賜 天覧 台覧 日本児童文庫 竹取物語・今昔物語・謡曲物語      文学博士 和田万吉著             ARS 竹取物語・今昔物語・謡曲物語 装幀・恩地孝四郎 口絵挿画・太田三郎 竹取物語  むかし、いつの頃でありましたか、竹取りの翁といふ人がありました。ほんとうの名は讃岐の造麻呂といふのでしたが、毎日のように野山の竹藪にはひつて、竹を切り取つて、いろ/\の物を造り、それを商ふことにしてゐましたので、俗に竹取りの翁といふ名で通つてゐました。ある日、いつものように竹藪に入り込んで見ますと、一本妙に光る竹の幹がありました。不思議に思つて近寄つて、そつと切つて見ると、その切つた筒の中に高さ三寸ばかりの美しい女の子がゐました。いつも見慣れてゐる藪の竹の中にゐる人ですから、きつと、天が我が子として与へてくれたものであらうと考へて、その子を手の上に載せて持ち帰り、妻のお婆さんに渡して、よく育てるようにいひつけました。お婆さんもこの子の大そう美しいのを喜んで、籠の中に入れて大切に育てました。  このことがあつてからも、翁はやはり竹を取つて、その日/\を送つてゐましたが、奇妙なことには、多くの竹を切るうちに節と節との間に、黄金がはひつている竹を見つけることが度々ありました。それで翁の家は次第に裕福になりました。  ところで、竹の中から出た子は、育て方がよかつたと見えて、ずん/\大きくなつて、三月ばかりたつうちに一人前の人になりました。そこで少女にふさはしい髪飾りや衣裳をさせましたが、大事の子ですから、家の奥にかこつて外へは少しも出さずに、いよ/\心を入れて養ひました。大きくなるにしたがつて少女の顔かたちはます/\麗しくなり、とてもこの世界にないくらゐなばかりか、家の中が隅まで光り輝きました。翁にはこの子を見るのが何よりの薬で、また何よりの慰みでした。その間に相変らず竹を取つては、黄金を手に入れましたので、遂には大した身代になつて、家屋敷も大きく構へ、召し使ひなどもたくさん置いて、世間からも敬はれるようになりました。さて、これまでつい少女の名をつけることを忘れてゐましたが、もう大きくなつて名のないのも変だと気づいて、いゝ名づけ親を頼んで名をつけて貰ひました。その名は搦竹の赫映姫といふのでした。その頃の習慣にしたがつて、三日の間、大宴会を開いて、近所の人たちや、その他、多くの男女をよんで祝ひました。  この美しい少女の評判が高くなつたので、世間の男たちは妻に貰ひたい、又見るだけでも見ておきたいと思つて、家の近くに来て、すき間のようなところから覗かうとしましたが、どうしても姿を見ることが出来ません。せめて家の人に逢つて、ものをいはうとしても、それさへ取り合つてくれぬ始末で、人々はいよ/\気を揉んで騒ぐのでした。そのうちで、夜も昼もぶつ通しに家の側を離れずに、どうにかして赫映姫に逢つて志を見せようと思ふ熱心家が五人ありました。みな位の高い身分の尊い方で、一人は石造皇子、一人は車持皇子、一人は右大臣阿倍御主人、一人は大納言大伴御行、一人は中納言石上麻呂でありました。この人たちは思ひ/\に手だてをめぐらして姫を手に入れようとしましたが、誰も成功しませんでした、翁もあまりのことに思つて、ある時、姫に向つて、 「たゞの人でないとはいひながら、今日まで養ひ育てたわしを親と思つて、わしのいふことをきいて貰ひたい」 と、前置きして、 「わしは七十の阪を越して、もういつ命が終るかわからぬ。今のうちによい婿をとつて、心残りのないようにして置きたい。姫を一しよう懸命に思つてゐる方がこんなにたくさんあるのだから、このうちから心にかなつた人を選んではどうだらう」  と、いひますと、姫は案外の顔をして答へ渋つてゐましたが、思ひ切つて、 「私の思ひどほりの深い志を見せた方でなくては、夫と定めることは出来ません。それは大してむづかしいことでもありません。五人の方々に私の欲しいと思ふ物を註文して、それを間違ひなく持つて来て下さる方にお仕へすることに致しませう」 と、いひました。翁も少し安心して、例の五人の人たちの集つてゐるところに行つて、そのことを告げますと、みな異存のあらうはずがありませんから、すぐに承知しました。ところが姫の注文といふのはなか/\むづかしいことでした。それは五人とも別々で、石造皇子には天竺にある仏の御石の鉢、車持皇子には東海の蓬莱山にある銀の根、金の茎、白玉の実をもつた木の枝一本、阿倍の右大臣には唐土にある火鼠の皮衣、大伴の大納言には龍の首についてゐる五色の玉、石上の中納言には燕のもつてゐる子安貝一つといふのであります。そこで翁はいひました。 「それはなか/\の難題だ。そんなことは申されない」  しかし、姫は、 「たいしてむづかしいことではありません」と、いひ切つて平気でをります。翁は仕方なしに姫の註文通りを伝へますと、みなあきれかへつて家へ引き取りました。  それでも、どうにかして赫映姫を自分の妻にしようと覚悟した五人は、それ/゛\いろいろの工夫をして註文の品を見つけようとしました。  第一番に、石造皇子はずるい方に才のあつた方ですから、註文の仏の御石の鉢を取りに天竺へ行つたように見せかけて、三年ばかりたつて、大和の国のある山寺の賓頭盧様の前に置いてある石の鉢の真黒に煤けたのを、もつたいらしく錦の袋に入れて姫のもとにさし出しました。ところが、立派な光のあるはずの鉢に蛍火ほどの光もないので、すぐに註文ちがひといつて跳ねつけられてしまひました。  第二番に、車持皇子は、蓬莱の玉の枝を取りに行くといひふらして船出をするにはしましたが、実は三日目にこつそりと帰つて、かね/゛\たくんで置いた通り、上手の玉職人を多く召し寄せて、ひそかに註文に似た玉の枝を作らせて、姫のところに持つて行きました。翁も姫もその細工の立派なのに驚いてゐますと、そこへ運わるく玉職人の親方がやつて来て、千日あまりも骨折つて作つたのに、まだ細工賃を下さるといふ御沙汰がないと苦情を持ち込みましたので、まやかしものといふことがわかつて、これも忽ち突つ返され、皇子は大恥をかいて引きさがりました。  第三番の阿倍の右大臣は財産家でしたから、あまり悪ごすくは巧まず、ちようどその年に日本に来た唐船に誂へて火鼠の皮衣といふ物を買つて来るように頼みました。やがて、その商人は、やう/\のことで元は天竺にあつたのを求めたといふ手紙を添へて、皮衣らしいものを送り、前に預つた代金の不足を請求して来ました。大臣は喜んで品物を見ると、皮衣は紺青色で毛のさきは黄金色をしてゐます。これならば姫の気に入るに違ひない、きつと自分は姫のお婿さんになれるだらうなどゝ考へて、大めかしにめかし込んで出かけました。姫も一時は本物かと思つて内々心配しましたが、火に焼けないはずだから、試して見ようといふので、火をつけさせて見ると、一たまりもなくめら/\と焼けました。そこで右大臣もすつかり当てが外れました。  四番めの大伴の大納言は、家来どもを集めて厳命を下し、必ず龍の首の玉を取つて来いといつて、邸内にある絹、綿、銭のありたけを出して路用にさせました。ところが家来たちは主人の愚なことを謗り、玉を取りに行くふりをして、めい/\の勝手な方へ出かけたり、自分の家に引き籠つたりしてゐました。右大臣は待ちかねて、自分でも遠い海に漕ぎ出して、龍を見つけ次第矢先にかけて射落さうと思つてゐるうちに、九州の方へ吹き流されて、烈しい雷雨に打たれ、その後、明石の浜に吹き返され、波風に揉まれて死人のようになつて磯端に倒れてゐました。やう/\のこと、国の役人の世話で手輿に乗せられて家に着きました。そこへ家来どもが駈けつけて、お見舞ひを申し上げると、大納言は杏のように赤くなつた眼を開いて、 「龍は雷のようなものと見えた。あれを殺しでもしたら、この方の命はあるまい。お前たちはよく龍を捕らずに来た。うい奴どもぢや」 とおほめになつて、うちに少々残つてゐた物を褒美に取らせました。もちろん姫の難題には怖ぢ気を振ひ、「赫映姫の大がたりめ」と叫んで、またと近寄らうともしませんでした。  五番めの石上の中納言は燕の子安貝を獲るのに苦心して、いろ/\と人に相談して見た後、ある下役の男の勧めにつくことにしました。そこで、自分で籠に乗つて、綱で高い屋の棟にひきあげさせて、燕が卵を産むところをさぐるうちに、ふと平たい物をつかみあてたので、嬉しがつて籠を降す合図をしたところが、下にゐた人が綱をひきそこなつて、綱がぷつつりと切れて、運わるくも下にあつた鼎の上に落ちて眼を廻しました。水を飲ませられて漸く正気になつた時、 「腰は痛むが子安貝は取つたぞ。それ見てくれ」 といひました。皆がそれを見ると、子安貝ではなくて燕の古糞でありました。中納言はそれきり腰も立たず、気病みも加はつて死んでしまひました。五人のうちであまりものいりもしなかつた代りに、智慧のないざまをして、一番惨い目を見たのがこの人です。  そのうちに、赫映姫が並ぶものゝないほど美しいといふ噂を、時の帝がお聞きになつて、一人の女官に、 「姫の姿がどのようであるか見て参れ」 と仰せられました。その女官がさつそく竹取りの翁の家に出向いて勅旨を述べ、ぜひ姫に逢ひたいといふと、翁はかしこまつてそれを姫にとりつぎました。ところが姫は、 「別によい器量でもありませぬから、お使ひに逢ふことは御免を蒙ります」 と拗ねて、どうすかしても、叱つても逢はうとしませんので、女官は面目なさそうに宮中に立ち帰つてそのことを申し上げました。帝は更に翁に御命令を下して、もし姫を宮仕へにさし出すならば、翁に位をやらう。どうにかして姫を説いて納得させてくれ。親の身で、そのくらゐのことの出来ぬはずはなからうと仰せられました。翁はその通りを姫に伝へて、ぜひとも帝のお言葉に従ひ、自分の頼みをかなへさせてくれといひますと、 「むりに宮仕へをしろと仰せられるならば、私の身は消えてしまひませう。あなたのお位をお貰ひになるのを見て、私は死ぬだけでございます」 と姫が答へましたので、翁はびつくりして、 「位を頂いても、そなたに死なれてなんとしよう。しかし、宮仕へをしても死なねばならぬ道理はあるまい」 といつて歎きましたが、姫はいよ/\渋るばかりで、少しも聞きいれる様子がありませんので、翁も手のつけようがなくなつて、どうしても宮中には上らぬといふことをお答へして、 「自分の家に生れた子供でもなく、むかし山で見つけたのを養つただけのことでありますから、気持ちも世間普通の人とはちがつてをりますので、残念ではございますが……」  と恐れ入つて申し添へました。帝はこれを聞し召されて、それならば翁の家にほど近い山辺に御狩りの行幸をする風にして姫を見に行くからと、そのことを翁に承知させて、きめた日に姫の家におなりになりました。すると、まばゆいように照り輝ぐ女がゐます。これこそ赫映姫に違ひないと思し召してお近寄りになると、その女は奥へ逃げて行きます。その袖をおとりになると、顔を隠しましたが、初めにちらと御覧になつて、聞いたよりも美人と思し召されて、 「逃げても許さぬ。宮中に連れ行くぞ」  と仰せられました。 「私がこの国で生れたものでありますならば、お宮仕へも致しませうけれど、さうではございませんから、お連れになることはかなひますまい」  と姫は申し上げました。 「いや、そんなはずはない。どうあつても連れて行く」  かねて支度してあつたお輿に載せようとなさると、姫の形は影のように消えてしまひました。帝も驚かれて、 「それではもう連れては行くまい。せめて元の形になつて見せておくれ。それを見て帰ることにするから」  と、仰せられると、姫はやがて元の姿になりました。帝も致し方がございませんから、その日はお帰りになりましたが、それからといふもの、今まで、ずいぶん美しいと思つた人なども姫とは比べものにならないと思し召すようになりました。それで、時々お手紙やお歌をお送りになると、それにはいち/\お返事をさし上げますので、やう/\お心を慰めておいでになりました。  さうかうするうちに三年ばかりたちました。その年の春先から、赫映姫は、どうしたわけだか、月のよい晩になると、その月を眺めて悲しむようになりました。それがだん/\つのつて、七月の十五夜などには泣いてばかりゐました。翁たちが心配して、月を見ることを止めるようにと諭しましたけれども、 「月を見ずにはゐられませぬ」  といつて、やはり月の出る時分になると、わざ/\縁先などへ出て歎きます。翁にはそれが不思議でもあり、心がゝりでもありますので、ある時、そのわけを聞きますと、 「今までに、度々お話しようと思ひましたが、御心配をかけるのもどうかと思つて、打ち明けることが出来ませんでした。実を申しますと、私はこの国の人間ではありません。月の都の者でございます。ある因縁があつて、この世界に来ているのですが、今は帰らねばならぬ時になりました。この八月の十五夜に迎への人たちが来れば、お別れして私は天上に帰ります。その時はさぞお歎きになることであらうと、前々から悲しんでゐたのでございます」  姫はさういつて、ひとしほ泣き入りました。それを聞くと、翁も気違ひのように泣き出しました。 「竹の中から拾つてこの年月、大事に育てたわが子を、誰が迎へに来ようとも渡すものではない。もし取つて行かれようものなら、わしこそ死んでしまひませう」 「月の都の父母は少しの間といつて、私をこの国によこされたのですが、もう長い年月がたちました。生みの親のことも忘れて、こゝのお二人に馴れ親しみましたので、私はお側を離れて行くのが、ほんとうに悲しうございます」  二人は大泣きに泣きました。家の者どもゝ、顔かたちが美しいばかりでなく、上品で心だての優しい姫に、今更、永のお別れをするのが悲しくて、湯水も喉を通りませんでした。  このことが帝のお耳に達しましたので、お使ひを下されてお見舞ひがありました。翁は委細をお話して、 「この八月の十五日には天から迎への者が来ると申してをりますが、その時には人数をお遣はしになつて、月の都の人々を捉へて下さいませ」  と、泣く/\お願ひしました。お使ひが立ち帰つてその通りを申し上げると、帝は翁に同情されて、いよ/\十五日が来ると高野の少将といふ人を勅使として、武士二千人を遣つて竹取りの翁の家をまもらせられました。さて、屋根の上に千人、家のまはりの土手の上に千人といふ風に手分けして、天から降りて来る人々を撃ち退ける手はずであります。この他に家に召し仕はれてゐるもの大勢手ぐすね引いて待つてゐます。家の内は女どもが番をし、お婆さんは、姫を抱へて土蔵の中にはひり、翁は土蔵の戸を締めて戸口に控へてゐます。その時姫はいひました。 「それほどになさつても、なんの役にも立ちません。あの国の人が来れば、どこの戸もみなひとりでに開いて、戦はうとする人たちも萎えしびれたようになつて力が出ません」 「いやなあに、迎への人がやつて来たら、ひどい目に遇はせて追つ返してやる」 と翁はりきみました。姫も、年寄つた方々の老先も見届けずに別れるのかと思へば、老とか悲しみとかのないあの国へ帰るのも、一向に嬉しくないといつてまた歎きます。  そのうちに夜もなかばになつたと思ふと、家のあたりが俄にあかるくなつて、満月の十そう倍ぐらゐの光で、人々の毛孔さへ見えるほどであります。その時、空から雲に乗つた人々が降りて来て、地面から五尺ばかりの空中に、ずらりと立ち列びました。「それ来たつ」と、武士たちが得物をとつて立ち向はうとすると、誰もかれも物に魅はれたように戦ふ気もなくなり、力も出ず、たゞ、ぼんやりとして目をぱち/\させてゐるばかりであります。そこへ月の人々は空を飛ぶ車を一つ持つて来ました。その中から頭らしい一人が翁を呼び出して、 「汝翁よ、そちは少しばかりの善いことをしたので、それを助けるために片時の間、姫を下して、たくさんの黄金を儲けさせるようにしてやつたが、今は姫の罪も消えたので迎へに来た。早く返すがよい」  と叫びます。翁が少し渋つてゐると、それには構はずに、 「さあ/\姫、こんなきたないところにゐるものではありません」  といつて、例の車をさし寄せると、不思議にも堅く閉した格子も土蔵も自然と開いて、姫の体はする/\と出ました。翁が留めようとあがくのを姫は静かにおさへて、形見の文を書いて翁に渡し、また帝にさし上げる別の手紙を書いて、それに月の人々の持つて来た不死の薬一壺を添へて勅使に渡し、天の羽衣を着て、あの車に乗つて、百人ばかりの天人に取りまかれて、空高く昇つて行きました。これを見送つて翁夫婦はまた一しきり声をあげて泣きましたが、なんのかひもありませんでした。  一方勅使は宮中に参上して、その夜の一部始終を申し上げて、かの手紙と薬をさし上げました。帝は、天に一番近い山は駿河の国にあると聞し召して、使ひの役人をその山に登らせて、不死の薬を焚かしめられました。それからはこの山を不死の山と呼ぶようになつて、その薬の煙りは今でも雲の中へ立ち昇るといふことであります。 今昔物語 須達長者の話  むかし、天竺の舎衛国に須達長者といふ金持ちがありました。その人は一生のうちに七度富貴になり七度貧乏になりました。その七度めの貧しさといつたら、前の六度よりもずつとひどく、着物や食べ物までもなくなりました。夫婦とも歎き悲しんでその日を送つてゐるうちに、隣り近所の人にも憎まれ、親類縁者にも嫌はれました。  ある時すつかり貧乏になつて、三日の間何も食べず、餓ゑて死にそうになりましたが、家の道具などは一つもなくなつても、空つぽの倉だけはありましたので、その中にはひつて、もしや、何か一品ぐらゐ残つてはゐないかと思つて、あたりを見廻すと、栴檀といふ香ひのいゝ木で作つた桝の片隅の壊れたのが、たゞ一つありました。これを見つけて、須達は自分で市に持つて行き、米五升にかへて来ました。それから、そのうちの一升を菜にかへようと思つてまた市に出て行きました。その留守に妻は一升のお米を炊いて、夫の帰りを待つてゐますと、お釈迦さまのお弟子で名高い須菩提がやつて来て食べものを乞ひました。妻はその鉢の中に今炊いたばかりの御飯を一粒も残らず入れて供養しました。そこで、また一升炊いて夫を待つてゐますと、これもお釈迦さまのお弟子の目蓮が来て食べものを乞ひました。また前のように一升の御飯を供養しました。その後で、また一升炊いて夫を待つてゐますと、こんどもお釈迦さまのお弟子の阿難が来て食べものを乞ひましたので、また前のように供養してしまひました。その後で妻がひとりで思ふには、もう残つてゐるお米は一升あるばかり、これをよくといで炊いて二人で食べよう。この後どんなお方がおいでになつても、決して供養はしまい。誰よりも先に自分たちの命を繋がなければならない、と、かう思つてお米を炊きましたが、まだ夫の須達が帰つて来ないうちに、大師釈迦仏がお出でになつて、食べものを乞はれました。妻はさつきのように思ひ定めてゐましたけれど、まのあたり尊い仏さまの来られたのを見て、ありがた涙を拭ひながら礼拝して、とつて置きの御飯をみんな供養してしまひました。その時、お釈迦さまは、貧乏では僧に施しをするのはむづかしい。富貴であると辛抱することはむづかしいなどといふことを説き聴かせてお帰りになりました。その後に夫の須達が帰つて来ましたので、妻は、四人の羅漢と仏さまが来て食べものを乞はれたから、残らず御飯を供養したといふことを話すと、夫は、 「お前は自分のためには生を替へ、世を替へての善智識だ」 といつて大変喜びました。その時に、ふるくからあつた三百七十の倉々に元の通り金銀瑠璃玻璃など七いろの宝物が一杯満ちて、ならぶものゝないほど金持ちになり、こんどの富は前六度の数倍になりました。それからといふものは、須達長者の名は世界に響きわたりました。そのうちに、長者は心のうちで、どこかよいところをさがして、一つのお寺を建てゝ、仏さまやお弟子たちをそこに据ゑ、自分一生の間、毎日御供養申し上げようと思ひ込みました。その頃、国の太子の祇陀といふ方が結構な土地を持つてをられて、草木や泉水などの様子が申しぶんなく立派でした。須達は、太子に向つて、仏さまのためにお寺を建てようと思ふから、その土地を譲つて頂きたいと申し立てました。そこで、太子は答へました。 「この地は東西が十里、南北が七百歩余りあるが、以前から隣り国の物持ちがやつて来て、ぜひ譲つて貰ひたいといつてゐるが、わしがなか/\承知しない。だが、そなたのいふところを聞けば、仏のためにお寺を建てようとするのであるから、少しも惜しみはしないが、その代り、土地の代として、地面の上に金の厚さ五寸だけを敷きつめて貰ひたい」  須達は太子の承諾を得ましたので大そう喜んで、車馬や人夫を雇つて金を運んで、地上五寸に敷きつめて、太子にさし上げました。長者は思ひ通りの地所が出来ましたので、やがて大きな伽藍を建てゝ、百あまりの修行所を作りましたが、その立派で厳しいことゝいつたら、これまでにないほどで、中の御殿には仏さまを据ゑ、たくさんの院や坊には、偉い菩薩や五百の羅漢たちを置いて、毎日のように百味の飲み食ひものを供へ、めづらしい寳物などを積みかさねて、二十五年の間少しも怠りませんでした。祇園精舎といふのはこのお寺のことであります。  これも須達の妻が善智識であつたから、最後の富貴を得たのだと語り伝へたそうです。 慳貪女の話  むかし、天竺に跋提といふ金持ちがありました。この人はお釈迦さまのお弟子の迦葉、目蓮、阿那律などの諭しのお蔭で悪心を捨てゝ、善い行ひをした人であります。その人の妻は慳貪女といひました。この女は他人に物をやることが大嫌ひで、いつでも金銀の縫ひ箔した帷の内で、煎餅を造つて食べるのが好きなのでした。  その時分に、お釈迦さまのお弟子で賓頭盧尊者といつて、お釈迦さまの従弟に当る人で、羅漢様になつた人がありました。この尊者が、慳貪女の邪見な振るまひを、諭して止めさせようと思つて、その家へ行きました。来て見ると、門が締つてゐたので、神通力をもつて空から家の中に飛び込んでいつて、慳貪女が煎餅を食べてゐるところへ、鉄鉢をさし出し、食べ物の布施を頼みました。かの女は、例の通り、物惜しみをして、ちつとも供養をしません。朝から午時過ぎまで立つて頼みましたが、女は、 「たとひ、あなたが、そのまゝ死んでおしまひになつても、私は決して供養などはしませんよ」 といひました。その時、尊者はばつたり倒れて死にました。すると急に臭い匂ひが家の内、いつぱいになつたので、家内中が大騒ぎになりました。かの女は迷惑千万に思つて、死骸を曳き出して棄てようとしました。初め三人がゝりで引かせましたが、ちつとも動きません。それら四五人が加勢してみましたがやつぱり動きません。だん/\人数を増して百人にしても、二百人にしても、人数を増せば増すほど、いよ/\重くなつて動きません。そのうちに臭い匂ひが次第にひどくなつてたまらなくなつて来ました。かの女も困り果てゝしまつて、尊者にむかつて祈りながら申しました。 「和尚様、お生きかへりになりましたら、煎餅をきつと惜しまずにさし上げます」  すると、賓頭盧尊者は、たちまち、生きかへつて、すつくり立ちあがり、また煎餅をくれるように頼みました。かの女は煎餅をやらなかつたら、また倒れて死ぬだらうと思つて、尊者がさし出した鉄鉢を取つて煎餅を二枚入れますと、鉢の中で、それが五枚になりました。かの女は、これはやり過ぎたと思ひ、三枚だけ取り返さうとして、鉢を引つ張り合ひました。その時尊者が手を放して鉢を棄てますと、その鉢がたちまち女の鼻の上にくつつきました。取り除けようとしても、どうしても落ちません。そこでかの女は尊者にむかつて手を摺つてお願ひしました。 「この苦しみをおゆるし下さい」 「それは私自身の力では出来ないことだ。はやくわが大師釈迦仏のところへ行つて相談して見るがよい。行くなら、案内をして進ぜよう」  と尊者が答へました。 「つれていつて下さい」 「それならば、いろ/\の宝物を持参するがよい」 と、尊者はいひました。かの女は尊者の教へに従ひまして、いろ/\の宝物を車五百台に積み、別に人夫千人に担はせてお釈迦さまのところにまゐりました。  お釈迦さまは慳貪女を御覧になつて法談をなさつてお諭しになりましたので、さすが物惜しみのかの女もこれを聞いてすつかり悟りを開き、その後は慳貪邪見な心をあらためましたので、賓頭盧尊者の諭し方は不思議であるといつて語り伝へたそうです。 阿育王が地獄を造つた話  むかし、天竺に阿育王といふ王様がありました。この王様は地獄といふものを造つて、国内の罪人を入れました。また、その地獄の近くへ行つた者も、かへつてくることはなくて、きつと地獄に入れられてしまひました。  