深沢秋男研究室 ゾ赦遜子大学図書館所蔵(桜山文庫)

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■昭和女子大学図書館所蔵・桜山文庫  目次

 嶌山文庫」の蒐集者・鹿島則文
◆嶌山鹿島則文(かしま のりぶみ)略伝
 1,鹿島家家系・則文年譜
 2,『先考略年譜稿』・・・・・鹿島敏夫
 3,八丈島送り
 4,伊勢神宮・大宮司拝命
 5,皇学館大学の開校
 6,式年遷宮(明治22年,第56回)
 7,『古事類苑』の編纂刊行
 8,内宮炎上
桜山文庫の概要
ず山文庫の昭和女子大学への移管経過
ズ山文庫所蔵本の紹介
 1,嵯峨本 撰集抄
 2,桜山本 春雨物語
 3,井関隆子日記
鹿島則幸氏と桜山文庫
Ш山文庫本『撰集抄』刊行年に関する訂正

▲このデータは、国会図書館のDnaviにリンクされています。
http://dnavi.ndl.go.jp/ →「日本文学」→「小説・物語」


Ш山文庫本『撰集抄』刊行年に関する訂正
桜山文庫本『撰集抄』に関して、イ粘蔑な紹介をしておいたが、その記述の中に適切ではない表現があった。これは、高木浩明氏が指摘して下さった(『ビブリア』122号、2004年10月)。
イ涼罎如◆嶌群緞棔\饅絃供大本、元和8年刊」 と記したが、「此本三冊全部洛西嵯峨角倉与一入道素庵墨蹟板行之即従素庵直賜之 元和八年 豊松庵法橋玄伯(花押)」この識語から「元和8年刊」と断定する事は、ゆきすぎである。法橋玄伯は、刊行後、角倉素庵から直接この本を頂いたというのであるから、厳密には、刊行は、元和7年の可能性もあることになる。この点を高木氏は指摘して下さった。感謝して訂正する。


 嶌山文庫」の蒐集者・鹿島則文
桜山文庫は、国学者で、鹿島神宮第67代大宮司・鹿島則文のコレクションである。則文は、天保10年(1839)鹿島に生まれ、明治34年(1901)に没した。その閲歴をみると、波瀾に満ちた63歳の生涯であったと言うことが出来る。
○幼くして、吉川天浦の指導を受け、長じては安井息軒の塾に学ぶ。
○慶応元年(1865)、水戸志士と相通じたとして幕府の忌むところとなり、八丈島へ島流しの刑を受ける。
○明治2年(1869)赦免となり、鹿島へ帰り、6年大宮司となる。
○明治17年、46歳の若さで、伊勢神宮の大宮司を拝命。以後、伊勢神宮の刷新に取り組み、皇学館大学を開学し、自ら、第2代館長となり、神官の教育に尽くし、「古事類苑」の編纂刊行に努めた。
○明治31年5月2日午後11時30分、内宮炎上という不祥事が発生、その責任をとって、職を辞し、鹿島へ帰った。
○明治34年10月10日午後10時、63歳の生涯を閉じた。

⊆島則文(かしま のりぶみ)略伝

 鹿島則文(かしま のりぶみ)は,茨城県鹿嶋市に鎮座する,旧官幣大社・鹿島神宮の宮司家の第67代目で,幕末・明治を生きた,神道家・教育者であり,また「桜山文庫」の収集者でもあった。私は,則文の孫の鹿島則幸氏に出合い,多くの学恩を蒙ったが,則文の生涯に魅せられ,いくつかの文章を書いた。その事に感謝している。


鹿島則文〔かしま のりぶみ〕〈蔵書・蔵書家〉

 幕末・明治の神道家・蔵書家。鹿島神宮宮司家の67代。明治34年没,63歳。吉川天浦・安井息軒に学ぶ。勤皇の志士と交わり,八丈遠島。赦免後,鹿島神宮大宮司。46歳の時,伊勢神宮大宮司拝命。以後,神宮皇学館の開学,林崎文庫の整備充実,『古事類苑』の編纂刊行に尽力。明治31年,内宮炎上の責を負い,職を辞して鹿島へ帰った。則文の蔵書・桜山文庫は珍籍奇冊3万冊と言われたが,現在,国文関係は昭和女子大学に所蔵されている。(深沢秋男)
        (『日本古典籍書誌学辞典』1999年3月10日 岩波書店発行)


●1,鹿島家家系・則文年譜

 則文は,鹿島神宮・宮司家の第66代・則孝と瑳智の間に長男として生まれた。鹿嶋市に鎮座する神宮の宮司家・塙鹿島家の家系を『中臣鹿島連姓鹿島氏系譜』(鹿島則良氏所蔵)によって略記すると次の如くである。〔則文の項は全文〕

【1】天児屋命―【2】天押雲命―【3】天多禰伎命―【4】宇佐津臣命―【5】大御食津臣命―【6】伊香津臣命―【7】梨迹臣命―【8】神聞勝命―【9】久志宇賀主命―【10】国摩大鹿島命―【11】臣狭山命―【12】狭山彦命―【13】大広見命―【14】津彦命―【15】島根大連〔允恭天皇十五年丙寅賜大連〕―【16】波波良麻呂―【17】佐佐麻呂―【18】千志麻大連―【19】小主―【20】東麻呂―【21】春魚―【22】国石―【23】広庭―【24】鹿門―【25】諸躬―【26】武主〔天平十八年丙戌三月丙子賜中臣鹿島連姓〕―【27】大宗―【28】治嶋―【29】治風―【30】武則―【31】則高―【32】則成―【33】則助―【34】則綱―【35】則純―【36】則景―【37】則長―【38】則宗―【39】則常―【40】則行―【41】則雄―【42】則光―【43】則幹―【44】則仲―【45】則藤―【46】則国―【47】則密―【48】則弘―【49】則隆―【50】則満―【51】則煕―【52】則房―【53】則家―【54】則恒―【55】則久―【56】則興―【57】則盛―【58】則広―【59】則敦―【60】則直―【61】則長―【62】定則―【63】則備―【64】則峰―【65】則瓊―【66】則孝―【67】則文〔則孝長男,布美麿,矗之輔。出羽守,鹿島神宮々司,神宮宮司。母鹿島氏,従四位。天保十年己亥正月十三日出生。嘉永四年吉川天浦ニ従ツテ読書。六年十一月二日元服。六年二月朔日参宮始。万延元年上京安井息軒ノ塾ニ学フ。文久元年十二月十一日,下総佐倉藩植松永躬ノ女ト結婚。二年十一月朝廷ヨリ米御寄附ニ付,父ニ代リテ上京。十二月十三日叙従五位下任出羽守。慶応元年七月暴徒ト交通シ,祭式ヲ変改スルニ坐シテ揚屋入リ。二年五月廿四日八丈島ニ謫セラル。明治二年五月朔日赦サレ廿八日帰京。六月十三日帰郷ス。七月朔日稽照館ヲ開キ講学セシム。父祖ノ素志ヲ達スルナリ。八月二日父ニ代リテ上京,祭典復古,神官改補,職禄改革,又復氏ノ事出願,皆許サル。九月九日復古大祭典執行。十一月廿三日,学校ヘ米金ヲ寄附ス。三年七月十一日神幸祭再興執行。九月四日大奉幣使参向,父子勤仕。四年六月廿八日位記返上。七月十七日総神官ト香取神宮ヘ御暇乞参拝。五年七月八日教部省ヨリ総神官罷免。即日少宮司ニ任セラレ,九日大講義ニ兼補セラル。権少教正ニ兼補セラル。六年十二月卅日東京教院焼

失時ニ在京事後処分ニ奔走ス。七年五月廿二日正七位ニ叙セラレ,十一月十九日兼補少教正。九年九日七日家督相続。十年十二月官制改正,宮司ニ任セラル。十一年二月六日兼補権中教正。十二年十二月四日,祖父母君碑ヲ三笠山ニ建(吉川松浦撰文,松岡友鹿書)。十三年四月廿六日配当禄下賜(二百石現米六十四石五ケ年。合計七百八十六円〇五銭)。十四年二月仮殿ヲ移シ,二ノ鳥居ヨリ神前迄石敷トナシ,渡初執行。十五年一月官国幣社神官教導職兼補被廃。是レヨリ前明治五年教導職補セラレテヨリ,管下取締或ハ巡教ニ又ハ東京本局詰トナリ尽ス処少ナカラサリシカ此ニ終ヲ告ク。十七年四月二日,神宮宮司ニ任セラレ,五月家ヲ携テ赴任ス。十八年四月廿一日叙従六位。廿年三月七日,皇太后神宮御参拝ニ付賜謁。三月廿五日叙正六位。廿一年六月廿五日三重県ヘ転籍ス。十二月十一日新築皇城拝見。廿二年十月二日,神宮式年遷宮奉仕,旧儀取調落ルコトナシ。廿三年三月廿七日,遷宮ノ功労ニ付,特旨位階進メラレ,叙従五位。八月神祇官再興,熱田神宮御新築見込変ノコトニ付上京奔走紛糾多シ。廿四年八月六日皇太子殿下御参拝賜謁。十月廿四日祭主久迩宮殿下宇治ノ官舎テ薨去。事務紛々,数日徹夜。京ヘ送リ奉ル。廿五年十月二日,父則孝君卒。廿六年十月十五日,母瑳智子君没ス。廿七年神都名勝志上木。廿八年一月十五日祭主有栖川宮殿下薨去。廿八日広島大本営ヨリ召電アリ。卅日大本営ニ於テ土方宮内大臣ヨリ祭主ハ賀陽宮ニ決ス宮司補佐スベキノ内命ヲ伝ラル。四月故事類苑編纂始メ。六月廿一日叙高等官二等。卅年皇学拡張是ヨリ先,赴任ノ時皇学館ヲ興シ教育ヲ計ル。此ニ至リ基礎定マル。卅一年五月廿二日,夜神宮参集所失火,司庁類焼御正殿屋根ニ及ビ風宮ヘ遷シ奉ル。六月黒木御殿出来遷宮。六月廿七日,依願免本官。七月三日帰郷。卅四年五月十三日,特旨ヲ以テ叙従四位。十月十日前三時卒。三笠山先塋ニ葬ル享年六十二。/母,嵯智子,祖父則瓊君女/妻,鉉〔ツル〕,下総佐倉藩植松求女永躬女/文久元年十二月十一日結婚,十八歳。大正三年三月廿九日没,年七十一,三笠山先塋ニ葬ル。―

