深沢秋男研究室 上田秋成の研究

HOME
.廛蹈侫ール&研究分野
担当科目&時間割
主要編著書&雑誌論文
こ設ホームページの紹介
ゾ赦遜子大学図書館所蔵(桜山文庫)
昭和女子大学図書館所蔵(翠園文庫)
鈴木重嶺関係資料
南部新一児童図書コレクション
上海交通大学「日本文化資料センター」
百人一首の研究
井関隆子の研究
−2井関隆子の研究2
仮名草子研究
-2仮名草子研究2
-3仮名草子研究3
-4仮名草子研究4
-5仮名草子研究5
鹿島則孝の研究
上田秋成の研究
鈴木重嶺の研究
案本古典文学作品・画像公開
厩掌与泙犯單栂彊貉瓩竜貘⊇
穏愼親盛(如儡子)の研究
該愼親盛(如儡子)の研究・2
●新刊紹介
●学界ニュース
日録
◆自著を語る 1
◆自著を語る 2
◆自著を語る 3
◎篆刻・遊印

目  次
―成研究会での発表
∋笋痢惴算疂語』--夕顔の巻を中心に--
『春雨物語』の本文
ぬ擶杣氏からの来信




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ぬ擶杣氏からの来信
●金沢大学の木越治氏からメールを頂いた。昭和女子大のホームページを見ました。大学生の頃のレポート興味深く読みました。『春雨物語』の本文は、お説の通りです。という内容。有難いことである。
●実は、昭和61年『桜山本 春雨物語』を出版した時、最初に私の意見に耳を傾けて下さったのは、木越氏であった。平成元年8月「『春雨物語』へ−−文化五年本からの出発−−」という論文を発表され、イギリスの書誌学者、フィリップ・ギャスケルの理論を導入しながら、文学作品のテキストのあり方に論及された、画期的な論文である。
●この木越氏の論文が影響したものか、鷲山樹心氏も論文中で賛意を表明して下さった。そして、その後、中央公論から出された、『上田秋成全集』では、長島弘明氏が、『春雨物語』の各テキストを原型のまま収録してくれた。門外漢の私の意見を専門家の方々が、お認め下さったとしたら、こんなに嬉しい事はない。それにしても、あの状況下で、あの論を出された木越氏に改めて敬意の念を捧げる。

―成研究会での発表

●大学3年の時、秋山虔先生の『源氏物語』講読を履修した。年度末のレポートのテーマは「私の『源氏物語』」であった。私は「『源氏物語』夕顔の巻と『雨月物語』「吉備津の釜」」で提出した。4年の5月ころだったと思うが、重友先生から呼び出しがあり、教授室へ伺うと、キミ、秋山君に面白いレポートを出したそうだね、と仰る。で、よかったら、秋成研究会で発表してみないかね、と付け加えられた。
●秋成研究会は、当時、首都圏の大学の先生をはじめ各大学の院生も参加して、法政大学で行われていた。学部学生ながら、私も1、2回拝聴した事があった。重友毅先生をはじめ、森山重雄・鵜月洋・高田衛・丸山茂・東喜望等々の研究者が参加しておられた。発表原稿を来週までに清書して来たまえ。
●私は、感激した。学部学生の小生が書いたものを、発表させて下さる、と言う。次の週、勇んで原稿を持参した。先生は、見ておきましょう、来週また来たまえ、と私の拙い字の原稿を茶色の鞄に入れられた。
●1週間後の結果はさんざんでした。まず、表紙のタイトルの「吉備津の釜」の「備」を指され、こんな字はありませんッ! と鉛筆で斜線をひかれた。これで私の異例の抜擢は水に流された。拙い一文であるが、重友教授へ提出の原文のまま紹介する。

