人の学名学則を問ふに答ふるの書(大塩平八郎)
(「大日本思想全集」第十六巻〈昭和6年。先進社内同刊行会〉による)
弟子問於余曰。先生学謂之陽明乎。曰否。謂之程子学。朱子学乎。曰否。曰謂之毛鄭賈孔訓詁註疏学乎。曰否。仁斎父子之古学乎。抑徂徠詩書礼楽之学乎。曰否。然則先生所適従将何学耶。曰我学只在求仁而已矣。故学無名。強名之曰孔孟学焉。曰其説如何。曰我学洽大学中庸論語也。大学中庸論語便是孔氏之書也。治孟子也。孟子便是孟氏之書也。而六経皆亦孔子刪定之書也。故強名之曰孔孟学也。毛鄭賈孔之学。則只註釈経書之名義也。程朱之学。大抵。説破経書之精微。性命之底蘊也。陽明先生之学。就其中提易簡之要也。仁斎徂徠。則特其堪唾余耳。嗚呼。孔孟之学。在求一仁。而仁則難遽下手。故或読其訓詁註疏。而求其影響。或因其居敬窮理之工夫。以探其精微。窮其底蘊。或致良知。以握其易簡之要。而畢竟各皆帰乎孔孟之学也已矣。然而孔孟数千百歳以前。既逆知数千百歳後。諸儒各争意見。立宗分派。以為同室之闘矣。故孔子以孝経授於曾子。而謂之至徳要道。孟子亦曰。尭舜之道。孝弟而已矣。以是考之。則四書六経所説雖多端。仁之功用雖遠大。其徳之至。其道之要。只在孝而已矣。故我学以孝之一字貫四書六経之理義。力固不及。識固不足。然求諸心。而真躬心中之理。将以死従事斯文矣。故直曰孔孟学。是乃似僭而不僭矣。吾徒小子宜奉遵焉。而若有問我学者。則以之答而可也。
嗚呼。忝其所生。而靦然以儒自冒者。則非孔孟之罪人而何。
以上、原文。
以下、口語訳。
門下の者が私に問うて云ふやう、「先生の学問はこれを陽明学と云ふのでせうか」と。私は「然らず」と答へる。「それでは、程子の学問ですかそれとも朱子の学問ですか」と云ふ。又「然らず」と答へた。「それでは」毛鄭賈孔たどの訓詁註疏の学問でせうか」と云ふ。「左様でもない」と答へる。又「伊藤仁斎父子の古学であるか、抑々又荻生徂徠の詩書礼楽を主とする学問であるか」といふ。又々、「左様ではない」と答へた。「然らば先生の奉じてをられる学問は何か」と尋ねるに対し、私は答へて云ふ、自分の学問は只仁を求めるにある。故にそれは別に名称がない。強ひてこれを名づければ孔孟の学とでも云はう」と。さうすると、弟子達は「その御説は如何ですか」と聞く。これを説明すれば、我学問は「大学」、「中庸」、「論語」などを治めるのであつて、「大学」、「中庸」、「論語」は即ちこれ孔子の書である。また我学問は「孟子」を修めるのであつて、孟子は即ち孟子の書である。又六経(易、書、詩、春秋、礼、楽記)は皆孔子が刪定された書であるから、これを学ぶ者は又孔孟の書を学ぶといへる。故に強ひてこれを名づければ、孔孟学と称することが出来よう。毛鄭賈孔の学はたゞ経書の名義を註釈したものに過ぎない。程朱の学は大抵経書の精微な旨、人間が天から受けた本質の奥底を説破したもので、陽明先生の学はこの方面の研究、講朋の上に就中、簡潔で要領を得てゐる。仁斎徂徠などはその受売りをしてゐる者に過ぎない。嗚呼孔孟の学はたゞ、仁を求めるにあつて、而もその仁は深い意味を含み、遽かに手軽に把握し得るものでない。故に或はそれに関する訓詁註疏を読んで、その影響を吟味し、或は居敬窮理の工夫によつてその精微な趣を探索し、その奥底を窺ひ、或は良知の説を聞いてその根本義を握らうとするのであるが、畢竟、それ等は皆礼孟の学に帰するのである。そして孔孟は数千百年前の人でありながら、既に数千百年後の今日、諸儒が各々意見を持し、派を立てて互に分立し、仲間割れして争論するであらうことを知つてをられた。故に孔子は「孝経」を以て曾子に授けて、これ至徳の要道と云はれたのである。孟子も亦、「尭舜の道は孝弟のみ」と云つた。これを以て考へてみても、四書六経の説いてゐるところは多端ではあり又仁の功用は遠大であるとは云ふもののその徳の終極するところは只孝に存するのである。故に自分の学問は孝の一字を以て四書六経の義理を解釈し一貫してゐる。私の微力なる、固より十分の事が出来ず、学識また足らない。然しながら真理を心の内部に求めて真実に人間の本性に就ての理を窮めてゆくことに於ては、命懸けで斯文の為めに尽さうとするものである。故に率直にこれを孔孟学と云ふのである。それは一見僭越に似て、僭越ではない、吾子弟諸君は宜しくこの旨を遵奉されたい。そして若し自分の学問の流儀を問ふ者があつたら、以上の如く答へて宜いのである。
嗚呼人間と生れて天の本質を受け、厚顔にも儒者を以て居りながら、孔孟の真意を冒涜するものは、これ孔孟の罪人でなくて何であらう。
〔註〕
陽朋学 王陽明学派のこと、王学とも云ふ。
程子 宋代一流の学者、程氏兄弟。
朱子 宋代一流の学者、東洋のカントと云はれる。
訓詁 古文の字義を講説すること。
註疏 本文の間に註を加へて意義を明かにすること。
伊藤仁斎 日本古学派の第一人者、門下の一人として大石良雄がある。
荻生徂徠 矢張り、古学流の権威仁斎と同地位の人、詩書礼楽を第一として高調した。門下人材多く、太宰春台はその高弟だ。
六経 この中、楽記は今日に伝はらない。
刪定 六経は孔子の刪定を経たと云はれるが、事実、正確だとは云へないとも見られてゐる。
性命 天から与へられた人間の本質。
底蘊 奥底。
尭舜の道は孝弟のみ 「孟子」告子章にある。その良知良能の性に従つて進退云為するところは孝弟の外に出ないと云ふ意。
(奥付)