鹿島則孝略伝

深沢秋男

 鹿島神宮・宮司家の六十六代・鹿島則孝、六十七代・鹿島則文の伝記については、かつて発表した事がある。(注1)従って、ここでは、その概要を記すにとどめたい。
 則孝略伝を述べるに先だって、鹿島神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島則良氏蔵)に拠って略記する。

【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命―【9】久志宇賀主命―【10】国摩大鹿島命―【11】臣狭山命―【12】狭山彦命―【13】大広見命―【14】津彦命―【15】島根大連(允恭天皇十五年丙寅賜大連)―【16】波波良麻呂―【17】佐佐麻呂―【18】千志麻大連―【19】小主―【20】東麻呂―【21】春魚―【22】国石―【23】広庭―【24】鹿門―【25】諸躬―【26】武主(天平十八年丙戌三月丙子賜中臣鹿島連姓)―【27】大宗―【28】治嶋―【29】治風―【30】武則―【31】則高―【32】則成―【33】則助―【34】則綱―【35】則純―【36】則景―【37】則長―【38】則宗―【39】則常―【40】則行―【41】則雄―【42】則光―【43】則幹―【44】則仲―【45】則藤―【46】則国―【47】則密―【48】則弘―【49】則隆―【50】則満―【51】則熙―【52】則房―【53】則家―【54】則恒―【55】則久―【56】則興―【57】則盛―【58】則広―【59】則敦―【60】則直―【61】則長―【62】定則―【63】則備―【64】則峰―【65】則瓊―【66】則孝(荘三郎 主税之助 従五位下 大隅守 大宮司 幕臣筑紫佐渡守孝門三男 文化十年癸酉江戸牛籠逢坂ニテ出生 天保八年丁酉十二月六日則瓊聟養子トナリ下向婚姻ス 同十四年癸卯潮来館ニテ水戸斉昭卿ニ謁見ス 弘化三年丙午正月十四日参宮初メ 同四年丁未五月六日上京 七月廿一日叙従五位下任大隅守執奏鷹家 安政五年十一月六日則瓊隠居則孝襲職 十五日継目礼将軍ニ謁見 同十二月十五日将軍代替ノ礼登場謁見 万延元年庚申三月押手社祝詞社阿津社津東西社鎌足社遷宮執行 文久二年壬戌十一月禁中ヨリ米御寄附ニヨリ則文ヲ代理トシテ上京セシム 元治元年九月二日筑波ノ浪士隊鹿島ニ来ル六日出発ス巳亥幕府兵追討シ来リ宮域ニ発銃ス飛丸霰ノ如シ則孝昨夜ヨリ宿直警衛遂ニ事無キヲウ此時大舟津一ノ鳥居焼失ス 慶応元年乙丑十月濫ニ暴徒卜交通シ祭典ヲ改正シタルニ坐シ則孝職ヲ褫ハレ謹慎則文ハ八丈島ニ謫セラル 同二年丙寅二月謹慎ヲ免サル 明治元年七月四日非常御奉公ノコトヲ出願ス 十一月十七日則瓊高年ニ付代理ヲ命セラル 十二月六日奉幣勅使植松雅言参向父子祭典執行七日息栖社則孝執行 同二年正月常陸帯祭及二月十四日十五日祭典式改正 四月七日則瓊辞職則孝大宮司宣下 五月六日神宮内院洒掃ス当禰宜事ニ托シ御鍵ヲ秘シ開扉ナキヲ以テ数十年ノ塵挨山ノ如シ 六月五日則文赦免十三日帰国 七月朔日稽照館開講 八月二日祭典復古ノ儀ヲ神祇官ヘ出願 四日本氏鹿島に復スルヲ届出 廿日総神官改補禄改正ノ儀願出皆聞届ラル 九月九日復古大祭典執行 十月八日御内内陣新ニ安置破損ノ物ヲ取出ス 九日両宝蔵洒掃 十一月四日奥宮御内陣洒掃 十一月廿三日学校保存資トシテ米金を寄附ス 同三年庚午七月十一日数百年廃絶ノ神幸祭再興執行 九月四日大奉幣使参向奉幣使神祇少副羽美静宣命使大弁坊城俊政則孝則文父子勤仕ス 同四年辛未五月十六日新ニ奥宮内内陣ヲ造リ奉奠ス 六月廿八日父子三名位記返上ス 七月十七日総神官御暇乞トシテ香取神宮ヘ参拝則孝則文仝道 十二月廿九日本年職禄ノ半租ヲ賜フ 同五年壬申七月八日教部省ヨリ達アリ総神官被免神勤 十二月表座敷并表門ヲ取毀 同六年癸酉七月十二日士族編入新治県族被達 同八年乙亥五月七日新治県被廃茨城県ヘ管轄換 同六月十二日新宅ヲ造り移ル 同九年丙子九月隠居時ニ六十三年七ケ月前後在職十二年 同十七年甲申四月二日則文伊勢神宮宮司拝命赴任ス 七月家族皆任地伊勢二赴 同十八年四月十六日畿内ノ花ヲ巡覧ス 同廿五年壬辰十月二日卒年八十是ヨリ先廿一年十一月卅日中風ヲ発シ三週間ニシテ愈シモ遂ニ再発シテ此ニ至ル 三重県度会郡宇治山田市浦田町今北山ニ葬ル
実父 幕臣筑紫佐渡守孝門 天保九年六月十一日卒
実母 貞子青木甲斐守一貫女 弘化三年五月十日没
妻嵯智子 則瓊女 母香取氏 文政六年生 天保八年丁酉十二月十五日結婚 明治十七年則文伊勢ニ赴任スルニヨリ同ク赴ク 同廿六年十月十五日没年六十九年一ケ月 今北山則孝君墓側ニ葬ル)――――――――――――――――
【67】則文(則孝長男 布美麿 矗之輔 出羽守 鹿島神宮々司 神宮宮司 母鹿島氏 従四位 天保十年己亥正月十三日出生 嘉永四年吉川天浦ニ従ツテ読書 六年十一月二日元服 六年二月朔日参宮始 万延元年上京安井息軒ノ塾ニ学フ……慶応元年七月暴徒卜交通シ祭式ヲ変改スルニ坐シテ揚屋入り 二年五月廿四日八丈島ニ謫セラル 明治二年五月朔日赦サレ廿八日帰京 六月十三目帰郷ス 七月朔日稽照館ヲ開キ講学セシム父祖ノ素志ヲ達スルナリ……九年九月七日家督相続……十七年四月二日神宮宮司ニ任セラレ五月家ヲ携テ赴任ス……〔明治二十八年〕四月故事類苑編纂始メ 六月廿一日叙正五位 廿九年十一月叙高等官二等 卅年皇学拡張是ヨリ先赴任ノ時皇学館ヲ興シ教育を計ル此ニ至り基礎定マル 卅一年五月廿二日夜神宮参集所失火司庁類焼御正殿屋根ニ及ビ風宮ヘ遷シ奉ル 六月黒木御殿出来遷宮 六月廿七日依願免本官 七月三日帰郷 卅四年五月十三日特旨ヲ以テ叙従四位 十月十日前三時卒 三笠山先塋ニ葬ル享年六十二
母 嵯智子 祖父則瓊君女……)――――――――――――――――
(以下省略)