∋笋痢惴算疂語』ー夕顔の巻を中心にー


はじめに

 五条の宿で夕顔の花を媒介として知り合った二人の男女が、その身分を越えた場において愛し合うという、この一編の構想は『源氏物語』の本筋からはずれた所において初めて可能であった。雨夜の品定めにおいて、受領階層の女性に興味を持ち始めた光源氏も、それを充たすためには、新たな世界(愛情関係が利害と切離された世界)を必要としたのであり、紫式部は、光源氏を一介の男性として、夕顔を一介の女性として登場させることによって、より純粋な愛情関係を描くことに成功したのであ。
 夕顔に、自分の好みに合った女性の姿を託す事によって、光源氏との間に、純粋な愛情関係を成立させる事が出来た作者も、それが本伝の世界から離脱したところに生まれた愛である以上、そのまま育てる事は出来なかった。ここに、夕顔の死が設定されたのである。理想の女性・永遠の女性としての紫の上に対し、刹那的な女性・はかない女性として登場したのが夕顔である。
 夕顔は次の如く形象化されている。
「人の気はひ、いと浅ましく柔かにおほどきて、物深く重き方は後れて、ひたぶるに若びたるものから、世をまだ知らぬにもあらず。・・・我がもてなし有様は、いとはかに児めかしくて、・・・白き袷薄色のなよよかな を重ねて、花やかならぬ姿、いとらうたけにあえかなる心地して、其処を取り立てて勝れたる事もなけれど、細やかにたをたをとして、物うち言ひたる気はひ、あな心苦しと、唯いとらうたく見ゆ。・・・」
 このように夕顔は描かれ、形象化されているが、これは、作者が、彼女を刹那的な女性、はかない女性として提出しているからであるが、単にその意味においてのみならず、次に予定されている、彼女の死に方にも大なる効果を及ぼすものとなっている。
 私は、この巻における、夕顔の死は、以上の意味におけると同様、『源語』における怪奇性という点において、かなり大きな位置を占めるものと思う。
 夕顔の死は六条御息所の物の怪によるものであるが、その六条御息所について作者は詳しく語ろうとしない。

本居宣長の『手枕』

 宣長の『手枕』は『源語』に「もののあはれ」を見出すという大きな、一つの発展を研究史上に残した作だけに、「空蝉」と「夕顔」の間に差し挟んでも、その不自然さなど、私には全く解らない。この短い作品の中に「あはれ」という言葉が、十八ヶ所も使われているが、これは、同じ宝暦十三年に『紫文要領』を著している宣長として、あるいは当然の事と言ってよい。
 宣長は「あはれ」を「見るもの、聞くもの、ふるる事に、心の感じて出づる嘆きの声」であると『源氏物語玉の小櫛』で言っている。また『源語』は「もののあはれ」を知らせる事を主眼として書いたものである。この作品を勧善懲悪のためだとか、好色の戒めであるなどと言うのは誤りである。物語を読んで、心の動く事はあっても、どうして、好色の戒めになる事があろうか、とも言っている。・・・
 「もののあはれ」とは、対象に触発されて、起こる感情内容であり、美的なものに対する美意識、美的感情である。これが形象化されて、『源語』という文学作品が生まれた、と説いている。これは、『源語』研究史において、特筆すべきことである。
 さて、光源氏と六条御息所がどのような関係にあったかを付加している、この『手枕』は、『源語』研究の第一人者としての宣長において、初めて可能であったとも言い得るが、それは、故島津久基氏が指摘される如く、「王朝古典の補巻としての試作であり、又国文学者の擬古文的余技」(『紫式部の芸術を憶ふ』昭和24年11月刊)の外に出ていないと思われる。
 この宣長の『手枕』を人から借りて読んだ秋成は「とりかくしてあれかし」と感情的なまでの酷評を下している。私が、ここで、小さな、しかも感覚的な意見を述べようとするのは、その『手枕』と決して同様ではないが、やや相通じると思われる作業が、宣長と同時代の国学者・秋成によってなされているのではないか、という事である。
秋成は、伊勢の国学者・荒木田末偶から宣長の著書を借用して、それを返す時、次の如き批評を書いている。
「一、古事記伝十二十三の巻にギョ戎慨言かへし奉 る、・・・また手枕の巻もくはへて奉る。是は写し
とどめずぞある。此事前坊の婿兼にておはせば、  時々御息所へ参り給ふべきを、色好み給ふ名の高き から、御むすめの御ため、しうねき性をあらはし  て、打かすり聞え給ふ。はてはてに乱り心地なりし など書きてこそ、君はまだ廿歳に足せ給はぬには、御母とも申方に打ざれて物のたまはんやは、御息所よりこそ乱り心地してと誰も思ふなり。田舎におはせば、言えり給へど、おもひもあたらぬものぞ、とりかくしてあれかし。」(ふみほうぐ、上)

