平家物語 高野本 巻第十二

平家 十二(表紙)
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平家十二之巻 目録
大地震     紺掻之沙汰
平大納言流罪  土佐房被斬
判官都落    イ付吉田の大納言
六代      初瀬六代
六代きられ

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平家物語巻第十二
『大地震』S1201
○平家みなほろびはてて、西国もしづまりぬ。
国は国司にしたがひ【従ひ】、庄は領家のままなり。
上下安堵しておぼえし程に、同七月九日の
午刻ばかりに、大地おびたたしく【夥しく】うごいて良
久し。赤県のうち、白河のほとり、六勝寺皆
やぶれくづる。九重の塔もうへ【上】六重ふりおと
す【落す】。得長寿院も三十三間の御堂を十七間
までふり【震り】たうす【倒す】。皇居をはじめて人々の
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家々、すべて在々所々の神社仏閣、あやし
の民屋、さながらやぶれくづる。くづるる
音はいかづちのごとく、あがる塵は煙の
ごとし。天暗うして日の光も見えず。老少
ともに魂をけし、朝衆悉く心をつくす。
又遠国近国もかくのごとし。大地さけ【裂け】て
水わきいで、盤石われて谷へまろぶ。山くづれ
て河をうづみ、海ただよひて浜をひたす。
汀こぐ船はなみにゆられ、陸ゆく駒は足の
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たてど【立て処】をうしなへ【失へ】り。洪水みなぎり【漲ぎり】来らば、
岳にのぼ【上つ】てもなどかたすからざらむ、猛
火もえ来らば、河をへだててもしばしも
さん【去ん】ぬべし。ただかなしかり【悲しかり】けるは大地振【*大地震】なり。
鳥にあらざれば空をもかけりがたく、竜に
あらざれば雲にも又のぼりがたし。白河・
六波羅、京中にうちうづま【埋ま】れてしぬる【死ぬる】もの
いくらといふ数をしら【知ら】ず。四大衆【*四大種】の中に水火
風は常に害をなせども、大地にをいては
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ことなる変をなさず。こはいかにしつること【事】
ぞやとて、上下遣戸障子をたて、天の
なり地のうごくたびごとには、唯今ぞし
ぬる【死ぬる】とて、声々に念仏申。おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】事
おびたたし【夥し】。七八十・九十の者も世の滅する
などいふ事は、さすがけふあすとはおもは【思は】ず
とて、大に驚さはぎ【騒ぎ】ければ、おさなき【幼き】
もの共も是をきい【聞い】て、泣かなしむ事限
なし。法皇はそのおり【折】しも新熊野へ
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御幸なて、人多くうちころさ【殺さ】れ、触穢出
きにければ、いそぎ六波羅殿へ還御
なる。道すがら君も臣もいかばかり御心
をくだかせ給ひけん。主上は鳳輦に
めし【召し】て池の汀へ行幸なる。法皇は南庭
にあく屋【幄屋】をたててぞましましける。
女院・宮々は御所ども【共】皆ふり【震り】たをし【倒し】けれ
ば、或御輿にめし【召し】、或御車にめし【召し】て出させ
給ふ。天文博士ども馳まい【参つ】て、「よさりの亥子
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の刻にはかならず大地うち返すべし」
と申せば、おそろし【恐ろし】などもをろか【愚】なり。
昔文徳天皇の御宇、斉衡三年三月八日
の大地振【*大地震】には、東大寺の仏の御ぐしをふり
おとし【落し】たりけるとかや。又天慶二年四月
五日の大地振【*大地震】には、主上御殿をさて清寧
殿【*常寧殿】の前に五丈のあく屋【幄屋】をたててましまし
けるとぞうけ給はる【承る】。其は上代の事
なれば申にをよば【及ば】ず。今度の事は是より
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後もたぐひあるべしともおぼえず。十善
帝王都を出させ給て、御身を海底にしづめ、
大臣公卿大路をわたしてその頸を獄門に
かけらる。昔より今に至るまで、怨霊は
おそろしき【恐ろしき】事なれば、世もいかがあらんずらん
とて、心ある人の歎かなしまぬはなかり
『紺掻之沙汰』S1202
けり。○同八月廿二[B 三イ]日、鎌倉の源二位頼朝卿
の父、故左馬頭義朝のうるはしきかうべとて、
高雄の文覚上人頸にかけ、鎌田兵衛が頸
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をば弟子が頸にかけさせて、鎌倉へぞ下
られける。去治承四年のころとり【取り】いだし【出し】
てたてま【奉つ】たりけるは、まこと【誠】の左馬頭のかうべ
にはあらず、謀反をすすめ奉らんための
はかりこと【策】に、そぞろなるふるい【古い】かうべをしろい【白い】
布につつんでたてま【奉つ】たりけるに、謀反を
おこし世をうちとて、一向父の頸と信ぜ
られけるところ【所】へ、又尋出してくだり【下り】けり。
是は年ごろ[B 「ころ」に「来」と傍書]義朝の不便にしてめし【召し】つか
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は【使は】れける紺かき【紺掻】の男、年来獄門にかけられ
て、後世とぶらふ人もなかりし事をかなしん
で、時の大理にあひ奉り、申給はりとりおろ
して、「兵衛佐殿流人でおはすれ共、すゑたの
もしき【頼もしき】人なり、もし世に出てたづね【尋ね】らるる
事もこそあれ」とて、東山円覚寺といふ所
にふかう【深う】おさめ【納め】てをき【置き】たりけるを、文覚聞
出して、かの紺かき[B ノ]男【紺掻男】ともにあひ具して
下りけるとかや。けふ既に鎌倉へつくと聞
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えしかば、源二位片瀬河まで迎におはし
けり。それより色の姿になりて、泣々鎌
倉へ入給ふ。聖をば大床にたて、我身は
庭に立て、父のかうべをうけ【受け】とり【取り】たまふ【給ふ】
ぞ哀なる。是を見る大名小名、みな涙を
ながさずといふ事なし。石巌のさがしき【嶮しき】を
きりはら【払つ】て、新なる道場を造り、父の御
為と供養じて、勝長寿院と号せらる。
公家にもかやうの事を哀と思食て、故左
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馬頭義朝の墓へ内大臣正二位を贈らる。
勅使は左大弁兼忠とぞきこえ【聞え】し。頼朝
卿武勇の名誉長ぜるによて、身をたて
家をおこすのみならず、亡父聖霊贈官贈
『平大納言被流』S1203
位に及けるこそ目出けれ。○同九月廿三[B 二イ]日、平
家の余党の都にあるを、国々へつかはさ【遣さ】る
べきよし、鎌倉殿より公家へ申されたりければ、
平大納言時忠卿能登国、子息讃岐中将時実
上総国、蔵頭信基安芸国、兵部少輔正明隠岐国、
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二位僧都専信【*全真】阿波国、法勝寺執行能円
備後国、中納言律師忠快武蔵国とぞきこ
え【聞え】し。或西海の波の上、或東関の雲のはて、
先途いづくを期せず、後会其期をしら【知ら】ず。
別の涙をおさへ【抑へ】て面々におもむか【赴か】れけん心
のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。その中に、
平大納言は建礼門院の吉田にわたらせ給ふ
所にまい【参つ】て、「時忠こそせめ【責め】をもふ【重う】して、けふ既に
配所へおもむき【赴き】候へ。おなじみやこの内に
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候て、御あたりの御事共うけ給はら【承ら】まほし
う候つるに、つゐに【遂に】いかなる御ありさま【有様】
にてわたらせ給ひ候はんずらむと思をき
まいらせ【参らせ】候にこそ、ゆく空もおぼゆ【覚ゆ】まじう
候へ」と、なくなく【泣く泣く】申されければ、女院、「げにも昔
の名残とては、そこばかりこそおはしつれ。
今は哀をもかけ、とぶらふ人も誰かは有べき」
とて、御涙せきあへさせ給はず。此大納言と
申は、出羽前司具信が孫、兵部権大輔贈左
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大臣時信が子なり。故建春門院の御せうと【兄】
にて、高倉の上皇の御外戚なり。世のおぼえ
とき【時】のきら目出たかりき。入道相国の北方八
条の二位殿も姉にておはせしかば、兼官
兼職、おもひ【思ひ】のごとく心のごとし。さればほど【程】
なくあが【上がつ】て正二位の大納言にいたれり。検
非違使[* 「検」の左にの振り仮名]別当にも三ケ度までなりたまふ【給ふ】。
此人の庁務のときは、窃盗強盗をばめし【召し】
と【取つ】て、様もなく右のかいな【腕】をば、うでなか【腕中】
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より打おとし【落し】打おとし【落し】をひ【追ひ】捨らる。されば、悪別
当とぞ申ける。主上并三種の神器都へ
返し入奉るべき由、西国へ院宣をくださ【下さ】れ
たりけるに、院宣の御使花形がつらに、浪
がたといふやいじるし【焼印】をせられけるも、此
大納言のしわざなり。法皇も故女院の御
せうと【兄】なれば、御かた見【形見】に御覧ぜまほしう
おぼしめし【思し召し】けれ共、か様【斯様】の悪行によて御憤
あさから【浅から】ず。九郎判官もしたしう【親しう】なられたり
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しかば、いかにもして申なだめ【宥め】ばやとおもは【思は】れ
けれどもかなは【叶は】ず。子息侍従時家とて、十六に
なられけるが、流罪にももれ【漏れ】て、伯父の時光[B ノ]
卿のもとにおはしけり。母うへ【上】帥のすけ【帥の典侍】どの【殿】
とも【共】に大納言の袂にすがり、袖をひかへて、
今を限の名残をぞおしみ【惜しみ】ける。大納言、
「つゐに【遂に】すまじき別かは」とこころづよふは
の給へ共、さこそは悲うおもは【思は】れけめ。年闌齢
傾て後、さしもむつましかりし妻子にも
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別はて、すみなれし都をも雲ゐの
よそにかへりみて、いにしへは名にのみ聞し
越路の旅におもむき【赴き】、はるばると下り給ふに、
「かれは志賀唐崎、これは真野の入江、交
田の浦」と申ければ、大納言なくなく【泣々】詠じ
給ひけり。
かへりこむことはかた田【交田】にひくあみの
め【目】にもたまらぬわがなみだかな W092
昨日は西海の波の上にただよひて、怨憎
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懐苦【*怨憎会苦】の恨を扁舟の内につみ、けふは北国の
雪のしたに埋れて、愛別離苦のかなしみ
『土佐房被斬』S1204
を故郷の雲にかさね【重ね】たり。○さる程に、九郎判
官には、鎌倉殿より大名十人つけられたり
けれども、内々御不審を蒙りたまふ【給ふ】よし
聞えしかば、心をあはせ【合はせ】て一人づつ皆下り
はて【果て】にけり。兄弟なるうへ【上】、殊に父子の契
をして、去年の正月木曾義仲を追討
せしよりこのかた、度々平家を攻おとし【落し】、
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ことしの春ほろぼしはて【果て】て、一天をしづめ、
四海をすます【澄ます】。勧賞おこなはるべき処に、
いかなる子細あてかかかる聞えあるらんと、
かみ一人をはじめ奉り、しも万民に至る
まで、不審をなす。此事は、去春、摂津国
渡辺よりふなぞろへして八島へわたり
給ひしとき、逆櫓たて【立て】うたて【立て】じの論
をして、大きにあざむかれたりしを、梶原
遺恨におもひ【思ひ】て常は讒言しけるによて
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なり。定謀反の心もあるらむ、大名共さし
のぼせ【上せ】ば、宇治・勢田の橋をもひき【引き】、京中
のさはぎ【騒ぎ】となて、中々あしかり【悪しかり】なんとて、
土佐房正俊【*昌俊】をめして、「和僧のぼ【上つ】て物詣する
やうにて、たばかてうて」との給ひければ、
正俊【*昌俊】畏てうけ給り【承り】、宿所へも帰らず、御前
をたてやがて京へぞ上りける。同九月廿
九日、土佐房都へついたりけれ共、次日まで
判官殿へもまいら【参ら】ず。正俊【*昌俊】がのぼりたるよし
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聞給ひ、武蔵房弁慶をもてめされければ、
やがてつれ【連れ】てまいり【参り】たり。判官の給ひ
けるは、「いかに鎌倉殿より御文はなきか」。「さし
たる御事候はぬ間、御文はまいらせ【参らせ】られ
ず候。御詞にて申せと候しは、『「当時まで