ある時、一人の聖人がその地獄の様子を見たいものだと思つてその近くへまゐりますと、地獄の番人が出て来て、聖人を捉へて、さつそく地獄に入れようとしました。 「私はなんにも罪を犯した覚えはない。どんなわけがあらうと地獄になんぞはひるものか」  と、聖人がいひますと、番人は、 「国王の勅命で、この地獄に立ち寄らうとする者は、貴い人、貧しい人の区別なく、身分の上下や、僧侶俗人を選ばず、みな地獄に入れよ。とあるから、今お前を入れるのだ」  といつて、聖人を捉へて地獄の大釜の中に投げ込んでしまひました。  すると不思議なことには煮え返つてゐる釜の湯が、きれいに澄んだ涼しい池水となつて蓮の花が咲きました。番人はびつくりして、このあり様を阿育王に申し上げました。王様はこのことをお聞きになつて、驚かれもし、ありがたくも思つて、御自身、地獄のあるところに行つて聖人を拝まれました。その時に番人が、王様に申し上げました。 「さきに勅命を下されました時、地獄の近くへ行つた者は、上下を選ばず地獄に入れよとのことでござりました」 「わしが勅を下す時に国王を除けとはいはなかつた。お前のいふところは、もつともだ。だがまた、地獄の番人をはぶけといふこともいはなかつた。さうするとお前を先づ地獄に入れよう」  王様はさう仰しやつて、番人を地獄に投げ込んでおかへりになりました。  その後、これは無益の事とあつて地獄をこはしてしまはれたと語り伝へたそうです。 亀が猿にだまされる話  むかし、天竺の海辺に山がありまして、その山に一匹の猿が棲んでゐて、木の実を食べて世を過しました。また、その辺の海に二匹の亀がゐましたが、これは夫婦者でした。雌亀が雄亀に話しますには、 「私は子供が出来ました。そのためかおなかの工合が悪いのですが、多分お産が重いでせう。お前さん私に薬を飲ませて下さると、体が丈夫になつて、子供が安々と生れませう」  そこで、雄亀がきゝました。 「何が薬になるのだね」 「私の聞いたところでは、お猿の肝がお腹の病気に一番よくきくそうでございます」  と、雌亀が答へました。そこで雄亀は海の端に出かけて、例の猿に逢ひましたので、 「お前さんのゐるところには、どんな物でもたくさんにありますかね」  といひますと、 「いつでも十分にとはいきませんね」  と、猿は答へました。 「わしの住み家の近くには、春夏秋冬の木の実草の実が絶えることのない広い林があります。どうにかしてお前さんをそこへ連れていつて、いやといふほど、食べさせてあげたいものだが」 と、雄亀が申しますので、猿はだまされるとは知らずに、大そう喜んで、 「それではすぐにまゐりませう」  といつたので、 「さあおいでなさい」  といつて、雄亀は自分の背に猿を乗せて、亀の住み家に行きました。ところが急に雄亀は気色を変へて、 「お前は知らないだらうが、実はわしの妻が懐妊したところが、腹の具合が悪くなつた。それには猿の肝を薬にして食べると治まると聞いて、お前の肝を取るためにこゝまで引つ張り出したのだ」 といひました。それを聞いて、猿はいひました。 「お前はなんて水臭いことをするのだ。わしの心がわからなかつたかなあ。まだお前は聞いたことはないのか。わし等の仲間には、昔から肝なんて体の内にはないのだ。いつも傍の木にかけて置いてあるのだよ。お前が、さつきあすこで、そのわけをいつてくれたら、わしの肝も他の者の肝も取つてあげたものを、今こゝでわしを殺したつて体の内に肝はないから、なんにもならない。まことにお気の毒なことだね」 と、いふ猿の返事に、雄亀はすつかりその言葉をほんとうと思つて、 「さうか、それは悪かつた。ではすぐに連れて帰らう。そしたらあそこで肝を取つてくれるかね」と、いひました。 「それはわけもないことだ。もとのところに行き着いたら、いくらでも上げられるさ」  と、猿は答へました。そこで雄亀はまた、前のように猿を背に乗せてもとのところに帰つて来ました。猿は陸にあがると、すぐに急いで木の上に登りました。さうして亀を見おろして、 「亀はばかだな。体を離れた肝がどこにあるものか」  といつたので、亀もやつと、うまくだまされたと悟つたものゝ、どうしようもない。くやしまぎれに、木の上の猿にむかつて、 「猿はばかだな。どこの海の底に木の実があつてたまるものか」  と、いひかへして海にはひつてしまひました。  むかしは動物なども、こんなに愚なものでした。人間にも、この亀や猿のような愚者もあると語り伝へたそうです。 老人を他国に流した国の話  むかし、天竺に年とつて七十歳を越した人をよその国に流してしまふ国がありました。その国に一人の大臣があつて、年老いたお母様をもつてゐて、朝夕、このお母様に孝行を尽してゐました。さうやつてゐるうちにこのお母様が七十歳を越してしまひました。朝見て、夜見ないでも不安心でたまらないのに、どうして遠くの国へ流して、もう見られないようにすることが出来ようかと大変歎いて、息の大臣は誰にも知れないように、そつと土の中に部屋を造つてお母様を入れ、家の隅に隠して置きました。家の内の人でさへ、このことを知らなかつたくらゐですから、世間で知らうはずはありませんでした。  さうやつて幾年かたちました時、隣りの国から同じような牝馬二頭を送つて来まして、この二頭のうち、どれが親で、どれが子であるかを区別して返せ、それが出来なければ大軍をむけて七日の内に国を討ち滅ぼしてしまふと、いつて来ました。その時王様は、この大臣をお召しになつて、 「これはどうしたらよからう。もし考へついたことがあるなら述べて見よ」 と、仰せられました。 「これは粗忽には申し上げかねます。退出いたしまして、よく考へさせていたゞきます」  大臣はさう申し上げて、心の中では、自分が隠しておいた母親は年寄りであるから、かういふことを聞き知つてゐられるかもわからないと思つて、こつそり、お母様の部屋にまゐりまして、 「かう/\のことが起りました。なんと王様にお答へしたらよろしいでせう。もしかお聞き込みになつたことでもございませんでせうか」  と、たづねますと、 「むかし、私の若い時分にさういふことを聞いたことがあります。同じような馬の親子を見わけるには、二頭の馬の間に草をおいて見るといゝ。すぐと草の方に寄つて行つて食べようとするのは子で、後でゆつくり食べるのは親だと、かう聞いてゐます」  と、お母様は答へました。大臣はそれを聞くと、さつそく宮中に立ち帰りました。王様はお待ちかねで、すぐにお尋ねになりました。 「なんと考へついたか」  大臣は母親のいつた通りのことを申し上げ、 「かように思ひつきましてございます」 と、つけ加へました。 「なろほど、さうであらう」  と、王様も仰せになり、すぐに秣を取り寄せて二頭の馬の間に置いてみますと、一頭は急いで起ち上つて食べにかゝり、一頭は前のが食べてしまつてから、ゆつくりと食べました。これを見て親子の別が知れましたので、それ/゛\の札をつけて隣国へ返してやりました。  その後、また隣国から、同じように削つた木に漆を塗つたのをよこして、この木の本と末を見分けて見よ、といふ難題を持ちかけて来ました。王様はまた、この大臣をお召しになつて、 「これはどうしたらよからう」  と、お尋ねになりました。大臣は前の時のようにいつて、またお母様の部屋にまゐりまして、かう/\のことがまた出来ましたと、申しますと、 「それはなんでもないことです。水に浮かせて見て、少し沈む方を木の本とすればよいのです」 と、お母様は教へました。大臣は宮中に戻つて来て、この方法を申し上げると、すぐに水に入れて御覧になつて、少し沈む方を木の本と記しをつけて隣国へ返してやりました。  すると隣国では、今度は一頭の象をよこして、この象の重さを量つて見よ、といつて来ました。王様はまた困つたことに思つて、この大臣をお呼びになつて、 「どうしたものだらう、今度はよほどむづかしいが」  と、仰せになりますと、大臣も、 「まことにさように存じます。しかし退出の上一つ考へてから申し上げませう」  と、いつて御前を引き下りました。王様は自分の前で考へてもよさそうなものを、わざわざ家に帰つては考へついて来るといふのが、どうもいぶかしいことである。彼の家にきつと、何かあるのではないかと疑はれました。  そのうちに大臣が宮中に戻つてまゐりました。王様は、この度のは、難題中での難題でありますから、うまく考へついたかどうかと御心配になつて、 「どうぢや」  と、おたづねになりますと、  「はい、これもすぐに考へつきました。象を船に乗せて水に浮かべまして、沈んだだけの水際に墨で印をつけて置き、そして象を船から下します。次ぎに石を拾つて船に入れます。象を乗せた時に印をして置いたところまで、船が沈むのを見て止めます。そこで石を一つ一つ秤に掛ければ、その目方の総計がいくらかといふことがわかります。それを以て象の重さといたせばよろしうござります」  と、大臣はお答へいたしました。王様はこれをお聞きになつて、その言葉の通りにして量つて、象の目方いくら、と書いて返してやりました。  隣国では、むづかしいことを三つもいつてやつたのに、一つ残らずいひあてゝ立派に返事をして来たので、その国の人は、ひどく感心してしまひ、 「さても/\賢い人の多い国である。大抵の才智では知れぬことを、これ程にいひあてゝよこした。このように賢い国に敵対の心をもつて攻めなどしたら、かへつて先の謀りごとに陥ちて、こつちが敗けるにきまつてゐる、それよりも互に仲を善くしてゐよう」  と相談して、長年からかつて、戦でもしようと思つた心をやめて、その後は睦まじく交際しようといふことを書きものにして取り交し、和睦をいたしました。そこで王様がこの大臣をお召しになつて、 「先々からの隣国の恥辱をしりぞけ、敵国の心を和げたのは、大臣そちの功徳である。わしはこの上なく嬉しく思うてゐる。しかし一度となく、二度三度までも、判りにくいことを、よく知つてをつたのはどうしたわけぢや」  と、仰せになりました。すると、大臣は両眼から流れ落ちる涙を袖で拭いて、 「この国では、昔から年七十を越した人を他国に流して国内に置かぬことにきめてあります。今始まつたことではござりませぬ。ところが私の母は七十歳になりましてから、今年で満八年になりましてございます。明け暮れ孝養いたしたい為に内々家の内に土の部屋を造つてそこに置きました。年を取つた者は何事も広く聞き知つてをりますので、もしやそのような事を聞いて知つてをりはしないかと存じまして、宮中を退つては、母にたづねまして、その申す言葉の通り、皆申し上げたのでござります、もしこの老人が、この国にをりませんでしたらば……」  とありのまゝをお答へしました。その時、王様は仰せられました。 「どうしたわけで、昔からこの国では老人を捨てることに致したのであらうか。今考へて見ると老人は貴むべきものである。ついては遠方に流し遺はした老人たち、貴賤男女に拘らず、悉く召し帰すように勅令を出そうぞ。また、これまで老いたる者を捨てるといふ国の名を改めて、老いたる者を養ふ国、即、養老国としよう」  そしてその後はこの国の政治が善くなり、民は穏で、国内は豊に富んだと語り伝へたそうです。 足に蹈み貫きをした象の話  むかし、天竺に一人の坊さんがありました。ある時、深山の中を通ると、大きな象を見かけたので、恐がつて大急ぎで高い木の上に登つて、生ひ茂つた葉の中に隠れてゐました。象は木の下を通ります。坊さんはうまくいつたと思つてゐると、象は忽ち、これを見つけました。坊さんはいよ/\恐くなつてふるへてゐますと、象はその木の下によつて来て、鼻で木の根を掘り始めました。坊さんは一しよう懸命仏様に祈つてお助けを願ひましたが、木の根を深く掘られたので、木はとう/\倒れてしまひました。  そして象は坊さんを鼻に引つ掛けて高々とさし上げて、どん/\深い山の奥へ連れていきました。坊さんは、もうだめだと思つたけれど方角もわかりません。だん/\奥深くはひつて行きますと、またこの象より一嵩大きい象が一匹をりました。その大象のところに坊さんをつれていつて下に置きました。坊さんが考へたのは、初めから自分をこの大象に食はせようとして連れて来たに違ひない。さう思つて、今食はれるか、食はれるかとびくびくしてゐると、この大象は前の象の前に寝転んで大そう嬉しがつてゐます。坊さんはこのありさまを見て、自分を引つ張つて来て食はせることを喜んでゐるのだらうと思ふと、いよ/\生きた心地もしません。それでこは/゛\大象を見ますと、足を差し延ばしてゐて立ち上りません。よく見ると、足に太い木の切り株を踏み貫いてゐるのです。そしてその足を坊さんのゐるところに差し出して何か頼むような気はひです。そこで坊さんはこの切り株を抜いてくれといふのかもしれないと思ひかへして、その切り株をつかんで力を入れて引き抜きました。  すると大象は体を転して嬉しがりました。坊さんも、やうやく、自分がこゝまで連れて来られたのは、切り株を抜かせる為だつたのだとわかつて見ると、やつと安心ができました。それから、前の象がまた坊さんを鼻に引つ掛けて、遠くの方へ連れて行きます。すると大きな塚のある処に来て、その中に連れてはひりました。坊さんは変だなと思ひながら、塚の中を見ますとたくさんの宝物がありました。切り株を抜いてやつたのを喜んで、お礼にこの宝物をくれるのだと思つて、こは/゛\ながら宝物を皆取つて外に出ますと、象はまた坊さんを鼻に引つ掛けて、初めの木のあるところに持つて来て下しました。象はそのまま、また山の奥の方へいつてしまひました。  そこで坊さんが考へましたのは、大象は初めの象の親で、それが足に怪我をしたのを治してもらふために、自分を見つけて連れていつたもので、そのお礼に宝物をよこしたのだとわかりました。そして坊さんは思ひがけない宝を得て家に帰つたといふことです。 亀を放した人の話  むかし、天竺に一人の男があつて、家の道具を買はうと思つて、五千両のお金をその子に持たせて隣国にやりました。息はお金を受け取つて、旅をして行くうちに大きな河のところに来ました。ちようどそこを一艘の船に乗つて行く人がありました。見るとその船には五つの亀が頭をさし出してゐました。お金を持つてゐた旅人が立ちどまつて、 「その亀をどうなさるのですか」  と、きゝますと、 「これは殺して用にするのです」  と、船の人は答へました。 「その亀を、私に売つてくださいませんか。買ひ取らせてもらへませんか」  と、旅人がいひますと、船では、 「どうしても使はなければならないことがあるので、骨を折つて釣つたのですからね。高い直段でも売るわけにいきませんよ」  といふ返事です。旅人は手を摺り拝むようにして、持つてゐたお金の五千両を夢中で抛りだして、むりやりに亀を五つとも買ひ取つて、水の中へ放してやりました。さて、考へてみると、親から道具類を買ふのに預けられて来たお金で、亀を買つてしまつたが、お父様はさぞ腹を立てられることだらう。さうかといつて家に帰らないでもゐられないし、と思案に暮れながら、帰つて来る途中で、ある人が、 「あなたから、お金を貰つて亀を売つた人は、ひよつこり河の中で船がひつくりかへつて死んでしまひましたよ」  と、知らせてくれました。やがて家に帰りついて、預かつていつたお金で亀を買つてしまつた話をしようとすると、父親は先を越して、藪から棒にいひました。 「なぜ、旅先からお金を返してよこすのだ」  息は驚いて、 「お金は返した覚えはありません。あのお金で亀を買ひ取つて河の中へ放しましたので、その事を申さうと思つて帰つてまゐりました」  と、答へました。 「ふむ、さつき黒い着物を着た同じような人が五人、めい/\に千両づゝ持つて来て、こちらのお金でございますといつて、置いていつたが、その金はひどく濡れてゐたぞ」  と、父親はいひました。  これはさつき買つて放した亀どもが、船が覆つてしまつて、お金が水に落ちるのを見て、おの/\千両づゝ取つて、まだ息が家に帰らないうちにお金を届けたもので、まことに珍しいことです。この話を聞く人は皆亀を買つて放した息を褒めたゝへたと語り伝へたそうです。 罪を被つて死を争ふ兄弟の話  むかし、支那の魯州といふところに兄弟二人の青年がありました。兄は父の先妻の子、弟は後妻の子でした。兄の方は小さい時分に父母を失つて、腹異ひの弟の母へ、弟と一しよに孝養をつくしてゐました。弟が実母に孝行するのは当り前ですが、兄は継母にやさしくすることが、自分の生みの母にするにもまさつてゐました。ところが、ある日、隣家の人が酔つぱらつて兄弟のうちにやつて来まして、母親を罵りはづかしめました。  その時二人の兄弟は母親のはづかしめられるのを見るに見かねて、隣の人を咎めて打つたところが、あたりどころが悪くて、その人は死んでしまひました。兄弟は大変なことをしたと思つたけれど、逃げ隠れして、後に残つた母に迷惑を掛けてはならないと門を開けて家の内にゐました。そのうちに役所から役人が来て、この兄弟を捕へて殺さうとしますので、兄は役人にむかつて、 「今度のことは私がやつたのです。弟に罪はありませぬ。早く私を殺して下さい」  といひますと、弟は兄の言葉をさへぎつて、 「兄さんを殺してはいけません。隣りの人を殺したのは私ですから、私を殺して下さい」  といつて、互に死ぬことを争ひました。  役人はこの様子を不思議に思つて、うつかり罪をきめかねて、役所に帰つてこのことを王様に申し上げました。王様は、その母をよび出して訊問するがよい、と仰せられましたので、兄弟の母親を召し寄せると、やがて母親が召しに応じて出頭いたしました。王様は、 「その方の息たちはどういふわけで、死を争ふのか」  と、仰せになりますと、 「この度の咎は、全く私にあるのでございます。私が息に教へて殺させましたのです」  と、母親が申しますので、王様はまた一そうお困りになつて仰せられました。 「人を罰するに法律の定めがある。その方が息に代らうとしてもそれはならぬ。さようのことをいたせば息を二人とも殺すことになるぞ。しかし一人は殺すが、一人は許してつかはす。その方は兄弟のうち、どちらを愛し、どちらを憎んでゐるか」 「この二人の子のうち、弟の方は私が生みましたので、兄の方は先妻の子でございます。夫が亡くなりますとき、私に申しますには、兄息は母のない子で、今、自分が死ぬと、たつた独ぼつちになつて、頼る者もない身の上になる、臨終の際にそれを思ふと心がかりだと申しました。その時に私は、只今のお言葉はよくわかりました。兄息を決して粗略になど取り扱ふようなことはいたしません。必ず実の母同様にいたします。そのことなら、どうぞ御安心なさいますよう、と申しますと、夫は、私の言葉に喜んで、やがて息を引き取りました。その言葉に違つてはならないと存じまして、私は生みの子の弟を殺しても、兄の方を助けたいと思ひます」  と、母親はお答へ申し上げました。  王様もこの母親の申し立てることをお聞きになつて、亡き夫に誓つた言葉を忘れないのを、御感服になり、おあはれみのお心が出て、親子三人を罪にしないで、お許しになりました。母親は王様にお礼を申し上げて二人の兄弟を連れて喜びに満ちて家に帰りました。  これを伝へ聞いた人は皆この三人を憐み、そして褒めあつたと語り伝へたそうです。 招孝といふ人詩の主を慕ふ話  むかし、支那の呉の国に招孝といふ大そう賢い人がをりました。この人がまだ若かつた時、呉の国の王宮の中から流れ出る河のほとりにいつて遊んでゐますと、そこへ木の葉が一枚流れ下つて来ましたので、よく/\見ますと、赤く色づいた柿の葉に詩が書きつけてありました。招孝が、それを取り上げてみますと、女の手で書いたものでありました。どんな人がこの詩を作つて書いたのだかわかりませんでしたけれど、その書いた人の、心持ちや、顔形までが思ひやられまして、なつかしくてたまらなくなりました。そこでその詩と同じ韻を踏んで答への詩を作つて、同じように柿の葉に書いて、今度は河の水上のところへいつて流しましたから、それは王宮の内に流れ入りました。それから招孝はどうかして一度、その詩を書いた人に会つて見たいと思つてをりました。  さて幾年かたつてからのことです。宮中に勤めに上つてゐた官女がたくさんありましたうち、何人かがお暇のお許しが出まして親の処に帰されました。その人達はどこへお嫁入りをしようと自由でしたが、その中に、大変美しい人がありましたので、招孝の両親はこの人を招孝のお嫁さんにすゝめました。すると招孝は、いつぞや、柿の葉に詩を書いた人のことが忘れられないでゐたのでしたけれど、せつかく両親が自分のためにしてくれたことでありますから、気がすゝみませんでしたが、承諾をしてしまひました。そして妻にそんなことで心配させてはならないと、なるたけ柿の葉の詩の主のことは忘れるようにしました。ところが始めのうち、ちつとも浮き/\しなかつた夫の招孝のそぶりを妻が怪しみまして、 「なんだか御心配があるように見えますが、どんなわけか、お隠しにならないでお聞かせ下さいませ」  と、申しますので、招孝もとう/\柿の葉に記した詩の話のことをしまして、 「一度、その主に会つて見たいと思つてゐたが、誰に尋ねるみちもないのでそのまゝになつてゐるが、それが今日までも忘れられないでゐるのだ。だが、そなたが参つてから後は、大分慰められて、もうそのことはもとのようでもない」 と、言ふのを聞いた妻は、 「さようでございましたか。して、その詩はなんと書いてございました。そしてまた、その詩に和韻といふことをなさいましたでせうか」  と、きゝますので、 「さよう、いかにも宮中の人の作つたものと思つたから、河の水上に行つて和韻の詩を作つて、一度その人に会つて見たいと、同じように柿の葉に書いて流したことがある」  と、招孝が答へますと、妻は涙を流して、夫婦といふものは、ほんの一時のものでなく、深い縁のあるものだといふことを覚りまして、夫の招孝に申しますには、 「その詩は、私が作つて書いたものでございます。和韻の詩も私自身に見つけまして、それを只今でも持つてをります」  と、告げまして二人が詩を出し合つて、見ますと、どちらも自分の手で書いたものに違ひなかつたものですから、招孝もほんとうに喜んで睦まじく暮したと語り伝へたそうです。 季札といふ人剣を木にかけた話  むかし、支那の周の世に季札といふ人がありました。この人は武芸に勝れた、ごく正直な人でした。  季札は王様の仰せをうけたまはつて、謀叛人を討つために、他の州へ出かけたところが途中で大雨にあひました。その大雨が底抜けに降り続いて洪水が出て、道を行くことが出来なくなつたので、徐君といふ人の家に逗留しました。何十日かたつて雨がやみ、空が晴れてから、徐君の家を出立して行かうとする時、季札が徐君に向つて、 「拙者はあなたの家に一月の余も逗留して御厄介をかけました。この御恩に対してお酬いをしなければなりませんのですが、拙者には命とかけがへにする程に惜しんでゐる物があります。それは他でもありません、この佩いてゐる剣です。これをあなたにさし上げようと思ひます。ですが、拙者はこれから行くところに行つて、この剣をもつて謀叛した者を討つて、帰つて参るときにさし上げませう」  と、いつて出かけました。  やがて敵のところに行つて、一年たつて思ひ通りに謀叛人を討つて、首を切つて帰る途中、ふたゝび徐君の家に立ち寄りまして、約束した剣を徐君に贈らうとしますと、徐君の家の門は荒れ果てゝ野原になつてゐました。季札はあまりの変りようにびつくりして、その近所の老人をたづねて、徐君のことを聞きたゞしますと、老人は一つの土饅頭を指しまして、 「あれが、徐君の墓です」  と、教へてくれました。その墓の上を見ますと、二尺ばかりの榎が生えてゐます。季札は教へられた通りに、その墓のところに行つて、佩いてゐた剣をはづして、この榎にかけて、約束を果し、恩を報じて立ち去りました。  意志が確りしてゐて、情もある人はかういふものです。一身を守りともしたり、また、家の宝ともすべき名剣であるけれど、約束したことを忘れず、その主は死んでしまつても、約束の品を墓の木にかけて去つたとは、あつぱれなことであると語り伝へたそうです。 玉造り卞和の話  むかし、支那の周の代に一人の玉造りがあつて、名を卞和といひました。ある時、玉を造つて帝にさしあげたところが、帝は他の玉造りをよんで、この玉をお見せになりますと、その玉造りは、この玉を見て、 「これは光もなく御用に立たぬ物でございます」  と、申し上げたので、帝は大きにお腹立ちで、 「なぜ、このような役にも立たぬ物をさし出して、我を欺くのぢや」  とあつて、卞和をよんで左の手を切つてしまひました。  