青海波

与謝野晶子

美くしく黄金を塗れる塔に居て十とせさめざる夢の人われ
紅き絹二つに切りて分つとき恋のやうにもものの悲しき
山の鳥掛巣が啼けば天竺の破羅門の顔おもほゆるかな
よしあしは後の岸の人にとへわれは颶風にのりて遊べり
ひたひたと身を投げかけて思ふらく蛇の心のわれにあらはる
六枚の障子の破目あちこちに人の覗ける山ざくら花
黄なる蝶我をめぐりてつと去りぬものゝみ書くをうしと見にけん
菊の助きくの模様のふり袖の肩脱がぬまに幕となれかし
あさましき素肌の少女見るごとき貝のからかなましろけれども
うとましや紛るることの日に多く恋も妬みも姿きまらず
この年の春より夏へかはる時病ののちのおち髪ぞする
わり竹に紅紙はれる舞あふぎ猿の振る日も涙こぼれぬ
水無月の青き空よりこぼれたる日の種に咲く日まはりの花
わが逢はむ男の数を語れよとたはぶれつれば相人は逃ぐ
またよそに目うつるまじとたのみしも神代のこととなりにけるかな
にほはしさおよそ少女の心ほどみたせる玻璃の花瓶もて来
梢より音して落つる朴の花白く夜明くるこゝちこそすれ
二十をば七八つこせし放埒の弟が穿くひだなき袴
過去未来云ひもて行けば虚無ながら念をし掛くれこの君のため
君が門まへになしたる青き道わが歩むとき秋の風吹く
十年前まだすなほなる風俗のわが里に来し獅子の息子よ
くれなゐの海髪の房するすると指をすべりぬ春の夜の月
初夏の楓の枝に藤ちれば花笠に似てなまめかしけれ
水いろの麻のしとねにあけがたのいたづら臥の手も指も冷ゆ
かたはらへやはらかに倚りもの思ふこのおもむきの中に死ぬべき
わが宿世浮木に身をばくくられて捨てられにけん流れ来にけん
秋の朝黍の木などの白き根を出すここちに寒き爪先
兎の絵魚の絵描きて永き日を子に見することややあぢきなし
ふるさとの幼なじみを思ひ出し泣くもよかろと来る来るとんぼ
やはらかに心の濡るる三月の雪解の日より紫を着る
西大寺など云ふ寺の大門に今立つ如しよき入日かな
こゝちよく橄欖色の透きとほり身に流れ入るすゞらんの花
恋もせじ人の恨みは負はじなど唯事として思ひし昔
夕立のしぶき吹きこむ歌舞伎座の廊下に語る杵屋のおろく
紅き点金の点をば日をおきて打ちに行くなりしろき心に
千葉の海干潟の砂につばくらの影して遠き山のはれゆく
(以下十二首上総下総に遊びて)
藁積みて新造船の腹を焼く街のうしろのほのぐらき川
中空に人のましろき背に似たる燈台見えし松原の道
岩鼻の燈台を見る何となく今死の苦よりのがれし如く
岩のくぼ浜豌豆の花咲きぬ久方の雲おちちれるごと
芍薬の花より艶にあかばみぬ雨のはれ行く刀根の川口
黒き家灯のともる時旅人は涙こぼしぬ川のこなたに
刀根の川さゝ濁りして初夏の日のくれ行けば船の笛鳴る
川口の初夏の雨はなやぎぬ対岸の灯と恋をするごと
真菰伏すかぜにまじりてはしきやし香取の宮の大神はある
たはぶれに青き真菰の葉を組める指ちかく来る川あきつかな
かきつばた香取の神の津の宮の宿屋に上る板の仮橋
無くもがな世の亡ぶ日も気のふれし母をわが子の目に映す日も
何となくよりどころなく思ふ日の三日四日ありて衰へしかな
絶間なくそのかみの夢見ることを何にもまして哀れがりける
みなぐさめ三たびきけども知らぬごと涙ながすは死ぬべき性ぞ
青き蘆人をおほひて伸びたりと蚊帳を眺むる明方のわれ
椿踏む思へるところある如く大き音たておつる憎さに
消息の往来やがてふつと絶ゆ人間の子は知らずその外
初秋は王の画廊に立つごとし木にも花にも金粉を塗る
かたはらに源氏の君のそひぶしてあるを親見しいつぞやのこと
大いなる欝金のひと葉日に透きて散る時われも舞はまほしけれ
竹杖を地に横たへて額づける乞食を隔て砂風ぞ吹く
たやすげに死なんと誓ふ若人もありのすさびに哀れとぞ思ふ
七つの子かたはらに来てわが歌をすこしづつ読む春の夕ぐれ
水色に塗りたる如き大ぞらと白き野菊のつづく路かな
ことごとく因縁和合なしつると思へる家もときに寂しき
誰が見ても恋しくなれと云ふやうに若衆かづらを君被く時
振袖の従妹と伯母とにぎはしく送られて来て序の幕あきぬ
わが恋のめでたきことを思ふ時おつる涙の焔のしづく
恋人を遠きにやるはうけれどももの思ひをばならはんわれも
