芸文稿の会 関係者の広場


目 次

18、朝倉治彦先生の思い出

17、『歴史手帳』本年の計画     (深沢秋男)

16、〈随想〉仮名草子研究

15、約束は雪の朝飯(あさめし)

14、ロダンのバルザック像  深沢 秋男

13、国語国文学科の思い出  深沢秋男

12、「實事求是」  深沢秋男 

11、訪書百珍  『筑波根集』を読んで        鹿島則幸

10、横山重先生の思い出        深沢秋男

9、変体仮名・草書体・古典の校訂        深沢秋男

8、『井関隆子の研究』紹介            霧山 昴 氏

7、関口深志 作詞 『海のオーロラ』

6、市古貞次氏の「桜山文庫 訪問記」

5、宮島鏡の手紙 滝川一廣教授にお聞きしたかったこと

4、重友先生と大洗海岸             深沢 秋男

3、絵解きにみる庶民の娯楽性の歴史        宮島 鏡

2、「徳川氏御実記」(『江戸会誌』創刊号)     深沢 秋男

1、かまどの神、三宝荒神を説く          宮島 鏡


…………………………………………………………
18、朝倉治彦先生の思い出
                              深沢 秋男  

 私は、卒業論文に仮名草子の『可笑記』を選んだ。今、当時を振り返ると、この作品は書誌的に大変な問題をかかえていた。そのようなこともあり、国会図書館へ日参したが、何か疑問が生じると、朝倉治彦先生に教えて頂いた。先生は、その都度、あたたかくお導き下さった。
 私は、自分の生涯の研究目標として、大きなことは最初から考えなかった。『可笑記』とその作者の解明、これが目標だった。それでも良いと思える作品だった。
 そんな、私に転機を与えて下さったのは、横山重先生と前田金五郎先生だった。両先生は、昭和四十七(一九七二)から刊行開始された『近世文学資料類従』(勉誠社)の解題担当者に私を加えて下さった。ここで、私の仮名草子研究における対象範囲が拡大された。その後、平成元年(一九八九)に、朝倉治彦先生は『仮名草子集成』第十巻に私を加えて下さった。ここで、さらに、私の研究範囲は広くなった。このような経過をたどって、私は仮名草子を研究してきた訳であり、横山・前田・朝倉の三先生の御配慮で研究してきた、と言ってもいいと思う。
 私が『仮名草子集成』に参加するに当たって、横山先生と朝倉先生の間に、微妙な関係があって、これには苦慮した。しかし、朝倉先生は、『仮名草子集成』の出発に際し、本文の組み方で、横山先生の『室町時代物語大成』と同様のスタイルを採用された。また、収録作品も、『室町時代物語大成』との重複は避ける、という原則を打ち出された。これは、横山先生を尊敬していなければ出来ないことである。私は、このことを、横山先生に御説明申し上げて、『仮名草子集成』に参加することを許可して頂いたのである。
 朝倉先生は、『近世木活図録』(昭和五十九年、青裳堂書店)、『桜山本 春雨物語』(昭和六十一年、勉誠社)、『仮名草子集成』(平成元年、東京堂出版)、『仮名草子研究叢書』(平成十八年、クレス出版)などの出版の機会を与えて下さった。これは、私の研究生活の中で、極めて重要な意味を持っている。改めて、先生の御温情に対して感謝申し上げる。
 朝倉先生は、『仮名草子集成』を、第一巻から、全巻、御恵与下さった。しかも、一巻一巻、手渡しである。その度ごとに、喫茶店や居酒屋で、長時間にわたって、さまざまな学問上のお教えを賜った。年二回から三回ということになる。また、『仮名草子集成』に参加してからは、頻繁にお会いした。その時のお話の中心は、当然、仮名草子に関する事が多かった。先生の仮名草子論には特異な視点があった。長年に亙って広く、沢山の作品の原本に目を通された研究者でなければ主張できない見解があった。私は、そのお話を録音させて貰い、研究書にまとめたい、と、何回かお願いしたが、先生は許されなかった。これは、最も残念に思うことである。従って、私の仮名草子に関する考えは、朝倉先生の御見解の影響を少なからず受けている。
 作品の原本調査の方法も、研究者によって異なる。ある図書館の仮名草子作品を同時に一挙に調査する方法もある。また、一つの作品毎に、各図書館の所蔵本を一本一本調べる方法もある。私は、後者の立場ゆえ、仮名草子作品全般への視点が不足する可能性がある。その点で、朝倉先生の御意見は、非常に参考になった。
 朝倉治彦先生は、事実に基づいて述べ、余り評論はしない、という点で、横山重先生と共通したところがあるように、私は思う。私は、お二人の先生にお会いできて、多くの事をお教え頂いたことに、改めて感謝申し上げる。

 平成十七年三月、私は昭和女子大学を定年退職した。定年後は、ライフワークの、如儡子・斎藤親盛の研究をまとめる予定であった。その計画を立てている、その時である。朝倉先生から一通の手紙を頂いた。
 平成十六年十二月二十七日付けの手紙は、
 「さて、突然のこと申上げます。私の命は、いくばくもない状況です。家族はまだ自覚していません。この手紙が、私の最後のものとなるでせう。生涯最后の、私の申出を聞届けて下さるよう懇願いたします。」
と書き始められていた。要件は、進行中の『仮名草子集成』を以後、一任するので引き受けてもらいたいというものであった。私に残された時間も多くはない。朝倉先生が企画・開始された、この大事業を引き受けるのは、至難のことである。出来得るならば、お断りしたい。しかし、仮名草子研究のため、学界のために是非継承して欲しい、と先生から要請されては、これをお断りするのは、研究者としても人間としても、自分勝手に過ぎるだろう、そのように判断して、微力な身ではあるが、お引き受けすることにしたのである。
 平成十六年の時点で、『仮名草子集成』は第三十六巻まで発行されていた。私は、平成十七年一月三日付けで「『仮名草子集成』の継承に関する事項(案)」を作成して、朝倉先生に検討して頂いた。以後、先生との継承に関する意見の交換は、全て文章(手紙)て行い、電話などは使用しなかった。重要案件であるので、全て記録することにした訳である。先生との手紙のやり取りは、平成十九年四月二十九日まで、双方各五十二通に及んだ。
 この間、朝倉先生は、非常に多くのことをお教え下さった。あれも、これも、紹介したいような貴重な内容であるが、私信という事もあるので、ここでは一つ、『仮名草子集成』成立に関するものを紹介したいと思う。これは、第三十二通目のもので、平成十七年七月二十九日付けの手紙とともに同封されていた。

「仮名草子集成縁起譚(タイトルは、仮に深沢が付けた)
私は、学生時代に、お伽草子に興味を持って(卒論は異なる)、まず「神道集」からと考えて、お伽草子と共に、本を見て廻っていましたが、野口英一さんから手紙を出して貰って、昭和二十二年頃、信州松本市外の片丘村に横山さんを訪ねました。
横山さんは、慶應出で、アラヽギ派の歌人で、島木赤彦の弟子でしたが、次第に折口さんに私淑するようになり、古代の論文などを書くなどして、折口さんを慶應に迎えた人ですが、やがて、その方法に疑問を持ち、神道集、室町時代物語、古浄瑠璃正本、説経節正本などを出版したことは、御存知と思いますが(これは折口さんの構想そのまゝです)、蔵書家でもありました。
私は、塩尻に親戚がありましたので、毎回、その家から山道を歩いて通い、本について勉強し、蔵書を拝見させて頂き、次第に信用されるようになりました。
そのうち、研究を仮名草子にきめ、横山さんの応援をうけて進めることゝなりました。
昭和三十年ヨーロッパ遊学(一年弱)から帰国して、間もなく横山、吉田両氏のすゝめで、文部省へ研究費を申請し、うまく貰うことが出来ました。
吉田さんとの関係は、古典文庫出版前に訪ねて、会員となりましたが、吉田さんの名は、それ以前に雑誌「書誌学」誌上で、かねてから存じあげておりました。次第に親しくなって行きました(年令の差は十二、三才と思います)。
文部省申請は、横山さんから、吉田さんに、直接指導してやるようにとのお言葉で、吉田さんは手続を用意して下さいました。
古典文庫には、次第に、私も著者となり、「西鶴研究」編集にも参加し、「未刊文芸資料」も出版させて頂き、吉田さんのお蔭で、上野図書館に奉職し(昭和二十四年)、三十二年には、吉田さんのすゝめで、御親戚の娘さんとの結婚(吉田夫妻が仲人)と、すっかり吉田さんのお世話になって、人生を出発した訳です。
古典文庫の次には、未刊国文資料にも仮名草子を入れて、次第に研究を進めて行きました。
図書館に入ってからは、全国的に調査旅行を開始して、主な機関は、ほとんど調査したと思っています。これは『国書総目録』刊行以前で、その時のノートが、私の研究の基礎を支えてきています。
『仮名草子集成』は、昭和五十五年開始ですが、大分前から、これは考えていたことです。」

 この時に頂いた原稿は、ここまでで、後半はいずれ書きましょう、ということであったが、ついに頂けなかった。しかし、これだけでも、朝倉先生と横山先生のこと、朝倉先生と吉田先生のこと、朝倉先生の仮名草子研究の原点を教えて頂けて、有り難い内容である。
 『仮名草子集成』は、朝倉先生の御指導を頂きながら、新体制を立ち上げた。若い研究者の御協力を得て、現在、第五十二巻まで発行することが出来た。朝倉先生の始められた企画が断絶する事無く、継続できたことは、本当によかったと思う。
私個人の立場からすれば、定年後の自分の予定・計画は、完全に狂ってしまったが、仮名草子研究全体のことを思えば、小さいことだと考えている。
(『渋谷近世 國學院大學近世文学会会報』第21号、平成27年3月31日発行。)





17、『歴史手帳』本年の計画     (深沢秋男)


はじめに

 大学を卒業して間もない頃、それまで使用していた手帳を、吉川弘文館の『歴史手帳』に変更した。以後、今日まで、この手帳を使用している。日本古典文学を研究する私にとって、実に便利な手帳である。
 この『歴史手帳』には、巻頭に「本年の計画」という頁があって、私は毎年、この頁を見つめながら計画を立てた。50年間を振り返って、この「本年の計画」を通覧すると、自分の歩んで来た道が眺められて楽しい。
 私は、この手帳への記入の仕方は、予定などは、青色か黒色で記入し、予定を実行した時は、赤色で囲む。予定以外の事は赤色で記入している。これで、具体的な状況がほぼ分かる仕組みである。
 平成27年(2015年)の手帳を求めたら、「本年の計画」の頁が削除されていた。編集部は、「本年の計画」はタイトルだけの頁ゆえ不要だと考えたのであろう。私は、全面改訂版以前の旧版の編集部に感謝している。

【記号】
◎=研究予定のテーマ
★=公表した、編著書・論文等
● =公表した、記録・随想・講演など
◇=原稿執筆していないもの
◆ =研究活動など
▲=参考事項、その他

【注】編著書の場合、共著者名は省略した。

■1965年(昭和40年)■
◎『可笑記』と『可笑記評判』
◎『可笑記』の諸本調査
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』

■1966年(昭和41年)■
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎『可笑記』の諸本調査
◎『可笑記』諸本の校異
◎仮名草子諸作品鑑賞・分析
◎『可笑記』と『徒然草』
◎校正技術の修得
★ 『可笑記』と『可笑記評判』――現実批判を中心に――(『文
 学研究』23号)

■1967年(昭和42年)■
◎『可笑記』に及ぼす『徒然草』の影響
◎『可笑記』の諸本調査
◎貞徳百韻関係
◎国文法・国文学史
★〈研究余滴〉『可笑記』の読者(『文学研究』26号)

■1968年(昭和43年)■
◎『可笑記評判』の校訂
◎『可笑記』の諸本
★『可笑記』の諸本について(『文学研究』28号)

■1969年(昭和44年)■
◎『可笑記評判』の校訂
◎『可笑記』の本文批評
★『可笑記』の本文批評(『近世初期文芸』1号)
★ 『可笑記』の諸本について――補訂――(『文学研究』3
 0号)

■1970年(昭和45年)■
◎『可笑記評判』の校訂
◎『可笑記』の諸本調査
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』・『可笑記評判』の成立時期
★『可笑記評判』(12月25日、近世初期文芸研究会発行)

■1971年(昭和46年)■
◎『可笑記評判』とその時代
◎『可笑記』・『可笑記評判』の成立時期
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』の諸本調査
★ 『可笑記評判』とその時代――批評書の出版をめぐって―
 ―(『文学研究』33号)

■1972年(昭和47年)■
◎『可笑記』の本文批評
◎『可笑記評判』批評書としての意義
◎『可笑記』の諸本調査明心宝鑑』
◎『可笑記』の諸本調査
★『浮世ばなし 付・明心宝鑑』(8月20日、勉誠社発行)

■1973年(昭和48年)■
◎『可笑記評判』の文学的評価
◎『可笑記評判』の成立時期
◎『可笑記評判』の書誌解題
◎『新可笑記』の書誌解題
◎『可笑記』の諸本調査
◎仮名草子研究文献目録
◎『天保日記』翻刻
★ 『可笑記』の諸本について――補訂(二)――(『文学研
 究』38号)
●仮名草子研究文献目録(『近世初期文芸』3号)

■1974年(昭和49年)■
◎『天保日記』校注
◎『新可笑記』の書誌解題
◎『可笑記評判』の書誌解題
◎『可笑記』の諸本調査
◎『浮世物語』の本文批評
◎『江戸雀』の諸本調査
◎『可笑記大成』
★ 『可笑記大成――影印・校異・研究――』(4月30日、
 笠間書院発行)
★『新可笑記』(10月25日、勉誠社発行)

■1975年(昭和50年)■
◎『天保日記』校注
◎『江戸雀』の諸本調査
◎『可笑記評判』の書誌解題
◎『天保日記』とその著者
★ 桜山文庫所蔵『天保日記』とその著者について(『文学研
 究』42号)
★ 国会図書館蔵『恵美草』の書写者について(『参考書誌研
 究』11号)
★『江戸雀』(11月23日、勉誠社発行)

■1976年(昭和51年)■
◎『天保日記』校注
◎エッケハルト・マイ博士の『東海道名所記』
◎或る旗本夫人の日記から見た江戸の風俗
★ 井関隆子覚え書(『文学研究』44号)

■1977年(昭和52年)■
◎『天保日記』校注
◎『神代のいましめ』の分析
★『可笑記評判(上)』(1月25日、勉誠社発行)
★『可笑記評判(中)』(2月25日、勉誠社発行)
★『可笑記評判(下)』(3月25日、勉誠社発行)
★ 井関隆子覚え書(二)――新資料『神代のいましめ』の紹
 介――(『文学研究』46号)

■1978年(昭和53年)■
▲手帳紛失
★ 井関隆子作『神代のいましめ』について(『文学研究』4
 7号)
★『井関隆子日記(上)』(11月30日、勉誠社発行)

■1979年(昭和54年)■
◎『机上辞典』全面改訂版完成
◎『井関隆子日記』原稿
◎井関隆子のこと(掃苔会)
◎『井関隆子日記』原稿
◎重友毅博士著述目録
●石澤先生のこと(『石澤豊追悼』5月12日、追悼文集を
 発行する会発行)
●重友先生と大洗海岸(『文学研究』50号)
●講演 井関隆子のこと(10月27日、芝増上寺、掃苔会)
●上田秋成と『源氏物語』(12月9日、日本文学研究会)

■1980年(昭和55年)■
◎『井関隆子日記』原稿
◎仮名草子研究文献目録
◎『小傘付合辞典』
◎『井関隆子日記』との出会い
◎上田秋成と『源氏物語』
★ 上田秋成と『源氏物語』(上)――『源語』に寄せる五十
 四首の歌――(『文学研究』51号)
★ 上田秋成と『源氏物語』(中)――『源語』に寄せる五十
 四首の歌――(『文学研究』52号)
★『井関隆子日記(中)』(8月30日、勉誠社発行)

■1981年(昭和56年)■
◎『井関隆子日記』原稿
◎上田秋成と『源氏物語』
◎『井関隆子長短歌』
◎長澤規矩也先生の思い出
★ 井関隆子研究覚え書(三)――『井関隆子長短歌』・井関
 家過去帳・昌清寺過去帳――(『文学研究』53号)
★『井関隆子日記(下)』(6月5日、勉誠社発行)
●長澤先生の思い出――『可笑記』のことなど――(『書誌
 学』新28号)

■1982年(昭和57年)■
◎菱川師宣作品集成
◎『可笑記』と『徒然草』
◎近世文学史
◎秋成・芭蕉・近松・西鶴
★ 井関隆子研究覚え書(四)――『井関隆子日記』と『しづのおだまき』――(『文学研究』56号)

■1983年(昭和58年)■
◎上田秋成と『源氏物語』
◎『可笑記』と『徒然草』
◎近世文学史
◎国文法
◎ 芭蕉・蕪村

■1984年(昭和59年)■
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』の著者
◎上田秋成と『源氏物語』
◎エッケハルト・マイ博士の『東海道名所記』
◎『可笑記』の諸本調査
◎『仮名草子集成』関係
◎『近世木活字図録』関係
◎『日本随筆辞典』関係(東京書籍)
★『可笑記』に及ぼす『徒然草』の影響(『学苑』529号)
★『近世木活図録』(5月31日、青裳堂書店発行)
●仮名草子研究の現状――付、エッケハルト・マイ博士『東
 海道名所記』の紹介――(『文学研究』59号)

■1985年(昭和60年)■
◎桜山文庫本『春雨物語』
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『古典の事典』関係(河出書房)
◎『可笑記』の読み方
◎上田秋成と『雨月物語』(千葉市民文化大学)
★ 『可笑記』と『徒然草』――1の2・1の4――(『学苑』
 641号)
★ 『可笑記』の読み方――「かしょうき」か「おかしき」か――
 (『文学研究』62号)

■1986年(昭和61年)■
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記評判』の成立時期
◎『浮世物語』の本文批評
★『可笑記評判』の成立時期(『文学研究』63号)
★『桜山本 春雨物語』(2月25日、勉誠社発行)

■1987年(昭和62年)■
◎『可笑記評判』の成立時期
◎『可笑記』と『徒然草』
◎近世女流文学研究文献目録
◎馬琴『水滸後画伝』考
◎『浮世物語』の本文批評
◎如儡子関係調査(二本松・酒田・鶴岡)
◎仮名草子研究文献目録
★『可笑記評判』の成立時期(承前)(『文学研究』63号)

■1988年(昭和63年)■
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(二本松・郡山・福島・酒田・鶴岡)
◎『堪忍記』翻刻と研究
◎馬琴『水滸後画伝』
◎近世女流文学研究文献目録
◎『可笑記』の諸本調査
◎「評判」について
★如儡子(斎藤親盛)調査報告(1)(『文学研究』67号)
★ 如儡子(斎藤親盛)調査報告(2)――父・斎藤筑後と如
 儡子出生の地――(『近世初期文芸』5号)
★ 如儡子(斎藤親盛)調査報告(3)――『世臣伝』・『相生
 集』――(『文学研究』68号)
●仮名草子研究文献目録(『近世初期文芸』4号)

■1989年(昭和64年・平成元年)■
◎如儡子関係調査
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『堪忍記』(松平文庫本)翻刻と研究
◎『可笑記』の諸本調査
◎仮名草子研究文献目録
◎『女仁義物語』(仮名草子集成)
◎馬琴『水滸後画伝』
◎近世女流文学研究文献目録
★ 如儡子の『堪忍記』(1)――松平文庫本の翻刻と解題―
 ―(『近世初期文芸』6号)
★ 如儡子(斎藤親盛)調査報告(4)――二本松藩諸資料――(『文学研究』70号)
★『仮名草子集成・10巻』(9月30日、東京堂出版発行)

■1990年(平成2年)■
◎如儡子関係調査(二本松・酒田)
◎『堪忍記』(内閣文庫本)翻刻と研究
◎『女式目』『儒仏物語』(仮名草子集成・11巻)
◎『怪談全書』『恠談』(仮名草子集成・12巻)
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』の諸本調査
◎井関隆子研究覚書
◎近世女流文学研究文献目録
◎馬琴『水滸後画伝』
★如儡子の『堪忍記』(2)――内閣文庫本の翻刻と解題―
 ―(『近世初期文芸』7号)
★ 井関隆子研究覚え書(五)――桜山文庫『桜斎随筆』の記
 述――(『文学研究』72号)
★『仮名草子集成・11巻』(8月25日、東京堂出版発行)

■1991年(平成3年)■
◎如儡子関係調査(二本松・酒田)
◎『女仁義物語』の諸本
◎『堪忍記』まとめ
◎長澤本『恠談』(仮名草子集成・12巻)
◎『怪談録前集』(仮名草子集成・13巻)
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』の諸本調査
◎『古典文学事典』(明治書院)
◎『桜斎随筆』
◎馬琴『水滸後画伝』
◎近世女流文学研究文献目録
★『可笑記』の諸本について――補訂(三)――(『文学研
 究』74号)
★『女仁義物語』の諸本(『近世初期文芸』8号)
★如儡子の『堪忍記』(3)――松平文庫本と内閣文庫本―
 ―(『近世初期文芸』8号)
★『仮名草子集成・12巻』(9月25日、東京堂出版発行)

