玉くしげ
本居宣長


玉くしけの序

此書は。わが鈴屋大人の。ある国の君に。道の大かたを。いまの世のさとび言(ゴト)もて。たれしの人もかやすくさとり得つべきさまに書(カキ)て。奉られたりし書(フミ)なるを。下書(シタガキ)の。名におふ匣の底にのこれるを。此里の広海が乞出(コヒイダ)して。木にゑるにつきて。おのが一言をくはへてよとあるまゝに。書つけゝらく。そも/\わがうしの。道びきのこゝたくのいさをは。いはまくもさられなれど。なほいさゝかいはむには。此まことの道はしも。外国(トツクニ)ぶみの。うはべよきまがこと共に。かきくらされて。かの須佐之男命(スサノヲノミコト)の。勝(カチ)さびの御(ミ)あらびに。天照大御神。ゆゝしくも天(アメ)の石屋(イハヤ)にさしこもらして。世中は常夜(トコヨ)ゆきけむ事のごとく。光(ヒカリ)見る人もなくて八百年(ヤホトセ)千年(チトセ)を経にけるに。思兼(オモヒカネノ)神の御霊(ミタマ)やそはりけむ。此大人の深くおもひ遠く思ひて。うまらにおもひ得られたる。此まことの意(コヽロ)よ。長鳴鳥(ナガナキドリ)のこゑ高くとほく。天の下に聞えわたりて。世人皆の秋の長夜(ナガヨ)のいめさめて。朝目(アサメ)よく仰(アフ)ぎ見む。朝日のひかりは。まぐはしきかもらうぐはしきかも。明らけきかもたふときかも。時は寛(ユタ)けき政(マツリゴト)と改まりて。天下よろこび栄ゆるはじめの年の春のなかば。かくいふは
                 尾張の殿人
                     横井千秋


玉くしげ

此書は、ある御方に、道の大むね今の世の心得を書て奉れるなり、それに歌をもよみて書そへたる、中の詞を取て、かくは名けつ、其歌は、
      身におはぬしづがしわざも玉くしげあけてだに見よ中の心を
まことの道は、天地の間(アヒダ)にわたりて、何(イヅ)れの国までも、同じくたゞ一すぢなり、然るに此道、ひとり皇国(ミクニ)にのみ正(タヾ)しく伝(ツタ)はりて、外国(グワイコク)にはみな、上古より既(スデ)にその伝来(デンライ)を失(ウシナ)へり、その故に異国(イコク)には、又別(ベツ)にさま/゛\の道を説(トキ)て、おの/\其道を正道のやうに申せども、異国(イコク)の道は、皆/\末々(スヱズヱ)の枝道(エダミチ)にして、本のまことの正道にはあらず、たとひこゝかしこと似(ニ)たる所(トコロ)は有といへども、その末々の枝道(エダミチ)の意をまじへとりては、まことの道にかなひがたし、いでその一すぢの本のまことの道の趣(オモムキ)を、あら/\申さむには、まづ第一に、此世中の惣体(ソウタイ)の道理(ダウリ)を、よく心得おくべし、其道理とは、此天地も諸神も萬物も、皆こと/゛\く其本(ソノモト)は、 高皇産霊神(タカミムスビノカミ)  神皇産霊神(カミムスビノカミ)と申す二神の、産霊(ムスビ)のみたまと申す物によりて、成出来(ナリイデキ)たる物にして、世々(ヨヽ)に人類(ジンルヰ)の生(ウマ)れ出(イデ)、万物万事の成(ナリ)出るも、みな此御霊(ミタマ)にあらずといふことなし、されば神代のはじめに、伊邪那岐(イザナギ)伊邪那美(イザナミ)二柱大神(フタバシラノオホミカミ)の、国土万物もろ/\の神たちを生成(ウミナ)し給へるも、其本は皆、かの二神の  産霊(ムスビ)の御霊(ミタマ)によれるものなり、抑此産霊(ムスビ)の御霊(ミタマ)と申すは、奇々妙々(キヽメウメウ)なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどいふことは、さらに人の智慧(チヱ)を以て、測識(ハカリシル)べきところにあらず、然るを外国(グワイコク)には、正道の伝へなき故に、此神の産霊(ムスビ)の御しわざをえしらずして、天地万物の道理をも、或は陰陽(インヤウ)八卦(ハツクワ)五行(ゴギヤウ)などいふ理屈(リクツ)を立て、これを説明(トキアカ)さむとすれども、これらは皆、人智(ジンチ)のおしはかりの妄説(マウセツ)にして、誠(マコト)には左様(サヤウ)の道理はあることなし、さて  伊邪那岐大御神(イザナギノオホミカミ) 女神(メガミ)のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、予美国(ヨミノクニ)まで慕行(シタヒユカ)せたまひしが、此顕国(ウツシクニ)にかへらせたまひて、その予美(ヨミノ)国の穢悪(ヱアク)に触(フレ)給へるを、清(キヨ)めたまふとして、筑紫(ツクシ)の橘小門(タチバナノヲド)の檍原(アハギハラ)に御禊(ミミソギ)し給ひて、清浄(シヤウ/゛\)にならせ給へるところより、天照大御神(アマテラスオホミカミ)生出(ナリイデ)ましまして、 御父大御神(オホミカミ)の御事依(ミコトヨサ)しによりて、永(ナガ)く高天原(タカマノハラ)を所知看(シロシメ)すなり、天照大御神(アマテラスオホミカミ)と申し奉るは、ありがたくも即今此世を照しまします、天津日(アマツヒ)の御事ぞかし、さて此 天照大御神の、 皇孫尊(スメミマノミコト)に、葦原中国(アシハラノナカツクニ)を所知看(シロシメ)せとありて、天上より此土(コノド)に降(クダ)し奉りたまふ、其時に、 大御神の勅命(チヨクメイ)に、宝祚之隆当與天壌無窮者矣(アマツヒツギハアメツチノムタトキハカキハニサカエマサム)とありし、此勅命(チヨクメイ)はこれ、道の根元大本(コンゲンタイホン)なり、かくて大かた世中のよろづの道理、人の道は、神代の段々(ダン/\)のおもむきに、こと/゛\く備(ソナ)はりて、これにもれたる事なし、さればまことの道に志(コヽロザシ)あらん人は、神代の次第(シダイ)をよく/\工夫(クフウ)して、何事もその跡(アト)を尋(タヅ)ねて、物の道理をば知(シル)べきなり、その段々の趣(オモムキ)は、皆これ神代の古伝説(コデンセツ)なるぞかし、古伝説とは、誰(タガ)言出(イヒイデ)たることゝもなく、たゞいと上代より、語(カタ)り伝へたる物にして、即古事記日本紀に記(シル)されたる所を申すなり、さて此二典(フタフミ)に記(シル)されたる趣は、いと明(アキ)らかにして、疑(ウタガ)ひもなき事なるを、後世(コウセイ)に神典(シンテン)を説者(トクモノ)、あるひは神秘(シンヒ)口授(クジユ)などいふことを造(ツク)り出(イダ)して、あらぬ偽(イツハリ)を説(ト)き教(ヲシ)へ、或は異国風(イコクフウ)の理屈(リクツ)にのみ泥(ナヅ)みて、神代の妙趣(メウシユ)を信(シン)ずる事あたはず、世(ノ)中の道理は、みな神代の趣に備(ソナ)はれる事をもえさとらず、すべて吾古伝説(ワガコデンセツ)の旨(ムネ)をば、立(タツ)ることあたはずして、かの異国(イコク)の説(セツ)のおもむきにすがりて取(トリ)さばかむとするから、その異国(イコク)のいふところに合(アハ)ざる事をば、みな私(ワタクシ)の料簡(レウケン)を以て、みだりに己(オノ)が好(コノ)むかたに説曲(トキマゲ)て、或は高天原(タカマノハラ)とは、帝都(テイト)をいふなどゝ解(トキ)なして、天上の事にあらずとし、天照大御神をも、たゞ本朝(ホンテウ)の大祖(タイソ)にして、此土(コノド)にまし/\し神人(シンジン)の如くに説(トキ)なして、天津日(アマツヒ)にはあらざるやうに申す類(タグヒ)、みなこれ異国風(イコクフウ)の理屈(リクツ)にへつらひて、強(シヒ)てその趣に合(アハ)さんとする私事(ワタクシゴト)にして、古伝説を、ことさらに狭(セバ)く小(チヒサ)くなして、その旨(ムネ)ひろくゆきわたらず、大本(タイホン)の意を失(ウシナ)ひ、大に神典(シンテン)の趣に背(ソム)けるものなり、抑天地は一枚(イチマイ)にして、隔(ヘダテ)なければ、高天原(タカマノハラ)は、万国一同(イツトウ)に戴(イタヾ)くところの高天原にして、 