平家物語 高野本 巻第十

平家 十(表紙)
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平家十之巻 目録
           イ本 重衡大路渡
首渡          内裏女房
八島院宣        請文
戒文          海道下
千手前         横笛
高野巻         維盛出家
維盛熊野参詣      維盛入水
イ池大納言関東下向
三日平氏付維盛北方出家 藤戸
大嘗会の沙汰
P10003
平家物語巻第十
『首渡』S1001
○寿永三年二月七日、摂津国一の谷にて
うた【討た】れし平氏の頸共、十二日都へいる【入る】。平家に
むすぼほれたる人々は、わが【我が】方ざまにいかなるうき
目をかみ【見】むずらんと、なげきあひかなしみあへ【合へ】
り。中にも大覚寺にかくれ居給へる小松三位
中将維盛卿の北方、ことさらおぼつかなく思
はれける。「今度一の谷にて一門の人々残ずく
なううた【討た】れたまひ【給ひ】、三位中将と云公卿一人、いけ
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どりにせられてのぼる也」ときき給ひ、「この人
はなれ【離れ】じ物を」とて、ひき【引き】かづきてぞふし
たまふ【給ふ】。ある【或】女房の出きて申けるは、「三位中将
殿と申は、是の御事にてはさぶらはず。本三
位中将殿の御こと【御事】也」と申ければ、「さては頸共の
中にこそあるらめ」とて、なを【猶】心やすうもおもひ【思ひ】
給はず。同十三日、大夫判官仲頼、六条河原に
出むか【向つ】て、頸共うけ【受け】とる【取る】。東洞院の大路を北へ
わたして獄門の木にかけらるべきよし、蒲冠者
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範頼・九郎冠者義経奏聞す。法皇、此条いかが
あるべからむとおぼしめし【思し召し】わづらひ【煩ひ】て、太政大臣・
左右の大臣・内大臣・堀河大納言忠親卿に仰あは
せ【合はせ】らる。五人の公卿申されけるは、「昔より卿相の
位にのぼるもの【者】の頸、大路をわたさるる事先
例なし。就中此輩は、先帝の御時、戚里の
臣として久しく朝家につかうまつる。範頼・
義経が申状、あながち御許容あるべからず」と、
おのおの一同に申されければ、わたさ【渡さ】るまじき
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にて有けるを、範頼・義経かさね【重ね】て奏聞し
けるは、「保元の昔をおもへ【思へ】ば、祖父為義があた、
平治のいにしへを案ずれば、父義朝がかたき【敵】也。
君の御憤をやすめ奉り、父祖の恥をきよめん
がために、命を捨て朝敵をほろぼす。今度
平氏の頸共大路をわたされずは、自今以後
なんのいさみあてか凶賊をしりぞけんや」と、
両人頻にうたへ【訴へ】申間、法皇力およば【及ば】せ給はで、
終にわたされけり。みる【見る】人いくらといふ数を
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しらず。帝闕に袖をつらねしいにしへは、おぢおそ
るる【恐るる】輩おほかり【多かり】き。巷に首をわたさるる今は、
あはれみかなしまずといふ事なし。小松の三位
中将維盛卿の若君、六代御前につき奉たる
斎藤五、斎藤六、あまりのおぼつかなさに、さま
をやつして見ければ、頸共は見しりたてま
たれども、三位中将殿の御頸はみえ【見え】たまは【給は】ず。
されどもあまりにかなしくて、つつむにたへ【堪へ】ぬ
涙のみしげかりければ、よその人目もおそろ
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しさ【恐ろしさ】に、いそぎ大覚寺へぞまいり【参り】ける。北方
「さて、いかにやいかに」と問給へば、「小松殿の君達に
は、備中守殿の御頸ばかりこそみえ【見え】させ
給ひ候つれ。其外はそんぢやうその頸、其御頸」
と申ければ、「いづれも人のうへ【上】ともおぼえず」
とて、涙にむせび給ひけり。ややあて、斎藤
五涙をおさへ【抑へ】て申けるは、「此一両年はかくれ
居候て、人にもいたくみしられ候はず。今しばらく
もみ【見】まいらす【参らす】べう候つれども、よにくはしう【詳しう】案内
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しり【知り】まいらせ【参らせ】たる者の申候つるは、「小松殿の君達は、
今度の合戦には、播磨と丹波のさかひ【境】で候
なるみくさ【三草】山をかためさせ給ひて候けるが、
九郎義経にやぶられて、新三位中将殿・小松
少将殿・丹後侍従殿は播磨の高砂より御舟に
めし【召し】て、讃岐の八島へわたらせ給て候也。何と
してはなれ【離れ】させ給て候けるやらん、御兄弟の
御なかには、備中守殿ばかり一谷にてうた【討た】れさせ
給て候」と申ものにこそあひ【逢ひ】て候つれ。「さて
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小松三位中将殿の御事はいかに」ととひ候つれば、
「それはいくさ【軍】以前より大事の御いたはりとて、
八島に御渡候間、此たびはむかは【向は】せ給候はず」と、
こまごまとこそ申候つれ」と申ければ、「それも
われら【我等】がこと【事】をあまりにおもひ【思ひ】なげき給ふが、
病となりたるにこそ。風のふく日は、けふもや船
にのり給らんと肝をけし、いくさ【軍】といふ時は、ただ
今【只今】もやうた【討た】れ給らむと心をつくす。まして
さ様の御いたはりなんどをも、たれか心やすう
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あつかひたてまつる【奉る】べき。くはしうきかばや」との
たまへ【宣へ】ば、若君・姫君、「など、なんの御いたはりとはとは【問は】
ざりけるぞ」とのたまひ【宣ひ】けるこそ哀なれ。三位
中将もかよふ心なれば、「都にいかにおぼつかなく
思ふらん。頸共のなか【中】にはなくとも、水におぼれて
も死に、矢にあたてもうせぬらん。此世にある
もの【物】とはよもおもは【思は】じ。露の命の末ながらへ【永らへ】たる
としらせ【知らせ】奉らばや」とて、侍一人したて【仕立て】て都へ
のぼせ【上せ】られけり。三のふみ【文】をぞかかれける。まづ北方
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への御ふみ【文】には、「都にはかたき【敵】みちみちて、
御身ひとつ【一つ】のをきどころ【置き所】だにあらじに、おさな
き【幼き】もの【者】共引ぐし【具し】て、いかにかなしう【悲しう】おぼすらん。
是へむかへ【向へ】たてま【奉つ】て、ひとところ【一所】でいかにもならば
やとは思へども、我身こそあらめ、御ため心ぐるし
くて」などこまごまと書つづけ、おくに一首の
歌ぞ有ける。
いづくともしらぬあふせ【逢瀬】のもしほ草【藻塩草】
かきをく【置く】あと【跡】をかたみともみよ【見よ】 W073
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おさなき【幼き】人々の御もとへは、「つれづれをばいかにして
かなぐさみ【慰さみ】給ふらむ。いそぎむかへ【向へ】とらんずる
ぞ」と、こと葉もかはらずかひ【書い】てのぼせ【上せ】られけり。
此御文共を給はて、使都へのぼり、北方に
御文まいらせ【参らせ】たりければ、今さら又なげき
かなしみ給ひけり。使四五日候て、いとま申。
北方なくなく御返事かき給ふ。若公【若君】姫君筆
をそめ【染め】て、「さて父御ぜんの御返事は何と
申べきやらん」と問給へば、「ただともかうも、わ御前
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たちのおもは【思は】んやうに申べし」とこその給ひ
けれ。「などや今までむかへ【向へ】させ給はぬぞ。あ
まりにこひしく【恋しく】思ひまいらせ【参らせ】候に、とくとく
むかへ【向へ】させ給へ」と、おなじこと葉にぞかかれたる。
此御文共を給はて、使八島にかへりまいる【参る】。
三位中将、まづおさなき【幼き】人々の御文を御覧
じてこそ、いよいよせん方なげにはみえ【見え】られ
けれ。「抑是より穢土を厭にいさみなし。
閻浮愛執の綱つよければ、浄土をねがふも
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もの【物】うし。唯是より山づたひ【山伝ひ】に都へのぼ【上つ】て、こひしき【恋しき】ものどもを今一度見もし、みえ【見え】ての
後、自害をせんにはしかじ」とぞ、泣々かたり給ひ
『内裏女房』S1002
ける。○同十四日、いけどり【生捕り】本三位中将重衡卿、六条を
東へわたされけり。小八葉の車に先後の
簾をあげ、左右の物見をひらく。土肥次郎
実平、木蘭地の直垂に小具足ばかりして、
随兵卅余騎、車の先後にうちかこ【囲ん】で守護
し奉る。京中の貴賎是をみて、「あないとをし、
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いかなる罪のむくひぞや。いくらもまします
君達のなかに、かくなり給ふ事よ。入道殿に
も二位殿にも、おぼえの御子にてましま
いしかば、御一家の人々もおもき【重き】事に思ひ奉
り給ひしぞかし。院へも内へもまいり【参り】給ひし
時は、老たるも若も、ところ【所】ををきてもて
なし奉り給ひし物を。是は南都をほろぼし
給へる伽藍の罰にこそ」と申あへ【合へ】り。河原まで
わたされて、かへ【帰つ】て、故中〔御〕門藤中納言家成卿の
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八条堀川の御だう【堂】にすゑたてま【奉つ】て、土肥
次郎守護し奉る。院御所より御使に蔵人
左衛門権佐定長、八条堀河へむかは【向は】れけり。赤衣
にて剣笏をぞ帯したりける。三位中将は
紺村滋の直垂に、立烏帽子ひき【引き】たてておはし
ます。日比は何共おもは【思は】れざりし定長を、今は
冥途にて罪人共が冥官にあへ【逢へ】る心地ぞせら
れける。仰下されけるは、「八島へかへりたくは、一門の
中へいひ【言ひ】をく【送つ】て、三種の神器を都へ返し
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入奉れ。しからば八島へかへさ【返さ】るべしとの御気色
で候」と申。三位中将申されけるは、「重衡千人
万人が命にも、三種の神器をかへまいらせ【参らせ】んとは、
内府以下一門の者共、一人もよも申候はじ。
もし女性にて候へば、母儀の二品なんO[BH ど]やさも申
候はんずらむ。さは候へども、居ながら院宣をかへし
まいらせ【参らせ】む事、其恐も候へば、申送てこそ見候
はめ」とぞ申されける。O[BH 三位中将の][M 御]使は平三左衛門重国、O[BH 院宣の御使は、]御
坪の召次花方とぞ聞えし。私の文はゆる
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さ【許さ】れねば、人々のもとへも詞にてことづけ【言付け】給ふ。
北方大納言佐殿へも御詞にて申されけり。「旅の
空にても、人はわれになぐさみ【慰さみ】、我は人になぐ
さみ【慰さみ】奉りしに、引別てのち【後】、いかにかなしう【悲しう】
おぼすらん。「契は朽せぬ物」と申せば、後の世には
かならず【必ず】むまれ【生れ】逢奉らん」と、泣々ことづけ給へば、
重国も涙をおさへ【抑へ】てたちにけり。三位中将
の年ごろめし【召し】つかは【使は】れける侍に、木工右馬允
知時といふ者あり【有り】。八条の女院に候けるが、土肥
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次郎がもとにゆきむか【向つ】て、「是は中将殿に先
