『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十七

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礼巻 第十七
S1701 福原京事
治承四年六月九日福原の新都の事始あり。上卿は後徳大寺の左大将実定、宰相には土御門の右中将通親、奉行には頭右中弁経房、蔵人左少弁行隆也。河内守光行、丈尺を取て輪田の松原西の野に、宮城の地を定めけるに、一条より五条まで有て、五条已下は其所なし、如何が有べきと評定ありけるに、通親勘て、三条大路をひろげて十二の通門を立。大国にも角こそしけれ、吾朝に五条まで有ば、何の不足か有べきと被申けれ共、不事行して行事の人々還にけり。去ば昆陽野にて可在歟、印南野にて可有歟と、公卿僉議有けれ共、未定也。先里内裏可被造進とて、五条大納言邦綱卿、周防国を給て、六月二十三日に事始して、八月十日棟上と被定申けり。彼大納言は大福長者にて御座ければ、造出さん事左右に及ねども、そも争か民の煩、人の歎なかるべき。殊に指当りたる大賞会を閣て、かかる乱に遷幸遷都、内裏造営、山海の財力の尽ぬるのみに非ず、人民の(有朋上P550)侘際いくそばくぞ。楚起気花之室而黎民散、秦興阿房之殿而天下乱といへり。いさ/\危とぞ申ける。堯王天下を治め給けるには、茅茨不剪、採椽不■、舟車不飾、衣服無文といへり。昔唐驪山と云ふ所あり。山の上に宮室あり。朱楼の構紫殿のあやつり、様々最珍しくして、遅々たる春の日は、玉甃暖にして、温水溢て、嫋々
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たる秋の風には、山の蝉啼て宮樹紅なり。かゝる目出き砌にて、代々の聖主、折々の臨幸も不絶けり。憲宗皇帝位に即御座て、五年まで終に行幸なし。去儘には垣にはつたしげり、瓦に松生にけり。一人行幸あれば、六宮相従ひ百官供奉する習なれば、人の煩たやすからず、君一日の臨幸の費をかぞふるに、民千万の家の財にも過たりとて、終に御幸も無りけり。是皆国の費を思召、民の歎を休めんとの御恵なり、入道いかなれば世を治思を忘れ、人を助る心なかるらんとぞ申ける。新都は繁昌して人屋軒を並けれ共、旧城は只荒にあれ行て、適残れる家々も、門前草深して、庭上露しげし。空き跡のみ多ければ、稚兎の栖と成替り、紫蘭の野辺とぞまがひける。太政入道は善事にも悪事にも思立ぬれば、前後をも顧ず、人の諌をも用給ふ事なし。時々は物くるはしき心地もありけるにや、懸る遷都までも思立給ひけり。(有朋上P551)
S1702 祇王祇女仏前事
世に白拍子と云者あり。漢家には虞氏、楊貴妃、王昭君など云しは、是皆白拍子也。吾朝には鳥羽院御宇に、島の千歳、若の前とて、二人の遊女舞始けり。始には直垂に、立烏帽子、腰の刀を指て舞ければ、男舞と申けり。後には事がら荒しとて、烏帽子腰刀を止て、水干に袴ばかりを著て舞。其比京中第一の白拍子あり、姉をば祇王、妹をば祇女と云。天下無双の舞姫と披露しければ、入道彼等を召す。劣ぬ弟子ども二三人同車して、祇王祇女参れり。五人の女侍所に并居たり。入道先景気を見れば、紅顔色鮮にして、白粉媚を造れり。容貌品こまやかにして蘭麝の匂なつかし。舞歌へと宣ひけれ
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ば、
  蓬莱山には千歳経る、万歳千秋重れり、松の枝には鶴巣食、巌の上には亀遊 K095 
と、同音に歌ひ澄したりければ、入道興に入給へり。頻鳥の音和かに、仙女の袖妙なりければ、見れども聞ども飽べしと不覚とて、姉の祇王を殿中に召置て最愛せり。妹の祇女も、姉の光によりて、洛中に耀り。寵愛の余、親はいかなる者ぞと問れければ、童も母も元は遊者にて閉と申けるが、年闌齢傾て、六条堀川なる所に、しづかなる有様にて(有朋上P552)挿絵(有朋上P553)挿絵(有朋上P554)侍ると申。さては糸惜き事やとて、筑後守家貞に仰て、衣裳絹布の類を送遣はすのみに非ず、毎月に時料雑事を運入。かゝりければ、家中大に栄て、従類眷属来集る。色立る者の争か加程の幸有べきとて、かたへの遊人申けるは、実や祇と云文字をばかみとよむ也。神は人に翫、うやまはるゝ上、神には人恐る事なれば、吾らもあへものにせんとて、祇一、祇二、祇三、祇福、祇徳など名を付けるこそ笑しけれ。角て家富人恐れたり。三人の心の中、置処なく、目出き事に思程に、天下無双の能者出来れり。仏御前と云者の歌を聞舞を見る者、目を迷し耳を峙つ。祇王祇女には、雲泥を論じて勝りとぞ云ける。或時太政入道の亭へ推参して、家貞して申入る。折節一門群集して、酒宴の場也。入道宣けるは、左様の遊者なんど云者は、可随召事也、罷出よと宣へば、仰の上は罷出侍るべけれ共、世人の、仏こそ此御所より追出され参せて、恥に及ぶと申侍らん事の道狭く覚侍、又憂身の事はさのみあれ、などや御情をば忘させ給ふべきと申たれ共、いや/\祇王此中にあり、舞も
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歌も争かまさるべき。縦仏ともいへ神ともいへ、名にはめづまじ、急出よと宣ふ。此上は仏罷出けり。祇王入道に申けるは、我身も経候し道也、いかに本意なく侍らん、童殿中に有事をば仏も知りて侍、上にはさもと思召つらめども、祇王が(有朋上P555)妬心にて、申留たるにこそと思侍らんも恥し。道を立る者折を伺ひて推参尋常の事也、君に召おかれ進せざりし時は、童も推参をのみこそし候しか、何となく御目にかゝりて見参に入たりしうれしさ、空く罷出しはづかしさ、只今の仏御前が心の中、被推量て、糸惜く侍り、何か苦かるべき、見参して舞一番御覧じ侍れかしと、わりなく口説申ければ、左も右も祇王が計とて、安部資成を以て、遥に帰りたる仏を被召返て宣けるは、罷出よと云つるを、祇王が吾経し道也、召返せと様々云つれば仏に見参するぞ、折節吾前に杯あり、何にても一申せと聞ければ、
  君を始て見時は、千代も経ぬべし姫小松、御前の池なる亀が岡に、鶴こそ群居て遊なれ K096 
と、折返折返三度歌ひたりければ、入道祝すまされて興に入給へり。あゝ思には似ず、目出仕たり。祇王にも劣らず、歌の音のよさよ、いしゝ/\と嘆られたり。さらば舞一番と宣へば、仏は水干に白き袴著て、髪結あげ調子取負せて、
  徳是北辰 椿葉影再改 樽猶南面 松花色十返  
と朗詠しけり。広廂に筵しかせて、器量の侍に鼓うたせて、仏祝の白拍子かずへて舞澄したり。其事がらは髪ながくして色白く、形こまやかにして媚多し。楊貴妃が花の眼、李(有朋上P556)夫人が蓮の睫、夏野の萩
