『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第三

波巻 第三
S0301 諒闇(りやうあんの)事(こと)
永万(えいまん)元年(ぐわんねん)七月二十八日に、新院隠れさせ給しかば、天下諒闇(りやうあん)にて御禊(ごけい)大嘗会(だいじやうゑ)も行れず雲の上人花の袖窄にければ、人皆愁たる色なり。諒闇(りやうあん)は神武天皇(てんわう)崩じ給ければ、綏靖天皇(てんわう)よりぞ始られける。天子の親みに奉(レ)別ぬれば、四海の内一天下皆禁忌なれば、諒闇(りやうあん)と云也。
S0302 高倉院春宮立御即位事
同十二月二十五日、故(こ)建春門院(けんしゆんもんゐん)位未浅して、東の御方と申ける時の御腹の皇子、五歳に成せ給けるにぞ、親王の宣旨を下されける。年来は被(二)打籠(一)御座て幽也けるが、今は万機の政一院聞召せば、無(レ)憚被(二)宣下(一)けり。同二年八月に改元ありて仁安と云ふ。
仁安元年(ぐわんねん)十月七日、高倉院六歳、東三条にて春宮立の御事あり。同二年二月十九日、御年(おんとし)七歳(有朋上P060)にて御即位あり。春宮とは帝御子を申、亦太子とも申、御弟をば大弟と申。其に此主上は御甥にて三歳、東宮は御叔父にて六歳也、昭穆不(二)相叶(一)物騒といへり。但一条院は七歳にて、寛和二年七月二十二日、御即位あり。二条院は十一歳にて、同三年七月十六日に春宮に立給、非(レ)無(二)先例(一)と申す人もあり。六条院二歳にて禅を受させ給たりしか共、僅二三年にて、同年二月十九日、春宮践祚有しかば、御位を退せ給ひて新院とぞ申ける。御年(おんとし)五歳に成せ給へば、未御元服も無童なる帝にて、太上
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天皇(てんわう)尊号、漢家本朝これぞ始なるらんと珍き事也。終に安元二年七月二十八日、御歳十三にて隠させ給き、哀なる御事也。
仁安三年三月廿日、大極殿にして新帝有(二)御即位(一)、此君位につかせ御座ぬれば、弥平家の栄とぞ見し。国母建春門院(けんしゆんもんゐん)と申は、平家一門にて渡らせ給ふ上、取分て入道の北方二位殿、又女院の御姉にて御座しければ、相国の公達二位殿腹は、当今には御外戚に結ぼおれ進て、いみじかりける事也。平(へい)大納言(だいなごん)時忠卿は、女院御せうにと御坐ける上、主上の御外戚にて、内外に付たり。執権の臣とぞ振舞ける。叙位除目偏に此卿の沙汰也ければ、世の人は平関白(くわんばく)とぞ申ける。(有朋上P061)
S0303 一院御出家事
高倉院践祚之後は無(二)諍方(一)、一院万機之政を聞召しかば、院中に近く召仕る。公卿殿上人以下、北面の輩に至(いた)るまで、程々に随うて官位棒禄身にあまるほど蒙(二)朝恩(一)たれ共、人の心の習なれば、猶あきたらず覚て、平家の一類のみ国をも官をも多塞たる事を目醒く思て、此人の亡びたらば其はあきなん、彼者が死たらば此官はあきなめと心の中に思けり。不(レ)疎輩は寄合寄合私語折々も有けり。一院も被(二)思召(一)けるは、昔より朝敵を誅戮する者数多けれども、角やはありし、貞盛、秀卿、将門を討せしも、勧賞には秀郷従四位下、貞盛従五位上に被(レ)叙、康平に頼義が宗任を誅しも、勧賞には頼義伊予守に任じ、息男義家叙(二)従五位下(一)、上古已如(レ)此、末代不(レ)可(レ)過(レ)之、逆臣の亡ぶるは王法の威也、勇士の力と思べからず、清盛かく心の儘に振舞こそ然べからね、是も末代に及で、王法の尽ぬるにや、
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迚も由なし〔と〕、思食立せ給て、一筋に後世の御勤思召たつと聞えし程に、仁安四年四月八日、改元ありて嘉応と云。嘉応元年(ぐわんねん)己丑六月十七日、上皇法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にして御出家あり、御歳四十三。御戒師は、園城寺の前大僧正覚忠、唄法印公舜憲覚、御剃手、法印(有朋上P062)尊覚権大僧都公顕也。今度皆智証の門徒を用らる。御布施をば大相国已下ぞ被(二)執行(一)ける。今日より始て五十箇日の御逆修あり。八月八日結願せらる。故に二条院は御嫡子也しか共、先立せ給ぬ。新院は嫡孫、当今は又御子にて御座せば、向後までも憑しき事なれども、平家朝威蔑ろにするも目醒く思食ければ、穢土の習人の有様も、いとはしく思食ければ、十善の鬢髪を落、九品の蓮台を志給ふも最貴し。平家の振舞中々御善知識とぞ思食す。御出家の事兼て有(二)披露(一)ければ、雲上人御前に候て、目出度御事と色代申ては、御齢も盛に御座せば、今暫なんど申合れけれ共、入道清盛は善悪物申さず、さこそと思けるにや。
帝王御出家の事、孝謙女帝御飾を落させたまひて、法名を法基と申しよりはじまれり。のちには還殿上して、称徳天皇(てんわう)と申き。それよりこのかた、平城、仁明、清和、陽成、宇多、朱雀、円融、花山、一条、三条、後三条、白河、鳥羽、讃岐、当院。「以上十六代法皇の尊号あり。」
S0304 有安読(二)厳王品(一)事(こと)
一院出家の後、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて御徒々に思召けるに、飛騨守有安を召て、読経仕れと仰け(有朋上P063)れば、懐より笛を取出て、ちと吹鳴し、厳王品の王出家已後、常勤精進、於八万四千歳修行妙法花経と打上て、一枚ばかり読たりけり。経には王出家已とこそ有に、已後の文字は、めづらしき心の巧に、読付
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たりとぞ人々感じ笑ける。
S0305 法皇熊野山那智山御参詣事
法皇は御出家の思出に熊野御参詣あり、三山順礼の後、滝本に卒堵婆を立られたり。智証門人阿闍梨滝雲坊の行真とぞ銘文には書かれたる。さまでなき人の門流を汲だに嬉きに、昔は一天の聖主、今は三山の行人、御宸筆の卒堵婆の銘、三井の流れの修験の人、さこそ嬉しく思けめ。書伝たる水茎の跡は、今まで通らじ、昔は平城法皇の有(二)御幸(一)ける由、那智山日記にとゞまり、近は花山法皇御参詣、滝本に三年千日の行を始置せ給へり。今の世まで六十人の山篭とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。彼花山法皇の御行の其間に、様々の験徳を顕させ給ける其中に、竜神(りゆうじん)あまくだりて如意宝珠一顆水精の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉る。法皇此供養をめされて、末代行者の為にとて、宝珠をば岩屋の中に納られ、念珠をば千手堂のへやに納られて、今の世までも先達預(レ)之(有朋上P064)渡す。蚫をば一の滝壺に被(二)放置(一)たりと云。白河院御幸時、彼蚫を為(レ)被(レ)見海人を召て滝壺に入られたりければ、貝の大さは傘ばかりとぞ奏申ける。参詣上下の輩、万の願の満事は、如意宝珠の験也、飛滝の水を身にふるれば、命の長事は彼蚫の故とぞ申伝たる。花山法皇の御籠の時、天狗様々奉(レ)妨ければ、陰陽博士安部清明を召て被(二)仰含(一)ければ、清明狩籠の岩屋と云所に、多の魔類を祭り置。那智の行者不法解怠のある時は、此天狗共嗔をなして恐しとぞ語伝たる。
