海の声
                 若山牧水
(明治41年刊。初版本による。振り仮名省略)


昨にして歓楽の夢すでにすくなかりし身の今にお
よぴて哀愁のいたみ更に切なるを覚ゆ古人の多情
練漉すでに低摧すといへるは或はかくの如きを歌
へるなるべしされどなほその人はそれに次ぐに独
寒村に倚つて野梅を嗅ぐの句を以てせり余や日と
して走らざるなく時として息ふこと能はずみづか
ら憂へみづから苦しみてしかもつひにわが安んず
べきところを知らずあゝ喜を見ていよ/\よろこ
び悲にあひてまたます/\よろこぶわが牧水君の
今の時は幸なるかな羨むべきかな
おもほえず昨日われ射しわかき日のひかりを
君がうへに見むとは
きみがよぶこゑにおどろきながめやる老てふ
道のさてもさびしき
君によりてまたかへりふむわかき道花はきの
ふの虹にして
柴舟生


 われは海の声を愛す。潮青かるが見ゆるもよし
見えざるもまたあしからじ、遠くちかく、断えみ
断えずみ、その無限の声の不安おほきわが胸にか
よふとき、われはげに云ひがたき、悲哀と慰籍とを
覚えずんばあらず。
 こころせまりて歌うたふ時、また斯のおもひの
湧きいでて耐へがたきを覚ゆ。かかる時ぞ、わが
こころ最も明らかにまた温かにすべてのものにむ
かひて馳せゆきこの天地の間に介在せるわが影の
甚しく確乎たるを感ず。まこと、われらがうら若
の胸の海ほど世にも清らにまた時おかず波うてる
はあらざるべし、そのとどめがたきこころのふる
へを歌ひいでてわれとわがおもひをほしいままに
し、かつそのまま尽くるなき思ひ出の甕にひめお
かむこそ、げにわれらがほこりにしてまた限りな
きよろこびならずとせむや。
 われ幼きより歌をうたひぬ、されども詩歌とし
てゆるさるべき秀れしもの殆どいまだあることな
し、ここには比較的ととのひそめし明治三十九年
あたりの作より今日に至るまでのもの四百幾十首
を自ら選みいでて輯めたり、選むには巧みなると
否とを旨とせず、好きすかずを先にしたり、要は
ただ純みたるわが影を表はさむとしてに外ならず。
表紙画は平福百穂氏の厚意に成れリ、多忙のうち
わがために労をさかれし氏に対して深く感謝の意
を表す。
   明治四十一年五月
                  若山牧水


海の声
              若山牧水
われ歌をうたへりけふも故わかぬかなしみどもにうち追はれつつ
真昼日のひかり青きに燃えさかる炎か哀しわが若さ燃ゆ
海哀し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし
風わたる見よ初夏のあを空を青葉がうへをやよ恋人よ
空の日に浸みかも響く青々と海鳴るあはれ青き海鳴る
海を見て世にみなし児のわが性は涙わりなしほほゑみて泣く
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ
あな寂し縛められて黙然と立てる巨人の石彫まばや
海断えず嘆くか永久にさめやらぬ汝みづからの夢をいだきて
闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海を見る
わが胸ゆ海のこころにわが胸に海のこころゆあはれ糸鳴る
わがまへに海よこたはり日に光るこの倦みし胸何にをののく
戸な引きそ戸の面は今しゆく春のかなしさ満てり来よ何か泣く
みな人にそむきてひとりわれゆかむわが悲しみはひとにゆるさじ
蒼穹の雲はもながるわだつみのうしほは流るわれ茫と立つ
夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く
われ寂し火を噴く山に一瞬のけむり断えにし秋の日に似て
闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚に臥して黒き海聴く
あなつひに啼くか鴎よ静けさの権化と青の空にうかびて
狂ひ鳥はてなき青の大空に狂へるを見よくるへる女
おもひみよ青海なせるさびしさにつつまれゐつつ恋ひ燃ゆる身を
君来ずばこがれてこよひわれ死なむ明日は明後日は誰知らむ日ぞ
泣きながら死にて去にけりおん胸に顔うづめつつ怨みゐし子は
われ憎む君よ真昼の神のまへ燭ともすほどの藹たき人を
然なり先づ春消えのこる松が枝の白の深雪の君とたたへむ
玉ひかる純白の小鳥たえだえに胸に羽うつ寂しき真昼
