『野菊の墓』(俳書堂版 総ルビ付き) 総ひらがな版


凡例 
底本:明治三十九年四月五日発行 定価金参拾銭
著者  伊藤幸次郎
発行所 俳書堂

底本は、旧仮名遣いで、総ルビ付きです。
新仮名遣いで、総ひらがな版を作りました。
原則として底本の表記に基づいておりますが、明らかな誤字・誤植は訂正しました。
ページを記し、底本通り改行しました。

入力者:荒山慶一


『野菊の墓』伊藤左千夫著

野きく乃墓(表紙)

中村不折の挿し絵

P001
のぎくのはか


さちおさく
のちのつきというじぶんがくると、どうもおもわずにはいられない。おさな
いわけとはおもうがなにぶんにもわすれることができない。もうじゅうねんよもすぎさっ
たむかしのことであるから、こまかいじじつはおおくはおぼえていないけれど、
こころもちだけはいまなおきのうのごとく、そのときのことをかんがえてると、まつたくとうじのこころ
もちにたちかえって、なみだがとめどなくわくのである。かなしくもありたのし
くもありというようなありさまで、わすれようとおもうこともないではないが、
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むしろくりかえしくりかえしかんがえては、むげんてきのきょうみをむさぼっていることがおおい。
そんなわけからちょっとものにかいておこうかというきになったのである。
ぼくのいえというは、まつどからにりばかりさがって、やぎりのわたしをひがしへわたり、
こだかいおかのうえでやはりやぎりむらといってるところ。やぎりのさいとうといえば、この
かいわいでのきゅうかで、さとみのくずれがにさんにんここへおちてひゃくしょうになったうちのひと
りがさいとうといったのだとじじいからきいている。やしきのにしがわにいちじょうご
ろくしゃくもまわるようなしいのきがしごほんかさなりあってたっている。むらいちばん
のいもりでむらじゅうからうらやましがられている。むかしからなにほどあらしがふいて
も、このしいもりのために、ぼくのいえばかりはやねをはがれたことはただのいちども
ないとのはなしだ。いえなどもずいぶんとふるい、はしらがのこらずしいのきだ。それが
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またすすやらあかやらでなんのきかみわけがつかぬくらい、おくのまのもっともけぶりにとお
いとこでも、てんじょういたがまるであぶらずみでぬったように、いたのもくめもわからぬほど
くろい。それでもたちはわりあいにたかくて、かんたんならんまもありどうのくぎかくしな
どもうってある。そのくぎかくしがばかにおおきいがんであった。もちろんちょっとみた
のではきかかねかもしれないほどふるびている。
ぼくのははなどもせんぞのいいつたえだからといって、このせんごくじだいのいぶつてき
ふるいえを、たいへんにじまんされていた。そのころはははちのみちでひさしくわずらって
おられ、くろぬりてきなおくのひとまがいつもははのびょうじょくとなっていた。そのつぎの
じゅうじょうのまのみなみすみに、にじょうのこざしきがある。ぼくがいないときははたおりばで、
ぼくがいるうちはぼくのどくしょしつにしていた。てすりまどのしょうじをあけてあたまをだ
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すと、しいのえだがあおぞらをさえぎってきたをおおうている。
ははがながらくぶらぶらしていたから、いちかわのしんるいでぼくにはえんのいとこ
になっている、たみこというおんなのこがしごとのてつだいやらははのかんごやらに
きておった。ぼくがいまわすれることができないというのは、そのたみことぼく
とのかんけいである。そのかんけいといっても、ぼくはたみことげれつなかんけいをした
のではない。
ぼくはしょうがっこうをそつぎょうしたばかりでじゅうごさい、つきをかぞえるとじゅうさんさいなんかげつと
いうころ、たみこはじゅうしちだけれどそれもうまれがおそいから、じゅうごとすこしにし
かならない。やせぎすであったけれどもかおはまるいほうで、すきとおるほど
しろいひふにあかみをおんだ、まことにつやのよいこであった。いつでもいき
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いきとしてげんきがよく、そのくせきはよわくてにくげのすこしもないこであった。
もちろんぼくとはだいのなかよしで、ざしきをはくといってはぼくのところをのぞく、
しょうじをはたくといってはぼくのざしきへはいってくる、わたしもほんがよみたい
のてならいがしたいのという、たまにははたきのえでぼくのせなかをついた
り、ぼくのみみをつまんだりしてにげてゆく。ぼくもたみこのすがたをみればこ
いこいというてふたりであそぶのがなによりおもしろかった。
ははからいつでもしかられる。
「またたみやはまさのところへはいってるな。こらぁさっさとそうじをやってしま
え。
これからはまさのどくしょのじゃまなどしてはいけません。たみやはとしうえ
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のくせに……」
などとしきりにこごとをいうけれど、そのじつははもたみこをばひじょうにかわいが
っているのだから、いっこうにこごとがきかない。わたしにもすこしてならいをさし
て……などとときどきたみこはだだをいう。そういうときのははのこごともきまっ
ている。
「おまえはてならいよかさいほうです。きものがまんぞくにぬえなくてはおんないちにんまえ
としてよめにゆかれません」
このごろぼくにいってんのじゃねんがなかったはもちろんであれど、たみこのほうにも、
いやなかんがえなどはすこしもなかったにそういない。しかしははがよくこごとをい
うにもかかわらず、たみこはなおあさのごはんだひるのごはんだというてはぼくをよび
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にくる。よびにくるたびに、いそいではいってきて、ほんをみせろのふでを
かせのといってはしばらくあそんでいる。そのあいだにもははのくすりをもってきたかえり
や、ははのようをたしたかえりには、きっとぼくのところへはいってくる。ぼくもたみ
こがのぞかないひはなんとなくさびしくものたらずおもわれた。きょうはたみさ
んはなにをしているかなとおもいだすと、ふらふらっとしょしつをでる。たみこ
をみにゆくというほどのこころではないが、ちょっとたみこのすがたがめにふれれ
ばきがおちつくのであった。なんのこったやっぱりたみこをみにきたんじゃ
ないかと、じぶんでじぶんをあざけったようなことがしばしばあったのである。
むらのあるいえさごぜがとまったからききにゆかないか、さいもんがきたか
らききにゆこうのときんじょのおんなどもがさそうても、たみこはなにとかことわりをい
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うてけっしていえをでない。となりむらのまつりではなびやかざりものがあるからとのこと
で、れいのむこうのおはまやとなりのおせんらがおおさわぎしてみにゆくというに、うち
のものらまでたみさんもいっしょにいってみてきたらというても、たみこは
ははのびょうきをいいまえにしてゆかない。ぼくもあまりそんなところへでるのはいやで
あったからうちにいる。たみこはこそこそとぼくのところへはいってきて、こ
ごえで、わたしはうちにいるのがいちばんおもしろいわといってにっこりわらう。ぼくも
なにとなしたみこをばそんなところへやりたくなかった。
ぼくがみっかおきよつかおきにははのくすりをとりにまつどへゆく。どうかすると
かえりがおそくなる。たみこはさんどもよどもうらざかのうえまででてわたしのほうを
みていたそうで、いつでもうちじゅうのものにひやかされる。たみこはまじめ
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になって、おかあさんがしんぱいして、みておいでみておいでというからだ
といいわけをする。うちのものはみなひそひそわらっているとのはなしであった。
そういうしだいだから、さくおんなのおますなどは、むしょうとたみこをこづら
にくがって、なにかというと、
「たみこさんはまさおさんとこへばかりゆきたがる、ひまさえあればまさお
さんにこびりついている」
などとしきりにいいはやしたらしく、となりのおせんやむこうのおはまらまで
かれこれうわさをする。これをきいてかあによめがははにちゅういしたらしく、あるひはは
はつねになくむずかしいかおをして、ふたりをまくらもとへよびつけいみあり
げなこごとをいうた。
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「おとこもおんなもじゅうごろくになればもはやこどもではない。おまえらふたりがあまりなか
がよすぎるとてひとがかれこれいうそうじゃ。きをつけなくてはいけ
ない。たみこがとしかさのくせによくない。これからはもうけっしてまさの
ところへなどゆくことはならぬ。わがこをゆるすではないがまさはまだこ
どもだ。たみやはじゅうしちではないか。つまらぬうわさをされるとおまえの
からだにきずがつく。まさおだってきをつけろ……。らいげつからちばのちゅう
がくへゆくんじゃないか」
たみこはとしがおおいしかつはいみあってぼくのところへゆくであろうとおもわれ
たときがついたか、ひじょうにはじいったようすに、かおまっかにしてうつむい
ている。つねはははにすこしぐらいこごといわれてもずいぶんだだをいうのだけれど、
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このひはただりょうてをついてうつむいたきりひとこともいわない。なんのやましいところ
のないぼくはすこぶるふへいで、
「おかあさん、そりゃあまりごむりです。ひとがなんといったって、わたしらは
なんのわけもないのに、なにかたいへんわるいことでもしたようなおこごとじゃ
ありませんか。おかあさんだっていつもそういってたじゃありませ
んか。たみことおまえとはきょうだいもおなじだ、おかあさんのめからはおまえ
もたみこもすこしもへだてはない、なかよくしろよといつでもいったじ
ゃありませんか」
ははのしんぱいもどうりのあることだが、ぼくらもそんないやらしいことを
いわれようとはすこしもおもっていなかったから、ぼくのふへいもいくらか
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のりはある。はははにわかにやさしくなって、
おまえたちになんのわけもないことはおかあさんもしってるがね、ひとのくち
がうるさいから、ただこれからすこしきをつけてというのです」
いろあおざめたははのかおにもいつしかぼくらをしんからかわいがるえみがたたえ
ている。やがて、
「たみやはあのまたくすりをもってきて、それからぬいかけのあわせをきょうじゅうに
しあげてしまいなさい……。まさはたったついでにはなをきってぶつだん
へあげてくださいきくはまださかないか、そんならしおんでもきっ
てくれよ」
ほんにんたちはなんのきなしであるのに、ひとがかれこれいうのでかえってむじゃきで
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いられないようにしてしまう。ぼくはははのこごともいちにちしかおぼえていない。
にさんにちたってたみさんはなぜちかごろはこないのかしらんとおもったくらいであ
ったけれど、たみこのほうでは、それからというものはようすがからっと
かわってしもうた。
たみこはそのごぼくのところへはいっさいかおだししないばかりでなく、ざしきのうちで
ゆきあっても、ひとのいるまえなどではよういにものもいわない。なにとなくきま
りわるそうに、まぶしいようなふうでいそいでとおりすぎてしまう。よんどころなく
ものをいうにも、いままでのぶえんりょにへだてのないふうはなく、いやにていねい
にあらたまってくちをきくのである。ときにはぼくがあまりにわかにあらたまったのをおか
しがってわらえば、たみこもついにはそででわらいをかくしてにげてしまうという
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ふうで、とにかくひとえのかきがふたりのあいだにむすばれたようなきあいになった。
それでもあるひのよじすぎに、ははのいいつけでぼくがせどのなすばたけに
なすをもいでいると、いつのまにかたみこがざるをてにもって、ぼくのうしろ
にきていた。
「まさおさん……」
だしぬけによんでわらっている。
「わたしもおかあさんからいいつかってきたのよ。きょうのぬいものはかたがこ
ったろう、すこしやすみながらなすをもいできてくれ。あしたこうじづけを
つけるからって、おかあさんがそういうから、わたしとんできました」
たみこはひじょうにうれしそうにげんきいつぱいで、ぼくが、
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「それではぼくがさきにきているのをたみさんはしらないできたの」
というとたみこは、
「しらなくてさ」
にこにこしながらなすをとりはじめる。
なすばたけというは、しいもりのしたからひとえのやぶをとおりぬけて、いえよりにし
きたにあたるうらのせんざいばたけ。がけのうえになっているので、とねがわはもちろんなかがわま
でもかすかにみえ、むさしいちえんがみわたされる。ちちぶからあしがらはこねの
やまやま、ふじのたかねもみえる。とうきょうのうえののもりだというのもそれらし
くみえる。みずのようにすみきったあきのそら、ひはいっけんはんばかりのへんにかたむい
て、ぼくらふたりがたっているなすばたけをしょうめんにてりかえしている。あたり
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いったいにしんとしてまたいかにもはっきりとしたけしき、われらふたりはしんに
