鹿島則泰



鹿島則文は鹿島神宮、第67代大宮司である。則文は、明治17年に伊勢神宮宮司を拝命、伊勢に赴任する。明治31年に伊勢神宮参集所失火、神宮司庁類焼。宮司を依願免職。鹿島に帰り、明治34年10月10日没。享年62歳、鹿島の三笠山に葬る。
 則文には、長男・則泰、次男・敏夫、四男・淑男などがある。ここでは鹿島則泰(かしま のりやす)に関するものを紹介したい。



1、川瀬一馬氏の、鹿島則泰翁の思い出ばなし
2、篠田鉱造氏の、鹿島則泰の思い出
3、研究ノート 鹿島則泰覚書  西村正守




3、研究ノート 鹿島則泰覚書     西村正守

     『図書館学年報』VOL 25,NO 1 通巻 45号
      1979年3月31日 発行

 先頃,「国立国会図書館月報」の編集を担当の某嬢から質問を受けた。「昔の月報をみていると,よく岡田温という名前がでてくるが,岡田さんとはどんな人か」と。月報も既に200号を超えるに至った現在,無理からぬ疑問とは思われるが,我老いたりの感を深くさせられた一瞬であった。帝国図書館長,国立国会図書館受入整理部長,図書館短大学長,東洋・鶴見両大学図書館長を歴任の岡田さんにしてすら,注釈を要する時代となったわけである。       
 これから取り上げようと思う「鹿島則泰」も,帝国図書館史上重要な役割を果した人物であるが,対外活動の少なかった故に,今や忘却の一歩手前にある。つなぎの意味でここに覚書を残しておこうと思う。まず岡田さんという人に紹介して貰うこととする。
 
  明治末から大正期を経て昭和初期まで,上野図書館には西村竹間,鹿島則
  泰などという,古書に明るいすぐれた図書館員がおったので,乏しい予算
  にもかかわらず,明治以前の文献が比較的よく集められている。中にも鹿
  島氏は江戸期の文献に造詣が深かったので,江戸時代の政治,文学,演劇
  音曲,遊芸関係資料はやや系統的に集められている(岡田温氏「旧上野図
  書館の収書方針とその蔵書」図書館研究シリーズ第5号)

 帝国図書館新築館(現支部上野図書館庁舎)は,明治39年落成,3月30日移転完了となったが,鹿島則泰が登場してくるのはその直後の4月20日からである。

     職員採用ノ件
              鹿島則泰
  右ノ者当館司書補欠ノ為メ採用致度候条当館司書ニ任セラレ8級俸給与相
  成度別紙履歴相添此段上申候也
                          (明39・4・20)


 (別紙)
     履歴書
    原籍 茨城県鹿島郡鹿島町1番地
    現住 東京市牛込区矢来町1番地16号
          士族 鹿島則泰
             明治元年正月生
  明治21年7月 帝国大学文科古典国書科卒業
  同 21年9月 尋常中学科熊本済々校教員ニ任ズ
  同 22年8月 依願職務ヲ免ズ
  同 22年10月 秋田県尋常師範学校教諭心得ヲ命ズ
  同 23年9月 依願職務ヲ免ズ
  同 23年11月 補鹿島神宮宮司
  同 26年12月 叙従6位
  同 27年3月 茨城県皇典講究分所長ヲ委嘱ス
  同 27月10月 私立茨城県尋常中学科国学館長ヲ委
          嘱ス
  同 31年12月 依願免鹿島神宮宮司     
  同 36年12月 皇典講究分所長国学館長辞退

