平家物語 高野本 巻第七

平家 七(表紙)
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平家七之巻 目録
清水冠者  北国下向
竹生島詣  火打合戦
木曾願書  倶梨迦羅落
篠原合戦  真盛
玄房    木曾山門牒状
同返牒   平家山門連署
主上都落  維盛都落付聖主臨幸
忠度都落  経正都落付青山
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一門都落  福原落
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平家物語巻第七
『清水冠者』S0701
○寿永二年三月上旬に、兵衛佐と木曾冠者
義仲不快の事あり【有り】けり。兵衛佐木曾追
討の為に、其勢十万余騎で信濃国へ発
向す。木曾は依田の城にあり【有り】けるが、是をきい【聞い】
て依田の城を出て、信濃と越後の境、熊坂
山に陣をとる。兵衛佐は同き国善光寺に
着給ふ。木曾乳母子の今井四郎兼平を使
者で、兵衛佐の許へつかはす【遣す】。「いかなる子細のあれば、
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義仲うた【討た】むとはの給ふなるぞ。御辺は
東八ケ国をうちしたがへて、東海道より攻
のぼり、平家を追おとさ【落さ】むとし給ふなり。義
仲も東山・北陸両道をしたがへて、今一日も
さきに、平家を攻おとさ【落さ】むとする事でこそ
あれ。なんのゆへ【故】に御辺と義仲と中をたがふ【違う】
て、平家にわらは【笑は】れんとはおもふ【思ふ】べき。但十郎
蔵人殿こそ御辺をうらむる【恨むる】事ありとて、
義仲が許へおはしたるを、義仲さへすげ
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なうもてなし申さむ事、いかんぞや候へば、うち
つれ申たれ。またく義仲にをいては、御辺
に意趣おもひ【思ひ】奉らず」といひつかはす。兵衛佐
の返事には、「今こそさやうにはの給へ【宣へ】共、慥に
頼朝討べきよし、謀反のくはたて【企て】ありと
申者あり【有り】。それにはよるべからず」とて、土肥・梶原
をさきとして、既に討手をさしむけらるる
由聞えしかば、木曾真実意趣なき由を
あらはさむがために、嫡子清水冠者義重
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とて、生年十一歳になる小冠者に、海野・
望月・諏方【*諏訪】・藤沢などいふ、聞ゆる兵共
をつけて、兵衛佐の許へつかはす【遣す】。兵衛佐
「此上はまこと【誠】に意趣なかりけり。頼朝いまだ
成人の子をもたず。よしよし、さらば子にし申
さむ」とて、清水冠者を相具して、鎌倉へこそ
『北国下向』S0702
帰られけれ。○さる程に、木曾、東山・北陸両道を
したがへて、五万余騎の勢にて、既に京へ
せめ【攻め】のぼるよし聞えしかば、平家はこぞ【去年】より
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して、「明年は馬の草がひ【草飼】について、いくさ【軍】
あるべし」と披露せられたりければ、山陰・
山陽・南海・西海の兵共、雲霞のごとくに
馳まいる【参る】。東山道は近江・美濃・飛弾の兵共
はまいり【参り】たれ共、東海道は遠江より東は
まいら【参ら】ず、西は皆まいり【参り】たり。北陸道は若狭
より北の兵共一人もまいら【参ら】ず。まづ木曾冠
者義仲を追討して、其後兵衛佐を討ん
とて、北陸道へ討手をつかはす。大将軍には
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小松三位中将維盛・越前三位通盛・但馬守経
正・薩摩守忠教【*忠度】・三河守知教【*知度】・淡路守清房、
侍大将には越中前司盛俊・上総大夫判官忠綱・
飛弾大夫判官景高・高橋判官長綱・河内判官
秀国・武蔵三郎左衛門有国・越中次郎兵衛盛嗣・
上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛景清をさき【先】と
して、以上大将軍六人、しかる【然る】べき侍三百四十余
人、都合其勢十万余騎、寿永二年四月十七日
辰一点に都を立て、北国へこそおもむき【赴き】けれ。
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かた道を給はてげれば、逢坂の関よりはじめ
て、路子にもてあふ権門勢家の正税、官物を
もおそれ【恐れ】ず、一々にみなうばひ【奪ひ】とり、志賀・辛崎・
三[B ツ]河尻[B 「九」に「尻」と傍書]・真野・高島・塩津・貝津の道のほとりを
次第に追補【*追捕】してとをり【通り】ければ、人民こらへ
『竹生島詣』S0703
ずして、山野にみな逃散す。○大将軍維盛・通
盛はすすみ給へ共、副将軍経正・忠度・知教【*知度】・清房
などは、いまだ近江国塩津・貝津にひかへたり。其
中にも、経正は詩歌管絃に長じ給へる人
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なれば、かかるみだれの中にも心をすまし【澄まし】、湖の
はた【端】に打出て、遥に奥なる島を見わたし、供
に具せられたる藤兵衛有教をめし【召し】て、「あれ
をばいづくといふぞ」ととは【問は】れければ、「あれ
こそ聞え候竹生島にて候へ」と申。「げにさる
事あり【有り】。いざやまいら【参ら】ん」とて、藤兵衛有教、安
衛門守教以下、侍五六人めし【召し】具して、小舟に
のり、竹生島へぞわたられける。比は卯月
中の八日の事なれば、緑にみゆる梢には
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春のなさけをのこすかとおぼえ、澗谷の鴬舌
声老て、初音ゆかしき郭公、おりしりがほ【折知顔】
につげわたる。松に藤なみさきかかつて
まことにおもしろかりければ、いそぎ舟よりおり、
岸にあが【上がつ】て、此島の景気を見給ふに、心も
詞もをよば【及ば】れず。彼秦皇、漢武、〔或〕童男丱女
をつかはし【遣し】、或方士をして不死の薬を尋ね
給ひしに、「蓬莱をみずは、いなや帰らじ」と
いて、徒に舟のうちにて老、天水茫々として
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求事をえざりけん蓬莱洞の有様も、
かくやあり【有り】けむとぞみえ【見え】し。或経の中に、
「閻浮提のうちに湖あり、其中に金輪際より
おひ出たる水精輪の山あり【有り】。天女すむ所」と
いへり。則此島の事也。経正明神の御まへに
ついゐ給ひつつ、「夫大弁功徳天は往古の如
来、法身の大士也。弁才妙音二天の名は各別
なりといへ共、本地一体にして衆生を済度し
給ふ。一度参詣の輩は、所願成就円満すと
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承はる。たのもしう【頼もしう】こそ候へ」とて、しばらく
法施まいらせ【参らせ】給ふに、やうやう日暮、ゐ待【居待】
の月さし出て、海上も照わたり、社壇も弥かか
やき【輝き】て、まこと【誠】に面白かりければ、常住の
僧共「きこゆる御事なり」とて、御琵琶を
まいらせ【参らせ】たりければ、経正是をひき【引き】給ふに、
上玄石上の秘曲には、宮のうちもすみわたり、
明神感応にたへ【堪へ】ずして、経正の袖のうへ【上】に
白竜現じてみえ【見え】給へり。忝くうれしさの
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あまりに、なくなく【泣く泣く】かうぞ思ひつづけ給ふ。
千はやふる神にいのりのかなへ【適へ】ばや
しるくも色のあらはれ【現はれ】にける W049
されば怨敵を目前にたいらげ【平げ】、凶徒を只今
せめ【攻め】おとさ【落さ】む事の、疑なしと悦で、又舟に
『火打合戦』S0704
とりの【乗つ】て、竹生島をぞ出られける。○木曾
義仲身がらは信濃にありながら、越前国火
打が城をぞかまへける。彼城郭にこもる勢、
平泉寺長吏斎明威儀師・稲津新介・斎
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藤太・林六郎光明・富樫入道仏誓・土田・武部・
宮崎・石黒・入善・佐美を初として、六千余騎
こそこもりけれ。もとより究竟の城郭也。
盤石峙ちめぐて四方に峰をつらねたり。
山をうしろにし、山をまへにあつ。城郭の
前には能美河・新道河とて流たり。二の川
の落あひにおほ木【大木】をきてさかもぎ【逆茂木】にひき【引き】、
しがらみををびたたしう【夥しう】かきあげたれば、東
西の山の根に水さしこうで、水海にむかへ【向へ】るが
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如し。影南山を浸して青して晃漾たり。
浪西日をしづめて紅にして隠淪たり。
彼無熱池の底には金銀の砂をしき、混明
池【*昆明池】の渚にはとくせい【徳政】の舟を浮べたり。此火
打が城のつき池【築池】には、堤をつき、水をにごし【濁し】
て、人の心をたぶらかす。舟なくしては輙
うわたすべき様なかりければ、平家の大勢
むかへ【向へ】の山に宿して、徒に日数ををくる【送る】。城
の内にあり【有り】ける平泉寺の長吏斎明威儀
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師、平家に志ふかかり【深かり】ければ、山の根をまは
て、消息をかき【書き】、ひき目【蟇目】のなかに入て、忍や
かに平家の陣へぞ射入たる。「彼水うみは
往古の淵にあらず。一旦山河をせきあげて候。
夜に入足がろ【足軽】共をつかはし【遣し】て、しがらみをきり
おとさ【落さ】せ給へ。水は程なくおつべし。馬の
足きき【利き】よい所で候へば、いそぎわたさせ給へ。うし
ろ矢は射てまいらせ【参らせ】む。是は平泉寺の長吏
斎明威儀師が申状」とぞかい【書い】たりける。大将軍
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大に悦、やがて足がる【足軽】共をつかはし【遣し】て柵を
きりおとす【落す】。緩うみえ【見え】つれども、げにも
山川なれば水は程なく落にけり。平家の
大勢、しばしの遅々にも及ばず、ざとわたす。
城の内の兵共、しばしささへてふせき【防き】けれ共、
敵は大勢也、みかた【味方】は無勢也ければ、かなう【叶ふ】
べしともみえ【見え】ざりけり。平泉寺長吏
斎明威儀師、平家について忠をいたす。
稲津新介・斎藤太・林六郎光明・富樫入道
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仏誓、ここをば落て、猶平家をそむき、加賀
の国へ引退き、白山河内にひ【引つ】こもる。平家
やがて加賀に打越て、林・富樫が城郭二
ケ所焼はらふ。なに面をむかふ【向ふ】べしとも見え
ざりけり。ちかき【近き】宿々より飛脚をたてて、
