平家物語 高野本 巻第十一

平家 十一(表紙)
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平家十一之巻 目録
逆櫓       大坂越
八島軍次信最期  那須与一
弓なかし     志度合戦どしいくさ
鶏合       壇浦合戦
遠矢       先帝身投
能登殿最期    内侍所宮古入
つるき      一門大路わたし
かかみ      文のさた
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副将       腰越
大臣殿のきられ  重衡のきられ
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平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第十一(だいじふいち)
『逆櫓(さかろ)』S1101
○元暦(げんりやく)二年(にねん)正月(しやうぐわつ)十日(とをかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、院(ゐん)
の御所(ごしよ)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て大蔵卿(おほくらのきやう)泰経(やすつねの)朝臣(あつそん)をも(ッ)て
奏聞(そうもん)せられけるは、「平家(へいけ)は神明(しんめい)にもはなた
れ奉(たてまつ)り、君(きみ)にもすてられまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、帝都(ていと)
をいで、浪(なみ)のうへ【上】にただよふおちうと【落人】となれり。
しかる【然る】を此(この)三箇年(さんがねん)が間(あひだ)、せめ【攻め】おとさ【落さ】ずして、
おほく【多く】の国々(くにぐに)をふさげ【塞げ】らるる事(こと)、口惜(くちをしく)候(さうら)へば、
今度(こんど)義経(よしつね)においては、鬼界(きかい)・高麗(かうらい)・天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)
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までも、平家(へいけ)をせめ【攻め】おとさ【落さ】ざらんかぎりは、王城(わうじやう)へ
かへるべからず」とたのもしげ【頼もし気】に申(まう)されけ
れば、法皇(ほふわう)おほき【大き】に御感(ぎよかん)あ(ッ)て、「相(あひ)構(かまへ)て、夜(よ)を
日(ひ)についで勝負(しようぶ)を決(けつ)すべし」と仰(おほせ)下(くだ)さる。判
官(はうぐわん)宿所(しゆくしよ)にかへ(ッ)【帰つ】て、東国(とうごく)の軍兵(ぐんびやう)どもにの給(たま)ひ
けるは、「義経(よしつね)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御代官(ごだいくわん)として院宣(ゐんぜん)
をうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て、平家(へいけ)を追討(ついたう)すべし。陸(くが)は駒(こま)の
足(あし)のをよば(およば)【及ば】むをかぎり、海(うみ)はろかい【艫櫂】のとづか[* 「とつが」と有るのを他本により訂正]【届か】ん
程(ほど)せめ【攻め】ゆくべし。すこし【少し】もふた心(ごころ)あらむ人々(ひとびと)
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は、とうとう【疾う疾う】これよりかへらるべし」とぞの給(たまひ)ける。
さる程(ほど)に、八島(やしま)にはひま【隙】ゆく駒(こま)の足(あし)はやくし
て、正月(しやうぐわつ)もたち、二月(にぐわつ)にもなりぬ。春(はる)の草(くさ)く
れ【暮れ】て、秋(あき)の風(かぜ)におどろき、秋(あき)の風(かぜ)やんで、春(はる)
の草(くさ)になれり。をくり(おくり)【送り】むかへ【向へ】てすでに三(み)と
せ【年】になりにけり。都(みやこ)には東国(とうごく)よりあら手(て)の
軍兵(ぐんびやう)数万騎(すまんぎ)つい【着い】てせめ【攻め】くだる【下る】ともきこゆ。鎮
西(ちんぜい)より臼杵(うすき)・戸次(へつぎ)・松浦党(まつらたう)同心(どうしん)してをし(おし)【押し】わたる【渡る】
とも申(まうし)あへ【合へ】り。かれをきき、これ【是】をきく【聞く】にも、
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ただ耳(みみ)を驚(おどろ)かし、きも魂(たましひ)をけすより外(ほか)の事(こと)
ぞなき。女房(にようばう)達(たち)は女院(にようゐん)・二位殿(にゐどの)をはじめま
いらせ(まゐらせ)【参らせ】て、さしつどい(つどひ)【集ひ】て、「又(また)いかなるうき目(め)をか見(み)
むずらん。いかなるうき事(こと)をかきか【聞か】んずらん」と
なげきあひ、かなしみあへ【合へ】り。新中納言(しんぢゆうなごん)知盛卿(とももりのきやう)
の給(たま)ひけるは、「東国(とうごく)北国(ほつこく)の物(もの)共(ども)も随分(ずいぶん)重
恩(ちようおん)をかうむ(ッ)【蒙つ】たりしかども、恩(おん)をわすれ契(ちぎり)を
変(へん)じて、頼朝(よりとも)・義仲等(よしなから)にしたがひき。まして
西国(さいこく)とても、さこそはあらむずらめとおもひ【思ひ】
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しかば、都(みやこ)にていかにもならんと思(おも)ひし物(もの)を、わが
身(み)ひとつ【一つ】の事(こと)ならねば、心(こころ)よはう(よわう)【弱う】あくがれ
出(いで)て、けふはかかるうき目(め)をみる【見る】口惜(くちをし)さよ」と
ぞの給(たま)ひける。誠(まこと)にことはり(ことわり)【理】とおぼえて哀(あはれ)
なり。同(おなじき)二月(にぐわつ)三日(みつかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、都(みやこ)を
た(ッ)て、摂津国(つのくに)渡辺(わたなべ)よりふなぞろへして、八
島(やしま)へすでによせんとす。参川【*三河】守(みかはのかみ)範頼(のりより)も同(おなじき)日(ひ)
に都(みやこ)をた(ッ)て、摂津国(つのくに)神崎(かんざき)より兵船(ひやうせん)をそろ
へて、山陽道(せんやうだう)へおもむか【赴か】むとす。同(おなじき)十三日(じふさんにち)、伊勢
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大神宮(いせだいじんぐう)・石清水(いはしみづ)・賀茂(かも)・春日(かすが)へ官幣使(くわんべいし)をたて
らる。「主上(しゆしやう)并(ならびに)三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)、ことゆへ(ゆゑ)【故】なうかへり
いらせ給(たま)へ」と、神祇館【*神祇官】(じんぎくわん)(じんキクハン)の官人(くわんにん)、もろもろの社司(しやし)、
本宮(ほんぐう)本社(ほんじや)にて祈誓(きせい)申(まうす)べきよし仰(おほせ)下(くだ)さる。同(おなじき)十
六日(じふろくにち)、渡辺(わたなべ)・神崎(かんざき)両所(りやうしよ)にて、この日(ひ)ごろそろへける
舟(ふね)ども、ともづなすでにとかんとす。おりふし(をりふし)【折節】北
風(ほくふう)木(き)をを(ッ)【折つ】てはげしう吹(ふき)ければ、大浪(おほなみ)に舟(ふね)どもさ
むざむ(さんざん)【散々】にうちそむぜ(そんぜ)【損ぜ】られて、いだすに及(およ)ばず。
修理(しゆり)のために其(その)日(ひ)はとどまる。渡辺(わたなべ)には大名(だいみやう)小名(せうみやう)
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よりあひて、「抑(そもそも)ふないくさ【舟軍】の様(やう)はいまだ調練(てうれん)せ
ず。いかがあるべき」と評定(ひやうぢやう)す。梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、「今度(こんど)
の合戦(かつせん)には、舟(ふね)に逆櫓(さかろ)をたて候(さうらは)ばや」。判官(はうぐわん)「さか
ろとはなんぞ」。梶原(かぢはら)「馬(むま)はかけんとおもへ【思へ】ば弓手(ゆんで)
へも馬手(めて)へもまはしやすし。舟(ふね)はき(ッ)とをし(おし)【押し】もど
すが大事(だいじ)候(ざうらふ)。ともへ【艫舳】に櫓(ろ)をたてちがへ、わいかぢ【脇楫】を
いれ【入れ】て、どなた【何方】へもやすうをす(おす)【押す】やうにし候(さうらは)ばや」と
申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「いくさ【軍】といふ
物(もの)はひとひき【一引】もひか【引か】じとおもふ【思ふ】だにも、あはひ【間】あし
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ければひく【引く】はつねの習(ならひ)なり。もとよりにげま
うけ【逃げ設け】してはなんのよかるべきぞ。まづ門(かど)でのあし
さ【悪しさ】よ。さかろをたてうとも、かへさまろ【返様櫓】をたてうと
も、殿原(とのばら)の舟(ふね)には百(ひやく)ちやう【梃】千(せん)ぢやう【梃】もたて給(たま)へ。
義経(よしつね)はもとのろ【櫓】で候(さうら)はん」との給(たま)へば、梶原(かぢはら)申(まうし)
けるは、「よき大将軍(たいしやうぐん)と申(まうす)は、かく【駆く】べき処(ところ)をば
かけ、ひく【退く】べき処(ところ)をばひいて、身(み)をま(ッ)たう(まつたう)【全う】し
てかたき【敵】をほろぼすをも(ッ)てよき大将軍(たいしやうぐん)と
はする候(ざうらふ)。かたおもむき【片趣】なるをば、猪(ゐ)のしし武者(むしや)
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とてよきにはせず」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)「猪(ゐ)のしし
鹿(か)のししはしら【知ら】ず、いくさ【軍】はただひらぜめ【平攻め】にせめ
てか(ッ)【勝つ】たるぞ心地(ここち)はよき」との給(たま)へ【宣へ】ば、侍(さぶらひ)共(ども)梶原(かぢはら)
におそれ【恐れ】てたかく【高く】はわらは【笑は】ねども、目(め)ひき【引き】は
な【鼻】ひきぎぎめきあへ【合へ】り。判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と、す
でに同士(どし)いくさ【同士軍】あるべしとざざめきあへ【合へ】り。や
うやう日(ひ)くれ夜(よ)に入(いり)ければ、判官(はうぐわん)の給(たま)ひけ
るは、「舟(ふね)の修理(しゆり)してあたらしうな(ッ)たるに、おの
おの【各々】一種(いつしゆ)一瓶(いつぺい)してゆはひ給(たま)へ、殿原(とのばら)」とて、いと
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なむ様(やう)にて[* 「にで」と有るのを他本により訂正]舟(ふね)に物(もの)の具(ぐ)いれ【入れ】、兵粮米(ひやうらうまい)つみ、馬(むま)
どもたてさせて、「とくとく【疾く疾く】つかまつれ」との給(たま)ひ
ければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)申(まうし)けるは、「此(この)風(かぜ)はおい手(て)(おひて)【追手】に
て候(さうら)へども、普通(ふつう)にすぎたる風(かぜ)で候(さうらふ)。奥(おき)(ヲキ)はさぞ
ふい【吹い】て候(さうらふ)らん。争(いかで)か仕(つかまつり)候(さうらふ)べき」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)
おほき【大き】にいか(ッ)ての給(たま)ひけるは、「野山のすへ(すゑ)【末】
にてしに、海河のそこにおぼれてうするも、
皆これせんぜのしゆくごう(しゆくごふ)【宿業】也。海上にいでうかふ(うかう)【浮う】
だる時風こわき(こはき)【強き】とていかがする。むかひ風(かぜ)【向ひ風】にわた
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らんといはばこそひが事(こと)【僻事】ならめ、順風(じゆんぷう)なるが
すこし【少し】すぎたればとて、是(これ)程(ほど)の御大事(おんだいじ)にい
かでわたらじとは申(まうす)ぞ。舟(ふね)つかまつらずは、一々(いちいち)
にしやつばら射(い)ころせ」と下知(げぢ)せらる。奥州(あうしう)の
佐藤(さとう)三郎兵衛(さとうさぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、片手
矢(かたてや)はげ、すすみ出(いで)て、「何条(なんでふ)子細(しさい)を申(まうす)ぞ。御(ご)ぢや
うであるにとくとく仕(つかまつ)れ。舟(ふね)仕(つかまつ)らずは一々(いちいち)に射(い)
ころさ【殺さ】んずるぞ」といひければ、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)是(これ)
をきき、「射(い)ころさ【殺さ】O[BH れ]んもおなじ事(こと)、風(かぜ)こはくは、ただ
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はせじに【馳せ死に】にしねや、物(もの)共(ども)」とて、二百(にひやく)余艘(よさう)の舟(ふね)
のなかに、ただ五艘(ごさう)いで【出で】てぞはしり【走り】ける。のこり
の船(ふね)はかぜ【風】におそるるか、梶原(かぢはら)におづるかして、
みなとどまりぬ。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「人(ひと)のいで【出で】
ねばとてとどまるべきにあらず。ただの時(とき)はか
たき【敵】も用心(ようじん)すらむ。かかる大風(おほかぜ)大浪(おほなみ)に、思(おも)ひ
もよらぬ時(とき)にをし(おし)【押し】よせ【寄せ】てこそ、おもふ【思ふ】かたき
をばうた【討た】んずれ」とぞの給(たま)ひける。五艘(ごさう)の舟(ふね)
と申(まうす)は、まづ判官(はうぐわん)の舟(ふね)、田代(たしろの)冠者(くわんじや)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)
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父子(ふし)、金子(かねこ)兄弟(きやうだい)、淀(よど)の江内(がうない)忠俊(ただとし)とてふな奉行(ぶぎやう)【舟奉行】
のの(ッ)【乗つ】たる舟(ふね)也(なり)。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「おのおの【各々】の
舟(ふね)に、篝(かがり)なともひ(ともい)【点い】そ。義経(よしつね)が舟(ふね)をほん【本】舟(ぶね)
として、ともへのかがりをまぼれ【守れ】や。火(ひ)かずお
ほく【多く】見(み)えば、かたき【敵】おそれ【恐れ】て用心(ようじん)してんず」と
て、夜(よ)もすがらはしる【走る】程(ほど)に、三日(みつか)にわたる処(ところ)をた
だ三時(みとき)ばかりにわたりけり。二月(にぐわつ)十六日(じふろくにち)の丑(うしの)剋(こく)
に、渡辺(わたなべ)・福島(ふくしま)をいで【出で】て、あくる卯(う)の時(とき)に阿波(あは)
『勝浦(かつうら)付(つけたり)大坂越(おほざかごえ)』S1102
の地(ち)へこそふき【吹き】つけ【着け】たれ。○夜(よ)すでにあけけ
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れば、なぎさに赤旗(あかはた)少々(せうせう)ひらめいたり。判官(はうぐわん)こ
れ【是】を見(み)て「あはや我等(われら)がまうけ【設】はしたりけるは。
舟(ふね)ひらづけ【平着け】につけ、ふみかたぶけ【傾け】て馬(むま)おろ
さむとせば、かたき【敵】の的(まと)にな(ッ)てゐ(い)【射】られなんず。
なぎさにつかぬさきに、馬(むま)どもおひ【追ひ】おろし
おひ【追ひ】おろし、舟(ふね)にひき【引き】つけひき【引き】つけおよが【泳が】
せよ。馬(むま)の足(あし)だち【足立】、鞍(くら)づめ【鞍爪】ひたる【浸る】程(ほど)にならば、
ひたひたとの(ッ)【乗つ】てかけよ、物(もの)共(ども)」とぞ下知(げぢ)せられ
ける。五艘(ごさう)の舟(ふね)に物(もの)の具(ぐ)いれ【入れ】、兵粮米(ひやうらうまい)つんだり
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ければ、馬(むま)ただ五十(ごじふ)余疋(よひき)ぞたてたりける。なぎ
さちかく【近く】なりしかば、ひたひたとうちの(ッ)【乗つ】て、おめい(をめい)【喚い】て
かくれば、なぎさに百騎(ひやくき)ばかりあり【有り】ける物(もの)共(ども)、
O[BH しばしも]こらへず、二町(にちやう)ばかりざ(ッ)とひいてぞのきにける。
判官(はうぐわん)みぎはにう(ッ)【打つ】た(ッ)【立つ】て、馬(むま)のいき【息】やすめ【休め】て
おはしけるが、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)をめし【召し】て、「あの勢(せい)
のなかにしかる【然る】べい物(もの)やある。一人(いちにん)めし【召し】てまいれ(まゐれ)【参れ】。
たづぬべき事(こと)あり」との給(たま)へ【宣へ】ば、義盛(よしもり)畏(かしこま)(ッ)てう
け給(たま)はり【承り】、只(ただ)一騎(いつき)かたき【敵】のなかへかけいり、なに
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とかいひ【言ひ】たりけん、とし四十(しじふ)ばかりなる男(をのこ)の、黒
皮威(くろかはをどし)の鎧(よろひ)きたるを、甲(かぶと)をぬがせ、弓(ゆみ)の弦(つる)はづ
さ【外さ】せて、具(ぐ)してまいり(まゐり)【参り】たり。判官(はうぐわん)「なに物(もの)【何者】ぞ」との
給(たま)へ【宣へ】ば、「当国(たうごく)の住人(ぢゆうにん)、坂西(ばんざい)の近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)」と申(まうす)。
「なに家(いへ)でもあらばあれ、物(もの)の具(ぐ)なぬがせそ。やが
て八島(やしま)の案内者(あんないしや)に具(ぐ)せんずるぞ。其(その)男(をとこ)に
目(め)はなつ【放つ】な。にげてゆかばゐ(い)【射】ころせ、物(もの)共(ども)」とぞ
下知(げぢ)せられける。「ここをばいづくといふぞ」ととは【問は】れ
ければ、「かつ浦(うら)と申(まうし)候(さうらふ)」。判官(はうぐわん)わら(ッ)【笑つ】て「色代(しきだい)な」と
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の給(たま)へ【宣へ】ば、「一定(いちぢやう)勝浦(かつうら)候(ざうらふ)。下臈(げらふ)の申(まうし)やすひ(やすい)について、
かつらと申(まうし)候(さうら)へども、文字(もじ)には勝浦(かつうら)と書(かき)て候(さうらふ)」と
申(まう)す。判官(はうぐわん)「是(これ)きき給(たま)へ、殿原(とのばら)。いくさ【軍】しにむかふ【向ふ】
義経(よしつね)が、かつ浦(うら)につく目出(めで)たさよ。此(この)辺(へん)に平
家(へいけ)のうしろ矢(や)ゐ(い)【射】つべい物(もの)はないか」。「阿波(あはの)民部(みんぶ)
重能(しげよし)がおとと【弟】、桜間(さくらば)の介(すけ)能遠(よしとほ)とて候(さうらふ)」。「いざ、さらば
け【蹴】ちらし【散らし】てとをら(とほら)【通ら】ん」とて、近藤六(こんどうろく)が勢(せい)百騎(ひやくき)ば
かりがなかより、卅騎(さんじつき)ばかりすぐりいだいて、我(わが)せ
い【勢】にぞ具(ぐ)せられける。能遠(よしとほ)が城(じやう)にをし(おし)【押し】よせ【寄せ】て
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見(み)れば、三方(さんばう)はぬま【沼】、一方(いつぱう)は堀(ほり)なり。堀(ほり)のかたよりを
し(おし)【押し】よせ【寄せ】て、時(とき)をど(ッ)とつくる。城(じやう)のうち【内】のつは物(もの)【兵】共(ども)、
矢(や)さき【矢先】をそろへてさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】に
ゐる(いる)【射る】。源氏(げんじ)の兵(つはもの)是(これ)を事(こと)ともせず、甲(かぶと)のしころを
かたぶけ【傾け】、おめき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】入(いり)ければ、桜間(さくらば)
の介(すけ)かなは【叶は】じとやおもひけむ、家子(いへのこ)郎等(らうどう)にふ
せき矢(や)【防き矢】ゐ(い)【射】させ、我(わが)身(み)は究竟(くつきやう)の馬(むま)をも(ッ)たりけ
れば、うちの(ッ)【乗つ】て希有(けう)にして落(おち)にけり。判官(はうぐわん)ふせ
き矢(や)【防き矢】ゐ(い)【射】ける兵(つはもの)共(ども)廿(にじふ)余人(よにん)が頸(くび)きりかけて、いくさ
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神(がみ)【軍神】にまつり、悦(よろこび)の時(とき)をつくり、「門(かど)でよし」とぞの給(たま)
ひける。判官(はうぐわん)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)をめし【召し】て、「八島(やしま)には平
家(へいけ)のせい【勢】いか程(ほど)あるぞ」。「千騎(せんぎ)にはよもすぎ候(さうら)は
じ」。「などすくなひ(すくない)【少い】ぞ」。「かくのごとく四国(しこく)の浦々(うらうら)島々(しまじま)に
五十騎(ごじつき)、百騎(ひやくき)づつさしをか(おか)【置か】れて候(さうらふ)。其(その)うへ阿波(あはの)民
部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)は、河野(かはのの)四郎(しらう)
がめせ【召せ】どもまいら(まゐら)【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千(さんぜん)余騎(よき)で伊
与【*伊予】(いよ)へこえて候(さうらふ)」。「さてはよいひまごさんなれ。是(これ)より
八島(やしま)へはいかほど【程】の道(みち)ぞ」。「二日路(ふつかぢ)で候(さうらふ)」。「さらばかたき【敵】の
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きか【聞か】ぬさきによせよや」とて、かけ足(あし)にな(ッ)つ、あゆ
ま【歩ま】せつ、はせつ、ひかへつ、阿波(あは)と讃岐(さぬき)とのさかゐ(さかひ)【境】
なる大坂(おほざか)ごえ【大坂越え】といふ山(やま)を、夜(よ)もすがらこそこえ【越え】ら
れけれ。夜半(やはん)ばかり、判官(はうぐわん)たてぶみ【立文】も(ッ)たる男(をとこ)に
ゆきつれて、物語(ものがたり)し給(たま)ふ。この男(をとこ)よるの事(こと)では
あり、かたき【敵】とは夢(ゆめ)にもしら【知ら】ず、みかた【御方】の兵(つはもの)共(ども)の
八島(やしま)へまいる(まゐる)【参る】とおもひけるやらん、うちとけてこま
ごまと物語(ものがたり)をぞ申(まうし)ける。「そのふみ【文】はいづくへぞ」。
「八島(やしま)のおほい【大臣】殿(との)へまいり(まゐり)【参り】候(さうらふ)」。「たがまいらせ(まゐらせ)【参らせ】らるる
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ぞ」。「京(きやう)より女房(にようばう)のまいらせ(まゐらせ)【参らせ】られ候(さうらふ)」。「なに事(ごと)なるらん」
との給(たま)へ【宣へ】ば、「別(べち)の事(こと)はよも候(さうら)はじ。源氏(げんじ)すでに淀
河尻(よどかはしり)にいで【出で】うかう【浮う】で候(さうら)へば、それをこそつげ申(まう)され候(さうらふ)
らめ」。げにさぞあるらん。是(これ)も八島(やしま)へまいる(まゐる)【参る】が、いまだ案
内(あんない)をしらぬに、じんじよ【尋所】[B 尋承(ジンゼウ)]せよ」との給(たま)へ【宣へ】ば、「これ【是】はたび
たびまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て候(さうらふ)間(あひだ)、案内(あんない)は存知(ぞんぢ)して候(さうらふ)。御共(おんとも)仕(つかまつ)らん」と
申(まう)せば、判官(はうぐわん)「そのふみ【文】とれ」とてふみ【文】ばい(ばひ)【奪ひ】とらせ、「し
やつからめよ。罪(つみ)つくりに頸(くび)なき(ッ)そ」とて、山(やま)なかの
木(き)にしばりつけてぞとほら【通ら】れける。さてふみ【文】を
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あけて見(み)給(たま)へば、げにも女房(にようばう)のふみ【文】とおぼしく
て、「九郎(くらう)はすすどきおのこ(をのこ)【男】にてさぶらふ【候ふ】なれば、大風(おほかぜ)
大浪(おほなみ)をもきらはず、よせさぶらふ【候ふ】らんとおぼえ
さぶらふ。勢(せい)どもちらさ【散らさ】で用心(ようじん)せさせ給(たま)へ」とぞ
かか【書か】れたる。判官(はうぐわん)「是(これ)は義経(よしつね)に天(てん)のあたへ給(たま)ふ
文(ふみ)なり。鎌倉(かまくら)殿(どの)に見(み)せ申(まう)さん」とて、ふかう【深う】お
さめ(をさめ)【納め】てをか(おか)【置か】れけり。あくる十八日(じふはちにち)の寅(とら)の刻(こく)に、讃
岐国(さぬきのくに)ひけ田(た)【引田】といふ処(ところ)にうちおりて、人馬(じんば)のいき
をぞやすめける。それより丹生屋(にふのや)・白鳥(しろとり)、うち過(す)ぎ
P11025
うち過(す)ぎ、八島(やしま)の城(じやう)へよせ給(たま)ふ。又(また)近藤六(こんどうろく)親家(ちかいへ)をめ
し【召し】て、「八島(やしま)のたち【館】のやう【様】はいかに」ととひ給(たま)へば、
「しろしめさ【知ろし召さ】ねばこそ候(さうら)へ、無下(むげ)にあさまに候(さうらふ)。塩(しほ)の
ひ【干】て候(さうらふ)時(とき)は、陸(くが)と島(しま)の間(あひだ)は馬(むま)の腹(はら)もつかり候(さうら)
はず」と申(まう)せば、「さらばやがてよせよや」とて、高松(たかまつ)
の在家(ざいけ)に火(ひ)をかけて、八島(やしま)の城(ぢやう)へよせ給(たま)ふ。八
島(やしま)には、阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)、河
野(かはのの)四郎(しらう)がめせどもまいら(まゐら)【参ら】ぬをせめ【攻め】んとて、三千(さんぜん)余
騎(よき)で伊与【*伊予】(いよ)へこえたりけるが、河野(かはの)をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、
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家子(いへのこ)郎等(らうどう)百五十(ひやくごじふ)余人(よにん)が頸(くび)き(ッ)て、八島(やしま)の内裏(だいり)へまい
らせ(まゐらせ)【参らせ】たり。「内裏(だいり)にて賊首(ぞくしゆ)の実検(じつけん)せられん事(こと)
然(しか)るべからず」とて、大臣殿(おほいとの)の宿所(しゆくしよ)にて実検(じつけん)せら
る。百五十六人(ひやくごじふろくにん)が首(くび)也(なり)。頸(くび)ども実検(じつけん)しける処(ところ)に、物(もの)
共(ども)、「高松(たかまつ)のかたに火(ひ)いで【出で】き【来】たり」とてひしめきあへ【合へ】
り。「ひるで候(さうら)へば、手(て)あやまちではよも候(さうら)はじ。かた
き【敵】のよせて火(ひ)をかけたると覚(おぼえ)候(さうらふ)。さだめて【定めて】大(おほ)ぜ
い【大勢】でぞ候(さうらふ)らん。とりこめられてはかなう(かなふ)【叶ふ】まじ。とうとう【疾う疾う】め
され候(さうら)へ」とて、惣門(そうもん)の前(まへ)のなぎさに舟(ふね)どもつけ
P11027
ならべたりければ、我(われ)も我(われ)もとのり給(たま)ふ。御所(ごしよ)の御舟(みふね)