男行くわれ捨てゝ行く巴里へ行く悲しむ如くかなしまぬ如く
海こえて君さびしくも遊ぶらん逐はるる如く逃るる如く
秋の草みなしろがねの竹に似ぬ野分の通るむさし野の原
初恋の日よりつづきてめざましき心の如き紅蜀葵かな
はかなしや天女の髪も秋くれば落つと云ふなりわがひとり言
うすぐもり青き八つ手の濡れたるがここちわろき日三日四日となる
たをやかに笑ふ女の糸切歯しろく尖りて凉しさの湧く
雨を吹く隙間の風にあぢきなく濡れて戦げる蚊帳の裾かな
見て足らず取れども足らずわが恋は失ひて後思ひ知るらん
きちがひか継子ごころか情てふものにことごとうらかくごとし
わが取れる紗の燈籠に草いろの袖をひろげて来る蟷螂
七八とせ京大阪を見ずなりぬ遠き島にも住まなくにわれ
猪と鼠立ちて歩める絵の状に春が伴れくる田舎人かな
さくら散るわが来し方と共に散る涙とともに雨まじり散る
花引きて一たび嗅げばおとろへぬ少女ごころの月見草かな
ものの列来るを見れば横ぎりぬそのことをいと派手に思ひて
東京に雪雲くれば遠方をふたがるるごと急ぎ文かく
わが太郎色鉛筆の短きを二つ三つ持ち雪を見るかな
光明を恐れてすなるすさびとも眠れる人を思ふなるらん
あめつちの中にただよふ悲しみをわがものとして親しむ夕
君と居て百とせなほも憂へずとささやくは誰石の湯槽に
眉引かず香油を塗らぬ素肌をばめでたく映す掛鏡かな
湯槽にてわが枕する腕は望の月夜も及ばぬものを
夢いまだ多きが如し春の湯にうつりて匂ふ我のまなざし
われは猶博士の庫の書よりも己を愛でゝ黒髪を梳く
たそがれの光もわれの身に添へば悲しきばかりめでたかりけれ
みづからを愛でんと我は白鳥に身をば仮れるや春の湯の海
しら鳥の背を隠さんと水色の帳を引けば青空に似る
この白き胸を自ら刺し通す狂乱の日のありやあらずや
山川に踵をひたす夏のごと石だたみをば水のながるる
たはぶれに眉をひそめぬ自らの素肌を抱く寒き女と
夜の色ともしびの色湯の靄によき襞つくる愁をつくる
悔むべき恋もなき身に何事ぞ湯槽にかくれ涙あらふは
粉黛のこちたきことを厭ふ人泉の如く湯を好むわれ
木の下に落ちて青める白椿われの湯浴に耳をかたぶく
湯槽をば水晶宮になぞらへぬありて耻なき身の清らさに
かたはらに睡蓮咲くと誰云ふや湯槽に浮ぶわれの円肩
森に似る青き板壁つや好くも静かにうつす燭と素肌と
ふくよかに身の若きこそめでたけれ薔薇をもつまじ棘の傷めん
湯を出し真白き魚の嗅ぎよりぬ玻璃の器の金蓮の花
ほのじろき靄の中なるうまごやし人踏むころのあけがたの夢
三尺の柳を折れば大馬に春は女ものらまほしけれ
白き墓いつにてもあれ安らかに寝に行くを得る床とおもひぬ
大いなる支那の地図をば拡げ見る男の傍に白蝋を焚く
舞姫のおしろいするも寒からん京の秋かぜ川よりぞ吹く
少女の日あたり近くもよせざりしそのあやかしの友となりにき
色白のおしゆんが刈れる萱の葉の光るも凉し馬の背より
生来の二重の心二やうに事を分くるがここちよきかな
何ごとか病める蚕の冷たさに胸薄じろくくもる夕ぐれ
わかき友さかづきを見て何泣ける破れし恋と酒と似たるや
つれなくも物思ふ間にたけのびて悪しき匂ひを立つる雑草
左右より胡蝶の羽を背に負へる子役のいでて笛ひゆうと鳴る
雪積もる深夜の街の道具立よこにまはりて君ちらと見ゆ
いづこへか逃れんとして逃れ得ぬ重きここちに大ぞらを見る
悲しとは足らへる際に云ふことぞ与り知らず目の外の人
彼の人を暫くわれの憎みしは暫くわれや恋したりけん
短命はすでに知りたる人と云ふおのれともなくめでぬ鏡を
薔薇咲くしろくはた黄にうす紅に刑の重きは墨色に咲く
影の国黒き氷を出できたりわれをば掩ふ蝙蝠の翅
門に干す刈草の葉にまじりたる釣鐘草もかなしかりけれ
刈草の青白きをば嗅ぐ如くわれを思ふや三十路してのち
水盤に紅おとすよりあてやかに早くひるごる星月夜かな
甘き味ほのかに残り憎からぬわれの酔ひざめ君の酔ひざめ
やうやくに思ひあたれる事ありや斯くものをとふ秋の夕風
玻璃を滴る花ゑんどうの柔かき緑のしづく臙脂のしづく
黴にほふ衣桁の衣を被くとき雨を憎みぬ継母の如
われすでにあたはずと云ひ人々に一尺すさりものをこそ思へ
砂に居る鴨の如くに額たれて人言のみを聞くははかなし
皐月来ぬうす黄の棕梠の花落ちて池の濁れる旅の宿かな