がちゅうのひとである。
「まあなんというよいけしきでしょう」
たみこもしばらくてをやめてたった。
ぼくはここではくじょうするが、このときのぼくはたしかにとおかいぜんのぼくではなかった。
ふたりはけっしてこのときむじゃきなともだちではなかった。いつのまにそういう
こころもちがおこっていたか、じぶんにはすこしもわからなかったが、やはりははに
しかられたころから、ぼくのむねのうちにもちいさなこいのたまごがいくつかわきそめて
おったにちがいない。ぼくのせいしんじょうたいがいつのまにかへんかしてきたは、
かくすことのできないじじつである。このひはじめてたみこをおんなとしておもった
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のが、ぼくにじゃねんのめざしありしなによりのしょうこじゃ。
たみこがからだをくのじにかがめて、なすをもぎつつあるそのよこがおをみて、
いまさらのようにたみこのうつくしくかわいらしさにきがついた。これまでにも
かわいらしいとおもわぬことはなかったが、きょうはしみじみとそのうつくしさ
がみにしみた。しなやかにつやのあるびんのけにつつまれたみみたぼ、
ゆたかなほおのしろくあざやかな、あごのくくしめのあいらしさ、くびのあたりいか
にもきよげなる、ふじいろのはんえりやはなぞめのたすきや、それらがことごとくゆうびにめに
とまった。そうなるとおそろしいもので、ものをいうにもおもいきったことは
いえなくなる、はずかしくなる、きまりがわるくなる、みなれいのたまごのさようから
おこることであろう。
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こことおかほどなかがきのへだてができて、ろくろくはなしもせなかったから、
これもいままでならばむろんそんなことかんがえもせぬにきまっているが、きょう
はここでなにかはなさねばならぬようなきがした。ぼくははじめむぞうさにたみさん
とよんだけれど、あとはむぞうさにことばがつがない。おかしくのどがつまっ
てこえがでない。たみこはなすをひとつてにもちながらからだをおこして、
「まさおさん、なに……」
「なんでもないけどたみさんはちかごろへんだからさ。ぼくなんかすっかり
きらいになったようだもの」
たみこはさすがににょしょうで、そういうことにはぼくなどよりはるかにしんけいがえい
びんになっている。さもくちおしそうなかおして、つとぼくのそばへよってき
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た。
「まさおさんはあんまりだわ。わたしがいつまさおさんにへだてをしました
……」
「なにさ、このごろたみさんは、すっかりかわっちまって、ぼくなんかにようは
ないらしいからよ。それだってたみさんにふそくをいうわけではない
よ」
たみこはせきこんで、
「そんなこというはそりゃまさおさんひどいわ、ごむりだわ。このあいだは
ふたりをならべておいて、おかあさんにあんなにしかられたじゃありま
せんか。あなたはおとこですからへいきでおいでだけど、わたしはとしはおおい
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しおんなですもの、ああいわれてはじつにめんぼくがないじゃありません
か。それですから、わたしはいっしょうけんめいになってたしなんでいるんで
さ。それをまさおさんへだてるのいやになったろうのというんだもの、
わたしほんとにつまらない……」
たみこはなきだしそうなかおつきでぼくのかおをじいっとみている。ぼくもただ
はなしのこぐちにそういうたまでであるから、たみこになきそうになられて
は、かわいそうにきのどくになって、
「ぼくははらをたっていったのではないのに、たみさんははらをたったの…
…ぼくはただたみさんがにわかにかわって、あってもくちもきかず、あそびにもこ
ないから、いやにさびしくかなしくなっちまったのさ。それだから
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これからもときどきはあそびにおいでよ。おかあさんにしかられたらぼくが
とがをせおうから……ひとがなんといったってよいじゃないか」
なんというてもこどもだけにむちゃなことをいう。むちゃなことをいわれ
てたみこはしんぱいやらうれしいやら、うれしいやらしんぱいやら、しんぱいとうれしい
とがむねのなかで、ごったになってあらそうたけれど、とうとううれしいほうが
かちをしめてしまった。なおみことよことはなしをするうちに、たみこはあざやかなくも
りのないもとのげんきになった。ぼくももちろんゆかいがあふれる……、うちゅうかんに
ただふたりきりいるようなこころもちにおたがいになったのである。やがてふたりは
なすのもぎくらをする。おおきなはただけれど、じゅうがつのなかばすぎでは、な
すもちらほらしかなっていない。ふたりでようやくにしょうばかりづつをとりえた。
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「まあたみさん、ごらんなさい、いりひのりっぱなこと」
たみこはいつしかざるをしたへおき、りょうてをはなのさきにあわせてたいようをおがん
でいる。にしのほうのそらはいったいにうすむらさきにぼかしたようないろになった。ひた
あかくあかいばかりでこうせんのでないたいようがいまそのはんぶんをやまにうずめかけたところ、
ぼくはたみこがいっしんいりひをおがむしおらしいすがたがながくめにのこってる。
ふたりがよねんなくはなしをしながらかえってくると、せとぐちのよつめがきの
そとにおますがぼんやりたって、こっちをみている。たみこはこごえで、
「おますがまたなんとかいいますよ」
「ふたりともおかあさんにいいつかってきたのだから、おますなんかなんと
いったって、かまやしないさ」
P023
いちじけんをふるたびにふたりがきょうちゅうにわいたこいのたまごはかさをましてくる。
きにふれてこうかんするそうほうのいしは、ただちにたがいのきょうちゅうにあるれいのたまごに
しだいなようぶんをきゅうよする。きょうのひぐれはたしかにそのきであった。ぞっとみ
ぶるいをするほど、いちじるしきちょうこうをあらわしたのである。しかしなんというてもふた
りのかんけいはたまごじだいで、きわめてとりとめがない。ひとにみられてみぐるしい
ようなこともせず、かえりみてみずからやましいようなこともせぬ。したがってまだ
まだのんきなもので、ひとまえをつくろうというようなこころもちはきわめてすくなかっ
た。ぼくとたみことのかんけいも、このくらいでおしまいになったならば、じゅうねんわすれ
られないというほどにはならなかっただろうに。
おやというものはどこのおやもおなじで、わがこをいつまでもこどものよう
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におもうている。ぼくのははなどもそのいちにんにもれない。たみこはそのごときおりぼく
のしょしつへやってくるけれど、よほどひとめをはからってきぼねをおってく
るようなふうで、いつきてもすこしもおちつかない。さきにぼくにいやみをいわれ
たからしかたなしにくるかともおもわれたが、それはまちがっていた。ぼく
らふたりのせいしんじょうたいはにさんにちといわれぬほどいちじるしきへんかをとげている。
ぼくのへんかはもっともはなはだしい。みっかまえには、おかあさんがしかればわたしがとがをせ
おうからあそびにきてとまでむちゃをいうたぼくが、きょうはとてもそんな
わけのものでない。たみこがすこしながいをすると、もうきがとがめてしんぱいで
ならなくなった。
「たみさん、またおいでよ、あまりながくいるとひとがつまらぬことをいうか
P025
ら」
たみこもこころもちはおなじだけれど、ぼくにもうゆけといわれるとみょうにすね
だす。
「あれあなたはこのあいだなんといいました。ひとがなんといったってよいから
あそびにこいといいはしませんか。わたしはもうひとにわらわれてもかま
いませんの」
こまったことになった。ふたりのかんけいがみっせつするほど、ひとめをおそれてくる。
ひとめをおそれるようになっては、もはやざいあくをおかしつつあるかのごとく、こころ
もおどおどするのであった。はははくちでこそ、おとこもおんなもじゅうごろくになれ
ばこどもではないといっても、それはりくつのうえのことで、こころもちではま
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だまだふたりをまるでこどものようにおもっているから、そののちたみこがぼくのへやへ
きてほんをみたりはなしをしたりしているのを、すぐまえをとおりながらいっこう
きにとめるようすもない。このあいだのこごともじつはあによめがいうからでたまでで、
ほんとうにはらからでたこごとではない。ははのほうはそうであったけれど、
あにやあによめやおますなどは、さかんにかげごとをいうてわらっていたらしく、むらじゅうの
ひょうばんには、ふたつもとしのおおいのをよめにするきかしらんなどともっぱらいうて
いるとのはなし。それやこれやのことがうすうすふたりにしれたので、ぼくからい
いだしてとうぶんふたりはとおざかるそうだんをした。
にんげんのこころもちというものはふしぎなもの。ふたりがすこしもかくいなきとく
しんじょうのそうだんであったのだけれど、ぼくのほうからいいだしたばかりに、たみ
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こはみょうにふさぎこんで、まるでげんきがなくなり、しょうぜんとしているのであ
る。それをみるとぼくもまたたまらなくきのどくになる。かんじょうのいっしんいったい
はこんなふうにもつれつつあやうくなるのである。とにかくふたりはひょうめんだけ
はりっぱにとおざかってしごにちをけいかした。

いんれきのくがつじゅうさんにち、こんやがまめのつきだというひのあさ、つゆしもがおりたと
おもうほどつめたい。そのかわりてんきはきらきらしている。じゅうごにちがこのむら
のまつりであしたはよいまつりというわけゆえ、ののしごともきょうひとわたりきまりをつけ
ねばならぬところから、うちじゅうてわけをしてのへでることになった。それ
でかんろてきおんめいがぼくらふたりにくだったのである。あにふうふとおますとほかにおとこ
P028
いちにんとはなかてのかりのこりをぜひかってしまわねばならぬ。たみこはぼくをて
つだいとしてやまばたけのわたをとってくることになった。これはもとよりははの
さしずでだれにもいぎはいえない。
「まああのふたりをやまのはたけへやるって、おやというものはよっぽどおめで
たいものだ」
おくそこのないおますといじまがりのあによめとはくちをそろえてそういったにちがい
ない。ぼくらふたりはもとよりこころのそこではうれしいにそういないけれど、このば
あいふたりでやまばたけへゆくとなっては、ひとにかおをみられるようなきがしておおい
にきまりがわるい。ぎりにもすすんでゆきたがるようなそぶりはできない。
ぼくはあさはんまえはしょしつをでない。たみこもなにかぐずぐずしてしたくもせぬよう
P029
す。もううれしがってといわれるのがくちおしいのである。はははおきてきて、
「まさおもしたくしろ。たみやもさっさとしたくしてはやくゆけ。ふたりでゆ
けばいちにちにはらくなしごとだけれど、みちがとおいのだから、はやくゆか
ないとかえりがよるになる。なるたけひのくれないうちにかえってくるよう
によ。おますはふたりのべんとうをこしらえてやってくれ、おさいはこれこ
れのもので……」
まことにおやのこころだ。たみこにべんとうをこしらえさせては、じぶんので
あるから、おさいなどはろくなものをもってゆかないときがついて、ち
ゃんとおますにめいじてこしらえさせたのである。ぼくはずぼんしたにたびはだ
しむぎわらぼうといういでたち、たみこはてさしをはいてももひきもはいてゆけと
P030
ははがいうと、てさしばかりはいてももひきはくのにぐずぐずしている。たみこ
はぼくのところへきて、ももひきはかないでもよいようにおかあさんにそうい
ってくれという。ぼくはたみさんがそういいなさいという。おしもんどうをし
ているうちに、はははききつけてわらいながら、
「たみやはまちばものだから、ももひきはくのはきまりがわるいかい。わたしはまた
おまえがやわらかいてあしへ、いばらやすすきできずをつけるのがかわいそうだから、そ
ういったんだが、いやだというなら、おまえのすきにするがよいさ」
それでたみこは、れいのたすきにまえかけすがたであさうらぞうりというしたく。ふたりがいっ
とざるひとつづつをもち、ぼくがべつにばんにょかたかごとてんびんとをかたにしてでかけ
る。たみこがあとからすげがさをかむってでると、ははがわらいごえでよびかける。
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「たみや、おまえがすげがさをかむってあるくと、ちょうどきのこがあるくようでみっ
ともない。あみがさがよかろう。あたらしいのがひとつあったはずだ」
いねかりれんはでてしまってべつにわらうものもなかったけれど、たみこはあわ
ててすげがさをぬいで、かおをあかくしたらしかった。こんどはあみがさをかむらず
にてにもって、それじゃおかあさんいってまいりますとあいさつしてはしっ
てでた。
むらのものらもかれこれいうときいてるので、ふたりそろうてゆくもひとまえはず
かしく、いそいでむらをとおりぬけようとのかんがえから、ぼくはひとあしさきになって
でかける。むらはずれのさかのおりぐちのおおきないちょうのきのねでたみこのくる
のをまった。ここからみおろすとすこしのたんぼがある。いろよくきばん
P032
だおしねにつゆをおんで、しっとりとうちふしたこうけいは、きのせいかことに
すがすがしく、むねのすくようなながめである。たみこはいつのまにかきてい