此由都へ申たりければ、大臣殿以下残とど
まり給ふ一門の人々いさみ悦事なのめなら
ず。同五月八日、加賀国しの原【篠原】にて勢ぞろへ
あり【有り】。軍兵十万余騎を二手にわかて、大手
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搦手へむかは【向は】れけり。大手の大将軍は小松三
位中将維盛・越前三位通盛、侍大将には越中
前司盛俊をはじめとして、都合其勢七万
余騎、加賀と越中の境なる砥浪山へぞ
むかは【向は】れける。搦手の大将軍は薩摩守忠教【*忠度】・
参河【*三河】守知教【*知度】、侍大将には武蔵三郎左衛門
を先として、都合其勢三万余騎、能登越中
の境なるしほ【志保】の山へぞかかられける。木曾
は越後の国府にあり【有り】けるが、是をきいて
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五万余騎で馳向ふ。わがいくさ【軍】の吉例なれば
とて七手に作る。まづ伯父の十郎蔵人
行家、一万騎でしほの手へぞ向ける。仁科・
高梨・山田次郎、七千余騎で北黒坂へ搦手
にさしつかはす【遣す】。樋口次郎兼光・落合五郎
兼行、七千余騎で南黒坂へつかはし【遣し】けり。一
万[B 余]騎をば砥浪山の口、黒坂のすそ、松長の
柳原、ぐみの木林にひきかくす【隠す】。今井四郎
兼平六千余騎で鷲の瀬を打わたし、ひの
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宮林【日埜宮林】に陣をとる。木曾我身は一万余騎で
おやべ【小矢部】のわたりをして、砥浪山の北のはづ
『願書』S0705
れはにう【羽丹生】に陣をぞとたりける。○木曾の給ひ
けるは、「平家は定て大勢なれば、砥浪山
打越てひろみへ出て、かけあひ【駆け合ひ】のいくさ【軍】にて
ぞあらんずらむ。但かけあひ【駆け合ひ】のいくさ【軍】は勢の
多少による事也。大勢かさ【嵩】にかけてはあし
かり【悪しかり】なむ。まづ旗さし【旗差し】を先だてて白旗を
さしあげたらば、平家是をみ【見】て、「あはや
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源氏の先陣はむかふ【向う】たるは。定て大勢
にてぞあるらん。左右なう広みへうち出
て、敵は案内者、我等は無案内也、とりこめ
られては叶まじ。此山は四方巖石であん
なれば、搦手O[BH へは]よもまはらじ。しばしおりゐて
馬やすめ【休め】ん」とて、山中にぞおりゐんず
らむ。其時義仲しばしあひしらふやうに
もてなして、日をまち【待ち】くらし、平家の大
勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ追おとさ【落さ】ふど思ふなり」
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とて、まづ白旗三十ながれ先だてて、黒
坂のうへ【上】にぞうたて【打つ立て】たる。案のごとく、
平家是をみて、「あはや、源氏の先陣は
むかふ【向う】たるは。定て大勢なるらん。左右なふ
広みへ打出なば、敵は案内者、我等は無
案内なり、とりこめられてはあしかり【悪しかり】なん。
此山は四方巖石であんなり。搦手O[BH へは]よも
まはらじ。馬の草がひ【草飼】水便共によげ
なり。しばしおりゐて馬やすめ【休め】ん」とて、砥浪
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山の山中、猿の馬場といふ所にぞおり
ゐたる。木曾は羽丹生に陣とて、四方を
きと見まはせば、夏山の嶺のみどりの
木の間より、あけ【朱】の玉墻ほのみえ【見え】て、かた
そぎ【片削】作りの社あり【有り】。前に鳥居ぞたたり
ける。木曾殿国の案内者をめし【召し】て、「あれは
いづれの宮と申ぞ。いかなる神を崇奉
ぞ」。「八幡でましまし候。やがて此所は八幡の
御領で候」と申。木曾大に悦て、手書に
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具せられたる大夫房覚明をめし【召し】て、「義
仲こそ幸に新やはた【新八幡】の御宝殿に近付
奉て、合戦をとげむとすれ。いかさまにも
今度のいくさ【軍】には相違なく勝ぬとおぼ
ゆる【覚ゆる】ぞ。さらんにとては、且は後代のため、且は
当時の祈祷にも、願書を一筆かいてま
いらせ【参らせ】ばやとおもふ【思ふ】はいかに」。覚明「尤然るべ
う候」とて、馬よりおりてかかんとす。覚明が
体たらく、かち【褐】の直垂に黒革威の鎧
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きて、黒漆の太刀をはき、廿四さいたるくろ
ぼろ【黒母衣】の矢おひ【負ひ】、ぬりごめ藤【塗籠籐】の弓、脇には
さみ【鋏み】、甲をばぬぎ、たかひもにかけ、えびら
より小硯たたふ紙【畳紙】とり出し、木曾殿の
御前に畏て願書をかく。あぱれ文武二
道の達者かなとぞみえ【見え】たりける。此覚明
はもと儒家[* 「出家」と有るのを他本により訂正]の者也。蔵人道広とて、勧学
院にあり【有り】けるが、出家して最乗房信救と
ぞ名のりける。つねは南都へも通ひけり。
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一とせ高倉宮の園城寺にいら【入ら】せ給ひし
時、牒状を山・奈良へつかはし【遣し】たりけるに、
南都の大衆返牒をば此信救にぞかかせ
たりける。「清盛は平氏の糟糠、武家の塵
芥」とかいたりしを、太政入道大にいかて、「何条
其信救法師め【奴】が、浄海を平氏のぬかかす、
武家のちりあくたとかくべき様はいかに。
其法師めからめとて死罪におこなへ」との
給ふ間、南都をば逃て、北国へ落くだり【下り】、木曾
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殿の手書して、大夫房覚明とぞ名のりける。
其願書に云、帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝
廷の本主、累世明君の曩祖也。宝祚を守らん
がため、蒼生を利せむがために、三身の金容をあらはし、三所の権扉をおしひらき給へり。
爰に頃の年よりこのかた、平相国といふ者
あり【有り】。四海を管領して万民を悩乱せし
む。是既仏法の怨、王法の敵[* 左にの振り仮名]也。義仲いや
しくも弓馬の家に生れて、纔に箕裘の
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塵をつぐ【継ぐ】。彼暴悪を案ずるに、思慮
を顧にあたはず。運を天道にまかせ【任せ】て、身を
国家になぐ。試に義兵をおこして、凶
器[* 「器」の左にの振り仮名]を退んとす。しかる【然る】を闘戦両家の陣を
あはすといへども、士卒いまだ一致の勇を
えざる間、区の心おそれ【恐れ】たる処に、今一陣旗
をあぐる戦場にして、忽に三所和光の
社壇を拝す。機感の純熟明かなり。凶徒
誅戮疑なし。歓喜[B ノ]涙こぼれて、渇仰
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肝にそむ。就中に、曾祖父前陸奥守義
家[B ノ]朝臣、身を宗廟の氏族に帰附して、
名を八幡太郎と号せしよりこのかた、
其門葉たるもの【者】の、帰敬せずといふ事
なし。義仲其後胤として首を傾て
年久し。今此大功を発す事、たとへば
嬰児の貝をもて巨海を量り、蟷螂
が斧をいからかし【怒らかし】て隆車に向がごとし【如し】。
然ども国の為、君のためにしてこれを
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発[* 「発」の左にの振り仮名]す。家のため、身のためにしてこれを
おこさ【起こさ】ず。心ざしの至、神感そらにあり【有り】。
憑哉、悦哉。伏願くは、冥顕威をくはへ、
霊神力をあはせ【合はせ】て、勝事を一時に決し、
怨を四方に退給へ。然則、丹祈冥慮に
かなひ【叶ひ】、見鑒【見鑑】加護をなすべくば、先一の
瑞相を見せしめ給へ。寿永二年五月
十一日源義仲敬白とかいて、我身を始
て十三人が、うは矢【上矢】[B ノ]かぶらをぬき、願書に
P07033
とりぐし【具し】て、大菩薩の御宝殿にぞ
おさめ【納め】ける。たのもしき【頼もしき】かな、大菩薩
真実の志ふたつ【二つ】なきをや遥に照覧
し給ひけん。雲のなかより山鳩三飛
来て、源氏の白旗の上に翩翻す。昔
神宮【*神功】皇后新羅を攻させ給ひしに、
御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】、異国のいくさ【軍】こ
はくして、既にかうとみえ【見え】し時、皇后
天に御祈誓ありしかば、霊鳩三飛
P07034
来て楯の面にあらはれ【現はれ】て、異国の
いくさ【軍】破にけり。又此人々の先祖、頼
義[* 左にの振り仮名]朝臣、貞任・宗任を攻給ひしにも、
御方のたたかひ【戦ひ】よはく【弱く】して、凶徒のいくさ【軍】
こはかりしかば、頼義朝臣敵の陣に
むか【向つ】て、「是はまたく私の火にはあらず、
神火なり」とて、火を放つ。風忽に
異賊の方へ吹おほひ【覆ひ】、貞任が館栗
屋川の城焼きぬ。其後いくさ【軍】破て、
P07035
貞任・宗任ほろびにき。木曾殿か様【斯様】の先蹤
を忘れ給はず、馬よりおり、甲をぬぎ、手水
うがいをして、いま霊鳩を拝し給ひけん
『倶利迦羅【*倶梨迦羅】落』S0706
心のうちこそたのもしけれ。○さるほど【程】に、源平
両方陣をあはす。陣のあはひわづかに三町
ばかりによせ【寄せ】あはせたり。源氏もすすまず、
平家もすすまず。勢兵十五騎、楯の面に
すすませて、十五騎がうは矢【上矢】の鏑を平
家の陣へぞ射入たる。平家又はかり事【謀】
P07036
とも【共】しら【知ら】ず、十五騎を出いて、十五の鏑を
射返す。源氏卅騎を出いて射さすれば、
平家卅騎を出いて卅の鏑を射かへす【返す】。五十
騎を出せば五十騎を出しあはせ【合はせ】、百騎を
出せば百騎を出しあはせ【合はせ】、両方百騎づつ
陣の面にすすんだり。互に勝負をせん
とはやり【逸り】けれ共、源氏の方よりせいし【制し】て
勝負をせさせず。源氏はか様【斯様】にして日
をくらし、平家の大勢をくりから【倶利伽羅】が谷へ
P07037
追おとさ【落さ】ふどたばかりけるを、すこしも
さとらずして、ともにあひしらひ日をくら
す【暮す】こそはかなけれ。次第にくらふ【暗う】なりければ、
北南よりまはつる搦手の勢一万余騎、
くりから【倶利伽羅】の堂の辺にまはりあひ、えびらの
ほうだて【方立て】打たたき、時をどとぞつくり
ける。平家うしろをかへり見ければ、白旗
雲のごとくさしあげ【差し上げ】たり。「此山は四方巖
石であんなれば、搦手よもまはらじと
P07038
思つるに、こはいかに」とてさはぎ【騒ぎ】あへり。去
程に、木曾殿大手より時の声をぞ
あはせ【合はせ】給ふ。松長の柳原、ぐみの木林に