 ―則泰―則順―則元

 ―敏夫―則幸―則良(現在,鹿島神宮 権宮司)

 則文の生涯を伝える資料として,『先考略年譜稿』が鹿島家に所蔵されている。これは則文の次男・鹿島敏夫が作成したもので,信頼し得る貴重な資料であると判断される。ここに,その全文を紹介しておく。翻刻にあたって,横組に変更し,表記も改めた部分があることをお断りしておく。


●2,『先考略年譜稿』         鹿島敏夫

天保10年〔己亥〕 正月13日辰刻出生 布美磨ト命ズ
  14年〔癸卯 5歳〕 初メテ歌ヲ詠ズ。祖父君ノ膝上ニ抱カレ小説〔草双紙〕ヲ読ム。
弘化元年〔甲辰  6歳〕 3月11日袴着祝ヲ為ス。
  4年〔丁未  9歳〕 初メテ詩ヲ作ル。
嘉永4年〔辛亥 13歳〕 吉川天浦ニ付キ左氏伝ヲ読ム。
  6年〔癸丑 15歳〕 11月2日元服矗之輔ト改名。
安政3年〔丙辰 18歳〕 此年ヨリ意ヲ詩文ニ用フ。
  6年〔己未 21歳〕 2月朔日参宮初メ,大宮司職見習〔祖父則瓊君拝礼教授セラル。永年ノ勤務吉例ニ依也〕。3月3日祖父父ト3名参宮〔家ニ於テ初メテノ儀式ナリ〕。
万延元年〔庚申 22歳〕 此年江戸息軒安井仲平ノ塾ニ入有志ノ輩ト交ル。
文久元年〔辛酉 23歳〕 12月11日下総佐倉植松求馬永躬長女鉉子ヲ妻ル〔18歳〕
  2年〔壬戌 24歳〕 11月禁中ヨリ米卅石御寄附ニヨリ,7日父ニ代リ上京ス。12月13日御米受取ル。24日叙従五位下任出羽守〔上卿冷泉中納言為理卿職事葉室右大弁長順朝臣〕。
  3年〔癸亥 25歳〕 正月10日帰郷。11月水戸藩士有志等誠心組ト称シ,下生根本寺ニ屯集文武館ヲ建テ,神宮ニ奉納スルヲ乞フ。此ノ輩尊王攘夷敬神廃仏ヲ説キ,過激ノ徒之ニ雷同シ,神宮寺ノ大仏ヲ毀リ寺ヲ焚キ,富豪ニ金ヲ課スルニ至ル。神宮ノ中之ニ党スルモノアリ〔是ヨリ前,水戸有志水戸ニ水門館,小川ニ小川館,潮来ニ潮来館ヲ起シ,文武ヲ磨キ攘夷ノ先鋒タランヲ期ス。ケダシ之ニ習ヒ機脈ヲ通ズルナリ〕。
元治元年〔甲子 26歳〕 正月水戸藩士根本寺屯集の徒藩名ヲ濫用シタリトテ捕ヘテ潮来ニ押送シ,遂ニ水戸ニ送ル〔実ハ,幕府ヨリ手入アルヲ聞キ,己ガ藩ニ伴ヒシナリトイフ〕。後之ヲ免スト云。六月寺社奉行ヨリ,浪士ノ件ニ付,父則孝ヲ召ヨセ尋問セラル。東鹿島,江戸ニ出,則文暴徒ニ与スト誣告スルヲ以テナリ。則文出府,之ヲ弁ス。是レヨリ明年迄父子度々出府ス。
慶応元年〔乙丑 27歳〕 7月25日妄ニ浪士ニ文武館ノ地を貸シ,之レト交通スルニ坐シテ揚屋入。10月29日遂ニ遠島セラル〔掛寺社奉行土屋采女正,父則孝職務取上ゲ押込〕鹿島家落魄,此ノ時ニ究ハマル。
  2年〔丙寅 28歳〕 5月24日八丈島ニ謫セラル〔2月21日父則孝押込御免3月27日則瓊大宮司再任〕。
  3年〔丁卯 29歳〕 12月7日則泰出生幼字太郎。
明治2年〔己巳 31歳〕 5月朔日遠島御免。28日帰京。6月5日赦免職掌位階従前ノ通リ。10日帰島御礼奏者所ヘ出頭13日帰国。7月朔日稽照館開講〔従前ノ会議所ヲ校舎ニ用フ。父祖以来ノ素志ヲ達ス〕。8月2日父代理トシテ神宮祭典復古ノ儀ヲ神祇官ヘ出願〔康安ノ祭式ニヨル〕。4日本氏鹿島ニ復スルヲ届〔中世ヨリ居住ノ地名ニ依塙ト云〕。20日総神官改補職禄加増式ノ儀ヲ出願〔文永の補任ニヨリ,禄ハ上ヲ減ジ,下ヲ益ス。人皆悦服ス〕,其許サル。20日太郎初メテ鹿島ニ下向ス。9月9日復古大祭修行。11日在島中島地ヘ奉祀シタル鹿島香取両御分霊ヲ斎祀ス。11月23日学校保存資トシテ伝来ノ除地収納米ヲ寄附ス。
  3年〔庚午 32歳〕 7月11日神幸祭始メテ執行〔数百年来中絶再興〕。9月4日大奉幣使参向父ノ介副ヲ命ゼラレ父子ニテ勤ム。
  4年〔辛未 33歳〕 6月28日父子3名位記返上。7月17日総神官御暇乞トシテ香取神宮ヘ参拝〔則孝則文同伴〕。長村神祇少史千代田史生出張諸調アリ。10月26日后3時敏夫出生。
  5年〔壬申 34歳〕 7月8日教部省ヨリ総神官被免神勤即日少宮司ニ任ゼラル。9日大講義兼補。
  6年〔癸酉 35歳〕 3月4日大宮司ニ任ゼラル。権少教正ニ兼補。7月12日士族編入。14日新治県管内教導取締申付ラル。8月22日大教院詰被申付。9月茨城県内教導取締申付是ヨリ,15年神職教職分離ニ至ル迄,東西奔走1年内6分ハ旅宿ニアリ。
  7年〔甲戌 36歳〕 1月1日大教院焼失〔芝増上寺〕。御遷座ヨリ事後処分ニ至ル寧日ナシ。5月22日正七位ニ叙セラル。11月19日少教正。23日前3時祖父則瓊君卒89。三笠山ニ葬ル。
  8年〔乙亥 37歳〕 1月4日祖母真志子君卒,三笠山ニ葬ル。
  9年〔丙子 38歳〕 1月14日前3時,三子出生。9月7日父則孝君隠居,則文家督相続。
  10年〔丁丑 39歳〕 12月8日大宮司免ゼラル。12日宮司に任ゼラル。
  11年〔戊寅 40歳〕 2月6日兼補権中教正。6月26日前6時淑男出生。7月日比谷神道事務局詰被命。
  12年〔己卯 41歳〕 12月4日祖父母君ノ碑ヲ三笠山ノ墓地ニ建〔撰文吉川久勁 書松岡正久〕。
  13年〔庚辰 42歳〕 4月26日配当禄下賜〔200石現米64石5ケ年合計786円5銭〕。8月25日神道事務局ヨリ茨城県下神道事務分局長ヲ命ゼラル。
  14年〔辛巳 43歳〕 2月仮殿ヲ東方ニ移シ二ノ鳥居ヨリ神前ニ至ル敷石出来。3月22日,神道総裁〔一品勲一等〕有栖川幟仁親王殿下ヨリ,幹事交代員被申付御暇ノ節末広平甕下賜。2月9日后5時30分,五止子出生。
  15年〔壬午 44歳〕 1月神官教導職兼補被廃。9月20日皇典講究所委員委托被申付。同日茨城県皇典講究分所詰被申付。11月4日皇典講究所開黌。
  16年〔癸未 45歳〕 12月茨城県水戸大原神道事務三分局統理被申付。同月茨城県皇典講究分所長被申付。
  17年〔甲申 46歳〕 4月2日神宮々司任命。5月8日家ヲ携テ赴任。
  18年〔乙酉 47歳〕 4月21日叙従六位。7月家族ト尾濃ニ遊ブ。7月5日二女いと子死ス。宇治今北山ニ葬ル。
  19年〔丙戌 48歳〕 3月7日家族ト京坂ニ遊ブ。5月4日三重県皇典講究分局督被申付。
  20年〔丁亥 49歳〕 3月7日皇太后神宮御参拝ニ付拝謁。3月25日叙正六位6月25日久邇宮ヨリ神苑会仮会頭被申付。
  21年〔戊子 50歳〕 6月25日三重県ヘ転籍。11月父君中風ヲ病ム,3週間ニシテ癒。12月11日新築皇城拝観。
  22年〔己丑 51歳〕 10月2日神宮式年遷宮奉仕。同5日豊受宮奉仕〔式年遷宮ハ維新後明治2年1回ノミ維新ノ際ナルヲ以テ行トヾカズ,神殿神室皆十分ノ取調ヲ経残所ナシ〕。
  23年〔庚寅 52歳〕 3月妻ト畿内紀州播磨辺漫遊。同27日神宮御造営祭典挙行。其他旧儀取調尽力不□ニ付叙従五位。8月神祇官運動ノ為メ上京〔今井主典木庭同時ニ熱田神宮御新築神宮ト同構造ト為サントスルニ議アリ。又正義之ヲ弁ス。事端縺テ解ケズ。祭主宮御気嫌能カラズ。攻撃大ニ起ル。然レドモ遂ニ事ナシ。11月13日妻ト赤坂御所菊花拝観。12月4日隠居則泰家督ス。
  24年〔辛卯 53歳〕 8月6日皇太子殿下両宮御参拝。10月24日祭主久邇宮神嘗祭ニ御参向。宇治ノ官舎ニテ薨去ニ付繁忙。
  25年〔壬辰 54歳〕 10月2日父則孝君卒年,80。宇治今北山ニ葬ル。
  26年〔癸巳 55歳〕 10月15日母瑳智子卒ス,年70。宇治今北山父君ノ傍ニ葬ル。
  27年〔甲午 56歳〕 神都名勝誌成ル。2月神宮皇学館ヲ□□ス。是レヨリ先赴任後,直チニ学校ヲ興シ,神官師弟ヲ教育ス。此ニ至リ館舎ヲ新築シ,教員ヲ増聘シ,生徒ヲ全国ニ募リ大ニ之ヲ拡張ス。
  28年〔乙未 57歳〕 1月15日祭主有栖川宮薨去。同28日広島大本営土方宮内大臣ヨリ召アリ出頭ス。後任久邇宮二ノ宮ト決定,宮司宜ク補佐スベシ云々ノ旨ヲ伝ラル。4月故事類苑編纂着手,事務所ヲ東京ニ置ク。6月21日叙正五位。
  29年〔丙申 58歳〕 11月30日叙高等官三等。
  30年〔丁酉 59歳〕 再ビ皇学館ヲ拡張シ文部省認可校トス。故事類苑1部出板。
  31年〔戊戌 60歳〕 5月2日午後11時半神宮参集所失火,同庁類焼。御正殿ヘ飛火ス。風宮ヘ遷座。6月黒木御殿出来遷御。6月27日依願免本官。7月1日事引継。3日家族ト帰郷ス。神宮ニ在職スル15年,御事ヨリ此ニ至ル2ケ月余寝食を安ゼズ,黒木仮殿遷御ヲ終ル。
  33年〔庚子 62歳〕 10月マラリヤ熱ニ感染ス癒エズ。
  34年〔辛丑 63歳〕 4月水戸ニ往テ病ヲ療ス。5月13日特旨ヲ以テ叙従四位。10月10日后10時没ス。三笠山先塋ニ葬ル。

