて、これは
平相国のかうべ【頭】となづけ【名付け】て、「うて【打て】、ふめ【踏め】」などぞ申ける。
「詞のもらし【漏らし】やすきは、わざはひ【災】をまねく媒なり。詞
のつつしま【慎ま】ざるは、やぶれ【敗れ】をとる【取る】道なり」といへり。こ
の入道相国と申すは、かけまくもかたじけなく【忝く】当今
の外祖にておはします。それをかやうに申ける南
都の大衆、凡は天魔の所為とぞみえ【見え】たりける。入道
P05131
相国かやうの事どもつたへ【伝へ】きき給ひて、いかでかよ
しとおもは【思は】るべき。かつがつ南都の狼籍【*狼藉】をしづめん
とて、備中国住人瀬尾太郎兼康、大和国の検
非所に補せらる。兼康五百余騎で南都へ発向す。
「相構て、衆徒は狼籍【*狼藉】をいたすとも、汝等はいたすべ
からず。物の具なせそ。弓箭な帯しそ」とてむけ
られたりけるに、大衆かかる内儀をばしら【知ら】ず、兼康
がよせい【余勢】六十余人からめとて、一々にみな頸をきて、
猿沢の池のはたにぞかけ【懸け】ならべ【並べ】たる。入道相国大に
P05132
いかて、「さらば南都をせめ【攻め】よや」とて、大将軍には頭
中将重衡、副将軍には中宮[B ノ]亮通盛、都合其
勢四万余騎で、南都へ発向す。大衆も老少き
らはず、七千余人、甲の緒をしめ、奈良坂・般若寺
二ケ所[B ノ]、路をほり【掘り】きて、堀ほり、かいだて【掻楯】かき、さかも木【逆茂木】
ひいて待かけたり。平家は四万余騎を二手に
わかて、奈良坂・般若寺二ケ所の城郭にをし【押し】よせ
て、時をどとつくる。大衆はみなかち立うち物【打物】也。官
軍は馬にてかけ【駆け】まはしかけまはし、あそこここにお【追つ】かけ【掛け】
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お【追つ】かけ【掛け】、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ【射】ければ、ふせく【防く】
ところ【所】の大衆、かずをつくゐ【尽くい】てうた【討た】れにけり。卯刻
に矢合して、一日たたかひくらす【暮す】。夜に入て奈良坂・
般若寺二ケ所の城郭ともにやぶれぬ。おち【落ち】ゆく
衆徒のなかに、坂四郎永覚といふ悪僧あり【有り】。打
物も【持つ】ても、弓矢をとても、力のつよさも、七大寺・十
五大寺にすぐれたり。もえぎ威の腹巻のうへ【上】に、
黒糸威の鎧をかさね【重ね】てぞき【着】たりける。帽子甲
に五牧甲の緒をしめて、左右の手には、茅の葉
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のやうにそ【反つ】たる白柄の大長刀、黒漆の大太刀もつ
ままに、同宿十余人、前後にたて【立て】、てがい【碾磑】の門より
う【打つ】ていでたり。これぞしばらく【暫く】ささへたる。おほく【多く】
の官兵、馬の足なが【薙が】れてうた【討た】れにけり。されども
官軍は大勢にて、いれかへ【入れ替へ】いれかへ【入れ替へ】せめ【攻め】ければ、永覚が
前後左右にふせく【防く】ところ【所】の同宿みなうた【討た】れぬ。
永覚ただひとりたけけれ【猛けれ】ど、うしろ【後】あらはになり
ければ、南をさいておち【落ち】ぞゆく。夜いくさ【軍】になて、
くらさ【暗さ】はくらし、大将軍頭中将、般若寺の門の前に
P05135
う【打つ】た【立つ】て、「火をいだせ」との給ふ程こそあり【有り】けれ、平
家の勢のなかに、幡磨国【*播磨国】住人福井庄下司、二
郎大夫友方といふもの、たて【楯】をわり【破り】たい松にして、
在家に火をぞかけたりける。十二月廿八日の夜なり
ければ、風ははげしし【烈しし】、ほもと【火元】はひとつ【一つ】なりけれども【共】、
吹まよふ風に、おほく【多く】の伽藍に吹かけたり。恥をも
おもひ【思ひ】、名をもおしむ【惜しむ】ほど【程】のものは、奈良坂にて