には、女院(にようゐん)・北(きた)の政所(まんどころ)・二位殿(にゐどの)以下(いげ)の女房(にようばう)達(たち)めされけり。
大臣殿(おほいとの)父子(ふし)は、ひとつ【一つ】舟(ふね)にのり給(たま)ふ。其(その)外(ほか)の人々(ひとびと)
思(おも)ひ思(おも)ひにとりの(ッ)【乗つ】て、或(あるい)は一町(いつちやう)ばかり、或(あるい)は七八段(しちはつたん)、五
六段(ごろくたん)な(ン)ど(なんど)こぎいだしたる処(ところ)に、源氏(げんじ)のつは物(もの)ども、
ひた甲(かぶと)【直甲】七八十騎(しちはちじつき)、惣門(そうもん)のまへのなぎさにつ(ッ)とい
で【出で】き【来】たり。塩(しほ)ひがた【潮干潟】の、おりふし(をりふし)【折節】塩(しほ)ひるさかりなれ
ば、馬(むま)のからすがしら【烏頭】、ふと腹(はら)にたつ処(ところ)もあり【有り】。それ
よりあさき処(ところ)もあり【有り】。け【蹴】あぐる【上ぐる】しほ【潮】のかすみと
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ともにしぐらうだるなかより、白旗(しらはた)ざ(ッ)とさし【差し】あげ【上げ】た
れば、平家(へいけ)は運(うん)つきて、大勢(おほぜい)とこそ見(み)てんげれ。
判官(はうぐわん)かたき【敵】に小勢(こぜい)と見(み)せじと、五六騎(ごろくき)、七八騎(しちはつき)、十
『嗣信(つぎのぶ)最期(さいご)』S1103
騎(じつき)ばかりうちむれうちむれいできたり。○九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)、
其(その)日(ひ)の装束(しやうぞく)には、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、紫(むらさき)すそ
ごの鎧(よろひ)きて、こがねづくりの太刀(たち)をはき、きりふ【切斑】
の矢(や)をひ(おひ)【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)のま(ン)なか(まんなか)【真ん中】と(ッ)て、舟(ふね)のかたを
にらまへ【睨まへ】、大音声(だいおんじやう)をあげて、「一院(いちゐん)の御使(おんつかひ)、検非違
使(けんびゐし)五位尉(ごゐのじよう)源(みなもとの)義経(よしつね)」となのる【名乗る】。其(その)次(つぎ)に、伊豆国(いづのくに)の住人(ぢゆうにん)
P11029
田代(たしろの)冠者(くわんじや)信綱(のぶつな)、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)金子(かねこの)十郎(じふらう)家忠(いへただ)、
同(おなじく)与一(よいち)親範(ちかのり)、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)とぞ名(な)の(ッ)【名乗つ】たる。つづゐ(つづい)【続い】
て名(な)のるは、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)、子息(しそく)の新兵衛(しんびやうゑ)基
清(もときよ)、奥州(あうしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)、同(おなじく)四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)、江
田(えだ)の源三(げんざう)、熊井(くまゐ)太郎(たらう)、武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)と、声々(こゑごゑ)に名(な)の(ッ)【名乗つ】
て馳(はせ)来(きた)る。平家(へいけ)の方(かた)には「あれゐ(い)【射】とれや」とて、或(あるい)は
とを矢(や)(とほや)【遠矢】にゐる(いる)【射る】舟(ふね)もあり、或(あるい)はさし矢(や)にゐる(いる)【射る】舟(ふね)もあり、
源氏(げんじ)のつは物(もの)ども、弓手(ゆんで)になしてはゐ(い)【射】てとほり【通り】、馬手(めて)
になしてはゐ(い)【射】てとほり【通り】、あげをい(おい)【置い】たる舟(ふね)のかげ【陰】を、馬(むま)
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やすめ処(どころ)【馬休め処】にして、おめき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。後藤兵
衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)は、ふるつは物(もの)【古兵】にてあり【有り】ければ、いくさ【軍】をば
せず、まづ内裏(だいり)にみだれ【乱れ】いり、手々(てんで)に火(ひ)をはな(ッ)【放つ】て片
時(へんし)の烟(けぶり)とやきはらふ。おほいとの【大臣殿】、侍(さぶらひ)どもをめし【召し】て、「抑(そもそも)
源氏(げんじ)が勢(せい)いか程(ほど)あるぞ」。「当時(たうじ)わづかに七八十騎(しちはちじつき)こ
そ候(さうらふ)らめ」と申(まうす)。「あな心(こころ)うや。髪(かみ)のすぢを一(ひと)すぢ
づつわけてとるとも、此(この)勢(せい)にはたるまじかりける
物(もの)を。なかにとりこめてうたずして、あはて(あわて)【慌て】て舟(ふね)に
の(ッ)【乗つ】て、内裏(だいり)をやかせつる事(こと)こそやすからね。能登
P11031
殿(のとどの)はおはせぬか。陸(くが)へあが(ッ)【上がつ】てひといくさ【軍】し給(たま)へ」。「さう
け給(たまはり)【承り】候(さうらひ)ぬ」とて、越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次【*盛嗣】(もりつぎ)をあひ【相】具(ぐ)
して、小舟(せうせん)共(ども)にとりの(ッ)【乗つ】て、やきはらひ【払ひ】たる惣門(そうもん)の
前(まへ)のなぎさに陣(ぢん)をとる。判官(はうぐわん)八十(はちじふ)余騎(よき)、矢(や)ごろ
によせ【寄せ】てひかへたり。越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛次【*盛嗣】(もりつぎ)、舟(ふね)のお
もてに立(たち)いで、大音声(だいおんじやう)をあげて申(まうし)けるは、「名(な)の
られつるとはきき【聞き】つれども、海上(かいしやう)はるかにへだた(ッ)て、
その【其の】仮名(けみやう)実名(じつみやう)分明(ふんみやう)ならず。けふの源氏(げんじ)の大将軍(たいしやうぐん)
は誰人(たれびと)でおはしますぞ」。伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)あゆま【歩ま】
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せいで【出で】て申(まうし)けるは、「こともおろかや、清和天皇(せいわてんわう)十代(じふだい)
の御末(おんすゑ)、鎌倉(かまくら)殿(どの)の御弟(おんおとと)、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官殿(はうぐわんどの)ぞかし」。
盛次【*盛嗣】(もりつぎ)「さる事(こと)あり【有り】。一(ひと)とせ【年】平治(へいぢ)の合戦(かつせん)に、ちち【父】うた【討た】れ
てみなし子(ご)にてありしが、鞍馬(くらま)の児(ちご)して、後(のち)には
こがね商人(あきんど)の所従(しよじゆう)(シヨジウ)になり、粮料(らうれう)せをう(せおう)【背負う】て奥州(あうしう)へ
おち【落ち】まどひし小冠者(こくわんじや)が事(こと)か」とぞ申(まうし)たる。義盛(よしもり)
「舌(した)のやはらかなるままに、君(きみ)の御事(おんこと)な申(まうし)そ。さて
わ人(ひと)どもは砥浪山(となみやま)のいくさ【軍】におい(おひ)【追ひ】おとさ【落さ】れ、からき
命(いのち)いきて北陸道(ほくろくだう)にさまよひ、乞食(こつじき)してなくなく【泣く泣く】
P11033
京(きやう)へのぼり【上り】たりし物(もの)か」とぞ申(まうし)ける。盛次【*盛嗣】(もりつぎ)かさね【重ね】
て申(まうし)けるは、「君(きみ)の御恩(ごおん)にあきみちて、なんの
不足(ふそく)にか乞食(こつじき)をばすべき。さいふわ人(ひと)共(ども)こそ、
伊勢(いせ)の鈴鹿山(すずかやま)にて山(やま)だち【山賊】して、妻子(さいし)をもや
しなひ、わが【我が】身(み)もすぐる【過ぐる】とはききしか」といひ
ければ、金子(かねこ)の十郎(じふらう)家忠(いへただ)「無益(むやく)の殿原(とのばら)の雑言(ざふごん)
かな。われも人(ひと)も空言(そらごと)いひ【言ひ】つけ【付け】て雑言(ざふごん)せんに
は、誰(たれ)かはおとるべき。去年(こぞ)の春(はる)、一(いち)の谷(たに)で、武蔵(むさし)・相
模(さがみ)の若殿原(わかとのばら)の手(て)なみの程(ほど)は見(み)てん物(もの)を」と
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申(まうす)処(ところ)におとと【弟】の与一(よいち)そばにあり【有り】けるが、いはせも
はてず、十二束(じふにそく)二(ふたつ)ぶせ、よ(ッ)ぴい【引い】てひやうどはなつ【放つ】。盛
次【*盛嗣】(もりつぎ)が鎧(よろひ)のむないたに、うらかく程(ほど)にぞた(ッ)たりける。
其(その)後(のち)は互(たがひ)に詞(ことば)だたかひ【詞戦ひ】とまりにけり。能登守(のとのかみ)教
経(のりつね)「ふないくさ【舟軍】は様(やう)ある物(もの)ぞ」とて、よろい直垂(びたたれ)(よろひびたたれ)は
き【着】給(たま)はず、唐巻染(からまきぞめ)の小袖(こそで)に唐綾威(からあやをどし)の鎧(よろひ)きて、
いか物(もの)づくりの大太刀(おほだち)はき、廿四(にじふし)さいたるたかうす
べう【鷹護田尾】の矢(や)をひ(おひ)【負ひ】、しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)をもち給(たま)へり。王
城一(わうじやういち)のつよ弓(ゆみ)【強弓】せい兵(びやう)【精兵】にておはせしかば、矢(や)さき【矢先】に
P11035
まはる物(もの)、い【射】とほさ【通さ】れずといふ事(こと)なし。なかにも九
郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)をゐ(い)【射】おとさ【落さ】むとねらはれけれども、
源氏(げんじ)の方(かた)にも心得(こころえ)て、奥州(あうしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)
嗣信(つぎのぶ)・同(おなじく)四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・源八(げんぱち)広
綱(ひろつな)・江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)な(ン)ど(なんど)いふ一
人当千(いちにんたうぜん)の兵(つはもの)ども、われ【我】もわれ【我】もと、馬(むま)のかしら【頭】をたてなら
べて大将軍(たいしやうぐん)の矢(や)おもてにふさがりければ、ちか
らおよび【及び】給(たま)はず、「矢(や)おもての雑人原(ざふにんばら)そこのき
候(さうら)へ」とて、さしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さんざん【散々】にゐ(い)【射】給(たま)へば、やに
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はに鎧武者(よろひむしや)十(じふ)余騎(よき)ばかりゐ(い)【射】おとさ【落さ】る。なかにもま(ッ)
さきにすすむ(すすん)だる奧州(あふしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)が、
弓手(ゆんで)の肩(かた)を馬手(めて)の脇(わき)へつ(ッ)とゐ(い)【射】ぬか【貫か】れて、しばし
もたまらず、馬(むま)よりさかさまにどうどおつ。能登殿(のとどの)
の童(わらは)に菊王(きくわう)といふ大(だい)ぢから【大力】のかう【剛】の物(もの)あり【有り】。萌
黄(もよぎ)おどし(もよぎをどし)の腹巻(はらまき)に、三枚甲(まいかぶと)の緒(を)をしめて、白柄(しらえ)の
長刀(なぎなた)のさやをはづし【外し】、三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)が頸(くび)をとらんと
はしり【走り】かかる。佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)、兄(あに)が頸(くび)をとらせじ
とよ(ッ)ぴいてひやうどゐる(いる)【射る】。童(わらは)が腹巻(はらまき)のひきあは
P11037
せ【引き合はせ】をあなたへつ(ッ)とゐ(い)【射】ぬか【貫か】れて、犬居(いぬゐ)にたふれ【倒れ】ぬ。能登
守(のとのかみ)これ【是】を見(み)て、いそぎ舟(ふね)よりとんでおり、左(ひだり)の手(て)
に弓(ゆみ)をもちながら、右(みぎ)の手(て)で菊王丸(きくわうまる)をひ(ッ)【引つ】さげて、
舟(ふね)へからりとなげられたれば、かたきに頸(くび)はとら
れねども、いた手(で)【痛手】なればしに【死に】にけり。これ【是】はもと
越前(ゑちぜん)の三位(さんみ)の童(わらは)なりしが、三位(さんみ)うたれて後(のち)、お
とと【弟】の能登守(のとのかみ)につかは【使は】れけり。生年(しやうねん)十八歳(じふはつさい)にぞ
なりける。この童(わらは)をうたせてあまりにあはれ【哀】にお
もは【思は】れければ、其(その)後(のち)はいくさ【軍】もし給(たま)はず。判官(はうぐわん)は佐
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藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)を陣(ぢん)のうしろへかきいれ【入れ】させ、馬(むま)よ
りおり、手(て)をとらへて、「三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)、いかがおぼゆる【覚ゆる】」
との給(たま)へ【宣へ】ば、いき【息】のしたに申(まうし)けるは、「いまはかうと存(ぞんじ)
候(さうらふ)」。「おもひ【思ひ】をく(おく)【置く】事(こと)はなきか」との給(たま)へ【宣へ】ば、「なに事(ごと)をか
おもひ【思ひ】をき(おき)【置き】候(さうらふ)べき。君(きみ)の御世(おんよ)にわたらせ給(たま)はん
を見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】で、死(し)に候(さうら)はん事(こと)こそ口惜(くちをしく)覚(おぼえ)候(さうら)へ。
さ候(さうら)はでは、弓矢(ゆみや)とる物(もの)の、かたき【敵】の矢(や)にあた(ッ)て
しなん事(こと)、もとより期(ご)する処(ところ)で候(さうらふ)也(なり)。就中(なかんづく)に
「源平(げんぺい)の御合戦(ごかつせん)に、奥州(あうしう)の佐藤(さとう)三郎兵衛(さぶらうびやうゑ)嗣信(つぎのぶ)
P11039
といひける物(もの)、讃岐国(さぬきのくに)八島(やしま)のいそにて、しう(しゆう)【主】の御命(おんいのち)
にかはりたてま(ッ)【奉つ】てうた【討た】れにけり」と、末代(まつだい)の物語(ものがたり)に
申(まう)さ〔れ〕む事(こと)こそ、弓矢(ゆみや)とる身(み)O[BH に]は今生(こんじやう)の面目(めんぼく)、冥
途(めいど)の思出(おもひで)にて候(さうら)へ」と申(まうし)もあへ【合へ】ず、ただよはり(よわり)【弱り】によはり(よわり)【弱り】
にければ、判官(はうぐわん)涙(なみだ)をはらはらとながし、「此(この)辺(へん)にた(ッ)と
き僧(そう)やある」とて、たづね【尋ね】いだし、「手負(ておひ)のただいま
おち【落ち】いるに、一日経(いちにちぎやう)かいてとぶらへ」とて、黒(くろ)き馬(むま)のふ
とう【太う】たくましゐ(たくましい)【逞しい】に、きぶくりん【黄覆輪】の鞍(くら)おい【置い】て、かの
僧(そう)にたびにけり。判官(はうぐわん)五位尉(ごゐのじよう)になられし時(とき)、五位(ごゐ)
P11040
になして、大夫黒(たいふぐろ)とよばれし馬(むま)也(なり)。一(いち)の谷(たに)のひへ鳥(どり)
ごえ(ひえどりごえ)【鵯越】をもこの馬(むま)にてぞおとさ【落さ】れたりける。弟(おとと)の四
郎兵衛(しらうびやうゑ)をはじめとして、これ【是】を見(み)るつは物(もの)共(ども)みな【皆】
涙(なみだ)をながし、「此(この)君(きみ)の御(おん)ために命(いのち)をうしなは【失は】ん事(こと)、ま(ッ)
『那須与一(なすのよいち)』S1104
たく露塵(つゆちり)程(ほど)もおしから(をしから)【惜しから】ず」とぞ申(まうし)ける。○さる程(ほど)
に、阿波(あは)・讃岐(さぬき)に平家(へいけ)をそむいて、源氏(げんじ)をまち【待ち】け
る物(もの)ども、あそこの峯(みね)、ここの洞(ほら)より、十四O[BH 五]騎(じふしごき)、廿騎(にじつき)、
うち【打ち】つれ【連れ】うち【打ち】つれ【連れ】まいり(まゐり)【参り】ければ、判官(はうぐわん)ほど【程】なく
三百(さんびやく)余騎(よき)にぞなりにける。「けふは日(ひ)くれぬ、勝負(しようぶ)
P11041
を決(けつ)すべからず」とて引(ひき)退(しりぞ)く処(ところ)に、おきの方(かた)より
尋常(じんじやう)にかざ(ッ)たる小舟(こぶね)一艘(いつさう)、みぎはへむい【向い】てこぎ
よせけり。磯(いそ)へ七八段(しちはつたん)ばかりになりしかば、舟(ふね)をよ
こさまになす。「あれはいかに」とみる【見る】程(ほど)に、舟(ふね)のうち
よりよはひ十八九(じふはつく)ばかりなる女房(にようばう)の、まこと【誠】にゆう(いう)【優】
にうつくしきが、柳(やなぎ)のいつつぎぬ【五衣】に、くれなゐ【紅】の
はかま【袴】きて、みな紅(ぐれなゐ)の扇(あふぎ)の日(ひ)いだし【出し】たるを、舟(ふね)
のせがい【船竅zにはさみ【鋏み】たてて、陸(くが)へむひ(むい)【向い】てぞまねひ(まねい)【招い】
たる。判官(はうぐわん)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)をめして、「あれはいか
P11042
に」との給(たま)へ【宣へ】ば、「ゐよ(いよ)【射よ】とにこそ候(さうらふ)めれ。ただし【但し】大将軍(たいしやうぐん)
矢(や)おもてにすすむ【進む】で、傾城(けいせい)を御(ご)らんぜば、手(て)たれ
にねらうてゐ(い)【射】おとせ【落せ】とのはかり事(こと)【策】とおぼえ候(さうらふ)。さも
候(さうら)へ、扇(あふぎ)をばゐ(い)【射】させらるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうす)。「ゐ(い)【射】つべ
き仁(じん)はみかた【御方】に誰(たれ)かある」との給(たま)へ【宣へ】ば、「上手(じやうず)ども
いくらも候(さうらふ)なかに、下野国(しもつけのくに)の住人(ぢゆうにん)、那須(なすの)太郎(たらう)資
高(すけたか)が子(こ)に、与一(よいち)宗高(むねたか)こそ小兵(こひやう)で候(さうら)へども、手(て)きき【手利】で
候(さうら)へ」。「証拠(しようこ)(シヤウコ)はいかに」との給(たま)へ【宣へ】ば、「かけ鳥(どり)な(ン)ど(なんど)をあらが
うて、三(みつ)に二(ふたつ)は必(かなら)ずゐ(い)【射】おとす物(もの)で候(さうらふ)」。「さらばめせ」
P11043
とてめされたり。与一(よいち)其(その)比(ころ)は廿(にじふ)ばかりのおのこ(をのこ)【男】也(なり)。
かち【褐】に、あか地(ぢ)の錦(にしき)をも(ッ)ておほくび【大領】はた袖(そで)【端袖】い
ろえ(いろへ)【彩へ】たる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もよぎ)をどし【萌黄縅】の鎧(よろひ)きて、足(あし)じ
ろの太刀(たち)をはき、きりふ【切斑】の矢(や)の、其(その)日(ひ)のいく
さ【軍】にゐ(い)【射】て少々(せうせう)のこ(ッ)たりけるを、かしらだかにおひ
なし、うすぎりふ【薄切斑】に鷹(たか)の羽(は)はぎまぜたるぬた目(め)
のかぶら【鏑】をぞさしそへたる。しげどう【滋籐】の弓(ゆみ)脇(わき)に
はさみ【鋏み】、甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけ、判官(はうぐわん)の
前(まへ)に畏(かしこま)る。「いかに宗高(むねたか)、あの扇(あふぎ)のま(ン)なか(まんなか)【真ん中】ゐ(い)【射】て、平
P11044
家(へいけ)に見物(けんぶつ)せさせよかし」。与一(よいち)畏(かしこまつ)て申(まうし)けるは、「ゐ(い)【射】おほ
せ候(さうら)はむ事(こと)ふ定(ぢやう)【不定】に候(さうらふ)。ゐ(い)【射】損(そん)じ候(さうらひ)なば、ながきみ
かた【御方】の御(おん)きずにて候(さうらふ)べし。一定(いちぢやう)つかまつらんず
る仁(じん)に仰(おほせ)付(つけ)らるべうや候(さうらふ)らん」と申(まうす)。判官(はうぐわん)大(おほき)に
いか(ッ)て、「鎌倉(かまくら)をた(ッ)て西国(さいこく)へおもむか【赴か】ん殿原(とのばら)は、
義経(よしつね)が命(めい)をそむくべからず。すこし【少し】も子細(しさい)を存(ぞん)
ぜん人(ひと)は、とうとう是(これ)よりかへらるべし」とぞの
給(たま)ひける。与一(よいち)かさねて辞(じ)せばあしかり【悪しかり】なんと
や思(おもひ)けん、「はづれんはしり【知り】候(さうら)はず、御定(ごぢやう)で候(さうら)へば、
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つかま(ッ)てこそみ【見】候(さうら)はめ」とて、御(おん)まへを罷(まかり)立(たつ)。黒(くろ)
き馬(むま)のふとう【太う】たくましゐ(たくましい)【逞しい】に、小(こ)ぶさの鞦(しりがい)かけ、
まろぼやす(ッ)たる鞍(くら)おい【置い】てぞの(ッ)【乗つ】たりける。弓(ゆみ)とり
なをし(なほし)【直し】、手綱(たづな)かいくり【繰り】、みぎはへむひ(むい)てあゆま【歩ま】せ
ければ、みかた【御方】の兵(つはもの)共(ども)うしろをはるかに見(み)をく(ッ)(おくつ)【送つ】て、
「この【此の】わかもの【若者】一定(いちぢやう)つかまつり候(さうらひ)ぬと覚(おぼえ)候(さうらふ)」と申(まうし)け
れば、判官(はうぐわん)もたのもしげ【頼もし気】にぞ見(み)給(たま)ひける。矢(や)
ごろすこし【少し】とをかり(とほかり)【遠かり】ければ、海(うみ)へ一段(いつたん)ばかりうちい
れ【入れ】たれども、猶(なほ)扇(あふぎ)のあはひ七段(しちたん)ばかりはあるらむと
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こそ見(み)えたりけれ。ころ【比】は二月(にぐわつ)十八日(じふはちにち)の酉(とりの)刻(こく)ばか
りの事(こと)なるに、おりふし(をりふし)【折節】北風(ほくふう)はげしくて、磯(いそ)うつ
浪(なみ)もたかかりけり。舟(ふね)はゆりあげゆりすゑただ
よへば、扇(あふぎ)もくしにさだまら【定まら】ずひらめいたり。おき
には平家(へいけ)舟(ふね)を一面(いちめん)にならべて見物(けんぶつ)す。陸(くが)に
は源氏(げんじ)くつばみをならべて是(これ)をみる【見る】。いづれも
いづれも晴(はれ)ならずといふ事(こと)ぞなき。与一(よいち)目(め)をふさ
いで、「南無(なむ)八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)、我(わが)国(くに)の神明(しんめい)、日光(につくわうの)権現(ごんげん)
宇都宮(うつのみや)、那須(なす)のゆぜん【湯泉】大明神(だいみやうじん)、願(ねがは)くはあの
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扇(あふぎ)のま(ン)なか(まんなか)【真ん中】ゐ(い)【射】させてたばせ給(たま)へ。これ【是】をゐ(い)【射】そん
ずる物(もの)ならば、弓(ゆみ)きりおり(をり)【折り】自害(じがい)して、人(ひと)に二(ふた)た
び【二度】面(おもて)をむかふ【向ふ】べからず。いま一度(いちど)本国(ほんごく)へむかへ【向へ】ん
とおぼしめさ【思し召さ】ば、この矢(や)はづさ【外さ】せ給(たま)ふな」と、心(こころ)
のうちに祈念(きねん)して、目(め)を見(み)ひらひ(ひらい)【開い】たれば、風(かぜ)も
すこし【少し】吹(ふき)よはり(よわり)【弱り】、扇(あふぎ)もゐ(い)【射】よげにぞな(ッ)たりける。
与一(よいち)鏑(かぶら)をと(ッ)てつがひ、よ(ッ)ぴいてひやうどはなつ【放つ】。小
兵(こひやう)といふぢやう十二束(じふにそく)三(みつ)ぶせ、弓(ゆみ)はつよし、浦(うら)ひ
びく程(ほど)ながなり【長鳴】して、あやまたず扇(あふぎ)のかなめぎ
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は【要際】一寸(いつすん)ばかりをい(おい)て、ひ(イ)ふつとぞゐ(い)【射】き(ッ)たる。鏑(かぶら)は海(うみ)へ
入(いり)ければ、扇(あふぎ)は空(そら)へぞあがり【上がり】ける。しばしは虚空(こくう)に
ひらめきけるが、春風(はるかぜ)に一(ひと)もみ二(ふた)もみもまれて、
海(うみ)へさ(ッ)とぞち(ッ)【散つ】たりける。夕日(ゆふひ)のかかやい【輝い】たるに、
みな紅(ぐれなゐ)の扇(あふぎ)の日(ひ)いだしたるが、しら浪(なみ)【白波】のうへ【上】にただ
よひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥(おき)には平家(へいけ)
ふなばたをたたいて感(かん)じたり、陸(くが)には源氏(げんじ)ゑび
『弓流(ゆみながし)』S1105
ら(えびら)【箙】をたたいてどよめきけり。○あまりの面白(おもしろ)さに、感(かん)
にたへ【堪へ】ざるにやとおぼしくて、舟(ふね)のうちよりとし
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五十(ごじふ)ばかりなる男(をのこ)の、黒革(くろかは)おどし(をどし)の鎧(よろひ)きて、白柄(しらえ)
の長刀(なぎなた)も(ッ)たるが、扇(あふぎ)たてたりける処(ところ)にた(ッ)て
まひ【舞ひ】しめ[B 「しめ」に「スマシイ」と傍書]たり。伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、与一(よいち)がうしろへあ
ゆま【歩ま】せよ(ッ)【寄つ】て、「御定(ごぢやう)ぞ、つかまつれ」といひければ、
今度(こんど)はなかざし【中差】と(ッ)てうちくはせ【銜はせ】、よ(ッ)ぴい【引い】てしや
くび【頸】の骨(ほね)をひやうふつとゐ(い)【射】て、ふなぞこ【船底】へ
さかさま【逆様】にゐ(い)【射】たをす(たふす)【倒す】。平家(へいけ)のかた【方】には音(おと)もせず、
源氏(げんじ)のかた【方】には又(また)ゑびら(えびら)【箙】をたたいてどよめきけ
り。「あ、ゐ(い)【射】たり」といふ人(ひと)もあり、又(また)「なさけなし」といふ
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ものもあり【有り】。平家(へいけ)これをほい【本意】なしとやおもひ【思ひ】けん、
楯(たて)つい【突い】て一人(いちにん)、弓(ゆみ)も(ッ)て一人(いちにん)、長刀(なぎなた)も(ッ)て一人(いちにん)、武者(むしや)三人(さんにん)
なぎさにあがり【上がり】、楯(たて)をついて「かたき【敵】よせよ【寄せよ】」とぞま
ねひ(まねい)【招い】たる。判官(はうぐわん)「あれ、馬(むま)づよ【馬強】ならん若党(わかたう)ども、は
せ【馳せ】よせ【寄せ】てけ【蹴】ちらせ」との給(たま)へ【宣へ】ば、武蔵国(むさしのくに)の住人(ぢゆうにん)、
みをの屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】四郎(しらう)・同(おなじく)藤七(とうじち)・同(おなじく)十郎(じふらう)、上野国(かうづけのくに)の住人(ぢゆうにん)
丹生(にふ)(ニウノ)の四郎(しらう)、信乃【信濃】国(しなののくに)の住人(ぢゆうにん)木曾(きそ)の中次(ちゆうじ)、五騎(ごき)つ
れておめい(をめい)【喚い】てかく。楯(たて)のかげ【陰】よりぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】
