平家物語 高野本 巻第三

【許諾済】
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【注意】
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【底本】
本テキストの底本は、東京大学文学部国語研究室蔵高野辰之旧蔵『平家物語』(通称・高野本、覚一別本)です。直接には、笠間書院発行の影印本に拠りました。
文責:荒山慶一・菊池真一


平家 三(表紙)
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平家三之巻 目録
赦文     足摺
御産     公卿揃
大塔建立   頼豪
少将都帰   有王 僧都死去
辻風     医師問答
無文     燈炉之沙汰
金渡     法印問答
大臣流罪   行隆沙汰
P03002
法皇被流   城南離宮
P03003
平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第三(だいさん)
『赦文(ゆるしぶみ)』S0301
○治承(ぢしよう)(ヂセウ)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)一日[B ノヒ](ひとひのひ)、院(ゐんの)御所(ごしよ)には拝礼(はいらい)おこなは【行なは】
れて、四日[B ノヒ](よつかのひ)朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)有(あり)けり。O[BH 何事(なにごと)も]例(れい)にかはりたる
事(こと)はなけれ共(ども)、去年(こぞ)の夏(なつ)新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)以下(いげ)、
近習(きんじゆ)の人々(ひとびと)多(おほ)くうしなは【失は】れし事(こと)、法皇(ほふわう)御憤(おんいきどほり)(オンイキドヲリ)
いまだやまず、世(よ)の政(まつりごと)も物(もの)うくおぼしめさ【思し召さ】れて、御
心(おんこころ)よからぬことにてぞ有(あり)ける。太政(だいじやうの)入道(にふだう)も、多田(ただの)蔵
人(くらんど)行綱(ゆきつな)が告(つげ)しらせて後(のち)は、君(きみ)をも御(おん)うしろめたき
事(こと)に思(おも)ひ奉(たてまつり)て、うへには事(こと)なき様(やう)なれ共(ども)、下(した)には
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用心(ようじん)して、にがわらひ【苦笑ひ】てのみぞあり【有り】ける。同(おなじき)正月(しやうぐわつ)七日[B ノヒ](なぬかのひ)、
彗星(せいせい)(セイセイ)東方(とうばう)にいづ。蚩尤気(しいうき)(シユウキ)とも申(まうす)。又(また)赤気(せきき)共(とも)
申(まうす)。十八日(じふはちにち)光(ひかり)をます。去(さる)程(ほど)に、入道(にふだう)相国(しやうこく)の御(おん)むす
め建礼門院(けんれいもんゐん)、其(その)比(ころ)は未(いまだ)中宮(ちゆうぐう)(チウグウ)と聞(きこ)えさせ給(たまひ)しが、
御悩(ごなう)とて、雲(くも)のうへ【上】天(あめ)が下(した)の歎(なげ)きにてぞ有(あり)け
る。諸寺(しよじ)に御読経(みどつきやう)始(はじ)まり、諸社(しよしや)へ官幣使(くわんべいし)を立(たて)らる。
医家(いけ)薬(くすり)をつくし、陰陽術(おんやうじゆつ)(ヲンヤウジユツ)をきはめ、大法(だいほふ)(ダイホウ)秘
法(ひほふ)(ヒホウ)一[B ツ](ひとつ)として残(のこ)る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。されども【共】、
御悩(ごなう)ただにもわたら【渡ら】せ給(たま)はず、御懐妊(ごくわいにん)とぞ聞(きこ)えし。
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主上(しゆしやう)今年(こんねん)十八(じふはち)、中宮(ちゆうぐう)(チウグウ)は廿二(にじふに)にならせ給(たま)ふ。しかれ共(ども)、
いまだ皇子(わうじ)も姫宮(ひめみや)も出(いで)きさせ給(たま)はず。もし皇
子(わうじ)にてわたらせ給(たま)はばいかに目出(めで)たからんとて、平家(へいけ)
の人々(ひとびと)はただ今(いま)皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)のある様(やう)に、いさみ悦(よろこ)
びあはれけり。他家(たけ)の人々(ひとびと)も、「平氏(へいじ)の繁昌(はんじやう)おり(をり)【折】
をえたり。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)疑(うたがひ)なし」とぞ申(まうし)あはれける。
御懐妊(ごくわいにん)さだまら【定まら】せ給(たまひ)しかば、有験(うげん)の高僧(かうそう)貴僧(きそう)
に仰(おほ)せて、大法(だいほふ)秘法(ひほふ)を修(しゆ)し、星宿仏菩薩(しやうしゆくぶつぼさつ)につけ
て、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)と祈誓(きせい)せらる。六月(ろくぐわつ)一日[B ノヒ](ひとひのひ)、中宮(ちゆうぐう)
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御着帯(ごちやくたい)あり【有り】けり。仁和寺(にんわじ)の御室(おむろ)(ヲムロ)守覚(しゆうかく)法親王(ほつしんわう)(ホツシンワウ)、
御参内(ごさんだい)あ(ッ)て、孔雀経(くじやくきやう)(クジヤツキヤウ)の法(ほふ)(ホウ)をも(ッ)て御加持(おんかぢ)(ヲンカヂ)あり【有り】。天
台座主(てんだいざす)覚快(かつくわい)法親王(ほつしんわう)(ホツシンワウ)、おなじうまいら(まゐら)【参ら】せ給(たまひ)て、変
成男子(へんじやうなんし)の法(ほふ)(ホウ)を修(しゆ)せらる。かかりし程(ほど)に、中宮(ちゆうぐう)は
月(つき)のかさなるに随(したがつ)て、御身(おんみ)をくるしう【苦しう】せさせ給(たま)ふ。
一(ひと)たびゑめば百(もも)の媚(こび)あり【有り】けん漢(かん)の李夫人(りふじん)の、承
陽殿【*昭陽殿】(せうやうでん)の病(やまひ)(ヤマイ)のゆか【床】もかくやとおぼえ、唐(たう)の楊貴妃(やうきひ)、
李花(りくわ)一枝(いつし)春(はる)の雨(あめ)ををび(おび)【帯び】、芙蓉(ふよう)の風(かぜ)にしほれ(しをれ)【萎れ】、女
郎花(ぢよらうくわ)(ヂヨラウクハ)の露(つゆ)おもげなるよりも、猶(なほ)いたはしき御(おん)さま
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なり。かかる御悩(ごなう)の折節(をりふし)にあはせ【合はせ】て、こはき御物気共(おんもののけども)(ヲンモノノケども)、
取(とり)いり奉(たてまつ)る。よりまし明王(みやうわう)の縛(ばく)にかけて、霊(れい)あら
はれ【現はれ】たり。殊(こと)には讃岐院(さぬきのゐん)の御霊(ごれい)、宇治(うぢの)悪左府(あくさふ)の
憶念(おくねん)(ヲクネン)、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)の死霊(しりやう)、西光(さいくわう)法師(ほふし)が悪霊(あくりやう)、
鬼界(きかい)が島(しま)の流人共(るにんども)が生霊(しやうりやう)な(ン)ど(など)ぞ申(まうし)ける。是(これ)に
よ[B ッ]て、太政(だいじやう)入道(にふだう)生霊(しやうりやう)も死霊(しりやう)もなだめ【宥め】らるべしと
て、其(その)比(ころ)やがて讃岐院(さぬきのゐん)御追号(ごついがう)あ(ッ)て、崇徳天皇(しゆとくてんわう)と
号(かう)す。宇治(うぢの)悪左府(あくさふ)、贈官(ぞうくわん)贈位(ぞうゐ)おこなは【行なは】れて、太政(だいじやう)大
臣(だいじん)正(じやう)一位(いちゐ)ををくら(おくら)【送ら】る。勅使(ちよくし)は少内記(せうないき)維基(これもと)とぞ
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聞(きこ)えし。件(くだん)の墓所(むしよ)は大和国(やまとのくに)そうのかん[* 「そう」に「添」、「かん」に「上」と振り漢字]の郡(こほり)、川上(かはかみ)の
村(むら)、般若野(はんにやの)の五三昧(ごさんまい)也(なり)。保元(ほうげん)の秋(あき)ほり【掘り】おこし【起こし】て捨(すて)
られし後(のち)は、死骸(しがい)路(みち)の辺(ほとり)の土(つち)とな(ッ)て、年々(ねんねん)にただ
春(はる)の草(くさ)のみ茂(しげ)れり。今(いま)勅使(ちよくし)尋来(たづねきた)(ッ)て宣命(せんみやう)を
読(よみ)けるに、亡魂(ばうこん)いかにうれしとおぼしけん。怨霊(をんりやう)は
昔(むかし)もかくおそろしき【恐ろしき】こと也(なり)。されば早良(さはらの)廃太子(はいたいし)
をば崇道天皇(しゆだうてんわう)と号(かう)し、井上(ゐがみ)の内親王(ないしんわう)をば皇后(くわうごう)(クワウコウ)
の職位(しきゐ)にふくす。是(これ)みな怨霊(をんりやう)を寛【*宥】(なだ)められしはかり
こと也(なり)。冷泉院(れいぜいゐん)の御物(おんもの)ぐるはしうましまし、花山(くわさん)の
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法皇(ほふわう)の十禅(じふぜん)万乗(ばんじよう)(バンゼウ)の帝位(ていゐ)をすべらせ給(たまひ)しは、基方
民部卿(もとかたのみんぶきやう)が霊(れい)なり[M 「とかや」をミセケチ「なり」と傍書]。三条院(さんでうのゐん)の御目(おんめ)も御覧(ごらん)ぜざりしは、
観算供奉(くわんざんぐぶ)が霊(れい)とかや[M 「也(なり)」をミセケチ「とかや」と傍書]。門脇宰相(かどわきのさいしやう)か様(やう)【斯様】の事共(ことども)伝(つた)へ
きい【聞い】て、小松殿(こまつどの)に申(まう)されけるは、「中宮(ちゆうぐう)御産(ごさん)の御祈(おんいのり)(ヲンイノリ)さま
ざまに候(さうらふ)也(なり)。なにと申(まうし)候(さうらふ)共(とも)、非常(ひじやう)の赦(しや)に過(すぎ)たる
事(こと)あるべしともおぼえ候(さうら)はず。中(なか)にも、鬼界(きかい)が島(しま)
の流人共(るにんども)めし【召し】かへさ【返さ】れたらんほどの功徳(くどく)善根(ぜんごん)、争(いかで)か
候(さうらふ)べき」と申(まう)されければ、小松殿(こまつどの)父(ちち)の禅門(ぜんもん)の御(おん)まへに
おはして、「あの丹波(たんばの)少将(せうしやう)が事(こと)を、宰相(さいしやう)のあながちに
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歎(なげき)申(まうし)候(さうらふ)が不便(ふびん)に候(さうらふ)。中宮(ちゆうぐう)御悩(ごなう)の御(おん)こと、承(うけたまはり)及(およぶ)(ヲヨブ)ごとくんば、殊更(ことさら)
成親卿(なりちかのきやう)が死霊(しりやう)な(ン)ど(など)聞(きこ)え候(さうらふ)。大納言(だいなごん)が死霊(しりやう)をなだ
め【宥め】んとおぼしめさ【思し召さ】んにつけても、生(いき)て候(さうらふ)少将(せうしやう)をこそ
めし【召し】かへさ【返さ】れ候(さうら)はめ。人(ひと)のおもひ【思ひ】をやめさせ給(たま)はば、おぼ
しめす【思し召す】事(こと)もかなひ【叶ひ】、人(ひと)の願(ねが)ひをかなへ【適へ】させ給(たま)はば、
御願(ごぐわん)もすなはち成就(じやうじゆ)して、中宮(ちゆうぐう)(チウグウ)やがて皇子(わうじ)御
誕生(ごたんじやう)あ[B ッ]て、家門(かもん)の栄花(えいぐわ)弥(いよいよ)さかん【盛】に候(さうらふ)べし」な(ン)ど(など)
申(まう)されければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)、日(ひ)ごろ【日比】にもに【似】ず事(こと)の外(ほか)
にやはらひ(やはらい)【和らい】で、「さてさて、俊寛(しゆんくわん)と康頼(やすより)法師(ぼふし)が事(こと)は
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いかに」。「それもおなじうめし【召し】こそかへさ【返さ】れ候(さうら)はめ。若(もし)一
人(いちにん)も留(とど)められんは、中々(なかなか)罪業(ざいごふ)(ザイゴウ)たるべう候(さうらふ)」と申(まう)さ
れければ、「康頼(やすより)法師(ぼふし)が事(こと)はさる事(こと)なれ共(ども)、俊
寛(しゆんくわん)(シユンクハン)は随分(ずいぶん)入道(にふだう)が口入(こうじゆ)(コウジウ)をも[B ッ]て人(ひと)とな(ッ)たる物(もの)ぞかし。そ
れに所(ところ)しもこそ多(おほ)けれ、わが山庄(さんざう)鹿(しし)の谷(たに)に城
郭(じやうくわく)をかまへて、事(こと)にふれて奇怪(きつくわい)(キツクハイ)のふるまひ【振舞】共(ども)が
有(あり)けんなれば、俊寛(しゆんくわん)をば思(おも)ひもよらず」とぞの給(たまひ)
ける。小松殿(こまつどの)かへ[B ッ]【帰つ】て、叔父(をぢ)の宰相殿(さいしやうどの)よび奉(たてまつ)り、「少将(せうしやう)は
すでに赦免(しやめん)候(さうら)はんずるぞ。御心(おんこころ)やすうおぼしめさ【思し召さ】れ
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候(さうら)へ」とのたまへば、宰相(さいしやう)手(て)をあはせ【合はせ】てぞ悦(よろこば)れける。
「下(くだ)りし時(とき)も、などか申(まうし)うけ【請け】ざらんと思(おも)ひたりげにて、
教盛(のりもり)を見(み)候(さうらふ)度(たび)ごとには涙(なみだ)をながし候(さうらひ)しが不便(ふびん)に候(さうらふ)」
と申(まう)されければ、小松殿(こまつどの)「まこと【誠】にさこそおぼしめさ【思し召さ】れ
候(さうらふ)らめ。子(こ)は誰(たれ)とてもかなしければ、能々(よくよく)申(まうし)候(さうら)はん」
とて入(いり)給(たまひ)ぬ。去(さる)程(ほど)に、鬼界(きかい)が島(しま)の流人共(るにんども)めし【召し】かへさ【返さ】る
べき事(こと)さだめ【定め】られて、入道(にふだう)相国(しやうこく)ゆるし文(ぶみ)【赦文】下(くだ)されけ
り。御使(おんつかひ)すでに都(みやこ)をたつ。宰相(さいしやう)あまりのうれし
さに、御使(おんつかひ)に私(わたくし)の使(つかひ)をそへてぞ下(くだ)されける。よるを
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昼(ひる)にしていそぎ下(くだ)れとありしか共(ども)、心(こころ)にまかせぬ海
路(かいろ)なれば、浪風(なみかぜ)をしのいで行(ゆく)程(ほど)に、都(みやこ)をば七月(しちぐわつ)下旬(じゆん)に
出(いで)たれ共(ども)、長月(ながつき)(ナガヅキ)廿日(はつか)比(ごろ)にぞ、鬼界(きかい)が島(しま)には着(つき)にける。
『足摺(あしずり)』S0302
○御使(おんつかひ)(ヲツカヒ)は丹左衛門尉(たんざゑもんのじよう)基康(もとやす)といふ者(もの)也(なり)。舟(ふね)よりあが(ッ)【上がつ】て、
「是(これ)に都(みやこ)よりながされ給(たま)ひし丹波少将殿(たんばのせうしやうどの)、[M 法勝
寺(ほつしようじの)(ホツセウジノ)執行(しゆぎやう)御房(ごばう)、]平判官(へいはうぐわん)入道殿(にふだうどの)やおはする」と、声々(こゑごゑ)
にぞ尋(たづね)ける。二人(ににん)の人々(ひとびと)は、例(れい)の熊野(くまの)まうでして
なかりけり。俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)一人(いちにん)のこ(ッ)【残つ】たりけるが、是(これ)を聞(きき)、
「あまりに思(おも)へば夢(ゆめ)やらん。又(また)天魔波旬(てんまはじゆん)の我(わが)心(こころ)をた
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ぶらかさんとていふやらん。うつつ共(とも)覚(おぼえ)(ヲボヘ)ぬ物(もの)かな」と
て、あはて(あわて)【慌て】ふためき、はしる【走る】ともなく、たをるる(たふるる)【倒るる】共(とも)な
く、いそぎ御使(おんつかひ)のまへに走(はしり)むかひ【向ひ】、「何事(なにごと)ぞ。是(これ)こそ
京(きやう)よりながされたる俊寛(しゆんくわん)(シユンクハン)よ」と名乗(なのり)給(たま)へば、雑色(ざつしき)が
頸(くび)にかけ【懸け】させたる文袋(ふぶくろ)より、入道(にふだう)相国(しやうこく)のゆるし文(ぶみ)【赦文】
取(とり)出(いだ)いて奉(たてまつ)る。ひらいてみれ【見れ】ば、「重科(ぢゆうくわ)(ヂウクワ)は遠流(をんる)に
めんず【免ず】。はやく帰洛(きらく)の思(おも)ひをなすべし。中宮(ちゆうぐう)(チウグウ)御
産(ごさん)の御祈(おんいのり)(ヲンイノリ)によ[B ッ]て、非常(ひじやう)の赦(しや)おこなは【行なは】る。然(しかる)間(あひだ)(アイダ)鬼
界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)、少将(せうしやう)成経(なりつね)、康頼(やすより)法師(ぼふし)(ボウシ)赦免(しやめん)」とばかり
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かか【書か】れて、俊寛(しゆんくわん)と云(いふ)文字(もじ)はなし。らいし【礼紙】にぞあるらん
とて、礼紙(らいし)をみる【見る】にも見(み)えず。奥(おく)(ヲク)よりはし【端】へよみ、
端(はし)より奥(おく)へ読(よみ)けれ共(ども)、二人(ににん)とばかりかか【書か】れて、三人(さんにん)
とはかかれず。さる程(ほど)に、少将(せうしやう)や判官(はうぐわん)入道(にふだう)も出(いで)きたり。
少将(せうしやう)のと(ッ)【取つ】てよむにも、康頼(やすより)入道(にふだう)が読(よみ)けるにも、二人(ににん)
とばかりかか【書か】れて三人(さんにん)とはかかれざりけり。夢(ゆめ)にこそ
かかる事(こと)はあれ、夢(ゆめ)かと思(おも)ひなさんとすればうつつ
也(なり)。うつつかと思(おも)へば又(また)夢(ゆめ)のごとし【如し】。其(その)うへ二人(ににん)の人々(ひとびと)
のもとへは、都(みやこ)よりことづけ文(ぶみ)【言付文】共(ども)いくらもあり【有り】けれ
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共(ども)、俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)のもとへは、事(こと)とふ文(ふみ)一(ひとつ)もなし。されば
わがゆかりの物(もの)どもは、宮(みや)このうちにあとをとど
めず成(なり)にけりと、おもひやるにもしのびがたし。「抑(そもそも)
われら【我等】三人(さんにん)は罪(つみ)もおなじ罪(つみ)、配所(はいしよ)も一所(ひとつところ)也(なり)。いかなれ
ば赦免(しやめん)の時(とき)、二人(ににん)はめし【召し】かへさ【返さ】れて、一人(いちにん)ここに残(のこ)るべ
き。平家(へいけ)の思(おも)ひわすれかや、執筆(しゆひつ)のあやまりか。
こはいかにしつる事共(ことども)ぞや」と、天(てん)にあふぎ地(ち)に臥(ふし)
て、泣(なき)かなしめ共(ども)かひぞなき。少将(せうしやう)の袂(たもと)にすが(ッ)て、
「俊寛(しゆんくわん)がかく成(なる)といふも、御(ご)へんの父(ちち)、故(こ)大納言殿(だいなごんどの)
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よしなき謀反(むほん)ゆへ(ゆゑ)【故】也(なり)。さればよその事(こと)とおぼすべ
からず。ゆるされ【許され】なければ、都(みやこ)までこそかなは【叶は】ず[M と云(いふ)]
共(とも)、此(この)舟(ふね)にのせ【乗せ】て、九国(くこく)の地(ち)へつけO[BH て]給(た)べ。をのをの(おのおの)【各々】の是(これ)
におはしつる程(ほど)こそ、春(はる)はつばくらめ、秋(あき)は田(た)のも[M 「田のむ」とあり「む」をミセケチ「も」と傍書]【田面】の
鴈(かり)の音(おと)づるる様(やう)に、をのづから(おのづから)古郷(こきやう)の事(こと)をも
伝(つた)へきい【聞い】つれ。今(いま)より後(のち)、何(なに)としてかは聞(きく)べき」と
て、もだえ【悶え】こがれ給(たま)ひけり。少将(せうしやう)「まこと【誠】にさこそは
おぼしめさ【思し召さ】れ候(さうらふ)らめ。我等(われら)がめし【召し】かへさ【返さ】るるうれし
さは、さる事(こと)なれ共(ども)、御有様(おんありさま)を見(み)をき(おき)奉(たてまつ)るに、
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[B さらに]行(ゆく)べき空(そら)も覚(おぼえ)ず。うちのせ【乗せ】たてま[B ッ]【奉つ】ても上(のぼ)り
たう候(さうらふ)が、都(みやこ)の御使(おんつかひ)もかなふ【叶ふ】まじき由(よし)申(まうす)うへ【上】、ゆる
されもないに、三人(さんにん)ながら島(しま)を出(いで)たりな(ン)ど(など)聞(きこ)えば、
中々(なかなか)あしう【悪しう】候(さうらひ)なん。成経(なりつね)まづ罷(まかり)のぼ[B ッ]【上つ】て、人々(ひとびと)にも
申(まうし)あはせ【合はせ】、入道(にふだう)相国(しやうこく)の気色(きしよく)をもうかがう【伺う】て、むかへに
人(ひと)を奉(たてまつ)らん。其(その)間(あひだ)は、此(この)日(ひ)ごろ【日比】おはしつる様(やう)に
おもひ【思ひ】なして待(まち)給(たま)へ。何(なに)としても命(いのち)は大切(たいせつ)の事(こと)
なれば、今(この)度(たび)こそもれ【漏れ】させ給(たま)ふ共(とも)、つゐに(つひに)【遂に】はなどか
赦免(しやめん)なうて候(さうらふ)べき」となぐさめたまへ共(ども)、人目(ひとめ)もし
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ら【知ら】ず泣(なき)もだえ【悶え】けり。既(すで)に船(ふね)出(いだ)すべしとてひしめき
あへば、僧都(そうづ)の[B ッ]【乗つ】てはおりつ、おり【降り】てはの(ッ)【乗つ】つ、あらまし
事(ごと)をぞし給(たま)ひける。少将(せうしやう)の形見(かたみ)にはよるの衾(ふすま)、
康頼(やすより)入道(にふだう)が形見(かたみ)には一部(いちぶ)の法花経(ほけきやう)をぞとどめ【留め】
ける。ともづなとい【解い】てをし(おし)出(いだ)せば、僧都(そうづ)綱(つな)に取(とり)つき、
腰(こし)になり、脇(わき)になり、たけの立(たつ)まではひか【引か】れて
出(いで)、たけも及(およ)ばず成(なり)ければ、舟(ふね)に取(とり)つき、「さていか
にをのをの(おのおの)【各々】、俊寛(しゆんくわん)をば遂(つひ)(ツイ)に捨(すて)はて給(たま)ふか。是(これ)程(ほど)とこそ
おもはざりつれ。日比(ひごろ)の情(なさけ)も今(いま)は何(なに)ならず。ただ理(り)を
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まげてのせ【乗せ】給(たま)へ。せめては九国(くこく)の地(ち)まで」とくど