都に別の子細なく候事、さて御渡候ゆへ【故】
とおぼえ候。相構てよく守護せさせ給
へ」と申せ』とこそ仰せられ候つれ」。判官「よも
さはあらじ。義経討にのぼる御使なり。「大名
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どもさし上せば、宇治・勢田の橋をもひき【引き】、
都鄙のさはぎ【騒ぎ】ともなて、中々あしかり【悪しかり】
なん。和僧のぼせ【上せ】て物詣する様にてたば
かてうて」とぞ仰付られたるらむな」との給
へ【宣へ】ば、正俊【*昌俊】大に驚て、「何によてか唯今さる
事の候べき。いささか宿願によて、熊野参
詣のために罷上て候」。そのとき判官の給
ひけるは、「景時が讒言によて、義経鎌倉へ
も入られず。見参をだにし給はで、をひ【追ひ】上せ
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らるる事はいかに」。正俊【*昌俊】「其事はいかが候覧、
身にをいてはまたく御腹くろ候はず。記請
文【*起請文】をかき進べき」よし申せば、判官「とても
かうても鎌倉殿によしとおもは【思は】れたてま【奉つ】
たらばこそ」とて、以外けしき【気色】あしげになり
給ふ。正俊【*昌俊】一旦の害をのがれ【逃れ】んが為に、居な
がら七枚の記請文【*起請文】をかいて、或やいてのみ、或
社に納などして、ゆり【許り】てかへり、大番衆に
ふれめぐらして其夜やがてよせ【寄せ】んとす。判官
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は磯禅師といふ白拍子のむすめ、しづか【静】と
いふ女を最愛せられけり。しづかもかたはら
を立さる事なし。しづか申けるは、「大路は皆
武者でさぶらふなる。是より催しのなからん
に、大番衆の者どもこれほどさはぐ【騒ぐ】べき
様やさぶらふ。あはれ是はひる【昼】の記請【*起請】法師
のしわざとおぼえ候。人をつかはし【遣し】てみせ【見せ】
さぶらはばや」とて、六波羅の故入道相国の
めし【召し】つかは【使は】れけるかぶろを三四人つかは【使は】れ
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けるを、二人つかはし【遣し】たりけるが、程ふるまで
帰らず。「中々女はくるしからじ」とて、はした
ものを一人見せにつかはす【遣す】。程なくはしり【走り】
帰て申けるは、「かぶろとおぼしきものはふたり
ながら、土佐房の門にきりふせ【伏せ】られてさぶ
らふ。宿所には鞍をき馬【鞍置き馬】どもひしとひ【引つ】
たて【立て】て、大幕のうちには、矢おひ【負ひ】弓はり【張り】、者
ども皆具足して、唯今よせんといでたち【立ち】
さぶらふ【候ふ】。すこし【少し】も物まふで【物詣で】のけしきとは
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見えさぶらはず」と申ければ、判官是をきい【聞い】
て、やがてう【打つ】たち【立ち】給ふ。しづかきせなが【着背長】とて
なげかけ奉る。たかひも【高紐】ばかりして、太刀
とて出給へば、中門の前に馬に鞍をいて
ひ【引つ】たてたり。是にうち【打ち】乗て、「門をあけよ」
とて門あけさせ、いま【今】やいま【今】やと待給ふ処に、
しばしあてひた甲【直甲】四五十騎門の前に
おしよせて、時をどとぞつくりける。判官
鐙ふばり立あがり【上がり】、大音声をあげて、「夜
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討にも昼戦にも、義経たやすう討べき
ものは、日本国におぼえぬものを」とて、只一騎
おめい【喚い】てかけ給へば、五十騎ばかりのもの共、
中をあけてぞ通しける。さる程に、O[BH 伊勢[B ノ]三郎義盛・奥州[B ノ]佐藤四郎兵衛忠信・]江田
源三・熊井太郎・武蔵房弁慶などいふ一人
当千の兵共、やがてつづゐ【続い】て攻戦。其後侍共
「御内に夜討いたり」とて、あそこのやかた
ここの宿所より馳来る。程なく六七十
騎集ければ、土佐房たけくよせたりけれ
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ども【共】たたかふ【戦ふ】にをよば【及ば】ず。散々にかけちら
さ【散らさ】れて、たすかるものはすくなう、うたるる
ものぞおほかり【多かり】ける。正俊【*昌俊】希有にして
そこをばのがれ【逃れ】て、鞍馬の奥ににげ籠り
たりけるが、鞍馬は判官の故山なりけれ
ば、彼法師土佐房をからめて、次日判官の
許へ送りけり。僧正が谷といふ所にかくれ【隠れ】
ゐたりけるとかや。正俊【*昌俊】を大庭にひ【引つ】すへ【据ゑ】たり。
かちの直垂にすちやう頭巾[* 「ずちやう頭巾」と有るのを他本により訂正]【首丁頭巾】をぞしたりける。
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判官わら【笑つ】てのたまひ【宣ひ】けるは、「いかに和僧、記
請【*起請】にはうてたるぞ」。土佐房すこしもさは
が【騒が】ず、居なをり【直り】、あざわら【笑つ】て申けるは、「ある
事にかいて候へば、うてて候ぞかし」と申。「主
君の命をおもんじて、私の命をかろんず。
心ざし【志】の程、尤神妙なり。和僧命おしく【惜しく】は
鎌倉へ返しつかはさ【遣さ】んはいかに」。土佐坊、「まさ
なうも御諚候ものかな。おし【惜し】と申さば殿はたすけ【助け】給はんずるか。鎌倉殿の「法師
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なれども、をのれ【己】ぞねらはんずる者」とて
仰かうぶしより、命をば鎌倉殿に奉り
ぬ。なじかはとり返し奉るべき。唯御恩
にはとくとく頸をめさ[B 「めさ」に「刎ラ」と傍書]れ候へ」と申ければ、
「さらばきれ」とて、六条河原にひき【引き】いだい【出い】て
『判官都落』S1205
き【斬つ】てげり。ほめぬ人こそなかりけれ。○ここに
足立新三郎といふ雑色は、「きやつは下臈
なれども以外さかざかしい【賢々しい】やつで候。めし【召し】
つかひ【使ひ】給へ」とて、判官にまいらせ【参らせ】られたりけるが、
P12033
内々「九郎がふるまひ【振舞】みてわれにしらせよ」
とぞの給ひける。正俊【*昌俊】がきらるるをみて、
新三郎夜を日についで馳下り、鎌倉殿
に此由申ければ、舎弟参河【*三河】守範頼を討
手にのぼせ【上せ】たまふ【給ふ】べきよし仰られけり。
頻に辞申されけれ共、重而おほせられ
ける間、力をよば【及ば】で、物具していとま申に
まいら【参ら】れたり。「わとのも九郎がまねし給ふ
なよ」と仰られければ、此御詞におそれ【恐れ】て、
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物具ぬぎをきて京上はとどまり給ひ
ぬ。全不忠なきよし、一日に十枚づつの起
請を、昼はかき、夜は御坪の内にて読あげ
読あげ、百日に千枚の記請【*起請】を書てまいらせ【参らせ】
られたりけれども、かなは【叶は】ずして終に
うた【討た】れ給ひけり。其後北条四郎時政を
大将として、討手のぼると聞えしかば、
判官殿鎮西のかたへ落ばやとおもひ【思ひ】たち
給ふ処に、緒方三郎維義は、平家を九国の
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内へも入奉らず、追出すほどの威勢のもの
なりければ、判官「我にたのま【頼ま】れよ」とぞ
の給ひける。「さ候ば、御内候菊地【*菊池】[B ノ]二郎高直は、
年ごろの敵で候。給はて頸をきてたの
ま【頼ま】れまいらせ【参らせ】む」と申。左右なふ【無う】たうだりけれ
ば、六条川原に引いだし【出し】てきてげり。其
後維義かひがひしう領状す。同十一月二日、九
郎大夫判官院御所へまい【参つ】て、大蔵卿泰経朝臣
をもて奏聞しけるは、「義経君の御為に奉公
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の忠を致事、ことあたらしう初て申上に
をよび【及び】候はず。しかる【然る】を頼朝、郎等共が讒言
によて、義経をうたんと仕候間、しばらく
鎮西の方へ罷下らばやと存候。O[BH 哀]院庁の御下
文を一通下預候ばや」と申されければ、法皇
「此条頼朝がかへりきかん事いかがあるべからん」
とて、諸卿に仰合られければ、「義経都に
候て、関東の大勢みだれ入候ば、京都[B ノ]狼藉
たえ【絶え】候べからず。遠国へ下候なば、暫其恐あらじ」と、
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をのをの【各々】一同に申されければ、緒方三郎を
はじめて、臼杵・戸次・松浦党、惣じて鎮西の
もの、義経を大将として其下知にしたがふべ
きよし、庁の御下文を給はてげれば、其
勢五百余騎、あくる三日卯剋に京都に
いささかのわづらひ【煩ひ】もなさず、浪風もたてず
して下りにけり。摂津国源氏、太田太郎頼
基「わが門の前をとをしながら、矢一射かけ
であるべきか」とて、川原津といふ所にお【追つ】ついて
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せめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官は五百余騎、太田太郎は
六十余騎にて有ければ、なかにとりこめ、
「あますなもらす【漏らす】な」とて、散々に攻給へば、
太田太郎我身手おひ、家子郎等おほく【多く】う
たせ、馬の腹い【射】させて引退く。判官頸共
きりかけて、戦神にまつり、「門出よし」と
悦で、だいもつ【大物】の浦より船にの【乗つ】て下られけるが、
折節西の風はげしくふき、住吉の浦にうち
あげられて、吉野の奥にぞこもりける。
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吉野法師にせめ【攻め】られて、奈良へおつ。奈良法
師に攻られて、又都へ帰り入、北国にかかて、
終に奥へぞ下られける。都よりあひ具し
たりける女房達十余人、住吉の浦に捨置
たりければ、松の下、まさご【真砂】のうへ【上】に袴ふみ
したき、袖をかたしい【片敷い】て泣ふしたりけるを、
住吉の神官共憐んで、みな京へぞ送り
ける。凡判官のたのま【頼ま】れたりける伯父信
太三郎先生義教【*義憲】・十郎蔵人行家・緒方三郎維義が
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船共、浦々島々に打よせられて、互にその行
ゑ【行方】をしら【知ら】ず。忽に西の風ふきける事も、平
家の怨霊のゆへ【故】とぞおぼえける。同十一月
七日、鎌倉の源二位頼朝卿の代官として、北条
四郎時政、六万余騎を相具して都へ入。伊与【*伊予】守
源義経・備前守同行家・信太三郎先生同義教【*義憲】
追討すべきよし奏聞しければ、やがて院
宣をくだされけり。去二日は義経が申うくる
旨にまかせ【任せ】て、頼朝をそむくべきよし庁の
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御下文をなされ、同八日は頼朝卿の申状によて、
義経追討の院宣を下さる。朝にかはり夕
『吉田大納言沙汰』S1206
に変ずる世間の不定こそ哀なれ。○さる
程に、鎌倉殿日本国の惣追補使【*惣追捕使】を給はて、
反別に兵粮米を宛行べきよしO[BH 公家へ]申され
けり。朝の怨敵をほろぼしたるものは、
半国を給はるといふ事、無量義経に見え
たり。され共我朝にはいまだその【其の】例なし。
「是は過分の申状なり」と、法皇仰なりけれ共、
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公卿僉議あて、「頼朝卿の申さるる所、道理
なかばなり」とて、御ゆるされ【許され】あり【有り】けると
かや。諸国に守護ををき、庄園に地頭を
補せらる。一毛ばかりもかくる【隠る】べきやう【様】なかり
けり。鎌倉殿かやうの事人おほし【多し】といへ共、
吉田大納言経房卿をもて奏聞せられけり。
この大納言はうるはしい人と聞え給へり。
平家にむすぼほれたりし人々も、源氏の
世のつより【強り】し後は、或ふみ【文】をくだし、或使者
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をつかはし【遣し】、さまざまにへつらひ給ひしかども【共】、
この人はさもし給はず。されば平家の時も、
法皇を鳥羽殿におしこめまいらせ【参らせ】て、
後院の別当ををか【置か】れしには、勘解由小路[* 「勘解由少路」と有るのを他本により訂正]
中納言此経房卿二人をぞ後院の別当には
なされたりける。権右中弁光房朝臣の子也。
十二の年父の朝臣うせ給ひしかば、みなし子
にておはせしかども【共】、次第の昇進とどこほ
らず、三事の顕要を兼帯して、夕郎の
P12044
貫首をへ【経】、参議・大弁・太宰帥、遂に正二位大
納言に至れり。人をばこえ【越え】給へ共、人にはこえ
られ給はず。されば人の善悪は錐袋をとを
す【通す】とてかくれ【隠れ】なし。有がたかりし人なり。
『六代』S1207
○北条四郎策[* 「策」の右に、左にの振り仮名]に「平家の子孫といはん人尋
出したらむ輩にをいては、所望こふ【乞ふ】による