はい【矧い】だる大(だい)の矢(や)をも(ッ)て、ま(ッ)さきにすすん【進ん】だるみを
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の屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)が馬(むま)の左(ひだり)のむながひづくし(むながいづくし)を、ひやう
づばとゐ(い)【射】て、はず【筈】のかくるる【隠るる】ほど【程】ぞゐ(い)【射】こう【込う】だる。屏
風(びやうぶ)をかへす【返す】様(やう)に馬(むま)はどうどたふるれ【倒るれ】ば、主(ぬし)は馬
手(めて)の足(あし)をこえ【越え】て弓手(ゆんで)の方(かた)へおりた(ッ)て、やがて太
刀(たち)をぞぬい【抜い】たりける。たて【楯】のかげより大長刀(おほなぎなた)うち
ふ(ッ)てかかりければ、みをの屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)、小太刀(こだち)大長
刀(おほなぎなた)にかなは【叶は】じとや思(おもひ)けむ、かいふい【伏い】てにげ【逃げ】ければ、や
がて【軈】つづいてお(ッ)【追つ】かけ【掛け】たり。長刀(なぎなた)でなが【薙が】んずるかとみ〔る〕【見る】
処(ところ)に、さはなくして、長刀(なぎなた)をば左(ひだり)の脇(わき)にかいはさみ、
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右(みぎ)の手(て)をさしのべて、みをの屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)が甲(かぶと)の
しころをつかま【掴ま】んとす。つかま【掴ま】れじとはしる【走る】。三度(さんど)
つかみはづい【外い】て、四度(しど)のたび【度】む(ン)ずとつかむ。し
ばしぞたま(ッ)て[* 下欄に「勘(タマウ)」と注記]見(み)えし、鉢(はち)つけ【鉢付】のいた【板】よりふつと
ひつ【引つ】き(ッ)【切つ】てぞにげ【逃げ】たりける。のこり四騎(しき)は、馬(むま)をを
しう【惜しう】でかけず、見物(けんぶつ)してこそゐたりけれ。みをの
屋(や)の(みほのやの)【三穂屋の】十郎(じふらう)は、みかた【御方】の馬(むま)のかげににげ【逃げ】入(いり)て、いき【息】づ
きゐたり。かたき【敵】はおう【追う】てもこ【来】で、長刀(なぎなた)杖(つゑ)につき、
甲(かぶと)のしころをさし【差し】あげ【上げ】、大音声(だいおんじやう)をあげて、「日(ひ)ごろ
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は音(おと)にもききつらん、いまは目(め)にも見(み)給(たま)へ。これ【是】こそ京(きやう)
わらんべのよぶなる上総(かづさ)の悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)景清(かげきよ)よ」となの
り【名乗り】すて【捨て】てぞかへりける。平家(へいけ)これ【是】に心地(ここち)なをし(なほし)【直し】て、
「悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)うた【討た】すな。つづけや物(もの)共(ども)」とて、又(また)二百(にひやく)余人(よにん)
なぎさにあがり【上がり】、楯(たて)をめん鳥羽(どりば)【雌鳥羽】につきならべて、
「かたき【敵】よせよ【寄せよ】」とぞまねひ(まねい)【招い】たる。判官(はうぐわん)これ【是】をみ【見】て、
「やすからぬ事(こと)なり」とて、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)父子(ふし)、金子(かねこ)兄
弟(きやうだい)をさきにたて、奥州(あうしう)の佐藤(さとう)四郎兵衛(しらうびやうゑ)・伊勢[B ノ](いせの)
三郎(さぶらう)を弓手(ゆんで)馬手(めて)にたて、田代(たしろ)の冠者(くわんじや)をうしろに
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たてて、八十(はちじふ)余騎(よき)おめい(をめい)【喚い】てかけ給(たま)へば、平家(へいけ)の兵物(つはもの)
ども馬(むま)にはのらず、大略(たいりやく)かち武者(むしや)【徒武者】にてあり【有り】けれ
ば、馬(むま)にあて【当て】られじとひき【引き】しりぞひ(しりぞい)【退い】て、みな舟(ふね)へ
ぞのりにける。楯(たて)は算(さん)をちらし【散らし】たる様(やう)にさむざむ(さんざん)【散々】に
け【蹴】ちらさ【散らさ】る。源氏(げんじ)のつは物(もの)【兵】共(ども)、勝(かつ)にの(ッ)【乗つ】て、馬(むま)のふと
腹(はら)ひたる【浸る】程(ほど)にうち【打ち】いれ【入れ】てせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官(はうぐわん)ふか
入(いり)【深入り】してたたかふ【戦ふ】ほど【程】に、舟(ふね)のうちより熊手(くまで)をも(ッ)て、
判官(はうぐわん)の甲(かぶと)のしころにからりからりと二三度(にさんど)までう
ちかけけるを、みかた【御方】の兵(つはもの)共(ども)、太刀(たち)長刀(なぎなた)でうちの
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けうちのけしける程(ほど)に、いかがしたりけむ、判官(はうぐわん)弓(ゆみ)をかけ
おとさ【落さ】れぬ。うつぶして鞭(むち)をも(ッ)てかきよせて、とらう
とらうどし給(たま)へば、兵(つはもの)共(ども)「ただすてさせ給(たま)へ」と申(まうし)けれ
ども、つゐに(つひに)【遂に】と(ッ)て、わらう【笑う】てぞかへられける。おとな
どもつまはじき【爪弾き】をして、「口惜(くちをし)き御事(おんこと)候(ざうらふ)かな、たと
ひ千疋(せんびき)万疋(まんびき)にかへさせ給(たまふ)べき御(おん)たらしなりとも、
争(いかで)か御命(おんいのち)にかへさせ給(たまふ)べき」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)「弓(ゆみ)
のおしさ(をしさ)【惜しさ】にとら【取ら】ばこそ。義経(よしつね)が弓(ゆみ)といはば、二人(ににん)し
てもはり【張り】、若(もし)は三人(さんにん)してもはり【張り】、おぢ(をぢ)の為朝(ためとも)が弓(ゆみ)の
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様(やう)ならば、わざともおとし【落し】てとらすべし。■弱(わうじやく)たる弓(ゆみ)を
かたき【敵】のとりも(ッ)て、「これ【是】こそ源氏(げんじ)の大将(だいしやう)九郎(くらう)義
経(よしつね)が弓(ゆみ)よ」とて、嘲哢(てうろう)せんずるが口惜(くちをし)ければ、命(いのち)に
かへてとるぞかし」との給(たま)へ【宣へ】ば、みな人(ひと)これ【是】を感(かん)じ
ける。さる程(ほど)に日(ひ)くれ【暮れ】ければ、ひき【引き】しりぞひ(しりぞい)【退い】て、むれ【牟礼】
高松(たかまつ)のなかなる野山(のやま)に陣(ぢん)をぞと(ッ)たりける。源氏(げんじ)
のつは物(もの)【兵】共(ども)この三日(みつか)が間(あひだ)はふさ【臥さ】ざりけり。おととひ(をととひ)【一昨日】
渡辺(わたなべ)・福島(ふくしま)をいづる【出づる】とて、其(その)夜(よ)大浪(おほなみ)にゆられてまど
ろまず。昨日(きのふ)阿波[B ノ]国(あはのくに)勝浦(かつうら)にていくさ【軍】して、夜(よ)もすがら
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なか山(やま)【中山】こえ【越え】、けふ又(また)一日(いちにち)たたかひ【戦ひ】くらしたりければ、み
なつかれ【疲れ】はてて、或(あるい)は甲(かぶと)をまくら【枕】にし、或(あるい)は鎧(よろひ)の袖(そで)、
ゑびら(えびら)【箙】な(ン)ど(なんど)枕(まくら)にして、前後(ぜんご)もしら【知ら】ずぞふし【臥し】たり
ける。其(その)なかに、判官(はうぐわん)と伊勢(いせの)三郎(さぶらう)はねざりけり。
判官(はうぐわん)はたかき【高き】O[BH 所(ところ)] にのぼりあが(ッ)【上がつ】て、敵(かたき)やよする【寄する】ととを
見(み)(とほみ)【遠見】し給(たま)へば、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)はくぼき処(ところ)にかくれゐて、かた
き【敵】よせ【寄せ】ば、まづ馬(むま)の腹(はら)ゐ(い)【射】んとてまち【待ち】かけたり。平
家(へいけ)の方(かた)には、能登守(のとのかみ)を大将(だいしやう)にて、其(その)勢(せい)五百(ごひやく)余騎(よき)、夜
討(ようち)にせんとしたく【支度】したりけれども、越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)盛
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次【*盛嗣】(もりつぎ)と海老(えみの)次郎(じらう)守方【*盛方】(もりかた)と先陣(せんぢん)をあらそふ程(ほど)に、其(その)
夜(よ)はむなしう【空しう】あけにけり。夜討(ようち)にだにもしたらば、
源氏(げんじ)なにかあらまし。よせ【寄せ】ざりけるこそせめての運(うん)
『志渡【*志度】合戦(しどかつせん)』S1106
のきはめなれ。○あけければ、平家(へいけ)舟(ふね)にとりの(ッ)【乗つ】て、
当国(たうごく)志度(しど)の浦(うら)へこぎしりぞく。判官(はうぐわん)三百(さんびやく)余騎(よき)
がなか【中】より馬(むま)や人(ひと)をすぐ(ッ)て、八十(はちじふ)余騎(よき)追(おう)てぞかか
りける。平家(へいけ)是(これ)をみ【見】て、「かたき【敵】は小勢(こぜい)なり。なかに
とりこめてうてや」とて、又(また)千(せん)余人(よにん)なぎさにあがり、お
めき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。さる程(ほど)に、八島(やしま)にのこり【残り】
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とどま(ッ)【留まつ】たりける二百(にひやく)余騎(よき)のつは物(もの)共(ども)、おくればせ
に馳(はせ)来(きた)る。平家(へいけ)これ【是】を見(み)て、「すはや、源氏(げんじ)の大勢(おほぜい)
のつづくは。なん【何】十万騎(じふまんぎ)かあるらん。とりこめられては
かなふ【叶ふ】まじ」とて、又(また)舟(ふね)にとりの(ッ)【乗つ】て、塩(しほ)にひか【引か】れ、かぜ【風】に
したが(ッ)て、いづくをさすともなくおち【落ち】ゆき【行き】ぬ。四国(しこく)はみな
大夫(たいふ)判官(はうぐわん)におい(おひ)【追ひ】おとさ【落とさ】れぬ。九国(くこく)へは入(いれ)られず。ただ
中有(ちゆうう)の衆生(しゆじやう)とぞ見(み)えし。判官(はうぐわん)志度(しど)の浦(うら)におり
ゐて、頸(くび)ども実検(じつけん)しておはしけるが、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義
盛(よしもり)をめしての給(たま)ひけるは、「阿波[B ノ](あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)が嫡子(ちやくし)田
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内左衛門(でんないざゑもん)教能(のりよし)は、河野(かはのの)四郎(しらう)道信【*通信】(みちのぶ)がめせどもまいら(まゐら)【参ら】
ぬをせめ【攻め】んとて、三千(さんぜん)余騎(よき)にて伊与【*伊予】(いよ)へこえたりけるが、
河野(かはの)をばうち【討ち】もらし【洩らし】て、家子(いへのこ)郎等(らうどう)百五十人(ひやくごじふにん)が頸(くび)き(ッ)て、
昨日(きのふ)八島(やしま)の内裏(だいり)へまいらせ(まゐらせ)【参らせ】たりけるが、けふ是(これ)へつく
ときく。なんぢ【汝】ゆきむか(ッ)【向つ】て、ともかうもこしらへて具(ぐ)
してまいれ(まゐれ)【参れ】かし」との給(たま)ひければ、畏(かしこま)(ッ)てうけ給(たま)はり【承り】、旗(はた)
一流(ひとながれ)給(たま)は(ッ)てさすままに、其(その)勢(せい)わづかに十六騎(じふろくき)、みな
しら装束(しやうぞく)【白装束】にて馳(はせ)むかふ【向ふ】。義盛(よしもり)、教能(のりよし)にゆきあふ(あう)【合う】たり。
白旗(しらはた)、赤旗(あかはた)、二町(にちやう)ばかりをへだててゆらへたり。伊勢[B ノ](いせの)
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三郎(さぶらう)義盛(よしもり)、使者(ししや)をたてて申(まうし)けるは、「これ【是】は源氏(げんじ)の
大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)大夫(たいふの)判官殿(はうぐわんどの)の御内(みうち)に、伊勢(いせの)三郎(さぶらう)
義盛(よしもり)と申(まうす)物(もの)で候(さうらふ)が、大将(だいしやう)に申(まうす)べき事(こと)あ(ッ)て、是(これ)までま
かり【罷り】むか(ッ)【向つ】て候(さうらふ)。させるいくさ合戦(かつせん)のれう【料】でも候(さうら)はね
ば、物(もの)の具(ぐ)もし候(さうら)はず。弓矢(ゆみや)ももたせ候(さうら)はず。あ
け【明け】ていれ【入れ】させ給(たま)へ」と申(まうし)ければ、三千(さんぜん)余騎(よき)のつ
は物(もの)共(ども)なかをあけ【明け】てぞとほし【通し】ける。義盛(よしもり)、教能(のりよし)にう
ちならべて、「かつきき給(たまひ)てもあるらん。鎌倉(かまくら)殿(どの)の御(おん)
おとと【弟】九郎(くらう)大夫(たいふの)判官殿(はうぐわんどの)、院宣(ゐんぜん)をうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て西国(さいこく)
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へむかは【向は】せ給(たまひ)て候(さうらふ)が、一昨日(をととひ)阿波国(あはのくに)かつ浦(うら)【勝浦】にて、御辺(ごへん)
の伯父(をぢ)、桜間(さくらば)の介(すけ)うた【討た】れ給(たま)ひぬ。昨日(きのふ)八島(やしま)によせ
て、御所(ごしよ)内裏(だいり)みなやき【焼き】はらひ【払ひ】、おほいとの父子(ふし)いけ
どり【生捕り】にしたてまつり【奉り】、能登殿(のとどの)は自害(じがい)し給(たま)ひぬ。
其(その)外(ほか)のきんだち、或(あるい)はうちじに、或(あるい)は海(うみ)にいり【入り】
給(たま)ひぬ。余党(よたう)のわづかにありつるは、志度(しど)の浦(うら)
にてみなうた【討た】れぬ。御辺(ごへん)のちち、阿波(あは)の民部殿(みんぶどの)は
降人(かうにん)にまいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)ひて候(さうらふ)を、義盛(よしもり)があづかり【預り】たて
ま(ッ)【奉つ】て候(さうらふ)が、「あはれ、田内左衛門(でんないざゑもん)がこれ【是】をば夢(ゆめ)にもしら
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で、あすはいくさ【軍】してうた【討た】れまいらせ(まゐらせ)【参らせ】んずる
むざんさよ」と、夜(よ)もすがらなげき給(たま)ふがあまり
にいとをしく(いとほしく)て、この【此の】事(こと)しらせたてまつら【奉ら】んとて、
これ【是】までまかり【罷り】むか(ッ)【向つ】て候(さうらふ)。そのうへは、いくさ【軍】してう
ちじに【討死】せんとも、降人(かうにん)にまい(ッ)(まゐつ)【参つ】てちち【父】をいま一度(いちど)見(み)
たてまつら【奉ら】んとも、ともかうも御(ご)へん【辺】がはからひ
ぞ」といひ【言ひ】ければ、田内左衛門(でんないざゑもん)きこゆる【聞ゆる】つは物(もの)な
れども、運(うん)やつきにけん、「かつきく事(こと)にすこし【少し】も
たがは【違は】ず」とて、甲(かぶと)をぬぎ弓(ゆみ)の弦(つる)をはづい【外い】て、郎等(らうどう)
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にもたす。大将(だいしやう)がか様(やう)【斯様】にするうへ【上】は、三千(さんぜん)余騎(よき)のつは
物(もの)どもみなかくのごとし。わづかに十六騎(じふろくき)に具(ぐ)せら
れて、おめおめと降人(かうにん)にこそまいり(まゐり)【参り】けれ。「義盛(よしもり)が
はかり事(こと)【策】まこと【誠】にゆゆしかりけり」と、判官(はうぐわん)も感(かん)じ
給(たま)ひけり。やがて田内左衛門(でんないざゑもん)をば、物具(もののぐ)めされて、
伊勢(いせの)三郎(さぶらう)にあづけらる。「さてあの勢(せい)どもはいかに」
との給(たま)へ【宣へ】ば、「遠国(をんごく)の物(もの)どもは、誰(たれ)を誰(たれ)とかおもひ【思ひ】
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうらふ)べき。ただ世(よ)のみだれをしづめて、国(くに)を
しろしめさ【知ろし召さ】んを君(きみ)とせん」と申(まうし)ければ、「尤(もつとも)しかる【然る】べし」とて、
P11065
三千(さんぜん)余騎(よき)をみな我(わが)勢(せい)にぞ具(ぐ)せられける。同(おなじき)廿
二日(にじふににち)の辰刻(たつのこく)ばかり、渡辺(わたなべ)にのこりとどま(ッ)【留まつ】たりける二
百(にひやく)余艘(よさう)の舟(ふね)ども、梶原(かぢはら)をさきとして、八島(やしま)の磯(いそ)に
ぞつきにける。「西国(さいこく)はみな九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)にせ
めおとさ【落さ】れぬ。いま【今】はなんのようにか逢(あふ)べき。会(ゑ)(エ)
にあはぬ花(はな)、六日(むゆか)の菖蒲(しやうぶ)、いさかひ【争ひ】はて【果て】てのちぎ
りき【乳切り木】かな」とぞわらひ【笑ひ】ける。判官(はうぐわん)都(みやこ)をたちたま
ひ【給ひ】て後(のち)、住吉(すみよし)の神主(かんぬし)長盛(ながもり)、院(ゐん)の御所(ごしよ)へまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、
大蔵卿(おほくらのきやう)康経[B ノ]【*泰経】(やすつねの)朝臣(あつそん)をも(ッ)て奏聞(そうもん)しけるは、「去(さんぬる)十六日(じふろくにち)
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の丑刻(うしのこく)に、当社(たうしや)第三(だいさん)の神殿(じんでん)より鏑矢(かぶらや)の声(こゑ)いで【出で】て、
西(にし)をさしてまかり【罷り】候(さうらひ)ぬ」と申(まうし)ければ、法皇(ほふわう)大(おほき)に御
感(ぎよかん)あ(ッ)て、御剣(ぎよけん)以下(いげ)、種々(しゆじゆ)の神宝(じんぼう)等(ら)を長盛(ながもり)して大
明神(だいみやうじん)へまいらせ(まゐらせ)【参らせ】らる。むかし神功皇后(じんぐうくわうごう)、新羅(しんら)をせめ【攻め】
給(たま)ひし時(とき)、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)より二神(にじん)のあらみさ
きをさしそへさせ給(たま)ひけり。二神(にじん)御舟(おんふね)のともへ【艫舳】に
立(た)(ッ)て、新羅(しんら)をやすくせめ【攻め】おとさ【落さ】れぬ。帰朝(きてう)の後(のち)、
一神(いちじん)は摂津国(つのくに)住吉(すみよし)のこほり【郡】にとどまり給(たま)ふ。住
吉(すみよし)の大明神(だいみやうじん)の御事(おんこと)也(なり)。いま一神(いちじん)は信濃国(しなののくに)諏防【*諏訪】(すは)の
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こほりに跡(あと)を垂(たる)る。諏防【*諏訪】(すは)の大明神(だいみやうじん)是(これ)也(なり)。昔(むかし)の征
伐(せいばつ)の事(こと)をおぼしめし【思し召し】わすれず、いまも朝(てう)の怨敵(をんでき)
をほろぼし給(たまふ)べきにやと、君(きみ)も臣(しん)もたのもしう【頼もしう】
『鶏合(とりあはせ)壇浦合戦(だんのうらかつせん)』S1107
ぞおぼしめされける。○さる程(ほど)に、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)義
経(よしつね)、周防(すはう)の地(ち)におしわた(ッ)【渡つ】て、兄(あに)の参川【*三河】守(みかはのかみ)とひとつに
なる。平家(へいけ)は長門国(ながとのくに)ひく島(しま)【引島】にぞつきにける。源
氏(げんじ)阿波[B ノ]国(あはのくに)勝浦(かつうら)について、八島(やしま)のいくさ【軍】にうちか
ちぬ。平家(へいけ)ひく島(しま)【引島】につくときこえ【聞え】しかば、源氏(げんじ)は
同国(どうこく)のうち【内】、おい津(つ)(おひつ)【追津】につくこそふしぎ【不思議】なれ。熊野(くまのの)
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別当(べつたう)湛増(たんぞう)は、平家(へいけ)へやまいる(まゐる)【参る】べき、源氏(げんじ)へやまいる(まゐる)【参る】
べきとて、田(た)なべ【田辺】の新熊野(いまぐまの)にて御神楽(みかぐら)奏(そう)
して、権現(ごんげん)に祈誓(きせい)したてまつる【奉る】。白旗(しらはた)につけと御(ご)
たくせん【詫宣】有(あり)けるを、猶(なほ)うたがひをなして、白[B イ](しろい)鶏(にはとり)七[B ツ](ななつ)
赤(あか)き鶏(にはとり)七(なな)つ、これ【是】をも(ッ)て権現(ごんげん)の御(おん)まへにて勝負(しようぶ)
をせさす。赤(あか)きとり一(ひとつ)もかたず。みなまけ【負け】てにげ
にけり。さてこそ源氏(げんじ)へまいら(まゐら)【参ら】んとおもひ【思ひ】さだめ
けれ。一門(いちもん)の物(もの)どもあひ【相ひ】もよをし(もよほし)【催し】、都合(つがふ)其(その)勢(せい)二千(にせん)
余人(よにん)、二百(にひやく)余艘(よさう)の舟(ふね)にのりつれて、若王子(にやくわうじ)の
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御正体(おしやうだい)(ヲしやうダイ)を舟(ふね)にのせ【乗せ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、旗(はた)のよこがみ【横上】には、
金剛童子(こんがうどうじ)をかきたてま(ッ)【奉つ】て、檀【*壇】(だん)の浦(うら)へよする【寄する】を
見(み)て、源氏(げんじ)も平氏(へいじ)もともにおがむ(をがむ)。されども源
氏(げんじ)の方(かた)へつきければ、平家(へいけ)けう(きよう)【興】さめ【醒め】てぞ
おもはれける。又(また)伊与【*伊予】国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)、河野(かはのの)四郎(しらう)道信【*通信】(みちのぶ)、
百五十艘(ひやくごじつさう)の兵船(ひやうせん)にのりつれ【連れ】てこぎ来(きた)り、源氏(げんじ)
とひとつ【一つ】になりにけり。判官(はうぐわん)かたがた【旁々】たのもしう【頼もしう】ち
から【力】つい【付い】てぞおもは【思は】れける。源氏(げんじ)の舟(ふね)は三千(さんぜん)余(よ)艘(さう)、
平家(へいけ)の舟(ふね)は千(せん)余艘(よさう)、唐船(たうせん)せうせう【少々】あひまじれり。
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源氏(げんじ)のせい【勢】はかさなれ【重なれ】ば、平家(へいけ)のせいは落(おち)ぞゆく。
元暦(げんりやく)二年(にねん)三月(さんぐわつ)廿四日(にじふしにち)の卯刻(うのこく)に、O[BH 豊前[B ノ]国(ぶせんのくに)]門司(もじ)赤間(あかま)の関(せき)にて
源平(げんぺい)矢合(やあはせ)とぞさだめ【定め】ける。其(その)日(ひ)判官(はうぐわん)と梶原(かぢはら)と
すでにどしいくさ【同士戦】せむとする事(こと)あり【有り】。梶原(かぢはら)申(まうし)けるは、
「けふの先陣(せんぢん)をば景時(かげとき)にたび候(さうら)へ」。判官(はうぐわん)「義経(よしつね)がな
くはこそ」。「まさなう候(さうらふ)。殿(との)は大将軍(たいしやうぐん)にてこそましまし
候(さうら)へ」。判官(はうぐわん)「おもひ【思ひ】もよらず。鎌倉(かまくら)殿(どの)こそ大将軍(たいしやうぐん)よ。
義経(よしつね)は奉行(ぶぎやう)をうけ給(たまはつ)【承つ】たる身(み)なれば、ただ殿原(とのばら)
とおなじ事(こと)ぞ」との給(たま)へ【宣へ】ば、梶原(かぢはら)、先陣(せんぢん)を所望(しよまう)
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しかねて、「天性(てんぜい)この殿(との)は侍(さぶらひ)の主(しゆう)にはなり難(がた)し」と
ぞつぶやきける。判官(はうぐわん)これをきい【聞い】て、「日本一(につぽんいち)の
おこ(をこ)の物(もの)かな」とて、太刀(たち)のつかに手(て)をかけ給(たま)ふ。梶原(かぢはら)
「鎌倉(かまくら)殿(どの)の外(ほか)に主(しゆう)をもたぬ物(もの)を」とて、これ【是】も太刀(たち)
のつかに手(て)をかけけり。さる程(ほど)に嫡子(ちやくし)の源太(げんだ)景
季(かげすゑ)、次男(じなん)平次(へいじ)景高(かげたか)、同(おなじく)三郎(さぶらう)景家(かげいへ)、ちち【父】と一所(いつしよ)に
よりあふ(あう)【合う】たり。判官(はうぐわん)の景気(けいき)を見(み)て、奥州(あうしうの)佐藤(さとう)
四郎兵衛(しらうびやうゑ)忠信(ただのぶ)・伊勢(いせの)三郎(さぶらう)義盛(よしもり)・源八(げんぱち)広綱(ひろつな)・江田[B ノ](えだの)
源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)・武蔵房(むさしばう)弁慶(べんけい)な(ン)ど(なんど)いふ一人当
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千(いちにんたうぜん)のつは物(もの)【兵】ども【共】、梶原(かぢはら)をなかにとりこめて、われう(ッ)【討つ】と
ら【取ら】んとぞすすみける。されども判官(はうぐわん)には三浦介(みうらのすけ)
とり【取り】つき【付き】たてまつる【奉る】。梶原(かぢはら)には土肥(とひの)次郎(じらう)つか
みつき、両人(りやうにん)手(て)をす(ッ)て申(まうし)けるは、「これ【是】程(ほど)の大事(だいじ)
をまへにかかへながら、どしいくさ【同士戦】候(さうらは)ば、平家(へいけ)ちからつ
き【付き】候(さうらひ)なんず。就中(なかんづく)鎌倉(かまくら)殿(どの)のかへりきかせ給(たま)はん
処(ところ)こそ穏便(をんびん)ならず候(さうら)へ」と申(まう)せば、判官(はうぐわん)しづまり
給(たま)ひぬ。梶原(かぢはら)すすむに及(およ)ばず。それよりして
梶原(かぢはら)、判官(はうぐわん)をにくみそめて、つゐに(つひに)【遂に】讒言(ざんげん)してうし
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なひ【失ひ】けるとぞきこえ【聞え】し。さる程(ほど)に、源平(げんぺい)の陣(ぢん)の
あはひ、海(うみ)のおもて卅(さんじふ)余町(よちやう)をぞへだてたる。門
司(もじ)・赤間(あかま)・檀【*壇】(だん)の浦(うら)はたぎりておつる塩(しほ)なれば、源氏(げんじ)
の舟(ふね)は塩(しほ)にむかふ(むかう)【向う】て、心(こころ)ならずをし(おし)【押し】おとさ【落さ】る。平家(へいけ)
の舟(ふね)は塩(しほ)におう【負う】てぞいで【出で】き【来】たる。おき【沖】は塩(しほ)のはや
けれ【早けれ】ば、みぎは【渚】について、梶原(かぢはら)敵(かたき)の舟(ふね)のゆきち
がふ処(ところ)に熊手(くまで)をうちかけて、おや子(こ)【親子】主従(しゆうじゆう)十四五人(じふしごにん)
のり【乗り】うつり【移り】、うち物(もの)【打物】ぬい【抜い】て、ともへ【艫舳】にさむざむ(さんざん)【散々】にない【薙い】でま