一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が
六千余騎でひの宮林【日埜宮林】にあり【有り】けるも、同
く時をぞつくりける。前後四万騎が
おめく【喚く】声、山も川もただ一度にくづるる
とこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第に
くらふ【暗う】はなる、前後より敵はせめ【攻め】来る、「きた
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なしや、かへせかへせ」といふやからおほかり【多かり】
けれ共、大勢の傾たちぬるは、左右なふ
とてかへす【返す】事かたければ、倶梨迦羅が谷
へわれ先にとぞおとし【落し】ける。まさきにすす
む【進む】だる者がみえ【見え】ねば、「此谷の底に道のある
にこそ」とて、親おとせ【落せ】ば子もおとし【落し】、兄
おとせ【落せ】ば弟もつづく。主おとせ【落せ】ば家子郎
等おとし【落し】けり。馬には人、ひと【人】には馬、落かさ
なり落かさなり、さばかり深き谷一つを平家の
P07040
勢七万余騎でぞうめたりける。巖泉
血をながし、死骸岳をなせり。されば其
谷[B ノ]ほとりには、矢の穴刀の疵残て今に
ありとぞ承はる。平家の方にはむねと
たのま【頼ま】れたりける上総大夫判官忠綱・飛
弾大夫判官景高・河内判官秀国も此谷
にうづもれ【埋もれ】てうせにけり。備中国住人瀬尾
太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて
加賀国住人蔵光次郎成澄が手にかかて、いけ
P07041
どり【生捕り】にせらる。越前国火打が城にてかへり
忠【返り忠】したりける平泉寺の長吏斎明威儀
師もとらはれぬ。木曾殿、「あまりにくきに、
其法師をばまづきれ」とてきられにけり。
平氏[B ノ]大将維盛・通盛、けう[B 「けう」に「希有」と傍書]の命生て加賀
の国へ引退く。七万余騎がなかよりわづかに
二千余騎ぞのがれ【逃れ】たりける。明る十二日、奥の
秀衡がもとより木曾殿へ竜蹄二疋奉る。
一疋はくろ月毛、一疋はれんぜんあしげなり。
P07042
やがて是に鏡鞍をい【置い】て、白山の社へ神馬
にたてられけり。木曾殿の給ひけるは、
「今はおもふ【思ふ】事なし。但十郎蔵人殿の志保
のいくさ【軍】こそおぼつかなけれ。いざゆい【行い】て
見む」とて、四万余騎〔が中より〕馬や人をすぐて、二万
余騎で馳むかふ【向ふ】。ひび[B みイ]の湊をわたさんとする
に、折節塩みちて、ふかさ【深さ】あささをしら【知ら】ざり
ければ、鞍をき馬【鞍置き馬】十疋ばかりをひ【追ひ】入たり。
鞍爪ひたる【浸る】程に、相違なくむかひ【向ひ】の岸へ
P07043
着にけり。「浅かりけるぞや、わたせ【渡せ】や」とて、二
万余騎の大勢皆打入てわたしけり。案
のごとく十郎蔵人行家、散々にかけなされ、
ひき【引き】退いて馬の息休る処に、木曾殿「され
ばこそ」とて、荒手二万余騎入かへて、平
家三万余騎が中へおめい【喚い】てかけ入、もみに
もふで火出るほど【程】にぞ攻たりける。平家の
兵共しばしささへて防きけれ共、こらへずし
てそこをも遂に攻おとさ【落さ】る。平家の方には、
P07044
大将軍三河守知教【*知度】うた【討た】れ給ひぬ。是は入
道相国の末子也。侍共おほく【多く】ほろびにけり。
木曾殿は志保の山打こえて、能登の
『篠原合戦』S0707
小田中、新王の塚の前に陣をとる。○そこ
にて諸社へ神領をよせられけり。白山へは
横江・宮丸、すがう【菅生】の社へはのみ【能美】の庄、多田の
八幡へはてう屋【蝶屋】の庄、気比の社へははん原【飯原】
の庄を寄進す。平泉寺へは藤島七郷
をよせられけり。一とせ石橋の合戦の時、
P07045
兵衛佐殿射たてま【奉つ】し者ども【共】都へにげのぼ【上つ】
て、平家の方にぞ候ける。むねとの者には
俣野五郎景久・長井斎藤別当実守【*実盛】・
伊藤【*伊東】九郎助氏【*祐氏】・浮巣三郎重親・ましも【真下】の四郎
重直、是等はしばらくいくさ【軍】のあらんまでやす
まんとて、日ごとによりあひよりあひ、巡酒をして
ぞなぐさみ【慰さみ】ける。まづ実守【*実盛】が許によりあひ
たりける時、斎藤別当申けるは、「倩此世中の
有様をみる【見る】に、源氏の御方はつよく、平家
P07046
の御方はまけ色【負色】にみえ【見え】させ給ひけり。いざ
をのをの【各々】木曾殿へまいら【参ら】ふ」ど申ければ、みな
「さなう」と同じけり。次日又浮巣三郎が許
によりあひたりける時、斎藤別当「さても
昨日申し事はいかに、をのをの【各々】」。そのなかに俣野
五郎すすみ出て申けるは、「我等はさすが東
国では皆、人にしられて名ある者でこそ
あれ、吉についてあなたへまいり【参り】、こなたへ
まいら【参ら】ふ事もみ【見】ぐるしかる【苦しかる】べし。人をば
P07047
しり【知り】まいらせ【参らせ】ず、景久にをいては平家の
御方にていかにもならふ」ど申ければ、斎藤
別当あざわら【笑つ】て、「まこと【誠】には、をのをの【各々】の
御心どもをかなびき奉らんとてこそ申
たれ。其上さねもり【実盛】は今度のいくさ【軍】に討死
せふど思きて候ぞ。二たび【二度】都へまいる【参る】まじ
き由人々にも申をい【置い】たり。大臣殿へも此
やうを申上て候ぞ」といひければ、みな人
此儀にぞ同じける。さればその約束をたが
P07048
へ【違へ】じとや、当座にありしものども【者共】、一人も残
らず北国にて皆死にけるこそむざん
なれ。さる程に、平家は人馬のいきをやす
め【休め】て、加賀国しの原【篠原】に陣をとる。同五月
廿一日の辰の一点に、木曾しの原【篠原】におし【押し】
よせ【寄せ】て時をどとつくる。平家の方には
畠山庄司重能・小山田の別当有重、去る治
承より今までめし【召し】こめられたりしを、
「汝等はふるい【古い】者共也。いくさ【軍】の様をもをき
P07049
てよ【掟てよ】」とて、北国へむけられたり。是等兄弟
三百余騎で陣のおもてにすすんだり。
源氏の方より今井四郎兼平三百余騎
でうちむかふ【向ふ】。畠山、今井四郎、はじめは互に
五騎十騎づつ出しあはせ【合はせ】て勝負をせさ
せ、後には両方乱あふ【逢う】てぞたたかひ【戦ひ】ける。
五月廿一日の午剋、草もゆるがず照す日に、
我をとらじとたたかへば、遍身より汗
出て水をながすに異ならず。今井が方にも
P07050
兵おほく【多く】ほろびにけり。畠山、家子郎等
残ずくなに討なされ、力をよば【及ば】でひき【引き】
しりぞく【退く】。次平家のかた【方】より高橋判官
長綱、五百余騎ですすむ【進む】だり。木曾殿の
方より樋口次郎兼光・おちあひの五郎兼
行、三百余騎で馳向ふ。しばしささへて
たたかひ【戦ひ】けるが、高橋が勢は国々のかり武者【駆武者】
なれば、一騎もおち【落ち】あはず、われさき【先】にとこそ
おちゆき【落ち行き】けれ。高橋心はたけくおもへ【思へ】共、うしろ
P07051
あばらになりければ、力及ばで引退く。
ただ一騎落て行ところ【所】に、越中国の
住人入善の小太郎行重、よい敵と目をかけ、
鞭あぶみをあはせ【合はせ】て馳来り、おしならべて
むずとくむ。高橋、入善をつかうで、鞍の前
輪におしつけ、「わ君はなにもの【何者】ぞ、名のれ
きかふ」どいひければ、「越中国の住人、入善小太
郎行重、生年十八歳」となのる【名乗る】。「あなむざん、
去年をくれ【遅れ】し長綱が子も、ことしはあらば
P07052
十八歳ぞかし。わ君ねぢきてすつべけれ共、
たすけ【助け】ん」とてゆるしけり。わが身も馬
よりおり、「しばらくみかた【味方】の勢またん」とて
やすみゐたり。入善「われをばたすけ【助け】たれ共、
あぱれ敵や、いかにもしてうたばや」と思ひ
居たる処に、高橋うちとけて物語しけり。
入善すぐれ【勝れ】たるはやわざのおのこ【男】で、刀を
ぬき、とんでかかり、高橋がうちかぶとを二
刀さす。さる程に、入善が郎等三騎、をくれ【遅れ】
P07053
ばせ【馳】に来ておち【落ち】あふたり。高橋心はたけくおもへ【思へ】ども、運やつきにけん、敵はあまたあり、
いた手【痛手】はおふ【負う】つ、そこにて遂にうた【討た】れにけり。
又平家のかたより武蔵三郎左衛門有国、三
百騎ばかりでおめい【喚い】てかく。源氏の方より
仁科・高梨・山田次郎、五百余騎で馳むかふ【向ふ】。
しばしささへてたたかひ【戦ひ】けるが、有国が方の
勢おほく【多く】うた【討た】れぬ。有国ふか入【深入り】してたたかふ【戦ふ】
ほど【程】に、矢だね皆い【射】つくして、馬をもい【射】させ、
P07054
かちだちになり、うち物【打物】ぬいてたたかひ【戦ひ】けるが、
敵あまたうちとり、矢七つ八い【射】たてられて、
立じににこそ死にけれ。大将か様【斯様】になり【成り】し
『真盛【*実盛】』S0708
かば、其勢みな【皆】落行ぬ。○又武蔵国の住人
長井斎藤別当実守【*実盛】、みかた【御方】は皆おち【落ち】ゆけ
共、ただ一騎かへしあはせ【合はせ】返しあはせ【合はせ】防
たたかふ【戦ふ】。存るむねあり【有り】ければ、赤地の錦
の直垂に、もよぎおどしの鎧きて、くわがた
うたる甲の緒をしめ、金作りの太刀をはき、
P07055
きりう【切斑】の矢おひ【負ひ】、滋藤の弓もて、連銭葦
毛なる馬にきぶくりん【黄覆輪】の鞍をい【置い】てぞ
の【乗つ】たりける。木曾殿の方より手塚の太郎
光盛、よい敵と目をかけ、「あなやさし、いか
なる人にて在せば、み方の御勢は皆落候
に、ただ一騎のこらせ給ひたるこそゆう【優】
なれ。なのら【名乗ら】せ給へ」と詞をかけければ、「かういふ
わとのはた【誰】そ」。「信濃国の住人手塚太郎金
刺光盛」とこそなの【名乗つ】たれ。「さてはたがひによい敵
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ぞ。但わとのをさぐるにはあらず、存るむねが
あれば名のるまじひぞ。よれくまふ手塚」とて
おしならぶる処に、手塚が郎等をくれ【遅れ】馳に
はせ来て、主をうたせじとなかにへだたり、
斎藤別当にむずとくむ。「あぱれ、をのれ【己】は
日本一の剛の者とぐんでうず【組んでうず】な、うれ」とて、とて
引よせ、鞍のまへわにおしつけ、頸かききて
捨てげり。手塚太郎、郎等がうたるるをみて、
弓手にまはりあひ、鎧の草摺ひき【引き】あげて
P07057
二刀さし、よはる【弱る】処にくんでおつ。斎藤別当
こころ【心】はたけくおもへ【思へ】ども、いくさ【軍】にはしつかれ【疲れ】ぬ、
其上老武者ではあり、手塚が下になりに
けり。又手塚が郎等をくれ【遅れ】馳に出できたるに
頸とらせ、木曾殿の御まへに馳まい【参つ】て、「光盛
こそ奇異のくせ者【曲者】くんでう【打つ】て候へ。侍かと見
候へば錦の直垂をきて候。大将軍かと見
候へばつづく勢も候はず。名のれ名のれとせめ
候つれども、終になのり【名乗り】候はず。声は坂東
P07058
声で候つる」と申せば、木曾殿「あぱれ、是は
斎藤別当であるごさんめれ。それならば
義仲が上野へこえたりし時、おさな目【幼目】に
み【見】しかば、しらがのかすを【糟尾】なりしぞ。いまは定而