か【口説か】れけれ共(ども)、都(みやこ)の御使(おんつかひ)「いかにもかなひ【叶ひ】候(さうらふ)まじ」とて、
取(とり)つき給(たま)へる手(て)を引(ひき)のけて、船(ふね)をばつゐに(つひに)【遂に】漕
出(こぎいだ)す。僧都(そうづ)せん方(かた)なさに、渚(なぎさ)にあがりたふれ【倒れ】ふし、
おさなき(をさなき)【幼き】者(もの)のめのとや母(はは)な(ン)ど(など)をしたふやうに、足(あし)
ずりをして、「是(これ)のせ【乗せ】てゆけ、具(ぐ)してゆけ」と、おめき(をめき)【喚き】
さけべ【叫べ】共(ども)、漕行(こぎゆく)舟(ふね)の習(ならひ)(ナライ)にて、跡(あと)はしら浪(なみ)【白浪】ばかり也(なり)。
いまだ遠(とほ)(トヲ)からぬ舟(ふね)なれ共(ども)、涙(なみだ)に暮(くれ)て見(み)えざりけ
れば、僧都(そうづ)たかき【高き】所(ところ)に走(はしり)あがり【上がり】、澳(おき)(ヲキ)の方(かた)をぞま
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ねきける。彼(かの)松浦(まつら)さよ姫(ひめ)【松浦佐用姫】がもろこし舟(ぶね)をしたひ
つつ、ひれ【領布】ふりけんも、是(これ)には過(すぎ)じとぞみえ【見え】し。舟(ふね)も
漕(こぎ)かくれ、日(ひ)も暮(くる)れ共(ども)、あやしのふしど【臥処】へも帰(かへ)らず。
浪(なみ)に足(あし)うちあらはせて、露(つゆ)にしほれ(しをれ)【萎れ】て、其(その)夜(よ)は
そこにぞあかされける。さり共(とも)少将(せうしやう)はなさけ【情】ふかき
人(ひと)なれば、よき様(やう)に申(まう)す事(こと)もあらんずらん
と憑(たのみ)をかけ、その瀬(せ)に身(み)をもなげざりける心(こころ)の
程(ほど)こそはかなけれ。昔(むかし)壮里【*早離】(さうり)(サウリ)・息里【*速離】(そくり)(ソクリ)が海岳山[B 「岳」に「巌(ガン)」と傍書](かいがくせん)(カイガクザン)へはな
『御産(ごさん)』S0303
たれけんかなしみも、今(いま)こそ思(おも)ひしられけれ。○去(さる)
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程(ほど)に、此(この)人々(ひとびと)は鬼界(きかい)が島(しま)を出(いで)て、平宰相(へいざいしやう)の領(りやう)、肥
前国(ひぜんのくに)鹿瀬庄(かせのしやう)に着(つき)給(たま)ふ。宰相(さいしやう)、京(きやう)より人(ひと)を下(くだ)して、
「年(とし)の内(うち)は浪風(なみかぜ)はげしう、道(みち)の間(あひだ)もおぼつかなう
候(さうらふ)に、それにて能々(よくよく)身(み)いたは[B ッ]て、春(はる)にな[B ッ]て上(のぼ)り給(たま)へ」
とあり【有り】ければ、少将(せうしやう)鹿瀬庄(かせのしやう)にて、年(とし)を暮(くら)す。さる
程(ほど)に、同(おなじき)年(とし)の十一月(じふいちぐわつ)十二日[B ノ](じふににちの)寅剋(とらのこく)より、中宮(ちゆうぐう)御産(ごさん)
の気(け)ましますとて、京中(きやうぢゆう)六波羅(ろくはら)ひしめきあへ
り。御産所(ごさんじよ)は六波羅(ろくはら)池殿(いけどの)にて有(あり)けるに、法皇(ほふわう)も
御幸(ごかう)なる。関白殿(くわんばくどの)を始(はじ)め奉(たてまつり)て、太政(だいじやう)大臣(だいじん)以下(いげ)の
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公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、すべて世(よ)に人(ひと)とかぞへられ、官(くわん)加階(かかい)に
のぞみをかけ、所帯(しよたい)・所職(しよしよく)を帯(たい)する程(ほど)の人(ひと)の、一
人(いちにん)ももるる【洩るる】はなかりけり。先例(せんれい)O[BH も]女御(にようご)后(きさき)御産(ごさん)の時(とき)に
のぞんで、大赦(だいしや)おこなは【行なは】るる事(こと)あり【有り】。大治(だいぢ)二年(にねん)九
月(くぐわつ)十一日(じふいちにち)、待賢門院(たいけんもんゐん)御産(ごさん)の時(とき)、大赦(だいしや)あり【有り】き。其(その)例(れい)
とて、今度(こんど)も重科(ぢゆうくわ)(ヂウクワ)の輩(ともがら)おほく【多く】ゆるさ【許さ】れける中(なか)
に、俊寛(しゆんくわん)僧都(そうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。
御産(ごさん)平安(ペいあん)(ヘイアン)、王子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)ましまさば[M 「平安にあるならば」とあり「にあるならば」をミセケチ「王子御誕生ましまさば」と傍書]、八幡(やはた)・平野(ひらの)・大原野(おほはらの)(ヲホハラノ)などへ
行啓(ぎやうげい)なるべしと、御立願(ごりふぐわん)(ゴリウグワン)有(あり)けり。仙源【*全玄】(せんげん)法印(ほふいん)(ホウイン)是(これ)を
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敬白(けいひやく)す。神社(じんじや)は太神宮(だいじんぐう)を始(はじめ)奉(たてまつり)て廿(にじふ)余ケ所(よかしよ)、仏寺(ぶつじ)は
東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)以下(いげ)十六ケ所(じふろくかしよ)に御誦経(みじゆぎやう)あり【有り】。御
誦経(みじゆぎやう)の御使(おんつかひ)は、宮(みや)の侍(さぶらひ)(サブライ)の中(なか)に有官(うくわん)の[M 侍(さぶらひ)]輩(ともがら)是(これ)を
つとむ。ひやうもん【平文】の狩衣(かりぎぬ)に帯剣(たいけん)したる者共(ものども)が、色
色(いろいろ)の御誦経物(みじゆぎやうもつ)、御剣(ぎよけん)御衣(ぎよい)を持(もち)つづいて、東(ひんがし)の台(たい)よ
り南庭(なんてい)をわた[B ッ]【渡つ】て、西(にし)の中門(ちゆうもん)にいづ。目出(めで)たかりし
見物(けんぶつ)也(なり)。小松(こまつ)のおとど【大臣】は、例(れい)の善悪(ぜんあく)にさはが(さわが)【騒が】ぬ人(ひと)にて
おはしければ、其(その)後(のち)遥(はるか)に程(ほど)へて、嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)
以下(いげ)公達(きんだち)の車共(くるまども)みなやり【遣り】つづけさせ、色々(いろいろ)の御衣(ぎよい)
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四十(しじふ)領(りやう)、銀剣(ぎんけん)七[B ツ](ななつ)、広(ひろ)ぶたにをか(おか)【置か】せ、御馬(おんむま)十二疋(じふにひき)ひか【牽か】せ
てまいり(まゐり)【参り】給(たま)ふ。O[BH 是(これ)は]寛弘(くわんこう)に上東門院(しやうとうもんゐん)御産(ごさん)の時(とき)、御堂殿(みだうどの)
御馬(おんむま)をまいらせ(まゐらせ)【参らせ】られし其(その)例(れい)とぞ聞(きこ)えし。このお
とど【大臣】は、中宮(ちゆうぐう)の御(おん)せうと【兄】にておはしけるうへ【上】、父子(ふし)の
御契(おんちぎり)(ヲンチギリ)なれば、御馬(おんむま)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)ふもことはり(ことわり)【理】也(なり)。五条(ごでうの)
大納言(だいなごん)国綱【*邦綱】卿(くにつなのきやう)、御馬(おんむま)二疋(にひき)進(しん)ぜらる。「心(こころ)ざしのいたりか、
徳(とく)のあまりか」とぞ人(ひと)申(まうし)ける。なを(なほ)【猶】伊勢(いせ)より始(はじめ)
て、安芸(あき)の厳島(いつくしま)にいたるまで、七十(しちじふ)余ケ所(よかしよ)へ神馬(じんめ)を、
立(たて)らる。内裏(だいり)[M 「大内(おほうち)」をミセケチ「内裏」と傍書]にも、竜【*寮】(れう)の御馬(おんむま)に四手(しで)つけて、数十疋(すじつぴき)
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ひ(ッ)【引つ】たて【立て】たり。仁和寺[B ノ](にんわじの)御室(おむろ)(ヲムロ)は孔雀経(くじやくきやう)の法(ほふ)、天台座
主(てんだいざす)覚快(かくくわい)法親王(ほつしんわう)(ホツシンワウ)は七仏薬師(しちぶつやくし)の法(ほふ)、寺(てら)の長吏(ちやうり)円
慶【*円恵】(ゑんけい)法親王(ほつしんわう)は金剛童子(こんがうどうじ)の法(ほふ)、其(その)外(ほか)五大虚空蔵(ごだいこくうざう)・
六観音(ろくくわんおん)(ろくクワンヲン)、一字金輪(いちじきんりん)・O[BH 五壇(ごだん)の法(ほふ)(ほう)、六字加輪(ろくじかりん)・]八字文殊(はちじもんじゆ)、普賢延命(ふげんえんめい)(フゲンヱンメイ)にいたる
まで、残(のこ)る処(ところ)なう修(しゆ)せられけり。護摩(ごま)の煙(けぶり)御所
中(ごしよぢゆう)にみち、鈴(れい)の音(おと)(ヲト)雲(くも)をひびかし、修法(しゆほふ)(シユホウ)の声(こゑ)身(み)
の毛(け)よだ(ッ)て、いかなる御物(おんもの)(ヲンモノ)の気(け)なり共(とも)、面(おもて)(ヲモテ)をむかふ【向ふ】
べしとも見(み)えざりけり。猶(なほ)仏所(ぶつしよ)の法印(ほふいん)に仰(おほせ)(ヲホセ)て、
御身(ごしん)等身(とうじん)の七仏薬師(しちぶつやくし)、并(ならび)に五大尊(ごだいそん)の像(ざう)を
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つくり始(はじ)めらる。かかりしか共(ども)、中宮(ちゆうぐう)はひまなく
しきらせ給(たま)ふばかりにて、御産(ごさん)もとみに成(なり)やら
ず。入道(にふだう)相国(しやうこく)・二位殿(にゐどの)、胸(むね)に手(て)ををい(おい)【置い】て、「こはいかにせん、
いかにせん」とぞあきれ給(たま)ふ。人(ひと)の物(もの)申(まうし)けれ共(ども)、ただ「とも
かうも能(よき)様(やう)に、能(よき)様(やう)に」とぞの給(たまひ)ける。「さり共(とも)いくさ【軍】の陣(ぢん)
ならば、是(これ)程(ほど)浄海(じやうかい)は臆(おく)(ヲク)せじ物(もの)を」とぞ、後(のち)には仰(おほせ)られ[B 「仰られ」に「のたまひ」と傍書]
ける。御験者(ごげんじや)は、房覚(ばうかく)・性雲【*昌雲】(しやううん)両僧正(りやうそうじやう)、春尭【*俊堯】(しゆんげう)法印(ほふいん)、豪禅(がうぜん)・
実専【*実全】(じちせん)両僧都(りやうそうづ)、をのをの(おのおの)【各々】僧加【*僧伽】(そうが)の句共(くども)あげ、本寺(ほんじ)本山(ほんざん)の
三宝(さんぼう)、年来(ねんらい)所持(しよぢ)の本尊達(ほんぞんたち)、責(せめ)ふせ【伏せ】責(せめ)ふせ【伏せ】もま【揉ま】れ
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けり。誠(まこと)にさこそはと覚(おぼ)えてた(ッ)とかりける中(なか)に、
法皇(ほふわう)は折(をり)しも、新熊野(いまぐまの)へ御幸(ごかう)なるべきにて、御
精進(おんしやうじん)(ヲンシヤウジン)の次(つい)でなりける間(あひだ)、錦帳(きんちやう)ちかく【近く】御座(ござ)あ(ッ)て、
千手経(せんじゆきやう)をうちあげ【上げ】うちあげ【上げ】あそばさ【遊ばさ】れけるにこそ、今(いま)
一(ひと)きは事(こと)かは(ッ)【変つ】て、さしも踊(をど)りくるふ御(おん)よりまし共(ども)
が縛(ばく)も、しばらくうちしづめ【鎮め】けれ。法皇(ほふわう)仰(おほせ)なりけるは、
「いかなる御物気(おんもののけ)なり共(とも)、この老法師(おいぼふし)(ヲイボウシ)がかくて候(さうら)はん
には、争(いかで)かちかづき【近付き】奉(たてまつ)るべき。就中(なかんづく)[M に]今(いま)あらはるる
処(ところ)の怨霊共(をんりやうども)は、みなわが朝恩(てうおん)(テウヲン)によ[B (ッ)]て人(ひと)とな[B (ッ)]し物共(ものども)
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ぞかし。たとひ報謝(はうしや)(ホウシヤ)の心(こころ)をこそ存(ぞん)ぜず共(とも)、豈(あに)障碍[*底本 石ヘン無し](しやうげ)を
なすべきや。速(すみやか)にまかり【罷り】退(しりぞ)き候(さうら)へ」とて「女人(によにん)生産(しやうさん)し
がたからん時(とき)にのぞんで、邪魔遮生(じやましやしやう)し、苦(く)忍(しのび)がた
からんにも、心(こころ)をいたして大悲呪(だいひじゆ)(ダイヒシユ)を称誦(しようじゆ)(セウジユ)せば、鬼神(きじん)
退散(たいさん)して、安楽(あんらく)に生(しやう)ぜん」とあそばい【遊ばい】て、皆(みな)水精(ずいしやう)【水晶】の
御数珠(おんじゆず)(ヲンジユズ)をし(おし)【押し】もませ給(たま)へば、御産(ごさん)平安(ぺいあん)のみならず、
皇子(わうじ)にてこそましましけれ。頭(とうの)中将(ちゆうじやう)重衡(しげひら)、其(その)時(とき)は
いまだ中宮亮(ちゆうぐうのすけ)にておはしけるが、御簾(ぎよれん)の内(うち)よりつ(ッ)と
出(いで)て、「御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)候(さうらふ)ぞや」と、たからかに
P03030
申(まう)されければ、法皇(ほふわう)を始(はじめ)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、関白殿(くわんばくどの)以下(いげ)の
大臣(だいじん)、公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、をのをの(おのおの)【各々】の助修(じよじゆ)(ヂヨシユ)、数輩(すはい)の御験者(おんげんじや)(ヲンゲンジヤ)、陰
陽頭(おんやうのかみ)・典薬頭(てんやくのかみ)、すべて堂上(たうしやう)堂下(たうか)一同(いちどう)にあ[B ッ]と悦(よろこび)あへる
声(こゑ)、門外(もんぐわい)(モングハイ)までどよみて、しばし【暫し】はしづまり【静まり】やらざりけり。
入道(にふだう)相国(しやうこく)あまりのうれしさに、声(こゑ)をあげてぞなか【泣か】れ
ける。悦(よろこび)なき【悦び泣き】とは是(これ)をいふべきにや。小松殿(こまつどの)、中宮(ちゆうぐう)
の御方(おんかた)にまいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)ひて、金銭(きんせん)九十九文(くじふくもん)、皇子(わうじ)の
御枕(おんまくら)にをき(おき)、「天(てん)をも(ッ)てO[BH は]父(ちち)とし、地(ち)をも(ッ)て[B は]母(はは)とさだ
め給(たま)へ。御命(おんいのち)は方士(はうじ)東方朔(とうばうさく)が齢(よはひ)(ヨハイ)をたもち【保ち】、御心(おんこころ)には
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天照大神(てんせうだいじん)入(いり)かはらせ給(たま)へ」とて、桑(くは)(クワ)の弓(ゆみ)・蓬(よもぎ)の矢(や)にて、
『公卿揃(くぎやうぞろへ)』S0304
天地(てんち)四方(しはう)を射(い)させらる。○御乳(おんち)(ヲンチ)には、前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の
北方(きたのかた)と定(さだめ)られたりしが、去(さんぬる)七月(しちぐわつ)に難産(なんざん)をしてうせ
給(たまひ)しかば、[M 御(おん)めのと]平(へい)大納言(だいなごん)時忠[B ノ]卿(ときただのきやう)の北方(きたのかた)、O[BH 帥佐殿(そつのすけどの)]御乳(おんち)に
まいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ひけり。後(のち)には帥(そつ)の典侍(ないし)とぞ申(まうし)ける。法
皇(ほふわう)やがて還御(くわんぎよの)(クハンギヨ)[B ノ]御車(おんくるま)を門前(もんぜん)に立(たて)られたり。入道(にふだう)相国(しやうこく)
うれしさのあまりに、砂金(しやきん)一千両(いつせんりやう)、富士(ふじ)の綿(わた)二千
両(にせんりやう)、法皇(ほふわう)へ進上(しんじやう)せらる。しかる【然る】べからずとぞ人々(ひとびと)[M 内々(ないない)]ささ
やきあはれける。今度(こんど)の御産(ごさん)に勝事(しようし)(セウシ)あまたあり【有り】。
P03032
まづ法皇(ほふわう)の御験者(おんげんじや)(ヲンゲンジヤ)。次(つぎ)に后(きさき)御産(ごさん)の時(とき)、御殿(ごてん)の棟(むね)より
甑(こしき)をまろばかす事(こと)あり【有り】。皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)には南(みなみ)へお
とし【落し】、皇女(くわうによ)誕生(たんじやう)には北(きた)[B 「南」に「北」と傍書]へおとす【落す】を、是(これ)は北(きた)へ落(おと)したり
ければ、「こはいかに」とさはが(さわが)【騒が】れて、取(とり)あげて落(おと)しなをし(なほし)【直し】
たりけれ共(ども)、あしき御事(おんこと)に人々(ひとびと)申(まうし)あへり。おかしかり(をかしかり)
しは入道(にふだう)相国(しやうこく)のあきれざま、目出(めで)たかりしは小松(こまつ)の
おとど【大臣】のふるまひ【振舞】。ほい【本意】なかりしはO[BH 前ノ(さきの)]右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)の最
愛(さいあい)の北方(きたのかた)にをくれ(おくれ)【遅れ】給(たまひ)[M 「奉」をミセケチ「給」と傍書]て、大納言[B ノ](だいなごんの)大将(だいしやう)両職(りやうしよく)を辞(じ)して
籠居(ろうきよ)せられたりし事(こと)。兄弟(きやうだい)共(とも)に出仕(しゆつし)あらば、いかに
P03033
目出(めで)たからん。次(つぎ)には、七人(しちにん)の陰陽師(おんやうじ)(ヲンヤウジ)をめさ【召さ】れて、千度(せんど)の
御祓(おはらひ)(ヲハラヒ)仕(つかまつ)るに、其(その)中(なか)に掃部頭(かもんのかみ)時晴(ときはれ)といふ老者(らうしや)あり【有り】。
所従(しよじゆう)(シヨジウ)な(ン)ど(など)も乏少(ぼくせう)なりけり。余(あまり)に人(ひと)まいり(まゐり)【参り】つどひ【集ひ】て、た
かんなをこみ、稲麻竹葦(たうまちくゐ)(タウマチクイ)の如(ごと)し。「役人(やくにん)ぞ。あけ【明け】られよ」とて、
をし(おし)【押し】分(わけ)をし(おし)【押し】分(わけ)まいる(まゐる)【参る】程(ほど)に、右(みぎ)の沓(くつ)をふみ【踏み】ぬか【抜か】れて、[M 「ぬ」をミセケチ「て」と傍書]そこに
てち(ッ)と立(たち)やすらふが、冠(かぶり)をさへつきおとさ【落さ】れぬ。さばかり
の砌(みぎり)に、束帯(そくたい)ただしき老者(らうしや)が、もとどり【髻】はな(ッ)(はなつ)てねり
出(いで)たりければ、わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)こらへずして、一同(いちどう)に
ど[B ッ]とわらひ【笑ひ】あへり。陰陽師(おんやうじ)(ヲンヤウジ)な(ン)ど(など)いふは、反陪(へんばい)とて
P03034
足(あし)をもあだにふまずとこそ承(うけたまは)れ。それにかかる不
思儀(ふしぎ)の有(あり)けるO[BH を]、其(その)時(とき)はなにとも覚(おぼ)えざりしか共(ども)、
後(のち)にこそ思(おも)ひあはする事共(ことども)も多(おほ)かりけれ。御
産(ごさん)によ(ッ)て六波羅(ろくはら)へまいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ふ人々(ひとびと)、関白(くわんばく)松殿(まつどの)、太
政(だいじやう)大臣(だいじん)妙音院(めうおんゐん)(メウヲンゐん)、左大臣(さだいじん)大炊御門(おほいのみかど)(ヲヲイノミカド)、右大臣(うだいじん)月輪殿(つきのわどの)、内
大臣(ないだいじん)小松殿(こまつどの)、左大将(さだいしやう)実定(さねさだ)、源(みなもとの)大納言(だいなごん)定房(さだふさ)、三条(さんでうの)大納言(だいなごん)
実房(さねふさ)、五条(ごでうの)大納言(だいなごん)国綱【*邦綱】(くにつな)、藤(とう)大納言[M 「中納言」とあり「中」をミセケチ「大」と傍書](だいなごん)実国(さねくに)、按察使(あぜつし)(アンゼツシ)資
方【*資賢】(すけかた)、中[B ノ]御門[B ノ](なかのみかどの)中納言(ちゆうなごん)宗家(むねいへ)(ムネイヱ)、花山院(くわさんのゐんの)中納言(ちゆうなごん)兼雅(かねまさ)、源(げん)中
納言(ぢゆうなごん)雅頼(がらい)、権(ごん)中納言(ぢゆうなごん)実綱(さねつな)、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長(すけなが)、池[B ノ](いけの)中納言(ちゆうなごん)
P03035
頼盛(よりもり)、左衛門[B ノ]督(さゑもんのかみ)時忠(ときただ)、別当(べつたう)忠親(ただちか)、左(さ)の宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実家(さねいへ)(サネイヱ)、右(みぎ)
の宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)実宗(さねむね)。新宰相(しんさいしやうの)中将(ちゆうじやう)通親(みちちか)、平(へい)宰相(ざいしやう)教盛(のりもり)、
六角(ろくかくの)宰相(さいしやう)家通(いへみち)、堀河宰相(ほりかはのさいしやう)頼定(よりさだ)、左大弁宰相(さだいべんのさいしやう)長方(ながかた)、右
大弁(うだいべんの)三位(さんみ)俊経(としつね)、左兵衛督(さひやうゑのかみ)重教【*成範】(しげのり)、右兵衛督(うひやうゑのかみ)光能(みつよし)、皇太
后宮(くわうだいこうくうの)(クハウダイコクウノ)大夫(だいぶ)朝方(ともかた)、左京[B ノ]大夫(さきやうのだいぶ)長教【*脩範】(ながのり)、太宰大弐(ださいのだいに)親宣【*親信】(ちかのぶ)、新三
位(しんざんみ)実清(さねきよ)、已上(いじやう)三十三人(さんじふさんにん)、右大弁(うだいべん)の外(ほか)は直衣(ちよくい)也(なり)。不参(ふさん)の人
人(ひとびと)には、花山院[B ノ](くわさんのゐんの)前[B ノ](さきの)太政(だいじやう)大臣(だいじん)忠雅公(ただまさこう)、大宮[B ノ](おほみやの)大納言(だいなごん)隆季卿(たかすゑのきやう)
以下(いげ)十(じふ)余人(よにん)、後日(ごにち)に布衣(ほうい)着(ちやく)して、入道(にふだう)相国(しやうこく)の西八条[B ノ](にしはつでうの)
『大塔建立(だいたふこんりふ)』S0305
亭(てい)へむかは【向は】れけるとぞ聞(きこ)えし。○御修法(みしゆほふ)(ミシユヲウ)の結願(けつぐわん)(ケツグハン)に勧賞
P03036
共(けんじやうども)おこなは【行なは】る。仁和寺[B ノ](にんわじの)御室(おむろ)(ヲムロ)は東寺[B ノ](とうじの)修造(しゆざう)せらるべし、并(ならび)に
