『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第八
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智巻 第八
S0801 漢朝蘇武事
昔漢武帝の時、故国の凶奴朝家に不(レ)随ければ、李陵を大将軍とし蘇武を副将軍として、胡国の王単于を被(レ)責けり。漢朝より彼国へは五万里の道なれば、九年に一度行還程也。胡国の狄、城を百重に構たり。李陵勅を重じ命を軽じて、先陣に進て攻戦。狄不(レ)堪して引退。勝に乗て攻入つゝ、九十九の城を靡しけり。李陵今一の城に打入て見に、凶賊退散して只胡国の美人のみ有。官軍乱入ければ、美人歎て云、天命を背たてまつるに依て、妾が輩ども、或は身命を亡し或は行方を知ず、生ても別、死ても別れぬ。願は漢の使、我等を助よと悲泣。李陵敵の謀とは不(レ)知して、胡国の女に心を移て遊ける処に、凶奴四方を打囲み、李陵を生捕にしけり。副将軍に引へたる、蘇武生年十六歳、心うしと思て死生不(レ)知に戦けれ共、大陣破ぬれば残党不(レ)全習にて、蘇武も同く虜る。胡王議して云、大将二人は定是漢朝の功臣ならん、徒に命を断事不(レ)可(レ)然、罪を宥て我国の臣下とすべし(有朋上P246)とて、自余の兵は皆片足を切て追放つ。死する者は多、助る者は希也。李陵此形勢(ありさま)を見て終に胡王に従へり。蘇武未随ざりければ、胡王語て云、汝命を助けんと思はば我に従へ、将相として召仕んと。蘇武答て曰く、我忝漢王の勅を蒙て、汝等従へん為に此国に来れり。何ぞ死を遁れんが為に、還て狄の類に■(くつ)せんといへ
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ば、胡王大に嗔て、武を悩事二年、後には囚に籠て食を絶。蘇武羊の毛に雪を裹て食しつゝ、不(レ)死ければ、胡王いよ/\其賢なる事を知て、囚より出して誘て云、我に公王と云秘蔵の娘あり、形世に勝たり、汝に与て将相とせんといへ共不(レ)従。胡王問て云、命は人の宝也、官は人の品也、汝何ぞ将相には不(レ)成、空く身を亡さんとすると。蘇武答云、授(レ)妻為(レ)相、汝当(二)不仁(一)、任(レ)身受(レ)死、我為(二)忠臣(一)といへば、胡王不(レ)及(レ)力、北海の辺に放捨て、羊をぞ飼ける。漢王此事を伝聞給(たまひ)て、蘇武は実に功臣也、李陵は二心有とて、父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せらる。蘇武は甲斐なき命は生たれ共、形を宿す奇の臥戸もなく、飢を支る朝夕の食物もなし。韋■(いこう)毳幕以(レ)之禦(二)風雨(一)、羶肉酪の漿かれを以て飢渇を休、年月を送ければ、故郷の恋さ不(レ)斜(なのめならず)。角て海辺野沢田中などに迷ひ行ける程(ほど)に、後には禽獣鳥類も見馴て驚事なし。繋ぬ月日明暮て、十九年をぞ経たりける。秋の鴈の連を乱らず飛けるに、蘇武天に仰て、歎云、(有朋上P247)春は北来の翅、秋は南往の鳥なり、我旧里をも飛過らん、心あらば言伝せんと云ければ、天道哀とや覚しけん、二羽のかりがね飛下、蘇武が前にぞ居たりける。武悦て指を食切て血を出し、一紙の文を書つゝ鴈の翅に結付たりければ、南を指て飛行ぬ。漢昭帝上林苑に御幸して、木々の紅葉叡覧有ける折節、秋のたのむの鴈、雲居遥(はるか)に飛けるが、一紙の書を落したり。帝怪思召(おぼしめし)、取上是を御覧ずれば、蘇武が状にぞ有ける。其状に云、
昔籠(二)巌穴之洞(一)、徒送(二)三春之愁歎(一)、今放(二)稽田之畝(一)、空同(二)胡敵之一足(一)、設身留 永朽(二)於胡国(一)、
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必神還再仕(二)于漢君(一)、とぞ書たりける。
昔為(二)帝闕之近臣(一)、今同(二)一足之諸鳥(一)、悲涙空成(二)野外之露(一)、争帰(二)故郷(一)再仕(二)漢王(一)、
是を叡覧有て、さては蘇武は未胡国にあり、争か空く他国の民となすべきとて、昭帝胡王単于に眤をなし給(たま)ひ、金銀の宝を遣して、蘇武を贖給ければ、単于蘇武を許して漢宮へぞ返しける。李陵見(レ)之、いかなれば大将軍に被(レ)選て、一人は召返し、一人は沈らん、心憂や我年来君に仕奉て二心なし、命を重じ忠を尽すといへ共、官軍敗て誤つて虜れぬ。不(レ)如素懐を遂んと存じて、一旦凶奴に仕て終に胡狄を亡し、必漢宮にかへらんと、而も(有朋上P248)父が死骸を堀起し、老母兄弟罪せられけんこそ悲けれとて、一巻の書を注してぞ進じける。其中に、
双■(さうふ)倶北飛 一■(ふ)独南翔 余自留(二)新館(一) 子今帰(二)故郷(一) K035
とぞ書たりける。蘇武は十六にして胡国に行、十九年を経て後、三十五にて旧里に帰る。盛なりし年なれども、胡国のもの思に、鬢鬚白く成て、漢王の御前に参て、単于に被(レ)虜て、十九年悲みを含みし事、官兵悉片足を切れし事語申て、其後に李陵が一巻の書を進。漢王叡覧有て御涙を流、大に後悔し給へ共無(レ)力。去共蘇武は旧里に帰て再妻子を見のみに非、後には典属国と云官を賜て君に仕へ奉。孝宣皇帝の御宇、神爵二年に、八十余にして薨じけり。甘露三年に帝功臣四十二人を麒麟閣に昼し