 宣長の『手枕』にこのような酷評をした秋成が、明和5年(1768)に『雨月物語』を創っている。ここで問題にしようと思うのは『雨月』の中の「吉備津の釜」である。
 『雨月』は、内外を問わず、多くの典拠の上に成立しているが、ここで取り上げる「吉備津の釜」も、その例外ではない。語句的影響の認められるものまで入れると、
日本霊異記、伊勢物語、源氏物語、古今集、太平記、今昔物語、善悪報ばなし、英草子、新御伽▲子、世間妾形気、本朝神社考、五雑俎、幽怪録、剪灯新話、荀子
など、多数の文献・作品に拠っていることが、先学によって指摘されている。私はここで、『源氏物語』の夕顔の巻との関連について考えてみたいと思う。

語句的影響がみられる箇条は、諸先学によって指摘されているので、改めて掲げないが、昭和9年12月号の『国語国文』で後藤丹治氏は、次の如く記している。
 「(出典を指摘された後)上述の意味において、正太郎は光の君であり、磯良は六条御息所であり、袖は葵上、もしくは夕顔上であつたとも云へる。」
 この後藤丹治氏の発言は重要である。しかし、これは語句対比の結果の仮説であった。
 その後、昭和24年、島津久基氏は、この両者間に語句的関連のある事を指摘され、
 「なほ且言ふならば、それと共にその詞句表現の模擬に伴随する気分、或雰囲気の招来といふ点に重要な関連がある・・・」
と言っており、この島津氏の見解は、後藤氏の説よりも、やや進展したものとする事ができるが、私は、この島津氏の見解を、もう少し具体的に、そして強調したいのである。

正太郎と光源氏、・・登場人物の対応

 「吉備津の釜」の正太郎は、生業を厭って酒色に耽り、父の掟も守らない。父母はそれを何とか直そうと嫁(磯良)をとってやるが、素行がおさまっていたのは、しばらくの間であった。やがてその妻を捨てて、遊女・袖と駆け落ちをするのである。そして、旅先で袖を失った彼は、悲嘆にくれて、彼女の墓に参るのであるが、その墓で出会った女の物語に、またもや心の移る、そのような、「おのがままの奸けたる性」の持ち主である。しかし、それでいて袖の死に対しては「天を仰ぎ地を敲きて哭悲しみ・・・■(土+龍)を築きて塔婆を営み、僧を迎へて菩提のことねんごろに弔」うのである。
 このように、一面に真実性を持ちながらも、生まれながらの色好みの性質の故に、次々と女性を求めてゆく人間として、正太郎は設定されている。
 「夕顔」の巻で「この西なる家は何人の住むぞ、問ひ聞きたりや」と言って、惟光に「例のうるさき御心」と思われる光源氏であり、夕顔死後の悲しみ方とその供養とは、正太郎の袖に対するそれに対応しよう。
 次に女主人公の磯良であるが、彼女は前半、即ち井沢家へ嫁いだ頃は、「夙に起、おそく臥て、常に舅姑の傍を去ず、夫の性をはかりて、心を尽して仕へ」る、言わば、貞節な女性であるが、それが正太郎に謀られ、怨みをのんで病の床に倒れるや、生霊となって、恋敵・袖をとり殺し、まだあきたらず、死霊となっては、夫・正太郎をさんざん苛んだ、そのあげく、この上もない無残な方法で、その生命を奪うのである。
 これは、夕顔、葵の上の生命を奪い、紫の上の命まで脅かした、六条御息所を嫉妬の権化として受け取った秋成が、それを具体化したものであろう。
 また、夕顔の巻において、光源氏と夕顔を通してのみ描かれたのが六条御息所であったのに対し、夕顔と対応すると思われる袖は、「吉備津の釜」において、正太郎と磯良を通してのみ描かれるのであり、ここにも、その置き換えを明らかにみてとる事ができる。
 さらに、正太郎に家を借りてやったり、また彼が磯良の生霊に苦しめられると、「刀田の里にたふとき陰陽師のいます、身禊して厭符をも戴き給へ」と助言し、死霊に追われる場においては、壁を隔てて励ますところの彦六は、『原語』において、光と夕顔との仲を取り持ち、また彼女の死に臨んではその埋葬にと、立ち働き、光源氏のよき手助けをする惟光に符合させたとしても、それほど不自然ではない。
 このように登場人物のみからみても、光源氏は正太郎の、六条御息所は磯良の、夕顔は袖の、惟光は彦六の、それぞれ原型だとみる事ができるのではないかと思う。