べし」と披露せらる。京中のもの共、案内は
したり、勧賞蒙らんとて、尋もとむるぞうた
てき。かかりければ、いくらも尋出したりけり。下臈
P12045
の子なれ共、色しろう【白う】見めよきをばめし【召し】
いだひ【出だい】て、「是はなんの中将殿の若君、彼少将
殿の君達」と申せば、父母なき【泣き】かなしめ
ども、「あれは介惜【介錯】が申候」。「あれはめのとが申」
なんどいふ間、無下におさなき【幼き】をば水に入、
土にうづみ【埋み】、少おとなしきをばおしころし【殺し】、
さしころす。母がかなしみ、めのとがなげき、
たとへんかたぞなかりける。北条も子孫さすが
多ければ、是をいみじとは思はねど、世にしたがふ
P12046
ならひ【習ひ】なれば、力をよば【及ば】ず。中にも小松三位中
将殿若君、六代御前とておはすなり。平家
の嫡々なるうへ【上】、年もおとなしうまします
なり。いかにもしてとり奉らんとて、手を分
てもとめ【求め】られけれ共、尋かねて、既に下らん
とせられける処に、ある女房の六波羅に
出て申けるは、「是より西、遍照寺のおく、
大覚寺と申山寺の北のかた、菖蒲谷と
申所にこそ、小松三位中将殿の北方・若君・姫公
P12047
おはしませ」と申せば、時政やがて【軈】人をつけ
て、其あたりをうかがは【伺は】せける程に、ある【或】坊
に、女房達おさなき【幼き】人あまた、ゆゆしく忍び
たるてい【体】にてすまゐ【住ひ】けり。籬のひまより
のぞきければ、白いゑのこ【犬子】の走出たるをとらん
とて、うつくしげなる若公【若君】の出給へば、めのと
の女房とおぼしくて、「あなあさまし。人もこそ
見まいらすれ【参らすれ】」とて、いそぎひき【引き】入奉る。是ぞ
一定そにておはしますらんとおもひ【思ひ】、いそぎ
P12048
走帰てかくと申せば、次の日かしこにうち【打ち】
むかひ【向ひ】、四方を打かこみ、人をいれ【入れ】ていはせ
けるは、「平家小松三位中将殿の若君六代御前、
是におはしますと承はて、鎌倉殿の御代官
に北条四郎時政と申ものが御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。
はやはや出しまいら【参らつ】させ給へ」と申されければ、
母うへ是を聞給ふに、つやつや物もおぼえ
給はず。斎藤五・斎藤六はしり【走り】まはて見けれ
ども、武士ども四方を打かこみ、いづかたより
P12049
出し奉るべしともおぼえず。めのとの女房も
御まへにたふれ【倒れ】ふし、声もおしま【惜しま】ず
おめき【喚き】さけぶ【叫ぶ】。日比は物をだにもたかく【高く】いは
ず、しのび【忍び】つつかくれ【隠れ】ゐたりつれ共、いま【今】は
家の中にありとあるもの、こゑ【声】を調へて
泣かなしむ。北条も是をきい【聞い】て、よにこころ【心】
ぐるしげ【苦し気】におもひ【思ひ】、なみだ【涙】のごひ、つくづく
とぞまた【待た】れける。ややあてかさね【重ね】て申され
けるは、「世もいまだしづまり候はねば、しどけなき
P12050
事もぞ候とて、御むかへ【向へ】にまい【参つ】て候。別の御事
は候まじ。はやはや出しまいら【参らつ】させ給へ」と申
されければ、若君母うへに申させたまひ
けるは、「つゐに【遂に】のがる【逃る】まじう候へば、とくとく
出させおはしませ。武士ども【共】うち入てさがす
ものならば、うたてげなる御ありさま【有様】共を
見えさせ給ひなんず。たとひまかり【罷り】出候とも、
しばしも候はば、いとまこふ【乞う】てかへりまいり【参り】候はん。
いたくな歎かせたまひ【給ひ】候そ」と、なぐさめ給ふこそ
P12051
いとおしけれ。さてもあるべきならねば、母うへ
なくなく【泣く泣く】御ぐしかきなで、ものきせ【着せ】奉り、
既に出し奉らんとしたまひけるが、黒木の
ずず【数珠】のちいさふ【小さう】うつくしいを取出して、「是にて
いかにもならんまで、念仏申て極楽へまい
れ【参れ】よ」とて奉り給へば、若君是をとて、「母御
前にはけふ既にはなれ【離れ】まいらせ【参らせ】なんず。今は
いかにもして、父のおはしまさん所へぞまいり【参り】
たき」とのたまひ【宣ひ】けるこそ哀なれ。これ【是】を
P12052
きい【聞い】て、御妹の姫君の十になり給ふが、「われも
ちち御前の御もとへまいら【参ら】ん」とて、はしり【走り】出
たまふ【給ふ】を、めのとの女房とりとどめ【留め】奉る。
六代御前ことしはわづかに十二にこそなり
たまへ【給へ】ども、よのつねの十四五よりはおとなし
く、見め【眉目】かたちゆう【優】におはしければ、敵によはげ【弱気】
をみえ【見え】じと、おさふる袖のひまよりも、余
て涙ぞこぼれける。さて御輿にのりたまふ【給ふ】。
武士ども前後左右に打かこ【囲ん】で出にけり。
P12053
斎藤五・斎藤六御輿の左右についてぞまいり【参り】
ける。北条のりがへ【乗替】共おろしてのすれ【乗すれ】共のら
ず。大覚寺より六波羅までかちはだしに
てぞ走ける。母うへ・めのとの女房、天にあふぎ
地にふしてもだえ【悶え】こがれ給ひけり。「此日比平家
の子どもとりあつめ【集め】て、水にいるるもあり、
土にうづむ【埋む】もあり、おしころし【殺し】、さしころし【殺し】、
さまざまにすときこゆれば、我子はなに【何】と
してかうしなは【失は】んずらん。O[BH すこし【少し】]おとなしければ、頸を
P12054
こそきら【斬ら】んずらめ。人の子はめのとなどのもと
にをきて、時々見る事もあり【有り】。それだに
も恩愛はかなしき【悲しき】ならひ【習ひ】ぞかし。況や是は
うみおとし【落し】て後、ひとひ【一日】かたとき【片時】も身をはな
たず、人のもたぬものをもちたるやうに思ひ
て、あさゆふ【朝夕】ふたりの中にてそだて【育て】し物を、
たのみ【頼み】をかけし人にもあかで別し其後は、
ふたりをうらうへ【裏表】にをきてこそなぐさみつる
に、ひとりはあれ共独はなし。けふより後は
P12055
いかがせむ。此三とせが間、よるひるきも【肝】心を
けしつつ、おもひ【思ひ】まうけ【設け】つる事なれ共、
さすが昨日今日とは思よらず。年ごろは
長谷の観音をこそふかう【深う】頼み奉りつる
に、終にとられぬること【事】のかなしさよ。唯今
もやうしなひ【失ひ】つらん」とかきくどき【口説き】、泣より
外の事ぞなき。さ夜もふけけれどむね【胸】
せきあぐる心ち【心地】して、露もまどろみ給は
ぬが、めのとの女房にの給ひけるは、「ただいま
P12056
ちとうちまどろみたりつる夢に、此子が白い
馬にのりて来つるが、「あまりに恋しう思
まいらせ【参らせ】候へば、しばしのいとま【暇】こふ【乞う】てまいり【参り】て
候」とて、そばについゐて、なに【何】とやらん、よに
うらめしげ【恨めし気】におもひ【思ひ】て、さめざめとなき【泣き】つるが、
程なくうちおどろかれて、もしやとかたはらを
さぐれ【探れ】共人もなし。夢なりとも【共】しばし
もあらで、さめぬる事のかなしさよ」とぞ
語たまふ【給ふ】。めのとの女房もなきけり。長夜も
P12057
いとどあかし【明かし】かねて、なみだ【涙】に床も浮計
也。限あれば、鶏人暁をとなへて夜も明ぬ。
斎藤六帰りまいり【参り】たり。「さていかにやいかに」
と問ひ給へば、「唯今まではべち【別】の御事
も候はず。御文の候」とて、取いだい【出い】て奉る。
あけて御覧ずれば、「いかに御心ぐるしう思し
めされ候らむ。只今までは別の事も候はず。
いつしかたれたれも御恋しうこそ候へ」と、
よにおとなしやかにかき給へり。母うへこれ【是】を
P12058
見たまひ【給ひ】て、とかうの事もの給は【宣は】ず。ふみを
ふところ【懐】に引入て、うつぶしにぞなられ
ける。誠に心のうち【内】さこそはおはしけめと
おしはから【推し量ら】れて哀なり。かくて遥に時剋
おしうつりければ、「時の程もおぼつかなう候に、
帰まいら【参ら】ん」と申せば、母うへ泣々御返事かい
てたう【賜う】でげり。斎藤六いとま申てまかり【罷り】出。
めのとの女房せめても心のあられずさに、
はしり【走り】出て、いづくをさすともなく、その
P12059
辺を足にまかせ【任せ】てなきありくほど【程】に、
ある人の申けるは、「此おくに高雄といふ
山寺あり【有り】。その聖文覚房と申人こそ、鎌倉
殿にゆゆしき大事の人におもは【思は】れまいらせ【参らせ】
ておはしますが、上臈の御子を御弟子にせん
とてほしがら【欲しがら】るなれ」と申ければ、うれしき
事をききぬと思ひて、母うへにかくとも【共】申
さず、ただ一人高雄に尋入り、聖にむかひ【向ひ】奉
て、「ち【血】のなかよりおほし【生し】たて【立て】まいらせ【参らせ】て、ことし
P12060
十二にならせ給ひつる若君を、昨日武士に
とられてさぶらふ【候ふ】。御命こひ【乞ひ】うけ【請け】まいらせ【参らせ】給ひて、
御弟子にせさせたまひ【給ひ】なんや」とて、聖の前
にたふれ【倒れ】ふし、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずなきさけぶ【叫ぶ】。
まこと【誠】にせんかたなげにぞ見えたりける。聖
むざんにおぼえければ事の子細をとひ給ふ。
おきあが【上がつ】て泣々申けるは、「平家小松三位中
将の北方の、したしうまします人の御子を
やしなひ奉るを、もし中将の君達とや人
P12061
の申さぶらひけん、昨日武士のとりまいらせ【参らせ】て
まかり【罷り】さぶらひぬるなり」と申。「さて武士をば
誰といひつる」。「北条とこそ申さぶらひつれ」。
「いでいでさらば行むかひ【向ひ】て尋む」とて、つき
いで【出で】ぬ。此詞をたのむ【頼む】べきにはあらね共、聖の
かくいへば、今すこし【少し】ひと【人】の心ち【心地】いできて、大
覚寺へかへりまいり【参り】、母うへにかくと申せば、
「身をなげに出ぬるやらんとおもひ【思ひ】て、我も
いかならん淵河にも身をなげんと思ひ
P12062
たれば」とて、事の子細をとひたまふ【給ふ】。聖の
申つるやう【様】をありのままに語ければ、「あはれ
こひ【乞ひ】うけ【請け】て、今一度見せよかし」とて、手をあは
せ【合はせ】てぞなかれける。聖六波羅にゆきむか【向つ】て、事
の子細をとひたまふ【給ふ】。北条申されけるは、「鎌倉
殿のおほせに、「平家の子孫京中におほく【多く】
しのん【忍ん】でありときく。中にも小松三位中将
の子息、中御門の新大納言のむすめの腹に
ありときく。平家の嫡々なるうへ【上】、年も
P12063
おとなしかんなり。いかにも尋いだし【出し】て失ふ
べし」と仰せを蒙て候しが、此程すゑずゑ
のおさなき【幼き】人々をば少々取奉て候つれ共、
此若公【若君】は在所をしり奉らで、尋かねて既
むなしう【空しう】罷下らむとし候つるが、おもは【思は】ざる
外、一昨日聞出して、昨日むかへ【向へ】奉て候へども、な
のめならずうつくしうおはする間、あまりに
いとおしくて、いまだともかうもし奉らで
をきまいらせ【参らせ】て候」と申せば、聖、「いでさらば
P12064
見奉らん」とて、若公【若君】のおはしける所へまい【参つ】て
み【見】まいらせ【参らせ】給へば、ふたへをりもの【二重織物】の直垂に、
黒木の数珠手にぬき【貫き】入ておはします。髪
のかかり、すがた、事がら、誠にあてにうつくし
く、此世の人とも見え給はず。こよひうち
とけてねたまは【給は】ぬとおぼしくて、すこし【少し】
おもやせ【痩せ】給へるにつけて、いとど心ぐるし
うらうたくぞおぼえける。聖を御覧
じて何とかおぼしけん、涙ぐみ給へば、聖も
P12065
是を見奉てすぞろに墨染の袖をぞ
しぼりける。たとひすゑ【末】の世に、いかなる
あた敵になるともいかが是を失ひ奉る
べきとかなしう【悲しう】おぼえければ、北条にの給
けるは、「此若君を見奉るに、先世の事にや
候らん、あまりにいとおしう思ひ奉り候。廿日
が命をのべてたべ。鎌倉殿へまい【参つ】て申あづ
かり候はむ。聖鎌倉殿を世にあらせ奉らん
とて、わが【我が】身も流人でありながら、院宣うかが
P12066
ふ【伺う】て奉らんとて、京へ上るに、案内もしらぬ
富士川の尻による【夜】わたりかかて、既におし
ながされんとしたりし事、高市の山にて
ひぱぎ【引剥】にあひ、手をすて命ばかりいき、福原
の籠の御所へまいり【参り】、前右兵衛督光能卿に
つき奉て、院宣申いだいて奉しときの約
束には、「いかなる大事をも申せ。聖が申さん
事をば、頼朝が一期の間はかなへ【適へ】ん」とこそ
のたまひ【宣ひ】しか。其後もたびたびの奉公、かつ〔う〕は
P12067
見給ひし事なれば、こと【事】あたらしう始而
申べきにあらず。契をおもふ【重う】して命をかろ
うず【軽うず】。鎌倉殿に受領神[* 「神」の左にの振り仮名]つき給はずは、よも
わすれ給はじ」とて、その暁立にけり。斎
藤五・斎藤六是をきき、聖を生身の仏の
如くおもひ【思ひ】て、手を合て涙をながす。いそぎ
大覚寺へまい【参つ】て此由申ければ、是をきき
給ひける母うへのこころ【心】のうち、いか計かは
うれしかりけむ。され共鎌倉のはからひ
P12068
なれば、いかがあらんずらむとおぼつかなけれ
ども、当時聖のたのもしげ【頼もし気】に申て下り
ぬるうへ【上】、廿日の命ののびたまふ【給ふ】に、母うへ・めのと
の女房すこし【少し】心もとりのべて、ひとへに
観音の御たすけ【助け】なればと、たのもしう【頼もしう】
ぞおもは【思は】れける。かくて明し暮したまふ【給ふ】
ほど【程】に、廿日の過るは夢なれや、聖はいまだ
見えざりけり。「何となりぬる事やらん」