その後、代がかはつて、新しい帝が位にお即きになつて、また卞和をお召しになつて玉を造らせられました。卞和はそれを造つてさし上げると、前の帝のように他の玉造りをよんでお見せになりました。今度もまた前のように、 「この玉は光もなく御用には立ちませぬ」 と申しあげると、前の通り帝はお腹立ちで、今度は右の手を切られてしまひました。卞和は身も世もなく泣き悲しみました。  そのうちにまた代が替つて、三人目の帝の世になりました。卞和は性懲りもなく玉を造つて帝にさし上げますと、帝はまた、他の玉造りを召して見せられましたが、この玉は見どころがあるようだ、念のためにと思し召して、しきりに磨かせられると、世にも比類のないようにつやが出て、光もまばゆいばかりにあたりを照らしました。そこで帝は大へんお喜びになられて卞和に御褒美を賜はりました。  こんなふうに卞和は前二代の帝の時は、手を切られて悲しみ歎きましたが、三代目の帝の時に恩賞を頂いて喜びました。これを見て世の人は、皆前二代の帝を悪くいひまして、今の帝を賢いお方だと褒めあひました。前の二帝は、まことにはやまつたお方達で、ちよつと御覧になつたのでは、つまらぬ玉のように見えても、もしや良い玉ではあるまいかともう一度思ひ反しありそうなところを、むやみに卞和の手を切られたのはおこゝろ浅いことでした。また卞和も懲りないで玉を造つてさし上げたのも、実に危い話であります。前の二代の帝に左右の手を切られましたのですから、もし三度目が前二度のようであつたら、今度は首を切られてしまつたであらうと世の人は心配いたしました。けれども卞和が辞退もせず、強ひて奉つたのも、もとより考へがあつてのことでありませうか。  して見ると、何事も強く自信をもつて押し切るのがよいといふ人もあつたと語り伝へたそうです。 塔を造つて殺されかゝつた石工の話  むかし、支那のいつの代にですか、高さ百丈の石の塔を造ることに、腕前のすぐれた石工がありました。すると、時の国王が、その石工においひつけになつて、百丈の塔をお造らせになりました。ところが、その塔がいよ/\出来上つてから、国王の思はれるには、我この石の塔を、思ひ通りに造り上げたのはまことに嬉しい。けれども、この石工が外の国にも行つて、この通りの塔を建てようとするかも知れぬ。さうなると今造つた塔が天下に唯一つといふことにはならなくなる。早く石工を殺してしまつて、外の国で手柄を立てられないようにしよう。とかう思ひつかれて、石工がまだ塔のてつぺんで後始末をしてゐる時に、降りることの出来ないように、足場の材木を一度にばら/\と壊させてしまひました。石工は降りようにも降りられないので、高い/\塔の上で途方に暮れてゐました。それでも自分の妻や子が聞きつけて見に来ることもあらう。さうして、よもや自分がおめ/\と無駄死にをするとは思ふまい、と考へましたけれど、声を出して聞えるようなら、呼びもしたらうが、眼にも見えず、声もとゞかぬ遠方にゐることですから、どうにもなりませんでした。  さうかうしてゐるうちに、この石工の妻や子が、このことを聞いて、塔の下にきてぐるぐる廻つて見ましたけれど、どうにもしようがありません。妻の思ふには、夫はなにもせずにやみ/\と死ぬような人ではない。降りる工夫をするに違ひないといふことを頼みにして、しきりに塔の下を廻つて見てゐます。その間に石工は塔の上で着てゐる着物を皆解いたり、裂いたりして糸にほぐして、その糸を結んで長くつなぎました。それをそろ/\とおろしましたが.細いものですから風に吹かれてふら/\と下つて来ます。妻は下でこれを見まして、これは夫が助かる工夫をしてゐる印におろしたものであらうと、さとりまして糸の端をとつて静かに動かしますと、上では夫の石工がこれを見まして、答へをするように糸を動かします。妻はこれを見て、なるほどと思ひ、大急ぎに自分の家に走りかへつて、ふだん、績いで置いた麻糸を持つて来て、前の糸の先に結びつけました。上で動かすと、下でも動かしてお互に合図をいたしました。そのうちに上から切つた短い糸を結びつけておろしてきました。下ではそれを撚つて、上から下げてゐる糸に結ぶと、上では引き上げます。それをなん遍となく繰り返してゐるうちに、二撚りのものが三撚りになり、四撚り五撚りとなつて、下から上へ、あがつて行く綱が次第に太い丈夫なものになりました。その時石工はそれに取りついて、用心をしながら綱を伝つて降りてきまして、足が地に着くとすぐに逃げていきました。  かの百丈の塔を造られた国王はそれで功徳を得られたかどうかわかりませんが、世間の者は皆、国王をそしつたと語り伝へられたそうです。 二つの国互に戦ひを挑む話  むかし、支那に二つの大そう仲の悪い国がありました。いつも互に戦をして勝たう/\としますが、国の大きさも兵隊の数も、ちようど同じぐらゐですから、何年たつても勝負がつきません。  ところが、甲の国の王様がお崩れになつた後は、王子が一人ありましたけれど、まだ幼少なものですから、とても隣り国のはげしい攻撃を防ぎ支へることが出来ませんでした。そこで軍兵たちは「この国にゐて命をむだに失ふよりも敵国に降参しよう。なくなつた国王のおいでなされた時分には、軍に負ける心配もなかつたけれど、今は王子があるといつてもまだ子供で何もわからない。自分たちがもし敵国に従はなかつたならば、きつと殺されるにきまつてゐる。敵に攻められてからより、いつそこちらから出ていつて降参しよう。後になつてよりは少しも早い方がよからう」といふので、多くの者共はわれ先にと降参に出かけました。残つてゐた少しの者もしつかりした心とてはなく、もしあの国の王様が攻めよせて来たら、その時は頭を下げて降参しようと思つてゐました。  さて、乙の国の王様は、このことをおきゝになり、 「自身行き向ふまでもあるまい。あの国の太子を呼び寄せたら、きつと逃れられぬことと思つてやつて来るだらう」  といつて使ひをやり、 「太子すみやかに来りて降服せよ。さすれば、国をあづけて治めさせてやらう。もし来ぬ時に於ては切つてしまふぞ」  と、脅しました。  残つてゐた人々は、このことを聞くとみんな非常に驚き怖れ、朝廷の大官たちまでが太子にすゝめて、 「君もしこの国をしろし召さうと思し召さるゝなら、まづお命を大切になされませ。お命がなくては国王のお位もなにもございません。また、この国の王子となつておいでなさらうと思し召しても、国内はすでに人少く、とても敵国の兵をひき受けて戦ふことは出来ますまい。かれは俎、われは魚、どのみち致し方もございません。いまはすみやかに敵国に降参して、お体の御無事をはかつて、お国を預かりなさいますように」  と、申し上げました。太子は、 「恥を知るのが人である。いかに命が大切だとはいへ、人として遂には死なぬものはない。たとひ自分は生き残るとしても、もし先祖の墓を他人に踏ませるようなことがあつたらなんのかひもないことぢや。われは、断じて敵には従はない。殺される日を待つて国も位も棄てよう」  と、いひ放たれ、降参なされる気色もありません。  大官たちは、この言葉をきいて考へました。 「われ等が太子は年こそはまだ御幼少でいらせられるが、お心はこの大きな国よりもまだ大きいお方である。自分たちは、年頃御奉公をして怠りのないつもりではゐたが、今日はあの幼い君の前で口がきけなかつた。行く末の永い君すら命を惜しまれないのに、自分等が命を惜しむ道理はない」と思ひました。しかし、中にはどうなることかと内々心配してゐるものもありました。 やがて、太子は敵国の使者を召し出され、一人の臣下に頸を切る剣を持たせ、 「こゝでその方の頸を切らうと思ふが、その方がこゝで死んだら、隣り国の王にこの様子を話すものがあるまい。よつて今日のところは助けてつかはす」  と、草で造つた人形に、かの国王の名をつけて、太子自ら、 「この国の太子、敵国の王の頸を切る」  と、叫んで人形を切り、また将軍を召されて、使者の頸を切る真似をさせて追ひ帰しました。  使者は本国に帰つてこのことを王様に話しました。王様はこれを聞いて非常に怒り、大軍を率ゐて国境を越え太子を召し寄せようと致しました。太子は、心得て、一人の兵士も召し集めず、また少しも怖れる様子もなく、 「たゞ今行つて会はう」  といふ返事を致しました。その時以前降参を勧めた大官たちは、大方敵に降つてしまひました。が、中には太子と一しよに命を棄てようと思つて残り留まつてゐるものもありました。  さて太子はいよ/\敵国の王に会ひにお出ましになりました。角髪を結つた二人の童子に、脚の高い床几三つと、瓶子(徳利)一つとそれから硯、筆、墨を持たせて伴はれました。一つの床几には太子が腰をかけさせられ、その前に二つの床几を立て、一つには瓶子を、他の一つには硯を置き、童子には墨を磨らさせられました。  敵の軍兵どもはこの様子を見て楯を叩いて大笑ひをいたしました。敵の王様は太子が自分に降服するために何か書いて寄こすのであらう。もし戦ふ気があるならば出て来てかようのことはすまい。先方のする様子を見てそれから後で首を取つてやらうと思つて見てゐました。  やがて太子は、筆をとつて瓶子の頸のまはりを墨で黒々と染め、剣をぬいて瓶子の頸にさしあて、敵の王様に向つて、 「いかにそなたの軍兵がたくさんあるといつてもわが一剣には敵し得まい。そなたを初めとして軍兵たちめい/\の頸を見よ。この瓶子の頸のまはりに書いた墨は悉くそなたたちの頸のまはりにもついてゐるであらう。自分がこの瓶子の頸を一刀のもとに打ち落すときは、そなたたちの頸もみな落ちてしまふであらう」  といひました。  これをきいて王様や軍兵どもは、めい/\の頸を見ますと、一人として墨のついてゐないものはなく、ちようど瓶子の頸と同じでありました。その時、太子は眼をいからせて、瓶子の頸を打ち落さうと致しました。これを見た敵の王様は忽ち馬から下りて両手を合せ、また、数多の軍兵どもは、みな大刀を棄て、弓弦をはづし、顔を地につけて平伏しました。王様は、 「今日より後、太子を君として仕へますから、頸を落すことだけは免して下さい」  と、願ひました。  その時、太子は芝を焼いて手につけ、 「天皇の位に上つた」  と叫ぶと、敵の王様やその部下たちは、 「われ/\は臣下のもの」  と、名のつて帰つてしまひました。かういふ国は天下にまたとない国であると語り伝へられたそうです。 魚が法華経となつた話  むかし、大和の国の吉野山に海部峯といふ山寺がありました。孝謙天皇の御代に、一人の僧が、久しくこの寺に住んで仏の道に精進してゐました。ところが、ある時病気にかかつて体が痩せ衰へ、起ち居も思ふまゝにならず、食べ物もいけなくなつて、やがて命さへ危くなりました。上人の思ふには、自分は病のために道を修めることが出来ない。病を治して修行したいものぢや。しかし、かねて聞くに、病を治すには肉を食べるに越したことはないそうであるから、一つ魚を食べて見よう。これは重い罪ではあるまいと思つた。そこで、内々弟子にいひ含めて魚を求めさせました。弟子の僧は一人の童子を紀伊の国の海辺に魚を買はせにやりました。童子はそこで鰈を八匹買つて、小さい櫃に入れて帰る途中、三人づれの懇意な男に逢ひました。 「お前の持つてゐるのはなんだね」  と、男の一人が不審そうにきゝました。童子は正直に「これは魚です」と答ヘかねて、 「これは法華経です」  と、口から出まかせにいひました。 「なに、お経なものか。確に魚だ」  男は、この櫃の中から汁が垂れて、腥い臭ひのするのをとがめていひました。童子はそれでもお経だといひ争ひました。それから一しよに歩いてゆくと、ある町の中に出ました。男たちはこゝで休みましたが、童子をなか/\放してくれません。 「お前の持つてゐるものは、お経ではなくて、きつと魚に相違ない」  と、またしても責めました。 「魚ではない。お経です」  童子も負けずに強情を張りました。しかし、男は疑ひを霽しませんでした。 「そんなら櫃を開けて見よう」  童子は開けさせまいとしたが、男は力にまかせて開けさせました。童子は面目なさそうにしてゐると、開けられた櫃の内には法華経八巻がありました。男たちは恐れ入つてそこから去りました。童子も不思議なことゝ思つて山寺をさして帰りました。三人の男のうちの一人がどこまでも変に思つて、童子に見つからぬようにして、跡をつけて行きました。  さて童子は寺に着いて、師匠に一部始終の話をすると、師匠は不思議に思つたり、喜んだりして、これは全く天が自分を助けられたのだといふことを覚りました。そこで、上人は早速この魚を食べました。山寺まで童子の跡をつけて来た男は物陰からこれを見て、上人の前に体を投げ出しました。 「実はあれは魚に相違ないのですが、お上人の食べ物となるのでお経に姿を変へたのです。私は愚痴邪見の者で、因果の道理を知りませんから、疑ひを起して度々童子を責め悩ましました。どうか、この咎をお許し下さい。これから後はお上人さまを大師と仰いで、丁寧に御供養いたしませう」  男はさういつて、泣く/\山を降りました。その後、この男は、上人の保護者になつて、始終山寺に行つて心を尽して供養をいたしました。  これを思ふと、仏法を修行するために身を助けようとすれば、いろ/\の毒を食べてもかへつて薬となり、いろ/\の肉を食べても罪にはならない。だからこそ、魚も化してお経になつた。かういふことを決して謗るものではない、と後々までも語り伝へたそうです。 智光頼光の二僧往生の話  むかし、奈良の元興寺といふ寺に智光、頼光といふ二人の学問の僧がゐました。この二人は久しい間同じ坊に住んで仏学を修行してゐました。頼光の方はだん/\年を取つても、怠けてゐて学問もせず話しをするでもなく、暇さへあれば寝てゐました。智光の方は智慧があつて学問ずきでしたから、立派な学僧になりました。そのうちに、頼光の方はふとしたことから死んでしまひました。智光はこれを歎き、「頼光は永年の親友であつたが、いつも話もせず、始終寝てばかりゐた。死んでから、どんな報いを受けたであらうか。善いとも悪いとも知ることが出来ない」と、かう思ひ歎いて、二月三月のほど頼光の往生したところが知りたいと心に祈つてゐますと、ある夜の夢に頼光のゐるところに行きました。そこの様子を見ると、大そう立派な荘厳なところで、極楽浄土に似てゐました。智光は不思議に思つて、 「こゝはどういふところだ」  と、頼光に尋ねますと、 「こゝは極楽ぢや。お前が知りたいと祈つたから、わしが往生したところを見せてあげたのぢや。早く帰りなさい。こゝはお前のゐるところではない」  と、頼光はいひました。 「わしは一心に浄土に生れようと願つてゐた。なにしに帰らう」 「お前はなんの修行も手柄もない。しばらくたりとも、こゝに留まることは出来ない」 「お前は生きてゐた時、なんの勤めもしなかつた。どうしてこゝに生れたのぢや」  と、智光はきゝました。 「お前は知らないのか。わしはこゝに往生するいはれがあるから、こゝに生れたのぢや。わしは、むかしいろ/\のお経の本を読んで極楽往生を願つた。このことを深く考へてゐたから話をしなかつた。ひたすら、お経の中に書いてある阿弥陀のお姿や、浄土の立派なあり様を思ひ廻して、他の下らないことを考へずに静かに寝てゐた。幾年となくその功が積つてこの国に来たのぢや。お前は学問をして、そのすぢを悟つて智慧も明かではあるが、心にまとまりがなく、善い種も蒔いてをらぬ。だからまだ浄土に生れるわけに行かない」  智光はこれを聞いて泣き悲しみました。 「それでは、何をすればきつと極楽に往生することが出来るだらうか」 「そのことは答へることが出来ない。阿弥陀仏にお尋ねするがいゝ」  頼光はさういつて、すぐに智光を引つ張つて、一しよに阿弥陀さまの御前に出ました。  智光は仏さまの前に手を合せてお願ひしました。 「どういふ善い種を蒔いたら、この国に生れることが出来ませうか。どうぞお教へに預かりたうございます」  そこで仏さまは答へました。 「仏の姿と浄土の荘厳を心に思ひ廻すがよい」 「この国の立派なことは、なんとも申されません。広々として、とても心の眼で見尽すことは出来ません。凡夫の心でこれを思ひ廻すのはむづかしうございます」  智光がさういひますと、仏さまは右の手をお挙げになつて、掌の中で小さな浄土を見せられました。  すると夢が醒めました。そこで、すぐさま絵師を呼んで、夢に見た仏さまのお手の中の小さな浄土の姿を描かせて、一生の間、これを見て、やがて智光も往生を遂げました。それからといふもの、この坊の名を極楽坊と呼んで、かの絵をかけて、その前で念仏を唱へて集会をすることが今になつても絶えません。心のある人は必ず拝見して、礼拝しなければならぬ絵像であると語り伝へたそうです。 郡司、観音の像を造る話  むかし、丹波の国の桑田の郡といふところに住んでゐた郡司(郡長のような役人)が、長年祈願の筋がありまして、観音様のお像を造らうと思つてゐました。そこである時、京都に上り一人の仏師に相談いたしました。仏師はさつそく註文をひき受けてくれましたので、郡司は代金を払ひ、大そう喜んで国に帰りました。  この仏師は、大へんなさけごゝろの深い人で、仏像を作るのが職業ではありましたけれど、小さい時から観音経(法華経の内の普門品)を日課にして毎日必ず三十三度づゝ読み、また観音様の縁日である毎月の十八日には一日中精進潔斎してお祀りを致しました。  仏師は、郡司の註文をひき受けてからちようど三月ばかりたつて一体の綺麗な観音像を造り上げ、そしてさつそく郡司の家へ持つて行きました。とほうもなく早く出来たものではありませんか。仏師といへば、註文をきゝ代金を取つても、なか/\約束どほりの日限までには作らぬものときまつてゐたのです。  郡司は、思ひの外、早く出来上つたので、とび立つほど喜んで、何か仏師に褒美をやらうと考へました。しかし、あいにくちようど佳いものがありませんでした。うちに今あるものといつては馬が一頭あるばかりでした。この馬は黒の五六歳ぐらゐの、たけの高い立派なものでした。口は柔で、足は固く、もの驚きをせず、また道を行くことの早い、めつたに疲れることのないものでした。多くの人たちはいつも、この馬を見てみんな欲しがつてゐたのですが、郡司は誰にもやりませんでした。それにも拘らず郡司は今嬉しさのあまり自分で馬を引き出して来て仏師に与へました。  仏師は大そう喜んで、この馬に鞍を置いて乗り、自分の乗つて来た馬は人にひかせて、郡司の家を出て京へ向つて帰りました。  さて、郡司はこれまで自分が可愛がつていつも傍に置いた馬を、手放してしまつたので、厩に草などを食べ散らしたあとなどを見ると、急に悲しいような変な気持ちがしました。そして仏師にやつてしまつたことがだん/\悔しくなつて来ました。一二度はあきらめても見ましたが、どうしても残念でたまりません。そこで腹心の家来を呼んで、 「先刻馬を仏師にやつてしまつたが、なんだか惜しくてたまらない。この主人のためを思つたら馬を取り返して参れ。盗人のようになつて仏師を射殺し、必ず馬を取つて来い」  と、内々いひつけました。 「それはわけのないことです」  と、家来は答へて、弓矢を手挟み、馬に乗つてさつそく駈けて行きました。  仏師は本街道を行きました。家来は近道を通り先廻りをして篠村といふところの栗林の中で待ち伏せしてゐました。  そんなことゝは知らずに仏師は、かの美しい黒馬に乗つて悠々と行きます。郡司の家来はいやな役に当つたとは思ひましたが、主人の命令だから仕方がありません。弓に鋭い矢をつがへ、仏師から四五丈ばかりはなれたところで、急に仏師の正面に廻り、弓を強くひき放しますと、ちようど臍の上のところにあたつて、矢尻は背中まで通りました。仏師はあふ向けに馬から落ちました。馬はひとりでどん/\かけ出して行きましたが、家来はそれを追ひ廻してひつとらへ、それをひいて主人のところへ連れて帰りました。  主人はこれを見て大そう喜び、もとのように馬を自分の傍に置いて飼つてゐました。  その後、いく日か過ぎましたけれど、仏師のうちかちは誰も様子をたづねに来るものもありません。郡司は不思議に思つて家来を京に上らせました。そして仏師の家へ行き、 「なんのお変りもございませんか。久しくお尋ねも致しませんので伺ひましたといへ」と、いひつけました。  家来は、京に上つて、何気ない顔で仏師のところへ行きました。その家は往来の路から少し引つ込めて建てゝあり、前の空き地には梅の木がありました。その木に例の馬をつないで二人の男に養はせ、仏師は立つてそれを見てゐます。馬はもとよりも毛色がよくなり肥つてもゐました。家来はこの様子を見て、びつくり仰天いたしました。射殺したはずの仏師がゐる。取りかへしたに違ひない黒馬もこゝにゐる。もしや見損ひではあるまいかと思つて、なほよく/\見ますと、仏師はたしかに生きてゐます。馬も主人の馬に違ひありませんので、心もくらみ気もてんどうするほど怖ろしくなりました。  やう/\のことで郡司からいひつけられたとほり、その後の様子を尋ねますと、仏師は、 「何も別状はありません。この馬を大抵の人が欲しがつて買ひたい買ひたいと申しますが、とてもまたと得がたい名馬ですから、売らずに大事にしてゐます」と、答へました。  家来はいよ/\不思議に思ひ、とにかく始終のありさまを主人に告げようと思つて、走るようにして丹波に帰りました。  主人のところに着いてこの話をしますと、郡司も怪しく思ひながら厩に行つて見ました。ところが、さき程までゐたはずの馬が急に見えなくなつてゐます。そこですつかり怖ろしくなり、急いで観音様を安置してあるところに行つて、今までの罪を懺悔しようと思つて、観音様を見上げますと、ちようど、胸のところに矢が立つてゐて、血が流れ出てゐました。さつそく家来を呼んでそれを見せ、主従は体を地になげて声をかぎりに泣きました。その後、二人とも髪を切つて坊さんになり、山寺にはひつて仏道を修行いたしました。  さてその観音様の矢の痕は今でもあいてゐて塞がりません。人々はみな参詣してそれを拝見します。仏師の心が慈悲深かつたので観音様が代つて矢を受けられたのは、観音様のいつもの誓ひに違はぬことではありますが、まことにあり難いことであります。心ある人は必ずお参りして拝むべき観音様だと語り伝へられたそうです。 清滝河の僧慢心して後悔する話  むかし、山城の国清滝河の奥に庵室を造つて久しく修行する僧がありました。水瓶に水を入れようと思ふ時は、行の力で水瓶を空中に飛ばして、この河の水を汲ませました。かういふことが数年つゞきましたので、これほどの偉い行者はあるまいと自分で思ふことも度々ありました。かういふ慢心を起すのは悪いことですが、智慧のない人はそれに心づきません。  さうしてゐるうちに、時々、自分の庵室よりも上手の方からも水瓶が飛んで来ては水を汲みます。僧はこれを見て合点のゆかぬことゝ思ひましたから、その水瓶の飛び出すもとをしらべようといふ気になりました。  すると、ある時、またその水瓶が来て水を汲んで行きます。この時こそと、僧は水瓶の飛び帰つて行く方角を指して見続けて行きますと、河に沿つて五六十町ばかり上つたところに、一つの庵が見えます。水瓶はたしかにそこに停りました。近寄つて見ると、三間ばかりの小さい庵ですが、本尊の仏を置いて飾りつけをしたところや、寝所などもあつて、その様はなか/\殊勝であります。庵の前に橘の木があつて、その下へ行く道には足駄の痕がついてゐました。閼伽棚(仏に供へる花水などを置く棚)の下に枯れた花などがたくさんに積んであります。庵の上にも庭の面にも苔が一杯生えて、なんとなく古びて神々しい気がします。そろ/\近寄つて窓の外から内を覗いて見ると、机の上に仏道の書きものなどが置き散してあつて、その側にお経の本もあります。夜昼たきつゞけの香が庵の内に充ち/\てぷん/\匂つてゐます。よく見ると、七十ばかりの上品な老僧が手に独鈷といふものを握つて、脇息に凭れてよく眠つてゐます。河下から来た僧はこれを見て、何者か試してやらうと思つて、そつとまた寄つて、人に知れないように火界の呪(火の力で相手をいぢめる呪文)を唱へて祈ると、庵の老僧は眠つたまゝで散杖などをふりまく棒)を取つて、その先を香水に浸けて四方にそゝぎました。すると、その香水のとばしりが外にゐる僧の身にかゝると思ふとたんに、僧の衣に火がついて、どん/\燃え始めました。僧は声を挙げて泣き出しました。なにしろ着物が燃えるので、熱くてたまらず庭に倒れて転がりまはりました。