 以上、『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』に従って鹿島家の歴代の当主を掲げたが、第六十六代・鹿島則孝の条は、これで全文である。さらに、この系譜には、則孝の末尾に「筑紫系図」として、則孝の実父・孝門について次の如く記されている。
 「孝門 仙石淡路守政寅三男 安永四年五月廿四日生 筑紫惟門養子 従五位下 佐渡守 藤原姓 采地三千石 中奥御小姓 浦賀奉行 日光奉行 西丸新番頭 後隠居 天保九年戊戌六月十一日卒年六十四 浅草新堀端永見寺ヘ葬」
 孝門には五人の子がある。長男・徳門、二男・義処、三男・則孝、四男・正路、五男・孝本である。
 則孝は『桜斎随筆』巻二の上の第一項において「則孝略履歴」として、自らの略歴を記している。
 「壱 予ハ文化十年癸酉三月廿八日晴巳ノ刻武州豊嶋郡峡田領牛籠之里逢阪下筑紫邸に生〔父君第三子也〕初名壮三郎と称す
 〔時に初名に添て濃州西郡住寿命短刀父君ヨリ賜〕 文政十一年戊子十一月廿一日晴元服〔時に十六歳〕理髪仁科一刀太 〔家臣〕同日実名孝勝〔孝勝切興花押〕右実父より賜ふ 天保八年丁酉十二月則瓊君の聟養子となる〔時廿五歳〕実名を則孝通称主税助に改む 実父より給ふ 同月十五日婚姻整ふ 弘化三年丙午正月十四日曇初て神宮に奉仕〔時に三十四歳〕同四年丁未五月上京 七月廿二日晴叙従五位下任大隅守同十一月廿八日曇拝賀参宮〔時に三十五歳〕
  安政五年戊午十一月六日晴任大宮司家督相続〔時に四十六歳〕
  文久三年癸亥十一月廿一日惣髪となる〔時に五十歳〕
  慶応元年乙丑十月廿九日事に当りて免職位官元の如し〔時に五十三歳〕
  明治元年戊辰十一月廿七晴多年謹王之志操を相励候条神妙ニ候依之父大和守ニ相代り神宮祭奠者勿論神領所務万事可令指揮事と神祇官より賞典を給ふ位官元の如し〔時に五十六歳〕
  同二年己巳四月七日晴更に大宮司職宣下〔時に五十七歳〕本年より髻を後ろへ下げる
  四年辛未十一月廿三日散髪となる〔時に五十九歳〕
  同九年丙子九月七日願の上隠居〔時に六十四歳〕
    実名則孝帰納抓 花押
                                」