■1992年(平成4年)■
◎如儡子関係調査(二本松・酒田)
◎『堪忍記』まとめ
◎『女式目』の諸本
◎『奇異怪談集』(仮名草子集成)
◎『鑑草』の諸本調査
◎『可笑記』の諸本調査
◎『可笑記』と『徒然草』
◎佐倉藩調査
◎『百人一首抄』
◎馬琴『水滸後画伝』
◎近世女流文学研究文献目録
★『女式目』の諸本(『近世初期文芸』9号)
★『仮名草子集成・13巻』(8月20日、東京堂出版発行)

■1993年(平成5年)■
◎如儡子関係調査(羽黒・酒田・鶴岡・二本松・佐倉)
◎『堪忍記』まとめ
◎『鑑草』(仮名草子集成・14巻)
◎『可笑記』解題(仮名草子集成・14巻)
◎『可笑記評判』(仮名草子集成・15巻)
◎『怪談全書』の諸本
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』の諸本調査
◎『百人一首抄』(彰考館本調査)
◎『可笑記』の作者と二本松(二本松歴史研究会)
◎『桜斎随筆』
◎菱川師宣作品集成
◎国文研・共同研究
★ 如儡子(斎藤親盛)調査報告(5)――如儡子の墓所――
 (『文学研究』78号)
★ 『怪談全書』の諸本――付、『恠談』・『怪談録』・『奇異怪
 談抄』・『怪談録前集』――(『近世初期文芸』10号)
★『鹿島則孝と『桜斎随筆』』(6月25日、深沢秋男発行)
★ 『仮名草子集成・14巻』(11月20日、東京堂出版発
 行)
◆寛永期版本の刊記に関する調査・研究(国文学研究資料館
 共同研究)

■1994年(平成6年)■
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡・二本松・佐倉)
◎『可笑記評判』(仮名草子集成・15巻)
◎『仮名草子集成・15巻』
◎『百人一首抄』
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『鑑草』の諸本
◎ 鹿島則幸氏と桜山文庫
★ 『鑑草』の諸本(『近世初期文芸』11号)
★『仮名草子集成・15巻』(12月10日、東京堂出版発
 行)
●鹿島則幸氏と桜山文庫(『近世初期文芸』11号)
●仮名草子の範囲と分類(9月15日、早稲田大学・複製叢
 書、月報43)
● 仮名草子の女性教訓物(2月26日、講演・日本教育史学
 会)
● 井関隆子の人と文学(12月6日、講演・昭和女子大・女
 性文化研究所)

■1995年(平成7年)■
◎如儡子関係調査(酒田・二本松・佐倉)
◎『百人一首抄』の分析
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎『可笑記』の諸本
◎『可笑記評判』・『可笑記跡追』(仮名草子集成16巻)
◎『仮名烈女伝』(仮名草子集成17巻)
◎『枯杭集』・『鎌倉物語』(仮名草子集成18巻)
◎『井関隆子の研究』
◎『神代のいましめ』のモデル
◎『桜斎随筆』のマイクロ化
◎『神宮宮司拝命記』
★ 井関隆子作『神代のいましめ』のモデル――主人公・某少
 将は忠邦か定信か――(『文学研究』81号)
★『可笑記』の諸本(『近世初期文芸』12号)
★『仮名草子集成・16巻』(9月5日、東京堂出版発行)

■1996年(平成8年)■
◎ 『花山物語』・『堅田物語』・『仮名列女伝』(仮名草子集成
 17巻)
◎ 『かさぬ草紙』・『枯杭集』・『かなめいし』・『鎌倉物語』(仮
 名草子集成18巻)
◎ 『百人一首鈔』(如儡子著)研究序説(長谷川強編『近世
 文学俯瞰』)
◎如儡子関係調査(佐倉・藤島・酒田……)
◎『百人一首鈔』の分析
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎『井関隆子日記』の研究
◎『伊勢神宮宮司拝命記』の分析
◎敦賀屋版『可笑記』
◎ 『酔玉集』翻刻
★敦賀屋版『可笑記』について(『文学研究』83号)
★ 如儡子の「百人一首」注釈――『酔玉集』翻刻と解題(上)
 ――(『近世初期文芸』13号)
★『仮名草子集成・17巻』(3月20日、東京堂出版発行)
★『仮名草子集成・18巻』(9月20日、東京堂出版発行)
●平成7年仮名草子研究の展望(『文学・語学』153号)

■1997年(平成9年)■
◎ 『葛城物語』・『河内鑑名所記』・『堪忍弁義抄』(仮名草子
 集成19巻)
◎『勧孝記』・『堪忍記』(仮名草子集成20巻)
◎『酔玉集』翻刻
◎「仮名草子」・「鹿島則文」(『日本古典籍書誌学辞典』)
◎如儡子関係調査(佐倉・藤島・酒田……)
◎『百人一首鈔』の分析
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎『井関隆子日記』の研究
◎『伊勢神宮宮司拝命記』の刊行
◎鈴木重嶺関係資料の調査
★ 井関隆子作『さくら雄が物かたり』考(『文学研究』85号)
★如儡子の「百人一首」注釈――『酔玉集』翻刻と解題(下)
 ――(『近世初期文芸』14号)
★『仮名草子集成・19巻』(3月20日、東京堂出版発行)
★『仮名草子集成・20巻』(8月30日、東京堂出版発行)
●「約束は雪の朝飯」(昭和女子大学『昭和学報』373号)
●仮名草子研究の思い出――思い出す恩師のことなど――
 (法政大学『日本文学誌要』56号)
◆「仮名草子研究文献目録」オンライン化

■1998年(平成10年)■
◎『仮枕』・『奇異雑談集』(仮名草子集成21巻)
◎ 『祇園物語』・『京童』・『京童あとをひ』(仮名草子集成2
 2巻)
◎『酔玉集』翻刻・解題
◎『百人一首鈔』の分析
◎如儡子関係調査(佐倉・藤島・酒田……)
◎鈴木重嶺研究
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎『井関隆子の研究』
◎『伊勢神宮宮司拝命記』の刊行
◎『桜斎随筆』のマイクロ化
◎井関隆子の人と文学
◎井関隆子の批評精神(証券会社、社内報)
◎鈴木重嶺関係資料紹介(『学苑』)
◎飯田竜一氏の『江戸図研究』
◎「近世初期文芸研究会」インターネットHP開設
★鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(『学苑』694号)
★井関隆子の人と文学(上)(『文学研究』86号)
★ 如儡子の「百人一首」注釈――『百人一首鈔』と『酔玉集』
 ――(『近世初期文芸』15号)
★『仮名草子集成・21巻』(3月20日、東京堂出版発行)
★『仮名草子集成・22巻』(6月25日、東京堂出版発行)
★『神宮々司拝命記』(7月25日、深沢秋男発行)
◆ネット上に「近世初期文芸研究会」のホームページ開設
● @為愚痴物語、A田夫物語、B三浦為春、C元のもくあみ、
 D讃嘲記時之太鼓、E色音論の項目執筆『日本古典文学大
 事典』(6月10日、明治書院発行)
●井関隆子の批判精神(『証券とくらし』678号)
● 飯田龍一氏の江戸図研究――飯田氏追悼――(『近世初期
 文芸』15号)

■1999年(平成11年)■
◎『井関隆子の研究』刊行
◎京大本『百人一首註解』の分析
◎如儡子関係調査(佐倉・藤島・酒田……)
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎如儡子の俳諧
◎如儡子の『堪忍記』
◎『百人一首鈔』の分析(頭注など)
◎『百八町記』の研究
◎如儡子全集
◎『桜斎随筆』のマイクロ化
◎鈴木重嶺研究
◎『仮名草子集成』関係
★ 鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(2)――付、飯田龍一氏
 江戸図関係資料紹介――(『学苑』705号)
★ 如儡子の「百人一首」注釈――京大本『百人一首註解』との
 関係――(『文学研究』87号)
★斎藤親盛(如儡子)の俳諧(上)(『近世初期文芸』16号)
● @鹿島則文、A仮名草子、B瓦版の項目執筆『日本古典書
 誌学辞典』(3月10日、岩波書店発行)
● 「17世紀、儒書・仏書の研究」文部省 科学研究費による
 共同研究
● ロダンのバルザック像(昭和女子大学『昭和学報』401
 号)

■2000年(平成12年)■
◎『井関隆子の研究』刊行
◎如儡子の俳諧
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡……)
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』
◎『百八町記』の研究
◎如儡子の『堪忍記』
◎『百人一首鈔』の分析(頭注など)
◎如儡子全集
◎『桜斎随筆』(本の友社、第1回配本)
◎鈴木重嶺研究
◎鹿島則文と桜山文庫
◎ 『仮名草子集成』関係
★鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(3)(『学苑』726号)
★ 井関隆子研究覚え書(六)――『庄田家系譜(正本)』―
 ―(『文学研究』88号)
★斎藤親盛(如儡子)の俳諧(中)(『近世初期文芸』17号)
★『桜斎随筆 1巻〜6巻』(11月10日、本の友社発行)
★『桜斎随筆のしおり』(11月10日、本の友社発行)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「日本文学研究所」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆文部省・科研、共同研究
◆仮名草子研究会

■2001年(平成13年)■
◎『井関隆子の研究』刊行
◎如儡子の俳諧、82枚
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡……)
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』、63枚
◎『百八町記』の研究
◎如儡子の『堪忍記』
◎『百人一首鈔』の分析(頭注など)
◎如儡子全集
◎『桜斎随筆』(本の友社、第2回配本)
◎鈴木重嶺研究・C 34枚
◎鹿島則文と桜山文庫
◎ 『仮名草子集成』関係
★ 『可笑記』と『甲陽軍鑑』(二)――書名「可笑記」の出処
 ――(『文学研究』89号)
★ 斎藤親盛(如儡子)の俳諧(下)――晩年、二本松時代の
 如儡子――(『近世初期文芸』18号)
★ 『桜斎随筆 13巻〜18巻』(11月10日、本の友社
 発行)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「日本文学研究所」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆文部省・科研、共同研究
◆仮名草子研究会

■2002年(平成14年)■
◎『井関隆子の研究』刊行
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』、79枚
◎『砕玉抄』の研究
◎『百人一首鈔』の分析(頭注など)
◎『桜斎随筆』(本の友社、第3回配本)
◎『仮名草子の書誌学的研究』
◎『如儡子の研究』
◎如儡子の『堪忍記』
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡……)
◎如儡子全集
◎『堪忍弁義抄』74枚
◎鈴木重嶺研究
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『百八町記』の研究
◎鹿島則文と桜山文庫
◎ 『仮名草子集成』関係
★鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(4)(『学苑』738号)
★ 『堪忍弁義抄』の版本と写本――付、写本『堪忍弁義抄』
 翻刻――(『近世初期文芸』19号)
★『可笑記』と『甲陽軍鑑』(3)(『文学研究』90号)
★ 『桜斎随筆 7巻〜12巻』(11月10日、本の友社
 発行)
◆「日本文学研究所」HP、内容充実
◆「日本文学研究所」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆文部省・科研、共同研究

■2003年(平成15年)■
◎『井関隆子の研究』刊行
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『可笑記』と『甲陽軍鑑』まとめ、46枚
◎『砕玉抄』の研究、序説、33枚
◎『百人一首鈔』の分析(頭注など)
◎『百八町記』の研究
◎如儡子の『堪忍記』
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡……)
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』
◎鈴木重嶺研究(佐渡相川)
◎ 『仮名草子集成』関係
◎『仮名草子研究文献目録』(和泉書院)
★ 『可笑記』と『甲陽軍鑑』(むすび)(『文学研究』91号)
★ 如儡子の「百人一首」注釈――武蔵野美術大学美術資料館所蔵『砕玉抄』(序説)――(『近世初期文芸』20号)
★ 近世初期文芸と近世軍書――『可笑記』と『甲陽軍鑑』――(17世紀日本における中国・韓国の漢籍受容の分析並びに総合的研究、文部省、科学研究費基礎研究(A)研究成果報告書)
●吉田幸一先生を偲ぶ(追悼文集)
●井関隆子の見た幕末(『歴史読本』2月号)
●講演・鈴木重嶺(佐渡相川)
●講演・鈴木重嶺(昭和女子大)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「近世文学研究所」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆『浅井了意全集』(共同研究)
  
■2004年(平成16年)■
◎『井関隆子の研究』刊行(和泉書院)
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『砕玉抄』の研究(武蔵野美術大学)
◎『百八町記』の研究
◎如儡子の『堪忍記』
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡……)
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』
◎鈴木重嶺研究
◎ 『仮名草子集成』関係
★ 甲南女子大学図書館所蔵 写本『可笑記』について(『近
 世初期文芸』21号)
★鈴木重嶺(翠園)伝記研究序説(『文学研究』92号)
★『井関隆子の研究』(11月1日、和泉書院発行)
★『仮名草子研究文献目録』(12月15日、和泉書院発行)
●重嶺と海舟〈エッセイ〉(『学苑』767号)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「近世文学研究所」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆『浅井了意全集』(共同研究)
※昭和女子大学関係の整理(研究室・HP等)

■2005年(平成17年)■
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『仮名草子研究叢書』(クレス出版)
◎『源氏物語』と近世日記文学(おうふう)
◎『砕玉抄』の研究(武蔵野美術大学)
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(酒田・鶴岡……)
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』
◎鈴木重嶺研究
◎ 『仮名草子集成』関係
◎ 『若輩抄』90枚
※昭和女子大学関係の整理(研究室・HP等)
★ 如儡子(斎藤親盛)の「百人一首」注釈――『砕玉抄』翻刻
 (一)――(『文学研究』93号)
★ 如儡子(斎藤親盛)の「百人一首」注釈――『砕玉抄』翻刻
 (二)――(『近世初期文芸』22号)
★ 鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(5)――全龍寺所蔵重嶺
 関係資料――(『学苑』773号)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「近世文学研究所」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆仮名草子研究会
◆『浅井了意全集』(共同研究)

■2006年(平成18年)■
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『仮名草子研究叢書』(クレス出版)
◎『砕玉抄』の研究(武蔵野美術大学)
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(藤島・酒田・鶴岡……)
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』
◎『若輩抄』(東京堂出版『仮名草子集成』39巻)
◎『浮世物語』・『浮世はなし』(岩田書院『浅井了意全集』)
◎鈴木重嶺研究
◎ 『旗本夫人の日記』287枚(文春新書)
★ 『仮名草子研究叢書 1巻〜8巻』(2月25日、クレス
 出版)
★如儡子(斎藤親盛)の「百人一首」注釈――『砕玉抄』翻刻
 (三)――(『文学研究』94号)
★如儡子(斎藤親盛)の「百人一首」注釈――『砕玉抄』翻刻
 (四)――(『近世初期文芸』23号)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆仮名草子研究会
● 講演 幕末旗本夫人の生涯(江戸の女性史フォーラム、7月1日、江戸博)
● 講演 佐渡と鈴木重嶺(全国天領ゼミナール、8月5日、
 佐渡市)
● 講演 歴史における事実と虚構(日本文化史学会、12月
 16日、昭和女子大学)

■2007年(平成19年)■
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『砕玉抄の研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎如儡子関係調査(藤島・酒田・鶴岡……)
◎『可笑記』と『徒然草』
◎『仮名草子集成』41巻〜43巻
◎『浅井了意全集』1巻〜3巻
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』
◎ 『鈴木重嶺研究』
★『仮名草子集成・41巻』(2月28日、東京堂出版発行)
★『仮名草子集成・42巻』(7月25日、東京堂出版発行)
★ 『浅井了意全集・仮名草子編・1巻』(8月、岩田書院発
 行)
★ 如儡子(斎藤親盛)の「百人一首」注釈――『砕玉抄』と『百人一首鈔』――(『文学研究』95号)
★ 仮名草子作品の古書価(『近世初期文芸』24号)
★ 『旗本夫人が見た江戸のたそがれ 井関隆子のエスプリ日
 記』(11月20日、文春新書、文藝春秋発行)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆『芸文稿』創刊

■2008年(平成20年)■
◎『砕玉抄の研究』
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『鈴木重嶺研究』
◎『仮名草子集成』44巻〜46巻、東京堂出版
◎『浅井了意全集』3巻〜、岩田書院
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(藤島・酒田・鶴岡……)
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』 ?
★ 近世初期における 書名「可笑記」の流行(『近世初期文芸』
 25号)
★ 『桜山文庫目録 和書之部』(上)(『近世初期文芸』25
 号)
★鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(6)(『芸文稿』1号)
●自著を語る(『芸文稿』1号)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆日本文学研究会
◆『芸文稿』創刊
●所沢中央ロータリークラブ 講演
●所沢ロータリークラブ 講演
●東京中野ロータリークラブ 講演
● 講演 旗本夫人が見た江戸のたそがれ(7月8日、調布市
 立図書館)

■2009年(平成21年)■
◎『砕玉抄の研究』
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『鈴木重嶺研究』
◎『仮名草子集成』45巻〜47巻、東京堂出版
◎『浅井了意全集』3巻〜、岩田書院
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(藤島・酒田・鶴岡……)
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』 ?
◎如儡子(新書)
◎ 如儡子の文学碑(酒田 上日枝神社境内)
★ 『桜山文庫目録 和書之部』(下)――付、昭和女子大学図書館所蔵「桜山文庫」について――(『近世初期文芸』26号)
★ 松浦詮編『蓬園月次歌集 完』の紹介――鈴木重嶺所収歌
 を中心に――(『芸文稿』2号)
●仮名草子関係新刊書・目次紹介(『近世初期文芸』26号)
● ウェブ日記抄・1(『芸文稿』2号)
● 実事求是(3月31日、『文学研究科35周年記念誌』昭
 和女子大学大学院文学研究科)
●講演 江戸城大奥と私(9月12日、東京原村会)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆近世初期文芸研究会
◆芸文稿の会
◆『芸文稿』2号発行
◆『近世初期文芸』26号発行
◆斎藤親盛(如儡子)伝記資料(記念碑の資料)
◆鈴木重嶺関係資料調査(細田賢氏寄贈分)

■2010年(平成22年)■
◎『砕玉抄の研究』
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『鈴木重嶺研究』
◎『仮名草子集成』46巻〜47巻、東京堂出版
◎『浅井了意全集』3巻〜、岩田書院
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(藤島・酒田・鶴岡……)
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎『如儡子(斎藤親盛)全集』 ?
◎如儡子(新書)
◎ 如儡子の文学碑(酒田 上日枝神社境内)
★ 『斎藤親盛(如儡子)伝記資料』(10月25日、近世初
 期文芸研究会発行、非売品)
★ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題――父、斎藤筑
 後守は「盛広」か「広盛」か――(『近世初期文芸』27号)
★鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(7)(『芸文稿』3号)
★ 昭和女子大学図書館所蔵「翠園文庫」について――鈴木重嶺
 (翠園)旧蔵書――(『芸文稿』3号)
●ウェブ日記抄・2(『芸文稿』3号)
●仮名草子関係新刊書・目次紹介(『近世初期文芸』27号)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆『芸文稿』3号発行
◆『近世初期文芸』27号発行

■2011年(平成23年)■
◎『砕玉抄の研究』
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『鈴木重嶺研究』
◎『仮名草子集成』47巻〜50巻、東京堂出版
◎『浅井了意全集』3巻〜、岩田書院
◎『可笑記』と『徒然草』
◎如儡子関係調査(藤島・酒田・鶴岡……)
◎如儡子の『堪忍記』・『百八町記』の研究
◎如儡子(新書) ?
◎如儡子の文学碑(酒田 上日枝神社境内)
★ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(2)――「如儡子」は「にょらいし」か「じょらいし」か――(『近世初期文芸』28号)
★鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(8)(『芸文稿』4号)
★ 『浅井了意全集・仮名草子編・3巻』(5月、岩田書院発
 行)』
★ 『仮名草子集成・47巻』(6月30日、東京堂出版発行)
★ 鈴木重嶺(翠園)関係資料紹介(9)――新収資料と細田
 賢氏寄贈資料――(『学苑』850号)
●仮名草子関係新刊書・目次紹介(『近世初期文芸』28号)
● 『旗本夫人が見た江戸のたそがれ』――〔書評・新刊紹介・
 コメント等〕の紹介――(『芸文稿』4号)
● 「齋藤筑後守記念碑」建立〔10月23日、酒田市、上日枝神社境内〕(『近世初期文芸』28号)
● 講演 旗本夫人が見た江戸(3月8日、番町文学館連続講
 演、グランドアーク半蔵門)
● 講演 旗本夫人が見た江戸のたそがれ(8月20日、江戸
 連、葉月講、日本橋伊庭仙ビル)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆『芸文稿』4号発行
◆『近世初期文芸』28号発行

■2012年(平成24年)■
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎鈴木重嶺研究
◎『仮名草子集成』48巻〜50巻、東京堂出版
◎ 『浅井了意全集』3巻〜、岩田書院
★ 『如儡子百人一首注釈の研究』(3月20日、和泉書院発
 行)
★ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(3)――十五
 里ケ原合戦と斎藤広盛――(『近世初期文芸』29号)
●仮名草子関係新刊書・目次紹介(『近世初期文芸』29号)
● 横山重先生の思い出(『芸文稿』5号)
● 『井関隆子日記』、明治大学・京都大学入試問題に出題(『芸文稿』5号)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆『芸文稿』5号発行
◆『近世初期文芸』29号発行
◆重友先生と私、40頁
◆「はてなキーワード 20項目」
◆「井関隆子」(ウィキペディア立項)