年めし【召し】つかは【使は】れ候し某と申者にて候が、西国
へも御供仕べき由存候しか共、八条の女院に
兼参[* 左にの振り仮名]の者にて候間、力およば【及ば】でまかり【罷り】とど
まて候が、けふ大路で見まいらせ【参らせ】候へば、目もあて
られず、いとをしう[B 「いとをしう」に「あまりにいたしうイ」と傍書]おもひ奉り候。しかる【然る】べう候はば、
御ゆるされ【許され】を蒙て、ちかづき【近付き】まいり【参り】候て、今一度
見参にいり、昔語りをも申て、なぐさめまいらせ【参らせ】
ばやと存候。させる弓矢とる身で候はねば、いくさ【軍】
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合戦の御供を仕たる事も候はず、ただ朝ゆふ【朝夕】
祗候せしばかりで候き。さりながら、なを【猶】[B おぼ]つかなう
おぼしめし【思し召し】候はば、腰の刀をめし【召し】をか【置か】れて、まげて
御ゆるされ【許され】を蒙候ばや」と申せば、土肥次郎なさけ
あるおのこ【男】にて、「御一人ばかりは何事か候べき。
さりながらも」とて、腰の刀をこひ【乞ひ】とていれ【入れ】て
げり。右馬允なのめならず悦て、いそぎまい【参つ】
てみ【見】奉れば、誠に思ひいれ【入れ】給へるとおぼしくて、
御姿もいたくしほれ【萎れ】かへ【返つ】て居給へる御有様を
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見奉るに、知時涙もさらにおさへ【抑へ】がたし。三位
中将も是を御覧じて、夢にゆめ【夢】みる【見る】心地
して、とかうの事もの給は【宣は】ず。只なく【泣く】より
外の事ぞなき。やや久しうあて、昔いまの物
語共したまひ【給ひ】て後、「さても汝して物いひ【言ひ】し
人は、未内裏にとやきく」。「さこそ承候へ」。「西国へ下
し時、文をもやらず、いひをく【置く】事だになかりしを、
世々のちぎり【契り】はみな偽にてあり【有り】けりと思ふらん
こそはづかしけれ。文をやらばやと思ふは。尋て行
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てんや」との給へ【宣へ】ば、「御文を給【賜つ】てまいり【参り】候はん」と
申す。中将なのめならず悦て、やがてかい【書い】てぞ
たう【賜う】だりける。守護の武士共「いかなる御文にて候や
らむ。いだしまいらせ【参らせ】じ」と申。中将「みせよ【見せよ】」との給へ【宣へ】ば、
みせ【見せ】てげり。「くるしう【苦しう】候まじ」とてとらせけり。
知時もて内裏へまいり【参り】たりけれ共、ひるは人目
のしげければ、其へんちかき小屋にたち【立ち】入て
日を待暮し、局の下口へんにたたずできけ
ば、此人のこゑ【声】とおぼしくて、「いくらもある人の
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なかに、三位中将しも生取にせられて、大路をわた
さるる事よ。人はみな奈良を焼たる罪のむく
ひといひあへ【合へ】り。中将もさぞいひし。「わが心におこて
はやかねども、悪党おほかり【多かり】しかば、手々に火を
はな【放つ】て、おほく【多く】の堂塔を焼はらふ。末のつゆ【露】
本のしづくとなるなれば、われ一人が罪にこそ
ならんずらめ」といひしか。げにさとおぼゆる【覚ゆる】」とかき
くどき、さめざめとぞなか【泣か】れける。右馬允「是
にも思はれける物を」といとをしう覚へて、「もの【物】
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申さう」どいへば、「いづくより」と問給ふ。「三位中将殿
より御文の候」と申せば、年ごろははぢて見え
たまは【給は】ぬ女房の、せめての思ひのあまりにや、
「いづらやいづら」とてはしり【走り】出て、手づから文をとて
み【見】たまへ【給へ】ば、西国よりとられてありしありさま【有様】、
けふあすともしらぬ身のゆくゑ【行方】などこまごま
と書つづけ、おくには一首の歌ぞ有ける。
涙河うき名をながす身なりとも
いま一たびのあふせ【逢瀬】ともがな W074
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女房これをみ【見】給ひて、とかうの事もの給はず、
文をふところ【懐】に引入て、ただなくより外の
事ぞなき。やや久しうあて、さてもあるべきなら
ねば、御かへり事あり【有り】。心ぐるしういぶせくて、
二とせ【年】ををくり【送り】つる心の中をかきたまひ【給ひ】て、
君ゆへ【故】にわれもうき名をながすとも
そこ【底】のみくづ【水屑】とともに成なむ W075
知時もてまいり【参り】たり。守護の武士共、又「み【見】まひ
らせ【参らせ】候はん」と申せば、みせ【見せ】てげり。「くるしう【苦しう】候まじ」
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とて奉る。三位中将是をみて、いよいよ思ひや
まさり給ひけん、土肥次郎にのたまひ【宣ひ】けるは、
「年来あひぐし【具し】たりし女房に、今一度対〔面〕して、
申たき事のあるはいかがすべき」とのたまへ【宣へ】ば、
実平なさけあるおのこ【男】にて、「誠に女房などの
御事にてわたらせ給候はんは、なじかはくるしう【苦しう】
候べき」とてゆるし奉る。中将なのめならず悦て、
人に車か【借つ】てむかへ【向へ】につかはし【遣し】たりければ、女房とり
もあへず是にの【乗つ】てぞおはしたる。ゑん【縁】に車を
P10028
やりよせて、かくと申せば、中将車よせ【車寄せ】に出むかひ【向ひ】
給ひ、「武士共の見奉るに、おりさせ給べからず」
とて、車の簾をうちかづき、手に手をとり
くみ、かほ【顔】にかほ【顔】をおしあてて、しばしは物もの給
はず、只なくより外の事ぞなき。稍久しう
あて中将の給ひけるは、「西国へくだりし時、
今一度見まいらせ【参らせ】たう候しか共、おほかた【大方】の
世のさはがしさ【騒がしさ】に、申べきたよりもなくてまかり【罷り】
くだり【下り】候ぬ。其後はいかにもして御文をもまい
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らせ【参らせ】、御かへり事をも承はりたう候しか共、心にまかせ【任せ】ぬ
旅のならひ【習ひ】、明暮のいくさ【軍】にひまなくて、むなしく
年月ををくり【送り】候き。今又人しれぬありさま【有様】を
見候は、二たび【二度】あひ奉るべきで候けり」とて、袖を
かほ【顔】にをし【押し】あてて、うつぶしにぞなられける。たがひの
心のうち、おしはかられてあはれ【哀】なり。かくてさ夜も
なかば【半ば】になりければ、「此比は大路の狼籍【*狼藉】に候に、
とうとう【疾う疾う】」とてかへし奉る。車やりいだせば、中将別
の涙をおさへ【抑へ】て、泣々袖をひかへつつ、
P10030
逢ことも露の命ももろともに
こよひばかりやかぎりなるらむ W076
女房泪をおさへ【抑へ】つつ、
かぎりとて立わかるれば露の身の
君よりさきにきえぬべきかな W077
さて女房は内裏へまいり【参り】給ひぬ。其後は守護
の武士共ゆるさ【許さ】ねば、ちからおよば【及ば】ず、時々御文ばかり
ぞかよひける。此女房と申すは、民部卿入道親範
のむすめ也。みめ【眉目】形世にすぐれ、なさけふかき
P10031
人なり。されば中将、南都へわたされてきられ給ぬと
聞えしかば、やがてさまをかへ、こき墨染にやつれ
はて、彼後世菩提をとぶらはれけるこそ哀なれ。
『八島院宣』S1003
○さる程に、平三左衛門重国、御坪の召次、八島に
まい【参つ】て院宣をたてまつる【奉る】。おほいとの以下一門
の月卿雲客よりあひ給ひて、院宣をひらかれけり。
一人聖体、北闕の宮禁を出て、諸州に幸し、
三種の神器、南海・四国にうづもれて数年をふ【経】、
尤も朝家のなげき、亡国の基也。抑彼重衡卿は、
P10032
東大寺焼失の逆臣也。すべからく頼朝朝臣申請る
旨にまかせ【任せ】て、死罪におこなはるべしといへども、
独親族にわかれて、既に生取となる。籠鳥雲を
恋るおもひ【思ひ】、遥に千里の南海にうかび、帰雁友を
失ふ心、定て九重の中途に通ぜんか。しかれば則
三種の神器を返しいれ【入れ】奉らんにおゐては、
彼卿を寛宥せらるべき也。者院宣かくのごとし。
仍執達如件。寿永三年二月十四日大膳大夫成忠が
うけたまはり【承り】進上[B 「進」に「謹」と傍書]平大納言殿へとぞかかれたる。
P10033
『請文』S1004
○大臣殿・平大納言のもとへは院宣の趣を申給ふ。
二位殿へは御文こまごまとかいてまいらせ【参らせ】られたり。
「今一度御覧ぜんとおぼしめし【思し召し】候はば、内侍所の
御事を大臣殿に能々申させおはしませ。さ候は
では、此世にてげざん【見参】に入べしとも覚え候はず」
などぞかかれたる。二位殿はこれを見給ひて、とかうの
事もの給はず、文をふところ【懐】に引いれ【入れ】て、うつ
ぶしにぞなられける。まこと【誠】に心のうち、さこそは
おはしけめとおしはから【推し量ら】れて哀なり。さる程に、平
P10034
大納言時忠卿をはじめとして、平家一門の公卿
殿上人よりあひ給ひて、御請文のおもむき【趣】僉
議せらる。二位殿は中将の文をかほ【顔】におしあてて、
人々のなみ居給へるうしろの障子をひき【引き】あけて、
大臣殿の御まへにたふれ【倒れ】ふし、泣々のたまひ【宣ひ】けるは、
「あの中将が京よりいひおこし【遣こし】たる事のむざん
さよ。げにも心のうちにいかばかりの事を思ひ居たる
らん。只われに思ひゆるして、内侍所を宮こ【都】へかへし
いれ【入れ】奉れ」との給へ【宣へ】ば、大臣殿「誠に宗盛もさこそは
P10035
存候へども、さすが世の聞えもいふかいなう候。且は頼朝
がおもは【思は】ん事もはづかしう候へば、左右なう内侍所
を返し入奉る事はかなひ【叶ひ】候まじ。其うへ、帝王の
世をたもた【保た】せ給ふ御事は、ひとへに内侍所の御故也。
子のかなしひ【悲しい】も様にこそより候へ。且は中将一人に、
余の子共、したしひ【親しい】人々をば、さておぼしめし【思し召し】かへ【替へ】させ
給べきか」と申されければ、二位殿かさねての給ひ【宣ひ】
けるは、「故入道にをくれ【遅れ】て後は、かた時【片時】も命いきて
あるべしともおもは【思は】ざりしか共、主上か様【斯様】にいつと
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なく旅だたせ給たる御事の御心ぐるしさ、
又君をも御代にあらせまいらせ【参らせ】ばやなど思ふ
ゆへ【故】にこそ、今までもながらへ【永らへ】てありつれ。中将一
谷で生取にせられぬと聞し後は、肝たましい【魂】も
身にそはず。いかにして此世にて今一度あひみる【見る】
べきと思へども、夢にだにみえ【見え】ねば、いとどむねせきて、
湯水ものどへ入られず。今此文をみて後は、弥思ひ
やりたる方もなし。中将世になき物ときかば、われも
同みちにおもむか【赴か】んと思ふ也。二たび【二度】物をおもは【思は】ぬ
P10037
さきに、ただわれをうしなひ【失ひ】給へ」とて、おめき【喚き】さけ
び【叫び】給へば、まこと【誠】にさこそは思ひ給ふらめと哀に
覚えて、人々涙をながしつつ、みなふしめ【伏目】にぞなられ
ける。新中納言知盛の意見に申されけるは、
「三種の神器を都へ返し入たてま【奉つ】たりとも、
重衡をかへし給らむ事有がたし。只はばかりなく
その様を御請文に申さるべうや候らむ」と申され
ければ、大臣殿「此儀尤しかる【然る】べし」とて、御請文申
されけり。二位殿は泣々中将の御かへり事かき
P10038
たまひ【給ひ】けるが、涙にくれて筆のたてど【立て処】も
おぼえね共、心ざしをしるべにて、御文こまごまと書
て、重国にたび【賜び】にけり。北方大納言佐殿は、只なく
より外の事なくて、つやつや御かへり事もし給はず。