 右採用上申を受けた文部本省は,秘書課長名をもって4月23日次の如く照会してきた。
  鹿島則泰ヲ貴館司書ニ任命ノ義上申相成候処右ハ詮衡上同人ガ図書ニ関シ
  学術経験アルヤ否ヤ取調ヲ要シ候ニ付詳細御回報相成度此段及照会候也
 よって翌24日,田中稲城館長は次の如く回答した。
  鹿島則泰ヲ当館司書ニ任命ノ義上申候処同人カ図書ニ関シ学術経験アルヤ
  否ヤ取調候様御照会ノ趣了承
  本館ニ於テハ和漢書名扱掛司書補欠ヲ要スル儀ニ有之候処右同人義ハ大学
  古典科ヲ卒業致シ鹿島神宮宮司奉職中ハ同宮所蔵ノ古文書類ヲ取扱殊ニ
  同人父則文ハ有名ノ蔵書家ニシテ同人モ居常之ヲ整理調査候趣ニ有之候ヘ
  ハ図書ニ関スル学術経験ハ十分可有之ト存シ左様御承知相成度此段及回答
  候也
 かくて鹿島則泰は,明治39年4月28日司書を拝命,書目掛として帝国図書館の人となった。以来和漢古書の蒐集,目録編纂等に従事し,大正12年3月31日行政整理による退職,同日付事務嘱託採用と身分上の段落はあっても,昭和13年4月16日老齢のため館を去るまで,帝国図書館の歴史とともに歩んだわけである。
 大正3年職員分課に示された鹿島則泰の担当事務は,次のとおりであった。
  和漢古書購入及謄写調査并取扱
  購入和漢古書事務用カード調整
  貴重書取扱,乙部統計,細目編纂(謄写本和漢叢書類)和漢書書名著者名ノ
  調査
  乙部和漢書事務用カード調整同書整頓并其函目録調整

大正7年4月26日     
  ゆきたえてあめつよくふる夕ぐれの上野の森はさひしかりけり
 同    5月29日
  けふはむしあつくして夏のこゝちせり夜に入りてはのきばにそそぐ雨の音
  のやをら梅雨の節も近づきぬらんはじめて蚊帳をつりたるが去年よりをく
  れたり
 同   6月9日
  早朝より日食とて人々のあけやらぬ空を打ながめつつまつ甲斐もなうかき
  くもりたるはいとのこりをしまひるごろよりは南のかぜやゝ強きが雨雲さ
  へ立迷ふてむしあつき日なり

 これらは,鹿島則泰「宿直日誌」の中の抜書である。風流日記ともいうべきか。     
 大正10年図書館講習所ができ,やがて帝国図書館附設となるや,鹿島則泰は講師として「日本書誌学」を担当したが,その講義振りは当時の教習生の回想記に生き生きとえがかれている。

  書誌学の鹿島先生は江戸っ子タイプの立派な方で団十郎の島の為朝の話な
  ど,私が芝居好きのせいか今だによく覚えている(4期今泉律子氏)
  鹿島則泰先生の江戸文化史? は一番私の好きな講義だった(6期鈴木剛
  男氏)
  青年時代政治家志望で鹿島宮司の家を飛び出した鹿島則泰先生が講談師張
  りの講義を続けられた。古めかしいが鮮かな印象を覚える。鹿島先生のお
  蔭で誰も見たことのない浮世絵の春信の魅惑的な姿態を虫干しのとき観賞
  したり,太田南畝の技巧的な文字や克明な馬琴の蝿の頭のような文字の列
  をみた。江戸時代の爛熟さがまるで身体中に漲りわたるような気がして誘
  惑と反撥とを覚えた(7期弥吉光長氏)
  羽織袴の鹿島則泰先生(10期土屋栄亮氏)

   ――以上いずれも図書館職員養成所同窓会30年記念会誌より一一                

 なお,大正12年辞職願提出の際の診断書病名は神経衰弱症となっているが(既述の如く,この退職は行政整理によるもので,診断書は一応の形式をととのえるためのものであり,差しさわりのない病名となったものと思われる),同診断書では生年月日が慶応3年12月7日生となっている。また昭和13年退職時の最終自筆履歴書も同じ記載となっている。これは明治6年改暦により明治5年12月3日が明治6年1月1日となったことをふまえて,当初採用時の履歴書は,慶応3年12月を明治元年正月と読みかえていたものであろう。
 鹿島老先生のけいがいに接する栄を得た国立国会図書館職員は,大内直之氏(10期)の昭和52年3月退職によって遂に皆無となった。講義は11期生まで担当された模様である。
 明治44年4月1日,花の上野の帝国図書館において,西村竹間,寺田実両人の還暦の祝が催された。
 折から浅見悦二郎とともに懇和会の幹事であった鹿島則泰は,その状況を美文調をもって伝えている。以下はその際の決算報告も併せた報告全文である。