はる。分(ぶん)どりあまたして、其(その)日(ひ)の高名(かうみやう)の一(いち)の筆(ふで)に
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ぞつきにける。すでに源平(げんぺい)両方(りやうばう)陣(ぢん)をあはせ【合はせ】て
時(とき)をつくる。上(かみ)は梵天(ぼんでん)までもきこえ【聞え】、下(しも)は海竜神(かいりゆうじん)も
おどろくらんとぞおぼえける。新中納言(しんぢゆうなごん)知盛卿(とももりのきやう)舟(ふね)
の屋形(やかた)にたちいで、大音声(だいおんじやう)をあげての給(たま)ひけ
るは、「いくさ【軍】はけふ【今日】ぞかぎる。物(もの)ども、すこし【少し】もしり
ぞく心(こころ)あるべからず。天竺(てんぢく)・震旦(しんだん)にも日本(につぽん)我(わが)朝(てう)
にもならびなき名将(めいしやう)勇士(ゆうし)といへども、運命(うんめい)
つきぬれば力(ちから)及(およ)ばず。されども名(な)こそおしけれ(をしけれ)【惜しけれ】。
東国(とうごく)の物(もの)共(ども)によはげ(よわげ)【弱気】見(み)ゆな。いつのために命(いのち)を
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ばおしむ(をしむ)【惜しむ】べき。これ【是】のみぞおもふ【思ふ】事(こと)」との給(たま)へ【宣へ】ば、
飛弾【*飛騨】(ひだの)三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)御(おん)まへに候(さうらひ)けるが、「これ【是】
うけ給(たま)はれ【承れ】、侍(さぶらひ)ども」とぞ下知(げぢ)しける。上総(かづさの)悪(あく)七
兵衛(しちびやうゑ)すすみ出(いで)て申(まうし)けるは、「坂東武者(ばんどうむしや)は馬(むま)のうへ【上】
でこそ口(くち)はきき候(さうらふ)とも、ふないくさ【舟軍】にはいつ調練(てうれん)し
候(さうらふ)べき。うを【魚】の木(き)にのぼ(ッ)【上つ】たるでこそ候(さうら)はんずれ。一々(いちいち)
にと(ッ)て海(うみ)につけ【浸け】候(さうら)はん」とぞ申(まうし)たる。越中(ゑつちゆうの)次郎兵
衛(じらうびやうゑ)申(まうし)けるは、「おなじくは大将軍(たいしやうぐん)の源九郎(げんくらう)にくん
給(だま)へ。九郎(くらう)は色(いろ)しろう【白う】せい【背】ちいさき(ちひさき)【小さき】が、むかば【向歯】のことに
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さしいで【出で】てしるかん【著かん】なるぞ。ただし直垂(ひたたれ)と鎧(よろひ)をつ
ねにきかふ【着替ふ】なれば、き(ッ)と見(み)わけ【分け】がたかん也(なり)」とぞ
申(まうし)ける。上総(かづさの)悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)申(まうし)けるは、「心(こころ)こそたけく
とも、その【其の】小冠者(こくわんじや)、なに程(ほど)の事(こと)かあるべき。片脇(かたわき)
にはさんで、海(うみ)へいれ【入れ】なん物(もの)を」とぞ申(まうし)たる。新
中納言(しんぢゆうなごん)はか様(やう)【斯様】に下知(げぢ)し給(たま)ひ、おほい殿(との)【大臣殿】の御(おん)まへに
まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、「けふは侍(さぶらひ)どもけしき【気色】よう見(み)え候(さうらふ)。ただし
阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)は心(こころ)がはりしたるとおぼえ候(さうらふ)。かうべを
はね候(さうらは)ばや」と申(まう)されければ、大臣殿(おほいとの)「見(み)えたる
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事(こと)もなうて、いかが頸(くび)をばきる【斬る】べき。さしも奉公(ほうこう)
のもの【者】であるものを。重能(しげよし)まいれ(まゐれ)【参れ】」とめし【召し】けれ
ば、木蘭地(むくらんぢ)の直垂(ひたたれ)にあらいがは(あらひがは)【洗革】の鎧(よろひ)きて、御(おん)まへ
に畏(かしこま)(ッ)て候(さうらふ)。「いかに、重能(しげよし)は心(こころ)がはりしたるか、けふこそ
わるう見(み)ゆれ。四国(しこく)の物(もの)共(ども)に、いくさ【軍】ようせよと下知(げぢ)
せよかし。おくし【臆し】たるな」との給(たま)へ【宣へ】ば、「なじかはをくし(おくし)【臆し】候(さうらふ)べ
き」とて、御(おん)まへをまかり【罷り】たつ。新中納言(しんぢゆうなごん)、あはれきや
つが頸(くび)をうちおとさ【落さ】ばやとおぼしめし【思し召し】、太刀(たち)のつか【柄】
くだけよとにぎ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)の御(おん)かた【方】をしきりに
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見(み)給(たま)ひけれども、御(おん)ゆるされ【許され】なければ、力(ちから)及(およ)ば
ず。平家(へいけ)は千(せん)余艘(よさう)を三手(みて)につくる。山賀(やまが)の兵
藤次(ひやうどうじ)秀遠(ひでとほ)、五百(ごひやく)余艘(よさう)で先陣(せんぢん)にこぎむかふ。松
浦党(まつらたう)、三百(さんびやく)余艘(よさう)で二陣(にぢん)につづく。平家(へいけ)の君
達(きんだち)、二百(にひやく)余艘(よさう)で三陣(さんぢん)につづき給(たま)ふ。兵藤次(ひやうどうじ)秀
遠(ひでとほ)は、九国(くこく)一番(いちばん)の勢兵(せいびやう)にてあり【有り】けるが、我(われ)程(ほど)こそ
なけれども、普通(ふつう)ざまの勢兵(せいびやう)ども五百人(ごひやくにん)をす
ぐ(ッ)て、舟々(ふねぶね)のともへ【艫舳】にたて、肩(かた)を一面(いちめん)にならべて、五百(ごひやく)
の矢(や)を一度(いちど)にはなつ【放つ】。源氏(げんじ)は三千(さんぜん)余艘(よさう)の舟(ふね)
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なれば、せい【勢】のかず【数】さこそおほかり【多かり】けめども、処
々(ところどころ)よりゐ(い)【射】ければ、いづくに勢兵(せいびやう)ありともおぼ
えず。大将軍(たいしやうぐん)九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)、ま(ッ)さきにすす(ン)【進ん】でた
たかふ【戦ふ】が、楯(たて)も鎧(よろひ)もこらへずして、さんざん【散々】にゐ(い)【射】しら
まさる。平家(へいけ)みかた【御方】かち【勝ち】ぬとて、しきりにせめ皷(つづみ)【攻め皷】
『遠矢(とほや)』S1108
う(ッ)【打つ】て、よろこびの時(とき)をぞつくりける。○源氏(げんじ)の方(かた)
にも、和田(わだの)小太郎(こたらう)義盛(よしもり)、舟(ふね)にはのらず、馬(むま)にうちの(ッ)【乗つ】
てなぎさにひかへ、甲(かぶと)をばぬいで人(ひと)にもたせ、あぶ
み【鐙】のはな【鼻】ふみ【踏み】そらし、よ(ッ)ぴいてゐ(い)【射】ければ、三町(さんぢやう)が
P11080
うちと【内外】の物(もの)ははづさ【外さ】ずつよう【強う】ゐ(い)【射】けり。そのなかに、
ことにとをう(とほう)【遠う】ゐ(い)【射】たるとおぼしきを、「その【其の】矢(や)給(たま)はらん」
とぞまねひ(まねい)【招い】たる。新中納言(しんぢゆうなごん)これ【是】をめし【召し】よせて見(み)
給(たま)へば、しらの【白篦】に鶴(つる)のもとじろ【本白】、こう【鴻】の羽(は)をわりあ
はせ【合はせ】てはい【矧い】だる矢(や)の、十三(じふさん)ぞく【束】ふたつぶせ【二伏】あるに、
くつまき【沓巻】より一束[B 「足」に「束」と傍書](いつそく)ばかりをい(おい)て、和田(わだの)小太郎(こたらう)平(たひらの)
義盛(よしもり)とうるしにてぞかき【書き】つけたる。平家(へいけ)の方(かた)に
勢兵(せいびやう)おほし【多し】といへども、さすがとを矢(や)(とほや)【遠矢】ゐる(いる)【射る】物(もの)はすく
なかり【少かり】けるやらん、良(やや)久(ひさ)しうあ(ッ)て、伊与【*伊予】国(いよのくに)の住人(ぢゆうにん)仁
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井(にゐ)(ニイ)の紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)めし【召し】いだされ、この矢(や)を給(たま)
は(ッ)てゐ(い)【射】かへす【返す】。これ【是】も奧(おき)(ヲキ)よりなぎさへ三町(さんぢやう)余(よ)を
つ(ッ)とゐ(い)【射】わたして、和田(わだの)小太郎(こたらう)がうしろ一段(いつたん)あまりに
ひかへたる三浦(みうら)の石左近(いしざこん)の太郎(たらう)が弓手(ゆんで)のかいな(かひな)【腕】
に、したたかにこそた(ッ)たりけれ。三浦(みうら)の人(ひと)共(ども)これをみ【見】
て、「和田(わだの)小太郎(こたらう)がわれにすぎてとを矢(や)(とほや)【遠矢】ゐる(いる)【射る】もの
なしとおもひ【思ひ】て、恥(はぢ)かいたるにくさよ。あれをみよ【見よ】」
とぞわらひ【笑ひ】ける。和田(わだの)小太郎(こたらう)これ【是】をきき、「やすか
らぬ事(こと)也(なり)」とて、小船(こぶね)にの(ッ)【乗つ】てこぎいださせ、平家(へいけ)
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のせい【勢】のなかをさしつめ【差し詰め】ひきつめ【引き詰め】さむざむ(さんざん)【散々】にゐ(い)【射】け
れば、おほく【多く】の物(もの)どもゐ(い)【射】ころさ【殺さ】れ、手負(ておひ)にけり。又(また)
判官(はうぐわん)ののり給(たま)へる舟(ふね)に、奥(おき)よりしらの【白篦】のおほ矢(や)【大矢】
をひとつ【一つ】ゐ(い)【射】たてて、和田(わだ)がやうに「こなたへ給(たま)はらん」
とぞまねいたる。判官(はうぐわん)これ【是】をぬかせて見(み)給(たま)へば、
しらのに山(やま)どり【山鳥】の尾(を)をも(ッ)てはい【矧い】だりける矢(や)の、
十四(じふし)そく【束】三(みつ)ぶせあるに、伊与【*伊予】国(いよのくにの)住人(ぢゆうにん)、仁井(にゐの)紀四郎(きしらう)
親清(ちかきよ)とぞかきつけたる。判官(はうぐわん)、後藤兵衛(ごとうびやうゑ)実基(さねもと)
をめし【召し】て、「この矢(や)ゐ(い)【射】つべきもの、みかた【御方】にたれ【誰】かあ
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る」との給(たま)へ【宣へ】ば、「甲斐(かひ)源氏(げんじ)に阿佐里(あさりの)与一殿(よいちどの)こそ、勢
兵(せいびやう)にてましまし候(さうら)へ」。「さらばよべ」とてよばれければ、あ
さりの【阿佐里の】与一(よいち)いできたり。判官(はうぐわん)の給(たま)ひけるは、「おき【沖】
よりこの矢(や)をゐ(い)【射】て候(さうらふ)が、ゐ(い)【射】かへせ【返せ】とまねき候(さうらふ)。御(ご)へ
ん【辺】あそばし【遊ばし】候(さうらひ)なんや」。「給(たま)は(ッ)【賜つ】て見(み)候(さうら)はん」とて、つま
よ(ッ)て、「これ【是】はのがすこし【少し】よはう(よわう)【弱う】候(さうらふ)。矢(や)づか【矢束】もち(ッ)とみじ
かう【短かう】候(さうらふ)。おなじうは義成(よしなり)が具足(ぐそく)にてつかまつり候(さうら)
はん」とて、ぬりごめ藤(どう)【塗籠籐】の弓(ゆみ)の九尺(くしやく)ばかりあるに、
ぬりの【塗篦】にくろぼろ【黒母衣】はい【矧い】だる矢(や)の、わが大手(おほで)にをし(おし)【押し】
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にぎ(ッ)【握つ】て、十五(じふご)そく【束】あり【有り】けるをうちくはせ【銜はせ】、よ(ッ)ぴい
てひやうどはなつ【放つ】。四町(しちやう)余(よ)をつ(ッ)とゐ(い)【射】わたし【渡し】て、大舟(おほふね)
のへ【舳】にた(ッ)たる仁井(にゐ)の紀四郎(きしらう)親清(ちかきよ)がま(ッ)ただなかを
ひやうふつとゐ(い)【射】て、ふなぞこ【船底】へさかさまにゐ(い)【射】たう
す(たふす)【倒す】。死生(ししやう)をばしら【知ら】ず。阿佐里(あさり)の与一(よいち)はもとより
勢兵(せいびやう)の手(て)きき【手利】なり。二町(にちやう)にはしる【走る】しか【鹿】をば、
はづさ【外さ】ずゐ(い)【射】けるとぞきこえ【聞え】し。其(その)後(のち)源平(げんぺい)た
がひに命(いのち)ををしま【惜しま】ず、おめき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】でせめ【攻め】たたかふ。
いづれおとれりとも見(み)えず。されども、平家(へいけ)の
P11085
方(かた)には、十善(じふぜん)帝王(ていわう)、三種(さんじゆ)の神器(しんぎ)を帯(たい)してわた
らせ給(たま)へば、源氏(げんじ)いかがあらんずらんとあぶなう
おもひ【思ひ】けるに、しばしは白雲(はくうん)かとおぼしくて、虚空(こくう)に
ただよひけるが、雲(くも)にてはなかりけり、主(ぬし)もなき白幡(しらはた)
ひとながれ【一流】まい(まひ)さが(ッ)て、源氏(げんじ)の舟(ふね)のへ【舳】にさほづけ(さをづけ)【棹付】の
お(を)【緒】のさはる程(ほど)にぞ見(み)えたりける。判官(はうぐわん)、「是(これ)は八
幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の現(げん)じ給(たま)へるにこそ」とよろこ(ン)で、手
水(てうづ)うがひをして、これ【是】を拝(はい)したてまつる【奉る】。兵(つはもの)共(ども)みなかく
のごとし。又(また)源氏(げんじ)のかた【方】よりいるか【海豚】といふ魚(うを)一二千(いちにせん)
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はう【這う】で、平家(へいけ)の方(かた)へむかひ【向ひ】ける。大臣殿(おほいとの)これを御(ご)
らんじて、小博士(こはかせ)晴信(はれのぶ)をめし【召し】て、「いるか【海豚】はつねにおほ
けれ【多けれ】ども、いまだかやうの事(こと)なし。いかがあるべきとかん
がへ【勘へ】申(まう)せ」と仰(おほせ)られければ、「このいるか【海豚】はみ【食み】かへり【返り】候(さうら)
はば、源氏(げんじ)ほろび候(さうらふ)べし。はう【這う】でとほり【通り】候(さうら)はば、みかた【御方】の
御(おん)いくさ【軍】あやうう(あやふう)【危ふう】候(さうらふ)」と申(まうし)もはてねば、平家(へいけ)の舟(ふね)の
したをすぐにはう【這う】でとほり【通り】けり。「世(よ)の中(なか)はいまは
かう」とぞ申(まうし)たる。阿波(あはの)民部(みんぶ)重能(しげよし)は、この三(さん)がね
ん【年】があひだ、平家(へいけ)によくよく忠(ちゆう)をつくし、度々(どど)の
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合戦(かつせん)に命(いのち)ををしま【惜しま】ずふせき【防き】たたかひ【戦ひ】けるが、子
息(しそく)田内左衛門(でんないざゑもん)をいけどり【生捕り】にせられて、いかにも
かなは【叶は】じとやおもひ【思ひ】けん、たちまちに心(こころ)がはりして、
源氏(げんじ)に同心(どうしん)してんげり。平家(へいけ)の方(かた)にははかりこ
と【策】に、よき人(ひと)をば兵船(ひやうせん)にのせ【乗せ】、雑人(ざふにん)どもをば唐船(たうせん)
にのせ【乗せ】て、源氏(げんじ)心(こころ)にくさに唐船(たうせん)をせめ【攻め】ば、なかに
とりこめてうたんとしたく【支度】せられたりけれども、阿
波(あはの)民部(みんぶ)がかへりちう(かへりちゆう)【返り忠】のうへ【上】は、唐船(たうせん)には目(め)もかけず、
大将軍(たいしやうぐん)のやつしのり給(たま)へる兵船(ひやうせん)をぞせめ【攻め】たり
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ける。新中納言(しんぢゆうなごん)「やすからぬ。重能(しげよし)めをき(ッ)てすつ【捨つ】べ
かりつる物(もの)を」と、千(ち)たび【千度】後悔(こうくわい)せられけれどもかな
は【叶は】ず。さる程(ほど)に、四国(しこく)・鎮西(ちんぜい)のつは物(もの)共(ども)、みな平家(へいけ)を
そむいて源氏(げんじ)につく。いままでしたがひ【従ひ】ついたり
し物(もの)共(ども)も、君(きみ)にむか(ッ)【向つ】て弓(ゆみ)をひき、主(しゆう)に対(たい)して太刀(たち)
をぬく。かの岸(きし)につかんとすれば、浪(なみ)たかくして
かなひ【叶ひ】がたし。このみぎはによらんとすれば、敵(てき)
矢(や)さき【矢先】をそろへてまち【待ち】かけたり。源平(げんぺい)の国(くに)あ
『先帝(せんてい)身投(みなげ)』S1109
らそひ、けふをかぎりとぞ見(み)えたりける。○源氏(げんじ)の
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つは物(もの)共(ども)、すでに平家(へいけ)の舟(ふね)にのりうつりけれ
ば、水手(すいしゆ)梶取(かんどり)ども、ゐ(い)【射】ころさ【殺さ】れ、きりころさ【殺さ】れて、舟(ふね)
をなをす(なほす)【直す】に及(およ)ばず、舟(ふな)ぞこにたはれ【倒れ】ふし【伏し】に
けり。新中納言(しんぢゆうなごん)知盛卿(とももりのきやう)小舟(こぶね)にの(ッ)【乗つ】て御所(ごしよ)の御舟(おんふね)に
まいり(まゐり)【参り】、「世(よ)のなかは、今(いま)はかうと見(み)えて候(さうらふ)。見(み)ぐるしか
らん物(もの)共(ども)みな海(うみ)へいれ【入れ】させ給(たま)へ」とて、ともへ【艫舳】には
しり【走り】まはり、はい【掃い】たり、のごう【拭う】たり、塵(ちり)ひろい(ひろひ)【拾ひ】、手(て)づ
から掃除(さうぢ)せられけり。女房(にようばう)達(たち)「中納言殿(ちゆうなごんどの)、いくさ【軍】は
いかにやいかに」と口々(くちぐち)にとひ給(たま)へば、「めづらしきあづ
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ま男(をとこ)【東男】をこそ御(ご)らんぜられ候(さうら)はんずらめ」とて、から
からとわらひ【笑ひ】給(たま)へば、「なんでうのただいまのたは
ぶれ【戯れ】ぞや」とて、声々(こゑごゑ)におめき(をめき)【喚き】さけび【叫び】給(たま)ひけ
り。二位殿(にゐどの)はこのありさま【有様】を御(ご)らんじて、日(ひ)ごろ
おぼしめし【思し召し】まうけたる事(こと)なれば、にぶ色【鈍色】のふた
つ【二つ】ぎぬ【衣】うちかづき、ねりばかま【練袴】のそば【稜】たかくは
さみ【鋏み】、神璽(しんし)をわきにはさみ【鋏み】、宝剣(ほうけん)を腰(こし)にさし、主
上(しゆしやう)をいだきたてま(ッ)【奉つ】て、「わが身(み)は女(をんな)なりとも、かたき【敵】
の手(て)にはかかるまじ。君(きみ)の御(おん)ともにまいる(まゐる)【参る】也(なり)。御心(おんこころ)
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ざしおもひ【思ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】給(たま)はん人々(ひとびと)は、いそぎつづき給(たま)
へ」とて、ふなばたへあゆみ【歩み】いでられけり。主上(しゆしやう)こと
しは八歳(はつさい)にならせ給(たま)へども、御(おん)とし【年】の程(ほど)よりは
るかにねびさせ給(たま)ひて、御(おん)かたちうつくしく、あた
りもてりかかやく【輝く】ばかり也(なり)。御(おん)ぐしくろう【黒う】ゆらゆら
として、御(おん)せなかすぎさせ給(たま)へり。あきれたる
御(おん)さまにて、「尼(あま)ぜ、われをばいづちへぐし【具し】てゆか
むとするぞ」と仰(おほせ)ければ、いとけなき君(きみ)にむかひ【向ひ】
たてまつり【奉り】、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)【抑へ】て申(まう)されけるは、「君(きみ)はいま
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だしろしめさ【知ろし召さ】れさぶらはずや。先世(ぜんぜ)の十善(じふぜん)戒
行(かいぎやう)の御(おん)ちからによ(ッ)て、いま【今】万乗(ばんじよう)のあるじとむまれ【生れ】
させ給(たま)へども、悪縁(あくえん)にひかれて、御運(ごうん)すで【既】につ
きさせ給(たま)ひぬ。まづ東(ひがし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて、伊勢
大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)西方(さいはう)浄土(じやうど)
の来迎(らいかう)にあづからむとおぼしめし【思し召し】、西(にし)にむかは【向は】せ
給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)さぶらふ【候ふ】べし。この国(くに)はそくさ
む(そくさん)【粟散】辺(へん)ぢ【辺地】とて、心(こころ)うきさかゐ(さかひ)【境】にてさぶらへ【候へ】ば、極楽(ごくらく)
浄土(じやうど)とてめでたき処(ところ)へぐし【具し】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】さぶらふ【候ふ】ぞ」と、
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なくなく【泣く泣く】申(まう)させ給(たま)ひければ、山鳩色(やまばといろ)の御衣(ぎよい)に
びんづら【鬢】ゆはせ[M 「ゆはせゆはせ」とあり後の「ゆはせ」をミセケチ]給(たま)ひて、御涙(おんなみだ)におぼれ、ち
いさく(ちひさく)【小さく】うつくしき御手(おんて)をあはせ【合はせ】、まづ東(ひがし)をふし【伏し】おが
み(をがみ)【拝み】、伊勢大神宮(いせだいじんぐう)に御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひ、其(その)後(のち)
西(にし)にむかは【向は】せ給(たま)ひて、御念仏(おんねんぶつ)ありしかば、二位殿(にゐどの)
やがていだき奉(たてまつ)り、「浪(なみ)のしたにも都(みやこ)のさぶらふ【候ふ】
ぞ」となぐさめたてま(ッ)【奉つ】て、ちいろ(ちひろ)【千尋】の底(そこ)へぞ入(いり)給(たま)ふ。
悲(かなしき)哉(かな)、無常(むじやう)の春(はる)の風(かぜ)、忽(たちまち)に花(はな)の御(おん)すがたをちらし【散らし】、
なさけなきかな、分段(ぶんだん)のあらき浪(なみ)、玉体(ぎよくたい)をしづめ
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たてまつる【奉る】。殿(てん)をば長生(ちやうせい)と名(な)づけてながきすみか【栖】と
さだめ、門(もん)をば不老(ふらう)と号(かう)して、老(おい)せぬとざしとかき【書き】[M 「とき」とあり「と」をミセケチ「か」と傍書]
たれども、いまだ十歳(じつさい)のうちにして、底(そこ)のみくづ【水屑】となら
せ給(たま)ふ。十善(じふぜん)帝位(ていゐ)の御果報(おんくわはう)、申(まう)すもなかなかおろ
か【愚】なり。雲上(うんしやう)の竜(りよう)くだ(ッ)て海底(かいてい)の魚(うを)となり給(たま)ふ。
大梵(だいぼん)高台(かうだい)の閣(かく)のうへ【上】、釈提(しやくだい)喜見(きけん)の宮(みや)の内(うち)、い
にしへは槐門(くわいもん)(クハイモン)棘路(きよくろ)のあひだに九族(きうぞく)をなびかし、今(いま)
は舟(ふね)のうち、浪(なみ)のしたに御命(おんいのち)を一時(いつし)にほろぼし
『能登殿(のとどの)最期(さいご)』S1110
給(たま)ふこそ悲(かな)しけれ。○女院(にようゐん)はこの御(おん)ありさま【有様】を御(ご)
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らんじて、御(おん)やき石(いし)、御硯(おんすずり)、左右(さう)の御(おん)ふところ【懐】に
いれ【入れ】て、海(うみ)へいらせ給(たま)ひたりけるを、渡辺党(わたなべたう)
に源五(げんご)馬允(うまのじよう)(うまノゼウ)むつる[B 「むへる」とあり「へ」に「つ」と傍書][* 下欄に「眤」と注記]、たれ【誰】とはしり【知り】たてまつらね
ども、御(おん)ぐしをくま手(で)【熊手】にかけてひき【引き】あげたて
まつる【奉る】。女房(にようばう)達(たち)「あなあさまし。あれは女院(にようゐん)にて
わたらせ給(たまふ)ぞ」と、声々(こゑごゑ)口々(くちぐち)に申(まう)されければ、判官(はうぐわん)
に申(まうし)て、いそぎ御所(ごしよ)の御舟(おんふね)へわたしたてまつる【奉る】。
大納言(だいなごん)の佐(すけ)どの【殿】は、内侍所(ないしどころ)の御(おん)からうと[* 下欄に「唐櫃(カラフト)」と注記]をも(ッ)て、
海(うみ)へいら【入ら】んとし給(たま)ひけるが、はかま【袴】のすそをふな
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ばたにゐ(い)【射】つけ【付け】られ、け【蹴】まとゐ(まとひ)てたふれ【倒れ】給(たまひ)たり
けるを、つはもの【兵】どもとりとどめ【留め】たてまつる【奉る】。さて
武士(ぶし)ども内侍所(ないしどころ)のじやう【鎖】ねぢき(ッ)て、すでに御(おん)
ふた【蓋】をひらかんとすれば、たちまち【忽】に目(め)くれ、
鼻血(はなぢ)たる。平(へい)大納言(だいなごん)いけどり【生捕り】にせられておはし
けるが、「あれは内侍所(ないしどころ)のわたらせ給(たま)ふぞ。凡夫(ぼんぶ)は
見(み)たてまつら【奉ら】ぬ事(こと)ぞ」との給(たま)へ【宣へ】ば、兵(つはもの)共(ども)みなのき【退き】
にけり。其(その)後(のち)判官(はうぐわん)、平(へい)大納言(だいなごん)に申(まうし)あはせ【合はせ】て、も
とのごとくからげおさめ(をさめ)【納め】たてまつる【奉る】。さる程(ほど)に、平(へい)
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中納言(ぢゆうなごん)教盛卿(のりもりのきやう)、修理(しゆりの)大夫(だいぶ)経盛(つねもり)兄弟(きやうだい)、よろひ【鎧】の
うへ【上】にいかりををひ(おひ)、手(て)をとりくんで、海(うみ)へぞ入(いり)給(たま)
ひける。小松(こまつ)の新三位(しんざんみの)中将(ちゆうじやう)資盛(すけもり)、同(おなじく)少将(せうしやう)有盛(ありもり)、
いとこの左馬頭(さまのかみ)行盛(ゆきもり)、手(て)に手(て)をとりくんで一所(いつしよ)に
しづみ給(たま)ひけり。人々(ひとびと)はか様(やう)【斯様】にし給(たま)へども、おほい殿(との)【大臣殿】
おやこ【親子】は海(うみ)にいら【入ら】んずるけしき【気色】もおはせず、ふなば
たに立(たち)いで【出で】て四方(しはう)見(み)めぐらし[* 「めぐりし」と有るのを他本により訂正]、あきれたるさま【様】にて
おはしけるを、侍(さぶらひ)どもあまりの心(こころ)うさに、とほるやうに
て、大臣殿(おほいとの)を海(うみ)へつき入(いれ)たてまつる【奉る】。右衛門督(うゑもんのかみ)
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これ【是】を見(み)て、やがてとび入(いり)給(たま)ひけり。みな人(ひと)は
おもき【重き】鎧(よろひ)のうへ【上】に、おもき【重き】物(もの)をおふ(おう)【負う】たりいだひ(いだい)【抱い】た
りしていれ【入れ】ばこそしづめ、この人(ひと)おや子(こ)【親子】はさ
もし給(たま)はぬうへ【上】、なまじゐ(なまじひ)にく[B ッ]きやう(くつきやう)【究竟】の水練(すいれん)にて
おはしければ、しづみもやり給(たま)はず。大臣殿(おほいとの)は
右衛門督(うゑもんのかみ)しづまばわれもしづまん、たすかり
給(たま)はばわれもたすからむとおもひ【思ひ】給(たま)ふ。右衛門
督(うゑもんのかみ)も、ちち【父】しづみ給(たま)はばわれもしづまん、たすかり
給(たま)はば我(われ)もたすからんとおもひ【思ひ】て、たがひに目(め)を