後七日(ごしちにち)の御修法(みしゆほふ)(ミシユヲウ)、大眼[B 「眼」の左に「元」と傍書]【*大元】(たいげん)の法(ほふ)(ホウ)、灌頂(くわんぢやう)(クハンヂヤウ)興行(こうぎやう)せらるべき由(よし)
仰下(おほせくだ)さる。御弟子(おんでし)(ヲンデシ)覚誓[B 「誓」の左に「成」と傍書]【*覚成】(かくせい)(カクセイ)僧都(そうづ)、法印(ほふいん)に挙(きよ)せらる。座
主宮(ざすのみや)は、二品(にほん)并(ならび)に牛車(ぎつしや)(ギツシヤ)の宣旨(せんじ)を申(まう)させ給(たま)ふ。仁和寺[B ノ](にんわじの)
御室(おむろ)(ヲムロ)ささへ【支へ】申(まう)させ給(たま)ふによ[B ッ]て、法眼(ほふげん)(ホウゲン)円良(ゑんりやう)、法印(ほふいん)にな
さる。其(その)外(ほか)の勧賞共(けんじやうども)毛挙(もうきよ)にいとまあらずとぞ
きこえ【聞え】し。中宮(ちゆうぐう)は日数(ひかず)へ【経】にければ、六波羅(ろくはら)より内裏(だいり)へ
まいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ひけり。此(この)御(おん)むすめ后(きさき)にたた【立た】せ給(たまひ)しかば、
入道(にふだう)相国(しやうこく)夫婦(ふうふ)共(とも)に、「あはれ、いかにもして皇子(わうじ)御誕
P03037
生(ごたんじやう)あれかし。位(くらゐ)につけ奉(たてまつ)り、外祖父(ぐわいそぶ)、外祖母(ぐわいそぼ)とあふが
れん」とぞねがは【願は】れける。わがあがめ奉(たてまつ)る安芸(あき)の厳島(いつくしま)
に申(まう)さんとて、月(つき)まうでを始(はじめ)て、祈(いの)り申(まう)されけれ
ば、中宮(ちゆうぐう)やがて御懐妊(ごくわいにん)あ(ッ)て、思(おも)ひのごとく皇子(わうじ)
にてましましけるこそ目出(めで)たけれ。抑(そもそも)平家(へいけ)[M の]安芸(あき)
の厳島(いつくしま)を信(しん)じ始(はじめ)られける事(こと)はいかにといふに、鳥羽
院(とばのゐん)の御宇(ぎよう)に、清盛公(きよもりこう)いまだ安芸守(あきのかみ)たりし時(とき)、安芸
国(あきのくに)をも(ッ)て、高野(かうや)の大塔(だいたふ)(ダイタウ)を修理(しゆり)せよとて、渡辺(わたなべ)の遠
藤(ゑんどう)六郎(ろくらう)頼方(よりかた)を雑掌(ざつしやう)に付(つけ)られ、六年(ろくねん)に修理(しゆり)をは[B ン]【終ん】
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ぬ。修理(しゆり)をは[B ッ]て後(のち)、清盛(きよもり)高野(かうや)へのぼり、大塔(だいたふ)(ダイタウ)おがみ(をがみ)【拝み】、奥
院(おくのゐん)(ヲクノイン)へまいら(まゐら)【参ら】れたりければ、いづくより来(きた)る共(とも)なき老
僧(らうそう)の、眉(まゆ)には霜(しも)をたれ、額(ひたひ)(ヒタイ)に浪(なみ)をたたみ、かせ杖(づゑ)(ヅエ)【鹿杖】の
ふたまたなるにすが[B ッ]ていでき【出来】給(たま)へり。良(やや)久(ひさ)しう
御物語(おんものがたり)せさせ給(たま)ふ。「昔(むかし)よりいまにいたるまで、此(この)山(やま)
は密宗(みつしゆう)(ミツシウ)をひかへて退転(たいてん)なし。天下(てんが)に又(また)も候(さうら)はず。
大塔(だいたふ)すでに修理(しゆり)おはり(をはり)候(さうらひ)たり。さては安芸(あき)の厳島(いつくしま)、
越前(ゑちぜん)の気比(けい)の宮(みや)は、両界(りやうがい)の垂跡(すいしやく)で候(さうらふ)が、気比(けい)の
宮(みや)はさかへ(さかえ)【栄へ】たれ共(ども)、厳島(いつくしま)はなきが如(ごとく)に荒(あれ)はて【果て】て候(さうらふ)。此(この)
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次(ついで)に奏聞(そうもん)して修理(しゆり)せさせ給(たま)へ。さだにも候(さうら)はば、官(くわん)(クハン)加
階(かかい)は肩(かた)をならぶる人(ひと)もあるまじきぞ」とて立(たた)
れけり。此(この)老僧(らうそう)の居(ゐ)給(たま)へる所(ところ)、異香(いきやう)すなはち
薫(くん)じたり。人(ひと)を付(つけ)てみせ【見せ】給(たま)へば、三町(さんぢやう)ばかりはみ
え【見え】給[B ヒ](たまひ)て、其(その)後(のち)はかきけつ【消つ】やうに失(うせ)給[B ヒ](たまひ)ぬ。ただ人[*「人」に濁点 ](びと)
にあらず、大師(だいし)にてましましけりと、弥(いよいよ)た[B ッ]とくおぼ
えて[M 「おぼしめし」とあり「しめし」をミセケチ「えて」と傍書]、娑婆(しやば)世界(せかい)の思出(おもひで)(オモイデ)にとて、高野(かうや)の金堂(こんだう)
に曼陀羅(まんだら)をかか【書か】れけるが、西曼陀羅(さいまんだら)をば常明(じやうみやう)法
印(ほふいん)(ホウヰン)といふ絵師(ゑし)に書(かか)せらる。東曼陀羅(とうまんだら)をば清盛(きよもり)
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かかんとて、自筆(じひつ)にかか【書か】れけるが、何(なに)とかおもは【思は】れけん、
八葉(はちえふ)(ハチヨウ)の中尊(ちゆうぞん)(チウゾン)の宝冠(ほうくわん)(ホウクハン)をばわが首(かうべ)の血(ち)をいだい【出い】て
かかれけるとぞ聞(きこ)えし。さて都(みやこ)へのぼり、院参(ゐんざん)して
此(この)由(よし)奏聞(そうもん)せられければ、君(きみ)もなのめならず御感(ぎよかん)
あ[B ッ]て、猶(なほ)任(にん)をのべ【延べ】られ、厳島(いつくしま)を修理(しゆり)せらる。鳥居(とりゐ)を
立(たて)かへ、社々(やしろやしろ)を作(つく)りかへ、百八十間(ひやくはちじつけん)の廻廊(くわいらう)(クハイラウ)をぞ造(つく)(ツクラ)ら
れける。修理(しゆり)をは[B ッ]て、清盛(きよもり)厳島(いつくしま)へまいり(まゐり)【参り】、通夜(つや)せられ
たりける夢(ゆめ)に、御宝殿(ごほうでん)の内(うち)より鬟(びんづら)ゆふ(ゆう)【結う】たる天
童(てんどう)の出(いで)て、「これは大明神(だいみやうじん)の御使(おんつかひ)也(なり)。汝(なんぢ)この剣(けん)をも(ッ)て
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一天四海(いつてんしかい)をしづめ、朝家(てうか)の御(おん)まもりたるべし」とて、
銀(しろかね)のひるまき【蛭巻】したる小長刀(こなぎなた)を給(たま)はるといふ夢(ゆめ)を
みて、覚(さめ)て後(のち)見(み)給(たま)へば、うつつに枕(まくら)がみ【枕上】にぞた(ッ)【立つ】たりける。
大明神(だいみやうじん)御詫宣(ごたくせん)あ(ッ)て、「汝(なんぢ)しれ【知れ】りや、忘(わす)れりや、ある
聖(ひじり)をも(ッ)ていはせし事(こと)は。但(ただし)悪行(あくぎやう)あらば、子孫(しそん)までは
かなふ【叶ふ】まじきぞ」とて、大明神(だいみやうじん)あがら【上がら】せ給(たまひ)ぬ。目出(めで)た
『頼豪(らいがう)』S0306
かりし[M 御]事(おんこと)[B 共(ども)]也(なり)。○白河[B ノ]院(しらかはのゐん)御在位(ございゐ)の御時(おんとき)、京極大殿(きやうごくのおほとの)
の御(おん)むすめ后(きさき)にたたせ給(たまひ)て、兼子【*賢子】(けんし)の中宮(ちゆうぐう)とて、御
最愛(ごさいあい)有(あり)けり。主上(しゆしやう)此(この)御腹(おんぱら)(おんハラ)に皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あら
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まほしうおぼしめし【思し召し】、其(その)比(ころ)有験(うげん)の僧(そう)と聞(きこ)えし三
井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)をめし【召し】て、「汝(なんぢ)此(この)后(きさき)の腹(はら)に、皇
子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)祈(いのり)申(まう)せ。御願(ごぐわん)(ゴグハン)成就(じやうじゆ)せば、勧賞(けんじやう)はこふ【乞ふ】に
よるべし」とぞ仰(おほせ)ける。「やすう候(さうらふ)」とて三井寺(みゐでら)にかへり、
百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を摧(くだい)て祈(いのり)申(まうし)ければ、中宮(ちゆうぐう)やがて百日(ひやくにち)の
うちに御懐妊(ごくわいにん)あ(ッ)て、承保(しようほう)(セウホウ)元年(ぐわんねん)十二月(じふにぐわつ)十六日(じふろくにち)、御
産(ごさん)平安(ぺいあん)(ヘイアン)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有(あり)けり。君(きみ)なのめならず
御感(ぎよかん)あ(ッ)て、三井寺(みゐでら)の頼豪阿闍梨(らいがうあじやり)をめし【召し】て、「汝(なんぢ)が所
望(しよまう)の事(こと)はいかに」と仰下(おほせくだ)されければ、三井寺(みゐでら)に戒壇(かいだん)
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建立(こんりふ)(コンリウ)の事(こと)を奏(そう)す。主上(しゆしやう)「これこそ存(ぞん)の外(ほか)の所望(しよまう)
なれ。一階僧正(いつかいそうじやう)な(ン)ど(など)をも申(まうす)べきかとこそおぼしめし【思し召し】
つれ。凡(およそ)(ヲヨソ)は皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)あ(ッ)て、祚(そ)をつが【継が】しめん事(こと)も、
海内(かいだい)無為(ぶゐ)(ブイ)を思(おも)ふため也(なり)。今(いま)汝(なんぢ)が所望(しよまう)達(たつ)せば、山門(さんもん)
いきどほ(ッ)【憤つ】て世上(せじやう)しづかなるべからず。両門(りやうもん)合戦(かつせん)して、
天台(てんだい)の仏法(ぶつぽふ)ほろびなんず」とて、御(おん)ゆるされ【許され】もな
かりけり。頼豪(らいがう)口(くち)おしい(をしい)【惜しい】事(こと)也(なり)とて、三井寺(みゐでら)にか
へ(ッ)【帰つ】て、ひ死(じに)【干死】にせんとす。主上(しゆしやう)大(おほき)におどろかせ給(たまひ)て、
江帥(がうぞつ)匡房卿(きやうばうのきやう)、其(その)比(ころ)は未(いまだ)美作守(みまさかのかみ)と聞(きこ)えしを召(めし)て、
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「汝(なんぢ)は頼豪(らいがう)と師檀(しだん)の契(ちぎり)あんなり。ゆい【行い】てこしらへ
て見(み)よ」と仰(おほせ)ければ、美作守(みまさかのかみ)綸言(りんげん)を蒙(かうぶ)(ッ)て頼豪(らいがう)が
宿坊(しゆくばう)に行(ゆき)むかひ【向ひ】、勅定(ちよくぢやう)の趣(おもむき)(ヲモムキ)を仰含(おほせふく)(ヲホセフク)めんとする
に、以[B ノ]外(もつてのほか)にふすぼ(ッ)たる持仏堂(ぢぶつだう)にたてごも(ッ)て、おそろ
しげ【恐ろし気】なるこゑ【声】して、「天子(てんし)には戯(たはぶれ)の詞(ことば)なし、綸言(りんげん)汗(あせ)
のごとし【如し】とこそ承(うけたまは)れ。是(これ)程(ほど)の所望(しよまう)かなは【叶は】ざらんに
をいて(おいて)は、わが祈(いの)りだし【出し】たる皇子(わうじ)なれば、取(とり)奉(たてまつり)て
魔道(まだう)へこそゆかんずらめ」とて、遂(つひ)(ツイ)に対面(たいめん)もせざり
けり。美作守(みまさかのかみ)帰(かへ)りまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、此(この)由(よし)を奏聞(そうもん)す。頼豪(らいがう)は
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やがてひ死(じに)【干死】に死(しに)にけり。君(きみ)いかがせんずると、叡慮(えいりよ)(ヱイリヨ)を
おどろかさせおはします。皇子(わうじ)やがて御悩(ごなう)つかせ給(たまひ)
て、さまざまの御祈共(おんいのりども)有(あり)しか共(ども)、かなふ【叶ふ】べしともみえ【見え】
させ給(たま)はず。白髪(はくはつ)なりける老僧(らうそう)の、錫杖(しやくぢやう)も(ッ)【持つ】て皇
子(わうじ)の御枕(おんまくら)にたたずむと[M 「たたずみ」とあり「み」をミセケチ「むと」と傍書]、人々(ひとびと)の夢(ゆめ)にも見(み)え、まぼろし
にも立(たち)けり。おそろし【恐ろし】な(ン)ど(など)もをろか(おろか)【愚】なり。去(さる)程(ほど)に、
承暦(しようりやく)(セウリヤク)元年(ぐわんねん)八月(はちぐわつ)六日[B ノヒ](むゆかのひ)、皇子(わうじ)御年(おんとし)四歳(しさい)にて遂(つひ)に
かくれさせ給(たまひ)ぬ。敦文(あつふん)の親王(しんわう)是(これ)也(なり)。主上(しゆしやう)なのめな
らず御歎(おんなげき)あり【有り】けり。山門(さんもん)に又(また)西京(さいきやう)の座主(ざす)、良信【*良真】(りやうしん)大
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僧正(だいそうじやう)、其(その)比(ころ)は円融房(ゑんゆうばう)(エンユウバウ)の僧都(そうづ)とて、有験(うげん)の僧(そう)と
聞(きこ)えしを、内裏(だいり)へめし【召し】て、「こはいかがせんずる」と仰(おほせ)け
れば、「いつも我(わが)山(やま)の力(ちから)にてこそか様(やう)【斯様】の御願(ごぐわん)は成就(じやうじゆ)
する事(こと)で候(さうら)へ。九条[B ノ](くでうの)右丞相(うしようじやう)(ユウセウジヤウ)O[BH 師輔公(もろすけこう)も イ]、慈恵大僧正(じゑだいそうじやう)に契(ちぎり)申(まう)
させ給(たまひ)しによ(ッ)てこそ、冷泉院(れいぜいゐん)の皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)は
候(さうらひ)しか。やすい程(ほど)の御事(おんこと)候(ざうらふ)」とて、比叡山(ひえいさん)(ヒヱイサン)にかへりの
ぼり、山王大師(さんわうだいし)に百日(ひやくにち)肝胆(かんたん)を摧(くだい)て祈(いのり)申(まうし)ければ、
中宮(ちゆうぐう)やがて百日(ひやくにち)の内(うち)に御懐妊(ごくわいにん)(ごクハイニン)あ(ッ)て、承暦(しようりやく)(セウリヤク)三年(さんねん)
七月(しちぐわつ)九日(ここのかのひ)、御産(ごさん)平安(ぺいあん)、皇子(わうじ)御誕生(ごたんじやう)有(あり)けり。堀河
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天皇(ほりかはのてんわう)是(これ)也(なり)。怨霊(をんりやう)は昔(むかし)もおそろしき【恐ろしき】事(こと)也(なり)。今度(こんど)
さしも目出(めで)たき御産(ごさん)に、O[BH 非常(ひじやう)の イ]大赦(だいしや)はおこなは【行なは】れたりといへ
共(ども)、俊寛(しゆんくわん)(シユンクハン)僧都(そうづ)一人(いちにん)、赦免(しやめん)なかりけるこそうたてけれ。
同(おなじき)十二月(じふにぐわつ)八日(やうかのひ)、皇子(わうじ)東宮(とうぐう)にたたせ給(たま)ふ。傅(ふ)には、小松(こまつの)内
『少将(せうしやう)都帰(みやこがへり)』S0307
大臣(ないだいじん)、大夫(だいぶ)には池(いけ)の中納言(ちゆうなごん)頼盛卿(よりもりのきやう)とぞ聞(きこ)えし。○明(あく)
れば治承(ぢしよう)(ヂセウ)三年(さんねん)正月(しやうぐわつ)下旬(げじゆん)に、丹羽(たんばの)少将(せうしやう)成経(なりつね)、O[BH 平(へい)判官(はんぐわん)康頼(やすより)、]肥前
国(ひぜんのくに)鹿瀬庄(かせのしやう)をた(ッ)【発つ】て、都(みやこ)へといそがれけれ共(ども)、余寒(よかん)猶(なほ)
はげしく、海上(かいしやう)もいたく荒(あれ)ければ、浦(うら)づたひ【浦伝ひ】O[BH 島(しま)づたひ【島伝ひ】]して、
きさらぎ【二月】十日比(とをかごろ)にぞ備前(びぜんの)児島(こじま)(コジマ)に着(つき)給(たま)ふ。それ
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より父(ちち)大納言殿(だいなごんどの)のすみ【住み】給(たまひ)ける所(ところ)を尋(たづね)いり【入り】て見(み)
給(たま)ふに、竹(たけ)の柱(はしら)、ふりたる障子(しやうじ)なんど(など)にかき【書き】をか(おか)【置か】れ
たる筆(ふで)のすさみを見(み)給(たまひ)て、「人(ひと)の形見(かたみ)には手跡(しゆせき)に
過(すぎ)たる物(もの)ぞなき。書(かき)をき(おき)給(たま)はずは、いかでかこれを
みる【見る】べき」とて、康頼(やすより)入道(にふだう)と二人(ににん)、よう【読う】ではなき【泣き】、ないて
はよむ。「安元(あんげん)三年(さんねん)七月(しちぐわつ)廿日[B ノヒ](はつかのひ)出家(しゆつけ)、同(おなじき)廿六日(にじふろくにち)信俊(のぶとし)下
向(げかう)」とかか【書か】れたり。さてこそ源(げん)左衛門尉(ざゑもんのじよう)信俊(のぶとし)がまいり(まゐり)【参り】
たりけるも知(しら)れけれ。そばなる壁(かべ)には、「三尊(さんぞん)来迎(らいかう)便(たより)
あり。九品(くほん)往生(わうじやう)無(レ)疑(うたがひなし)」ともかか【書か】れたり。此(この)形見(かたみ)を見(み)給(たまひ)
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てこそ、さすが欣求浄土(ごんぐじやうど)ののぞみもおはしけりと、限(かぎり)
なき歎(なげき)の中(なか)にも、いささかたのもしげ【頼もし気】にはの給(たま)ひけれ。
其(その)墓(はか)を尋(たづね)て見(み)給(たま)へば、松(まつ)の一(ひと)むらある中(なか)に、
かひがひしう壇(だん)をついたる事(こと)もなし。土(つち)のすこし【少し】高(たか)
き所(ところ)に少将(せうしやう)袖(そで)かきあはせ【合はせ】、いき【生き】たる人(ひと)に物(もの)を申(まうす)やう
に、泣々(なくなく)申(まう)されけるは、「遠(とほ)(トヲ)き御(おん)まもり【守り】とならせおはし
まして候(さうらふ)事(こと)をば、島(しま)にてかすか【幽】に伝(つた)へ承(うけたまは)りしか
共(ども)、心(こころ)にまかせ【任せ】ぬうき身(み)なれば、いそぎまいる(まゐる)【参る】事(こと)も
候(さうら)はず。成経(なりつね)彼(かの)島(しま)へながされてO[BH のちの便(たより)なさ、一日(いちにち)片時(へんし)の有(あり)がたふ(ありがたう)こそ候(さうら)ひしか。さすが]露(つゆ)の命(いのち)消(きえ)やらず
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して、二(ふた)とせ【年】ををく(ッ)(おくつ)【送つ】てめし【召し】かへさるるうれしさは、さる
事(こと)にて候(さうら)へ共(ども)、この世(よ)にわたらせ給(たま)ふをも見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】
て候(さうらは)ばこそ、命(いのち)のながき【長き】かひもあらめ。是(これ)まではいそ
がれつれ共(ども)、いまより後(のち)はいそぐべし共(とも)おぼえず」
と、かきくどゐ(くどい)てぞなか【泣か】れける。誠(まこと)に存生(ぞんじやう)の時(とき)なら
ば、大納言(だいなごん)入道殿(にふだうどの)こそ、いかに共(とも)の給(たま)ふべきに、生(しやう)を
へだてたる習(なら)ひ程(ほど)うらめしかり【恨めしかり】ける物(もの)はなし。苔(こけ)
の下(した)には誰(たれ)かこたふべき。ただ嵐(あらし)にさはぐ(さわぐ)【騒ぐ】松(まつ)の響(ひびき)ば
かりなり。其(その)夜(よ)はよ【夜】もすがら、康頼(やすより)入道(にふだう)と二人(ににん)、墓(はか)
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のまはりを行道(ぎやうだう)して念仏(ねんぶつ)申(まうし)、明(あけ)ぬればあたらしう
壇(だん)つき、くぎぬき【釘貫】せさせ、まへに仮屋(かりや)つくり、七日(しちにち)七夜(しちや)
念仏(ねんぶつ)申(まうし)経(きやう)書(かい)て、結願(けつぐわん)(ケツグハン)には大(おほき)なる卒兜婆(そとば)をたて、
「過去(くわこ)(クハコ)聖霊(しやうりやう)、出離生死(しゆつりしやうじ)、証大菩提(しようだいぼだい)(セウダイボタイ)」とかいて、年号(ねんがう)月日(つきひ)
の下(した)には、「孝子(かうし)[* 孝の左に(ケウ)の振り仮名]成経(なりつね)」とかか【書か】れたれば、しづ山(やま)がつの心(こころ)なき
も、子(こ)に過(すぎ)たる宝(たから)なしとて、泪(なみだ)をながし袖(そで)をしぼら
ぬはなかりけり。年(とし)去(さり)(サリ)年(とし)来(きた)れ共(ども)、忘(わすれ)がたきは撫育(ぶいく)
の昔(むかし)の恩(おん)(ヲン)、夢(ゆめ)のごとく【如く】幻(まぼろし)のごとし。尽(つき)がたきは恋慕(れんぼ)
のいまの涙(なみだ)也(なり)。三世(さんぜ)十方(じつぱう)の仏陀(ぶつだ)の聖衆(しやうじゆ)もあはれみ
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給(たま)ひ、亡魂(ばうこん)尊霊(そんりやう)もいかにうれしとおぼしけん。「今(いま)しばらく念仏(ねんぶつ)の功(こう)をもつむ【積む】べう候(さうら)へ共(ども)、都(みやこ)に待(まつ)
人共(ひとども)も心(こころ)もとなう候(さうらふ)らん。又(また)こそまいり(まゐり)【参り】候(さうら)はめ」とて、
亡者(まうじや)にいとま申(まうし)つつ、泣々(なくなく)そこをぞ立(たた)れける。草(くさ)
の陰(かげ)にても余波(なごり)おしう(をしう)【惜しう】やおもは【思は】れけん。O[BH 同(おなじき)]三月(さんぐわつ)十
六日(じふろくにち)、少将(せうしやう)鳥羽(とば)へあかう【明かう】ぞ付(つき)給(たま)ふ。故(こ)大納言(だいなごん)の山
庄(さんざう)、すはま【州浜】殿(どの)とて[M 「にて」とあり「に」をミセケチ「ト」と傍書]鳥羽(とば)にあり【有り】。住(すみ)あらして年(とし)
へ【経】にければ、築地(ついぢ)はあれどもおほい(おほひ)【覆ひ】もなく、門(もん)はあ
れ共(ども)扉(とびら)もなし。庭(には)に立入(たちいり)見(み)給(たま)へば、人跡(じんせき)たえ【絶え】て
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苔(こけ)ふかし。池(いけ)の辺(ほとり)を見(み)まはせば、秋(あき)の山(やま)の春風(はるかぜ)に白波(しらなみ)し
きりにおり【織り】かけて、紫鴛(しゑん)白鴎(はくおう)(ハクヲウ)逍遥(せうよう)す。興(きよう)(ケウ)ぜし人(ひと)の
恋(こひ)しさに、尽(つき)せぬ物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。家(いへ)はあれ共(ども)、らんもん【羅文】