     賀の宴の記                
  賀算といふは何時の世よりか起りけん 世には誰も誰も祝ひ寿くを 職を
  吾館に奉ずる 西村 寺田の両君 は松竹の立並ても今年は還暦の齢とか
  聞ゆるを いざさらばよそにやはとて 田中大人の深く厚き賛助の下に
  彼に此くと 太田の君の思ひはか.りませば 各も各も村雀相誘ひても 八
  百日はあれど神まつるとう卯月のはじめの日を 吉きが中の吉き日とうら
  へ定めて 今日の為とか咲きおくる上野のわが館にしも 其が式を挙る事
  とはなりぬ
  まづ田中大人のいとねもごろなる祝辞につけて 贈りまつる記念の写真に
  は いとも若返れる両君のおもはを写し 白がねの盃には 不老の泉を汲
  みて千秋までも此しつつ御座せとぞいわひこめたる やがて席は程遠から
  ぬ伊予紋とかに移しぬ 此には手島大人も来り御座して 千年の坂は諸共
  になど 両君に聞え給ふ 去は先つおととしにか 此楼の此席に 大人が
  還暦の賀宴ありしを思ひ出られてにかあるらん
  海の物も山の物もめづらしげはなきを 指並の隔てぬ心をのみ汲み給ひて
  よなど 誰も両君に聞えては漸う漸う盃の数も積りゆくを 太田君の開会
  の辞に綾をがざれば 両君の答辞は互に玉をつらぬきたまふ
  此て物いう花をさえ 所狭う植たれぱ 軒端の桜楼中の春 見あかぬ色香
  に興いよよさかりにして 掻ならす物の音には 心も空に浮れつべう 立
  舞ふくれなゐの袖には 包むにあまる両君の寿を 田中大人の発声にて
  万歳となも打上つ
  此くて両君のたまわせる末広に 千代万よと互にまひおさめたるも いと
  とめでたきためしにてなん
                  浅見 
                  鹿島 白す

  西村寺田両君還暦賀宴収支決算報告
  収入之部
1、金35円 田中館長寄付  
1、金5円  同別途寄付
1、金10円 太田司書官寄付   
1、金5円  手島校長寄付
1、金2円  直村君寄付
1、金30円 牧羽君外11名会費
1、金3円 渡辺,木村君会費
  小計90円也
1、金15円 西村君寄贈
1、金10円 寺田君寄贈
  合計115円也
  支出之部  
1、金10円 写真2葉代
1、金3円70銭 同上額縁代
1、金12円17銭 銀盃二個代
1、金84円51銭 伊予紋払
1、金1円 直村君へ返礼切手代
1、金30銭 記念品両家ヘノ使賃
1、金3円30銭 山田払
 合計114円98銭也
 差引残金2銭也
  但シ残金ハ茶話会へ寄付
右之通
 明治44年4月4日
           浅見 〔印〕
           鹿島 〔印〕