人物造形と情景描写

 『雨月』において、袖の死を「窮鬼といふものにや。古郷に捨てし人のもしやと独りむね苦し。」と、言わば、正太郎内心の苦しみを通して描き、はっきり磯良の生霊だとしていないのは、『源語』において、夕顔と寄り添いながらも「六条辺にも、如何に思ひ乱れ給ふらむ。」と心配する光源氏の心理を設定して、その「物の怪」を「六条御息所の如く、源氏内心の影像の如く、院内の妖怪の如く」(西郷信綱『詩の発生』)描き、その正体を明確にしていないのに対応する。
 
 また、磯良の死霊から逃れるためには、四十二日間、厳重な物忌みをしなければいけないと陰陽師に言われて、物忌みに入り、「あな悪や。ここにも貼しつるよ。」という死霊の声に苛まれる正太郎の心中は、夕顔の巻における、某の院において、物の怪のために、またたくうちに冷たくなってしまった夕顔と、怯え切っている右近とのみを側において、太刀を抜いて気を静め、惟光の来るのを、今か今かと待つ光源氏の心中に通じるだろう。
 正太郎にとって、その期間が「此の月(日)頃千歳を過ぐるよりも久し。」いものであれば、光源氏にとっても、その時間は「夜の明くる程の久しさ、千夜を過さむ心地」のするものであった。
 さらに、その怪院において光源氏の叩く、寂寥を破る手の音は、朱符をはった家を回りながら、恨めしく呪う死霊の声に照応させることができるのではないか。
 また、正太郎惨死における、たった一つの遺品「髻一つ」に関して、『日本霊異記』『今昔物語』『伊勢物語』『古事談』『新御伽ボウ子』など種々の出典が指摘されているが、いずれか一つに決定し得ない、というのが現状である。これらの出典ほど密接な関連はないにしても、夕顔を埋葬する折に、莚からこぼれる死人(夕顔)の黒髪は、奇才・秋成に何ほどかのヒントを与えたものと思われる。
 「上▲(草冠+席)におしくくみて、惟光乗せ奉る。いとささやかにて、うとましげもなく、らうたげなり。したたかにしもえせねば、髪はこぼれ出でたるも、目くれ惑ひて、あさましう悲しと思せば、・・・」
 粗莚から零れ落ちる女の黒髪、中には、あの夕顔の死体が包まれている。ゾッとするような情景である。これを怪談作者・秋成が見逃すはずはない。
 『源語』において、夕顔の死を悲しんだ光が、その故に病に臥すと、帝などの計らいで祈祷をし、陰陽師の祓いなどをして、ようやく一命を取り止める。
 秋成は『雨月』において、光を原型としたと思われる正太郎を、陰陽師の朱符などで護りながら、最終的には、誠に無残な形で死に至らしめている。ここに秋成の光源氏に対する姿勢が出ているのではないか。

秋成の『源語』観

 『ぬば玉の巻』には、次の如く記す。
 「ひとり源氏の物語はいと長はへて、連ね出たりしさへ、猶飽かぬ物にめで、尊めるは、たぐひなき上衆の筆なればなり。されど、めめしき[女ラシキ也]心もて書きたるには、所々ゆきあはず、且おろかげなる事も多かりけり。
 まづ、一部のなれる光君の人となりいかにぞや。形のめでたきはさらなり。ざえ[才能]の高きも昔より並べあぐべき人は少かりき。本性の実だちたるを交野の少将に笑はれ給はんといふ。さて、よく見れば、あらず。ひたぶるに情深く、親しきにも疎きにも、よろづゆき足れるよと見ゆれど、下に執念く、ねぢけたる所ある君なりけり。・・・」