破(やぶれ)て、蔀(しとみ)やり戸(ど)もたえ【絶え】てなし。「爰(ここ)には大納言(だいなごん)O[BH 殿(どの)]のと
こそおはせしか、此(この)妻戸(つまど)をばかうこそ出入(いでいり)給(たまひ)しか。あの
木(き)をば、みづからこそうへ(うゑ)【植ゑ】給(たまひ)しか」な(ン)ど(など)いひて、ことの
葉(は)につけて、ちち【父】の事(こと)を恋(こひ)しげにこその給(たま)ひけ
れ。弥生(やよひ)(ヤヨイ)なかの六日(むゆか)なれば、花(はな)はいまだ名残(なごり)あり【有り】。楊
梅(やうばい)桃李(たうり)の梢(こずゑ)こそ、折(をり)しりがほ【折知顔】に色々(いろいろ)なれ。昔(むかし)の
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あるじはなけれ共(ども)、春(はる)を忘(わす)れぬ花(はな)なれや。少将(せうしやう)花(はな)
のもとに立(たち)よ(ッ)【寄つ】て、桃李(たうり)不(レ)言(ものいはず)春(はる)幾(いくばくか)暮(くれぬる)煙霞(えんか)(ヱンカ)無(レ)跡(あとなし)
昔(むかし)誰(たれか)栖(すんじ) K017ふるさとの花(はな)の物(もの)いふ世(よ)なりせばいかにむ
かし【昔】のことをとは【問は】まし W014この古(ふる)き詩歌(しいか)を口(くち)ずさみ
給(たま)へば、康頼(やすより)入道(にふだう)も折節(をりふし)あはれ【哀】に覚(おぼ)えて、墨染(すみぞめ)の
袖(そで)をぞぬらしける。暮(くる)る程(ほど)とは待(また)れけれ共(ども)、あまり
に名残(なごり)おしく(をしく)【惜しく】て、夜(よ)ふくるまでこそおはしけれ。深
行(ふけゆく)ままには、荒(あれ)たる宿(やど)のならひ【習ひ】とて、ふるき軒(のき)の板
間(いたま)より、もる月影(つきかげ)ぞくまもなき。鶏籠(けいろう)の山(やま)明(あけ)なん
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とすれ共(ども)、家路(いへぢ)はさらにいそがれず。さても有(ある)べき
ならねば、むかへ【向へ】に乗物共(のりものども)つかはし【遣し】て待(まつ)らんも心(こころ)なし
とて、泣々(なくなく)すはま【州浜】殿(どの)を出(いで)つつ、都(みやこ)へかへり入[B レ](いられ)けん心(こころ)の
中共(うちども)、さこそはあはれ【哀】にもうれしう【嬉しう】も有(あり)けめ。康頼(やすより)入
道(にふだう)がむかへ【向へ】にも乗物(のりもの)あり【有り】けれ共(ども)、それにはのら【乗ら】で、「今(いま)
さら名残(なごり)の惜(をし)きに」とて、少将(せうしやう)の車(くるま)の尻(しり)にの(ッ)【乗つ】て、七
条河原(しつでうかはら)まではゆく【行く】。其(それ)より行別(ゆきわかれ)けるに、猶(なほ)行(ゆき)もやら
ざりけり。花(はな)の下(もと)の半日(はんじつ)の客(かく)、月[B ノ](つきの)前(まへ)の一夜(いちや)の友(とも)、旅
人(りよじん)が一村雨(ひとむらさめ)の過行(すぎゆく)に、一樹(いちじゆ)の陰(かげ)に立(たち)よ(ッ)【寄つ】て、わかるる
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余波(なごり)もおしき(をしき)【惜しき】ぞかし。况(いはん)や是(これ)はうかり【憂かり】し島(しま)のす
まひ【住ひ】、船(ふね)のうち、浪(なみ)のうへ【上】、一業(いちごふ)(イチゴウ)所感(しよかん)の身(み)なれば、先
世(ぜんぜ)の芳縁(はうえん)も浅(あさ)からずや思(おも)ひしられけん。少将(せうしやう)は
しうと【舅】平宰相(へいざいしやう)の宿所(しゆくしよ)へ立入(たちいり)給(たま)ふ。少将(せうしやう)の母(はは)うへは
霊山(りやうぜん)におはしけるが、昨日(きのふ)より宰相(さいしやう)の宿所(しゆくしよ)におはし
てまた【待た】れけり。少将(せうしやう)の立入(たちいり)給(たま)ふ姿(すがた)を一目(ひとめ)みて、「命(いのち)あ
れば」とばかり[M ぞ]の給(たまひ)て、引(ひき)かづいてぞ臥(ふし)給(たま)ふ。宰相(さいしやう)の
内(うち)の女房(にようばう)、侍共(さぶらひども)(サブライども)さしつどひ【集ひ】て、みな悦(よろこび)なき【悦び泣き】共(ども)しけり。
まして少将(せうしやう)の北方(きたのかた)、めのとの六条(ろくでう)が心(こころ)のうち、さこそは
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うれしかりけめ。六条(ろくでう)は尽(つき)せぬ物(もの)おもひ【思ひ】に、黒(くろ)かりし髪(かみ)
もみなしろく【白く】なり、北方(きたのかた)さしも花(はな)やかにうつくしう
おはせしか共(ども)、いつしかやせ【痩せ】おとろへて、其(その)人(ひと)共(とも)みえ【見え】給(たま)は
ず。ながされ給(たまひ)し時(とき)、三歳(さんざい)にて別(わかれ)しおさなき(をさなき)【幼き】[B 「おさな」に「若君(わかぎみ) イ」と傍書]人(ひと)、お
となしうな(ッ)て、髪(かみ)ゆふ【結ふ】程(ほど)也(なり)。又(また)其(その)[M 御(おん)]そばに、三(みつ)ばかり
なるおさなき(をさなき)【幼き】人(ひと)のおはしけるを、少将(せうしやう)「あれはいかに」と
の給(たま)へ【宣へ】ば、六条(ろくでう)「是(これ)こそ」とばかり申(まうし)て、袖(そで)をかほ【顔】にをし(おし)【押し】
あてて涙(なみだ)をながしけるにこそ、さては下(くだ)りし時(とき)、心(こころ)く
るしげなる有(あり)さまを見(み)をき(おき)【置き】しが、事(こと)ゆへ(ゆゑ)【故】なくそ
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立(だち)【育ち】けるよと、思(おも)ひ出(いで)てもかなしかり【悲しかり】けり。少将(せうしやう)はも
とのごとく院(ゐん)にめし【召し】つかは【使は】れて、宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)にあがり
給(たま)ふ。康頼(やすより)入道(にふだう)は、東山(ひがしやま)双林寺(さうりんじ)にわが山庄(さんざう)のあり【有り】
ければ、それに落(おち)(ヲチ)つい【着い】て、先(まづ)おもひ【思ひ】つづけけり。
ふる里(さと)の軒(のき)のいたま【板間】に苔(こけ)むして
おもひ【思ひ】しほどはもら【漏ら】ぬ月(つき)かな W015
やがてそこに籠居(ろうきよ)して、うかり【憂かり】し昔(むかし)を思(おも)ひつづ
『有王(ありわう)』S0308
け、宝物集(ほうぶつしふ)(ホウブツシウ)といふ物語(ものがたり)を書(かき)けるとぞ聞(きこ)えし。○去(さる)
程(ほど)に、鬼界(きかい)が島(しま)へ三人(さんにん)ながさ【流さ】れたりし流人(るにん)、二人(ににん)は
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めし【召し】かへさ【返さ】れて都(みやこ)へのぼりぬ。俊寛(しゆんくわん)(シユンクハン)僧都(そうづ)一人(いちにん)、うかり【憂かり】
しO[BH 島(しま)の] 島守(しまもり)に成(なり)にけるこそうたてけれ。僧都(そうづ)のおさなう(をさなう)【幼う】
より不便(ふびん)にして、めし【召し】つかは【使は】れける童(わらは)あり【有り】。名(な)をば
有王(ありわう)とぞ申(まうし)ける。鬼界(きかい)が島(しま)の流人(るにん)、今日(けふ)すでに
都(みやこ)へ入(いる)と聞(きこ)えしかば、鳥羽(とば)まで行(ゆき)むかふ(むかう)【向う】て見(み)けれ
共(ども)、わがしう(しゆう)【主】は見(み)え給(たま)はず。いかにと問(とへ)ば、「それは猶(なほ)つみ【罪】
ふかしとて、島(しま)にのこされ給(たまひ)ぬ」ときい【聞い】て、心(こころ)うし
な(ン)ど(など)もをろか(おろか)【愚】也(なり)。常(つね)は六波羅辺(ろくはらへん)にたたずみありい【歩い】て
聞(きき)けれ共(ども)、O[BH いつ]赦免(しやめん)あるべし共(とも)聞(きき)いださ【出さ】ず。僧都(そうづ)の御(おん)
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むすめのしのび【忍び】ておはしける所(ところ)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、「このせ【瀬】にも
もれ【漏れ】させ給(たまひ)て、御(おん)のぼりも候(さうら)はず。いかにもして
彼(かの)島(しま)へわた(ッ)【渡つ】て、御(おん)行衛(ゆくへ)【行方】を尋(たづね)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】んとこそ思(おも)ひ
な(ッ)て候(さうら)へ。御(おん)ふみ【文】給(たま)はらん」と申(まうし)ければ、泣々(なくなく)かいてたう【給う】
だりけり。いとまをこふ【乞ふ】共(とも)、よもゆるさ【許さ】じとて、父(ちち)にも
母(はは)にもしらせず、もろこし船(ぶね)のともづなは、卯月(うづき)さ月(つき)【五月】
にとく【解く】なれば、夏衣(なつごろも)たつ【裁つ】を遅(おそ)(ヲソ)くや思(おもひ)けん、やよひ【弥生】
の末(すゑ)に都(みやこ)を出(いで)て、多(おほ)くの浪路(なみぢ)を凌(しの)ぎつつ、薩摩潟(さつまがた)
へぞ下(くだ)りける。薩摩(さつま)より彼(かの)島(しま)へわたる船津(ふなつ)にて、
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人(ひと)あやしみ、き【着】たる物(もの)をはぎ【剥ぎ】とりな(ン)ど(など)しけれ共(ども)、すこ
し【少し】も後悔(こうくわい)(コウクハイ)せず。姫御前(ひめごぜん)の御文(おんふみ)ばかりぞ人(ひと)に見(み)せじ
とて、もとゆひ【元結】の中(なか)に隠(かく)したりける。さて商人船(あきんどぶね)に
の(ッ)【乗つ】て、件(くだん)の島(しま)へわた(ッ)【渡つ】てみる【見る】に、都(みやこ)にてかすか【幽】につたへ
聞(きき)しは事(こと)のかずにもあらず。田(た)もなし、畠(はたけ)もなし。村(むら)
もなし、里(さと)もなし。をのづから(おのづから)人(ひと)はあれ共(ども)、いふ詞(ことば)も聞(きき)
しら【知ら】ず。有王(ありわう)島(しま)の者(もの)にゆきむか(ッ)て[M 「もしか様(やう)【斯様】の者共(ものども)の中(なか)に、わがしう(しゆう)【主】の行(ゆく)え(ゆくへ)【行方】や
しり【知り】たるものやあらんと」をミセケチ「有王(ありわう)島(しま)の者(もの)にゆきむか(ッ)て」と傍書]、「物(もの)まうさう」どいへば、「何事(なにごと)」と
こたふ。「是(これ)に都(みやこ)よりながされ給(たまひ)し、法勝寺(ほつしようじの)(ホツセウジノ)執行(しゆぎやうの)御房(ごばう)
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と申(まうす)人(ひと)の御(おん)行(ゆく)ゑ(ゆくへ)【行方】やしり【知り】たる」と問(とふ)に、法勝寺(ほつしようじ)共(とも)、執
行(しゆぎやう)共(とも)し(ッ)【知つ】たらばこそ返事(へんじ)もせめ。頭(かしら)をふ(ッ)て知(しら)ずといふ。
其(その)中(なか)にある者(もの)が心得(こころえ)て、「いさとよ、さ様(やう)の人(ひと)は三人(さんにん)
是(これ)に有(あり)しが、二人(ににん)はめし【召し】かへさ【返さ】れて都(みやこ)へのぼりぬ。今(いま)一
人(いちにん)はのこされて、あそこ爰(ここ)にまどひありけ【歩け】共(ども)、行(ゆく)ゑ(ゆくへ)【行方】
もしら【知ら】ず」とぞいひける。山(やま)のかたのおぼつかなさに、はる
かに分入(わけいり)、峯(みね)によぢ、谷(たに)に下(くだ)れ共(ども)、白雲(はくうん)跡(あと)を埋(うづん)で、ゆき
来(き)の道(みち)もさだかならず。青嵐(せいらん)夢(ゆめ)を破(やぶつ)て、その面影(おもかげ)(ヲモカゲ)も
見(み)えざりけり。山(やま)にては遂(つひ)(ツイ)に尋(たづね)もあはず。海(うみ)の辺(ほとり)に
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ついて尋(たづぬ)るに、沙頭(さとう)に印(いん)を刻(きざ)む鴎(かもめ)、澳(おき)(ヲキ)のしら州(す)【白州】に
すだく浜千鳥(はまちどり)の外(ほか)は、跡(あと)とふ物(もの)もなかりけり。ある
朝[B タ](あした)、いその方(かた)よりかげろふ【蜻蛉】[* 「かげろふ」に「蜻蛉」と振り漢字]な(ン)ど(など)のやうにやせ【痩せ】おとろへ
たる者(もの)一人(いちにん)よろぼひ出(いで)きたり。もとは法師(ほふし)にて有(あり)
けりと覚(おぼ)えて、髪(かみ)は空(そら)さま【空様】へおひ【生ひ】あがり、よろづの
藻(も)くづとりつい【付い】て、おどろ【棘】をいただいたるがごとし【如し】。つぎ
目(め)【継ぎ目】[B 「つき」に「節(ツギメ)」と傍書]あらはれ【現はれ】て皮(かは)ゆたひ、身(み)にき【着】たる物(もの)は絹(きぬ)布(ぬの)のわ
き【別】も見(み)えず。片手(かたて)にはあらめを[M ひろい(ひろひ)【拾ひ】]もち、片手(かたて)
には[M 網(あみ)うど【人】に]魚(うを)を[M もらふて]もち、歩(あよ)むやうにはしけ
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れ共(ども)、はかもゆかず、よろよろとして出(いで)きたり。「都(みやこ)に
て多(おほ)くの乞丐人(こつがいにん)(コツガイニン)み【見】しか共(ども)、かかる者(もの)をばいまだみ
ず。「諸阿修羅等居在大海辺(しよあしゆらとうこざいだいかいへん)」とて、修羅(しゆら)の三悪四趣(さんあくししゆ)
は深山(しんざん)大海(だいかい)のほとりにありと、仏(ほとけ)の解(とき)をき(おき)給(たま)ひた
れば、しら【知ら】ず、われ餓鬼道(がきだう)に迷(まよい)[B 「尋(たづね)(タツネ)」の左に「迷(マヨイ)」と傍書]来(きた)るか」と思(おも)ふ程(ほど)に、
かれも是(これ)も次第(しだい)にあゆみ【歩み】ちかづく【近付く】。もしか様(やう)【斯様】のもの
も、わがしう(しゆう)【主】の御(おん)ゆくゑ(ゆくへ)【行方】知(しり)たる事(こと)やあらんと、「物(もの)まう
さう」どいへば、「何(なに)ごと」とこたふ。是(これ)に都(みやこ)よりながされ給(たまひ)
し、法勝寺(ほつしようじの)(ホツセウジノ)執行(しゆぎやうの)御房(ごばう)と申(まうす)人(ひと)の、御(おん)行(ゆく)ゑ(ゆくへ)【行方】や知(しり)たる」と
P03065
問(とふ)(トウ)に、童(わらは)は見忘(みわす)れたれ共(ども)、僧都(そうづ)は争(いかで)[M 「何(なに)とてか」をミセケチ「争(イカデ)」と傍書]忘(わする)べきなれば、
「是(これ)こそそよ」といひもあへず、手(て)にもて【持て】る物(もの)をなげ
捨(すて)て、いさご[M 「すなご」とあり「すな」をミセケチ「いさ」と傍書]【砂子】の上(うへ)にたふれ【倒れ】ふす。さてこそわがしう(しゆう)【主】の
O[BH 御(おん)]行(ゆく)ゑ(ゆくへ)【行方】は[M 「も」をミセケチ「は」と傍書]しり【知り】て(ン)げれ。O[BH 僧都(そうづ)]やがてきえ入(いり)給(たま)ふを、ひざの上(うへ)
にかきのせ【掻き乗せ】奉(たてまつ)り、「有王(ありわう)がまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)。多(おほ)くの浪路(なみぢ)を
しのいで、是(これ)まで尋(たづね)まいり(まゐり)【参り】たるかひもなく、いかに
やがてうき目(め)をば見(み)せさせ給(たま)ふぞ」と泣々(なくなく)申(まうし)けれ
ば、ややあ(ッ)て、すこし【少し】人心(ひとごこ)ち出(いで)き、たすけ【助け】おこされて、
「誠(まこと)に汝(なんぢ)が是(これ)まで尋来(たづねき)たる心(こころ)ざしの程(ほど)こそ神妙(しんべう)なれ。
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明(あけ)ても暮(くれ)ても、都(みやこ)の事(こと)のみ思(おも)ひゐ【居】たれば、恋(こひ)しき
者共(ものども)が面影(おもかげ)は、夢(ゆめ)にみる【見る】おり(をり)【折】もあり【有り】、まぼろしに
たつ時(とき)もあり【有り】。身(み)もいたくつかれ【疲れ】よは(ッ)(よわつ)【弱つ】て後(のち)は、夢(ゆめ)も
うつつもおもひ【思ひ】わかず。されば汝(なんぢ)が来(きた)れるも、ただ夢(ゆめ)と
のみこそおぼゆれ。もし此(この)事(こと)の夢(ゆめ)ならば、さめての後(のち)
はいかがせん」。有王(ありわう)「うつつにて候(さうらふ)也(なり)。此(この)御(おん)ありさまにて、
今(いま)まで御命(おんいのち)ののび【延び】させ給(たまひ)て候(さうらふ)こそ、不思儀(ふしぎ)には
覚(おぼ)(ヲボ)え候(さうら)へ」と申(まう)せば、「さればこそ。去年(こぞ)少将(せうしやう)や判官(はんぐわん)入道(にふだう)
に捨(すて)られて後(のち)のたよりなさ、心(こころ)の中(うち)をばただをし
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はかる(おしはかる)【推し量る】べし。そのせ【瀬】に身(み)をもなげんとせしを、よしなき
少将(せうしやう)の「今(いま)一度(いちど)都(みやこ)の音(おと)づれをもまて【待て】かし」な(ン)ど(など)、なぐ
さめをき(おき)【置き】しを、をろか(おろか)【愚】にもし【若し】やとたのみ【頼み】つつ、ながらへ【永らへ】ん
とはせしか共(ども)、此(この)島(しま)には人(ひと)のくい物(もの)(くひもの)【食ひ物】たへ(たえ)【絶え】てなき所(ところ)な
れば、身(み)に力(ちから)の有(あり)し程(ほど)は、山(やま)にのぼ(ッ)【上つ】て湯黄(いわう)(ユハウ)[B 「湯」に「硫」と傍書]と云(いふ)物(もの)を
とり、九国(くこく)よりかよふ商人(あきんど)にあひ、くい物(もの)(くひもの)【食ひ物】にかへな(ン)ど(など)
せしか共(ども)、日(ひ)にそへてよはり(よわり)【弱り】ゆけば、今(いま)はその態(わざ)もせず。
かやうに日(ひ)ののどかなる時(とき)は、磯(いそ)に出(いで)て網人(あみうど)・釣人(つりうど)に、
手(て)をすりひざをかがめて、魚(うを)をもらい(もらひ)、塩干(しほひ)の時(とき)は
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貝(かひ)(カイ)をひろひ【拾ひ】、あらめをとり、磯(いそ)の苔(こけ)に露(つゆ)の命(いのち)を
かけてこそ、けふ【今日】までもながらへ【永らへ】たれ。さらでは浮世(うきよ)を
渡(わた)るよすがをば、いかにしつらんとか思(おも)ふらん。爰(ここ)
にて何事(なにごと)もいはばやとはおもへ【思へ】共(ども)、いざわが家(いへ)へ」との
給(たま)へ【宣へ】ば、此(この)御(おん)ありさまにても家(いへ)をもち給(たま)へるふし
ぎさ【不思議さ】よと思(おもひ)て行(ゆく)程(ほど)に、松(まつ)の一村(ひとむら)ある中(なか)により竹(たけ)【寄竹】
を柱(はしら)にして、葦(あし)をゆひ、けた【桁】はり【梁】にわたし、上(うへ)にもした【下】
にも、松(まつ)の葉(は)をひしと取(とり)かけたり。雨風(あめかぜ)たまるべう
もなし。昔(むかし)は、法勝寺(ほつしようじ)(ホツセウジ)の寺務職(じむしき)にて、八十(はちじふ)余ケ所(よかしよ)の
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庄務(しやうむ)をつかさどられしかば、棟門(むねかど)平門(ひらかど)の内(うち)に、四五百
人(しごひやくにん)の所従(しよじゆう)(シヨジウ)眷属(けんぞく)に囲饒(ゐねう)(イネウ)せられてこそおはせしが、ま【目】
のあたりかかるうき目(め)を見(み)給(たま)ひけるこそふしぎ【不思議】なれ。
業(ごふ)(ゴウ)にさまざまあり【有り】。順現(じゆんげん)・順生(じゆんしやう)・順後業(じゆんごごふ)(ジユンゴゴウ)といへり。僧都(そうづ)
一期(いちご)の間(あひだ)、身(み)にもちゐる処(ところ)、大伽藍(だいがらん)の寺物(じもつ)仏物(ぶつもつ)に
あらずと云(いふ)事(こと)なし。さればかの信施無慙(しんぜむざん)の罪(つみ)によ(ッ)て、
『僧都(そうづ)死去(しきよ)』S0309
今生(こんじやう)にはや感(かん)ぜられけりとぞ見(み)えたりける。○僧都(そうづ)
うつつ【現】にてあり【有り】とおもひ【思ひ】定(さだめ)て、「抑(そもそも)去年(こぞ)少将(せうしやう)や判
官(はんぐわん)入道(にふだう)がむかへ【向へ】にも、是等(これら)が文(ふみ)と云(いふ)事(こと)もなし。今(いま)汝(なんぢ)がた
P03070
よりにも音(おと)づれのなきは、かう共(とも)いはざりけるか」。有王(ありわう)
涙(なみだ)にむせびうつぶして、しばしはものも申(まう)さず。やや
あ(ッ)【有つ】ておきあがり、泪(なみだ)ををさへ(おさへ)【抑へ】て申(まうし)けるは、「君(きみ)の西八条(にしはつでう)
へ出(いで)させ給(たまひ)しかば、やがて追捕(ついふくの)官人(くわんにん)(クハンニン)まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、御内(みうち)の人々(ひとびと)
搦取(からめとり)、御謀反(ごむほん)の次第(しだい)を尋(たづね)て、うしなひ【失ひ】はて候(さうらひ)ぬ。北
方(きたのかた)はおさなき(をさなき)【幼き】人(ひと)を隠(かく)しかねまいら(まゐら)【参ら】させ給(たま)ひて、鞍馬(くらま)
の奥(おく)(ヲク)にしのば【忍ば】せ給(たまひ)て候(さうらひ)しに、此(この)童(わらは)ばかりこそ時々(ときどき)まい(ッ)(まゐつ)【参つ】
て宮仕(みやづかへ)つかまつり候(さうらひ)しか。いづれも御歎(おんなげき)のをろか(おろか)【愚】なる事(こと)
は候(さうら)はざO[BH り]しか共(ども)、おさなき(をさなき)【幼き】人(ひと)はあまりに恋(こひ)まいら(まゐら)【参ら】させ
P03071
給(たまひ)て、まいり(まゐり)【参り】候(さうらふ)たび毎(ごと)に、「有王(ありわう)よ、鬼界(きかい)が島(しま)とかやへわれ
ぐし【具し】てまいれ(まゐれ)【参れ】」とむつからせ給(たまひ)候(さうらひ)しが、過(すぎ)候(さうらひ)し二月(きさらぎ)に、
もがさ[* 「もがさ」に「痘」と振り漢字]と申(まうす)事(こと)に失(うせ)させ給(たまひ)候(さうらひ)ぬ。北方(きたのかた)は其(その)御歎(おんなげき)と
申(まうし)、是(これ)の御事(おんこと)と申(まうし)、一(ひと)かたならぬ御思(おんおもひ)にしづませ
給(たま)ひ、日(ひ)にそへてよはら(よわら)【弱ら】せ給(たまひ)候(さうらひ)しが、同(おなじき)三月(さんぐわつ)二日(ふつか)の
ひ、つゐに(つひに)【遂に】はかなく【果敢く】ならせ給(たまひ)ぬ。いま姫御前(ひめごぜん)ばかり、
奈良(なら)の姑御前(おばごぜん)(ヲバゴゼン)の御(おん)もとに御(おん)わたり候(さうらふ)。是(これ)に御文(おんふみ)
給(たま)は(ッ)てまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)」とて、取(とり)いだいて奉(たてまつ)る。あけて見(み)給(たま)へ
