対髑髏

幸田露伴

 (一) 旅に道連(みちづれ)の味は知らねど
      世は情(なさけ)ある女の事/\
     但しどこやらに怖(こは)い所あり難(がた)い

 我(われ)元来洒落(しやれ)といふ事を知らず、又数奇(すき)と唱(とな)ふる者にもあらで、唯ふら/\と五尺(しやく)の殻(から)を負(お)ふ蝸牛(でゞむし)の浮(うか)れ心(ごゝろ)止(や)み難く東西南北に這(は)ひまはりて、覚束(おぼつか)なき角頭(かくとう)の眼(め)に力の及ぶだけの世を見たく、いざさらば当世(たうせい)江口(えぐち)の君(きみ)の宿仮(やどか)さず、宇治(うぢ)の華族様(くわぞくさま)香煎湯(かうせんゆ)一杯を惜(をし)み玉ふとも関(かま)はじよ、里遠しいざ露と寐ん草まくらとは一歳陸奥(ひととせみちのく)の独り旅、夜(よ)更(ふけ)て野末(のずゑ)に疲れたる時の吟(ぎん)、それより吾(わ)が身を露(つゆ)の友(とも)として頓(やが)て脆(もろ)くも下枝(しづえ)を落(おち)なば、摺附木(すりつけぎ)となりて成仏(じやうぶつ)する大木(たいぼく)の蔭小暗(をぐら)き近辺(あたり)に、何の功(こう)をも為さゞる苔(こけ)の碧(あを)みを添へん丈(だけ)の願ひにて、●(クチヘン+「藝」)語(ねごと)にばかりは滴水(しづく)とく/\試(こゝろ)みに浮世(うきよ)そゝがばやと果敢(はか)なき僭上(せんじやう)、是れ無分別なる妄想(まうざう)の置所(おきどころ)、我から呆(あき)るゝ程定まらぬ魂塊(こんぱく)宙宇(ちゆうう)に彷徨(さまよひ)し三十年来、自(みづか)ら笑ふ一生定力(ぢやうりき)なく、行蔵(かうざう)多くは業風(ごつぷう)に吹(ふか)ると、故人の遺(のこ)されし金句(きんく)に、歳(とし)の市(いち)立つ冬の半夜(はんや)、蝙蝠(かはほり)騒ぐ夏の夕暮などは、胆(きも)を冷(ひや)し骨(ほね)を焚く感じを起す事もありしが、三日坊主(みつかぼうず)の一時精進(いつときしやうじん)、後(あと)はゆつたりのつたりにて、丁度(ちやうど)明治(めいぢ)二十二年四月の頃は、中禅寺(ちゆうぜんじ)の奥、白根(しらね)が岳(たけ)の下(もと)、湯の湖(うみ)のほとりの客舎(かくしや)に五目并(ごもくなら)べの修業(しゆげふ)を兼(かね)て病痾(やまひ)を養(やしな)ひ居たりしに有難き温泉(ゆ)の功能(きゝめ)、忽(たちま)ち平愈(へいゆ)するや否(いな)、丈夫(ぢやうぶ)素(もと)より存す衝天(しようてん)の気なぞといきり出して、元(もと)来(き)し道を帰るを嫌(きら)ひ、御亭主是(これ)から先へ行く道は無いかと問へば、どうも此処(こゝ)は行留(ゆきどま)りの山の中、見らるゝ通り前は前白根(まへしらね)奥白根(おくしらね)雲の上に頭を出して居る始末、登山(とざん)は夏さへ六(むづ)かし、其続きの横手(よこて)の方(かた)は魂精峠(こんせいたうげ)と俗に呼ぶ木叢峠(こむらたうげ)、此頂上は上野(かうづけ)下野(しもつけ)両国の境界(さかひ)、山々折り累(かさ)なりて、当方より越(こゆ)る六里の間(あひだ)に暖湯(ぬるゆ)飲むべき家もなし、殊更時候大分(だいぶ)違ひて大沢徳次良(おほさはとくじら)あたりは、野州(やしう)の名花八汐(やしほ)の真盛(まつさか)りなれど此近辺(あたり)はそれもまだ咲かず、況(ま)して峠は一面の雪、五尺六尺谷間には積り居りて道も碌(ろく)には知れず、今年(ことし)になつてから越した人は指の数(かず)に足らぬ位、とても遊び半分なぞに行かるべき地(ところ)にあらず、御客様是非もなし、中禅寺までお戻りあつて足尾(あしを)とか庚申山(かうしんざん)とか里近き孫山(まごやま)でも見物致されよとの言葉。
 おのれ我を都会育(みやこそだ)ちの柔弱者(にうじやくもの)と侮(あなど)つたりや、其義ならば旋毛曲(つむじまが)りの根性(こんじやう)、天(あま)の邪鬼(じやく)の意気地見せつけ呉れんと詰(つま)らぬ事に偽勢(ぎせい)張り、股引(もゝひき)もなき細臑(ほそずね)踏みはだけて、其峠何程の事あらん、焼飯(やきめし)作れ草鞋(わらぢ)買(かう)て来(こ)よ、少しばかり難義でも同じ道を帰るより面白からんに、鼻歌を山の神に聞(きか)せて越(こえ)ん。さてさて途方(とはう)もない事、雪沓(ゆきぐつ)ならでは中々凍(こゞ)ゆべし、強(しひ)てとならば国境(くにざかひ)まで案内者(あないじや)●(ニンベン+「就」)(やと)はるべし、然し名産の肉●(クサカンムリ+「從」)蓉(にくじゆよう)取つて腎薬(じんやく)にでもせんとの御思召(おぼしめし)ならば時節悪し、酔興(すゐきよう)は要(い)らぬ者と昔時(むかし)よりの教(をしへ)もあるものを。面倒な事愚図々々(ぐづ/\)云はずと我(わが)云ふ通りにせよ、案内者は●(ニンベン+「就」)ふべし雪沓も買ふべしと罵(のゝし)りて、裾(すそ)其儘にグイと端折(はしよ)り、沓しつかりと穿(は)き締(し)め、身の丈(たけ)六尺計(ばか)りの樵夫(こり)を案内として心いさましく登(のぼり)ける。
 四五町(ちやう)ばかり来て見れば成程(なるほど)人は嘘(うそ)つかぬ者、一面の雪表面(うはべ)は凍(こほ)りて下は柔(やはらか)なり。段々と登り行く勾配(こうばい)急になり屡々滑(すべ)るに少し萎(ひる)みて、見れば案内者は猪(しゝ)の毛皮(けがは)の沓はきて鉄雪橇(かなかんじき)に踏答(ふみこた)へ、悠々(いう/\)と歩む憎さ、負(まけ)じと我も息張(いきば)りて追付(おひつけ)ば其大男(おほをとこ)顧(かへり)みて、此通りの雪なれば道も何もある訳では無ければ谷を伝はりて行くだけの分(ぶん)、あなた様若(も)し堪忍(がまん)強く少時(しばし)の難渋(なんじふ)を忍ばれるなら一層勾配の烈(はげ)しき代り頂上へ達する近道を行きませうかと問はれ、ヱーまゝの皮、そう仕やうと決断し、又登る一里あまり、樅(もみ)の木柘(つげ)の木タモの木ドロの木唐松(からまつ)など生(お)ひ茂りて蔭暗く、此山の本名(ほんみやう)木叢峠の名は体(たい)をあらはして森々(しん/\)と物凄く、梢(こずゑ)を渡る風に露はら/\と襟首(えりくび)に落ち、顔を撲(う)つ空翠(くうすゐ)は気息(いき)に伴(とも)なつて胸悪し。雪に印(しる)せる兎鹿(うさぎしか)の足痕(あしあと)漸く減(へ)りて、耳に音信(おとづれ)し鳥の声も次第々々に絶え、身は攀(よ)ぢ登るの苦しさに汗(あせ)ばみながら、心を掩(おほ)ひし五慾(ごよく)の塵衣(ぢんえ)は一枚々々剥(はが)るゝ如く、昨日(きのふ)の栄華(えいぐわ)縦横無尽に神通(じんづう)を逞(たくま)しくせし第六識魔王(だいろくしきまわう)は眷属(けんぞく)味方を失ひて薄(うす)ら淋(さび)しく、何といふ事はなけれど世界(せかい)よりの落武者(おちむしや)となつたる様(やう)に心臆(おく)せられて、人間老衰の暁(あかつき)五官半(ごくわんなかば)死して最期(さいご)に近よりたらん時此境界(きやうがい)に似通(にかよ)ふ者あらば、何程なさけなく如何程(いかほど)力弱く如何程頼み少なき者ならん乎(か)とそゞろ悲しく思ふ時、岩を透(とほ)すまで鋭(するど)き鳥の声真黒(まつくろ)の梢より射出(いいだ)され、ギョッとして頸(くび)を縮むる途端(とたん)、眼にはくら/\と湧(わ)き乱るゝ唐草様(からくさやう)の者見へしが、是(これ)にてお別れ申します、此処(こゝ)両国の境界(さかひ)即(すなは)ち頂上なり、是(これ)より左(ひだ)り手左り手と谷を伝ひ下(くだ)らるれば一つの沼(ぬま)あり、其沼の左をまた/\下らるれば片科川(かたしながは)の水源(すゐげん)、是(これ)ぞ坂東太郎(ばんどうたらう)と末は呼ばるゝ、それに傍(そう)て行(ゆか)れなば温泉湧き出(いづ)る小川村(をがはむら)といふに着(つく)べし、此処(こゝ)より其村までまだ四里余(りよ)少しも人家(じんか)なし、能々(よく/\)気を注(つ)けて迷はぬ様致されよ、さらば、と案内者の云ふに又一段の淋しさを増し、今朝(けさ)の似非勇気(えせゆうき)挫(くじ)け果(は)て茫然(ばうぜん)と見下(みおろ)すに、曇り空(ぞら)の日の光り力なく、常は見ゆると聞(きゝ)し会津(あひづ)の方(かた)の山々も雲がくれて見えず、流石(さすが)に足の爪先(つまさき)佇(たゝず)む間に冷(ひえ)を覚えける。