■2013年(平成25年)■
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『仮名草子の書誌的研究』
◎鈴木重嶺の研究
◎『仮名草子集成』49巻〜50巻、東京堂出版
◎ 『浅井了意全集』4巻〜、岩田書院
★ 如儡子(斎藤親盛)の伝記に関する諸問題(4)――斎藤
 広盛と藤島城――(『近世初期文芸』30号)
●仮名草子関係新刊書・目次紹介(『近世初期文芸』30号)
● 重友毅先生と私(『芸文稿』6号)
● 「武家の女性の素顔」(8月10日、『歴史REAL』)
◇ 『仮名草子集成・50巻』(11月30日、東京堂出版発
 行)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆『芸文稿』6号発行
◆『近世初期文芸』30号発行

■2014年(平成26年)■
◎『如儡子(斎藤親盛)の研究』
◎『仮名草子の書誌的研究』 ?
◎『仮名草子集成』51巻〜53巻、東京堂出版
◎ 『浅井了意全集』5巻〜、岩田書院
● 国語国文学科の思い出(3月、『昭和女子大学短期大学部記念誌』)
● 仮名草子研究の思い出(昭和女子大学最終講義)(『芸文
 稿』7号)
◇『仮名草子集成・51巻』(3月30日、東京堂出版発行)
◇『仮名草子集成・52巻』(9月30日、東京堂出版発行)
◆「近世初期文芸研究会」HP、内容充実
◆「J−TEXTS」HP、内容充実
◆『芸文稿』7号発行
◆『近世初期文芸』31号発行





16、〈随想〉仮名草子研究
    ――思い出す恩師のことなど――

                          深沢 秋男


 私が法政大学で仮名草子を卒論に選んだのは、近藤忠義先生の説経節の演習がきっかけであった。『さんせう太夫』や『しのだづま』などの本文をガリ版で印刷してテキストに使った。ほとんどが平仮名の本文に、一語一語漢字を当てるのには苦しんだが、これが大変勉強になった。
 この授業の中で、なぜ仮名書きか? という疑問も持ったし、中世末期から近世初期へかけての、庶民の息吹の並々でない事も知る事が出来た。そして、この過渡期の時代の文芸に非常に興味を覚えた。これが、仮名草子を卒論に選ぶ一つの契機となった。
 卒論指導は重友毅先生であった。重友先生の卒論指導は厳しい、という事で知れ渡っていたが、その厳しい先生の御指導を希望し、テーマを提出した。
 私は1962年の卒業であるが、当時の日本文学科には、西郷信綱、秋山虔(非常勤)、西尾実、近藤忠義、重友毅、小田切秀雄、長澤規矩也という、錚々たる先生方がおいでになり、そのお教えを頂いた私達は幸せ者であった。今も、その学恩に感謝している。
 仮名草子の中では、特に『可笑記』を選んだ。作者は浪人であるが、正義感の強い人物で、内容は批判性に富んだ作品であった。
 この作品の本文は、当時、「徳川文芸類聚」と「近代日本文学大系」の中に収録されていたが、両叢書とも、なかなか古書店には出ず、たまに出ても、かなりの値段で、学生の私には、とても購入できなかった。当時は、まだコピーなど無かったので、毎日、学校の図書館や上野図書館へ通って書写した。大学ノート8冊になったが、完了した頃には、内容も、ほぼ自分のものになっていた。
 先学の、水谷不例氏も暉峻康隆氏も、この作品は全400段であると記していたが、書写した両叢書や国会本の和本に収録された本文は、いくら数えてみても、280段しか無い。途方にくれて、早稲田大学の暉峻康隆先生をお尋ねして、問うてみたが、埓はあかなかった。残された道は原本を全て見る以外に方法がなかった。私の『可笑記』の諸本調査はここから始まった。
 他大学図書館等の閲覧・調査には法政大学図書館長の紹介状に非常に助けられた。更に厳しい条件の時は、重友先生の名刺や紹介状を追加して頂いたが、原本調査で最も御指導頂いたのは、長澤規矩也先生であった。
 長澤先生は、中国文学・書誌学を教えて下さったが、学生の頃から大東急記念文庫などに連れて行って下さった。先生は、川瀬一馬先生と共に、日本の書誌学界の権威であり、この大先生にお教え頂いた事は幸せであった。先生の御指導は非常に厳しいものであったが、一面で寛大であった。私は、図書館界で高名であった長澤先生のお名前を、しばしば使わせて頂いたが、いつも快くお許し下さった。
天理図書館は、貴重古典籍の所蔵では、有数の図書館であり、ここの調査には慎重を期した。万一にも失敗は許されないと考えたからである。幸い、島本昌一先生に連れて行って頂く事が出来た。先生と二人で夜行で奈良まで行き、午前9時、憧れの天理図書館の正面入口に立った時の感動は、今も全く薄れていない。以後、今日まで、この天理図書館には大変お世話になっているが、天理大学の金子和正先生は、長澤先生の教え子であり、原本調査に関して、全面的に御指導下さった。私の書誌学的調査の基礎は金子先生にお教え頂いたものである。
 法政卒業後も、重友先生・長澤先生などの御指導のもとに、仮名草子研究を続けてきたが、学外の多くの先生の御指導も頂いた。
 国学者・鹿島則文のコレクション・桜山文庫の調査を通して、則文のお孫さんの鹿島則幸氏にめぐり会えたのは、身に余る幸せであった。鹿島氏の御厚意によって、桜山文庫の御蔵書を調査させて頂いたが、これが、私の研究の根幹になっている。
 ずいぶん前になるが、鹿島氏は、御所蔵の桜山本『可笑記』を、私の研究のためにと御恵与下さった。貴重な御本であるので、調査終了後は法政大学の図書館に寄贈したい旨申し出たところ、図書館の係の方は、法政には和本の管理が出来ないので、他の図書館へ寄贈してはどうか、とアドバイスされ、残念な思いをした事もあった。
 後年、鹿島氏は桜山文庫を一括譲渡したいとの事で、この件を私に一任された。譲渡先として、現在、勤務している昭和女子大学を第一に考えたが、何しろ1万冊に及ぶ写本・版本であるから、その金額もかなりのものになると予想し、第2に鹿島氏の母校・国学院、第3に私の母校・法政、以下、国会図書館、国文学研究資料館などを検討し、結果的には昭和女子大学に決まったが、こんな事もあった。
 その他、慶応の横山重先生、北大の野田寿雄先生、国学院の朝倉治彦先生など、多くの先生の御指導を頂きながら、仮名草子を進めてきたが、もう30年余になる。
 卒論の頃リストアップした仮名草子作品は175点位であったが、昭和63年に作った私の『仮名草子研究文献目録』では300点余に達する。勿論、仮名草子の範囲に関しては、研究者によって見解を異にするところもあるが、作品の数は確実に増えている。
 戦後、これらの諸作品の研究も、進められてきてはいるが、それでも十分とは言えない。私は、微力ではあるが、多くの恩師・先学の御学恩に感謝しながら、さらに、研究を続けてゆくつもりである。         (ふかさわ あきお・1962年卒)
(深沢秋男氏は横山重・松本隆信両氏の『室町時代物語大成』の跡を継ぎ朝倉治彦氏と共に『仮名草子集成』(東京堂出版)を毎年刊行されている。本年3月その第19巻が出版された。編集者付記)
           (「日本文学誌要(法政大学)」、第56号、1997年7月)




15、 約束は雪の朝飯(あさめし)              深沢秋男


 石川丈山は、近世初期の儒者である。武士であったが、仕えを辞し、京都・賀茂山に隠棲して詩歌の道を楽しんでいた。
 ある時、この草庵を小栗某が訪れる。この小栗も、もとは武士の出であったが、へつらい事の多い俗世を捨てた身である。二人は生き方も共通していたので、親しい間柄であった。
 しばらく語り合った後、別れぎわに、小栗は、所用があって備前・岡山まで行くと言う。京へ帰るのはいつ頃か、と問うと霜月(十一月)の末と言う。その二十七日は法事なので、ぜひ食事を共にしよう、と約束して別れた。   
 月日は過ぎて、十一月二十六日の夜、京都は大雪が降った。丈山は、早朝から草庵の庭の雪かきをしていた。すると、そこへ、破紙子(やぶれかみこ)姿の小栗がひょっこり現れた。
 久し振りの二人は、互いの無事を語り合ったが、丈山が、この寒空に何の用事か、と尋ねると、霜月の二十七日に食事をしようと約束したのを、お前は忘れたのか、と言う。丈山も約束を思い出し、早速、飯を炊き、柚味噌を添えただけの膳を出すと、小栗はうまそうに食べ終え、その箸を下に置くか置かないうちに、また、備前へ旅立って行った。
これは、井原西鶴の『武家義理物語』の一篇であるが、この話に、作者は、

「さては、此人、日外(いつぞや)かりそめに申しかはせし、言葉をたがへず、今朝の一飯喰ふばかりに、はるばるの備前より、京までのぼられけるよ。むかしは武士の実(まこと)在る心底を感ぜられし。」

と批評している。     
丈山も小栗も、共に風雅を好む隠棲者、二人の一飯を共にするという約束の様を、西鶴は爽やかに、さらりと描いて見せている。短い一篇ではあるが、忘れられない話である。

 同じ約束を描いたものとして、上田秋成の『雨月物語』の中の「菊花の約(ちぎり)」が思い出される。
 播磨の国、加古の宿(兵庫県加古川市)に、丈部左門という学者が住んでいた。富や地位を求めず、学問一筋に打ち込む生活をしていたが、年老いた母は機織りをして、我が子の学問を助けていた。
 ある日、一人の武士が、旅の途中、この加古の宿で急性の伝染病にかかって倒れる。人々は病気のうつるのを恐れて、だれ一人近づこうとはしなかった。
 左門は、旅の空で一人苦しむ武士を憐れみ、枕元を離れず、親身になって看病する。その甲斐があって、病は徐々に回復してゆく。
 その武士は、赤穴宗右衛門といい、自国・出雲(島根県)へ帰る途中であるとのこと。心細い旅先で出会った、左門の親切に宗右衛門は心から感謝する。
 宗右衛門は左門より年長で、中国の孔子・老子・孟子・荘子などの教えにも詳しく、左門は尊敬の気持ちが強くなり、やがて二人は義兄弟の約を結ぶ。
 宗右衛門は、義兄弟になった以上、君の母は、私にとっても母であるから是非お会いしたい、と言う。左門は感激して、早速家に案内すると、母も大変喜んで、未熟な弟と思って導いて欲しいと頼む。
 二人は人間の生き方などについて語り合い、楽しい日々を過ごすが、しばらくして、宗右衛門は、一度郷里へ帰ってきたいと思う、その後で、これまでの御恩返しをしたい、と言う。
 左門が、お帰りは何時ごろか、と問うと、菊の節句(九月九日)に帰って来ることにしよう、と言い残して旅立つ。
 季節は移り、いつしか約束の九月九日となる。左門は早朝から掃除を済ませ、菊の花を活け、宗右衛門を迎える準備をした。その子を見た母は、出雲は百里も離れているというのだから、約束通り来るとは限らない。姿を見てから準備してはどうか、と言う。しかし、左門は、相手は信義を守る武士だから、約束を違えるとは思えない、姿を見てから準備したのでは、相手を疑ったことになり、それは恥ずかしい、と答えて、良い酒を買い、鮮な魚を料理して宗右衛門の来るのを待った。
 その日は天気も良く、前の街道を、多くの旅人が通って行く。しかし、武士はいっこうに姿を見せない。日も暮れ、あたりは暗くなる。今日はこれまてとして、また明日待ってみてはどうか、と言う母の言葉に、さすがの左門もあきらめて、戸を閉め家に入ろうとした。
 その時である。何か人の気配を感じて、暗闇の方にハッと目をこらすと、それが赤穴宗右門であった。左門は、躍り上がって喜ぶ。
しかし、宗右衛門の素振りはどこか異常である。語るところによると、自分はもうこの世の者では無い。実は、出雲に帰ったところ、富田城主・尼子経久(あまこつねひさ)のたくらみによって、城中にと閉じ込められてしまった。そこで、

「人一日に千里(ちさと)をゆくことあはず。魂(たま)よく千里をゆく。」

という、ことわざを思い出し、自ら命を絶ち、霊魂となって、今宵の菊の節句の約束を果たすことができたのだ、と言って、涙をハラハラとこぼした。
 そして、これが永遠の別れだが、どうか母上を大事にして欲しい、と言い残して姿を消してしまう。
左門は、慌てて、止めようとしたが、再び宗右衛門に会うことは出来なかった。

 近世の代表的な二人の作者が約束をテーマに書き留めている。いくら約束したからとは言え、たった一度の食事を共にするために、わざわざ岡山から京都まで帰って来なくともよいかも知れない。      
 旅先で病に倒れ、助けてくれた左門は、宗右衛門にとっては神様とも思えたに違いない。また、気脈相通じた二人の間で交わした約束ではあるが、自らの命を断ってまで守らなくともよいかも知れない。
しかし、西鶴も秋成もこのように描いている。そして、今もこの両作品は私達を感動させるものを持っている。一度読んだ者は、忘れることはないだろうし、約束についての考えは変わるだろう。それが文学である。
       (昭和女子大学『昭和学報』第373号、平成9年5月1日)




14、ロダンのバルザック像

                        深沢 秋男

 東明学林四日目はバス研修であった。宗我神社、小田原城址、伝肇寺、箱根旧街道、箱根の関所跡等を見学して、最後に彫刻の森美術館に着いた。
 ピカソ、ヘンリー・ムーア、エミリオ・グレコ、日本の代表的な作家の作品も多く、多感な学生たちは、様々な刺激を受けたことと思う。
 私は、何よりも、ロダンの バルザック像に出会えたことが、うれしい収穫であった。無知のゆえ、この名作には、パリのロダン美術館かモンパルナスの丘へ行かなければ、めぐり会えないと思っていたから、感動もひとしおであった。
 この、彫刻の森美術館のブロンズの像は、フランスのロダン美術館に保存されている、石膏の原型から、パリのジョルジョ・ルリエ鋳造所で十二体鋳造された内の十番目の作品である。ロダンの制作にまつわる苦心とこの作品が、モンパルナスに建てられるまでの運命を思うとジンとくるものがあった。
一八九一年、オーギュスト・ロダンは、フランス文芸家協会から、同協会の初代会長である、小説家、オノレ・ド・バルザックの記念像の制作を依頼された。七年後、ロダンは、ガウンをまとったバルザック像を完成させた。しかし、当時の文芸家協会は、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱するもの」として、作品の引き取りを拒否した。
 ロダンは、その石膏像を自宅に秘蔵し、終生、外に出さなかった。この作品がブロンズ像として、モンパルナスの美術の丘に立ったのは、それから四十年も後のことであった。
 このバルザック像の制作過程を伝えるものに、リルケの『ロダン』がある。
 ライナー・マリア・リルケは、一九〇一年、単身パリに移住し、彫刻家・ロダンに傾倒し、親しくその教えを受けた。このリルケの記録によれば、ロダンは、バルザック像の制作において、機械的な模写を考えず、また、あらかじめ自分の意図した変容をバルザックの実像に加えることはしなかった。
ロダンは、バルザックを知るために、彼の故郷、トゥレーヌ地方を訪ね、彼の手紙を読み、彼を描いた絵を研究し、彼の文学作品を精読した。

「彼はバルザックの作品の中を何度も何度もとおった。」(高安国世訳・岩波文庫)

 作品の中で、ロダンは、バルザックの創った人々と、いたる所で出会い、まるで自分自身がバルザックによって創られた人物であるかのような状態で数年間を過ごした。
 ロダンは、さらに、バルザックの金属板写真、画像、彫像、同時代の詩人・作家の手記などを研究し、全くバルザックの精神に充たされた中で、いよいよ、彫像の制作に取りかかった。 
ロダンは体かっこうが似た生きたモデルを使って、様々な姿勢の七つの原型を作った。しかし、それでも、究極のものが表現されていないことを感じた。そして、詩人・ラマルティーヌの次の言葉に出会う。

 「彼は元素(Element)の顔つきをそなえていた。」
「彼はその重いからだを無のようにかるがるとはこぶほど多くのたましいを 持っていた。」

 ロダンは、この言葉の中に自分の求めているバルザック像の大部分を発見し、イメージをふくらませていく。
 彼は、七つの裸体にバルザックが作品執筆の時によく着ていたような僧服を着せたり、僧侶の頭巾をかぶせてみたりして、様々な試みを重ねながら、次第に自分の目指すモノヘと近づいていった。
 このように、あらゆる手段を尽くして、バルザックの立像の完成に到達したのである。
リルケは、この像について、次のように記している。

「ついに彼はバルザックの姿を見た。堂々と、大股に闊歩する姿、ゆたかに垂れさがるマントのためにすべての重さを失った姿であった。頑丈なうなじに頭髪がしっかりと身をささえ、その髪の毛の中へもたれかかるようにして顔がある、観ている顔、観る酩酊陶酔の中にある顔、創造に泡立ちたぎっている顔。これこそ元素の持つ顔であった。これこそあふれるばかりの創造力の中のバルザックであった。世代の創造者、運命の浪費者バルザックであった。」

「ロダンはこの像に、おそらくこの文学者の実際の姿をしのぐ偉大さを与えた。彼はバルザックをその本質の根本から捉えたのだ。」

 ロダンは、このような長い苦闘の末、その全体を象徴的に表現した、バルザック像を完成することができたのである。  
しかし、この苦心の末の成果も、それが、実際のバルザックの姿に似ていないという理由のもとに、この作品は、注文者から受け取りを拒否され、長い間陽の目をみることができなかった。彼の芸術は、当時のフランスのサロンに理解されなかったのである。

 ロダンが制作過程で示したこの態度は、文学研究を志す私達に、一つの貴重なヒントを与えてくれている。
 ロダンは、バルザックの本質を究めようとした時、彼の写真や、画像や、彫像や、同時代の詩人・作家等の手記など、あらゆるものを丹念に調査している。さらに驚くべきことは、彼の文学作品を何度も何度も読み、作品の中に自分を置き、作中人物と言葉を交わし、まるで、自分自身がバルザックによって創られた人間であるかのような状態で長時間を過ごしていることである。このような鑑賞を通して、作品の底に流れる作者の本質を発見しようと努力している。
 ロダンは、作者の真実の姿を究める第一の資料は作品であることを身をもって示している。しかも、彼の目的が、作品研究ではなく、彫刻家であることを思うとき、この真剣で異常とも言うべき打ち込み方に、私達は大きな感動を覚えずにいられない。文学研究の第一資料が作品それ自体にあることを改めて教えてくれているからである。
  (昭和女子大学『昭和学報』第401号、平成11年12月1日発行)

付記 平成15年の夏、パリへ行き、余白の8時間に、ロダン美術館に行きたいと思ったのは、ロダンのバルザック像に対する、このような想いがあったからである。なお、この一文は、恩師、重友毅先生のお教えに拠るところがある。(平成26年6月29日)




13、国語国文学科の思い出  
                 元国語国文学科長 名誉教授  深沢秋男

 私が昭和女子大学に採用され、国文科に配属されたのは、昭和58年のことである。当時の学長、人見楠郎先生と、国文科の学科長、原田親貞先生は、東京大学で中国文学を専攻され、ともに長澤規矩也先生の教えを受けられた。私は、長澤先生が法政大学に移られた頃の教え子である。そのような関係もあって昭和女子大学に採用して頂いたのである。
 当時の学科長は原田親貞先生で、原田先生は中国文学が御専門だった。中古文学には、高橋良雄先生、甲斐知恵子先生、中世文学には、志村士郎先生、齋藤彰先生、近代文学には、大塚豊子先生、太田鈴子先生、国語学には、中山緑朗先生がおられた。私は、諸先生の御指導を頂きながら近世文学を担当したが、1年目は、1年生の必修国文法も担当した。
 当時の国文科は非常に活発で、大学生の数も多く、私も2年目からクラス主任を担当させて頂いた。多い年には、各学年4クラスから5クラスの時もあった。
 学生は、非常に優秀で、私が国文法の時間に、品詞を言い間違えると、すかさず訂正してくれたこともあった。また、芭蕉の俳諧論の時など、質問が多くて、たじたじだったこともある。当時、どこの大学でも、授業中の私語が問題になっていたが、私の授業中、私語で注意したのは、どの科目も、1年間に1回か2回くらいだったと思う。私は、自分の講義・講読・演習の全科目・全時間をテープに録音していたので、今でも、このことは思い出すことができる。
 国文科のカリキュラムで思うことは、短期大学でありながら、極めて専門性の高い内容だったということである。私の近世文学に関していうと、芭蕉、西鶴、近松、秋成、仮名草子、近世文学史、近世出版文化史などが組み込まれていた。また、私が発見した近世後期の女性の日記、『井関隆子日記』を講義・講読で採用したいと提案したところ、教務委員、学科長の先生は検討の結果許可して下さった。短期大学ではあるが、学部と同等のレベルのカリキュラムだったと言ってよいだろう。
 昭和祭は学生主体の学園祭で、長い伝統をもっていた。私も昭和祭の顧問を何回か担当したことがあるが、学生は実に積極的に取り組んでいた。昭和59年度のテーマは「桜と文学」であり、学生は、桜に関する文献をたくさん収集し、国会図書館所蔵の桜関係の和本を特別に借り出して展示した。また、この時、『桜に関する文献目録稿』を作成した。手書きの目録であるが、内容は充実したものであった。限定3部発行し、国文科図書室に1部保存し、昭和女子大学図書館と国会図書館にそれぞれ寄贈した。昭和女子大学図書館には、現在も所蔵されており、昭和女子大学短期大学部国文学科編として、「昭和59年度昭和祭・限定3部発行の内第弐号」と注記されている。この目録作成には、私も少しはアドバイスしたが、学生は、みごとな目録にまとめ上げた。楽しい思い出である。
 学科の名称も、国文科から国文学科へ、そして国語国文学科へと変更され、学科長は、原田親貞先生、保坂都先生、赤松大麓先生、大西芳郎先生が務められ、そのあと、平成8年から6年間、私が担当した。この頃から、少子化の影響で、入学志願者は短期大学よりも学部志向の者が多くなり、学部の日本文学科や日本文化史学科への編入者も多くなった。
 やがて、短期大学部は再編成を迫られることとなり、国語国文学科と英語英文学科が合併して、人間文化学科となった。後に、生活文化学科も合流して、文化創造学科となった。
 私は、人間文化学科の時に、定年退職した。22年間勤務し、国語国文学科で教えた学生の数はかなり多い。卒業生は、卒業後も、よく連絡をしてくれたり、同期の集まりの時など、招待してくれる。年賀状は、今もたくさんもらっている。大したことを教えてもいないのに、このように慕ってくれるのは、有り難いことと、心から感謝している。
『昭和女子大学短期大学部記念誌』(2014年3月、昭和女子大学短期大学部 発行)