ば、有王(ありわう)が申(まうす)にたがは【違は】ず書(かか)れたり。奥(おく)(ヲク)には、「などや、
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三人(さんにん)ながされたる人(ひと)の、二人(ににん)はめし【召し】かへさ【返さ】れてさぶらふ【候ふ】に、
今(いま)まで御(おん)のぼりさぶらはぬぞ。あはれ、高(たかき)もいやしき
も、女(をんな)の身(み)ばかり心(こころ)うかり【憂かり】ける物(もの)はなし。おのこ(をのこ)【男】[M 「おのこゝ(をのこご)【男子】」とあり「ゝ」をミセケチ]の身(み)にて
さぶらはば、わたらせ給(たま)ふ島(しま)へも、などかまいら(まゐら)【参ら】でさぶ
らふ【候ふ】べき。この有王(ありわう)御供(おんとも)にて、いそぎのぼらせ給(たま)へ」と
ぞかか【書か】れたる。O[BH 僧都(そうづ)此(この)文(ふみ)をかほにをし(おし)【押し】あてて、しばしは物(もの)ものたまは【宣は】ず。良(やや)あつて、]「是(これ)見(み)よ有王(ありわう)、この子(こ)が文(ふみ)の書(かき)やうのは
かなさよ。をのれ(おのれ)【己】を供(とも)にて、いそぎのぼれと書(かき)たる事(こと)
こそうらめしけれ【恨めしけれ】。心(こころ)にまかせ【任せ】たる俊寛(しゆんくわん)(シユンクハン)が身(み)ならば、
何(なに)とてかO[BH 此(この)島(しま)にて]三(み)とせ【三年】の春秋(はるあき)をば送(おく)るべき。今年(ことし)は十二(じふに)
P03073
になるとこそ思(おも)ふに、是(これ)程(ほど)はかなく【果敢く】ては、人(ひと)にも見(み)え、
宮仕(みやづかへ)をもして、身(み)をもたすく【助く】べきか」とてなか【泣か】れける
にぞ、人(ひと)の親(おや)(ヲヤ)の心(こころ)は闇(やみ)にあらね共(ども)、子(こ)を思(おも)ふ道(みち)にま
よふ程(ほど)もしら【知ら】れける。「此(この)島(しま)へながされて後(のち)は、暦(こよみ)もな
ければ、月日(つきひ)のかはり行(ゆく)をもしら【知ら】ず。ただをのづから(おのづから)【自】花(はな)
のちり【散り】葉(は)の落(おつ)るを見(み)て春秋(はるあき)をわきまへ、蝉(せみ)の
声(こゑ)(コヘ)麦秋(ばくしう)を送(おく)(ヲク)れば夏(なつ)とおもひ【思ひ】、雪(ゆき)のつもるを冬(ふゆ)と
しる。白月(びやくぐわつ)(ビヤクグハツ)黒月(こくぐわつ)(コクグハツ)のかはり行(ゆく)をみて、卅日(さんじふにち)をわきまへ、
指(ゆび)をお(ッ)(をつ)【折つ】てかぞふれば、今年(ことし)は六(むつ)になるとおもひ【思ひ】つるお
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さなき(をさなき)【幼き】者(もの)も、はや先立(さきだち)けるごさんなれ。西八条(にしはつでう)へ出(いで)
し時(とき)、この子(こ)が、「我(われ)もゆかう」どしたひ【慕ひ】しを、やがて帰(かへ)らふ
ずる(うずる)ぞとこしらへをき(おき)【置き】しが、今(いま)の様(やう)におぼゆる【覚ゆる】ぞや。
其(それ)を限(かぎ)りと思(おも)はましかば、今(いま)しばしもなどか見(み)ざら
ん。親(おや)となり、子(こ)となり、夫婦(ふうふ)の縁(えん)をむすぶも、みな
此(この)世(よ)ひとつ【一つ】にかぎらぬ契(ちぎり)ぞかし。などさらば、それらが
さ様(やう)に先立(さきだち)けるを、今(いま)まで夢(ゆめ)まぼろしにもしら【知ら】
ざりけるぞ。人目(ひとめ)も恥(はぢ)ず、いかにもして命(いのち)いか【生か】うど思(おもひ)し
も、これらを今(いま)一度(いちど)見(み)ばやと思(おも)ふためなり。姫(ひめ)が事(こと)計(ばかり)[M 「こ姫(ひめ)が事(こと)」をミセケチ「計(ばかり)」と傍書]
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こそ心(こころ)ぐるしけれ共(ども)、それは[M 「も」をミセケチ「は」と傍書]いき身(み)【生き身】なれば、
歎(なげ)きながらもすごさ【過さ】んずらん。さのみながらへ【永らへ】て、を
のれ(おのれ)【己】にうき目(め)を見(み)せんも、我(わが)身(み)ながらつれなかるべし」
とて、をのづから(おのづから)の食事(しよくじ)を[M も]とどめ【留め】、偏(ひとへ)に弥陀(みだ)の名
号(みやうがう)をとなへて、臨終(りんじゆう)(リンジウ)正念(しやうねん)をぞいのら【祈ら】れける。有王(ありわう)わ
た(ッ)【渡つ】て廿三日(にじふさんにち)と云(いふ)に、其(その)庵(いほ)りのうちにて遂(つひ)(ツイ)におはり(をはり)
給(たまひ)ぬ。年(とし)卅七(さんじふしち)とぞ聞(きこ)えし。有王(ありわう)むなしき【空しき】姿(すがた)に取(とり)
つき、天(てん)に仰(あふ)(アヲ)ぎ地(ち)に伏(ふし)て、泣(なき)かなしめ共(ども)かひぞなき。
心(こころ)の行(ゆく)程(ほど)泣(なき)あき【飽き】て、「やがて後世(ごせ)の御供(おんとも)仕(つかまつる)べう候(さうら)へ共(ども)、
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此(この)世(よ)には姫御前(ひめごぜん)ばかりこそ御渡(おんわたり)候(さうら)へ、後世(ごせ)訪(とぶら)ひまいら
す(まゐらす)【参らす】べき人(ひと)も候(さうら)はず。しばしながらへ【永らへ】て御菩提(ごぼだい)[M 「後世(ごせ)」をミセケチ「御菩提(ゴボダイ)」と傍書]訪(とぶら)ひまいら
せ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)はん」とて、ふしどをあらため【改め】ず、庵(いほり)(イヲリ)をきり【切り】かけ、
松(まつ)のかれ枝(えだ)【枯れ枝】、蘆(あし)の枯葉(かれば)を取(とり)おほひ【覆ひ】、藻塩(もしほ)のけぶりと
なし奉(たてまつ)り、荼■[田+比]事(だびごと)をへ[* 「を」に「終」と振り漢字]【終へ】にければ、白骨(はつこつ)をひろひ【拾ひ】、
頸(くび)にかけ、又(また)商人船(あきんどぶね)のたよりに九国(くこく)の地(ち)へぞ着(つき)にけ
る。O[BH それよりいそぎ都(みやこ)へのぼり、]僧都(そうづ)の御(おん)むすめのおはしける所(ところ)にまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、有(あり)し様(やう)、
始(はじめ)よりこまごまと申(まうす)。「中々(なかなか)御文(おんふみ)を御覧(ごらん)じてこそ、
いとど御(おん)思(おも)ひはまさらせ給(たまひ)て候(さうらひ)しか。O[BH 件(くだん)の島(しま)には]硯(すずり)も紙(かみ)も候(さうら)はね
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ば、御返事(おんぺんじ)にも及(およ)ばず。おぼしめさ【思し召さ】れ候(さうらひ)し御心(おんこころ)の内(うち)、
さながらむなしうてやみ候(さうらひ)にき。今(いま)は生々世々(しやうじやうせせ)を送(おくり)、
他生曠劫(たしやうくわうごふ)(タシヤウクハウゴウ)をへだつ共(とも)、いかでか御声(おんこゑ)をもきき、御姿(おんすがた)を
も見(み)まいら(まゐら)【参ら】させ給(たま)ふべき」と申(まうし)ければ、ふしまろび、こゑ
も惜(をしま)ずなか【泣か】れけり。やがて十二(じふに)の年(とし)尼(あま)になり、奈良(なら)
の法華寺(ほつけじ)に勤(つとめ)[* 左に(ヲコナヒ)の振り仮名]すまし【澄まし】て、父母(ぶも)の後世(ごせ)を訪(とぶら)ひ給(たま)ふぞ
哀(あはれ)なる。有王(ありわう)は俊寛(しゆんくわん)(シユンクハン)僧都(そうづ)の遺骨(ゆいこつ)を頸(くび)にかけ、高
野(かうや)へのぼり、奥院(おくのゐん)(ヲクノゐん)に納(をさ)めつつ、蓮花谷(れんげだに)にて法師(ほふし)(ホウシ)になり、
諸国(しよこく)七道(しちだう)修行(しゆぎやう)して、しう(しゆう)【主】の後世(ごせ)をぞ訪(とぶらひ)ける。か様(やう)【斯様】に
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人(ひと)の思歎(おもひなげ)(ヲモイナゲ)きのつもり【積り】ぬる平家(へいけ)の末(すゑ)こそおそろし
『飆(つぢかぜ)』S0310
けれ【恐ろしけれ】。○同(おなじき)五月(ごぐわつ)十二日(じふににち)午剋(むまのこく)ばかり、京中(きやうぢゆう)には辻風(つぢかぜ)おびたた
しう【夥しう】吹(ふい)[* 「明」と有るのを他本により訂正]て、人屋(じんをく)おほく【多く】顛到(てんだう)す。風(かぜ)は中御門(なかのみかど)京極(きやうごく)より
おこ(ッ)【起こつ】て、末申(ひつじさる)の方(かた)へ吹(ふい)[* 「明」と有るのを他本により訂正]て行(ゆく)に、棟門(むねかど)平門(ひらかど)を吹(ふき)ぬ
い[M 「ぬき」とあり「き」をミセケチ「い」と傍書]て、四五町(しごちやう)十町(じつちやう)吹(ふき)もてゆき、けた【桁】・なげし【長押】・柱(はしら)な(ン)ど(など)は
虚空(こくう)に散在(さんざい)す。桧皮(ひはだ)ふき板(いた)【葺板】のたぐひ、冬(ふゆ)の木葉(このは)の
風(かぜ)にみだるるが如(ごと)し。おびたたしう【夥しう】なり【鳴り】どよむ音(おと)[M 「事(こと)」をミセケチ「音(おと)」と傍書]、
彼(かの)地獄(ぢごく)の業風(ごふふう)(ゴウフウ)なり共(とも)、これには過(すぎ)じとぞみえ【見え】し。ただ
舎屋(しやをく)の破損(はそん)するのみならず、命(いのち)を失(うし)なふ人(ひと)も多(おほ)
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し。牛(うし)馬(むま)のたぐひ数(かず)を尽(つく)して打(うち)ころさ【殺さ】る。是(これ)ただ
事(こと)にあらず、御占(みうら)(ミウラ)あるべしとて、神祇官(じんぎくわん)(ジンギクハン)にして
御占(みうら)あり【有り】。「今(いま)百日(ひやくにち)のうちに、禄(ろく)ををもんずる(おもんずる)【重んずる】大臣(おとど)の
慎(つつし)み別(べつ)しては天下(てんが)の大事(だいじ)、並(ならび)に仏法(ぶつぽふ)王法(わうぼふ)共(とも)に傾(かたぶい)
て、兵革(ひやうがく)相続(さうぞく)すべし」とぞ、神祇官(じんぎくわん)陰陽寮(おんやうれう)(ヲンヤウリヤウ)共(とも)に
『医師問答(いしもんだふ)』S0311
うらなひ申(まうし)ける。○小松(こまつ)のおとど、か様(やう)【斯様】の事共(ことども)を聞(きき)給(たまひ)
て、よろづ心(こころ)ぼそうやおもは【思は】れけん、其(その)比(ころ)熊野参
詣(くまのさんけい)の事(こと)有(あり)けり。本宮(ほんぐう)証誠殿(しようじやうでん)(セウジヤウデン)の御前(おんまへ)にて、夜(よ)も
すがら敬白(けいひやく)せられけるは、「親父(しんぶ)入道(にふだう)相国(しやうこく)の体(てい)をみる【見る】に、
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悪逆無道(あくぎやくむだう)にして、ややもすれば君(きみ)をなやまし奉(たてまつ)る。
重盛(しげもり)長子(ちやうし)として、頻(しきり)に諫(いさめ)をいたすといへ共(ども)、身(み)
不肖(ふせう)の間(あひだ)、かれも(ッ)て服膺(ふくよう)せず。そのふるまひ【振舞】をみる【見る】
に、一期(いちご)の栄花(えいぐわ)(ヱイグハ)猶(なほ)あやうし(あやふし)。枝葉(しえふ)(シヨウ)連続(れんぞく)して、親(しん)を
顕(あらは)し名(な)を揚(あ)(アゲ)げん事(こと)かたし。此(この)時(とき)に当(あたつ)て、重盛(しげもり)い
やしうも思(おも)へり。なまじい(なまじひ)に列(れつ)して世(よ)に浮沈(ふちん)せん
事(こと)、敢(あへ)て良臣(りやうしん)孝子(かうし)の法(ほふ)(ハウ)にあらず。しかじ、名(な)を逃(のが)れ
身(み)を退(しりぞい)て、今生(こんじやう)の名望(めいばう)を抛(なげす)て、来世(らいせ)の菩提(ぼだい)を求(もと)
めんには。但(ただし)凡夫(ぼんぶ)薄地(はくぢ)、是非(ぜひ)にまどへるが故(ゆゑ)に、猶(なほ)心(こころ)ざし
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を恣(ほしいまま)にせず。南無(なむ)権現(ごんげん)金剛童子(ごんがうどうじ)、願(ねがは)くは子孫(しそん)繁栄(はんえい)(ハンヱイ)
たえ【絶え】ずして、仕(つかへ)て朝廷(てうてい)にまじはるべくは、入道(にふだう)の悪心(あくしん)
を和(やはら)げて、天下(てんが)の安全(あんせん)を得(え)しめ給(たま)へ。栄耀(えいえう)(ヱイヨウ)又(また)一期(いちご)
をかぎ[B ッ]【限つ】て、後混(こうこん)恥(はぢ)に及(およぶ)(ヲヨブ)べくは、重盛(しげもり)が運命(うんめい)をつづめて、
来世(らいせ)の苦輪(くりん)を助(たす)け給(たま)へ。両ケ(りやうか)の求願(ぐぐわん)(ググハン)、ひとへに冥助(めいじよ)
を仰(あふ)(アヲ)ぐ」と肝胆(かんたん)を摧(くだい)て祈念(きねん)せられけるに、燈籠(とうろ)
の火(ひ)のやうなる物(もの)の、おとどの御身(おんみ)より出(いで)て、ば(ッ)と消(きゆ)
るがごとく【如く】して失(うせ)にけり。人(ひと)あまた見(み)奉(たてまつ)りけれ共(ども)、
恐(おそ)(ヲソ)れて是(これ)を申(まう)さず。又(また)下向(げかう)の時(とき)、岩田川(いはだがは)を渡(わた)られ
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けるに、嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)以下(いげ)の公達(きんだち)、浄衣(じやうえ)のした【下】
に薄色(うすいろ)のきぬを着(き)て、夏(なつ)の事(こと)なれば、なにとな
う河(かは)の水(みづ)に戯(たはぶれ)給(たま)ふ程(ほど)に、浄衣(じやうえ)のぬれて、きぬ【衣】に
うつ(ッ)【移つ】たるが、偏(ひとへ)に色(いろ)のごとくに見(み)えければ、筑後守(ちくごのかみ)貞
能(さだよし)これを見(み)とがめて、「何(なに)と候(さうらふ)やらん、あの御浄衣(おんじやうえ)(ヲンジヤウヱ)の
よにいまはしき【忌はしき】やうに見(み)えさせおはしまし候(さうらふ)。めし【召し】
かへらるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうし)ければ、おとど、「わが所願(しよぐわん)(シヨグハン)既(すで)に
成就(じやうじゆ)しにけり。其(その)浄衣(じやうえ)敢(あへ)てあらたむべからず」とて、
別(べつ)して岩田川(いはだがは)より、熊野(くまの)へ悦(よろこび)の奉幣(ほうへい)をぞ
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立(たて)られける。人(ひと)あやしと思(おも)ひけれ共(ども)、其(その)心(こころ)をえず。
しかる【然る】に此(この)公達(きんだち)、程(ほど)なくまこと【誠】の色(いろ)をき【着】給(たまひ)けるこそ
ふしぎ【不思議】なれ。下向(げかう)の後(のち)、いくばくの日数(につしゆ)を経(へ)ずして、
病付(やまひつき)(ヤマイツキ)給(たま)ふ。権現(ごんげん)すでに御納受(ごなふじゆ)(ゴナウジユ)あるにこそとて、療
治(れうぢ)もし給(たま)はず、祈祷(きたう)をもいたされず。其(その)比(ころ)宋朝(そうてう)より
すぐれたる名医(めいい)わた[B ッ]【渡つ】て、本朝(ほんてう)にやすらふことあり【有り】。境
節(をりふし)入道(にふだう)相国(しやうこく)、福原(ふくはら)の別業(べつげふ)(ベツギヨウ)におはしけるが、越中守(ゑつちゆうのかみ)[B 「守」に「前司(せんじ)」と傍書]盛
俊(もりとし)を使者(ししや)で、小松殿(こまつどの)へ仰(おほせ)られけるは、「所労(しよらう)弥(いよいよ)大事(だいじ)
なる由(よし)其(その)聞(きこ)えあり【有り】。兼(かねては)又(また)宋朝(そうてう)より勝(すぐれ)たる名医(めいい)
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わたれり。折節(をりふし)悦(よろこび)とす。是(これ)をめし【召し】請(しやう)じて医療(いれう)
をくはへ【加へ】しめ給(たま)へ」と、の給(たま)ひつかはさ【遣さ】れたりければ、小
松殿(こまつどの)たすけ【助け】おこされ、盛俊(もりとし)を御前(おんまへ)へめし【召し】て、「まづ
「医療(いれう)の事(こと)、畏(かしこまつ)て承(うけたまはり)候(さうらひ)ぬ」と申(まうす)べし。但(ただし)汝(なんぢ)も承(うけたまは)
れ。延喜御門(えんぎのみかど)(ヱンギのみかど)はさばか(ン)の賢王(けんわう)にてましましけれ
共(ども)、異国(いこく)の相人(さうにん)を都(みやこ)のうちへ入(いれ)させ給(たまひ)たりけるをば、
末代(まつだい)までも賢王(けんわう)の御誤(おんあやまり)、本朝(ほんてう)の恥(はぢ)とこそみえ【見え】けれ。
况(いはん)や重盛(しげもり)ほどの凡人(ぼんにん)が、異国(いこく)の医師(いし)を王城(わうじやう)へ
いれ【入れ】ん事(こと)、国(くに)の辱(はぢ)にあらずや。漢(かんの)高祖(かうそ)は三尺(さんじやく)の剣(けん)
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を提(ひつさげ)て天下(てんが)を治(をさめ)しかども、淮南(わいなん)[* (ワイ)の右に(クハイ)の振り仮名]の黥布(げいふ)(ケイフ)を討(うち)し時(とき)、
流矢(りうし)にあた(ッ)て疵(きず)を蒙(かうむ)る。后(きさき)呂太后(りよたいこう)、良医(りやうい)をむかへ【向へ】て
見(み)せしむるに、医(い)のいはく、「此(この)疵(きず)治(ぢ)しつべし。但(ただし)五十
斤(ごじふこん)(ごシウコン)[* 「十」に圏濁点]の金(きん)をあたへば治(ぢ)せん」といふ。高祖(かうそ)の給(たま)はく、「われ
まもり【守り】のつよか[B ッ]【強かつ】し程(ほど)は、多(おほ)くのたたかひ【戦ひ】にあひ[* 「あひ」に「逢」と振り漢字]て疵(きず)
を蒙(かうむ)りしか共(ども)、そのいたみなし。運(うん)すでに尽(つき)ぬ。命(めい)
はすなはち天(てん)にあり【有り】。縦(たとひ)(タトイ)偏鵲(へんじやく)といふ共(とも)、なんの益(えき)(ヱキ)か
あらん。しかれ[M 「しから」とあり「ら」をミセケチ「れ」と傍書]ば又(また)かねを惜(をし)むに似(に)たり」とて、五十(ごじふ)こむ(こん)【斤】
の金(きん)を医師(いし)にあたへながら、つゐに(つひに)【遂に】治(ぢ)せざりき。先
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言(せんげん)耳(みみ)にあり【有り】、今(いま)も(ッ)て甘心(かんじん)す。重盛(しげもり)いやしくも九卿(きうけい)に
列(れつ)して三台(さんたい)にのぼる。其(その)運命(うんめい)をはかるに、も(ッ)て天心(てんしん)に
あり【有り】。なんぞ天心(てんしん)を察(さつせ)ずして、をろか(おろか)【愚】に医療(いれう)をいた
はしうせむや。所労(しよらう)もし定業(ぢやうごふ)(ヂヤウゴウ)たらば、いれう【医療】をくはう(くはふ)【加ふ】
共(とも)ゑき(えき)【益】なからんか。又(また)非業(ひごふ)(ヒゴウ)たらば、療治(れうぢ)をくはへ【加へ】ず共(とも)たすかる事(こと)をうべし。彼(かの)耆婆(ぎば)が医術(いじゆつ)及(およ)(ヲヨ)ばずして、
大覚世尊(だいかくせそん)、滅度(めつど)を抜提河(ばつだいが)の辺(ほとり)に唱(とな)ふ。是(これ)則(すなはち)、定業(ぢやうごふ)(ヂヤウゴウ)
の病(やまひ)(ヤマイ)いやさ【癒さ】ざる事(こと)をしめさ【示さ】んが為(ため)也(なり)。定業(ぢやうごふ)(ヂヤウゴウ)猶(なほ)(ナヲ)医療(いれう)
にかかはる【拘はる】べう候(さうらは)ば、豈(あに)尺尊【*釈尊】(しやくそん)入滅(にふめつ)(ニウメツ)あらんや。定業(ぢやうごふ)(ヂヤウゴウ)又(また)[M 治]
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治(ぢ)するに堪(たへ)ざる旨(むね)あきらけし。治(ぢ)するは仏体(ぶつたい)也(なり)、療(れう)
するは耆婆(ぎば)也(なり)。しかれば重盛(しげもり)が身(み)仏体(ぶつたい)にあらず、
名医(めいい)又(また)耆婆(ぎば)に及(およぶ)べからず。たとひ四部(しぶ)の書(しよ)をかが
みて、百療(はくれう)に長(ちやう)ずといふ共(とも)、いかでか有待(うだい)の穢身(えしん)(ヱシン)を救
療(くれう)せん。たとひ五経(ごきやう)の説(せつ)を詳(つまびらか)にして、衆病(しゆびやう)をいや
すと云(いふ)共(とも)、豈(あに)先世(ぜんぜ)の業病(ごふびやう)(ゴウビヤウ)を治(ぢ)せんや。もしかの医術(いじゆつ)
によ(ッ)て存命(ぞんめい)せば、本朝(ほんてう)の医道(いだう)なきに似(に)たり。医術(いじゆつ)
効験(かうげん)なくんば、面謁(めんえつ)(メンヱツ)所詮(しよせん)なし。就中(なかんづく)本朝(ほんてう)鼎臣(ていしん)の外
相(げさう)をも[B ッ]て、異朝(いてう)富有(ふいう)(フウ)の来客(らいかく)にまみえ【見え】ん事(こと)、
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且(かつう)は国(くに)の恥(はぢ)、且(かつう)は道(みち)の陵遅(りようち)(レウチ)也(なり)。たとひ重盛(しげもり)命(いのち)は
亡(ばう)ずといふ共(とも)、いかでか国(くに)の恥(はぢ)をおもふ【思ふ】心(こころ)を存(ぞん)ぜざらん。
此(この)由(よし)を申(まう)せ」とこその給(たま)ひけれ。盛俊(もりとし)福原(ふくはら)に帰(かへ)り
まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、此(この)由(よし)泣々(なくなく)申(まうし)ければ、入道(にふだう)相国(しやうこく)「是(これ)程(ほど)国(くに)の恥(はぢ)
を思(おも)ふ大臣(だいじん)、上古(しやうこ)にもいまだきかず。まして末代(まつだい)に
あるべし共(とも)覚(おぼ)えず。日本(につぽん)に相応(さうおう)(サウヲウ)せぬ大臣(だいじん)なれば、
いかさまにも今度(こんど)うせ【失せ】なんず」とて、なくなく【泣く泣く】急(いそ)ぎ都(みやこ)
へ上(のぼ)られけり。同(おなじき)七月(しちぐわつ)廿八日(にじふはちにち)、小松殿(こまつどの)出家(しゆつけ)し給(たまひ)ぬ。法名(ほふみやう)(ホウミヤウ)は
浄蓮(じやうれん)とこそつき【付き】給(たま)へ。やがて八月(はちぐわつ)一日[B ノヒ](ひとひのひ)、臨終(りんじゆう)(リンジウ)正念(しやうねん)に住(ぢゆう)(ヂウ)
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して遂(つひ)(ツイ)に失(うせ)給(たまひ)ぬ。御年(おんとし)四十三(しじふさん)、世(よ)はさかりとみえ【見え】つるに、
哀(あはれ)なりし事共(ことども)也(なり)。「入道(にふだう)相国(しやうこく)のさしもよこ紙(がみ)をやら【破ら】れ