 案内者に別(わ)かれて独り下る覚束(おぼつか)なさ、雪沓なれば滑り/\薄(うす)ら氷(ひ)に向臑(むかふずね)疵(きず)つき、岩角(いはかど)に頬を擦(す)り、雪流(なだれ)に埋(うづ)められし木の枝に衣(きもの)を裂(さ)き、行けども行けども迷うたりや沼の辺(ほと)りに出ず。樺(かば)の木折りて火を焼(た)き、あたりながら焼飯を取り出(いだ)して食ふに、木屑(きくづ)を噛様(かむやう)にて甘(うま)からねど餓(うゑ)を凌(しの)ぎたれば、色々方角(はうがく)を考へ正して進む。元(もと)より時計(とけい)も持(もた)ぬ男なれば時刻分らず頻(しき)りと気をあせる中(うち)ほの暗くなつて来たれば、是(これ)は大変なり又々曽(かつ)て荒山(あらやま)に行き暮(くら)したる時の様になりては叶(かな)はじと、急ぐ程に沼のほとりに来たり、嬉しやと思ふほどなく日は谷の没(い)り易く、雪は最早(もはや)無けれど沓の底は切れて足は痛む折ふし、プツリと紐(ひも)さへ断(き)れぬ。悲しやと道の辺(べ)に坐りて夫(それ)を繕(つくろ)ひ繋(つな)がんとするに、燈(ひ)の光り遙(はるか)彼方(かなた)に幽(かすか)に動(ゆら)ぐを見付(みつけ)たり。嬉しや嬉しやとたどり行けば、丸木(まるき)の掘立柱(ほつたてばしら)笹葺(さゝぶき)の屋根したる小家(こいへ)、尚蕾(つぼみ)の堅き山桜(やまざくら)の大木(たいぼく)の根方(ねがた)に立(たて)り。所がらとて時候のかくも変る者ぞと驚かれぬ。萩(はぎ)の垣結(ゆ)ふ丈(だけ)の事もせざるは枝折戸(しをりど)の面倒も嫌へるにや、家の横手に幅(はゞ)一間計(けんばか)りの小河流るれば、筧(かけひ)して水呼ぶ世話も要(い)らぬと見へたり。
 此様(このやう)にしても世は渡らるゝ者と有り難く、尚近く寄(より)て火の洩(も)るゝ戸の際(きは)に立ち、中禅寺の湯元(ゆもと)より峠越(たうげごえ)して道に迷ひし者、尽(こと/゛\)く疲れ果(はて)て夜道に難義いたしまするが、小川村まではまだどれ程の道法(みちのり)でござりますか、且(かつ)は雪沓を切らして歩み難く困りますに草鞋一足(わらぢいつそく)御譲り下さるまいか、と云へば、それは/\お気の毒な事、小川まではもう二十町ばかり、川に添ふて行かれさへすれば間違なし、お履物(はきもの)をお切らしなされては真(まこと)に御難義ならんが、生憎(あいにく)草鞋一足もない事恥かし、然し私(わたく)しのはき捨(すて)の草履(ざうり)にても宜しくば参らせませう、と云(いふ)は不思議、なまめかしき女の声。かゝる山中(やまなか)に似合しからず、されど是(これ)も猟師(れふし)か何ぞの娘ならん、唯弱りたるは足の裏痛み悩みて、右の小指左(ひだ)りの拇指(おやゆび)は生爪(なまづめ)まで剥(はが)したれば、是(これ)より二十町到底(とても)あるけず、出来る事なら一夜(いちや)の宿を頼まんと、真(まこと)に申し兼(かね)たれど小川まで二十町と承(うけたま)はりては疲れたる身の中々に歩み難く、痛み所(しよ)さへあれば憫然(ふびん)と思(おぼ)し召(めし)て一夜の宿りを許したまへ。それは思ひも寄らぬ事、女子(をなご)許りなれば、と云ひ乍(なが)ら板戸引き開(あ)け身体(からだ)を半分出(いだ)す女、年は二十四五なるべし、後面(うしろ)に燈(ひ)を負ひたれば後光(ごくわう)さす天女(てんによ)の如く、其色の皎(しろ)さ、其眼のぱつちりとしたる、其眉つきの長く柔和(にうわ)なる、其口元の小(ちひ)さく締りたる、其髪の今日(けふ)洗ひたる乎(か)と覚えて結(ゆひ)もせず後(うしろ)に投掛(なげかけ)て末の方を引裂(ひきさ)き紙(がみ)にて一寸纏(ちよつとまと)めたる毛のふさ/\としてくねらざる、美しさ人にあらず。おのれ妖怪(えうくわい)かと三足(みあし)ほど退(しさ)つて覗(うかゞ)へば、女も我をつく/゛\と見て、傷(いた)ましやお前様の風情(ふぜい)、御足(おみあし)のあちこち怪我(けが)なされしか紅(あか)き者も見ゆるに、御袖も草木(くさき)に障(さ)えられてか綻(ほころ)び切れ、御顔色(おかほいろ)もいたく衰へ苦し気(げ)に居らせらるゝに、成程是(これ)より小川まで僅(わづか)の道なれど行き悩み玉ふべし、お留め申し難き所なれども世捨人(よすてびと)にもあらぬ御方(おかた)に、仮の宿りに心止(とゞ)むなとも申し難ければ枉(まげ)て一夜(いちや)を明(あか)させ申すべし、強くお断絶(ことわり)申すもつらし、いざ爰(こゝ)に御腰かけられよ、御洗足(おすゝぎ)の湯持(も)て参らん、と云はれて気味の悪さ、今更逃出(にげいだ)さんも流石(さすが)なれば、よしやわざくれ何とするものぞと腰打掛(うちかけ)て、有難しと礼いふ中(うち)、小桶(こをけ)に熱き湯汲(く)み来りて甲斐々々(かひ/゛\)しく洗ひくれんとするを、是(これ)は恐れ入り升(ます)、ナニ自分で濯(すゝ)ぎます。イヱ/\御遠慮なしに、サア御足(おみあし)をお伸(のば)しあそばせ、と問答する暇(ひま)に指の股(また)の泥(どろ)まで奇麗になりぬ。
 畳(たゝみ)の上にあがり丁寧に挨拶(あいさつ)すれば、女莞爾(にこ/\)と笑ひながら、山中(やまなか)なれば御馳走も出来ねど幸ひ小川村と同じ脈(みやく)の温泉(ゆ)の背戸(せど)の方(かた)に湧き居れば、一風呂御這入(ひとふろおはひ)りあつて一日(いちにち)の疲労(つかれ)をお休めなされ、サア此方(こち)へござれ、御背中を流しませうか。ハテ狐(きつね)にでも誑(ばか)さるゝではないかと内々(ない/\)危ぶみ居る我(わが)手を取る様にして、湯殿へと申しても片庇廂(かたびさし)、雨露(あめつゆ)を凌(しの)ぐばかり、いぶせけれど湯は天然(てんねん)の霊泉(れいせん)まことに能(よ)く暖(あたゝ)まります、といふ口上(こうじやう)嘘らしくなく底まで見え透(す)く清き湯槽(ゆぶね)、大事(だいじ)なかろうと這入(はひ)れば、無類の心持は湯元より結構なり。昼間のつらかりしも忘れ悠々と揚(あが)つて来るを待ち付(つけ)て女、御召憎(おめしにく)うはござりませうが御着物の綻びを縫ふてあげます間是(あひだこれ)を、と後(うしろ)より引(ひつ)かけて呉れるは、ぼてつかぬフラネルの浴衣(ゆかた)に重ねし黒出八丈(くろではちぢやう)の綿入れ、女物(をんなもの)なれば丈(たけ)ありてユキ無く、両手(りやうて)のぬつと出(いづ)るは可笑(をかし)けれど、親切かたじけなし、余程(よほど)ふしぎな取り扱ひ、どうした運命(うんめい)だろうと怪(あやし)みながら少し煙(けむ)にまかれて、ハイハイ是(これ)はどうも恐縮(きようしゆく)。御帯(おみおび)にも岩角の苔が付(つい)て居りますれば、可笑(をかしく)とも之(これ)を、と笑ひながら出すは緋縮緬(ひぢりめん)のしごき。ハイ/\と帯にして、是(これ)も大方藤蔓(おほかたふぢづる)か知れぬと観念し、座敷へ来て居炉裏(ゐろり)の傍(そば)に坐る肩へ羽折(はお)り呉るゝは八反(はつたん)の鼠弁慶(ねづみべんけい)のねんねこ。湯覚(ゆざめ)をなされては若しお風邪(かぜ)でも召(めし)ては何処(どこ)ぞのお方(かた)に済みませぬ、と味(あぢ)な口きゝ、どん/\と柴折(しばをり)くべ、自在鍵(じざい)にかけし鍋の沸(わ)き立(たつ)を取り下(おろ)して、定めし御空腹でござんしたろう、サア御膳(ごぜん)も出来ましたがお気の毒なは麦飯(ばくはん)、暖(あたゝか)い丈(だけ)を取(と)り柄(え)に山家(やまが)の不自由をお許しなされ、と取り出(いだ)す蝶足(てふあし)の八寸膳(はつすん)、盛(つけ)て呉るゝ山独活(やまうど)の味噌汁(みそしる)、香気椀(わん)に溢(あふ)る。礼云ひながら我は甘(うま)く食へば女も、妾(わたし)も御一所(ごいつしよ)に片付(かたづけ)て仕まひましよか、と無造作(むざうさ)に喰(く)ふに膳なく、椀を炉縁(ろぶち)に置(おか)んとして流石(さすが)に馴ずやたゆたふを、此膳お用ゐなされと突(つき)やれば、そんならおとり膳とやらに、オホヽ、御免(ごめん)なされ、と顔も赤めず、宵よりの所業(しよげふ)一々合点(がてん)の行(ゆか)ぬ事どものみなり。
 さて飯(めし)も了(をは)りたれば女は我に関(かま)はず、手ばしこく膳椀とり片付(かたづけ)て火影(ほかげ)ゆらぐ行燈(あんどん)の下(もと)に坐り、我衣物(わがきもの)の綻びを綴(つゞ)くる様(さま)、十年も連添ふたる女房(にようばう)の様(やう)に見栄(みえ)も色気(いろけ)もなく仕こなす不思議さ、さりとては何物ならん。世を捨(すて)たる女かと見れば黒髪匂(にほ)やかにして尼(あま)にもあらず、世を捨(すて)ざる女かと見れば此容色(ようしよく)を問ふ人もなき深山(みやま)の独り住訝(ずみいぶ)かしく、何にせよ口不調法(くちぶてうはふ)なる我口惜(くちをし)く、問ひ出(いづ)る詞(ことば)を知らで様々考ふる中(うち)、女は綻び繕ひ了りて其(その)まゝ畳み置き、炉の傍(そば)に来て我とさしむかひ笑(ゑ)まし気(げ)に、若き御方(おかた)の何故の御旅行か知(しら)ねど定めし面白き事もござりましたろうにチトお聞(きか)せなされ、と却つて向ふより切り掛けられ、イヤ/\我等山あるきは好(すき)なれど歌の一つも読み得ねば、面白き所あつてもお話し申す言葉拙(つたな)し、お前様こそ見受(みうく)る所御風流(ごふうりう)の御生活(おくらし)、由緒(ゆゐしよ)あるお方とは先程より思ひましたが、さりとては盛りの御(おん)身を無残(むざん)の山住み、如何(いか)なる仔細(しさい)か御話しなされてよき事ならば。ホヽ中々の事、賤(しづ)の女(め)に何の由緒のありませう、唯妾(わたく)しは妙(たへ)と申す気軽者(きがるもの)、去歳(こぞ)より此処(こゝ)に移りしばかり、おまへ様は。露伴(ろはん)と名乗る気軽者。扨(さて)は気軽と云はるゝか。如何(いか)にも。何の上の気軽。我は何とも知らず山に浮(うか)れ水に浮(うか)るゝだけの気軽、おまへ様は。浮世を厭(いと)ふだけの気軽。