誠に御心のうちさこそは思ひ給ふらめと、おし
はから【推し量ら】れて哀也。重国も狩衣の袖をしぼりつつ、
泣々御まへをまかり【罷り】たつ。平大納言時忠は、御坪の召
次花方をめし【召し】て、「なんぢは花方歟」。「さん候」。「法皇
の御使におほく【多く】の浪路をしのいで是までまい
P10039
り【参り】たるに、一期が間の思出ひとつ【一つ】あるべし」とて、花方が
つら【頬】に「浪方」といふやいじるし【焼印】をぞせられける。
都へのぼりたりければ、法皇是を御覧じて、
「よしよしちからおよば【及ば】ず。浪方ともめせ【召せ】かし」とて、
わらは【笑は】せおはします[* 「ず」と有るのを他本により訂正]。今月十四日の院宣、同廿八日讃
岐国八島の磯に到来。謹以承る所如件。
但これについ【付い】てかれを案ずるに、通盛卿已下当家
数輩、摂州一谷にして既に誅せられおはぬ。何ぞ
重衡一人の寛宥を悦べきや。夫我君は、故高倉
P10040
院の御譲をうけさせ給ひて、御在位既に
四ケ年、政尭舜の古風をとぶらふところ【所】に、東
夷北狄党をむすび、群をなして入洛の間、
且は幼帝母后の御歎尤もふかく、且は外戚近臣
のいきどをり【憤り】あさから【浅から】ざるによて、しばらく九国に
幸す。還幸なからんにおいては、三種の神器いかでか
玉体をはなち【放ち】奉るべきや。それ臣は君を以て心と
し、君は臣をもて体とす。君やすければすなはち
臣やすく、臣やすければすなはち国やすし。君かみに
P10041
うれふれば臣しもにたのしまず。心中に愁あれば
体外に悦なし。曩祖平将軍貞盛、相馬小次郎
将門を追討せしよりこのかた、東八ケ国をしづめて
子々孫々につたへ、朝敵の謀臣を誅罰して、代々
世々にいたるまで朝家の聖運をまもり【守り】奉る。然則
亡父故太政大臣、保元・平治両度の合戦の時、勅命
をおもう【重う】して、私の命をかろう【軽う】ず。ひとへに君の
為にして、身のためにせず。就中彼頼朝は、去平
治元年十二月、父左馬頭義朝が謀反によて、頻に
P10042
誅罰せらるべきよし仰下さるといへども、故入道相国
慈悲のあまり申なだめ【宥め】られしところ【所】也。しかる【然る】に昔の
洪恩を忘れ、芳意を存ぜず、忽に狼羸の身
をもて猥蜂起の乱をなす。時儀[* 下欄に「至愚」と注記]の甚しき
事申てあまりあり【有り】。早く神幣の天罰をまね
き、ひそかに拝跡[* 下欄に「敗積」と注記]の損滅[* 「損奥」と有るのを下欄の「滅」の注記により訂正]を期する者歟。夫日月は一
物の為にそのあきらかなることをくらうせず。明王は
一人が為にその法をまげず。一悪をもて其善を
捨ず、小瑕をもて其功をおおふ【覆ふ】事なかれ。且は
P10043
当家数代の奉公、且は亡父数度の忠節、思食
忘れずは君忝く四国の御幸あるべきか。時に臣等院
宣をうけ給はり、二たび【二度】旧都にかへ【帰つ】て会稽の恥を
すすがむ。若しから【然ら】ずは、鬼界・高麗・天竺・震旦にいたる
べし。悲哉、人王八十一代の御宇にあたて、我朝神代
の霊宝、ついに【遂に】むなしく異国のたからとなさんか。
よろしくこれらの趣をもて、しかる【然る】べきやう【様】に洩奏
聞せしめ給へ。宗盛誠恐頓首謹言。寿永三年
二月廿八日従一位平朝臣宗盛が請文とこそかかれたれ。
P10044
『戒文』S1005
○三位中将是をきい【聞い】て、「さこそはあらむずれ。いかに
一門の人々わるく思ひけん」と後悔すれ共かひぞ
なき。げにも重衡卿一人をおしみ【惜しみ】て、さしもの
我朝の重宝三種の神器を返しいれ【入れ】奉るべし共
おぼえねば、此御請文のおもむき【趣】は、かねてより思ひ
まうけ【設け】られたりしかども、未左右を申されざりつる
程は、なにとなういぶせくおもは【思は】れけるに、請文す
でに到来して、関東へ下向せらるべきにさだまり【定まり】
しかば、なむ【何】のたのみ【頼み】もよはり【弱り】はてて、よろづ心ぼそう、
P10045
都の名残も今更おしう【惜しう】思はれける。三位中将、
土肥次郎をめし【召し】て、「出家をせばやと思ふはいかが
あるべき」とのたまへ【宣へ】ば、実平此由を九郎御曹司に
申す。院御所へ奏聞せられたりければ、「頼朝に
みせ【見せ】て後こそ、ともかうもはからはめ。只今はいかで【争】か
ゆるすべき」と仰ければ、此よしを申す。「さらば年
ごろ契たりし聖に、今一度対面して、後生の
こと【事】を申談ぜばやと思ふはいかがすべき」との給へ【宣へ】ば、
「聖をば誰と申候やらん」。「黒谷の法然房と申人也」。
P10046
「さてはくるしう【苦しう】候まじ」とて、ゆるし奉る。中将なの
めならず悦て、聖を請じたてま【奉つ】て、泣々申され
けるは、「今度いきながらとらはれて候けるは、二たび【二度】
上人の見参に罷いる【入る】べきで候けり。さても重衡が
後生、いかがし候べき。身の身にて候し程は、出仕に
まぎれ、政務にほだされ、■慢【*驕慢】の心のみふかくして、
かへて当来の昇沈をかへりみず。況や運つき、
世乱てより以来は、ここにたたかひ【戦ひ】、かしこにあらそひ、
人をほろぼし、身をたすからんと思ふ悪心のみ
P10047
遮て、善心はかつて発らず。就中に南都炎上
の事、王命といひ、武命といひ、君につかへ、世にした
がう【従ふ】はう【法】遁がたくして、衆徒の悪行をしづめんが
為にまかり【罷り】むか【向つ】て候し程に、不慮に伽藍の滅亡に
及候し事、力及ばぬ次第にて候へども、時の大将軍
にて候し上は、せめ一人に帰すとかや申候なれば、
重衡一人が罪業にこそなり候ぬらめと覚え候。
且はか様【斯様】に人しれずかれこれ【彼此】恥をさらし候も、しかし
ながら其むくひとのみこそ思ひしられて候へ。今は
P10048
かしら【頭】O[BH を]そり、戒をたもち【保ち】なんどして、偏に仏道修行
したう候へども、かかる身にまかり【罷り】なて候へば、心に心をも
まかせ【任せ】候はず、けふ明日ともしらぬ身のゆくゑ【行方】にて
候へば、いかなる行を修して、一業たすかるべしとも
覚えぬこそ口をしう【口惜しう】候へ。倩一生の化行を思ふに、
罪業は須弥よりも高く、善業[* 下欄に「根」と注記]は微塵ばかりも
蓄へなし。かくてむなしく命おはりなば、火穴湯【火血刀】の
苦果、あへて疑なし。願くは、上人慈悲をおこし【起こし】
あはれみをたれ【垂れ】て、かかる悪人のたすかりぬべき方法O[BH 候はば]、しめし【示し】給へ」。
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其時上人涙に咽て、しばしは物もの給は【宣は】ず。良久しう
あて、「誠に受難き人身をうけ【受け】ながら、むなしう【空しう】三途
にかへり給はん事、かなしんでもなを【猶】あまりあり【有り】。
しかる【然る】を今穢土をいとひ、浄土をねがは【願は】んに、悪心
を捨て善心発しO[BH まし]まさん事、三世の諸仏も
定て随喜したまふ【給ふ】べし。それについて、出離の道
まちまちなりといへども、末法濁乱の機には、称名
をもて勝れたりとす。心ざしを九品にわかち、行
を六字につづめて、いかなる愚智闇鈍の者も唱ふ
P10050
るに便あり【有り】。罪ふかければとて、卑下したまふ【給ふ】べからず、
十悪五逆廻心すれば往生をとぐ。功徳すくなければ
とて望をたつ【絶つ】べからず、一念十念の心を致せば
来迎す。「専称名号至西方」と釈して、専名号を
称ずれば、西方にいたる。「念々称名常懺悔」とのべて、
念々に弥陀を唱ふれば、懺悔する也とをしへ【教へ】たり。
「利剣即是弥陀号」をたのめ【頼め】ば、魔閻ちかづか【近付か】ず。
「一声称念罪皆除」と念ずれば、罪みなのぞけりと
みえ【見え】たり。浄土宗の至極、をのをの【各々】略を存じて、大略是を
P10051
肝心とす。但往生の得否は信心の有無によるべし。
ただふかく信じてゆめゆめ疑をなし給ふべからず。
若此をしへ【教へ】をふかく信じて、行住座臥時処諸
縁をきらはず、三業四威儀において、心念口称を
わすれ給はずは、畢命を期として、此苦域の界
を出て、彼不退の土に往生し給はん事、何の
疑かあらむや」と教化し給ひければ、中将なのめ
ならず悦て、「此ついでに戒をたもた【保た】ばやと存候
は、出家仕候はではかなひ【叶ひ】候まじや」と申されければ、
P10052
「出家せぬ人も、戒をたもつ【保つ】事は世のつねの
ならひ【習ひ】なり」とて、額にかうぞり【髪剃】をあてて、そる
まねをして、十戒をさづけられければ、中将随喜
の涙をながい【流い】て、是をうけたもち【保ち】給ふ。上人
もよろづ物あはれ【哀】に覚えて、かきくらす【暮す】心地し
て、泣々戒をぞとか【説か】れける。御布施とおぼしくて、
年ごろつねにおはしてあそば【遊ば】れける侍のもとに
あづけをか【置か】れたりける御硯を、知時して
めし【召し】よせて、上人にたてまつり【奉り】、「是をば人にたび【賜び】
P10053
候はで、つねに御目のかかり候はんところ【所】にをか【置か】れ
候て、某が物ぞかしと御覧ぜられ候はんたびごとに、お
ぼしめし【思し召し】なずらへて、御念仏候べし。御ひまには、経をも
一巻御廻向候はば、しかる【然る】べう候べし」など、泣々申
されければ、上人とかうの返事にも及ばず、是を
とて懐にいれ【入れ】、墨染の袖をしぼりつつ、泣々
帰りたまひ【給ひ】けり。此硯は、親父入道相国砂金を
おほく【多く】宋朝の御門へ奉り給ひたりければ、
返報とおぼしくて、日本和田の平大相国のもとへ
P10054
とて、をくら【送ら】れたりけるとかや。名をば松蔭とぞ
『海道下』S1006
申ける。○さる程に、本三位中将をば、鎌倉の前兵衛
佐頼朝、頻に申されければ、「さらば下さるべし」とて、
土肥次郎実平が手より、まづ九郎御曹司の
宿所へわたし奉る。同三月十日、梶原平三景時に
具せられて、鎌倉へこそ下られけれ。西国より生取
にせられて、都へかへるだに口惜に、いつしか又関の
東へおもむか【赴か】れけん心のうち、をしはから【推し量ら】れて哀
也。四宮河原になりぬれば、ここはむかし、延喜第四の
P10055
王子蝉丸の関の嵐に心をすまし【澄まし】、琵琶をひき
給ひしに、伯雅【*博雅】の三位と云し人、風の吹日もふかぬ
日も、雨のふる夜もふらぬよ【夜】も、三とせ【年】が間、あゆみ【歩み】を
はこび、たち【立ち】聞て、彼三曲を伝へけむわら屋【藁屋】の
床のいにしへも、思ひやられて哀也。相坂山【逢坂山】を打
こえて、勢田の唐橋駒もとどろにふみならし【鳴らし】、
雲雀あがれ【上がれ】る野路の里、志賀のうら浪【浦浪】はる【春】
かけて、霞にくもる鏡山、比良の高根を北に
して、伊吹の嵩もちかづき【近付き】ぬ。心をとむ【留む】としなけれ共、
P10056
あれて中々やさしきは、不破の関屋の板
びさし、いかに鳴海の塩干潟【潮干潟】、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、
彼在原のなにがしの、から衣【唐衣】きつつなれにしと
ながめけん、三河の国八橋にもなりぬれば、蛛手
に物をと哀也。浜名の橋をわたりたまへ【給へ】ば、松の
梢に風さえ【冴え】て、入江にさはぐ【騒ぐ】浪の音、さらでも
たび【旅】は物うきに、心をつくすゆふまぐれ【夕間暮れ】、池田の宿
にもつきたまひ【給ひ】ぬ。彼宿の長者ゆや【熊野】がむすめ、侍従が
もとに其夜は宿せられけり。侍従、三位中将を見
P10057
たてま【奉つ】て、「昔はつてにだに思ひよらざりしに、
けふはかかるところ【所】にいら【入ら】せたまふ【給ふ】ふしぎ【不思議】さよ」とて、
一首のうた【歌】をたてまつる【奉る】。
旅の空はにふ【埴生】のこやのいぶせさに
ふる郷【故郷】いかにこひしかるらむ W078
三位中将返事には、
故郷もこひしく【恋しく】もなしたびのそら【空】
みやこ【都】もついのすみか【栖】ならねば W079
中将「やさしうもつかまたるものかな。此歌のぬしは、
P10058
いかなる者やらん」と御尋あり【有り】ければ、景時畏て
申けるは、「君は未しろしめさ【知ろし召さ】れ候はずや。あれこそ