黒髪のかをり沈むやわが胸に血ぞ湧く創ゆしみ出るごとく
春や白昼日はうららかに額にさす涙ながして海あふぐ子の(以下四十九首安房にて)
声あげてわれ泣く海の濃みどりの底に声ゆけつれなき耳に
わだつみの白昼のうしほの濃みどりに額うちひたし君恋ひ泣かむ
忍びかに白鳥啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨ずるがごと
わがこころ海に吸はれぬ海すひぬそのたたかひに瞳は燃ゆるかな
われまよふ照る日の海に中ぞらにこころねむれる君が乳の辺に
眼をとぢつ君樹によりて海を聴くその遠き音になにのひそむや
ああ接吻海そのままに日は行かず鳥翔ひなから死せ果てよいま
接吻くるわれらがまへに涯もなう海ひらけたり神よいづこに
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇を君
松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ
ともすれば君口無しになりたまふ海な眺めそ海にとられむ
君かりにかのわたつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ
ふと袖に見いでし人の落髪を唇にあてつつ朝の海見る
ひもすがら断えなく窓に海ひびく何につかれて君われに倚る
誰ぞ誰ぞ誰ぞわがこころ鼓つ春の日の更けゆく海の琴にあはせて
夕海に鳥啼く闇のかなしきにわれら手とりぬあはれまた啼く
鳥白しなにぞあれ行くわれ離りゆふべ明るき海のあなたへ
夕やみの磯に火を焚く海にまよふかなしみどもよいざよりて来よ
海明り天にえ行かず陸に来ず闇のそこひに青うふるへり
うす雲はしづかに流れ日のひかり鈍める白昼の海の白さよ
真昼時青海死にぬ巌かげにちさき貝あり妻をあさり行く
海の声そらにまよへり春の日のその声のなかに白鳥の浮く
海あをし青一しづく日の瞳に点じて春のそら匂はせむ
春のそら白鳥まへり●紅しついばみてみよ海のみどりを 《●は「嘴」の右側》
白き鳥ちからなげにも春の日の海をかけれり君よ何おもふ
無限また不断の変化持つ海におどろきしかや可愛ゆをみなよ
春の海ほのかにふるふ額伏せて泣く夜のさまの誰が髪に似る
幾千の白羽みだれぬあさ風にみどりの海へ日の大ぞらへ
いづくにか少女泣くらむその眸のうれひ湛えて春の海凪ぐ
海なつかし君等みどりのこのそこにともに来ずやといふに似て凪ぐ
手をとりてわれらは立てり春の日のみどりの海の無限の岸に
春の海のみどりうるみぬあめつちに君が髪の香満ちわたる見ゆ
御ひとみは海にむかへり相むかふわれは夢かも御ひとみを見る
わが若き双のひとみは八百潮のみどり直吸ひ尚ほ飽かず燃ゆ
しとしとと潮の匂ひのしたたれり君くろ髪に海の瓊をさす
君笑めば海はにほへり春の日の八百潮どもはうちひそみつつ
春の河うす黄に濁り昔もなう潮満つる海の朝凪に入る
暴風雨あとの磯に日は冴ゆなにものに驚かされて犬永う鳴く
白昼の海古びし青き糸のごとたえだえ響く寂しき胸に
伏目して君は海見る夕闇のうす青の香に髪のぬれずや
日は海に落ちゆく君よいかなれば斯くは悲しきいざや祷らむ
白昼さびし木の間に海の光る見て真白き君が額のうれひよ
くちづけは永かりしかなあめつちにかへり来てまた黒髪を見る
夕ぐれの海の愁ひのしたたりに浸されて瞳は遠き沖見る
蒼ざめし額にせまるわだつみのみどりの針に似たる匂ひよ
柑子やや夏に倦みぬるうすいろに海は濁れり夕疾風凪ぐ
海荒れて大空の日はすさみたり海女巌かげに何の貝とる
春の海さして船行く山かげの名もなき港昼の鐘鳴る
朱の色の大鳥あまた浮きいでよいま晩春の日は空に饐ゆ
山を見き君よ添寝の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山
春の雲しづかにゆけりわがこころ静かに泣けり何をおもふや
悲し悲し何かかなしきそは知らず人よ何笑むわがかたを見て
わが胸の底の悲しみ誰知らむただ高笑ひ空なるを聞け
悲哀よいでわれを刺せ汝がままにわれ刺しも得ばいで千々に刺せ
われ敢て手もうごかさず寂然とよこたはりゐむ燃えよ悲しみ
かなしみは湿れる炎声もなうぢぢと身を焼くやき果てはせで
雲見れば雲に木見れば木に草にあな悲しみの水の火は燃ゆ
ああ悲哀せまれば胸は地はそらは一色に透く何等影無し