と、なかなか心ぐるしうて、今更またもだえ【悶え】
P12069
こがれ給ひけり。北条も、「文学房のやく
そく【約束】の日数もすぎぬ。さのみ在京して
年を暮すべきにもあらず。今は下らむ」と
てひしめきければ、斎藤五・斎藤六手を
にぎり肝魂をくだけども【共】、聖もいまだ
見えず、使者をだにも上せねば、おもふ【思ふ】はかり
ぞなかりける。是等大覚寺へ帰りまい【参つ】て、
「聖もいまだのぼり候はず。北条も曉下向
仕候」とて、左右の袖をかほ【顔】におしあてて、涙を
P12070
はらはらとながす。是をきき給ひける母うへ
の心のうち、いかばかりかはかなしかり【悲しかり】けむ。
「あはれおとなしやかならんものの、聖の行
あはん所まで六代をぐせよといへかし。もし
こひ【乞ひ】うけ【請け】てものぼら【上ら】んに、さきにきりたらん
かなしさをば、いかがせむずる。さてとく【疾く】うし
なひ【失なひ】げなるか」とのたまへ【宣へ】ば、「やがて此暁の
程とこそ見えさせ給候へ。そのゆへ【故】は、此ほど【程】御
とのゐ【宿直】仕候つる北条の家子郎等ども、よに
P12071
名残おしげ【惜し気】におもひ【思ひ】まいらせ【参らせ】て、或念仏
申者も候、或涙をながす者も候」。「さて此子
は何としてあるぞ」とのたまへ【宣へ】ば、「人の見
まいらせ【参らせ】候ときはさらぬやうにもてないて、
御数珠をくらせおはしまし候が、人の候はぬ
とき【時】は、御袖を御かほ【顔】におしあてて、御なみだ【涙】
にむせばせ給ひ候」と申。「さこそあるらめ。
おさなけれ【幼けれ】共心おとなしやかなるものなり。
こよひかぎりの命とおもひ【思ひ】て、いかに心ぼそかる
P12072
らん。しばしもあらば、いとまこふ【乞う】てまいら【参ら】
むといひしかども【共】、廿日にあまるに、あれへ
もゆかず、是へも見えず。けふより後又
何の日何の時あひ見るべしともおぼえず。
さて汝等はいかがはからふ」との給へ【宣へ】ば、「これはいづく
までも御供仕り、むなしう【空しう】ならせ給ひて
候はば、御骨をとり奉り、高野のお山【御山】におさめ【納め】
奉り、出家入道して、後世をとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】ん
とこそおもひなて候へ」と申。「さらば、あまりに
P12073
おぼつかなふおぼゆる【覚ゆる】に、とうかへれ」との給へ【宣へ】ば、
二人の者なくなく【泣々】いとま申て罷出づ。さる程
に、同十二月十六[B 七イ]日、北条四郎若公【若君】具し奉て、
既都を立にけり。斎藤五・斎藤六涙にくれて
ゆくさきも見えね共、最後の所までと思ひ
つつ、泣々御供にまいり【参り】けり。北条「馬にのれ」と
いへどものらず、「最後の供で候へば、くるしう【苦しう】
候まじ」とて、血の涙をながしつつ、足にまかせ【任せ】
てぞ下ける。六代御前はさしもはなれがたく
P12074
おぼしける母うへ・めのとの女房にもわかれはて、
住なれし都をも、雲井のよそにかへりみ
て、けふをかぎりの東路におもむかれけん
心のうち、おしはから【推し量ら】れて哀なり。駒をはやむる
武士あれば、我頸うたんずるかと肝をけし、
物いひかはす人あれば、既に今やと心をつくす。
四の宮河原とおもへ【思へ】共、関山をもうちこえ【越え】て、
大津の浦になりにけり。粟津の原かとうかが
へ【伺へ】ども、けふもはや暮にけり。国々宿々打
P12075
過打過行程に、駿河国にもつき給ぬ。若公【若君】
の露の御命、けふをかぎりとぞきこえ【聞え】
ける。千本の松原に武士どもみなおりゐ
て、御輿かきすへ【据ゑ】させ、しきがは【敷皮】しいて、若公【若君】すへ【据ゑ】
奉る。北条四郎若公【若君】の御まへ【前】ちかふ【近う】まい【参つ】て申
されけるは、「是まで具しまいらせ【参らせ】候つるは、
別の事候はず。もしみちにて聖にもや行
あひ候と、まち【待ち】すぐしまいらせ【参らせ】候つるなり。
御心ざしの程は見えまいらせ【参らせ】候ぬ。山のあなた
P12076
までは鎌倉殿の御心中をもしり【知り】がたふ【難う】候へば、
近江国にてうしなひ【失ひ】まいらせ【参らせ】て候よし、披
露仕候べし。誰申候共、一業所感の御事なれ
ば、よも叶候はじ」と泣々申ければ、若君とも
かうもその返事をばしたまは【給は】ず、斎藤五・
斎藤六をちかふ【近う】めし【召し】て、「我いかにもなりなん
後、汝等都に帰て、穴賢道にてきら【斬ら】れたり
とは申べからず。そのゆへ【故】は、終にはかくれ【隠れ】あるまじ
けれ共、まさしう此有様きい【聞い】て、あまりに歎
P12077
給はば、草の陰にてもこころぐるしう【心苦しう】おぼ
えて、後世のさはりともならんずるぞ。鎌
倉まで送つけてまい【参つ】て候と申べし」との給
へ【宣へ】ば、二人のもの【者】共肝魂も消はてて、しばしは
御返事にもをよば【及ば】ず。良あて斎藤五
「君にをくれ【遅れ】まいらせ【参らせ】て後、命いきて安
穏に都まで上りつくべしともおぼえ候
はず」とて、なみだ【涙】をおさへ【抑へ】てふしにけり。既
今はの時になりしかば、若公【若君】御ぐしのかたに
P12078
かかりたりけるを、よにうつくしき御手をもて
前へ打越し給ひたりければ、守護の武士ども
見まいらせ【参らせ】て、「あないとをし。いまだ御心のまし
ますよ」とて、皆袖をぞぬらしける。其後
西にむかひ【向ひ】手を合て、静に念仏唱つつ、頸
をのべてぞ待たまふ【給ふ】。狩野工藤三親俊
切手にゑらば【選ば】れ、太刀をひ【引つ】そばめて、左のかた【方】
より御うしろに立まはり、既にきり奉らん
としけるが、目もくれ心も消はてて、いづくに
P12079
太刀を打つくべしともおぼえず。前後
不覚になりしかば、「つかまつ【仕つ】とも覚候はず。
他人に仰付られ候へ」とて、太刀を捨てのき
にけり。「さらばあれきれ、これきれ」とて、
切手をえらぶ処に、墨染の衣袴きて
月毛なる馬にの【乗つ】たる僧一人、鞭をあげて
ぞ馳たりける。あないとをし、あの松原の
中に、世にうつくしき若君を、北条殿のきら【斬ら】
せたまふぞや」とて、物共ひしひしとはしり
P12080
あつまりければ、此僧「あな心う」とて、手をあがい
てまねきけるが、猶おぼつかなさに、きたる
笠をぬぎ、指あげてぞまねきける。北条
「子細有」とて待処に、此僧馳ついて、いそぎ
馬より飛おり、しばらくいきを休て、「若公【若君】
ゆるさ【許さ】せ給ひて候。鎌倉殿の御教書是に
候」とてとり【取り】出して奉る。披て見たまへ【給へ】ば、
まことや小松三位中将維盛卿の子息尋出され
て候なる、高雄の聖御房申うけんと候。疑を
P12081
なさずあづけ奉るべし。北条四郎殿へ頼朝
とあそばして、御判あり【有り】。二三遍おしかへしおしかへし
よふ【読う】で後、「神妙々々」とて打をか【置か】れければ、
「斎藤五・斎藤六はいふにをよば【及ば】ず、北条の
家子郎等共も皆悦の涙をぞながし【流し】ける。
『泊瀬六代』S1208
○さる程に、文覚房もつと出きたり、若公【若君】こひ【乞ひ】
うけ【請け】たりとて、きそく【気色】誠にゆゆしげなり。
「「此若公【若君】の父三位中将殿は、初度の戦の大将也。
誰申とも【共】叶まじ」とのたまひ【宣ひ】つれば、「文覚が
P12082
心をやぶつては、争か冥加もおはすべき」など、
悪口申つれ共、猶「叶まじ」とて、那須野の
狩に下り給ひし間、剰文覚も狩場の供
して、やうやうに申てこひ【乞ひ】請たり。いかに、遅ふ
おぼしつらん」と申されければ、北条「廿日と
仰られ候し御約束の日かずも過候ぬ。鎌倉
殿の御ゆるされ【許され】なきよと存じて、具し
奉て下る程に、かしこうぞ。爰にてあやまち
仕候らむに」とて、鞍をい【置い】てひか【引か】せたる馬共に、
P12083
斎藤五・斎藤六をのせ【乗せ】てのぼらせらる。「我身
も遥にうち【打ち】送り奉て、しばらく御供申たふ
候へども【共】、鎌倉殿にさして申べき大事共候。
暇申て」とてうちわかれてぞ下られける。誠
に情ふかかりけり。聖若公【若君】を請とり奉て、
夜を日についで馳のぼるほど【程】に、尾張国
熱田の辺にて、今年も既に暮ぬ。明る
正月五日の夜に入て、都へのぼりつく。二条
猪熊なる所に文覚房の宿所あり【有り】ければ、
P12084
それに入奉て、しばらくやすめ奉り、夜半
ばかり大覚寺へぞおはしける。門をたたけ
共人なければ音もせず。築地のくづれより
若公【若君】のかひ【飼ひ】給ひけるしろい【白い】ゑのこ【犬子】のはしり【走り】
出て、尾をふてむかひ【向ひ】けるに、「母うへはいづく
にましますぞ」ととは【問は】れけるこそせめての
事なれ。斎藤六、築地をこえ、門をあけて
いれ【入れ】奉る。ちかふ【近う】人の住たる所とも見えず。
「いかにもしてかひなき命をいか【生か】ばやと思しも、
P12085
恋しき人々を今一度見ばやとおもふ【思ふ】ため也。
こはされば何となり給ひけるぞや」とて、夜
もすがら泣かなしみたまふ【給ふ】ぞまこと【誠】にこと
はり【理】と覚て哀なる。夜を待あかして近
里の者に尋給へば、「年のうちに大仏まいり【参り】
とこそうけ給【承り】候しか。正月の程は長谷寺に
御こもりと聞え候しが、其後は御宿所へ
人のかよふ【通ふ】とも見候はず」と申ければ、斎藤
五いそぎ長谷へ[M 「馳」をミセケチ「長谷へ」と傍書]まい【参つ】て尋あひ奉り、此由申ければ、
P12086
母うへ【上】・めのとの女房つやつやうつつともおぼえ
給はず、「是はされば夢かや。夢か」とぞの給ひ
ける。いそぎ大覚寺へ出させたまひ【給ひ】、若公【若君】を
御覧じてうれしさにも、ただ先立ものは
涙なり。「早々出家し給へ」と仰られけれ共、
聖おしみ【惜しみ】奉て出家もせさせ奉らず。やがて
むかへ【向へ】とて高雄に置奉り、北の方のかすか【幽】
なる御有様をもとぶらひ【訪ひ】けるとこそ
聞えし。観音の大慈大悲は、つみ【罪】あるもつみ
P12087
なきをもたすけ【助け】給へば、昔もかかるためし【例】
おほし【多し】といへ共、ありがたかりし事共なり。
○さるほど【程】に、北条四郎六代御前具し奉て
下りけるに、鎌倉殿御使鏡の宿にて行
逢たり。「いかに」ととへば、「十郎蔵人殿、信太三郎
先生殿、九郎判官殿に同心のよしきこえ【聞え】候。
討奉れとの御気色で候」と申。北条「我身は
大事のめしうと【召人】具したれば」とて、甥の
北条平六時貞が送りに下りけるを、おいそ【老蘇】
P12088
の森より「とう【疾う】わとの【和殿】は帰て此人々おはし
所聞出して討てまいらせよ【参らせよ】」とてとどめ【留め】
らる。平六都に帰て尋る程に、十郎蔵人殿
の在所知たりといふ寺法師いできたり。彼
僧に尋れば、「我はくはしう【詳しう】はしら【知ら】ず。しり【知り】たり
といふ僧こそあれ」といひければ、おし【押し】よせ【寄せ】て
かの僧をからめとる。「是はなんのゆへ【故】にからむる
ぞ」。「十郎蔵人殿の在所し【知つ】たなればからむる也」。
「さらば「をしへよ【教へよ】」とこそいはめ。さう【左右】なうからむる
P12089
事はいかに。天王寺にとこそきけ【聞け】」。「さらば
じんじよ【尋所】せよ」とて、平六が聟の笠原の十郎
国久、殖原の九郎、桑原の次郎、服部の平六
をさきとして其勢卅余騎、天王寺へ発向す。
十郎蔵人の宿は二所あり【有り】。谷の学頭伶人兼
春、秦六秦七と云者のもとなり。ふた手に
つくて押よせたり。十郎蔵人は兼春がもと
におはし【在し】けるが、物具したるもの共の打入を見
て、うしろより落にけり。学頭がむすめ
P12090
二人あり【有り】。ともに蔵人のおもひもの【思者】なり。是等を
とらへて蔵人のゆくゑ【行方】を尋れば、姉は「妹に
とへ」といふ、妹は「姉にとへ」といふ。俄に落ぬる
事なれば、たれにもよもしらせ【知らせ】じなれ
共、具して京へぞのぼりける。蔵人は熊野
の方へ落けるが、只一人ついたりける侍、足
をやみければ、和泉国八木郷といふ所に逗留
してこそゐたりけれ。彼主の男、蔵人を見
し【知つ】てよ【夜】もすがら京へ馳のぼり、北条平六に
P12091
つげたりければ、「天王寺の手の者はいまだ
のぼらず。誰をかやるべき」とて、大源次宗春と
いふ郎等をよう【呼う】で、「汝が宮たてたりし山
僧はいまだあるか」。「さ候」。「さらばよべ」とてよばれ
ければ、件法師いできたり。「十郎蔵人の
おはします、討て鎌倉殿にまいらせ【参らせ】て御恩
蒙りたまへ【給へ】」。「さうけ給【承り】候ぬ。人をたび候へ」と
申。「やがて大源次くだれ、人もなきに」とて、舎
人雑色人数わづかに十四五人相そへてつかはす【遣す】。
P12092
常陸房正明といふものなり。和泉国に下つき、
彼家にはしり【走り】入てみれ【見れ】共なし。板じき
うちやぶ【破つ】てさがし、ぬりごめ【塗籠】のうちをみれ【見れ】
共なし。常陸房大路にたてみれ【見れ】ば、百姓
の妻とおぼしくて、おとなしき女のとをり【通り】
けるをとらへて、「此辺にあやしばうだる旅
人のとどま【留まつ】たる所やある。いはずはきて捨ん」
といへば、「唯今さがさ【探さ】れさぶらふつる家にこそ、
夜部までよに尋常なる旅人の二人とど
P12093
ま【留まつ】てさぶらひつるが、けさなどいで【出で】てさぶらふ【候ふ】
やらん。あれに見えさぶらふおほ屋【大屋】にこそ
いまはさぶらふ【候ふ】なれ」といひければ、常陸房
黒革威の腹巻の袖つけたるに、大だち【太刀】はい
て彼家に走入てみれ【見れ】ば、歳五十ばかり
なる男の、かち【褐】の直垂におり烏帽子【折烏帽子】き【着】て、