12、「實事求是」

                   元教授 近世文学  深 沢 秋 男

 文学研究は対象が主として文学作品であるから、研究に関する要件も自然科学などの分野とはいささか異なる。文学の研究者には、鋭い感受性と緻密な思考力が求められるだろう。小説・詩歌・随筆・評論などに出会って、研究者自身が何を感受するかが大切であり、その感受したものを、客観的に文章化しようとした時、緻密な思考力が動員されることになるからである。
 私は、大学2年の時、仮名草子の『可笑記』を初めて読んで、このように批判精神に富み、しかも、ものごとの中枢を道破する見識を持った作者が、封建時代の近世初期にいたということに心を動かされた。それをきっかけに、この作品を卒論に選んだ。また、後年、幕末の名も無い女性の日記を読んだ時、その熟達した文章力に圧倒されて、この作品を紹介しようと決意した。それが『井関隆子日記』であり、この日記は、本学の大学院でも講義・講読・演習に採り上げた。
 数年前、『近世和歌研究書要集』の新刊紹介を『学苑』に書いたことがある。全8巻のうち、第5巻・第6巻の2巻は、『文学遺跡巡礼』に収録された26点と『学苑』の論文4点の、計30点の伝記研究を採録している。『文学遺跡巡礼』は、昭和13年(1938)から昭和18年にかけて、日本女子高等学院の光集会から刊行された。本学の創立者・人見圓吉先生が国文科の卒業生の研究成果を全4冊に編纂・刊行したものである。 
 人見先生は、国語国文学史上の先人の伝記研究を目指し、その基礎的資料の定着を計画して、国文科の学生を指導されたのである。この計画は、第二次世界大戦が勃発して、中断せざるを得なかったが、戦後、昭和31年(1956)に『近代文学研究叢書』として復活したのである。
 私は、『近世和歌研究書要集』の新刊紹介を執筆しながら、『文学遺跡巡礼』に収録されている、伝記研究の諸論文が、70年に及ぶ長い時間によく耐えて、この平成の現在によみがえった事に、大きな感動を覚えた。                       
 天理図書館の正面入口のところに「實事求是」の額がかけてある。学生時代からお世話になっている図書館であるから、これは気になっていた。出典は、『漢書』河間献王徳伝である。中国・清代の考証学派の研究目標であったという。事実に基づいて物事の真相・真理を求めたずねること。
 私は、はじめの頃は、評論的傾向の強い文章を書いていた。しかし、横山重先生に出会い、「深沢よ、美文は書くな、事実をツブツブと書け。」と注意されて、文体を一変した。天理大学の木村三四吾先生の研究に接し、古典資料の調査方法の真髄を学んだ思いがした。それからは、この「實事求是」を研究の基本に据えるように努力してきた。 
 思えば、これは、人見圓吉先生の研究姿勢と、相通じるものがあるだろう。私の願いは、この人見先生の学問的伝統が、今後の昭和女子大学の日本文学研究に継承されることであ
る。
『文学研究科35周年記念誌』(2009年3月31日、昭和女子大学大学院 文学研究科 発行)




11、 訪書百珍
     『筑波根集』を読んで
                            鹿島則幸

 文庫の便り六十八号の『筑波根集』拝見しました。鹿島の人が何人か出ておりますが皆鹿島神宮の神官だった人ばかりです。鹿島則文は私の祖父でして天狗党の件で八丈島に流され(当時の寺社奉行が土屋采女正寅直だったので特別死罪から流罪にかわづた由)新政府になってから赦免帰国後鹿島神宮宮司になり、後伊勢神宮大宮司になった人。筑波神社祠官も兼ねておったので題辞も書いた事と存じます。北條時隣は小山田与清の門下で鹿島志、相馬日記等の著があります。私も目下町史編さん委員の一人として旧神宮文書の解読に当っております。
  古文書の一字一字を若き等と
     読み解きてをり傘寿翁われは
                            (鹿島町宮中在住)

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

江戸土屋邸の化銀杏

「江戸期の世相に親しむため今度出た『藤岡屋日記』をはじめ各種の日記を読んでいますが、『井関隆子日記』に江戸土屋邸の化銀杏の記事が出ていました。コラムに丁度よいのではないかと思ってコピー同封しました。大きな木の下で思うことが出たあとですから。」

と鹿島則幸氏より頂いた『井関隆子日記』の天保十一年九月化銀杏の記を以下に転載しました。

「昔ちゝの木といへるを、今は世に銀杏となむいふとかや。小川町なる土屋ノ采女の正(かみ)★と聞ゆるは、よろしきほどの人也。其家にいと大なる銀杏有リ、世に化銀杏といへりとぞ。一とせ此木、火消の某がもとより空にはびこりおほひて、火の出これる時そなたの方見えず、公のさはりともなれゝば、伐らせ給へと沙汰ありしかば、木こりどもにきらせむとす。然るにいづくともなく使の男来りて、取次にいひけるは、「此家の銀杏こたびきり給はむこと然るべからず、此所にいと古くよりありわたれる木なり。ゆめきり給ふな。あるじに此事よくよく申給へ」といひければ、取次の者共つぎつぎにいひいれけるに、あるじ聞て「そは誰が方より来れる使ぞ」と問けるに、けいしども物に気どられたる様して、「何方よりともうけ給はらず。うべうべしき様したる使也」といひ居たるに、「いかにしつることぞ、はやよう問見よ」と言はれて、ふとおどろきたる気色して、急ぎゆき見るに使の男かいくれ見えず。門守どもに問聞くに、「さる者たえて出入せしことなし」と言ふに、皆人あきれてあるじにきこゆ。あるじもいぶかりて、「さるにては此銀杏、伐られむことをうれひて人となり、とゞめに来れるならむ。己が心よりき
らすにもあらず。いとあやしき事共也。此こと某へも聞え見む」とて、物がたりせられしに、「古木の霊あること、むかしより例あること共也。さらばまづとゞめ給へ。いたく繁らむ時は、枝など斗おろさせ給へ」と有ければ、伐事をやめけるとなん聞えし。いまも此木立さかえ、土屋の化銀杏と人いへりとぞ。」          

★土屋ノ采女ノ正―土屋寅直。嘉永元年一月奏者番より寺社奉行見習となり、同年十月寺社奉行、同三年九月大坂城代となる。嘉永二年の切絵図、表申楽丁(今の千代田区神田小川町三丁目辺)に「土屋采女正」と広い屋敷がある。

          『ふるさと文庫月報 文庫の便り 69』
               昭和63年3月10日、ふるさと文庫編集室発行





10、横山重先生の思い出

                     深沢 秋男

 1、横山重先生との出会い

 横山重先生との出会いは、『可笑記』の諸本調査から始まった。私は、昭和37年に法政大学を卒業して、北海道の函館の高校へ就職する予定であった。しかし、卒論の面接諮問で、指導教授の重友毅先生に大学院への進学を勧められ、針路変更をした。卒論は仮名草子の『可笑記』であったが、学生の頃から諸本調査をしていて、公共図書館・大学図書館の調査を優先していた。これらが、ほぼ済んだので、特殊文庫・個人所蔵本の調査に入った。

●昭和42年7月

 犬山在住の、横山重先生に初めてお手紙を差し上げたのは、昭和42年7月21日である。その頃、法政大学の島本昌一先生のゼミを聴講して、『貞門俳諧自註百韻』の注釈を進めていた。その関係で、前田金五郎先生を介して、横山先生御所蔵の『貞門俳諧自註百韻』の書写本を拝借し、研究する機会を頂いた。調査の結果、この写本の書写者は、自註の部分をかなり省略していたので、俳諧の素養のある人物ではないか、という私見を横山先生に報告した。
 その報告と同時に、横山先生御所蔵の、
@可笑記 寛永十九年版十一行本
A可笑記 万治二年版 絵入本
B可笑記評判 万治三年版
の3点の閲覧願も同封した。その時点での、調査済み諸本の一覧表と、諸本の状況も報告した。24日、折り返し御返事を頂き、閲覧を許可して下さった。原物は、前田金五郎先生宅にあったので、8月1日に、
@可笑記 寛永十九年版十一行本、五冊
A可笑記評判 万治三年版、十冊
の2点を拝借して、調査し、8月6日に御返却申し上げた。万治二年の絵入本に関しては、そのうち、蔵書の中から探し出して下さることになる。

●昭和42年9月

昭和42年9月4日、横山先生御所蔵の、
@可笑記 寛永十九年版十一行本
B  可笑記評判 万治三年版
の調査結果の書誌的概略を、横山先生に報告した。先生からは、折り返し御返事を頂き、絵入本は、出てきたら、すぐ閲覧させて下さることになった。

●昭和43年5月

昭和43年4月、重友先生から、6月開催の日本近世文学会春季大会で、『可笑記』の諸本について発表するようにと指示された。大部分の本は閲覧・調査させて頂いていたが、未見のものもあり、極力未調査本を少なくするように努力した。近世文学会で発表する前に、横山先生に是非お会いしたいと思い、この旨、先生にお願い申し上げた。
 昭和43年5月12日、犬山の横山先生の御自宅へお伺いし、初めて、先生と奥様にお会いした。和本の入った茶箱の山の中で、先生も奥様も和服姿であった。先生は温かく迎えて下さり、様々な貴重な御指導を賜った。主なものを整理してみると、次の如くである。

◎『可笑記』寛永十九年版、十一行本と十二本の行間の件は、君の意見でよいと思う(切り張りしたのかな?)。この2本については、十一行本が原本で十二行本はかぶせ彫りと思われる。また、現在の我々が思うほど、書くという事が難事ではなかったので、原本を敷写しして、それを版下にしたと考えられなくもない。
◎『可笑記』無刊記本・絵入本・『可笑記評判』の関係については、君の考えが妥当と思う。これまで多くの本を見てきたが、それらの例からみて、再版、三版する場合、必ずと言ってよい程、直前の版の本を原本にしている。その意味で、無刊記本は寛永十九年のものを使い、絵入本・評判は無刊記本を使ったと考える推測は妥当性がある。『住吉物語』でもそうだった。
◎絵入本に関して、水谷不倒氏の「此絵入本に、中本にて大小の二種あり。」(『仮名草子』)という説に関して質問したところ、水谷氏の長所は、多くの本を見ている事である。短所は、正確でない点であろう。その点で、絵入本については記憶ちがいかも知れない。水谷氏の浄瑠璃史は、ある一本に収録された目録に拠って書かれ部分があり、実物を見て書いたのではない点もある。その点は注意すべきであろう。
◎私の所蔵本の絵入本は良本で、今すぐ取り出せないが、近世文学会の発表のリストに加えて差支えはない。見付かり次第送って下さる、と申された。
◎岩波の『国書総目録』は、戦前解題書として出発した。他の執筆者は、その書物の内容を書いた。それに対して外部条件を書いたのが私であった。当時、梅君(有名な法学者、法政大学創立者・梅謙次郎の子息)が中心的な担当者で、外部条件を中心にすることに決まり、執筆者は次々に担当を断った。原稿料よりも調査費がかかったからである。私は教員を辞めて、アイウエオを引き受けた。それが、書名と所在のみを記した、今の『国書総目録』の前身である。
◎法政は、安藤、島本、それに君など、しっかりした人がいるが、どういう事か、実に頼もしいと思う、と申された。これは、もちろん、お世辞であることは分かっていたが、それでも、大変嬉しく、内心では、横山先生を見習って努力し、少しでも先生に近付きたいと願った。

 赤木文庫のコウモリガサ

 午後早々に伺い、辞去したのは夕方であったから、4時間か5時間、貴重な御指導を賜ったことになる。外に出ると雨が降っていた。先生は、これを使いなさい、とコウモリを貸して下さった。その夜は、名鉄グランドホテルに宿泊して、次の日、京都大学の佐竹昭広先生の研究室で、京大本の調査をさせて頂いた。
 帰宅して、拝借したコウモリガサを見たら、黒の柄に「赤木文庫」と、千枚通しか何かで彫ってある。本来なら、御返却すべきであるが、横山先生に初めてお会いした記念に頂きたい、そう手紙でお願いしたところ、折り返し御返事を下さった。

 「可笑記をたくさん ごらんになられたこと、前田君からも、敬
 服と云って来ました。一つの本を徹底的に調べるやうな事は、従
 来ない事でした。山田忠雄氏の「下学集」に次いで貴兄の可笑記か。
 可笑記そのものも、人を得て大慶に思ひます。前田君、近く「竹
 齋集」を出すよし。だん??仮名草子も、よき人によって 発表
 されるやうになり欣快の至りです。……
 私の洋傘 御所望との御事。よろこんで さし上げます。代品の
 事など 御考へ下さるに及びません。……私は、傘を失ふこと、
 頻々たり。で、それをも考へて「赤木文庫」と入れた。赤木文庫と
 は、松本の南二里にある小山(百メートル)です。その北につづ
 く地籍を「横山」といひ、古いトリデがあった。出自はそこです。
 私の本を信大の図書館落成の時に展観する時、咄嗟に「赤木文庫」
 として出した。私の恩師に島木赤彦あり。その中の二字にも当る
 として、それを常用してゐるのです。……
      五月廿二日          横山 重」

それから43年間、今も、私の原稿執筆デスクの左側に「赤木文庫」のコウモリガサは、かかっていて、私の研究振りを見守っていて下さる。
  【写真 @横山先生御夫妻、A横山先生の手紙、B「赤木
   文庫」と彫られたコウモリガサ】

●昭和43年11月

 昭和43年11月6日、横山先生から、可笑記 万治二年版 絵入本を速達にて拝受。7日、拝受のお礼の手紙を投函。
 11月20日発行の『文学研究』第28号に「『可笑記』の諸本について」を発表し、抜刷を横山先生にお送り申し上げた。すぐ、御返事を下された。

 「只今、お手紙と、文学研究二十八号の抜刷りを拝見しました。パ
 ラ??と一見したのみですが、よく 御調べになりました。一本
 についての調査としては前代未聞と思ひます。かういふ調査をし
 た人があるといふ事その事だけで、後人を益するところ多し。大
 兄としても、かういふやり方をやったその事だけで、むろんプラ
 スでせうが、かういふ態度そのものが、今後 貴兄に必ずプラス
 しませう。よくやりとげました。
       十一月廿三日   484 横山 重」

 勿論、過分なお言葉ではあるが、私の方法を、横山先生が認めて下さった事に対して、心から感謝した。

 12月15日、横山重氏・赤木文庫蔵、万治二年版、絵入可笑記、調査。結果は横山先生に報告した後、『文学研究』第30号(昭和44年12月発行)に発表した。

●昭和44年1月

 昭和44年1月、横山先生宛に、『可笑記』の調査結果と関連写真をお送りしたところ、1月14日付で御返事を頂いた。

 「御手紙と 可笑記の写真、昨十三日夕方、つきました。御親切 あ
 りがたう存じます。写真は、本に添へて、御厚意を 後年まで残
 したく存じます。
 可笑記を御やりになるに、もし、私の本を 御手許におく方よけ
 れば、前田さんにたのんで、御手許へお持ち下さい。前田さんへ
 御願ひして下さい。
 今や 新規な仕事はない。誰が誠実な仕事をしたかといふ事だけ
 が、眼目になってゐるでせう。
 これが、最初で、これが終局と思ふ。貴兄の 第一歩を期待しま
 す。
        一月十四日        横山 重」

 横山先生は、研究の根本に、〔誠実・真実性〕を置いておられる。「真理を求むる意志、自他を欺かざる心根。対人関係にありては言行態度と意志との一致せること」 私は、以後、この横山先生のお言葉を常に行動の根底に置いて研究を続けてきた。

  2、絵入本『可笑記』の頃

●昭和45年7月

 昭和45年1月、『近世初期文芸』第1号、『文学研究』第30号に対して、「大そう詳しい御調査の発表とて、敬意を表します。可笑記の順位は貴兄が決定したと思ひます。なほ本文掲出のことを 御すゝめ下さい。一月五日 横山 重」 というお言葉を賜る。

 4月8日、田中伸先生から御連絡を頂き、『可笑記』の複製・校異・研究についての共同研究を打診された。重友先生の御了解のもとに、参加させて頂くことになる。校異の底本として、絵入本は横山重先生所蔵本、無刊記本は長澤規矩也先生所蔵本を使用させて頂くことにした。早速、横山先生に、お願いの手紙を差し上げた。先生からは、折り返し、次の如く御返事を頂いた。

 「御手紙拝謝。可笑記を本格的にお出しになられるとの御報、大慶
 に存じます。絵入本も御出しと。私の本は、この一週間の間に小
 包郵便にして送ります。いつまでも御留めおき下さってよいので
 す。御光来には及びません。
      七月十六日          横山 重」
 
 7月17日、横山先生御所蔵の絵入本拝受。早速、御礼のお手紙を差し上げた。先生から御返事。

 「可笑記の万治絵入本、御落手の御事、御手紙拝見いたしました。
 対校後、返すとありますが、本は最後まで、必要とするものです。
 いつまでも、お留めおかれてよろしく、貴下の本ができた後に、
 御返送ください。
      七月廿四日          横山 重」

 7月26日、犬山の横山先生宅を訪問。詳細を御報告し、種々の御指導を賜る。

●昭和45年12月

 横山重先生から、昭和45年12月23日付のおはがきを頂く。

 「この葉書、御手許へ届いた日から、万治刊の「可笑記」は、貴兄の
 所有にして下さい。贈呈します。
 私は この二三年、数氏の方々に、私の本を贈呈してゐます。昨
 二十二日、古典文庫の吉田幸一氏来訪。その時、宛名だけ書いた
 この葉書を吉田氏に示し、可笑記貴君に贈呈の事を吉田さんへ話
 した。で、その日に決定。
 御本できた時に、二、三部、私へ下さい。それで十分です。
      四十五年十二月廿三日   横山 重」

  【写真 CD横山先生の葉書、表・裏 EF絵入本『可笑
      記』】

 私は、即座に、横山先生宛に電報を打った。
 「ゴ ホウシヨハイジ ユイタシマシタ。ヨコヤマセンセイノゴ
 オンジ ヨウニフカクカンシヤモウシアゲ マス。フカサワアキ
 オ。」
 世の中には、このような事があるのだろうか。
 実は、昭和40年9月12日、桜山文庫の所蔵者、鹿島則幸氏から、寛永十九年版十一行本を御恵与賜った。さらに、昭和45年4月29日、長澤規矩也先生から無刊記本を賜った。これは、結婚祝だと言われた。お金の無い私が、一所懸命『可笑記』の研究をしているので、三人の大先達が、御褒美に下さったのだと思う。御恩返しは、この作品と作者の研究を仕上げることであろう。そう自覚している。
 平成17年、私は昭和女子大学を定年退職した。その折、2月16日の昭和女子大学・日本文学研究会で「仮名草子研究の思い出」と題して、最終講義をさせて頂いた。国文学科・日本文学科・図書館等の皆様、大学院生など30名ほどの方々が出席して下さった。私は、その場で、鹿島則幸、長澤規矩也、横山重の三先生から御恵与賜った『可笑記』3点は、私の研究がまとまった時、昭和女子大学図書館へ寄贈する旨を申し上げた。恐らく、この3本は、今後古書店に出ることは無いと思う。
 横山先生御所蔵の絵入本には、先生の、次の識語が貼付されている。

 「自分は此本を三つ買った。一つは村口。これは刊記のある巻末一
 丁缺。八十円。又、一誠本も買った。八十円。これは完全本であ
 ったが、虫入りが多かった。総じて、此本の紙、虫好むか。虫入
 り本を見し事あり。然るに、昭和十九年、本書を得たり。極上本
 なり。あだ物語 村口 千二百、不易物語弘文 千円といふに比
 すれば、むしろ安しとすべし。500 昭和四年 杉本目 「絵
 入風俗 可笑記 如儡子 帙入万治二年刊 チャンバーレン旧蔵
 半五 百五拾円」