泣きはててまた泣きも得ぬ瞳の闇の重さよ切に火のみだれ喚ぷ
掟てられて人てふものの為すべきをなしつつあるに何のもだえぞ
馴れ馴れていつはり来にしわが影を美しみつつ今日をつぐかな
あれ行くよ何の悲しみ何の悔ひ犬にあるべき尾をふりて行く
天の日に向ひて立つにたへがたしいつはりにのみ満ちみてる胸
もの見れば焼かむとぞおもふもの見れば消なむとぞ思ふ弱き性かな
天あふぎ雲を見ぬ日は胸ひろししかはあれども淋しからずや
ただ一路風飄としてそらを行くちひさき雲らむらがりてゆく
地のうへに生けるものみな死にはてよわれただ一人日を仰ぎ見む
見てあれば一葉先づ落ちまた落ちぬ何おもふとや夕日の大樹
木の蔭や悲しさに吹く笛の音はさやるものなし野にそらに行く
樹に倚りて頬をよすればほのかにも頬に脈うつ秋木立かな
山はみな頭を垂れぬ落日のしじまのなかに海簫をふく
ほうほうと汽笛はさけぷをちこちにああ都会よ見よ今日もまた暮れぬ
青の海そのひびき断ち一瞬の沈黙を守れ日の声聴かむ
人といふものあり海の真蒼なる底にくぐりて魚をとりて食む
海の声たえむとしてはまた起る地に人は生れまた人を生む
西の国ひがしの国の帆柱は港に入りぬ黙然として
海の上の老いし旅びと帆柱はけふも海行く西風冴えて吹く
静けさや悲しきかぎり思ひ倦じ対へる山の秋の日のいろ
秋の風木立にすさぷ木のなかの家の灯かげにわが脈はうつ
つとわれら黙しぬ灯かげ黒かみのみどりは匂ふ風過ぎて行く
われらややに頭をたれぬ胸二つ何をか思ふ夜風遠く吹く
風消えぬ吾もほほゑみぬ小夜の風聴きゐし君のほほゑむを見て
つと過ぎぬすぎて声なし夜の風いまか静かに木の葉ちるらむ
風凪ぎぬつかれて樹々の凪ぎしづむ夜を見よ少女さびしからずや
風凪ぎぬ松と落葉の木の叢のなかなるわが家いざ君よ寝む
山恋しその山すその秋の樹の樹の間を縫へる青き水はた
青海の底の寂しさ去にし日の古びし恋の影恋ひわたる
街の声うしろに和むわれらいま潮さす河の春の夜を見る
春の海の静けさ棲めり君とわがとる掌のなかに灯の街を行く
はらはらに桜みだれて散り散れり見ゐつつ何のおもひ湧かぬ日
蛙鳴く耳をたつればみんなみにいなまた西に雲白き昼
朝地震す空はかすかに嵐して一山白き山ざくらかな
雪暗うわが家つつみぬ赤々の炭火をなかに君が髪見る
鳥は籠君は柱にしめやかに夕日を浴びぬなど啼かぬ鳥
煙たつ野ずえの空へ野樹いまだ芽ふかぬ春のうるめるそらへ
春の夜や誰ぞまた寝ぬ厨なる甕に水さす音のしめやかに
仰ぎ見る瞳しづけし春更くるかの大ぞらの胸さわぐさま
白昼哀し海のみどりのぬれ髪にまつはりゐつつ匂ふ寂静よ
秋立ちぬわれを泣かせて泣き死なす石とつれなき人恋しけれ
真昼日のひかりのなかに蝋の燭のゆらげるほどぞなほ想ひ残る
この家は男ばかりの添寝ぞとさやさや風の樹に鳴る夜なり
春たてば秋さる見ればものごとに驚きやまぬ瞳の若さかな
わが若き胸は白壷さみどりの波たちやすき水たたえつつ
うら若き青八千草の胸の野は日の香さびしみ百鳥を呼ぷ
若き身は日を見月を見いそいそと明日に行くなりその足どりよ
月光の青のうしほのなかに浮きいや遠ざかり白鷺の啼く
片ぞらに雲はあつまり片空に月冴ゆ野分地にながれたり
十五夜の月は生絹の被衣して男をみなの寝し国をゆく
白昼のごと戸の面は月の明う照るここは灯の国君とぬるなり
君睡れば灯の照るかぎりしづやかに夜は匂ふなりたちばなの花
寝すがたはねたし起すもまたつらしとつおいつして虫を聴くかな
ふと虫の鳴く音たゆれば驚きて君見る君は美しう睡る
君ぬるや枕のうへに摘まれ来し秋の花ぞと灯は匂やかに
美しうねむれる人にむかひゐてふと夜ぞかなし戸に月や見む
月の夜や君つつましうねてさめず戸の面の木立風真白なり
短かりし一夜なりしか長かりし一夜なりしか先づ君よいへ
静けさや君が裁縫の手をとめて菊見るさまをふと思ふとき
机のうへ植木の鉢の黒土に萌えいづる芽あり秋の夜の灯よ
春の樹の紫じめろ濃き影を障子にながめ思ふこともなし
つかれぬる鈍き瞳をひらきては見るともなしに何もとむとや
君もまた一人かあはれ恋ひ恋ふるかなしきなかに生けるひとりか
春の森青き幹ひくのこぎりの音と木の香と籔うぐひすと
ぬれ衣のなき名をひとにうたはれて美しう居るうら寂しさよ
母恋しかかる夕べのふるさとの桜咲くらむ山の姿よ
春は来ぬ老いにし父の御ひとみに白ううつらむ山ざくら花
父母よ神にも似たるこしかたに思ひ出ありや山ざくら花