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の風に靡く有様、翠の山に月の出るよそほひなり。■袖とはなのそで翻りて、彩雲の翠嶺を廻が如し。絢袂とぬひもののたもとひらめきて、碧浪の蒼浜にたゝめるに似たり。入道は始より横目もせず、打頷許々々よだれとろ/\垂して見入給へり。天性入道は善事にも悪事にも前後をば顧ず、逸早き人にて、心の中に舞の終を遅々とぞ待給ける。責ての歌に、
  よしさらば心の儘につらかれよさなきは人の忘がたきに K097 
謡て舞ければ、戯呼入道が上をこそ舞れぬれとて、手を揚て是へ/\とぞ請じ給ふ。仏は是を聞ぬ由にて猶責けるを、入道座を立手を取て引居たり。遠ては中々思はぬ心もありつるに、近く置て見給へば、情を柳髪の色に染れば、春の思乱やすく、心を蘭質の手に移せば、秋の露屡脆し。緑の黛花の形、絵に書とも筆も及がたかりければ、入道自横懐に抱て、帳台の内へ入給ふ。仏と名をば付たれど、三明六通悟らねば、忙れ迷たる様也けり。さても申けるは、是はうつゝならぬ御事かな、祇王御前の御言の伝にこそ御目にもかゝる事にて候へ、いかゞさる事侍べき、忘ぬ御事ならば、後にこそ召に随進めと、深痛て候けれ共、賞新棄旧世のさが人癖なれば、入道更にゆるし給は(有朋上P557)ず、左も右も吾云にこそ随はめ、祇王に憚るにこそとて、源大夫判官を使にて、日来はさこそ申侍りしかども、移れば替る習なれば、今は力不及、御内を出べしとぞ宣ける。祇王は夢うつゝ弁煩たり。泣々申けるは、去ば人の為には能ても有なん、悪ても有べし。抑只今罷出侍ば、片辺の遊者共が、門前市を成
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て、さ見つる事よと申さんも心憂侍るべし、晩を待侍らばやと申。入道去けしからぬ人にて、いや/\疾罷出よ、吾出家入道の身也、今より後は一筋に、仏を崇憑むべし、仏を崇る程にては、片時も祇王無詮、急々と使頻に立ければ、入道の常に見給ひける障子に思つゞけて、
  萌出るも枯も同じ野べの草いづれか秋にあはで有るべき K098 
と、書捨てこそ出にけれ。其後は夜かれ日かれもし給はず、仏が寵愛はしかまに染る褐の色、竜田山の紅葉よりも猶色深くぞ成給ふ。さても日来経て仏申けるは、祇王が吾ゆゑ御内を出され進せて、いかに怨と思候らん、此御所に参て御目にかゝり進する事も、かのことの葉の末に依候けるに、情は怨に引替て、さこそ本意なく思らめ、時々被召て心をも慰め、歎をもやすめさせ給へと申しければ、左もありとて彼宿所へ使を遣して、急参れといはせければ、祇王心憂事に思ひて、返事も不申。使角と申せば、入道大に嗔(有朋上P558)て、祇王不思議也、いかに我使をやりたらんに、いなせの返事せざるべき、此内を出たるを限とや、色を立る女、一日なり共入道に目をかけられたるは、難有面目にこそあれ、千年万年の契とや思べき。仏が此にあればとて、返事を申さぬか、急参れ、仰に不随ば、可相計とて、あらゝかに使を遣はしたり。祇王は情こそかはらめ、加程にや宣ふべきと思ければ、理に過て泣居たり。母の閉泣々教訓しけるは、西八条殿は世にも腹悪人にて、思立給事は横紙をやぶらるゝぞかし、一天四海上揩煢コ揩熬Nか其命を背、況や加様の身々として、一夜の契とてもおろかなるべきか。年来有難世を過し
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つるまかなひも、偏に入道殿の御恩也。されば日来の情を思にも参るべし。後の難も恐しければ参るべし。さらでは老たる親に憂目見せ給ふな。入道殿の御心としては、女なればとてよも所をば置給はじ、早出立給へとて、使には急参るべしと母ぞ返事は申ける。祇王はよにも心うく辱しき事なれば、淵瀬に身をも入ばやと思けれ共、母の事を思ひてこそ、今まで消もうせなであれ、再入道殿へ参べしとは思はざりけれ共、誠にも我ゆゑ母の肝心を迷はさんも不孝なりとて、妹の祇女と同車して、六波羅へ参りたり。入道は仏をそばに居て、人々と酒宴して御座けり。祇王祇女をば一長押落たる広廂にすゑられたり。仏は打うつぶきて目(有朋上P559)も見上ず。祇王は寵愛こそきはまらめ、居所をさへさげらるゝ心うさに、打しめりてぞ候ける。入道宣けるは、如何に遅は参たるぞ、仏をすゑ置たればとて、怨思か、宿世の道は今に始ざる事ぞ、努々思べからず、折節仏が前に杯あり、一申て強よと宣ふ。祇王承りて、
  仏も昔は凡夫なり、我等も終には仏なり、三身仏性具しながら、隔つる心のうたてさよ K099 
と折返折返三返までこそ歌ひたれ。是には入道めでずもや有けん、満座哀を催して、袂を絞る者もあり。入道打うなづき給て、景気の今様をば、いしくも歌うたる者哉、此歌は雑芸集と云文に書れたるはさはなし。三四の句はよけれ共、一二の句を引替て、仏も昔は凡夫也、我等も終には仏とうたふは、二人が阻られたる所を云にや、猶も聞あかず、今一度と宣ふ。何度も仰にはとて、
  君があけこし手枕の、絶て久く成にけり、何しに隙なくむつれけん、ながらへもせぬもの故に K100 
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と、是を二返ぞ歌ひたる。入道又打頷許、此歌は侍従大納言、師中納言の娘に相具して、契あさからざりしに、何程もなくして別つゝ、歎の余に作り出してうたひし今様也。そ(有朋上P560)れには我等があけこし手枕のとこそ有に、一の句を引替て、君があけこし手枕と歌ふ事は、入道が所を思なぞらへてうたふにや、それをば祇王は如何にとして知たりけるぞ、加様の事は時に取て上手ならでは叶ふまじ、あはれ祇王は今様は上手かな、上代にも聞及ばず、末代にも有難とぞほめ給ふ。さて此後は不召とも常に参て、舞舞歌うたうて仏慰よ、よし/\罪深く仏な怨そと宣ふ。祇王祇女宿所に帰て、母に云けるは、角て浮世にあればこそかゝる憂目をも見候へ、墓なき此世と知ながら、何を憑てすまふらん、蜻蛉の有か無かの身を持て、朝露のおけば消えける命也、女は心やなかるべき、姿を替んと思也とて、僧を請じ翠の髪を剃落し、墨の衣に袖替て、廿一と申に実の道にぞ入にける。妹の祇女も是を見て、十九と申しし年、同尼にぞ成にける。母の閉は、此を見彼を見廻して、涙を流、若人だにも思ひ切、角成給ふ、老て何をか期すべきとて、共に尼に成つゝ、西山嵯峨の奥、往生院と云所に、柴の庵を結つゝ、草葉の露の身を宿〔と〕して、三人菩提を欣つゝ、九品の行業不退也。日西山に没時は、遥に十万億刹の土を思、風嶺松を吹折は、近く常楽我浄の観を凝す。六時の礼讃声澄て、朝暮の念仏いと貴し。都には祇王祇女は世を恨、尼に成て行方不知と披露あり。仏是を聞、心憂や、さしも盛の人々(有朋上P561)の、花の袂を脱替て、墨染の袖にやつれけん事の悲さよ、吾故角成ぬれば、思ひ歎は吾身にこそは積るらめ、移れば替