S0306 熊野山御幸事
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平城法皇、花山法皇、白河法皇、三山五箇度。堀河院、三山一度。鳥羽法皇、三山八度。後白河法皇、本宮三十四度、新宮那智十五度。
S0307 資盛乗会狼藉事
平家の事様御目醒く被(二)思召(一)、院は有(二)御出家(一)けれ共、彼一門は猶思知ざりけるにや、心の儘にぞ振舞ける。其中然べき運の傾くべき符にや、同二年七月三日、法勝寺へ御幸あり(有朋上P065)ければ、当時の摂禄基房公 号松殿 参給けり。還御の後殿下三条京極を過給けるに、三条面に女房の車あり、夕陽の影に車の中透て、曇なく見透、烏帽子著たる者乗たりけり。居飼御厩舎人等、車より下べき由責けるに、聞入ずしてやり過んとしけるを、狼藉也とて、前の簾並に下すだれを切落たりけるに、葛の袴を著たる男あり、車を馳て逃げけるを、追懸て散々(さんざん)に打けり。車六角京極の小家にやり入にれり。件の男は太政(だいじやう)入道(にふだう)の孫、越前守資盛也けり。彼人笛を習はんとて、式部大輔雅盛が家に行たりけるが、帰ける間参会にけり。資盛帰父小松殿(こまつどの)にしか申ければ、御出に参会て車より下ざりけるこそ尾籠なれ、栴檀樹は二葉より芳くして四十里の伊蘭林を翻し、頻伽鳥は卵の中にてあれども、其声諸鳥に勝たりといへり、幼稚と云は五六歳の時也、汝十歳に余れり、争礼儀を存ざらん、人に上下の品あり、官に浅深の法あり、政は横なきを基とし、礼は敬のみを以本とせり、傍輩猶以敬べし、況於(二)摂政(せつしやう)家(一)をや。加様の事にこそ世の大事も引出せ、供したる侍共が、物に心得ねばこそ係る狼藉をも現じ、無礼の目にも合とて、大にしかり被(二)教訓(一)けり。殿下の御供の者も、平将の孫とも知ず、資盛が供
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の者も、殿下の御車とも不(レ)知けるにや、係事出来れり。殿下此事を聞給て、居飼御厩舎人等、平(へい)大納言(だいなごん)(有朋上P066)重盛(しげもり)の許へ被(二)召渡(一)けり。其上蔵人右少弁兼光を御使として、事の由を被(二)謝仰(一)ければ、大納言(だいなごん)大に畏申されて、居飼舎人等をば則返進たりけれども、なほ居飼御舎人各三人、検非違使(けんびゐし)基広に預給。御随身四人、御厩に下されける。内に府生秦兼清、政所に下さる。彼兼清は制止を加たりけるに依て、被(レ)行(二)軽罪(一)けり。前駈七人追却られけるに、入道孫に子細を問ければ、資盛有の儘に申。入道安ず思、大に嗔て宣けるは、縦摂政(せつしやう)関白(くわんばく)におはす共、浄海が孫いとはん者には、などか一度の可(レ)無(二)芳心(一)、家貞必資盛が恥を雪げとぞいはれける。
S0308 小松大臣教(二)訓入道(一)事(こと)
小松殿(こまつどの)此事を聞給て、いそぎ入道の許へ参じ申されけるは、御報答の仰努々有まじき事に候、重盛(しげもり)が子共、平殿上人にて、殿下の御出に参会て、致(二)無礼(一)こそ尾籠に侍れ、縦越前守こそ若者にて、骨法不(レ)知とも、相具たる侍共が、不思議に覚候、彼等をこそいかにも可(レ)有(二)御勘当(一)事(こと)と覚ゆれ。資盛全恥にて侍るまじ、誠に武士なんどに合て、懸目に合たらば、御鬱深かるべし、上下品定れり、不(レ)及(二)敵論(一)、摂禄の臣と申は、忝も春日(有朋上P067)大明神入替せ給て、君と共に国を治、民育まします、尤も可(レ)奉(レ)仰御事也、今御権威にほこりて、其恥を報はん事不(レ)可(レ)然、是は一門衰微にも成侍ぬと覚候、されば以(レ)徳勝(レ)人者は昌、以(レ)力勝(レ)人者は亡と云事あり、加様の事よりこそ天下の大事も出来り、家煩とも成事なれ、老子経に、天下難事は必作(二)於易(一)、天下の大事は必作(二)於細(一)といへり、能々可(レ)有(二)御慎(一)事(こと)にや、人上は百日こそ申なれ、
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只披露せぬには過じなど被(二)宥申(一)ければ、聞人ゆゝしき賢臣哉とぞ思ける。偖侍共を召て少き者相具して、加様の事仕出しける条、以外の狼藉也と仰ければ、供したりける者共も、皆恐入てぞ有ける。角て小松殿(こまつどの)は帰給ぬ。され共入道は猶腹をすへかねて、田舎侍の気折に、こは/゛\しかりけるが、上臈も下臈(げらふ)もわきまへず、主より外には恐しき事なしと思て、前後を不(レ)知ける難波妹尾に下知し給けるは、重盛(しげもり)はゆゝしく大様の者にて、子の恥をも親の嗔をも不(レ)知、様々制止つれ共、他家の人の思はん事こそ愧しけれ、傍輩の為に越前守が恥すゝげ、伴にあらん者共がもとゞりきれとぞ宣ける。難波妹尾は興ある事に思て、内々有(二)其用意(一)。
S0309 殿下事会事(有朋上P068)
関白殿(くわんばくどの)これをば争可(二)知召(一)なれば、大内の御直廬へと思食て、常の御出仕よりも花やかに、前駈御随身殊に引繕せ給て、中御門、東洞院の御宿所より、大炊御門を西へ御出なる。堀河猪熊の辺にて、兵具したる者三十騎計走出て、前駈等を搦捕けり。安芸権守高範(たかのり)ばかりぞ御車に副て離ざりける。式部大輔長家、刑部大輔俊成、左府生師峯等も、本どりをきらる。結句車の物見打破、太刀長刀を進ければ、只夢の御心地ぞし給ける。高範(たかのり)御車を廻てあやつり禦けるを、難波太刀を振て御車に向けり。高範(たかのり)心うさの余に走より、狼藉の奴原也、何者ぞとて組たをしてころびけるが、高範(たかのり)すくやか者にて、難波を押へて拳を握り、■(つら)を打。郎等主を助んとて、高範(たかのり)が本どりを取引上たり。経遠力を得て、駻返て主従二人して、手取足取せゝり倒して、髻を切とて、是は汝をするには非とぞ■(ののしり)ける、浅増と云も疎也。左近将監盛佐は、馬を馳て逃けるを、
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打落て是をも搦てけり。御随身忠友馬より下て、御車の前に進で可(レ)有(二)還御(一)かと申ければ、轅を廻されける間に、武士以(二)鏑矢(一)忠友を射。忠友地に平て傾たりければ、其矢頭の上を通る。危きとぞ見えける。御伴の者四方へ逃隠にければ、只御車副二人、松の出納一人ぞ残たりける。懸様先代も無(二)其例(一)、後代も難(レ)有。難波妹尾かく振舞て帰ぬ。高範(たかのり)もとゞりきられ(有朋上P069)ながら近く参て、我君いかに/\と申ければ、直衣の袖を御かほに押あて、泣々有(二)還御(一)。御出の花声なりつる御有様に、浅猿き下部計にて環入せ給けるこそ悲けれ。摂禄臣の係る憂目を御覧ずるも、直事にあらず、子細あらんか。内裏には左大臣経宗、右大臣兼実、内大臣雅道、大宮大納言(だいなごん)隆李、左大将(さだいしやう)師長、源(げん)中納言(ぢゆうなごん)雅頼、五条中納言(ちゆうなごん)邦綱、藤(とう)中納言(ぢゆうなごん)資長、平宰相親範、修理大夫成頼、左大弁実綱卿ぞ、殿上に候せられて、殿下の御参を奉(レ)侍られける程に、前大相国より内舎人安遠を御使として、殿下の御事を被(レ)申たりければ、光雅今夜の定延引之由(二)触申(一)各被(二)退出(一)けり。此事忽に天意に逆つて深く背(二)冥慮(一)ければにや、去比大織冠の御影破れ裂たりけり。かゝるべきしるしとおそろし。