て、きのうのあめであらいながしたあかつちのうえに、ふたはみはいちょうのはのおちる
のをひろっている。
「たみさん、もうきたかい。このてんきのよいことどうです。ほんとうにこころもち
のよいあさだね。」
「ほんとにてんきがよくてうれしいわ。このまあいちょうのはのきれいなこ
と。さあでかけましょう」
たみこのうつくしいてでもってるといちょうのはもことにきれいにみえる。ふた
りはさかをおりてようやくきゅうくつなばしょからひろばへでたきになった。きょうは
P033
おおいそぎでわたをとりかたづけ、さんざんおもしろいことをしてあそぼうなど
とそうだんしながらあるく。みちのまんなかはかわいているが、りょうがわのたについて
いるところは、つゆにしとしとにぬれて、いろいろのくさがはなをひらいてる。
たうこぎはすえがれて、みずそばたでなどいちばんおおくしげっている。みやこぐさもき
いろくはながみえる。のぎくがよろよろとさいている。たみさんこれのぎくが
とぼくはわれしらずあしをとめたけれど、たみこはきこえないのかさっさとさき
へゆく。ぼくはちょっとわきへものをおいて、のぎくのはなをひとにぎりとった。
たみこはいっちょうほどさきへいってから、きがついてふりかえるやいなや、あ
れっとさけんでかけもどってきた。
「たみさんはそんなにもどってきないっだってぼくがゆくものを……」
P034
「まあまさおさんはなにをしていたの。わたしびっくりして……まあきれい
なのぎく、まさおさん、わたしにはんぶんおくれたったら、わたしほんとうにのぎくが
すき」
「ぼくはもとからのぎくがだいすき。たみさんものぎくがすき……」
「わたしなんでものぎくのうまれかえりよ。のぎくのはなをみるとみぶるいのでる
ほどこのもしいの。どうしてこんなかと、じぶんでおもうくらい」
「たみさんはそんなにのぎくがすき……どうりでどうやらたみさんはのぎく
のようなひとだ」
たみこはわけてやったはんぶんののぎくをかおにおしあててうれしがった。ふた
りはあるきだす。
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「まさおさん……わたしのぎくのようだってどうしてですか」
「さあどうしてということはないけど、たみさんはなにがなしのぎくの
ようなふうだからさ」
「それでまさおさんはのぎくがすきだって……」
「ぼくだいすきさ」
たみこはこれからあなたがさきになってといいながら、みずからはあとに
なった。いまのぐうぜんにおこったかんたんなもんどうは、おたがいのむねにつよくゆういみに
かんじた。たみこもそうおもったことはそのそぶりでわかる。ここまではなしがせまる
と、もうそのさきをいいだすことはできない。はなしはちょっととぎれてしまっ
た。
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なんといってもおさないふたりは、いまつみのかみにほんろうせられつつあるので
あれど、のぎくのようなひとだといったことばについで、そののぎくをぼくはだいす
きだといったときすら、ぼくはすでにどうきをおこしたくらいで、すぐにそれ
いじょうをいいだすほどに、まだまだずうずうしくはなっていない。たみ
こもおなじこと、ものにつきあたったようなこころもちでつよくおたがいにかんじたときに
こえはつまってしまったのだ。ふたりはしばらくむごんであるく。
まことにたみこはのぎくのようなこであった。たみこはまつたくのいなかふうではあっ
たが、けっしてそやではなかった。かれんでやさしくてそうしてひんかくもあ
った。いやみとかにくげとかいうところはつめのあかほどもなかった。どうみて
ものぎくのふうだった。
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しばらくはだまっていたけれど、いつまではなしもしないでいるはなおおかし
いようにおもって、むりとはなしをかんがえだす。
「たみさんはさっきなにをかんがえてあんなにわきみもしないであるいていた
の」
「わたしなにもかんがえていやしません」
「たみさんはそりゃうそだよ。なにかかんがえごとでもしなくてあんなふうを
するわけはないさ。どんなことをかんがえていたのかしらないけれど、
かくさないだってよいじゃないか」
「まさおさん、すまない。わたしさっきほんとにかんがえごとしていました。わたしつ
くづくかんがえてなさけなくなったの。わたしはどうしてまさおさんよか
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としがおおいんでしょう。わたしはじゅうしちだというんだもの、ほんとになさけな
くなるわ……」
「たみさんはなんのこというんだろう。さきにうまれたからとしがおおい、じゅう
しちねんそだったからじゅうしちになったのじゃないか。じゅうしちだからなんでなさけ
ないのですか。ぼくだって、さらいねんになればじゅうしちさいさ。たみさんは
ほんとにみょうなことをいうひとだ」
ぼくもいまたみこがいったことのこころをかいせぬほどのこどもでもない。わかっ
てはいるけど、わざとたわむれのようにききなして、ふりかえってみると、
たみこはしんにかんがえこんでいるようであったが、ぼくとかおあわせてきまりわるげ
ににわかにわきをむいた。
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こうなってくるとなにをいうても、すぐそこへもってくるのではなしがゆ
きつまってしまう。ふたりのうちでどちらかひとりが、すこうしほんのわず
かにでもおしがつよければ、こんなにはなしがゆきつまるのではない。おたがい
にこころもちはおくそこまでわかっているのだから、よしのがみをつきやぶるほどにもちから
がありさえすれば、はなしのいっぽをすすめておたがいにあけはなしてしまうことが
できるのである。しかしながらしんそこからおぼこなふたりは、そのよしのがみをやぶるほ
どのおしがないのである。またここではなしのかわをきってしまわねばならぬ
というような、はっきりしたいしきももちろんないのだ。いわばまだとりとめ
のないらんてきのこいであるから、すこしくこころのちからがひつようなところへくるとはなしが
ゆきつまってしまうのである。
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おたがいにじぶんではなしだしてはじぶんがきまりわるくなるようなことをくりかえ
しつついくちょうかのみちをあるいた。ことばかずこそすくなけれ、そのことばのおくにはふた
りともにむりょうのおもいをつつんで、きまりがわるいかんじょうのうちにはなんともいえ
ないふかきゆかいをたたえている。それでいわゆるあしもそらに、いつしかたんぼも
とおりこし、やまじへはいった。こんどはたみこがこころをとりなおしたらしくあざや
かなこえで、
「まさおさん、もうはんぶんみちきましてしょうか。おおながさくへはいちりにとおいっ
ていいましたねい」
「そうです、いちりはんにはちかいそうだが、もうはんぶんのよきましたろう
よ。すこしやすみましょうか」
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「わたしやすまなくとも、ようございますが、さっそくおかあさんのばちが
あたって、すすきのはでこんなにてをきりました。ちょいとこれで
ゆわえてくださいな」
おやゆびのなかほどできずはすこしだが、ちがいがいにでた。ぼくはさっそくかみをさい
てゆわえてやる。たみこがりょうてをあかくしているのをみたときひじょうにかわ
いそうであった。こんなやまのなかでやすむより、はたけへいってからやすもう
というので、こんどはたみこをさきにぼくがあとになっていそぐ。はちじすこしすぎ
とおもうじぶんにおおながさくのはたけへついた。
じゅうねんばかりまえにおやじがまだたっしゃなじぶん、となりむらのしんせきからたのまれてよぎ
なくかったのだそうで、はたけがはったんとさんりんがにちょうほどここにあるのであ
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る。このへんいったいにたかだいはみなさんりんでそのあいだのさくがはたけになっている。こしこくを
もっているといえば、せけんていはよいけど、てまばかりかかってわりにあ
わないといつもははがいってるはたけだ。
さんぽうはやしでかこまれ、みなみがひらいてよそのはたけとつづいている。きたがたかく
みなみがひくいこうばいになっている。ははのすいさつどおり、わたはすえにはなっている
が、かぜがふいたらあふれるかとおもうほどわたはえんでいる。てんてんとして
はたけじゅうしろくなっているそのわたにあさひがさしているとまぶしいようにきれいだ。
「まあよくえんでること。きょうとりにきてよいことしました」
たみこはおんなだけに、わたのきれいにえんでるのをみてうれしそうにいっ
た。はたけのまんなかほどにきりのきがにほんしげっている。はがおちかけているけれ
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ど、じゅうがつのねつをしのぐにはじゅうぶんだ。ここへあたりのきびがらをよせてふたりが
じんどる。べんとうづつみをえだへつる。てんきのよいのにやまじをいそいだから、
あせばんであつい。きものをいちまいづつぬぐ。かぜをふところへいれあしをのばしてやすむ。
あおぎったそらにみどりのまつばやし、もずもどこかでないている。こえのひびくほど
やまはしずかなのだ。てんとちとのあいだでひろいはたけのまんなかにふたりがはなしをして
いるのである。
「ほんとにたみこさん、きょうというきょうはごくらくのようなひですね。」
かおからくびからあせをふいたあとのつやつやしさ、いまさらにたみこのよこがおを
みた。
「そうですねい、わたしなんだかゆめのようなきがするの。けさうちをで
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るときはほんとにきまりがわるくて……あによめさんにはへんなめつきでみら
れる、おますにはひやかされる、わたしはのぼせてしまいました。まさお
さんはへいきでいるからにくらしかったわ」
「ぼくだってへいきなもんですか。むらのやつらにあうのがいやだから、
ぼくはひとあしさきにでていちょうのしたでたみさんをまっていたんでさあ。そ
れはそうと、たみさん、きょうはほんとにおもしろくあそぼうね。ぼくはらい
げつはがっこうへゆくんだし、こんげつとてじゅうごにちしかないし、ふたりでし
みじみはなしのできるようなことはこれからさきはむずかしい。あわれっ
ぽいこというようだけど、ふたりのなかもきょうだけかしらとおもうの
よ。ねいたみさん……」
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「そりゃあまさおさん、わたしはみちみちそればかりかんがえてきました。わたしがさっき
ほんとになさけなくなってといったら、まさおさんはわらっておしまい
なしたけど……」
おもしろくあそぼうあそぼういうても、はなしをはじめるとすぐこうなってし
まう。たみこはなみだをぬぐうたようであった。ちょうどよくそこへうまがみえてき
た。にしがわのやまじから、がさがさささにさわるおとがして、たきぎをつけたうま
をひいてほほかむりのおとこがでてきた。よくみるといがいにもむらのつねきちである。
このやつはいつかむこうのおはまにたみこをあそびにつれだしてくれとしきりに
たのんだというやつだ。いやなやろうがきやがったなとおもうていると、
「やまさおさん、こんちゃどうもけっこうなおてんきですな。きょうはごふうふ
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でわたとりかな。しゃれてますね。あははははは」
「おうつねさん、きょうはだちんかな。たいへんはやくごせいがでますね」
「はあわれわれなんざあだちんとりでもしてたまにいっぱいやるよりほかにたのしみ
もないんですからな。たみさん、いやにみせつけますね。あんまりつみ
ですぜ。あははははは」
このやろうしっけいなとおもったけれど、われわれもあまりいばれるみでもなし、
わらいとぼけてつねきちをやりすごした。
「ばかやろう、じつにいやなやつだ。さあたみさん、はじめましょう。ほんとにたみ
さん、げんきをおなおしよ。そんなにくよくよおしでないよ。ぼくはがっ
こうへいったてちばだもの、ぼんしょうがつのほかにもこようとおもえばどようの
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ばんかけてにちようにこられるさ……」
「ほんとにすみません、なきづらなどして。あのつねさんておとこ、なんという
いやなひとでしょう」
たみこはたすきがけぼくはしゃつにかたをぬいでいっしんにとってさんじかんばかりのあいだ
にしちぶどおりかたづけてしまった。もうあとはわけがないからべんとうにしよう
ということにしてきりのかげにもどる。ぼくはかねてよういのすいとうをもって、
「たみさん、ぼくはみずをくんできますから、るすばんをたのみます。かえり
に『えびづる』や『あけび』をうんとみやげにとってきます」
「わたしはひとりでいるのはいやだ。まさおさん、いっしょにつれてってください。
さっきのようなひとにでもこられたらたいへんですもの」
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「だってたみさん、むこうのやまをひとつこしてさきですよ、しみずのあるところは。
みちというようなみちもなくて、それこそいばらやすすきであしがきずだらけにな
りますよ。みずがなくちゃべんとうがたべられないから、こまったなあ、たみ
さん、まっていられるでしょう」
「まさおさん、ごしょうだからつれていってください。あなたがあるけるみちな
らわたしにもあるけます。ひとりでここにいるのはわたしゃどうしても……」