つるも、此(この)人(ひと)のなをし(なほし)【直し】なだめ【宥め】られつればこそ、世(よ)もお
だしかり【隠しかり】つれ。此(この)後(のち)天下(てんが)にいかなる事(こと)か出(いで)こ【来】んず
らむ」とて、京中(きやうぢゆう)の上下(じやうげ)歎(なげ)きあへり。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛
卿(むねもりのきやう)のかた様(さま)の人(ひと)は、「世(よ)は只今(ただいま)大将殿(だいしやうどの)へまいり(まゐり)【参り】なん
ず」とぞ悦(よろこび)ける。人(ひと)の親(おや)の子(こ)を思(おも)ふならひはをろ
か(おろか)【愚】なるが、先立(さきだつ[M 「サキダチ」とあり「チ」をミセケチ「ツ」と傍書])だにもかなしき【悲しき】ぞかし。いはんや是(これ)は
当家(たうけ)の棟梁(とうりやう)、当世(たうせい)の賢人(けんじん)にておはしければ、恩愛(おんあい)(ヲンアイ)
P03090
の別(わかれ)、家(いへ)の衰微(すいび)、悲(かなしん)でも猶(なほ)余(あまり)あり【有り】。されば世(よ)には
良臣(りやうしん)をうしなへ【失へ】る事(こと)を歎(なげ)き、家(いへ)には武略(ぶりやく)のすた
れ【廃れ】ぬる事(こと)をかなしむ。凡(およそ)(ヲヨソ)は此(この)おとど【大臣】文章(ぶんしやう)うるはし
うして、心(こころ)に忠(ちゆう)(チウ)を存(ぞん)じ、才芸(さいげい)すぐれて、詞(ことば)に徳(とく)を兼(かね)
『無文(むもん)』S0312
給(たま)へり。○天性(てんぜい)このおとど【大臣】は不思議(ふしぎ)の人(ひと)にて、未来(みらい)の
事(こと)をもかねて【予て】さとり給(たまひ)けるにや。去(さんぬる)四月(しぐわつ)七日(しちにち)の夢(ゆめ)
に、見(み)給(たまひ)けるこそふしぎ【不思議】なれ。たとへば、いづく共(とも)しらぬ
浜路(はまぢ)を遥々(はるばる)とあゆみ【歩み】行(ゆき)給(たま)ふ程(ほど)に、道(みち)の傍(かたはら)に大(おほき)なる
鳥居(とりゐ)の有(あり)けるを、「あれはいかなる鳥居(とりゐ)やらん」と、問(とひ)
P03091
給(たま)へば、「春日大明神(かすがだいみやうじん)の御鳥井(おんとりゐ)也(なり)」と申(まうす)。人(ひと)多(おほ)く群集(くんじう)
したり。其(その)中(なか)に法師(ほふし)の頸(くび)を一(ひとつ)さしあげ【差し上げ】たり。「さてあの
くびはいかに」と問(とひ)給(たま)へば、「是(これ)は平家(へいけ)太政入道殿(だいじやうのにふだうどの)[M の御
頸(おんくび)を]、悪行(あくぎやう)超過(てうくわ)(テウクハ)し給(たま)へるによ(ッ)て、当社(たうしや)大明神(だいみやうじん)のめし【召し】
とらせ給(たまひ)て候(さうらふ)」と申(まうす)と覚(おぼ)えて、夢(ゆめ)うちさめ、当家(たうけ)は
保元(ほうげん)平治(へいぢ)よりこのかた、度々(どど)の朝敵(てうてき)をたひらげて、
勧賞(けんじやう)身(み)にあまり、かたじけなく一天(いつてん)の君(きみ)の御外
戚(ごぐわいせき)(ごグハイセキ)として、一族(いちぞく)の昇進(しようじん)(セウジン)六十(ろくじふ)余人(よにん)。廿(にじふ)余年(よねん)のこのかた
は、たのしみさかへ(さかえ)【栄え】、申(まうす)はかりもなかりつるに、入道(にふだう)の悪行(あくぎやう)
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超過(てうくわ)(テウクハ)せるによ(ッ)て、一門(いちもん)の運命(うんめい)すでにつき【尽き】んずる
にこそと、こし方(かた)行末(ゆくすゑ)の事共(ことども)、おぼしめし【思し召し】つづけ
て、御涙(おんなみだ)にむせばせ給(たま)ふ。折節(をりふし)妻戸(つまど)をほとほとと打(うち)
たたく。「た【誰】そ。あれきけ【聞け】」との給(たま)へ【宣へ】ば、「瀬尾(せのをの)(セノヲノ)太郎(たらう)兼
康(かねやす)がまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)」と申(まうす)。「いかに、何事(なにごと)ぞ」との給(たま)へ【宣へ】ば、「只(ただ)
今(いま)不思議(ふしぎ)の事(こと)候(さうらひ)て、夜(よ)の明(あけ)候(さうら)はんがをそう(おそう)【遅う】覚(おぼ)え
候(さうらふ)間(あひだ)、申(まう)さんが為(ため)にまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)。御(おん)まへの人(ひと)をのけ【除け】ら
れ候(さうら)へ」と申(まうし)ければ、おとど【大臣】人(ひと)を遥(はるか)にのけて御対面(ごたいめん)
あり【有り】。さて兼康(かねやす)見(み)たりける夢(ゆめ)のやうを、始(はじめ)より終(をはり)〔まで〕
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くはしう【詳しう】語(かた)り申(まうし)けるが、おとど【大臣】の御覧(ごらん)じたりける御
夢(おんゆめ)にすこし【少し】もたがは【違は】ず。さてこそ、瀬尾(せのをの)太郎(たらう)兼
康(かねやす)をば、「神(しん)にも通(つう)じたる物(もの)にて有(あり)けり」と、おとど【大臣】
も感(かん)じ給(たま)ひけれ。其(その)朝(あした)嫡子(ちやくし)権亮少将(ごんのすけぜうしやう)維盛(これもり)、院[B ノ](ゐんの)
御所(ごしよ)へまいら(まゐら)【参ら】んとて出(いで)させ給(たまひ)たりけるを、おとど【大臣】よ
び奉(たてまつり)て、「人(ひと)の親(おや)(ヲヤ)の身(み)としてか様(やう)【斯様】の事(こと)を申(まう)せば、
きはめておこがましけれ(をこがましけれ)共(ども)、御辺(ごへん)は人(ひと)の子共(こども)の中(なか)
には勝(すぐれ)てみえ【見え】給(たま)ふ也(なり)。但(ただし)此(この)世(よ)の中(なか)の有様(ありさま)、いかがあ
らむずらんと、心(こころ)ぼそうこそ覚(おぼゆ)(ヲボユ)れ。貞能(さだよし)はないか。
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少将(せうしやう)に酒(さけ)すすめよ」との給(たま)へば、貞能(さだよし)御酌(おんしやく)(ヲンシヤク)にまいり(まゐり)【参り】
たり。「この盃(さかづき)をば、先(まづ)少将(せうしやう)にこそとら【取ら】せたけれ共(ども)、
親(おや)(ヲヤ)より先(さき)にはよものみ【飲み】給(たま)はじなれば、重盛(しげもり)まづ取(とり)あ
げて、少将(せうしやう)にささん」とて、三度(さんど)うけ【受け】て、少将(せうしやう)にぞさされ
ける。少将(せうしやう)又(また)三度(さんど)うけ給(たま)ふ時(とき)、「いかに貞能(さだよし)、引出物(ひきでもの)せ
よ」との給(たま)へ【宣へ】ば、畏(かしこまつ)て承(うけたまは)り、錦(にしき)の袋(ふくろ)にいれ【入れ】たる御太刀(おんたち)
を取出(とりいだ)す。「あはれ、是(これ)は家(いへ)に伝(つた)はれる小烏(こがらす)といふ太刀(たち)
やらん」な(ン)ど(など)、よにうれしげに思(おも)ひて見(み)給(たま)ふ処(ところ)に、
さはなくして、大臣葬(だいじんさう)の時(とき)もちゐる無文(むもん)の太刀(たち)に
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てぞ有(あり)ける。其(その)時(とき)少将(せうしやう)けしき【気色】[M は(ッ)と]かは(ッ)て、よにいま
はしげ【忌はし気】にみ【見】給(たまひ)ければ、おとど【大臣】涙(なみだ)をはらはらとながい【流い】て、
「いかに少将(せうしやう)、それは貞能(さだよし)がとが【咎】にもあらず。其(その)故(ゆゑ)は
如何(いか)にといふに、此(この)太刀(たち)は大臣葬(だいじんさう)の時(とき)もちゐる無文(むもん)
の太刀(たち)也(なり)。入道(にふだう)いかにもおはせん時(とき)、重盛(しげもり)がはい【佩い】て供(とも)せん
とて持(もち)たりつれ共(ども)、今(いま)は重盛(しげもり)、入道殿(にふだうどの)に先立(さきだち)奉(たてまつ)らん
ずれば、御辺(ごへん)に奉(たてまつ)るなり」とぞの給(たま)ひける。少将(せうしやう)是(これ)
を聞(きき)給(たまひ)て、とかうの返事(へんじ)にも及(およ)ばず。涙(なみだ)にむせびう
つぶして、其(その)日(ひ)は出仕(しゆつし)もし給(たま)はず、引(ひき)かづきてぞふし
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給(たま)ふ。其(その)後(のち)おとど【大臣】熊野(くまの)へまいり(まゐり)【参り】、下向(げかう)して病(やまひ)つき、幾
程(いくほど)もなくして遂(つひ)(ツイ)に失(うせ)給(たま)ひけるにこそ、げにもと思(おも)ひ
『燈炉(とうろ)之(の)沙汰(さた)』S0313
しられけれ。○すべて此(この)大臣(おとど)(ヲトド)は、滅罪生善(めつざいしやうぜん)の御心(おんこころ)ざしふ
かう【深う】おはしければ、当来(たうらい)の浮沈(ふちん)をなげいて、東山(ひがしやま)(ヒンガシやま)の麓(ふもと)
に、六八弘誓(ろくはつぐぜい)の願(ぐわん)(グハン)になぞらへて、四十八間(しじふはつけん)の精舎(しやうじや)をたて、
一間(いつけん)にひとつ【一つ】づつ、四十八間(しじふはつけん)に四十八(しじふはち)の燈籠(とうろ)をかけ【懸け】られ
たりければ、九品(くほん)の台(うてな)、目(め)の前(まへ)にかかやき【輝き】、光耀(くわうえう)(クハウヨウ)鸞
鏡(らんけい)をみがいて、浄土(じやうど)の砌(みぎり)にのぞめるがごとし。毎月(まいげつ)十
四O[BH 日十]五O[BH 日](じふしにちじふごにち)を点(てん)じて、当家(たうけ)他家(たけ)の人々(ひとびと)の御方(おんかた)より、みめ【眉目】
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ようわかう【若う】さかむ(さかん)【壮】なる女房達(にようばうたち)を多(おほ)く請(しやう)じ集(あつ)め、
一間(いつけん)に六人(ろくにん)づつ、四十八間(しじふはつけん)に二百八十八人(にひやくはちじふはちにん)、時衆(じしゆ)にさだ
め、彼(かの)両日(りやうにち)が間(あひだ)は一心(いつしん)O[BH 果報(くわはう)の]称名(しようみやうの)(セウミヤウの)声(こゑ)絶(たえ)ず。誠(まこと)に来迎(らいかう)引摂(いんぜふ)(インゼウ)
のO[BH 悲(ヒ)]願(ぐわん)(グハン)もこの所(ところ)に影向(やうがう)をたれ、摂取(せつしゆ)不捨(ふしや)の光(ひかり)も此(この)大臣(おとど)(ヲトド)
を照(てら)し給(たま)ふらんとぞみえ【見え】し。十五日(じふごにち)の日中(につちゆう)(ニツチウ)を結願(けつぐわん)(ケツグハン)と
して大念仏(だいねんぶつ)有(あり)しに、大臣(おとど)みづから彼(かの)行道(ぎやうだう)の中(なか)に
まじは[B ッ]て、西方(さいはう)にむかひ【向ひ】、「南無(なむ)安養教主(あんやうけうしゆ)弥陀善逝(みだぜんぜい)、三
界(さんがい)六道(ろくだう)の衆生(しゆじやう)を普(あまね)く済度(さいど)し給(たま)へ」と、廻向発願(ゑかうほつぐわん)(ヱカウホツグハン)
せられければ、みる【見る】人(ひと)慈悲(じひ)をおこし、きく物(もの)感涙(かんるい)を
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もよほしけり。かかりしかば、此(この)大臣(おとど)をば燈籠大臣(とうろのだいじん)と
『金渡(かねわたし)』S0314
ぞ人(ひと)申(まうし)ける。○又(また)おとど【大臣】、「我(わが)朝(てう)にはいかなる大善根(だいぜんごん)をしを
い(おい)【置い】たり共(とも)、子孫(しそん)あひついでとぶらはむ[M 「う」をミセケチ「む」と傍書]事(こと)有(あり)がたし。他
国(たこく)にいかなる善根(ぜんごん)をもして、後世(ごせ)を訪(とぶら)はればや」とて、
安元(あんげん)の此(ころ)ほひ、鎮西(ちんぜい)より妙典(めうでん)といふ船頭(せんどう)をめし【召し】の
ぼせ【上せ】、人(ひと)を遥(はるか)にのけ【除け】て御対面(ごたいめん)あり【有り】。金(こがね)を三千五
百両(さんぜんごひやくりやう)めし【召し】よせて、「汝(なんぢ)は大正直(だいしやうぢき)の者(もの)であんなれば、五百
両(ごひやくりやう)をば汝(なんぢ)にたぶ。三千両(さんぜんりやう)を宋朝(そうてう)へ渡(わた)し、育王山(いわうさん)へまい
らせ(まゐらせ)【参らせ】て、千両(せんりやう)を僧(そう)にひき、二千両(にせんりやう)をば御門(みかど)へまいら
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せ(まゐらせ)【参らせ】、田代(でんだい)を育王山(いわうさん)へ申(まうし)よせて、我(わが)後世(ごせ)とぶらはせよ」
とぞの給(たまひ)ける。妙典(めうでん)是(これ)を給(たま)は(ッ)て、万里(ばんり)の煙浪(えんらう)(ヱンラウ)を凌(しの)
ぎつつ、大宋国(たいそうこく)へぞ渡(わた)りける。育王山(いわうさん)の方丈(はうぢやう)(ホウヂヤウ)仏照
禅師(ぶつせうぜんじ)徳光(とくくわう)(トククハウ)にあひ奉(たてまつ)り、此(この)由(よし)申(まうし)たりければ、随喜(ずいき)
感嘆(かんたん)して、千両(せんりやう)を僧(そう)にひき、二千両(にせんりやう)をば御門(みかど)へ
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、おとど【大臣】の申(まう)されける旨(むね)を具(つぶさ)に奏聞(そうもん)せられ
たりければ、御門(みかど)大(おほき)に感(かん)じおぼしめし【思し召し】て、五百町(ごひやくちやう)
の田代(でんだい)を育王山(いわうさん)へぞよせ【寄せ】られける。されば日本(につぽん)の大
臣(だいじん)平[B ノ](たひらの)朝O[BH 臣](あつそん)重盛公(しげもりこう)の後生(ごしやう)善処(ぜんしよ)と祈(いの)る事(こと)、いまに絶(たえ)(タヘ)ず
P03100
『法印問答(ほふいんもんだふ)』S0315
とぞ承(うけたまは)る。○入道(にふだう)相国(しやうこく)、小松殿(こまつどの)にをくれ(おくれ)【遅れ】給(たまひ)て、よろづ心(こころ)
ぼそうや思(おも)はれけん、福原(ふくはら)へ馳下(はせくだ)り、閉門(へいもん)してこそ
おはしけれ。同(おなじき)十一月(じふいちぐわつ)七日(なぬか)の夜(よ)戌剋(いぬのこく)ばかり、大地(だいぢ)おびたた
しう動(うごい)てやや久(ひさ)し。陰陽頭(おんやうのかみ)(インヤウノカミ)安陪【*安倍】(あべの)泰親(たいしん)、いそぎ内裏(だいり)
へ馳(はせ)まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、「今度(こんど)の地震(ぢしん)、占文(せんもん)のさす所(ところ)、其(その)慎(つつし)みかろ
から【軽から】ず。当道(たうだう)三経(さんぎやう)の中(なか)に、根器経(こんききやう)の説(せつ)を見(み)候(さうらふ)に、
「年(とし)をえ【得】ては年(とし)を出(いで)ず、月(つき)をえ【得】ては月(つき)を出(いで)ず、日(ひ)を
え【得】ては日(ひ)を出(いで)ず」とみえ【見え】て候(さうらふ)。以外(もつてのほか)に火急(くわきふ)(クハキウ)候(ざうらふ)」とて、はら
はらとぞ泣(なき)ける。伝奏(てんそう)の人(ひと)も色(いろ)をうしなひ【失ひ】、君(きみ)も
P03101
叡慮(えいりよ)(ヱイリヨ)をおどろかさせおはします。わかき公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)は、
「けしからぬ泰親(やすちか)が今(いま)の泣(なき)やうや。何事(なにごと)の有(ある)べき」
とて、わらひ【笑ひ】あはれけり。され共(ども)、この【此の】泰親(やすちか)は晴明(せいめい)五代(ごだい)の
苗裔(べうえい)(ベウヱイ)をうけて、天文(てんもん)は淵源(えんげん)(ヱンゲン)をきはめ、推条(すいでう)掌(たなごころ)をさす
が如(ごと)し。一事(いちじ)もたがは【違は】ざりければ、さす【指】の神子(みこ)とぞ
申(まうし)ける。いかづち【雷】の落(おち)かかりたりしか共(ども)、雷火(らいくわ)(ライクハ)の為(ため)に
狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)は焼(やけ)ながら、其(その)身(み)はつつが【恙】もなかりけり。上代(じやうだい)
にも末代(まつだい)にも、有(あり)がたかりし泰親(やすちか)也(なり)。同(おなじき)十四日(じふしにち)、相国
禅門(しやうこくぜんもん)、此(この)日(ひ)ごろ福原(ふくはら)におはしけるが、何(なに)とかおもひ【思ひ】なられ
P03102
たりけむ、数千騎(すせんぎ)の軍兵(ぐんびやう)をたなびいて、都(みやこ)へ入(いり)
給(たま)ふ由(よし)聞(きこ)えしかば、京中(きやうぢゆう)何(なに)と聞(きき)わきたる事(こと)は
なけれ共(ども)、上下(じやうげ)恐(おそ)(ヲソ)れおののく(をののく)。何(なに)ものの申出(まうしいだ)したり
けるやらん、「入道(にふだう)相国(しやうこく)、朝家(てうか)を恨(うら)み奉(たてまつ)るべし」と披
露(ひろう)をなす。関白殿(くわんばくどの)内々(ないない)きこしめさ【聞し召さ】るる旨(むね)や有(あり)けん、
急(いそ)ぎ御参内(ごさんだい)あ(ッ)て、「今度(こんど)相国禅門(しやうこくぜんもん)入洛(じゆらく)の事(こと)は、
ひとへに基房(もとふさ)亡(ほろぼ)すべき結構(けつこう)(ケツカウ)にて候(さうらふ)也(なり)。いかなる目(め)に逢(あふ)
べきにて候(さうらふ)やらん」と奏(そう)せさせ給(たま)へば、主上(しゆしやう)大(おほき)におどろ
かせ給(たまひ)て、「そこにいかなる目(め)にもあはむは、ひとへにただ
P03103
わがあふにてこそあらんずらめ」とて、御涙(おんなみだ)をながさ
せ給(たま)ふぞ忝(かたじけな)き。誠(まこと)に天下(てんが)の御政(おんまつりごと)は、主上(しゆしやう)摂録(せつろく)の
御(おん)ぱからひにてこそあるに、こはいかにしつる事共(ことども)ぞや。
天照大神(てんせうだいじん)・春日(かすがの)大明神(だいみやうじん)の神慮(しんりよ)の程(ほど)も計(はかり)がたし。同(おなじき)
十五日(じふごにち)、入道(にふだう)相国(しやうこく)朝家(てうか)を恨(うら)み奉(たてまつ)るべき事(こと)必定(ひつぢやう)と
聞(きこ)えしかば、法皇(ほふわう)大(おほき)におどろかせ給(たまひ)て、故(こ)少納言(せうなごん)入道(にふだう)信
西(しんせい)の子息(しそく)、静憲法印(じやうけんほふいん)を御使(おんつかひ)(ヲつかひ)にて、入道(にふだう)相国(しやうこく)のもとへ
つかはさ【遣さ】る。「近年(きんねん)、朝廷(てうてい)しづかならずして、人(ひと)の心(こころ)も
ととのほら【整のほら】ず。世間(せけん)もO[BH 未(いまだ)]落居(らつきよ)せぬさまに成行(なりゆく)事(こと)、
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惣別(そうべつ)につけて歎(なげ)きおぼしめせ【思し召せ】共(ども)、さてそこにあれば、
万事(ばんじ)はたのみ【頼み】おぼしめし【思し召し】てこそあるに、天下(てんが)をしづむ
るまでこそなからめ、嗷々(がうがう)なる体(てい)にて、あま[B ッ]さへ(あまつさへ)【剰へ】朝家(てうか)
を恨(うら)むべしな(ン)ど(など)きこしめす【聞し召す】は、何事(なにごと)ぞ」と仰(おほせ)つかはさ【遣さ】
る。静憲法印(じやうけんほふいん)、御使(おんつかひ)に西八条(にしはつでう)の亭(てい)へむかふ【向ふ】。朝(あした)より夕(ゆふべ)
に及(およ)ぶまで待(また)れけれ共(ども)、無音(ぶいん)也(なり)ければ、さればこそ
と無益(むやく)に覚(おぼ)(ヲボ)えて、源(げん)大夫判官(たいふはんぐわん)季貞(すゑさだ)をも(ッ)て、勅定(ちよくぢやう)
の趣(おもむ)(ヲモム)きいひ入(いれ)させ、「いとま申(まうし)て」とて出(いで)られければ、其(その)時(とき)
入道(にふだう)「法印(ほふいん)よべ」とて出(いで)られたり。喚(よび)かへい【返い】て、「やや法印(ほふいん)御
P03105
房(おんばう)(ヲンばう)、浄海(じやうかい)が申(まうす)処(ところ)は僻事(ひがこと)か。まづ内府(だいふ)が身(み)まかり【罷り】候(さうらひ)
ぬる事(こと)、当家(たうけ)の運命(うんめい)をはかるにも、入道(にふだう)随分(ずいぶん)悲
涙(ひるい)ををさへ(おさへ)【抑へ】てこそ罷過(まかりすぎ)候(さうら)へ。御辺(ごへん)の心(こころ)にも推察(すいさつ)し
給(たま)へ。保元(ほうげん)以後(いご)は、乱逆(らんげき)打(うち)つづいて、君(きみ)やすい御心(おんこころ)もわた
らせ給(たま)はざりしに、入道(にふだう)はただ大方(おほかた)を取(とり)おこなふ【行ふ】ばかりで
こそ候(さうら)へ、内府(だいふ)こそ手(て)をおろし、身(み)を摧(くだい)(クダヒ)て、度々(どど)の逆
鱗(げきりん)をばやすめ【休め】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て候(さうら)へ。其(その)外(ほか)臨時(りんじ)の御大事(おんだいじ)、
朝夕(てうせき)の政務(せいむ)、内府(だいふ)程(ほど)の功臣(こうしん)有(あり)がたうこそ候(さうらふ)らめ。爰(ここ)
をも(ッ)て古(いにしへ)を思(おも)ふに、唐(たう)の太宗(たいそう)は魏徴(ぎてう)にをくれ(おくれ)【遅れ】て、
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かなしみのあまりに、「昔(むかし)の殷宗(いんそう)は夢(ゆめ)のうちに良
弼(りやうひつ)をえ、今(いま)の朕(ちん)はさめ〔て〕の後(のち)賢臣(けんしん)を失(うしな)ふ」といふ
碑(ひ)の文(もん)をみづから書(かい)て、廟(べう)(ビヨウ)に立(たて)てだにこそかなし
み給(たま)ひけるなれ。我(わが)朝(てう)にも、ま近(ぢか)く見(み)候(さうらひ)し事(こと)ぞ
かし。顕頼民部卿(あきよりのみんぶきやう)が逝去(せいきよ)したりしをば、故院(こゐん)殊(こと)に
御歎(おんなげき)あ[B ッ]て、八幡(やはたの)行幸(ぎやうがう)延引(えんいん)(ヱンイン)し、御遊(ぎよいう)(ギヨユウ)なかりき。惣(そうじ)[* 左に(スベ)の振り仮名]て臣下(しんか)
の卒(しゆつ)するをば、代々(だいだい)〔の〕御門(みかど)みな御歎(おんなげき)ある事(こと)でこそ
候(さうら)へ。さればこそ、親(おや)(ヲヤ)よりもなつかしう【懐しう】、子(こ)よりもむつまし
きは、君(きみ)と臣(しん)との中(なか)とは申(まうす)事(こと)にて候(さうらふ)らめ。され共(ども)、内
P03107
府(だいふ)が中陰(ちゆういん)(チウイン)に八幡(やはた)の御幸(ごかう)あ(ッ)て御遊(ぎよいう)(ギヨユウ)あり【有り】き。御歎(おんなげき)の
色(いろ)、一事(いちじ)も是(これ)をみず。たとひ入道(にふだう)がかなしみを御(おん)
あはれみなく共(とも)、などか内府(だいふ)が忠(ちゆう)をおぼしめし【思し召し】忘(わす)れ
させ給(たま)ふべき。たとひ内府(だいふ)が忠(ちゆう)をおぼしめし【思し召し】忘(わす)