秘本〔に〕云、入道(にふだう)相国(しやうこく)は、福原にて逆修おこなはれけるあひだ〔に〕なり、平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)の所為也ときこえきと、普通に大にかはれり。
平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)聞(レ)之、涙ぐみ給ひ大息つきて、噫呼家門の栄花既に尽なんと、あながちに被(レ)歎けれども、入道はさて物こりし給へとぞ悦ける。殿下御伴なりける、多田源三蔵人と云者は、もとゞりきられたりけるが、終(レ)夜髪結続、絹紋紗の狩衣著て、殊に引繕院御所に参て申けるは、実や殿下の御伴申たる
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人々、皆もとゞり被(レ)斬たりと云聞えあり、浅間敷事共にこそ侍れ、哀某弓矢の芸に携て、(有朋上P070)雁俣を逆にはくと申共、本取を切るゝ程にては、人をするまでこそなくとも、命生て人に面を合せてんや、所詮不肖の身を以て出仕をすればこそ、左様に憂名をも流し候へとて、御暇を申して、出家して引篭けるこそ賢き様にておかしかりけれ。
 廿二日の朝、六波羅の門の前に、おかしき事を造物にして置り。土器に蔓菜を高杯にもりて、折敷にすへ、五尺計なる法師の、はぎ高にかゝげたるが、左右の肩を脱てきる物を腰に巻集、箸を取てにたる蕪の汁を差貫て、かわらけの汁をにらまへて立たるを造て置けり。上下万人之を見れども、何心と云事を不(レ)知。小松殿(こまつどの)へ人参て、係る癖物こそ候と申ければ、あゝ心憂事也、はや京中の咲(わら)はれ草に成て、作られけり/\、其造物こそむし物にあひて、腰がらみと云事よ。弓矢取身は軍に合てこそ剛をも顕し威をも振べき事なるに、思もよらず摂禄の臣に奉向、かゝるおこがましき事仕出たれば、造物にもせられけりとぞ口惜被(レ)仰ける。
摂政殿(せつしやうどの)角事に合給ければ、廿五日に院の殿上にて、御元服の定あり。さて有べきならねば、摂政殿(せつしやうどの)は十二月九日、兼宣旨を蒙らせ給て、十四日に太政(だいじやう)大臣(だいじん)にならせ給ふ。十七日には御悦申あり。此は明年御元服の加冠の料也。平家の一類以外に苦咲(にがわらひ)てぞ見えける。(有朋上P071)
S0310 朝覲行幸事
嘉応三年正月三日、主上御元服有、十三日に朝覲の行幸と聞えき。法皇も女院も、旁御珍く花やかに待申させ給けり。初冠の御姿最厳く、翠の山に月に出が如く、籬の内に梅の綻たるに似させ給へり。改の年の始の御事なれば、人々
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も殊御祝の事共申て悦申給へり。
 朝覲の行幸とは、漢高祖位につきて後、五日に一度父の太公が家に朝覲して、深く父子の礼をなす。太公が家司賢き者あり。太公問云、天に二の日なく、地に二の主なし、高祖は子なれ共、人主なり、太公は父なれ共、人臣也、何ぞ人主として人臣を可(レ)拝哉、角のみならば中々悪かりなんと云、其後高祖朝覲するに、太公門に下向へり。高祖大に驚て、何事にかと問。太公答云、家司申旨如(レ)此、其言誠にもと覚ゆ、争か賤か身にて、天下法を乱らんと云道理也と云ければ、高祖太公を拝(はい)する事を止たりけれ共、さりとて重恩の父を拝せざるべきにあらねば、太公を貴して太上皇とせり。さて又朝覲あり。高祖家司が言を感じて、五百斤の金を給。我朝にも帝王の父を、太上天皇(てんわう)として、朝覲する事は此故也。今年四月廿一日改元ありて承安元年(ぐわんねん)と云。
三月には、太政(だいじやう)入道(にふだう)の(有朋上P072)第二の御女、ことし十五歳に成せ給ふ。法皇の御猶子の儀にて御入内あり、中宮徳子とぞ申。七月には相撲の節なんど聞えき。小松大将折節花やかに最目度ぞ御座ける。可(レ)然宿報にて官位こそ思さま也とも、みめ貌は心に叶べきにはあらね共、何事も闕たる事なし。争角は御坐やらんと、人々ほめ被(レ)申けり。子息の少将より始て、弟の公達に至(いた)るまで、形人に勝給へり。大将情深き人にて、詩歌管絃神楽の歌、笛なんどをも勧め教給たりければ、公達までも難(レ)有様しに申合り。
S0311 成親望(二)大将(一)事(こと)
妙音院入道師長、其時は内大臣左大将(さだいしやう)にておはしけるが、太政(だいじやう)大臣(だいじん)を申させ給はんがために、大将を辞し
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申されけり。今度は後徳大寺実定卿、御理運の大将也。若又殿の三位中将師家なんどや成給はんずらんと申ける程に、新(しん)大納言(だいなごん)成親卿、ひらに被(二)望申(一)けり。院の御気色もよかりければ、内外に付て奏申ける上に、諸寺諸社に様々の大願を立て祈申。大納言(だいなごん)自春日の社に、七箇日篭て祈誓し給けれ共、指て験なければ、貴僧を八幡宮に篭て、真読大般若を始給へり。真読半分計に成て、高良大明神の御前なる橘(有朋上P073)の木に山鳩二羽出来て食合落て死にけり。大菩薩の第一の仕者也。此直事にあらずとて、時の別当聖清此由を奏聞す。即神祇官にて御占あり。天子大臣の非(二)御慎(一)臣下怪異とぞ申ける。成親卿はこれにも更に恐ず、猶又賀茂上社に、仁和寺の俊堯法印を篭て、孔雀経の法を行。下の若宮には、三室戸の法印某篭て、荼吉尼の法を修す。七箇日に満日、晴たる空俄に曇、雷電雲に響き、風吹雨降なんどして、天地震動する事二時ばかり有て、彼宝殿の後の杉に雷落係つて燃けり。雷火他に不(レ)移とこそ云伝たれども、若宮に移て社は焼にけり。神は不(レ)禀(二)非礼(一)と云事なれば、非分の事を祈申されければ、係るふしぎも出来にけり。大納言(だいなごん)は、僧も法も軽て信心がなければこそ神も不法の祈誓をとがめて、加様の懈怠もあれとて、七日精進して、下社に七箇日篭て、所願成就と被(レ)申けり。七日に満ずる誰がれ時ばかりに、夢現とも覚えず、赤衣の官人二人来て、大納言(だいなごん)の左右の手を引張社頭の白砂に引落す。こはいかにとおぼす処に、大明神御殿の戸を推ひらかせ給ひて、かく、
  桜花賀茂の河風恨なよ散をばわれもえこそとゞめね K016
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と高らかに大納言(だいなごん)の耳に聞えければ、身にしみおそろしくて、大将の所望はやみにけ(有朋上P074)り。
 遠他国を訪へば、班足王の臣下に、かむえむかしうは大臣を天道に祈て、雷に被(レ)裂て失にき。近吾朝を尋ぬれば、星御門の臣下に、日唯李通は、三公に昇らんと山王に祈申しかば、神に被(レ)罰亡にきといへり。(両説可(レ)尋)横の義をば神祇不(レ)用云事なれば、かく示し給ふにこそ。
S0312 左右大将事