町はづれきたなき溝の匂ひ出るたそがれ時をみそさざい啼く
恋さめぬあした日は出でゆふべ月からくりに似て世はめぐるかな
青き玉さやかに透きて春の夜の灯を吸へる見よ凉しき瞳
火事あとの黒木のみだれ泥水の乱れしうへの赤蜻蛉かな
帆のうなり涛の音こそ身には湧けああさやなれや十月の雲
人どよむ春の街ゆきふとおもふふるさとの海の鴎啼く声
山ざくら花のつぼみの花となる間のいのちの恋もせしかな
海の声山の声みな碧瑠璃の天に沈みて秋照る日なり
君は知らじ君の馴寄るを忌むごときはかなごころのうらさびしさを
うら恋しさやかに恋とならぬまに別れて遠きさまざまの人
阿蘇の街道大津の宿に別れつる役者の髪の山ざくら花
月光のうす青じめる有明の木の原つづき啼く鶉かな
秋の海かすかにひびく君もわれも無き世に似たる狭霧白き日
酒の香の恋しき日なり常磐樹に秋のひかりをうち眺めつつ
おもひやる番の御寺の寺々に鐘冴えゆかむこのごろの秋
秋の灯や壁にかかれる古帽子袴のさまも身にしむ夜なり
野分すぎ労れし空の静けさに心凪ぎゐぬ別れし日ごろ
秋の夜やこよひは君の薄化粧さびしきほどに静かなるかな
君去にてものの小本のちらばれるうへにしづけき秋の灯よ
いと遠き笛を聴くがにうなだれて秋の灯のまへものをこそおもへ
秋の雲柿と榛との樹々の間にうかべるを見て人も語らず
秋晴や空にはたえず遠白き雲の生れて風ある日なり
月の夜や裸形の女そらに舞ひ地に影せぬ静けさおもふ
秋の雨木々にふりゐぬ身じまひのわろき寝ざめのはづかしきかな
秋あさし海ゆく雲の夕照りに背戸の竹の葉うす明りする
君が背戸や暗よりいでてほの白み月のなかなる花月見草
白桔梗君とあゆみし初秋の林の雲の静けきに似て
思ひ出れば秋咲く木々の花に似てこころ香りぬ別れ来し日や
秋風は木の間に流る一しきり桔梗色してやがて暮るる雲
別れ来て船にのぼれば旅人のひとりとなりぬ初秋の海
啼きもせぬ白羽の鳥よ河口は赤う濁りて時雨晴れし日
日向の国むら立つ山のひと山に住む母恋し秋晴の日や
うつろなる秋のあめつち白日のうつろの光ひたあふれつつ
秋真昼青きひかりにただよへる木立がくれの家に雲見る
うすみどりうすき羽根着るささ虫の身がまへすあはれ鳴きいづるらむ
日は寂し万樹の落葉はらはらに空の沈黙をうちそそれども
見よ秋の日のもと木草ひそまりていま凋落の黄を浴びむとす
海の上の空は真蒼に陸の上の山に雲居り日は帆のうへに
むらむらと中ぞら掩ふ阿蘇山のけむりのなかに泌む秋の日よ
虚の海暗きみどりの高ぞらのしじまの底に消ゆる雲おもふ
落日や街の塔の上金色に光れど鐘はなほ鳴りいでず
日が歩むかの弓形の蒼空の青ひとすぢのみち高きかな
落葉焚くあをきけむりはほそほそと木の間を縫ひて夕空へ行く
悲しさのあふるるままに秋のそら日のいろに似る笛吹きいでむ
富士よゆるせ今宵は何の故もなう涙はてなし汝を仰ぎて
凧ぎし日や虚の御そらにゆめのごと雲はうまれて富士恋ひて行く
雲らみな東の海に吹きよせて富士に風冴ゆ夕映のそら
雲はいま富士の高ねをはなれたり据野の草に立つ野分かな
赤々と富士火を上げよ日光の冷えゆく秋の沈黙のそらに
山茶花は咲きぬこぼれぬ逢ふを欲りまたほりもせず日経ぬ月経ぬ
遠山の峯の上にきゆるゆく春の落日のごと恋ひ死にも得ば
黒かみはややみどりにも見ゆるかな灯にそがひ泣く秋の夜のひと
立ちもせばやがて地にひく黒髪を白もとゆひに結ひあげもせで
君さらに笑みてものいふ御頬の上にながるる涙そのままにして
涙もつ瞳つぷらに見はりつつ君かなしきをなほ語るかな
朝寒や萩に照ろ日をなつかしみ照らされに出し黒かみのひと
遠白うちひさき雲のいざよへり松の山なる桜のうへを
水の音に似て啼く鳥よ山ざくら松にまじれる深山の昼を
なにとなきさびしさ覚え山ざくら花あるかげに日を仰ぎ見る
怨みあまり切らむと云ひしくろ髪に白躑躅さすゆく春のひと
忍草雨しづかなりかかる夜はつれなき人をよく泣かせつる
山ふかし水あさぎなるあけぼのの空をながるる木の香かな
君恋し葵の花の香にいでてほのかに匂ふ夕月のころ
●(ムシヘン+「車」)や寝ものがたりの折り折りに涙もまじるふろさとの家
さらばとてさと見合せし額髪のかげなる瞳えは忘れめや(二首秀嬢との別れに)
別れてしそのたまゆらよ虚なる双のひとみに秋の日を見る
鍬をあげまた鍬おろしこつこつと秋の地を堀る農人どもよ
酒倉の白壁つづく大浪華こひしや秋の風冴えて吹く
まだ啼かず片羽赤らみかつ黒み夕日のそらを行く鳥のあり