れさせ給(たまふ)共(とも)、いかでか入道(にふだう)が歎(なげき)を御(おん)あはれみなから
む。父子(ふし)共(とも)に叡慮(えいりよ)(ヱイリヨ)に背(そむき)候(さうらひ)ぬる事(こと)、今(いま)にをいて(おいて)面
目(めんぼく)を失(うしな)ふ、是(これ)一(ひとつ)。次(つぎ)に、越前[B ノ]国(ゑちぜんのくに)をば子々孫々(ししそんぞん)まで御
変改(ごへんがい)あるまじき由(よし)、御約束(おんやくそく)あ[B ッ]てO[BH 下(くだし)]給(たま)は[B ッ]て候(さうらひ)しを、
内府(だいふ)にをくれ(おくれ)【遅れ】て後(のち)、やがてめO[BH しかへ]され候(さうらふ)事(こと)は、なむ(なん)【何】の
P03108
過怠(くわたい)(クハタイ)にて候(さうらふ)やらむ、是(これ)一[B ツ](ひとつ)。次(つぎ)に、中納言(ちゆうなごん)闕(けつ)の候(さうらひ)し
時(とき)、二位[B ノ](にゐの)中将(ちゆうじやう)の所望(しよまう)候(さうらひ)しを、入道(にふだう)随分(ずいぶん)執(とり)申(まうし)し
か共(ども)、遂(つひ)(ツイ)に御承引(ごしよういん)(ごセウイン)なくして、関白(くわんばく)の息(そく)をなさるる
事(こと)はいかに。たとひ入道(にふだう)非拠(ひきよ)を申(まうし)おこなふ【行ふ】共(とも)、一度(いちど)
はなどかきこしめし【聞し召し】入(いれ)ざるべき。申(まうし)候(さうら)はんや、家嫡(けちやく)
といひ、位階(ゐかい)(イカイ)といひ、理運(りうん)左右(さう)に及(およ)ばぬ事(こと)を引(ひき)ち
がへさせ給(たま)ふは、ほい【本意】なき御(おん)ぱからひとこそ存(ぞんじ)候(さうら)へ、是(これ)
一[B ツ](ひとつ)。次(つぎ)に、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿(なりちかのきやう)以下(いげ)、鹿谷(ししのたに)により【寄り】あひ
て、謀反(むほん)の企(くはたて)候(さうらひ)し事(こと)、ま[B ッ]たく私(わたくし)の計略(けいりやく)にあらず。
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併(しかしながら)君(きみ)御許容(ごきよよう)あるによ(ッ)て也(なり)。事(こと)新(あたらし)き[M 「いまめかしき」をミセケチ「事新き」と傍書]申事(まうしごと)にて候(さうら)へ共(ども)、七代(しちだい)までは此(この)一門(いちもん)をば、いかでか捨(すて)させ給(たま)ふべき。それに入道(にふだう)七旬(しつしゆん)に及(および)て、余命(よめい)いくばくならぬ一期(いちご)の内(うち)にだにも、ややもすれば、亡(ほろぼ)すべき由(よし)御(おん)ぱからひあり【有り】。申(まうし)候(さうら)はんや、子孫(しそん)あひついで朝家(てうか)にめしつかは【使は】れん事(こと)有(あり)がたし。凡(およそ)(ヲヨソ)老(おい)(ヲヒ)て子(こ)を失(うしなふ)は、枯木(こぼく)の枝(えだ)(ヱダ)なきにことならず。今(いま)は程(ほど)なき浮世(うきよ)に、心(こころ)を費(つひや)(ツイヤ)しても何(なに)かはせんなれば、いかでも有(あり)なんとこそ思(おも)ひな(ッ)て候(さうら)へ」とて、且(かつう)は腹立(ふくりふ)(フクリウ)し、且(かつう)は落涙(らくるい)し
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給(たま)へば、法印(ほふいん)おそろしう【恐ろしう】も又(また)哀(あはれ)にも覚(おぼ)(ヲボ)えて、汗水(あせみづ)
になり給(たまひ)ぬ。此(この)時(とき)はいかなる人(ひと)も、一言(いちごん)の返事(へんじ)に及(および)
がたき事(こと)ぞかし。其上(そのうへ)我(わが)身(み)も近習(きんじゆ)の仁(じん)也(なり)、鹿谷(ししのたに)に
より【寄り】あひたりし事(こと)は、まさしう見(み)きか【聞か】れしかば、其(その)
人数(にんじゆ)とて、只今(ただいま)もめし【召し】や籠(こめ)られむずらんと思(おも)ふ
に、竜(りよう)(レウ)の鬚(ひげ)をなで、虎(とら)の尾(を)をふむ心(ここ)ち【心地】はせられけ
れ共(ども)、法印(ほふいん)もさるおそろしい【恐ろしい】人(ひと)で、ち(ッ)ともさはが(さわが)【騒が】ず。
申(まう)されけるは、「誠(まこと)に度々(どど)の御奉公(ごほうこう)浅(あさ)からず。一旦(いつたん)
恨(うら)み申(まう)させまします旨(むね)、其(その)謂(いはれ)候(さうらふ)。但(ただし)、官位(くわんゐ)(クハンイ)といひ
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俸禄(ほうろく)といひ、御身(おんみ)にと(ッ)ては悉(ことごと)く満足(まんぞく)す。しかれば
功(こう)の莫大(ばくたい)なるを、君(きみ)御感(ぎよかん)あるでこそ候(さうら)へ。しかる【然る】を
近臣(きんしん)事(こと)をみだり、君(きみ)御許容(ごきよよう)あり【有り】といふ事(こと)は、
謀臣(ぼうしん)の凶害(きようがい)(ケウガイ)にてぞ候(さうらふ)らん。耳(みみ)を信(しん)じて目(め)を疑(うたが)ふ
は、俗(しよく)の常(つね)のへい【弊】也(なり)。少人(せうじん)の浮言(ふげん)を重(おも)(ヲモ)うして、朝
恩(てうおん)(てうヲン)の他(た)にことなるに、君(きみ)を背(そむ)きまいら(まゐら)【参ら】させ給(たま)はん
事(こと)、冥顕(みやうけん)につけて其(その)恐(おそれ)すくなからず候(さうらふ)。凡(およそ)(ヲヨソ)天心(てんしん)は
蒼々(さうさう)としてはかりがたし。叡慮(えいりよ)(ヱイリヨ)さだめて其(その)儀(ぎ)
でぞ候(さうらふ)らん。下(しも)として上(かみ)にさかふる【逆ふる】事(こと)、豈(あに)人臣(じんしん)
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の礼(れい)たらんや。能々(よくよく)御思惟(ごしゆい)候(さうらふ)べし。詮(せん)ずるところ【所】、
此(この)趣(おもむき)(ヲモムキ)をこそ披露(ひろう)仕(つかまつり)候(さうら)はめ」とて出(いで)られければ、いく
らもなみゐ【居】たる人々(ひとびと)、「あなおそろし【恐ろし】。入道(にふだう)のあれ程(ほど)
いかり給(たま)へるに、ち(ッ)とも恐(おそ)れず、返事(へんじ)うちしてたた【立た】
るる事(こと)よ」とて、法印(ほふいん)をほめぬ人(ひと)こそなかりけれ。
『大臣(だいじん)流罪(るざい)』S0316
法印(ほふいん)御所(ごしよ)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、此(この)由(よし)奏聞(そうもん)せられ[M 「し」○を非とし「せられ」と改める]ければ、法皇(ほふわう)も道
理(だうり)至極(しごく)して、仰下(おほせくだ)さるる方(かた)[B 「方」に「旨」と傍書]もなし。同(おなじき)十六日(じふろくにち)、入道(にふだう)
相国(しやうこく)此(この)日(ひ)ごろ【日比】思立(おもひたち)給(たま)へる事(こと)なれば、関白殿(くわんばくどの)を始(はじ)
め奉(たてまつり)て、太政(だいじやう)大臣(だいじん)已下(いげ)の公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、四十三人(しじふさんにん)が
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官職(くわんしよく)(クハンシヨク)をとどめ【留め】て、追籠(おつこめ)(ヲツコメ)らる。関白殿(くわんばくどの)をば大宰帥(ださいのそつ)に
うつして、鎮西(ちんぜい)へながし奉(たてまつ)る。「かからん世(よ)には、とてもかく
ても有(あり)なん」とて、鳥羽(とば)の辺(へん)ふる河(かは)【古河】といふ所(ところ)にて
御出家(ごしゆつけ)あり【有り】。御年(おんとし)卅五(さんじふご)。「礼儀(れいぎ)よくしろしめし【知ろし召し】、く
もり【曇り】なき鏡(かがみ)にてわたらせ給(たま)ひつる物(もの)を」とて、
世(よ)の惜(をし)み奉(たてまつ)る事(こと)なのめならず。遠流(をんる)の人(ひと)の道(みち)
にて出家(しゆつけ)しつるをば、約束(やくそく)の国(くに)へはつかはさぬ事(こと)で
ある間(あひだ)、始(はじめ)は日向国(ひうがのくに)へと定(さだめ)られたりしか共(ども)、御出
家(ごしゆつけ)の間(あひだ)、備前(びぜんの)国O[BH 府ノ](こふの)辺(へん)、井(ゐ)ばさまといふ所(ところ)に留(とど)め奉(たてまつ)る。
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大臣(だいじん)流罪(るざい)の例(れい)は、左大臣(さだいじん)曾我(そが)のあかえ【赤兄】、右大臣(うだいじん)豊
成(とよなり)、左大臣(さだいじん)魚名(うをな)、右大臣(うだいじん)菅原(すがはら)、かけまくも忝(かたじけな)く北野(きたの)
の天神(てんじん)の御事(おんこと)也(なり)。左大臣(さだいじん)高明公(たかあきらこう)、内大臣(ないだいじん)藤原[B ノ](ふぢはらの)伊周公(いしうこう)
に至(いた)るまで、既(すで)に六人(ろくにん)。され共(ども)摂政(せつしやう)関白(くわんばく)流罪(るざい)の例(れい)は
是(これ)始(はじ)めとぞ承(うけたまは)る。故(こ)中殿(なかどのの)御子(おんこ)二位(にゐの)中将(ちゆうじやう)基通(もとみち)は、入
道(にふだう)の聟(むこ)にておはしければ、大臣(だいじん)関白(くわんばく)になし奉(たてまつ)る。去(さんぬる)
円融院(ゑんゆうゐん)の御宇(ぎよう)、天禄(てんろく)三年(さんねん)十一月(じふいちぐわつ)一日(ひとひのひ)、一条摂政(いちでうのせつしやう)謙徳公(けんとくこう)
うせ【失せ】給(たまひ)しかば、御弟(おんおとと)堀河(ほりかはの)関白(くわんばく)仲義【*忠義】(なかよし)、其(その)時(とき)は未(いまだ)従(じゆ)二位[B ノ](にゐの)
中納言(ちゆうなごん)にてましましけり。其(その)御弟(おんおとと)ほご院(ゐん)【法興院】の大入道殿(おほにふだうどの)、
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其(その)比(ころ)は大納言(だいなごん)の右大将(うだいしやう)にておはしける間(あひだ)、仲義【*忠義】公(なかよしこう)は
御弟(おんおとと)に越(こえ)られ給(たま)ひしか共(ども)、今(いま)又(また)越(こえ)かへし奉(たてまつ)り、内
大臣(ないだいじん)正二位(じやうにゐ)にあが(ッ)【上がつ】て、内覧(ないらんの)宣旨(せんじ)蒙(かうぶ)らせ給(たま)ひたり
しをこそ、人(ひと)耳目(じぼく)をおどろかしたる御昇進(ごしようじん)(ごセウジン)とは申(まうし)
しに、是(これ)はそれには猶(なほ)超過(てうくわ)(テウクハ)せり。非参儀(ひさんぎ)二位[B ノ](にゐの)中将(ちゆうじやう)
より大中納言(だいちゆうなごん)を経(へ)ずして、大臣(だいじん)関白(くわんばく)になり給(たま)ふ
事(こと)、いまだ承(うけたまは)り及(およ)ばず。普賢寺殿(ふげんじどの)の御事(おんこと)也(なり)。上卿(しやうけい)
の宰相(さいしやう)・大外記(だいげき)・大夫史(だいぶのし)にいたるまで、みなあきれたる
さまにぞみえ【見え】たりける。太政(だいじやう)大臣(だいじん)師長(もろなが)は、つかさをとど
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め【留め】て、あづまの方(かた)へながされ給(たま)ふ。去(さんぬる)保元(ほうげん)に父(ちち)悪(あく)(アシ)左[B ノ](ひだんの)
おほい【大臣】殿(どの)の縁座(えんざ)(ヱンザ)によ(ッ)て、兄弟(キヤウダイ)四人(しにん)流罪(るざい)せられ給(たまひ)
しが、御兄[* 左に(あに)の振り仮名](おんせうと)(ヲンセウト)右大将(うだいしやう)兼長(かねなが)、御弟(おんおとと)(おんヲトト)左(さ)[M の]中将(ちゆうじやう)隆長(たかなが)、範長
禅師(はんちやうぜんじ)三人(さんにん)は帰洛[* 「帰路」と有るのを他本により訂正](きらく)を待(また)ず、配所(はいしよ)にてうせ【失せ】給(たまひ)ぬ。是(これ)は
土佐(とさ)の畑(はた)にて九(ここの)かへりの春秋(はるあき)を送(おく)りむかへ【向へ】、長寛(ちやうくわん)(チヤウクハン)二
年(にねん)八月(はちぐわつ)にめし【召し】かへさ【返さ】れて、本位(ほんゐ)に復(ふく)す[M 「復(ふく)し」とあり「し」をミセケチ「す」と傍書]。次(つぎ)の年(とし)正二位(じやうにゐ)
して、仁安(にんあん)元年(ぐわんねん)十月(じふぐわつ)に前(さきの)中納言(ちゆうなごん)より権大納言(ごんだいなごん)に
あがり給(たま)ふ。折節(をりふし)大納言(だいなごん)あか【空か】ざりければ、員(かず)の外(ほか)にぞ
くははら【加はら】れける。大納言(だいなごん)六人(ろくにん)になること是(これ)始(はじめ)也(なり)。又(また)前(さきの)
P03117
中納言(ちゆうなごん)より権大納言(ごんだいなごん)になる事(こと)も、後山階大臣(ごやましなのだいじん)躬守【*三守】
公(みもりこう)、宇治[B ノ]大納言(うぢのだいなごん)隆国卿(たかくにのきよう)[* 隆国の左に(リウコクノ)の振り仮名]の外(ほか)は未(いまだ)承(うけたまは)り及(およ)ばず。管絃(くわんげん)(クハンゲン)の
道(みち)に達(たつ)し、才芸(さいげい)勝(すぐ)れてましましければ、次第(しだい)の昇進(しようじん)(セウジン)
とどこほらず、太政(だいじやう)大臣(だいじん)まできはめさせ給(たまひ)て、又(また)いか
なる罪(つみ)の報(むくひ)にや、かさね【重ね】てながされ給(たま)ふらん。保元(ほうげん)
の昔(むかし)は南海(なんかい)土佐(とさ)へうつされ、治承(ぢしよう)(ヂセウ)の今(いま)は東関(とうくわん)(トウクハン)[M 尾張]
尾張国(をはりのくに)とかや。もとよりつみ【罪】なくして配所(はいしよ)の月(つき)を
みんといふ事(こと)は、心(こころ)あるきはの人(ひと)の願(ねが)ふ事(こと)なれば、
おとど【大臣】あへて事(こと)共(とも)し給(たま)はず。彼(かの)唐(たうの)太子[B ノ](たいしの)賓客(ひんかく)白楽
P03118
天(はくらくてん)、潯陽江(しんやうのえ)の辺(ほとり)にやすらひ給(たまひ)けん其(その)古(いにしへ)を思遣(おもひやり)(ヲモヒヤリ)、鳴
海潟(なるみがた)、O[BH 塩]路(しほぢ)遥(はるか)に遠見(ゑんけん)して、常(つね)は朗月(らうげつ)を望(のぞ)み、浦風(うらかぜ)に
嘯(うそむき)、琵琶(びは)を弾(たん)じ、和歌(わか)を詠(えい)(ヱイ)じて、なをざり(なほざり)【等閑】がてらに
月日(つきひ)を送(おく)らせ給(たま)ひけり。ある時(とき)、当国(たうごく)第三(だいさん)の宮(みや)
熱田明神(あつたのみやうじん)に参詣(さんけい)あり【有り】。その夜(よ)神明(しんめい)法楽(ほふらく)(ホウラク)のため
に、琵琶(びは)引(ひき)、朗詠(らうえい)(ラウヱイ)し給(たま)ふに、所(ところ)もとより無智(むち)の境(さかひ)(サカイ)
なれば、情(なさけ)をしれ【知れ】るものなし。邑老(いふらう)(ユウラウ)・村女(そんぢよ)(ソンジヨ)・漁人(ぎよじん)・野叟(やそう)、
首(かうべ)をうなたれ、耳(みみ)を峙(そばだつ)といへども【共】、更(さら)に清濁(せいだく)をわか
ち、呂律(りよりつ)をしる事(こと)なし。され共(ども)、胡巴琴【*瓠巴琴】(こはきん)を弾(たん)ぜしかば、
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魚鱗(ぎよりん)踊(をどり)ほどばしる[B 「る」に「り」と傍書]。虞公(ぐこう)歌(うた)を発(はつ)せしかば、梁麈(りやうぢん)う
ごきうごく。物(もの)の妙(めう)を究(きはむ)る時(とき)には、自然(じねん)に感(かん)を催(もよほ)(モヨヲ)す理(ことわり)(コトハリ)
なれば、諸人(しよにん)身(み)の毛(け)よだ(ッ)て、満座(まんざ)奇異(きい)の思(おもひ)をなす。
やうやう深更(しんかう)に及(およん)で、ふがうでう【風香調】の内(うち)には、花(はな)芬馥(ふんぷく)(フンリ)の
気(き)を含(ふく)み、流泉(りうせん)の曲(きよく)の間(あひだ)には、月(つき)清明(せいめい)の光(ひかり)をあら
そふ。「願(ねがは)くは今生(こんじやう)世俗(せぞく)文字(もじ)の業(げう)、狂言(きやうげん)綺語(きぎよの)誤(あやまり)をも(ッ)
て」といふ朗詠(らうえい)(ラウヱイ)をして、秘曲(ひきよく)を引(ひき)給(たま)へば、神明(しんめい)感応(かんおう)(カンヲウ)
に堪(た)へずして、宝殿(ほうでん)大(おほき)に震動(しんどう)す。「平家(へいけ)の悪行(あくぎやう)
なかりせば、今(いま)此(この)瑞相(ずいさう)をいかでか拝(をが)むべき」とて、
20
おとど【大臣】感涙(かんるい)をぞながされける。按察(あぜちの)大納言(だいなごん)資方【*資賢】
卿[B ノ](すけかたのきやうの)子息(しそく)右近衛少将(うこんゑのせうしやう)兼(けん)讃岐守(さぬきのかみ)源[B ノ](みなもとの)資時(すけとき)、両(ふたつ)の官(くわん)(クハン)を
留(とど)めらる。参議(さんぎ)皇太后宮(くわうだいこうくうの)(クハウダイコクウノ)O[BH 左に「権(ごんの)」]大夫(だいぶ)兼(けん)右兵衛[B ノ]督(うひやうゑのかみ)藤原[B ノ](ふぢはらの)
光能(みつよし)、大蔵卿(おほくらのきやう)右京大夫(うきやうのだいぶ)兼(けん)伊予守(いよのかみ)高階(たかしなの)康経【*泰経】(やすつね)、蔵
人左少弁(くらんどのさせうべん)兼(けん)中宮[B ノ](ちゆうぐうの)権大進(ごんのだいしん)藤原[B ノ](ふぢはらの)基親(もとちか)、三官(さんくわん)(さんクハン)共(とも)に
留(とどめ)らる。「按察(あぜちの)大納言(だいなごん)資方【*資賢】卿(すけかたのきやう)、子息(しそく)右近衛[B ノ]少将(うこんゑのせうしやう)、孫(まご)
の右少将(うせうしやう)雅方【*雅賢】(まさかた)、是(これ)三人(さんにん)をばやがて都(みやこ)の内(うち)を追出(おひいだ)
さるべし」とて、上卿(しやうけい)藤(とう)大納言(だいなごん)実国(さねくに)、博士判官(はかせのはうぐわん)(ハカセノハウグハン)中原[B ノ](なかはらの)
範貞(のりさだ)に仰(おほせ)て、やがて其(その)日(ひ)都(みやこ)のうちを追出(おひいだ)(ヲイイダ)さる。
P03121
大納言(だいなごん)の給(たまひ)けるは、「三界(さんがい)広(ひろ)しといへ共(ども)、五尺(ごしやく)の身(み)をき
所(どころ)(おきどころ)【置き所】なし。一生(いつしやう)程(ほど)なしといへ共(ども)、一日(いちにち)暮(くら)しがたし」とて、
夜中(やちゆう)(ヤチウ)に九重(ここのへ)の内(うち)をまぎれ出(いで)て、八重(やへ)たつ雲(くも)の
外(ほか)へぞおもむか【赴か】れける。彼(かの)大江山(おほえやま)や、いく野(の)【生野】の道(みち)に
かかりつつ、丹波国(たんばのくに)村雲(むらくも)と云(いふ)所(ところ)にぞ、しばしはやすらひ
給(たまひ)ける。其(それ)より遂(つひ)(ツイ)には尋出(たづねいだ)されて、信濃[B ノ]国(しなののくに)とぞ
『行隆(ゆきたか)之(の)沙汰(さた)』S0317
聞(きこ)えし。○前[B ノ](さきの)関白(くわんばく)松殿(まつどの)の侍(さぶらひ)に江[B ノ](がうの)大夫(たいふの)判官(はんぐわん)遠成(とほなり)(トヲナリ)といふ
ものあり【有り】。是(これ)も平家(へいけ)心(こころ)よからざりければ、既(すで)に六波羅(ろくはら)
より押寄(おしよせ)(ヲシヨセ)て搦取(からめと)らるべしと聞(きこ)えし間(あひだ)、子息(しそく)江(がう)
P03122
左衛門尉(さゑもんのじよう)家成(いへなり)打具(うちぐ)して、いづち共(とも)なく落行(おちゆき)けるが、
稲荷山(いなりやま)にうちあがり、馬(むま)より下(おり)て、親子(おやこ)いひ合(あは)せ
けるは、「東国(とうごく)の方(かた)へ落(おち)くだり、伊豆国(いづのくに)の流人(るにん)、前[B ノ](さきの)右兵
衛[B ノ]佐(うひやうゑのすけ)頼朝(よりとも)をたのま【頼ま】ばやとは思(おも)へ共(ども)、それも当時(たうじ)は
勅勘(ちよつかん)の人(ひと)で、身(み)ひとつ【一つ】だにもかなひ【叶ひ】がたうおはす
也(なり)。日本国(につぽんごく)に、平家(へいけ)の庄園(しやうゑん)ならぬ所(ところ)やある。とても
のがれ【逃れ】ざらんもの【物】ゆへ(ゆゑ)【故】に、年来(ねんらい)住(すみ)なれたる所(ところ)を人(ひと)に
みせ【見せ】んも恥(はぢ)がましかるべし。ただ是(これ)よりかへ(ッ)て、六波
羅(ろくはら)よりめし【召し】使(つかひ)(ヅカイ)あらば、腹(はら)かき切(きつ)て死(し)なんにはしかじ」
P03123
とて、川原坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へとて取(と)(ッ)て返(かへ)す。あん【案】のごとく、
六波羅(ろくはら)より源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)季定【*季貞】(すゑさだ)、摂津(つの)判官(はうぐわん)(ハウグハン)盛澄(もりずみ)、ひ
た甲(かぶと)三百(さんびやく)余騎(よき)、河原坂(かはらざか)の宿所(しゆくしよ)へ押寄(おしよせ)(ヲシヨセ)て、時(とき)をど(ッ)
とぞつくりける。江(がう)大夫(たいふの)判官(はんぐわん)えん【縁】に立出(たちいで)て、「是(これ)御
覧(ごらん)ぜよ、をのをの(おのおの)【各々】。六波羅(ろくはら)ではこの様(やう)申(まう)させ給(たま)へ」とて、
館(たち)に火(ひ)かけ、父子(ふし)共(とも)に腹(はら)かききり【切り】、ほのほ【炎】の中(なか)にて
焼死(やけしに)ぬ。抑(そもそも)か様(やう)【斯様】に上下(じやうげ)多(おほ)く亡損(ほろびそん)ずる事(こと)をいかにと
いふに、当時(そのかみ)関白(くわんばく)にならせ給(たま)へる二位[B ノ](にゐの)中将殿(ちゆうじやうどの)と、前(さき)
の殿(との)の御子(おんこ)三位[B ノ](さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの)と、中納言(ちゆうなごん)御相論(ごさうろん)の
P03124
故(ゆゑ)と申(まう)す。さらば関白殿(くわんばくどの)御一所(ごいつしよ)こそ、いかなる御目(おんめ)に
もあはせ【合はせ】給(たま)はめ、四十(しじふ)余人(よにん)までの、人々(ひとびと)の事(こと)に逢(あふ)
べしやは。去年(こぞ)讃岐院(さぬきのゐん)の御追号(ごついがう)、宇治(うぢ)の悪左
府(あくさふ)の贈官(ぞうくわん)(ゾウクハン)贈位(ぞうゐ)有(あり)しか共(ども)、世間(せけん)は猶(なほ)しづか【静か】ならず。
凡(およそ)是(これ)にも限(かぎ)るまじかんなり。「入道(にふだう)相国(しやうこく)の心(こころ)に天
魔(てんま)入(いり)かは(ッ)て、腹(はら)をすへ(すゑ)【据ゑ】かね給(たま)へり」と聞(きこ)えしかば、「又(また)
天下(てんが)いかなる事(こと)か出(いで)こ【来】んずらん」とて、京中(きやうぢゆう)上下(じやうげ)