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世の習、吾身とても憑なし、縦偕老の幸なりとても、あだに墓なき世の中は、兎ても角ても有ぬべし。哀此人々の住居たらん所を聞出て、同道にも入ばやとぞ思ける。月日の重なる儘に、さすが都近き程なれば、嵯峨の往生院にとぞ聞ける。仏は入道の宿所をば忍て紛出て、自髪をはさみ落て、衣うちかづき、遥々と路柴の露かき分て、嵯峨の奥へぞ尋入る。夜深人定て、柴の編戸を扣けり。内より人立出て、誰人ぞ、いぶせき夜のそら、あやしの草の戸に、尋来べき人なし、恐ろしや天狗ばけ物などにやと云ければ、我身は太政入道殿に候ひし遊者の仏と申女也。我故御身々を捨て、憂名を流しはて、角住居給へりと聞つれば、誰故ならんと被歎て、人しれず同道にと思取、是迄参たりと云。門を開て庵室に入、纏頭たる衣を脱たれば、遠山の黛は、かきながら乱ねども、翠の黒髪は鋏刀落して尼なりけり。祇王祇女泣々申けるは、浮世を厭ひ実の道に入ても、猶迷の心の悲さは、思歎は絶ずして、仏だになかりせば、かゝる憂目は見ざらましと、つらき我身を顧ず、只人の御事のみうらめしかりつるに、角思立給ける有難さよ、是も然べき善知識にこそ、今は妄念晴ぬとて、四人頭をさしつどへ、通夜こ(有朋上P562)そ泣明しき。さても一所に籠居て、他事なく勤行ひけり。入道是をも知らず、仏を失たりとて、是は如何せんとぞ被歎ける。洛中辺土旁へ人を遣しつゝ、仏をぞ尋給ふ。仏も尼に成て、往生院にと聞給ければ、糸惜かりし仏なれば、尼とても何かは苦きと宣ひけれ共、其事無沙汰にてやみにけり。此尼上達四人、往生の志深して、行業功重りければ、遅速こそ有けれ共、本意に任せ終り不乱念仏して、
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西に聳雲に乗、池に開る蓮にぞ生ける。
後白川【*後白河】の法皇此由聞召、哀に貴事なりとて、六条長講堂の過去帳に被入て、比丘尼祇王二十一、祇女十九、閉四十七、仏十七と、今の世までも読上、訪ひ御座す事こそ憑しけれ。大安寺の過去帳にも入と云々。加様に何事にも掲焉人にて、思立給ぬれば、人の制止にも不拘、後悪からんずる事をも顧ず、適被諌申し小松殿は失給ぬ。心に任て振舞給ひければ、遷都も思立給けるにこそ。
S1703 新都有様事
〔去程に〕治承四年六月二日、都を福原へうつされて、既に八月にも成にけり。平安の故郷は日に随て荒行、公卿殿上人上下の北面に至るまで、人々の家々、或筏に組、或は舟(有朋上P563)に積て漕下る。所々に家居しけれ共、福原の新都も未ならず、有とある人は皆浮雲の思をなせり。本より此所に住ける者は、田畠を失ひ、屋舎を壊て愁、今移居たる人は、土木の煩旅宿を悲て歎く。路の辺を見れば、車に乗べきは馬に乗、衣冠を著すべきは直垂を著たり。都の振舞忽に廃れて、ひたすら武士に不異、旧都には皇太后宮の大宮、八条中納言長方卿ばかりぞ残留給へる。長方卿は世を恨る事御座て、供奉し給はず、只一人留給たりければ、京童部は留守の中納言とぞ申ける。其外は浅増き下揩フ力もなき計ぞ在ける。去儘に目出かりし都なれ共、小路には堀々切て逆木を引、車などの通べき様もなし。適過る人も、小車に乗道をへてぞありきける。夏闌秋にも成ぬ、月日過行とも、世は猶しづかならず。理也、上荒下困勢不久、宗社之危如綴旒〔と〕云文あり。宗社とは、先祖宗廟の祭也。綴旒とは、旗の足と云事也。
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宗廟の祭あやふければ、国の治らざる事、旗の足の風に吹るゝが如に、安堵せずと云にや、平家の振舞いかゞ有べかるらんと覚束なし。
S1704 隋堤柳事 (有朋上P564)
 < 昔隋煬帝、片河の岸に柳を植事、一千三百里、河水に竜舟を浮べ、船の中に伎女を乗て、永く万機の政を忘て、偏に佚遊を恣にし給へり。紫髯の郎将は錦の纜をまふり、青蛾の御女は紅楼にあそびけり。海内の財力尽、百姓大に泣悲、万国忽に乱て、諸侯権を諍ければ、大唐の李淵軍を起して、煬天子を亡しゝかば、隋の代永絶にけり。去ば上政を忘れば、下必苦む、上下道調らざれば、国の勢久しからじ。故に宗社之危事如綴旒とは云なるべし。>
福原の遷都の事、天下の煩海内の歎也。当家他家の公卿殿上人より、上下の北面に至まて、人並々には下りたれども、一人も安堵の思はなし、常は心騒てぞ有りける。
S1705 人々見名所々々月事
八月十日余に成て、新帝の供奉の人々つれ/゛\を慰煩、名所の月を見んとて、思々に行別る。或は住江、住吉、難波潟、葦屋の里にうそぶき行人もあり。或源氏大将の跡を追、須磨より明石に浦伝ふ人もあり。和歌、吹上、玉津島、月落かゝる淡路島、松風はげしき高砂の、波間をわたる人もあり、浦路を通ふ人もあり。(有朋上P565)
S1706 実定上洛事
其中に後徳大寺の左大将実定は、旧都の月を恋わびて、入道に暇乞、都へ上給けり。元より心数奇給へる人にて、浮世の旅の思出に、名所名所を問見てぞ上られける。千代に替らぬ翠は、雀の松原、みかげの松、雲井にさらす布引は、我朝第二の滝とかや。業平中将の彼滝に、星か河辺の蛍かと、浦路遥詠けん、何所なるらん覚束な、求塚と云へるは、恋故命を失ひし、二人の
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夫の墓とかや。いなの湊のあけぼのに、霧立こむる毘陽の松、必春にはあらねども、山本かすむ水無瀬川、男山にすむ月は、石清水にや宿るらん。秋の山の紅葉の色、稲葉を渡る風の音、御身にしみてぞ覚しける。さても都に入給、彼方此方を見給へば、空き跡のみ多して、たま/\残る門の内、行通人も無れば、浅茅が原、蓬が杣と荒果て、鳥の臥戸と成にけり。八月半ばの事なれば、まだ宵ながらいづる月、主なき宿に独住、折知がほに鳴雁の、音さへつらくぞ聞召。大将はいとゞ哀に堪ずして、大宮の御所に参、待宵の小侍従と云女房を尋給ふ。元より浅からざる中也、侍従出合請入奉て、良久御物語申けり。さても宮の御方へ角と被申よと仰ければ、侍従参て御(有朋上P566)挿絵(有朋上P567)挿絵(有朋上P568)気色を伺進せけり。宮斜ず御悦ありて、こなたへと仰けり。大将南庭をまはりて、彼方此方を見給ふに付ても、昔は二代の后に立給ひ、百しきの大宮人にかしづかれて、明し晩し給しに、今は幽なる御所の御有様、軒に垣衣繁り、庭に千草生かはす、事問人もなき宿に、荻吹風もさわがしく、昔を恋る涙とや、露ぞ袂をぬらしける。時しあればと覚しくて、虫の怨もたえ/゛\に、草の戸指も枯にけり。大将哀に心の澄ければ、庭上に立ながら古詩を詠じ給ふ。