白髪にこそなりぬらんに、びんぴげのくろい
こそあやしけれ。樋口次郎はなれ【馴れ】あそでみ【見】
したるらん。樋口めせ」とてめされけり。樋口次郎
ただ一目みて、「あなむざんや、斎藤別当で
候けり」。木曾殿「それならば今は七十にも
P07059
あまり、白髪にこそなりぬらんに、びんぴげ
のくろいはいかに」との給へ【宣へ】ば、樋口次郎涙を
はらはらとながひ【流い】て、「さ候へばそのやうを申あ
げうど仕候が、あまり哀で不覚の涙のこぼれ
候ぞや。弓矢とりはいささかの所でも思ひいでの
詞をば、かねてつかひをく【置く】べきで候ける物
かな。斎藤別当、兼光にあふ【逢う】て、つねは物語に
仕候し。「六十にあまていくさ【軍】の陣へむかは【向は】ん
時は、びんぴげをくろう【黒う】染てわかやがふどおもふ【思ふ】
P07060
なり。其故は、わか殿原【若殿原】にあらそひてさき
をかけんもおとなげなし、又老武者とて
人のあなどらんも口惜かるべし」と申候しが、
まこと【誠】に染て候けるぞや。あらは【洗は】せて御らん
候へ」と申ければ、「さもあるらん」とて、あらはせ
て見給へば、白髪にこそ成にけれ。錦の
直垂をきたりける事は、斎藤別当、最後
のいとま申に大臣殿へまい【参つ】て申けるは、「さね
もり【実盛】が身ひとつ【一つ】の事では候はねども、一年東
P07061
国へむかひ【向ひ】候し時、水鳥の羽音におどろいて、
矢ひとつ【一つ】だにも射ずして、駿河のかん原【蒲原】より
にげのぼ【上つ】て候し事、老後の恥辱ただ此
事候。今度北国へむかひ【向ひ】ては、討死仕候べし。さ
らんにとては、実守【*実盛】もと越前国の者で候し
かども、近年御領につい【付い】て武蔵の長井に
居住せしめ候き。事の喩候ぞかし。古郷へ
は錦をきて帰れといふ事の候。錦の直
垂御ゆるし候へ」と申ければ、大臣殿「やさしう
P07062
申たる物かな」とて、錦の直垂を御免あり【有り】
けるとぞ聞えし。昔の朱買臣は錦の
袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当は其
名を北国の巷にあぐとかや。朽もせぬむな
しき【空しき】名のみとどめ【留め】をきて、かばねは越路
の末の塵となるこそかなしけれ。去四月十
七日、十万余騎にて都を立し事がらは、なに
面をむかふ【向ふ】べしともみえざりしに、今五月下
旬に帰りのぼるには、其勢わづかに二万余騎、
P07063
「流をつくしてすなどる時は、おほく【多く】のうを【魚】を
う【得】といへども、明年に魚なし。林をやいて
かる【狩る】時は、おほく【多く】のけだもの【獣】をう【得】といへども、
明年に獣なし。後を存じて少々はのこ
さるべかりける物を」と申人々もあり【有り】けると
『還亡』S0709
かや。○上総督忠清、飛弾督景家は、おととし入道
相国薨ぜられける時、ともに出家したりけるが、
今度北国にて子ども皆亡びぬときいて
其おもひのつもりにや、つゐに【遂に】なげき死にぞ
P07064
しににける。是をはじめておやは子にをくれ、
婦は夫にわかれ、凡遠国近国もさこそあり
けめ、京中には家々に門戸を閉て、声々
に念仏申おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事おびたたし【夥し】。六月
一日、蔵人右衛門権佐定長、神祇権少副大中臣
親俊を殿上の下口へめし【召し】て、兵革しづまらば、
大神宮へ行幸なるべきよし仰下さる。大神
宮は高間[B ノ]原より天くだらせ給ひしを、崇神
天皇の御宇廿五年三月に、大和国笠縫の里
P07065
より伊勢国わたらひ【度会】の郡五十鈴の河上、
したつ石根【下津石根】に大宮柱をふとしきたて【太敷立て】、
祝そめたてま【奉つ】てよりこのかた、日本六十
余州、三千七百五十余社の、大小の神祇
冥道のなかには無双也。され共代々の御
門臨幸はなかりしに、奈良御門の御時、
左大臣不比等の孫、参議式部卿宇合
の子、右近衛[B ノ]権少将兼太宰少弐藤原広
嗣といふ人あり【有り】けり。天平十五年十月、
P07066
肥前国松浦郡にして、数万の凶賊を
かたらて国家を既にあやぶめんとす。是
によて大野のあづま人を大将軍にて、
広嗣追討せられし時、はじめて大神宮
へ行幸なりけるとかや。其例とぞ聞えし。
彼広嗣は肥前の松浦より都へ一日におり
のぼる馬を持たりけり。追討せられし
時も、みかた【御方】の凶賊おち【落ち】ゆき、皆亡て後、
件の馬にうちの【乗つ】て、海中へ馳入けるとぞ
P07067
聞えし。その亡霊あれ【荒れ】て、おそろしき【恐ろしき】事
ども【共】おほかり【多かり】けるなかに、天平十六年
六月十八日、筑前国みかさ【見笠】の郡太宰府
の観世音寺、供養ぜられける導師には、
玄房僧正とぞきこえ【聞え】し。高座にのぼり、
敬白の鐘うちならす時、俄に空かき曇、
雷ちおびたたしう【夥しう】鳴て、玄房の上に
おち【落ち】かかり、その首をとて雲のなかへぞ
入にける。広嗣調伏したりけるゆへ【故】とぞ
P07068
聞えし。彼僧正は、吉備大臣入唐の時あひ【相】
ともなて、法相宗わたしたりし人也。
唐人が玄房といふ名をわら【笑つ】て、「玄房とは
〔かへ【還つ】て〕ほろぶ【亡ぶ】といふ音あり【有り】。いか様にも帰朝の後
事にあふべき人なり」と相したりける
とかや。同天平十九年六月十八日、しやれかう
べ【髑髏】に玄房といふ銘をかいて、興福寺の庭
におとし【落し】、虚空に人ならば千人[B 「千」に「二三百イ」と傍書]ばかりが声
で、どとわらふ【笑ふ】事あり【有り】けり。興福寺は
P07069
法相宗の寺たるによて也。彼僧正の弟
子共是をとてつか【塚】をつき、其首をおさ
め【納め】て頭墓と名付て今にあり【有り】。是則
広嗣が霊のいたす【致す】ところ【所】なり。是によて
彼亡霊を崇られて、今松浦の鏡の宮と
号す。嵯峨皇帝の御時は、平城の先帝、
内侍のかみのすすめによて世をみだり給ひ
し時、その御祈の為に、御門第三皇女ゆう
ち【有智】内親王を賀茂の斎院にたてまいらせ【立て参らせ】
P07070
給ひけり。是斎院のはじめ也。朱雀院の
御宇には、将門・純友が兵乱によて、八幡の
臨時の祭をはじめらる。今度もかやう【斯様】の
例をもてさまざまの御祈共はじめられけり。
『木曾山門牒状』S0710
○木曾、越前の国府について、家子郎等めし【召し】
あつめ【集め】て評定す。「抑義仲近江国をへ
てこそ都へはいらむずるに、例の山僧共は
防事もやあらんずらん。かけ【駆け】破てとをら【通ら】ん
事はやすけれ共、平家こそ当時は仏法とも【共】
P07071
いはず、寺をほろぼし、僧をうしなひ【失ひ】、悪行を
ばいたせ、それを守護の為に上洛せんものが、
平家とひとつ【一つ】なればとて、山門の大衆にむ
か【向つ】ていくさ【軍】せん事、すこし【少し】もたがは【違は】ぬ二の
舞なるべし。是こそさすがやす大事【安大事】よ。いかが
せん」との給へ【宣へ】ば、手書に具せられたる大夫房
覚明申けるは、「山門の衆徒は三千人候。必ず
一味同心なる事は候はず、皆思々心々に候也。
或は源氏につかんといふ衆徒も候らん、或は又
P07072
平家に同心せんといふ大衆も候らん。牒状を
つかはし【遣し】て御覧候へ。事のやう【様】返牒にみえ【見え】候
はんずらむ」と申ければ、「此儀尤しかる【然る】べし。
さらばかけ【書け】」とて、覚明に牒状かかせて、山門へ
をくる【送る】。其状に云、義仲倩平家の悪逆を
見るに、保元平治よりこのかた、ながく人臣の
礼をうしなふ【失ふ】。雖然、貴賎手をつかね、緇素
足をいただく。恣に帝位を進退し、あく【飽く】
まで国郡をりよ領【虜領】す。道理非理を論ぜず、
P07073
権門勢家を追補【*追捕】し、有財無財をいはず、
卿相侍臣を損亡す。其資財を奪取て
悉郎従にあたへ、彼庄園を没取して、
みだり
がはしく子孫にはぶく。就中に去治承三年
十一月、法皇を城南の離宮に移し奉る。
博陸を海城の絶域に流し奉る。衆庶物
いはず、道路目をもてす。しかのみならず、同四年
五月、二の宮の朱閣をかこみ奉り、九重の垢
塵をおどろかさしむ。爰に帝子非分の害
P07074
をのがれ【逃れ】んがために、ひそかに園城寺へ入御
の時、義仲先日に令旨を給るによて、鞭を
あげんとほする処に、怨敵巷にみちて予
参道をうしなふ。近境の源氏猶参候せず、況
や遠境においてをや。しかる【然る】を園城は分限
なきによて南都へおもむか【赴むか】しめ給ふ間、宇治
橋にて合戦す。大将三位入道頼政父子、命を
かろんじ、義をおもんじて、一戦の功をはげま
すといへども、多勢のせめ【攻め】をまぬかれ【免かれ】ず、形骸
P07075
を古岸の苔にさらし、性命を長河の浪に
ながす。令旨の趣肝に銘じ、同類のかなしみ
魂をけつ。是によて東国北国の源氏等をの
をの【各々】参洛を企て、平家をほろぼさんとほす。
義仲去じ年の秋、宿意を達せんが為に、
旗をあげ剣をとて信州を出し日、越後
の国の住人城四郎ながもち【長茂】、数万の軍兵
を率して発向せしむる間、当国横田川原
にして合戦す。義仲わづかに三千余騎を
P07076
もて、彼数万の兵を破りおはぬ。風聞ひろ
きに及で、平氏の大将十万の軍士を率
して北陸に発向す。越州・賀州・砥浪・黒坂・塩
坂・篠原以下の城郭にして数ケ度合戦す。
策を惟幕の内にめぐらして、勝事を咫
尺のもとにえたり。しかる【然る】をうてば必ず伏し、
せむれば必ずくだる。秋の風の芭蕉を破に
異ならず、冬の霜の群葉をからす【枯らす】に同じ。
是ひとへに神明仏陀のたすけ【助け】也。更に義仲が
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武略にあらず。平氏敗北のうへ【上】は参洛を企る
者也。今叡岳の麓を過て洛陽の衢に
いる【入る】べし。此時にあたてひそかに疑貽【*疑殆】あり【有り】。抑天
台衆徒平家に同心歟、源氏に与力歟。若彼
悪徒をたすけ【助け】らるべくは、衆徒にむか【向つ】て合
戦すべし。若合戦をいたさば叡岳の滅亡踵
をめぐらすべからず。悲哉、平氏震襟【*宸襟】を悩し、
仏法をほろぼす間、悪逆をしづめんがために
義兵を発す処に、忽に三千の衆徒に向て
P07078
不慮の合戦を致ん事を。痛哉、医王山王に
憚奉て、行程に遅留せしめば、朝廷緩
怠の臣として武略瑕瑾のそしりをのこ
さん事を。みだりがはしく進退に迷て案内
を啓する所也。乞願は三千の衆徒、神のため、〔仏のため、〕
国のため、君の為に、源氏に同心して凶徒を
誅し、鴻化に浴せん。懇丹の至に堪ず。義仲
恐惶謹言。寿永二年六月十日源義仲進上
『返牒』S0711
恵光坊律師御房とぞかい【書い】たりける。○案のごとく、
P07079
山門の大衆此状を披見して、僉議まちまち
なり。或は源氏につかんといふ衆徒もあり、或は
又平家に同心せんといふ大衆もあり【有り】。おもひおもひ【思ひ思ひ】
異儀まちまち也。老僧共の僉議しけるは、「詮る
所、我等もぱら【専ら】金輪聖主天長地久と祈奉る。平
家は当代の御外戚、山門にをいて帰敬をいたさる。
されば今に至るまで彼繁昌を祈誓す。し
かりといへども、悪行法に過て万人是を背
く。討手を国々へつかはす【遣す】といへ共、かへて【却つて】異賊