係し程に、一二の大納言(だいなごん)にて御座ける徳大寺の実定卿も、花山院の兼雅卿も、様々ぞ被(二)祈申(一)ける。成親卿も成給はで、平家の嫡子、小松大納言(だいなごん)重盛(しげもり)の、右大将(うだいしやう)にて御座けるが左に遷、弟の宗盛卿の、中納言(ちゆうなごん)にて御座けるが右になり、兄弟左右に相並給へり。大納言(だいなごん)の上臈八人、中納言(ちゆうなごん)の上臈二人、十人の位階を越て成給けるこそ優々しけれ、其中に後徳大寺の実定は、一の大納言(だいなごん)にて才覚優長にまし/\ける上は、家の重代也、今度の大将は理運左右に及せ給はざりけるが、宗盛に越られ給てこそ、極なき御恨にて有けれ、定て御出家もやと申沙汰しける程〔に〕、大納言(だいなごん)を辞し申て引篭らせ給けり。成親卿は指も恐ろしき夢に思止たりけるが、猶本病発て、徳大寺花山院に越れんは理運也、(有朋上P075)殿三位中将殿に被(レ)越奉らんは、上臈なればいかゞはすべき、宗盛に越られぬるこそ口惜けれと思はれければ、如何にもして平家を亡して、本望を遂んと思ふ心の付ける事こそ不思議なれ。平治逆乱の時事にあひ越後中将にて、既に死罪に被(レ)定しを、重盛(しげもり)其時は、左衛門佐にて、兎角申て頸を続たる人に非や、信頼卿の有様を目渡見し人ぞかし。父家成卿は中納言(ちゆうなごん)までこそ至(いた)りしに、其末の子にて位は正
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二位、官は大納言(だいなごん)に至(いた)り、歳僅に四十二、大国あまた賜て家中たのしく、子息所従に至(いたる)まで、飽まで朝恩に誇たる人の、何の不足ありてか、懸る事思立給けん、天魔彼身に入替、家の滅んとするにやと浅猿。徳大寺の実定は、大将の宗盛に被(レ)越て、大納言(だいなごん)を辞申されて、山家の栖に有(二)篭居(一)けり。嵐烈き朝、前中納言(ちゆうなごん)顕長卿に遣はしける、
  夜半にふく嵐につけて思ふかな都もかくやあきはさびしき K017 
顕長返事、
  世の中にあきはてぬれば都にも今はあらしの音のみぞする K018 
実定は既に山深篭居して、可(レ)有(二)出家(一)由披露ありければ、禁中にも仙洞にも驚思食けれ共、入道の計なれば末代こそ心憂けれとて、別に仰出す事なし。実定卿は、御身(有朋上P076)近召仕給ける侍に、佐藤兵衛尉近宗と云者あり。事に触てさて/\しき者也ければ、何事も阻なく打解被(二)仰合(一)けり。彼近宗を召て宣けるは、平家は桓武帝の後胤とは名乗ども、無下に振舞くだして、僅に下国受領をこそ拝任しに、忠盛始て家を興、昇殿をゆるされし子孫也、当家は閑院の始祖太政(だいじやう)大臣(だいじん)仁義公より己来、君に奉(レ)仕代々既に大臣の大将をへたり、今宗盛に被(レ)越て、世に諂ん事、為(レ)身為(レ)家人の嘲を可(レ)招、されば出家をせばやと思召、いかゞ有べきと仰けるに、近宗申けるは、御出家までは有べからず、異国にも係ためしは多かりける、太公望は渭浜波に釣を垂、晋七賢は竹林寺に嘯き、庄公は夢沢〔に〕形を隠けれ
P0056
共、様をば替ずして賢王の世を俟き、是皆濁れる代を遁て徳をかくし、賢世に出て位を高せり、就(レ)中(なかんづく)今度の大将、朝家を可(レ)奉(レ)恨御事にあらず、偏に太政(だいじやう)入道(にふだう)の我意の所行也。かゝる憂世に生合給へる御事、口惜けれ共、賢は愚にかへると云事も候へば、今はいかにもして、入道の心を取せ給て、一日也共大将に御名を係させ給べき御計〔ごと〕こそ大切なれ。それに取て、安芸厳島へ御参詣ありて、穂に出て此事を祈申させ給べし、彼明神をば平家深奉(レ)崇て、其社に内侍と云者を居られたり。彼内侍共毎年一度は上洛して、入道の見参に入と承れば、懸御事こそ有しかなん(有朋上P077)ど語申さば、明神の御計もあり、又入道もいちじるしき人にて、思直さるゝ事も有なんと申ければ、近宗が計可(レ)然とて、やがて有(二)御精進(一)厳島へぞ参給ふ。比は三月の中の三日の事なれば、明行空曙、四方の山々霞こめ、漕行船の波間より、雲井遥に立隔、遠ざかり行悲さに、懸らましかば中々にと、思食けん理也。蒼波路遠雲千里と詠じつゝ、須磨浦をぞ過給ふ。行平中納言(ちゆうなごん)の、
  旅人のたもとすゞしくなりぬらん闕吹こゆる須磨浦波 K019 
と詠じけん折しも被(二)思出(一)けり。抑源氏中将此浦に遷給し時、源氏琴を引良清に歌うたはせ、惟光に笛吹せて遊給しに、心とゞめて哀なる手など弾給ける。折しも五節君とて、源氏の御妾あり、父の大弐に相具して筑紫へ下だり〔たり〕けるが、上とて彼浦風琴の音をさそひけるを聞て、
  琴の音に引とめらるゝ綱手なはたゆたふ心君しるらめや K020 
P0057
と聞えたりしかば、御返に源氏、
  心有てひくての網のたゆたはば打すてましやすまの浦風 K021 
と有けんも、今更被(二)思出(一)けり。明石の浦を過給にも、かれならん源氏の大将須磨の浦(有朋上P078)に沈給し比、依(二)夢の告(一)播磨入道の女明石の上を奉(レ)迎けん、須磨より明石の浦伝にも、路の程遥に有けんと思召し残す方ぞなき。角て日数ふる程に、春も既に暮れつゝ夏の木立に成にけり。四月二日は厳島にも著給、神前に参て社頭の景気を拝し給へば、皎潔たる波月は和光の影を諍、蒼茫たる水雲は利物の風を帯びたり。雲の■(まくさか)霞の軒、幾廻かは年へけん、玉の簾錦の帳、憑を懸て日を送れり。係る遠国にも眺望やさしき名所とて、神明地を点じ、垂(レ)迹、人を利し給こそ貴けれ。肩をさし袖を連る内侍も、結縁羨しく御覧ずれば、信を至(いた)し歩を運ぶ願望も、末憑しくぞ思召。御参篭は七箇日也。其間内侍共も常に参て、今様朗詠し、琴琵琶弾なんどして、旅の御つれ/゛\様々〔の〕情ある体に奉(レ)慰。実定卿も御目を懸られたり。内侍の中に、有子と云者あり。十六七にもや成らん、年少し幼稚て、常も参らず時々見来けるが、希代の琵琶の上手也。あてやかなる事から、物糸惜き顔立、古郷も忘ぬべしと実定常に被(レ)仰けり。或時有子とく参て、唯一人御前に候けるを、我身は此国の者かと有(二)御尋(一)けれ共、顔打あかめて御返事も申さず、愧げなる有様いとゞ由ありて御覧じければ、実定思食入たる御気色にて、畳紙に御手ずさみ有て、有子が前へ投させ給へり。(有朋上P079)
P0058
  山の端に契て出(いで)ん夜半の月廻逢べき折を知ねど K022
有子内侍は此手ずさみを給て、堪ず思しめたる気色にて、御前をば立ぬ。実定は只尋常の情に思食けるを、内侍は難(レ)忍ぞ思沈ける。さても七日過ぬれば、都へ帰上給ふ。内侍共も御送にぞ参ける。有子はさらぬだに悲、上給なん後は、徐そにても争か見奉らんとて、衣引かつぎて臥にけり。内侍共一夜の泊まで御伴申て、其夜は殊に名残を惜奉、明ぬれば暇申けるを、実定宣けるは、余波は尋常也と云ながら、此は理にも過たり、何かは苦かるべき、都まで送付給へかし、又もと思ふ見参もいつかはと覚て、あかぬ思の心元なきぞと仰られければ、内侍共さらぬだに難(レ)忍なごりに、角こま/゛\と宣ければ、都までとて奉(レ)送けり。舟の泊やさしきは、明石、高砂、須磨浦、雀の松原、小屋の松、淀の泊のこも枕、漕こし船の習にて、鳥羽の渚に舟をつく。是より人々上つゝ、徳大寺へ相具し給て、両三日労りて、様々翫引出物賜たりける。さても内侍暇給て下けるが、入道の見参に入んとて、西八条にぞ参たる。入道出会ていかにと問給へば、内侍申けるは、徳大寺大納言殿(だいなごんどの)、今度大将に漏させ給へりとて、為(二)御祈誓(一)遥々と厳島へ語参篭七箇日、尋常の人の社参にも似させ給はず、思食入たる御有様も貴く(有朋上P080)見させ給へる上、事に触て御情深。内侍殊に不便にあたり奉給つれば、旁御遺惜て、又もの御参も難(レ)有ければ、都まで送付たれば、様々相労れ奉て、色々の御引出物賜て下侍るに、争角と可(レ)不(二)申入(一)とて、参てこそと申は、入道本よりいちじるき人にて、涙をはら/\と流給へ