  霜草欲枯虫思苦、 風枝未定鳥栖難 K101 
と宣て、其より御前に参給けり。八月十八日の事也。宮は居待の月を待侘て、御簾半巻上て、御琵琶をあそばして渡らせ給けるが、山立出る月かげを、猶や遅とおぼしけん、御琵琶を閣せ給つゝ、御心を
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澄させ給けり。源氏の宇治巻に、優婆塞宮の御女、秋の名残をしたひかね、明日を待出でて、琵琶を調べて、通夜心をすまさせ給しに、雲かくれたる月影の、やがて程なく出けるを、猶堪ずや覚しけん、撥にてまねかせ給けん、其夜の月の面影も、今こそ被思知けれ。大将参て大床に候はれけり。大宮は琵琶を引さして、撥にて其へと仰けり。其御有様あたりを払て見え給。互に昔今の御物語あり。大将は福原(有朋上P569)の都の住うき事語申て被泣ければ、宮は平京の荒行事仰出して、共に御涙に咽ばせ給けり。角て夜もいたく深ければ、后宮は御琵琶を掻寄させ給て、秋風楽をひかせ給ふ。侍従は琴を弾けり。大将は腰より笛を取出、平調に音取つゝ、遥かに是を吹給。其後故郷の荒行悲さを、今様に造りて歌給ふ。
  古き都を来て見れば、浅茅が原とぞ成にける、月の光はくまなくて、秋風のみぞ身には入 K102 
と、三返歌ひ給ければ、宮を始進せて、御所中に候給ける女房達、折から哀に覚て、皆袖をぞ絞ける。
S1707 待宵侍従附優蔵人事
抑待宵小侍従といふは、元は阿波の局とて、高倉院の御位の時、御宮仕ひして候ひけり。世にも貧き女房にて、夏冬の衣更も便を失ふ貧人なり。さすが内の御宮仕なれば、余幽なる事の悲さに、広隆寺の薬師に参りて七箇日参篭して、祈申けれども、指たる験なし。先の世の報をば知らず、今の吾身を恨つゝ、世を捨て尼にもならばやと思て、仏の御名残(有朋上P570)を惜み、今一夜通夜しつゝ、一首の歌をぞ読たりける。
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  南無薬師憐給へ世中に有わづらふも病ならずや K103 
と詠じつゝ、打まどろみたりけるに、御帳の中より、白き衣を賜ふと夢に見て、末憑しく思つゝ、又内へ参て世にほのめきける程に、八幡の別当幸清法印に被思て、引替はなやかにありければ、君の御気色も人に勝たりけるに、高倉帝御悩まし/\けるが、慰御事の無りける徒然に、阿波の歌だに読たらば、貢御は進せなんと御あやにくあり。時もかはさず、
  君が代に二万の里人数そひて今も備る貢物かな K104 
と読たりけり。二万の里人とは、昔皇極天皇の御宇、新羅の西戎、吾国を叛て、日本打取んと云聞えあり。天皇女帝の御身として、自新羅へ向給けるに、備中の国下津井郡に付、兵を被召けるに、一郷より二万騎の軍兵参たり。其よりして彼郷をば、二万郷と名付たり。されば彼二万の郷の人数に准て、君の御命の久かるべき事を読たりければ、目出く申たりとて、何しか貢物も進、御悩もなほらせ給たりければ、勧賞に侍従に被成たり。君の御糸惜も人に越、情深く、形厳かりければ、卿上雲客心を通さぬは無りけり。(有朋上P571)其中に徳大寺実定は、殊に類なき事におぼされて、折々の御志世に有難ぞ聞ける。是も広隆寺の薬師如来の御利生と深憑をかけけるが、仏恵君の御糸惜、然べき事と云ながら、二首の歌にぞ報ける。
 < 或説に曰く、八幡の検校竹中法印光清の女也。母は建春門院の小大進の局が腹に儲けたりと云云。>
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大将は良久、宮の御前に候て、こし方行末の御物語し給て、夜ふくる儘に侍従が局に立入給て、住憂新都の旅の空にあくがれて、心ならずかれ/゛\に成草の便を悲給へば、侍従は、又故郷に残留たれ共、言問人も絶果ぬ。友なき宿に独居て、明しくらす悲さは、上陽宮の徒然、角やと互に語つゝ、共に涙を流しけり。希に会夜の嬉しさに、秋の夜なれど長からず、寝ぬに明ぬと云置し、夏にもかはらぬ心地して、まだ眤言もつきなくに、明ぬと告る鳥の音、恨兼てやおはしけん。
 < 待宵の侍従と申ける事は、此徳大寺左大将忍て通給けり。衣々に成暁、又来ん夜をぞ契給ける。侍従は大将のこんとたのめし兼言を、其夜ははる/゛\待居たり。さらぬだに深行空の独寝は、まどろむ事もなき物を、たのめし人を待わびて、深行鐘の音を聞、いとど心の尽ければ、
  待宵の深行くかねの声聞ばあかぬ別の鳥は物かは K105 (有朋上P572)
と読たりければ、誠に堪ずもよみたりとて、待宵とは被呼けり。大将は通夜御物語ありて、あかぬ別の衣々を引分帰給ける。明方の空、何となく物哀なりけるに、侍従も共に起居つゝ、殊更今朝の御名残、慕かねたる気色にて、遥に見送り奉り、泣しをれて見えければ、大将も帰る朝の習とて、振捨難き名残の面影身にそふ心地して、為方なくぞおぼされける。御伴なりける蔵人を召て、侍従が今朝の名残何よりも忘難く覚るに、立帰て何とも云て参と宣ければ、蔵人優々敷大事かなと思へ共、時を移すべきならねば、軈走帰て見ければ、侍従なほ元の所に立やすらひて、又寝の床にも入ざりけり。蔵人取敢ぬ事なれば、何と云べしとも覚ざりけるに、明行空の鳥の音も、折から身に入て聞えければ、其前に跪袖掻合て、
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  物かはと君が云けん鳥のねのけさしもいかに恋しかるらん K106 
と仰せなりとて還りければ、侍従は、
  またばこそ更行く鐘もつらからめ別を告ぐる鳥のねぞうき K107 
と、蔵人帰参て角と申入ければ、大将いみじく感じて、さればこそ汝をば遣はしぬれと宣て、所領などあまた給たりけり。此蔵人は内裏の六位など経て、事に触て歌よみ優なり(有朋上P573)ければ、時の人異名に、やさ蔵人と云けるを、此歌世に披露の後は、物かはの蔵人とぞよばれける。>
S1708 源中納言侍夢事
平家は都遷とて、福原へ下り給たれども、皇化の善政を打とゞめ奉り、神明の擁護にも背けるにや、月日は過行けども、世間は弥しづまらず、胸に手を置たる様に、心さわぎしてぞありける。一門の人々は、二位殿を始奉、さとしも打続、夢見も様々悪かりけり。依之神社仏寺に祈頻也。源中納言雅頼卿の侍夢に見ける事は、いづことは慥に其所をば知らず、大内の神祇官かと覚しき所に、衣冠たゞしき人のゆゝしく気高きがあまた並居たりける。座上の人の赤衣の官人を召て仰けるは、下野守源義朝に被預置御剣、いささか朝家に背く心ありしかば、召返して清盛法師に被預給たれ共、朝廷を忽緒し、天命を悩乱す、滅亡の期既至れり、子孫相続事難、彼御剣を召返なり、汝行て剣を取て、故義朝が子息前右兵衛権佐頼朝に預置べしと有ければ、官人仰に随て、赤衣に矢負て、滋籐弓脇に挟み、御前を罷立けるが、無程錦の袋に裹たる太刀を持参て、座上へ進上する(有朋上P574)処に、中座の程に