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給けるに、蘇武其中にあり、一紙の鴈の書なからましかば、争か加様の幸有べき。去ば是よりして、文をば鴈書とも雁札とも云、使をば雁使とも名付たり。(有朋上P249)
S0802 善友悪友両太子事
鳥の翅に書を付事、天竺にも有けり。波羅奈国、月蓋王に二人の太子御座す。善友、悪友と云。兄の善友太子、弟の悪友太子に眼を被(レ)損たりければ、今は位を継べきに非とて、諸国に流行し給けるに、母后太子の行末を悲て、御書をあそばし、善友太子の年比飼給(たま)ひける鷹の頸に被(レ)懸たりければ、其鳥高飛去て、是を太子に奉たりとぞ、報恩経には説れたり。
蘇武は漢家の勅使也。一紙の筆の跡、鴈金雲井を通、康頼は本朝の流人也、二首の歌の詞は、卒都婆浪路を伝へたり。彼は十九の春秋を送迎、是は三年の月日を明し暮しけり。上代末代時替り、漢家本朝所異なれども、ためしは同じかりけり。理や彼は天道哀みを垂給(たま)ひ、是は神明恵を施し給へばなり。
S0803 康基読(二)信解品(一)事
平判官康頼が嫡子平左衛門尉康基は、摂津国(つのくに)小馬林まで父が供して見送たりけるが、康頼出家してければ、康基其より還上、精進潔斎して、日数を百日に限て、清水寺へ参詣し、信解品を読誦(どくじゆ)す。隔夜する折も有、夙夜する時もあり。願は大慈大悲千手千眼憑をかけ志を運べば、朽たる木草も花さきみのると御誓ある也。如来(によらい)の金言誤なく、薩■[*土+垂](さつた)の誓約(有朋上P250)誠あらば、今生に再父を相見せしめ給へと、三千三百三十三度の礼拝をぞ奉る。既(すで)に八十余日も積けるに、硫黄が島にて判官入道の夢に、海上遥(はるか)に詠れば、白き帆懸たる船一艘走来り、近付を見れば嫡子康基此舟にあり。舟の帆には妙法蓮華経信解品と銘を書り。急舟を付て、左衛門尉が下来れかし、余に都も恋きに物語(ものがたり)せんと思ひ、能々見れば舟には
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あらで、白馬に乗たりと見て打驚ぬ。何なる妄想やらんと汗押拭て、人にも不(レ)語、都へ還上て、子息康基に語たりければ、康基此を聞て、貴にも涙、うれしきにも涙也。泣々(なくなく)語けるは、我信解品を転読して百日清水寺の観音に祈誓し奉き、観音は白馬に現じ給ふなれば、掲焉御夢想(ごむさう)也とて、父子感涙を流しけり。さても康基、観音の御前にては、観音品をこそ可(レ)奉(レ)読に、信解品を読ける事は、此品に賢き長者、愚なる子を失て、跡を同居の塵にとゞめて、二度親子互に見事を得たり。以(レ)之一実の慈悲、求(レ)子不(レ)得、中止(二)一城(一)、伺(二)窮子之機(一)、父子相見後、初脱(二)瓔珞之衣(一)といへり。されば父子再会の金言を憑て、此品を読ける也。彼は三千塵点、子を失て父かなしみ、此は三年の春秋、父を被(レ)流て子哀む、愛敬之道は、中心より出たれば、父子の情ぞ哀れなる。(有朋上P251)
S0804 大納言入道薨去事
大納言入道殿(にふだうどの)は、少将も硫黄島へ流され、北方の君達も、此彼に逃隠れて安堵せずなど聞給(たまひ)ては、いとゞ心憂思食(おぼしめし)、日に随而弱給けり。七月十日比よりは、起臥も輙らず、かく痛苦給へども、跡枕に侍て湯水を進る者もなし。何事に付ても唯故郷の人々のみ恋く、今一度相見事のなくて露の命の消なん事をぞ歎給ふ。適見ゆる物とてはあらけなき武士也。大納言入道をば急ぎ可(レ)失と六波羅より難波が許へ被(二)下知(一)たりければ、直に足手をきり奉(レ)刎(レ)首こと、流石(さすが)かはゆくや思けん、不(レ)知して奉(レ)失とて、深き■(がけ)の底に■(ひし)を植て、突落してぞ殺しける。只一度に刎(レ)首たらば、尋常の習にて有べきに、心うくも計たりけりと、無(レ)情こそ云けれ。其より取挙て、備前備中の境なる、有木の別所
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と云所に送捨、形の如穴を掘、石を畳て奉(レ)納。難波が後見に、智明と云法師あり。加様のかまへ、此法師ぞ奉行したりける。其故にや女子三人持たりけるが、俄に物狂しき心地出来て、一人は深き筒井に落入て死ぬ。二人は竹の林に走入て、竹の利杙に貫かりて失にけり。大納言入道の死霊の故にやと、人皆舌を振て怖合けり。智明恐をなし、社を造て怨霊を祝ひ奉る。(有朋上P252)智明が若宮とて今に有り。
S0805 大納言北方出家事
大納言の北方伝聞給(たまひ)て、相見事はなけれども、露の命の未消給はずと聞つる程は、心苦しながら頼しくて、ながらへば、もし奉(レ)見事もやとて、つれなく髪をも落さゞりつるに、隠給けるにこそ、今は甲斐なしとて、自ら御髪をはさみ下し、雲林院の菩提講に忍参り、出家して戒を持ち、如(レ)形追善をも其にてぞ営給(たま)ひける。若君閼伽をむすぶ日は姫君花を摘、姫君燈を挑ける折は、若君香を焼、明ても暮ても、両共に、父の菩提を弔給ふも哀也。昔皇門鳳城に仕へて、恣に槐門の春の花を詠ぜしに、今は民烟蝸屋を遷て、望郷の暁の露に埋れけり。楽尽て悲来るなる、天人の五衰も角やと覚えて無慙也。
S0806 讃岐院事