天照大御神は、その天(アメ)をしろしめす御神にてましませば、宇宙(ウチウ)のあひだにならぶものなく、とこしなへに天地の限(カギリ)をあまねく照しまし/\て、四海万国(シカイバンコク)此御徳光(トククワウ)を蒙(カウブ)らずといふことなく、何(イヅ)れの国とても、此  大御神の御蔭(ミカゲ)にもれては、一日片時(イチニチヘンジ)も立(タツ)ことあたはず、世中に至(イタツ)て尊(タフト)くありがたきは、此  大御神なり、然るを外国(グワイコク)には皆、神代の古伝説を失(ウシナ)へるが故に、これを尊敬(ソンキヤウ)し奉るべきことをばしらずして、たゞ人智(ジンチ)のおしはかりの考(カムガヘ)を以て、みだりに日月は陰陽(インヤウ)の精(セイ)などゝ定(サダ)めおきて、外(ホカ)にあるひは唐戎国(タウジユウノクニ)にては、天帝(テンテイ)といふ物を立(タテ)て、上(ウヘ)なく尊(タツト)き物とし、其余(ソノヨ)の国々にても、道々(ミチ/\)に主(シユ)として尊奉(ソンホウ)する物あれども、それらは或はおしはかりの理を以ていひ、或は妄(ミダリ)に説(セツ)を作(ツク)りていへる物にして、いづれも皆、人の仮(カリ)に其(ノ)名をまうけたるのみにこそあれ、実(ジツ)には天帝(テンテイ)も天道(テンタウ)も何(ナニ)も、あるものにはあらず、そも/\外国(グワイコク)には、かやうに実(ジツ)もなき物をのみ尊(タフト)みて、 天照大御神の御蔭(ミカゲ)の、よに尊(タツト)く有(アリ)がたき御事をば、しらずしてあるは、いとあさましき事なるに、皇国(ミクニ)は格別(カクベツ)の子細(シサイ)あるが故に、神代の正(タヾ)しき古説の、つまびらかに伝はりて、此  大御神の御由来(ゴユウライ)をもうかゞひ知(シリ)て、これを尊(タフト)み奉るべき道理をしれるは、いと/\難有(アリガタ)き御事にぞ侍(ハベ)る、さて皇国(ミクニ)は格別(カクベツ)の子細(シサイ)ありと申すは、まづ此四海万国を照させたまふ  天照大御神の、御出生(ゴシユツシヤウ)まし/\し御本国(ゴホンゴク)なるが故に、万国(バンコク)の元本(ゲンホン)大宗(タイソウ)たる御国(ミクニ)にして、万の事異国(イコク)にすぐれてめでたき、其一々(イチ/\)の品(シナ)どもは、申しつくしがたき中(ナカ)に、まづ第一に稲穀(タウコク)は、人の命(イノチ)をつゞけたもちて、此上(コノウヘ)もなく大切(タイセツ)なる物なるが、其稲穀(タウコク)の万国にすぐれて、比類(ヒルヰ)なきを以て、其余(ソノヨ)の事どもをも准(ナゾラ)へしるべし、然るに此国に生(ウマ)れたる人は、もとよりなれ来(キタ)りて、常(ツネ)のことなる故に、心のつかざるにこそあれ、幸(サイハヒ)に此御国人(ミクニビト)と生(ウマ)れて、かばかりすぐれてめでたき稲(イネ)を、朝夕(テウセキ)に飽(アク)まで食(シヨク)するにつけても、まづ  皇神(スメカミ)たちのありがたき御恩頼(ゴオンライ)をおもひ奉るべきことなるに、そのわきまへだになくて過(スグ)すは、いとも/\物体(モツタイ)なきことなり、さて又本朝(ホンテウ)の  皇統(クワウトウ)は、すなはち此世を照しまします、 天照大御神の御末(ミスヱ)にまし/\て、かの天壌無窮(テンジヤウブキウ)の  神勅(シンチヨク)の如く、万々歳(マン/\ザイ)の末の世までも、動(ウゴ)かせたまふことなく、天地のあらんかぎり伝はらせ給ふ御事、まづ道の大本(タイホン)なる此一事、かくのごとく、かの  神勅(シンチヨク)のしるし有て、現(ゲン)に違(タガ)はせ給はざるを以て、神代の古伝説の虚偽(キヨギ)ならざることをも知べく、異国(イコク)の及(オヨ)ぶところにあらざることをもしるべく、格別(カクベツ)の子細(シサイ)と申すことをも知べきなり、異国(イコク)には、さばかりかしこげに其道々(ミチ/\)を説(トキ)て、おの/\我(ワレ)ひとり尊(タフト)き国のやうに申せども、其根本(コンホン)なる王統(ワウトウ)つゞかず、しば/\かはりて、甚(ハナハダ)みだりなるを以て、万事いふところみな虚妄(キヨマウ)にして、実(ジツ)ならざることをおしはかるべきなり、さてかくのごとく本朝(ホンテウ)は、天照大御神の御本国(ゴホンゴク)、その  皇統(クワウトウ)のしろしめす御国(ミクニ)にして、万国の元本(ゲンホン)大宗(タイソウ)たる御国(ミクニ)なれば、万国共(トモ)に、この御国(ミクニ)を尊(タフト)み戴(イタヾ)き臣服(シンフク)して、四海の内みな、此まことの道に依(ヨ)り遵(シタガ)はではかなはぬことわりなるに、今に至(イタ)るまで外国(グワイコク)には、すべて上件(カミクダン)の子細(シサイ)どもをしることなく、たゞなほざりに海外(カイグワイ)の一小嶋(イツセウタウ)とのみ心得、勿論(モチロン)まことの道の此皇国(ミクニ)にあることをば夢にもしらで、妄説(ミダリゴト)をのみいひ居(ヲ)るは、又いとあさましき事、これひとへに神代の古伝説なきがゆゑなり、さて外国(グワイコク)には、古伝説なければ、此子細(シサイ)どもをしらざるも、せんかたなきを、本朝(ホンテウ)には、明白(メイハク)に正(タヾ)しき伝説の有ながら、世の人これを知ることあたはず、たゞかの異国(イコク)の妄説(マウセツ)をのみ信(シン)じ、其説に泥(ナヅ)み溺(オボ)れて、返(カヘツ)てよしなき西戎(セイジユウ)の国を尊(タフト)み仰(アフ)ぐは、いよ/\あさましき事ならずや、たとひまさりたりとも、よしなき他国(タコク)の説(セツ)を用ひんよりは、己(オノ)が本国(ホンゴク)の伝説にしたがひよらんこそ、順道(ジユンダウ)なるべきに、まして異国(イコク)の説(セツ)はみな虚妄(キヨマウ)にして、本朝(ホンテウ)の伝へは実(ジツ)なるをや、然れども異国風(イコクフウ)のなまさかしき見識(ケンシキ)の、千有余年(センイウヨネン)心の底(ソコ)に染著(シミツキ)て、其他(ソノタ)を思はざる世の人なれば、今かやうに申しても、誰(タレ)も早速(サツソク)にはえ信(シン)ずまじき事なれども、惣じて異国風(イコクフウ)のこざかしき料簡(レウケン)は、よくおもへば、返(カヘツ)て愚(オロカ)なることぞ、今(イマ)一段(イチダン)高き所を考へて、まことの理は、思慮(シリヨ)の及びがたきことにして、人の思ひ測(ハカ)るところとは、大に