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有ける上揩フ、頼朝一期の後は、吾子孫にたび候へと被申けるに、紅の袴著たる女房の、世にも厳くおはしけるが、縁の際三尺ばかり虚空に立て被申けるは、清盛入道深く吾を憑て、毎日不退の大般若経を転読し侍に、御剣暫入道に預置せ給へと申。座上の次二番目に居給たる上掾Aゆゝしくしかり音にて、入道いかに汝を憑とても、朝威を背に依て、議定既に畢、謀臣の方人所望希恠也、そ頸突と仰ければ、赤衣の官人つと寄て、彼女房を情もなく門外に突出す。穴おそろしと思ながら、夢の中にそばなる人に問て云、座上の人は誰人ぞ。あれこれ天津国の御主伊勢天照太神よ。さて吾子孫にたべと仰らるゝは誰ぞ。天津児屋根尊春日大明神よ。大二番目のそ頸突と仰られつるは誰。鬼門の峯の守護神、日吉山王よ。赤衣官人は誰。西坂本の赤山大明神よ。紅袴の女房は誰そ。安芸国の厳島の明神よと答と見て覚ぬ。遍身汗水に流れて、さめたれ共、猶夢の心地也。恐ろしなどは云ばかりなし。明旦に急主の源中納言雅頼の許に行て、此事を語申ければ、中納言我外に又人にや語たると問給へば、汗水に成て驚て侍つれば、妻にて候女が、何事ぞ、物におそはれたるかと申つる間、其計には語て候。中納言、さるにては此事一定披露すべし、さらば汝事に合なん、妻子相具して且く忍べと宣ければ、(有朋上P575)資財取納て深隠忍にけり。隠々とせしか共、ばつと世間に披露有。入道此事聞大に■り、大方入道が事といへば、上も下も目に立口を調へて、加様の事云沙汰する条こそ奇怪なれとて、蔵人左少弁行隆に仰て、其男搦進よ、雅頼卿に相尋よと嗔給へり。行隆行向て件の男を相尋ぬるに、逐電して人なし。
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家内追捕して主の雅頼に相尋ければ、其事努々承及ず、彼夢見て侍らん奴に付て、御尋有べきとぞ被申ける。朝敵誅罰の大将軍には、節刀と云御剣を給習也。太政入道日比は四夷を退けし大将軍なりしか共、今は勅宣を背に依て、神明節刀を被召返けり。
高野の宰相入道成頼此夢の事聞給て、座上の人を天照太神と申けるは左も有けれ、紅袴著たる女房を、厳島大明神と申も左も有べし。彼明神は沙竭羅竜王の娘を勧請して崇奉、春日大明神とて我子孫に預給へと被仰けるは不審也。そも又末の代に源平共に絶果て、一の人の御中に、将軍の宣旨を蒙つて天下を治給べきにもや有らんと宣ひけるが、げにも源氏三代将軍の後、知足院の入道殿の御子に、太政大臣忠通公、三代の孫、道家公をば光明峯寺殿と申、其末の御子に、寅の歳寅の日寅の時に生給ひたりければ、三寅御前と申、歳九にて関東へ下て世を治め給けり。入道将軍とは是事也。雅頼卿の侍の夢も、成頼入道の物語も違はざりけり。成頼は花洛を(有朋上576)捨て、深山に籠し後は、偏に往生極楽の営の外は、世の事に汚べきには無れども、元より心潔人にて、善政を聞ては悦、悪事を聞ては歎給ければ、世の成行んずる有様を、兼て宣ひけるにこそ。
 < 或本云、厳島大明神は、門客人を御使にて、白浄衣を著て参り給て、御剣暫入道に預給へと被申と、云云。>
S1709 大場早馬事
治承四年九月二日、相模国住人、大場三郎景親、東国より早馬をたつ。福原新都に著きて上下ひしめきけり。何事ぞと聞ば、伊豆国の流人、前右兵衛権佐源頼朝、一院の院宣、高倉宮の令旨在と称し
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て、同国目代平家の侍和泉判官平兼隆が、八牧の館に押寄て、兼隆並家人等夜討にして、館に火を懸て焼払ふ。同廿日北条四郎時政が一類を引率して相模の土肥へ打越えて、土肥、土屋、岡崎を招、三百余騎の兵を相具して、石橋と云所に引籠。景親武蔵相模に平家に志ある輩を催集めて、三千余騎にて同廿三日に石橋城に押寄、源氏禦戦といへ共、大勢に打落されて、兵衛佐杉山に逃籠て、不知行方、同廿四日相模国由井小坪にて、平家の御方に、武蔵国住人、畠山庄司重能が子息、次郎(有朋上P577)重忠五百余騎にて、兵衛佐の方人、相模国住人、三浦大介義明が子共、三百余騎、責戦といへども、重忠三浦に戦負て、武蔵国へ引退。同廿六日に、武蔵国住人、江戸太郎重長、河越小太郎重頼を大将として、党には金子、村山、山口、篠党、児玉、横山野与党、綴喜等〔を〕始として二千余騎、相模の三浦城を責。三浦の一族絹笠の城に籠て、一日一夜戦て、矢種尽て船に乗、安房国へ渡畢。又国々の兵共、内々は源氏に心を通すと承る、御用心あるべしとぞ申たる。平家の一門此事を聞、こはいかにと騒あへり。若者どもは興ある事に思て、あはれ討手に向られよかしなど云けるぞ哀なる。畠山庄司重能、小山田別当有重兄弟二人は、折節平家奉公して候けるが、申けるは、北条四郎時政は親く成て侍ば、実に尻前にも立候らん。其外は国々の兵共、誰か流人の方人して、朝敵とならんと思侍べき。只今聞召直させ給べしとぞ申ける。実にもと云人もあり、又いさ/\大事に及ぬと云人もあり、是彼に寄合寄合、恐し/\と私語けり。太政入道安からず被思て宣けるは、東国の奴原と云は、六条
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判官入道為義が一門、頼朝に不相離侍共と云も、皆彼が随へ仕し家人也き。昔の好争か可忘。其に頼朝を東国へ流し遣しけるは、はや八箇国の家人に、頼朝を守護して入道が一門を亡せと云にありけり。喩ば盗に鑰を(有朋上P578)預、千里の野に虎を放ちたるが如し。いかゞすべき、入道大に失錯してけりとて、座にもたまらず躍上踊上し給けれ共、後悔今は叶はず、良案じて宣ける。但頼朝は入道が恩をば争か忘るべき。縦故池の尼公いかに宥給ふとても、入道ゆるさゞらんには、頸をば継べきや、其に重恩を顧ず、浄海が子孫に向ひ弓を引矢を放ん事、仏神よも御免あらじ、仏神免し給はずば、天の責忽に蒙るべし。奇しの鳥獣までも、恩をば報とこそ聞。其に還て入道が一門を亡さんとの企、不思議也。我子孫七代までは、争か怨心を挟べきと、しかり音にてくりかへしくりかへしぞ宣ひける。
S1710 謀叛不遂素懐事