ハテ怪(け)しからぬ、浮世を真誠(まこと)に厭ひ玉ひなば御頭(おつむり)をもゴッソリと剃(そ)り丸(まろ)め玉ひ、墨染(すみぞめ)の衣(ころも)に御身をやつされ、朝は山路(やまぢ)に花を採り夕(ゆふべ)は渓川(たにがは)に閼伽(あか)を汲(くみ)て本尊(ほんぞん)に供(くう)ぜられ、看経念仏(かんきんねぶつ)の勤(つと)めあるべきに、珠数(じゆず)さへ持ち玉はざる計(ばか)りか、昔(むか)しの人は美しき面(おもて)に熱鉄当(やきがねあて)たるさへあるに、お前様は誰に見よとての黒髪、油(あぶら)こそ無(なけ)れしなやかに、友仙(いうぜん)の御下着(おしたぎ)、紅(べに)こそ見えね仇(あだ)めかしくも色作らせらるゝ事疑はし、世を疎(うと)み玉ふとは詐(いつは)り、深く云ひ替(かは)せし殿御(とのご)を恨むる筋の有るかなどにて、口舌(くぜつ)の余り強玉(すねたま)ふての山籠り、思はせぶりの初紅葉(はつもみぢ)あきくちから濃(こ)ふなるといふ色手管(いろてくだ)か、是(これ)は失礼、図(づ)に乗(のつ)て饒舌(しやべ)りました。アラ此人の口の憎さ、其様な浮(うき)たる事にはあらず、全(まつた)く世をば避け厭(いと)ひて。マザ/\とした御戯談(ごじやうだん)、さらば世を厭ふとは如何(いか)なる訳、と押返(おしかへ)して問(とへ)ば、要(い)らぬ事尋ねて可惜(あたら)夜の更(ふく)るに御休みなされ、と身を起して戸棚(とだな)より出(いだ)すは綿まづしき痩せ蒲団(ぶとん)かと思ひの外、緋緞子(ひどんす)の蒲団、浅黄綸子(あさぎりんず)の抱巻(かいまき)、紅羽二重(べにはぶたへ)の裏付(つけ)て猟虎(らつこ)の襟、驚かるゝ贅沢(ぜいたく)。サア御寝(ぎよしん)なされと我を押(おし)やりて小屏風立(こびやうぶたて)まはすに、是非なく話しを中途にして、然(しか)らばお先へ御免(ごめん)蒙(かうむ)ると横になれば、蓬莱(ほうらい)の夢見さうな雲鶴(うんかく)の錦(にしき)の丸枕(まるまくら)に茶を詰(つめ)あるやらゆかしき香(かをり)、鼻の頭(さき)に不審(ふしん)が立ってどうも眠(ね)られゝばこそ。ソッと屏風の外を覗けば、炉の傍(そば)に尚端然(端ねん)と坐(ざ)して何やらを読み居る美しさ人形(にんぎゃう)の様(やう)なり。
 一時間も経(たて)ど我は尚寝られねば又彼方(かなた)を見るに矢張(やはり)動かず、二時間も過ぎて又伺ふに女は元の通り、真夜中頃にも心愈々冴(さえ)て後先揃はぬ此家(や)の始末を考へながら又覗けば、女は頻りと火箸(ひばし)もて灰(はひ)掻き起し居れど、柴木最早尽(もはやつき)て炉の暖(あたゝか)ならず、木叢峠の山下風(おめしかぜ)流石(さすが)に寒気(かんき)を覚えてや、独り言(ごと)に温泉(ゆ)にでも入らんと云ひ捨てゝ湯殿の方(かた)へ行(ゆき)けるが、少時(しばし)して帰り、炉の火は全く細々(ほそ/゛\)となりしに尚其傍(そのそば)に端然と坐りたる様子(やうす)、何の用ありとも見えず、全く寝るべき夜具なき故と知(しら)れたれば、我(われ)男の身として自分ばかり暖(ぬく)まり居(ゐる)をさもしき様(やう)に思ひなし、今眼さめたる振(ふり)して突(つ)と起出(おきいづれ)ば、御手水(おてうづ)か、と案内す。用たしての戻りがけ心付(こゝろづき)たる顔して、お妙さま、まだおよらずか。ハイ。誰人(たれびと)を待(また)るゝ恋か知らねど大分夜も更けましたろうに。ホゝ御調戯(おからかひ)なされずと能(よ)うおやすみなされ。イヤ違ひましたら幾重(いくへ)にもお詫をしますが、お独り住(ず)の御様子、其処(そこ)へ推(おし)て一泊(いつぱく)を願ひましたれば御臥床(おんふしど)を奪ひましたかとも危(あやぶ)みます、若し万一左様なれば我等こそ男の身の野宿(のじゆく)の覚(おぼえ)もござれば柱に●(「馮」の下に「儿」)(もた)れて眠る一夜位(いちやぐらゐ)苦にもならざれ、お前様そうして居られては心苦(ぐる)しゝ、寝温(ねぬく)もりの残りしは気味あしくも思(おぼ)しめさんがどうかお休みなされ、と云へば顔少し赤め、御言葉の通り真(まこと)に夜具一揃(ひとそろひ)より持(もた)ざれど、おとめ申したる時より妾(わたく)しは斯うして夜を明(あか)して大事(だいじ)ないと思ひ定めましたれば御構ひなく。それではどうも。そう仰(おつ)しやらずと。我らが困ります。妾(わたく)しが困ります。マアお前様御臥(おやす)みなされ。マア/\あなた御寝(ぎよしん)なされ。其(それ)では際限なし、小生(それがし)も男でござる、痩我慢(やせがまん)致して是(これ)より御暇(おいとま)申す、女性(によしやう)に難義さして我(われ)心よく眠らば一生の瑕瑾(かきん)、母の手前朋友(ともだち)の手前恥かし、夜道まだ/\楽(らく)な事なり。それ程までに仰せらるゝを背(そむ)き難し、あなたに夜道歩行(あるか)せましては妾(わたく)しの心遣(づか)ひ皆空(あだ)となる事なれば御言葉には従ひませうが、それではあなたに寝床暖めて頂いた様な者、のめ/\と其(それ)にくるまつてあなたを火もなき炉の傍(そば)に丸寝(まるね)さしては仮令(たとへ)ば妾(わたく)し夢に恋人に逢(あ)はふとも面白からず、妙も女でござんす、妾(わたく)しの一生の瑕瑾(かきん)、持仏(ぢぶつ)の手前はづかしゝ、どうしてもあなたを能(よ)うお臥(やす)ませ申さでは。其様(そのやう)に言葉を廻されてはどうして良いやら訳が分からず、無骨者(ぶこつもの)の我等閉口しますに。ホヽ閉口なされたら温順(おとなし)く妾(わたく)しの云ふ事を聞(きい)てお臥(やす)みあれ。イヤ/\拙者の申す通りになされ。マア頑固(ぐわんこ)に剛情(がうじやう)を張られずとも。頑固でも何でも拙者の申す事聞(きか)るゝがよい。ハイ/\到底(とても)あなたの頑固には叶ひませぬから、あなたの申さるゝ通りに致しましよ、ホヽホヽ、まあ怖(こは)い顔をして。怖い顔は生れ付(つき)です。怒(おこ)られたの。イヱ御厚意に向つて何の怒りましよ、唯少し真面目(まじめ)になつた計(ばか)り。ホヽ可愛(かわゆ)らしい、真面目に。ハイ真面目に。妾(わたく)しも真面目に申しませう、サア露伴様。何。殿御の仰(おつ)しやる事さへ通れば女子(をなご)の云ふ事は通らずともよいと思はるゝか。何。御自分の御言葉だけを無理やりに心弱い妾(わたく)しに承知させて、妾しの真実には露かゝらぬと酷(むご)らしうおつしやるか。知らん。知らんとは御卑怯な、サア此方(こち)へござれ御一所(ごいつしよ)に臥(やす)みませう、妾(わたく)しもあなたの御言葉を立(たて)ますればあなたとて妾しの一言(いちごん)を立(たて)て下さつたとて、御身体(おからだ)の解(と)くるでもあるまい汚(よご)るゝでもござるまいに、何故(なぜ)そう堅うなつて四角ばつてばかり居らるゝか、ヱヽ野暮(やぼ)らしい、と柔らかな手に我手を取りて睛(ひとみ)も動かさず平気に引立(ひきたて)んとする其(その)美しさ恐ろしさ。
 我(われ)肝(きも)も凍(こほ)るばかり慄然(ぞつ)として眼を暝(ふさ)ぎ唇(くちびる)を咬(か)み切(し)め心の中(うち)にて「蘖海(げつかい)茫々たり首悪色慾に如(し)くは無く、塵寰擾々(ぢんくわんぜう/\)たり犯(をか)し易きは惟(たゞ)邪淫なり、抜山蓋世(ばつざんがいせい)の雄、此(こゝ)に坐して身を亡(ほろ)ぼし国を喪(うしな)ひ、繍口錦心(しうこうきんしん)の士、茲(これ)に因(よ)りて節を敗(やぶ)り名を堕(おと)す、始(はじめ)は一念の差(さ)たり遂に畢世(ひつせい)贖(あがな)ふ莫(な)きを致す、何ぞ乃(すなは)ち淫風日に熾(さか)んにして天理淪亡(りんばう)するや、当(まさ)に悲(かなし)むべく当に憾(うら)むべきの行(おこなひ)を以て反(かへつ)て計(けい)を得たりとなし、而して衆怒(しうど)衆賤(しうせん)の事恬(てん)として羞(はづ)るを知らず、淫詞を刊(かん)し麗色を談じ、目は道左(だうさ)の嬌姿(けうし)に注(そゝ)ぎ腸(はらわた)は簾中(れんちゆう)の窈窕(えうてう)に断(た)ゆ、或(あるひ)は貞節、或は淑徳(しゆくとく)、嘉(よみ)すべく敬(けい)すべきを遂に計誘(けいいう)して完行(くわんかう)なからしめ、若(もし)くは婢女、若くは僕妾(ぼくせふ)、憫(あはれ)むべく憐(あはれ)むべきに竟(つひ)に勢逼(せいひよく)して終身を●(オウヘン+「占」)(けが)すを致し、既に親族をして羞(はぢ)を含ましめ、猶(なほ)子孫をして垢(はぢ)を蒙(かうむ)らしむ、総て心昏(くら)く気濁り、賢(けん)遠ざかり佞(ねい)親しむに由(よ)る、豈(あに)知らんや天地容(ゆる)し難く神人震怒(しんど)し、或(あるひ)は妻女酬償(しうしやう)し或は子孫受報(じゆはう)す、絶嗣(ぜつし)の墳墓(ふんぼ)は好色の狂徒にあらざるなく、妓女(ぎぢよ)の祖宗(そそう)は尽(こと/゛\)く是れ貪花(たんくわ)の浪子(らうし)なり、富むべき者は玉楼に籍(せき)を削(けづ)られ、貴(たつと)かるべき者も金榜(きんばう)に名を除(のぞ)かる、笞杖流大辟(ちぢやうとりうたいへき)、生(いき)ては五等の刑に遭(あ)ひ、地獄餓鬼畜生(ぢごくがきちくしやう)、没(ぼつ)しては三途(さんづ)の苦(く)を受く、従前の恩愛此(こゝ)に至つて空(くう)と成り、昔日の風流而(しか)も今安(いづく)にか在る、其後悔(こうくわい)以て従ふなからんよりは蚤(はや)く思ふて犯す勿(な)きに胡(いづれ)れぞ、謹(つゝしん)で青年の佳士、黄巻(くわうくわん)の名流に勧(すゝ)む、覚悟の心を発し色魔の障(しやう)を破らん事を、芙蓉(ふよう)の白面は帯肉(たいにく)の●(ホネヘン+「古」)●(ホネヘン+「婁」)(ころ)に過(すぎ)ず、美艶紅妝(こうしやう)、乃(すなは)ち是れ殺人の利刀なり、縦(たと)ひ花の如く玉の如きの貌(かんばせ)に対しても、常に姉(あね)の如く妹(いもうと)の如くするの心を存して、未行者(みぎやうしや)は失足を防(ふせ)ぐべく已行者(いぎやうしや)は務(つと)めて早く回頭(くわいとう)せよ、更に望む、展転流通(てんてんるつう)し迭(たがひ)に相(あひ)化導(けだう)し、必らず在々(ざい/\)斉(ひと)しく覚路(かくろ)に帰(き)し、人々(じん/\)共に迷津(めいしん)を出でんことを、首悪既に除き万邪自(おのづか)ら消(せう)し、霊台滞(とゞこほ)りなく世栄(せいえい)遠きに垂(た)れん矣、」とうろ覚えの文帝遏慾文(ぶんていかつよくぶん)を唱へたり。