 鹿島則泰の没年ついては,遺憾ながら現在まで詳らかにし得ない。
 「鹿島老は戦時中岡山県和気にいる息子さん(嬢さん?)のところで他界された由,岡田温さん(当時帝国図書館長)のところに知らせがあったそうですが,年月日はわかりません」とは,筆者の問合せに対する岩淵兵七郎氏(大正14年〜昭和9年帝国図書館奉職,後に国立国会図書館分館長)の昭和49年元旦,年賀ハガキに添書された回答であった。岡田さんの帝国図書館長就任は戦後の事であるのでこの点は記憶違いと思われるが,この件についての岡田さんの答は否であった。岩淵氏も昭和50年3月物故され,明すべき道のまた一つが閉ざされた。
 また浅倉屋吉田久兵衛氏は,「戦時中,目白辺のしもた屋におられ,訪れた時寒中暖もない難儀の有様,驚いて当時入手困難だった炭をなんとか工面し,差し上げた」と回顧されているが,その後は不明との事。大方の御教示を切に待つところである。
 本稿は,鹿島則泰の面影を語り,関連して田中稲城,手島精一,西村竹間,太田為三郎,鹿島則泰らが一堂に会した「還暦賀宴」の帝国図書館裏面史の一節を紹介するとともに,あわせて最後の「帝国図書館長」たりし岡田さんという人,すなわち岡田温日本図書館学会会長の還暦ならぬ喜寿をことほぐ微意を表したものである。




2、篠田鉱造氏の、鹿島則泰の思い出

 篠田鉱造氏著 『明治開花綺談』(昭和22年6月15日、須藤書店発行)の中の「牢内の阿辰弥太郎」の項で、鹿島則泰・則文に関して記されているので紹介する。


「牢内の阿辰弥太郎

  鹿島則文翁と弥太郎

 幕末明初に、青木弥太郎の名は、伝馬町の牢内から娑婆へかけて、白洲で二十貫の石を抱いても、いつかな白状に及ばないといふ、剛情我慢の強さを伝へたもので、押込強盗の実を吐かず、一向に覚えがござりませぬと、拷問に歯を喰縛り、結んだ口は一文字。全く町奉行池田播磨守を手古摺らせ、寧ろ度胸魂は天下の旗下の面目背負て立つた位、到頭大胆不敵の所業を飽くまで否認し通し、毫しも恐れ入らなかつた。
 妾の阿辰は、弥太郎に●を掛け輪を嵌めた綽名は、「雲霧阿辰」と呼ばれて、彼等一味の姐御で通り、毅人強盗強請の数々を演じ、或時は小倉庵の主人の妾阿花を殺し、又或時は、浅草蔵前の誰が袖に、札差連を脅かし、御殿女中仇篠と見せかけ、其場で吉原桐屋の女郎賑と、小袖に隠す尻尾を?まれても、ビクともせずに、百五十両を強請り取つた、女夜叉の振舞。しかし、弥太郎の揚屋入を悲しみ、旦那の悪業は、みんな妾の所為と名乗て出で、其侭牢内へブチ込れ、男牢では弥太郎が二番名主、女牢では阿辰が一番名主。夫婦で御牢内の切盛采配を取つてゐた。
 といふ事実は周知の話。先刻御承知のことながら、爰に阿辰弥太郎の伝馬町に於ける実話の一節は、聞棄てにされぬ生の話であつた。
 上野図書館の生字引と謂はれた鹿島則泰翁は、昭和十五年の春同館を勇退されたが、館内のあらゆる書籍に翁の呼吸のかゝらぬものはない。筆者は何彼につけて翁をわづらはし、秘書の披閲に便利を獲てゐた。今や翁同館を去せれるに就て、胸中一片の淋しみは、落花の夕に彳む心地である。
 翁の先代は則文氏、号を桜宇、国学の大宗で安井息軒の門にも遊び、和漢の全籍に通暁し、本朝典故に精しく、夙に勤王の士と交はり、皇室の式微を慨嘆する等、遂に幕府の嫌忌に触れて八丈島の流刑に処せらる。其裁断中、伝馬町の牢内に在り、青木弥太郎に推されて一番名主の畳の上に、読書吟咏の暗き日を送られたものと思ふ。
 明治二年赦免となつて、江戸改り東京の土を踏まれ、郷里常陸鹿島の家に還り、子弟育英の事に従ふ。明治十七年には、伊勢神宮々司に任ぜられ、こゝにも皇學館を盛大に、若い学徒を養成するは、神国を堅実に護る所以と考へられた。
 青木弥太郎の事は『雲霧阿辰青木廼夕栄』など草双紙に綴られ、絶世拷問と割書してゐる位石を抱いても白状せぬ豪胆が彼の身上で、後の自慢であつた。今戸の寮の一話にも三谷の訪れを聞き、左掲の如き事実があつたのである。