P0059
り。やゝ有て宣けるは、近衛大将は家の前途也。歎給も理也。夫に都の内に霊仏霊社其数多く御座、此仏神を閣て、西海はるかに漕下、浄海が深奉(二)崇憑(一)厳島まで被(二)参詣(一)けるこそ糸惜けれ、明神の御照覧難(レ)測、其上今度は理運也しを、入道が計にて宗盛を挙し申たるにこそ、可(二)計申(一)とてけしからず泣給へり。内侍共翫引出物なんど給て被(レ)下けり。其後やがて重盛(しげもり)の左に御座けるを辞し申て、右にうつし、実定卿を挙申て奉(レ)成。左大将(さだいしやう)いつしか、同五月八日御悦申あり。今日佐藤兵衛近宗を、左衛門尉に成れける上、但馬国きの崎と云大庄を賜はる。神明忽に御納受、貴きに付ても、近宗が計神妙とぞ思召ける。
S0313 有子入(レ)水事
偖も有子の内侍は、徳大寺の何となき言の葉を得て、思日々にぞ増りける。千早振(ちはやふる)神に祈(有朋上P081)をかくれ共、其事叶ふべきにあらねば、浮世につれなくあればこそ係(かかる)忍難事もあれ、千尋の底に沈みなばやと思つゝ、■(こ)舟に便船して、有し人の恋さに都近所にて兎も角もならんとて、波の上にぞ漂ける、責ての事と哀也。船の中の慰には、琵琶の曲をぞ弾ける。調弾数曲を尽せば、声松の風にや通らん、四絃緩急に掻乱せば、響波の音にも紛けり。彼白楽天、潯陽江の口に流されて、舟の中に琵琶を弾ずる音を聞は、錚々然として京都の声あり。故郷の恋さに其人を尋れば、我是長安の唱家の女也。十三にして琵琶を学得て、名は教坊第一部に有しか共、顔色朝暮に衰て、老大にして商人の婦となれり。夫は利を重くして他に行ば、我は独空き船を守て、波の上に浮と云ながら、琵琶を抱て面を指かくし
P0060
けん、古を被(二)思出(一)哀也。有子終に摂津国住吉の澪の沖にて、舷に立出(いで)つゝ、海上はるかに見渡て、
  はかなしや浪の下にも入ぬべし月の都の人やみるとて K023 
と打詠て、忍やかに念仏申して海中へぞ入にける。船の中の者共、あれや/\と騒けれ共、又も見えざりければ力なし。彼潯陽の老女は、色衰て商人に随て舟を守、此厳島の有子は、年若して実定を恋て水にぞ沈ける。いつしか彼歌都に有(二)披露(一)ければ、(有朋上P082)皆人哀と思けり。見なれし内侍が事なれば、徳大事の左大将(さだいしやう)、さこそ不便におぼしけめ。
S0314 成親謀叛事
新(しん)大納言(だいなごん)成親卿は、実定の大将に成給ぬるに付て、是も平家の計也と思はれければ、平家を亡さんと謀叛を発、疎人も入ぬ所にて、兵具を調へ軍兵を集られ、さるべき者共相語らひ、此営の外他事無りける中に、多田行綱を招て、様々酒を勧て、金造太刀一振、引出物に賜、酒宴取ひそめて、大納言(だいなごん)行綱が膝近居よりて、耳に口を差寄て、私語事は、成親不(二)思寄(一)院宣を下賜れり、其故は平家朝恩の下に居ながら、朝家を蔑ろにし、一門国務を執行、国主を蔑如す、悪行年を重、狼籍日に競り、依(レ)之彼一類を可(二)追討(一)之由、仰を承といへ共、且は存知様に、成親させる武芸の器にあらず、尤猶予すべきを、君も大に鬱思召ばこそ、如(レ)此は被(二)仰下(一)らめ、非(レ)可(レ)奉(レ)返(二)院宣(一)。されば一方の大将には、奉(二)深憑(一)、御辺又源氏の藻事也、争か執心もなからん、平家亡ぬる者なら
P0061
ば、日本の大将軍共成給へかし、其条奏申さんに子細やは有るべきと語けれ(有朋上P083)ば、行綱争いなと云べきなれば、酔のまぎれに深く憑給へ、承侍ぬと領掌して立にけり。東山鹿谷と云所は、法勝寺の執行俊寛僧都が領也。後は三井寺に続て、如意山深、前は洛陽遥見渡して而も在家を隔たり。爰ぞ究竟の所也とて、城郭(じやうくわく)を構兵杖を用意す。摂津国源氏に多田蔵人行綱は、成親兼憑ける上、法勝寺の執行に師檀の契深して、互に憑憑れたりければ、俊寛も語(レ)之。平判官康頼、近江中将入道連海、其外北面の下臈共(げらふども)、あまた同意しけり。彼俊寛僧都は、村上の帝第七王子、二品中務親王具平六代の後胤、仁和寺の法印寛雅が子、京極の源大納言(だいなごん)雅俊卿孫也。此大納言(だいなごん)はさせる弓矢取家にはあらね共、ゆゝしく腹悪心猛き人にて、常は歯を食しばだたいて御座ければ、京極の家の前をば、たやすく人も不(レ)通けり。かゝる人の孫にて此俊寛も、僧ながら驕つゝ、案も無こそ被(レ)与(二)此事(一)けれ。
 成親卿の許に、松の前鶴の前とて、花やかなる上童二人あり。松前は容顔はすぐれたれども心の色すくなし。鶴前はみめ貌はすこしおくれたれども、心の色今一きはふかかりけり。謀叛の事によつて彼が心をとり語はんために、中御門高倉の宿所へ、執行僧都を請じて酒を出し、彼上童二人を以て様々にしひたりけり。かかりし程に僧都常にかよひて、はじめは松前にこころざしを顕しけるが、後には鶴前におもひうつして、女子一人(有朋上P084)儲たりけるとかや。大納言(だいなごん)此事うちとけかたらひ給ければ、無(二)左右(一)領状もなかりけれども、鶴前に心を移して隙なくかよひければ、終にはかく同意しけり。
P0062
S0315 一院女院厳島御幸事
承安四年三月に、法皇並建春門院(けんしゆんもんゐん)、安芸国厳島明神へ可(レ)有(二)御幸(一)由聞えし程に、十六日癸卯、法住寺殿(ほふぢゆうじどの)を御門出ありて、十九日に室泊まで御船に奉る。同二十六日癸丑、社頭に参著せ給へり。即今日一院の御奉幣有て、御正体御経供養あり。御導師は東大寺の別当法印顕慧をぞ被(二)召具(一)たる。差も遥の御参詣に、御願文(ごぐわんもん)のなかりけるこそ怪しけれ。同二十七日には、女院の御奉幣、御正体、御経供養あり。御願文(ごぐわんもん)は、右大弁藤俊経ぞ書たりける。
側聞、登(二)中岳(一)而延(レ)齢焉、漢武建(二)白茅之封(一)、祀(二)高■(こうばいを)(一)而獲(レ)子矣、簡狄感(二)玄鳥之至(いたる)(一)、神霊福助前鑒既明者歟、伏惟四徳雖(レ)疎、六行雖(レ)闕、初侍(二)姑山(一)而承(レ)恩、早編(二)栄名於九々之列(一)、後居(二)后房(一)而正(レ)位、更守(二)謙退於疑々之心(一)、忝為(二)聖皇之母儀(一)、遂賜(二)仙院之尊号(一)、造次所(レ)慕者、天祚之無(レ)窮也、寤寐所(レ)思者、帝業之繁昌也、于(レ)朝于(レ)暮、祈(レ)仏祈(レ)神、於(レ)是(有朋上P085)伊都岐島社者、極聖和光之砌大権垂跡之地、青松蒼柏之託(レ)根多、送(二)五百廻之歳月(一)、貴賤高下之運心、不(レ)遠(二)千万里之風煙海中之仙島(一)也、省(下)鼇波之浮(二)蓬壺(二)沙浜之霊祠(上)也、知(二)竜宮之近笞■(たいしゅを)(一)可(三)以採(二)不死之薬(一)、可(三)以得(二)如意之珠(一)、勝絶之趣讃不(レ)可(レ)尽、、因(レ)茲現当之善利、殊抽(二)予参之精誠(一)蓋従(二)法皇之虚舟(一)遂(二)弟子之懇符(一)也、旅泊夜深幽月照(二)懐郷之夢(一)、羈中春暮、残花為(二)行路之資(一)、遂就(二)紛楡之社壇(一)、敬設(二)清浄之法会(一)、廼奉(レ)鋳(二)顕大明神本地正体御鏡三面(一)、奉(レ)書金字紺紙妙法蓮華経一部八巻、無量義経一巻、観普賢経一巻、般若心経三十三巻、大日経一部十巻、理趣経一巻、大日真言〔宗〕百遍、十一面真言百返、毘沙門真言百返、此中於(二)