 (二)色仕掛生命(いろじかけいのち)危ふき鬼一口(ひとくち)と
      逃(にげ)てまはりし臆病もの
     仔細うけたまはれば仔細なき事
                                         年は今色の盛り、春の花咲き乱れたる様(やう)に美しき婦人(をんな)と一ツ屋の中(うち)に居るさへ、我柳下恵(われりうかけい)に及ぶべくもあらぬ身の気味(きみ)悪(わろ)し。然しながら何千万人浮世男(うきよをとこ)の口喧(やかま)しく我を罵り責むるとも、顧みて内に疚(やま)しからず、鉄年角上(てつぎうかくじやう)の蚊(か)の声の何かあらんと、此家(や)に止(とゞ)まりて此女とさしむかひに食(めし)もたべたれ談話(はなし)も仕たれ、素(もと)より人間の批判取沙汰(とりざた)何とも思はざる我も、天道の見る前に山中(やまなか)なればとて見ず知らずの女と同衾(ひとつね)のなるべきことか。よしそれは羞(はづ)かしからぬにせよ、其柔らかき肌(はだ)近く、僅(わづか)に衣服(きもの)幾重(いくへ)かを隔てゝ身の内の温暖(あたゝか)みの互(たがひ)に通ふまで密接(くつつき)合(あ)ひて我(われ)眠らるべきことか。共に寝よとの言葉かけられし丈(だけ)にてさへ今遏慾(かつよく)の文(ぶん)を口の中(うち)に唱え了(をは)りしまでは、婆子焼庵(ばしせうあん)の公案(こうあん)をひねくりしやうにはあらざりし。況(まして)や此美しき婦人(をんな)と咎(とが)め手の無きかゝる山奥の庵中(あんちゆう)に眠らば、枯木寒岩(こぼくかんがん)に●(「憑」の「心」の代わりに「ニンニョウ」)(よ)りて三冬(さんとう)に暖気(だんき)なかるべきや否(いな)や。美人今夜若し我に約さば枯楊(こやう)春老(おい)て更に蘖(ひこばへ)を生ぜんとは、紫野(むらさきの)の大徳一体様(だいとこいつきうさま)さへ白状されし真実の所。危(あやふ)い哉(かな)/\、婦女(をんな)の居ぬ山蔭ならば羅漢(らかん)と均(ひと)しく悟り切(きつ)ても居らるべし、白い臑(はぎ)見ては通(つう)を得し仙人でも雲の台(だい)を踏外(ふみはづ)して落(おち)たる古話(はなし)あり。若(もし)も久米殿(くめどの)其女と同衾(ひとつね)したら多分は底の無い地獄の奥深く堕落(だらく)せん事必定(ひつぢやう)なり。我今此美(うつ)くしくて心和(やさ)しげな女と一つ抱巻掛(かいまきかけ)て枕をならべ、仔細なく一夜(いちや)を明(あか)さんとするとも、背中合(せなかあは)せでは肩寒し、山里の夜風透間(すきま)洩りて一しほ寒ければと、我(わが)肩に夜着(よぎ)品(しな)よく着せ掛(かけ)て、此方(こち)お向(むき)なされいでは両人(ふたり)の間に風が入りてと云はれなば愈々むづかしく、萎(しな)やかなる鬢(びん)の毛我頬を摩(な)でゝ、花のやうな顔我鼻の先にありては尚々(なほ/\)むづかしからん。玉の腕(かひな)何処(いづく)にか置きなん乳首(ちくび)何処(いづく)にか去らん、扨は愈々大事(だいじ)なり。女猫(めねこ)抱(だい)て寝しと同じ心にて我眠らるべきか。叱(しつ)。若しや夜着の内(うち)人の見ぬ所、身動きに衣引(きぬひき)まくれて肉置(しゝおき)程良き女の足先腿後(ふくらはぎ)など我(わが)毛臑(けずね)に触(さは)らば其(それ)こそ。喝(かつ)。生死一機に迫る一大事。素(もと)より道力堅固(だうりきけんご)ならず戒行(かいぎやう)常に破れ居る凡夫(ぼんぷ)の我、あさましき心は起さゞるにもせよ長閑(のどか)なる夢は結び難し。且(かつ)は此女真実(まこと)に人間か狐狸(こり)か、先程よりの処置(しよち)一一合点(がてん)ゆかず。人間普通(よのつね)の女の言ひ得(え)まじき事を恥らふ様子もなく我に言う女め、妖怪ならで何ならん。小人(せうじん)は多く謹慎の礼を以て来り、悪魔(あくま)は毎(つね)に親切の情(じやう)を以て誘(いざな)ふと聞く。扨こそ/\ござんなれ悪魔め、鉄拳(てつけん)は模糊(もこ)たる人情を存せず真向(まつかう)より打(うつ)て下(おろ)して乃公(だいこう)が力量の恐ろしさを知らせ呉れんか。噫(あゝ)それも頼み薄し。我不動明王(ふどうみやうわう)ほどの強き者にもあらねど、魔は却(かへつ)て梵天(ぼんてん)を攻めし摩醯修羅(まけいしゆら)の力あるかも知れず。水を拍(う)ちて飛沫(しぶき)を浴び草を打(うつ)て蛇(へび)に会ふは拙(つたな)き上の拙き事なり。如何(いか)に答へん何と為(なさ)ん、アヽ思ひ付(つい)たり、昔時(むかし)は芭蕉(ばせを)も女に袖を捉(とら)へられし事あるに彼黙然(もくねん)として動かず、女終(つひ)に去らんとする時芭蕉却つて女の袂を捉へ、こちら向け我も淋しき秋の暮と一句の引導(いんだう)渡せしよし、小耳に挟(はさ)んで聞覚ヘたり。我又芭蕉をまなんで黙然たらんのみ、と漸く一心を決し、胸中には九想(きうさう)の観(くわん)を凝(こ)らしながら乾坤(けんこん)を坐断(ざだん)する勢ひ逞(たくま)しく兀然(こつぜん)と坐着(ざちやく)すれば、女はもどかしがりて握りし手を尚強く握(にぎり)しめ、サア何考へて居らるゝ、此方(こち)へ/\と引立(ひつたつ)る。引(ひか)れじ/\引(ひか)れてはと満身に力を籠(こ)むれば、サア此方(こち)へござんせ、さりとては頑固(かたくな)な御方(おかた)、山に浮(うか)れ水に浮(うか)れたまふ気軽にも似たまはぬ、と尚引立(ひきたつ)る。大事大事、此妖魔めに一歩を転ぜられてはと石地蔵(いしぢざう)のやうに堅くなってゐるに、尚悠然と女は引く。引(ひか)れじと張る力の弱るに、思はずアと叫びて手を振(ふり)はらひ逃出(にげいだ)せば、女追ひ縋りて袂をとらへ、ホヽと笑ひながら、扨は妾(わたくし)を妖怪変化(へんげ)の者かと思はれて夫程(それほど)までに厭(いや)がらるゝなるべし、ホヽホヽ、今少し胆(きも)太く心強きお方ならんと存じての親切が仇となり、却つてお胸を騒がしたる罪深し、真誠(まこと)妾(わたくし)は妖怪変化にもあらず、浮世を捨(すて)し身のあさましき慾に迷ふにもあらず、兎(と)にも角(かく)にも厭(いや)がりたまふことを強(しい)ては申さじ、今より夜道あるかせ申さば亭主振(あるじぶ)り余りに拙(つたな)く、悔(くや)み限りなし、先づ/\坐り玉へ、と止(とゞ)むるを我又無下(むげ)に振り切るも恐ろしく、炉の向ふに坐れば、女は鉈(なた)取り出(いだ)して立上る。これはと我又々驚き訝(いぶか)るを見てホヽと笑ひ、草履つつ掛(かけ)て戸の外に出で、丁々(ちやう/\)と響かする木を切る音。