八島の大臣殿の、当国のかみでわたらせ給候し時、
めされまいらせ【参らせ】て、御最愛にて候しが、老母を
是に留めをき、頻にいとまを申せども、給はらざり
ければ、ころ【比】はやよひ【弥生】のはじめなりけるに、
いかにせむみやこ【都】の春もおしけれ【惜しけれ】ど
なれしあづま【東】の花やちるらむ W080
と仕て、いとまを給てくだり【下り】て候し、海道一の
P10059
名人にて候へ」とぞ申ける。都を出て日数ふれば、
弥生もなかば【半ば】すぎ、春もすでに暮なんとす。
遠山の花は残の雪かとみえ【見え】て、浦々島々かすみ
わたり、こし方行末の事共おもひつづけ給ふに、
「されば是はいかなる宿業のうたてさぞ」との給て、
ただつきせ【尽きせ】ぬ物は涙なり。御子の一人もおはせぬ
事を、母の二位殿もなげき、北方大納言佐殿
も本い【本意】なきことにして、よろづの神仏に
祈申されけれ共、そのしるしなし。「かしこうぞなかり
P10060
ける。子だにあらましかば、いかに心ぐるしからむ」との給
ひけるこそせめての事なれ。さや【小夜】の中山にかかり
給ふにも、又こゆべしともおぼえねば、いとど哀の
かずそひて、たもとぞいたくぬれまさる。宇都の
山辺の蔦の道、心ぼそくも打越て、手ごし【手越】を
すぎてゆけば、北に遠ざかて、雪しろき【白き】山あり【有り】。
とへば甲斐のしらね【白根】といふ。其時三位中将おつる
涙をおさへ【抑へ】て、かうぞおもひ【思ひ】つづけたまふ【給ふ】。
おしから【惜しから】ぬ命なれどもけふまでぞ
P10061
つれなき[B 「つねなき」とあり「ね」に「れ」と傍書]かひのしらね【白根】をもみつ W081
清見が関うちすぎて、富士のすそ野になり
ぬれば、北には青山峨々として、松ふく【吹く】風索々
たり。南には蒼海漫々として、岸うつ浪も
茫々たり。「恋せばやせ【痩せ】ぬべし、こひせ【恋せ】ずもあり【有り】けり」と、
明神のうたひ【歌ひ】はじめたまひ【給ひ】ける足柄の山をも
うちこえて、こゆるぎ【小余綾】の森、まりこ河【鞠子河】、小磯、大磯
の浦々、やつまと【八的】、とがみが原【砥上が原】、御輿が崎をも
うちすぎて、いそがぬたび【旅】と思へども、日数やうやう
P10062
『千手前』S1007
かさなれば、鎌倉へこそ入給へ。○兵衛佐いそぎ見参
して、申されけるは、「抑君の御いきどをり【憤り】をやすめ
奉り、父の恥をきよめんと思ひたちしうへ【上】は、
平家をほろぼさんの案の内に候へども、まさしく
げざむ【見参】にいるべしとは存ぜず候き。このぢやう【定】では、
八島の大臣殿のげざむ【見参】にも入ぬと覚え候。抑南都
をほろぼさせたまひ【給ひ】ける事は、故太政入道殿[B 「太政入道殿」に「入道相国」と傍書]の
仰にて候しか、又時にとての御ぱからひにて
候けるか。以外の罪業にてこそ候なれ」と申されければ、
P10063
三位中将のたまひ【宣ひ】けるは、「まづ南都炎上の事、
故入道の成敗にもあらず、重衡が愚意の発起
にもあらず。衆徒の悪行をしづめむがため【為】にまかり【罷り】
むか【向つ】て候し程に、不慮に伽藍滅亡に及候し事、
力及ばぬ次第也。昔は源平左右にあらそひて、
朝家の御かためたりしかども、近比は、源氏の運かた
ぶきたりし事は、事あたらしう初て申べきに
あらず。当家は保元・平治より以来、度々の朝
敵をたいらげ【平げ】、勧賞身にあまり、かたじけなく
P10064
一天の君の御外戚として、一族の昇進六十余人、
廿余年の以来は、たのしみさかへ【栄え】申はかりなし。今又
運つきぬれば、重衡とらはれて是まで下候ぬ。
それにつひ【付い】て、帝王の御かたき【敵】をうたるものは、
七代まで朝恩うせ【失せ】[B 「うせ」に「ツキ」と傍書]ずと申事は、きはめたるひが
事にて候けり。まのあたり故入道は、君の御ために
すでに命をうしなは【失は】んとすること【事】度々に及ぶ。され共
纔に其身一代のさいはい【幸】にて、子孫かやうにまかり【罷り】
なるべしや。されば、運つきて都を出し後は、かばねを
P10065
山野にさらし、名を西海の浪にながすべしとこそ
存ぜしか。これまでくだるべしとは、かけても思はざりき。
唯先世の宿業こそ口惜候へ。但「陰道[* 下欄に「殷湯」]と注記」はかたい【夏台】
にとらはれ、文王はゆうい[B 「い」に「り」と傍書]【*■里】にとらはる」と云文あり。
上古なを【猶】かくのごとし。況末代にをひてをや。
弓矢をとるならひ【習ひ】、敵の手にかかて命を失ふ事、
またく恥にて恥ならず、只芳恩には、とくとく
かうべをはねらるべし」とて、其後は物もの給はず。
景時これをうけたまは【承つ】て、「あぱれ大将軍や」とて、
P10066
涙をながす。其座になみ居たる人々みな袖をぞ
ぬらしける。兵衛佐も、「平家を別して私のかた
き【敵】と思ひ奉る事、ゆめゆめ候はず。ただ帝王の
仰こそおもう【重う】候へ」とぞのたまひ【宣ひ】ける。「南都をほろ
ぼO[BH され]たる伽藍のかたき【敵】なれば、大衆定て申旨あらん
ずらん」とて、伊豆国住人、狩野介宗茂にあづけらる。
其体、冥途にて娑婆世界の罪人を、なぬか【七日】なぬか【七日】に
十王の手にわたさるらんも、かくやとおぼえて哀也。
されども狩野介、なさけある者にて、いたくきび
P10067
しうもあたり奉らず。やうやう【様々】にいたはり、湯殿しつ
らひなどして、御ゆ【湯】ひか【引か】せ奉る。道すがらのあせ【汗】
いぶせかりつれば、身をきよめてうしなは【失は】んずるに
こそと思はれけるに、よはひ廿ばかりなる女房の、
色しろう【白う】きよげ【清気】にて、まこと【誠】にゆう【優】にうつくし
きが、目結の帷にそめつけ【染付】のゆまき【湯巻】して、湯殿
の戸をおし【押し】あけてまいり【参り】たり。又しばしあて、
十四五ばかりなるめのわらは【女童】の、こむらご【紺村濃】のかたびらき
て、かみ【髪】はあこめだけ【袙丈】なるが、はむざうたらひ【半挿盥】に
P10068
櫛いれ【入れ】て、もてまいり【参り】たり。此女房かいしやく【介錯】
して、あがり【上がり】たまひ【給ひ】ぬ。さてかの女房いとま申て
かへりけるが、「おとこ【男】などはこちなう【骨無う】もぞおぼし
めす【思し召す】。中々おんな【女】はくるしから【苦しから】じとて、まいらせ【参らせ】
られてさぶらふ【候ふ】。「何事でもおぼしめさ【思し召さ】ん御事
をばうけ給は【承つ】て申せ」とこそ兵衛佐殿は
仰られ候つれ」。中将「今は是程の身になて、
何事をか申候べき。ただ思ふ事とては出家ぞ
したき」とのたまひ【宣ひ】ければ、帰りまい【参つ】て此よしを
P10069
申す。兵衛佐「それ思ひもよらず。頼朝が私の
かたき【敵】ならばこそ。朝敵としてあづかり【預り】たて
ま【奉つ】たる人なり。努々あるべうもなし」とぞの給ひ
ける。三位中将守護の武士にの給ひけるは、
「さても唯今の女房は、ゆう【優】なりつる物かな。
名をば何といふやらん」と問れければ、「あれは手ごし【手越】
の長者がむすめで候を、みめ【眉目】形心ざま、ゆう【優】に
わりなき者で候とて、此二三年めし【召し】つかは【使は】れ
候が、名をば千手の前と申候」とぞ申ける。その夕、
P10070
雨すこし【少し】ふて、よろづもの【物】さびしかりけるに、件の
女房、琵琶・琴もたせてまいり【参り】たり。狩野介
酒をすすめ奉る。我身も家子郎等十余人
引具してまいり【参り】、御まへちかう候けり。千手の前
酌をとる。三位中将すこし【少し】うけて、いと興なげ
にておはしけるを、狩野介申けるは、「かつきこし
めさ【聞し召さ】れてもや候らん。鎌倉殿の「相構てよくよく
なぐさめまいらせよ【参らせよ】。懈怠にて頼朝うらむ【恨む】な」と
仰られ候。宗茂はもと伊豆国の者にて候
P10071
間、鎌倉では旅にて候へども、心の及候はんほどは、
奉公仕候べし。何事でも申てすすめまいら【参ら】
させ給へ」と申ければ、千手O[BH 前]、酌をさしをい【置い】て、
「羅綺の重衣たる、情ない事を奇婦に
妬」といふ朗詠を一両返したりければ、三位
中将のたまひ【宣ひ】けるは、「此朗詠をせん人をば、北野の
天神一日に三度かけてまぼらんとちかはせ
給ふ也。されども[* 「されば」と有るのを他本により訂正]重衡は、此[B 今]生にてはすてられ
給ぬ。助音しても何かせん。罪障かろみぬべき
P10072
事ならばしたがふべし」との給ひければ、千手前
やがて、「十悪といへども引摂す」と云朗詠をし
て、「極楽ねがは【願は】ん人はみな、弥陀の名号唱べし」
といふ今様を四五返うたひ【歌ひ】すまし【澄まし】たりければ、
其時さかづき【坏】をかたぶけ【傾け】らる。千手前給はて狩
野介にさす。宗茂がのむ時、琴をぞひきすま
し【澄まし】たりける。三位中将のたまひ【宣ひ】けるは、「此楽をば
普通には五常楽といへども、重衡が為には
後生楽とこそ観ずべけれ。やがて往生の急を
P10073
ひか【弾か】ん」とたはぶれ【戯れ】て、琵琶をとり、てんじゆ【転手】をねぢ
て、皇■急をぞひかれける。夜やうやうふけて、
よろづ心のすむ【澄む】ままに、「あら、おもは【思は】ずや、あづまにも
これ程ゆう【優】なる人のあり【有り】けるよ。何事にても
今一こゑ【声】」とのたまひ【宣ひ】ければ、千手前又「一樹の陰
にやどりあひ、おなじながれをむすぶも、みな是
先世のちぎり【契り】」と云白拍子を、まこと【誠】におもしろく
かぞへすまし【澄まし】たりければ、中将も「灯闇しては、
数行虞氏之涙」といふ郎詠をぞせられける。
P10074
たとへば此郎詠の心は、昔もろこしに、漢高祖と
楚項羽と位をあらそひて、合戦する事七
十二度、たたかい【戦ひ】ごとに項羽かちにけり。されども
ついに【遂に】は項羽たたかい【戦ひ】まけてほろびける時、騅と
いふ馬の、一日に千里をとぶに乗て、虞氏と云
后と共に逃さらんとしけるに、馬いかが思ひけん、
足をととのへてはたらか【働か】ず。項羽涙をながひ【流い】て、
「わが威勢すでにすたれたり。今はのがる【逃る】べき方なし。
敵のおそふは事の数ならず、此后に別なん事の
P10075
悲しさよ」とて、夜もすがらなげきかなしみ給ひ
けり。灯闇うなりければ、心ぼそうて虞氏涙
をながす。夜ふくるままに軍兵四面に時を作る。
此心を橘相公の賦につくれるを、三位中将思ひ
出られたりしにや、いとやさしうぞ聞えける。
さる程に夜も明ければ、武士どもいとま申て
まかり【罷り】いづ。千手前も帰りにけり。其朝兵衛佐、
折ふし【折節】持仏堂に法花経よう【読う】でおはしける
ところ【所】へ、千手前まいり【参り】たり。佐殿うちゑみ給ひて、
P10076
千手に「O[BH 夜部は]中人は面白うしたる物を」とのたまへ【宣へ】ば、
斎院[B ノ]次官親義、おりふし【折節】御前に物かいて候
けるが、「何事で候けるやらん」と申。「あの平家の
人々は、甲胃・弓箭の外は他事なしとこそ日来は
思ひたれば、この三位中将の琵琶の撥音、口ず
さみ【口遊み】、夜もすがらたちきい【聞い】て候に、ゆう【優】に
わりなき人にておはしけり」。親義申けるは、
「たれも夜部承るべう候しが、折ふし【折節】いたはる事
候て、うけたまはら【承ら】ず候。此後は常にたち聞候べし。
P10077
平家はもとより代々の歌人才人達で候也。
先年この【此の】人々を花にたとへ候しに、此三位中将
をば牡丹の花にたとへて候しぞかし」と申され
ければ、「誠にゆう【優】なる人にてあり【有り】けり」とて、琵琶
の撥音、朗詠のやう、後までも、有難き事
にぞの給ひける。千手前は中々にものおもひ【物思ひ】
のたねとや成にけん。されば中将南都へわた
されて、きられ給ひぬと聞えしかば、やがてさまを
かへ、こき墨染にやつれはて、信濃国善光寺に
P10078
おこなひすまし【澄まし】て、彼後世菩提をとぶらひ【弔ひ】、
わが身もつゐに【遂に】、往生の素懐をとげけるとぞ
『横笛』S1008
きこえ【聞え】し。○さる程に、小松の三位中将維盛卿は、
身がらは八島にありながら、心は都へかよはれ