相違(サウヰ)せる事のあるものぞといふことを、よくさとるべきなり、又かの異国人(イコクジン)の思へるごとく、本朝(ホンテウ)の人も、此御国(ミクニ)をば、たゞ小国(セウコク)のやうにのみ心得居るに付(ツキ)ては、天地の間(アヒダ)にゆきわたりたるまことの道の、かゝる小国(セウコク)にのみ伝はらんことはいかゞと、疑(ウタガ)ふ人も有べきなれども、これ又なまさかしき一往(イチワウ)の料簡(レウケン)にして、深く考へざるものなり、惣じて物の尊卑(ソンヒ)美悪(ビアク)は、その形(カタチ)の大小によるものにあらざれば、国も、いかほど広(ヒロ)くても、卑(イヤシ)く悪(アシ)き国あり、狭(セバ)くても尊(タツト)く美(ウルハ)しき国あり、其内に、むかしより外国(グワイコク)共のやうを考ふるに、広(ヒロ)き国は、大抵(タイテイ)人民(ニンミン)も多(オホ)くて強(ツヨ)く、狭(セバ)き国は、人民(ニンミン)すくなくて弱(ヨワ)ければ、勢(イキホヒ)におされて、狭(セバ)き国は、広(ヒロ)き国に従(シタガ)ひつくから、おのづから広(ヒロ)きは尊(タツト)く、狭(セバ)きは卑(イヤシ)きやうなれども、実(マコト)の尊卑(ソンヒ)美悪(ビアク)は、広狭(クワウケフ)にはよらざることなり、そのうへすべて外国(グワイコク)は、土地(トチ)は広大(クワウダイ)にても、いづれも其広大(クワウダイ)なるに応(オウ)じては、田地(デンチ)人民(ニンミン)はなはだ稀少(キセウ)なり、唐土(タウド)などは、諸(モロ/\)戎(カラ)の中にては、よき国と聞えたれども、それすら皇国(クワウコク)にくらぶれば、なほ田地人民は、はなはだ少(スクナ)くまばらにして、たゞいたづらに土地の広(ヒロ)きのみなり、これは彼国の書どもに、代々(ダイ/\)の惣口數(ソウヒトカズ)戸数(カマドカズ)を挙(アゲ)たると、本朝の戸数口数とをくらべ見て、よくしらるゝことなり、又今現在(イマゲンザイ)に本朝の国々にて、同じ一国の内にても、土地(トチ)は広(ヒロ)くて、人民物成(モノナリ)のすくなき所あり、狭(セバ)くて人民物成は多き所もあるを以て、惣体土地の広狭(クワウケフ)にはかゝはるべからざることをさとるべし、古大国上国中国下国、大郡上郡中郡下郡小郡と分定(ワケサダ)められしも、必しも土地の大小にはかゝはらざりし事ぞかし、然るにむかしより世の人、此わきまへなくして、たゞ土地の広狭(クワウケフ)を以て、其国の大小を定(サダ)むるは、あたらざることなり、皇国(ミクニ)は古よりして、田地人民の甚多く稠密(テウミツ)なること、さらに異国(イクニ)には類(タグヒ)なければ、此人数物成を以て量(ハカ)るときは、甚大国にして、殊(コト)に豊饒(ホウゼウ)殷富(インフ)勇武(ユウブ)強盛(キヤウセイ)なること、何(イヅ)れの国かはよく及ぶ者あらん、これ又格別(カクベツ)の子細(シサイ)にして、何事も神代より  皇神(スメカミ)たちの、かくのごとく尊卑(ソンヒ)勝劣(シヨウレツ)をたておかせ給へるものなり、然るに近世(キンセイ)儒者(ジユシヤ)など、ひたすら唐土(タウド)をほめ尊(タフト)みて、何事もみな彼国をのみ勝(スグ)れたるやうにいひなし、物体(モツタイ)なくも皇国(クワウコク)をば看下(ミクダ)すを、見識(ケンシキ)の高きにして、ことさらに漫(ミダリ)に賤(イヤ)しめ貶(オト)さんとして、或は本朝は古(へ)に道なしといひ、惣じて文華(ブンクワ)の開(ヒラ)けたることも、唐土(タウド)よりはるかに遅(オソ)しといひ、或は本朝の古書(コシヨ)は、古事記日本紀といへども、唐土(タウド)の古書にくらぶれば、遥(ハルカ)に後世(コウセイ)の作(サク)なりといひて、古伝説を破(ヤブ)り、或は日本紀の文(ブン)を見て、上古の事はみな、後(ノチ)の造(ツク)りことぞといひおとすたぐひ、これらは皆例(レイ)のなまさかしき、うはべの一(ヒト)わたりの諭(ロン)にして、精(クハシ)く思はざるものなり、そのうへ唐土(タウド)の書にのみ泥(ナヅ)み惑(マド)ひて、他あることをしらざるものなれば、返(カヘツ)て見識(ケンシキ)もいと小(チヒサ)く卑(ヒキ)きことならずや、又かやうに他国を内にして、吾(カ)本国を外にするは、己(オノ)がよる所の孔子(コウシ)の意にも、いたく背(ソム)けるものなり、すべて右の諭(ロン)どもの、当(アタ)らざることをいはゞ、まづ皇国(ミクニ)の古は道なしといふは、此方(コノハウ)にまことの勝(スグ)れたる道のあることをしらずして、たゞ唐戎(タウジユウ)の道をのみ道と心得たるひがことなり、かの唐戎(タウジユウ)の道などは、末々の枝道(エダミチ)なれば、ともあれかくもあれ、それにかゝはるべきことにあらず、又文華(ブンクワ)早く開(ヒラ)けたりとて、唐土(タウド)を勝(スグ)れたりと思ふも、ひがことなり、早(ハヤ)く文華(ブンクワ)の開(ヒラ)けたるやうなるは、万の事の早(ハヤ)く変化(ヘンクワ)したるにて、これ彼国の風俗(フウゾク)の悪(アシ)く軽薄(ケイハク)なるが故なり、いかにといふに、かの唐戎(タウジユウ)は、上古より人心(ヒトゴヽロ)なまさかしくして、物事(モノゴト)旧(フル)きによることを尚(タツト)ばず、ひたもの己(オノ)が思慮(シリヨ)工夫(クフウ)を以て、改(アラタ)め変(カフ)るをよき事にせる国俗(コクゾク)なる故に、おのづから世中の模様(モヤウ)は、世々(ヨヽ)に速(スミヤカ)に移りかはりしなり、然るに皇国(ミクニ)は、正直(セイチヨク)重厚(チヨウコウ)なる風儀(フウギ)にて、何事もたゞ古(フル)き跡(アト)により守(マモ)りて、軽々(カロ/゛\)しく私智(シチ)を以て改(アラタ)むる事はせざりし故に、世中の模様(モヤウ)のよゝにうつり変(カハ)ることも、おのづから速(スミヤカ)にはあらざりしなり、此重厚(チヨウコウ)の風儀(フウギ)は、今もなほ遺(ノコ)れることぞかし、猶((なほ))此変化(ヘンクワ)の遅速(チソク)の勝劣(シヨウレツ)をいはゞ、牛馬(ギウバ)鶏犬(ケイケン)などのたぐひは、生(ウマ)れてより成長(セイチヤウ)すること甚(ハナハダ)速(スミヤカ)なるを、人はこれらに比(クラ)ぶれば、成長(セイチヤウ)する事甚(ハナハダ)遅(オソ)し、これらを以て准(ナゾラ)へ見るに、勝(マサ)れる物、変化(ヘンクワ)すること遅(オソ)き道理も有べし、又かの成長(セイチヤウ)することの速(スミヤカ)なる鳥獣(テウジウ)などは、命(イノチ)短(ミジカ)く、人は遅(オソ)くて、命(イノチ)長(ナガ)きを以見れば、世中の模様(モヤウ)の、うつりかはれること早(ハヤ)き処(トコロ)は、其国の命(イノチ)短(ミジカ)く、うつりかはることの遅(オソ)き国は、存(ソン)すること永久(エイキウ)なるべし、そのしるしは、数千万歳(スセンマンザイ)を経て後に見ゆべきなり、又古書(コシヨ)の事を、その撰出(センシユツ)の時代(ジダイ)を以て論(ロン)ずるも、うはべのことなり、其故は、右に申せる如く、唐戎(タウジユウ)はなまかさしく、私智(シチ)をふるふ国俗(コクゾク)にて、其古書も、おのおの作者(サクシヤ)の己(オノ)が心より書出(カキイダ)せる故に、その時代に応(オウ)じて、古(フル)き近(チカ)きの勝劣(シヨウレツ)あることなるが、皇国(ミクニ)の古は、重厚(チヨウコウ)なる風儀(フウギ)にて、すべての事に、己(オノ)がさかしらを用ひず、かろ/゛\しく旧(フル)きを改(アラタ)むることなどはせざりしかば、古伝(コデン)の説(セツ)も、たゞ神代より語(カタ)り伝へのまゝにて、伝はり来(キタ)りしを、其古伝説のまゝに記(シル)されたる、古事記日本紀なれば、かの軽薄(ケイハク)なる唐戎(タウジユウ)のあらはせる書どもと同じなみに、時代を以て論(ロン)ずべきにあらず、撰録(センロク)の時代こそ後なれ、其伝説の趣は、神代のまゝなれば、唐国(タウロク)の古書どもよりは、返(カヘツ)てはるかに古(フル)き事なるをや、但し日本紀は、唐土(タウド)の書籍(シヨジヤク)の体(テイ)をうらやみて、漢文(カンブン)を餝(カザ)られたる書なれば、その文(ブン)によりて解(ゲ)するときは、疑(ウタガ)はしき事おほかるべし、されば日本紀を見るには、文(ブン)にはかゝはらず、古事記とくらべ見て、その古伝の趣をしるべきなり、大かた右の子細(シサイ)どもをよくわきまへて、すべて儒者(ジユシヤ)どものなまさかしき論(ロン)には、惑(マド)はさるまじきことになん、さて世中にあらゆる、大小のもろ/\の事は、天地の間(アヒダ)におのづからあることも、人の身のうへのことも、なすわざも、皆こと/゛\く神の御霊(ミタマ)によりて、神の御はからひなるが、惣じて神には、尊卑(ソンヒ)善悪(ゼンアク)邪正(ジヤシヤウ)さま/゛\ある故に、世中の事も、吉事(キチジ)善事(ゼンジ)のみにはあらず、悪事(アクジ)凶事(キヨウジ)もまじりて、国の乱(ラン)などもをり/\は起(オコ)り、世のため人のためにあしき事なども行(オコナ)はれ、又人の禍福(クワフク)などの、正(タヾ)しく道理にあたらざることも多き、これらはみな悪(アシ)き神の所為(シヨヰ)なり、悪神(アシキカミ)と申すは、かの伊邪那岐大御神(イザナギノオホミカミ)の御禊(ミミソギ)の時、予美国(ヨミノクニ)の穢(ケガレ)より成出(ナリイデ)たまへる、禍津日(マガツビノ)神と申す神の御霊(ミタマ)によりて、諸(モロ/\)の邪(ヨコサマ)なる事悪(アシ)き事を行(オコナ)ふ神たちにして、さやうの神の盛(サカリ)に荒(アラ)び給ふ時には、皇神(スメカミ)たちの御守護(オンマモ)り御力(オンチカラ)にも及ばせ給はぬ事もあるは、これ神代よりの趣なり、さて正(タヾ)しき事善事(ヨキコト)のみはあらずして、かやうに邪(ヨコサマ)なる事悪(アシ)き事も必まじるは、これ又然るべき根本(コンホン)の道理あり、これらの趣も皆、神代より定まりて、其事古事記日本紀に見えたり、その委(クハシ)き子細(シサイ)どもは、古事記伝に申し侍(ハベ)り、事(コト)長(ナガ)ければ、こゝにはつくしがたし、さて予美国(ヨミノクニ)の穢(ケガレ)といふに付て、一二申すべきことあり、まづ予美(ヨミ)と申すは、地下(チカ)の根底(コンテイ)に在て、根国(ネノクニ)底国(ソコノクニ)とも申して、甚きたなく悪(アシ)き国にて、死せる人の罷徃(マカリユク)ところなり、其始(メ)  伊邪那美尊(イザナミノコト)かくれさせ給ひて、此予美(ヨミノ)国に往(ユカ)せたまひしが、黄泉戸喫(ヨモツヘグヒ)とて、其国の炊爨(スヰサン)の物を食(シヨク)し給ひし穢(ケガレ)によりて、永(ナガ)く此顯国(コノウツシクニ)にかへらせたまふことかなはず、此穢(ケガレ)によりて、つひに凶悪(キヨウアク)の神となり給ひて、その穢(ケガレ)より、かの禍津日(マガツビノ)神は成出(ナリイデ)給へれば、此道理をよく思ひて、世に大切(タイセツ)に忌愼(イミツヽシ)むべきは、物の穢(ケガレ)なり、さて世の人は、貴(タツト)きも賤(イヤシ)きも善(ヨキ)も悪(アシ)きも、みな悉(コト/゛\)く、死すれば、必かの予美(ヨミノ)国にゆかざることを得ず、いと悲(カナ)しき事にてぞ侍(ハベ)る、かやうに申せば、たゞいと浅(アサ)はかにして、何(ナニ)の道理もなきことのやうには聞ゆれども、これぞ神代のまことの伝説(デンセツ)にして、妙理(メウリ)の然らしむるところなれば、なまじひの凡智(ボンチ)を以て、とやかくやと思議(シギ)すべき事にあらず、然るを異国(イコク)には、さま/゛\の道を作(ツク)りて、人の生死(シヤウジ)の道理をも、甚おもしろくかしこげに説(トク)ことなれども、それは或は人智(ジンチ)のおしはかりの理屈(リクツ)を以ていひ、或は世の人の尤(モツトモ)と信(シン)ずべきやうに、都合(ツガフ)よく造(ツク)りたる物にして、いづれも面白(オモシロク)くは聞ゆれども、皆虚妄(キヨマウ)にして、実(ジツ)にあらず、惣じて人のかしこく造(ツク)りたる説(セツ)は、尤(モツトモ)なるやうに聞え、まことの伝へは、返(カヘツ)て浅々(アサ/\)しく、おろかなることのやうに聞ゆる物なれども、人の智慧(チヱ)は限(カギリ)ありて、得(ヱ)測(ハカ)りしらぬところ多ければ、すべてその浅(アサ)はかに愚(オロカ)に聞ゆる事に、返(カヘツ)て限(カギリ)なく深き妙理(メウリ)はあることなるを、及ばぬ凡智(ボンチ)を以てこれを疑(ウタガ)ひ、かの造(ツク)りことの、尤(モツトモ)らしく聞ゆる方を信(シン)ずるは、己(オノ)が心を信(シン)ずるといふものにて、返(カヘツ)ていと愚(オロカ)なることなり、さて死すれば、妻子(サイシ)眷属(ケンゾク)朋友(ホウイウ)家財(カザイ)万事(バンジ)をもふりすて、馴(ナレ)たる此世を永(ナガ)く別れ去(サリ)て、ふたゝび還来(カヘリキタ)ることあたはず、かならずかの穢(キタナ)き予美(ヨミノ)国に往(ユク)ことなれば、世の中に、死ぬるほどかなしき事はなきものなるに、かの異国(イコク)の道々には、或はこれを深く哀(カナシ)むまじき道理を説(ト)き、或は此世にてのしわざの善悪(ゼンアク)、心法(シンボフ)のとりさばきによりて、死して後になりゆく様(ヤウ)をも、いろ/\と広(ヒロ)く委(クハシ)く説(トキ)たる故に、世人みなこれらに惑(マド)ひて、其説(ソノセツ)共を尤(モツトモ)なる事に思ひ、信仰(シンカウ)して、死を深く哀(カナシ)むをば、愚(オロカ)なる心の迷(マヨ)ひのやうに心得るから、これを愧(ハヂ)て、強(シヒ)て迷(マヨ)はぬふり、悲(カナシ)まぬ体(テイ)を見せ、或は辞世(ジセイ)などいひて、ことごとしく悟(サト)りきはめたるさまの詞(コトバ)を遺(ノコ)しなどするは、皆これ大きなる偽(イツハリ)のつくり言(コト)にして、人情(ニンジヤウ)に背(ソム)き、まことの道理にかなはぬことなり、すべて喜(ヨロコ)ぶべき事をも、さのみ喜(ヨロコ)ばず、哀(カナシ)むべきことをも、さのみ哀(カナシ)まず、驚(オドロ)くべき事にも驚(オドロ)かず、とかく物に動(ドウ)ぜぬを、よき事にして尚(タツト)ぶは、みな異国風(イコクフウ)の虚偽(イツハリカザリ)にして、人の実情(ジツジヤウ)にはあらず、いとうるさきことなり、中にも死は、殊(コト)に哀(カナ)しからではかなはぬ事にして、国土万物を成立(ナシタテ)、世中の道を始めたまひし、  