入道の気色に入んとて、時の才人ども申けるは、仰少も違べからず。朝憲を嘲王命を背く者、昔より今に至まで、素懐を遂る者なし。日本盤余彦尊御宇、四年己未歳の春、紀伊国名草郡、高野林に土蜘蛛ありき。身短の手足長くして力人に勝たり。皇化に随はざりければ、官軍を差遣して、是を責けれ共、誅する事能はず。住吉大明神、葛の網を結て、遂に覆殺し給へり。其より以来野心を挟みて、朝家を背し者是多し。孝徳天皇御宇には、(有朋上P579)蘇我入鹿、山田石川、右大臣豊成、天智天皇のいまだ皇子にて御座しし時討ち給ふ。左大臣長屋王は、聖武天皇に被討給ふ。恵美大臣押勝は高野の天皇に被討、伊与親王は平城帝に被討、平城天皇は嵯峨帝に軍に負て、御子真如親王、春宮
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の位を下て、天竺へ渡とて、道にて失給にけり。承平には武蔵権守将門平貞盛に被討、康和には対馬守義親、平忠盛に被討、陸奥国住人安大夫安部頼良子息、厨河次郎大夫貞任、同舎弟富海三郎宗任は伊与入道源頼義に被討、同国北山の住人将軍三郎清原武衡は、八幡太郎源義家に被討。伊予掾藤原純友は、海路往反を求し、周防伊予両国の軍に被討。是のみならず、大山王子、大石山丸、守屋大臣、大友真鳥、太宰少弐広嗣、井上皇后、氷上川継、早良太子、藤原仲成、橘逸勢、文屋宮田、悪左府、悪右衛門督に至まで、総じて二十余人也。是皆恩を忘徳を報ぜず、朝威を背き野心を挟し輩也。去ども一人として素懐を遂ず、悉く首を獄門に懸られ骸を山野にさらす。東夷、南蛮、西戎、北狄、新羅、百済、高麗、契丹に至まで、我朝を背者なし。今の世にこそ王威も無下に軽く御座せ共、流石日月地に落給ふ事はなし。上代には宣旨と云ければ、枯たる草木も忽に花さき実の成けり。又天に翔鳥、雲に響雷も、王命をばそむかず。(有朋上P580)
S1711 栖軽取雷事
 < 第廿二代の帝雄略天皇御宇に、小子部栖軽と云重臣あり。泊瀬朝倉宮に参内して、大安殿に参たり。天皇と后と婚家し給へる時也。折節電雷空に鳴。帝恥思召て、栖軽を帰されん為に、汝鳴雷を請じ奉れと仰す。臣勅を承て大内を罷出て、馬に乗て阿部の山田の道より豊浦寺に至まで、天に仰て叫て云、天鳴の雷神、天皇の詔勅也、落降り給へと、然も猶響て去。栖軽又馬を馳て云、縦雖為雷神、既に鳴我朝之虚空、争か可背帝王之詔請哉と云時に、竜王響還て、豊浦寺と飯岡の間に落たり。栖軽即神人を召て、竜神を挙げ載て大内に参じて是を奏する時、雷鱗をいからかし、目を見はりて内裏を守る、光明宮中を照す。帝是を叡覧
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有て、恐て種々の弊帛を奉て、速に落たる処に返送奉。雷岡とて今にあり。>
S1712 蔵人取鷺事
 < 延喜帝の御宇、神泉苑に行幸あり。池の汀に鷺の居たりけるを叡覧有て、蔵人を召てあ(有朋上P581)の鷺取て参せよと仰ければ、蔵人取らんとて近付寄ければ、鷺羽つくろひして既に立んとしけるを、宣旨ぞ鷺まかりたつなと申ければ、飛去事なくして被取て、御前へ参けり。叡覧ありて仰けるは、勅に随飛去ずして参る条神妙也とて、御宸筆にて鷺羽の上に、汝鳥類の王たるべしと遊ばして、札を付て放たれければ、宣旨蒙たる鳥也とて、人手をかくる事なし。其鳥備中国に飛至て死にけり。鷺森とて今にあり。彼は婚嫁を恥て、雷神を留め、是は王威を知召さん為に鷺を召れけり。左程の事こそ有ずとも、末代とても、天孫豈逆党に犯れんや。されば頼朝争か本意を遂べき、帝徳私なし、神明御計あるべし、強にさわぎ思召べからずと申ければ、入道少色なほりて、さぞかしさぞかしとて、聊か心安くぞ御座しける。>
S1713 始皇燕丹并咸陽宮事
恩を忘て仇を存る者、我朝にも不限、必ず亡べり。唐国に燕太子丹と云人、秦始皇を傾んとて、軍を起したりけるが、燕丹は軍に負、始皇帝に捕はれて深く誡おかれ、六箇年を経にけり。燕丹は我身の事はいかゞせん、故郷に老たる親のありけるを、今一度いかゞ(有朋上P582)して見奉らんとぞ悲みける。丹始皇に歎申けるは、今は本国に免遣はし給へ、六箇年を過て禁獄例なし、又本国に老たる父母あり、いかばかりかは歎き悲み給らん、今一度見え奉らばやと云ければ、始皇欺て、烏の頭の白く成んを見て、免すべしと宣けり。燕丹心憂ぞ思ける。さては恋き父母を見ずして、是にして空く亡ん事こそ悲しけれと、夜は天に仰ぎて祈明し、昼は地に伏て歎晩す、実祈誓の験の有けるにや、頭白き烏飛来つて、始皇帝
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に見えたり。燕丹斜ず悦て、山烏頭白し、吾本国へ帰らんと云、始皇かさねて曰、馬に角生たらん時、帰すべしとて猶免ず。燕丹今は日来の憑も尽はてて、為方なく思けれ共、猶理をぞ思ける。妙音菩薩は、霊山浄土に詣して不孝の輩を誡、孔子老子は、震旦辺州に顕れて、孝道の章を立、上梵釈四王より、下堅牢地祇に至るまで、孝養の者を憐給ふ也。願天地の神明、今一度故郷に帰て、再び父母を見せしめ給へとて、明ても暮ても涙に咽て祈けり。王祥が母、生しき魚を願しかば、氷上に魚を得、孟宗が親紫笋を求しかば、雲の中に笋を抜けり。孝は百行の源、孝は一代の勤也ければ、祈の甲斐ありて、角馬庭上にいなゝきけり。始皇是を見給て、燕丹は天道の加護深き者也けり。白烏角馬の瑞恐ありとて、免して本国へ返遣けれ共、遺恨猶のこりて、燕国へ帰道に、(有朋上P583)せんか河と云河に、楚橋と云橋を渡せり。先に人を遣して、彼橋板を亭に操て、燕丹を河中に落入んとぞ支度したりける。燕丹をば夜ぞ此橋を渡しける。兼て不知ける事なれば、燕丹即ちふかき河に落ちにけり。既に沈むかと思ふほどに、亀多く集つて、甲をならべて助け渡す、〈 一説に、二竜来て橋のすのこの如く載て渡すと云云 〉。天道の御計と云ながら、不思議なりける事也。彼亀と云は、人の殺さんとしけるを、丹が父買て放ちたりける水畜也、父が放生の恩を忘ず、子の燕丹に報けり。太子本国に返ぬ。父母親類来悦て白烏角馬の瑞を聞、母悦頭の白烏に報んと思へ共、行方を知ざりければ、責ての事にや、黒烏を集て養ければ、白烏自ら出来たりけり。燕丹はのがれ難き罪科をのがれ、本国に被還て、再父母を見ければ、深