秋来ぬと白き障子のたてられぬ太皷うつ子の部屋も書斎も
見るところ世を楽むに似たれども悲しきことを背後にぞする
この君かさも類なくききたりし人はと云ひて知らぬ子の泣く
霰より早く羽より軽やかに心をわたる淡きかなしみ
なほさめぬ夢の女とささめきてわれを見返るこのも彼のもに
あらましは君に染まりぬわが心うらなつかしきものとしる頃
人ごみのうしろに低く爪だてて若き俳優に花なぐるかな
近き家いと悲しげにこちたくも香焚く日なりうぐひすの声
びろうどの薄青色の机かけわが目のみ見る春のひるがた
南かぜ塵を上ぐればいみじかる初夏の日も灰色となる
たなばたの星も女ぞ汝をおきて頼む男はなしと待つらん
三十路しぬ妄想邪見ややふかくなるとも知らずたのまる君に
よき事に何をえらぶぞ君を見てあらむ命のつづくをえらぶ
きさらぎの雨となるともきさらぎの雪となるとも寝てあり給へ
少女子の遣羽子の音久方の照日の神も佐保姫もきく
いまはしく指のきたなき彼の座頭変化のごとし曲弾をする
京の子の小肩をこえてちる時に板屋紅葉は匂やかに見ゆ
彼の人にいたはられましこの人に小鳥の如く養はれまし
鉢のもと一尺ばかり紅く這ふ花ゑんどうの薄あかりかな
あら磯の犬吠岬のしぶきをば肩より浴びてぬれしかたびら
いにしへのさびしき人もかくしけん蓬生に居て大空を見る
わが脛に知らぬ男の足触れし驚きをして泥を憎みぬ
くるくると器械まはれば黄なる埴鉢のかたちすあぢきなきかな
春くれば古きすだれも夕雲のにほへるまへにそよぎこそすれ
近き日に何の来るをゆめみけん十とせのまへのうつしゑの人
むらさきの帳を背にして独居ぬ飽くなき心すこし鎮まれ
たそがれの硝子障子に映りたる濡れし欝金のひともと銀杏
螻蛄の音よ平野次郎が獄屋にて弾きたる紙の琴に似るかな
生れ来て一万日の日を見つつなほ自らをたのみかねつも
大いなるツアラツストラの蔑みし女の中にわれもあるかな
驚きて黒き瞳をわれ見はるツアラストラに耳を貸しつつ
金の蛇ここちよきかな身を咬みぬツアラツストラの杖を離れて
板屋根を野分の風の剥ぎしより空の覗けるあぢきなき家
きのふけふ塵に染みたる糸くづと見るまで萩のあはれになりね
すすきより萩の花より何よりもわがまづぬるる秋の露かな
あらむこと残り少なきここちしぬ日のあかき昼月しろき夜
沖つ風吹けばまたたく蝋の火にしづく散るなり江の島の洞
鵠の鳥かき消す如く立ち去れば小波もなき黄昏の海
病むわれのたよりなげにも歎く時かたへに慄ふ桜草かな
十界に百界にまだ知らぬこと一つあるごとし身ごもりしより
不可思議は天に二日のあるよりもわが体に鳴る三つの心臓
この度は命あやふし母を焼く迦具土ふたりわが胎に居る
生きてまた帰らじとするわが車刑場に似る病院の門
己が身をあとなく子等に食はれ去る虫にひとしき終ちかづく
男をば罵る彼等子を生まず命を賭けず暇あるかな
大雪に枕するごと生きながら岩に入るごと白き病室
悪龍となりて苦み猪となりて啼かずば人の生み難きかな
親と子の戦ふはじめ悲しくも新しき世の生るるはじめ
蛇の子に胎を裂かるゝ蛇の母そを冷たくも時の見つむる
胎の児は母を噛むなり影のごと無言の鬼の手をば振るたび
その母の骨ことごとく砕かるる苛責の中に健き子の啼く
あはれなる半死の母と息せざる児と横たはる薄暗き床
虚無を生む死を生むかかる大事をも夢とうつつの境にて聞く
死の海の黒める水へさかしまに落つるわが児の白きまぼろし
よわき児は力およばず胎に死ぬ母と戦ひ姉とたたかひ
あはれにも母の命に代る児を器の如く木の箱に入る
産のあと頭つめたく血の失せて氷の中の魚となりゆく
産屋なるわが枕辺に白く立つ大逆囚の十二の柩
血に染める小き双手に死にし児がねむたき母の目の皮を剥ぐ
間を置きて荒く皷弓を擦る如くうつろの胎の更に痛みぬ
みづからを苦むるをば恥とせし我も苦む母の習ひに
いでわが児幸あれと先づ洗ふ母が身を裂く新しき血に
母として女人の身をば裂ける血に清まらぬ世はあらじとぞ思ふ
流れつゝ蘆の根などに寄る如く産屋に冷えて衰へしわれ
打つ笞に血の走るまで糺されて悔いざりし如蘇りきぬ
うばたまのわが洗ひ髪ちらし髪金の襖子にふるる初夏
開山の法師よりけにたふとばれ恋の話をきく人となる