「たみさんはやまへきたらたいへんだだっこになりましたねー。それじゃ
いっしょにゆきましょう」
べんとうはわたのなかへかくし、きものはてんでにきてしまってでかける。たみこ
はしきりに、にこにこしている。はたからみたならば、ばかばかしくも
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みぐるしくもあろうけれど、ほんにんどうしのみにとっては、そのらちもな
きおしもんどうのうちにもかぎりなきうれしみをかんずるのである。たかくもないけ
どみちのないところをゆくのであるから、ささはらをおしわけきのねにつかまり、
がけをよずる。しばしばたみこのてをとってひいてやる。
ちかくにさんにちいらいのふたりのかんじょうでは、たみこがもとめるならばぼくはどん
なことでもこばまれない、またぼくがもとめるならやはりどんなことでもたみこ
はけっしてこばみはしない。そういうあいだがらでもありつつも、あくまでおくびょう
にあくまできのちいさなふたりは、かつていちどもゆういみにてなどをとった
ことはなかった。しかるにきょうはぐうぜんのことからてをとりあうにいた
った。このへんのいっしゅいうべからざるゆかいなかんじょうはけいけんあるひとにしてはじ
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めてかたることができる。
「たみさん、ここまでくれば、しみずはあすこにみえます。これからぼくがひと
りでいってくるからここにまっていなさい。ぼくがみえていたらい
られるでしょう」
「ほんとにまさおさんのごやっかいですね……そんなにだだをいっては
すまないから、ここでまちましょう。あらあえびづるがあった」
ぼくはみずをくんでのかえりに、すいとうはこしにゆいつけ、あたりをすこしばかり
さぐって、『あけび』しごじゅうとえびづるひともくさをとり、りんどうのはなのうつくし
いのをごろっぽんみつけてかえってきた。かえりはくだりだからむぞうさにふたり
でおりる。はたけへでてぼくはしゅんらんのおおきいのをみつけた。
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「たみさん、ぼくはちょっと『あっくり』をほってゆくから、この『あけび』と『えび
づる』をもっていってください」
「『あっくり』てなにい。あらあしゅんらんじゃありませんか」
「たみさんはまちばもんですから、しゅんらんなどとひんのよいことおっしゃる
のです。やぎりのひゃくしょうなんぞは『あっくり』ともうしてましてね、あかぎれのくすりに
いたします。はははは」
「あらあくちのわるいこと。まさおさんは、きょうはほんとにくちがわるくな
ったよ」
やまのべんとうといえば、とちのものはいっぱんにたのしみのひとつとしてある。なに
かせいりじょうのりゆうでもあるかしらんが、とにかく、やまにしごとをしてやが
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てたべるべんとうがふしぎとうまいことはだれもいうところだ。いまわれわれふたりは
あたらしきしみずをくみきたりははのこころをこめたべんとうをわけつつたべるので
ある。きょうみのじんじょうでないはいうもおろかなしだいだ。ぼくは『あけび』をこのみたみ
こはえびづるをたべつつしばらくはなしをする。たみこはわらいながら、
「まさおさんはあかぎれのくすりに『あっくり』とやらをとってきてがっこうへおもち
になるの。がっこうであかぎれがきれたらおかしいでしょうね……」
ぼくはまじめに、
「なあにこれはおますにやるのさ。おますはもうとおにあかぎれをきらしてい
るでしょう。このあいだもゆにはいるときにおますがひをたきにきてひじょうに
あかぎれをいたがっているから、そのうちにぼくがやまへいったら『あっくり』をと
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ってきてやるといったのさ」
「まああなたはしんせつなひとですことね……おますはかげひなたのないにくげ
のないおんなですから、わたしもなかよくしていたんですが、このごろはなんと
なしわたしにつきあたるようなことばかしいって、なんでもわたしをにくんで
いますよ」
「あははは、それはおますどんがやきもちをやくのでさ。つまらんことに
もすぐやきもちをやくのは、おんなのくせさ。ぼくがそら『あっくり』をとって
いっておますにやるといえば、たみさんがすぐに、まああなたはしん
せつなひととかなんとかいうのとおなじわけさ」
「このひとはいつのまにこんなにくちがわるくなったのでしょう。なにをい
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ってもまさおさんにはかないやしない。いくらわたしだっておますがね
もそこもないやきもちだぐらいはしょうちしていますよ……」
「じつはおますもふびんなおんなよ。りょうしんがあんなことになりさえせねば、
ほうこうにんとまでなるのではない。おやじはせんそうでしぬ、おふくろはこれ
をなげいたがもとでのびょうし、ひとりのあにがはずれものというわけで、
とうとうあのしまつ。こっかのためにしんだひとのむすめだもの、たみさん、い
たわってやらねばならない。あれでもたみさん、あなたをばたいへんほ
めているよ。いじまがりのあによめにこきつかわれるのだからいっそうかわ
いそうでさ」
「そりあまさおさん、わたしもそうおもっていますさ。おかあさんもよくそう
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おっしゃいました。つまらないものですけどなんとかかとかわけ
てやってますが、またまさおさんのようになさけぶかくされると……」
たみこはいいさしてまたはなしをつまらしたが、きりのはにつつんでおいたりん
どうのはなをてにとって、きゅうにはなしをてんじた。
「こんなうつくしいはな、いつとっておいでなして。りんどうはほん
とによいはなですね。わたしりんどうがこんなにうつくしいとはし
らなかったわ。わたしきゅうにりんどうがすきになった。おおええ
はな……」
はなずきなたみこはれいのくせで、いろじろのかおにそのしこんのはなをおしつける。
やがてなにをおもいだしてか、ひとりでにこにこわらいだした。
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「たみさん、なんです、そんなにひとりでわらって」
「まさおさんはりんどうのようなひとだ」
「どうして」
「さあどうしてということはないけど、まさおさんはなにがなしりんどう
のようなふうだからさ」
たみこはいいおわってかおをかくしてわらった。
「たみさんもよっぽどひとがわるくなった。それでさっきのあだうちというわけで
すか。くちまねなんかおそれいりますな。しかしたみさんがのぎくでぼくがりん
どうとはおもしろいついですね。ぼくはよろこんでりんどうになります。それ
でたみさんがりんどうをすきになってくれればなおうれしい」
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ふたりはこんならちもなきこというてよろこんでいた。あきのひあしのみじかさ、
ひはようやくかたむきそめる。さあとのかけごえでわたもぎにかかる。ごごのぶんは
わずかであったからいちじかんはんばかりでもぎおえた。なにやかやそれぞれまと
めてばんにょにのせ、ふたりでさしあいにかつぐ。たみこをさきにぼくがあとに、
とぼとぼはたけをでかけたときは、ひははやくまつのこずえをかぎりかけた。
はんぶんみちもきたとおもうころはじゅうさんやのつきが、このまからかげをさしてお
ばなにゆらぐかぜもなく、つゆのおくさえみえるようなよになった。けさは
きがつかなかったが、みちのにしてにいちだんひくいはたけには、そばのはながうすぎぬ
をひきわたしたようにしろくみえる。こおろぎがさむげにないているにも
こころとめずにはいられない。
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「たみさん、くたぶれたでしょう。どうせおそくなったんですから、この
けしきのよいところですこしやすんでゆきましょう」
「こんなにおそくなるなら、いますこしいそげばよかったのに。うちのひとたち
にきっとなんとかいわれる。まさおさん、わたしはそれがしんぱいになるわ」
「いまさらしんぱいしてもおっつかないから、まあすこしやすみましょう。こんな
にけしきのよいことはめったにありません。そんなにひとにもうしわけのな
いようなわるいことはしないもの、たみさん、しんぱいすることはないよ」
つきあかりがななめにさしこんでいるみちばたのまつのきりかぶにふたりはこしをかけ
た。めのさきしちはちけんのところはきのかげでうすぐらいがそれからむこうははたけいっぱい
につきがさして、そばのはながきわだってしろい。
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「なんというえいけしきでしょう。まさおさん、うたとかはいくとかいうものを
やったら、こんなときにおもしろいことがいえるでしょうね。わたしらよう
なむひつでもこんなときにはしんぱいもなにもわすれますもの。まさおさん、あ
なたうたをおやんなさいよ」
「ぼくはじつはすこしやっているけど、むずかしくてよういにできないの
さ。やまばたけのそばのはなにつきがよくて、こおろぎがなくなどとはじつに
えいですなあ。たみさん、これからふたりでうたをやりましょうか」
おたがいにひとつのしんぱいをもつみとなったふたりは、うちにおもうことがおおく
てかえってはなしはすくない。なにとなくおぼつかないふたりのゆくすえ、ここですこしくはな
しをしたかったのだ。たみこはもちろんのこと、ぼくよりもいっそうはなしたかっ
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たにそういないが、としのいたらぬのとういたこころのないふたりは、なかなか
さしむかいでそんなはなしはできなかった。しばらくはむごんでぼんやりじかんを
すごすうちに、いちれつのかりがふたりをうながすかのようにそらちかくないてとおる。
ようやくたんぼへおりていちょうのきがみえたときに、ふたりはまたおなじようにいっしゅ
のかんじょうがむねにわいた。それはほかでもない、なにとなくうちにはいりづらい
というこころもちである。はいりづらいわけはないとおもうても、どうしても
はいりづらい。ちゅうちょするひまもない、たちまちもんぜんちかくきてしまった。
「まさおさん……あなたさきになってください。わたしきまりわるくてしょう
がないわ」
「よし、それじゃぼくがさきになろう」
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ぼくはすこぶるゆうきをこしことにへいきなふうをよそうてもんをはいった。うちのひと
たちはいまゆうはんさいちゅうでさかんにはなしがわいているらしい。にわばのあまどはまだあ
いたなりにつきがのきぐちまでさしこんでいる。ぼくがせきばらいをひとつやってにわば
へはいると、だいどころのはなしはにわかにやんでしまった。たみこはゆびのさきでぼくの
かたをついた。ぼくもしょうちしているのだ、いまごぜんかいぎでふたりのうわさがい
かにさかんであったか。
よいまつりではじゅうさんやではあるので、うちじゅうおもてざしきへそろうたとき、ははも
おくからおきてきた。はははひととおりふたりのあまりおそかったことをとがめてふかく
はいわなかったけれど、つねとはまつたくちがっていた。なにかおもっているら
しく、すこしもうちとけない。これまではくちにはこごとをいうても、しんちゅう
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にうたがわなかったのだが、こんやはくちにはあまりいわないが、こころではじゅうぶん
にふたりにうたがいをおこしたにちがいない。たみこはいよいよちいさくなってざしきなか
へはでない。ぼくはやまからとってきた、あけびやえびづるやをたくさんざしき
じゅうへならべたてて、あんにぼくがこんなことをしていたからおそくなったのだ
とのいをしめしむごんのべんかいをやってもなんのききめもない。だれひとりそれ
をそうとみるものはない。こんやはなんのはなしにもぼくらふたりはのけものに
されるしまつで、もはやふたりはまつたくつみあるものともくけつされてしまったので
ある。
「おかあさんがあんまりあますぎる。ああしているふたりをいっしょにやまばたけ
へやるとはめのないにもほどがある。はたでいくらしんぱいしてもお
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かあさんがあれではだめだ」
これがだいどころかいぎのけっていであったらしい。ははのほうでもいつまでこどもと
おもっていたがあやまりで、じぶんがわるかったというようなかんがえにこんやはなった
のであろう。いまさらふたりをしかってみてもしかたがない。なにまさおをがっこう
へやってしまいさえせばしさいはないとははのこころはちゃんときまっている
らしく、
「まさや、おまえはなじゅういちがつへはいってすぐがっこうへやるつもりであったけ
れど、そうしてぶらぶらしていてもためにならないから、おまつり
がしまったら、もうがっこうへゆくがよい。じゅうしちにちにゆくとしろ……
えいか、そのつもりでこじたくしておけ」
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がっこうへゆくはもとよりぼくのねがい、とおかやはつかはやくともおそくともそ
れにしさいはないが、このばあいしかもこんやいいわたしがあってみると、ふたりはすで
につみをおかしたものときめられてのしおきであるから、たみこはもちろんぼくに
とってもすこぶるこころぐるしいところがある。じっさいふたりはそれほどにだらくしたわけで