君,幼ヨリ学ヲ好ミ,長ジテ博覧強記。夙ニ尊公ノ説ヲ唱ヘ,遂ニ罪ヲ幕府ニ得テ遠島ニ謫セラル。然レドモ猶学ヲ捨ズ。島人を化シテ学ニ向ハシム。赦サレテ帰ルヤ,先ヅ稽照館ヲ起シ,師弟ヲ教育シ,祭典ノ儀式ヲ復古シ,神官ノ禄ヲ改メ,上ヲ損シ下ヲ益ス。部下皆悦服ス。維新ノ変革ニ際シ,ヨク上意ヲ奉ジテ宜ヲ致ス。召サレテ大教院ニ在ルヤ,斯道ノ為尽ス処少々ナラズ。大教院焼亡スルヤ身ヲ挺シテ善後ノ処置ヲ勉メ,布教ノ為県下ヲ奔走シ,家ニアル1年3ケ月ニ過ギズ。神官教職分離ノ後ハ皇典講究所ニ尽シ,神宮ノ宮司ニ任ゼラルヽヤ,先ヅ皇学館ヲ興シ,国書ノ講究ヲ盛ニシ,遷宮ノ故実ヲ調査シテ遺漏ナカラシメ,神苑会ニ会頭トナリ,宮域付近ヲ清浄ナラシム。故事類苑ヲ引継テ出板シ,神都名勝志ヲ篇輯出板シ,古玉篇ノ残冊ヲ世ニ出ス。官制ヲ改革シ,神宮積年ノ宿弊ヲ一洗シ,多大ノ借入金ヲ返却シ,積立金数十万円ニ至ル。久邇宮・有栖川両祭主ノ宮ノ重スル所トナリ,殊ニ賀陽宮ノ祭主ニ任ゼラルヽヤ,特旨宮ヲ補佐スベキノ命アリ。不幸神宮ノ変災ニ会シ,職ヲ辞スルニ至ル。性書ヲ愛スル人ニ過ギ公暇手書を舎カズ。用ヲ節シ費ヲ省キ,書ヲ求メテ息マズ,飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ。経史・小説・高尚卑近ヲ問ハズ。晩年家ニ蓄財ナキモ珍籍奇冊3万冊。人之ヲ云ヘバ,曰ク,妓ヲ聘酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ。予飲ヲ解セズ,書ハ予ガ妓ナリ,予ガ酒ナリト。

 『先考略年譜稿』は則文の生涯を簡潔に伝えているが,これらの中から殊に重要と思われる点を二、三取り上げてみたい。


●3,八丈島送り

 かねて尊王思想を鼓吹していた鹿島則文は幕府の忌むところとなり,慶応元年(1865)7月,浪士に文武館を貸し,これらと交わったとして捕らえられ,揚屋入りを仰せ付けられ,10月島送りの刑に処せられた。27歳の時である。慶応2年5月25日,江戸鉄砲洲岸を出帆し,浦賀・網代・三崎・大島・三宅島を経て,6月5日八丈島に到着した。
 明治元年(1868)11月赦免となったが,帰郷したのは,翌2年6月である。則文は3年間に亙って八丈島で流人生活を送った。在島中は読書を以て楽しみとし,その間に寺子屋を開いて,学問を講じ,島民の教化にも当たった。
 近藤富蔵の『八丈実記』に序文を寄せ,島民及び流人の有識者に呼びかけて『南島名勝集』(八丈八景)を編集したが,この他にも八丈島に遺した詩文は碑として現存する。また,揚屋入りから赦免帰国までの,八丈流人日誌ともいうべき『南島雑録』2巻を残しているが,これは流人生活を知る上で貴重な資料となっている。今は『八丈実記』の序を掲げるにとどめたい。

    八 丈 実 記 序
  人之世に処するや,文有て而して名朽ちず。而して,文は記事より難きは莫く,地誌より難きは莫し。地誌を作る,荀も博学にして広聞,身険阻を渉り,而して疲労せず,歳月の久しきを経て,而して倦厭せざる者に非ずんば,焉ぞ能く其の梗慨を尽さん耶。余幼より地誌を好み,風土記と称する自り,今人の遊記に至るまで,之れを読まざる無し。嘗て正斎近藤先生の辺要分界図考を閲し,案を拍ちて曰く,憶,斯の如き人にして,而して地誌は大成すると謂う可しと。夫れ皇国南北の海上を距つこと数十里,而して王家に服する者,蝦夷と八丈と有る而已。然れども,蝦夷之地は広漠数百里,地は寒帯に際し,秋冬之間,雪天陰濛日色を見ず。加之,居人甚だ少なく,毒蛇猛獣昼猶横行す。古自り曽て其の北地を窺うもの無し。或は山丹に属すと云い,或は魯西亞に属すと云い,定説有る無し。而るに先生飽生学文質に富むを以て,重嶺大海之難しとする所を経渉し,熟に其の地の険易沃瘠を覧,博く国史に徴し,漢籍を旁捜し,考証引例,其の委曲を悉す。蝦夷の山川,席上画を指して知る可し。近来,官,蝦夷の地を闢くことを命ず。信を此の書に取らざる無し。其の功も亦大なる哉。八丈島は一弾丸子之地,北夷の九牛之一毛耳。且つ国地を距たること遠からず。而して其の風土を紀す者,概ね疎にして簡,毎に人の意に慊らざる者は何ぞ耶。益其の人に無き也。若し先生の如き有らば必ず記載して憾み無かる可し。余南竄之三日,聞斎近藤翁の余を来訪する有り。余其の履歴を問う。曰く正斎先生之子也と。是に於て一見旧の如し。談八丈の地理に及ぶ。微かに其の説を叩くに,翁答えず。志料若干巻を出して相示す。乃ち展べて之れを読む。名勝と風土を論ずること無く,凡そ此の島に関係する者,土地之変換,吏民の隆替,男女之風俗,物産之多寡,悉く旧史野乗を考究し,諸れを野叟村婆之談に徴し,四十余年之久しきを積む。而して網羅包挙,備具せざる無し。余,昔日未だ懐いに慊らざる者,是に於て復憾みを遺すこと無し。豈大快事に非ず乎。嗚呼,父子にして南北辺土の事実を著す。偶然ならざるに似たり。当今朝政漸く復古,他日若し国誌を此の著に徴する有らば,裨益すること,分界図考の下に在らざる有らん。翁,躯幹雄壮,曠懐偉度,険岸絶嶺を跋□して窮せず,其の勝るるは一事も措かず。差錯有れば寝食を廃して校正す。故に

草稿屡成り,屡毀ちて,自ら其の労を知らざる也。故に此の書にして世に伝うることを果さば,則ち翁の身孤島に窮居すると雖も,名不朽に垂るるは此の文也。然りと雖も,篤く学を好み,厚く道を信ずる者に非ざれば,成す可からざる也。因て其の感を巻端に書し,之れが序と為すと云う。
      明治二年歳次己巳夏五月    前の朝散大夫  中 臣 則 文  撰

 明治元年11月,則文は新政府の大赦によって帰郷する事を許された。しかし,則文が地役人・菊地秀右衛門から赦免の申し渡しを受けたのは,翌明治2年5月1日であり,八丈島を出たのは,23日未明であった。28日江戸着船,御赦免御礼等の諸事を済ませた後,6月13日郷里・鹿島に帰った。神官をはじめ,市中の人々およそ100人に迎えられた則文は,まず,鹿島神宮に参拝御礼の後,帰宅した。


●4,伊勢神宮・大宮司拝命

 則文が赦免され,鹿島に帰った,明治2年,鹿島神宮は上知によって2000石の朱印地を失い,窮乏の極地にあった。7月1日,則文は家財全部を売却して資金をつくり,稽照館を開校して,専ら子弟の教化に当たった。明治5年7月8日,鹿島神宮・少宮司を拝命,9日,大講義に補せられた。翌6年3月大宮司に昇格し,権少教正に進んだ。この間の様子を,八丈島の近藤富蔵宛の書簡の中で,次の如く記している。
  昨年中,御申越之八丈詩歌冊ハ,未ダ点削出来上リ不申,加之小生多忙ニテ乍存延引致候。近年之内ニ清書御マハシ可申候。扨国地モ弥々郡県ニ相成,三府京西・東京・大坂七十二県ニテ政事ヲ致シ,県モ聴訟・断獄ハ司法省之官員出張,取扱候事ニテ,県之官員ハ租税ノミニ関係致候。上下尽ク人口ニテ自ラ勉励致候事ニテ,四民平等ノ権ニテ,家ニハ権ナク,徳ト人材トニ威有之候事ニテ,神宮抔モ当夏悉ク改正ニテ,当地モ八十五人免職ニ相成,十三人新補ニ相成候,小生モ少宮司ニ相成,大講義ヲ拝命致候。是ハ教部省ト申シテ,当三月以来,神祇官御廃シニ相成,相立候省ニテ,大教正,権大教正・中―・権―・小―・権―・大講義・権大―・中―・権―・小―・権―,凡十四級有之,村々ヲ回リ,神教ヲ説候ニテ,神教愛国の上旨ヲ体スベキコト,天理人道ヲ明ニスベキコト,皇上ヲ奉戴シ,朝旨ヲ遵守セシムベキコト,此三則ヲ綱ニシ,近来ノ孝子・貞女・忠士ノ説ヲ引喩シ,神代ノトヲ説諭致候事ニテ,神官・僧侶モ悉ク此旨ヲ説候事ニテ,妙法ヤ阿弥陀ヤ菩薩ヲ止メ,高天原・黄和泉ノ国ヲ説候事ニテ,肉食・妻帯・蓄髪勝手ニ相成候事ニ候。小生モ兼任ニテ村々巡回説諭致候事ニテ,多事此事ニ候。…… (明治5年8月29日付)