おそれ【恐れ】おののく(をののく)。其(その)比(ころ)前[B ノ](さきの)左少弁(させうべん)行高【*行隆】(ゆきたか)と聞(きこ)えしは、
故(こ)中山(なかやまの)中納言(ちゆうなごん)顕時卿(あきときのきやう)の長男(ちやうなん)也(なり)。二条院(にでうのゐん)の御世(みよ)には、
P03125
弁官(べんくわん)(ベンクハン)にくはは(ッ)てゆゆしかりしか共(ども)、此(この)十余年(じふよねん)は
官(くわん)(クハン)を留(とど)められて、夏冬(なつふゆ)の衣(ころも)がへ【衣更】にも及(およ)ばず、朝暮(てうぼ)
の■(さん)も心(こころ)にまかせ【任せ】ず。有(ある)かなきかの体(てい)にておはし
けるを、太政(だいじやう)入道(にふだう)「申(まうす)べき事(こと)あり【有り】。き(ッ)と立(たち)より給(たま)へ」
との給(たまひ)つかはさ【遣さ】れたりければ、行高【*行隆】(ゆきたか)「此(この)十余年(じふよねん)は何
事(なにごと)にもまじはらざりつる物(もの)を。人(ひと)の讒言(ざんげん)したる
旨(むね)あるにこそ」とて、大(おほき)におそれ【恐れ】さはが(さわが)【騒が】れけり。北方(きたのかた)公
達(きんだち)も「いかなる目(め)にかあはんずらん」と泣(なき)かなしみ給(たま)ふ
に、西八条(にしはつでう)より使(つかひ)(ツカイ)しきなみに有(あり)ければ、力(ちから)及(およ)ばで、
P03126
人(ひと)に車(くるま)か(ッ)【借つ】て西八条(にしはつでう)へ出(いで)られたり。思(おも)ふには似(に)ず、入
道(にふだう)やがて出(いで)むかふ(むかう)【向う】て対面(たいめん)あり【有り】。「御辺(ごへん)の父(ちち)の卿(きやう)は、
大小事(だいせうじ)申(まうし)あはせ【合はせ】し人(ひと)なれば、をろか(おろか)【愚】に思(おも)ひ奉(たてまつ)らず。
年来(としごろ)籠居(ろうきよ)の事(こと)も、いとおしう(いとほしう)おもひ【思ひ】たてま(ッ)【奉つ】し
か共(ども)、法皇(ほふわう)御政務(ごせいむ)のうへ【上】は力(ちから)及(およ)ばず。今(いま)は出仕(しゆつし)し給(たま)へ。
官途(くわんど)(クハンド)の事(こと)も申(まうし)沙汰(さた)仕(つかまつ)るべし。さらばとう帰(かへ)られ
よ」とて、入(いり)給(たまひ)ぬ。帰(かへ)られたれば、宿所(しゆくしよ)には女房達(にようばうたち)、しん【死ん】
だる人(ひと)の生(いき)かへりたる心(ここ)ち【心地】して、さしつどひ【集ひ】てみな
悦泣(よろこびなき)共(ども)せられけり。太政(だいじやう)入道(にふだう)、源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)を
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も(ッ)て、知行(ちぎやう)し給(たまふ)べき庄園状共(しやうゑんのじやうども)あまた遣(つか)はす。まづ
さこそ有(ある)らめとて、百疋(ひやつぴき)百両(ひやくりやう)に米(よね)をつむ(つん)でぞ送(おく)
られける。出仕(しゆつし)の料(れう)にとて、雑色(ざふしき)(ザウシキ)・牛飼(うしかひ)(ウシカイ)・牛(うし)・車(くるま)まで
沙汰(さた)しつかはさ【遣さ】る。行高【*行隆】(ゆきたか)手(て)の舞(まひ)(マイ)足(あし)の踏(ふみ)どころ【所】も
覚(おぼ)(ヲボ)えず。「是(これ)はされば夢(ゆめ)かや、夢(ゆめ)か」とぞ驚(おどろ)(ヲドロ)かれける。
同(おなじき)十七日(じふしちにち)、五位(ごゐ)の侍中(じちゆう)(ジチウ)に補(ふ)せられて、左少弁(させうべん)になり
帰(かへ)り給(たま)ふ。今年(こんねん)五十一(ごじふいち)、今更(いまさら)わかやぎ給(たま)ひけり。
『法皇(ほふわう)被流(ながされ)』S0318
ただ片時(へんし)の栄花(えいぐわ)(ヱイグハ)とぞみえ【見え】し。○同(おなじき)廿日(はつかのひ)、院[B ノ](ゐんの)御所(ごしよ)
法住寺殿(ほふぢゆうじどの)(ホウヂウジどの)には、軍兵(ぐんびやう)四面(しめん)を打(うち)かこむ。「平治(へいぢ)に信頼(のぶより)が
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したりし様(やう)に、火(ひ)をかけて人(ひと)をばみな焼殺(やきころ)さるべ
し」と聞(きこ)えし間(あひだ)、上下(じやうげ)の女房(にようばう)めのわらは、物(もの)をだに
うちかづかず、あはて(あわて)【慌て】騒(さわい)(サハイ)で走(はし)りいづ。法皇(ほふわう)も大(おほき)にお
どろかせおはします。前(さきの)右大将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)御車(おんくるま)を
よせて、「とうとうめさ【召さ】るべう候(さうらふ)」と奏(そう)せられければ、法
皇(ほふわう)「こはされば何事(なにごと)ぞや。御(おん)とがあるべし共(とも)おぼし
めさ【思し召さ】ず。成親(なりちか)・俊寛(しゆんくわん)(シユンクハン)が様(やう)に、遠(とほ)(トヲ)き国(くに)遥(はる)かの島(しま)へも
うつし【移し】やらんずるにこそ。主上(しゆしやう)さて渡(わたら)せ給(たま)へば、政務(せいむ)
に口入(こうじゆ)(コウジウ)する計(ばかり)也(なり)。それもさるべからずは、自今(じごん)以後(いご)さらで
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こそあらめ」と仰(おほせ)ければ、宗盛[B ノ]卿(むねもりのきやう)「其(その)儀(ぎ)では候(さうら)はず。
世(よ)をしづめん程(ほど)、鳥羽殿(とばどの)へ御幸(ごかう)なしまいらせ(まゐらせ)【参らせ】んと、
父(ちち)の入道(にふだう)申(まうし)候(さうらふ)」。「さらば宗盛(むねもり)やがて御供(おんとも)にまいれ(まゐれ)【参れ】」と
仰(おほせ)けれ共(ども)、父(ちち)の禅門(ぜんもん)の気色(きしよく)に恐(おそ)(ヲソ)れをなしてまいら(まゐら)【参ら】
れず。「あはれ、是(これ)につけても兄(あに)の内府(だいふ)には事[B ノ]外(ことのほか)に
おとりたりける物(もの)かな。一年(ひととせ)もかかる御目(おんめ)にあふべ
かりしを、内府(だいふ)が身(み)にかへて制(せい)しとどめ【留め】てこそ、今
日(けふ)までも心安(こころやす)かりつれ。いさむる者(もの)もなしとて、か
やうにするにこそ。行末(ゆくすゑ)とてもたのもしから【頼もしから】ず」と
P03130
て、御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふぞ忝(かたじけ)なき。さて御車(おんくるま)にめさ【召さ】
れけり。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)、一人(いちにん)も供奉(ぐぶ)せられず。ただ北
面(ほくめん)の下臈(げらふ)(ゲラウ)、さては金行(かねゆき)(カネユキ)といふ御力者(おんりきしや)ばかりぞまいり(まゐり)【参り】
ける。御車(おんくるま)の尻(しり)には、あまぜ【尼前】一人(いちにん)まいら(まゐら)【参ら】れたり。この
尼(あま)ぜ【尼前】と申(まうす)は、やがて法皇(ほふわう)の御乳(おんち)の人(ひと)、紀伊[B ノ]二位(きのにゐ)の
事(こと)也(なり)。七条(しつでう)を西(にし)へ、朱雀(しゆしやか)を南(みなみ)へ御幸(ごかう)なる。あやしの
しづのを【賎男】賎女(しづのめ)にいたるまで、「あはや法皇(ほふわう)のながさ【流さ】れ
させましますぞや」とて、泪(なみだ)をながし、袖(そで)をしぼらぬは
なかりけり。「去(さんぬる)七日(なぬか)の夜(よ)の大地震(おほぢしん)も、かかるべかりける
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先表(ぜんべう)にて、十六(じふろく)洛叉(らくしや)の底(そこ)までもこたへ、乾牢地神(けんらうぢじん)の[B 「の」に「も」と傍書]
驚(おどろ)(ヲドロ)きさはぎ(さわぎ)【騒ぎ】給(たま)ひけんも理(ことわり)(コトハリ)かな」とぞ、人(ひと)申(まうし)ける。さて
鳥羽殿(とばどの)へ入(いら)せ給(たまひ)たるに、大膳[B ノ](だいぜんの)大夫(だいぶ)信成【*信業】(のぶなり)が、何(なに)として
まぎれ【紛れ】まいり(まゐり)【参り】たりけるやらむ、御前(ごぜん)ちかう候(さうらひ)けるを
めし【召し】て、「いかさまにも今夜(こよひ)うしなは【失なは】れなんずとおぼし
めす【思し召す】ぞ。O[BH 御行水(おんぎやうずい)をめさばやとおぼしめす【思し召す】は]いかがせんずる」と仰(おほせ)ければ、さらぬだに
信成【*信業】(のぶなり)、けさより肝(きも)たましい(たましひ)【魂】も身(み)にそはず、あきれ
たるさまにて有(あり)けるが、此(この)仰(おほせ)承(うけたまは)る忝(かたじけ)なさに、狩衣(かりぎぬ)
に玉(たま)だすきあげ、小柴墻(こしばがき)壊(やぶり)、大床(おほゆか)(ヲホユカ)のつか柱(ばしら)わり
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などして、水(みづ)くみ【汲み】入(いれ)、かたのごとく御湯(おんゆ)しだい【仕出い】てまい
らせ(まゐらせ)【参らせ】たり。又(また)静憲法印(じやうけんほふいん)、入道(にふだう)相国(しやうこく)の西八条(にしはつでう)の亭(てい)に
ゆいて、「法皇(ほふわう)の鳥羽殿(とばどの)へ御幸(ごかう)な(ッ)て候(さうらふ)なるに、御前(ごぜん)
に人(ひと)一人(いちにん)も候(さうら)はぬ由(よし)承(うけたまは)るが、余(あまり)にあさましう覚(おぼ)(ヲボ)え
候(さうらふ)。何(なに)かは苦(くる)しう候(さうらふ)べき。静憲(じやうけん)ばかりは御(おん)ゆるされ【許され】候(さうら)
へかし。まいり(まゐり)【参り】候(さうら)はん」と申(まう)されければ、「とうとう。御房(ごばう)は
事(こと)あやまつまじき人(ひと)なれば」とてゆるさ【許さ】れけり。法
印(ほふいん)鳥羽殿(とばどの)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、門前(もんぜん)にて車(くるま)よりおり、門(もん)の
内(うち)へさし入(いり)給(たま)へば、折(をり)しも法皇(ほふわう)、御経(おんきやう)(ヲンキヤウ)をうちあげうちあげ
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あそばさ【遊ばさ】れける。御声(おんこゑ)もことにすごう【凄う】〔ぞ〕聞(きこ)えさせ給(たまひ)ける。
法印(ほふいん)のつ(ッ)とまいら(まゐら)【参ら】れたれば、あそばさ【遊ばさ】れける御経(おんきやう)(ヲンキヤウ)に
御涙(おんなみだ)のはらはらとかからせ給(たま)ふを見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、
法印(ほふいん)あまりのかなしさに、旧苔(きうたい)【裘苔】の袖(そで)をかほ【顔】にをし(おし)【押し】
あてて、泣々(なくなく)御前(ごぜん)へぞまいら(まゐら)【参ら】れける。御前(ごぜん)にはあま
ぜ【尼前】ばかり候(さうら)はれけり。「いかにや法印(ほふいん)御房(ごばう)、君(きみ)は昨日(きのふ)
のあした【旦】、法住寺(ほふぢゆうじ)にて供御(ぐご)きこしめさ【聞し召さ】れて後(のち)は、よべも今朝(けさ)もきこしめし【聞し召し】も入(いれ)ず。長(ながき)夜(よ)すがら御
寝(ぎよしん)もならず。御命(おんいのち)も既(すで)にあやうく(あやふく)こそ見(み)え
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させおはしませ」との給(たま)へ【宣へ】ば、法印(ほふいん)涙(なみだ)ををさへ(おさへ)【抑へ】て申(まう)
されけるは、「何事(なにごと)も限(かぎ)りある事(こと)にて候(さうら)へば、平
家(へいけ)たのしみさかへ(さかえ)【栄え】て廿(にじふ)余年(よねん)、され共(ども)悪行(あくぎやう)法(ほふ)(ハウ)に
過(すぎ)て、既(すで)に亡(ほろ)び候(さうらひ)なんず。天照大神(てんせうだいじん)・正八幡宮(しやうはちまんぐう)いかで
か捨(すて)まいら(まゐら)【参ら】させ給(たま)ふべき。中(なか)にも君(きみ)の御憑(おんたのみ)あ
る日吉山王(ひよしさんわう)七社(しちしや)、一乗(いちじよう)(いちゼウ)守護(しゆご)の御(おん)ちかひあらたま【改ま】
らずは、彼(かの)法華(ほつけ)八軸(はちぢく)に立(たち)かけてこそ、君(きみ)をばま
もり【守り】まいら(まゐら)【参ら】させ給(たま)ふらめ。しかれば政務(せいむ)は君(きみ)の
御代(おんよ)となり、凶徒(きようど)(ケウド)は水(みづ)の泡(あは)ときえ【消え】うせ候(さうらふ)べし」
P03135
な(ン)ど(など)申(まう)されければ、此(この)詞(ことば)にすこし【少し】なぐさま【慰さま】せおはし
ます。主上(しゆしやう)は関白(くわんばく)のながされ給(たま)ひ、臣下(しんか)の多(おほ)く
亡(ほろび)ぬる事(こと)をこそ御歎(おんなげき)あり【有り】けるに、剰(あまつさへ)法皇(ほふわう)鳥羽
殿(とばどの)にをし(おし)【押し】籠(こめ)られさせ給(たま)ふときこしめさ【聞し召さ】れて後(のち)は、
つやつや供御(ぐご)もきこしめさ【聞し召さ】れず。御悩(ごなう)とて常(つね)は
よるのおとどにのみぞいら【入ら】せ給(たまひ)ける。きさいの宮(みや)【后の宮】
をはじめまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、御前(おまへ)の女房(にようばう)たち、いかなるべし
共(とも)覚(おぼ)え給(たま)はず。法皇(ほふわう)鳥羽殿(とばどの)へ押籠(おしこめ)(ヲシコメ)られさせ
給(たまひ)て後(のち)は、内裏(だいり)には臨時(りんじ)の御神事(ごじんじ)とて、主上(しゆしやう)
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夜(よ)ごとに清凉殿(せいりやうでん)の石灰壇(いしばひのだん)(イシバイノダン)にて、伊勢太神宮(いせのだいじんぐう)を
ぞ御拝(ごはい)あり【有り】ける。是(これ)はただ一向(いつかう)法皇(ほふわう)の御祈(おんいのり)也(なり)。二
条[B ノ]院(にでうのゐん)は賢王(けんわう)にて渡(わた)らせ給(たまひ)しか共(ども)、天子(てんし)に父母(ぶも)
なしとて、常(つね)は法皇(ほふわう)の仰(おほせ)をも申(まうし)かへさ【返さ】せましまし
ける故(ゆゑ)にや、継体(けいてい)の君(きみ)にてもましまさず。されば
御譲(おんゆづり)をうけさせ給(たま)ひたりし六条院(ろくでうのゐん)も、安元(あんげん)二
年(にねん)七月(しちぐわつ)十四日(じふしにち)、御年(おんとし)十三(じふさん)にて崩御(ほうぎよ)なりぬ。あさ
『城南之離宮(せいなんのりきゆう)』S0319
ましかりし御事(おんこと)也(なり)。○「百行(はくかう)(はくカウ)の中(なか)には孝行(かうかう)をも(ッ)て
先(さき)とす。明王(めいわう)は孝(かう)をも(ッ)て天下(てんが)を治(をさむ)」といへり。されば
P03137
唐堯(たうげう)は老衰(おいおとろ)(ヲイヲトロ)へたる母(はは)をた[B ッ]とび、虞舜(ぐしゆん)はかたくなな
る父(ちち)をうやまふとみえたり。彼(かの)賢王(けんわう)聖主(せいしゆ)の先
規(せんぎ)を追(お)(ヲ)はせましましけむ叡慮(えいりよ)(ヱイリヨ)の程(ほど)こそ目出(めでた)け
れ。其(その)比(ころ)、内裏(だいり)よりひそかに鳥羽殿(とばどの)へ御書(ごしよ)あり【有り】。
「かからむ世(よ)には、雲井(くもゐ)に跡(あと)をとどめ【留め】ても何(なに)かはし候(さうらふ)べき。
寛平(くわんぺい)の昔(むかし)をもとぶらひ【訪ひ】、花山(くわさん)(クハサン)の古(いにしへ)をも尋(たづね)て、
家(いへ)を出(いで)、世(よ)をのがれ【逃れ】、山林(さんりん)流浪(るらう)の行者(ぎやうじや)共(とも)なりぬ
べうこそ候(さうら)へ」とあそばさ【遊ばさ】れたりければ、法皇(ほふわう)の御返事(おんぺんじ)
には、「さなおぼしめさ【思し召さ】れ候(さうらひ)そ。さて渡(わた)らせ給(たま)ふこそ、
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ひとつ【一つ】のたのみ【頼み】にても候(さうら)へ。跡(あと)なくおぼしめし【思し召し】なら
せ給(たま)ひなん後(のち)は、なんのたのみか候(さうらふ)べき。ただ愚老(ぐらう)
がともかうもなら【成ら】むやうをきこしめし【聞し召し】はて【果て】させ給(たま)
ふべし」とあそばさ【遊ばさ】れたりければ、主上(しゆしやう)此(この)御返事(おんぺんじ)
を竜顔(りようがん)(レウガン)にをし(おし)【押し】あてて、いとど御涙(おんなみだ)にしづませ給(たま)ふ。
君(きみ)は舟(ふね)、臣(しん)は水(みづ)、水(みづ)よく船(ふね)をうかべ【浮べ】、水(みづ)又(また)船(ふね)をくつがへ
す。臣(しん)よく君(きみ)をたもち【保ち】、臣(しん)又(また)君(きみ)を覆(くつがへ)す。保元(ほうげん)平
治(へいぢ)の比(ころ)は、入道(にふだう)相国(しやうこく)君(きみ)をたもち【保ち】奉(たてまつ)るといへ共(ども)、安
元(あんげん)治承(ぢしよう)(ヂセウ)のいまは又(また)君(きみ)をなみしたてまつる【奉る】。史
P03139
書(ししよ)の文(もん)にたがは【違は】ず。大宮[B ノ](おほみやの)大相国(たいしやうこく)、三条[B ノ](さんでうの)内大臣(ないだいじん)、葉室(はむろの)
大納言(だいなごん)、中山[B ノ](なかやまの)中納言(ちゆうなごん)も失(うせ)られぬ。今(いま)はふるき人(ひと)と
ては成頼(せいらい)・親範(しんぱん)ばかり也(なり)。この人々(ひとびと)も、「かからむ世(よ)には、
朝(てう)につかへ身(み)をたて、大中納言(だいちゆうなごん)を経(へ)ても何(なに)かはせ
ん」とて、いまださかむ(さかん)【盛】な(ッ)し人々(ひとびと)の、家(いへ)を出(いで)、よ【世】を
のがれ【逃れ】、民部卿(みんぶきやう)入道(にふだう)親範(しんぱん)は大原(おはら)の霜(しも)にともな
ひ、宰相(さいしやう)入道(にふだう)成頼(せいらい)は高野(かうや)の霧(きり)にまじはり、一向(いつかう)
後世(ごせ)菩提(ぼだい)のいとなみの外(ほか)は他事(たじ)なしとぞき
こえ【聞え】し。昔(むかし)も商山(しやうざん)の雲(くも)にかくれ、潁川(えいせん)(ヱイセン)の月(つき)に心(こころ)を
P03140
すます【澄ます】人(ひと)もあり【有り】ければ、これ豈(あに)博覧清潔(はくらんせいけつ)に
して世(よ)を遁(のがれ)たるにあらずや。中(なか)にも高野(かうや)にお
はしける宰相(さいしやう)入道(にふだう)成頼(せいらい)、か様(やう)【斯様】の事共(ことども)を伝(つた)へきい【聞い】
て、「あはれ、心(こころ)どう【利う】も世(よ)をばのがれ【逃れ】たる物(もの)かな。かくて
聞(きく)も同(おなじ)事(こと)なれ共(ども)、まのあたり立(たち)まじは(ッ)て見(み)
ましかば、いかに心(こころ)うからん。保元(ほうげん)平治(へいぢ)のみだれを
こそ浅(あさ)ましと思(おもひ)しに、世(よ)すゑ【末】になればかかる事(こと)
も有(あり)けり。此(この)後(のち)猶(なほ)いか計(ばかり)の事(こと)か出(いで)こ【来】むずらむ。
雲(くも)を分(わけ)てものぼり、山(やま)を隔(へだて)ても入(いり)なばや」とぞの
P03141
給(たまひ)ける。げに心(こころ)あらん程(ほど)の人(ひと)の、跡(あと)をとどむべき世(よ)
共(とも)みえ【見え】ず。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、天台座主(てんだいざす)覚快(かつくわい)(カツクハイ)法親王(ほつしんわう)(ホツシンワウ)、頻(しきり)に御
辞退(ごじたい)あるによ(ッ)て、前(さきの)座主(ざす)明雲(めいうん)大僧正(だいそうじやう)還着(くわんぢやく)(クハンヂヤク)せら
る。入道(にふだう)相国(しやうこく)はかくさんざん【散々】にし散(ちら)されたれ共(ども)、御女(おんむすめ)
中宮(ちゆうぐう)にてまします、関白殿(くわんばくどの)と申(まうす)も聟(むこ)也(なり)。よろづ
心(こころ)やすう【安う】や思(おも)はれけむ、「政務(せいむ)はただ一向(いつかう)主上(しゆしやう)の御(おん)
ぱからひたるべし」とて、福原(ふくはら)へ下(くだ)られけり。前[B ノ](さきの)右大
将(うだいしやう)宗盛卿(むねもりのきやう)、いそぎ参内(さんだい)して此(この)由(よし)奏聞(そうもん)せられけ
れば、主上(しゆしやう)は「法皇(ほふわう)のゆづりましましたる世(よ)ならば
P03142
こそ。ただとうとう執柄(しつぺい)にいひ【言ひ】あはせ【合はせ】て、宗盛(むねもり)とも
かうもはからへ【計らへ】」とて、きこしめし【聞し召し】も入(いれ)ざりけり。法皇(ほふわう)
は城南(せいなん)の離宮(りきゆう)(リキウ)にして、冬(ふゆ)もなかばすごさ【過さ】せ給(たま)へ
ば、野山(やさん)の嵐(あらし)の音(おと)のみはげしく【烈しく】て、寒庭(かんてい)の月(つき)
のひかり【光り】ぞさやけき。庭(には)には雪(ゆき)のみ降(ふり)つもれ共(ども)、跡(あと)
ふみつくる人(ひと)もなく、池(いけ)にはつららとぢ【閉ぢ】かさね【重ね】て、
むれ【群れ】ゐし鳥(とり)もみえ【見え】ざりけり。おほ寺(てら)【大寺】の鐘(かね)の
声(こゑ)、遺愛寺(ゐあいじ)(イヤイジ)のきき【聞き】を驚(おどろ)(ヲドロ)かし、西山(にしやま)の雪(ゆき)の色(いろ)、
香炉峯(かうろほう)(キヤウロホウ)[* 香の左に(カウ)の振り仮名]の望(のぞみ)をもよほす。よる【夜】霜(しも)に寒(さむけ)き砧(きぬた)の
P03143
ひびき、かすか【幽】に御枕(おんまくら)につたひ、暁(あかつき)氷(こほり)(コヲリ)をきしる
車(くるま)の跡(あと)、遥(はるか)に門前(もんぜん)によこ【横】たはれり。巷(ちまた)を過(すぐ)る
行人(かうじん)征馬(せいば)のいそがはし【忙がはし】げなる気色(けしき)、浮世(うきよ)を渡(わた)る有
様(ありさま)もおぼしめし【思し召し】しら【知ら】れて哀(あはれ)也(なり)。「宮門(きゆうもん)(キウモン)をまもる【守る】蛮
夷(ばんい)のよるひる警衛(けいゑい)をつとむるも、先(さき)の世(よ)のいか
なる契(ちぎり)にて今(いま)縁(えん)(ヱン)を結(むす)ぶらん」と仰(おほせ)なりけるぞ
忝(かたじけ)なき。凡(およそ)(ヲヨソ)物(もの)にふれ事(こと)にしたが(ッ)て、御心(おんこころ)をいた
ま【痛ま】しめずといふ事(こと)なし。さるままにはかの折々(をりをり)
の御遊覧(ごいうらん)、ところどころ【所々】の御参詣(ごさんけい)、御賀(おんが)のめで
P03144
たかりし事共(ことども)、おぼしめし【思し召し】つづけて、懐旧(くわいきう)(クハイキウ)の
御泪(おんなみだ)をさへ(おさへ)【抑へ】がたし。年(とし)さり年(とし)来(きたつ)て、治承(ぢしよう)も四年(しねん)
になり【成り】にけり。

平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第三(だいさん)