窓ちかき秋の樹の間に遠白き雲の見え来て寂しき日なり
胸さびし仰げば瑠璃の高ぞらにみどりの雨のまぼろしを見る
行きつくせば浪青やかにうねりゐぬ山ざくらなど咲きそめし町
山越えて空わたりゆく遠鳴の風ある日なり山ざくら花
君泣くか相むかひゐて言もなき春の灯かげのもの静けさに
相見ねば見む日をおもひ相見ては見ぬ日を憶ふさびしきこころ
海死せりいづくともなき遠き音の空にうごきて更けし春の日
相見ればあらぬかたのみうちまもり涙たたえしひとの瞳よ
われはいま暮れなむとする雲を見る街は夕べの鐘しきりなり
船なりき春の夜なりき何処なりし旅の女と酌みし杯
いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ
ふとしては君を避けつつただ一人泣くがうれしき日もまじるかな
世のつねのよもやまがたり何にさは涙さしぐむ灯のかげの人
わだつみのそこひもわかぬわが胸のなやみ知らむと啼くか春の鳥
笛ふけば世は一いろにわが胸のかなしみに染む死なむともよし
春来ては今年も咲きぬなにといふ名ぞとも知らぬ背戸の山の樹
おもひ倦じふと死を念ふ安心になみだ晴れたる虚の瞳よ
雲ふたつ合はむとしてはまた遠く分れて消えぬ春の青ぞら
うなだれて小野の樹に倚り深みゆく春のゆふべをなつかしむかな
『木の香にや』『いな海ならむ樹間がくれ見たまへ其処にうす青う見ゆ』
町はづれ煙笛もるる青煙のにほひ迷へる春木立かな
椎の樹の暮れゆく蔭の古軒の柱より見ゆ遠山を焼く
鴬のふと啼きやめばひとしきり風わたるなり青木が原を
春あさき海のひかりや幹かたき磯の木立のやや青むかな
つかれぬる胸に照り来てほのかをるゆく春ごろの日のにほひかな
田のはづれ林のうへのゆく春の雲の静けき蛙鳴くなり
眼とづればこころしづかに音をたてぬ雲遠見ゆる行く春のまど
植木屋は無口のをとこ常磐樹の青き葉を刈る春の雨の日
初夏の照る日のもとの濃みどりのうら悲しきや合歓の花咲く
淋しくば悲しき歌を見せよとは死ねとやわれにやよつれな人
ゆく春の月のひかりのさみどりの遠をさまよふ悲しき声よ
淋しとや淋しきかぎりはてもなうあゆませたまへ何もとむべき(人へかへし)
いと幽けく濃青の白日の高ぞらに鳶啼くきこゆ死にゆくか地
一すぢの糸の白雪富士の嶺に残るが哀し水無月の天
月光の青きに燃ゆる身を裂きて蛇苺なす血の湧くを見む
初夏の月のひかりのしたたりの一滴恋し想ひ燃ゆる身に
皐月たつ空は恋する駒に似む恋する人よいかに仰ぐや
狂ひつつ泣くと寝ざめのしめやけき涙いづれが君は悲しき
しとしとと月は滴る思ひ倦じ亡骸のごともさまよへる身に
かりそめに病めばただちに死をおもふはかなごこちのうれしき夕べ(四首病床にて)
死ぬ死なぬおもひ迫る日われと身にはじめて知りしわが命かな
日の御神氷のごとく冷えはてて空に朽ちむ日また生れ来む
夙く窓押し皐月のそらのうす青を見せよ看譲婦胸せまり来ぬ
人棲まで樹々のみ生ひしかみつ代のみどり照らせし日か天をゆく
われ驚くかすかにふるふわだつみの青きを眺めわが脉搏に
わくら葉か青きが落ちぬ水無月の死しぬる白昼の高樫の樹ゆ
鷺ぞ啼く皐月の朝の浅みどり揺れもせなくや鷺空に啼く
水ゆけり水のみぎはの竹なかに白鷺啼けり見そなはせ神
水無月や日は空に死し干乾びし朱●(ツチヘン+「尼」)のほのほ阿蘇静に燃ゆ
聳やげる皐月のそらの樹の梢に幾すぢ青の糸ひくか風
酔ひはてぬわれと若さにわが恋にこころなにぞも然かは悲しむ

  旅ゆきてうたへる歌をつぎにまとめたり
  思ひ出にたよりよかれとて
山の雨しばしば軒の椎の樹にふりきてながき夜の灯かな(百草山にて)
立川の駅の古茶屋さくら樹の紅葉のかげに見おくりし子よ
旅人は伏目にすぐる町はづれ白壁ぞひに咲く芙蓉かな(日野にて)
家につづく有明白き萱原に露さはなれや鶉しば啼く
あぶら灯やすすき野はしる雨汽車にほほけし顛の十あまりかな
戸をくれば朝寝の人の黒かみに霧ながれよる松なかの家(以下三首御嶽にて)
霧ふるや細目にあけし障子よりほの白き秋の世の見ゆるかな
霧白ししとしと落つる竹の葉の露ひねもすや月となりにけり
野の坂の春の木立の葉がくれに古き宿見ゆ武蔵の青梅
なつかしき春の山かな山すそをわれは旅びと君おもひ行く(以下五首高尾山にて)
思ひあまり宿の戸押せば和やかに春の山見ゆうち泣かるかな
地ふめど草鞋声なし山ざくら咲きなむとするする山の静けさ