 私は、この年の12月25日に、浅井了意の『可笑記評判』をタイプ印刷で自費出版で出したが、これに対しても、横山先生は温かい御返事を下さった。第二次世界大戦のさなか、先生は中世物語の本文を、コツコツと定着出版されていた。戦争が終って、若い研究者が帰って来た時、研究できるように、という思いだった、といつか話して下さった。百目鬼恭三氏が、古典作品のテキストを彫刻する学者、と朝日新聞で、横山先生の事を記していたのを思い出す。(昭和57年2月22日、山藤章二氏の似顔絵)

  3、「近世文学資料類従」の頃

●昭和46年11月

 昭和46年11月9日、前田金五郎先生より御連絡を頂き、碑文谷のお宅へお伺いした。今度、近世初期の俳諧・仮名草子などの影印本を勉誠社から出す事になった。その書誌解題を私にも担当させて下さるとのことである。前田先生は、収録作品のリストを示され、担当を希望する作品を選ぶように申された。『可笑記』は、田中伸先生と笠間書院から複製を出す予定であるゆえ、『可笑記評判』と『浮世物語』を担当させて下さるよう、お願い申し上げた。先生は、『堪忍記』も担当するようにと申されたが、この作品は、田中伸先生が適任ではないかと、御遠慮申し上げた。前田先生と打合せて、その日の夜、田中伸先生のお宅へ廻り、この件をお伝えした。このシリーズは、「近世文学資料類従」といい、横山先生と前田先生の企画であると、この時に知らされた。横山先生御所蔵の赤木文庫の原本を中心にして、最良の底本を使用する由。前田・横山両先生の御高配に感謝して、早速、横山先生に御報告を申し上げようとしたところ、先生から先にお便りを頂いてしまった。

 「堪忍記と、江戸板「浮世はなし」と、貴兄に配当と、前田君の手紙。
 貴兄やりますか。いそがしいが、一つのチャンスだから、おやり
 なさい。安藤君、徳元を貰ひしとて、欣喜雀躍してゐる。笹野堅
 のものより数段よくなるでせう。貴兄もフンパツして下さい。…
 …今日(十一月十四日)東京古典会で、私は「いな物」に二十三
 万円の札を入れる筈。及落は不明。遠近道印の貞享元年の江戸図
 は八十五万まで入れた。これは取れるでせう。
    十一月十四日       犬山  横山 重」

 横山先生、前田先生の、この御配慮で、私の仮名草子研究の方向は大きく転換した。これは、研究生活生涯を通じての軌道修正であり、両先生に対して、心から感謝している。

●昭和46年12月

 昭和46年12月3日、前田金五郎先生宅へ伺い、横山先生御所蔵の、次の2点を拝借した。
 ◎浮世はなし 江戸版 五巻五冊
 ◎浮世物語 京都 風月堂版 五巻五冊
以後、横山先生と連絡を取りながら、諸本調査を開始した。

●昭和47年3月

 昭和47年3月18日、横山先生宅を訪問。今回も長時間に亙って、貴重な御指導を賜った。その折、先生の新しい御論文「遠近道印について」(『日本天文研究会報文』第5巻第1号、神田茂喜寿記念論集、1971)を頂いた。25頁の力作である。帰宅後、ゆっくり拝読したが、〔遠近道印〕という存在に対する、横山先生の尽きることの無い追尋の姿勢に圧倒された。
 また、この時、先生は、深沢よ、美文を書く必要は無い。事実をツブツブと書きなさい。事実を正確に書き残せば、それは役立つものとなる。とお教え下さった。私は、学生以来、いずれかと言うならば、評論風を好んだ。しかし、この時以来、文章を一変した。
 この日の昼食には、特製の鰻重を御馳走になった。鰻が二段になって入っていた。同行した妻も私も、生まれて初めての豪華な鰻重であった。長時間に亙って、御指導を賜る私の姿を、同席していた、先生の奥様も、私の妻も、一部始終を見ていたことになる。妻は、帰りのタクシーの中で、横山先生の奥様は美人ですね。先生は、学問に対して厳しいけれど、本当に純粋で、お優しい方ですね、と私に語った。私は、妻に横山先生を理解してもらえて、内心、幸せに思った。
 昭和47年3月28日、横山先生から封書のお便りを頂いた。東京美術発行の、伊波普猷・東恩納寛惇・横山重編纂『琉球史料叢書』全5巻の内容見本が同封されていた。

 「私は当地へ来て満十一年。当地へ来てから、四月になると、再
 刊二十一、新刊九です。全部で三十冊。そして、印税もらへるの
 は今度の琉球(五百部、一割)一冊だけです。新刊九の中で、七
 冊は文部省助成出版です。無職三十一年で、全部「竹の子」で来た。
       三月廿八日         横山 重」

 頭の下がる、先生の生き方である。

   【写真 GH『琉球史料叢書』の内容見本】

●昭和47年5月

 昭和47年5月15日、『浮世はなし』『浮世物語』『明心宝鑑』の解題原稿を前田先生にお届けする。

 「浮世物語―浮世はなし の御原稿を前田君にお届け下さったよし。
 大慶の至りです。又、その系統についての表記を私に御示し下さ
 いまして、ありがたう存じます。よくやりましたね。
        五月十八日夕  犬山  横山 重」

 昭和47年8月20日、「近世文学資料類従 仮名草子編 12」『浮世ばなし 付 明心宝鑑』発行。

 「昨日、勉誠社の池嶋さん、おいででした。で、天理の木村君が、
 画面の大きさ、用紙の厚みなど羨ましいと書いて来た手紙を見せ
 た。製版も見事なり。これからは売行を伸ばすこと大切と、当然
 の事を申述べました。私は五部づゝ貰ふが……とにかく勉誠を盛
 大にしたい。

 御手紙で、浮世ばなし の解説の再校が出ましたよし。進行が早
 いので、およろこび申上げます。校正を勉誠社に任せないで、最
 後まで御自身でごらん下さい。森川さんの解題も上出来でした。
 過不足なしの名解説でした。貴兄の博捜ぶりはすでに拝見したの
 で、これ又、上出来と安心してゐます。
     七月十二日夕方     犬山  横山 重」

   【写真 I『浮世はなし』はし書】

 ●昭和47年12月

 「可笑記校異の原稿 一一五二枚を田中さんに差し出したと承りま
 した。パスすると見て、笠間に早く着手するやう熱心に頼んで貰
 ふこと。でないと、短い月日では本にならぬ。スタートを早くと
 たのむ事。この事大切です。……即時スタートを田中さんから笠
 間に申出て貰ひなさい。
       十二月十四日   犬山   横山 重」

●昭和48年7月

 「近世文学資料類従 西鶴編」では『新可笑記』を、仮名草子編第二期では『可笑記評判』を担当させて頂くことになった。

 「近世文学資料類従で、可笑記評判と、新可笑記御担当と。御願ひ
 致します。天理へおいでの次手に御来訪と。暑中で御疲れの御事
 と思ひ、私宅へ御いでは省略して下さってよろしいと存じます。
 勤労と、御勉強はよけれど、むりせぬ方よろしく、御家庭を大
 切にして下さい。
   七月十二日夕  犬山市大本町六五  横山 重」

 7月20日、天理図書館の 新可笑記 2点 閲覧。金子和正先生、木村三四吾先生の御指導を賜る。21日には、大阪府立中之島図書館の新可笑記を閲覧させて頂き、犬山の横山先生宅へお伺いし、『新可笑記』の諸本に関する中間報告を申し上げ、御指導を賜った。

●昭和48年11月

 昭和48年11月28日、「近世文学資料類従 西鶴編 11」『新可笑記』の発行は、昭和49年10月25日であるが、48年11月28日に、解題原稿を見て頂き、次のような御返事を頂いた。

 「新可笑記拝見。よくやってあります。敬服します。挿絵を注
 視して下さったこともありがたい。吉田さん、御本を出して
 下さったこと、感謝。御自身の方で、本 出してゐる御方ゆ
 ゑ、殊にありがたい。この事 銘記すべし。
          十一月廿八日夕    横山 重」

 実は『新可笑記』の諸本調査を進めていて、公共図書館所蔵本の調査が済み、最後に、吉田幸一先生の御所蔵本を閲覧させて頂いた。昭和48年9月1日だった。ところが、吉田先生所蔵本が、最も良い本であることが判明した。私は、横山先生に御連絡して、この解題担当は、吉田先生にお願いしたい、と担当を辞退した。この旨を横山先生が吉田先生に打診して下さった結果、予定通り、私に担当するように、御指示があった。そのような経緯があって、「この事 銘記すべし。」という、お便りを頂いたのである。この閲覧・調査の折に、吉田先生から、長時間に亙って様々な御指導を賜り、以後も大変な御高配を賜った。

 4、『江戸雀』の頃

●昭和48年9月

 「近世文学資料類従 古板地誌編」は、横山重監修である。私は、昭和48年9月11日、横山先生から封書を頂いた。古板地誌、28点のリストと、お手紙が入っていた。

 「勉誠社で古板地誌の複製をやると。古板地誌は私に上本あり。九
 分通り私の本でやれる。その解説者に、○○、○○、○○、○○、
 貴兄を想定してゐる。貴兄は何と何を希望するか。順をつけて、
 三、四点を挙げて下さい。……
      九月十一日          横山 重」

 昭和48年9月20日、葉書拝受。

  「只今、速達の御手紙拝見しました。今日は○○君も来訪と。そ
 こで、皆さんの希望のもの出揃ひますから、なるべく、そのやうに
 考へながら、調節して申上げます。
 尚、勉誠社が何と何をやるか、未決定です。原案を私が作って、
 前田君の意見を加へて、勉誠社に話します。実現は少しおくれる
 でせう。
      九月二十日          横山 重」

 御検討の結果、私は『江戸雀』の担当を指示された。
 昭和48年10月22日、小川武彦氏が、横山先生の御所蔵本、『江戸雀』12巻、後印本を持参して下さった。

 ●昭和49年4月 横山先生伊豆へ御転居

   「移転お知らせ
 私は今回、勉誠社々長池嶋氏の厚意により、同氏の伊豆伊東の別
 荘に移転いたしました。同氏別邸は、太平洋に面する国立公園の
 中の自然公園の一隅、私の住宅とするには、もったいない程の立
 派な別荘であります。周囲に樹木多く、しかも日本的の花木が多
 い。ありがたい。私の終焉の地といたします。
  伊豆伊東市赤沢うきやま浮山町一六八ノ三四 
     伊豆自然公園内  殖産○○号  横山 重
         TEL 一五五七―五三―〇〇〇〇」
 余白に、「江戸雀の全題簽 私の許に写真あり。さがして送ります。原本は藤園にある。必要ならば借り出してやる。」と書き込みあり。

 昭和49年4月25日、横山先生より葉書を頂く。

 「江戸雀の初印本と再印本の差を見て貰ひたい。私から藤園さんに
 頼んで、本を池嶋宅まで送ってくれと云って見る。それ不可なら、
 貴兄が藤園堂を訪問せねばならぬ。
藤園本の題簽と奥の写真は勉誠へ送りました。――江戸雀は
文字が小さいから、本文を大きく出す工夫をしたい。――本文
の中で、両者の差のある所は、再印本のその部分の写真も出し
て、解説の中で示す方よし。
     四月廿四日          横山 重」

 昭和49年5月26日、速達葉書を頂く。

 「藤園堂さんから電話あり。六月はじめに、人をよこして、本を私
 宅へ届けると。(郵送をきらふ由)本が来たら即時、貴兄か、親
 しい人で、信頼できる人を私方へよこして下さい。本を渡します。
 (本を人に渡すこと、目下、極秘)このほんを自宅で丁寧に見れ
 ば、他の本は一見するのみでよろしいと思ふ。有峰書店(中央区
 銀座五ノ十ノ十三)で、江戸地誌叢書十巻を出すと。内容見本を
 見た。第一巻に「雀」を入れて、師宣撰画とあり。やはり後印本也。
 しかし、雀は可なり後らし。
       六月廿一日夕        横山 重」

  【写真 有峰書店『江戸地誌叢書』の内容見本 〔11〕〔12〕】


 ■昭和49年6月7日、横山先生宅訪問。次の5点を拝借した。
1、江戸雀 初印本 十二巻十二冊 
 武州江戸之住 近行遠通撰之/同絵師 菱川吉兵衛/延宝五年丁
 巳仲春日 江戸大伝馬三丁目 鶴屋喜右衛門板
2、江戸雀 後印本 十二巻十二冊
 武州江戸之住 絵師 菱川吉兵衛/延宝五年丁巳仲 日江戸大伝
 馬三丁目 鶴屋喜右衛門板
3、新板 江戸大絵図 本 寛文十庚戌年 十二月吉日/
 遠近道印(花押)/日本橋南二町目 経師屋加兵衛(印)
4、東海道分間絵図 元禄参歳庚午孟春吉旦/作者 遠近道印(花押)/絵師 菱河吉兵衛/大門通新大坂町 板木屋七郎
 兵衛板
5、改撰 江戸大絵図 一分十間積/遠近道印作 元禄九年正月吉日 遠近道印作(花押)/大門通田所町 板屋弥兵衛板
 借用書は必要ないと申され、自分の手帳にメモしたのみであった。横山先生は「それだけあれば、家が一軒建つからね。決して電車の中ではひろげるナ、家に帰ってゆっくり見なさい。」と申された。
 千葉の家に帰って、早速、初印本をゆっくり閲覧した。これが師宣か! と浮世絵の祖・モロノブの本物に出会って、目が開かれた思いがした。『可笑記』絵入本の調査以来、師宣風には悩まされていた。吉田●二氏の「浮世絵研究会」へも入って、指導してもらったが、判然としなかった。この初印本『江戸雀』に出会った時の感動を基として、学生に師宣の浮世絵を説明する時には、この瞬間の印象を念頭において述べてきた。犬小屋入りの江戸大絵図を八畳間一杯にひろげて調査出来た事にも感謝した。学生時代、日本美術史の授業で見せて頂いた『東海道分間絵図』に、再度廻り合えたのにも感激した。拝借した原本は、入念に調査させて頂き、12月21日に御返却申し上げた。

 【写真  1、江戸雀、初印・後印各2、計4 LMNO。
  2、新板江戸大絵図 P、3、東海道分間絵図 QR、4、
  改撰江戸大絵図 S】

 昭和49年6月21日、葉書を頂く。

  「江戸雀の御調査 感謝。貴説、近行遠通が初印本に手を入れし
 かといふ事、私、賛成。近行遠通の名を削りしも、彼の発意か。延
 宝八年の「江戸方角安見図」にも、作者の名を出さず。当局の意向
 をソンタクして、表へ顔を出さぬのかも知れぬ。尚、御調査願ふ。
 ――内容見本には、 ―最―上―本を出す位でよいか。
      六月廿一日夕         横山 重」

 昭和49年8月2日、葉書を頂く。

 「江戸雀、初印本と再印本の大差のあるところ、再印本の方から、
 三、四枚の写真を、解説のところで出して、初印本の頁を記して、
 対照できるやうに、御配慮ありたし。○再印本も近行遠通の手を
 経てゐるとの御説は、傾聴に値ひす。彼は、延宝八年、江戸方角
 安見図では作者名を出してゐません。風向きの悪いのに気づいた
 か。○しかし、私案に拘らず、貴説を通して下さい。
      八月一日           横山 重」

 昭和四十九年八月十七日、『江戸雀』初印本と再印本の異同関係、その他、解説の内容に関連して、詳細な報告を横山先生に申し上げた。

 昭和49年8月20日、葉書の返事を頂く。

 「御手紙ありがたう。方針はすべて貴案のやうでよろしく。削除の
 ところは、撰者近行遠通の意志によるものらしとの貴説よろしき
 か。江戸雀、はじめて真相を得るらし。その旨は、池嶋氏にも云
 って、頁数の多くなるのを恐れるなと云って下さい。或いは二冊
 にする方よきか。原本を私に返すのを急がずともよい。今はただ、
 正確で行き亘る事のみを望む。健康が大切。あまり根をつめる事
 勿れ。
     八月廿日            横山 重」

 ●昭和50年2月6日 葉書を頂く。

 「勉誠の「定本地誌」に「江戸雀」の解説を渡しませんか。……○その
 場合、原本を出すべきか。(目下、私方にあり)……○年度末で
 御多忙でせう。ハガキでよく、簡単な手紙ください。御用は私に
 云って下さい。御指定のやうに致します。……
        二月六日         横山 重」

 昭和50年2月17日、返事の葉書を頂く。

 「御手紙拝見しました。御勤務の方、大そう厳しいらし。御所労察
 し入ります。――江戸雀は御予定のやうにてよろしく。原本。御
 入用の場合は、ハガキ下さい。……
      二月十五日          横山 重」

 昭和50年8月13日、『江戸雀』解題原稿脱稿、66枚、勉誠社編集部へ渡し、横山先生に御報告。9月22日、初校出校、横山先生にコピーを送る。

 昭和50年9月24日、横山先生より返信。

 「江戸雀の解説の校正コッピー拝受。返送せずともよしとあり、私
 許に止めておきます。
 大兄の記述、すべてよく、過、不足もなく、公正と思ひました。
 遠近道印作の地図は、私の書いた後に、改撰 江戸大絵図 元禄
 二年二月 松屋板といふものを得ました。これは、延宝四年板と
 同じく、一分十間ツモ積りの地図を、その後の変化を入れて、改撰
 したものです。私は四十年かゝって、これだけを得たのです。
      九月廿四日          横山 重」

 ●昭和50年12月13日 『江戸雀』発行。

 昭和50年12月13日、近世文学資料類従・古板地誌編・9巻・江戸雀 発行。本の奥付は、昭和50年11月23日発行、となっているが、実際は12月13日に、編集の中村氏が、今、出来ました、と4冊届けてくれた。1ヶ月ずれたのかも知れない。
 私は、その日に、長澤規矩也先生にお届けして、これまでの経緯を御説明申し上げ、失礼を謝罪した。
 実は、長澤先生は、前年の5月に、有峰書店から「江戸地誌叢書・十巻」を企画し、その中に『江戸雀』を影印と活字翻刻で収録すると公表されていた。これを知った横山先生は、有峰書店のものは、やはり後印本のようである。しかし、それよりも、こちらは先に出すように、と解説原稿の脱稿を急ぐようにと指示された。私は、横山先生と長澤先生の板挟みの状態になってしまった。いずれも尊敬している大切な先生であった。私は、この間、長澤先生には一切お会いしないようにして、解説原稿を書き上げた。万一、お会いしたら、横山先生の、近世文学資料類従・古板地誌編の事をお話する可能性もある。それでは、横山先生に対して申し訳ない。私にとって、この1年間は厳しい日々の連続であった。
 そんな経緯があって、今日になったのである。私は、事実を説明して、お詫び申し上げた。長澤先生は、勉誠社版『江戸雀』を広げて、御覧になり、「良い本だ。良くやった。こちらはもう出さなくていいね。」と申され、この間の私の失礼をお許し下さり、本の内容と出来映えを褒めて下さった。
 長澤規矩也先生責任編集の有峰書店「江戸地誌叢書」は、第1期全10巻別巻2冊の予定でスタートしたが、平成23年現在、次の3冊が発行されている。
 巻4(1976年)、巻5(1974年)、巻7(1974年)。

 次の日、伊東の横山先生のお宅へ伺い、勉誠社から預かった本をお届けした。先生は、「良くやった。」と労いのお言葉をかけて下さり、大変喜ばれた。
 この『江戸雀』は、1冊の複製本ではあるが、内容的には初印本を底本に使用して、本当の著者を解明した画期的な本である。私の解題は、これまで述べたところからも明らかな如く、初印・再印の関係を解明する過程で、常に、横山先生の御判断を頂いて進めたものであり、言ってみれば、先生と私の合作解題でもある。その意味でも、この貴重な資料の担当者に選ばれた私は幸せであった。
 ただ、私としては、『井関隆子日記』や『可笑記大成』や『新可笑記』などの調査・研究と平行する仕事であり、しかも、尊敬する、お2人の先生の御意向の板挟みの中で進めた、調査研究であり、忘れることの出来ない1冊である。

 【写真 〔21〕 古板地誌編9『江戸雀』の扉】

 ●昭和50年大晦日 永年の願ひ

 「御手紙ありがたう。永年の願ひ(昭和九年からの)、遠近道印―
 近行遠通説、大兄によって、かなり明白にして下さった。やがて、
 通説となりませう。今まで、幸田成友先生、木村捨三先生に説明
 して来たが、ついに御賛成なかりし。
 昭和九年に、果園文庫本の江戸雀を見て、思ひついた。私は十五
 年に笹川旧蔵本を得て、愈々その感を深くした。神道集と曽我(共
 に真名本)の文章の一致をたしかめたのもその頃です。両本をう
 つしたからです。その頃、一ばん窮迫してゐた時です。 
          (50年大晦日の日に記す)
                      横山 重」

 ●昭和51年 年賀状

 「謹賀新年          昭和五十一年元旦

 皆さまの御健勝と御繁栄を祈ります
 降って私こと、この一月で、満八十歳になります。犬山時代、陋
 屋に閉居してゐましたので、足腰がきかなくなり、色々の病気を
 しました。が、一昨年、当地に移り住み、広い樹海の中、きれい
 な空気と太陽の光のお蔭で、だんだんと丈夫になりました。
 そこで、昨年の三月末、島木赤彦先生の五十年忌に際し、人々に
 助けてもらひ、下諏訪の先生のお墓へお詣りして来ました。永年
 の念願がかなひました。
 恩ある人々、おほむねすでに、逝きませり、あはれ我は、まだ生
 きてをり、アル中、足萎へにしてふる里の、信濃の国の、恋ほしけ
 れ、常念のやま、鍋かんむりの山
 窓ぎわに、スヽキと野菊を、植ゑしかば、朝戸をあけて、見れば
 ともしき