秋のかぜ口を窄めて噴水盤のうす紫の水を吹くらん
たをやめの胡蝶の舞を見さしきて白き露台の雨を手に受く
をりをりに黄なる粉ちらす藪椿彼も泣くらん醜き椿
水色の秋のあけぼの大海の真白く塗れる船に有らまし
澄みとほるあまき涙を海として黒髪をひく白き魚われ
秋来りものに抗ふ心さへ薄紙の如濡れにけるかな
われ昔さびしき事を恋と云ひ楽しき事を死ぞと思ひし
かきつばたわれのやうなる気随者眉ひそめつつ人見るに似る
何の木か小枝がちなる影おとす寒き月夜の街の敷石
雲流るおほくの人に覗かれてはや書をする文の如くに
八月の雨ならばいとよからまし瀬の音なれば人のしのばゆ
ここちよく高く風鳴る一もとの檜のもとを歩むあかつき
おのれをば守る力のなきやから黒がねをもてよろへるやから
めづらかに怖しく将た嬉しかる男の息のひなげしの花
大きなる百合の落つるは艶めかし我のわかさの去るにくらべて
あながちに忍びて書きしあと見ればわが文ながら涙こぼるる
あかつきの竹にとまりて蝉なきぬわが鏡より出でし心地に
ひなげしの赤きと粗き矢がすりの御納戸うつる花皿の水
飾らざるわがまごころの素直さをあらはに人の覗くさびしさ
思へるは片恋ながら自らは塵もすゑじとなす人はよし
この内にメヅザの楯を入れおくと傍の櫃を指さしぬわれ
わかみどり柳に隠れ手を拍てば男の覗く紺納簾かな
床几より足を垂れたる舞姫の前に絹ひく加茂川の水
寛弘の女房達に値すとしばしば聞けばそれもうとまし
薇薔咲きぬかつて夢寐にも知らざりし思ひごとする人のほとりに
ゆかしけれものの哀れを知る群に入れ余されて過ぎし年頃
めでたきもいみじきことも知りながら君とあらむと思ふ欲勝つ
春風も冷く吹くは白蘭の花のあたりに黄なる香焚く
吾妹子がくるぶし痛む病ひして柱によればつばくらめ飛ぶ
わが前に人らひろげぬなつかしき茜もめんの大阪なまり
わが世をばよろこぶなりと風吹けば髪も柳もおなじこと云ふ
あけくれの鶯の声きさらぎの春の面にうきぼりをする
旅にある君かへるよりまさること未だ知らざる身を祝ふかな
青き木よいつまで立つぞ青き木は枯れし木よりも傷ましきかな
常磐津の連中ほむる姉たちの知らぬ文書くふところ紙に
男衆にふところ手してもの云へるうき人に逢ふ初日の楽屋
木戸へ行く茶屋の草履にうち水のしぶきのかかる夕月夜かな
一しきり花豌豆の風おくる凉風ふきて廊のくれゆく
何ごとに思ひ入りたる白露ぞ高き枝よりわななきてちる
あるかぎりことをこのめる中に居てひとりすなほに恋もつくりぬ
時にふと思ひせまりて息つくも十とせに余るわれのならはし
若き日は尽きんとぞする平らなる野のにはかにも海に入るごと
契らねど衰へは来ぬ何となきうらはかなきをわれに知らせて
吉原の火事のあかりを人あまた見る夜のまちの青柳の枝
蝶ひとつ土ぼこりより現はれて前に舞ふ時君をおもひぬ
水草に風の吹く時緋目高は焼けたる釘のここちして散る
棕梠の葉のみづから高き悲しさよ小草の知らぬ風にはためく
草もなき赤土原の干割れしを越えて簾に上る夏の目
棕梠の葉も蓬の茎もをちかたに雷鳴れば砂をこぼしぬ
辻ごとに黒き服着る旗振が電車に載せて夏を撒くらん
鱶などの暑き干潟にのこされて死を待つばかり寝ぐるしき床
かずかずの心の難に勝ちし身も疲せて細りぬ夏の来れば
わが知らぬ砂漠の風の身を吹くと夏を歎ちぬ草のいきれに
日のささぬ蔭にわが子を寝さすれば足の方より昼も蚊の鳴く
射干の赤き花より油ぎる蜥蝪の背より夏のひろがる
齒ぎしりをする子の如く夜の樹にぎと短くも啼きて止む蝉
わが嫌ふ男ならねど夏こそは深くあくどくいと苦しけれ
小き文肱におさへて云ふことのよし悪心のこのうつはもの
わがつねに心に覗く洞穴を出しが如き黒き蝶かな
こほろぎは床下に来て啼く時にちちこひしなどおどけごと云ふ
枝などを髪の如くにうち乱し流るる木あり大河の雨
人並に父母を持つ身のやうにわがふるさとをとひ給ふかな
自らを淡き黄色にかはりゆく秋の草とも思ひなすかな
かしこさよ御裳裾川の板橋をわが踏む音のこだまする朝
(以下八首伊勢志摩に遊びて)
天てらす神の御馬にわが子等が豆を食まする朝霧の中
夕月のひかりの如くめでたきは木立の中の月読の宮
祈らくは豊宇気の神貧しかる我等が子にも糧を足らしめ