伊邪那岐大御神(イザナギノオホミカミ)すら、かの 女神(メガミ)のかくれさせ給ひし時は、ひたすら小児(セウニ)のごとくに、泣悲(ナキカナシ)みこがれ給ひて、かの予美(ヨミノ)国まで、慕(シタ)ひゆかせたまひしにあらずや、これぞ真実(シンジツ)の性情(セイジヤウ)にして、世人も、かならず左様(サヤウ)になくてはかなはぬ道理なり、それ故に、上古いまだ異国(イコク)の説(セツ)の雑(マジ)らざりし以前(イゼン)、人の心直(ナホ)かりし時には、死して後になりゆくべき理屈(クツ)などを、とやかくやと工夫(クフウ)するやうの、無益(ムヤク)のこざかしき料簡(レウケン)はなくして、たゞ死ぬれば予美(ヨミノ)国にゆくことゝ、道理のまゝに心得居て、泣悲(ナキカナシ)むよりほかはなかりしぞかし、抑これらは、国政(コクセイ)などには要(エウ)なき申し事なれども、 皇神(スメカミ)の道と異国(イコク)の道との、真偽(シンギ)の心得にはなり侍(ハベ)るべき事なり、さてかの世中にあしき事よこさまなる事もあるは、みな悪(アシ)き神の所為(シヨヰ)なりといふことを、外国(グワイコク)にはえしらずして、人の禍福(クワフク)などの、道理にあたらぬ事あるをも、或はみな因果報応(イングワハウオウ)と説(ト)きなし、あるひはこれを天命(テンメイ)天道(テンタウ)といひてすますなり、しかれども因果報応(イングワハウオウ)の説(セツ)は、上に申せるごとく、都合(ツガフ)よきやうに作(ツク)りたる物なれば、論(ロン)ずるに及ばず、また天命(テンメイ)天道(テンタウ)といふは、唐土(タウド)の上古に、かの湯武(タウブ)などの類(タグヒ)なる者の、君(キミ)を滅(ホロボ)して其国を奪取(ウバヒト)る、大逆(ダイギヤク)の罪(ツミ)のいひのがれと、道理のすまざる事を、強(シヒ)てすましおかんためとの、託言(タクゲン)なりと知(シル)べし、もし実(ジツ)に天(テン)の命(メイ)天(テン)の道(ミチ)ならば、何事もみな、かならず正(タヾ)しく道理のまゝにこそ有べきに、道理にあたらざる事おほきは、いかにぞや、畢竟(ヒツキヤウ)これらもみな、神代のまことの古伝説なきが故に、さま/゛\とよきやうに造(ツク)りまうけたる物なり、さて右のごとく、善神(ヨキカミ)悪神(アシキカミ)、こも/゛\事を行(オコナ)ひ給ふ故に、世々(ヨヽ)を経(フ)るあひだには、善悪(ゼンアク)邪正(ジヤシヤウ)さま/゛\の事ども有て、或は  天照大御神(アマテラスオホミカミ)の  皇統(クワウトウ)にまします  朝廷(テウテイ)をしも、ないがしろにし奉りて、姦曲(カンキヨク)をほしいまゝにし、武威(ブヰ)をふるへる、北条(ホウデウ)足利(アシカヾ)のごとき逆臣(ギヤクシン)もいでき、さやうの者にも、天下の人のなびきしたがひ、朝廷(テウテイ)大に衰(オトロ)へさせたまひて、世中の乱(ミダ)れし時などもなきにあらざれども、然れども悪(アク)はつひに善(ゼン)に勝(カツ)ことあたはざる、神代の道理、又かの  神勅(シンチヨク)の大本(タイホン)動(ウゴ)くべからざるが故に、さやうの逆臣(ギヤクシン)の家は、つひにみな滅(ホロ)び亡(ウセ)て、跡(アト)なくなりて、天下は又しも、めでたく治平(チヘイ)の御代に立かへり、 朝廷(テウテイ)は厳然(ゲンゼン)として、動(ウゴ)かせたまふことなし、これ豈(アニ)人力(ジンリヨク)のよくすべきところならんや、又外国(グワイコク)のよく及ぶところならんや、さて右のごとく、中ごろ  朝廷(テウテイ)の大に衰(オトロ)へさせ給へること有しは、天下の乱(ミダレ)によりての事とおもふは、普通(フツウ)の料簡(レウケン)なれども、実(ジツ)はこれ  朝廷(テウテイ)の衰(オトロ)へさせ給ふによりて、天下は大に乱(ミダ)れて、万の事もおとろへ廃(スタ)れしなり、此道理をよく思はずはあるべからず、そも/\かの足利家(アシカヾケ)の末(スヱ)つかたの世は、前代未曾有(ゼンダイミゾウウ)の有さまにて、天下は常闇(トコヤミ)に異(コト)ならず、万(ツ)の事、此時に至て、こと/゛\く衰敗(スヰハイ)して、まことに壊乱(クワイラン)の至極(シゴク)なりき、然るところに、織田(オダ)豊臣(トヨトミ)の二将(ニシヤウ)出(イデ)たまひて、乱逆(ランゲキ)をしづめ、  朝廷(テウテイ)を以直(モテナホ)し奉り、尊敬(ソンキヤウ)し奉り給ひて、世中やうやう治平(チヘイ)におもむきしが、其後つひに又、今のごとくに天下よく治(ヲサ)まりて、古にもたぐひまれなるまで、めでたき御代に立かへり、栄(サカ)ゆることは、ひとへにこれ  東照神御祖命(アヅマテルカムミオヤノミコト)の御勲功(ゴクンコウ)御盛徳(ゴセイトク)によれる物にして、その御勲功(ゴクンコウ)御盛徳(ゴセイトク)と申すは、まづ第一に  朝廷(テウテイ)のいたく衰(オトロ)へさせ給へるを、かの二将(ニシヤウ)の跡(アト)によりて、猶次第(シダイ)に再興(サイコウ)し奉らせ給ひ、いよ/\ます/\御崇敬(ゴソウキヤウ)厚(アツ)くして、つぎ/\に諸士(シヨシ)万民(バンミン)を撫治(ナデヲサ)めさせたまへる、これなり、此御盛業(ゴセイゲフ)、自然(シゼン)とまことの道にかなはせ給ひ、 天照大御神の大御心(オホミコヽロ)にかなはせたまひて、天神(アマツカミ)地祇(クニツカミ)も、御加護(カゴ)厚(アツ)きが故に、かくのごとく御代はめでたく治(ヲサ)まれるなり、かやうに申奉るは、たゞ時世(ジセイ)にへつらひて、仮令(ケリヤウ)に申奉るにはあらず、現(ゲン)に御武運(ゴブウン)隆盛(リウセイ)にして、天下久しく太平(タイヘイ)なることは、申すに及ばず、又前代(ゼンダイ)にはいまだ嘗(カツ)てあらざりし、めでたき事どもゝ、数々(カズ/\)此御代より起(オコ)れるなど、彼此(カレコレ)を以て、その然ることをしればなり、惣じて武将(ブシヤウ)の御政(マツリゴト)は、かの北条(ホウデウ)足利(アシカヾ)などの如くに、大本(タイホン)の  朝廷(テウテイ)を重(オモ)んじ奉ることの闕(カケ)ては、たとひいかほどに仁徳(ジントク)を施(ホドコ)し、諸士(シヨシ)をよくなつけ、万民(バンミン)をよく撫(ナデ)給ひても、みなこれ私(ワタクシ)のための智術(チジユツ)にして、道にかなはず、これ  本朝(ホンテウ)は、異国(イコク)とは、その根本(コンホン)の大に異(コト)なるところなり、その子細(シサイ)は、外国(グワイコク)は、永(ナガ)く定(サダ)まれるまことの君(キミ)なければ、たゞ時々(トキ/\)に、世人をよくなびかせしたがへたる者、誰(タレ)にても王(ワウ)となる国俗(コクゾク)なる故に、その道と立(タツ)るところの趣も、その国俗(コクゾク)によりて立(タテ)たる物にて、君(キミ)を殺(コロ)して国を簒(ウバ)へる賊(ゾク)をさへ、道にかなへる聖人(セイジン)と仰(アフ)ぐなり、然るに皇国(ミクニ)の朝廷(テウテイ)は、天地の限をとこしなへに照しまします、 