唐瓶子菓子などとりさばくり【捌くり】、銚子ども
もて酒すすめむとする処に、物具したる
法師のうち入を見て、かいふいてにげければ、
P12094
やがてつづいてを【追つ】かけたり。蔵人「あの僧。や、それは
あらぬぞ。行家はここにあり」との給へ【宣へ】ば、走
帰て見るに、白い小袖に大口ばかりきて、左
の手には金作の小太刀をもち、右の手には
野太刀のおほき【大き】なるをもた【持た】れたり。常
陸房「太刀なげさせ給へ」と申せば、蔵人大に
わらは【笑は】れけり。常陸房走よ【寄つ】てむずときる。
ちやうどあはせ【合はせ】ておどり【躍り】のく。又よ【寄つ】てきる。
ちやうどあはせ【合はせ】ておどり【躍り】のく。よりあひより
P12095
のき一時ばかりぞたたかふ【戦う】たる。蔵人うしろ
なるぬりごめの内へしざり【退り】いら【入ら】んとし給へば、
常陸房「まさなう候。ないら【入ら】せ給ひ候そ」と申
せば、「行家もさこそおもへ【思へ】」とて又おどり【躍り】出て
たたかふ【戦ふ】。常陸房太刀を捨てむずとくん【組ん】で
どうどふす【臥す】。うへ【上】になり下になり、ころびあふ
処に、大源次つといできたり。あまりにあは
て【慌て】てはいたる太刀をばぬかず、石をにぎて蔵
人のひたいをはたとう【打つ】て打わる。蔵人大に
P12096
わら【笑つ】て、「をのれ【己】は下臈なれば、太刀長刀でこそ
敵をばうて、つぶて【礫】にて敵うつ様やある」。
常陸房「足をゆへ」とぞ下知しける。常陸
房は敵が足をゆへとこそ申けるに、余に
あはて【慌て】て四の足をぞゆう【結う】たりける。其後蔵
人の頸に縄をかけてからめ、ひき【引き】おこし【起し】て
おしすへ【据ゑ】たり。「水まいらせよ【参らせよ】」とのたまへ【宣へ】ば、
ほしい【干飯】をあらふ【洗う】てまいらせ【参らせ】たり。水をばめし【召し】
て糒をばめさず。さしをき給へば、常陸房
P12097
とてくうてげり。「わ僧は山法師か」。「山法師
で候」。「誰といふぞ」。「西塔の北谷法師常陸房正
明と申者で候」。「さては行家につかは【使は】れんといひし
僧か」。「さ候」。「頼朝が使か、平六が使か」。「鎌倉殿の御
使候。誠に鎌倉殿をば討まいらせ【参らせ】んとおぼし
めし【思し召し】候しか」。「是程の身になて後おもは【思は】ざりし
といはばいかに。おもひ【思ひ】しといはばいかに。手なみ
の程はいかがおもひ【思ひ】つる」との給へ【宣へ】ば、「山上にて
おほく【多く】の事にあふ【逢う】て候に、いまだ是ほど
P12098
手ごはき事にあひ候はず。よき敵三人に
逢たる心地こそし候つれ」と申。「さて正明を
ばいかが思めされ候つる」と申せば、「それは
とられなんうへ【上】は」とぞのたまひ【宣ひ】ける。「その
太刀とりよせよ」とて見給へば、蔵人の太刀
は一所もきれず、常陸房が太刀は四十二
所きれたりけり。やがて伝馬たてさせ、のせ【乗せ】
奉てのぼる程に、其夜は江口の長者がもと
にとどま【留まつ】て、夜もすがら使をはしらかす【走らかす】。
P12099
明る日の午剋ばかり、北条平六其勢百騎
ばかり旗ささせて下る程に、淀のあか井
河原【赤井河原】でゆき逢たり。「都へはいれ【入れ】奉るべから
ずといふ院宣で候。鎌倉殿の御気色も
其儀でこそ候へ。はやはや御頸を給はて、
鎌倉殿の見参にいれ【入れ】て御恩蒙給へ」といへば、
さらばとてあかゐ河原【赤井河原】で十郎蔵人の
頸をきる。信太三郎先生義教【*義憲】は醍醐の
山にこもりたるよしきこえ【聞え】しかば、おし
P12100
よせてさがせ共なし。伊賀の方へ落ぬ
と聞えしかば、服部平六先として、伊賀
国へ発向す。千度の山寺にありと聞えし
間、おしよせてからめんとするに、あはせ【合はせ】の小袖
に大口ばかりきて、金にてうちくくんだる
腰の刀にて腹かききつてぞふしたりける。
頸をば服部平六とてげり。やがてもたせ
て京へのぼり、北条平六に見せたりければ、
「軈而もたせて下り、鎌倉殿の見参に入て、
P12101
御恩蒙たまへ【給へ】」といひければ、常陸房・服部平
六、おのおの頸共もたせてかまくら【鎌倉】へくだり【下り】、
見参にいれ【入れ】たりければ、「神妙なり」とて、常
陸房は笠井へながさる。「下りはてば勧賞
蒙らんとこそおもひ【思ひ】つるに、さこそなからめ、
剰流罪に処せらるる条存外の次第也。
かかるべしとしり【知り】たりせば、なにしか身命
を捨けむ」と後悔すれ共かひぞなき。され共
中二年といふにめし【召し】かへさ【返さ】れ、「大将軍討たる
P12102
ものは冥加のなければ一旦いましめつるぞ」
とて、但馬国に多田庄、摂津国に葉室二
ケ所給はて帰上る。服部平六平家の祗候
人たりしかば、没官せられたりける服部
『六代被斬』S1209
返し給はてげり。○さる程に、六代御前はやう
やう十四五にもなり給へば、みめ【眉目】かたちいよ
いようつくしく、あたりもてりかかやく【輝く】ばかり
なり。母うへ是を御覧じて、「あはれ世の世
にてあらましかば、当時は近衛司にてあらん
P12103
ずるものを」とのたまひ【宣ひ】けるこそ[* 「こぞ」と有るのを他本により訂正]あまり[B ノ]事
なれ。鎌倉殿常はおぼつかなげにおぼして、
高雄の聖のもとへ便宜ごとに、「さても維盛
卿の子息は何と候やらむ。昔頼朝を相し
給ひしやうに、朝の怨敵をもほろぼし、会
稽の恥をも雪むべき仁[M 「もの」をミセケチ「仁」と傍書]にて候か」と尋ね
申されければ、聖の御返事には、「是は底も
なき不覚仁にて候ぞ。御心やすうおぼしめし【思し召し】
候へ」と申されけれ共、鎌倉殿猶も御心ゆかず
P12104
げにて、「謀反おこさばやがてかたうど【方人】せふ
ずる聖の御房也。但頼朝一期の程は誰か
傾べき。子孫のすゑぞしら【知ら】ぬ」との給ひ
けるこそおそろしけれ【恐ろしけれ】。母うへ是をきき
たまひ【給ひ】て、「いかにも叶まじ。はやはや出家し
給へ」と仰ければ、六代御前十六と申し文治
五年の春の比、うつくしげなる髪をかた【肩】の
まはりにはさみ【鋏み】おろし、かきの衣、袴に笈
などこしらへ、聖にいとまこう【乞う】て修行にいで
P12105
られけり。斎藤五・斎藤六もおなじさまに
出立て、御供申けり。まづ高野へまいり【参り】、父の
善知識したりける滝口入道に尋あひ、御
出家の次第、臨終のあり様くはしう【詳しう】きき給ひ
て、「かつうはその御跡もゆかし」とて、熊野へ
参たまひ【給ひ】けり。浜の宮の御前にて父の
わたり給ひける山なり【山成】の島を見渡して、
渡らまほしくおぼしけれ共、浪風むかふ【向う】て
かなは【叶は】ねば、力をよば【及ば】でながめやり給ふにも、
P12106
「我父はいづくに沈給ひけん」と、沖よりよする【寄する】しら浪【白波】にもとは【問は】まほしくぞおもは【思は】れける。汀
の砂も父の御骨やらんとなつかしう【懐しう】おぼし
ければ、涙に袖はしほれ【萎れ】つつ、塩くむあま
の衣ならね共、かはく【乾く】まなくぞ見え給ふ。
渚に一夜とうりう【逗留】して、念仏申経よみ、
ゆび【指】のさきにて砂に仏のかたちをかき【書き】
あらはして、あけ【明け】ければ貴き僧を請じて、
父の御ためと供養じて、作善の功徳さな
P12107
がら聖霊に廻向して、亡者にいとま申つつ、
泣々都へ上られけり。小松殿の御子丹後侍従
忠房は、八島のいくさ【軍】より落てゆくゑ【行方】もしら【知ら】
ずおはせしが、紀伊国の住人湯浅権守宗重
をたのん【頼ん】で、湯浅の城にぞこもられける。是
をきい【聞い】て平家に心ざしおもひ【思ひ】ける越中次
郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛弾【*飛騨】四郎兵衛
以下の兵共、つき奉るよし聞えしかば、伊賀
伊勢両国の住人等、われもわれもと馳集る。究竟
P12108
の者共数百騎たてごもたるよし聞えし
かば、熊野別当、鎌倉殿より仰を蒙て、両三
月が間八ケ度よせて攻戦。城の内の兵ども、
命をおしま【惜しま】ずふせき【防き】[* 「ふせぎ」と有るのを他本により訂正]ければ、毎度にみかた【御方】
をひ【追ひ】ちらさ【散らさ】れ、熊野法師数をつくひ【尽くい】てうた
れにけり。熊野別当、鎌倉殿へ飛脚を奉
て、「当国湯浅の合戦の事、両三月が間に八ケ
度よせて攻戦。され共城の内の兵ども命を
おしま【惜しま】ずふせく【防く】[* 「ふせぐ」と有るのを他本により訂正]間、毎度に御方をひおとさ【落さ】れて、
P12109
敵を寃に及ず。近国二三ケ国をも給はて攻
おとす【落す】べき」よし申たりければ、鎌倉殿「其条、
国の費人の煩なるべし。たてごもる所の凶
徒は定て海山の盗人にてぞあるらん。山賊
海賊きびしう守護して城の口をかためて
まぼるべし」とぞの給ひける。其定にした
りければ、げにも後には人一人もなかりけり。
鎌倉殿はかりこと【策】に、「小松殿の君達の、一人
も二人もいきのこり給ひたらんをば、たすけ【助け】
P12110
奉るべし。其故は、池の禅尼の便[B 使]として、頼朝
を流罪に申なだめ【宥め】られしは、ひとへにかの【彼の】
内府の芳恩なり」との給ひければ、丹後侍従
六波羅へ出てなのら【名乗ら】れけり。やがて関東へ
下し奉る。鎌倉殿対面して「都へ御上候へ。
かたほとりにおもひ【思ひ】あて【当て】まいらする【参らする】事候」
とて、すかし上せ奉り、おさま【追つ様】に人をのぼせ【上せ】
て勢田の橋の辺にて切てげり。小松殿の
君達六人の外に、土佐守宗実とておはし
P12111
けり。三歳より大炊御門の左大臣経宗卿の
養子にして、異姓他人になり、武芸の道
をばうち捨て、文筆をのみたしなで、今
年は十八になり給ふを、鎌倉殿より尋は
なかりけれ共世に憚てをひ出されたりけれ
ば、先途をうしなひ【失ひ】、大仏の聖俊乗房
のもとにおはして、「我は是小松の内府の末
の子に、土佐守宗実と申者にて候。三歳
より大炊御門左大臣経宗公養子にして、異
P12112
姓他人になり、武芸のみちをうち【打ち】捨て、文
筆をのみたしなんで、生年十八歳に罷成。
かまくら【鎌倉】殿より尋らるる事は候はねども【共】、
世におそれ【恐れ】てをひ出されて候。聖の御房
御弟子にせさせ給へ」とて、もとどり【髻】おしきり
給ひぬ。「それもなを【猶】おそろしう【恐ろしう】おぼし
めさ【思し召さ】ば、かまくら【鎌倉】へ申て、げにもつみ【罪】ふかかる
べくはいづくへもつかはせ【遣せ】」とのたまひ【宣ひ】
ければ、聖いとおしくおもひ【思ひ】奉て、出家せさせ
P12113
奉り、東大寺の油倉といふ所にしばらく
をき奉て、関東へ此よし申されけり。「なに
さま【何様】にも見参してこそともかうもはからは
め。まづ下し奉れ」との給ひければ、聖力をよ
ば【及ば】で関東へ下し奉る。此人奈良を立給ひし
日よりして、飲食の名字をたて、湯水を
ものどへいれ【入れ】ず。足柄こえて関本と云所
にてつゐに【遂に】うせ給ひぬ。「いかにも叶まじき
道なれば」とておもひ【思ひ】きら【切ら】れけるこそおそろし
P12114
けれ【恐ろしけれ】。[B 「けれ」に「是ヨリ跡ナシ」と傍書]さる程に、建久元年十一月七日鎌倉殿
上洛して、同九日、正弐位大納言になり給ふ。
同十一日、大納言右大将を兼じ給へり。やがて
両職を辞て、十二月四日関東へ下向。建久
三年O[BH 三月]十三日、法皇崩御なりにけり。御歳
六十六、偸伽【*瑜伽】振鈴の響[B 「闇」に「響歟」と傍書]は其夜をかぎり、一乗
案誦の御声は其暁におはりぬ。同六年三
月十三日、大仏供養あるべしとて、二月中に
鎌倉殿又御上洛あり【有り】。同十二日、大仏殿へまいら【参ら】
P12115
せ給ひたりけるが、梶原を召て、「てがい【碾磑】の門
の南のかたに大衆なん十人をへだてて、あや
しばうだるものの見えつる。めし【召し】とてまいら
せよ【参らせよ】」との給ひければ、梶原承はてやがて
具してまいり【参り】たり。ひげをばそてもと
どり【髻】をばきらぬ男也。「何者ぞ」ととひ給へば、
「是程運命尽はて候ぬるうへ【上】は、とかう申に
及ばず。是は平家の侍薩摩中務家資と
申ものにて候」。「それは何とおもひ【思ひ】てかくは
P12116
なりたるぞ」。「もしやとねらひ申候つるなり」。
「心ざしの程はゆゆしかり」とて、供養はて【果て】て
都へいら【入ら】せ給ひて、六条河原にてきら【斬ら】れに
けり。平家の子孫は去文治元年の冬の比、
ひとつ【一つ】子ふたつ【二つ】子をのこさず、腹の内をあけ
て見ずといふばかりに尋とて失てき。今
は一人もあらじとおもひ【思ひ】しに、新中納言
の末の子に、伊賀大夫知忠とておはしき。
平家都を落しとき、三歳にてすて【捨て】をか【置か】れ
P12117
たりしを、めのとの紀伊次郎兵衛為教やし
なひ【養ひ】奉て、ここかしこにかくれありき【歩き】けるが、
備後国太田といふ所にしのび【忍び】つつゐたりけり。
やうやう成人し給へば、郡郷の地頭守護
あやしみける程に、都へのぼり法性寺の
一の橋なる所にしのん【忍ん】でおはしけり。爰は
祖父入道相国「自然の事のあらん時城郭にも
せん」とて堀をふたへ【二重】にほて、四方に竹を
うへ【植ゑ】られたり。さかも木【逆茂木】ひいて、昼は人音もせず、
P12118
よるになれば尋常なるともがらおほく【多く】
集て、詩作り歌よみ、管絃などして遊
ける程に、なに【何】としてかもれ【漏れ】聞えたりけん。
その比人のおぢをそれ【恐れ】けるは、一条の二位入道
義泰【*能保】といふ人なり。その侍に後藤兵衛基清
が子に、新兵衛基綱「一の橋に違勅の者
あり」と聞出して、建久七年十月七日の辰