『源語』に寄せる五十四首の歌
 秋成は、晩年ではあるが、『源氏物語』の巻々に一首ずつの歌を作っている。夕顔、末摘花、須磨、絵合、蛍、篝火、野分等々、いずれの巻でも、光源氏を突き放し、批判的にとらえている。これなども、正太郎の人物設定に関連しているように思われる。

 この他、自然描写など諸注釈書が指摘する如く、「夕顔」の巻の「吉備津の釜」に及ぼす影響は、実に大きいものがあり、さらに、冒頭の議論的な部分は、『五雑組』に主として拠っているとされているが、この部分も『源語』の「ははき木」の巻の、雨夜の品定めとの関連もかなり大きいのではないかと思っている。
 秋成は『雨月』の刊行された翌安永六年に国学の師・加藤美樹の著書『雨夜物語たみこと葉』に序文を書いて、出版しているが、これは「雨夜の品定め」の部分の注釈書である。その序に、
 「物語ぶみは世に多かめれど、光源氏の物語ばかり、あやに巧めるはなし。それが中にも雨夜の品定なん、いといと心得がたきを、静舎のうし、いにし年、人の需めによりて、そこをなん書きいでて、詞をそへつつ説かれしを、人のつてに見てしより、・・・境は遥に隔つれど、魂あひぬれば共にはからまく、往かひし問ひかはしつつ考へ定めて、木にえらせつるは、安永四つの年弥生になも。難波人上田秋成しるす。」と書いている。これは『雨月』刊行の前年の事である。

 宣長は「夕顔」の巻の空白を埋めるのに『手枕』をもってした。そしてそれは、全く『源氏物語』にスッポリ刺しいれるものとして作られている。
 秋成は「夕顔」の巻の空白を利用して「吉備津の釜」を創った。そしてそれは、「夕顔」の巻の現代化であった。
 『源氏物語』の価値を互いに認めている二人の国学者ではあるが、宣長が もののあはれ を説き、『源語』を全面的に肯定したのに対し、秋成は、その文章美は認めたが、物語としてのみ評価した。『源語』の作中人物(色好みな、特に光源氏)に対する批判には極めて厳しいものがある。
 古代をやや宗教的に尊重していた宣長に対して、批判的であった秋成、『手枕』と「吉備津の釜」は、この両者の関係をよく反映したものと言うことができる。宣長は偉大な国学者ではあったが、作者では有り得なかった。

 島津久基博士は『ぬば玉の巻』が『紫文要領』とは無関係に成立していると説かれ、従って、宣長と秋成の『源語』批評は、それぞれ無関係に成ったと断定しておられる(『紫式部の芸術を憶ふ』)が、私は、少なくとも、『手枕』ト「吉備津の釜」に関する限り、何かそこに関連があると思うのである。
 秋成は、宣長の『源氏物語』模擬の作業に対して、意識的に「吉備津の釜」を創ったのではないだろうか。

(秋成が『手枕』を借りて読んだのは、藤井乙男博士の説によれば、天明四、五年(1784〜85)頃とされている。『雨月』の成立は、明和五年(1768)である。これらの点も検討の余地は残る。)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 大学生の頃の文章であり、幼いものではあるが、忘れられない思い出である。



 
 
 
 


 
『春雨物語』の本文
●上田秋成の読本では、『雨月物語』が一般にはよく知られているが、作品の文学的価値においては、『春雨物語』の方が上である、というのが一般的評価である。ところが、『春雨物語』は秋成生前には出版されることなく、写本として伝えられた。秋成は没する直前まで、この作品の推敲を重ねていた。

●現存する『春雨物語』の写本
文化5年(1808)本
漆山本(遠藤文子氏所蔵)。半紙本、1冊、転写本。
桜山文庫本(昭和女子大学所蔵)。大本、2冊、転写本。
西荘文庫本(天理図書館所蔵)。大本、2冊、転写本。