その時、庵の老僧は目を覚して、その様を見ると、また散杖を香水にさし入れて、火に取りつかれて困つてゐる僧の頭に香水をふりかけました。さうすると火はたちまち消えました。老僧は傍へ来て、 「こゝへお出でになつて、こんな目にお遇ひなさるのは、どこの御坊でございますか」  と、尋ねました。そこで河下の僧は答へました。 「年久しく清滝河の畔に庵室を構へて修行する者でございます。をり/\、水上から水瓶が飛んで来て水を汲みますので、不審に思つて、どういふお方の水瓶であらうかと尋ね上りましたところが、御僧のなされることゝ知りました。そこで、御行力を試して見ようと思つて祈祷をいたしましたところが、このようなえらい目を見まして、しみ/゛\御僧の貴いことを知りました。これからお弟子になつてお教へを請ひませう」 「それはよいでせう」  といつて、老僧は見張つた眼をゆるやかにして、僧をなんとも思ふらしい気ぶりもありません。  智慧もないのに慢心を起したのを、仏たちが憎まれて、かういふ立ち勝つた聖人を出して、戒められたのであらうと、河下の僧はすつかり後悔して本の庵に帰りました。  だから、人は自分が一番賢いなどゝ思つて慢心を起してはならない、と語り伝へたそうです。 敦行、我が門より隣家の死人を出す話  むかし、右近将監下毛野敦行といふ人がありました。若い時分から朝廷に仕へて評判のいゝ人でありましたが、見た様子もよく、馬に乗ることがたいそう上手でした。朱雀天皇の御代から、勤め始めて村上天皇の御代などには名高い舎人でした。  この人は年寄つてから仏門にはひつて隠居しました。その頃隣家の主人が急に死にましたので、敦行入道が悔みを述べるために、そのうちの門口に行つて、死んだ人の息に面会して親の不幸を弔ひますと、その息の申しますには、 「仏を出さうといたしますのに、この家の門の方角が大層悪いので困つてをります。と申したからとて、この門から出すより外にしようもございません」  入道はこれを聞きまして、 「それは至極わるいことと存じます。あなた方にとつては、何よりも忌まなくてはいけません。さようのことでしたら、私方の家とこちらの家の間の垣根を壊して、私方の方の門からお出しになるようになさい。親父様は正直なお方で、もう長い間何かとお世話になりました。かういふ時に御恩返しをしなくてはなりません」  と、いひました。すると、隣家の息が申しました。 「それはとんだことを仰せられます。人のお邸の門から仏を出すといふことは、どこにもないことでございます。方角が悪いと申しても、私方の門から出しませう」 「あなた方は間違つたことを仰せられてはいけません。なんでも、かでも、私方の門の方から出しておあげなさい」  入道はさういひおいて帰りました。うちに帰ると、すぐに、息達を呼んで、 「今、おとなりの主人の亡くなつたのを弔ひに参つたところが、その息のいふには、死人を出すのに門の方角が悪いけれど、門が一つしかないからどうにもしようがなく、やつぱりその門から出すといつてゐたから、それなら、垣根を壊して庭を通り、こちらの門から出すことになさいと、かう話して来たよ」  と、申しましたので、うち中のものは驚いて、 「途方もないことを仰しやつたものです。いかに悟りを開いた聖人様でも、さようのことをいふ人がありませうか。人を憐んで自身を思はぬ、といふ言葉はあつても、我が家の門から、お隣りの仏様の車を出すといふ者がありますか。とんだことです」  と、口々に居並んでがや/\といひ合つてをります。そこで入道は、 「お前達は、実に間違つたことをいひなさる。なんでもよいから、私のすることに任せて置くのだ。お前達の考へより私の考への方が足りなくもなからう。ともかくも年寄りのいふことについてゐるがよい。私のすることを見てゐなさい。物を忌んで縁起ばかりを苦にする者は、命も短く、子孫もないものだ。物忌みなどしないものは天命をまつたうすることが出来て、子孫も繁昌するものだ。そんなことより大切なことは、恩を受けたら、自分の身を構はずに、その恩を酬いるのが人のすべきことだ。天道もさういふ人を憐み給ふのにきまつてゐる。亡くなられた隣りの主人は生前にいろ/\のことで私に情をかけてくれたものだ。どうしてその恩を酬いずにをれよう。つまらぬことをいひなさるな」  と、さとして、家来たち呼んで、両家の隔ての檜垣をどし/\壊させて、そこから隣りの死人の車を出させました。  その後、この事が世間に聞えて、誰もが入道を褒め貴びました。実に入道の心掛けは世にもあり難く慈悲に富んだものでありました。その報いにでせうか、入道は無事息災で九十ばかりで亡くなり、また、その子孫も皆長命裕福で、今でも下毛野氏は舎人の中で栄えてゐます。これを見聞きした人達はこれを知つて、他人のためには、親切にするものだと語り伝へたそうです。 猟師が神前の生け贄を止めた話  むかし、美作の国に一つの荒神があつて、その神体は猿でした。毎年一度、この神様に生け贄を供へるのが例になつてをりましたが、その生け贄には、その国の人の娘で、まだお嫁に行かないものに限つてゐました。そしてこれは昔から、近い頃まで久しく行はれました。  さて、その国に、氏素性のわからない人があつて、十六七歳ばかりになる美しい娘をもつてゐました。両親はこの娘を大変可愛がつて、身に替へてもと、大切にしてをりました。ところが、この娘が不幸にも、荒神に供へられる生け贄に指されてしまひました。これまでの例として、今年の祭りの日にそれときめられると、その日から一年の間は、体を肥らせて、翌年の祭りに供へるのであります。  この娘が生け贄に指されてから後は、両親は身も世もなく、歎き悲しみましたけれども、遁れるすべもありません。たゞ、月日のたつにしたがつて、命が縮まり、親子が一しよに、生きてゐる日数が、だん/\少くなつてゆくのを歎き、日を数へては互に泣くよりほかはありませんでした。  すると、何かの縁があつて、東の方から美作の国に来た人がありました。この人は狗山といふことを業として(たくさんの狗を飼つてゐて山にはひり、猪や鹿を狗に噛み殺させて捕ること)度胸があつて、物を怖れるといふことがありませんでした。そしてこの国に暫く逗留してゐるうちに、どこからともなく、生け贄の話を聞き込みました。さうかうしてゐるうちに、何か用事が出来て、この生け贄の親の家にまゐりまして、話をしてゐるうちに、縁側のところにしやがんで、隔ての襖のすきから奥の方を覗いてみますと、その生け贄になる娘といふのは、まことに綺麗で可愛く、色は白く、髪も長くて田舎の人の娘とは見えず、いかにも上品な貌をして物に凭り掛つてゐます。ひどく心配らしく、髪も乱れて泣いてゐる様子を見ますと、その猟人は、かわいそうでならなくなりました。  さて、用事の話がすんだ後で、父親は、生け贄に指された娘のことを申しまして、 「こんな国が、またと他にあるでせうか。前の世にどういふ罪を作つたのか、こんなところに生れて、こんな情ない目を見るのでせう」  と、歎きました。猟人はこれを聞くと、 「世に生きてゐて、命より大事なものはありません。また人の宝とするものに子にまさるものはないはずですのに、たつた一人の娘御を眼の前で、膾同様にされるのを見てゐられるものではありません。かうなつたらいつそ、死んでおしまひなさい。敵に向つて、やみやみむだ死にをするものもありますまい。神だつて、仏だつて、命のためには怖ろしうございますが、命を捨てるとなれば怖いことはありますまい。また我が身の惜しいといふことも子の為を思へばこそです。娘御はお気の毒ですがもう命がないも同然でせう。同じ死ぬのなら、娘御を私に下さいませんか。私は娘御に代つて死にませう。娘御を下さることをおいやだと仰しやらないで下さい」  といひますと、 「それは、またどういふことをなさるのですか」  と、父親は聞きました。 「それにはそれでしようがあります。このうちに私のゐるといふことを知らせずに、たゞ、精進するのだといひふらして注連縄を引いて置いて下さい」  と猟人がいひますと、父親も、 「娘の命がありさへすれば、私は亡くなつても苦しうはございません」  と、答へて、この猟人を内々娘のお婿さんにして日数を送る間に、長年飼ひなれた狗山の狗のうちの二疋をよりすぐつて、 「お前たち、私に代つてくれよ」  といひ聞かせて、大切に飼ひながら、山からそつと猿の生きたのを捉つて来て、人のゐない所で、しきりに狗を教へて噛ませる練習をさせました。もと/\狗と猿は仲のよくないものですのに、かうやつて習はせますと、狗は猿さへ見れば、すぐに飛びかゝつて、咋ひ殺すようになります。かうして練習を重ねてゐる一方に、猟人は根気よく刀を研いで、どんな鉄でも石でも切りさけるようにしました。  やがて、生け贄を捧げる日が来ました。神主様を初め、大勢の人が、娘の家に迎ひにやつて来ました。そして新しい長櫃を持ち出して「この中にはひれ」といひまして、娘の居間にさし入れました。そこで、猟人は、きりつとした装束をして、働きよいように支度をしまして、刀を身に引きつけて長櫃にはひりました。例の馴らして置いた狗二疋を自分の左右の脇に入れて臥させました。親達は娘を入れたように思はせて担ぎ出しました。鉾、榊、鈴、鏡を持つた者がわや/\と大勢前に立つて騒いで行きました。あとに残つた生け贄になるはずの娘は、その夫が自分の身替りになつていつたのを悲しみ、両親は家の後つぎのなくなつてしまふのは、娘を取られたも同じことだといつて歎きました。  村の者一同は生け贄を社のところにかついで行つて、献供の式をして、社前の玉垣の扉をあけて長櫃を結んだ紐を切つてさし入れてから、神主さんたちは玉垣の扉を閉して外のところにゐ並びました。そこで猟人は長櫃を極少しばかり、刀で彫り開けてその孔から見ると、丈七八尺ぐらゐの大猿が正面の上座にゐます。歯は真白で顔と尻が赤いのです。その左右に小猿が百疋ばかり並んでゐて、赤い顔をいよ/\赤くし、眉を釣り上げて、きやつきやつと叫んでゐます。神前には俎の上に大きな刀が置いてあります。酢塩、酒塩などの調味料は皆据ゑてあります。ちようど人間が鹿などを切つて食べる時のようです。  暫くして上座の大猿が立つて長櫃を開けようとしますと、外の猿たちも皆手伝つて開けにかゝりました時、猟人は長櫃から急に躍り出て、狗に声をかけ、 「噛みきれ、/\」  といひますと、二疋の猛犬は走り出て、大猿を噛んで引き倒しました。そこで猟人は氷のような刀を抜いて猿を俎の上に押し伏せ、頭に刀をさしつけて猿を睨みつけ、 「汝が人を殺して肉を食ふときはかうするのか。よし首を切つて狗に食はせてやらう」  といひますと、猿は顔を真赤にし、眼をしよぼ/\させて、歯をむき出し、涙を流し、手を摺つて詫びますが、それを耳にも入れず、 「汝が長い間多くの人の子を取り食つた代りに、今日は命を断つてやる。今が最後だぞ。汝、もし神ならば俺を殺してみろ」  といつて、首に刀をあてますと、二疋の狗はまたたくさんの猿どもを追ひ廻して噛み殺しました。たまに逃げた猿は、木に上り、山にはひつて、他の猿を呼び集めて、山中響くように叫びましたが、さつぱりそのかひもありませんでした。  そのうちに一人の神主さんに神様がのりうつつて、 「我今日から後は、決して生け贄を求めぬ。また物の命も取らぬ。またこの男が我をこのように責めたからといつて、この男に過ちしてはならぬぞ。生け贄の娘を初めとして、その両親縁類を責めてはならぬぞ。たゞ、我が命を助けてくれ」 と、いひます。そこで神主たちは皆社の内にはひつて、猟人に向ひ、 「神様がかよう/\仰せられる。お許し下されるならばあり難い」  といひましたが、猟人はいつかな承知しません。 「私は命を惜しまぬ。多くの人の代にこやつを殺さうと思ふ。さうして私も死んでしまはう」  と、きつぱりいつてゆるしませんのを、神主たちが誓文を立てゝたのみましたので、 「それまでにいふのなら、ゆるしてやらう。今日限りこんなことをするな」  といつて免してやりますと、大猿は逃げて山へはひつてしまひました。  猟人は家に帰つて、かの娘と永く夫婦になりました。両親はこのお婿さんを大そうよくしました。その後、神様の祟りといふような怖ろしいことは、ちつともありませんでした。  このことがあつて以来生け贄を立てることは廃止になつて、国中は穏になつたと語り伝へたそうです。 登照といふ人倒るゝ門の相を見た話  むかし、登照といふ僧がありました。人の顔貌を見たり、音声を聞いたり、駈けて行く様子を伺つたりして、その人の命の長い短いをいひあて、ゆく末の貧乏になることや、富貴になること、官位の高い低いを知らせました。つまり、人相見の名人で、その見ることに一つの誤りがありませんでした。それで都の僧も俗人も男も女も絶えず、この登照のゐる寺に来て、人相などを見て貰ひました。  ある時、登照が外出をして、都の朱雀門の前を通りますと、門の下に多くの男女老幼の人々が休んでゐました。ふいとその人達を見ると、この門の下にゐるものはみんな、忽ち死にそうな相をしてゐます。これはどうしたことかと思つて、立ち停つて、なほよく見るのに、その相がたしかにありました。そこで登照の思ひますには、今この人たちの死なうとするのは、何事によるのであらうか、もし悪者共などが来て殺すといふようなことがあるにしても、この中の何人かは殺されるかも知れないが、みんながみんな、死ぬはずはあるまい。ところが、今、一人残らず死にそうな相をしてゐるのは不思議千万である、とかういろ/\と考へまはして見ましたが、ことによつたらばこの門が、今に倒れるのであらうか、さうすれば圧しつぶされて、みんな死んでしまふのであらう、といふところに気がつきました。そこで門の下に並んでゐる人達にむかつて、 「それ/\、その門が倒れそうだ。下になつてみな死ぬぞ、はやく出なさい。はやく/\」  と、大声に呼びました。その声に驚いて門の下の人達はばら/\と逃げ出しました。登照自身も遠くへ退いて立つてゐますと、風も吹かず、地震があるでもなく、また門には少しの歪んだところもないのに、俄にこの門が傾いてばたりと倒れました。急いで走り出た人達は命を拾つたけれど、強情を張つてゆる/\と出て来た者は、いくらか下敷きになつて死にました。後に登照がこのことを人に話しましたところが、それを聞いて、皆々その人相を見ることの勝れてゐるのに感心しました。  また、ある時、春雨がしと/\と降る晩、登照の住んでゐる寺の前の一条大路を笛を吹いて通る者がありました。登照がその音色を聞いて、弟子の僧を呼んでいひました。 「今、笛を吹いて行く者は何者だか知らないが、あの音色はもう命がいくらもないように聞える。あの人に告げてやりたいものだ」  ところが、雨がはげしく降つてきましたので、その間に笛吹く人は急いで行き過ぎましたため、ついそのまゝになつてしまひました。翌日は雨がやみました。その夕方、また昨夜の人が笛を吹いて通りました。登照はそれを聞いて、 「あの笛を吹いて通る人は昨夜の者であらう。しかし奇妙不思議なことがある」  といひました。 「咋夜の人でございませう。それがいかゞいたしました」  と、弟子が申しますと、 「あの人を呼んで来てくれ」  と、登照がいひました。弟子は走つて行つて、呼んで連れて来ました。その人を見ると、年の若い男で侍らしいのです。その男を前に坐らせて、 「あなたを呼びつけたのは、外のことでもありません。昨夜笛を吹いて通られた時は、今明日のうちにも命が亡くならうといふ相が笛の音に聞えましたので、そのことを知らせてあげようと思つたが、雨が強く降り出して、あなたも、とつとゝ行つてしまはれたので、お知らせすることが出来ず、甚だ残念に思つてゐましたところ、今夜の笛の音を聞きますと、御寿命は遥かに延びました。今夜どういふお勤めをなさいましたか」 と、たづねますと、 「今夜は、さしたる勤めもいたしませぬが、たゞこの東にある川崎といふところで、人が普賢講の集会をして仏事を営みました。その時、伽陀(印度の賛美歌のようなもの)につけて笛を長く吹きつゞけました」  と、侍は答へました。登照はこれを聞いて、普賢講に出て、笛を吹いた縁で功徳を作り、そのお蔭で罪がなくなつて命が長くなつたのだと思ふと、ありがたくなつて、登照も涙を流してその男を拝みました。侍も、そのことを聞いて大きに喜び、かつは貴んで帰つて行きました。  これは近頃のことで(今昔物語の書かれた時)、かういふ偉い人相見があつたと語り伝へたそうです。 大江匡衡が歌をよむ話  むかし、式部大輔大江匡衡といふ人がありました。まだ大学の学生であつた時のことであります。この人は傑れた才子でありましたが形恰好が少し変で、丈は高く肩が突き出て、見苦しかつたので、人々が笑つてゐました。ある時、宮中の女官たちがこの匡衡を嘲弄しようと企んで、和琴(日本の琴、支那の琴に対していふ)を差し出して、 「あなたは、なんでも知つておいでなされるといふことであるから、これをお弾きになるでせう。一つ弾いて聞かせて下さい」  といひました。匡衡は、それには返事をしないで、  逢坂の関のあなたもまだ見ねば   あづまのことも知られざりけり  といふ歌を読みました。女官たちは、その返歌が出来なかつたので、笑つて嫌がらせることもならず、黙つて一人起ち、二人起ちして、みな奥へ逃げてしまひました。  この匡衡は漢文や、詩の方は至極の名人であつたが、その上に歌もこの通り、うまく読んだと語り伝へたそうです。 郡司が歌をよんだ話  むかし、大隅守なにがしといふ人が、その国に下つて政治を行つた時、郡司の中に勤め方の不取り締りなのがあつたので、すぐに召し寄せて罰しようと思ひました。前々からかういふ場合には罪の重さ軽さを考へて国の守が其人を懲すのが例でありました。ところで、この郡司は一度でなく再三の怠慢がありましたから、重く罰しようと思つて召し寄せたのであります。  さて下役の者が、連れて来たと案内しましたので、これまでのしきたりの通り庭にうつぶしに臥させて尻を挙げさせて、笞打うつはずにして、手をとつて引き据ゑる人や、打つ人の支度をして待つてゐますと、二人の役人がその郡司の両手を引つ張つて出て来ました。見るとその郡司といふのは年取つた翁で、頭の髪は一筋も黒いのはなく、全くの白髪であります。これを見ては打たせるのが、気の毒になつて、何かの事にかこつけて免してやらうと思ひましたが、よいかこつけどころがなかつたので、しくじりの数々を片端から問ひますと、たゞ年寄りの不調法とばかり答へてをります。守はどうしても笞を当てるのが気の毒で、どうかして免さうと考へましたけれど、思ひつきません。 「その方は不届きな男だ。したが歌は読むか」  と、たづねますと、 「はか/゛\しいこともございませんが、読んで見ませう」  と、翁はいひました。 「それなら読んで見よ」  そこで、翁はふるへ声で、   年を経てかしらの雪はつもれども    しもと見るこそ身はひえにけれ  と、読みました。(『しもと』は笞のこと、それを『霜と』に懸けてある)守は、これを聞いて、大きに感心しまして、一しほの不憫を催して、そのまゝ免してやりました。一概に下等だと視られてゐた田舎人のうちにもこのように歌を読む者もあるのでありました。決してばかにはならぬものだと語り伝へたそうです。 保昌、盗人袴垂れに逢ふ話  むかし、袴垂れといふ盗人の親方がありました。度胸がよくて、力強く、足もはやく、手利きで、智慧もあつて、悪る者の世界には無類の奴でありました。何にかゝはらず、隙きを窺つて人の物を取ることをふだんの業としてゐました。この男が十月の頃、着物の入り用がありましたので、衣類を少々儲けようと思つて、それと思ふところをあちらこちらと窺つてゐますと、ある晩、夜中時分、人が皆寝静まり、月が朦朧と照らしてゐる大道を、ひとりそゞろに歩いて行く人がありました。その人は着物をたくさん着込んで、指し貫らしく見える袴の側を挟み上げ、狩衣めいた柔そうな上つ張りを着て、只一人笛を吹いて行つたり、止つたり、ゆる/\と練つて行くのでありました。袴垂れはこれを見つけて、奇妙々々、これこそ自分に着物をくれるために出て来た人であらうと思はれて嬉しく、走りかゝつて、たゝきふせて着物を剥がうと考へましたが、不思議なことにはこの人が、なんとなく怖ろしいような気がしましたので、後について二三町ばかり行きました。ところが、この人はつけてゐる者があるぞと思ふ気振りもなく、いよ/\心静かに笛を吹いて行くので、袴垂れは試してみようと思つて、わざと足音を高くして走り寄つたが、少しも、騒ぐ気色がなく、笛を吹きながら見返つた様子は、なか/\取りかゝれそうにもないので、さつと走り退きました。その後五六ぺん、あゝしたり、かうしたりして、かけよつて見ますけれども、驚く気色は塵ばかりもありません。これは希代の人かなと思つて、また十余町ほどつけて行きました。こんなことでどうなるものかと気を励まして、最後に刀を抜いて走りかゝりました。すると、この人は笛を吹き止めて振り返つて、 「これは何者だ」  といひました。たとひ、いかなる鬼にせよ、神にせよ、かうたゞ一人ゐる人に飛びかゝるのは怖いこともなからうはずなのに、今夜ばかりは、どうしたのか心も肝も消え失せて、たゞ死ぬように怖ろしく覚えたので、我を忘れて地べたに蹲んでしまひました。 「何者だ」  と、再びきかれて、今は絶体絶命、逃げようとしても逃がしはすまいと思つて、 「追ひ剥ぎでござる。名は袴垂れと申します」  と答へますと、この人は、 「さういふ者が世にあるとは聞いた。寒そうな恰好をして変な奴だな。この方と一しよに来い」  と、だけいつて、また、もとのように笛を吹いて行きます。その後からついて行きながらこの人の気色を見ますと、たゞの人ではないと思はれ、鬼神に捕られたといふ塩梅で、なんの考へも出ずに恐る/\供して行きますうちに、この人は大きな邸の門にはひりました。沓を履いたまゝで、縁の上にあがりましたので、この邸の主人に違ひないと思つてゐると、主人は奥にはひつて、すぐに出て来て、袴垂れを呼んで、綿を厚く入れた着物を一つ与へまして、 「以来、かういふ用のある時は、参つていふがよい。心もわからぬ人に取りかゝつて命を失ふなよ」  といつて内にはひりました。その後この邸は摂津前司藤原保昌と呼ぶ人の家と知り、今の人がそれであると思ふと、生きた心地もせずに門を出ました。後に袴垂れが捉まつて、白状した話のうちに、 「あの折りのように怖ろしく恐かつたことはありませぬ。途方もない人があるものです」  といつたそうです。この保昌朝臣は代々の武士でもなく、致忠といふ人の子でありました。それだのに少しも武家出の人に劣らず、力も強く、手利きで、剛胆の上に思慮もたしかでありましたので、朝廷はこの人を武士としてお用ひになつたが、いさゝかもあぶなげはありませんでした。そこで世間でも一般にこの人を畏れ敬ひました。たゞ子孫のないのは、武家の人でない故であらうかなどと、人はいつたように語り伝へたそうです。 源頼義、馬盗人を射殺す話  むかし、河内前司源頼信朝臣といふ侍がありました。東に良い馬を持つた人があると聞いて、その人のところへ馬を貰ひにやりました。馬の主は断りかねてその馬を譲りました。ところが、途中に馬盗人がゐて、この馬を見て欲しくてたまらなくなり、なんとかして盗まうと思つて、そつとあとをつけて上方へ上つて行きました。けれども馬について行く侍たちの心のゆるむ時がありませんので、途中では奪ひ取ることが出来ず、京までついて来ました。馬はやがて頼信朝臣の邸内の厩に入れられました。  その時、ある人が頼信の子の頼義に、父のところに東から今日良い馬が来たと告げました。頼義が思ふには、「その馬は、やがてつまらぬ人に請ひ取られてしまふにちがひない。その前に自分が行つて見て、ほんとうに良い馬ならば自分が貰ひたい」と、かう考へましたので、早速父のもとに出かけました。雨がはげしく降つてゐましたが、馬が見たさに、それにも構はず夕方から行きました。頼信は頼義の顔を見ると、 「どうして久しく顔を見せなかつたのだ」  といひましたが、心のうちでは、頼義が今夜やつて来たのは、この馬の来たことを聞きつけて、これを貰はうと思つてのことにちがひないと悟りましたので、頼義のまだいひ出さぬうちに、自分から口を切りました。 「東から馬を牽いて来たそうだが、わしもまだ見てゐない。取りに行つたものゝ話では大変良い馬といふことだ。今夜は暗くてよく見えないだらう。明日の朝見て、お前の気に入つたら、すぐつれて行け」  頼義はねだらぬ前にかういはれて一そう嬉しくてたまらず、 「それでは今夜はお邸に泊つて明日の朝を待ちませう」  といつて、その夜は父の家に泊りました。宵のうちはいろ/\の物語りなどして、夜が更けてから父は寝所にいりました。頼義もその傍に寄つて寝ました。  夜半頃、雨の音に紛れて、かの馬盗人が忍び込んで、例の馬を盗んで牽いて逃げました。  その時、厩の方で人々が大声を挙げて騒ぎ出しました。 「昨晩、牽いて参つたお馬を盗人に取られました」  頼信はこの声をぼんやりと聞いて、傍に寝てゐる頼義には「今の声を聞いたか」ともいはずに、たゞ一人はね起きて、着物を引きしめ、裾を端折り、箙を背負つて厩に走つて行き、いつも乗りつけの馬を引き出して、飾りもないあり合せの鞍を置いて、それに跨ると、たゞ一人関山の方へと追ひ駈けました。頼信の心では、「この盗人は東の奴で、あの馬の良いのを見て盗み心を起し、つけて来たのであらうが、途中で取ることが出来ないから、京までついて来て、この雨夜を幸ひに奪ひ取つたものに違ひない」と、かう考へたから、東への出口を志して追ひ駈けたのでした。  一方、頼義も騒ぎを聞いて、父と同じように考へて、まだ装束も脱がずに丸寝してゐたのを幸ひ、父にはなんとも告げず、跳ね起きるや否や、父のように箙を背負つて厩に行き、一頭の馬を引き出し、これも関山をさして、たゞ一人で追つて行きました。父は我が子も必ず追ひかけて来るであらうと思ひ、子もまた父が必ず自分より前に追ひかけてゐるに違ひないと思つて、それに後れまいと馬の足を早めて進むうちに関山にかゝりました。  盗人は盗んだ馬に乗つてゐましたが、今は逃れることが出来ないと思つたのか、関山の麓の水のあるところを、ひどくも走らずに、水の中をざぶ/\と音をさせて行きます。頼信はその音を聞きつけて、頼義がそこにゐるかゐないか、闇の中でわかりもしないのに、ちようど約束でもしてあるかのように、 「射よ、きやつぢや」  と叫びました。その言葉の終らぬうちに弓音がしました。手ごたへのあつたのを聞くと同時に、馬が人を乗せずに走つて行く時の鐙の音がから/\と響きましたので、 「盗人はもう射落した。はやく先へ行つて馬をとつて来い」  頼信はさういひ捨てゝ、とつて来るのも待たずに京の方へ引き返しました。そこで頼義はすぐに先へ行つて馬を取り返して戻つて来ました。家来たちはこのことを聞きつけて、一人二人づゝ途まで出て来て主人親子を迎へました。京の邸に着いた時には二三十人にもなりました。けれど頼信は邸に着いても誰々が途まで来たかも知らずに、まだ夜が明けてゐませんでしたから、元の寝所にはひつて寝てしまひました。頼義も取り返した馬を家来に預けて寝ました。  夜が明けると頼信が先づ起きて頼義を呼びました。 「馬を取られなくて結構/\。なか/\善く射たものぢや」  頼信はさういつたきりで、外のことは何もいはずに、 「その馬を牽き出せ」  といひつけました。頼義がその馬を見ると、まことに良い馬ですから、 「それでは頂戴いたしませう」  といひますと、父は昨夜なんともいひませんでしたが、その時、見事な鞍を置いて与へました。大方、夜前盗人を射た褒美の心持ちであつたのでせう。  偉い人たちの心ばへはまた格別なものである。ことに武人の心ばへはこのようなものであると後々までも語り伝へたそうです。 三善清行の家移りの話  むかし、参議三善清行といふ人がありました。世間で善宰相と呼んだのはこの人のことであります(宰相とは参議の唐名。)この人は偉いもの知りで、世の人から尊敬されてゐましたが、人相や占ひや、禍を祓ふ術などにも通じてをりました。  その頃、京のあるところに荒れはてた古い邸がありましたが、縁起のよくない家だといふので久しく住む人もありませんでした。善宰相はちようど家を探してゐたところなので、さつそくこの家を買ひ取り、吉日を選んで引き移らうと思ひました。  親しい人たちは、これをきいて、 「わざ/\縁起の悪い家に移らうとするのは甚だよろしくない」  といつて止めました。  善宰相はそれをきかず、十月二十日の吉日を選んで引つ越しをいたしました。しかし、その引つ越しは人が常にするような仕方ではなく、その日の夕方、今の六時頃、宰相は一人牛車に乗つて畳一枚だけ持たせて、かの家に行きました。  やがて、行きついて見ると、五間の本座敷があつて、家はいつ建てたものかわからないほどに古く、庭には松や、楓や、桜などの樹木が生ひ茂つてゐました。どの木もみんな老木で、何か木魂のようなものでも住んでゐそうに見え、葉の紅くなつた蔦葛があちこちに這ひかゝつてゐて、また庭は苔が一面に厚く生えてゐて、いつ掃除したともわかりません。さらに座敷に上つて見ますと、障子や襖などはみんな破れ損じてゐました。  宰相はまづ縁側の板敷きを拭かせ、持つて来た畳を敷いて、あかりをともさせ、南向きに坐りました。乗つて来た車は車置き場に入れさせて、家来や牛飼ひの男などには「明日の朝来い」といひつけて帰らせました。  宰相はたゞひとり前のところに坐つて眠つてゐますと、夜中になつたと思はれる時分、天井の格子の上でこつ/\する音がしました。見上げると、格天井の格子の一小間ごとに一つづゝ顔があつて、その顔が始終かはり通しであります。宰相はこれを見ましたが、ちつとも驚かず泰然としてゐますと、その顔はみんな消えてしまひました。  しばらくすると、南の板敷きから一尺ばかりの背たけの人間が四五十人ほど馬に乗り、西から東の方へ行列をつくつて通ります。宰相は、それを見ましたが、なほも騒がずにをりました。また少したつて、土蔵の引き戸を三尺ばかり開けて一人の女がゐざつて出て来ました。女は座つた高さが三尺ぐらゐで、髪はふさ/\と肩にかゝつてそれは/\上品で美しい。衣類に●き込めた麝香の匂ひもする。赤い扇を顔にさしあてた上から額が出てゐるのを見ると、色白で美しく、扇のはづれから眼尻が長く出てゐて、その眼でこちらを尻目にかけた姿は人の心を動かすばかりであります。この様子から考へると鼻や口などはどのくらゐ美しからうと思はれました。  宰相は眼を放さずにじつと見てをりますと、やがてかの女はゐざり直すとて顔を隠してゐた扇をのけました。それを見ると、鼻は眼につくほどにきつかりしてさきが赤く、口の脇に四五寸ばかりの銀で作つたような牙が咋ひ違ひに生えてゐます。奇妙不思議なやつだと思ふと、女は土蔵の中にはひつて戸を締めてしまひました。宰相はそれにも驚かず、もとの通りにしてゐますと、こん度は明け方の月の明るいところへ、木暗い庭から浅黄の上下を着た老人が出て来て、文挟みに文をさし挟んだのを高々とさし上げて階子段の下につつくりとひれ伏してゐます。宰相は声をあげて、 「何かいひたいことがあるのか」  と、問ひますと、老人は、しわがれた小声で、 「長の年月住んでをりましたところに、あなた様がおいでになり、困つたことに思ひまして歎願申しに出て参りました」  といひます。宰相はいひました。 「汝の願ひは道理にはづれてゐる。なぜかと申せば、一体、人間の家といふものは、人から人へとだん/\に伝へて行くべきものなのぢや。しかるに、汝は人の伝へてゐるべきところを奪つて人をおびやかし、住ませぬようにして、無理に自分達の住み家とするのは甚だもつてふとゞきなことぢや。まことに鬼神といふものは道理を知つて曲つたことをしない、そこで恐ろしいのぢや。汝は必ず天の咎めを蒙るであらう。察するところ古狐がゐて人を驚かすのであらう。こゝに鷹でも犬でも一匹ゐたら皆食ひ殺させるものを。このことのいひわけをたしかに申せ」  といひました。そこで老人はいひました。 「仰せの趣き、一々御もつともで、かれこれ申し上げても遁れられそうもございませんが、たゞ昔から住みなれたところでありますのでお歎き申すのでございます。人をおびやかすのは翁のしわざではありません。一二の子供めが翁の止めるのもきかずに致すことでございませう。もうかうお出でなされた上はどう致し方もございません。世間では家が建てこんでをりますので行くところも見あたりません。たゞ大学の南門の傍に何も建つてをらぬところがありますが、お許しを蒙つてそこへ移らうと存じますが、いかゞでございませう」 「それは至極よい思ひつきぢや。早く一族どもを引きつれてそこへ移ることにせよ」  宰相がかういひますと、翁は声を高くして「はい」と答へましたが、それについて四五十人ばかりの声が返事をいたしました。  夜が明け放れると、宰相の家の人たちが大勢で主人を迎へに来ましたので一まづ家に帰りました。  その後、この家に手入れをして引き移りましたが、かうして住んでゐるうちに少しも怖しいことなどはありませんでした。  心の賢く智慧のある人に対しては、鬼も化けものもわるさをすることが出来ませんが、考へのない愚かな人達は、鬼のためにおびやかされるものであると語り伝へたそうです。 毒茸を食べてあたらぬ僧の話  むかし、大和の国の金峯山に別当の老僧がありました。古はこの山の別当には一山第一の老僧を用ひましたが、後にはさうでもなくなりました。そこで、かなり久しい間、この一番年寄りの僧が別当職になつてゐたのですが、二番めの年順にあたる僧がありまして、あの第一番の老僧が早く死んでくれゝば、自分が別当にならうものをと、しきりに焦つてゐました。しかし、あいにくと老僧はなか/\頑丈で死にそうにもありませんでした。二番めの僧はこれを大変苦労にして、この別当は年はもう八十にもなるが、体は丈夫で、年に似合はず強そうに見えるのに、自分も、もう七十にはなるし、ことによると、自分が別当にならぬ先に死なぬとも限らぬ。それかといつて人に頼んで別当を打ち殺させでもすれば、いつか露顕するであらうから、これは毒を食はせて殺すのが上分別だらうと思ひつきました。仏法僧の三宝の思はくも怖ろしいが、このまゝにして置いてはしようがないと思案をきめて、さて、その毒を何にしようかと考へました。人が食べて死ぬにきまつたものには、菌のうちの和太利といふ茸類で、これを食べた人は必ず酔つて死ぬといふ。この和太利を取つて来て、うまく料理して平茸だといつて食べさせれば死ぬに相違ない。かう計りごとをきめて、頃もちようど秋でしたから、供も連れずに、たゞ一人で山に行つて、たくさんの和太利をとりました。夕方の薄暗がりに自分の坊に帰つて、人に見えぬようにして、皆刻んで鍋に入れて甘そうに煎りました。  さて、その晩も明けて、まだ朝のうちに別当のところに使ひをやつて、すぐにお出で下さるようにといはせました。別当はやがて杖をついて出て来ました。さて、坊の主人はさし向ひに坐つていひました。 「昨日ある人から結構な平茸を貰ひましたから、それを煮てさし上げようと存じまして、お招き申しあげたのでございます。年が寄ると、かうした甘いものが欲しくなりますもので……」  それを聞きながら、別当は喜んで頭をたてに動かしてゐました。そこで、焼き米を作り、例の和太利の煎つたのを温めて汁にして出しますと、別当は大そうよく食べました。主の僧は、別に本ものゝ平茸を料理して置いたのを食べてお相伴するふりをしました。やがて、食事もすんで、別当は湯などを飲んでをりますので、主の僧は心の中で、うまく行つた。もう少したつと、血反吐を吐いて、大頭痛を起して、のた打ちまはるであらう、と思つて見てゐますと、少しもその気色がないので、不思議でたまりません。そのうちに別当は歯もない口に、少しほゝ笑んで、 「これまでに、この老法師はこんなにうまく料理した和太利を味つたことがない」  といつてすましてゐます。主の僧は、さては見破られたかと思ふと、不思議さよりは恥づかしさが込み上げて来て、ものもいはれず、こそ/\と奥へはひつてしまひました。別当も相手がなくなつて、手持ち無沙汰に自分の坊へ帰つて行きました。  この別当ははやくから、この年まで和太利が大好物でいくら食べても酔ふことのなかつた人であります。それを知らないで計つた巧がまんまと外れてしまひました。さうして見ると、毒茸を食べても、少しもあたらぬ人があるものと見えます。このことはその山にゐた僧が話したのを聞いて語り伝へたのだそうです。 藤原陳忠が木曾の御坂に落ちた話  むかし、藤原陳忠といふ人がありました。信濃守に任ぜられまして、その国に行き、やがて四年の任期が終つて、京へ帰る途中、木曾の御坂を越える時のことであります。  荷物を載せた馬や、馬に乗つた供人たちの一行がどや/\と続いて行きますと、多くの乗馬のうちで、信濃守の乗つてゐた馬が、木曾の懸け橋の欄干を後足で踏み折つて、守は馬に跨つたまゝ真逆様に谷に落ちました。その谷は何十間ともわからぬほどの深さでありますから、墜ちた人は生きてゐようはずがありません。二十尋もあらうと思はれる檜や杉の木が下に茂つてゐますが、その梢が、遥か下の方に見えるところを見ると、谷底の遠いことが推し測られます。今、そこに落ちた人が無事であらうとは思はれません。  多くの家来たちは皆馬から降りて、懸け橋の傍に並んで見下してはゐますが、どうにもかうにもしようがありません。降りて行く路があれば、降りて行つて、守の様子を見とゞけることも出来ます。一日もかゝれば、谷の浅い方から廻つて、こゝの真下に尋ね入ることも出来ませうが、今すぐ底に降りて行く手だてはありません。どうしたものだらうなどと、口々にわい/\いつてゐると、遥かの谷底で人の呼ぶ声が幽に聞えます。 「殿は生きておいでなさるのか」  と、こちらからも叫びますと、いかにも守の叫び声が遠くでします。 「それ/\、何やら仰せられる。これ、静かにしてよく聞け」  といひながら耳を澄まして聞きますと、 「葛籠に長い縄をつけて降せ」  といはれるのです。それでは殿は生きて途中に留つてをられるのだといふので、多くの人の持つてゐる縄を集めて長くつないで、葛籠につけてそろり/\と降しました。縄の末も残らぬまで降し見ると、そこで縄はとまつて、葛籠の重みがなくなりましたので、上の人たちは葛籠が下に着いたのであらうと思つてゐると、谷底から、また声がして、 「さあ、引き上げろ」  といひます。 「それ、引けとあるではないか」  といつて、引き上げますと、至つて軽いものが上つて来ます。 「こんなに葛籠が軽い。殿が乗つてゐられたら重いはずだのに、はてな」 「いや、木の枝か何かに、取りすがつて上られるのにちがひない。だから軽いのだ」  いろ/\のことをいひながら、大勢集つて引き上げると、上つて来たものは平茸を一杯にいれた葛籠でありました。人々は不審がつて、互に顔を見合せて、 「これはどうしたことだ」  といつてゐますと、また谷底から声がします。 「もう一度降せ」 「それ、また降せとあるぞ」  といつて、また、葛籠を降しました。下からまた叫びます。 「それ、引くんだ」  その声にしたがつて、引き上げにかゝると今度はなか/\重い。六七人がかりで引き上げて見ると、守は葛籠に乗つて、片手には縄を捉へ、片手には平茸を三総ばかり持つてをられます。そこで橋の上にお据ゑして、家来たちは喜びながら、 「一体、この平茸はどうなすつたのでございますか」  とききますと、守は答へました。 「落ち込んだ時に、馬ははやく谷底に落ちたが、わしは後れてそろ/\落ちて行つた。ちようど木の枝が左右から差し合つてゐた上に、ふいと落ちかゝつたので、その木の枝を力に下ると、その下に大木の枝があつた。それを踏まへて大きな枝の股に取りついて、それを抱へて留つた。ところが、その木に平茸がたくさん生えてゐたので、見捨てかねて手の届くだけ取つて葛籠に入れて上げたのだ。途方もなくたくさんあつたものだ。とんだ損をして惜しいことをした」 「とんだ御損をなさいましたな」  と、家来たちも一同大笑ひしました。守はそれにもめげすに、 「冗談ではないぞ。宝の山にはひつて手を空しくして帰つたような気がする。受領(地方官)は倒れるところで土を掴めといふではないか」  といひました。家来のうちで頭分の一人が腹の中ではをかしく思ひながら、 「まことにその通りでございます。手の及ぶ限りの物をお取りにならぬ法はございません、誰にしてからが、それを取らずには置きません。根がお賢くておいでなされる方は、こんな命がけの時にも、心を乱さず、万事をふだんの時のようになされるので、騒がずに平茸をお取りになつたのです。その上、国の政も善くお治めになつて、思ひ通りに都へお上りになりますので、国の人は両親を恋ひしたふように守をお惜しみ申してをります。お末は万歳千秋でございますぞ」  などゝいつて、側を向いて笑ひました。  この話を聞いた人も、憎がつて笑つたと語り伝へたそうです。 瓜を盗み食はれた話  むかし、七月の頃、大和の国から、人足たち大勢、たくさんの馬に瓜を積んで都へ上りました。  宇治の北にその時分生らぬ柿の木といふ木がありました。その木の下のところで人足たちが皆立ちどまつて、瓜を容れた籠などを馬から降して休息しました。涼みがてら、人足たちは、自分たちの分に取つて置いた瓜を少しばかり取り出して切つて食べてゐました。すると、多分その近辺の者でありませう、余程年を取つた老人が帷子を着て、足駄を穿き、杖をついて人足たちの傍に近づいて来て、力なさそうに扇を使ひながら、人々の瓜を食べるのを見つめてゐました。少したつてから老人はいひました。 「その瓜を一つわたしにも食べさせなさい。喉が乾いてしようがない」 「この瓜はみな、わしらの物ではない。気の毒だから一つぐらゐあげたいのだが、主があつてその人が京へ送るのだから、食べさせるわけには行かぬ」  と人足たちは答へました。 「情の強い人たちだ。年寄りを可愛そうだと思ふがいゝ。どうしてもくれはすまい。よし、それなら、この年寄りが作つて食べよう」  老人がさういふと、人足たちは冗談をいふのであらうと思つて、をかしがつて笑ひ合つてゐます。すると、老人は傍にあつた木片を取つて、自分のゐた近辺の土を掘つて畑のようにしました。何をするのだらうと見てゐると、人々の食ひ散した瓜の種をかき集めて、今ならしたばかりの土に植ゑました。さうすると、ほどなくその種から双葉が生えました。人足たちが不思議のことゝ思つてゐるうちに、その双葉がずん/\大きくなつて、そこら中に這ひ広がりました。そして、大そう茂つて花もたくさんついて瓜がなりました。それも見る/\大きくなつて熟した立派な瓜になりました。人足たちはこの老人は神様であらうと、怖ろしく思つてゐるうちに、老人はこの瓜を取つて食べながら、人足たちに向つて、 「お前たちが食べさせなかつた瓜をこんな風に自分で作つて食べるのだ」  といつて、人足たちにもやつて食べさせました。瓜はたくさんにありましたから、そこを通りかゝる人たちも呼んですゝめましたので、みな喜んで貰つて行きました。さて、一通り食べをはりましたので、 「わしはもう行きませう」  といつて、老人は立ち去りましたが、その行く方はわかりません。  さて、人足たちは、もとのように馬に瓜を乗せて行かうと思つて見廻すと、籠ばかりあつて、その中の瓜は一つもありません。 「これはどうぢや」  人足たちはみな手を拍つて呆れました。老人はとうに籠の瓜を取り出したのですが.人足たちの眼をくらまして、さうとは見せなかつたのだといふことがわかつて、悔しがつたけれど、老人の行つた先もわかりませんので、なんとしようもなく、みな大和へ帰つてしまひました。そこへ通りかゝつた人たちはこれを見て不思議にも思ひ、をかしくもありました。人足たちが瓜を惜しまずに二つ三つも老人に食べさせたなら、みな取られてしまふようなこともなかつたらうに、瓜を惜しんだのを悪んで、かういふことをしたのでありませう。また変化の者であつたかも知れません。その老人は後々まで誰ともわからずじまひであつたと語り伝へたそうです。 狗山の狗、大蛇を食ひ殺す話  むかし、陸奥の国のある郡に一人の賤しい男が住んでをりました。家には多くの狗を飼つて置き、いつもその狗どもを連れて深山にはひり、狗にけしかけて猪や鹿を食ひ殺させてとることを業としてゐました。狗どももしきりと猪、鹿などを食ひ習つて、主人が山にはひる時には、みんな喜んであとさきに立つて行くのでした。ですから世間の人は狗山と称へるのでありませう。  ある日、この男はいつものように狗をつれて山にはひりました。前々もある通り食べ物の用意をして、二三日ばかりつゞけて山に留まつてゐましたが、ある夜のこと、大きな木の洞の中で、傍に弓矢太刀などを並べ、前のところでは火を焚いてゐました。狗どもはみんなそのまはりに臥てゐました。  さて、多くの狗の中に長年飼ひつけてある一段と勝れた賢い狗が一匹ゐましたが、夜もふけて他の狗どもが皆眠つてゐるのにこの狗だけは、俄に起き上り、木の洞の内によりかゝつて寝てゐる主人の方に向ひけたゝましく吠え立てました。  主人は何事があつて吠えるのかと不思議に思つて、あたりを見まはしますが何もゐません。しかし、狗は吠えることを止めず、後には主人に向つて飛びかゝり飛びかゝりして吠えました。吠えるべきものも見えないのに、自分に向つてこの様に吠え立てるのは、きつと獣の性根をあらはして、こんな人気のない山中で、自分を咋ひ殺さうとするのであらう。こいつ切り殺してやらうと思つて、太刀を抜いておどして見ましたが、犬はこの勢にも恐れず、又しても飛びかゝり吠え/\しました。そこで主人は、こんな狭い洞の中でこいつに咋ひつかれては困ると思ひ、洞から外へ躍り出しました。  その時狗は、いましがたまで主人がゐた洞の上の方へ飛び上つて何物かに咋ひつきました。さては、自分を食はうとして吠えたのではなかつたと覚りましたが、それにしても何に咋ひついたかとよく/\見ますと、体の長さ二丈あまり、さしわたし六七寸もある大蛇でありました。蛇は頭を烈しく昨ひつかれてこらへかねて落ちたのであります。  これを見て主人は、ぎよつとしましたが、狗の心を偉いと思ひ、すぐに太刀をとつて蛇を切り殺しました。狗も安心して主人のところを離れて行きました。  梢の遥かに高い大木に、とうから大蛇が住んでゐたのを知らず、その木の洞で寝てゐたのを蛇が呑まうとして降りて来たのでしたが、その頭を見つけて狗が飛びつき/\吠えたのであります。主人は上を見上げなかつたので、それを知らずに自分を咋はうとするものかと思つたのでした。  もし、はやまつて、狗を切つてしまつたならどんなに悔しかつたらうか。それを考へると、その夜は眠れませんでした。夜があけて蛇の大きさを見ますと、なんとも怖ろしく、ほとんど死ぬような心持ちがしました。眠つてゐるところにこの蛇が降りて来て巻きついたら、どうにも仕ようがありません。この狗は自分の為にはまたとない大事な宝であると思ひ、狗の頭を撫で/\家に帰りました。  狗を殺してしまつたら、狗も死に、主人も後で蛇に呑まれてしまつたのであります。こんな場合にはよく/\静かに考へて為事をすべきであると語り伝へたそうです。 新羅に渡つて虎に遭つた人の話  むかし、鎮西(九州)のある国の、ある郡に住んでゐた人が、商用のために、一艘の船に数人の人を乗せて新羅に渡りました。商用をしまつての帰りに、新羅の山の根に沿つて漕いで行くうちに、船に飲み水を汲み入れようと思つて、水の流れ出るところで船をとめて、人を降して水を汲ませました。  その時、船に残つた者の一人がふと海を見ると山の影が映つてゐます。その山の岸から三四丈上のところに一頭の虎が身を縮めて、何か物を窺ふようにしてゐるのが、やはり水に映つてゐます。すぐに傍の者たちに知らせて、水汲みに行つたものどもを急いで呼び戻して、手ん手に、櫓櫂を取つて大急ぎで船を沖に出しました。その時、虎は岸の上から下りて船に飛び込まうとしましたが、船がはやく出たので、虎は一丈ばかりのところで船に躍りつかずに海中に落ち入りました。船の人々はこれを見て、恐ろしがりながら、漕ぎに漕いで一しよう懸命に逃げました。少したつて、今はどうしたかと思つて、一同振り返つて見ると、虎は暫くして海面に浮き上つて、陸に泳ぎつき、水際にあつた平な石の上に上りました。どうするのだらうと思つて見ると、虎の左の前足が膝から下切れてなくなつて、血が出てゐます。これは、きつと海に落ちた時、鰐が噛み切つたものらしいと思つて見てゐるうちに沖の方から一疋の鰐が虎のゐる方をさしてやつて来ます。鰐が進み寄つて、虎に挑みかゝると見ると、虎は右の前足で鰐の頭に爪を立てゝ陸に向つて投げ上げました。鰐は一丈ばかり離れた浜に投げ上げられて、仰向けになつて砂の上でのたうち廻つてゐます。虎は続いて走り寄つて、鰐に躍りかゝり、頭の下に噛みついたと見ると、二三度振り廻して、鰐の弱るところを肩にかけて、五六丈もある、真直に切り立つた高い岩を三本の脚で、まるで降り坂でも下りるような速さで登つて行きました。船の中の人々はこれを見て半分死んだような気がしました。 