新院讃州配流の後は讃岐院と申けるを、廿九日に御追号有て、崇徳院とぞ申ける。去る保元元年七月に当国に遷され御座て、始は直島に渡らせ給けるが、後には在庁一の庁官野(有朋上P253)大夫高遠が堂に入せ給けるを、鼓岡に御所を立て奉(レ)居、御歎の積にや、御悩の事有ければ、関白殿(くわんばくどの)へ能様に申させ給へと仰有けれ共、世を恐させ給(たま)ひつゝ御披露も無りければ、思召(おぼしめし)切らせ給(たまひ)て、三年の間に五部大乗経をあそばし集て、貝鐘の音もせぬ遠国に捨置進せん事、心憂く覚え侍るに、御経ばかり、都近き、八幡鳥羽辺迄、
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入まゐらせばやと、御室へ申させ給けり。其御書云、昔は槐門崇■(そうべう)の窓にして玉体遊宴の心をやすめ、今は離宮外土の西海の波にくだかれて、江南浮沈の哀声を加ふ。嵐松を払て独筵に月を見。争か再、旧郷に還て、自玉聖の気を成ん。月西山に傾けば、都城仙宮の暁の詠を思出。日晨岳に出れば、竜楼竹園の甚しき興を忘ず、早く民煙蓬屋の悲涙を止て、必三仏菩提の妙位に昇らんとあそばして、奥に一首の御製あり。
浜千鳥跡は都へ通へ共身は松山に音をのみぞ啼 K036
御室より此御書を以、関白殿(くわんばくどの)へ被(レ)仰けり。関白殿(くわんばくどの)又内へ被(レ)申たりければ、少納言(せうなごん)入道(にふだう)信西(しんせい)を召て仰含らる。信西さる事争か候べきと、大に諌申ければ、御免もなかりけり。讃岐院此由聞召れては、御心憂事也。天竺、震旦、新羅、高麗にも、兄弟国を論じ、叔父甥位を諍て、致(二)合戦(一)事、尋常の習なれども、依(二)果報(一)、兄も負甥も勝、されども手を合膝を折(有朋上P254)て降人に成ぬれば、辛罪に行るゝ事やはある。我今悪行の心を以、係苦みを見れば、今生の事を思捨て、後生菩提の為にとて書奉る、五部の大乗経の置所をだにも宥されねば、今生の怨のみに非ず、後生までの敵にこそと仰られて、御舌のさきを食切給(たま)ひ、其血を以て御経の軸の本ごとに、御誓状をぞあそばしける。書写し奉る処の五部の大乗経を以て、三悪道に抛籠畢。此大功徳の力に依、日本国の大魔と成て、天下を乱り国家を悩さん、大乗甚深の回向、何の願か不(二)成就(じやうじゆ)(一)哉、諸仏証知証誠し給へ、顕仁敬白とあそばし、誓はせ給(たまひ)て其後は、御爪も
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切せ給はず、御ぐしも剃せ給はず、生ながら天狗の貌に顕れ、御座けるこそ恐しけれ。小河侍従入道蓮如とて、世捨上人あり。昔陪従にて公事勤ける時、御神楽などの次に、自幽に見参に入進せける計なれば、さしも歎き思進すべきにしも無れども、大方情深き人にて、只一人自負かけて都を迷出、はるかに讃岐国へ下りにけり。御所の渡に余所ながら立回て見けるに、目も当られぬ御有様(おんありさま)也。いかにもして内に入り、角と申入ばやと、志深く伺けれ共、奉(レ)守ける武士はげしくとがめければ、空く日も暮にけり。折節月隈なかりければ、蓮如心を澄して笛を吹て、通夜御所を廻、暁方に黒ばみたる水干袴きたる人内より出たり。便を悦て相共に内に入、事の体を見に、草深しては朝(有朋上P255)の露袖を湿し、松高しては夜の風膚を融す。人跡絶たる庭上に、奇げなる柴の御所、まことにいぶせき御住居也。伝聞しよりも猶心憂く悲しかりければ、中々無(レ)由下にけりとぞ思ける。哀哉姑射山の上にしては、曇らぬ月を詠め、蓬莱洞の内にしては、四海の波を澄し御座しに、庭の千草は枝かはし、往還人も絶果て、賤か宿戸の庵より猶うたてき様なれば、蓮如涙に咽けり。さても有つる人して角と申入たりければ、院はさしも恋しき都の人なる上、昔御覧ぜし者なれば、御前へも被(レ)召度は思召(おぼしめし)けれ共、問につらさも思し出ぬべし。又係浅増(あさまし)き御貌を見えん事も憚あれば、中々無(レ)由とて、只御涙をのみぞ流させ給ける。御気色角と申ければ、蓮如誠にもとて、一首を詠じ、見参に入よとて、
朝倉や木の丸殿に入ながら君にしられで帰る悲しさ K037
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御返事あり。
朝倉やたゞ徒に帰すにも釣する海士の音をのみぞ啼 K038
蓮如いと悲く覚て、是を笈に入つゝ、泣々(なくなく)都へ帰上る、哀にやさしく聞えし。其後長寛二年の秋八月廿四日、御年四十六にて、支度と云所にて終に隠れさせ給にけり。讃岐御下向之後、九年にぞ成給ける。白峯と云山寺に送奉り、焼上奉りけるが、折節北風けはしく吹(有朋上P256)けれ共、余に都を恋悲み御座けるにや、煙は都へ靡きけるとぞ。御骨をば必高野へ送れとの御遺言有けるとかや。鳥羽院(とばのゐん)の北面に佐藤兵衛尉義清と云し者、道心を発し、出家入道して西行法師と云けるが、大法房円意と改名して、去仁安二年の冬の比、諸国修行しけるが、中比のすき者にて、東は壺の石、歩夷が島、西は金の御崎、松浦の沖、名処旧跡の歌枕を歩み、見ぬ所はなかりけり。不破の関屋に留ては、月には雲のふはと云、武蔵野を過とては、柏木の葉守の神を恨けり。実方中将の墓にては、一村薄を悲み、白川の関にかゝりては、関屋の柱に筆を止む。四国の方の修行を思立けるときは、江口の妙に宿をかり、仮の宿と読しかば、心とむなと返しつゝ、一夜の宿をぞ借にける。讃岐国へ入て、松山の津と云所に行きぬ。こゝは新院流されてわたらせ給(たま)ひける所ぞかしと思出し、昔恋しく尋まゐらせけれ共、其御あともなかりければ、竜顔奉公の古より、鵝王帰依の今までも、御事忝く哀に覚えければ、