 則文は,明治11年権中教正に補せられ,17年4月2日,伊勢神宮・大宮司に任命された。『先考略年譜稿』には「神宮々司任命」とあるが,当時の職制の宮司は今の大宮司のことである。伊勢神宮・大宮司は華族に限られていたが,沈滞している神宮を復活させるため,46歳の若さで鹿島から則文が抜擢されたのである。
 伊勢神宮は,度会氏と荒木田氏が,神主の家柄として代々神に仕えてきた。しかし,明治維新と共に,この世襲制度は廃止された。新しい制度は,明治4年5月14日付の太政官令第234号によって布達された。
 明治17年3月17日,内務省社寺局の諫早生二・井上真優から,鹿島則文宛に次の書留速達便が届いた。
  今般,御都合有之,神宮々司,御採用之筈候処,官社宮司中,実ニ其人乏シク,貴兄三四年御奉職,御尽力ハ,相成申間敷哉。尤,鹿島神宮ハ,別段御縁由モ有之,御本意ニハ有間敷,且,御家族御引纏等,御迷惑筋モ可有之候得共,貴兄ヲ除キ,他ニ可申立人材無之,不得已御推挽申度,神宮ノ方,目的相立候ハヽ,御復職ハ差支無之候。若シ御異議無之候ハヽ,可否ノ程ハ,難量候得共,御評議ニ付シ可申,御社跡役ハ,暫ク神宮権宮司,藤岡好古へ可被命見込ニ候。至急何分之貴酬有之度,此段内密申進候也
     明治十七年三月十七日
                                 諫早 生二
                                 井上 真優
   鹿嶋神宮
    宮司鹿嶋則文殿

 このあと,4月2日付で,太政大臣三条実美より,神宮宮司を任命され,5月6日,横浜より汽船で伊勢へ向けて出発している。当初,3年間だけという事で,家族と共に赴任したが,明治31年5月,内宮炎上という不祥事が発生,その責任を負って職を辞するまで,15年間の長きに亙って,この要職を勤めた。則文の生涯の中で最も充実した時期であったと推測される。


●5,皇学館大学の開校

 皇学館大学の前身・神宮皇学館は,明治15年(1882)4月30日,神宮祭主・朝彦親王によって「皇学館創立令達」が発せられたが,未だ開校に至らず3年が経過していた。朝彦親王の神宮職員に対する,皇学館創立に関する令達は次の如くである。
  神宮祭主朝彦親王令達
  今般林崎文庫ニ皇学館設置候条,此旨相達候事/但組織学規等ハ追而相達可申事
                   (明治15年4月30日 神宮皇学館史料上) この令達を受けて,藤岡権宮司等がその実現に努力したが,開校に至らなかった。宮司田中頼庸が神宮教管長に転じ,その後を受けて宮司に就任した鹿島則文は,祭主宮の台命を奉じ,この開校に着手した。この時の則文について,高原美忠氏は,次の如く記す。
  十七年四月来任の鹿島宮司は鹿島神宮大宮司鹿島則孝の子で,多くの勤王志士を寄宿させ,郷党の子弟を集めて皇道宣揚につくし,幕府の忌むところとなって八丈島に流されたのが廿二才の時であった。「任を罷めるの日,事後資を載せず,唯々蔵書三万余」と云ふ有名な句を残した好学の人であり,皇学館の興隆に力をつくした。
 則文は,明治18年1月,学制を定め,教授・教授補・助教・授読等の職員を置き,広く学生を募集し,同月11日,宇治浦田町神宮司庁の仮教室で開講式を挙げた。定員50名,神宮祀官の人材養成を目的として開校したが,学生は予想に反して集まらなかった。則文は,明治20年3月,神宮の関係者にあてて,次のような,勧学諭告文を送っている。
  今般宮掌雇学術研究スルノ所,僅カニ五六名ニ過ギズ。然ラバ其ノ余ハ無学ノ人ト言ハザルヲ得ズ。是迄再三研究ノ義,訓諭ニ及ブモ,曰ク老年ノ読書ハ難シ,曰ク庁務ヲ専ラト心得学問ハ怠レリト。是大ナル謬見也。読書ハ他ノ技ト違ヒ,老年ニテモ一日ノ益アリ。又庁務ヲ口実トスルハ,神官ノ何タルカヲ知ラズト云フベシ。賽銭ノ勘定,文書ノ往復,神饌ノ買入レ,奉仕ノ分課ナドハ神官本務ヨリ生ズル末事也。譬バ農商ニモセヨ金銭ノ出納,味噌薪ノ買入レ,書状ノ遣取ハ一家ノ本務トハセズ。抑々今日ノ学問ハ実地ノ事業,則チ宇内ノ形勢,古今ノ治乱ニ通暁シ,事物ノ理ヲ精査研究脳裏ニ含蓄シ,発シテ日用俗務

万般ニ作用スルモノニシテ,彼ノ詩歌風雅を玩ビ,字ヲ識リ事ニ博ク所謂本籍学問ノ比ニシテ,世事に迂遠俗務ニ達セズ,昔日ノ学問ニハアラズ。俗務学問決シテ二途ニハ非ザルナリ。然リ,而シテ神官ノ本務タル神冥ニ奉仕スルヤ,誠意真心ヲ以テ神慮を感格スルヲ主トス。徒ラニ外貌ノ礼容虚飾ヲ指スモノニアラズ。其ノ誠実廉恥ヲ興起確守スルハ学問ノ培養ニ基ク故ニ,神官ノ本務学問ヲ舎テ他ニ執ル所ナシ。今ヤ天下ノ風潮,博学有為ノ神官スラ度外無用視セラル。況ヤ碌々タル鄙陋寡聞ノ神官ニシテ世間ニ信任ヲ得ルハ,豈難カラズヤ。本月十一日ノ官報ニ神官ハ壱万六千余円ノ経費を増額セラレ,去ル十一月ニハ官等一階昇級アリ。是ニ反シテ十七八日ノ官報ニ各社の神官ハ廃セラレ,無給ノ神官トナレリ。各社ノ神官悉ク不学無術無用ノ人ニシテ,独リ神宮ノ神官有用ノ人材トモ云難シ。他ナシ,偏ヘニ奉仕ノ大神宮ノ恩徳ノ然ラシムルヨリ興廃地ヲ異ニセリ。嗚呼,本営ノ神官内ニハ,妻子飢餓ノ顧ナク,外ニハ奏判任の官ヲ辱スル栄ヲ思惟スレバ,一日片時,神恩神徳ヲ軽忽スルヲ得ンヤ。肝ニ銘ジ骨ニ刻ミ,其ノ涯リナキ恩徳に報ゼントナラバ,世ニ無用視セラレズ,学ヲ修メ,行を慎ミ,誠意真心天下ヲシテ,神宮ノ神官ハ,特別ナル故ニ,朝廷ノ待遇モ又非常ナリ,ト言ハレルヨリ外ノ義ナシ。唇亡テ歯寒シ。各社神官ノ廃ハ,前車ノ覆轍ナリ。加之,官吏試験法不日ニ発布セラル,ト云フ。其ノ時ニ臨ミ,臍ヲ噛ノ悔ナカラン。事ヲ屡スレバ,疎ゼラルト,古人ノ言アリ。従来学事ニ付,再三訓諭,其ノ効ナキモ,則文,老婆心ノアマリ,不得止更ニ忠告ニ及ベリ。篤ト熟慮反省シテ,過日来令セズシテ,洋服ニ改装ナリシ如ク,翻然,子弟ヲ督責シテ,皇学館ニ入レ,自己モ一層勉励,神官ノ神官タル本務ヲ尽サレン事ヲ希望ス。
  言ハ意ヲ尽ザズ。論アラバ面議セラレヨ。
  各自各字ノ下ニ可否ヲ記シテ返戻アリタシ。
       明治廿年三月廿二日              宮 司  鹿島則文

 則文は,着々と学制の充実を図り,この4月大改革を実行した。館長に中田正朔,幹事に孫福弘坦,教頭に東貞吉,副教頭兼教授に下田義天類をそれぞれ任命し,科を尋常科と高等科に分け,修業年限を各4か年,定員100名とした。その後,明治23年5月には第1回目の卒業生2名を出し,27年には,祭主宮・有栖川熾仁親王を総裁に仰ぎ,則文自身館長の要職を兼ねて,その充実・発展に尽力した。明治28年6月1日,則文は皇学館の官立化を計画し,
 神宮皇学館之儀ハ,去明治十六年五月中,御省ヘ伺済之上,設置,専ラ補典及国史・国 文ヲ教授罷在候処,爾来,漸次隆盛ニ立至リ候ニ付,……一層規模を拡張シ,御省所管 ノ官立学校ニ被成下度……
と内務大臣・野村靖に申請した。この申請が許可され,神宮皇学館官制が勅令をもって公布されたのは,則文が伊勢を去って5年後,他界して2年後の明治36年8月のことである。神宮皇学館の館長は,初代・中田正朔,2代・鹿島則文,3代・冷泉為紀,4代・桑原芳樹,5代・木野戸勝隆・6代・武田千代三郎,7代・松浦寅三郎,8代・上田万年,9代・森田実・10代・平田貫一,11代・山田孝雄……と,錚々たる人々がその任にあたり,学問発展のために尽くしてこられたが,鹿島則文は,その礎を築いたと言っても,決して過言ではない。


●6,式年遷宮(明治22年,第56回)