ないから、あたまからそうときめられては、いささかみょうなこころもちがする。さり
とてべんかいのできることでもなし、またつよいことをいえるしかくもじつはな
いのである。これがいっかげつまえであったらば、それはおかあさんごむり
だ、がっこうへゆくのはのぞみであるけど、とがをきせられてのしおきにがっ
こうへゆけとはあんまりでしょう……などとすぐだだをいうのであるが、
こんやはそんなわがままをいえるほどむじゃきではない。まつたくのところ、こいにおちいって
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しまっている。
あれほどかわいがられたひとりのははにかくしだてをする、なんとなくへだてを
つくってこころのありたけをいいえぬまでになっている。おのずからひとまえ
をはばかり、ひとまえではことさらにふたりがうとうとしくとりなすようになってい
る。かくまでわたくしごころがちょうじてきてどうしてりっぱなくちがきけよう。ぼくは
ただいちごん、
「はあ……」
とこたえたきりなんにもいわず、ははのいいつけにもうじゅうするほかはなかっ
た。
「ぼくはがっこうへいってしまえばそれでよいけど、たみさんはあとでどうな
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るだろうか」
ふとそうおもって、そっとたみこのほうをみると、おますがえだまめをあさっ
てるうしろに、たみこはうつむいてひざのうえにたすきをこねくりつつちんもくしてい
る。いかにもげんきのないふうでよるのせいかかおいろもあおじろくみえた。たみこ
のふうをみてぼくもにわかにかなしくなってなきたくなった。なみだはまぶたをつたわって
めがくもった。なぜかなしくなったかりゆうははっきりしない。ただたみこがかわい
そうでならなくなったのである。たみことぼくとのたのしいかんけいもこのひのよる
まではつづかなく、じゅうさんにちのひるのひかりとともにまつたくきえうせてしまった。うれ
しいにつけてもおもいのたけはかたりつくさず、うきかなしいことについては
もちろんひゃくぶんのいちだもかたりあわないで、ふたりのかんけいはやみのまくにはいって
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しまったのである。

じゅうよっかはまつりのしょにちでただものせわしくひがくれた。おたがいにきのないふう
はしていても、てにせわしいしごとのあるばかりに、とにかくおもいまぎら
すことができた。
じゅうごにちとじゅうろくにちとは、しょくじのほかようじもないままに、しょしつへこもりと
おしていた。ぼんやりつくえにもたれたなりなにをするでもなく、またふたり
のかんけいをどうしようかというようなことすらもかんがえてはいない。ただたみ
このことがあたまにみちているばかりで、きわめてたんじゅんにたみこをおもうているほか
にかんがえははたらいておらぬ。このふつかのあいだにたみことさんしかいはあったけれど、
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はなしもできずびしょうをこうかんするげんきもなく、うらさびしいこころもちをたがいにめに
うったうるのみであった。ふたりのこころもちがいますこしませておったならば、この
ふつかのあいだにもしょうらいのことなどずいぶんはなしあうことができたのであろうけ
れど、しぶといこころもちなどはけほどもなかったふたりには、そのばあいになか
なかそんなことはできなかった。それでもぼくはじゅうろくにちのごごになって、
なんとはなしにいかのようなことをまきがみへかいて、ひぐれにちょっときたたみこ
にぼくがいなくなってからみてくれといってわたした。
あさからここへはいったきり、なにをするきにもならない。そとへでる
きにもならず、ほんをよむきにもならず、ただくりかえしくりかえしたみさん
のことばかりおもっている。たみさんといっしょにいればかみさまにだかれてくもに
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でものっているようだ。ぼくはどうしてこんなになったんだろう。
がくもんをせねばならないみだから、がっこうへはゆくけれど、こころでは
たみさんとはなれたくない。たみさんはじぶんのとしのおおいのをきにして
いるらしいが、ぼくはそんなことはなんともおもわない。ぼくはたみさん
のおもうとおりになるつもりですから、たみさんもそうおもっていて
ください。あしたははやくたちます。とうきのやすみにはかえってきてたみさ
んにあうのをたのしみにしております。
じゅうがつじゅうろくにちまさお
たみこさま
がっこうへゆくとはいえ、つみがあってはやくやられるというきょうぐうである
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から、ひとのわらいごえはなしごえにもいちいちひがみごころがおきる。みなふたりにたいするちょう
しょうかのようにきかれる。いっそはやくがっこうへいってしまいたくなった。
けっしんがきまればげんきもかいふくしてくる。このよはあたまもすこしくさえゆうめしも
こころもちよくたべた。がっこうのことなにくれとなくははとはなしをする。やがてしん
についてからも、
「なんだばかばかしい、じゅうごかそこらのこぞうのくせに、おんなのことなどばか
りくよくよかんがえて……そうだそうだ、あしたはさっそくがっこうへゆこう。
たみこはかわいそうだけれど……もうかんがえまい、かんがえたってしかたがな
い、がっこうがっこう……」
ひとりぐちききつつねむりにいったようなわけであった。
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ふねでかわからいちかわへでるつもりだから、じゅうしちにちのあさ、こさめのふるのに、
いっさいのもちものをかばんひとつにつめこみたみことおますにおくられてやぎりのわたし
へおりた。むらのもののにぶねにびんじょうするわけでもうふねはきている。ぼくはたみ
さんそれじゃ……というつもりでものどがつまってこえがでない。たみこ
はぼくにつつみをわたしてからは、じぶんのてのやりばにこまってむねをなでたり
えりをなでたりして、したばかりむいている。めにもつなみだをおますにみられ
まいとして、からだをわきへそらしている。たみこがあわれなすがたをみてはぼく
もなみだがおさえきれなかった。たみこはきょうをわかれとおもってか、かみはさっ
ぱりとしたいちょうがえしにうすくけしょうをしている。すすいろとこんのこまかいべんけい
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じまで、はおりもながぎもおなじいよねざわつむぎに、ひんのよいゆうぜんちりめんのおびをしめ
ていた。たすきをかけたたみこもよかったけれどきょうのたみこはまたいっそうひきた
ってみえた。
ぼくのきのせいででもあるか、たみこはじゅうさんにちのよからはひとひひとひと
やつれてきて、このひのいたいたしさ、ぼくはなかずにはいられなかった。
むしがしらせるとでもいうのか、これがしょうがいのわかれになろうとは、ぼくは
もちろんたみことて、よもやそうはおもわなかったろうけれど、このときのつら
さかなしさは、とてもたにんにはなしてもしんじてくれるものはないとおもう
くらいであった。
もっともたみこのおもいはぼくよりふかかったにそういない。ぼくはちゅうがくこうをそつぎょう
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するまでにも、しごねんあいだのあるからだであるに、たみこはじゅうしちでことしのうちに
もえんだんのはなしがあってりょうしんからそういわれれば、むぞうさにこばむことの
できないみであるから、ゆくすえのことをいろいろかんがえてみるとしんぱいのおお
いわけである。とうじのぼくはそこまではかんがえなかったけれど、したしくめに
しみたたみこのいたいたしいすがたはいくねんたってもきのうのことのようにめに
うかんでいるのである。
よそからみたならば、わかいうちによくあるいたずらのかってななきづら
とみぐるしくもあったであろうけれど、ふたりのみにとっては、しんにあ
われにかなしきわかれであった。たがいにてをとってこうらいをかたることもで
きず、こさめのしょぼしょぼふるわたしばに、なきのなみだもひとめをはばかり、ひと
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ことのことばもかわしえないでえいきゅうのわかれをしてしまったのである。むじょう
のふねはながれをくだってはやく、じゅっぷんかんとたたぬうちに、ごちょうとさがらぬうちに、お
たがいのすがたはあめのくもりにへだてられてしまった。ものもいいえないで、しょん
ぼりとしおれていたふびんなたみさんのおもかげ、どうしてわすれることができよ
う。たみさんをおもうためにかみのいかりにふれてそくざにうちころさるるようなこと
があるとてもぼくにはたみさんをおもわずにいられない。としをとってののち
のかんがえからいえば、ああもしたらこうもしたらとおもわぬこともなかっ
たけれど、とうじのわかいどうしのしりょにはなんらのくふうもなかったのであ
る。やおやおしちはいえをやいたらば、ふたたびおもうひとにあわれることとく
ふうをしたのであるが、われわれふたりはつまどいちまいをしのんであけるほどのちえ
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もでなかった。それほどにむじゃきなかれんなこいでありながら、なおおやにお
じきょうだいにはばかり、たにんのまえにてなみだもふきえなかったはいかにきのよわ
いどうしであったろう。

ぼくはがっこうへいってからも、とかくたみこのことばかりおもわれてしかたが
ない。がっこうにおってこんなことをかんがえてどうするものかなどと、じ
ぶんでじぶんをしかりはげましてみてもなんのかいもない。そういうことばのしりか
らすぐたみこのことがわいてくる。おおくのひとなかにいればどうにかまぎれ
るので、ひのなかはなるたけひとりでいないようにこころがけていた。よにな
ってもねるとしかたがないから、なるたけひとなかでさわいでいてつかれてね
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るくふうをしていた。そういうしまつでようやくとしもくれとうききゅうぎょうになった。
ぼくがじゅうにがつにじゅうごにちのごぜんにかえってみると、にわいちめんにもみをほして
あって、はははまえのえんがわにふとんをしいてひなたぼっこをしていた。ちかごろ
はよほどからだのぐあいもよい。きょうはあにふうふとおとことおますとはやまへくずをは
きにいったとのはなしである。ぼくはたみさんはとくちのさきまででたけれどつい
にいいきらなかった。ははもいじわるくなんともいわない。ぼくはかえりそうそう
たみこのことをとうのがいかにもきまりわるく、そのままれいのしょしつをかたづけ
てここにおちついた。しかしひぐれまでにはたみこもかえってくることとおもいな
がら、おろおろしてまっている。みながかえっていよいよゆうめしということに
なってもたみこのすがたはみえない。だれもまたたみこのことをひとこともいうもの
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もない。ぼくはもうたみこはいちかわへかえったものとさっして、ひとにとうのも
いまいましいから、ほかのはなしもせず、めしがすむとそれなりしょしつへはいっ
てしまった。
きょうはかならずたみこにあわれることとひとかたならずたのしみにしてかえってき
たのに、このしまつでなんともいえずちからがおちてさびしかった。さりとてだれ
にこのくもんをはなしようもなく、たみこのしゃしんなどをとりだしてみておった
けれど、ちっともきがはれない。またあのやつたみこがいないからかんがえこん
でいやがるとおもわれるもくちおしく、ようやくこころをとりなおし、ははのまくらもとへい
ってよるおそくまでがっこうのはなしをきかせた。
あくるひはくじごろにようやくおきた。はははまだねている。だいどころへでて
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みるとほかのものはみなまたやまへいったとかで、おますがひとりだいどころかたづけにのこ
っている。ぼくはかおをあらったなりめしもくわずに、せどのはたけへでてしま
った。このあき、たみことふたりでなすをとったはたけがいまはあおあおとながほきてい
る。ぼくはしばらくたっていずこをながめるともなく、たみこのおもかげをのうちゅうにえが
きつつおもいにしずんでいる。
「まさおさん、なにをそんなにかんがえているの」
おますがだしぬけにうしろからそいって、ちかくへよってきた。ぼくがよい
かげんなことをひとことふたこというと、おますはいきなりぼくのてをとって、も
すこしこっちへきてここへこしをかけなさいまあといいつつ、わらをつんで
あるところへじぶんもこしをかけてぼくにもかけさせた。
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「まさおさん……おたみさんはほんとにかわいそうでしたよ。うちのねえさ
んたらほんとにいじまがりですからね。なんというこんじょうのわるいひとだ
か、わたしもはあここのうちにいるのはいやになってしまった。きのう
まさおさんがくるのはわかりきっているのに、ねえさんがいろんなこ
とをいって、おとといおたみさんをいちかわへかえしたんですよ。まつ
ひとがあるだっぺとかあいたいひとがまちどおかっぺとか、あてこす
りをいっておたみさんをなかせたりしてね、おかあさんにもなんでも
いろいろなこといったらしい、とうとうおとといおひるまえにかえして