有明楼の娘おきんが、助高屋高助を婿に迎へる晩、同楼に火事があつて丸焼となつた。これは高助に欺された同楼の女中のおしげが、嫉妬の焔火掩へ難く、湯殿へ燃えついての放け火の仕掛け。あまつさへ其身は隅田川へ飛込み、死体は竹屋の渡船場に浮んだ。今戸はこの出火の騒ぎに上を下への混雑中、三谷の寮の玄関へ、羅紗の羽織を着た大男。
「ヱヽ、小梅の小倉庵でございます。御騒々しいことで御見舞に出ました」
と言ひ置いて、靴の音を残し、サツサと帰つていつた。『今戸で什七有明楼、小梅でおしる粉小倉庵』と歌に唄はれた、名代のしる粉屋の主人。これが明治の青木弥太郎。昔をカセに表面は甘く見せても、内実は強面の渡世。其後三谷本家名義の参百両の証文を拾つたといつて、三谷斧三郎に面会を求め、再三寮に脚を運んだが、留守の一点張に、或る下男吾助が上ツ調子で「お留守でございます」と断つたら、弥太郎忽ち居直つて、
「石金抱いた小倉庵ですが、三谷斧三郎さんにお逢ひしたいからといつて、卒なことは申しません。逢へるやうに取次でおくんなせい」
と啖呵を切つて、玄関へドサとトグロを巻いた。小男の吾助は胆ツ玉も小粒で、ウヱウヱと縮み上つた。

  取寄せるツルの御馳走

 鹿島則泰翁は阿辰弥太郎に就て、想出に耽りつゝ、徐ろに語られた。
『私の父は伝馬町の牢屋に入れられましたが、学者といふ所から一番名主に祭り上げられました。時は慶応三年午歳。仔細あつて幕府の忌む所となり入牢仰付けられた話は、語れば長いが、要は京都へ登て勤王を称へ、志士と盛んに往来したゞけならまだよいが、郷里鹿島へ文武館をこしらへ、志士の温床となつて、子弟の教養に勤王を鼓吹したから、幕府から当然睨まれる所となつて、八丈島へ流罪となるまで、伝馬町の牢内に在つた頃の話をよく私共へ語つてゐました。
 御牢内の一番名主が私の父で、二番名主が彼の有名な青木弥太郎――一枚二十貫の石を膝の上に抱かされても白状しないといふ、旗下の悪徒弥太郎でした。其代り青木はよく御馳走をくれたさうで、その御馳走料はといふに俗に、ツルといふのを、新入がお腹へ呑んで持込むといふのも勿論ですが、父の話では、幕府時代のことですから、其のツルを外部から取寄せるのも多分にあつたさうです。
 ツルが坊主に医師に町人の三階級に限つてゐて、極め板を新人に喰はせる時、坊主、医師、町人だと「手前ツルが取寄せられるか」と聞き「取寄せられます」と請合へば、極め板を預つて、早速取寄に取りかゝる。坊主なら寺へ、医師町人は其自宅へ使を差向けるのですが、この牢内の使者を承はつてゐたものがあるんです。
 この媒介役は、神田鍛冶町にあつたシヤモ金といふ親爺だつたさうで、其親爺が、寺なり自宅なりへ乗込み、「これ??しか??で、新入は極め板でドヤされるが御定法。しかしツルがあれば、地獄の沙汰も何とやら、痛い思ひしないで済みなさるが、ツルをお出しなさるかい。お出しにならなければ、御牢内へ知らせて、痛い思ひをなさるんだが、地獄の一丁目があつて二丁目のない御牢内だ。大抵の者は、極め板を背負つて、死ぬるが落でせう」
 かういはれると、借金を質に置いても、ツルを出さない向はありますまい。大なり小なり握らせる。これをシヤモ金は名主の弥太郎へ届けて来ますが、其のツルは至て細いものになつて来るさうで、これはシヤモ金と牢役人とで、危ない橋を渡るんだから、仲間で搾れるだけ上前を刎ねてしまうんださうで、役徳にされても、届くだけがめつけものといつた、ツルをたぐる手段なんです。