 鹿島則孝は、文化十年(一八一三)、江戸牛込に、旗本・筑紫佐渡守孝門三千石の三男として生まれた。天保八年(一八三七)六十五代・鹿島則瓊の養子となり、安政五年(一八五八)大宮司となる。慶応元年(一八六五)、謹皇の志士と交わったとして謹慎を命じられたが、翌二年免される。明治九年(一八七六)隠居し、同二十五年十月二日没、八十歳であった。この間、明治十七年、子の則文が伊勢神宮の大宮司に任命され、共に伊勢に移住していたため、宇治山田市浦田町今北山に葬られた。
 明治六年、大宮司の職を子の則文に譲り、九年には家督相続を済ませ隠居している。則孝晩年の十五、六年間は悠々自適の生活を送ったものと推測される。則孝は、生来大変筆まめであったらしく、その書き残したものはかなりの量になる。現在、鹿島則良氏が所蔵されるものを掲げると次のごとくである。
◎桜斎随筆・54巻・60冊。◎都日記・2冊。◎上京日記・1冊。万我津比の記・3冊。◎桜斎書牘集・7冊。◎桜斎雑記・1冊。◎桜斎雑録・1冊。◎則孝雑記・2冊。◎飛鳥川附録・1冊。◎家茂将軍謁見記・1冊。◎幕府朱印改渡記・2冊。◎幕府祈祷次第記・1冊。◎朝廷御寄附米記・1冊。◎末社遷宮記・2冊。◎官幣使御参向記・1冊。◎復古二年紀・3冊。◎桜斎家督記・1冊。水戸家書類・1冊。◎則文諸祝儀・1冊。◎大宮司鹿島連家系・1冊。◎日記(大宮司としてのもの。天保十三年・十五年・弘化二年・嘉永三年・四年・明治二年・三年)。その他、詠草などがある。
 則孝の生家の場所は、江戸牛込の逢坂の角で、牛込と市谷の堺、市谷船河原町だという。安政四年、尾張屋版の江戸切絵図を見ると、牛込御門から外壕に添って、市谷御門へ向かう途中の右手に逢坂があり、その角地に「筑紫帯刀」とある。また、この辺が「船河原町」で、その先が「同(市谷田町)三丁目」とあり、則孝の記述と合致する。ここが、則孝の実家・筑紫孝門の屋敷であろう。三千石の家柄であるため、屋敷も広い。この辺の街並は、現在もあまり変っておらず、中央線の飯田橋駅から市谷駅に向かって外堀通りを進むと、神楽坂の次に臾嶺坂(別名、若宮坂、行人坂、祐玄坂。切絵図には、シンサカとある)があり、次に逢坂がある。この辺が現在も市谷船河原町で、筑紫家の屋敷跡と思われる逢坂の角地は、現在、空き地になっていて、奥の方に東京理科大学の薬学部が建っている。
 則孝は、ここで生まれ、二十四歳までこの地で過ごした。則孝の父、筑紫孝門は、浦賀奉行・日光奉行等を勤め、采地三千石の旗本であった。旗本の総数約五千二百名、その内、三千石以上は約二百四十名に過ぎない(寛政年間。深井雅海氏『国史大辞典』に拠る)。筑紫家はかなり上位の家柄であった訳であるが、『桜斎随筆』巻四には、その則孝の実家の生活の様子が記録されている。
 生活用品の購入は、牛込寺町まで出かけていたが、文政の頃より、神楽坂に商家が出来たので、ここに、一日二回、買い物に使いを出したという。また、市谷田町へは一日おき、日本橋へは一か月に一度、買い物に行ったと記している。
 正月の年始の様子も伝えられている。父・孝門は、元日から連日、諸方面へ年始廻りに出かけ、年始の来客の応対は、母、兄が行い、則孝も面会する事があったという。また、その折の饗応の様、年賀状の事も書き止められている。
 さらに、筑紫家に仕える、家老、用人、給人、近習、中小性、老女、側女、次女、小間使、茶の間女、末の女などの給料についても詳細に記している。当時の旗本の生活の実例として参考になるものと思われる。
 則孝は、『桜斎随筆』巻二下において「五十一 大宮司 中古代々忌日」「五十二 三笠山墓碑」など、鹿島家の先祖代々の忌年、墓誌等を記録しているが、続いて「五十三 恭徳院様御棺槨御石碑之覚」として、父、孝門(恭徳院殿朝大夫前佐州刺吏泰翁良温大居士)の墓所、墓石等について記している。今は、則孝の父母、兄弟の忌年を引用するに止めたい。