P07080
のためにほろぼさる。源氏は近年より
このかた、度々のいくさ【軍】に討勝て運命ひら
けんとす。なんぞ当山ひとり宿運つき
ぬる平家に同心して、運命ひらくる源
氏をそむかんや。すべからく平家値遇の儀
を翻して、源氏合力の心に住すべき」よし、一
味同心に僉議して、返牒ををくる【送る】。木曾殿
又家子郎等めし【召し】あつめ【集め】て、覚明に此返牒
をひらかせらる。六月十日の牒状、同十六日到
P07081
来、披閲のところ【所】に数日の鬱念一時に
解散す。凡平家の悪逆累年に及で、
朝廷の騒動やむ時なし。事人口にあり、
異失するにあたはず。夫叡岳にいたては、
帝都東北の仁祠として、国家静謐の精
祈をいたす。しかる【然る】を一天久しく彼夭逆に
をかされて、四海鎮に其安全をえず。顕密
の法輪なきが如く、擁護の神威しばしば
すたる。爰貴下適累代武備の家に生て、
P07082
幸に当時政善【*精撰】の仁たり。予奇謀をめぐ
らして忽に義兵をおこす。万死の命を
忘て一戦の功をたつ。其労いまだ両年を
すぎざるに其名既に四海にながる。我
山の衆徒、かつがつ以承悦す。国家のため、累家
のため、武功を感じ、武略を感ず。かくのごと
く【如く】ならば則山上の精祈むなしからざる事
を悦び、海内の恵護おこたりなき事をしん【知ん】
ぬ。自寺他寺、常住の仏法、本社末社、祭奠
P07083
の神明、定て教法の二たび【二度】さかへ【栄え】ん事を悦び、
崇敬のふるきに服せん事を隨喜し給ふ
らむ。衆徒等が心中、只賢察をたれよ【垂れよ】。然則、
冥には十二神将、忝く医王善逝の使者と
して凶賊追討の勇士にあひくははり【加はり】、顕に
は三千の衆徒しばらく修学讃仰の勤
節を止て、悪侶治罰の官軍をたすけし
めん。止観十乗の梵風は奸侶を和朝の外に
払ひ、瑜伽三蜜【三密】の法雨は時俗を尭年の
P07084
昔にかへさ【返さ】ん。衆儀かくの如し。倩是を察よ。
寿永二年七月二日大衆等とぞかいたりける。
『平家山門連署』S0712
○平家はこれをしら【知ら】ずして、「興福園城両寺は
鬱憤をふくめる折節なれば、かたらふとも【共】
よもなびかじ。当家はいまだ山門のためにあた
をむすばず、山門又当家のために不忠を存
ぜず。山王大師に祈誓して、三千の衆徒を
かたらはばや」とて、一門の公卿十人、同心連署
の願書をかいて山門へ送る。其状に云、敬白、
P07085
延暦寺をもて氏寺に准じ、日吉の社を
もて氏社として、一向天台の仏法を仰べ
き事。右当家一族の輩、殊に祈誓する事
あり【有り】。旨趣如何者、叡山は是桓武天皇の
御宇、伝教大師入唐帰朝の後、円頓の教
法を此所にひろめ、遮那の大戒を其内に
伝てよりこのかた、専仏法繁昌の霊崛と
して、鎮護国家の道場にそなふ。方に今、
伊豆国の流人源頼朝、其身の咎を悔ず、
P07086
かへて【却つて】朝憲を嘲る。しかのみならず奸謀
にくみして同心をいたす源氏等、義仲行家
以下党を結て数あり。隣境遠境数国を
掠領し、土宜土貢万物を押領す。これに
よて或は累代勲功の跡をおひ、或当時
弓馬の芸にまかせ【任せ】て、速に賊徒を追
討し、凶党を降伏すべき由、いやしくも勅
命をふくん【含ん】で、頻に征罰を企つ。爰に
魚鱗鶴翼の陣、官軍利をえず、聖謀
P07087
先戟【*電戟】の威、逆類勝に乗に似たり。若神明仏
陀の加備にあらずは、争か反逆の凶乱をしづ
めん〔是を以て、一向天台之仏法に帰し、不退日吉の神恩を憑み奉る〕耳。何況や、忝く臣等が曩祖をおもへ【思へ】ば、
本願の余裔といつべし。弥崇重すべし、弥
恭敬すべし。自今以後山門に悦あらば一門
の悦とし、社家に憤あらば一家の憤とし
て、をのをの【各々】子孫に伝てながく失堕せじ。
藤氏は春日社興福寺をもて氏社氏寺
として、久しく法相大乗の宗を帰す。平氏は
P07088
日吉社延暦寺をもて氏社氏寺として、まのあた
り円実頓悟の教に値遇せん。かれはむかし
のゆい跡【遺跡】[M 「ゆく跡」とあり「ゆく」をミセケチ「ユイ」と傍書]也、家のため、栄幸をおもふ【思ふ】。これは
今の精祈也、君のため、追罰をこふ【乞ふ】。仰願は、
山王七社王子眷属、東西満山護法聖衆、十二
上願日光月光、医王善逝、無二の丹誠を照
して唯一の玄応を垂給へ。然則じやぼう【邪謀】逆臣
の賊、手を君門につかね、暴逆残害の輩、
首を京土に伝ん。仍当家の公卿等、異口同音に
P07089
雷をなして祈誓如件。従三位ぎやう【行】けん【兼】越
前守平朝臣通盛従三位行兼右近衛中将
平朝臣資盛正三位行左近衛権中将兼伊与【*伊予】
守平朝臣維盛正三位行左近衛中将兼播磨[* 「幡摩」と有るのを他本により訂正]守
平朝臣重衡正三位行右衛門督兼近江遠江守
平朝臣清宗参議正三位皇大后宮大夫兼修
理大夫加賀越中守平朝臣経盛従二位行中
納言兼左兵衛督征夷大将軍平朝臣知盛従
二位行権中納言兼肥前守平朝臣教盛正弐位
P07090
行権大納言兼出羽陸奥按察使平朝臣頼盛
従一位平朝臣宗盛寿永二年七月五日敬白と
ぞかかれたる。貫首是を憐み給ひて、左右
なふも披露せられず、十禅師の御殿にこめ
て、三日加持して、其後衆徒に披露せらる。はじ
めはありともみえ【見え】ざりし一首の歌、願書の
うは巻【上巻】にできたり。
たいらか【平か】に花さくやど【宿】も年ふれば
西へかたぶく月とこそなれ W050
P07091
山王大師あはれみをたれ給ひ、三千の衆徒力
を合せよと也。されども年ごろ日比のふる
まひ【振舞】、神慮にもたがひ【違ひ】、人望にもそむきに
ければ、いのれどもかなは【叶は】ず、かたらへ共なびかざり
けり。大衆まこと【誠】に事の体をば憐みけれ共、
「既に源氏に同心の返牒ををくる【送る】。今又かろ
がろしく其儀をあらたむるにあたはず」とて、
『主上都落』S0713
是を許容する衆徒もなし。○同七月十四日、
肥後守貞能、鎮西の謀反たいらげ【平げ】て、菊池・原
P07092
田・松浦党以下三千余騎をめし【召し】ぐし【具し】て上洛
す。鎮西は纔にたいらげ【平げ】ども、東国北国のいくさ【軍】
いかにもしづまらず。同廿二日の夜半ばかり、六
波羅の辺おびたたしう【夥しう】騒動す。馬に鞍をき【置き】
腹帯しめ、物共東西南北へはこびかくす。ただ
今敵のうち入さまなり。あけて後聞えしは、
美濃源氏佐渡衛門尉重貞といふ者あり、一とせ
保元の合戦の時、鎮西の八郎為朝がかた【方】の
いくさ【軍】にまけて、おちうとになたりしを、から
P07093
めていだしたりし勧賞に、もとは兵衛尉
たりしが右衛門尉になりぬ。是によて一門
にはあたま【仇ま】れて平家にへつらひけるが、其
夜の夜半ばかり、六波羅に馳まい【参つ】て申ける
は、「木曾既に北国より五万余騎でせめ【攻め】の
ぼり、比叡山東坂本にみちみちて候。郎等に
楯の六郎親忠、手書に大夫房覚明、六千余
騎で天台山にきをひ【競ひ】のぼり、三千の衆徒皆
同心して唯今都へ攻入」よし申たりける故也。
P07094
平家の人々大にさはい【騒い】で、方々へ討手をむ
けられけり。大将軍には、新中納言知盛卿、
本三位中将重衡卿、都合其勢三千余騎、
都を立てまづ山階に宿せらる。越前三位
通盛、能登守教経、二千余騎で宇治橋をかた
めらる。左馬頭行盛、薩摩守忠教【*忠度】、一千余騎
で淀路を守護せられけり。源氏の方には
十郎蔵人行家、数千騎で宇治橋より入とも
聞えけり。陸奥新判官義康が子、矢田判官
P07095
代義清、大江山をへて上洛すとも申あへり。
摂津国河内の源氏等、雲霞のごとく【如く】に同
都へみだれ入よし聞えしかば、平家の人々
「此上はただ一所でいかにもなり給へ」とて、
方々へむけられたる討手共、都へ皆よびかへ
さ【返さ】れけり。帝都名利地、鶏鳴て安き事なし。
おさまれ【納まれ】る世だにもかくのごとし【如し】。況や乱たる
世にをいてをや。吉野山の奥のおくへも
入なばやとはおぼしけれども、諸国七道悉
P07096
そむきぬ。いづれの浦かおだしかるべき。三
界無安猶如火宅とて、如来の金言一乗の
妙文なれば、なじかはすこし【少し】もたがふ【違ふ】べき。
同七月廿四日のさ夜ふけがたに、前内大臣宗
盛公、建礼門院のわたらせ給ふ六波羅殿へ
まい【参つ】て申されけるは、「此世のなか【中】のあり様、さり
ともと存候つるに、いまはかうにこそ候めれ。
ただ都のうちでいかにもならんと、人々は申
あはれ候へ共、まのあたりうき目をみせ【見せ】まいら
P07097
せ【参らせ】むも口惜候へば、院をも内をもとり奉
て、西国のかた【方】へ御幸行幸をもなしまいら
せ【参らせ】て見ばやとこそ思ひなて候へ」と申され
ければ、女院「今はただともかうも、そこのはか
らひにてあらんずらめ」とて、御衣の御袂に
あまる御涙せきあへさせ給はず。大臣殿も
直衣の袖しぼる計にみえ【見え】られけり。其夜
法皇をば内々平家のとり奉て、都の外へ
落行べしといふ事をきこしめさ【聞し召さ】れてや
P07098
あり【有り】けん、按察大納言資方【*資賢】卿の子息、右馬頭
資時計御供にて、ひそかに御所を出させ
給ひ、鞍馬へ御幸なる。人是をしらざりけり。
平家の侍橘内左衛門尉季康といふ者あり【有り】。
さかざか【賢々】しきおのこ【男】にて、院にもめし【召し】つかは【使は】れ
けり。其夜しも法住寺殿に御とのゐして
候けるに、つねの御所のかた、よにさはがしう【騒がしう】ささ
めきあひて、女房達しのびね【忍び音】になきなど
し給へば、何事やらんと聞程に、「法皇の俄に
P07099
見えさせ給はぬは。いづ方へ御幸やらん」といふ
声にききなしつ。「あなあさまし」とて、やがて
六波羅へ馳まいり【参り】、大臣殿に此由申ければ、
「いで、ひが事【僻事】でぞあるらむ」との給ひながら、
ききもあへず、いそぎ法住寺殿へ馳まい【参つ】て見
まいらせ【参らせ】給へば、げにみえ【見え】させ給はず。御前に
候はせ給ふ女房達、二位殿丹後殿以下一人も
はたらき【働き】給はず。「いかにやいかに」と申されけれ
共、「われこそ御ゆくゑ【行方】しりまいらせ【参らせ】たれ」と申さるる
P07100
人一人もおはせず、皆あきれたるやうなり
けり。さる程に、法皇都の内にもわたらせ
給はずと申程こそあり【有り】けれ、京中の騒動
なのめならず。況や平家の人々のあはて【慌て】さは
が【騒が】れけるありさま【有様】、家々に敵の打入たりとも【共】、
かぎりあれば、是には過じとぞ見えし。日比
は平家院をも内をもとりまいらせ【参らせ】て、
西国の方へ御幸行幸をもなし奉らんと支度
せられたりしに、かく打すてさせ給ひぬれば、
P07101
たのむ【頼む】木のもとに雨のたまらぬ心地ぞせら
れける。「さりとては行幸ばかりなり共なし
まいらせよ【参らせよ】」とて、卯剋ばかりに既に行幸
のみこし【御輿】よせたりければ、主上は今年六
歳、いまだいとけなうましませば、なに心も
なうめされけり。国母建礼門院御同輿にまいら【参ら】
せ給ふ。内侍所、神璽、宝剣わたし奉る。「印鑰、
時の札、玄上、鈴か【鈴鹿】などもとりぐせよ【具せよ】」と平大
納言下知せられけれども、あまりにあはて【慌て】さは
P07102
い【騒い】でとりおとす【落す】物ぞおほかり【多かり】ける。日の御座の