 生木(なまき)なりと焚かんとて薪(たきゞ)取りに外へ出(いで)しぞと悟れば、漸く安堵(あんど)してつゞいて外に出で、燃(もや)し木(ぎ)を取り玉ふならば男の事我助力致さんと鉈借り受け、そこらの雑木(ざふき)切り倒して一卜抱(かゝ)えだけ家(や)の内に投込み、戸口確(しつか)りと風を遮(さへ)ぎり対(むか)ひ坐れば、女は火を掻起して僅(わづか)に焚(もや)し初む。頓(やが)て漸く焚(も)え立ちて暖気室(しつ)に満(みつ)るを見て、此通り炉に火もあり、妾(わたくし)は愈々独り起居(おきゐ)る事つらからねばサアゆつくりと御やすみなされ、ホヽホヽ、胆の小(ちひ)さい御客様に可惜(あたら)御気をもませ申しましたは妾(わたくし)があやまりました、御心配なしにおやすみなされまし。イヤ先刻も申せし通りおまへ様おやすみなされ。ホヽホヽ、又剛情を張らるゝか、夫(それ)ならば御一所(ごいつしよ)にか。夫(それ)は御免蒙(かうむ)りたし。ヲホヽホヽ、嫌はれては今更是非もなけれど真実妾(わたくし)の了見(れうけん)では、夜風寒き山中(やまなか)何の御馳走申す風情(ふぜい)もなければ、其(その)むかし乳母(うば)があなたを抱(だい)て寝かして進(あげ)た時の様に、あなたを緊乎(しつかり)と抱(だい)て妾(わたくし)の懐中(ふところ)で暖めて進(あげ)やうばかりの親切、妾(わたくし)も仏菩薩(ぶつぼさつ)の見玉ふ前に決して如何(いかゞ)はしき念(ねん)は露もつにあらず、あなたとて一箇(いつこ)の大丈夫(だいぢやうぶ)、初めて逢ふて抱(だい)て寝た女位(ぐらゐ)に心を動かす様な弱いお方ではあるまいと存じたに、御卑怯千万未練(みれん)の御性根(ごしやうね)、ホヽ、是(これ)は失礼、兎(と)も角(かく)もあなたの御自由になされ、妾(わたくし)は亭主(あるじ)の身で独り寝る事致し難し、といふ。我呆(あき)れて明きし口閉(ふさ)ぎ得ず、茫然と此女の言葉を聞き、つく/゛\考ふるに、人の世の毀誉褒貶(きよはうへん)を心に留めざるのみか眼前の我をさへ、見て三歳の小児(せうに)の如く取り扱ひ、然(しか)も悠々として胸中別に春ある悟りの開(ひら)けし大智識(だいちしき)のやうなるに益々不審晴れず、ハテ何物の子ならん何物の変化(へんげ)ならん、尋常の婦女(をんな)とは思へず、抑々(そも/\)如何(いか)なる履歴(りれき)ありて斯く可惜(あたら)しき容貌(きりやう)和(やさ)しき心持ながら山中(やまなか)には引籠りけん、当世の小督(こがう)か仏(ほとけ)か祇王(ぎわう)か祇女(ぎぢよ)か、それとも全く妖魔かと、そゞろ恐ろしく、さらばおまへ様はおまへ様の御自由、我等は我らの自由として我は此炉前(ろぜん)に一夜(いちや)を明(あか)すつもり。妾(わたくし)もあなたの向ふ坐に一夜を明して苦しからず、却つて心安し、と斯(こゝ)に押問答(おしもんだふ)の埒(らち)明けば、我大きに安堵してつく/゛\と女の頭上(づじやう)より全体を観るに、一点の疵なき玉のやうにて、折から燃ゆる火炎(ほのほ)の閃(きら)めく陰(かげ)に隠現(いんけん)する女神(によじん)、其気高(けだか)さ美しさ、人間の絵師(ゑし)まだ是(これ)に似た者も書きたる例(ため)しあらざるべし。
 荊茨(いばら)の中(うち)に鹿は置きたく無く、鶴は老松(おいまつ)の梢にあらせたし。目ざましき者尊(たつと)きもの可愛(かはゆ)きもの美(うつ)くしき者、皆其所(そのところ)を得させたきは我人(われひと)の情(じやう)ならん。あはれ駿馬(しゆんめ)は勇士に伴(とも)なはせたく、名花の園に蝴蝶(こてふ)は眠らせたし。或歳我(われ)旅せし時旅宿(はたごや)の下司(げす)洒掃除(ふきさうぢ)の時懐中(ふところ)より日本政記(にほんせいき)一冊落せしを見て、心掛(こゝろがけ)ありながら空(むな)しく人に仕(つか)へ居る其男の口惜(くちをし)さ如何(いか)ならんと涙ぐみたる事ありし。夫(それ)にもまして今此女、天晴(あつぱれ)の容貌(きりやう)むざ/\と深山(みやま)の谷間に埋(うも)れ木(ぎ)の花も咲かせず朽果(くちはつ)る気の毒さ、美人所(ところ)を得ずして榾火(ほだび)に燻(くす)ぼり草の屋に終るとはなさけなき天道の為されかた。男児時(とき)を得ねば滄海(さうかい)に入ると同じく、既に見識ありて俗情に遠く、又風流を解して仙趣(せんしゆ)に近づき居る此女、浮世の塵を厭(いと)ひて山中(やまなか)に終らん所存か、さりとては又女の癖(くせ)に男めきたる憎さよ。女の女らしからざる、男の男らしからざる、共に天然(てんねん)の道に背(そむ)きて醜(みにく)き事の頂上(ちやうじやう)なり。さりながら女の女らしからずして神らしきと、男の男らしからずして神らしきは、共に尊(たつと)き頂上ぞかし。今此女の言ふ所最速(もはや)女らしからず、女の口より初めて達ひし我を抱(だい)て寐んなど中々以て言へた事ならざるに、然も乳母(うば)が幼稚人(をさなきひと)を抱(だい)て寐る如く我を抱(だい)て寐んと云ひし事若し虚誕(うそ)ならずば、此女は女の男めきたるにはあらで、人より以上の方外の女なり。然し我(われ)凡夫の眼より見れば此女の斯く尊(たつ)と気(げ)ならんより、良き配偶(つれあひ)を得て市井(しせい)の間に美しき一家(いつか)を為(な)したらんこそ望ましけれ、と思ふまに/\又●(メヘン+「屬」)(み)れば端然(たんねん)とせし有様は凡界の女の、恋に病み衣服に苦労し珊瑚(さんご)の根掛(ねがけ)の玳瑁(たいまい)の櫛(くし)のと慾にざわつく儔(たぐひ)にあらず、眼の中(うち)の清(すゞ)しきは紛紜(ふんうん)たる世事を胸の中(うち)に留(とゞ)めざるをあらはし、顔色のあざやかに艶々(つや/\)しきは充分今の境界(きやうがい)に満足して何の苦しく思ふ事なきを示(し)めして、且(かつ)は口元の締りたるにぞ理非を判(さだ)むる智恵の敏(さと)さも知られける。不思議々々々。
 余りの不思議に堪(こら)えかねて我いと叮嚀に真実(まこと)を籠(こめ)て言葉緩(ゆる)く、先程も伺ひたれど歳若きおまへ様の尼にもあらでの山籠り、如何(いか)にも不思議に存ぜらるゝも、一ツは美しき御容貌(ごきりやう)和(やさ)しき御心根(おこゝろね)持玉ひながら無惨(むざん)や、猪狼(しゝおほかみ)の跡多き地所(ところ)に潜(ひそ)み玉ふを慨(なげ)かはしく存ずるよりなり、斯く山住(やまずみ)し玉ふ其訳苦しからずば一通り御聞(おきか)せ下されたし、と問へば女ホヽと笑ひながら、此頃(このごろ)うるさく世間に流行(はやる)とか聞(きゝ)し小説(せうせつ)にでも書玉(かきたま)はん御了見(れうけん)か、よしそれまでには至らざるにせよ、話しの土産(みやげ)と都の人に齎(もた)らし帰らん御意(おこゝろ)なるべし、恥かしき身の上明(あか)して云ふ迄もなけれど、若し人ありて聞きて、一点あはれと思ふ人あらば、妾(わたくし)が如き人の為に嬉しき事の限りなり、いで恥を忘れて羞かしき身の上語り申すべし、縁外(えんぐわい)の縁(えん)に引(ひか)されて或(あるひ)は泣き或は笑ひし夫(それ)も昔の夢の跡、懺悔(ざんげ)は恋の終りと悟りて今何をか匿(かく)し申すべき、と云ひつゝ榾を添(そへ)たりけり。


 (三) 聞けば聞く程筋のわからぬ
       恋路(こひぢ)のはじめと悟りの終り
      能々(よく/\)たゞして見れば世間に多い事

 其時お妙は長江(ちやうかう)を渡る風軽(かろ)く雲を吹(ふい)て、おぼろにかすむ春の夜の月大空(おほぞら)に漂(たゞ)よふ様(やう)に、満面の神彩(しんさい)生々(いき/\)と然も柔(やさ)しく、藍田(らんでん)を罩(こ)むる霞(かすみ)あたゝかに草を蒸(む)して、ほやり/\と光り和(やは)らぐ玉に陽炎(かげろふ)立つ如く、両眼の流光ちら/\と且つ嬉し気(げ)に、聞(きい)て玉はれ露伴様、妾(わたく)し幼少より東京(とうけい)に生長(おひたち)て父母(ちゝはゝ)まづしからず、家計(くらし)ゆたかなるにまかせて、露を薄(すゝき)の頭簪(かんざし)に何ぞと間ひし頃は蝶(てふ)と愛(めで)られ、風を縮緬の振袖(ふりそで)に厭(いと)ひし頃は花といつくしまれ、浮世に楽(たのし)み長閑(のどか)なりし年立ち年暮(くれ)て冬を送り春を迎ふる度毎、買つて貰ふ羽子板(はごいた)と共に背丈歳々(せたけとし/゛\)に大きうなりしが、十四の秋父様(とゝさま)図(はか)らず卒(かく)れ玉ひしより悲しさ遣(や)る方(かた)なく、芝居見る外には泣(なき)たるためし少なき身もひたすらに涙もろくなり、果敢(はか)なき野辺(のべ)に一条(ひとすぢ)の煙りを観(くわん)じて後は、三度の御膳(ごぜん)に向ふたびに、父上の平常(つね)坐り玉ひし所むなしく明きて、完全(そろひ)たる前歯(まへば)の一本抜けたる如く、しよんぼりと母(かゝ)様ばかり心淋しく、箸持つ力も衰へ玉ひたるやうに召上りながら、我(わ)が母(かゝ)様を見て悲しむと同じく母様も我を顧み玉ひて御胸痞(つか)え給ふや、御飯(ごはん)の量(りやう)少なく白湯(さゆ)のみいたづらに飲(め)して私(ひそ)かに瞼(まぶた)の潤(うるほ)ひさし玉ふに、我(われ)口中の者の味いつしか消えて奥歯咬(か)みしめしまゝに開(ひら)く事難かりし、われそれより自然と垂籠(たれこも)り勝(がち)に日を費(つひ)やし、平素(ひごろ)好きたる三味(さみ)の色糸弾(ひ)き鳴(なら)さんともせず、琴(こと)の師匠にも忌中(きちゆう)に休課(やすみ)たるまゝ遠ざかりて、母(かゝ)様が持玉ひし草紙(さうし)くさ/゛\に馴れ泥(なづ)み、有る事無き事かきつらねたる冊子(さうし)の中(うち)に幽(かすか)なる楽みをなせしが、終(つひ)に癖となりて彼是見尽(かれこれみつく)せし後(のち)は薄雪(うすゆき)住吉(すみよし)伊勢(いせ)竹取(たけとり)、三年の中(うち)に解(わか)らぬながら源氏(げんじ)狭衣(さごろも)にまで読み至り、其間(そのあひだ)つく/゛\人情の濃き薄きを考(かんが)え世の態(さま)の真実(まこと)虚妄(いつはり)を覚え、むかしより男といふ者のあさましく意一時(こゝろいつとき)なさけ一時(いつとき)、思ひ込(こみ)強けれど辛防(しんばう)弱く、逢ふを悦(よろ)こべど別れを悲(かなし)まず、媚(なま)めかしく佞(へつ)らへるおかしき女を好み、恋を栄華(えいぐわ)のわざくれ三昧(ざんまい)、犬猫(いぬねこ)の色美しきを愛(めづ)る様に女の髪容(かみかたち)よきを愛る者なることをさとり、我(われ)縁もなき男なれど源氏業平(なりひら)の如き戯(たは)け者を憎く思ふ事深く、嫉妬(しつと)するにもあらねど其戯(たは)け者に迷ひ焦(こが)れし色々の女どもを歯痒(はがゆ)き馬鹿と心の内に思ひけるが、十八の年母(かゝ)様もまた老(おい)の病(やまひ)危ふくなり玉ひ、兄弟(はらから)もなき身の気弱く朝に晩に胸中は泣(なき)ながら神仏(しんぶつ)を頼み御介抱申せし甲斐(かひ)なく、我(われ)亡(な)き後(のち)は是(これ)を見て一生の身の程を知れと、行水(ゆくみづ)に散り浮く花を青貝摺(あをがひず)りせし黒塗(くろぬり)の小箱を与へられしまゝの御往生(ごわうじやう)、悲しともつらしとも言ふ言葉を知らぬ歎(なげ)き、漸く御葬式済(すま)して後彼(かの)小箱を開き見れば、何時(いつ)の間に認(したゝ)め置(おか)れしやら一通の御書置(おかきおき)、是(これ)ほどまでに我を可愛(かはゆ)う思(おぼ)しめされしありがたさと、先づ涙こぼれながら読み見れば、噫(あゝ)其時の心持今思ひ出しても慄然(ぞつ)とする程、恐(おそろ)しさ口惜(くちをし)さ悲しさ情無(なさけな)さ味気無(あぢきな)さ胸悪さあさましさ心細さ、厭(いや)といふ厭な心持一時(いちじ)に込上(こみあ)げて氷水(こほりみづ)全身に打(うち)ちかけられたる如く、又猛火(まうくわ)に眉毛焼かるゝ如く冷汗(ひやあせ)脇の下に湧きて身ぶるひ止(とゞ)め得ず、気も暗く目も暗くゆら/\とゆらぐ玉緒絶果(たまのをたえはて)ん計(ばか)りなりしが、夫(そ)れより愈々浮世を厭(いと)ひて。イヤ御話しの中途ですが其黒塗の小箱の中(うち)の文(ふみ)に記しありし事、如何(いか)なればそれほどまでにお前様を驚(おど)ろかせしか。
 マア御聞(おきゝ)なされ、其文(ふみ)に記しありし事をわたくしの口から申すもつらし、扨も我(われ)年は十九の春を迎へて空(あだ)に更行(ふけゆけ)ば、親類のやうに親達と交際(つきあひ)し誰彼、我を嫁にせん我(わが)婿を世話せんといひ来(きた)るを、早くもあさましき人情の詐(いつは)りぞ、盛(さか)りは十年の色、用は一時(いつとき)の財貨(ざいくわ)にひかれての申し込(こみ)と猜(すゐ)して、一々きびしく家の僕(やつこ)に謝絶(ことわら)せ、ひたすら母を慕ひまゐらせ、あはれ此身の朽(くち)よかし霊魂(たましひ)のみとなりて母(かゝ)様の御傍(おそば)近く行かんものとあせり、つく/゛\生命(いのち)も惜(をし)からず世間に何の楽みなく、読耽(よみふけ)りし数々(かず/\)の草紙も打(うち)すてゝ又見ず、男と面(かほ)を合(あは)すさへ忌(い)み嫌ふ様(やう)になりて、蓮葉(はすは)なる下女共(げぢよども)が年若く美しき俳優(やくしや)なぞの噂(うはさ)するまで苦々(にが/\)しく覚えければ、自然(おのづ)と自分は髪に油(あぶら)の香(か)も止(とゞ)めず、櫛の歯を入れて鬢の恰好(かつかう)気にするまでもなく、ましてや前差(まへざし)に鼈甲(べつかふ)の詮義、根掛に鹿(か)の子(こ)のよしあしなんどは問ひもせず質(たゞ)しもせず、紅脂白粉(べにおしろい)はまるで忘れつ、帯に苦労をせしはむかし、下駄(げた)に鼻緒(はなを)を選(えら)みしもむかし、羽織の色がどうであろうと、着物の取合(とりあはせ)がどうであろうと一切(いつさい)女のたしなみを捨て、おもしろからぬ心中常に涙を湛(たゝ)えて天地も薄黒く見え、花は咲(さい)ても萎(しを)れたる我、鳥は歌ふても黙然(もくねん)たる我、皎々(しろ/゛\)と澄む月に対(むか)つても濁り水の我には影清く宿らず、陰々濛々(いん/\もう/\)と寝て起(おき)て食(く)ふて少しも何の業(わざ)なさず、身をじだらくの吾儘にまかし、神を恨み仏(ほとけ)を恨み人を恨み天地を恨みて悶(もだ)え苦しむ一念の増長するばかり、遂には神を憤(いきどほ)り仏を憤り、今世(いまのよ)に若し正体(しやうたい)在(おは)さば針の先で衝(つい)てやりたきまでに心逼(せま)り来りて、道理を見れば何の燈心(とうすみ)の縄張(なはば)り、道理も更に恐ろしからず、人情を察(み)れば高(たか)が氷柱(つらゝ)に彩色(さいしき)の一時(いつとき)、人情も夢うれしからず、胸中に霜雪(しもゆき)寒く残りて惨(むご)らしき観念絶ゆる間(ひま)もなくありしが、或日の事、立派なる蝋塗人車(ろぬりぐるま)我家(わがや)の門(かど)に付きて髯毛(ひげ)うるはしき官員風(くわんゐんふう)の男案内を請(こ)ふに、名刺(なふだ)を見れば何某局長(なにがしきよくちやう)奏任一等(そうにんいつとう)の御方(おんかた)とて当世の利物(きけもの)と評判(ひやうばん)ある人なれば、我(わが)後見(こうけん)ともなりて家事万端取り賄(まか)なひし老僕(をとこ)出でゝ、御用の筋を何ぞと承(うけ)たまはるに、唐突(だしぬけ)の参上甚だ失礼なれど伝手(つて)の無きまゝ是非なく直(ぢき)に申し入れます、付(つか)ぬ事を御聞申(おきゝまを)すが当家(たうけ)の御主人御年頃なるに未(いま)だ何方(いづかた)とも縁談の御約束なきや、実(じつ)は拙者旧藩主(きうはんしゆ)の若殿(わかとの)見ぬ恋にあくがれ玉ひて是非にと所望なされ居る訳、と申した計(ばか)りにては御分りあるまじきが、今年(ことし)の春若殿郊外(かうぐわい)を散歩せられし折或る墓地(ぼち)を通りかゝり、不図(ふと)乞食共(こじきども)の話しを聞(きか)るれば、今帰つたあの娘、容貌(きりやう)の美しい計(ばか)りか孝心のいぢらしさ見えて、母親の墓の前に蹲踞(うづくま)りたるまゝ動き得ず、涙は雨のふる程泣(ない)て/\、若い身にも似ず、生命(いのち)も惜(をし)からねば早く母(かゝ)様の御傍(おそば)に行(ゆき)たしとの述懐(じゆつくわい)、何(なん)と今時(いまどき)珍らしい気立(きだて)の女ではないか、と一人(ひとり)が云ふを又一人がひつとつて、貴様(きさま)今日(けふ)初(はじめ)て彼(あの)娘に気が付(つい)たか、あれは毎月(まいげつ)の事、去年(こぞ)の何月(なんぐわつ)なりしか彼(あの)娘の親の此処(こゝ)に葬(はうむ)られてから、毎月の命日怠(おこた)る事なく此処(こゝ)に来てあの通りの悲歎、他所(よそ)で見ても可愛想(かはゆさう)なありさま、殊更今日(けふ)などは顔も大分(だいぶ)痩せて血色も悪し、大方家(うち)に居ても始終泣(ない)てばかり居る事であろうかとの噂、耳に入るより若殿ゾッとし玉ひて、誘(さそ)はれたまひし涙が一滴(いつてき)、是(これ)ぞ恋の水上(みなかみ)思ひの泉(いづみ)、ゆめ/\浮(うき)たる御(お)心ならで恋が為(さ)せし探索(たんさく)、其後(のち)御名前御住所まで何時(いつ)の間にか聞知り玉ひ、ます/\焦(こが)れて遂に父上の許しを得玉ふ、これによりて兎(と)も角(かく)も拙者中にたち周旋(しうせん)の労を取るべくと今日態々(わざ/\)参上したり、内々(ない/\)承(うけた)まはれば未だ何方(いづかた)と御縁談きまりたるにもあらぬよし、何(なん)と此話し、能々(よく/\)御考え下さるまいか、媒人口(なかうどぐち)たゝくではなけれど拙者旧藩主の御嫡子(ごちやくし)、爵位(しやくゐ)財産(ざいさん)は世間の沙汰でも御存じなるべし、殊に先年独乙国(ドイツこく)に留学せられて学位(がくゐ)も有(も)たせられ、華族間(くわぞくかん)にて行末(ゆくすゑ)望みある方(かた)、全く浮(うき)たる戯言(たはれごと)、大名気質(だいみやうかたぎ)の吾儘なる縁談申し入るゝにあらず、四民同等(しみんどうとう)の今日、実以(じつもつ)て後々(のち/\)は伯爵夫人(はくしやくふじん)と我等もあがめ申すべき所存、恋のはじまりの次第を考へ玉ひても成るべくは色よきお返事を玉はりたしとて帰りたる後(のち)、老僕(をとこ)は躍り上りて喜び、平常(つね)皺(しわ)びたる顔の其時は光りをなして、我に向ひて縁組(えんぐみ)承知せよと説(とき)すゝむるに、我一度(われひとたび)はやんごとなき人に恋(こは)れたりと聞(きゝ)てカッと上気し、又一度は是(これ)も男の一時(いちじ)の熱やがては褪(さ)める色好(いろごの)みの心鄙(いや)しと蔑視(さげす)み、又一度は母の遺書(かきおき)思ひ出して忽(たちまち)に身ぶるひ生じ、厭(いや)、々、々、々、縁談など聞く耳もたずと強く云へば老僕(をとこ)は驚き、是(これ)ほど結構な縁談いやと云はるゝは片腹痛(かたはらいた)しと、理をせめ言葉を尽して我を諫(いさ)むれど少しも動かねば、是非なく謝絶(ことわり)申して、情知(なさけし)らぬ者どもと蔭言(かげごと)さるゝを厭(いと)はざりし、されども我其時より何となく二心(ふたごゝろ)になりて然程(さほど)むごくは男を嫌はず、むごかりし心いつしか和(やは)らぎて髪かたちをも治(をさ)むるやうになりしが、三月(みつき)ほど経(たち)て又彼(かの)何某(なにがし)局長見えられ、我(わが)後見に向ひて、過(すぎ)し日の話しの纏(まと)まらぬ以来、流石(さすが)活溌に聡明に渡らせ玉ひし若殿御動静(ごやうす)ガラリと変り玉ひ、外出(そとで)も仕玉はず書見(しよけん)も仕玉はで、花にも月にも嗟歎の御(おん)声ばかり、望みは絶(たえ)し此世に絶(たえ)ぬ玉の緒のあるは悲しき事の限りぞ、あるに甲斐なき生命誰(いのちた)が為にかながらへんなどと喞(かこ)ち玉ひて、次第々々に三度の御食(おんしよく)すゝまず、昼はうと/\眠り玉ひて夜は寐難(いねがて)に輾転玉(ふしまろびたま)ふ、あはれとは是(これ)なりと思ひて御付(おつき)の者慰(なぐ)さめまゐらせ、愚(おろか)とはそれなりとさとして父君(ちゝぎみ)叱り玉ヘど、唯々消(たゞ/\け)なば消(け)ぬべき露の身の散りなば人のあはれとや見ん、つれなき人は恨めしからで疎(うと)まれし我こそうとましき、とく/\捨(すて)ばや生命(いのち)と朝夕(てうせき)の独り言(ごと)、聞(きゝ)て母君の堪(た)え玉はず、再度(ふたゝび)拙者を召して此御使ひ、何卒(なにとぞ)よろしく御推諒(ごすゐりやう)ありて御不足の廉(かど)は御遠慮なく申されべし、一々御指揮(おさしづ)に随(したが)ひ申すべければ此恋成就(じやうじゆ)する様(やう)、と情(じやう)を尽し道理を責めての話し也(なり)、其時我ふすま越(ご)しに聞(きい)て思はず泣(なき)しが、老僕(をとこ)が我に向ひて返事相談する時には、又彼(かの)母上が残し玉ひし書置の事思ひ出して唯々つれなくも、縁を結ぶは厭(いや)なりと云ひ切つて、数多(あまた)の人に憎まるゝを関(かま)はざりし、此度(このたび)は最早(もはや)思ひ切(きつ)て来(きた)るまじと思ひしに又一月(ひとつき)ほどたち彼人(かのひと)来りて、若殿終(つひ)に浮世をあぢきなく思はれしあまり、うつら/\と病(やま)ひの床(とこ)に打臥(うちふ)され其後(そののち)御枕(おんまくら)上(あが)らず、療治の詮方(せんかた)もなく父君母君今は共に最愛の御嫡子に引(ひか)されて心よわく、共に御心配のありさま余所(よそ)に見るさへ痛まし、願はくは思ひ返してよき返事きかせ玉ふやうとりなし玉はれ、是(これ)は若殿御病床の中(うち)にて書捨玉ひし反故(ほご)ながら、恋の切(せつ)なる事あらはれて隠れず、せめては是(これ)をだに見せまゐらせて、少しはあはれを汲(く)まるゝたよりともなれかしと持(もち)て参りしなり、又是(これ)は若殿いまだ御病気になり玉はざりし前の写真なるが是も併(あは)せてまゐらすべし、御返事は明日(あす)また伺ひに上(あが)るべし、且(かつ)は又其折御返事は如何(いか)にもあれ、若殿が生命(いのち)かけてまで焦(こが)れし方(かた)の写真一枚玉はりたしと云残して帰りければ、老僕(をとこ)又我に色々説諭(ときさと)し、是非に此縁結ばれよ、浅からぬ因縁なるべしなど泣て勧むれど我(われ)剛情に承知せねば、少しは怒りて立去(たちさり)しあとに残せし写真、見るに気高(けだか)く美しき御(おん)顔ばせ、いとしさも生じたるばかりか短冊(たんざく)に筆の歩みさへ健(すこ)やかならずして、

  燈火(ともしび)も暗ふなりゆく夜半(よは)の床(とこ)に
   こゝろきえ/゛\人をしぞ思ふ

と覚束なく記し玉ひしを見て、吾魂魄(わがたましひ)もゆら/\となりしが母君の遺書(かきおき)思ひ出して又、かゝる貴人に近づくべきにもあらずと、翌日も酷(むご)き返事させて写真も送らず、かくて十日(とをか)程過(すぎ)て吾家(わがや)の門(かど)に慌(あわ)だゝしく車を寄せて、彼(かの)何某(なにがし)転(まろ)ぶが如くに走(は)せ入り眼付(めつき)さへ常とは変りて涙ぐみながら、つれなき此所(こゝ)の恋(こは)れ人(びと)よ、今日(けふ)は是非々々兎角(とかく)の返事に及ばず邸第(やしき)まで来られよ、若殿御生命(おんいのち)今宵(こよひ)を過(すご)さずとの医師の鑑定(かんてい)、父君母君我等までの歎き察しても玉はれ、殊に今朝(けさ)若殿の口ずさまれし一首(いつしゆ)、

  厭(いと)はれし身はうきものと知りなから
     尚捨てがたき…

と後(あと)の一句を残して血を吐かれし御(おん)ありさま、肺病(やまひ)もつまりは恋故、よしや女は鬼(おに)なりとも箇程(かほど)まで思はれながらまだつらく当るべきやと、半分(なかば)は恨み半分(なかば)は怒りて我を引立行(ひつたてゆか)んとするに、我は又身を切らるゝより切(せつ)なけれど愈々剛情に行(ゆか)じといふ折しも、亦(また)車の音して御付(おつき)の人を後(あと)になし、容儀取繕(ようぎとりつく)ろひ玉ふこともなく馳(は)せ入られし上品の夫人、気も半乱(はんらん)に、お妙さまとはあなたか、我(わが)子が今臨終(りんじゆう)の際(きは)、一目おまへ様を見たしと、利(き)かぬ舌を無理に動かしての望み、此通り手を合はして願ひます、御厭(おいや)にもあらんが是非に来てと、伯爵夫人ともいはるゝ尊(たつと)き人に拝まれて、心は洪水(こうずゐ)に漂(たゞ)よはされたるごとくうろ/\するを無理に引立(ひきたて)られ、車の上も夢路(ゆめぢ)をたどるやうにて立派なる御邸(おやしき)の中に入れば、人人声を限りに呼ぶ響きし、早(は)や切々(せつ/\)と悲(かなし)み泣く女の声も聞ゆるに、夫人は慌てゝ幾間(いくま)か通り過(すぎ)玉(たま)へば、我も引かゝるを振払ひえず其跡に跟(つい)て病室に入りける、見るに痩枯(やせが)れ玉ひたる御ありさま、今とりつめて危かりしを呼び生(いけ)られて母君の御顔(おんかほ)見玉ひ、さめ/゛\と泣(なか)るゝ痛はしさ、是(これ)も誰故、我故と思へば没体(もつたい)なく消(きえ)も入りたきを、夫人に推(お)し出(いだ)されて若殿の御側(おんそば)近く参り、我を忘れての涙つゝみ切れず御(おん)手を取りしまゝ何の理由(わけ)とは知らず泣伏せば、若殿も涙ながら我を見玉ひて御言葉はなく、握られし手に微弱(かよわ)き力を籠めて我(わが)身に幽玄(かすか)なる働きを与へ給ひしのみ、其儘我は絶入(たえいり)て夢の如くになりしも、覚(さ)めて見れば若殿は遂に蘇生(よみがへ)らせ玉はず、我は身も世にあられず立帰りて後、其人の事のみ思はれて、なまじゐに生残りしを口惜(くちをし)く、ます/\天地を恨み憤(いか)りて気も狂ほしくなり、七日(なぬか)の夜独り吾家(わがや)の持仏の前に看経(かんきん)したる時、朦朧(もうろう)とあらはれ玉ひし御姿(おすがた)のあとを慕(したひ)て家を脱出(ぬけい)で、何処(いづく)ともしらず迷ひあるく眼には幻影(まぼろし)をのみ見て実在(まこと)の物を見ず、あさましく狂ふて此山中(やまなか)に我しらず来りしが、図らず道徳高き法師(ほふし)に遇(あ)ひ奉(たてまつ)り一念発起(ほつき)して、坐禅(ざぜん)の庵(いほ)りを此処(こゝ)に引(ひき)むすびしより、渓(たに)の水嵩(みづかさ)増して春を知り、峰の木(こ)の葉の翻(ひるがへ)つて冬を悟る住居(すまひ)、閑寂(かんじやく)の中(うち)に群妙(ぐんめう)を観(くわん)じて頭(かうべ)を廻(めぐ)らし浮世を見れば皆おもしろき人さま/゛\、惨酷(むごか)りし昔時(むかし)の胸の氷砕(くだ)けて東風(こち)吹く空に糸遊(いとゆふ)のあるかなきかの身もおもしろく、仏(ほとけ)も可愛(かはゆ)く凡夫も可愛くお前様も真(まこと)に可愛し、天地に一つも憎きものなく、樹(こ)の間(ま)に巣くふ鳥も可愛(かはゆ)く土に穴(あな)する狐(きつね)も可愛(かはゆ)し、心華(しんげ)開発して十方世界薫(じつぱうせかいかん)ばしく、おもしろき唯識(ゆゐしき)の妙理味(あぢは)ひ更に濃(こまか)く、泥水(でいすゐ)相分れて清浄(しやうじやう)に澄めば天上の月宿る瓔珞経(やうらくきやう)のおもむきいよ/\面白し、我をあはれと人が云ふもおもしろく、我を厭(いや)よといふもおかし、お前様を可愛(かはゆ)しと思ふたればこそ抱(だい)て寝んといひしに、厭(いや)がられしも愈々おかし、昔時(むかし)は我(われ)死ぬほど人に恋はれてもつらくあたり、今は我死ぬほど人に厭がられても可愛(かはゆ)し、一心の変化、同じ天地を恨みもし楽(たのし)みもするこそおかしけれ、と長々(なが/\)しく語り尽せど我更に其故を悟らず。
 もし/\お妙さま、其話しの中(うち)の骨(ほね)となりし、行水(ゆくみづ)に散り浮く花を青貝摺(ずり)せし黒塗の小箱の中の書置は何事なりしか、其(それ)を聞かでは話し分らず。ハテ野暮らしい、其(それ)を聞(きく)ようでは貴君(あなた)もまだ人情しらず、其書置読(よん)で後惨(むご)くなりしといへば云はずと知れし事、世を捨(すて)よといふ教訓(をしへ)、浮世を捨(すて)ねばならぬ訳を書きしるせしに極(きま)つた事。怪(け)しからぬ事、浮世を捨(すて)ねばならぬ訳なし。イヤ/\妾等(わたしら)一類の者是非とも浮世を捨(すて)ねばならず、浮世を捨(すて)ねば安心の道おぼつかなし、さればこそ初(はじめ)は神をも仏(ほとけ)をも恨みしなれ。扨も分らぬ話し。イヱ/\能く分つた話し、深山(みやま)の中にのたれ死(じに)せねばならぬ妾等(わたしら)の身の上、浮世の人は眼(まなこ)くらく、種々(さま/゛\)のあはれは悟りながら、情(なさけ)なき妾等(わたしら)の身の上には月日も全く暗く花鳥(はなとり)も全くおもしろからぬを知らず、されば彼(かの)若殿に我身(わがみ)を早く任(まか)せざりしも、若殿の子孫をして我(わが)如くあさましからしめざらんとの真実(まこと)の心、其時の苦しさ推量したまへ、と沈みし調子に答へしが急(にはか)に語気を変(かへ)て、ホヽホヽおもしろからぬ長話(ながばな)し、最早(もはや)やめに致しませう、言(いふ)もうるさく語るも尽(つき)じ、恋と恨みは隣(とな)り同志(どし)、これまでこれまで、これまでなりや繰言(くりごと)も、と云(いひ)さして又榾を添ゆる容顔の美麗(うるはし)さ、水晶屈原(すゐしやうくつげん)の醒(さめ)たる色ならで瑪瑙淵明(めなうえんめい)の酔(よへ)るがごときありさまなり。