曇りたる沖をながめて涙おつ心さびしや伊勢の海辺に
ものふりし鏡ならねで静かにも二見の浦は雨に曇りぬ
少女子の櫛笥の中を見るごとく小船のならぶ鳥羽の川かな
出で行くや港に入るや知りがたし島づたひする阿虞人の船
かりそめの物語より涙おつ病めども心をどる人かな
をりをりに心の夢をくらくする雲の陰影あり秋の日の如
荒縄のたすきをしたる門ばしら撫でてくぐれば雨がへる鳴く
こすもすと紅きだりあと雨に濡るみだれしままに刈らぬ草むら
幾とせも仰がでありし心地しぬ翡翠の色の初秋の空
毛氈のはねず色をば木の下の床几に敷けば蜩の啼く
あたたかき砂を手に戴せうつつなく語れる人に馴れてよる鵠
簑を着て図書館まへの大河を船人のぼる水無月の雨
恋をしぬ日毎忘れず泣きうべき身にしむことを君に聞かむと
流俗とたたかひ番ふ日とならばこの超人とともに勝たまし
春過ぎて木蔭に小く咲きいでぬ末の子に似る山吹の花
二月の朝鴉啼くみやしろの青き瓦にあられふるとき
わが閨の朝日に似たる紅硝子窓にはりたる山の馬車かな
黒き雲愛宕の山の上にいで人おびやかす秋のゆふぐれ
世につかず人を頼まずありてさへわれあさましと見る日もありぬ
一切をやや明かに見透す日われに来りて物足らぬかな
蜘蛛の巣にしら露おきぬ二三本竹のなびくも藪ごこちする
秋の風かの来るとき恋ざめのくらき冷き顔見ゆる風
かなしくもわが子の指にはさみたる蝶の羽より白き粉のちる
腹立ちて炭まきちらす三つの子をなすにまかせてうぐひすを聞く
若き人年を知れるとややたけて年忘るるといづれもよろし
もの書きぬうす手の玻璃に萎れたる黒きだりあをかたはらにして
そぞろなる夜の心にうかび来るだりあの花はわりなかりけれ
なほいまだ若きよはひを惜しとしぬ恋することもこの心のみ
風吹けど花みじろがぬうす紅の椿はかなしわが墓のごと
今ひとたびわれを忘るる日はなきや親のいさめし恋の如くに
君たちの知らぬ国よりわれ来ぬと云ふべきことを今は言はまし
秋が着る素足のすその裏葉色清らにつづく廊を行く
初秋のあらしの中にうなづきぬ孟宗竹の黄なる末など
かぶと虫玉虫などを子等が捕る楠の木立の初秋の風
ひんがしの国のならひに死ぬこと誉むるは悲し誉めざれば悪し
(以下輓歌十三首)
勇しき佐久間大尉とその部下は海国の子にたがはずて死ぬ
瓦斯に酔ひ息ぐるしとも記しおく沈みし艇の司令塔にて
大君の潜航艇をかなしみぬ十尋の底の臨終にも猶
武夫のこころ放たず海底の船にありても事とりて死ぬ
海底の水の明りに認めし永き別れのますら男の文
水漬きつつ電燈きえぬ真黒なる十尋の底の海の冷たさ
海底に死は今せまる夜の零時船の武夫ころも湿ふ
大君の御名は呼べどもあな苦し沈みし船に悪しき瓦斯吸ふ
いたましき艇長の文ますら男のむくろ載せたる船あがろきぬ
やごとなき大和だましひある人は夜の海底に書置を書く
海に入り帰りこぬ人十四人いまも悲しき武夫の道
髪白き生田小金次先生は佐久間を語り春の日も泣く
いつしかと若き心にまかせたる身は三十になりぬあさまし
うらさびし円覚寺にて摘みし花かざせしままに君と歩めば
錫となり銀となりうす赤きあかざの原を水のながるる
羽負ひて登天の日のここちする小雨まじりの初夏の風
初夏のあかるき緑やはらかにわが病む床のしら布を吹く
ほのかなる紅絹の色かな夜に祈るギリシヤ教の寺の灯の如
切岸を雨にすべりて洲に立てる秋の雑木もあはれなるかな
衰へと云ふこの報ひうくるより苦しきはなし恋の終りに
新しきわが生涯をきづくとて心にたてし円ばしらかな
ふきあげの盤よりなびく水の音静なるこそ悲しかりけれ
幽霊はまだ消えずやとうつぶしの稚児輪が云ひぬ島田の膝に
悲しさをまぎらはさんとくだものの皮むく土間の白き指かな
うつむきて六二の桝にもの書けばかのさじきより人のどよめく
秋の夜の灯かげに一人もの縫へば小き虫のここちこそすれ
馬上より垣の柳を人摘みぬ駿馬の骨を摘めと云はまし
木蓮のしろき花びら物とせず憎げに散す瑠璃色の蜂
何にてもえらばで其れに縋るべき弱き心を十年鞭うつ
わが生みし第一の子は病みがちに清く細りぬ天の身ならん
かき抱きともに玉とも変るべき不思議は無きか此子死なさじ
病むを見て子に謙る親ごころ懴悔の如き涙ながるる
代れるか親の受くべき禍に我児は病みて清く痩せゆく