P0063
大日経(一)者、所(レ)奉(レ)納(二)銀笞(一)也、其外師子馬鞍刀剣弓箭、各冶(二)金銅(一)、殊尽(二)彫鏤(一)、復有(二)色馬(一)、復有(二)八女(一)、共施(二)丹青(一)、限(二)以三十三(一)、専捧(二)幣帛(一)、更副(二)鈿■(てんを)(一)、其勤非(レ)一其誠無(レ)弐、以(二)此財施法施之功(一)、能仰(二)彼権化実化之納受(一)、于(レ)時岸風之払(二)斉席香煙(一)、添(二)栴檀之薫(一)、天水之及(二)瑞籬(一)、朝声助(二)梵唄之曲(一)、所(レ)生(二)勝因(一)、併資(二)法薬(一)、先捧(二)白業(一)、奉(レ)祝(二)紫宮(一)、斉数久遠、屡献(二)注文(一)、麻姑之■(さん)継(二)嗣恢弘(一)、旁耀(二)瓊萼金枝光(一)、弟子生涯尚遥、退(二)病源於他土、寿域新兆移(二)南山於前庭(一)。若夫現在生之運命、有(レ)限(二)百二十之春秋(一)、遂過之夕不(レ)誤、順次之往生、速詣(二)安養之世界(一)、夫当社者、尋(二)内証(一)(有朋上P086)挿絵(有朋上P087)挿絵(有朋上P088)者、則大日也、有(レ)便(三)于祈(二)日域之皇胤思(一)、外現者亦貴女也、無(レ)疑(三)于答(二)女人之丹心(一)、我既為(二)本朝之国母(一)、旁足(レ)蒙(二)当社之神恩(一)、抑至心繋念之輩、朝祈暮賽之人、自(レ)古迄(レ)今、皇蘿雲布、或雖(レ)有(二)槐■(くわいきよく)之尊貴(一)、敢不(レ)及(二)院宮之往詣(一)、而弟子一者被(レ)扶(二)当時之信力(一)、一者被(レ)引(二)多却之宿縁(一)、忽詣(二)此場(一)、始蹈(二)其跡(一)、若於(二)今日(一)而無(二)掲焉之験(一)、恐令(下)後人而生(中)疑惑之心(上)、伏乞玄応成就、素望円満、然則往還之間、無(二)風波之難(一)、先知(下)冥助之潜通(中)心意之裏(上)、満(二)大小之願(一)、新顕(二)利益之現証(一)、年々歳々、弥致(二)欽仰(一)、子々孫々永可(二)帰依(一)、神而有(レ)可(レ)知(三)必垂(二)答■(たうきやうを)(一)重請禅定大相国、今世払(二)友気於三観之窓(一)、来世証(二)妙果於一仏之土(一)、弟子所(三)以憑(二)彼懇篤之至(いたり)(一)、亦任(二)知見(一)敬白、
 承安四年三月とぞ書たりける。
P0064
当社は是当国第一の鎮守に御座。太政(だいじやう)入道(にふだう)の世に出られし事、為(二)安芸守(一)時也。被(レ)誓ける事の有けるにや、殊に彼明神を信られて、加様に御幸をすゝめ申給へり。法皇も女院も、入道の心に随はせ給はんとての御為にや、遥々と有(二)御参詣(一)けるこそ貴けれ。尋常の人の習と云ながら、太政(だいじやう)入道(にふだう)は極たる大偏執の人にて、奉(二)我信(一)仏神へ人の詣れば、殊に嬉事に思はれて、徳大寺の実定をも大将になされ、法皇女院(有朋上P089)の御幸をも畏入給へり。又我一門にあらぬ者の、僧も俗も高名したりと見聞給ては、強に嫉傾申給へり。
S0316 澄憲祈(レ)雨事
其中に今年春の比より天下旱魃して夏の半に至(いた)り、江河流止りければ、土民耕作の煩を歎、国土農業の勤を廃す。井水絶にければ、泉を掘てぞ人は集ける。清涼殿にして恒例の最勝講被(二)始行(一)。五月二十四日は開白也、二十五日は第二日也、朝座の導師は、興福寺権少僧都覚長、夕座は山門の権少僧都澄憲、澄憲天下の旱魃を歎、勧農の廃退を憂て、敬白に言を尽し、竜神(りゆうじん)に理を責て、雨を祈乞給けり。其詞に云、
夫御願(ごぐわん)者、起(レ)自(二)寛弘之聖朝(一)、至(いたる)(二)于承安之宝暦(一)、法会雖(二)旧道儀(一)、弥新、時代雖(レ)重、興隆更珍、九禁之裏専盛(二)人事美麗(一)、三宗之間、殊撰(二)才弁之英傑(一)、故生(二)肇融叡之倫(一)演(二)説連珠(一)防(二)尚光基之類(一)、問難争(レ)鋒、五日開(レ)講、法性淵底、悉顕(二)十問挙疑(一)、玄宗秘頤無(レ)残、聖皇自捧(二)香炉煙(一)、昇(二)三十三天之雲(一)、群臣各列(二)法莚(一)、瞼合(二)金字金光之輝(一)、天人光龍神影、降上昇下、陽台雲、頴川星、内凝外聚、寔是鎮護国家第一之善事(有朋上P090)攘(レ)災招(レ)福、無双之
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御願(ごぐわん)也。抑当(二)厳重御願(ごぐわん)之莚(一)、天衆影向之場、聊有(下)可(二)訴申(一)之事(上)、伏見(二)我聖朝御願(ごぐわん)金光最勝両会(一)、迎(二)春夏(一)無(レ)怠、帰(レ)仏信(レ)法、御願(ごぐわん)送(二)歳月(一)弥盛、而項年七八箇年、毎歳有(二)旱魃之憂(一)、不(レ)知(二)如何(一)、就(レ)中(なかんづく)今年当(下)日曜在(二)井宿(一)之月(上)、天晴払(レ)雲、迎(レ)霖月可(二)降(レ)雨之候(一)、地乾揚(レ)塵、農夫拱(レ)手西作(レ)勤已廃、唯非(二)尚羊之亡(一)(レ)舞、恐有(二)竜神(りゆうじん)之為(一)(レ)嗔歟、夫君以(レ)民為(レ)力、民以(レ)食為(レ)天、百穀忝枯尽、兆民併失、計(レ)責帰(二)一人(一)、恨(二)残諸天(一)、夫当(二)天然之紀運(一)、至(いたる)(二)災■(さいげつ)之萌起(一)者、聖代在(レ)之、治世非(レ)無(二)所謂(いはゆる)漢朝堯九年洪水、湯七年炎旱(一)也、本朝貞観旱、求(二)祚風(一)、承平煙塵正暦疾疫朝有(二)善政(一)、代多(二)賢臣(一)、天然之災気、実不(レ)能(レ)遁、而至(いたる)(二)近年小旱(一)者、非(二)普天満遍之災(一)、非(二)紀運令然之友(一)、恐竜神(りゆうじん)聊相嫉、天衆少不(レ)祐事有歟、凡代及(二)澆李(一)、時属(二)末法(一)、一人御政争無(レ)背(二)天心(一)、万民所為定有(レ)犯(レ)過、実可(レ)恐深可(レ)謝、但倩重案(二)事情(一)、我大日本国、本是神国也 天照大神(てんせうだいじんの)子孫、永為(二)我国主(一)、天児屋根尊子孫、今佐(二)我朝政(一)、以(二)神事(一)為(二)国務(一)、以(二)祭祀(一)為(二)朝政(一)、善神尤可(レ)守之国也、竜天輙不(レ)可(レ)棄(レ)之境也、何況欽明天皇(てんわう)代、仏法初渡(二)本朝(一)、推古天皇(てんわう)以来、此教盛行降、及(二)聖武御宇(一)、弥盛尊(下)重其堂宇之崇(中)仏殿之大(上)、敢非(二)人力之所為(一)、如(二)鬼神之製(一)、又令(下)(二)七道諸国(一)、立(中)国分尼寺(上)、凡上自(二)(有朋上P091)群公卿士(一)、下至(いたつて)(二)諸国黎民(一)、競捨(二)田園(一)、皆施(二)仏地(二)、争傾(二)財産(一)、悉献(二)三宝(一)、不(レ)修(二)仏事(一)者、不(レ)為(二)生類(一)、不(レ)立(二)堂塔(一)者、不(レ)列(二)人数(一)、国風俗習、久積深馴、近自(二)畿内(一)、遠