けり。故郷に留めをき【置き】給ひし北方おさなき【幼き】人々
の面影のみ、身にたち【立ち】そひて、わするる【忘るる】ひまも
なかりければ、「あるにかひなきわが【我が】身かな」とて、元
暦元年[B 寿永三年]三月十五日の暁、しのび【忍び】つつ八島の
たち【館】をまぎれ出て、与三兵衛重景・石童丸
P10079
と云童、船に心得たればとて武里と申とねり【舎人】、
是等三人をめし【召し】具して、阿波[B ノ]国結城の浦より
小船にのり、鳴戸浦[B 「浦」に「沖」と傍書]を漕とをり【通り】、紀伊路へおもむ
き【赴き】給ひけり。和歌・吹上・衣通姫の神とあらはれ【現はれ】
給へる玉津島の明神、日前・国懸の御前を
すぎて、紀伊の湊にこそつき給へ。「是より山
づたひ【山伝ひ】に都へのぼ【上つ】て、恋しき人々を今一度
み【見】もしみえ【見え】ばやとは思へども、本三位中将の生取
にせられて、大路をわたされ、京・鎌倉、恥をさら
P10080
すだに口惜きに、此身さへとらはれて、父のかばねに
血をあやさん事も心うし」とて、千たび心は
すすめ共、心に心をからかひて、高野の御山にまいら【参ら】
れけり。高野に年ごろ【年来】しり【知り】たまへ【給へ】る聖あり【有り】。三条
の斎藤左衛門大夫茂頼が子に、斎藤滝口時頼と
いひし者也。もとは小松殿の侍也。十三の年本所へ
まいり【参り】たりけるが、建礼門院の雑仕横笛といふ
おんな【女】あり、滝口是を最愛す。父是をつたへ
きひ【聞い】て、「世にあらんもののむこO[BH 子]【聟子】に成して、出仕なんどをも
P10081
心やすうせさせんとすれば、世になき者を思ひそめ
て」と、あながちにいさめければ、滝口申けるは、
「西王母ときこえ【聞え】し人、昔はあて今はなし。
東方朔といし者も、名をのみききて目には
みず。老少不定の世の中は、石火の光にこと
ならず。たとひ人長命といへども、七十八十をば
過ず。そのうちに身のさかむ【盛】なる事はわづかに
廿余年也。夢まぼろしの世の中に、みにくき
者をかた時【片時】もみて何かせん。おもは【思は】しき者を
P10082
みむとすれば、父の命をそむくに似たり。是善知識
也。しかじ、うき世をいとひ、まこと【誠】の道に入なん」
とて、十九のとし【年】もとどり【髻】きて、嵯峨の往生
院におこなひすまし【澄まし】てぞゐたりける。横笛
これをつたへきい【聞い】て、「われをこそすて【捨て】め、さまを
さへかへけむ事のうらめしさ【恨めしさ】よ。たとひ世をば
そむくとも、などかかくとしらせ【知らせ】ざらむ。人こそこころ【心】
づよくとも、たづね【尋ね】て恨みむ」と思ひつつ、ある暮がた【暮方】に
都を出て、嵯峨の方へぞあくがれゆく。ころは
P10083
きさらぎ【二月】十日あまりの事なれば、梅津の里の
春風に、よその匂ひもなつかしく【懐しく】、大井河の
月影も、霞にこめておぼろ也。一方ならぬ
哀さも、たれゆへ【故】とこそ思ひけめ。往生院とは
聞たれども、さだかにいづれの坊ともしら【知ら】ざれば、
ここにやすらひかしこにたたずみ、たづね【尋ね】かぬる
ぞむざん【無慙】なる。住あらしたる僧坊に、念誦の声
しけり。滝口入道が声と聞なして、「わらはこそ
是までたづね【尋ね】まいり【参り】たれ。さまのかはりておは
P10084
すらんをも、今一度み【見】奉らばや」と、具したりける
女をもていはせければ、滝口入道むね【胸】うちさはぎ【騒ぎ】、
障子のひまよりのぞひ【覗ひ】てみれ【見れ】ば、まこと【誠】に
尋かねたるけしきいたはしうおぼえて、いかな
る道心者も心よはく【弱く】なりぬべし。やがて人を
出して、「またく是にさる人なし。門たがへ【違へ】でぞ
あるらむ」とて、ついに【遂に】あはでぞかへし【返し】ける。横笛
なさけなううらめしけれ【恨めしけれ】ども、力なう涙をおさ
へて帰りけり。滝口入道、同宿の僧にあふ【逢う】て
P10085
申けるは、「是もよにしづかにて、念仏の障
碍は候はねども、あかで別し女に此すまゐ【住ひ】を
みえ【見え】て候へば、たとひ一度は心づよく共、又もしたふ
事あらば、心もはたらき【働き】候ぬべし。いとま申て」とて、
嵯峨をば出て、高野へのぼり、清浄心院にぞ
居たりける。横笛もさまをかへたるよし聞えし
かば、滝口入道一首の歌を送りけり。
そる【剃る】まではうらみ【恨み】しかどもあづさ弓
まこと【誠】の道にいる【入る】ぞうれしき W082
P10086
横笛が返こと【返事】には、
そる【剃る】とてもなにかうらみ【恨み】むあづさ弓
ひき【引き】とどむべきこころ【心】ならねば W083
よこ笛【横笛】はその思ひのつもり【積り】にや、奈良の
法花寺にあり【有り】けるが、いくほど【程】もなくて、遂に
はかなく【果敢く】成にけり。滝口入道、かやう【斯様】の事を
伝へきき、弥ふかくおこなひすまし【澄まし】てゐたり
ければ、父も不孝をゆるしけり。したしき
者共も、みなもちひ【用ゐ】て、高野の聖とぞ申ける。
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三位中将是に尋あひて見給へば、都に候し時は、
布衣に立烏帽子、衣文をつくろひ、鬢をなで、
花やかなりしおのこ【男】也。出家の後はけふはじめ
てみ【見】給ふに、未卅にもならぬが、老僧姿にやせ【痩せ】
おとろへ【衰へ】、こき墨染におなじ袈裟、思ひいれ【入れ】
たる道心者、うら山しくや思はれけむ。晋の七賢、
漢の四皓がすみけむ商山・竹林のありさま【有様】も、
『高野巻』S1009
是にはすぎじとぞ見えし。○滝口入道、三位中将を
見たてま【奉つ】て、「こはうつつ共覚え候はぬものかな。
P10088
八島より是までは、何としてのがれ【逃れ】させ給て候
やらん」と申ければ、三位中将の給ひけるは、「されば
こそ。人なみなみに都を出て、西国へ落くだり
たりしかども、ふるさとにとどめ【留め】をきしおさなき【幼き】者
共のこひし【恋し】さ、いつ忘るべしとも覚えねば、その物思ふ
けしき【気色】のいは【言は】ぬにしるくや見えけん、大臣殿も二
位殿も、「此人は池の大納言のやうにふた心あり」
などとて思ひへだてたまひ【給ひ】しかば、あるにかい【甲斐】なき
我身かなと、いとど心もとどまら【留まら】で、あくがれ出て、
P10089
是まではのがれ【逃れ】たる也。いかにもして山づたひ【山伝ひ】に
都へのぼ【上つ】て、恋しき者共を今一度み【見】もし
みえ【見え】ばやとは思へども、本三位中将の事口惜
ければ、それも叶はず。おなじくは是にて出家
して、火の中水の底へもいらばやと思ふ也。
但熊野へまいら【参ら】んと思ふ宿願あり」とのたまへ【宣へ】ば、
「夢まぼろしの世の中は、とてもかくても候なん。
ながき世のやみこそ心うかるべう候へ」とぞ申ける。
やがて滝口入道を先達にて、堂塔巡礼して、
P10090
奥院へまいり【参り】たまふ【給ふ】。高野山は帝城を避て
二百里、京里をはなれて無人声、清嵐【*青嵐】梢を
ならし【鳴らし】て、夕日[B ノ]影しづか也。八葉の嶺、八の谷、まこと【誠】に
心もすみ【澄み】ぬべし。花の色は林霧の底にほころび、
鈴の音は尾上の雲にひびけり。瓦に松おひ、
墻に苔むして、星霜久しく覚えたり。抑延喜
の御門の御時、御夢想の御告あて、ひはだ色【桧皮色】の
御ころも【衣】をまいらせ【参らせ】られしに、勅使中納言資澄卿【*資隆卿】、
般若寺の僧正観賢をあひ具して、此御山に
P10091
まいり【参り】、御廟の扉をひらいて、御衣をきせ【着せ】奉らんと
しけるに、霧あつくへだたて、大師おがま【拝ま】れさせ
給はず。ここに観賢ふかく愁涙して、「われ悲母の
胎内を出て、師匠の室に入しより以来、未禁
戒を犯ぜず。さればなどかおがみ【拝み】奉らざらん」とて、
五体を地になげ【投げ】、発露啼泣したまひ【給ひ】しかば、
やうやう霧はれて、月の出るが如くして、大師お
がま【拝ま】れ給ひけり。時に観賢随喜の涙をながひ【流い】
て、御衣をきせ【着せ】奉る。御ぐし【髪】のながくおひさせ
P10092
給ひたりしかば、そり【剃り】奉るこそ目出けれ。勅使と
僧正とは拝み奉り給へども、僧正の弟子石山の
内供淳祐、其時は未童形にて供奉せられたり
けるが、大師をおがみ【拝み】奉らずしてなげきしづんで
おはしけるが、僧正手をとて、大師の御ひざに
おしあてられたりければ、其手一期が間かう
ばしかり【香ばしかり】けるとかや。そのうつり香【移り香】は、石山の聖
教にうつ【移つ】て、今にありとぞ承る。大師、御門
の御返事に申させ給ひけるは、「われ昔薩■に
P10093
あひて、まのあたり悉く印明をつたふ。無比の
誓願をおこし【起こし】て、辺地の異域に侍り、昼夜に
万民をあはれんで、普賢の悲願に住す。肉
身に三昧を証じて、慈氏の下生をまつ」
とぞ申させ給ひける。彼[B ノ]摩訶迦葉の鶏足
の洞に籠て、しづ【翅都】[* 下欄に「氏頭」と注記]の春風を期し給ふらむも、
かくやとぞ覚えける。御入定は承和二年
三月廿一日、寅の一点の事なれば、過にし方も
三百余歳、行末も猶五十六億七千万歳の後、
P10094
慈尊出世三会の暁をまたせ給ふらむこそ久
『維盛出家』S1010
けれ。○「維盛が身のいつとなく、雪山の鳥の鳴
らんやうに、けふよあすよとおもふ[M 「おもふおもふ」とあり始めの「おもふ」をミセケチ]物を」
とて、涙ぐみたまふ【給ふ】ぞあはれ【哀】なる。塩風にくろみ、
つきせ【尽きせ】ぬ物思ひにやせ【痩せ】おとろへて、その人とは
見えたまは【給は】ね共、なを【猶】よ【世】の人にはすぐれたまへ【給へ】り。
其夜は滝口入道が庵室に帰て、夜もすがら
昔今のものがたり【物語】をぞしたまひ【給ひ】ける。聖が行
儀をみ【見】たまふ【給ふ】に、至極甚深の床の上には、真理
P10095
の玉をみがくらむとみえ【見え】て、後夜晨朝の鐘
の声には、生死の眠をさますらむ共覚えたり。
のがれ【逃れ】ぬべくはかくてもあらまほしうや思はれ
けむ。明ぬれば東禅院の智覚上人と申ける
聖を請じたてま【奉つ】て、出家せんとしたまひ【給ひ】けるが、
与三兵衛・石童丸をめし【召し】てのたまひ【宣ひ】けるは、
「維盛こそ人しれぬ思ひを身にそへ【添へ】ながら、道せ
ばう【狭う】のがれ【逃れ】がたき身なれば、むなしう【空しう】なる共、
此比は世にある人こそおほけれ【多けれ】、汝等はいかなる
P10096
ありさま【有様】をしても、などかすぎ【過ぎ】ざるべき。われ
いかにもならむやうを見はてて、いそぎ都へ
のぼり、おのおのが身をもたすけ【助け】、且は妻子をも
はぐくみ、且は又維盛が後生をも訪へ【弔へ】かし」と
のたまへ【宣へ】ば、二人の者共さめざめとないて、しばしは
御返事にも及ばず。ややあて、与三兵衛涙を
おさへ【抑へ】て申けるは、「重景が父、与三左衛門景康は、
平治の逆乱の時、故殿の御共に候けるが、二条堀
河の辺にて、鎌田兵衛にくん【組ん】で、悪源太にうた【討た】れ
P10097
候ぬ。重景もなじかはおとり候べき。其時は二歳
に罷なり候ければ、すこし【少し】も覚え候はず。母には
七歳でをくれ【遅れ】候ぬ。哀をかくべきしたしい【親しい】もの【者】
一人も候はざりしか共、故大臣殿、「あれはわが命
にかはりたりし者の子なれば」とて、御まへにて
そだて【育て】られまいらせ【参らせ】、生年九と申し時、君の
御元服候し夜、かしらを取あげ【上げ】られまいらせ【参らせ】て、
かたじけなく【忝く】、「盛の字は家字なれば五代[M 「後代」とあり「後」をミセケチ「五」と傍書]につく。
重の字をば松王に」と仰候て、重景とは付られ
P10098
まいらせ【参らせ】て候也。其上わらは名を松王と申ける
事も、生れて忌五十日と申し時、父がいだひて
まいり【参り】たれば、「此家を小松といへば、いはうてつくる
なり」と仰候て、松王とはつけられまいらせ【参らせ】候也。
父の[B 「の」に「ガ」と傍書]ようて死候けるは、わが【我が】身の冥加と覚え候。
随分同齢共にも芳心せられてこそまかり【罷り】
過候しか。されば御臨終の御時も、此世の事をば