しまったのでさ。まさおさんがおとといきたらあわれたんですよ
まさおさん、わたしはおたみさんがかわいそうでかわいそうでならないだよ。なんだ
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ってあなたがいなくなってからはまるでなきのなみだでひをくらして
いるんだもの、まさおさんにてがみをやりたいけれど、それがよく
じぶんにはできないからくやしいといってね。わたしのへやへみばんもすずり
とかみをもってきてはないていました。おたみさんもはじまりはわたしに
もかくしていたけれど、のちにはかくしていられなくなったのさ。わたし
もおたみさんのためにいくらないたかしれない……」
みればおますはもうぼろぼろなみだをこぼしている。いったいおますはごくひとの
よいしんせつなおんなで、ぼくとたみこがめのまえでなかよいふうをすると、しっとしんを
おこすけれど、もとよりしゅうねんぶかいしょうでないから、たみこがひとりになればたみ
ことなかがよく、ぼくがひとりになればぼくをおおさわぎするのである。
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それからなおおますは、ぼくがいないあとでたみこがひじょうにははにしかられた
ことなどをはなした。それはがいりゃくこうである。いじわるのあによめがなにをいう
ても、ははがたみこをあいすることはすこしもかわらないけれど、ふたつもとしの
おおいたみこをぼくのよめにすることはどうしてもいけぬということになっ
たらしく、それにはあによめもいろいろいうて、よめにしないとすれば、ふた
りのなかはなるたけさくようなくふうをせねばならぬ。ははもあによめもそういう
こころもちになっているから、たみこにたいするしむけは、まさおのことをおもうて
いてもとうていだめであるととおまわしにふうししていた。そこへきてたみこが
あけてもくれてもくよくよして、ひとのめにもとまるほどであるから、
ときどきはものわすれをしたり、よんでもへんじがおそかったりして、ははのかんしゃく
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にさわったこともたびたびあった。ぼくがいなくなってからはつかばかりた
ってじゅういちがつのつきはじめのころ、たみこもほかのものとのへでることとなって、
ははがたみこにおまえはひとあしあとになって、ざしきのまわりをぞうきんがけしてそれ
からにわにひろげてあるむしろをくらへかたづけてからのへゆけといいつけた。
たみこはぞうきんがけをしてからうっかりわすれてしまって、むしろをいれずに
のへでたところ、まがわるくそのひあめがふったから、そのむしろじゅうまいばかりをぬら
してしまった。たみこはあめがふってからきがついたけれど、もうまに
あわない。うちへかえってさっそくははにわびたけれどはははへいじつのことがむねにあ
るから、
「なにもじゅうまいばかりのむしろがおしいではないけれど、いったいわたしのいいつけをおろそ
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かにきいているからおこったことだ。もとのたみこはそうではなかった。
えてかってなかんがえごとなどしているから、ひとのいうこともみみへはい
らないのだ……」
というようなずいぶんいたいこごとをいった。たみこはははのまくらもとちかくへいって、
どうかわたしがわるかったのですからかんにんして……とりょうてをついてあやま
った。そうするとはははまたそうなにもたにんらしくあらたまってあやまらなく
ともだとしかったそうで、たみこはたまらなくなってわっとなきふした。
そのままたみこがなきやんでしまえばなんのこともなくすんだのであろうが、たみ
こはとうとうひとばんじゅうなきとおしたのであくるあさはめをあかくしていた。はは
もよるときどきめをさましてみると、たみこはいつでも、すくすくないている
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こえがしていたというので、こんどはははがひじょうにりっぷくして、おますとたみこ
とふたりよんでははがふるえごえになっていうには、
「あいたいではわたしがどんなわがままなことをいうかもしれないからおますは
ききてになってくれ。たみこはゆうべひとばんじゅうなきとおした。さだめし
わたしにいわれたことがむねんでたまらなかったからでしょう」
たみこはここでわたしはそうではありませんとなきごえでいうたけれど、はははみみに
もかけずに、
「なるほどわたしのこごともすこしいいすぎかもしれないが、たみこだってなにも
それほどくやしがってくれなくてもよさそうなものじゃないか。
わたしはほんとにかんがえるとなさけなくなってしまった。かわいがったの
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をおんにきせるではないが、もとをいえばたにんだけれど、ちのみご
のときから、たみこはしょっちゅううちへきていていまのまさおとふたつのち
ぶさをひとつづつふくませていたくらい、おますがきてからもあのとおりで、ふた
つのものはひとつづつよつのものはふたつづつ、きものをこしらえてもあれに
いちまいこれにいちまいとすこしもわけへだてをせないできた。たみこもしんの
おやのようにおもってくれわたしもことわがおもってよそのひとはだれだってふたり
をきょうだいとおもわないものはなかったほどであるのに、あとにもさきに
もいちどのこごとをあんなにくやしがってよじゅうないてくれなくともよ
さそうなもの。いちかわのひとたちにきかれたらば、さいとうのばあがどんな
ひどいことをいったかとおもうだろう。じゅうなんねんというあいだわがこのよう
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におもってきたこともただいちどのこごとでわすれられてしまったのかとおも
うとわたしはくやしい。にんげんというものはそうしたものかしら。お
ます、よくきいてくれ、わたしがむりかたみこがむりか。なあおます」
はははめになみだをいっぱいにためてそういった。たみこはみもよもあらぬ
さまでいきなりにおますのひざへすがりついてなきなき、
「おますや、おかあさんにもうしわけをしておくれ。わたしはそんなだいそれたりょう
けんではない。ゆんべあんなにないたはまつたくわたしがわるかったから、
まつたくわたしがとどかなかったのだから、おますや、おまえがよくもうしわけをそ
ういっておくれ……」
それからおますが、
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「おかあさんのごりっぷくもごもっともですけれど、わたしがおもうにゃおかあさん
もすこしかんちがいをしておいでなさいます。おかあさんはながねんおたみさ
んをかわいがっておいでですから、おたみさんのきだてはわかってお
りましょう。わたしもこうしていちねんごやっかいになっていてみれば、おたみ
さんはほんとやさしいおとなしいひとです。おかあさんにすこしばかりしかられ
たって、それをくやしがってないたりなんぞするようなひとではあり
ますまい。わたしがこんなこともうしてはおかしいですが、まさおさん
とおたみさんとは、ああしてなかよくしていたのを、なにかのごつごう
できゅうにおわかれなさったもんですから、それからというもの、お
たみさんはかわいそうなほどげんきがないのです。このはのそよぐにもため
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いきをつきからすのなくにもなみだぐんで、さわればなきそうなふうでいた
ところへ、おかあさんからすこしきつくしかられたから、とめどなくな
いたのでしょう。おかあさん、わたしはまつたくそうおもいますわ。おたみさんは
けっしてあなたにしかられたとてくやしがるようなひとではありません。
おたみさんのようなおとなしいひとを、おかあさんのようにああいってしかっ
ては、あんまりかわいそうですわ」
おますがともなきをしていいわけをいうたので、もとよりたみこはにくくないはは
だから、にわかにかおいろをなおして、
「なるほどおますがそういえば、わたしもすこしかんちがいをしていました。
よくおますそういうてくれた。わたしはもうすっかりこころもちがなおった。
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たみや、だまっておくれ、もうないてくれるな。たみやもかわいそうであっ
た。なにまさおはがっこうへいったんじゃないか、くれにはかえってくるよ。
なあおます、おまえはきょうはしごとをやすんで、うまいものでもこしらえてく
れ」
そのひはさんにんがいくたびもよりあって、いろいろなものをこしらえてはちゃご
とをやり、いちにちおもしろくはなしをした。たみこはこのひはいつになくたかわらいを
しげんきよくあそんだ。なにといってもははのほうはすぐはなしがわかるけれど、
あによめがまがなすきがないろいろなことをいうので、とうとうぼくのかえらないうち
にたみこをいちかわへかえしたとのはなしであった。おますはながいはなしをおわるやいなや
すぐうちへかえった。
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なるほどそうであったか、あねはもちろんははまでがそういうこころになったで
は、かよわいのぞみもたえたもどうよう。こころぼそさのやるせがなく、なくよりほかに
せんがなかったのだろう。そんなにははにしかられたか……ひとばんじゅうなき
とおした……なるほどなどとおもうと、ふたたびあついなみだがみなぎりだしてとめ
どがない。ぼくはしばらくのあいだ、なみだのでるがままにそこにぼんやりしてお
った。そのひはとうとうあさはんもたべず、ひるすぎまではたけのあたりをうろ
ついてしまった。
さうなるとにわかにうちにいるのがいやでたまらない。できるならばくれの
うちにがっこうへかえってしまいたかったけれど、そうもならないでようやくこら
えて、としをこしがんじついちにちおいてふつかのひにはあさはやくがっこうへたってしま
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った。
こんどはりくろいちかわへでて、いちかわからきしゃにのったから、たみこのきんじょ
をとおったのであれど、ぼくはきまりがわるくてどうしてもたみこのいえへよれ
なかった。またぼくによられたらば、たみこがこまるだろうともおもって、い
くたびよろうとおもったけれどついによらなかった。
おもえばじつにひとのきょうぐうはへんかするものである。そのいちねんまえまでは、たみ
こがぼくのところへきていなければ、ぼくはにちよう〔の〕たびにたみこのいえへいったの
である。ぼくはたみこのいえへいってもほかのひとにはようはない。いつでも、
「おばあさん、たみさんは」
そら「たみさんは」がきたといわれるくらいで、あるときなどはぼくがゆくと、たみ
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こはにわにきくのはなをつんでいた。ぼくはたみさんちょっとおいでとむりにせどへひっ
ぱっていって、にけんばしごをふたりでにないだし、かきのきへかけたのをたみ
こにおさえさせ、ぼくがのぼってかきをむっつばかりとる。たみこにはんぶんやればたみ
こはひとつでたくさんというから、ぼくはそのいつつをもってそのままうらからぬけて
かえってしまった。さすがにこのときはとむらのいえでもうちじゅうでぼくをわるくいっ
たそうだけれど、たみこひとりはただにこにこわらっていて、けっしてまさおさ
んわるいとはいわなかったそうだ。これくらいへだてなくしたあいだがらだに、こい
ということおぼえてからは、いちかわのまちをとおるすらはずかしくなったので
ある。
このとしのしょちゅうやすみにはいえにかえらなかった。くれにもかえるまいとおもった
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けれど、としのくれだからいちにちでもふつかでもかえれというてははからてがみが
きたゆえ、おおみそかのよるかえってきた。おますもことしきりでさがったとのはなし
でいよいよはなしあいてもないから、またがんじついちにちでふつかのひにでかけようと
すると、ははがおまえにもいうておくがたみこはよめにいった、きょねんのしもつき
やはりいちかわのうちで、たいへんゆうふくないえだそうだ、とかんたんにいうのであった。
ぼくははあそうですかとむぞうさにこたえてでてしまった。
たみこはよめにいった。このいちごをきいたときのぼくのこころもちはじぶんながらふ
しぎとおもうほどのへいきであった。ぼくがたみこをおもっているかんじょうになんら
のどうようをおこさなかった。これにはなにかそうとうのりゆうがあるかもしれね
ど、ともかくもじじつはそうである。ぼくはただりくつなしにたみこはいかなきょう
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がいにいろうとも、ぼくをおもっているこころはけっしてかわらぬものとしんじてい
る。よめにいこうがどうしようが、たみこはいぜんたみこで、ぼくがたみこをおも
うこころにすんぶんのかわりないようにたみこにもけっしてかわりないようにおもわれて、
そのかんねんはほとんどおおいしのうえにざしているようでけのさきほどのきぐしんもない。
それであるからたみこはよめにいったときいてもすこしもおどろかなかった。
しかしそのころからいままでにないかんがえもでてきた。たみこはただただすこしもげんきが
なく、やせおとろえてふさいでばかりいるだろうとのみおもわれてならない。か
わいそうなたみさんというかんねんばかりたかまってきたのである。そういうわけ
であるから、がっこうへいってもいぜんとはほとんどはんたいになって、いぜんはつとめ