「この虎の烈しさを見るともし船に飛び入りでもしたら、一人残らず、みな噛み殺されて、うちに帰つて妻子の顔を見ることも出来なかつたらう。優れた弓矢槍刀などを持つて千人で防いでも勝てる見込みはない。ましてこの狭い船の中で、太刀を抜いて向ひ合つても、あの通り力が強く、足が速くては、どうすることが出来よう」  などといひ合つて、気も魂も失せて、船を漕ぐ力もなくなつたが、やう/\のことで鎮西に帰つて来ました。そして、おの/\妻子たちにその話をして危く帰つたことを喜びました。その話を伝へ聞いた外の人々も怖気をふるつたとのことです。  これを思ふに、鰐も海の中では強くて賢い動物ですから、虎が海に落ち入つたところを脚を噛み切つたのです。けれども虎を食はうとして陸近く来て命を失ひました。ものごとはすべて、みなこんなものです。人はよくこの話を聞いて、あまり欲を深めるのは止めにして、いゝかげんのところで止まつたがいゝと語り伝へたそうです。 阿倍頼時胡の国に行つて帰る話  むかし、陸奥の国に阿倍頼時といふ武士がありました。その国の奥に蝦夷といふ民族がゐて朝廷の命に従はぬので、これを征伐することになつて、陸奥守源頼義朝臣が討つ手に向つた時、頼時は蝦夷の者どもと心を合せてゐるといふ噂が立ちましたので、頼義はまづ頼時を攻めようとしました。その時、頼時はいひました。 「むかしから今まで、官軍を引き受けて、戦ふ者も随分あるが、ついぞ軍に勝つたものがない。わしはかつて悪いことをした覚えはないけれども、かうして討つ手を向けられる上は致し方もない。こゝの奥の方から海の北に幽に見渡される土地がある。そこに行つて、ところの様子を見て、住まへるところであつたら落ち着くことにしよう。こゝで官軍を引き受けて空しく命を失ふよりもましである。わしに離れたく思はぬものだけつれて、あの地に移つて住むことにしよう」  それから、大船一艘を造つて、それに乗つて行く支度をしました。その人々は、頼時の他に、子の厨河二郎貞任、鳥海三郎宗任を初めとして一族の者、親しく仕へてゐる家来二十人ばかりでありました。その人たちの供や料理人などを合せて総勢五十人ばかりが、船に乗り組んで、当分の食料として米、酒、菓子、魚、鳥の類まで、たくさんに積み入れて出帆して、やがて、その遠くに見えた土地に着きました。  ところが、岸には非常に高い岩がそば立つて、その上には山がたくさん立つてゐるので、登ることが出来ません。そこで山の根に沿つて漕いで廻はつて見ると、左右どこまでも葦原続きになつてゐるところがありました。  そこに大きな河の入り口のあるのを見つけて船をさし入れました。人がゐるかと思つて見渡しましたが、人の影もありません。また、上陸するところがあるだらうと捜して見ても一面の葦原で、足を踏み入れる道もありません。河といつても、底もわからぬほどに深い沼のようなところでした。  もしかしたら、人気のあるところがありはしないかと思つて、河上の方へ上つて行きましたが、どこまで行つても同じようで一日たち二日たちました。不思議に思ひながら、七日つゞけて上りました。それでもなんの変りもありません。それにしても河のはてがないはずもあるまいといひながら、二十日上りましたが、やはり同じようです。更に上つて三十日めになりました。その時、変に地響きがするような気がしましたので、船の人はみなどんな人間がゐることかと怖ろしく思ひました。葦原の茂みに船を隠して、響きのする方を葦のすき間から覗いて見ると、絵にかいてあるような胡の人の姿をした者で、赤い巾で頭を結つたのが一騎あらはれました。その後から続いて幾人となく出て来ました。河端に立つて聞いたこともない言葉で話してゐますが、何事をいふのかわかりません。もしや、この船を見つけて話してゐるのではないかと思ふと、恐ろしくなつて、いよ/\姿を見知られぬようにしてゐると、胡の人たちは二時間ばかり囀り合つた後、河の中へばらばらとはひつて渡りました。その人数は千騎ぐらゐに見えました。徒歩のものどもは乗馬の者の側に引きつけられ/\して渡りました。先に地響きのしたのはこの馬の足音の遠音が聞えたのです。  みな渡り終つてから、船の人たちは、この三十日ばかりの間に渡り瀬と思はれるところは一つもなかつたが、今胡の人の徒歩渉りしたのを見て、こゝこそ渡り瀬だなと合点して、こは/゛\ながら、そこへ船をさしよせて見ると、どうして足を下ろすどころか、やはり底もわからぬほどの深さであるのに、こゝも瀬になつてゐるのではないと知つて思ひ止まりました。最前の人々は馬の筏といふことをして、馬を泳がせて渡つたのです。馬に乗らぬ人たちを馬に引きつけて渡したのを、徒歩でわたつたつたものと思ひ違へたのです。 「これほど上つてもはてしのないところだから、この上同じことを続けても、そのうちに危いことにでも出会しては大変だ。それよりも食べ物の尽きないうちに早く帰らう」  頼時を始め船の人々はみなかういひ合せて、そこから、もと来た方へ下つて、河口から海を渡つて本国に帰りました。その後、いくらもたゝないうちに頼時は死にました。  胡といふところは、唐よりもずつと北と聞いたが、実は陸奥の国の奥にある蝦夷の地につゞいてゐたものであらうと、頼時の子の宗任が法師になつて九州にあつた時、人に話したのを聞いてかう語り伝へたそうです。 満農の池を頽した国司の話  むかし、讃岐の国多度の郡に満農といふ大きな池がありました。それは、弘法大師が、その国の百姓が水がなくて困るのを気の毒に思つて、人を集めてお作らせになつた池であります。池の周はなか/\長く、土手も高く出来てゐましたので、ちよつと見ると池とは思はれず、海のようでした。向う岸が幽に見えるほどですから、その広さは大抵想像がつきます。この池が出来てから、国の人は田を作るのに、旱の時でも池の水の助けによることが出来ましたから、みな大そう喜んでゐました。上手から幾筋となく川がこの池に流れこむので、池の内には水が常に満ちて渇れることなどはありませんでした。その上、この池には大小の魚がいろ/\棲みゐたので、国の人は自然この魚を捕ることもありましたが、いかにもたくさんにゐるので、始終池に満ちてなくなる時はありませんでした。  ところが、ある国司がこの国にゐた時のことでありました。百姓たちや、役所の人々が大勢集つて雑談をしてゐるついでに、 「満農の池に魚の多いことはどうです。三四尺の鯉もゐるようだ」  などといひました。それを国司が聞き伝へて、魚が欲しくてたまらなくなり、どうにかして捕りたいものだと思ひましたが、困つたことには池が非常に深いので、人が池に下りて網を入れることも出来ません。そこで工夫をして、池の土手に大きな穴をほり通して、その穴から水を出して、水の落ち口に魚を受ける物を仕かけましたので、水が走り出るについて魚も出て来ましたから、魚は数限りもなく捕れました。その後で穴を塞ぎましたけれども、水の押し出る勢が猛烈ですから、満足に塞ぐことは出来ませんでした。  一体、池から水を出すには、樋を打つて、水が堤の土にじかにあたつて土を崩さないようにしてこそ、池が渇れてしまふようなことにもならないのに、これは堤をいきなりに掘つて水を通したから、その穴が頽れてだん/\に広くなりました。大雨が降つて池の上手から流れ込む川々の水が増して、池に水が満ちるので、その穴がもとになつて、堤は堀り崩されてしまひました。そのために池の水は残らず出てしまつて、その勢で田畑は多く損じました。また魚も流れ出て人に捕られてしまひました。それから後は池の水はいつでも少かつたのですが、年月をかさねるうちに残つた池も跡形なしになりました。  これといふのも、この国司の欲心から起つたことです。国司がこのために罪を得たことはどのくらゐでせうか。弘法大師などといふ偉い人が百姓を憐んで造られた池を失つたばかりでも、この上ない罪にあたります。その上に池が頽れたゝめに多くの人の家屋や財物を流し多くの田畑をなくした罪も、独この国司が背負はなければなりません。また池の内の数知れぬ魚などが人に捕られた罪も誰が負はねばならぬのでせうか。なんともつまらぬことをした国司であります。  ですから、人は強欲の心を止めなければなりません。国の人達は後々迄、この国司を憎み謗つてゐます。その池の堤の形だけはまだなくならずに残つてゐると語り伝へたそうです。 謡曲物語 白楽天 支那の唐の代に、白楽天といふ名高い文章家がをりましたが、時の帝の命を受けて、日本に渡つて、我国の人たちの智慧がどのくらゐであるか視察することになりました。  海路遥かに漕ぎ出して、日本の九州のある港に着きました。こゝに暫く碇をおろして様子を見てゐますと、一人の老人が一人の若者と一艘の小舟に乗り釣りをしてゐるのが眼にとまりました。そこで白楽天はまづ視察の緒を得ようと思つて声をかけました。 「そなたは日本の人か」  すると、老人は答へました。 「さよう、日本の漁師でござる。あなたは唐の白楽天でおいでぢやな」  突然、かういはれて、白楽天はびつくりして問ひ返しました。 「今来たばかりであるのに、白楽天と見たのはどうしたわけぢや」 「唐の国の方ではあるが、名は夙くから日本に聞えてをります。誰も知らぬ者はないくらゐであるから、お名前を申したのでござる」 「たとひ名だけは聞えてゐても、これがその人であると知るのは不思議ぢや」 「この国の人の智慧を試さうとして白楽天の来られるといふ噂は、どこまでも広まつてゐますので、西の方から船が来ればその人と、実はとうから待つてゐました。今見れば唐船に乗つてお出での人、これを白楽天と見るのは眼鏡違ひでもござるまい。言葉もわからぬあなたたちと、話のしようもない。その暇も惜しいので釣りをします。御免なさい」 「まだ尋ねたいことがある。舟を寄せなさい。なんと老人、この頃日本では何を遊びごとにするか」 「さういふあなたの国では何を遊びごとにするのぢや」 「唐では詩を作つて遊ぶよ」 「日本では歌を読んで心を慰めます」 「はて歌といふはどんなものかの」 「天竺でいふ霊文が唐土の詩賦、唐土の詩賦が日本の歌ぢや。そのようなことは知つてゐられるはずぢやに、さてはこの老人の心を試すおつもりな」 「いや、さういふわけではない。それでは眼の前の景色を詩に作つて聞かせよう。青苔衣をおびて巌の肩にかゝり、白雲帯に似て山の腰をめぐる。なんとわかつたか老人」 「青苔の詩句面白い/\。日本の歌はかうでござる。苔ごろも着たる巌はさもなくて衣着ぬ山の帯をするかな」 「不思議ぢや、賤しい漁師の身で、かように心ある歌を読むとは一体そなたは何者ぢや。名を聞きたい」 「さういはれてはお恥づかしい。名などはないものでござる。しかし、歌を読むのは人間に限つたことではない。生あるものは皆歌を読みます」 「なに生ある物はなんでもとな。すれば鳥や獣も」 「歌を詠ずるためしはたくさんあります。花に啼く鶯、水に栖む蛙までも、唐土では知らぬが日本では歌を読みますので、老人も一通りは読みますのぢや」  老人は、それから、孝謙天皇の御代に、大和の国高天寺の人が、鶯が梅の木にとまつて初陽毎朝来、不遭還本栖と鳴くのを聞いたが、これを訳して見ると、「初春のあしたごとには来たれども遭はでぞ還る本のすみかに」となる。その外同じような例は数へ知れぬほどに多いことを話すと、白楽天は深く感服いたしました。  老人はなほも突つ込んで、舞楽に合せて歌をうたふ日本の国風を見せて、一そう楽天の心を和げて国に帰らせようと思ひ、その舞楽を見てはどうかといひますと、白楽天はその役々をする人も見えぬのにと、不審そうな様子をしますので、老人は、 「誰もをらぬが差し支へはない。わしだけあれば舞楽は出来る。鼓は浪の音、笛は海中の龍の吟ずる声で間に合ふ。それに舞ひ人はこの老人……」  といつて、つつと海中にはひりました。  やがて、住吉明神が西の海から神体をあらはされて、白楽天を呼んで諭されるには、 「われ住吉明神の力のあるうちは、なんとしても日本を他国から窺はせることは出来ない。早く唐土に帰れ戻れ」  さう仰せられると、やがて伊勢、石清水、賀茂、春日、鹿島、三島、訪諏、熱田その他の神々があらはれ、中にも厳島の明神は龍宮の姫君でありますから、海上に浮んで海青楽を舞はれましたが、ほどなく神風が起つて、白楽天の乗つてゐる唐船を次第に西へ/\と吹き流して、とう/\支那の地に着けてしまひました。これも神国であるわが国のありがたいところで、日本はいつまでも動がぬ国となつてゐます。 養老  元正天皇の御代に、美濃の国の多度山に不思議な泉が湧き出しました。その味ひは甘くて良い酒のようで、ある貧しい家の孝子がこれを汲んで親に飲ませて老を養はせてゐるといふ噂が都に伝はりました。お上のお役人が勅命をかうむつて、このことの嘘かほんとうかを視て来るために美濃の国に下つて、やがて養老の滝の辺に着きました。  その時、親子と思はれる二人の者が、年寄りは杖にすがり、若者は水桶を提げて出て来て、養老の滝の水は薬の力があつて、身も心も健かになつたと喜びながら通りました。役人はこの老人を呼びとめて、 「尋ねたいことがある。そなたたちはかねて聞き及んだ養老の親子の者か。我らは朝廷のお使ひであるぞ」  といつて、勅使に立つたわけを述べ、まづこの泉を養老と名づけたわけを尋ねると、老人は恐れ多い聖慮に感じ入つて、 「いかにもお尋ねの親子の者でございます」  と答へて、 「養老の滝のいはれを、仰せに従つて申し上げませう。こゝに伴ひましたものは、わたくしの子でございますが、朝晩、山に分け入つて薪をとり、里に持つて参つて売つて来ては、わたくしたち夫婦を養つてくれます。ある時、山路の疲れに喉の乾きを覚えまして、何心なくこの水を汲んで飲みましたところ、たゞの水と違つて、心もすが/\しく身の疲れもなくなりましたそうで……」  すると、若者も老人の言葉に次いで話しました。 「仙人の家で用ひるとか申す薬の水とは、かようのものかと思ひまして、嬉しさのあまり、その水を器に入れて家に持ち帰り、年寄つた父母に進めましたれば……」 「飲むと等しくわたくしも老を忘れました」  と、老人もつけ加へました。 「朝も床を離れるのにものういといふこともありません」  と若者がいへば、老人も続けて申しました。 「夜の寝覚めにも寂しさを感ずることもありませんし、心は若い人同様に勇しくなりました。それでこの泉を名づけて養老の滝と申します」  役人はこれを聞いて感心しました。 「まことにありがたい祥瑞でめる。してその薬の水といふのは、この滝川の中でも取り分けてどこを指すのであるか」 「それは、この滝壺の少しこちらの岩の間から出る水でございます」  老人の言葉にしたがつて、役人がその水を見ると、いかにも澄みとほつた山水で、なるほど薬の水らしく、まことに老を養ひそうに思へました。この水が、老人を養ふならば、壮年の人にも薬になるはずであるから、これを帝にまゐらせたら、御寿命も久しからう。それにしても、かうしためでたい世に遇つた老人たちも我らも運のよいことであると、役人も喜びました。   老人親子はこの水を帝に捧げ奉らうとして掬ひ取りながら、支那の晋の代に出た竹林の七賢が、酒を薬水として心をのべた故事などを引いて、その酒にもました水であるとたたへたり、また彭祖といふ仙人が菊に滴る露を飲んで七百年の寿を得たといふ話をしたり、また雨露は草木を育てるものでいはば薬の水のようなものであるが、老人も雨露の集つて出来たこの泉で老を養ふことが出来るなどと話しました。 「まことにあり難い薬の水ぢや。急いで都に帰つてこの趣きを奏聞いたそう」  と、役人は申しました。 「わたくしたちのような下民の上まで御心におかけ下さいますことは、誠に忝く畏れ多うございます」  と老人もいつて、勅使に礼をして、そこを立ち去りました。  その時、ふいに天から光明がさし、滝の響きも澄んで、空には面白い音楽が聞え、時ならぬ花が降り初めました。これは、たゞごとではない。神霊などの来現ではないかと思つてゐると、案のごとくこの多度の山神があらはれて、治まる御世なればこそ、薬の水の祥瑞もある。自分はこの御世の長く久しく続くように守つてゐる神であると説き示して、舞ひを奏して君と臣民との同心合体を祝つて天に昇られました。 田村  東の国から、都見物に上つた僧が、都に着いて東山清水寺に来ました。ちようど春のなかばで、境内は桜の真盛りでした。中でも地主権現のお堂の辺の花が見事でした。そこへ一人の童子が来かゝりました。見ると、手てに美しい帚を持つて花の木蔭を掃き浄め出しました。僧はよい相手が出来たと思つて、 「あなたは花守りでいらつしやいますか」  と、きゝますと、童子は、 「さよう、こゝの地主権現に仕へてゐる者でございます。花時分には、いつも木蔭を浄めますから、花守りとも申されませうし、また、権現の御奴ともいはれませう。どちらにしても権現に縁のある者と御覧下下さい」 「なる程、さう見えます。ついてはこの御寺清水寺のいはれ因縁を詳しく話して下さい」  そこで童子は程よいところに座を構へて、当寺の来歴を話しました。 「この清水寺と申しますは、大同二年に初めて建てられたもので、建てた人は坂上田村麿将軍でございます。むかし、大和の国子島寺といふ寺に賢心といふ僧がありまして、絵像木像にしたのでない、生きた体の観音様を拝みたいと祈つたところ、ある時、木津川の上手から金色の光がさしたので、何事かと思つて、そこに行つて見ると、一人の老人がゐました。その老人のいふのには、私は行叡居士といふ者ぢや、お前は一人の施主を待つて大きな寺を一つ建てゝ貰ひなさい、と、かういつて東の方へ飛んで行つてしまひました。その行叡居士といふのは誰あらう観音様がこの世にお現れなさつたのであり、また一人の施主を待てとあつたその施主は坂上田村麿でありました。たゞ今も清水といふ名の通り清い流れに縁のある深い誓ひの数々をお立てになつて、観音様はどのようにもして人間を救はうと思し召して、この世界にお姿をお見せになるとは、ありがたいことではありませんか」  と、語り聞かせたので、僧は、 「よいお方にお目にかゝつて仕合せでございます。また四方に見えてゐるのは、みな名所でございませう。お教へ下さい」  と、頼みますと、童子は、 「さよう、みな名所です。お尋ね次第教へて上げませう」 「まづ、南の方に大きな塔の見えるのはどこですか」 「あれは歌の中山清閑寺で、それから先の今熊野まで見えてをります」 「それでは北の方で夕暮れの鐘の音がするのは、なんといふ寺ですか」 「あれは鷲尾のお寺です。あゝ、もし御覧なさい。うしろの音羽山から峯の月が出て、この地主のお前の桜にうつる風情のよいことは、真に見物ですよ」  といふので、僧はなる程と合点して、童子と一しよに、『春宵一刻値千金、花に清香あり月に蔭あり』といふ古い詩を思ひ起し、また桜の木の間を洩れてさす月明りに、花の散り交ふ様は雪の降るように見えるなどゝ賞めて、こゝの花が、よそのにまさつて一際美しいのも、所がらであるなどゝ話し合ひましたが、僧はこの童子がたゞの者でなさそうなのに心づいて、名を尋ねますと、童子は立ち上つて、 「名を知りたいなら、私の帰つて行く方を御覧なさい」  と、いつて、地主権現の社の前から遠くへ行くかとおもふと、じきに隣りの田村堂の戸を開けて内陣にはひつてしまひました。  そこで僧はいよ/\、その童子が神仏の化現であることを知りまして、今夜は一晩この桜の蔭にゐて、なほこの上の御利益にあづからうと思ひ、法華経を読んで夜を更しました。  すると、その夜の夢に、甲冑を厳重に装つた立派な武将が現れまして、お経の手向けを喜び、今生後生と世界を別にした僧が自分と言葉を交すのも、ひとへに観音のお力であるといひました。僧はまのあたり、この奇蹟を見まして、どなたでおいでなされるかとききますと、田村麿の霊は、 「人皇五十一代、平城天皇の御代にあつた坂上田村麿ぢや」  と答へ、その後に言葉をつゞけて、そのむかし、都に近い伊勢の国、鈴鹿山の鬼神(悪者)を平ぐべき勅命を受けて出陣した時に、この清水の観音に参詣して軍の勝利を祈り、近江から伊勢に入る間もひとへに観音の力を頼み、土も木も我が大君の国のものであるのに、その国内に鬼神などが住んで御威光に従はぬといふはずはないと、固く決心して軍を進めました。さて、鈴鹿山に近づきますと、鬼神は大勢で鬨の声をあげて官軍を脅してゐます。田村麿は陣頭に立つて敵に向ひ、 「なんと鬼神共、よつく聞け。むかし藤原千方といふ悪者に使はれた鬼も、朝廷に叛いた天罰を被つて、ほどなく滅びてしまつたではないか。まして、こゝは帝城に遠からぬ鈴鹿山で、御稜威をおそれぬとは何事だ」  と、責めると、鬼神は怪しい術をつかつて、黒雲を起し、火になつた鉄の雨を降らせ、何千人ともわからぬ勢でひしめいてゐます。さすがの田村麿も、これは容易なことではいかぬと思つてゐますと、不思議にも身方の軍隊の旗の上に千手観音が御光を放つて空中を飛行せられ、数多の御手に大慈悲の弓を把り、大智慧の矢をつがへて雨霰のごとく射かけられますと、その矢が鬼神の頭の上に落ちかゝるので、鬼神は一人も残らず斃れてしまひました。これは全く観音の力であります。観音経のうちに、観音を信ずる者は、もし敵があつて我を殺さうとしても、その咒ひや毒薬が、かへつて本人の身にあたつて斃れると説いてありますが、まつたくその通りでありました。とかう話しながら、その戦ひのさまをして見せて、また、もとの堂にはひつて行かれました。 忠度  和歌の名人、藤原俊成に仕へた人で、主人が亡くなつてから仏道にはひつて僧となつた人がありました。修行の為に西国へ行かうと思つて、都を立ち出でて須磨の辺に来かゝりました。その時、一人の老人が薪に花を添へたのを背負つて出て来て、山のある方へ行かうとしました。この老人が独言をいつてゐるのを聞きますと、 「この須磨の浦は寂しくて、うき世離れがしてをるわい。ちら/\見える漁船や、細く立ちのぼる汐焼きの烟りや、岸の松吹く風などみな寂しいものぢや。こゝにまた、この浦の山かげに一本の桜があるが、これは亡くなつたある人の記念の木ぢや。ちようど、時も春で、花もあるから薪に折り添へて、その花を手向けてまゐらう」  と、かういつてゐるのです。僧は老人にむかつて、 「あなたはこの辺の山人ですか」 「さうです。この浦の海士でございます」  僧は老人の言葉を聞きとがめて、 「海士ならば浦で為事をなされそうなものであるのに、山の方へ行かうとなさるからは、山人といひそうなものぢや」 「海士が汐を汲んで焼かずにうちやつて置きませうか」 「なるほど、汐を焼くには」 「汐木といつて薪を採らねばなりませぬ」 「近いうしろの山里に」  と、僧がいひかけますと、老人は、 「柴があるのを採りに行きます」  などゝ、問答をしてゐる間に日が暮れかゝりました。そこで、僧は一夜の宿を老人に頼みますと、 「さて/\、あなたは心のない方ぢや。この花の蔭ほど、よいお宿がどこにありませう」  と、老人にいはれて、 「まことに、花の宿といふ言葉もありますが、その花の宿には誰を宿主とするのでせうか」  と、僧がたづねますと、 「『行き暮れて木の下蔭を宿とせば、花や今宵のあるじならまし』といふ歌があります。その歌主はこの木の下にをられます。それが痛はしいので、自分らのような海士でも始終立ち寄つて、手向けをするのに、お僧たち仏門の方がお弔ひなされぬとは、どうしたことでござります」  と、老人がいひました。 「『行き暮れて木の下蔭』と詠んだ歌主は、薩摩守」  と、僧がなかばいひかけました時、老人がいひました。 「忠度といふ人は、この一の谷の戦ひに打ち死にをしました。その忠度に縁のある人が植ゑておいた木がこれでございます」  この話を聞いて、僧は不思議の縁と思ひました。それは忠度朝臣は自分の旧主俊成卿の歌の友だちであつたのに、今自分は忠度を記念する桜の下に来てゐるのは、これも何かの引き合せであらうと思ひました。そこで手向けの言葉と一しよに拝みますと、老人は感激した様子で、 「ありがたいことぢや、今のお弔ひの声を聞いて成仏することが出来ます」  僧は老人のこの言葉を聞くと怪しんで、 「手向けの声を聞いて、あなたがお喜びの様子をなさるは、どういふわけでございます」 「実はお僧のお弔ひを受けようと存じて、こゝへ出て来たのです。花の蔭で休んでゐて下されば、あとは夢でお告げをいたします。また、都への言づても頼みませう」  といつて、花の蔭に寄るように見えましたが、どこへ行つたやらわからなくなりました。  