          伊東市赤沢浮山町○○○―○○
          殖産住宅○○号 池嶋別邸内
                      横 山  重
                          愛子」

 ●昭和51年7月

 「御手紙と、雑誌「文学研究」七月号 43号を下さいました あり
 がたう。田中宏氏の「江戸雀」の紹介は、丁寧で、要点を得てゐま
 す。その上、私の名をあげて下さったこと、恐縮の至りです。
  ……………
 法大の近藤先生、御死去と。エライ先生、世に知られずして、御
 逝去。されど、ゴク少数の学徒を導き玉ひし。
        七月九日           横山 重」

 ●昭和53年11月 『書物捜索』刊行

 昭和53年7月11日、横山先生から、速達の長文のお手紙を頂いた。

 「私事、昨年一月からチョウ腸が痛み、大いに難義しましたが、東上 順
 天堂病院で開腹手術を受け、十二月退院しました。老齢とて、躰
 力回復はおくれてゐますが、大体、順調のやうです。二週間に一
 度づゝ、伊東の国立病院へ通ってゐます。私方の家内も、昨年一
 月から、頸柱脳底血行不全症とかで、フラフラやまひ病で、伊東の国
 立へ入院したりしましたが、今はやゝよく、これ又、一週一度位、
 国立へ通ってゐます。
 ……………………
 近く、角川から、私の四十年前の雑文「書物捜索」上下が出ます。
 私はこれは、出したくなかったが、角川が強行し、鈴木棠三、貴
 志正造、森川昭が編集して、本にする由。秋口になるか。寄贈
 名簿(五十人)を書き、その中に、貴兄の住所氏名も記しました。
これは、いくらか私の主観的な方面も出てゐるらし。今ごろ、
 はぢ恥の上塗りのやうなものです。それも、なかった事ではない
から、やむを得ない。
     七月十日             横山 重」

 『書物捜索 上』A5判、426頁、口絵 22頁、昭和53五年
 11月10日、角川書店発行、定価3900円。
 『書物捜索 下』A5判、558頁、口絵 24頁、昭和54年4
 月5日、角川書店発行、定価4600円。
 
 「『書物捜索』の著者は、類稀な蔵書家であり、愛書家だ。ただ、
 世間の書痴の徒との違いといえば、その等身大の業績だろう。神
 道集・本地物から全室町物語の本文化へ。続いて琉球神道記・琉
 球史料。さらに連動的に説経・古浄瑠璃へと全活字化の成果を生
 みつつある。活字化を了した本文千余点。驚くべき精力である。
 まさに、「正しい本文以前に正しい研究なし」という年来の信念の
 見事な実践である。それらの善き底本を得るための書物捜索の旅
 路五十年。その間、巡り合った書物と人間への、これは、自由か
 つ克明な会見記である。」
                 (貴志正造氏のオビの文章)

 私は、この大著を拝読して、横山重先生に、長年に亙って御指導を賜った、自分の研究生活は、恵まれたものであった事を再確認して、心からの感謝を捧げた。

【写真 〔22〕〔23〕 『書物捜索』上・下の箱】


  5、横山重先生御他界の頃

 昭和52年から55年にかけて、近世文学資料類従・仮名草子編第2期の『可笑記評判』(上・中・下)や『井関隆子日記』(上・中・下)の校注に忙殺されて、横山先生には、折々の御報告などを申し上げる位であった。ただ、この間、先生は体調を崩されて、御入院などをされ、その御様子は、原秋津氏御夫妻から伺っていた。

 ●昭和55年10月8日、横山重先生 御逝去

 昭和55年10月9日、朝7時、横山先生の家からお電話があり、横山重先生は、昨8日午後3時15分に、御自宅で御逝去なされたとのこと、お知らせ下さった。84歳8ヶ月の御生涯であった。お電話を下さったのは、たぶん原秋津氏だろうと思う。また、昼頃には、渡辺守邦先生からもお電話を頂いた。原秋津氏の記録(『横山重先生 ご終焉のころ』)によれば、

 「死亡時刻、午後三時十五分。
 遂いに、総てが終ったのだ。急に、無性に淋しくなる。
 医師の死亡診断書には、
  急性気管肺炎
  其の他の状況 肺気腫
 となっていた。」

 と記されている。原氏によれば、9日、ごく近しい人だけで、お通夜をされた。横山先生の御意向を察して、祭壇を飾ったり、戒名を付けたりはせず、家の周りの野花を採ってきて、御霊前に捧げたが、すすき薄の花が先生にはよく似合ったという。
 私は、10日(金、仏滅)の告別式に参列して、横山先生に対して、感謝とお別れを申し上げた。納棺された御霊前に、松本隆信氏・村上学氏・雲英末雄氏が読経を捧げた。お棺の中の、横山先生は清楚な花々で埋められていた。
 横山先生が、寝たきりになって100日の余を過ごしたというベッドの前には、大きな日めくりが掛かっていた。先生は毎日、1枚ずつめくって、1日1日、生を全うされたと思う。しかし、8日はめくられず、そのままだった。私は、原氏の許可を得て、8日・9日の分を頂いた。横山先生は、8日まで御在世であったが、この日めくりをめくることは出来なかった。私は、今も、この8日・9日の分を大切にしている。
 午後1時、御出棺。伊東市立火葬所で荼毘に付された。私は、野田寿雄先生と、横山先生の骨揚げをさせて頂いた。

  【写真 〔24〕〔25〕先生使用の日めくり2枚】

 「この度は、横山重 死去に際しまして、一方ならぬ御厚志を賜り
 ましたこと、有難く御礼申し上げますと共に、生前の御芳情を重
 ね重ねお礼申し上げます。
 遺骨は故人の意志に従いまして、暫くの間、好きな本と共に、自
 宅に安置することにいたします。なお分骨は、生地松本で、近親
 者によつて法要埋葬いたしました。
 右、御礼旁々、御諒承のほどお願い申し上げます。
  昭和五十五年十月   日
            伊東市浮山町○○○―○○
                       横山  愛」

 ●昭和56年3月31日 納骨供養

  「先般、故 横山 重葬儀の際に賜りました御香華料の一部で、
 左記のお寺に新しく墓石を建て、遺骨を納めさせて頂くことにい
 たしました。改めて御礼申上げます。
  墓所の徳正寺は、故人一生の仕事であった、室町時代物語の校
 訂刊行の協力者でいらっしゃる、松本隆信様が十六代目の住職を
 されておられます。横山にとっても縁の深いお寺でございますの
 で、故人も、ここで安らかに永眠できることを、喜んでくれるこ
 とと存じます。
  つきましては、来る三月三十一日(火)午前十一時三十分より、
 納骨供養いたしたく存じますので、御多忙のところ恐れいります
 が、御参りいただければ有難く存じます。
   昭和五十六年二月  日
                        横山 あい」

 私は、この日、仕事の関係で、都合がつかず参列することが出来なかった。3月22日、息子を連れて、松本隆信先生の徳正寺に伺い、横山先生のお墓にお参りした。
 横山先生が犬山から伊東へ転居されたのは、昭和49年4月である。その8月に、私の息子が生まれた。先生は、大変喜んで下さり、後日、伊東へお伺いした折、息子の写真を先生にお見せしたら、おお、可愛い、可愛い、と申され、その写真を懐に入れてしまわれた。私は、チラと見て頂く積りだったので、大変光栄の事に思って、心から感謝申し上げた。そのような経緯もあって、息子にも、お参りさせたかったのである。

  【写真 横山先生のお墓の写真〔26〕】

 ●昭和56年6月 横山あい様 住所変更

 昭和56年6月14日、原秋津氏より連絡があり、横山先生の奥様は、伊東市浮山から茅ヶ崎へ移転された。
 茅ヶ崎市南湖 七―一二八六九 太陽の郷 
以後、ここの住所へ連絡した。

 ●昭和57年12月

 「御真情のこもったお手紙ありがとうございました。
 故人に対しての変らぬ御心持と、また私についての御心遣ひ、お
 電話番号まで、お書き添へ下さいました事など、拝見して涙が出
 ました。
 誠実といふこと、偽りの多い今の世では、認められることも少く
 て、怒りを覚えられることが多いことゝ存じます(横山の場合も
 そうだったと思ひます)が、まことに立派なことゝ存じます。ど
 うぞ胸を張って雄々しくお過し下さいますようお願ひ申上げます。
 ……亮治君のお写真と、お墓参り下さいました折の写真、嬉しく
 拝見しました。写真箱の中から、生後三ヶ月とある、赤ちゃんの
 亮治君の写真が出て来ました。二枚の写真を置いて見て居ります。
 ……
    十二月三十一日              横山あい」

 ●平成3年7月 横山あい様 御逝去

 平成3年7月28日、奥様の実兄の御長男、星野彰氏より、横山重先生の奥様、横山あい様の、御逝去と納骨式の御連絡を頂いた。

 「長年にわたりご厚誼にあずかりました 叔母 横山あいは昨年来、
 東海大学大磯病院で入院加療中のところ 七月六日(土)二二時
 一五分 急逝いたしましたので謹んでお知らせいたします。
  享年八十九才でありました。
  …………………
 通夜 七月七日(日)一九時  於 茅ヶ崎カトリック教会告別
 式 七月八日(月)一〇時 於 茅ヶ崎カトリック教会
                     モーレ神父 司式
  …………………
 叔母は、昨年モーレ神父により洗礼を受けていたため、カトリッ
 クでの葬儀を執り行いましたが、叔父横山重の眠る東京の墓所に
 入ることが本人の希望でもありましたので、次のとおり 仏式で
 四十九日並びに納骨法要をいたしたく、御案内を申し上げます。
 ゆかりの方々にお集まり願えるのも最後の機会かと存じますので、
 ご多忙とは存じますが、お繰り合わせ上ご参会いただき、生前を
 偲びたくよろしくお願いいたします。
   日時 八月一八日(日) 一一時〜
   場所 浄土宗 徳正寺
   御住職 松本隆信 師

  平成三年七月二十八日  喪主 星野彰(横山あいの実兄の長
                     男)」

 横山重先生の奥様の、四十九日及び納骨法要は、平成3年8月18日、松本隆信先生の徳正寺で行われ、生前、お世話になった方々が参列された。私も参列して、奥様を偲んだ。ただ、原秋津氏御夫妻のお姿は無かった。

  6、横山重先生御他界の後 ―原秋津氏のこと―

 横山重先生は、昭和55年10月8日御他界、84歳8ヶ月であった。先生の奥様は、平成3年7月6日御他界、89歳であった。
 原秋津氏に初めてお会いしたのは、年月は不確かながら、伊東の横山先生のお宅であった。横山先生から、原氏御夫妻を紹介して頂いた。原氏は、横山先生と同郷の長野出身で、私は山梨であったが、横山先生を尊敬申し上げている点では、私と全く同様であった。原氏は、トーシンユニホームという会社を経営しておられ、研究者ではないが、横山先生との付き合いは非常に長かった。そのような関係から、私は原氏と交流をもつようになった。
 殊に、横山先生の晩年には、何かにつけて、原様御夫妻が、伊東に伺い、御世話をしておられたので、私は、横山先生御夫妻の御様子を原様から教えてもらう事も度々だった。そのころ、横山先生の病状も一進一退で、原様御夫妻が連日のように、先生宅に通っておられた。私は、電話で連絡を頂くこともしばしばであった。手紙のやり取りも多かった。原様の手紙は、ほとんど巻紙に毛筆で見事なものであった。

 ●昭和56年7月 「横山重先生 ご終焉のころ」

 昭和56年7月11日、原秋津氏から、「横山重先生 ご終焉のころ」という、400字詰原稿用紙、50枚の原稿を頂いた。これは、昭和55年4月6日から56年3月31日までの、横山先生と奥様に関する詳細な記録であった。私は原稿を熟読して、原氏に御礼を申し上げ、この原稿の処置に関して相談した。事実を記録した内容は貴重であるが、これを公表するか否かについては、実在の関係者もいるので慎重に進めることで了解を頂いた。この原稿は、現在も私が保管しているが、執筆者の原秋津氏も原氏の奥様も、既に御他界なされ、御子息にも連絡してみたが、公表は、やはり故人の考えもあるので中止することになった。

 【写真 「横山重先生 ご終焉のころ」の写真 〔27〕】


 ●平成6年8月 『横山重自傳(集録)』 

 平成6年5月27日、原氏より『横山重自傳(集録)』の校正が出たので宜しくと連絡があった。その前から、横山重先生の編著書に散見する「後記」等の文章を1冊にまとめて刊行したいと、計画されていた。私も賛成して、校正もお手伝いした。
 9月8日、原氏から『横山重自傳(集録)』を拝受した。早速、原氏と相談して、この本の寄贈先を検討した。原氏からは、すでに16名の方々に贈呈した由で、そのリストも頂いたので、私から、国会図書館・国文学研究資料館・主要大学図書館、横山重先生関係者などの追加贈呈リストを作成して、原氏と検討して、合計60部を、私から発送した。

「拝啓 一月も半ばを過ぎましたが、館長先生をはじめ、皆様方には御多忙の毎日をお過ごしのことと、お察し申し上げます。
さて、昨年、原秋津氏によって、『横山重自傳(集録)』が刊行されました。      
原氏は、横山先生とは長年に亙って親しく交際を重ねてこられた方です。殊に、先生晩年の伊東時代、先生御他界後の奥様のことなど、親身も及ばぬお世話をしておられました。
横山先生は、昭和五十五年十月八日、八十五歳で他界されました。十三回忌の昨年、原氏は本書を編纂刊行されました。この貴重な本書を、主要図書館に献呈したい、という私の希望を受入れて下さいましたので、お送り申し上げます。なお、手違いにより、大変遅延しましたがこの点、御了承下さいますよう、お願い申し上げます。原氏の御住所は左記の通りです。受領された旨のおはがきを、お願いできますなら、有り難いと思います。
 113 東京都江戸川区南小岩〇―○―○
           原  秋 津 様
右、御報告とお願いを申し上げます。当然のことですが、私への返信は御無用に、お願い申し上げます。          敬 具
   平成七年一月十八日              深沢秋男
○○○○図書館御中」

  『横山重自傳(集録)』 
   目 次
神道物語「後記」 昭和三六・五・一二(一九六一、六五歳)… 一
竹林抄古注「後記」 昭和四三・五・一一・二四(一九六八、七二歳)
                          … 一二
校訂にうちこんだ在野の第一人者……(俵 元昭)………… 五六
    ――書誌学者 横山しげる重君――
〈対談記録〉琉球史料をめぐって……(外間守善)………… 六七
年賀状 昭和五二・元旦(一九七七、八一歳)……………… 八七
患者横山重の病状、病歴(八一歳)…………………………… 八八
書物捜索「付記」昭和五三・五・末日日記(一九七八、八二歳)九〇

   奥 付
 横山重自傳(集録)
 平成六年八月三十日 発行
 編 者  原 秋津
      133 東京都江戸川区南小岩〇―○―○
 製 作  岩波ブックサービスセンター

 原秋津氏と私との交流は、その後も続き、私は、横山先生のことを、事実だけでも記録して欲しいと、お願いしたが、それは、学問に関係のない私の任ではないと、引き受けては下さらなかった。平成6年、横山重先生の十三回忌に、『横山重自傳(集録)』は刊行されたが、横山先生御他界の後、原氏と交流のあったのは、松本隆信先生と私のみとなり、松本先生御他界の後は、私1人のみとなったと語られていた。
 私は、横山重先生に廻り合えた人生に心から感謝し、横山先生を介して、原秋津氏と交流できたことに、深く感謝している。

【写真 〔28〕『横山重自傳(集録)』表紙、 〔29〕原氏の手紙】

             (平成23年12月12日)

【注】本稿は、『芸文稿』第5号(平成24年4月1日発行)に掲載したものである。縦組を横組とし、表記などを一部改めた。なお、掲載の写真は全て省略した。




9、変体仮名・草書体・古典の校訂        深沢秋男


●日本の古典・古文書等は、明治になって、西洋活字が導入されるまでは、大部分が変体仮名と草書体で記録されていた。古代・中世までは、書写本だから、当然、筆で墨を使って紙に書いていた。近世になって、木版印刷が開発された時、写本の複製というスタイルをとったため、江戸時代の本も、変体仮名・草書体という形で記録され、出版された。江戸時代には、中国から漢籍が伝わったため、漢字の明朝体の本もあるが、大部分は草書体・変体仮名というスタイルであった。
●私は、大学3年の時、卒論の仮名草子『可笑記』の版本を見て、初めて変体仮名・草書体の本に出合った。それまでは、専ら西洋活字の本を読んでいて、それが普通だと思っていた。しかし、仮名草子を研究するには、変体仮名・草書体の本が読めなければ、新しい分野は開拓できないだろうと、独学で版本・写本を読んだ。大学3年・4年の頃である。

■古典の校訂は研究か?

●十数年も前のことであるが、近代文学の研究者から質問された。古典を現在の活字に置き換えるのは研究ですか? ただ、変体仮名を活字体に変えるだけでしょう? 私は、何もコメントしなかった。この人は、この仕事を否定的に捉えていて、その裏付けをとろうとしていたのが分かったからである。
●また、ある若い研究者が、どこかの大学の先生から、古典の翻刻などしても業績としてカウントされないので、しない方がいいよ、と注意されたとも聞いた。文部科学省が研究業績を審査する時、そんな基準を持ち出している、とも仄聞した。私は、この人には、我々は業績を挙げるために、古典の校訂をしているのではないでしョ、古典を研究するためでしョ。と答えておいた。
●大学教員の場合、研究業績が問題になり、研究論文は何点、著書は何点、それを問題にして、採用・昇格・研究費の配分などに使う。研究者の書いた文章にも、様々なものがある。論文・解説・評論・資料紹介などなど。それらを研究業績として、どのような基準で評価するか。
●変体仮名を活字体に置き換えるのは、言ってみれば、職人の作業で、研究ではない、という考えもあるだろう。しかし、それは、校訂という崇高な仕事を経験した事の無い御仁の、極めて皮相的な意見に過ぎない、と私は思う。校訂という仕事は、実は、奥が深いのである。マックス・ウェーバーが、古典の一字の読み取りに、何時間も何日間も費やす、意志と持続力のない者は研究者になれない、と言っている事を思い起こす必要がある。漢字の字体、言語の素養、当時の時代背景、作者の特徴、などなど、底無しである。従って、若い時の校訂には、未熟の故のミスが多い。しかし、習熟してきた時には、老化現象も進む。そこから生ずるミスもある。これが、人間の限界であろう。だから、私は、超老人は、古典の本文校訂の作業はすべきでは無いと、密かに思っている。

■「書を校するは塵を掃うが如し」

●「書を校するは塵を掃うが如し」書物を校合する作業は、塵を掃いても完全に掃き尽くすことが出来ないのと同じように、何回校合しても、完全な本文にすることはむつかしい。出典は、中国、宋の沈括の『夢渓筆談』である。
「宗宜献、博学にして、喜びて異書を蔵す。皆手ずから校讎し、常に謂う。書を校するは塵を掃うが如し。一面掃えば一面生ず。故に一書有れば、毎(つね)に三四たび校するも、猶、脱謬有り。」
●書物を校訂して定着する作業は実にシンドイ仕事である。日本の古典の場合は、原本が、写本や版本である。それらは、変体仮名・草書体で書かれている。このままでは、明治以降の活字体に慣れている、現在の我々には読みづらい。そこで、変体仮名や草書体を活字体に置き換える作業が必要になる。この時に、目的によって、校訂基準が異なるので、さらにやっかいになる。
●私は、かつて、浅井了意の『可笑記評判』を校訂していて、ようやく、その作業が終わろうとした時に大変なアクシデンに見舞われた。全10巻、542丁、1084頁、総合計字数28万6千字、振り仮名を入れれば、その倍の字数になるだろう。パソコンによる原稿作成であるから、大変な仕事である。そんな時、PCのトラブルで、巻1〜巻4のデータ消失があった。来る日も来る日も、変体仮名とパソコンを往復する。シンドイ作業である。
●実は、この作品とは、私の研究人生の中で長い付き合いである。昭和45年に謄写版で一度出した。続いて、昭和52年に複製本として出した。次は平成6年に『仮名草子集成』に入れた。この時は、朝倉氏が原稿を作成したが、校正は私と2人である。そして、平成20年には『浅井了意全集』第3巻の本文作成をした。研究生活の最初と最終に、この作品に取り組んだことになる。1つの宿命とも言えるだろう。
●これだけ、関与しての本文作成ゆえ、もうミスは少ないだろう、そうでなければ、研究者としての資格が問われるだろう。しかし、「校書如掃塵」である。長い研究生活を振り返って、忸怩たるものがある。