 則文が宮司就任後,5年目の明治22年に,伊勢神宮の大行事,第56回式年遷宮が行われた。戦前の式年遷宮に関しては,胡麻鶴醇之氏の調査に詳しいが,明治22年度の概略は以下の如くである。
 明治22年の式年遷宮の準備は,それより14年前の明治8年から開始されていて,様々な手続きは,田中頼庸宮司等を中心に進められている。明治15年4月,新宮造営に必要な材木伐採の御杣山は,信濃国西筑摩郡小川村字床沢并打越官林及び木曽谷官林と決定。鎮地祭は,19年3月5日に行われた。
  甲第三号  鎮地祭日時上申
  皇大神宮豊受大神宮御造替鎮地祭ノ儀,明治二年度ハ同年正月廿二日執行相成候,然ルニ今度ハ御地形御築立可相成ニ付,遷宮ノ当年ニテハ御不都合ニ候ハ,寛正三年遷宮ノ節四ケ年前長禄三年鎮地祭執行ノ例ニ拠リ,明治十九年三月五日トシ,時間ハ明治二年度ニ準拠シ,皇大神宮ハ卯刻ニ付午前八時,豊受大神宮ハ午刻ニ付正午十二時ニ執行仕度,別宮ハ漸次ヲ以御治定相成度,祭式ハ山口木本木造三祭ノ如ク旧式ニ拠リ取調次第書并日時付相添此段上申候也
     明治十九年一月八日
    内務大臣 伯爵 山形 有朋殿            神宮宮司 鹿島則文
                         (明治己丑/遷宮公文類纂十一)
 仮御樋代木伐採式は20年11月9日に実施され,準備は着々と進行した。式年遷宮の節,儀仗兵は、陸軍歩 兵大佐・渡部進以下総員178名が派遣された。また,神楽並びに秘曲が初めて奉納されたが,以後、これが踏襲しされている。
  伏テ惟ミルニ,神宮ハ,天祖,神霊ノ在ス所,皇統ノ基ユル所,是以,列聖尊奉敢テ怠リ玉フ事ナシ。中世以降古典旧儀ノ燦然ルヘキ者赫々相廃止シテ復タ拾収スヘカラス。王政維新首トシテ旧典ヲ回復セラレ綱挙リ目張ル。尋テ式年御遷宮ノ如キ古ヲ稽ヘ今ヲ照シ一時衰廃セシ典儀今ハ則チ炳然世ニ明ナルヲ得タリ。洵ニ国家経綸ノ一大美亊ト謂フヘキナリ。神霊感格シテ,宝祚ヲ冥護シ玉フ疑フ所ナシ。然リト雖トモ独リ遷宮ノ際神楽ノ式ナキ豈昭代ノ一大欠典ニアラスヤ。古語拾遺ニ曰ク,磯城瑞垣朝漸畏神威,

同殿不安,仍就於倭笠縫邑殊立磯城神籬奉遷天照大神及草薙剣令皇女豊鍬入姫命奉斎焉其遷祭之夕人皆参終夜宴楽歌曰,ミヤヒトノオホヨスカラ爾イサトホシユキノヨロシモオホヨスカラ爾,又延喜大神宮式ニ斎宮女孺四人供五節舞云々,又同式ニ凡三節祭并解斎直会之日鳥子名舞童男童女十八人装束青摺衣装在前摺備臨祭給之云云,又百錬抄ニ曰ク,仁治三年五月十日丙申将軍家被行大神宮臨時祭舞人装束巳下移鞍等被調下云云,ト是ニ因テ之ヲ観レハ上世,神宮ニ於テ神楽ヲ奏スルコト燎焉タリ。仰キ願クハ,朝廷御尊崇ノ厚キト旧儀復古ノ御主意トニヨリ,之ヲ上聞ニ達シ,奉幣ノ夜御神楽大曲御執行アラン事ヲ神意ヲ奉慰シ国家ノ静謐ヲ祈請スルハ神官ノ職ナリ。是以敢テ叨リニ請フ所アリ,尊厳ヲ冒涜シ戦兢ノ至リニ任ヘス。
                             則文誠惶誠恐頓首再拝
               明治二十二年三月二日
                         神宮宮司 正六位 鹿島 則文
    内務大臣 従二位勲一等 伯爵 松方 正義殿
                       閣 下

  庚第二四号
  神楽執行之儀ニ付建言相成候処,右者既ニ客月十五日神楽并大曲被為行旨被仰出宮内大臣ヨリ式部長官ヘ達相成候趣ニ依リ,其旨貴庁ヘ達相成候儀ニ付,該建言書ハ其儘留置,為御心得此段申進候也
   明治廿二年三月十四日                     内務書記官
    神宮宮司 鹿島 則文殿

 鎮地祭,仮御樋代木伐採式,立柱祭,御形祭,上棟祭,檐付祭,甍祭,御戸祭,御船代祭,洗清,心御柱奉建,杵築祭,後鎮祭,御装束神宝読合,川原大祓,御飾,遷御,奉幣,古物渡,御神楽御饌,御神楽と,この大祭を則文は,その最高責任者として,滞りなく実行した。


●7,『古事類苑』の編纂刊行

 『古事類苑』は,本文1000巻,洋装本51冊(和装本350冊),日本最大の百科事彙である。明治12年,西村茂樹の建議に基づいて,文部省が小中村清矩を主任として編纂に着手,その後,東京学士会院,皇典講究所,最後に神宮司庁に移管されて,大正3年,35年間の歳月を費やして完成した。編修には,川田剛,細川潤次郎,佐藤誠実,松本愛重,黒川真頼,本居豊穎,木村正辞,井上頼圀等をはじめ,多数の人々が関与した。明治28年,皇典講究所は契約の期限になったが,完成することが出来ず,「文部省ガ国家文運ノ為ニ計画シタル此一大事業モ,或ハ蹉跌セントスルノ状況」に至った。この時,社寺局長・阿部浩は,伊勢神宮宮司の鹿島則文に議り,これを完成させようとした。則文は意を決し,その許可を内務大臣に申請した。

  秘甲第10号
  世界孰ノ邦モ,文運ノ開クルニ従ヒ,類聚書ノ必須ナルハ自然ノ勢ニシテ,漢洋共ニ其ノ書ニ乏シカラズ,然ルニ吾邦ニ於テハ,文運夙ニ開ケタルモ,未類聚書ノ完全ナルモノアラズ。是豈盛世ノ一大闕点ナラズヤ。文部省曩ニ此ニ見ル所アリテ,古事類苑編纂ノ挙アリ。然レドモ其事未ダ成ルニ及バズシテ,予メ完成ノ期ヲ定メ,之ヲ皇典講究所ニ委託セリ。皇典講究所,又孜孜編纂ニ従事シタルモ,未完成ニ至ラズシテ,既ニ約スル所ノ年期ニ達セリ。豈又遺憾ノ至ナラズヤ。故ニ今之ヲ同所ニ謀リ,文部省ニ稟請シテ,神宮司庁,編纂ノ責務ヲ負ヒ,五ケ年ヲ期シテ完成セシメントス。仰ギ願クハ,神宮司庁ニ於テ,該編纂ニ従事スベキ件,併セテ向フ五ケ年間,累積スベキ社入金非常予備金ヲ以テ,之ガ費用ニ充ツコトヲ,御許可アランコトヲ,抑遠近子来ノ崇敬者,奉献スル所ノ金ヲ以テ,コノ国家無前ノ大業ヲ成シ,大ニ文運ノ開進ヲ裨補スルコトアラバ,幸ニ,
  天覆ノ,
  神徳ヲ,偏ク衆庶ニ蒙ラシムルノ一端ト相成,天祖愛民ノ御盛意ニモ協ヒ候ニ付,前件御許可ノ程奉願候也。
     明治二十八年二月十二日              神宮宮司 鹿島則文
       内務大臣子爵野村靖殿

 この申請は,3月29日付で許可され,神宮司庁は,文部省及び東京学士会院作成の原稿234巻と,皇典講究所作成の原稿407巻,合計641巻の原稿を受領し,『古事類苑』編纂の事業を引き継いだ。明治29年11月8日,第1冊目帝王部第27巻を刊行,則文は,明治31年職を辞して帰郷したが,この大事業は,冷泉為紀,三室戸和光,岡部譲,桑原芳樹,木野戸勝隆等によって継続され,大正3年に完結した。この事業に関しても,則文の果たした役割は大きい。


●8,内宮炎上

 明治31年5月2日午後11時30分,内宮炎上という不祥事が突発した。参集所及び神宮司庁を焼失して,正殿にまで延焼しようとした時,則文は直ちに正殿に参り,御正体を風日祈宮に遷座し奉った。『神宮・近代史年表』は,次の如く記す。
  内宮参集所灰置場ヨリ出火参集所神宮司庁全焼余焔正殿ニ及ヒ御炎上仍テ神儀ヲ風日祈宮ニ御動座時雍館ヲ仮参集所祭主官舎ヲ仮神宮司庁トス(略叙)・・・二四 皇大神宮御異変ニ付祭主侍従社寺局長等前後シテ来田(櫟陰記)・・四 権宮司内務省ノ召ニヨリ東上(同)・・同 御炎上ニツキ宇治四ケ町有志会合シ社寺局長侍従ニ陳情書提出(同)・・二六 御異変ニツキ祭主職員御訓諭(類聚)・・二八 本日ヨリ参宮人日祈宮ニ参拝(櫟陰記)・・三〇 社寺局長ヨリ黒木御仮殿ヲ建設シ遷御ノコトニ御治定ノ旨依命通牒(類聚)……
 則文は,事後処理を済ませた後,この責任を負って少宮司と共に職を辞した。7月鹿島に帰ったが,この事が頭を離れず,夜中に飛び起きることしばしばであったという。この事件が則文の死期を早めたものと思われる。明治34年5月,特旨を以て従四位に叙せられ,10月10日午後10時,63歳の生涯を閉じた。

 【参考文献】
  ◎『先考略年譜稿』鹿島敏夫,鹿島則良氏蔵。
  ◎『佐原喜三郎と鹿島則文』海野正造,昭和52年6月1日,柳翠史料館。
  ◎『神宮皇学館創立六十周年記念誌』(館友,第409号,昭和17年6月1日),神宮皇学館館友会。
  ◎『増補改訂 八丈流人銘々伝』葛西重雄・吉田貫三,昭和50年5月20日,第一書房。
  ◎『桑原芳樹翁伝』「桑原芳樹翁伝」刊行会,昭和51年12月20日。
  ◎『常総古今の学と術と人』大山地山,昭和51年11月25日(復刻),水戸学研究会。
  ◎「古事類苑編纂事歴」(『古事類苑』目録・索引,大正3年8月29日),神宮司庁。
  ◎「桜山文庫について」鹿島則幸,(『郷土文化』第18号,昭和52年3月31日)茨城県郷土文化研究会。
  ◎「鹿島則文と桜山文庫」深沢秋男,『井関隆子日記』中巻,昭和55年8月30日勉誠社。
  ◎『神宮・明治百年史』上巻,昭和62年9月1日,神宮司庁,神宮文庫。
  ◎『神宮・明治百年史』下巻,昭和63年10月20日,神宮司庁,神宮文庫。
  ◎『神宮々司拝命記』深沢秋男,平成10年7月25日,私家版。

                          【平成11年11月1日】

 



●桜山文庫の概要
鹿島則文の次男・敏夫氏は、その伝で、
「・・・性、書を愛する、人に過ぎ、公暇手書を舎かず、用を節し、費を省き、書を求めて息まず。飢ゆる者の食を求むるが如し。・・・晩年、家に蓄財なきも、珍籍奇冊3万冊・・・」と記している。
則文の蒐集した書籍・文書等は、その後、鹿島敏夫氏・鹿島則幸氏・鹿島則良氏の管理の下に伝えられた。書庫は、鹿島神宮に隣接する5000坪余の鹿島家の屋敷の中にあったが、大谷石の立派な建物であった。則文の蒐集した古典籍3万冊の内、漢籍の「二十二史」等は水戸の水府名徳会彰考館文庫に、鹿島神宮関係の史料は茨城県立歴史館に、それぞれ移管されていたが、幸い、日本文学関係は昭和女子大学で一括購入することができた。

●ず山文庫の昭和女子大学への移管経過
桜山文庫の所蔵者・鹿島則幸氏から、桜山文庫一括譲渡の件を依頼されたのは、昭和59年9月のことである。今回の対象となるのは、日本文学・文化に関するもので、評価については、長年懇意にしている、一誠堂書店の酒井宇吉氏に依頼され、譲渡先については私が一任された。一誠堂書店へ移送する際、大型リンゴ箱で119箇あった。私は、およそ1万冊と予測した。分量も少なくはないが、則文が生涯をかけて購入したものであり、質的にも高いものである。従って、評価額も相当高額になるものと思われた。私にとっては、生涯の中でも、なかなか巡り合えない大仕事である。
譲渡先については、私の勤務先の昭和女子大学を第一として、次に国学院大学、法政大学、国会図書館、国文学研究資料館などを考えた。この間、朝倉治彦氏、島本昌一氏、杉本圭三郎氏、渡辺守邦氏、中村幸彦氏等の御助言を頂きながら、慎重に事を進めた。
評価には、約1年間かかったが、その間に、酒井氏は分量も多いので分売もやむを得ないのではないか、と打診してきた。私は直接、酒井氏にお会いして、分売は極力回避して、「桜山文庫」の名を後世に伝えたい、と懇請した。幸い、酒井氏もこれを諒として下さった。
昭和61年6月、第1次の評価額が提出されたが、酒井氏の評価は、誠に誠実なものであると判断された。ただし、この評価は、3ヶ月以内、一括購入が条件である由。
早速、昭和女子大学の関係者に検討を依頼した。まず、国文科、日文科の科会で検討してもらった。全員の先生方の賛成を頂いたので、書類を提出した。万一、契約が成立しない場合、第2、第3の図書館と交渉しなければならない。幸い、学長の許可を頂き、本学の一括購入が決定した訳である。
9月17日、第1次の受け渡しが実行され、続いて、2次、3次と評価・受け渡しが行われ、昭和62年末にはほぼ完了した。受け取り後、館長室に積み上げ、防虫作業を業者に依頼し、やがて、貴重書室に保管されたが、青柳図書館長はじめ、図書館の方々の御配慮で、全8000冊の桜山文庫の移管が完了した。

●ズ山文庫所蔵本の紹介
●1、嵯峨本 撰集抄、大本、元和8年刊、各巻末に「此本三冊全部洛西嵯峨角倉与一入道素庵墨蹟板行之即従素庵直賜之 元和八年 豊松庵法橋玄伯(花押)」従来、嵯峨本は本阿弥光悦の版下が中心とされてきたが、本書の奥書によって、光悦以外に素庵も版下を書いていた事が明らかとなり、書誌学的にも貴重な存在である。
●2、桜山本 春雨物語、写本、大本、上下2冊、巻末に「文化五年春三月/瑞龍山下の老隠戯書/干時歳七十五」とある。秋成の『春雨物語』には文化6年の、自筆最終稿本が天理図書館に所蔵されているが、残念ながら本文は不完全本である。本書は、その前年のもので、自筆本からの転写本であるが、完全本であり、書写態度も自筆本に忠実である。近年の研究で、その価値は高く評価されている。■参考、『桜山本 春雨物語』(深沢秋男編、昭和61年2月25日、勉誠社発行)には、影印篇に、本文全冊が2色刷りで収録され、研究篇では、本文に関する、従来の諸説を完全に修正した新説が提出され、現在は、この説がほぼ認知されている。
●3、井関隆子日記、写本、大本、全12冊、著者自筆本。天保11年〜15年の5年間の日記。鹿島則文が、明治15年に、神田淡路町の琳瑯閣・斎藤謙蔵から7円で購入している。当時、西鶴の可心版『好色一代男』が1円であった。現在この『一代男』が古書店にでれば、800万はする。版本と写本であり、有名な西鶴と無名の隆子のことであり、単純な比較は出来ないが、斎藤謙蔵も鹿島則文も、この日記をかなり高く評価していた事はわかる。この作品は、近年、江戸時代の女性の日記文学として高く評価されてきている。因みに、平成11年度の大学センター試験の本試験の古典の問題に採用されている。■参考、この日記は、昭和53年〜56年に全3冊本として、勉誠社から出版されている。読み易くするため、適宜、仮名を漢字に改めて、固有名詞に注を付けている。深沢秋男校注、各4500円。

■参考「鹿島則文と桜山文庫」(○鹿島則文略伝。○神宮宮司拝命記。○桜斎随筆目録。桜斎随筆絵図。○桜斎随筆複製版写真。○鹿島則孝伝)→http://gwaikotsu.com/

鹿島則幸氏と桜山文庫 ―鹿島氏追悼―

  鹿島神宮の宮司家である、塙鹿島家・第六十九代、鹿島則幸氏は、平成五年十二月三十日午後七時十一分、他界された。八十六歳(満八十五歳)であった。

 鹿島則幸氏の略歴等を、御子息の則良氏(現在、鹿島神宮、権禰宜)に作成して頂いたので、次に掲げる(原文は横書き)。

 

 「  故 鹿 島 則 幸 大 人 命

 略 歴

   明治41年9月1日生

        鹿島神宮宮司 鹿島敏夫 妻 三重子 長男

   昭和4年     国学院大学高等師範部 卒

   昭和8年     志波彦神社塩釜神社主典

   昭和15年     札幌神社(現北海道神宮)禰宜

   昭和18年     伊豆山神杜宮司

   昭和33年     常磐神社宮司

   昭和58年     退任 父祖の地へ戻る

            神職身分一級

   平成5年12月30日 帰幽

       病気療養中のところ、入院先の小山病院にて

 享 年 86才(満85才)

 出生地

   茨城県鹿島郡鹿島町宮中二三〇三

 家 族

   妻  幸子(ゆきこ)昭和35年

               東京都 古河家より嫁す

   先妻 としこ    昭和13年

               千葉県 沢田家より嫁す

             昭和34年 帰幽

   長女 八栄子(田中)

   次女 隆子(吉成)

   長男 則利     昭和18年 帰幽

   三女 光子(大西)

   次男 則良     常磐神社 禰宜(H6、5、31まで)

             鹿島神宮権禰宜(H6、6、1より)

   孫 十名

   曾孫一名

 旧役職

  熱海市教育委員会委員

  茨城県神社庁水戸支部長

  茨城県神社庁副庁長

  茨城県教誨師会会長

  水戸西ライオンズクラブ会長

  茨城県博物館協会副会長

 現 職

  茨城県神社庁参与

  鹿島古文書クラプ会長

 趣味

  和歌 佐佐木信綱 門下 「心の花」同人

  切手収集

 その他

  鹿島家は代々、鹿島神宮の宮司として奉仕していた

  祖父則文は伊勢神官の大官司として奉仕       」

                (平成六年八月十六日)

 

  1、初めての出合い、『可笑記』の閲覧願

 

 鹿島則幸様に初めてお会いしたのは、昭和四十年である。当時、仮名草子研究を志した私は、卒論の延長として『可笑記』の諸本調査を進めており、国公立図書館、大学図書館の調査をほぼ終え、個人蔵書の調査に入っていた。その年の六月十日、桜山文庫宛、閲覧願を郵送した。『国書総目録』の備考欄の記述を住所と早合点し、よく調査もせず、宛先を「茨城県鹿島郡鹿島町則幸 桜山文庫御中」とした。学校を出たばかりの未熟者のこととは言え、恥ずかしい限りであった。

 七月十六日、許可の御返事を頂く。ここで初めて「鹿島則幸」様を知った。鹿島様は、桜山文庫の原物は鹿島に在るか、現在、水戸に居るので、折を見て閲覧させて下さるとのこと、また、常盤神社は「常磐」が正しいこと、など、やさしく、温かく教えて下さった。以後、私は、半生に亙って御指導を賜ることになる。

 九月十二日、水戸へお伺いした。初対面の私は、未だ御自宅には通して頂けず、常磐神社の社務所で閲覧を許可された。調査を終えて辞去しようとすると、鹿島様は「どうぞ、お持ち下さい」と申された。一瞬、私はその意味が理解できなかった。

 「あなたの様に若い研究者に大切にされ、十分に活用されれば、祖父(鹿島則文=桜山文庫の収集者)も喜ぶと思います。あまり固く考えないで活用して下さい。」

 一度、帰宅し、よく考えて、再びお願いにお伺いする、と申し上げたが、鹿島様は、「どうぞ、今、お持ち下さい。」と申される。私は、それまでに、各図書館の『可笑記』数十点の閲覧・調査をさせて頂いていたが、このような事が、現実にあり得るのかと、天にも昇る思いで、桜山文庫本『可笑記』を拝借して帰った。

 恩師・重友毅先生から、鹿島様の御厚意は素直にお受けして『可笑記』の調査をきちんと仕上げる事が、結局、御恩返しになる、という御指導を頂き、それに従うことにした。

 桜山本『可笑記』は寛永十九年版十一行本で、刊記の半丁を欠くものの、「斎藤文庫」(斎藤幸成)、「不覊斎図書記」(秋山不覊斎)、「西荘文庫」(小津桂窓)等の蔵書印を存し、幕末の鋒々たる人々の旧蔵本てある。私は、この貴重な、高価な御本を頂いたが、謝札として、お金は一円も差し上げていない。後日(十二月十二日)お菓子を持参して、御礼を申し上げたのみである。しかし、帰りの車中で、この諸本調査を微底的に実行し、出来得る限り確かなものに仕上げる事を心に誓った。その思いは、今も忘れていないし、少しも薄れていない。