文化6年(1809)本
富岡本(天理図書館所蔵)。自筆巻子本、5巻。富岡鉄斎旧蔵。
天理巻子本(天理図書館所蔵)。自筆巻子本、3巻。松室本。
田原本(天理図書館所蔵)。大本、1冊。富岡本の転写本。

その他
―娜草紙(佐藤三郎氏所蔵)。自筆草稿、114枚の内。
天理冊子本(天理図書館所蔵)。自筆、大本、1冊、松室本。

『春雨物語』翻刻・校訂・校注、各本の本文
●古典文学を現代の多くの読者が読みやすくするために、写本・版本等の原本を翻刻する作業が、まず行われる。この時、原本の変体仮名を現在の活字に変換する。これは、古典研究の第1歩で重要な仕事である。
それと同時に、重要な事は、その時に使用する底本のことである。底本には、作者の創作意図に、出来るだけ近いテキストを選ぶべきである。
●『春雨物語』の写本は、前に列記した通りである。秋成は文化6年に没しているので、文化6年本が自筆本でもあるし、これを使用するのが最適という事になる。ただ、困った事に、この自筆本は、完全ではない。一部分が欠落している。我々は、このような時、どう処理すべきであろうか。
●昭和61年、私は初めて、従来の『春雨物語』の校訂本・校注本を吟味していて、大変当惑する事に出会った。それは、諸先学の底本の使用方法に関してである。全ての方々が、文化6年の秋成の自筆本を底本に使い、欠落部分は、文化5年本で補う、という方法を採用しておられた。このようなテキストの作成は許される事であろうか。
●私はもともと、文学作品は完結していて初めて評価の対象となる、と考えていた。だから、『井関隆子日記』に着手する時、この点を慎重に吟味した。その意味で考えると、『春雨物語』の底本の使用状況は、私にとって衝撃的な出来事であった。しかも、秋成研究者の全ての先学が、文化6年本と文化5年本を取り合わせて使用していたのである。そんな大先生に対して、駆け出しの私風情が、批判的見解を提出して宜しいのであろうか。私は一夏苦しみ悩んだ。
●秋成は没年の数年前から、この作品に取組み、晩年の明を失った不自由な状態で、推敲に推敲を重ね、乱れる文字を、書き連ねながら、この世を去った。その作者の情熱は、何よりも尊重し、これを伝えなければならない。一介の研究者が、芸術の一言半句も、疎かにする事は許されないであろう。

新しい『春雨物語』本文作成の提唱
●昭和61年2月25日発行の『桜山本 春雨物語』の研究篇で、私は1つの提案をした。文化5年の上田秋成は、文化6年の上田秋成と同一人物ではあるが、肉体的にも精神的にも、厳密に言うならば、同一固体と考えることは無理である。そこには、体力的には老化もあろうし、精神的には成長も老成もあるだろう。従って、その、厳密に言って同一の作者とは言い得ない人物の創作を、混合して使用する事は遠慮すべきではないか、と言う提案である。しごく当然な意見であり、初歩的な意見だと思った。
●『春雨物語』の作品研究は、完結本としての、文化5年本で行うべきであり、文化6年本はあくまでも推敲途上の未完成テキストとして処理すべきではないか、と言うのが、私がオソルオソル提出した意見であった。当然の事として、学界は冷淡であった。私は、一人で、秋成の晩年の苦闘に向き合った、そんな寂しさを感じていた。そんな時、私の研究上の支えは、国会図書館の中央出納台の真上のコンクリートに刻まれた「真理が我らを自由にする」と言う言葉であった。
●市販されている大部分の『春雨物語』は、文化6年本と5年本の組み合わせのものである。いつ改まるのか、わからない。作者・秋成のためにも、早い対応を願っている。
●『春雨物語』に関しては、「死首の咲顔」に関して作品名を「死骨の咲顔」とする説もあるが、これでは題名にならない。やはり「死首の咲顔」であろう。原本の読み取りのミスから生じたものである。また、現代の有名な作家は『春雨物語』を出版された作品として、堂々と解説している。抗議の手紙は出したが、返事はなかった。




TOP