そこで僧は一先づこゝから都へ帰つて、俊成の後嗣ぎである定家卿に、今の様子を告げようと思ひましたが、もうその時は宵の月も落ちたことでありますから、今夜はこの花の下に明して翌朝出立することに定め、経を読んで忠度の後を弔つてゐました。すると、その夜も更けた頃、夢のように甲冑姿の忠度が僧の目に見えて、 「人間の浅ましさには、死んだ他生の者となつても、もとのうき世に執心を残して、仏に成る妨げをつくります。自分の詠み歌を俊成卿の選ばれた千載集といふ勅撰の歌集に採り入れて貰ひましたものゝ、朝廷から御勘当を蒙つた身の悲しさには、忠度といふ名を記されずに『よみ人知らず』と書かれたことは、自分に取つて第一に諦められぬことであります。しかし、今では選者の俊成卿も亡くなられたことでもありますから、俊成卿に仕へてをられた、あなたに遭つたのが何よりの幸ひ、あなたから定家卿にお話あつて、出来ることならかの集に採られた『さゞなみや志賀の都は荒れにしを、むかしながらの山桜かな』の一首に作者の名を著けて戴きたい。この事を夢物語りに申すのであります」  といひました。  そも/\忠度は武家に生れて軍の道に長けてゐる上に、和歌を嗜んで、多くの名歌を詠みました。文武二道の達人でありました。後白河天皇の御時、俊成卿が勅を奉じて千載和歌集を作られました。その時は寿永二年の秋で、平家の一門は都を落ちて西海に行かうとして、忠度もあわたゞしい身でありましたが、急に思ひ出したことがありまして、山崎の近く狐川の渡し場から、取つて返して、ひそかに都にはひりました。それで、俊成卿を夜の間に訪ねまして、鎧の内側から自分の歌集を取り出し、卿のおめがねに適つた歌がありましたら、かの集へさし加へていたゞきたいと、くれ/゛\も頼んで、またもとの道に引き返して、一族の人々に追ひつきました。やがて源氏と摂津の国一の谷で戦ふことになのましたが、そこの城を落された平家の人々は皆船に乗つて沖の方へ出ました。忠度も同じように船に乗らうとして波打ち際に出ました。その時後から源氏の武士に岡部の六弥太忠澄と名のつて六七人の家来と一しよに追つ駈けて来ました。忠度は望むところの敵と、すぐに引つ組んで馬から落ちましたが、六弥太を取つて押へて首を掻かうとするところへ、六弥太の家来が忠度の後に廻つて右の腕を打ち落しました。忠度はそれにも怯まず、左の手で六弥太を投げ退けました。しかし敵は大勢であり、自分は痛手を負つたのですから、もうかなはぬと諦めて、西方極楽浄土の方を拝み、念仏を申しますと、六弥太は太刀を振り上げて首を打ち落しました。さて六弥太はこの時まで敵が忠度であつたことを知らなかつたが、定めて名のある大将であらう、名を知りたいと思つて死骸を見ると、着けてゐる簸の一矢に歌を書きつけた札が附けてありました。それを読んで見ますと『行き暮れて木の下蔭を宿とせば、花や今宵のあるじならまし。忠度』とありましたので、さてこそ、これが名高い薩摩守忠度朝臣であつたかと知りました。と、かういふ軍物語りをして、忠度の霊は後の手向けを、僧に頼んで消えてしまひました。 八島  都から、諸国行脚に出た僧が讃岐の国八島の浦に着きました。日暮れであつたので、とある漁師の家を頼んで一晩泊らせて貰はうと思つてゐました。そこへ年寄つたのと、年の若いのと、二人の漁師がやつて来ました。この浦の夜景のもの凄さを話してゐるようでしたが、家に帰つて休まうといつて、今しも旅僧が目ぼしをつけた家にはひりました。  僧はよいところへ帰つて来てくれたと思つて、その家の前に立つて、諸国を廻る僧でありますが、一晩泊めて貰ひたいといひますと、かの若者は奥へ行つて老人に取り次ぎました。  すると、老人はあまり汚い家であるからお宿を断れ、といひます。若者はその通りを僧に伝へますと、僧は汚いことなどは少しも構はぬ、自分は都の者で、初めてこの浦に来たが、外に宿を頼む家もないから、ぜひ泊めて貰ひたい、どうぞもう一度主に話して見てくれ、と申しました。  若者はまた、その通り老人に取り次ぎますと、老人は旅僧が都の人であるといつたと聞いて、急に同情心を起し、それでは宿をいたしませうと答へました。しかし、家といつても蘆で葺いた家、敷き物もろくになくてお気の毒であると、附け加へて僧をひき入れました。  さて僧に座を与へた後、お慰みになるものは浦におりてゐる鶴の群れであるが、その鶴は雲居の故里に帰ることがあるけれど、自分はもとの都に帰らうをりもない。今旅人が都の方であるとうけたまはつて、昔を思ひ出しました。さても悲しいことでございます、といつて涙にむせびました。  その時僧は白けた座敷の気分をかへようと思ひましたのか、 「法師の身には不似合ひの註文のようですが、むかし、この八島は源平の戦があつたところと聞いてをります。夜も長いことですから、ゆるりと話して聞かせて下さい」  と、申しますと、 「お易いことです。それではお話しいたしませう。さう/\、その時は元暦元年三月十八日のことでした。平家方は海上一町ばかりの先に軍船をうかべ、源氏の勢はこの水際に打つて出ました。源氏の大将軍のいでたちを見ますと、赤地錦の直垂れに、紫裾濃の大鎧を着し、馬上ゆたかに鐙を踏ん張つて身を延し、一院の御使ひ源氏の大将、検非違使五位尉源義経とお名のりになつた、その威風は、あつぱれ大将と見えましたが、今でもそれが思ひ出されます」  と、老人が申します。若者はその後を引き取つて、 「その時平家方から言葉を掛け、源氏方からもこたへて、挑み合つた後、平家から、一艘の軍船を漕ぎ出して、乗り組みの兵ども波打ち際に下り立つて、陸の源氏をさし招きますと」  老人が、すぐ次ぎを続けて、 「源氏方でも五十騎ばかりの兵が押し出しました。中にも三保谷四郎国俊と名のつて真先に現れますと」 「平家の方からは悪七兵衛景清と名のつて出て、かの三保谷を目がけて闘つたところ」 「三保谷は太刀を打ち折つていたし方なく、少々後へ退去りますと」 「景清はすかさず追つ駈けて三保谷の」 「冑の錣を掴んで」 「うしろへ曳くと、三保谷も」 「逃げようとして前へ引く」 「双方、えいやと」  老人が一くさり話せば、若者がその言葉をすぐ受けて、互に話し続けました。そして老人は、 「曳く力に、鉢附きの板から引きちぎつて、二人は前後へ飛んで別れました。これを見られた義経が馬を水際に進められたところを、平家方の能登守教経といふもの、強弓を引いて義経を狙ひました。それを見た佐藤嗣信はその矢面に立つて大将の命に代りました。馬にこらへずに落ちましたとこを、教経の童菊王丸首を挙げんと立ち寄つたが、嗣信の弟忠信に射殺されました。源平互にこの損害があつたので、船は沖へ、陸は本陣に、相引きに引いて、あとは鬨の声も絶え、たゞ波の音と松風ばかり聞えて寂しくなりました」  と、話しました。この物語りがまことに委しく、また目の前に見たようであるので、僧は不思議に思ひまして、老人の名を尋ねますと、老人は名もない者、たとひあつても名のる程の者ではないといふように言葉を濁しましたが、また答へ直して、「この海の汐のひく明け方には凄い戦ひの時刻が来ますから、その時はもう一度あらはれて名を名のりませう。夢を覚まさずに待つてゐて下さい」といつて立ち上るかと見ると、老人の姿は見えなくなりました。  僧は夢とも現ともつかぬ境にありましたが、今しがた老人が立ち去る際に夢を覚まさずに待てとあつた言葉にそむかず、浦の松の根方に倚り臥してゐました。明け方近くなつた頃、甲冑に身を固めた武将らしい人が現れました。僧は大方それと知つて、判官殿かときゝますと、その霊は、 「いかにも義経であるが、うき世に執心を残してゐるために、今も西海の波に浮き沈みして、極楽に往生することが出来ぬ」  と歎くのを僧は慰め、またいましめて、今までの罪を悔いて妄念を去れ、と諭しますと、義経の霊は懺悔のためと、再び昔物語りをし出しました。 「思ひ出すと、時も春、月も今宵のように冴え、しかも所はこゝで、源平の兵互に矢先を揃へ、船を組み馬を並べて、攻めつ防ぎつ戦ふうちに、どうしたはずみか、自分は持つてゐた弓を海中に落したところ、ちようど引き汐時で波のまに/\流れて遠くの方へ行かうとした。敵に取られてはならぬと思ひ、馬を泳がせて思はず敵の船に近づくと、敵はこれを見つけて船を寄せ、熊手を延して、自分を打ち取らうとしたが、それにも怖れず熊手を切り払つて、とう/\弓を取り返して、もとの陸地に駈け上つた。その時老臣権頭兼房が諫めて申すには、歎かはしい御振る舞ひ、先だつて渡辺で梶原と逆櫓の論をなさいましたのも、たゞ我意をお張りになつてのことでござる。たとひ黄金をのべて作つたお弓であつたとしても、御一命には換へられませぬ。と涙を流して申した。その時自分がいふには、いや/\弓を惜しんだのではない。自分は源平両家の間にいさゝか名を知られたが、まだ良い大将といふ誉を得てはをらぬ。今この弓を平家方に取られて、弱々しい弓の持ち主と噂されては無念である。たとひ弓を取り返すために討たれようとも、それは運のつきと諦めるよりほかはない。そこで弓を敵に渡してはなるまいと思ひ定めて、かように骨を折つたのである。武士は末代までの名を惜しむべきである、と話すと、兼房を初め居合せた人人が皆感涙を流した。古い言葉に『智者は惑はず、勇者は恐れず』といふのが武将の精神に適つた言葉で、名を惜しむとも一命を惜しまず、身を捨てても後の記録に美名を留めたいとおもつた義経の心の中は苦しかつた」  と、いひました。さて義経の霊は、あの世でも修羅道といつて、常に軍の絶え間のないところに堕ちてゐるとみえて、俄に景色を変へ、 「今日の軍の相手は誰ぢや。なに能登守教経といふか。見たところは大層でも手並は知つてゐるぞ。思ひ出される壇の浦の合戦」  と叫びながら、船からは鬨の声を挙げ、陸には楯の垣を築いて、互に軍をはじめた後、剣の光は月に輝き、兜の星は水に映つて、敵身方乱れ合つて、戦ふ様を仕方にして見せましたが、春の夜も海の表から明けそめて、今まで敵と見えたのは群れゐる鴎となり、鬨の声と聞えたのは高松の浦風となつて、義経の霊も姿を隠しました。これも僧が一夜の夢でありました。 羽衣  駿河の国三保の松原のほとりに白龍といふ漁師が住んでゐました。この三保の浦は、万葉集の歌に『風早の三保の浦曲を漕ぐ船の、浦人さわぐ浪立つらしも』とある通り、浪風の荒いこともありますが、ふだんは景色のいゝので名高いところであります。ことに今は、ちようど春の波おだやかに、空には残りの月が見えて、朝霞が棚引いてゐるので、どんな人もこの風景を喜ばないものはないと見えまして、白龍は近所の漁師と連れ立つて浜辺に来ました。しばらく松原に立つて一休みしてゐますと、不思議のことには、空から花が降つてきて、音楽が聞え、なんともいへぬ良い匂ひがします。これはたゞごとではないと思ふ矢先にふと目についたのは、じき傍の松の木の枝に美しい衣が懸かつてゐます。側に寄つて見ますとその色といひ、香りといひ、世間にある物ではありません。 「よい物を見つけた。持つて帰つて老人などに見て貰つて、わが家の宝にしよう」  といつて、取つて行かうとしますと、どこからともわからず一人の美しい女が現れました。頭には天冠を被り、見慣れぬ衣裳を纏つた気高い人であります。それが言葉をかけて、 「もし/\、それはこなたの衣です。なぜ持つて行かれるのです」  と、いひました。 「これは拾つた物ですから、取つて帰ります」  と白龍がいひますと、 「それは天人の羽衣と申して、この世の人に上げられるものではありませぬ。もとの通りに懸けておいて下さい」 「この衣の主と申されるところを見ると、あなたは天人でおいでなさいますか。それならいよ/\返すことは出来ませぬ。末の世までの形身とも国の宝とも致します」 「羽衣がなくては飛び歩くことも出来ず、天上に帰らうにも帰られませぬから、ぜひ返して下さい」  この天人の言葉に白龍はいよ/\欲心を起しまして、 「何も存ぜぬうちは、ともかくも、羽衣と知つた上は返すことはなりませぬ」 といつて、かの羽衣をうしろに隠して立ち退かうとしました。そこで天人は翼をなくした鳥のように、天に登らうとすることも出来ず、さうかといつて、この下界に住むわけにもいきませんので、どうしたらよからうかと気を揉みましたが、白龍は気の強い男ですから、羽衣を返す様子もありません。どうしようもないので天人は涙を流してゐます。せめてもの心やりにと大空を仰いで見ても、たゞ霞が立ち籠めて天の路もはつきりとわからず、あの雲の行くあたりが自分の住み慣れたところかと思ひ、たゞ雲の身が羨ましく思はれました。天上にゐた時は聞きなれた迦陵頻迦鳥の美しい声も、今は耳に遠退いたので、天路を帰つて行く雁や、波の上を飛び廻る千鳥や鴎も慕はしく、空を吹き渡る風までも懐しくなつて、歎き悲しみました。 このあり様を見て白龍も、やう/\心が折れまして、 「あまり、お痛はしいから、羽衣をお返し申しませう」  といひますと、天人は大そう喜びまして、 「ありがたうございます。それではどうぞ」  といひます。すると白龍は、 「いや、待つて下さい、かね/゛\聞いてをります天人の舞ひの一曲をこのをりに拝見させて下さい。その上でお返ししませう」 「羽衣が戻つて天上に帰ることができる喜びに、あなたのお望みをかなへて、面白い一曲を舞つてお眼にかけ、人間の世界にのこすことにいたしませう。それには衣がなくては舞はうにも舞はれませぬから、まづこちらへお返し下さい」  といひましたが、白龍は疑つて、 「この衣を返したら、約束の舞ひを舞はずに天に昇つておしまひなさるでせう」 「いや、疑ひといふものは人間にはありますが、天の世界には嘘偽りといふものはありませぬ」  と天人が申しましたので、白龍は大きに赤面して、 「恥づかしいことをいひました。それではお返し申しませう」  といつて、羽衣を返しますと、天人はやがて、これを身に着けて、霓裳羽衣の舞ひを始めました。わが国で神を祀るときにする東遊びの駿河舞ひといふのは天人のしたのに基づくといひますが、この時のことを指すのでありませうか。  さてこの天人はもと月の宮に仕へてゐた者で、月の宮では一月を二つに分けて、上半分は白衣の天人、下半分は黒衣の天人が十五人づゝ番を立てゝ夜々の勤めをします。今舞ひにかゝつた天人はかりそめに下界に降つて、月の宮でする神舞ひを人間に伝へようとするのであります。  そこでいよ/\舞ひの曲に移りましたが、をりから春霞の棚引く長閑さには、月の世界にあるといふ桂の花も咲きそうです。また風はこの世にも通つてくるので、天上でなくても気分のよいことは異りません。この風がしばらく雲の行く路を吹き閉ぢましたので、天つ乙女の姿が留まつてこの松原の色を添へるのであります。清見潟の月、富士が嶺の雪、どちらの色からか春は明け初めて、松の風浦の波の静かに晴れ/゛\しい景色はなんともいはれません。東歌をうたふよい声に合せて、簫、笛、琴などの音が雲の外まで響きわたり、山際を染める夕日の紅いのと海面を彩る波の青いので、取り合せのよい間で、白衣の袖を振る舞ひ姿は、なんとたとへようもない麗しいものでした。春風のまに/\翻る袂は大空の緑の色にまがひ、または春霞のたなびくように見え、美しい裳裾を曳いて、指す手、引く手の見事さには眼もあやになるようであります。そのうちに東遊びの曲も段数がかさなつて、天人も今はもとの月の都へ帰らうとして、羽衣を三保の浦風に靡かせ/\、松原の空から浮島が原の雲間に翔るよと見ると、また一廻りして愛鷹山から富士山に舞ひ上り、影は次第に幽になつて、とう/\霞の中に隠れてしまひました。 六浦  京都辺のある僧が、東国行脚を思ひ立つて、相模の国六浦の里に来ました。こゝから船で、安房の国に渡らうとして、しばらくの間足を休めて、あたりを眺めてゐますと、すぐ近いところに由緒ありげな寺がありました。寺の名を人に尋ねますと称名寺と知れましたので、なほ心をとめて見物してゐました。ちようど秋の末で、山々の紅葉が色を競つて錦を晒したようであるところなどは、都の辺にも劣らぬ見ものと思へました。すると手近い本堂の庭に木振りの面白い一株の楓があつて、その葉色は不思議にも青々として少しも紅葉を交へないで、まるで夏木立のようです。これは定めて、いはれのあることであらうと考へてゐました。  その時、片田舎の人にしては美しく、気高いところのある婦人が出て来ました。僧はよいところへ人が来たと思つて、 「お尋ねしたいことがあります。山々の紅葉は今を盛りと見えますのに、この一本の楓だけは一葉も色づかずにゐるとはどうしたわけでございませう」  僧の問ひに婦人は答へました。 「その御不審は御尤もでございます。むかし、鎌倉の中納言為相卿といふ名高い歌よみがありました。ある時、紅葉を見にこゝへおいでになつたところ、山々の紅葉はまだ早かつたのに、この木一本だけは紅の色濃く染めて、ことの外美しかつたので、為相卿は深く感心なされて、『いかにしてこの一本に時雨れけん、山に先だつ庭のもみぢ葉』といふ歌を詠まれました。それから後、この木は再び紅葉するのを止めて、今もその通りでございます」  そのいはれを聞きますと、僧は、 「面白い歌ですな。愚僧ふつゝかながら、為相卿のお弔ひに一首仕りました。『ふりはつるこの一木の跡を見て袖の時雨ぞ山に先だつ』 「お手向け、まことにありがたうございます。いよ/\この木の名誉と申すものです」 「為相卿が歌をよまれてから、この木が紅葉しないようになつたいはれはいかゞでせう」 「御不審のありそうなことですが、それはかうでございます。為相卿の詠吟にあづかりました時、この木が心に思つたのは、所もあらうに、この様な片田舎で、人も通はない古寺の庭にありながら、名高い方の詠歌にあづかつたのは、自分がひとり山々の木に先だつて紅葉したからであります。古人の言葉に、『功成り名遂げて身退くは天の道』とあるにしたがつて、それで今に紅葉を停めてゐるのでございます」  僧は、婦人の言葉にいよ/\いぶかしく思ひ、 「この木が紅葉しないようになつたいはれは面白くうけたまはりましたが、それほどに深くこの木の心を御存じのあなたはどういふお方ですか」  すると、婦人は、 「今は何を隠しませう。私はこの木の精でございますが、あなたが貴くおいでなさいますので、只今現れて来たのでございます。今夜はこゝに泊つて、夜もすがらお経を読んで下さいませ。さういたしますと、また姿をお見せ申します」  といふかと見ると、夕風の冷い古寺の庭上に咲き乱れた草花を掻き分けて、どこともなく消えてしまひました。  僧は不思議に思ひ、草木は無情の物といふけれども、かういふこともあるものか、それなら夜中この木の成仏を祈らうとおもつて、木蔭に坐つてお経を読んでをりますと、前に見えた楓の精魂が再び綺麗な女の姿であらはれ、お経の手向けのまことに有り難い由を述べました。 「お経に草木国土悉皆成仏とあるをお疑ひなさるな。なほいひたいことがあるなら話して下さい」  と、僧が申しますと、楓の精は力づいて 「草木には心がないと申しますけれど、四季の時を違へず、おの/\その折りを知つて、花に葉に様々の姿をあらはします。まづ春の初めには梅の花、つゞいて桜の花ざかり、やがて卯の花といふうちに夏も暮れて秋が来れば、時雨に染める紅葉のいろ/\となります。これにつけても草木に心がないとは申されませぬ。私もこのような山里に生ひ立ちながら先には為相卿の御歌にあづかり、今またお僧の手向けをかうむるのは嬉しいことです。なほ/\法華経の利益によつて成仏を得させて下さい。紅色を交へず艶も香もないこの身でありますけれど、今夜の月が面白いので、この青葉色の袖を返して一さし舞ひませうか。せめてのお礼心に」  といつて、立ち上つて舞ひ始めました。さうかうするうちに、長いと思つた秋の夜も明け方になつたらしく、鶏の声も聞え、鐘の音も響き、浦風、山風がしきりに吹いて紅葉を散らすと、月はこれに照り添つて、庭一面はいよ/\明るくなりました。この上夜も明け放れたらわが姿も恥づかしからうと思つたのか、楓の精は暇を告げて影を隠しました。 鉢の木  鎌倉から出た行脚僧(実は執権北条時頼が出家して最明寺入道道崇となつたのです)が諸国を経廻つて、ある年の冬、信濃の国に来てゐましたが、あまり雪が深くなりましたので、一度鎌倉へ帰つて、来年の春ふたゝび修行に出ようと思ひました。やがて上野の国にはひつて佐野の渡りに着きました時に、しばらくやんでゐた雪がまた降り出して、足の運びが難渋になりました。そこで今夜はこの里に宿を借りようと思つて、とある人家の門に立つて、宿のことを頼みますと、妻女らしい人が出て来まして、易いことではありますけれども、主人が留守でありますからお宿は出来ませぬと申します。僧は、それでは主人の帰られるまで門の外で待ちませうと答へて待つてゐました。妻女は外へ出て主人を迎へてこのことを話さうといつて出て行きました。  そこへ、この家の主人の佐野源左衛門尉常世といふ人が着物に降りかゝる雪を払ひ払ひして帰つて来ながら、独言に、 「あゝ、降りも降つた雪ぢや。世に不足なく暮してゐる人はさぞこの景色を賞翫することであらう。白楽天が『雪は鵞毛に似て飛んで散乱し、人は鶴●を被て立つて徘徊す』と詠んだのも、雪を褒めた詞である。今降る雪は自分が以前時を得てゐた頃の雪と変りはせぬが、今の自分は鶴●を被て散歩する身でもなく、胸も合ひかねる粗服を着けてこの寒さを凌ぐ苦しさ、さても面白くない雪の日ぢやよ」  とつぶやいて、わが家に近づきますと、思ひも寄らず妻が雪の中に立つて自分を待つてゐる様子です。仔細を聞くと、修行の僧が来て宿を頼んだので、門の外に待たせておいて、迎へに来ましたといひます。常世は、その僧はどこにおいでかといひますと、妻は後を向いてそれを教へました。僧は待ちかねて、常世にむかひまして、 「愚僧のことでござる。まだ日暮れには間もござるが、この大雪に行き悩みまして、一夜の御厄介にあづかりたいので」 「それはお易いことでござるが、あまりむさくるしい家でござるによつて、お宿は致しかねます」 「いや/\、見ぐるしいことなど、なんとも思ひませぬ。どうぞ一夜を明させて下さい」 「ご難儀はお察し申します。お泊め申したくは思ひますが、我等両人すら住みかねてゐるくらゐで、お宿はなんとも致しかねます。こゝから十八町さきの山本の里と申すところには宿貸す家もござるから、日のあるうちに一足もはやくおいでなさい」  僧は常世のこの言葉に望みを失ひましたが、なほ一度念を押しても聴き入れてくれなかつたので、すご/\と立ち去りました。妻はその後影を見送つて気の毒でたまらず、 「私達がこのように、おちぶれるといふのも、前の世で良い種を蒔かなかつたからでありませう。せめてはこの世で修行者などに縁を結んでおいたらば、後の世を無事に送るたよりともなりはしますまいか。どうにかしてあのお僧にお宿をしてお上げなさいませ」  と、夫に勧めますと、常世も、なる程と思ひまして、 「その志があるなら、なぜあの修行者のをられたうちにいひ出さなかつた。いや、この大雪にまだ遠くは行かれまい。今から追つついてお留め申さう」  といつて、門の外に出て、降りしきる雪の中を遠く望んで僧の姿を認めましたので、大声を挙げて、 「旅のお方、お宿申しませう」  と呼んだが、雪風に妨げられて聞えないと見えて、僧はこちらを見返りもせず、本から積つた雪と今降る雪の間に立つて、行く先を定めかねたか、一つところに立ちすくみ、衣の袖に積る雪を打ち払ひ/\する様子は、古い歌に『駒とめて袖打ち払ふ蔭もなし、佐野の渡りの雪の夕暮れ』とある歌のこゝろにそつくりであります。もつともこの歌の佐野は大和路の佐野、こゝは東路の佐野で、所は違ふけれど、里の名の同じであるのも一つの奇であります。そこで常世は歩き慣れた道であるから、降り積る雪の中も迷はず、僧の立つてゐるところに追つついて袂を取り、お疲れでもありませうから、むさくるしうはありますがお宿いたしませうといひますと、僧は大きに喜んで、常世に案内されて、その家にはひりました。  かりそめに人と人が相遇ふ縁をば一樹の蔭の宿りに譬へてありますが、それは雨を避けての場合のこと、これは雪の夕べの宿りで、少し異つてはゐますけれども、一時の辛さを凌ぐ心は同じことであります。ところが、この家は檐も朽ちてあばら屋に近いので、家の中にゐるといつても、草を枕の野宿に似たものでありますから、やすんだところで夢は結ばれず、霜が結ぶであらうといひたいくらゐです。  常世は僧を家に招き入れたものゝ、宿をしたかひに、出してもてなさう物がないのに当惑して、妻に相談したのち、粟の飯でも召し上るかときゝますと、 「それは日本一のこと、どうぞ下さい」  との答へに、常世は恥づかしいところをこらへていひ出したことが聴かれたのを喜んで、妻を呼んで膳ごしらへをさせ、 「粟の飯も詩や歌に詠んだのは面白うござるが、私たちは今これで露命をつなぐことになりました。