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見(み)かはしておよぎ【泳ぎ】ありき【歩き】給(たま)ふ程(ほど)に、伊勢(いせの)三
郎(さぶらう)義盛(よしもり)、小舟(こぶね)をつ(ッ)とこぎよせ、まづ右衛門
督(うゑもんのかみ)を熊手(くまで)にかけてひき【引き】あげたてまつる【奉る】。
大臣殿(おほいとの)是(これ)をみ【見】ていよいよしづみもやり給(たま)はねば、お
なじうとりたてま(ッ)【奉つ】て(ン)げり。大臣殿(おほいとの)の御(おん)めのと子(ご)【乳母子】飛弾【*飛騨】[B ノ](ひだの)
三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)、小舟(こぶね)にの(ッ)【乗つ】て義盛(よしもり)が舟(ふね)にのり
うつり、「我(わが)君(きみ)とりたてまつる【奉る】はなに物(もの)【何者】ぞ」とて、太刀(たち)
をぬいてはしり【走り】かかる。義盛(よしもり)すでにあぶなうみえ【見え】
けるを、義盛(よしもり)が童(わらは)、しう(しゆう)【主】をうた【討た】せじとなかにへだた
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る【隔たる】。景経(かげつね)がうつ太刀(たち)〔に〕甲(かぶと)のま(ッ)かう【真甲】うちわられ、二(に)の太刀(たち)
にくび【頸】うちおとさ【落さ】れぬ。義盛(よしもり)なを(なほ)【猶】あぶなうみえ【見え】ける
を、ならびの舟(ふね)より堀(ほりの)弥太郎(やたらう)親経(ちかつね)、よ(ッ)ぴいてひ
やうどゐる(いる)【射る】。景経(かげつね)うち甲(かぶと)【内甲】をゐ(い)【射】させてひるむところ【処】
に、堀(ほり)の弥太郎(やたらう)のりうつ(ッ)て、三郎左衛門(さぶらうざゑもん)にくんで
ふす【伏す】。堀(ほり)が郎等(らうどう)、主(しゆう)につづい【続い】てのりうつり、景経(かげつね)が
鎧(よろひ)のくさずり【草摺】ひき【引き】あげ、二(ふた)かたな【二刀】さす。飛弾【*飛騨】(ひだ)の
三郎左衛門(さぶらうざゑもん)景経(かげつね)、きこゆる【聞ゆる】大(だい)ぢから【大力】のかう【剛】のもの
なれども、運(うん)やつきにけん、いた手(で)【痛手】はをう(おう)【負う】つ、敵(かたき)はあ
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またあり、そこにてつゐに(つひに)【遂に】うた【討た】れにけり。大臣殿(おほいとの)
は生(いき)ながらとりあげられ、目(め)の前(まへ)でめのと子(ご)【乳母子】がう
たるるを見(み)給(たま)ふに、いかなる心地(ここち)かせられけん。凡(およ)(ヲヨ)
そ能登守(のとのかみ)教経(のりつね)の矢(や)さき【矢先】にまはる物(もの)こそなかり
けれ。矢(や)だねの有(ある)程(ほど)ゐ(い)【射】つくし【尽くし】て、けふを最後(さいご)とや
おもは【思は】れけむ、赤地(あかぢ)の錦(にしき)の直垂(ひたたれ)に、唐綾(からあや)おどし(からあやをどし)【唐綾威】
の鎧(よろひ)きて、いかものづくりの大太刀(おほだち)ぬき、しら柄(え)【白柄】
の大長刀(おほなぎなた)のさやをはづし【外し】、左右(さう)にも(ッ)てなぎ【薙ぎ】まはり
給(たま)ふに、おもてをあはする物(もの)ぞなき。おほく【多く】の物(もの)
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どもうた【討た】れにけり。新中納言(しんぢゆうなごん)使者(ししや)をたてて、「能登
殿(のとどの)、いたう罪(つみ)なつくり給(たま)ひそ。さりとてよきかた
き【敵】か」との給(たま)ひければ、「さては大将軍(たいしやうぐん)にくめ【組め】ご
さんなれ」と心(こころ)えて、うちもの【打物】くきみじか【茎短】にと(ッ)て、
源氏(げんじ)の舟(ふね)にのりうつりのりうつり、おめき(をめき)【喚き】さけん【叫ん】
でせめ【攻め】たたかふ【戦ふ】。判官(はうぐわん)を見(み)しり給(たま)はねば、物(もの)のぐ【物の具】
のよき武者(むしや)をば判官(はうぐわん)かとめ【目】をかけて、はせ【馳せ】まは
る。判官(はうぐわん)もさきに心(こころ)えて、おもてにたつ様(やう)にはしけ
れども、とかくちがひ【違ひ】て能登殿(のとどの)にはくま【組ま】れず。されども
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いかがしたりけむ、判官(はうぐわん)の舟(ふね)にのりあた(ッ)て、あは
やと目(め)をかけてとんでかかるに、判官(はうぐわん)かなは【叶は】じと
やおもは【思は】れけん、長刀(なぎなた)脇(わき)にかいはさみ、みかた【御方】の
舟(ふね)の二丈(にぢやう)ばかりのい【退い】たりけるに、ゆらりととび
のり給(たま)ひぬ。能登殿(のとどの)ははやわざ【早業】やおとられたり
けん、やがてつづいてもとび給(たま)はず。いま【今】はかうとお
もは【思は】れければ、太刀(たち)長刀(なぎなた)海(うみ)へなげいれ【入れ】、甲(かぶと)もぬ
いですてられけり。鎧(よろひ)の草(くさ)ずり【草摺】かなぐりすて、ど
う【胴】ばかりきて、おほ【大】童(わらは)になり、おほ手(で)をひろ
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げてたたれたり。凡(およそ)あたりをはら(ッ)【払つ】てぞ見(み)えた
りける。おそろし【恐ろし】な(ン)ど(なんど)もおろか【愚】也(なり)。能登殿(のとどの)大音声(だいおんじやう)
をあげて、「われとおもは【思は】ん物(もの)どもは、よ(ッ)【寄つ】て教経(のりつね)に
くん【組ん】でいけどりにせよ。鎌倉(かまくら)へくだ(ッ)て、頼朝(よりとも)に
あふ(あう)【逢う】て、物(もの)ひと詞(こと)いはんとおもふ【思ふ】ぞ。よれやよれ」と
の給(たま)へ【宣へ】共(ども)、よるもの【者】一人(いちにん)もなかりけり。ここに土佐
国(とさのくに)の住人(ぢゆうにん)安芸郷(あきのがう)を知行(ちぎやう)しける安芸[B ノ](あきの)大領(だいりやう)実
康(さねやす)が子(こ)に、安芸[B ノ](あきの)太郎(たらう)実光(さねみつ)とて、卅人(さんじふにん)がちから【力】も(ッ)
たる大(だい)ぢから【大力】のかう【剛】のもの【者】あり【有り】。われにち(ッ)ともおと
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らぬ郎等(らうどう)一人(いちにん)、おとと【弟】の次郎(じらう)も普通(ふつう)にはす
ぐれたるしたたか物(もの)なり。安芸(あき)の太郎(たらう)、能
登殿(のとどの)を見(み)たてま(ッ)【奉つ】て申(まうし)けるは、「いかにたけ
う【猛う】ましますとも、我等(われら)三人(さんにん)とりついたらんに、
たとひたけ十丈(じふぢやう)の鬼(おに)なりとも、などかしたがへざ
るべき」とて、主従(しゆうじゆう)三人(さんにん)小舟(こぶね)にの(ッ)【乗つ】て、能登殿(のとどの)の
舟(ふね)にをし(おし)【押し】ならべ、ゑい(えい)といひ【言ひ】てのりうつり、甲(かぶと)のしこ
ろをかたぶけ【傾け】、太刀(たち)をぬいて一面(いちめん)にう(ッ)【打つ】てかかる。能
登殿(のとどの)ち(ッ)ともさはぎ(さわぎ)【騒ぎ】給(たま)はず、ま(ッ)さきにすすんだる
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安芸(あきの)太郎(たらう)が郎等(らうどう)をすそ【裾】をあはせ【合はせ】て、海(うみ)へどう
どけ【蹴】いれ【入れ】給(たま)ふ。つづいてよる安芸(あきの)太郎(たらう)を弓
手(ゆんで)の脇(わき)にと(ッ)てはさみ【鋏み】、弟(おとと)の次郎(じらう)をば馬手(めて)のわき
にかいはさみ、ひとしめ【一締】しめて、「いざうれ、さらばおO[BH の]れら【己等】
死途(しで)の山(やま)のともせよ」とて、生年(しやうねん)廿六(にじふろく)にて海(うみ)へつ(ッ)
『内侍所(ないしどころの)都入(みやこいり)』S1111
とぞいり【入り】給(たま)ふ。○新中納言(しんぢゆうなごん)「見(み)るべき程(ほど)の事(こと)は
見(み)つ、いまは自害(じがい)せん」とて、めのと子(ご)【乳母子】の伊賀(いがの)平(へい)内
左衛門(ないざゑもん)家長(いへなが)をめし【召し】て、「いかに、約束(やくそく)はたがう(たがふ)【違ふ】まじ
きか」との給(たま)へ【宣へ】ば、「子細(しさい)にや及(および)候(さうらふ)」と、中納言(ちゆうなごん)に鎧(よろひ)二領(にりやう)
P11107
きせ【着せ】たてまつり【奉り】、我(わが)身(み)も鎧(よろひ)二領(にりやう)きて、手(て)をと
りく(ン)【組ん】で海(うみ)へぞ入(いり)にける。是(これ)をみ【見】て侍(さぶらひ)共(ども)廿(にじふ)余人(よにん)
おくれ【遅れ】たてまつら【奉ら】じと、手(て)に手(て)をとり【取り】くん【組ん】で、一
所(いつしよ)にしづみけり。其(その)中(なか)に、越中(ゑつちゆうの)次郎兵衛(じらうびやうゑ)・上総(かづさの)五
郎兵衛(ごらうびやうゑ)・悪(あく)七兵衛(しちびやうゑ)・飛弾【*飛騨】(ひだの)四郎兵衛(しらうびやうゑ)はなにとし
てかのがれ【逃れ】たりけん、そこをも又(また)落(おち)にけり。海上(かいしやう)
には赤旗(あかはた)赤(あか)じるし【赤印】なげ【投げ】すて、かなぐりすて【捨て】たりけ
れば、竜田河(たつたがは)の紅葉(もみぢ)ばを嵐(あらし)の吹(ふき)ちらし【散らし】たるがごと
し。みぎは【汀】によする【寄する】しら浪(なみ)【白浪】もうすぐれなゐに
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ぞなりにける。主(ぬし)もなきむなしき【空しき】舟(ふね)は、塩(しほ)にひか
れ風(かぜ)にしたが(ッ)て、いづくをさすともなくゆられゆ
くこそ悲(かな)しけれ。生(いけ)どりには、前(さき)の内大臣(ないだいじん)宗盛公(むねもりこう)、平(へい)
大納言(だいなごん)時忠(ときただ)、右衛門督(うゑもんのかみ)清宗(きよむね)、蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)、讃岐[B ノ](さぬきの)中
将(ちゆうじやう)時実(ときざね)、兵部[B ノ]少輔(ひやうぶのせう)雅明(まさあきら)、大臣殿(おほいとの)の八歳(はつさい)になり給(たま)ふ
若公(わかぎみ)【若君】、僧(そう)には二位(にゐの)僧都(そうづ)宣真【*全真】(せんしん)・法勝寺(ほつしようじの)執行(しゆぎやう)能
円(のうゑん)・中納言(ちゆうなごんの)律師(りつし)仲快(ちゆうくわい)・経誦房(きやうじゆばうの)阿闍梨(あじやり)融円(ゆうゑん)、
侍(さぶらひ)には源(げん)大夫(だいふの)判官(はんぐわん)季貞(すゑさだ)・摂津[B ノ](つの)判官(はんぐわん)盛澄(もりずみ)・橘(きち)
内左衛門(ないざゑもん)季康(すゑやす)・藤(とう)内左衛門(ないざゑもん)信康(のぶやす)・阿波(あはの)民部(みんぶ)
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重能(しげよし)父子(ふし)、以上(いじやう)卅八人(さんじふはちにん)也(なり)。菊地【*菊池】(きくちの)次郎(じらう)高直(たかなほ)・原田(はらだの)
大夫(たいふ)種直(たねなほ)は、いくさ【軍】以前(いぜん)より郎等(らうどう)どもあひ【相】具(ぐ)して
降人(かうにん)にまいる(まゐる)【参る】。女房(にようばう)には、女院(にようゐん)、北(きた)の政所(まんどころ)、廊(らう)の御方(おんかた)(ヲンかた)、
大納言[B ノ]佐殿(だいなごんのすけどの)、帥(そつ)のすけ【帥の典侍】殿(どの)、治部卿[B ノ](ぢぶきやうの)局(つぼね)已下(いげ)四十三人(しじふさんにん)
とぞきこえ【聞え】し。元暦(げんりやく)二年(にねん)の春(はる)のくれ【暮】、いかなる年
月(としつき)にて一人(いちじん)海底(かいてい)にしづみ、百官(ひやくくわん)波上(はしやう)にうかぶらん。
国母(こくも)官女(くわんぢよ)は東夷(とうい)西戎(せいじゆ)【征戎】の手(て)にしたがひ【従ひ】、臣下(しんか)卿相(けいしやう)は
数万(すまん)の軍旅(ぐんりよ)にとらはれ【捕はれ】て、旧里(きうり)にかへり【帰り】給(たま)ひし
に、或(あるい)は朱買臣(しゆばいしん)(シユハイジン)が錦(にしき)をきざる事(こと)をなげき、或(あるい)は
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王照君【*王昭君】(わうぜうくん)が胡国(ここく)におもむき【赴き】し恨(うらみ)もかくやとぞかなし
み給(たま)ひける。同(おなじき)四月(しぐわつ)三日(みつかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、源
八(げんぱち)広綱(ひろつな)をも(ッ)て、院(ゐんの)御所(ごしよ)へ奏聞(そうもん)せられけるは、去(さんぬる)三
月(さんぐわつ)廿四日(にじふしにち)、豊前[B ノ]国(ぶせんのくに)田(た)の浦(うら)、門司関(もじがせき)、長門[B ノ]国(ながとのくに)檀[B ノ]浦【*壇浦】(だんのうら)、赤
間(あかま)が関(せき)にて平家(へいけ)をせめ【攻め】おとし【落し】、三種(さんじゆの)神器(しんぎ)事(こと)ゆへ(ゆゑ)【故】
なくかへし【返し】入(いれ)奉(たてまつ)るよし申(まう)されたりければ、院中(ゐんぢゆう)の
上下(じやうげ)騒動(さうどう)す。広綱(ひろつな)を御坪(おつぼ)のうちへめし【召し】、合戦(かつせん)の次
第(しだい)をくはしう【詳しう】御尋(おんたづね)ありて、御感(ぎよかん)のあまりに左兵
衛[B ノ]尉(さひやうゑのじよう)になさ[* 「めさ」と有るのを他本により訂正]れけり。「一定(いちぢやう)かへりいら【入ら】せ給(たま)ふかみ【見】て
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まいれ(まゐれ)【参れ】」とて、五日O[BH ノ日](いつかのひ)、北面(ほくめん)に候(さうらひ)ける藤(とう)判官(はんぐわん)信盛(のぶもり)を西
国(さいこく)へさしつかはさる。宿所(しゆくしよ)へもかへらず、やがて院(ゐん)の
御馬(おんむま)を給(たま)は(ッ)【賜つ】て、鞭(むち)をあげ、西(にし)をさいてはせ【馳せ】くだる。
同(おなじき)十四日(じふしにち)、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)義経(よしつね)、平氏(へいじ)男女(なんによ)のいけ
どり【生捕り】ども【共】、あひぐし【具し】てのぼりけるが、播磨国(はりまのくに)明石浦(あかしのうら)
にぞつきにける。名(な)をえたる浦(うら)なれば、ふけゆ
くままに月(つき)さへのぼり、秋(あき)の空(そら)にもおとらず。女
房(にようばう)達(たち)さしつどひ【集ひ】て、「一(ひと)とせ【年】これ【是】をとをり(とほり)【通り】しには、
かかるべしとはおもは【思は】ざりき」な(ン)ど(なんど)いひて、しのびね【忍び音】に
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なき【泣き】あはれけり。帥(そつ)のすけ【帥の典侍】殿(どの)つくづく月(つき)をなが
め給(たま)ひ、いとおもひ【思ひ】のこす【残す】事(こと)もおはせざりけれ
ば、涙(なみだ)にとこ【床】もうく【浮く】ばかりにて、かうぞ思(おも)ひつづけ給(たま)ふ。
ながむればぬるる【濡るる】たもとにやどり【宿り】けり
月(つき)よ雲井(くもゐ)のものがたりせよ W085
雲(くも)のうへ【上】に見(み)しにかはらぬ月(つき)かげ【月影】の
すむ【澄む】につけてもものぞかなしき【悲しき】 W086
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)
我(わが)身(み)こそあかしの浦(うら)にたびね【旅寝】せめ
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おなじ浪(なみ)にもやどる月(つき)かな W087
「さこそ物(もの)がなしう、昔(むかし)恋(こひ)しうもおはしけめ」と、判官(はうぐわん)
物(もの)のふなれどもなさけあるおのこ(をのこ)【男】なれば、身(み)に
しみてあはれ【哀】にぞおもは【思は】れける。同(おなじき)廿五日(にじふごにち)、内侍所(ないしどころ)しる
し【璽】の御箱(みはこ)、鳥羽(とば)につかせ給(たま)ふときこえ【聞え】しかば、内
裏(だいり)より御(おん)むかへ【向へ】にまいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ふ人々(ひとびと)、勘解由小
路[* 「勘解由少路」と有るのを他本により訂正](かでのこうぢの)中納言(ちゆうなごん)経房卿(つねふさのきやう)・高倉(たかくらの)宰相(さいしやうの)中将(ちゆうじやう)泰通(やすみち)・権(ごんの)右中弁(うちゆうべん)
兼忠(かねただ)・左衛門(さゑもんの)権佐(ごんのすけ)親雅(ちかまさ)・江浪[B ノ](えなみの)[* 下欄に「榎並(エナミ)」と注記]中将(ちゆうじやう)公時(きんとき)・但馬(たじまの)少将(せうしやう)教
能(のりよし)、武士(ぶし)には伊豆(いづの)蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)頼兼(よりかぬ)・石川[B ノ](いしかはの)判官代(はんぐわんだい)能
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兼(よしかぬ)・左衛門尉(さゑもんのじよう)有綱(ありつな)とぞきこえ【聞え】し。其(その)夜(よ)の子(ねの)刻(こく)に、
内侍所(ないしどころ)しるし【璽】の御箱(みはこ)太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)へいらせ給(たま)
ふ。宝剣(ほうけん)はうせ【失せ】にけり。神璽(しんし)は海上(かいしやう)にうかびたり
けるを、片岡[B ノ](かたをかの)太郎(たらう)経春(つねはる)がとりあげたてま(ッ)【奉つ】た
『剣(けん)』S1112
りけるとぞきこえ【聞え】し。○吾(わが)朝(てう)には神代(じんだい)よりつ
たはれる霊剣(れいけん)三(みつ)あり【有り】。十(と)つか【十握】の剣(けん)、あまのはや
きりの剣(けん)、草(くさ)なぎ【草薙】の剣(けん)これ【是】也(なり)。十(と)つか【十握】の剣(けん)は、
大和国(やまとのくに)いそのかみ【石上】布留(ふる)の社(やしろ)におさめ(をさめ)【納め】らる。あま
の羽(は)やきりの剣(けん)は、尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)の宮(みや)にあり
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とかや。草(くさ)なぎ【草薙】の剣(けん)は内裏(だいり)にあり。今(いま)の宝剣(ほうけん)
これ【是】也(なり)。この剣(けん)の由来(ゆらい)を申(まう)せば、昔(むかし)素戔(すさ)の烏(を)
の尊(みこと)、出雲国(いづものくに)曾我(そが)のさとに宮(みや)づくりし給(たま)ひ
しに、そのところ【所】に八(や)いろの雲(くも)常(つね)にたちければ、
尊(みこと)これを御(ご)らんじ【御覧じ】て、かくぞ詠(えい)じ給(たま)ひける。
八雲(やくも)たつ出雲(いづも)八(や)えがき(やへがき)【八重垣】つまごめに
やえがき(やへがき)【八重垣】つくるそのやえがき(やへがき)【八重垣】を W088
これ【是】を三十一字(さんじふいちじ)のはじめとす。国(くに)を出雲(いづも)と
なづくる事(こと)も、すなはちこのゆへ(ゆゑ)【故】とぞ奉(うけたま)はる【承る】。
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むかし、みこと、出雲国(いづものくに)ひの河上(かはかみ)にくだり【下り】給(たま)ひしと
き、国(くに)つの神(かみ)【国津神】に足(あし)なづち手(て)なづちとて夫神(をがみ)
婦神(めがみ)おはします。其(その)子(こ)に端正(たんじやう)のむすめあり【有り】。ゐな
だ姫(ひめ)(いなだひめ)と号(かう)す。おや子(こ)【親子】三人(さんにん)なき【泣き】ゐたり。みこと「いか
に」ととひ給(たま)へば、こたえ(こたへ)【答へ】申(まうし)ていはく、「われにむすめ
八人(はちにん)ありき。みな大蛇(だいじや)のためにのまれぬ。いま一人(いちにん)
のこるところの少女(せうぢよ)、又(また)のまれんとす。件(くだん)の大蛇(だいじや)は
尾(を)かしら【頭】ともに八(やつ)あり【有り】。おのおの【各々】八(やつ)のみね、八(やつ)の谷(たに)に
はひ【這ひ】はびこれり。霊樹(れいじゆ)異木(いぼく)せなかにおひ【生ひ】たり。い
P11117
く千年(せんねん)をへたりといふ事(こと)をしら【知ら】ず。まなこは日
月(じつげつ)の光(ひかり)のごとし。年々(ねんねん)に人(ひと)をのむ【飲む】。おや【親】のまるる
もの【者】は子(こ)かなしみ、子(こ)のまるるもの【者】はおやかなしみ、
村南(そんなん)村北(そんぼく)に哭(こく)する声(こゑ)たえず」とぞ申(まうし)ける。みこと
あはれ【哀】におぼしめし【思し召し】、この少女(せうぢよ)をゆつ[* 「ゆづ」と有るのを他本により訂正]のつまぐし【爪櫛】
にとりなし、御(おん)ぐし【髪】にさしかくさ【隠さ】せ給(たま)ひ、八(やつ)の舟(ふね)に
酒(さけ)をいれ【入れ】、美女(びぢよ)のすがたをつく(ッ)てたかき【高き】岡(をか)にた
つ。その【其の】かげ【影】酒(さけ)にうつれり。大蛇(だいじや)人(ひと)とおも(ッ)て其(その)かげ
をあくまでの(ン)で、酔(ゑひ)ふし【臥し】たりけるを、尊(みこと)はき【佩き】
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給(たま)へる十(と)つか【十握】の剣(けん)をぬいて、大蛇(だいじや)をづだづだにき
り給(たま)ふ。其(その)なかに一(ひとつ)の尾(を)にいた(ッ)てきれず。尊(みこと)あや
しとおぼしめし【思し召し】、たてさまにわ(ッ)て御(ご)らんずれば、
一(ひとつ)の霊剣(れいけん)あり【有り】。これ【是】をと(ッ)て天照大神(てんせうだいじん)にたてまつ
り給(たま)ふ。「これはむかし、高間(たかま)の原(はら)にてわがおとし【落し】たり
し剣(けん)なり」とぞの給(たま)ひ【宣ひ】ける。大蛇(だいじや)の尾(を)のなかに
あり【有り】ける時(とき)は、村雲(むらくも)つねにおほひ【覆ひ】ければ、あま
の村雲(むらくも)の剣(けん)とぞ申(まうし)ける。おおん神(がみ)(おほんがみ)【御神】是(これ)をえて、あ
め【天】の御門(みかど)の御(み)たからとし給(たま)ふ。豊葦原(とよあしはら)中津国(なかつくに)の
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あるじとして、天孫(てんそん)をくだしたてまつり【奉り】給(たま)ひしと
き【時】、この剣(けん)をも御鏡(みかがみ)にそへてたてまつら【奉ら】せ給(たま)ひけ
り。第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おんとき)までは、ひとつ【一つ】
殿(てん)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)崇神天皇[B ノ](しゆじんてんわうの)
御宇(ぎよう)に及(およん)で、霊威(れいゐ)(レイイ)におそれ【恐れ】て、天照大神(てんせうだいじん)を大和
国(やまとのくに)笠(かさ)ぬい(かさぬひ)【笠縫】の里(さと)、磯(いそ)がきのひろきにうつしたてまつ
り【奉り】給(たま)ひし時(とき)、この剣(けん)をも天照大神(てんせうだいじん)の社壇(しやだん)にこめ
たてまつら【奉ら】せ給(たま)ひけり。其(その)時(とき)剣(けん)を作(つく)りかへて、御(おん)
まもり【守り】とし給(たま)ふ。御霊威(ごれいゐ)もとの剣(けん)にあひおと
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らず。あまの村雲(むらくも)の剣(けん)は、崇神天皇(しゆじんてんわう)より景行
天皇(けいかうてんわう)まで三代(さんだい)は、天照大神(てんせうだいじん)の社壇(しやだん)にあがめをか(おか)【置か】
れたりけるを、景行天皇(けいかうてんわう)の御宇(ぎよう)四十年(しじふねん)六
月(ろくぐわつ)に、東夷(とうい)反逆(ほんぎやく)のあひだ、御子(おんこ)日本武(にほんたけ)の尊(みこと)御心(おんこころ)も
かう【剛】に、御力(おんちから)も人(ひと)にすぐれておはしければ、精撰(せいせん)に
あた(ッ)てあづまへくだり【下り】給(たま)ひし時(とき)、天照大神(てんせうだいじん)へま
い(ッ)(まゐつ)【参つ】て御(おん)いとま申(まう)させ給(たま)ひけるに、御(おん)いもうといつ
き【斎】の尊(みこと)をも(ッ)て、「謹(つつしん)でおこたる事(こと)なかれ」とて、霊剣(れいけん)
を尊(みこと)にさづけ申(まうし)給(たま)ふ。さて駿河国(するがのくに)に下(くだ)り給(たま)ひ
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たりしかば、其(その)ところ【所】の賊徒等(ぞくとら)「この国(くに)には鹿(しし)おほ
う【多う】候(さうらふ)。狩(かり)してあそば【遊ば】せ給(たま)へ」とて、たばかりいだし【出し】たて
まつり【奉り】、野(の)に火(ひ)をはな(ッ)【放つ】て既(すで)にやきころし【殺し】たてま
つら【奉ら】んとしけるに、尊(みこと)はき【佩き】給(たま)へる霊剣(れいけん)をぬい
て草(くさ)をなぎ給(たま)へば、はむけ【刃向】一里(いちり)がうちは草(くさ)みな
なが【薙が】れぬ。みこと又(また)火(ひ)をいださ【出さ】れたりければ、かぜ【風】
たちまちに異賊(いぞく)の方(かた)へ吹(ふき)おほひ【覆ひ】、凶徒(きようど)(ケウト)ことごと
く【悉く】やけしに【死に】ぬ。それよりしてこそ、あまの村雲(むらくも)の
剣(けん)をば草(くさ)なぎ【草薙】の剣(けん)とも名(な)づけられけれ。
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尊(みこと)猶(なほ)おく【奥】へせめ【攻め】い(ッ)【入つ】て、三箇年(さんがねん)があひだところどころ【所々】の
賊徒(ぞくと)をうちたいらげ(たひらげ)【平げ】、国々(くにぐに)の凶党(きようたう)(ケウタウ)をせめ【攻め】したがへ
てのぼらせ給(たま)ひけるが、道(みち)より御悩(ごなう)つかせ給(たま)ひて、
御(おん)とし【年】卅(さんじふ)と申(まうす)七月(しちぐわつ)に、尾張国(をはりのくに)熱田(あつた)のへん【辺】にてつゐ
に(つひに)【遂に】かくれ【隠れ】させ給(たま)ひぬ。其(その)たましゐ(たましひ)【魂】はしろき【白き】鳥(とり)とな(ッ)
て天(てん)にあがり【上がり】けるこそふしぎ【不思議】なれ。いけどり【生捕り】の
ゑびす(えびす)【夷】共(ども)をば、御子(おんこ)たけひこ【武彦】のみこと【尊】をも(ッ)て、御門(みかど)
へたてまつら【奉ら】せ給(たま)ふ。草(くさ)なぎ【草薙】の剣(けん)をば熱田(あつた)の
社(やしろ)におさめ(をさめ)【納め】らる。あめの御門[B ノ](みかどの)御宇(ぎよう)七年(しちねん)に、新羅(しんら)
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の沙門(しやもん)道慶(だうぎやう)、この剣(けん)をぬすんで吾(わが)国(くに)の宝(たから)とせ
むとおも(ッ)て、ひそかに舟(ふね)にかくしてゆく程(ほど)に、波
風(なみかぜ)巨動(こどう)して忽(たちまち)に海底(かいてい)にしづまんとす。すなは
ち霊剣(れいけん)のたたりなりとして、罪(つみ)を謝(じや)(シヤ)して先途(せんど)
をとげず、もとのごとくかへしおさめ(をさめ)【納め】たてまつる【奉る】。し
かる【然る】を天武天皇(てんむてんわう)朱鳥(しゆてう)元年(ぐわんねん)に、これ【是】をめし【召し】て内
裏(だいり)にをか(おか)【置か】る。いまの宝剣(ほうけん)是(これ)也(なり)。御霊威(ごれいゐ)いちはや
うまします。陽成院(やうぜいゐん)狂病(きやうびやう)にをかされさせましまし