松山の浪に流れてこし舟のやがてむなしく成にける哉 K039
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と打詠て、支度と云山寺に遷らせ給(たまひ)ても年久成にければ、御跡なきも理に覚て、御墓はいづくぞと問ければ、白峯と云山寺と聞て尋参りたりけるに、あやしの下臈(げらふ)の墓よりも(有朋上P257)猶草繁し。いかなる前世の御宿業にかといと悲し。昔は清涼紫宸の玉台に、四海の主とかしづかれ御座しに、今は民村白屋の外土に、八重の葎に埋れ給へる事、御心うき事なれ共、翠帳紅閨の中に、三千の君と仰がれ、竜楼鳳闕の上に、二八の臣とあがめられて、弁才世にかまびすしく、威勢朝に振し人々も、名ばかり留る世の習、咸陽宮も徒に、片々たる煙と昇、姑蘇台も空■々(ぢやうぢやう)たる露繁し。宮も藁屋もはてしなし、兎ても角ても世の中は、只かげろふの仮の宿、すみはつまじき所也とて、西行古詞を思出て、
松樹千年終是朽、槿花一日自成栄 K040
と詠じつゝ、暫くこゝに候ひけれども、法華三昧つとむる、住持の僧もなく、焼香散華を奉る、参詣の者も無りけり。最物さびしかりければ、
よしや君むかしの玉の床とても係らんのちは何にかはせん K041
と読けるは、彼延喜の聖主の、
いふならく奈落の底に入ぬれば刹利も首陀も異らざりけり K042
と申御歌に思合て哀なり。さても七箇日逗留して、花を手向香を焼読経念仏して、聖霊決定往生極楽と回向し奉て立けるが、御廟の傍に松の有ける本を削り、無らん時の形見(有朋上P258)にもとて二首の歌をぞ
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書付ける。
久に経て我後の世を問へよ松跡忍ぶべき人もなき身ぞ K043
爰を又我住うくてうかれなば松は独にならんとやする K044
書注てぞ出にける。是にや怨霊も慰給けんと■(おぼつか)なし。さても西行発心のおこりを尋れば、源は恋故とぞ承る。申も恐ある上臈女房を思懸進たりけるを、あこぎの浦ぞと云仰を蒙て思切、官位は春の夜見はてぬ夢と思成、楽栄は秋の夜の月、西へと准へて、有為世の契を遁つゝ、無為の道にぞ入にける。あこぎは歌の心なり。
伊勢の海あこぎが浦に引網も度重なれば人もこそしれ K045
と云心は、彼阿漕の浦には神の誓にて、年に一度の外は■(あみ)を引ずとかや。此仰を承て、西行が読ける、
思きや富士の高根に一夜ねて雲の上なる月をみんとは K046
此歌の心を思には、一よの御契は有けるにや、重て聞食(きこしめす)事の有ければこそ阿漕とは仰けめ、情かりける事共也。彼貫之が御前の簀子の辺に候て、まどろむ程も夜をやぬるらんと云ふ、一首の御製を給(たまひ)て、夢にやみるとまどろむぞ君と、申たりけん事までも、想やるこ(有朋上P259)そゆかしけれ。
S0807 宇治左府贈官事
八月朔日は、宇治左府の贈官贈位の御事有て、少納言惟基は、彼御墓所に参て、宣命を捧て、太政(だいじやう)大臣(だいじん)
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正一位を被(レ)送之由読かけ奉る。件の御墓は、大和国(やまとのくに)添上郡、河上の村、般若野の五三昧也。昔堀起し奉り、捨られにし後は、死骸道の辺の土と成て、年々に春の草のみ繁れり。今勅使尋入て、宣命を伝けん、亡魂如何思召(おぼしめし)けんおぼつかなし。思の外の事共有て、世の乱るゝは直事に非、偏に怨霊の致す処也。冷泉院の御物狂御座し、花山法皇の御位をさらせ給(たま)ひ、三条院の御目のくらかりしも、元方の民部卿の霊とこそ承れ。怨霊は昔も今も恐しき事なれば、早良廃太子をば崇道天皇と号し、井上の内親王は皇后の職位に復す、皆是怨霊を被(レ)宥し謀也。されば今度も可(レ)然にこそと、人々計ひ被(レ)申ければ、贈号贈官有て、院をば崇徳院と申し、臣をば正一位と宥行はれけれ共、後いかがあらんと覚束なし。(有朋上P260)
S0808 彗星出現事
同十二月廿四日、彗星東方に出で、廿八日に光を増。蚩尤旗とも申し、赤気ともいへり。何事の有べきにかと上下恐をなす。天文勘して申く、五行の気五星と変ずる内に、彗星は是大乱大兵之瑞相なりと奏す。何様にもおだしかるまじとぞ歎あひける。
五行者、木火土金水、五星者、彗星、■惑星、鎮星、太白星、辰星なり。
治承二年正月一日、院(ゐんの)御所(ごしよ)には礼拝被(レ)行、四日朝覲行幸有て、例に替たる事はなけれども、去年成親卿(なりちかのきやう)已下近習の人々、多く被(レ)失にし事、法皇不(レ)安思召(おぼしめさ)れて、御憤(おんいきどほり)未やすませ給はず、世の御政も倦く思召(おぼしめさ)れて、御心よからぬ事にてぞ有ける。入道も多田蔵人行綱が告知せ奉てより後は、君をも後暗御事に思奉て、世の中打解たる事もなし。上には事なき様にもてなせども、下には用心して只苦咲ひ
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てぞ有ける。
S0809 法皇三井灌頂(くわんぢやうの)事