御剣などもとりわすれさせ給ひけり。やがて
此時忠卿、子息蔵頭信基、讃岐中将時実三
人ばかりぞ、衣冠にて供奉せられける。近衛
づかさ、御綱のすけ、甲冑をよろひ【鎧ひ】、弓箭を
帯して供奉せらる。七条を西へ、朱雀を南
へ行幸なる。明れば七月廿五日也。漢天既に
ひらきて、雲東嶺にたなびき、あけがたの
月しろく【白く】さえ【冴え】て、鶏鳴又いそがはし【忙がはし】。夢に
P07103
だにかかる事は見ず。一とせ宮こ【都】うつり
とて俄にあはたたしかりしは、かかるべかりける
先表とも【共】今こそおもひ【思ひ】しられけれ。摂政殿
も行幸に供奉して御出なりけるが、七
条大宮にてびんづら【鬢】ゆひたる童子の御
車の前をつとはしり【走り】とをる【通る】を御覧ずれば、
彼童子の左の袂に、春の日といふ文字ぞ
あらはれ【現はれ】たる。春の日とかいてはかすがとよめば、
法相擁護の春日大明神、大織冠の御末を
P07104
まもら【守ら】せ給ひけりと、たのもしう【頼もしう】おぼしめす【思し召す】
ところ【所】に、件の童子の声とおぼしくて、
いかにせん藤のすゑ葉のかれゆくを
ただ春の日にまかせ【任せ】てや見ん W051
御供に候進藤左衛門尉高直ちかふ【近う】めし【召し】て、「倩
事のていを案ずるに、行幸はなれ共御幸
もならず。ゆく末たのもしから【頼もしから】ずおぼしめす【思し召す】
はいかに」と仰ければ、御牛飼に目を見あはせ【合はせ】
たり。やがて心得て御車をやりかへし、大宮
P07105
のぼりに、とぶが如くにつかまつる。北山の辺知
『維盛都落』S0714
足院へいら【入ら】せ給ふ。○平家の侍越中次郎兵衛
盛次【*盛嗣】、是を承はてをひ【追ひ】とどめ【留め】まいらせ【参らせ】むと頻
にすすみけるが、人々にせいせ【制せ】られてとどまり
けり。小松三位中将維盛は、日比よりおぼしめし【思し召し】
まうけられたりけれ共、さしあたてはかなしかり【悲しかり】
けり。北のかた【方】と申は、故中[B ノ]御門新大納言成親
卿の御むすめ也。桃顏露にほころび、紅粉
眼に媚をなし、柳髪風にみだるるよそほひ、
P07106
又人あるべしとも見え給はず。六代御前
とて、生年十になり給ふ若公【若君】、その妹
八歳の姫君おはしけり。此人々皆をくれ【遅れ】じと
したひ【慕ひ】給へば、三位中将の給ひけるは、「日比
申し様に、われは一門に具して西国の方へ
落行なり。いづくまでも具し奉るべけれ共、
道にも敵待なれば、心やすふ【安う】とをら【通ら】ん事も有
がたし。たとひわれうた【討た】れたりと聞たまふ【給ふ】共、
さまなどかへ給ふ事はゆめゆめ有べからず。その
P07107
ゆへ【故】は、いかならん人にも見えて、身をもたす
け【助け】、おさなき【幼き】もの【者】共をもはぐくみ給ふべし。
情をかくる人もなどかなかるべき」と、やうやう
になぐさめ給へども、北方とかうの返事
もし給はず、ひき【引き】かづきてぞふしたまふ【給ふ】。
すでにうたたんとし給へば、袖にすがて、「都
には父もなし、母もなし。捨られまいらせ【参らせ】て
後、又誰にかはみゆべきに、いかならんひと【人】にも
見えよなど承はるこそうらめしけれ【恨めしけれ】。前世の
P07108
契あり【有り】ければ、人こそ憐み給ふとも【共】、又人ごと
にしもや情をかくべき。いづくまでも友なひ
奉り、同じ野原の露ともきえ、ひとつ【一つ】
底のみくづともならんとこそ契しに、
さればさ夜の寝覚のむつごとは、皆偽に
なりにけり。せめては身ひとつ【一つ】ならばいかが
せん、すてられ奉る身のうさをおもひ【思ひ】し【知つ】てもとど
まりなん、おさなき【幼き】者共をば、誰にみ【見】ゆづり、
いかにせよとかおぼしめす。うらめしう【恨めしう】もとどめ【留め】
P07109
給ふ物かな」と、且はうらみ【恨み】且はしたひ給へば、三位
中将の給ひけるは、「誠に人は十三、われは
十五より見そめ奉り、火のなか水の底へも
ともにいり、ともにしづみ、限ある別路まで
も、をくれ【遅れ】先だたじとこそ申しかども、かく
心うきあり様【有様】にていくさ【軍】の陣へおもむけば、
具足し奉り、ゆくゑ【行方】もしらぬ旅の空にて
うき目を見せ奉らんもうたてかるべし。其
上今度は用意も候はず。いづくの浦にも心
P07110
やすう落ついたらば、それよりしてこそ迎に
人をもたてまつら【奉ら】め」とて、おもひ【思ひ】きてぞたた
れける。中門の廊に出て、鎧とてき【着】、馬ひき【引き】
よせさせ、既にのらんとし給へば、若公【若君】姫君
はしりいで【出で】て、父の鎧の袖、草摺に取つき、
「是はさればいづちへとて、わたらせ給ふぞ。我
もまいら【参ら】ん、われもゆかん」とめんめん【面々】にしたひ
なき給ふにぞ、うき世のきづなとおぼえ
て、三位中将いとどせんかたなげには見えられける。
P07111
さる程に、御弟新三位中将資盛卿・左中将
清経・同少将有盛・丹後侍従忠房・備中守師
盛兄弟五騎、乗ながら門のうちへ打入り、庭に
ひかへて、「行幸は遥にのびさせ給ひぬらん。いか
にや今まで」と声々に申されければ、三位中
将馬にうちの【乗つ】ていで給ふが、猶ひ【引つ】かへし、■の
きはへうちよせて、弓のはずで御簾をざと
かきあげ、「是御覧ぜよ、おのおの。おさなき【幼き】者
共があまりにしたひ候を、とかうこしらへをか【置か】んと
P07112
仕るほど【程】に、存の外の遅参」との給ひもあへず
なか【泣か】れければ、庭にひかへ給へる人々皆鎧
の袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。ここに斎藤五、斎藤
六とて、兄は十九、弟は十七になる侍あり【有り】。三位
中将の御馬の左右のみづつきにとりつき【取り付き】、
いづくまでも御供仕るべき由申せば、三位
中将の給ひけるは、「をのれら【己等】が父斎藤別当北
国へくだし時、汝等が頻に供せうどいひしかども、
「存るむねがあるぞ」とて、汝等をとどめ【留め】をき、
P07113
北国へくだて遂に討死したりけるは、かかる
べかりける事を、ふるひ【古い】者でかねて【予て】知たり
けるにこそ。あの六代をとどめ【留め】て行に、心や
すうふち【扶持】すべき者のなきぞ。ただ理をま
げてとどまれ」との給へ【宣へ】ば、力をよば【及ば】ず、涙
ををさへ【抑へ】てとどまりぬ。北方は、「としごろ日
比是程情なかりける人とこそ兼てもおも
は【思は】ざりしか」とて、ふしまろびてぞなかれける。
若公【若君】姫君女房達は、御簾の外までまろび
P07114
出て、人の聞をもはばからず、声をはかりに
ぞおめき【喚き】さけび【叫び】給ひける。此声々耳の底
にとどま【留まつ】て、西海のたつ浪のうへ【上】、吹風の
音までも聞様にこそおもは【思は】れけめ。平家
都を落行に、六波羅・池殿・小松殿、八条・西八条
以下、一門の卿相雲客の家々廿余ケ所、付々
の輩の宿所宿所、京白河に四五万間の在家、一度
『聖主臨幸』S0715
に火をかけて皆焼払ふ。○或は聖主臨幸の
地也、鳳闕むなしく礎をのこし、鸞輿ただ
P07115
跡をとどむ。或后妃遊宴の砌也、椒房の嵐声
かなしみ、腋庭の露色愁ふ。荘香[B 「香」に「鏡」と下部に傍書]翠帳の
もとゐ、戈林【*弋林】釣渚[M 「釣法」とあり「法」をミセケチ「渚」と傍書]の館、槐棘の座、燕鸞のすみか【栖】、
多日の経営をむなしう【空しう】して、片時の灰燼と
なりはてぬ。況や郎従の蓬■にをいて
をや。況や雑人屋舎にをいてをや。余炎
の及ところ【所】、在々所々数十町也。強呉忽に
ほろびて、姑蘇台の露荊棘にうつり、暴
秦すでに衰て、咸陽宮の煙へいげいをかくし【隠し】
P07116
けんも、かくやとおぼえて哀也。日比は函谷二
■のさがしき【嶮しき】をかたう【固う】せしかども、北狄のため
に是を破られ、今は洪河■渭のふかきをた
のん[B 「ん」に「ミ」と傍書]【頼ん】じか共、東夷のために是をとられたり。豈
図きや、忽に礼儀の郷を責いだされて、泣々
無智の境に身をよせんと。昨日は雲の上に
雨をくだす神竜たりき。今日は、肆の辺に
水をうしなふ【失ふ】枯魚の如し。禍福道を同うし、
盛衰掌をかへす【返す】、いま目の前にあり【有り】。誰か是を
P07117
かなしまざらん。保元のむかしは春の花と栄し
かども、寿永の今は秋の紅葉と落はてぬ。去
治承四年七月、大番のために上洛したりける
畠山庄司重能・小山田別当有重・宇津宮左衛門
朝綱、寿永までめし【召し】こめられたりしが、其時
既にきら【斬ら】るべかりしを、新中納言知盛卿申
されけるは、「御運だにつきさせ給ひなば、これら
百人千人が頸をきらせ給ひたり共、世をとら
せ給はん事難かるべし。古郷には妻子所従等
P07118
いかに歎かなしみ候らん。若不思議に運命
ひらけて、又宮古へたちかへらせ給はん時は、あり
がたき御情でこそ候はんずれ。ただ理をまげて
本国へ返し遣さるべうや候らむ」と申されけれ
ば、大臣殿「此儀尤しかる【然る】べし」とて、いとまをたぶ。
これらかうべを地につけ、涙をながい【流い】て申ける
は、「去治承より今まで、かひなき命をた
すけ【助け】られまいらせ【参らせ】て候へば、いづくまでも御供
に候て、行幸の御ゆくゑ【行方】を見まいらせ【参らせ】ん」と頻に
P07119
申けれ共、大臣殿「汝等が魂は皆東国にこそ
あるらんに、ぬけがらばかり西国へめし【召し】ぐす【具す】べ
き様なし。いそぎ下れ」と仰られければ、力なく
涙ををさへ【抑へ】て下りけり。これらも廿余年
『忠教【*忠度】都落』S0716
のしう【主】なれば、別の涙おさへ【抑へ】がたし。○薩摩守
忠教【*忠度】は、いづくよりやかへら【帰ら】れたりけん、侍五騎、
童一人、わが身とも【共】に七騎取て返し、五条
の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、
門戸をとぢて開かず。「忠教【*忠度】」と名のり給へば、
P07120
「おちうと【落人】帰りきたり」とて、その内さはぎ【騒ぎ】あへり。
薩摩守馬よりおり、みづからたからかにの給
けるは、「別の子細候はず。三位殿に申べき事
あて、忠教【*忠度】がかへりまひ【参つ】て候。門をひらかれず
とも【共】、此きはまで立よらせ給へ」との給へ【宣へ】ば、俊成卿
「さる事あるらん。其人ならばくるしかる【苦しかる】まじ。
いれ【入れ】申せ」とて、門をあけて対面あり【有り】。事の
体何となふ哀也。薩摩守の給ひけるは、「年
来申承て後、をろか【愚】ならぬ御事におもひまい
P07121
らせ【参らせ】候へ共、この二三年は、京都のさはぎ【騒ぎ】、国々の
みだれ、併当家の身の上の事に候間、そらく【粗略】
を存ぜずといへども、つねにまいり【参り】よる事
も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門
の運命はやつき候ぬ。撰集のあるべき由
承候しかば、生涯の面目に、一首なり共御恩
をかうぶらうど存じて候しに、やがて世の
みだれいできて、其沙汰なく候条、ただ一身
の歎と存る候。世しづまり候なば、勅撰の御
P07122
沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、