「実方親族忌年月日
父 孝門 筑紫佐渡守 清弟霊神 天保九年戊戌六月十一日卒 享年六十四
母 貞子 青木氏 端玉媛霊神 弘化三年丙午五月十日 同六十九
兄 徳門 筑紫右近 后蓮水 厳鞆霊神 明治元年戊辰六月九日同七十一
同 義処 青木新五兵衛 后鶴山 実相院 万延元年庚申七月七日 同六十二
弟 正路 佐々木寛四郎 寛量院 明治元年戊辰六月十九日 同五十六
同 孝本 小倉氏 元通称貞之助 同七年甲戌六月三十日 同四十九年四ケ月
甥 礼門 筑紫主殿 右靱霊神 慶応二年丙寅六月廿二日 同五十三

筑紫家先塋   東京浅草区栄久町百八番地 永見寺〔禅宗宗洞〕
同       同府下北豊島郡地方今戸町拾七番地 永伝寺 同
同 〔裏方埋葬〕同牛込区横寺町三拾三番地 龍門寺 禅宗
青木家先塋   同浅草区神吉町四十七番地 幡随院 浄土宗
佐々木家先塋  同四ッ谷区南寺町三拾四番地 松巌寺 禅宗    」

 旗本の三男とはいえ、三千石の家柄でもあり、同じ武家の養子なら納得もゆくが、何故、則孝は神官の道を選んだのであろうか。鹿島神宮・大宮司家といえば、長い伝統と高い格式の家柄であり、その故であろうか。その理由について、則孝自身の書き残した文章がある。(『桜斎随筆』巻四の二)

 「弐 予が武家を厭ひ、神家に成たる原因は、実父の君、昌平坂学問所御用勤中ニ、寄合肝煎、内藤外記と云人と、学校上の事ニ付、議論せしに、父の勝利と成りしを、内藤不快ニ思ひ居たるが、同人は、浦賀奉行勤仕となりたり。父君も又、同役と成られたるが、先勤故、諸事内藤の、指引を被受たるが、此時に至り、先きの遺恨を含み、種々不都合の差図にて、甚迷惑被致、其後も、内藤の親族、水野美濃守〔御側御用取次〕の為めに、讒言せられ、青雲の妨害となりしを、目撃せし故、断然武門を廃せむと、決意の処、恰もよし、鹿島より養子の相談あるニ付、取極たるなり。」

 則孝の神官への転身には、実父・孝門の、同じ旗本・内藤外記との確執が大きく関わっていたようである。
 孝門と内藤は、昌平坂学問所に勤務の折、意見の対立があり、結果は孝門の主張が通ったが、内藤はこれを根にもち、やがて、浦賀奉行となった時、先役の立場を利用して、いやがらせをしたという。さらに、内藤外記は、親類の水野美濃守忠篤に働きかけ、水野の讒言によって、孝門は出世の道を阻まれたという。水野忠篤は、家斉の小納戸から小性、大坂町奉行などを勤め、文政四年五月に側衆となり、八千石を与えられていた。家斉に重用され、第一の側衆として、心のままに振る舞っていた。天保十一年、家斉が没すると、首席老中・水野忠邦は、家斉側近の三佞人を処分しているが、水野美濃はその一人である。孝門は天保九年に没しているので、ちょうど、水野美濃守が専横を極めた時代にあたる。正論を主張したが故に、出世の道を閉ざされた父の姿を、少年・青年時代の則孝は見ていた。「断然武門を廃せむ」という表現に、その時の則孝の強い意思が示されていると思う。
 鹿島則瓊が大宮司家の後継者として、筑紫荘三郎に白羽の矢を立てたのは、単に、三千石の幕臣の三男坊という事のみでは無かったであろう。その人品、学殖ともに吟味の上であったと思われる。則瓊も歌文を能くした人物であった。両者相通うものがあり、この縁組は結ばれたものと推測される。

 

(注1)「鹿島則孝と『桜斎随筆』」(平成5年6月25日発行。私家版)

 


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