法皇は三井寺(みゐでら)の公顕僧正(そうじやう)を御師範として、真言の秘法伝受せさせ給けるが、今年の春三部(有朋上P261)の秘経を受させ給(たま)ひ、二月十九日、三井寺(みゐでら)にて御灌頂(ごくわんぢやう)有べき由思召(おぼしめし)立と聞えし程(ほど)に、山門大衆憤申けるは、昔よりして今に至るまで、御灌頂(ごくわんぢやう)御受戒、みな我山にして遂させ給へり、山王の化導専受戒灌頂(くわんぢやう)の為也。就(レ)中(なかんづく)園城寺(をんじやうじ)者、昔天智天皇の御子、大友王子、国家を乱らんとて軍を起給(たま)ひし謀叛悪逆(あくぎやく)の境也。始て今御入寺有て御灌頂(ごくわんぢやう)あらん事、旁以不(レ)可(レ)然と申ければ、様々誘へ仰けれ共、例の山大衆更に院宣を用ず。三井寺(みゐでら)にして御灌頂(ごくわんぢやう)有ば、彼寺を可(二)焼払(やきはらふ)(一)之由、僉議(せんぎ)すと聞えければ、権大納言隆季卿の、奉書にて、院宣を被(レ)下云く、御入壇、偏に可(レ)為(二)秘密結縁(一)之処、還及(二)騒動(一)の条、不慮の次第歟、因(レ)茲園城寺(をんじやうじ)御幸所(二)延引(一)也。是延暦園城(をんじやう)安全の謀也と有けれ共、大衆猶憤申けるは、延引の院宣全く山門の眉を開かず、永く三井の御幸を不(レ)被(二)停止(一)、彼寺に発向して、仏閣僧坊一宇も残さず、可(二)焼払(やきはらふ)(一)之由、騒動すと聞えければ、重て院宣を被(レ)下て云、御幸の事被(二)停止(一)之由、一日被(二)仰下(一)畢。山門衆徒等、明日二日猶発(二)向彼寺(一)之由風聞、可(レ)令(二)制止(一)云云と有ければ、御幸停止之院宣に依て、山門既(すで)に静ぬ。法皇は即御加行結願して、思召(おぼしめし)止らせ給にけり。去ども猶御宿願を遂させ給はんが為に、年序をへて文治二年の春の比、三井寺(みゐでら)にして御灌頂(ごくわんぢやう)有るべきよし聞えければ、山門大衆又騒動して云、園城寺(をんじやうじ)(有朋上P262)の御幸の事、治承年中に其沙汰有て被(二)停止(一)畢、而を彼寺にして御灌頂(ごくわんぢやう)あらば、三井寺(みゐでら)を可(二)焼払(やきはらふ)(一)なんど
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聞食(きこしめ)されければ、当時の座主全玄僧正(そうじやう)を、法住寺(ほふぢゆうじ)の御所に召れて、行隆を以被(二)仰下(一)云、求法の御志有に依て、公顕僧正(そうじやう)を以て智証流之灌頂(くわんぢやう)を可(レ)受の由思食(おぼしめす)処に、公顕の申さく、智証大師一行禅師の釈に依て、一流の灌頂(くわんぢやう)に於ては、不(レ)可(レ)出(二)寺中(一)之由、殊所(レ)誡也。然ば早く当寺に御幸有て、可(レ)有(二)御伝法(一)と、所(レ)申既(すで)に道理也。仍三井寺(みゐでら)に御幸有べし。爰(ここ)に山僧此事を訴申之条甚其謂なし。凡一天之下皆王土也。何の所なりと云共、臨幸可(レ)任(二)叡慮(一)、依(レ)之(これによつて)或は本尊を拝せんが為、或は神道を仰ぐ故に、熊野金峰清水広隆に臨幸あり、昔より不(レ)及(二)違乱(一)、何ぞ三井の一寺に限て訴訟に及べきや、不日登山して可(レ)加(二)制止(一)也と。座主の御返事には、勅定は石よりも重し、争か子細を申べき。不日罷上て可(レ)加(二)制止(一)候。但先師大僧正治山の時、北国白山を山門に可(レ)賜之由致(二)訴訟(一)刻、甚深の以(二)道理(一)被(二)仰下(一)に付て、三箇年の間加(二)制止(一)と云へども、山徒の訴弥以て熾盛なるに依て、終に以て蒙(二)裁許(一)畢ぬ。全玄が治山、先師の威徳に及べからず、然而勅定の趣き、不日披露仕べく候。又山門の訴訟は、叡慮に背に似たれども、其本意を論ずれば、忠節の至也。長寛に三井に幸有て後、天下不吉也、万人所(レ)知(有朋上P263)也。彼寺三代叛逆の地たるに依て、此災を成。適安楽に属する処に、又臨幸あらば天下の滅亡歟。鎮国の御祈祷(ごきたう)を致山僧等、諫諍の制止を加へ奉るをや、抑公顕申状不審甚多し。不(レ)可(レ)出(二)寺中(一)之由、智証大師の遺誡ならば、何ぞ智証大師帰朝の後、叡山(えいさん)にして度々灌頂(くわんぢやう)を修べき、又智証の門流静観僧正(そうじやう)、争我山惣持院にして、灌頂(くわんぢやう)を寛平法皇に奉(レ)授べき。智証の遺誡頗不(レ)足(二)信用(一)。就(レ)中(なかんづく)一行大日経の義釈には、三所の道場あり、
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王城と深谷と寺中と也。寺中とは、是僧伽藍の中也。大唐の人師豈独三井寺(みゐでら)を支んや。三所の道場は猶是浅略也。本経の説の如は、三種の灌頂(くわんぢやう)あり、所謂(いはゆる)結縁灌頂(くわんぢやう)、伝法灌頂(くわんぢやう)、自証灌頂(くわんぢやう)也。法界宮の大日法界を以て道場とすと説り。不(レ)限(二)三所(一)と見えたり。公顕申状不(レ)及(二)偏信(一)哉と被(レ)申たりければ、叡感の気ありて、三井寺(みゐでら)の御幸は被(レ)止けり。