さりぬべきもの候はば、一首なりとも【共】御恩を
蒙て、草の陰にてもうれしと存候はば、
遠き御まもり【守り】でこそ候はんずれ」とて、日比
読をか【置か】れたる歌共のなかに、秀歌とおぼし
きを百余首書あつめ【集め】られたる巻物を、今
はとてう【打つ】たた【立た】れける時、是をとてもたれ
たりしが、鎧のひきあはせ【合はせ】より取いで【出で】て俊
成卿に奉る。三位是をあけてみて、「かかる
P07123
わすれがたみ【忘れ形見】を給をき候ぬる上は、ゆめゆめ
そらく【粗略】を存ずまじう候。御疑あるべからず。さて
も唯今の御わたり【渡】こそ、情もすぐれてふかう【深う】、
哀もこと【殊】におもひ【思ひ】しられて、感涙おさへ【抑へ】がたう
候へ」との給へ【宣へ】ば、薩摩守悦で、「今は西海の浪
の底にしづまば沈め、山野にかばねを
さらさばさらせ、浮世におもひ【思ひ】をく【置く】事候
はず。さらばいとま申て」とて、馬にうちのり
甲の緒をしめ、西をさいてぞあゆま【歩ま】せ給ふ。
P07124
三位うしろを遥に見をく【送つ】てたたれたれば、
忠教【*忠度】の声とおぼしくて、「前途程遠し、
思を鴈山の夕の雲に馳」と、たからかに
口ずさみ給へば、俊成卿いとど名残おしう【惜しう】
おぼえて、涙ををさへ【抑へ】てぞ入給ふ。其後世
しづまて、千載集を撰ぜられけるに、忠教【*忠度】
のあり【有り】しあり様、いひをきしことの葉、今
更おもひ【思ひ】いで【出で】て哀也ければ、彼巻物のうち
にさりぬべき歌いくらもあり【有り】けれ共、勅勘の
P07125
人なれば、名字をばあらはされず、故郷花
といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、
読人しら【知ら】ずと入られける。
さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山ざくらかな W052
其身朝敵となりにし上は、子細にをよば【及ば】
ずといひながら、うらめしかり【恨めしかり】し事ども【共】也。
『経正都落』S0717
○修理大夫経盛の子息、皇后宮の亮経正、幼少
にては仁和寺の御室の御所に、童形にて候
P07126
はれしかば、かかる■劇【怱劇】の中にも其御名残
きとおもひ【思ひ】出て、侍五六騎めし【召し】具して、
仁和寺殿へ馳まいり【参り】、門前にて馬よりおり、
申入られけるは、「一門運尽てけふ既に帝都
を罷出候。うき世におもひ【思ひ】のこす事とては、
ただ君の御名残ばかり也。八歳の時まいり【参り】
はじめ候て、十三で元服仕しまでは、あひ
いたはる事の候はぬ外は、あからさまにも御
前を立さる事も候はざりしに、けふより後、
P07127
西海千里の浪におもむい【赴むい】て、又いづれの日
いづれの時帰りまいる【参る】べしともおぼえぬ
こそ、口惜く候へ。今一度御前へまい【参つ】て、君をも
見まいらせ【参らせ】たふ候へども、既に甲冑をよろひ【鎧ひ】、
弓箭を帯し、あらぬさまなるよそほ
ひ【粧】に罷成て候へば、憚存候」とぞ申されける。
御室哀におぼしめし【思し召し】、「ただ其すがたを改
めずしてまいれ【参れ】」とこそ仰けれ。経正、其
日は紫地の錦の直垂に、萌黄の匂の
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鎧きて、長覆輪の太刀をはき、きりう【切斑】
の矢おひ【負ひ】、滋藤の弓わきにはさみ【鋏み】、甲を
ばぬぎたかひもにかけ、御前の御坪に
畏る。御室やがて御出あて、御簾たかく
あげさせ、「是へこれへ」とめされければ、大
床へこそまいら【参ら】れけれ。供に具せられたる
藤兵衛有教をめす。赤地の錦の袋
に入たる御琵琶もてまいり【参り】たり。経正是
をとりついで、御前にさしをき、申されけるは、
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「先年下しあづかて候し青山もたせま
い【参つ】て候。あまりに名残はおしう【惜しう】候へども、さしも
の名物を田舎の塵になさん事、口惜う
候。若不思議に運命ひらけて、又都へ立帰る
事候はば、其時こそ猶下しあづかり【預り】候はめ」と
泣々申されければ、御室哀におぼしめし【思し召し】、一
首の御詠をあそばひ【遊ばい】てくだされけり。
あかずしてわかるる君が名残をば
のちのかたみにつつみてぞをく【置く】 W053
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経正御硯くださ【下さ】れて、
くれ竹のかけひの水はかはれども
なを【猶】すみあかぬみやの中かな W054
さていとま申て出られけるに、数輩の
童形・出世者・坊官・侍僧に至るまで、経正の
袂にすがり、袖をひかへて、名残をおしみ【惜しみ】
涙をながさぬはなかりけり。其中にも、経
正の幼少の時、小師でおはせし大納言法印
行慶と申は、葉室大納言光頼卿[* 「光」の左にの振り仮名]の御子也。
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あまりに名残をおしみ【惜しみ】て、桂川のはたまで
うちをくり【送り】、さてもあるべきならねば、それ【其れ】
よりいとまこふ【乞う】て泣々わかれ給ふに、法印
かうぞおもひ【思ひ】つづけ給ふ。
あはれ【哀】なり老木わか木も山ざくら
をくれ【遅れ】さきだち【先立ち】花はのこらじ W055
経正の返事には、
旅ごろも【旅衣】夜な夜な袖をかたしき【片敷き】て
おもへ【思へ】ばわれはとをく【遠く】ゆきなん W056
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さてまい【巻い】てもたせられたる赤旗ざとさし
あげ【差し上げ】たり。あそこここにひかへて待奉る侍
共、あはやとて馳あつまり、その勢百騎ばかり、
鞭をあげ駒をはやめて、程なく行幸に
『青山之沙汰』S0718
を【追つ】つき奉る。○此経正十七の年、宇佐の勅
使を承はてくだられけるに、其時青山
を給はて、宇佐へまいり【参り】、御殿にむかひ【向ひ】奉り
秘曲をひき給ひしかば、いつ聞なれたる
事はなけれ共、ともの宮人をしなべて、
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緑衣の袖をぞしぼりける。聞しらぬや
つこまでも村雨とはまがはじな。目出かりし
事共なり。彼青山と申御琵琶は、昔仁
明天皇御宇、嘉祥三年の春、掃部頭貞敏
渡唐の時、大唐の琵琶の博士廉妾夫にあひ、
三曲を伝て帰朝せしに、玄象・師子丸・青山、
三面の琵琶を相伝してわたり【渡り】けるが、竜神
やおしみ【惜しみ】給ひけむ、浪風あらく立ければ、師子
丸をば海底にしづめ、いま二面の琵琶を
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わたして、吾朝の御門の御たからとす。村上の
聖代応和のころおひ、三五夜中[B ノ]新月白く
さえ【冴え】、涼風颯々たりし夜なか半に、御門
清涼殿にして玄象をぞあそばさ【遊ばさ】れける時
に、影のごとく【如く】なるもの御前に参じて、ゆう【優】
にけだかき声にてしやうが【唱歌】をめでたう仕る。
御門御琵琶をさしをか【置か】せ給ひて、「抑汝はいか
なるもの【者】ぞ。いづくより来れるぞ」と御尋あれ
ば、「是は昔貞敏に三曲をつたへ候し大唐の
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琶のはかせ廉妾夫と申者で候が、三曲
のうち秘曲を一曲のこせるO[BH 罪イ]によて、魔道へ沈淪
仕て候。今御琵琶の御撥音たへ【妙】にきこえ【聞え】侍る
間、参入仕ところ【所】なり。ねがは【願は】くは此曲を君に
さづけ奉り、仏果菩提を証すべき」由申て、
御前に立られたる青山をとり、てんじゆ【転手】を
ねぢて秘曲を君にさづけ奉る。三曲のうちに
上玄石上是也。其後は君も臣も
おそれ【恐れ】させ
給ひて、此御琵琶をあそばし【遊ばし】ひく事もせさ
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せ給はず。御室へまいらせ【参らせ】られたりけるを、経
正の幼少の時、御最愛の童形たるによて下
しあづかり【預り】たりけるとかや。こう【甲】は紫藤のこう【甲】、
夏山の峯のみどりの木の間より、有明の月
のいづる【出づる】を撥面にかかれたりけるゆへ【故】にこそ、
青山とは付られたれ。玄象にもあひをとらぬ
『一門都落』S0719
希代の名物なりけり。○池の大納言頼盛卿も
池殿に火をかけて出られけるが、鳥羽の南
の門にひかへつつ、「わすれたる事あり」とて、
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赤じるし切捨て、其勢三百余騎、都へとてかへ
さ【返さ】れけり。平家の侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】、大臣
殿の御まへに馳まい【参つ】て、「あれ御覧候へ。池殿の御
とどまり候に、おほう【多う】の侍共のつきまいらせ【参らせ】て
罷とどまるが奇怪におぼえ候。大納言殿まで
はおそれ【恐れ】も候。侍共に矢一いかけ候はん」と申け
れば、「年来の重恩を忘て、今此ありさま【有様】を
見はてぬ不当人をば、さなくとも【共】ありなん」
との給へ【宣へ】ば、力をよば【及ば】でとどまりけり。「扨
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小松殿の君達はいかに」との給へ【宣へ】ば、「いまだ御一
所も見えさせ給候はず」と申す。其時新中納
言なみだ【涙】をはらはらとながい【流い】て、「都を出ていまだ一日だにも過ざるに、いつしか人の心共
のかはりゆくうたてさよ。まして行すゑとて
もさこそはあらんずらめとおもひ【思ひ】しかば、都の
うちでいかにもならんと申つる物を」とて、大臣
殿の御かたをうらめしげ【恨めし気】にこそ見給ひけれ。
抑池殿のとどまり給ふ事をいかにといふに、
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兵衛佐つね【常】は頼盛に情をかけて、「御かたをば
またくをろか【愚】におもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】候はず。ただ故
池殿のわたらせ給ふとこそ存候へ。八幡大菩
薩も御照罰候へ」など、度々誓状をもて申
されける上、平家追討のために討手の使の
のぼる度ごとに、「相構て池殿の侍共にむか【向つ】て弓ひくな」など情をかくれば、「一門の平家は運
つき、既に都を落ぬ。今は兵衛佐にたすけ【助け】
られんずるにこそ」との給ひ【宣ひ】て、都へかへられける
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とぞきこえ【聞え】し。八条女院の仁和寺の常葉
どのにわたらせ給ふにまいり【参り】こもられけり。