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及(二)七道(一)、摂州上宮太子、立(二)四天王寺(一)、過者悉知(二)極楽東門(一)、泉州行基菩薩託(二)生大鳥郡(一)、立(二)寺於四十九所(一)、南都七大諸寺比(レ)甍、田園皆為(二)三宝之地、東京数代御願(ごぐわん)接(レ)軒立(レ)錐、無(レ)非(二)精舎之地(一)、弘法大師、卜(二)紀州高野山(一)、溢(二)三密流於四海(一)、伝教大師、点(二)江州比叡嶺(一)、扇(二)十乗風於一天(一)、此外七道諸国、九州卒土山無(二)大小(一)、皆松坊比(レ)檐、寺不(レ)弁(二)公私(一)、悉国郡卜(二)領一国田地(一)帝皇進止実少、皆為(二)三宝之領(一)、九州正税、国家用途不(レ)幾、併宛(二)仏界之供(一)、然則釈梵四天廻(レ)眸(まなじりをめぐらして)照(レ)之、竜神(りゆうじん)八部以(レ)目視(レ)之、十六大国加、加留(レ)国、有(二)五百中国加(一)、加留(レ)境有(二)法弘(一)、還有(二)滅時(一)、道盛必有(レ)衰(レ)国、国有(二)善王(一)、又有(二)悪王(一)、君信(二)正法(一)、臣又信(二)邪法(一)、彼■(けい)賓国秋池■湲(せんえんとして)流、而漸溢(二)国界(一)、耆闍崛春苔聖跡、埋而只有(二)猛獣(一)、昆舎利国尋(二)仏跡(一)、大林精舎空聞(レ)名、給狐独園訪(二)伽藍(一)、祇園精舎唯有(レ)礎阿育大王、帰(二)正法(一)後為(二)弗沙密多(一)被(レ)滅、梁武帝崇(二)正法(一)後値(二)唐武宗(一)滅(レ)之、豈(あに)如哉、我国家一帰(レ)仏永無(レ)改、一弘(レ)法遂不(レ)墜、自(二)欽明(一)至(いたつて)(二)当今(一)五十二代、未(レ)聞(下)背(二)仏法之君(一)、推古天皇(てんわう)以来、五百七十余年、未(レ)見(下)棄(二)仏法(一)之代(上)、然則天人不(レ)護(二)我国(一)(有朋上P092)者、即不(レ)護(二)常住三宝(一)、竜神(りゆうじん)若悪(二)我国(一)者、即奉(レ)悪(二)三宝福田(一)、不(レ)降(レ)雨失(二)地利(一)者、仏界皆施(二)供養(一)、不(レ)止(レ)災損(二)人民(一)者、出家定滅(二)徒衆(一)歟、護国四王、発(二)誓願於仏前(一)、竜神(りゆうじん)八部、奉(二)仏勅於在世(一)、忘(レ)護(二)法誓於心中(一)歟、誤(二)我国風於眼前(一)歟、天人竜神(りゆうじん)、過勿(レ)憚(レ)改、速降(二)甘露雨(一)、勿除(二)災旱憂(一)、伝聞中天舎衛大国、毎年一度設(二)法会(一)、難陀跋難守(二)其国(一)、風雨順(レ)時、今見(二)南閻浮
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大(なんゑんぶだい)日本国(一)、春夏二度修(二)大会(一)、難陀跋難何衛(二)此朝(一)雨沢不(レ)階(レ)時徒雨八十億、諸大龍王、雨惜何不(レ)降(二)我国(一)、無(レ)罪六十余州人民、勿失(二)口中食(一)、此言必達(二)上天之聞(一)、此時速除(二)下土之憂(一)、玉体安穏宝祚延長之唱、譲(二)座之啓白(一)、今只代民述(二)一国之大訴(一)、代(レ)君陳(二)一心之深誠(一)、万機政今未(レ)出(二)叡情彼蒼之責(一)、何故一国賞罰未(レ)任(二)神襟(一)、上怨之咎無(レ)由、驚(二)三界諸天(一)、聴(二)此詞(一)、聚(二)四海竜神(りゆうじん)(一)怨(二)此事(一)、冀不(レ)廻(二)時日之程(一)、勿降(二)甘露之霑(一)、然則春稼秋熟国保(二)九年之蓄(一)、月俸(二)有(レ)余民(一)、誇(二)五袴之慶(一)、抑付経有(レ)多(二)文段(一)、初文如何とぞ、被(二)啓白(一)たりける。竜神(りゆうじん)道理にせめられ、天地感応して、陰雲忽に引覆大雨頻に下けり。上一人より、下百官に至(いたる)まで、当座の効験事の不思議、信仰涙に顕たり。時の摂政(せつしやう)松殿被(二)奏申(一)けるは、説道の抜群、当座の降雨、古今誠に類なし、可(レ)有(二)御勧賞(一)(有朋上P093)歟と奏聞し給ければ、同廿八日は、結願の日にて有けるに、頭左中弁長方朝臣、公卿座の前を経て、殿下の御前にすゝみて仰曰、権少僧都澄憲が説法之効験■(いちじるき)焉也、仍権大僧都に上給。長方又蒙(二)殿下之御目(一)、左大臣の方に向て、同此趣を仰。左府澄憲を座前に召て、勅定之趣を仰す。澄憲本座に帰著せんとしければ、威儀師(ゐぎし)覚俊起座して、南の弘庇に出て、澄憲権大僧都の従僧侍やと召けれ共、心得ずして見えざりければ、覚俊重て召て草座を取て覚長が上に置。覚長忽に居下る。澄憲又居上る。当座の面目説道の高名、今日にきはまれり。
覚長が門弟等、恥辱を歎出仕を制し申。覚長存る旨ありとて、猶出仕す。威儀師(ゐぎし)覚俊、昨日は覚長
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が草座を澄憲の上にしき、今日は澄憲が草座を覚長が上にしく、無(二)面目(一)みえけるに、覚長奏けるは、今日〔の〕出仕身に取て雖(レ)似(二)恥辱(一)、普天之降雨は、一道の名望也、争か忘(二)天感(一)可(レ)存(二)我執(一)哉、為(レ)勧(二)後昆(一)、恥を押へて参内と申たりければ、諸卿各被(二)感申(一)けり。後朝に俊恵法師と云者、いひ送たりけるには、
  雲上に響を聞ば君が名の雨と降ぬる音にぞ有りける K024 
澄憲返事には、(有朋上P094)
  天照す光の下にうれしくも雨と我名のふりにける哉 K025 
打続三日三夜降ければ、畿内遠国に至(いたる)まで、民九年の蓄を悦、人五袴の楽に誇けり。蔵人左衛門権佐光雅を以仰下されて云、説法依(二)殊勝(一)感応いちじるき也、尤感じ思召処也。猶叡感之余、啓白之詞を尋召れけるに、御請文に云、
最勝講啓白之詞謹以令(二)注進(一)候、一驚(二)叡聴(一)忽蒙(二)異賞(一)再及(二)叡覧(一)永留(二)後代(一)実是一道之光栄、万代之美談者歟、骨縱埋(二)竜門之土(一)、名可(レ)留(二)鳳闕之雲(一)、喜懼之至(いたり)啓而有(レ)余而己、澄憲恐惴頓首謹啓とぞ、被(二)申上(一)たる。加様に上一人より、下万民に至(いたる)まで、難(レ)有事にこそ感嘆しけるに、太政(だいじやう)入道(にふだう)はあざ咲て、人の病の休比に、医師は験あり、是を医師の高名と云様に、春の比より旱して、五月雨の降比に説法仕合て、澄憲が高名と人の沙汰すらん事、いとをかしき事也とて興なく
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ぞ被(レ)申ける。是偏に澄憲偏執の詞也。其意趣いかんとなれば、
 澄憲当初法住寺殿(ほふぢゆうじどの)にて、御講の導師勧めける次に、目出き説法仕たりけり。院母屋の簾内にて、窃に大蔵卿泰経に仰けるは、此僧の若さに口のきゝたる様よ、世は末に成と云へ共、遉尽ざりけるもの哉、実や尼の生たる子と聞食とて咲はせ給ける(有朋上P095)時、泰経御返事に、故通憲入道は、和漢の才幹至(いた)れる上、心かしこき者といはれ候き、相伴ける尼もさる尼にて儲たる子なれば角侍るにこそ。過にしころ、比叡山に候ける児の、夜の間に失せて見えざりければ、師匠朝に児の部屋に入て、障子を見るに、歌を書て候けり、
  住儘になつかしからぬ宿なれど出ぞやられぬ晨明の月  と、有りけるを見て、はや失にけりとて、方々尋ける程に、唐崎の海に人の身投たりと聞て、師僧罷て見ければ、浜の砂に裏なしを脱置たる処へ、二三度ばかり往還たる跡ありて、終に沈たりけるを、一山の衆徒是を憐て、造仏写経して追善仕けるに、凡僧なれ共此澄憲を唱導に請じたる、施主段に童子の年は十八歳、髪は長御座けれ共、命は短かりけり。今は神〔の〕力及ず、仏助給へと申たりければ、衆徒感涙を流、僧綱に准じて、手輿にのせて侍りけりとぞ承る。されば今日の説法も目出くこそ候へと申ければ、院打うなづかせ給て、誠に神妙に仕たりけり、此僧が高座より下りん時、各はやせ、何なる風情才覚をか申振舞と仰あり。院の依(二)御気色(一)、若き殿上人四五人、心を合て拍子を打て、あまくだり/\と拍。是は尼の生たる子と云心をはやす也。澄憲更にそゝがずして、二かひな、三かひな舞翔て、(有朋上P096)院より始進せて、上下皆何事をか申さんと、兼て咲せさせ給けり。澄憲三百人々々々と云音を出す。殿上人猶あまくだり/\と拍。澄憲三百人の其内に、女御百人、裨販公卿百人、伊勢平氏験者百人、皆乱行三百人々々々と云て、扇をひろげて、殿上をさゝと〔扇〕散し
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て、皆人は母が腹より生るゝに、澄憲のみぞあまくだりけるとて申て、走入にけり。公卿殿上人、上には咲けれ共、底にが/\しき景気也。小松(こまつの)内大臣(ないだいじん)、其時は新(しん)大納言(だいなごん)にて、当座に候はけれり。始よりべし口してえも咲ず、事はてて澄憲以下、人々罷出ぬ。新(しん)大納言(だいなごん)は、最のどやかに畏て、御前を立れぬ。北面に蹲居して、あまたおはする殿原に向て被(レ)申けるは、一天の君の召仕はせ給、三百人の数に、重盛(しげもり)が入て侍は面目也。但世に隠なし。朝恩によりて、国務を奉行する事、先祖に多侍。伊勢平氏とは、いづれの卿上の事ぞと、尋申べかりつれ共、勅願の導師也、便宜なしと存じて、無(二)申子細(一)、思よらぬには非ず、父の禅門加様の事にたまらぬが、親ながらも悪癖と存ず。さても奉公に忠勤を致せば官禄に洪恩あり、而を代々軍功依(レ)無(レ)私、子孫蒙(二)朝恩(一)、加様に世に立廻者を、僧も俗も悪猜れ侍事、まことに不(レ)及(レ)力こそ存候へ。罷帰入道諌申さんとて出られにけり。其跡に残留たる人々申けるは、新(しん)大納言(だいなごん)の被(レ)申事こそ、理を(有朋上P097)極て身にしみ候て覚れ。忽而は君の所詮なき御心ばえにて、澄憲を愛し咲はせ給はんとて、係述懐はせられさせ給也。さればとて一座の御導師を、いかにとせさせ給べきぞ、今日より後は、かる/゛\しき事、上にも下にも止らるべき也とぞ申合れける。平(へい)大納言(だいなごん)重盛(しげもり)は、入道此事聞給なば、さる腹悪人なれば、如何なる心か付給はんずらんとて、六波羅の宿所に参られたり。入道は左の手に蓮の実の念珠を持、右の手に蒲団扇を仕給て、大納言(だいなごん)に目も係ず、憤ある気色也。重盛(しげもり)は、此事はや人の云たりけりと意得て、大に畏給へり。良久有て、哀此入道が、神にも仏にも成たらん後、和殿原の君の御後見して、一日世に立廻給なんや、故通憲入道が誤にて、信頼に頸切られたりし時、憂目みたりし澄憲が、向さまに悪口するを聞も咎めずして、さて立ける事の口惜さよ、何様にも沙汰有べしとて、弾指はた/\とし給けり。大納言(だいなごん)は、此条重盛(しげもり)一人が事にあらず、百人の裨販の女御、百人の乱行の験者達の、とがめられぬ事なるを、其を閣て非(レ)可(二)咎申(一)。
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惣而は加様の事をば、たゞ聞ぬ様にて御渡候べしと覚ゆ。猿楽と申は、をかしき事を云つづけて人を咲はかし侍るぞかし。君のをかしき事をいはせんとて、尼が子/\と、はやさせ/\給へば、澄憲猿楽ことを申にて侍(はべる)べし、其故に中々何と御腹をば立られ候べき。(有朋上P098)但今より後、猿楽事にも加様の事申ならば、如何にも重盛(しげもり)相計候べしと被(レ)申たり。其時入道かほの色少し直りて、穴軽々しの君の御代や、販女の女御とはされば誰ぞ、若丹後の局の事歟、そも桶櫃を戴て物をばよもうらじ、乱行の験者とは、先房覚僧都が事にや、其僧こそ至(いたる)処ごとに不覚をのみせらるなれば、京童部が房覚不覚と云略頌をば云なれとて、から/\と咲て、入道〔内〕へ入られけり。重盛卿(しげもりのきやう)今は入道別の事をばせじと覚して、心安思はれ被(レ)出けり。其事猶も本意なく思はれければ、澄憲の雨の高名も、天下には謳歌しけれども、入道は不(レ)被(レ)興けり。
近衛大将可(レ)有(二)其闕(一)と聞えければ、人々望申されける中に、平(へい)大納言(だいなごん)重盛卿(しげもりのきやう)の被(レ)申けるは、大臣の息大将に任は、古今の例也、就(レ)中(なかんづく)其身苟武将也、其職已武官也、官職所(レ)掌、文武道異也、偏被(レ)抽(二)花族(一)、只被(レ)撰(二)重代(一)、是近年の訛跡也、非(二)聖代之流例(一)被(レ)奏ければ、同七月八日、除目被(レ)任(二)右近大将(一)けり。同廿一日に拝賀を被(レ)申けり。小松亭よりぞ出立れける。先法住寺殿(ほふぢゆうじどの)に被(レ)参ければ、御前に召れ、法皇は寝殿の西の戸内に御座。大将は透渡殿にぞ被(レ)候ける。兼円座被(レ)敷たり。内蔵頭(くらのかみ)親信ぞ申次をば勤ける。御馬を引れければ、地に下て取(レ)縄、二拝(レ)之後、左中将知盛朝臣ぞ請取ける。次建春門院(けんしゆんもんゐん)御方に申されて、其後(有朋上P099)参内せられけり。殿上の前駈廿七人、地下前駈十人とぞ聞えし。番長には下毛野武安、扈従(こしょう)の公卿には、五条大納言(だいなごん)邦綱、治部卿光隆、別当成親、右衛門督宗盛、
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花山院中納言(ちゆうなごん)兼雅、中宮権大夫時忠、右兵衛督頼盛、平宰相教盛、六角の宰相家通、修理大夫信隆、二条三位経盛、藤三位基家也。申次をば頭中将実定朝臣ぞつとめられける。扈従(こしょう)の月卿雲客、或は時にあへる権勢、或又花族の人々也ければ、何も執々にはえ/゛\しくぞ被(レ)見ける。
同廿七日に、大内にて相撲召合あり、頭左中弁長方朝臣ぞ奉行しける。諸卿杖座に参著せられけり。午刻に宸儀南殿に出御なりければ、内侍剣璽に候しけり。左大将(さだいしやう)師長、右大将(うだいしやう)重盛(しげもり)、左右奏を取(とつ)て、相かはりて簀子を経て御簾を■(かかげ)て被(レ)奏。重盛卿(しげもりのきやう)奏覧の後、被(二)退出(一)ければ、容儀可(レ)見進退有(レ)度とぞ上下称美しあへりける。両大将本座に被(レ)復ければ、左大臣経宗、右大臣兼実、源大納言(だいなごん)定房、大宮大夫公保、中宮大夫隆季、三条大納言(だいなごん)実房、新(しん)大納言(だいなごん)実国、五条大納言(だいなごん)邦綱、中御門中納言(ちゆうなごん)宗家、別当成親、左兵衛督成範、殿に昇て著座あり。相撲長左右各二人、左番長秦兼宗、下毛野武安、右番長秦兼景、下毛野種友なり。籌判府生、左右各一人、左貞弘、右諸武、随(二)勝負(一)立合て籌判す。一番相撲、左加賀国住人(ぢゆうにん)藤井守安、右因幡国住人(ぢゆうにん)尾張長経召合ら(有朋上P100)れけるに、長経膝を突て、さはりを申けり。是は内取の日負にければ、涯分をしりて勝負をせざりけるとぞ聞えし。(有朋上P101)