抑三部経と申は、大日経、金剛頂経、蘇悉地経是也。今此経の大意を尋れば、若有人此経、受持読誦(どくじゆ)者、即身成仏故、放大光明円と説、又若有人受持読誦(どくじゆ)、此経典者、父母所生身、忽に成大日如来(によらい)、放胸間大光明、照六道三有黒闇とも説る秘典也。後白川の法皇、忝も観行五品の位に御心を係御座て、法花修行の道場に五種法師の燈を挑て、七万八千余部転読、上古にも未(二)承及(一)、況や於(二)末代(一)乎。十善玉体の御膚、三密護摩の烟に蒼て、即身菩提(有朋上P264)の聖帝とぞ見させ給けり。彼公顕僧正(そうじやう)と申は、法皇の御外戚、顕密両門の師徳也。止観玄文の窓の前には、一乗(いちじよう)円融の玉を磨き、三密瑜伽(ゆが)の宝瓶には、東寺山門の花開け給へり。内に付外に付て、御帰依の御志深によりて、此妙典をも公顕僧正(そうじやう)に受、御灌頂(ごくわんぢやう)をも三井寺(みゐでら)にてと思食(おぼしめし)たりけるに、山門騒動して打止め奉ければ、御心うしと被(二)思召(一)(おぼしめされ)けり。法皇、我朝は是、辺土粟散国也。何事も争か大国に等かるべきなれども、中にも雲泥不(レ)及けるは、律の法文僧の振舞にてぞ有らん。僧衆の法は、帰僧息諍論、同入和合海といへり。縦和合海にこそ入ざらめ、諍論を専にして、させる咎もなき三井寺(みゐでら)を、焼失せんとする条、無道心の者共かな、破和合僧は五逆罪
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の随一に非や、形ばかりは出家にして、心はなほ在俗よりも不当也。愚痴のやみ深して、驕慢の幢高し。比丘の形と成ながら、難(レ)値如来(によらい)の教法をも修行せず、大日覚王の智水の流に身をも不(レ)洗、朕が適入壇灌頂(くわんぢやう)せんとするを、障碍する事の無慙さよ、縦朕が理を枉て非法を宣旨し、若は山門の所領を、別院に寄とも、王威王威たらば誰か背申べき、何況受戒灌頂(くわんぢやう)と云は、上求菩提、下化衆生の秘要也。智徳明匠讃嘆し、貴賤男女も随喜せり。たとひ随喜讃嘆褒美するまでこそなからめ、無上福田の衣の上に、邪見放逸の冑を著、定恵一手の掌の内に、仏法破滅の(有朋上P265)続松を捧て、三井寺(みゐでら)を焼亡さんと計ふらん条、少しもたがはず。提婆達多が類にこそ、さこそ末代といはんからに、此程(ほど)に王威を軽すべき様やは有べき、口惜事哉とて、宸襟しづかならず、逆鱗しば/\忝し。抑王威は仏法を崇め、仏法は王威を守るこそ、相互に助て効験も目出く明徳もいみじけれ、若王威を王威とせずば、何の仏法か我朝に興隆すべきや、今度山僧等、園城寺(をんじやうじ)を焼失はんに於ては、天台座主(てんだいざす)を流罪し、山門大衆を禁獄せんと思召(おぼしめし)けるが、又返つて山門の衆徒、内心こそ愚痴の闇深して、邪雲仏日の影を犯とも、形は已比丘に似たり。一々に禁籠せん事、罪業又消滅すべからず、且は五帖の法衣身にまとへり。帰依の志全竪誓師子におとるべからず、且は大師聖霊の御計をも奉(レ)待べし、且は医王山王も争か捨果させ給べきやとて、御涙にぞ咽ばせ給ける。法皇は百王七十七代の帝、鳥羽院(とばのゐん)第三の御子雅仁親王とぞ申しし。治天僅(わづか)に三年也。忽に御位をすべらせまし/\ける。御志は無官無智の僧に近付て、甚深の仏法をも聴聞し、壇処行法
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の花香をも、手ら自らいとなまんと思召(おぼしめさ)るゝ故なり。抑百王と申は、天神七代地神五代の後、神武天皇より奉(レ)始て、御裳濯川の流涼く、竜楼鳳闕の月陰なかりしか共、第廿九代帝、宣化天皇の御時迄は、仏法未我朝に伝らざりしかば、名字をすら聞事なかりき。(有朋上P266)されば其時までは、罪業を恐る人もなく、善根を修行する人も無りき。親に孝養する事をも知ず、心に善悪の業をも不(レ)弁、持律斎戒の作法もなく、念仏読経のわざも無りき。而るに第三十代の帝、欽明天皇の御宇十三年壬申歳十月十日、百済国の聖明王より、金銅の釈迦如来(しやかによらい)、並に経論、■幡宝蓋(どうばんほうがい)、宝瓶等の仏具なんど被(レ)送たりしかども、仏の功能を知、聖教の談議する僧法もなかりしかば、三宝を供養し仏教を随喜せず、唯闇の夜の錦にてぞ侍ける。第三十二代の帝、用命天皇と申は、御諱豊日天皇とも申き。此御時より三宝普く流布して、大小乗の法文の光天下に耀しより以来、仏法修行の貴賤、其数多といへ共、此法皇程の薫修練行の御門を不(レ)承、子に臥寅に起させ給ふ、御行法なれば、打解て更に御寝もならず、金烏東に耀ては六部転読の法水、三身仏性の玉を磨き、夕日西に傾ば、九品上生の蓮台に、三尊来迎の御心を運給へり。常の御座の御障子の色紙に書せ給たりける名句に云、身は暫雖(レ)居(二)東土八苦蕀之下(一)、心常令(レ)遊(二)西方九品蓮之上(一)とぞあそばしたる。又常の御詠吟に、智者は秋の鹿鳴て入(レ)山、愚人は夏の虫飛んで火に焼とぞながめさせ給ける。此は止観行者、四種三昧の大意を釈しける絶句とかや。昔より常に此事を詠させ給ける御事なれども、今度山門の大衆に御灌頂(ごくわんぢやう)御入寺を打さまされ給し(有朋上P267)時より、何なる