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始皇の恩を報ぜんとこそ思べきに、其情を忘て、秦国を亡さんと巧む心切にして、荊軻大臣召て被仰含ければ、大臣申て云、太子の被免給へる事全く始皇の恩に非ず、孝養報恩の御志深ければ、天神地祇の御助也。天地の守護を案ずるに、君は末たのもしき御事也。謀を廻して早く始皇帝を亡し給へと云ければ、然べきとて是非を忘、重恩を背て異計をぞ廻しける。燕丹本国に被返たる悦とて、燕国差図、国々の券契相具して、始皇に寄附の解文を注して、差図の箱に入て、一尺(有朋上P584)八寸の仙必の剣と云者を隠入たり。又金を以■嶺の形を鋳移して、是を持しめたり。荊軻大臣使節にて、秦国に向。田光先生と云者あり。古き兵にて謀賢き者と聞えければ、燕丹彼を請じて相語ふ。先生申けるは、武勇の名に依て、命を蒙むること、実に道の秀たる身を悦といへ共、年老齢傾きて、今は旗を靡かし戈を突に力なし。喩ば麒麟と云馬は、千里を一馳に飛ども、老衰ぬれば駑馬にも猶劣るが如。我若く盛なりし時は、誠に陣を破て敵を落す事世に並なかりしか共、老衰習こそ憑む甲斐なき事なれと申せば、燕丹さらば穴賢、本意を不遂さきに、披露すなと宣へば、先生是程の大事人に被憑て、争か口外すべき、我世にながらへて、若人の口より披露あらば、先生口脆して、漏らしたりと疑れん事、老後の恥なるべし、又老衰也と対捍を申せば、命を惜むに似たり、不如太子の御前にて命を捨んにはとて、生年七十一にして、庭上の李の木に頭を当て打砕てぞ失にける。又樊於期と云者あり。元は秦国の者也けるが、老たる父母を始皇帝に被亡たり。其故は、我国に老人をば置べからず、年老力衰へては、国の用
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に立べからず、徒に国の財を費す事無益也とて、老人を失ひける内に、樊於期が父母をも殺したりければ、口惜く思て始皇を亡さんとの志ありければ、其色外に顕れて、親類兄弟悉く失はれける間(有朋上P585)に、一人漏出て燕国に逃籠たりけるが、猶も謀叛の思深かりけれ共、可相従兵もなし。徒に歎を積て、明し暗しける程に、始皇も宿意深き敵也とて、四海に宣旨を下して、樊於期が首取て進たらん者には、五百斤の金を可与とぞ披露しける。斯ければ荊軻大臣、樊於期に語らひより、汝が頸は五百斤の金に報したる頸也。汝が頸を我に借与給へ。始皇帝に進て、則始皇を亡さんと云、樊於期大に悦で、肱を挑躍上て申けるは、我父母兄弟悉く被亡て、昼夜に是を歎事、骨髄に通て難忍、始皇を亡さんに於ては、我首塵芥よりも猶軽し、始皇又吾首を得に於ては、謀討ん事いと安かるべしとて、自ら頭を掻下して大臣に与へてけり。又越呂と云者あり。管絃を愛して笛を好み吹けるが、上手にてぞ在ける。是も心武き兵也。同語ひ具して、秦国へ越けるに、昆明池と云池の辺に、一夜宿したりけるが、心を澄して通夜笛を吹て、旅のつれ/゛\を慰みけるに、調子の平調にのみなりければ、こは不思議の事かな、さのみ調子の平調になるあやしさよ、宮商角徴羽の五音を以て、木火土金水の五行に宛るに、平調は金の声也、始皇は又金性也、時節秋の最中也、秋は又金也、吾身木性也、金尅木とて、木は金に被損事なれば、今度始皇を亡さん事難叶、いざ還らんと云けるに、荊軻大臣宣ふ様、始皇帝の朝敵、樊於期(有朋上P586)が首あり、是を後日までたばひ置に由なし、今度亡さでは、何をか期すべき
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とて、越呂が言を不用ければ、越呂が云、相従て行たり共、不亡して還て亡されん事は詮なし、行じといへば、命を惜むに似たり、後に思合せよとて、昆明池に身を投て失にけり。荊軻秦舞陽是を聞見れども、進心は甚しうして、退思はなし。秦舞陽に樊於期が借処の首を持せて、荊軻は秦国へ行けり。此秦舞陽も秦国の者也けり。生年十三にして父の敵を討て、燕国に逃たりければ、皇帝常にねめけれ共、燕国に仕て右大臣までに成たりけり。始皇を亡さん事を悦て、同相伴ひけり。年経ぬれば、始皇も争か秦舞陽をば見知給ふべきなれば同意す。宿意深き敵の首を進せんに、なじかは始皇も打とけ給はざらん、打とけ近付者ならば、などか滅さゞらんとて、既に秦国へぞ行向ける。燕太子命を始皇被助て、其悦に樊於期が頸を伺ひ取て、秦国に参と聞えければ、貴賤上下巷々に来集つて是を見。官兵馳参て四方の陣を固たり。抑咸陽宮と申は、秦始皇の大内也。城の廻一万八千三百八十四里、北には広さ三百里、めぐり九千里の鉄の築地を高つきたれば、雁の来り帰る事も叶ざりければ、築地の中に雁門とて穴を開たり。彼咸陽宮の中に、阿房殿を被建てぞ住給ける。始皇は雷に怖給ければ、雷より上に栖んとて、阿房の殿をば被造たり。東(有朋上P587)西へ九町、南北へ五町、高さ三十六丈也。大床の下には、五丈の幢を立並べたり。庭には金の砂瑠璃の砂、各十万石を蒔、真珠の沙百石を彩しけり。金を以て日を造、銀を以て月をかたどれり、始皇かゝる目出内裏を造てぞ住給ける。燕国の使荊軻大臣先に進参、秦舞陽は樊於期が首を鋒に貫いて、つゞきて参。咸陽宮の阿房殿の玉の階を昇りけるが、秦舞陽
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違勅の心進つゝ、悪事や色に顕けん、膝振て、昇り煩へり。内裏警固の兵等、是を見とがめて、暫押へて不審を問。いかゞ答んと思煩へる処に、荊軻大臣立還、翫其磧礫不窺玉淵者、未知驪竜之所蟠也、習其弊邑不視上邦者、未知英雄之所躔也と云事あり。心に壌を翫び、玉になれざる者は、竜神の蟠り臥たる海の底をば知ざるが如に、賎き草の庵に住て、花都を不見者は、万乗の主の宿れる処をば不知也。理や秦舞陽、垣葺の小屋に住なれて、始て都に昇りつゝ、影を浮る銀の壁、眼かゞやく金の鐺蹈も、習ぬ玉の階、心迷のするかに、足の振も道理也とぞ陣じたる。官兵誠に謂ありとて是を許す。二人の臣下遥に阿房殿に進上て、樊於期が首を進覧と奏す、臣下仰を承て、上覧の由申ければ、荊軻重て奏して云、燕国辺土と申せ共、我等彼国の臣下たり、就中宣旨を四海に下して、五百斤の金に報ずる、朝敵の首をば、軽伝に不可(有朋上P588)進、直に進覧せん、何の恐れか有べきと申たりければ、誠に日来へたる朝敵也、申処其謂有とて、始皇自出給ひ、玉体荊軻に近付けり。樊於期が首を燕の太子に借奉て、始皇を亡し宿意を遂んと計けるも、少も違はざりけり。始皇件の頭を見給て、大に感じ給けり。荊軻燕国の差図、并券契入たる箱を開て叡覧に達せんとする処に、箱の中に秋の霜冬の氷の如くなる剣あり。始皇大に驚給て、座を立んとし給けるに、荊軻大臣左の手にて御衣の袖をひかへ、右の手にて剣を執、始皇の胸に差当て云、燕太子六箇年まで禁置れて、適本国に帰といへ共、是皇帝の情に非ず、併がら天道の御助也、其鬱を散ぜんが為に臣等参ぜりとて、既に