■校訂と内容の享受

●私は、昭和53年から56年にかけて、『井関隆子日記』全3巻を勉誠社から刊行した。この日記の原本との出会いから校訂本完結までは9年間かかった。著者の筆跡は多少くせはあったが、見事な自筆写本であった。全体では64万字くらいであるが、私は、これを、全て読み取った。写本・版本などの変体仮名・草書体は、90%までは、誰でも読める。しかし、研究者ならば、最後の1%を読みきらなければならない。これは、至難のことである。
●原本の、素読み・下書き書写・清書・原稿と原本の引き合わせ・初校・再校・三校・念校、と続けて本にした。この間、私は、同じ本文を10回以上読んでいる。1回1回、読む規準・力点の置き所が異なる。1回1回、読む意識をリセットして読む必要がある。そのようにして世に送り出してはいるが、ミスがないか、不安でいっぱいなのである。ミスがあるのは、私の能力の限界だろう。研究者は、皆、このような不安を抱えながら、校訂の仕事をしているものと思う。
●『井関隆子日記』は、1999年の大学入試センター試験、2010年の明治大学入試、2011年の京都大学入試に、それぞれ出題された。幸いに、この3回とも、私の校訂ミスは無かった。校訂者は、いったん出版すると、そこまで責任を負う覚悟が必要になる、と私は考えている。
●校訂者は、このように、努力しているから、その本文を読み抜いているか、と言えば、そうとも言えない。この井関隆子の日記について言えば、新田孝子氏・ドナルド‐キーン氏・秋山虔氏・田中伸氏・江本裕氏、野口武彦氏、藤田覚氏、大口勇次郎氏、関民子氏、真下英信氏、まだまだ、たくさんいると思うが、これらの、校訂に関与していない研究者が、一読、その価値や魅力を読み取っておられるのである。
●校訂に当っては、このような、努力は必要になるが、故に、そのテキストの文化的、文学的な価値まで汲み取り、判断し切れたかと言えば、そうでもないのであろう。人間の能力には限界がある。それを補い合って、古典の良さを享受してきたのが、私達の歴史だと思っている。
●私は、現在、近世初期の仮名草子作者、如儡子・斎藤親盛の百人一首の注釈書『砕玉抄』の本文校訂を進めているが、近世初期の大啓蒙期にふさわしく、殆どの漢字に振仮名が付けられている。総字数は膨大なものであるが、振仮名の1字と言えども、著者の表記は疎かには出来ない。それが、古典の校訂である。

(傀儡子の日記、2011年6月15日 より)



8、『井関隆子の研究』紹介           霧山 昴 氏

福岡県弁護士会 「弁護士会の読書」(インターネット)

2012年4月25日
日本史(江戸)
井関隆子の研究
著者   深沢 秋男 、 出版   和泉書院

 幕末を生きた旗本婦人に関する本です。幕末といっても、水野忠邦と同時代を生き、天保の改革についても、あれこれ論評しています。それだけ幕閣の内情を知る立場にあったのです。
 60歳で亡くなっていますが、50代に物語を創作し、日記のなかで、鋭く世相を斬っています。現代日本女性とまったく変わらない驚くべき批評家です。
日記のなかで井関隆子は冷静な批判・批評を貫いている。鋭い感受性と、それに支えられた厳しい批判的精神にあふれている。そして、それは決して止まるところを知らない。
 幼いころの隆子は、常に利口ぶって、生意気な言動をする、差し出がましいふるまいをする、こましゃくれた、年の割に大人びた、そんな女の子だった。原文では、「この子は、常にさくじり、およづけたる口つきの子供」と言われていたとあります。
 そして、少女時代の隆子は、自宅の庭に蛇がよく出るのを見つけては打ち殺していた。それを見た母親は、私のためにはありがたいが、女の子に似合わないことをするものではない、ことにあなたは巳年の生まれなんだからとたしなめた。すると隆子は、巳は私の年なので、私の思うようにしてどこが悪いのかと言い返した。さらに付け加えて十二支など中国の人の考えたもので、もとからあったものではない。だから自分の生まれ年だからといって、どうということはない。こんな迷信を神のように信じ込んで祀ったりするのはうるさいことだと言った。
 うひゃあ、これが、江戸時代に生きた少女の言動だなんて信じられませんよね。蛇を打ち殺すということ自体が男でもなかなかできないことです。そして、生まれ年が十二支の巳年だから慎めという母親に対して、そんなのは迷信に過ぎないことだと言い返すなんて、その大胆不敵さには思わず腰を抜かしそうになりました。
 江戸詰めの武士が品川宿の遊女と心中した事件についても日記に詳細に書きとめています。養育費をとって預かった子どもを次々に殺していた老婆、ネズミ小僧など、当時の事件が生き生きと日記に記録されています。
 隆子は迷信を信じない、実に合理的な考えの持ち主だった。家相見、地相見、墓相見など、いずれも不用のものとした。
隆子はきわめて好奇心の強い女性だった。
 地獄売春、陰間、ふたなり、相対死、駆け落ち、ネズミ小僧、遊女の放火事件、女髪結僧侶と奥女中の事件など、かなりきわどい話題も自在に書きとめられている。
 そして、花見だ、月見だといっては家中集まって酒を飲み、何かにつけて酒を飲んで楽しんでいる。隆子が酒を大好きなことを心得ていて、家中みなが母であり、祖母である隆子を大切にしていた。
隆子が物語として描いた江戸の様子を紹介します。
 人前では礼儀正しく、恥じらいあるものが、かげでは猥りがわしい行動をとっている。このうえなく尊ばれている僧侶が、陰で酒色にふけっている。課役を逃れるために賄賂を贈る大名、出世のために幣をおくる旗本たち。水野忠邦をモデルとする少将は、色好みで、負けじ魂のみ募り、その身分に似合わず文才もない。税金の増額から来る庶民生活の窮乏、公の人事の不公平、少ない禄に対する旗本たちの不平不満・・・。
江戸時代とは一体どんな時代だったのか、大いに目を見開かせる貴重な研究書です。少し高値の本ですので、図書館で借りて読まれたらいかがでしょう。
(2004年11月刊。1万円+税)

投稿者霧山昴|URL


7、関口深志 作詞 『海のオーロラ』

海のオーロラ
 作詞 関口深志 作曲 河野雅昭 編曲 木村達司 唄 S.E.S


私 なぜ歩いていた? あてもなくて
きっと安らげる場所探していた
立ち止まれば泣いた

痛み気づいた日々に
愛を知った
それはいつも近くで微笑っていた

ここにいていいよね?これからも この先も

ありがとう 受け止めたい 答えを
過ちも正しさもすべて
生きて行きたい いつか自分を
許せる時が来るまで

私を照らして…オーロラ

人を信じられずに嘘をついて
どれだけ傷つけてきた?自分のこと

今はただ 願うの 愛されて愛したい

あきらめず私の海 泳ぐの
永遠はないと分かっても
生きて行きたい きっと誰かを
愛せる時が来るから

私を照らして…オーロラ

………………………………………………………………

(2000年7月発売、日本テレビ制作映画「海のオーロラ」主題歌 主演 いしだ壱成)




6、市古貞次氏の「桜山文庫 訪問記」

                 2010年9月23日
                        深沢 秋男


「図書館・文庫めぐりの記」    市古 貞次
〔前略〕

桜山文庫など
 彰考館には、戦前何度となく訪れて、雨谷氏や福田耕二郎氏のお世話になったが、その後長く行く機会がなかった。彰考館が戦災にあったという噂は、はやく聞いたし、戦後その廃墟に立って感慨にふけったりしたが、閲覧できるようになってからは、もう一度行きたいと心に思うだけで、なかなか実行できなかった。やっと一昨年の秋と昨年の早春に、桜山文庫と併せて、訪ねることができ、三十余年前に見た本のいくつかが無事に残っているのを見て、なつかしく思った。
 桜山文庫は鹿島氏の蔵書を収めた文庫である。この文庫が有名になったのは、丸山季夫氏が『春雨物語』の完本の存在を学界に報告されてからであるが、国書研究室にある蔵書目録によって、種々の稿本を含んでいることを知り、かねがね見たいと思っていた文庫であった。現在の文庫主の鹿島則幸氏は常磐神社の宮司で、神社のすぐ前に住んでおられることがわかり、御蔵書閲覧の許可を頂くことができたので、彰考館とかけて参上したのである。大部分の御蔵書は別の場所に置かれているとのことで、あらかじめ閲覧資望の書をお知らせしておいて、二回にわたって見せて頂いた。             
 この文庫は、蔵書数が非常に多いというわけではないが、大田南畝の自筆本など資料として価値あるものが少なくない。中に『撰集抄』の嵯峨本九巻三冊があったが、その第三冊の奥に、 
                          
  此本三冊全部洛西嵯峨角倉与一入道素庵墨蹟板行之即従素庵直賜之
    元和八年孟秋念三                  
                      豊松庵法橋玄伯(花押)

と墨書してあることを鹿島氏から注意された(第一・二冊の終りにも大同小異の識語がある)。
これは角倉素庵の筆蹟であることを明示しており、かつ出版年代をも推定させる資料を提供しているなど、非常に珍重すべき識語であって、嵯峨本研究の上で大切な資料であるといえよう。
〔中略〕
                          (昭和四十八年三月〜五月掲載)」
           (『訪書の旅 集書の旅』 昭和63年4月1日、貴重本刊行会発行)

 私は、桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸氏の依頼を受けて、桜山文庫の国文学関係の蔵書を昭和女子大学図書館に一括移管した。その手順として、日本文学科・国文科の先生方に、桜山文庫を理解して頂くために、この、市古貞次氏の文章を利用させて頂いた。幸い、全員の賛同を頂き、昭和女子大学の一括購入が実現した。これには、著名な研究者・市古貞次氏の文章に助けられたところも大きいと、改めて感謝申し上げる。



5、宮島鏡の手紙 滝川一廣教授にお聞きしたかったこと

                   2010年8月6日
                        宮島 鏡

私、宮島鏡は寺社仏閣で頒布される「おふだ」を蒐集しています。若輩者ではありますが、昭和女子大学のオープンカレッジで「おふだの文化史講座」を開講しております。ご聴講してくださる皆様のおかげで、研究を続けることができ「おふだ」というものが非常にそれぞれ一枚一枚に素晴らしいご縁起を持っているものだと深々と理解してきました。

しかし、「おふだ」に対する捉え方、つまり社会的な存在とは何か?私の独りよがりの観点から研究しているのではないか、精神文化としての現代の人々にどのような役割を果たしているのか?ということを最近強く考えてしまいます。

ここで、臨床心理学者の権威、滝川一廣医師(学習院大学文学部 心理学科教授)にご登場していただきます。私との往復書簡において、ご親切にご多忙ながら教えていただいたことをご紹介いたします。



宮島質問@ 日本人は、絵馬に願をかけるように、神仏にすがりますが、これはなくならない文化と思われますか?そして「信じる」、それはどのような精神で成り立つことが多いのか、教えてください。

滝川先生のご回答

@
六月一三日、地球から三億キロも離れた小惑星イトカワを調査した無人探査機「はやぶさ」が七年の歳月を経てついに地球に帰還しましたね。
これまでの宇宙船は、打ち上げロケットで地球の引力圏を脱すれば、あとは慣性飛行で目的地に向かうものでした。それに対して「はやぶさ」は新開発のイオンエンジンを搭載し、その推力によって宇宙空間を長期に自力航行できる初めてのものでした。さらに従来の無人探査機は目的地に着陸したら戻ることはできず、調査データだけを地球に送信してくるものでした。ところが「はやぶさ」は調査を済ませると惑星を離陸して、惑星の土などを採取したカプセルを携えて地球に帰ってくるという画期的なものした。
けれども、初めてづくしの先駆的なプロジェクトがすんなり成功するわけにはいかないでしょう。燃料漏れ、姿勢制御に使う化学エンジンの故障、通信途絶やイオンエンジンの停止など幾多のトラブルに見舞われ、「はやぶさ」の地球への旅はホメロスの『オデュッセイア』さながら、帰郷の危ぶまれる困難な長途となったのです。予定より三年も遅れての帰還でした。それだけにこの帰還は、同じ時期、国じゅうが湧いたサッカーワールドカップの日本決勝トーナメント進出にもまして、喜ばしいできごとに思えました。

さて、ここからが、おふだの話です。
このプロジェクトのリーダーは、宇宙航空開発機構の川口淳一郎教授でした。その設計段階から関わり、多大な困難や障害にもかかわらずとうとう「はやぶさ」を帰還にまでたどりつかせた科学者で、宇宙航空技術の第一人者ですね。東京新聞の七月二日づけの夕刊にその川口教授のインタビュー記事が載りました。一部を引用してみましょう。

 「正直に言って復旧できるか自信はなかった。ある所から先は論理的、技術的に考えても及ばなくなる。たとえば機体がひっくり返って、どちらを向いて安定化するかは分からない。絶対に復旧しない向きに姿勢が向いてしまうケースもある。これは自分たちではコントロールしようがないことで、神頼みを精神的な支えにしていた。
プロジェクトのメンバーはそれぞれいろんな所でお参りしていたと思うが、私が行ったのは東京の飛不動と岡山の中和神社です」

 このくだりに私は一瞬驚きました。科学の最先端で「神頼み」や「お参り」とは! しかし、そうではないとすぐ気づいたのです。科学から得られる認識や科学のもたらす技術がどこまでは及び、どこからは及ばないか。科学的な認識や技術をとことん追究する科学者だからこそ、かえってそこが見えるのでしょう。真の科学者は、科学を絶対化や物神化しないのですね。
「飛不動」は名前からしてわかります。飛行安全の守護でしょう。「中和神社」についてはあとで調べてみました。壊れた二基のイオンエンジンの残存機能を組み合わせてなんとか動かすには「中和器」と呼ばれるエンジン部品の働きが重要だったのですね。
メンバーたちは、当然、お参りした先々で「おふだ」もいただいたにちがいありません。宇宙航空開発機構のホームページを開いて「はやぶさ」のコントロールルームの映像を見たところ、実際、コンピュータや計器でいっぱいのルームにおふだが貼られていました。
現代科学技術の最前線たるコントロールルームに神仏のおふだ。一見、水と油みたいですけれども、そこにはたんなる「験かつぎ」を超えたなにかが感じとれます。メンバーの科学者たちは、万有引力の法則や相対性理論を「信じている」のと同じ意味で神仏の力やおふだの効力を「信じている」わけではないでしょう。そこにあるのは「信じる」「すがる」というよりも、「祈る」というこころだったのではないかと思うのです。その誕生から手がけ、何年もの困難な旅路をフォローしている川口教授をはじめメンバーたちにとって、「はやぶさ」はもはやわが子同然の存在になっていたでしょう。その「はやぶさ」の無事へのこころからの願い、祈りですね。
昔、紅葉見物に比叡山にのぼったことがあります。境内を散策するうち、たまたま横川の元三大師堂に出ました。堂の由来を読むや、つれあいはすぐさま中を訪ねて元三大師のおふだをいただいてきたのです。ちょうどその頃、娘が病気で療養中だったのですね。つれあいは仏教徒でもなく、ふだん格別に信心深いわけでもありません。それが、病魔を退散させたと伝えられる元三大師の護符を大事にいただいたのは、やはり、娘の快復への祈りからだったと思います。娘はおふだの絵に「なにこれ?」という顔をしましたが・・・。
神仏を信ずる者も信じない者もいるでしょう。信ずる者も(信ずる者ほど)すべての神仏をではなく、たとえば聖母マリアは「信じる」が飛不動は「信じない」というふうに分かれます。しかし、神仏を信じる信じないにかかわらず、「祈る」という気持ちをもたない人はいないでしょう。川口教授の言葉のとおり、「自分たちではコントロールしようがない」不確定なことばかりに私たちは囲まれて生きているためですね。
「あした天気になりますように」「どうかこの宝くじが当たりますように」の祈りも祈りですけれど、深い祈りはだれかのための祈りでしょうね。戦地に赴く夫の無事を、病に伏すわが子の快復を、など。人間がほんとうに祈るのは、そんなときではないでしょうか。愛のあらわれなのです。「はやぶさ」の場合も、「自分たちのプロジェクトが成功しますように」の祈りではなく、「はやぶさが無事地球に還れますように」の祈りでした。
もちろん、こうした祈りは、お参りしなくとも、こころのうちで念ずるだけでよいかもしれません。そんな場合も少なくないでしょうね。しかし、人間はやはり「かたち」や「あかし」をどこか求めるものです。拝殿で手を合わせる、おふだをいただく。それによって、私たちは祈りの気持ちを自分にとって確かなものにできるのでしょう。
だれかのために「祈る」というこころを日本人がもち続けるかぎり、お参りするとかおふだをいただくという行為が消えることは決してないだろう。そう私は考えています。

宮島質問A

例えば守護の神、つまりお守りなどを持っていても、事故には遭います。信心が足らないと言えば、それまでですが、お守りへの恨みを持った場合、今後のその人の人生に与える影響はどのようなものか、想像することを教えてください。


滝川先生のご回答

A
 「はやぶさ」は多くの障害をのりこえて帰還を果たしました。しかし、残念ながら、すべて成功だったわけではありません。 

「化学エンジンが無事なら、はやぶさ本体はカプセルを切り離した後も地球に落ちずに宇宙を飛び続けられたが、燃料漏れで化学エンジンが使えなくなり、カプセルを地球に戻すためには本体は燃え尽きることが決まっていた。だから、はやぶさが(燃え尽きる自分の運命を知って)帰還を嫌がっているのではないかと錯覚してしまった」

川口教授は、燃料漏れによる化学エンジンの故障のため、帰還後の飛行が不可能となり大気圏内で焼失せざるをえなかった「はやぶさ」を悼んでいます。帰途中にイオンエンジンが止まってしまったのは、「はやぶさ」が帰還を嫌がったためでないかと感じたとすら語っておられます。ここには探査機を無機質の機械とはとらえず、ひとつの人格、わが子のように感じとっている「はやぶさ」への深い思い入れがあります。けれども、その「はやぶさ」が燃え尽きてしまからといって、せっかくお参りしたのにその甲斐はなかったとは感じてはおられませんね。なぜでしょうか。
「祈り」とは、この世界は自分たちのコントロールの及ばない不確実なことだらけだからこそ生まれるものです。すべてが確実なら「祈り」は生まれません。裏返していうなら、もし祈りさえすれば必ず祈りどおりになるのであれば、この世から不確実なものはなにひとつなくなることになります。そうなれば、祈りはたんに人間がものごとを意のままにコントロールする道具となり、それはもはや「祈り」とは申せませんね。祈りが必ずかなうとは、人間が神になるのと同じで、空恐ろしいことではないでしょうか。
おふだとかおまもりとは、祈りに「かたち」を与えたものです。たとえば、車に成田山の交通安全のおまもりをよく見ますね。道路を走るかぎり、金輪際事故を起こさない保証はありえません。不確実です。だからこそ「どうか事故を起こしませんように」「事故で死傷したり、ましてや人を死傷させたりしませんように」と私たちは祈るのです。こころのうちで祈る者もいれば、それをかたちにしようと成田山にまでお参りにいって、おまもりをいただく者もいます。おまもりは、その「祈り」の表象で、安全の「絶対保証書」ではありません。
ですから、「おまもりをいただいたのに事故が起きた」と成田山を恨んだり訴訟を起こしたりする者は、まずいないのです。「おまもりをいただいたからにはもう安全だ」と無謀運転をする者が、まずいないのと同じですね。もし仮に訴えたり恨んだりする者がいたとしたなら、その人は祈りを知らない人でしょうね。


宮島質問B絵馬だけで、おふだを出していただける寺院が年々減って行っています。昔ながらに版もので丁寧に刷ってくれる寺院もありますが、プリントでご本尊のお姿御影も出していたりしている寺院が比率として圧倒的に多いです。このような状況ですが、おふだというものを先生にとって思っていることを教えてください。


滝川先生のご回答

B
 宮島鏡さんの「おふだ展」に深川へでかけるのがお正月ごとの私のたのしみになっています。小冊子の宮島さんの解説に目を通しながら、展示のおふだを一枚一枚ゆっくり眺めてゆきますと、その意匠の多彩さに驚かされるとともに、時代をこえて連綿と続く人々の祈りが伝わってくる思いがします。一年の初め、初春の空気のなかでそれに接せられのは、とてもしあわせです。
 「はやぶさ」のプロジェクトチームは「それぞれいろんなところでお参りしていた」とありますね。ぜんぶでどのくらいの寺社にお参りし、そこにはそれぞれどんなおふだがあったことでしょうか。ちょっと知ってみたい気もいたします。



                     学習院大学文学部 心理学科
                             滝川一廣 

お忙しい中どうもありがとうございました。
「祈り」というものが、存在することは人間にとって喜ばしいことなのではないでしょうか。それは単純に心の弱い行為がするということではなく、生活の中で自分が生まれてきた証明をしていることなのかもしれません。このことをもう一度深く考えて、今後も自信を持って「おふだ道」を歩んでいきたいと心から、先生のご回答を拝読して思いました。

          2010年 夏 宮島 鏡


【滝川一廣先生 著作】
家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども岩波書店、1994年
不登校を解く(共著)ミネルヴァ書房、1998年
教育という「物語」 (共著)世織書房、1999年
〈こころ〉の定点観測 (共著)岩波書店、2001年
「こころ」はどこで壊れるか(共著)洋泉社、2001年
「こころ」はだれが壊すのか(共著)洋泉社、2003年
「こころ」の本質とは何か筑摩書房、2004年
新しい思春期像と精神療法金剛出版、2004年




4、重友先生と大洗海岸
                          2010・7・10
                              深沢 秋男