て、霊剣(れいけん)をぬかせ給(たま)ひければ、夜(よ)るのおとどひら
P11124
ひらとして電光(でんくわう)にことならず。恐怖(きようふ)のあまりにな
げすてさせ給(たま)ひければ、みづからはたとな(ッ)【鳴つ】てさ
やにさされにけり。上古(しやうこ)にはかうこそめでたかりし
か。たとひ二位殿(にゐどの)腰(こし)にさして海(うみ)にしづみ給(たま)ふとも、
たやすううす【失す】べからずとて、すぐれたるあまうど【海人】
ども【共】をめし【召し】て、かづき【潛き】もとめ【求め】られけるうへ【上】、霊仏(れいぶつ)霊
社(れいしや)にた(ッ)とき僧(そう)をこめ、種々(しゆじゆ)の神宝(じんぼう)をささげて
いのり申(まう)されけれども、つゐに(つひに)【遂に】うせにけり。其(その)時(とき)の
有識【*有職】(いうしよく)の人々(ひとびと)申(まうし)あはれけるは、「昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、百
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王(はくわう)をまもら【守ら】むと御(おん)ちかひあり【有り】ける、其(その)御(おん)ちかひい
まだあらたまらずして、石清水(いはしみづ)の御(おん)ながれいま
だつきせざるがゆへ(ゆゑ)【故】に、天照大神(てんせうだいじん)の日輪(にちりん)の光(ひかり)いま
だ地(ち)におち【落ち】させ給(たま)はず。末代(まつだい)澆季(げうき)なりとも、帝
運(ていうん)のきはまる程(ほど)の御事(おんこと)はあらじかし」と申(まう)されけ
れば、其(その)なか【中】にある博士(はかせ)のかんがへ申(まうし)けるは、「むかし
出雲国(いづものくに)ひの河上(かはかみ)にて、素戔烏(そさのを)の尊(みこと)にきりこ
ろさ【殺さ】れたてまつ(ッ)し大蛇(だいじや)、霊剣(れいけん)をおしむ(をしむ)【惜しむ】心(こころ)ざしふか
くして、八(やつ)のかしら【頭】八(やつ)の尾(を)を表事(へうじ)として、人王(にんわう)八
P11126
十代(はちじふだい)の後(のち)、八歳(はつさい)の帝(てい)とな(ッ)て霊剣(れいけん)をとりかへして、
海底(かいてい)に沈(しづ)み給(たま)ふにこそ」と申(まう)す。千(ち)いろ(ちひろ)【千尋】の海(うみ)の底(そこ)、
神竜(しんりよう)のたからとなりしかば、ふたたび人間(にんげん)にか
『一門(いちもん)大路渡(おほちわたし)』S1113
へらざるもことはり(ことわり)【理】とこそおぼえけれ。○さる程(ほど)に、
二(に)の宮(みや)かへりいら【入ら】せ給(たま)ふとて、法皇(ほふわう)より御(おん)むかへ【向へ】
に御車(おんくるま)をまいらせ(まゐらせ)【参らせ】らる。御心(おんこころ)ならず平家(へいけ)にとら
れさせ給(たま)ひて、西海(さいかい)の浪(なみ)の上(うへ)にただよはせ給(たま)ひ、三(み)
とせ【年】をすごさ【過さ】せ給(たま)ひしかば、御母儀(おんぼぎ)も御(おん)めのと【傅】持明
院(ぢみやうゐん)の宰相(さいしやう)も御心(おんこころ)ぐるしき事(こと)におもは【思は】れけるに、
P11127
別(べち)の御事(おんこと)なくかへりのぼらせ給(たま)ひたりしかば、
さしつどひてみなよろこびなき【悦び泣き】どもせられ
ける。同(おなじき)廿六日(にじふろくにち)、平氏(へいじ)のいけどり【生捕り】ども【共】京(きやう)へい
る。みな八葉(はちえふ)の車(くるま)にてぞありける。前後(ぜんご)の
すだれをあげ、左右(さう)の物見(ものみ)をひらく。大臣殿(おほいとの)
は浄衣(じやうえ)をき給(たま)へり。右衛門督(うゑもんのかみ)はしろき【白き】直垂(ひたたれ)
にて、車(くるま)のしりにぞのら【乗ら】れたる。平(へい)大納言(だいなごん)時忠
卿(ときただのきやう)の車(くるま)、おなじくやりつづく。子息(しそく)讃岐(さぬき)の中将(ちゆうじやう)時
実(ときざね)も、同車(どうしや)にてわたさるべかりしが、現所労(げんじよらう)とて
P11128
わたされず。蔵頭(くらのかみ)信基(のぶもと)は疵(きず)をかうぶ(ッ)たりしかば、閑
道(かんだう)より入(いり)にけり。大臣殿(おほいとの)、さしも花(はな)やかにきよげ【清気】にお
はせし人(ひと)の、あらぬさまにやせ【痩せ】おとろえ(おとろへ)【衰へ】給(たま)へり。されど
も、四方(しはう)見(み)めぐらして、いとおもひ【思ひ】しづめるけしき【気色】も
おはせず。右衛門督(うゑもんのかみ)はうつぶして目(め)も見(み)あげ給(たま)はず。
誠(まこと)におもひ【思ひ】いれ【入れ】たるけしき【気色】也(なり)。土肥(とひの)次郎(じらう)実平(さねひら)、
木蘭地(むくらんぢ)のひたたれ【直垂】に小具足(こぐそく)ばかりして、随兵(ずいびやう)
卅(さんじふ)余騎(よき)、車(くるま)の先後(ぜんご)にうちかこ(ン)【囲ん】で守護(しゆご)したてま
つる【奉る】。見(み)る人(ひと)都(みやこ)のうちにもかぎらず、凡(およそ)遠国(をんごく)
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近国(きんごく)、山々(やまやま)寺々(てらでら)より、老(おい)たるも若(わか)きも、来(きた)りあつ
まれり。鳥羽(とば)の南(みなみ)の門(もん)・つくり道(みち)・四基【*四塚】(よつづか)までひしと
つづいて、いく千万(せんまん)といふかず【数】をしら【知ら】ず。人(ひと)は顧(かへりみ)る
事(こと)をえず。車(くるま)は輪(わ)をめぐらす事(こと)あたはず。治
承(ぢしよう)・養和(やうわ)の飢饉(ききん)、東国(とうごく)・西国(さいこく)のいくさ【軍】に、人(ひと)だねほろ
びうせ【失せ】たりといへども、猶(なほ)のこりはおほかり【多かり】けり
とぞ見(み)えし。都(みやこ)をいで【出で】てなか【中】一年(いちねん)、無下(むげ)にまぢかき
程(ほど)なれば、めでたかりし事(こと)もわすられず。さしも
おそれ【恐れ】おののき(をののき)し人(ひと)のけふのありさま【有様】、夢(ゆめ)うつつ
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ともわきかねたり。心(こころ)なきあやしのしづのお(を)【賎男】、しづ
のめ【賎女】にいたるまで、なみだ【涙】をながし袖(そで)をしぼらぬは
なかりけり。ましてなれ【馴れ】ちかづき【近付き】ける人々(ひとびと)の、いか
ばかりの事(こと)をかおもひ【思ひ】けん。年来(ねんらい)重恩(ぢゆうおん)をかう
むり、父祖(ふそ)のときより祗侯(しこう)したりし輩(ともがら)の、さすが
身(み)のすてがたさに、おほく【多く】は源氏(げんじ)につゐ(つい)【付い】たりし
かども、昔(むかし)のよしみたちまち【忽】にわする【忘る】べきにも
あらねば、さこそはかなしうおもひ【思ひ】けめ。されば袖(そで)を
かほ【顔】にをし(おし)【押し】あてて、目(め)を見(み)あげぬ物(もの)もおほかり【多かり】
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けり。大臣殿(おほいとの)の御牛飼(おんうしかひ)は、木曾(きそ)が院参(ゐんざん)の時(とき)、車(くるま)
やりそんじ【損じ】てきら【斬ら】れにける次郎丸(じらうまる)がおとと【弟】、三郎
丸(さぶらうまる)なり。西国(さいこく)にてはかり男(をのこ)【仮男】にな(ッ)たりしが、今(いま)一度(いちど)大
臣殿(おほいとの)の御車(おんくるま)をつかまつらんと思(おも)ふ心(こころ)ざしふかかり【深かり】
ければ、鳥羽(とば)にて判官(はうぐわん)に申(まうし)けるは、「とねり【舎人】牛飼(うしかひ)
な(ン)ど(なんど)申(まうす)物(もの)は、いふかひなき下臈(げらふ)のはてにて候(さうら)へば、
心(こころ)あるべきでは候(さうら)はねども、年(とし)ごろめし【召し】つかは【使は】れ
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て候(さうらふ)御心(おんこころ)ざしあさから【浅から】ず。しかる【然る】べう候(さうらは)ば、
御(おん)ゆるされ【許され】をかうぶ(ッ)て、大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)の御車(おんくるま)を
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つかまつり候(さうらは)ばや」とあながちに申(まうし)ければ、判官(はうぐわん)「し
さい【子細】あるまじ。とうとう【疾う疾う】」とてゆるされける。なのめなら
ず悦(よろこび)て、尋常(じんじやう)にしやうぞき【装束き】、ふところ【懐】よりやり
なは【遣縄】とりいだしつけ【付け】かへ、涙(なみだ)にくれてゆくさきも
みえ【見え】ねども、袖(そで)をかほ【顔】にをし(おし)【押し】あてて、牛(うし)のゆくにま
かせ【任せ】つつ、なくなく【泣く泣く】や(ッ)てぞまかり【罷り】ける。法皇(ほふわう)は六条(ろくでう)東
洞院(ひがしのとうゐん)に御車(おんくるま)をたてて叡覧(えいらん)あり【有り】。公卿(くぎやう)殿上人(てんじやうびと)の
車(くるま)ども、おなじうたてならべたり。さしも御身(おんみ)ちかう
めし【召し】つかは【使は】れしかば、法皇(ほふわう)もさすが御心(おんこころ)よはう(よわう)【弱う】、あは
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れ【哀】にぞおぼしめさ【思し召さ】れける。供奉(ぐぶ)の人々(ひとびと)はただ夢(ゆめ)
とのみこそおもは【思は】れけれ。「いかにもしてあの人(ひと)に
め【目】をもかけられ、詞(ことば)の末(すゑ)にもかからばやとこそ
おもひ【思ひ】しかば、かかるべしとは誰(たれ)かおもひ【思ひ】し」とて、上下(じやうげ)
涙(なみだ)をながしけり。一(ひと)とせ【一年】内大臣(ないだいじん)にな(ッ)てよろこび【悦び】申(まう)
し給(たま)ひし時(とき)は、公卿(くぎやう)には花山院(くわさんのゐん)の大納言(だいなごん)をはじ
めとして、十二人(じふににん)扈従(こしよう)(コシウ)してやりつづけ給(たま)へり。殿
上人(てんじやうびと)には蔵人頭(くらんどのかみ)親宗(ちかむね)以下(いげ)十六人(じふろくにん)前駆(せんぐ)す。公卿(くぎやう)も
殿上人(てんじやうびと)もけふを晴(はれ)ときらめいてこそありしか。
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中納言(ちゆうなごん)四人(しにん)、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)も三人(さんにん)までおはしき。やがて
この平(へい)大納言(だいなごん)も其(その)時(とき)は左衛門督(さゑもんのかみ)にておはしき。
御前(ごぜん)へめされまいらせ(まゐらせ)【参らせ】て、御引出物(おんひきでもの)給(たま)は(ッ)て、もて
なされ給(たま)ひしありさま【有様】、めでたかりし儀式(ぎしき)ぞかし。
けふは月卿(げつけい)雲客(うんかく)一人(いちにん)もしたがはず。おなじく檀【*壇】(だん)の
浦(うら)にていけどり【生捕り】にせられたりし侍(さぶらひ)共(ども)廿(にじふ)余人(よにん)、し
ろき【白き】直垂(ひたたれ)きて、馬(むま)のうへ【上】にしめ【締め】つけてぞわ
たされける。河原(かはら)までわたされて、かへ(ッ)【帰つ】て、大臣殿(おほいとの)
父子(ふし)は九郎(くらうの)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)、六条堀河(ろくでうほりかは)にぞおはし
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ける。御物(おんもの)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】たりしかども、むねせきふさが(ッ)
て、御(お)はしをだにもたてられず。たがひに物(もの)はの給(たま)
はねども、目(め)を見(み)あはせ【合はせ】て、ひまなく涙(なみだ)をなが
されけり。よるになれども装束(しやうぞく)もくつろげ給(たま)
はず、袖(そで)をかたしゐ(かたしい)【片敷い】てふし【臥し】給(たま)ひたりけるが、御子(おんこ)
右衛門督(うゑもんのかみ)に御袖(おんそで)をうちきせ【着せ】給(たま)ふをまぼり【守り】
たてまつる【奉る】源八(げんぱつ)兵衛(ひやうゑ)・江田(えだの)源三(げんざう)・熊井(くまゐ)太郎(たらう)これ
をみて、「あはれたかき【高き】もいやしきも、恩愛(おんあい)の道(みち)
程(ほど)かなしかり【悲しかり】ける事(こと)はなし。御袖(おんそで)をきせ【着せ】たてま
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つり【奉り】たらば、いく程(ほど)の事(こと)あるべきぞ。せめての御
心(おんこころ)ざしのふかさ【深さ】かな」とて、たけき【猛き】物(もの)のふどももみ
『鏡(かがみ)』S1114
な涙(なみだ)をぞながしける。○同(おなじき)[B 四月(しぐわつ)イ]廿八日(にじふはちにち)、鎌倉(かまくら)の前(さきの)兵衛
佐(ひやうゑのすけ)頼朝(よりともの)朝臣(あつそん)、従二位(じゆにゐ)し給(たま)ふ。越階(をつかい)とて二階(にかい)を
するこそありがたき朝恩(てうおん)なるに、これ【是】はすでに
三階(さんがい)なり。三位(さんみ)をこそし給(たま)ふべかりしかども、平
家(へいけ)のし給(たま)ひたりしをいまう【忌まう】で也(なり)。其(その)夜(よ)の子刻(ねのこく)に、
内侍所(ないしどころ)、太政官(だいじやうぐわん)の庁(ちやう)より霊景殿(れいけいでん)(ウンメイでん)【*温明殿(うんめいでん)】へいら【入ら】せ給(たま)ふ。
主上(しゆしやう)行幸(ぎやうがう)な(ッ)て、三(さん)が夜(よ)臨時(りんじ)の御神楽(みかぐら)あり【有り】。右近
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将監(うこんのしやうげん)小家(をふ)(ヲヲ)の能方(よしかた)、別勅(べつちよく)をうけ給(たま)は(ッ)【承つ】て、家(いへ)につた
はれる弓立(ゆだち)(ユタチ)宮人(みやびと)といふ神楽(かぐら)の秘曲(ひきよく)をつかま(ッ)
て、勧賞(けんじやう)かうぶりけるこそ目出(めでた)けれ。この歌(うた)は、祖
父(そぶ)八条(はつでうの)判官(はうぐわん)資忠(すけただ)とい(ッ)し伶人(れいじん)の外(ほか)は、しれ【知れ】るも
のなし。あまりに秘(ひ)して子(こ)の親方(ちかかた)にはをしへ【教へ】ずし
て、堀河(ほりかはの)天皇(てんわう)御在位(ございゐ)の時(とき)つたへ【伝へ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】て死
去(しきよ)したりしを、君(きみ)親方(ちかかた)にをしへ【教へ】させ給(たま)ひけり。道(みち)を
うしなは【失は】じとおぼしめす【思し召す】御心(おんこころ)ざし、感涙(かんるい)おさへ【抑へ】難(がた)
し。抑(そもそも)内侍所(ないしどころ)と申(まうす)は、昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)に
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閉(とぢ)こもらむとせさせ給(たま)ひし時(とき)、いかにもして我(わが)御(おん)かた
ちをうつしおき【置き】て、御子孫(ごしそん)に見(み)せたてまつら【奉ら】ん
とて、御鏡(みかがみ)をゐ(い)【鋳】給(たま)へり。これ【是】なを(なほ)【猶】御心(みこころ)にあはずとて、
又(また)い【鋳】かへさせ給(たま)ひけり。さきの御鏡(みかがみ)は紀伊国(きのくに)
日前(にちぜん)国懸(こくけん)の社(やしろ)是(これ)也(なり)。後(のち)の御鏡(みかがみ)は御子(みこ)あまのに
いほみ【天忍穂耳】の尊(みこと)にさづけまいらせ(まゐらせ)【参らせ】させ給(たま)ひて、「殿(てん)
をおなじうしてすみ給(たま)へ」とぞ仰(おほせ)ける。さて天照
大神(てんせうだいじん)、天(あま)の岩戸(いはと)にとぢこもらせ給(たま)ひて、天下(てんが)
くらやみとな(ッ)たりしに、やをよろづ代(よ)(やほよろづよ)【八百万代】の神(かみ)た
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ち神(かん)あつまり【集まり】にあつま(ッ)【集まつ】て、岩戸(いはと)の口(くち)にて御神楽(みかぐら)
を奏(そう)し給(たま)ひければ、天照大神(てんせうだいじん)感(かん)にたえ(たへ)【堪へ】させ給(たま)
はず、岩戸(いはと)をほそめ【細目】にひらき見(み)給(たま)ふに、互(たがひ)にか
ほ【顔】のしろく【白く】見(み)えけるより面白(おもしろ)といふ詞(ことば)ははじま
りけるとぞうけ給(たま)はる【承る】。其(その)時(とき)こやねたぢから
を【児屋根手力雄】といふ大(だい)ぢから【大力】の神(かみ)よ(ッ)【寄つ】て、ゑい(えい)といひてあけ
給(たま)ひしよりしてたて【閉て】られずといへり。さて内
侍所(ないしどころ)は、第九代(だいくだい)の御門(みかど)開化天皇(かいくわてんわう)の御時(おんとき)まで
はひとつ【一つ】殿(てん)におはしましけるを、第十代(だいじふだい)の御門(みかど)、
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崇神天皇(しゆじんてんわう)の御宇(ぎよう)に及(およん)で、霊威(れいゐ)におそれ【恐れ】て、別(べつ)の
殿(てん)へうつし【移し】たてまつらせ給(たま)ふ。ちかごろ【近来】はうんめい殿(でん)【温明殿】に
おはします。遷都(せんと)・遷幸(せんかう)の後(のち)百六十年(ひやくろくじふねん)をへて、
村上天皇(むらかみてんわう)の御宇(ぎよう)、天徳(てんとく)四年(しねん)九月(くぐわつ)廿三日(にじふさんにち)の子刻(ねのこく)
に、内裏(だいり)なかのへ【中重】にはじめて焼亡(ぜうまう)ありき。火(ひ)は左衛
門(さゑもん)の陣(ぢん)よりいで【出で】き【来】たりければ、内侍所(ないしどころ)のおはします
雲明殿(うんめいでん)【温明殿】もほど【程】ちかし。如法(によほふ)夜半(やはん)の事(こと)なれば、内侍(ないし)も
女官(によくわん)もまいり(まゐり)【参り】あはずして、かしこ所(どころ)【賢所】をいだしたてま
つる【奉る】にも及(およ)ばず。少野宮殿【*小野宮殿】(をののみやどの)いそぎまいら(まゐら)【参ら】せ給(たま)ひ
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て、「内侍所(ないしどころ)すでにやけさせ給(たま)ひぬ。世(よ)はいまはかう
ごさんなれ」とて御涙(おんなみだ)をながさせ給(たま)ふ処(ところ)に、内侍所(ないしどころ)
はみづから炎(ほのほ)(ホノヲ)のなか【中】をとびいでさせ給(たま)ひ、南殿(なんでん)
の桜(さくら)の梢(こずゑ)にかからせおはしまし、光明(くわうみやう)かくやく【赫奕】として、
朝(あさ)の日(ひ)の山(やま)の端(は)をいづる【出づる】にことならず。其(その)時(とき)小野宮
殿(をののみやどの)「世(よ)はいまだうせ【失せ】ざりけり」とおぼしめす【思し召す】に、よろこ
びの御涙(おんなみだ)せきあへさせ給(たま)はず、右(みぎ)の御(おん)ひざをつ
き、左(ひだり)の御袖(おんそで)をひろげて、なくなく【泣々】申(まう)させ給(たま)ひけ
るは、「昔(むかし)天照大神(てんせうだいじん)百王(はくわう)をまぼら【守ら】んと御(おん)ちかひあり【有り】
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ける、其(その)御誓(おんちかひ)いまだあらたまらずは、神鏡(じんきやう)実頼(さねより)
が袖(そで)にやどらせ給(たま)へ」と申(まう)させ給(たま)ふ御詞(おんことば)のい
まだをはらざるさきに、飛(とび)うつらせ給(たま)ひけり。
すなはち御袖(おんそで)につつんで、太政官(だいじやうぐわん)の朝所(あいたんどころ)へわたし
たてまつらせ給(たま)ふ。ちかごろ【近来】はうんめい殿(でん)【温明殿】におはしま
す。この世(よ)にはうけ【受け】とり【取り】たてまつら【奉ら】んと思(おも)ひよる
人(ひと)も誰(たれ)かはあるべき。神鏡(じんきやう)も又(また)やどらせ給(たま)ふべか
『文(ふみ)之(の)沙汰(さた)』S1115
らず。上代(じやうだい)こそ猶(なほ)も目出(めでた)けれ。○平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿(ときただのきやう)父
子(ふし)も、九郎(くらう)判官(はうぐわん)の宿所(しゆくしよ)ちかうぞおはしける。世(よ)の中(なか)
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のかくなりぬるうへ【上】は、とてもかうてもとこそ
おもは【思は】るべきに、大納言(だいなごん)猶(なほ)いのち【命】をしう【惜しう】やおも
は【思は】れけん、子息(しそく)讃岐(さぬきの)中将(ちゆうじやう)をまねひ(まねい)【招い】て、「ちらす【散らす】
まじきふみども【文共】を一合(いちがふ)、判官(はうぐわん)にとられてあるぞと
よ。是(これ)を鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)に見(み)えなば、人(ひと)もおほく【多く】損(そん)
じ、我(わが)身(み)もいのち【命】いけらるまじ。いかがせんずる」と
の給(たま)へ【宣へ】ば、中将(ちゆうじやう)申(まう)されけるは、「判官(はうぐわん)はおほ方(かた)【大方】もなさ
けある物(もの)にて候(さうらふ)なるうへ【上】、女房(にようばう)な(ン)ど(なんど)のうちたへ(うちたえ)【うち絶え】なげく【歎く】
事(こと)をば、いかなる大事(だいじ)をももてはなれ【離れ】ぬとうけ給(たま)
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はり【承り】候(さうらふ)。なに【何】かくるしう【苦しう】候(さうらふ)べき。ひめ君(ぎみ)【姫君】達(たち)あまたまし
まし候(さうら)へば、一人(いちにん)見(み)せさせ給(たま)ひ、したしうならせおは
しまして後(のち)、仰(おほせ)らるべうや候(さうらふ)らん」。大納言(だいなごん)涙(なみだ)をは
らはらとながい【流い】て、「我(われ)世(よ)にありし時(とき)は、むすめども
をば女御(にようご)きさきとこそおもひ【思ひ】しか。なみなみの
人(ひと)に見(み)せんとはかけてもおもは【思は】ざりし物(もの)を」とて
なか【泣か】れければ、中将(ちゆうじやう)「今(いま)はその【其の】事(こと)ゆめゆめおぼしめ
し【思し召し】よらせ給(たま)ふべからず」とて、「たうぶく【当腹】のひめ君(ぎみ)【姫君】の
十八(じふはち)になり給(たま)ふを」と申(まう)されけれども、大納言(だいなごん)それ
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をば猶(なほ)かなしき【悲しき】事(こと)におぼして、さきの腹(はら)の姫
君(ひめぎみ)の廿三(にじふさん)になり給(たま)ふをぞ、判官(はうぐわん)には見(み)せら
れける。是(これ)も年(とし)こそすこし【少し】おとなしうおはしけ
れども、みめ【眉目】かたちうつくしう、心(こころ)ざま【心様】ゆう(いう)【優】におは
しければ、判官(はうぐわん)さりがたうおもひ【思ひ】たてま(ッ)【奉つ】て、もと
のうへ【上】河越(かはごえの)太郎(たらう)重頼(しげより)がむすめもありしかども、これ【是】
をば別(べち)の方(かた)尋常(よのつね)にしつらうてもてなしけり。
さて女房(にようばう)件(くだん)のふみの事(こと)をの給(たま)ひいださ【出さ】れたり
ければ、判官(はうぐわん)あま(ッ)さへ(あまつさへ)【剰へ】封(ふう)をもとかず、いそぎ時忠卿(ときただのきやう)の
P11146
もとへをくら(おくら)【送ら】れけり。大納言(だいなごん)なのめならず悦(よろこび)て、
やがてやき【焼き】ぞすてられける。いかなるふみども【文共】
にてかあり【有り】けん、おぼつかなうぞきこえ【聞え】し。平家(へいけ)
ほろびて、いつしか国々(くにぐに)しづまり、人(ひと)のかよふも煩(わづらひ)な
し。都(みやこ)もおだしかり【穏しかり】ければ、「ただ九郎(くらう)判官(はうぐわん)ほど【程】の人(ひと)は
なし。鎌倉(かまくら)の源二位(げんにゐ)は何事(なにごと)をかしいだしたる。世(よ)は
一向(いつかう)判官(はうぐわん)のままにてあらばや」な(ン)ど(なんど)いふ事(こと)を、源二
位(げんにゐ)もれ【漏れ】きい【聞い】て、「こはいかに、頼朝(よりとも)がよくはからひて
つはもの【兵】をさしのぼすればこそ、平家(へいけ)はたや
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すうほろびたれ。九郎(くらう)ばかりしては争(いかで)か世(よ)を
しづむべき。人(ひと)のかくいふにおご(ッ)【奢つ】ていつしか世(よ)を
我(わが)ままにしたるにこそ。人(ひと)こそおほけれ【多けれ】、平(へい)大納言(だいなごん)
の聟(むこ)にな(ッ)て、大納言(だいなごん)もてあつかう(あつかふ)なるもうけられず。
又(また)世(よ)にもはばからず、大納言(だいなごん)の聟(むこ)どり【聟取り】いはれなし。くだ(ッ)
ても定(さだめ)て過分(くわぶん)のふるまひ【振舞】せんずらん」とぞのた
『副将(ふくしやう)被斬(きられ)』S1116
まひ【宣ひ】ける。○同(おなじき)五月(ごぐわつ)七日(なぬかのひ)、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)、平氏(へいじ)のい
けどり【生捕り】ども【共】あひぐし【具し】て、関東(くわんとう)へ下向(げかう)ときこえ【聞え】しかば、
大臣殿(おほいとの)判官(はうぐわん)のもとへ使者(ししや)をたてて、「明日(みやうにち)関東(くわんとう)へ
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下向(げかう)とうけ給(たまはり)候(さうらふ)。恩愛(おんあい)の道(みち)はおもひ【思ひ】きられぬこと【事】
にて候(さうらふ)也(なり)。いけどり【生捕り】のうちに八歳(はつさい)の童(わらは)とつけら
れて候(さうらひ)しものは、いまだこの【此の】世(よ)に候(さうらふ)やらん。いま【今】一
度(いちど)見(み)候(さうらは)ばや」との給(たま)ひ【宣ひ】つかはさ【遣さ】れたりければ、
判官(はうぐわん)の返事(へんじ)には、「誰(たれ)も恩愛(おんあい)はおもひ【思ひ】きられ
ぬ事(こと)にて候(さうら)へば、誠(まこと)にさこそおぼしめさ【思し召さ】れ候(さうらふ)らめ」
とて、河越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)があづかりたてま(ッ)【奉つ】たりけ
るを、大臣殿(おほいとの)の許(もと)へわか君(ぎみ)【若君】いれ【入れ】たてまつる【奉る】べき
よしの給(たま)ひければ、人(ひと)に車(くるま)か(ッ)てのせ【乗せ】たてまつり【奉り】、
P11149
女房(にようばう)二人(ににん)つきたてま(ッ)【奉つ】たりしも、ひとつ【一つ】車(くるま)にの
りぐし【具し】て、大臣殿(おほいとの)へぞまいら(まゐら)【参ら】れける。わか公(ぎみ)【若君】ははる
かにちち【父】を見(み)たてまつり【奉り】給(たまひ)て、よにうれしげに
おぼしたり。「いかにこれ【是】へ」との給(たま)へ【宣へ】ば、やがて御(おん)ひざ
のうへ【上】にまいり(まゐり)【参り】給(たま)ふ。大臣殿(おほいとの)、わか公(ぎみ)【若君】の御(おん)ぐしをかき
なで、涙(なみだ)をはらはらとながい【流い】て、守護(しゆご)の武士(ぶし)どもにの
給(たま)ひ【宣ひ】けるは、「これ【是】はおのおの【各々】きき給(たま)へ。はは【母】もなき物(もの)に
てあるぞとよ。この【此の】子(こ)がはは【母】はこれ【是】をうむとて、産(さん)を
ばたいらか(たひらか)【平か】にしたりしかども、やがてうちふし【臥し】てなや
P11150
みしが、「いかなる人(ひと)の腹(はら)に公達(きんだち)をまうけ給(たま)ふとも、思(おも)ひ
かへずしてそだて【育て】て、わらはがかたみ【形見】に御(ご)らんぜよ。
さしはな(ッ)【放つ】て、めのと【乳母】な(ン)ど(なんど)のもとへつかはす【遣す】な」と