 頓(やが)て又かすかに我を見て、あら本意(ほい)なき夜の短うて、可惜(あたら)明放れなば仮初(かりそめ)ながらの縁も是(これ)まで、君は片科川に浮く花、香(か)は急流に伴(ともな)つて十里を飛ぶ●(シンニュウに「瑞」の右側)(すみ)やかに、我は其川の岸に立つ柳、影は水底(みなそこ)に沈むで一歩も動(ゆる)ぎ難し、逢(あつ)ての喜び別離(わかれ)のつらさ、戯(たは)けし恋の後朝(きぬ/゛\)ばかりにはあらず、といふ時しもあれ朝日紅々(あか/\)とさし登りて家も人も雲霧(くもきり)と消え、枯れ残りたる去歳(こぞ)の萱薄(かやすゝき)の中に、雪沓の紐続(つな)ぎかけしまゝ我たゞ一人(ひとり)にして、足下(あしもと)に白髑髏(はくどくろ)一つ。
 見て知らざるの事。聞きて知るべし。聞いて知らざるの事、思ひて得べし。思ひて得ざるの事、感じて得べし。我(われ)彼を憐(あはれ)めば彼我(われ)を愛す、相憐(あひあはれ)み相愛(あひあい)すれば、彼の中(うち)に我あり、我の中に彼あり。彼我(ひが)間隔(へだて)無ければ、情意悟るべく境界(きやうがい)会(ゑ)すべし。幽谷(いうこく)の髑髏、孤客(こかく)の今の心を牽(ひ)きて、深山(しんざん)の孤客、髑髏の前(さき)の生(よ)を観(み)る。値遇(ちぐう)の縁ありて擱抛(かくはう)の意無く、一夜(いちや)相守る一樹(いちじゆ)の蔭、一河(いちが)の流(ながれ)の水向(みづむけ)に、梓(あづさ)の神の弓ならで心の絃(いと)の響(ひゞき)に憑(よ)りし其の亡霊(なきたま)の、逝(さ)つてたゞ塊然(くわいぜん)として残りたる髑髏を埋(うづ)め納(をさ)め終り、合掌(がつしやう)して南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、お蔭さまで昨夜(ゆうべ)は面白うござりましたと礼をのべ、段々川辺(かはべり)を小川村に出で温泉宿(ゆやど)に入りて、此山奥に入りしまゝ出て来(こ)ざりし人なかりしやと問へば、亭主けゞん顔(がほ)して暫く考へ、不思議の事を問はるゝものかな、オヽ去年(こぞ)の事なりしが乞食の女あさましく狂ひ/\て山深くの方(かた)へ入りし事ありしが日光(につくわう)の方(かた)へは行かざりしよし、何所(いづこ)へ行(ゆき)しかと今に其噂あり、それを尋ねらるゝか、と云ふに、それ/\、其女の様子知(しれ)るだけ詳(くは)しく語れと逼(せま)れば、老父(おやじ)苦(にが)い顔して我をヂロ/\見ながら、年は大凡(おほよそ)二十七八、何処(いづこ)の者とも分らず、色目も見えぬほど汚(よご)れ垢付(あかつき)たる襤褸(ぼろ)を纏(まと)ゐ、破(や)れ笠(がさ)を負ひ掛け足には履物(はきもの)もなく竹の杖(つゑ)によわ/\とすがり、談(はな)すさへ忌(いま)はしきありさま、総身(そうしん)の色薄黒赤(うすぐろあか)く処々(しよ/\)に紫色(むらさき)がゝりて怪(あや)しく光りあり、手足の指生姜(しやうが)の根のやうに屈(かゞ)みて筋もなきまで膨(ふく)れ、殊更左の足の指は僅(わづか)に三本だけ残り其一本の太さ常の人の二本ぶりありて其続きむつくりと甲(かふ)までふくだみ、右の足は拇指(おやゆび)の失(うせ)し痕(あと)かすかに見え、右の手の小指骨もなき如く柔らかそうに縮みながら水を持(もつ)て気味あしく大きなる蚕(かひこ)のやうなり、左の手は指あらかた落(おち)て拳頭(こぶし)づんぐりと丸く、顔は愈々恐ろしく銅(あかゞね)の獅子(しし)半(なかば)ば熔(と)ろけたるに似て、眉の毛尽(こと/゛\)く脱け額(ひたひ)一体に凸(たか)く張り出して処々凹(しよ/\くぼ)みたる穴あり、其穴の所の色は極めたる紫の上に溝泥(どぶどろ)を薄くなすり付(つけ)たるよりまだ/\汚(きた)なく、黄色を帯(おび)て鼠色(ねずみ)に牡蠣(かき)の腐りて流るゝ如き膿汁(うみ)ヂク/\と溢(こぼ)れ、其膿汁(うみ)に掩(おほ)はれぬ所は赤子(あかご)の舌の如き紅(あか)き肉酷(むご)らしく露(あら)はれ、鼻柱(はなばしら)欠け潰(くえ)て其所(そこ)にも膿汁(うみ)をしたゝか湛(たゝ)え、上唇(うはくちびる)とろけ去りて疎(まばら)なる歯の黄ばみたると痩せ白(しら)みたる歯齦(はぐき)と互(たがひ)に照り合ひてすさまじく暴露(あらは)れ、口の右の方段々と爛(たゞ)れ流れたるより頬の半(なかば)まで引(ひき)さけて奥歯人を睨(にら)まゆる様(やう)に見え透(す)き、髪の毛都(すべ)て亡(な)ければ朱塗(しゆぬり)の賓頭廬(びんづる)幾年か擦り摩(なで)られて減(へ)りたる如く妙(めう)に光りを放ち、今にも潰(つひ)え破れんとする熟柿(じゆくし)の如く艶やかなるそれさへ見るにいぶせきに、右の眼腐り捨(すた)りて是(これ)にも膿汁(うみ)尚乾(かわ)かず、左の眼の下瞼(したまぶた)まくれて血の筋あり/\と紅く見ゆる程裏がへり、白眼(しろめ)黄色く灰色に曇り、黒眼は薄鳶色(うすとびいろ)にどんよりとして眼球(めだま)なかば飛出で、人をも神をも仏(ほとけ)をも逆目(さかめ)に睨む瞳子(ひとみ)急には動かさず、時々ホッとつく息に満腔(まんかう)の毒を吐くかと覚えて犬も鳥も逃避(にげさけ)ける、まして人間は一目見るより胸あしくなり、其あしき臭(にほひ)を飯食ふ折に思ひ出しては味噌汁(みそしる)を甘(うま)くは吸ひ得ず、膿汁(うみ)を思ひ出しては珍重せし塩辛(しほから)を捨(すて)ける、されば誰も彼も握り飯与ふるだけの慈悲もせず其女の為すまゝに任せしに、彼(かれ)呂律(ろれつ)たしかならぬ歌のようなる者をあはれに唸(うな)るを聞(きけ)ば、世に捨(すて)られて世を捨てゝ、叱々(しつ/\)と、覚束なく細々(ほそ/゛\)と繰り返しては息だはしく、ハッタと空(くう)を睨みて竹杖(たけづゑ)ふりあげ、道傍(みちばた)の石とも云はず樹とも云はず打(うち)たゝきては狂ひまわり、狂ひ躍(はね)ては打(うち)たゝき、瞋恚(しんい)の炎(ほむら)に心を焼(や)き、狂ひ/\て行衛(ゆくへ)しれずなりき、といひぬ。 


縁外縁の後に書す

 上(かみ)は荘子(さうじ)列子(れつし)の髑髏を仮(か)りて言(げん)をなせしより、下(しも)は俗書の韓湘子(かんしやうし)嘆●(「骨」ヘン+「古」)髏詞(たんころし)、一休骸骨草紙(がいこつさうし)の類(たぐひ)に至るまで、思(おもひ)を構へ辞(ことば)を属(ぞく)するものの、枯骨を累(るゐ)するもまた甚(はなはだ)多しといふべし。是(これ)皆強ひて我の言はんと欲するところのものを彼(か)の知ること無きの物に托(たく)して、以て意を敍(の)べ人を動かさんことを冀(こひねが)ふのみ。縁外縁(えんぐわいえん)一篇亦復(また/\)然り。然らば則(すなはち)予(よ)の髑髏に於ける、蓋(けだ)しまた一累を加ふるものなり。然りと雖(いへど)も、其上(そのかみ)に君無く其下(しも)に臣無く、朋(とも)無く仇無きは、これ髑髏の楽(たのしみ)にあらずや。繊微(せんび)の域(ゐき)に洞(どう)して恍惚(くわうこつ)の庭(てい)に通じ、零落(れいらく)たり溟漠(めいばく)たるは、是(これ)豈(あに)髑髏の徳にあらずや。乃(すなはち)知る吾(わ)が言の喋々(てふ/\)たり●(オンナヘン+「尾」)々(びゝ)たること数千言なるも、其実(そのじつ)一毫一糸(いちがういつし)もまた終(つひ)に我(わ)が髑髏公(どくろこう)を累するに足るあらざることを。それ造物(ざうぶつ)の不仁(ふじん)なるや、人を労するに形を以てし、人を苦(くるし)むるに生(せい)を以てす。こゝを以て人の造物に対するや、賢も不肖(ふせう)も不平怨嗟(えんさ)の声を発せざる無し。身に疾(やまひ)あるものの如きに至って特(こと)に然りとなす。唯(たゞ)髑髏に至っては即(すなはち)然らず。既に超然(てうぜん)として造物の樊籠(はんろう)を脱して其の労苦するところとならざるのみならず、却(かへつ)てまた莞爾(くわんじ)として、造物の不智にして自(みづか)ら労し自ら苦み、営々汲々として人をして怨嗟せしむるを笑ふに似たり。噫(あゝ)それ既に造物を笑ふ、荘の馬●(キヘン+「垂」)(ばすゐ)を以て撃(う)てる、列の蓬(はう)を●(テヘン+「蹇」)(かゝ)げて指させる、予(われ)の加ふるに綺語(きご)を以てせる、いづれか敢(あへ)て我(わ)が髑髏公を累するに足るものありとせんや。

                     (明治二十三年一月)

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