 

  2、文化五年本『春雨物語』のこと

 

 桜山本『春雨物語』を初めて見せて頂いたのは、昭和四十一年二月二十四日、水戸の鹿島様のお宅へ、重友先生とお伺いした折の事である。その前年、鹿島様は、『春雨』を初めとする、貴重な御蔵書を、研究に役立てて欲しいと申され、その御厚意をお受けして、拝借に伺った訳である。

  春雨物語  二冊    曲訛     一冊

  忠義水滸伝 三冊    雑兵物語   一冊

  山花帖   三帖    婦る野の若菜 一冊

  名鳥   一冊

 この七点を、重友先生が研究可能の間、という条件で拝借した。帰りの車中、先生は、『春雨』は、これを底本として校本を出す。また、お札の意味を含めて学界に紹介し、論文も書きたい。了阿自筆の和歌は雑誌に翻刻してはどうか。『雑兵物語』は他本と対校して、その位置付けをすべきである、などと申された。

 その後、この七点は、重友先生の許に保管されたが、この内『春雨』は特に貴重という事で、全冊複写し、フィルムは私が保管することにした。また、帙も、神保町の池上幸二郎氏に依頼して作製し、保管に留意した。その後、『春雨』は浅野三平氏が校注本を出されたが、重友先生は特別使用する事なく、昭和四十七年十一月、その時が来たと申され、先生の代理として、私が御返却申し上げた。なお、この一件に要した費用は、私の交通費も含めて、一切を重友先生が負担された。

 この『春雨』は昭和六十一年、勉誠社より複製本として発行されたが、この折も、鹿島様は全面的に御協力下さり、解説は私に担当するようにと申された。貴重な御所蔵本を使用させて頂きながら、何の返礼も出来ない事を済まなく思い、発行時に、出版社にお願いして刷本をもらい、ルリユールの特装本、限定三部を造って、その第一号を差し上げた。鹿島様は、大変お喜びであったが、さらに、この影印本の刊行を機に、文化五年・桜山本が学界で再評価され始めた事を、我が事のように喜んで下さった。

 

  3、「井関隆子日記』

  ―出合いから出版まで―

 

 この『日記』に初めて出合ったのは、昭和四十七年十一月であった。先にも述べたが、重友先生の使いとして、桜山文庫御所蔵の『春雨物語』等を御返却するため、水戸へお伺いした折の事であった。要件が済んだ後、鹿島様は、嵯峨本『撰集抄』三冊をはじめ、数々の貴重な御蔵書を見せて下さった。その中に、桐箱入りの全十二冊の写本『天保日記』があった。近世初期を学ぶ私としては、領城外とは思ったが、一読、文章もしっかりしているし、また、内容的には将軍家の様子にも言及していたので、とりあえず、前田金五郎先生に御報告申し上げた。その後、鈴木棠三先生のお耳に達し、この『日記』の校注を担当させて頂くことになった。

 校注の作業を進める傍ら、著者の調査、内容の分析を行い、昭和五十年九月、日本文学研究会で発表を行った。この『日記』の内容に関して、初めて公表した訳である。席上、重友先生は「これは掘り出し物ですね」と評価して下さった。続いて雑誌に掲載したところ、丸山季夫先生が、早速、目にとめて下さり、先生は、何度も鹿島様にお目にかかっているが、このような日記の存る事は教えて頂けなかった、と申された。ここにも、鹿島様の御厚情をひしひしと感じずにいられなかった。

 則文は、明治十五年に、琳狼閣・斎藤兼吉から、この『日記』を七円で購入している。記録によれぱ、明治十六年に、西鶴の可心版『一代男』が一円であった。琳狼閣も則文も、この『日記』をかなり高く評価していた事がわかる。

 昭和五十三年、この日記は『井関隆子日記』として、勉誠社から出版してもらうことになった。この時、出版契約書に二つの事項を盛り込んだ。一つは、原本所蔵権を設定し、当然の事ながら、これを鹿島様に所有して頂いた。そして、増刷の場合の印税は、鹿島様と私が折半することにした。もう一つは、勉誠杜以外の出版社が、文庫などに入れて出版しようとする場合、鹿島様、勉誠杜、私の三者の承諾を必要とする、というものである。一は原本所蔵者への感謝であり、一は情熱的な出版社への感謝であった。鹿島様も大変恐縮され、池嶋社長も喜んで下さったが、全三巻のこの『日記』は、私の思惑と異なり、増刷のチャンスは無く、お二人に対する私の思いは、実の伴わぬものとなってしまった。

 鹿島様は、この契約書作成の折、おこがましい事ではあるが、と前置きして、則文と桜山文庫に関して、簡単に記して欲しいと申された。『日記』中巻の末に「鹿島則文と桜山文庫」を付載したのは、そのためである。しかし、そのお蔭で、私は、鹿島則文略伝を作る機会に恵まれた。略伝をまとめる過程でゆき詰まったのは、則文に、ほとんど著作の無い事であった。則文には『南遊雑録』『王事暇』以外に著作物は無いのだろうか。念のため、鹿島様にお伺いしたところ、

「ございません。」

と申される。私は途方に幕れた。あれ程の学殖豊かな人物に著作物が無いなどとは、とても考えられなかったのである。歴史上の人物は、その著作によって後世に伝わり、評価される、そんな先入見が私にはあった。しかし、この略伝を作る事を通して、もう一つの、偉大な人間の生き方を教えられた事になる。

 『日記』は昭和五十六年六月、全三巻として完結し、数名の研究者からは高い評価を頂いたが、特に注目される事もなかった。が、五十九年四月、ドナルド・キーン氏が、朝日新聞に掲載中の「百代の過客」で三回に亙って採り上げて下さり、これが契機となって、ようやく諸方面で読まれるようになった。この時、鹿島様は、この新聞を御覧になって、

 「……隆子女子は勿論、祖父則文も地下でよろこんでくれた事と存じます。貴方の多年にわたったご努力により、このように段々世にひろまって参りました事、亡祖父にかわり深謝申し上げます。……」

と、お手紙(四月十三日付)を下さった。私は、本当によかった、と、キーン氏の批評眼に感謝申し上げた。仮名草子研究をライフ・ワークと心に決めながら、近世後期のこの日記に十年間近くを費やしてしまった事を、一面、後悔しているところもあるが、それ以上に、この新しい女性の日記にめぐり合えた事を、ありがたく思い、そのチャンスを与えて下さった、鹿島様に、心からの感謝を捧げたい。

 

  4、桜山文庫、昭和女子大学へ

 

 鹿島様から、桜山文庫一括譲渡の件を依頼されたのは、昭和五十九年九月のことである。桜山文庫は、鹿島神宮に隣接する鹿島家の屋敷(五千三百坪余)の中に建てられた、大谷石の書庫に保管されていた(写真、癸押法この譲渡に際し、蔵書の評価に関しては、長年交際のある、一誠堂書店の酒井宇吉氏に依頼し、譲渡先については、私に一任して下さった。

 桜山文庫は、鹿島則文のコレクションであるが、則文の二男・鹿島敏夫氏は、『先考略年譜稿』で、

 「……性書ヲ愛スル人に過ギ公暇手書ヲ舎カズ用ヲ節シ費ヲ省キ書ヲ求メテ息マズ飢ル者ノ食ヲ求ムルガ如シ経史小説高尚卑近ヲ問ハズ晩年家ニ蓄財ナキモ珍籍奇冊三万冊人之ヲ云ヘバ曰ク妓ヲ聘シ酒ヲ飲ムハ世ノ通例ナリ予飲ヲ解セズ書ハ予ガ妓ナリ予ガ酒ナリト」

と、記されている。今回の対象となるのは、主として国文関係のもので、一誠堂書店へ移送する折に、大きなリンゴ箱に入れて、一一九箱であったとのこと。およそ一万冊弱と私は予測した。則文が生涯をかけて収集したものであり、量も少なくはない、また、その評価額もかなりのものになるであろう。私にとっては、一世一代の大仕事である。譲渡先は、私の勤務先の昭和女子大学を第一とし、次に国学院大学、法政大学、国会図書館、国文学研究資料館などを考えた。この間、朝倉治彦氏、島本昌一氏、杉本圭三郎氏、渡辺守邦氏、中村幸彦氏等の御助言を頂きなから、慎重に事を進めた。

 酒井氏によると、量も多いので、場合によっては、分売もやむを得ないのではないか、との事であったので、一日、神田へお伺いし、分売は極力回避して、「桜山文庫」の名を遺したい旨、懇請した。幸い、酒井社長もこれを諒とされた。

 昭和六十一年六月、第一次の評価額が出されたが、酒井氏の評価は、実に誠実なものであると思われた。ただし、これは、三か月以内に一括購入が条件であるとのこと。早速、昭和女子大の関係者に検討を依頼した。契約が成立しない場合、第二、第三の図書館に連絡しなければならない。幸い、昭和女子大で購入する事に決定した。そして、九月十七日、第一次の受け渡しが実行された。その後、第二次、第三次と評価、受け渡しが行われ、昭和六十二年末には、ほぼ完了した。

 第一次受け渡しの様子(写真、癸機砲鮓翳鷙霓修珪紊欧燭箸海蹇

 「なつかしいような淋しいような気持で拝見いたしました。」

と、感想をもらされたが、その年の十一月八日、鹿島様は昭和女子大学にお出になり、すでに防虫のための燻蒸を済ませ、百点近くは帙も作って、臨時の書架に保管されている桜山文庫を御覧になり、大変満足の御様子であった。御帰宅の後、

 「……おかげ様で桜山文庫本の縁付き先も確認出来、しゅうと・しゅうとめの皆様にもお引きあわせ下さいまして有難うございました。よい方がたに見守られ、文庫本もよろこんでおる事と存じます。ここに至る迄になる長い間、お仲人役をおつとめ下さいました貴方様に改めて心から、お礼申し上げます。……」

と、礼状を下さった。これで、半永久的に「桜山文庫」が伝存されると思うと、この一件に御助言、御協力下さった皆様方に、心からの感謝を申し上げずにおられなかった。

 桜山文庫の内、漢籍の「二十二史」は水府名徳会彰考館文庫に、鹿島神宮関係の史料は茨城県立歴史館に、そして、国文関係は昭和女子大学に、それぞれ分散されたが、この様に一括保存されることになった事は幸いである。その資料を真に研究しようとする研究者に、広く閲覧して頂く、これは鹿島則幸様のお考えであった。昭和女子大学の桜山文庫も整理が一段落し、やがて学外の研究者にも利用して頂けるようになるものと思う。