てひとなかへはいって、くもんをまぎらそうとしたけれど、こんどはなるべく
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ひとをさけて、ひとりでたみこのうえにおもいをはせてたのしんでおった。なすばたけ
のことやわたばたけのことや、じゅうさんにちのばんのさびしいふうや、またやぎりのわたしでわかれたとき
のことやを、くりかえしくりかえしかんがえてはひとりなぐさんでおった。たみこのことさえ
かんがえればいつでもきぶんがよくなる。もちろんかなしいこころもちになることがしばしば
あるけれど、さんざんなみだをだせばやはりあとはきぶんがよくなる。たみこ
のことをおもっていればかえってがっかのせいせきもわるくないのである。これらもふ
しぎのひとつで、いかなるりゆうかしらねど、ぼくはじっさいそうであった。

いつしかつきもたって、わすれもせぬろくがつにじゅうににち、ぼくがさんじゅつのかいだい
にくるしんでかんがえていると、こづかいがさいとうさんおうちからでんぽうです、とい
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ってつくえのはたへおいていった。れいのすぐかえれであるから、さっそくしゃかん
にはなしをしてそくじつきせいした。なにごとがおこったかとむねにどうきをはずませ
てかえってみると、よいやみのいえのありさまはいがいにしずかだ。だいどころでうちじゅうゆうめし
どきであったが、ただそこにははがみえないばかり、なんのかわったようすもない。
ぼくはだいどころへはかおもださず、すぐとははのしんじょへきた。あんどうのひもうすぐら
く、はははひったりまくらについてふせっている。
「おかあさん、どうかしましたか」
「ああまさお、よくはやくかえってくれた。いまわたしもおきるからおまえごはんまえ
ならごはんをすましてしまえ」
ぼくはなんのことかしきりにきになるけれど、ははがそういうままにそうそうに
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めしをすましてふたたびははのところへくる。はははおびをゆうてふとんのうえにおきてい
た。ぼくがまえにすわってもただむごんでいる。みるとはははあめのようななみだをおとし
てうつむいている。
「おかあさん、まあどうしたんでしょう」
ぼくのことばにはげまされてはははようやくなみだをふき、
「まさお、かんにんしてくれ……たみこはしんでしまった……わたしがころしたよう
なものだ……」
「そりゃいつです。どうしてたみさんはしんだんです」
ぼくがむちゅうになってといかえすと、はははむせびかえってかおをおさえている。
「しじゅうをきいたら、さだめしひどいおやだとおもうだろうが、こらえ
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てくれ、まさお……おまえにいちごんのはなしもせず、たっていやだという
たみこをむりにすすめてよめにやったのが、こういうことになってしまっ
た……たといおんなのほうがとしうえであろうともほんにんどうしがとくしんであらば、
なにもおやだからとてよけいなくちだしをせなくともよいのに、このははがとし
がいもなくおやだてらにいらぬおせわをやいて、とりかえしのつかぬ
ことをしてしまった。たみこはわたしがてをかけてころしたもおなじ。どう
ぞかんにんしてくれ、まさお……わたしはたみこのあとおってゆきたい……」
はははもうおいおいおいおいこえをたててないている。たみこのしという
ことだけはわかったけれど、なにがなにやらさらにわからぬ。ぼくとてたみこのし
ときいて、しっしんするほどのおもいであれど、いまめのまえでははのなげきのひと
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とおりならぬをみては、なくにもなかれず、ぼくがおろおろしているところ
へあにふうふがでてきた。
「おかあさん、まあそうないたってしかたがない」
といえばははは、かまわずになかしておくれなかしておくれというの
である。どうしようもない。
そのあいだであによめがわずかにはなすところをきけば、いちかわのそれがしといういえでさきのおとこのき
しょうもしれているにざいさんもとむらのいえにばいいじょうであり、それでむこうから
たみこをたってのしょもう、なこうどというのもとむらがせわになるひとである、
ぜひやりたいぜひいってくれということになった。たみこはどうでも
いやだという。たみこのいやだというこころはよくわかっているけれど、
P100
まさおさんのほうはとしもちがいさきのながいことだから、どうでもそれがしのいえへや
りたいとは、とむらのひとたちはもちろんしんるいまでのきぼうであった。それでいよ
いよさいとうのおっかさんにいけんをしてもらうということにそうだんがきまり、
それでうちのおかあさんがたみこにいくたびいけんをしてもないてばかりしょうちし
ないから、とどのつまり、おまえがそうごうじょうはるのもまさおのところへきたい
かんがえからだろうけれど、それはこのははがふしょうちでならないよ、おまえはそ
れでもこんどのえんだんがふしょうちか。こんなふうにいわれたから、たみこはす
っかりじぶんをあきらめたらしく、とうとうみなさまのよいようにといって
しょうちをした。それからはなにもかもひとのいうなりになって、しもつきなかばに
しゅうぎをしたけれど、たみこのこころもちがほんとうのしょうちでないから、むこう
P101
でもいくらかいやきになり、たみこはみもちになったが、むつきでおりて
しまった。あとのひだちがひじょうにわるくついにろくがつじゅうくにちにいきをひきとっ
た。びょうちゅうぼくにしらせようとのはなしもあったが、いまさらまさおにしらせるかお
もないというわけからしらせなかった。うちのおかあさんはたみこがまだくち
をきくときから、いちかわへいっておって、たみこがいけなくなると、もう
ないてないてなきぬいた。ひとくちまぜに、たみこはわたしがころしたようなもの
だ、とばかりいっていて、いちかわへおいたではどうなるかしれぬという
わけから、きのうくるまでうちへおくられてきたのだ。はなしさえすればなく、なけ
ばわたしがわるかったわるかったといっている。だれにもしようがないから、まさ
おさんのところへでんぽうをうった。たみこもかわいそうだしおかあさんもかわいそうだ
P102
し、とんだことになってしまった。まさおさん、どうしたらよいでしょう。
あによめのはなしでおおかたはわかったけれど、ぼくはどうしてよいやらほとんどとほう
にくれた。はははもうはんきちがいだ。なにしろここではははのこころをしずめるのが
だいいちとはおもったけれど、なぐさめようがない。ぼくだっていっそきちがいに
なってしまったらとおもったくらいだから、ははをなぐさめるほどのきりょくはない。
そうこうしているうちにようやくははもすこしおちついてきて、またはなしだした。
「まさおや、きいてくれ。わたしはもうじぶんのあくとうにあきれてしまった。なん
だってあんなひどいことをたみこにいったっけかしら。いまさらなんぼく
いてもしかたがないけれど、わたしはまさお……たみこにこういったんだ。
まさおとふうふにすることはこのははがふしょうちだからおまえはよそへよめに
P103
ゆけ。
なるほどたみこはわたしにそういわれてみればじぶんのみをあきらめるほかは
ないわけだ。どうしてあんなむごたらしいことをいったのだろう。
ああかわいそうなことをしてしまった。まつたくわたしがあくとうをいうたためにたみ
こはしんだ。おまえはね、あしたはよがあけたらすぐにいってよおく
たみこのはかにまいってくれ。それでおかあさんのわるかったことをよく
わびてくれ。ねいまさお」
ぼくもようやくなくことができた。たといどういうつごうがあったにせよ、
いよいよみこみがなくなったときにはあわせてくれてもよかったろうに、
しんでからしらせるとはずいぶんひどいわけだ。たみさんだってぼくにはあい
P104
たかったろう。よめにいってしまってはもうしわけがなくおもったろうけれど、
それでもいよいよのまぎわになってはぼくにあいたかったにちがいない。
じつになさけないことだ。かんがえてみればぼくもあんまりこどもであった。そのごいち
かわをさんかいもとおりながらたずねなかったは、いまさらざんねんでならぬ。ぼくは
たみこがよめにゆこうがゆくまいが、ただたみこにあいさえせばよいのだ。
いまひとめあいたかった……つぎからつぎとはてしなくおもいはあふれてくる。
しかしははにそういうことをいえば、こんどはぼくがははをころすようなことにな
るかもしれない。ぼくはきっとこころをとりなおした。
「おかあさん、ほんとにたみこはかわいそうでありました。しかしとってかえらぬ
ことをいくらくやんでもしかたがないですから、あとのことをねんごろにして
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やるほかはない。おかあさんはただただごじぶんのわるいようにばかりとって
いるけれど、おかあさんとてこころはただたみこのためまさおのためとひと
すじにおもってくれたことですから、よしそれがおもうようにならなかっ
たとて、たみこやわたしらがなにとておかあさんをうらみましょう。おかあさん
のこころはどこまでもなさけごころでしたものを、たみこもけっしてうらんではい
やしまい。なにもかもこうなるうんめいであったのでしょう。わたしはもう
あきらめました。どうぞこのうえおかあさんもあきらめてください。あすのあさは
よがあけたらすぐいちかわへまいります」
はははなおことばをついで、
「なるほどなにもかもこうなるうんめいかもしらねどこんどというこんどわたしはよ
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くよくこうかいしました。ぞくにおやばかということがあるが、そのおやばか
がとんでもないわるいことをした。おやがいつまでももののわかったつも
りでいるが、たいへんなまちがいであった。じぶんはあみださまにおすが
りもうしてすくうていただくほかにたすかるみちはない。まさおや、おまえはからだをだい
じにしてくれ。おもえばたみこはながねんのあいだにもついぞわたしにさから
ったことはなかった、おとなしいこであっただけ、じぶんのしたこと
がくいられてならない、どうしてもかわいそうでたまらない。たみこがいま
はのときのこともおまえにはなしてきかせたいけれどわたしにはとてもそれが
できない」
などとまたこえをくもらしてきた。もうはなせばはなすほどかなしくなるから
P107
とてしいていちどうねることにした。
ははのてまえあにふうふのてまえ、なくまいとこらえてようやくこらえていたぼく
は、じぶんのかやへはいりふとんにたおれると、もうたまらなくいちどにこみ
あげてくる。くちへはてぬぐいをかんで、なみだをしぼった。どれだけなみだがでた
か、りんしつのははからよがあけたようだよとこえをかけられるまで、すこしも
やまずなみだがでた。きたままでねていたぼくはそのままおきてかおをあらうやいな
や、まだほのぐらいのにいえをでる。ゆめのようににりのみちをはしって、たい
ようがようやくちへいせんにあらわれたじぶんにとむらのいえのもんぜんまできた。このやの
かまどのあるところはにわからしょうめんにみえすいてみえる。あさだきにむぎわらをたいてぱ
ちぱちおとがする。ぼくがまえのえんさきにたつとおくにいたおばあさんが、め
P108
ざとくみつけてでてくる。
「かねや、かねや、とみや……まさおさんがきました。まあまさおさんよ
くきてくれました。たいそうはやく。さあおあがんなさい。おきぬき
でしょう。さあ……かねや……」
たみこのおとうさんとおかあさん、たみこのねえさんもきた。
「まあよくきてくれました。あなたのくるのをまってました。と
にかくにあがってごはんをたべて……」
ぼくはあがりもせずこしもかけず、しばらくむごんでたっていた。ようやくと、
「たみさんのおはかにまいりにきました」
せつなるさまはめにあまったとみえ、よったりともくちがきけなくなってしまった。
P109
……やがておとうさんが、
「それでもまあちょっとごはんをすましていったら……ああそうですか。
それではみなしてまいってくるがよかろう……いやきものなどきかえ
んでもよいじゃないか」
おんなたちは、もうはなすすりをしながら、それじゃあとてたちあがる。みず
をもち、せんこうをもち、にわのはなをたくさんにとる。おだまきそうせんにちそうてんじくぼ
たんとてんでんてにとりわけてでかける。かきのきのしたからせどへぬけまきべい
のうらもんをでるとまつばやしである。ももばたけなしばたけのあいだをゆくとわずかのたがある。
そのさきのまつばやしのかたすみにぞうきのもりがあってあまたのはかがみえる。とむらけの
ぼちはもちのきしごほんをちゅうしんとしてむつぼばかりをくわけしてある。そのほどよ
P110
いところのにいはかがたみこがとわのすみかであった。ほうむりをしてからあめにもあ
わないので、ほんのあたらしいままで、ちからがみなどもいまむすんだようである。
おばあさんがさきにいでて、
「さあまさおさん、なにもかもあなたのてでやってください。たみこのため
にはほんにせんそうのくようにまさるあなたのこうげ、どうぞまさおさん、
よおくおまいりをしてください……きょうはたみこもさだめてくさばのかげで
うれしかろう……なあこのひとにせめていちどでも、めをねむらないたみ
こに……まあせめていちどでもあわせてやりたかった……」
さんにんはめをこすっているようす。ぼくはこうをあげはなをあげみずをそそいで
から、まえにうづくばってこころのゆくまでおがんだ。しんになさけないわけだ。じゅみょうで
P111
しぬはしかたないにしても、ながくわずらっているまに、ああみまってやり
たかった、ひとめあいたかった。ぼくもたみさんにあいたかったもの、たみ
さんだってぼくにあいたかったにちがいない。むりむりにしいられたとは