おぼしめし【思し召し】捨て、一事も仰候はざりしか共、
重景御まへちかう【近う】めされて、「あなむざんや。汝は
P10099
重盛を父が形見と思ひ、重盛は汝を景康が
かたみ【形見】と思ひてこそすごしつれ。今度の除
目に靭負尉になして、おのれ【己】が父景康を
よびし様にめさばやとこそおもひつるに、むな
しう【空しう】なるこそかなしけれ。相構て少将殿の
心にたがふ【違ふ】な」とこそ仰候しか。されば此日来は、
いかなる御事も候はむには、みすてまいらせ【参らせ】
て落べきもの【物】とおぼしめし【思し召し】候けるか。御心のうち
こそはづかしう候へ。「此ごろは世にある人こそおほ
P10100
けれ【多けれ】」と仰かうぶり候は、当時のごとくは源氏の
郎等共こそ候なれ。君の神にも仏にもならせ
給ひ候なむ後、たのしみさかへ【栄え】候とも、千年の
齢をふるべきか。たとひ万年をたもつ【保つ】とも、
遂にはおはりのなかるべきか。是に過たる善知
識、なに事か候べき」とて、手づからもとどり【髻】
きて、泣々滝口入道にそらせけり。石童丸
も是をみて、もとゆひぎは【元結際】より髪をきる。
是も八よりつきたてま【奉つ】て、重景にもおとらず
P10101
不便にしたまひ【給ひ】ければ、おなじく滝口入道に
そらせけり。是等がかやう【斯様】に先達てなるを
見たまふ【給ふ】につけても、いとど心ぼそうぞおぼし
めす【思し召す】。さてもあるべきならねば、「流転三界中、
恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」
と三返唱へ給ひて、遂にそりおろし給て
げり。「あはれ、かはらぬ姿をこひしき【恋しき】者共に今一
度みえ【見え】もし、見て後かくもならば、思ふ事あらじ」
とのたまひ【宣ひ】けるこそ罪ふかけれ。三位中将も、
P10102
兵衛入道も同年にて、ことしは廿七歳也。石童丸
は十八にぞ成ける。とねり武里をめし【召し】て、
「おのれ【己】はとうとう【疾う疾う】是より八島へかへれ。都へはのぼる
べからず。そのゆへ【故】は、遂にはかくれあるまじけれ共、
まさしう此ありさま【有様】をきい【聞い】ては、やがてさまを
もかへんずらむとおぼゆる【覚ゆる】ぞ。八島へまい【参つ】て人々に
申さむずるやうはよな、「かつ御覧候しやうに、
大方の世間ももの【物】うきやうにまかり【罷り】成候き。
よろづあぢきなさもかずそひ【添ひ】てみえ【見え】候しかば、
P10103
おのおのにもしられまいらせ【参らせ】候はで、かく成候ぬ。
西国で左の中将うせ候ぬ。一谷で備中守うた【討た】れ
候ぬ。われさへかく成候ぬれば、いかにおのおの【各々】たより
なうおぼしめさ【思し召さ】れ候はんずらむと、それのみこそ
心ぐるしう思ひまいらせ【参らせ】候へ。抑唐皮といふ鎧、
小烏といふ太刀は、平将軍貞盛より当家につたへ
て、維盛までは嫡々九代にあひあたる。若不
思議にて世もたちなをらば、六代にたぶべし」と
申せ」とこその給ひけれ。とねり武里「君のいかにも
P10104
ならせおはしまさむやうを見まいらせ【参らせ】て後こそ、
八島へもまいり【参り】候はめ」と申ければ、「さらば」とて召
具せらる。滝口入道をも善知識のため具せられ
けり。山伏修行者のやうにて高野をば出、同
国のうち山東へこそ出られけれ。藤代の王子を
初として、王子王子ふし【伏し】おがみ【拝み】、まいり【参り】給ふ程に、
千里の浜の北、岩代の王子の御前にて、狩装
束したる者七八騎が程行あひ奉る。すでに
搦とられなむずとおぼして、おのおの腰の刀に手を
P10105
かけて、腹をきらむとし給ひけるが、ちかづき【近付き】
けれども、あやまつべきけしき【気色】もなくて、
いそぎ馬よりおり、ふかう【深う】かしこまてとをり【通り】
ければ、「見しりたる者にこそ。誰なるらん」とあやし
くて、いとど足ばやにさし給ふ程に、是は当国の
住人、湯浅権守宗重が子に、湯浅七郎兵衛
宗光といふ者也。郎等共「是はいかなる人にて
候やらむ」と申ければ、七郎兵衛涙をはらはらと
ながひ【流い】て、「あら、事もかたじけなや。あれこそ
P10106
小松大臣殿の御嫡子、三位中将殿よ。八島より
是までは、何としてのがれ【逃れ】させ給ひたりける
ぞや。はや御さまをかへさせ給てげり。与三兵衛、
石童丸も同く出家して御供申たり。ちかう
まい【参つ】てげざむ【見参】にも入たかりつれ共、はばかりもぞ
おぼしめす【思し召す】とてとをり【通り】ぬ。あな哀れの御あり
さま【有様】や」とて、袖をかほ【顔】におしあてて、さめざめと
泣ければ、郎等共もみな涙をぞながしける。
『熊野参詣』S1011
やうやうさし給ふ程に、日数ふれば、岩田河にも
P10107
かかりたまひ【給ひ】けり。「此河のながれを一度もわたる
者は、悪業煩悩無始の罪障きゆ【消ゆ】なる物
を」と、たのもしう【頼もしう】ぞおぼしける。本宮にまいり【参り】
つき、証誠殿の御まへにつゐ居給ひつつ、しばらく
法施まいらせ【参らせ】て、御山のやうをおがみ【拝み】給ふに、心も
詞もおよば【及ば】れず。大悲擁護の霞は、熊野山に
たなびき、霊験無双の神明は、音なし河【音無河】に
跡をたる。一乗修行の岸には、感応の月くま
もなく、六根懺悔の庭には、妄想の露もむすばず。
P10108
いづれもいづれもたのもしから【頼もしから】ずといふ事なし。夜更
人しづまて、啓白したまふ【給ふ】に、父のおとど【大臣】の此御前
にて、「命をめし【召し】て後世をたすけ【助け】給へ」と申され
ける事までも、思食いで【出で】て哀也。「O[BH 当山権現は、]本地阿弥陀
如来にてまします。摂取不捨の本願あやまた
ず、浄土へ引導給へ」と申されける。中にも「ふる郷【故郷】に
とどめ【留め】をき【置き】し妻子安穏に」といのられけるこそ
かなしけれ。うき世をいとひ、まこと【誠】の道に入給へ
ども、妄執はなを【猶】つきずと覚えて哀也し事
P10109
共也。明ぬれば、本宮より船にのり、新宮へぞ
まいら【参ら】れける。かんのくら【神の蔵】をおがみ【拝み】たまふ【給ふ】に、巌松
たかくそびえ【聳え】て、嵐妄想の夢を破り、流水き
よくながれて、浪塵埃の垢をすすぐらむとも
覚えたり。明日社ふし【伏し】おがみ【拝み】、佐野の松原さし過て、
那知の御山にまいり【参り】給ふ。三重に漲りおつる
滝の水、数千丈までうちのぼり、観音の霊
像は岩の上にあらはれ【現はれ】て、補陀落山共いつべし。
霞の底には法花読誦の声きこゆ、霊鷲山
P10110
とも申つべし。抑権現当山に跡を垂させまし
ましてより以来、我朝の貴賎上下歩をはこび、
かうべをかたむけ、掌をあはせ【合はせ】て、利生にあづから
ずといふ事なし。僧侶されば甍をならべ、道俗
袖をつらねたり。寛和夏の比、花山の法皇十善
の帝位をのがれ【逃れ】させ給ひて、九品の浄刹を
おこなは【行なは】せ給ひけん、御庵室の旧跡には、昔を
しのぶ【忍ぶ】とおぼしくて、老木の桜ぞさきにける。
那智籠の僧共の中に、此三位中将をよくよく
P10111
み【見】しりたてま【奉つ】たるとおぼしくて、同行にかたり
けるは、「ここなる修行者をいかなる人やらむと
思ひたれば、小松の大臣殿の御嫡子、三位中将殿にて
おはしけるO[BH ぞ]や。あの殿の未四位少将と聞え給ひし
安元の春の比、法住寺殿にて五十御賀のありしに、
父小松殿は内大臣の左大将にてまします、伯父
宗盛卿は大納言の右大将にて、階下に着座せら
れたり。其外三位中将知盛・頭中将重衡以下
一門の人々、けふを晴とときめき給ひて、垣代に
P10112
立給ひし中より、此三位中将、桜の花をかざし
て青海波をまう【舞う】て出られたりしかば、露に媚
たる花の御姿、風に翻る舞の袖地をてらし
天もかかやく【輝く】ばかり也。女院より関白殿を御使
にて御衣をかけられしかば、父の大臣座を立、
是を給はて右の肩にかけ、院を拝し奉り
給ふ。面目たぐひすくなうぞみえ【見え】し。かたへ【傍】の殿
上人、いかばかりうら山しうおもは【思は】れけむ。内裏の
女房達の中には、「深山木のなかの桜梅とこそ
P10113
おぼゆれ」などいはれ給ひし人ぞかし。唯今大
臣の大将待かけ給へる人とこそみ【見】奉りしに、
けふはかくやつれはて給へる御ありさま【有様】、かねて【予て】は
思ひもよらざしをや。うつればかはる世のならひ【習ひ】とは
いひながら、哀なる御事哉」とて、袖をかほ【顔】に
おしあててさめざめと泣ければ、いくらもなみ
ゐたりける那知籠【*那智籠】の僧共も、みなうち衣【裏衣】の
『維盛入水』S1012
袖をぞぬらしける。○三の山の参詣事ゆへ【故】なく
とげ給ひしかば、浜の宮と申王子の御まへより、
P10114
一葉の船に棹さして、万里の蒼海にうかび
給ふ。はるかの奥に山なり【山成】の島といふ所あり【有り】。
それに舟をこぎよせさせ、岸にあがり【上がり】、大なる松
の木をけづて、中将銘跡をかき【書き】つけらる。
「祖父太政大臣平朝臣清盛公、法名浄海、親父
内大臣左大将重盛公、法名浄蓮、三位中将維盛、
法名浄円、生年廿七歳、寿永三年三月廿八日、
那知【*那智】の奥にて入水す」と書つけて、又奥へぞ
こぎ出給ふ。思ひきりたる道なれ共、今はの時に
P10115
成ぬれば、心ぼそうかなしからずといふ事なし。
比は三月廿八日の事なれば、海路遥に霞わた
り、哀をもよほすたぐひ也。ただ大方の春だに
も、暮行空は物うきに、況やけふをかぎりの
事なれば、さこそは心ぼそかりけめ。奥の釣舟の
浪にきえ入やうにおぼゆる【覚ゆる】が、さすがしづみも
はてぬをみ【見】たまふ【給ふ】にも、我身のうへ【上】とやおぼし
けむ。おの【己】が一行ひき【引き】つれて、今はとかへる雁がね【雁金】の、
越路をさして鳴ゆくも、ふるさとへことづけせま
P10116
ほしく、蘇武が胡国のうらみ【恨み】まで、思ひのこせる
くまもなし。「さればこは何事ぞ。猶妄執のつきぬに
こそ」と思食かへして、西にむかひ【向ひ】手をあはせ【合はせ】、
念仏したまふ【給ふ】心のうちにも、「すでに只今をかぎ
りとは、都にはいかでかしるべきなれば、風のたより
のことつて【言伝】も、いまやいまやとこそまたんずらめ。
遂にはかくれ【隠れ】あるまじければ、此世になきものと
きい【聞い】て、いかばかりかなげかんずらん」など思ひつづ
けたまへ【給へ】ば、念仏をとどめ【留め】、合掌をみだり、聖にむか【向つ】て
P10117
の給ひけるは、「あはれ人の身に妻子といふ物をば
もつまじかりけるものかな。此世にて物を思はする
のみならず、後世菩提のさまたげと成ける口
おしさ【口惜しさ】よ。只今も思ひ出るぞや。か様【斯様】の事を
心中にのこせば、罪ふかからむなる間、懺悔する也」
とぞのたまひ【宣ひ】ける。聖も哀に覚えけれ共、我
さへ心よはく【弱く】てはかなは【叶は】じと思ひ、涙おし【押し】のごひ、
さらぬ体にもてないて申けるは、「まこと【誠】にさこそ
はおぼしめさ【思し召さ】れ候らめ。たかき【高き】も賤きも、恩愛の
P10118
道は力およば【及ば】ぬ事也。中にも夫妻は一夜の枕を
ならぶるも、五百生の宿縁と申候へば、先世の契浅
からず。生者必滅、会者定離は浮世の習にて
候也。すゑ【末】の露もとのしづくのためし【例】あれば、
たとひ遅速の不同はありとも、をくれ【遅れ】先だつ【先立つ】
御別、遂になくてしもや候べき。彼離山宮の秋の
夕の契も、遂には、心を摧くはしとなり、甘泉殿
の生前の恩も、おはりなきにしもあらず。松子・梅
生、生涯の恨あり【有り】。等覚・十地、猶生死の掟にしたがふ。
P10119
たとひ君長生のたのしみにほこり給ふ共、此御な
げきはのがれ【逃れ】させたまふ【給ふ】べからず。たとひ又百年の
齢をたもち【保ち】給ふ共、此御恨はただおなじ事と
思食さるべし。第六天の魔王といふ外道は、欲
界の六天を我物と領じて、中にも此界の衆生
の生死をはなるる事をおしみ【惜しみ】、或は妻となり、或は
夫となて、是をさまたぐるに、三世諸仏は、
一切衆生を一子の如く思食て、極楽浄土の不