山静けし峯の上にのこる春の日の夕かげ淡しあはれ水の声
春の夜の匂へる闇のをちこちによこたはるかな木の芽ふく山
汽車過ぎし小野の停車傷春の夜を老いし駅夫のたたずめるあり
日のひかり水のひかりの一いろに濁れるゆふべ大利根わたる
大河よ無限に走れ秋の日の照る国ばらを海避けて行け
松の実や楓の花や仁和寺の夏なほ若し山ほととぎす
けふもまたこころの鉦をうち鳴しうち鳴しつつあくがれて行く(十首中国を巡りて)
海見ても雲あふぎてもあはれわがおもひはかへる同じ樹蔭に
幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく
わが胸の奥にか香のかをるらむこころ静けし古城を見る
峡縫ひてわが汽車走る梅雨晴の雲さはなれや吉備の山々
青海はにほひぬ宮の古ばしら丹なるが淡う影うつすとき(宮島にて)
山静けし山のなかなる古寺の古りし塔見て胸仄に鳴る(山口の瑠璃光寺にて)
桃柑子芭蕉の実売る磯街の露店の油煙青海にゆく(下の関にて)
寂寥や月無き夜を満ちきたりまたひきてゆく大海の潮(日本海を見て)
旅ゆけば瞳痩するかゆきずりの女みながら美からぬはなし
安芸の国越えて長門にまたこえて豊の国ゆき杜鵑聴く(二首耶馬渓にて)
ただ恋しうらみ怒りは影もなし暮れて旅籠の欄に倚るとき
白つゆか玉かとも見よわだの原青きうへゆき人恋ふる身を(二十六首南日向を巡りて)
潮光る南の夏の海走り日を仰げども愁ひ消やらず
わが涙いま自由なれや雲は照り潮ひかれる帆柱のかげ
檳榔樹の古樹を想へその葉蔭海見て石に似る男をも(日向の青島より人へ)
山上や目路のかぎりのをちこちの河光るなり落日の国(日向大隅の界にて)
椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る(以下三首都井岬にて)
あはれあれかすかに声す拾ひつる椰子のうつろの流れ実吹けば
日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海聴く
黄昏の河を渡るや乗合の牛等鳴き出ぬ黄の山の雲
酔ひ痴れて酒袋如すわが五体砂に落ち散り青海を見る
労れはてて眼には血も無き旅びとの今し汝見るやよ暮るる海
船はてて上れる国は満天の星くづのなかに山匂ひ立つ(日向の油津にて)
山聳ゆ海よこたはるその間のなぎさに寝ねて遠き雲見る
遊君の紅き袖ふり手をかざしをとこ待つらむ港早や来よ
大うねり風にさからひ青うゆくそのいただきの白玉の波
大隅の海を走るや乗合の若きが髪のよく匂ふかな
船酔のうら若き母の胸に倚り海をよろこぷやよみどり児よ
山も見ぬ青わだつみの帆の蔭に水夫は遊女の品さだめかな
落日や白く光りて飛魚は征天降るごとし秋風の海
船の上に飼へる一つの鈴虫の鳴きしきるかな月青き海
港口黒山そびゆわが船のちひさなるかな沖さして行く
帆柱ぞ寂然としてそらをさす風死せし白昼の海の青さよ
かたかたとかたき音して秋更けし沖の青なみ帆のしたにうつ
風ひたと落ちて真鉄の青空ゆ星ふりそめぬつかれし海に
山かげの闇に吸はれてわが船はみなとに入りぬ汽笛長う鳴く
南国の夏の樹木の青浪の山はてもなし一峠越ゆ
夕さればいつしか雲は降り来て峯に寝るなり山ふかき国(三首日向高千穂にて)
月明し山脈こえて秋かぜの流るる夜なり雲高う照る
秋の蝉うちみだれ鳴く夕山の樹の蔭に立ちゆく雲を見る
樹間がくれ見居れば阿蘇の青烟はかすかにきえぬ秋の遠空(以下六首阿蘇にて)
秋の雲青き白きがむら立ちて山鳴つたへ天馳するかな
山鳴に馴れては月の白き夜をやすらに眠る肥の国人よ
ひれ伏して地の底とほき火を見ると人の五つが赤かりし面
麓野の国にすまへる万人を軒に立たせて阿蘇荒るるかな
風さやさや裾野の秋の樹にたちぬ阿蘇の月夜のその大きさや
秋のそらうらぷれ雲は霧のごと阿蘇の火つつみ凪ぎぬる日なり
やや赤む暮雲を遠き陸の上にながめて秋の海馳するかな(八首周防灘にて)
雲はゆく雲に残れる秋の日のひかりも動く黒し海原
落日のひかり海去り帆をも去りぬ死せしか風はまた眉に来ず
夕雲のひろさいくばくわだつみの黒きを掩ひ日を包み燃ゆ
雲は燃え日は落つ船の旅びとの代赭の面のその沈黙よ
日は落ちぬつめたき炎わだつみのはてなる雲にくすぼりて燃ゆ
ぬと聳えさと落ちくだる帆柱に潮けぷりせる血の玉の灯よ
水に棲み夜光る虫は青やかにひかりぬ秋の海匂ふかな