うちじに【討死】し、般若寺にしてうた【討た】れにけり。行歩にか
なへ【叶へ】る物は、吉野十津河の方へ落ゆく。あゆみ【歩み】も
P05136
えぬ老僧や、尋常なる修学者児ども【共】、をんな【女】
童部は、大仏殿の二階のうへ、やましな寺【山階寺】のうち
へ、われさきにとぞにげ【逃げ】ゆきける。大仏殿の二階
の上には千余人のぼりあがり【上がり】、かたき【敵】のつづく【続く】をの
ぼせ【上せ】じと、橋をばひい【引い】てげり。猛火はまさしうをし【押し】
かけ【掛け】たり。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】声、焦熱・大焦熱・無間阿
毘のほのを【炎】の底の罪人も、これにはすぎじとぞ
見えし。興福寺は淡海公の御願、藤氏累代の寺也。
東金堂におはします仏法最初の釈迦の像、西金
P05137
堂におはします自然涌出の観世音、瑠璃をならべ
し四面の廊、朱丹をまじへし二階の楼、九輪
そらにかかやき【輝き】し二基の塔、たちまちに煙と成
こそかなしけれ。東大寺は、常在不滅、実報寂光
の生身の御仏とおぼしめし【思し召し】なずらへて、聖武皇
帝、手づからみづからみがき【磨き】たて給ひし金銅十
六丈の廬遮那仏、烏瑟たかくあらはれ【現はれ】て半天
の雲にかくれ、白毫新におがま【拝ま】れ給ひし満月の
尊容も、御くし【髪】はやけ【焼け】おち【落ち】て大地にあり【有り】、御身は
P05138
わきあひ【鎔き合ひ】て山のごとし【如し】。八万四千の相好は、秋の月
はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜
の星むなしく十悪の風にただよふ。煙は中天に
みちみち、ほのを【炎】は虚空にひまもなし。まのあたりに
見たてまつる【奉る】物、さらにまなこ【眼】をあてず。はるかにつた
へきく人は、肝たましゐ【魂】をうしなへ【失へ】り。法相・三輪の
法門聖教、すべて一巻のこらず。我朝はいふに及ず、
天竺震旦にもこれ【是】程の法滅あるべしともおぼえ
ず。うでん大王【優填大王】の紫磨金をみがき、毘須羯磨が赤
P05139
栴檀をきざん【刻ん】じも、わづかに等身の御仏なり。況
哉これは南閻浮提のうちには唯一無双の御仏、
ながく朽損の期あるべしともおぼえざりしに、いま
毒縁の塵にまじはて、ひさしく【久しく】かなしみをのこし
給へり。梵尺四王、竜神八部、冥官冥衆も驚き
さはぎ【騒ぎ】給ふらんとぞ見えし。法相擁護の春日の
大明神、いかなる事をかおぼしけん。されば春日野の
露も色かはり、三笠山の嵐の音うらむる【恨むる】さまに
ぞきこえ【聞え】ける。ほのを【炎】の中にてやけ【焼け】しぬる人
P05140
数をしるひ【記い】たりければ、大仏殿の二階の上には
一千七百余人、山階寺には八百余人、或御堂には
五百余人、或御堂には三百余人、つぶさにしるい
たりければ、三千五百余人なり。戦場にしてう
たるる大衆千余人、少々は般若寺の門の前に
きりかけ、少々はもたせて都へのぼり給ふ。廿九日、
頭中将、南都ほろぼして北京へ帰りいら【入ら】る。入道相
国ばかりぞ、いきどをり【憤り】はれ【晴れ】てよろこば【喜ば】れけれ。中宮・
一院・上皇・摂政殿以下の人々は、「悪僧をこそほろ
P05141
ぼす【亡ぼす】とも、伽藍を破滅すべしや」とぞ御歎あり【有り】
ける。衆徒の頸ども【共】、もとは大路をわたして獄
門の木に懸らるべしときこえ【聞え】しかども、東大寺・
興福寺のほろびぬるあさましさに、沙汰にも及
ず。あそこここの溝や堀にぞすて【捨て】をきける。聖
武皇帝震筆【*宸筆】の御記文には、「我寺興福せば、
天下も興福し、吾寺衰微せば、天下も衰微
すべし」とあそばさ【遊ばさ】れたり。されば天下の衰微せん
事も疑なしとぞ見えたりける。あさましかり
P05142
つる年もくれ、治承も五年になり【成り】にけり。

平家物語巻第五