退の土にすすめ【進め】いれ【入れ】んとしたまふ【給ふ】に、妻子といふ
P10120
もの、無始曠劫より以来生死に流転するきづな
なるがゆへ【故】に、仏はおもう【重う】いましめ給ふ也。さればとて
御心よはう【弱う】おぼしめすべからず。源氏の先祖伊与【*伊予】
入道頼義は、勅命によて奥州のゑびす【夷】貞任・
宗任をせめ【攻め】んとて、十二年が間に人の頸をきる
事一万六千人、山野の獣、江河の鱗、其命を
たつ事いく千万といふ数をしら【知ら】ず。され共、終焉の
時、一念の菩提心をおこし【起こし】しによて、往生の素
懐をとげたりとこそ承れ。就中に、出家の功徳
P10121
莫太なれば、先世の罪障みなほろび給ひぬらむ。
たとひ人あて七宝の塔をたてん事、たかさ
三十三天にいたる共、一日の出家の功徳には及ベ
からず。たとひ又百千歳の間百羅漢を供養じ
たらん功徳も、一日の出家の功徳には及べからずと
とか【説か】れたり。罪ふかかり【深かり】し頼義、心のたけき【猛き】ゆへ【故】に
往生をとぐ。させる御罪業ましまさざらんに、などか
浄土へまいり【参り】給はざるべき。其上当山権現は
本地阿弥陀如来にてまします。はじめ無三悪
P10122
趣の願より、おはり得三宝忍の願にいたるまで、
一々の誓願、衆生化度の願ならずといふ事なし。
中にも第十八の願には「設我得仏、十方衆生、至心
信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚」
ととか【説か】れたれば、一念十念のたのみ【頼み】あり【有り】。只ふかく
信じて、努々疑をなしたまふ【給ふ】べからず。無二の懇
念をいたし【致し】て、若は一返、若は十反も唱給ふ物ならば、
弥陀如来、六十万億那由多恒河沙の御身を
つづめ、丈六八尺の御形にて、観音勢至無数の
P10123
聖衆、化仏菩薩、百重千重に囲繞し、伎楽
歌詠じて、唯今極楽の東門を出て来迎し
給はむずれば、御身こそ蒼海の底にしづむ【沈む】と思召
るとも、紫雲のうへ【上】にのぼり給ふべし。成仏得脱
してさとりをひらき給なば、娑婆の故郷にたち
かへ【帰つ】て妻子を道びき給はむ事、還来穢O[BH 国]度人天、
すこし【少し】も疑あるべからず」とて、金【*鐘】うちならし【鳴らし】て
すすめ奉る。中将しかる【然る】べき善知識かなと思食、
忽に妄念をひるがへして、O[BH 西に向ひ手を合せ、]高声に念仏百返斗
P10124
となへつつ、「南無」と唱る声ともに、海へぞ入給ひ
ける。兵衛入道も石童丸と同じく御名を唱へ
『三日平氏』S1013
つつ、つづひ【続い】て海へぞ入にける。○とねり武里も同く
いら【入ら】むとしけるを、聖とり留めければ、力およばず。
「いかにうたてくも、御遺言をばたがへ【違へ】たてまつら【奉ら】んと
するぞ。下臈こそなを【猶】もうたてけれ。今はただ後
世をとぶらひ【弔ひ】奉れ」と、泣々教訓しけれ共、をくれ【遅れ】
たてまつる【奉る】かなしさに、後の御孝養の事も
覚えず、舟ぞこ【舟底】にふし【伏し】まろび【転び】、おめき【喚き】さけび【叫び】
P10125
ける有さま【有様】は、むかし悉太太子【*悉達太子】の檀徳山【*檀特山】に入せ
給ひし時、しやのく【車匿】とねり【舎人】がこんでい【ノ陟】駒を給はて、
王宮にかへりし悲みも、是には過じとぞみえ【見え】し。
しばしは舟をおし【押し】まはして、浮もやあがり給ふと
見けれ共、三人ともに深くしづんでみえ【見え】給はず。
いつしか経よみ念仏して、「過去聖霊一仏浄土へ」
と廻向しけるこそ哀なれ。さる程に、夕陽西に
傾き、海上もくらく成ければ、名残はつきせ【尽きせ】ず
おもへ【思へ】共、むなしき【空しき】舟を漕かへる。とわたる舟のかい【櫂】の
P10126
しづく、聖が袖よりつたふ涙、分ていづれもみえ【見え】
ざりけり。聖は高野へかへりのぼる。武里は泣々
八島へまいり【参り】けり。御弟新三位中将殿に御ふみ【文】
取いだし【出し】てまいらせ【参らせ】たりければ、「あな心う、わがたのみ【頼み】
奉る程は、人は思ひ給はざりける口惜さよ。池の大
納言のやうに頼朝に心をかよはし【通はし】て、都へこそおはし
たるらめとて、大臣殿も二位殿も、我等にも心を
をき【置き】給ひつるに、されば那知【*那智】の奥にて身をなげて
ましますごさんなれ。さらば引具して一所にも
P10127
しづみ【沈み】給はで、ところどころ【所々】にふさむ事こそかなし
けれ。御詞にて仰らるる事はなかりしか」と問
給へば、「申せと候しは「西国にて左の中将殿うせ
させ給ひ候ぬ。一谷で備中守殿うたれさせ給候ぬ。
われ【我】さへかく成候ぬれば、いかにたよりなうおぼし
めさ【思し召さ】れ候はんずらんと、それのみこそ心ぐるしう思ひ
まいらせ【参らせ】候へ」。唐皮・小烏の事までもこまごまと
申たりければ、「今はわれ【我】とてもながらふ【永らふ】べしとも
覚えず」とて、袖をかほ【顔】におし【押し】あててさめざめと
P10128
泣給ふぞ、まこと【誠】にことはり【理】と覚えて哀なる。故三
位中将殿にゆゆしく似給ひたりければ、みる【見る】人涙を
ながしけり。侍共はさしつどひ【集ひ】て、只なくより外の事ぞ
なき。大臣殿も二位殿も、「此人は池の大納言の様に、
頼朝に心をかよはし【通はし】て、都へとこそ思ひたれば、
さはおはせざりける物」とて、今更なげきかなしみ
給けり。四月一日、鎌倉前兵衛佐頼朝、正下の四位
したまふ【給ふ】。元は従下の五位にてありしに、五階をこえ
給こそゆゆしけれ。是は木曾左馬頭義仲追討の
P10129
賞とぞ聞えし。同三日、崇徳院を神とあがめ
奉るべしとて、むかし御合戦ありし大炊御門が末に
社をたてて、宮うつし【宮遷し】あり【有り】。院の御沙汰にて、内裏には
しろしめされずとぞ聞えし。五月四日、池の大納
言関東へ下向。兵衛佐「御かたをば全くおろかに
思ひまいらせ【参らせ】候はず。只故池殿のわたらせ給ふとこそ
存候へ。故尼御前の御恩を、大納言殿に報じたて
まつら【奉ら】ん」とたびたび誓状をもて申されければ、
一門をもひき【引き】わかれておち【落ち】とどまり給ひたり
P10130
けるが、「兵衛佐ばかりこそかうは思はれけれ共、自余の
源氏共いかがあらむずらん」と、肝たましひをけすより
外の事なくておはしけるが、鎌倉より「故尼御
前を見奉ると存て、とくとくげざん【見参】に入候はん」と
申されたりければ、大納言くだり【下り】給ひけり。弥平
兵衛宗清といふ侍あり【有り】。相伝専一の者なりけるが、
あひ具してもくだらず。「いかに」ととひ給へば、「今度
の御共はつかまつらじと存候。其ゆへ【故】は、君こそかく
てわたらせ給へども、御一家の君達の、西海の浪
P10131
のうへ【上】にただよはせ給ふ御事の心うくおぼえて、
未安堵しても存候はねば、心すこしおとし【落し】すへ【据ゑ】て、
お[B ッ]さま【追つ様】にまいり【参り】候べし」とぞ申ける。大納言にがにが
しう【苦々しう】はづかしう思ひ給ひて、「一門をひき【引き】わかれて
のこり【残り】とどま【留まつ】たる事は、我身ながらいみじ[* 下欄に「美」と注記]とは
おもは【思は】ね共、さすが身も捨がたう、命もおしけれ【惜しけれ】ば、
なまじゐにとどまりにき。そのうへ【上】は又くだらざる
べきにもあらず。はるかの旅におもむくに、いかでか
み【見】をくら【送ら】であるべき。うけ【請け】ず思はば、おち【落ち】とどま【留まつ】し
P10132
時はなどさはいはざしぞ。大小事一向なんぢに
こそいひ【言ひ】あはせ【合はせ】しか」とのたまへば、宗清居なをり【直り】
畏て申けるは、「たかき【高き】もいやしきも、人の身に
命ばかりおしき【惜しき】物や候。又世をばすつれ【捨つれ】ども、身をば
すてずと申候めり。御とどまりをあしとには候はず。
兵衛佐もかい【甲斐】なき命をたすけ【助け】られまいらせ【参らせ】て
こそ、けふはかかる幸にもあひ候へ。流罪せられ候し
時は、故尼御前の仰にて、O[BH 近江ノ国]、しの原【篠原】の宿までうち
をく【送つ】て候き。「其事など今に忘れず」と承り
P10133
候へば、さだめて御共に罷くだり【下り】て候はば、ひきで
物、饗応などもし候はんずらむ。それにつけて
も心うかるべう候。西国にわたらせ給ふ君達、もしは
侍共のかへりきかむ事、返々はづかしう候へば、まげて
今度ばかりはまかり【罷り】とどまるべう候。君おち【落ち】とど
まら【留まら】せ給て、かくてわたらせ給ふ程では、などか
御くだりなうても候べき。はるかの旅におもむか【赴か】せ
給ふ事は、まこと【誠】におぼつかなう思ひまいらせ【参らせ】
候へ共、敵をもせめ【攻め】に御くだり【下り】候はば、一陣にこそ
P10134
候べけれ共、是はまいら【参ら】ず共、更に御事かけ【欠け】候まじ。
兵衛佐たづね【尋ね】申され候はば、「あひ労る事あて」と
仰候べし」と申ければ、心ある侍共は是をきひ【聞い】て、
みな涙をぞながしける。大納言もさすがはづか
しうは思はれけれども、さればとてとどまるべき
にもあらねば、やがてたち給ひぬ。同十六日、鎌倉へ
下つき給ふ。兵衛佐いそぎ見参して、まづ「宗清は
御共して候か」と申されければ、「折ふし【折節】労はる事
候て、くだり【下り】候はず」との給へ【宣へ】ば、「いかに、何をいたはり
P10135
候けるやらむ。意趣を存候にこそ。むかし宗清が
もとに候しに、事にふれて有がたうあた
り候し事、今にわすれ候はねば、さだめて御
共に罷下候はむずらん、とく見参せばやなど
こひしう【恋しう】存て候に、うらめしう【恨めしう】もくだり【下り】候はぬもの【物】
かな」とて、下文あまたなしまうけ【設け】、馬鞍・物具
以下、やうやうの物共たばむとせられければ、しかる【然る】
べき大みやう【大名】共、われもわれもとひきで物【引出物】共用意
したりけるに、くだらざりければ、上下ほい【本意】なき事に
P10136
思ひてぞ有ける。六月九日、池の大納言関東より
上洛し給ふ。兵衛佐「しばらくかくておはしませかし」
と申されけれども、「宮こ【都】におぼつかなく思ふ
らん」とて、いそぎのぼり給ひければ、庄園私領
一所も相違あるべからず、并に大納言になし
かへさるべきよし、法皇へ申されけり。鞍置馬【鞍置馬】卅疋、
はだか馬【裸馬】卅疋、長持卅枝に、葉金・染物・巻絹風情
の物をいれ【入れ】て奉り給ふ。兵衛佐かやうにもて
なし給へば、大名小名われもわれもと引出物を奉る。
P10137
馬だにも三百疋に及べり。命いき給ふのみならず、
徳ついてぞ帰りのぼられける。同十八日、肥後守
定能【*貞能】が伯父、平太入道定次を大将として、伊賀・
伊勢両国の住人等、近江国へうち出たりければ、
源氏の末葉等発向して合戦をいたす。両国の
住人等一人ものこらずうちおとさ【落さ】る。平家重代
相伝の家人にて、昔のよしみを忘れぬ事は
哀なれども、思ひたつこそおほけなけれ。三日
平氏とは是也。さる程に、小松の三位中将維盛卿の
P10138
北方は、風のたよりの事つても、たえて久しく
成ければ、何と成ぬる事やらむと、心ぐるしうぞ
思はれける。月に一度などは必ず音づるる【音信るる】物をと
待給へ共、春すぎ夏もたけぬ。「三位中将、今は
八島にもおはせぬ物をと申人あり」ときき【聞き】給ひて、
あまりのおぼつかなさに、とかくして八島へ人を
奉り給ひたりければ、いそぎも立かへらず。夏過
秋にも成ぬ。七月の末に、かの使かへりきたれり。
北方「さていかにやいかに」と問たまへ【給へ】ば、「「過候し三月
P10139
十五日の暁、八島を御出候て、高野へまいら【参ら】せ給ひ
て候けるが、高野にて御ぐしおろし、それより
熊野へまいら【参ら】せおはしまし、後世の事をよくよく
申させ給ひ、那知【*那智】の奥にて御身をなげさせ給ひ
て候」とこそ、御共申たりけるとねり武里は
かたり申候つれ」と申ければ、北方「さればこそ。あやし
と思ひつる物を」とて、引かづいてぞふし給ふ。
若君姫君も声々になき【泣き】かなしみ給ひけり。
若君の御めのとの女房、泣々申けるは、「是は今更
P10140