いひし事(こと)が不便(ふびん)さに、あの右衛門督(うゑもんのかみ)をば、朝敵(てうてき)
をたいらげ(たひらげ)【平げ】ん時(とき)は大将軍(たいしやうぐん)せさせ、これをば副
将軍(ふくしやうぐん)せさせんずればとて、名(な)を副将(ふくしやう)とつけ
たりしかば、なのめならずうれしげにおもひ【思ひ】て、
すでにかぎりの時(とき)までも名(な)をよびな(ン)ど(なんど)してあ
ひせ(あいせ)【愛せ】しが、なぬか【七日】といふにはかなく【果敢く】なりてあるぞ
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とよ。この【此の】子(こ)を見(み)るたびごとには、その事(こと)がわす
れがたくおぼゆる【覚ゆる】也(なり)」とて涙(なみだ)もせきあへ給(たま)はねば、
守護(しゆご)の武士(ぶし)どももみな袖(そで)をぞしぼりける。右衛
門督(うゑもんのかみ)もなき【泣き】給(たま)へば、めのとも袖(そで)をしぼりけり。良(やや)
久(ひさ)しくあ(ッ)て大臣殿(おほいとの)「さらば副将(ふくしやう)、とく【疾く】かへれ、うれしう
見(み)つ」との給(たま)へ【宣へ】ども、わか公(ぎみ)【若君】かへり給(たま)はず。右衛門督(うゑもんのかみ)
これを見(み)て、涙(なみだ)ををさへ(おさへ)【抑へ】ての給(たま)ひけるは、「やや副
将(ふくしやう)御(ご)ぜ、こよひはとくとくかへれ【帰れ】。ただいままらう人(と)【客人】のこ【来】
うずるぞ。あしたはいそぎまいれ(まゐれ)【参れ】」との給(たま)へ【宣へ】ども、
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ちち【父】の御浄衣(おんじやうえ)の袖(そで)にひしととりついて、「いなや、かへ
らじ」とこそなき【泣き】給(たま)へ。かくてはるかに程(ほど)ふれば、
日(ひ)もやうやうくれ【暮れ】にけり。さてしもあるべき事(こと)ならね
ば、めのとの女房(にようばう)いだきと(ッ)て、御車(おんくるま)にのせ【乗せ】たてま
つり【奉り】、二人(ににん)の女房(にようばう)どもも袖(そで)をかほ【顔】にをし(おし)【押し】あてて、なく
なく【泣々】いとま申(まうし)つつ、ともにの(ッ)【乗つ】てぞいで【出で】にける。おほ
い殿(との)【大臣殿】はうしろをはるかに御(ご)らんじ【御覧じ】をく(ッ)(おくつ)【送つ】て、「日来(ひごろ)の恋(こひ)
しさは事(こと)のかずならず」とぞかなしみ給(たま)ふ。「この
わか公(ぎみ)【若君】は、母(はは)のゆひごん(ゆいごん)【遺言】がむざん【無慙】なれば」とて、めの
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とのもとへもつかはさ【遣さ】ず、あさゆふ御(おん)まへにてそ
だて【育て】給(たま)ふ。三歳(さんざい)にてうゐかぶり(うひかうぶり)【初冠】きせ【着せ】て、義宗(よしむね)と
ぞなのら【名乗ら】せける。やうやうおい(おひ)【生ひ】たち【立ち】給(たま)ふままに、み
め【眉目】かたちうつくしく、心(こころ)ざまゆう(いう)【優】におはしければ、
大臣殿(おほいとの)もかなしう【悲しう】いとをしき(いとほしき)事(こと)におぼして、西
海(さいかい)の旅(たび)の空(そら)、浪(なみ)のうへ【上】、舟(ふね)のうちのすまゐ(すまひ)【住ひ】にも、
かた時(とき)【片時】もはなれ給(たま)はず。しかる【然る】をいくさ【軍】やぶれて
後(のち)は、けふぞたがひ【互】に見(み)給(たま)ひける。河越(かはごえの)小太郎(こたらう)、
判官(はうぐわん)の御(おん)まへにまい(ッ)(まゐつ)【参つ】て、「さてわか公(ぎみ)【若君】の御事(おんこと)をば、
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なにと御(おん)ぱからひ候(さうらふ)やらん」と申(まうし)ければ、「鎌倉(かまくら)ま
でぐし【具し】たてまつる【奉る】に及(およ)ばず。なんぢともかうも
これ【是】であひはからへ【計らへ】」とぞの給(たま)ひける。河越(かはごえの)小太郎(こたらう)
二人(ににん)の女房(にようばう)どもに申(まうし)けるは、「大臣殿(おほいとの)は鎌倉(かまくら)へ御(おん)
くだり【下り】候(さうらふ)が、わか公(ぎみ)【若君】は京(きやう)に御(おん)とどまりあるべきにて候(さうらふ)。
重房(しげふさ)もまかり【罷り】下(くだり)候(さうらふ)あひだ、おかた(をかた)【緒方】の三郎(さぶらう)維義【惟義】(これよし)
が手(て)へわたしたてまつる【奉る】べきにて候(さうらふ)。とうとうめさ【召さ】れ
候(さうら)へ」とて、御車(おんくるま)よせたりければ、わか公(ぎみ)【若君】なに心(ごころ)【何心】もなう
のり【乗り】給(たま)ひぬ。「又(また)昨日(きのふ)のやうにちち【父】御前(ごぜん)の御(おん)もとへか」
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とてよろこば【喜ば】れけるこそはかなけれ。六条(ろくでう)を
東(ひがし)へや(ッ)てゆく。この女房(にようばう)ども「あはやあやしき物(もの)
かな」と、きも魂(たましひ)をけし【消し】て思(おもひ)ける程(ほど)に、すこし【少し】ひき【引き】
さが(ッ)て、つはもの【兵】五六十騎(ごろくじつき)が程(ほど)河原(かはら)へうち出(いで)たり。
やがて車(くるま)をやりとどめ【留め】て敷皮(しきがは)しき、「おりさせ給(たま)
へ」と申(まうし)ければ、わか公(ぎみ)【若君】車(くるま)よりおり給(たま)ひぬ。よに
あやしげにおぼして、「我(われ)をばいづちへぐし【具し】てゆか
むとするぞ」ととひ給(たま)へば、二人(ににん)の女房(にようばう)共(ども)とかう
の返事(へんじ)にも及(およ)ばず。重房(しげふさ)が郎等(らうどう)太刀(たち)をひき【引き】
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そばめて、左(ひだり)の方(かた)より御(おん)うしろに立(たち)まはり、すで
にきりたてまつら【奉ら】んとしけるを、わか公(ぎみ)【若君】見(み)つけ給(たま)
ひて、いく程(ほど)のがる【逃る】べき事(こと)のやうに、いそぎめのと【乳母】
のふところ【懐】のうちへぞ入(いり)給(たま)ふ。さすが心(こころ)づよう
とりいだしたてまつる【奉る】にも及(およ)ばねば、わか公(ぎみ)【若君】を
かかへたてまつり【奉り】、人(ひと)のきく【聞く】をもはばからず、
天(てん)にあふぎ地(ち)にふしておめき(をめき)【喚き】さけみける心(こころ)の
うち、おしはから【推し量ら】れて哀(あはれ)也(なり)。かくて時刻(じこく)はるかに
をし(おし)【押し】うつりければ、河越(かはごえの)小太郎(こたらう)重房(しげふさ)涙(なみだ)をお
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さへ【抑へ】て、「いまはいかにおぼしめされ候(さうらふ)とも、かなは【叶は】せ
給(たまひ)候(さうらふ)まじ。とうとう」と申(まうし)ければ、其(その)時(とき)めのと【乳母】のふと
ころ【懐】のうちよりひき【引き】いだしたてまつり【奉り】、腰(こし)の刀(かたな)
にてをし(おし)【押し】ふせ【伏せ】て、つゐに(つひに)【遂に】頸(くび)をぞかいて(ン)げる。た
けき【猛き】物(もの)のふどももさすがいは木(き)【岩木】ならねば、みな
涙(なみだ)をながしけり。くび【頸】をば判官(はうぐわん)のげ(ン)ざん(げんざん)【見参】に
いれ【入れ】んとて取(とり)てゆく。めのとの女房(にようばう)かちはだし
にてお(ッ)【追つ】つい【付い】て、「なにかくるしう【苦しう】候(さうらふ)べき。御頸(おんくび)ばかり
をば給(たま)は(ッ)て、後世(ごせ)をとぶらひ【弔ひ】まいらせ(まゐらせ)【参らせ】ん」と申(まう)せば、
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判官(はうぐわん)もよにあはれ【哀】げにおもひ【思ひ】、涙(なみだ)をはらはらと
ながい【流い】て、「まこと【誠】にさこそはおもひ【思ひ】給(たま)ふらめ。も(ッ)と
もさるべし。とうとう」とてたびにけり。これ【是】をと(ッ)て
ふところ【懐】にいれ【入れ】て、なくなく【泣く泣く】京(きやう)の方(かた)へかへる【帰る】とぞみ
え【見え】し。其(その)後(のち)五六日(ごろくにち)して、桂河(かつらがは)に女房(にようばう)二人(ににん)身(み)をなげ
たる事(こと)あり【有り】けり。一人(いちにん)おさなき(をさなき)【幼き】人(ひと)のくび【頸】をふ
ところ【懐】にいだひ(いだい)【抱い】てしづみたりけるは、此(この)わか
公(ぎみ)【若君】のめのとの女房(にようばう)にてぞありける。いま一人(いちにん)む
くろをいだひ(いだい)【抱い】たりけるは、介惜(かいしやく)【介錯】の女房(にようばう)也(なり)。めの
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とがおもひ【思ひ】きる【切る】はせめていかがせん、かいしやく【介錯】
の女房(にようばう)さへ身(み)をなげけるこそありがたけれ。
『腰越(こしごえ)』S1117
○さる程(ほど)に、おほい殿(との)【大臣殿】は九郎(くらう)大夫(たいふ)の判官(はうぐわん)にぐ
せ【具せ】られて、七日(なぬか)のあかつき、粟田口(あはたぐち)をすぎ給(たま)
へば、大内山(おほうちやま)、雲井(くもゐ)のよそにへだたりぬ。関(せき)
の清水(しみづ)を見(み)給(たま)ひて、なくなく【泣く泣く】かうぞ詠(えい)じ給(たま)ひける。
都(みやこ)をばけふをかぎりのせきみづ【関水】に
また【又】あふさか【逢坂】のかげやうつさ【映さ】む W089
道(みち)すがらもあまりに心(こころ)ぼそげにおぼしければ、
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判官(はうぐわん)なさけある人(ひと)にて、やうやうになぐさめたてま
つる【奉る】。「あひかまへて今度(こんど)の命(いのち)をたすけ【助け】てたべ」
との給(たま)ひければ、「とをき(とほき)【遠き】国(くに)、はるかの島(しま)へもうつ
しぞまいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)はんずらん。御命(おんいのち)うしなひ【失ひ】たて
まつる【奉る】まではよも候(さうら)はじ。たとひさるとも、義経(よしつね)が
勲功(くんこう)の賞(しやう)に申(まうし)かへて、御命(おんいのち)ばかりはたすけ【助け】
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうらふ)べし。御心(おんこころ)やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候(さうら)へ」と、た
のもしげ【頼もし気】に申(まう)されければ、「たとひゑぞ(えぞ)【蝦夷】が千島(ちしま)な
りとも、かい(かひ)【甲斐】なき命(いのち)だにあらば」との給(たま)ひける
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こそ口惜(くちをし)けれ。日数(ひかず)ふれば、同(おなじき)廿四日(にじふしにち)、鎌倉(かまくら)へ
下(くだ)りつき給(たま)ふ。梶原(かぢはら)さきだ(ッ)て鎌倉(かまくら)殿(どの)に申(まうし)
けるは、「日本国(につぽんごく)は今(いま)はのこるところ【所】なうしたがひ
たてまつり【奉り】候(さうらふ)。ただし御弟(おんおとと)九郎(くらう)大夫(たいふの)判官殿(はうぐわんどの)
こそ、つゐ(つひ)の御敵(おんかたき)とは見(み)えさせ給(たまひ)候(さうら)へ。そのゆへ(ゆゑ)【故】は、
一をも(ッ)て万をさつす[* 「さんす」と有るのを他本により訂正]とて、「一(いち)の谷(たに)をうへ【上】の山(やま)
よりおとさ【落さ】ずは、東西(とうざい)の木戸口(きどぐち)やぶれがたし。い
けどり【生捕り】も死(し)にどり【死に捕り】も義経(よしつね)にこそ見(み)すべき
に、物(もの)のよう【用】にもあひ給(たま)はぬ蒲殿(かばどの)の方(かた)へ見参(げんざん)に
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入(いる)べき様(やう)やある。本三位(ほんざんみの)中将殿(ちゆうじやうどの)こなたへたば【賜ば】じ
と候(さうらは)ば、O[BH 義経(よしつね)]まい(ッ)(まゐつ)【参つ】て給(たま)はるべし」とて、すでにいくさ【軍】[B 「いくさ」に「事イ」と傍書]いで【出で】
き【来】候(さうら)はんとし候(さうらひ)しを、景時(かげとき)が土肥(とひ)に心(こころ)をあはせ【合はせ】
て、三位(さんみの)中将殿(ちゆうじやうどの)を土肥(とひの)次郎(じらう)にあづけて後(のち)こ
そしづまり給(たまひ)て候(さうらひ)しか」とかたり申(まうし)ければ、かま
くら【鎌倉】殿(どの)うちうなづいて、「けふ九郎(くらう)が鎌倉(かまくら)へいる【入る】
なるに、おのおの用意(ようい)し給(たま)へ」と仰(おほせ)られければ、大
名(だいみやう)小名(せうみやう)はせ【馳せ】あつま(ッ)【集まつ】て、ほど【程】なく数千騎(すせんぎ)になり
にけり。金洗沢(かねあらひざは)(かねアライざは)に関(せき)すへ(すゑ)【据ゑ】て、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)うけ【受け】と
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り【取り】たてま(ッ)【奉つ】て、判官(はうぐわん)をば腰(こし)ごえ【腰越】へお(ッ)【追つ】かへさ【返さ】る。かま
くら【鎌倉】殿(どの)は随兵(ずいびやう)七重(ななへ)八重(やへ)にすへ(すゑ)【据ゑ】をい(おい)て、我(わが)身(み)はそ
の【其の】なか【中】におはしましながら「九郎(くらう)はO[BH 進疾(すすどき)男(をとこ)なれば、]このたたみ【畳】のし
たよりO[BH も]はひ【這ひ】いでんずるもの也(なり)。ただし頼朝(よりとも)はせら
るまじ」とぞの給(たま)ひける。判官(はうぐわん)おもは【思は】れけるは、
「こぞの正月(しやうぐわつ)、木曾(きそ)義仲(よしなか)を追討(ついたう)せしよりこの
かた、一(いち)の谷(たに)・檀【*壇】(だん)の浦(うら)にいたるまで、命(いのち)をすてて平
家(へいけ)をせめ【攻め】おとし、内侍所(ないしどころ)しるし【璽】の御箱(みはこ)事(こと)ゆへ(ゆゑ)【故】
なくかへし【返し】いれ【入れ】たてまつり【奉り】、大将軍(たいしやうぐん)父子(ふし)いけどり【生捕り】
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にして、ぐし【具し】てこれ【是】までくだり【下り】たらんには、たとひ
いかなるふしぎ【不思議】ありとも、一度(いちど)はなどか対面(たいめん)なか
るべき。凡(およそ)は九国(くこく)の惣追補使【*惣追捕使】(そうづいぶし)にもなされ、山陰(せんおん)(センヲン)・
山陽(せんやう)(センイン)・南海道(なんかいだう)、いづれに〔て〕もあづけ、一方(いつぱう)のかた
めともなされんずるとこそおもひ【思ひ】つるに、わづ
かに伊与【*伊予】国(いよのくに)ばかりを知行(ちぎやう)すべきよし仰(おほせ)られて、
鎌倉(かまくら)へだにも入(いれ)られぬこそほいなけれ。さ
ればこは何事(なにごと)ぞ。日本国(につぽんごく)をしづむる事(こと)、義
仲(よしなか)・義経(よしつね)がしわざにあらずや。たとへばおなじ
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父(ちち)が子(こ)で、先(さき)にむまるる【生るる】を兄(あに)とし、後(のち)にむまるる【生るる】
を弟(おとと)とするばかり也(なり)。誰(たれ)か天下(てんが)をしら【知ら】んにしら【知ら】
ざるべき。あま(ッ)さへ(あまつさへ)【剰へ】今度(こんど)見参(げんざん)をだにもとげ
ずして、おい(おひ)【追ひ】のぼせ【上せ】らるるこそ遺恨(ゐこん)の次第(しだい)
なれ。謝(じや)するところ【所】をしらず」とつぶやかれけれども、
ちからなし。ま(ッ)たく不忠(ふちゆう)なきよし、たびたび起請文(きしやうもん)
をも(ッ)て申(まう)されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て、鎌
倉(かまくら)殿(どの)もちゐ【用ゐ】給(たま)はねば、判官(はうぐわん)なくなく【泣々】一通(いつつう)の
状(じやう)をかいて、広基(ひろもと)のもとへつかはす【遣す】。
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源[B ノ](みなもとの)義経(よしつね)恐(おそれ)ながら申上(まうしあげ)候(さうらふ)意趣(いしゆ)者(は)、御代官(おんだいくわん)の其(その)
一(ひとつ)に撰(えら)ばれ、勅宣(ちよくせん)の御使(おんつかひ)として、朝敵(てうてき)をかたむ
け、会稽(くわいけい)(クハイケイ)の恥辱(ちじよく)をすすぐ。勲賞(くんしやう)おこなはる
べき処(ところ)に、思(おもひの)外(ほか)〔に〕虎口(ここう)の讒言(ざんげん)によ(ッ)て莫太の
勲功を黙(もだ)せらる。義経おかし(をかし)なう【無う】して咎(とが)をかうむ
る。劫(こふ)(コウ)あつて誤(あやまり)なしといへ共、御勘気を蒙るあひだ【間】、
むなしく紅涙(こうるい)にしづむ。讒者(ざんしや)の実否(じつぷ)をたださ
れず、鎌倉中(かまくらぢゆう)へ入(いれ)られざる間(あひだ)、素意(そい)をのぶ
るにあたはず、いたづらに数日(すじつ)ををくる(おくる)【送る】。此(この)時(とき)に
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あた(ッ)てながく恩顔(おんがん)(ヲンガン)を拝(はい)したてまつら【奉ら】ず。骨肉(こつにく)同
胞(どうはう)の義(ぎ)すでにたえ【絶え】、宿運(しゆくうん)きはめてむなしき【空しき】
にに【似】たる歟(か)。将又(はたまた)先世(ぜんぜ)の業因(ごふいん)(ゴウイン)の感(かん)ずる歟(か)。悲(かなしき)
哉(かな)、此(この)条(でう)、故(こ)亡父(ばうぶ)尊霊(そんりやう)再誕(さいたん)し給(たま)はずは、誰(たれ)の人(ひと)か
愚意(ぐい)の悲歎(ひたん)を申(まうし)ひらかん、いづれの人(ひと)か哀憐(あいれん)
をたれられんや。事(こと)あたらしき申状(まうしじやう)、述懐(しゆつくわい)に
似(に)たりといへども、義経(よしつね)身体(しんたい)髪膚(はつぷ)を父母(ふぼ)に
うけて、いくばくの時節(じせつ)をへず故(こ)守殿(かうのとの)御他界(ごたかい)[* 「御他家」と有るのを他本により訂正]
の間(あひだ)、みなし子(ご)となり、母(はは)の懐(ふところ)のうちにいだかれて、
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大和国(やまとのくに)宇多郡(うだのこほり)におもむき【赴き】しよりこのかた、いまだ一日(いちにち)
片時(へんし)安堵(あんど)のおもひ【思ひ】に住(ぢゆう)せず。甲斐(かひ)なき命(いのち)[B を]ば存(そん)
すといへども、京都(きやうと)の経廻(けいくわい)(ケイクハイ)難治(なんぢ)の間(あひだ)、身(み)を在々(ざいざい)
所々(しよしよ)にかくし、辺土(へんど)遠国(ゑんごく)(エンごく)をすみか【栖】として、土民(どみん)
百姓(はくせい)等(ら)に服仕(ぶくじ)せらる。しかれども高慶(かうけい)たちまち【忽】に純
熟(じゆんじゆく)して、平家(へいけ)の一族(いちぞく)追討(ついたう)のために上洛(しやうらく)せしむる
手(て)あはせ【合はせ】に、木曾(きそ)義仲(よしなか)を誅戮(ちゆうりく)の後(のち)、平氏(へいじ)を
かたむけんがために、或(ある)時(とき)は峨々(がが)たる巌石(がんぜき)に
駿馬(しゆんめ)[* 「髪馬」と有るのを他本により訂正]に鞭(むち)う(ッ)【打つ】て、敵(てき)の為(ため)に命(いのち)をほろぼさん事(こと)
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を顧(かへり)みず、或(ある)時(とき)は漫々(まんまん)たる大海(だいかい)に風波(ふうは)の難(なん)を
しのぎ、海底(かいてい)にしづまん事(こと)をいたま【痛ま】ずして、
かばねを鯨鯢(けいげい)の鰓(あぎと)にかく。しかのみならず、甲冑(かつちう)
を枕(まくら)とし弓箭(きゆうせん)を業(げふ)(ゲウ)とする本意(ほい)、しかしながら亡
魂(ばうこん)のいきどほりをやすめたてまつり、年来(ねんらい)の
宿望(しゆくばう)をとげんと欲(ほつ)する外(ほか)他事(たじ)なし。あま(ッ)さへ(あまつさへ)【剰へ】
義経(よしつね)五位尉(ごゐのじよう)に補任(ふにん)の条(でう)、当家(たうけ)の重職(ちようじよく)(テウジヨク)何事(なにごと)か
これ【是】にしかん。しかりといへども今(いま)愁(うれへ)ふかく歎(なげ)き切(せつ)也(なり)。
仏神(ぶつじん)の御(おん)たすけ【助け】にあらずより外(ほか)は、争(いかで)か愁訴(しうそ)を
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達(たつ)せん。これによ(ッ)て諸神(しよじん)諸社(しよしや)の牛王(ごわう)宝印(ほういん)の
うらをも(ッ)て、野心(やしん)を挿(さしはさ)まざるむね、日本国中(につぽんごくぢゆう)の
大小(だいせう)の神祇(じんぎ)冥道(みやうだう)を請(しやう)じ驚(おどろ)かしたてま(ッ)【奉つ】て、数通(すつう)
の起請文(きしやうもん)をかき【書き】進(しん)ずといへども、猶(なほ)以(もつて)御宥免(ごいうめん)(ゴユウメン)な
し。我(わが)国(くに)は神国(しんこく)也(なり)。神(しん)は非礼(ひれい)を享(うけ)給(たまふ)べからず。
憑(たのむ)ところ【処】他(た)に
あらず。ひとへに貴殿(きでん)広大(くわうだい)の慈悲(じひ)を仰(あふ)ぐ。便宜(びんぎ)を
うかがひ【伺ひ】高聞(かうぶん)に達(たつ)せしめ、秘計(ひけい)をめぐらし、あやま
りなきよしをゆうぜ(いうぜ)【宥ぜ】られ、放免(はうめん)にあづからば、積
善(しやくぜん)の余慶(よけい)家門(かもん)に及(およ)び、栄花(えいぐわ)をながく子孫(しそん)に
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つたへん。仍(よつ)て年来(ねんらい)の愁眉(しうび)を開(ひら)き、一期(いちご)の安
寧(あんねい)をえ【得】ん。書紙(しよし)につくさず。併(しかしながら)令(二)省略(一)(せいりやくせしめ)候(さうらひ)畢(をはんぬ)。
義経(よしつね)恐惶(きようくわう)謹(つつしんで)言(まうす)。元暦(げんりやく)二年(にねん)六月(ろくぐわつ)五日(いつかのひ)源(みなもとの)義経(よしつね)
『大臣殿(おほいとの)被斬(きられ)』S1118
進上(しんじやう)因幡[B ノ](いなばの)守殿(かうのとの)へとぞかか【書か】れたる。○さる程(ほど)に、鎌
倉(かまくら)殿(どの)大臣殿(おほいとの)に対面(たいめん)あり【有り】。おはしける所(ところ)、庭(には)をひと
つ【一つ】へだててむかへ【向へ】なる屋(や)にすへ(すゑ)【据ゑ】たてまつり【奉り】、簾(すだれ)
のうちより見(み)いだし、比気【*比企】(ひきの)藤四郎(とうしらう)義員【*能員】(よしかず)を使
者(ししや)で申(まう)されけるは、「平家(へいけ)の人々(ひとびと)に別(べち)の意趣(いしゆ)
おもひ【思ひ】たてまつる【奉る】事(こと)、努々(ゆめゆめ)候(さうら)はず。其上(そのうへ)池殿(いけどの)の尼
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御前(あまごぜん)いかに申(まうし)給(たまふ)とも、故(こ)入道殿(にふだうどの)の御(おん)ゆるされ【許され】
候(さうら)はずは、頼朝(よりとも)いかでかたすかり候(さうらふ)べき。流罪(るざい)に
なだめ【宥め】られし事(こと)、ひとへに入道殿(にふだうどの)の御恩(ごおん)也(なり)。され
ば廿(にじふ)余年(よねん)までさてこそ罷(まかり)過(すぎ)候(さうらひ)しかども、朝敵(てうてき)
となり給(たま)ひて追討(ついたう)すべき由(よし)院宣(ゐんぜん)(インゼン)を給(たま)はる
間(あひだ)、さのみ王地(わうぢ)にはらまれて、詔命(ぜうめい)をそむくべ
きにもあらねば、力(ちから)不及(およばず)。か様(やう)【斯様】に見参(げんざん)に入(いり)候(さうらひ)ぬる
こそ本意(ほんい)に候(さうら)へ」と申(まう)されければ、義員【*能員】(よしかず)この由(よし)
申(まう)さんとて、御(おん)まへにまいり(まゐり)【参り】たりければ、ゐ【居】なをり(なほり)【直り】
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畏(かしこま)り給(たま)ひけるこそうたてけれ。国々(くにぐに)の大名(だいみやう)小
名(せうみやう)なみ【並み】ゐたる其(その)なか【中】に、京(きやう)の物(もの)どもいくらも
あり、平家(へいけ)の家人(けにん)たりし物(もの)もあり、みなつま
はじき【爪弾き】をして申(まうし)けるは、「ゐ【居】なをり(なほり)【直り】畏(かしこまり)給(たま)ひた
らば、御命(おんいのち)のたすかり給(たまふ)べきか。西国(さいこく)でいかにも
なり給(たまふ)べき人(ひと)の、いきながらとらはれて、これ【是】
までくだり【下り】給(たま)ふこそことはり(ことわり)【理】なれ」とぞ申(まうし)ける。
或(あるい)は涙(なみだ)をながす人(ひと)もあり。其(その)なか【中】にある人(ひと)の
申(まうし)けるは、「猛虎(まうこ)深山(しんざん)にある時(とき)は、百獣(はくじう)ふるひ【震ひ】
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おづ。檻井(かんせい)のうちにあるに及(およん)で、尾(を)を動(うご)[* 左に(ウゴ)の振り仮名]かして[B 「動かして」の右に「フツテイ」と傍書]
食(じき)をもとむとて、たけひ(たけい)【猛い】虎(とら)のふかい山(やま)にある
時(とき)は、もも【百】のけだ物(もの)おぢおそる【恐る】といへ共(ども)、と(ッ)てお
り(をり)【檻】のなか【中】にこめられぬる時(とき)は、尾(を)をふ(ッ)て人(ひと)にむかふ【向ふ】
らんやうに、いかにたけき【猛き】大将軍(たいしやうぐん)なれども、か様(やう)【斯様】に
な(ッ)て後(のち)は心(こころ)かはる事(こと)なれば、大臣殿(おほいとの)もかくお
はするにこそ」と申(まうし)ける人(ひと)もありけるとかや。
さる程(ほど)に、九郎(くらう)大夫(たいふの)判官(はうぐわん)やうやうに陳(ちん)じ申(まう)
されけれども、景時(かげとき)が讒言(ざんげん)によ(ッ)て鎌倉(かまくら)殿(どの)さらに
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分明(ふんみやう)の御返事(おんぺんじ)もなし。「いそぎのぼらるべし」と
仰(おほせ)られ[B 「仰られ」に「の給ひイ」と傍書]ければ、同(おなじき)六月(ろくぐわつ)九日(ここのかのひ)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)具(ぐ)した
てま(ッ)【奉つ】て都(みやこ)へぞかへり【帰り】のぼられける。大臣殿(おほいとの)はい
ますこし【少し】も日数(ひかず)ののぶるをうれしき事(こと)におも
は【思は】れけり。道(みち)すがらも「ここにてやここにてや」とおぼしけれ
ども、国々(くにぐに)宿々(しゆくじゆく)うちすぎうちすぎとほり【通り】ぬ。尾張国(をはりのくに)うつ
み【内海】といふ処(ところ)あり【有り】。ここは故(こ)左馬頭(さまのかみ)義朝(よしとも)が誅(ちゆう)せ
られしところ【所】なれば、これにてぞ一定(いちぢやう)とおもは【思は】れ
けれども、それをもすぎ【過ぎ】しかば、大臣殿(おほいとの)すこし【少し】たの
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もしき【頼もしき】心(こころ)いで【出で】き【来】て、「さては命(いのち)のいき【生き】んずるや
らん」との給(たま)ひけるこそはかなけれ。右衛門督(うゑもんのかみ)は