女院の御めのとご、宰相殿と申女房にあひ具
し給へるによてなり。「自然の事候はば、頼盛
かまへてたすけ【助け】させ給へ」と申されけれども、
女院「今は世の世にてもあらばこそ」とて、たの
もしげ【頼もし気】もなふぞ仰ける。凡は兵衛佐ばかり
こそ芳心は存ぜらるるとも、自余の源氏
共はいかがあらんずらむ。なまじひに一門にははなれ
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給ひぬ、波にも磯にもつかぬ心ち【心地】ぞせられ
ける。さる程に、小松殿の君達は、三位中将維
盛卿をはじめ奉て、兄弟六人、其勢千騎
ばかりにて、淀のむつだ河原【六田河原】にて行幸に
を【追つ】つき奉る。大臣殿待うけ奉り、うれしげ【気】
にて、「いかにや今まで」との給へ【宣へ】ば、三位中将「お
さなき【幼き】もの共があまりにしたひ候を、とかうこし
らへをか【置か】んと遅参仕候ぬ」と申されければ、
大臣殿「などや心づよふ六代どのをば具し奉
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給はぬぞ」と仰られければ、維盛卿「行すゑ
とてもたのもしう【頼もしう】も候はず」とて、とふ【問ふ】につら
さのなみだ【涙】をながされけるこそかなし
けれ。落行平家は誰々ぞ。前内大臣宗盛公・
平大納言時忠・平中納言教盛・新中納言知盛・修
理大夫経盛・右衛門督清宗・本三位中将重衡・小松三
位中将維盛・新三位中将資盛・越前三位通盛、
殿上人には蔵頭信基・讃岐中将時実・左中将
清経・小松少将有盛・丹後侍従忠房・皇后宮亮経正・
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左馬頭行盛・薩摩守忠教【*忠度】・能登守教経・武蔵守
知明【*知章】・備中守師盛・淡路守清房・尾張守清定・
若狭守経俊・兵部少輔正明・蔵人大夫成盛【*業盛】・大夫敦
盛[* 「淳盛」と有るのを他本により訂正]、僧には二位僧都専親【*全真】・法勝寺執行能円・中
納言律師仲快、経誦坊阿闍梨祐円、侍には受
領・検非違使・衛府・諸司百六十人、都合其勢七千
余騎、是は東国北国度々のいくさ【軍】に、此二三ケ
年が間討もらさ【漏らさ】れて、纔に残るところ【所】也。
山崎関戸[B ノ]院に玉の御輿をかきすへ【据ゑ】て、男山を
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ふし拝み、平大納言時忠卿「南無帰命頂礼
八幡大菩薩、君をはじめまいらせ【参らせ】て、我等都へ
帰し入させ給へ」と、祈られけるこそかなしけれ。
おのおのうしろをかへり見給へば、かすめる空
の心ち【心地】して、煙のみこころぼそく立のぼる。平
中納言教盛卿
はかなしなぬしは雲井にわかるれば
跡はけぶりとたちのぼるかな W057
修理大夫経盛
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ふるさとをやけ野の原にかへりみて
すゑ【末】もけぶりのなみぢをぞゆく【行く】 W058
まこと【誠】に古郷をば一片の煙塵に隔つつ、前
途万里の雲路におもむか【赴か】れけん人々の心
のうち、おしはから【推し量ら】れて哀也。肥後守貞能は、河
尻に源氏まつときい【聞い】て、けちらさ【散らさ】んとて五
百余騎で発向したりけるが、僻事なれば帰りのぼる程に、うどの【宇度野】の辺にて行幸に
まいり【参り】あふ。貞能馬よりとびおり、弓わきばさみ【鋏み】、
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大臣殿の御前に畏て申けるは、「是は抑いづち
へとておち【落ち】させ給候やらん。西国へくだらせ給ひ
たらば、おち人とてあそこここにてうちちら
さ【散らさ】れ、うき名をながさせ給はん事こそ口惜候へ。
ただ宮古のうちでこそいかにもならせ給はめ」
と申ければ、大臣殿「貞能はしら【知ら】ぬか。木曾既に
北国より五万余騎で攻のぼり、比叡山東坂本
にみちみちたんなり。此夜半ばかり、法皇もわた
らせ給はず。おのおのが身ばかりならばいかがせん、
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女院二位殿に、まのあたりうき目を見せまいら
せ【参らせ】んも心ぐるしければ、行幸をもなしまい
らせ【参らせ】、人々をもひき【引き】具し奉て、一まどもやと
おもふ【思ふ】ぞかし」と仰られければ、「さ候はば、貞能は
いとま給はて、都でいかにもなり候はん」とて、めし【召し】
具したる五百余騎の勢をば、小松殿の
君達につけ奉り、手勢卅騎ばかりで都へ
ひ【引つ】かへす【返す】。京中にのこりとどまる平家の
余党をうたんとて、貞能が帰り入よし聞えしかば、
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池大納言「頼盛がうへ【上】でぞあるらん」とて、大に
おそれ【恐れ】さはが【騒が】れけり。貞能は西八条のやけ跡
に大幕ひかせ、一夜宿したりけれ共、帰り入
給ふ平家の君達一所もおはせねば、さすが心
ぼそうやおもひ【思ひ】けん、源氏の馬のひづめにかけじ
とて、小松殿の御はか【墓】ほらせ、御骨にむかひ【向ひ】奉
て泣々申けるは、「あなあさまし、御一門を御覧
候へ。「生あるもの【者】は必ず滅す。楽尽て悲み
来る」といにしへより書をきたる事にて候へ共、
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まのあたりかかるうき【憂き】事候はず。君はかやう
の事をまづさとらせ給ひて、兼て仏神
三宝に御祈誓あて、御世をはやう【早う】させまし
ましけるにこそ。ありがたうこそおぼえ候へ。
其時貞能も最後の御供仕るべう候けるもの
を、かひなき命をいきて、今はかかるうき目に
あひ候。死期の時は必ず一仏土へむかへ【向へ】させ給へ」と、
泣々遥にかきくどき【口説き】、骨をば高野へ送り、
あたりの土をば賀茂川にながさせ、世の有様
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たのもしから【頼もしから】ずやおもひ【思ひ】けん、しう【主】とうしろあ
はせ【後ろ合はせ】に東国へこそおち【落ち】ゆき【行き】けれ。宇都宮をば
貞能が申あづかて、情ありければ、そのよしみ
にや、貞能又宇都宮をたのん【頼ん】で下りければ、
『福原落』S0720
芳心しけるとぞ聞えし。○平家は小松[B ノ]三位[B ノ]中
将維盛[B ノ]卿の外は、大臣殿以下妻子を具せられ
けれ共、つぎざま【次様】の人共はさのみひき【引き】しろふに
及ばねば、後会其期をしら【知ら】ず、皆うち捨てぞ
落行ける。人はいづれの日、いづれの時、必ず
P07151
立帰るべしと、其期を定をく【置く】だにも久
しきぞかし。況や是はけふを最後、唯今限
の別なれば、ゆくもとどまるも、たがひに
袖をぞぬらしける。相伝譜代のよしみ、年
ごろ日比、重恩争かわする【忘る】べきなれば、老
たるもわかきもうしろのみかへりみて、
さきへはすすみもやらざりけり。或磯べ
の浪枕、やへ【八重】の塩路に日をくらし、或遠き
をわけ、けはしきをしのぎつつ、駒に鞭うつ
P07152
人もあり、舟に棹さす者もあり、思ひ思ひ
心々におち【落ち】行けり。福原の旧都につい
て、大臣殿、しかる【然る】べき侍共、老少数百人めし【召し】
て仰られけるは、「積善の余慶家につき【尽き】、
積悪の余殃身に及ぶゆへ【故】に、神明にもは
なたれ奉り、君にも捨られまいらせ【参らせ】て、帝
都をいで旅泊にただよふ上は、なんのたのみ【頼み】
かあるべきなれども、一樹の陰にやどるも先
世の契あさから【浅から】ず。同じ流をむすぶも、多生
P07153
の縁猶ふかし。いかに況や、汝等は一旦したがひ【従ひ】
つく門客にあらず、累祖相伝の家人なり。
或近親のよしみ他に異なるもあり、或重
代芳恩是ふかきもあり、家門繁昌の古
は恩波によて私をかへりみき。今なんぞ
芳恩をむくひざらんや。且は十善帝王、三種
の神器を帯してわたらせ給へば、いかなら
む野のすゑ【末】、山の奥までも、行幸の御供
仕らんとは思はずや」と仰られければ、老少
P07154
みな涙をながい【流い】て申けるは、「あやしの鳥け
だものも、恩を報じ、徳をむくふ【報ふ】心は候なり。
申候はんや、人倫の身として、いかがそのことはり【理】
を存知仕らでは候べき。廿余年の間妻子
をはぐくみ所従をかへりみる事、しかしな
がら君の御恩ならずといふ事なし。就中
に、弓箭馬上に携るならひ【習ひ】、ふた心あるを
もて恥とす。然ば則日本の外、新羅・百済・
高麗・荊旦、雲のはて、海のはてまでも、行
P07155
幸の御供仕て、いかにもなり候はん」と、異口
同音に申ければ、人々皆たのもしげ【頼もし気】にぞ
見えられける。福原の旧里に一夜をこそ
あかされけれ。折節秋のはじめ【始め】の月は、
しもの弓はり【弓張り】なり。深更空夜閑にして、旅
ねの床の草枕、露もなみだ【涙】もあらそひて、
ただ物のみぞかなしき【悲しき】。いつ帰るべし共
おぼえねば、故入道相国の作りをき給ひし
所々を見給ふに、春は花みの岡の御所、秋は
P07156
月み【月見】の浜の御所、泉殿・松陰殿・馬場殿、二
階の桟敷殿、雪見の御所、萱の御所、人々
の館共、五条大納言国綱【*邦綱】卿の承はて造進
せられし里内裏、鴦の瓦、玉の石だたみ【石畳】、いづ
れもいづれも三とせ【三年】が程に荒はてて、旧苔
道をふさぎ、秋の草門をとづ。瓦に松おひ、
墻に蔦しげれり。台傾て苔むせり、松風
ばかりや通らん。簾たえ【絶え】て閨あらはなり、
月影のみぞさし入ける。あけぬれば、福原の
P07157
内裏に火をかけて、主上をはじめ奉て、
人々みな御舟にめす。都を立し程こそ
なけれども、是も名残はおしかり【惜しかり】けり。海
人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁の
こゑ【声】、渚々によする【寄する】浪の音、袖に宿かる
月の影、千草にすだく蟋蟀のきりぎりす【蟋蟀】、
すべて目に見え耳にふるる事、一[B ツ]として
哀をもよほし、心をいたま【痛ま】しめずといふ事
なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべ
P07158
て十万余騎、今日は西海の浪に纜をとい
て七千余人、雲海沈々として、青天既に
くれなんとす。孤島に夕霧隔て、月海
上にうかべ【浮べ】り。極浦[* 右に左にの振り仮名]の浪をわけ、塩にひかれ
て行舟は、半天の雲にさかのぼる。日かず
ふれば、都は既に山川程を隔て、雲居
のよそにぞなりにける。はるばるき【来】ぬと
おもふ【思ふ】にも、ただつきせぬ物は涙なり。浪の
上に白き鳥のむれゐるを見給ひて
P07159
は、かれなら[B 「ら」に「ンイ」と傍書]ん、在原のなにがしの、すみ田川【隅田川】
にてこととひけん、名もむつましき都鳥
にやと哀也。寿永二年七月廿五日に平家
都を落はてぬ。

平家物語巻第七