清らにも我児の病める悲しさよ水の底なる月のここちに
さし覗きこの児死なんと咽びけり病みてあはれに痩せし寝姿
手にとれば青玉をもて刻まれし虫のここちに青きすいつちよ
鎌の刃のしろく光ればきりぎりす茅萱を去りて蓬生に啼く
大世界あをき空より来るごと蕾をつけぬ春の木蓮
秋の島奥の方より水はこぶ白き桶などここちよきかな
秋の日の夕となればわがうれひ君がこころにまつはりて這ふ
魚市のかがりの煙更けし夜の港になびき白き露ふる
天王寺田舎の人の一つ撞く鐘の下より凉かぜの吹く
狂乱に近づくわれを恐るるや蝶もとび去る髪をかすめて
なでしこの花咲く頃となりぬれば人目をしのび文書くわれは
二つ三つ忘られぬこと書きこして心の上を走り行く人
渚なる廃れし船に水みちて白くうつれる初秋の空
指をもて濶き空にや書きすてんこの国の人忌むと云ふなり
冬の手に裂かれて落つる金の箔ひと葉ちるなり二葉ちるなり
東大寺二王の門を静かなるうす墨色にぬらす秋雨
人のする初恋なども耳とまり秋はものみな哀れなるかな
生きながら身の棄てらるる心地しぬ岩代山の雪よけの底
(以下三十三首岩代に遊びて)
雪よけの板屋くづれて草の葉の裏ひるがへり山の雨ふる
磐梯の山をとどろと鳴し来てみづうみに入る白き横雨
山潟の駅にわが見るみづうみは譬へば白き肘の片はし
岩こえて三筋に裂くる白き瀑とどろと鳴りて山に霧ふる
ひと時も千とせもなしと教へ居る琅●(オウヘン+「干」)洞の水の音かな
湯上川ここに日を経ば衰へて身を隠すとや人の云はまし
人言はさもあらばあれ湯を愛でてさもあらばあれ山に日を経る
初秋の湯上の山の朝風に水を過りて雲のふかるる
わが背子と夏の旅路にやつれ来て今日みそぎする岩代の山
みづからを山の湯ぶねに朝くだる白き雲かと驚きぬわれ
美くしや会津の山の湯上川ちさき板橋ちさき舞姫
みやびをとたわやめのみの渡る橋宿屋の門にひとつある橋
湯上川たかき欄を背にしてつづみの紐をむすぶ舞姫
山あひに管玉などを置くと見る湯上の川の瑠璃色の底
湯あみしてやがて出じとわが思ふ会津の庄のひがし山かな
半身を湯より出して見まもりぬ白沫たてる山あひの川
自らを清しとすれど猶あかず会津の山の湯を愛でて浴ぶ
川底のろくしやう色の板岩に白き裳引きて躍る水かな
谷底の湯槽に近く鳴る水を遊べる魚のここちして聴く
ましろなるわが身をめぐり湯の湧けばいかづち伏せてあるここちする
憎くげなし湯槽にとなるあなぐらに似る小座敷の三味線の音
あけがたの山の巌間の湯にあれば近き雲より小雨そぼふる
渓川の岩のくぼみの水だまり星座のごとく見ゆる朝かな
山の雨ころもを濡し葛の花人にまとひぬあかつきの谷
花かざし今水姫があそびごとする灯の川となりにけるかな
山黒く暮るれば谷の二側に白き流れをてらすともし灯
湯上川わが今日おとす美くしき涙もまじる水の音かな
飯坂のはりがね橋にしづくしる吾妻の山の水いろの風
吾妻山うすく煙りて水色す摺上川の白きあなたに
わが浸る寒水石の湯槽にも月のさし入る飯阪の里
山の湯にわが円肩のうつれるをしろき月夜と思ひけるかな
山の湯に浸りて何を思へるやなほ美くしき恋を思へる
煤びたる太き柱に吊りわたす蚊帳に入りくる水の音かな
見つつなほもの哀れなる日もありぬ逢はで気あがる日もありぬわれ
元朝やわか水つかふ戸に近き柳の花に淡雪ぞふる
おさへ居し手のひらぬけて五つ六つ目の前に舞ふかなしみの蝶
草の庭まへに見ながら飯を食ふ男おもひぬ逢ひにこぬ時
世に知らぬ千年の寒さ身を噛みぬわが肱まげてひとり寝る床
麦の穗の黄ばめる上にものの葉の裏見るごとき海の色かな
いづ辺へか行き隠れんと思ふこと瘧病のごとくなほする
たのしみのまた来る日をあたへよと訴へぬ子は衰へにけん
夏となり銀のとんぼの飛びくれば忘るる日なしかの人のこと
あな凉し大雨の中の木立をばわれの心のはしり行く音
折ふしに悪をほどこす心などわが末の世にをかしからまし
芝居よりかへれば君が文つきぬわが世もたのしかくの如くば
水無月の夜にして早も啼く虫のやさしき声のうすみどり色
藤の花わが手にひけばこぼれたりたよりなき身の二人ある如
自らを先ず驚かすことするとこの衰へをつくるならねど
足らぬこと無しと知れども涙おつうらはかなさや病ならまし