の一点に、其勢百四五十騎、一の橋へはせ【馳せ】むかひ【向ひ】、
おめき【喚き】さけん【叫ん】で攻戦。城の内にも卅余人
P12119
あり【有り】ける者共、大肩ぬぎ【大肩脱ぎ】に肩ぬいで、竹の陰[M 「影」をミセケチ「陰」と傍書]
よりさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】散々にいれ【射れ】ば、馬
人おほく【多く】射ころさ【殺さ】れて、おもてをむかふ【向ふ】べき
様もなし。さる程に、一の橋に違勅のもの【者】
ありとききつたへ、在京の武士どもわれも
われもと馳つどふ【集ふ】。程なく一二千騎になりし
かば、近辺の小いゑをこぼちよせ、堀をうめ、
おめき【喚き】さけん【叫ん】で攻入けり。城のうちの兵ども【共】、
うち物【打物】ぬいて走出て、或討死にするものも
P12120
あり、或いたで【痛手】おふ【負う】て自害するもの【者】もあり【有り】。
伊賀大夫知忠は生年十六歳になられけるが、
いた手【痛手】負て自害し給ひたるを、めのとの
紀伊次郎兵衛入道ひざの上にかきのせ【乗せ】、涙を
はらはらとながい【流い】て高声に十念となへつつ、
腹かき切てぞ死にける。其子の兵衛太郎・
兵衛次郎ともに討死してんげり。城の内
に卅余人あり【有り】ける者共、大略討死自害
して、館には火をかけたりけるを、武士ども
P12121
馳入て手々に討ける頸共とて、太刀長刀
のさきにつらぬき、弐位入道殿へ馳まいる【参る】。
一条の大路へ車やり出して、頸共実検せら
る。紀伊次郎兵衛入道の頸は見したるものも
少々有けり。伊賀大夫の頸、人争か見知り奉
べき。此人の母うへは治部卿局とて、八条の
女院に候はれけるを、むかへよせ奉て見せ奉り
たまふ【給ふ】。「三歳と申し時、故中納言にぐせ【具せ】ら
れて西国へ下し後は、いき【生き】たり共死たり共、
P12122
そのゆくゑ【行方】をしら【知ら】ず。但故中納言の思いづる【出づる】
ところどころ【所々】のあるは、さにこそ」とてなか【泣か】れける
にこそ、伊賀大夫の頸共人し【知つ】てげれ。平家の
侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】は但馬国へ落行て気
比の四郎道弘が聟になてぞゐたりける。
道弘、越中次郎兵衛とはしら【知ら】ざりけり。され共
錐袋にたまらぬ風情にて、よるになれば
しうと【舅】が馬ひき【引き】いだい【出い】てはせ【馳せ】ひき【引き】したり、
海の底十四五町、廿町くぐりなどしければ、
P12123
地頭守護あやしみける程に、何としてか
もれ聞えたりけん、鎌倉殿御教書を下
されけり。「但馬国住人朝倉太郎大夫高清、平
家の侍越中次郎兵衛盛次【*盛嗣】、当国に居住の由
きこしめす【聞し召す】。めし【召し】進せよ」と仰下さる。気比の
四郎は朝倉の大夫が聟なりければ、よびよせ
て、いかがしてからめむずると儀するに、「湯
屋にてからむべし」とて、湯にいれ【入れ】て、した
たかなるもの五六人おろしあはせ【合はせ】てからめん
P12124
とするに、とりつけばなげたをさ【倒さ】れ、おき【起き】
あがれ【上れ】ばけたをさ【倒さ】る。互に身はぬれたり、取
もためず。され共衆力に強力かなは【叶は】ぬ事
なれば、二三十人ばとよ【寄つ】て、太刀のみね長刀の
ゑ【柄】にてうちなやしてからめとり、やがて関
東へまいらせ【参らせ】たりければ、御まへにひ【引つ】すへ【据ゑ】
させて、事の子細をめし【召し】とは【問は】る。「いかに汝は
同平家の侍といひながら、故親[* 「親」の左にの振り仮名]にてあんなる
に、しな【死な】ざりけるぞ」。「それはあまりに平家
P12125
のもろくほろびてましまし候間、もしやと
ねらひまいらせ【参らせ】候つるなり。太刀のみ【身】のよき
をも、征矢の尻のかねよきをも、鎌倉殿の
御ためとこそこしらへもて候つれども【共】、
是程に運命つきはて候ぬるうへ【上】は、と
かう申にをよび【及び】候はず」。「心ざしの程はゆゆし
かりけり。頼朝をたのま【頼ま】ばたすけ【助け】て
つかは【使は】んは、いかに」。「勇士二主に仕へず、盛次【*盛嗣】程の
者に御心ゆるしし給ひては、かならず【必ず】御後悔
P12126
候べし。ただ御恩にはとくとく頸をめされ
候へ」と申ければ、「さらばきれ【斬れ】」とて、由井の浜
にひき【引き】いだい【出い】て、きてげり。ほめぬものこそ
なかりけれ。其比の主上は御遊をむねとせさ
せ給ひて、政道は一向卿の局のままなりけれ
ば、人の愁なげきもやまず。呉王剣角【剣客】を
このんじかば天下に疵を蒙るものたえ【絶え】ず。
楚王細腰を愛しかば、宮中に飢て死する
をんなおほかり【多かり】き。上の好に下は随ふ間、世の
P12127
あやうき【危ふき】事をかなしんで、心ある人々は歎
あへ【合へ】り。ここに文覚もとよりおそろしき【恐ろしき】
聖にて、いろふ【綺ふ】まじき事にいろい【綺ひ】けり。二の
宮は御学問おこたらせ給はず、正理を先
とせさせ給ひしかば、いかにもして此宮を
位に即奉らんとはからひけれ共、前右大将
頼朝卿のおはせし程はかなは【叶は】ざりけるが、
建久十年正月十三日、頼朝卿うせ給ひしかば、
やがて謀反をおこさんとしける程に、忽に
P12128
もれ【漏れ】きこえ【聞え】て、二条猪熊の宿所に官人共
つけられ、めし【召し】とて八十にあまて後、隠岐国
へぞながされける。文覚京を出るとて、「是
程老の波に望で、けふあすともしらぬ
身をたとひ勅勘なりとも、都のかたほとり
にはをき給はで、隠岐国までながさるる及
丁【*毬杖】冠者こそやすからね。つゐに【遂に】は文覚がなが
さるる国へむかへ【向へ】申さむずる物を」と申ける
こそおそろしけれ【恐ろしけれ】。このきみはあまりに及丁【*毬杖】
P12129
の玉をあひせ【愛せ】させ給へば、文覚かやうに悪口
申ける也。されば、承久に御謀反おこさせ給
ひて、国こそおほけれ【多けれ】、隠岐国へうつされ給ひ
けるこそふしぎなれ。彼国にも文覚が亡
霊あれ【荒れ】て、つねは御物語申けるとぞ聞
えし。さる程に六代御前は三位禅師とて、
高雄におこなひすまし【澄まし】ておはしけるを、
「さる人の子なり、さる人の弟子なり。かしら【頭】
をばそたりとも、心をばよもそらじ」とて、
P12130
鎌倉殿より頻に申されければ、安判官資
兼に仰て召捕て関東へぞ下されける。駿河
国住人岡辺権守泰綱に仰て、田越川にて切ら
れてげり。十二の歳より卅にあまるまで
たもち【保ち】けるは、ひとへに長谷の観音の御利
生とぞ聞えし。それよりしてこそ平家
の子孫はながくたえ【絶え】にけれ。

平家物語巻第十二
P12131

応安三年十一月廿九日仏子有阿書

平家物語 高野本 灌頂巻
P12132

P12133
平家灌頂巻
『女院出家』S1301
○建礼門院は、東山の麓、吉田の辺なる所にぞ
立いらせ給ひける。中納言[B ノ]法印慶恵と申
ける奈良法師の坊なりけり。住あらし
て年久しうなりにければ、庭には草ふかく、
簷にはしのぶ【忍】茂れり。簾たえ【絶え】閨あらはにて、
雨風たまるべうもなし。花は色々にほへ
ども、あるじとたのむ【頼む】人もなく、月はよな
よな【夜な夜な】さしいれ【入れ】ど、詠てあかすぬし【主】もなし。
P12134
昔は玉の台をみがき、錦の帳にまとはれ
て、あかし暮し給ひしに、いまはありとし
ある人にはみな別はてて、あさましげなる
くち坊【朽ち坊】にいらせ給ひける御心のうち【内】、おしはか
ら【推し量ら】れて哀なり。魚のくが【陸】にあがれ【上がれ】るが如く、
鳥の巣をはなれたるがごとし。さるままに
は、うかり【憂かり】し浪の上、船の中の御すまゐ【住ひ】も、今は
恋しうぞおぼしめす【思し召す】。蒼波路遠し、思を
西海千里の雲によせ、白屋苔ふかくして、
P12135
涙東山一庭の月におつ。かなしとも云はかり
なし。かくて女院は文治元年五月一日、御ぐし
おろさせ給けり。御戒の師には長楽寺の阿
証房の上人印誓とぞきこえ【聞え】し。御布
施には、先帝の御直衣なり。今はの時まで
めされたりければ、その御うつり香【移り香】も未
うせ【失せ】ず。御かたみに御覧ぜんとて、西国よりはる
ばると都までもたせ給ひたりければ、いか
ならん世までも御身をはなたじとこそおぼし
P12136
めさ【思し召さ】れけれども、御布施になりぬべき物の
なきうへ【上】、かつうは彼御菩提のためとて、
泣々とりいださせ給ひけり。上人これ【是】を
給はて、何と奏するむねもなくして、
墨染の袖をしぼりつつ、泣々罷出られけり。
此御衣をば幡にぬふ【縫う】て、長楽寺の仏前に
かけられけるとぞ聞えし。女院は十五にて
女御の宣旨をくださ【下さ】れ、十六にて后妃の位
に備り、君王の傍に候はせ給ひて、朝には
P12137
朝政をすすめ、よるは夜を専にしたまへ【給へ】り。
廿二にて皇子御誕生、皇太子にたち、位に
つかせ給ひしかば、院号蒙らせ給ひて、建
礼門院とぞ申ける。入道相国の御娘なる
うへ【上】、天下の国母にてましましければ、世のおも
う【重う】し奉る事なのめならず。今年は廿九にぞ
ならせたまふ【給ふ】。桃李の御粧猶こまやかに、
芙蓉の御かたちいまだ衰させ給はねども【共】、
翡翠の御かざし【挿頭】つけても何にかはせさせ
P12138
たまふ【給ふ】べきなれば、遂に御さまをかへさせ給ふ。
浮世をいとひ、まこと【誠】の道にいらせたまへ【給へ】共、
御歎はさら【更】につきせ【尽きせ】ず。人々いまはかくとて
海にしづみし有様、先帝・二位殿の御面影、
いかならん世までも忘がたくおぼしめすに、
露の御命なにしに今までながらへ【永らへ】て、かかる
うき目を見るらんとおぼしめしつづけて、御涙
せきあへさせ給はず。五月の短夜なれ共、あかし
かねさせ給ひつつ、をのづからうちまどろませ
P12139
給はねば、昔のこと【事】は夢にだにも御覧ぜず。
壁にそむける残の灯のかげ【影】かすか【幽】に、
夜もすがら窓うつくらき雨の音ぞさびし
かりける。上陽人が上陽宮に閉られけん悲み
も、是には過じとぞ見えし。昔をしのぶ【忍ぶ】
つまとなれとてや、もとのあるじの
うつし【移し】うへ【植ゑ】たりけんはな橘【花橘】の、簷近く
風なつかしう【懐しう】かほりけるに、山郭公二こゑ【声】
三こゑ【声】をとづれければ、女院ふるき事
P12140
なれ共おぼしめし【思し召し】出て、御硯のふたにかう
ぞあそばさ【遊ばさ】れける。ほととぎす【郭公】花たちばな【花橘】
の香をとめてなくはむかしのひと【人】や
恋しき W093女房達さのみたけく、二位殿・越前
の三位のうへ【上】のやうに、水の底にも沈み給
はねば、武[B 士]のあらけなき【荒けなき】にとらはれて、旧
里にかへり、わかき【若き】も老たるもさまを
かへ、かたちをやつし、あるにもあられぬあり
さま【有様】にてぞ、おもひ【思ひ】もかけぬ谷の底、岩の
P12141
はざまにあかし暮し給ひける。すまゐ【住ひ】し
宿は皆煙とのぼりにしかば、むなしき【空しき】
跡のみのこり【残り】て、しげき野べとなりつつ、
見なれ【馴れ】し人のとひくるもなし。仙家
より帰て七世の孫にあひけんも、かくや
とおぼえてあはれ【哀】なり。さるほど【程】に、七月九日
の大地震に築地もくづれ、荒たる御所
もかたぶきやぶれて、いとどすませたまふ【給ふ】
べき御たよりもなし。緑衣の監使宮門を
P12142
まぼるだにもなし。心のままに荒たる籬
は、しげき野辺よりも露けく、おりしり
がほ【折知顔】にいつしか虫のこゑごゑ【声々】うらむる【恨むる】も、
哀也。夜もやうやうながくなれば、いとど御
ね覚がちにて明しかねさせたまひ【給ひ】けり。
つきせ【尽きせ】ぬ御物おもひ【物思ひ】に、秋のあはれ【哀】さへうち
そひて、しのび【忍び】がたくぞおぼしめさ【思し召さ】れける。
何事もかはりはてぬるうき世【浮世】なれば、をの
づからなさけをかけ奉るべき草のゆかりも
P12143
かれはてて、誰はぐくみ奉るべしとも
『大原入』S1302
見え給はず。○されども冷泉大納言隆房卿・
七条[B ノ]修理[B ノ]大夫信隆卿の北方、しのび【忍び】つつやう
やうにとぶらひ【訪ひ】申させ給ひけり。「あの人々共
のはぐくみにてあるべしとこそ昔はおも
は【思は】ざりしか」とて、女院御涙をながさせ給へば、
つきまいらせ【参らせ】たる女房たち【達】もみな袖をぞ
しぼられける。此御すまゐ【住ひ】も都猶ちかく【近く】
て、玉ぼこの【玉鉾の】道ゆき人のひと目【人目】もしげくて、
P12144
露の御命風を待ん程は、うき【憂き】事きかぬ
ふかき山の奥のおくへも入なばやとは
おぼしけれども、さるべきたよりもまし
まさず。ある女房のまい【参つ】て申けるは、「大原山
のおく、寂光院と申所こそ閑にさぶらへ【候へ】」
と申ければ、「山里は物のさびしき事こそ
あるなれども、世のうきよりはすみよかん
なるものを」とて、おぼしめし【思し召し】たたせ給ひけり。
御輿などは隆房卿の北方の御沙汰有けると
P12145
かや。文治元年長月の末に、彼寂光院へ
いらせたまふ【給ふ】。道すがら四方の梢の色々
なるを御覧じすぎさせたまふ【給ふ】程に、やま
かげ【山陰】なればにや、日も既にくれかかりぬ。野
寺の鐘の入あひの音すごく【凄く】、わくる草
葉の露しげみ、いとど御袖ぬれまさり、嵐
はげしく木の葉みだりがはし。空かき曇、
いつしかうちしぐれつつ、鹿の音かすか【幽】に
音信て、虫の恨もたえだえ【絶え絶え】なり。とに角に
P12146