いえ、よめにいってはぼくにあわせるかおがないとおもったにちがいない。おも
えばそれがびんぜんでならない。あんなおとなしいたみさんだもの、りょうしんか
らしんるいじゅうかかってしいられて、どうしてそれがこばまれよう。たみさん
がきのつよいひとならきっとじさつをしたのだけれど、おとなしいひとだけにそ
れもできなかったのだ。たみさんはよめにいってもぼくのこころにかわりはない
と、せめてぼくのくちからひとこといってしなせたかった。よのなかになさけない
といってこういうなさけないことがあろうか。もうわたしもいきていたくな
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い……われしらずこえをだしてぼくはりょうひざとりょうてをぢべたへついてしまった。
ぼくのようすをみて、うしろにいたさんにんがどんなにないたか。ぼくもわれひとり
でないにきがついてようやくたちあがった。さんにんのなかのだれがいうのか、
「なんだってたみこは、まさおさんということをばひとこともいわなかっ
たのだろう……」
「それほどにおもいあってるなかとしったらあんなにすすめはせぬもの
を」
「うすうすはしれていたのだに、このひとのむねもきいてみず、たみこも
あれほどいやがったものを……いくらわかいからとてあんまりで
あった……かわいそうに……」

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さんにんもこうげをたむけみずをそそいだ。おばあさんがまた、
「まさおさん、あなたちからがみをむすんでください。たくさんむすんでください。たみこ
はあなたがなさけのちからをたよりにあのよへゆきます。なむあみだぶつ、な
むあみだぶつ」
ぼくはふところにあったかみのありたけをちからづえにむすぶ。このときふっときがつい
た。たみさんはのぎくがたいへんすきであったにのぎくをほってきてうえればよ
かった。いやすぐほってきてうえよう。こうかんがえてあたりをみると、
ふしぎにのぎくがしげってる。とむらいのひとにふまれたらしいがなおくきだって
あおあおとしている。たみさんはのぎくのなかへほうむられたのだ。ぼくはようやくすこし
おちついてひとびととともにはかばをじした。
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ぼくはなにもほしくありません。ごはんはもちろんちゃもほしくないです、
このままおいとまねがいます、あすはまたはやくあがりますからといってかえろうとする
と、うちじゅうでひきとめる。たみこのおかあさんはもうたまらなそうなふうで、
「まさおさん、あなたにそうしてかえられてはわたしどもはいてもたってもい
られません。あなたがおもしろくないおこころもちはじゅうじゅうさっしています。
かんがえてみればわたしどものとどかなかったために、たみこにもふびんなしに
ようをさせ、まさおさんにももうしわけのないことをしたのです。わたしども
はいかようにもあなたにおわびをいたします。たみこかわいそうとおぼしめし
たら、どうぞたみこがいまはのはなしもきいていってくださいな。あな
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たがおいでになったら、おはなしもうすつもりで、きょうはおいでかあす
はおいでかと、じつはうちじゅうがおまちもうしたのですからどうぞ……」
そういわれてはぼくもかえるわけにゆかず、ははもそういったのにきがつい
てざしきへあがった。ちゃやごはんやとだされたけれどもまねばかりですます。
そのうちにひとびとみなおくへあつまりおばあさんがはなしだした。
「まさおさん、たみこのことについては、わたしどもいちどうまことにもうしわけがなく、あなたに
あわせるかおはないのです。あなたにいろいろごむねんなところもありましょう
けれど、どうぞまさおさん、すぎさったこととあきらめて、ごかんべんをねがい
ます。あなたにおわびをするのがなによりたみこのくようになるので
す」
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ぼくはただもうむねいっぱいでなにもいうことができない。おばあさんははなしを
つづける。
「じつはともうすと、あなたのおかあさんはじめ、わたくしまたたみこのりょうしんとも、
あなたとたみこがそれほどふかいなかであったとはしらなかったもん
ですから」
ぼくはここでひとこといいだす。
「たみさんとわたしとふかいなかとおっしゃっても、たみさんとわたしとはどうも
しやしません」
「いいえ、あなたとたみこがどうしたともうすではないです。もとから
あなたとたみこはひじょうななかよしでしたから、それがわからなかった
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んです。それにたみこはあのとおりのうちきなこでしたから、あなた
のことはひとこともくちにださない。それはまるきりしらなかったとは
もうされません。それですからおわびをもうすようなわけ……」
ぼくはみなさんにそんなにおわびをいわれるわけはないという。たみこのお
とうさんはおわびをいわしてくれという。
「そりゃまさおさんのいうのはごもっともです、わたしどもがかってなことをして、
かってなことをおまえさんにいうというものですが、まさおさん、きい
てください、りくつのうえのことではないです。おとこおやのくちからこんなこ
というもいかがですが、たみこはいのちにかえられないおもいをすててふたおやの
きぼうにしたがったのです。おやのいいつけでそむかれないとおもうても、
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どうりでかんじょうをおさえるはむりなところもありましょう。たみこのしはまつたく
それゆえですから、おやのみになってみると、どうもざんねんでありま
して、どうもしやしませんとまさおさんがいうとおり、おまえさんたち
ふたりになんのつみもないだけ、おやのめからはふびんがいっそうでな。あの
とおりおとなしかったたみこは、じぶんのしぬのはこころがらとあきらめてか、
ついぞいちどふそくらしいふうもみせなかったです。それやこれやを
おもいますとな、どうかんがえてもちとおやがむじひであったようで…
…。まさおさん、さっしてください。みるとおりうちじゅうがもう、かなしみのやみにとざ
されているです。おろかなことでしょうがこのばあいおまえさんにたみこのはなし
をきいてもらうのがなによりのいせきにおもわれますから、としがいもな
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いこともうすようだが、どうぞきいてください」
おばあさんがまたはなしをつづける。けっこんのはなしからいよいよむずかしく
なったまでのはなしはあによめがうちでのはなしとおなじで、いまはというひのはなしはこう
であった。
「ろくがつ[くがつ]じゅうしちにちのごごにいしゃがきて、もういちにちふつかのところだから、しん
るいなどにしらせるならばきょうじゅうにもしらせるがよいといいます
から、それではとてとりあえずあなたのおかあさんにつげるとじゅうはちにち
のあさとんできました。そのひはたみこはかおいろがよく、はっきりとはなしも
いたしました。あなたのおっかさんがきまして、たみや、けっしてきを
よわくしてはならないよ、どうしてもいまいちどなおるきになってお
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くれ、よたみや……たみこはにっこりえがおさえみせて、やぎりのおかあ
さん、いろいろありがとうございます。ながながかわいがっていただいたごおんは
しんでもわすれません。わたしも、もうながいことはありますまい……。
たみや、そんなきのよわいことをおもってはいけない。けっしてそんなこ
とはないから、しっかりしなくてはいけないと、あなたのおかあ
さんがいいましたら、たみこはしばらくたって、やぎりのおかあさん、わたしは
しぬがほんもうであります。しねばそれでよいのです……といいま
してからなおくちのうちでなにかいったようで、なんでも、まさおさん、あなた
のことをいったにちがいないですが、よくききとれませんでした。そ
れきりくちはきかないで、そのよのあけがたにいきをひきとりました……。
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それからまさおさん、こういうわけです……よがあけてから、まくらをな
おさせますとき、あれのははがみつけました、たみこはひだりのてにも
みのきれにつつんだちいさなものをにぎってそのてをむねへのせているので
す。それでうちじゅうのひとがみなあつまって、これをどうしようかとそうだんし
ましたが、かわいそうなようなきもちもするけれど、みずにおくの
もきにかかる、とにかくひらいてみるがよいと、あれのちちがいいだし
まして、みなのいるなかであけました。
それがまささん、あなたのしゃしんとあなたのおてがみでありまして…
…」
おばあさんがなきだして、そこにいたひとみななみだをふいている。ぼくは
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いっしんにたたみをみつめていた。やがておばあさんがようようはなしをつぐ。
「そのおてがみをおとみがよみましたら、だれもかれもいちどにこえをたっ
てなきました。あれのちちはおとこながらおおごえしてなくのです。あな
たのおかあさんは、きがふれはしないかとおもうほど、くどいてな
く。おまえたちふたりがこれほどのかたらいとはしらずに、むりむたいに
すすめてよめにやったはわるかった。ああわるいことをした、ふびんだ
った。たみや、かんにんして、わたしはわるかったからかんにんしてくれ。にわかのさわ
ぎですから、きんりんのひとたちが、どうしましたといってたずねにきた
くらいでありました。それであなたのおかあさんはどうしてもなきや
まないです。からだにさわってはとおもいましてそうしきがすむとくるまでおおく
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りもうしたしだいです。みをあきらめたたみこのこころもちが、こうわかってみると、だれもかれもおなじこ
とでいまさらのようにむりによめにやったことがこうかいされ、たまらないです
よ。かんがえればかんがえるほどあのこがかわいそうでかわいそうでいてもたって
もいられない……せめてあなたにきていただいて、みながわるかったこ
とをじゅうぶんあなたにおわびをし、またあれのはかにもこうげをあなたのて
からたむけていただいたら、すこしはうちじゅうのこころもちもやすまるかとおもいま
して……きょうのことをなんぼうまちましたろ。まさおさん、どうぞき
きわけてください。ねいたみこはあなたにはそむいてはいません。
どうぞふびんとおもうてやってください……」
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いちごいっくみななみだで、ぼくもいちじなきふしてしまった。たみこはしぬのがほん
もうだといったか、そういったか……うちのははがあんなにみをせめてな
かれるのも、そのはずであった。ぼくは、
「おばあさん、よくわかりました。わたしはたみさんのこころもちはよくしってい
ます。きょねんのくれ、たみさんがよめにゆかれたときいたときでさえ、わたしは
たみさんをけほどもうたがわなかったですもの。どのようなことがあろう
とも、わたしがたみさんをおもうこころもちはかわりません。うちのははなどもただそ
ればかりいってなげいていますが、それもみなわるぎがあってのわざで
ないのですから、わたしはもちろんたみさんだってけっしてうらみにおもいやしま
せん。なにもかもさだまったえんとあきらめます。わたしはとうぶんまいにちおはかへまい
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ります……」
はなしてはなきないてははなし、こういちごおついちごいくらないてもはてし
がない。ぼくはははのこともきにかかるので、もうおひるだというじぶんにと
むらのいえをじした。とむらのおかあさんは、たみこのはかのまえでぼくのそぶりが
あまりいたわしかったから、とちゅうがしんぱいになるとて、じぶんでやぎりのいりぐち
までおくってきてくれた。たみこのびんぜんなことはいくらおもうてもおもいき
れない。いくらないてもなききれない。しかしながらまためのまえのははが、かい
ごのねんにせめられ、みずからたいざいをおかしたとしんじてなげいているびんぜんさを
みると、ぼくはどうしてもいまはたみこをないてはいられない。ぼくがめそ
めそしておったでは、ははのくるしみはますばかりときがついた。それからいっ
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しんにじぶんでじぶんをはげまし、げんきをよそおうてひたすらははをなぐさめるくふうを
した。それでもこころにないことはしかたのないもの、はははいつしかそれと
きがついてるようす、そうなってはぼくがうちにいないよりほかはない。
まいにちなぬかのあいだいちかわへかよって、たみこのはかのしゅういにはのぎくがいちめんにうえ
られた。そのあくるひにぼくはじゅうぶんははのせいしんのやすまるようにじぶんのこころもちを
はなして、けつぜんがっこうへでた。
* * * * 
たみこはよぎなきけっこんをしてついによをさり、ぼくはよぎなきけっこんをし
てながらえている。たみこはぼくのしゃしんとぼくのてがみとをむねをはなさずにもっ
ていよう。ゆうめいはるけくへだつともぼくのこころはいちにちもたみこのうえをさらぬ。
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のぎくのはかおわり