剥がれたる木の皮などの泣く音かと木立の蝉をかなしめるかな
小蒸汽が橋の下にて笛吹くも物のはずみに泣かまほしけれ
棕梠の花魚の卵の如きをばうす黄にちらし五月雨ぞふる
わが背子が行く日近づく海こえて若しかへらずばかなしからまし
海こえて所さだめずわが背子と流れて遊ぶ身ともならまし
百舌鳥啼けば火のつく如く過失をせむる男のこはき顔見ゆ
心臓にわが顔つけて吸ふは血か魔薬の液か熱しくるほし
金屋に人なき時は春の日も秋にとなれる思ひこそすれ
かちわたり波かしきたり足もじる危ききはに夕風ぞ吹く
うき草の中より魚のいづるごと夏木立をば上りくる月
烏瓜たよりなげなる青き実の一つかかるもさびしきものを
せはしげに金のとんぼのとびかへる空ひややかに日のくれて行く
黒馬のながく伸せる首すぢのつやつやとして萱の露ちる
大和川砂にわたせる板橋を遠くおもへと月見草咲く
われ早く重きいかりを身におひぬ楽しき恋の底にしづめと
大空にあそぶが如く折折に虚無に羽搏てば健きかなわれ
初秋の一重の衣凉やかに風の通るも恋に似るかな
かの刹那この刹那いとおもしろくいと狂ほしくいと悲しけれ
夜もなほ籠のあたりに灯をおけば金糸雀は啼く旅人のごと
七尺の簾を透きて白百合のそよぐ夕にわたるいなづま
狂ほしき黒髪をもて絡みたる心の巣より紅き鳥啼く
腕をみづから枕きて雪山の流れと聞くもここちよきかな
ものの蔓あかざまじりに枯残る築土の内のたんぽぽの花
光氏が浅草寺の檐したに袂をしぼる水無月の雨
ひと時の盛りと云はむ中にあり世をみな夢と思ふたぐひに
朝夕こころにみたずと思ふこと多くなれるもおとろへしゆゑ
恋人ともの云ふ如く立ちながら手ずさびに引く青柳の糸
店さきに住吉をどり傘の柄を叩く音より夏のひろがる
わが姿いまだ人見ず火の柱のみ見ゆと云ふあさましきかな
ある人もある書も皆華やかに恋をとりなしわれを教へし
さし櫛はおちて後に音たてぬ心に代り高く泣くらん
知恩院の高き屋根よりわが髪に皐月のしづく青やかにちる
街々はうす黄の菊のさびしさに早くも似たり十月の末
自らをもて証さんと思ひ立ち寒き不思議に入りにけるかな
いかばかり光る玉ともわれ知らず人採らば採れ人棄てば棄て
紙を切る細き刃物も何となくすさまじきかな夜を一人居て
恋さへもわがなすさきに飽きたらぬ心の奥の心としりぬ
かの人にかかはりなづむ心をば今知るがごと頬の染まるかな
青玉の涙ながれて川尽きずわれは其処より棹さしてきぬ
雨白く土をあらへば瀬戸かけの藍の模様のひかる夕ぐれ
杏の実うすく赤める木の下に砂を流せるあけがたの雨
ともすれば久しく座して思ふこと青き御空の額に落ちこと
あめつちを生の親とも云はずして夜昼におもふ山のおくつき
君やがて草踏む靴の寒げなる音を憎みてかへりこしかな
明星も白き小石にしかめやと手のひらに置きかたらふ夕
恋をわれ断え易き火とおもはねど抱きつつ吹く身のこぐるまで
うす赤きすゐいとびいの花の呼吸湯気より熱きここちするかな
夕ぐれの夕ぐれのかの笛の声ほどふるままにわりなく恋し
ひと時にわかき命を焼きつくせ斯く呼ばはりて行くにかあらん
高き屋に朝々のぼり遠かたの木蓮の花見る日となりぬ
吹き来り室に入る時秋の風わが面見てあな寒むと云ふ
秋の来てとうしみとんぼ物思ふわが身のごとく細り行くかな
しろき月木立にありぬうらわかき男の顔のぬれし心地に
かば色のつやよく長き頸のべて麒麟の食めるあかしあの花
小き手を横に目にあて泣く時はわが児なれども清しうつくし
あぢきなく石につまづく心地して俄かに切れし三味の絃かな
青磁の器水たたへたりわれ死にて行く国浮ぶここちこそすれ
あなさびしこの辺には人なきか人はあれども未だ夜明けず
飽くをもて恋の終と思ひしに此さびしさも恋のつづきぞ
娘にてこころに得たる病より痩せの癒えざる憂身なるかな
筆とれば涙おちきぬ指痩せてふるるに似たり枯木と枯木
前髪を焔のごとくちぢらせぬ恋にかかはる執着のため
水色の朝顔に似て板敷のつやにうつれるわがたもとかな
この国のはてをさまよふここちすれ旅人おくり京にきつれば
相あるを天変さとし人騒ぎ君は泣く泣く海わたりけん
とく消えぬ人ねたまずや大船に二人乗れりと思ひし夢も
片ときも立ちはなれずてならひしは昨日のわが世こし方のこと