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剣を振んとしけるに、始皇涙を流して宣けるは、吾諸侯を随へ、四夷を靡して、武王が中の大武王也。然而天命限ありて、今遁難き身也。但此世に思置好み残れり。九重の中に千人の后あり、其中に最愛第一の皇后あり、玉拝殿の楊仁后と云、琴をいみじく弾、今一度彼琴の曲を聞ばやと宣へども、荊軻是を免し奉らず、始皇重て仰けるは、一寸の頸剣の下にあり、天命極て遁がたし、汝既に御衣の袖をひかへたり、我更に遁べき方を知ず、最後の所望也、何ぞ憐をかけざらんと宣へば、荊軻思けるは、吾小国の臣下として、玉体に近付奉、直に始皇帝の宣旨を蒙る、角取籠奉上は、(有朋上P589)誠に何事かは有べき、且は最後の情也と心弱ぞ相待ける。始皇大に悦て、南殿に七尺の屏風を立后を請じ奉。楊仁后御幸して七尺の屏風を中に隔て、琴をぞ弾給ける。琴の曲には桓武楽とて、武き者を和ぐる曲也けり。此曲を弾給ふ時は、空を飛鳥も落、地を走る獣も留る程に、爪音やさしき上手にて御座ける上に、今を限の別ぞと心を澄して弾給へば、さこそは哀に面白かりけめ。但荊軻が性は火性也、始皇帝は金性也、火尅金の理にて、火に金が被尅て、いかにも危く見え給ふ。され共后は水性也、調子を盤渉調に立。此調子は五大の中の水大なれば、水にかたどれり、金生水とて、金は水に生ずる者なれば、后と調子と二の水に、始皇の金が被助て、荊軻暫ゆらへたり、水尅火とて、火は水に被尅る事なれば、荊軻が火后の水消ける上に、武きを和ぐる曲を弾給へば、荊軻秦舞陽、猛心ありけれ共、管絃の道には外くして、琴の曲をも不聞知、只面白しとのみ聞居たり。后終に一曲をぞ奏し給ふ。七尺の屏風は躍ば
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越ぬべし、一重の羅穀は引ば截つべしと、くりかえし/\引給けるに、荊軻后に被相尅て、琴の音に聞とれて、惘然と成て眠けり。始皇は琴の音を聞知給たりければ、女人だにも、折に随へば、猛心も有ぞかし、我武王が中の大武王、居ながら諸侯を従へたり。小国の小臣にあひて、忽に亡びん(有朋上P590)事こそ安からねと、強盛の心を起し給けるに、敵の眠るを折を得て、七尺の屏風を後様にぞ越給ふ。荊軻がはと立て、仙必の剣を以て追ざまに投懸奉。皇帝剣に恐て、銅の柱の陰に立隠給へり。彼柱は口五尺なりけるを、剣柱の半切入たり。番の医師夏附旦と云者、不取敢、鉄を消薬の袋を剣の上に打懸たりければ、柱なから計は切たれ共、用力失て、始皇は疵も負給はず。始皇立帰て、自剣を抜出て、荊軻秦舞陽を八割にこそしたりけれ。恩も忘て還て怨害の心を発しかば、天道免給はずして、白虹日を貫て不通ける天変あり。通たらば始皇の命も危かるべかりけるに、貫ながら通らざりければ、天変災に非ずといへり。荊軻始皇を不討得して被殺けるに、燕丹遥に白虹の変を見て、不祥也とぞ歎ける。始皇すなわち李信と云兵に仰て、数千の軍を副て、燕の太子丹を責けるに、太子衍水と云所にて、空く討れにけり。〈 後漢書に見えたり。 〉始皇帝常に宣ひけるは、燕国は秦国の未申に在、秦国は燕国丑寅に当れり、牛に羊を合するに、羊争か牛に勝べき。猿に虎を並べんに、虎豈猿に負んや。されば燕丹争か我を亡すべきと宣けるが、燕太子終に始皇帝に被討ぬるこそ不便なれ。荊軻大臣秦国に向けるに、高漸離と云人有て、易水の辺に行合たり。年比浅からず申眤ぶる友達也。暫留て互に名残
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を惜けり。荊軻が云け(有朋上P591)るは、敵に向ふ身なれば生て帰ん事難し。是や最後の見参なると語ければ、高漸離は再会の不定なる事を哀みて、筑を打てぞ慰ける。漸離は天下無双の筑の上手也。筑とは琴の様なる楽器也。漸離撥にて是を打しかば、聞人心を澄し目を驚す上手にて、荊軻が名残を慕ければ、拍子に合て荊軻歌をぞうたひける。其詞に、
  風蕭々兮易水寒、 壮士一去不復還 K108 
とぞ云ける。荊軻亡ぬと聞えしかば、昔の友達也と云事を憚て、高漸離は貌を窶し、姓名を替て世に住居けれ共、昔より習伝たる態なれば、筑を打つて遊ける。上手の披露有ければ、始皇是を召て、筑を打せて、常に聞給けるに、或人云けるは、是は高漸離とて荊軻が旧友也と申たれば、始皇驚て、能のいみじさに命をば助て、眼に毒薬を入て、目を潰して筑を打せけり。漸離安からず思て、始皇の御座る所を撥にて打せたりければ、膝瓦にぞ打当たる。始皇大に嗔つゝ、則漸離を殺てけり。角はし給たりけれ共、始皇はうたれ給へる撥の跡瘡と成て、遂に其にて失給にけり。燕丹昔の恩を忘て、還て始皇を傾んと計しかば、己が身空く亡ぬ。然ば頼朝も平家に命を被助し者に非や、縦報謝の心こそなからめ、争か平家を背奉べき、いかに謀叛を起とも、仏天豈赦し給べしや、其上指当(有朋上P592)て、誰かは流人に同意すべき、無勢にしては又素懐遂がたし、強に驚思召べからずなんど色代申ければ、入道も左こそ存ずれとぞ宣ける。
S1714 匂践夫差事
又内々私語けるは、恩を忘無勢なるにはよらず、只天運のしからしむるに依べき事也。其謂は、昔唐
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に越王匂践、呉王夫差とて、二人の国王御座しけり。互に中悪して共に傾けんとて、会稽山と云山の麓にして、度々戦ける程に、呉王は元より勢多、威すぐれたりければ、越国の軍敗れて匂践生捕れぬ。今は力なくして、降を請て歎ければ、呉王憐をたれて匂践が命を助く。臣下諌て云、敵を宥て必後に悔あり、忽に越王の命を断んにはしかじと申けれ共、匂賤は木を樵水を汲まではなけれ共、二心なく仕ければ、臣下の諌をも聞ざりけり。呉王病しける時、医師を請て是を見す。医師云、尿を人に呑せて、其味を以て、命の存亡を知んと申せども、宮中の男女共に、呉王の尿を呑んと云者なし。匂践、進出て云、吾君の為に命を被助て、其恩尤深し、尿を呑で報奉らんと申て、即是を呑。味たがはざりければ、呉王の病愈にけり。呉王後に越王の志を悦て、本国に返し遣す、匂践(有朋上P593)角仕へける事は、再旧里に帰て、呉王を亡して本意を遂んとの計也。匂践赦されて、本国に帰ける路に、蛙の水より出て躍ければ、馬より下て是を敬ふ。奢れる者を賞ずる心なるべし。其後数万の軍を起して、終に呉王夫差を亡しけり。さてこそ会稽の恥をば雪けれ。其よりしてぞ、恥みるをば会稽とも申ける。
S1715 光武天武即位事
後漢光武皇帝は、漢王莽に被責て、曲陽に落しには、僅に二十八騎なりしか共、後に世を取て天下を治給けり。我朝には天武天皇、大友皇子におそはれて、吉野の奥に落させ給けるには纔に十七騎、是も位に即給。去ば運の然らしむるに有るべき事也と云ければ、平家の一門は、いかゞはすべき。天下の煩人民の歎、ほのめきけり、毒虫の種子をば、忽に失べきにて有けるをと、上下怖あへりけり。(有朋上P594)