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深き山にも閉籠、苔むす洞にも隠れ居ばやとや思召(おぼしめし)けん、御心を澄して、智者は秋の鹿とのみ御詠有ければ、后宮■女(さいじよ)も浅猿(あさまし)く思召(おぼしめし)、雲客(うんかく)月卿(げつけい)も肝神を失ひ給き。既青陽暮春の比にも成にければ、三月桃花の宴とて、桃花も盛に開たり。西王母が園の桃とて、唐土の桃を南庭の桜に植交て、色々様々にぞ御覧じける。桜が先に開時もあり、桃が先に開時も在、桃と桜と一度に開て匂を交る折もあり。今年は桜は遅つぼみて、桃花はさきに開たりけれ共、智者は秋の鹿とのみ詠ぜさせ給(たまひ)て、花を御覧ずる事も無き。依(レ)之(これによつて)、雲上人、更に一人も花を詠める人は、御座ざりけるに、三月三日たりしに、
春来遍是桃花水、 不(レ)弁(二)仙源(一)何処尋、 K047
と高声に詠ずる人あり。法皇誰ぞやと被(二)聞食(一)(きこしめされし)程(ほど)に、やがて清涼殿に参て、笛を吹鳴して、時の調子黄鐘調に音取すましたり。さるかとすれば、又御厨子の上なる、千金と云琵琶を懐下し奉りて、赤白桃李花と申楽を、三返計ぞ引たりける。直人とは覚えず、希代の不思議哉とぞ、法皇は被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。赤白桃李花を三返弾て後は、琵琶を引ず、詩歌をも不(レ)詠、笛をも不(レ)吹、良久音もせざりければ、此者は帰ぬるやらんと思召(おぼしめし)て、やゝ赤白桃李花をば何者が弾つるぞと仰在ければ、御宿直の番衆とぞ答奏しける。番衆とは誰ぞやと(有朋上P268)御尋あれば、開発源大夫住吉(すみよし)とぞ名乗給たりける。さては住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)にこそと思食(おぼしめし)て、急御対面あり。夢にも非覚とも思召(おぼしめ)さず、希代の不思議かなとぞ被(二)思召(一)(おぼしめされ)ける。さて種々の御物語(おんものがたり)有ける中に、大明神(だいみやうじん)被(レ)仰けるは、今夜は当番衆、松尾大明神(だいみやうじん)にて候へ共、急ぎ申
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べき事候て引替て参て候。昨日の暁山王七社(しちしや)と伝教(でんげう)大師(だいし)と、翁が宿所に来臨し給(たまひ)て、日本国の吉凶を評定候しに、今度山門の大衆等邪風殊に甚く、宸襟を悩し奉る条、存の外の次第にて候。但むつ心にては候はざりつる也。日本国の天魔集て、山の大衆に入替て、君の御灌頂(ごくわんぢやう)を打止めまゐらせ候処也。されば衆徒の咎には非ず、併天魔の所為にこそと。其時法皇の仰に、抑天魔と申は、人類歟、畜類歟、修羅道の族歟、何なる業因の者なれば、加様に仏法を障碍し侍らん、と御尋有りければ、大明神(だいみやうじん)答て宣く、聊通力をえたる畜類也。此に付て三品あり。一には天魔、諸の智者学匠(がくしやう)の、無道心にして、驕慢の甚き也。其無道心の智者の死すれば、必天魔と申鬼に成候也。其形頭は天狗、身は人にて、左右の羽生たり、前後百歳の事を悟て通力あり、虚空を飛事如(レ)隼。仏法者なるが故に、地獄には不(レ)堕、無道心なる故に、往生もせず、驕慢と申は人に増らんと思ふ心也。無道心と申は、愚痴の闇に迷へる者、智者の燈をも授けばやとも思はず、剰念仏申て後世欣者を妨(有朋上P269)て、嘲笑などする者、必死ぬれば天狗道(てんぐだう)に堕すといへり。されば末世の僧皆道心にして驕慢あるがゆゑに、十が八九は必天魔にて、仏法を破滅すと見えたり。八宗の智者は、皆天魔となるが故に、是をば天狗と申也。浄土門の学者も、名利の為にほだされて、虚仮の法門を囀り、無道心にして、念珠をくり、慢心にして数反すれば、天魔の来迎に預り、鬼魔天と云所に年久といへり。当(レ)知魔王は、一切衆生の第六の意識かへりて魔王となるが故に魔王形も又一切衆生の形に似り。されば尼法師の驕慢は、天狗に成たる形も尼天狗法師天狗
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にて侍也。頬は天狗に似たれども、頭は尼法師也。左右の手に羽は生たれ共、身には衣に似たる物を著て、肩には袈裟に似たる物を懸たり。男驕慢は、天狗と成ぬれば、頬こそ天狗に似たれ共、頭には烏帽子(えぼし)冠を著たり。二の手には羽生たれ共、身には水干、袴、直垂、狩衣なんどに似たる物を著たり。女の驕慢は、天狗と成ぬれば、頭にかつら懸て、紅粉白物の様なるものを頬に付たり。大眉作てかね黒なる者もあり、紅の袴に薄衣かづきて大虚(おほそら)を飛もあり。二には、波旬、天狗の業已に尽果て後、人身を受んとする時、若は深山の峯、若は深谷の洞、人跡絶果て、千里有所に入定したる時を、波旬と名く、一万歳の後人身を受といへり。三には魔縁、驕慢無道(ぶだう)道心の者必天狗となれりといへ共、未其人(有朋上P270)不(レ)知時に、人に増ばやと思ふ心の有を縁として、諸の天狗集るが故に、此を名付て魔縁と申。されば驕慢なき人の仏事には、魔縁なき故に、天魔来て障を成事なし。天魔は世間に多しといへ共、障碍を成べき縁なき人の許へは、翔り集る事更になし。されば法皇の御驕慢の御心、忽に魔王の来べき縁と成せ給(たまひ)て、六十余州の天狗共(てんぐども)、山門の大衆に入替て、さしも目出(めでた)き御加行をも打醒進て候也。御驕慢の発らせ給ふ実に御理也。両界の曼陀羅、一夜二時に懈怠なく行はせ給事、四十代の帝の中にも御座ざりき。僧中にも希にこそあらめと思召(おぼしめす)、御心則魔縁となれり。二十五壇の別尊の法、諸寺諸山の僧衆も、朕には争かと思召(おぼしめす)も魔縁なり。三密瑜伽(ゆが)の行法、護摩八千の薫修、上古の御門にましまさず、まして末代にはよもあらじ、仏法修行の智者達にもまさらばやと思召(おぼしめす)も是魔縁也。光明真言、尊勝陀羅尼、慈救