とりあつめ【集め】たる御心ぼそさ、たとへやるべき
かたもなし。浦づたひ【浦伝ひ】島づたひ【島伝ひ】せし時も、
さすがかくはなかりし物をと、おぼしめす【思し召す】
こそかなしけれ。岩に苔[B ノ]むしてさびたる
所なりければ、すま【住ま】まほしうぞおぼしめす【思し召す】。
露結ぶ庭の萩原霜がれて、籬の菊の
かれがれ【枯れ枯れ】にうつろふ色を御覧じても、御身
の上とやおぼしけん。仏の御前にまいら【参ら】せ
給ひて、「天子聖霊[B 「座霊」とあり「座」に「聖」と傍書]成等正覚、頓証菩提」といのり
P12147
申させ給ふにつけても、先帝の御面影
ひしと御身にそひて、いかならん世にか思召
わすれさせたまふ【給ふ】べき。さて寂光院のかた
はらに方丈なる御庵室をむすんで、一間
をば御寝所にしつらひ、一間をば仏所に
定、昼夜朝夕の御つとめ、長時不断の
御念仏、おこたる事なくて月日を送ら
せたまひ【給ひ】けり。かくて神無月中の五日
の暮がたに、庭に散しく楢の葉をふみ
P12148
ならし【鳴らし】てきこえ【聞え】ければ、女院「世をいとふ所
になにもの【何者】のとひくるやらん。あれ見よや、
忍ぶべきものならばいそぎしのば【忍ば】ん」とて、
みせ【見せ】らるるに、をしか【牡鹿】のとをる【通る】にてぞ有
ける。女院いかにと御尋あれば、大納言[B ノ]佐殿
なみだをおさへ【抑へ】て、
岩根ふみたれかはとは【問は】んならの葉の
そよぐはしかのわたるなりけり W094
女院哀におぼしめし【思し召し】、窓の小障子にこの【此の】
P12149
歌をあそばし【遊ばし】とどめ【留め】させたまひ【給ひ】けり。
かかる御つれづれのなかにおぼしめし【思し召し】なぞ
らふる事共は、つらき中にもあまたあり【有り】。
軒にならべるうへ木【植木】をば、七重宝樹とかた
どれり。岩間につもる水をば、八功徳水と
おぼしめす【思し召す】。無常は春の花、風に随て
散やすく、有涯は秋の月、雲に伴て隠れ
やすし。承陽殿に花を翫し朝には、風
来て匂を散し、長秋宮に月を詠ぜし
P12150
ゆふべには、雲おほ【覆つ】て光をかくす。昔は
玉楼[* 「玉桜」と有るのを他本により訂正]金殿に錦の褥をしき、たへ【妙】なりし
御すまゐ【住ひ】なりしかども【共】、今は柴引むすぶ
草の庵、よそのたもともしほれ【萎れ】けり。
『大原御幸』S1303
○かかりし程に、文治二年の春の比、法皇、
建礼門院大原の閑居の御すまゐ【住ひ】、御覧
ぜまほしうおぼしめさ【思し召さ】れけれ共、きさらぎ【二月】
やよひ【弥生】の程は風はげしく、余寒もいまだ
つきせ【尽きせ】ず。峯の白雪消えやらで、谷のつららも
P12151
うちとけず。春過夏きたて北まつり【北祭り】
も過しかば、法皇夜をこめて大原の
奥へぞ御幸なる。しのびの御幸なり
けれ共、供奉の人々、徳大寺・花山[B ノ]院・土御門
以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候けり。
鞍馬どをり【鞍馬通り】の御幸なれば、彼清原の深
養父が補堕落寺【*補陀落寺】、小野の皇太后宮の旧
跡を叡覧あて、それより御輿にめされ
けり。遠山にかかる白雲は、散にし花の
P12152
かたみなり。青葉にみゆる【見ゆる】梢には、春の
名残ぞおしま【惜しま】るる。比は卯月廿日余の
事なれば、夏草のしげみが末を分いらせ
給ふに、はじめたる御幸なれば、御覧じ
なれたるかたもなし。人跡たえ【絶え】たる程
もおぼしめし【思し召し】しられて哀なり。西の山
のふもとに一宇の御堂あり【有り】。即寂光
院是也。ふるう作りなせる前水木立、
よしあるさまの所なり。「甍やぶれては、
P12153
霧不断の香をたき、枢おち【落ち】ては月常
住の灯をかかぐ」とも、かやうの所をや
申べき。庭の若草しげりあひ、青柳
糸をみだりつつ、池の蘋浪にただよひ、
錦をさらすかとあやまたる。中島の
松にかかれる藤なみの、うら紫にさける
色、青葉まじりの遅桜、初花よりも
めづらしく、岸のやまぶき咲みだれ、八重
たつ雲のたえま【絶え間】より、山郭公の一声も、
P12154
君の御幸をまちがほなり。法皇是を
叡覧あて、かうぞおぼしめし【思し召し】つづけける。
池水にみぎはのさくら散しきて
なみの花こそさかりなりけれ W095
ふりにける岩のたえ間より、おち【落ち】くる
水の音さへ、ゆへび【故び】よしある所也。緑蘿
の牆、翠黛の山、画にかくとも筆も
をよび【及び】がたし。女院の御庵室を御らん
ずれ【御覧ずれ】ば、軒には蔦槿はひ【這ひ】かかり【掛かり】、信夫まじ
P12155
りの忘草、瓢箪しばしばむなし、草
顔淵が巷にしげし。藜でうふかく
させり、雨原憲が枢をうるほすとも
い【言つ】つべし。杉の葺目もまばらにて、時雨
も霜もをく【置く】露も、もる月影にあら
そひて、たまるべしとも見えざりけり。
うしろは山、前は野辺、いざさをざさ【小笹】に風
さはぎ【騒ぎ】、世にたたぬ身のならひ【習ひ】とて、うき
ふししげき竹柱、都の方のことづては、
P12156
まどを【間遠】にゆへ【結へ】るませがき【籬垣】や、わづかに事
とふ物とては、峯に木づたふ【木伝ふ】猿のこゑ【声】、
しづ【賎】がつま木のをの【斧】の音、これらが音信
ならでは、正木のかづら青つづら、くる
人まれなる所也。法皇「人やある、人やある」
とめさ【召さ】れけれ共、おいらへ【御答】申ものもなし。はるか
にあて、老衰たる尼一人まいり【参り】たり。「女院は
いづくへ御幸なりぬるぞ」と仰ければ、「この【此の】
うへ【上】の山へ花つみにいらせ給ひてさぶらふ【候ふ】」と
P12157
申。「さやうの事につかへ奉るべき人もなき
にや。さこそ世を捨る御身といひながら、
御いたはしうこそ」と仰ければ、此尼申けるは、
「五戒十善の御果報[* 「御」の左にの振り仮名]つきさせたまふ【給ふ】によて、
今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ【候へ】。
捨身の行になじかは御身をおしま【惜しま】せ
給ふべき。因果経には「欲知過去因、見其現在
果、欲知未来果、見其現在因」ととかれたり。過去
未来の因果をさとらせ給ひなば、つやつや
P12158
御歎あるべからず。悉達太子は十九にて伽耶
城をいで、檀徳山【*檀特山】のふもと【麓】にて、木葉を
つらねてはだへ【膚】をかくし、嶺にのぼりて
薪をとり、谷にくだり【下り】て水をむすび、
難行苦行の功によて、遂に成等正覚し
給ひき」とぞ申ける。此尼のあり様を御
覧ずれば、きぬ布のわきも見えぬ物を
むすび【結び】あつめ【集め】てぞき【着】たりける。「あの有様
にてもかやうの事申す不思議さよ」と
P12159
おぼしめし【思し召し】、「抑汝はいかなるものぞ」と仰
ければ、さめざめとないて、しばしは御返事
にも及ばず。良あて涙をおさへ【抑へ】て申
けるは、「申につけても憚おぼえさぶらへ【候へ】共、
故少納言入道信西がむすめ、阿波の内侍と
申しものにてさぶらふ【候ふ】なり。母は紀伊の
二位、さしも御いとおしみふかう【深う】こそさぶ
らひしに、御覧じ忘させ給ふにつけても、
身のをとろへ【衰へ】ぬる程も思しられて、今更
P12160
せんかたなふ【無う】こそおぼえさぶらへ【候へ】」とて、袖を
かほ【顔】におしあてて、しのび【忍び】あへぬさま、目も
あてられず。法皇も「されば汝は阿波の内侍
にこそあんなれ。今更御覧じわすれける。
ただ夢とのみこそおぼしめせ【思し召せ】」とて、御
涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上
人も、「ふしぎ【不思議】の尼かなと思ひたれば、理
にて有ける」とぞ、をのをの【各々】申あはれけり[B 「り」に「ル」と傍書]。
こなたかなたを叡覧あれば、庭の千種[B 「千種」に「千草」と傍書]
P12161
露をもく【重く】、籬にたおれ【倒れ】かかりつつ、そとも【外面】
の小田も水こえて、鴫たつひまも見え
わかず。御庵室にいらせ給ひて、障子を引
あけて御覧ずれば、一間には来迎の三尊
おはします。中尊の御手には五色の糸を
かけられたり。左には普賢の画像、右には
善導和尚并に先帝の御影をかけ、八軸
の妙文・九帖の御書もをか【置か】れたり。蘭麝の
匂に引かへて、香の煙ぞ立のぼる。かの【彼の】
P12162
浄名居士の方丈の室の内に三万二千の
床をならべ、十方の諸仏を請じ奉り
給ひけんも、かくやとぞおぼえける。障子
には諸経の要文共、色紙にかいて所々に
おされたり。其なかに大江の貞基法師が
清涼山にして詠じたりけん「笙歌遥
聞孤雲[* 「■[*馬+瓜]雲」と有るのを他本により訂正][B ノ]上、聖衆来迎[B ス]落日前」ともかかれ
たり。すこしひき【引き】のけて女院の御製[* 「御」の左にの振り仮名]と
おぼしくて、
P12163
おもひ【思ひ】きやみ山のおくにすまゐ【住ひ】して
雲ゐの月をよそに見んとは W096
さてかたはらを御覧ずれば、御寝所とおぼし
くて、竹の御さほにあさ【麻】の御衣、紙の御
衾などかけられたり。さしも本朝漢土
のたへなるたぐひ数をつくして、綾羅
錦繍の粧もさながら夢になりにけり。
供奉の公卿殿上人もをのをの【各々】見まいらせ【参らせ】し
事なれば、今のやうにおぼえ【覚え】て[* 「で」と有るのを他本により訂正]、皆袖をぞ
P12164
しぼられける。さる程に、うへ【上】の山より、こき
墨染の衣き【着】たる尼二人、岩のかけぢ【掛け路】を
つたひつつ、おりわづらひ【煩ひ】給ひけり。法皇
是を御覧じて、「あれは何ものぞ」と御尋
あれば、老尼涙をおさへ【抑へ】て申けるは、「花
がたみ【花筐】ひぢにかけ、岩つつじ【岩躑躅】とり具して
もたせ給ひたるは、女院にてわたら【渡ら】せ給ひ
さぶらふ【候ふ】なり。爪木に蕨折具してさぶ
らふは、鳥飼の中納言維実のむすめ、五条
P12165
大納言国綱【*邦綱】卿の養子、先帝の御めのと、
大納言[B ノ]佐」と申もあへずなき【泣き】けり。法皇
もよにあはれ【哀】げにおぼしめし【思し召し】て、御涙
せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨る
御身といひながら、いまかかる御ありさま【有様】
を見えまいらせ【参らせ】O[BH む]ずらんはづかしさよ。消
もうせばや」とおぼしめせどもかひぞなき。
よひよひごとのあかの水、結ぶたもとも
しほるる【萎るる】に、暁をき【起き】の袖の上、山路の露
P12166
もしげくして、しぼりやかねさせたまひ【給ひ】
けん、山へもかへら【帰ら】せ給はず、御庵室へもいら
せ給はず、御なみだ【涙】にむせばせたまひ【給ひ】、
あきれてたたせましましたる処に、内侍の
尼まいり【参り】つつ、花がたみ【花筐】をば給はりけり。
『六道之沙汰』S1304
○「世をいとふならひ【習ひ】、なにかはくるしう【苦しう】さぶら
ふ【候ふ】べき。はやはや御対面さぶらふて、還御
なしまいら【参らつ】させ給へ」と申ければ、女院御庵
室にいらせ給ふ。「一念の窓の前には摂取の
P12167
光明を期し、十念の柴の枢には、聖衆の
来迎をこそ待つるに、思[B ノ]外に御幸なり
ける不思議さよ」とて、なくなく【泣く泣く】御げんざん【見参】
ありけり。法皇此御ありさま【有様】を見まいら【参らつ】
させ給ひて、「非想の八万劫、猶必滅の愁に
逢、欲界の六天、いまだ五衰のかなしみを
まぬかれ【免かれ】ず。善見城の勝妙の楽、中間禅の
高台の閣、又夢の裏の果報、幻の間の楽み、
既に流転無窮也。車輪のめぐるが如し。
P12168
天人の五衰の悲は、人間にも候ける物かな」
とぞ仰ける。「さるにてもたれか事とひ
まいらせ【参らせ】候。何事につけてもさこそ古お
ぼしめし【思し召し】いで候らめ」と仰ければ、「いづかた
よりをとづるる事もさぶらはず。隆房・
信隆の北方より、たえだえ【絶え絶え】申送る事こそ
さぶらへ【候へ】。その昔あの人どものはぐくみにて
あるべしとは露も思より候はず」とて、御涙
をながさせ給へば、つきまいらせ【参らせ】たる女房達も、
P12169
みな袖をぞぬらさ【濡らさ】れける。女院御涙をおさへ【抑へ】
て申させ給ひけるは、「かかる身になる事は
一旦の歎申にをよび【及び】さぶらは【候は】ね共、後生菩
提の為には、悦とおぼえさぶらふ【候ふ】なり。忽に
釈迦の遺弟につらなり、忝く弥陀の本
願に乗じて、五障三従のくるしみ【苦しみ】をのがれ【逃れ】、
三時に六根をきよめ、一すぢに九品の浄
刹をねがふ。専一門の菩提をいのり、つねは
三尊の来迎を期す。いつの世にも忘がたきは、
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先帝の御面影、忘れんとすれ共忘られず、
しのば【忍ば】んとすれ共しのば【忍ば】れず。ただ恩愛
の道ほどかなしかり【悲しかり】ける事はなし。されば
彼菩提のために、あさゆふのつとめおこたる
事さぶらはず。是もしかる【然る】べき善知識と
こそ覚へさぶらへ【候へ】」と申させ給ひければ、
法皇仰なりけるは、「此国は粟散辺土なり
といへども、忝く十善の余薫に答て、万
乗のあるじとなり、随分一としてこころ【心】に
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かなは【叶は】ずといふ事なし。就中仏法流布の
世にむまれ【生れ】て、仏道修行の心ざしあれば、
後生善所疑あるべからず。人間のあだなる