「なじかは命(いのち)をいくべき。か様(やう)【斯様】にあつきころ【比】なれば、頸(くび)の
損(そん)ぜぬ様(やう)にはからひて、京(きやう)ちかうな(ッ)てきらんず
るにこそ」とおもは【思は】れO[BH けれ]ども、大臣殿(おほいとの)のいたく心(こころ)ぼそ
げにおぼしたるが心(こころ)ぐるしさに、さは申(まう)されず。
ただ念仏(ねんぶつ)をのみぞ申(まうし)給(たま)ふ。日数(ひかず)ふれば都(みやこ)もちか
づき【近付き】て、近江国(あふみのくに)しの原(はら)【篠原】の宿(しゆく)につき給(たま)ひぬ。判
官(はうぐわん)なさけふかき人(ひと)なれば、三日路(みつかぢ)より人(ひと)を先(さき)
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だてて、善知識(ぜんぢしき)のために、大原(おほはら)の本性房(ほんしやうばう)湛豪(たんがう)
といふ聖(ひじり)を請(しやう)じ下(くだ)されたり。昨日(きのふ)まではおや子(こ)【親子】
一所(ひとところ)におはしけるを、けさよりひき【引き】はな(ッ)【放つ】て、別(べち)の
ところ【所】にすへ(すゑ)【据ゑ】たてまつり【奉り】ければ、「さてはけふを最後(さいご)
にてあるやらん」と、いとど心(こころ)ぼそうぞおもは【思は】れける。大
臣殿(おほいとの)涙(なみだ)をはらはらとながひ(ながい)【流い】て、「そもそも【抑】右衛門督(うゑもんのかみ)はい
い[* 「い」1字衍字]づくに候(さうらふ)やらん。手(て)をとりくんでもをはり、たとひ
頸(くび)はおつとも、むくろはひとつ【一つ】席(むしろ)にふさ【臥さ】んとこそ思(おもひ)
つるに、いきながらわかれぬる事(こと)こそかなしけれ。十七
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年(じふしちねん)が間(あひだ)、一日(いちにち)片時(へんし)もはなるる事(こと)なし。海底(かいてい)にしづま
でうき名(な)をながすも、あれゆへ(ゆゑ)【故】なり」とてなか【泣か】れけ
れば、聖(ひじり)もあはれ【哀】におもひ【思ひ】けれども、我(われ)さへ心(こころ)よは
く(よわく)【弱く】てはかなは【叶は】じとおもひ【思ひ】て、涙(なみだ)をし(おし)【押し】のごひ【拭ひ】、さらぬ
ていにもてないて申(まうし)けるは、「いまはとかくおぼしめ
す【思し召す】べからず。最後(さいご)の御(おん)ありさま【有様】を御(ご)らんぜ【御覧ぜ】むに
つけても、たがひ【互】の御心(おんこころ)のうちかなしかる【悲しかる】べし。
生(しやう)をうけさせ給(たまひ)てよりこのかた、たのしみさかへ(さかえ)【栄え】、
昔(むかし)もたぐひすくなし。御門(みかど)の御外戚(ごぐわいせき)(ごグハイセキ)にて丞
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相(しようじやう)の位(くらゐ)にいたらせ給(たま)へり。今生(こんじやう)の御栄花(ごえいぐわ)一
事(いちじ)ものこるところなし。いま又(また)かかる御目(おんめ)にあは
せ【合はせ】給(たま)ふも、先世(ぜんぜ)の宿業(しゆくごふ)なり。世(よ)をも人(ひと)をも
恨(うら)みおぼしめす【思し召す】べからず。大梵(だいぼん)王宮(わうぐう)の深禅定(じんぜんぢやう)
のたのしみ、おもへ【思へ】ば程(ほど)なし。いはんや電光(でんくわう)朝
露(てうろ)の下界(げかい)の命(いのち)においてをや。■利天(たうりてん)の憶千
歳【*億千歳】(おくせんざい)(ヲクせんざい)、ただ夢(ゆめ)のごとし。卅九年(さんじふくねん)をすぐさせ給(たま)ひけ
むも、わづかに一時(いちじ)の間(あひだ)なり。たれか嘗(なめ)たりし
不老(ふらう)不死(ふし)の薬(くすり)、誰(たれ)かたもち【保ち】たりし東父(とうぶ)西母(せいぼ)が
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命(いのち)、秦(しん)の始皇(しくわう)(シクハウ)の奢(おごり)(ヲゴリ)をきはめしも、遂(つひ)には麗山【*驪山】(りさん)の
墓(つか)にうづもれ【埋もれ】、漢(かん)の武帝(ぶてい)の命(いのち)ををしみ【惜しみ】給(たま)ひ
しも、むなしく杜陵(とりよう)(トレウ)の苔(こけ)にくちにき。「生(しやう)あるも
のは必(かならず)滅(めつ)す。釈尊(しやくそん)いまだ栴檀(せんだん)の煙(けぶり)をまぬかれ【免かれ】
給(たま)はず。楽(たのしみ)尽(つき)て悲(かなしみ)来(きた)る。天人(てんにん)尚(なほ)五衰(ごすい)の日(ひ)に
あへり」とこそうけ給(たま)はれ【承れ】。されば仏(ほとけ)は、「我心自空(がしんじくう)、
罪福無主(ざいふくむしゆ)、観心無心(くわんじんむしん)(クハンじんムシン)、法(ほふ)(ホウ)不住(ぶぢゆう)(ブヂウ)法(ほふ)」とて、善(ぜん)も悪(あく)も
空(くう)なりと観(くわん)(クハン)ずるが、まさしく仏(ほとけ)の御心(おんこころ)にあひかな
ふ【叶ふ】事(こと)にて候(さうらふ)也(なり)。いかなれば弥陀如来(みだによらい)は、五劫(ごこふ)(ごコウ)が間(あひだ)、
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思惟(しゆい)して、発(おこし)(ヲコシ)がたき願(ぐわん)を発(おこ)(ヲコ)しましますに、いかな
る我等(われら)なれば、億々万(おくおくまん)(ヲクおくまん)劫(ごふ)(ゴウ)が間(あひだ)生死(しやうじ)に輪廻(りんゑ)(リンエ)して、
宝(たから)の山(やま)に入(いり)て手(て)を空(むなし)うせん事(こと)、恨(うらみ)のなかの恨(うらみ)、
愚(おろか)(ヲロカ)なるなかの口惜(くちをし)い事(こと)に候(さうら)はずや。ゆめゆめ余
念(よねん)をおぼしめす【思し召す】べからず」とて、戒(かい)たもた【保た】せたてま
つり【奉り】、念仏(ねんぶつ)すすめ【進め】申(まうす)。大臣殿(おほいとの)しかる【然る】べき善知識(ぜんぢしき)
かなとおぼしめし【思し召し】、忽(たちまち)に妄念(まうねん)翻(ひるが)へして、西(にし)にむかひ【向ひ】手(て)
をあはせ【合はせ】、高声(かうしやう)に念仏(ねんぶつ)し給(たま)ふところ【処】に、橘(きつ)右馬允(うまのじよう)(うまのゼウ)
公長(きんなが)、太刀(たち)をひき【引き】そばめて、左(ひだり)のかたより御(おん)うしろ
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に立(たち)まはり、すでにきりたてまつらんとしければ、大
臣殿(おほいとの)念仏(ねんぶつ)をとどめ【留め】て、「右衛門督(うゑもんのかみ)もすでにか」との給(たま)
ひけるこそ哀(あはれ)なれ。公長(きんなが)うしろへよるかと見(み)えしかば、
頸(くび)はまへにぞ落(おち)にける。善知識(ぜんぢしき)のひじり【聖】も涙(なみだ)に
咽(むせ)び給(たま)ひけり。たけき【猛き】もののふも争(いかで)かあはれ【哀】と
おもは【思は】ざるべき。ましてかの公長(きんなが)は、平家(へいけ)重代(ぢゆうだい)(フだい)の
家人(けにん)、新中納言(しんぢゆうなごん)のもとに朝夕(あさゆふ)祗候(しこう)の侍(さぶらひ)也(なり)。「さ
こそ世(よ)をへつらう(へつらふ)といひながら、無下(むげ)になさけな
かりける物(もの)かな」とぞみな人(ひと)慚愧(ざんぎ)しける。其(その)後(のち)右
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衛門督(うゑもんのかみ)をも、聖(ひじり)前(さき)のごとくに戒(かい)たもた【保た】せたてま
つり【奉り】、念仏(ねんぶつ)すすめ申(まうす)。「大臣殿(おほいとの)の最後(さいご)いかがおはし
ましつる」ととは【問は】れけるこそいとをしけれ(いとほしけれ)。「目出(めで)たう
ましまし候(さうらひ)つるなり。御心(おんこころ)やすうおぼしめさ【思し召さ】れ候(さうら)へ」と申(まう)
されければ、涙(なみだ)をながし悦(よろこび)て、「今(いま)はおもふ【思ふ】事(こと)なし。さら
ばとう」とぞの給(たま)ひける。今度(こんど)は堀[B ノ](ほりの)弥太郎(いやたらう)き(ッ)て(ン)
げり。頸(くび)をば判官(はうぐわん)もたせて都(みやこ)へいる。むくろをば公
長(きんなが)が沙汰(さた)として、おや子(こ)【親子】ひとつ【一つ】穴(あな)にぞうづみける。
さしも罪(つみ)ふかくはなれ【離れ】がたくの給(たま)ひければ、かやうに
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してんげり。同(おなじき)廿三日(にじふさんにち)、大臣殿(おほいとの)父子(ふし)のかうべ都(みやこ)へいる。検
非違使(けんびゐし)(ケビイシ)ども、三条河原(さんでうかはら)にいで向(むかひ)てこれ【是】をうけ【受け】とり【取り】、
大路(おほち)をわたして左(ひだり)の獄門(ごくもん)の樗(あふち)の木(き)にぞかけた
りける。O[BH 昔(むかし)より]三位(さんみ)以上(いじやう)の人(ひと)の頸(くび)、大路(おほち)をわたして獄門(ごくもん)に
かけらるる事(こと)、異国(いこく)には其[B ノ](その)例(れい)もやあるらん、吾(わが)
朝(てう)にはいまだ先蹤(せんじよう)(せんゼウ)をきかず。されば平治(へいぢ)に信頼(のぶより)
はO[BH さばかりの]悪行人(あくぎやうにん)たりしかば、かうべをばはねられたりし
かども、獄門(ごくもん)にはかけられず。平家(へいけ)にと(ッ)てぞかけ
られける。西国(さいこく)よりのぼ(ッ)【上つ】てはいき【生き】て六条(ろくでう)を東(ひがし)へ
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わたされ、東国(とうごく)よりかへ(ッ)【帰つ】てはしん【死ん】で三条(さんでう)を西(にし)へ
わたされ給(たま)ふ。いきての恥(はぢ)、しんでの恥(はぢ)、いづれもお
『重衡(しげひらの)被斬(きられ)』S1119
とらざりけり。○本三位(ほんざんみの)中将(ちゆうじやう)重衡卿(しげひらのきやう)は、狩野介(かののすけ)宗
茂(むねもち)にあづけられて、去年(こぞ)より伊豆国(いづのくに)におは
しけるを、南都[B ノ](なんとの)大衆(だいしゆ)頻(しきり)に申(まうし)ければ、「さらばわた
せ【渡せ】」とて、源(げん)三位(ざんみの)入道(にふだう)頼政(よりまさ)の孫(まご)、伊豆(いづの)蔵人(くらんどの)大夫(たいふ)頼
兼(よりかぬ)に仰(おほせ)て、遂(つひ)に奈良(なら)へぞつかはし【遣し】ける。都(みやこ)へは入(いれ)
られずして、大津(おほつ)より山科(やましな)どほり【山科通り】に、醍醐路(だいごぢ)を
へてゆけば、日野(ひの)はちかかり【近かり】けり。此(この)重衡卿(しげひらのきやう)の北方(きたのかた)
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と申(まうす)は、鳥飼(とりかひ)(トリカイ)の中納言(ちゆうなごん)惟実(これざね)のむすめ、五条(ごでうの)大納
言(だいなごん)国綱【*邦綱】卿(くにつなのきやう)の養子(やうじ)、先帝(せんてい)の御(おん)めのと【乳母】大納言佐
殿(だいなごんのすけどの)とぞ申(まうし)ける。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)一谷(いちのたに)でいけどり【生捕り】にせ
られ給(たま)ひし後(のち)も、先帝(せんてい)につきまいらせ(まゐらせ)【参らせ】てお
はせしが、檀【*壇】(だん)の浦(うら)にて海(うみ)にいらせ給(たまひ)しかば、もののふ
のあらけなき【荒けなき】にとらはれて、旧里(きうり)にかへり【帰り】、姉(あね)
の大夫(だいぶ)三位(ざんみ)に同宿(どうじゆく)して、日野(ひの)といふところ【所】にお
はしけり。中将(ちゆうじやう)の露(つゆ)の命(いのち)、草葉(くさば)の末(すゑ)にかか(ッ)て
きえやらぬときき給(たま)へば、夢(ゆめ)ならずして今(いま)一
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度(いちど)見(み)もし見(み)えもする事(こと)もやとおもはれけれど
も、それもかなは【叶は】ねば、なく【泣く】より外(ほか)のなぐさめなく
て、あかし【明かし】くらし給(たま)ひけり。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)守護(しゆご)の武士(ぶし)
にの給(たま)ひけるは、「この【此の】程(ほど)事(こと)にふれてなさけふ
かう【深う】芳心(はうじん)おはしつるこそありがたううれしけれ。
同(おなじ)くは最後(さいご)に芳恩(はうおん)かO[BH う]ぶりたき事(こと)あり【有り】。我(われ)は
一人(いちにん)の子(こ)なければ、この世(よ)におもひ【思ひ】をく(おく)【置く】事(こと)な
きに、年来(としごろ)あひぐし【具し】たりし女房(にようばう)の、日野(ひの)といふ
ところ【所】にありときく。いま一度(いちど)対面(たいめん)して、後生(ごしやう)の
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事(こと)を申(まうし)をか(おか)【置か】ばやとおもふ【思ふ】也(なり)」とて、片時(へんし)のいとま
をこは【乞は】れけり。武士(ぶし)どもさすが岩木(いはき)ならねば、お
のおの涙(なみだ)をながしつつ「なにかはくるしう【苦しう】候(さうらふ)べき」と
て、ゆるしたてまつる【奉る】。中将(ちゆうじやう)なのめならず悦(よろこび)て、「大納言
佐殿(だいなごんのすけどの)の御局(おんつぼね)はこれにわたらせ給(たまひ)候(さうらふ)やらん。本(ほん)三
位(ざんみの)中将殿(ちゆうじやうどの)の只今(ただいま)奈良(なら)へ御(おん)とほり【通り】候(さうらふ)が、立(たち)ながら見
参(げんざん)に入(いら)ばやと仰(おほせ)候(さうらふ)」と、人(ひと)をいれ【入れ】ていは【言は】せければ、
北方(きたのかた)きき【聞き】もあへず「いづらやいづら」とてはしり【走り】
いで【出で】て見(み)給(たま)へば、藍摺(あいずり)の直垂(ひたたれ)に折烏帽子(をりえぼし)き【着】た
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る男(をのこ)の、やせくろみ【黒み】たるが、縁(えん)によりゐたるぞ
そなりける。北方(きたのかた)みす【御簾】のきはちかく【近く】よ(ッ)【寄つ】て、「いか
に夢(ゆめ)かやうつつか。これへ入(いり)給(たま)へ」との給(たま)ひける
御声(おんこゑ)をきき給(たま)ふに、いつしか先立(さきだつ)物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。
大納言佐殿(だいなごんのすけどの)目(め)もくれ心(こころ)もきえはてて、しばしは
物(もの)もの給(たま)はず。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)御簾(みす)うちかづいて、
なくなく【泣く泣く】の給(たま)ひけるは、「こぞの春(はる)、一(いち)の谷(たに)でいかに
もなるべかりし身(み)の、せめての罪(つみ)のむくひにや、
いきながらとらはれて大路(おほち)をわたされ、京(きやう)鎌倉(かまくら)、
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恥(はぢ)をさらすだに口惜(くちをし)きに、はて【果】は奈良(なら)の大衆(だいしゆ)
の手(て)へわたされてきらるべしとてまかり【罷り】候(さうらふ)。いかに
もして今(いま)一度(いちど)御(おん)すがたを見(み)たてまつら【奉ら】ばやと
おもひ【思ひ】つるに、いまは露(つゆ)ばかりもおもひ【思ひ】をく(おく)【置く】事(こと)な
し。出家(しゆつけ)してかたみ【形見】にかみ【髪】をもたてまつら【奉ら】ばやと
おもへ【思へ】ども、ゆるされ【許され】なければ力(ちから)及(およ)ばず」とて、
ひたい(ひたひ)【額】のかみをすこし【少し】ひき【引き】わけて、口(くち)のおよぶ【及ぶ】
ところ【所】をくひき(ッ)て、「これ【是】をかたみ【形見】に御(ご)らんぜ
よ」とてたてまつり【奉り】給(たま)ふ。北方(きたのかた)は、日来(ひごろ)おぼつか
P11191
なくおぼしけるより、いま一(ひと)しほかなしみの色(いろ)を
ぞまし給(たま)ふ。「まこと【誠】に別(わかれ)たてまつり【奉り】し後(のち)は、越前(ゑちぜんの)
三位(さんみ)のうへ【上】の様(やう)に、水(みづ)の底(そこ)にもしづむべか
りしが、まさしうこの世(よ)におはせぬ人(ひと)ともき
か【聞か】ざりしかば、もし不思儀(ふしぎ)にて今(いま)一度(いちど)、かはら【変ら】ぬ
すがたを見(み)もし見(み)えもやするとおもひ【思ひ】てこそ、
うき【憂き】ながらいま【今】までもながらへ【永らへ】てありつるに、
けふ【今日】をかぎりにておはせんずらんかなしさよ。いまま
でのび【延び】つるは、「もしや」とおもふ【思ふ】たのみ【頼み】もありつる
P11192
物(もの)を」とて、昔(むかし)いまの事(こと)どもの給(たま)ひかはすにつ
けても、ただつきせ【尽きせ】ぬ物(もの)は涙(なみだ)也(なり)。「あまりに御(おん)す
がたのしほれ(しをれ)【萎れ】てさぶらふ【候ふ】に、たてまつりかへよ」と
て、あはせ【合はせ】の小袖(こそで)に浄衣(じやうえ)をいださ【出さ】れたりければ、
三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)これ【是】をきかへて、もとき【着】給(たま)へる物(もの)ど
もをば、「形見(かたみ)に御(ご)らんぜよ【御覧ぜよ】」とてをか(おか)【置か】れけり。北
方(きたのかた)「それもさる事(こと)にてさぶらへ【候へ】ども、はかなき筆(ふで)
の跡(あと)こそながき世(よ)のかた見(み)【形見】O[BH にて]さぶらへ【候へ】」とて、御硯(おんすずり)
をいださ【出さ】れたりければ、中将(ちゆうじやう)なくなく【泣く泣く】一首(いつしゆ)の
P11195[* 以下の二丁(P111934とP111956)が錯簡のため置き換えます。]
歌(うた)をぞかかれける。
せきかねて泪(なみだ)のかかるからころも【唐衣】
後(のち)のかたみにぬぎ【脱ぎ】ぞかへぬる W090
女房(にようばう)ききもあへず
ぬぎかふる【変ふる】ころも【衣】もいま【今】はなにかせん
けふ【今日】をかぎりのかたみとおもへ【思へ】ば W091
「契(ちぎり)あらば後(のちの)世(よ)にてはかならず【必ず】むまれ【生れ】あひたてま
つら【奉ら】ん。ひとつ【一つ】はちす【蓮】にといのり【祈り】給(たま)へ。日(ひ)もたけ
ぬ。奈良(なら)へもとをう(とほう)【遠う】候(さうらふ)。武士(ぶし)のまつ【待つ】も心(こころ)なし」とて、
P11196
出(いで)給(たま)へば、北方(きたのかた)袖(そで)にすが(ッ)て「いかにやいかに、しばし」とて
ひき【引き】とどめ【留め】給(たま)ふに、中将(ちゆうじやう)「心(こころ)のうちをばただおし
はかり【推し量り】給(たま)ふべし。されどもつゐに(つひに)【遂に】のがれ【逃れ】はつべき
身(み)にもあらず。又(また)こ【来】ん世(よ)にてこそ見(み)たてまつ
ら【奉ら】め」とていで【出で】給(たま)へども、まことに此(この)世(よ)にてあひみ【見】ん
事(こと)は、これ【是】ぞかぎりとおもは【思は】れければ、今(いま)一度(いちど)たち
かへりたくおぼしけれども、心(こころ)よはく(よわく)【弱く】てはかなは【叶は】じ
と、おもひ【思ひ】き(ッ)てぞいでられける。北方(きたのかた)御簾(みす)の
きはちかく【近く】ふし【臥し】まろび【転び】、おめき(をめき)【喚き】さけび【叫び】給(たま)ふ御声(おんこゑ)
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の、〔門(かど)の〕外(ほか)まではるかにきこえ【聞え】ければ、駒(こま)をもさらに
はやめ給(たま)はず。涙(なみだ)にくれてゆくさきも見(み)えねば、
中々(なかなか)なりける見参(げんざん)かなと、今(いま)はくやしうぞおもは【思は】
れける。大納言佐殿(だいなごんのすけどの)やがてはしり【走り】ついてもおは
しぬべくはおぼしけれども、それもさすがなれ
ば、ひき【引き】かづいてぞふし給(たま)ふ。南都(なんと)の大衆(だいしゆ)うけ【受け】
と(ッ)【取つ】て僉議(せんぎ)す。「抑(そもそも)此(この)重衡卿(しげひらのきやう)は大犯(だいぼん)の悪人(あくにん)たる
うへ【上】、三千五刑(さんぜんごけい)のうちにもれ【漏れ】、修因(しゆいん)感果(かんくわ)の道理(だうり)極
上(ごくじやう)せり。仏敵(ぶつてき)法敵(ほふてき)の逆臣(げきしん)なれば、東大寺(とうだいじ)・興福寺(こうぶくじ)
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の大垣(おほがき)をめぐらして、のこぎりにてやきるべき、堀
頸(ほりくび)にやすべき」と僉議(せんぎ)す。老僧(らうそう)どもの申(まう)されける
は、「それも僧徒(そうと)の法(ほふ)に穏便(をんびん)ならず。ただ守護(しゆご)の
武士(ぶし)にたう【賜う】で、粉津【*木津】(こつ)の辺(へん)にてきらすべし」とて、武
士(ぶし)の手(て)へぞかへしける。武士(ぶし)これ【是】をうけ【受け】と(ッ)【取つ】て、粉津
河【*木津川】(こつがは)のはたにてきらんとするに、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)、
見(み)る人(ひと)いくらといふかず【数】をしら【知ら】ず。三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)
のとしごろ【年来】めし【召し】つかは【使は】れける侍(さぶらひ)に、木工(むく)右馬[B ノ]允(うまのじよう)
知時(ともとき)といふ物(もの)あり【有り】。八条(はつでうの)女院(にようゐん)に候(さうらひ)けるが、最後(さいご)
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を見(み)たてまつら【奉ら】んとて、鞭(むち)をう(ッ)【打つ】てぞ馳(はせ)たりけ
る。すでに只今(ただいま)きりたてまつら【奉ら】むとするとこ
ろ【処】にはせ【馳せ】つゐ(つい)【着い】て、千万(せんまん)立(たち)かこう【囲う】だる人(ひと)のなか【中】を
かきわけかきわけ、三位(さんみの)中将(ちゆうじやう)のおはしける御(おん)そば
ちかうまいり(まゐり)【参り】たり。「知時(ともとき)こそただ今(いま)【只今】O[BH 御(ご)]最後(さいご)の御(おん)
ありさま【有様】見(み)まいらせ(まゐらせ)【参らせ】候(さうら)はんとて、是(これ)までまいり(まゐり)【参り】
てこそ候(さうら)へ」となくなく【泣く泣く】申(まうし)ければ、中将(ちゆうじやう)「まこと【誠】に心(こころ)
ざしのほど【程】神妙(しんべう)也(なり)。仏(ほとけ)ををがみ【拝み】たてま(ッ)【奉つ】てきら
ればやとおもふ【思ふ】はいかがせんずる。あまりに罪(つみ)ふかう【深う】
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おぼゆる【覚ゆる】に」との給(たま)へば、知時(ともとき)「やすい御事(おんこと)候(ざうらふ)や」とて、
守護(しゆご)の武士(ぶし)に申(まうし)あはせ【合はせ】、そのへん【辺】におはしける
仏(ほとけ)を一体(いつたい)むかへ【向へ】たてま(ッ)【奉つ】て出(いで)きたり。幸(さいはひ)に阿弥
陀(あみだ)にてぞましましける。河原(かはら)のいさごのうへ【上】に立(たて)
まいらせ(まゐらせ)【参らせ】、やがて知時(ともとき)が狩衣(かりぎぬ)の袖(そで)のくくり【括り】を
といて、仏(ほとけ)の御手(みて)にかけ、中将(ちゆうじやう)にひかへさせたて
まつる【奉る】。これ【是】をひかへたてまつり【奉り】、仏(ほとけ)にむかひ【向ひ】たて
ま(ッ)【奉つ】て申(まう)されけるは、「つたへきく、調達(でうだつ)が三逆(さんぎやく)を
つくり、八万蔵(はちまんざう)の聖教(しやうげう)をO[BH 焼イ]ほろぼしたりしも、遂(つひ)(ツイ)に
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は天王如来(てんわうによらい)の記■(きべつ)にあづかり【預り】、所作(しよさ)の罪業(ざいごふ)(ザイゴウ)まこ
と【誠】にふかしといへども、聖教(しやうげう)に値遇(ちぐ)せし逆縁(ぎやくえん)くち【朽ち】
ずして、かへ(ッ)て【却つて】得道(とくだう)の因(いん)となる。いま重衡(しげひら)が逆罪(ぎやくざい)を
おかす(をかす)事(こと)、ま(ッ)たく愚意(ぐい)の発起(ほつき)にあらず、只(ただ)世(よ)に
随(した)がふことはり(ことわり)【理】を存(ぞんずる)斗(ばかり)也(なり)。命(いのち)をたもつ【保つ】物(もの)誰(たれ)か王命(わうめい)
を蔑如(べつじよ)する、生(しやう)をうくる物(もの)誰(たれ)か父(ちち)の命(めい)をそむ
かん。かれといひ、これ【是】といひ、辞(じ)するにところ【所】なし。
理非(りひ)仏陀(ぶつだ)の照覧(せうらん)にあり【有り】。抑(そもそも)罪報(ざいはう)たちどころ
にむくひ、運命(うんめい)只今(ただいま)をかぎりとす。後悔(こうくわい)千万(せんばん)、
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かなしんでもあまりあり。ただし三宝(さんぼう)の境界(きやうがい)は慈
悲(じひ)を心(こころ)として、済度(さいど)の良縁(りやうえん)まちまち也(なり)。唯縁楽
意(ゆいえんらくい)、逆即是順(ぎやくそくぜじゆん)、此[B ノ](この)文(もん)肝(きも)に銘(めい)ず。一念(いちねん)弥陀仏(みだぶつ)、即滅
無量罪(そくめつむりやうざい)、願(ねがは)くは逆縁(ぎやくえん)をも(ッ)て順縁(じゆんえん)とし、只今(ただいま)の
最後(さいご)の念仏(ねんぶつ)によ(ッ)て九品(くほん)託生(たくしやう)をとぐべし」とて、
高声(かうしやう)に十念(じふねん)となへ【唱へ】つつ、頸(くび)をのべてぞきらせ
られける。日来(ひごろ)の悪行(あくぎやう)はさる事(こと)なれ共(ども)、いまの
ありさま【有様】を見(み)たてまつる【奉る】に、数千人(すせんにん)の大衆(だいしゆ)も
守護(しゆご)の武士(ぶし)も、みな涙(なみだ)をぞながしける。その【其の】頸(くび)
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をば、般若寺(はんにやじ)大鳥井【*大鳥居】(おほどりゐ)の前(まへ)に釘(くぎ)づけ【釘付け】にこそかけた
りけれ。治承(ぢしよう)の合戦(かつせん)の時(とき)、ここにう(ッ)【打つ】た(ッ)【立つ】て伽藍(がらん)をほ
ろぼし給(たま)へる故(ゆゑ)也(なり)。北方(きたのかた)大納言佐殿(だいなごんのすけどの)、かうべをこそ
はね【刎ね】られたりとも、むくろをばとりよせて孝
養(けうやう)せんとて、輿(こし)をむかへ【向へ】につかはす【遣す】。げにもむく
ろをばすて【捨て】をき(おき)たりければ、と(ッ)て輿(こし)にいれ【入れ】、日野(ひの)へ
かい【舁い】てぞかへりける。これ【是】をまちうけ見(み)給(たま)ひける北
方(きたのかた)の心(こころ)のうち、をしはから(おしはから)【推し量ら】れて哀(あはれ)也(なり)。昨日(きのふ)まではゆゆ
しげにおはせしかども、あつき【暑き】ころなれば、いつしかあらぬ
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さまになり給(たま)ひぬ。さてもあるべきならねば、其(その)辺(へん)に
法界寺(ほふかいじ)といふ処(ところ)にて、さるべき僧(そう)どもあまたかた
らひて孝養(けうやう)あり【有り】。頸(くび)をば大仏(だいぶつ)のひじり俊乗
房(しゆんじようばう)(シユンゼウばう)にとかくの給(たま)へ【宣へ】ば、大衆(だいしゆ)にこう【乞う】て日野(ひの)へぞ
つかはし【遣し】ける。頸(くび)もむくろも煙(けぶり)になし、骨(こつ)をば高野(かうや)へ
をくり(おくり)【送り】、墓(はか)をば日野(ひの)にぞせられける。北方(きたのかた)もさ
まをかへ、かの後生(ごせ)菩提(ぼだい)をとぶらはれけるこそ哀(あはれ)
なれ。

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平家物語(へいけものがたり)巻(くわん)第十一(だいじふいち)