君行きてたのもしげなくなりつると心みづから蔑むはわれ
いと重き病するなりわが心君ありし日におもひくらべて
ねがはくば君かへるまで石としてわれ眠らしめメヅザの神よ
一人行くを深き心のある人と君をたたへぬゆるすべからず
しろがねの小き蛇が夜も昼も追ふべき君が大海の船
逢見ねば黄泉ともおもふ遠方へたからの君をなどやりにけん
わが起居涙がちにてあることも旅なる人の皆しれること
憂ふるやはたよろこぶやわが君にかかはることのいと遥かなる
おのれこそ旅ごこちすれ一人居る昼のはかなさ夜のあぢきなさ
月たたば日へなば妬き話さへもり聞くべしとはかなまれつつ
海こえんいざや心にあらぬ日を送らぬ人とわれならんため
人皆がかしこまりおき居ずなりし彼の船室の一二分ほど
おもひそふ湖北漢朝元年の支那にて書ける君が消息
一人てふならはぬここち今日になるするがかなしさかぎり知られず
あぢきなく弱きかたへと日にすすむ心と知れどとらへかねつも
今すこし人にかへらば子等などもなだめんと思ふいとわろしかし
おなじ世のこととは何のはしにさへ思はれがたき日をも見るかな
ただ一目君見んことをいのちにて日の行くことを急ぐなりけり
恋と云へどあなどりやすき方まじり残されにけん一人行きけん
あぢきなくもの哀れなりわがままに誇りならひし恋のこころも
君こひし寝てもさめてもくろ髪を梳きても筆の柄をながめても
幸の全からざるくやしさを思へる人と云ふにかあらん
わが男ひとへにたのむ哀れさのこの頃となりあからさまなる
こし方は心にふかくしまざりしことならんなど恋のおもはる
その妻をいひがひなしと憎みつつ罵りつつも帰りこよかし
わが前に灰いろの幕ひかれたり除かるる日のありやあらずや
十歳の子と一人の母とたぐひなく頼みかはすも君あらぬため
ありし人面かげ忘れがたきより住む家をさへつらく覚ゆる
うらめしと思ふ心もうちかへし音にぞ泣かるる逢ふすべなさに
心からもてそこなへる身のはてと病めるを悔いぬ逢はで死ぬべき
われ泣くと遠方にある人なればさしてたしかに知るにもあらず
あな恋しうち捨てられし恨みなどものの数にもあらぬものから
はれやかに人目ばかりをもてなしてある人にさへならふすべなし
盗みもて行かまほしげにひと一人思へりつるも憎からぬかな
さびしさも憂きもさすがにさりげなく書く文ながら見ては泣くらん
身も人もいのちの堪へずなりたらば哀れならまし遠く別れて
待つべしとなだらかに云ひ君やりし人ともあらず狂ほしきかな
筆とればまたわが心やるせなく騒ぎそめたり文かかで寝む
ものおもひ絶えぬ身なりやその涙熱きつめたき何方にせよ
子等を率て家うつりすれ君なくてさすらひ人となりにけるかな
はて近き世界の如く空も見ゆわが身につけて思ふなるらし
思へどもわが思へどもとこしへに帰りこずやと心みだるる
われながらあなづらはしく思ふかな巴里の大路を君一人行く
紫の衣など見れば束のまは変れる身とも思はれずして
年ふれどつゆゆるびなきなからひと我も許しつ彼の昨日まで
十余年またなく君のおもへりし我をみづからかたみとぞ見ん
うちそひて巴里のあたり旅人と呼ばれましかばあらめ生がひ
旅をするよろこびなども聞きなましながらへましとかつ思へども
よそものに君をなすとは思はねど唯見がたきがあさましくして
君行きて身内の熱の皆さめしここちも覚えもゆるを覚え
わかれ住むかかる苦しさならはでもあらましものをうつそみの世に
いとかなしうるみ濁れるわが息の籠れる間より見ゆる大ぞら
やすみなく火の心もて恋ふるなるわれにいつしか君飽きぬらむ
また君を見てかたらはん時のいと長きおそれに病するかな
横たはるけものの如く一とせを思へるままに今日か死ぬらん
海こえし旅人の文時をりになげきの家の窓あけに来る
一人居て聞くときさびしうら若き平野万里の支那の話も
わが机死のまぢかにもある如くよれば夜も日も涙ながれぬ
客人達哀れは知らぬにもあらず時をたのめとをしふる如し
悲しくも君と別れし海の波音すれ病めるわが枕上
何ものか心の闇をてらす時またかへりこん君としおもふ
風のごとすと行く君に死ぬべしと慄へて云ひぬ夢のさめぎは
うとましく敵の如く手にとりぬ一人寝の床におつるさし櫛
男をば目はなつまじきものとする卑しきことは思ほへなくに