ならひ【習ひ】は、今更おどろくべきにはあらねども、
御ありさま【有様】見奉るに、あまりにせんかたなふ【無う】
こそ候へ」と仰ければ、女院重て申させ給ひ
けるは、「我平相国のむすめとして天子の
国母となりしかば、一天四海みなたなごころ
のままなり。拝礼の春の始より、色々の
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衣がへ【衣更】、仏名の年のくれ、摂禄以下の大臣
公卿にもてなされしありさま、六欲四禅の
雲の上にて八万の諸天に囲繞せられ
さぶらふ【候ふ】らむ様に、百官悉あふが【仰が】ぬものや
さぶらひし。清涼紫震【*紫宸】の床の上、玉の簾の
うちにてもてなされ、春は南殿の桜に心を
とめて日を暮し、九夏三伏のあつき日は、
泉をむすびて心をなぐさめ、秋は雲の
上の月をひとり見むこと【事】をゆるさ【許さ】れず。
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玄冬素雪のさむき夜は、妻をかさね【重ね】て
あたたかにす。長生不老の術をねがひ、蓬
莱不死の薬を尋ても、只久しからん事
をのみおもへ【思へ】り。あけてもくれても楽み
さかへ【栄え】し事、天上の果報も是には過じと
こそおぼえさぶらひしか。それに寿永の
秋のはじめ、木曾義仲とかやにおそれ【恐れ】て、
一門の人々住なれし都をば雲井のよそに
顧て、ふる里を焼野の原とうちながめ、
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古は名をのみききし須磨より明石の浦
づたひ【浦伝ひ】、さすが哀に覚て、昼は漫々たる
浪路をわけ【分け】て袖をぬらし、夜は洲崎の
千鳥ととも【供】になきあかし、浦々島々よし
ある所をみ【見】しかども、ふるさと【故郷】の事は忘ず。
かくてよる【寄る】方なかりしは、五衰必滅の悲み
とこそおぼえさぶらひしか。人間の事は
愛別離苦、怨憎会苦、共に我身にしられて
さぶらふ【侍ふ】。四苦八苦一として残る所さぶらはず。
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さても筑前[B ノ]国太宰府といふ所にて、維義
とかやに九国のうち【内】をも追出され、山野広
といへ共、立よりやすむべき所もなし。同じ
秋の末にもなりしかば、むかしは九重の
雲の上にて見し月を、いまは八重の塩路
にながめつつ、あかし暮しさぶらひし程に、
神無月の比ほひ、清経の中将が、「都のうち
をば源氏がためにせめ【攻め】おとさ【落さ】れ、鎮西をば
維義がために追出さる。網にかかれる魚の
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如し。いづくへゆか【行か】ばのがる【逃る】べきかは。ながらへ【永らへ】はつ
べき身にもあらず」とて、海にしづみさぶ
らひ【侍ひ】しぞ、心うき事のはじめにてさぶらひし。
浪の上にて日をくらし、船の内にて夜を
あかし、みつぎものもなかりしかば、供御を
備ふる人もなし。たまたま供御はそなへん
とすれ共、水なければまいら【参ら】ず。大海に
うかぶといへども、うしほ【潮】なればのむ事も
なし。是又餓鬼道の苦とこそおぼえ
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さぶらひしか。かくて室山・水島、所々の
たたかひ【戦ひ】に勝しかば、人々すこし【少し】色なを【直つ】て
見えさぶらひし程に、一の谷といふ所にて
一門おほく【多く】ほろびし後は、直衣束帯を
ひき【引き】かへて、くろがね【鉄】をのべて身にまとひ、
明ても暮てもいくさよばひ【軍呼】のこゑ【声】たえ【絶え】
ざりし事、修羅の闘諍、帝釈の諍も、
かくやとこそおぼえさぶらひしか。「一谷を
攻おとさ【落さ】れて後、おやは子にをくれ【遅れ】、妻は
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夫にわかれ、沖につりする船をば敵の舟
かと肝をけし、遠き松にむれゐる鷺
をば、源氏の旗かと心をつくす。さても
門司・赤間の関にて、いくさ【軍】はけふを限と
見えしかば、二位の尼申をく【置く】事さぶら
ひき。「男のいきのこら【残ら】む事は千万が一も有
がたし。設又遠きゆかりはをのづからいき
残りたりといふとも、我等が後世をとぶらはん
事もありがたし。昔より女はころさ【殺さ】ぬならひ【習ひ】
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なれば、いかにもしてながらへ【永らへ】て主上の
後世をもとぶらひ【弔ひ】まいらせ【参らせ】、我等が後生
をもたすけ【助け】給へ」とかきくどき【口説き】申さぶ
らひしが、夢の心ち【心地】しておぼえさぶら
ひしほど【程】に、風にはかにふき、浮雲
あつくたなびいて、兵こころ【心】をまどはし、
天運つきて人の力にをよび【及び】がたし。
既に今はかうと見えしかば、二位の尼
先帝をいだき奉て、ふなばたへ出し時、
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あきれたる御様にて、「尼ぜわれをば
いづちへ具してゆかむとするぞ」と
仰さぶらひしかば、いとけなき君にむかひ【向ひ】
奉り、涙をおさへ【抑へ】て申さぶらひしは、
「君はいまだしろしめさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。
先世の十善戒行の御力によて、今
万乗のあるじとは生れさせ給へども、
悪縁にひかれて御運既につき給ひぬ。
まづ東にむかは【向は】せ給ひて、伊勢大神宮に
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御いとま申させ給ひ、其後西方浄土の
来迎にあづからんとおぼしめし【思し召し】、西
にむかは【向は】せ給ひて御念仏侍らふべし。
此国はそくさん【粟散】へんど【辺土】とて、心うき堺
にてさぶらへ【候へ】ば、極楽浄土とてめでた
き所へ具しまいらせ【参らせ】侍らふぞ」と泣々
申さぶらひしかば、山鳩色の御衣にび
づら【鬢】いはせ給ひて、御涙におぼれ、ちい
さう【小さう】うつくしい御手をあはせ【合はせ】、まづ東
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をふし【伏し】おがみ【拝み】、伊勢大神宮に御いとま
申させ給ひ、其後西にむかは【向は】せ給ひ
て、御念仏ありしかば、二位[B ノ]尼やがて
いだき奉て、海に沈し御面影、目も
くれ、心も消はてて、わすれんとすれ共
忘られず、忍ばんとすれ共しのば【忍ば】れず、
残とどまる人々のおめき【喚き】さけび【叫び】し声、
叫喚大叫喚のほのほ【炎】の底の罪人も、
これには過じとこそおぼえさぶらひしか。
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さて武O[BH 士]共にとらはれてのぼりさぶら
ひし時、播磨[B ノ]国明石浦について、ちと
うちまどろみてさぶらひし夢に、昔の
内裏にははるかにまさりたる所に、
先帝をはじめ奉て、一門の公卿殿上人
みなゆゆしげなる礼儀にて侍ひしを、
都を出て後かかる所はいまだ見ざりつる
に、「是はいづくぞ」ととひ侍ひしかば、
弐位の尼と覚て、「竜宮城」と答侍ひし
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時、「めでたかりける所かな。是には苦は
なきか」ととひさぶらひしかば、「竜畜経
のなかに見えて侍らふ。よくよく後世を
とぶらひ【弔ひ】給へ」と申すと覚えて夢さめぬ。
其後はいよいよ経をよみ念仏して、彼
御菩提をとぶらひ【弔ひ】奉る。是皆六道に
たがは【違は】じとこそおぼえ侍へ」と申させ給
へば、法皇仰なりけるは、「異国の玄弉三
蔵は、悟の前に六道を見、吾朝の日蔵
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上人は、蔵王権現の御力にて六道を見たり
とこそうけ給はれ【承れ】。是程まのあたりに
御覧ぜられける御事、誠にありがたふ【難う】
こそ候へ」とて、御涙にむせばせ給へば、
供奉の公卿殿上人もみな袖をぞしぼ
られける。女院も御涙をながさせ給へば、
つきまいらせ【参らせ】たる女房達もみな袖を
『女院死去』S1305
ぞぬらさ【濡らさ】れける。○さる程に寂光院の
鐘のこゑ【声】、けふもくれ【暮れ】ぬとうちしら【知ら】れ、
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夕陽西にかたぶけば、御名残おしう【惜しう】は
おぼしけれども、御涙をおさへ【抑へ】て還御
ならせ給ひけり。女院は今更いにしへを
おぼしめし【思し召し】出させ給ひて、忍あへぬ御
涙に、袖のしがらみせきあへさせ給はず。
はるかに御覧じをくら【送ら】せ給ひて、還御
もやうやうのびさせ給ひければ、御本
尊にむかひ【向ひ】奉り、「先帝聖霊、一門亡魂、
成等正覚、頓証菩提」と泣々いのらせ給ひ
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けり。むかしは東にむかは【向は】せ給ひて、「伊勢
大神宮、正八幡大菩薩、天子宝算、千秋万歳」
と申させ給ひしに、今はひき【引き】かへて西
にむかひ【向ひ】、手をあはせ【合はせ】、「過去聖霊、一仏浄
土へ」といのらせ給ふこそ悲しけれ。御寝
所の障子にかうぞあそばさ【遊ばさ】れける。
このごろはいつならひてかわがこころ
大みや人【大宮人】のこひしかるらん W097
いにしへも夢になりにし事なれば
P12188
柴のあみ戸もひさしから【久しから】じな W098
御幸の御供に候はれける徳大寺[B ノ]左大臣
実定公、御庵室の柱にかきつけられ
けるとかや。
いにしへは月にたとへし君なれど
そのひかりなき深山辺の里 W099
こしかたゆくすゑ【行く末】の事ども【共】おぼしめし【思し召し】
つづけて、御涙にむせばせたまふ【給ふ】折し
も、山郭公音信ければ、女院、
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いざさらばなみだくらべん時鳥
われもうき世にねをのみぞ鳴 W100
抑壇の浦にていきながらとられし
人々は、大路をわたして、かうべをはねら
れ、妻子にはなれて、遠流せらる。池の大
納言の外は一人も命をいけられず、都に
をか【置か】れず。され共四十余人の女房達の御
事、沙汰にもをよば【及ば】ざりしかば、親類
にしたがひ【従ひ】、所縁についてぞおはしける。
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上は玉の簾の内までも、風しづかなる
家もなく、下は柴の枢のもとまでも、
塵おさまれ【納まれ】る宿もなし。枕をならべし
いもせ【妹背】も、雲ゐのよそにぞなりはつる。
やしなひたてしおや子【親子】も、ゆきがたしら
ず別けり。しのぶ【忍ぶ】おもひ【思ひ】はつきせ【尽きせ】ねども、
歎ながらさてこそすごさ【過さ】れけれ。是は
ただ入道相国、一天四海を掌ににぎて、
上は一人をもおそれ【恐れ】ず、下は万民をも顧ず、
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死罪流刑、おもふ【思ふ】さまに行ひ、世をも人
をも憚かられざりしがいたす所なり。父祖
の罪業は子孫にむくふ【報ふ】といふ事疑なし
とぞ見えたりける。かくて年月を
すごさ【過さ】せたまふ【給ふ】程に、女院御心ち【心地】例
ならずわたらせ給ひしかば、中尊の御手
の五色の糸をひかへつつ、「南無西方極楽
世界教主弥陀如来、かならず引摂し給へ」
とて、御念仏ありしかば、大納言[B ノ]佐の局・阿
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波[B ノ]内侍、左右に候て、いまをかぎりのかなし
さに、こゑ【声】もおしま【惜しま】ずなきさけぶ【叫ぶ】。御念
仏のこゑ【声】やうやうよはら【弱ら】せましましければ、
西に紫雲たなびき、異香室にみち、音
楽そら【空】にきこゆ。かぎりある御事なれば、
建久二年きさらぎ【二月】の中旬に、一期遂に
おはらせ給ひぬ。きさいの宮【后の宮】の御位よりかた
時【片時】もはなれまいらせ【参らせ】ずして候はれ給し
かば、御臨終の御時、別路にまよひしも、
P12193
やるかたなくぞおぼえける。此女房達
はむかし【昔】の草のゆかりもかれはてて、
よるかたもなき身なれ共、おりおり【折々】の
御仏事営給ふぞあはれ【哀】なる。遂に
彼人々は、竜女が正覚の跡ををひ【追ひ】、韋提
希夫人の如に、みな往生の素懐をとげ
けるとぞきこえ【聞え】し。

平家灌頂巻
P12194

P12195
于時応安四年〈 亥辛 〉三月十五日、平家物
語一部十二巻付灌頂、当流之師説、伝受
之秘决、一字不闕、以口筆令書写之、譲与
定一検校訖。抑愚質余算既過七旬、
浮命難期後年、而一期之後、弟子等中
雖為一句、若有廃忘輩者、定及諍論歟。
仍為備後証、所令書留之也。此本努々
不可出他所、又不可及他人之披見、附属
弟子之外者、雖為同朋并弟子、更莫
P12196
令書取之。凡此等条々背炳誡之者、
仏神三宝冥罰可蒙厥躬而已。

沙門覚一