天照大御神の御皇統(ゴクワウトウ)にして、すなはちその  大御神の神勅(シンチヨク)によりて、定(サダ)まらせたまへるところなれば、万々代(マン/\ダイ)の末の世といへども、日月の天にましますかぎり、天地のかはらざるかぎりは、いづくまでもこれを大君主(ダイクンシユ)と戴(イタヾ)き奉りて、畏(カシコ)み敬(ウヤマ)ひ奉らでは、天照大御神の大御心(オホミコヽロ)にかなひがたく、この  大御神の大御心に背(ソム)き奉りては、一日片時(イチニチヘンジ)も立(タツ)ことあたはざればなり、然るに中ごろ、此道にそむきて、朝廷(テウテイ)を軽(カロ)しめ奉りし者も、しばらくは子孫(シソン)まで栄(サカ)えおごりしこともありしは、たゞかの禍津日(マガツビノ)神の禍事(マガコト)にこそ有けれ、いかでか是を正(タヾ)しき規範(キハン)とはすべき、然るを世人は、此大本(タイホン)の道理、まことの道の旨(ムネ)をしらずして、儒者(ジユシヤ)など小智(セウチ)をふるひて、みだりに世々(ヨヽ)の得失(トクシツ)を議(ギ)し、すべてたゞ異国(イコク)の悪風俗(アクフウゾク)の道の趣を規矩(キク)として、或はかの逆臣(ギヤクシン)たりし北条(ホウデウ)が政(マツリゴト)などをしも、正道なるやうに論(ロン)ずるなどは、みな根本(コンホン)の所たがひたれば、いかほど正論(シヤウロン)の如く聞えても、畢竟(ヒツキヤウ)まことの道にはかなはざることなり、下々(シモジモ)の者は、たとひ此大本(タイホン)を取違(トリチガ)へても、其身一分(イチブン)ぎりの失(シツ)なるを、かりにも一国一郡をも領(リヤウ)じたまふ君(キミ)、又その国政(コクセイ)を執(トラ)ん人などは、道の大本(タイホン)をよく心得居給はではかなはぬことなり、されば末々の細事(サイジ)のためにこそ、唐土(タウド)の書をも随分(ズヰブン)に学(マナ)びて、便(ベン)によりて其かたをもまじへ用ひ給はめ、道の大本(ダイホン)の所に至ては、上件(カミクダン)のおもむきを、常々(ツネヅネ)よく執(トラ)へ持(モチ)て、これを失(ウシナ)ひ給ふまじき御事なり、惣じて国の治(ヲサ)まると乱(ミダ)るゝとは、下(シモ)の上(カミ)を敬(ウヤマ)ひ畏(オソ)るゝと、然らざるとにあることにて、上(カミ)たる人、其上(カミ)を厚(アツ)く敬(ウヤマ)ひ畏(オソ)れ給へば、下(シモ)たる者も、又つぎ/\に其上(カミ)たる人を、厚(アツ)く敬(ウヤマ)ひ畏(オソ)れて、国はおのづからよく治(ヲサ)まることなり、さて今の御代(ミヨ)と申すは、まづ  天照大御神(アマテラスオホミカミ)の御はからひ、朝廷(テウテイ)の御任(ミヨサシ)によりて、 東照神御祖命(アヅマテルカムミオヤノミコト)より御つぎ/\、大将軍家(ダイシヤウグンケ)の、天下の御政(ミマツリゴト)をば、敷行(シキオコナ)はせ給ふ御世にして、その御政を、又一国一郡と分(ワケ)て、御大名(ダイミヤウ)たち各(オノ/\)これを預(アヅ)かり行(オコナ)ひたまふ御事なれば、其御領内(ゴリヤウナイ)+の民(タミ)も、全(マツタ)く私(ワタクシ)の民(タミ)にはあらず、国も私の国にはあらず、天下の民(タミ)は、みな当時(タウジ)これを、東照神御祖命(アヅマテルカムミオヤノミコト)御代々の  大将軍家(ダイシヤウグンケ)へ、 天照大御神の預(アヅ)けさせ給へる御民(オンタミ)なり、国も又  天照大御神の預(アヅ)けさせたまへる御国(オンクニ)なり、然ればかの  神御祖命(カムミオヤノミコト)の御定(オンサダ)め、御代々の大将軍家の御掟(オンオキテ)は、すなはちこれ  天照大御神の御定(オンサダメ)御掟(オンオキテ)なれば、殊に大切(タイセツ)に思召て、此御定御掟を、背(ソム)かじ頽(クヅ)さじとよく守(マモ)りたまひ、又其国々の政事(セイジ)は、 天照大御神より、次第に預(アヅ)かりたまへる国政(コクセイ)なれば、随分(ズヰブン)大切に執行(トリオコナ)ひ給ふべく、民(タミ)は  天照大御神より、預(アヅ)かり奉れる御民(オンタミ)ぞといふことを、忘(ワス)れたまはずして、これ又殊に大切(タイセツ)におぼしめして、はぐゝみ撫(ナデ)給ふべき事、御大名(ダイミヤウ)の肝要(カンエウ)なれば、下々(シモジモ)の事執行(トリオコナ)ふ人々にも、此旨(コノムネ)をよく示しおき給ひて、心得違(コヽロエタガ)へなきやうに、常々(ツネヅネ)御心を付らるべき御事なり、さて又上に申せるごとく、世中のありさまは、万事みな善悪(ゼンアク)の神の御所為(シヨヰ)なれば、よくなるもあしくなるも、極意(ゴクイ)のところは、人力(ジンリヨク)の及ぶことに非(アラ)ず、神の御はからひのごとくにならでは、なりゆかぬ物なれば、此根本(コンホン)のところをよく心得居給ひて、たとひ少々(セウ/\)国(クニ)のためにあしきことゝても、有来(アリキタ)りて改(アラタ)めがたからん事をば、俄(ニハカ)にこれを除(ノゾ)き改(アラタ)めんとはしたまふまじきなり、改(アラタ)めがたきを、強(シヒ)て急(キフ)に直(ナホ)さんとすれば、神の御所為(シヨヰ)に逆(サカ)ひて、返(カヘツ)て為損(シソン)ずる事もある物ぞかし、すべて世には、悪事(アクジ)凶事(キヨウジ)も、必まじらではえあらぬ、神代の深き道理あることなれば、とにかくに、十分(ジフブン)善事(ゼンジ)吉事(キチジ)ばかりの世中になす事は、かなひがたきわざと知べし、然るを儒(ジユ)の道などは、隅(スミ)から隅(スミ)まで掃清(ハキキヨ)めたるごとくに、世中を善事(ゼンジ)ばかりになさんとする教(ヲシヘ)にて、とてもかなはぬ強事(シヒゴト)なり、さればこそかの聖人(セイジン)といはれし人々の世とても、其国中(ソノコクチウ)に、絶(タエ)て悪事(アクジ)凶事(キヨウジ)なきことは、あたはざりしにあらずや、又人の智慧(チヱ)は、いかほどかしこくても限(カギリ)ありて、測(ハカ)り識(シリ)がたきところは、測(ハカ)り識(シル)ことあたはざるものなれば、善(ヨ)しと思ひて為ることも、実(ジツ)には悪(アシ)く、悪(ア)しゝと思ひて禁(キン)ずる事も、実(ジツ)には然らず、或は今善(ヨ)き事も、ゆく/\のためにあしく、今悪(アシ)き事も、後のために善(ヨ)き道理などもあるを、人はえしらぬことも有て、すべての人の料簡(レウケン)にはおよびがたき事おほければ、とにかくに世中の事は、神の御はからひならでは、かなはぬものなり、然らば何事もたゞ、神の御はからひにうちまかせて、よくもあしくもなりゆくまゝに打捨(ウチステ)おきて、人はすこしもこれをいろふまじきにや、と思ふ人もあらんか、これ又大なるひがことなり、人も、人の行(オコナ)ふべきかぎりをば、行(オコナ)ふが人の道にして、そのうへに、其事の成(ナル)と成(ナラ)ざるとは、人の力(チカラ)に及ばざるところぞ、といふことを心得居て、強(シヒ)たる事をば行(オコナ)ふまじきなり、然るにその行(オコナ)ふべきたけをも行(オコナ)はずして、たゞなりゆくまゝに打捨(ウチステ)おくは、人の道にそむけり、此事は、神代に定(サダ)まりたる旨(ムネ)あり、大国主命(オホクニヌシノミコト)、此天下を  