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真言、宝篋印、火界真言、千手経、護身結界十八道、仁王、般若、五壇法、朕に過たる真言師も、希にこそあるらめと思食(おぼしめし)たるも魔縁也。況や入壇灌頂(くわんぢやう)して、金剛(こんがう)不壊の光を放て、大日遍照の位にのぼらん事、明徳の中にも希なるべし。天子帝王の中にも、我はすぐれたらんと、大驕慢をなさせ給が故に、大天狗共(てんぐども)多集て、御灌頂(ごくわんぢやう)は空く成たる事こそ浅増(あさまし)く覚候へとぞ申させ給ける。又法皇の仰に、日本国中に、天狗に成(有朋上P271)たる智者幾か侍やと。明神宣く、よき法師は皆天狗に成り候間、其数を知ず。大智の僧は大天狗、小智の僧は小天狗、一向無智の僧中にも随分の慢心有。其等は悉(ことごと)く畜生道に堕て朝夕に責つかはれ、行歩に打はらるゝ諸の馬牛共は是なり。中比我朝に柿本の紀僧正(きそうじやう)と聞えしは、弘法大師の入室灑瓶の弟子、瑜伽(ゆが)灌頂(くわんぢやう)の補処、智徳秀一にして験徳無双聖たりき。大法慢を起して、日本第一の大天狗と成て候き。此を愛宕山の太郎坊と申也。惣じて驕慢の人多が故に、随分の天狗と成て、六十余州の山峯に、或は二三十人、或は五十百二百人(にひやくにん)集らざる処候はずと。其時法皇、誠に如(レ)仰、朕が行法は王位の中に、仏法者の中にも、最希にこそあらめと思て侍りつる也。先両界を空に覚て、毎夜の二時に、供養法し給ふ、御門、上古には未(レ)聞と思侍りき。別尊法鈴杵を廿五壇に建たる帝王も未(レ)聞と思侍て、子に臥し寅に起る行法、帝王の中には未(レ)聞と思侍りき。毎日法華経(ほけきやう)六部を信読し奉る。国王も、我朝には未(レ)聞と思侍き。況や三部秘経の持者、上乗灌頂(くわんぢやう)の聖と成て、本寺本山の智者達にも勝れたりと、被(レ)嘆と思ふ慢心を起こと度々也き。而今如(レ)是聞召るゝにこそ、罪業の雲既(すで)に晴て覚え候。全く山門の
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大衆の狼藉にては侍らず、我身の慢心則天魔の縁と成て、六十余州の天狗ども、数日精進の加行を打破けるにこそ(有朋上P272)道理にては侍りけれ。今に於ては慙愧懺悔の風冷に、魔縁境界争かはれざらん。さては忍やかに宿願を果し候ばやと存ず、御計候へと仰有ければ、大明神(だいみやうじん)宣く、伝教大師の申せと候つるは、延暦寺と申は愚老が建立(こんりふ)、園城寺(をんじやうじ)と申は、又智証大師の草創也。効験何も軽して御帰依の分にあたはず、我朝の霊地には、四天王寺勝れたり。聖徳太子(しやうとくたいし)の御建立(ごこんりふ)、仏法最初の砌也。彼聖徳太子(しやうとくたいし)は求世観音の応現、大悲闡提の菩薩也。信心空に催さば、勝利何ぞ少からんや。折節彼寺に入唐の聖、帰朝して、恵果法全の流水、五智五瓶に潔なり。灌頂(くわんぢやう)の大阿闍梨(あじやり)其器に可(レ)足、密に御幸ならせ御座して、御入壇候へと被(レ)仰て、明神忽に失給ぬ。其時法皇御落涙有て、良思食(おぼしめし)けるは、慢心いかに発さじと思へども、事により折に随て起べき者にて有けり。さしも大明神(だいみやうじん)の教給(たま)ひつる慢心の、今更起たるぞや。其故は、大唐国に一百余家の、大師先徳御座ける中に、毘沙門天王の御子に、韋駄天と申将軍に対面して、仏法の物語(ものがたり)し給ける明徳は、律宗の祖師終南山の道宣大師ばかりと見えたり。日本に七十余代の御門座ししかども、親住吉(すみよし)大明神(だいみやうじん)に対面して、種々に物語(ものがたり)したる帝王は、朕ばかりこそ在らめと、慢心の起たるぞやとて、阿弥陀仏/\助させ御座(おはしま)せと、御祈念ぞ在ける。さても法皇は公顕僧正(そうじやう)を被(二)召具(一)て天王寺へ御幸あり。彼寺の西門にして、(有朋上P273)御手を合つゝ、御心中に住吉(すみよし)明神(みやうじん)を拝せ給(たま)ひつゝ、
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住吉(すみよし)の松吹く風に雲晴て亀井の水にやどる月影 K048
とあそばして、五智光院にして亀井の水を結び上、五瓶の智水として、仏法最初の霊地にてぞ、伝法灌頂(くわんぢやう)をば遂させ給(たま)ひける。法皇今年六十一、智証大師より十五代の御付法也。無上菩提の御願(ごぐわん)、忽に成就(じやうじゆ)して、有待不定の玉体、速に金剛(こんがう)仏子に列御座、六大無碍の春の花は、出(レ)自(二)胎蔵界理門(一)、三密瑜伽(ゆが)の鏡の面は、浮(二)五智円満聖体(一)、八葉肉壇の胸(むね)の間には、耀(二)三十七尊光円(一)、五輪成身の宝冠には、厳(二)八十種好金花(一)、遍照遮那の悟開て、密厳花蔵之土に遊給ふも、あな目出た。(有朋上P274)