  恐ろしいウツツ責

 則泰翁の話は、興味深いものであつた。
 父はこのツルの届くたびに、うなぎ飯位よく御馳走に与つたものだといひました。妙な世界で……随て坊主、医師、町人の入牢がないと、御牢内は至て不景気で、父はよく面白半分にからかつて
「弥太郎。この節は不漁なのかな」
と申しますと、弥太郎は閉口して
「ヘエ、三ピン(士分のこと)はダメで、何といつても町人、大寺の坊主、藪井竹庵でも医師でないと、ツルばかりはたぐれません。よろしうございます。阿辰の方から廻させて御馳走しませう」
とよく申したさうです。
 妾阿辰といふものは、女牢名主で威張つてゐたもので、女牢へ言つてやると、ツルを廻してよこしたといふ話でした。
 この阿辰こそ、高橋阿伝や夜嵐阿絹など、脚下にも及ばない悪婦だつたといふことですが、弥太郎ほどの男が一目置いて「阿辰には恐れます」と言ってゐたさうです。
 父は弥太郎に世話になつた代り、弥太郎の詩作や文章や勤王思想を教へ、相当なものといつても、大したことではありませんが、父から仕込まれ、詩の平仄の分らないのを、解るやうにしてやつたといふことでした。
 出獄後、ちよい??父の許へやつて参りました。大柄な男で、だんごやをしてゐるといつてゐました。白洲で拷問にかけられ、石を抱いても白状せぬ剛情者ですが、本人の言ふ処では「石や何か少しも愕かなかつたが、ウツヽ責だけは苦しい。あんな恐しい責苦はない。他のは気絶さへすれば、スグ医師よ薬よといふのだから、上手に気絶さへすればよいが、ウツヽ責だけは気絶の奥の手が効かない。あんな苦しい思ひをしたことはござんせん」
と沁々語つてゐました。」




1、川瀬一馬氏の、鹿島則泰翁の思い出ばなし

鹿島則泰について、川瀬一馬氏は『日本における書籍蒐蔵の歴史』(1999年2月15日、ぺりかん社発行)で、その思い出を次のように記している。引用にあたり、振り仮名は省略した。また、漢字の字体を改めたものもある。