 なお、則文の蔵書印「桜山文庫」の丸印は、黄楊の彫りの深い立派なものであるが、記念にと昭和女子大学に寄贈された(写真、癸掘法さらに、鹿島様は、桜山文庫一括購入の謝札にと、秋田雨雀関係の書簡・八十二通をも御寄贈腸った。これに関しては、大塚豊子氏の研究「秋田雨雀の書簡(1・2・8)」が発表されている(『学苑』649号・651号・659号、平成6年1月、3月、11月)。

 

  5、鹿島家代々の著作

 

 桜山文庫の大略は右に記した如くであるが、その他に、鹿島家代代の人々の著作は、これと別に、現在、鹿島家に所蔵されている。これらの御蔵書を、全て実見した訳ではないが、一応整理すると以下の如くである。

 鹿島則房(第五十二代)

  〇自詠草

 鹿島則盛(第五十七代)

  〇家康公御建立之一巻

 鹿島則広(第五十八代)

  〇神楽本記斎部秘伝 〇元和下遷宮始末文書

 鹿島則瓊(第六十五代)

  〇年中祭事録 〇則瓊詠草 〇弓能本末

 鹿島則孝(第六十六代)

  〇都日記 〇上京日記 〇万我事比の記 〇桜斎書牘集 〇桜斎雑記 ○桜斎雑録 〇則孝雑記 〇飛鳥川附録 〇家茂将軍謁見記 〇幕府朱印改渡記 ○幕府祈祷次第記 〇朝廷御寄附米記 〇末社遷宮記 〇官幣使御参向記 〇復古二年紀 〇桜斎家督記 〇水戸家書類 〇則文諸祝儀 〇大宮司鹿島連家系 〇桜斎随筆 〇日記(大宮司としてのもの) 他、詠草

 鹿島則文(第六十七代)

  〇王事暇 〇南遊雑録

 鹿島敏夫(第六十八代)

 〇先考略年譜稿 〇中臣鹿島連姓鹿島氏系譜(書写)

 

 右の中で、殊に著作の多いのは、第六十六代の則孝であり、『桜斎随筆』のみでも、全六十冊、三五〇〇丁余という大部なものである。これは、幕末・維新の貴重な記録でもあり、いずれ公刊の機を得たいと念じている。

 

  6、晩年の鹿島則幸氏

 

 「拝啓 初冬の候愈々ご清栄に渉らせられお慶び申し上げます。さて 私事満七十五才になり、且つ大手術後の体調必らずしも順調でありませんので、待望の社務所新築工事の完了を機に意を決し神社本庁のおゆるしをうけて、十月二十日常磐神社宮司を退職いたしました。

 顧みますと昭和三十三年二月宮司拝命以来二十五年余にわたり幸に大過なく神前ご奉仕の出来ました事は、御祭神義烈公のご庇護によります事は勿論ですが、各位の陰に陽にの暖かいご指導のたまものと深く感謝いたしております。慈に謹んで厚くお礼申しあげます。

 早速拝眉の上ご挨拶申しあげるのが本意でございますが甚だ略儀ながら寸楮を以てお礼のご挨拶を申しあげます。    敬具

 昭和五十八年十一月一日

                             鹿 島 則 幸

                 〒三一四 茨城県鹿島町宮中桜山二三〇三」

 

 鹿島様は、二十五年余にわたって奉仕された、水戸、常磐神社の宮司を退かれ、父祖の眠る鹿島の地に戻れた。

 五十年振りに生まれ故郷に帰った鹿島様であったが、初めの頃は顔見知りの人も少なく、広い屋敷の草取りも、多くの人手をかけて、半月の余もかかったと申された。

  この年も暮れゆかんとす引越の

   荷物の整理未だすまぬに      (59年12月14日)

 昭和六十年一月五日には、蒐集家の垂延の的となっている、「一一、一、一」(昭和十一年一月一日)の消印の年賀状数葉を、お年玉にと御恵与腸った。

 また、その年には、母家の新築工事が始まり、旧母家の取り壊しをしたところ、二十八枚の襖の下貼りから、栗田寛、松本愛長、細川潤次郎等の書簡、太政官日誌等が、段ボール箱に三つも出てきたとの事で、その整理や、鹿島古文書クラプの会長に就任し、古文書解読の指導に当たられている様子が、折々頂く書簡によって拝察できた。

 六十一年十月四日付の書簡で、住居表示が実施され、「鹿島町宮中一丁目十五番一号」になった旨のお知らせを頂いた。

 昭和六十二年十一月、懸案の桜山文庫の一括保存も決まり、新しいお住まいも完成し、鹿島町史編さん委員を務めながら、鹿島町史料の整理解読に従事しておられた。この頃は、鹿島様にとって、神に奉仕しておられた時とは、またちがった意味で、充実した日々であったものと推測される。

 十一月十五日、潮来町の大生神社の祭札に参列された。長年、常磐神杜の宮司としての立場にあり、この伝統ある祭札に参列できなかったが、この年、やっと、その望みが叶ったと喜びを伝えて下さった。

 「  大生神社の例祭に参列して

  望みかなひはじめて今日の御祭に

    列なるとして鹿島立ちしつ

  時間なほ早けれぱとて廻り道

    廻り道して社に着きつ

  いく百年のよはひ重ねし神杉の

    枝ばりはなほ若々しくて

  みあらかは小さけれどもかやぶきの

    屋根重々し大生の御社

  御祭は夜行はれたるしるしとて

    ともさぬ提灯持ちて進みゆく

  あらむしろ敷かれし席に身を正し

    神職以下我等すはりつ

  古き縁今にのこりてうれしくも

    上座の席をあたへられける

  典礼の指示にしたがひいやさきに

    玉串ささげ拝みまつりつ

  あなたのしあな面白と大神も

    みそなはしけめこのみこ舞を

  二時間に及びしながき御祭も

    八枚手うちて終りたりけり

  今日はよき一日なりきと友どちと

    語りあひつつ家路たどりぬ   」   (11月22日付)

 鹿島様の指導の下に続けられた、鹿島町史料の研究も『惣大行事日記(文久三年)』(平成2年3月31日、鹿島町教育委員会発行)などの如く、一つ一つ実を結んでいった。

 しかし、その頃から、白内障の手術を受けられるなど、視力の衰えをうったえられ、

  文よむ事まゝならぬ今晩年の

    馬琴の事をしのびけるかな

の歌を詠じ、視力の恢復をまって、早く机に向かいたい念願でいっぱいである、とお便りを下さった。

 晩年の馬琴は、視力の衰え甚だしく、友人に手紙は大きい文字で書いてくれる様にと訴え、『八犬伝』を口述、嫁のお路に書き採らせた。その壮絶なまでの創作意欲に、鹿島様は思いを馳せておられたようである。また、その頃のお便りに、玄祖父・則瓊は、塙検校と交際があり、往復の書簡が残っているが、その書き出しは「拝聞致し候」とある、とも教えて下さった。

 平成二年三月、春分の日に、親戚の方々が集まった折、次の様な印刷物を配布された。

 「父「敏夫」は、大正十五年、五十七にて

  母「三重」は、昭和二十九年、七十六にて

  祖父「則文」は、明治三十四年、六十三にて

  曾祖父「則孝」は、明治二十五年、八十にて

  長寿御下賜金たまはりし玄祖父「則瓊(ノリヨシ)」は、

  明治七年、八十九にて

  それぞれこの世をさりました

  慾深きかは知らねども、なさねぱならぬ仕事あり

  医術進みし今なれば、あと七年間がんばりて

  家の記録をも破らんか、心にいだくわが希望なり

    平成二年三月 春分の日

              八十二翁 鹿 島 則 幸

   追記 父「敏夫」は二男だったため、通り名「則」は使用せず」

 鹿島様の晩年の学問への思いが、ひしひしと伝わってくる。

  しぶる目を酷使しながら古文書を

    解読しをり家にをる日は     (平成2年11月10日)

 以後は、鹿島町の小山病院に入退院を繰り返され、病院からのお手紙が続いた。文字も力なく乱れがちで、お見舞いにお伺いしたいと思っても、もう少し待つようにとの御返信、私はがまんを続けた。

 平成五年四月一日付書簡で、今は退院され、通院して療養に努めておられるとの事。ちょうど『桜斎随筆』の件でお願いしていた折であり、この件は、御長女の田中八重子様を通じて配慮して下さるとの趣であった。私は、その後、この則孝の随筆に取り組んでいたが、実は、このお手紙が、鹿島様から頂いた最後のものとなってしまった。

 

 

「父 則幸儀かねて病気療養中の処薬石効なく平成五年十二月三十日午後七時十一分死去致しました

 茲に生前の御厚誼を深謝し種んで御通知申し上げます

  追って 通夜並びに葬儀は左記の通り執り行います

     記

  一、通 夜 一月九日午後六時〜七時

  一、葬 儀 一月十日午後一時〜二時

  一、場 所 自 宅

 平成六年一月五日

          鹿島町宮中一−十五−一

             喪主 鹿島則良

             妻  鹿島幸子

             男  田中幸夫

             男  吉成照男

             男  大西昭宣

             外  親戚一同」

一月九日、夜、昭和女子大学の大塚豊子氏と共に鹿島へお伺いし、鹿島様と永遠のお別れを申し上げた。

 

 『可笑記』の閲覧から始まった、鹿島様の御厚宜は、思えば三十年間に及ぼうとする。これは、私の研究生活の全ての期間であった。『可笑記』、『井関隆子日記』、『春雨物語』、『桜斎随筆』、『水滸後画伝』、そして桜山文庫。研究対象すらも、鹿島様のお導きによって決められたと言ってもよい。

 研究の態度についても、また、人間としての生き方についても、非常に多くの御指導を腸った。この間、鹿島様から頂いた書簡も二百通に達する。本来ならば、私などが、そう簡単に御交際頂ける方ではない。だだ、そこに学問が在ったのみである。

 今、鹿島様が逝かれ、過ぎし日の事々を思うと、万感胸に迫り、涙があふれる。鹿島様から賜ったお教えを守り、今後も研究に勤しみたい。

 

 

  鹿島様の生前の御恩情に対し、心からの感謝を捧げ、御冥福をお祈り申し上げます。

                           平成六年九月二十七日

(『近世初期文芸』第11号 平成6年12月10日発行 に掲載)




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