津の海は酒の国なり三夜二夜飲みて更らなる旅つづけなむ(以下十三首摂津にて)
杯を口にふくめば千すぢみな髪も匂ふか身はかろらかに
白雲のかからぬはなし津の国の古塔に望む初秋の山(四天王寺に登りて)
物々しき街のぞめきや蒼空を秋照りわたろ白雲のもと
雲照るや出水のあとの濁り水街押しつつむ大阪の秋
大阪は老女に裾の緋縮緬多きに残る日の暑さかな
泣真似の上手なりける小女のさすがなりけり忘られもせず
浪華女に恋すまじいぞ旅人よただ見て通れそのながしめを
われ車に友は柱に一語二語酔語かはして別れ去りにけり(大阪に葩水と別る)
酔うて入り酔うて浪華を出でて行く旅びとに降る初秋の雨
昨日飲みけふ飲み酒に朽ちもせで白痴笑ひしつつなほ旅路ゆく
山行けば青の木草に日は照れり何に悲しむわがこころぞも(箕面山にて)
住吉は青のはちす葉白の砂秋たちそむる松風の声
秋雨の葛城越えて白雲のただよふもとの紀の国を見る
火事の火の光り宿して夜の雲は赤う明りつ空流れゆく(二首和歌山にて)
町の火事雨雲おほき夜の空にみだれて鷺の啼きかはすかな
ちんちろり男ばかりの酒の夜をあれちんちろり鳴きいづるかな(紀の国青岸にて)
紀の川は海に入るとて千木の松のなかゆくその瑠璃の水
紀三井寺海見はるかす山の上の樹の間に黙す秋の鐘かな
一の札所第二の札所紀の国の番の御寺をいざ巡りてむ
粉河寺遍路の衆のうち鳴らす鉦々きこゆ秋の樹の間に
鉦々のなかにたたずみ旅びとのわれもをろがむ秋の大寺
旅人よ地に臥せ空ゆあふれては秋山河にいま流れ来る(葛城山にて)
鐘おほき古りし町かな折しもあれ旅籠に着きしその黄昏に(二首奈良にて)
鐘断えず麓におこる嫩草の山にわれ立ち白昼の雲見る
雲やゆくわか地やうごく秋真昼鉦も鳴らざる古寺にして(二首法隆寺にて)
秋真昼ふるき御寺にわれ一人立ちぬあゆみぬ何のにほひぞ
みだれ降る大ぞらの星そのもとの山また山の闇を汽車行く(伊賀にて)
峡出でて汽車海に添ふ初秋の月のひかりのやや青き海(駿河あたりにて)
           旅の歌をはり

舌つづみうてばあめつちゆるぎ出づをかしや瞳はや酔ひしかも
とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒白鶴瓶あふれ出る
灯ともせばむしろみどりに見ゆる水酒と申すを君断えず酌ぐ
くるくるE天地めぐるよき顔も白の瓶子も酔ひ舞へる身も
酌とりの玉のやうなる小むすめをかかえて舞はむ青だたみかな
女ども手うちはやして泣上戸泣上戸とぞわれをめぐれる
あな可愛ゆわれより早く酔ひはてて手枕のまま君ねむるなり
睡れるをこのまま盗みわだつみに帆あげてやがて泣く顔を見む
酔ひはててはただ小をんなの帯に咲く緋の大輪の花のみが見ゆ
ああ酔ひぬ月が嬰子生む子守唄うたひくれずやこの膝にねむ
君が唄ふ『十三ななつ』君はいつそれになるかや嬰子うむかやよ
あな倦みぬ斯く酔ひ痴れし夢の間にわれ葬らずややよ女ども
渇きはて咽喉は灰めく酔ざめに前髪の子がむく林檎かな
酒の毒しびれわたりしはらわたにあなここちよや泌む秋の風
石ころを蹴り蹴りありく秋の街落日黄なり酔醒めの眼に
山の白昼われをめぐれる秋の樹の不断の風に海の青憶ふ
琴弾くか春ゆくほどにもの言はぬくせつきそめし夕ぐれの人
春の夜の月のあはきに厨の戸誰が開けすてし灯のながれたる
かはたれの街のうるほひ何処ゆかふと出でよ髪の直匂ふ子よ
春のゆふべ恋にたたれしたはれ女の眼のしほ恋し渇けるこころ
月つひに吸はれぬ暁の蒼穹の青きに海の音とほく鳴る
窓ひとつ朧ろの空へ灯をながす大河沿の春の夜の街
鐘鳴り出づ落日のまへの擾乱のやや沈みゆく街のかたへに
仁和寺の松の木の間をふと思ふうらみつかれし春の夕ぐれ
朝の室夢のちぎれの落ち散れるさまにちり入る山ざくらかな
君見ませ泣きそぼたれて春の夜の更けゆくさまを真黒き樹々を
一葉だに揺れず大樹は夕ぐれのわが泣く窓に押しせまり立つ
われとわが恋を見おくる山々に入日消えゆく峡にたたずみ
燐枝すりぬ海のなぎさに倦み光る昼の日のもと青き魚焼く
秋の海阿蘇の火見ゆと旅人は帆かげにつどふ浪死せる夜を
油尽きぬされども消えず青白き灯のもゆる見よ寝ざめし人よ
昼の街葬式ぞゆく鉦濁るその列形にうごめく塵埃
直吸ひに日の光吸ひてまひる日の海の青燃ゆわれ巌に立つ
大ぞらの神よいましがいとし児の二人恋して歌うたふ見よ
君を得ぬいよいよ海の涯なきに白帆を上げぬ何のなみだぞ