皇孫尊(スメミマノミコト)に避(サケ)奉り、 天神(アマツカミ)の勅命(チヨクメイ)に帰順(キジユン)したてまつり給(タマ)へるとき、  天照大御神(アマテラスオホミカミ)  高皇産霊大神(タカミムスビノオホカミ)の仰(オホ)せにて、御約束(オンヤクソク)の事あり、その御約束(オンヤクソク)に、今よりして、世中の顕事(アラハニゴト)は、 皇孫尊(スメミマノミコト)これを所知看(シロシメ)すべし、 大国主命(オホクニヌシノミコト)は、幽事(カミゴト)を所知(シラス)べしと有て、これ万世不易(バンセイフエキ)の御定(オンサダ)めなり、幽事(カミゴト)とは、天下の治乱(チラン)吉凶(キツキヨウ)、人の禍福(クワフク)など其外にも、すべて何者(ナニモノ)のすることゝ、あらはにはしれずして、冥(ミヤウ)に神のなしたまふ御所為(ミシワザ)をいひ、顕事(アラハニゴト)とは、世人の行(オコナ)ふ事業(ジゲフ)にして、いはゆる人事(ニンジ)なれば、皇孫尊(スメミマノミコト)の御上(オンウヘ)の顕事(アラハニゴト)は、即天下を治(ヲサ)めさせ給ふ御政(マツリゴト)なり、かくて此御契約(ゴケイヤク)に、天下の政(マツリゴト)も何(ナニ)も、皆たゞ幽事(カミゴト)に任(マカ)すべしとは定(サダ)め給はずして、顕事(アラハニゴト)は  皇孫尊(スメミマノミコト)しろしめすべしと有からは、その顕事(アラハニゴト)の御行(オンオコナ)ひなくてはかなはず、又  皇孫尊(スメミマノミコト)の、天下を治(ヲサ)めさせ給ふ、顕事(アラハニゴト)の御政(マツリゴト)あるからは、今時これを分預(ワケアヅ)かり給へる、一国/\の顕事(アラハニゴト)の政(マツリゴト)も、又なくてはかなふべからず、これ人もその身分(ミブン)/\に、かならず行(オコナ)ふべきほどの事をば、行(オコナ)はでかなはぬ道理の根本(コンホン)なり、さて世中の事はみな、神の御はからひによることなれば、顕事(アラハニゴト)とても、畢竟(ヒツキヤウ)は幽事(カミゴト)の外ならねども、なほ差別(シヤベツ)あることにて、其差別(シヤベツ)は譬(タト)へば、神は人にて、幽事(カミゴト)は、人のはたらくが如く、世中の人は人形(ニンギヤウ)にて、顕事(アラハニゴト)は、其人形(ニンギヤウ)の首(カシラ)手足(テアシ)など有て、はたらくが如し、かくてその人形(ニンギヤウ)の色々とはたらくも、実(ジツ)は是も人のつかふによることなれども、人形(ニンギヤウ)のはたらくところは、つかふ人とは別(ベツ)にして、その首(カシラ)手足(テアシ)など有て、それがよくはたらけばこそ、人形(ニンギヤウ)のしるしはあることなれ、首(カシラ)手足(テアシ)もなく、はたらくところなくては、何(ナニ)をか人形(ニンギヤウ)のしるしとはせん、此差別(シヤベツ)をわきまへて、顕事(アラハニゴト)のつとめも、なくてはかなはぬ事をさとるべし、さてかの  大国主命(オホクニヌシノミコト)と申すは、出雲(イヅモ)の大社(オホヤシロ)の御神にして、はじめに此天下を経営(ケイエイ)し給ひ、又八百万神(ヤホヨロヅノカミ)たちを帥(ヒキヰ)て、右の御約束(ヤクソク)のごとく、世中の幽事(カミゴト)を掌(ツカサド)り行(オコナ)ひ給ふ御神にましませば、天下上下の人の、恐(オソ)れ敬(ウヤマ)ひ尊奉(ソンホウ)し奉らでかなはぬ御神ぞかし、惣じて世中の事は、神の御霊(ミタマ)にあらではかなはぬ物なれば、明(アケ)くれ其御徳(メグミ)をわすれず、天下国家(コクカ)のためにも、面々(メン/\)の身のためにも、もろ/\の神を祭(マツ)るは、肝要(カンエウ)のわざなり、善神(ヨキカミ)を祭(マツ)りて福(サイハヒ)を祈(イノ)るは、もとよりのこと、又禍(ワザハヒ)をまぬかれんために、荒(アラ)ぶる神をまつり和(ナゴ)すも、古の道なり、然るを人の吉凶(キツキヨウ)禍福(クワフク)は、面々(メン/\)の心の邪正(ジヤシヤウ)、行(オコナ)ひの善悪(ゼンアク)によることなるを、神に祈(イノ)るは愚(オロカ)なり、神何(ナン)ぞこれをきかんとやうにいふは、儒者(ジユシヤ)の常(ツネ)の論(ロン)なれども、かやうに己(オノ)が理屈(リクツ)をのみたてゝ、神事(ジンジ)をおろそかにするは、例(レイ)のなまさかしき唐戎(タウジユウ)の見識(ケンシキ)にして、これ神には邪神(ジヤジン)も有て、よこさまなる禍(ワザハヒ)のある道理を知らざる故のひがことなり、さてかの顕事(アラハニゴト)の国政(コクセイ)の行(オコナ)ひかた、并(ナラビ)に惣体(ソウタイ)の人の行(オコナ)ふべき事業(ジゲフ)は、いかやうなるが、まことの道にかなふべきぞといふに、まづ上古に、 天皇(テンワウ)の天下を治(ヲサ)めさせ給ひし御行(オコナ)ひかたは、古語(コヾ)にも、神随(カムナガラ)天下(アメノシタ)しろしめすと申して、たゞ  天照大御神の大御心を大御心として、万事、神代に定(サダ)まれる跡(アト)のまゝに行(オコナ)はせ給ひ、其中に、御心にて定(サダ)めがたき事もある時は、御卜(ミウラ)を以て、神の御心を問(トヒ)うかゞひて行(オコナ)はせ給ひ、惣じて何事にも大かた、御自分(ゴジブン)の御かしこだての御料簡(ゴレウケン)をば用ひたまはざりし、これまことの道の、正(タヾ)しきところの御行(オコナ)ひかたなり、其時代には、臣下(シンカ)たちも下万民(シモバンミン)も、一同(イツトウ)に心直(ナホ)く正(タヾ)しかりしかば、皆  天皇(テンワウ)の御心を心として、たゞひたすらに  朝廷(テウテイ)を恐(オソ)れつゝしみ、上(カミ)の御掟(オキテ)のまゝに従(シタガ)ひ守(マモ)りて、少(スコ)しも面々(メン/\)のかしこだての料簡(レウケン)をば立(タテ)ざりし故に、上(カミ)と下(シモ)とよく和合(ワガフ)して、天下はめでたく治(ヲサ)まりしなり、然るに西戎(カラ)の道をまじへ用ひらるゝ時代に至(イタリ)ては、おのづからその理屈(リクツ)だての風俗(フウゾク)のうつりて、人々おのが私のかしこだての料簡(レウケン)いでまくるまゝに、下(シモ)も上(カミ)の御心を心とせぬやうになりて、万(ツ)の事むつかしく、次第に治(ヲサ)めにくゝなりて、後にはつひに、かの西戎(カラ)の悪風俗(アクフウゾク)にも、さのみかはらぬやうになれるなり、抑かやうに、西の方の外国(グワイコク)より、さま/゛\の事さま/゛\の物の渡(ワタ)り入来(イリキ)て、それを取(トリ)用ふるも、みな善悪(ゼンアク)の神の御はからひにて、これ又さやうになり来(キタ)るべき道理のあることなり、その子細(シサイ)を申さんには事(コト)長(ナガ)ければ、こゝにはつくしがたし、さて時代のおしうつるにしたがひて、右のごとく世中の有さまも人の心もかはりゆくは、自然(シゼン)の勢(イキホヒ)なりといふは、普通(フツウ)の論(ロン)なれども、これみな神の御所為(シワザ)にして、実は自然(シゼン)の事にはあらず、さてさやうに、世中のありさまのうつりゆくも、皆神の御所為(シワザ)なるからは、人力(ジンリヨク)の及ばざるところなれば、其中によろしからぬ事のあればとても、俄(ニハカ)に改(アラタ)め直(ナホ)すことのなりがたきすぢも多し、然るを古の道によるとして、上(カミ)の政(マツリゴト)も下々(シモ/゛\)の行(オコナ)ひも、強(シヒ)て上古のごとくに、これを立直(タテナホ)さんとするときは、神の当時(タウジ)の御はからひに逆(サカ)ひて、返(カヘツ)て道の旨(ムネ)にかなひがたし、されば今の世の国政(コクセイ)は、又今の世の模様(モヤウ)に従(シタガ)ひて、今の上(カミ)の御掟(オキテ)にそむかず、有来(キタ)りたるまゝの形(カタ)を頽(クヅ)さず、跡(アト)を守(マモ)りて執行(トリオコナ)ひたまふが、即まことの道の趣にして、とりも直(ナホ)さずこれ、かの上古の神随(カムナガラ)治(ヲサ)め給ひし旨(ムネ)にあたるなり、尤刑罰(ケイバツ)なども、ゆるさるゝたけは宥(ナダ)めゆるすが、 天照大御神の御心にして、神代に其跡(アト)あり、然れどもまた臨時(リンジ)に、止事(ヤムコト)を得ざる事あるをりの行(オコナ)ひかたは、上古にも背(ソム)く者あるときなどは、あまたの人を殺(コロ)しても、征伐(セイバツ)し給ひし如く、これ又神代の道の一端(イツタン)なれば、今とてもそれに准(ナゾラ)へて、何事によらず、其事其時の模様(モヤウ)によりて、宜(ヨロ)しき御はからひはあるべきことなり、次に下々(シモ/゛\)の惣体(ソウタイ)の人の身の行(オコナ)ひかたは、まづすべて人と申す物は、かの産霊大神(ムスビノオホカミ)の産霊(ムスビ)のみたまによりて、人のつとめおこなふべきほどの限(カギリ)は、もとより具足(グソク)して生(ウマ)れたるものなれば、面々(メン/\)のかならずつとめ行(オコナ)ふべきほどの事は、教(ヲシヘ)をまたずして、よく務(ツト)め行(オコナ)ふものなり、君(キミ)によく仕奉(ツカヘマツ)り、父母(チヽハヽ)を大切(タイセツ)にし、先祖(センゾ)を祭(マツ)り、妻子(サイシ)奴僕(ヌボク)をあはれみ、人にもよくまじはりなどするたぐひ、又面々(メン/\)の家業(カゲフ)をつとむることなど、みな是人のかならずよくせではかなはぬわざなれば、いづれも有べきかぎりは、異国(イコク)の教(ヲシヘ)などをからざれども、もとより誰(タレ)もよくわきまへしりて、よくつとめ行(オコナ)ふことなり、然れども其中には又、心あしく、右の行(オコナ)ひどもの闕(カケ)たる者も、世には有て、人のため世のために悪(アシ)きわざを、はかり行(オコナ)ふ者などもあるは、これ又悪神(アクジン)の所為(シヨキ)にして、さやうの悪(アシ)き者も、なきことあたはざるは、神代よりのことわりなり、人のみならず万(ツ)の物も、よき物ばかりはそろひがたくて、中にはあしきも必まじるものなるが、その甚悪(アシ)きをば、棄(スツ)ることもあり、また直(ナホ)しもすることなれば、人もさやうの悪(アシ)き者をば、教(ヲシ)へ直(ナホ)すも又道にして、これかの橘(タチバナ)の小門(ヲド)の御禊(ミミソギ)の道理なり、然れども大かた神は、物事(モノゴト)大(オホ)やうに、ゆるさるゝ事は、大抵(タイテイ)はゆるして、世人のゆるやかに打(ウチ)とけて楽(タノシ)むを、よろこばせたまふことなれば、さのみ悪(アシ)くもあらざる者までを、なほきびしくをしふべきことにはあらず、さやうに人の身のおこなひを、あまり瑣細(サヽイ)にたゞして、窮屈(キウクツ)にするは、  皇神(スメカミ)たちの御心にかなはぬこと故、おほく其益(エキ)はなくして、返(カヘツ)て人の心褊狭(セバ/\)しくこざかしくなりて、おほくは悪(アシ)くのみなることなり、かやうの教(ヲシヘ)の瑣細(サヽイ)なる唐戎(タウジユウ)の国などは、邪智(ジヤチ)深く姦悪(カンアク)なる者、殊(コト)に多くして、世(ヨ)々に国治(ヲサ)まりがたきを以て、その験(シルシ)を見るべし、然るに此道理をしらずして、惣体(ソウタイ)の人を、きびしくをしへたてゝ、悉(コト/゛\ク)にすぐれたる善人(ゼンニン)ばかりになさんとするは、かの唐戎風(タウジユウフウ)の強事(シヒゴト)にして、これ譬(タト)へば、一年の間(アヒダ)を、いつも三四月ごろのごとく、和暖(クワダン)にのみあらせんとするがごとし、寒暑(カンシヨ)は人も何(ナニ)もいたむものなれども、冬夏(フユナツ)の時候(ジコウ)もあるによりてこそ、万(ツ)の物は生育(セイイク)することなれ、世中もそのごとくにて、吉事(キチジ)あれば、かならず凶事(キヨウジ)もあり、また悪事(アクジ)のあるによりて、善事(ゼンジ)は生(シヤウ)ずる物なり、又昼(ヒル)あれば夜(ヨル)もあり、富(トメ)る人あれば、貧(マヅ)しき人もなくてはかなはぬ道理なり、それ故(ユヱ)上古に道の正(タヾ)しくおこなはれし時代とても、此道理のごとくにて、悪(アシ)き人も世々(ヨヽ)に有て、それはその悪(アシ)きしわざの軽重(キヤウヂユウ)にしたがひて、上(カミ)にもゆるしたまはず、人もゆるさゞりしことなり、然れ共上古は、悪(アシ)きはあしきにて、惣体(ソウタイ)の人は、心直(ナホ)く正(タヾ)しくして、たゞ上(カミ)の御掟(オキテ)を恐(オソ)れつゝしみ守(マモ)りて、身分(ミブン)のほど/\に、おこなふべきほどのわざをおこなひて、世をば渡(ワタ)りしなり、しかれば今の世とても、おなじことにて、悪(アシ)き事する者は、その軽重(キヤウヂユウ)によりて、上(カミ)よりもゆるしたまはず、世人もゆるさねば、其余(ソノヨ)は、いさゝかは道理にあはざる事などのあればとて、人をさのみ深くとがむべきにもあらず、今の世の人はたゞ、今の世の上(カミ)の御掟(オキテ)を、よくつゝしみ守(マモ)りて、己(オノ)が私のかしこだての、異(コト)なる行(オコナ)ひをなさず、今の世におこなふべきほどの事を行(オコナ)ふより外あるべからず、これぞすなはち、神代よりのまことの道のおもむきなりける、あなかしこ、
                    本居宣長

  寛政元年十一月
       名児屋   越智広海蔵板


以上、『本居宣長全集』第十三冊(岩波書店)による。
同書の奥付は次の通り。


昭和十九年八月一日印刷
昭和十九年八月十日第一刷発行
本居宣長全集第十三冊
会費参円
特別行為税相当額弐拾四銭
合計 参円弐拾四銭
編纂者 村岡典嗣
発行者 東京都神田区一ツ橋二丁目三番地
    岩波茂雄
印刷者 東京都神田区錦町三丁目十一番地
    白井赫太郎
発行所 東京都神田区一ツ橋二丁目三番地
    岩波書店
    電話九段(33)一八七−一八八番
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精興社印刷(東京三六)
板倉製本

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