むかし、唐土の盧生が五十年の栄耀を夢に見たのも粟の飯炊く間と聞きましたが、私達も盧生のように夢でも見て昔を思ふことがあつたら、少しは慰むこともありませうけれど、御覧の通り住み荒したこの宿は、松風が烈しく吹いて、夜中落ちついても寝られませぬので、昔を夢に見る折りもなく、何を思ひ出しようもござらぬ」  といつて、涙を催しましたが、夜が更けて寒さも募つて来ましたのに心づき、何か火に焚いて煖めたいと考へました。 「いや、思ひついたことがござる。鉢植ゑの木があります。それを伐つて焚き火を致しませう」  と常世がいふと、 「鉢の木をお持ちでござるか」  と僧が聞きます。 「私が世に出てゐました程は、鉢植ゑの木を好みまして、たくさん持つてをりましたが、浪々の身にはこれも無用と存じて、皆人に進ぜました。今は梅、桜、松の三鉢だけ残してあります、御覧なさい、あの雪を持つた木でござる。私の大事にしたものですが、今夜のおもてなしに、これを焚いて火におあて申しませう」  といつて起たうとするのを僧は止めて、 「思ひも寄らぬこと。お志はありがたうござるが、あなたが、いつかまた世に出られた時のお慰みになる物を、むざ/\と伐つておしまひなさらぬがよい」 「いや、この身はどうせ埋れ木で、花の咲く世に遭はうとも思ひませぬ」  といひますと、妻も言葉を添へて、そのような御遠慮には及ばぬといひます。やがて常世は庭に下りまして、鉢の木の雪を払つて見ましたが、さすがに長い間丹誠をかけた物でありますから、三本のうちを、どれから伐らうと心の中で迷ひましたが、つひに三本とも伐つて、僧の前に持つていつて、囲炉裏にくべてもてなしました。  かうまで厚い志に僧も深く感じ入つて、よい火にあたつて寒さを忘れた喜びを述べた後、主は名のある人であらうと思ひまして、名を尋ねますと、それ程の者ではないといひます。二度も三度も押し返してきゝましたので、さう包んでもゐられず、佐野源左衛門尉常世がなれの果てと答へました。今の身になり下つたわけをいぶかしいと申しますと、親族のうちに悪い奴があつて、それに領地を取られてこの通りといひました。僧はこのことを聞いてゐましたが、 「それならば、なぜ鎌倉に出て訴へなさらぬ」  といひますと、 「人には運といふものがござつて、その運の尽きる時は致し方のないもの。早い話が最明寺殿でさへ高い御身分を捨て、行脚においでなされました」  と、常世はいひましたが、急に心づいたものか、 「かように落ちぶれは致しましても、心まで朽ち果てはしませぬ。御覧の通り、これに鎧も薙刀も、また馬も一匹持つてをります。すは鎌倉に大事があると聞きますれば、ちぎれてゐてもこの鎧を着し、錆はしてゐますけれどこの薙刀を持ち、痩せてはをりますがあの馬に乗つて一番に駈けつけ、もし軍が始まれば敵中に躍り込んで、よい相手と切り合つて死なうと覚悟してゐます。さようのをりもなくて、このまゝであつては、たゞ飢ゑ死にを致すまで、それが無念でござる」  と、吐息をついて歎きました。  僧は常世の心中を察して、懇に慰め、善人がいつまでも非運に沈むはずもあるまいから、心を強くしてゐるのがよいと、なんとなしに頼もしく聞えることをいひました後、急に思ひ出したことがあつたのか、今夜はこれでお暇申すといつて、家を出ようとしました。常世夫婦は、たつてこれを止めましたが、一向に聞き入れませんで、 「いつか、鎌倉に上られる時があつたら、愚僧をお尋ね下さい。数ならぬ法師ではあるが、お力になることもありませう」  といつて、常世の家をむりやりに立ち去りました。  それから幾日かたつて、鎌倉に坂東八箇国の軍兵を呼び集めることがありました。その仔細はわかりませんでしたけれども、早打ちの者が諸国を催促して廻りました。それが上野の国にも来ました。佐野の里にゐた常世は、これを聞くや否や、かねての用意の通り、一刻もおくれまいと、みすぼらしい出立ちで、瘠せ馬に乗つて駈け出しました。そして金銀をちりばめ、磨き立てた甲冑の武士の群がり行く間を、押し分け/\鎌倉を指して行きました。  さて鎌倉に着いて、幕府に出頭して見ますと、前の執権時頼入道道崇は立派な袈裟法衣を着けて政所の正面に坐り、八州の大名小名の寄り集つたのを見渡した後、そばに控へてゐた二階堂某を近づけて、この諸軍勢の中に出立ちの際立つて見ぐるしい侍が一人ゐるはずであるから、それを見つけて呼んでこいと申しました。二階堂はかしこまつて、その趣きを家来どもに伝へて捜させますと、案のごとくそれに相当する窶れ切つた武士が一人をりました。それは、他でもない源左衛門尉常世でありました。大勢の中から召し出されたので、凶か吉かを測りかねながら道崇の前に出ますと、道崇はいそがはしく声を掛けて、 「やあ、佐野源左衛門尉常世。先だつて大雪の日に宿を借りた修行者を見忘れはすまいな」  といふのを初めに、この度の勢揃ひは常世の言葉の真か偽りかを試さうがためにしたこと、また宿を頼んだ時、鉢の木を伐つてもてなした厚意は忘れぬ、それに酬いるために、加賀で梅田の庄、越中で桜井の庄、上野で松井田の庄を与へて、本の領地に加へることを申し渡し、常世をさしまねいて墨附き(証文)を授け、一同の諸氏には暇をやつて国々へ引き取らせました。  常世はこの上もない面目を施して、初め笑つた人々の顔を見返し、例の痩せ馬に跨りながらも、乗つてゐる主は勇んで佐野に帰りました。 望月  信濃の国の住人安田庄治友治といふ武士は、同じ国の人望月秋長と領地の境争ひなどから仲が悪うございましたが、それがだん/\募つて、とう/\秋長の為に討たれてしまひました。乱れた世の習ひで、友治は討たれ損になり、安田の家に仕へた人々は散り/゛\に去つてしまひ、残つたのは友治の妻と一人子の花若丸の二人でありました。すると望月の方では、安田の子供がゐては、いつ仇討ちをされようも知れないといふ心配があるので、いつそのことに親子の者も失はうと、内々隙きを窺ふ様子がありました。この噂を聞いた友治の妻は、一旦故郷をはなれて身を隠し、折りを見て秋長に怨みの刃を報い、家をも回復しようとつよい決心をしました。そこで心細くも親子二人は安田の庄を立ち出でましたが、頼る人でもありましたか、まづ京都を指して上り、道々も心落ちつかず涙勝ちな旅寝の夜をかさねて、近江の国守山の宿に着き、そこの冑屋といふ宿屋に泊りました。  ところで、この冑屋の主人といふのは、もと安田の家に仕へて小沢刑部友房と名のつた人でありましたが、主人友治の討たれた後はこゝに落ちついて、宿屋を開いてゐたのでした。今夜泊つた二人連れの客が、信濃の国から上つて来た人と聞いて、懐しく思ひ、そつと物の隙きからのぞいて見ますと、久しくおとづれを絶つてゐた旧主の妻子であるのに驚きました。親子の人は世間を憚つて湿りがちの様子です。それを見ると痛はしくてたまらなくなつて、そつとその部屋にまゐりまして、昔の名を名のつて、親子に力をつけ、慰めたりしました。花若は父に逢つたように思はれて友房に取りつきました。友房はその子の顔をつく/゛\見ますと、旧主の面ざしにそつくりなので、思ひもよらぬ再会を喜んで、手に手をとりあつて泣きました。そこで、親子は急に力づき、主従の縁の深いのを覚り、これまでの憂さ辛さを物語つて時の過ぎるのも忘れてゐましたが、友房は旅の疲れを察して、親子を奥の間に案内して退きました。  一方の望月秋長は安田を討つたことから、京都の将軍家の咎めを受けまして、長年京都に留められてゐましたが、いろ/\と申し分けしたので、やうやく無罪のいひ渡しを受け領分の信濃に帰る許しが出ました。で、喜んで早速京都を立つて、その晩近江の国守山に来ました。家来に、よい宿屋をたづねさせようとしましたが、その時望月の名を名のらずに、よい工合に計らへといひつけました。家来は多くの宿屋の中から、冑屋を選り出して案内を乞ひながら、主人は信濃の国の大名で只今京都から下向する望月秋長といひかけて、急に口を抑へ「ではござらぬ」といひました。冑屋の主人は早くもそれと心づきましたが、「どなたでもよろしうございます」と答へて、宿のことを承知しました。  友房は旧主の家族がわが家に泊つたことだけでも思ひも寄らなかつたのに、また同じ日に、怨敵望月の落ち合つた不思議に呆れましたが、これは花若親子が大望成就の時が来たものであるとこをどりして、そつと親子のゐるところに行つてこのことを知らせ、どうかして今夜のうちに敵を討たせようと考へた末に、一つの計略を思ひつきました。それはこの頃、この辺に盲御前といふ芸人があつて、旅客の慰みに、謡ひをうたひなどして、酒の席を賑はすことがはやつてゐましたところから、母を盲御前に仕立て、また花若には鞨鼓を打つて舞ひを舞はせ、亭主は酒をしたゝかにすゝめて望月を酔はせ、その後で獅子舞ひを舞つて、そのすきに敵を取つて抑へるといふ趣向にしました。親子はこれを聞いて大きに喜びまして、何事も頼むといひますので、友房は委細承知の趣きを述べました。  よい時分になつて、亭主の友房は酒肴を持つて望月の座敷に来まして、めでたい下向の祝ひにさし上げるといひ、また花若に手を引かれて出て来た盲御前を引き合せて、慰みに謡ひをうたはせられいといひますと、望月の家来は主人よりも自分に、よい慰みと思つて、なんでも面白い一曲をと註文しますと、御前は、 「一万箱王が親の敵を討つたところをうたひませう」  といつて内々相手の心をさぐりますと、家来はあわてゝ、それは差し合ひがあるからといようなことをいひます。秋長は知らぬ顔をして、 「いや苦しうない。すぐにうたへ」  といひましたので、盲御前は曾我物語りの一節をうたひました。それが終らうとしました時、花若は焦つて、 「そりや、討たう」  と叫びましたので、望月主従は驚いて身構へをしました。友房は「しばらく」と制しまして、只今討たうと呼んだのは、御前の謡ひのあとには、この稚児が鞨鼓を打つにきまつてゐますので、打たうといつたのでござるといひ開きましたので、主従は安心して、稚児に鞨鼓を打たせることにしました。秋長は、亭主にも、何か芸をと所望しますと、かねて打ち合せておいた通り、稚児の口から獅子舞を註文なされといひました。  そこで亭主は獅子舞の支度をといつて引き下りました。その間に花若は鞨鼓を打つて舞つてゐました。やがて舞ひがをはる頃、亭主は獅子頭をかぶつて座敷に出て来ましたが、実は獅子頭の下には鉢巻きをし、懐に匕首を忍ばせてゐました。笛鼓の囃子に合せて面白く舞ひ狂ひながら、時々望月の方を見ると、興に乗つて重ねた杯に酔ひが廻つて眠りこけてゐます。その時急に獅子頭を外して花若に目配せしながら、望月に飛びかゝつて手込めにしました。  花若は友房の助けによつて、復讐の本望を遂げました上、また友房の心づくしで再び家を興して、永く繁昌したといひます。 小鍛冶  一条天皇の御代に都三条に、宗近といふ刀鍛冶の名人がありました。三条の小鍛冶と呼ばれたのはこの人のことであります。ある夜、帝の御夢に神のお告げがありましたので、この宗近に御用の剣を打たせらるべき由仰せ出されまして、勅使橘道成といふ人が、宗近の家に出向いて、霊夢によつて御剣一振りの御用がある旨を伝へました。その時、宗近は申しました。 「勅命の趣き謹んでうけたまはりました。しかしながら、さようの大切な剣を打ちますには、私と同じ程の者が合槌を打つてくれませぬとむづかしうございます。これはいかゞ致しませう」 「その方の申すところは、もつともであるが、神のお告げによつての勅であるからは、早早御請け申し上げるがよからう」  と道成に説き諭され、さすがの宗近も当惑して、どうしたらよからうと思ひ悩みましたが、今は御政治も正しいから、神のお助けもあるであらうと、たゞそればかりを頼みにして、つひにお請けを申したので、勅使は宮中に帰られました。あとに、宗近はつく/゛\と思案して、一大事を仰せつけられた、とても人力ではかなはぬことであるから、すぐに氏神、伏見の稲荷に参詣して、心を籠めて神の助けを祈らうと、かう思つて、やがて、稲荷の神前に平伏してゐますと、どこからともなく気高い顔貌の童子が一人あらはれまして、宗近の側に立ち、 「そなたは三条の小鍛冶であらうな」  といひます。この童子を見ますと、たゞ人ではないと覚えましたので、名を尋ねますと、童子はそれには答へずに、 「帝から御剣を作れといふ勅命があつたらう」  と、図星を指されて、いよ/\あやし思ひ、 「只今、御請け申し上げたばかりの勅命を、早くも御存じであるのは不審千万でございます」 「そなたが不審に思ふももつともであるが、古き言葉に『隠れたるより顕るゝはなし』といひ、また卑しい諺にも『壁に耳、岩に口』といふではないか。それはともあれ、ひとへに君の御恵みを頼んだらば、御剣の出来ぬことはあるまい」  と、力をつけ、それから、大和、唐に亘つて刀剣の威徳を述べていはれるには、遠くは漢の高祖の剣は強暴の秦を亡し、隋の煬帝の剣は周の国を倒したのを初めとして、唐の玄宗皇帝の臣鍾馗は幽魂となつて君に仕へ、名剣を揮つて悪鬼を退けた。近くわが国のためしを引けば、景行天皇の御子日本武尊は、東国の夷征伐の命を受け、軍兵を率ゐて下り給ひ、数度の戦ひに夷どもは皆降参したので、尊は一先づ御安心あつた。時は十月の末、紅葉も冬枯れ、薄雪は早くも遠山にかゝつてゐるのを御覧なされてあるところへ、一旦降服と見せた夷どもは俄に起り立ち、四方から尊を取り囲んで攻め鼓を打ち、枯れ草に火をつけたので、焔は炎々と燃え上つた。尊はその時、宝剣を抜いて四方の草を薙ぎ払ひ給ふと、名剣の威霊で嵐が起つて、草についた火を吹きまくつた。そこで焔はかへつて夷の頭の上に蔽ひかゝつて、数万の悪者どもは残らず焼き殺されてしまつた。この後、国の内静かに治まり、民の心は安まつた。これまつたく、この草薙ぎの剣の徳である。いま宗近が打つべき御夢想の御剣も、定めて草薙ぎの剣のように名を後世に残すことであらう。良い鍛冶の評判を得た宗近は安心して帰るがよいと、諭しました。 「剣の威徳の御物語りはお祝ひの言葉としてありがたくうけたまはりました。して、これまでに、この身にお力をお添へ下されるあなたは誰方でございますか」  宗近が、かうたづねますと、 「それは誰でもよい。たゞ我を頼もしく思つて、まづ家に帰つて剣を打つべき支度をして我を待て。我は神通力を以て身を変へ、程なく行つて力を添へよう」  といつて、童子は稲荷山の奥深く立ち隠れました。  宗近はこの不思議の神のお告げに力を得て、家に帰るとすぐに壇を築き、注連縄を張つて不浄を遠ざけ、神棚を飾つて御幣を捧げ、宗近卑しい身をもつて勅命をかうむり御剣を打ち申すこと末代までの名誉ではあれど、たゞこの名誉の為に打たうとは仕らず、畏い勅命を空しく致すまいとの一念なれば、願はくはこの国の神々、宗近を憐みて御助けあれと、天を仰ぎ、地に俯して誠を籠めて祈つてをりますと、先の童子のお告げに違はず、稲荷の神体があらはれ、御剣を打つべき支度が出来たと知つて約束の通り合槌を打ちに来たといつて、壇の上に登られましたが、添へ役であるからとて、宗近の前に坐つて、 「打つべき鉄はどこに」  とのお言葉に、宗近は夢の心地で恐る/\鉄を取り出し、神の指し図に従つて、まづはつしと打つと、神はこれを迎へてちようと打たれます。それよりちよう/\と槌数を重ねて打ち立てる音は天地に響き渡りましたが、やがて打ち納めて、表に小鍛冶宗近といふ銘を切れば、稲荷明神はこの時の弟子分とあつて、裏を反して小狐と鮮かに銘を切られました。この剣の焼き刃は雲形の乱れやきでありましたので、むかしの天の叢雲の御剣もかういふ物かと思はれました。かうして天下に二つとない、二つ銘の御剣が出来上ると、神体は雲に乗つて稲荷山に帰られ、宗近は御剣を朝廷にさし上げました。これこそ太平の世の御守りにならびない宝物とあつて、稲荷の神の御助けを記念する為に小狐丸といふ名をつけられました。                       父兄の方々に 竹取物語に就いて  竹取物語は我国に小説あつて始めての者である。製作の時代は平安朝の初期といふだけで、その外のことはわからず、作者は全く不明である。其頃の小説らしい者も他にいくらかあつたのであらうが、それらは一つも伝はらず『竹取』たゞ一部が後世に遺つた。其後小説類が追々現れて来て、中にも『宇津保』、『落窪』、『源氏』の諸物語などが有名であるが、文章や語法の上から見ると、この『竹取物語』は格別に古体である。この『竹取』のことは『源氏物語』の中に引用されて、巨勢相覧の画、紀貫之の書の一本のあつた趣が見えてゐる処を見ると(それは仮設(ママ)であること勿論ではあるが)、延喜年代以前に世間に流行してゐたといふ想像はつく。詞つきがいかにも素朴で、構造の単純な処も、何さま早い頃の仮作物の特徴と謂はれる。大体についていふと、説話小説の部類に属し、ちようど後世のお伽話の稍長いようなものであり、頗る滑稽趣味に富んだ無邪気な一片の談話である。もとより短い者であるけれど、後世の諸物語のようにやゝもすると欠巻や錯簡があるのに反して、全く無瑕に伝はつてゐるのは結構である。我国の小説がかういふもので幕を開けたことは文学史上に注目すべきことであるが、どこの国の仮作文学も発端は大抵同様である。其点で『竹取物語』は相当の価をもつのであらう。  此物語の大略の筋が『今昔物語』巻第三十一中の一篇として現れてゐるのを見ると、平安朝の後期頃にに本元の『竹取物語』は一時影が薄くなつて、単に梗概だけが一箇の伝説のように伝はつてゐたのではあるまいか。これは次ぎの『今昔物語』に関係のあることであるから、ちよつと述べて置く。 今昔物語に就いて  『今昔物語』は宇治大納言と呼ばれた源隆国の所編といふことになつてゐる。編者の名を取つて『宇治大納言物語』とも呼ばれた。但し隆国薨後の寛治頃の源義家阿部宗任などの記事が交つてゐる処から推して、後人の補筆もあることを拒否し得ない。  この物語はもと三十巻あつたのであるが、中ごろ欠巻が生じ、また一巻内の欠章も出来て、今では聊か不完全の姿になつてゐる。それでも現存の説話千有余に上り、我国に於ける説話集の最大最古のものである。一話ごとに『今は昔』と云ふ冒頭を置いてある処から、全集の題名が起つてゐる。  内容の豊富なのに驚かれるばかりでなく、取材の多方多面なのも他の説話集の比でない。大体を三部に別けて天竺震旦本朝の伝説、逸事、史譚、怪談、巷説の類を根気よく集め、それを編者一流の気骨ある文章で記してある。天竺の部は仏教に関したものが多く、震旦の部、本朝の部またやゝ同様であるが後の二部には史伝其他世俗のことに係る逸話も相半してゐる。三部の中、最も話数の多いのは本朝の部で、全編の約三分二を占める。その本朝の部だけで仏法の話が九巻、世俗談及史譚と謂ふべきが五巻、その外宿報、霊鬼、悪行、雑事の各一二巻が区別されてある。  題材に取られた人物は、天竺の部では釈迦及び其弟子の羅漢たちから釈迦に親縁ある人々、さては仏教界の大徳名匠の類であつて、釈迦の一生がこの部の中心になつてをり、その出処は近くは『法苑珠林』『仏祖統記』等の外、遠くは『因果経』『仏本行経』等多数の経典である。  震旦の部では取題の人物は秦の始皇、漢の高祖、楚の項羽、後漢の明帝、梁の武帝、唐の玄宗等の王者から、玄奘三蔵、善旡畏等の諸高僧や、郭巨、孟宗等の孝子、孔子、荘子、季札、賈宜、蘚武等、また上陽人、楊貴妃などに及び、その出処は、『史記』『漢書』『唐書』『白氏文集』『世説』『説苑』諸子百家の書、詩話、随筆等さまの書である。  本朝の部では上題の人物は最も広く、聖徳太子、行基菩薩、役小角、玄ム、鑑真、空海、伝教以下の智識高僧や、良岑宗貞、大江定基、源満仲、藤原顕基等の名流や、藤原氏歴世の貴紳、源平両家の武将中で聞えた人、その外詩歌・芸能・術数の道などで凡そ名ある者の限りが出て来る。其他鬼魔談、盗賊談、怪異談、恋愛談、滑稽談に結びついた著名の人物も少くない。出典は『日本書紀』『続日本記』『霊異記』『往生伝』『聖徳太子伝歴』及び諸大寺の縁起など一々挙げるに遑がない。この本朝の部には印度や支那の伝説類で我国のことに作り替へられたものも少々ある。  要するに印度、支那、日本を通じて仏教思想の輪回転生や因果応報に基いた説話が甚だ多く、また法華経などの功徳や観音、地蔵などの霊験を述べたものが沢山あるのは、いかに当時の我国民生活が仏教の影響を蒙つてゐたかを窺ひ得られる。しかし我国固有の優しい歌物語りも、雄々しい武者物語りも、かなり多数に集められてあつて、なか/\に変化に富んでゐる。よくもかくまでに多種多様の説話を蒐集し得たものとの感想は一たび本書を読んだ人の頭に必ず浮ぶことであらう。  後世の人の手に成つた多くの説話集、即『宇治拾遺物語』『十訓抄』『宝物集』『沙石集』『古今著聞集』『古事談』等に本書から採られてゐる話が少くないし、又『扶桑略記』『帝王編年記』『平家物語』『源平盛衰記』その他諸寺の縁起等に引用されてある挿話類も本書から出たと思はれるものがあることを考へると、つまり本書は我国に於ける伝説の大集成として空前かつ絶後の者である。此点で頗る貴重の一書たるを失はぬ。もし此書がなかつたならば、伝説学者は研究の資料を求めるに少からぬ不便を感ずるであらう。  文学書としては真率直截の書き方で、強ひて文詞を修飾した痕は見えぬが、其処に気あり力あり、一種浄潔な趣もあつて、かへつて読者をして心を弛緩せしめぬ所が妙である。編者の博覧洽聞は勿論驚くべきものである。  全部千章もある中から特に面白そうな説話、ことに児童の了解に適ふものを抜いて、本書の一斑を示さうと試みるのは、稍むづかしい業であるが、他日原本を手にするまでの階梯として上の三十篇を挙げることにした。 謡曲に就いて  謡曲とは足利義満将軍の時代応永年中観世観阿弥、同世阿弥父子の大成した猿楽の能のうたひ物の謂で、其作者としては観世世阿弥、同小次郎、同弥次郎、金春禅竹、同禅鳳、宮増新九郎等が有名で、中にも世阿弥の作最も多く且傑作に富む。其後も断えず新曲が製出されて遂に千有余篇にも及んだが、後世に至つて自然に廃れたものも少からず、近代は二百曲内外を以て普通とすることになつた。能の流派即、観世、宝生、金春、金剛、喜多の五流によつて所用の曲数に相違があり、同一の曲でも文章に幾分の異同があるけれど、大体は似よつたものである。  さて謡曲の題材は神話、仏説、史的逸話、恋愛談、怪異談、その他諸種の伝説巷談及び古代の仮作物語類の一節等を採つたのが多く、旧来之を大別して神祇物、修羅物、女物雑の四部に立ててゐる。文章は製作当時の通行文よりも稍古い時代の風格を経として、室町期の通用語を緯とし、前者には多く譜節を附して諷吟させ、後者は台詞として諷吟の間を点綴するやうにしてある。  普通の説話文と違つて舞台文学である謡曲には、曲中の人物が相手なしの独語的に自己の所懐を述べて、観客に曲の筋や意趣を釈くような箇処が必ずある。往々地の文と曲人の白との差別のつかぬ場合も出て来る。  それから能の構造には単複の二様があつて、単式では一曲の主人公たる者が其曲を通じて更らぬのに、複式では主人公が前後姿を変へ又は人格を更へて現れる。謡曲の文にも其次第は率ね写し出されてゐるけれども、其変り方のいかようであるかの明示を欠くこともある。此等は単に謡本を見たのみでは十分の理解をなしかねる。どうしても能を観て知るべきである。  謡曲には仏教思想を取り込んでゐる者が多いが、これは作製当時の一般民衆の心的趨向を考へてのことであるから、特に謡曲に因果応報談の少からぬことを求めるわけにゆかぬ。怪力乱神的の曲が大分にあるのも、やはり時代の信念の反映に外ならぬ。  少くとも二百余曲の現行されてゐる中から、代表的の数曲を選ぶことは頗る困難であるが、主ら能として早分りがしてしかも興味のあるもの十篇をとつて、児童をして謡曲の概観をなし得るようにした。たゞし実際大人の賞翫に価する曲はこの外に尚沢山あることを断つて置く。 日本児童文庫 昭和三年三月二日印刷 昭和三年三月五日発行 竹取物語・今昔物語・謡曲物語 [非売品] 版権所有 著作者     和田万吉 編輯兼発行者  東京市小石川区表町一〇九         北原鉄雄 印刷者     東京市小石川区久堅町一〇八         君島潔 印刷所     東京市小石川区久堅町一〇八         共同印刷株式会社 発行所     東京小石川表町一〇九         アルス         振替 東京二四八八八番・電話 小石川三五七〇・四八一三番