あな沈む少女の胸にわれ沈むああ聴けいづく悲しみの笛
みじろがでわが手にねむれあめつちになにごともなし何の事なし
塵浴びて街のちまたにまよふ子等何等ちひさきわれ君を恋ふ
みだれ射よ雨降る征矢をえやは射るこの静ごころこの恋ごころ
吹き鳴らせ白銀の笛春ぐもる空裂けむまで君死なむまで
君笑むかああやごとなし君がまへに恋ひ狂ふ子の狂ひ死ぬ見て
山動け海くつがへれ一すぢの君がほつれ毛ゆるがせはせじ
われら両人相添うて立つ一点に四方のしじまの吸はるるを聴け
思ひ倦みぬ毒の赤花さかづきにしぼりてわれに君せまり来よ
矢継早火の矢つがへてわれを射よ満ちて腐らむわが胸を射よ
思ふまま怨言つらねて彼女がまへに泣きはえ臥さで何を嘲むや
わが怨言ききつつ君が白き頬に微笑ぞうかぷ刺せ毒の針
ひたぷるに木枯すさぷ斯る夜を思ひ死なむずわが愚鈍見よ
生ぬるき恋の文かな筆もろともいざ火に焼かむ爐のむらむら火
されど悲し斯く恋ひ狂ひやがて徒だ安らに君が胸に死てむ日
毒の香君に焚かせてもろともに死なばや春のかなしき夕べ
胸せまるあな胸せまる君いかにともに死なずや何を驚く
千代八千代棄てたまふなと云ひすててつとわが手枕きはや睡るかな
針のみみそれよりちさき火の色の毒花咲くは誰が唇ぞ
疑ひの蛇むらがるに火のちぎれ投ぐるか君がその花の微笑
疑ひの野火しめじめと胸を這ふ風死せし夜を消えみ消えずみ
君かりにその黒髪に火の油そそぎてもなほわれを捨てずや
恋ひ狂ひからくも獲ぬる君いだき恍けし顔の驚愕を見よ
とこしへに逃ぐるか恋よとこしへにわれ若うして追はむ汝を
紅梅のつめたきほを見たまへばはや馴れて君笑みて唇よす
こよひまた死ぬべきわれかぬれ髪のかげなる眸の満干る海に
いざこの胸千々に刺し貫き穴だらけのそを玩べ春の夜の女
『女なればつつましやかに』『それ憎しなどわれ焼かう火の言葉せぬ』
渇けりやそのくちびるの紅ゐは乾びて黒しそれわが血吸へ
あめつちに乾びて一つわが唇も死して動かず君見ぬ十日
『遣るも行かじ死海ならではよし行くも沈みて燃えむ』ねたみの炎
髪を焼けその眸つぷせ斯くてこの胸に泣き来よさらば許さむ
微笑鋭しわれよりさきにこの胸に棲みしありやと添臥しの人
毒の木に火をやれ赤きその炎ちぎりて投げむよく寝る人に
涙さびし夢も見ぬげにやすらかに寝みだれ姿われに添ふ見て
春は来ぬ恋のほこりか君を獲てこの月ごろの悲しきなかに
夕ぐれに音もなうゆらぐさみどりの柳かさびしよく君は泣く
君よなどさは愁れたげの瞳して我がひとみ見ろわれに死ねとや
ただ許せふとして君に飽きたらず忌む日もあれどいま斯くてあり
あらら可笑し君といだきて思ふこといふことなきにこの涙見よ
ことあらば消なむとやうにわが前にひたすらわれをうかがふ君よ
君はいまわが思ふままよろこびぬ泣きぬあはれや生くとしもなし
君よ汝が若き生命は眼をとぢて美しう睡るわが掌に
悲しきか君泣け泣くをあざわらひあざわらひつつわれも泣かなむ
燃え燃えて野火いつしかに消え去りぬ黒めるあとの胸の原見よ
さらばよし別るるまでぞなにごとの難きか其処に何のねたまむ
撤きたまへ灰を小砂利をわが胸にその荒るる見て手を拍ちたまへ
手枕よ髪のかをりよ添ひぷしにわかれて春の夜を幾つ寝し
別れ居の三夜は二夜はさこそあれかがなひて見よはや十日経む
事もなういとしづやかに暮れゆきぬしみじみ人の恋しきゆふべ
かへれかへれ怨じうたがひに倦みもせばいざこの胸へとく帰り来よ
あなあはれ君もいつしか眼盲ひぬわれも盲人の相いだき泣く
恋しなばいつかは斯る憂を見むとおもひし昨のはろかなるかな
わりもなう直よろこびてわが胸にすがり泣く子が髪のやつれよ
心ゆくかぎりをこよひ泣かしめよものな言ひそね君見むも憂し
さらば君いざや別れむわかれてはまたあひは見じいざさらばさらば
君いかにかかる静けき夕ぐれに逝きなば人のいかに幸あらむ
夕ぐれの静寂しとしと降る窓にふと合ひぬ唇のいつまでとなく
『君よ君よわれ若し死なばいづくにか君は行くらむ』手をとりていふ
春哀し君に棄てられはろばろと行かばや海のあなたの国へ
知らず知らずわが足鈍る君も鈍る恋の木立の静寂のなかに
怨むまじや性は清水のさらさらに浅かる君をなにうらむぺき
恋人よわれらはさびし青ぞらのもとに涯なう野の燃ゆるさま

海の声 をはり


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