第二部  1 旧安田文庫のことなど  の部分

 「この「浜行き」の話を私に教示されたのは帝国図書館におられた鹿島則泰翁で、私が学生の頃お目にかかった時は、図書館の貴重書室に毎日詰めてはおられましたが、半ば隠居さんで、江戸士民の生活を画いた絵巻などを拡げて様々耳新しい知識を与えられました。その折に、小林文七の「浜行き」の話も出て来たのです。「浜行き」はいわば内緒の話ですが、買い入れる向こう側でも、美術工芸品など中国からもたくさん輸入しますから、古物には付き物の模造に対しては注意するわけで、明治初期にも偽(にせ)を掴ませられぬようにと留意した話として、これも市島春城先生から聞いた話があります。前に一度書いたこともありますが、小さい物は偽も作りやすいが、大きな障屏画(屏風)のようなものならやらぬだろうと、――これはボストン美術館の館長の話とのことですが、買い求めたところが、それが偽だったので驚いたというのです。この話はもう忘れられた今の時代ですが、先年、ボストン美術館の障屏画を日本へ持って来て見せるという催しが上野の松坂屋でありましたから、興味を持って見に行きましたら、果たして、これはと思う物は一つくらいで、私の見るところ、師宣程度のものは、大方感心できなくて
、どこにでもある普通品は江戸時代出来のものという陳列品でした。日本の江戸時代の美術工芸品の代表というようなものではありませんでしたから、市島先生の話はなるほどと諾けました。古老には何でも聞いておくものだと思ったことです。
 ここで、「浜行き」を私に聞かせて下さった鹿島則泰翁のことを言い添えます。則泰翁は鹿島神宮の神官の家の出で、父君則文は維新の際勤皇の士で、幕府のため八丈島へ流されました。流人の生活中、島人に産ませたのが則泰翁で、長子ですから島太郎と命名されたということです。宮司を継がれましたが、古い家柄の出で、父の血を引き一旦は政治家を志して選挙の地盤もあり、実績も持っておられたようで、そのため社会に対しても目が開け、物の考え方も幅があって酸いも甘いもかみ分けた、単なる学識者ではありませんでした。後には弟に宮司を譲って家を出られました。父君則文は明治の世になって伊勢神宮の大宮司となり、『古事類苑』編刊などのよき大事業もされました。『古事類苑』
は大部な内容も整った編纂で、小中村清矩・松本愛重など篤学の士を動員してよくできています。『古事類苑』を利用して、篤学な物知り顔をしていた私の先生もあります。教科書の教師用参考書などにはもってこいの原拠です。――これに類した『広文庫』は後からできたものですが、どうしてああいうものになったのか、自分のために作ったにしても、私は余り役には立たぬ内容だと思います。こんな感想は今初めて漏らすのです。
 鹿島家の「桜山文庫」(桜山は鹿島家の住居の地名)にも多くの善本を蔵しましたが、半ば流出しました。しかし、今も善本が残っているようです。また、赤堀又次郎は則文の女婿で、東京帝国大学の国語学研究室の助手となり、若くして『国語学書目解題』を編刊した篤学の士で、松井簡治先生は、その所蔵の書物を全部集めるつも力で骨を折ったが、少し集まらぬものがあると言っておられました。その一つは『蜆縮涼皷集』だと聞きました。しかし、戦前私は市場で二つ見付けました。安田文庫の分は焼け、龍門文庫の分だけ残っています。赤堀氏は『文明本節用集』を蔵していて戦後市場に出て帝国図書館に入りました。もと桜山文庫のものであります。則泰翁は東京帝国大学におかれた古典科の出身で、神宮をやめて後、帝国図書館にあって、和漢の古書や江戸文化の資料などの尤品を集められました。明治年間に、東京帝国大学の図書館と競って蒐集されたようで、東大の方は惜しくも大正十二年九月の大震災で焼失してしまいましたけれど、予算が多かったせいで、東大の方が江戸の絵入り版本類ほか江戸物はことに内容が豊富であったようですから、松廼文庫の焼失とともに帰らぬ研究資料の喪失であります。鹿島翁は
集書に努めていた時、徳富先生と争って、『前関白秀吉公御検地帳の目録』『朝鮮国御進発之人数帳』などを帝国図書館で落札したと話しておられました。まだ少しは手もとに珍しいものを残しておられたようであります。
 「浜行き」の話はもう一つ突っ込んだところまでは遠慮して伺いませんでしたが、私の当て推量では、翁自身が小林文七に、よい意味で復刻の基になる資料を教示されたり提供されたりということがあったのではないかとも思います。絵本や浮世絵版画なども江戸時代からお宅にたくさんあったでしょう。それ故、軟硬ともに広く深く心得ておられ、座談的なお話の面白さは無類と言ってもよろしく、市島春城先生もごく軟らかい話などを加えて座談は巧みでしたが、私は鹿島翁の座談の内容の面白味と有益さに軍配を挙げたいと思います。鹿島翁は書物に書いて残されませんでしたから、その方の著述を出版しておられる市島先生が随筆家として世間に知られているのです。
しかし、両先生とも、私に対して、この若者に古い話や経験談を伝えておこうというお考えがあって、格別に語り聞かせて下さったものと有り難く思っております。……」  以下省略


付記

菊池眞一先生から、川瀬一馬著『日本における書籍蒐蔵の歴史』の中に、鹿島則泰に関する言及のあることを、教えて頂いた。記して感謝申し上げます。
                   平成24年7月27日  深沢秋男