おどろかせ給ふべからず。日来よりおぼしめし【思し召し】まう
けたる御事也。本三位中将殿のやうに生取に
せられて、都へかへらせ給ひたらば、いかばかり心う
かるべきに、高野にて御ぐしおろし、熊野へ
まいら【参ら】せ給ひ、後世の事よくよく申させおはしまし、
臨終正念にてうせさせ給ひける御事、歎の
なかの御よろこび也。されば御心やすき事にこそ
おぼしめす【思し召す】べけれ。今はいかなる岩木のはざまに
ても、おさなき【幼き】人々をおほし【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】んと思召
P10141
せ」と、やうやう【様々】になぐさめ申けれ共、思食しのび【忍び】て、
ながらふ【永らふ】べし共みえ【見え】給はず。やがてさまをかへ、かた
のごとくの仏事をいとなみ、後世をぞとぶらひ【弔ひ】
『藤戸』S1014
給ひける。○是を鎌倉の兵衛佐かへり聞給ひて、
「哀れ、へだてなくうちむかひ【向ひ】ておはしたらば、命斗
はたすけ【助け】たてま【奉つ】てまし。小松の内府の事は、
おろかに思ひたてまつら【奉ら】ず。池の禅尼の使として、
頼朝を流罪に申なだめ【宥め】られしは、ひとへに彼内府の
芳恩なり。其恩争かわする【忘る】べきなれば、子息
P10142
たちもおろかに思ず。まして出家などせられなむ
うへ【上】は、子細にや及べき」とぞの給ひける。さる程に、
平家は讃岐の八島へかへり給ひて後も、東国
よりあら【新】手の軍兵数万騎、都につい【着い】てせめ【攻め】下る
共聞ゆ。鎮西より臼杵・戸次・松浦党同心して
おしわたるとも申あへ【合へ】り。かれをきき是をきくにも、
只耳をおどろかし【驚かし】、肝魂をけすより外の事
ぞなき。今度一の谷にて一門の人々のこりずく
なくうたれ給ひ、むねとの侍共なかば【半ば】すぎてほろ
P10143
びぬ。今はちから【力】つきはてて、阿波民部大夫重能が
兄弟、四国の者共かたらて、さり共と申けるをぞ、
高き山深き海共たのみ【頼み】給ひける。女房達は
さしつどひ【集ひ】て、只泣より外の事ぞなき。かくて
七月廿五日にも成ぬ。「こぞのけふは都を出しぞかし。
程なくめぐり来にけり」とて、あさましうあはたたし
かりし事共の給ひいだし【出し】て、なきぬわらひ【笑ひ】ぬぞ
したまひ【給ひ】ける。同廿八日、新帝の御即位あり【有り】。
内侍所・神璽・宝剣もなくして御即位の
P10144
例、神武天皇より以来八十二代、是はじめとぞ
うけ給はる【承る】。八月六日、除目おこなはれて、蒲冠者
範頼参河【*三河】守になる。九郎冠者義経、左衛門尉に
なさる。すなはち使の宣旨を蒙て、九郎判官と
ぞ申ける。さる程に、荻のうは風【上風】もやうやう身に
しみ、萩の下露もいよいよしげく、うらむる【恨むる】虫の声々
に、いなば【稲葉】うちそよぎ、木の葉かつちるけしき【景色】、
物おもは【思は】ざらむだにも、ふけゆく秋の旅の空は
かなしかる【悲しかる】べし。まして平家の人々の心の中、さこそは
P10145
おはしけめとおしはから【推し量ら】れて哀也。むかしは九重の
雲の上にて、春の花をもてあそび、今は
八島のうら【浦】にして、秋の月にかなしむ。凡さやけき
月を詠じても、都のこよひいかなるらむと思
やり、心をすまし【澄まし】、涙をながしてぞあかしくらし
給ひける。左馬頭行盛かうぞ思ひつづけ給ふ。
君すめばこれも雲井の月なれど
なを【猶】こひしき【恋しき】はみやこ【都】なりけり W084
同九月十二日、参河【*三河】守範頼、平家追討のために
P10146
西国へ発向す。相伴ふ人々、足利蔵人義兼・鏡美
小次郎長清・北条小四郎義時・斎院次官親義、
侍大将には、土肥[B ノ]次郎実平・子息弥太郎遠平・
三浦介義澄・子息平六義村・畠山庄司次郎重忠・
同長野三郎重清・稲毛三郎重成・椿谷【*榛谷】四郎
重朝・同五郎行重・小山小四郎朝政・同長沼五郎
宗政・土屋三郎宗遠・佐々木三郎守綱【*盛綱】・八田[B ノ]四郎
武者朝家・安西三郎秋益・大胡三郎実秀・天野
藤内遠景・比気【*比企】藤内朝宗・同藤四郎義員【*能員】・中
P10147
条[B ノ]藤次家長・一品房章玄・土佐房正俊【*昌俊】、此等を初
として都合其勢三万余騎、都をたて播磨
の室にぞつきにける。平家の方には、大将軍
小松新三位中将資盛・同小将有盛・丹後侍従
忠房、侍大将には、飛弾【*飛騨】三郎左衛門景経・越中
次郎兵衛盛次【*盛嗣】・上総五郎兵衛忠光・悪七兵衛
景清をさきとして、五百余艘の兵船にとり
の【乗つ】て、備前の小島【*児島】につくと聞えしかば、源氏室を
たて、是も備前国西河尻、藤戸に陣をぞ
P10148
とたりける。源平の陣のあはひ、海のおもてO[BH 廿]五町
ばかりをへだてたり。舟なくしてはたやすうわた
すべき様なかりければ、源氏の大勢むかひ【向ひ】の山に
宿して、いたづらに日数ををくる【送る】。平家の方より
はやりお【逸男】のわか者【若者】共、小船にの【乗つ】て漕いださせ、扇
をあげて「ここわたせ【渡せ】」とぞまねきける。源氏
「やすからぬ事也。いかがせん」といふところ【所】に、同廿五日
の夜に入て、佐々木三郎守綱【*盛綱】、浦の男をひとり
かたらて、しろい小袖・大口・しろざやまき【白鞘巻】などとらせ、
P10149
すかしおほせて、「この海に馬にてわたしぬべき
ところ【所】やある」ととひ【問ひ】ければ、男申けるは、「浦の者
共おほう【多う】候へども、案内したるはまれに候。此男こそ
よく存知して候へ。たとへば河の瀬のやうなる所の候
が、月がしらには東に候、月尻には西に候。両方の
瀬のあはひ、海のおもて【面】十町ばかりは候らむ。
この瀬は御馬にてはたやすうわたさせ給ふべし」
と申ければ、佐々木なのめならず悦で、わが家
子郎等にもしらせず、かの男と只二人まぎれ出、
P10150
はだかになり、件の瀬のやうなる所をみる【見る】に、げ
にもいたくふかう【深う】はなかりけり。ひざ【膝】・こし【腰】、肩に
たつ【立つ】所もあり【有り】。鬢のぬるる所もあり【有り】。深き所をば
およひ【泳い】で、あさき所におよぎ【泳ぎ】つく。男申けるは、
「これより南は北よりはるかに浅う候。敵、矢さき【矢先】を
そろへて待ところ【所】に、はだか【裸】にてはかなは【叶は】せ給ふ
まじ。かへらせ給へ」と申ければ、佐々木げにもとて
かへり【帰り】けるが、「下臈はどこともなき者なれば、又人に
かたらはれて案内をもをしへ【教へ】むずらん。我斗こそ
P10151
しら【知ら】め」と思ひて、彼男をさしころし【殺し】、頸かき
き【切つ】てすててげり。同廿六日の辰剋ばかり、平家
又小舟にの【乗つ】て漕いださせ、「ここをわたせ【渡せ】」とぞ
まねきける。佐々木三郎、案内はかねて【予て】し【知つ】たり、
しげめゆひ【滋目結】の直垂に黒糸威の鎧きて、白葦
毛なる馬にのり、家子郎等七騎、ざとうち入
てわたしけり。大将軍参河【*三河】守、「あれせいせよ【制せよ】、留
めよ」とのたまへ【宣へ】ば、土肥次郎実平鞭鐙をあは
せ【合はせ】てお【追つ】つひ【付い】て、「いかに佐々木殿、物のついて
P10152
くるひ【狂ひ】給ふか。大将軍のゆるされ【許され】もなきに、狼籍【*狼藉】
也。とどまり給へ」といひ【言ひ】けれ共、耳にも聞いれ【入れ】ず
わたしければ、土肥次郎もせいし【制し】かねて、やがて
つれ【連れ】てぞわたひ【渡い】たる。馬のくさわき【草脇】、むながいづくし、
ふと腹につくところ【所】もあり、鞍つぼこす所も
あり【有り】。ふかきところ【所】はおよが【泳が】せ、あさきところ【所】に
うちあがる【上がる】。大将軍参河【*三河】守是をみて、「佐々木に
たばかられけり。あさかり【浅かり】けるぞや。わたせ【渡せ】やわたせ【渡せ】」
と下知せられければ、三万余騎の大勢みなうち
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入てわたしけり。平家の方には「あはや」とて、舟共
おし【押し】うかべ【浮べ】、矢さき【矢先】をそろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ[B 「つきつめ」とあり1字目の「つ」に「ひ」と傍書]
さんざん【散々】にいる【射る】。源氏のつは物【兵】共是を事共せず、甲の
しころをかたむけ、平家の舟にのりうつりのりうつり、
おめき【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。源平みだれあひ、
或は舟ふみしづめて死ぬる者もあり、或は舟
引かへさ【返さ】れてあはて【慌て】ふためくものもあり【有り】。一日たた
かひ【戦ひ】くらして夜に入ければ、平家の舟は奥に
うかぶ。源氏は小島【*児島】にうちあが【上がつ】て、人馬のいきをぞ
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やすめける。平家は八島へ漕しりぞく。源氏心は
たけく思へ共、船なかりければ、おう【追う】てもせめ【攻め】たたかはず。
「昔より今にいたるまで、馬にて河をわたす
つはもの【兵】はありといへども、馬にて海をわたす事、
天竺・震旦はしら【知ら】ず、我朝には希代のためし【例】
也」とぞ、備前の小島【*児島】を佐々木に給はりける。
鎌倉殿の御教書にものせ【載せ】られけり。同廿七日、
都には九郎判官義経、検非違使五位尉になさ
れて、九郎大夫判官とぞ申ける。さる程に
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十月にもなりぬ。八島にはうら【浦】吹風もはげしく、
磯うつ浪もたかかり【高かり】ければ、つは物【兵】もせめ【攻め】来らず、
商客のゆき【行き】かうもまれなれば、都のつても
きか【聞か】まほしく、いつしか空かきくもり【曇り】、霰うち
ちり【散り】、いとどきえ入[B ル]心地ぞしたまひ【給ひ】ける。都には
大嘗会[* 「大」に濁点]あるべしとて、御禊の行幸あり【有り】けり。
節下は徳大寺左大将実定公、其比内大臣にて
おはしけるが、つとめられけり。おととし先帝の御
禊の行幸には、平家の内大臣宗盛公節下にて
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おはせしが、節下のあく屋【幄屋】につき、前に竜の旗
たててゐ給ひたりし景気、冠ぎは、袖のかかり、
表[B ノ]袴のすそまでもことにすぐれてみえ【見え】給へり。
其外一門の人々三位中将知盛・頭の中将重衡
以下近衛づかさみつな【御綱】に候はれしには、又立ならぶ
人もなかりしぞかし。けふは九郎判官先陣に供奉
す。木曾などには似ず、以[B ノ]外に京なれ【馴れ】てありし
か共、平家のなかのゑりくづ【選屑】よりもなを【猶】おとれり。
同十一月十八日、大嘗会[* 「大」に濁点]とげ【遂げ】おこなは【行なは】る。去る治承・
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養和の比より、諸国七道の人民百性【*百姓】等、源氏の
ためになやまされ、平家のためにほろぼされ、
家かまど【竃】を捨て、山林にまじはり、春は東作
の思ひを忘れ、秋は西収のいとなみにも及ばず。
いかにしてか様【斯様】の大礼もおこなはるべきなれ共、さて
しもあるべき事ならねば、かたのごとくぞとげ【遂げ】られ
ける。参河【*三河】守範頼、やがてつづひ【続い】てせめ【攻め】給はば、
平家はほろぶ【滅ぶ】べかりしに、室・高砂にやすらひ
て、遊君遊女共めし【召し】あつめ【集め】、あそびたはぶれ【戯れ】て
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のみ月日ををくら【送ら】れけり。東国の大名小名
おほし【多し】といへ共、大将軍の下知にしたがふ事なれば
力及ばず。只国のついへ【費】、民のわづらひ【煩ひ】のみあて、
ことしもすで【既】に暮にけり。

平家物語巻第十