「あらッ!」
 お嬢さんの声に私が振り向いた時、打ち寄せる波の先端はすでに重友先生の両足に達していた。
 早速、新聞紙を砂浜にひろげ、そこに座わって頂いた。お嬢さんと私は、海水の十分に滲みこんだ靴から、水分と細かい砂をていね
いに拭い取った。
「恐縮、恐縮」
 そう仰って両足を挙げておられる先生。平素、万事に慎重で敏捷な先生の、この思わぬ失策に、私は内心、いささかはしゃぎ気味であった。
「わざわざこんなとこ迄来て、足を濡らすとはねえ君、これこそ大洗海岸だね」
 先生のこのお言葉に私は許しを得たように吹き出してしまった。お嬢さんも、そして先生も一緒になって笑った。先生の黒縁の眼鏡は、やわらかい光を反射し、右頬の黒子は快活に勣いた。

 昭和四十一年二月、水戸へ桜山文庫の鹿島則幸氏をおたずねして『春雨物語』など八点の御蔵書を拝借しての帰りの出来事である。大切な仕事を一つ済ませて、ほっとされた直後のこの失策。砂浜には私達三つの人影以外に動くものは無かった。そんな中で、先生は大自然の美しさにみとれて、思わず我を忘れておられたのかも知れない。

 大きく湾曲した海岸を、数条の白線が走っている。時に広く、細く、点在する岩礁の黒点に跡切られながら……。巨岩を洗う怒涛も、この路上からは緩やかな自然の息づきのように映る。

 この時の、重友先生の温かい表情をたたえた笑顔と、この景色は印象深く焼きついていて忘れられない。
 また、帰りの車中、向かいの座席で撮らせて頂いたお写真は、隣席のお嬢さんにそそがれる眼差しが、何ともやさしく、それが私にまではね返ってくる。

 私は中学時代からのカメラ狂で、先生のお写真も随分撮らせて頂いたが、初めはなかなか良いものが出来なかった。しかし、いつ頃からか、先生の自然なお姿・表情が写せるようになった。多分、先生が私の特つカメラを意識されなくなったからだと思う。先生の頌寿記念論文集の口絵に、私の撮った写真を使って下さった。これは、私の一つの誇りである。

        (『文学研究』第50号、昭和54年12月発行、より採録)


3 絵解きにみる庶民の娯楽性の歴史 
                         2010年7月1日
             宮島 鏡 (昭和女子大学オープンカレッジ講師)

「絵解き」とは、絵画を見せながら、その絵についての伝承や説話、そして解説を行うことである。
 今昔、子どもの場合だと、紙芝居が広義の「絵解き」であろう。そう考えてもらえば社会にとって「絵解き」とはなんなのか、という話がしやすくなる。
 日本仏教における絵解きは、一般的には「お絵解き」とありがたがられ、前近代の庶民の間で尊重されたものである。もともと信仰の対象として絵解きは行われ、絵画に物語、そして表現の演出、それら総合的な観点から文化、芸能的な役割まで果たすことになっていった。
 仏教の世界においては、文字が読めない庶民に対して、僧侶が仏画や地獄極楽の絵を見せて行う「教義」の意味があった。そのはじまりは定かではない。寺院の居開帳・出開帳の日に普段は秘密絵となっている曼荼羅などを、解説し、信仰心を集めてきた。これが本来の仏教のお絵解きを指す。
 中国の俗講変文の絵解きがルーツなのではないかとも考えられる。これは唐代に行われた仏教の講釈であり、仏教説話を描いた絵や韻文を用いるなどして平易に説いたもので、変文という台本がある。日本的に言えば講談からの絵解きである。
 日本で絵解きが初めて文献に出てくるのは、成道寺の僧侶による絵解きが十二世紀末の慶延「醍醐寺雑記」に引く重明親王の日記に書かれている。これは「釈迦八相図」といい釈迦がこの世に出現して示した8種の相。降兜率・入胎(托胎)・出胎・出家・降魔・成道・転法輪・入滅の八相の様子を描いたものである。これの解説を重明親王が受けたというのである。つまり、神仏習合のはじまり頃にはすでに絵解きの文化は出来あがっていたのである。
 日本絵画は日常的に動かすことができる文化である。季節ごとに変えられ、また人の動きに左右される。豊臣秀吉の金屏風などがいい例である。日本絵画は可動的というか、それぞれの趣向ごとに掛け替えられていく。
 絵解きの一つ、絵巻物に至っては見る人が動かしながら、絵を説いていく。これらは物語性を含め、一種の芸術としか言いようがない。
 和歌や短歌などを含められたもの、絵解きの中で絵師が伝えたいもの、講に集まる人たちへの「訓」など様々である。
 造形性へのこだわりは、神仏習合が解かれた、ここ100年程度である。要するに、「絵解き」は文化として衰退の一途を走ってきたのである。それまでは、古くから釈尊の一代記や浄土極楽といった宗教色を自由に表現することができた。しかし、日本には江戸時代まで「自由」という言葉は意味がなかった。「自由自在」が本来正しい。しかし、現代的史観によると自由に、絵解きは講釈をしてきた。それは鑑賞・享受への本来のありかたである。
 
 中世に入ると、絵解きの中では「曼荼羅」が注目を浴びる。
 当麻寺の「浄土変観経曼荼羅」である。これは浄土宗の寺院を中心として全国に広まった。この絵解きは中将姫伝説を織り込み、西山寺派の視聴覚説教といえる。浄土三部経の一つ、「観無量寿経」の中の阿闍世王の悪逆を哀しむ母の韋提希夫人に、釈迦が阿弥陀仏とその浄土の荘厳などを観想する16種の方法を説いた経典を元にしている。絵解きの感極まるしゃべり口調に涙なくしてはいられない物語である。その絵解きの説教は浄土宗西山派開祖の善慧房証空、道観証慧によるものであると平高経の日記に示されている。なんとこの絵解きは今の午後四時ごろから夕刻に及び、さらに念仏して終夜にわたったという。
 この「曼荼羅」に対する絵解きが皇族貴族は好み、そしてやがて庶民にも談義所を通じて濃厚に広まって行った。近代に入り、江戸時代の落語の祖・安楽庵策伝も「曼荼羅」の絵解きが得意としていたという。
 さて、日本の絵解きの中で、やはり一番歴史的に庶民が観て、ありがたがる傾向が強いのは上人たちの伝記であろう。聖徳太子は別格としても法然、親鸞、一遍、日蓮、袋中などである。そこには「どうしたらあのような人生を送れるのか」という行き場のない庶民の憧れと幸福の関係がそこにはあるといえよう。そして、ここで必ず必要とされてきたのが「おふだ」である。もちろん絵解き法師からおふだを庶民に頒布しているのである。そのおふだは高野山なり身延山なり、あらかじめ法師が持ってきたおふだを、互いの「お気持ち」で人々が金銭の取引をしている。経済的な効率は良くないが信頼と信仰が深まるのである。上人たちのお姿はもちろん、その寺院の御仏のおふだを分けていただくということは庶民への最大のありがたみであったわけである。
 寺院そのものの絵解き、例えば「道成寺縁起」「熊野曼荼羅」「那智参詣曼陀羅」「善光寺如来曼荼羅」「石山寺縁起」「長谷寺縁起」…数を挙げれば枚挙に暇がないくらい多い。
 そして権現記。「箱根権現」「秋葉権現」「春日権現」…等など、どれもおふだになって庶民信仰のものである。また、下関市の赤間神宮「安徳天皇御縁起」三木市法界寺「三木合戦図」野間大坊の「源義朝公御最後期」京都「京都六波羅蜜合戦」といった英雄もの。しかしどれも宗教色がある。そしておふだがある。
 「地獄絵」もその最も足るものである。これは視聴覚的に教訓といったものである度合いが強い。もちろんいままでの絵解きとおふだにその性質がなかったとはいえないが、これも宗教色が強く、庶民信仰が強い。中世末から近世にかけて、絵解き法師の多くに地獄の絵解きが多かった。しかし「紫式部日記」「蜻蛉日記」「枕草子」など貴族の文学に阿弥陀浄土への憧れはあっても庶民ほど地獄への関心は描かれていない。平安貴族たちに共通するのは易行の功徳を積んでいるため、ということを考えており、地獄への恐怖を感じていなかったといえる。
地獄に解される九相とは、人間の屍が火葬までに経過する九つの様態である九想、すなわち大智度論によると[1]脹相(屍の膨張する様子)、[2]壊相(屍が腐乱して壊れく様子)、[3]血塗漫相(屍が腐敗し損壊して脂血の滲み出る様子)、[4]濃爛相(屍が完全に腐敗してどろどろになった様子)[5]青相(屍体が濃い藍色になった様子)、[6]虫相(屍が鳥獣などに食い荒らされてバラバラになる様子)、[7]散相(屍の各部分が散乱した様子)、[8]骨相(血肉がなくなり骨だけとなった様子)[9]焼相(死体が火葬されて灰になった様子)を観じ、肉体に対する執着から離れるための九つの相観である。
「東大寺諷誦文稿」に死屍の変容をこのように見守る風があった。これが九想観に直ちに繋がらぬとしても無関係とも思われない。遺骸を棺に納めて松丘に葬り側の仮慮に三年喪に服し、三年後築墓して改装を了える。その後、家宅において礼拝をいたし、諷誦文を諷唱する、などという風習風儀のあったことは留意する。その風儀は市聖の動向や文芸・絵画また九相に対する考え方とあさからぬ関係にあったと思われる。
同じ頃に出た「日本霊異記」の語りに地獄の修羅場が書かれている。地獄図とは庶民の恐怖と正義を教えてくれるものであって、説話の上手下手によりインパクトがどんどん変わって行く。具体性を伴った地獄図が既に存在していたかを感じる。地獄絵の絵解きの変遷の講釈は地獄への庶民信仰を表したおふだという形で人々の心に授かっている。地獄の閻魔大王のお姿を出している寺院では大抵が絵解きをしていたといえるだろう。
源信の「往生要集」は江戸時代には絵入りになり出版されている。この本の絵が「のぞきからくり」などの絵解きの材料になっていった。「のぞきからくり」とは、のぞき穴のある箱の中にストーリー仕立てにした絵(名所の風景や絵)が何枚も仕掛けられていて、口上人の話に合わせて、その立体的で写実的な絵が入れ替わって行く見世物である。そして、文明開化の波に乗り、大衆娯楽施設の充実と共に一層の改良が加えられ、ガス灯やカーバイトランプ、更に電灯とその光源の発達変化によって、より華麗に画かれ立体感を深めるように工夫されるようになった。
中国ではすでに「のぞきからくり」に似たような物があったが、日本では江戸時代にのぞきメガネというレンズを通して平面の絵が立体的に見えるカラクリを見たのが始まり。  
その後、明治時代に完成し、大正〜昭和戦前にかけて、一般大衆に広く親しまれた娯楽になった。しかし、戦後、テレビや映画の普及によって、急激に姿を消し、現在残っている「のぞきからくり」は全国でも数台しかない。
 これからも分かる通り、かつて宗教・衰退・娯楽が一体とする生活には法芸一如という長い歴史の中に状態に絵解きはあったのである。絵解きも話芸であるからして芸能といえるだろう。
絵解きを大幅に述べてしまったが、庶民の支持を集めたその理由はまさしく娯楽性である。
 


2、「徳川氏御実記」(『江戸会誌』創刊号、明治22年8月25日)
                         2010・4・17
                             深沢 秋男

   【注】引用に際して、新字体に改めるなど、一部の表記を改めている。

「徳川氏御実記
人若し徳川氏三百年施治の間に於ける、最も完全なる最も精確なる歴史は何に就いて調ぶべきかと問はば、識者は必らず徳川氏御実紀なりといふことを辞せざるベし。唯だ其書従来日光の宝庫中に蔵せらるるのみにして未だ世間に流布せられざりしを以て、之を知る者甚はだ少し。今該書の性質に就ては重野元老院議官星野文学教授の物せられたる左の一文を見て以て之を知るこざを得ベし。如此く有益なる秘書を、空しく世に公にせずして宝庫中に埋蔵するは遺憾なりとて、之が出版を計画する者も従来少からざりしと雖ども、其巻帙の浩瀚なるに驚ろきて、着手せる者なかりしが、近時亦在朝在野の貴顕紳士にして、此書出版の挙を賛成せらるる向きも頗ぶる多き故、本誌の発行所なる博文館主大橋佐平氏大に其出版の事に計画する所ありと聞けば、遠からず其挙を公にすることもあるべし。今其文を左に掲げて該書性質の一斑を示すべし。

徳川歴代実紀は、東照宮家康より浚明院家治に至るまで、十代の実録にして、本編四百四十七冊附録二十八冊、共に五百十五冊、述斎林衡〔大学頭、大内記〕、之を総裁し、成島司直〔図書頭〕撰述す。其体裁は実録に摸倣す。初其書名を定むる。実録は和漢共に之を天子に用ふ。本朝文徳実録、三代実録あり。故に之を避けて実紀と名くと云。材料は史局の日記を根拠とし、旁内外の簿籍、家牒、野史を参攷し、引用する所七百四十四部、豊にして煩ならず、質にして野ならず。体倒修整字句穏雅、洵に曠古の鉅作たり。述斎は岩村城主松平乗薀の次子、博学にして卓識あり。大学頭林信敬卒して子にし。幕府内命を下し、述斎を以て共後を承けしむ。述斎職に就く。首に学政を更張し、科場の法を□め、士子入仕の路を開き、又三調〔実紀地誌沿革〕を昌平黌内に設け、其人を撰任し、体例を定めて之に授け、各其事に従はしむ。是に於て実紀、朝野旧聞□藁武蔵相模、風土記稿、武家名目抄等の諸大編、陸続撰出す。皆経世有用の資に供するに足れり。而して此書最も完善明備と為す。抑も史学の要は材料を択ぶに在り。材料の精確なるは、日記文書にして、詳胆宏富なるは実紀実録とす。漢土歴代皆実録あり。史を修むる者、之に拠りて編を成す。本朝実録僅に文徳以下四帝あり。宇多帝以後は著撰なし。武人政権を執るに及び、益晦日盲を極め、吾妻鏡の外は室町日記の類数種ありと雖も、皆断簡零冊にして当代事蹟を徴するに足る者なし。此書徳川氏十代の政令行為を記し、殆ど遺漏なく、体裁措語両ながら、其宜を得、二百余年の事蹟燦として列眉の如し。附録は毎紀の末に附し、名君言行録の体裁に擬して、且論賛の意を寓せり。其文恭院以下の五代〔文恭院家斉、慎徳院家慶、温恭院家定、照徳院家茂、従一位慶喜〕は別に続修あり。属藁定かならずと雖も、既に一百三十四冊を成せば、亦其大略を観るに足れり。考古者尤も宜しく珍とすべし。ただ編中美事を挙げて過行を載せず。□あり。否なきを以て世間或は之を病むものあらん。然れども凡そ書各其体あり。実紀実録は臣子其君父の行事を叙述する者なれば、自ら然にらざるを得ず。其過悪を録するに至りては、世別に之あり。備はるを一書に求むべきに非ず。譬へば器物の如し。物各其用あり。用に大小あり。未一器にして万用を弁ずる者あらず。須らく細大精粗を具へて始めて完全を見るべきのみ。大橋佐平此書を刻せんと欲し、来て意見を諮す。乃所見を挙げて之に答ふ。今世書を刻する者概ね目前の利を謀りて遠大の識なく、巻帙浩澣に渉るものは棄てて顧みず。此挙の如き誠に嘉尚すべし。因て慫慂して速に上梓せしむ。其体例の節目に至りては本書巻首に成書例あり。茲に復贅せず。

明治廿二年九月 
元老院議官兼文科大学教授 編年史編纂委員長文学博士  重野安繹
文科大学教授 編年史編纂委員             星野 亙恒」



1、かまどの神、三宝荒神を説く           2010・4・5
                             宮島  鏡

「三宝荒神」はインドからの伝来した信仰のある仏教尊像ではなく、日本神仏習合の信仰の歴史の中で独自に発展した尊像です。

日本古来の荒魂信仰、例えば、伊勢の皇大神宮の別宮の一つの荒祭宮は天照大御神の荒魂を祀っています。祭祀として平将門の乱や蒙古襲来など国家の重大事に公卿勅使から臨時奉幣(神にすがること)を受けた歴史がありますが、そもそも荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂です。

仏教の伝来とともにヒンドゥー教から伝わってきた夜叉・羅刹など悪神を仏教に帰依した神を祀り、これを以って守護とする風習が伝わりました。これがいわゆる荒魂信仰です。三宝荒神はそのうちの一つの神です。

像容としての三宝荒神は、日本仏教・神道の信仰の中で独自に発展し、神道、密教、山岳信仰などのさまざまな要素が混交して成立しました。荒神を祀る寺社は日本全国に約300社あるそうですが、独自的に勧請した寺社を数えると、もっと多いでしょう。

天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる悪神の働きに対し、それを防ぐ和魂という信仰もあるわけです。雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れです。

荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもあります。人々は悪神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきました。

この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂とも通じるとされています。

日本は荒魂を皇居近くに祀らなかったことの意義を考えてみます。たとえば神功皇后(170~269年6月3日・仲哀天皇の皇后)は古代の朝鮮半島南東部にあった国家、新羅征伐の後、天照大御神の託宣で荒魂を皇居に近づけませんでした。

荒魂が存在すると考えることは「厳格な物忌み」、つまり心身のけがれを除く効果があったといえましょう。

『古事記』を解読した江戸時代の国学者・本居宣長(1730年6月21日(享保15年5月7日) - 1801年11月5日(享和元年9月29日)は、神について「悪神のいる神学」を考えました。『古事記』に出てくる禍津日神を災厄の神、けがれを物実として現れた悪神と定義して、「世間にあらゆる凶悪事は、みな此の禍津日神の御霊より起こるなり」として、不幸なことは全て禍津日神の働きであるとしました。しかし、悪神でも和め祭れば恩頼をもたらしてくれるし、また、善神でも怒ると災いが起こるとしました。

人間の考えを神は超えているので、ひたすらに神を祀るべきであると考えたわけです。

そういう訳で人間が神を作りだしたといっても過言ではない「三宝荒神」ですが、お姿は三面六臂が多い。頭髪を逆立て、眼を吊り上げた憤怒の表情を示していますが、これは密教における明王などに共通する発想です。そして、「三面」という点は、一つ一つに、天・地・虚空を意味しています。いわゆる「天」とは仏、「地」とは法、「虚空」とは僧という「三宝」なのです。

また、「八面五臂」のお姿は三面の頭上に五つの小面を持っているものもあります。

『古事記』に「熊野山の荒神」「荒神甚多」という記述があり、『日本書紀』にもいくつか「荒神」と記載してあり、現在の荒神信仰につながるのは中世以降のもののようです。「荒振る神」として存在しています。

修験道の世界では役行者が金剛山で祈っていると北東の方に赤雲がなびいていたので、行ってみると宝冠をつけた六つの腕の神人がいて、右の手には独鈷、蓮華、宝塔を持ち、左の手には鈴、宝珠、羯磨杵を持って、こう告げたといいます。

「われはこれ三宝衛護の神として、世に呼んで荒神という。我、常に淨信修善の者をたすけて不信放逸の者を罰す、ゆえに人は荒乱神という」

大和竹林寺の荒神は東大寺建立の際に聖武天皇から、事故防止を食い止めるために、

「無事伽藍を建てるべく、七岫七谷峰の荒神を祀れ」
そして良弁僧正が鷲峰山に祈って、東大寺が完成したといいます。

  前項の大山寺のように、三宝荒神と歓喜天とが同体に祀り、寺院を守護するとともに、庶民信仰として疫病や人災を起こさないために、という意味合いや夫婦和合し子宝がめぐまれるという信仰もあります。

日蓮宗では「普賢三宝荒神」という妙称で信仰されています。日蓮聖人の『御義口伝』に「三宝荒神とは十羅刹女(法華行者を守る十人の神女)のことなり。いわゆる飢渇の神、貪欲の神、障礙(さとりのさまたげ)の神なり、今法華経の行は三毒即三徳と転ずるゆえに、三宝荒神にあらざるなり、荒神とは法華不信の人なり、法華経行者の前にては守護神なり」

と、十羅刹女を三宝荒神であると、説いています。

人類は火を発見したことによって、多くの文化が生まれました。まずは雨に対する信仰。原始人は火を炊くことで蒸気が起こり、やがて雨が降るという、「救いの神の信仰」がある。これは「除魔」というべきです。縄文土器も火災に見回れた家がたまたま粘土で器を作っていて、自宅から火が消えたとたん、土器ができたというように、火に対し、「危険であるが使い次第」ともいうべきか、文化を進めるはじめになりました。これは「転換」であります。そして、弥生時代の「米」という食文化。これも火がなければ生まれなかったことです。

竃という「食べ物を作る。そして食べる。」という人間にとって根本的な面において、火は神聖視され、民間においては竈の神として、信仰されることとなり、田植えが終わると苗を三束、三宝荒神に供えたりもする地域は今でも多いです。これは「作神信仰」といいます。

生活面での荒神は亭主のことを「荒神様」と呼んだり、赤ん坊の名付けの際、いくつかの名を紙片に書いてから荒神に供え御幣でなであげるなどして、神意によって決定したり、江戸時代では盆の窪の毛(うなじの毛)を僅かに剃る幼児の髪風俗として、河川に落ちたりしたときに妖怪としての河童から荒神様が助けてくれるという信仰までありました。

庶民にとっては由来はともかく直面する現実生活を守護とする考え方、これは現代も変わりません。「三宝荒神はありがたい」と素直に味噌汁をすすり、米を食べることが日々において大切なのではないでしょうか?